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ペルシャ戦争と民主政

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ペルシャ戦争と民主政
鈴木の世界史B講義録
10
12_No10.jtd
ペルシア戦争と民主政
ペルシャ戦争と民主政
下線部地名は位置確認せよ
オリエントを統一したアケメネス朝ペルシアは、小アジアをも支配した。
BC500 年、アケメネス朝に支配されたミレトスなどのイオニア植民市が
かなり大規模な反乱を起こした。反乱は鎮圧されたが、これにアテネが
荷担したとして、アテネを含むギリシア全土を征服するために、アケメ
ネス朝ペルシアの遠征軍がギリシア本土まで3度もやってきた。これが
【1:
】。3度とは、Ⅰ:BC492 年、Ⅱ:BC490 年、Ⅲ
:BC480-BC479 年。このⅠ、Ⅱ、Ⅲは以下の記述で使用する。重要な戦いのほとん
どはⅢである。最初の侵攻は BC492 年だが、反乱の起きた BC500 年を戦争の始期とする。
イオニアで覚える地名はミレトス(イオニアの反乱の中心となった)とエフェソス(431 年、
エフェソス公会議でネストリウス派を異端とし、マリアを神の母とする)
☆耕地に乏しく穀物を輸入し、特に資源もなく、不団結で軍事的脅威で
もないギリシアに対し、アケメネス朝ペルシアが遠征軍を送ったのはなぜだろう?反乱荷担は口実で、
実はギリシア諸都市が持つ東地中海(+黒海)の商業覇権をアケメネス朝ペルシア(というより、その
保護下の【2:
】)が奪取しようとした戦争だった。《今後出題可能性有》
Ⅰ、Ⅱは最盛期の王、ダレイオス1世(位 BC522-BC486)、Ⅲはクセルクセス1世(位 BC485-BC465)。
1)ペルシア戦争そのもの
《頻出》 07R 他多数
Ⅰ:BC492
アトス岬沖で艦隊が嵐で難破。ギリシア
本土に到達しなかったが、陸軍はトラキア(現ブル
ガリア)を制圧し、前進基地を確保した。
Ⅱ:BC490 年 【3:
】の戦い(A)
アテネ重装歩兵軍、単独でペルシア軍を撃破!
全ポリスが完全に結束していたわけではなく、例えばテ
ーベをはじめギリシア中部以北の諸ポリスは、一貫して
アケメネス朝に加担した。ギリシア人同士の戦いという
側面もあった。ペルシア軍のマラトン上陸を先導したの
は、アテネから亡命した僭主ヒッピアスだった。将軍と
して有名なペリクレス(BC495?生)は当時まだ少年で参戦し
ていない!《意外と頻出》
☆マラトンの戦いで、伝令フェイディピデスは 36.75Km を走って勝利を伝え絶命した(伝承)という。
史実とすれば彼は何のために走ったのか?
