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広島市北部の史跡を巡る旅

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広島市北部の史跡を巡る旅
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広島 市北 部 の 旅 一
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35
福 山駅北 □
発
IC
奥 谷 PA
奥 谷 PA
広 島 東 IC
着
木 の宗 山麓
若
木 の 宗 山登 山 □
葛
本 の宗 山遺 跡
着
木 の宗 山遺跡
発
○○
木の宗 山麓
発
20
20
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30
恵 下 l蜘 遺 跡 '恵 下 山 城
/休 憩 )
着 (昼 食 ・ }ヽ イ し
恵 下 llJ遺 跡 `恵 下 山 城
発
両延 神社
着
両延 神 社
発
熊谷氏居 館跡
着
熊谷氏居館跡
発
伊 勢 ク坪 城 跡
着
伊 勢 ケ坪 城 跡
発
不 動院
着 (ト イ レ休 憩 )
不動院
発
iC
福 山 東 IC
着
福山駅北 □
着
福 山西
広島
意 (ト イ レ休 憩 )
発
着
着
★ 時 間 の都合 で両 延 神社 を省略 す る場合 があ ります。
弥 生 時代 の 青銅器
銅 と錫 の合 金 で あ る青銅 で 製作 され た弥生 時 代 の器具 は、中 国 ・ 朝鮮 で
製作 され た前 期 の 舶 載 品 (輸 入品 )と 中期後 半以 降 これ を模 倣 した国産 品
があ る。舶載 品 は九 州 以 外 での 出土例 は少 な く、国 産化 によ つて 各地 に供
給 され たもの とい える。九 州 にお いて は、初 期 の 青銅器 は個 人所 有 の宝 器、
権威 ・ 特殊 な職 能 の象 徴 と して埋葬 の 副葬 品 と して 現 れ るが 、後 には九州
以外 をも含 め て祭 祀 用 具 (祭 器 )あ るいは 護 符 ・ 呪 符 として、 単独 も しく
は複数 が埋納 され た状 況 で出土 す る場 合 が多 い。
青銅器 は器種 によ つて 分 布範 囲 が異 な り、九 州 を 中 心 と した銅 剣 ・鍋茅
分布 圏 と近 畿地 方 を中 心 と した鋼鐸分布 圏 は古 くか ら指 摘 され た ところだ
が、中国 。四 国地 方 はそ の 接点 であ り、ま た 瀬 戸 内海地 域 は平 形銅剣 の分
布 の中心地 であ る。
県 内 で発見 され た弥 生時 代の 青銅器 は 29点 で 、細形 。中細 形銅剣 7、
平形銅剣 10(内
銅文
1、
7は 現 存 せ ず )、
銅 鐸 2(横 帯 文鐸
巴型銅器 1、 銅鏃
1、
中細形 銅 矛 2、 中細 形銅灸
袈裟欅 文鐸 1)、 貨 泉
1、
1、
鉄父型
小 型備 製鏡
1、
3で あ り、その用 いられ た 時期 も中期後 半以降 であ る。
銅鐸 や銅剣 、鋼 矛 、銅文 な ど武器形祭器 は 集落 から隔 た つた山 腹 、丘 陵
の 巨石 の下 か ら出土 す る例 が多 く、また単 独 例 が多 いが 、広島 市福 田の 木
の 宗 山の銅 鐸 ・ 中 細 形銅 剣 ・ 銅文 、広 島市 可 部 町 両延神 社 (諸 延八幡社 )
境 内 の平形銅 剣 7、 尾 道市 大峰 出の 中細形 銅 剣 2・ 銅矛
の平 形銅剣
1、
福 山市熊 野町
2の よ う に複 数 の 組 み合 わせ の 出土例 があ る。
一 方 、集 落 跡 出土 例 で は、広 島市 真亀 C地 点 の 住居跡 からの 出土小型傍
製鏡 があ り、 西山 貝塚 の巴 型銅器 は 日常生 活 に 関 連 した 護符的 存在 であ る。
ま た、福山 市本 谷 遺跡 は全 国的 に 出土例の ま れ な「 貨 泉 」 出土 地 として知
られ 、箕島 から は細 形 銅剣 の破 片 (鋒部 )が 出土 して い る。
今 の とこ ろ県 内 に青 銅器 鋳 造 の痕 跡 を示 す遺跡 ・ 遺物 はな く、発 見 され
た青銅器 はす べ て九 州 。近 畿 な ど他地域 か ら持 ち 込 まれ たもの と考 えられ
てい る。
1
木 の 宗 山 出土 青銅器 3点
国の重要文 化財 .昭 和 27年 (i952)7月
29日 指定 。光町清 子氏所蔵 .
広島市東 区安芸町 福 田の 木 の 宗 山中 腹 から出土 した異種 の青銅器 、銅鐸 ・
中細 形銅剣 ・ 鋼文 の 各 1点 。銅 鐸 は横帯 文 (お よ び邪視文 書辟邪文 )で 高
さ約 1 9cm、 中細 形銅剣 は長 さ約 3 9om、 銅父 は長 さ約 2 9cmで ある。
この 3点 の 青銅器 は、木 の 宗 山の地権者 の光 町 尽三郎氏 が、明治 24年
(1891)、 山の西 端中腹 (海抜 約 200m)の 通称 烏 帽子岩の下 から弥生式土
器 ととも に発見 したもの で あ る。
銅鐸 。鋼剣 。銅父 が一緒 に 出土 した 例 は全国 で も唯 ― で、 近畿 を中心 に
分布 す る銅鐸 と、九州を中心 に分布 す る鋼 剣 ・ 銅 父 が同時期 の もの (弥 生
時代 )で あ つた こ とを証明 す る貴重 な 資料 とされ てきた。
木 の宗山銅鐸 は、銅 鐸 の 分布 の西 限 の 出土例 で あ り (従 来の定説 .近 年
佐 賀県 で横帯文銅 鐸 の鋳型 の発 見 があ り、九州 製 造説 が提 出 され、 有力視
され て いる)、 形態 や 特異 な文様 (横 帯文 、邪視 文 =辟 邪文 )か ら見 て古
段階 の形式 (外 縁付 き錮式 =‖ 式 -2)の もの であ る。
《参考》銅鐸 の年 代 (吊 り手 の型 式変 化 によ る分 類 )
最古段階
古段 階
中段階
新段階
│… 1式
(菱 環錮 式
│-2式
‖-1式
‖-2式
‖ -1式
Ⅲ -2式
Ⅳ -1式
Ⅳ -2式
Ⅳ -3式
Ⅳ -4式
Ⅳ -5式
(菱 環銀 式 2式 )
1式 )
(外縁付 き錮 式
1式 )
(外 縁 付 き錮式 2式 )
紀元前 3世 紀 ∼ 前 2世 紀
紀元前 2世 紀
紀元前 2世 紀
紀 元前 2世 紀 ∼ 前 1世 紀
(偏 平鉦
1式 )
紀元前 1世 紀 ∼ 後 1世 紀
(偏 平錮
2式 )
紀 元後
1世 紀
(突 線錮
1式 )
紀 元後
1世 紀 ∼ 後 2世 紀
(突 線錮 2式 )
紀 元後
1世 紀 ∼ 後 2世 紀
3式 )
紀 元後
2世 紀
(突 線銀 4式 )
紀 元後
2世 紀
5式 )
紀元後
2世 紀 ∼ 後 3世 紀
(突 線錮
(突 線鐙
2
木 の 宗 山遺 跡
広島市 東 区 安芸町福 田の木 の 宗 山中腹 に あ る弥 生時代 の青銅器埋納 遺跡.
