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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL <批評・紹介>Monika Gronke, Derwische im Vorhof der Macht: Sozial-und Wirtschaftsgeschichte Nordwestierans im 13. und 14. Jahrhundert 安藤, 志朗 東洋史研究 (1994), 53(2): 350-357 1994-09-30 https://doi.org/10.14989/154480 Right Type Textversion Journal Article publisher Kyoto University 同 。 同 可 円 b。3N号H EWHhRN V 帆 ・ 叫3 込)︼ H Hミ M ( N )H N R H 円 h ・ 同︼臣、 0 ・ Cロナ 含 件 。門司白区間肖 FFP ﹀ (H83u 、叶口HE2Z吋ロHFロZHHOM内・﹀ロ﹀巧同 O︿ 民ω自己門op ﹄( gg H8 3u dロ2 8 0戸問問。E HL ・ J鳥 話ロ白ロ丹念 へ 山内y c0・ 叫J N h 3 2 . 2 戸 ﹃ 漢 維詞典﹄ (HSN ﹀ 新 彊人民出版社。 円 、 同)目的印 一九九三年 十 二 月 大 阪 大皐 出 版 舎 冨 。 E W州 酬 の g ヨW 巾 53 N V 3 S崎町 司 2 hSST 忌 え 内 同 時﹃ ﹄ , uoN 帆 E R . h 与帆与同町史 、 QN 辺、司 qH bbhH 司 伺 円 h a 同守HH匂・民詩 人 民 -h H 、 立 82及、 bw 戸 、 辺、町 bp H h 志 EZ ⑪ 阻止 白 ハ一三三四年波﹀を初代 の激闘指 導者シャ イフとす るア ルダピ l ル ィーを反映する か のように生成し活動した。サフィ l す 一 方 、諸々のイス ラム紳秘主義数園が 、蛍時の 宗数的メンタ リテ アミl ルた ち、ジ ャライル朝等モンゴル系政 治 権 力が浮沈を繰り返 たかもプ リズ ムのように、微妙な印象の違 いを示す。 十三・十 四世紀の 北西イラ ンは 、諸イル ・ ハ ンたち、 チョパ γ系 包括するも のであるが 、同じ事 象も、い ずれの観貼をとるかで、あ 、 いわばサファ ヴィ 1靭 前 史として の見方である。二 なのかとい う つの槻貼共に、宗敬 、政治 、佐 倉、経済、 軍事等あらゆるテ 1 7を つは、十 六世紀初頭 の十二イ マ1 ム ・シl ア波を標傍するサファ ヴ ィl靭 の成立は、 如 何 な る 歴史的諸要因が ど う 関係 し作用した結果 たかとい う 、時閲の 流れ に沿って追究 し て いく見 方 であり 、い ま 一 スラ ムの枠組の中で 、どのような形態で保持 され 、ある いは幾容 し ゴルの 侵攻を起貼とし、 それ以 降 ト ルコ・ モ ンゴ ル的な諸要素 、がイ 二つの観黙から考察されてき たかにみえる 。一つ は十 三世紀のモン 十三世紀から十 六世 紀 に至るイ ラン史は 、その研究史上、 およそ 朗 35・河 口・ (Hgoyミgh3E 司 同誌も hb b片足。2ミ ぐ巾H 1 m xv 、。向。曲一広 Oコ己白匂同町凹凹・ ) ﹂ ﹃ 内陸アジア 言語 森 安孝 夫 C88 ﹁ウィグ ル文書劉 記 (その 一 の研究﹄ N。 河向島一O R J 弓・公定∞)一円以内 RS町 宮 旬、E与忠弘司Nh内需-出-EHC Eゲユロゲ包芯再版。 ぐREm- 印 。 庄垣内正弘公認品)﹃ウイグル語・ウイグル語文献 の研究﹄! 神 戸市外 園語大準 。 公8 3 ﹁ウイ グル 文 献に導入 され た 漢 語 に 関 す る 研 li l由 究﹂﹃内陸アジ ア研究﹄ E。 [11ii(S2・5 ω ) ﹃古代ウイ グル文阿昆達磨倶合論寅義 疏 の研究﹄I E 松香堂。 円 。 3 当白同色内P H (忌 叶∞)一 己 記 吉 丸 、rrHNRthS円 マ ペ H S司札。