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大 震 災 復 興 過 程 の 比 較 研 究

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大 震 災 復 興 過 程 の 比 較 研 究
大 震 災 復 興 過 程 の 比 較 研 究
~関東、阪神・淡路、東日本の三大震災を中心に~
研究調査平成 26 年度末報告書
2015 年 3 月
(公財)ひょうご震災記念 21 世紀研究機構
研究調査本部
研究会メンバー
・政策コーディネーター
御厨 貴(東京大学客員教授、放送大学教授)
・委員
筒井 清忠(帝京大学文学部教授)
牧原 出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
村井 良太(駒澤大学法学部教授)
森 道哉(立命館大学大学院公務研究科教授)
砂原 庸介(大阪大学大学院法学研究科准教授)
小宮 京(青山学院大学文学部准教授)
手塚 洋輔(大阪市立大学大学院法学研究科准教授)
奥薗 淳二(海上保安大学校講師)
辻 由希(東海大学政治経済学部准教授)
林 昌宏(常葉大学法学部講師)
善教 将大(関西学院大学法学部助教)
渡辺 公太(帝京大学文学部講師)
・金恩貞(ひょうご震災記念 21 世紀研究機構研究調査本部主任研究員)
目次
1.研究概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1-1 問題意識 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1-2.論点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1-3.分析視角 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
2.検討項目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
3.検討項目ごとの成果概要
第Ⅰ部 災 害 に お け る 政 治 過 程 と 政 治 リ ー ダ ー シ ッ プ
○関東大震災後の政治過程(筒井清忠) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
○復興権力と軍事組織の三大震災比較
―関東大震災時の政権交代を中心に―(村井良太)
・・・・・・・・・・・・・・9
○「災害外交」としての三大震災
―非常時の日米関係に関する考察―(渡辺公太) ・・・・・・・・・・・・・・・15
○応急対応の教訓導出とその課題(奥薗淳二) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
○災害廃棄物処理の行政と政治(森道哉) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
第Ⅱ部 復 旧 ・ 復 興 の 実 務 的 対 応 に お け る 政 府 の 危 機 管 理 の 実 態
○都市計画と震災復興―集合住宅に注目して―(砂原庸介) ・・・・・・・・・・・・ 29
○災害対応に関する法制度の変遷(小宮京) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
○政府のサービス範囲と需要の乖離に関する研究
―被災者に対する現金支給を事例に―(手塚洋輔) ・・・・・・・・・・・・ ・38
○大震災からのインフラの復旧・復興過程とその特徴
―関東、阪神・淡路・東日本大震災で被災した港湾を事例に―(林昌宏) ・・・42
第Ⅲ部 震 災 を め ぐ る 社 会 的 認 識 及 び 災 害 の 教 訓
○三震災における記憶と記録の相互作用(牧原出) ・・・・・・・・・・・・・・・50
○国家―市民社会関係の変容と女性の復興過程への参画(辻由希) ・・・・・・・・56
○震災をめぐる政治意識の比較分析
―阪神・淡路と東日本大震災―(善教将大) ・・・・・・・・・・・・・・・・64
4.研究全体についての総括 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 72
4-1 研究成果についての全体総括
4-2 今後の課題
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 73
4-3 まとめの方向
4-4 政策提言
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 72
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 74
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 74
1.研究概要
1-1.問題意識
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災は、東北・関東地方を中心に、筆舌に尽くし
難い甚大な被害をもたらした。それだけではなく、人々に次なる大災害の発生に対する備
えの重要性を改めて認識させる重要な契機となった。しかしながら、いずれ発生するに違
いない次なる大災害に対して、どのような「備え」をすればよいのかという点、とりわけ
復旧・復興を担当することになる政治や行政のあり方についての明確な答えは存在してい
ないのが実情である。
こうした状況を踏まえて本研究プロジェクトは、関東大震災、阪神・淡路大震災、東日
本大震災の 3 つの震災を、① 災 害 に お け る 政 治 過 程 と 政 治 リ ー ダ ー シ ッ プ 、② 復 旧・
復 興 過 程 に お け る 政 府 の 対 応 の 実 態 、③ 震 災 を め ぐ る 社 会 的 認 識 及 び 災 害 の 教 訓
について、政治学的な分析視角から比較検討する。そして、三大震災の比較から導き出さ
れたポイントをもとに、今後の震災からの復旧・復興体制、災害時の強固な統治体制、ひ
いては今後のわが国の社会のあり方についての認識を深めることをねらいとしている。
本研究では、大震災発生からの復旧・復興について、一次資料や関連文献、近年公開が
進められているオーラル・ヒストリーといった豊富な資料群を用いながら、多角的比較分
析を進めていく。
1-2.論点
本研究プロジェクトは、2012 年 4 月にスタートし、2014 年度までに 20 回にわたる研究
会を実施した。そのうち 2013 年 8 月には、科学研究費補助金プロジェクトとして東北へ赴
き、気仙沼市、釜石市、遠野市の各市長や復興担当者らを対象にインタビュー調査を行っ
た。調査、研究を実施するにあたっては、① 災 害 に お け る 政 治 過 程 と 政 治 リ ー ダ ー シ
ッ プ 、② 復 旧・復 興 過 程 に お け る 政 府 の 対 応 の 実 態 、③ 震 災 を め ぐ る 社 会 的 認 識
及 び 災 害 の 教 訓 という、本研究プロジェクトにおける 3 つの論点に焦点を絞り、以下のよ
うな具体的な研究視点を設定した。
1
①災害における政治過程と政治リーダーシップ
発災直後の政権の危機管理・応急対応のあり方に注目し、復旧復興について、ときの政
府がいかなる意思決定を行い、復興体制を構築したのかを比較研究する。この作業を通じ
て、意思決定のスピード面及び復興施策の内容面の両方から、各体制におけるメリット・
デメリットを分析するとともに、あるべき復興体制への示唆も得る。
②復 旧 ・ 復 興 過 程 に お け る 政 府 の 対 応 の 実 態
当時の政府(国・地方自治体)がいかなる応急対応を行ったのかについて、危機管理と
いう側面から比較検証する。そこでは、被災状況把握・救護体制・避難所の設置・物資輸
送等について検討を行われるとともに、情報提供(広報)の側面をも含めることにより、
政府側の影響力も考察する。
③震災をめぐる社会的認識
行政と市民による連携・協調のプロセス及びボランティアや NPO などを含む市民参加の
役割を比較検討するとともに、当時の新聞メディア・テレビメディア・インターネットメ
ディアの知識人等の言説を検討することにより、震災の社会的影響及び政府の役割イメー
ジが社会的に構築されたものであることを抽出する。
さて、これまでの研究会では、政策コーディネーターや出席した委員の間で、リーダー
シップ、政官関係、復旧・復興をめぐる組織のあり方、政府間関係(中央-地方・地方-
地方)
、官僚の役割、市民の役割、経験の伝承・活用などについて活発な議論を続けてきた。
また、上述した議論をより深めるには、資料の収集が不可欠である。そのために、国立
国会図書館東京本館、東京都立図書館、人と防災未来センター震災資料室などで関東大震
災、阪神・淡路大震災、東日本大震災に関する資料の調査を続けてきている。
付言すると、阪神・淡路大震災については、復旧・復興に従事した政治家や地方自治体
職員のオーラル・ヒストリー記録の公開が進められつつある。それらは、今後の研究の進
展において大きな役割を果たすものと期待される。
2
1-3.分析視角
本研究プロジェクトでは、上述した研究会の議論も踏まえて、以下のとおり 5 つの政治
学的な分析視角を設定した。各委員は、これらを念頭に置きながら、後述する各研究テー
マの検討や、総体的な三大震災の把握を進めている。
①政権運営についての分析
まず、3 つの大震災時の政権運営に注目する。
(1)首相不在時に震災が起き、その翌日に
ようやく組閣された関東大震災、(2)自社さ連立政権でありながらも、自民党の政治家や
石原信雄官房副長官率いる官僚機構が被災自治体と連携しつつ効率的復旧を図った阪神・
淡路大震災、(3)政権交代後の民主党政権が混乱や確執止まない中で広域複合災害に直面
した東日本大震災といった特徴がある。
三者それぞれの国難を政権がどう対処したのかを分析し、政府による危機管理や応急対
応、復興体制構築のあり方を比較の中で明らかにしていく。
②リーダーシップの分析
後藤新平、貝原俊民、下河辺淳、菅直人といった復旧・復興で中心的な役割を果たした
首相や首長、復興機関の責任者などのリーダーシップの型とその問題点を分析する。
分析にあたっては、本人の日記やオーラル・ヒストリー記録を用いるほか、周辺人物の
それらや一次資料も調査・収集し、復旧・復興過程におけるリーダーシップのあり方につ
いて検討する。
③政府間関係の分析
過去の大震災の復旧・復興に関する研究では、ほとんど注目されてこなかった中央政府
内部の関係や、地方-地方政府間関係(具体的には、県と市町村、市町村と市町村)を分
析する。この分析をもとに、復旧・復興過程の行政体制の実態や、その問題点を明らかに
する。
④行政の役割についての分析
大震災からの復旧・復興過程にあって、被災自治体-県-国の各レベルで事態対処を担
う行政の役割を分析する。また、これに関連して、事態対処を担う官僚(地方自治体職員
3
を含む)の役割等について検討する
官僚の役割に注目するのは、文献・資料調査の過程で阪神・淡路大震災や東日本大震災
では、復旧・復興にあたって官僚(地方自治体職員も含む)がどのような役割を果たした
のかについての検討が不十分であるという認識を得たためである。
⑤行政と市民の関係についての分析
三震災における市民参加(ボランティアや NPO を含む)と、その役割は、著しく異なる。
本研究プロジェクトは、市民が復旧・復興を推進したケース(たとえば、生活再建支援)
と、積極的役割を果たせなかったケース(たとえば、都市計画)から分析し、災害時の行
政と市民のあり方について検討する。行政と市民による連携・協調のプロセスならびに、
その具体的詳細を明らかにすることは、将来の市民参加型の復旧・復興を検討していくう
えで重要と考えられる。
4
2.検討項目
来年度に向けて各委員からは、研究計画と、それによって得られると考えられる政策含
意についてまとめてもらうことにした。各委員の研究題目ならびに分析対象とする大震災
は、下記の表 1 のとおりである。
6 ページからは、各委員の来年度に向けた研究計画書を掲載している。
表1 各委員の研究題目一覧
委員名
研究題目
震災比較
関東
筒井清忠
牧原出
村井良太
阪神・淡路
東日本
関東大震災後の政治過程
○
○
三震災における記憶と記録の相互作用
○
○
○
震災復興と政権交代の政治過程
○
○
○
○
○
-三大震災比較による関東大震災の政治史-
森道哉
災害廃棄物の広域処理の政治学
-阪神淡路大震災と東日本大震災を中心に-
砂原庸介
小宮京
手塚洋輔
都市計画の中の大震災
○
○
○
技術官僚に注目した三震災の比較
○
○
○
なぜ政府は批判され続けるのか
○
○
○
-政府のサービス範囲と需要に関する比較研究-
奥薗淳二
「応急対応」勢力の集中と縮小
○
○
○
辻
ジェンダー視点からみた震災対応・復興過程
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
由希
-女性支援組織と行政の交渉・協働の実践と課題を中
心に-
林昌宏
大震災からのインフラの復旧・復興過程とその特徴
-関東、阪神・淡路、東日本大震災の港湾を中心に-
善教将大
大規模震災後の市民社会の比較実証分析
渡辺公太
○
5
3.検討項目ごとの成果概要
関東大震災後の政治過程
筒井清忠
1.研究目的と分析視角
大震災がその後の政治過程にどのような影響を与えたかを明らかにすることを目的とし
て研究を進めている。それは、震災後の政治過程が震災からの復興にどのような影響を与
えたかを明らかにすることにもなる。対象は主として相変わらず本格的研究がほとんどな
い関東大震災となる。関東大震災後の政治史は後藤新平についての正確な認識が行われな
いままなのである。
大正 12(1923)年 9 月 1 日関東大震災が生起したが、それは加藤友三郎死去に伴う新内
閣・山本権兵衛内閣の組閣の最中であった。震災をうけ大急ぎで組閣が行われ翌 9 月 2 日
「地震内閣」ともいわれた第二次山本権兵衛内閣が成立した。この内閣で内務大臣となっ
たのが後藤新平である。
従って、後藤が震災後の復興を主務担当することになり、以降の政治過程はこの後藤を
主軸として展開することになるのである。
当時の大きな政治勢力としては以下の五つのものがあった。
①山県有朋系
②薩派(薩摩閥)
③政友会
④憲政会
⑤革新倶楽部
従ってこの五つの政治勢力の存在状況・政治的布置状況が重要となる。そして、山本に
大命が降下した経緯・組閣の経緯・山本内閣への各政党の対応・新聞を中心にした世論の
動向が明らかにされねばならない。
第二次山本内閣の閣僚は以下のようなものであった。
<第二次山本内閣閣僚>〔補充含む〕
首相 山本権兵衛
6
外相 伊集院彦吉(薩摩、元外交官)
内相 後藤新平(貴族院、元内務官僚、逓相・外相・内相歴任)
蔵相 井上準之助(元日銀総裁)
陸相 田中義一
海相 財部彪(薩摩)
法相 平沼騏一郎(元大審院長)
文相 岡野敬次郎(貴族院、元東大法教授・商法)
農商相 田健治郎(貴族院、元逓相・台湾総督)
逓相 犬養毅(衆議院)
鉄相 山之内一次(薩摩、貴族院、元内務・鉄道官僚)
書記官長 樺山資英(薩摩)
法制局長官 松本烝治(元東大法教授・商法、満鉄副社長)
山本内閣は、基本的に革新派政治家(⑤の犬養毅と後藤新平)と②の薩派(伊集院彦吉・
財部彪・山之内一次・樺山資英)とで機軸が構成されていた。前者に関しては、元来児玉
源太郎ら長州閥との近接関係から出発しながら独自の立場を取っていた後藤と犬養は寺内
内閣の外交調査会以来提携関係にあり、伊東巳代治とともに「三角同盟」を形成していた
のである。
震災後の混乱の中、この後藤内相と犬養逓相が組んで普選実現を眼目にした政治同盟を
結び新党運動を展開していくプロセスが重要である。普選実施体制は第二次山本内閣の一
つの政治目標として構築されていく。ある意味では震災からの復興以上に彼らが力を注い
だのが普選の実現だったのである。
そこからさらに後藤は新党設立計画に動き、後藤・犬養ラインの攻勢が強められた。こ
こから④の憲政会の内部では加藤高明総裁に対する不満から大きなゆさぶりが起こる。
後藤の政治的攻勢は勝利の直前まで行ったのである。しかし、実力以上に政治戦線は伸
びきってしまい、他の政治勢力の猛烈な反攻が行われ始める。その新党計画は挫折してい
くのである。そして、それはほかでもない後藤・犬養のヘゲモニー喪失につながるのであ
る
その場合の加藤高明を党首とする④憲政会幹部の反撃のプロセス解明がまず重要であり、
加藤は政治資金という決定的問題にまで手をつけようとしたのだった。
7
もっとも震災復興との関連で重要なのは復興機関での逆攻勢の様態であろう。9 月 19 日
に帝都復興審議会官制が公布され、8 日後には後藤が総裁となる帝都復興院官制が公布施行
されるが、この復興院の作った復興計画を審議することになったのが復興審議会であった。
そこに大石正巳ら自派の政治家を入れ新党攻勢の拠点とするのが後藤の政治工作の要諦で
あった。ところが、ここがむしろ政治的反撃の場となったのだった。ここから薩派の反撃
が開始・強化され、政友会の最後の攻勢を招いていく。
そして山本内閣は解散総選挙か政友会への屈服かの最後の局面に逢着する。犬養が解散
を選んだのに対し戦意を失っていた後藤は屈服を選択する。こうして復興予算は大幅に削
減され復興院は廃止されることが決まるのである。
また折角の復興院も、最初から帯びていた政治性のため内部にはかなりの路線対立があ
ったことも重要である。そこに孕まれた問題性は復興局に持ち越されることになる。期待
された復興局は多くの問題を起す官庁となるのである。
2.達成目標と予想される政策含意
首相(内閣)
・担当省庁・政党・マスメディア等のアクター間のダイナミックな関係を解
明し、研究の礎石を据えることを目的としつつ、事実関係の解明を通して上記のアクター
間の望ましい関係を提起し、今後の大規模災害への対応計画の基礎を確立する。
一例をあげると、東日本大震災の復興をめぐる過程の中で、関東大震災の復興院を参考
に、復興庁の設置が決まったが、復興院は計画のみに携わったのであり、実施は内務省外
局の復興局と東京市(東京に関し)が担ったのである。従って関東大震災後の復興が評価
されるというのであれば、実施は既成の所管官庁(プラス外局程度の規模のものの新設)
と地方自治体とで十分だという考え方もありえた。
しかし、復興構想会議が設置された。復興構想会議は文字通り復興の構想を練る会議な
ので、これが関東大震災時の復興院に該当するとも見られる。しかし、復興院の後裔たる
