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ドクター合理化 真藤 恒 の素顔

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ドクター合理化 真藤 恒 の素顔
序
真 藤 恒 は 戦 後 の N BC 呉 造 船 部 で 、 ア メ リ カ 式 合 理 主義 と 海 軍 工 廠 の
手 法 を 併 せ て 造 船 の 生 産 方 式 に 革 命 的 変 化 を 齎 し 、後 に 移 籍 し た I H I で は
タ ン カ ー 大 型 化 の 先 駆 者 と し て 、世 界 の 造 船 業・海 運 業 に 大 影 響 を 及 ぼ し た 。
“ミスター合理化”の土光敏夫に対比して“ドクター合理化”とも呼ばれ、
戦後の日本の高度成長の旗手とも言える真藤の経歴は必ずしも恵まれては
お ら ず 、成 功 と 挫 折 が 輻 輳 す る 様 相 を 呈 す る が 、あ ら ゆ る 場 面 で 次 の 飛 躍 に
繋 が る 発 想 や 人脈 を 獲 得 し 得 た 意 欲 と 能 力 は 注 目に 値 す る 。
真 藤 と 親 し く 仕 事 を し た の は 、卒 業 年 次 で 戦 争 中 か ら 昭 和 2 8 年 卒 位 の 技
術 者 達 で 、筆 者 の 様 な 年 代 の 離 れ た 若 年 者 に は 、雲 の 上 の 人 で あ る 真 藤 を 論
ずる資格は無いが、時々のコンタクトを通じて謦咳に接する機会はあった。
む し ろ 真 藤 は 若年 者 に 対 し て の 方 が 警 戒 心 を 緩 め本 音 を 漏 ら す 面 も あ っ た 。
筆 者 は 長 く 相 生 に 在 住 し た 故 、戦 前 の 播 磨 造 船 の 設 計 や 現 場 で 真 藤 の 部 下 で
あ っ た 老 従 業 員や 巷 の 人 々 か ら 真 藤 の 実 像 を 聴 く機 会 に も 恵 ま れ た 。
本 編 は 真 藤 の 経 歴 や 業 績 を 追 い つ つ 、筆 者 の 垣 間 見 た 場 面 や 想 い 出 を 挿 入
し て 、主 と し て 技 術 者 的 活 動 の 前 半 生 を 重 点 に 纏 め た 。真 藤 の 閲 歴 に 就 い て
は技術史作家の前間孝則(IHI航空・宇宙事部退職)が、真藤の晩年に本人
へ の 数 日 間 の イ ン タ ビ ュ ー の 結 果 を 纏 め た 「 世 界 制 覇 ・ 上 / 下」 に 詳 し く 、
筆 者 も 参 考 と した 。 他 の 参 考 文 献 も 含 め て 下 記に 示 す 。
登 場 人 物 は 既 に 故 人 とな っ た 人 が 多 く 、 敬 称 は 省 略 し た。
参考文献
真藤 さ ん を 偲ぶ
真藤恒
世界制覇
前 間 孝 則 (講 談 社 )
上/下
追 悼写 真 集 発 行事 務 局
大 型 船 建 造に 関 す る 諸問 題
真藤
恒 (船 舶 技 術 協会 )
歩み
真藤
恒 (N T T 出 版)
経 営 合 理 化 と 労 使 関 係 ( 三 菱 長 船 19 60~65 )
上田
修 ( ミネ ル ヴ ア 書 房)
船 舶 建 造 シス テ ム の 歩み
南 崎 邦 夫 (成 山 堂 )
商船 戦 記
大 内 健 二 ( 光人 社 )
造 船 技 術 は勝 て り ( 福田 烈 追 悼 集 )
福田烈
日 本 造 船 技術 百 年 史
日 本 造 船 学界
播 磨 造 船 五十 年 史
播磨造船
石 川 島 播 磨重 工 業 社 史
石 川 島 播 磨重 工 業
1
追悼 集 刊 行 委員 会
2
1
学生時代
マルクス・ボーイ?
真 藤 家 は 久 留 米 ・ 有 馬 藩 の 家 臣 で 、明 治 に は 村 長 も 務 め た 素 封 家 で あ っ た
が 、父 親 が 銅 山 の 経 営 に 失 敗 し て 昭 和 に な る と 窮 乏 し た 。中 学 4 年 終 了 後 に
佐 賀 高 校 ( 旧 制) に 合 格 し た が 、 学 資 は 奨 学 金 と母 親 の 内 職 で 充 当 し た 。
高 校 時 代 は 広 範 な 読 書 に 励 ん だ が 、当 時 の 御 他 分 に 漏 れ ず マ ル ク ス ・ ボ ー イ
で あ っ た 様 で 、後 年 の 談 話 の 中 で も 資 本 論 や 唯 物 弁 証 法 等 の 話 題 を 時 々 引 用
し た 。 卒 業 時 に 東 大 工 学 部 機 械 科 を 受 験 し て 失 敗 、家 庭 教 師 を し つ つ 一 年
間 の 浪 人 生 活 を余 儀 な く さ れ た 。
( 当時 の 旧 制 高校 と 国 立 大学 の 定 員 は同 数 で あ り 、
何 故 に 浪 人 を 選 ん だ か は 不 詳 で あ る 、 学 資 の 目 途 が 立 た な か っ た 可 能 性 も あ る が )。
(第1図)
佐 賀 高 校 時 代 (左 端 )
(第2図)
九 大 造 船科 時 代 ( 左 端 )
無試験入学
昭 和 6 年 4 月 、真 藤 は 九 大 工 学 部 造 船 学 科 に 入 学 し た 。当 時 は 世 界 大 恐 慌
の 影 響 で 造 船 業 も 不 況 の 最 中 、1 0 名 の 定 員 に 7 名 の 応 募 し か な く 、真 藤 が
大 学 の 事 務 課 へ願 書 を 提 出 に 行 く と 、 即 座 に 「 入学 お め で と う 」 と な っ た 。
大 学 の 学 資 は 久留 米 の ブ リ ジ ス ト ン ・ タ イ ヤ の 石橋 正 二 郎 の 援 助 を 受 け た 。
当 時 九 大 造 船 科 は 航 空 講 座 を 併 設 し て お り 、2 年 進 学 時 に 進 路 を 決 め る こ
と に な っ て い た 。 真 藤 は 航 空 志 望 で あ っ た が 、 渡 辺 教 授 か ら「 大 雑 把 な 性 格
の真藤君は、ミクロンとグラム単位の飛行機よりも、インチとトン単位の
造 船 に 適 し て い る 」と 言 わ れ て 翻 意 し た 。
「この時に航空を選択しておれば、
戦 後 は 失 業 者 か 高 校 の 数 学 教 師 と し て 脾 肉 の 嘆 を 託 つ 運 命 で あ っ た ろ う 」と
真 藤 は 後 年 語 っ て い た が( 昭 和 3 1 年 呉 の 実 習 生 歓 迎 会 )、真 藤 個 人 の み な ら ず 、
日 本 の 造 船 業 の運 命 に も 影 響 の あ る 選 択 で あ っ た。
真 藤 が 卒 業 す る 昭 和 9 年 は 満 州 事 変 勃 発 後 の 軍 需 景 気 で 、各 造 船 会 社 か ら
の 求 人 が 殺 到 し、 真 藤 は 川 崎 造 船 を 同 僚 に 譲 っ て播 磨 造 船 に 決 め た 。
3
2
播磨造船所設計部員
空席の目立つ設計部員
当 時 、 播 磨 造船 は 1 万 ト ン 級 以 下 の 貨 物 船 や タン カ ー を 建 造 し て い た が 、
船 殻 設 計 を 担 当 し た 真 藤 は 数 年 間 で 頭 角 を 現 し た 。当 時 、設 計 と 建 造 現 場 は
完 全 に 遊 離 し た 存 在 で 、現 場 は 百 枚 程
の 概 要 図 面 と 、起 工 、進 水 、引 渡 し 等
主 要 節 点 の 日 程 表 を 与 え ら れ て 、詳 細
な 構 造 、材 料 出 庫 、工 程 計 画 、工 員 の
手配と賃金配分等は現場のベテラン
職 長 達 の 宰 領 に任 さ れ て い た 。
真 藤 の 回 顧 談 に よ る と 、「 自 分 が 設
計 し た も の が 、現 場 で ど う い う 風 に 作
られるかと関心を持って出歩いたも
の だ っ た 。 上 司か ら は“ 職 場 を 離 れ て
(第 3 図 ) 播 磨 造 船 所
何 を し て い る か 、も っ と 真 面 目 に 図 面
を 書 け ”と 怒 ら れ た も の だ った が 、現
場 は 職 長 単 位 の 歩 合 制 だ っ た の で 、作
り 易 い 図 面 を 出 す と 、能 率 が 上 が り 実
入りが増えるので、喜ばれ歓待され
た 。」 結 果 と し て 、 真 藤 の 設 計 し た
船の工程は予定より早く進むとの定
評を得た。
青写真に焼付ける当時の図面は烏
口 に よ る 墨 入 れ を 原 則 と し た が 、真 藤
は 輸 入 品 の 良 質な 製 図 用 紙 の 導 入 に よ
( 第 4 図 ) 昭 和 9 年 入社 組
り 鉛 筆 描 き に 変 更 し た 。製 図 の 能 率 は { 前 列 中 央 真 藤 、後 列 中 央 小 林( 阪 大 卒 )}
格 段 に 向 上 し たが 、 ベ テ ラ ン 製 図 工 の 職 を 奪 う 結果 と も な っ た 。
設 計 技 師 真 藤 の 実 績 は 挙 が っ た が 、伝 統 的 な 手 法 や 習 慣 を 無 視 す る 生 意 気
な 姿 勢 は 周 囲 との 軋 轢 を 招 く 場 合 も 多 か っ た 。
閨閥より外れる
企 業 城 下 町 と し て の 相 生 は 街 中 が 播 磨 造 船 所 の 飯 場 の 様 な 感 じ で 、家 族 的
な 雰 囲 気 で あ っ た が 、そ の 反 面 、幹 部 社 員 の 子 女 と 有 望 青 年 社 員 間 の 婚 姻 を
通 じ て の 閨 閥 が 形 成 さ れ つ つ あ っ た 。 ( コ ラ ム 1 参 照 )。
真 藤 は 昭 和 1 1 年 に 、閨 閥 に は 関 係 の 無 い 平 凡 な 会 社 員 の 息 女 と 結 婚 し た 。
爾 後 戦 中 戦 後 を 通 じ て 、真 藤 は 相 生 に 置 い て 貰 え ず 、出 向 を 繰 返 す 運 命 と
な る が 、本 人 の 有 能 さ と 裏 腹 の 周 囲 と の 摩 擦 、閨 閥 を 外 れ て 邪 魔 に な っ た こ
と 等 に も よ る もの と 思 わ れ る 。
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コラム1
播磨造船
閨閥小史
企 業 城 下町
第一次世界大戦勃発による造船景気を見越し
た、神戸の鈴木商店は大正5年に相生で細々と
操業していた播磨船渠を買収して傘下の播磨造
船所とし、設備の大拡張と人員増強を行った。
幹部社員も工員も三菱長崎造船所から引抜きが
主 力 で 、 3 0 0 名 弱 の 従 業員 数 は 大 正 8 年 に は 6 0 0 0 名 を 超 え 、 工 員 社 宅 で 街が
充 満 し 商 店 街 も 会 社 が 建 築 し テ ナ ン ト を 募 っ た 。 街 の 標 準 語 は 長 崎 弁 で あ っ た 。( こ
の頃 の 様子 は 女流 作 家
佐 田 稲 子 「 素 足 の 娘 」 に 詳 し い 。)
閨閥物語