青銅器 が出土 したの は標高 413.lmの 木 の 宗 山の 急峻 な西南 中腹 の「 金 の
段 」 と呼 ばれ る福 田の狭小 な盆 地 を一望 す る標 高約 260mの 地点 であ る。
ここに花 尚岩 の 自然 露頭 であ る高 さ 5m、 根 元 の長 さ1.5mの 巨石「 烏帽
子岩 」 があ り、 この前 (南 )方 に接 し、 長 さ1.5mの 偏平 な石 と、長 さ 1.3m、
厚 さ40om程 度 の比較 的偏平 な石 が東 西方 向 に置 いてあ つて、西 側 の石 の 下
から銅鐸 、銅剣 、銅 支各
年
1、
お よび弥生式 上 器 と思わ れ る土器 が明治 24
(1891)5月 、神 のお告 げ があ つた という、地元 の造 り酒屋光町尽三 郎
氏 によ つて 発見 され た。
この石 の下部 には木炭 交 じ りの土 があ り、石 の西端 下 か ら土器 、中央部
下 に鋼 を東 向 き に してほぼ水 平 に銅 鐸 が置 かれ 、 これ から約 20om東 に剣 、
父 が鋒 を南 に 向 けて並 べ てあ つた といわれ る。大 正 2(1913)に 谷井済 一
氏 によ つて『 考古 学雑誌 』 に紹 介 され て 以 来 、広 く知 られ るよう にな つた。
銅鐸 は高 さ 18.9cm、 裾径 9,7cm X 7.8om、 重 量 470gの 小型 のもの で、光沢
を帯 び黒色 に近 い。鋸歯 文 を鰭 部 、外縁 に も つ 外縁付 き錮式 2式
(‖
-2
式 )で 、鐸 身 を 3条 の 横帯 によ つて上 下 2段 に区画 す る横 帯文銅鐸 であ る。
横帯 は上 か ら斜 格 子文 、半 円重弧 文 、複合 鋸 歯 文 +綴 彩 文 で あ り、上段 に
は眼 を表現 したの よう な蕃覆機 の重 圏文 を左 右 に並 べ 、そ の 中 を箔 文 、半
円重弧 文 、下部 は雲 形文 、霞 ‰ 文 な どを配 して いる。
とく に眼 を思 わせ る文様 から「 邪 視 文 鐸 (最 近 、春 成秀爾氏 が :辟 邪 文』
と呼ぶ こ とを提唱 して いる)」 と呼 ばれ 、全 国 から出土 して いる多 くの銅
鐸 の中 でも著 名 なものの 一つ であ る。
鋼剣 は中細 形銅 剣 で 、全長 3 9cm、 鋒 部 を欠 失 し、また、中 ほ どで 二 つ
に折損 して いる。板 状偏平 化 した身 が特徴 的 であ る。銅文 は中細形銅文
(い わゆるク リス型銅文)で 、全長 2 9cm、
関幅
9,3om、
これも二つに折
損 している。身の中央左右 にある一対の樋の中には綾杉文が鋳出されてい
る。鋒部 は両側とも湾曲 し、二次的な人を受 けたかのようである。
3
銅剣 ・銅文 とも九州 で製作 され た もの と考 えられ、現在 ま で異 論がない。
一方 、銅鐸 は従 来近 畿地方 を中心 とす る地域 で製作 され、木の宗山銅鐸 は
その最西端の例 とされ て きた。 とこ ろが、近年、横帯文の鋳 型 が佐賀県安
永田 で出土 し、九州 でも銅 鐸 が作 られ ていた こ とが確実 にな つた 。 これ に
よ り木 の 宗山銅鐸 も九州 で 製作 され た可能性 が高 い との新説 が提 出され、
現在 ではこちらの方 が有 力視 され て いる。
これ は私見 だが、昨 年 、島 根 県の 加茂岩倉遺跡 から 39個 という大量の
銅鐸 が出土 し、その中 の一 部 には 出雲 で製作 されたもの と考 えられ るもの
があ る。出雲 に は宍道 町 から出土 した と伝 えられ る邪視文鐸 が宍 道町莞古
館 にある。中国地 方 で はほ か に 岡山 市足守 でも邪視文鐸 が出土 してお り、
瀬戸 内 と出雲 との関連 も今後 の検討 課題 として残 してお くべ きだ ろう。
銅鐸 ・銅剣 ・ 銅 父 とも祭 祀 用 具であ り、具体的 には豊作 を祈念 し、害虫・
害獣 を追 い払 う農 業祭祀 が想 定 され ているが、祭祀期間以外 は 目立 つ場所
に埋納 して保管 す る意義 があ つたの か、社 会の変革 によ つて農 業祭祀 自体
が意義 を失 い、巨石 の根元 に埋 納 され たもの か、意見 が分 かれ ている。
同時 に出土 した土器 は出土 時
には遺棄 されたの で、明 らか で
ないが、銅剣 ・ 銅文 の製作 年 代
から して、弥生時 代 中期後 半 以
降 に用 いられたもの と思 われ る。
銅鐸 ・銅剣 ・ 銅 父 3種 の青銅
器 が共伴す る全国 で唯 一 の例 で
あ り、山腹 の巨石 下 の青銅 器 祭
祀用具埋納 とい う点 でも特 徴 的
で、木の宗山出 土 青銅 器 は一括
して昭和 27年 (1952)に 国の 重
要文化財 に指定 され てい る。
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(参
考)木 の宗山城跡
銅鐸出土地 から尾根 に 出 て山頂 (標 高 413.lm)ま で行 <と 、そ こが 木 の
宗山城 であ る .山 頂 の 郭 は空堀 を はさん で西 に 2郭 、東 に は 4郭 があ り、
一 部土塁 も残 つてい る.ま た 、最高所 の 郭 には石垣 が残存 している .