復興局のことを勘案するとこの類比も適切とは言えないかもしれない。こうした形でなお
適切な比較類比が定まっていないのが研究の現状といえよう。両地震後の政治過程の本格
的研究を誰もしていないからこうなるのである。そうした状況の打破のためにも本研究は
重要となる。
また、そもそも復興院の後裔たる復興局の実像もほとんど解明されていないのであり、
復興局の検討もさらなる課題であろう。
8
復興権力と軍事組織の三大震災比較
―関東大震災時の政権交代を中心に―
村井良太
研究目的
大震災、なかでもその復興過程において、政治体制はどのような意味を持つのだろうか。
関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災の 3 つの震災を、①復旧・復興の政治過程
と政治的リーダーシップ、②政府と官僚の危機管理、③震災をめぐる社会的認識、という
分析視角から比較検討する本研究会全体の中で、本研究は、大震災からの復興過程におい
て、復興権力、なかでも政権交代に注目して三大震災を比較する。
政権交代という点で、関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災の三大震災はいずれ
も首相が交代するというに止まらない、大きな政権交代の前後に発生した。関東大震災は
1923 年 9 月 1 日に起こって約半年後に政党を中心とする政府反対運動である第二次憲政擁
護運動が起こり、総選挙の結果、1924 年 6 月 11 日に「護憲三派」内閣と呼ばれた第一次加
藤高明内閣が誕生した。以後 8 年間にわたって政党間での政権交代が行われ、大日本帝国
憲法下での政党政治の一つの到達点と言われるも、このような慣行による民主政治は復興
後の 1932 年から 1936 年にかけて後退し、崩壊にいたった。次いで、阪神・淡路大震災は
民主政治を復活させ強化した日本国憲法の下、戦後日本政治を長らく規定してきた 55 年体
制が 1993 年 8 月の細川護煕政権誕生で終焉した後、羽田孜政権を経て、再び村山富市自社
連立政権で自民党が政権復帰してから約半年後の 1995 年 1 月に起こった。そして、東日本
大震災は、2009 年 9 月の総選挙による歴史的な政権交代から約 1 年半後、2011 年 3 月の出
来事であった。それぞれ同時代における決定的な政変の前と後という違いはあるにせよ、
いずれも新たに政権交代を通じた日本政治の運用を模索する政治変動下での出来事であっ
た。もとよりそれは偶然の一致であるが、政治変動期の日本政治は三度大震災によって試
されたのであった。
本研究は三大震災の中でも特に関東大震災について詳しく叙述する。それは、阪神・淡
路大震災と東日本大震災が比較的近接した時間の中で発生した震災であるために様々な側
面から比較検討が行われているのに対して、関東大震災は一つの歴史として完結的に論じ
られることが多く、他の大震災の教訓をふまえた考察に意義が大きいと考えるためである。
9
分析視角と達成目標
三大震災を比較するために、分析視角として四つの点に注目する。第一に、政権基盤で
ある。いずれも大きな政治変動の中にあって、復興権力はどのように調達されたのか。震
災前後の政治史の流れの中で理解する。また、政権基盤を考察するに際しては首相、震災
担当者、政党政治家のリーダーシップ、連立政権のメカニズムを重視する。第二に、震災
復興の枠組みである。どのような震災復興の枠組みを構築することで、復興政策と復興権
力の調達を図ったのか。そこでは社会の必要性がどのように政治に反映され、また科学的
知見は政治にどのように入力されたのか、政党政治を中心に考察する。第三に、政権交代
である。政権交代によって転換される政策もあれば継承される政策もある。政官関係の調
整や政策の継承など、政権交代が震災復興にどのような影響を与えたのかはもとより、政
権交代を通じた日本政治の新たな運用という統治構造改革の最中であったことの意味を明
らかにする。そして第四に、初動時の救命救急から復旧復興へのなだらかな移行を考える
上で重要な意味を持つ軍事組織について政治体制との関係で注目したい。著者はすでに東
日本大震災時における自衛隊の活動について阪神淡路大震災時の活動をふまえて考察した
ことがある(村井良太「東日本大震災と国民の中の自衛隊」サントリー文化財団「震災後
の日本に関する研究会」編『「災後」の文明』阪急コミュニケーションズ、2014 年)。こ
のような視角を関東大震災の分析でも活かしたい。
平成 26 年度において、筆者は前年度以来の成果を受けて、第一に、関東大震災を、政党
政治、中でも政権交代に注目して 1923 年 9 月の地震発生から 1932 年 3 月の復興事務局廃
止に至る初動・応急復旧・復興の三過程を全体として位置づけるとともに、復興後の状況
についても考察を進めた。第二に、軍事組織の役割について意識して考察を行った。そし
て第三に、東日本大震災についてはすでにある程度の知識があったので、阪神淡路大震災
について、資料の収集や調査に務めた。
研究は 9 月 8 日のシンポジウムでの報告を中心に研究会での関連報告などを通して進め
られた。同報告では、関東大震災と、復興の過程と主体に注意を向けることの 2 点を主眼
として、関東大震災を中心に発災後の流れに沿いながら、軍事組織の活用、復興権力なか
でも政権交代、そして復興後について話をした。得られた知見は、後藤新平に注目が集ま
るが政権交代後の復興政策の継承が重要であること、また、関東大震災では復興祭が行わ
れたが教育過程としての復興後は三震災に共通する意義があること、そして軍事組織の利
用も含めて関東大震災の検討が次の大震災に備える上でもなお重要であることである。
10
現時点での成果の概要を述べれば、関東大震災が起こった 1923 年 9 月の政治的文脈には
大きく三つの特徴があった。第一に大日本帝国憲法下で第一次憲政擁護運動後に政治が流
動化する中で関東大震災発災時には三つの統治像がせめぎ合っていた。すなわち、「挙国
一致」を唱え、大日本帝国憲法の立憲主義に基づく権力分立を重視する伊東巳代治枢密顧
問官、山本権兵衛首相らの主導する憲法主義(多機関共存政治)と、第一次憲政擁護運動
と原内閣の統治像を発展させる高橋是清政友会総裁、加藤高明憲政会総裁の主導する憲政
主義(責任内閣制=政党政治)の間で対立があり、その下で、後藤新平内相が主導する調
査主義(科学的政治)が次第に存在感を増しつつあった。次に第二の政治的文脈として、
第一次世界大戦下に設置された臨時外交調査委員会、関東大震災における帝都復興審議会
と復興院の組み合わせ、そして大恐慌後の内閣審議会と内閣調査局の組み合わせに見られ
るように、権力と政策をどのように調達するかの模索が続いていた。そして第三に、政治
的デモクラシーと経済的デモクラシーの対立があった。すなわち、第一次憲政擁護運動に
示された政治的デモクラシーの実現要求に対して、特に第一次世界大戦後は経済的な平等
を重視する経済的デモクラシーが強調されるようになり、それは結果の平等に対する国家
の介入をどこまで認めるかという論点と結びついていた。
こうした政治的文脈の中、1923 年 9 月 1 日の関東大震災発生時、日本政治には首相がい
なかった。8 月 24 日に加藤友三郎首相が病死し、28 日に次期首相となる山本権兵衛に組閣
の大命が降下されたがいまだ成立にいたらず、加藤内閣の内田康哉外相が臨時首相を務め
ていた。内田臨時首相は伊東巳枢密顧問官とも相談しながら、応急措置としてすぐさま臨
時震災救護事務局を設置し、非常徴発令を発し、戒厳令中必要の規定を 4 日にかけて、東
京市などに適用していった。
次に、すでに大命を受けていた山本は、当初「挙国一致」内閣を目指して政党勢力も含
めて組閣することを目指したが果たせず、9 月 2 日には人材内閣として内閣を成立させた。
山本がまず直面した課題は無秩序状態の回復であり、復興については 12 日に「帝都復興に
関する詔書」を発した。そこでは遷都しないこと、復旧から復興に至ることに加えて、復
興の枠組みについて、復興のための特殊な機関を設置し、枢密院と帝国議会に諮ると、次
に見る〈調査主義〉の観点を取り入れながらも、何れも憲法機関の抑制と均衡を重視する
〈憲法主義〉の立場があらためて強調された。
他方、復興計画の直接の責任者は内相の後藤新平であった。後藤内相は 2 日夜には「帝
都復興根本策」を練り、〈調査主義〉の立場で、帝都復興に関する特設官庁を新設する「帝
11
都復興の議」を 6 日の閣議に提出した。後藤は震災を「理想的帝都建設のため、真に絶好
の機会」と捉えて、「臨時帝都復興調査会」と呼ばれる大調査会を設けて審議決定するこ
とを構想し、最終的には「審議の機関」と「調査の機関」としての帝都復興審議会と帝都
復興院が設置された。後藤は帝都復興院に有能な技術者を集め、復興計画を検討する。復
興院には参与会と評議会があり、参与会は東京横浜の両市長や各省次官、専門家からなり、
原案をここで修正して、政界・実業界・学識者からなる復興院総裁諮問機関である評議会
にかけた。何れも積極的な復興計画であった。
対して、〈憲政主義〉の立場に立つ政党勢力は帝都復興審議会の場で復興政策に関わっ
た。ここで後藤の「理想的」復興案は壁に突き当たり、続く第 49 回特別議会では 4 億 4800
万円の復興事業費案に対して 1 億 600 万円が削減され、帝都復興院も廃止された。後藤の
「理想的」復興案は政争の中で挫折したと論じられがちであるが、第一に、井上準之助蔵
相率いる大蔵省の財政規律によってすでに大幅に縮小されていた。第二に、「理想的」復
興案に反対した帝都復興審議会をリードしたのは伊東枢密顧問官であって、政府対多数党、
もしくは多数党の横暴という図式ではなかった。後藤は立憲同志会結成から離脱して以来、
伊東枢密顧問官と犬養毅逓相と政治的に連携してきたが、復興政策においては逆に障害と
なり、権力の源泉であるべき山本首相との間にも認識の相違があり、強い支持を得られな
かった。そして第三に、議会に臨むに際して少数党政権であった。「初の本格的政党内閣」
と呼ばれた原敬内閣以後、ポスト桂園時代の統治像の第一候補は議院内閣制、中でも衆議
院を基礎とする政党政治となっていた中での非政党内閣であった。このことは後藤にとっ
ては本質的な問題であり、自ら政党政治に背を向けた後藤の〈調査主義〉は何らかの権力
的背景を必要としたのである。多数党政友会との妥協を模索し始めた山本内閣を、虎ノ門
事件を機に倒したのは閣内の犬養であった。
復興政策の策定過程に続いて注目すべきは、執行過程における政権交代の影響である。
衆議院の任期が近づく中で次の政権は選挙管理を念頭に選ばれた。枢密院議長の清浦奎吾
を首班に貴族院議員を網羅した同内閣は「特権内閣」と批判され、新聞を巻き込んで第二
次憲政擁護運動から総選挙へと雪崩れ込む政治の季節へと突入していった。総選挙の結果、
1924 年 6 月 11 日、「護憲三派」内閣と呼ばれた第一次加藤高明内閣が成立した。大日本帝
国憲法下において、総選挙の敗北によって内閣が替わることはあっても、総選挙の結果を
受けて次の首相が選ばれたのはこの度が唯一の例である。
ところがまことに興味深いことに、男子普通選挙制度や貴族院改革の実現などの憲政改
12
革を課題とした第一次加藤内閣の下で、復興院以外の復興予算が復活する。これは清浦内
閣の置き土産で、震災対応を行う内相には発災時と同じ水野錬太郎が復帰していた。しか
し、清浦内閣から加藤内閣はさらに断絶性の高い政権交代であり、政権基盤自体が大きく
転換された。それにも関わらず、新政権の若槻礼次郎内相は「罹災民全体ノ期待」に反し
ないよう被災地での区画整理事業の継続と完成を期したのであった。また、政友会の中に
は首都圏への大規模な投資に対して地方の視点から批判があったが、連立内閣の中で政治
問題化させなかった。こうして、民主化の渦中で最も熱病にうなされていてもおかしくな
い第一次加藤内閣は、転換すべき政策と継承すべき政策を慎重に選り分け、震災復興事業
の継続に努めたのであった。
その後、初めての男子普通選挙制が実施され、二大政党間での政権交代が常態化してい
く中、1930 年には東京での復興事業完成を祝う帝都復興祭が行われ、より望ましい復興像
とは何であったかを問う機会ともなった。そして帝都復興事業終了後の見通しも重要で、
震災復興事業が不況下での社会政策的意義を持ったという理解から、復興事業後の社会政
策についても議論された。これは政治的デモクラシーの実現から社会的デモクラシーの模
索へという同時代的な改革像とも関わる。
日本政治は 1932 年の五・一五事件、1936 年の二・二六事件によって政党政治の慣行を喪
失したが、震災時の帝国陸海軍の活動への支持がその後の軍国主義を育てたという議論も
ある。発災後、軍の中に国民のための軍隊という意識が見られ、また軍を支持する言説に
おいても同様に国民の軍隊が支持されるが、しかし、1930 年代以降に強化されていく軍事
優先政治との間には大恐慌など断絶があり、また、国民のための軍隊となりきれなかった
ところに問題がある点で事実は逆説的であると言えよう。
今後さらに研究を進めて行くにあたって、第一に復興権力について統治機構、思想、運
用の三つの側面からさらに史実を明らかにし、第二に復興権力と軍事組織との関係につい
ても考察を深める。そして最後に、阪神・淡路大震災、東日本大震災との比較によって、
成熟社会における民主的統治に関して時代や体制を越えた普遍的な理解を求めたい。
予想される政策含意
現代にあって、国家と無関係な国民生活はなく、大規模災害に個人や地域社会が単体で
対応することは不可能である。また、私達は現在も複数政党制に立脚した政権交代のある
デモクラシーの中で生活している。本研究の予想される政策含意は、大きくは、デモクラ
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シーの中での震災を問い、震災の中でのデモクラシーを問うことで、今後も長期的には必
ず起きる震災対応時の指針が得られるとともに、日常的な政治と社会の関係を考える上で
も貴重な視座が与えられる。より具体的には、発災後のタイムスケジュールなど基本的な
事実はもとより、例えば、専門家・経済人・行政官をはじめとする党外の人士をどのよう
に活用するか、政権交代のあるデモクラシーで起こり得る事象への留意点など、同時代進
行している現在を理解する上で一つの手掛かりを得ることが期待される。
14
「災害外交」としての三大震災
―非常時の日米関係に関する考察―
渡辺 公太
1.研究目的
近年の世界各地における大規模な自然災害により、「災害外交(Disaster Diplomacy)」
は国際関係理論における重要な一分野として定着しつつある。これは、ある地域での自然
災害に対する各国の救助支援活動を外交論として分析する点に特徴があり、人道主義や国
家間関係の強化に結びつく可能性を有した理論として注目されている。
本研究では、この「災害外交」の理論を日本の三大震災に応用することで、将来起こり
うるさらなる災害への備えを外交の視点から考察するものである。特に強調するのは、三
大震災においてとりわけ重要な役割を果たした米国の対日支援であり、日本にとって最も
重要なパートナーである米国との関係を「災害外交」の観点から捉えることである。本研
究が問題意識とするのは、主として、三大震災における米国の支援内容の実態、日本の受
援過程とその受入れシステム、災害後の日米関係に与えた影響、である。
最終的に本研究は、災害時のあるべき受援体制とその環境づくりに関する政策提言を行
うことを目指す。
2.分析視角と達成目標
本研究は三大震災を分析対象とするが、今回の中間報告では関東大震災と東日本大震災
のみ対象とする。その際、本プロジェクトの分析視座「②政府と官僚の危機管理」の視角
から、これら震災時における日米「災害外交」の比較検討を行う。
まず、関東大震災発災前の日米関係を概観しておきたい。関東大震災が発生した 1923 年
前後は、日米関係にとっても重要な岐路を迎えていたといえる。第一次世界大戦期、日米
は新興国として勢力を拡大しており、それゆえ互いに牽制し合う関係にあった。しかし戦
後のワシントン会議(1921~22 年)では、両国間に横たわる各種問題を、多国間枠組みで
解決する試みを行い、四カ国条約、九カ国条約、海軍軍縮条約などの成果を生んだ。この
後、日米は「ワシントン体制」と呼ばれる比較的安定した時代を迎える。
ワシントン会議終了の翌年 1923 年 9 月 1 日、突如関東大震災が発生した。組閣準備中だ
った山本権兵衛首相は対応に追われ、翌日に急ぎ閣僚名簿を提出、臨時震災救護事務局を
15
設置し、海軍の無線を通じて各国の大公使館へ地震発生の電報を発電した。
一方、米国の政治情勢も、日本のそれと通じる部分があった。共和党のハーディング政
権は、1923 年 8 月の大統領の急死により、副大統領のクーリッジへと政権が移行した。ク
ーリッジ政権下の政局は不安定であったが、日本での震災発生の通知を得ると、クーリッ
ジはすぐさま大正天皇に見舞電報を送り、国内の関係省庁と米国赤十字社へ三つの対日支
援指針を指示した。それぞれ、①陸海軍の出動命令、②米国船舶局へ太平洋航路にある汽
船を救護活動へ当たらせるよう指示、③フィリピンと中国駐在の赤十字社へ陸海軍ととも
に日本へ即時出発を指示、であった。その後、クーリッジは 2 日にわたって全米へ対日救
援資金寄付を訴える声明を発表している。
米本土での迅速な対応の背景には、ウッズ駐日大使の役割もあったことは見逃せない。
震災で東京の米国大使館は崩壊したのだが、ウッズは即座に山本首相と会見し、米国政府
から支援を行わせる旨の発言を行った。このとき山本は、災害の状況が把握できていない
ため現時点では支援要請を出せないとしたが、5 日から米国のアジア艦隊などが次々と横浜
港へ入港し、大量の物資支援を行った。
米国内でも、遠く離れた異国の災害に同情的な動きが活発になっていた。なかでも重要
な役割を果たしたのが、在米日系人コミュニティであり、その対日義捐金は全米の約 2 割
を占めていた。また全米各州からも多額の義捐金が集められ、最終的にはおよそ 2,500 万
ドル(現在の 660 億円相当)が集まった。
米国のこうした友好的な姿勢の要因として、まず 1906 年に発生したサンフランシスコ大
地震での教訓があった。このとき、日本政府は多額の義捐金を米国へ送ったのであるが、
ヒューズ国務長官はこの事実をもってして、「米国政府はサンフランシスコ地震時の 10~
100 倍の義捐を日本へ送っても足りないほど」、日本への感謝の念を表明している。また、
関東大震災発生直前のワシントン会議での日米協調も重要な役割を果たしていた。ヒュー
