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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(1948年)(上)

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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(1948年)(上)
(1744)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(1948年)
(上)
上 田 健 二 (訳)
訳者まえがき
こ の 訳 文 は、Gustav-Radbruch-Gesamtausgabe, Band 3 , herausgegeben
von Arthur Kaufmann, Rechtsphilosophie III, bearbeitet von Winfried
Hassemer, Heidelberg 1990, S. 121 229に搭載されている、1948年に刊行され
た グ ス タ フ・ ラ ー ト ブ ル フ の 最 後 の ま と ま っ た 法 哲 学 上 の 著 作 で あ る
”Vorschule der Rechtsphilosophie
を、ラートブルフ全集のこの巻の校訂
者であるヴィンフリート・ハッセマーのきわめて詳細かつ懇切な注解をも含
めて全訳したものである。このカウフマン全集がいつの日にか日本語にも翻
訳されて日本の読者にもラートブルフの著作物に接近することができるよう
になることは、すでに2001年 4 月11日に逝去されているこの全集の総編集者
であるアルトウール・カウフマンの存命中に表明されていた強い願いであっ
たことから、たとえ部分的にせよ、私によって訳出されることについては、
亡夫の遺志を受け継いでいるドローテア・カウフマン夫人によって包括的な
勧奨と承認を受けていることについては本誌前号 1 頁に記されている。
この著作には、すでに周知のように本書の第 2 版を対象とした訳文である
野田良之・阿南成一訳「法哲学入門」(ラートブルフ著作集第 4 巻『実定法
と自然法』(1961年、東京大学出版会)所収23頁以下)がある。しかしそれ
は原典の第 2 版から訳出されたものであるうえに、訳文それ自体がきわめて
難解であり、原典の語句に適切に相応していない訳語が随所に見られる。こ
れは原著者であるラートブルフが用いている言葉や語句の意味が十分に理解
されていないことによるように思われるのであって、それもそれが訳された
1960年初期の時点ではラートブルフ研究がドイツでも現在におけるほどの進
展していなかったことからして無理からぬことと言ってよい。とはいえ、ド
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同志社法学 60巻 1 号
(1743)
イツではこの間ラートブルフ研究は大いに進展しており、関連文献もほとん
ど無数といってよいほどに刊行されている(本誌前号78頁以下の文献一覧を
見よ)。そのうえにこの翻訳の対象となっているは、第 2 版までに随所に見
られた ― ラートブルフの講義の聴講生の筆記から生じてきたのであろう
― 誤字、誤植のほか不明瞭かつ曖昧な語句がアルトウール・カウフマンの
念入りな校訂を通してほぼ一掃されている、ラートブルフの死後に刊行され
た第 3 版である。いずれにせよ、あの前訳はもうとうに時代遅れになってい
るのである。それゆえにこの訳文は、これにとらわれていない全くの新訳で
あると見られてよい。
ところで、この『入門』の翻訳者である私が、グスタフ・ラートブルフの
法哲学上の主要な、とくにナチス体制を挟んだ前後期の作品を、グスタフ・
ラートブルフ全集の編集者によって詳細な校訂の手が加えられて完全なもの
になっている原典に基いて改めて正確な日本語に移し変える義務を負ってい
るとかねて強く感じてきたのには、いわゆる「壁の射手訴訟」を契機にして
わが国においても再燃したいわゆる「ラートブルフ公式」の根本的な意義を
めぐる論議のなかでわが国のほとんどすべての論者が、「ダマスカスの回心」
という「伝説」を、すなわちラートブルフはナチス体制前では法実証主義者
であったが「ナチス体験」を経た後では自然法論者になったということから
出発しており、そしてこのことがそのような「伝説」を自明のこととして念
頭に置いた前期ラートブルフ著作集の訳者たちの「誤解」に基いた明白な誤
訳に起因していることを、私が発見していたからである(これについて詳し
くは、上田健二「ラートブルフ公式と法治国家原理」同『生命の刑法学』
(2002
年、ミネルヴァ書房) 1 頁以下、とくに30頁以下を見よ)
。しかし実際に「存
在したのはひとつの力点の移行であり、そしてそのようにラートブルフ自身
もまた理解している」(本誌326号383/ 8 頁)ことを、グスタフ・ラートブ
ルフ全集の総編集者であるアルトウール・カウフマンが確認しており、この
『入門』が搭載された巻の校訂者であるヴィンフリート・ハッセマーも「ラ
ートブルフはその法哲学を取り替えたのではなく、力点を別の所に置いたに
すぎないこと」(同327号45頁)を説得的に論証している。
これとともにラートブルフはその法哲学の出発点であった当為と存在と
の、価値と現実との方法二元論を、その法学的思考形式としての「事物の本
性」を認容することによって窮極的に克服したのかという、激しく論争され
た問題もまた答えられている。ラートブルフの後期法哲学では「理念の素材
被規定性」の思想の強調を通して法存在論への限りなき接近というものが確
(1742)
3
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
かに見られるのであるが、しかし方法二元論そのものを克服するにいたって
いないことは、彼自身がこの『入門』のなかで「事物の本性は価値と現実と
の、当為と存在との間の厳しい二元論をいくらかは和らげるが、しかしそれ
を止揚することができない」(本誌次号)と述べていることから明らかであ
る。いずれにせよ、アルトゥール・カウフマンによれば、「ラートブルフは、
その作品の個々の部分が取り出され、独自化されるのでなく、すべてをすべ
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てのなかに受け止められるならば、実証主義者でも自然法論者でもなく、実
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証主義と自然法論のかなたに立っている」(本誌326号82頁)ことが明らかに
なるのであり、そしてこれこそまさにアルトウール・カウフマンが継承し、
そしてそこからさらに法哲学上の、そしてまた刑法上の豊穣な諸成果を産み
出してゆくことになる基盤にほかならないのである(
「第三の道」
、「最小限
の自然法」、「消極的自然法」とも呼ばれるこの立場について詳しくはシュテ
ファン・クローテ(上田健二訳『「第 3 の道」を求めて:アルトウール・カ
ウフマンの法哲学』本誌321号 1 頁以下、322号 1 頁以下、323号 1 頁以下、
とくに22頁以下参照。ラートブルフからこの「第 3 の道」を引き継いでこれ
をさらに先へと切り拓いたカウフマン自身による展開について詳しくは、ア
ルトウール・カウフマン(上田健二訳)
『法哲学 第 2 版』(ミネルヴァ書房、
2006年)第四章「自然法と法実証主義のかなた」の48頁以下、とくに53頁以
下を見よ)。
その生涯にわたって「良心の疚しさ」をもち続けた法律家であり、つねに
「限界領域」において思考し続ける法哲学者であったグスタフ・ラートブル
フの哲学的、文化的、宗教学的、政治的な、そしてもちろん法的な思考が凝
縮されたこの『入門』の意義と特質については、ここで詳述することはもち
ろんできない。これについては、そしてこれに相前後するラートブルフの後
期に属する法哲学上の全作品を含めて、とりわけこれらが収録されたラート
ブルフフ全集第三巻のためのヴィンフリート・ハッセマーによる序文(本誌
60巻 2 号29頁以下)を、読者には参照していただくほかはない。とはいえ、
『入門』のなかでとくに注目する値すると思われるのは、「人間的諸権利の否
認は……絶対的に不法な法である」(本誌次号)ということが時期とか難点
をつけずに強調されていることである。人間的諸権利に矛盾していないとい
うということがすべての法の正当化根拠であるという、彼の偉大な始祖であ
るパウル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハから継承したこ
の立場だけは、ラートブルフの生涯にわたる全作品を一貫しているまさに当
のものである(この「人間的諸権利の哲学」について詳しくは本誌326号82
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同志社法学 60巻 1 号