旬 川丸町、思帆 三月﹂ ,民。浴 同 VM 勺Sh H R N町、w 恥一 2 2NA2・匂S 3 H A W R W2 N 1 W S 、 司 NA A H h h 官 ・ 出向 & bh w b n h F R H 3 曲O 札なのらミt ¥ p 5 ( ロ) O H円Z ・ 国 内 , ・ 仏r c H H M O H M g入 宮、寸・ N ぽ ヨ 0・ ・(H80﹀ 一c-mEHZnZ 司R Zo H │ │ν │ SN 巴5 5 m 5 2 Z F g︿ 向 子EFREEmEm ) 公 u oom0・bohAE - B 5判 第 一巻 六O 二頁 第二 巻 三 三 O 頁 第 三 各 O 六 頁 三O 、00 0固 一 藤 のサフア ヴ ィl数回も、そ の一つで あり 、 これが 、すなわち後の サ -148ー 安 350 ノルスキl、ヒンッ、ベトルシェアスキー、シュプlラl、ロエマ おうとすることは、未だ十分活用されて いない以下に 翠げる三つの されていていないことを指摘する。著者が北西イラ ンを封象に行な は関心を携わないこと、更に、ある特定の地域のミクロ的規黙から の観察が、 史料不足も原因し て、オ バ ンや モレの研究を除けば、 な ファヴィ l朝(一五O 一│一七二二﹀ の頑芽期の姿なのであ る。ミ l、ラムト ン、オパγ等、今世紀のイスラム ・イラ ン皐に偉大な足 いても精徹な研究を繰り庚げ、次の世代の研究に指針を奥えてくれ 匂-叫)なる聖者停 である 。その奇蹟露ゆえに、 七一 ¥gabN'hnH¥b( ﹁史料﹂Q1N3。三つ の史料の解題が なされる。一 つは 、二二 五八年早口切 mNNE によってベル シア語で 書かれた、サ フィ 1の俸 史 史料の援用であり、それらが示す﹁個々 のヴィジ ョンの総合﹂であ る。著者は言う、﹁と りわけ吐曾・経済史に関して多くの情報を提 。 供するこ れら三つの 史料 の詳細な分析が 、本書の 目的 である﹂、 と 跡を残した締羅星のごとき皐者逮は、モ γゴル支配下のイランにつ ている。ここに紹介する書は、ヨーロッパに設生し設展してきたこ のイラン皐の停統を縫承しつつ生まれ、聖者俸と文書の援用・分析 というメソッドの特徴を遺憾なく示すも ので ある。考察劉象は 、サ フアヴィ l数回を中核とする紳秘主義敢闘の祉禽・経済的活動とそ の影響力であり、後で述べるように、その結論はサファヴィ i朝前 料としての債値が許償されにくい聖者停ではあるが、匂匂で は、奇 蹟需の背景に現れる停記的要素、固有名詞が言及される政治的な事 件や、地誌上の描篤は 、大盤に お いて 信用することができるとい う 二つ目 の史料はア ルダピ 1ル文書群で 、著者が主 に分析したのは その内 の、一二四九年から二ニ七七年にわ たる、頁買 ・賃貸契約や 札 、 帆 RHF ミ・ 、PR3札24hbRh 弘、 .n同RNF 9ー 4 -1 史の基本的認識に燭れるものである。 著者グロンケ女史は 、一 九七O年より五年関、ゲッテインゲン大 91 この聖者俸は また、﹁年代記や文書 では燭 れられない、 民衆l 農民、手工業者、小商人ら下層の人々│の日常生活、考え、債値観 を反映している。その意味で、文化史、社曾心理皐、精一柳史上、貴 重な史料である ( δ。﹂向、使用された定本は、サファヴィ 1靭成 師・助手として授業に携わった。本書は、このフライブルグ在任中 520ロ(大皐数授資格論文)として執筆されたも のであ に、国釦E 。 る。現在ケルソ大皐東洋風午ゼミ の数授の職にあ る 士論文で、 この文書群の 一部 ており、私文書の研究者として っ 扱 を 宮DEE の Z・hEERrs qhRr 確たる見識 を 持 つ ( gロ 立以降になされる改獲を菟れたと思われる、十五世紀書官時の二つの 寓本の内、イスタンプル本 の方である。 ﹁序文﹂公1 3。研究史の展望 の中で、モ ンゴルの支配に関する 研究では、社舎・経済史は綿密な考設に飲ける傾向にあること、サ 帆 GQHSふ民詰丸町、同札吋hHN-R3人 ﹄ 匂 ・ 、 旬 ワクフ を中心内容とする計 二 O 六遁の私文書である。 