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7.フィリピンでの出会い
7.フィリピンでの出会い フィリピンでの出会い (1)スラム (1)スラムの マザー;Sr.タン スラムのマザー;Sr. ;Sr.タン 前教皇ヨハネ・パウロⅡ世が、 教皇ヨハネ・パウロⅡ世が、世界の青年たちに向け 世界の青年たちに向け、 向け、1985 年の「 年の「受難の主日」 受難の主日」にロ ーマに集まるように呼びかけ、 世界の カ国から の青年が教皇に ーマに集まるように呼びかけ 、世界 の約 60 カ国 から 30 万人の青年が教皇 に応えてロー マに集まっ マに集まったことから たことから「世界青年の日」 から「世界青年の日」が始 「世界青年の日」が始ま が始まった。 った。その後、国際連合も その後、国際連合も 1985 年を「世 界青年の年」と宣言した。それ以来、 した。それ以来、2 年ごとに青年の 青年の祭典 祭典「世界青年 「世界青年大会 大会」 界青年の年」と宣言 した。それ以来、 2、3 年ごとに 青年の 祭典 「世界青年 大会 」と「国 際青年フォーラム」が、 世界各地で教皇臨席のもとに開催されている。 る。1995 月、ア 際青年フォーラム」が 、世界各地で教皇臨席のもとに開催されてい る。 1995 年 1 月、 ア ジアで初めてフィリピン フィリピン国 マニラ市で「世界青年大会 世界青年大会」 が開催されることになり、 り、広島 ジアで初めて フィリピン 国マニラ市で「 世界青年大会 」が開催されることにな り、 広島 教区からも 70 人の青年男女が 人の青年男女が、司教総代理の斉藤真仁神父を団長に 司教総代理の斉藤真仁神父を団長に事務 を団長に事務局長 事務局長の 局長の原田豊己 原田豊己 神父と私たち と私たち司祭と 司祭と修道女たち 修道女たちの引率 の引率で 関西国際 国際空港から 空港からマニラ マニラ国際 国際空港 空港に 飛び立った 立った。 神父 と私たち 司祭と 修道女たち の引率 で関西 国際 空港から マニラ 国際 空港 に飛び 立った 。 フィリピンは、 もの島々で成り立ち、 ち、その経済は その経済はスペイン植民地時代 フィリピンは 、日本と同じく 7000 もの島々で成り立 ち、 その経済は スペイン植民地時代 以来、 大農園主と中国華僑 と中国華僑など2 など2%の富裕層が支配してい の富裕層が支配している。 る。政治的に 政治的には 以来 、大農園主 と中国華僑 など2 の富裕層が支配してい る。 政治的に は貧困層出身の 故マルコス大統領とイメルダ夫人の マルコス大統領とイメルダ夫人の 20 年にわたる独裁政治が 年にわたる独裁政治がフィリピンの貧富の格差 を拡大固定させたと言われて いる。 島々や地方の 地方の農村 農村の 貧しい人々が生活苦 生活苦から仕事や を拡大固定させたと言われ ている 。島々や 地方の 農村 の貧しい人々が 生活苦 から仕事や 生活の糧を求めて 糧を求めてマニラやセブなど マニラやセブなど都市に 都市に移住して 移住して来る 来る。しかし 。しかし、 都会に来ても に来ても先住民 生活の 糧を求めて マニラやセブなど 都市に 移住して 来る 。しかし 、都会 に来ても 先住民 族への差別や英語が話せない 族への差別や英語が話せない言葉の違いなど 英語が話せない言葉の違いなどから 言葉の違いなどから定職につけず から定職につけず、都会の 定職につけず、都会の空き地 、都会の空き地の隅っこ 空き地の隅っこ 川沿いの土地に住みつ 住みつく 不法占拠の 人々が 増え続けて 都市スラムが形成されていった。 や川沿いの土地に 住みつ く不法占拠 の人々 が増え続け て都市スラム が形成されていった。 年の「 世界青年大会 マニラ」 に参加した広島教区の若者と司祭 広島教区の若者と司祭たちと たちとシスタ 1995 年の 「世界青年 大会 in マニラ 」に参加した 広島教区の若者と司祭 たちと シスタ 全員は マニラに滞在していたシスター シスター小野嶋照子 小野嶋照子(援助修道会)の (援助修道会)の仲介で ーたち 70 人全員 は、マニラに滞在していた シスター 小野嶋照子 (援助修道会)の 仲介で “フィリピンのマザーテレサ フィリピンのマザーテレサ” マザーテレサ”とも呼ばれるシスター・ 呼ばれるシスター・クリスティ シスター・クリスティン クリスティン・タン( ・タン(善き牧者修 道女会の元総長、 帰天))が、 が、総 長退任後にマニラ市の都市 市の都市スラムに スラムに住み込 住み込み 道女会の元総長 、2003 年帰天 総長退任後にマニラ 市の都市 スラムに 住み込 み、貧 しい住民の自立援助 自立援助活動を 年以上続けているレベリサ地区 レベリサ地区都市 都市スラムに スラムに分散 分散ホーム しい住民の 自立援助 活動を 20 年以上続けている レベリサ地区 都市 スラムに 分散 ホーム スティ スティさせてもらった。 させてもらった。実に、当初、シスター・ 実に、当初、シスター・タンたち シスター・タンたち 3 人のシスターたちは、外 人のシスターたちは、外部 、外部 の人々から「 から「あそこは あそこは強盗の巣だから、 強盗の巣だから、中に入ったら身ぐるみはがされ 中に入ったら身ぐるみはがされて 殺されるか の人々 から「 あそこは 強盗の巣だから、 中に入ったら身ぐるみはがされ て殺される から 入るな」 入るな」と止められた と止められたマニラ動物園近くの都市 マニラ動物園近くの都市スラム 都市スラムの借家 スラムの借家に住み込み、 の借家に住み込み、狭く暗いスラ に住み込み、狭く暗いスラ ム街を走り回る子供たちの世話をし、隣近所の母親たちの悩みを傾聴し、貧しい家族の ム街を走り回る子供たちの世話をし、隣近所の母親たちの悩みを傾聴し、貧しい 家族の 隣人・友人と 隣人・友人となり精神的 なり精神的支 精神的支え手となっていった。そして、 手となっていった。そして、司祭も入って来ないスラムの っていった。そして、司祭も入って来ないスラムの 日常生活の中で の中で「聖書 「聖書の 言葉」を分かち合 分かち合う グループを作り、互いの悩みや必要を話 日常生活 の中で 「聖書 のみ言葉」を 分かち合 うグループを作り、 互いの悩みや必要を話 し合い共有して 共有して、 荒んだスラム住民の仲間意識を高め、 スラム住民の仲間意識を高め、1日1食の食事ができたら今日 し合い 共有して 、荒んだ スラム住民の仲間意識を高め、 1日1食の食事ができたら今日 は幸せというその日暮らし その日暮らしの貧 の貧民 自ら貧困から抜け出し自立した生活を協働する するこ は幸せという その日暮らし の貧 民が、自ら貧困から抜け出し自立した生活を協働 する こ とができるように「 ベーシック・クリスチャン・コミュニティー」(キリスト キリスト教 基礎共 とができるように 「ベーシック・クリスチャン・コミュニティー」( キリスト 教基礎 共 同体; BCC) を作った。 った。また、 また、貧しい 貧しい人 同士が 少しずつ小銭を出し合い、協力して助け合 同体 ;BCC )を作 った。 また、 貧しい 人同士 が少しずつ小銭を出し合い、 協力して助け合 う生活互助 生活互助組織「アライカプワ」 互助組織「アライカプワ」( 組織「アライカプワ」(助け合い共同体 助け合い共同体) 共同体)を組織して 組織して、貧しい人々が自分の能力 貧しい人々が自分の能力 や可能性に目覚め、今の 今の自分たちで 自分たちでも 現できる下からの 下からの各 プロジェクトを行 を行う住民 や可能性に目覚め、 今の 自分たちで も実現できる 下からの 各種プロジェクト を行 う住民 参加型の「 ベーシック・ヒューマン ヒューマン・コミュニティー ・コミュニティー」( 」(人間基礎共同体; 人間基礎共同体;BHC BHC) 参加型の 「ベーシック・ ヒューマン ・コミュニティー 」( 人間基礎共同体; BHC )に発展 させた。 させた。 ご存知のように 1983 年 8 月、マルコス大統領の政敵とされたベニグノ・アキノ氏がマ ニラ国際空港着の飛行機から降りるタラップ上で銃撃され暗殺された事件を皮切りに、 カトリック教会の 教会の司教 司教や カトリック 教会の 司教 や司祭やシスターも含む何百万人の人々が立ち上った。いわゆる 「ピープルズ・パワー」が草の根的に拡がり、大統領のマラカニアン宮殿を取り巻き 「ピープルズ・パワー」が草の根的に拡がり、大統領のマラカニアン宮殿を取り巻き、 大統領のマラカニアン宮殿を取り巻き、 年続いたマルコス独裁政権は無血革命で崩壊した。 マルコス独裁政権は無血革命で崩壊した。そして、 そして、民衆 民衆は 20 年続いた マルコス独裁政権は無血革命で崩壊した。 そして、 民衆 はアキノ氏の未亡人 のコリー・アキノ氏(2009 コリー・アキノ氏(2009 年帰天)を新大統領に選んだ。既に、貧しい人々のマザーと 年帰天)を新大統領に選んだ。既に、貧しい人々のマザーと 慕われていたシスター・ シスター・タンは、 タンは、コリー コリー新政府 新政府に請われ新 に請われ新憲法制定委員会の 憲法制定委員会のメンバーに 慕われていた シスター・ タンは、 コリー 新政府 に請われ新 憲法制定委員会の メンバーに 選ばれ、新しいフィリピン 、新しいフィリピンの国創り の国創りに参画することになった。 に参画することになった。シスター・ シスター・タンはスラム 選ばれ 、新しいフィリピン の国創り に参画することになった。 シスター・ タンはスラム の人々の声を聴き、全国の貧しい人々が都会 全国の貧しい人々が都会に来て に来てスラム スラムで生活しなくとも で生活しなくとも、故郷で 、故郷で自 の人々の声を聴き、 全国の貧しい人々が都会 に来て スラム で生活しなくとも 、故郷で 自 活した生活 活した生活が 生活ができるシステム作り、とりわけ、貧しい人々のために できるシステム作り、とりわけ、貧しい人々のために農地解放 農地解放を提案した 解放を提案した が、大農園主出身のアキノ大統領の親族勢力はコリーの改革を支援しなかった。従って、 が、大農園主出身のアキノ大統領の親族勢力 はコリーの改革を支援しなかった。