爾 後 、播 磨 造 船 は 消 長 し つ つ 五 十 年 の 歴 史 を 刻 ん だ が 、経 営 面 の 主 役 は 横 尾
龍、
技術面の主役は六岡周三であった。横尾(東大・船・M40)は三菱長船の設計課長
か ら 転 入 、昭 和 1 8 年 に 社 長 就 任 、戦 後 は 政 界 に 出 て 昭 和 2 5 年 に 通 産 大 臣 ( 第 三 次
吉田内閣)に就任した。 六岡(東大・船・T7)は播磨造船最初のプロパー社員で、
昭 和2 5 年 に 社長 に 就 任 した が 、 播 磨 造船 の 技 術 面の 要 で あ った 。
会社の幹部社員達の令息達は大学や高専を出て播磨へ就職、令嬢達は有望社員を
ハントして女婿とする風潮が広まり、昭和10年代より戦後にかけて頂点に達し、
会 社中 に 閨 閥 関係 が 蔓 延 した 。 下 表 は 横尾 家 と 六 岡家 の 一 例 であ る 。
横尾
龍
六 岡 周三
昭 和 2 8 年 に 政 界 引 退 し た 横 尾 は 会 長 に 就 任 、六 岡 社 長 と の 間 で 熾 烈 な 派 閥 抗 争 が
数 年 間 に 亘 り 展 開 さ れ た ( 真 藤 は 呉 に 出 て い て 無 関 係 で あ っ た が )。
真 藤 の 挫折
真 藤 は 横 尾 の 次 女 の 花 婿 候 補 で あ っ た が 、 松 山( 東 大 ・ 船 ・ S 1 0 ) に 乗 換 ら れ て
し ま っ た 。 真 藤 の 実 家 の 貧困 、 高 校 時 代 の 素 行 問 題 等 が 原 因 か と さ れ る が 、 相 生の
巷 間 の 噂 に 、 横 尾 宅 で 真 藤 が シ ョ パ ン ( Chop in ) の レ コ ー ド を 見 て チ ョ ピ ン と 英 語
読 み し た の が 令 嬢 の 気 に 障っ た と か 。 後 年 の 真 藤 は ク ラ シ ッ ク も 愛 好 し 、 俄 か には
信 じ難 い が 。 いず れ に せ よ、 企 業 城 下 町の 中 で 真 藤は 疎 外 感 を持 っ た と 思わ れ る 。
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3
海軍省嘱託時代
戦時標準船
日 中 戦 争 が 泥 沼 化 し つ つ あ っ た 昭 和 1 4 年 3 月 、日 本 政 府 は 逓 信 省 の 主 導
で 1 0 種 類 の 標 準 船 型 ( 貨 物 船 A,B,C,D,E,F 、 鉱 石 船 k 、 油 槽 船 T L 、 T M 、 T S)
を 定 め 、優 先 し て 建 造 に 入 っ た 。
「 第 一 次 標 準 船 」と 呼 ば れ た 標 準 船 は 船 型 、
諸 仕 様 、材 料 、主 機 関 、補 機 類 を 統 一 して 造 り 易 い 船 と な っ て い た が 、船 の
グ レ ー ド は 在 来船 な み で 、 詳 細 の 構 造 は 建 造 ヤ ード に 任 さ れ て い た 。
太 平 洋 戦 争 開 戦 後 の 日 本 軍 の 快 進 撃 も 、昭 和 1 7 年 6 月 の ミ ド ウ エ ー 海 戦
の 敗 北 に よ り 劣勢 と な り 、 日 本 本 土 と 南 方 を 結 ぶ商 船 隊 の 被 害 は 増 大 し た 。
(第5図)
商船被害状況
この対応として海軍の艦政本部第四部が商船建造の全権を掌握する方針
となった。第四部では福田烈技術中将(播磨の六岡と東大・船同期)統括の下
で 、 西 島 享 二 技 術 中 佐 ( 九 大 ・ 船 T 15 ) が
実 務 を 担 当 し た。
海軍は日本郵船、大阪商船、三菱長崎、
日 本 鋼 管 、播 磨 造 船 等 か ら 技 術 者 を 徴 用 し
て 標 準 船 の 設 計 変 更 を し た 。第 一 次 標 準 船
の 貨 物 船 を 3 種 類 ( A,D,E) に 絞 り 、 船 型
は 流 用 し つ つ 、船 の 耐 用 年 数 は 1 ~ 2 年 と
し て 、徹 底 し た工 程 短 縮 と 材 料 節 約 を 図 り ( 第6 図 )福 田 中 将 と 西 島 中 佐
機 関 室 以 外 は 二重 底 も 廃 止 し た 徹 底 し た 粗 製 乱 造船 で あ っ た 。
改A型、改D型、改E型と呼ばれ
た第 二 次 戦 時 標 準 船 が 、 数 多 く 建 造
さ れ た 。( 第 2 表 参 照 )
粗 製 乱 造 で あっ た が 、 生 残 っ た
戦 時 標 準 船 が 戦後 の 日 本 海 運 再 建 の
中 核 と な っ た のは 事 実 で あ る 。
( 第 7 図 ) 改 A 型 貨 物 船 ( 9,3 00DW T )
6
西島中佐との出会い
入 社 8 年 目 の 油 の 乗 切 っ た 年 代 で 、仕 事 も 手 早 い 真 藤 は 昭 和 1 7 年 9 月 よ
り 艦 政 本 部 に 出 向 し た 。商 船 建 造 の 経 験 の 無 い 福 田 中 将 は 級 友 の 六 岡 を 頼 り
に し て お り 、 六岡 は 最 精 鋭 の 真 藤 を 出 し た も の とも 考 え ら れ る 。
海 軍 で 真 藤 が 西島 中 佐 と の 面 識 を 得 た こ と が 、 真藤 の 将 来 に 影 響 し た 。
西島は海軍で製造現場一筋に過ごし近代的管理手法を呉工廠に導入した。
材 料 や 金 物 の 統 一 化 ・ 標 準 化 、西 島 式 と 称 さ れ た 材 料 管 理 法 や 工 数 管 理 曲 線
や 先 行 艤 装 等 で あ り 、 戦 艦 “ 大 和 ” 建 造 時 は 船 殻 工 場 主 任 で あ っ た 。“ 大 和 ”
の 船 殻 工 事 能 率 は 4 3 .6 人 ・ 日 / T で 、“ 長 門 ” の 8 8 .4 人 ・ 日 / T の 半 分
以 下 と な っ た。
( 三 菱 長 船 の 同 型 艦“ 武 蔵 ”の 工 数 は“ 大 和 ”の 2 倍 程 度 と さ れ る )。
艦政本部は西島や真藤を含む8名の調査団を編成してーケ月かけて全国
4 5 ケ 所 の 造 船 所 を 視 察 し 、標 準 船 建 造 の 作 戦 を 練 っ た 。西 島 の 鞄 持 ち 的 な
真 藤 で あ っ た が、 西 島 の 現 場 へ の 着 眼 点 の 鋭 さ に驚 か さ れ た 。
標 準 船 は 建 造 期 間 の 短 縮 が 最 優 先 課 題 で 、ブ ロ ッ ク 建 造 や 溶 接 工 法 の 大 幅
採 用 を 必 要 と し た 。船 型 と し て は 南 方 占 領 地 区 ・ 日 本 間 の 近 海 航 路 が 対 象 で
あ り 、小 型 船 で 撃 沈 さ れ て も 被 害 が 少 な く 、大 量 建 造 に 適 し た 改 E 型 貨 物 船
( 8 8 0 GT 、 1 2 6 5 DW T 、 船 長 6 0 M 、 航 海 速 力 1 1 kt ) に 重 点 を 置 い た 。
西 島 の 命 令 を 受 け 、真 藤 は 一 晩 の 徹 夜 で 改 E 型 貨 物 船 の 船 殻 図 を 仕 上 げ た
と 言 わ れ る 。 真藤 の フ リ ー ハ ン ド 図 を 3 名 の 製 図工 が 図 面 に 仕 上 げ た 。
建 造 す る 工 場 は 三 菱・若 松 造 船 所 、川 南・深 堀 造 船 所 、播 磨 ・松 の 浦 工 場 、・
東 京 造 船 所 (石 川 島 系 )の 4 工 場 、 各 工 場 2 日 に 1 隻 完 成を 必 達 目 標 と し た。
播磨造船所・松の浦工場
海 軍 は 広 畑 製 鉄 所 近 傍 に 工 場 建 設 を 指 示 し た が 、播 磨 造 船 で は 六 岡 常 務 の
主 張 で 、相 生 湾 内 に 独 自 案 の 松 の 浦 工 場 建 設 を 提 案 し 、昭 和 1 8 年 1 月 に 工
場 の 建 設 に 着 手し 、 工 場 建 設 に 並 行 し て 3 月 か ら第 一 船 を 起 工 し た 。
松 の 浦 工 場 は(第 8 図 )の 様 に 、鋼 材 加 工 や ブロ ッ ク 組 立 用 の 船 殻 工 場 を
中 心 に 、両 側 に 3 1 0 m の 船 台 を 配 置 し 、各 船 台 に は 4 工 程 に 応 じ た 4 隻 の
改 E 型 が 縦 に 並 び 、各 工 程 の 工 事 を 一 定 期 間 で 完 成 さ せ て 次 工 程 に ロ ー ラ ー
で 移 動 さ せ 、 第4 工 程 が 終 わ る と 進 水 さ せ る 画 期的 な 工 場 で あ っ た 。
7
( 第 8 図 ) 播 磨 造 船・ 松 の 浦 工 場
配置図
熟練工不足の中で、徴用工や囚人や捕虜を含む3000余名を投入して、
月 間 1 4 隻 の ペ ー ス を 達 成 し 、昭 和 2 0 年 の 終 戦 ま で に 1 6 3 隻 を 建 造 し た 。
( 他 工 場 の 実 績 は 、 川 南 1 5 2 隻 、 三 菱 ・ 若 松 1 3 3 隻 、 東 京 9 9 隻 で あ っ た 。)
戦 後 来 日 し た 賠 償 調 査 団 の Campbell 団 長 は「 松 の 浦 工 場 の 建 造 シ ス テ ム
は 多 量 生 産 と し て 極 め て 優 れ て い る 、ア メ リ カ の 多 量 建 造 は カ イ ザ ー 造 船 所
の 様 に 、 船 台 を 沢 山 並 べ た だ け だ っ た 。」 と 絶 賛 し た 。 戦 後 、 工 場 は 撤 去 さ
れ 市 街 地 と な った が 、 六 岡 は 改 E 型 の 建 造 に 関 する 博 士 論 文 を 出 し た 。
特攻機キ115生産計画
改 E 型 生 産 計 画 が 軌 道 に 乗 っ た 昭 和 1 9 年 秋 に 、真 藤 は 播 磨 造 船 へ 造 船 工
作 課 主 任 と し て 復 帰 し た 。筆 者 は 内 業 課 長 時 代 に 古 参 職 長 達 か ら 真 藤 の 陣 頭
指 揮 振 り を 聴 かさ れ た が 、 初 の 現 業 部 門 で も 真 藤の 評 判 は 良 か っ た 様 だ 。
終 戦 直 前 に は 海 軍 工 廠 で 本 土 決 戦 用 航 空 機 キ 1 1 5“ 剣 ”の 生 産 を 計 画 し 、
西 島 は 真 藤 に 播 磨 造 船 で も 生 産 の 準 備 を 命 じ た 。キ 1 1 5 は 木 製 で 爆 装 の み
で 機 銃 も 無 い 特攻 専 用 機 で あ っ た が 、 真 藤 は 寸 暇を 惜 し ん で 検 討 に 入 っ た 。
キ 1 1 5 の 図 面 一 式 を 検 討 し て 真 藤 は「 頭 を ガ ツ ン と や ら れ た 様 な 強 烈 な
印 象 を 受 け た 」。 量 産 が 前 提 の 航 空 機
の 図 面 は 、生 産 工 程 別 に作 ら れ 、図 面
に は 必 要 な 部 品 の 明 細 が あ り 、形 状 や
