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中区沿革小史 中区を繞(めぐ)る人々
中区地区沿革梯史 中区を繰るÅ々 横浜市中区役所 中区地区沿革小史 (〝成一£−\ 、J−一議′丁ミ礫撃 凍一 ̄ミ1モ J′ 空からみた中区の一部 は じ め に 横浜市中区長 石井保彦 日頃、区内の皆様がたには、市政・区政のため、格段なご配慮とご協力をいただき、 厚く御礼申しあげます。 まことにありがとう存じます。 ここに、小冊誌をお贈りいたします。 − 町 内容は一つには﹁地域の成り立ち﹂、もう一つはかつて中区に﹁かかわりのある人達﹂、 それも文学を中心としてとりあげてみました。 ご案内のとおり、当区の成り立ちは、そのまま本市の成り立ちでもあります。 並の一筋一廟にも、ずっしりとした歴史の重みが感ぜられますし、かつて、当区にかか わりのあった人達は、その人連なりに、時代の刻みをつけた人達だろうと思います。 ﹁原点回帰﹂ということが近頃、しきりに叫ばれております。地区の誕生とかかわり ある人達のプロフィルをここにご紹介することによって、少しでも皆様のお役に立てば まことに幸と存じます。 もとより小冊誌であり、しかも手作りであります。不隋、不足な点も数多かろうと存 じますがご叱正いただければ辛です。 はじめに、簡単ではありますが、ご挨拶といたします。 昭和五一年三月三一日 園 中区地 エビ ロ ▲Iグ すっかり晴れた春の空を飛ぶと、眼下に、 わが ﹁ヨコ ハマ﹂がある。 小 野毛山より見た関内方面(幕末) 史 圃 凡例︼はんれい ?貰警竺吼移竿∴皆∴ ここでの地区は、現行の区内十一地 区と同じではなく、地理的、発生的に 一 区分けをしたものである。 一内容は、各地区各町が新設された時 点に限定した。従って、新設後の各時 代に至る沿革。名所旧蹟及び現在につ いては、ここでは記述していない。た だし、接収地区及び埋立関係等につい ては現在を記載、例外としている。 一記述中参考資料名などの出典は記載 文学を中心とし していないが、巻末に一括して登載し た。 て﹂ ﹁中区麦練る人々 ここに登載した人々は、文学を中心 として選び、一般に知られている人達 一 達に限定した。 のうち、ページ数の関係から一部の人 出版年月、出版社等の説明は省略√た。 一本文中、著書等の紹介については、 年表は中区内の事項を中心 として登載した、出典は省略。本文中 ﹁その他﹂ の写真は、現在の状景を主として収録。 各町のをりたち 櫛の歯、びっちりと海面に突き出て、﹁港﹂ 型とも、フレヤータヵートの様にも見られる れぞれの埠頭である。出船入船で、まこと、 −−−沸の夕映を見よう、エキゾチズムとロ 多忙な地域ではある。 マンが漂う。 きらきらと光るのは海。線と黄土色の内陸部、 そして、、南区の街を見下す高台へと続く。 それは何だノいくつかの建物腋丘の上を延び、 横浜開港以来の歴史が集積され、それが いくつもの地域的な﹁姿﹂がある。これは、 である。だが、このなかには細胞のように、 中区。それは、まぎれもない横浜の都心部 平野が広がり、さらに、丘稜となって果しな ︻何かを誇示するかのような区画。戦争 ﹁ く続いてゆく。 る工場群、エントツやタワーが林立する。線 ってめ汐騒も、松頼もなく、工場群が白い壁 がっちりとした袈何学的な模様でもある。か 大きくカープした産業道路に沿って、海に、 向い、宏大な工業埋立地域がある。それは、 らない。 なされ、更に、限りない努力が払われねばな 将来については、今後、多くの調査・研究が となり、その上に、しつかりと築かれ は軌道であったり、網の目のような道路であ をめぐらしている。だが、ここには新しい時 中区、その発展を希いながら それも地表の、ほんの一端を託すことにした。 一−−−・rこでは、地域の成り立ち、 いくつかの姿の成り立ちや、現在、そして た姿である。 道路に沿って、びっちりと住宅がはめ込ま る。 れている本牧・根岸そして北方の地域。コン 波は.やはり莫くしい。 代への息吹がある。そして、岸壁を喫む白い 明の上陸地点、オフィス街の地域関内。 構浜を象徴する港がある。それらは巨大な クリートの塊のようだが、ここはかつての文 がはっきりとしてくる。ベルトの様に連らな やがて 一 点は広がって街となる。町並 の﹁残垢﹂、接収地域である。 なかのように、ポッリボツリと建物がある。 た区画の向う、緑のなか、それも広い教場の の地域。だが、その山裾から、谷戸に狭まれ 更に、線の珊瑚礁のような台地、即ち山手 を構成している。大桟橋・山下・本牧と、そ そして、三つの州に抱かれ、いわば吊鐘の 革 用㍍机㌶㍑幣勢佐木町を中心と / /′ 地層﹂ 点と線がち密に重なり、或いは交錯する。 沿 旧外国人居留地区 外国人居留地古地図 備されるにいたった。 文久三年︵一八六三︶ には一喝七八四ば︵ うのは、イギリス商館の一 館の一番館の通称で、町に 地番がつけられていたが、現在で も道路や、土地地番も育とほとんど同じであ 青隊と称されていたのはこれ た。俗に赤隊、 そのまま残っている処と破いて言えぼ、まず るのが興味深い。横浜の中心部で、﹁昔﹂が 明治一二年︵一八七九︶居留地の管理が神 あろう。 この居留地、就中この山下町があげられるで らの駐屯兵達のことであった。 奈川県から横浜区役所に移され、一六年には 的があったが、貿易の詳細についてはここで 居留地在住の日太人取締が布達された。明治 一二年迄は日太人の居住は禁止されていたが には、山下町の ﹁新居痩地﹂ においては、三 一六年になって、領事の承諾があれば県は日 山下町は貿易、山手は居住とそれぞれの目 よりも九〇、五八五㌦の増となった。また山手 〇二三六八㌦︵約一二一、九三〇坪︶幕末時 は割愛するが、商館の活動の一端について、 所収の広告をいくつかあげて、推測してみる 慶応三年一月から発行された﹁万国新聞紙﹂ ウォルシュ・ホール商会であった。この英一 ウヰシ﹂ 花毛敢、、衣類、 マケンパニー﹂ のほか、船の広告まであって、当時の商館の 当時の衣食住等生活を想像させてくれる。こ 書籍、食料、医師、定期船の広告もあって、 といったのもある。このほか雑貨、武器、薬、 八十二番 早速取寄せ、成丈下直に差上申供。 篤の程、奉願上侯、若又持合無御座候はば、 履、英仏飼、並馬具の御入用の御方は、御釆 ﹁羅紗類、ブランケット、 商品はそれこそ何でもあった様である。 い。百八番は、現在の山下町一〇八番地か。 でに歯科医の診療が始められたのは、興味深 これは歯科医の広告である。この頃からす ﹁口中一切療治仕秩。百八番 館のジャーデン・マジソソ商会と、亜米一の 通商の目的で最初に釆浜した玖は、英一番 本の居留を黙認する形をとることにしていた。 また文久三年、幕府は英・仏両国に軍隊の 約二一三、七一一坪︶ となった。 今も残る商館の一つ(山下町) ことにしたい。︵訓点筆者︶ 戦後の建物に,昔の石垣がそのまま残っている ㌦を大巾に増加させて、七〇五、二四六㌦︵ 町の﹁山手居留地﹂は、幕末時の八七、四六〇 な経過をたどり、遂に、明治三年︵一八七〇︶ 約四四八〇坪︶だった居留地は、以ヒのよう (山下町) 横浜の在来海辺と、安政から文久にかけて裡 の横浜居留地であった。次いで一再膚元年の留 居地 留の新設、日本大通や海岸通、大岡川沿い 立てたもの、三は新居留地と言われるもので・ 地補足は、土地の拡張のほか、各種設備の設 の道路、馬車道などの新設・拡張、さらには 元治元年二八六四︶英。米・仏・蘭の四か 置、外人墓地の拡準根岸方面への遊歩道の 太田匡新田を埋立てて公園︵彼我公園、現在 国との閤で締結によって沼地などを埋立てて造成、さらに英・仏軍隊の練兵場や競馬場な の横浜公園︶ を新設するなどが含まれていた。 補足したもの、四は山手の居留地であった。 どの造成が含まれていた。これは﹁横浜居留 しかしこれらの多くが未完成であった時に、 神奈川居留地は実施されることなく終った 地覚書﹂であったが、この覚書には実施期日 明治維新となり、約書の虚行は明治新政府に が、安政六年開港とともに、運上所から南側が明示されていなくて、遂に実現に到らなか 引継がれて行った。明治三年︵一八七〇︶新 が外国人居留地となり、一〇〇坪につき二〇 った。翌々年の慶応二年︵一八六六︶ふたた 政府は英人技師プラントンを起用して、H埋 ドルの地代と定められたが、各国は一二ドル び協議して幕府は﹁横浜居留地改造及競馬場 他の土盛り、臼外国人居留地と日本街境の道 に減じて支払う有様であった。これが前記二 墓地等誓約書﹂を調印した。これには山手居 路、白公園造営等の設計図を作らせ、これに 英・仏・露・蘭五か国との修好条約の締結に ょって、各開港場に外国人居留地を置くこと になったが、具体的な事項は、それぞれ開港 場の奉行と、領事の間で取り決めることとな っていた。横浜において居留地と呼ばれるも のは四通りあった。一つは神奈川居留地で、 束子安・西子安の沿岸、二は横浜居留地で、 横浜開港の前年、安政五年二八五八︶ …椚舶…胴川棚…柳川桐畑酬捌Il州冊l榊11 状況が彷復としてくる。 ﹁私方にて、蒸気船、帆前船其外御好次第 御世話可仕候。只今二本牌の船三隠勉持仕 候。石数ハ八百五十石、九百五十石二御座 候、御用之御方ハ下店え御高来可被下候。 横浜八十七番 タ ワッケル 山下町や山手町は始めからこの町名ではな ﹂ その山の下に当るところから﹁山下町﹂とそ って居留地は撤廃されるに及んで﹁山手町﹂。 町、前橋町、富士見町、九州町、小田原町、 後町、角町、武威町、駿河町、京町、大阪 通、加賀町、花園町、薩摩町、二子町、越 長崎町、神戸町、琵琶町、武蔵横町、上田 町、海岸通。 山手町の旧町名は次のとおりである。今の ﹁地蔵坂﹂や﹁潮汲坂﹂等はその名残であ る。 谷戸坂通、山手本通、富士見町、内台坂、 西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、樟木町、 葦町、公園坂、西野坂、潮淡坂、高田坂、 三輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、 白水町、林町。 陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ板町、 今、山下町の裏路を散策すると、車にも戦 災で残った外国商館が、荘重な表情で過去を にあふれ、さらに山手町の丘を行けば、外国 語りかけてくれるようであり、中華街は活気 人住宅のたたずまいが美くしい。トンガリ邪 蘇、外人墓地、山手公園、そしてかつては華 は一つ一つ、エキゾチズムに彩られている。 麗であったであろう外人住宅の廃跡、それら ハマッ子にとって忘れられないこの地域で はある。 地が必要となり、日本人との居住区分を行う 施設が整備されていった。当然外国人の居留 と呼ばれる砂囁があったが、関外の地 であり、その入海の口には、州千島︵州乾、 域は明暦二年から吉田新田が開拓されていた 要となった。なによりも先に、土地の確保、 急拠、新田を埋立てて、宅地化することが必 ていた。しかし、横浜が開港場と決まると、 る。 生町、住吉町の各五丁目の間と推定されてい おける町名の始めとされているが、現在の相 側に﹁駒形町﹂が設けられた。これは横浜に 西側を日本人衝と定められた。まず、この西 こととなった。運上所から東を外国人居留地 より多くの拡張に迫まられたのであった。次 かくて、旧太田屋新田の一角は、開港場の その輪が広がって、駒形町のほ かに多くの町が誕生してゆくこととなる。だ 拠点となn∴ 合併、分離がくり返えされてゆくことになる。 がこれらの町は、すぐに廃止されたり、或は この変遷はかなり複雑で、まして町の区画の 復元を試みても、今ではむつかしい事と言え といわれ、九〇 東西一〇町︵約一〇九〇札︶ そうである。 トの年であるが、同時に関内にとって、町づ 安政六年という年は横浜で重要な、スター そこで、早速誕生したのが、﹁太田町﹂ であ くりの第一歩が始まった年であったと言える。 た。記録によると、二尺︵約六〇批︶の座像 太田最新田は、三河の出身、江戸深川の材 たといわれている。 