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57.日露戦争後の国際情勢と大陸進出

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57.日露戦争後の国際情勢と大陸進出
57.日露戦争後の国際情勢と大陸進出
□1.日露戦争後、日本は旅順・大連と付属地域を【①】とし、1906 年にはそれぞれを統治する【②】が旅順に置か
れた。同年、半官半民の国策会社である【③】が体連に設立され、初代の総裁には【④】がなった。
【③】は、ロシ
アから譲り受けた長春以南の鉄道に加えて、鉱山なども経営した。
□2.韓国への侵略は日露戦争中からすすめられた。1904 年、【⑤】に続いて日本政府が推薦する財政・外交顧問の
採用を認める第 1 次日韓協約が結ばれた。その後、アメリカが【⑥】
、イギリスは第 2 次【⑦】
、ロシアは【⑧】で
日本の韓国指導権を認めた。それにより日本は 1905 年、第 2 次日韓協約を結び、韓国の外交権を奪い、漢城に【⑨】
をおいて初代統監に【⑩】を任命した。
□3.日本の侵略に対して韓国の皇帝は、1907 年、オランダの【⑪】でおこなわれていた万国平和会議に密使を派遣
して抗議したが失敗した。これを機に日本は韓国の皇帝を退位させ、第 3 次日韓協約を結んで、内政権を奪うとと
もに軍隊を解散した。韓国では元兵士たちの反日運動である【⑫】が激しくなった。
□4.1909 年、
【⑬】によって【⑭】駅で【⑩】が殺害された。翌年、
【⑮】を締結して韓国を植民地化した。統治機
関の【⑯】を設置し、初代総督には【⑰】が任命された。1910 年から土地調査事業がすすめられ、所有権が不明確
な土地は国策会社の【⑱】や日本人地主などに払い下げられ、朝鮮の農民から土地を奪った。
□5.日露戦争後、中国の門戸開放を主張するアメリカは日本の南満州権益の独占を批判した。鉄道王【⑲】が日本
に満鉄の共同経営を提案したが、日本は拒否し、アメリカでは日本人移民排斥運動がおこるなど関係は悪化した。
そのため、イギリスとは【⑦】を改定し、ロシアとは満蒙権益のため、4 次にわたる【⑳】を締結した。中国では
1911 年【㉑】を中心に【㉒】がおこり、清朝が倒れて中華民国が成立した。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
58.産業革命
□1.1880 年代後半には、紡績・鉄道を中心に会社設立ブームがおこり、本格的な機械技術の導入がすすんで、産業
革命が始まった。政府は金融・貿易の整備をはかり、1897 年には【①】を制定して金本位制を確立し、特殊銀行の
【②】は貿易金融をおこなった。また、海運奨励策をすすめ、【③】がボンベイ航路などを開き、1896 年には造船
奨励法・航海奨励法が出された。
□2.綿産業は幕末に衰退したが、
【④】から綿糸を生産する紡績業では、臥雲辰致が【⑤】を発明したことで生産が
回復に向かった。1882 年には、第一国立銀行頭取【⑥】の呼びかけで【⑦】が設立され、輸入の蒸気機関に輸入の
【④】を用いて生産を開始した。この成功で大規模な紡績会社の設立がすすんだ。その結果、
【⑧】年には綿糸の生
産高が輸入高を上回り、日清戦争後の【⑨】年には輸出高が輸入高を上回った。また、綿糸から綿布を生産する綿
織物業では、1897 年、
【⑩】が考案した力織機の使用が広がった。その後、綿糸・綿布は中国向けの輸出品として
成長した。
□3.【⑪】から生糸を生産する製糸業は、幕末以来、最大の輸出産業であった。1872 年に官営模範工場として群馬
県に【⑫】が設立され、
【⑬】の技術を導入した。当初は手動の【⑭】が普及したが、輸入機械に学んで国産化した
【⑮】が長野・山梨で普及しはじめ、1894 年に【⑮】が【⑭】の生産高を上回り、【⑯】向けの輸出品として成長
した。
□4.鉄道業では 1881 年に華族の出資で初の民営鉄道である【⑰】が設立され、1889 年には官営鉄道により、
【⑱】
線が全通し、営業キロ数で民営鉄道が官営鉄道を上回った。しかし、1906 年、第一次西園寺公望内閣は【⑲】を公
布して私鉄 17 社を買収し、国有化した。
□5.軍事に欠かせない製鉄業では、1897 年、官営【⑳】が設立され、民間でも室蘭に【㉑】などが設立された。機
