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シュメールの心 その9 ヨルダンからシリアへ 今回は後代の遺跡で道草

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シュメールの心 その9 ヨルダンからシリアへ 今回は後代の遺跡で道草
シュメールの心
その9
ヨルダンからシリアへ
今回は後代の遺跡で道草
栁
幸夫
これまでメソポタミア文明の初期に出現し
◆シュメールに関連する都市遺跡は、特にシリ
たシュメール諸都市の遺跡をもっぱら現代イ
アのエブラとマリが著名である。それを訪ねる
ラクの領域内で見てきた。今回は大きく横道に
には、ヨルダンの方から入っていかなければな
それるが、隣接するヨルダン、シリアなどの遺
らない。ヨルダンには、どうもシュメールに関
跡で道草することをお許し願いたい。
わる遺跡はないようだ。といっても確信をもっ
これらの国の現代史は今日も戦争と混乱に
て言っているわけではない。私がヨルダンの発
明け暮れ、古代史なんぞにどこから手をつけて
掘調査情報を把握していないため勝手にそう
よいものか、とまどいを感じてしまう。
言っているだけである。
2010年に始まったチュニジアの「ジャス
勿論、メソポタミアのシュメール・アッカド
ミン革命」が、2012年にエジプトやリビア
の時代に、ヨルダンには城壁を伴う都市の文化
などへ波及し「アラブの春」とまでいわれた民
は成立していたといわれる。それらの都市遺跡
主化が進んだ。かと思えばすぐに挫折し、20
は、メソポタミアではなくエジプト中王国との
14年、元アルカイダ系のイスラーム過激派組
交流や、クレタ島のミケーネ文明など、東地中
織「IS」がシリアとイラクで破壊と殺戮をく
海域との間接的なつながりをもっていたこと
りかえし、今なお恐怖を拡大し続けている。
が明らかにされている。ヨルダンにおける国家
形成は紀元前1千年紀に、「旧約聖書」に登場
★
ヨルダンの地図(▲は主な遺跡)
するアンモン・モアブ・エドムといった都市の
出現にみられる。
(※『ヨルダン展』2004年図録参照)
◆ともかくヨルダンの首都アンマンに着くと
ヨルダンの観光地を経て、シリアの国境を越え
ることになる。ヨルダンにはローマ時代の遺跡
が多かった。シュメールの時代からはずれるが、
ヨルダンの遺跡とともに破壊されたばかりの
シリアのパルミラ遺跡についても語りたい。
① アンマンのローマ劇場(2世紀
6000 人収容)
② モーセ終焉のネボ教会
⑥⑦「死海文書」の入った甕と文書「写本」の断片
モーセが死んだと
前2C~1Cの聖書(アンマン国立博物館で)
される場所に4世
紀後半に建造。
現在残る建物は1
930年代に建て
られたもの。
③ ネボ教会内のモザイク画(6 世紀)
⑧ペトラのエル・カズネ(宝物殿?)王の墳墓
映画インディ・ジョーンズに登場
④ネボ山からのパレスチナの風景
⑤マダバの聖ジョージ教会
モザイク地図(6C)
ヨルダン川・死海・エルサレムなどが見える
ペトラは紀元前1世紀頃、ナバテア人の隊商都市
として繁栄。天然の要害である岩山を掘りぬいて都
市を建設。シークと呼ばれる岩と岩とが迫る暗くて
細い道を馬で通り抜けると突然この光景が現れる。
紀元後 105 年に、ローマ皇帝トラヤヌスがペ
トラを征服。106 年には、ペトラとナバテア人
はローマのアラビア属州として支配された。
⑨ペトラのローマ劇場
(岩山を削っている)
ヨルダンからシリアへ
シリアの地図
⑩ペトラの高所にある神殿(修道院とも?)