郭 は標高 210mあ た りから頂 部 に か けて ほぼ東西 方 向 に配 置 され てお り、
全体 で 25あ る。 これ らの 郭配 置 から山頂郭 群
・ 西側郭群 (13郭 )の
(6郭 )。
東側郭群
(6郭 )
3群 に分 けられ る。
木 の宗山の 西 を除 く 3方 向 は小 河原 川 。三 篠川 に囲まれ 、天然 の濠 を 形
成 している。郭 は広範 囲 に分 散 して い るが、 大規模 な山城 であ る。
この山城 は『 芸藩通史 Jに 吉 川 興経 が築 いた とあ るが、 それよ り古 <に
奥西網仲 が在城 し、吉川氏 が修 復 して天 文
考 え られ る。
ホノ宗山城跡山頂郭群,西 側郭群略測図 (S=1:4β ∞)
/炊 +
木 ノ宗 山城 跡 東側郭 群 略 滉 図 (SEl:4.000)
7
19年
(1550)ま で使用 した と
′
脚、
諸延
神
白
石山
那じ
社、
八幡宮
両延神 士 ょ
│オ
)
(サ
広島市安佐 北 区 可部 町 大 毛 寺 にあ る.近 世 には 白石 山八 幡 宮 と呼 ばれ た。
『 芸藩通史 Jに よ る と、建 久 元 年 (1190)武 田朝信 が宇佐 から下四 日市 村
(可 部町 )に 勧請 したの を 、武 田 信 時 が建 長 5年
(1253)現 在 地 に 移 した
という。 しか し、 社家 で あ る末 田 家 の社伝 では、 以 前 か ら可部荘の総鎮守
として鎮座 して いたの を、武 田氏 が 一 時総 社 (下 四 日市 )に 祀 つた 後 、現
在地 に遷座 した とす る。 い ず れ にせ よ、中世 には 安芸 国守 護武 田 氏 の庇 護
を受 け、当地方 屈 指 の 大社 と して繁 栄 した。
武 田氏減 亡後 、永 禄
11年
(1568)、 聖護院道澄 親 王 筆 の額 を得 、文禄
3年 (1194)に は神 田 3町 を寄 進 され た (寄 進者 不 明 )と い うが、社殿 は
荒廃 してい つた た め 、宝 永 3年 (1706)に 近在 12カ 村 の氏 子 らが社殿 を
造営 した。幕 末 に は拝 殿 、 御 旅所 、宝蔵の ほか 9社 の 境 内社 があ つた 。
明治 6年 (1873)郷 社 に 列 せ られ 、両延神社 と称 した。祭神 は応 神 ・ 仲
哀天皇 な ど 4柱 。 例 祭 は 10月
29日 であ る.
この両延神社 か ら は江戸 時 代 に銅 剣 7本 が出土 して い る。
寛政 9年 (1797)に 出版 され た藤 丼貞幹著『 好古 日録』 によれ ば、「 安
芸国諸延神社 ノ祠 ノ境 地銅 器 数 枚 ヲ掘 出 ス其形大 同小異 皆 鋳 造 スル者也古
昔所謂鉾鋒 ナ リ」 と記 され 、図 も掲載 され ているので江戸 時代 に出土 した
ことは確実 だが、残 念 な が ら現 物の所在 は不明 であ る。
(参
考)黒 川遺跡
世羅郡世羅西町黒 川 の 弥 生時 代 の銅鐸 出土地 。実疑建川 の 開折 した盆 地
形 の 低地 に向 か つて 開 いた 谷 の東 向 き形斜 面 、標 高 380mに あ り、 周 辺 は水
田 であ る。
昭 和 36年
1.2m、
(1961)3月 、農 道 工 事 の際 に 、地表下60omの
ところ に 長 さ
幅 lm、 厚 さ 47cmの 花 間岩 の 巨石 が現 れ 、 この巨石 の 下 から 2個 の
石 にはさまれ た状態 で銅 鐸 が発 見 され た。銅鐸 は錮 を出手 に 向 けてや や斜
め の状態 に あ つた という。
銅鐸 は高 さ 2 8cm、 裾 幅 14.2om、 重 さ 8900、 鰭 の一 部 お よび鐸 身 の一
面 の 3分 の 1が 欠損 して い て、割 れ □の 状 況 から出土 時の破 損 もあ るが、
大 部分 は埋納 時 にす で に欠 損 して いた と推定 され て いる。
鰭部 に鋸歯 文 、錮 に綾 杉 文 を配 し、鐸 身 は斜 格 子文帯 で縦 横 に 4区 画 し、
最 下段 に鋸歯文 を配 して い る。 内面下 部 に 内凸帯 をめ ぐらせ 、舌 によ って
摩 耗 して いる。 ま た、鋳 造 時 、 内 型 を支 えた型 も たせの孔 が 10カ 所 あ る。
典 型 的 な偏平錮式 4区 袈裟 欅 文 銅 鐸 で 、県 内 の 銅鐸 出土例 は木 の 宗 山遺跡
に次 いで 2例 目で、備後 で は唯 ― の 例 であ る。
当時地表 に露 出 して いた と考 えられ る巨石 の 下 という状況 も 当時 の 祭祀
用 具埋納 の性格 をよ く示 して い る といえる 。
(参
考)大 峯山遺跡
尾 道市久 山田町大峯 出中 腹 の 弥 生時代 青鋼 器埋納遺跡 。
昭和 35(1960)標 高 289,6mの 大峯 山の 6号 日付近 、標高 220mの 南 側傾
斜 面 の岩塊 の石材 切 り出 し作 業 中 に銅矛 1、 銅剣 2が 出土 した。 折 り重 な
つて いる礫 塊下 の 1.5mX l.3m、 高 さ 5mの 直 方体 の巨石 の 下 、 この 巨石 を
支 え ていた高 さ 60om、 幅 1.2mの 三 角形 の石 の 根元 、石の側面 に沿 つて 斜 め
に置 かれ た銅矛 と水平 に 置 かれ た銅剣 があ った といわれ る。 ま た、 5mほ
ど下 が つた 岩塊 の間 か ら弥 生 時 代後 期初 頭 の土器 片 が発見 され て い る。
9
銅矛 は全 長 66cm、 黒緑色 の 中 細形銅矛 で 、輩議 から43cmの ところに関 が
あ つて最 大幅 6.3omと な つて お り、 この 部分 の 中央 に銘 が通 つて いる。刃
も研 ぎ出 され 、高 い背 の両 側 の樋 も鋭 い。 長 さ13cmの 部分 が 中空 の 袋部 に
は 目釘穴 状 の 小孔 があ り、 袋部 下端 の一 方 に あ る環錮 も孔 が小 さ <装 飾化