ズは同会議での日米の連携は、米国国民に忘れられない大きなインパクトを与えたと語っ
ており、日本との友好な関係を強調した。
ところが、米国の同情的な言動に対し、日本政府は必ずしも好意的にばかり受援を行っ
たわけではなかった。そもそも日本の海外支援受入れは、11 日の閣議決定において、よう
やくその基本方針が定められた。そこでは、米以外の食料を中心とする必需品の提供は受
け入れるとし、救護にあたる人員派遣については、すでに各機関から多数の人材を確保し
ていることを理由として辞退する旨が決まった。政府が人員派遣を受け入れないことを決
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めたのは、外国人の日本本土への流入による混乱を恐れたためでもあった。また必需品を
輸送する外国船についても、東京・品川沖への入港を禁じ、横浜港にて支援物資を海軍が
受け取ることとした。これも多数の外国船が東京湾へ入ることへの脅威に由来する措置で
あった。
とはいえ、米国の迅速かつ多量の支援がなければ、震災からの復興はより困難なものに
なっていたことだろう。当時の日本政府や国民は、率直にその感謝の意を米国へ伝えてお
り、両国な親密な関係をアピールすることにもつながった。
しかし米国の対日支援は、すべてが好意的に受け入れられたわけではない。1924 年 9 月
に陸軍参謀本部が作成したパンフレット「震災に対する各国の同情と之に対する観察」に
よると、災害による他国からの物資・資金援助は、重要な外交的意義を有しているとされ
ている。具体的には、広報外交、長期にわたる国民意識への影響、などであり、すでにこ
の時期から「災害外交」が意識されていたことがわかる。より注目すべきは、このパンフ
レットにおいて、上述のような重要な外交的意義を有する復興支援を、米国一国へ頼るこ
とが思想的・精神的危険性をはらむことになる、と指摘されていることである。参謀本部
内における対米敵視の一面が垣間見える記述であるが、
「災害外交」が必ずしも国家間の良
好な相互認識に結びつくわけではないことを示唆している。
関東大震災時の日米「災害外交」は、いくつもの問題点を浮き彫りにしているが、やは
り当時の時代背景を考慮しないわけにはいかない。このときよりさらに時代が下り、日米
国家間関係やグローバル化が進展した時代の大災害である東日本大震災時の日米「災害外
交」は、関東大震災時よりはるかに成熟した「災害外交」を展開したと評価してしかるべ
きであろう。
「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」と称された、在日米軍による救済活
動は、日本国民に大きな感動を与えたことは記憶に新しい。
トモダチ作戦が迅速に決行されたのは、阪神・淡路大震災時の海外支援の受援が極めて
不十分であった教訓が影響している。阪神・淡路大震災後に行われた防災基本計画の見直
しでは、海外からの支援の受け入れについて、各省庁が迅速に行えるよう細目が定められ
た。また、地方自治体へ任せられていた阪神・淡路大震災とは異なり、東日本大震災にお
ける受援では、外務省がリエゾン・オフィサーとして現地へ入ることで、国が積極的に復
興へ乗り出しているというスタンスを明確化する意味合いも込められた。
関東大震災、東日本大震災における米国の復興支援の背景には、それぞれ類似した国際
状況があった。関東大震災時には、第一次大戦後の新たな国際秩序(「ワシントン体制」)
17
の中心を担った日米両国の良好な関係が強調されよう。一方、東日本大震災時は、発災直
前に普天間移設問題等をめぐってやや日米関係に摩擦が生じていた時期ではあったものの、
戦後長らく維持していた安定した安全保障関係の産物として、トモダチ作戦が遂行された
と考えてしかるべきであろう。これら安定した両国関係があってこそ、災害時における迅
速かつ多量の支援活動が実行されたのである。
3.政策への含意
以上、関東大震災と東日本大震災における日米の「災害外交」について検討した。これ
らの事実から導き出せる政策案として、第一に安定した日米関係の維持・強化という点が
指摘される。本研究は「災害外交」の視点から三大震災を比較検討するのであるが、この
「災害外交」は安全保障を取り巻く伝統的な国家間関係に、大きくプラス/マイナスの影
響を与えうるものでは決してない。むしろ安定した安全保障の関係性が維持されている際
に、
「災害外交」はその効果を十二分に発揮するものと解釈される。ゆえに平時から安全保
障面での日米連携を維持・強化しておくことが、非常時における「災害外交」へとつなが
るのである。
第二に、今後世界各国で発生するであろう災害に対して、日本が積極的にこれらの支援
を行う主体的な「災害外交」を実施することである。自衛隊は災害救助隊ではないが、と
りわけ国外の災害支援に対しては、いずれの国も軍隊による救助・支援活動が中心となる。
したがって他国の軍隊と協力し、被災地での迅速かつ効果的な救助活動を行うための環境
づくりを行う必要がある。
18
応急対応の教訓導出とその課題
奥薗淳二
1 研究の目的
関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災の 3 つの震災を、政府と官僚の危機管理
という分析視角から検討する上で無視できないのは、災害応急対応のありようである。
震災と呼ぶべき巨大地震が発生すれば、被災地だけで応急対応を完結させることは不可
能であるから、非被災地からの応援派遣が前提となる一方、普段は別々の組織として活動
している危機管理組織が一体的に活動することとなる。本研究では、とりわけ危機管理組
織による応援派遣を中心とした応急対応活動を観察することにより、災害急性期の地理
的・組織的境界を越えた活動における課題を導出することを目的とする。
2 応援派遣に関する制度
<消防>
阪神
:被災した都道府県の知事に基づいて消防庁長官が当該都道府県以外の都道
府県に応援等の措置を求める
東日本
:緊急時には、被災都道府県の要請を待たないで、消防庁長官が他の都道府
県又は市町村に直接出動要請することができることとなった。
緊急消防援助隊の創設
<警察>
阪神
:都道府県公安委員会は、警察庁又は他の都道府県警察に対して援助の要求
をすることができる。
東日本 :阪神淡路を契機に広域緊急援助隊が創設された。
<自衛隊>
阪神
:災害派遣(自衛隊法 86 条)
都道府県知事による要請に基づく派遣等。
庁舎、営舎その他の防衛省の施設又はこれらの近傍への派遣。
東日本 :具体的権限の付与
権限がある者がいない場合、警戒区域の設定と当該区域への立入制限、他
19
人の土地建物等の一時使用、工作物等の除去など。災害派遣の手続複線化1。
3 派遣人員の推移2
(1)消防
・東日本大震災は阪神淡路大震災に比べて長期間に亘る活動を展開しているものの、
発災から最初の一週間で集中的に応急対応を実施するのが消防の特徴。
・緊急消防援助隊の創設をはじめとした阪神淡路大震災の教訓に基づく体制はうまく
機能したという報告が多い。ただし、長期間の派遣を前提としたシステムにはなっ
ていなかった。なお、消防の捜索活動の対象はあくまでも生存者であって遺体の捜
索は対象外であったため、消防の活動は影が薄かったという論考もある3。
(2)警察
・東日本大震災は、ピークこそ阪神淡路大震災よりも小さいものの活動が長期に亘
っている。緊急消防援助隊の派遣は震災から約 2 ヶ月で終了しているのに対し、
警察はこの時期ピークのど真ん中にある4。犠牲者数や被災範囲の広さからして、
検死などの遺体への対応や交通規制などの社会秩序の維持のため警察官の全国
的な動員が必要とされたことが見て取れる。
(3)自衛隊
・発災後 2 日間の派遣規模は、阪神でも東日本でも差異はみられない。阪神淡路大震
災では不満があったのは確かだが、
対応が遅かったという言説は必ずしも事実とは
言い難い。他方、派遣された部隊が被災地の期待に応えられたかというと別の問題
である。
・東日本大震災では、5 月から減員開始、7~8 月にかけて撤収。8 月をもって災害派
遣命令は解除されている。
時の法令 1514 号
井上一徳(2012)「防衛省の対応」震災対応セミナー実行委員会編『3.11 大震災の記録』民
事法研究会, p.115-116; 警察庁「東日本大震災に伴う警察措置」平成 26 年 3 月, p.3; 佐々
木(2012)「消防庁の対応①」震災対応セミナー実行委員会、前掲, p.67; 消防庁(1996)『阪
神・淡路大震災の記録第 2 巻』ぎょうせい, p.79
3 永田尚三(2012)「東日本大震災と消防」関西大学『検証東日本大震災』ミネルヴァ書房,
p.194
4 阪神淡路大震災では、警察官の定数を定める、警察法施行令の附則で一時的に兵庫県警
察の警察官の数を増やしているため、グラフに現れない一時的増員がある。
1
2
20
4 組織の運用について –東日本大震災における教訓消防については、長期にわたる広域応援を前提にした装備が配備されておらず、自己完
結能力という点で苦労することとなった。結果として、部隊ごとの活動開始期間が短くな
っていた。これに対し、警察は大規模な広域応援を前提とした装備、バス、キッチンカー
等が国費で整備されている。
逆に、警察では、支援を受け、それを調整するという新たなタスクに対する準備が不足
していた。結果、2011 年 4 月 1 日からこのための新たな派遣が行われた。すなわち、実践
の中で、警察は学習したのである。今後、これを教訓とした検討がなされることとなって
いる5。これに対し、消防は阪神淡路大震災を契機として、緊急消防援助隊を設立するに当
たり、東日本大震災の発災時点で、派遣部隊の指揮を支援するための仕組みを制度上確立
していた。
5 結論及び政策的含意
個々の組織は阪神淡路大震災から様々なことを学び取り、制度的に派遣のメカニズムを
作り上げていた。そして、それはそれなりに機能していたといえるだろう。消防、警察、
自衛隊とも、少なくとも阪神淡路大震災に比べてスムーズに被災地に部隊を被災地に投入
することができていた。
他方、組織横断的に教訓を共有することが十分でなかったことも見て取れた。消防と警
察が互いの知見を相互参照できていれば、よりスムーズな応急対応ができていたことが運
用面から示唆される。
このことから、今後は情報の共有化と統合的な応急対応を前提とした計画策定の必要性
が示唆される。特に、東日本で中核的な役割を果たした東京が被災するシナリオを想定し
て応急対応計画を見直すにあたっては、首都機能が甚大な被害を受けた関東大震災におけ
る応急対応について再び振り返る必要がある。そこには、首都の機能不全による指揮命令
系統の混乱及びその結果生じる組織間の調整の難しさ、大都市が被災することによる行政
需要の巨大さが示されている。危機管理組織全体として、関東大震災といかに向き合うか
が、重要なのであろう。
そして、次に検討しなければならなくなるのは、派遣の縮小や終了をどのように検討す
るのか、ということである。受援側としては、長く応援を得られる方が応急対応という行
5
重久真毅(2011)「地震・津波と警備警察」『警察学論集』64 巻 12 号 p.30
21
政サービスを住民に厚く提供できる一方、支援側は、応急対応組織をいつかは平時の状況
に戻さざるを得ない。発災当初は、危機管理組織の総力を挙げて応急対応に努めなければ
ならないことについて、両者の認識の隔たりは小さいが、状況の進展に伴って、両者の選
好にギャップが生じることは十分にあり得る。阪神淡路大震災が応援派遣そのものの制度
を構築するきっかけとなり、東日本大震災がその内容を検討するきっかけとなった。次に
考えなければならないのは、ある意味無情で困難な応援派遣の現実に関する選択肢につい
てなのではないだろうか。
22
災害廃棄物処理の行政と政治
森道哉
1.研究目的
20 種類ある産業廃棄物の処理は排出事業者によって、また、それ以外の廃棄物としての
一般廃棄物の処理は市町村よって担われている。これが大要、「廃棄物処理法」に基づく日
常的な廃棄物処理の姿である。しかし、繰り返される大震災がその日常を覆して「災害廃
棄物」を膨大にもたらすことも周知の事実となっている。災害廃棄物は、東日本大震災後、
2011 年 8 月に公布された「災害廃棄物処理特措法」や、2014 年 3 月に環境省によって示さ
れた「災害廃棄物対策指針」(環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部 2014)で規定され
ており、従前の「震災廃棄物対策指針」
(厚生省生活衛生局 1998)における「震災廃棄物」
と「水害廃棄物対策指針」
(環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部 2005)における「水
害廃棄物」が統合された概念である。新聞報道やルポルタージュなどにおいて見られる「震
災がれき」、
「瓦礫」、「ガレキ」といった表現が指していたものも概ねこれに含まれるとみ
てよい。
ただ、こうした災害廃棄物も、廃棄物処理法 22 条により、市町村が政令に基づいて国か
らの一部補助を受けることをもって一般廃棄物と整理される(北村 2012)
。これは東日本大
震災に限られたことではなく、阪神・淡路大震災においても基本的な処理の枠組みはこの
ようなものであった。しかし、大震災は量の側面に加えて、一般廃棄物と産業廃棄物を渾
然一体となって生じさせるという意味で、質の側面からも市町村の通常の処理能力を遥か
に超えうる。ここに当該市町村において独自に処理できない場合の対策としての広域処理
という手法が位置づけられることになる。これに対し、特に東日本大震災では、阪神・淡
路大震災などの経験も踏まえ、たとえば、地方自治法 252 条の 14 第 1 項の運用によってそ
うした市町村に県への委託を可能とし、また、災害廃棄物処理特措法では国による各種支
援の枠組みの拡充も示されたのである。
災害廃棄物処理の進捗状況は、大震災からの復旧・復興の政治過程の捉え方に影響する
だろう。目に見える傷跡としての災害廃棄物をいかに処理し、そのためにどのように態勢
を構築し、復旧・復興期の日常生活を支えていくかは行政と政治における重要な課題であ
る。本稿では、阪神・淡路大震災と東日本大震災における事例を中心に、それらがどのよ
23
うに行われたのかの一端を把握するための準備作業を行いたい。
2.分析視角と達成目標
その作業は、次の三つの関心に基づいて行われる。その第 1 は、議論のベースとなる大
震災と災害廃棄物の発生およびその処理の経過を素描することである。本稿が注目するの
は、災害廃棄物の処理に着目しながら復旧・復興の政治過程を理解しようとするとき、両
大震災においてその処理の完了までの期間が国によって 3 年間と設定されたことの意味や
影響である。それぞれの大震災の帰結のみに目を向ければ「予定通り」に進んだように見
えるが、その期間を意識しながらの処理の様子は関係自治体で異なる部分も多い。これを
調べる際には、
(過去 2 年度の本研究機構の報告書においても触れたように、)時間の経過
とそれに伴う諸アクターおよびそれらの間での利害の変化の有無という観点を意識しなが
ら、被災地、広域処理の受け入れ地、そしてそれら以外の各自治体内での状況を検討する
必要があるだろう。
第 2 の関心は、素描される大震災のなかで災害廃棄物の処理にあたった行政関係者によ
る所感、意見などの表明と、それを支えていると思われる、関連業務の経験の「風化」を
回避したいという意向をどのように考えるかである。阪神・淡路大震災後には、兵庫県や
神戸市の職員によって経験談や教訓などが発表されてきたが(英保 2005;城戸 2002;藤原
1995)
、東日本大震災は被災の範囲が広いだけに引き出されている知見なども自治体ごとに
多様で、多くの関係者による体験談などが伝えられている(宮城 2013)。興味深いのは、特
に東日本大震災後に、災害廃棄物の処理に特化した記録、研究、対策などが急速に、そし
てより一層、組織的に取り組まれているように見えることである。たとえば、岩手県(2015)
や宮城県環境生活部震災廃棄物対策課(2014)を挙げることができるし、仙台市でも同様
の作業が進行中である。もちろん、災害廃棄物の処理の実務においては、廃棄物処理関係
団体、研究者(学会)
、広域処理の受け入れ自治体(北九州市など)他の協力を得ながら進
められた経緯もあり(環境新聞編集部編 2012、2013、2014)、そうした知見も適宜参照する
ことになる。
第 3 の関心は、第 2 のそれと重なる部分があるが、このような記録の作成や教訓の導出
の試みが、さらに南海トラフ地震などの襲来しうる大震災への備えに意識的につなげられ
ようとしていることである。包括的な議論としては、環境省巨大地震発生時における災害
廃棄物対策検討委員会(2014)を挙げることができるだろう。特徴的なのは市町村、都道
24
府県、国の連携の重要性の強調であるが、本稿執筆時点でも同委員会において関連事項の
議論が続けられている6。阪神・淡路震災後には、厚生省生活衛生局(1998)が一定の整理
を示しており、そのなかでは「阪神・淡路大震災における震災廃棄物処理の状況」の分析
に加えて、
「首都圏で想定される震災に伴う震災廃棄物の処理」についてもまとめられてい
たが、東日本大震災を経て、全国的かつ実務的な貢献という視点がより強く意識されるよ
うになっている。こうした動きは、
「多重防御」、
「多機関連携」(伊藤 2014)の発想と親和
性があるように見える。
また、宮城県は、
「東日本大震災に関し宮城県が行った災害廃棄物処理業務を検証すると
ともに,検証を踏まえた今後の大規模災害発生時における災害廃棄物処理の在り方につい
ての提言を行う」場として東日本大震災に係る災害廃棄物処理業務総括検討委員会7を開催
しており、記録の作成を終えて過程の見直し作業に入っている。そこでの成果は、宮城県
環境生活部震災廃棄物対策課(日付なし)の内容を詰めた後、公表されるようである。岩
手県も先述の報告書を作成しているが(岩手県 2015)、同県 HP において表明されているよ
うに、将来志向の問題意識は明瞭である8。
「東日本大震災津波により発生した災害廃棄物の
処理が終了した今、今後も起こり得る巨大災害等への備えとして、これらの取組で得られ
た知見、課題への対応状況、提言などを、広くお伝えしていくことが重要であると考え、
記録誌として取りまとめ」たとするのである。今後は、こうした国、県における対策論や
検証の結果と、災害廃棄物の処理責任者としての市町村の今後に向けた動きとの関係につ