従って、 シスター・タンは タンはコリー コリー政権 政権を離れスラムの を離れスラムの人々 人々の元に戻った。 の元に戻った。「汚職をなくして貧困 シスター・ タンは コリー 政権 を離れスラムの 人々 の元に戻った。 「汚職をなくして貧困 をなくす」と訴え、 選挙に勝ったその後の大統領たちの政権も その後の大統領たちの政権も貧しい人々のための 貧しい人々のための農地 をなくす」と訴え 、選挙に勝った その後の大統領たちの政権も 貧しい人々のための 農地 改革どころか、賭博 改革どころか、賭博と 賭博と賄賂社会の 賄賂社会の解決も 解決もできず貧富の格差は続いている できず貧富の格差は続いている。 貧富の格差は続いている。しかし、シスタ ー達とレベリサの レベリサのキリスト キリスト教 基礎共同体は、「アライカプワ」 「アライカプワ」と「 と「ベーシック・ヒューマ ー達と レベリサの キリスト 教基礎共同体は、 「アライカプワ」 と「 ベーシック・ヒューマ ・コミュニティー」(人間基礎共同体、 人間基礎共同体、BHC BHC)運動 )運動を続け を続け、自ら貧困から抜け出し、同 ン・コミュニティー」( 人間基礎共同体、 BHC )運動 を続け 、自ら貧困から抜け出し、同 じく貧しい状況にある他者をも助けようと、遠く離れたセブ島の都市スラムやピナツボ じく貧しい状況にある他者をも助けようと、遠く離れたセブ島の都市スラムや ピナツボ 火山噴火後の被災地にも出かけて行き援助活動も始めた。スラム 火山噴火後の被災地にも出かけて行き援助活動も始めた。スラムの外で差別され就職で スラムの外で差別され就職で きず悪事に利用されやすいスラムの若者の仲間意識の きず悪事に利用されやすいスラムの若者の仲間意識 の向上や、若者たちが技術を身につ けて自立できるように、奨学金制度を作り各種専門学校や短大に送り、スラムの後輩た ちのために指導したり奉仕できる若者を育て続けている。そして ちのために指導したり奉仕できる若者を育て続けている。そして 2003 年、30 年、30 年以上ス ラムに住み、貧しい人々の母と慕われた と慕われたシスター・ シスター・タンはその タンはその霊魂 霊魂を神の御手に返し帰 ラムに住み、貧しい人々の母 と慕われた シスター・ タンはその 霊魂 を神の御手に返し帰 天した。その墓はマニラ市郊 市郊外のケソン市 外のケソン市にある にあるアテネオ・デ・マニラ アテネオ・デ・マニラ大学近くの 大学近くの「 天した。その墓はマニラ 市郊 外のケソン市 にある アテネオ・デ・マニラ 大学近くの 「善 き牧者修道女会」 本部修道院の庭の真ん中 の真ん中に眠っている。 き牧者修道女会 」本部修道院の庭 の真ん中 に眠っている。 (2)ナボタス海上スラムの人々 )ナボタス海上スラムの人々 イエズス会の神父には、 イエズス会の神父には、司祭叙階後数年して 会の神父には、司祭叙階後数年して「 司祭叙階後数年して「第三修練」 第三修練」という海外での という海外での修行と勉学 海外での修行と勉学 の時期が与えられる。 る。私も 私も当時のイエズス会日本管区長のニコラス神父 当時のイエズス会日本管区長のニコラス神父( 、総長) の時期が与えられ る。 私も 当時のイエズス会日本管区長のニコラス神父 (現在、総長 )か らフィリビンで第三修練をするように命じられ、 らフィリビンで第三修練をするように命じられ、米国ニューヨーク生まれでフィリピン 米国ニューヨーク生まれでフィリピン 管区に移籍した に移籍した第三修練長トム・オゴルマン神父の下、 第三修練長トム・オゴルマン神父の下、1995 管区 に移籍した 第三修練長トム・オゴルマン神父の下、 1995 年から 1996 年の一年間を フィリビン各地で研修をした。メトロ・マニラと呼ばれる大都市マニラ フィリビン各地で研修をした。メトロ・マニラと呼ばれる大都市マニラ市 マニラと呼ばれる大都市マニラ市の北海岸沿い に、フィリピン最大の海上スラムと言われるナボタス地区バゴン・シランがある に、フィリピン最大の海上スラムと言われるナボタス地区バゴン・シランがあ る。各管 区から第三修練に集まったイエズス会員、アメリカ人 区から第三修練に集まったイエズス会員、アメリカ 人 2 名、アイルランド人 2 名、カナ ダ人 1 名、フランス人 1 名、ケニア人 1 名、スイス人 1 名、スリランカ人 1 名、タイ人 名の私たちは、司牧実習として ホームスティで海上スラム 1 名、そして日本人 1 名の私たちは、司牧実習 として 2 週間ホームスティで 海上スラム の人々と過ごした。フィリピンの貧富格差は生まれ故郷の島々から農民や漁民が職を求 の人々と過ごし た。フィリピンの貧富格差は生まれ故郷の島々から農民や漁民が職を求 めて都会に来たものの定職も見つからず、墓場とゴミ捨て場の空き地に不法占拠する。 めて都会に来たものの定職も見つからず、墓場とゴミ捨て場の空き地に不法占拠する。 まさに土地がないからマニラ湾の海上に突き出るように棒杭を打ち、拾い集めた木片と ビニールなどで小屋をつないで作られた海上スラム ルなどで小屋をつないで作られた海上スラムを形成した を形成した。海上の 。海上の手作り小屋に約 ビニー ルなどで小屋をつないで作られた海上スラム を形成した 。海上の 手作り小屋に約 500 世帯(約 3000 人)の人々が住み、ゴミ捨て場や浜辺で物を拾ってその日暮らしをし、 子供たちは墓場で遊んでいた。 た。マニラ湾の上に突き出たスノコのような マニラ湾の上に突き出たスノコのような床の 床の家 子供たちは墓場で遊んでい た。 マニラ湾の上に突き出たスノコのような 床の 家で、台風 などの大波が来ると家ごと流されるか、家の床に寝かしていた赤ちゃんが波にさらわれ などの大波が来ると家ごと流されるか、家の床に寝かしていた赤ちゃ んが波にさらわれ 沖にプカプカしていたこともあると聞いた。内部 た。内部は人がやっとすれ違いえるほどのくね 沖にプカプカしていたこともあると聞い た。内部 は人がやっとすれ違いえるほどのくね くねと曲がった通路が続き、母親が洗濯をしている傍で子供が海にウンチを落とし、そ で誰かが小魚を釣っている凄まじくも愉快な景色もあ もあった った。 の傍で誰かが小魚を釣っている凄まじくも愉快な景色 もあ った 。 私の最初のホームスティ先は、 私の最初のホームスティ先は、船の解体工場内に住み着いたアルハンドリ 船の解体工場内に住み着いたアルハンドリーノ アルハンドリーノ一家 ーノ一家宅 一家宅。 24時間稼動している解体工場の騒音の中、大きな船のそばに組み立てた小屋1間に親 24時間稼動している解体工場の騒音の中、大きな船のそば に組み立てた小屋1間に親 子6人と私の7人が並んで寝た。床下には犬、猫、鶏が住み、夜は蚊はもちろん鼠も蜘 子6人と私の7人が並んで寝 た。床下には犬、猫、鶏が住み、夜は蚊はもちろん鼠も蜘 蛛も出てきた。さながら生き物と乗った 生き物と乗った「ノアの箱舟」(創世記7章)で神の救いを待 蛛も出てきた。さながら 生き物と乗った 「ノアの箱舟」(創世記7章)で神の救いを待 っている家族のようだっ っている家族のようだった。二番目の だった。二番目のホームスティ た。二番目のホームスティ先は小さな魚市場の傍にあり、ダン ホームスティ先は小さな魚市場の傍にあり、ダン ス上手の3人娘の小学生を持つ夫婦のモラタル モラタル一家 一家宅 ス上手の3人娘の小学生を持つ夫婦の モラタル 一家 宅。夫は故郷の島に妻子がいる二重 結婚者で、スラム内に家を持つ女性の所に住みついた。妻は日本のNGOの奨学金で大 学を卒業し 卒業し、地域 、地域の 保健センターの 責任者をしている女性。大学を出て責任ある仕事も 学を 卒業し 、地域 の保健センター の責任者をしている女性。 大学を出て責任ある仕事も 持つ女性が何故に妻子ある男と暮らすのかとは聞けない都会の片隅で見捨てられたよう 持つ女性が何故に妻子ある男と暮らすのかとは聞けない都会の片隅で見捨てられたよう なスラムの男女の出会いなのでしょう。 の男女の出会いなのでしょう。この この海上 海上スラムは行政から見れば全員が不法占 なスラム の男女の出会いなのでしょう。 この 海上 スラムは行政から見れば全員が不法占 拠の犯罪人。犯罪人 。犯罪人だからとしばしば存在も人権も無視される だからとしばしば存在も人権も無視されるパワーレス・ピープル パワーレス・ピープルの 拠の犯罪人 。犯罪人 だからとしばしば存在も人権も無視される パワーレス・ピープル の 都市貧民である。そんな彼らが である。そんな彼らが見ず知らずの 見ず知らずの金持ちの 金持ちの外国 外国人の生活安定者をホームステ 都市貧民 である。そんな彼らが 見ず知らずの 金持ちの 外国 人の生活安定者をホームステ ィさせ、「やもめの献金」(ルカ ィさせ、「やもめの献金」(ルカ書二十一章一 ルカ書二十一章一~ 書二十一章一~四節)のように、彼らの乏しい財 四節)のように、彼らの乏しい財産で )のように、彼らの乏しい財産で ある寝場所・食料・1タンクずつ買って来る って来る飲み水を分け与え、 ホスピタリティを示し、 ある寝場所・食料・1タンクずつ買 って来る 飲み水を分け与え、ホスピタリティを示 し、 実習の終わりの の終わりの手作り送別会 手作り送別会で は涙を流してくれた。 我々も 頭がさがり涙を流した。こ 実習 の終わりの 手作り送別会 では涙を流してくれた 。我々 も頭がさがり涙を流し た。こ の人々の厳しい生活に負けない生き方は、定期的に開かれるバイブル・シャリング の人々の厳しい生活に負けない生き方は、定期的に開かれるバイブル・シャリング( バイブル・シャリング(聖 のみ言葉の分ち合い 分ち合い) によって育てられている他者に開かれた心、 書のみ言葉の 分ち合い )によって育てられている他者に開かれた心 、仲間意識ではない かと思う かと思 う。 BCC(キリス教 (キリス教基礎共同体)があり、 基礎共同体)があり、婦人 婦人の 、壮年の この海上スラムにも BCC (キリス教 基礎共同体)があり、 婦人 の会、壮年 の会、若者 のバイブル・シャリングに参加し バイブル・シャリングに参加した。 に参加した。1 た。