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主要国の軍隊 - DSpace at Waseda University

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主要国の軍隊 - DSpace at Waseda University
第二章
軍隊の歴史的展開――軍隊と国家および社会との関係
梗概
第一章では、主要国の軍隊として、アメリカ、ロシア、イギリス、ドイツ、フラン
ス、スウェーデン、カナダの軍隊と、日本の自衛隊をとりあげた。これらの冷戦後の
主要国の軍隊の動向から、戦争以外の軍事活動(Military Operations Other Than
War: MOOTW、以降、MOOTW)が軍隊の本来任務化されていく過程を辿った。そ
の際、冷戦後の主要国の軍隊の使用形態及び使用範囲を、その国防報告などから、保
有する軍事力の規模及び自国に対する脅威度に焦点を当てて検討した。また、日本の
自衛隊についても、近年の活発化する国際平和協力活動や、防衛計画大綱の見直しな
どを考察することで、その方向性を辿った。
まず、主要国の国防報告などの公刊資料から、軍隊全般の体制が、冷戦期から整備
されてきた装備・編成を縮減し、部隊の地理的配置や運用を見直すとともに、即応態
勢、統合運用態勢を強化する傾向にあることがわかった。これは、量よりも質を向上
することを意味するものであった。また、量より質の向上を核に据えた軍隊の体制に
おいて、主要国全般の軍隊の使用形態や使用範囲が、実効的な抑止および対処、地域
の安全保障環境の一層の安定化、グローバルな安全保障環境の改善といった重層的な
安全保障の確保のためということを目的とするようになった。
次に、このような主要国の軍隊全般の現状について、その背景について見ると、軍
隊を取り巻く社会状況及び軍隊の使用形態に変容傾向がみられた。社会状況として顕
著なのは、リスク社会へと社会が変容したことやグローバル化などが挙げられた。ま
た、このような社会の変容に伴い、「危険、(以降、リスク)」の概念が変容してい
ることも認識できた。リスクは、世界的な経済悪化や貧困・飢餓・抑圧、阻害、差別
などの「構造的暴力」から非軍事的懸念としての感染症・環境破壊・不法麻薬取引・
人身売買・地震及び津波をはじめとする自然災害・テロ・難民の流入などの社会諸問
題などへと広がりを示していた。このようなリスクは新しいものではなく以前も存在
しており、かつては社会的システムで対応していた。
しかし、冷戦の終了やグローバル化により、危険は国家の範疇を超えて広がり浸透
するようになったため、これを安全保障問題として捉え、かつ、軍隊が取り組み対処
するという考え方がうまれた。このような社会問題としてのリスクまでも安全保障の
対象とするようになった要因として、軍隊の生き残りをかけた論理が冷戦直後は取り
沙汰されたこともあった。他方、現実問題として、ベックやガルトゥングが指摘した
社会問題としてのリスクが、例えば地域紛争や自然災害や大規模感染症などであるが、
市民の生活を脅かすようになっており、これらリスクが安全保障の問題とされる際、
非伝統的脅威として捉えられるようになった。伝統的脅威とは、国同士の争いにまで
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発展するような脅威のことであり、非伝統的脅威とは、そのような国同士の争いとし
てではなく、所謂戦争以外の軍隊の活動の対象となる脅威を指す。
軍隊を取り巻く社会は、社会におけるリスクの顕在化、それが冷戦後グローバルに
進展するのに、各国は財政状況の逼迫といった国内問題のため対応が後手に回ってい
るという状況にある。それゆえ軍隊に対し、戦争以外の軍隊の使用形態や使用範囲が
求められるようになった。その使用も1国家ではなく、グローバルな連携を必要とし
ていた。
そして、現在の軍隊の状況を形作るものとして、軍隊の使用形態と使用範囲の変容
も背景に挙げられた。その変容は、社会問題としてのリスクへの対応、人道的軍事介
入(保護責任論)、強靭な平和維持活動といった分野における軍隊使用であった。
軍隊の使用が、このような分野にまで拡大し、それに伴い、軍隊の使用形態も変容
することになったことは、軍隊が MOOTW において使用されることと、その使用が、
非軍事部門との調整を前提とすることを意味した。すなわち、軍隊の使用形態や使用
範囲が変容したことで、民軍協力の在り方がクローズアップされ、軍隊と、警察とい
った軍隊以外の組織やその他の行政機関・国際機関・地域的超国家組織の文民や市民
社会(現地および国際非政府組織(Non-Government Organization: NGO、以降、NGO)
など、増加する多様な行為主体(以降、アクター)が同じ空間で活動する際、そのア
クター間の調整を、だれがどのように行うのかという問題が解決されるべき喫緊の課
題となった。
このような増加するアクター間の調整は、各アクターの独自性と、独立性が尊重さ
れる範囲での実務的な情報交換、および軋轢の回避といったことを要求した。このよ
うなパートナーシップという緩いネットワーク状の協力関係は、冷戦終了後の軍隊の
使用形態の変容に伴い生じたものであった。このネットワークにおいては、民と軍そ
れぞれが、本来の活動領域を越える形で使用されている。
軍隊の使用形態および軍隊の使用範囲の変容や拡大を中心に、主要国の軍隊の状況
を俯瞰するとともに、それらの軍隊を取り巻く社会状況などの背景を考察すると、軍
隊の使用形態や使用範囲が、戦争以外の活動へと主軸をシフトさせていることが理解
された。このような変容は、しかし、軍隊の在り方が、「権力政治」の道具としての
役割から変わったことを示唆するものではなかった。
マキアヴェッリが発見・体系化し、クラウゼビッツが軍事思想として明確に理論化
した権力政治の道具としての役割は、様々な形で定義づけられ、論じられている。し
かし、その国の軍事方針を決定する基本となる軍事思想には、各国とも独自のものが
あろうが、その戦略・戦術は総じてクラウゼビッツの影響を受けたものであるといっ
て過言ではない状況であった。主要国間の大規模戦争の可能性が顕著に低下した冷戦
後においても、第1次・2次両世界大戦期やそれ以前と同様に、軍隊が国家の近代化
の中で、国益追求の重要な手段として存在し続けていたのである。この点が、たとえ、
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MOOTW であろうが、軍隊の使用の基本となっていることを表していたのである。社
会にとって、現在も過去も、軍隊は、そこで生活する人間一人ひとりにとり、強力な
破壊力を持つ非人間的な存在として、国家が対外的には自らの意思を他国に強要する
物理的強制手段として存在していたのである。したがって軍隊の使用形態と使用範囲
には、権力政治が通底しているといえよう。
そこで第二章では、政治史の枠組みにおいてばかりでなく、経済史、社会史および
文化史の枠組みにおいても軍隊を研究する。戦争をはじめとする軍隊に関するものご
とは、人間の経験全体の一部であり、その各部分は互いに関係付けることによっての
み理解できる(Howard 1976=ハワード 2010: 3、61)。これは、第一章を深めるこ
とにも繋がる。したがって第二章は、時代ごとの社会状況に焦点を当てるとともに、
権力政治と軍隊の歴史的展開について足跡を辿る。
まず、マキアヴェッリが如何にして社会における軍隊の在り方を定式化したかにつ
いて、当時の群雄割拠により混乱したイタリアの情勢を通して考察する。その際、マ
キアヴェッリの思想的展開をもたらす契機となった、古典古代への回帰、すなわち、
当時のルネサンス社会において、古代ギリシアや古代ローマの文芸書の価値が再発見
されたことに注目する。また、ルネサンスの人文主義及び科学合理主義から、人間の
神からの解放がもたらされ、思想的発展と科学技術の進展が生じたことにも注目する。
ビザンチン帝国の崩壊、ルネサンス、そして、イスラム教国との交易が契機となり、
社会において人間中心の規範ともいうべきものが生じたことで、マキアヴェッリが権
力政治を発見し、権力政治の力を支える道具としての軍隊という役割を体系化したこ
とを考察する。
次に、マキアヴェッリの思想とともに、ルネサンスのもう一つの落とし子である人
文主義から啓蒙思想が芽生えた思想的系譜を辿る。人文主義は、啓蒙思想が波及する
中で、権力政治に影響し、これを先鋭化させた。そして、ルネサンスの人文主義及び
科学合理主義といった人間を中心とする進歩思想は、後の時代である 18 世紀の人文主
義とも称される啓蒙思想に繋がり、人間の「神からの解放」や神に代わる「理性の時
代」への橋渡し的役割を果たした。こうして開放された人間は、社会全体における特
に、富裕な中間階層に属していた。彼ら富裕な中間階層に属する人々は、人間が生ま
れながらに自由で平等であることに目覚め、自分たちの人道や人権に関心を持つよう
になった。一方、富裕な中間市民層の情熱が、絶対君主の支配する旧体制を終焉させ
るという社会変革を現実のものとし、市民社会を誕生させたことで、人間の生活世界
は恩恵を被った。すなわち啓蒙思想は、自由・平等・博愛という啓蒙思想の精神を浸
透させることで、君主制下での従属的意識から市民層を解放したばかりでなく、彼ら
に国民意識を芽生えさせ、国民国家誕生の道筋をつけた。この啓蒙思想の波及効果の
一環として、米国の独立と仏の革命があった。
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そして、権力政治とナショナリズムとの共鳴の最大の結果ともいえる帝国主義的対
外膨張政策が世界を席巻する中、自由民主主義から全体主義と独裁が生まれるととも
に、市民社会の自由と平等が侵食された過程を考察する。
最後に、帝国主義の蔓延する国際社会から第 1・2 次世界大戦を経て冷戦時代の核兵
器の支配する世界までの間を、権力政治がいかに展開したかを読み解く。
第一節
権力政治と軍隊
第一項
権力政治の発見の契機
ローマ帝国滅亡後の西欧では、社会は閉塞状況に陥り、人間不在であり人間疎外の
社会現象が蔓延していた。当時の社会すなわち封建社会においては、人々は戦争や略
奪や流行病に常に脅かされ、豊かでなく、人口の大半を占めていた農民は、4人に1
人が栄養失調で死んでいた(会田 1996: 23)。
封建時代というものが、必ずしも昔から言われているような暗黒時代ではないと
は、近来の歴史研究が充分すぎるほど証明している。・・・当時の人口の大部分
を占める農民は、たえず飢えにくるしみ、戦争や掠奪や流行病におびえてい
る。・・・そのような農民には、ほとんどなんの楽しみもない。宗教だけが救い
だ。十二世紀になると、多くの都市が栄えてくる。そこでも立派なのは寺院だけ
である。だが、その寺院も現実の人生の楽しみを説いているわけではない。・・・
十字架にかけられたキリストの悲しげな顔や、必ずといってよいほど目を伏せた
マリアの姿は、このような人間の生活の苦しさをなげいているようである(会田
1996: 23)。
こうした社会には、ほとんど楽しみもなく、現世の苦しみを救うキリスト教が、生
きていくうえでの中心をなした。また、このキリスト教スコラ学と封建制度とが結び
つき、家長である自由人の取引や政治が、社会に影響を及ぼした。
その結果、人間性を否定する神のための現世として、社会が捉えられていた(会田
1996: 24)。ルネサンスは、こうした社会現象から人間を解放し、人間性を回復させ
た。
ルネサンスは封建的な社会からの解放なのだが、人々が特に束縛として意識した
のは、古い社会の道徳原理となっていた教会とその掟であった。ルネサンスは教
会の理念からの解放だといわれるが、別に信仰心がなくなったわけではない。
・・・
かれらの癪にさわったのは、とくにその人間性に反した(カトリックの2)道徳律
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だったのである。人間性に反した道徳律なのだから、完全実行はほとんど不可能
である(会田 1996 : 27)。
ルネサンスの人々は、このような不条理な教えに率直な反感を感じた。そのよう
な立場でみれば、このような、自分自身では実行できないし、してもいない教義
をという人々は偽善者でなければならない。ルネサンスには、各種各様の思考や
思想、主義、主張が展開した(会田 1996 : 28)。
このように、ルネサンスにおいては、古代ギリシアにおいて行われていた、従軍す
る市民の政治参加の精神的支柱といわれる自由討議精神が、再認知・復位・復権・前
進することに繋がった。それは、商業活動により力を蓄えた市民が、その財力を背景
に、教会や封建領主などの支配者たちに、自分たち市民の意思を主張し始めたことが
発端となったものであった。
特に、イタリアの都市国家において、こうした現象は顕著であった。なぜなら、イ
タリアの都市国家は、ビザンチン帝国やアラビア、さらには東洋との間での貿易を行
っており、これにより、財力を蓄えていた。そのため、イタリアの都市国家は、その
他のヨーロッパの地域に比較して、市民層が厚く存在していた。したがってイタリア
の都市国家では、経済的基盤を背景に、市民層が自分たちの意思を主張しはじめ、政
治に参加した。
その一方、イタリアでは、その全域を包括的に支配する国家は存在しなかった。そ
のため、都市国家同士の対立に、ローマ教皇や外国勢力が介入し、戦乱が絶え間なく
継続するという、不安定な状況であった。イタリアの都市国家では、経済活動と財の
蓄積に力が置かれていた。これは、ヨーロッパの人口が増加したため、その結果商業
活動が盛んになるとともに、金融業も活発化していた。こうした状況下で、ビザンチ
ン帝国やアラビアや東洋と貿易する地の利のあるヴェネチアなどは、経済活動と財の
蓄積に第一の価値を置き、邁進した。
他方、これら都市国家の軍事は、外交力を使って、フランスなどの絶対君主国の軍
隊、あるいは、傭兵を雇うことで対処した。例えば、フィレンツェは 1499 年、ピサ
奪回のため当時最強の軍隊を保有したフランス国王の軍隊を雇うため、外交使節を派
遣しフランス王との間で協定を結んだ(藤沢 1999: 8-9)。
都市国家の富裕な市民層や支配者は、軍隊の軍事活動ではなく、商業活動や外交に
対し、価値を置いていたのである。このことは、イタリアにおいて戦乱が継続した要
因の一つでもあった。
こうした社会状況の下で、戦いを請け負う組織として、大きく分けると傭兵と絶対
君主の軍隊の2つが挙げられる。
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傭兵の代表的なものとしては、イタリアの都市国家での戦闘におけるものが挙げら
れる。一方、絶対君主の軍隊としては、フランスの軍隊が挙げられる。しかし、17 世
紀に至るまでには、貴族から構成される将校の下には、傭兵が下士官や兵隊として存
在していた(Howard 1976: 24=2010: 52)。
傭兵は、金銭で戦争を請け負うことから、自軍の損害を避けるため、決戦をお互い
に避けた。傭兵同士の戦争では、チェスのような戦争が行われた。
傭兵は、12 世紀に既にイタリアで活躍しており、雇人は富裕なイタリアの都市国家
であった。また、十字軍の盛んな時代にも、傭兵は盛んに用いられ、14 世紀になると、
十字軍の隊長とともに捨てられた外国人騎士団が傭兵になり、英仏百年戦争などにも
参加した(Howard 1976: 25=2009: 53)。
14 世紀末までに、イタリアでは、自国の兵士より傭兵を雇うことの方に利点を見出
し、盛んに傭兵隊長の旗下に軍隊を組織化し、都市国家間の戦闘に従事させるように
なった(Howard 1976: 24-25=2009: 53-54)。
マキアヴェッリは、フィレンツェ政府の役人として傭兵の監督をした。そこで、マ
キャヴェッリは、傭兵が、フィレンツェの利益ではなく、傭兵自身のための金銭的利
益を優先するという現実を目の当たりにした。
また、当時のマキアヴェッリは、フィレンツェの外交使節として、フランス宮廷と
外交交渉でピサ問題を解決しようとした3。
ピサ問題は、「ピサの奪回」という軍事問題と取り組むことであった。ピサは、ア
ルノ川の河口にある海港で、フランス軍がフィレンツェに侵入した混乱を利用して、
フィレンツェの支配下から独立した(藤沢 1999: 5-11)。
ピサの攻撃には、色々な計画がめぐらされ、その水上輸送を断つため、アルノ川の
流れを変えるということまで発案された。しかし毎年冬が近づいて、軍事行動が困難
になる時が来ても、ピサは陥落せず、そのまま残っていた(藤沢 1999: 8)。
この失敗は、当時のソデリニ政権に対する、市民の不満となって表れたのみならず、
フィレンツェの権威の失墜にもつながったため、また、長期に亘る傭兵の雇用は国庫
と納税者に負担となったため、戦況の打開策が様々施された(藤沢 1999: 8)。
その中には、能力のある市民から構成される市民軍・国民軍(以降、民兵)の編成
という案もあった。民兵は傭兵隊の補助の地位にすぎなかったが、民兵が参戦したこ
とで、フィレンツェは、最終的に、ピサの奪回に成功した(藤沢 1999: 9)。
マキアヴェッリは、1498 年から 1512 年まで、ソデリニ政権において、フィレンツ
ェ政庁第二書記局長として政治運営に携わっていた。ピサ問題について、特使として、
フランスに派遣され、フランス軍の支援を引き出す外交活動に従事した。しかし、フ
ランスは自国の利益のために行動し、フィレンツェとの約束は無視されるという厳し
い現実に直面した(藤沢 1999: 14-16、33-36)。
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これらの経験から、マキアヴェッリは、傭兵制はフィレンツェの共和制を守らない
ということを学んだ。つまり、フィレンツェの共和制を擁護するためには、古代ロー
マの伝統である民兵を作る必要があると認識した4。
マキアヴェッリは、古代ローマを理想とし、古代ローマの共和制を研究し、その共
和制を当時のフィレンツェに復活させることを目指すようになった。
こうして、ビザンチン帝国の崩壊、ルネサンス、イスラム諸国との交易がもたらし
たところの人間を中心とする精神は、すべての物事から、神の影響を取り除き、近代
の開幕へと道筋を付けることとなった。
政治における力の要素の重要性を発見し理論的に体系付けたマキアヴェッリも、こ
の流れの一環にあるといえよう。
第二項
権力政治の発見と軍隊
神権思想から脱却し、人間を中心とする精神に裏付けられた、新たな社会における
政治の本質に関する思想を打ち出したのは、マキアヴェッリである。
マキアヴェッリに対し、『君主論』および『リウィウス論5』は、露骨な世俗主義を
内容とするため、「悪魔」「暴君」などの代名詞が与えられた(佐々木
1970: 3)。
たしかに、16~17 世紀におけるマキアヴェッリ解釈の主流は、国家権力を、国家理
性の名の下に行使することであり、『君主論』を重視しての解釈であった。そのため、
道義や倫理を無視した冷酷な権力論がその解釈の主流となっており、聖職者からは異
端の書として発禁処分を受けたり、善良な人々からは邪悪な書として捉えられたりし
た(厚見 2004: 3、佐々木 1970: 3)。
これに対し、19 世紀に入ると、『リウィウス論』を重視したマキアヴェッリ解釈が
登場した(佐々木 1970: 4-5)。
そこでは、人間が「自由」の讃美者として登場し、こうした「人間」が、フランス
革命やナポレオン戦争によるドイツやイタリアのナショナリズムの興隆と相俟って、
国家統一の問題との関連で論じられるようになった。
マキアヴェッリの解釈は、時代とともに重視される面が変化した(佐々木 1970: 3)。
しかし、マキアヴェッリの本質には、一貫した共和制に対する信奉がある6。また、
「政治の発見者」「国家の運動法則の発見者」と呼ばれるような科学合理的思考に基
づいての政治、すなわち政治における力の重大性の発見というものが、マキアヴェッ
リにはあった(佐々木 1970: 3-5、永井 1998: 345)。
言い換えると、マキアヴェッリは、カトリックの普遍的秩序ではなく、国家がそれ
ぞれ異なる利害に従って行動するという「国家理性」を説いた初めての人物であった7。
この点からマキアヴェッリの著作である『戦争の技術』、『リウィウス論』、『君
主論』などを俯瞰すると、混乱するイタリアを安定化させるには、古代ローマの共和
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制の再現と、それを支えた市民が主体となった軍隊、すなわち民兵が必要と考えてい
たことがうかがえる。
マキアヴェッリは、当時のイタリアが、ローマ法王のアビニョン幽囚のため、ロー
マ法王庁の支配力が衰退し、諸都市国家が群雄割拠する混乱に陥っていたため、君主
の力が脆弱な一方、富裕な市民層は自治獲得運動を起こすほど力を有するという状況
であることを憂いていた(永井 1998: 339-340)。
マキアヴェッリの『戦争の技術』や『君主論』によると、軍事制度として、傭兵や
外国支援軍隊を否定して、民兵を推奨している。
マキアヴェッリは『戦争の技術』において、傭兵や外国からの支援軍隊を主体とす
る軍隊の危険性に言及する一方、君主の意のままに動く民兵が当時の混乱するイタリ
アの安定化には必要であると説いた(Machiavelli=服部・澤井 1998: 101-102,103,
105)。これは、民兵が規律と秩序を尊重することから、社会秩序を保つために有効
であると考えたからである。そこで、古代ローマの共和制にその範を見出し、市民か
ら成る民兵軍を土台とする軍事力の重要性を説いた(前掲書 107)。民兵に重要性を
見出す主張は、マキアヴェッリの『君主論』においても説かれており(Machiavelli