材 料 、 製 作 手 順も 指 示 さ れ て い た 。
造船の設計図が如何に出鱈目なも
の で あ る か を 痛感 し た 。
( 第 9 図) 特 攻 機 キ 1 1 5 “ 剣 ”
真 藤 が 海 軍 へ 喜 ん で 出 た か 否 か は 知 る 術 も 無 い が 、海 軍 の エ ー ス 的 存 在 の
西 島 の 知 己 を 得 て 生 産 管 理 手 法 を 学 び 、改 E 型 船 大 量 建 造 や 航 空 機 生 産 計 画
を通じて、将来の造船生産管理のアイデアを孕んだのは事実であろう。
8
4
播磨造船・呉船渠の時代
呉船渠の開設
終 戦 時 の 呉 は 爆 撃 に よ り 、街 も 工 場 も 焦 土 と 化 し 、呉 沖 に は 戦 艦 や 空 母 を
含 む 2 1 隻 の 旧海 軍 艦 艇 が 擱 座 や 沈 没 し て い た 。
終 戦 の 年 (昭 和 2 0 年)の 1 2 月 、 G H Q ( 連 合軍 総 司 令 部)は 日 本 政 府 に
呉港周辺に沈没・擱座した海軍艦艇
の 救 難・解 体 作 業 の 実 施 を 命 じ た が 、
航路の確保と資材活用が目的であっ
た。政府は播磨造船に呉工廠の施
設 ・ 人 員 を 使 って の 実 施 を 命 じ た 。
播磨造船を選んだ理由は、地理的
条 件 、 GHQ が 敵 視 す る 旧 財 閥 企 業
で は な い 、 旧 海軍 福 田 中 将 の 推 挽 に
よ る も の と 思 われ る 。
第 1 0 図 ) 呉 海 軍 工 廠 の惨 状
( 海軍 の 壊 滅 後に 福 田 は 六 岡を 頼 り に し、 失 業 し た多 く の 海 軍技 術 将 校 を播 磨 へ 就 職
さ せた 。 各 大 学の 昭 和 1 9 年卒 そ の 他 多く の 元 技 術将 校 が 入 社し 、 後 年 のI H I 時 代
の 戦 力 と な っ た 。)
播 磨 造 船 は 呉 船 渠 を 開 設 し 、神 保 敏 夫 取 締 役 以 下 1 0 0 名 の 社 員 を 派 遣 し 、
旧 海 軍 工 廠 の 3 8 0 0 名 余 を 受 入 れ た 。呉 周 辺 の 海 軍 艦 艇 の 救 難 ・ 解 体 工 事
と 一 般 商 船 の 修理 工 事 が 業 務 で 、 昭 和 2 1 年 4 月よ り 操 業 を 開 始 し た 。
真藤救難・解体課長
船 殻 課 長 を し て い た 真 藤 は 新 設 呉 船 渠 の 主 業 務 で あ る 救 難・解 体 課 長 と し
て出向を命じられた。旧海軍関係者に面識があるとの理由づけであったが、
「 今 度 は ス ク ラ ッ プ 屋 か 」と 不 快 に 思 っ た 。横 尾 社 長 ( 昭 和 1 8 年 就 任 ) の 二
人 の 有 能 な 女 婿の 郷 農 と 松 山 に 挟 ま れ お り 、 所 詮は 追 出 さ れ た と 思 っ た 。
海軍から播磨へ入社しゴロゴロしていた北村源三(九大・船S16、少佐)
は 戦 時 中 シ ン ガ ポ ー ル に 駐 在 し 、損 傷 し た 彼 我 の 艦 船 の サ ル ベ ー ジ や 修 理 を
経 験 し て お り 、真 藤 に 救 難 係 主 任 に 誘 わ れ て 喜 ん で 同 行 し た 。 爾 後 、 北 村 は
後 年 の N B C 時代 も 通 じ て 真 藤 の 右 腕 と し て 活 躍し た 。
呉 船 渠 の 真 藤・北 村 の 下 に は 多 く の 優 秀 な 元 技 術 将 校 や 海 軍 技 師 が 集 ま り 、
現 業 部 門 も 旧 海 軍 工 廠 の ベ テ ラ ン 潜 水 工 、船 具 工 、救 難 工 作 工 等 が 配 置 さ れ 、
救 難 母 船 数 隻 、 海 上 ク レ ー ン ( M A X 4 0 0T)数 隻 、 多 数 の 工 作 船 や 曳 船 等
も配備された。
工 事 の 指 定 期 間 3 0 ケ 月 で 、戦 艦“ 伊 勢 ”
“日向”
“ 榛 名 ”、空 母“ 天 城 ”
“阿
蘇 ” 巡 洋 艦 “ 大 淀 ”“ 青 葉 ”“ 利 根 ” そ の 他 潜 水 艦 等 2 1 隻 の 救 難 ・ 解 体 工 事
を 終 え た 、 そ の後 の 商 船 等 も 含 め る と 4 0 隻 近 くの 艦 船 を 処 理 し た 。
9
「 真 藤 さ ん と 私は 能 美 島 の 網 本 の 家 の 二 階 に 寝 泊 りし 、 一 階 の 広 間 は 近 所
に下宿する部下達の食堂で、食糧事情は悪かったが愉快な集団生活でした。
真 藤 さ ん に 酒 と 麻 雀 の 指 南 を し た が 、 酒 は 不 成 功 で し た 」( 北 村 氏 談 )。
( 第 1 1 図 ) 巡洋 艦 “ 青 葉 ”
( 第 1 2図 ) 空 母 “ 天 城 ”
呉 船 渠 の 救 難 ・解 体 事 業 は 通 算 し て 2 0 % の 工 事利 益 を 挙 げ た 。
昭 和 2 1 年 秋 に 痔 病 で 4 ケ 月 間 入 院 し た 真 藤 は 。海 軍 出 向 時 代 の 経 験 を 基
に「 造 船 技 術 者 と し て の 工 場 管 理 」 な る 論 文 を 纏 め て い る
国有資材横流し事件
呉船渠の経営は常に資金繰りに窮して給料の遅配が慢性化したが、一方、
工 場 内 に は 国 有資 産 と し て 海 軍 工 廠 時 代 に 買 込 んだ 資 材 ( パ イ プ 、 鋼 板 等 )
が 山 積 み さ れ て い た 。( 筆 者 は 昭 和 3 1 年 に 呉 造 船 で 夏 季 実 習 を 行 っ た が 、 当 時 で
も 工 場 の 数 棟 に は 、 国 有 財 産 と し て の か ま す 入 り の 塩 が 山 積 み さ れ て い た 。)
昭 和 2 2 年 ( 1947) の 暮 、 真 藤 は 国 有 資 材 を 勝 手 に 売 払 っ て 4000 人 余 の
従 業 員 の 給 料 に 当 て た が 、臆 病 な 事 務 系 の 上 司 達 を バ イ パ ス し て 全 て の 書 類
や 伝 票 に は 真 藤 が 捺 印 し た 。翌 年 早 々 に 検 察 庁 の 手 が 入 り 、真 藤 は 首 謀 者 と
し て 留 置 さ れ て 厳 し い 取 調 べ を 受 け た 。検 察 は 播 磨 造 船 派 遣 の 幹 部 達 が 私 服
を 肥 し て い る と 疑 っ て 捜 査 を 進 め た が 、資 材 の 売 却 金 額 と 支 払 わ れ た 給 料 の
総 額 は 完 全 に 一 致 し て い た 。工 場 内 の 一 室 に 隔 離 さ れ て 作 業 し た 経 理 担 当 者
達 は 、真 藤 へ の 同 情 と 自 己 の 給 料 返 済 要 求 へ の 怖 れ も あ り 、給 料 支 払 明 細 を
次 々 と 食 べ て し ま っ た ( 汲 取 り 式 便 器 に も 金 網 が 張 ら れ 捨 て る 手 段 が 無 か っ た )。
真 藤 は「 法 律 的 に は 罰 せ ら れ て 当 然 だ が 、飢 え た 従 業 員 を 助 け た の だ か ら 、
判 っ て も ら え る だ ろ う 」と 思 っ て い た 。結 局 背 任 の 事 実 は 認 め ら れ ず 不 起 訴
と な っ た 。 救 難 ・ 解 体 課 長 の 職 は 仕 事 の 性 質 上 、下 請 業 者 や ス ク ラ ッ プ 業 者
等 と の 接 触 が 多 く 、 ク ソ 真 面 目 の 真 藤 も「 清 濁 併 せ 呑 む 」 気 質 が 次 第 に 備 わ
っ た 気 配 が 見 え る 。更 に 検 察 を 屈 服 さ せ た 経 験 か ら の「 使 用 目 的 が 不 仰 天 地
に 恥 じ な け れ ば 、何 を し て も 大 丈 夫 」と の 自 信 が 晩 年 の リ ク ル ー ト 事 件 で の
挫 折 に 繋 が っ た可 能 性 は 否 定 で き な い 。
閉鎖的で誇り高い海軍や工廠の街・呉では、所詮余所者であった真藤は、
こ の 武 勇 伝 に よ り 従 業 員 や 家 族 達 、更 に は 呉 市 民 一 般 の 揺 ぎ 無 い 信 頼 と 尊 敬
を獲得し、後のNBC時代も通じて真藤の無形の財産となった。
( 呉 の 現 場 作 業 員 達 の 真 藤 に 対 す る 敬 意 を 夏 季 実 習 中 の 筆 者 は 体 感 し た 。)
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5
NBC呉造船部
呉船渠の苦境
呉 船 渠 開 設 時 のG H Q と の 約 束 期 限 は 昭 和 2 3 年 9月 で 、 救 難 ・ 解 体 工 事
は 予 定 通 り 完 了 し た が 、爾 後 の 経 営 の 見 通 し は 無 く 、大 幅 な 人 員 整 理 を 実 施
し 、沈 没 商 船 の 引 揚 げ 修 理 や 一 般 修 繕 船 で 食 い 繋 い だ が 、他 の 造 船 会 社 か ら
は 営 業 妨 害 と して G H Q に 呉 船 渠 閉 鎖 要 求 が 出 され た 。
当時真藤は技術副次長であったが呉船渠の中心人物であ
り 、呉 市 長 も 捲 き 込 み 呉 船 渠 存 続 運 動 に 邁 進 し た 。潰 す 予 定
の 呉 船 渠 を 下 見 に 来 た 池 田 蔵 相 を 、「 呉 船 渠 を 潰 す な ら ば 、
選挙で落とす」と脅迫したが、呉は池田の大票田であった。
この時宮沢喜一秘書官(後の首相)も同席していたが、爾後
真 藤 は 自 民 党 本流 の 宏 池 会 に 顔 が 利 く 様 に な っ た。
(第13図)
此 の 頃 の 大 仕 事は ト ラ ッ ク 島 の“ 第 三 図 南 丸 ” の サ ル ベ ー ジ
池田 勇 人
( 昭 和 2 5 年 ) で 、 大 型 船 “ 玉 栄 丸 ”( 日 本 水 産 )、 作 業 母 船 “ 君 島 丸 ” 以 下
1 0 隻 余 の 各 種 工 作 船 と 1 6 7 名 の 人 員 を 派 遣 し 、6 ケ 月 の 期 間 で 浮 上 さ せ
た 。他 造 船 所 へ の 配 慮 か ら 再 生 工 事 は 播 磨・相 生 と な っ た が( コ ラ ム 2 参 照 )。
甘利船舶局長
昭 和 2 4 年( 1949)に 運 輸 省 船 舶 局 長 に 就 任 の 甘 利 昂 一 は
東 大 工 学 部 出 身 で 、当 時 と し て は 珍 し い 技 術 屋 官 僚 と し て 爾
後 7 年 間 の 在 任中 、 戦 後 日 本 の 海 運 ・ 造 船 の 再 建 に 尽 し た 。
甘 利 は 昭 和 2 5 年 に ア メ リ カ 国 務 省 の 招 聘 で 渡 航 し 、3 ケ
月 か け て 米 国 と 英 国 の 製 鉄 所 や 造 船 所 を 視 察 し た 。帰 朝 講 演
