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医療のマーケティング序論 - 日本マーケティング学会

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医療のマーケティング序論 - 日本マーケティング学会
Japan Marketing Academy
★
論文
医療のマーケティ
ング序論
〜 7P と患者志向の再考〜
❶
❷
❸
❹
❺
———
———
———
———
———
はじめに
医療機関のターゲット顧客
医療サービスにおけるマーケティングの 7P
患者志向とは何か
おわりに
川上 智子
統制等の医療政策の影響が大きく,マーケティ
● 関西大学 商学部 教授
木村 憲洋
ング機能の有効性が他の業界に比べて相対的に
弱いことが挙げられる。
● 高崎健康福祉大学 健康福祉学部 医療情報学科 准教授
また,医療関係者の側にとっても,マーケティ
ングという学問が正しく理解される機会が少な
❶ ——— はじめに
かったという経緯もある。なぜなら,医師と患
者との間に存在する,情報の非対称性とそれに
本稿の目的は,医療におけるマーケティン
依拠するパワーの非対称性の程度が著しく高い
グのあり方を考察することである。Kotler et
ために,企業と顧客との関係と同形で考えるこ
al.(2002)では,プロフェッショナル・サービ
とが難しかったためである。
ス組織におけるマーケティングのあり方につい
しかし,アメリカで医療のパターナリズム(父
て,いくつかの提言を行っている。たとえば,
権主義)の批判から生まれた「患者中心の医療」
マッカーシーが提唱したマーケティングの 4P
(patient centered medicine)という概念が広
については,物的証拠(Physical Evidence)
,
まるにつれ,医療におけるマーケティングの重
プロセス(Process)
,人(Personnel)を加え
要性も認識されつつある(廣田 2010,pp.66-70;
た 7P が重要になると言っている(訳書 p.7-8)
。
Stewart et al.1995)。
医療のマーケティングに関しては,上記以外
以上のような背景と問題認識に基づき,本稿
にもいくつか先行研究は存在するものの(廣田
では,医療機関のマーケティングについて,主
2010,前田 2010,真野 2003;2011,柴田 2009,
に次の3点に焦点を当てて議論する。すなわち,
田中・古川 2009)
,総じて,理論的にも実践的
1)ターゲット顧客,2)マーケティングの 7P,3)
にもさほど多くの蓄積がなされているわけでは
患者志向という3点に関して,病院のマーケティ
ない。
ングに関する序論を提供することが,本稿の目
その理由の 1 つとして,医療機関の場合,医
的である。
療法による広告規制や診療報酬制度による価格
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マーケティングジャーナル Vol.32 No.3(2013)
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医療のマーケティング序論
が重要となる。医療サービスの公益性から,行
❷ ——— 医療機関のターゲット顧客
政機関も情報伝達の主体となる点も他の産業と
の違いの 1 つである。
1.B to C の観点から見たターゲット顧客
厚生労働省が 2011 年 10 月に実施した『受療
1-1)患者
行動調査』によれば,患者が病院を選択すると
医療機関のターゲット顧客の第一は患者であ
きの情報源は,入院・外来とも医療機関の相談
る。その患者へのアプローチにおける他の産業
窓口が最多である。次いで,病院が発信するイ
や一般企業の場合との違いは,医療機関には法
ンターネットの情報,病院の看板やパンフレッ
令で定められた広告規制が存在することであ
トなどの広告,行政機関が発行する広報誌やパ
る。
ンフレットと続いている(図− 1)
。
日本では,国民皆保険をベースに,フリーア
病院が発信するインターネットの情報がよく
クセス制 と自由開業医制度の下,患者が病院
参照されているのは,インターネットは広告
や診療所を自由に選択できる(池上 2010, p.58;
規制の対象外とされているためである(木村
前田 2010, p.8)
。一方,医療法第 6 条の 5 により,
2012,p.102)。2008 年に実施された前回の『受
病院が広告できる事項は,名称・住所・電話番
療行動調査』では,インターネットに関する項
号・診療科名等の客観的事実のみに限定されて
目は調査されていない。2008年当時の段階では,
