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梁塵秘抄﹄と﹁心の花

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梁塵秘抄﹄と﹁心の花
『梁塵秘抄』と「心の花」
﹃梁塵秘抄﹄と﹁心の花﹂
院﹁梁塵秘抄に就いて﹂︶。
下崎
結
︵﹃梁塵秘抄﹄大正元︵一九一二︶年、佐佐木信綱編纂、明治書
世 の も の で は な い や う で あ る か ら、 と に か く 購 う た の で あ る
源平盛衰記や、古今著聞集などに見えて居る今様もあつて、後
文学研究科国文学専攻博士後期課程単位修得満期退学
はじめに 発見された﹃梁塵秘抄﹄
﹃梁塵秘抄﹄は、平安最末期に、後白河院によって編まれた歌謡
の書である。鎌倉期の公式記録﹃本朝書籍目録﹄に﹁全二十巻﹂と
して名を留め、
﹃徒然草﹄や音楽書に書名は出てくるが、遅くとも
江戸期には本文が失われ、長く幻の書であった。綾小路家に伝わっ
ていた﹃梁塵秘抄口伝集巻十﹄は、後白河院の口伝であり、他も断
その幻の書が突然、明治末の東京に現れた。歴史学者である和田
英松が、明治四十四︵一九一一︶年の秋、下谷の文行堂という古本
かめ得、かつ我が国文学史上、貴重なる資料たる事を知り得つ
研究の結果、その後白河院勅撰の梁塵秘抄の零本なることを確
この書は歌謡の書であるということで、すぐに佐佐木信綱に貸与
される。
屋で、
﹃梁塵秘抄﹄を発見したのである。古本屋で見つける﹃梁塵
るにより、十月の末、文科大学国文談話会に於いて、本書に就
簡、拾遺ばかりであった。
秘抄﹄は一条兼良による﹃梁塵愚案抄﹄の表題をかえたものである
き て 談 り、 そ の 筆 記 は、 今 年 一 月 の 日 本 及 日 本 人 に 掲 げ ぬ。
院﹁凡例﹂︶
︵﹃梁塵秘抄﹄大正元︵一九一二︶年、佐佐木信綱編纂、明治書
ことが多かったので、あまり期待をせずに
手にとつて抜いて見ると、これは梁塵愚案抄ではない。和讃今
様体のもので、神仏に関する歌をあつめたものである。中には、
― 133 ―
があって大正元︵一九一二︶年となった八月二十五日に印刷、八月
とある通り、一年と経たないうちに学会に発表され、この年に改元
吾人は疾く是等の書の世に出づるを待つもの候
園主は猶古今の奇書なる梁塵秘抄をも出版せらるべく校正中に候
消息
園主は梁塵秘抄を校註
消息
では、
とあり、次に﹁心の花﹂大正元︵一九一二︶年十月号︵十六ノ十︶
二十八日に発行され、
﹃梁塵秘抄﹄は世に出たのである。
以下、長らく幻の書であった﹃梁塵秘抄﹄と、最初の校註者佐佐
木信綱の主宰する竹柏会﹁心の花﹂との関わりを考察する。なお本
稿中においては敬称を略す。また引用文の旧字体は、固有名詞など
特別な場合をのぞき、新字体に改めている。
一、
﹃梁塵秘抄﹄発見前後の﹁心の花﹂
頃には学術論文、新体詩、戯曲、小説、翻訳物などが竹柏会同人以
面は、和文も雅文で綴られた和歌の雑誌であった。だが、明治末年
ど と い う 激 し い 言 葉 で 記 述 さ れ て い る 書 は、
﹃梁塵秘抄﹄の他には
のが通例ではあるが、﹁古今の奇書﹂﹁世に出づるを待つもの候﹂な
と刊行が告げられている。信綱の校注書については逐一、報告する
明治書院より公けにせられ候
外のものも掲載され、短歌という言葉も用いるようになっていて、
無い。その激しさに呼応するかのように、早い時期から﹁心の花﹂