Ⅲ:BC480 年 【4:
】の戦い(B)
スパルタ王【5:
】配下の軍、獅子奮迅す
るも全滅。
「旅人よ、行きてラケダイモンの人に告げよ 汝が命を守りて我らここに死せんと」(碑文)
ペルシア軍はアッティカ地方を侵略、アテネを占領、破壊したが、アテネ市民は屈しなかった。
Ⅲ: BC480 年 【6:
】の海戦(C)
テミストクレス ※ 指揮下のアテネ海軍はフェニキアを
主力とするペルシア艦隊をサラミス湾入り口の狭い水路に誘い込み撃破。
※戦後オストラシズムで追放
貧しくて武具が買えない【7:
】(テテス)が三段櫂船(当時の軍船)の漕ぎ手として軍役を果
たし、参政権を得ていく。≪頻出≫写真・イラストをチェックせよ
櫂の漕ぎ手 60 ~ 170 名を上下 3 段に配置したことから三段櫂船(さんだんか
いせん)と言う。アテネ海軍の場合、漕手 170 人、補欠漕手・水夫・戦闘員 30
人の 200 人が搭乗、攻撃時の最高速力およそ 10 ノット。帆走もできるが、船内
は狭く食事も睡眠もできないので沿岸専用である。船底最前部に青銅で補強し
た衝角という突起物を備え、敵船に衝突して船腹喫水下に穴を穿って浸水させ、
行動不能とする戦術を得意とした。漕ぎ手はテテスだけでは足りず、後にメトイコイ(在留外人)が大半を占めるように
なったとも言われている。敵艦の船腹の喫水線より下に大穴をあけて沈没させるという発想から 19 世紀後半には「魚雷」
が登場した。第二次世界大戦中の日本海軍の酸素魚雷は、米軍から「長い槍 Long Lance」と呼ばれ恐れられた。
Ⅲ: BC479 年 【8:
】の戦い(D)
アテネ・スパルタ連合軍を中心とするギリシア連
合軍がスパルタの将軍パウサニアス※の指揮でペルシア陸軍を撃破。本土から撃退した。事実上、これを
12_No10.jtd
http://sekaishi.info
http://geocities.jp/sekaishi_suzuki/
もってギリシアの勝利のうちに戦争は終わった! 同じ頃、イオニアのミカレ岬では上陸したギリシア軍
が大勝、イオニア独立への道を開いた(ミカレ岬の戦い)。
※同名のスパルタ王がいるが別人である。
BC449 年 カリアスの和約で正式に終結
2)ペルシア戦争の影響
a)オリエントの専制国家に対して自由な市民の軍団が勝利した意義は大きい。
b)アテネでは軍船の漕ぎ手として活躍した【9:
】の発言力が強まり民主政が完成した。
この時期を指導者の名に因んで【10:
】という(BC 5世紀後半)
3)ペルシア戦争のⅢ(BC480-BC479 年)が終わった後の BC478 年、ペルシアの再来襲に備えて、強大な
海軍力を持つアテネを盟主として、エーゲ海沿岸の約 150 のポリスが、
【11:
】を結成し、
最盛時には傘下のポリスは 200 を数えた。傘下のポリスは軍船または資金を拠出した。
ペルシア戦争が BC449 年に正式に終結(カリアスの和約)した後も、同盟は維持された。同盟の本部は
当初デロス島にあったが、BC454 年以降アテネに移され、軍船、資金の管理はすべてアテネが行い、事
実上、「アテネ帝国」ともいうべきアテネの支配権が確立した。
例えば、【12:
】の建設費はデロス同盟の基金から支出されるなど、アテネは公金を
流用した。アケメネス朝ペルシアは正面攻撃をあきらめ、亡命者を受け入れ、黄金を提供して世論を攪
乱するなどの手段でギリシア世界を脅かし続けた。
ペロポネソス戦争
1)ペルシア戦争前の BC 6世紀末、アカイア地方とアルゴスを除く全ペロポネソス半島のポリスはスパル
タ王クレオメネス 1 世によってスパルタを盟主とするペロポネソス同盟を結成した。彼らはアテネとと
もにアケメネス朝と戦ったが、ペルシア戦争後にアテネが覇権を確立すると危機感を持ち、ペロポネソ
ス半島以外の反アテネのポリスも糾合し、ついに【13:
】BC431 ~ BC404 が起きた。
2)アテネは再建の際、外港ピレウスとの間に長城を築いて食料の搬入路を確保するなど鉄壁の防御態勢を
