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古今集における漢文学の日本的受容

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古今集における漢文学の日本的受容
古今集
おける漢文学の日本的受容
森 本 直 子
﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごもり﹂ 歌についてー
[キーワード ①三月尽②九月尽③白詩④日本漢詩⑤和歌復興]
はじめに
万葉集の終焉から百余年の時代を経て、和歌は古今集となって復活する。この百余年は和歌が低迷した国
風暗黒時代であり、勅撰三大漢詩集が編まれた漢文学隆盛の時代である。古今集的表現の考究に、比較文学
の視座は不可欠である。古今集における漢文学の影響は、戦後に輸入された比較文学に関する文学理論の導
入と定着を背景に展開をみる。仮名序真名序における中国詩論の影響の指摘に始まり、古今集全般にわたる
体系化、総合化された研究に至る。
一91一
に
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
ただし、従来の比較文学的視点では、古今集が漢文学を一方的に享受したことに焦点があてられやすい。
しかし、古今集編纂に向かって醸成しつつある和歌復興の意識は、当時公的文芸の資格を独占していた漢詩
に対立対応する文芸となるべく、私的であった和歌を改変させようとするものであり、それには、漢詩に近
づこうとする意識と、漢詩とは別の和歌の独自性を示そうとする意識の二つがあると考えられるのである。
そして、それは、漢文学から何をとりいれ何をとりいれなかったのか、また、とりいれたものがどのように
変容し定着していくのか、という視点によってとらえることができる。
本稿では、春・秋部巻末の﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごもり﹂歌をとりあげ、古今集が漢文学の影響
を受けながらも、どのように和歌の独自性をみせているのか考察してみる。
二 古今集の春秋対立意識
︵1︶ ︵2︶ ︵3︶
古今集がある基本理念によって貫かれた構造を有していることは、古くから指摘されている。契沖の説く
﹁主題別類集﹂、福田良輔の﹁対立的排列﹂、窪田空穂の﹁時の推移による構造﹂が基本となっている。これ
る をうけて、古今集全体にわたる構造について詳細に考察したのが、松田武夫氏である。松田氏は、﹁主題別
類集﹂をもとに、集の基本原理は﹁時の推移による構造﹂であるとした。さらに、その後、この基本原理に
ら ﹁対立的排列﹂の視点を加え、古今集のより複雑な構造を明らかにしたのが、新井栄蔵氏である。新井氏の
論は、コ切のものごとを対立との相においてみる﹃古今集﹄の対立の概念﹂をとらえた森重敏氏の﹃文体
一92一
学習院大学人文科学論集X(2001)
の論理﹄に触発されたもので、古今集の四季の部が、春に対する秋、夏に対する冬という対立的構造により
︵6︶
成り立っていることを明らかにした。
新井氏によれば、この対立的構造は四季の部の巻末や巻頭における詞書や歌の作者の対応などにみられる。
ここでは春・秋部に限ってみていく。その際、春上部の巻末歌である六八番の伊勢歌︵延喜十三年亭子院歌
︹7︶
合歌︶と、春部の巻末歌である一三四番の躬恒歌︵同︶は、古今集奏上の時期をいつと認定するかで、補入
秋部
秋立つ日
秋立つ日
歌かどうかが決まるという問題を含んだ歌であるが、ここでは補入前・後に分けて確認する。詞書に関する
弥生のつごもり
弥生のつごもり
題知らず
秋のはつる心
長月のつごもり
おなじつごもり
一93一
対立構造は次のようにまとめられる。
表1 躬恒歌︵=二四︶補入前
巻頭から第一首
春立ちける日
春部
第二首
題知らず
第二首
第一首
………
鵬 ” 祖 皿 珊
春立ちける日
第三首
1
寛平御時后宮歌合歌
2
巻末から第三首
3
m鋭
鵬
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
134 133 132 春
部
弥 弥
生 生
は
ごもり
の
は
る
ごもり
心
秋部
月
秋
なじ
つ
ごもり
の
つ
つ
ごもり
313 312 311
表2 躬恒歌︵一三四︶補入後
ら
はる
て
長
お
の
つ
の
つ
の
第
三
首
第
二
首
第
一
首
みられる。そこに、躬恒歌、伊勢歌を補入すると、表5のように、春・秋上部の巻末歌作者が躬恒以外の歌
目してみると、春上部は撰者、春下部は六歌仙 秋上部は六歌仙 秋下部は撰者という波紋型対応が
みせないが、二首目、三首目がそれぞれ対応している。また、表4のように春・秋上下部の巻末歌作者に注
表3の巻頭歌では春.秋部ともに作者の時代が対応している。一方、巻末歌では巻頭歌ほど明確な対応を