いる。このように外部への情報発信が厳しく制
参照する情報源としては医師や家族・知人等に
限されていることから,情報の非対称性を解消
よる紹介が上位を占めていた。このことから,
するために,どのように患者に情報を伝えるか
ここ数年のうちに,患者の情報収集行動が,身
1)
■図 —— 1
患者が病院を選択するときの情報源
注)複数回答。全国 485 施設で実施。有効回答は総数 150,620,外来患者 98,988,入院患者 51,632。
出所)厚生労働省(2011)『受療行動調査』。
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論文
近でパーソナルな情報源への依存から,ネット
大きい。しかし情報の非対称性ゆえに,患者や
上の情報収集へと大きく変わってきていること
地域住民は医療行為そのものの質に関する判断
が分かる。
が困難である。そのため,記憶に残るブランド
経験として,機能的な便益のみならず,感覚的・
1-2)地域住民
情緒的・認知的な便益の重要度が増すことにな
病院のターゲット顧客は患者だけではない。
る(Schmitt, 1999)。
将来の潜在需要を有する存在として,地域住民
もターゲット顧客に含まれる。とりわけ近年,
2.B to B の観点から見たターゲット顧客
予防医療の観点から,地域住民への働きかけが
2-1)医療スタッフ
より重要度を増している。病気を予防し,ある
医療サービスの質は,医療スタッフの質に依
いは早期に発見することによって,地域住民自
存する。よって,いかに優秀な医師を確保する
身の健康を維持できるだけでなく,医療費削減
かが医療機関にとっての大きな課題である。言
にもつながっていく。
い換えれば,B to Bの観点から見て,医療スタッ
病院の中には,テレビドラマのロケに協力す
フの教育機関に対し,医療機関が人材確保のた
るといった形で,一般市民への PR を図るケー
めにどのようなマーケティング活動を行うかが
スや,特定の診療科のブランド力を向上させる
重要となる。
といった戦略を採るケースも見られる(木村
2004 年に新医師臨床研修制度が導入され,
2012,p.157)。たとえば周産期医療において,
医師の労働市場は大きく変化した。以前は医局
厚生労働省の調査では入院・分娩費用の平均は
からの派遣が主であったが,新制度の下で医
40 ~ 50 万円のところ,費用 100 万円以上でも
局への依存度が低下した。その結果,医師の安
順番待ちとなるような人気のブランド病院も存
定供給が困難となる病院も増え,医師紹介業を
在する。
介した就職も増加した。こうして,医療機関に
しかし,経営資源や能力とのバランスを考え
おける人材確保の重要性がいっそう高まってい
ると,すべての病院や診療所がこのような広報
る。
活動やブランド強化が可能であるわけではな
医療機関で医療スタッフ候補者に働きかける
い。より汎用性の高い取り組みとしては,患者
マーケティングが重要なのは,専門性の高さゆ
会の形成による患者同士のネットワーク作り
えに人材の流動性が高いことに加え,従業員満
や,病院や自治体施設における健康教室や作品
足度とサービスの質が正の相関を示すという,
展示会等の開催のように,患者の経験の共有を
サービス業特有の特徴を有しているためであ
ベースにした手法が注目されている。
これらは,
る。
経験価値マーケティングの考え方に基づくもの
人材確保のためのマーケティングとしては,
である(Schmitt, 1999)
。
研修医獲得のための臨床研修プログラムを開発
医療機関のブランド力は,言うまでもなく,
する,一流の臨床医を招いた教育研修を行う,
医療サービスそのものの質に依存するところが
労働環境・賃金体系・教育研修制度を整備する
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医療のマーケティング序論
といった方策等が有効である。
❸ ——— 医療サービスにおける
マーケティングの 7P
2-2)地域の医療機関
B to B の観点から考えた場合,地域の医療機
関もマーケティングの対象となる。現在,日本
3-1)医療サービスにおける 7P とは
の医療政策は,地域連携の重視から一歩進んだ,
前節では,マーケティング活動のうち,ター
地域包括ケア の方向へと進んでいる。 図− 1
ゲット顧客にいかに働きかけるかという観点か
においても医療機関の相談窓口が患者の主な情
ら,主に広告や広報といったプロモーションの
報源となっているように,多くの医療機関にお
側面について述べてきた。周知のとおり,プロ
いて,地域の医療機関との連携を強めるために,
モーションは,マーケティングの 4P といわれ