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頁以下を見よ)。このように何が不法であるのかという法哲学上の根本問題
については、ラートブルフはきわめて明瞭に指示したのであるのが、しかし
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それを法からどのようにして区別することができるのかという方法論的な根
本問題についてはラートブルフは答えないままにその生涯を終えている。こ
の意味においては、ラートブルフは偉大な法思想家であっても、しかし同時
に偉大な方法論家ではなかったと言うことができる。そこでラートブルフに
よって残されたこの課題を引き受けた人、この人こそアルトゥール・カウフ
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マンにほかならないのである。
「何らかの実定的定立とは無関係に、法とは
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何か、不法とは何か、また両者はどのようにして区別され得るのか」という
問題は、カウフマンの法哲学上の全作品、とりわけ後期の著作物に一貫した
課題であり、これはその「正義の手続き理論」を経て「真理の収斂理論」へ
と凝縮されてゆく(これについてはアルトウール・カウフマン(上田健二・
竹下賢・長尾孝雄・西野基継編訳)『法・人格・正義』
(昭和堂、1996年)に
登載された諸論文、とくに第 8 章「正義の手続き理論」(同書179頁以下を見
よ)。
さらにいまひとつ注目されなければならないのは、この『入門』のなかで
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ラートブルフは法理論的な実証主義の論駁に関連してはっきりと解釈学
( Hermeneutik)というものを論拠として持ち出している(本誌次号)とい
うことである。このことは、ラートブルフは確かにシュライエルマッハー、
デルタイ、ハイデガー、ガダマー……の意味における解釈学者ではなかった
としても、しかし解釈学的思考は彼にとってすでに周知のものであったこと
を意味している。そして法発見手続きのこの側面もまたカウフマンによって
受け継がれ、そして彼の後期の諸々の作品のなかでいっそう明瞭に具体化さ
れてゆく(上掲訳書『法・人格・正義』に所収の論稿のうちとりわけ第 1 章
「解釈学の光に照らされた法の歴史性」、第 4 章「自然法と法実証主義をつき
抜けて法学的解釈学へ」、第 5 章「法学的解釈学の存在論的基礎づけのため
の思想」を見よ)。われわれはこのような論究の道がカウフマンの学問的人
生行路のいわば終着駅であると同時に、法実証主義を基盤としたいわゆる
「当てはめモデル」の、したがってまた刑法においては「言葉の可能な意味」
を超える解釈は類推解釈として許されないという、わが国においてはいまだ
に「通説」としてあまねく承認されている「俗説」の論駁へと辿り着いてい
ることに、もはや目を反らすことが許されていないのである(これについて
は、とりわけアルトウール・カウフマン(上田健二訳『法概念と法思考 符・
法発見手続きの合理的分析』(昭和堂、2001年)152頁以下、アルトウール・
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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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カウフマン(上田健二訳)『法哲学 第 2 版』(ミネルヴァ書房、2006年)第
6 章「法発見過程の合理的分析に関する諸反省」(85頁以下)を見よ)。これ
によれば、法解釈(法の発見手続き!)というのはそもそも類比手続き以外
の何ものでもないがゆえに、「類推解釈の禁止」というのは学問的に見て何
の裏づけも有していない単なる「ドグマ」にすぎないのである!
それはともかくとして、アルトウール・カウフマンがこのグスタフ・ラー
トブルフ全集全20巻のための序文である「グスタフ・ラートブルフ ― 生涯
と作品」の最後に述べているように、「ラートブルフの思想の変化が話題と
されるならば、それはとくに理論的理性から実践的理性への方向変えであ
る。それは叡智の完成された形式へと向けての熟成である」
(本誌326号86頁)
と理解されなければならないのである。
カウフマンはこれに続けて「法学と法哲学の将来的展開が可能な限りラー
トブルフを乗り越えることがあっても、しかしどのような場合であっても一
歩たりとも彼の背後に立ち戻るがないということのために寄与すること、こ
れこそその[グスタフ・ラートブルフ全集= GRGAの]究極的な意味である」
(同上)と述べてこの序文を締め括っている。全くこの意味においてこの『入
門』はラートブルフの法思考の完結編であるばかりでなく、われわれが将来
へ向けて法思考を開始するに当たっての出発点、すなわち「入り口」という
意味における「入門の書」でもあり、そしてとりわけこのような意義を有し
ているのである。
ところで、グスタフ・ラートブルフが一個の偉大な人格であったことにつ
いては、数多くの文献のなかで称揚されている(ラートブルフに関するドイ
ツ語文献については、本誌327号78頁以下を見よ)。では、この偉大さはいっ
たいどこにあり、また何ゆえにそうであったのか。これについてアルトウー
ル・カウフマンは次のように見ている。「ラートブルフについての偉大さは、
その生涯とその理論とがひとつの分ち難い統一をなしているということにあ
った。作品はつねに同時に人間を表わしているのであり、人間はすでにつね
に作品であった。それゆえに、ラートブルフという人格まで浸透していない
者は彼の理論をもまた十分に理解することができないのである」
(本誌236号
15頁)と。また別のところでは、次のようにも述べられている。
「このグス
タフ・ラートブルフとは誰か。その唯一無類の人格性は何か。その悟性とそ
の理性の力ゆえに重要である人々が存在している。その心情とその魂の力に
よって重要である人々が存在している。この両方の力ゆえに抜きん出ている
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同志社法学 60巻 1 号
(1739)
が人々は、もちろんわずかしか存在していない。ラートブルフはこの最後の
種類の一人であった」と。同様にグスタフ・ラートブルフの弟子であり、彼
を敬愛し続けたギュンター・シュペンデルは、彼が校訂したラートブルフ全
集第 4 巻か刊行されたときにはすでの故人となっていたこの総編集者を偲ぶ
特別の言葉をその巻末で述べたのである(これについてはアルトウール・カ
ウフマン(上田健二訳)『法哲学 第 2 版』(ミネルヴァ書房、2006年)428
頁参照)が、そこでシュペンデルは「……このようにしてアルトウール・カ
ウフマンは自身の思考のあらゆる独自性にもかかわらずその敬愛する師とそ
の模範に対しては、つねに好意を保ち続けた」としたうえで、グリルパルツ
アーの次のような見事な言葉をもってその故人を偲ぶ言葉を結んである。
「他
人の偉大さを感じる人は幸せである /そしてそれは愛を通して彼自身のもの
となる。」この『入門』の訳者である私がグスタフ・ラートブルフの主要な
作品を改めて翻訳する義務を負っていると考えたのも、これを通して同時に
私のドイツにおける生涯の師であるアルトウール・カウフマンその人の人格
と作品との類まれな一致を十分に感得すること、これ以外の何ものでもな
い。
(なお、この訳文では、原典の頁番号は[]のなかに、GRGAにおけるそ
れは【】のなかに表示される。)
序 文
私の法哲学の講義の二人の聴講生〔ハロルド・シューベルト(Harold Schubert)、
ヨアヒム・ショトルツェンブルク(Joahim Stoltzenburukg)〕が私に、この講義の筆
記録を複写する権限を与えてほしいと依頼してきた。私は彼らに印刷に付することを
許可した。
私はテクストに訂正を加えたが、しかしこれに講義の筆記録という性格を維持し
た。現に私は個々の章の様々に異なる詳細を、思考過程のある種の弛緩、諸々の繰り
返しや逸脱を、引用された文献のいくらかは偶然による選択を、テーマについて私自
身が別の仕方で述べたのものへの指示を厭わなかった。
この小著はその入門的な課題と並んで、どのような仕方で私が私の『法哲学』(第
3 版、1932年)の継続形成を考えているのかをも示唆することが求められる。ここで
見出されるでもあろう見かけのうえでの諸々の矛盾はそこでそれらの解決を見出すで
あろう ― そこへ至るまでは、この小著の読者にとってはひとつの思考訓練を意味し
てもいよう。私は(すでにエムゲ教授がこれに類する著書のためにそうしたように)
(1738)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
7
ジャン・パウルの『美学入門( Vorschule der Ästhetik)』という模範に従って『法哲
学入門』という表題を選んだ。