竹 柏 会 を 主 宰 す る 佐 佐 木 信 綱 は、 明 治 三 十 一︵ 一 八 九 八 ︶ 年 二
月、
﹁心の花﹂
︵初期の表記﹁こころの華﹂
︶を創刊する。最初の誌
総合文芸雑誌の色合いを濃くしていた。だが、同人雑誌としての体
には、﹃梁塵秘抄﹄に関する文章が寄せられてくる。
る程、兼好随喜の涙を流したるも尤もかな、小生実は骨董的な
﹁梁塵秘抄﹂拝借恐入候。今午前二時近くまで読み耽り候、な
まずは、﹁心の花﹂大正二︵一九一三︶年三月号︵十七ノ三︶に、
沼波瓊音が﹁梁塵秘抄を読む﹂の短文を寄せている。
裁が損なわれたわけではなく、竹柏園主を名乗る信綱は、論文、短
歌の掲載はもちろんのこととして、
﹁消息﹂として会員に近況を毎
月、伝えていた。信綱の著作、会員の歌集などの著作についてもこ
の消息で触れるのが常であった。
﹃梁塵秘抄﹄についても、初めはここで記述された。まずは﹁心
の花﹂明治四十五︵一九一二︶年六月号︵十六ノ六︶に、
ものと浅墓に思ひ候に、これは又たまらぬものにて候かな、早
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『梁塵秘抄』と「心の花」
速一本を求むることに致候、
と感激を記し、そして﹁最も気に入﹂ったものとして﹁あそびをせ
むとや生れけむ、たはぶれせんとや生れけむ、遊ぶ子供の声聞けば、
自分が幸ひにも和田英松氏所蔵の梁塵秘抄を借り得て之を研究
し、学界に公けにし得た事は私かに喜びとする所で有る。
とする。だが、
それにつけても刊行した原本が新らしい写本であり、かつ極め
我身さへこそゆるがるれ﹂
︵原文ママ︶を挙げている。囲み記事の
短さであり、感想文程度の内容であるが、大正知識人が、﹃梁塵秘
て誤字の多い本であるから、善本を発見したく捜索を怠らなか
つた。
抄﹄本文に触れたときの感動が伝わる文章となっている。
﹁心の花﹂大正二︵一九一三︶年六月号︵十七ノ六︶
続いて同年、
には、上田萬年の﹁今井似閑と梁塵秘抄﹂が載せられる。
なかった。信綱は、この文章を掲載後も善本をさがし、校註し、刊
しかし、和田蔵︵後に竹柏会蔵︶写本の原本も見つけることは出来
やはり同じ年、
﹁心の花﹂大正二︵一九一三︶年十二月号︵十七
の 十 二 ︶ に は、 国 語 学 者 と し て 著 名 な 山 田 孝 雄 の﹁ 梁 塵 秘 抄 を 読
行していった。沼波瓊音のように好きな一首を抜きだすということ
片山廣子は、﹃野に住みて﹄︵二〇〇六年四月、片山廣子/松村み
ね子、編集大西香織、月曜社︶﹁年譜﹂によれば、旧姓、吉田。明
﹁心の花﹂を代表する歌人といえば、石榑千亦、川田順、新井洸、
木下利玄らと並び、片山廣子の名が挙げられる。
では、学者ではない﹁心の花﹂同人、歌人たちはどうであったの
か。
二、片山廣子と﹁心の花﹂
もなく、学者として、﹃梁塵秘抄﹄に臨みつづけた。
む﹂が巻頭論文として掲載される。これに感謝を捧げるとして、同
号山田論文の次に、信綱の﹁梁塵秘抄に就いて﹂が掲載される。信
綱は
上代中代の国文学上の諸問題中、謡物の初期に関する研究の如
きも、殊に吾人にとつて興味ふかい、而して先輩によつて未開
拓のまゝ遺された問題の一つである。
と記し、歌謡関係の﹁研究資料たるべき作品そのものが少い事﹂を
嘆じ、
治 十 一︵ 一 八 七 八 ︶ 年、 東 京 麻 布 に 生 ま れ、 明 治 二 十 九︵ 一 八 九
― 135 ―
六︶年、満十八歳で東洋英和女学校を卒業し、佐佐木信綱門下生と
う。
を代表する女性歌人として、内外に認められていた証左となるだろ