で「 わ が 国 造 船 業 の 進 む べ き 道 は 、 全 溶 接 ・ ブ ロ ッ ク 建 造 、 (第 1 4 図 )
強力なクレーンの設置にあり」と論じている。
甘利 船 舶 局長
視 察 旅 行 途 上 の ノ ー フ オ - ク で 甘 利 は N B C ( Nat ional Bulk Car r ier ) 傘 下
の We lding Shipyar d を 見 学 し た 。 予 定 に は 無 い が Welding の 名 前 に 惹 か れ
た 。設 備 は 木 津 川 筋 の 造 船 所 程 度 だ が 、3 万 D W T タ ン カ ー を 建 造 し て い た 。
甘 利 は Hann 工 場 長 の 「 N B C は 1 0 万 D W T の 計 画 が あ り 、 適 当 な 建 造
ヤ ー ド が 無 く て 困 っ て い る 」 と の 言 に 、「 戦 艦 を 建 造 し た 呉 の 造 船 ド ッ ク が
空 い て い る が ・ ・ ・ 」 と 応 え た 。 帰 国 後 忘 れ た 頃 に Hann が 突 然 に 運 輸 省 の
甘 利 を 訪 ね て 来 た 。 N B C の Lu dwi g 社 長 は 船 員 か ら 有 力 な 海 運 会 社 を 興 し
富 豪 と な っ た が 、 将 来 の 石 油 消 費 量 増 大 を 予 測 し て お り 、 Hann か ら 甘 利 の
言 を 聞 き 、 即 座に 日 本 政 府 と の 賃 借 交 渉 開 始 を 命じ た も の で あ っ た 。
戦 艦 “ 長 門 ” や ”大 和 “ を 建 造 し た 栄 光 の 造 船 ド ッ ク を 昨 日 迄 の 敵 国 に 貸
す 案 件 に は 抵 抗 も あ っ た が 、放 置 す れ ば 賠 償 と し て 撤 去 さ れ る 可 能 性 も あ り 、
呉 市 の 失 業 者 問 題 も あ り 、吉 田 首 相 の 決 断 で 昭 和 2 6 年 4 月 に 契 約 と な っ た 。
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契 約 条 件 を 要 約 す れ ば 、① 1 0 年 間 の 賃 貸 料 1 0 万 ド ル 、② 建 造 す る 船 舶
は N B C 社 及 び 関 連 会 社 所 有 に 限 る 、③ 原 則 と し て 日 本 国 産 鋼 材 を 使 用 す る 、
④ 建 造 技 術 を 日 本 造 船 界 に 開 放 す る 、⑤ 構 内 に 溶 接 工 養 成 所 を 設 立 し 他 造 船
所 の 要 請 に も 応ず る 等 で 、 他 の 日 本 造 船 所 を 宥 める 内 容 も 含 ま れ た 。
こ の 結 果 、旧 海 軍 工 廠 の 建 造 ド ッ ク 周 辺 は N B C 呉 造 船 部( 従 業 員 3500)、
残 り の 船 台 及 び修 繕 地 区 は 播 磨 造 船 の 子 会 社呉 造 船 株 式 会 社 と な っ た 。
相生の野郎共に一泡吹かせる
契 約 に 来 日 し た Ludwi g は 真 藤 と 面 談 し て 見 識 と 人 物 に 惚 れ 込 み 、 帰 国 に
際 し て 技 術 部 長 と し て の 呉 残 留 の 説 得 を 甘 利 や Kann に 依 頼 し た 。
真 藤 は「 十 年 後 に N B C の 契 約 が 終
り 、播 磨 に 戻 っ て も 、昔 の 同 僚 は 偉 く
な っ て お り 、俺 は 一 生 う だ つ が あ が ら
な い 」と 言 っ て 渋 っ た 。徒 弟 上が り の
Kann は 「 俺 は 戦 時 中 カ イ ザ ー 造 船 所
の 職 長 に 過 ぎ な か っ た が 、 Ludwig に
認 め ら れ て Welding Shipyard の 工 場
長 、更 に 今 回 は 呉 造 船 所 長 と な っ た で
は な い か 」 と 。 Ludwig か ら は 「 真 藤
と そ の 家 族 は 一 生 面 倒 を 見 る 」と の 電
報が来た。
真藤は播磨造船退社とNBC入社
を 決 め た が 、 本意 で は 無 か っ た 。
( 第 1 5図 ) N B C 呉 造 船 部 幹 部
( 左 よ り 真 藤 技 術 部 長 、 副 所 長 、 L u dw i g 社 長 、 K ann 所 長 )
造 船 ド ッ ク の 前 で「 俺 を 追 出 し た 相 生 の 野 郎 共 、今 に 此 の ド ッ ク で 一 泡 吹
か せ て や る ぞ 」 と 誓 っ た ( 本 人 談 )。 爾 後 、 真 藤 は N B C ・ 呉 造 船 部 を 舞 台 に
建 造 技 術 の 新 機 軸 を 拓 い て い く が 、悔 し さ も バ ネ と な っ て い た 様 に 思 わ れ る 。
Construction か ら Production へ
Kann は 技 術 面 は 全 て 真 藤 に 任 し 、 経 理 と NBC 本 社 と の 繋 ぎ 役 に 徹 し た 。
N B C は 1 0 名 程 度 の 技 術 者 を 派 遣 し て 来 た が 、あ ま り 役 に 立 た ず 、溶 接
と 機 関 艤 装 と ター ビ ン 関 連 の 技 術 者 3 名 を 残 し て短 期 間 で 帰 国 さ せ た 。
真 藤 の 下 に は 旧 海 軍 出 身 の 優 秀 な 技 術 者 達 が 集 い 、真 藤 は 戦 時 中 の 標 準 船
建 造 や 航 空 機 生 産 計 画 以 来 温 め て 来 た 理 念 と 、ア メ リ カ 式 合 理 主 義 を 併 せ て 、
従 来 の Construction 的 船 舶 建 造 を Production 的 な 様 式 に 変 え 、初 期 の NBC
建 造 船 の“ Petrokure”シ リ ー ズ( 38,000DWT タ ン カ ー )4 隻 の 建 造 を 通 じ
で 驚 異 的 な 生 産性 を 実 現 し た 。 そ の 手 段 を 概 論 する と 、
①四工程システム
ガ ン ト リ ー ・ク レ ー ン ( 100T 、 60T) を 活 か し た ブ ロ ッ ク 建 造 、 建 造 の 流 れ
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を 内 業 加 工 、小 組 立 、大 組 立 、搭 載 の 四工 程 に 区 分 し 、各 工 程 内 は 系 列 化 し
て 、 複 数 の 同 型船 を ロ ッ ト で 流 し て 大 量 生 産 に 似た 様 式 と し た 。
② 生 産 設 計 を 軸 と した 改 革
“ ど の 様 な 船 を 造 る か ” か ら“ 如 何 に 船 を 造 る か ” を 主 眼 と し た 生 産 設 計
で Cutting Plan や Block Plan、 区 画 別 艤 装 図 等 々 を 作 製 し て 、 生 産 現 場 の
工 事 手 順 を 管 理下 に 置 き 、 工 事 能 率 の 向 上 を 図 る。
③溶接工法の推進
中 古 の ユ ニ オ ン メ ル ト 自 動 溶 接 機 を 輸 入 し 、N B C 派 遣 の 溶 接 技 師 の 指 導
で 実 用 に 漕 ぎ 付け た 。鋼 材 の 品 質 不 安 定 が 問 題 であ っ た が 、日 本 製 鋼・室 蘭
の 設 備 (戦 艦 の 装 甲板 用 圧 延 機)を 利 用 し た キ ル ド 鋼 生 産 の 契 約 が 成 立 し た 。
戦争中に呉工廠で試作された放置式溶接法を改良してグラビテイ溶接機
と し 、高 酸 化 鉄 系 溶 接 棒 と 組 合 せ て 、隅 肉 溶 接 の 効 率 は 飛 躍 的 に 向 上 さ せ た 。
( 第 1 6 図 )“ Petro Queen” (38、000T 第 3 船 )
進水式
④早期艤装の適用
従 来 、系 統 別 に 作 成 さ れ て い た 配 管 図
や 各 種 装 置 図 を 、区 画 別 に 総 合 し た 区 画
別 艤 装 図 を 作 成 し 、こ れ に 基 づ い て 部 品
を 手 配 、 ブ ロ ック 段 階 で 取 付 け る 早 期
艤 装 シ ス テ ム を 確 立 し 、“ Petro Queen”
( 2 番 船 ) よ り適 用 し た 。
(第17図)早期艤装
⑤ 西 島 式 工 数 管 理 曲線 の 適 用
リ ベ ッ ト 時 代 の 海 軍 西 島 式 工 数 管 理 曲 線 は 、船 殻 重 量 を パ ラ メ ー タ ー と し
て い た が 、 N BC で は 溶 接 長 を パ ラ メ ー タ と し た管 理 曲 線 に 置 換 え た 。
( 第1 8 図 ) に後 年 の I HI ・ 相 生 工 場バ ー ジ ョ ンの 工 数 管 理曲 線 を 添 付し た 。
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結果として(第3表)の様に他社の水準を超越する生産効率を達成した 。
日 本 政 府 と の 契 約 で 、N B C は 成 果 を 他 社 へ 公 開 す る 義 務 を 有 し 、他 社 の
技 術 者 達 の 見 学が 相 次 ぎ 、 N B C の 生 産 方 式 は 全国 の 造 船 所 へ 広 ま っ た 。
大型船の記録更新
爾 後 、 NBC ・ 呉 は 年 間 4 ~ 5 隻 の ペ ー ス で タ ン カ ー や 鉱 石 船 を 建 造 し た 。
“ Pe tro Kure も 当 時 の 世 界 記 録 で あ っ
た が 、 昭 和 3 1 年 の ” Universe Leader”
( 85,000T) シ リ ー ズ 6 隻 を 、 昭 和 3 3
年 の ”Uni verse Apollo“ (114,000T)も 世
界 記 録 を 更 新 し 、タ ン カ ー 大 型 化 の 先 駆
と な っ た 。 イ ンフ レ に よ る 船 価 上 昇 を
大 型 化 の 生 産 性 向 上 で カ バ ー し 、船 価 は
1 0 0 $ / T を 維 持 し た 。( 国 内 同 業 他 社
は 2 0 0 $ / T の 時 代 で あ っ た 。)
( 第 1 9 図 )” Universe Apollo“
呉造船部建造船の低船価や新造船計画に対する真藤の適切なアドバイス
等 で 、 巨 利 を 得 た Lud wig 社 長 の 信 頼 は 厚 く 、 豪 華 な 新 築 住 宅 を 真 藤 に 提 供
し た ( 渋 る 真 藤 を バ イ パ ス し て 夫 人 と 話 し を 進 め た )。 こ の 頃 に ゴ ル フ を 覚
え た 真 藤 は Ludwig に 「 余 分 の ボ ー ナ ス は 要 ら な い か ら 時 間 を 呉 れ 」 と 言 っ
て 、 適 当 に 土 曜 日 を 休 ん で ゴ ル フ を す る 許 可 を 得 た ( 本 人 談 )。