著者は既に博 ファヴィ l朝研究者は、モ ンゴ ル時代のサファヴィ 1数回に十分 に ﹀であったという。その関、 はトルコ皐(向じくのRE三口 oahoH ラテン語、でフライ語、アルメニア語も剤自得した。一九八三年から 二年関、フラ ンス外務省の明託でパリにてベルシア語を数えた。一 九八五年から一九九一年までフライブルク大皐東洋皐ゼミにて、 講 皐で英文・傍文皐を主に専攻した後、同大皐でイスラム 拳 を 志 し 、第一副専攻 はイラ た。主専攻はアラブ皐︿師は ErRHHMmEny﹀ ロ)、第二副専攻 γ皐(同じく者弘子角田口 N -。。庄日仏国巾円HBE 51 3 H-55∞N参 照﹀。﹁地域的 に比較 的限定 された範圏内で の、あ 切巾 自 身 、 ベルシア語、ト ル コ語 、 モンゴル語、アラ ブ語を話した。ま い、アゼ ルバイジャ ンのベ ル シ ア 語 方 言 ﹀守 口 で 詩 を 作 っ た と い た 彼 は、 アルダピ lルの ベ ル シ ア 語 方言 gE詰止弘、人ねな止を使 るひとまとまり の人的集闘の血縁 や 契約 関 係を浮かびあが ら せる﹂ うハ企﹀。 この 章で更に興味をひく のは 、匂匂 と 文 書 に基 づ く 、都市アルダ C30 、 社品閏・経済上 の複雑な諸関係、賞一該地 の地 域 構 この文書群から は ピi ルの景観の再構成の試みである。 四 つの門やモ スタの 名稽及び 造を讃みとることが できる E Hなる人物によ って 一五七O 年 ベ ルシア語 一一一つ目の史料 は、 メ で編 まれた 、サファ ヴ ィ l数闘の 所 有 す る 不動 産 の 登 記 書 ヤ弓や の形成史 につ いては 、サフィ I自らが居所の ために 選び定めた場所 物 業 を メイ ンとして 、冶金業、 雨替商枯 の業 種 別 のバザ l ルの大ま 寸 一 かな位置が検討さ れている。 また 、 サフア ヴ ィ l 数闘 の 聖 廟 建 築 群 位 置 の比定がなされ 、 宮 自 包日 間与 と 稿 さ れ る 、 街 の中心 バザ l ル と 、 そ の周固に形成された小バザ l ル群の存在 が浮彫にされる 。 織 ていく過程を窺うことができる。原文書と、 それに劉臨略する 登記書 Fンケ氏のそ L円同ケ告ロ Y にまつわる停承か ら 始まり 、第 二代 シャイ フの サドル m 建築群に ついては、 モルト ンの先行研究が ある が 、グ というベアの史料 の 存在 は、 イス ラム撃 にお いては 、唯 一サ ファ ヴ れ は 、 聖者 俸 を 有 数 に利用してい る勲が注目される。 の時代に 起こった 、一大聖廟 群 へ の 設 展 の 経緯 が述 べられる。聖廟 。ここで は 、 北 西 イラン の気 候 、水利 等 ﹁地理的空間﹂(日甲 llg) ﹁環境 、社曾、個人﹂(合│エ⑦ 。 こ こ では、増大 する祉 禽不安 慣 を 保 つ た め 、 協調 す る こ と の な い 明確 な 劉立関係の中で捉えられ を見出そうとし、ムスリムとトルコ 人は 、後者が非イスラム的 な習 い る 。 ハ シ lシを スlフィ 1 の修 行 に 使 用 したり、 金曜モスク で の る。匂匂か らは 、蛍 時 の 宗 数 生活 の 賀 践 が ヴィヴィド に停えられて zuFS の指摘が 、 行 論 の起黙になっ て い される民衆 イ スラ ム ︿o アともス ソナとも決定しがたい 宗波性と い?た諸現象の 下 に概念化 と 、 奇 蹟 信仰 、 聖 者崇 奔 、 複 雑 なドグ マの 担 紹 、 ア リl崇奔、シ l 導者であるという、ス I フイズム研究にお ける 一基 本 命 題 の 確 認 に基づく著者の見解 の中 に は 、 以 下 のような興 味 深 い 指摘も見られ SZ ︿D-r は、 イ ラン ﹁一般民衆 ι虫 色 え の中で 、シャ イ フたちは民衆 にとって庇護 の場 であり 、精神的な指 G S。