1 人が読み上げる 人が読み上げる「イエスの 読み上げる「イエスの福音書」を 「イエスの福音書」を参加者は 福音書」を参加者は 傾聴し、イエス・キリストの言葉 リストの言葉に 互いの生活や問題を分かち合い 分かち合い、 傾聴し、イエス・キ リストの言葉 に互いの生活や問題を 分かち合い 、涙を浮かべながら 共有・共感していた。まさ た。まさに、 に、十字架上に 十字架上に見捨てられたイエスが復活し 見捨てられたイエスが復活した後、類が及ぶ 共有・共感してい た。まさ に、 十字架上に 見捨てられたイエスが復活し た後、類が及ぶ のを恐れ、逃げ回り のを恐れ、逃げ回り閉 逃げ回り閉じこもっていた弟子たち じこもっていた弟子たちの真ん中に来 たちの真ん中に来て、 の真ん中に来て、弱い て、弱い弟子たち 弱い弟子たちに「友よ」 弟子たちに「友よ」 癒されたプロセスがバイブル・シャリング バイブル・シャリングの方法に働いていると感じ の方法に働いていると感じた。 た。“ 自己中” と癒されたプロセスが バイブル・シャリング の方法に働いていると感じ た。 “自己中 ” の利己主義と格差社会が広がった 利己主義と格差社会が広がった現代 広がった現代日本社会に 現代日本社会にも 日本社会にも、パワーレス・ピープルの人々 パワーレス・ピープルの人々と 人々と共 有・共感 共感する する生き方が必要だと教えられた体験 生き方が必要だと教えられた体験実習 実習でした。 有・ 共感 する 生き方が必要だと教えられた体験 実習 でした。 聖イグナチオ・ロヨラが編み出した『 聖イグナチオ・ロヨラが編み出した『霊操』 霊操』の体験は、個人的祈りの体験 の体験は、個人的祈りの体験に留まらず の体験に留まらず 人間全体に、人間を取り巻く社会構造、それによって生み出される様々な状況にまで響 くものがある。 例えば、聖イグナチオが勧める イグナチオが勧める「辱めや蔑みを望む 「辱めや蔑みを望む心 146) くものがある 。例えば、聖 イグナチオが勧める 「辱めや蔑みを望む 心」(霊操 146 )へ 観想は 隅に追いやられた人、貧しい人々と友人になることを望むことではないだ の観想 は、片隅に追いやられた人、貧しい人々と友人になることを望むことではない だ ろうか。社会的に力のない人々は 。社会的に力のない人々は常に 常に「 辱めや蔑み」 ろうか 。社会的に力のない人々は 常に 「辱めや蔑み 」を受けている。それは、ナボタス 海上スラムの人々を覚え続け 続けていれば分かる。彼らの生活環境は ていれば分かる。彼らの生活環境は酷 の海上スラムの人々を覚え 続け ていれば分かる。彼らの生活環境は 酷かった。拾い集め た物で海の上に作った掘っ立て小屋に住み、子供たちは墓場とゴミ捨て場で遊び、 物で海の上に作った掘っ立て小屋に住み、子供たちは墓場とゴミ捨て場で遊び、悪臭 掘っ立て小屋に住み、子供たちは墓場とゴミ捨て場で遊び、悪臭 と湿った細い道、 い道、うるさい音、 うるさい音、狭い 狭いトイレには紙もない等々。彼らが受ける「辱めと蔑 と湿った細 い道、 うるさい音、 狭い トイレには紙もない等々。彼らが受ける「辱めと蔑 み」を分かち合わなければ、ただ我々は遠くの豊かな国の な国の安 安心の地にあって、彼ら み」を分かち合わなければ、ただ我々は遠くの豊か な国の 安全安心 の地にあって、彼ら の境遇を思い出しているだけだろう。 の境遇を思い出しているだけだろう。それならば ているだけだろう。それならば結局 それならば結局のところ 結局のところ、いつ のところ、いつの日 、いつの日か の日か彼らの存在 も記憶の彼方に忘れてしまうだけになる になるだろう。 も記憶の彼方に忘れてしまうだけ になる だろう。 日本に来る台風の多くはフィリピンの太平洋側の海 の海、 レイテ島やサマール島近海で台 日本に来る台風の多くはフィリピンの太平洋側 の海 、レイテ島や サマール島近海で台 風の卵として として発生 発生します します。 その後 渦巻く上昇気流となり 上昇気流となり大量の 大量の海水を吸い上げながら 海水を吸い上げながら、 風の卵 として 発生 します 。その 後、渦巻く 上昇気流となり 大量の 海水を吸い上げながら 、 ルソン島を横断し南シナ海に抜ける ルソン島を横断し南シナ海に抜けるか、 抜けるか、東シナ海を北上し か、東シナ海を北上し朝鮮 東シナ海を北上し朝鮮半島 朝鮮半島や 半島や日本列島 日本列島に 列島に向かっ 向かっ て来ます ます。 ものすごい暴雨風台風ミリアムがマニラ市 直撃横断し 横断しまし ました。 て来 ます 。2006 年 9 月、 ものすごい暴雨風台風ミリアムがマニラ 市を直撃 横断し まし た。 南部の工場地帯にある日本や韓国の工場も大被害にあいました。 南部の工場地帯にある日本や韓国の工場も大被害にあいました。丁度 あいました。丁度、 丁度、サバティ サバティカル ティカル・ カル・ イヤーで 私が滞在していたアテネオ・デ 滞在していたアテネオ・デ・マニラ大学キャンパス内も至る所で樹木が幹 イヤー で私が 滞在していたアテネオ・デ ・マニラ大学キャンパス内も至る所で樹木が幹 ごとなぎ倒されまし ました。市内は電線が切れ2週間くらい電気 た。市内は電線が切れ2週間くらい電気も来ませんでした。やっと ごとなぎ倒され まし た。市内は電線が切れ2週間くらい電気 も来ませんでした。やっと 電気が来て交通信号機も点灯したので、海上スラムのナボタスの人々を心配して訪問し 電気が来て交通信号機 も点灯したので、海上スラムのナボタスの人々を心配して訪問し ました。最初に 1995 年にホームステ 年にホームスティ ホームスティした船舶 した船舶解体工場内の 船舶解体工場内のアルハンドリーノ家 解体工場内のアルハンドリーノ家族を訪 アルハンドリーノ家族を訪 れると、家の位置が変わっていました。どうしたのかと訊ねると、マニラ湾 の位置が変わっていました。どうしたのかと訊ねると、マニラ湾に突き出る れると、家 の位置が変わっていました。どうしたのかと訊ねると、マニラ湾 に突き出る ように組み立てた家が台風ミリアムによる海 風と波で家ごと流されたとか。 たとか。何とか浜辺 ように組み立てた家が台風ミリアムによる 海風と波で家ごと流され たとか。 何とか浜辺 に残された材木で た材木でバラックを バラックを作り直したそう 作り直したそうでし でした 以前、家の床に寝かしていた赤ち に残され た材木で バラックを 作り直したそう でし た。以前、 家の床に寝かしていた赤ち ゃんが下からの波風でさらわれ沖にプカプカしていたと聞いたことがあ ゃんが下からの波風でさらわれ沖にプカプカしていたと聞いたことがあった 下からの波風でさらわれ沖にプカプカしていたと聞いたことがあったが、 ったが、家ごと が、家ごと さらわれるとは大変、まさに「ノアの箱舟」 、まさに「ノアの箱舟」状態 状態だ 私の心配 心配顔 この家族は明る 海にさらわれるとは大変 、まさに「ノアの箱舟」 状態 だ。私の 心配 顔にこの 家族は明る く笑いながら答えてくれた。 た。こ BCC( キリス教基礎共同体 基礎共同体) く笑いながら答えてくれ た。 ここの BCC (キリス教 基礎共同体 )は、日本のボランティ 団体と NGOを作り、人々が貧困から抜けだし自立してゆけるように彼ら彼女たちを ア団体 とNGO を作り、人々が貧困から抜けだし自立してゆけるように彼ら彼女たちを 支えています 支えています。 ます。Sr.タンの方法と同じく Sr.タンの方法と同じくスラム住民を少数のグループ .タンの方法と同じくスラム住民を少数のグループに分けて スラム住民を少数のグループに分けて BCC を作 、バイブル・シャリング(聖書の 言葉の分かち の分かち合い)で生活から 合い)で生活から振り返り 振り返り、互いの り、バイブル・シャリング(聖書 のみ言葉 の分かち 合い)で生活から 振り返り 、互いの 状況を理解し合い、コミュニティー コミュニティー意識を高めて、みんな 意識を高めて、みんなで 状況を理解し合い、 コミュニティー 意識を高めて、みんな で協力して助け合う仲間つく りをしています をしています。また奨学金で若者に教育を与え、コミュニテ ます。また奨学金で若者に教育を与え、コミュニティ 。また奨学金で若者に教育を与え、コミュニティーのリーダーを育てて ーのリーダーを育てて ゆくプログラムを 実践してい している イエズス会神学生もボランティアに 神学生もボランティアに来て、 ゆくプログラム を実践 してい る。イエズス会 神学生もボランティアに 来て、スラムの人々 「自らの能力と可能性」の発展に取り組めるよう めるよう、 同じ人間として“ が「自らの能力と可能性」の発展に取り組 めるよう 、同じ人間として “心と心を分かち 合う” よい学びをしている 合う ”よい学びをしてい る。 (3)ストリートチルドレン (3)ストリートチルドレン 首都マニラ市に隣接するケソン市にイエズス会が経営する 首都マニラ市に隣接するケソン市にイエズス会が経営するアテネオ・デ・マニラ大学 マニラ市に隣接するケソン市にイエズス会が経営するアテネオ・デ・マニラ大学 がある 。その広大なキャンパス内 キャンパス内に、アジアのイエズス会神学生が養成される国際神学 があ る。その広大な キャンパス内 に、アジアのイエズス会神学生が養成される国際神学 院、アルぺ・インターナショ 院、アルぺ・インターナショナル・レジデンスもある ショナル・レジデンスもある。 ナル・レジデンスもある。宗教弾圧 宗教弾圧や 弾圧や経済問題で自 経済問題で自国内に で自国内に はイエズス会 の修道生活や哲学や神学など高等教育を学ぶ場所がない 哲学や神学など高等教育を学ぶ場所がない国々 国々、東 、東ティ ティモー はイエズス 会の修道生活や 哲学や神学など高等教育を学ぶ場所がない 国々 、東 ティ モー ル、ミャンマー ル、ミャンマー、スリランカ、タイ、カンボジア 、スリランカ、タイ、カンボジア、ミクロネシア、また ミクロネシア、また中国の地下教会 また中国の地下教会 などから からの 神学生たち たち約 人が共同生活をしている 彼らは勉学の合間にボランティア など から の神学生 たち 約 40 人が共同生活をしてい る。彼らは 勉学の合間にボランティア として土曜 土曜夕方から 夕方からマニラ市内の マニラ市内のストリートチルドレンのために手分けして給食 ストリートチルドレンのために手分けして給食と医療 として 土曜 夕方から マニラ市内の ストリートチルドレンのために手分けして給食 と医療 活動している 。