固めてあった。ペリクレスの発案で全住民を城壁内に避難させ(海上ではアテネが優勢)、戦争は長引い
た。折悪しく中央アジア方面から(推定)この食料搬入路を通ってペスト菌が城内に持ち込まれ、ペス
トの大流行で死者多数、BC429 年、ペリクレスもペストで死亡。その後のアテネは、煽動政治家(
【14:
】)に翻弄され、見識を欠く言動で、民主政は【15:
】に陥った。
ペリクレス時代までの政治家は、将軍のような役職についていたから、何か提案すればエイサンゲリア(弾劾裁判)で責任
を追及され死罪もあり得た。07W デマゴーゴスは雄弁により民会を操ったが、彼らはたいてい役職に就いていないので
責任を問われなかった。無謀なシチリア遠征に失敗して弱体化したのも衆愚政治のためであるとされている。
衆愚政治の実例
クレオン(?-BC422)は好戦的なデマゴーゴスだった。例えば、ミティレネというポリスがデロ
ス同盟から離脱しようとした時、クレオンは民会を煽動して次のような決定をさせた。「ミティレネの市民(男子)
は全員死刑、婦女子は奴隷として売る。」 彼に煽動されて賛成した人々も、良く考えたら、余りにも過酷であるこ
とに気づき、再び民会を開いた。今度はクレオンの主張に反対する意見が僅差で多数を占め、決定はより温厚なも
のに変更されたが、既に死刑執行人がミティレネに向け出港していた。最も速い船で送られた決定変更の使者が着
いたときは、最初の一人の死刑執行の刃物が振り上げられた瞬間だった(史実でない可能性もあり)と伝えられる。BC425
年に、スパルタ側からあった和議の申し入れを、民会を煽動して退けさせたのもクレオンである。デロス同盟への
貢租額の引き上げにもかかわった。BC422 年、将軍として遠征し、戦死している。
BC405 年、アイゴスポタモイの海戦でアテネ艦隊は壊滅し食糧搬入路を絶たれ包囲されたアテネは、翌
BC404 年降伏した。戦後の占領によって、民主政の維持は困難となった。
なお、最後のオリュンピアの祭典は AD393 年(第 293 回)で、キリスト教を国教化(392)したローマ帝国によって
禁止されるまで続いたのであって、ペロポネソス戦争の敗北とは直接の関連はない。
3)勝利したスパルタも、金・銀が流入して土地の売買が始まり、貧富の差が生まれ軍国主義・鎖国体制が
崩壊した。BC4 世紀のギリシア諸ポリスは、ペルシアの渡す黄金に操られて対立・抗争を繰り返した。
例えば、BC395 ~ BC386 年の【16:
】は、スパルタの覇権を危険視したアケメネス朝ペ
ルシアがアテネ、テーベ、コリントに経済援助を行い、3ポリスが同盟してスパルタの覇権と戦うよう
仕向けた戦争である。ペルシアの仲介で BC387 年大王の和約が結ばれた。BC371 年、斜線陣戦法を駆使
する名将エパミノンダス※に率いられてレウクトラの戦いでスパルタを破った【17:
】もペル
シアに支援されていた。テーベはペロポネソス同盟を解散させ(後に再結成)覇権を握ったが長続きし
なかった。
※ BC382 年生れのマケドニアのフィリッポス2世(フィリップ2世)は王子時代の 15 歳から3年間、テーベに人
質に出されていた。それは BC366 年前後のことと推定できる。当時の王族の人質は、多くの場合かなり自由に振る
舞い、教育を受けさせてもらえる場合もあった。フィリッポス2世はレウクトラの戦いに勝った名将エパミノンダ
スに気に入られ、彼の家で教育を受け、そのとき斜線陣戦法を見学しこれを盗んだと言われている。帰還して即位
したフィリッポス2世はマケドニア流にアレンジした斜線陣戦法を駆使し、息子のアレクサンドロスにも教えた。
4)長期にわたる戦争で農地は荒廃し、死傷した市民も多く、もはや市民の重装歩兵がポリスを自衛すると
いう【18:
】の原則は失われ、【19:
】が導入された。土地を失った市民は生活のため
に傭兵となった。ポリスへの帰属意識も連帯感も失われていった。こうしている間に、隣国【20:
】が強大化していった!
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