地域連携室といった名称の相談窓口が設置され
るマーケティング・ミックスの 1 つである。
ている。
本稿の冒頭でも述べたように,医療サービス
地域連携室には,医療ソーシャルワーカーや
におけるマーケティング・ミックスは,4P に
看護師,事務職員等が配置され,患者や地域住
さらに3つのPを加えた7Pで説明される(Kotler
民の相談を受ける。そして,かかりつけ医とな
et al., 2002)
。すなわち,医療サービスにおけ
る診療所や,急性期・亜急性期・慢性期といっ
るマーケティングの 7P とは,製品(Product),
た治療段階,あるいは診療科によって機能分化
価格(Price),流通(Place),プロモーション
2)
した他の医療施設 への紹介を行っている。
(Promotion),物的証拠(Physical Evidence),
3)
こうした医療施設間の紹介が円滑に行われる
プロセス(Process),人(People)である。医
ためには,機能分化した医療機関同士の連携が
療サービスの場合,それぞれが何を意味するの
行なわれていることが前提である。国の医療政
かを表− 1 に示した。
策により,医療機関同士の適切な情報提供が求
まず第 1 に,製品(Product)は,患者の信
められるようになった結果,B to B のマーケ
頼と満足度を得るに足る医療行為のことであ
ティングの重要性も高まっているのである。
る。提供される医療の種類や質がここに含まれ
る。松尾(2009, p.261)では,医療の質に関す
■表 —— 1
医療サービスの 7P
Product (
)
Price (
)
Promotion (
Place (
)
)
Process (
)
Physical Evidence (
People (
)
)
出所)筆者作成。
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論文
るドナベディアン・モデルやサービス品質に関
of Life: QOL)を向上させる情緒的・感性的価
するサーブクウォル(SERVQUAL)モデル等
値も含まれる。
の広範なレビューに基づき,医療サービスを支
価格が固定的である以上,価格差別化による
援構造,相互作用プロセス,結果の 3 段階でと
競争優位は得られない。そのため,価格自体の
らえるモデルを提唱している。支援構造とは,
操作ではなく,価値すなわち費用対効果を高め
患者から直接見えない部分,相互作用プロセス
ることで患者にとっての価値を向上させ,より
は患者から見える部分,そして結果は,治療結
多くの患者を集めて医業収益の増加を図ること
果や医療サービスに対する満足度のことであ
が,医療機関における価格戦略の基本的な考え
る。医療サービスにおける製品(Product)は,
方である。
これらの総体としてとらえられる。
第 3 に,プロモーション(Promotion)につ
第 2 に価格(Price)については,医療サービ
いては前節でも少し触れたように,医療機関の
スの場合,診療報酬制度により公定価格が定め
場合,広告規制のある中で,その対象外である
られているため,価格による差別化は難しい。
インターネット上での情報提供が主流となりつ
そこで,価格以上の価値を患者に感じさせるこ
つある。医療機関や行政機関による情報提供に
とが重要になる。この場合の価値には,
医療サー
加え,ソーシャルメディアを介した患者や地域
ビスの本質である診療・治療という機能的・功
住民相互のクチコミも,正確かつタイムリーな
利的価値のみならず,患者の生活の質(Quality
情報伝達のあり方として有力である。
■表 ——2
病院を選ぶに当たり重視した項目
1
2
(15.7%)
3
(12.4%)
(22.6%)
(13.3%)
(17.3%)
(13.1%)
(9.9%)
(11.0%)
(10.3%)
(16.0%)
(12.6%)
(10.5%)
(18.0%)
(10.3%)
(10.0%)
(20.2%)
(11.5%)
(11.1%)
(19.2%)
(11.8%)
(26.2%)
(13.1%)
(21.0%)
(11.0%)
(9.6%)
(19.3%)
(11.3%)
(10.7%)
(15.5%)
(12.7%)
(11.3%)
(18.3%)
(14.4%)
(9.9%)
(12.4%)
(11.4%)
出所)厚生労働省(2011)『受療行動調査』。
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医療のマーケティング序論
第 4 に,流通(Place)とは,病院の立地と
な対象に働きかけるのがマーケティングの本質
アクセス性に関わる要素である。医療機関の立