路上生活している子供たちはフィリピン全土で約 万人という という。 活動してい る。路上 生活している子供たちはフィリピン全土で約 20 万人 という 。マニラ 首都圏だけでも約3万人はいると推定されてい ている 首都圏だけでも約3万人はいると推定され てい る。ギャングスター出身でギャンブル汚 職で辞職したエストラルダ元 大統領に代わって って発足し 発足した グロリア・アロ アロヨ 大統領の政 職で辞職したエストラルダ 元大統領に代わ って 発足し たグロリア・ アロ ヨ前大統領の 政 権は当初、故 権は当初、故コリー・アキノ元大統領たち「ピープルズ・パワー」の民衆 コリー・アキノ元大統領たち「ピープルズ・パワー」の民衆に支持されて の民衆に支持されて いましたが、フィリピン大学経済学博士号をもつ前大統領は フィリピン大学経済学博士号をもつ前大統領は経済成長を急ぐあまり、 経済成長を急ぐあまり、か いましたが、 フィリピン大学経済学博士号をもつ前大統領は 経済成長を急ぐあまり、 か えって都市部と山間農村部との経済格差を広げ、貧富の差 都市部と山間農村部との経済格差を広げ、貧富の差を 更に拡大し 拡大してしまった てしまったと言 えって 都市部と山間農村部との経済格差を広げ、貧富の差 を更に 拡大し てしまった と言 う。収入を求めて都市部に流入する人々や海外へ移住する 収入を求めて都市部に流入する人々や海外へ移住する労働者は増え 移住する労働者は増えてい 労働者は増えている ている。しかし、 しかし、 島や農村から都会に家族ぐるみで から都会に家族ぐるみで移住 移住して して来ても、英語が流暢 来ても、英語が流暢に話せる に話せるかマニラ首都圏 島や農村 から都会に家族ぐるみで 移住 して 来ても、英語が流暢 に話せる かマニラ首都圏 の言葉の タガログ語が理解できなければ就職採用され グ語が理解できなければ就職採用されない ないから、空き地に勝手に掘立て の言葉 のタガロ グ語が理解できなければ就職採用され ない から、空き地に勝手に掘立て 小屋をたてて住むスクワッター不法占拠者になる になるか、スラムに住む親戚知人を頼って か、スラムに住む親戚知人を頼って住 小屋をたてて住むスクワッター不法占拠者 になる か、スラムに住む親戚知人を頼って 住 みつくかどうか みつくかどうか。今日一日一回 かどうか。今日一日一回食べられるかどうか 。今日一日一回食べられるかどうかギリギリの貧困家庭の親の育児放棄 食べられるかどうかギリギリの貧困家庭の親の育児放棄 や虐待や離婚から子供たちが路上に逃げ出す構造が 出来てくる くる。 や虐待や離婚から子供たちが路上に逃げ出す構造 が出来て くる 。ストリートチルドレン の増加の背景にこうした不安定な生活があると言われてい の増加の背景にこうした不安定な生活があると言われている。 ている。ス る。ストリートチルドレンは 「貧しさからくる家庭崩壊」 偏ったグローバル経済成長の犠牲者と言える。端的に言えば「貧しさからくる家庭崩壊 」。 スラムの住む 住む家がある 家があるの スラムの 住む 家がある のに戻れない子供たち。昼間は物乞いで食いつなぎ、夜はデパー トの軒下や高速道路の橋脚の下や空き地で寝る子供たち、常夏の国 の国だ トの軒下や高速道路の橋脚の下や空き地で寝る子供たち、常夏 の国 だから日本のホーム レスのように悲惨な凍死 レスのように悲惨な凍死は 悲惨な凍死はない。身の安全からグループを作 ない。身の安全からグループを作るが 身の安全からグループを作るが、年長者から置き引き るが、年長者から置き引き やひったくりをやらされる小さな子たち たち。大人が近づいて 。大人が近づいて来ると、 来ると、それは それは幼児 幼児売春 売春の客 やひったくりをやらされる小さな子 たち 。大人が近づいて 来ると、 それは 幼児 売春 の客 か麻薬の売人。次第に子供たちが次々と大人たちの餌食になっていく。「このまま路上 で暮らしていたら刑務所入りか、殺されるかだ」と不安のまま過している時、1人ひと りの名前 りの名前を呼んで関わってくれる学生ボランティア を呼んで関わってくれる学生ボランティアと出会い、 ティアと出会い、人権福祉団体を紹介して と出会い、人権福祉団体を紹介して もらい、 ルターに入れてもらい 入れてもらい、読み書きを習い、学校に通い始めた子供もい 、読み書きを習い、学校に通い始めた子供もいる もらい 、シェルターに 入れてもらい 、読み書きを習い、学校に通い始めた子供もい ると 聞く。 彼ら彼女らが家族や ホームに戻れ るためには、まだまだ まだまだ温かい心と手のボランテ 聞く 。彼ら彼女らが家族 やホームに戻 れるためには、 まだまだ 温かい心と手のボランテ ィアが必要です。 (4)北部ルソン島持久戦 (4)北部ルソン島持久戦 直木賞作家、野坂昭如氏の名作『火垂るの墓』をテレビ・アニメで再び 直木賞作家、野坂昭如氏の名作『火垂るの墓』をテレビ・アニメで再び観た。太平洋 再び観た。太平洋 戦争に向かった海軍軍人の父を亡くし、更に母を空襲で亡くした戦争孤児の兄妹が、た くさんの蛍が舞う地で野宿生活をして くさんの蛍が舞う地で野宿生活をし て、幼い妹はとうとう栄養失調で死んでしまう。兄 は独りで妹の亡き骸を火葬し、妹の 妹の好きだったドロップの空き缶に小さくなった妹の骨 は独りで妹の亡き骸を火葬し、 妹の 好きだったドロップの空き缶に小さくなった妹の骨 を納める場面で私は涙を流した。私にも独りの妹がいる。辛く悲しいだろうなと思う。 を納める場面で私は涙を流した。私にも独りの妹がいる。辛く悲しいだろうなと思う。 フィリピンでも蛍がたくさん舞うのを見た。厚生労働省によると、海外で戦死した日本 フィリピンでも蛍がたくさん舞うのを見た。 厚生労働省によると、海外で戦死した日本 兵のうち半数近い 115 万人の遺骨はいまだに発見されていないと言う。フィリピン全体 にはその約3分の1に当たる はその約3分の1に当たる 40 万人弱の遺骨があると見られている。即ち、フィリピン 各地に今も沢山の日本人の遺骨が人知れずに眠っている。国家のためだと兵隊にされ、 各地に今も沢山の日本人の遺骨が人知れずに眠っている。 国家のためだと兵隊にされ、 異国で誰にも看取られず死んでいくことはどれだけ無念だったろう。 異国で誰にも看取られず死んでいくことはどれだけ無念だったろう。その悲しみの魂は、 その悲しみの魂は、 今も沢山の蛍のように彷徨っているのではないだろうか。 ご存知のように、 “アイ・シャル・リターン”の言葉どうり、マッカーサー元帥総司令 ご存知のように、 “アイ・シャル・リターン”の言葉どうり、マッカーサー元帥総司令 官率いる米軍が、1944 日にレイテ島に上陸し、圧倒的な軍事力と空爆で 官率いる米軍が、 1944 年 10 月 20 日にレイテ島に上陸し 、圧倒的な軍事力と空爆で 12 月には レイテ島の日本軍を壊滅させ、 日本軍を壊滅させ、マニラ奪還をめざし北上し マニラ奪還をめざし北上して来た。レイテ て来た。レイテ戦に敗 月に はレイテ島の 日本軍を壊滅させ、 マニラ奪還をめざし北上し て来た。レイテ 戦に敗 北した比島第十四方面 比島第十四方面日本軍 日本軍参謀 参謀は、部隊を三つの集団に分け、 は、部隊を三つの集団に分け、「振武集団」 「振武集団」10 北した 比島第十四方面 日本軍 参謀 は、部隊を三つの集団に分け、 「振武集団」 10 万 5 千 マニラを含む南部に、「建武集団」3 万名は 名はマニラを含む南部に、「建武集団」 3 万名 はマニラ北東部に、主力の「尚武集団」 万2千名は バギオを中心としたルソン島北部で 久戦を 図る戦略をとった をとった。米軍 。米軍側 15 万2千名 はバギオを中心としたルソン島北部 で持久戦 を図る戦略 をとった 。米軍 側は 激しい艦砲 激しい艦砲爆撃で 艦砲爆撃でマニラ北西の 爆撃でマニラ北西のリンガエン湾 マニラ北西のリンガエン湾に上陸し リンガエン湾に上陸し、翌年 に上陸し、翌年 1 月に南下 月に南下を 南下を始め、 始め、マニラ 米軍から南北で取り囲まれ 取り囲まれた。 た。約1ケ月間の激しい市街戦となり 約1ケ月間の激しい市街戦となり、 は米軍から南北で 取り囲まれ た。 約1ケ月間の激しい市街戦となり 、米軍の砲爆撃と日 本軍の放火で市街地は廃虚と った。マニラ市民の犠牲者も約 本軍の放火で市街地は廃虚 となった。 マニラ市民の犠牲者も約 10 万人に至ったと言う。 日本軍十四方面軍 「尚 日本軍十四方面軍総 十四方面軍総司令官として赴任した「マレーの虎将軍」こと山下奉文大将は、 司令官として赴任した「マレーの虎将軍」こと山下奉文大将は、 武集団」15 万余の兵士を率いて、日本の商社勤務の 、日本の商社勤務の民間人や家族などマニラ在住の日本 武集団」 15 万余の兵士を率いて 、日本の商社勤務の 民間人や家族などマニラ在住の日本 人全体をルソン島北部山岳地へ移動させ、敵の日本本土進攻を遅らせるため “北部ルソ ン島持久戦”の作戦を 持久戦”の作戦を実行 実行した した。こうして、日本軍兵士と共に民間人の大人も子供も含 ン島 持久戦”の作戦を 実行 した 。こうして、日本軍兵士と共に民間人の大人も子供も含 め、マニラ市から北へ約 250 キロの山地の都市バギオへの大行進が始まった。しかし、 既に南シナ海に集結した米海軍 軍艦から山岳地への艦砲射撃と空爆 艦砲射撃と空爆、更に 、更にリンガエン湾 既に南シナ海に集結した米海 軍軍艦から山岳地への 艦砲射撃と空爆 、更に リンガエン湾 から上陸し北上して来た から上陸し北上して来た米軍 上陸し北上して来た米軍歩兵 米軍歩兵の進攻に対処できず、 歩兵の進攻に対処できず、4月下旬にはバギオは陥落した。 4月下旬にはバギオは陥落した。 武器と食糧の欠乏にかかわらず、超人的な死闘を各地点で繰り返していた ていた日本軍も、一 武器と食糧の欠乏にかかわらず、超人的な死闘を各地点で繰り返し ていた 日本軍も、一 般邦人と共に、米軍とゲリラの攻撃に追われ、ジャングルの中で飢餓 飢餓とマラリア とマラリアで倒れ 般邦人と共に、米軍とゲリラの攻撃に追われ、ジャングルの中で 飢餓 とマラリア で倒れ る者が続出しながら敗走を続けた。