「法学の諸時期」という節に私は私の友人である故ヘルマン・カントロヴィッツの、
同じ表題を付した論文を受け継いだ。それだから本書もまた、すでに彼に捧げた『法
哲学』と同様に、われわれの友情の記念碑であり、豊かで決定的な学問上の刺戟に対
する感謝のひとつの表現である。
ハイデルベルクにて、1947年 8 月、
グスタフ・ラートブルフ
第 2 版への序文
1949年11月23日にグスタフ・ラートブルフは逝去した。彼はその71歳をようやく終
えたばかりであり、最後の日に至るまで活動的であったと言ってよい。1932年を最後
に第 3 版として刊行されていた『法哲学』を新しい版として刊行しようとしていた彼
の意図を、しかしながら死が水泡に帰せしめた。それだから1932年と1949年との間で
はこの『法哲学入門』は、グスタフ・ラートブルフがその法哲学上の思想を【132】
総括的に叙述した唯一の刊行物であり続けた。これとともにこの『入門』は、これに
はもともとこの程度にまでは考えられていなかったような意義を獲得した。先行する
諸々の作品を回顧しつつ後続するであろうそれを展望しつつラートブルフによって作
り出されたことから、それは彼の法哲学上の展開を理解するための架け橋になったの
である。
この『入門』は今日の読者を ― 1946年の聴講生をと同様に ― 、意味のある法哲
学上の諸々の問いに確定している解答を与えることがその目的ではなく、これらの問
いへと導こうとしている。それは読者の好奇心をそそって『法哲学』(これはラート
ブルフの死後にエリック・ヴォルフによって第 4 版として、1956年には第 5 版として
編集刊行された)へと差し向け、それとともに読者に継続思考のための手段を手がか
りとして与えようとする。それは同時に、グスタフ・ラートブルフがどのようにして
彼が哲学することの継続形成を考えたのかを示唆しようとしている。
彼は、このような示唆が彼によって1932年までに刊行されていたその法哲学の根本
思想との矛盾として理解されかねないことを予見していた。
「思考訓練」として彼は
読者に、このような見かけ上の諸矛盾を何よりも先ず自ら探り当てることを薦めたの
である。
実際のところこのような「思考訓練」は今日に至るまで継続している。それは間も
なくその終結を見出すこともないであろう。それというのもこのように突き詰めて、
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同志社法学 60巻 1 号
(1737)
そしてともに考えることの核心問題は、ラートブルフが哲学していることそれ自体に
のみかかわっていないからである。問題となっているのはむしろ、どのような法哲学
上の思念にとっても提起される問い、すなわち、制定法に「法律を超える法」として
先行している実質的な法的諸原理を、科学的―批判的な思考から根拠づけることが果
たして可能であるのか、またこの「自然法」がどのような仕方で実定法にとって拘束
的であるのか,ということである。
ラートブルフがこのような問いに対して『入門』のなかで与えている答えは、彼が
これによってその思考の二つの原理から、すなわちカント的な方法二元論からも、そ
こから展開された(認識)理論上の価値 相対主義からも離れたのではないかという
反問を呼び起こす。この両立場を、しかしながら彼は最後まで保持したのである。
それというのも彼の法哲学上の相対主義に前もって与えられている、価値と現実と
の、当為と存在との二元論という出発点は『入門』のなかに新たに導入されたのであ
るが、しかし端緒においてすでに1924年に彼には現存していた「事物の本性」という
要素を通して放棄されていないからである。この構築分枝はラートブルフにとって法
存在論という体系における第一礎石といったものではなく、アーチを支える、価値理
念と価値現実との相対立する諸々の緊張の推力を自らのなかに受け止める支柱であっ
た。それは、どのような当為規範も、それらが義務づけようとするならば、それが規
制しようとする存在へ向けて規制されているのであり、それゆえに事物の本性ととも
に人間の本性に存在適合的でなければならない【124】一方で、存在はそれ自体から
ではなく、かくあるべし( ein Seinsollen)を顧慮してのみ評価され、整序され得る
という事実の概念的な表現である。それだからこの新しい要素は、当為と存在が根本
的に異なっているのではなく、確かに互いに対置されてはいるが、しかし同時に互い
に求め合いつつひとつの弁証法的な緊張関係において対立しているのである。
同様にラートブルフは、少なくとも科学的な思考の伝承された方法をもってしては
論駁することができないその相対主義を放棄することを余儀なくされているとは全く
見なかった。この相対主義は、価値もしくは当為の諸判断が不可欠であるとともに、
それらが知識にではなく、
(それがどのような類のものであれ)信念に根拠を置いて
いるがゆえに科学的には証明することが可能でないという事実から諸々の帰結を引き
出す。このようにして彼はいっさいの価値 判断の前 判断の方法的な批判を、そして
これとともに「同時に自己の態度表明における決然さと他人のそれに対する公正さ」
を教える。それを法哲学に適用するなかで、ラートブルフにとってまさに、彼がすで
にリヨンでのある講演のなかで論じたように、
「相対主義それ自体から絶対的な諸帰
結が、つまりは古典的な自然法の伝承された諸要求」が明らかになるのである。「そ
れらは、そこからひとは遠ざかることはできるが、しかしつねにそこへと立ち帰らな
(1736)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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ければならない不壊の基盤である」(Radbruch, Der Menschen im Recht, 1957, Kleine
Vanhoeck Reihe, S. 80)。
『法哲学』の編集者には、実り豊かな問いについて、ラートブルフの法哲学上の思
考をめぐってあれほどに豊富な対話に関して自らの判断を形成することができるため
に、『入門』を附録として再録して欲しいという多くの読者からの懇請(第 5 版への
序文、16頁)があった。けれどもこの懇請を、経済的な利益において学生である読者
に相応させることがきなかった。それだけにいっそう、入門をラートブルフの全作品
の部分としていまや新たに刊行することができるのは歓迎すべきことであり、とくに
それは日本語、韓国語、イタリア語に翻訳されているのである。
おそらく本書は読者として法律家を、諸法律を知りかつ学ぶことのなかに法を探し
求める若い法律家とともに、諸法律を適用するか、もしくは法を言い渡さなければな
らない経験を積んだ法律家を望んでいるのであろう。しかしそれは同様に、その注意
をわれわれの共同生活の法的秩序の根本問題に向け、それが問題とするにふさわしい
ものであることのより深い知識を獲得しようと努める者であれば誰にも読者として望
まれているのである。
シュトウットガルトにて、1954年 7 月
ヨアヒム・シュトルツエンベルク
第 3 版への序文
この第 3 版はザールブリュッケン大学のアルトウール・カウフマン教授とレオナル
ド・バックマン助手によって誤植といくらかの些細な実質上の見過ごしが精査され、
修正された。これに対して私は私の心からの謝辞を申し上げたい。しかし他では本文
が変更されることはなかった。
『入門』は、グスタフ・ラートブルフの法哲学の最後
の総括的な叙述である。それを新たな校訂を通して研究の状態に適合させることは、
それゆえに得策ではないように思われた。けれども読者に現在の法哲学との連結を可
能にするために、文献指示が附録として(本書の巻末に)補充された。そのさい最近
の法哲学上の文献の充満にかんがみてもちろん比較的少ない選択しか ― ドイツ語の
公刊物に限定して ― 下すことができなかった。
ハイデルベルクにて、1965年 6 月
リデイア・ラートブルフ
10
同志社法学 60巻 1 号
内 容
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(1735)
第十九節 ドイツ民法典(Das BGH)
0
第一章 法についての諸科学
48
本誌本号 10
第二十節 カノン法典
第一節 より狭い意味における法学
( Der Codex Juris Canonich)
10
50
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第二節 法史と比較法
12
第六章 法の諸様式
52
第三節 法社会学
13
第二十一節 主観的法と客観的法
52
第四節 法心理学
15
第二十二節 公法と私法
55
第二十三節 実体法と手続法
57
第五節 ルドルフ・イエーリング
(1818 1892年)
17
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第六節 法哲学の諸々の課題
0
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第七章 法学における諸方向