が安置されていて、まことに勝景の地であっ 民の鎮守とも謂われた弁財天が祀られてあっ 戸余の住民が住み、砂塀の先端には、その住 州千島は、南北一七・八町︵約一九五〇粗︶ 埋立に始まっていると言える。 関内の成立は、少なくとも嘉永三年頃からの た。これが明治三年のことであった。 きとなった頃、ほぼ現在のような区画となっ 毛浦の海面が埋立てられ、旧州千島は地つづ 々と新しく海面が埋立てられていったが、野 好で嘉永三年、太田匡新田の埋立てが始まっ し、関内の地域には、州千島に沿うような恰 宗閑︶ 函館町、尾張町、蝦夷町、豊後町、阿波町、 れぞれ改称きれたものである。 ただし、﹁日本大通Lだ、けは、一たん山下 の一部に町名を復活するような恰好で新設さ 町と改称されたが、昭和三年九月町界町名整 理の際、もとの境町の全部と、本町や山下町 れたものである。 山下町と改称された以前の町町は次のとお りであった。これらの町名はすでにないが、 く、山下町の場合明治十二年︵一八七九︶一 月、ほぼ現在の区画に日本大通ほか三〇か町 外人ハウス(山手町) 区中央部の関内、関外一帯は、往昔広い入海 日本大通、水町通、本町通、堀川通、本村 ﹁花園橋﹂等、名残りがある。 ﹁加 かつての市電停留所﹁薩摩町﹂、現在の かは明らかでない。これと反対に、関門の外 は、﹁関外﹂と言われていた。最近、これら ところで、この ﹁関門﹂ であるが、これは の由来も知らない人が多くなってしまった。 士遵が暗躍し、外国人に対する殺傷事件が相 横浜が開港すると間もなく、壊夷を唱える浪 ついで発生した。時のイギリス公使オールコ ックは、これらの浪士達を取り締り、外国人 の安全を守るため、構浜や神奈川に関門や見 張番所を設けるよう、神奈川奉行所に要求し 幕府はこの要求を容れ、吉田橋際、西ノ橋 た。 さらに海岸通四丁目、ほかに神奈川台下や戸 部村の石崎など七か所の関門と、一〇か所の 番所を設置した。関門とは、関所のようなも ので、明治四年︵一八七一︶ 九月、廃止され ll…川棚=珊=州州l刷澗榔Il附榊州州l州m 賀町警察署﹂ の町名が附されていたし、山手町は初め単に ﹁山手﹂と言われていたが∵明治十七年︵一 八八四︶ 二六か町の町名が附せられた。明治 三二年︵一八九九︶七月一昆、条約改正によ 外人ハウス(山手町) ことである。いつ頃からこのように言われた ﹁関内﹂というのは、﹁関門の内﹂ という …………l肘l州…mll川…附州…捌‖榔州l州朋…l この町は太田屋新田のゆかりから町名が命名さ った。 高砂、小船、駒形などの七か町を廃止し、新 区画整理の実施といったような具合で、小松、 は、まぎらわしいので、この年、従来の海辺 た。ただ隣接の海辺過と、新しい海岸通りで ﹁元浜町﹂と 通の町名を改称して、薪らたに したものであった。埋立といえば、明治三年 てられ、ほぼ現在の区画が造成されることに 五月には、吉田備わきから野毛清までが埋立 の二通りの道 らたに、東西を直線に、道巾が六間︵約一〇 ふり分け区画を改正した。こ甲結果、現在に 路を通し、道路を中心として、町並を左右に ・八仇︶と四間︵約七二一札︶ れた。ついで、もとの横浜村の地区を五筋の たということから﹁本町﹂。洲干の弁天社の 町に分けた。横浜村の、まことの本通であっ 参道であったゆかりから﹁弁天通﹂。海辺の ﹁常 なる。 このほか、関内といえば日本大通、横浜公 おける﹁相生町﹂ ﹁住吉町﹂ 盤町﹂ は別項でご説明することにしたい。 園、山下町も入ることになるが、これらの町 の六か町が誕生す 通りということで ﹁海辺通﹂ ︵のち改称︶。 ることとなった。町名は誰れの発議か判らな ﹁港町﹂ さらに本町と弁天通の中間にあって、本町の いが、謡曲から採り、佳名をもって命名され ﹁尾上町﹂ 南側であることから﹁南仲通﹂。反対に、北 ﹁面﹂ とを加味 大切なことであるが、特に関内の場合は、町 は、慶応三年︵一八六七︶ と、地域という ずる道路﹁馬車道﹂ ﹁棄砂町﹂ 側の町を ﹁北仲通﹂とそれぞれ命名したもの たものである。なお、これらの町を南北に通 ﹁扇町﹂ からの金 果、同六 始、掘割 府によっ ﹁翁町﹂ と呼 町として独立する ﹁不老町﹂ ﹁寿町﹂﹁松影町﹂の六か町がこれで ばれる区域で、﹁万代町﹂ こととなった。これが現在でも﹁埋地﹂ て工事費の返済が行われ、 しいのではなかろうか。 合せて、克明に調査、研究されることが望ま ﹁点﹂ という 一方、明治四年四月には、従来の海岸線で すでに完成している。 関内の各町の変遷を探ることは、もとより であった。 明治四年︵一八七一︶ 七月、太田星新田埋 地内の太田町のほかに、相生、住吉、尾ヒ、 あった海辺通の地先海面を埋立てて土地を拡 小松、小船、高砂、港の七か町を設けたが、 張、新らしく﹁海岸通﹂を新設、町名をつけ 吉田新田は開港より約二百年前、江戸の木 ればならない。 何よりも吉田 明治六年 ︵一八七≡︶ 五月、相生町から南の ︼伊勢佐木町と 五六︶幕府の許可をうけて埋立を開始、途中 材石材南吉田助兵衛良信が、明暦二年︵一六 ことになったが、地主との間にごろつき連中 辺土着の旧住民が耕地を失い、家を移される ある。なお、この埋立開始に伴って、沼地周 が仲に入り、地主の後見人を辞めさせて、ご その周辺 ︵ 六六七︶ に再開、寛文二年とも同七年︵一 野与右衛門と多くの農民の脇力によってこの ろつき連中の利欲を計ろうという悪だくみに 二ハ五九︶ の失敗があって再度許可をうけ、万沿l一年 周辺に及ぶことになる。中村川と大岡川には 十数年前資料が発見されたことをつけ加えて 駈込公訴をした事件があったことが、ほんの 対し農民は農地開放を叫んでけっ起、県庁に れ、一つの村として認められた。埋立地は勘 には検地、.〇三八石と定めら 頃完工した。工事費八〇三八両余。延宝二年 兵衛の所有となり、将軍家桐によって吉田新 ︵一六七四︶ さまれた吊鐘型ともフレヤースカートともみ の町並があり、それにクロスして、長者町が この埋地の隣接地、現在の﹁吉浜町﹂ されている。町の命名は明治七年七月である。 年に埋立てられ、同二年、横浜製鉄所が設置 この横地工事より前、幕府の必要から慶応元 は、 ある。関内に対する関外、というのはこの地 しかし、開港にともな与人口増加とともに、 畠の土地で、南側には大きな沼地があった。 おきたい。 田と命名されたものである。 むつかしい。一大市街地でべったりとつづく 繁華街の何処を切るかと言っても所詮無意味 死語となっても仕方のないことかもしれない。 であろう。関外という地区の俗称は、すでに は関外と言われていた筈である。つまり、関 こそ関内のすぐ外に当る土地、これが正しく ての成生の歴史がある。吉田橋の周辺、それ の子孫、襲名、吉臥勘兵衛ほか二人が許可さ の折から応募者は殺到。ぞの結果吉田勘兵衛 老に工事を許可することとした。土地の払底 年、時の神奈川県知事は∵自費で埋立を行う に﹁三士口町﹂ 五二ハ年頃には﹁山吹町﹂ されたのが﹁福富町﹂ からt 明治三年六月には、﹁長者町﹂、これは初め 町町が新設されてゆく。 で、もともとの吉田新田の地域内には次の 内に対する関外は、開港と共に、徐ぺに地を れることになった。後、勘兵衛に代って吉田 この沼地七万坪の埋立が必要となり、明治t二 なめるようにして出来てゆく町のこと、周辺 寅松が代り、、資金面で四人の出資者が加わり、 ﹁山田町﹂。同六年三月には、 ﹁富士見町﹂それ であった。次いで明治 T目∼九丁目が置かれた。同時に新設 の新しい町のこと、と言ってもよいのではな しかし、この地区にも、当然、町は町とし 降って、開港の頃迄の約一九〇年間は田と 域であるが、どの辺までかとなると、それは られる区画を、北東から南西に、伊勢佐木町 とも言われるが、砂村新左衛門、友 近く改装される関内駅北口(港町) 方角に向って大火災があったため、いわば、 改装中の馬車道(太田町) ここでは、伊勢佐木町を中心として、その 旧商工会議所附近(日本大通) 10 11 附相川川州仙川Il川棚l川棚胴l州l脚川 ﹁蓬莱町﹂。十一月には﹁若葉町﹂ ﹁末吉町 ﹂がそれぞれ誕生し、同七年七月になると、 昭和の時代に入いると、﹁涌生町﹂ ﹁喝町 ﹁千歳町﹂が生まれることになった。 ﹂ ﹁末広町﹂が昭和一二年九月一日の町界町名 整理によって新設された。同時に、福富町の 三筋の通りを中心として、﹁福富町案通﹂を はじめ、﹁福富町仲通﹂ ﹁福富町西通﹂に分 芝居小屋ののぽりが並jも・.・…・・。 ($丁目附近) をとったとするもの、二つには伊勢の人佐々 たので、町名をつける際この生国名と氏を合 木某がそば屋を開業、その店が非常に繁昌し 木平次というt一人が開発したので、この二人 せたとするもの、三つには、伊勢文蔵と佐々 の名をとったとするもの、等があるが、最近 においては、郷土研究家の調査で、伊勢山の 地先に当ることから。或いは往昔、町に伊勢 崎観音の小雨を勧進したことから等の説があ 当初一二一丁目が置かれたが、昭和三年九 るが、これらいづれも確実な史料はない。 月の町界町名整理に際し、松ヶ枝町、賑町、 長島の三つの町を廃止し、さらに両区南吉田 張し、三丁目∼七丁目迄を置いたものである。 橋︵現在廃橋し富士見川公園となる︶迄に拡 に ﹁羽衣町﹂は、明治二年頃迄は﹁姿見町裏﹂ と俗称されたいたが、同八年︵一八七五︶ 町名がつけられた。これはもと州千島にあっ た弁天社をこの土地に遷座したことによって 天女に関係ある名を選んで命名したものであ った。近隣の翁町、扇町もこの天女にちなみ 多分正確ではないであろう。本町小学校の所 命名されたといわれている。 西海岸といわれた処であるが、明治五年十t で、恐らく手近かな野毛の山を切り崩したと 在地は﹁花咲町﹂であるが、この町は埋立地 太町小学校うら、崖となって続いているが、 する。西区宮崎町の台地、それが更に北へ、 設されたものである。 宮川町と一緒に、明治五年になって、町が新 り、そこには石炭倉庫六煉が建設された。 約五〇間︵約九〇仇︶ 花咲町は、元治元年︵一八六四︶、海岸を 見るのが自然であろう。 月には新設されている。古い絵図によれば、 野毛町三丁目の宮川町寄 この崖がかつての海岸線であったという説が ほど埋立てたのに始ま ある。一応もっともの様ではあるが、これは りは坂となっていて、北側は野毛不動が所在 たように見られる 野毛浦は切り立った崖であり続く浜辺があっ (伊勢佐木町より望む) 割し、それぞれの町を独立した。 大正初期の伊勢佐木町の賑い 高速道路工事中の吉田橋 このように次々と町が新設されてゆくのだ が、このときの人口、世帯数といったような ﹁町勢﹂等統計がまとめられていないのが残 念である。 − とにかく、この様に明海一二年 から次次に町が誕生してゆくことになった。 しかし、これよりも前、元治元年︵一八六 四︶ には、﹁吉田町﹂が新設されている。こ の町には早くも文久元年︵一八六一︶、蛭立 地の捷塘に貸長屋が建てられ、しばらくして、 大岡川を一部改修したりしているので、この 頃にはもう町並が揃っていたと推定される。 町名は吉田新田にちなんで命名されて.いる。 ﹁伊勢佐木町﹂。この町の新設の年は、文 吉田新田地域の町の元祖と言えそうである。 献によれば明治七年。八年とも謂われている。 町名の由来についてもいくつかの説があって 定かではない。その一には、佐々木信濃守と 合原伊勢守の共同開発で、その二人の旧姓名 ここでは、関外地区の北側、大岡川沿いの 各町の沿革についてみてみたい。町は内田町、 しかし、これらの町は、もともと成生のス から南区隣りの赤門町・英町にかけてである。 一つは、旧戸部村の野毛浦と、その地先海 タイルが違っている。 昔に遡ることができよう。 面の埋立地、二つには旧太田村の一部と、往 すなわち、野毛浦は現在の﹁野毛町﹂で、 ︵血八一八年∼一八二九年︶頃、一つの村と かつての戸部村の一部であったが、文政年間 なっている。万延元年、神奈川奉行所の預り 地となって、村名を改めて町名とし一丁目か ら四丁日∵までを置いた。万延元年といえば、 開港の翌年、この町にもどっと人が移り住み 毛町め隣接、﹁宮川町﹂ はかつて、野毛浦の 賑が急速に増し、町並が早早に出現した。野 野毛切通しから関内方面を望 12 ¶13一 胴‖州‖舶肌仙川llⅢmll】m川【l州‖…糊‖糊州… 朋Imll州l…葦川l州捌l州‖州Il洲摘‖【l州Iln州… 隣接の細長い町﹁桜木町﹂は明治二・三年 である。