ゴ ル フ 、 写 真 、喫 煙 ? 等 と 真 藤 の 趣 味 は “ 凝 り 性” の 傾 向 が あ っ た 。
ドクター真藤
N B C・呉 の 工 場 報「 技 道 」に は 、各 部 門 の 生 産 方 式 、
管 理 方 法、 作 業 改 善 等 の 成 果 を 掲 載 し、 西 部 造 船 会 で も
公 表 し た 。 こ れ を 基 に 昭 和 3 2 年 に「 新 造 船 工 事 に 於 け
る 生 産 管 理 の 研 究 」 な る 博 士 論 文 を 提 出 し た。
九大での「造船工場管理」の講義を筆者も受講した。
四 工 程 シ ス テ ムや 工 数 管 理 が 内 容 で あ っ た が 、 2 時 間 の
講 義 中 に ピ - ス 2 箱 を 消 費 す る Chain smoker で あ っ た 。 ( 第 2 0 図 )
「 N B C は 成 績 よ り も Potential Energy を 重 視 す る 」
Chain smoke r
との言に、翌春、成績に自信の無い面々が勇躍NBCへ就職したが、後日、
教 授 達 に は 「 少し 薬 が 効 き 過 ぎ た 」 と 愚 痴 を 零 して い た と の こ と 。
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(第 1 8 図 ) 西 島 式 工 数 管 理 曲 線 の体 系 例
( I H I ・ 相 生 船 殻 工 作 部 VERSION)
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IHI相生工場の飛躍
石川島と播磨合併の条件
昭和35年7月、石川島重工と播磨造船の合併が報
道された。造船部門の弱い石川島と陸上進出に焦る播
磨の理想的な合併とされた。社長に就任予定の土光敏
夫( 後 の 経 団 連 会 長 )は 真 藤 の 復 帰 を 合 併 条 件 と し た が 、
土 光 と 真 藤 の 出合 い も 偶 然 で あ っ た 。
石川島はNBCへ舶用ボイラーを納入していたが、
あるボイラーで石川島の工場で蒸気ドラムに誤って余
分の孔を空けて困っていると、真藤の発想で水ドラム
に も 余 分 の 孔 を開 け 、 蒸 発 管 を 一 本 追 加 す る 案 で救 済
(第21図)
し た 。 造 船 屋 的な 臨 機 応 変 の 処 置 に 感 心 し た 土 光は 呉 を
土 光 敏夫
訪 問 し 、そ の 洗 練 さ れ た 生 産 形 態 に 驚 き 真 藤 に 注 目 し て い た 。西 島 の 推 挽 も
あ っ た と 思 わ れ る 。( 土 光 は 西 島 を 造 船 関 連 の 顧 問 と し て 重 用 し て い た )。
Ludwig は I H I で も N B C 船 を 継 続 建 造 す る 条 件 で 快 諾 し 真 藤 を 出 し た 。
突然の真藤の離脱に対するNBC従業員や呉市民の衝撃と怒りは大きかっ
た、真藤は「必ず呉に帰ってくる」と言明したが(土光とは将来のIHI呉進
出 の 密 約 が あ っ た )、 あ ま り 後 味 の 良 い 旅 立 ち で は な か っ た 。
真 藤 I H I 船 舶事 業 部 長 の 給 料 は N B C 時 代 の 半額 程 度 で あ っ た 。
相生工場の改革
合 併 前 の 相 生 工 場 は 、六 岡 社 長・松 山 工 場 長 の ラ イ ン で 昭 和 3 0 年 頃 か ら 、
切 断 コ ン ベ ヤ ー 、 ユ ニ グ ラ フ ( 倣 い 式 自 動 切 断 機 )、 移 動 屋 根 付 大 組 立 工 場 、
セ ミ ・ ド ッ ク 式 大 型 船 台 、 水 平 引 込 み 式 ク レ ー ン ( 80T) 等 の 設 備 を 整 え 、
ソ フ ト 面 で は 呉 と の 歴 史 的 関 係 や 人 的 な 繋 が り も あ り 、N B C の 生 産 方 式 を
逸 早 く 導 入 し 、当 時 と し て は
か な り 先 進 的 な工 場 で あ っ た 。
問題は営業力が弱く工事投入
の 不 安 定 、生 産 面 の Bottle・neck
は 大 組 立 工 程 ( Assembly ) で 、
各船台は両側に位置する大組立
工場で製作したブロックを搭載
していた。
加 工 重 量 は 平 均 5000T/ 月 で
あったが、真藤は「仕事は俺が
入れるから心配せず、3年間で
8000T/ 月 に せ よ 」 と 言 っ た 。
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真 藤 は 外 国 を 飛 び 廻 っ て ト ッ プ 営 業 を 開 始 す る と と も に 、相 生 を 短 期 間 で
NBC 並 み の 生 産 性 に す る 陣 頭 指 揮 を し た が 、 終 戦 時 採 用 の 海 軍 出 身 者 以 下
相 生 に は 人 材 が豊 富 で 、 真 藤 の 発 す る 磁 場 に 良 く反 応 し て 実 績 を 挙 げ た 。
① ブ ロ ッ ク ・ サ イズ の 適 正 化
ク レ ー ン 能 力 一 杯 よ り も 生 産 に 適 正 の サ イ ズ と し て 、船 側 外 板 や 縦 隔 壁 の
ブ ロ ッ ク を 上 下分 割 等 の 、 小 ブ ロ ッ ク 主 義 で 大 組立 工 程 の 回 転 率 を 上 げ た 。
② カ テ ゴ リ ー 別 のブ ロ ッ ク 生 産
カ テ ゴ リ ー に 分 類 し た ブ ロ ッ ク (中 央 並 行 部 、 曲り 外 板 、 船 首 尾立 体 等 々 )を
専 用 の 組 立 場 に 流 し 、 船 台 ・ 組 立 場 間 は 海 上 移 動 と し た 。( 第 2 2 図 )
③ 日 程 計 画 の 体 系化 と 鋼 材 発 注
相 生 は 3 ケ 船 台 の 併 行 建 造 で 複 雑 で あ っ た が 、大 組 立 工 程 を 軸 に 各 工 程 表
を 体 系 化 し て 鋼材 発 注 に 繋 ぎ 、 鋼 材 在 庫 量 を 半 月分 に 減 ら し た 。
④ 統 計 的 精 度 管 理の 導 入
切 断 工 程 か ら 大 組 立 工 程 に 統 計 的 精 度 管 理 を 導 入 し 、ブ ロ ッ ク 縁 を 総 仕 上
げ で 搭 載 し 、 エレ ク シ ョ ン 工 程 は 飛 躍 的 に 短 縮 した 。
⑤ ス テ ー ジ 別 管 理の 徹 底
従 来 、外 業 課 が 取 付 工 や リ ベ ッ ト 工 を 、溶 接 課 が 溶 接 工 や ガ ス 工 を 保 有 し 、
各 船 台 や 組 立 場 の 担 当 技 師 の 要 請 に 応 じ て 配 員 す る 、Shop・ Control 的 要 素
が 残 っ て い た 、搭 載 課 と 大 組 立 課 の ス テ ー ジ 別 組 織 に 再 編 し て 人 員 を 固 定 化
し ,Stage Control を 徹 底 さ せ た 。
⑥ 各 ス テ ー ジ に 西 島 式 管 理 曲 線 を 適 用 し 、真 藤 自 身 が 必 ず チ ェ ッ ク し た 。
⑦ 先行艤装の推進
先行艤装を徹底すると機器類の
手配が早期化し、資金繰り悪化の
面から事務部門の抵抗もあったが、
真藤の一喝で推進された。更に、
機器類や周辺配管等を一体化する
ユ ニ ッ ト 艤 装 も適 用 し た 。
⑧ アウトソーシング
各種艤装品の外注化を進めた。
特に木工家具の外注化は木工場の
跡 地 の 有 効 利 用に 繋 が っ た 。
( 第 2 3 図 ) 国 内 主 要 造 船 所 進 水 量 ( GT)
真 藤 は 生 産 性 向 上 を 先 取 り し た 9 0 $/T の 船 価 で 受 注 を 進 め 、 1 0 0 $/T
を 切 れ な い 他 社か ら 安 値 受 注 と 非 難 さ れ た が 、 成算 あ っ て の 行 動 で あ っ た 。
合 併 2 年 後 の 昭 和 3 7 年 ( 1962) に 相 生 の 年 間 進 水 量 ( DWT)は 工 場 別 で
世界一の記録となり、爾後3年間その地位を保持した。
( 昭 和 4 0 年 代 に 入 る と 、 相 生 工 場 の 生 産 性 は N B C 呉 を 凌 駕 し た )。
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三菱・長船の衝撃
昭 和 3 8 年( 1963)1 月 の 三 菱 長 崎 の 社 内 報「 長 船 ニ ュ ー ス 」の ト ッ プ 記
事 は 、 造 船 事 業 部 長 ・ 竹 沢 五 十 衛 の「 石 川 島 播 磨 を 抜 き 返 せ 、 闘 志 を 燃 や し
て 頑 張 ろ う 」 で 、( 第 4 表 ) の 能 率 比 較 表 を 提 示 し 従 業 員 に 奮 起 を 促 し た 。
長 船 は 設 備 や 人 員 数 で 優 っ て い た が 、進 水 量 / 人 数 で も 加 工 重 量 / 人 数 で も
相 生 の 半 分 以 下の 数 値 で あ っ た 。
衝 撃 を 受 け た 三菱 長 船 で は 社 内 研 究 会 を 組 織 し 、 積極 的 に 技 術 者 達 を 他 社
見 学 へ 派 遣 し 、問 題 点 の 摘 出 に 尽 力 し た 。
、
三 菱 長 船 は 熟 練 工 の 層 が 厚 く 、作 業 標 準 化 や 工 程 管 理 強 化 の ニ ー ズ に 鈍 感
で 、管 理 面 や 組 織 面 の 改 革 に 出 遅 れ て い た 。総 評 系 の 全 造 船 傘 下 の 三 菱 重 工
長 崎 造 船 労 同 組合 は 尖 鋭 で 、 合 理 化 に は 反 対 し スト ラ イ キ も 多 発 し た 。
特 に 顕 著 な の は 多 能 工 化 の 遅 れ で あ っ た 。即 ち 、取 付 工 の 溶 接 や ガ ス 切 断
技 能 の 習 得 や 玉 掛 資 格 の 全 職 種 へ の 拡 大 等 で 、労 組 は 労 働 強 化 と し て 反 対 で
あ っ た 。 そ の 為 に 同 業 他 社 で は 昭 和 30 年 頃 か ら 普 及 し た 一 人 ボ ー シ ン 制 度
が 採 用 出 来 な か っ た 。ま し て 作 業 標 準 時 間 の 設 定 や コ ン ベ ヤ ー ・ シ ス テ ム の
導 入 等 は 論 外 であ っ た 。
三 菱 長 船 の 組 合 問 題 は 昭 和 3 9 年( 1964)の 三 菱・ 三 重 工 合 併 の 要 因 の 一
つ で も あ っ た 。三 重 工 合 併 後 の 組 合 の 再 編 は 紆 余 曲 折 が あ っ た が 、次 第 に 労
資 協 調 路 線 に 転 換 し た 。合 併 後 の 三 菱 重 工 業 は 国 内 最 大 級 の マ ン モ ス 企 業 で 、