﹂ 白 ロ18BE とい う HH せるような、 男 女同 席 で の 踊 り を 許す シャ イフ (サ フィ ーはそれら 櫨 奔 さ え 行 な わ ぬ人々の存在、 ト ル コ ・モン ゴ ル 的 な習 慣を想 起 さ 帥 ロ とか 般的であり、サフィl GSJ 言 語 に つい て は、複数個 の使 用が一 民 衆 も 自 ら が 他 の 民 族 と 呉 な る と い う意 識 を 持 っ た こ と を 示 唆す る HH モンゴル治下で再び現れる語が匂匂にも現れる。この事賀 は、 一般 ていた 23。﹂﹁しかしその反面、 という意識よりも、イスラム の信 仰 の中に自らのアイデ ンティ テ ィ 視されていた る。﹁トルコ人とモ ンゴル人は、イラ ンの 住民の意識の中で は同一 匂 の一般地勢、民族、 言 語 、 宗 数 の 諸 伏況 が 言及される。聖者出陣 匂 ィl数闘 の場合 に のみ見られるハHS。 それによって、 法 的 手綴 き の 具 盤 的 な数 果 や 、数園が物件を獲得し ルダピlル文書群 に含まれる原文書の 内 容 との比較を可能に する。 時まだ残存し て いた原文書を再検 査 し て書か れたこ の登 記奮は 、 ア 帆 13S 2ミ) であ る。数園 の不動産 の所 有朕況を確定 せん と、嘗 3 5 2 AU をもたらす数果があると信ずる人々の行動等が描かれる守由民・1 を非難したてサフィ lの靴や帽子、彼が僅を浄めるために使った な一定 の形式を纏いながら、人々をひ きつ け、秩序の枠組を提供 し に封する、心理率的な封隠様式であり、数圏のシャイ フ逮は儀式的 ラム的信仰形態は 、不安定な生活 の中で集圏がそろって抱く不安感 (HHHR V 水ゃ、水を飲むために使った器を手にし、それらに病の治癒や幸運 た 著者は、ダルヴィシ ュや シャイフが人々の救済のために 、皐に 現 不幸や成功の一つ一つが、シャイフのおこす奇蹟に鋪せられたこ 世から の精神的な離脱を援助 したり、来たるべきより良き時代 への と、十三・十四世紀には、各村落にも自稽シャイフが繍々とあらわ れ、信奉者を糾合し、ダルヴィシュの活動が顕著となり、そ の意義 希望 のみを輿えたという、一部 の研究者の 見解に異議を唱え、彼ら の祉曾的 、心理的な、プラ グテイカルな意義を具種的に指摘してい いった粧品間的機能を重要視し、 信奉者の 檎大に努めた 。シャ イ フ遂 のみが困窮から人々を救い出すことができると いう確信は 、社舎に く。すなわち、 彼らは数園に 墜政をなす支配者へ の警告、敵針陣営 を増大させていったこと、またサフィ 1の許に存在した多くの お 守 ゃ、彼 の 非 難 を 受 け る 宮内おお吾、の 活動も具種的に指摘され 、﹁ 民 聞に入つて の和卒調停、糧食や金銭 の貸附と寄附によ る救貧措置と 、 未だイス 著者はまた、﹁生活感情と不安﹂という見出しの 章 で ュによって鐙現されていた﹂と設かれ る ラム皐で十分 には認識されていない﹁メンタリテ ィl研究﹂の分野 に燭れる。この研究は、﹁より康範な民族的、社合的、文化的な共 深く根を下ろし 、﹁シャイ フのもつ権力﹂という意識は 、 サフィ ー を王、制&立と呼ぶ人々の中に見 ることが できる (HH3。 サフィ lの信奉者の人的構成とし て、 一般民衆 (女性も含む ﹀ の 他に、 富裕な商人層、ウラマ l、サイイド、トルコ・モ ンゴル系の が、同様 の傾向を示すに至る﹂という前提に立つ。その意味でイプ 支配者層が 翠げられている。同様 の構成 は、サフィ lに敵劃する 人 同値内では、一様な生活値験を通して、個々人の持つ思考や感情 γ ・バッザ lズ一人の考えで 綴られたのではなく、多くの目撃者の ここでそのメンタリティ Iの分析のために翠げられる事項は、奇 た。ダルヴィシュにとっては、 信奉者を支配者の座政か ら守り、所 有する財 の波牧、掠奪を防ぐため にも 、支配者と の協調 は必要だ っ 。 たと説く (H U 3 ルコ・モ ンゴル 系支配者に封し ても、巧妙な手段で、あから さま な 封立を避けた。支配者にとっては、ダ ルヴ ィシュのもつ莫大な敷の 信奉者と奇蹟をなす力が、支配に有利 に作用するファクター であ っ 々の中にも見い出すことができる。