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日本における黎明期の精神分析 - 福島大学学術機関リポジトリ
11 日本における黎明期の精神分析 日本における黎明期の精神分析 ―大槻憲二と古澤平作の貢献― 中 野 明 德* 精神分析の日本への導入は心理学者の手によるものが最初で,医学者の関心は遅く,両派の対立 も見られた。精神分析が,今日のようにまだ一般には知られない頃,日本にどのように導入されて きたのかを明らかにするために,心理系の大槻憲二と医学系の古澤平作の2人の貢献を取り上げた。 精神分析に対する2人の関心は異なり,大槻はフロイトの翻訳,雑誌「精神分析」の刊行,文学や 日本民族の心理分析に力を尽くし,古澤は治療法を研究した。大槻は戦前, 啓蒙活動に貢献したが, 古澤が戦後に設立した「精神分析学会」に参加することなく,在野にとどまり彼の役割を終えたと いえよう。日本における臨床学としての精神分析学の定着は古澤の貢献である。ウィーンに留学し てフロイトに「阿闍世コンプレックス」の論文を提出した古澤は,フロイトに忠実であろうとして 自由連想法を探求した。しかし日本における経済的条件では毎日分析は不可能であり,通常週1回 であった。今日の日本的精神分析は週1回対面法であり,自由連想法は普及していない。土居健郎 の面接法はまさに自由連想法に代わるものであり,日本的精神分析の貴重な遺産である。 【キーワード】大槻憲二 古澤平作 阿闍世コンプレックス 自由連想法 日本的精神分析 Ⅰ.はじめに -フロイトと交流した日本人- 義し,力動精神病理学を発展させた。森田正馬との論 争は学会史に残る。1933年に欧州各国へ出張を命ぜら れ,フロイトと会い,国際精神分析協会の仙台支部成 フロイトが創始した精神分析は,どのように日本に 立の許可を得る。1948年弘前医科大長,弟子に古澤平 導入されたのであろうか。北山(2011)は,フロイト 作,山村道雄,懸田克躬らがいる。 と直接文通した日本人として次の4人の日本人をあげ ③大槻憲二(1891-1977)は文芸評論家で,在野の る。安齊(2000) ,妙木ら(2004)も参考にして,そ 精神分析学研究者である。彼は兵庫県洲本市に生ま の略歴を紹介しよう。 れ,東京美術学校洋画科に入学するが,2年余りで退 ①心理学者の矢部八重吉(1874-1945)は,日本で 学。1918年に早稲田大学文学部英文科を卒業し,鉄道 最初に国際資格をとった精神分析家である。彼は栃木 省運輸局に勤務して,矢部八重吉と出会い精神分析に 県生まれ,1890年米国に渡り高校を卒業し,1898年カ 関心をもつ。1924年鉄道省を退職して文筆活動に入り, リフォルニア大学に入学して一般心理学,実験心理学 1928年に矢部八重吉,長谷川誠也らと東京精神分析研 を学ぶ。1901年イエール大学に進むが翌年退校。1905 究所を創設する。1929年から33年まで「フロイト精神 年帰国後,日本の労働省で労働心理学を研究し,1930 分析学全集」(春陽堂)の翻訳に当たった。1933年に 年鉄道省国費留学生として,英国ロンドンでエドワー 雑誌「精神分析」を創刊したが,第二次世界大戦のた ド・グラヴァーから20回の教育分析を受け,ロンドン めに1943年に休刊。この雑誌は戦後1952年に復刊され, でアーネスト・ジョーンズから臨床講義を受けて,国 大槻が亡くなる1977年まで続いた。彼は元々臨床家で 際精神分析協会(IPA)の精神分析家の資格を取得し はなかったが,外国の研究者と交流し,多数の著作を た。国際協会の支部として日本精神分析学会を組織す 残した。 ると同時に,品川に精神分析の診療所を設けて実践し ④古澤平作(1897-1968)は精神科医,精神分析家 た。 である。彼は神奈川県厚木で生まれ,二高入学ととも ②丸井清泰(1886-1953)は,元東北帝国大学医学 に仏教同門会に入り,卒業直後に白内障を患い右眼を 部精神病学講座教授である。彼は神戸市出身,1913年 失明した。1926年に東北帝国大学医学部を卒業し,精 東京帝国大学医科大学医学科卒業,1915年東北帝国大 神医学教室の丸井清泰教授に師事,1931年に同教室助 学医科大学講師に就任, 1916年から2年半米国ジョン・ 教授となった。1932年から33年にかけてウィーンに留 ホプキンス大学のマイヤー教授の下に留学,1919年に 学しフロイトに「阿闍世(あじゃせ)コンプレックス」 帰国して教授に就任して医学部学生に精神分析学を講 の論文を提出,ステルバより教育分析,フェダーンよ * 福島大学総合教育研究センター・教育相談部門 12 福島大学総合教育研究センター紀要第18号 りスーパーヴィジョンを受ける。帰国後,1934年から 没するまで東京で精神分析診療所を開業,1955年日本 2015- 1 1929 S4 ࣇࣟࢺ⢭⚄ศᯒᏛ㞟ࡢฟ∧ࡀ㛤ጞ 1930 S5 ▮㒊ඵ㔜ྜྷ㸪⢭⚄ศᯒᐙࡢ㈨᱁ࢆྲྀᚓ㸪 精神分析学会を設立,57年まで会長,59年からは名誉 ᅜ㝿⢭⚄ศᯒ༠ࡢᨭ㒊ࡋ࡚᪥ᮏ ⢭ 会長となった。同時に国際精神分析協会日本支部(日 ⚄ศᯒᏛࢆ⤌⧊ 本精神分析協会) の支部長を務めた。著作は少ないが, 1932 S7 土居健郎,西園昌久,前田重治,武田専,小此木啓吾 ࣥࣉࣞࢵࢡࢫࠖࡢㄽᩥࢆᥦฟ 1933 らの弟子を育てた。 ྂ⃝ᖹస㸪ࣇࣟࢺぢࡋࠕ㜿㜒ୡࢥ S8 ΎὈ㸪ࣇࣟࢺ࠸ᅜ㝿⢭⚄ศᯒ 以上4人のうち,丸井と古澤は精神科医であり,矢 ༠ࡢྎᨭ㒊タ❧ࡢチྍࢆᚓࡿ 部と大槻は非医師,心理学者である。フロイトと日本 ᵳ᠇ࡽ㸪㞧ㄅࠕ⢭⚄ศᯒࠖࢆห㸦㹼 1941 ᖺࡲ࡛㸧 人との書簡をみると(北山,2011) ,古澤からフロイ トへの最初の書簡は1925年のことで,古澤はウィーン に行きフロイトに会いたい旨を書いている。1927年に は丸井がフロイトの著作の翻訳の許可を得ようとし た書簡に対して,フロイトからの許可の返事がある。 丸井と古澤は矢部よりも早くフロイトと接触したが, 矢部は1929年に教育分析を受けるためにIPAと連絡を 取って,1930年に国際資格を取得し, 「日本精神分析 学会」を設立した。ここから,丸井たちの医学系と矢 部たちの心理系の対立が生じた。1931年丸井はフロイ <精神分析技法の研究時期> 1934 S9 1948 S23 ᵳ᠇ࠗ⢭⚄ศᯒᏛᴫㄽ࠘ 1949 S24 ྂ⃝ᖹస㸪ࠕ⢭⚄ศᯒ◊✲ࠖタ❧ 1952 S27 㞧ㄅࠕ⢭⚄ศᯒࠖห㸦㹼1977 ᖺ㸧 1955 S30 ྂ⃝ᖹస㸪ࠕ᪥ᮏ⢭⚄ศᯒᏛࠖタ❧㸪 ྂ⃝ᖹస㸪ᮾி࡛⢭⚄ศᯒデ⒪ᡤ㛤タ ྠᏛ㛗 Ⅱ.