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ミトフォード『ギリシア史』におけるクレオンの描き方
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title ミトフォード『ギリシア史』におけるクレオンの描き方 Author(s) 堀井, 健一 Citation 長崎大学教育学部紀要. 人文科学. vol.64, p.1-13; 2002 Issue Date 2002-03-27 URL http://hdl.handle.net/10069/5804 Right This document is downloaded at: 2017-03-28T10:36:21Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 長崎大学教育学部紀要 -人文科学 - N0. 64,1 -1 4( 2002. 3) 1 ミ トフォー ド『ギ リシア史』におけるクレオ ンの描 き方 堀 井 健 Cl eoni nW・Mi t f or d' sTheHL ' s t o L ・ YOfGr eec e Ke ni c hiHORI I はじめに ウ イ リアム-ミ トフォー ド ( 1 7 44-1 827年 ) は全 1 0巻 の 『ギ リシ ア史 』 ( TheHi s t o7 70 f Gr e e c e ) を著 した。彼 の著 作 は, 多年 の間 人気 を博 し続 けた し,古代 ギ リシア とい う比較 的無 視 され る主題 につ いて の骨 の折 れ る英文 作 品 を提供 した と評 されて い るio また, 同 時 代 人 の ジ ョン-ギ リー ズ ( 1747-1 836年 ) の 『古代 ギ リシ アの歴 史 』 (TheHi s t or yo f Anc i e ntGr e e c e ,i t sCo l oni e s ,andConque s t s ) 全 8巻 よ りも多 くの点で優 れてい る といわれ 本稿 は,西洋近代 人 が 古代 アテネの民主制 を どの よ うに理解 して きたか を探 る研究 の一 部 として ミ トフォー ドの 『ギ リシ ア史』 を題材 として取 り上げ,手始 め に彼 が古代 アテネ 民主制 時代 の政 治家 クレオ ンを どの よ うに描 いたか を追 求す る試 みで あ る。 西洋近代 人が 育代 アテネ民主 制 を どの よ うに理解 して きたか を探 る研 究 には ロバ ー ツの近 著 3 が古代 ギ リシアの時代 か ら現代 まで通 史 の形 で論 じた先行研究 が あ る 。 だが,彼 女 の近著 は ミ トフ ォー ドの 『ギ リシア史』 につ いて 2ペー ジ強 の言及 に とどま り, また ミ トフ ォー ドの ク レ オ ン観 につ いて は言及が ない。 古代 ギ リシ アの政 治家 クレオ ンは, これ まで しば しば民主制期 アテネのデマ ゴー グの - 一 人 として位置づ け られ て きた。 クレオ ンは,彼 と同時代 の代表 的政 治家 のぺ リク レスや ニ キアスが貴族 の出で あったの に対 して,非上層民 出身で あ りなが らぺ リク レスや ニ キアス らを公 然 と非難 した りして彼 らに対抗 しよ う とし,時 にはこ キアス に代 わ って将 軍 として 軍事遠征 に出か け るな どした。彼 の その よ うな無 鉄砲 さ と民衆寄 りの指導者 として振 る舞 って は上層市 民 を苦 しめた行動 は, 同時代 の喜 劇詩 人 ア リス トフ アネス に よって しば しば 喜劇 作 品 中の噸 笑 の的 に され た。 さ らに はスパ ル タの常勝将軍 ブ ラシダス と張 り合 い,つ いにはア ンフイポ リスの戦 いで彼 の軍 に よって敗北 し戦死 した。 ミ トフォー ドは この ク レ オ ンを どの よ うに彼 の 『ギ リシア史』 の中で描 いたので あ ろ うか。 また,現代 世界 で は多 くの国が政 治体制 として民主制 を採用 す る時代 で あ るので, 多 く の人が民主制 また は民主主義 に好意 的で あ るが, ミ トフ ォー ドの生 きた時代 のイ ギ リス人 は今 日の我 々 とは民主制観 が 当然異 な って い よ う。 この点 を考 察 す る上で も,彼 の 『ギ リ シア史』 は注 目に値 す る。 以上 の点 を考察 す るた め に,本稿 で は先 ず初 めに ミ トフォー ドの生涯 につ いて簡 単 に紹 介 し, 次 に彼 が ク レオ ンを どの よ うに描 いたか を具体 的 に彼 の記述 に沿 って 明 らか にす る。 堀 井 健 一 2 第 1幸 三 トフォー ドの生涯 ウイ リアム-ミ トフォー ドの生涯 について以下で はDi c t i o nar yo fNat i o nalBi o gr a Ph yに従 7 44年 にエ クスベ リーの法延弁護士の長男 として ロン ドンで生 まれた。 って述べ る。彼 は,1 1 761 年 にオ クス フォー ドの クイー ンズ-カ レッジに入学 したが,学位 を取 らず に退学 した。 761 年 の父 の死 に よって財産 を相続 した後 オ クス フォー ドで はギ リシア語文献 を読 んだ。1 の数年 間,彼 はエ クスベ リーで暮 ら して ギ リシア語研 究 に専念 した。 その後,サ ウス-ハ ンプシ ヤーの市民軍 の陸軍大佐 を務 めた時, ローマ史家 のギボ ンが同僚 で あったので,彼 に勧 め られてギ リシア史 を執筆 し始 めた。第 1巻 は1 78 4年 に登場 し,版 を重 ね,最終的 に 0巻 を数 えた。1 7 85 90年 ,1 796 1 806 年 ,1 81 2 1 8年 には国会議員 を務 めた。 古物研 究 は全 1 家協会 の特別会員や王立 アカデ ミーの古代史教授 に もなった④。 ミ トフォー ドの 『ギ リシア史』 は,多年 にわた り人気 を博 し, 『 ェデ インパ ラ=レヴュー』 誌上で称賛 され たが, ア リソンの 『ヨー ロッパ の歴 史』 の中で は彼 の 『ギ リシア史』が フ ランス革命 時代 に執 筆 されたので アテネ民主制称賛 の声 を相殺 す る意図が あった こ とや, グロー トが彼 の史書 をサール ウオルの 『ギ リシア史』の論調 とは対照的で あ るこ とが指摘 されてい る⑤。 第 2章 第 1節 ミ トフォー ド 『 ギリシア史』におけるクレオンの描き方 ミュテ ィレネ人処遇時のク レオン レス ボス島の ミュテ ィ レネ人 の処遇問題 はぺ ロボネ ソス戦争 の最 中の前 4 27年 7月の出 ydi des ,Hi s t o nai〔 以下n 来事で あった。歴史家 トウキュデ イデスの 『 歴史』 ( Thuc uc.と略 )の第 3巻 36-49章 の中で詳述 されて い る。前年 の 6月 に元 はアテネ陣営で あった ミ す〕 ュテ ィレネ を含 む レスボス島の諸 ポ リスが アテネか ら離反 したが, アテネ はその鎮圧 のた 7年 6月 に ミュテ ィレネ を降伏 させ た⑥。 