であり,そのための手段が前節で述べたマーケ
地は,医療政策で人口動態や発症率を考慮して
ティングの 7P である。
定められる面もあり,全く自由に選択できるわ
医療機関のマーケティング・ミックスを構
けではない。また,入院や特定機能病院では,
成する 7P のうち,最も重要な要素は医療行為
医師による紹介で選ばれることが多い。一方,
(Product)である。図− 1 に示した通り,7P を
外来の場合は,自宅や職場・学校に近いという
統合した形で市場に働きかける際には,製品
理由で選ばれている(表− 2)
。開業医の場合は
(Product)としての医療行為を中心に考え,医
特に立地選択が重要である。
療サービス全体に一貫性を持たせる必要があ
第 5 に,物的証拠(Physical Evidence)とは,
る。これが医療サービスに関わるマーケティン
治療や診療に用いられる医療機器・医薬品,医
グ・ミックスの第 1 の特徴である。
療材料,建物,病棟・待合室の設備・備品,イ
大病院には大病院の,診療所には診療所なり
ンテリア,医療スタッフの見だしなみ等のこと
のマーケティング・ミックスがあり,診療科や
である(柴田 2009,p.76)
。医療サービスは無
病態のステージによっても,どのような医療
形財であるため,それを視覚的に補う有形物が
サービスとして一貫性を持たせるかが変わって
必要なのである。
くる。たとえば,急性期の一刻を争う病気の治
第 6 にプロセス(Process)とは,方法・手
療には,ゆとりやリラックスといった要素より
順,教育・報酬制度等のことである。患者に診
も,専門性の高い診療を迅速に行うことが優先
療の道筋を示すクリティカル・パス(Critical
される。逆に,慢性期には,患者が気持ちにゆ
Pathway)が代表例である。
とりを持って病気療養やリハビリテーションに
最後に人(People)とは,医療サービスを提
励める雰囲気を作る等,アメニティにも十分に
供する医療スタッフのことである。表− 2 にお
気を配らなければならない。マーケティング・
いても,外来患者では「医師や看護師が親切」
ミックスの一貫性は,医療サービスにおいても
であること,入院患者では「技術の優れた医師
重要である。
がいる」ことが高く評価されていることが注目
医療サービスにおけるマーケティング・ミッ
される。
クスの第 2 の特徴は,前節でも述べた通り,制
度として医療行為に対する価格が固定化し,価
3-2)マーケティングの 7P から 6P + V へ
格差別化ができない点が挙げられる。そのため,
医療サービスにおける 7P は,医療機関が市
医療サービスにおいては,7Pよりも価格(Price)
場に対して働きかける手段である。市場には,
の代わりに価値(Value)を入れた 6P + V で考
ターゲット顧客のみならず,競合病院や政府に
える方が良いともいえる。
よる規制等も含まれる。いずれも医療機関とい
以上のアイデアを図示したものが図− 2 であ
う組織の外部にあり,指示命令系統ではコント
る。図− 2 は,マーケティングの対象である市
ロールできない存在である。そうした管理不能
場に対し,製品(サービス)としての医療行為
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論文
■図 —— 2
このように市場志向の重要性が強調される
マーケティングの 7P から 6P + V へ
一方で,90 年代後半には「既存顧客の暴政」
(tyranny of served customers)に関する問題
提起も行われた(Christensen 1997 他)。目の
前にいる顧客の言うことだけを聞いていると,
より有望で成長性の高い画期的なイノベーショ
ンを逃すというのが,その主張のポイントであ
る。
この問題提起に対しては,市場志向の理解が
出所)筆者作成。
不十分であるという批判がなされ(Day 1999),
を中心に,
6つのPと価値Vを手段として組合せ,
その後,顕在ニーズを満足させる反応型市場志
働きかける必要があることを示している。
向と潜在ニーズを満足させる先行型市場志向を
厳密に区別して論じるべきであるという議論
❹ ——— 患者志向とは何か
へと発展していった(Danneels 2004; Narver,
Slater and MacLachlan 2004; 川上 2005)。
4)
4-1)市場志向
市場志向や顧客志向に関する研究の展開に
前節でマーケティングの 6P + V で働きかけ
ついては,114 の研究をメタ分析した Kirca et
る対象として,その頂点にあるのは市場であり,
al.(2005)のレビュー論文に詳しい。その中で
その中で最も重要な対象は患者である。
