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アメリカ35年、インターンからアミトロ(ALS)へ

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アメリカ35年、インターンからアミトロ(ALS)へ
アメリカ35年、インターンからアミトロ(ALS)へ
三本
博
立派な医学教育を受けて
私は昭和43年に卒業しましたが、大変良い医学教育を受けたと感謝しています。
卒業証書は私のオフィスの真ん中に飾ってあります。同期の岡谷晃先生と泊り込
みで、当時解剖の名物教授であった加藤守男先生の下で勉強したこと、森田久男
教授が退官講演で言われた、「皆さんは幸せです。医学は何をやっても面白い、
やればやるほど面白い。」の言葉は今でも忘れられません。卒後、自主カリキュ
ラム、インターン闘争、国家試験ボイコットなど当時の熱病を経て、同期の10
人が2内に入局し、何も分からない青二才を少しは役に立つ医師に育ててもらい
ました。当時、アメリカで勉強なさった里吉栄二郎・ 古和久幸先生は神経内科学
の神様で、何とかあのような先生になりたいものだと思い始めました。田崎義昭
先生の研究班におりましたが、先生が北里大学へ栄転される機会に神経内科を学
ぶためアメリカ留学をすることに決めました。「根無し草になるよ」とも言われ
ましたが、2内部長、阿部達夫教授の強い支持を受けたことは幸運でした。
蛮勇のみでアメリカへ
昭和47年(1972)、ボルチモアのジョーンズ・ホプキンス大学・ボルチモ
ア市立病院でインターンを始めました。英語で苦労するとは覚悟していたものの、
それは想像以上で、今考えると、笑い話になるようなことばかりでした。また二
日か三日に一回の当直で、精神的にも肉体的にも疲労困憊の毎日でした。インタ
ーンの三ヶ月目、病棟主任の回診で患者の病歴をうまく言えなくなった時、後ろ
で医学生がくすくす笑い出しました。この瞬間、恥ずかしさと悔しさで、逃げ出
したくなったことを覚えています。インターン4ヶ月目、12人のインターンの
うち自分だけが次の年の行き先がなく、部長は他の病院なら入れてやるといって
くれましたが、市立病院より良くない病院には興味が無く、次の年のレジデント
のポジション探しもすることになりました。こうして苦労の連続の一年のインタ
ーンが終わった時、「もうどんなことでも出来る」と思ったことを忘れません。
永住権獲得, 背水の陣
大変幸運なことに、クリーブランドのケース・ウエスタン・リザーブ大学の神経
内科のレジデントに面接なしで取って貰うことが出来ました。主任教授はフォー
リーという非常に良く知られたアメリカ神経内科学の草分けの一人で、何人もの
著名な神経内科医を育てた優れた教育者です。インターンの時とは月とスッポン
の違いで、ここで三年間みっちりとしかも楽しく神経学の勉強をしました。この
後クリーブランド・クリニックでフェローとなり神経病理を学びましたが、5年
の滞在期限が迫り、これ以上の米国滞在には永住権が必要ということになりまし
た。それまで応募すれば簡単に取れたはずの永住権が、病院の弁護士の手違いで
応募期限に間に合わず、永住権獲得には、アメリカの医師国家試験合格が必要と
なりました。「落ちて、強制帰国!」はあまりに惨めで、合格以外の道はありま
せんでした。合格するとさらに、自分の仕事がアメリカ国家にとって必要である
ことを病院が証明しなければならず、あれやこれやと2年かかってやっと永住権
を獲得でき、さすがにその時しばらくアメリカで勉強しようと心に決めました。
無駄飯の勧め
2内の阿部教授は私が基礎研究をすることにも同意してくださり、帰国後2内に
戻るには医学博士も必要とのことで、神経病理での仕事の発表論文を基に学位を
取らせて頂きました。クリーブランド・クリニックの部長は私を神経内科のスタ
ッフにすると言ってくれましたが、自分では帰国の際、基礎研究の経験がなけれ
は困ることを知っていましたので、ボストンのタフト大学へ移り、神経筋疾患の
基礎研究をすることにしました。給料は半分になりましたが、すでにアメリカの
医師免許証も取り、神経内科専門医にもなったので、日本でいうネーベン(アメ
リカではムーンライトという)をして生計を立てました。アメリカの臨床医で基
礎研究をする者は少なく、この一見無駄飯のような経験が今の自分を作り上げて
くれたのだと思います。色々回り道をしましたが、結局人生に無駄は無いと思い
ます。
マウスの医者より人の医者
タフト大学では2年間毎日当時アミトロ(ALS)のモデルであるとされていた
ウォブラーマウスの研究をやりました。神経病理学的変化を電顕的に運動神経細
胞、近位軸索、神経根、遠位軸索、神経筋接合部位、筋の各部位において、また