その直後 に ミュテ ィレネ人 めに軍 を派遣 し,前42 を どの ように処罰 す るかが アテネの民会で審議 され, いったん は ミュテ ィレネ人男性市民 の全 員の処刑 と婦女子 の奴隷化が決議 されたが,翌 日になって再 び民会が開催 され再審議 された上,前 日の決議 を覆 して ミュテ ィレネ人 の命 を救 うことになった。 この ミュテ ィレネ人処遇 問題 の一件 は, アテネ民衆 が民会 で前 日の民会決議 とはまった く正反対 の決議 を行 なった こ とか ら, アテネ民衆 の気 ま ぐれ さを示唆す る例 として しば し ば歴史家 たちに よって指摘 されて きた。 この結果 的 に 2日続 いた民会 で ク レオ ンは一貫 し て他 の同盟諸 国に対 す る見せ しめ として ミュテ ィレネ人男性市民 の処刑 をアテネ民衆 に要 請 した。 2日目の審議 の中でデ イオ ドトスが クレオ ンの意見 に反対す る意見 を説 いて前 日 の決定 を覆 し, その結果, ミュテ ィレネ人 は命 を救 われた。 この一件 は, クレオ ンの無慈 悲 さや無鉄砲 さを示唆す る例 として もしば しば歴史家 たちに よって指摘 されて きた。 ミ トフォー ドは, ミュティレネ人処遇問題 の時の クレオ ンを どの ように描 いたか。彼 は, 乱暴 な雄弁」 に ミュテ ィレネ人 の処遇 を審議 す る民会 の第 1日目につ いて, クレオ ンの 「 よって ミュテ ィレネ人 に対す るアテネ民衆 の怒 りが高 まったために ミュテ ィレネ人 のすべ ての男性 市民 の死刑 と婦女子 の奴隷化 が承認 された と述べ る。 す なわ ち, 「 次 に民会 は ミ ミ トフ ォー ド 『ギ リシ ア 史』に お け る ク レ オ ンの 描 き方 3 テ ユ レネ 〔 マ マ〕 7 民 衆 に課 され るべ き刑 罰 に関 して審 議 したo そ して怒 りの感情 が , ク レオ ンの乱 暴 な雄 弁 に よって た きつ け られ て, 支配 的 にな り,非 人道 的 な条令 が, すべ て の男 を死 に至 ら しめ, そ して全 階層 の女 と子供 を奴 隷 にお と しめ る こ とが承 認 され た」 出 。 この箇 所 で ミ トフ ォー ドは, ク レオ ンの演説 態度 また は言説 の乱 暴 さ と, 結 果 的 に決 議 さ れ た条令 の 内容 か らその無 慈 悲 さを示 唆 して い る 。. 第 2日目の民会 につ いて ミ トフ ォー P は, 「ク レオ ンはすで に採 択 され た法案 を支持 す るた め に激 し く熱弁 をふ るった」 と述 べ,続 いて彼 の演説 の 内容 を トウキ ュデ イデ スの記 述 か ら引用 して紹 介 した後 , 「 以上 が 非 人道 的 な宣 告 を支持 す る主 要 な議 論 で あ った。 だ が, ク レオ ンは議 論 を脅威 に よって強化 したか った」 と述 べ る。 こ こで彼 は, ク レオ ンの 演説 の際 の激 しさ,非 人道 的 な性 格 , 脅威 に よって物 事 を進 め よ う とす る強硬 さを示 唆 す . ,3. 36. 6の 中で叙 述 され て い るので, この点 に関 す る ミ トフ る。 ク レオ ンの乱 暴 さはThuc ォー ドの記述 は この トウキ ュデ イデ スの叙述 にな らったので あ ろ う 。 他 方, ミ トフ ォー ドは, この 2日目の民会 の模様 を叙 述 す る中で, トウキ ュデ ィデスの 『歴 史』 に は記 述 され て い ない事 柄 を語 る。 つ ま り, ミ トフ ォー ドは, この 2日 目の民会 の際 に ク レオ ンが対抗 勢 力 とな りうるニ キア ス に対 して民衆 の前 で刑 事 告発 す る と脅迫 し た と述 べ る 。 す な わ ち, 「ク レオ ンは議 論 を脅 威 に よって強化 したか った 。 そ して彼 は, 自分 が臆病 なこ キアス, つ ま りず うず う し くも賄 賂 の き く動機 を 自分 に敢 えて対抗 しよ う とす る人すべ て のせ い にす る人物 , に対抗 す る よ り効 果 的 な武器 を使 うこ とが で きな い こ とを知 って, あの野 蛮 な裁判 団, 集 まった民衆 , の前 で の刑 事 告 発 をす るぞ と脅 した 」 …。 このこ キア ス に対 す る ク レオ ンの脅迫 は, 前述 の とお り トウキ ュデ イデ スが語 って い な い だ けで な く, プル タル コス 『ニ キアス伝 』 ( Pl ut a r c hos 〔 以 下Pl ut .と略 す〕 ,Ni c i as )の 中 に ut . ,Ni c i as4. 6の 中 もその脅迫 を示 唆 す る記述 は ない。 関連 す る もの を しいて挙 げれ ば, Pl で ア リス トフ アネ スの ク レオ ンが威 張 ってこ キ ア ス を ゆ さぶ ってや る ( t a r a t t e i n) と語 っ て い る と伝 えて い る記述 が あ ろ う 。 だが, この プル タル コスの記述 は, 指摘 され て い る と , ア リス トフ アネ ス 『 】 騎 士 』3 58の台詞 と思 われ る もので あ るけれ ども, 実 際 に劇 中 お り】1 で その 台詞 を語 ったの は ク レオ ンに似せ たパ プ ラゴこ ア人の相 手役 を務 め る豚 肉屋 で あ っ て ク レオ ンで はな い】 2 。 従 って, ミ トフ ォー ドは, プル タル コスの誤 記 に基 づ いて前 述 の よ うな ク レオ ンに よるニ キアス- の脅 迫 の話 を ミュテ ィレネ人処遇 に関 す る民 会討 議 の話 に盛 り込 んだ可能性 が あ る。 ところで, 2日目の民会 で の議 論 につ いて トウキ ュデ イデ ス は, ク レオ ンの演 説 に続 い て デ イオ ド トスの演説 の 内容 を紹 介 した後 , この二 人の論が最 も相反 した議 論 で あ った と 許 し, さ らに挙 手採 決 の結 果 ,僅 少 差 で デ イオ ド トスの言 い分 が採 択 され た こ とを記 す。 Thuc. ,3. 39. 1) は簡 潔 で あ り, この箇 所 に は ク レオ ンの 名 この挙 手採 決 につ いて の記述 ( 前 が登場 しな い. 他 方, ミ トフ ォー ドl ミ は これ に関連 して, 「ク レオ ンの影 響 力が非 常 に大 きか ったので,彼 が支配 的 にな らなか った ものの僅 少差 の 多数決 で あ った」 と述 べ て お り, ク レオ ンの影響 力 を強調 す る意 図が感 じ られ る。 第 2節 スフアクテリアの戦いのクレオン 前 425年 夏 の ス フ ア クテ リアの戦 い に至 ったの は その直 前 の ピュ ロスで の戦 い とその休 戦協 定 の破 棄 に よ る もので あ ったが, アテ ネ とスパ ル タの休 戦協 定 が破 棄 され た の は, ト 堀 井 健 一 4 Thuc. ,4. 21. 3,22. 