売 上 高 は 八 幡 製鉄 所 を 抜 い て ト ッ プ 、 I H I の 約3 倍 と な っ た 。
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真藤事業部長のグリンプス
初会議の印象
N B C 退 社 を 決 め た 真 藤 は 合 併 を 待 た ず に 数 回 相 生 を 訪 れ た が 、工 作 部 門
の 管 理 職 や 技 術 者 を 集 め て の 講 話 で の 出 来 事 。真 藤 は 相 生 工 場 の 船 台 地 区 の
配 置 の 問 題 点 や 組 織 の 旧 弊 を 辛 辣 に 罵 っ た 、取 締 役 ・ 工 場 長 の 松 山 も 同 席 し
て お り 、 若 年 の 筆 者 も「 播 磨 の エ ー ス 松 山 を 前 に し て 、 そ こ ま で 罵 る か 」 と
鼻 白 む 感 じ が し た 。愛 憎 相 半 ば す る 相 生 工 場 の 改 革 が 急 務 で あ る 真 藤 は 、か
な り の 緊 張 感 と高 揚 感 を 持 っ て 乗 込 ん で 来 た 様 に感 じ た 。
若手との懇談会
合 併 後 半 年 の 頃 に 若 手 技 術 者 と の 懇 談 会 が あ っ た 。入 社 時 に 現 図 に 配 置 さ
れ 4 年 目 を 迎 え た 筆 者 の「 現 図 は 面 白 く 成 果 も 挙 げ た 積 も り だ が 、4 年 間 も
固 定 さ れ て は 造 船 所 全 体 の 事 が 判 ら な い 、ロ ー テ ー シ ョ ン を 加 速 す べ き 」と
の 意 見 に、
「 現 図 に い て も 機 関 艤 装 の 勉 強 が 出 来 る ぞ 、手 段 な 自 分 で 考 え よ 」
と 。 従 来 AS 番 号 の 補 機 台 図 を 機 械 的 に 扱 っ て い た が 、 各 台 上 に 乗 る 補 機 の
名 称 、機 能 、機関 室 配 置 図 等 を 手 繰 っ て 行 き 、例え ば タ ー ビ ン 船 の 蒸 気 系 統
や 燃 料 系 統 配 管 等 を 把 握 出 来 る 事 に 後 日 気 が 付 き 勉 強 し た 。後 に ボ イ ラ ー 製
造 部 長 転 籍 の 際も 抵 抗 感 が 少 な か っ た の は 真 藤 のア ド バ イ ス の 効 果 で あ る 。
座談の名手
真 藤 は 頻 繁 に 工 作 部 門 の 管 理 職 を 集 め て 、各 船 の 西 島 式 管 理 曲 線 を 見 つ つ
講 評 し た り 叱 っ た り し た が 、話 は 面 白 く 座 談 の 名 手 で あ っ た( 演 説 は 下 手 )。
部 下 に 綽 名 を 付 け る 趣 味 も あ り 、人 入 れ 稼 業 的 な 溶 接 課 長 に は“ 長 兵 衛 さ ん ”
( 江 戸 時 代 明 暦 年 間 の 侠 客 ・ 口 入 屋 の 幡 隋 院 長 兵 衛 に 因 む )、 汚 れ た 作 業 服 の 筆 者
は“ ヨ ゴ レ さ ん ” な る 綽 名 を 頂 戴 し た ( コ ラ ム 3 )。 真 藤 は 著 書 の 中 で「 若 い
技 術 者 の 作 業 服 を 見 れ ば 、 本 当 に 仕 事 を し て い る か 一 目 瞭 然 ・・ 」 と 汚 れ た
作 業 服 を 礼 賛 して い る が 、 筆 者 は 洗 濯 を し な い だけ の 事 で 申 し 訳 な か っ た 。
線表問答
昭 和 3 8 年 1 月 某 日 、来 相 中 の 真 藤 が 船 殻 工 作 部 の 大 部 屋 の 横 田 健 部 長
( 東 大 船 s 1 9 )席 に 来 襲 し た 。在 室 中 の 我 々 が 御 高 説 を 拝 聴 す べ く 部 長 席 を
取 巻 く と、
「 横 田 君 、本 年 の 線 表 を 繰 上 げ 1 隻 余 分 に 進 水 出 来 な い か ? 三 菱
を押さえて進水量3年連続世界一となるが。来年には横浜工場で15万T
( 東 京 タ ン カ ー )や 2 0 万 T ( 出 光 )等 と 規 模 で 世 界 一 の タ イ ト ル が 獲 れ る が 」
と 、 真 藤 は ト ップ 営 業 の ネ タ に 世 界 一 の タ イ ト ル連 続 を 欲 し て い た の か 。
横 田 部 長 は「 現 在 の 線 表 で も 精 一 杯 で 、現 場 に 更 な る 負 荷 を 課 す べ き で は
な い と 思 う 」と 、 労 組 は 協 力 的 だ が 地 元 の 共 産 党 が 過 密 労 働 を 詰 る ビ ラ を 撒
く 状 況 だ っ た 。真 藤は「 判 っ た 」 と 撤 回 し たが 、傍 で 聴 い て い て 真 藤 が 横 田
の 手 腕 を 信 頼 し て い る 様 子 が 伺 え た 。同 年 5 月 の 春 闘 で 長 船 ・ 労 組 は 長 期 の
ス ト ラ イ キ を 打 ち 、結 局 、昭 和 3 8 年 進 水 量 世 界 一 は 相 生 に 転 が り 込 ん だ が 。
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タンカー大型化の旗手
経済船型“亜細亜丸”の出現
真 藤 は N B C 時 代 か ら 、同 一 載 貨 重 量 や 主 機 馬 力 で 最 も 安 価 な 船 型 の 構 想
を 抱 い て お り 、I H I に 入 る と 直 ち に 基 本 設 計 に 命 じ て 実 現 に 移 し た 。昭 和
3 6 年 1 0 月 に 相 生 工 場 完 成 の “ 亜 細 亜 丸 ”( 40,284T) が 第 一 船 で あ っ た 。
従 来 の 同 規 模 船で は L / B は 7 以 上 が
常 識 で あ っ た が、
“ 亜 細 亜 丸 ”で は 船 長( L )
を 減 じ て L / B を 6.72 と し 、 喫 水 ( d ) を
深 く し て 載 貨 重 量 を 確 保 し た 。 船 長 ( L)
減少による速力低下は艦艇で経験のある
球 形 船 首 ( Bulbous ・ B ow ) で カ バ ー し た 。
同時期の同規模の相生建造船に比較して
( 第 2 4 図 )“ 亜 細 亜 丸 ”
軽 貨 重 量 ( ≒ 船 殻 重 量 ) が 1,714T(約 13 %)軽 く な っ た 。( 第 5 表 ) 参 照 。
結 果 と し て 建 造コ ス ト は 3 % 程 度 安 く な っ た 。
常 識 破 り の 経 済的 短 身 肥 満 船 型( 六 岡 の 評 )は 世界 の 海 運・造 船 界 に 衝 撃
を 与 え 、 Keizai Senkei と か Shinto Senkei と か 称 さ れ て 、 爾 後 の 大 型 船 の
世 界 的 標 準 船 型 と な っ た 。( 現 在 の VL CC で は L / D は 5 ~ 5. 5 と な っ て い る )。
トップ営業
相 生 工 場 の フ ル 稼 働 と 同 時 に 、タ ン カ ー 大 型 化 に 対 応 す べ く 松 山 を 長 と す
る チ ー ム に 横 浜工 場 の 建 設 に 着 手 さ せ 、 真 藤 は 営業 の 陣 頭 指 揮 に 邁 進 し た 。
播磨造船時代の輸出船は商社経由の
ギ リ シ ャ 系 二 流船 主 が 主 で あ っ た が 、
海 外 を 飛 び 廻 り ト ッ プ 営 業 を 続 け 、欧 米
一 流 船 主 に 食 い込 ん だ 。
真 藤 の 武 器 は ① 経 済 船 型 、② 海 外 船 主
へ の Lud wig の 紹 介 、③ 該 博 な 船 の 知 識
と 概 算 見 積 能 力 、④ N B C で 鍛 え た 英 語
力 、⑤ 土 光 が 用 意 し た 2 0 0 億 円 の 軍 資
金 ( 船 主 へ の 建造 頭 金 融 資 用 ) 等 等 で
(第25図)
あった。
オ ナ シ ス と の 契約 式
22
世 界 の 海 運 界 で 著 名 な Ludwi g の 紹 介 で 、直 接 海 外 船 主 の ト ッ プ と 合 っ て
相 手 の ニ ー ズ を 聴 き 、真 藤 な り の 提 案 も 行 っ て 、新 造 船 の 概 略 仕 様 と 船 価 と
納期等を即断即決した。後日に基本設計と営業の要員を派遣して仕様書や
契 約 書 の 調 整 を 行 う 場 合 が 多 か っ た 。 IHI の 顧 客 は オ ナ シ ス や オ ラ イ オ ン 等
の 米 国 系 一 流 ギ リ シ ャ 船 主 、シ ェ ル 、シ ェ ブ ロ ン 等 の 石 油 メ ジ ャ ー 輸 送 部 門
へ と 拡 が り 、 NB C も 引 続 き 大 型 船 を 発 注 し た 。
大型タンカーの記録更新
日 本 経 済 の 高 度 成 長 に 伴 い( 第 2 6 図 )の 様 に 石 油 輸 入 量 は 昭 和 4 1 年 に
は1億Tを超え、翌年の第三次中東戦争勃発に伴うスエズ運河封鎖もあり、
タ ン カ ー の 大 型 化 は 加 速 し 、新 大 型 工 場 稼 動 の 態 勢 を 整 え た 日 本 の 造 船 会 社
に 注 文 が 殺 到 し、 昭 和 4 8 年 の 石 油 危 機 ま で第 三 次 輸 出 船 ブ ー ム と な っ た 。
( 第 2 7 図 )と( 第 6 表 )に タ ン カ ー 大 型 化 の 推 移 を 示 す が 、N B C・呉 、
IHI・横浜、IHI・呉(NBC呉+呉造船を昭和43年にIHIが合併)と
大型化のチャンピオン工場はドクター合理化・真藤の指揮下にあった。
( 第 2 7 図 ) タン カ ー 船 型 の 変 化
23
( 第 2 6図 ) 石 油 輸 入 量 推 移
横 浜 工 場 で は 昭 和 4 0 年 か ら 東 京 丸 ”( 153,685T)、“ 出 光 丸 ”( 209,413 T)
と 建 造 し 、 V L C C ( Ver y lar ge Cr ud eoil Car r ier ) 時 代 の 幕 開 け と な っ た 。
昭 和 4 1 年 ( 1966) シ ェ ル 石 油 は 真 藤 を 窓 口 と し て 206,679T の V L C C
1 1 隻 を 日 本 造船 所 に 発 注 し 、I H I 3 隻 、三 菱 3 隻 、日 立 3 隻 、川 重 2 隻
で 分 轄 、全 船 のタ ー ビ ン は 三 菱 、ボ イ ラ ー は I HI 、補 機 は 日 立 が 集 中 手 配
と し 、 安 値 受 注と の 非 難 に 曝 さ れ て い た 真 藤 も 業界 協 調 の 実 績 を 挙 げ た 。
N B C 発 注 の “Universe Irelamd” ( S 4 3 年 ) は 3 0 万 T を 超 え 、 新 し い
横浜の建造ドックの幅が不
足し、片舷を外して進水し
後日に完成した修理ドック
で 完 成 さ せ た 。( 第 2 8 図 )