して いる 。
銅分 が多 いため か地金 が軟 ら か く全体 にひ わ りが大 きい。銅 剣 は 2□ と
も中細形銅 剣 で、一 つ は鋒 から 31,5cm長 さの剣 身 の 部分 と、 2 om長 さの茎
の末 端 か ら 13omの 部 分 で あ り、 この ま を欠 失 して い る。鋒 部 から 26.7cm、
刃の部分 の左 右 に刺 状 の 突 起 を作 り、 これ と同 じ背 には銘 がな い。 関から
4 omの ところ に左 右 の 円孔 があ る。他 のひ とつ は鋒 先部 の長 さ18cmの 部分
のみ で、や や 幅広 で あ る。
い ず れ も弥 生時 代 中期後 半以降九州 で製 作 され たもの で、 祭祀 用具 とし
て利 用 され 、埋納 され たの は弥生時代 後期前 半 ご ろであ ろう。
中細形 銅矛 と中 細 形銅剣 を埋納 も しくは 副葬 す る例 は九州 以 外 では例 が
無 く、遠 <か ら Dζ 望 でき る山の中 腹 の岩塊 から、祭祀用具 であ る青銅器 を
埋納 す る こ とは当時 の 山岳 信 仰 の一 端 を示 して いるの ではな いか と推 察 さ
`
れ て いる 。
安芸熊谷氏
安芸熊谷 氏 は三 入荘 (広 島市 安佐 北 区可 部 町 )の 西遷地 頭 。国人領主で、
武蔵 国熊 谷郷 (現 埼 玉 県熊 谷 市 )を 本員 と して い る。
熊谷直 国 は承 久 の乱 の際 、瀬 田 (滋 賀 県 )で 討 ち死 に し、 その子直時 は
恩賞 として承 久 3年 (1221)翌 突 軽地頭幅 に補任 され た。 しか し、弟祐直
の成長 によ り所領 の配 分 が問題 とな つたため 、 幕 府 は文暦 2年 (1235)に
直時 に 3分 の 2、 祐 直 に 3分 の 1の 割合 に分 けるよ う に裁 許 した。 だが、
その配分 が杜 撰 であ つたた め文永 元年 (1264)に 幕府 の命 令 で直時 に所領
を三分 割 させ 、祐 直 にその 一 つ を選 び 取 らせ る こ とにな つた 。 こ こに三 入
10
荘 も直時 の本 城方 と祐直 の 新 庄 方 に 分 けられ た。以後 、本 城 方 は伊 勢 ケ坪
城 、新庄方 は桐原之 城 に寄 り、庶 家 を分 立 させ て いつた。
鎌倉時 代末 期 から南北朝 期 の 内 乱 で、蓮 覚 や直清 をな ど 一 部 を除 けば 、
。
惣 領 が庶氏 を引き連れ て幕 府方 と して戦 い、 守護武 田 氏 今 川氏 の 旗 下 に
従 つた 。 その結果 、本 庄方 の直 経 、新 庄 方 の直氏 ・ 直平 な どに多 くの恩 給
があ つた。
ま た、直経 は幕 府 の権威 を背 景 に 貞 和 3年 (1347)細 分 化 され て いた 本
庄 方 の 統 合 を終 え、貞治 4年 (1365)そ の所領 をす べ て嫡 子宗直 に護 つた。
こ こに三 入本庄 の単独相 続 が始 志 つた。 明徳 2年 (1392)に は、近 隣 の領
主 と対抗 す るため、本庄 方 と新 庄 方 が 一 族 一 揆 を結んだ。 ところ が、宗 直
か ら 5代 後 の 膳直 の時 、本 庄 方 は新庄 方 を減 ほ し、三 入荘 を独 占 した。
応仁 の乱 以後 も熊谷 氏 は安芸 守 護武 田氏 の旗 下 にあ つた 。 しか し、元 直
が永正 14年 (1517)の 有 田城 合 戦 で武 田 元繁 と共 に討 ち死 に し、 ま た毛
利元就 の強 い働 き かけがあ つた た め、信直 は天文 2年 (1533)以 前 に武 田
氏 を離反 し、毛利氏 に服属 した 。 信 直 はま た、それ までの本 城 で あ つた 伊
勢 ケ坪城 から峻険 な高松城 に移 つた。
熊谷氏 は以後毛 利氏 の領 国拡 大 の ため に軍 忠 を励んで多 くの所 領 を得 た。
そ の地位 も国衆 の一 人 と して、 客 分 の処 遇 から元就 の 晩年 に は信 直 は毛 利
氏 の政策決 定 に参 画 す るま で に な つた 。
なお『 八箇 国御時 代分 限帳 』 に よ る と、所領 は嫡流の元直 の み が本領 一
帯 を 一 括領 有 し、庶家分 は領 国 に分 散 して い つた。そ して嫡流 の 熊 谷 氏 も
慶長 5年 (1600)関 ク原 の 戦 い 以 後 毛 利氏 に従 つて萩 へ と移 つた。
(参
考)安 芸武田氏
鎌倉 ・ 室 町 時代 の 安芸 (分 郡 )守 護 。清 和源 氏。
新羅三郎義光の子義清が甲斐 国 (現 山梨県)に 土着し、義清の孫信義が
武田村 に住んで武田姓を称 した。信義の弟信光が承久の変で軍功を立て安
芸国守護職 を得た。
11
武 田 氏 は 鎌 倉 時 代 を通 して守護職 に あ つ たわ けで はな い し、 常時在 国 し
て も いな か つたが 、 とくに佐 東 ・ 安南郡 方 面 で は中小 の 地 侍 や 在庁官人 を
家 臣化 し、荘 園 。国衛 領 を 横領 して支 配の基 礎 を固 め てい つた 。 こ う して
鎌倉 時 代 の 信宗 の代 に は佐 東 銀 山城 を築 いて い た。
足 利 尊氏 の挙兵 の際 、信 武 は 安芸 国 にいて これ に応 じ、 国内の武 士 を率
いて上 洛 し、以 来 子 の氏信 と とも に終 始足 利方 と して各地 を転戦 した。 信
武 の あ と長 男信成 が甲斐守 護職 、次男氏 信 が安 芸守 護職 を それ ぞれ継 承 し
た。 しか し、氏信 が応永 元 年 (1368)守 護職 を 改替 され て 以来 、代々足 利
一 門 が安芸 守 護職 を歴 任 し、 つ いに同職 が武 田 氏 に戻 るこ とはなか つた 。
た だ、本 拠佐 東 郡 の 守 護職 が応永 4年 (1397)以 前 に幕 府 から認 め られ