いて、今年度実施できた聞き取り調査の内容も踏まえながら(石巻市、8 月 7 日;岩手県、
8 月 6 日;北九州市、10 月 20 日;仙台市、8 月 7 日;宮城県、8 月 8 日;盛岡市、8 月 6 日)、
検討することになるだろう。
ただ、上の三つの関心に沿って災害廃棄物処理の事例を取り上げる場合には、Samuels
(2013)が異なる政策領域の複数の事例の分析を通じて示したような、大震災前後の文脈
ないしは一般的な視点との関係を意識しておく必要もあるだろう。網羅的に扱えないにし
ても知見の一般化を図ろうとするのであれば、その方向性として参考になるのは、東日本
大震災を対象としたものであるが、多島・大迫・田崎(2014)や多島・平山・大迫(2014)
のような研究であろう。そこでは、研究と実務の関係に着目しながら多くの公表データを
6
7
8
https://www.env.go.jp/recycle/waste/disaster/earthquake/conf01.html
*本稿において参照した URL の最終確認日はいずれも 2015 年 3 月 2 日である。
http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/shinsaihaitai/soukatukenntou.html
http://www.pref.iwate.jp/kankyou/saihai/033328.html
25
精査した上で、業務の「機能」や国の「制度」の影響などが論じられている。
3.予想される政策含意
以上のように、大震災に直面して災害廃棄物の処理に取り組んだ市町村、都道府県、そ
して国のそれぞれの立場での関連情報の整理が進みつつある。ここでは、それを本稿の密
接に関連する三つの関心に引きつけながら、今後の課題(候補)や予想される政策含意を
備忘録的に 2 点にまとめておきたい。
第 1 は、災害廃棄物の処理にかかわる「行政」と「政治」の関係をどのように捉えるか
である。たとえば、東日本大震災の場合には、東京電力福島第一原子力発電所の事故に起
因する災害廃棄物への放射性物質の混入および放射能の人体への影響に関する議論が、広
域処理のあり方をめぐって耳目を集め9、引いては政治の役割を大きく問うことになった。
他方で、いくつかの事例の経過を追跡することで浮かび上がってくるのは、大量かつ雑然
とした災害廃棄物を前にしても、着実にその処理を進めるには行政が当たり前に機能する
ことが重要であるという事実である。そのためには、処理を行う行政が、優れた自前のノ
ウハウ、技術を使える状態にいかに早く戻るか、政治が戻せるかが鍵となる。大震災は、
行政と政治のそれぞれの役割や機能を改めて問う機会を与えているように思われる。この
大きな問いを考え、含意を汲む際には、関東大震災を対象とした研究に視野を広げる必要
があるかもしれない。たとえば、吉田(2013)は、横浜市の山下公園の設置に際しての災
害廃棄物処理と中央地方関係の諸相を視野に収めており、参考になると思われる。
第 2 は、大震災後に記された関係者および関係組織の記録と記録の関連をどのように考
えていくかである。内容の構成や記述の密度に差異はあるにしても、一義的にはそれらが
残されつつある現状は望ましいと思われる。ここで考えておきたいのは、そのように独自
にまとめられる記録が、個別に残されていくのか、あるいは、それらが一定の連関を保っ
て蓄積されていくのかである。後者については、たとえば、受援と支援の関係にあった自
治体のそれらの内容や、国における市町村、都道府県のそれらの受容の様子を突き合わせ
ながら検討することで明らかになる部分があるかもしれない。また場合によっては、記録
の作成が、大震災にまつわる業務の「風化」を免れさせ、いかにその改善につながりうる
9
たとえば、丸山(2012)は、放射性物質によって「瓦礫」が「汚れた存在」と認識されるよう
になった点を強調して、「ガレキ」というカタカナ表記を用いている。本稿冒頭の災害廃棄物に
かかわる用語との関連で補足しておく。
26
のかについての示唆も得られるかもしれない。ある業務について「風化」を免れたという
とき、それは次の大震災への準備が一つ進んだことを意味するのであろう。
本研究会の課題の一つとしての復旧・復興期の政治過程にどのように位置づけられるか
についての理解を深めながら、引き続き災害廃棄物処理の政策過程を考察することにした
い。
参考文献
伊藤正次「多重防御と多機関連携の可能性」サントリー文化財団「震災後の日本に関する
研究会」編(御厨貴・飯尾潤責任編集)
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、2015
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廃棄物対策のグランドデザインについて 中間とりまとめ』、2014
環境新聞編集部編『東日本大震災 災害廃棄物処理にどう臨むか』環境新聞社、2012
環境新聞編集部編『東日本大震災 災害廃棄物処理にどう臨むかⅡ』環境新聞社、2013
環境新聞編集部編『東日本大震災 災害廃棄物処理にどう臨むかⅢ』環境新聞社、2014
北村喜宣「災害廃棄物処理法制の課題――二つの特措法から考える」
『都市問題』103 巻 5
号、2012
城戸正輝「阪神・淡路大震災における災害廃棄物処理とその教訓」
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2002
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、
1998
多島良・大迫政浩・田崎智宏「東日本大震災における災害廃棄物処理に対する制度の影響」
『廃棄物資源循環学会論文誌』25 巻、2014
多島良・平山修久・大迫正浩「災害廃棄物処理に求められる自治体機能に関する研究――
東日本大震災における業務の系化を通じて」
『自然災害科学』33 号(特別号)、2014
藤原輝夫「神戸市の災害廃棄物対策」『廃棄物学会誌』6巻5号、1995
27
丸山祐介『ガレキ――『ガレキ』とは本当に汚れたものなのか?』ワニブックス、2012
宮城県環境生活部震災廃棄物対策課/作成協力 一般社団法人東北地域づくり協議会・公益
社団法人宮城県建設センター『廃棄物処理業務の記録<宮城県>』、2014
宮城県環境生活部震災廃棄物対策課『東日本大震災に係る災害廃棄物処理業務総括検討報
告書(案)』、日付なし(未公刊。2015年1月27日の第3回東日本大震災に係る災害廃
棄物処理業務総括検討委員会における配布資料
http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/shinsaihaitai/soukatukenntou.html)。
宮城英徳「東日本大震災で発生した災害廃棄物処理について」『廃棄物資源循環学会誌』24
巻 6 号、2013
吉田律人「関東大震災と山下公園の誕生――横浜市域のがれき処理問題を中心に」『歴史と
地理』662 号、2013
Samuels, Richard J., 3. 11: Disaster and Change in Japan, Cornell University Press,
2013
28
都市計画と震災復興
―集合住宅に注目して―
砂原庸介
1.研究目的
大震災があるたびに都市計画/復興計画が注目されるが、本来の防災/減災の観点から
言えば、災害前の都市計画こそが重要なはずである。災害に対して脆弱な地域は、例えば
「木造密集市街地」のように、大震災以前から政策当局者をはじめとした関係者に認識さ
れていることは少なくない。しかし、当然ながら、災害の規模を正確に予測することは不
可能であるし、いつ来るかわからない災害への備えが全てに優先されるわけではなく、「予
想通り」災害への脆弱さを露呈する地域は少なくない。
我々が目にするのは、大規模な災害のあとではじめて発動してくる土地や住宅をめぐる
ポリティクスである。以前にその土地に住んでいた人々は引き続き住む権利を主張するが、
都市計画という観点からは、その主張が常に受け入れられるわけではない。災害に対して
脆弱な地域を、脆弱なままで復活させることはできないのである。
本研究では、三大震災後の復興計画のうち、とりわけ住宅再建に焦点を当てて分析を行
う。まずそれぞれの復興において、住宅再建がどのように位置づけられ、どのような公的
支援が行われてきたかを確認する。そのうえで、それぞれの復興における住宅再建の支援
が生み出した問題点について検討する。最後に、震災復興における住宅再建が、再分配の
側面を強く持っていることを踏まえて、震災発生以前からの都市計画・住宅政策による予
備的な対応を検討し、政策的な選択肢を検討する。
2.震災復興と住宅再建
(1)関東大震災
関東大震災では、東京の広大な面積が火災によって消失した。それを受けて、後藤新平
による大規模な帝都復興計画が構想されたが、実際はその計画がかなり縮小したかたちで
実現することになったのは周知のとおりである。他方で、震災後の住宅については、帝都
復興計画とは別に、権利関係が未確定なままにそれぞれの個人がバラックのような仮設的
なものも含めて住宅再建を行っている。結果として、統合的とはいえない、その後の震災
に対して脆弱な木造密集地域が創りだされる原因ともなった。
29
関東大震災については、特に 2015 年度の重点的な調査項目となる予定である。
(2)阪神大震災
阪神大震災の被害を受けた神戸市は、従来から五大市のひとつ、日本を代表する貿易港
として発展してきた都市である。常に一定程度の人口増加を見越した都市計画が策定され、
人々の集住が進められていた。利便性の高い地域を中心に住宅開発が進められていくが、
同時に災害に脆弱な地域が存在した。特に、低所得層が集住する地域では、住宅開発が進
みにくい一方で、当該地域の住民にとっては他の地域で住宅を取得することが困難である
ために、開発が進まない傾向にあった。
このような木造密集市街地が、阪神大震災によって甚大な被害を受けた結果、住宅再建
のために大規模な公的支援が必要となった。支援の内容としては、まず暫定的な仮設住宅
が 4 万戸以上建築され、被災者の応急的な住居とされた。その後は、独自に住宅再建でき
ない被災者を対象に、公営住宅への入居が進められることになる。多くの公営住宅が建設
されたが、20 年経った現在では、震災被災者と非被災者の混在や、20 年という契約で借り
上げた公営住宅の退去などが問題になっている。
(3)東日本大震災
東日本大震災の被害を受けた東北地方は、大都市に先んじて急激な人口減少と高齢化を
経験している地域である。そのような状況を踏まえて平成の大合併が進められているが、
ひとつの自治体の中に狭い中心域と広大な過疎地域を生み出す傾向がある。郊外型ライフ
スタイルの伸長とともに中心市街地が衰退する中で、青森市など、中心地の再編成を狙う
コンパクトシティ構想は存在するが、中心地への巨額の投資が政治問題となりがちであり、
必ずしもコンパクトシティの建設が進むわけではない。
東日本大震災では、極めて広い面積で甚大な被害が発生し、多くの人々が住宅再建を必
要とすることになった。阪神大震災では、当座の住宅として仮設住宅が数多く建築された
のに対して、東日本大震災では「みなし仮設」と呼ばれる政策的革新が生まれた。これは、
既に存在する賃貸住宅を仮設住宅と「みなして」入居させる、つまり、被災者に対して実
質的に家賃補助を与えるという政策となっている。この「みなし仮設」には多くの人が入
居することになり、その数は通常の仮設住宅以上のものとなった県もある。
さらに、2015 年現在も、公営住宅の建設が進められている。東京オリンピックによる建
30
築需要の増加もあり、予定通りに進められていないうえ、当初公営住宅に入居を希望して
いた人々で、その意思を変更する人々も少なからず出現している。そのような状況を考え
ると、阪神大震災の教訓を踏まえて、公営住宅を残余化させないような取り組みが必要に
なると考えられる。
3.都市計画との連続性
(1)再分配としての住宅再建
大震災において住宅が破損する被害を受けるのは、高齢者や低所得層などの社会的弱者
が多くなる。もともと木造密集市街地のように災害に対して脆弱な地域に集住していると
いう特徴がある上に、被災後にも地震保険の加入が不十分でもなく、また、個人への現金
給付は必ずしも充分でないために、独自の再建が困難である。さらに、災害によって仕事
を失うケースがあると、そこから生活を立て直すことの困難が大きい。
このような特徴を考えると、震災復興における住宅再建は特別なものとして切り離すの
ではなく、平時の公営住宅政策との連続性を考えるべきである。日本の公営住宅は、もと
もと残余化の傾向が極めて強いと考えられ、単純に低所得・貧困というだけでは入居が困
難な状態になっているとされるが(平山 2011)、災害被災者はそこに優先的な入居が認め
られることになる。しかしながら、残余的な公営住宅であることために、
(特に都市部にお
いて)一定の所得を受けて転居が可能な「被災者」から新たに住宅再建を行うことが可能
となり、結果として公営住宅の残余化が進むことになると考えられる。
(2)住宅の「質」と家賃補助政策
公営住宅の残余化という問題を踏まえて、震災復興における住宅再建を考えるときに重
要なのは、公営住宅の「質」の問題である。特に東日本大震災で顕著だが、震災によって
多くの住宅が破損すると、住宅需要が高まって供給制約が厳しくなる。そこでとにかく住
宅供給を優先すると、
(不便な立地・簡素な設備という意味で)質の低い住宅が多く生産さ
れることになり、長期的に魅力的な住宅とはなりにくい。質の低い住宅が供給されること
は、公営住宅の残余化を加速させる可能性があるといえる。
人口減少がはじまり、
「空き家」が問題になっている中では、新たな住宅を供給する際に、
長期的な価値を考える必要が強くなっている。相対的に質の低い公営住宅を供給して、残
余化を進めると、質の低い住宅と数多くの「空き家」が共存するという望ましくない事態
31
が生まれる可能性が高い。そこで重要なのは、公営住宅として供給するときにある程度質
の高い住宅を目指すことや、そこまでの補助が難しい場合には既存住宅への家賃補助とい
う現金給付の可能性を探ることである。
(3)自治体の役割
都市計画と連続的なかたちで震災復興を考えるときには、地方自治体が重要な役割を占
めることになる。都市計画の担い手であるとともに、住宅再建において中心的な役割を果
たすからである。
災害の被害を受けた地方自治体において適切な住宅供給ができなければ、民間事業者を
通じて容易に住宅取得や住宅更新をできる層が市外へと流出する可能性が高い。震災によ
って住宅供給が逼迫し、相対的に費用がかさむ中で、住み慣れた土地といえども他の地域
へと移ることは十分に有り得る。集住を進めるには、(特に資力のある)人々の移住を促進
する政策を実施することが求められるものの、同時に住宅再建の支援も行わなくてはなら
ない。同時に負担をするのは大きな困難が伴うために、震災以前の都市計画において木造
密集市街地のような災害に脆弱な地域をあらかじめ減らしておく努力が極めて重要なもの
となる。
そのために検討されるべきは二点ある。まずは、危険地域からの移住をうながす手法で
ある。基本的に危険地域は資産価値が低いので、資産を処分して移住しようとしても極め
て難しい。そこで、あらかじめ再分配的に移住をうながすような給付を考える必要がある。
具体的な手法としては、公営住宅の拡充(現物給付)や家賃補助政策(現金給付)である。
特に災害によって崩壊する確率が高い地域については、あらかじめ再分配的な手法を使う
ことによって被害を減らすことを考えなくてはいけないだろう。
次に、中央政府と地方自治体の関係を見直す必要がある。もし災害に対して十分な備え
がないままに、大きな被害が生じたとしても、中央政府が十分な援助を行って復興を進め
てくれるという期待があれば、地方自治体が減災のための都市計画に取り組む動機付けは
弱くなる。そこで重要なのは、地方自治体の責任を強調して、中央政府が十分な援助を行
わないというコミットメントであろう。もちろん、そのコミットメントは簡単ではなく、
しばしば守られないことになるが、地方自治体の責任を強調することによって事前の減災
を進めることが重要なポイントとなる。
32
5.政策含意
都市計画との連続性を見据えて住宅再建を考えるとき、政策含意は復興だけではなく公
営住宅政策全般にも及ぶ。すなわち、公営住宅の残余化に歯止めをかけることが必要にな
るのである。そのためには、質の高い公営住宅を供給するとともに、これまでよりも規模
が大きな家賃補助を行うことが必要である。住宅支援の範囲を拡充することによって、人々
の危険地域からの移住を促すことを目指すのである。もちろん、中央・地方を通じた危機
的な財政状況を考えると、既存の公営住宅の再編は避けて通ることができないだろう。
また、中央政府のコミットメントも重要な政策含意である。公営住宅も含めて、地方自
治体が取り組みを進めなくてはいけない以上、中央政府が全て再分配的な救済を行うとい
うのではなく、あらかじめ地方自治体が再分配可能な部分を広げながら、その責任を明確
にして、危機時に中央政府への依存を許さないという姿勢を取ることが検討されるべきだ
ろう。
33
災害対応に関する法制度の変遷
小宮京
①研究目的
災害対応に関する法制度がどのように変化したのか、関東大震災、阪神・淡路大震災、
東日本大震災の三震災とその後の政府の対応を踏まえ、検討したい。
②分析視角と達成目標
平成 25(2013)年度まで、「技術官僚に注目した三震災の比較」を検討してきた。そ
こでは、
「専門的知識」や経験の継承について、いわゆる技術官僚に注目することにより、
非制度的な連続性を見通すことを試みた。
今年度は、制度に注目する。戦前と戦後における災害対応に関する法制度の変遷を追
うことで、何が変わったのか描くことを試みる。
とりわけ、警察と消防に注目し、その連携の法制度に注目したい。
その際に、いわゆる技術官僚の知見の反映など、これまでの蓄積も反映させたい。
③予想される政策含意
戦前と戦後における災害対応に関する法制度の変遷に注目することにより、比較の観
点から、現行の災害対応の法制度の特徴を描き出す。また、法制度の整備も含め、より
適切な制度設計は可能かを検討することを視野に入れている。
平成 26 年度
平成 26 年度の研究会で中間報告を行った。三震災の比較を行う前段階として、戦前から
戦後への変化に注目した。とりわけ、戦後に実施された、警察と消防の分離に注目した。
以下は「災害対応制度の再検討」の報告要旨である。
問題設定