タンカーの巨大化は真藤の
思惑をも超えて進行した。
ULCC ( Ult r a L ar ge C.C) と
称された30万T超の船は
マ ラ ッ カ 海 峡 を通 過 出 来 ず
ロ ン ボ ッ ク 航 路と な っ た 。
( 第 2 8 図 )“ Universe Irland”進 水 と 完 成
IHI・ 横 浜 工 場 は 真 藤 の 下 で 、 タ ン カ ー 大 型 化 の 尖 兵 と し て 活 躍 し た が 、
相 生 ( 船 殻 ) と 東 京 ( 艤 装 ) か ら 基 幹 要 因 を 抽 出 、大 部 分 は 新 規 採 用 の 作 業 員
の 寄 合 所 帯 で 内 紛 も あ り 、労 働 災 害 も 多 発 し て 関 係 者 の 苦 労 は 大 変 で あ っ た 。
真藤の初期計画は、予算百億円、稼動10年程度、15万Tタンカー建造、
工 場 建 設 工 期 2 年 間 と 、か な り 短 期 的 視 点 の も の で 、稼 動 後 の 設 備 手 直 し も
多 発 し た 。 社 内に は 真 藤 の 設 備 計 画 の セ ン ス を 疑問 視 す る 声 も あ っ た 。
そ の 後 タ ン カ ー 大 型 化 の チ ャ ン ピ オ ン は 大 型 ド ッ ク ( 5 10m 長 、 80m 幅 ) を
完 成 し た 呉 工 場に 移 り 、
“ Globtik Tokyo”
( 483,664T)、
“日精丸”
( 484,337T)
等 と 5 0 万 T ク ラ ス も 建 造 さ れ 、各 造 船 会 社 で 百 万 T ク ラ ス の 試 設 計 も さ れ
た が 、 操 船 性 や運 行 採 算 の 面 か ら 3 0 万 T 程 度 が経 済 的 限 度 と さ れ た 。
史 上 最 大 の タ ン カ ー は 香 港 船 主 C.Y.Tung の“ Seawise Giant”
( 564、763T)、
要 目 は 440.02x 6 8.8x 29.80(d24.61)で 、昭 和 5 4 年( 1979)に 住 重 追 浜 で
完成したが、タービン・ギヤーの
問題でギリシャ船主より引取拒否、
翌 年 香 港 船 主 の C.Y.Tung が 買 取
り 、 N K K 津 で8 0 m の 延 長 工 事
を実施し、ギネス・ブックに最大
の 船 と し て 登 録さ れ た 。
現在はカタールで貯蔵タンクとし
て 繋 留 さ れ て いる 。
( 第 2 9 図 )“ Seawise Giant”
24
9
F シ リ - ズ ( 量 産 型 標 準 船 )の 光 と 影
フリーダム型の大量建造
昭 和 4 0 年 に カ ナ ダ の 船 舶 工 務 店 G.T. R.Campbell と 共 同 で リ バ テ イ 型
戦 時 標 準 船 の 代 替 船 の 開 発 を 手 掛 け た 。戦 中 の ア メ リ カ で 1 0 0 0 隻 以 上 も
建 造 さ れ た リ バテ イ 船 も 船 齢 に 達 し 、 代 替 船 の 大量 需 要 が 見 込 ま れ た 。
フ リ ー ダ ム と 名 付 け ら れ た 多 目 的 標 準 貨 物 船 は 14,800DWT、 速 力 13.6kt
で 、 主 機 は 仏 SEMT 社 の 中 速 エ ン ジ ン
( 5 0 0 RP M ) を 搭 載 し 、 格 子 状 中 甲 板
で 、 木 材 、 機 械 類 、 自 動 車 、及 び 穀 類 や
石 炭 等 の バ ラ 積み 貨 物 に も 対 応 出 来 た 。
横浜工場の操業に伴い空洞化傾向の
東 京 工 場 で 、昭 和 4 2 年 か ら 連 続 建 造 を
開始した。
( 第 3 0 図 ) フ リー ダ ム 第 1 船
思 惑 通 り 受 注 は 順 調 で あ っ た が 、最 初 の 数 隻 は S E M T 主 機 関 の ト ラ ブ ル
( クラ ッ シ ュ ・ アス タ ー ン 不調 、
シ リ ン ダ・ラ イ ナ 焼 損 等 )で 難 航
し 、引 取 り 拒 否 に も あ っ た が 、
昭 和 4 6 年 2 月 迄に は 5 0 隻
を 完 成 ・ 納 入 した 。
年間18隻の建造ペースで
フリーダム連続建造を実施し
た東京工場での工数実績は、
30隻目で初船の50%水準
に 達 し て 採 算 は好 転 し た 。
(第21図)に工数低減曲線
を 示 す ( 工 数 絶 対 値 で は な い )。
フリーダムは名古屋工場や
JSL(シンガポール子会社)
にも投入、更には技術輸出し
たスペインのカデイス造船所
他でも建造、国内累計建造数
は124隻、海外を含めると
171隻が建造された。
( 第 3 1 図 ) フリ ー ダ ム 工 数 低 減 曲 線
25
F・シリーズ船のライン・アップ
フ リ ー ダ ム の 成功 を 見 て 、 コ ン テ ナ ー に 対 応 し た多 目 的 船フ オ ー チ ュ ン
( 昭 和 4 4 年 ) を 開 発 し て 東 京 工 場 へ 投 入 し た ( フ リ ー ダ ム は 名 古 屋 へ シ フ ト )。
引 続 き 標 準 バ ラ積 み 船フ ュ チ ャ ー 3 2 (昭 和 5 0年 )以 下 ( 第 7 表 ) の 様 な
ラ イ ン ・ ア ッ プが 完 成 し た 。
造船不況とF・シリ-ズ船の大量受注
合 併 会 社 I H I の 発 足 後 の 十 年 間 、造 船 部 門 は 全 社 の 売 上 の 4 0 % 、利 益
は 8 0 % を 占 め 、呉 造 船 の 合 併 ( 昭 和 4 4 年 )に よ り 全 社 の 建 造 量 は 世 界 一 に
達 し 、更 に 昭 和 4 6 年 に は 1 0 0 万 T ド ッ ク を 持 つ 知 多 工 場 の 建 設 に 着 手 し
た 。昭 和 4 7 年 に 好 調 な 造 船 部 門 を バ ッ ク に し て 真 藤 は 社 長 に 就 任 し た 。
し か し 昭 和 4 8 年 の 第 四 次 中 東 戦 争 勃 発 に 伴 う“ 石 油 危 機 ” に よ り 、 日 本
造 船 業 の 経 営 環 境 は 俄 か に 暗 転 し た 。( 第 3 2 図 ) 参 照 。
(第32図)
各国建造量推移
昭 和 5 0 年 、5 1 年 に か け て I H I で は 2 0 隻 の V L C C が キ ャ ン セ ル と
な り 、そ の 補 填 と し て F シ リ ー ズ 船 の 受 注 に 注 力 し 、昭 和 5 1 年 の 全 受 注 船
1 0 9 隻 の 内 でF シ リ ー ズ 船 が 1 0 1 隻 を 占 め る状 態 と な っ た 。
東京、横浜、愛知、相生、呉の造船5工場はFシリ-ズ船で埋まった。
各Fシリーズ船の建造実績は筆者の不勉強でフリーダム以外は未確認であ
る が 、 相 生 工 場の 建 造 時 実 績 を 含 め て ( 第 7 表 )と し た 。
26
バラ積み仕様のフユーチャー32は
比 較 的 大 型 で 、大 型 設 備 へ の 適 応 性 も あ
り、横浜、愛知、相生にも投入された。
Ve rsion・ up し た フ ュ ー チ ャ ー 3 2 A 型
( ズル ザ ー 主 機、 M ゼ ロ 化 、甲 板 ク レ ーン )
を含めて相生だけで38隻建造してお
り 、 全 社 で は 10 0 隻 に 及 ん だ か 。
( 第 3 3 図 ) フユ ー チ ャ ー 3 2 第 1 船
真藤社長退陣の引き金
昭和51年には海運造船合理化審議会が造船能力調整の答申案を決定し、
造 船 各 社 は 造 船 部 門 の 段 階 的 縮 小 を 開 始 し た 。I H I は 新 規 受 注 不 足 に 苦 し
む 他 社 を 尻 目 に F シ リ ー ズ 船 の 大 量 受 注 が 可 能 で 、強 気 を 貫 い て 造 船 部 門 の
縮 小 に は 消 極 的で あ っ た 。
F ・ シ リ ー ズ 船 は 円 建 て 契 約 で あ っ た が 、 船 主 は Campbell と の 関 係 も あ
っ て 中 小 の ギ リ シ ャ 船 主 が 大 半 で 、低 迷 す る 海 運 市 況 と 進 行 す る 円 高 傾 向( 昭
和 5 3 年 に 2 0 0 円 / $ を 突 破 )に 耐 え ら れ ず に キ ャ ン セ ル が 相 次 い で 、各 工 場
の 艤 装 岸 壁 は 引渡 し の 目 途 の な い 船 で 溢 れ る 様 な情 勢 と な っ た 。
昭 和 5 2 年 に 造 船 工 業 会 会 長 に 就 任 し た 真 藤 は 、運 輸 省 勧 告 に 従 っ た 各 社
の 設 備 削 減 4 0 % の 調 整 に 奔 走 し 、強 力 な リ ー ダ ー シ ッ プ を 発 揮 し た が 、本
人 は「 設 備 削 減 の 様 な こ と は 不 得 意 だ 、 俺 に は 向 か な い 」 と ぼ や い て い た 。
昭 和 5 3 年 の I H I 中 間 決 算 は 実 質 1 3 5 億 円 の 赤 字 、来 年 度 は 更 に 悪 化
の 見 通 し と 発 表 し 緊 急 総 合 経 営 対 策 を 提 示 し た が 、処 置 が 遅 れ た だ け に 症 状
は 他 社 よ り も 悪 か っ た 。 そ れ に 伴 う 希 望 退 職 で 4,610 名 ( 全 従 業 員 の 1 3 % )
が退職し、横浜、知多の造船工場を閉鎖した。大型ドックの呉はともかく、
東京や相生の古い造船所を残して新鋭工場を廃止した真藤の判断には反論
も 多 く 、 数 年 後ま で 後 遺 症 ( 昭 和6 1 年 の 相生 閉 鎖 、 平 成1 1 年 の 東京 よ り 横 浜
へ の 移 転 )が 残 り 経 営 に 悪 影 響 を 及 ぼ し た 。 熟 練 度 や 品 質 面 で の 古 い 工 場 の
優 位 性 も 事 実 だ が 、“ 情 の 人 ” 真 藤 は 明 治 以 来 地 元 に 密 着 し て き た 造 船 所 の
閉鎖を選べなかったのであろう。
IHI内では田口連三会長や稲葉興作副社長その他旧石川島系の役員を
中 心 に 真 藤 の 責 任 を 問 う 動 き が 起 こ り 、翌 年 6 月 の 株 主 総 会 で 真 藤 は 退 陣 し
た 。後 任 は 銀 行 筋 と の 関 連 も 考 慮 し イ シ ブ ラ ス 副 社 長 生 方 泰 二 ( 経 理 専 門 )が
就任した。本意ではなかった真藤は田口会長に同時退任を迫り紛糾したが、
土 光 の 調 停 で 両 者 と も 相 談 役 就 任 で 落 着 い た 。合 併 会 社 ら し い 見 苦 し い 結 末
で は あ っ た 。土 光 、 田 口 、 真 藤 と 三 代 の 猛 烈 ・ ワ ン マ ン 経 営 者 の 下 で 野 武 士
集 団 と も 評 さ れ た 積 極 的・攻 撃 的 な 社 風 は 、真 藤 の 退 陣 と と も に 影 を 潜 め て 、