精神分析学説の紹介時期 トに自分の業績を述べて,IPAの会員になることを望 んでいる旨の手紙を書いている。この返事としてフロ 先に述べた4人のパイオニアの以前に,どのような イトは,接触の中断があったことを残念に思うこと, 精神分析的研究がなされていたのかを簡単にふれてお 矢部はすでに学会から受け入れられているので,仙台 こう。北見(1956)は戦前における日本の精神分析学 に1つの団体を創設し,矢部の団体と1つの共通の組 を「精神分析学説の紹介期」(大正元年~昭和4年) 織の中で連携することを提案している。しかし,すぐ と「精神分析の研究及び普及期」 (昭和5年~昭和20年) には統一されず,フロイトの翻訳も別個に行われた。 とに分けているが,前述したように,1930(昭和5) 日本における精神分析の黎明期に,心理系グループ 年は矢部が国際資格を取得した年である。また,大槻 と医学系グループの対立があったというべきであろ 憲二(1948)は, 『精神分析学概論』の中で,この時 う。本論文は表1に示したように,日本の精神分析が 期を「我が国に於ける研究前史」として紹介している。 黎明期にどのように発展してきたかを知ろうとするも ここでは,1912(大正元)年から大槻・矢部らが東京 ので,そのために心理系の大槻と医学系の古澤の2人 精神分析研究所を設立した1928(昭和3)年までにど の貢献を取り上げる。 のような精神分析学説が紹介されたのかを見ていく。 表1.日本における精神分析発展史(黎明期) すᬺ ᖺྕ ฟ᮶ <精神分析学説の紹介時期> 1912 T㸯 ᵳᛌᑛࠕ≀ᛀࢀࡢᚰ⌮ࠖࠕࡸࡾᦆ࡞ࡦ ࡢᚰ⌮ࠖ ࠕࡸࡾᦆ࡞ࡦࡢᐇࠖ㸪ᮌᮧஂ୍ ࠕ⢭⚄ศᯒἲࡢヰࠖࠕ⛎ᐦほ◚ἲᢚᅽ ほᛕ᥈⣴ἲࠖ 1913 T2 1914 T3 1919 1928 T8 S3 精神分析学を最初に日本に紹介したのは心理学者で ある。1912(大正元)年1月に「心理研究」という雑 誌が創刊され,同年に大槻快尊(東大心理学科出身) の「もの忘れの心理」 (4月), 「やり損なひの心理」 (7 月),「やり損なひの実例」(11月),木村久一(東大心 理学科出身)の「精神分析法の話」 (8月) ,「秘密観 破法と抑圧観念探索法」 (9月)の論文が発表されて ᵳᛌᑛࠕᛀ༷ᢚᅽస⏝ࠖ㸪ᮌᮧࠕ いる。大槻は錯誤行為が自覚されていない原因をもっ ᛌࡢᛀ༷ࠖ ていることをフロイトの実例をもとに説明し,1913年 ୖ㔝㝧୍ࠕክᛶ៣Ꮚ౪ࠖࠕࣇࣟࢻ に「忘却と抑圧作用」 (1月)として展開している。 ࡢክࡢㄝ㸦ୖ㸪ୗ㸧ࠖ ࠕ⢭⚄ศᯒἲࡢ㉳※ࠖ 木村は他人の心を科学的に探る方法を「精神分析法」 ஂಖⰋⱥࠕ⢭⚄ศᯒࠖ と定義し,抑圧観念を「不快な経験が圧塞されて,精 ᴬಖ୕㑻ࠗᛶ៣◊✲⢭⚄ศᯒ࠘ 神のどこかに埋没されていて閾下意識的に活動して絶 ΎὈ㸪࣓ࣜ࢝ࡼࡾᖐᮅࡋ㸪ᮾᖇ えず当人に障碍を与える観念」とした。抑圧観念探索 ᩍᤵ 法として最もよいのは連想診断法で,それには2種あ <精神分析の普及啓蒙時期> り,ユングの「統計法」とフロイトの「連続法」を紹 ᵳ᠇㸪▮㒊ඵ㔜ྜྷࡽᮾி⢭⚄ศᯒ◊ 介している。当時はヴント流の心理学が支配している ✲ᡤタ 時代であった。1914年の同誌に上野陽一(「心理研究」 日本における黎明期の精神分析 13 編集者,能率短期大学長)が「夢と性慾と子供」 (8 リビドー生活は自我の意向を無視して超自我と馴れあ 月) , 「フロイドの夢の説(上) 」 (9月) , 「フロイドの い,甚だしくナルチスティッシュな恋愛者になり,恋 夢の説(下) 」 (10月) , 「精神分析法の起源」 (10月) 愛,友情,先輩との折衝においても,常に自分の超自 の論文を発表している。また,上野は心理学概論書で 我を相手に投出して,相手を買いかぶり,やがて現実 ある『心理学通義』 (1914)の中で,数カ所で精神分 の真相を知っては失望を繰り返した」という。 析学に言及し「自我の障碍」に触れている。初めての 大槻は早稲田大学に行っても将来の方向は見つから 精神分析の単行本は久保良英(広島文理大教授)の『精 ず,文学者としての芽はいくつか出たものの,精神分 神分析』 (1917)で,彼はアメリカのスタンリー・ホー 析を発見するまでには,自分が素質的に心理学者であ ルからフロイト学説を学んだ。 ることについて全然自覚がなかったという。早稲田卒 以上は心理学者の業績であるが,医学者で精神分析 業と同時に父が70歳で死去,大槻は鉄道省運輸局旅客 学へ接触した最初の人は諸岡存(福岡医大)で,同人 課に就職し,英文と邦文の旅行案内を編集した。この 雑誌「エニグマ」 (1913)で「未婚婦人の夢」 「源氏物 鉄道省で矢部八重吉と知り合い,精神分析に関心を抱 語の精神分析」を発表している。医学の専門の立場か き始めた。また,長谷川誠也を中心とする文化研究会 らの成書は榊保三郎(九州帝大教授)の『性慾研究と にも加わり,文芸評論を行い,小説家の道を断念した。 精神分析』(1919)であり,性欲と道徳との密接な関 大槻は1924年に関口岐美と結婚,神経症を克服して文 係が説明されている。このように当時の精神分析は, 芸評論家として活動する。大槻の農民文学論は,労働 心理学者が無意識の心理学説として輸入したこともあ 詩人のウィリアム・モリスから出発して,芸術主義的 り,治療的技法としての関心がまだ薄い。精神分析が 傾向が強く,当時盛んになりつつあったマルクス主義 治療技法として取り上げられるようになったのは,丸 には批判的であった。しかし,マルクス主義について 井清泰が1919年にアメリカから帰朝して,精神分析学 の大槻の勉強不足と無理解を暴露することで終わり, を基調とする精神病学を開講したことに始まる。 農民文学者として大槻は1928年の時点で行き詰まり, Ⅲ.精神分析の普及啓蒙時期 -大槻憲二の貢献- そこで目をつけたのが精神分析であった。 1.フロイト著作の翻訳 北見(1956)によれば,フロイト著作の翻訳が初め 大槻憲二は1928年に矢部八重吉,長谷川誠也ととも て単行本として出版されたのが安田徳太郎(京都大医 に「東京精神分析学研究所」を設立し,精神分析の普 学部)の『精神分析入門(上) 』(1926)であり,次い 及啓蒙活動を行った。フロイト著作の翻訳から始ま で吉岡永美の『トーテムとタブー』がある。フロイト り,大槻が42歳の1933年に雑誌「精神分析」が発行さ 全集の出版には,春陽堂版とアルス版の2種が出現し れた。大槻は研究所の所長として大きな役割を果たし た。春陽堂版の翻訳は表2のように,大槻がほとんど たが,今日の精神分析家の間でもその存在が知られて 独力で成し遂げ,他方,アルス版は表3のように丸井 いない。