何か住む塵もあくたも拾ひ来て鳥の巣の如あみし心に
この﹁心の花陽春号﹂︵明治四十五︵一九一〇︶年一月号︵十六
ノ一︶には、廣子の﹁潜めるもの﹂五十六首が掲載されている。
なる。文学史上では、アイルランド文学翻訳家松村みね子、芥川龍
之介との交流、堀辰雄﹃聖家族﹄のモデルとしてのほうが有名であ
るが、終生、
﹁心の花﹂を主な活動の場としつづけた女性歌人であ
八︶年創刊号︵一ノ一︶に、満十九歳の吉田廣子は、﹁雪中鶯﹂の
長々し暑さに堪へずわが恋は我ことゞく破りすてぬる
る。早くから才能を評価され、
﹁こころの華﹂明治三十一︵一八九
題詠で﹁春たてとなほふる雪のさむけれは花まちかほにうくひすの
あさましな過ぎ来し道を見かへれば只我が影を我抱き来ぬ
の三首から始まり、
鳴く﹂の和歌と、和文巻頭︵審査順一位︶で雅文を載せている。廣
子は、その後も順調に、
﹁心の花﹂に和歌を発表していき、明治三
十二︵一八九九︶年に満二十一歳で結婚、片山姓となり、なおのこ
と作歌活動は盛んになっていく。
﹁心の花﹂明治四十四︵一九〇九︶
をさな子の眠りのうちのほゝゑみとふと来りふと消えしよろこび
という十五首目目、二十四首目の歌などもあり、妻、母として堅実
年十二月号︵十五ノ十二︶に一頁を使って﹁陽春号予告﹂が掲載さ
第十六年の春を迎へて愈発展せむとする我が心の花一月号は、
に生きながら﹁潜めるもの﹂を持つという片山廣子の歌風がうかが
我が子らの行末のため一ひらの黄金もをしむ我老いしかな
森鷗外博士の小説上田萬年、芳賀矢一、新村出博士の論文草野
え る。﹁ 心 の 花 ﹂ 大 正 二︵ 一 九 一 三 ︶ 年 二 月 号︵ 十 七 ノ 二 ︶ で は、
れているが、その宣伝文句は、
学士のイブセン作少アイヨルフの訳橘学士の橘守部伝小林学士
小花清泉が﹁妄評多謝﹂と題した文章の中で、
ーデに似てゐてレモナーデでも無い。世の常の唯甘いといふだ
ろうと思はるゝ名も知らぬ木の実の味が添はつてゐる。レモナ
片山ぬしのには一種の風味がある。南洋諸島にでも産出するだ
の詩時雨女子の小説竹柏園主、三浦、小花、石榑、川田、新井
氏橘、片山、岡部女史などの和歌及び小説を満載し以て新春の
文壇を飾らむとす。
というものであり、この時期、満三十三歳の片山廣子が﹁心の花﹂
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『梁塵秘抄』と「心の花」
ゐる。
けでは無く、少しく酸味を帯びた所に言ひ知らぬ妙味が存して
い る も の も あ り、 あ ま り 共 感 で き な い と い う も の も あ り、 好 評 も、
りではない。この歌集を贈ってくれた佐佐木家への御礼に終始して
解して良いだろう。これは、
﹁心の花﹂大正五︵一九一六︶年四月
と述べている。甘みと酸味、つまり二面性があると評していると理
翻訳のほうに傾倒していく。だが、﹁心の花﹂には、定期的に片山
いか、歌集発刊以降の廣子は、松村みね子としてアイルランド文学
熱と理知との﹂争闘を深く感じる、といった評は見えない。そのせ
どちらかといえば廣子自身への好感であり、宣伝文句のように﹁狂
号︵二十ノ四︶に掲載された廣子の歌集﹃翡翠﹄一頁広告の宣伝文
廣子として歌を発表しつづけている。片山廣子が﹁心の花﹂を代表
三、片山廣子と﹃梁塵秘抄﹄
する歌人であることは、揺るがなかったのである。
句において、はっきりと打ち出される。全文を引用する。
狂熱と理知との争、ありのまゝに事物を見て進まうとする心と