=池田 1998: 46-47,97)、このことからマキアヴェッリの主張は、「共和主義」に
もつながる面もある。
しかし『君主論』において、政治の本質を「支配―被支配関係」
(田村 2007: 322)、
すなわち「統治の核としての強制力」(佐々木 2012: 178-181)と見ている。そのた
めに、軍備が不可欠であるという主張を結びつけて考察すると、マキアヴェリの見解
は「軍隊が権力政治の道具」という主張に読みとることができよう。マキアヴェッリ
は混乱の要因を、権力の弱さや権力を支える軍隊が外国人の傭兵から構成されている
ことなどに着目し、それを脱却するには、政治に参加する市民による政体の守護とい
う共和制による統治が理想だとした(佐々木 2004: 56-59)。
こうしたマキアヴェッリの共和制による統治を理想とする思想は、マキアヴェッリ
がヴェネチアとフィレンツェの都市国家の歴史的展開を比較検討した結果によるもの
である(佐々木 2004: 56-59)。それによると、ヴェネチアは、イタリア都市国家の
中でも、少数貴族による寡頭制共和制という共和制を再生させていた。一方、フィレ
ンツェは、独立自営の中産階級市民による共和制の政体をとったことがわかった。
以下では、ヴェネチアとフィレンツェの歴史的展開を比較検討する。
(一)ヴェネチアの歴史概観
ヴェネチアは、5、6世紀に、フン族やランゴバルト族の侵入を避けて、アドリア
海北端の干潟の島々に移り住んだ人々が、811 年のフランク王国の脅威を避けてリア
ルトの地に移ったのが始まりである。
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ヴェネチアは、10 世紀後半からビザンチン帝国や東方諸国との貿易によって繁栄し、
11 世紀以降、地中海の各地に植民地を拡大した。十字軍の遠征に際しては、戦争特需
で勢力を強め、15 世紀に繁栄期を迎えるが、その後半以降、ビザンチン帝国の崩壊、
オスマン・トルコの拡大、スペインやフランスといった絶対君主制国家の成長、新大
陸や新航路の発見、オランダやイギリスの成長などによって、次第にその勢いを失っ
た。
このようなヴェネチアでは、寡頭制的共和制の政体がとられていた(藤沢 2001: 92)。
その際、注目すべきは、少数の支配貴族である富裕な都市商人が構成する大評議会が、
国家の長であり軍隊の最高司令官である終身制の総督を選出したことである。この少
数の支配貴族は、ヴェネチア総人口 20 万人の中の 2 千人と、その1%に過ぎなかっ
たが、交易で財を成しヴェネチアの繁栄を支えた都市貴族の力は強大であった。した
がって結束した都市貴族の力の前では、総督の力は限定的なものとなった。
大評議会による総督の選出は、談合によって特定の家系に権力が集中することがな
いよう、くじ引きと協議による選別とを組み合わせた選出手続きが取られた。また、
大評議会が重要な法案の承認権限を持っており、ここからつくられた元老院は一種の
内閣として機能しており、他方、警察・司法は十人会議が担当するなど、重要機関が
相互にチック(監視)しあう仕組みが取られた。
しかし、ヴェネチアの共和制は、少数の支配貴族による寡頭制であり、古代ローマ
の共和制とは質的に異なるものであった。したがって、ヴェネチアでは、独立自営の
中産階級の市民が核となる民兵の思想が展開することはなかった。
(二)フィレンツェの歴史概観
フィレンツェの歴史は、紀元前 283 年に古代ローマ軍がエルトリア人からフェレス
という名の都市を奪い入植したことを始まりとする。やがて、そこから現在のフィレ
ンツェ近傍へ人々は移住し、町が形成された。1115 年、フィレンツェは、自治都市と
して自由を勝ち取り、1138 年からは、コンスル制による統治が始まった。
同時に、このころからフィレンツェは、国際的な規模での金融業、フランドル産毛織
物の販売、さらには独自の毛織物工業などで栄えた。しかし、ギルドに属す商人や手
工業者の一部は、旧来の都市貴族らの支配に対し反旗を翻し、13 世紀末には、ギルド
の複数代表者による統治体制に移行した。
14 世紀半ばには、一時期フィレンツェを支配したナポリのアテネ公を武力で排除し、
自由な共和制を確保した(Machiavelli=藤沢 1999: 64-65)。
フィレンツェは、14 世紀半ば以降、自分たちが自由な共和制を担った古代ローマの
末裔との自負のもと、広く市民に根差した共和制という思想に根差した政体を確立し
ていった(Machiavelli=藤沢 1999: 65-66)8。
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また、フィレンツェは、1215 年以来続いていた支配者との抗争がアテネ公を追放し
たことで片付くと、内政問題に取り組んだ。
人々は内政問題と取り組んだ。貴族と平民との間で多少の論争があった後、貴族
が執政府の3分の1と他の役職の半分を占めることとなった。すでに示したとお
り、これまで都市は 6 区に分割されており、そこから常に 6 人の総代が、各区に
1人ずつ選ばれていた。ただし、なんらかの非常事態のために 12 人あるいは 13
人選ばれた場合を除いてだが、その場合でもすぐに元の 6 人に戻された。そこで、
この部分も変えるべきだと考えられた。それは 6 区の分け方がよくなかったため
と、貴族の分だけ総代の数を増やしたいという望みがあったためである
(Machiavelli=藤沢 1999: 113)。
・・・こうした制度によってこの政体が確立され、もしも貴族が市民生活に要求
されるあの節度をもって生きることに満足しておれば、都市は静まったはずであ
る。しかし彼らは、それとは反対にふるまった。・・・貴族が宮殿から立ち去る
と、貴族の 4 人の顧問の地位も廃止され、結局、平民の 12 人の委員会となっ
た。・・・すべての政治が平民の意志によって左右されるように改革した
(Machiavelli=藤沢 1999: 114)。
貴族を打倒すると、平民は政体を再編した。平民には有力者、中流、下層の 3 種
類が存在したので、有力者が2人の総代を占め、中流と下層がそれぞれ 3 人ずつ
を占めることを定め、・・・(Machiavelli=藤沢 1999: 117)。
1395 年以来ヴィスコンティ家の、1450 年以降はスフォルツァ家の独裁下にあった
ミラノと争う過程で、古代ギリシアや古代ローマに通低する、「戦う市民による政治
参加」という思想を取り入れていった。
ミラノとの争いは、フィレンツェ側によると、自分たち自由な共和制都市と、僭主
政の都市であるミラノとの争いと認識され、その政体の護持に古代ローマ共和制の末
裔として、全力を傾けた。
共和国においては市民が名声を獲得する方法が2つあるということである。すな
わち、公的な方法と私的な方法である。公的には合戦に勝利するとか、都市を獲
得するとか、勤勉かつ慎重に使節の役目を果たすとか、懸命に成功裡に政府に対
して助言を呈することなどによって、名声を得ることが可能である(Machiavelli
=藤沢 1999: 326)。
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その結果、ミラノと対抗する中で、古代ギリシアのポリスおよび古代ローマ共和制
をモデルにし、自分たちの共和国を「独立自営の中産階級を核にした市民軍によって
守るということを主軸とする政治思想」が、すなわち、仲間と結束して確保する独立
性としての自由観念の再生がもたらされた。
フィレンツェは、1434 年以来、メディチ家の独裁下にあった。しかし、1492 年に
ロレンツォ・ディ・メディチが死亡し、1492 年にフランスのシャルル8世が遠征し、
メディチ家がフィレンツェから逃亡したことを契機に、民主的共和国への政変が起こ
り、中産階級にまでおよぶ 3,000 人の市民が政治に参加するようになった。1502 年か
ら、中産階級の市民の政治参加による民主共和制が開始され、定着するかに見えた。
しかし、その後のフィレンツェでは、従属下においてきたピサの自立などをめぐる
戦争や内紛で、政局が混乱し、スペインと組んだメディチ家の復帰により自由な共和
制は終了した。その後メディチ家の支配は、1737 年のオーストリア支配まで続いた。
(三)マキアヴェッリの権力政治における軍隊
当時、フィレンツェで民主的な共和制が敷かれた際、外交官として活躍したマキア
ヴェッリは、共和制の軍隊に関し、ヴェネチアとフィレンツェを比較検討した。その
結果、マキアヴェッリは、政治の担い手である中産階級の市民を軸に、政体を護持す
る軍隊の有無が、両都市国家の相違点となったことを導き出した。
この点に鑑み、マキアヴェッリは、新しい政治の概念、すなわち、古代ギリシアの
ポリス及び古代ローマの共和制を踏まえ、かつ、ヴェネチアとフィレンツェの歴史的
展開に鑑み、政治というものの新たな概念を提起した(佐々木 2004: 56-59)。
政治の新たな概念の内容は、特徴として3点あげられる。
第一に、政治における道徳の相対化、すなわち、政治における道徳性の重要さを説
きつつも、最後の手段としての非道徳性、政治における道徳の相対化をも念頭に置い
ておくということである。
第二に、政治とは集団を共同で運営するとともに、ヘゲモニーの掌握をめぐって展
開する関係、つまり「敵と味方の視点」の確立である。
第三に、政治の技術性を直視する眼を鍛えることということである。これらは全て、
古代ギリシアのポリスや古代ローマ共和制で体現されていたものであり、フィレンツ
ェの自由な共和主義が目指したものである。
マキアヴェッリは、この中でも、政治の安定化をもたらすものは、権力(政治)で
あり、それを支えるものとして力を挙げ、その力の中でも最高であり究極的なものが
武力、すなわち軍隊であるとして、実力を持つことを説いた(佐々木 2004: 30-31)。
このことは、当時として珍しいことであった。ただし、マキアヴェッリは、むやみに
実力を振りかざすことを肯定したわけではなく、その実力はあくまで最終手段として
70
使用されるものであり、それをむやみに行使しないで支配の効果を上げるためには、
政治の技術が重要であることを強調した(佐々木 2004: 90-95)。このことは、注目
に値する。
マキアヴェッリは、政治の担い手である中産階級の市民を軸にした、その政体を護
持することを目的とする軍隊の有無が、市民自身の精神の自由をも生み出すことを改
めて明確に言及した。
マキアヴェッリが体系化した政治の新たな概念は、それまでのヨーロッパの倫理的、
かつ、神権的な思想と絶縁し、神の力を否定した。そして、マキアヴェッリのこの概
念は、人間的打算を正直に取り上げるということをも基礎づけた(Meinecke 1957=
菊盛・生松 1960: 37)。
第三項
勢力均衡における抑制された軍隊使用
権力政治は、マキアヴェッリが初めて体系化した(Meinecke 1957=菊盛・生松
1960: 37)。そこでは、人間的打算が正直に取り上げられていたばかりでなく、国家
理性における権力(政治)を支える究極のものとして、軍事力の価値が認められてい
た。
マキアヴェッリの権力政治は、『君主論』において、権力をもつ君主は目的を果た
すためには手段を選ばないとして、権力が一番大事だとし、非道徳的な手段の行使を
権力の獲得、増大、維持の技術として、暴力(軍隊)の集中を説いたように、それは
リーダーの心得でもあった。つまり、マキアヴェッリは争いに勝ち、支配するものが
持つことのできるところの非道徳的暴力行使も可能にするものを、権力とした。
マキアヴェッリの近代性は、道徳(アリストテレスが「徳」としていたもの)に政
治が従属するべきであるという政治理論を変えた点にあるとされる。
マキアヴェッリは、支配と被支配という権力に基づいて政治や軍隊を論じることを
通して、権力政治とその権力を下支えする道具としての軍隊を定式化した。権力政治
の思想は、その後のヨーロッパの歴史において、パワー・ポリティクス、あるいは、
レアル・ポリティクスとして引き継がれ、現在に至るまで有力な思想の一つとして展
開しているのである。
こうしたマキアヴェッリの思想の意義は、権力政治を力の行使の観点から考察した
点にある。この考えを実現するため、マキアヴェッリは、フィレンツェに民兵を創設
した。しかし、この民兵は、スペインの絶対君主制の軍隊に敗れた。その原因として、
民兵の訓練が十分でなかったことなどが挙げられるが、マキアヴェッリは、こうした
経験から、自由な市民による都市国家が、強力な武力を保持しなければ、その自由と
独立を維持できないことを改めて認識した。
71
権力を支える究極のものとしての軍事力の価値は、マキアヴェッリのみならず、ス
ペイン軍に大敗を期したフィレンツェ自身が実感したものであった。
アントニオ・ブルチオーリの『共和国論』では、軍人が社会におけるもっとも名誉
ある地位を約束されており、社会において、力というものに対する大きな変化が生じ
た(永井 1998: 345)。
このようなマキアヴェッリ自身の体験やフィレンツェ社会の変化が進展するに伴い、
マキアヴェッリの思想が深まり、その成果の一つとして、君主論が執筆された。
マキアヴェッリの権力政治は、マキアヴェッリの時代のみならず、その後の近世以
降においても、キリスト教会のみならず世俗からも、国家理性のあくなき追求におけ
る試みとして、非道徳的であるのみならず狡猾すぎるなどという批判を受けた(佐々木
1970: 5)。しかし、マキアヴェッリの権力政治の本質の一つである、時期を選んだ適
切な力の行使は、軍隊の使用形態において反映され、浸透していった(岡 1993: 11)。
マキアヴェッリ以降の欧州においては、絶対君主制が隆盛を極め、絶対君主である
国王により、権力政治が繰り広げられた。ただし、その権力政治は、勢力均衡を特徴
としていた。
この時代のヨーロッパ諸国によって平時の外交において常に考慮におかれ、戦後
の平和条約作成にあたって重要視されたものの一つに、勢力均衡(Balance of
Power)の原則がある。この勢力均衡の原則なるものは、実は本来的には「平和
を保全したり、国際的平和に役立たせようとして工夫されたものではない。単に
国際社会を構成しているある単位国家の力が増大して他を脅かすようになるのを
防ぎ、それによって国際社会の各単位国家の独立を維持しようとして工夫された
もの」にほかならない(岡 1993: 20)。
そのような勢力が均衡した中において、軍事力は抑制された使われ方をしていた。
この時代の軍隊は、将校は貴族層出身者から構成される一方、兵士に関しては傭兵
制が採用されており、必ずしも自国人民の中から募られたのではなかった(岡 1993:
17-18)。また、傭兵制の下においては、募集が容易ではなく、財政的負担もかなりな
ものであることから、軍隊は数においては、大きなものではなかった(岡 1993: 17)。
さらに、この時代の戦術も、将軍たちは戦争において、自軍の死傷をできるだけ少な
くしようとして、敵軍と正面衝突することをできうる限り回避することに努めた(岡
1993: 18)。
少なくともこの世紀の前半の間は、戦争はなお相続権をめぐる個々の諸侯の間の
個人的争いから成っていたのであり、民族間は言うまでもなく、いかなる意味に
72
おいても、国家が自分の利益と見なすものをめぐる、国家間の対立ではなかった
9
(Howard 1976: 21=2010: 47)。
この時代の軍隊使用は、抑制されたものであり、相手の徹底的せん滅を目指すよう
な戦い方はなされなかった。その軍隊の使用形態は、相手を降参させることを目的と
し た 、 将 棋 や チ ェ ス に お け る 封 じ 手 の よ う な も の で あ っ た ( Howard 1976: 61,
73=2010: 107, 125)。
したがって、無用な殺生や市民を巻き込んでの戦闘は望まれていなかった。
このような抑制された戦争は、「度を過ごさず決着を付けない戦争(temperate and
indecisive contests)」
(Howard 1976: 61=2010: 107)あるいは「王の戦争」
(Howard
1976: 73=2010: 125)と称されている。国王が雇った専門的な職業軍人は、国家の倉
庫から必要なもの全ての供給を受け、同じ専門軍に対して戦闘をし、自制と技術を持
って作戦できる将軍によって指揮されていた(Howard 1976: 61=2010: 107)。市民
の役割は税を払うことであった。そのため、こうした戦い方は、チェスのゲームに喩
えられた。軍隊は陣立てを作り、それを動かして有利な位置に立とうとする一方、そ
うした作戦ゲームで不利な位置に立ったほうは、さっさと撤退するか、または敗北を
認めて、しかるべき代償を支払う(高坂 1966: 33)。こうした戦い方が、長らくヨー
ロッパを支配していた。この時代は、ヨーロッパにおける絶対君主制と重なっている。
絶対君主の時代は、君主同士の権力争いが、君主の私的財産としての君主の軍隊を
使用して、君主の私的財産である領土をめぐっての戦いとして表れた。そこでは、政
治は、君主同士の駆け引きであり、領土ごとそこに住む人々も含めてやり取りがなさ
れており、住民の意思は無視されていた。
このような絶対君主の時代においては、抑制された「王の戦争」の担い手である外
国人の傭兵および貴族将校から構成される軍隊は、市民社会からかけ離れた存在であ
った。
したがって、軍隊や、軍隊の使用者である君主は、市民の価値観や利益を擁護し実
現することを目指していないことは明らかである。国家は君主ひとりの価値や利益の
ために存在し、絶対君主制においては、国民は君主個人の隷属物であった。
73
第二節
ナショナリズムと軍隊の相互作用
第一項
市民軍の再生
(一)18 世紀の社会
ルネサンス10に淵源をもつ啓蒙思想は、絶対王政における国民が君主個人の財産の
一つという関係を変化させた。ルネサンス以来の人文思想の流れをくむ自由討議精神
は、教会の支配から人間を解放した(渡辺 1992: 15)。
人文思想は、批判のみで現実を変える力を有しておらず、無力なものに過ぎないと
いわれることもしばしばである。しかし、批判し通すことは容易ではなく、現実を構
成する人間の是正、制度の矯正を着実に行うことは、現実を性急に変えようとして、
様々な政治的経済的な利害関係と結びつき、現実変革の方法に闘争的暴力を導入して
多くの人々を苦しめることよりも、はるかに困難を伴うものである。
また、一見無力に見える人文思想は、決して無力ではない。例えば、ルネサンスに
おける暴力を伴ったキリスト教の新旧両派の流血の対立は、単なる教義の上での対立
であって、現在、新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)とが暴力的に武
器を手に殺しあうというような対立は収束した。
これは、人々が、同じキリストの名の下で殺しあうことが不毛で何ものをももたら
さないことを悟った結果である。宗派の違いによる殺戮が、キリスト教徒にふさわし
くないということや、非人間的な激情を抑制する自覚を人々に与えるのに役立ったの
は、余り表面化していないが、人文主義の目立たない働きによるといえよう。
ルネサンス人文主義の運動と宗教改革の運動とはいずれも復古の動きである点で
は一致している。一は古代の学芸を、他は初代キリスト教を復活しようとするの
である(野田 1963: 104)。
人文思想は、人間性をゆがめるものに対する批判を通して、人権や人道といった思
想の意義を悟らせ、生き方を人間的なものとした。これにより、中間層の市民達が、
商業活動に忌憚なく専念できるような精神的支柱が与えられた。そして、中間層の市
民達に経済的な繁栄をもたらした。すなわち人文主義は、人間が正しく幸福に生きら
れるようにするためという根本義を世に知らしめるきっかけを、人々に投げかけたの
である。
このような人文思想は、16 世紀のイタリアで生まれ、17 世紀のオランダの神学者
であるエラスムスが代表者として存在する11。その後、人文思想は、18 世紀の革命思
想として、特にフランスで発展した(安達 2008: 18)。
74
さて、啓蒙思想は、この人文思想の流れを汲むものである。啓蒙思想は、神ではな
く人間をあらゆるものごとの中心に据えた考え方をとる。ゆえに、近代人文主義とも
称される。
啓蒙思想には、統一した学説が全くありませんでした。それは、無神論者、理神
論者、プロテスタント、カトリックを含み、貴族主義者、民主主義者、啓蒙専制
主義の信奉者を含み、観念論者と唯物論者、デカルト主義者と反デカルト主義者、
隠遁的な学者と戦闘的な伝道者、賢者と愚者とを含んでいたのです。偉大な啓蒙
思想家の中にも、啓蒙思想の完全な典型であるような人物は殆どおりません。し
かし、それにも拘らず、それが 1 世紀に亘り、一大陸に広がっていたことを考え
ま す と 、 啓 蒙 思 想 は 明 ら か に 首 尾 一 貫 し た 自 覚 的 な 現 象 で あ っ た の で す 12
(Brumfitt 1972: 13=1985: 14)。
ブラムフィットが説明しているように、啓蒙思想は単一のものではなく、思想家に
よってその主張は様々であった(桑原
1983: 32、Brumfitt 1972: 13=1985: 14)。
しかし、18 世紀から 1 世紀の間、ヨーロッパ大陸に広がっていたということは、啓
蒙思想が首尾一貫した現象であったことを窺わせるものであろう。また、ヨーロッパ
大陸を通じて、人々は、自分たち自身及び仲間を啓蒙するという共通の目的で結びつ
いており、彼らが何らかの問題で一致するなどということはなかったものの、一つの
明瞭な国際問題を起こすに足るものを共有していたともいえよう(Brumfitt 1972:
13=1985: 14)。
啓蒙思想の大まかな姿は、説明可能である。
啓蒙思想の特徴として、伝統の権威の拒否がまず挙げられ、ここから、科学的分析
的方法へと繋がり、人間性の分析の方法や市民社会の改革の方法が導き出された