まず、戦前から戦後への変化を述べる。戦前の関東大震災の発災時には、戒厳令が存在
した。戦後の阪神・淡路大震災、東日本大震災の発災時には、災害対策基本法が存在した。
34
戦前・戦後で大きな変化として挙げられるのは、軍隊が消滅し、現在は自衛隊が存在する
ことと、消防と警察が分離されたこと、の二点である。
先行研究
関東大震災の折の軍隊や内務省の対応に関する先行研究としては、鈴木淳 2004、吉田律
人 2008 が挙げられる。戦前の法制度を踏まえ、軍隊の出動や、内務省、なかでも警察の一
部局としての消防の活動に関してまとめている。
戦後の災害対応、とりわけ自衛隊の活動に焦点をあてた研究としては、村上友章 2013、
村井良太 2014 が挙げられる。戦後の法制度では、1950 年に警察予備隊、1952 年に保安隊、
1954 年に自衛隊と変遷し、その自衛隊が災害出動でも大きな役割を果たすようになった。
一方、警察と消防に関しては、占領下で警察と消防の分離が徹底された。その過程は、自
治大学校編 1967 や日本消防協会百周年記念事業常任委員会編 1984 に詳しい。具体的には、
1948 年 3 月 7 日に旧警察法と消防組織法が施行され、消防が独立した。その後、災害対策
基本法が成立し、現行の法制度の大きな枠組みが整備された。災害対策基本法の成立過程
に関する先行研究として、防災行政研究会編 1997、風間規男 2002 が挙げられる。
中間報告では、消防と警察の分離が戦後の法制度に与えた影響に注目した。
消防組織法
まず、消防に目を向けると、
『逐条解説 消防組織法
第三版』では「国、都道府県及び
市町村間の関係」として、警察との関係を次のように叙述している。
「消防と警察は互いに独立しているが、国民の生命、身体及び財産を保護するという点
において究極目的を共通にしているので、消防及び警察は、国民の生命、身体及び財
産を保護のために相互に協力しなければならない(第 42 条第 1 項)。また、個々の市
町村だけでは十分に解決し得ないような災害による非常事態に備えて、消防庁、警察
庁、都道府県警察、都道府県知事、市長村長及び水防管理者は、災害の防御の措置に
関し、相互間においてあらかじめ協定することができる」(消防基本法制研究会編
2009:35-37 頁)
また、現行法制度における消防の課題、例えば広域化といったテーマについて、永田尚
三 2009 が詳しく論じている。
35
警察と消防の戦後史
次に、警察に関する研究はそれ自体が低調である。これまでに小宮 2013、小宮 2014 な
どの論文を発表した。消防との関係をも視野に入れて考察した研究はほとんど存在しない。
現在、消防と戦後警察史とをあわせて考察する試みを行っている。その成果の一部は小宮
2015 として公刊した。
これまでの研究を踏まえ、警察と消防の関係について考察した。1953(昭和 28)年 2~3
月の警察法改正、いわゆる「バカヤロー解散」で廃案となった法案であるが、これは消防
の警察への統合を試みた点で興味深い。その後、1954(昭和 29)年に現行警察法が成立す
る。そして、1960(昭和 35)年 7 月 1 日には、自治省消防庁が誕生した。この間、警察と
消防の関係のみならず、自衛隊との連携も課題となっていたことを論じた。
今後の課題
先行研究として、関東大震災に関する軍隊や警察と消防の動向や当時の法制度を確認し
た。戦後は警察と消防の歴史を概観しつつ、災害対策基本法の成立過程を警察と消防の視
点から再検討した。
今後予想される大規模災害に向けて、自衛隊と警察と消防といった機関がどのように連
携すべきか、その基盤となる法制度の整備も含め、より適切な制度設計は可能かを検討す
ることが、今後の課題である。
参考文献
法律
消防基本法制研究会編『逐条解説 消防組織法 第三版』(東京法令出版、2009 年)
防災行政研究会編『逐条解説 災害対策基本法<改訂版>』
(ぎょうせい、1997 年)
警察・消防
自治大学校編『戦後自治史Ⅸ(警察および消防制度の改革)』
(自治大学校、1967 年)
自治体消防制度四十周年記念式典等実行委員会編『自治体消防四十年の歩み』(全国消防
協会、1988 年)
日本消防協会百周年記念事業常任委員会編『日本消防百年史
1984 年)
論文
36
第三巻』(日本消防協会、
風間規男「災害対策基本法の制定 防災政策ネットワークの形成」
『近畿大學法學』50 巻
1 号、2002 年
小宮京「大阪市警視庁の興亡 占領期における権力とその「空間」」
『年報政治学』2013Ⅰ号、2013 年
小宮京「組合警察制度に関する研究 警察と地方分権」
『社会安全・警察学』創刊号、2014
年
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009807849 から入手可能
小宮京「警視総監・消防総監・大阪市警視総監をめぐる分権の政治史」御厨貴・井上章
一編『建築と権力のダイナミズム』
(岩波書店、2015 年 3 月〔刊行予定〕
)所収
鈴木淳『関東大震災 消防・医療・ボランティアから検証する』
(ちくま新書、2004 年)
永田尚三『消防の広域再編の研究』
(武蔵野大学出版会、2009 年)
村井良太「東日本大震災と国民の中の自衛隊」サントリー文化財団「震災後の日本に関
する研究会」編、御厨貴・飯尾潤責任編集『「災後」の文明』(阪急コミュニケーショ
ンズ、2014 年)所収
村上友章「自衛隊の災害派遣の史的展開」
『国際安全保障』41 巻 2 号、2013 年
吉田律人「軍隊の「災害出動」制度の確立 大規模災害への対応と衛戍の変化から」
『史
學雜誌』117 巻 10 号、2008 年
37
政府のサービス範囲と需要の乖離に関する研究
―被災者に対する現金支給を事例に―
手塚洋輔
1.問題の所在
政府のやるべきとされる仕事の範囲が可変的であり,かつ資源に限界があるため,震災
復興の範囲や水準もまた,それに大きく規定されると考えられる。つまり,住民の要求に
応えていないとの批判があったとしても,それが政府の能力の限界や非効率さに起因する
のか,投入できるリソースの偏在にあるのか,公共政策的観点からの優先順位付けの結果
なのか,あるいは要求そのものの水準が高すぎるのか,といった点を検討することが,現
実の復興過程を分析するにおいても,あるべき復興のあり方を探るうえでも不可欠な作業
といえよう。
かかる点において,復興過程において鋭く対立してきた論点の一つが,被災者への現金
支給である。他の福祉政策と同様に,そもそも政府の仕事なのか否か,そうだとしても適
正な額はいくらか,対象者をどうするかといったことが議論されてきた。ただ,それまで
きわめて限定されてきたところ,1990 年代以降,徐々に現金支給は額・対象・手法ともに
拡大しつつある。そこで本研究は,なぜ財政状況が逼迫する中で現金支給を拡大できたの
かを分析し,その結果生じた制度構造の問題を探るとともに,将来の課題を展望すること
にしたい。
2.分析視角──行政需要論
これまでの行政研究の知見に従えば,人々が政府に対する要求の範囲(行政需要)と実
際に政府が対応する範囲(行政ニーズ)に乖離が存在する。もっとも,対応を要求された
出典:曽我謙悟『行政学』有斐閣,2013 年,379 頁。
図 1 行政への政策要求と行政の対応
38
として,それが果たして公共的な課題なのかどうかもまた異なる位相をもつ。これら 3 つ
の観点から政府の対応を図 1 のように整理すれば,②と⑧を除く,さまざまな局面での乖
離が政府への批判として問題化すると考えられ,同じ批判でもどの問題なのか,その乖離
の構造に目を向ける必要がある。
震災復興に関してみれば,生活再建の課題が個々人によって異なるがゆえに,本来的に
私的な事情によって行政需要(要求)が左右されるものであるのに対し,政府の対応はそ
うはいってもある一定の基準に基づくものにならざるを得ない。そしてこの問題が最も先
鋭的に現れる争点の一つに,被災者に対する現金支給,特に被災者の個人的資産への補償
という性格を有する住宅再建への現金支給がある。震災復興における住宅再建の社会的意
義を認める側からみるとこれは「公的責任範囲」の問題として「対応すべき事柄である」
とみるし(②),他方で,財政上の負担や他のリスクとの公平さを重要視する側からはこ
れは被災者の「私的責任範囲」の問題であって「対応すべき事柄でない」ことになる(④)。
対象者の選別においても,生活保護のように詳細な調査をすることは困難なため,被害
の程度や世帯の状況(年収等)をカテゴリー分けすることによって擬似的に判定し実際の
対応につなげるという構成をとらざるを得ない。しかしその反面,カテゴリー分けは実際
の困窮度や需要を正確に徴表しないために,モラルハザード(①)や不公平感が残る(③)
ことにもなる。
3.研究成果
以上を踏まえ本研究では,住宅再建を中心に被災者への現金支給の実態を,財源・支給
条件・使途の制約に着目しつつ,歴史的に比較しつつ考察することとした。住宅再建とし
たのは,個人の資産形成にもつながりかねない個々の住宅を税金で援助することの是非が
特に問題となってきたからである。ここで住宅再建にも使えるものを「住宅再建」とし,
それ以外の物的・経済的被害に対する支給を「生活再建」と呼び分けると,大まかな流れ
は,「生活再建のみ」から「住宅再建も」へ,そして財源面でも従来は「義援金」が主体
であったところ,近年「税」を用いた方法の割合が段階的に拡大してきたことが指摘でき
る。もっとも,こうした整理はこれまでの災害研究の中で蓄積された見解と軌を一にする
ものでもある。
そこで,本年度は,政策のあるべき論としてではなく,なぜそのような政策となったの
かという政策過程に焦点を絞り,とりわけこの政策展開が,90 年代におこった「必然」で
39
ある側面と「偶然」である側面が相まっていることを示すことを課題として設定した。以
下では,本年度の成果を概観する。
まず,三震災の比較を念頭に現金支給の歴史を大きく見渡すと,(1)戦前から 1980 年
代頃までの義援金を中心とした時期,(2)1990 年代に被災者生活再建支援法に結実する
までの時期,(3)2000 年代半ば以降の現金支給が多様化していく時期に分けることがで
きる。
(1)関東大震災においてはもちろん多くの被災者が倒壊・焼失により家を失うことになっ
たが,住宅自体も簡素な作りであっただけでなく多くは借家であったこともあって現金支
給は天皇・皇族からの御下賜金により細々と行われたに過ぎなかった。その後の災害でも
戦後に至るまで現金支給は寄せられた義援金を分配するという形で行われた。税の直接投
入は一部自治体で見舞金のような形でごく例外的に実施されるにとどまり,国レベルでは
1970 年代にできた災害弔慰金制度を除いては,なかった。
(2)雲仙普賢岳噴火を契機として義援金を原資にした基金による現金支給のしくみが始ま
った。ただしこれは被災者ひとりあたりの義援金額が多いからこそ可能なしくみであった。
この点,阪神・淡路大震災の際は,被災者が桁違いに多いこともあって,こうした義援金
頼みの体制の限界が露呈した。そのため,市民から公費による現金支給の強い要求が出さ
れ,兵庫県が知事会レベルで政策案を出すとともに,当時連立政権の一翼を担っていた社
会党もアジェンダとして乗せていくこととなった。最終的に議員立法のかたちで被災者生
活支援法が成立し,生活再建に限定的ではあれ公費による現金支給の途を開いた。
(3)残された住宅再建への支給については,2000 年代に入り,鳥取県など自治体レベル
で独自施策が開始され,さらには中越地震などの際には公費基金による住宅再建への現金
支給もなされるに至った。また煩瑣な手続きが必要であった被災者生活再建支援法による
現金支給も 2007 年のねじれ国会をきっかけに民主党からの改正案が通って,清算事務の不
要な渡し切りの支給となり,結果として住宅本体への充当を事実上可能になった。こうし
た諸変化の結果,住宅再建についてはあわせて 1000 万円前後の支給がなされるまでに充実
している。しかしながら他方で,このような手厚い現金給付の仕組みは否応なく財政を圧
迫させることにもなる。
こうした状況下で起きたのが,2011 年 3 月の東日本大震災であり,その被害からみて,
既存の基金で対応可能な範囲を大幅に超過し,他の災害対応に必要な基金も枯渇すること
が確実であった。そのため,当初の制度設計から大きく離れて国がその大半を負担する特
40
例的なしくみを導入した。また,自治体レベルでも地方交付税を原資に各自治体が運用し
ている基金を通じて現金支給が行われているにもかかわらず,自治体間の格差が大きく,
自治体のモラルハザードも指摘されている。
4.総括と政策的課題
以上見てきたような支援制度が拡大した要因として,第 1 に,行政需要(要求)面での
変化がある。自力での住宅再建がより困難になったことや,コミュニティの維持という「別
の政策」目的もあって,行政ニーズとして組み込まれる一つの要因にもなっているように
思われる。第 2 に,雲仙や奥尻の事例で「偶然に」多額の義援金が集まったことによる公
的支援の実施例ができてしまったことによって,後の震災対応において「対応すべき事柄」
とされていったことも指摘できる。公的責任範囲についての議論の結果というよりは,義
援金の不足を支援金や基金でアドホックに補完しそれが既成事実化して次の震災に蓄積さ
れていくという事態が進行したのである。
他方で,被災者生活再建支援法の立案過程や改正過程に影響を与えた要因をみると,90
年代における「必然」の結果であったように思われる。第 1 に,地方分権化である。知事
会の影響力,首長のリーダーシップの余地,旧自治省による事前統制の緩和などが影響し
ている。第 2 が,自民党の弱体化である。1998 年の法制定では連立を組んだ社民党がアジ
ェンダ設定の面で重要な役割を果たし,2007 年ではねじれ国会のもとで野党・民主党の普
遍主義的な政策志向が年収・年齢要件の撤廃へとつながったのである。
震災の復興という点でリーダーシップの重要性が言われることも多い。しかし,確かに
自治体レベルのリーダーシップは重要だともいえるが,他方で,中央省庁の理論枠組みを
打ち崩したのは,弱いリーダーシップであるがゆえ,ともいえる。この意味で,新しい政
策価値の投入という点で弱さが果たす側面を無視できない。
もちろんこれには問題もある。東日本大震災が露呈させた財政的な持続可能性と,自治
体間格差である。最終年度は,これらの問題にどう対処できるのかについて視野を広げて
検討を行う。具体的には,東日本大震災後の検討状況を丁寧にフォローするとともに,兵
庫県のフェニックス共済などの事例やこれまでの過程で実現しなかった政策案などを掘り
起こす。その上で,政治学の観点から三震災を比較する本研究課題の特質を十分に活かす
かたちで,政治過程の特質を踏まえた現金支給策の展望を提示したい。
41
大震災からのインフラの復旧・復興過程とその特徴
―関東、阪神・淡路・東日本大震災で被災した港湾を事例に―
林昌宏
1.本研究の目的
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災によって、東北地方や関東地方の沿岸部は、
地震や津波によって、甚大な被害を受けた。その中には、地方港湾や漁港、空港が含まれ
ており、とりわけ大津波が沿岸部にある仙台空港を襲った際の映像は、今も筆者の脳裏に
深く焼き付いている。また、1995 年 1 月 17 日に発生した阪神・淡路大震災では、神戸港
が壊滅状態になったほか、横倒しになった阪神高速道路 3 号神戸線や、鉄道、新幹線の高
架が損傷し、復旧に多大な労力と時間を要することになった。これらの映像や写真は、大
震災がもたらす被害のすさまじさを今に伝えている。
それでは大震災によってインフラが被害を受けた場合に、それの復旧・復興をどのよう
に進めていけばよいのであろうか。これについては国土政策や国際・地域経済と密接に関
わってくる問題だけに、検討すべき点も多いのではないかと考えられるのである。
本研究は、上述した問題関心を踏まえて、過去の大震災で被害を受けたインフラは、ど
のような復旧・復興のプロセスをたどり、それにおける行政体制の実態や政治過程はいか
なるものであったかについて検討しようとするものである。そのために本研究では、港湾
を取り上げ、その復旧・復興過程に着目する。
数あるインフラの中から、なぜ港湾を取り上げるのか。それは、関東大震災で横浜港、
阪神・淡路大震災では神戸港という発災当時のわが国を代表する港湾が壊滅的な被害を受
けており、道路や空港といったインフラに比べて、その復旧・復興に関する比較・検討を
スムーズに進められるためである。また、港湾の復旧・復興は、中央政府と地方自治体の
密接な関係や、地方自治体間の競争的な関係に影響されながら進められたものであった。
この点をフォーカスすることで、インフラの復旧・復興をめぐる行政体制の実態や政治過
程を明らかにできると考えられるためである。
なお、本研究では、まず関東大震災と阪神・淡路大震災での港湾の復旧・復興過程を比
較・検討する。つづいて、そこで得られた知見をもとに、東日本大震災によって被害を受
けた港湾の復興の状況の検討や、鉄道や道路などを含めた将来的なインフラの復旧・復興
のあり方について言及することにしたい。
42
2.分析視角
本研究は、以下の 2 つの視角から分析を進めることを予定している。
(1)港湾の復旧・復興をめぐる行政体制の実態
本研究は第 1 に、港湾整備事業をめぐる行政体制に着目する。
戦前まで横浜港と神戸港は、中央政府(内務省や大蔵省)によって管理・整備されてお
り、それ以外の主要な港湾についても内務省の強い統制のもとに置かれていた。府県や市
町村については、主に港湾の整備費の負担といった役割を担うにとどまっていた。
ところが戦後は、GHQ の占領改革の一環により、1950 年に港湾法が制定された。これ
により都道府県・政令指定都市レベルの地方自治体が、港湾を管理・整備することになっ
たのである。他方で、港湾を管理・整備する権限を剥奪された中央政府(運輸省)は、平
時において整備費の負担といった限定的な役割を担うことになったほか、港湾管理者であ
る地方自治体をコントロールすることも困難になったのである。
以上のとおり、戦前と戦後で港湾整備事業をめぐる行政体制は、大きく異なっている。
本研究は、港湾整備事業をめぐる制度変化を背景に、大震災からの港湾の復旧・復興にあ
たって、行政体制にどのような特徴が見られるのかについて分析する。
(2)港湾の復旧・復興をめぐる地方-地方政府間関係のあり方
本研究は第 2 に、港湾整備事業をめぐる地方-地方政府間関係に着目する。