そこで, 「精神分析」創刊までの大槻の半生 や安田ら,医者やドイツ語学者らの専門家でなされた。 をもう少し詳しくみていこう(曽根,2008) 。 大槻は淡路島の洲本で裁判所の判事の次男として生 まれ,生後1年で神戸に移り,神戸中学校(現・神戸 高等学校)を卒業。1910(明治43)年に上京し,翌年 東京美術学校予備科西洋画学科に入学し,日本画科に 表2.フロイド精神分析学全集(春陽堂版) 㸯㸬ᵳ᠇ヂࠕክࡢト㔘ࠖ(1929) 㸰㸬ᵳ᠇ヂࠕ᪥ᖖ⏕άࡢ⢭⚄ศᯒࠖ(1930) 㸱㸬㛗㇂ᕝㄔஓ࣭ᵳ᠇ヂࠕ♫㸪᐀ᩍ㸪ᩥ᫂ࠖ㸦1931㸧 㸦1930㸧 㸲㸬ᑞ㤿ヂࠕᛌᛌཎ๎ࢆ㉸࠼࡚㸪ᙉ㏕⚄⤒ࠖ 進んだ田中恭吉らと新しい芸術表現を探求した。大槻 㸳㸬▮㒊ඵ㔜ྜྷヂࠕᛶ៣ㄽ㸪⚗ไㄽࠖ(1931) は全国から集まった秀才の中で到底自分が彼らと競争 㸴㸬ᵳ᠇ヂࠕศᯒⱁ⾡ㄽࠖ(1931) できないと知り,自分の才能は実技よりも理論的考察 㸵㸬▮㒊ඵ㔜ྜྷ࣭ᑞ㤿ヂࠕࢺ࣮ࢸ࣒ࢱࣈ࢘㸪⮬ ᡃ にあると悟った。そこで,1914(大正3)年に東京美 術学校を中退し,早稲田大学文学科予科に入学し, 1916年同本科(英文科)に進んだ。ここでロンドンに 滞在経験のある長谷川天渓(本名・長谷川誠也)から ࢚ࢫࠖ㸦1932㸧 㸶㸬ᵳ᠇ヂࠕศᯒ⒪ἲㄽࠖ (1932) 㸷㸬ᵳ᠇ヂࠕศᯒᜊឡㄽࠖ (1932) 10㸬ᵳ᠇ヂࠕ⢭⚄ศᯒ⥲ㄽ ࠖ(1933) 精神分析に触れた。大槻は33,4歳まで神経症に悩ん だという。彼の自己分析によれば, 「幼児期からお坊 2.雑誌「精神分析」の発行 ちゃん育ちで,自我は軟弱で現実感覚に乏しく,しか 大槻(1933)は,雑誌「精神分析」の創刊の辞の中で, も素質的に超自我は徒に高く,かつ身体は比較的強健 わが国への精神分析の紹介は医家でもなく哲学者でも であったために,神経症にも拘わらずエスも旺盛で, なく,心理学者が最初であるとし,当時の下田光造, 精神全体のバランスがとれていなかった。こうして 森田正馬のような医学者の精神分析に対する無理解を 14 福島大学総合教育研究センター紀要第18号 表3.フロイド精神分析大系(アルス版) 2015- 1 で身投救助(又は一般的な困難な常態からの救助)と 㸯㸬Ᏻ⏣ᚨኴ㑻ヂࠕࣄࢫࢸ࣮ࣜࠖ(1930) 恋愛の成立には必然的な関係が存在していることを指 㸰㸬᪂㛵Ⰻ୕ヂࠕክุ᩿㸦ୖ㸧ࠖ(1930) 摘し,フロイトの救助空想論で説明する(大槻がフロ 㸱㸬᪂㛵Ⰻ୕ヂࠕክุ᩿㸦ୗ㸧ࠖ㸦1933㸧 イトの出典を明示していないのは論文として公平さに 㸲㸬ΎὈヂࠕ᪥ᖖ⏕άࡢ␗ᖖᚰ⌮ ࠖ㸦1930㸧 欠けるが,1910年の「『愛情生活の心理学』への諸寄与」 㸳㸬ࠕᜊឡ⏕άࡢᚰ⌮ࠖ㸦ᮍห㸧 であろう)。フロイトの救助論は,母が子どもに命を 㸴㸬ஂಖⰋⱥヂࠕᛌឤཎ๎ࡢᙼᓊࠖ㸦1930㸧 贈ったというコンプレックッスを起こし,そこから幼 㸵㸬Ᏻ⏣ᚨኴ㑻ヂࠕ⢭⚄ศᯒධ㛛㸦ୖ 㸧ࠖ㸦1929㸧 児的な恩返しという無意識が存在するというものであ 㸶㸬Ᏻ⏣ᚨኴ㑻ヂࠕ⢭⚄ศᯒධ㛛㸦ୗ 㸧ࠖ㸦1929㸧 㸷㸬ṇᮌዴୣヂࠕὗⴠࡢ⢭⚄ศᯒ ࠖ㸦1930㸧 10㸬⠛⏣ⱥ㞝࣭℈㔝ಟヂࠕⱁ⾡ࡢศᯒ ࠖ㸦1933㸧 11㸬㛵ᰤྜྷヂࠕࢺ࣮ࢸ࣒ࢱࣈ࢘ࠖ㸦1930㸧 12㸬ᮌᮧㅽ࣭ෆ⸨ዲᩥヂࠕᗁࡢᮍ᮶ ࠖ㸦1932㸧 13㸬ᯘ㧛ヂࠕ㉸ព㆑ᚰ⌮Ꮫࠖ㸦1932㸧 14㸬⳥ụᰤ୍࣭▼୰㇟ヂࠕᡓதṚࡢ⢭⚄ศᯒࠖ 㸦1932㸧 る。大槻は,男の救助願望が恩返しとしての調を帯び, 女のそれは恩与えとしての動機にでるという。大槻は 文芸作品がしばしば作者自身の二重人格的葛藤の所産 であると共に,読者に二重人格的な興味と矛盾の感激 を誘発すると認識した。こうして大槻は無意識心理を 駆使した文芸評論の道を切り開いた。 表4.雑誌「精神分析」の特集(戦前) 15㸬ᯘ㧛࣭ᑠ༑ᑍ✑ヂࠕ␗ᖖᛶ៣ࡢศᯒ ࠖ㸦1933㸧 批判している他に,安田徳太郎や中村古峡に対しても 無自信が見られるとする。例外は丸井で,敬意を表し すᬺ ᕳ ྕ 1933 㸯 1 หྕ 4 ክࡢ◊✲㸫➨㸯≉㍴ ている。医家にあらざる者が精神分析療法を行っては ≉㞟ࡢ㢟ྡ 5 ඣ❺ᚰ⌮◊✲ྕ ならないという考えに対して,大槻はフロイトの論文 6 ♫ᛮ࣭≢⨥ᚰ⌮◊✲ྕ 『精神分析五講』 『精神分析運動史』 『非医者の分析可 7 ᡓதᚰ⌮◊✲ྕ 否の問題』をあげて反論する。分析治療者の第1の資 8 ➨㸰࣭ክࡢ◊✲ྕ 1 ᚰ⌮⒪ἲ◊✲ྕ 2 ዪᛶᚰ⌮Ꮫ◊✲ྕ 3 ఏㄝ◊✲ྕ 4 ᩥᏛ◊✲ྕ 5 ࢻࢫࢺ࢙ࣇࢫ࣮࢟◊✲ྕ 6 ᜊឡᚰ⌮◊✲ྕ 7 ᛶ៣ᚰ⌮◊✲ྕ 8 ኵ፬⏕ά◊✲ྕ 1 ➨ 2࣭ඣ❺ᚰ⌮◊✲ྕ 2 ᐀ᩍᚰ⌮◊✲ྕ 3 ⮬ẅཬࡧṚࡢᚰ⌮ 4 ྠᛶឡ␗ᛶឡ 5 ᐙᗞၥ㢟ぶᏊ㛵ಀ 6 ᖖែཬࡧኚែࡢᛶᚰ⌮ 1 ᛶ᱁ᨵ㐀◊✲ྕ 2 ẕᛶዿ፬࣭◊✲ྕ 3 ክᗁぬ࣭◊✲ྕ 4 ඣ❺ศᯒᩍ⫱ 5 ឡ៣ⴱ⸨ࡢㅖၥ㢟 6 㐨ᚨࡢศᯒ 1 ᛮᮇࡢ◊✲ 格は無意識心理への感情移入能力であり,医学の知識 1934 2 は必要ではあるが,必要にしてかつ十分な知識ではな いと論ずる。第2の重要条件は,その人が優秀なる他 の分析者によって完全に分析せられた人であるが,日 本の医家の間には有資格者は一人もいないので,極端 に形式的資格論を云々すべきでないと主張した。 こうした日本の状況をふまえた上で,大槻は精神分 析学が将来医学,教育学,文学,民俗学,社会学,そ の他およそ精神科学に交渉あるあらゆる分野におい 1935 3 て,重大なる興味と交渉とを有すべき学問であるとし て,本誌を創刊するは実にその期するところ遠く且つ 深いと述べる。本誌はフロイトの精神分析を中心とし て,日本民族の無意識的心理の研究と論評を目的とす るが,他派の分析学に対して末社的偏狭を示すもので なく,心理学一般への必然的連関を無視するものでも 1936 4 なく,極めて広汎な興味と公平な立場とに即するもの であると附言している。 雑誌「精神分析」は第二次世界大戦のために,1941 (昭和16)年4月に休刊となったが,1952(昭和27) 年に復刊され,大槻が亡くなる1977(昭和52)年まで 刊行された。戦前のものは2008年に不二出版から復刻 1937 5 2 Ⰻᑡᖺᑡዪᚰ⌮ 版が刊行されているので,その全貌を知ることができ 3 ⏕⌮ᚰ⌮ る。大槻はこの雑誌の主筆であり,表4のような特集 4 ⏨ᛶዪᛶ≉㍴ྕ を組み,自ら毎号に論文を寄せている。これらの特集 5 ⏨ዪᛶ᱁ศᯒ をみると,精神医学の領域がきわめて少ないことが一 6 ᗂඣᚰ⌮◊✲ 1 ክ㇟ᚩ࣭◊✲ 2 ᩥⱁ⤮⏬࣭◊✲ 4 ฎዪᛶࡢၥ㢟 目瞭然であり,ここに大槻の限界も見えてくる。 大槻(1933b,c,d)の初期の論文に,一連の「恋 愛に於ける救助願望の研究」がある。