械工業では【㉒】がアメリカ旋盤の制作に成功し、三菱長崎造船所では世界水準の技術に達した。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
59.社会運動の発生
□1.松方財政から産業革命期にかけて下層農民が小作人に没落する一方、土地を集積して小作料による収入を得る
【①】が成長した。製糸業の発達により農村では原料の繭を生産する【②】業が盛んとなり、貧しい小作農家では
子女を製糸工場などに出稼ぎに出すなどして家計をささえた。
□2.産業革命の進展により、特に繊維産業に従事する出稼ぎ女工の数が増え、低賃金・長時間労働などの待遇が問
題となった。こうした実態を示すものとして、雑誌「日本人」に取り上げられた三菱【③】の抗夫虐待や、横山源
之助の「
【④】
」
、農商務省が編集した「
【⑤】
」などがある。一方で、政商【⑥】が経営する【⑦】から渡良瀬川へ鉱
毒が流れ、付近の住民が被害を受け、代議士の【⑧】が天皇に直訴した事件もあった。
□3.日清戦争前後には、公布の雨宮製糸や、大阪の天満紡績などで女工のストがおこった。1897 年には、アメリカ
帰りの【⑨】
・片山潜らが【⑩】を母体として【⑪】を結成して労働組合結成の指導にあたった。こうした運動の発
生に対して、政府は 1900 年、
【⑫】内閣が【⑬】を制定して弾圧する一方で、1911 年には【⑭】内閣が初の労働者
保護法である【⑮】を制定した。しかし、従業員 15 人以上の工場にしか適用されず、施行は 1916 年になった。
□4.労働運動の展開とともに社会主義もひろがった。【⑯】らは 1901 年、初の社会主義政党である【⑰】を結成し
たが、結成直後に解散を命じられた。
【⑯】らは、日露戦争の危機がせまった 1903 年には【⑱】を結成し、戦争に
反対するとともに社会主義を宣伝した。その後、1906 年には【⑲】を結成した。
【⑳】内閣は当初、
【⑲】を公認し
たが、翌年、解散を命じた。
【⑭】内閣は 1910 年、天皇暗殺計画を企てたとして【⑯】ら 12 名を死刑にする【㉑】
をおこし、警視庁に思想警察である【㉒】を設置した。この後、社会主義は「【㉓】」となった。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
60.明治文化①(思想・教育・学問)
□1.明治初期、国民の啓蒙が重視され、西洋思想が流行した。その中心は【①】を社長とする【②】であり、
「学問
のすすめ」などを著した【③】や「自由之理」を著した【④】らがいた。また、自由民権運動に影響を与えるフラ
ンスの【⑤】も唱えられ、
【⑥】は「民約訳解」を訳述し、【⑦】は「民権自由論」を著した。
□2.キリスト教は当初、
【⑧】により禁止されていたが、1873 年に公認された。一方政府は神道の国教化をすすめ、
1868 年には【⑨】を出した神仏混交を禁止した。その結果、
【⑩】がおこり、仏教が衰退したが、浄土真宗の僧【⑪】
はそれに対し仏教復興運動をすすめた。
□3.明治中期になると条約改正や日清戦争を背景とした国権論が台頭した。民友社の【⑫】は雑誌「【⑬】」を刊行
し、平民的欧化主義を唱えた。それに対して、雑誌「【⑭】」を刊行する政教社の【⑮】は国粋主義を、新聞「日本」
を刊行する【⑯】は国民主義を唱え、日本の伝統文化を重視する立場をとった。日清戦争後は対外膨張論を強調日
本主義を唱える【⑰】が雑誌「
【⑱】
」を刊行した。しかし、日露戦争後は個人主義的風潮が広まり、政府は 1908
年、
【⑲】を発して国民道徳の強化につとめた。
□4.富国強兵のために国民教育の充実は重要であった。1872 年、国民皆学をめざしてフランス式の【⑳】が出され
たが、民衆の反発を受け【⑳】反対一揆がおこった。1879 年にはアメリカを参考にした【㉑】が出されたが、混乱
したため、翌年改正された。1886 年になり、初代文相の【①】のもと【㉒】が制定され、【㉓】を頂点に小学校ま
での体系が整備された。1890 年には忠君愛国を強調する【㉔】が出され、教育は国家主義へと傾斜していった。キ
リスト教徒の【㉕】は【㉔】に拝礼せず問題となった。さらに 1903 年には小学校の教科書が【㉖】制となり、1907
年には小学校令が改正されて義務教育は【㉗】年となった。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
㉔
㉕
㉖
㉗
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