これまで、政治学・行政学では、地方-地方政府間の競争的な関係や、それらの横並び
を志向する動き、政策の相互参照などがクローズアップされてきた。本研究は、こうした
知見を踏まえて、ひとまず戦前・戦後ともに、港湾整備事業をめぐる地方-地方政府間の
関係が競争的、横並びを志向していたと捉える。
そして、本研究は大震災の発生により、港湾整備事業をめぐって地方-地方政府間関係
は、どのように変化するのか、それらの関係が港湾の復旧・復興にいかなる影響を及ぼす
のかについて分析を進めていく。
3.事例分析
これらの分析視角をもとに、大震災で被害を受けた横浜港と神戸港の復旧・復興プロセ
43
スを行政の動きや政治過程に着目しながら分析していく。具体的な内容は、以下のとおり
である。
(1)関東大震災により被災した横浜港の復旧・復興
横浜港は、1889(明治 22)年から 1920(大正 9)年にかけて大規模な港湾整備が実施さ
れ、2km の岸壁や各種の荷役機械などが完成した。さらに 1921(大正 10)年 4 月からは
内務省によって横浜港第 3 期拡張工事が開始された。1922 年の横浜港の外貿貨物量は 468
万トン、金額は 15.5 億円(全国貿易総額の 55%)を記録している。
ところが、1923(大正 12)年 9 月 1 日に関東大震災が発生し、上記の横浜港の施設や造
成中の埠頭は壊滅した。政府は、内務省や大蔵省(横浜税関)の機能が低下したことから、
横浜港の仮修理を陸海軍に要請し、それらによって桟橋の修理や浮桟橋の仮設、岸壁の仮
修理がなされている。
横浜港の震災復旧工事は、帝都復興院の事業に組み込まれ、1923 年 10 月 21 日に全額国
庫支出金をもって実施することが決定された。復旧工事費は、906 万円が計上され、防波堤
や岸壁などの施設の復旧工事を内務省横浜土木出張所が担当した。また、陸上施設の復旧
工事は、大蔵省大臣官房臨時建築課横浜出張所が担当した。復旧工事は急ピッチで進めら
れ、1924 年に外貿貨物量が 451 万トンに回復し、1925 年からは横浜港第 3 期拡張工事が
再開されている。
さて、震災で横浜港が壊滅したことにより、同港の国内最大の貿易港としての地位は、
大きく揺らいだ。ライバルの神戸港では、横浜港で独占的に取り扱われていた生糸の取り
扱いが開始され、
「生糸二港制」が実現することになった。それから横浜市に近接している
東京市は、横浜港の壊滅を契機として内務省に東京築港を強力に陳情した。そのため同市
と横浜市との関係は一時期、険悪なものになった。1940 年 12 月には横浜市で東京開港反
対横浜市民大会が開催される事態も起こっている。
このような状況を受けて横浜市は、横浜港内の大防波堤の築造を内務省に要請し実現さ
せた。そのほか横浜市は、浅野財閥の民間資本なども導入し、臨海部に 200 万坪を超える
埋立地を造成している。ここには造船、鉄鋼などの重化学系の工場が進出し、京浜工業地
帯の一角が形成された。
(2)阪神・淡路大震災により被災した神戸港の復旧・復興
44
神戸港の港湾管理者は、1950 年の港湾法の制定により、1951 年から神戸市となり、同港
では「山、海へ行く」と呼ばれた埋立地の造成、コンテナバースやフェリー埠頭の整備が
進められた。これらは、神戸市が国庫補助を活用したり、阪神外貿埠頭公団(1982 年に、
神戸市埠頭公社に改組)を設立したりしながら進められたものである。震災前には、神戸
港のコンテナ取扱個数は、世界第 6 位、国内第 1 位を誇っていた。
名実ともに世界有数の貿易港であった神戸港は、1995 年 1 月 17 日に発生した阪神・淡
路大震災によって、約 116km の水際線の大部分が壊滅した。とりわけ、すべてのコンテナ
クレーンが使用不能になるなど被害は甚大であった。
神戸港の復旧に向けて 1995 年 2 月 10 日に運輸省が神戸港の復興の基本方針を策定し、
それを踏まえて神戸市が同年 4 月 28 日に概ね 2 年以内に港湾機能の回復を目指し、21 世
紀の新たな港づくりを目指す内容の「神戸港復興計画」をとりまとめた。そのほか神戸市
は、既設埠頭の再開発や瓦礫の処分場所の確保するため「神戸港港湾計画」を改訂してい
る(1995 年 2 月 10 日の運輸省港湾審議会で認可)
。また、政府が 1995 年 2 月 16 日に設
置した阪神・淡路復興委員会(下河辺淳委員長)は、仮設桟橋埠頭の建設を提言し、これ
については六甲アイランドに整備された。
神戸港の復旧工事は、運輸省第三港湾建設局、神戸市、神戸港埠頭公社の三者で実施さ
れることになった。復旧に必要な事業費は、約 5,700 億円と計上され、国からの特別な財
政支援等がなされている。こうして 24 時間体制で復旧工事が実施されることになり、1995
年 4 月に神戸港でのコンテナ荷役が本格的に再開され、同年 8 月にはフェリー寄港も再開
された。震災発生から 2 年後の 1997 年 3 月に、神戸港の復旧工事は、完了した。
さて、阪神・淡路大震災の発生は、神戸港だけでなく、国内外の港湾にも多大な影響を
及ぼすものであった。震災の発生によって、コンテナ貨物の争奪戦がより一層熾烈なもの
になった。神戸港は、シンガポール港、上海港、釜山港をはじめとする東アジア各国のラ
イバル港や、東京港、横浜港、名古屋港といった国内のライバル港にコンテナ貨物を奪わ
れることになった。こうして神戸港は国際コンテナ取扱個数ランキングの上位から転落す
ることにもなり、2010 年現在で 45 位と低迷を余儀なくされている(東京港は 25 位、横浜
港は 36 位)
。さらに震災後には、兵庫県が管理・整備する姫路港をはじめとして、国内の
多くの地方港湾が「リスクヘッジ」の名目のもとでコンテナ港化するに至った。
これらの状況を受けて、神戸港ではポートサービスの見直しが進められたほか、今日、
国土交通省の主導で神戸港の国際競争力回復に向けた施策(たとえば、2004 年のスーパー
45
中枢港湾の選定、2010 年の国際コンテナ戦略港湾の選定)が採られている。しかし、後者
についての実効性は、不透明なところも多く、ますます熾烈化することが予想される国際
的な港湾間競争のなかで、神戸港の国際競争力をどこまで回復させられるのか、疑問点も
数多く残されていると言わざるを得ない。
(3)東日本大震災により被災した東北沿岸部の港湾の復旧の特徴
2014 年度に筆者は、東日本大震災によって被災した東北沿岸部の港湾の復旧について調
査を進めた。以下では、それの成果を簡潔に記すことにしたい。
1995 年に発生した阪神・淡路大震災や、2000 年代に頻発した大地震(2000 年の鳥取県
西部地震、2007 年の新潟県中越地震など)もあり、次なる大災害に対する備えとして、被
害予測システムの発達や、地震防災技術の見直しが進められた。具体的には、2004 年の緊
急地震速報の導入や、新幹線や高速道路の橋脚などの耐震補強の実施、港湾における免震
コンテナクレーンの開発や耐震強化岸壁の整備などがあげられる。
こうした中で発生したのが 2011 年 3 月 11 日の東日本大震災であった。この大震災では
最大震度 7 の地震よりも、その後に襲来した大津波に対する備えが万全ではなかった。港
湾に限って述べると、
南北約 500km にわたる範囲で港湾機能が一時全面的に停止したほか、
大津波警報の発令により、東京湾内では港外に避難する船舶約 1100 隻で大混雑するといっ
た事態を招いたのである。2012 年 1 月時点で港湾関連公共土木施設の被害報告額(国土交
通省調べ)は、約 4126 億円に達した。ただ、不幸中の幸いであったのは、阪神・淡路大震
災の被害の反省から、多数の港湾で耐震強化岸壁を整備していたために、一部の岸壁の早
期供用再開が可能になったことである。
発災直後から港湾に関する初動・応急対応や復旧は、国土交通省を中心に進められた。
緊急災害対策本部の設置や TEC-FORCE(国土交通省緊急災害対策派遣隊、2008 年設立)
の派遣、航路、泊地などの障害物(家屋、車両、コンテナなど)を取り除く啓開作業の開
始とそれらの優先付けによって、3 月 24 日までに主要 14 港全てにおいて、一部の利用可
能になり、緊急物資、燃料油などの搬入が可能になったのである。また、2013 年 4 月から
6 月にかけて国土交通省所属の海洋環境整備船 4 隻が海上保安庁と連携しながら漂流物の回
収を実施している。また各港の復旧・復興方針が 2011 年 8 月に取りまとめられ、一部の港
湾では国土交通省の支援が行なわれている(たとえば、2011 年 5 月の小名浜港の国際バル
ク戦略港湾の選定)
。これらの迅速な初動・応急対応や復旧が可能になった背景として、過
46
去の大震災の教訓の活用に加えて、2001 年に設立された国土交通省の存在が考えられる。
特に「カンナ官庁」と呼ばれていた運輸省が、建設省などと合併して国土交通省という巨
大官庁に変容したことは、巨大災害への対応にも何らかの影響を及ぼした可能性が高い。
この点については、来年度に優先して分析を進めたい課題でもある。
東日本大震災後には、新たな大災害に備えるため、制度の見直しが進められている。阪
神・淡路大震災の項でも前述した港湾法が 2013 年 6 月に改正された。これによって「緊急
確保航路」の指定、船舶の退避用の泊地の確保、民有港湾施設の適切な維持管理の促進、
港湾施設の点検方法の明確化、「港湾広域協議会」(後述の港湾広域防災協議会)の設立が
規定されることになった。
港湾法の改正により、2014 年 3 月に関東、大阪湾、伊勢湾で港湾広域防災協議会が設立
された。これは、国や複数の港湾管理者(地方自治体)の間で港湾機能の維持に関し必要
な協議を行うほか、航路啓開作業を行う手順、港湾相互間の連携・補完の考え方などにつ
いて検討を進めるための組織である。さらに、後湾施設、防波堤の設計条件の見直し、国
土交通省と資源エネルギー庁によるコンビナート港湾の強靭化に向けた取り組みの推進、
2013 年 10 月の「港湾の津波避難対策に関するガイドライン」の策定など、東日本大震災
での失敗を生かした新たな取り組みが進められつつある。
4.予想される政策含意
わが国では、ひとたび大規模災害が発生すれば、市民の生命・財産のみならず、社会・
経済活動に必要不可欠なインフラも被害を受けることは免れ得ない状況にある。そのため、
いかにして、それを迅速かつ効果的に復旧・復興するかが重要になってくる。一方で、そ
れを実現するためには、大災害発生に際して、行政体制の実態や政治過程がどのようなも
のとなっているかを把握しておく必要があろう。
本研究は、横浜港、神戸港、そして東北沿岸の諸港の復旧・復興といった実例について、
膨大な資料を活用し詳細に分析するだけにとどまらず、一つの時間軸の中にそれらを置き、
比較検討することによって、より踏み込んだインフラの復旧・復興のあり方について提言
することが可能になると予想される。
最後に、本研究を進めていくなかで、阪神・淡路大震災で得られた教訓は、東日本大震
災において活かされたほか、東日本大震災で得られた教訓も活かされようとしている実態
が明らかになりつつある。他方で、津波のような過去の大震災で未経験の災害への備えが
47
不十分であったことという事実も見えてきた。また、巨大災害の発生時に国土交通省や地
方自治体が、どのような役割を担うべきかを明確化しておくことが迅速な対応のために必
要不可欠になってくると考えられる。来年度は、これらを詳細に検討し、次なる大災害に
有用な政策提言を導出することを目標とする。
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・横浜市編[1976]
『横浜市史 第五巻下』横浜市
49
三震災における記憶と記録の相互作用
牧原出
1.テーマ
震災において、記憶を記録するのか、記録によって記憶が固着するのか。その場合の記
録の意義は何かを検討する。
2.理論枠組みとしての〈記録と記憶の相互作用〉
公文書など記録によって、組織と政策の記憶を定着させるものもあるが、民間の伝承レ
ヴェルでは鮮烈な記憶が記録を生み出すことが多い。またある種の広報活動・メディア戦
略・論壇での主題化というメディア・レヴェルの記録によって記憶されるものもある。か
くして記録と記憶は多重に相互作用を営んできた。これを類型化しつつ、三震災に適用す
る。
とりわけ救護・復旧・復興と並行した記録・記憶の相互作用として以下のプロセスを仮
説として設定する。
被害記録(伝達、写真、テレビ)→政策文書の保存→祈念・追悼行事のアリーナ構築
生活とインフラが再建される復興の過程と並行して、多種多様な記録を媒介とした記憶
の造形の過程があると見る。
3.震災の記録はどう編集されるのか?――震災誌と復興誌のケーススタディ
①記録のかたち
震災誌は地震の直接被害と救護の記録であるが、復興誌が書かれるのが巨大地震の特徴
である。そこでの編集の仕方、書かれ方にはどのような特徴があるか?まず、巨大地震は
記録自体が多様であり、特徴をつかむのが難しいので、地域地震の記録から基本的情報の
全体像をつかんでおく
②中越地震のケース
・2004年10月23日
中越地震→2007『中越大震災:復旧・復興への道』新潟
県:その特色は「豪雪」
、平成の大合併直前の地震
50
・構成は前編・後編 あわせて500頁ほど、モノクロ
前編「雪が降る前に」
後編「復旧・復興への道」
・県の活動が中心であるが、インタビューで補う
特筆できるのは
1)復興ビジョン:10年後の記録という10年後に記録される復興過程は何かを掲げた後、
ビジョンを作成する=記録から未来を語る
そのときに言及されるのは阪神淡路大震災の記録作成
2)県の本部の部屋割り
徐々に拡大
司令室におけるコミュニケーション部門の重要性
3)県以外の関係者へのインタビュー
市町村、民間、国の担当者
4)広報と報道
テレビ関係者が多い
『新聞研究』からの抜粋
③鳥取県西部地震のケース
・2000年10月6日 鳥取県西部地震
・カラー、みやすいというスタイルだが、項目は中越地震とそう変わらず、知事が前面に
顔を出す傾向がある。
・収集資料一覧をみると、記録をとる団体は多様であることが分かる
事業者発行資料:
「復旧記録誌」
、ボランティア、自治会資料など。
④関東大震災のケース
○内務省社会局『大正震災志』
・冒頭:
「日本震火災略史」に249頁まで削く
・正記内編:全体を俯瞰
・後記外編:臨時震災救護局、宮廷、諸官省、各府県、各種団体、外国
・附属図:被災状況、軍・憲兵隊の展開状況が中心
51
○『帝都復興誌』
・
「東京市、府、横浜市及神奈川県に於ける復興並復旧事業の全般に亘り細大洩さず之を録
記し、加ふるに復興七年間に於ける政治経済其他社会萬般の変遷推移を以てし、復興事
業記念史たると共に復興年鑑たらしむる方針の下に編纂せるものである」という編集方
針
・復興調査協会編
実体は不明だが、諸団体から情報を出させ、広告をとり、編纂したもの
ジャーナリスト中心に執筆のため、状況とこれに対する意見書とを対置する
そのためケース集の性格を帯びる、とりわけ詳細な土地区画整理事業の叙述、地区ごと
に記述を重ねている
・航空写真の役割
『大正震災志写真帖』
:軍用機の活用があり、災害という危機的状況で民間へ情報公開を
軍が行った。これに熱心なのは陸軍、軍縮時代の兵力合理化方針をアピールか?
・
「震災画報」
(宮武外骨)
速報性と画報:挿絵中心、写真に対する政府の取り締まり、サバイバルへの関心?
⑤阪神・淡路大震災のケース
○震災復興誌
震災誌としては朝日新聞社発行の詳細な『阪神・淡路大震災誌』がある
・編年体で10年間継続発行:震災誌と復興誌を兼ねている
・その他オーラル・ヒストリー記録など
*構成
序論・総論
各論:叙述の順序が他と大きく異なる
生活、文化、住宅、福祉、保健・医療、教育、産業・雇用、都市計画・まちづくり、都
市インフラ、防災
団体等の反応・震災研究等の状況
*総論部分の編集状況
1:序論 被災状況
2:喪失と教訓、復旧・復興はどこまで進んだか、復興における今後の課題
52
3:節目に立った復興状況、座談会「3カ年を振り返って」
4:編集委員の眼、すまい・まち・しごと・担い手・安心
5:編集委員の眼、すまい・担い手
6:編集委員の眼 すまい・まちあ・仕事・担い手・安心
7:知事・市長へのインタビュー
8:被災地復興の足どり 首長が語る教訓と防災対策
9:復興10年目の総括 各論各項目+市民活動
10:座談会「震災から10年、そしてこれから」
、活動・人の記録
○映像資料:原始的「ビッグデータ」
ネット化以前のためビデオの形で保存
放送ライブラリー:震災番組13本公開→2000年代以降、当時放映した映像は編集
されないとまとめて閲覧するのが難しい
ウェブでは検索するとリンク先が切れているページが多い
・神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ:「ビデオクラブ」からの提供、リアルプレイ
ヤーで閲覧
・西宮市デジタルライブラリー(西宮インターネットテレビ)
4.おわりに
①時間軸と記録の性格付け
速報
→
歴史的資料
多様性
重要性
悲惨
構築
俯瞰
完成
②行政資料・メディア資料・団体資料・個人資料
前二者は保存の課題は他の歴史研究と同様
後二者は現在「ビッグデータ」の対象となってきている
個人資料にも二種類
公的記録における個人の活動記録・談話記録
個人提供資料
53
③復興途上段階情報の保存:阪神・淡路大震災復興誌
復興中途の諸問題の記録と読めるのではないか?
どう生き抜くか?という問題意識が全編を貫いている
④東日本大震災の記録のとりくみ
1)仙台市「震災復興メモリアル等検討委員会報告書」2014年12月
・連携
・利活用の重視
・
「全体像がわかる展示」
2)「たがじょう見聞憶」
・総合的な電子アーカイブ化:GPS 機能、タグ付けなどの徹底活用
・聞き取りの実行、市民の記録の収集、公文書の整理
・
「共助」の記録保存の特徴
応急段階の難しさ
復興段階で支援の記録が増えつつある
⑤自助・共助・公助とアーカイブ
1)3つの「助」の意味
・枠組みの曖昧さ
・
「助」の意味
政策か、援助か
同質性なき「助」は可能か?(武谷嘉之「日本における共助の可能性」
・橘木俊詔『共生
社会を生きる』2015 年)
2)アーカイブの現状
・俯瞰と仰視
政府からみた政策:財政政策のスキーム、ハイテクによる全体把握
公助
現場から見た政策:行政サービス提供のスキーム、生活実感からみた「了解」 自助
→どちらからもこぼれ落ちるものをどう拾い上げるか?
・
「公助」の確認:専門家による調査対象
54
・
「共助」の発掘:市民目線のアーカイブ化の試み
・
「自助」は?
・技術革新による課題解決はどこまで可能か?