彼らは,市場志向と組織の成果との関係は,サー
マーケティングの領域において,市場志向
ビス業よりもメーカーの方が強いと指摘してい
(market orientation) や 顧 客 志 向(customer
る。また,パワー格差が少なく,不確実性を回
orientation)という言葉はマーケティングの中
避する文化のある組織の方が,市場志向と成果
核的な概念をなすと言われてきた。しかし,こ
の正の関係が強いことも発見している。
れらの概念が明確に定式されたのは 1990 年代
これらの Kirca et al.(2005)の発見事項に基
のことであり,研究の歴史としては比較的浅い
づけば,サービス業であり,医療スタッフ内で
(Kohli and Jaworski 1990; Narver and Slater
パワー格差が大きく,かつ不確実性に満ちた医
1990; Kohli, Jaworski, and Kumar 1993; Slater
療サービスは,相対的に市場志向が成果に影響
and Narver 1995)
。
しづらい業種に分類されることになる。
これらの先行研究によれば,市場志向とは,
ここでのポイントは,市場志向(あるいは患
現在や未来の顧客や外部要因に関する市場情報
者志向)が,常に成果に正の影響を与えるわけ
の生成と組織全体への普及のことである。そし
ではないというコンティンジェンシー理論(条
て,その実現には,組織内の部門横断的関係を
件依存理論)の視点で考える必要があるという
マネジメントすることが重要であると強調され
ことである(Atuahene-Gima,1995; 川上 2005)。
ている(川上 2005)
。
以上のように,マーケティング分野における
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医療のマーケティング序論
市場志向や顧客志向については,その構成概念
解釈がなされたことは想像に難くない。
の定義と測定尺度の提案に始まり,20 年以上
その後 1999 年 1 月に,横浜市立大学医学部附
にわたって研究が蓄積されてきた。その蓄積と
属病院において患者取り違えの医療事故が起
共に,理論的にも多様な展開がなされてきた。
き,医療サービスの根幹ともいえる医療安全が
とりわけ,顧客の潜在ニーズをいかにとらえ,
急速に注目を集めていった。同年 3 月に提出さ
先行的市場志向を実現するかという点や,市場
れた「横浜市立大学医学部附属病院の医療事故
志向が有効な場面とそうでない場面があること
に関する事故調査委員会報告書」では,患者中
を前提とするコンティンジェンシー理論の視点
心医療を確立する必要性についても言及されて
は,医療サービスにおける患者志向のあり方を
いた。しかし現実の流れとしては,この事故を
考えるうえでも参照されるべき論点である。
契機に,患者中心医療よりも,むしろ大前提と
しての医療安全の重視に傾いていった。
4-2)患者志向に関する医療業界の動き
一方,医療業界においては,1994 年の『厚
4-3)医療サービスにおける患者志向とは何か
生白書』において,医療はサービス業であると
近年,患者中心という言葉に対して,医療を
明記されて以来(木村 2012; 島津 2005)
,患者満
受ける側の患者と,医療を提供する側の医療従
足度調査やアメニティの充実へと力を入れる傾
事者との間に認識の違いが生じて始めている。
向が見られ始めた。象徴的な現象として,多く
患者側の受療行動が大きく変化しつつあること
の病院において,患者の呼称が「患者さん」か
が,その背景にある。
ら「患者様」へと変わっていった。
インターネット上のソーシャルメディアに代
このような「患者第一主義」とでも称すべ
表される ICT の発達によって,現代の患者は,
き極端な変化が現れたのは,アメリカから伝
病気に関するさまざまな情報を探索することが
わった患者中心医療(patient-centered health
できるようになった。たとえば,一刻を争う病
care)の直訳が,その本来の意味とは異なる形
気でない場合には,患者は受診前後に疾患につ
で伝わったことによる(廣田 2010,p.65)
。
いて自分でじっくり調べ,納得がいくまで医師
日本の医療機関では,院長になれるのは医師
と話をすることができる。
のみであることが医療法で定められている。そ
こうして,以前は厳然と存在していた情報の
のため,医療機関の組織とそのマネジメントは,
非対称性が少しずつ緩和されつつある。その大
伝統的に医師を頂点とするピラミッドの形で考
きな流れの中で,患者が急速に自主性を身に付
えられてきた。1990 年代に患者中心という言
けていく一方で,医療機関側の体制は必ずしも