ルソン島北部 ながら敗走を続けた。ルソン島北部は、こうして兵士と は、こうして兵士と一般邦人 一般邦人を合わせ る者が続出し ながら敗走を続けた。ルソン島北部 は、こうして兵士と 一般邦人 を合わせ た 90%の 90%の 20 万人が死んだと言う太平洋戦争随一の死者を数える地獄の戦場、本土防衛 のための“沖縄持久戦”と同様に現地住民も巻き込まれ、多大の死者が出る悲惨な戦場 敗退する日本軍の最終拠点となったキアンガン村( 日本名は桜町) となった。また、敗退する日本軍の最終拠点となったキアンガン村 (日本名は桜町 )では、 隊からはぐれてジャングルを彷徨するうち餓鬼と化した日本兵に家々は襲われ、食料も 家畜も奪われて山中に避難した村人が、かえって米軍の空爆で多数犠牲になった かえって米軍の空爆で多数犠牲になったと聞く。 聞く。 日の日本の無条件降伏に遅れること半月、生き残った者の自決と餓死が増える 8 月 15 日の日本の無条件降伏に遅れること半月、生き残った者の自決と餓死が増 える 中、持久作戦を立てた参謀たちは台湾 持久作戦を立てた参謀たちは台湾へ脱出し へ脱出し、山下奉文大将は降伏の権限が与えられ 中、 持久作戦を立てた参謀たちは台湾 へ脱出し 、山下奉文大将は降伏の権限が与えられ ないまま、遂に自らの決断において、9 日にキアンガンで米軍に投降し、8 ヶ月にわ ないまま、遂に自らの決断において、 9 月 2 日にキアンガンで米軍に投降し、 8 ヶ月に わ たり米軍の日本本土進攻を遅らせた「北部ルソン島持久戦」は終結した。 第二次世界大戦敗戦から 60 年の節目の年の 2005 年、世界で、国連はじめ、ドイツ、 フランス、イギリス、ロシア、ポーランドなど等、各国で過去を直視し平和を祈る大切 な記念式典が行なわれた。フィリピンでもルソン島北部山岳地のキアンガン村でフィリ 日に行なわれ、当時のアロヨ大統領のほか米、英、豪、ニ ピン政府主催の式典が 9 月 2 日に行なわれ、 当時のアロヨ大統領のほか米、英、豪、ニ ュージーランドと日本の駐比大使らも出席した。この日が選ばれたのは、いうまでもな く、フィリピン戦線を指揮した山下奉文大将が 1945 年 9 月 2 日にキアンガンで降伏した からである。この記念式典で日本大使は「日本の軍事侵攻がフィリピンや中国、朝鮮半 島などアジア諸国の人々にもたらした耐え難い苦しみを直視し、改めて全ての犠牲者に 2005. 9.3) お詫び申し上げます」と述べたとある。 (朝日新聞 2005 .9.3 ) 。 私は、 「尚武集団」の「北部ルソン島持久戦」に組み込まれ、命令に従ってマニラから 北部ルソン ルソン島 山岳地に移動し、敗退する日本軍と共にジャングルをさ ジャングルをさ迷 北部 ルソン 島山岳地に移動し、敗退する日本軍と共に ジャングルをさ 迷い、餓死寸前で 終戦を知った数少ない生存者のうち二人を知っている。その一人である小川哲郎氏は、 1943年、陸軍文官として派遣されたマニラで日本語を教えていた。米軍のマニラ進 1943年、陸軍文官として派遣されたマニラで日本語を教えていた。 米軍のマニラ進 撃により、司令部から、同僚教師たちとバギオへの軍需物資 撃により、司令部から、同僚教師たちとバギオへの軍需物資運搬を命じられたが、鉄道 物資運搬を命じられたが、鉄道 が破壊されて任務解消となった。たどり着いたバギオで、再び命令を受け、爆撃の中、 東部のバヨンボンに向かい、ラトレで兵站基地の建設に当たったと言 東部のバヨンボンに向かい、ラトレで兵站基地の建設に当たったと 言う。戦局はますま す悪化し、司令部はバギオから山地の村キアンガンに拠点を移すことになり、残存する す悪化し、司令部はバギオから山地の村キアンガンに拠点を移 すことになり、残存する 隊と一般邦人もキアンガンを目指した。村人が掘り 村人が掘り残し 残した 隊と一般邦人もキアンガンを目指した。 村人が掘り 残し た芋を探し、野草を食べては命 をつなぎ、昼間は敵機とゲリラの攻撃を避けてジャングルに潜み、夜間に行進するのだ が、爆撃よりも実際は飢えとマラリアに倒れ、路上に見捨てられた無数の遺体、飢えの ために狂気に陥る者、せっかく生き延びても、非人間的な軍規によって殺される者を目 の当たりにする地獄の道行きであったと聞く と聞く。この持久戦の間に多くの戦友を失った小 の当たりにする地獄の道行きであった と聞く 。この持久戦の間に多くの戦友を失った小 川氏は、餓死寸前でキアンガン周辺にたどり着いて終戦を知り、生き残った兵士・民間 人と共に米軍の捕虜となって ってマニラに護送された。戦後は マニラに護送された。戦後は、 人と共に米軍の捕虜とな って マニラに護送された。戦後は 、故郷和歌山県の高校の教頭 や校長を務めた後、定年を待たずに退職して政府の遺骨収集団などに参加して、何度も や校長を務めた後、定年を待たずに退職して 政府の遺骨収集団などに参加して、何度も ルソン島を訪ねて戦死者を弔い、この戦争で多大の犠牲を強いられた現地住民との交流 に努めた。その傍ら、戦友たちや忘れられた兵士たちへのレクイエムとして、また、戦 争という狂愚を二度と繰り返さぬよう、後生に対する生き証人として、英文の手記 『Terraced Hell』 「棚田の地獄」または「段々と Hell』(北部ルソン島に多い棚田にかけて、 (北部ルソン島に多い棚田にかけて、 落ちてゆく地獄」という意味)や、その日本語による集大成である『 ある『戦争と人間の記録 落ちてゆく地獄」という意味)や、その日本語による集大成で ある『 戦争と人間の記録 北部ルソン島戦 島戦』 ・後篇や 北部ルソン 島戦 』前篇・後篇 や『玉砕を禁ず』などの著作に専念した。カトリックの洗 礼を受けて、66 歳で亡くなった後、生前の望みに添って、小川氏の遺骨は分骨されて 礼を受けて、 66 歳で亡くなった後、生前の望みに添って、小川氏の遺骨は分骨され て、 友人となったキアンガンの人々の用意してくれたキアンガン町営墓地に家族の手で葬ら 友人となったキアンガンの人々の用意してくれたキアンガン町営墓地に家族の手で葬ら 「ガブリエル小川哲郎」と英語墓碑銘の下には、AUTHOR れた。 「ガブリエル小川哲郎」と英語墓碑銘の下には、 AUTHOR of TERRACED HELL とある。 また「戦争で壊されたフィリピン人と日本人の絆を人と人との交わりで癒すため、 との交わりで癒すため、九 また「戦争で壊されたフィリピン人と日本人の絆を人と人 との交わりで癒すため、 九回 キアンガンとその周辺を訪れた」と英文で記されている。私は、 キアンガンとその周辺を訪れた」と英文で記されている。私は 、2006 年に小川氏の娘の Sr.小川紘子さん(ショファイユの幼きイエズス修道会会員)の望みでキアンガン r.小川紘子さん(ショファイユの幼きイエズス修道会会員)の望みでキアンガン町 小川紘子さん(ショファイユの幼きイエズス修道会会員)の望みでキアンガン町へ 案内して 小川哲郎氏の 氏の墓参 墓参を 案内し て小川哲郎 氏の 墓参 をした。 同じく、マニラから“尚武集団”に組み込まれバギオへ行進し バギオへ行進し、 更に米軍に追われて 同じく、マニラから“尚武集団”に組み込まれ バギオへ行進し 、更に 米軍に追われて 山越えで母親と妹たちの手を握り励まし合い 母親と妹たちの手を握り励まし合いキアンガンまで逃げて来た前田トシコさん 山越えで 母親と妹たちの手を握り励まし合い キアンガンまで逃げて来た前田トシコさん は、米軍と村人に助けられた時に は、米軍と村人に助けられた時に 14 歳だったと言う。敵機とゲリラの攻撃を避けてジャ 歳だったと言う。敵機とゲリラの攻撃を避けてジャ ングルに入り、 に入り、飢えとマラリアに倒れ、見捨てられた無数の遺体を横目に 飢えとマラリアに倒れ、見捨てられた無数の遺体を横目に歩いて 歩いて逃げる ングル に入り、 飢えとマラリアに倒れ、見捨てられた無数の遺体を横目に 歩いて 逃げる 途中、幼い妹たちが山中で「もう歩けない」とぐずりだすと、お母さんは「私 幼い妹たちが山中で「もう歩けない」とぐずりだすと、お母さんは「私の子の誰 途中、 幼い妹たちが山中で「もう歩けない」とぐずりだすと、お母さんは「私 の子の誰 一人も残さない。 一人も残さない。皆日本に連れて帰る」と泣きながら叩いて歩かせ 日本に連れて帰る」と泣きながら叩いて歩かせて 」と泣きながら叩いて歩かせてキアンガンにたど り着き、終戦を知り、全員無事に日本に帰 全員無事に日本に帰国 り着き、終戦を知り、 全員無事に日本に帰 国出来たと言う。戦後、トシコさんは貧しい 人々のために働く「イエスの小さい姉妹の友愛会」に入会して修道女 て修道女とな となった。 った。タガロ 人々のために働く「イエスの小さい姉妹の友愛会」に入会し て修道女 とな った。 タガロ グ語が出来たのでフィリピンに戻り、海上スラムのナボタス地区の貧民のために働いた グ語が出来たのでフィリピンに戻り、海上スラムの ナボタス地区の貧民のために働いた り、下関の在日韓国人地区で故・金南珠婆ちゃんた り、下関の在日韓国人地区で故・金南珠婆ちゃんたち 婆ちゃんたち在日の孤独な老人の世話をしなが 在日の孤独な老人の世話をしなが ら、2009 あの苛酷な“北部ルソン島持久戦” ら、 2009 年 3 月 19 日に 77 歳で眠るように帰天した。あの苛酷な “北部ルソン島持久戦” 生き抜いたシスター シスター前田 前田トシ トシコさんは、 コさんは、キアンガンで キアンガンで助かった時に栄養失調だったせ を生き抜いた シスター 前田 トシ コさんは、 キアンガンで 助かった時に栄養失調だったせ いか身長は小学生なみに小さかったが、心は温かく大きな人でした。 (5)私の (5)私の叔父さんは食べられた 私の叔父さんは食べられた。 叔父さんは食べられた。 フィリピンには多くの先住少数民族が存在している。多くは北のルソン島山岳地や南 のミンダナオ島山岳地に住んでいる。彼らは日本の先住民族であるアイヌの人々と同じ く、フィリピンの先住民族でありながら長い間、経済的・政治的・教育的にも中央から 無視されてきた。学校教育や経済支援もカトリック教会やイスラム教団体の支援が拠り 所。彼らは先祖代々耕作して来た農地や住んできた土地の不動産登録を自己申告して土 所。