「アーカイブ」という考え方はIT化抜きに語れない
55
国家―市民社会関係の変容と女性の復興過程への参画
辻由希
1.分析の視点
1-1.脆弱性と回復力
ジェンダーに注目して災害・復興を分析する「災害とジェンダー」という研究分野は 1990
年代に登場・発展した(池田 2010)
。日本では 1995 年の阪神・淡路大震災、2004 年の新
潟中越地震、海外では 2004 年のスマトラ島沖大地震を機に、同研究分野への関心が高まる
とともに、ジェンダーに焦点をあてた実践的な支援活動も行われている。先行研究では、
社会の構造的な不平等や格差が災害をきっかけに顕在化すること、災害はとりわけ子ども
や女性、高齢者、障がい者やその家族、日本語の不自由な住人など、社会的に弱い立場に
ある人々に大きな被害を与えることが指摘されている。これは「脆弱性(vulnerability)」
という概念で表される。脆弱性の社会モデルといわれる考え方は、災害に対する脆弱性は
個人に由来するのではなく、社会に原因があると捉える。つまり、災害が生じたとき、社
会的に構造化された脆弱性が、特定の被災者の被害を増大させるとみる。そして脆弱性の
構成要素の一つとして、ジェンダーがある(池田 2010 : 2-3)
。
しかしまた、このような脆弱性は被災状態からの回復をもたらす力、すなわち社会の「回
復力」ともつながっている。なぜなら、平常時から脆弱性を補うために人々が蓄積してき
た様々なリソース(例えば障がいのある人やその支援者がもつ知識や人脈、経験)は、災
害によって急に脆弱な立場に立たされた多くの被災者にとっても役立つはずだからである。
このように考えると、震災からの復興過程や、防災計画の策定過程において、脆弱性と
その克服の経験をもつ人々の視点がどの程度復興・防災政策に盛り込まれるかが、将来の
震災からの回復力を社会的に高めるために重要である。そこで、とくに本研究では女性の
視点が復興・防災政策にどのように活かされたのかを検討する。
また、女性の視点が復興・防災政策にどのように活かされるかは、国家-市民社会にお
ける女性の位置付けによる影響を受けると考えられる。女性が国家-市民社会の中で回復
力のキーになるアクターとして認知されていればいるほど、復興・防災政策にもその視点
が盛り込まれるだろう。さらには、震災は国家-市民社会における女性の位置付けを変え
る契機ともなりうる。女性の力や役割についての認識が変化したり、それをもとに女性た
ちが積極的に自分たちの地位を改善させようと運動することもあるからである。
56
次節では国家-市民社会関係における女性の位置付けが、歴史的にどのように変化して
きたのかを簡単に振り返る。
1-2.政治経済体制、国家-社会関係の変容と女性の位置
三つの大震災は、奇しくも日本の政治経済体制の転換期に発生した。関東大震災は、第
一次世界大戦を経て日本における資本主義が深化し、工業化の進展とそれにともなう都市
の貧困問題の悪化がみられ、それに対して国家が社会事業を拡大することで対処しようと
する時期にあたっていた。また阪神・淡路大震災が起こった 1995 年は、1980 年代末まで
に成熟した日本型生産・福祉レジームの機能不全が、少子化や高齢化、バブル経済の崩壊、
そして拡大する財政赤字をきっかけに認知され、レジーム改革の必要性が政治アクター間
で共有された時期であった。最後に東日本大震災は、2000 年代に入って自民党政権によっ
て遂行された新自由主義的改革がひと段落し、格差問題等その負の側面に対する関心が高
まり、それに乗じて 2009 年に政権を獲得した民主党政権の時代に起こった。
前節で述べたように、各時代の政治経済体制の構造的な脆弱性は、震災が発生すると「災
害弱者」というかたちで顕在化する。たとえば仁平(2012; 2013)は、阪神・淡路大震災
が、55 年体制下の政治経済体制を支えてきた開発主義パラダイムの脆弱性を顕在化させ、
都市政策の問題点や官に対する民(とくに市民)の有効性を認識させたこと、しかしその
後、1990 年代後半からネオリベラリズムのパラダイムが主流となっていき、公務員の削減、
自治体の合併が進められ、東日本大震災においてその問題点が被災者・被災自治体に集約
されてあらわれたことを指摘している。仁平にならっていえば、それぞれの時代の構造的
脆弱性が集約された災害弱者として、関東大震災における都市貧困層や朝鮮人・中国人、
阪神・淡路大震災における都市貧困層、高齢者、障害者、そして女性、東日本大震災にお
ける沿岸部の自治体や、合併自治体のうち周辺地域、障がい者等を挙げることができよう。
さて、それぞれの時代における女性の位置とはどのようなものであったのだろうか。ま
ず、関東大震災が起こった時期の近代日本において多くの女性は、国家(政府)と密接な
関係をもつ婦人会等によって国家とつながっていた。他方で、関東大震災の前後は、婦人
参政権を要求する女性の政治運動もみられた時期であった。第二次大戦後、日本は高度成
長を経験して先進資本主義国の仲間入りを果たすが、北欧諸国やアメリカとは異なり、日
本では第二波フェミニズムが大きな社会運動や政党政治につながらず、労働市場や家族政
策のジェンダー平等化が進まなかった。逆に 1980 年代に政府は家族の福祉機能にますます
57
依存することで福祉国家の危機を乗り越えようとした。日本型生産・福祉レジームにおい
ては主婦、母としての役割が税制、社会保障制度等を通して公的に認知され、多くの女性
たちは労働市場よりも家庭や地域において活動した。彼女らは地域団体や夫の職場、そし
てときに政治家の個人後援会等を通じて、直接・間接的に政治的に組織化されていた。他
方、公務員、教員、看護師等一部のフルタイムで働く職業婦人たちは、労働組合や職能団
体を通じて政党政治とのつながりを持っていた。阪神・淡路大震災は、そのような性別役
割分業モデルに依拠したレジームの機能不全が顕在化し、改革の必要性が叫ばれ始めた時
期に起こったのであった。そして、日本型レジームの構造改革をめざす新自由主義改革と
男女共同参画政策が、1990 年代半ばから並行して進められてきた。女性の労働市場への参
加が進んだが、その多くは非正規社員であった。また公的サービスの市場化も進められ、
保育士等かつては比較的良質な雇用を女性に提供していた職場においても待遇は悪化した。
政府は男女共同参画推進体制を整備してきたが、内閣府の男女共同参画局と地方自治体の
担当課の関係としては分権的な体制がとられている。また地方自治体の合併や公務員の削
減も進み、合併自治体内では中心地区と周辺地区の間でインフラや行政サービスの格差が
生じていることも指摘される(仁平 2012)
。またこの時期、保育や介護といったケアの担い
手が家庭から市民社会(市場および地域コミュニティ)へ広げられると同時に、公的ケア
サービスの供給責任が中央政府から地方自治体へと移譲された。現在の諸政策は、女性の
位置を私的領域におさまらず、公(共)領域、すなわち政府や市民社会(企業や NPO 等)
へと広げようとしているといってよいだろう。しかしその領域の原理は、上記に述べたよ
うに新自由主義的なロジックによって再編成されている過程にある。
2.関東大震災
関東大震災は、国家と女性団体との関係の緊密化に大きく寄与した。震災後の救護活動
をきっかけとして、女性たちは拡大しつつあった社会事業の担い手として活動し始めた。
震災後、東京では、日本基督教婦人矯風会や女学校やその同窓会、愛国婦人会などが物資
の配給や被災した母子の保護を行った(楊 2005:96-97 頁; 奥・久布白 1946:43-45 頁)
。
また、全関西連合婦人会は大阪朝日新聞の読者に呼びかけて布団などの物資を集め、東京
に送った。それをきっかけに、それまでばらばらに活動していたさまざまな目的をもった
各種の女性団体間の連合が形成された(楊 2005)。東京連合婦人会や、横浜連合婦人会がそ
の例である。そして東京連合婦人会に加盟した女性団体は、廃娼の請願や参政権運動のほ
58
か、帝都復興計画に関する意見の提出も行った。
また女性たちはこの後、婦人会館の建設運動に乗り出すことになった。東京や横浜で、
民間の女性たちが寄付を集めて会館を設立した例がみられる。会館には、会合を開くこと
ができるようなホールや会議室、事務所、困窮した女性たちを支援し、自立を助けるため
の宿泊所、身の上相談所や職業紹介所、授産場などが備えられた。婦人会館が果たした機
能は、①女性団体間のネットワーク形成・円滑化機能と、②一般女性(とりわけ低所得層
や勤労女性)への社会福祉・教育機能とに分けられる。これらの会館の中には、現代の男
女共同参画センターにつながったものもあるし、また一部の会館はその後、女子の職業教
育学校や高等学校へと継承されたり、別のものは母子生活支援施設(旧母子寮)の原型と
なったりしている。そして、この時期の女性たちの社会事業への参入は、政府の側の認識
変化をももたらし、社会事業の受託を通じて女性団体と国家の関係の近接化をもたらした。
以上をまとめれば、国家が社会事業を拡大していったこの時期、関東大震災をきっかけ
として社会事業の担い手としての女性団体が発見された。これは国家と女性との関係の接
近をもたらした。この出来事は他方で女性団体間のネットワークの形成や政治運動(公娼
廃止、婦人参政権の要求等)の活発化をもたらしたが、やがて戦時体制に移行するにつれ、
政治運動は抑制され、女性団体も翼賛体制に取り込まれていく。しかしまた国家の側も、
総力戦において市民社会の資源を動員するために市民社会の組織やリーダーに依存せざる
を得ず、譲歩を余儀なくされた。すなわち,女性の動員のため吉岡彌生や市川房枝などの
女性リーダーを翼賛体制の役職に就けていったのである(Garon, 2003, pp.55-56)
。
3.阪神・淡路大震災
阪神・淡路大震災では、地域の婦人会やボランティアの女性グループがともに被災者支
援に活躍した。震災をきっかけに女性団体同士の横のネットワークが形成されたり、地域
の婦人会が、震災をきっかけに新たな役割・課題を見出し、子育て支援ネットワークや NPO
法人の立ち上げを行った事例があった。そしてこのときの経験や知見は、その後の中越地
震や東日本大震災における被災者支援活動へと継承されている。
また兵庫県立女性センター(現男女共同参画センター)が県災害対策本部の情報担当と
して、震災情報の収集・伝達に重要な役割を果たした(中村・森・清原 2004:80-81)。同
センターは、震災後1週間の時点から半年間にわたり、避難所、市町現地本部、パトロー
ル隊などを通して被災者に、行政と民間の情報を両方含む「震災対策情報ファイル」を届
59
けた。また同センターは 8 月から公募によるフェニックス・ステーション事業を開始、応
募した住民にファクス、パソコン、掲示板、カタログスタンドなどを無償貸与し、活動費
の助成を行うことによって、避難所や仮設住宅における支援の拠点づくりをサポートした。
さらに女性センターは、2 月には「男女共生のまちづくり推進会議」を立ち上げ、5 月には
「-復興の兵庫へ-男女共生のまちづくり提言」を発表し、7 月に策定する兵庫県阪神・淡
路震災復興計画への反映をはかった。
阪神・淡路大震災によって顕在化した社会的な脆弱性には、以下のようなものがある。
老朽化した住宅に表れた貧困や都市政策の問題、高齢者・障がい者・外国人等の社会的孤
立、ハード面だけでなくこころのケア等ソフト面での支援の必要性である。また、女性特
有のニーズや女性・子どもへの性暴力・DV 等への対処が必要であることも指摘された。こ
のような個別ニーズに対応するため、女性を含む市民ボランティアの活動が活性化し、そ
れは後に NPO の法人化につながる。要するに、阪神・淡路大震災においては、高齢者、障
がい者、外国人、女性など周辺化されてきた市民のニーズが発見され、そのような個別ニ
ーズにきめ細かく対応できるボランティア・NPO への期待が高まり、また仮設住宅におけ
る孤立死をどう防止するかという課題に直面するなかで、地域に住まう人々の間の関係を
再構築しようとする「まちづくり」への関心も高まった。
阪神・淡路大震災は、被災者の個別ニーズに対応しにくい行政への幻滅と引き換えに、
市民ボランティアへの期待を上昇させるきっかけとなった。このような市民活動に参加し
た女性たちの中からは、政界へと転身していく者もあらわれた。また、この頃から男女共
同参画社会の推進体制の構築や法整備も行われ、2000 年代に入ると防災基本計画(2005、
2008)
、第二次男女共同参画基本計画(2005)
、第三次男女共同参画基本計画(2010)にお
いて、災害対応・防災に際し男女共同参画の視点を導入することが定められた。
4.東日本大震災
東日本大震災においては、過去の震災の経験から得られた知見をもとに様々な団体によ
って多様な支援活動が行われた。ここでは「点」と「面」の支援という視点から女性団体
の活動をまとめる。まず点の支援としては、地元の女性団体・グループが自らも被災者で
ありながら主体となって支援活動を行った。支援物資配布、避難所の状況改善、お茶のみ・
交流サロン、マッサージ・セラピー、被災者相談、手工芸品等の作成、暴力被害等につい
ての相談がその例である。これに対して「面」の支援として全国ネットワークによる後方
60
支援体制もつくられ、前線との役割分担や、阪神・淡路の経験の継承が行われた。2011 年
5 月には、全国の女性団体・NPO が連携し、国際 NGO オックスファム・ジャパンの支援
を受けて東日本大震災女性支援ネットワークが立ち上がっている。またそれ以外にも、女
性が多くを占める職業である看護師や保健師らの活躍も大きかった。これも「点」と「面」
の組み合わせで行われた。日本看護協会は、被災三県の看護協会と協力して災害支援ナー
スを避難所へ派遣した。看護師らは各避難所に交代で派遣され、避難所の状態やニーズに
ついての情報収集を行った。これらは被災県の自治体の福祉部局と連携して行われた。ま
た、避難所に入らず自宅で被災生活を送っている人たちの状況を把握するため、地元保健
師による個別訪問が行われたほか、
「まちの保健室」を設置して健康相談などの活動もなさ
れた。
さらに東日本大震災では、公的セクターの女性の派遣も行われた。自治体職員のほか、
女性自衛官や女性警察官も派遣され、物資支給、情報収集・相談、秩序維持等の活動に携
わった。
阪神・淡路大震災と同様、女性センターによる支援活動も行われた。センターのスタッ
フやセンターを拠点として活動する団体は、女性の声を聴き取ること、場(設備)の提供・
活用、被災者同士や被災者と支援者をつなぐ役割を果たした。課題としては、支援者の心
身の負担が重い、研究者や外部からの支援者とのギャップを感じる、女性センターの業務
として位置づけられていないために支援活動への着手が現場判断に委ねられたこと等が指
摘されている(日本女性学習財団 2012)
。
内閣府男女共同参画局・災害チームは、職員を被災地へ派遣し、収集した情報をもとに
各省庁へ働きかけた。また地震の数日後から参画局より自治体へ数次の依頼文書を送付し、
女性や子育てのニーズを踏まえた対応を求めたが、自治体職員自身も目の前の仕事に忙殺
されている状況であり文書の認知度は低かった。先に述べたように分権化の時代において
男女共同参画に関する具体的計画・施策の形成・実施は各自治体に委ねられている。その
ため、自治体の担当職員の意識や地元団体とのネットワークの有無、担当課の行政府内の
位置付けによって対応が様々に異なっていた。また避難所は自主管理なので、避難所リー
ダー(その多くは自治会長など男性の地域リーダー)がどのような意識をもっているのか、
あるいは避難所で声を挙げられる女性がいるかどうかによって対応が分かれた。
政策過程への参加については、民主党政権の下で女性の声を反映する努力がなされてい
た。イコールネット仙台代表の宗方恵美子やひょうご震災記念 21 世紀研究機構副理事の清
61
原桂子らが中央防災会議の各種会議・専門調査会等に委員として加わった。また首相補佐
官(災害ボランティア担当)を務めた辻元清美も「女性を色々な場所に入れてください」
と内閣府の官僚らに要請した。復興対策本部事務局には男女共同参画担当の参事官が配置
され、復興担当の内閣府政務官には郡和子衆議院議員が就任した。その影響があってか、
2011 年 12 月 27 日修正された防災基本計画には、女性のニーズや視点の反映について具体
的な項目が盛り込まれた。例えば、
「地方公共団体は,避難場所の運営における女性の参画
を推進するとともに,男女のニーズの違い等男女双方の視点等に配慮するものとする。特
に,女性専用の物干し場,更衣室,授乳室の設置や生理用品,女性用下着の女性による配
布,避難場所における安全性の確保など,女性や子育て家庭のニーズに配慮した避難場所
の運営に努めるものとする」との文章が加えられている。
東日本大震災は、新自由主義的改革の問題点を自治体レベルで顕在化させた。公務員の
削減や自治体の合併によって、被災自治体や地域の間においても支援や復興状況に格差が
生じている。また男女共同参画についての法・体制整備の効果は確かにみられるが、自治
体レベルへの浸透度は低い。他方、阪神・淡路大震災を契機に広がった市民社会(企業、
ボランティア、NPO 等)による被災者支援活動は東日本でも継続して行われている。とり
わけ被災者=支援者として活動する女性たちは、公的領域を男性が独占する傾向のある地
元の伝統的な慣習・文化からの解放感を感じたり、全国から駆けつけた支援者たちと連携
することで新しい知識・経験や人脈を蓄積し、エンパワーメントされたりしている。
5.結論
現代日本においては、新自由主義のロジックによって「公」すなわち行政のリソースが
切り詰められていく一方で、それを補うかたちで「公共」が果たす役割に期待が寄せられ
ている。ここでいう「公共」とは、民間企業、ボランティア・NPO、そして地域コミュニ
ティである。男女共同参画推進政策は、切り詰められる「公」と拡大される「公共」とい
う二つの領域への女性の参入を促そうというものである。これが第二次大戦中の国家総動
員体制への女性の組み込みのような「動員」となるのではなく、本当の「参画」となるた
めには、女性が復興・防災計画の策定過程において影響力を発揮できる仕組みが必要であ
る。
東日本大震災の被災者支援活動や復興過程で活動した多様な女性たちの意見を聴き取る
仕組み、それを政策に結び付けていく仕組み、また被災地のまちづくりにも女性の声を反
62
映させる仕組みを構築することが重要である。
63
震災をめぐる政治意識の比較分析
―阪神・淡路と東日本大震災―
善教将大
1. 研究目的と方法
震災をめぐる世論は、どのようなプロセスの下で、どのように変化するのか。本研究で
は、阪神・淡路大震災と東日本大震災という 2 つの震災をめぐる世論の比較分析からこの
点を明らかにする。具体的には、阪神淡路大震災と東日本大震災への人々の認識の変化を、
新聞記事内容の分析を通じて実証的に明らかにする。そのような本研究の知見は、今後、
震災からの復旧・復興を円滑に進めていく際の参考となるだろう。
どのような政策であれ、効率的ないし効果的な実施を可能とするには、その政策に対す
る支持が不可欠である。ここでは、人々の政府、あるいは政策への意識の総体を「世論」
と呼んでいる。世論は、一方では単純な個人の意識の集合体であるが、他方で直接的に政
府の施策に影響を与える説明変数としての特徴も有する(大村, 2012)
。民主制下の政治家
や政党は、あくまで有権者の代理人として位置づけられており、そのため彼らは世論の動
向に着目せざるを得ない。世論の実相を明らかにする意義は、まさにこの点に求められる。
世論を明らかにする方法として本研究が採用するのは、新聞記事を用いた内容分析であ
る。世論を分析する一般的な方法としては、アンケート調査を用いる方法があげられる。
しかし、流動的な震災への世論を議論の対象とする本研究では、意識調査を用いる方法に
はいくつかの限界があると考える。とりわけ、次の 2 点が問題である。第 1 に、世論は、
日々流動する不安定な意識として一般的には捉えられており、比較的安定している政治文
化とは異なる。このような変動しやすい意識を議論とする場合、
「スナップショット」的な
アンケート調査の分析から得られる知見には自ずと限界が生じる。さらに第 2 に、そもそ
も震災に対する世論を比較分析するための、利用可能なデータが存在しない。これらの点
を勘案するなら、代替的な手法であっても、新聞記事を用いる方が適切に世論を把握する
ことができると考える。
ただし、アンケート調査を用いた分析と同様に、新聞記事を用いた分析にも限界はある。
その第 1 は、新聞を含むマスコミの世論を変える効果は、それほど大きくないということ
である。いわゆるマスコミの限定効果論(limited effect theory)に鑑みるなら、新聞は世
論のあるトピックに対する「関心」を形成することはできても、
「評価」まで左右すること
64
は稀だと考えた方がよいだろう(竹下, 2002, 2008)。第 2 は理論の実証的妥当性について
である。マスコミが、あるトピックへの関心を高める議題設定(agenda setting)機能を有
するか否かという点については、これまで多くの実証研究が積み重ねられてきた。しかし、