良く言えば堅実経営、悪く言えば消極的な社風に変わった。
27
コラム4
ジャリ・プロジェクト
N B C の L ud wig は 海 運 の 新 し い ニ ー ズ 発 掘 の 為 の 新 規 プ ロ ジ ェ ク ト を 計 画 し 、
N BC ・ 呉 造 船部 に 各 種 の専 用 船 を 造 らせ て い た 。新 規 開 発 した メ キ シ の大 塩 田 か
ら 塩 を 運 ぶ 専 用 船 ( セ ル フ ・ ア ン ロ ー ダ ー 付 )、 ベ ネ ズ エ ラ の オ リ ノ コ 川 上 流 で 鉄 鉱 石
を 発 掘 し 、専 用 の 浚 渫 船 や 浅 水 深 専 用 の 鉱 石 運 搬 船 ( 浅 喫 水 、 ニ 軸 プ ロ ペ ラ )、更 に は
牛運送船等々であったが、真藤技術部長のアイデイアは
L ud wig の 期 待 に 十 分 応 え 得 て 、 揺 ぎ 無 い 信 頼 を 得 て い た 。
L udwig は ア マ ゾ ン 川 支 流 の ジ ャ リ 川 流 域 の ジ ャ ン グ ル
を 購入 し て パ ルプ 用 の 樹 木を 植 林 し て いた が 、 電 力も 輸 送 路
も 無い 奥 地 で のパ ル プ 工 場建 設 に 行 詰 り、 I H I 社長 の 真 藤
に 相談 し た 。 真藤 案 は 造 船所 で パ ル プ 工場 と 発 電 所を 台 船 上
に 建設 し て 現 地に 曳 航 す る、 現 地 で 掘 った 掘 割 に 引き 入 れ て
杭 上に 着 底 さ せた 後 に 排 水す る 造 船 屋 らし い 発 想 で、 社 内 で
はジ ャ リ ・ プ ロ ジ ェ ク ト( U ・ プ ロ ) と称し た 。
昭 和5 3 年 に 呉工 場 で 完 成し たパ ル プ ・
ラ ン ト 台 船 ( 2 30m 長 、 重 量 29 ,000T ) と
発 電 プ ラ ン ト 台 船( 220m 長 、重 量 30,0 00T )
は 、3 ケ 月 で イ ン ド 洋 ・喜 望 峰・大 西 洋 を 曳 航
さ れて 現 地 に 到着 し 、 翌 年 に 操 業 開 始 し た 。
操 業に 伴 っ て 飛行 場 や 街 (人 口 1 万 人 )が
整 備さ れ た 。
イ シブ ラ ス ( 石川 島 ブ ラ ジル ) が 定 期点 検
を 受持 ち 、 筆 者も 二 度 ジ ャリ の パ ル プ 工場 を
訪 れた 。
( 写真 上 よ り 、 呉 工 場 艤 装岸 壁 の 2 隻、
発 電台 船 曳 航 中、 現 地 で の操 業 開 始 )
28
10
経営者真藤の挫折
ワンマン経営の弱点
従 業 員 37,000 名 の 総 合 重 工 業 と な っ た I H I は 7 事 業 本 部 と 関 連 会 社 で
工 場 は 全 国 に 散 在 し て 製 品 は 多 岐 に 亘 り 、複 数 の 企 業 の 合 併 会 社 で も あ っ た 。
船 舶 以 外 の 陸 上 機 種 部 門 の 競 争 力 は 弱 く 、人 材 も 不 足 し て い た 。真 藤 は 造 船
関 連 の 幹 部 を 陸 機 部 門 に 注 入 し て 強 化 を 図 っ た が 、陸 機 部 門 は 石 川 島 出 身 者
の 牙 城 で 抵 抗 感も あ り 、 十 分 に は 掌 握 出 来 な か った 。
最 大 の 問 題 は プ ラ ン ト 部 門 で あ っ た 。石 油 危 機 後 に 中 東 諸 国 の 工 事 案 件 が
増 加 し 、淡 水 化 、セ メ ン ト 、L N G 、発 電 等 と 多 く の プ ラ ン ト を 受 注 し た が 、
現 地 工 事 の 見 積能 力 や 施 工 管 理 能 力 に 欠 け 、 殆 どが 赤 字 工 事 と な っ た 。
真 藤 は プ ラ ン ト 事 業 強 化 に 横 田 専 務 を 送 り 込 ん だ 。横 田 は 相 生 船 殻 部 長 か
ら 横 浜 工 場 長 、船 舶 事 業 部 長 を 経 て お り 、真 藤 は 後 継 者 と 考 え て い た 様 だ が 、
プラント事業再生に成功しなかった横田は副社長昇進の芽を摘まれた結果
と な っ た 。横 田 は 慎 重 論 者 で あ っ た が 、営 業 部 門 が 横 田 を バ イ パ ス し て 強 気
の 真 藤 社 長 と コン タ ク ト し て 大 型 案 件 を 受 注 し て失 敗 す る 場 面 も 目 立 っ た 。
N B C 呉 や 相 生 工 場 で は 価 値 観 が 似 た 造 船 屋 の 小 集 団 で 、真 藤 発 の 強 力 な
磁 場 に 各 員 が 反 応 し て 成 果 が 出 た が 、大 規 模 な 寄 合 所 帯 で は 営 業 ・ 設 計 ・ 製
造の全てを掌握する真藤流を各事業部に浸透させるのは無理であった。
電電公社とリクルート事件
昭 和 5 6 年 、7 1 歳 の 真 藤 は 第 二 臨 調 会 長 の 土 光 の 要 請 で 電 電 公 社 総 裁 に
就 任 し ( 呉 時 代 か ら 旧 知 の 宮 沢 喜 一 幹 事 長 や 興 銀 の 中 山 素 平 の 推 挽 も あ っ た )、 4 年
後 に は 民 営 化 され た N T T の 初 代 社 長 、 昭 和 6 3年 に は 会 長 に 就 任 し た 。
筆 者 は 電 電 公 社 や N T T で の 真 藤 の 業 績 を 述 べ る 知 識 は 無 い が 、単 身 乗 り
込 ん だ 大 組 織 の 改 革 と 民 営 化 に 断 固 と し て 取 組 ん だ 様 で あ る 。公 社 や N T T
の 経 営 に は「 政 治 の 介 入 を 排 除 す る 」 と 宣 言 し 、昭 和 5 8 年 の 冬 季 ボ ー ナ ス
支 給 日 を 巡 っ て後 藤 田 官 房 長 官 と 大 喧 嘩 を し た 事件 は 有 名 で あ る 。
昭 和 6 3 年 6 月 に 発 覚 し た リ ク ル ー ト 事 件( リ ク ル ー ト・コ ス モ ス の 未 公 開 株
を 政 界 人 や 財 界 人 へ 贈 与 し た 事 件 )に 真 藤 も 連 座 し た 。大 物 政 治 家 へ の 波 及 を 怖
れ た 真 藤 は 最 初 否 定 し て い た が 、秘 書 が 受 取 っ た 未 公 開 株 の 売 却 益 の 一 部 9
0 0 万 円 が 真 藤の 個 人 名 義 口 座 に 振 込 ま れ て い た事 実 が 露 見 し た 。
真 藤 は I H I や 造 船 工 業 会 関 連 等 と 、現 職 の N T T に は 無 関 係 の 慶 弔 費 が
嵩 む と 零 し て い た が ( 本 人 談 )、N T T 社 長 の 座 を 巡 っ て 電 電 プ ロ パ ー の 北 原
安 定 と の 政 争 の 軍 資 金 も 必 要 と し た か 。真 藤 は 一 滴 の 酒 も 飲 め ず 、私 生 活 は
質 素 、「 私 腹 を 肥 や し て い な い の で 問 題 は 無 い 」 と 思 っ て い た が 、 準 公 務 員
の 立 場 で は 許 され ず 、 N T T の 内 外 や 労 組 か ら も惜 し ま れ つ つ 退 任 し た 。
起 訴 さ れ た 真 藤は 平 成 6 年 に 懲 役 2 年 、 執 行 猶 予3 年 の 刑 で 結 審 し た 。
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所感
以 上 、真 藤 の 学 生 時 代 か ら 晩 年 に 到 る 技 術 者 や 経 営 者 と し て の 生 涯 を 眺 め
て 来 た が 、 筆 者な り の 所 感 を 思 い 付 く 儘 に 述 べ る。
①
真藤の飛躍は播磨造船・相生の出世コースから疎外された怒りがバネ
の 一 つ と な っ てい た 。
② 職 務 上 で 遭 遇 した 有 力 者 の 知 遇 を 得 て 、 そ の 見 識や 人 脈 を 吸 収 し た 。
海軍の西島からは造船現場の管理方式と海軍人脈を、NBC社長の
Ludwig か ら は 合 理 主 義 と 世 界 海 運 界 の 人 脈 を 、 石 川 島 の 土 光 か ら は
猛 烈 性 や 清 貧 性 と 財 界 人 脈 を 受 継 ぎ 、自 己 発 展 の エ ネ ル ギ ー 源 と し た 。
③ 真藤が戦後の造船界で適切なタイミングで活躍出来たのには、多くの
偶然に支配されている。東大受験失敗、大学造船科選択、播磨入社の
選 択 、横 尾 の 女 婿 に な ら な か っ た 、海 軍 出 向 、甘 利 海 運 局 長 の We lding
Shipyard 訪 問 、 Ludwi g と の 遭 遇 、 土 光 の 知 遇 等 々 で 、 何 れ か 一 つ の
選択肢が偶然に裏目に出ていれば真藤の造船業でのタイミングな活躍
は無く、日本及び世界の造船界や海運界の様相は現在と異なっていた
可 能 性 が 大 き い。
④ 真 藤 は 強 気 の 積 極 的 経 営 を 得 意 と し 、撤 退 作 戦 に は 向 い て い な か っ た 。
ウ エ ッ ト な 人 情家 で も あ り 人 員 削 減 や 設 備 削 減 には 齟 齬 も あ っ た 。
⑤ NBC・呉で現有設備での生産性の飛躍的向の経験からか、建造手段
と し て の 造 船 設備 の 具 体 的 内 容 に 就 い て は 比 較 的無 関 心 で あ っ た 。
「 設 計 に 始 ま り 設 計 に 終 わ る 」の 言 の 様 に ソ フ ト 面 重 視 の 思 想 で あ っ た 。
⑥ 「 造 船 の 仕 事 は 発 展 途 上 国 に 移 っ て い く の が 必 然 」と 思 っ て い た 様 で
N T T 退職 後 の 晩 年 に は 請 わ れ る ま ま に 韓国 や ア ジ ア の 造 船 所 を 訪
れ 技 術 的 な ア ド バ イ ス を し て い た 。「 俺 は 一 生 か け て 船 舶 な る 商 品 を
誰にでも造れる付加価値の低い商品に変えてしまったのだろうか」
と の 慨 嘆 も あ っ た様 に 思 わ れ る 。
社内での評価は一般的には良かったが、幹部には
神様の様に奉って「御無理御尤も」の人、虎の威を
借 る 人 、蛇 蝎 の 様 に 嫌 う 人 等 々 と 、人 様 々 で あ っ た 。
年代の異なる筆者は直接に指示を受けたり、叱責
される機会は多くなかったが、学生時代の講義や呉
での夏季実習、IHI時代、イシブラス時代、AM
TEC時代に及ぶ長期間に亘って、時々の淡い接触
ではあったが、常に暖かく見守って頂いた様な懐か
しいドクター・合理化である。
31
( 第 34 図 ) 真 藤 恒
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