18
第二十四節 法学の諸時期
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第二章 法の理念
23
第二十五節 法学的実証主義
第七節 正義
23
第二十六節 自由法運動
第八節 合目的性
26
第九節 法的安定性
28
第八章 法の歴史哲学
第十節 価値諸理念の順位
30
第二十七節 歴史の法哲学
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第二十八節 法史の法哲学
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第三章 実定法
30
第十一節 法の概念
30
第九章 法の美学
第十二節 法の妥当
33
第二十九節 法の諸々の表現形式
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第三十節 絵画における法哲学
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第四章 法と他の諸々の文化形式
35
第十三節 法と道徳
35
第十四節 法と習俗
37
第一〇章 法哲学の時事問題
第十五節 法と宗教
39
第三十二節 法概念としての人間性
第三十一章 法と文芸作品
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0
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第三十三節 社会法
0
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第五章 偉大な諸々の法文化
42
第三十四節 民主政の思想
第十六節 ローマ法
42
第三十五節 世界法
第十七節 英米法
44
第三十六節 法律を超える法
第十八節 市民法典(Der Code civil)
47
第一章 法についての科学
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第一節 より狭い意味における法学
Ⅰ.より狭い意味における法学、解釈論的法学、体系的法学は実定法の客観的な意
(1734)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
11
味についての法学である。
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実定的な法について:これは、法の価値と手段を扱い、この価値の実現のために奉
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仕する法哲学と法政策に区別される。実定法の客観的な意味について:これは法の現
存在と法生活の諸事実をその対象として有している法史と比較法、法社会学と法心理
0
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学とに区別される。客観的な意味については ― 後の第十一章第一節参照。
Ⅱ.実定法の法学上の処理は、解釈、構成、体系という三つに分類される。
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1 .法学的解釈は、実定法の客観的な意味に、法命題それ自体に具現化されている
意見に向けられているのであって、成立に関与した人々に向けられているのではな
い。
これを通して法学的解釈と文献学的解釈とは区別される。文献学的解釈は思考され
たもの追思考(アウグスト・ベック(August Böckh)によれば「認識されたものの
認識」である)であり、これに対して法学的解釈は思考されたものの究極的な思考で
ある。それというのも法律学はひとつの実践的な科学であり、それはどのような法的
問題にも即時に解答を与え、法律の諸々の缺欠、矛盾もしくは不明瞭を援用して判定
を拒絶することができないからである。したがってそれは、その成立に協働して作用
している人々が法律を理解しているよりもうまく、あの人々によって意識的に差し込
まれているものよりも多く理解しなければならないのである。
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2 .法学的構成は、数学、技術、文法上の構成と、歴史的構成と同じ方法論上の種
類のものである。すなわち、前もって思考的に分離化されたその諸部分からのひとつ
の完全な構築、先行する諸分析からの総合である。それはある法的諸命題のある一定
の[ 9 ]法制度にとっての無矛盾性と完全性への試みである。それだからたとえば刑
法典の諸構成要件は、その保護のためにある一定の刑罰法規が発せられる法益を顧慮
して発せられるのである。たとえば背任罪([ドイツ]刑法第266条)は法的な処分権
の濫用もしくは【以上129頁……この表示の仕方は以下において同じ】信頼関係とい
うもの侵害するものとして構成される。法学的構成は、たいていの場合において特定
された法を目的の視点のもとに行なわれる(法学的構成)。しかしまた、非 目的論的
構成、たとえば段階的に進展する法律関係としてのプロセスも存在しているのであ
る。
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3 .最後に、法学的体系は法秩序のより大きな部分を、もしくは全体を保証するの
であり、これは個々の法制度を保障する。すなわち、個々の法命題のすべての進展は
あるただひとつの理念に由来する法秩序全体か、もしくはその部分である、というこ
とである。
Ⅲ.これに対応して三種の法的諸概念が存在している。
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1 .法的に重要な諸概念。すなわち法律上の諸構成要件がそれらから構築されてい
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(1733)
る諸概念であり、たとえば窃盗罪(刑法第242条)の場合における「奪取」、「他人の、
動産」、「領得意思」である。このような諸概念は法学によって新たに創り出されるの
ではなく、他の諸々の知識領域もしくは生活から受け継がれるのであるけれども決し
て不変ではなく、法的な視点のもとではより明確に、より狭くもしくはより広く把握
される ― たとえば生活と法における「所持」という概念を考えてみよ(民法第857
条)。
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2 .本来的な、真正な法的諸概念、すなわちそれらを介して法的諸命題の内容があ
る概念形成の対象にされる諸概念である。これには個別的な主観的法[権利]、法的
諸義務、法的諸関係、法的諸制度が属する。これらの諸概念は(たとえば売買または
抵当権の概念というような)実定法から読み取れるか、もしくはそれらは実定法のど
のような科学上の認識にも先行しており、実定法を科学的に理解するために適用され
なければならない道具であり、それゆえにどのような個別的な実定法には属しておら
ず、むしろ考え得るいっさいの法にとって妥当する。しかしそれらは内容的に規定さ
れておらず、どのような自然法諸命題でもなく、純形式的な諸概念であり、法の実践
的な諸問題への普遍妥当的な諸解答ではなく、それが法としてそもそも認識するため
にはいっさいの法に対して提示することが根拠づけられている問いにすぎない。この
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ような「先験的な」法的諸概念、法のこのような認識諸カテゴリーは主観的法[権利]
と法的義務、適法性と違法性、公法と司法というような一般的な[10]諸概念である。
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このような先験的な ― 法の最も一般的であるような ― 諸概念が、「法の一般理論」
の対象である(とくにアドルフ・メルケル(Adolf Melkel←。
『法学百科事典(Juristische
Enzyklopädie)』、初版1885年)。実証主義の時代には、法の一般理論が法哲学にとっ
ての代替物と、
「実定法の哲学」とみなされた。(法的諸概念の種類【130】については、
Radbruch, Handlungsbegriff, 1904, S. 29 ff.[ GRGA Bd. 7 , S, 75 – 167, 289 – 301])。
文献:Radbruch, Arten der Interpretation, im Recuiel d'études sur les sources du droit
en l'honneur de Fr. Gēny, Tome 2 ; Klassen und Ordnungsbegriffe, Ztscr. f.
Theorie des Recht, Jahrg. 12, 1938.