彼らは先祖代々耕作して来た農地や住んでき た土地の不動産登録を自己申告して土 地の税金を国に払う法手続きを知らなかったし、食料自給がやっとの山岳民族には税金 を払う大金もなかった。それに対し「土地の税金を国に 10 年間払い続けると、国から払 い下げを受け不動産登録ができる」という法律がある。税金を払わない者の土地を税金 を払った者の土地にすることが出来るというとんでもない法律であり、都会の農園主や を払った者の土地にすることが出来るというとんでもない法律であり、都会の農園主や 金持ちが勝手に が勝手に他人 他人の土地の税金を払い、 金持ち が勝手に 他人 の土地の税金を払い、ある日突然に土地を奪われる少数民族がいる。 イエズス会の司祭には、司祭叙階後数年働いて「 司祭叙階後数年働いて「第三修練」という海外でリニュアル イエズス会の司祭には、 司祭叙階後数年働いて「 第三修練」という海外でリニュアル する研 する研修と勉学の時期が与えられる と勉学の時期が与えられる。私もフィリビンで第三修練をするように命じられ 。私もフィリビンで第三修練をするように命じられ 年間をフィリビン各地で研修し た。世界各地から来た第 1995 年から 1996 年にかけて 1 年間をフィリビン各地で研修 した。 世界各地から来た第 三修練の 人は、クリスマス前後の2週間を、ルソン島北部山岳地の各教会での司 三修練 の司祭 10 人は、クリスマス 前後の2週間を、ルソン島北部山岳地の各教会での司 牧実習に向かった 牧実習に向かった。 向かった。ルソン島北部には背骨のように 2000m級の山脈が連なる山深い地域 2000m級の山脈が連なる山深い地域 があり、山ごとに少数民族が住んでいる。マニラで「ルソン島 マニラで「ルソン島北部 北部山岳地に行く」と言 があり、山ごとに少数民族が住んでいる。 マニラで「ルソン島 北部 山岳地に行く」と言 うと、多くの人が うと、多くの人が、日本の大使館関係者も「気をつけろ。あのあたりには首狩族、人食 、日本の大使館関係者も「気をつけろ。あのあたりには首狩族、人食 い人種がいる」と言われた。 た。図書 図書室 で調べてみると、約 い人種がいる」と言われ た。 図書 室で調べ てみると、約 3000 年前、まだ大陸と近かった に、島伝いでマレー系やインドネシア系の人々が米作文化と共に渡って来て でマレー系やインドネシア系の人々が米作文化と共に渡って来て先住 先住少数 頃に、島伝い でマレー系やインドネシア系の人々が米作文化と共に渡って来て 先住 少数 民族となり、世界遺産に 世界遺産に認定 認定された山頂まで至る美しい された山頂まで至る美しい「 バナウェのライステラス」 ライステラス」な 民族となり、 世界遺産に 認定 された山頂まで至る美しい 「バナウェの ライステラス」 な ど棚田を作り、狩猟と稲作生活で山岳地に住んでいたそう 棚田を作り、狩猟と稲作生活で山岳地に住んでいたそうだ 生活で山岳地に住んでいたそうだ。その頃には縄張り争いで 。その頃には縄張り争いで 勝利の首狩りをしたらしい。平地のマニラ 平地のマニラなど など都会では、昔話を今も伝え 都会では、昔話を今も伝え、ルソン島北 勝利の首狩りをしたらしい。 平地のマニラ など 都会では、昔話を今も伝え 、ルソン島北 部山岳地の人々を首狩族、 昔を言えば日本も、 部山岳地の人々を 首狩族、人食い人種と蔑んで差別しているらしい。昔を言えば日本も 、 戦国時代に縄張り争いで 縄張り争いで敵の首を切り、東西天下分け目の「関が原」 敵の首を切り、東西天下分け目の「関が原」後 敗れた武将 武将の 戦国時代に 縄張り争いで 敵の首を切り、東西天下分け目の「関が原」 後に敗れた 武将 の 首を切 首を切った。赤穂浪士 た。赤穂浪士「忠臣蔵」 赤穂浪士「忠臣蔵」の結末も首狩りだから日本人も首狩族だった。 「忠臣蔵」の結末も首狩りだから日本人も首狩族だった。 首都マニラから迎えの車で舗装もガードレールも無い道 車で舗装もガードレールも無い道路 首都マニラから迎えの 車で舗装もガードレールも無い道 路を 12 時間かけて着いた山 間のキアンガン キアンガン町の教会に 町の教会に着いた 着いた。ベルギー 。ベルギーから からの スクート会( 淳心会) 間の キアンガン 町の教会に 着いた 。ベルギー から のスクート会 (淳心会 )宣教師たちによ って比較的早くから開拓宣教されたこの小教区は、1人の主任司祭が周辺山間地にある 9つの村の教会を司牧している教会で、敷地内に 9つの村の教会を司牧している教会で、敷地内に教会立ハイスクール 敷地内に教会立ハイスクールも 教会立ハイスクールも併設していて、 併設していて、 たくさんの中学高校生がいた。 主任司祭は私にキアンガン教会を託して、ハイキングし たくさんの中学高校生がいた 。主任司祭は私にキアンガン教会を託して、 ハイキングし てくると言い、周辺の村々の教会回り 周辺の村々の教会回りへ 山に登って行 ってしまい、電話もテレビもない てくると言い、 周辺の村々の教会回り へ山に登って 行ってしまい、 電話もテレビもない 司祭館に私一人にな 司祭館に私一人になった。 私一人になった。驚いたのは った。驚いたのは、 驚いたのは、翌朝 3 時頃から教会の鐘が鳴り響き、火事かと 思って飛び起きたら、あっちの山から から、こっちの山から 、こっちの山から灯火がチラチラと現れ、周辺の 思って飛び起きたら、あっちの山 から 、こっちの山から 灯火がチラチラと現れ、周辺の 山々から村人がゾクゾクと下りて来た。 た。ミサ・デ・ガリオ(早起き鶏のミサ)と言 ミサ・デ・ガリオ(早起き鶏のミサ)と言い 山々から村人がゾクゾクと下りて来 た。 ミサ・デ・ガリオ(早起き鶏のミサ)と言 いク リスマスまでの 日間を 時からミサをする するそうで、 そうで、毎朝 毎朝、 聖堂は 満席となり なり、二 リスマスまで の 9 日間 を毎朝 4 時からミサを する そうで、 毎朝 、聖堂 は満席と なり 、二 階のテラスには元気な 階のテラスには元気なハイスクール生 元気なハイスクール生が一杯で ハイスクール生が一杯で、 が一杯で、興味津々の顔で私を 興味津々の顔で私を見下ろしていた。 私を見下ろしていた。 日本人の神父が来たと聞き、 の神父が来たと聞き、司祭館の前に 司祭館の前に沢山 沢山の村人が集まって の村人が集まって来 日本人 の神父が来たと聞き、 司祭館の前に 沢山 の村人が集まって 来た。目のくりくり した子供たちは人なつこく、 手足も短く日本人に似てい 日本人に似ていた。 した子供たち は人なつこく、髪も目も黒くキラキラ輝き、手足も短く 日本人に似てい た。 何故か老人たちは打ち解けず、何か警戒しているようだった 何故か老人たちは打ち解けず、何か警戒しているようだった。私のジャパイングリシュ だった。私のジャパイングリシュ (日本語英語)の 発音のせいかなと思ってい のせいかなと思っていたが、ある日、老 たが、ある日、老母 人3人近寄って 近寄って来 (日本語英語) の発音 のせいかなと思ってい たが、ある日、老 母が2人3人 近寄って 来 て、「神父さん、私たちの村は日本軍、ジャネラル山下の兵隊にひどい目にされたよ。」 て、「神父さん、私たちの村は日本軍、ジャネラル山下の兵隊にひどい目にされたよ。」 「家も学校も教会もカラバオ( 水牛) 「家も学校も教会もカラバオ (水牛 )も食べ物もみな取られた。」「みんな山に逃げたよ。 そしたら、飢えた兵隊がジャングルから次々 そしたら、飢えた兵隊がジャングルから次々出て 飢えた兵隊がジャングルから次々出て来て、 出て来て、食 来て、食物をくれ、鶏をだせ、刀でお どされて怖かったよ。」と話し出した 出した。 なんと、私が 私が司牧実習に配置されたキアンガン どされて怖かったよ。」と話し 出した 。なんと、 私が 司牧実習に配置されたキアンガン 教会は、まさに“ルソン島北部持久戦”の日本軍最終拠点とされ、敗走日本兵がなだれ 教会は、まさに“ルソン島北部持久戦”の日本軍最終拠点とされ、敗走日本 兵がなだれ 込み住民が被害を与え 住民が被害を与えられ られた所だった。 た所だった。私は主任司祭から任されたクリスマスのミサの 込み 住民が被害を与え られ た所だった。 私は主任司祭から任されたクリスマスのミサの 冒頭で、「日本人の一人として、戦争中にここキアンガンの人々にもたらされた被害に 冒頭で、「日本人の一人として、戦争中にここキアンガンの人々に もたらされた被害に 対し、お詫び申し上げます」と謝罪した。すると、聖堂に入れないほど満員の 聖堂に入れないほど満員の参列 参列者 対し、お詫び申し上げます」と謝罪した。すると、 聖堂に入れないほど満員の 参列 者は びっくりしたような顔で見ていた。日本人の神父が戦争中 びっくりしたような顔で見ていた。日本人の神父が戦争中の くりしたような顔で見ていた。日本人の神父が戦争中のキアンガンが受け キアンガンが受けた 受けた被害を って詫びてくれたと分かったのか、 知って 詫びてくれたと分かったのか、ミサ後に私を取り巻いて「サンキュウ」「アリガト」 と声をかけてくれた。しかし てくれた。しかし極めつけは 極めつけは、 人の教会役員の男性 教会役員の男性が「神父さん、私の叔 と声をかけ てくれた。しかし 極めつけは 、1 人の 教会役員の男性 が「神父さん、私の叔 父さんは、 父さんは、子供の頃に飢えた 子供の頃に飢えた日本の兵隊に食べられた 飢えた日本の兵隊に食べられたよ。 日本の兵隊に食べられたよ。」とポツリと言った時だ とポツリと言った時だった。 った。 私は愕然とし、 「目を覚まされた」 マニラや都会の 都会の人々 私は愕然とし 、頭を叩かれたようなショックで「目を覚まされ た」。マニラや 都会の 人々 から首狩族、人食人種の野蛮人と差別されている 首狩族、人食人種の野蛮人と差別されているこの山の人たちで この山の人たちではなく、私と同じ日 から 首狩族、人食人種の野蛮人と差別されている この山の人たちで はなく、私と同じ日 本人が「野蛮人」だった。クーラのよく効く部屋の中で「ルソン島の山には人食い人種 本人が「野蛮人」だった 。クーラのよく効く部屋の中で「ルソン島の山には人食い人種 がいる」と言っていた大使館員と同じ日本人が「人食い人種」だった。私は、あわてて がいる」と言っていた大使館員と同じ日本人が「人食い人種」だった。私は、あわてて その男性 男性に頭をさ に頭をさげて謝罪した げて謝罪した。