春秋の波紋型対応がみられる。また、作者に関する対立構造は表3、表4のようである。
ように躬恒歌を補入すると、春部の一首目、二首目 三首目 秋部の一首目 二首目、三首目という、
まり長月のつごもりで終わっている。また、巻頭歌三首すべてに春秋の対応がみられる。巻末歌も、表2の
表1では、春部が、立春で始まり弥生のつごもりで終わっているのに対応するように、秋部も、立秋で始
か
人、春・秋下部の巻末歌作者が躬恒となり、表4と比べるとさらに整合性のとれた対応になっている。
一94一
巻
末
学習院大学人文科学論集X(2001)
表3 躬恒歌︵=二四︶補入前
第二首
巻頭から第一首
読人しらず
貫之︵当代歌人で撰者︶
元方︵当代歌人︶
春部
第三首
第二首
上巻末歌
業平
躬恒
躬恒︵当代歌人で撰者︶
業平︵六歌仙︶
秋部
上巻末歌
敏行︵当代歌人︶
貫之︵当代歌人で撰者︶
読人しらず
貫之︵当代歌人︶
貫之︵当代歌人で撰者︶
躬恒︵当代歌人で撰者︶
伊勢
躬恒
遍照
秋部
躬恒
春部
表5 躬恒歌︵=二四︶伊勢歌 ︵六八︶補入後
遍照
下巻末歌
秋部
躬恒
は、四季部の総歌数について検討してみる。その際、万葉集は季節分類されている巻八と十に限って調査し
次に、古今集の春秋の対立構造を、万葉集以来の文学作品と比較することによってとらえてみる。ここで
下巻末歌
春部
表4 躬恒歌︵一三四︶補入前
第一首
興風︵当代歌人︶
1
巻末から第三首
2
た。次の表6は、秋の総歌数を10としたときの他季の割合を出したものである。
一95一
M珊㎜
鵬 ” 鋤
3
塒 慨 捌
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
表6
夏
秋
2
10
3.5
3.2
雑歌
万葉集
3
10
43
5.7
相聞
ェ八
0.9
10
1.7
3.2
雑歌
万葉集
2.5
10
2.7
6.4
相聞
ェ十
9.3
10
9.3
10
寛平后宮歌合
5.9
10
59
5.8
新撰万葉集
5.5
10
5.5
9.5
句題和歌
2
10
2.3
9.2
古今集
3.3
10
3.3
10
新撰和歌
29
10
3.1
6.5
後撰集
4
10
7.1
7.1
古今六帖A
2ユ
10
4.1
5.4
古今六帖B
春
表7
夏
*古今和歌六帖Aは第一帖・歳時﹁春、夏、秋、冬﹂にまとめられているもの
*古今和歌六帖Bは第一帖でA以外﹁春の草、秋の草﹂等を季別にまとめたもの
総歌数をみると、万葉集では秋への好尚が強いことがわかる。﹁寛平御時后宮歌合﹂では、季節を四つそ
ろえて等価値的にとらえており、和歌復興期の意識として注目される。﹃新撰万葉集﹄では、万葉集におけ
る秋の優位性をそのまま反映している。ところが、漢詩句を題とした﹃句題和歌﹄では、春・秋歌がほぼ同
冬
冬
秋
春
4
12
3
24
貫之
2
11
4
11
躬恒
1
6
3
5
友則
1
9
1
1
忠琴
0
5
1
8
六歌仙
10
48
8
45
その他
10
53
13
38
読人不知
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学習院大学人文科学論集X(2001)
︵8︶
数で、夏・冬歌の二倍であり、漢詩の春秋偏重の傾向があらわれている。古今集もこの﹃句題和歌﹄と同様
で、春・秋歌がほぼ同数になっており、春秋を対立的にとらえようとする意識がみてとれる。
ただし、古今集で注目すべきは、そこに撰者の意図がみられる点である。古今集の四季の部の総歌数を、
表7のように作者別にみてみると、単に漢詩の春秋偏重の傾向が反映されたというだけではないことがわか
る。貫之の春秋歌数の差について、菊地靖彦氏は、量的に貧弱であった春題の歌を主導的な編纂者としての
貫之がみずからの詠歌によって補充した証跡であるとされる。つまり、古今集では、﹁当代までの莫然とし
︵10︶
た春秋並列感の裏にある、実質的な秋優位に対して、春秋を対等に対立的に捉え直そうとする﹂意識がみら
れるのである。そして、この意識が特に撰者の貫之に強いことは、古今集以降、貫之の撰になった﹃新撰和
歌﹄がより明確な春秋、夏冬の対立構造をもっていることからも推測される。
このように、春秋対立構造は古今集において特徴的なものであり、漢詩に対立対応する文芸となるべく、
深養父
和歌における新たな規範を作り上げようとする意識のあらわれとしてとらえられるのである。次の章では、
この春秋対立意識をふまえた上で、﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごもり﹂歌をとりあげる。
三 弥生のつごもりの歌
古今集春部の巻末には、つごもりの歌が収められている。
やよひのつごもりがたに、山をこえけるに、山河より花のながれけるをよめる
一97一
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり