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第二節 法史と比較法
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Ⅰ.法史は法の存在、生成および作用をその対象としてもつ。それは法の内在的な
展開に自らを制限するが、しかしそれは法の他の文化的諸現象との相互関係をも究明
するか、もしくはある時代の法を精神史的にこの時代の文化の全体から解釈的に理解
する。
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Ⅱ.法史が法的諸状態の時間的な並行関係を対象としているとすれば、比較法は
(1732)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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様々に異なっている諸民族の法秩序の並行関係を描出する。文化的諸民族の諸法が比
較される限りで、このことは法政策な意図のもとで行なわれる(一五巻からなる記念
的な作品『ドイツ刑法と外国刑法との比較的描出、ドイツ刑法改正のための予備的作
業( Vergleichende Darstellung des deutschen und ausländischen Strafrechts,
Vorarbeiten zur deutschen Strafrechtsreform)』参照)。これに対して比較法が「民俗
学的法律学」として原始的な諸民俗の法を究明する限り、それは同時に、このような
原始的諸状態から文化的諸民族の法的発展の前史を構築することを追求しているので
ある。すなわち、法史は、その場合では普遍的な法史に流れ込むのである(モンテス
キュー( Montesquieu)の『法の精神(Esprit des Droit)』、1748年;フォイエルバッ
ハ( Feuerbach)1775 1883年; ヘ ン リ ー・ サ マ ー・ メ イ イ ン(Henry Summer
Maine)←; ヨゼフ・コーラー(Josef Kohler)←1849 1919年;Radbruch, Schweiz,
f. Strafr., Bd. 54, 1940, S. 22 ff., 参照)。
Ⅲ.普遍的な法史は普遍史的な諸経過の特定された諸類型を固定することができる
と考えているのであり、それらから次の点が強調されよう。
1 .原始共産主義から私的財産へ。
2 .母権から家父長家族へ、
[11]同族結婚から異族結婚(略奪婚と売買婚)へ一
夫多妻制から一夫一妻性へ( J・J・バッハオーフェン( J. J. Bachofen)、Fr. エンゲ
ルス(Fr. Engels)、A・ベーベル( A. Bebel)。
3 .身分から契約へ←(ヘンリー・サマー・メイイン( Henry Summer Maine)。
すなわち身分に根拠づけられた法秩序から自由契約、すなわち法成員に固有の意思に
根拠づけられた法秩序へ。
4 .「共同社会(Gemeinschaft)」から「利益社会(Gesellschaft)」←へ(フェルデ
イナント・テンニース( Ferdinand Tönnies)←すなわち共同生活の全体的な、有
機的な諸形式から原子的な、個人主義的な諸形式へ。
【131】
5 . 氏 族 復 讐 か ら 公 刑 罰 へ の 刑 法 の 発 展( テ オ ド ー ル・ モ ム ゼ ン(Theodor
Mommsen)ほか、
『文化的諸民族の最古の刑法について( Zum älersten Strafrecht
der Kulturvölker)』、1905年。 ラ ー ト ブ ル フ(Radbruch)、『 刑 法 雅 論(Elegantiae
juris criminalis)』、1938年、 1 頁以下[GRGA Bd. 4 , 10, 11]
)。
普遍的法史もまた法哲学として把握された(コーラー(Kohler)の『新 ヘーゲル
主義( Neu Hegelismus)』参照)
。
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第三節 法社会学
Ⅰ.個別的な諸々の法秩序と法的状態および一回きりの法的展開を扱う法史と比較
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(1731)
法とは異なって、法社会学は法と社会的な世界における法生活の一般的な法則もしく
は、さなきだに類型的な諸発展を究明する。(前項で指摘された普遍史的な展開系列
は、これを法社会学にも組み込むことができる。)
Ⅱ.最も重要な社会学的な法理論は、カール・マルクス( Karl Marx, 1818 1883年)
とフリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels. 1820 1895年)によって基礎づけ
られた史的唯物論である。カール・マルクスによれば、利益社会の経済的な構造をな
しているは、「そのうえに法および政治上の上部構造が聳え立っており、それに特定
された共同社会の意識諸形式が相応している実在的な基盤である。実質的な生活の生
産様式が法政策および精神的な生活過程一般を条件づけるのである」
。経済的基盤の
変動とともに「巨大な全上部構造は徐々に、もしくは急速に転倒する」←。
(諸理念は、
それらがこのような仕方で条件づけられている限りで、イデオロギーと呼ばれる。)
史的唯物論 テーゼは、いっさいの展開を精神の発展に還元するヘーゲルの見解の
逆転である。彼の見解によれば、存在は意識に依存しているのであり、これとともに
彼は(マルクスによれば)
「諸物を頭の上に置いている」のである。マルクスは、彼
が意識を存在から説明するというようにして、
「それを再び足の上に立たせた」←。
けれどもマルクスは、「理念的なものを人間の頭のなかに置き換えられ、移し変えら
れた物質として」←特徴づけ、これとともに理念的なもの、たとえば法は、ともかく
も物質的なものとはいくらかは別のものでる。すなわち単なる仮象では決してなく、
物質的なもののひとつの新しい形式への、ある一定の文化形式への、たとえば法的な
ものの形式への置き換え、移行[12]であることを示唆している。フリードリッヒ・
エンゲルスは後にマルクスと彼が「内容的な諸側面に対して形式的なそれらを無視し
ていた」←ことを承認した。彼はこれとともに法に経済へのあらゆる依存性にもかか
わらずある程度の自己法則性を認容し、さらには「歴史的な契機というものは、それ
がいったん他の、最終的には経済的な【132】諸事実を通して世界に置かれるや否や、
いまやこれに反応もし、その環境およびそれに固有の諸原因に逆作用を及ぼすことが
できる」←ことを承認した。それゆえに法の自己法則性とともに法的諸事実と経済的
なそれらとの間の相互作用というものの可能性が生ずる。
「最後の審判」←としての
みエンゲルスは、諸理念、たとえば法学的思考形式を経済的な諸原因に還元しようと
する。唯物史観がひとつのアプリオリなドグマの要求を高めることができず、むしろ
特別な稔り豊かさの方法もしくは仮説にすぎないということが付け加えられるなら
ば、これとともにこのような理論はその真なる意義へと還元される。
経済的な諸原因の法の自己法則性との協働にとってのひとつの具象的な例は、同盟
の自由の展開である。上昇しつつあるブルジョアジーはそれ自体の経済的利益におい
て団体の自由を戦い取る。しかし彼らは法的なものの形式において、言い換えれば、
(1730)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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万人にとってひとつの等しい自由として、一般性という形式において団体の自由を要
求し、そして達成したのである。このように法形式を纏うことは、同盟の自由がブル
ジョアジーの経済的利益を超えてプロレタリアートにとっても利益になり、労働組合
の同盟の自由という形態において、団体の自由がその利益において貫徹していたまさ
にこのブルジョアジーに対するひとつの闘争手段にさえなったということをともにも
たらした。このようにして法形式の自己法則性は、これに役立つことを求める経済へ
のひとつの逆作用に導いたのである(Radbruch, Klassenrecht und Rechtsidee i. d.
Zschr. f. soz. Recht, 1929.[GRGA Bd. 2 , 477 484])。
法についての最も価値のある作品はカール・レンナー(Karl Renner)の本『私法
の法的諸制度とその社会的機能(Die Rechtsinstitute des Privatrechts in ihren sozian
Funktion)』(一九二九年)である。唯物史観に対して批判しているのは、とりわけル
ドルフ・シュタムラー(Rudolf Stammler)←である。法の形式なしにはどのような
経済秩序も考えることができないことから、法はもっぱら経済の一産物ではあり得な
い、というのである。理念的なものの経済的なものへの逆作用にとっての一例を、マ
ックス・ヴェーバー←(1864 1920年)がその有名な論文『プロテスタントの倫理と
資本主義の精神( Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitarisumus)』←のな
かで扱っている。
Ⅲ.法社会学もまた実証主義の時代において法哲学として通用するという要求を高
め た( パ ウ ル・ バ ル ト(Paul Barth) ←,『 社 会 学 と し て の 歴 史 の 哲 学(Die
Philosophie der Geschichte als Soziologie)』←。
[13]
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第四節 法心理学
社会学的な諸原因は個々人の心理を通した方法のうえでのみ有効になり得る。不法
の心理学、とくに【133】犯罪心理学は、われわれがここでもっぱらかかわっている
法の心理学としてより豊かに形成される。主観的な法[権利]の、客観的な法の心理
学と裁判官による判決の心理学とが区別されなければならない。
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Ⅰ.法的に保護された諸利益としての主観的な法[権利]が定義づけらなければな
らないことから、そのなかで二つの最も強力な、すなわち自己の諸利益と法的および
倫理的な是認 ― それどころか、倫理的義務 ― の意識という、他では互いに敵対し
合っている勢力とが互いに結び合っているのであって、それというのもイエーリング