彼は,文学の中 1938 6 日本における黎明期の精神分析 1939 1940 1941 7 8 9 10 15 れの発展,止揚であるという。 6 ㈆᧯ᚰ⌮ࡢ◊✲ 8 ⮬ᕫឡࡢ◊✲ 彼の治療は平均10回(平均20時間),期間はだいた 10 ⚄⤒ࡢ◊✲ い1,2年見ており,一応分析終了後は通信分析か, 1 㔠㖹ᚰ⌮◊✲ 本人の努力だけで片づくことが多いことを実証してい 3 ᚰ⌮⤒῭ࡢ◊✲ るという。中には彼の著書を精読して単独努力しただ 5 ᛶ⮬ᕫฎ⨨ࡢ◊✲ けで癒やしている事例が多いことから,確信と安心と 7 ឡᝏ 勇気をもつようになったともいう。彼の治療法は「新 9 ⢭⚄ࡢ⌮ゎ 説要約九ヶ条」として以下が挙げられている。 11 ⤖፧ࡢㅖၥ㢟 1 ᮾὒᩥᚰ⌮ 3 ①東西両洋の学的思想の弁証法的綜合。東洋思想は ᪥ᮏዪᛶᚰ⌮ 5 概して綜合観であるが分析と実証に欠けており,西洋 Ẽᗣ 7 思想は分析観として徹底しているが,それだけに分裂 ᪥ᮏேࡢᛶ᱁ 9 的,外見的である。 ⫱ඣἲᚰᚓ 11 ⤫ไಶே ②西洋文化はキリスト教の伝統を引き継いでおり, 1 ╀ᛌ╀ 3 ᪥ᮏⓗᩍ⫱ 1 ᗫหࡢ㎡ 物心並行論(デカルト)と本質的に同じである。フロ イトに伝統する精神身体医学思想は心身並行論である。 ③生命は西洋において哲学や宗教で問題にされた が,科学の方では問題にしなかった。フロイトは「本 能」を心理学の中に導入したが故に,彼の学問は遂に 3.大槻憲二の治療観 はっきりした結論に到達することができず,世人の誤 大槻は愛情生活のテーマに強い関心を抱くが,後に 解を招いた。 なって性格論にも関心があるのは自己分析と関連する ④病気不遺伝説の提唱。遺伝的現象を否定して万人 であろう。彼の多数の著作の中に, 『私は精神分析で 万病可能説を唱える。 救われた』(1961)がある。その中で大槻は,自分は ⑤精神現象,身体(生理)現象,生命現象などを物 医者ではなく,治療に手を出すつもりはなかったが, 理現象の上部構造と見なし,物理学の原理を以て統一 『非医者の分析可否の問題』 (フロイト,1926)を読ん 的に関係付け,フロイトが企てて及ばなかった精神物 で心強いものを感じ,その内に患者の方から彼に治療 理学をほぼ完成した。 を乞う人が出て来たので,少しずつ治療の実際に当 ⑥人間の発育過程に於いて,一定の年齢に於いて歯 たっていくことになったという。いわば患者と読者が が生えたり(乳歯),生え替わったり(食歯),生え加 彼を治療家に仕立てたというのである。 そこで大槻は, わったりする(知歯)ことの精神的,生理的,生命的 生理学や精神医学,一般心理学,神経学などの研究を 意義を発見し,病気の診断,及び治療の予後の見当を 進めていったところ,旧来医学の正体が次第に分かっ つける手懸かりとした。 てきて,実は殆ど何も確定的なことは判っていないの ⑦万人部分精神薄弱説の提唱。精神病者と正常者と ではないかと結論するようになった。つまり,大槻は の間に本質的区別がないように,精神薄弱者と精神強 「遠慮から攻勢への転換」をした。さらに大槻は,「精 健者との間にも本質的な区別は認められない。人間の 神分析に特別の関心と洞察とを持つようになった動機 救済(心理的平安)はその知能の強健にあるよりは, の一つは,私自身が神経症者としてさまざまな苦しい むしろその多少の薄弱性に依ると見られる。 体験を経て来たことにあるのは申すまでもない」 「私 ⑧精神病質(Psychopath)と性格神経症との間の はフロイトを訳しつつ,時々筆を投げて長大息したこ 共通性と類別性とを明らかにし,後者が前者として固 とがある。自分の心理が歴々と分析解明せられてある 着(不治化)する契機は,生命力の中の自然治癒力の のを見て,自ら解放と悟入の喜びを味わったからで 自動作用によって,ケロイド的に歪んだままに癒着し あった」と振り返る。しかし,フロイトは深層心理を たと想定。 取り扱っているが,身体的問題に触れることを避けて ⑨分析技法を簡易化し,患者の抵抗と他学派の疑惑 いると批判する。彼自身の神経症は,フロイト的精神 と世人の誤解とを少なくし,治療期間を短縮し,治療 分析法だけではなかなか根治するに至らず,自分の病 可能の病種の範囲―神経症のみならず肉体病をも―を 因は5,6歳当時の頭部の強打,失神にあることに気 拡大し,且つ効果をあげやすくした。 づいたという。ここから大槻は心身共通の基盤として の個体の生命力学的機制と機能とを問題にすべきだと 以上の九つの共通基盤は力学的生命観であって,そ 考えるようになり,これを「力学的生命学説」と呼ん れは生命の機制を物理学的に概念化して,そこに保存・ だ。これはフロイト学説の修正というより,むしろそ 反保存(即ち安定・反安定)両傾向間の拮抗調和(即 16 福島大学総合教育研究センター紀要第18号 2015- 1 ち分裂の可能性)と認識することであるという。言い 直接携わっている人の中で最年長者であり,分析寮に 換えれば,エネルギー一元論である。この治療観を理 は「国際精神分析学会日本支部」という大看板が掲げ 解するのは困難であるので,大槻(1944)の代表的著 られていると紹介されている。患者は16歳から45歳ま 作『性格と意志』を見ると,どのような人も本来の性 での男が多く,試験勉強と関連した不安神経症,悪癖 格や意志の力を発揮し得ていないとし,生前又は生後 (自瀆),強迫神経症が多いという。矢部は古澤平作が における何らかの障碍によって,本来の力を弱化せし 正規の分析士としての資格がなく,矢部が分析し指導 められているといっても過言でないという。このよう した7人に資格があると述べている。 な弱化しているところに,外部から第二原因(病菌, 精神分析誌には矢部の分析寮とともに,古澤の精神 中毒,精神的悪環境)が加わって,病気という現象が 分析診療所の広告が並んで掲載されている。大槻が古 生ずるが,西洋医学者は病気の原因としてこの外部的 澤診療所に探訪した記事がある(精神分析,1巻7号, 第二原因だけしか気づいていないと批判する。大槻は 1933)。十年近くの分析治療の経験をもつ古澤は, 「分 元来病気というものはなく,万人健康論の主張者であ 析学の大衆化は非常に困難であるが,重要な問題で, り,病気の遠因を除去することこそ真の予防医学,厚 丸井博士が帰朝されたならば分析士の大量的養成が問 生医学であると主張する。軟弱性格者は病気になって 題になりましょう」「非常に意外なのは,性的疾患の いるだけで素質ではない。素質だと思うから絶望した 為に診療を受けに来る患者がない。