2) Thuc. , ウキ ュデ イデ ス の記述 に よれ ば ク レオ ンのせ いで あ った ( 0 4. 21 . 3の中で トウキュデ イデスは, ク レオ ンの こ とを民衆指導者 ( de ma g6 gos )であ りその pi t ha n6 t a t os )人物 と表現 してい る。 これ に関連 し 時 には大衆 に対 して最 も説得 力が あ る ( t ur bul e ntor a t or ) と述べ てい る。 て ミ トフォー ド1 4 ) は, クレオ ンの ことを 「 乱暴 な弁論家 」( また,Thuc . ,4. 22. 2の 中で トウキュデ イデスが, スパ ル タの使 節 たちの別 の提案 を受 けて ク レオ ンが大 いに非難 した と述 べ なが ら記述 を進 めて い るの に対 して, ミ トフォー ド⑮は, クレオ ンが 「 その提案 に対 して それ相応 に下品 な激情 の様 式で強 く反対 した」 と記述 して, . ,4. 2 2. 3の 中で トウキ ュデ イデス は, スパ 彼 の品格 を下 げ よ う として い る。 さ らに,Thuc ル タの使節 た ちが休戦協定 の確保 をあ き らめて本 国 に戻 った理 由 を述 べ てお り, この箇所 の中で は クレオ ンの民衆 に対す る影響 力 につ いて言及 して はいないが,他方, ミ トフォー ド⑯は これ に相応 す る箇所 で, スパ ル タ使 節 団が帰 国 した理 由が クレオ ンの民衆 に対 す る 影響力 のせ いで あ る と説 明す る。 n uc. ,4 . 2 3 . 1 2に よれ ば, スパ ル タ使節 団が帰 国 した後, ピュロスで は休戦協定が解除 さ れたので スパ ル タ軍側 は約定 に従 って船 の返還 を要 求 したが, アテネ軍側 は理屈 をつ けて これ を拒否 したので, まもな く戦 闘が始 まった。 この トウキ ュデ イデスの記述 に関連 して ミ トフォー ド' i 部 は,戦 闘が再 開 され たのが現地 の将軍 の デモ ス テネ スかエ ウ リュメ ドンの いずれ の責任 か は分 か らないが, 「 言 え る こ とは, どんな 自由裁量権 で も行使 す るこ とが, 責任 が あの独 裁 的で気 ま ぐれ な主権者 の, クレオ ンの影響下 にあ る, アテネ民衆 のす ぐそ ば にあ る時 に,極 めて危 険で あ った こ とで あ る。 も しクレオ ン, あ るい は他 の誰 か乱暴 な 弁論家 が, 自分 たちの将軍 たちが,彼 ら自身 の権 限 において, その条約 の文言が保証 した どの利 点 も放棄 すべ きで ない ことを民衆 に説得 す る こ とがで きた な らば,彼 らの完全 な身 の破滅,死刑 に関わ る告発 で さえ, それ と反対 の行為 の結末 になって いたで あ ろ う」 と説 明 を付 け加 えて い る。 つ ま り, ミ トフォー ドは,政 策決定 を クレオ ンの影響下 にあ るアテ ネ民衆 の窓意 に委 ね る と危 険で あ り, その場合 ,民衆指導者 が他 国 との協定 を遵守 す るよ うに民衆 を説得 しないな らば将軍 が身 の破滅 または死刑判 決 を招 くと主張す る。彼 の主張 が本 当で あ るな らば, デモステネス とエ ウ リュメ ドンが どの ような結末 を迎 えたか を確 認 してみ る と, デモステネス はシケ リア遠征 で敗北 して シュ ラクサ イ ・スパル タ連合軍 に よ って捕 え られ処刑 された し ( Thuc. ,7. 8 6. 2) , エ ウ リュメ ドンは同 じ くシケ リア遠征 中 に戦 死 した ( Thuc . ,7 . 5 2. 2) 。 いずれ も戦争 中 に身 の破滅 を迎 えたが,前述 の ミ トフォー ドの文 言 の中 にあ る 「 死刑 に関 わ る告発」 とは関係 が ない。せ いぜ いエ ウ リュメ ドンが一度罰金 刑 を受 けた こ とが あ る くらいで あ る ( n uc.,4. 6 5 . 3)⑱。将軍 に対 す る死刑 に関 わ る告発で 知 られ て い る事例 には前4 06年 の アル ギ ヌサ イ海戦後 の将軍 た ちの件 が有名 で あ るが, ミ トフォー ドはアテネ民衆 が ク レオ ンの影響 下 にあ る時 と語 って い る こ とに こだ わ るな ら ば,前 4 06年 の件 は これ にあて は ま らない。他 方, クレオ ンが将軍 を告発 して死刑 に至 ら しめた事例 は伝 え られ て いない。確 か に ク レオ ンは前 4 3 3 /2年 に将 軍在職 中のぺ リク レス を告発 した と伝 え られ て い るが ,1 5また は50タ ラン トンの罰 金刑 で あ る ( Pl ut . ,Pe r i c l e s 3 5. 4)⑲。 プラ トンは 『プロタゴラス』 の中でぺ リクレスが もう少 しで死刑 にな りか けた と ソクラテスに語 らせ てい るが ( Pl a t o n, Go y gi a s51 5 e1 3 51 6 a2), これ はカ リクレス との対談 時 の話 で あ り割 り引 いて考 え るべ きで あ ろ う。 以上 の考察 か ら推測 され る こ とは,前述 の ミ トフォー ドの主張 が ク レオ ンの民衆煽動家ぶ りを強調 す るもので あった こ とで ある。 ミ トフ ォー ド 『ギ リシ ア史』に お け る ク レオ ンの描 き 方 5 次 に, クレオ ンが ス フ7 ・クテ リア-遠征 す るこ とを決議 す る民会 の件 につ いて検討 す る 。 ス フアクテ リアの スパ ル タ軍 の情 勢が アテネ軍 勢 に不利 になったので はないか とい う懸念 が アテネ本 国 に伝 え られ る と,先 に スパ ル タの使節 団 を追 い返 した ク レオ ンの立場 が悪 く なった ( Thuc. ,4. 27. 21 3) 。 この後 の クレオ ンの一連 の行動 は,最初 は現地視察 団の派遣 の 要請 を行 ない, その視察 団の 一 員 に 自分が選 ばれ る と,次 に視察 団で はな く将軍 と増援軍 の派遣 の要請 を行 ない,将軍 のニ キアスが それ を固辞 す る と,最終 的 には民衆 の声 に応 じ m uc. ,4. 27. 329. 1 ),最終 的 にはス フ アクテ リアの戦 い て 自身が軍 を率 いて遠征 に出か け ( に勝利 して本 国 に凱旋 す るこ とにな る。 この ス フ ア クテ リアへ の遠 征 に出 る ク レオ ンの件 につ いて ミ トフ ォー ド2 0 ' は, 荊 述 の Thuc. ,4. 27. 2 3の記述 に当た る箇所 で, 「 そ して それ に続 いて起 こった一連 の非常 に異常 な 状況 の中で,彼 の厚 か ま しさ と彼 の強運 (もしも,別 の表現 の不足 す る中, その語句 を使 うこ とがで きるな らば)が見事 に彼 に好都合 に働 いた」 と記述 す る 。 この クレオ ン評 は ト ウキ ュデ イデスの記述 の 中には登場 しないので, これ は ミ トフォー ドが ク レオ ンを厚 か ま し くて強運 の持 ち主 と見 て いた こ とを示 唆 して くれ る o また, ミ トフォー ド齢は, 同 じ く Thuc. ,4. 