発症前、発症時、発症後の時点において検索するという研究で、なるほどやれば
やるほど面白く、深遠であり、ウォブラーマウスの原因究明に一生を賭けること
もできるのではないか、とも考えました。しかし、どうせやるのなら人の病気で
一生賭けるべきだと強く感じ始めました。その後、ケース・ウエスタン・リザー
ブ大学に戻り、二年間さらにウォブラーマウスの軸索輸送の研究をし、ALSの
臨床を始めました。臨床に力を入れるために1983年にクリーブランド・クリ
ニックに移りました。一般神経内科から神経筋疾患の患者、特にアミトロ(AL
S)の患者を集中的に、ALSだけでも年間250以上の新患を診るようになり
ました。
まだまだこれから頑張ろう
クリーブランド・クリニックでは、Multidisciplinary clinic (職種の異なる専
門家による多角的チーム医療)を設立し、ALS患者の治療を行い、ウォブラー
マウスをALSの治療薬剤の開発に使用し、患者での臨床試験を広範に行うなど、
いつの間にか16年が経ち、ALSの専門家への道を進んだことになりました。
1999年、54歳、クリーブランド・クリニック神経内科の上層部の一人とな
り、ここでのんびり定年まで安住するか、或いは少し新しいチャレンジが必要か、
などと考えている折、コロンビア大学のALSセンターの主任へとの声が懸かり
ました。コロンビア大学の神経科学部門はアメリカでも一・ニを競うところであ
り、ここにくればもっとALSの研究を進歩させることが出来るのではないかと
いう期待を持って、ニューヨークに移ることにしました。長年クリーブランドと
いう気の置けない町に慣れすぎてしまったということもあって、インターンの時
とは全く異なった戸惑いを経験しました。クリーブランド・クリニックとコロン
ビア大学との大きな病院の体質の違い、全ては独立採算制、表面的には進歩的で
ありながら、内部的にはアメリカ東海岸の保守的思考性があり、クリーブラン
ド・クリニックとは全く異なったチャレンジの連続で、すっかり若返りをさせら
れました。人の比喩では、「ハーバードでは後ろから人を刺すが、コロンビアで
は前から人を刺す」と聞きましたが、幸いにしてまだその経験はしていません。
しかし、コロンビア大学は、アメリカ神経内科の中心地のような感があり、幾つ
かダントツの部門もあり、2年前には30億円の寄付で Motor Neuron Center が
設立され、それと共に、我々のALSセンターでの研究も多岐にわたり、患者の
QoLの研究から、幹細胞・運動細胞の基礎的研究まで幅広く手がけています。
研究資金・寄付金の獲得は厳しく大変ですが、定年も無いので、頭と体がしっか
りしているうちは、ALSの原因究明・治療開発に少しでも役立つ仕事を続ける
つもりです。
コロンビア大学, 神経学研究所, ALS センター
New York, USA
留学35年を顧みて
私にとって長年にわたる留学は貴重な経験であったと思います。二つのカルチャ
ーの良いところを知り得ましたし、また一つの疾患を研究し続ける幸運に恵まれ
ました。アメリカの神経内科医として、また外国に住む日本人として物を考える
ようになったと思います。その一方では、私の英語の上達は少なく、日本語能力
は低下するばかりです。また、長く住んだから、アメリカ人になるわけでもなく、
自分は永久に日本人であることには変わりはありません。
アメリカに留学していていつも思ったことは、アメリカの医学は画然と進んでい
たということです。それは、システムの違い、医療費の違い、能力・競争主義、
強力な人脈、情報伝達の速さ、さらにアメリカ人の合理性などによるものと思わ
れます。しかし最近の日本の医学研究の進歩はアメリカと比べて遜色なく、しか
も日本の医療制度、患者治療体制、とくに日本のALS患者治療などはアメリカ
よりも遥かに優れており、日本は自国の良さをさらに大いに伸ばしてほしいと思
います。アメリカの医療制度は破綻しており、医学制度の変革と医療保険制度の
改善ともに、近日大きな改革が行われるものと期待されます。
深謝
医師として立派な教育をして下さった東邦大学医学部・第二内科の諸先生、特に
故阿部達夫教授、また神経内科へ導いて下さった里吉栄二郎教授・古和久幸教
授・故田崎義昭教授に感謝しております。しかしなんといっても、卒後40年間、
ずっと忘れずに影に日向にいつも励まして下さった東邦大学医学部43同期生は
特別です。岡谷晃・亀井敬一郎・斉藤豊和・斉藤長則・中島麒一郎・松本光・松
本誓子・若田宣雄・吉田博美諸先生、一人一人違った形で私の心の支えになって
下さり、お陰様で「根無し草」に成らずにすんだと思います。心から感謝を申し
上げます。
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