(Brumfitt 1972: 13-18=1985: 15-21)。その結果、迷信、不寛容、ドグマを拒否し
ながら、しかも宗教思想の長所を残しつつ、人間の悟性を強調する数学および物理学
の分野を大きく発展させた(Brumfitt 1972: 18=1985: 19-20)。
その(啓蒙思想の)根本は、人間の理性と善意への揺るがぬ信念に支えられた批
判の精神であって、当然、人間の自由を圧迫する絶対主義的な権威の否定へと向
かう。しかもそれが、たんなる教養としての知識にとどまらないで、実践をめざ
すものであることが、啓蒙思想の特色である(桑原 1983: 33)。
啓蒙思想が、ルネサンス期の人文思想と異なる点は、近代科学、それを応用した技
術の確実な歩みをその考えに取り組んだ点にある。これは、18 世紀版人文思想として
の啓蒙思想を新しい進歩的人間主義にした。ルネサンスの人文思想は、宗教的な問題
75
をその批判の中心においていたため、キリスト教にゆがめられた人間の開放という点
で意義があった。
これに対し、18 世紀版人文思想、つまり、啓蒙思想の根本は、人間の理性と善意へ
の揺るがぬ信念に支えられた批判の精神であった。したがって、その根本は、人間の
自由を圧迫する絶対主義的な権威の否定へと向かった。しかも啓蒙思想は、単なる教
養としての知識に止まらず、実践を目指すものであったことにその特徴があった。
18 世紀の社会では、ルネサンスにおける人間中心主義により、宗教の影響は中世の
社会と比べるとさほど大きいものではなかった。しかし、18 世紀の社会においては、
依然として、キリスト教の影響力が残存し、生活の全てを律する程であった。そのた
め、啓蒙思想は、政治のみならず宗教に対しても、批判的姿勢をとった。
また啓蒙思想は、キリスト教が人間を抑圧するものとして批判した。キリスト教の
中でもカトリックが批判の対象であり、腐敗ぶりを世間に露呈することで、その権威
を否定しようとした。啓蒙思想は、キリスト教的禁欲主義を退け、人生の目的はこの
世で幸福を追求することだと説いた13。
そして、人間は理性を働かして努力さえすれば、無限に進歩するものだと考えられ
た。啓蒙思想では、科学の進歩による社会の成長を先取して、楽観的進歩主義に立つ
のである。
他方、18 世紀の社会では、不道徳と不幸が蔓延しており、人々を支配していた。そ
の責任の所在について、啓蒙思想は、キリスト教の原罪の思想をまったく考慮しなか
った。神はこの世をつくったかもしれないが、その上にできた人間社会は、人間がつ
くったものであり、責任は人間にあるとした。また、人間が社会を自分の手で作った
ものである以上、これを改造できないはずはなく、人間は理性を働かせて正しい社会
をつくり、自分達人間を幸福にする義務があった。
神はこの世を作ったかもしれない。しかし、その上にできた人間社会は、まさに
人間が作ったものである。責任は人間にある。自分の手で作ったものである以上、
これを改造できぬはずはない。いや、人間は理性を働かして正しい社会を作り、
自分たちを幸福にする義務がある(桑原 1983: 34-35)。
ここから啓蒙思想は、社会は改良しうるものという考えを導き出した。この観点に
啓蒙思想がたっていたため、停頓した不合理の支配する絶対君主制の時代において、
社会変革の契機となりえた。
本来、社会を支配してきたのは、最強の集団である。これは歴史が証明している。
同じことが 18 世紀の絶対君主制の時代にも生じたのである。18 世紀までは、貴族と
君主が最強の集団であることに疑いようがなかった。しかし、中間層の富裕な市民達
76
の力の方が上回るようになれば、君主や貴族の支配に従属しているはずがないのであ
る。力関係の逆転は何らかのきっかけで表面化するものである。
啓蒙思想は、この力関係の逆転を思想的に支えた。啓蒙思想は、人間の価値は生ま
れでなく個人の才能と実力によって決まるという市民的立場の思想である。旧体制社
会の中で特権を享受していた貴族や大貴族の中にさえも、一部同調が出るほどの支持
を得た。これに対置されるのが、この世で一番大事なのが生まれや血筋であり、これ
で全てが決まるという君主と貴族の社会では当たり前の、身分制の思想であった。
また、啓蒙思想が暴力的手段によって目標に達することを想定していなかった点は
重要である。啓蒙思想は、人間がたどりつくべき目標を提示し、その目標には理性的
人々のコンセンサスによって自然に到達できるものと考えられた。
(17 世紀には停滞、いや、下降の状態にさえあった農業生産は、18 世紀になる
と14)特に、西ヨーロッパ諸国は、商業の繁栄という点で空前の発展を遂げまし
た。こういう発展の全部が、未曾有の明るい光の中で社会的進歩の可能性という
ものを考える地盤になったのです15(Brumfitt 1972: 19=1985:22)。
啓蒙思想が最初に根を下ろしたのは、中産階級の数が最も多く、力が最も強かっ
た国々――イギリス、オランダ、フランス、そしてドイツの一部――だったのです。
つまり、啓蒙思想に最大の貢献をしたのはブルジョアだったのです。また、啓蒙
思想の説いたものが、大部分、中産階級の理想であったことも明らかなのです。
技術の進歩は、中産階級の気持ちから見て大切なものでした16(Brumfitt 1972:
20=1985: 23)。
さらに、啓蒙思想が発展し広がった背景として、資本主義の勃興も挙げられる。資
本主義が勃興したことで、中間階級の富裕な市民層が、経済的にも政治的にも力を蓄
え、既存の権威を否定する啓蒙思想を、自分たちの社会的実力を実際の行動へと変容
させる思想的基盤とした。
こうして、中間階級の富裕な市民層は、それまで世の中を支配してきた貴族と君主
の力を超えようとする過程で、革命を勃発させた。
啓蒙思想は、人文主義や科学による人類の進歩が生み出したところの科学的合理主
義をさらに推し進めた(Brumfitt 1972: 13-18=1985: 15-21)。
「啓蒙的」な人々が逍遥した抽象的な徳目も、中産階級の徳目と一致するもので
した。・・・愛というキリスト教的な概念は、人道的配慮という含みの「慈善」
という概念に道を譲ろうとしていました。寛容、コスモポリタニズム、戦争への
77
憎悪、経済的及び政治的自由の擁護、これらすべてが成長期の中産階級にとって
特別の魅力を持っていました17(Brumfitt 1972: 20=1985: 23)。
科学的合理主義は、様々な技術革新をもたらし、文明や産業の発展を促進し、人間
社会の進歩に役立った(Brumfitt 1972: 13-18=1985: 15-21)。これに加え、科学的
合理主義は、人間を神から開放し、同時に、人間性の尊重を社会にもたらした。その
結果、基本的人権思想が誕生するに至った。
基本的人権の思想は、絶対王政に対する反抗を惹起し、米国では独立を、フランス
では王制打倒を招来したのである。すなわち、啓蒙思想が、支配者としての君主によ
る少数支配を終焉させ、普通の市民の政治参加を生み出し、進展させたといえよう。
コンドルセにおける進歩の観念は、・・・当時の科学的及び哲学的原理に基づく
ものでした。特に、それは、ルソーやアメリカ独立宣言が予告し、フランス革命
によって完全に表現された新しい政治的観念を反映するものでした。・・・進歩
の観念は、民主主義の観念と結びつくようになりました。即ち、知識の普及が、
特権的少数者による知識の獲得より重要なものであることが明らかにされ、そし
て、権力の分散は、知識の普及と相携えて進むべきものになりました。大衆は、
啓蒙的少数者によって、拘束され、指導され、支配されるべきものだったのです。
これに対して、コンドルセは、人間平等の根本原理を断言することによって、「啓
蒙思想」を完成したといえるのです18(Brumfitt 1972: 159-160=1985: 205-206)。
啓蒙思想は、たとえばカントの『永遠の平和のために(永遠平和論)』に典型的に
見られるとおり、必ずしもナショナリズムに結びつく思想ではなかった。しかし啓蒙
思想の人間の理性を最高に尊重するところから、一方で科学技術が発展し、他方でこ
れが「人間中心主義」につながった。また、これらの結合が「自由経済」さらには「資
本主義」と「兵器」をも発展させる大きな要因のひとつとなり、それが自国の領土拡
張思考や自国文化の独自性を過度に主張するものとなった。啓蒙思想は、このような
経過からナショナリズム、とりわけゲルナーの言うところのナショナリズムに繋がっ
てきたといえよう。
カントの『永遠平和論』は、確定条項として以下の 3 つを掲げている19。
永遠の平和のための第一確定条項「各国家の公民的体制は共和的でなければなら
ない」(第二章)(カント
1965: 415-416)。
永遠の平和のための第二確定条項「国際法は自由な諸国家の連合に基礎を置かね
ばならない」(第二章)(カント
1965: 418)。
78
永遠の平和のための第三確定条項「世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件
に限られるべきである」(第二章)(カント
1965: 421)。
こうしたカントの法、国家および人間観の理念を、『永遠平和論』との関連性から要
約する。まず、永遠平和は、市民社会における法的正義実現を媒介として、理性、還
元すると人間の利己的傾向性によりもたらされる(田村 1971: 35)。つぎに、永遠平
和(社会秩序の維持)は、国富の促進によってもたらされる(前掲書 35-36)。つ
まり、カントの『永遠平和論』の根底には、啓蒙思想による開放された人間の理性が
推進した、市民社会の普遍的原理がある(前掲書 37)。
しかし、カントの『永遠平和論』は、当時の歴史的制約を離れることができず、18
世紀的構想であると言わざるを得ない。カントは、『永遠平和論』の次善策として、
交戦法規という戦争におけるルールの確立を主張したが、その背後には、キリスト教
を基盤とする同一価値観の上での信頼がゆるぎないものとして存在していた。ここに
18 世紀的な特質を見ることができる。
このようにカントにおいて、啓蒙思想は、ナショナリズムとは正反対の方向で主張
されたが、歴史の展開とともに、啓蒙思想はナショナリズムに繋がってきた。これは
フランクフルト学派の『啓蒙の弁証法』が主張する「道具的理性」とも符合するとい
えよう。
18 世紀の社会においては、絶対君主制における君主の政治と富裕な市民層の商業活
動が結びつき、貴族は没落し君主の権力が強まった。それと同時に、中間層に属する
富裕な市民達の勢いは、貴族の力を軽減することに成功し権力を一身に担った絶対君
主制を失墜させる程にまで成長した。中間層の中でも、特に富裕な市民は、自分達の
自由や人権を、君主に対し求めるようになった。
(二)市民軍の再生
18 世紀社会のこうした変容が進展するに伴い、中間層に属する市民から構成される
市民軍が、アメリカの独立戦争やフランス革命において旧体制の君主と戦い、勝利を
勝ち取ったのである。
こうした米の独立や仏の王政打倒においては、啓蒙思想の理念である法の支配や議
会制民主制を基調に、軍に対する市民の意思決定や指揮統制の在り方が生み出された。
これは、シビリアン・コントロール(文民統制)と称されるものであり、ここに軍隊
の公開性および公益性をみることができよう。
79
一)米の独立
アメリカの独立戦争は、イギリスの正規軍に対する、普通の市民を軸とする民兵と
の戦いであった。この戦争をフランスが援助していたという観点に立てば、最後の重
商主義戦争であったとみなすこともできよう。
アメリカの独立戦争では、独立軍側は、自発的な参加と民兵導入、散兵方式による
各兵員の自発的な射撃を主体とする新しい戦い方を使用した。この新しい戦い方は、
散兵戦闘法と呼ばれるもので、いわゆるゲリラ戦法的ものであった。
アメリカの独立軍側は、イギリス軍に比較して、全般的に訓練および装備が劣って
いた。しかし、独立軍は、熱烈な独立心や腔綫銃(Rifle Gun)20の威力ならびにゲ
リラ的奇襲戦法のほか、散兵戦闘法をとってイギリス軍を圧倒した21(Liddel Hart =
リデル・ハート 1980: 197)。
散兵戦闘法は、イギリス軍が当時の密集した横隊隊形で一斉射撃の機会を待つのに
対し、散兵した隊形で地物を利用して隠れ、腹ばいで前進し、各個人が射撃し、また、
前進し、その後、突撃を行うというものであった(Liddel Hart=リデル・ハート
1980:
197)。
これは、独立軍が応急に編成された農民や労働者などであったため、当時の戦闘法
を身につけていなかったため考案されたものである(Liddel Hart=リデル・ハート
1980: 197)22。
その一方、正規軍であるイギリス側は、戦術・戦略において、敵軍と正面衝突する
ことをできる限り回避するとともに、激しい敵愾心を相手に対して持つことなく、相
手を尊重するという従来型のルールに則った戦法をとった。
独立戦争の開始当初は、農民といった普通の市民からなる独立軍が、自分たちの使
い慣れた小銃と鍬とをもって従軍し、木々や石壁の陰からイギリスの正規軍に対し奇
襲を仕掛け、大いに戦果を挙げた。独立軍が民兵を導入したことは、正規軍のイギリ
ス側を混乱させる効果があった。
しかし、独立軍はやがて、自分たちの戦術や戦略では手詰まりであることに気付か
された。つまり、農民といった普通の市民の自発的参加のみでは、戦場においての兵
力量の増強や必要量を保持するには不十分であることが明らかになったからである。
独立軍最高司令官のワシントンは、配下の各連隊の兵力量を増強するため、徴兵等
による強制的手段を提言し、これに基づき、外国人、逃亡者、捕虜等が雇い入れられ
た。また、独立軍の各州は、軍務につかねばならない住民の身代わり兵として、解放
黒人をも用いた。こうして、最終的には、独立軍が勝利を収めたのである。
アメリカの独立戦争では、普通の市民が軸となる民兵が、正規軍に対して勝利した。
このことは、勝利した各州の代表により、古代ギリシアのポリスや古代ローマの共和
制における、市民層が軸となった軍隊の勝利が自由を保障したのと同じことであると
80
受け止められた。その結果、常備軍を設立すると、このような軍隊が、民兵により苦
労して勝ち取った自由にとり、かえって危険な存在となるとの認識を各州の代表は共
有した。
こうした経緯から、独立を勝ち取った各州は、1787 年の憲法において、共和主義を
政治制度とし、代表統治制度と軍隊に対するシビリアン・コントロールの原理に基づ
くことを盛り込み、新国家を樹立したのである。
このようなアメリカの独立戦争で勝利を収めた普通の市民を軸とした軍隊は、「権
力は人民に直接由来すべきもの」23と信じている市民が多数を占めるアメリカである
から誕生したといえよう(de Tocqueville=岩永・松本 1972: 202)。この時代のアメ
リカの市民は、平等の世紀の人々の精神を持っており、貴族制の観念24が欠如してい
た。
この時代のアメリカの市民は、権力が人民に直接由来すべきもので、ひとたびこの
権力が設定されると、それは無制限であるかのように考えた。彼らは、権力が万能の
権利を持つことを承認していた。そして、都市や家系や個人に与えられる個々の特権
については、その観念さえ失っていた。
これと同じ見解はヨーロッパにも次第に広まった。また、これは、人民主権の教義
を最も排斥する諸国においてさえ浸透した。これらの国々では、権力にアメリカと異
なる起源を付していたが、権力の面貌は同じにみていた(de Tocqueville=岩永・松本
1972: 202)。
アメリカの独立戦争で勝利を収めた普通の市民を軸とした軍隊や人民に権力が直接
由来するという観念が、西ヨーロッパにおいて、当時の絶対君主制に不満を抱いてい
た中間層の市民達の関心を引いた。
普通の市民を軸とした軍隊や人民主権の観念が、アメリカの独立を通して、市民の
代表で構成される自治政府や君主の私物ではない市民の軍隊をはじめて社会に成立さ
せた。そして、旧大陸(西ヨーロッパ)の反省を踏まえて、自治政府が任命した士官
が市民の軍隊を指揮し、軍隊の行動は議会の統制下に置かれた。当時のアメリカ自治
政府は、財政上の負担が大きすぎるというのみならず、市民の自由を侵害した経験か
ら、大規模な常備軍を保有しなかった。
こうして、シビリアン・コントロール(文民統制)25が誕生した。
二)仏の王制打倒
フランスにおいては、フランス革命以前から既に、絶対君主制は揺らぎを見せ始め
ていた。それは、将校の地位の大部分を占めていた貴族の内部における軋轢、また、
その貴族と国王との闘争の結果もたらされたものであった。フランスの絶対君主制は、
内部から崩壊し始めていたのである。
81
当時のフランスの社会状況は、国王をはじめとする大貴族と、ブルジョアや小貴族、
普通の市民や農民との分断が顕著であり、その格差はかなり広がっていた。最下層に
属する第三身分の不満は、頂点に達していた。その一方、第一身分の腐敗はかなりの
もので、軍隊の将校貴族も然りであり、そうした腐敗は軍隊全体に士気に影響してい
た26。
当時設立された身分制議会内の貴族の身分は、少数派である大貴族と、多数派であ
る地方貴族とに分裂していた。前者は、現状に満足し、現状維持に回り、絶対君主制
を保持しようとした。後者は、たとえば、軍隊における将校の地位をすべての貴族に
等しく開放し、他の身分の者には門戸を閉ざすことを要求するなど、自分達の特殊利
益に適合した改革のみを要求した。
このように、軍隊内の貴族将校のみならず、身分制議会内の貴族においても、自分
たちの特殊利益にのみ固執し、ルイ 16 世に象徴される絶対君主制そのものを支持して
いるという訳ではなかった。革命前にすでに、国王の軍隊は、国王の統制がきくよう
なものではなくなっていたのである。
それゆえに、革命当初、革命派は、統制の失われた軍隊内部で乱立した各派により
統一的利害が存在しえなくなっていた軍隊と激突することはなかった。それゆえ、革
命派は、国王一派に対し容易に勝利できた。また、革命派は、バスティーユ襲撃から
6年の間で、文民政府を設立し、その政権を確立しえた。こうしてフランスでは、絶
対君主制が転覆し、貴族から経済的及びその他の特権が奪取され、同時に教会の財産
も没収された。
数千の人民が、オルレアン公の邸宅パレ=ロワイヤルの内庭に多くのテントを
張り、夜はかがり火をたいて、連日気勢をあげていた。そこにはフランス衛兵
もまじっていた。10人の衛兵が市民に同調し、国王の動員令を拒否したう
え、・・・(桑原
1983: 120)。
こうしたフランスの王制打倒が可能となった要因として、啓蒙思想により、人道・
人権に目覚めた富裕な中間層の市民達の勃興もさることながら、国王の軍隊がすでに
威信のみならず、実効性を失っていたことも大きかった。
1792 年に(フランス27)革命が敵の侵入軍に対して自衛しなければならなかっ
たとき、正式の軍事原則を実施する機会はなかった。元国王軍のほんの一部しか
革命政府に忠誠ではなく、その一部分さえも信頼できないと考えられた。アンシ
ャン・レジームの戦術を実施するのに足る数の訓練され規律ある歩兵を、もはや
利用できなかった28(Howard 1976: 79=2010: 135)。
82
革命派の文民政府は共和制を敷いた後、プロイセン及びオーストリアといった絶対
君主制の国家との戦争、ならびに、これに続くイギリスの陸・海軍による圧力を受け
るようになり、国防のため、新たな軍隊の創設に着手せざるを得ない状況に陥った。
こうして、フランス共和制の守護者として、普通の市民による軍隊、国民軍が創設
された。フランス革命派の文民政府は、君主の専制に対する反動から、国民の国民に
よる軍隊を有するとともに、革命の理念に基づく行動を軍隊にとらせるために、議会
の指揮下に置いた。
第二項
ナポレオンの欧州征服とその意義
(一)ナポレオンの戦争
フランス革命の思想的支柱であった啓蒙思想は、自由・人権思想を発展させ、支配
者としての君主による少数支配を終焉させた。そして、普通の市民の政治参加を推進
した。これは、旧体制下で抑圧されていた普通の市民を覚醒したのみならず、彼らの
政治参加が、国家や社会の運営に熱狂と興奮の介入を招く結果になった29。
革命以後のフランスは、政治的には激動の時代に入り、共和制から帝政、そして旧
体制への変動と目まぐるしく変化した。このように目まぐるしく政治が展開するとと
もに、フランス国内では、市民の自由・人権思想が着実に社会の中で発展し、人々の
中に浸透していった。
一方、フランスでは、革命が生じた後、貴族層出身の将校の多くは、革命に反対し
て国外へ亡命するか、あるいは、軍隊から退役したため、旧来の軍隊は瓦解に近い状
態にあった。
旧来の軍隊は、18 世紀のヨーロッパ社会を反映した貴族将校を中心とした専門的軍
隊であった(Howard 1976: 75=2010: 129)。そこでの戦いは、外交慣習と同様に明
確な慣習に従って行われていた(Howard 1976: 75=2010: 129)。
フランス革命政府と、プロイセン・オーストリア連合軍との間で戦争が生じたが、
フランス革命政府は、国民に対して志願兵として銃剣をとり、革命の成功を外敵に対
して防衛することを要請した。
(18 世紀の30)君主がいかに勤勉で国民の利益に献身しても、国家は王朝
的君主の「家産」とは見なされなくなった。その代わりに、国家は、自由とか民
族性とか革命とかいうような抽象的概念に捧げられる、強力な力の具になった。
これらの抽象的概念によって、国民の大多数は、国家の中に、そのためにはいか
なる代価も高すぎずいかなる犠牲を払っても惜しくはない、絶対善の具現化を見
ることができるようになった31(Howard 1976: 75=2010: 130)。
83
そのため、ナポレオンの戦争では、勝利を収めるための徹底した戦い方がとられた。
その戦い方は、戦術的革新ともいえるもので、4点あげられる。
第一に、軍を自律的な師団(division)に分けたこと。それら師団は、数条の道路
に沿い同時に運動できたので、軍事的運動に大きな速度と柔軟性を与えた。第二
に、自由に動き自由に射撃できる斥候兵―――「軽」歩兵あるいはライフル兵―――