あるとする研究もあれば無い、あるいは小さいと主張する研究もあるなど、それほど見解
が定まっているとはいえない。
以上の問題を考慮しつつも、本研究は、震災への人々の意識のいくらかはマスコミによ
って形成されていると考える。たしかにマスコミは万能ではない。しかし、議題設定機能
についてはそれを支持する実証研究が比較的多く、さらに樋口(2011)など、近年におい
てもこの説を支持する実証結果が蓄積されている。くわえて、「身近」な生活に関するトピ
ックと比較して、
「身近ではない」政治に関するトピックに対するマスコミ報道の影響力の
強さを示す研究もある(Yagade and Dozier, 1990)
。震災への認知や関心という点に限定さ
れるが、本研究の方法には一定の有効性があるといってよいのではないだろうか。
2. データ
本研究で分析に用いるのは朝日新聞の記事である。朝日新聞に調査対象を限定する理論
的な目的が特にあるわけではない。しかし、日本経済新聞と産経新聞の 2 つについては、
震災に関する記事件数が朝日新聞や読売新聞と比較して、極端に少ないという特徴があり、
これらを用いて分析することはあまり適切ではない。また、朝日新聞には他紙と比較して、
震災記事数の「バランス」が良いという特徴もある。
表 1 は、各新聞社の発災日以降の震災に関する記事件数を整理したものである。具体的
には、各新聞社のデータベース検索を用いて、「阪神」と「震災」というワードの両者が含
まれる記事、および「東日本」と「震災」というワードの両者が含まれる記事数をそれぞ
れ調査した。日本経済新聞における阪神淡路大震災に関する記事数は 25797 件であり、こ
の件数は読売新聞や朝日新聞の 1/2 程度と少ない。産経新聞についてもこの傾向は当てはま
る。多ければよいわけではないが、経済や産業の報道に特化しているためか、「意図的」に
震災に関する記事件数が少ないことがわかる。
65
表1
朝日新聞
毎日新聞
読売新聞
日本経済新聞
産経新聞
主要新聞社の震災に関する記事件数
阪神+震災
(1995.1.17~)
58293
65348
47776
25797
21208
東日本+震災
(2011.3.11~)
78971
110507
80427
46520
37843
注 1)関連会社の雑誌記事等についてはカウントしていない
注 2)東日本大震災の記事が掲載されたのは 3 月 12 日のため、実質的には 2011 年 3 月 12 日からカウントし
ている
震災に関する記事掲載件数が朝日、毎日、読売新聞の中でもっとも多いのは、毎日新聞
であり、阪神淡路大震災、東日本大震災、ともに掲載記事件数は 1 位である。朝日新聞は、
阪神淡路大震災では 2 位であり、ちょうど「中間」に位置する。東日本大震災に関する記
事件数では 3 位と、3 紙の中ではもっとも低いが、読売新聞との差は大きくない。実質的に
は同程度と見てよいのではないだろうか。
さらに、発行部数という観点からいうと、毎日新聞よりは、朝日新聞もしくは読売新聞
を選択した方がよい。本研究では、新聞の報道が多くの有権者に影響を与えることを前提
に、記事内容の分析などを行う。その意味で、発行部数は少ないよりは多い方がよい。
これらの点を考慮し、本研究で朝日新聞を分析に用いることにした。具体的に用いた検
索データベースは「聞蔵 II ビジュアル」である。発災時からの、
「震災」と「阪神」もしく
は「東日本」というワードの両者が含まれる記事すべてを、ここでは分析対象としている。
本誌か地域面か、朝刊か夕刊か、発行社はどこか(東京、大阪、名古屋、西部、北海道)
といった点での区別は一切行っていない。ただし、新聞記事に限定しているため、雑誌記
事(
『週刊朝日』
『アエラ』
)は分析対象から除外している。
3. 現時点において明らかにしたこと
3.1
震災への関心の推移
新聞に震災に関する記事がどの程度掲載されるのかは、必然的に人々がどのようなトピ
ックに対して関心を寄せるかを規定する。それゆえに、記事件数の推移は、多かれ少なか
れ人々の関心度合いと関連する。マスコミの議題設定機能論が示唆する通り、マスコミは
「どのように考えるか」というよりも「何について考えるのか」という意思決定に影響を
66
与えると考えられるからである。
そこで、まず、震災に関する記事件数が発災時からどのように推移しているのかを確認
した。結果を整理したものが図 1 である。この図は、阪神淡路大震災と東日本大震災のそ
れぞれについて、震災に関する記事件数を、発災月を起点に 1 日あたりの(平均)記事件
数という形で整理したものである。例えば、2011 年 4 月の東日本大震災の記事件数 7768
件であるため、1 日あたりの記事件数は約 259 件ということになる。
400
300
200
100
0
阪神淡路
図1
東日本
震災に関する 1 日あたりの記事件数の推移(発災から 2 年後まで)
この図からわかることは次の 3 点である。第 1 に、阪神淡路大震災も東日本大震災も、
発災から 1 ヵ月程度は、1 日あたりの記事件数が極めて多い。阪神淡路大震災は発災月の 1
日あたり記事件数がやや少ないが、これは、阪神淡路大震災は当初「震災」というワード
を用いて報道がなされなかった点に拠るところが大きいと考えられる。第 2 に、しかしそ
の傾向は長く続かず、日時が経過するにしたがって、両者ともに急激に記事件数が低下し
ている。第 3 に、低下傾向はおよそ 3 ヶ月あるいは 4 ヶ月後まで続くが、それ以降はほぼ
横ばいとなる。この点も、両者ともに共通している。
以上は、阪神淡路大震災も東日本大震災も、有権者の震災への関心が低下する傾向は非
常に似通っているということを示唆するものである。山中(2005)は、阪神淡路大震災の
記事件数が減少した要因として「オウム事件」の存在を指摘しているが、比較の観点から
67
いえばこの説明はあまり適切ではない。過程は異なるが、震災への関心は、年月が経過す
るにしたがって自然に失われていくものと見た方がよいだろう。
3.2 東日本大震災への関心が阪神淡路大震災へ与える影響
阪神淡路大震災への関心と東日本大震災への関心は独立して存在しているわけではない。
過去の話として忘却された震災への関心が、新たな災害が生じたことを受けて一時的に再
び高まることもある。すなわちある震災への関心は、単に当該災害が発生することに起因
するものではなく、ほかに大規模な災害が発生することでも高まると考えられるのである。
この点を確かめるために、2011 年 3 月以降の阪神淡路大震災と東日本大震災の記事件数
の推移を比較した。図 2 は、これを整理したものである。東日本大震災に関する記事件数
と阪神淡路大震災に関する記事件数の推移はほとんど同一であることが、ここからはわか
る。改めて述べるまでもなく、この結果は東日本大震災が生じたことを契機に、阪神淡路
大震災に関する報道が再び増加したことを意味している。図では省略しているが、2011 年
2 月時点での阪神淡路大震災に関する 1 日あたり記事件数は 2.6 件である。
この事実からも、
東日本大震災への関心が阪神淡路大震災への関心の高まりへと繋がったことがわかるだろ
う。
また、図 2 は、上記とは異なる意味でのもう 1 つの影響の存在も明らかにしている。す
なわち、東日本大震災が生じて以降、阪神淡路大震災に関する記事件数の推移傾向が、1 月
のみに増加する形から 1 月と 3 月に増加する形へと変化しているのである。震災が発生し
た 1 月だけではなく、3 月にも記事件数が増える原因は東日本大震災の発災であることは明
らかである。ただし、東日本大震災については、この傾向はあてはまらないので、双方向
的というよりは一方向的な影響と見るべきだろう。
68
400
30
300
20
200
10
100
東日本
図2
3.3
2014年9月
2014年11月
2014年7月
2014年5月
2014年3月
2014年1月
2013年9月
2013年11月
2013年7月
2013年5月
2013年3月
2013年1月
2012年9月
2012年11月
2012年7月
2012年5月
2012年3月
2012年1月
2011年11月
2011年9月
2011年7月
2011年5月
0
2011年3月
0
阪神淡路
東日本大震災発災後の震災に関する 1 日あたりの記事件数の推移
小括
ここまでの分析結果まとめると以下の通りとなる。第 1 に震災への関心は、阪神淡路大
震災、東日本大震災ともに発災直後に急激な高まりを見せるが、およそ 3 ヶ月から 4 ヶ月
後には低下すると考えられる。そして 3 ヶ月あるいは 4 ヶ月以降の推移については、年月
の経過とともに、徐々に逓減する。第 2 に、ある自然災害の勃発が、過去の災害への関心
を呼び起こすことがある。阪神淡路大震災に関する記事件数が東日本大震災の発生を機に
急増した事実はその証左といえる。第 3 に、1 年毎に震災に関する特集が組まれることは、
忘却された震災への関心を呼び起こす「仕掛け」としての機能を果たしている。さらに東
日本大震災の特集記事の存在が、阪神淡路大震災を想起させるきっかけになっている可能
性がある。
4. 今後の課題
ここまでの分析を通じて、人々の震災に対する関心がいつ頃、どのような形で失われて
いくのかが明らかとなった。しかし、関心が失われていく「過程」がどのようなものかは
明らかにできていない。今後は、新聞記事件数だけではなく記事内容の分析から、どのよ
69
うな時期にどのような報道がなされていたのか、記事の内容はどのように変化していった
のか、といった点を明らかにする分析に着手する。
なお、現時点において、樋口氏が開発した Kh corder を用いて(樋口, 2014)、発災から
1 ヵ月後までの記事内容の分析は既に行っている。その結果として、阪神淡路大震災と東日
本大震災では、政府の災害対応や復旧・復興に関する報道内容に相違があることが判明し
ている。たとえば、阪神淡路大震災では「初動の遅さ」に批判が集中していたのに対して、
東日本大震災ではそのような傾向があまり見られない。これとは逆に、阪神淡路大震災で
は「復旧・復興の早さ」についての批判は少ないのに対して、東日本大震災ではこの点に
対する批判が多いといった特徴がある。
とはいえ、いうまでもなくこれらの知見はあくまで 1 ヵ月間の記事内容の分析を通じて
得られたものであり十分ではない。今後は、分析対象時期をさらに広げることで、どのよ
うに記事内容が変わっていったのかをより詳細な形で明らかにしていく。
5. 政策的含意
震災をめぐる世論の比較分析を通じて得られる知見は、今後の復旧・復興政策のあり方
を考える上での一素材として利用することができる。人々は、いつ頃、どのようなプロセ
スで震災への関心を無くしていくのか。この疑問にこたえることで、以下の含意を導出す
ることが可能となるだろう。第 1 に、本研究を進めることによって、復旧あるいは復興を
「一段落」させる時期としてはいつ頃が適切なのかを、根拠をもった形で議論することが
できる。もちろん、世論の動向如何にかかわらず、復興を進めるべきという主張もある。
しかし、すべての資源を復興に割き続けることは不可能であり、現実的には有権者が納得
できるどこかの点で区切りをつける必要がある。その際、本研究の知見は意義あるものに
なると考えられる。
また第 2 に、本研究の知見は、有権者の震災への関心を維持するためには何が必要かと
70
いった点を議論する際の参考資料ともなる。震災への関心は、防災に係る様々な政策への
関心と直接的な関わりがある。それゆえに震災への関心を維持、あるいは高めることは、
近い未来に生じるとされている首都直下型地震などの大規模災害の被害の低減にも寄与す
ると考えられる。震災への関心が薄れていく過程を新聞記事の内容分析を通じて明らかに
する本研究は、関心を継続させるための方策を考える一素材として用いることができる。
最後に、締め括りに代えて、上記の第 1 の点に関する本研究の含意を述べる。被害の規
模や質に拠ることを前提とするが、有権者の震災や復興への関心は、発災から約 3 ヶ月程
度持続する。したがって、これ以前に「区切り」をつけるのは望ましくないということが
できるだろう。
参考文献
樋口耕一(2011)「全国紙の内容分析の有効性:社会意識の探索はどこまで可能か」『行動計
量学』38 巻 1 号
――――(2014)『社会調査のための計量テキスト分析:内容分析の継承と発展を目指して』
ナカニシヤ出版。
大村華子(2012)
『日本のマクロ政体:現代日本における政治代表の動態分析』木鐸社。
竹下俊郎(2002)「議題設定研究の新たな課題」『マス・コミュニケーション研究』60 号
――――(2008)『メディアの議題設定機能:マスコミ効果研究における理論と実証<増補版
>』学文社。
Yagade, A. and D. M. Dozier (1990) “The Media Agenda-Setting Effect of Concrete versus
Abstract Issues,” Journalism Quarterly, Vol. 67, No. 1.
山中茂樹(2005)
『震災とメディア:復興報道の視点』世界思想社。
71
4.研究全体についての総括
4-1.研究成果についての全体総括
本研究プロジェクトは、関東大震災、阪神・淡路大震災・東日本大震災という近現代日
本における未曽有の大災害と、それらからの復旧・復興を、およそ 100 年の時間軸のなか
に置いて比較しようとする試みである。それゆえ、これらをどう比較するかという「問い」
が常に付いてまわることになり、研究テーマとしては相当にアクロバティックであること
は否めない。
しかし、
「地震」という、この国に頻発する自然災害への政治・行政の対応という視角か
らの比較研究は、これまでの研究では存在しなかったものである。また、危機管理・危機
対応の研究としても広がりがみられる。このような思いを抱きながら、手さぐりではある
が近現代日本政治史を専攻する研究者と、政治学・行政学を専攻する研究者を中心にして、
2012 年 4 月に本研究プロジェクトはスタートすることになった。
2013 年度の研究会は、各研究員の研究成果について議論を重ねることで、研究の質を高
めることを目的とした。実際に各研究員の報告は具体的かつ詳細に構成されており、昨年
度からの研究の進展を見ることができた。さらに 8 月には科学研究費補助金プロジェクト
の一環として東北での現地調査を行うなど、研究に広がりを見せることができた。なお、
この東北調査では気仙沼市と遠野市の各市長、および釜石市の復興担当部局へのインタビ
ューを実施し、震災発生時の初動対応や現時点での復興状況、県や中央政府との関係のあ
り方などについて多くの教示を得ることができた。
以上の研究会および現地調査などで得られた成果は、各研究員によって今後の研究に反
映されることになる。それには現段階からのブラッシュアップが必要であることは言を俟
たないが、昨年度提示した 5 つの政治学的な分析視角(①政権運営についての分析、②リ
ーダーシップの分析、③政府間関係の分析、④行政の役割についての分析、⑤行政と市民
の関係についての分析)を基にして各研究テーマ設定と研究調査を実施できたことは、本
年度の一つの成果と言える。また、各委員からは、それぞれの得意分野をバックグラウン
ドにした興味深い研究計画(前述の表 1 も参照のこと)が提示され、来年度は、研究成果
の本格的なアウトプットが期待される。
これらのことから本研究プロジェクトは、2 年目としては、十分な成果を達成したと考え
ている。ただし、来年度に向けて残された課題も多い。この点については、次節で詳述す
る。
72
4-2.今後の課題
本研究プロジェクトのような多角的比較分析のためには、三震災に関する豊富な資料が
必要になってくる。それには、単に関係文献だけでなく、関係者のオーラル・ヒストリー
が欠かせない。
阪神・淡路大震災については、震災直後から五百旗頭真(当時、神戸大学教授)を委員
長として実施された阪神・淡路大震災の行政担当者のオーラル・ヒストリー記録の公開が
進んでおり、これらを活用する予定である。これらは、震災の復旧・復興で中心的な役割
を担った政治家(たとえば、貝原俊民兵庫県知事、笹山幸俊神戸市長など)や、官僚(た
とえば、石原信雄内閣官房副長官など)の生々しい肉声が記録されており、第一級の資料
と位置づけられる。また、政策コーディネーターの御厨貴らが行なった下河辺淳(阪神・
淡路大震災復興委員会委員長)に対するオーラル・ヒストリーも極めて有益である。付言
しておくと本研究プロジェクトは、公益財団法人ひょうご震災記念 21 世紀研究機構の関連
部局である“人と防災未来センター資料室”と連携し、阪神・淡路大震災に関する膨大な
資料(公文書、文献、研究論文、報道記録など)を自在に活用できる環境が整っている。
こうしたことから、関東大震災と東日本大震災の資料収集が今後の中心的課題となって
くる。関東大震災に関する資料は、各研究委員によって、国立国会図書館、東京都立図書
館、横浜市立図書館などで、帝都復興院、復興局、帝都復興事業に関する文献、雑誌論文
などを一定程度収集している。これらの体系的な整理や解析を行うことが、来年度の中心
的課題となる。
東日本大震災については、Web において多数の関係資料がアップロードされているため、
前述した二つの大震災に比べて、資料収集は比較的容易かと思われる。ただし、公開され
ている資料は膨大なうえに、玉石混交の状態にある。また、被災地域も広域であるため、
本研究プロジェクトの時間的・予算的制約を考えると、対象とする地域を絞り込んだうえ
で資料収集を進めていくことを検討しなければならない。
なお、東日本大震災については、五百旗頭と御厨が東日本大震災復興構想会議議長と議
長代理を務め、大震災からの復旧・復興に関する様々な課題をめぐる提言書「悲惨のなか
の希望」をとりまとめた。そのことから、中央政府や被災した自治体との間に多くのネッ
トワークを持っており、必要に応じて、これらと連携・協力しながら研究を進めていくこ
とにしたい。
73
来年度も資料調査を継続し、研究会で議論を重ねるなかで、上述した 5 つの分析視角に
ついてもブラッシュアップを図っていきたい。最終的には 3 点程度の、より包括的な分析
視角を提示できることが理想である。そして我々は、研究を進めていくにあたって、単な
る事例分析にとどまることなく、どのような政策提言が行えるかについても常に念頭に置
いて研究を進めていきたいと考えている。
4-3.まとめの方向
本研究プロジェクトを、どのような形で総括するか。これについては、来年度の研究の
進展を見極めながら決めていくことになる。そのため、ここで結論らしい内容を述べるこ
とは難しい。しかしながら、一つだけ確かなことがある。それは、本研究がより実態に即
した三つの大震災からの復旧・復興過程の分析であるという点である。本研究で得られた
知見は、間違いなく、これからの大震災比較研究の足掛かりになるであろう。
また本研究プロジェクトは、過去に発生した大震災からの復旧・復興過程を分析し比較
することを目的としている。しかし、我々はこれまでの大震災からの復旧・復興で失敗し
たケースや、それらに関わった政治家や官僚の欠点を探し出そうとしているわけではない。
それよりもむしろ、後世に生きる我々が参考にすべき点を探し、それらを基にして政策提
言を行いたいと考えているのである。
そのように考えたのには、理由がある。我々は、大災害が起これば初動体制のほか、復
旧・復興の不十分な点に目を向けがちである。また、政治家や中央政府の官僚、被災した
地方自治体の首長や職員に対して「対応が悪かった」「何もしてくれなかった」と批判の矛
先を向けることも多い。もちろん政治や行政に少なからず落ち度はあろうが、それらが万
能な存在であるはずもないのである。重要なことは、大災害の発生にあたって「公助」は
どこまで可能か、あるいは制度などの見直しによって可能となり得るところを、あらかじ
め理解しておくことである。そして、このような作業を通じて「共助」「自助」でなすべき
ことは何か、すなわち市民には何ができるかを把握することへと繋がっていくであろう。
4-4 政策提言
①災害発生後の復興スケジュールの策定や、専門家・経済人・行政官など政権構成員以外
の活用のあり方を提示
②政権交代に備えた復興政策の継承の枠組みや、各組織の災害復興への参入過程の手順を
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共通認識化し、長期におよぶ復興計画の基盤を形成
③多様化・高度化する住民ニーズへ効果的に対応するために、行政と民間、行政と各支援
組織間のパイプを確立
④発災以前からの「事前復興対策」と災害復興を連続的なものとして考え、これを念頭に
置いた都市計画や財源確保は重要
⑤震災アーカイブ及び関連組織を充実し、行政資料・メディア資料・団体資料・個人資料
を時間軸と性格により分類し、後世に向けて保存・継承
⑥技術官僚など専門家集団の知識や、女性の視点を、復旧・復興政策に反映させるシステ
ムづくり
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