葉が日本に伝わった際,そうした歴史的経緯へ
十分に対応できていない面がある。その結果,
の反動として,ピラミッドの頂点には医師では
患者や患者会からの口コミを介して,悪い評判
なく患者を置くべきであるという認識が広まっ
はすぐに広範囲に伝播し,以前よりも早いペー
た。その象徴として,
患者を様付けで呼ぶといっ
スで患者が減少していくことになる。
た形で,わかりやすい,ある意味では表層的な
とりわけ希少疾患において,こうした傾向が
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強い。なぜなら,これまではロングテールで集
業務とプロセスを患者にとっての価値を中心
合体になりにくかった希少疾患の患者たちが,
に据えて組み替えることを要求する 6)。こうし
時空を超えて集う場が新たに生まれたためであ
て,組織とプロセスの問題として理解されて初
る。広告規制のある医療業界において,
インター
めて,患者志向の医療という概念は,伝統的な
ネットによる情報の非対称性の解消は,その意
マーケティングの分野で蓄積されてきた,市場
味で画期的な出来事であった。
に関する部門を超えた情報共有や協働という意
ここで今一度,患者志向の原点に返る必要
味での市場志向の理論とも整合性を持つように
がある。患者中心医療とは,もともと 1980 年
なる。
代に導入された臨床技法である(Stewart et
患者志向は,単に患者の敬称を変えるといっ
al.,1995)
。その原義には,次のような 6 つの要
たシンボリックな意味ではなく,組織的に,治
素を含んでいる(同訳書 2002, p.32)
。
癒の主体たる患者を中心に据えたプロセスとし
① 疾患と病い体験の両方を探る
て実現されなければならない。そして,患者と
② 全人的に理解する
医療機関との関係も,マーケティング分野にお
③ 共通基盤を見出す
ける企業と顧客との関係のパラダイムが,刺激・
④ 予防と健康増進を組み込む
反応型から相互作用へ,そして関係性へと変化
⑤ 患者・医師関係を強化する
したように(嶋口・石井 1995, p.8),新たなパ
⑥ 現実的になる
ラダイムでとらえられる必要がある。
これらの要素から,患者中心医療とは,病気
患者志向の医療において,もはや患者は,医
中心ではなく,患者という全人格的な存在を中
療サービスに受け身で反応する弱者的存在では
心として医療サービスを提供することであると
ない。患者はエンパワーメントを促され,医療
理解される 。
組織のコントロールを超越しうる自立した主体と
たとえば松尾(2009, p.52)では,先行研究
して,長期的に複数の医療機関との関係を構築
を参考に,患者志向を「患者のニーズや価値観
する存在へと進化することが期待されている。
を尊重しながら,患者の身体的・精神的な快適
要約すれば,第 1 に,医療機関における患者
性を高めるために,診療・ケア・情報を提供し
中心のプロセス構築と部門横断的な組織ルーチ
ようとする意思」と定義している。そして,患
ンの制度化,第 2 に,患者のエンパワーメント
者志向の理念を実現するためのルーチン(構
による複数の医療機関との自立的な関係性の構
造,制度,システム,行動規範,行動パターン)
築という,この 2 点こそが,マーケティング分
が病院内に存在することが重要だと述べている
野の先行研究から示唆される,患者中心医療の
5)
(松尾 2009, p.73)。その指摘にある通り,理念
目指すべき方向性といえる。
ではなく実現こそが,医療サービスにおける患
者志向の到達目標である。
❺ ——— おわりに
患者志向の哲学は,専門分野の異なる医療ス
本稿では,医療のマーケティング序論と称し,
タッフに職能分化した組織の中で,すべての
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医療のマーケティング序論
ターゲット顧客,マーケティング・ミックスの
注
1)フリーアクセスにより,日本の年間受診回数は年
13.8 回とアメリカ 3.8 回,イギリス 5.1 回等に比べ,
格段に多い(前田 2010,p.8)。多頻度受診により外
来の待ち時間は長くなり,3 時間待ち 3 分診療やコ
ンビニ受診と揶揄される状況にある。仮に予約制に
すれば,待ち時間は短くなるが,今度は予約時に待
つことになる(池上 2010,p.59)。多頻度受診には
医療機関側の出来高払いによるインセンティブも影
響しており,現在,医療政策は包括払い強化の方向
に動いている。一方,受診頻度の高さは予防医療や
公衆衛生の面からは意義があり,待ち時間や医療費
削減の観点も含め,多面的に議論されなければなら
ない。