さらに岩山を40分ほど登るとこの神殿に着
いた。現在は立入禁止といわれる。
<ボスラ遺跡>
シリアへ入るとすぐにボスラの遺跡がある。
これもローマ時代の遺跡で保存状態が良い。世
界遺産に指定されているが、遺跡の中で人々が
⑪ジェラシュ遺跡のホーラム
ヘ レニ ズム か
暮らしている。遺跡の保存と共生の関係を考え
らローマ時代の
させられる興味深い遺跡であった。
遺跡。
⑬ボスラの列柱道路
⑫ケラク城(十字軍要塞址)12 世紀に十字軍が進
出し、エルサレム王国の軍事拠点として建造。
⑭ボスラのローマ劇場
IS(イスラム国)による世界遺産の破壊
~ゼノビア女王の隊商都市 パルミラ遺跡
を偲ぶ~
※2015 年 10 月 21 日追記
四柱門から列柱道路(隊商路)へ(94 年 10 月撮影)
パルミラの凱旋門(紀元前1世紀)
(1994 年 10 月撮影)
(※以下、前嶋信次氏の解説を参照してまとめた)
パルミラは「隊商都市」であった。紀元前1
世紀から紀元後3世紀まで、シルクロードの中
継都市として繁栄。元々は現地のアラム語でタ
ドモールと呼ばれ、ギリシア人がこの地にきて
パルミラと呼ばれた。どちらも「ナツメヤシの
茂るところ」を意味するという。
2015年10月5日、NHK国際ニュース
が衝撃的な事件を伝えた。
「シリア文化省は5日、シリア中部にある
パルミラに残されていた建築物の多くは、ロ
ーマの支配下にあって最も栄えた2世紀から
3世紀の前半頃までのものであった。
世界遺産のパルミラ遺跡でISが古代ローマ
ベル神殿から凱旋門を通って1600mの
時代の2世紀から3世紀にかけて建てられた
大隊商路があり、ローマ時代は高さ20mの列
凱旋門を爆破したと発表しました。凱旋門は
柱が375本も建ち並んでいた。訪れた当時は、
遺跡の入り口に位置し、アーチ型の建造物に
150本くらいが残っていた。柱と柱の間は3
は東洋と西洋の特徴を兼ね備えた装飾がほど
mくらい、昔はここに店が並び、通りの真ん中
こされ、シルクロードの東西交易で栄えたパ
は隊商のラクダやロバなどがシルクロードの
ルミラを象徴するものと評価されています」。
産物を満載して行き交っていたにちがいない。
インドやアラビア方面から入ってくる商品
破壊される前のパルミラのベル神殿
(紀元前1世紀)
94 年 10 月撮影
には輸入税がかけられた。奴隷や香料類には高
い税がかけられ、パルミラから西方のローマ領
の各地へ持ち出す場合は輸入税の半額ほどの
輸出税がかけられた。その次にオリーヴ油や食
料品の乾果類、豆類、塩魚などに高い税がかけ
られた。チーズやワインなどは安かったという。
レバノン方面から運ばれる深紅色染の毛織
物や木材はペルシャへ輸出。通過する運搬用の
家畜には通行税がかけられ、すべての車両には
ラクダなどの4倍の通行税がかけられた。ただ
し、食用の羊は無税であったという。又、香料
商、売春婦、衣料商人などには入国税、泉の水
を使用する水税、塩や革袋などの営業税などか
けられた。輸入税を輸出税の2倍にしたのは、
ゼノビア女王のコイン
パルミラ市内での香油などの加工業を盛んに
パルミラと言えば
するためであったという。さらに、宝石や真珠
女王ゼノビア。数か国
などを輸入し、服飾品などを作って輸出してい
語を使い分け、多くの
た。思いは飛んで、政府が秘密裏に強行してき
古典類に通じ、クレオ
たTPP交渉の大筋合意。10月20日、全品
パトラを思慕し、自分
目の95%で関税撤廃、聖域としていた農産物
はその血統をひいているとまでいうようにな
重要5項目でも3割の撤廃。食糧主権その他が
った。紀元後270年頃に君臨し、シリアはも
米国に奪われる。とんでもない、許せない!
ちろんのこと、小アジア(トルコ)を支配し、
水道設備の土管
(94 年 10 月撮影)
近くの山から
エジプトのアレクサンドリアまでパルミラ兵
を駐屯させるまで版図を拡げ繁栄を極めた。
運河を伝って上
しかし、ローマ皇帝アウレーリアヌスは大軍
水道を引いてい
を動員して、そこのパルミラ人を掃討し、さら
た。遺跡の中に
に進んでパルミラ市を包囲した。女王ゼノビア
は、噴水や公衆
はローマ側の度々の降伏勧告を 悉 くはねつけ
て戦った。ゼノビアは金色のかぶとをかぶり、
浴場、キャラバ
ンのラクダの水飲み場などが設けられていた。
ことごと
よろい
真紅の陣羽織の下には宝石をちりばめた鎧 を
しゅんめ
またが
列柱通りの裏には当時の通貨の両替所があ
つけ、駿馬に跨 っていた。馬具は真赤な革でつ
り、それを過ぎると広い敷地のアゴラ(市場)
くり、ルビーやサファイアやオパールなどがま
に出る。ここで、キャラバンたちは商品を広げ
ぶしく輝いていたという。女王はパルミラにた
取引したり、商品の貯蔵をしたりした。アゴラ
てこもり、包囲五か月に及んでも屈しなかった。
の奥にはサロン兼レストランもあった。
しかし、女王が砂漠のアラブ人を軽視していた
ローマ劇場(94 年)
報いがあらわれ、ローマ皇帝の買収によりその
列柱道路から南
首長たちが背いた。ついにゼノビアは囚われて
にはローマ劇場
しまい、パルミラは廃墟と化してしまった。
があった。200
アルバムを開き、かつてはローマ帝国に破壊
0の客席で、ギリ
され、今は再びISによって壊滅されたという
シア悲劇の上演
戦争の歴史の非情さをただかみしめるだけな
や、奴隷とライオンの格闘技もあったのだろう。 のか。やりきれない思いに胸がふさがる。
パルミラの塔墓群(アラブ砦より早朝撮影)94 年
昼下がり人影のない広大な遺跡をひとり巡
っていると、ベドゥイン(遊牧民)のテントで
お茶の接待を受けた。その想い出も今は懐かし
くもむなしさを感じるばかりである。(続く)
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