Comments
Description
Transcript
第二章 横浜市内米軍施設の沿革
第二章 横浜市内米軍施設の沿革 1 戦後の接収と市街地の返還 連合国軍による接収と遅れる戦災復興 昭和20年、第二次世界大戦後に進駐した連合国軍は、 横浜市の中心部や港湾施設などを広範囲に接収しまし た。接収は、戦災を免れ、わずかに残った市街地の住宅、 事務所、劇場、百貨店から、官公庁、学校、公園などの ま ひ 公共施設にまで及び、市の都市機能はほとんど麻痺する に至りました。また、中心部以外でも旧軍の施設などが 大規模に接収されました。 猛火につつまれる市街地。横浜大空襲は、 死者3, 650 り さいしゃ 人、罹災者3 0万人を超す大被害をもたらしました。 このため、戦前の横浜経済を支えていた商社、金融機 関や企業の本店は、東京その他の地域への移転を余儀な くされ、大桟橋をはじめとする港湾施設の接収とあわせ て、横浜市は復興の原動力ともなるべき経済基盤を失う こととなりました。 当時の接収施設・区域は占領政策の影響により絶えず ぼっ ぱつ 変動していましたが、昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争 は日本国内の軍事施設の需要を高め、接収解除をさらに 遅らせることとなりました。 昭和 大桟橋から上陸を開始した米第8軍。占領軍4 0万人 のうち約1 0万人が横浜に駐留していました。 主な出来事 20 5.2 9 横浜大空襲 8.1 5 終 戦 8.3 0 マッカーサー厚木飛行場到着、横浜進駐 9. 2 降伏文書調印(本牧沖)、米第8軍が横浜上陸 10.2 4 国際連合成立 21 1 1. 3 日本国憲法公布(2 2.5.3施行) 22 1 0.1 6 上瀬谷基地 接収解除(2 6.3.1 5 再接収) ぼっ ぱつ 25 6.2 5 朝鮮戦争勃発 1 0.2 1 横浜国際港都建設法公布・施行 26 8. 2 横浜市復興建設会議結成 9. 8 対日平和条約・旧日米安全保障条約調印 27 2.1 5 大桟橋接収解除 2.2 8 行政協定調印 3. 1 横浜港内水面接収解除 4. 8 横浜公園(一部)接収解除 横浜税関には連合国軍臨時司令部が置かれ、のちに 米第8軍司令部などが置かれました。 (昭和2 0年頃) 5 昭和20 (1945)年∼昭和36 (1 9 61)年 接収から提供へ、市街地の返還 横浜市では、昭和25年に制定された「横浜国際港都建 設法」に基づく都市計画を契機に、接収解除運動を展開 する機運が高まり、昭和26年8月には、神奈川県、横浜 商工会議所とともに横浜市復興建設会議を設立し、接収 解除に向けた運動を本格的に開始しました。 昭和26年9月には、平和条約(講和条約)及び旧日米 安全保障条約が締結され、翌昭和27年には日米両国間の 関内周辺では、焼け跡にカマボコ兵舎が次々と建ち 並びました。 (昭和25年頃) 行政協定に基づき、市内の接収区域があらためて米軍に 提供されることとなりました。 一方、昭和27年の平和条約の発効に伴い、市街地中心 部の施設を周辺部の施設に集約移転するリロケーション へい たん 計画が日米間で合意され、在日兵站司令部(横浜税関)、山 下公園住宅地区などの市街地に所在する多数の施設が返 還されました。 さらに、昭和32年には、在日米軍地上戦闘部隊の撤退 が発表され、田奈弾薬庫(現:こどもの国)などが返還 されました。 昭和 主な出来事 米軍人用のゴルフ場やヘリポートとして使われてい た根岸競馬場地区。 (昭和20年代) 27 4.2 8 平和条約・旧安保条約・行政協定発効 7.2 6 日米施設区域協定調印 28 7.2 7 朝鮮戦争休戦協定調印 12. 5 在日兵站司令部(JLC) (横浜税関)返還 へい たん 29 7. 1 防衛庁設置、自衛隊発足 31 12.18 国際連合加盟 32 6.2 1 岸・アイゼンハワー共同声明 米国防総省が在日米軍地上戦闘部隊撤退を発表 8. 1 33 5.1 0 開港1 0 0年記念祭記念式典 6.3 0 JLC調達部事務所 (横浜開港記念会館)返還 35 1.1 9 新安保条約・地位協定調印(6.2 3 発効) 6.1 5 山下公園住宅地区返還 36 3.3 1 横浜市会接収解除促進実行委員会設置 5. 5 田奈弾薬庫返還 横浜市復興建設会議設立当時の接収地(赤い箇所) (昭和26年8月横浜港隣接地帯接収現況図) 6 2 都市化の進展と基地問題 都市化の進展と基地負担 昭和30年代後半からの高度経済成長期における急速な 都市化の進展とともに、基地問題も顕在化していきました。 上瀬谷通信施設では、米軍の受信障害を防止するため、 施設周辺での機器の使用や建物の建築などが厳しく制限 されました。また、深谷通信所からの送信は、周辺にテ レビの受信障害をもたらしました。上瀬谷通信施設の電 波障害防止制限地域は、平成7年に廃止されましたが、 上瀬谷通信施設では、 電波障害防止制限に反対し、土 地返還を求めた座り込みが行われました。 (昭和3 6年) 長年にわたり市民生活に負担を与えてきました。 かい ひん 横浜海浜住宅地区などでは、土地所有者を中心とした 早期返還と復興に向けた運動が展開されました。 このような取り組みが進む中、日米間では、在日米軍 施設の全面的な再検討が行われ、昭和43年の米軍施設・ 区域調整計画の合意などにより、根岸競馬場地区(現: 根岸森林公園)や、市街地に所在する住宅地区や関連施 設などが返還されました。 昭和 主な出来事 37 1.2 5 上瀬谷通信施設電波障害防止制限地域の設定 等を日米合意 11. 1 防衛施設庁設置 横浜ノース・ドックから船積みされる戦車の輸送が 阻止された「村雨橋事件」 。 (昭和4 7年) 39 5.2 1 神奈川県基地関係県市町連絡協議会結成 40 2. 7 ベトナム北爆開始 43 1 2.23 米軍施設・区域調整計画を日米合意 かい ひん 44 3.2 7 横浜海浜住宅地区(1号地区)、山手住宅地区 の返還を日米合意 6.3 0 横浜兵員クラブ返還 1 1.2 3 根岸競馬場地区返還 45 1 2.2 1 在日米軍の整理・統合計画を日米合意 46 2.1 7 富岡倉庫地区(一部)返還 47 2. 9 山手住宅地区返還 5.1 5 沖縄返還 8. 5 村雨橋事件 8.2 5 岸根兵舎地区返還 かい ひん 新本牧にあった横浜海浜住宅地区の全景。 (昭和5 6年頃) 7 昭和37 (1962)年∼昭和64 (1 9 89)年 米軍をめぐる事件・事故、騒音問題 昭和48年に、厚木基地の使用を開始した空母艦載機の 離発着は、昭和57年から始まった夜間連続離着陸訓練(N LP)とともに、米軍機による騒音被害を一層深刻なも のとしました。 昭和52年の米軍ジェット機墜落事故は、市民の尊い命 を奪う大惨事となりました。また、米軍機のジェット燃 料を扱う二つの貯油施設では、タンク火災が相次いで発 緑区荏田町(現 青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、 生し、小柴貯油施設の爆発炎上事故は、周辺の家屋など 幼い子どもたちが犠牲となりました。 (昭和5 2年) え だ え だ 広範囲に被害をもたらしました。 都市化とともに、米軍による事件・事故、米軍機によ る騒音が一層切実な問題となる中、横浜市は、神奈川県 や県内の基地関係市と連携しながら、空母艦載機の移駐 をはじめとする騒音問題の抜本的な解決や安全対策の徹 底などを国や米軍に働きかけています。 昭和 主な出来事 48 1.2 3 関東空軍施設整理統合計画等を日米合意 9.2 7 空母艦載機の厚木基地使用開始 落雷で炎上した鶴見貯油施設の306号タンク。 (昭和5 4年) 50 4.3 0 ベトナム戦争終結 え だ 52 9.2 7 米軍ジェット機墜落事故(緑区荏田町) 12.1 5 横浜海浜住宅地区(2号地区) 、根岸住宅地区 (一部) 、新山下住宅地区、横浜チャペルセン ターの返還を日米合意 かい ひん 54 7.2 7 鶴見貯油施設火災事故 56 10.13 小柴貯油施設爆発事故 57 2.1 6 厚木基地で初のNLP実施 3.3 1 横浜海浜住宅地区、新山下住宅地区、根岸住 宅地区(一部)返還 かい ひん 60 5.3 1 横浜市会接収解除促進特別委員会設置 62 1.2 0 航空機事故等連絡協議会発足 小柴貯油施設では、6号タンク(地下タンク)が爆 発炎上しました。 (昭和5 6年) 63 8.1 6 厚木基地騒音対策協議会設立 8 3 早期返還と負担軽減に向けて 横浜冷蔵倉庫、 神奈川ミルク・プラントの返還 市政100周年開港130周年記念の横浜博覧会が開催され た平成元年に、神奈川ミルク・プラントと、みなとみら い21事業の妨げとなっていた横浜冷蔵倉庫の返還条件が 示され、両施設はその後、横浜ノース・ドックへの代替 倉庫の提供によって返還されました。 根岸住宅地区などでは、米国同時多発テロの影響を受 け、施設内の通行や市民利用が厳しく制限されるなど、 みなとみらい2 1新港地区にあった横浜冷蔵倉庫。 周辺住民の負担増を招きました。 平成 主な出来事 元 3.2 5 横浜博覧会開催(∼1 0.1) 4. 3 横浜冷蔵倉庫、神奈川ミルク・プラントの返 還条件が提示 3 8. 5 硫黄島で初のNLP実施 5 9.1 6 横浜冷蔵倉庫の返還を日米合意 6 4. 1 横浜冷蔵倉庫返還 12.1 5 神奈川ミルク・プラントの返還を日米合意 7 4. 1 上瀬谷通信施設の電波障害防止制限地域が廃止 がけ ち 11 2.1 7 根岸住宅地区西側隣接崖地崩落事故 12 3.3 1 神奈川ミルク・プラント返還 神奈川新町駅前の神奈川ミルク・プラント。 跡地で は、 公園整備などが進められています。 13 9.1 1 米国同時多発テロ この申し入れに対し、住宅等建設と施設返還は切 平成15∼16年の日米協議の経過 り離して議論すべきと繰り返し主張しましたが、国 平成15年に、神奈川県内の在日米軍施設・区域の は「一連の案件であり、一括して処理すべきもの」 と考え方を変えず、さらに「住宅等建設は、国の事 整理等に関する日米協議が始まり、この協議内容に ついて横浜市に国から申し入れがありました。 務として、できるだけ早期に実施する」との固い意 思を示しました。 その内容は、池子住宅地区及び海軍補助施設の横 浜市域に800戸程度の住宅及びその支援施設の建設 市民から様々な意見や、池子(横浜市分)接収地 返還促進金沢区民協議会を通じて地元の苦悩が寄せ がなされれば、根岸住宅地区、富岡倉庫地区、深谷 通信所、上瀬谷通信施設(一部)の返還について考慮 られる中、最善の解決策として、平成16年に、返還 については追加拡大を、住宅等建設については自然 することが可能になるというもので、返還の規模は、 当時の市内米軍施設の総面積528haの約48%と推定 環境の保全など、それぞれについて国に新たな提案 を行いました。 