この地区の埋立ては、明治初年に青 頃の埋立地で、ここも野毛浦の一部であった。 木町︵神奈川区︶地先海面埋立てに端を発し、 明治五年鉄道用道に伴って、柵外の町並を以 明治五年鉄道開通の前に、高島嘉右南門が、 って、同年五月、町名を付したものである。高島町︵西区︶を埋立てて鉄道用地とし、民 町名は、この前年に開削した桜木川にちなん 有地には遊廓が設けられて繁栄策がとられた。 で命名されたものであった。なお、桜木川は この地つづきとなる桜木町もこのときに埋 のちに﹁木﹂を取って、単に桜川と称された立てられ、明治七年には、録町、橘町、それ が、現在は埋立てられ、道路となっている。 に前記のように内田町ができた。これらの町 桜木町が鉄道の柵外であれば、﹁内田町﹂ ののちに長住町が出来るが、現在のドックの はその内側で、実は国鉄桜木町駅の所在地で敷地はこれらの町の中に建設されたものであ ぁる。この土地は、内田清七が請負って、埋 る。さらに八年、裏高島町、同二八年から大 立てをしたもので、明治五年九月には、・内田 正三年北幸町、南幸町、同四二年鶴屋町と次 の姓をとって内田町として新設された。 次に埋立てられてゆくが、この璧止の関連と、 の町、であったという由来に が、現在は交通の要路となっている。 っ 部を切通し、山元町方面へ通ずる道路とした である。昭和二年、市電閑適に伴ない町の一 ︵現、南区︶字打越の区域内に新設された町 が、昭和一〇年七月の整理によって、中村町 石川町に隣接し、南区境に﹁打越﹂がある 収された。 この整理の際に廃町となり、石川町に合併吸 て、一丁目から七丁目までが置かれていたが、 は明治七年七月に設置された石川仲町があっ 止したものである。このとき石川町の裏通り 一目の町界町名薬理に際し、六−七丁目を廃 た。初め七丁目迄としたが、昭和一〇年七月 うち、町並がととのった処にこの町を新設し 改められた、明治六年一月、その石川中村の の一部であったが、後、石川郷は石川中村と・ 一方、隣接の﹁石川町﹂は、往昔、石川郷 よるとされている。 浜の元︵もと︶ ﹁元町﹂と改称したものである。町名は、横 のことであった。明治二三年、市制施行の際、 ることとなった。時に万延元年︵一八六〇︶ 合せて、一つの町を新設し、横浜元町と称す このことを証明する資料はない。古くから久 ところから地名が起ったといわれているが、 太田村は、村内に太田道濯の屋敷があった の﹃欝有二霊一竜淵有二王英一﹄から採 たものといわれている。 英町と黄金町の町名の由来はー古典l准南子 った処にこれらの町が新設されたものである。 町﹂は明治四年九月、それぞれ町並がととの ﹁黄金町﹂は明治二年。﹁英町﹂と﹁初音 の黄金町、英町、初音町、そして日ノ出の各 町である。 次にもと太田村の区域である。これは現在 この埋立は、いわゆる高島町埋立地の一部 して、本誌別項の新港及び新港埠頗ができて ゆくこせになる。 元町。石川地区 野毛地区の対岸が、石川∵元町の地区であ った、というといかにも唐突だが、吉田新田 全に向い合っていた。しかも、この両岸は、 埋立以前は、入海をはさんで、両地区は、完 れに対する山手、元町、もしくは石川の一部 野毛が神奈川奉行所を中心とした日本側、こ は、外国人側、列強の軍隊駐屯地であったこ ともあり、彼等の生活の根拠地といった具合 いみじくも、或る人は、山手の外人の住宅 に両者は対崎していたといえそうである。′ の豪華さに対抗して、横浜商人達は野毛に次 ぎ次ぎと邸宅を建設した、と言うのだが、う は町の沿革を語る上で適当ではない、野毛が なずけるものがある。しかし、両地区の対比 わば開港に伴って作らざるを待なかった町だ 戸部村の一部であったのに対して元町は、い からである。 州千島には、およそ九〇戸の人達が住み、 一村を立て ﹁横浜村﹂をなしていたが、開港 …胴‖拙獅憫附‖耶‖州服…糊Im 良岐郡の中で、王朝時代には服田、中世の頃 には六浦庄に属していたといわれている。江 戸時代、幕府の直轄地となって代官が支配し 六年︵ た。元藤十三年︵一七〇〇︶、奥州白河城主 阿部飛騨の知行所となったが、享保 の頃の埋立地、 一七三こ再び某府の直轄地となり、慶応三 年、神奈川奉行所の支配となり、次いで神奈 川県の管轄となった。現在の南区南太田町は 村の中心であった。 ﹁日ノ出町﹂も太田村の一部であったが、 宝暦︵一七五一∼一七六三︶ 横浜開港に際して、越前福井藩が陣屋をここ に設けた。俗に太田陣屋と呼ばれていた。文 さらに慶応三年になると幕府の﹁仏︵フラン 久元年︵一八六こには信州松代藩が代り、 ス︶式三兵伝習所﹂となった。設置の期間は 明治になって、県兵隊の本 短かかった。三兵とは、歩兵、砲兵、騎兵の ことである。− 地域であった。地内に真言宗東福寺があり、 往昔から、山門を赤く塗り、赤門と呼ばれ有 名であった。町名はこれに基づくものと謂わ れている。 南太m字谷原耕地、霞耕地の各一部を併せた 月に新設された。当時の霞町一丁目、清水町、 14 ー,15− 朝の野毛町 まだ人かげもまばら。 に伴う土地造成のため、幕府によって、住民 地蔵坂から関内を望む(石川町) 元町のメイン通り(元町) …州川M州都…l州川棚Mll州伽l 本牧。根岸・北方 地 区 中区の中央部を、丁度馬の背のような恰好 で、山手の丘が続いている。その南が本牧、 根岸、北方の地域である。 山手からの丘は小枝のように、いくつもの 谷戸を形成しながら、果ては産業道路に仕切 られるまで続く。地図で見れば、本牧も根岸 も、北方も、丘や谷戸、或いは道路でつなが れているが、もともと旧久良岐郡の独立した 村村であったし、それぞれの歴史があった。 以下は順に、成旦止ちについてあたってゆき たい。 日 本 牧 去牧は往茸 小田原北条氏の領地であった。 それ以前も以後もよく判っていないが、のち 徳川氏の直轄地となった。元禄の頃には、石 高八〇八石七斗一升五合、大久保大隅守・藤 丁目が置かれている。この町は、すでに、昭 和三年九月一日の町界町名整理の際、旧本牧 町字上台に当る区域に新設されたものである。 0 相 岸 根岸の地域といえば、横山芹町が本元となる。 根岸町は、もとは根岸村と称して久良岐郡に あったことが宝生寺 ︵南区堀之内町︶ 所蔵の、 属していた。それより昔は、平子郷の一部で の古文書に見られている。その後石川郷平子 寛政四年 ︵一四六四︶ や宝健二年 ︵一四五〇︶ 庄や本牧郷に入られたこともあるが、その年 代や期間等はよく判っていない。根岸も徳川 であって、元緑一〇年には、小浜志摩守・松 氏の直轄地で、石高は七五九石七升五合八勺 た。 浦造酒之丞・菅谷平八郎の知行地となってい 安政六年、神奈川奉行所の領地となったが、 棚冊川州‖摘‖U捌州…ll那Il捌‖州】打l淵‖州糊棚剛 明治維新後は神奈川県の管轄となり、明治二二 二年市町村制施行の際は根岸村として独立し た。明治三四年、旧本牧村と同じ様に、横浜 市に編入。根岸町と改称したものである。 昭和二年一〇月、区制施行に伴いこの町の 一部を西根岸町として磯子区に編入、次いで、 昭和八年四月一日町界町名整理に際して、字 いる。これらの人は旗本であるとされている。 本筑後守、松浦造酒之丞らの知行所となって 慶応三年からは、神奈川奉行所の領地とな ったが、明治維新後は神奈川県の管轄となっ た。明治二二年の市町村制施行。かつては本 牧本郷村、又は単に本郷村と称されていたも 四月一 のを改めて﹁本牧村大字本牧本郷﹂としたも のであった。明治三四年︵一九〇一︶ 日、横浜市へ編入され、﹁本牧町﹂と改称し たものである。さらに昭和八年︵一九三三︶ 四月一日町界町名整理が行われた際、本牧町 は字名を廃止して、一丁目から四丁目迄をお き、ほぼ現在の区画となった。 それとともに、旧字の区域を単位とし、隣 接の町の一部を許せて、次に羅列させていた と他町の町名を託す︶。 だくような町が誕生した。︵かっこ内はー字 本牧満坂︵満坂、大久保︶。本牧緑ヶ丘︵ の各一部︶。本牧十二天︵十二天、宮原︶。 長久保、満坂、荒井、間門、根岸町字矢口台 本牧大里町︵下里、大谷戸、八王子奥の各一 部︶。本牧元町︵牛込、八王子、八王子奥の 各一部︶。本牧三乏谷、︵三之谷、大谷戸、矢、 下里、莫福寺の各一部︶。間門町︵池田、真 福寺、配郷、一之谷、二之谷、向、根岸町字 本牧荒井︵荒井、間門、根岸町の各一部︶。 池袋の各一部︶。本牧和田︵和田、池田︶。 の根岸町としたものである。同 えて次の町町を新設したものである。 区域を単位とし、或いは隣接の町の一部を加 ︵ 立野︵立野、矢口台、仲田、鷺山、竹の丸、 池袋︶。根岸加曾台︵加骨ノ上︶。滝之上 仲尾の各一部︶。矢口台︵矢口台︶。池袋︵ 滝ノ上、清水、豆口の各一部︶。豆口台︵豆 口、加骨ノ上、沢畑の各↓部︶。仲尾台︵仲 ︵鷺山︶。西竹之丸 ︵西竹之丸、 尾、滝ノ上︶。竹之丸︵竹之丸︶。柏葉︵柏 葉︶。鷺山 保、大芝の各一部︶。塚越︶ 一部︶。大芝台︵大芝、塚越︶ 江吾田︶。大平町︵猿田、上猿田、塚越、中 ︵ ︵塚越、坂 芝生台︵芝生ムロ、寺 ︶。寺久保︵寺久保、 芸沢 村町手 坂ノ台の各 下、西芝生の各一部︶。 で﹁根岸旭台﹂となった。 なお根岸芝生台は昭和一 旧税岸競馬場、現森林公園 の所在地で 根岸台︵仲の丸。 久保、西根岸町 五年四月町 この昭和八年誕生の町町より古く、昭和三 年九月一日町界町名垂理の際に、字麦田、立 ﹁天和町﹂、が、字立野、亀山、竹 部の区域に﹁麦田町﹂が新設された。 野、鷺山、竹之丸及び、北方町字上野の各一 さらに∵ 之丸の争一部の区域に同じ年に誕生している。 16− →17− 山手腿道付近(麦田町) 上台集合所とその周辺(本郷町) (北方町,本牧町) 古い町並がつつく(本牧元町) 北方町の千代崎川覆がい道路 】州Il一日】llⅢ州…州棚冊l胴‖榊酬州酬‖州馴‖胴靂l捌 しかし、大和町の発祥は古く、根岸のしにせ の町の一つと言える。この町の一部は開港後、 駐屯中のイギリス、フランス兵の射的場とし て、幕府が貸与した土地があり、俗に﹁鉄砲 場﹂ と呼ばれたのもこの町である。また明治 四二・三年頃には大和屋石川清右衛門が拓い て、町並としたもので、町名の興りはこの家 ャツ製縫の先駆だとされている。 号を採ったといわれている。大和屋はワイシ もう一つのしにせの町がある。その町は、 ﹁山元町﹂である。すでに明治六年一月、町 並みが整った勉にこの町が新設され、一・二 丁目が置かれた。昭和八年四月一日、三丁目 ているところからでたと謂われている。一時 から五丁目と町が拡大された。なぜ早くから この町が開けたか、今後の考究に侯たねばな 小田原北条氏の北条綱成の領地であったとい 各一部の区域に.それぞれ新設された。 旧北方村の時代、いくらかの戸数が、点の を形鹿し出亮た。明治六年一,月、こうしてと ように圃思った。それがいつしか小さな町並 ﹁千代崎町﹂の三か町で とのチ尭町並′較町を新設した。これが、﹁ 諏訪町﹂/﹁上野町﹂ 町界町名整理に際し、上野町は丁目を設けて、 の起りは明らかでない。昭和三年九月二具 一丁目から四丁目迄とした。また、千代崎町 は、古くから一二一丁目が設けられていたが、 とし拡張された。 北方町字竹ノ花の区域を許せて、三・四丁目 ﹁妙香寺台﹂は、昭和十一年十一月一日の 誕生である。字上野と天沼の一部の区域に新 設されたもので、地内に妙香寺があり、地勢 命名されたものである。 近代化する必 が↑貿 どうしても港湾施設を拡張し、 政府は毅彦に わたって施設の拡張、整備を実施し、遂に名 要があった。明治二二年から、 易の飛躍的な発展、 に停泊 元年とも謂われているが、神奈川奉行所の領 市町村制施行の際、本牧村大字北方と改め、 ある8 ∵ しかし大震災、さらには大平洋戦争、この 実ともに日本の表玄関となったのであった。 である。これ 内、大桟橋、新港の各埠頭は徐徐に返還され その後民間貿易の再開に伴って、高島、山 があった。 を完全にストップしてしまった最低線の時代 による被害、そして全面的な接収は港の株能 二度の打撃はまことに大きかった。粁宣戦争 横浜港のシンボル。横浜国際腺客虐′−︰、、ナル、 た㌃㌢ ﹁新港埠頭﹂ 管座下 後の本 浜市は、 ある。