を採用したこと。第三に、ある地点で火力の優越を得るため、戦場で砲兵を一層
柔軟に使用すること。最後に、横隊ではなくて攻撃縦隊の使用。それは、防御火
力よりも攻撃的衝撃を強調した隊形、すなわち、薄い隊形(l’ordre mince)から
深い隊形(l’ordre profonde)への変化であった32(Howard 1976: 76=2010: 130
-131)。
また、革命政府は、徴兵制度を採用することで軍隊の量的充実を図った33。その一
方、革命政府は、今までの戦法とは異なる、新しい戦い方で、プロイセン・オースト
リア連合軍に立ち向かった。それは、旧来の死傷を少なくすることに心を配るものか
ら、敵軍に対して決定的勝利を獲得するためには必要に応じ正面から決戦を求めると
いう、新しい戦い方への転換を意味した(岡 2009: 35-41)34。
その後、フランス共和制の総裁政府が 1795 年、反革命勢力や、参政権を否認され
た極左的な労働者階級によって脅かされることとなった際、ナポレオンがこれら共和
制政府を脅かす反対派を一掃する任務を委ねられ、登場した35。ナポレオンは、共和
制政府に対する反対派を一掃したのみならず、共和制政府に対する外国の介入に対し
て、軍隊を率いて対抗した。
ナポレオンはまず、イタリアで勝利を収め、この戦役での栄光を背景に、共和制政
府に代わり、自身が執政政府を樹立した。一方ナポレオンは、内政面において、富裕
な中間層の市民達の利益と革命で得た既得権とを守る代替として、彼らには多額の軍
事費を負担させる政策をとり、外国の軍隊との戦費として使用した36。
執政府に入ったナポレオンは、多額の軍事費を使用し、旧体制下の軍隊と王制打倒
を成功させた市民や、旧体制に反旗を翻した貴族とを融合させ、欧州最大の人員を要
する近代的軍隊を創設した。
彼(ナポレオン37:筆者)は、軍事的であると同時に政治的でもあったその天分
をもって、それ(浪漫的英雄主義の精神:筆者)を使った。彼の先人たちの中で
は、多分、マールバラだけが、会戦を、個々の攻城と戦闘の連続としてではなく
て、全体として捉える能力の点で彼に匹敵しえた。その能力とは、すなわち、す
べての軍事作戦が行われるその目的を認識する能力である。・・・政治的目的が
84
戦略計画を指示した。そして戦略計画は、敵の陣地に決定的地点を見分け、それ
を抵抗できない兵力で攻撃すること、に向けられた38(Howard 1976: 83=2010:
140-141)。
ナポレオンは、次の 1 世紀半の間ヨーロッパの全ての軍隊が採用するようになる
パターンによって、フランス軍を組織した。一人の最高指揮官の下に、ほとんど
無制限の分散を可能にするパターンである。軍は軍団に分けられ、各軍団は、お
のおの八千名の歩兵と騎兵から成る、二ないし三個師団から成った。各師団は二
旅団から成り、各旅団は二個連隊、各連隊は二個大隊から成った。・・・いろい
ろな道路を使い、起伏の多い地方を通る何十万の兵の運動に伴う複雑な計算――後
にその算出のために大きな参謀部が作られることになるが――を、ナポレオンはそ
の大きな頭で行ったのである39(Howard 1976: 83-84=2010: 141-142)。
ナポレオンは、国内的には、市民による統治から帝政へとフランスの政体を変化さ
せ、市民の期待を裏切り、独裁者に変貌した面も否定できない。しかし、この独裁者
としてのナポレオンを凌駕するほどの功績を、ナポレオンの戦争は社会にもたらした。
そのような中(1792 年 8 月のパリにおける暴動で革命の指導権がブルジョア階級
から小市民層へ移行した)で、戦争に対する革命フランスの見解もまた当然に変
化することになった。すなわち、同年 11 月国民公会は宣言して、フランスは「自
由を回復するすべての国民に友情と援助とを与える」であろうとなし、さらに 12
月には「フランス国民は、自由と平等とを拒絶しまたは君主および特権階級を維
持し、呼び戻しまたはこれと商議しようとするすべての人民を敵として取扱うで
あろう。またフランス国民は共和国軍隊の立ち入る地域の住民の主権と独立とが
樹立されるまでは、また人民が平等の原則を採用し自由にして民主的なる政府を
樹立するまでは、何等の条約をも結ばず、また武器を捨てないことを約する」と
宣言したのである。・・・革命戦争はすでに本来、フランス革命前のヨーロッパ
において交えられて来た多くの戦争のように王朝と王朝との間の戦争という形を
とらず、・・・1792 年 9 月、開戦以来敗北・後退を重ねて来たフランス軍はヴァ
ルミにおいて初めてプロイセン・オーストリア連合に対して勝利を獲得し、これ
を転機として敵国領土へと侵攻することとなったが、このフランス軍は侵入して
行く地域の被支配層からは彼らの解放者としてしばしば熱狂的歓呼を持って迎え
られた(岡 1993: 32-33)。
対外的には、ナポレオンのヨーロッパ全土征服の試みが、欧州征服戦争を通して、
独立自営の中産階級の市民による軍隊、すなわち、大衆軍の思想をヨーロッパの各地
85
に伝播したということである40。大衆軍の思想は、アメリカの独立戦争によって欧州
にもたらされ、そして、フランス革命で花開いたものである。
このことは、ナポレオンのヨーロッパ全土を征服しようとの戦争の過程において、
戦争を展開している地域における市民の自由・人権思想の発展を促すという役割も果
たした。
しかし、ナポレオンの欧州征服は、各地に芽生え始めたナショナリズムを刺激した
のみならず、反撃をも受けた。そして、しだいに、ナポレオンの勢いは衰えることと
なった(桑原 1983: 420-421)。
フランス革命は、神権王国の建前に立つブルボン王朝の統治を、人民主権論の名に
おいて否認した点に意義があった(岡 1993: 53)。一方、ナポレオンは、フランス革
命の成果を、その欧州征服における戦争を通して、フランスの占領下または勢力下に
おかれた地域へ移植・導入する役割を果たした点に意義があった(岡 1983: 63)。
さらにナポレオンは、ヨーロッパ全土の征服の試みを実現するに際し、若干の地方
に関しては、そこにすでに発生していた民族意識を自己の征服計画のために利用した
(岡 1983: 63)。そして、支配下に置いた地方に対する峻烈な軍事的独裁と搾取を通
じて、それらの地方の民族意識を刺激してそれを発展、あるいは、その地方における
民族意識の発生を誘発させた(岡 1983: 63-64)。
民族的熱情に基づく大衆軍こそが、アメリカの独立やフランス革命を現実のものと
した。つまり、この点が、革命の戦争と旧体制の戦争の相違点であった(Howard
1976: 96=2010: 159)41。
フランス革命において明白だった民族的エネルギーの解放は、一時的現象ではな
くて根本的変化であるということであった。その変化は、ヨーロッパ諸社会の政
治的・軍事的関係をともに変え、したがって、それに対しては彼ら自身の国家も
軍事的ばかりでなく、政治的な改革で対応しなければならなかった42(Howard
1976: 86=2010: 146)。
ナポレオンのヨーロッパ全土の征服のための戦争は、フランス革命を通して滋養さ
れた、市民の自由・人権思想をヨーロッパ全土に普及させ、それが、ヨーロッパにお
ける民族意識、すなわちナショナリズムの発達へと繋がったのである(岡 2009: 64)。
86
(二)ナポレオンの社会への影響および新しい軍事思想の誕生
ナポレオンは欧州征服の途中、皇帝となり、自身の帝政の覇権をヨーロッパ全土に
知らしめるべく、政体を守護する市民の軍隊を権力政治の力の一要素へと変容させた
面がある。
しかしナポレオンが当初、旧体制下で抑圧されていた市民を覚醒し、その政治参加
を促す一方、政治参加する市民から構成される大衆軍を組織したことは明白である。
ナポレオンは共和制を守護する大衆軍隊を率い、啓蒙思想の申し子的軍隊の使用者で
あった。
そして、18 世紀のナポレオン戦争後は、ヨーロッパ全体に、啓蒙思想、すなわち、
市民の自由・人権思想や、科学的合理主義を普及させ、市民社会の思想を根付かせた。
ナポレオンとの戦争を通し、啓蒙思想の影響を受けた社会が明らかに変化し、社会に
おける軍隊の存在や在り方をも変化させた。
特に当時のプロイセンでは、ナポレオン戦争以前の旧体制の君主の時代においては、
軍隊の貴族将校を除くと、殆どが私兵から構成されていた。この私兵というものは、
当時の社会では、はみ出し者としての扱いを受けており、その結果、軍隊自体が、一
般社会から見ると、別の存在として捉えられていた。つまり、軍隊は、市民の社会生
活から断絶した交渉のない存在であった。
しかし、ナポレオンとの戦争を通し、プロイセンではフリードリヒ大王が啓蒙思想
の影響を受け、政策として啓蒙思想に基づく改革を行った。フリードリヒ大王が行っ
た改革の一環として、軍隊改革が行われた。軍隊の改革は、軍人の福利厚生と教育と
いう2つを中心としていた。
軍人の福利厚生は、退役軍人を役人へ登用することなどを通して、軍人に対し一生
涯面倒を見るという生活の安定化を図るものであった(Paret 1976: 36-38=1991:
59-63)。
一方、軍人への教育は、軍隊の将校は貴族出身者が大勢であったため問題とされな
かったが、下士官や兵士は普通の市民であったことから、十分な教育を受けないまま
軍隊へ入っており、教育に恵まれていないという現状であった。軍隊の下士官や兵士
に対しても、教育を受ける機会を与えることが図られた43。
それまでは、特権階級でなければ受けることができなかった高等教育を受ける機会
は、中産階級の子弟にも開かれ、この恩恵を被った。当時のプロイセン社会における
教育は、啓蒙思想の影響が色濃く、カント思想の講義が行われており、このような教
養を備えた中産階級出身の軍人は、プロイセンの軍隊では多く存在することとなった
(Paret 1976: 39-42=1991: 65-69)。
87
こうした社会変化に加え、ナポレオン戦争後において、軍隊が行う戦争に関し、新
しい考え方があらわれた。それは、政治活動の延長としての軍事力の認識であり、『戦
争論』として後世に受け継がれたプロイセンの軍人クラウゼビッツの思想であった44。
彼は、科学的な二項対立思考による戦例と戦争術の探求において、経験は哲学的真
理より重要であることを理論的根拠にした。この経験を重視する理論を根拠に、絶対
戦争論者から後には現実戦争論者に変身し、現実戦争における戦争は、他の手段を用
いるところの政治的交渉の継続に過ぎないと主張した。
クラウゼビッツの研究は、啓蒙思想の影響を受けた科学的合理主義の方法論を使用
した、啓蒙思想から生まれたフランス革命の研究を通して展開した。
興味深いことに、クラウゼビッツは、祖国プロシアを占領したフランスを憎んでい
た一方、ナポレオンのことは天才であると尊敬したばかりでなく、啓蒙思想の反絶対
君主制を唱える自由で民主的気風に共感していた。また、クラウゼビッツは、ナポレ
オンとの戦いを通してナポレオン戦争を考察し、戦争の本質が政治の延長であること、
つまり、戦争が形を変えた政治であることを論証した。
こうしたクラウゼビッツの思想は、ナポレオン戦争を考察した結果うみだされたも
ので、戦争は国際社会で君主が自身の意思を実現するために行う権力行使であり、そ
のために使用される最大で究極のものが軍隊であるという。クラウゼビッツは、戦争
論において、軍隊が国際社会における権力行使の道具でもあることを説いており、こ
こが彼の思想において最も重要な点である。
また、彼は、政治家と将帥との関係についてかなり独創的な考えを示した。それは、
戦争の開始・遂行それから講和に至るまで政治家が主導者にならねばならないとの見
解であった(Summers 1983: 112)。他方、クラウゼビッツは、政治家と軍人とが一
身に兼備される知見が、戦争遂行において極めて重要であることを認識し、最高の将
帥を内閣の一員に加えることにより、最高の活動ができるとも主張した。しかし彼の
主張は、軍事的決定に内閣の関与を強調したものにすぎず、政治的決定に軍人の関与
を強調したことではなかった。
さらに、彼は、戦争とは他の手段をもってする政策(Politik)の継続にほかならな
いとも述べ、政策が主催者で戦争はその一手段に過ぎないと主張した。
ここから軍事に対する政策優位思想の根源が誕生した。クラウゼビッツは、軍隊の
軍事力をあくまでも現実世界のパワー・ポリティクスの道具と定義し、政治・外交の
延長として使用されると考え、「戦争は、政治とは異なる手段をもってする政治の継
続」であるとして提起した。
つまり、クラウゼビッツの導き出した思想では、軍事力はなんらかの政治目的に起
因する個々の戦争目標達成の手段にすぎないのであった。こうしたクラウゼビッツの
研究から、軍事に対する政治優位の思想が誕生したのである。
88
他方リデル・ハートは、クラウゼビッツとは異なり、将軍ナポレオンと皇帝ナポレ
オンとを分けて理解した45。
Here again we can trace the effect of Clawsewitz’s mental concentration on
campaigns of Napoleon, rather than those of Bonaparte, as well as the effect of
his own share in the final overthrow of Napoleon by superioi numbers.
(Liddell Hart 1934: 128)
クラウゼビッツは、ナポレオンの行った戦争全体について、将軍ボナパルトとし
てよりもむしろ、皇帝ナポレオンという点に重きを置いて解釈した。我々(リデ
ルハート)はここにクラウゼビッツの精神性を読み取ることができる46(筆者訳)。
これは、リデル・ハートが、自身が従軍して悲惨な体験をした第 1 次世界大戦のよ
うな大量殺戮を伴う戦争を繰り返してはならないという強い信念に基づくものである。
このような彼の個人的経験から、ナポレオンの二面性、つまり将軍ナポレオンと皇帝
ナポレオンを分別することに着眼し強調したことによるものであり、実証的分析によ
るものではない。このことから、彼のクラウゼビッツ批判は、クラウゼビッツ研究の
正統派には位置づけられていない。
クラウゼビッツは、ナポレオン戦争を考察した結果、戦争の本質が政治の延長であ
ること、戦争が形を変えた政治であることを認識し、戦争とは、外交の一環として行
われるもので、戦争とは国際社会で君主が自身の意思を実現するために行う権力行使
であり、そのために使用される最大で究極のものが軍隊であると考えた(Paret 1976:
358-381=1991: 510-520)。クラウゼビッツは、戦争論において、軍隊が国際社会に
おける権力行使の道具でもることを説いており 47 (Paret 1976: 382-395=1991:
516-520)、ここが彼の思想において最も重要な点であることは明白である。
クラウゼビッツは、ナポレオンの戦争を研究し、絶対戦争論者から後には現実戦争
論者に変身し、現実戦争における戦争は、他の手段を用いるところの政治的交渉の継
続に過ぎないという思想を得た。そして、クラウゼビッツは、戦争の本質が政治の延
長であることを認識し、外交の一環として戦争を位置づけ、軍隊を外交の手段として
最大で究極のものとした48。
ナポレオンの戦争の根底には、市民軍の思想があった。その思想は、啓蒙思想に裏
打ちされた科学合理主義の精神が下支えした、フランス革命以来の新しい軍制・戦略・
戦術及び中間層の市民から構成される政体を守護する軍隊というものを唱えた。
89
(三)ナショナリズムの誕生とその権力政治との共鳴
ナポレオンは執政政府に入った最初の統治行為として、普通の市民が兵士になるこ
と、すなわち「国民皆兵を禁止」した(岡 1993: 32-35)。国民皆兵とは、フランス
革命を成功へ導いた君主に抵抗する市民団を、制度的に整えたものであった。
したがって、ナポレオンの国民皆兵の禁止は、共和制の政体を支える核となる思想
である、中間層の市民達による政体の守護を、フランス共和制の守護者として登場し
たナポレオンが否定したことを意味したのである。ナポレオンが、共和制から帝政へ
と政体を変容させたのは、自分の権力を確固たるものとするためであった。
こうして、フランスにおいて、軍隊は、市民から構成された、政体の守護や、市民
の自由獲得を目的とする政体に対する革命のために組織されるのではなく、ナポレオ
ンの帝政における政治権力を守護するために組織されるものへと変容した。
ナポレオンの欧州制覇は、征服地において、絶対君主から抑圧・搾取される地元民
を啓蒙し、自由や人権及び人道の思想を浸透させるとともに、民族として団結し抵抗
する精神を覚醒する効果があった49。ナポレオンが率いるフランス軍の欧州征服のた
めの遠征は、欧州各地で、啓蒙思想による民族・国民意識の覚醒をもたらし、ナショ
ナリズムを惹起したといえよう。
一方、このナショナリズムに大衆軍が共鳴したことで、国民国家と大衆軍との関係
は変化した。軍隊は、市民の政体の守護を核とするものから国民国家の覇権の道具と
しての軍隊になった。啓蒙された市民は、国民という意識を有し、当初は、革命によ
り勝ち取った君主の存在しない国民(市民)のみから構成される政体を守護するため、
ナポレオンが導入・普及させた近代的な軍隊の構成員であった。
しかし、市民は、従軍し政治参加するにつれ、強い国家による自身の経済活動の保
護を求めるようになり、ナポレオンが皇帝へと変容していったのと呼応するかのよう
に、その姿を変容させた。そして、軍隊は、市民から構成され政体を守護する存在か
ら、国民国家の覇権の道具として新たな姿を示すようになった。
国民国家の誕生が、社会における市民社会的合意の民主的形成に貢献したことは確
かである。しかし他方、国民国家は、国民・民族意識に目覚めた市民を、武装する国
民に変容させ、彼らによって構成される軍隊が、植民地獲得競争に乗り出し、覇権主
義の時代を生み出した。
1813 年、ロシアでナポレオン軍が崩壊してから、・・・ドイツ中で、階級の如何
を問わず、愛国的熱情が爆発し、依然あった障壁の多くは打ち壊された。徴兵が
導入され、後備軍(Landwehr)が作られた。それは独自の将校を決め、そこで
の服務は、軍に召集されなかったすべての兵役適齢者に対して、強制的であっ
90
た。
・・・ナポレオンの進攻は、ドイツに、武装国民を呼び覚ましていた50(Howard
2010: 87=ハワード 2010: 147)。
つまり、マキアヴェッリの権力政治の思想は、啓蒙思想の影響を受けたクラウゼビ
ッツにより、より先鋭化された。一方、啓蒙思想は科学合理主義をもたらし、ダーウ
ィンの進化論を拠り所とした適者生存優勝劣敗の思想を後ろ盾とする国民国家間の覇
権闘争を助長した。このような啓蒙思想と権力政治の相互作用が、繰り返す植民地争
奪戦を通して帝国主義を推し進めたのである。
ナポレオンの欧州制覇によって萌芽し、熟成されていったナショナリズムは、同質
性への着目と政治主体の形成という二つの要素が結び付いた結果生じたともいえる
51
(Gellner 1983: 1-2=1983: 2-3)。
ゲルナーはナショナリズムを次のように定義する。
ナショナリズムとは、エスニックな境界線が政治的な境界線を分断してはならな
いと要求する政治的正統性の理論であり、特に、ある所与の国家内部における、
政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想的要求や
運動のことをいう52(Gellner 1983: 1=1983: 3)。
また、そこには、経済的な要因も関わっており、産業化がすすめられた時期に、国
民国家が誕生することとなり、国民国家は産業化のための道具立てとしても捉えられ
るという(Gellner 1983: 42-43=1983: 67-71)。このような国民国家は、文化的
かつ民族的に異質なものに対し、戦争を最終手段とするような排除の仕方をとり、文
化的かつ民族的同質性と政治主体という2つの要素を守ろうとした。
19 世紀の末までに、ヨーロッパ社会は著しく軍国化された。戦争は、封建的支配
階級や小集団の専門家の問題だとはもはや考えられず、国民全体の問題だと考え
られた。軍隊は、王家の一部ではなくて、民族の具体的表現だと考えられた。君
主は、可能な限り軍服を着て現れることによって、民族的指導者としての役割を
強調した。軍事パレード、軍楽隊、軍事的式典は「民族」のイメージをもたらし、
このイメージの中では全ての階級が一体となることがでたのである53(Howard
1976: 109-110=2010: 179-180)。
1789 年のフランス革命からナポレオンの欧州征服という 25 年にわたる混乱が収束
した 1814 年以後、ヨーロッパの支配層は、前世紀の安定した均衡状態に維持してい
た政治的・社会的均衡の回復と維持を確保することを目指した(Howard 1976:
94=2010: 156)。
91
そこで、ヨーロッパにおいて、主要な国々は、軍隊を貴族出身の将校と長期服務専
門軍という前世紀的形態へ戻そうとした(Howard 1976: 94=2010: 157)。つまり、
革命期の武装した市民による大衆軍ではなく、君主の軍隊へとその形態を戻そうとし
たのである。
しかし、戦争はもはやチェスのこまを動かすような君主のゲーム的なものではなく、
国民の対立になりつつあった(Howard 1976: 93=2010: 155)。また、軍隊の管理お
よび軍隊の装備に大きく関わる技術における革命が進行したことで、軍隊を前世紀の
形態へと復古させることは、不可能であった。
ヨーロッパの全ての国家において、軍隊の将校の非貴族化と兵士の大衆化が進展し
た。
1914 年のかなり前から、ヨーロッパの全ての国家は次のことを認めていた。つま
り、各国がその相対的な力と地位を維持するために依拠していた軍事的有効性は、
小さい専門的軍隊の有効性にではなくて、国民の「人力」と戦略的に適切な「鉄