彼はウラマ lに封しては、常に 控え目な態度をとり、彼らを非難することはなか司たという。 ト 詮言を集めて成立した聖者停九忍は、 重要な情報源である公 0 3。 蹟、夢にリアルな意味をもたせること、 hswN への恐れにみられる ような、超自然的なものに封する強い 意識、そして死後 の世界に劃 する恐れ の四つである。民衆イスラムとしばしば樹立して捉えられ る、正統信仰を標傍するウラマーさえもそ の存在を認めた程、奇蹟 が大きな意味をもった嘗時であっても、貧は、多くの場合、目撃さ れた奇蹟 のみが信用された。奇蹟は一つ 一つ、常に懐疑的な好奇心 で検註されたと指摘 している公。由民・)。十三・十四世紀 の民衆イス -1 5 1ー 衆イスラム的な諸現象を頼著に示す嘗時 の宗教生活は、ダルヴィシ 。 (H 0 3 353 4 5 3 22 を備えるという、モンゴ ル支配下で最終的 に 、 村 落部の吠況につ いて は 、 ま ず 、 非 耕 作 地 帯 芯 号、 に固まれ 城 壁 と 塔と要塞 以上述べた 、民 衆 イ ス ラ ム と い う 概念 を起 黙 と す る 著 者 の 見 解 は、他 の地域につ いても多 少と も あ てはま り、決して新鮮なもので はない。ことでより意義を有するのは、サファヴィ l激闘を軸に展 ミ の聞では 、土地所 有 や 境 界 設 定 を め ぐ っ て の 村 落 聞 や村 営ヨ b. 至そ の代 表 者 で ある 吉 丸 官 、 b に運搬さ せ た こ と 、 更 に 25 と す る 地 主 は、分散して存在する私有地からの牧入を 、在 地 の 農 民乃 落内での係争が日常茶飯事であ った ことが示される他、都市 に在住 確 立 す る 、 村落の 景 観 上 の形式 が指摘さ れる 。 績 いて、村落 の 住民 開 す る 、 ダ ル ヴ ィ シ ュ の 活 動 の無 数 の具燈例の提示である 。イ ル ・ ハンたち、チョパン、マリク・アシュ ラフ 、ジャライル朝 のウ ワイ スら、諸年代記 に登場する人物が 、ここ では 全く別の顔で 、蛍時の 。 宗教メンタリティlの中で捉えられ活骨局されている 呼ばれる、 支 配 者 によって任命された官吏が 村 落 部 の 監 督 を し た r の機能分擦は明瞭で はな いも のの 、いずれ . こと、吉丸 snpと2 ﹁祉 曾 的 権 威﹂( H 8183。こ の章では 、ア ルダ ピ l ルとその周 塗の村落の有力者同︿山口が考察されている。モンゴル支配下のイ も 、 支 配者側と在地農民側の箆方の代表という性格をもっていた こ N8 )。 この章は、 ﹁財産所有権獲得のための gh を基本車位に計られた。こ の計測法 有され、細分化を極めた。それ故、 一人が 、一 定 の庚 が り をもつ ま 2、北西イラ ンの 各 地 所 は、一般に複数 の所 有 者 に よ っ て 分 割所 的 な習慣が採られ ていたことを示 す 最 古 の 詮 援 で あ る QHNR・- は モ ンゴル時代より以前から以後にかけて 存在した。 アルダピ l ル 二 年 の日附を有す 一逼は 、 例 外 的 に 土 地 の庚さ を 、 文 書 中 の一一一 一 一 そ こ に 播種 できる穀物の重さで 表示 し て いる。こ の計測法は中央 ア ジアに由来し、山富一該文書 は、 北西 イ ランで 、こ のトル コ ・モンゴ ル ー、不動 産 は 六 分 の 一 丸 の三黙。 ﹁通貨と債格﹂ の三 つのテ l マに 分 諸朕況﹂、 ﹁所有権確 保 の手 段 ﹂ 、 けられてい る。﹁所 有 権嬰得の諸伏況﹂で 述 べ ら れているのは以下 C戸 (N斗 ) 。 H H N ﹁経済環境﹂( 語 の解 穫 を めぐり 、 村落部の行政上の匿分にも言及がなされている .ぬとい う術 2 N とが述 べられて いる Qミ )。