多いのは妊娠後の り悲観したりするが,病気だと思えばこれを治療して ヒステリィ性の軽い憂鬱症です。成績を最もよく挙げ 健康にすればよいのだという。その原因は身体にある ているのは強迫神経症で,早い時は二ヶ月位で終了し のではなく,心理に,殊に無意識心理にあるので,分 ます」 「斯学の研究者は凡て小我を捨てて協力しなけ 析学の操作によって病気を直すことができ,健康にな ればならない」と述べている。医学系・仙台グループ れば即ち性格は強化させられたといえる。軟弱性格は の丸井清泰,古澤平作,山村道雄らは,東京精神分析 自我の確立が不充分ということであり, 言い換えれば, 学研究所の客員として名を連ねている。雑誌「精神分 幼児的で心理が退行的であると説明する。 析」誌の特集に医学的テーマがきわめて少ないが,以 大槻は,意志のない性格は考えられないから,性格 下のような古澤の論文が散見される。 とはその個人における意志の特殊性であるという。し かし意志はそれ自身として存在せず,本来あるのは人 ⑴ 精神分析療法に対する二三の自解(1934) 間を無意識的に動かしている力であり,それがやがて 古澤(1934)は,ウィーンにおける斯学研究の動向 意志に発展するとみる。その無意識の力を本能と名づ として,一つは生物精神分析学の思想を追うもの,も けることができ,それを生命力と言い直してもよいと う一つは自我並びに上位自我の攻究より来る予防学的 いう。つまり,本能や生命力のみがあって,意志とい 教育学的精神分析学の思想を追うものをあげる。前者 う形をとって表面に顕現していると考える。意志は必 は丸井教授指導のもとに精神分析学の見地より神経症 ずその内に矛盾を内蔵しており,常に葛藤しているが 精神病の検討が進められており,後者は東京精神分析 故に, とかく分裂したがるもので, その分裂状態に陥っ 学研究所が専ら日本民族の心理学的研究を目指してい た場合に,意志薄弱と呼ぶ。 るとする。古澤は精神分析治療の真髄を浮きぼりにす 大槻は生死両本能の妥協と調和について触れてい るために親鸞聖人をあげ,聖人が解決した錯綜人生の る。この本能を東洋学的にいえば陰陽と言いなすこと 山は愛慾と名利であったという。愛慾はリビドーであ ができるという。陰陽説, 涅槃説(仏教) , 無の哲学(老 り,名利は攻撃欲であるとし,古澤は分析医の人格の 荘),日本の惟神(かんながら)の道もまた生死両本 中にあるこの二つの錯綜克服こそ患者治癒の最大条件 能の調和を図ることにその神髄が存すると主張する。 であると強調する。フロイトが生物学的見地に深入り 大槻は精神分析に東洋的な概念を注いだが,独学の故 しなかったのは,ウィーン精神分析学研究所は余りに にフロイト学説から大きく離れてしまったといえよう。 不完全であるからであるとし,本邦では立派な研究設 Ⅳ.精神分析技法の研究時期 -古澤平作の貢献- 備のある大学において,斯学研究の発祥に地を見出し たことに期待している。 ⑵ 精神分析学上より見たる二つの宗教(1935) 1.雑誌「精神分析」との関わり この論文は古澤が1931年に書いた旧稿で,1932年7 心理学者の矢部八重吉が最初に国際協会の精神分析 月にフロイトに提出したものであり,ドイツ語訳も掲 家の資格を取得し,東京精神分析学研究所を設立した 載されている。後に本論文は「罪悪意識の二種(阿闍 大槻らとともに,精神分析の普及活動を推し進めた。 世コンプレックス)」として,精神分析研究(1巻4号, 精神分析誌 (2巻1号, 1934) に探訪というコラムに「矢 1954)に再掲されている。 部氏の分析寮」という記事がある。矢部は精神分析に 古澤はフロイトの宗教論を総合すれば,宗教とは父 日本における黎明期の精神分析 17 を殺戮せんとする感情を和らげ「死後の従順」によっ 賊の父と通じたといって剣を取り,母妃を殺そうとしまし て亡き父と和解せんとする試みとして子どもの罪悪意 たが大臣の一人がこれを止め「もし母君を殺せば王の命は 識から現れた心的状態であると結論する。しかし,古 ありません」と立ち向かいました。王子はここで五体ふる 澤は子どもの罪悪の意識より現れたもののみが,はた え,ついに流注(るちゅう:皮膚病)という病気になって して全部の宗教であろうかと疑問を呈する。子どもの 不安発作をおこしたのです。この後,〈母親が献身的な看 罪悪の意識より現れたものは宗教的欲求であって,完 成された宗教的な心理ではないとし,宗教心理とは, 病を行い, 〉阿闍世王は釈迦に救済されることになります。 (注) 〈 〉は小比木(2001)の追加 「あくなき子どもの殺人的傾向が親の自己犠牲にとろ かされて始めて子どもに罪悪の意識の生じたる状態で 古澤はエディプスの欲望と阿闍世の欲望との相違に ある」という。フロイトのいう子どもの罪悪の意識を 触れ,エディプスの欲望は母の愛のために父王を殺害 罪悪観(Schuldgefühl) ,古澤のいう罪悪の意識を懺 するが,阿闍世王の父王殺害は決して母に対する愛慾 悔心(Lastergefühl)と名づけた。前者は処罰を恐れ にその源があるわけでなく,王の愛を得ようとした母 るものであり,後者は罪を償おうとするものである。 の煩悶にあるという。古澤は分析上,母を愛するが故 古澤は後者の例として,親鸞の浄土真宗をあげて,仏 に父を殺害せんとする欲望がエディプス・コンプレッ 陀の時代,インドの阿闍世王の悲劇物語を呈示する。 クスであり,母を愛する故に裏切られて母を殺害せん この論文では物語が省略されてわかりにくいので,古 とする欲望は阿闍世コンプレックスと名づけた。古澤 澤が訳したフロイト(1932)の『続精神分析入門』の は後に,母親がエゴイズムのために積極的に子どもを 「あとがき」にある阿闍世物語を引用する。 つかむことを母拘束と呼ぶ。古澤の概念は母子関係に 焦点が当てられていて,M.クラインの考えと近い(中 釈迦の深い帰依者であった王に頻婆沙羅(びんばしゃら) 野,2011)。 王という方がありました。この王妃が葦提希(いだいけ) 夫人であります。夫人には子供が無いうえに,年老いられ 2.フロイトとの交流 る身の容色衰退が,やがて王の愛のうすれゆく原因となる ここでフロイトと古澤との間の書簡を見よう(北山, ことを深く憂えられたのです。ところが,夫人が相談され 2011)。1931年11月,古澤はフロイトへの書簡で,「貴 たある予言者の言によれば,裏山の仙人が3年の後には死 方と個人的にウィーンでお会いし,貴方の指導のもと んで,夫人にみごもり,立派な王子となって生まれるとい で研究することをお知らせいただけるまで,最も敬愛 うことでありました。