世間の因襲と普通の常識とに依る判断の争、これが著者の今日
までの心の経過を見られる。著者の歌は外面に於て頗る平易で
る。矛盾は争闘の影である。覚めむとして覚め得ざる心の姿で
あると同時に、雨の闇夜の如く暗いものがあるのはその為であ
て其特徴を見出される。静かな晴れた昼の如く明らかなものが
六ノ六︶、初めて﹁松村みね子﹂の筆名を用いた﹁草団子﹂が﹁心
の花﹂巻頭に掲載されたのは明治四十五︵一九一二︶年六月号︵十
ている。廣子が﹁森の女﹂として﹃苔﹄という文章をものし、﹁心
された前後は、片山廣子の文学が大きな転換を見せた時期と重なっ
﹁心の花﹂を代表する女性歌人片山廣子が、直接的に﹃梁塵秘抄﹄
について語った文章は現存していない。だが、﹃梁塵秘抄﹄が刊行
ある。真面目なる婦人の内的生活の記録の一片として、本書を
の花﹂巻頭に掲載されたのは大正二︵一九一三︶年三月号︵十七ノ
ある。併しそれが凡て此争闘の濃き陰影を印してゐることに於
我が文壇と文壇以外の人々に推薦する。
十 ノ 六 ︶ で は、 文 学 博 士 谷 本 富 を 初 め と し て、 十 三 人 に よ る﹃ 翡
取れる。この広告から二ヵ月後、大正五︵一九一六︶年六月号︵二
出版元でもある竹柏会が﹃翡翠﹄の魅力を二面性としたことが読み
大正二︵一九一三︶年に生まれているのである。また、この時期の
松村みね子は、﹁心の花﹂上﹃梁塵秘抄﹄年とも表現したいような
掲載された号である。最初は翻訳家ではなく小説家として出現した
いて初めて触れられた号、後者は沼波瓊音の﹁梁塵秘抄を読む﹂が
三︶である。前者は信綱の消息で﹁古今の奇書﹂﹃梁塵秘抄﹄につ
翠﹄批評が特集されている。しかし、全面的に褒めているものばか
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とに躊躇しなかったようである。松村みね子名義で﹁心の花﹂大正
十八首に、﹃梁塵秘抄﹄の影響が見られるのも不思議な経緯ではな
とすれば、﹃梁塵秘抄﹄が﹁心の花﹂誌上を賑わせた翌年の大正
三︵一九一四︶年二月号︵十八ノ二︶に掲載された﹁海賊の船﹂六
廣子は、
﹁心の花﹂誌上で感じ入ったものを自作へ、とりいれるこ
二︵一九一三︶年十月号︵十七ノ十︶巻頭に掲載された小説﹁いち
あたらしき人をあらたに恋し得ん若さにあらばうれしからまし
い。
此木を見てゐるとあの象を思ひ出す、大きな西洋を思ひ出す。
枯枝の雨の雫をながめつゝ只しみじみと人こひしけれ
じく﹂に
汝等無花果の譬を知るやとユダヤの野に教へられた神の子イエ
木の葉ふる雨降る日こそわびしけれ我をたづねて夕やみも来る
我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など来たれ胸さわがしに
この三首に始まり、十首目、十二首目、
スの言葉を思ひ出す。
という描写がある。ミッション系女学校時代の思い出が語られるた
花果が重要な意味を持つといえば、これより一年前、﹁心の花﹂大
あきはてゝうとみはつれど人の世の何にも代へん我と思はず
めの導入部分であり、
﹁いちじく﹂が重要な意味を持っている。無
正元︵一九一二︶年九月号︵十六ノ九︶に、松尾緑風の﹁無花果﹂
本か載っている。その翌月、廣子は、
﹁心の花﹂大正二︵一九一三︶
正元︵一九一二︶年十二月号︵十六ノ十二︶にサロメ観劇感想が何
同軸のキリスト教的発想に依ると考えられる。また、﹁心の花﹂大
るゝ方なきわが罪を君がやさしきみ胸にぞおく﹂から始まっており、