やよひのつごもりの日、花つみよりかへりける女どもを見てよめる
とどむべき物とはなしにはかなくもちる花ごとにたぐふ心か
やよひのつごもりの日、雨のふりけるに、藤花ををりて人につかはしける
ぬれつつそしゐておりつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば
亭子院の歌合のはるのはてのうた
けふのみと春をおもはぬ時だにも立つことやすき花のかげかは
九︶
躬恒
︵=二二︶
業平朝臣
︵=二一二︶
躬恒
︵=二四︶
この﹁弥生のつごもり﹂歌では、いずれも惜春の情を詠んでい る 。 春という美しい季節が過ぎ去るのを惜
しむのは、おのずからの情でもあり、和歌においては万葉以来の 伝 統 的 季 節 観 であ
る
。
しかし、暦日上、春
の最後の一日である三月晦日に限定して惜春の情を詠むのは、 元来和歌世界の習慣ではなく、中国漢詩、特
︵11︶
に白詩から受容された題材であることが指摘されている。いま、 こ こ ろ み に 、 万葉集巻十七以降の家持の歌
日記的記録の中から、三月下旬︵天平十九年三月二十九日・三十 日 、 同二十年三月二十五日・二十六日、天
ほととぎす今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
玉に貫く花橘を乏しみしこの我が里に来鳴かずあるらし
’あしひきの山も近きをほととぎす月立つまでになにか来鳴かむ
︵四〇五四︶
︵四〇五二︶
︵三九八四︶
︵三九八三︶
平勝宝二年三月二十七日︶の作歌を抜粋して挙げてみる。
ほととぎすごよ鳴き渡れ灯火を月夜になぞへその影も見む
一98一
(一
学習院大学人文科学論集X(2001)
常人も起きつつ聞くそほととぎすこの暁に来鳴く初声 ︵四一七一︶
春のうちの楽しき終へは梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし ︵四一七四︶
右のように、﹁ほととぎす﹂を詠んだ歌が多く、家持にあっては、去りゆく春よりやがて来るべき夏、特
レ に二十四節気の立夏に興味があったようである。
そこで、当時の中国漢詩の佳句を集めた﹃千載佳句﹄また時代は少し下るが﹃和漢朗詠集﹄をみると、
﹃千載佳句﹄では﹁送春﹂の部に﹁三月尽﹂を含む白詩句を二つ載せる。﹃和漢朗詠集﹄では、﹁三月尽﹂が
部立になっており、ここでも、中国漢詩の例として白詩句を引いている。これらの例からも﹁三月尽﹂が白
詩に代表される素材であったことがうかがえる。﹁三月尽﹂は漢魏六朝詩や﹃文選﹄などにはみえず、白詩
で初めて詠まれだした題材であり、そのため、白詩の影響下にない万葉集、勅撰三大漢詩集にその例がみえ
ないのである。
︵13︶
では、当時の日本文学に影響を与えたとされる白詩の﹁三月尽﹂の例をここに挙げてみる。ここでは、特
徴的な詩句を内容によって分類して挙げる。
・﹃白氏文集﹄
︿三月壷、送春、惜春﹀
三月三十日 春編日復暮 個恨問東風 明朝応不住 ︵送春0487︶
送春蹄 三月霊日日暮時 ︵送春錦0592︶
慈恩春色今朝鑑 書日俳徊筒寺門 個恨春蹄留不得 紫藤花下漸黄昏 ︵三月三十日題慈恩寺0631︶
一99一
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
両処春光同日蓋 居人思客客思家 ︵望駅台三月三十日0767︶
帳望慈恩三月蓋 紫藤花落鳥関関 ︵酬元八員外三月三十日慈恩寺相憶見寄0990︶
明朝三月蓋 忍不送残春 ︵飲散夜蹄贈諸客1365︶
四十六時三月壼 送春争得不患勲 ︵春去1992︶
今朝三月蓋 寂莫春事畢 ︵三月三十日作2290︶
︿落花、老いを歎くV
百花落如雪 両饗垂作綜 春去有来日 我老無少時 ︵晩春沽酒0239︶
一従澤畔為遷客両度江頭送暮春白髪更添今日醤青杉不改去年身 ︵春去1022︶
三月蓋時頭白日 與春老別更依依 愚鶯為向楊花道絆惹春風莫放蹄 ︵柳紫2337︶
不濁送春兼送老更嘗一酌更聴看 ︵送春2593︶
日斜暗鳥思 春蓋老人心 ︵惜落花2687︶
落花無限雪残薔幾多続莫説傷心事春翁易酒悲 ︵残春詠懐贈楊慕巣侍郎3261︶
芳樹花團雪衰翁轡撲霜知君筒年少未苦惜風光 ︵惜春贈李昇3298︶
平岡武夫氏によれば、中国文学においては、白居易が﹁三月尽﹂をしきりにいうのに反して、彼と共に並
はなく、白居易の詩の相手でもある元愼にも﹁三月尽﹂の言葉はないといわれる。また、白詩では、春を人
べ称せられる唐の代表詩人、李白・杜甫・韓愈らの作品には見出せないという。もとより﹃文選﹄の言葉で
ぬ 生の盛りの時期と重ね、春を惜しむと同時に人生の盛りが終わって老いが来ることを歎いている点に特徴が
100
学習院大学人文科学論集X(2001)
︵15︶
あるが、惜春の情に嘆老の情を重ねるのは白詩の独壇場であることが指摘されている。では、当時、﹁三月
尽﹂はどのように日本文学に受容されたのであろうか。古今集以前の作品をおってみる。