明治三一年︵一八九八︶、時の大越横 の拡張、諸施設の設置計画をたてたが、後、 遂に三 水上税関長がこれを引きつぎ、主管省庁に稟 格的復旧整満に懸命の努力を 政府の緊急三か年計画にもとづ せた。さらに、外国貿易商港施設の画期的な 七年には、山下埠頭の基本的な施設を完成さ 議、政府の承認と議会の協讃を得て、明治三 八年一〇月、満七年の年月と、二三四万五千 と、﹁第一次整肺五ケ年計画﹂を策定、∵本牧 決定さ 増蔵を図るために﹁横浜港改訂港湾恕葡計画﹂ れるにいたったものである。 埠頭及び関連産業用地根岸湾埋立 命名したのは、同三九年五月二二日である。 建てられ、港湾の中核となっている。 この埠頭も上星、各企業の倉庫がぴっしりと 円の工費によって埋立を完成した。新港町と 二年七月から五か年計画で工事に着手、同三 昭和二六年∵港湾管理者となった 浜税関長が、税関地先海面を埋立てて、税関 は﹁新港町﹂であって、名実共に埠頭の町で 大桟橋の西側は ここは、そんな感情をゆさぶる処である。 妙に感傷的になる。船で外国にゆきたくなる。 に多い。汐夙に吹かれ、外国船を見送る時、 市営上屋や各商社、さらには行政絞関がここ ﹁大桟橋埠頭﹂は、海岸通一丁目である。 これに伴う が台地であるところから、妙香寺台と町名が らないが、町形成の初期から恐らくは根岸競 臼 北 方 北方も古さにおいては、本牧、根岸と比肩 しぅる。もと北方村と称して、久良枝郡の一 部であった。石高三四四石八斗七升四合、徳 昭和八年四月、町界町名整理に際し一二一 の丁目を置いた。この際、北方町の字小猿、 明治三四年、他村と共に、横浜市へ編入し、 ﹁北方町﹂として新設された。 平子庄に入っていたこともあった、本牧本 泉及び本牧町字箕輪下の各一部の区域に、﹁ 川氏の直轄地で、青くは石川郷の中、或いは 郷の一部となり、いつの頃か、北部に一村を 小港町﹂。また同時に、﹁西之谷町﹂が、字 である。近くの錦町や豊浦町等の港湾業務関 野環場が多い。この山下埠頭は独立した﹁町﹂ 突堤がある。 と、本牧町字長久保並びに根岸町字矢 立てて、北方村と称したという。 北方の地名は、本牧本郷の北の方向に位置し ㌧∵∵∴㍉ 一月横浜埋立株式会社によって、海面九七六 ︰. 四月一日、住居表示変更によっ ぺ㍑璃、二月一日﹁新山下町﹂と命名され 圃 て、現在の三つの町となったものである。 町の北側は港湾関連施設がびっしりと建て られ、その中央部は貯木場が、大きく海面に 口を開けている。ひとかたまりとなった原木 が浮び、そこへ、時折﹁かもめ﹂が遊ぶ、ヨ コハマの風情がある。 貯木場の西側は、山下町の一部、山下埠頭﹂ と﹁山下公園﹂がある。山下公園は、関東大 震災の亙れきや、復興工事の途中生じた余剰 の土で埋立てられたもので、大正一四年九月 一月着工、昭和四年四月に竣工した。工事費 約七、九〇七千円であった。日本全国で唯一 の海辺公園として著名である。前面は海、背 後はいちェう並木、そして洋館が並び、ヨコ / 地となり、明治維新後は神奈川県の管轄とな ったのは、根岸、本牧と同じである。 われている。幕末、それも安政六年とも慶応 三渓鼠へ到る道(本牧三之谷) 馬場との関連が考えられはしないだろうか。 llml相川仙州l!l 業用地との、関連して造成されたもので 山手の北東、切り立っ友り下が﹁新山連 下産一 二丁三丁目﹂である。この町は大正四年十 〆 1、8 19 胴l肌胴‖mll州l州l州l捌 工業埋立地区 四五五、三二宅ば竣エ る。タンカ1の船腹につかず離れず飛び交う 新しい根岸湾は、やは り確浜らしくてよい。埋立地区の風物詩が改 鶴の流れもある。− めて認歳されてよさそうである。 本牧埠頭は独立した町であるが、この町も これだけの単独のものではなくて港湾業務に 関連した産業の用地と併せて計画し築造され たものであった。 昭和三六年三月二八日、﹁事業計画﹂が決 11 出来る砂辺であった。 一方、千鳥町と磯子区とが接する地点、国 けて、国鉄根岸線誘致と臨海工業地荷造成の あるが、この区画と隣接の磯子区杉田町にか 鉄根岸線をへだてて北側に、根岸町の一部が ための埋立が計画され、昭和三四年一月二五 ﹁漁業補償協定﹂が成立調印された。二月 ある。 一日竣工した。現在の日赤病院のある地区で って、面積八七、二元一㌦、昭和三五年三月三 B地区が根岸町の海岸線に最も近い部分であ A地区が磯子区杉田町及び磯子町地先海岸、 三六二万余㌦で、工事費二〇億円。工区は 埋立免許。三月に工事が開始された。総画椿 日 舶が入る水深川0札の岸壁二六バース。二・五 て構成されていて、一・五万重量トン級の船 本牧埠頭は、ABCDの四つの突堤によっ ㈲ 44・5・6 ① 三四二、〇二一㌦竣工 6・20 町名告示﹁かもめ町﹂誕生。 佃 44・3・31 ㊥ 中区の場合、埋立地といえば、関内、そし 定して、それから二年後の三八年四月一日に て伊勢佐木町を中心とした関外、野毛・桜木 ﹁漁業補償協定﹂が調印されている。かつて 町方面もすべてこれに含まれてしまうが、そ この沖合いは漁獲量も豊かな漁場であったの れらはすでにご紹介したとおりである。従っ で、漁業の禰侭として、一、三六二人の人人 てここでは、東京湾にぐつと突き出している に対して四〇信一五五万円が交付されている。 海面埋立地で、昭和三〇年代以降誕生した本 三八年八月に、公有水面埋立免許。同年一 牧埠頭、錦町、かもめ町、豊浦町、千鳥町の 〇月十九日埋立が着工され虎。工区を二区に 各町をご紹介することとしたい。従って、本 分けて実施、七年後に完成した。 牧埠頭とこの関連産業用地埋立及び板岸湾海 以下列挙するように逐次埋立てられること 面埋立とが、ここでの主限となってくる。 になる。︵◎㊥は工区︶ 各町と言ったが、町というイメージよりも、 一大工業地区と言った方が判りがいいし、地吊 42・6・30 ㊥ニ、八二二、三五四㌦竣工 上に立って見られるのは、巨大な工場の壁で 1 ■ 町 名告示、﹁錦町﹂ ﹁豊浦町﹂ ぁったり煙突であったりして、しかも耳に聞 ﹁千鳥町﹂がそれぞれ誕生。 ぇてくるのは大型貨物自動車の騒音のみであ ㈲ 43・4・30 ◎ 八二﹁二三八㌦竣工 る。ただし、舗装された道路をゆくと、行き 8・27 町名告示、﹁本牧埠頗﹂が っく先は葦何学的にがっちりと築造された七 誕 生 。 ぅ壁がある、そして、きらきらと光る海があ 43・11・ 二二九、八〇九ば竣 1 ㊥ l踊榊川l川棚‖…川棚‖胴棚‖…淵‖刷Il…川州州靂“ 万重量トン級、水深12のコンテナ岸壁三パー ス等がそれぞれ建設されている。そのほかに 市営上屋が各突堤に設持され、港湾関係の企 業の倉庫等が多い。D突堤は近く無公害工場 排出の廃土、廃材をもって ︵約六七〇、000 ㌦︶が増設される計画が進んでいる。錦町は 日産自動車、三井物産、日本通運、鹿島建設、 三菱重工業、集合住宅。かもめ町は、中小区 町は日本石油精製、住友金属、日本農工業、 画用地として五七社の企業が進出を見、豊浦 町は日本石油精製一社がここに進出している。 国際埠頭、横浜トヨペットの各商社が、千鳥 本牧元町、本牧大里町の地先海岸埋立地は 本牧町四丁目、大鳥中学校校地南側から、南 にかけて、本牧南小学校、市交通局本牧営業 所、市民公園の敷地内に到っている。今、公 って、切立った崖が残って、老松が海辺の悌 園側から見て北側の丘は、かつて海岸線であ  ̄20, ー21− ラッシュの切れ間 産業道路(かもめ町) かつてこの道措から海であった(千鳥町) コンテナ積み,豆つぶのような輸出用 分離帯の植込みが美くしい(本牧元町) 肋‖川棚州胴‖州州州州州服‖州馴冊‖州州…Ml 接収地地区 四月、間断なく白29ほか艦載機が飛来してき が、一六〇五平方メ∼トルの土地が接収され、 地理的壌篤から、﹃疫収地﹄という名の﹃占 敵地﹄となった。 接収は住宅地、倦湾、学校、公園、公共施 設、銀行、デパート、商社、劇瘍寺に及んだ 昭和二七年、この年は扱収の最盛期であった 墓地<保∨。 ︵事務所︶。ニューグラノド 不二家 ︵サービスクラブ︶ 揖浜公園︵チヤ 神奈川公園︵自動車置場︶∧神>。 神奈川会館︵兵器廠事務所︶<神> 上︶。 銀行協会︵事務所︶し第一生命︵同 テル︶。 ル ︵ホ 加賀町警察署︵MP詰所︶。江南ビ 横浜公園武道館︵体育館︶ 保土ヶ谷児童遊園地 た。そして、五月二九日、前の中心部に徹底 22−10 旧共進小学校 倉庫・宿舎等<南> して焼夷弾がばらまかれ、僅か三時間の間に 24● 9 東京銀行 ︵事務所︶。 焦土と化した。中、西、保土ヶ谷、南、磯子、 尾 上町基督教育年会︵事務所︶。 神奈川、鶴見の各区と川崎市の一部であつた。6 毎 日新聞社 ︵事務所︶。 2●9 そのときの焼夷弾数二三万七千、全半焼家屋 72−2 大桟橋︵軍港︶。 七万九千以上、死者負傷者多数。B29五百磯 P51戦斗機首機による横浜大空襲であった。 中区においては、八万発の焼夷弾、二、≡ 七九八の住家。非住家がまたたく間に炎上し、 多数の市民が焼死し、或いは傷ついた。町は 八四か町にわたり、区内はまったく焼けただ れてしまった。− 地軸まで焼けた苦悩の上に、 33●3 ︵倉庫・宿舎など︶。 新山下公国︵宿舎︶。北方小運動場 ︵将校住宅︶ 予定地 山下公園 ︵住宅︶ 34・1 35・6 山手公園 ︵事務所︶ ︵lLC調達部︶。神栄生 36・3 三菱商事 28■ 9 2●3 0 3●3 3 寿デパート 帝国銀行 亀楽ビル ︵事務所︶。 ︵事務所︶。 東京海上ビル ︵婦人宿舎︶。日産自 頭︵軍港︶。富士見公園︵宿舎︶。 横浜税関︵在日兵姑司令部︶。 ︵P。Ⅹ︶ 8 ト 9 4 用地として接収され、同三一年五月二九日、 代替施設として、国費で鉄筋コンクリート 四階建の7パ∼ト形式の住宅八棟が建設さ れ、改めて接収されている。住宅のほか食 堂、エソヂニア・セクシヨソのほか、大小 二三棟の建物がある。建物 と呼ばれ、米海軍 DH ︵国有︶面積二 市街地の中心部の接収解除にともなって、 とに惨たんたる有さまで、外国のなかの横浜。 P罵言︶ この住宅は、SFiny臼が∽已ta 敗戦のみじめさを感じたものであっーた。 広い敷地に突然出現した鉄筋建物は住宅 難にあえぐ市民にとっては、驚きと同時に 属施設となっている。 独身将校の宿舎と、出入国の米軍人・軍属 及び家族の一時的な宿舎として使用されて いる。附属の建物は食堂等将校クラブの附 横須賀基地紡浜分遣隊の管理下にあって、 ︵ロpy巴de Area しかし、これらは一部であって、その全貌 ではない。その一部であっても、行政・経済 の中心地であった中区は、土地だけでなく焼 け残った建物まで接収され、中枢機能はまっ たくマヒ状態となってしまった。港湾施設の 90珍は接収され、港湾都市ヨコハマは、まこ 昭和五一年現在、米軍による接収の地域は、 在でも、依然として接収地がある。 ここでは接収の経緯や、この全体を述べる スペースがないが、ただ戦後三〇年たった現 各所に見られた戦後のヨコハマであった。 市民でありながら市民でないまことに変則な 町となってしまった。肥えた精力絶倫の米兵 これに比較しやせこけて、食うことのみを求 めて地に這い、駐留軍の残飯をあさる人々も 四六六九・一八㌦、五〇墨である。 糸ビル 5 4・1 ながめのよい山頂の住宅(寺久保・坂越) 山 新山下住宅地区 新山下三丁目と小港町一丁 一都で ある。 山下本牧磯子線の道路わきの地 土地の面積五一元六三・〇七㌦、うち国有 地は三七五八六・〇一㌦、ほかは民有地で ある。昭和二〇年一二月≡日、米軍通信隊 市内の三・九パーセソトを占め、日本全国総 接収面積の実に六二労を頓浜が負うことにな った。 中区内においての接収の施設は非常に多い 昭和一九年一二月二五日、この日横浜は始 い、以下接収解除になつた年月をもとにして めて被爆した。太平洋戦争の敗色はすでに濃 掲げておくことにする。闘︵︶内は利用種 かった。次いで、二〇年二月、三月、そして 別、<>は区名の略称。 ;l相川舶…l捌…ll川肋‖胴l州l肌‖掴‖ilM胴‖酬‖】 追打ちをかけるように、ポツダム茎一一品受諾 日本の無条件降伏、終戦となったが、横浜は 松岸デパート ︵病院︶ 劇場 ︵娯楽施設︶ 子安ムロ公園∧神∨。岸根公園<神∨ ︵以上、高射砲陣地︶ 岡村公園<磯>。