この章の最後 では、遺品 ラ ン系有力者の家系 一般について 著者は、 かれら は モン ゴルの侵攻 にも断絶することなく存綴 しえ たこと、各都市 の有力 者 の家系の 構 成 は モンゴル の侵攻前 後 で 、 基 本 的 に努化しなかったこと、 かれら の家系の中に は、モンゴル治下の新たな政治状況を利用して、 富の 、 弊 借や地位 の上 昇 を 果 し た 分 校が あ り 、そのような分 校 は その 上 昇に功ある成員 の 名をとって新たなニ スパ としたことを、カズヴィ ンやアルダピ l ルを 例 に と り 指 摘 し て い る ( 広 三U。 ア ルダピ l ル については、著者は少なくとも十二の有力者家系が検出されうると し、それらを、司法・行政職の官吏を輩 出 した三つ の家系、商 家と して のこつ の家系、シャイフ の家系と し て上 昇 し た サ フ ァ ヴ ィ l 、 ト ルコ系の有力者家系等に分類している。また 、ト ルコ ・モン 家 ゴ ル系の 家 系と イ ラ ン 人家系 の 聞 で の婚姻や、不動産取り引きにみ ﹁トルコ人とイラン人 は水と られる一商業的関係 の存在、トルコ・モ ンゴル 系の人々がイラ ン系 の 名を子に命名したこと等を示しつつ、 に、ささやかな訂正を求めている(区町民・﹀。 油の如く、自表的には混じりあわず﹂という、ミノルスキ l の見解 -152ー ていた銀が、中央アジ アやヨ l p yパから流入するようになった。 ¥bHh銅貨の名務に戻った 。 文 書か とまった土地を獲得するためには、長期聞に わたって、複数 の人々 ルハム銅賞は、元来のフアルス 通貨として再びデ ィルハム銀貨が復活し 、銀の代用をし ていたデ ィ 元来財産の分割を規定するイスラム の相績法とトルコ・モ ンゴル系 一 二四八 ら判断する限り、この遁貨 システムの襲化は二一三O年と H六デ ィルハムの債値の比率も、モ ソゴル治下で定められ、イル ・ハン時 年の関におこった。同様に文書に基づ いて、一ディ lナ1ル の遊牧民による、耕地から牧地への大規模な繁換の二つに見ている ﹀得せんとする土地がワタ フ地とされ、寅買 の流通から除外 。 3、獲 をなすここでは、如上の社禽的、経済的な朕況の中で 、サフア ヴ ィ 1激闘自控がいかなる活動をし たかが 、主に、 最初 の二 代 のシャイ 駿地を多く含む村落は 五Oディ1ナ lル程度であった ( ω 丘 ﹀。 N ﹁アルダピ lルのサファヴィ l敬 圏﹂Q8183。本書の最終章 十分に瀦概さ れた 一つの村落は二OOOディ lナ!ルに のぼり 、荒 3、寅際に 寅賞さ れる不動産物件の債格は質に封臨服し た。例えば 本位のシス テムは、ティム I ルが イランに 新 た に タ ン ガ 定 誕 百 貨 幣をもたらすまで存績したが、改革嘗初規定されていた重量と債値 の割合は 、保持されることはなかった QωNRV の日附を有す一通に初めて確認される。ガザンが導入したこの銀貸 するこの改革の寅行は 、アルダピ l ル文書 においては、 二ニO 三年 56 1 ル金貨を銀貨に繁え 、ディ ルハム銀貨を このディ l ナ 1 ル 銀 貨 札玄郎、九 の従属単位とす る、銀貸本位 の 導入であった。 一デ ミ ス カ ー ル 公 ヨAtNH四 ・三グラム ﹀と規定 ニ ィ!ナ!ル 銀貨 H一 が一二九六九七年に行なった通貨改一革は 、従来存在したディ lナ いる 1 (NN斗R・ 2、フラ グ以降、銀の純度が漸次低下した賓欣を踏 まえ、ガザン 代を通じ て蝿炭化 しなかったと誘く。著者は 、こ の新しい通貨システ ムの成立に、イ ラン総督アル グγ ・アカが閥興していたと推測し て HqR (N (NH3 された場合は、管財人と、その土地について、できるだけ長期 の賃 。 貸契約を結び、俣の所有形態をとることもあった 細分化によって混沌とする所有関係の中で、所有権を確定す るた めに採られた法的措置は、以下の四つである。 、 hR 1 、ぬ の規定どおり、契約文書に寅却物件が頁り手の所有に あり、寅り手が頁却の権利を有することを透明し明記させた。これ により第三者が所有権を主張することを防いだ。 2、買い手は前所有者の所有権詮書を、物件の受けとりの際にあ わせて入手した。 3、承認々、刷、の文言を契約文書中に含め たり、民党刷、文書そ のものを作り、賓り手は蛍該物件に制到する所有権を放棄し、買い 手 4、同一物件を数回購入することで、将来再び所有権を主張する に譲渡したことを明文化した。 