道網」との組み合わせにかかっている、ということであった。・・・そこで、人
力の利用と福祉が、かつてなかったほどに、国家の関心事となった。出生率は軍
事力の指標となり、・・・徴兵が健康であることも重要であった。・・・社会政
策は 1850 年代の経験に多くを追っていた。・・・基礎的教育水準もまたそうで
あった。近代陸軍は複雑な組織となってきたので、階級のごく低いレヴェルまで
読み書き算数の能力が要求された。皮肉屋は、将校よりもかえって下士官の方に
読み書き能力が必要だ、と主張しかねなかった54(Howard 1976: 106-107=2010:
174-175)。
こうした軍隊の大衆化の背景には、文化的かつ民族的同質性に基づく政治主体とし
ての国民国家同士が、経済的利権をもかけて覇権競争を繰り広げる帝国主義の時代が
到来したこともあった。
第 1 次世界大戦は、この流れの一環に位置づけられる。
92
第三節
帝国主義と軍隊
啓蒙思想により進展した社会改良や社会発展の機運も進んだ。一方、こうした時代
的風潮の中で、人間の理性がすべてを可能にするという信仰が誕生した。ダーウィン
の進化論における適者生存の思想は、弱い国や民族を強いものが支配することを正当
化し、自国の発展のために支配搾取することの免罪符としての役割を果たすようにな
ったのである。
ナポレオン戦争を通して覚醒した国民意識に基づく国民国家が展開した。そして、
市民一人ひとりの国政に対する参加の意識や自分たち国民が主人である国家建設への
情熱が、国民国家の軍隊を誕生させ、抑制された戦争から熱狂に基づく戦争へと、暴
力の無制限な行使を招来した。
このような状況が進展するのと同時に、新たに芽生えたナショナリズムに刺激され、
帝国主義による対外膨張が社会を支配した。つまり、戦争は形を変えた政治活動であ
り、権力政治の一つの面が戦争となった。政治目的達成のため敵戦力の殲滅という政
治、すなわち、権力政治がさらに先鋭化した。
第1次世界大戦は、このような戦争の基盤である。
第一項
帝国主義の蔓延
国民国家同士の勢力争いは、帝国主義的拡張に繋がり、アジア・アフリカといった
地域を植民地として獲得する覇権主義に基づく獲得競争を支配的にした。
帝国主義(Imperialism)という言葉は多義的である。最広義に用いられる場合
には、国家がその支配または勢力を対外的にできうる限り拡大しようとする試み
を指す。・・・帝国主義は、その典型的な形においては、民族国家の対外的膨張
であり、そして、その主要な推進力は資本主義であるということができる(岡
2009: 95)。
ナショナリズムと植民地主義・帝国主義・脱植民地化の過程との間にも関連があ
る。西欧における産業社会の発生は、その帰結として、ヨーロッパ諸列強による、
そして時にはヨーロッパ人植民者による全世界の事実上の征服をもたらし
た。・・・世界を征服したヨーロッパの場合、・・・世界征服を進め完成したの
は、いよいよ工業と貿易とに専念するようになった諸国民であった55(Gellner
1983: 42=2000: 71-72)。56
93
帝国主義の定義が何であれ、その主要な推進力は資本主義であった(Gellner 1983:
42=2000: 7357、岡 2009: 89)。帝国主義の時代は、1870 年代、あるいは、1880 年
代から 1914 年に至る時期にあたる(岡 2009: 89)。この時期では、ヨーロッパ諸国
のみならず、アメリカおよび日本が強力な膨張を試みた。このような適者生存に基づ
く植民地を巡る国民国家の覇権闘争は、近代産業の発展による産業資本の要求が重要
な要因であった。
まず、イギリス、そして、フランス、ベルギー、ドイツに近代産業が発展するのに
伴い、一方は高度の保護貿易性を採用して自国内の市場および原料供給地をその民族
資本のために確保することを試みるようになった(前掲書 90)。しかも、これら諸国
は、自国産業のために市場と原料供給地とを拡大することをしだいに強力に試みるよ
うになり、それにともなって、植民地の獲得を積極的に企てるようになった(前掲書
90)。
かつてのヨーロッパの絶対王政期の重商主義においても、ヨーロッパ外へと膨張政
策がとられた。当時は、ヨーロッパ外に産する貴重で珍しい財貨の獲得が目的とされ、
それらの地域を植民地として領有することが試みられた。
しかし、帝国主義の時代では、ヨーロッパ外への膨張が産業資本を推進する政策と
してとられており、近代産業の要求である市場と原料供給地としての植民地が求めら
れ、獲得の対象となった。
ところで東南アジアにおけるヨーロッパの植民地支配、すなわち帝国主義は、部族
間の対立を利用してのものであった(田村 1997: 244-245)。部族意識を強化させた
ヨーロッパ列強の植民地支配は、相互対立を極端に表面化させる結果となり、現在の
民族紛争の要因になっている(前掲書 244-245)。
さて、このような帝国主義による対外膨張によって、国際政治における自国の比重
を高めることは、統一によって高揚された民族感情をいっそう高めた(岡 2009: 92)。
科学的合理主義や人間性の探求という啓蒙思想が推進した考え方は帝国主義を生み出
し、これに、民族の熱情が加わることでナショナリズムが誕生し、権力政治の一つの
表れとして帝国主義の時代となった。このような軍隊の役割は、啓蒙思想を忠実に軍
隊が実行した帰結とも捉えることができる。
・・・戦争は国民のものになり、これまでのように、職業軍人による常備軍だけ
のものではなくなった。戦争はみずからの足かせをはずし、歯止めを失ってしま
ったのである58(Paret 1976: 341=1991: 502)。
権力政治は、この帝国主義的拡張の主旋律として、力による対抗を相互に行わせ、
その手段としての軍事力の拡張と行使を推進した。このような動きと相俟って、科学
と産業の発展が軍事力の破壊力を高めた。
94
・・・ヨーロッパの人々――彼らはますます読み書きができるようになり、都市化
され、政治的な自覚を持つようになってきた――は、19 世紀の前半に起こった通
信革命によって、軍隊の活動に対してそれまでにない親密さと係わり合いを持つ
ようになった。もっとも、政府は軍隊を、一般民衆の関心から引き離しておこう
と考えていた。なぜなら、それは軍隊を激励するよりも腐敗させやすいと心配さ
れたからである。しかし、軍隊との母体たる社会との係わり合いを増大させてき
たその同じ変化が、同時に、軍隊を支えるために、今まで以上に社会の諸資源に
頼ろうとする政府の軍事的要請を生み出してきた59(Howard 1976: 99=2010:
163)。
こうした国家総力戦の思想は、国民国家の覇権闘争を追求することを目的としてい
た。その思想は、啓蒙思想が内包していた科学的合理主義の探求を通して、より効果
的になった。その一方、国家総力戦の思想は、帝国主義の時代におけるマハンの海上
権力などの海軍戦略の実践的積み重ねの結果によって、その実効性が助長された。つ
まり、国家総力戦は、国民も含む国家の全てを使って戦争を行うというものであり、
戦争に勝つためには、できうることは全て行うということを意味した。
このような思想は、帝国主義時代におけるマハンの海上権力論などの実際の外交お
よび国防における実践的積み重ねの結果、生み出されたものである(Howard 1976:
125=2010: 201)。
海戦の真の目的が敵の海上勢力を破壊し、敵の(海外)領土との連絡を途絶し、
その通商による富の源泉を枯渇させ、敵の港の封鎖を可能ならしめることにある
のなら、攻撃の対象は、海上にある敵の組織された軍事力、つまり敵艦隊でなけ
ればならない60(マハン 2010: 25)。
マハンは、本国と植民地を結ぶ商船隊の活動を支える海外の根拠地を防衛する艦隊
を総称して海上権力を提唱した。
いったん宣戦するや、戦闘は攻撃的に遂行せねばならない。敵の打撃をかわすこ
とがあってはならず、打ちのめすべきである61(マハン 2010: 25)。
マハンはまた、海戦の目的は、決戦における敵勢力の全面的な殲滅であるとし、戦
艦隊の集中によってこそ敵艦隊を破滅させることができると論じた62(マハン 2010:
25)。
95
これに対してクラウゼビッツは、マキャベリの影響を受けて、政治の世界では軍事
力を含む勢力というものが、どんなに大切かを認識させるのに役立つことを理解した
(Paret
1976: 177=1991: 264)。それと同時に、クラウゼビッツは、戦争が国家権
力の様々な発揚の仕方の一形態にすぎないことをも理解した(Paret 1976: 439=1991:
531)。
したがってクラウゼビッツは、君主論における権力政治思想とのつながりについて
考察したのであって、ナポレオンの戦争や統治を曲解して、総力戦思想や敵殲滅のた
めならば手段を択ばないような戦い方を導き出したりはしなかったのである。
国家総力戦思想に関して、ルーデンドルフの思想がある。
ルーデンドルフの総力戦は、絶対的権力を有する軍隊の最高指揮官が主宰すべき
であるという理論である。作戦指導に加うるに、彼は国家の外交・経済政策と宣
伝政策をも指導しなければならないとした。「軍事幕僚部は適切に編成されねば
ならぬ。それは陸、空、海の作戦、宣伝、軍事科学技術、経済、政治等について
国民生活に通暁した最優秀の人材で構成さるべきである。彼らは参謀長の必要に
応じ総司令官に担任分野の事項について報告しなければならぬ。彼らには政策策
定の権限はないから。」と。このようにルーデンドルフの総力戦には文官政治家
の入りこむ余地がなく、将師が最高政策を支配するのである。そしてルーデンド
ルフは結論として、「クラウゼビッツの総ての理論は船の外へ捨ててしまわなけ
ればならぬ。戦争と政治は国民の生存に奉仕する。しかし戦争は民族生存の意志
の最高の表現である。」と述べている。・・・ルーデンドルフによれば、総力戦
は人口統計学や科学技術の進歩の所産であると言う。人口の増大したことや破壊
手段の改善が不可避的に総力戦にしてしまい、総力戦には政治的根拠は何もなく、
政治を吸収してしまったとしている63(Speier 1971: 317=1979: 34-35)。
ルーデンドルフの国家総力戦思想とは一言で表現すると、戦争に勝利するため、軍
隊の最高指揮官が独裁者と化し、非立憲的権力を皇帝、首相及び議会に対し振るい、
独裁者としての最高司令官がすべての国家・経済・社会の運営にかかわることを決定
することである。
ルーデンドルフの国家総力戦思想は、戦争する諸国の全領土が戦いの場となったこ
とや、戦争に全国民が巻き込まれるようになったことが時代的背景にある。したがっ
て、総力戦を有効に遂行するため、戦争目的にあった経済組織の編成、大衆の戦争参
加を鼓舞するための宣伝、敵国民に対する政治的結束を弱体化させるための宣伝、平
時からの軍事・経済・心理的準備といったことを実施する必要があるという。
このような全面戦争とも表現できる国家総力戦思想を生んだルーデンドルフは、ク
ラウゼビッツの思想を正しく継承していないと批判する論調もある。
96
ルーデンドルフは、軍事科学者や歴史家としてではなく、政治家として総力戦を
推奨し、<絶対戦争>の理論家であるクラウゼビッツの価値を認めていない。ルー
デンドルフは、政治的事項の一切を軍の指揮官の権力下に置くべしという、絶対
的な要求を述べた後に、次のように附言している。「たとえクラウゼビッツが戦
争は他の手段を持ってする政治の延長であると教えなかったとしても、<政治は、
戦争の遂行に奉仕すべきだ>というかかる意見をはくことにより、政治家は如何に
激昂するかということを自分は知っている。政治家が激昂しようが、私の意見が
無謀な軍国主義者の意見だといったところで構うことはない。そんなことは現実
の要求を何ら変更させるものではない。現実は戦争の遂行と国民生活の保護のた
め に ま さ に 私 の 要 望 と ま っ た く 同 じ こ と を 要 求 し て い る か ら で あ る 」 と 64
(Speier 1971: 306-307=1979: 24)。
しかし、戦争が形を変えた政治活動という理解は、近代の国民国家同士の戦争を動
かす重要な軍事思想であった。すなわち、国民国家は、科学的合理主義に基づく軍事
技術や軍事戦術の発展に裏打ちされた強力な軍事力を、躊躇なく合理的に、敵戦力の
撃滅という全面戦争において行使させた。
これは、キリスト教、古代ギリシア・古代ローマの伝統及び人文主義を共有する者
同士が、自己の意思を相手に強要するための力、すなわち軍事力を行使したことを意
味し、まさに啓蒙思想の負の面といえよう。
第二項
総力戦思想の席巻
(一)第1次・第2次世界大戦
第1次・第2次世界大戦では特に、第1次世界大戦に着目する。それは、第1次世
界大戦こそが、現代の世界の基本的な枠組みを作り出した戦争であったからである。
また、総力戦思想の大量殺戮・破壊によって特徴付けられる第1次世界大戦の世紀は、
連綿と現在も続いているとも認識できるからである(山室 2011: 13-14、94-95)。
このような点に鑑み、第2次世界大戦は、第1次世界大戦の延長と捉えられよう。
第1次世界大戦について、その起源や原因、あるいは、第1次世界大戦そのものの
歴史的意義など、様々な研究がある。
まず、第1次世界大戦の原因に関し、ドイツの国内政治問題、ヨーロッパ支配階級
における政治的・政策的危機と共産主義の相克、当時のヨーロッパ列強や陸・海軍当
局の軍事計画、当時の国際体制問題としての帝国主義における植民地争奪戦と国際経
済、など、様々な学説がある(ジョル 1987: 1-11)。
97
ここでは、権力政治と総力戦思想とが相俟って、帝国主義における覇権主義や、行
き過ぎた経済主義による植民地争奪が招来され、その行き着く先が第 1 次世界大戦で
あった65(岡 2009: 164-166)という立場をとる。そして、第2次世界大戦は第 1
次世界大戦の延長であり、第2次世界大戦の負の連鎖として核兵器の支配する冷戦時
代が存在すると主張する。
そこで、帝国主義時代から第一次世界大戦へ至る社会情勢を考察する。なぜなら、
軍隊は社会情勢を反映するからである。
一部の歴史家が示唆したところによれば、20 世紀初頭の熱狂的で軍国主義的なナ
ショナリズムは、革命から大衆の支持を引き離して、彼らを既定の秩序の方に引
き付けるように教え込もうとする、反動的支配階級によって引き起こされたもの
であった。しかしこれは粗雑な機械論である。ナショナリズムを最も信じなかっ
たのは、実は、支配階級の中の最も反動的な人々であった。ヘーゲルとマッツィ
ーニの思想はそれ独自の価値と主張を持っていたし、デモクラシーとナショナリ
ズムとは互いに養分を与えあっていた。国事への参加意識が大きければ大きいほ
ど、国家は国家を生み出した唯一無比の価値体系の具現化だと見なされるように
なり、国家を守り国家に奉仕する責務はいよいよ大きくなった66(Howard 1976:
111=2010: 180-181)。
・・・組織宗教の力が低調になってきた時代には、民族が人々の忠誠の焦点とし
て現れてきたのである。奇蹟の時代は卒業したが、流行歌スターの時代にはまだ
入っていなかった人々は、国家によって、目的、精彩、刺激、威厳を与えられた。
しかし、民族は、自らの価値と力の優劣を、他の民族に照らしてしか、測ること
ができなかった。いかにその目的が平和的でその理想が高尚でも、その最高の運
命は戦争であるという結論を避けることはいよいよ困難になった 67 (Howard
1976: 111=2010: 181)。
すべてこのこと(軍事独裁を支持した祖国戦線という強力な組織、これは社会の
全階層を代表するが、その支持の大部分は下層中流階級からえていたということ)
は、あることを可能にした。あることとは、社会の全資源を、何年も続く長期間
の戦闘のために、全面的に動員することである68(Howard 1976: 112=2010: 183)。
こうした社会大衆の支持が、国家総動員体制を基にする全面戦争を可能とした。
98
陸軍は、もはや、戦争している国家の名代でも擁護者でもなかった。陸軍は、そ
れによって交戦国が互いに資源と人間を搾り取りあう道具であった69(Howard
1976: 114=2010: 185)。
・・イギリスとドイツは、すべての資源は戦争目的に向けることができ、また現
に向けられている、という仮定に基づいて行動したのである。両国は、その結果、
互いに攻囲状態を押し付けあうことになった。平和の招来は、戦場での勝利の結
果であるよりは、経済的・心理的消耗の結果であった70(Howard 1976: 114=2010:
186)。
大衆の支持を受ける国家総力戦は、軍隊を、資本主義が要求する対外膨張を推し進め
る権力政治の究極の道具とした。
国家総力戦を助長する契機となったのは、普仏戦争であった。当時最大の軍隊を有
するといわれていたフランスが、新興国のプロイセンに負けた。これは、当時のヨー
ロッパの軍事思想に影響を与えた。
当時の将軍達が・・敵前で勇敢に機動する代わりに、陣地を守ろうとするその消
極性のせいにした。・・フランス陸軍の伝統は攻撃側のもの・・最強の防備でさ
え英雄的指揮による大量攻撃によって攻略できる、と信じた71(Howard 1976:
106=2010: 173-174)。
フランスが負けたのは、フランス陸軍の伝統である陣地を守ろうとする防御の戦法が
もはや有効でないからであるとの認識がヨーロッパにおいて教諭された。防御を第一
とする軍事思想からの転換が始まった。フランス陸軍自身、防御を第一とする戦法か
ら攻勢第一主義へと、その軍事思想を変化させた。
こうしてヨーロッパにおいて軍事思想の主流に変化が生じた一方、ヨーロッパを含
む世界では、列強が、帝国主義に基づく植民地獲得のための覇権競争を激化させてい
た。
普仏戦争でのフランスの敗因とともに、マハンの海上権力も、軍事思想を「防御を
第一とする戦法」から「攻勢第一主義の戦法」へと変化させることを助長した。マハ
ンの海上権力は、海戦の目的が決戦における敵勢力の全面的な殲滅であるとして、戦
艦隊の集中によって敵艦隊を破滅させることができると論じる(Mahan=2010:
2572)。ここからからも、大量集中および相互殲滅戦略の思想が導き出された。
また、マハンの海上権力のほか、ルーデンドルフの国家総力戦思想も大量集中およ
び相互殲滅戦略思想を助長した。ルーデンドルフは、大量集中および相互殲滅戦略を
体系化し、敵戦力の撃滅及び経済組織や大衆をも含む国家の総力を挙げて、敵戦力を
99
撃滅する全面戦争行使を説いたのである(Speier 1971: 306-307, 317=1979: 24-
25、34-35)。
こうした社会における国家総力戦を受容するような状況の下、権力政治と総力戦思
想とが相俟って、帝国主義における覇権主義や、行き過ぎた経済主義による植民地争
奪が招来された。そして、その行き着く先に第 1 次世界大戦があった。
世界では、1870 年代の初めに、ドイツ、イタリアという民族国家(国民国家)が成
立した。そして 1870 年、80 年代から 1914 年にいたる帝国主義の時代(岡 2009: 89)
において、ヨーロッパのドイツ、イタリア、イギリス、ロシアに、アメリカおよび日
本が加わり、産業資本が成熟したことによる活発な経済的な膨張が世界的傾向となっ
た。新しい国民国家の誕生と産業資本の要求する対外的膨張を背景に、植民地獲得を
巡り各国が覇権を競ったことから第 1 次世界大戦は生じたのである。
そうした植民地獲得の帝国主義は、典型的な形においては、民族国家の対外的膨張
であり、その主たる推進力は資本主義であった(前掲書 95)。そのため、帝国主義は、
多くの国により、対外政策として導入された73。
ここで、帝国主義下でのヨーロッパ諸国の対外的膨張を推進したものとして、技術
の発展を挙げなければならない(岡 2009: 97、田村 1997: 244)。ベッセマー製鋼法・
汽船用のエンジン、鋼鉄レール、スエズ運河の建設、電信線・海底電信など、技術の
進歩は枚挙にいとまない程の大きなものであり、ヨーロッパ諸国の対外膨張を容易な
ものとした(岡 2009: 189、198)。
しかし、ヨーロッパ諸国にアメリカや日本も加えた各国の帝国主義は、発展過程で
衝突し、国際社会における緊張が醸成され、それらの対立を軸として植民地の獲得を
巡って紛争が生じた。ロシアとオーストリア=ハンガリーとの間でのバルカン半島を
めぐる対立は、関係する2国間のみの問題ではなくなっていた(前掲書 128-129)。
イギリスが国際社会を支配する時代は終焉し、国際社会は多元的に展開するように
なった74。そして、帝国主義諸国間の相互関係は次第に複雑なものになり、その影響
は、世界政治的規模を帯びたものになった。
こうして第 1 次世界大戦へ至るまでに、国際社会の構図が多元的な様相に変容した
75
。これにより、徹底した総力戦が遂行されるようになった。これは、国際社会の変
容に対応したのみならず、社会の要求でもあった。開戦までに蓄積した武器を使い果
たす以前に、敵を殲滅して、戦争の終結を図ることが前提であった戦争から、戦いな
がら武器を作り続ける戦争へと転換した(山室 2011: 156)。
戦争の形態の変容により、第 1 次世界大戦では大量の砲弾や弾薬が使用されるよう
になった(前掲書 155)。これは、徴兵による大量動員が可能となったことに加え、
人口増と産業社会の発展があったため可能となった。第 1 次世界大戦での砲弾や弾薬
の使用量は、開戦前に予想されたものの数十倍に達したともいわれている76。
100
こうした戦争形態の変化は、社会全体が第1次世界大戦前に既に、資本主義が要求
する対外膨張のみならず、国家が総力を挙げて支援する国家総力戦をも支持していた
ことが背景にあったと考えられる。
これに加え、第 1 次世界大戦での戦争形態の変化は、戦争が職業軍人のみが戦う「専
門家の戦争」から、政治・経済・思想・文化など国家の持てる限りの力を集め、物的・
人的資源を有効に組織し運用する「総動員体制に基づく総力戦争」へと変容したこと
が背景にあったとも考えられる(前掲書 160)。