( Ihering)←によれば、自己の権利を求める闘争は倫理的な自己主張のひとつの義務
←であり、法感情と良心とはひとつの神学的な対立に置かれているのであり、良心は
拘束し、法感情は私利私欲を解放するからである。そこから両者は本質において異な
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(1729)
っている性格に具現化されているのである。すなわち支配的な良心を伴なう人格性と
支配的な法感情を伴なうそれとが、柔和さと怒りっぽさとが、神聖なものと英雄的な
ものとが、卑屈な奴と喧嘩好きな奴とが、善人と悪人とが明瞭に区別されるのである。
両 者 は「 心 配 類 型 」 に、 後 者 は「 憤 怒 類 型 」 ← に 具 現 さ れ る( Kornfeld in der
Zeitschrift für Rechtsphilosophie, Bd. 1 , S. 135 ff.)。法感情は特別な程度において偽
善もしくは自己欺瞞にさらされている。すなわち利己心、羨望と妬み、独善、闘争癖
と権力欲、復讐欲と他人の不幸を喜ぶ気持ちも法感情に変装しているのである。法感
情は病理学的な過大化に、苦情狂に傾いてもいるのである。さらにそれは個別的な事
例に付着しているのであり、たいていの場合では法にとって個別事例の一般化をなし
ていない。とりわけそれはつねに現実的であるとは限らない想像上の法を対象として
有している。最後に法を求める闘争のための無制約的な義務についてのイエーリング
の理論は、「良き法」ばかりでなく、「愛する平和」もまたひとつの価値を有している
と い う こ と を 対 置 し て い る。(Riezler, Das Rechtsgefühl, 1928; Hoche, Das
Rechtsgefühl, 1932; Radbruch in der Zeitschrift Die Tat, Juli 1914 参照。)
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Ⅱ.客観的な法に対する服従は多様な動機に、刑罰を前にした畏怖、強制の予見、
よく理解された自己利益、秩序および公共の感覚、国家権力に対する忠誠、模倣、習
慣そして最後にまた法感情に基いているということがあり得る。さらに服従は法の全
面的に民族に固有の知見にではなく、むしろ国家意志に(神学上の「盲目的信仰(fides
implicita)」←という類に従って)白地承認というものが分ち与えられるというとい
うことに基いている。
しかしどのような法秩序も、国民のなかで法を知っており、それ自体のために義務
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づけているものとして承認しているひとつの核心的な[14]集団、すなわち法曹階級
を用いることができない場合には、成り立つことができない。(Franz Klein, Die
psychologischen Quellen des Rechtsgehorsams, 1912 参照。)【134】
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Ⅲ.国民の法服従とは異なって裁判官による判決は、通例として法の知見と法の服
従に基づいている。しかし裁判官の心理学にも統制が可能ではない、因果的な諸動機
が混入することがあり得るということを、階級司法という非難が考えている。この非
難が意味しているのは意識的な法の捻じ曲げではなく、裁判官がブルジョアジーに、
そして教養層に属していることから生じ得る諸々の欲動による無意識的な影響が、あ
の諸々の欲動の意識化を通して、たとえば、労働裁判所において職業裁判官が等しい
数において被雇傭者と雇傭者に付き添われ、彼らの意見表明のなかで階級対立が明瞭
に表明されることを通して最もうまく克服される。
「実用主義運動」はアメリカ法学
の内部において科学的手段をもって裁判官の判決の諸動機を、とりわけ因果的な諸動
機の作用をも確認することに努めている。それは有名な上級の裁判官O・W・ホーム
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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
17
ズ(O, W. Holmes)←の、裁判所が個別事例において何をなすのであろうかについて
の予言より他の何ものでもないという要求のうえに根拠づけられる←。Angela
Auburtin, Ztschr. f. öffl. Recht, Bd. Ⅲ. 1932, S. 529 ff., 参照。
Ⅳ.法心理学もまた、真っ当な法哲学として承認されるという要求を高めたのであ
る。Petrazycki, Über die Motive der Handelns, 1904参照。
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第五節 ルドルフ・イエーリング(1818 1892年)
ルドルフ・フォン・イエーリング( Rudolf v. Jhering)は、その諸作品のなかに
十九世紀の法学のすべての動因が統合されており、またそれ自体を超えて新しい法哲
学というものの将来的発展を指し示していることから、ここで格別に扱われなければ
ならない。
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「ローマ法の精神(Geist des römisches Rechts)
」のなかでイエーリングは、法を「国
民精神」に還元するという歴史学派の課題を実行した。しかしローマの国民精神は、
彼によって全く非ロマン主義的に規律化された利己主義と決然とした実行力として描
出される。
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その講演『権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)』
(1878年)とその作品『法
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における目的(Der Zweck im Recht)』(1877年)は、すでに次のような動機によっ
て特徴づけられる。すなわち「闘争において汝は汝の権利を見出すべきである」と「目
的は全法の創造者である」ということである。内的な諸々の闘争と矛盾のなかに生き
るイエーリングの本性[15]にとって特徴的なのは、彼が長きにわたって、彼自身が
全法をひとつの意識的な目的創造であると言明するより前に、このような理論に対し
て明確な批判を加えるとともに、すでにその限界線を引いていたということである。
著者の死後に彼によって編集されていた【135】
『ファルクス(Falcks)法学百科事典』
(1851年)の288頁に、彼は次のように述べていた。「道徳的世界においてはもっぱら
合目的性という原理が支配しているのではなく、その現存がこの原理に負っている
諸々の法命題や法制度とならんで、いささかも目的としているのはなく、諸々の結果、
倫理的もしくは法的な根本的見方の諸発露であり、そこからあの尺度では全く測るこ
とができない、これとは別のものも存在している。前(19)世紀では、このような過
誤がしばしば犯され、そしてこれを通して最も高貴で深遠なものが悪しざまに言われ
ることがまれではなかった。」
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『諧謔と真摯( Scherz und Ernst)』(1885年、だがこの本の核心はすでに1861年に
見られる)のなかでイエーリングは、
『ローマ法の精神』のなかで彼自身によって提
唱された「概念法律学」を目的法律学という意味において批判した。概念法律学から
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同志社法学 60巻 1 号
(1727)
目的論的な法発見への回心のその契機と時期は、今日でもなお確認することができる
( H. Kantowicz, Deutsche Richterzeitung, 15. Januar 1914, 参照)。ローマの法律家パ
ウルス(Paulus)によって学説集成( Digesten)18、 4 、21のなかである判定が伝
えられているのであるが、それによれば、売主は彼によって二回にわたって売られた
後に偶然によって紛失した財物について、二人の買主に売買価格を要求することがで
きる←。イエーリングはこのような判定に賛同していた。人生の後期になって彼は実
際にこれと同じ事例の前に立たされた。当時では後に沈没した一隻の船の二重に売却
された負担分が問題となった。第一審はイエーリングの賛同を拠り所にしてあの学説
集成の箇所の意味において判定したのであるが、しかし第二審は控訴を棄却した。い
まやゲッチンゲンの法学部が書類送付という方法でこの判定と取り組むことになっ
た。「私の生涯のなかで」と、イエーリングは告白している、
「この法律事件ほどに
― 当惑とまではほとんど言えない ― 心情刺戟にさらされたものはない。理論的な
諸々の混乱がそもそもひとつの刑罰に値するならば、これが私には当時では十分な範
囲において分ち与えられていたのである。実際のところ、諸結果と判断には無頓着に、
そこに諸源泉を読み取るか、それとも帰結から引き出すことができると信じられるよ
うな法命題を生活のなかに打ち立て、純理論的にそれと折り合うか、もしくはしかし
それを適用にまで持ち来たらすかということは、別々のことである。イエーリングは
実際のところ、以前に表明されたその法的な見方とは反対の方向に判定している。こ
の体験は他でも、
[16]空想もしくは想起によって担われた法的諸事例のうえにのみ
支持することができる制定法とは違って、法律家をある実際的な個別事例についてそ
の法的な見方の直接的な実在化を強いる事例 法の諸々の長所を明らかにするのに適
している。【136】
イエーリングからは、比較法と法社会学への、自由法運動と利益法学への、リスト
の近代的刑法学派と大学の講義における諸々の演習への稔り豊かな諸々の刺戟が発し
ている。彼は、ヘーゲルの体系の崩壊の後の、哲学なき時代において、自らはいまだ
実証主義に捕らわれていたものの、それが次いでルドルフ・シュタムラー( Rudolf
Stammler)(『正しい法の理論( Lehre vom richtigen Recht)
』1902年)←を通して成
し遂げられているように、法哲学の革新というものの前触れの使者になっていたので
ある。
文献:Wieacker, R. v. Jhering, 1942.