27. 2 3の記述 に当た る箇所 で, クレオ ンを含 む現地視察 団の派遣 が決議 された後 の ク レオ ンの立場 につ いて, 「 彼 は, この提 案 が 自分 の 目的 に応 えて くれ な くな るこ とに気 がつ き, とにか くその責任 を他 人 になす りつ け る こ とを切望 したので, その提案 に よって 悩 み, その時 に警 戒心 を失 った と思 われ る」 と述 べ る。 す なわ ち, クレオ ンが 自分 の思 い 通 りに事 が運 ばないので責任 を他 人 になす りつ け る こ とを望 み, なおかつ慎 重 さを失 った とい うこ とが報 告 され て い るが, この報 告 もまた トウキ ュデ イデスの記述 の中 には登場 し ない。 この ミ トフォー ドに よるクレオ ンにつ いての描写 は,意 図的 に彼 を保 身 のた め に悪 しき言動 を行 な う人物 に仕 立て よ う とす る と思 われ る。 同様 の こ とが, ク レオ ンがこ キア スに代 わ ってス フ アクテ リア遠征 の将軍 に選 ばれ た件 につ いての ミ トフォー ドの 「 そ うい うわ けで選 ばれ た将軍 クレオ ンは,危 険で不安 になって いた けれ ども,法外 な名誉 で もっ て得意 になって いた。 そ して その件 で開催 され た次 の民会 にお いて彼 は,横柄 なや り方 を 再 び続 けた」 とい う記述' 2 2 ・ にあて は まる。 この彼 の記述 にあた る トウキ ュデ イデスの記述 の中 には クレオ ンが危 険で不安 になった こ と,将 軍 に選 ばれ て得意 になった こ と, さ らに 次 の遠 征 軍 の構 成 につ いての発 言 の際 に横柄 なや り方 を続 けた こ とにつ いて は言 及 が な い。従 って, この箇所 の ミ トフォー ドの記述 は, ク レオ ンが横柄 で 自慢 したが る性 格 の持 ち主 で あ るこ とを読者 に語 ろ う として い る と思 われ る。 さて, クレオ ンが ス フアクテ リアに遠征 す る際 に アテネ人で はな くレム ノス人や イ ンブ ロス人 な どの外国人 を引 き連 れ, この遠征 を20日以 内 に終 え る と公 言 して アテネ民衆 の失 笑 を買 った話や, 賢明 な者 た ちが ク レオ ンの今 回の行動 に よって,彼 の失敗 に よる彼 か ら の解放 か あ るいはスパ ル タ軍 の敗北 の いずれかの利益 を得 る と考 えた とい う話 が トウキュ n uc. ,4. 28. 4 5), ミ トフォー ドもそれ をほぼ同 じよ うに デ イデ スに よって語 られ て お り ( 伝 える ・ 。 そ して トウキ ュデ イデ ス は続 いて, ク レオ ンが戦地 にい るデモ ステ ネス を将 軍 ・ 讃 の ひ と りとして加 えた こ とに触 れ,次 にス フ アクテ リアの地理 的状 況 と作戦 行動 に話題 を 移 す の に対 して, ミ トフォー ド2 4 y は特 に 1段 落 をあて て ク レオ ンの厚 か ま しさ と技術 さ, そ して アテネ民衆 の愚 か さを説 く す なわ ち, 少数 の手 勢 に よ るス フ アクテ リア遠征 が 。 「クレオ ンの よ うな,軍 の指揮 に熟達 して いない男 に とって, その請 け負 いが無鉄砲 で あ 堀 井 健 一 6 り大 げさに言 い立てた約束が とて も馬鹿 げてい る」 けれ ども, その遠征作戦 が前線 にい る デモステネスの行動 のお蔭で少 しは見込 が あ りその こ とをク レオ ンがすで に知 って いて枚 滑 に もそれ を利用 しよ うとした こ と, そ して 「 事実, アテネ民衆 の愚か さは, その ような 男 にその ような信頼 を託 す ときには, その男 自身の愚か さをは るか に超 えていた」 とミ ト フォー ドが解説 して民衆 の愚か さを指摘 す る。 ところで, ス フアクテ リアにお けるクレオ ンの行動 につ いて記述 す る時, ミ トフォー ド は, クレオ ンが デモステネス と共 に行動 したか らで あろ うか, クレオ ンのあ ら捜 しをす る 記述 を行 なっていない。 そ して クレオ ンは公言 した とお り2 0日以 内でス フアクテ リアのス パ ル タ軍 を破 り, スパ ル タ人 1 2 0名 を含 む捕虜 を連 れて本 国 に帰還 した ( Thuc . ,4 . 3 8. 1 5, 41 . 1) 。Thuc . ,4. 41 . 3は, その後 スパ ル タ人 が アテネ に何度 も使節 を派遣 して ピュロスの地 と捕虜 の返還 を要請 したが, アテネ人 た ちは好機 と見 て こ とご とく追 い返 した こ とを淡 々 と述べ る。他 方, この件 に関 して ミ トフォー ド⑳は, 「よ り賢 くて よ り穏健 なアテネ人たち, そ して一般 に よ り高 い身分 の者 た ちは, うれ しい ことに当座 の繁栄 か ら,有利 な和解 を し て,利益 を得 たで あろ う。 だが,民衆 の横柄 さは,成功 に よって満足 され, そ して クレオ ン,す なわち今や民衆 の寵児, の乱暴 な雄弁 に よって あお られて, ためにな る目的のため のすべ ての努力 を実 りのない もの に した」 と述べ, ピュロスの勝利 に よって アテネ に有利 に和平 が結 ばれれ ばアテネ人 の上流市 民たちが利益 を得 られたで あ ろ うと,だが その見込 み は クレオ ンに煽動 された民衆 の横柄 さに よって台無 しになった と, トウキュデ イデスに よって言及 されて いない こ とを説 く。彼 の筆 は明 らか に ク レオ ンの 自分勝手 さ とそれ に同 調す る民衆 の愚か さを示唆 してい る 。 また, ミ トフォー ド⑳は, ス フ アクテ リアの戦 い直後 の アテネの政 治 につ いて概観 す る 際 に, クレオ ンの支配下で アテネの政 治が節度 の面 で優 れ なか った こ とと, 冒険家 の彼 の 生意気 な企 ての幸運 な成 り行 き,つ ま りス フアクテ リア戦 の勝利, が彼 に対す る民衆 の好 意 を増 したが,彼 の横柄 さを戒 め るこ とにな らなか った と述べ る。 ここで は クレオ ンの冒 険家 的性格,生意気 さ,横柄 さ,節度 のな さが語 られてい る。 さ らに, ミ トフォー ド⑳は, 前4 2 3 年 の夏 に起 こったアル ゴスの- ラ神殿 の焼失 の事件 ( ' muc . ,4 . 1 3 3 . 2 3 ) とアテネ人 に よるデ ロス人の清 めのための強制移住 の事件 ( n uc . ,5 . 1 )を関連 させ て, アテネ民衆 の迷 信 とデ ロス人 を強制移住 させ る気 ま ぐれ さを述べ る。 その際,彼 は, アテネ民衆 の愚か さ につ いて言及 してい るが, 「 卑劣 で無恥 な ク レオ ンの乱暴 な雄 弁 のお先棒 をかつ ぐよ うに して,公務 の管理 を主 として彼 の指導 に託 す よ うに彼 らを導 いた愚か さ」⑳と記 してい る。 