た と考 えられ る ほ か、安南 ・ 山県両郡 も永 享 (1429∼ 1440)ご ろまで に は
守 護権 限 が公 認 され 、 いわ ゆ る分郡守 護 と して安芸 国中央 部 を 支配 した。
武 田氏 の家 臣 に は佐 東 郡 の品河 ・ 香川 ・ 川之 内海賊衆 、 安南郡 の 自井 ・
戸坂 ・ 温 品 、安北 郡 の 熊谷 ・ 山中 ・ 小河内 、山県 郡 の 吉川 ・ 壬生 らの諸氏
がお り、一族 も伴 ・ 国重両 氏 の ように銀 山 城 近 辺 に根 を下 ろ して在 郷名 を
名乗 り、家 臣団化 して い つ た。
室町 時代 には、 勢 力 を東 に伸 ば して い つ た防 周 の 大 内氏 との対立 が深 ま
り、長 禄元 年 (1457)、 大 内氏 と結ぶ厳 島 神 主 (藤 原 )家 との所領争 い を
契機 に 銀 山 城 の 麓 で大 内軍 と武 力衝突 をみ た。
応仁 ・ 文 明 の乱 (1467∼ 1477)で は大 内氏 との対 抗上 、武 田氏 を支援 し
てき た 細川 氏 の東 ぐん参 じた が、 一 族 の元 綱 は西軍 に寝返 つた 。文 明 13年
(1481)こ ろ国信 は大 内氏 、元綱 と和解 したが 、明応 8年 (1499)温 品氏
が反 逆 した ため再 び大内氏 との関係 が悪 化 した 6
大 内義 興 を頼 つて山 □に 下 向 した足 利義 ア が将軍 職 回復 を訴 えた際 、当
時、 当主 で あ つた 元信 は一 時 その誘 い に応 じた が、結局幕 府 に 帰順 し、安
芸 国 を離 れ て永 享 12年 (1440)以 来守護職 のあ る若 狭 国 に 下 つた 。元信 の
従 兄弟 元繁 は元信 が大 内方 を離 れた後 も大 内氏 と結 び、安 芸分郡経 営 にあ
た った 。 こ こに国 信 系 の若 狭武 田氏 と元綱 系 の 安芸 武田氏 とが完 全 に分立
する こ とにな つた 。
12
12年 (1515)突 如 、反大内
の兵 を挙 げた。 だ が、 2年 後 の永正 12年 (1515)10月 22日 、毛利元
元繁 は義興 に従 つて上洛 していたが、永正
就 の初 陣 とな つた 有 田城合 戦 の中 丼手の戦 いで 熊谷 元直 が戦死 し、次 いで
元繁も又内 川 畔 で敗 死 (矢 に あ た つて落馬 した とこ ろを井 上左衛 門尉 に討
たれ た という )。 以後 、武 田氏 の 勢力 は衰 え、毛利 の工作 もあ つて 熊谷氏
が離反 .し か し、大 内氏 の たび重 なる佐東 侵 攻 に対 して は、川之 内海賊衆
の活躍や尼 子氏 との連携 によ つて 踏 み堪 えて いた 。
ところが、天 文
10年 (1541)の 郡山合戦 で 、尼 子軍 が大敗 した と聞 い
た信実 は銀 山 城 を棄 て て逃 げた といわれ る。家 臣 ら は主 の いな <な つた銀
山城 にたて籠 つて 2ヶ 月抵 抗 したが、大 内 ・ 毛 利両 軍の前 に 同年 5月 つ い
に落城 した。 この時 、討減 を免 れ た一族 の伴氏 も翌 年 謀反 を企 て たが、 毛
利氏 に討 たれ 、安 芸武 田氏 は完全 に減ん だ。
伊勢 ケ坪城 鮨押城
)
広島県史 跡 。昭和 40年
(1970)1月 30日 指 定 。
広島区安佐 北 区 可部町 大 林 にあ る中世 山城 で 、別 名 を塩 ヶ坪城 という .
武蔵野国熊 谷 郷 (現 埼 玉 県熊谷 市 )に いた 熊 谷 直 国 は、承久 の乱 の時 、
瀬 田 で戦死 した が、その功 によ つて子直 時 は三 入荘 地頭職 に補任 され た。
その直時 が拠 つたの が この 伊勢 ク城 で あ る。
弟祐直 の成 長 によ り文暦
2年 (1235)三 入荘 を 2:1に 分 割 し、祐直 は
別 に桐原之 城 を構 えた が、伊 勢 ケ坪城 は惣 領家 の居 城 として戦 国時 代初期
に信直 が三 入高 松城 へ 移 るま で続 いた 。本拠 が移 つた 後 、伊 勢 ケ坪城 は隠
居城 として使 われ た。
遺構 は根 谷盆 地 の北部 に 位 置 す る大林八 幡 宮 の あ る小丘上 に あ る。
主郭 (上 の 段 )の 東側 は東 か ら延 びて <る 尾 根 を 2本 の堀 切 で断 ち切 つ
て いる。主郭 か ら南 西 に延 び る尾根 に沿 つて 階 段状 に連続 す る 4つ の 郭 と、
主郭 のす ぐ東 に出丸 と思 わ れ る郭 (後 の段 )が あ る。主郭 と後 の 段 の間 は
現在 、舗装 38と な つて い るが 、大堀 切 であ つた と思 われ る。主郭 の東北端
13
には丼戸 跡 があ り、主郭の南 西下 の郭 に は長 さ 20m、 高 さ
1。
lm∼ 1.5mの 石
垣 が見 られ る。西側 は根谷 川 を天然 の外 堀 として利用 して いる。
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38. ■9 図雇 督菫群 著もホ﹄
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14
どい や し き
土居屋 敷跡
広 島市安佐 1ヒ 区可部町下町屋
現状 畑 ,保 存状況
史
料
良好,立 地
県 史跡 (1970年 1月 30日 指定 )
平地 標高46m,比 高 lm
,
『芸藩通志J巻 74
参考文献 『 日本城郭大系』,「 山城』 百
r
,「
部地方における中世城郭の実態」
現在 ,巨 石 を使用 した石垣 が南北 方向 に約
30m残 ってい る。 この 石垣 が 門 か ら北 側部分
の 範囲 を示す と思 われ るので,門 幅 を 2∼ 3
mと する と,屋 敷内部 の 規模 は約∞ m四 方 に
復元 で きる。 また,屋 敷 の 西 と南の土 地区画
か らは堀跡が復元 で きるので ,北 側 に も堀 が
巡 つていた こ とが推定 され る。