著者はこれらの措置の寅際を、原文書の分析に基づいて叙述し、 人々が出現するのを極力防いだ。 口述の護言にのみ讃嬢能力を認める法理論とは裏腹に、文書が確か な誼嬢として数果をもつことを貧設した。 ー、モ ンゴルの侵攻によって、それより二OO年以前から不足し 通貨と債格について主張されているのは以下の三黙。 3ー 5 -1 と頁買契約を交さざるを得なかった。著者はこの細分化の原因を、 5 5 3 6 5 3 まず注目すべきは、サファヴィ l家 が 元来富裕な農牧民 の出で あ フに焦貼をあてて 述べられる。 り 、社品間的な信撃は決してサフィ!の数回創 設 に 始 ま る の で は な く、数世代前からこの 家系の 成 員の一 部 が 保 持 していた商 業 活動に 基づく財ゃ、高位の行政職に因るという見解である。サフィ ーが 自 ら の家系に も た ら し たもの は、強い宗数的威信なのである。サフア ヴィ 1家がサイイドの家系か否かという懸案の問題については、著 者 は断定 的 な 解答は 出してい ないも のの 、十四世紀半ば阪に、この 家 系 が 預 言 者 の末 沓 で あ る と 信 じ ら れ て いた事資を指摘し ており、 MER決して否定的ではない( 一ι と の関 係 を 述べる中で 、 著者はサフィ!とその師ザ lヒ ド N喜 ザlヒドはサフィ!の中に、自身と は全く異質のパーソナリティー 、 を見、 宣 教 や、数幽の問題 の 解 決 に 見 せるそ の行動力ゆえ 自分の 、 数幽すなわちザ i ヒ デ ィ lヤ N岱 吾 首 の シャイフ の地 位を 息 子 ・ 札 (百年に 一度 現 わ れ る 信 仰 の 革 は ヒジュラ暦七世紀の ヨ RERFb ) は、 モ ンゴル支配以降の 新 者﹀ と みなされ たという指摘 (MER- サ フ ィ l波 後 五 七 年も の問、数幽を率 いたサド ル(一一一一O 五│一 イラ ン宗数 史 を 認 識する上で、 重 要 な 意 味を 持 つと評者はみる。 三九一 /九二 )の活動は 、それが 長 期にわたる割には 意外 と知ら れ ていなかった。評者は 、 か つ て 著 者 の も つ ゼ ミ に 参 加 し た 折 、 女 史 がサドルのこのあま りに 長 期 の 数 幽 経 営 を 強 調 し て い た こ と を 思 い 活 動 の考察が本書の キ 1 ・ポイ ント の 一つであること は明らかで あ 出 す。著者が 、ここに数闘 の設展の鍵を見い出しており、サドルの ー、サドルは、マリク ・アシュラフとの札機が原因で逃亡してい る。著者が指摘する 内 容 は以 下 の三黙である。 たギ l ラl ンから 、再びア ルダビ ー ルへ戻 った一三 五 六 年 を 契 機 に、活滋な経済活動を展開した 。すなわち 、 逃 亡中に混飢した 、数 図やサ ファ ヴィ l家 が 所 有 す る 不 動 産 物 件 を 再 確 認 し て 確 定 す ベ く、登録を始めた。 ま た 、 物 件 の葬得を、 計 重 的 に、財の機大と い う 意闘 を明確に定め て、大々的に行 なった。 こ の 行 震 は、父の サフ Q 21 サ フ ィ ィ1さえ、生前あまりにも世俗的と警告 し た 類 のものだった。アル に で は な く 、 娘 婿 の サ フ ィ l に 委 ね た と 考 えている ィー は、 現貨の枇舎に極めてオ ープンな態度をとりつづけた。異民 ー の生涯にわたる活動を総括して、 著者は次のように言う、﹁サフ ルが初めてである。また、アルダピ l ル 周 遊 に 飛 び 地 と し て 散 在 し ダピlル の街 の内部のパザlル 等 を 、 計 輩的に 獲得したのは、サド ていた私有地 を結 び、康大な 土 地 所有 を 貸現 す ベ く 、 各飛び地の 閲 族の支配に直面して、それに操られることなく、イスラム の信仰を に横たわる 、他 者の 所 有 に あ っ た 地 所を 、 忍耐強く、 長期にわた っ 強化し、ムスリムに新しい局面を輿えた。