ここに記 されてい る民衆 の愚か さにつ いて トウキュデ イデスは言及 していないので, この 箇所 の民衆 の愚か さにつ いての指摘 とその一因 としての 「 卑劣で無恥 な クレオ ンの乱暴 な 雄弁」 の指摘 は, 当然 の こ となが ら ミ トフォー ドの意 図的 な もので あ り, アテネ民衆 とク レオ ンの劣等 さを読者 の頭 に刷 り込 む こ とを意図 してい る と思われ る。 第 3節 アリス トフアネスによって描かれたクレオン ク レオ ンは, ア リス トフアネスの喜劇作 品の 中で笑 いの種 として登場 す る。 主 に前 4 2 5 年 の レナイ ア祭 で上演 され た 『アカル ナイの人々』,前 4 2 4年 の レナイ ア祭 で上演 され た 2 2 年 の レナイ ア祭で上演 された 『 蜂 』が これ にあた る。 この ア リス トフアネ 『 騎 士』,前 4 ス に よるクレオ ン攻撃 につ いて ミ トフォー ドは彼 の 『ギ リシア史』 の 中で言及 して い る。 ミ トフ ォー ド 『ギ リシ ア 史』に お け る ク レオ ンの描 き方 7 彼 は,上流層 の者 た ちが 「 民会 で下品で怒 りっぽ い クレオ ンの横柄 さ」 に対 して反 対 しな くなった時, 「 一詩人が彼 らの大義 を引 き受 けて,公共舞 台の上で彼 を攻撃 した 」 と述べ る 。 さ らに ミ トフォー ドは, ピュロス事件 , す なわ ち ス フ アクテ リア戦 の勝 利, の後 , 飽 ・ 劇場 の上席や プ リュタネイオ ンでの饗応 の特典 を与 え られて人気の絶頂 にあった クレオ ン をア リス トフアネ スの 『 騎 士』が 「 最 もこっけいで恥 ずべ き」姿 に措 いた と述べ る・ 3 0 。続 いて彼 は, 『 騎 士』 の中で ア リス トフアネスが, アテネ民衆 をデーモ ス とい う名 前の登場 人物 に擬 人化 してい るこ と, そ して職 人が当時 の クレオ ンの影響力の非常 に大 きいの を恐 れて クレオ ンを擬 人化 した登場 人物 のパ プラゴニ ア人の仮面 を作 ろ うとしなか ったので ア リス トフアネス 自身が それ に扮 してテス ビスの時代 の放浪喜劇役者 にな らって ブ ドウ酒 の かすで顔 を隠 した こ とを記 す3 1 ) 。仮 面 作 り職 人が ク レオ ンの仮面 を作 るこ とを拒 んだ こ と はア リス トフアネス 『 騎 士』2 3 0 2 3 3の中で言及 されてお り, そ して ア リス トフアネス 自身 が彼 の役 を演 じた ことは古註 に記 されてい る3 2 0 『 騎 士』上演後 の クレオ ンにつ いて ミ トフォー ド3 3 は, 「この途方 もない見せ物 の直後 の 効果 は大 きか った。演技 は楽 しまれ拍手 を受 けた。 そ して クレオ ンは噸笑 され罵 られた。 この民衆 の気分 で彼 に対 す る公金横領 の件 での告発が好 まれ た。 そ して彼 は, いつ もの支 持 を見 出せ ず に, 5タラン トン,千二百英 ポ ン ド, の罰金 の宣 告 を受 けた」 と解説 す る 。 クレオ ンが 5タラン トンの罰金の宣告 を受 けた事件 を伝 えるの はア リス トフアネス 『アカ ルナイの人 々』5 8・ Q 3 4とその古註8 5 で ある 。 ミ トフォー ドもこの事件 の出典 としてその喜劇作 2 5年で あ 品 を挙 げて い る串 。 だが, 『ァカルナイの人々』 の上演時期 は,前述 の とお り前 4 り, 『 騎 士』上演 の 1年前で あ るので,前述 の ミ トフォー ドの 『 騎 士』上演後 の クレオ ン -の罰金刑宣 告の記述 は彼の思 い違 いで あるこ とが分 か る 。 ミ トフォー ド3 7 はその後 の クレオ ンにつ いて,民衆 の 気 ま ぐれ に よって クレオ ンの勢 い が回復 され,彼 が 「 柱廊 玄関で徒党 を組 み民会で大声 をあげ続 け,唆味 な告発で もって共 和国 のすべての主要 な男た ちに圧 力 をか けた」 と述べ る 。 この よ うな クレオ ンの様子 につ いて の描写 は 『 騎士』 な どの ア リス トフアネスの喜劇作品の中の記述 か ら ミ トフォー ドが 知 り得 た こ とを述 べ た ので あ ろ う: B 。 そ して ミ トフォー ドは, ク レオ ンが圧 力 をか けた対 象 の人物 としてデモス テネスの例 を挙 げて い る. ミ トフォー ド調 ' は, ク レオ ン と共 にス フ ァクテ リア戦 に参加 して勝利 したデモステネスが クレオ ンの前 に 「 屈 した」 と述べてい る ので あ る。 これ を明確 に示 す史料 は見 当た らないが, 強 いて言 えば, ア リス トフアネス 『 騎 士 』61 70の中で下男の台詞 として クレオ ンが デモステネス を擬 人化 した下男 に対 して ねだ り,脅か し, ゆす る と語 られてい る。 だが, この劇 中の台詞 に もかかわ らず,劇 の直 後 の前 4 2 4 / 3年 にそのデモ ステネス とクレオ ンが共 に将軍 に選 出 されていた こ とが知 られ てい る40。 第 4節 アンプイポリスの戦いのクレオン 休戦条約 の期 限が切 れ る とまもな く,前 4 2 2 年夏 に クレオ ンは トラキア遠征 をアテ ネ民 ,5 . 2 . 1に よって 衆 に説 いて遠征 に出か けた。彼 が トラキア遠征 に出か けた時 の様子 はThuc. 報 告 され るが, その報 告 は事件 の経過 を伝 え るのみで あ る。他方, この クレオ ンに よる ト ラキア遠征 につ いて ミ トフォー ド 4 ' ・ は, ク レオ ンが ス フアクテ リア戦 の勝 利 に よって 自分 に軍事的才能が あ る と勘違 い し, そ して ア リス トフアネスの喜劇作 品 に よって被 った評判 堀 井 健 一 8 の低下 を挽 回す る機会 を得 るために, 「 彼 の平 和 的傾 向のあ る最大 限すべ ての提 案 に反対 した」 し, アテネの栄光 を回復 す るために失地 を回復 す るべ きで あ る と力説 した と述べ る。 確 か にブラシダス とクレオ ンが倒 れ るアンフイポ リスの戦 いの後 の和平へ至 る状況 を記 す Thuc. ,5. 1 6. 1の箇所 の中で ク レオ ンが ブラシダス と共 に反 和平論者 で あった と評 されて は い るが,前述 の ミ トフォー ドに よる戦争推進派 の クレオ ンにつ いての記述 の仕方 は,彼 が クレオ ンのあ ら捜 しに熟 を入れてお り, それ を暗示す る トウキュデ イデスの歴史書 の記述 に言及 す る度 ご とに彼 を批判 す る筆 を走 らせ る とい う感があ る。 ところで, クレオ ンの遠征軍 は, トロネ を陥落 させ た後 , アンフイポ リス奪還 のために n uc . ,5. 2. 4 3. 5) 。 トウキュデ イデス は, クレオ ンが ア トス岬 を周航 し その地-進軍 した ( . ,5. 