本屋敷跡 は ,熊 谷氏が伊 勢 力坪城 か ら高松
山城 へ 移 った頃築 かれた とい われ る。
土居屋敷跡略測図 (S=1:2,000)
15
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広島 市安佐 北 区 可部町 に あ つた荘 園 .保 元 3年 (1158)の 文書 に「 三 入
保」 と見 えるの が史 料上 の 初 見 で、 この時 は石 清水八幡宮領 であ つた。
永暦 元年 (li60)後 白河 院 が紀伊 国 (和 歌山県 )熊 野権 現 を新熊 野社 と
して京 都 に 勧 請 され ると、 まもな く同社 に寄進 され た。荘域 は下町屋 以北
と げ
の根 の谷 、 お よび桐 原 な どの支谷 を含む地域 で 、嘉禎元年 (1235)当 時、
田55町 余 、畑 20町 、栗林 6町 余 の ほかに地 頭 。公文 ・ 惣追 捕使 ・ 散使 など
の荘 官 の 給 田 が計 4町 あ つた 。
年貢 は佐東 川 (大 田川 )の 舟運 で河 □近 くま で運 ばれ 、 いつたん佐 東倉
敷 という倉 庫 に保 管 され、 内海航路 の大型船 に積 み替 え られ られ て京都 に
送 られ て いた 。
承久 3年 (1221)関 東武 士の熊谷氏 が三 入荘地頭職 に補任 された。それ
以前 にも地 頭 がい た こ とは明 らかだが、名前 はわ か つて いない。文暦 2年
(1235)に 直時 と一族 の祐 直 が争 い、祐 直 に三 入荘 3分 の 1に 分割 し、境
界 に勝 示 (杭 )を 鵜 つて 両者 の領域 を確定 させ た。以後 、直時 の支配領域
は本庄 (本 荘 )、 祐 直の支 配領域 は新庄 (新 荘 )と 呼 ばれ るようにな った。
本庄 は大林 ・ 桐原 ・ 、新庄 は上町屋 ・ 下町屋 に あ た る とされて いた 。正安
元年 (1299)に は本 庄方 下 村 が下地中分 され 、新熊野社 は田 8町 を除 く地
の 支配 権 を失 い、元 徳 3年 (1331)に は公 文以 下 の荘官 の給 田も地頭の知
行 す る ところ とな り、鎌 倉 時 代末 まで は同荘 の支 配実権 はす べ て熊谷氏 の
握 る ところ とな り、室町 時 代以後 、同荘 の 年貢 が新熊野 社 に納入 された形
跡 は見 当た ら な い。
鎌倉 時代 の荘 内 には、八 幡 宮
。大歳神 ・ 崇道 天 皇 (熊 谷 氏屋敷神 )。 新
宮 。今 宮 ・ 山 田別 所 。若 王 子 な どの神社 や 、集 福 寺 ・ 蓮 華寺 な どの寺院が
あ った。ま た、町 屋 には市 場 が形成 され て いた。
16
恵 下 山遺 跡
(1脚
‖
ま
せ
き
)
広島市 安佐 北 区高 陽町 玖 に あ る弥 生時代終 末期 か ら古墳 時 代初 頭 に か けて
の集 落跡。 住宅団 地造 成 に とも な い 、昭和 48年 (1973)に 県教 育委 員会
によ つて発掘 調査 され た が、重要 な 遺 跡 であ る こ とから検 視 関 と して保存
し、住宅団地 内の史跡公 園 と して活 用 され て いる 。
遺 跡 は大 田川 東 岸 の 低級 領 上 に 有 り、 円形 の 竪 穴 住居址 5棟 と土壌 4基
からな る。堅 穴住 居 は径 6m前 後 の 中規模 のの もの で、 柱 穴 は 6∼
8本 と
多 く見 られ る。土 壌 は径 1.5m前 後 の 袋状土 壌 で 、 内部 に遺 物 を 持 つ も のが
多 い。 これ らの住 居址 と土 壌 は互 い に関連 をも つ て 2∼
3棟 を 1単 位 を と
した小単位 の集 落 があ つた こ とが考 えられ て いる 。
なお第 1号 住居 址 は上屋 が復元 され 、第 2号 住居址 は遺 構 面 を 持 ち上 げ
て復元 し、遺構 の発掘 と復 元 が関連 づ けて理解 で き るよ う工夫 が な され て
お り、県内 の遺 跡 の保 存整 備 の新 しい試 みの一 つ として注 目され て い る。
恵下城跡
広島 市安佐 北 区 安佐町飯 室 にあ る中 世の 山 城 跡 で、宅 地造成 に とも な い、
昭和 52年 (1977)に 県教 育 委 員会 が発掘 調査 を行 な った。
城跡 は鈴 張川東 岸 の丘陵地 に あ る比 高約 55mの 丘 陵先端 部 を利 用 したも
の で、 背後 を 2条 の堀切 で区 切 り、中 央部 の主 郭 を中 心 に 6つ の 郭 と堀切、
堅堀 を輸状 に配 して いる 。 主 郭 は築 城 の時 、盛 土 を柵 、石 垣 で補 強 したも
の で、掘立 柱建物
2棟 と礎 石 建 物 1棟 が明 らか に され て い る。周 囲 の 郭 に
も柵列 や通 路 な ど細 かな加 工 が見 られ 、輸 状 を な す郭配置 ととも に一 つの
特色 にな つて いる 。
出土遺物 には土 師質 土 器 皿 、不 、備前焼 摺鉢 な どがあ り、室町 時 代 のも
の とされ て いる 。 なお、城 主 につ いて は『 芸藩 通 史 』 な どに遠藤 氏 、三須
氏 な どがあ げ られ て い るが 、彼 ら は安芸国 守護武 田氏 あ る いは 有力 国 人 で
あ つた熊谷 氏 に 関わ りの 深 い人 物 で 、戦国時代 に 活 躍 してお り、 発 掘調査
の成果 と一 致 す る。
17
目 ︱
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山 手遺 跡群
広島 市安佐 北 区高 陽町玖 にあ る遺跡群 で、 住 宅 団地 造成 に 伴 い昭和 47
年 (1972)に 発掘 調査 され た が、遺跡 の 重 要 性 によ り隣 接 す る恵 下山遺 跡
群 と とも に県 史跡「 恵 下山 ・ 山手 遺跡群 」 と して指 定 され て いる 。