総動員体制に基づく国家の総力を挙げての戦争は、市民社会をも変容させた。ひと
たび戦争となると、射程距離を伸ばした野砲や列車砲、飛行船や飛行機による都市爆
撃によって、戦場が市民社会を侵食した(前掲書 157-158,Howard 1976: 128-
129=2010: 206)。
国民全員が戦争し、日常生活において戦場という非常事態を強いられるようになっ
た。その結果、無差別で大量の破壊と殺戮が、市民社会で戦争における日常として存
在するようになった(山室 2011: 158,Howard 1976: 134-135=2010: 214-215)。
このような国家総動員体制を国民に広く浸透させるため、新聞や教育を通しての宣
伝が、政府によって広く使用されたことも重要な役割を果たした。
第 1 次世界大戦はドイツの敗北に終わったものの、その原因となった覇権主義や植
民地争奪戦の根本問題が未解決のまま残された。そのため、第2次世界大戦が、第1
次世界大戦終了後 30 年で生じた。
同時に、科学や技術の発達は、第 2 次世界大戦における戦いを、より悲惨なものと
し、総力戦思想の下で大量の一般市民が戦闘に巻き込まれ命を落とした。特に、英米
のドイツに対する空襲は、いかに合理的かつ効果的にドイツの民間人を大量に殺戮す
るのかについて研究した結果が反映されており、ドイツの民間人が犠牲となり、ドイ
ツの降伏に効果的であった。
第 1 次世界大戦は、植民地争奪戦の延長線上に位置づけられる。そして、第2次世
界大戦は、第1次世界大戦の一部と認識できる。
また第2次世界大戦中に核兵器が開発され、第2次世界大戦の東アジアにおける局
地戦争である太平洋戦争の末期、日本に対して2度使用された。この核兵器の使用に
より焦土と化した日本が連合軍側に無条件降伏したことで太平洋戦争が終わり、第 2
次世界大戦も終了した。
しかし第2次世界大戦後、核兵器を支配する米国および旧ソ連邦の影響の下、米国
の同盟国としての西側と旧ソ連邦の同盟国としての東側との間で、イデオロギーの違
いに端を発する東西冷戦が発生し、この2極化した構造が、その後の国際社会の動向
を左右するようになり、権力政治は新たな様相を呈するようになった。
101
(二)核兵器の支配する冷戦
一)第2次世界大戦後の社会
第2次世界戦争は、ヨーロッパにおける国際的対立を端緒として爆発しながらも、
それが世界的規模の戦争へと発展拡大するに至ったのについては、その根底には
1つには極東における、日本と英米両国との先鋭な帝国主義的対立が存在してい
た(岡 2009: 273)。
第2次世界戦争はさらに、第1次のそれに比して全体戦争としての性格をはるか
に高度にそなえたものであった(岡 2009: 274)。
第2次世界戦争はまた、ファシスト諸国と、英米を中心とする資本主義諸国なら
びにソ連邦との間の戦争であった。しかし、イギリス・アメリカ両国とソ連邦と
は同一陣営に属しながらも、きわめて微妙な交渉を保ち続けたのであった(岡
2009: 276)。
こうした特色を持つ第2次世界大戦は、第1次世界大戦の継続として認識される。し
かし、第2次世界大戦は、ヨーロッパのみならずアジア・太平洋地域が戦場となった
ことで、第 1 次世界大戦よりさらに、多元的な様相を呈した。それに加え、第2次世
界大戦の戦況が進展するにしたがって、連合国側として同じ陣営で戦ったイギリスお
よびアメリカとソ連邦との間に、微妙な緊張関係が生じた。
第2次世界大戦の中で生じた連合国側内での不安定性は、同大戦後、世界において
共産主義の勢力が植民地の民族解放運動と連動して拡大するに伴い、アメリカとソ連
邦の関係を、緊張感を孕む不安定なものへと変容させた。そして、米ソ2極に分かれ
ての国際的対立が、世界的規模で急速に浸透した。
米ソ 2 極化による対立状況が国際社会の中で進展するに伴い、第3次世界大戦の危
機をさえ危ぶまれる状況になった。ヨーロッパにおいては、西側ヨーロッパとソ連邦
との両ブロックが、それぞれ防衛体制を発展させた77。一方アジア・太平洋に関して
は、1954 年にアメリカの主導の下にアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、
ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンの8ヶ国の間に東南アジア集団防
衛条約(Southeast Asia Collective Defense Pact)がマニラにおいて調印され、発効
し、東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization: SEATO)が成立し
た。これは、北大西洋条約に準じた条約を東南アジアに関して結んだものにほかなら
なかった。
こうして第2次世界大戦後、国際社会の状況はより多元的なものになり複雑化した
が、アメリカとソ連邦という2極の元に収斂していき、米ソ2極の支配する社会とな
102
り、冷戦期はそれまでの国際関係史と比較しても、稀に見る「長い平和」(Gaddith
=2002: 376-416)であったという見方がある。
「長い平和」とは、核兵器がいつ使用されるかという恐怖による平和であり、一人
ひとりの人間の安寧を招来するようなものではなかった。つまり「力による平和」が
もたらす「恐怖の均衡」であった(高坂 1966: 52-58)。
このように、第2次世界大戦で使用された核兵器は、その後の社会を支配する程の
脅威を与えた。しかし他方、1945 年6月、国際社会においては、世界の新しい国際的
平和機構としての役割を期待された、国際連合が創設された。
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類
に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と
男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、
正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができ
る条件を確立し、
一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、こ
のために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、
国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を
除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを
決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定
した。
よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を
示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に
同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。
(国際連合憲章前文78)
しかし、国際連合が世界的平和実現を努力する一方で、第2次世界大戦後の社会にお
いては、国家は、核兵器の脅威への対処をその重要な安全保障問題としなければなら
なかった。米ソ 2 極を中心とした国際的対立の激化による国際情勢の不安定さは、ヨ
ーロッパ地域においては、かえって紛争を凍結状態に保たせた(岡 2009: 218-219)。
今日では、NATO は、アメリカへの無用な補助部隊として生き残っているが、そ
の貢献は軍事的というよりはむしろ政治的である。この軍事的衰退の根底には、
ヨーロッパ諸国民の文化における深刻な変化があった。彼らはもはや戦争を、人
類の避けがたい運命であるどころか、重大な「政策の具」だとも見なさなくなっ
た(前掲書 219-220)。
103
このようにヨーロッパにおいては、二度の大戦により、戦争を恐れるとともに平和
を希求する文化が高まっていた。他方、ソ連邦のロシア人たちにも二度にわたる大戦
による侵略の経験から、戦争を避けたいという気持ちが大きかった。
しかしドイツが、アメリカによる核戦力の保護のため再軍備したことは、ソ連邦の
動員状態を継続させた。また、ドイツ以外のヨーロッパ諸国も、再軍備せざるをえな
くなった。
第2次世界大戦後の社会は、核が事実上の支配者であった。
二)核兵器をめぐる動向
核兵器の発達は、ヨーロッパの通常型軍隊の合理的根拠を問題視させるようになっ
た。同盟国アメリカが、ソ連が通常戦力によってヨーロッパを攻撃するのを抑止する
ために、核兵器の使用によってソ連に脅しをかけるのを確実に実行するのかというこ
とが、米国を軸とする西側陣営にとっての問題であった(桃井 1973: 30-36)。
第2次大戦後の安全保障論の中で核戦略を考察すると、それは、「生存か破滅か」
という緊張感の下で形成され、「抑止論」をその屋台骨として展開したといえよう。
たしかに、米ソ2極間の戦争が起こらなかったという意味では、冷戦期は過去の歴
史と比較しても特別な時代であった。ただしその「長い平和」は、共に相手を破壊し
つくせる能力を誇示することによって、究極的な相互抑止を担保した「恐怖の均衡
(Balance of Terror)」によって成り立っていた。そのために、冷戦期の多くの政策決
定者や専門家が、核戦略との対話に力を注ぐこととなった。
米国の核戦略を俯瞰すると、それは「大量報復戦略」(1954 年)、「柔軟反応戦略」
(1961 年)、「相互確証破壊戦略」(1965 年)と展開していった。「大量報復戦略」
とは、ソ連大都市に対する即時かつ大量報復能力を持つことによって、あらゆる規模
の侵略を抑止しようとする戦略である。
1950 年代は米国の核戦力はソ連のそれを大きく上回っていた。このような核兵器の
優越性を背景に、ソ連からのあらゆるレベルの威嚇に「大量・即時に核報復をするこ
とによって、ソ連の行動を抑止しようとしたのである。ところが、その間にソ連は戦
略爆撃機を整備し、大陸間弾道ミサイルの配備に成功するなど、核戦略の体系を整え
てきた。
そのなかで、小規模な武力衝突・局地紛争などを、どのように管理するのかという
問題が浮上するようになった。「大量報復戦略」は、あらゆるレベルの紛争に即時に
大量の核報復をするのであるから、柔軟性に欠けることとなった。本来であれば「局
地的に限定」されうる紛争が、大戦争に自動的に発展してしまうドクトリンとなって
しまった。
104
ソ連や東側陣営が欧州戦域において通常戦力を強化し、「局地紛争」への自信を強
めたことも、「大量報復戦略」の「荒っぽさ」を目立たせることになった。1から 10
までの紛争レベルがあるとすれば、すべてを 10 にエスカレートさせることによって、
紛争を抑止することは非現実的と認識された。もっと、1対1・5対5・7対7の対
応をしなければ、抑止の安定性は保てないという論理に発展し、これを「エスカレー
ション・コントロール」(Escalation Control)と称した。
ここで登場したのがケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラであり、
彼は 1961 年に「柔軟反応戦略」(Flexible Response)を体系化し、小規模な武力衝突・
局地戦争から全面核戦争に至るすべての段階に対応できる能力を整備することを提言
した。「柔軟反応戦略」で重要なのは、エスカレーション・コントロールが可能なよ
うに、小規模・中規模・大規模な報復体制を整え、戦域の規模に応じて柔軟に対応さ
せようとしたことである。これによって、①1対1・3対3・・・の規模の戦域に対
応した相互抑止関係を構築すること、②仮に3対3での戦争が生じた場合、これを全
面戦争(例えば 10 対 10 の規模)に拡大させないよう管理すること、が可能になると
考えられた。
軍事目標(核ミサイルサイロ、指揮・管制系統、爆撃機基地、潜水艦基地など)を
正確に攻撃する能力が、「柔軟反応戦略」を成立させる重要な要素となった。これを
「 対 兵 器 (Counter-Force) 戦 略 」 と い う 。 そ の た め に は 、 大 陸 間 弾 道 ミ サ イ ル
(Intercontinental Ballistic missile: ICBM、以降、ICBM)にもきわめて高い命中精
度が必要とされる。
このころから、米ソ両国は命中精度を上げるための技術競争に邁進することとなっ
た。このときに使われる指標を「半数必中半径(Circular Error Probability: CEP、以
降 CEP)」(CEP は弾頭の半数が着弾する半径距離のことで、命中精度を表す)と称
するが、1万2000㌔離れた場所に CEP・200 ㍍という高精度まで発展した。「対
兵器戦略」は、このように精緻なターゲッティングの下で、レベル別の攻撃が行える
ように整備されていった。
こうした米ソの相互抑止の体系を究極的な形で確立したのが「相互確証破壊
(Mutual Assured Destruction: MAD、以降 MAD)戦略」であった(Gaddith=2004: 100
-101)。この戦略は、仮に相手から第1撃を受けても、残存した核兵器による第2
撃によって相手に耐え難い損害を与える能力を互いが確実に保持することを企図した。
こ の 戦 略 は 、 米 ソ 両 国 が 第 2 撃 能 力 (Second Strike Capability) の 残 存 性
(Survivability)を確実に担保することによって成立する。「どんなに攻撃しても、相
手は報復のための核戦力を温存できる」体制を作ることが重要とされた。
MAD戦略を決定的に定式化させたのは、1972 年の「弾道弾迎撃ミサイル(Anti
Ballistic Missile: ABM、以降、ABM)制限条約」であった。そもそもの発端は、1969
年代に、米ソ両国がミサイル防衛システム(Missile Defense: MD、以降、MD)の開
105
発を進め、核ミサイルを迎撃する能力の競争に突入したことにあった。これまで「相
互抑止」は、相手に報復する①能力、②意図を保持し、それを③相互理解することに
よって成り立つと考えられてきた。
しかし、米ソ両国が ABM を配備すると、「核ミサイルが飛んできても相当数は迎
撃できる」ことになり、相手への報復能力が削がれてしまうことになる。そのため、
より高度な ABM を配備した国は、相手を攻撃できるという先制攻撃の誘因が働く(少
なくとも可能性として)ことになる。これが、相互抑止を著しく不安定化させるとい
えよう。
そこで米ソ両国は互いに、ABM を「首都と ICBM 基地の計2ヶ所(後に首都1ヶ
所に限定)に、100 基のみ配備できる」とした「ABM 制限条約」を締結した。これは、
「互いを脆弱にすることが、相互抑止の強化につながる」という共通認識をつくった
ことで可能になった。つまり、「核戦争が起これば、互いに耐え難い損害を与えられ
るように、互いの防御をしないことにしよう」という理屈である。これは、米ソ両国
民が「恐怖を共有」することにより安定が担保されるということ、すなわち「恐怖の
均衡」に相当する。
冷戦期、米ソ両国は、このような段階にまで「抑止論」を発展させた。仮に第1撃
を受けたとしても「対兵器戦略」を確実に担保し、相手の国民や産業施設を徹底的に
破壊するために米ソ両国は併せて5万発に及ぶ核弾頭を保有していた。
その後、レーガン大統領はこのような「相互確証破壊戦略」を「非倫理的だ」と憤
慨し、再び米国民を守るためにミサイル防衛の開発に着手した。これが「戦略防衛
(Strategic Defense Initiative: SDI)構想」である。冷戦の終結のきっかけは、1980
年代にソ連が SDI に対抗した宇宙開発に踏み込むことができなかった、という説もあ
る。
しかし、いずれにせよ、ソ連はゴルバチョフ時代に米国に大いに歩み寄り、1989 年
の「マルタ合意」によって冷戦の終結が宣言され、80 年代以降、核兵器の数も大幅に
減少することになった79。
このような米国やソ連のみならず、イギリス、フランス、そして中国が相次いで核
武装を保有するに至った。他国の核兵器に対抗するために、自国も核兵器を保有する
というのは、最も単純な解決策であった。しかし、その後、核保有国は余り増加せず、
現時点で核保有国とされる国家は8か国であり、核兵器保有後にそれを放棄した南ア
フリカと 2006 年 10 月に核実験を発表した北朝鮮を加えても 10 か国にすぎない80。
冷戦期を通して核兵器を保有する国家が、予想を下回った原因としては、様々な要
因が考えられる。最大の要因は、多くの国家が東西冷戦の枠組みに組み入れられ、米
ソ両国が提供する拡大抑止、いわゆる「核の傘」が存在していたことにあるといえよ
う。
106
さて、このような米ソの「拡大抑止」の文脈において、それに依存しながら、独自
に核兵器を追求する国もあった。米国の拡大抑止に依存しながら独自の核武装を選択
したイギリス、核保有をめざしながら拡大抑止への依存に回帰したスウェーデンなど
もあれば、米国の「拡大抑止」とは一線を画しながら核武装を進めたフランスなどが
あった。他方、ロシアが提供する拡大抑止に依存して核保有へ動かなかった東側陣営
の諸国もある。
つまり、他国の核兵器の脅威に対抗するには、自国が核武装することが最も単純な
解決策であることは明らかである。しかし、すべての国家・地域が必ずしも同じ行動
をとるわけではなく、あえて非核の選択をするケースもあった。
こうした核兵器の脅威に対抗する各国の政策の一方で、核兵器の脅威への対処とし
て、1970 年に発効した核兵器不拡散条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear
Weapons:NPT、以降、NPT)がある81。これは、国連憲章に次いで最も批准国数
が多く、その意味において、普遍性が高いとされる他国間条約である。
NPT は、核軍縮、核不拡散、そして原子力の平和利用という三本柱を掲げるが、特
に核軍縮については、現在発効している多国間条約で核兵器国を定義し、かつ核兵器
国に核軍縮交渉義務を課したものが、NPT 以外に存在しないという事情がある。
NPT では、その第8条第3項において、条約前文の目的の実現と規定の順守を確保
するべく、5年ごとに運用検討会議を開催するよう定めている。本来的には、NPT の
法的枠組みが正しく機能しているかを評価するために存在する同会議は、今や NPT
体制のほころびを修正し、核軍縮や核不拡散の国際規範をより強化し、原子力平和利
用の権威を担保する機会を提供する場として、市民社会も含めた国際社会から期待を
寄せられる傾向にある。
しかし、こうした「核兵器のない世界」に向けたステップは、NPT 運用検討会議を
重ねるごとには進捗していないのが現状である。2010 年の NPT 運用検討会議におい
ては、「核兵器のない世界」に向けたステップとして重要なポイントはいずれも実現
しなかった82。例えば、核軍縮分野についてみると、国連安保理で法的拘束力のある
消極的安全保障を決議することは、既存のコミットメントを尊重するとの書きぶりに
とどまったことなどである83。
107
国の 2010 年 4 月に発表
表された「核
核構想見直し
し」である。
。
以下は、米国
図―2
24
「米国の核構想見
見直し」84
同構 想に示され
れているよう
うに、米国は
は、核兵器が
が存在する限り、核戦
戦力を維持す
するこ
とを明言してい
いる。
し たがって核
核不拡散など
どの動向は遅
遅々として進
進んでおらず
ず、冷戦の
の終結によっ
って、
国際 社会は「恐
恐怖の均衡」からは解放
放された(米
米ソは相互に戦争をす
する意志がな
なくな
った )ものの、核兵器の恐
恐怖から解放
放されたわけ
けではない。
。そして、 この核兵器
器の恐
怖は 、核兵器を
を含む大量破
破壊兵器の拡
拡散といった
た新たな恐怖
怖も加わり 、冷戦構造
造の崩
壊した現在も国
国際社会を支
支配している
るといえよう
う。
108
【注】
1
原典(Michael Howard, 1976, War in European history, Oxford University Press,.)
では、この箇所は、Foreword に次のように書かれている。The historian who studies
war, not to develop norms for action but to enlarge his understanding of the past,
cannot be simply a ‘military historian’, for there is literally no branch of human
activity which is not to a greater or lesser extent relevant to his subject. He has to
study war not only, as Hans Delbruck put it, in the framework of political history,
but in the framework of economic, social, and cultural history as well. War has
been part of a totality of human experience, the parts of which can be understood
only in relation to one another. One cannot adequately describe how wars were
fought without giving some idea of what they were fought about.