花見台公園∧保> 旧寿小学校 ︵倉庫・宿舎など︶ 三菱倉庫 ︵郵便局︶ ︵ 日本郵船ビル ︵事務所︶、新港埠頭 ︵軍港︶ 軍属宿舎︶ 関連運輸 ︵倉膵︶?東日本重工業 10 互楽荘アパート ︵軍属宿舎︶ ぴっしりと住宅が並ぷ(本牧町3,4丁目) ー22− 23 l附‖州州錮l淵‖州州…州=…川州Il…川M州l‡l 保護者 は じ め に 昭和五〇年十二月七日。中区元町の汐汲坂 の中途、横浜学園附属幼稚園構内の一隅に、 る。昔、横浜には、﹁東京がなんだい﹂の思 常打ちの劇場がない、画商が生まれない、 これらは東京に隣接していることの宿命がそ ぅさせているのか。しかし、多くの人々が東 想が征途していた。これは日本人の精神構造 性なのだ、と。 の中にある中央性指向から離脱した貴重な個 人は、〝汽車や人力車が登場したのは此処が しかし、最近まで横浜の文化について語る 横浜の文化は常に東京の重圧感を意識して、 の伝統にすぎないのだ。それにも拘わらず、 い。東京の文化も東京という一つの地方文化 京へ行っているとは思えない。それが怖ろし 碑が建てられた。嬉しい話である。 か。開港場として文化が育ちにくい土地柄な 横目で睨んでいる文化だ。経済基盤が弱いの 地元関係者により不遇の作家、中島敦の文学 この褒美とした世にまだこのような快挙が残 日本最初であったとか、谷戸橋際には外人劇 風俗、流行だけが文化ではなかろう。 文化の湯という幻影に滞れていてはならない。 け酔℡ていてはいけない。かたくなに通過性 生糸貿易と舶来趣味との嘗つての栄光にだ ただ、これだけは云える。 ゆる勉でその声を耳にする。 しかし、〝文化不毛の鞄〃とは日本中あら 場ゲーテ一座が誕生したとか、氷やピールや 原三漢弱が美術家のパトロンとして若き日の されていようとは。 不思議なことに横浜という街は曳くの大衆 のだろうか。 作家を生んだ。大衆作家を生んだということ とかを誇る。 巨匠たちへの物心両面よりの援助を与えた〟 西洋洗濯の発祥の地であることに胸を張り、 はこの紡が民衆によって創られた民衆の街だ それなりの意義が残された文化的事業ではあ ったからと云うのは過言であろうか。 後年の創作活動を見ても少年の臼、エキゾ それらはたしかに一種の文化的遺産であり、 チズムの残光があった横浜の雰囲気が、その 源と呼ぶには襲いを感じる。 っても、所詮舶来文明も居留地の外人自らの 利便のために咲いた鵬礪に過ぎず、文化の担 禰〟ではなかろうか。要件ど鶴牝鴫である。 文化とは、〝主体性のある社会的創造阻と舞 横浜に居なくては出来得ない個性的な独自 ろう。オリジナリティである。 外人の な文化づくりの仕構と、その実現が必要であ 聖書和訳の事業へ共立女学校︶もこ 慶応三年二八六七︶春。競馬 まった。 む場所として造られた。外囲一七六八二二杓 め、春秋二回の競馬のないときは乗馬を楽し 八〇界を占めていた馬好きのイギリス人が始 現在の土台になっているハマの嘗つての文 精神文化の上にハマの興隆が続くのだ。 への行政の関わり方だ。 活に取り組んでいるかが問題であろう。それ ではなく、その中で家族がどういう心根で生 的な家庭とは豪華な家具に囲まれた 現在でも云えよう。寄席が成り立たない、 動にどのような影響を与えたか。 例えばゲーテ一座がその後のハマの演劇活 芽を青くんだのだろう。作曲家、滝廉太郎も 潜とした一連の作品にはハマの文化の力が、 明治の一時期横浜で育った。その後の彼の潜 なんらかの影響を与えていただろうと私は信 じたい。 横浜生れの評論家、葦柳大蔵氏も云ってい って、海に向って廉けた明るい荷だ。 今後、新しい市民がどのように構浜の文化 を創造してゆく種を緋いてゆくのか。 所詮、文化も教育もコインを入れてジュー スが出てくる速効的なものではない。 中区は多面な顔を持っている。 いまでもその規模は日本で第二を誇るもので 化を探り現代に開い直そうとする中区文学散 歩の説明役をしている時、こんな感慨がいつ ある。 伊勢佐木町、野毛、元町、中華街等に代蓑 される幾多の盛り場。関内でのオフィス街。 も過ぎるのである。 競馬場への行幸風景を次のように述べている。 昔川英治は、幼い日感じた明治天皇の根岸 に活用した。 いた日本はこの競馬場を外交の場として大い こに適った。 とくに、イギリスとの外交諸問題を抱えて 政府の高官も朝早く東京から馬車を連ねてそ ことだ。明治天皇は合計十三回行幸し、明治 また、面白いことに外交場に使われている 的なお祭りであった。 ソプル壌の印象は全くなく市民挙げての牧歌 競馬場といっても現在の喧騒を極めたギャ 寿町周辺の簡易宿泊街。石川町、山元町とい う下町。本牧埋立地に林立する港湾団地。麦 田のトソネルを越せば太牧と云われる広大な 米軍接収地とそして住宅群。 常住人口、十三万余人、昼間人口、二二万 余人。 変化の激しい昼の顔、夜の頗を使い分けて 百年の横浜の歴史の上にどっかりと定着して 昼間人口、流動人口をふまえた文化対策が いる。 立てられなければならない。 文化活動とは、〝人の心を豊かにする営み である〟と謂われている。 26 ー27一 ﹁明治天皇の競馬好きは内外に著名であった。 春秋の根岸競馬場へは前後十数回も行幸があ ったことかと思う。祭日か日曜日なので僕等 は学校の先生に引率されていたわけではない が、みんな日の丸の小旗を持っていた。 イロハ長屋の住民から町の男女の立ち娩ぷ 中に交って四頭立てのオ㌧フンの菊花紋の輝 く御馬車へ歓呼と共に紙旗を振りぬいた。 道路が狭い上に両側の厚い人垣が押し合う ので陛下の鮎敵と群集とはほとんどスレスレ その間、なお紅旗を打ち振って叫ぶのだが、 手を伸ばすと両側の紅旗は陛下のお体にも触 ている。 これは彼の出世作<時の氏神>という戯曲 で陛下はお顔のそばに挙手の首い手袋をおか といったが、根岸競馬場のダービーには着流 太宰治は﹁富士には月見草がよく似合う﹂ に因んだものである。 れ、時々左右へ向って微笑されたりした。そ しの菊地寛や羽織袴の大代目菊五郎丈の姿が りそうな位であった。御馬専はオープンなの して競馬場のグラウンドの空には打上げ花火 と云ったような風景が よく似合ったと植浜ベンクラブの石田薫三氏 − がさかんに鳴る。 は云っている。 ∧忘れ残りの記∨∼ 四年父君の死にょり左右田銀行頭取を襲融、 り繁栄を続けていた穐浜経済は日露観争後か ていた。明治末期まで独占的な生糸輸出lこよ 行家音二郎が同じ墓所であることは面白く、 菩提寺は蓮光寺であり社会主義者寒村と銀 研究所の設立は名高い。 経済哲学の諸間喝∨の論文集と横浜社会問題 初めて哲学を導入した功績は大きい。名著∧ 学と異って〝経済哲学〟という名で経済学に 〝西田哲学〝の名付親であり、従来の経済 香保において死の直前に和解したことは有名︶ 作者は長い間確執があった兄蘇峰とこの年伊 へ余談だが、塵花については、この不如帰の を悼んでいる。 ﹁画和二年という年は日本にとって著名な文 化人を三人失った。芥川竜之介、徳育意花、 そして左右田寺一郎の一二人を挙げ﹂、その訃 に活躍した。 彦、大杉栄等と共に平民運動、社会主義運動 運動家。その運動の先達として山川均、堺利 啄木が云っていた﹁冬の時代﹂の社会主義 荒畑寒村︵評論家︶ あらはたかんそん 遠い明治の一日として思い出される。 そうした僕等明治の人間の先入観では大正、 昭和にわたるあの物々しい超警戒ぶりは何と もわけがわからなかった。街頭の群集を皆、 敵と視るようなあの冷っこい酢‰の列と幼児 の間隔しかない。どうかすると後ろから揉み 出された人波の凸出に先駆の儀仕真の馬が別 の印象とは隔世の感があった。 − と、博士の愛弟子である現 屈指の経済学老喜一郎の代においてその銀行 無学の父、金作が左右田銀行を興し、日本 た。 産を招き、左右田銀行もその例に洩れなかっ 昭和二年の経済パニックは幾多の銀行の倒 横浜市大の早瀬利雄名誉教授は述べている。 されたであろう﹂ 時、﹁横浜文化賞があればその第一人者に目 通じて、博士は楢浜市の っいでながら菊地寛の持馬にはすペて〝時 治、舟橋聖二、音屋信子等が東京から通った。 その後、席好きな菊地寛をはじめ、富川英 いうことは、大正末期に入っても外交上必要 だったのだろうと思考される。 ていたにも関らずにスタンド建設を急いだと 復興しなければならない緊急のものが山積し 十三年という年は震災の翌年であり、ほかに 今のスタンドは大正十三年に完成したが、 後略 ような風景はどこにもないと思う﹂ なお相沢の貧しい民衆と陛下の閤に見られた 戦後は天皇も民主的になられたといっても ねたりして御馬車が行き淀んだりするのであ 一郎 いち ろヲ る。それがまた僕等子供たちの歓ぶ事であり、 ∧森村自伝 そうだき 左右田喜 ︵経済学者、銀行家︶ Y校 全事業、全財産を投げうって叙行の跡始末に 宿癖の胃病と斗いながら一切の公職を辞し を倒産させた。 ンゲソ大学で博士号を獲得。へ論文∧貨幣と 日夜奔走し、そのため健康を害し昭和二年八 月亡くなった。四七才。 財界人としても多面的活躍を行った。大正五 ら大正初期の第一次大戦にかけての工業化に 左右田博士の死は横浜経済の終焉を意味し 年法学博士となり、三六才のとき、米沢の上 詩人、日号瓢之介は れた。 され、昭和二年のパニックで息の根を止めら 落ち入り同十二年の大震災で港湾施設が破壊 立ち遅れ、大正九年の恐慌によって大混乱に にY校の昇格による専門学校の設置運動を起 Y校を愛し、進交会幹事長を歴任、震災前 面六皆の活躍がはじめられた。 杉伯爵の息女と結婚。財界、家庭、学界の三 母校で経済哲学の講義を担当しっゝ、大正 後期が始まった。 価値>︶大正二年帰国。そして博士の活動の 独に遊学すること十年余。ドイツのチエービ −東京高商︵現一橋大学︶卒業後、米、莱、 界の重鎮であった彼は、横浜小学校− 界的な経済哲学の権威であると同時に構浜財 明治、大正年間の横浜が生んだ不世出の世 一現根弄森林公園− し、市会を動かして設置決議にこぎつけた。 著書 寒村自伝 上・下 左右田喜一郎の菩提 一墓地は槙浜市根岸共同 ー28− 29 洋式競馬の発祥地旧根岸競馬場跡 まことに皮肉である。 昭和五一年はたしか博士の五〇年忌にあた る。 ごせだよしまつ 五姓口蓋松︵洋画家︶ 幕末から明治にかけて活躍した日本洋画界 の先駆者の一人。安政二年二八五五︶江戸 に生まれ、元治元年︵一八六四︶江戸末期の画 家父の芽柳と共に横浜に移り、慶応二年二 八六六︶チャールズ・ワーグマンについて洋 画を学んだ。 は皮肉な限をして笑う。 若き日に第一次大戦後のロシア磯饉救済婦 会議員になった新妻いとがいる。 人連盟の闘士だったそうだ。実姉には戦後国 優しさの中にその片鱗が冴えている。 ﹁堵浜という土地は日本の夜明けとともに 出現した新開地だったから各地からそれぞれ の夢を抱いた人々が集まって来た。 城下町みたいな伝統的な堅苦しさもなく、 疲弊した寒村的な陰惨さもない。 しかも外国人たちの生活様式をいやでも見 せつけられたから、この新開地に住みついた こんでいる。 幼い暗から画才を発揮し神童とうたわれた。 たため横浜時代の作品が多数ある。 横浜には明治七年一九才のときまで住んでい きたばやしょしこ 北林余志子︵劇作家︶ 岡本綺堂門下の劇作家。 その後、東京に移住し、明治九年工業美術 学校の開校と共にイタリア人の画家アントニ 混迷を絡ませた一幕三場の諷刺劇 開洪を舞台に御一新の新旧、風俗の対立、 明治十三年にはフランスに留学し、レオンボ ぅ∨は、昭和九年前進座によって新橋演舞場 オ・フォンタネージの指導を受けた。さらに ンナに師事した。そして明治一五年、義松二 ての彼女の名を高からしめた。 ﹁私は以前から笹下の横浜刑務所で〝埠頭″ 膏貴様のお倉の三人を挙げている。 気質∨五幕は横浜、長崎が舞台で、弁天通り、 海岸通りが出てくる。 一 ﹁尾上町にあった料亭、富貴楼の女将〝お 錮 倉〃を措きたかったが、登場人物の伊藤博文、− ほかにその後、関西新派が頼った<開港女 においてヒ漬され、当時新進女流劇作家とし <牛を喰 七才のとき、日本人として初應てパリのサロ ンに入選するなど、画家として輝かしいスタ ートぶりであった。 明治二二年輪国後、明治美術会の創立に参 加し、その活躍を期待されたが、病を得て思 ぅにまかせず、晩年は不遇のうちに大正四年 九月横浜へ中区打越一四七二番地、旧山手中 で没した。享年六〇才。 