まず、日本漢詩をみてみる。﹁三月尽﹂の日本漢詩における初出は、島田忠臣の﹃田氏家集﹄中の﹁三月
晦日送春感題﹂詩である。惜春の詩とともに抜粋して挙げる。
・﹃田氏家集﹄
鶯収好語樹凋粧 鶯は好語を収め樹は粧を著凋ふ
向老驚傷過歳芳 老に向ひて驚きを傷む歳芳を過ごしたるを
上寿難逢重少日 上寿逢ひ難く少き日を重ね
去歳落花今歳発 我為去歳惜花人 去歳の落花今歳発く
花是新たなる如くに人新ならず
我去歳花を惜しむ人為り
遅春不見再中光 遅春見ず再光に中るを ︵三月晦日送春感題31︶
年年花発年年惜 花是如新人不新 年年花発き年年惜む
春事触情多冷淡
花暗曾無愛老何
驚喧已倦聴残歌
簾を上げる時少なく簾を下ろすこと多し
春事情に触れども多くは冷淡
花暗くして曾て老いたる何を愛すること無し
驚喧しけれども已に残歌聴くに倦み
︵暮春71︶
︵花前有感169︶
上簾時少下簾多
101
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
また、忠臣を岳父と仰いだ菅原道真にも
て挙げる。
我が情の多少を誰とともにか談らむ
︵四年三月廿六日作251︶
﹁三月尽﹂詩がある。﹃菅家文草﹄から惜春の詩とともに抜粋し
我情多少與誰談
況や風雲を換へて感に堪へざらむや
・﹃菅家文草﹄
況換風雲感不堪
四年の春を計りみるに残る日は四
風月能く傷ましむ 旅客の心
計四年春残日四
風月能傷旅客心
就中に春蓋くるときに涙禁め難し
三月鑑に逢ひて客居すること三たび
就中春壼涙難禁
去んじ年は馬の上にして行くゆく相送れり
逢三月遜客居三
去年馬上行相送
今日は雨降りて臥しながら濁り吟ずるなり
宿醸は邑老を招きて酎なるべし
今日雨降臥濁吟
花鳥は朱景を迎ふるに従ひて老いにたり
宿醸当招邑老甜
花鳥従迎朱景老
髪毛は何すれか白霜に侵さるる
好し去れ鶯と花と今より已後
髪毛何被白霜侵
人の意を得て倶に言咲することなし
好去鶯花今已後
無人得意倶言咲
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学習院大学人文科学論集X(2001)
恨殺荘々一水深 恨殺す 荘として一水深きことを
生来未見四時閑 生れてよりこのかた 四時の閑なることを見ず
春氣不将老氣還 春氣も老氣に還るを将けず
送却鶯花心地迷 送却りてむ 鶯と花とに心地迷はむことを
︵春蓋224︶
何須臨水也登山 何ぞ須ゐむ水に臨みまた山に登らむことを ︵惜春絶句345︶
これらの例からもわかるように、忠臣や道真などの日本漢詩では、去り行く春に壮年の衰亡を重ね嘆老の
表現とする白詩の﹁三月尽﹂詩の特徴をそのまま受容している。
一方、和歌における﹁三月尽﹂の例として、寛平六︵八九四︶年四月の序をもつ大江千里撰の﹃句題和
歌﹄をみてみる。﹃句題和歌﹄には、白詩の﹁三月尽﹂の詩句を題として詠まれた歌が四首ある。
・﹃句題和歌﹄︵括弧内数字は出典の白詩番号。先掲例参照。︶
あかずのみすぎゆく春をいかでかは心にいれて惜しまざるべき ︵送春争得不患勲1992︶
春をのみここもかしこも惜しめどもみな同じ日に蓋きぬるが憂さ ︵両処春光同日壼0767︶
なげきつつすぎゆく春を惜しめどもあまつ空からふりすてていぬ ︵欄帳春光留不得0631︶
ひととせにまたふたたびも来じものをただ日がなこそ春は残れる ︵唯残半日春3131︶
ここでは、白詩句を題にしながらも、白詩の特徴であった惜春の情に嘆老の情を重ねる表現はみられず、
ただ過ぎ行く春を惜しむ気持ちを詠んでいる。古今集と同様、白詩からは、三月晦日に惜春の情を詠むとい
103
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
う主題のみを享受したようで、日本漢詩の受容のあり方とは違いをみせている。
また、和歌における﹁三月尽﹂の受容に関して注目されるのは、古今集中の﹁弥生のつごもり﹂歌の作者
中に、ただひとり撰者時代以外の歌人として六歌仙の業平が入集しいる点である。業平は天長元︵八二五︶
︵16︶
年に生まれ、天慶四︵八八〇︶年に没している。蔵中スミ氏の論考によれば、先述の忠臣の﹁三月尽﹂詩は、
貞観三︵八六一︶年と推定されており、業平の入集が確かなものであれば、﹁三月尽﹂は忠臣詩に先立って、
六歌仙時代に和歌において受容された可能性もある。この業平歌は、和歌世界における最も早い﹁弥生のつ
ごもり﹂歌としてとらえられ、それを古今集が収めているのは、﹁三月尽﹂が六歌仙時代のいわゆる和歌復
興の気運にのって詠まれ始めた題材であることを示そうとしたためとゐ考えられる。このことは、﹁三月尽﹂
︵17︶
の漢詩句に依拠した歌作が業平に擬せられていることからも指摘し得る。次に用例と出典を挙げる。出典は
︵18︶
金子彦二郎氏の指摘による。︵括弧内数字は出典の白詩番号。先掲例参照。︶
ぬれつつそしゐておりつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば
︵古今・業平、伊勢物語八十段0631︶
惜しめども春の限りの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな
︵後撰・読人不知、伊勢物語九一段0487︶
花にあかぬながめはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし
︵新古今・業平、伊勢物語二九段0631︶
今日来ずば明日は雪とそふりなまし消えずはありとも花と見ましや
104
学習院大学人文科学論集X(2001)
︵六帖・業平、伊勢物語十七段、季方・三月晦︶
以上のように、﹁三月尽﹂は白詩の影響下で受容され、その萌芽は和歌復興が強く意識されていた六歌仙
時代にみられる。そして、忠臣、道真らの日本漢詩で詠まれることで平安人に認識され始め、古今集撰集に
十数年先立ち宇多朝の頃には歌想として強く意識されていたものと考えられる。しかし、日本漢詩の﹁三月
尽﹂詩では白詩の特徴を直線的に受容しているのに対して、古今集の﹁弥生のつごもり﹂歌には、白詩の特
徴をとりいれた例はみられない。和歌の伝統的な季節観に基づきながら、漢詩素材を日本の習いにあわせて
受容しているのである。そして、この古今集の日本的受容が、和歌復興に力を尽くしていた編纂者の意図に
105
よるものであろうことは、﹁弥生のつごもり﹂歌に撰者の作が多く、後の﹃和漢朗詠集﹄の﹁三月尽﹂部に
収められた和歌がすべて貫之と躬恒であることからもわかる。つまり、古今集の﹁弥生のつごもり﹂歌の背
∴黶j
貫之
つごもりの歌が収められている。
後には、漢詩に対立対応する文芸となるべく漢詩に近づこうとする意識と、漢詩に対して和歌の独自性を示
そうとする意識がよみとれるのである。
四 長月のつごもりの歌
次に、﹁長月のつごもり﹂歌をみてみる。古今集秋部の巻末には、
秋のはつる心をたつたがはに思ひやりてよめる
年ごとにもみちばながす龍田がはみなとや秋のとまりなるらん
(=
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
なが月のつごもりの日、大井にてよめる 貫之
ゆふつくよをぐらの山になくしかのこゑのうちにや秋はくるらん ︵一一コニ︶
おなじつごもりの日よめる 躬恒
みちしらばたつねもゆかんもみちばをぬさとたむけて秋はいにけり ︵==三︶
この﹁長月のつごもり﹂歌では、﹁弥生のつごもり﹂歌と同様、去り行く季節を惜しむ情が詠まれている。
﹁三月尽﹂にその影響がみられるので、﹁九月尽﹂にも中国漢詩の出典がありそうだが、﹁三月尽﹂とは対照
的に、﹁九月尽﹂は中国漢詩の素材としては大変希薄なものであったことが指摘されてい︵罷。﹃全唐詩﹄によ
ると、﹁上陽宮侍宴応制﹂︵宋之問︶、﹁秋尽﹂︵杜甫︶、﹁賦得九月尽﹂︵元愼︶などに、わずか三、四例をみる
に過ぎない。さらに、注目すべきは、あれだけ﹁三月尽﹂を詠んでいた白詩に﹁九月尽﹂を詠んだ詩が見出
せないことである。それは、﹃千載佳句﹄に﹁三月尽﹂の詩句を集めた﹁送春﹂に対する﹁送秋﹂なる部立
がないこと、﹃和漢朗詠集﹄には﹁九月尽﹂部はあるが、そこに収録されている佳句がすべて日本漢詩であ
ることなどからも明らかである。
では、なぜ中国漢詩に﹁九月尽﹂の素材が希薄なのだろうか。それは、﹁九月尽﹂と結びつく﹁惜秋﹂と
いう観念が、そもそも中国にないからである。﹃侃文韻府﹄にも﹁惜春﹂はあっても﹁惜秋﹂の語はない。
その理由としては秋を悲しい季節ととらえる悲秋という観念の存在があげられる。中国では古くから秋を人
生の凋落期と重ね、老いと結びつく悲しい季節としてとらえてき.煙・よ・て・それとは矛盾してしまう﹁惜
秋﹂という観念は生まれず、秋の終わりに秋を惜しむという﹁九月尽﹂も詠まれることがなかったのだろう。
106
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しかし、日本では、去り行く秋を惜しむという情は、万葉以来の和歌に特徴的な季節観である。万葉集で
は、次に挙げた歌のように、景物を惜しむことを通して、惜秋の情が表現される。
秋山にもみつ木の葉のうつりなば更にや秋を見まく欲りせむ ︵一五一六︶
味酒三輪の祝が山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも ︵一五一七︶
もみち葉を散らまく惜しみ手折り来て今夜かざしつ何をか思はむ ︵一五八六︶
もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか ︵一五九一︶
また、すべての歌が﹁惜秋意﹂を題として詠まれた﹁陽成院歌合﹂をはじめ、古今集以降の歌合において
も惜秋の情が多く詠まれており、和歌においてはごく普通の歌想であったことがわかる。
では、日本漢詩についてはどうか。中国漢詩では希薄な﹁惜秋﹂の日本漢詩における初出は、仁和四︵八