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第六節 法哲学の諸々課題
Ⅰ.哲学の歴史は同時に様々に異なっているその諸々の課題の歴史である。これら
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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
の課題にとっては、それらが、人々がそのつどの時代に応じて最も真摯な、最も深遠
な、そして究極的な諸々の問いに取り組んできたものとかかわっている。自然科学の
支配の時代、実証主義の時代では、それゆえに哲学には、経験的な諸科学の究極的な
諸認識をひとつの矛盾のない体系に結合するという課題が割り当てられた。法の一般
理論、普遍史および法社会学が、それゆえに哲学の代替物として、それどころか哲学
としてさえ論じられたのである。われわれの価値体系に同様に直面して、今日ではこ
れに対して、哲学を諸価値についての学問として、当為についての学問として把握さ
れた。そのようなものとしての哲学はわれわれに論理学において正しい思考を、倫理
学において正しい行為を、美学において正しい感情を教える。これに対応して法哲学
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は「正しい法についての理論(Naturrecht mit wechselnden Inhalt)」←(ルドルフ・
シュタムラー)である。したがってこの理論は法の諸々の価値と目標を、法の理念と
理想的な法を扱うのであり、理想的な法を実現する諸々の可能性をその対象として有
している法政策にその継続を見出すのである。
Ⅱ.経験的諸科学は存在と、存在していたものと、生成と関係しなければならない。
これに対して哲学は諸価値と、当為とにかかわる。経験的な諸科学は、必然的に生起
しているものを確定する自然諸法則を探究するのであり、法哲学は、それが残念なこ
とにこれと同様に必ず生起するとは限らない場合であっても生起すべきであるものを
固定する諸規範を探究する。カントは、諸価値を現実から導き出すこと、当為を存在
的諸事実のうえに根拠づけること、自然諸法則を諸規範に改鋳することが可能でない
ことを教えた。ある態度が正しいことを帰納的に経験的な諸事実のうえに【137】根
拠づけることはできないのであり、演繹的により高い、最終的には最高かつ究極的な
諸価値から導き出すことしかできないのである。諸価値の王国と諸事実の世界とは、
自らにおいて完結しているのであり、相互に重なり合うことなく並存しているのであ
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る。価値と現実との、当為と存在とのこのような関係は方法二元論と呼ばれる。
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Ⅲ.正しい法についての理論は、数世紀を通して自然法という名称を担ってきた。
古代ではこのような思想は自然と定立との対置のうえに(アリストテレス)
、中世で
は神の法から世俗的な法への対置のうえに(トマス・アクイナス)、近世では理性と
必然的な秩序のうえに(ヒューゴ・グロチウスからルソーまで)根拠づけられた。近
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代はその理論を「社会契約」説のうえに根拠づけた。社会契約は存在事実としてでは
なく、むしろひとつの擬制的な尺度として見られなければならない。それはひとつの
現実的に締結された契約としてではなく、むしろ、国家および法秩序の正当性がそれ
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で測られるひとつの概念構成であるとしてみなされなければならない。すなわち当の
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国家と当の法秩序は、それらが個々人のすべての任意な合意を通して成り立っていた
と考えられるならば、よくかつ正しい、ということである。社会契約は個人主義的な
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同志社法学 60巻 1 号
(1725)
法思考のひとつの形式である。すなわち、それらが個々人すべての個人的な利益に相
応している場合にのみ、国家と法秩序は個々人間の契約というものを通して成り立っ
ているものとして考えることができるのである。社会契約の個人主義的な思想はひと
つの革命的な思想であった。この形式において個人主義的な法および国家の理念はフ
ランス革命において勝利に達したのである。復古時代の後退とともに自然法の支配も
終わりを遂げ、それは歴史学派の支配によって解消された。
自然法はその三つの時期において次のような共通の特色を有していた。
1 .自然法は自然のように、神のように、理性のように不変的であり、普遍妥当的で
あって、すべての時代と民族に共通している。
2 .自然法は理性を通して一義的に認識することができる。
3 .自然法は、実定法をそれで測ることができる尺度であるばかりでなく、実定法が
それと対立している場合には、それに代わって登場することが求められている。
直ちに明らかにされる(次のIVを見よ)諸理由から自然法は普遍妥当的かつ不変
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的であるとしてではなく、むしろ「変化する内容をもつ自然法( Naturrecht mit
wechselunden Inhal)」←(シュタムラー)としてのみみなされるのである。このよ
うな自然法がどの程度まで認識可能であり、それゆえに[18]これに逸脱する実定法
に取って代わることが適しているのかは、まさにこれに続くところ(第十、十二節)、
で論定されるであろう。【138】
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Ⅳ.法秩序は部分的に「人間の本性」のうえに、部分的に法の理念のうえに、部分
的に法の素材のうえに根拠づけられる。人間の本性は法哲学の恒常的な要素であり、
事物の本性は可変的な要素である。
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1 .人間の本性に法の理念は基いている。人間の本質は理性である。理性のうえに
根拠づけられた法の理念は、あのようにそれ自体として普遍妥当的であるが、しかし
(カントによれば)純形式的であり、それゆえに、このことを自然法が試みたように、
それだけから全法秩序を展開することができない。
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2 .概念としてはすでに古代に成り立っていた事物の本性 は、モンテスキュー
(Montesquieu)によって関心の中心点に押し出された。その本『法の精神( Esprit
de lois)』は、「諸法律は事物の本性から導き出される必然的な諸関連である」という
言葉をもって始まる。
(事物の本性については、ラートブルフのラウン(Laun)の
ための記念論集のなかの、1947年に発刊が予定されている論文を;Rechtsidee und
Rechtsstoff in Kant Festschft, Archiv für Rechts und Wirtschaftsphilosophie 1924,参
照)。
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a) 「事物の本性」という言い方における「事物」←が意味しているのは法の素材、
材料であり、「立法の諸々の実体」(Eugen Huber, Ztschr. f. Rechtsphilosophie, Bd.
(1724)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
21
1 , S. 39 ff.)←であり、要するに立法者が目の当たりにあることを見出し、そしてそ
れに服している自然的、社会的および法的な諸々の状態である。法の素材は差し当た
り、隣人にとって問題であるりんごが垣根を越えて落ちることから、それに従って法
的な諸々の期限や期日が終局的に規定される地球が自転し、太陽の周りを回転するこ
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とにまで至る自然の諸事実である。人間による自然の進展する支配、技術の発達は新
しい素材とともに新しい法的諸問題を創り出す。自然的なもの、存在的なものは共同
生活の自然に結びついた諸形式でもある。Quod natura, omunia animalia docuit; maris
atque feminae coniunctio, liberorum procreation et educatio.←(男女の結びつき、子
女の生殖と教育、それは自然がすべての動物に教えるところのものである。)法的な
時間の諸測定は、しかし直接的に尺度になるものではなく、むしろカレンダーにおけ
る習慣的な規制を通してである。現に自然による性的な、そして生殖的な諸関係もま
た法の直接的な素材ではなく、その自然的な核心をそれが形成している社会的な形象
の形態を、つまりは単婚か、それとも多婚か、母権か、それとも父権かということを
通してのみ素材になるのである。現に自然的な諸事実は[19]それ自体を超えて、そ
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れらの素材を形成している法的諸関係の社会的な諸々の前形式を、習慣、風習、しき
たり、習俗を通して規制されている生活諸関係を指示している。立法者はたとえば、
彼が債務法が根底に置いている日常生活の営為類型を目の当たりに見出すのであり、
彼はさらに、【139】法人としてみなされる要求を自らに担っている共同体や教会とい
った集団的形象を目の当たりに見出すのである。すでに国民の良心が斥けており、そ
のために諸々の禁止と刑罰を要求している反社会的な諸行為もまた、立法者は目の当
たりに見出すのであるが、しかしその撲滅に当たって立法者は、それらが(ごく最近
まであった決闘のように)承認された風習の力をともに導いていることに考慮を払わ
なければならない悪習もまたそうである。法的な諸規制のこのような前形式は明確な
限界もなしに慣習法に移行し、これとともに法の素材に属している諸事実の第三群へ
と、すなわちすでに法的に規制されている生活諸関係へと導く。経済上の諸事実が立