が、基本的には近代社会になじみきれぬ自我の疎外感と見るべきだ
に飽き﹂﹁世に憂し﹂と見る世界観への親近感もありはしただろう
飽きはててしまったという感覚。平安末期から中世にかけての﹁世
廣子/松村みね子、編集大西香織、月曜社︶﹁解説﹂で、﹁この世に
この二首を、佐佐木幸綱は﹃野に住みて﹄︵二〇〇六年四月、片山
と題した十二首の短歌が掲載されている。その一首目は﹁天地に容
年一月号︵十七ノ一︶
﹁白鳥﹂と題した百首の四十五首目に﹁ぬれ
ろう。﹂と評している。しかし、十八首目、三十九首、
わがいのちいともたのもし生きてあれば思ひのほかのこともあ
羽なす黒かみほすと香たきてつれゞによむサロメの恋を﹂と詠って
いる。
﹁心の花﹂を読むことによって、廣子は大きな刺激を得てお
り、それを自作にとりいれていたのだろう。
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『梁塵秘抄』と「心の花」
るもの﹂などのほうであろう。形式的には、
﹁こひしけれ﹂﹁わびし
れぬ自我の疎外感﹂が濃く出ているのは、
﹁海賊の船﹂以前、﹁潜め
を見ると、現実の﹁我﹂肯定が強い。むしろ﹁近代社会になじみき
女なれば夫も我子もことごとく身を飾るべき珠と思ひぬ
るかな
神に近い。また、三十二首目は、
うよりは、廣子が女学校時代から慣れ親しんできたキリスト教的精
が温かい、などの用語の使い方は、中世的な無常観、現世肯定とい
か ら 始 ま る の だ が、﹁ 命 ﹂ が 大 き な 川 へ、﹁ 天 地 ﹂ に 告 げ る、﹁ 涙 ﹂
わが涙いと温かう湧きいでゝまぶたにあふれまつげを流る
あけぼのにつばさ浸して鶯は天地につぐ、春いま生ると
れぬる
病ひ癒えてビフテキたべる子を見つゝつくづく見つゝよろこば
けれ﹂他三十四首目にも﹁泣かまほしけれ﹂と已然形を用いている
が、
﹃梁塵秘抄﹄には﹁こそ∼已然形﹂が多く使われた今様が多い。
そのゆめに誰ともわかぬ前の世の我がこひ人の船をほの見し
また七首目、
というものであり、﹁夫も我子もことごとく身を飾るべき珠﹂と詠
に。仄かに夢に見え給ふ﹂
﹁月は船星は白波雲は海。如何に漕ぐら
ね子、編集大西香織、月曜社︶で佐佐木信綱は廣子が、﹁自分の歌
﹃翡翠﹄の序文︵﹃野に住みて﹄二〇〇六年四月、片山廣子/松村み
っ た 翌 々 月 と は 思 え な い ほ ど、 母 の 心 情 を 素 朴 に 表 現 し て い る。
ん桂男はただ一人して﹂
︵
﹃梁塵秘抄﹄大正元︵一九一二︶年、佐佐
は、たくみを捨てて、事物をありのままに感じたものでありたい。
これは﹁仏は常に在せども。現ならぬぞあはれなる。人の音せぬ暁
木信綱編纂、明治書院︶の二首を、情景的にも用語的にも想起させ
そして其感じを普通の人と共に分つものでありたい。其ためには、
ているとも言える。
り、それ以前の﹁潜めるもの﹂などの、﹁片山廣子の﹂歌風に戻っ
たとしている。その﹁ありたい﹂歌に﹁わが命﹂歌群は近づいてお
美 し い 狭 い 詩 歌 の 境 を 未 練 気 な く 離 れ な け れ ば な ら な い。
﹂と語っ
る。
しかし、空想的でありながら現世を肯定するような作風は、この
﹁海賊の船﹂に留まる。この直後、
﹁心の花﹂大正三︵一九一四︶年
四月号︵十八ノ四︶
﹁わが命﹂五十四首を見ると
わが命寸のすきまをふと洩れてゆくへもひろき大川に入る
― 139 ―
おわりに
﹃梁塵秘抄﹄と﹁心の花﹂
﹃梁塵秘抄﹄が﹁心の花﹂に与えた影響を見てきた。竹柏
以上、