八八︶年九月の公宴詩題﹁惜秋翫残菊﹂である。この詩は﹃田氏家集﹄に入っていないが、﹃群書類従﹄︵第
九輯︶に﹁雑言奉和﹂として収められ、﹃日本詩紀﹄︵巻十五︶では、忠臣の作として家集に続けて所集され
ている。﹃日本紀略﹄には、﹁︵寛平元年九月二十五日︶○其日、公宴。題云。惜秋翫残菊詩﹂︵前篇二十︶と
あり、この記事に従えば、寛平元︵八八九︶年九月の残菊宴に作られたものである。﹃本朝文粋﹄では、こ
の詩宴に関して﹁晩秋九月、夜漏三更。聖皇侍臣に詔し、各に詩を献ぜしむ。即ち題目を賜ふらく、秋を惜
しみ残菊を翫ぶと。蓋し時の変を賞する也。﹂︵巻十一︶と記している。このように、中国漢詩では希薄な惜
秋も、日本漢詩では残菊を惜しむという詩想とともに詠まれている。
そして、この詩想は﹁九月尽﹂詩にもみられる。﹁九月尽﹂の日本漢詩の初出は菅原道真﹃菅家文草﹄中
107
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
の元慶七︵八三三︶年
も抜粋して挙げる。
残秋一夕又閑鯨
白菊生於我室虚
浅く深く淵酔す花の鯉の下
残秋一夕さらに閑ある鯨度
白菊我が室の虚に生ふ
﹁同諸才子、九月計日、白菊叢邊命飲﹂詩である。ここでは道真の他の﹁九月尽﹂詩
浅深淵酔花鯉下
楽しびを取るに何ぞ藻魚在ることを求めむや
・﹃菅家文草﹄
取楽何求在藻魚
︵同諸才子、九月淵日、白菊叢邊命飲126︶
霜鞭近警衣寒冒
今宵偏感急如流
漏の箭 頻に飛びて老い暗しく投る
霜の鞭近く警めて衣の寒きことを冒す
今宵偏に感ぶ急なること流れの如くなることを
天は凋年を惜しみて閏秋に在り
漏箭頻飛老暗投
菊は花の芳きがために衰へてまた愛でらる
天惜凋年閏在秋
菊為花芳衰又愛
秋を惜しめども秋駐らず
人は道の貴きに因りて去にてなほし留る ︵閏九月壷、燈下即事、鷹製336︶
惜秋秋不駐
菊を思ひて菊わつかに残れり
人因道貴去猶留
思菊菊纏残
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学習院大学人文科学論集X(2001)
藍簾の瑚下 水邊の欄
物と時と相去る
薩簾劒下水邊欄
秋はただ一朝 菊早く寒えたり
物與時相去
秋只一朝菊早寒
幸に君臣 畝を交へて種ゑむことを被る
誰か夜を徹して看むことを厭はむ
幸被君臣交畝種
任地 意気 園に満ちて残る
誰厭徹夜看
任地意気満園残
今日二年九月盤 今日二年 九月蓋
此身五十八廻秋 此の身 五十八廻の秋
思量何事中庭立 何事を思ひ量りてか中庭に立てる
︵暮秋、賦秋蓋翫菊、鷹令381︶
︵九月壷日、題残菊、応太上皇製461︶
黄菊残花白髪頭 黄菊 残花 白髪の頭 ︵九月蓋512︶
これらの例をみてわかるように、道真の﹁九月尽﹂詩は、惜秋の詩であると同時に、残菊を惜しむ詩であ
った。この傾向は、村上朝の天暦四︵九五〇︶年に、九月が醍醐帝の忌月であることから重陽宴が停止され、
かわりに残菊の宴が十月の行事として固定化するまでみられる。残菊は重陽が過ぎてもなお咲き残っている
菊で、寒気の厳しい中でも色美しく咲く花として中国漢詩から受容された素材で襲・﹁残菊﹂は﹁唐太宗
文皇帝、賦得残花菊﹂︵﹃初学記﹄巻二七・菊︶、﹁賦得残花菊、太宗文皇帝﹂︵﹃翰林学士集﹄残巻︶、﹁賦得残
109
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
カ 菊﹂︵﹃全唐詩﹄太宗詩︶、﹁疎蘭尚染姻、残菊猶承露﹂︵﹃侃文韻府﹄山閣晩秋︶などにみえる。道真の詩にも、
﹁残菊詩十韻﹂︵3︶、﹁晩秋二十詠、残菊﹂︵153︶、﹁秋晩題白菊﹂︵505︶をはじめ、残菊が多く詠ま
れている。つまり、日本漢詩における﹁九月尽﹂詩は﹁三月尽﹂詩の日本的応用によるものであるが、その
内容にはなお中国漢詩の影響が強くあらわれているのである。
一方、古今集の﹁長月のつごもり﹂歌は、日本漢詩とは違った様相を呈している。そこでは、過ぎ行く秋
を惜しむ情を詠んでおり、﹁弥生のつごもり﹂歌と同様、万葉以来の日本固有の季節観がみられるのである。
ここで、思い出されるのが、古今集に特徴的な規範、春秋対立構造である。古今集における﹁長月のつごも
り﹂と﹁弥生のつごもり﹂の対立的把握は、主題だけでなく歌の内容にもみられ、﹁長月のつごもり﹂は
﹁弥生のつごもり﹂に対応させようとする春秋対立意識によって和歌の題材になったと考えられる。そして、
撰者としての貫之がこの二つを意識的に対照的に把握していたことは、その後、両者がそろってあらわれる
のが、やはり貫之の詠んだ内裏屏風の料の歌︵天慶四︵九四一︶年︶であることからもわかる。つまり、
お ﹁長月のつごもり﹂は、春秋対立意識に基づいた、白詩﹁三月尽﹂の日本的応用といえる。
以上のように、﹁長月のつごもり﹂が和歌の題材となった背景には、和歌を復興させるために漢詩に近づ
こうとする意識と、漢詩に対応する文芸となるべく和歌の独自性を示そうとする意識があったと考える。