ところが、その人は「 。ところが、その人は「いいんですよ。 いいんですよ。神父さん、 神父さん、戦争 その 男性 に頭をさ げて謝罪した 。ところが、その人は「 いいんですよ。 神父さん、 戦争 が悪いんです。遠い が悪いんです。遠いここまで来てくれたあなたは友達です。」と手を握ってくれ 遠いここまで来てくれたあなたは友達です。」と手を握ってくれた。 ここまで来てくれたあなたは友達です。」と手を握ってくれた。 日本帰国後 帰国後、こんな出会いや出来事を担当教会で話す度に、戦争 、こんな出会いや出来事を担当教会で話す度に、戦争を知る を知る世代の信徒 世代の信徒た 日本 帰国後 、こんな出会いや出来事を担当教会で話す度に、戦争 を知る 世代の信徒 た ちから、 知らなかったとは言え、戦争中に日本人 ちから 、知らなかったとは言え、戦争中に日本 人が迷惑をかけたルソン島北部山岳地の 少数民族の若者の将来のために奨学金を出したいと申し出る人があり、現地教区 めに奨学金を出したいと申し出る人があり、現地教区と相談 少数民族の若者の将来のた めに奨学金を出したいと申し出る人があり、現地教区 と相談 し、細やかながら山岳少数民族の青少年教育を支える し、細やかながら山岳少数民族の青少年教育を支えるため 細やかながら山岳少数民族の青少年教育を支えるため奨学金生の ため奨学金生の面接 奨学金生の面接を 面接を始めた。 始めた。 (6)ルソン島北部山岳民族 (6)ルソン島北部山岳民族の ルソン島北部山岳民族の奨学生 当時の住田 当時の住田地区長 住田地区長神父 地区長神父は、私に 神父は、私に広島教区の「新しい宣教司牧体制」 は、私に広島教区の「新しい宣教司牧体制」を教区司祭数名と 広島教区の「新しい宣教司牧体制」を教区司祭数名と 研究するよう命じていました そこで、かってイエズス会第三修練とEAPIで研 協働研究するよう命じていまし た。そこで、かって イエズス会第三修練とEAPIで研 修中に指導を受けた著名なアジアの神学者でイエズス会員教区長 教区長の フランシスコ・クラ 修中に指導を受けた著名なアジアの神学者でイエズス会員 教区長 のフランシスコ・ クラ ル司教(2010 年帰天) ベール司教 (2010 年帰天 )が、わずか 20 人ほどの教区司祭で四国ほどの広域な山岳地に 「協働宣教司牧」をしているルソン島北部山岳地のボントック・ラガウェ教区に のボントック・ラガウェ教区に、 「協働宣教司牧」をしているルソン島北部山岳地 のボントック・ラガウェ教区に 、山口 地区の恩人信徒の 地区の恩人信徒の皆様と 恩人信徒の皆様と山岳少数民族の 皆様と山岳少数民族の奨学金生 山岳少数民族の奨学金生の面接も 奨学金生の面接も兼ね の面接も兼ねて 兼ねて行って来ました 行って来ました。 ました。福岡 空港から4時間、マニラから高速 高速バスで バスでバギオまで 時間、更にピックアップ ピックアップトラック 空港から4時間、マニラから 高速 バスで バギオまで 8 時間、更に ピックアップ トラック 舗装もガードレールもない ない悪路 時間の山岳地に、 “昔ヨン様、今メタ坊”の で舗装もガードレールも ない 悪路 8 時間の山岳地に 、 “昔ヨン様、今メタ坊” の体で汗か きながら駆け足で行って来 きながら駆け足で行って来ました ました。残念ながらクラベー 。残念ながらクラベール司教は集中講義のためにアメ リカに行き不在でした でしたが 、教区司祭やスタッフからバイブル・シェァリングを基礎とす リカに行き不在 でした が、教区司祭やスタッフからバイブル・シェァリングを基礎 とす 小共同体作りや広域 りや広域の 山岳地の村々で若者のカテケジスや集会祭儀や冠婚葬祭などの る小共同体作 りや広域 の山岳地の村々で若者のカテケジスや集会祭儀や冠婚葬祭など の 奉仕を するレイ・ミニスター養成のための「信徒養成 「信徒養成センター センター」 見学させてくれ くれまし 奉仕 をするレイ・ミニスター養成のための 「信徒養成 センター 」を見学させて くれ まし た。移動も困難な山間僻地で た。移動も困難な山間僻地で貧しい教区ながら奉仕者信徒の養成をして 移動も困難な山間僻地で貧しい教区ながら奉仕者信徒の養成をしている「信徒養成 貧しい教区ながら奉仕者信徒の養成をしている「信徒養成 センター」を、広島教区や 広島教区や山口島根地区でイエズス会の人材と施設を活 山口島根地区でイエズス会の人材と施設を活かし かして センター」を、 広島教区や 山口島根地区でイエズス会の人材と施設を活 かし て、アジア に近い下関などで出来ない 下関などで出来ないもの ものだろうか だろうかと思 と思いました いました。 以下は その訪問 訪問旅の報告 旅の報告です です。 に近い 下関などで出来ない もの だろうか と思 いました 。以下 はその 訪問 旅の報告 です 。 「フィリピン国ルソン島北部山岳地に住む少数民族の若者たちのために、奨学金で高等 教育の機会を与えて下さっている支援者の皆様、変わらぬご支援を感謝申し上げます。 日~30 日、山口県内の支援者、 下松教会から藤屋侃士& 2009 年 3 月 23 日~ 30 日、山口県内の支援者 、下松教会から藤屋侃士 &紀子夫妻、徳 山教会から宮崎玲子様、下関細江教会から桝谷紀子様、宇部教会から松永淑子様と井 上清子様、青年代表ヘルパー役として下松教会 として下松教会の 中村瞳さんと私の8人で と私の8人で、 上清子様、青年代表ヘルパー役 として下松教会 の中村瞳さん と私の8人で 、卒業予定 者また既に卒業した奨学生に会いにフィリピンに行ってまいりましたので報告します。 者また既に卒業した奨学 生に会いにフィリピンに行ってまいりましたので報告します。 度の福岡国際空港 国際空港からフィリピン航空 15: 23 日まだ春 15 度の福岡 国際空港 からフィリピン航空 15 :30 発で旅立って 4 時間、現 18: 度の真夏でした。マニラの宿は、 地時間 18 :25 に到着したマニラは気温 35 度の真夏でした。マニラの宿は 、 「日本カト r.篠崎文彦 篠崎文彦氏 日本カトリック医師会副会長、愛媛労災病院 愛媛労災病院前 リック医師会」の Dr. 篠崎文彦 氏(日本カトリック医師会副会長、 愛媛労災病院 前院 長、宇部教会) 長、宇部教会)たち医師や看護師や医学生たち たち医師や看護師や医学生たちが 医師や看護師や医学生たちが、毎年夏にルソン島北部 毎年夏にルソン島北部イサベラ州 にルソン島北部イサベラ州で イサベラ州で 実施している している少数民族への 少数民族への医療 医療ボランティア ボランティア活動 活動団の定宿で 団の定宿でマラテ マラテ地区にあるパーム 実施 している 少数民族への 医療 ボランティア 活動 団の定宿で マラテ 地区にあるパーム プラザホテルにしました。建物は古いですが両替やコンビニ コンビニ買物な 買物など便利でした。今 プラザホテルにしました。建物は古いですが両替や コンビニ 買物な ど便利でした。今 回の参加者には昨年に大病をされた方が 3 人おられたので無理せずマニラに 2 泊し、 高温に身体慣らしを兼ねて市内観光し 、レべリサのアライカプワ共同体も 訪問して 高温に身体慣らしを兼ねて市内観光 し、レべリサのアライカプワ共同体 も訪問し て、 懐かしい友人たちに 友人たちに会 ました。3 年前に 懐かしい 友人たちに 会いました。 3 年前 に卒業してマカティの銀行で働いているラニ ローズが恩人の藤屋紀子さんに是非会いたいと休暇をとって同伴してくれました。ま た、マニラでフィリピン人と日本人のトラブルなどの相談や、 「サラマッポ会」 サラマッポ会」という 奨学金制度を長年続けてきた西本至神父(レデンプトー ル会、2010 奨学金制度を長年続けてきた西本至神父(レデンプト ール会、 2010 年帰天)のオフィ スで 20 年間働いて 年間働いている山本雅子さん 働いている山本雅子さん( いる山本雅子さん(宇部教会出身 宇部教会出身) 出身)がホテルやバス予約など協力し ホテルやバス予約など協力し て下さり、皆で り、皆で昼食会も 昼食会もしました。 しました。25 て下さ り、皆で 昼食会も しました。 25 日いよいよ高速バスでバギオへ。途中の休憩所 で買った美味しいマンゴを食べ、まだ明るい 18 時過ぎ、気温 20 度と涼しいバギオ市 に着きました。早速、奨学金生の現地責任者のアンドリュ・クラベール ・クラベール神父 神父( に着きました。早速、奨学金生の現地責任者のアンドリュ ・クラベール 神父 (ボントッ ク・ラガウェ教区司祭、元 ク・ラガウェ教区司祭、元キ 教区司祭、元キアンガン アンガン教会主任司祭、 ガン教会主任司祭、教区青少年養成担当 教会主任司祭、教区青少年養成担当) 教区青少年養成担当)とバギオ市 内の大学で学ぶ奨学生達、キアンガン教会出身の研修医ミルドレッド、 医ミルドレッド、5 内の大学で学ぶ奨学生達、キアンガン教会出身の研修 医ミルドレッド、 5 月卒業予定 のアジィ・メィ看護学生、来年卒業予定のロズリィ看護学生、今年スクート会経営の セント・ルイス ト・ルイス大学に入学したばかりの 大学に入学したばかりのシ セン ト・ルイス 大学に入学したばかりの シルビア看護学生が出迎えてくれ、私にあて つけたのか” つけたのか”太った少年” 太った少年”と変な名の日本食レストランで歓迎会。特に父親は行方 と変な名の日本食レストランで歓迎会。特に父親は行方不 親は行方不 明・母は 明・母 は再婚で幼い頃から他家で育ったが、奨学金で立派に看護師として卒業式を迎 えるアジィ・メィが現れると病み上がりながら是非会いたいと参加した松永さんは大 また、バウコ教会のハイスクールを毎学 年トップの成績を修めながら零細 喜びでした。また、バウコ教会のハイスクールを毎 学年トップの 成績を修めながら零細 農家の長女ゆえに卒業したら農民になることを惜しんだ校長が推薦して 農家の長女ゆえに卒業したら農民になることを惜しんだ校長が推薦して来て、 校長が推薦して来て、私が面 来て、私が面 接した頃 恥ずかしがり屋だったシ ルビアが、奨学金で大学に入り進路が決まって 接した 頃には恥ずかしがり屋だった シルビアが、奨学金で大学に 入り進路が決まって 自信がついたのか恩人の宮崎さんと手を取り合い おしゃべりしている姿を見て選んで 自信がついたのか恩人の宮崎さんと手を取り合 いおしゃべりしている姿 を見て選んで 良かったと実感しました。