彼の描いた大久保利通、エ、、、−ル・ゾラ、 村町︶ また、開港後の横浜風景をはじめ ン等の明治の元勲、文士、画家たちの肖像画 川上冬崖、正岡子規、チャールズ・ワーグマ は名高く 庶民生活など草創期の洋画家とは思えない優 れた作品が多く、その明治の風物誌は歴史的 にも貴重なものであるとされている。 のちに明治の洋画界の第一人者となった、 という受刑者間の同人誌の指導をしている。 そして受刑者と話し合ってから劇曲が措き辛 鮭の新巻の絵で有名な高橋由一もワーグマン の門下生の一人だが十一才の義松の方が三九 くなった。その人たちの人生の方が下手な芝 知れ′〟と怒鳴った。 米兵は照れくさそうに、こそこそと立ち去 オ才ユー・ 彼女は、﹃即断射翫㌘なノ﹄といいかえし、 その米兵の頗に平手打ちをくれ、なお臆衷 と叫び、夫君を路上に殴り倒した。その時、 居よりずうっと劇的だから﹂綺堂門下の才媛 才の由一より数段L手だったといわれる。 れてあり、その絵を見たさに遠くまで追って 行った陽炎のような追憶がある。 丸善へ入ると洋書の匂いがたちこめていた。 広重調の夕焼空に垢煽がi。弁天通りは ガス灯屋が脚立をかついで通る。 った﹂ ︹佃実夫編、∧日本占領、ヨコハマか 明治の石版画に出てくるような雰囲気のある らの証言∨︶ その話は流れてしまった。横浜の人は情が薄 碑を建てようという話があったが、とうとう ﹁以前、浜っ子会で長谷川伸や吉川英治の いた。 いま、石川町牛坂に独り住む彼女は云って る。 七四才。生き残りの感蔽いこした浜っ子であ 街だった﹂ 郷愁と浜っ子のモダニズムのプライドがの ぞいた。 紅蘭女学校の出身であって.授業中、下の 天沼のキリンビールの匂いが校舎の廻りに漂 っていたという。 関内の清水平安掌薬局に生まれた夫君北林 透馬とは柿沢小学校時代からの幼馴染。 後、作品はあまりない 金作だったが本人はその その世 ったのでし ょうか﹂ いのか、それとも浜っ子がいなくなってしま −31【 人たちは自然とコスモポリタン的要素がしみ 遠馬の本名は 名を一生嫌が 良い意味での個人主義に徹した生き方、隣 に誰がいてもかまわない。そのくせ、地方か 横浜ペンクラブ〝〝話 がいなくなったからだという声が多い。 現在、横浜文壇不振の遠因はそれらの人々 久米正雄的存在であった。 話役ぶりはさながら鎌倉文士を㌢とめていた 最後の横浜のモダンボーイであ㍗ だった。 の波止場〟、イ横浜文芸懇話会″等の世話役 が牧野イサれ 準語が使われた。 らいろいろな人が集まったので、機能的に標 ヨコハ マの文明開花は日本のルネプサンス だ。そこに底抜けの明るい派手でお祭り好き 弁天通りで生まれ育った彼女はさらに、﹁私 な市民性が在る﹂ と浜っ子気質を語る。 の子どもの頃、この弁天通りの人通りは日本 人より外国人の方が多かった。その頃、自動 車ではなく馬車が走っていた。 ﹁漬領初期、㍉夫君透馬と辟を歩いていたと . き、いきなり米兵が飛粟㈲雲仙呵㌘′﹄ 北林透馬の“居留地の丘”ほか  ̄五姓田義松作品− とくに二人乗りの人力車のうしろには水溶 伝の魯知深とか武者絵の極彩色の錦絵が描か 〝 描かれた明治の風物詩で名高い横浜山手の洋館 ささざわびめい 笹 沢 美 明 ︵詩人︶ 居留地 山手のユーカリの下で 紅と黒の肩掛けをした 西班牙風の女だった 若くて美しいひとだった 独乙語のビスマルク伝を買った それから外国銀貨は これは私が顔まれたからだ 田舎の中学生に送ってやった へ大正九年 美しき山賊︶ 明治≡一年稲浜に生れる。 この詩には当時の横浜の雰囲気が活写されて いる。 莫明、 海港文学の会を作り栢浜詩壇に活躍した。 推理作家、笹沢左保の父。 郎弼の朝朝敵璽斬藤、戒ポの惑、惑 は 谷 せ がわ −−− = Lん ■ − 由T ︵作 家︶ けた。戦時日本の戦意昂揚に義理人情の仁侠 伸の作品は、太平洋戦争中不当な冷遇を受 びたづねてはいない。 を去るまで横浜を尋ねても、生家の附近は再 それから十年後、昭和三八年、七九才で世 がそのとき担ったのであろうか。 彼の生まれた町は消えたが伸の〝瞼の横浜〃 伸は立ちどまぅて目を閉じたにちがいない。 記憶に残るものはかけらも残っていない。 消えてなくなり彼が生まれた日ノ出町界隈も ら歩いていた。 かつて伸が住んでいた足兜町は、町名さえ の大岡川沿いに京浜急行の高架線を眺めなが 昭和二八年、六九才の長谷川伸は、黄金町 長 島 なかじま 中 あつし 敦 ︵作家︶ 昭和五〇年十二月七日、初冬の時雨が止ん に中島敦の文学碑が建てられ だあとに、元町の汐汲坂の中途︹確浜学園附 た。 属幼稚園構内︶ 敦は明治四二年東京に生れ、東大国文科卒 高女 へ現構浜学園︶ で教鞭をとった。 業、昭和八年から仝一六年までの八年間横浜 そして幾多の珠玉の名作を残し宿痢の喘息 と斗いながら昭和一七年三四才の若さで多界 昭和九年の中央公論新人賞には惜しくも選 した。 その時の受賞者は丹羽文雄<贅肉>、島木 外佳作∧虎狩>であった。 また、スチイブンスンを描いた∧光と風と 健作∧吉日∨である。 絶筆の∧李陵∨を含めてその幻想的な作品 蕎>は芥川賞候補の評判が高かった。 は生涯、文学賞の受賞には恵まれなかったが、 国内はもとより外国でも評価され、代表作∧ 山月記><古澤>は現在高等学校の教科書に 乗載されている。 彼の博覧強記は一高、東大の先輩、都会的 な芥川竜之介に似ている。 戦時中の作品が多いが戦争の影が全くなく、 戦後進駐した米軍も日本人の義理人情は危 険で不穏な思想としてその作品の上演を弾圧 した。前後十年長谷川伸の作品は冬眠せざる を得なかった。 彼は崩壊家庭の出身者として幼いときから 辛酸をなめながらそのことに対して〓言も未 伸は義理人情の作家だといわれている。 事実、彼ほど庶民の中に生まれ、まぎれもな く民衆として喜び、泣き笑った記録を作品と して綻也した作家は寡ない。 帯>を書いたハマッ子の伸。 まで固執し、<ある市♯の徒>∧よこはま白 満を試いてない。 文学散歩に一つの重要なコースを加えたと、 〝ラーメソ〃を〝ラウメソ〝といって死ぬ 各紙は報じていた。 軋寵 顧く、欝に甘んずるいとしなかつた。 山月記より 32 海寄りの坂の途中の古本匪で 千八百年版の古いのを それから税関近くの両替屋で 外国銀貨を一個 西班牙風の女のことは いつの間にか忘れてしまった 誰れが大それた冒険などするものか ビスマルク伝は彼が若いとき ピストルを練習する処まで 読んでやめた 殺伐はまっぴら御免である 元町のエキゾチズムな雰囲気の中でなければ いた元一橋大学教授の岩田一男氏は云ってい 生まれなかったと横浜高女時代、机を並べて る。 昭和十一年作の∧カメレオン日記∨には横 浜学園が登場してくるし、本郷町のガス山、 或いは長者町のモソアパートに居を構えてい たせいか作品の随処に横浜が出てくる。 父祖の地、武州秩父産の輝線岩で造られた 旧居留地一山手風景− 物は戦争には役に立たない、と政府は考えた。 長谷川伸の〟一本刀土俵入〝 “よこはま白話” 高さ二・五米の光沢も鮮やかな碑にはその代 中島 敦の文学碑 表作<山月記∨の冒頭の美文が肉筆で刻まれ ている。 一元町汐汲坂(横浜学園構内)50ユ2・ワ建碑 ̄ 本当の意味の大衆作家であった。﹁横浜は 長谷川伸を生んだことを永遠に誇ってよい﹂ と、作家佃実美も云っている。 船 蘭語とを投げこむ。 あか少 カビタソの部屋にばっとした光線と短かい和 ンは軟かい雨、重い雨、横浜港の午後の雨、 蘭 窓の外を見ていう。 和 窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル、 ジャポン ﹁日本はこれで二度、いつも美しい﹂ヵピタ 手を振って軟かい仏蘭西語で話しかけるとき、 和蘭船のゲソテル号のカピタンと 山の上の風景は仏蘭西人コンシ そして、もう一つ伸の残した大きな遺産は 疲隠密という時代小説グル■プの研究会 横浜港の春霞はいつしか重く雨となり、 霞 送り出した。山手樹一郎、村上元三、北条秀 だ。そこで多くの苦手のホトフを研鎖し世に 司、山岡荘八、戸川幸夫、大林清、額島孝二、 くる。 海鳥の白き巽も物哀しくギヤマンの忽に映り の書斎に通った。現在とは違って此処は当時 周五郎は本牧元町の自宅から2払の道をこ 忽の外なる横浜港の春の雨 絶え間なく、絶えまなく11︻・。 明治二二年福島県若松市に生れる。 こに限りない共感をしめしている。 健 士か社会の下積みに生きる市井人であり、そ 彼が描いた作品の主人公の大部分は下級武 豪華なものを遠去けた。 彼は英雄を好まなかった。強いものを嫌い、 う﹂と、周五郎はいつも云っている。 うことを探究するのが文学の仕事だと私は思 から彼がどういうことをしようとしたかとい い患いをしたかであってその悲しい思いの中 大阪這修町のある商家の丁稚がどういう悲し 何が起ウたかということではなく、そのとき ﹁文学の場合、慶長五年のある日大阪城に 煮に通じる古びたこの渚段をかって往来した。 家仲間や多くの原稿依頼の記者連中がこの事 蘭嶋∨には震災前の横浜港の風景が偲ばれる。 ハマ的なハイカラさがあり、そのなかの<和 詩集∧海港>は大正七年の出版だが、ヨコ との文化交流などに努めた。 日新聞社や外務省に転じて、後年は海外諸国 人として華々しい活躍をしている。のちに朝 たがすでに三木雫凰を中心とする象徴派の詩 課長の故にあった。当時数え年二九才であっ に名を連ねた。その頃は横浜港郵便局の外信 前田春声、北村初放らと交友し、結社海港 柳沢 静かな雨、白い海鳥、ジャバの紅茶、カ ュール館の薄 平岩弓横、池波正太郎、早乙女青、等々。 ピタン室の空気の豆さ、軟かさ。 いる。 ︵作 やまもとしゆうごろう 山本周五郎 D、のち、カルカッタ航路の貨物船に水夫見 外ならなかったのか。 彼にとってはあたたかい家庭は文学の故に 移住、旅館、間門園を借りて書斎とした。 戦後、大森馬込から昭和二三年春、横浜に 県に生れる。 さとむ 本名、清水三十六。明治三六年六月、山梨 家︶ 樹については現在再評価の風潮が盛り上って 辺は、半世紀余り経った今日変貌したが、嘉 作者自身が住んだことのある花咲町や港周 と、 パアサーの肥った爺さんと糞しい頗の事務長 しる。 和蘭水夫のかけごゑ壬、カピタンは一寸耳 春雨のなかを重たいスリソグの音 く0 カピタンと予とのまえに置き、黙々として退 ジャバの土人は淡い紅茶を銀皿にのせて 以前、横浜に釆たとき、次の歌を残してい る。 あが知れる横浜あらで新らたなる 街よ針術に日の照りあたる ∧瞼の母>∧一本刀土俵入り∨∧沓稗時次郎∨ <鯉名の銀平∨ 長谷川伸の文学はもう一度しづかに読みか よし えされる時期にきている。 やま 葉 山 嘉 樹︵作 初期の日本プロレタリア文学の旗手として 青野孝吉、平林たい子らと共に文芸戦線派に 属し活躍した。 ︵戦前のプロレタリア文学は戦旗派︵宮本 百合子、小林多音二、徳永直、等︶と文芸戦 線派に分かれていた︶ 明治二七年三月福岡県に生れ、大正元年、 郷里からヒ京、船員を志し、早大中退後、横 浜市花咲町の船員下宿に住み乗船を待つ間、 習として乗船、一時欧州航路に乗り込もうと 小高い丘の地型をそのまま利用した間門園 にかけて東京湾が一望に見渡せた。 は坂や階段が多い。本館と別館とをつなぐ踏 庭にコリュケイが飛び交い、房総から構須習 験に取材したのが後に∧海に生きる人々>へ したが果たされず、室蘭 − 横浜通いの石炭り 大正一五年十一月、名古屋刑務所内で善かれ 塚友二、永♯竜男、吉田娃l、山口瞳、尊作 八木義徳、中山義秀、火野葦乎、林房雄、石 作家、土岐雄三、今♯湊夫、海昔寺潮五郎、 い坂∨を書き上げた。 赤ひげ診療謹∨∧その木戸を涌って∨∧なが そこで、<樅の木は建った>∧ちゃん>∧ 段を周五郎は絶えず上り下りした。 船に三等船員として乗り組む。この航路の体 山下町のP−ラー・スケート場のボーイをや ■・二1 = 34 35  ̄ た︶を生み日永の社会主義文学の記念碑的作 品として語りつがれている。投赦されること 数回。 初期の日本プロレタリア文学を芸術的に代 表する作家といわれている。 昭和二〇年十月、満州から引き揚げの途中 急逝。 五一才。 山本周五郎の間門園の書斎跡 _=ご== _F −  ̄二「i 権力にょって庇護されることのない庶民た ちは、いつの場合も被害者でこそあれ陽の当 たる場所には置かれない。