しかし老いおとろえた王妃にはこの する教授,私はほとんど時間を待つことできません」 3年間が実に待ち遠しくていらいらし,ついに待ちきれず と,ウィーンを訪れたい希望を再び述べる。この書簡 に,迷妄なる心は妃を駆ってこの仙人を殺害して自己の煩 では,反復強迫について言及し, 「反復強迫の成り立 悩を達成せしめました。ところがこの仙人がこと切れよう ちは仏の救済とまったく同じであると認識していま としたときに妃に向かって「わたしがあなたの腹に宿って す。今私は,人がその価値を追い,無価値を放棄すべ 生まれた子は将来かならず父親を殺す」といいはなちまし きであるという世界を通して,性と死の本能の間での た。この予言は本当になりました。やがて妃は妊み,運命 葛藤による反復強迫を感じています」とも述べている。 の王子,阿闍世を生み落としました。王も妃も大層彼をか 1931年12月24日付けのフロイトから丸井清泰への手 わいがり育て,16,7歳頃には文武ならびなき青年王子と 紙では,フロイトは,古澤の個人治療に引き受ける用 なり,近隣諸国を平定しましたが,王子は何となく気分が 意があること,1時間に25ドルという料金が高くない すぐれず鬱々として日をすごしておりました。ときあたか こと,自分では難しい場合でも大変良い分析家を紹介 も釈迦の教団は円熟の域にたち改革を要するようになって することが記されている。1932年1月13日付けのフロ いました。日頃,釈迦に怨恨をもつ提婆達多(だいばだっ イトへの書簡で,古澤は政府から援助を受けていない た)はこのときとばかりに,教団を乗っ取ろうと企み,王 ので,設定された経済的な条件は彼の僅かな資金をは 子に「お前の前歴はこうこうだ・・・」とささやき,そそ るかに超えていること,彼の最初の論文(阿闍世コン のかしたので王子ははじめて自分の憂鬱の原因がわかりま プレックスを扱った博士論文)の価値判断をしていた した。 [提婆達多と釈迦は従兄弟どうしであるが,昔,王 だきたいことが述べられている。 女耶輪陀羅(やしゅだら)妃の婿選びで釈迦が勝利したた 古澤は1932年1月26日から同年12月29日までウィー めに,提婆達多は釈迦に反抗した。] ンに滞在し2月11日にフロイトを訪問した。2月13日 王子はまず父王を幽閉しました。しかし妃は瓔珞(よう 付けのフロイトへの書簡で,古澤はフェダーンと話し らく:珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)に蜜をつ 合い,精神分析的なセッションに通うことが報告され, め,こっそり王に差し入れしていましたので,1週間後に フロイトに富士山の絵を贈っている。3月16日付けの 王子が父はどうだろうと見舞ったときには,王はますます 古澤への手紙で,フロイトは「私自身で貴方の分析を 元気でありました。王子は怒り,母に対して賊呼ばわりし, 行うことが貴方にとって難しいのは,悔やまれます。 18 福島大学総合教育研究センター紀要第18号 2015- 1 私はいまだに現金収入の必要性がありますが,貴方か のためだけではなく,斯学を志す人のための訓練を目 らは25ドルの代わりに10ドルだけをいただくことにし 的とする教育分析にも用いられる。アメリカの精神分 ましょう」と提案されている。しかし,古澤は経済的 析学会(APA)では,教育分析は最低3年,1週1 にすべてを兄に負っていると返事をする。古澤は経済 時間ずつ3回の分析を受けなければならないが,日本 的な理由でフロイトの善意の申し出を受けられなかっ の現状では不可能であるとした。 た。 おそらく古澤自身も相当に悔やんだことであろう。 そこで古澤が考案したのが,通信分析である。これ ただ,フロイトに阿闍世コンプレックスの論文を渡せ は,分析を受ける人が1週1回,40分ずつ自由連想を たことはせめてものの慰みであったであろう。1932年 行い,これを記述して分析医に送り,これに対して分 7月付けのフロイトへの手紙で,古澤は論文の判断を 析医が解釈を返送する方法である。患者は自由連想の 聞きたいと述べている。また,自由連想について言及 記録「分析歴」のほかに,分析医に向かって訴えたい し,重い症例(統合失調症)では自由連想はうまく こと,相談したいこと,その他種々の感想を普通の手 ゆかなかったことを述べた後,分析家の盲点として, 紙のようにまとめた「書信」をつけることになってい 自分のなかにある愛情葛藤は解決できたが,サディス る。分析歴からエス(本能)活動の側面,書信から自 ティックな葛藤は解決できていないとし, 「私が教授 我活動が察知できるという。 に分析を受けたならば,葛藤は意のままになるでしょ 第2章では「赤面恐怖症」と「被虐性性格者」の2 う」 と述べ, フロイトによる分析を諦めきれないでいる。 例の通信分析が記載されている。古澤は,これを読み 通すには忍耐強い努力を必要とする記録であると認め 3.自由連想法の探求 たうえで,精神分析学を学ぶ際,無意識的変化をもた 古澤は帰国後,1934年から1968年に没するまで,東 らすきっかけとなったものを否定する抵抗の問題にふ 京で精神分析医として開業した。彼の最大の貢献は, れる。この抵抗現象は解釈の中で行っている分析者の 日本における精神分析を学問的に発展させるために, 操作によって整理されることになるが,分析者が実例 1955年に 「日本精神分析学会」 を設立したことであり, 中の被分析者を分析する場面が分析者と読者という場 1957年まで会長を務め,1959年より没するまで名誉会 に転移し,読者の精神もおのずから分析され,整理さ 長であった。なお, 大槻はこの学会に参加していない。 れることが意図されているという。 古澤はこれと並行して,国際精神分析協会(IPA)の 日本支部(日本精神分析協会)の支部長にもなった。 ⑵ 前田重治著「自由連想覚え書-古澤平作博士に 彼の関心の一つは,フロイトへの書簡の中にみられる よる精神分析」(1984) ように,自由連想法の追究であったと思われる。同時 前田重治は古澤による教育分析を詳細に記録してい に精神科医や心理学者らの教育分析にも貢献した。古 るので,ここから古澤の精神分析技法を見ることがで 澤は大槻と違って著作がきわめて少ないが,以下の文 きる。当時前田は28歳,九州大学に勤務する精神科医 献で古澤の治療法を見てみよう。 であり,1957年5月から1年間,教育分析を受けるた めに内地留学として上京した。古澤は当時59歳,それ ⑴ 精神分析学理解のために(1958) まで25年にわたり,田園調布の自宅で「精神分析研究 古澤によれば, 本書のねらいは, 分析学の知識を「知 所」を開設し,研究と診療を続け,その当時は精神分 的に」「理論的に」読者に与えることではなく,分析 析の教育指導に力を入れてきた時期であった。