遺跡群 は太 田川東 岸 に広 が る標 高 50m前 後 の低 丘 陵の先端 に位置 し、弥
生時代終 末期 から古墳時代初 頭 に かけての住居 群 と古 墳 か らなる。
住居 跡 は 6棟 あ る。 い ずれ も中 央 に炉 をも つ竪 穴 式 住居跡 で。隅丸方 形
をなす が、 4本 柱 で一辺 5.5m∼ 6.5mの 大型 の も の と、 5本 柱 で 一 辺 が約
4.5mの 小型 の もの に分 かれ て いる。 これ ら の 切 り合 い 関係 から 2時 期以 上
に分 かれ る小 集 団 であ つた こ とが推定 され て い る。
住居 跡 内 か らは弥 生土器 の壺、甕 、鉢 、砥 石 な どが 出土 して いる。古 墳
はいずれも墳 丘 が blj平 され て いた が、主 体 部 が礫 床 をもつ木棺 の第 1号 古
墳 と、木 棺直 葬 の 第 2号 古墳 の 2基 があ り、特 に後者 では細尾根 を切断 し
て方墳状 に 削 り出す手法 が見 られ た。第
1号 古 墳 か ら は鉄 剣 が出土 してお
り、 6世 紀 前 半 以前 の もの と考 えられ て い る。
不 動院 彼芸国安国寺)
広島 市東 区 牛 田新町 に あ る真言 宗寺院 。 開基 は重悪 と伝 えられ る。本尊
薬 師如 来 座像 (国 重 文 )が 平 安時代 の 作 であ る こ とな どから考 えて、創建 時
期 は相 当古 い と思 われ るが不 詳、 当時の 宗派 も不 明 で あ る。
暦 応年 間 (1338∼ 42)に 足 利氏 が国 ご とに安国 寺 を設 置 した とき、安芸 で
はこの寺 が安 国寺 に充 て られ た。康暦 2年 (1380)ご ろ には 景陽山安国寺 と
称 し、臨済 宗 東福 寺 (京 都市)の 末 寺 とな つて いた 。 そ の後 、大永年 間 (15
21∼ 23)に 兵 人 に遭 つて 衰退 して い つた 。
荒廃 した この 寺 を復 興 したのが有名 な安 国寺 恵理 で 、現 存 す る建物 はほ
とん どが恵理 の創 建 ・ 復 興 による。恵理 は使 僧 、政 治 家 と して活躍す る 一
方 、安 国寺 住 持 と して金堂 (国 宝 )・ 鐘楼 ・ 楼 門 (国 重 文)な どを創建 ・ 移築
19,
した。天正
19(1591)秀 吉 か ら寺領 と して知行 1万 1500石 が安国寺 に
与 えられ た。
恵理 の死 後 、福島 正 lljの 祈 祷 師 宥珍 が入 り、真 言 宗 に改め、宥珍 が奉 じ
た不 動明 王 にち なん で不 動 院 と呼 ばれ るよう にな つた。他 に梵鐘 (国 重 文 )・
仁王立像・ 不 動院文 書 (県 重 文 )な どがあ る。
不動院 金堂
国宝
1棟 。昭 和 33年 (1958)2月 8日 指 定 。
広島 市東 区牛 田新 町 3-4-9。
不 動院所 有 .
桁行 3間 、梁 間 4間 、 一 重 、 裳階付 、入母 屋造 、柿葺。 この建 物 は現存
す る禅宗様 の建築物 として は規 模 の大 き い遺構 で、大内義隆 が周防 山 □に
建 て たもの を政 僧 恵現 が移 築 した と伝 え られ られ 、中世の本格的 な仏殿 の
規模 を う かがえ る。
正面 一 間通 りを吹 き放 し と した手 法 は禅宗 様建築 には珍 し <、 大陸的手
法 と考 えられ る。手挟 や海 老 虹 梁 、大 瓶束 を数 多 く使 つた架構 や彫刻 な ど、
細部 ま で巧 み に作 られ た繊 細 な禅 宗様 手法 を用 いなが ら、全体 には雄 大 な
気 風 がう かがわれ る建物 で あ る。天 丼 の絵 は天 文 9年 (1540)の 賛 があ り、
この 建物 も その頃 の建築 と考 え られ る。恵理 が移築 したの は間違 いの な い
ところだ ろう。
不 動院 鐘楼
国重要 文化財
1棟 。昭和 27年 (1952)7月 19日 指定 。
広島市 東 区牛 田新町 3-4-9.不
動院 所 有 。
桁行 3間 、梁 間 3間 、袴 腰 付 、入母 屋造 、柿葺 .
白壁塗 りの袴 腰付 鐘楼 で 、各 部 の釣 り合 いが よ く整 つた 外観 を して いる。
細部 は和様三手 先 の組物 を して いるが、軒 は二 軒 扇柱 で、隅木 も禅宗様 の
手法 を と つて いるの は珍 しい意 匠 であ る。永 事 5年 (1433)の 墨書銘 があ
り、創建年 がわ かるが、 一 度移 転 した痕 跡 があ る。
20
不動 院 の銅 製 梵 鐘
32年 (1899)8月 1日 指定。
広島 市東 区 牛 田新 町 3-4-9.不
動院所蔵
国重要文 化 財 1□ 。明治
.
総 高 108.3cm、 □径 65cm。 この 梵 鐘 は重 要 文 化財 に指 定 され て い る不 動院
鐘楼 にかか ってお り、毛利 ・ 豊 臣 両氏 に信頼 の 厚 か っ た安 国寺 恵現 が朝鮮
半島 か ら将 来 したもの と伝 え られ 、笠 形上 に単頭 式 の龍 頭 と角 を立 てた朝
鮮鐘 であ る。
両肢 を踏 ん張 り、首 を曲 げて笠 形上 の宝 珠 を噛 む龍頭 は形 式的 な 硬 さが
あ るが、精 巧 な作 で あ る。 鐘 身 部 葉巻 の強 い唐草 文 、単弁 蓮華文 な どの文
様 で飾 り、 下半部 の四方 に は、各
う姿 が刻 まれ て いる。乳 は 3段
1躯 の天 女 が天 衣 をなびかせ て雲 上 を 舞
3列 の 9個 が四方 に あ る下帯 に近 い低 位置
に、蓮華文 の 撞座 が鋳 出 され て い る。撞座 の 蓮 華中央 に 円光 を負 つた 菩薩
座像 と、そ の左右 に「 信相 菩 薩 」 の 銘 が刻 まれ て いる。
不動 院楼 門
33年 (1958)5月 14日 指定 。
広島 市東 区 牛田新 町 3-4-9。 不 動院所 有 .