五 おわりに
110
学習院大学人文科学論集X(2001)
本稿でみてきた﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごもり﹂歌には、中国文学との比較で押さえきれない日本
的変容がみられた。今日、中国文学受容の問題を日本文学の側から見直すことの必要性が大きく求められて
いるが、この日本的変容とよばれる部分にこそ、和歌史の切実な状況が隠されているはずである。いいかえ
れば、漢詩の影響を受けながら和歌がいかにオリジナリティを示そうとしていたかを探る研究は、和歌史の
流れの中に位置づけてこそ意味がある。﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごもり﹂歌に関していえば、その対
照的把握は古今集にはじまり、その後の勅撰集にも一貫してみられる。それは、時間的推移による排列とい
う和歌の基本的な編纂方針からすれば当然のことであるが、古今集の﹁弥生のつごもり﹂・﹁長月のつごも
村瀬敏夫氏は延喜九年以前、佐伯梅友氏は延喜十三年と推定している。
111
り﹂歌の背後にある、本稿でみてきたような和歌復興の意識を考えると、古今集の果たした役割の大きさが
﹁古今和歌集四季の部の構造についての一考察﹂︵﹃国語国文﹄四一巻八号 昭和47年8月︶
﹃古今和歌集の構造に関する研究﹄︵風間量旦房昭和40年︶
﹁古今和歌集評釈﹂︵﹃窪田空穂全集二十﹄角川書店昭和40年︶
﹁古今和歌集の排列基準としての美意識﹂︵﹃古代語ノート﹄ 昭和15年6月︶
﹁古今余材抄﹂︵﹃契沖全集第八巻﹄岩波書店昭和48年︶
注
みえてくる。
7654321
風間書房昭和42年
) ) ) ) ) ) )
古今集における漢文学の日本的受容(森本直子)
︵8︶ 松浦友久氏は論文﹁中国古典詩における﹃春秋﹄と﹃夏冬ヒ︵﹃中国詩文論叢﹄第一集 昭和57年6月︶におい
て、夏冬がより持続・固定の季節であるのに対し、春秋はより多く変化・推移の季節であり、人間における変化推
移の感覚を象徴するものであって、過酷な夏冬の長さに比してつかの間の春秋という中国的な風土の中において、
︵9︶ ﹁古今集と貫之の歌﹂︵﹃文学・語学﹄九七号 昭和58年4月︶
一層増幅・強調されたという。
︵11︶ 平岡武夫氏﹁三月壷−白詩歳時記ー﹂︵﹃日大人文科研究﹄十八号 昭和51年3月︶
︵10︶ 注︵5︶、新井氏前掲論文11頁
小島憲之氏﹁四季語を通してー﹁尽日﹂の誕生﹂︵﹃国語国文﹄四六巻一号 昭和52年1月︶
秋本吉郎氏﹁﹁季の歌﹂の成立過程に於ける三月墨の歌﹂︵﹃大阪経大論集﹄三号昭和27年1月︶
金子彦二郎氏﹁千里以前諸歌人と白氏関係和歌﹂﹃平安時代文学と白氏文集﹄︵培風館昭和18年︶
︵12︶ 田中新一氏は、﹃平安朝文学にみる二元的四季観﹄︵風間書房 平成2年︶83頁において家持にみられる節月意識
と暦月意識の共有について論じている。
︵19︶ 太田郁子氏﹁﹃和漢朗詠集﹄の三月尽・九月尽﹂︵﹃言語と文芸﹄九一号 昭和56年3月︶
︵18︶ 注︵9︶、金子氏前掲書を参考。
品全体をつらぬいている姿勢の背後に﹃白氏文集﹄の影響をみている。
60年︶において、春を人生最高の輝きの時としてとらえ、その時が過ぎ行くことを惜しむという﹃伊勢物語﹄の作
︵17︶ 片桐洋一氏は、論文﹁伊勢物語の本質とその背景ー白詩との関係にふれつつー﹂︵﹃文学.語学﹄一〇五号昭和
︵16︶ 蔵中スミ氏﹁島田忠臣年譜覚え書﹂︵﹃帝塚山学院短大研究年報﹄二一号昭和48年12月︶
︵15︶ 注︵11︶前掲論文
︵14︶ 平岡武夫氏が注︵11︶前掲論文92頁で詳述。
︵13︶ 金原理氏﹁詩から歌へー﹃古今和歌集﹄表現の理解のために﹂︵﹃文学﹄五三巻十二号 昭和63年12月︶、小野泰
央氏﹁後撰時代前後の和歌と白楽天﹂︵﹃中央大国文﹄三七号平成6年3月︶、及び注︵9︶前掲論文を参考。
112
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Japanese adoption of Chinese poetry in“飾ん勿5肱” About‘The last day of March’and
‘The last day of September’−the theme of spring and autumn poem in“。㎞屠πs厩”一
MORIMOTO, Naoko
oっ
It t・・k 100 years・・ince the ag・・f“〃吻醐”th・・ugh the ag・・f鰍漉伽々・肱, f・・肱肋t・c・m・t・life ag。i。
as“ j∂々勿s厩”」believe that the comparative literature way of investigation is necessary, as for as“Kb々勿∫纏”is
Z〇N︶ ×蝋確馳貌誌以ノへ懸
(一