2
ここは筆者の加筆。
3
ピサ問題は、「ピサの奪回」という軍事問題と取り組むことであった。マキアヴェ
ッリは、1498 年から 1512 年までソデリニが首班として政治を統括していたフィレン
ツェで実際の政治運営に書記として携わった。ピサは、アルノ川の河口にある海港で、
フランス軍侵入の混乱を利用してフィレンツェの支配下から独立した。ソデリニの治
世が安定するか否かはピザの奪回いかんにかかっていた(ギルバート 1978: 8)。こ
のため、優秀な傭兵隊長が雇われ、フィレンツェの軍務についた。ピサの攻撃にはい
ろいろの計画がめぐらされ、その水上輸送を立つために、アルノ川の流れを変えると
いう空想的なことまで発案された。しかし、毎年冬が近づいて軍事行動が困難になる
時が来てもピサは陥落せずそのまま残っていた(前掲書 9)。この失敗は当時のソデ
リニ政権に対する市民の不満となって表れたのみならず、フィレンツェの権威の失墜
にもつながったため、また、長期にわたる傭兵の雇用は国庫と納税者に負担となった
ため、様々な打開策が施され、その中には、能力のある市民から構成される市民軍の
編成という案もあった。確かに市民軍は傭兵隊の補助の地位にすぎなかったが、この
参戦は、フィレンツェの最終的成功に尽力することとなった(前掲書9)。
4
古代ローマの市民軍は、古代ギリシアのポリスの市民軍を前提としている。つまり、
都市国家の軍隊である。カステランによると、ギリシアの都市国家の軍隊は、国民的
軍隊であり、政治に参加する市民から構成されており、都市国家はその防衛のために
常に青年たちを当てにしていたが、社会全体は非軍事化されており、祖国が危険にさ
らされたときにのみ、軍隊は市民全体と一致していた(カステラン=西海・石橋 1954:
12-14)。
5
『リウィウス論』は、『ローマ史論』や『ディスコルシ』とも称されているが、こ
こでは『リウィウス論』とする。
109
6
この点について、佐々木は、マキアヴェッリの議論が、君主か共和国に焦点がある
のではなく、両者に共通の stato にあると述べ、また、その stato の領土拡張(軍事外
交)に関する限り、両者についてそれぞれ論じている『君主論』と『ローマ史論』に
共通性を見出している(佐々木 2004: 31、49)。他方、厚見はこの点について、「『君
主論』/『ローマ史論』問題」に象徴されるように、相互に対になりつつも緊張を含ん
だ 2 つの要素がマキアヴェッリ自身の中に混在していると指摘している(厚見 2004:
2)。しかし、ここで留意すべきは、厚見が、これは、2 項対立のいずれか一方で他
方を包摂する形で緊張関係を解消し、それによってマキアヴェッリの政治性を考察す
るのではなく、こうした 2 項対立の緊張関係が同一人物の思想の中に混在することが、
どのような意義を帯びて、ある点について表象してくるのかということに注目した点
である(前掲書 2)。
7
この点について、マイネッケは、マキアヴェッリの思考は、国家理性についての不
断の省察という(Meinecke=菊盛・生松 1960: 61、88)。なお、マイネッケが、近
代国家の生みの親は、ホッブズやルソーといった社会契約論者ではなく、マキアヴェ
ッリであるという指摘に対する批判については、“押村高『国際政治思想』第 1 章 34
-37”を参照されたい。
8
市を 6 区に分け、また市を治めるために各区に2人ずつ、12 人の市民を選んだ。彼
らは長老と呼ばれて、1 年ごとに交代した。裁判によって生じる敵意の原因を除くた
め、人びとは市民たちの間で起こる民事および刑事の訴訟に判決を下すために、2人
の外国人の裁判官を用意して、1人を市民軍隊長、もう1人を法務長官と呼んだ。ま
たいかなる体制も、それを防衛する者がいなければ安定しないので、市内に20人、
周辺領域部に76人の旗手を設け、その指揮下にすべての若者を登録した。そして隊
長または長老に召集されたときに、全員ただちに武装して旗手の下に集まることを定
めた。・・・フィレンツェ市民たちは、こうした軍事的、市民的制度によって彼らの
自由を樹立した(Machiavelli=藤沢 1999: 65―66)。
9
Thus at least for the first half of the century warfare still consisted of personal
quarrels between individual princes over rights of inheritance, and not in any
sense conflicts between states, let alone nations, over what they perceived to be
their interests.(Howard 1976: 21)
10
古代ギリシアや古代ローマの文芸書が、西欧の中でも、特に、イタリアにもたら
され、自由討議精神や人間の自由な価値の再発見として花開いたのがルネサンスであ
った(会田 1973: 10-17)。このルネサンスが、西欧社会全体において、科学技術の
発達や航路の発見などを生じさせ権力政治の理論を体系化する一方、ローマ法王を頂
点とするキリスト教による思想的統一の緩みなどを招来した。こうしたキリスト教に
よる思想的統一の緩みは、神から統治を委ねられた世俗の君主に対するローマ法王の
110
統制力を低下させ、世俗の君主による絶対主義に基づく専制政治が隆盛を極めること
となった。これは、君主の政治と富裕な市民層の商業活動の協力をもたらし、貴族を
没落させた。しかし、中間層の市民や独立自営農民が興隆し、彼らが政治に参加する
割合が増すにつれ、自由・人権・友愛(連帯)の思想は芽生え、「支配者としての君
主による少数支配」に対する抵抗の意識を誘発するようになった。この中間層の市民
が自分達の人権や人道というものを意識するようになったのは、貴族や君主をも凌ぐ
ほどの経済力を得たことによる、更なる政治参加の要求のみによるものではない。む
しろ、ルネサンスにおける人文主義が説く、人間による自身の作った一切のもののた
めに歪められていることからの開放の意義によることが大きかった。人文主義の思想
は、西欧のいたるところに伝播し、中間層に属する市民が、その思想にふれたことに
より、人間が生来有している人権や人道といったものを取り戻そうとその生き方を啓
蒙されたのである(会田 1996: 24-25)。
11
エラスムスに代表される人文主義は、新旧キリスト教徒の反目や対立を緩和させ、
相互理解や寛容の精神を人間に自覚させることに貢献したと前項で述べた。このよう
な歴史的展開は、人間の精神的・思想的転換に相当するといえよう。この流れに位置
づけられる啓蒙思想は、神の支配から人間を解放し、人間の自由な精神を存分に働か
せ、合理的精神を育み社会を発展させた点で、絶対君主の圧制に抑圧された閉塞した
社会の開放に道筋を付けた。啓蒙思想は、ルネサンス以来の人文主義における、人間
性の尊重と社会の進歩をさらに進展させ、社会の進歩発展に大きく貢献したといえよ
う。
12
The Enlightment had no fixed body of doctrine. It included atheists, deists,
Protestants and Catholics; aristocrats, democrats and admirers of enlightened
despotism; idealists and materialists, Cartesians and anti-Cartesians, retiring
scholars and embattled propagandists, wise men and fools. Very few of its great
figures are entirely typical of it. Nevertheless, considering that it spanned a
century and a continent, it was a remarkably coherent and self-conscious
phenomenon.(Brumfitt 1973: 13)
13
啓蒙思想は、神と理性とを同じものだと考える立場、すなわち理神論の立場をと
った。善良な神がこの世界を作ったのであって、本来、人生に絶望すべき理由はどこ
にもなく、幸福を追求しなければならない。その際、理性を十分に働かせることが肝
要で、理性が十分に機能すれば、幸福追求は自ずと解決できるとされた。
14
これは、筆者が引用箇所の直前に書かれていたものを、当該箇所へ持ってきたも
のである。
15
Above all, the nations of Western Europe witnessed an unprecedented growth
in their commercial prosperity. All these developments provided grounds for
111
considering the possibility of social progress in a far more optimistic light than
ever before.(Brumfitt 1972: 19)
16
Yet it was in the countries where the middle classes were most numerous and
most powerful – England, Holland, France and parts of Germany – that the
Enlightment first took root; it was, on balance, the bourgeois who contributed most
to it (though in the case of France, this could be disputed); it was certainly, for the
most part, middle-class ideals that it preached. Technological progress was dear to
its heart. (Brumfitt 1972: 20)
17
The more abstract virtues extolled by the 'enlightened' also tended to be those
of the middle class. The stoic heroism of an earlier age was out of date. Enthusiasm
of any kind became an object of distrust in ‘Augustan’ England. The Christian
concept of charity tended to give way to that of ‘benevolence’ (the term was coined
by abbe de Saint-Pierre) with its overtones of humanitarian paternalism.
Tolerance, cosmopolitanism, hatred of war, the defence of economic and political
freedom,. All had a special appeal to the growing middle class.(Brumfitt 1972: 20)
18
Yet if Condorcet’s idea of progress contained these apocalyptic overtones, it was
nevertheless rooted in the scientific and philosophical principles of the age. Above
all, it reflected the new political concepts, foreshadowed in Rousseau or in the
American Declaration of Independence, but given their fullest expression in the
Revolution. In The Esquiisse, the idea of progress became linked with that of
democracy; the dissemination of knowledge was shown to be more important than
its acquisition by a privileged few, and the dissemination of power had to go hand
in hand with it. In varying degrees, most of the philosophes had subscribed to the
so-called double doctrine. ‘Not in front of the servants’ had been their motto. Truth
was for elite, the geniuses, the philosophes; so too was power. The majority might
be allowed to cling to their superstitions, or they might be provided with new ones;
but in any case they were to be conditioned, led and ruled (however benevolently)
by enlightened minority. In affirming, instead, the fundamental principle of
human equality, Condorcet may be said to have set the crown on the
Enlightenment. (Brumfitt 1972: 159-160)
19
カントの『永遠の平和のために』に関しては、ここでの考察に加え、「第三章、
第三節、第二項(一)国連の集団安全保障体制と国連軍の創設への経緯」において、
カントの原理に立脚して平和を追求しようとしている国際連合という観点で検討した。
20
これは、アメリカで開発されたもので、銃身内部にらせんの溝を入れることによ
り、射程距離、命中精度、破壊力が高められた(Liddell Hart=山田 1980: 197)。
112
21
『ナポレオンの亡霊』の 191 ページから 201 ページは、巻末訳注であり、翻訳者
が加筆しており、原書である The Ghost of Napoleon にはない。
22
その後、この戦闘法が参加兵士によってフランスに伝わり、ナポレオン軍に採用
された(前掲書 197)。
23
これは、古代ギリシアのポリスの共和制の精神と同じである。
24
貴族制の観念とは、主権者と臣民との間に二次的な権力を置く観念である。これ
らの権力は、出生と教養と財産とによってほかに並ぶ者なく、人に命令すべく生れつ
いたように見える個人や家計から構成されるからである。この観念こそ、それと反対
の理由によって、平等の正規の人々の精神には本来欠如しているものである。(de
Tocqueville=岩永・松本 1972: 200-201)
25
シビリアン・コントロール(文民統制)は、これ以降、普及していく。シビリアン・
コントロールは一般的に、法の支配と民主制の尊重に依拠するものであり、軍人は自
身の専門にのみ集中し、政治判断は議会に委ねるというものである。シビリアン・コ
ントロールの定義は、多少の違いはみられる。しかし、米国のハンチントンの定義が
一般的とされている。ハンチントンは、職業軍人は自身の専門である軍事にのみ専念
し、軍事組織は政治決断に立ち入らず、国民の代表から構成される議会の判断を仰ぐ
必要があるという(Huntington 1957: 89,259)。ハンチントンの主張は、軍隊や軍
人の専門性を特殊なものとみなし、これを最大限に生かすために、文民は軍事の専門
性に口を出さない一方、軍人は政策における判断・決定に関与しないことが肝要であ
るというものである。米国には、英国の支配から独立を勝ち取った経緯から、正規軍
をはじめとする政治的な権威からの自由という理念が通底している。つまり、米国で
は、市民社会には正規軍ではなくミニットマンで十分という伝統があり、自由主義と
民主制、そして市民社会を擁護するために政治参加する市民が従軍するという共和制
の理念である。 しかし、1 人が絶対的支配権力を持って多数を支配服従させる特徴を
軍隊は有しているため、民主的な共和主義的な市民社会を目指すアメリカは、できる
だけ常備軍を持たないように、たとえ持っても必要最小限にするように努めてきた。
26
簡単にルイ 16 世末期のフランスを俯瞰すると次のとおりである。ルイ 16 世及びそ
の廷臣たちは、革命がバスティーユの襲撃という形で始まった際、絶対君主制を守る
べく軍隊に頼った。これは、当然の行動であった。フランスの軍隊は、貴族である将
校が中心であり、国王に対する忠誠心は疑いようのないものであった。しかし、厳し
く訓練されたかに思われたフランスの軍隊はすでに解体し始めていた。たとえば、ル
イ 16 世やその廷臣たちが最も頼りにした軍隊の中の近衛連隊は、バスティーユの襲撃
に協力し、民衆の側に立って戦い、フランス軍隊の中の外国人傭兵部隊に対峙した。
もちろん、全てのフランス軍の部隊が市民の側に立ったわけではなかったが、一般か
ら、のがれない状況であった。実際、ルイ 16 世は、軍隊における将校の地位を独占し
113
ていた貴族たちの有効な支持もえられず、貴族階級の構成員としての、あるいは、将
校としての貴族を頼みとすることができなかった。
27
これは筆者が加筆したものである。
28
But when the Revolution had to defend itself, in 1972, against the invading
armies of its adversaries, there was little chance to practice formal military
doctrine. Only part of the old royal army remained loyal to the revolutionary
government, and that part was considered unreliable. Drilled, disciplined infantry
was no longer available in sufficient quantity to practice the tactics of the ancien
regime..(Howard 1976: 79)
29
フランス革命は、ブルジョア階級が人民大衆の指示の下に、アンシャン・レジー
ムの打倒に成功した。その後 1792 年 8 月のパリにおける大暴動を転機として革命の
指導権はブルジョア階級から小市民層へ移行し、それに伴って、革命はその方向にお
いて一段と急進化するに至り、その過程において君主制は廃止されて共和制となった。
しかし、1794 年の「テルミドールの反動」により、革命の指導権が小市民層から再び
ブルジョア階級の手へ戻り、それとともに、革命は方向において後退・右傾化するこ
とになった(岡 1993: 31-33)。このように革命の担い手が時を経るとともに変化し
ていったが、共和制を政体に選ぼうとも右傾化しようとも、革命を下で支えていたの
は、幅広い一般大衆による、オーストリアやプロイセンといった外国からフランスを
守ろうとする情熱であった。
30
これは筆者が加筆したものである。
31
Once the state ceased to be regarded as the ‘property’ of dynastic princes,
however hard-working and devoted to the interests of their peoples those princes
might be, and became instead the instruments of powerful forces dedicated to such
abstracts concepts as Liberty, or Nationality, or Revolution, which enabled large
numbers of the population to see in that state the embodiment of some absolute
Good for which no price was too high, no sacrifice too great to pay;---(Howard 1976:
75)
32
Of these innovations one can pick out four: the articulation of armies into
autonomous divisions which, since they could move along several roads
simultaneously, gave greater speed and flexibility to military movement; the
employment of free-moving, free-firing skirmishers―’light’ infantry or riflemen; a
more flexible use of artillery on the b(Howard 1976: 76)
33
国民総動員を求めた 1793 年 8 月 23 日会議の有名な条例は今日なお我々に雄弁に
そのことを物語る。「第一条
今日ただいまから敵が共和国の領土より駆逐せらるる
まで、すべてのフランス人は永久に軍務につくべきことを要求せられる。」(ジョミ
114
二
1978: 76)。こうして、フランスは徴収制度を施工した。1789 年には、徴兵制度
を採用するに至った(岡 1993: 35)。
34
この時代を通じて生きたカール・フォン・クラウゼビッツが認めたように、戦争
は、国家政策と別個の活動ではなくて、その具体的表現、すなわち他の手段をもって
する国家政策の実施であった(battlefield to gain a superiority of fire at a given
point; and the use of the column of attack instead of the line, a formation which
emphasized offensive shock rather than defensive fire: the change from l’ordre
mince to l’ordre profonde. (Howard 2010: 76=2010: 130)。
35
1795 年のテルミドール反動をもってフランス革命の終結とするか、1799 年のブリ
ュメールのクーデターによってナポレオンが権力を握った時点をもってフランス革命
が終わったとするものの二つの説がある(桑原 1983: 300)。
36
旧体制の王家は、非常に注意深くその軍事的予算を計算しなければならなかった。
正規軍の維持は、その国庫にとって、重い負担であった。しかし、革命軍にとっては、
数は問題ではなかった(Howard 2010: 137)。そうはいっても、兵の維持にはお金が
かかったのは事実である。そこで、次のような施策がとられ、兵を維持する資金が賄
われた。すべての消費物資に対して、最高価格が決められた。ぜいたく品のストック
は戦争物資の輸入のための輸出用に徴収され、すべての外国貿易は中央委員会によっ
て規制された。すべての輸送と工業生産は国営化され、戦争の必要にあてられた。買
いだめあるいは闇市場での取引によるこれらの規制の忌避は、死刑にされた。兵器と
弾薬と制服と装備の生産は、国家的規模で、組織された。科学者さえも、兵器製造に
関連する冶金、爆発物、弾道、その他の問題で仕事をするため召集された。・・・初
めて化学が、国家的規模で、戦争に応用されたものである。(Howard 2010: 138)
37
これは筆者が加筆したものである。
38
These were the ideas, and this the instrument, that Napoleon found to hand,
and he used them with a genius that was as much political as military. Perhaps
among his predecessors only Marlborough had shown a comparable capacity to
visualize a campaign as a whole instead of as a series of discrete sieges and battles
ーto discern the object for which all military operations were conducted; whether it
was,----------Political objectives thus dictated strategic planning; and strategic
planning was directed towards discerning the decisive point in the enemy position
and striking against it with irresistible force. (Howard 1976: 83)
39
Napoleon organized the French Armies according to a pattern which was to be
adopted by all European forces for the next century and a half; one which made
possible almost unlimited decentralization under a single supreme command. The
army was divided into army corps, each composed of two or three divisions,
115
infantry and cavalry, of 8000 men apiece. -------The Complex calculations involved
in these movements by hundreds of thousands of men through broken country over
indifferent roads, calculations which later generations established large general
staffs to work out, Napoleon carried in his capacious head. (Howard 1976: 83-84)
40
これは、アメリカの独立に際して使用されたもので、古代ギリシアのアテネにそ
の源がある。
41
こうした相違点について、当時活躍していたジョミニも、クラウゼビッツ同様、
『軍事大作戦論』において、旧体制のフリードリヒ大王の戦争と大衆軍の熱情を利用
したナポレオンの戦争を比較研究した(Paret 1991: 305-306)。ジョミニは、フリー
ドリヒ大王の時代の 18 世紀の防御中心作戦とナポレオン時代の破竹の勢いの大遠征
とを区別しない歴史観を下に、比較研究している(ibid. 306)。また、戦術も戦略も
いっしょくたにされているばかりでなく、戦争の動機やその政治的な目的にもふれて
いない(ibid. 306)。
42
The release of national energies evident in the French Revolution was no
passing phenomenon, but a fundamental change which would transform both
political and military relations in European societies, and to which their own
country would need to react, not only with military but with political reforms.
(Howard 1976: 86)
43
プロイセンでは、啓蒙思想の影響を受けた軍事改革の下で、シャルンホルストが
初級将校のため新しく開いた、ベルリン軍事学校において、専門分野である軍事科目
や、哲学・論理学・数学・歴史学等の基礎教養科目が教育されていた(ibid. 81-82)。
44
クラウゼビッツの『戦争論』が、啓蒙思想の影響を受けたものであると後年評され
ている所以は、彼の育った社会が啓蒙思想に基づく社会改革の影響の色濃いものであ
ったことにある。つまり、クラウゼビッツの思想は、クラウゼビッツ自身が当時の啓
蒙思想の影響の色濃いプロイセン社会で成長したことから、科学的合理主義や民主的
気風が、思考様式、価値観の形成、具体的軍事事象に対する研究態度や分析方法に反
映されているということである。それに加え、クラウゼビッツ自身、ナポレオン軍と
の戦いでプロイセン皇太子アウグスト(大隊長)と共に捕虜になったばかりでなく、
ナポレオンのロシア遠征に際しては、ロシア軍参謀本部付中佐として同軍隊の敗戦過
程を体験した。クラウゼビッツの『戦争論』は、自身のよって立つ思想、すなわち、
啓蒙思想を使用して、ナポレオン戦争を説明し、その考察を通して戦争理論の一貫し
た体系を樹立した。具体的には、クラウゼビッツは、『戦争論』において、当時のカ
ントからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学を基礎においた論法、思考方式、認識論に
より自己の体験した戦争を、従来の古典的戦争と比較・検討した(Paret 1976: 151)。
116
クラウゼビッツの戦争理論を一言で表現すると、科学的な二項対立思考に立っている
ということである。
45
しかし、このようなクラウゼビッツの提唱した戦争を巡る思想は、ナポレオンの戦
争を曲解したものであるという主張があることも忘れてはならない(Liddell Hart=石
塚・山田 1980: 119)。これはどういうことかというと、ナポレオンにおいては、将軍
ボナパルト時代の業績と皇帝ナポレオン時代の業績とには違いがあり、これを、後の
時代のクラウゼビッツが、一つの体系として整えたために、ナポレオンの本質が曲解
して後世に伝えられたということである。リデル・ハートによると、ナポレオンの真
実は、二つに分けられるという。一つは、フランス革命とその後の革命戦争の間に形
成された新しい軍制・戦略・戦術を基に自身の帝国を創設するに足る理論を適用した
「将軍ボナパルト時代」という前半部分である。また一つは、自分の帝国を破滅に導
くような手腕を発揮したのであった「皇帝ナポレオンの時代」である(前掲書 99)。
クラウゼビッツは、これらの二つを一つのものとして認識し体系化するに際し、「皇
帝ナポレオンの時代」に多用した数的優越という量の集中という心情に凝り固まり、
自らの用兵術の妙をおろそかにした皇帝ナポレオンの業績が中心となった。つまり、
クラウゼビッツは、ナポレオンが「将軍ボナパルト時代」に適用した機動力の発揮と
奇襲を手段とする兵力節約の原則を考慮しなかったのである。戦争における大量集中
理論を公式化し、これを提唱してその実現に悪い示唆を与えたものは、クラウゼビッ
ツであり、それは、ナポレオンの業績を、皇帝ナポレオン時代のものに偏って研究し
た結果であった。クラウゼビッツは、ナポレオンを一つのモデルとしてこれを自由に
駆使し、世間からはナポレオンの解説者のように見られるに至った。しかし、クラウ
ゼビッツは、自ら思索して得たナポレオンのものではない自分自身の考えを提唱して
いる面がある。それは、大量集中理論と相互殲滅戦略理論である。クラウゼビッツが
このような2つの理論を提唱するに至るまでに、絶対戦争論と、戦争が政治の継続で
あるという理論を展開した。この2つの理論を熟考すると次のようなことに気付くの
である。それは、もし、戦争が政治の延長であるならば、必然的に戦後の利益を考え
て行わねばならないはずであるのに、枯渇するまで国力を使い果たすのでは、「政策
を破たんさせてしまう」という矛盾である。つまり、クラウゼビッツは、終戦までは
考えたものの、終戦後の平和については考えていなかったということである。クラウ
ゼビッツがたとえ、敵の軍隊の撃滅が、戦略の唯一真正の目的であるという考え方の
創案者ではないとしても、彼がそれを喧伝した人であることは確かであろう。
われが流血にたじろぐことなく惜しみなく兵力を行使し、敵がこのような断乎さを
欠くときは、われは敵を圧倒し屈服を強要することとなる。そうすると敵もまた我に
劣らぬ兵力を行使せざるを得ず、相互にエキサイトして極限まで暴力を行使する状態
に陥り、両者間の力の均衡以外にはこれにブレーキをかけるものは何もない。戦争の
117
哲学の中に中庸の原則を導入することは不合理なこととなろう。戦争は常に、その極
限まで推進される暴力行為である。クラウゼビッツの無制限かつ打算を弁えぬこの原
理は、憎悪に逆上している暴徒用のものであり、かつ、それ以外には適用しえないも
のである。したがって、クラウゼビッツは、主要な2つの理論を展開する中で、政治
的手腕を否定し、また、政治目的に奉仕しようとする理性的な戦略をも否定したので
ある。
46
この箇所に関し、“リデル=ハート・バジル・ヘンリー,1980,石塚栄・山田積
昭訳『ナポレオンの亡霊 - 戦略の誤用が歴史に与えた影響』原書房”は次のような和
訳をしている。「我々は、ボナパルト将軍時代のものでない皇帝ナポレオンが遂行し
た諸戦役に関するクラウゼビッツの観念的な集中の意義を解明することができる」
(前
掲書 126)
47
パレはクラウゼビッツ研究の第一人者である。パレによると、戦争の本質は、他
の手段をもって行う政治の継続であるとしている。たいした動機もない戦闘は、「本
来の戦争」ではない。クラウゼビッツの戦争に関する結論は、それぞれの戦闘は政治
的動機の種類や強度によって異なった展開を見せるため、戦争という暴力行為は政治
的目的の表出であって、その代償行為ではないとする。戦争は、政治交渉の断絶によ
って起きるものではない(Paret 1976: 380-381=1991: 516-520)。
48
しかし、クラウゼビッツのこのような理解は、ナポレオンの戦争の根底にある思想
を曲解していたといえよう。しかし、クラウゼビッツは、「皇帝ナポレオン時代」の
ナポレオンの戦争における数的優越という量の集中を極端にし、そこから大量集中と
相互殲滅戦略の理論を創出したのである。そして、大量集中と相互殲滅戦略の理論は、
合理主義と経済主義が相俟って益々先鋭化され、第 1 次世界大戦における総力戦思想
へと繋がり、一般市民をも巻き込んだ破壊と殺戮を生み出し、市民社会に壊滅的打撃
を与えたのである。
49
ナポレオンの欧州征服は、ナポレオンが征服した地域の民族意識を覚醒し、君主
の支配に対する抵抗の精神を招来したのは事実である。なぜなら、ナポレオンは、フ
ランスの支配または勢力下におかれていく大陸の広汎な地域には、フランス国内にお
いてナポレオンが採っていた統治方針が推し及ぼされることになったからである(岡
1993: 35)。ナポレオンの統治方針は、統治において、革命のなしとげた事業に対し
て、革命が標榜した「平等」ということに関しては、身分的特権の打破を通してこれ
を尊重し、この建前においてなされた諸改革の維持をはかった。すなわち、万人に対
する機会の均等という名目で、勢力下においた地域に対して兵士の大量徴発を行い、
またそれら地域の富の大規模な収奪を試みつつ征服戦争を重ねた。さらに、従属化に
おいた諸地域に対して自己の意のままに国境を画定し、同地域に君臨する王家を廃位
し、フランスにならった法律および行政を布くことを強要し、フランス語を公用語に
118
採用させた。ナポレオンは、こうした従属地域に駐屯するフランス軍と警察力とを用
いて、同地域の政治的自由を徹底的に禁圧した。ナポレオンのこうした政策をめぐっ
て、大陸諸国にはしだいに憤懣が鬱積しつつあったが、それは対英経済封鎖の実行に
よって激化した(前掲書 37)。
50
But in 1813, after the destruction of Napoleon’s armies in Russia, the situation
was transformed. An outburst of patriotic enthusiasm throughout Germany,
among all classes, broke down many of the old barriers. Conscription was
introduced, and a national service force, the landwehr, was created which elected
its own officers and in which service was compulsory for all men of military age
who were not called up into the army itself.--------The Napoleonic invasions had
evoked in Germany a Nation in Arms;----(Howard 1976: 87)
51
ナショナリズムに関しては、B アンダーソン、EH カー、J ナイなど様々な定義が
あるが、本論では、ゲルナーのナショナリズムの定義に立つ。
52
In brief, nationalism is a theory of political legitimacy, which requires that
ethnic boundaries should not cut across political ones, and, in particular, that
ethnic boundaries within a given state―a contingency already formally excluded
by the principle in its general formation―should not separate the power-holders
from the rest.(Gellner 1983: 1)
53
‘Militarism’, like ‘Fascism’ has become a term of such general illiterate abuse
that the scholar must use it with care. Here we mean by it simply an acceptance of
the abuse of the military subculture as the dominant values of society: a stress on
hierarchy and subordination in organization, on physical courage and self-sacrifice
in personal behaviour, on the need for heroic leadership in situations of extreme
stress; all based on an acceptance of the inevitability of armed conflict within the
states-system and the consequent need to develop the qualities necessary to
conduct it. By the end of the nineteenth century European society was militarized
to a very remarkable degree. War was no longer considered a matter for a feudal
ruling class or a small group of professionals, but one for the people as a whole.