3. 5),他 方, ミ トフォー て アンフイポ リス に向か った こ とを簡潔 に報 告 す るが ( Thuc ド㊨は, クレオ ンが トロネでの 「この容易 な成功 に得 意 にな り」 ア ンフイポ リス に向か う ためにア トス岬 を周航 した と述べ てお り, その よ うな トウキュデ イデスの歴史書 には登場 しない文言 を挿入す ることによって クレオ ンの慢心ぶ りを浮 き立たせ ようと試 みてい る。 次 に, クレオ ンは, マケ ドニ ア王ベルデ ィ ツカス と トラキアのオ ドマ ンテ ィア人 の王 ポ レス に使節 を派遣 して援軍 を請 うた後, エイオ ンの地 で しば ら くじっ と待機 した ( Thuc . , 5. 6. 2) 。他方, ブラシダス は, トラキア人傭兵や その他 の援軍 を集 めて クレオ ンが ア ンフ Thuc . ,5. 6. 3 5) 。 トウキュデ イデスが伝 え るこれ らの状 イポ リスを攻 め るのを待 っていた ( 況 につ いて ミ トフォー ド⑱は, 「クレオ ンは,彼 の仕事 は攻撃作戦で あったが, トウキュデ イデスに よれ ば, どの ように進 めて よいのか単 に無知で あったので, あ る程度の時間全 く 何 も しない ままであった」 と解説 す る。 トウキュデ ィデスの記述か ら明 らか になることは, クレオ ンがマケ ドニ ア と トラキアか らの援軍 の到着 を待 つためにエイオ ンで待機 して いた こ とで あ り,実際,Thuc . ,5. 1 0. 3は クレオ ンが援軍到着 の前 の交戦 を望 んで いなか った と 0 行下で は 「 他で もない彼 語 って い る。加 えて, ミ トフォー ドは,前述 の彼 に よる解説 の 1 〔ク レオ ンの こ と, 引用者註〕 の望 み は, 自分が期待 す る増 員 を待 つ こ とで あった」 と記 してお り⑭, クレオ ンの考 えて いた こ とを理解 して い るので あ る。従 って, ミ トフォー ド が, クレオ ンが アンフイポ リス攻撃 を始 めず に じっ と待機 していたの は彼 が どの よ うに攻 撃 を進 めて よいのか無知であったためで あ る と述べ るのは, トウキュデ イデスの叙述 か ら 脱線 した ミ トフォー ド自身の曲解 にす ぎない こ とが分か る。 けれ ども, それ以降の クレオ ン軍 の行動 についての ミ トフォー ドの記述 は, しば ら くの間 トウキュデ イデスの歴史書 の 記述 に沿 った形 で進 め られ, クレオ ン指揮下 の アテネ軍が 自分 の将軍 と敵 の ブラシダスの 両者 の力量 を比べ て クレオ ンの劣 る点 に不満 を抱 いた こ とや, アテネ軍 の不満が高 まった ので, ス フアクテ リア戦 で使 った戦略 どお りにクレオ ンが敵軍視察 のために軍勢 を高台 に 向 けて進 めた ことな どが叙述 されている⑮。 また, クレオ ンの軍勢が ア ンフイポ リスの城壁 内の ブラシダス軍 に気がつ いて彼 の命令 に よってエイオ ンへ撤退 を始 めた時 に敵軍 に襲 われ るまでの一連 の出来事 につ いての ミ ト Thuc . ,5. 1 0. 2 8)か ら離れてい フォー ドによる叙述 は, それ ほ ど トウキュデ イデスの記述 ( るわ けで はない。 すなわち, クレオ ンの軍勢が南方 のエイオ ンへ撤退 しよう としたので彼 らの西側 にいたアンフイポ リスの軍勢 に対 して は盾 を持 たぬ右側 をさらしたので不利で あ った こと, ブラシダス軍 が その状況 を見 て 自軍 に有利 と見 て アンフイポ リス城壁 の南側 の 第一門か らアテネ軍 を襲 っただ けで な く続 いて城壁北側 の トラキア門か らクレア リダス率 ミ トフォー ド 『ギ リシア史』にお ける クレオ ンの描 き方 9 い る軍 が撤 退 中の アテネ軍 の いわ ば後 方 か ら襲 ったので アテネ軍 が挟 み打 ちに合 い混乱 し た こ とな どで あ る命。 だが, ブ ラシ ダス とク レオ ンの両者 の戦 死 につ いての ミ トフォー ド の取 り扱 いは トウキ ュデ イデスの もの と異 な って い る。 トウキ ュデ イデス は, ブ ラシダス の手勢 とクレア リダスの手勢 が襲撃 した後 に ブラシ ダスが負傷 して倒 れて味方 に助 け出 さ れ た こ と (ま もな くア ンフイポ リス城壁 内で死亡) を記 した後 に, クレオ ンが踏 み とどま る こ とな く逃 走 中 に ミュ ル キ ノス 人 の 盾 兵 に よ って 襲 わ れ て 戦 死 した こ とを伝 え る 人 の盾兵 に よって阻 まれ,彼 らか ら彼 にふ さわ しい死 を,逃走 とい う不面 目で 目立つ形 で, もらい受 けた」 と述 べ た後 も, ブ ラシダスが 自軍 に攻 勢 を命 じて 自 らも激 し く戦 ったので 負傷 を受 けて倒 れ,友人 た ちに よって運 び出 され た と述 べ る 。 ここで は トウキ ュデ イデ ス と ミ トフォー ドの間で ブ ラシ ダスの負傷 とク レオ ンの戦 死 につ いて の記述 の順 番 が違 う し, また トウキ ュデ イデ スが ク レオ ンの戦死 につ いて,彼 が踏 み とどまるつ も りが なか っ た と記 して彼 の戦死 の不名誉 な点 を暗示 す るだ けで あ るの に対 して, ミ トフォー ドは明瞭 に分 か る形 で ク レオ ンの逃 走中の死 を不面 目で あ り 「 彼 にふ さわ しい死 」 と述 べ て い る 。 ミ トフォー ドが トウキ ュデ イデス と違 って ブラシダスの負傷 とクレオ ンの戦死 の両事件 の 記述 の順 番 を入れ換 えた こ とに よって読者 の頭 に刷 り込 まれや す くな るこ とは, クレオ ン が逃走 中 にあ っけな く死 んで大変不面 目で あった こ ととブラシ ダスが戦死 に至 る負傷 の前 に彼 の戦勝 にふ さわ しい奮戦 ぶ りを しば ら くの間示 した こ とで あろ う。 ところで, ア ンフイポ リス戦 が スパ ル タ側 の勝 利 に終 った後 , アテネ とスパ ル タの間 に 和平 の機運 が持 ち上が る ( ′ Thuc. ,5. 1 4. 1 1 5. 2)。 そ して アテネで はニ キアスが和平 を説 いて いわ ゆ るニ キ アスの和約 を前421 年 に締 結 す る 。 その状況 につ いて ミ トフォー ド祖は, 「 民 衆 の傾 向が両面 に またが るなかで,指導者 た ちの気質 と利害 が合致 す る とい うこ とが幸運 に も起 こった。騒 々 しい ク レオ ンの死 に よって温和 なこ キアスが アテ ネ共 和 国の中で最 も 影響 力 の あ る男 として残 った。諸状況 の強力 な合致 が彼 に平 和 を望 ませ た」 と述べ る。 そ の際 に彼 は, ニ キアス と対照 的 に描 くた めに クレオ ンには 「 騒 々 しい」 と形 容 す る。 