会園主佐佐木信綱は学者として深く切り込んでいき、﹁心の花﹂同
人、周辺の人々も呼応する形で、それぞれの立場から﹃梁塵秘抄﹄
についての文章を﹁心の花﹂に寄せた。そして、
﹁心の花﹂の代表
的な女性歌人である片山廣子は﹃梁塵秘抄﹄の影響を受けて﹁海賊
の船﹂を詠んだことを指摘した。
片山廣子は芥川龍之介と深い交流があり、芥川龍之介には﹃梁塵
秘抄﹄に影響を受けたとされる﹁相聞﹂がある。この﹁相聞﹂は片
山廣子を想ったものともされており、
﹃梁塵秘抄﹄と片山廣子に芥
川龍之介がからんでくるのか否かという考察は、今後の課題とした
い。
参考資料
心の花 http://www.kokoronohana.com/
馬込文学マラソン http://www.designroomrune.com/
軽井沢高原文庫
http://www.karuizawataliesin.com/kougen/kougen2004.html
長野・軽井沢とくだね紀行
http://club.pep.ne.jp/ r.miki/index_j.htm
http://osaka.yomiuri.co.jp/tokudane/td60612a.htm
赤毛のアン記念館・村岡花子文庫
小さな資料室 http://www.geocities.jp/sybrma/
﹃現代短歌大事典 ﹄ 佐佐木幸綱他
二〇〇〇年
三省堂
﹃アンのゆりかご
村岡花子の生涯﹄村岡恵理
二〇〇八年
株式会社
マガジンハウス
﹃燈火節﹄片山廣子/松村みね子
二〇〇四年
月曜社
﹃新編 燈火節﹄片山廣子 二〇〇七年 月曜社
﹃片山廣子│孤高の歌人﹄浦部千鶴子 一九九七年改訂再版 短歌新聞
社
﹃物語の女﹄山本茂
一九九〇年
中公文庫
﹃物語の娘│宗瑛を探して﹄川村湊
二〇〇五年
講談社
﹃野ばらの匂う散歩みち│堀多恵子談話集│﹄堀多恵子
二〇〇三年
堀辰雄文学記念館・軽井沢町教育委員会
﹁軽井沢高原文庫通信﹂軽井沢高原文庫
一九九六年二月十五日
﹁軽井沢高原文庫通信﹂軽井沢高原文庫
一九九六年四月二十五日
﹃改訂版
生きるということ﹄村岡花子
二〇〇四年
赤毛のアン記念
館・村岡花子文庫
﹃をみななれば﹄村岡花子
二〇〇四年
赤 毛 の ア ン 記 念 館・ 村 岡 花 子
文庫
﹃梁塵秘抄﹄と森鷗外
下崎結
二〇〇〇年三月
文学論藻第七十四号
東洋大学国文学研究室
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『梁塵秘抄』と「心の花」
A Study of Ryojinhisyo and“Kokoronohana”
SHIMOZAKI, Yui
This paper is study on the relathion of RYOJINHISYO and poetic magazine
KOKORONOHANA. Nobutsuna Sasaki of the leader KOKORONOHANA, targeted
RYOJINHISYO in study. One wrote one s impressions in writing. Other people wrote a
paper. Hiroko Katayama who was a typical female poet. RYOJIHISYO influenced her
poem KAIZOKUNOFUNE.
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