彼らが最後に拠り 所とするのはお互い同志の信頼と愛なのだ。 これが彼の作品の随所に診み出ている。 気がむけば間門園から横浜橋の三善劇場へ 通いつめた。 川 英 よしかわえい 吉 治 じ ︵作家︶ 不思議なことに塙浜という街は多くの大衆 作家を生んだ。なかでも国民文学と謂われ庶 に生ま 民に愛された吉川英治は、明治二五年八月中 へ横浜植木会社裏門附近︶ れ千歳町にあった私立山内小学校に通い十九 村町手打越 ∧檻の木は残った∨の毎日出版文化賞辞退、 昭和十八年の∧日本晴這記>の直木賞辞喝 ∧青べか物語>の第十九回文芸春秋賞辞退。 彼は印章店の小僧や少年活版エ、税務署の 給仕、海軍御用商の店員、土建場の日雇い、 横浜ドックのヵンカン虫などを体験した。 少年の日の歓びも悲しみも横浜の黄昏の街 の灯の中で経験しっつ育ったのである。 志を高く抱きながらも、貧しい青年、長谷 柳壇においても一言もっていたと云える。 生きよ 春機ろ〃 柿のたね〟 夕涼み〟 豆のつる〟 備にはあるぞ などの名句があるが、そのなかに ″働いた この先を考えている 死のうか 見よ弟よ いう号で、井上剣花坊、川上三太郎らと共に 〟生きようか 〝喧嘩するな け、市制が施行された明治二二年には二万五 幼い彼がその港町横浜の開かれた雰囲気を 年後にあたる。 英治が生まれたのはその市制の施行から一二 千を越えるほどにふくれあがった。 百余戸に過ぎなかった横浜の町も年と共に開 椅浜は安政六年に開港された。その当時は 才のとき一人で上京するまで横浜で過した。 彼はあらゆる晴れがましい文化賞を固辞し している。 長谷川伸、吉川英治、大仏次郎、獅子文大、 等に代表される横浜生れの作家たちと異った、 いる。 甲州人らしい気性が現代感覚の上に混在して 戦後二十年間、昭和四二年二月没するまで、 思う存分呼吸し、成長したことは当然だった いう句がある。あまり貧乏すぎるので笑って 笑い合い〟と しまったという句だ。ただの貧乏ではなく赤 余りの果ては 父戯が開いていた私塾には、相沢あたりの 貧しさも 貧しい子ども達と共に青い眼の子どもも何人 彼には横浜を舞台とした作品が少ないのは 貧洗うが如しだったのだろう。 その時代の哀 ︵<カンカン虫は唄う>四半自叙伝と傍題し た<忘れ残りの記>を除いて︶ み本牧を舞台に<痴人の愛 閻会社の ∧本牧夜 間、本牧に住 傷の思い出を考えたくなかったのだろうとい 俳句の方には う説が多い。 話>を描き、〝大正清影″ 大正十年から十二年まで二 ∧私本太平記>へ毎日新聞達哉︶ 無常感〟〝骨肉愛〟の三つの柱で成り立っ たしかに吉川文学の特徴をいえば、雄大な ている﹂と云っている。 構想がしっかりと骨格をなしており、そして 計算された事件の発生と関連が見事に展開さ れる。文章が凝っていて、会話が多いので括 そこには古典の単なる引き写しではなく、 字べったりといった読みにくさがない。 昭和三七年九月七日没。七〇才。 彼一流の史限に貫ぬかれた新しい歴史が在る。 一36一・− く煙の中の冬鴎″″横浜に住みなれ夜ごと夜 霧かな″等の港を歌った名句のある女流俳人、 中村汀女。 官舎にしばらく住み︹昭和七年︶、〝船の吐 主人が横浜税関に勤めていた関係で、税関 設立に参画したが震災準関西に移り、遂に ハマには再び戻らなかった耽美派の巨匠、谷 崎潤一郎。 大の桑原武夫教授は、﹁吉川文学は〟求道〃 であり、京 朝にメスを入れ、病と斗いながら完結させた 絶筆は、歴史的ジャングルといわれた南北 ならなかった。 家は檀き、英治は学校を途中で退かなければ それと同時に、父が訴訟問題で負けたため、 崎秀樹は云っている。 つの手がかりを与えてくれると文芸評論家尾 学にみられる大衆性と開明性の同時存在に一 か混ったいた。この不思議な混交は英治の文 と云える。 〝 II 本牧の地を動かず、そこを綜の雷としたの も開港地積浜に魅かれるものがあったからだ ろうか。 しかし、本牧の海はすっかり埋め立てられ、 石油コンビナートの高い煙突が寒々と並んで いる。 周五郎の愛した本牧の海にはもう漁火は見 られない。 〝梅咲くや 昨日と思う 十七忌〟蓮光寺 にて、という句がある。 地蔵坂の連光寺の入口の左手に相沢時代の 吉川家の墓がある。英治自身の墓は晩年、彼 が自ら多摩墓地に建立した。 透寓が生きている時分、英治の文学碑を建 と云 この坂を通って吉川英治は私立山内小学校へ通学した てるはずであったが、地元の土地の問題で暗 礁に乗り上げてしまったらしい。 昭和十年︵四三才︶ から一四年に亘って朝 日新開に連載された∧官本武蔵∨は、今日大 衆小説の古典とまでいわれている。 昭和十一年に起きた二二一六事件の際、英 治の配鮎のあった赤坂衰町〓帝は、戒厳令下 ますので﹂ 川先生の<宮本武 にあり一般の者の通行は許可されなかった。 非常線を突破すると 行け′﹂ と通行 ったら、あご紐をかけ帽子をかぶった警備兵 蔵∨の原稿をい が ﹁宮水武蔵の 朝日新聞記者は 云っている。 が<宮本武蔵>を 挿話もある。 たこと 一石川町.遊行坂 ̄ を許可してく また、戦争未 読んで死地に赴 平家 は有 “蕗のとうおもいおもいの汐汽笛” 野毛山公園内にある汀女の句碑 〝 父が横浜税関長で幼き日、横浜に住み、山 手の風物を∧〓居の葡萄>に託し、名作∧或 匠、有島武郎。 る女>を残して若くして自殺した白樺派の巨 曙町の夜の女を主題にした∧運河の女∨を 描き、華中戦線で芥川賞を深田久弥中尉に届 けられたという構光利一門下の異質の作家、 八木義徳。 文学座の創設に参画しユーモア小説の巨峰 であり、小説<やっさもっさ∨にハ マの戦後 史を綴った弁天通生まれの獅子文六︵岩田豊雄︶ 意 中区ミニ年表 5●29 横浜大空襲、区内の市街地全滅 ◎ S20年︵一九四五︶ 2■16 市内四か所のうち千代崎町方面空襲 6●10 本牧三之谷、本牧大里町、本牧元町 の一部空襲 9●2 米軍横浜進駐を開始、市街地を接収 ◎ S21年︵一九四六︶ 5●l メーデー復活 7・詳 GHQの指令で構浜正金銀行解体 11・3 新憲法発布 弊・詳 食糧危機深刻化、ララ物資による学 校給食開始 ⑳ S22年︵一九四七︶ l,封 マ元帥がゼネスト中心指令 3●l 県民米よこせ大会開催 4●ち 初の市長公選 中区遺族会が発足 3●7 自治体警察が発足 ◎ S23年︵一九四八︶ 5・1 ◎ S24年︵一九四九︶ 3・草 稿浜弘報︵現、広報よこはま︶発刊 3・15 横浜で日本貿易博覧会開催 8・31 キティ台風大あばれ 10・18 山下町にヘボン博士の記念碑建立 Y校文化の魁けとして、原阻洛山、今丑卯 は洋書ばかりだったという、終生ハマを愛し 無益な簸生をせず、時代小説作家なのに書斎 文壇随一の紳士。∧鞍蕉天狗>の作中でも 作者、大仏次郎。 長であり紀行文家として一家をなし、′横浜正 続けた∧琴笛∨ 木と共にヶ学燈〃を発刊、日本山岳会初代会 金銀行員であつたサラリーマン作家の草分け、 小島農水。 また、日本、鉄道敷設の恩人、エドモンド・ プランド。フェリス女学校の創立者、メリー・ モレル。ピール醸造の祖、ウイリアム・コー 菱田春草、今村紫紅、前田青椰、古林古経、 キダー。ゲー二丁−座の創立者、ノトんトフー 岡倉天心と交わり、下村観山、安田勒彦、 後援し、重た、滝精一、中川息順、和辻哲郎、 速水御舟、牛田鶏村など数多くの日本画家を 支部申分会が発足 神奈川県共同募金会中区支会が発足 中区保護司会が発足 等々、横浜に生まれ、横浜に住み、横浜を 化に関わりのある人々。 ク・へ7トら外人墓地に眠ってい各日本の文 重 矢代幸雄等を中心とした〃三漠闇グルー㌧7〃 と称された美術評論家たちのパトロソであり、 自らも稀有の文化人であった、原三溝。 謹厳とみられがちな軍医廠監であり、横浜 を追って来日した、ドイツ娘アリスを横浜の 市歌の作詞者であり、ドイツ留学の帰朝の後 鴎外。 埠頭に送別し、忘れ得ぬ破局の恋を処女作< 舞姫∨に謳った文豪、森林太郎 明治三七年、横浜に生まれ昭和四六年、六 >でデビューし∧ヨ]ハマのサギ山>、∧海 六才で没するまで横浜で暮し、∧風と花びら S25年︵一九五〇︶ 残した童話作家、平壌武二。 のふるさと∨等の心暖まる数々の作品を書き ⑳ 中区赤十字奉仕団、中区赤十字運動 根岸に米軍飛行場開設 推進委員会が発足 4●3 横浜港の管理が市に移った 3●22 5・2 開港バザー復活、若葉町の飛行場跡 朝鮮動乱が起きた 地で開催 6・鼻 6■25 積浜市庁舎が反町に移転 中区社会福祉協議会が発足 野毛山動物園が開園 S26年︵t九五一︶ 川・滞 ⑳ 3・31 4−1 4一l 中区体育協会が発足 4■24 桜木町事件 国電炎上死考98人 軽傷老66人 対日平和条約に調印、日米安保条約師結 が第一船として出帆 7.14ニューヨ・・ク定期航路再開、若鳥丸 2 日本国際連合協会神奈川県本部横浜 横浜港大桟橋の接収解除 S27年︵一九五二︶ 9・8 ⑳ 2・ほ ● 2■16 9 − 昭和50年 が横浜港から出発 戦後第一回のブラジル移民︵54人︶ S28年︵一九五三︶ 三渓園が三渓国保勝会の管理となる NHKテレビ放送開始 横浜税関ビル接収解除 県警スタート、市警3。年7月統合 S29年︵一九五四︶ 7■洋 S30年︵一九五五︶ 県立図書館、音楽堂完成 ◎ 横浜港センター・ピアが接収解除 S31年︵一九五六︶ S33年︵一九五八︶ 5●5 ◎ 4●l 中区商店街連合会が発足 6●20 デパート野沢屋が全面接収解除 ◎ 11●薮 O 11・2→ 座間に移転 10・詳 米極東軍司令部︵横浜税関ビル︶が 8。17 2●l O 12・非 昭和20年 いるが紙面の都合上割愛させていただいた。 愛した幾多の文化人群像ぶ当区には荘添して “ジャパン・パンチ の チャールズ・ワーケマンも眠る外人墓地 3.12 2・21 l■14 山下公園が全面接収解除 シルクセンター︵山下町︶完成 根岸湾埋立事業着工 国鉄根岸線の建設着工 S34年︵一九五九︶ 3・23 ◎ 5,l 横浜港百年祭が開かれた 9・26 台風㍑号大あばれ、県下で死者93人 【38m 39 <こ房の葡萄>に描かれている山手風景 東海道新幹線開通 第柑回東京オリンピック開会 9●17 9 県が公害防止条例を公布 10・川 6・1 10・詳 9.1 本町小学校︵花咲町︶内に瓦斯灯再建 9・12 市庁舎が落成︵現在地︶ ● O S35年︵一九六〇︶ 1 表 男68・35才 女73・6才 上大岡−伊勢佐木町間の六 北方小学校構内のビール井戸を保存 地下鉄 つの駅来春着エと決まる 消費生活モニターを委嘱 本牧一号住宅地区の接収解除決まる 11● 10・※ 10・※ 明治百年記念、文明開化まつり実施 大通り公園、吉田州埋立計画発表 桜木町駅前に鉄道発祥記念碑を建立 16 1・惑 ◎ 磯子マンキスプール完成 10● 4・※ 中区連合町内会最適絡協議会が発足 6・※ 店 横浜駅西口のダイヤモンド地下街開 横浜公園歌謡ショー惨事、圧死12人 12・詳 3・2 O S36年︵一九六一︶ 7・燕 3■23 中区更生保護婦人会が発足 1・6 ばい煙規制法が発効 第三京浜道路︵東京−横浜間︶開通 S40年︵一九六五︶ 6・1 伊勢佐木町で歩行者天国 12・※ 9・※ 伊勢佐木町のカラー歩道が完成 〇万円 横浜の貿易観一兆六九五六億一六〇 S43年︵一九六八︶ 1・29 O 12・14 区豆口台上町会を厚生大臣が表彰 3042年度環境衛生模範地区として、中 10・2 中区庁舎桜木町から住吉町へ移転 ◎ マリンタワー︵山下町︶ 開業 ◎ S37年 ︵一九六二︶ 3・3 横浜文化体育館が落成開館 横浜では鱒雪路甲 外人墓地でC・ワーグマンの墓前祭 構浜市の人口二百万人を突破 2・8 2・15 下鉄建設計画等︶ 市営交通事業の再建計画を発表︵地 S41年︵一九六六︶ 4・29 山下町に横浜天主堂跡の碑建立 2・弊 5・8 港の見える丘公園が開園 中区青少年団体連絡会が発足 4・22 国際仮装行列の見物人20万人越える 本牧荒井︶没、都 14年ぶりの豪雪 県庁新庁舎︵元浜町︶が完成 本牧ふ頭にコンテナ船第二号入港 4・赤 5・弊 5・12 中区婦人団体連合協議会が発足 10・10 北仲通に日刊新開発祥の地の碑建立 5・24 0 1・3 11・9 中区老人クラブ連合会が発足 