前田は 治療の実例をそのまま公表することによって,分析学 本格的な指導を受けた最後の弟子となった者として, に接するための前期体験,すなわち無意識的変化を読 先生から教えられたもの,特に古澤の自由連想の技法 者の心に与えようと企てることである。精神分析学は を忠実に残しておくことも一つの務めではないかと考 他の科学と違って,認識活動以前の前期体験を経て初 えた。1955年に日本精神分析学会が設立され,その機 めて体得できる性質のものであるという。 関誌「精神分析研究」が発刊されるようになって,前 第1章で精神分析学治療の歴史が触れられた後,分 田は自由連想法に目が開かれたが,自己流ではうまく 析治療の実施に移る。治療の回数について,アメリカ いかなかったというのである。 の平日毎日あるいは隔日とは違って,日本では1週1 予備面接では予備面接表が渡され,エディプス・コ 回50分を通例とする。古澤自身が現代まで連なる日本 ンプレックスや去勢不安をみるために以下の質問に答 的精神分析をつくったといえるであろう。自由連想の える。①きょうだいは何人いますか(その年齢) ,② 際,古澤は壁に向かって掛ける「背面法」を考案して 両親の名前と年齢,③神はいると思いますか(両親以 いる。自由連想法は催眠療法に代わって出現したもの で,連想中の「思いつき」は隠れた意味の代償物であ 上のもの,その社会的なものをみる),④次のものか ら何を思いつきますか(∧,¦ ) ,⑤好きな学科と嫌 り,無意識にある患者の根本的問題点に達し,精神構 いな学科,特に好きな学科,⑥自分の性格,⑦今思い 造の実態を知ることができるとみた。精神分析は治療 出せる夢があったら書いてください。その他に,トラ 日本における黎明期の精神分析 19 ンプように三枚の図形カード(○,□,☆)について, 訳を刊行しつつ文学や日本民族の心理分析に力を尽く どれが目につくかを報告するアングル・テスト等があ し,古澤は治療法,特に自由連想法の研究に関心があっ る。ちなみに,「精神分析研究」の表紙には古澤が考 た。大槻は戦前に雑誌「精神分析」を主筆して啓蒙活 案した図形が1967年まで載っていた。 動に貢献したが,古澤が戦後に設立した「精神分析学 前田の自由連想法は,自我をあまりこわさない方法 会」に参加することなく,在野にとどまり,彼の役割 で1週2回から始まった。前田の詳細な記録は,分析 を終えたといえよう。 者と被分析者のやりとりがすぐに表出されるので通信 日本における臨床学としての精神分析学の定着は, 分析よりもはるかに興味深い。古澤の解釈は多く,き 古澤の貢献である。古澤に最も近い弟子であった小此 わめて敏感に反応しており,前田は導入期を経て, 「ク 木(1964)によれば,古澤がウィーンに留学したのは, モ恐怖症」という幼児神経症が出現し,以後これが中 丸井清泰が問診して行った,症状を直接に解釈する方 心的なテーマとなる。9月より毎日分析(土日は除 法に批判的であったからである。その意味で,古澤の く)となり,ソファによる180度法から寝椅子に変わ 治療的実践は,「フロイト先生」にきわめて忠実であ り,標準型精神分析と呼ばれる形になった。こうなる ろうとした。しかし,日本の経済的条件は週5日の治 と,毎日のように自我とエスは揺すぶられ,リビドー 療は不可能で,通常週1回であり,これが今日まで続 とその派生物の動きが連続したものと捉えられるよう いている。そのためか,古澤の治療法は,M.クライ になった。10月には古澤が意識を失って倒れるという ン理論に準じて,治療初期から直接的なエス解釈が多 事件が起き,11月になって分析が週2回で再開された 用されている。これに対して,土居(1980)は患者の が,この間,前田はフロイトだけではなく,親鸞も読 理解力をはるかに超えていると批判している。土居か んでいる。再開後,陰性転移や女性恐怖への抵抗が扱 らみると,古澤は患者の不快感情が自分の治療法にあ われる。翌1月から週3回になり,母親に対する憎し るのではなく,もっぱら患者の内的変化に関係づけ, み,阿闍世コンプレックスが解釈される。3月に入っ 自分に向けられた悪感情に反応していない。さらに, てからは,古澤はクライン流の解釈も述べているが, 古澤は親鸞の心を心として分析治療を続けているの 前田の方は混沌した状態が続く。4月に入って,分析 で,救済者としての意識があまりにも強いので,患者 が止めてもいいと思うようになり,105回で終了する。 を常に自分の中に取り込んでしまうという。土居自身 古澤の解釈は初期から深い内容解釈(エス解釈)が も古澤から教育分析を受けて,古澤にのみこまれてし 多く,かなり象徴的解釈が多用されている。古澤の解 まうと何度も思い,「心的外傷を与えられた」と表現 釈のされ方はかなり率直に自由に自分を出すものであ する(武田,2010) 。そこで,土居は古澤から離れて り,時には「先生のとまどい」も見せた。誠実な態度 アメリカに留学するのであるが,その結果が「甘え」 は被分析者の側としては頼りになる安心感,信頼感に 理論の創造につながった(中野,2013)。この理論の 結びついたという。古澤は丸井清泰がやっていた直接 誕生の背景に古澤体験があるといえ,前田(1984)は, 的な「症状分析」を完全に否定はしないが,フロイト 古澤の母なるとろかしの延長線上に,土居の甘えの克 が催眠を捨てて自由連想を始めたことを,自分の経験 服の問題が出てくるのではないかと指摘している。 を通して裏付けてきたという。また,古澤が本を書か ここで,精神分析と宗教の問題にふれておきたい。 なかったのは,その代わりに弟子をつくってきたと 古澤が訳したフロイト(1932)の『続精神分析入門』 し,30年間一人でやってきたので,いつ一人になって の最終35講は「世界観について」である。フロイトは もやっていけると述べ,日本人の精神分析が自分の仕 精神分析の科学性を論じたばかりでなく,科学にとっ 事だから,日本の神話や伝説を精神分析学的に考え直 て手強い宗教を論じている。フロイトは,宗教が①人 してみることが大切だともいう。他方,前田は精神分 間に世界の由来と発生を説明して知識欲を満足させ, 析とはあいまいなものであることがわかるようになっ ②人間の不安を鎮め,良き結果を保証し,不幸に慰め たという。これが幼年期の自己愛的万能感の一つの終 を与え,③掟を与え,禁止と制限を発する,という3 焉であり,青年期への脱皮につながるものであったと つの機能があるとし,このうち第3の機能は最も科学 結論する。 