されました。 9 平成元(1989) 年∼ 国による米軍家族住宅の建設 四半世紀ぶりの大規模返還・小柴貯油施設 池子住宅地区及び海軍補助施設の横浜市域では、平成 平成16年に一部返還が合意された小柴貯油施設につい 16年の日米合意を受け、米軍家族住宅700戸と学校、診療 て、その後も全部返還の要請を重ねた結果、平成17年 所などの支援施設の建設事業が進められています。 に、陸地部分全域(53ha)と制限水域の一部の返還が日 かい ひん 米間で合意され、昭和57年の横浜海浜住宅地区(71ha) 平成18年に基本配置計画案が、平成19年に基本構想が 以来となる大規模返還が実現しました。 それぞれ国から示されましたが、市会での議論、金沢区 米軍施設建設・返還跡地利用対策協議会の要望などを踏 引き続き、米軍施設の着実かつ早期の返還とともに、 まえながら、国に対して、自然環境への配慮や周辺環境 特に米軍が常駐していない深谷通信所、富岡倉庫地区な 対策の実施などを要請しています。 どについて、早急な返還を国に働きかけています。 平成 主な出来事 16 5.2 8 横浜市会基地返還促進特別委員会設置 10.1 8 池子住宅地区及び海軍補助施設の横浜市域に おける住宅等建設と、上瀬谷通信施設、深谷 通信所、富岡倉庫地区、根岸住宅地区、池子 住宅地区及び海軍補助施設の横浜市域の飛び 地、小柴貯油施設(一部)の返還を日米合意 17 5.3 0 横浜市会基地対策特別委員会設置 10.1 8 小柴貯油施設 (陸地全部) の返還等を日米合意 12.1 4 小柴貯油施設返還 18 5. 1 在日米軍再編最終報告を日米合意 8.1 7 米軍家族住宅等の基本配置計画案を受理 19 1. 9 防衛省設置 (9. 1 防衛施設庁が防衛省に統合) 6.1 3 家族住宅等建設事業の基本構想を受理 都市公園(開港150周年の森)としての整備を目指し、 小柴貯油施設の跡地利用に取り組んでいます。 この提案を受け、その後の日米協議で、返還につ 平成 主な出来事 いては、池子住宅地区の飛び地と小柴貯油施設の一 15 2. 6 米軍施設・区域の整理等の協議開始を日米合意 2 . 2 1 日米合同委員会第 1 回施設調整部会 部が新たに追加され、上瀬谷通信施設も全部に拡大 7.1 8 日米合同委員会第2回施設調整部会 され、当時の市内米軍施設の面積の7割について返 7.2 2 国から申し入れ文書を収受 9 . 1 1 国に文書の趣旨等を照会 還の方針が示されました。一方、住宅等建設につい 10.2 0 国に文書の趣旨等を追加照会 ては、造成などを行う改変面積を半分以下に抑制し 12.2 5 市長が防衛施設庁長官と会談 て自然環境の保全に配慮することや、住宅建設戸数 16 7. 1 5 市長が防衛庁長官と会談 8. 4 「国からの申し入れに対する声明」を発表 を700戸程度に縮減することが示されました。 8. 5 市長が防衛庁長官と会談 地元の意向を尊重し、横浜市の提案を重く受け止 8.3 1 市長が内閣総理大臣と会談 9. 2 日米合同委員会第3回施設調整部会 めて国が結果を出したものであることから、市会の 9.2 2 「本市の考え方」を発表、防衛庁長官と会談 10. 5 国に文書回答 意見を踏まえ、 横浜市は、 返還と住宅等建設について、 10.1 8 日米合同委員会で合意 国と具体的な協議に入ることを明らかにしました。 10