concerned. However, the conventional comparative literature−viewpoint is easy to focus on the aspect that“K∂kin−
s勧”one・sidedly followed Chinese poetry. Stil1, at the time when“K∂々勿∫纏”was edited to make Waha bloom again,
there was two intention, On one hand, the intention to bring Waha closer to Kanshi(Japanese poetry in Chinese)
which was public literature at that time, on the other, the intention to keep originality of肱加..
In this paper, taking up‘The last day of March’and‘The last day of September’in“K∂々勿s纏”and I will prove
how they correspond to above−mentioned intention.
As for as‘The last day of March’is concerned, the theme is innuenced by翫肋s乃欝(The Chinese poetry by
H・k・ky・i),丘・・d t・th・w・・ld・f・K・n・hi・nd隔・.服励ゴ1・・k・at・p・i・g・・th・peak・f h・m・n life and, as sp,i。g
passes by, the poet regrets the end of youth and the coming of older age. In Kanshi, Hakashi’∫‘The last day of March’
。pPears。nalt・・ed.0・the c・nt・a・y when it・・m・・t・‘Th・1・・t d・y・f M・・ch’i・“K・kin・hti”, th・f・cus seem・t・b・
influenced by Halez‘shi ’s, respects the originality of Walea started up with“ル勉ηyσ∫加”.
On the other hand,‘The last day of September’does not have any similar example in Chinese poetry, and can be
th。、 th。。ght。f。、 a J・p・n・・e apPli・ati・n・f‘Th・1・・t d・y・f M・・ch’・Thi・w・・apPli・d丘rst i・th・w・・ld・f K・n・hi,
and than inレVaka. However, as for as Kanshi is concerned, the focus stands in the longing for the gone chrysanthe−
mum Hower, a nower which occur much in Chinese poetry. On the other hand,‘The last day of September’in
・鰍勿,厩th。ugh, m・・ely・xp・esses th・n・・t・lgi・feeli・g・b・ut the end・f・ut・mn as sp・i・g, and・e・pe・t th・
tradition of Wak alive ever since“1吻ηyσs厩”. In my opinion,‘The last day of September’represents the original
P。eti、al p・actice withi・“K・んガ癩”・f・・n・id・・i・g・p・i・g and・・t・m・…PP・・it・・ea・・n・・Th・・ef・・e i・“鰍ガ醐”,
‘The last day of September’was actually created in order to correspond for‘The last day of March’.
({$pmVSK{*Kasssく以蕪朴毒繍細粁思巨田粁以癖脚督避舶巡罧麗幽11聞
寸自
︵卵裡粁爆︶即甑密椅田e齢採疑ゆb填慰蝋Φ
m,,ely。・th・n・・t・lgi・feeli・g・b・ut the end・f・p・i・g. Theref・・e‘Th・1・・t d・y・f M・・ch’i・“K・hi・・hu−”, whil・b・i・g
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