The armed forces were regarded, not as part of the royal household, but as the
embodiment of the Nation. Dynastic sovereigns emphasized their role as national
leaders by appearing whenever possible in uniform; and military parades, military
bands, military ceremonial provided an image of the Nation with which all classes
could identify themselves. (Howard 1976: 109-110)
54
Long before 1914, then, it was accepted by all the states of Europe that the
military effectiveness on which they relied to preserve their relative power and
119
status depended, not on the efficiency of small professional forces, but on a
combination of the manpower of the population and a strategically appropriate
railway network. Any nation that gained
a decisive advantage in these two
respects, other things being equal, could transform the political map of Europe
almost overnight. The availability and the welfare of that manpower therefore
became a matter of state concern as never before. The birth rate itself was an index
of military power, and the French watched the decline of theirs after 1870,
compared with the soaring figures of their German rivals, with deep concern. The
physical health of the conscripts was important: social policy in the United
Kingdom owed a great deal to the experience of the 1850s, when it was discovered
that an alarmingly high proportion of militiamen called to the colours for the war
against Russia had to be rejected as unfit for service. So also were basic
educational standards. Modern armies had become complex organizations
demanding literacy and numeracy down to a very low level of the hierarchy; a
cynic might suggest that it was even more necessary for NCOs to be literate than it
was for officers. (Howard 1976: 106-107)
55
There is also a link between nationalism and the processes of colonialism,
imperialism and de-colonization. The emergence of industrial society in Western
Europe had as its consequence the virtual conquest of the entire world by
European powers, and sometimes by European settler populations. In effect the
whole of Africa, America, Oceania, and very large parts of Asia came under
European domination; and the parts of Asia which escaped this fate were often
under strong indirect influence. This global conquest was, as conquests go, rather
unusual. Normally, political empire is the reward of a military orientation and
dedication. It is perpetrated by societies strongly committed to warfare, either
because, let us say, their tribal form of life includes an automatic military training,
or because they posses a leading stratum committed to it, or for some such similar
reason. Moreover, the activity of conquest is arduous and takes up a large part of
the energy of the conquering group.(Gellner 1976: 42)
56
ゲルナーは、帝国主義について、はっきりと定義を述べているわけではない。し
かし、帝国主義は、ゲルナーが定義した文化の同質性に基づく政治主体から成る国民
国家の対外的膨張であり、その主要な推進力は資本主義であった。
57
None of this was true of the European conquest of the world. It was eventually
carried out and completed by nations increasingly oriented towards industry and
120
trade, not by a militaristic machine, nor by a swarm of temporarily cohesive
tribesmen. (Gellner 1976: 42)
58
“ ---War was returned to the people, who to some extent had been separated
from it
by the professional standing armies; war cast off its shackles and crossed
the bounds of what had once seemed possible.”(Paret 1976: 341)
59
But the same process that were increasing the involvement of the armed forces
with the community from which they were drawn were simultaneously creating a
purely military requirement for governments to draw on the resources of those
communities more deeply than ever in order to sustain them.(Howard 1976: 99)
60
この箇所は、Mahan の The Influence of Sea Power upon History を翻訳する際、
翻訳者が読者の理解に資するように、マハンの理論に関し解説を加えたが、そこに記
載されていたものである。したがって、原典にはない。
61
脚注 60 を参照。
62
脚注 60 を参照。
63
Ludendorff’s theory of total war culminates in the role assigned to the supreme
military commander. In addition to conducting the military operations he is to
direct the foreign and economic policies of the nation and also its propaganda
policy.----Thus, in Ludendorff’s total war there is no place for the civilian
statesman.-----According to Ludendorff, on the other hand, total war is a product of
demographic and technological developments. The increased size of populations
and the improved efficiency of the means of destruction have inevitably created the
totality of war. Total war, which has no political cause, absorbs politics. (Speier
1976: 317)
64
・・・but the point of interest is the political motive of the criticism rather than
its content. Not as a military scientist and historian, but as a politician, did
Ludendorff, the advocate of total war, renounce Clausewitz, the theoretician of
“absolute war.” After stating his unqualified demand of complete authority of the
supreme military leader in all political matters as well, ----though Clausewitz had
not taught that war is but the continuation of politics with different means. Let the
politicians get excited and let them regard my opinions as those of a hopeless
‘militarist.’ This does not change any of the demands of reality, which require
precisely what I demand for the conduct of war and thus for the preservation of the
life of the people.(Speier 1976: 306-307)
65
日本の場合、ヨーロッパの列強が第 1 次大戦へ突入することになった経済を第一と
する経済主義の弊害が生じており、それが、旧軍の暴走を招来することとなった。そ
121
もそも明治維新の軍隊は、旧幕勢力を抑圧するための治安組織的存在であり、フラン
ス式の個人の意思を重視した組織であった。しかし、次第に政府の富国強兵政策推進
のための武力勢力としての道具的側面が強くなり、まさに、「國體」を中心とした近
代化の手段として活躍することが期待されるようになった。この軍隊の変質は、時の
政府による上からの命令によるものであり、日本人の自由意志のもとで実施されたも
のとは言えず、日本社会の総意を反映したものではない。たしかに、日清及び日露戦
争で勝利したことで、日本全体が日本の国際社会における大国の仲間入りに沸き、戦
勝特需で経済における更なる発展を招いたことは事実である。しかし、他方で当時の
軍隊を支えていたのは、人的にも財政的にも農民達であり、農民達を基盤とする村落
共同体の疲弊は否めなかった(難波田 1982 a: 307-311)
(難波田 1982 c: 37-38、48-59、91)。これが、後の時代の全体主義推進の原動力と
なったのである(丸山 1976: 93)。
66
・・・democracy and nationalism fed one another. The greater the sense of
participation in the affairs of the State, the more was the State seen as the
embodiment of these unique and higher value systems which called it into being,
and the greater became the commitment to protect and serve it. (Howard 1976: 111)
67
But the Nation could only measure its worth and power against other Nations.
However peaceful its purposes and lofty its ideals it became increasingly difficult
to avoid the conclusion―and a growing number of thinkers at the truth of the
century were making no attempt to avoid it―that its highest destiny was War.
(Howard 1976: 111)
68
All this made possible something which only a very few clear-sighted prophets
had foreseen might be necessary and even fewer had believed would be possible:
the total mobilization of all the resources of society for a prolonged struggle lasting
for years. (Howard 1976: 112)
69
They were instruments through which the belligerents could bleed one another
dry of resources and of men. (Howard 1976: 114)
70
When peace came it was the result not so much of victories in the field as of
economic and psychological exhaustion. (Howard 1976: 114)
71
In the first place they attributed their defeat in 1870 very largely to the
passivity with which French generals had defended their positions instead of
seizing the initiative in true Napoleonic style and maneuvering boldly in the
presence of the enemy. In the second, as we have already seen, the traditions of the
French Army even in the eighteenth century were those of the offensive, -------, so
122
long as the offensive could build up a decisive superiority of fire.(Howard 1976:
106)
72
この箇所は、Mahan の The Influence of Sea Power upon History を翻訳する際、
翻訳者が読者の理解に資するように、マハンの理論に関し解説を加えたが、そこに記
載されていたものである。したがって、原典にはない。
73
当時のヨーロッパでは、産業資本の原料である鉱物は、イギリス、ベルギー、フラ
ンス、ドイツを貫く広く帯状をなした地域(ミットランド地方、アルトア・アルデン
ヌ地方、ルール地方、ザクセン地方、シレジア地方)で産出された。そのため、イギ
リス、フランス、ベルギー、ドイツで近代産業が発展した。これら諸国では、産業資
本の発展に伴い、高度の保護貿易制を採用して、自国内の市場や原料供給地を自分達
民族の資本のために確保する政策を採るようになった。それに加え、産業資本の成長
が著しいヨーロッパ諸国は、自国産業のために、市場と原料供給地の拡大を次第に強
力に試みるようになり、植民地の獲得を次第に積極的に進めた。この時代の植民地政
策は、絶対君主制時代における珍奇な財貨の獲得を目的とする植民地の領有とは異な
り、ヨーロッパ外への膨張が、各国で成長著しい産業資本の膨張を推進するものであ
った。そのため、ヨーロッパ諸国の植民地獲得の試みは益々盛んに行われるようにな
った。このような資本主義の進展と市場を求めての対外的膨張は、民族国家の誕生に
伴う高揚された民族感情にとって魅力的なものとなり、膨張による国際社会における
自国の比重を高めることが躊躇なく実行へ移された。その反面、ロシアやオーストリ
ア=ハンガリーの場合、資本主義の後進性のため、膨張の対象となる地域を、自国産
業資本のために役立たせるよりもむしろ、課税や徴収といったその他の政治的手段を
もってその地域の富を収奪することに比較的重点がおかれた。したがって、この時代
の対外的膨張は、産業資本の成熟度によって異なるものとなり、ヨーロッパ諸国が全
て同じような意味合いを有していたわけではなかった。
74
イギリスは、同地域に対し、商品市場としてのみならずインドとの連絡路として
関心を抱いており、これに対し、フランスは、イギリスの東への膨張をけん制する意
味合いから、バルカン半島に対し関心を示した。このような帝国主義の相克するバル
カン半島問題以外に、フランスにおける対独復讐論を中心とする独仏関係も存在した
(岡 2009: 108)。また、ドイツの資本主義の急激な発展も、ヨーロッパ諸国におけ
る帝国主義の相克の一因となった。それは、資本主義の発展するドイツが、イギリス
と経済的・政治的に次第に対立関係に立つようになったのである。つまり、ドイツも
東方への膨張を企図し、バルカン半島へ関心を示すようになり、同じような意図を有
するイギリスとの間で緊張関係になったのである。ヨーロッパ諸国間での帝国主義の
相克が進展する間に、アメリカや日本も、アジアの中国(当時の清)をめぐり対立関
係を帯びるようになった。
123
75
脚注 31 を参照。
76
銃砲の数は開戦時の 300 門から4年後には 8000 門へと激増した。新兵器として毒
ガスもマスタードガスをはじめ 50 数種が開発・改良され、フランス軍・イギリス軍・
ドイツ軍などで 16 万2千トンが使用された。飛行機もイギリス軍は開戦時 70 機を保
有していたが、大戦中には約5万5千機を生産し、ドイツ軍も約5万機を製造した(山
室 2011: 155-156)。
77
西ヨーロッパのブロックは北大西洋条約機構、ソ連邦のブロックはワルシャワ条
約機構であった。
78
The Charter of the United Nations
Introductory Note
The Charter of the United Nations was signed on 26 June 1945, in San
Francisco, at the conclusion of the United Nations Conference on
International Organization, and came into force on 24 October 1945. The
Statute of the International Court of Justice is an integral part of the Charter.
Amendments to Articles 23, 27 and 61 of the Charter were adopted by the
General Assembly on 17 December 1963 and came into force on 31 August
1965. A further amendment to Article 61 was adopted by the General
Assembly on 20 December 1971, and came into force on 24 September 1973.
An amendment to Article 109, adopted by the General Assembly on 20
December 1965, came into force on 12 June 1968.
The amendment to Article 23 enlarges the membership of the Security Council
from eleven to fifteen. The amended Article 27 provides that decisions of the
Security Council on procedural matters shall be made by an affirmative vote of
nine members (formerly seven) and on all other matters by an affirmative vote
of nine members (formerly seven), including the concurring votes of the five
permanent members of the Security Council.
The amendment to Article 61, which entered into force on 31 August 1965,
enlarged the membership of the Economic and Social Council from eighteen to
twenty-seven. The subsequent amendment to that Article, which entered into
force on 24 September 1973, further increased the membership of the Council
from twenty-seven to fifty-four.
The amendment to Article 109, which relates to the first paragraph of that
Article, provides that a General Conference of Member States for the purpose
of reviewing the Charter may be held at a date and place to be fixed by a
124
two-thirds vote of the members of the General Assembly and by a vote of any
nine members (formerly seven) of the Security Council. Paragraph 3 of Article
109, which deals with the consideration of a possible review conference during
the tenth regular session of the General Assembly, has been retained in its
original form in its reference to a "vote, of any seven members of the Security
Council", the paragraph having been acted upon in 1955 by the General
Assembly, at its tenth regular session, and by the Security Council.
Preamble
WE THE PEOPLES OF THE UNITED NATIONS DETERMINED
to save succeeding generations from the scourge of war, which twice in our
lifetime has brought untold sorrow to mankind, and
to reaffirm faith in fundamental human rights, in the dignity and worth of the
human person, in the equal rights of men and women and of nations large and
small, and
to establish conditions under which justice and respect for the obligations
arising from treaties and other sources of international law can be maintained,
and
to promote social progress and better standards of life in larger freedom,
AND FOR THESE ENDS
to practice tolerance and live together in peace with one another as good
neighbors, and
to unite our strength to maintain international peace and security, and
to ensure, by the acceptance of principles and the institution of methods, that
armed force shall not be used, save in the common interest, and
to employ international machinery for the promotion of the economic and
social advancement of all peoples,
HAVE RESOLVED TO COMBINE OUR EFFORTS TO ACCOMPLISH
THESE AIMS
Accordingly, our respective Governments, through representatives assembled
in the city of San Francisco, who have exhibited their full powers found to be
in good and due form, have agreed to the present Charter of the United
125
Nations and do hereby establish an international organization to be known as
the United Nations.
http://unic.or.jp/information/UN_charter_english/
79
2012 年 9 月 11 日アクセス。
米国は 7000 発、ソ連が 8000 発近い核弾頭を保有している。また 1998 年にはイ
ンド、パキスタンが相次いで核実験を実施し、事実上の核保有国になった。さらに、
イラン、北朝鮮などの核開発が現代の安全保障の大きな問題となっている。
80
NPT に規定されている米国、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国に加
え、イスラエル、パキスタン、インドの 8 か国の核保有が確実視されている。
81
外務省 HP によると、核兵器不拡散条約(NPT)の概要は以下のとおりである。
●NPT の概要
(1) 条約の成立及び締約国
(イ)核兵器の不拡散に関する条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear
Weapons: NPT)は、1968 年 7 月 1 日に署名開放され、70 年 3 月 5 日に
発効(我が国は 1970 年 2 月署名、1976 年 6 月批准。)。
(ロ)締約国は 190 か国(2010 年 6 月現在)。非締約国はインド、パキスタン、
イスラエル。
(2) 条約の目的と内容
(イ)核不拡散:
米、露、英、仏、中の 5 か国を「核兵器国」と定め、「核兵器国」以外へ
の核兵器の拡散を防止。(参考)第 9 条 3「この条約の適用上、「核兵器
国」とは、1967 年 1 月 1 日以前に核兵器その他の核爆発装置を製造しかつ
爆発させた国をいう。」
(ロ)核軍縮:
各締約国による誠実に核軍縮交渉を行う義務を規定(第 6 条)。
(ハ)原子力の平和的利用:
右は締約国の「奪い得ない権利」と規定するとともに(第 4 条 1)、原子力
の平和的利用の軍事技術への転用を防止するため、非核兵器国が国際原子力
機関(IAEA)の保障措置を受諾する義務を規定(第 3 条)。
(参考)NPT の主要規定
前文、条文全 11 条及び末文から構成。
核兵器国の核不拡散義務(第 1 条)
非核兵器国の核不拡散義務(第 2 条)
非核兵器国による IAEA の保障措置受諾義務(第 3 条)
締約国の原子力平和利用の権利(第 4 条)
126
非核兵器国による平和的核爆発の利益の享受(第 5 条)
締約国による核軍縮交渉義務(第 6 条)
条約の運用を検討する 5 年毎の運用検討会議の開催(第 8 条 3)
「核兵器国」の定義(第 9 条 3)
条約の効力発生の 25 年後、条約が無期限に効力を有するか追加の一定期間延
長されるかを決定するための会議の開催(第 10 条 2)
*1995 年 5 月、条約の無期限延長が決定された。
資料源:外務省 HP 外交政策「不拡散」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html (2012 年 9 月 11 日アクセ
ス)
82
①Draft Final Document of the 2010 NPT Review Conference.
(NPT/CONF.2010/L.2)
②Note Verbal Dated 8 April 2010 from the Permanent Missions of Australia
and Japan to the United Nations Addressed to the President of the Conference.
(NPT/CONF.2010/WP.23)
83
①Draft Final Document of the 2010 NPT Review Conference.
(NPT/CONF.2010/L.2)
②Note Verbal Dated 8 April 2010 from the Permanent Missions of Australia
and Japan to the United Nations Addressed to the President of the
Conference. (NPT/CONF.2010/WP.23)
84
図―24 は筆者が作成したものである。データは、“Nuclear Posture Review(核態
勢見直し)”April 2010, DOD., 34 から引用した。
http://www.defense.gov/npr/docs/2010%20Nuclear%20Posture%20Review%20Repo
rt.pdf.
2012 年9月 11 日アクセス。
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