国重要文 化 財 1棟 。昭和
3間 1戸 2階 2重 門、入 母 屋 造 、本 瓦葺 。 この 楼 門 は、 寺伝 によ る と安
国寺 恵理 が朝 鮮半島 から持 ち帰 つた木材 で建 て た といい、上 層の尾 垂木 に
「 朝 鮮木 文 禄三」の刻銘 が あ るの で、文 禄 3年 (1594)の 建立 とも考 え ら
れ るが、細 部 に室町 末期 の様 式 手 法 が 見 られ るの で文 禄 の は修理 とも 考 え
られ る。 この 時代 の建物 と して 、 ほ とん ど和 様 を交 えて いないの は珍 しい。
不動院 の木造薬 師如来座像
国重要文 化財
1躯 。大正 6年 (1917)8月 13日 指定 。
広島 市 東 区牛 田 新町 3-4-9.不
動院所 蔵 。
像高 140om、 膝張 136om、 寄木 造 。 円満 な面相 に流 麗な衣紋の定朝 様 の 作
品 で、金堂 の本 尊 であ る。 脇 侍 の 日光 ・ 月 光菩薩 を欠 いているが、 檜材 で
21
漆箔塗 りの平 安時 代 初 期の 作 品 であ る。
台座式茄子 の獅 子 裏 に「 宝 徳 二 年十 月 日」 な どの朱書銘 があ り、宝徳 2
年 (1450)に 修 理 され た こ とがわ かる。
不動院 文書
広島県重要 文 化 財 4巻 。 昭 和 38年
広島市東 区牛 田新 町
3-4-9。
(1963)4月 27日 指 定 。
不 動院所蔵。
文書 は、前 身 であ る安 国 寺 の 住持 で、毛利輝元 、豊 臣秀 吉 の信任 を受 け、
政治的 にも 活躍 した恵 理 の 活 動 や 寺 の隆盛 を示 すも の と、広 島 入部後 の 福
島正則 の 不動院 充 て書 状 で 、全 24通 を 4巻 の巻 子本 に して いる。付 と し
て寺の 由来 と雑記 の 2冊 と併 せ て指定 され て いる。
1巻 は秀吉 朱 印状 1通 で 、天 正 19年 (1591)3月 、秀 吉 が安国寺 に 1
万 1500石 の知行 を与 え た 目録 であ る。寺院の待遇 と して は異例 の恩 典
で、恵理 の権 勢 を知 る こ とがで き る。 1巻 は恵理関係 の書 状
16通 で、 戦
乱 の時代 に敏腕 を発 揮 した恵理 の 外交 手腕 を示 すも の であ る。 1巻 は福島
正則関係 の文書 4通 で 、正 則 の祈 祷師 で新 住職 にな つ た宥珍 へ の書 状の ほ
か、門前 に 91石
5斗 の領 地 を許 す宛行 状 な どであ る。残 り 1巻 は毛利輝
元書状写 しな ど 3通 で あ る。
安 国寺恵 瑣
(あ 1ま
し
ilD
5年 (1600)10月 1日 .
。
安土桃 山時代 の臨 済 宗 の 僧 戦 国大 名 .瑶 甫 と号 し、一任 斎 、正 慶 とも
生年不 詳 ∼ 慶長
い う。安芸 国 に 生 ま れ 、佐 東銀 山城主 武田信重の遺 児 と伝 え られ る。天文
10年 (1541)武 田 氏 減 亡 の際 、逃 れ て安芸 安国寺
(現在 の 真言宗不 動院
[広 島市 、当時 は臨 済 宗東 福 寺 末寺 ])に 入 り、天文 22年
(1553)東 福
寺竺 雲恵 心 の弟 子 とな る。
恵心 は毛利氏 の 帰 依 を受 け、京都 との連絡 や尼 子氏 ・ 大 友 氏 の和 平交 渉
に奔 走 して いた が、 恵理 も 師 と同様 に使僧 として活躍 す る よ う にな り、毛
"
利氏 の 信任 を得 、安芸 ・ 備 後 両 国 の安国寺 の 住持 とな る。
元 亀元年 (1570)こ ろか らたび た び上 京 し、天正 元年 (1573)に は足利
義昭 と織 田 信 長 の 争 いの 中 、義昭 の ため に奔走 した 。 この 間天 下の情勢 を
見抜 き、信長 の天 下 の短 い こ と、秀 吉の有望 さを 予言 した こ とはあ ま りに
も有 名 であ る。
天正 4年 (1576)毛 利 ・ 織 田両氏 が戦争状態 に入 る と、恵理 は備後輌
(福 山 市輌町 )の 安 国 寺 を拠点 と して活動 す るよ う にな る。天 正 7年 (15
79)東 福 寺退耕 庵主 とな り、全 国 の情勢 に通 じて いた恵理 は、毛 利氏 の 劣
勢 が明 らか にな る と、天正
10年 (1582)秀 吉 の 備中高松城攻 めの際 、毛
利 と秀吉 の 講 和 を成 立 させ た 。 なお難 航 した 両国割譲 。人質派 遣 問題 も毛
利氏 の重 臣 を説 得 して解決 させ た。 秀吉 はいわ ゆ る「 中 国大返 し」 を 敢行
し、天 下人 へ の道 をひた走 る こ とにな る。
これ によ り、恵理 は秀吉 の 信任 を厚 〈 し、 毛 利氏 の 使僧 の性格 を残 した
まま 秀吉 の側近 として活躍 す るよう に な る。天正
(愛 媛 県 )で
13年 (1587)に
は伊予
2万 3千 石 (後 に 6万 石 )、 北九州 で 3千 石の所領 を与 えら
れ、豊 臣政権 下 の一大名 とも な る。 文禄 ・ 慶長 の 役 で は秀 吉 の命 で朝 鮮 に
赴 き、戦 闘 にも 加わ つた 。
秀吉 の死 後 、徳 川家康 に 近 づ いた 毛利家 内部 の 吉 川広家 と対 立 す るよう
にな つた 。関 ケ原の戦 いで は石田 三成 と組 んで、毛利 輝 元 を西軍の主 将 に
迎 える こ とに成功 す るが、広家 や小早 川秀秋 の裏切 りで 戦 いに破 れ た。
逃 亡先の京 都 で捕 えられ た恵理 は、石田三 成 、小西行 長 ら と共 に大 阪 ・
堺 を引 き回 され 、慶長 5年
(1600)10月 1日 六条河 原 で 処刑 され た 。享
年 63歳 とも 64歳 とも いわ れ る。墓 は建 仁 寺 に あ る。
一 方 、慶 長 3年 (1598)東 福寺 住持 ともな り、現存 す る建 仁寺方丈 、不
動院 金堂 ・鐘 楼 ・ 山門 、厳 島 大経 堂 、備後 安国 寺釈 迦堂 を は じめ として多
くの寺社 の建 造物 を創建 ・ 移 築 して復興 に努 め た。ま さに動乱 の中 を生 き
た政僧 の代 表 といえる。
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