サファヴィ l数 闘 の成 功 の前提として、創始者である彼の多面的、 カリスマ的な人格があっ E にあった祖父 の 纂もアルダピ H U V F 道 場 も 大 規 模 に鎖大した。阿 を集成した匂仇 の 編 纂 を 促 し た 。 ま た 父 の 墓 廟 を 再 建 し 、 数 闘 の 修 2、激闘とサ フ ァ ヴ ィ l家の信墜を高め る べ く 、 父 サ フ ィ lの俸 8 3。 て複数の人々 と契約を重ねつ つ獲得 し て いった ( たのである。彼は心理的、社舎的、そし て経 済 的 な 土 肇 を 築 き 、 第 二代シャイフ、サドル は そ れ を 足 場 に 数 闘 を 笈 展 さ せ た 。 ﹂ サ フ ィ 、 十六世紀になってサフアヴィ 1朝に敵意を抱いた スンナ波の ーは F ﹁イスラム法の岡県 の代表者﹂、﹁完全な 匂 の中で、サフィ I る師﹂として、偉大なる聖者に列せられた。 叫 歴 史家や紳象者によっても、 54-1 ールに移した。サフィーを逼じて、自らの家系が威信と信撃を得た 史の不名容なのではなく、日本とヨーロッパとでは、調脚離が根本的 に異なることの示唆なのである。現に日本では 、かなりの研究者が 。 おりながら、管見の限り、 2 ・ や知ミを未だ誰も利用し ていな い イスラム史 の研究では 、往々にし て、日本とヨーロ ッパでは貸のと ころ互いに相補う説黙で研究し ていながら 、未だ十分な交流がない 頭で述べたように、親黙も 、 ように、評者は感じている。本書 は 自 冒 メソッドもヨーロッパのイスラム・イラン皐の俸統に基 づ い て い 事寅を鑑み、サドルは、父の名をとって、サファヴィ ーと いうニス パを自分につけた。この新しいニスパを附すことは、サドルの家系 がアルダピ l ルの名家になりえたことの象徴ではあったが、サフア 3、サドルのこうした活動は、同時代人に強烈な印象を残した。 なるかと思う。 る。それ故、本書 は日本人研究者にと っては、特に興味深い研究に 宗激的なそれであった (NC。 ヴィ l家の信撃の土牽は 、他 の有力者の家系とは異なり 、飽くまで その印象はロ承で後世まで停わり 、重大な事件と結びついて侍読化 第二に、社曾、経済、宗教にわたる諸々の具種相が、膨大なデ ー された。サファヴィ l家とティム l ルとの交流を語る諸俸承もここ タに基づいて、僅系的に摘篤されている駄である。残念ながら、こ の紹介欄では緊張感さえ譲者にもたらす、次から次に描かれる事例 の数々を再現できなかった。讃者は一つの事例を知ることで、 一 つの認識を得るかもしれない。筒、本書には入念に作成され た索引 92183 が附せられている。これによって、本文だけで 三五七 ページに及ぶ本書 の扱いが容易となろう。ただし同じ主張や史料引 用の繰り返しが遁讃を若干困難にし ているという印象は残る。 一加 の本の執筆の際には、繰り返しも必要であろうが、今少し構成を改 めて、簡素化できたのではないかという集、かする。 著者は、博士論文と本書とのこ加の皐術専門書を出版し、漸く、 ドイツの教授資格篠件を涌した 。 m,曲 ロNω同町一宮門︿RVm-ωZZ四回ユ呂田ω・ H ∞ω. ω 同+ 品 - 155- ・から生じた(日斗 N R 本書の結論は、この章の最後に述べられている。すなわち、著者 そ可能であった。かつて女史と話をした際、日本の イ ル ・ハン朝研 究者なら、まず全ての人が知っているであろう俸読上の人物アラ ゴ アを、女史は知らないことに気がついた。しかし、これは女 ン・ に耽けるス 1フィ lの姿とは異なる Qmd 。 ﹂ 本書の概要は以上である。本書の特徴として以下の 二貼を奉げて おきたい。 まず第 一に使用された史料である。文書の援用は、著者だからこ は、時代の趨勢に影響を輿え、現世の生活のあり方に関わった。激 闘は宗数的な性格を保ちながらも、世俗権力として成長していっ た。これまで多くの研究者がイメージした、俗世に目を背け、膜想 サ ファヴィ 1数闘の初期のシャイフ遼は、現 は衣のように言う、 ﹁ 世の諸事や政治に能力を設揮した活動的な男たちであった。彼ら 7 5 3