点字版の広報よこはま発行 首都圏近郊線地保全法成立 飯田国吉︵64才 7・詳 7・5 上大岡−伊勢佐木町間起工 高速道路横羽線︵羽田−東神奈川間︶ 外人墓地に明治百年記念の碑建立 東京都府中市ゼ、3億円事件発生 北仲通の日本最古の木造灯台が海洋 山下公園の露天商が市の命令で、市 S44年︵一九六九︶ 12・10 横浜市の交通災害共済御慶スタート 11・29 開通 11・28 市対抗野球の草分け 桜木町駅前地下道完成 6・芽 ⑳ 3・14 根岸湾埋立第一期工事が完成 神奈川県保護観察協会中区支部発足 地下鉄 ◎ S38年 ︵一九六三︶ が 0 1・1 発行 新硬貨白銅︵一〇〇円と五〇円︶ S42年︵一九六七︶ 7・1 ほ・詳 11・9 2・1 79人 国鉄鶴見事故 死老161人、重軽傷者 開館 山下町のアメリカ文化センター閉鎖 県立博物館︵旧正金銀行本店︶ 市内中心部の電話局番3ケタになる 3・22 5・1 O 3・ 2・25 5・銅 厚生省、前年の日本人平均寿命を発 中区青少年図書館︵本牧町︶開館 2 ・9 中区美化運動実施本部が発足 1 ‖・29 中区体育指導員連絡協議会が発足 12・25 日本大通に電信創業の地の碑建立 6・6 12・1 ◎ 539年︵一九六四︶ 7・㌶ 9・22 に永久保存と決った 10・薫 21 桜木町の大江橋架替工事着工 11・1 博物館︵東京︶ 中区青少年指導員協議会が発足 中区学校施設利用促進協議会が発足 ● 成予定︶ 大通り公園の工事着工︵52年慶未完 テレビ神奈川︵TVK︶が開局 た横浜市電が全廃 31明治以来68年間市民に親しまれてき とした都市圏づくりを発表 を新都心地区に育成し、これを中核 首都圏整僻事議会が頓浜・川崎など 市庁舎構内に港町魚市場記念碑建立 ソ連、ルナ20号月面に軟着陸 横浜市内の大地震避難場所決まる 山手町の米軍住宅地返還 灯を永久保存 三渓園が野鳥保姦区として指定さる 7・27 6 2 9 ● ● ● 3 4 5 5 ● ● 7 1 できる 桜木町駅開業盲年 米軍根岸住宅地区の全面返還決まる 放、公園としてオープソ 山手町のフランス山が百年ぶりに開 ども音楽祭開催 市民ホールで20か国が参加、国際こ 横浜市でノーカーデーはじまる 食堂車﹂ 6 港夜間労働者のため全国初の﹁港の 4■2 4※※ ■⊥ 3 2■1 2 7・20 所 県警交通情報センター︵山下町︶開 日本水上学校︵山手町︶が廃校 5・19 根岸線が磯子まで開通 大人 3 5 円 日中交歓卓球大会を文化体育館で開 京急日の出町駅前で、スクランブル ● 横浜市勤労者少年会館︵野毛山︶開 8・30 本牧ふ頭に船員センター完成 館 10・20 山手町にイギリス館︵旧英国領事館 開鮭 日本の総人口一億人を突破︵総理府 邸︶ 11・12 12■2 吉田川の上を大通り公園とする具体 10月1日の国勢調査結果︶ 12■18 広さ41千.㌦︶ まず西門完成 中華街名物の朱門の増設︵東西南北 案決定︵長さ㍑伽 12・23 に設ける︶ 横浜市営地下鉄のシンボルマーク決 が返還 @ S46年︵一九七一︶ 2・15 山手米軍住宅地区の一部︵35千㌦︶ 2・24 定 催 輪ボギー一t一〇五号が保存さる 3・8 本牧市民公園にデゴイチと市電の四 4・24 5・10 山手住宅地区の一部︵61千㌦︶接収 式横断︵斜め横断︶実施市内で最初 8・24 解除決まる 2 ● S47年︵一九七二︶ l・25 横浜生糸検査所︵北仲通︶前の瓦斯 4・l 5・20 中区交通安全対策協議会が発足 が建設した公園内外の店に移転した 公衆浴場入浴料金改定 5・26 東名高速道路全面開通 7・け 小人10円 7・28 本牧ふ頭関連産業用地造成が完工 8・13 本牧市民公園内に、青少年自転車道 格闘通 常膵響口 貸し車無料 9・13 本牧市民公園誕生 10・l 横浜市に新区発足︵港南区、旭区、 線区、瀬谷区︶ を親子二 10・22 京浜間で初のコソテナ専用ふ頭が、 代守り続けてきた勝治信︵本牧三之 本牧Aふ頭に完成 1101 我国最古の灯台︵北仲通︶ 谷︶ を、第三管区海上保安本部長が 表彰 11・24 根岸競馬場ゴルフ場部分返還式が現 地のクラブ・ハウスで開催 12■目 地元の連合町内会主催で、旧根岸旗 馬場跡地の返還と開放を祝うつどい 開催 12・※ 港の見える丘公園四万㌦に拡張 ◎ S45年︵一九七〇︶ l・沌 横浜陶芸センタ∴王が本牧市民公園内 にオープソ 中区児童公園愛護会連絡会が発足 1・25 市民ホール︵旧横浜宝塚劇場︶開設 3●l 3・17 根岸線 磯子−洋光台間開通 40 -411 9・渾 桜木町の弁天橋柴替工事着工︵51年 3月完成予定︶ 3・2 瓦工場と水屋敷跡︵元町︶由来仮設 置 47年度から5か年計画で整給︶ =一一−−−一一一 12 若葉町−−…一一一一一− 16,23,35 ● 5 ︵本郷町︶ が開館 港町くすのき広場︵市庁舎前︶完成 機浜市上台集会所 関内伊勢佐木地区に第一次駐車禁止 館 関内地区パーキングメ 伊勢佐木町一・二丁目車道のカラー 富士見川公園開園︵10月工事完了︶ 柏葉公園建設着工︵51年1月完成︶ 寿町に寿町應合労働福祉会館が開館 万代町に横浜市教育文化センター開 10・燕 12・惑 12・※ ータ1新設 舗装完成。 1・兼 横浜市消費生活コンパニオン制度が 山吹町に伊勢佐木警察署新庁舎完成 山下町に県民ホールがオープン S50年︵一九七五︶ 6・惑 発足 ︵ 銀町に環境事業局中事務所新庁舎建 設着工︵51年8月完成予定︶ 山吹町に中消防署新庁舎建設着工 太田町・庄吉町等グリーンベルト完成 年7月完成予定︶ 7・涼 ハマ散歩 ︵順不同︶ ︵ 都心部プロムナード桜木町ルート − 桜木町駅−山下公園間︶完成 8。※ 山下町に産業貿易センター完成 参考資料 ︵文政11︶ 横浜市︶ 横浜市︶ ︵明25太田久好︶ 地理篇︵昭6 ︵昭15 ︵昭50横浜市教育委員会︶ ︵一九五一年版∼ 横浜市︶ ︵51囁浜市港湾局︶ 市政概要 横浜市︶ 横浜市図書館︶ ︵46 神奈川新聞社︶ ︵昭42版∼ その他 神奈川の人物 神奈川人物風土記 ︵昭亜森 学 席男︶ 研︶ 佃 佃 実美︶ 実夫︶ 新延修三︶ ︵昭48 ︵昭亜 ︵昭媚 朝日新聞の作家たち︵昭48 現代日本文学アルバム ヨコ ヨコハマ文学散歩︵29横浜文芸懇話会︶ 文学神奈川地図︵昭44 ﹁中区を鋳る人々﹂ その他 市民生活自書横浜と私 神奈川年鑑 横浜港便覧1976 横浜市と米軍基地︵昭49横浜市絡務局︶ 横浜の空垂と戦災3公式記録編︵昭50︶ 横浜の歴史 横浜の文明開花︵昭39市教職員互助会︶ 横浜経済文化事典︵38市大経済研究所︶ 横浜町名沿革誌 横浜沿革誌 横浜市史稿 新編武蔵国風土記稿∧復刻∨ ﹁小史関係及び年表﹂ 癖 10・※ 6・澤 6・英 1・英 ◎ 議会が発足 横浜∵二二渓園の重要文化財﹁臨春閣﹂ 2 ■21 2 横浜市吉田中学校プール開放運営協 6 7 6・※ 6● の内部がはじめて一般公開 16,24 数 よ ー 中華街で国交回復後初の国慶節パレ 郷土質料館︵旧八聖殿︶が本牧元町に オープン 根岸線延長区間︵洋光台−大船間︶ 3・29 4・9 開通 打越の霊泉の碑建立 路工事のため取り壊し ハマの名所﹁吉田橋﹂が102年目に道 10・7 大江橋架替工事完成 5・12 7・※ 8・16 吉浜町の横浜製鉄所跡に一記念碑建立 英一番館跡︵山下町︶、ジュラール S49年︵一九七四︶ 11・20 ◎ 2・莱 吉田町− 本牧元町−−−−−一16,21,35 本牧和田 16,24 11 0 1・2 10・23 県政総合センターがオープン 11・28 横浜税関創設百年 ・16 市営地下鉄︵上大岡−伊勢佐木長者 町間︶ が営業開始 12・丼 市道幹線2号第二山手随道政良工事 着工︵51年6月閑適予定︶ ◎ S48年 ︵一九七三︶ ︵市は 吉浜町 現 わ 教 ま 間門町 真砂町 横浜公園 16 15,26,27,32 館した 】1 ※ み 42 2・17 横浜松竹劇場︵旧オデオン座︶が閉 2・涼 根岸森林公園の都市計画決定 20 本牧ふ頭 本牧満坂 本牧緑ヶ丘 7 10,31,38 弁天通 筍 ほ 蓬莱町 本郷町 本 町 7、8,19,27,32,38 16,21 1 本牧町一−−− … 16,24 16,24 16.18,21.24 本牧大里町 本牧三之谷 本牧十二天 ︵U O 7 3 QU 1 14,33 7,8.19,35 12 貌 や 17,33 矢口台 8,10 山】F町 年次別 横浜市の人口 中区わ人口 1 1 1 1 1 1 珍\ 山田町 山手町 大和町 山吹町 山元町 弥生町 16.24 \,J 2 2 2 1 ・l ︼ l l l l 福富町仲通 福富町西通 福富町東通 富士見町 不老町 -4 3 624,994 43,235 706,557 55,498 814,379 77,014 859,324 83,580 911,835 85,659 951,189 89,813 1001,860 94,430 1039,265 97,178 1079,271 】00,155 1114,714 101,981 1143,687 105,925 117屯465 107,575 1211,748 110,035 1253,764 113,957 1301,896 119,609 1375,710 123,624 1437,868 127,27】 1514,444 130,204 1590,191 132,611 1676,394 】34,713 1788−915 136,882 1859,772 137,984 1945,272 138,481 2047,487 138,342 2143,820 138,341 2238.264 13 2,470 2342,809 133,198 2433 024 132,678 2494975 130,736 25 62291 129,281 2 621648 131,342 昭和20年 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年 31年 32年 33年 34年 35年 36年 37年 38年 39年 40年 41年 42年 43年 44年 45年 46年 47年 48年 49年 50年 場 ユ、 1 7 14 各年10月1日現在 港 町 南仲通 簑 沢 宮川町 妙香寺台 三吉町 均 む 麦田町 吸 も 元浜町 元 町 夜 ひ 日ノ出町 戦後の人口推移 松影町 豆口台 13.35 東 町 名 さ く い ん 子 あ 相生町 赤門町 曙 町 敬 い 池 袋 後 す 末広町 末吉町 住吉町 諏訪町 9,10 14 12,38 17 琴 た 滝之上 竹之丸 立 野 石川町一=一−…一…−−−−−−−−−−−−−】5,27.29.31 伊勢佐木町一=…一 =−−−−−一一一… 中区地区沿革 申 区 を 続 る 人々 昭和51年3月31日 発行 睾 編 集 中区役所市民課 攻 勢 行 中区役所市民課 枚 印 刷 (有)鶴見謄房 筍 編集グループ 執筆「中区地区沿革小史」 秋山佳史 中区市民課長 橋浜郷土研究会会員 「中区を腐る人々」 原田一郎 中区社会教育主事 横浜市役所文芸懇話会 協力ーーー横浜市図書館 総 括= …一案地喜代司 レイアウト田中 俊一 写 真…▼‖▼▼ 関野 息充 カット ーー 小林 康夫 筍 う 上野町 打 越 内田町 敬 お 扇 町 大芝台 太田町 大平町 翁 町 尾上町 境 か 海岸通 柏 葉 かもめ町 教 き 北方町 北仲通 囁 こ 黄金町 寿 町 小港町 致 さ 鷺 山 桜木町 敬 し 新港町 新山下一丁日 新山下二丁目 新山下三丁目 11,12,27 18 15,30,36 磯 ち 千歳町 千鳥町 長老町 千代崎町 14 11 17,25 枕 つ 塚 越 9.10 17,25 ウ童 て 寺久保 王1 10,30 箸 と 常盤町 豊浦町 6,8,9,10,19 17 20,21 18 10 娩 な 仲尾台 携 に 錦 町 西竹之丸 西之谷町 日本大通 14,33 】1,27 字喜 ね 18,22.24 根岸加骨台 根岸台 17,38 】4 根岸町− 19 弄蔓 の 野毛町 19 19 敬 は 羽衣町 初音町 19,22 −44− −−−−=−一=−一 17,21