2)厚生労働省は 2010 年に医療と介護のシームレスな
地域医療連携を 2015 年までに実現するプランを策
定した。その後,2012 年度スタートの第 5 期介護保
険事業計画において,中学校区を基本に概ね 30 分
以内に駆けつけられる日常生活圏域地域における住
まい・介護・医療・福祉の一体的提供を目指す「地
域包括ケアシステム」の方向性が示された。
3)急性期は病気になった直後の重篤な状態,亜急性期
は急性期から慢性期への移行期,慢性期は,重篤な
状態は脱したものの診療や治療が求められる状態の
ことである。
4)顕在ニーズとは,顧客自身が認識し,表現できるニー
ズのことであり,潜在ニーズとは,顧客は認識して
いないが,顕在ニーズと同じくらい現実的なニーズ
の こ と で あ る(Narver, Slater and MacLachlan
2004)。
5)Agency for Healthcare Research and Quality,
Expanding Patient-Centered Care To Empower
Patients and Assist Providers. Research in Action,
Issue 5. AHRQ Publication No. 02-0024. May 2002.
Rockville, MD. http://www.ahrq.gov/qual/
ptcareria.htm。
6)実際にこれを実現した例としては,アメリカのシア
トルにあるバージニアメイソン病院がトヨタ生産方
式(リーン生産方式)を医療現場に導入し,トヨタ
の基本理念である顧客志向の哲学を病院の経営戦略
として徹底させ,医療の質とコスト削減の両方を同
時に達成した事例がある。同病院では,専門分野を
超えた統合を促す改善推進オフィスが設置され,患
者中心のプロセスとは何かを従業員に徹底的に教育
している(川上・工藤 2010)。
6P + V,そして患者志向の医療という 3 点に焦
点を絞って,医療機関におけるマーケティング
のあり方を論じてきた。
本稿で述べた概念をわかりやすく説明するた
めに,木村・川上(2013)では,福井県立済生
会病院の事例を基に,具体的に解説している。
福井県済生会病院では,経営企画課を中心に,
病院の全従業員が関わる組織的な活動として,
マーケティング活動をルーチン化させ,患者志
向を組織的に実現している。たとえば,グッド
アイデアレポートという提案シートを用い,現
場を知る従業員が直接,患者の目線に立った良
いサービスを提案する仕組みを構築し,定常的
に動かしている。
医療分野は特殊だと良く言われる。しかし世
の中には,固有でない業界や企業は 1 つとして
存在しない。医療サービスの特殊性を見極める
ためにも,一般企業を対象に蓄積されてきた理
論や発見事項の適用と拡張の可能性を探る意義
は大きい。高齢社会を迎え,東日本大震災で大
きな打撃を受けた今,厳しい現実に直面する医
療現場を支援するためにも,医療とマーケティ
ングとの理論的な相互浸透と発展的統合が求め
られている。本稿は,その道筋への序論である。
【謝辞】
本研究は,文部科学省科学研究費挑戦的萌芽
研 究( 平 成 24 年 度 ~ 平 成 26 年 度, 課 題 番 号
24653092)および関西大学研修員研修費の助成
を受けている。
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http://www.j-mac.or.jp
JAPAN MARKETING JOURNAL 127 ●
マーケティングジャーナル Vol.32 No.3(2013)
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Japan Marketing Academy
医療のマーケティング序論
川上 智子(かわかみ ともこ)
神戸大学大学院経営学研究科修了 博士(商学)
ワシントン大学ビジネススクール連携教授
INSEAD ブルーオーシャン戦略研究所 客員研究員
日本マーケティング学会理事
木村 憲洋(きむら のりひろ)
武蔵工業大学工学部卒業
国立・医療病院管理研究所研究科修了
東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科満期退学
IT ヘルスケア学会理事
15
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JAPAN MARKETING JOURNAL 127 ●
マーケティングジャーナル Vol.32 No.3(2013)
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