から隔たると述べる。フロイトは,宗教が小児の寄る Ⅴ.おわりに べなき頼りなさに起因し,その内容を成人の生活の中 で持ち続けられた幼児の願望と欲求から導き出された と分析し,宗教がその自己保存のために発する思考禁 本論文は精神分析が,今日のようにまだ一般には知 止は決して無害ではないと批判する。古澤はフロイト られない頃に,どのように導入されてきたのかを明ら の宗教論を百も承知であるが,30年もの間,たった一 かにするために,心理学者の大槻憲二と医学者の古澤 人の精神分析家古澤を支えてきたものは親鸞ではな 平作の2人の貢献を取り上げたものである。精神分析 かったか。古澤を批判した土居にとってもカトリック に対する2人との関心は異なり,大槻はフロイトの翻 が心の支えではなかったか。ただし土居(1992)がそ 20 福島大学総合教育研究センター紀要第18号 れを公にしたのは晩年のことであった。土居(1967) はフロイトに対しても批判し,フロイトが宗教は幻想 であると断ずることによって自らを宗教の教祖にまさ る人類の教師と呈示していたことを自覚していたので あろうかと述べ,精神分析が現代人にとって宗教の代 用物になったとも指摘している。 最後に,日本的精神分析について言及したい。現在 日本で普及している週1回の面接は古澤が始めたもの であるが,自由連想法は普及しなかった。自由連想法 2015- 1 分析への抵抗 岩崎学術出版 9)古澤平作(1934) :精神分析療法に対する二三の自解. 精神分析,21),7-11. 10) 古澤平作 (1935) :精神分析学上より見たる二つの宗教. 精神分析,32),4-13. 11)古澤平作(1954) :罪悪意識の二種(阿闍世コンプレッ クス) .精神分析研究,14),5-8. 12)古澤平作(1958) :精神分析学理解のために 日吉病 院精神分析学研究室出版部 は患者の自由連想を助けることにあり,洞察を産むこ 13)Kris, A(1982):Free Association; Method and Process, とや退行による転移神経症を発展させ解消することで Yale University. 神田橋條治・藤川尚宏訳(1987):自 はなく,症状や苦悩を軽減させることでもないという 考えもある(Kris, 1982) 。精神分析と精神療法では自 由連想過程が違うので, その取り扱い方が異なり,セッ ションが少ないほど公式化を持ち込む傾向があるとい われる。現在,精神分析学会の会員は2,800余名(う 由連想 岩崎学術出版 14)前田重治(1984) :自由連想法覚え書:小沢平作博士 による精神分析 岩崎学術出版 15)妙木浩之・安齊順子(2004) :草創期における日本の 精神分析.精神分析研究,48(増刊号) ,69-84. ち心理職1,700名)に対して,週4, 5回でカウチを使 16)中野明德(2011) :メラニー・クラインの対象関係論 用した自由連想法による治療を志向した日本精神分析 ―抑うつ的態勢と妄想・分裂的態勢. 福島大学心理臨 協会(IPAの日本支部)の会員は,ホームページをみ 床研究,6,1-10. ると37名に過ぎない。これを見ただけでもわかるが, 17)中野明德(2013):土居健郎の「甘え」理論―日本語 週1回対面法が日本の標準なのであり,この方がはる による対象関係論の創出. 福島大学心理臨床研究,8, かに臨床的にみて実用性と応用性が高い。土居の面 1-12. 接法はまさに自由連想法に代わるものであり(中野, 18)中野明德(2014):土居健郎の臨床論―人間理解の 2014) ,日本的精神分析の貴重な遺産である。精神分 方法と「甘え」理論. 福島大学心理臨床研究,9, 析はフロイトと格闘することで新しい精神分析を生み 出すものであろう。 1-12. 19)武田専(2010) :土居健郎と古澤平作.精神分析研究, 544) ,364-365. 文 献 1)安齊順子(2000):日本への精神分析の導入における 大槻憲二の役割―雑誌「精神分析」とその協力者・矢部 八重吉を中心に.明海大学教養論文集,12,41-49. 2)土居健郎(1967):フロイドの遺産.『精神分析』創元 医学新書,pp238-251.(『土居健郎選集8』岩波書店, pp6-18,2000,所収) 3)土居健郎(1980):古沢平作と日本的精神分析.精神 (『土居健郎選集3』岩波書店, 分析研究,244),229-231. pp196-205, 2000,所収) 20)大槻憲二(1933a) :我が国の文明と精神分析(創刊の 辞) .精神分析,11),1-7. 21)大槻憲二(1933b) :恋愛に於ける救助願望の研究. 精神分析,12),38-50. 22)大槻憲二(1933c) :恋愛に於ける救助願望の研究(二). 精神分析,13),28-35. 23)大槻憲二(1933d) :恋愛に於ける救助願望の研究(三). 精神分析,15),41-52. 24)大槻憲二(1944) :性格と意志(続・性格改造法) 東 京精神分析学研究所出版部 4)土居健郎(1992):信仰と「甘え」(増補版) 春秋社 25)大槻憲二(1948) :精神分析学概論 岩崎書店 5)Freud,S(1926):The question of lay analysis. Standard 26)大槻憲二(1961) :私は精神分析で救われた 育文社 Edition, Vol.20. trans. Strachey J, London: Hogarth 27)小此木啓吾(1964) :精神分析的な精神療法とは 三 Press, pp183-258, 1959. 高橋義孝他訳(1984):素人に 浦岱栄監修 精神療法に理論と実際 医学書院 pp2- よる精神分析の問題.フロイト著作集11,人文書院 44. 6)Freud,S(1932):New Introductory Lectures on PsychoAnalysis. Standard Edition, Vol.22. trans. Strachey J, 28)小比木啓吾・北山修編(2001) :阿闍世コンプレック ス 創元社 London: Hogarth Press, pp3-182, 1964. 古 澤 平 作 訳 29)曽根博義(2008) : 『精神分析』創刊まで―大槻憲二の (1969):続精神分析入門 改訂版フロイド選集3 日本 前半生 『精神分析』戦前編解説 不二出版 pp5-19. 教文社 7)北見芳雄(1956):戦前に於ける日本の精神分析学発 達史.精神分析研究,39),2-6. 8)北山修(2011):フロイトと日本人―往復書簡と精神