年 夏 にアテネが ス キオネ を攻 め落 と さて, ミ トフォー ドは, ニ キ アスの和約後 の前 421 Thuc. ,5. 32. 1) に至 る状況 を説 明 して成 人男子 を死刑 に して女や子供 を奴隷 に した事件 ( す る中で, スパ ル タ とアテネの政 治 を比較 して い る。 ミ トフォー ド増 勢 はスパ ル タにつ いて 「 ぺ ロボネ ソス は, ギ リシ ア国民 の 中で最 もよ く治 め られ最 も幸福 な部分 と長 い間評価 さ ,1 . 1 8. 1 やThuc. ,8. 2 4. 4の記述 の中で トウキ ュデ れて きた」 と述べて お り, この記述 はThuc. イデスが スパ ル タを高 く評価 して い る こ とに依拠 した もので あ ろ う。他 方, アテネの政 治 につ いて ミ トフォー ド軸は, 「 実際, アテネ人 の国制 の その国家 の中で は, その国制 に よっ て ク レオ ンが第一の大 臣や最高 の将軍 にな る手段 が提供 され たので, それ に従属 す る共和 国の運命 は クレオ ンの よ うな大 臣の指導 の下 にアテネ民衆 の よ うな主権者 の独裁 的な意志 に支配 され たため, とにか く悲惨 に, あ るいは最 も高 い程度 に事情次第 にな るだ けで あっ た ろ う」 と述 べ,続 いて その よ うな同盟諸 国 に対す るアテネ民衆 の借 主制 は クセ ノフ ォン とイ ソクラテス に よって異議が唱 え られて い る と指摘 し,イ ソクラテスの 『 平和 につ いて』 の一節 を引用 す る。 ここで挙 げ られ て い るクセ ノフォン とは伝 クセ ノフォン 『ァテネ人 の 国制』 とい う作 品の こ とで あ ろ う。 この よ うな叙述 を経 て ミ トフォー ドはス キオ ネ人 の惨 堀 井 健 一 1 0 の政 治 の性格 が, ス キオネ人が 自分 た ちの身 をアテネ軍 に委 ね た時 に現れ, 「クレオ ンは もはや生 きていないので彼 がかつて提案者 で あった条令 の執 行 を強 く迫 るこ とはなか った けれ ども, それ に もかかわ らず それ は まった く厳格 に執行 され」,前述 の よ うなス キオネ 人 に対す る処遇 が断行 され た と述 べ る。 この記述 は,かつての前4 2 7 年 の クレオ ンに よる ミュテ ィレネ人 に対す る処遇 の提案 を念頭 において ミ トフォー ドが記 した もので あ るこ と は明 白で あ る と思 われ る。 トウキュデ イデスの記述 の 中で はアテネ人 の誰がス キオネ人 の 処遇 を提案 して実施 したか は言及 されていないので,前述 の ミ トフォー ドの記述 の仕 方 は, アテネで は クレオ ンの死後 も彼 の影響力が い まだ に残 っていて アテネ民衆 が クレオ ンの生 前 と同 じように同盟諸 国 に対 して振 る舞 った こ とを暗示 させ るもの と思われ る。 結 び これ まで ミ トフォー ドが古代 アテネの政治家 クレオ ンを描 く方法 を考察 して きたが, そ こに見 る彼 の記述 の中には トウキュデ イデスな どの史料か らの逸脱 が よ く見 られ る。繰 り 返 しにな るが,例 えば,彼 は, クレオ ンに言及 す る際 に トウキュデ イデスには言及 が ない のに 「 乱暴 な」 な どとい う形容詞 を彼 の名前 に冠 した り, トウキュデ イデスの記述 の順番 を意図的 に入れ換 え ることによって アンフイポ リスの戦 いで は クレオ ンが攻撃 を受 けた後 さっさ と逃亡 しよ うとして まもな く不名誉 な形 で殺 された よ うに措 いた り, ス キオネ人の 悲劇 の描写で はすで に クレオ ンが死 んで この世 にいなか った に もかかわ らず あたか もアテ ネ民衆 が ク レオ ンのデマ ゴー グぶ りの影響 を引 き続 き受 けてスキオネ人 を処遇 したかの よ うに解説 した。 他方, ロバ ー ツ⑳は, ミ トフォー ドの古代 ギ リシアに関す る描写 について, 「 驚 くべ きこ とで はないが, ミ トフォー ドは, フランスでの革命 よ り前 のアテネの民主制 の諸悪 につ い ての 自分 の結論 に到達 した。 ミ トフォー ドは,読者が 自分 の作 品が その革命 の影響 を受 け てい る と想像 す る可能性 が あ るこ とに気づ いて, アテネ に対す る自分 の反感が全 く古代 の 史実 に基づ いて い るこ とを読者 に確信 させ よ うと苦心す る」 と評 してい る。 つ ま り, ミ ト フォー ドが アテネ民主制 を悪で あ るよ うに描写 す るの はフランス革命 のせ いで はな くトウ キュデ イデスな どの古代 の史実 に基づ いて描 いた結果 で あ る と読者 に伝 え るために苦心 し た とい うわ けで あ る。 だが,本稿 の考察 に よって クレオ ンに関す る ミ トフォー ドの逸脱がたびたび見 られ る記 述 の様子が判 明 して しまった ここに至 って は,彼 が アテネ民主制 の悪 を トウキュデ イデス の史料 を駆使 して忠実 に伝 えよ う としていた とい うロバ ー ツの見方 は,彼 の クレオ ンにつ いての描写 に関す る限 り,的 を射 てい る とは思 えない。 それ よ りもむ しろ, 明 らか に ミ ト フォー ドの クレオ ン観 において はその アテネ人政 治家が乱暴 なデマ ゴー グで あった とい う 彼 の偏見が最初 か ら最後 まで貫かれてい る と言 え まいか。 ミ トフ ォー ド 『ギ リシ ア史 』に お け る ク レオ ンの 描 き方 1 1 証 (1)G.Smi t h,L.St ephena ndS.L e eeds . ,Di c t i onar yo fNat i o nalBi o gr a ph y1 3( oxf or d, 1 91 7 ) , p.534. (2)I b i d. (3)J . T.Rober t s,At he nsonTr i al :t heAnt i de moc r at i cTr adi t i oni nWe s t e r nThought ( Pr i nc et on,1 994) , p. 2( ) 3 205. (4)Smi t heta l . eds . , o p.c i t . , p.5 3 3 5 3 4. ,o p.c i t . ,p.5 34. 確 か にG.Gr ot e, AHi s t o r yo fGr e e c ePo mt heEar l i e s t (5)Smi t he ta l .eds . 1 872; Pe r i o dt ot heCl o s eo ft heGe ne r at i o nCo nt e mpo r ar ywi t hAl e x ande rt heGr e at1( Br is t ol ,2000 ) ,p.i vは, 「自由主義的精神 の批 評 は, その面 で はサ ール ウオル博士 は ミ トフ ォー ドと大 い に区別 され る立場 にあ るが,彼 自身 の もので あ る」 と解説 して い る。 (6) 年 代 につ い て は, トウ- キ ュデ イデ ー ス (久保 正 彰 訳 ) 『戦 史 中 』( 岩 波書 店, 1 966/1 975年) 366 368貢 を参照せ よ. (7) ミ トフォー ドは, この ミュテ ィ レネ人 の処 遇 問題 の件 を叙述 す る際, ミュテ ィ レネ Myt i l enaeans) を ミテ ユ レネ人 ( Mi y1 t en記a nS) と表 記 して綴 りを誤 って い る 人 ( 。 r W. Mi t f or d,TheHi s t oyo fGr e e c e3( London,1 8 35 ) , p.1 5 2以下 で多数. ( 8)Mi t f or d, o p.c i t . , p.1 52. b i d. , p.1 53 1 5 4. (9)L ( 1 0)I b i d. , p.1 5 4. 七) 』( 岩波書店 ,1 95 5 /1 976年), 1 1 0頁。 ( ll )河野与-訳 『プル ター ク英雄伝 ( ( 12) 豚 肉屋 の 台 詞 は, 「 弁 論 家 達 を怒 鳴 り倒 し, こ キ ア ス に も気 を操 ま して や らあ」 ( Ar i s t ophanes ,Kni ght s358;翻訳 は相川堅太郎他訳 『ギ リシア喜劇 I ア リス トパ ネ ス ( 上)』 〔 筑 摩書房 ,1 986年 〕 〔 松 平 千秋訳 〕1 40貢) で あ り, パ プ ラゴこ ア人 と言 い争 って い る箇所 で出て くる台詞 で あ る 。 ( 1 3)Mi t or f d, o b.c i t . , p.1 55. ( 1 4)I b i d. , p. 205. ( 1 5)I b i d. , p. 206. ( 1 6)I b i d. , p. 206. ( 1 7)I b i d. , p. 206 207. ( 1 8) ただ し, エ ウ リュメ ドン と共 に将軍 を勤 めて 同様 の件 で追放 の刑 に処せ られ た と伝 ,4. 65. 3) は,実際 に審理 の上追 え られ るピュ トドロス とソフォクレスの場合 ( Thuc. 放 刑 に処 せ られ たのか, あ るい は裁判 にな る と死 刑 にな る可能性 を恐 れ て逃 亡 した のか は判 然 としない。 .Cf .M. H.Ha ns en,Ei s an ge l i a:t heSov e r e i gnt yo ft hePe o Pl e's Cour ti nAt he nsi nt heFour t hCe nt ur yB. C.andt heI mpe ac hme nto fGe ne r al sand Odens e,1 975 ) , p. 7 3n. 7. Po l i t i c i an s( ( 1 9)Cf . n uc. ,2. 65. 3. ぺ リクレス に対 す る告発 につ いて は, Ha ns en,o P.c i t . ,p.71 1 73を参 照せ よ 。 ( 20)Mi t f or d, o p.c i t . , p. 209. 掘 井 健 一 1 2 ( 21 )I b i d. , p. 20 9. ( 2 2)I b i d. , p. 21 0. ( 2 3)Cf . Mi t f or d, o p.c i t . , p. 21 0. ( 24)I b i d. , p. 21 0 21 1 . ( 25)I b i d. , p. 21 8. ( 26)I b i d. , p. 2 20. ( 27)I b i d. , p. 21 27 2. 7 ( 28)I b i d. , p. 271 27 2. ( 29)I b i d. , p. 27 2. ( 30)I b i d. , p. 27 3. ( 31)I b i d. , p. 27 3 1 27 4. 05頁,註 1 33 1 。 ( 3 2)村川他訳,前掲書 ,2 ( 3 3)Mi t or f d, o p.c i t . , p. 27 4. ( 3 4) デ イカイオポ リスの台詞 として 「はて,思 い当った。 あれ は心 もほれ ぼれす る見物 だ った。 ク レオ ンめが吐 き出 しお った 5タ ラン トンはな。 これ にはわ しも有頂天 に なった ものだ。 それでわ しは この手柄 ゆえに,騎 士 の連 中に惚 れ とるのだ。 - ラス にふ さわ しい ことだか らな」 ( Ar is t opha nes ,Ac hami ans5 8) ( 村川他訳,前掲書, 9 頁 〔 相川堅太郎訳 〕 ) 。 ( 3 5)村川他訳,前掲書 ,7 6頁,註 9 1を参照せ よ。 ( 36)Mi t or f d, o p.c i t . , p. 27 4の中で小見 出 しとしてAds t oph. Ac ha m. V. 6. と記 されてい る。 ( 3 7)Mi t or f d, o p.c i t . , p. 27 4. t opha nes , Kni ght s302 1 31 0の中で,厚顔 ( 3 8)例 えば,民会 な どの場 でわめ くクレオ ンがAds b i d. ,324327の中で言及 されてい 無知ぶ りを発揮 して弁論家たちを牛耳 るクレオ ンが i る。 ( 3 9)M i t or f d, o p.c i t . , p. 27 4 275. ( 40)H.Swoboda,Paul ysRe al e nc yc l o PL ui ede rc l as s i s c he nAl t e r t ums wi s s e ns c ha J tV, 1 r t ,1 9 03;r p t .1 95 8 ) ,S . V.De mos t he nes5,p.1 6 6;R.De ve l i n,At he ni anOj Wc i al s ( St ut t ga 684321B. C.( Ca mbr idge,1 9 8 9 ) , p.1 3 2 1 1 3 3. ( 41 )Mi t or f d, o b.c i t . , p. 275. ( 42)I b i d. , p. 276. ( 43)I b i d. , p. 27 7. ( 4 4)I b i d. , p. 277. ( 45)I b i d. , p. 277 1 27 8. ( 46)I b i d. , p. 27 9 28 0. ( 47)l a i d. , p. 28 0. ( 48) I b i d. , p. 2 8 4. ( 4 9)I b i d. , p. 2 97. 8. ( 5 0)I b i d. , p. 297 1 29 ( 51 )I b i d. , p. 298. ( 5 2)Robe r t s , o p.c i t . , p. 2 05. ミ トフ ォー ド 『ギ リシ ア史 』に お け る ク レオ ンの描 き方 1 3 〔 付記〕 本稿 は,平成 1 2-1 3 年度科学研究 費補助金基盤研究 ( C) ( 2 )「 古代 アテネ民主制 は衆 愚政 治で あったのか あ る。 古代 と近代 か らの探究」 ( 課題番号 :1 2 61 0 4 0 7 )の研 究成 果 の一部で