26 良かったと実感しました。26 日はバギオ 日はバギオ市内の渋滞を避け朝 バギオ市内の渋滞を避け朝 6 時にアンドリュ神父の 運転する車と教区のマイクロバスに分乗し、北の古都 し、北の古都ボントックに向け出発。まさに 運転する車と教区のマイクロバスに分乗 し、北の古都 ボントックに向け出発。まさに 舗装もガードレールもないガタガタの山道、数年前、教区司祭が教会巡回中に車ごと 落ちて死んだという崖を横目に神に旅の安全を祈りながら、16 落ちて死んだという崖を横目に神に旅の安全を祈りながら、 16 時過ぎに司教座聖堂の あるボントック あるボントック市に着きました。宿舎の教区立信徒養成研修所で ボントック市に着きました。宿舎の教区立信徒養成研修所でボントック 市に着きました。宿舎の教区立信徒養成研修所でボントック教区の神 ボントック教区の神 学生サルバトール( 大阪教区の村田稔神父の奨学生 神父の奨学生) イフガオ州の大学を卒業した双 学生サルバトール (大阪教区の村田稔 神父の奨学生 )とイフガオ 州の大学を卒業した双 子の姉妹ネリッサとマリッサ( 藤屋夫妻の奨学生) 年前卒業してラガウェ ラガウェ州立病院 子の姉妹ネリッサとマリッサ (藤屋夫妻の奨学生 )と 2 年前卒業して ラガウェ 州立病院 で山岳地巡回看護師をしているクィーニ( で山岳地巡回看護師をしているクィーニ(宇部教会の竹内俊子様の奨学生) 宇部教会の竹内俊子様の奨学生)達が合流し て交流会。その後、アンドリュ神父が推薦する 2 人の女子高校生に面接しました。各々、 教会立高校の卒業生総代に選ばれた成績優秀で将来を期待される人材ですが、2 教会立高校の卒業生総代に選ばれた成績優秀で将来を期待される人材ですが、2 人と も父親が失業中で兄弟姉妹の 兄弟姉妹の多い 多い長女、小学教師の母親の経済状態から大学進学をた も父親が失業中で 兄弟姉妹の 多い 長女、小学教師の母親の経済状態から大学進学をた めらっていました。面接で めらっていました。面接で立派な成績と個人家族データを確かめ、我々の奨学金制度 面接で立派な成績と個人家族データを確かめ、我々の奨学金制度 は将来に故郷の人々に還元できる人材つくりだということを理解させ、ジョナベスを は将 来に故郷の人々に還元できる人材つくりだということを理解させ、ジョナベスを 桝谷さんにジァミラハを松永さんに紹介して新規の 桝谷さんにジァミラハを松永さんに紹介して新規 の奨学生に受け入れてもらいました。 2人とも夢のような顔をして恩人と写真を撮っていました。私も将来の農業技術者と してアンドリュ神父推薦の男子高校生を受け入れました。27 27~ 学生達とボント してアンドリュ神父推薦の男子高校生を受け入れました。 27 ~28 日は学生達と ボント ック民族資料館や 民族資料館やサガタ サガタの遺跡見物を楽しみ、 の遺跡見物を楽しみ、29 ック 民族資料館や サガタ の遺跡見物を楽しみ、 29 日はバギオ大聖堂一杯の人々と主日 ミサに参加後、マニラへ戻って帰国前の夕食会を民族ダンスを鑑賞できるレストラン ミサに参加後、マニラへ戻って帰国前の夕食会を民族ダンスを鑑賞できるレストラン なんと私の還暦祝い 私の還暦祝いも 兼ねることになり ることになり、 喜び楽しみました ました。 14: で開きました。なんと 私の還暦祝い も兼ね ることになり 、喜び楽しみ ました 。30 日 14 : 30 に福岡空港に到着。目的を果たし全員無事に帰路に着きました。神に感謝。 」 「恩人の皆様へ 恩人の皆様へ。キアンガン教会出身のイフガオ族奨学金生ミルドレッド・ワンシーは、 2009 年 8 月にみごとフィリピン国の医師国家試験に1回で合格し、現在はイフガオ山 岳地のマヨヤオ村の 村の山岳診療所 山岳診療所で働いています。その Dr.ミルドレッドが、現地の協 岳地のマヨヤオ 村の 山岳診療所 で働いています。その Dr. ミルドレッドが、現地の協 働司祭のアンドリュウ・クラベール神父 働司祭のアンドリュウ・クラベール神父と相談し、奨学金生の代表として、 祭のアンドリュウ・クラベール神父と相談し、奨学金生の代表として、奨学金で と相談し、奨学金生の代表として、奨学金で 高等教育の機会を与えて下さった 高等教育の機会を与えて下さっ た恩人の皆様を感謝の心を持って訪問したいとのこと で、昨年 で、昨年 10 月に在マニラ日本大使館に、私を招聘人・身元保証人とした Dr.ミルド Dr.ミルド レッドの滞在ビザを申請しましたが、何故か拒否されました。後で分かったことです マニラの日本大使館の 現地職員が地元のブローカーから賄賂を受け取り、 が、 2009 年、マニラの日本大使館 の現地 職員が地元のブローカーから賄賂を受け取り、 97 人ものフィリピン人に日本滞在ビザを不正発給したことが発覚。更に入管職員も巻 き込み、エンターテナー女性 50 人近くが日本に不正入国した事件も発覚し、フィリピ 人近くが日本に不正入国した事件も発覚し、フィリピ ン女性の日本滞在ビザの許可が非常に 非常に厳しくな 厳しくなり、 り、日本 日本大使館指定 大使館指定の ン女性の日本滞在ビザの許可が 非常に 厳しくな り、 日本 大使館指定 の旅行社経由でし かビザ申請が出来なくなったそうです。 再度、2 4月に、私を招聘人・身元保証人とした書類を丁寧に作り直し申請し 再度、 2010 年4月に、 私を招聘人・身元保証人とした書類を丁寧に作り直し申請し た結果、4月 22 日に Dr.ミルドレッドの r.ミルドレッドの日本 ミルドレッドの日本滞在ビザが許可されました。 日本滞在ビザが許可されました。4 滞在ビザが許可されました。4 月 30 日 からの まず下関 下関市 弟の恩地陽彦宅 恩地陽彦宅で双子 から の 10 日間を萩教会のゲストハウスを拠点に、まず 下関 市で弟の 恩地陽彦宅 で双子 の高校生の晃平・将平の 英会話と義妹一美さんの手料理 と義妹一美さんの手料理で歓迎会をし、 で歓迎会をし、周南 周南市 の高校生の晃平・将平 の英会話 と義妹一美さんの手料理 で歓迎会をし、 周南 市では宮 弘・玲子 玲子夫妻 夫妻宅 1泊ホームステ ホームスティ ウサギのモヨ モヨと 仲幸子様と来日歓迎会を開き 崎弘・ 玲子 夫妻 宅の1泊 ホームステ ィでウサギの モヨ と仲幸子様と 来日歓迎会を開き ました。そして、山口県内の支援者訪問、とりわけ ました。そして、山口県内の支援者訪問、とりわけ Dr.ミルドレッドの奨学金の直接 Dr.ミルドレッドの奨学金の直接 的恩人、故・Dr Dr.香川和子様の母親の竹内俊子様(宇部教会、クイ .香川和子様の母親の竹内俊子様(宇部教会、クイニーの恩人) 的恩人、故・ Dr .香川和子様の母親の竹内俊子様(宇部教会、クイ ニーの恩人) 、松永 淑子様(宇部教会、ジァミラハの恩人) 、仲 幸子様(徳山教会、ソニアの恩人)、宮 崎玲子様(徳山教会、シルビアの恩人) 、近間勝史様(徳山教会、サルバドールの恩人) を訪問しました。その間、5月1日には Dr.木下和代様(長府教会、ロズリィの恩人) を訪問しました。その間、 5月1日には Dr .木下和代様(長府教会、ロズリィの恩人) のご配慮で下関光風園病院の見学と、義妹でアジアやアフリカ各国の無医村の医療従 事者の人材教育をされておられ、 日本医学教育学会から「医学教育日野原賞」を受賞 事者の人材教育をされておられ 、日本医学教育学会から「医学教育日野原賞」を受 賞 された された Dr.木下牧子様にお会いし、カンボジア Dr.木下牧子様にお会いし、カンボジア国 .木下牧子様にお会いし、カンボジア国の再建のため、 の再建のため、JICA(日本国際協力 JICA(日本国際協力 の海外医療協力で 海外医療協力で、 機構)の 海外医療協力で 、緒方貞子理事長(元国連難民高等弁務官)と一緒に泊まり、 カンボジア母子衛生局を立ち上げるため医療従事者の研修をしたなど貴重なお話を伺 いました。5 いました。5 月 3 日には萩教会の信徒の皆様と津和野「 日には萩教会の信徒の皆様と津和野「乙女峠祭」 乙女峠祭」に参加し、かって キアンガン教会を訪れた時に、ミルドレッドからイフガオの民族ダンスを教えてもら った末長伸一青年(徳山教会)に案内してもらいました。5 った末長伸一青年(徳山教会)に案内してもらいました。5 月 5 日には広島司教館で 末篤實司教様を訪問面会して腎臓透析の治療話もしていました。旅の途中 面会して腎臓透析の治療話もしていました。旅の途中では、秋 三末篤實司教様を訪問 面会して腎臓透析の治療話もしていました。旅の途中 では、秋 吉台と秋芳洞、岩国の錦帯橋、世界遺産の宮島などの観光見物に連れて行き、とても 素晴らしいと喜んでいました。広島では世界平和 と喜んでいました。広島では世界平和記 素晴らしい と喜んでいました。広島では世界平和 記念聖堂と広島原爆資料館も訪れ、 核兵器廃絶と国際平和の願いについても学びました。 日の日曜日のミサ後、 後、萩教会でのお別れセレモニーで、ミルドレッドはイフ 5 月 9 日の日曜日のミサ 後、 萩教会でのお別れセレモニーで、ミルドレッドはイフ ガオ民族の祈りの歌と 民族の祈りの歌と民族ダンスを披露し、日曜学校の生徒と親も含めた信徒の皆様 ガオ 民族の祈りの歌と 民族ダンスを披露し、日曜学校の生徒と親も含めた信徒の皆様 から盛大な拍手とお土産をいただきました。福岡空港に向かう途中、美祢市於福で一 昨年のフィリピンの旅に松永淑子様の付き添いとして参加された井上清子様の和屋食 堂に立ち寄り、フィリピンにない蕎麦とオデンの定食を喜んで食べました。最後に、 山岳地では見たこともないだろうと、下関の水族館「海響館」で は見たこともないだろうと、下関の水族館「海響館」での 山岳地で は見たこともないだろうと、下関の水族館「海響館」で のイルカ・ショーや 沢山の魚やペンギン鑑賞へ。 沢山の魚やペンギン鑑賞へ。大きな目をさらに大きく丸くして喜んでいました。今は、 無事に帰国し、マヨヤオ村 山岳地 診療所で 無事に帰国し、マヨヤオ 村の山岳 地診療所 で、土産に持たせた萩焼きの湯飲みで日本 茶のお茶会をスタッフと楽しんでいるそうです。 以上、ご報告いたします。 神に感謝。 」