法の素材として問題とされる場合には、
(シュタムラーが唯物史観の批判←のなかで
明らかにしたように)必然的に同時にそれらの法的規制が考えられるのである。経済
の諸法律への影響は、それゆえに実は成り立っている何らかの法状態の新しい法的諸
形式の形態化である。法は立法の時点で不可避的に新しい法のなかに後々まで余韻を
残すのであるが、それも移行諸規定のなかに、そしてうまく獲得された諸法のなかに
というだけではない。それが意味しているのは、これまでの法に代えて新しい法が定
立されるのか、それともこれまでに耕作されていないゲレンデのうえに新しい法を打
ち立てるのか、たとえば死刑の否認に関する論議が死刑を知っているような地盤のう
えでなされるのか、それとも死刑がいまだ疎遠なものになっているような法秩序のう
22
同志社法学 60巻 1 号
(1723)
えでなされるのかはひとつの差異であるということである。このように「事物」とし
て既存の法秩序もまた顧慮されるというようにして、「事物の本性」は同時に、法哲
学と法倫理学のひとつの歴史的な、伝統的な、保守的な要素としての実を明らかにし
ているのである。
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b) 以上が「事物」についてである。いまや「事物の本性」が問題である。本性の
もとにここでは、生活諸関係それ自体の性情から読み取ることができる事物の本質、
意味を、すなわち客観的な意味を理解することができる。それは、どのようにしてそ
のような性情にある生活諸関係が有意味的にある一定の価値思想の実現として考えら
れ得るかという問いに対する答えである。
その限りでしかし、 ― 見かけのうえで方法二元論に対立している ― 成り立って
いる何らかの生活諸関係の正しい法にとっての意味、理念が決定的であるのか。[20]
1 .事物の本性は、特定された法的理念を現実に置き換えることの可能性という意
味において何よりも先ず決定的であるように思われる。この意味において事物の本性
は、法の諸理念がその実在化可能性のために多かれ少なかれ甘んじなければならない
愚昧な世間の抵抗を表わしている。すでにソロンは、彼はその市民たちに考え得る最
善の諸法律を与えたのかという問いに対して、【140】
「もちろん最善のものでは全く
ないが、しかしそれでも彼らに可能であった最善のものは与えた」と答えた。法制策
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へと流れ込む法哲学は、政治と同様に「可能なものの技術」である。
「不可能なこと
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を欲する者を、私は愛する」←ということを、いずれにせよ法哲学と法政策の選言に
まで高めることはできないのである。
2 .しかし事物の本性は法思想の貫徹のひとつの障害という形態において現われる
だけでなく、むしろそれは法思想それ自体の成り立ちに当たって真価を発揮している
のである。どのような法思想も、そのなかでそれが形成されるれ「歴史的風土」とい
う要素を身に纏っているのであり、たいていの場合においてはじめから無意識的に歴
史的に可能なものの限界に閉じ込められているのであり、この意味において事物の本
性に結びつけられているのである。
3 .最後に、事物の本性の立法者にとっての妥当は、実在化可能性を通してだけで
なく、理念形成の歴史的な制約を通してだけでなく、法理念それ自体の本質を通して
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も根拠づけられている。どのような法理念もある一定の素材のために、それゆえにま
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た素材を通しても規定されているのである。たとえば正義の理念は共同生活に関係づ
けられているのであり、その本質において共同生活のためのこのような規定を明瞭に
指し示している。芸術家の理念がその作品によってともに規定されているのであり、
彼が大理石に工作を加えるときには別のものが、彼が青銅に工作を加えようとすると
きにはまたこれとは別のものが創り出されるというように、彼がそのなかで描き出そ
(1722)
23
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
うとする素材を通して規定されているように、どのような理念もある一定の素材に向
けて整えられるのであり←(エミール・ラスク( Emil Lask))、とくに法の諸理念は
法の素材を通して、そのつどの時代を通して、特別な国民精神を通して、要するに、
事物の本性を通して規定されているのである(理念の素材被規定性)。
事物の本性は価値と現実との、当為と存在との間の厳格な二元論をいくらかは和ら
げることに役立っているのであるが、しかしそれを止揚することはない。存在の側面
に向けられている所与の意味として進展する事物の本性に対しては、法の理念が最終
的な言葉を述べなければならないのである。事物の本性は確かに与えられた法の素材
の意味的な形態化の要求をもって法の理念に対抗するのであるが、
[21]しかしなが
ら法理念の最終的な判定を保障しているのではない。Iurisprudentia est divinarum et
humanarum rerum notita(Natur der Sache), iusti et inusti scientia(Idee des Rechts)
(法学は神のものと人間のもの認識であり(事物の本性)、正と不正についての知識で
ある)。
文献:Radbruch, Rechtsphilosophie, 3 . Aufl. 1932; こ れ 以 外 の 文 献 指 示:Sauer,
Lehrb. d. Rechts
u. Sozialph., 1929, S. 5 ff. そこでの指示の補充のために:
Karl Petraschek, System d. Rph., 1932; Giorgio Del Veccho, Lehrb., deutsche
Übersetzg., 1937, さ ら に:Modern Therie of Law, hrsg. v. Jennings, London
1932; W. Friedmann, Legal Theory, 1945,[22]【141】
第二章 法の理念
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第七節 正義
Ⅰ.実定法の価値尺度、立法者の目標は正義である。正義とは、善なるもの、美な
るものと等しいひとつの絶対的な価値であり、それゆえにそれ自体の価値のうえに根
拠づけられるのであって、より高い価値から導き出されるのではない。
Ⅱ.正義は次のように区別されなければならない。 1 .徳としての、したがって(た
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とえば正義に適っている裁判官の)人格的特性としての正義、すなわち主観的な正義
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と、人と人との間の関連というものの特性として正義、すなわち客観的な正義という
ように。主観的な正義は客観的な正義の実現へと向けられた心情であり、前者の後者
との関係は本当らしさと真理とのそれと同じである。それゆえに客観的な正義は正義
の第一形式であり、主観的な正義はそれの第二形式である。われわれの関連で関心の
対象となるのは客観的正義だけである。
24
同志社法学 60巻 1 号
(1721)
さらに次のように区別されなければならない。 2 .実定法の尺度に従った正義 ―
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合法性 ― と、法律の前の、そしてそれを超える法理念としての正義 ― すなわちよ
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り狭い意味における正義というように。前者は裁判官の正義であり、後者は立法者の
正義である。われわれの関連では後者のみが関心の対象になる。
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Ⅲ.正義の核心は平等の思想である。アリストテレス以来、二種類の正義が区別さ
れるのであり、それらのなかで平等は二つの異なる形式において形づけられる。すな
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わち均分的正義(justitia commutativa)が意味しているのは給付と反対給付との絶対
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(justitia
的な平等、たとえば商品と価格、損害と賠償、責任と刑罰である。
「配分的正義」
distributativa)が意味しているのは、多数の人々の取り扱いにおける比例的な平等で
あり、たとえば彼らの異なる給付能力を尺度にした彼らの異なる課税、勤務年齢と資
格を尺度にした彼らの昇進である。均分的正義は、互いに法的に等しい位階にある二
人の人を前提としている。これに対して配分的正義は少なくとも[23]三人の人を、
すなわち彼に服している二人もしくは複数の人々に負担を課し、利益を保証している
上位にある人を前提にしているのである。私法が等しい位階にある人々の間の法であ
り、公法が上位および下位関係にある人々との間の法であると見られるならば、
【142】
均分的正義は私法の正義であり、配分的な正義は公法の正義である。私法の法的に同
等に扱うことは均分的正義のひとつの作用であって、それというのもこれによって配
分的正義が適用に達することができ、それに関係している人々に何よりも先ず均分的
正義によって等しい法的能力が承認されていることが必要だからである。このように
して配分的正義 ― 各人にその分を( das suum cuique) ― は、正義の原形式、す
なわち配分的正義は正義のひとつの導出された形式である。
Ⅳ.たとえ正義がこの二つの形式において、善なるもの、真なるもの、美なるもの
と等しく絶対的な、何ものを通してもさらに根拠づけることができない価値であると
しても、それでも正義のなかに含まれている平等はつねに倫理的な諸動機によって支
えられているとは限らない。現に平等はたとえば、優先権が与えられた者と同じ優遇
を享有したいという羨望から、優先権を有している者を自分と同じ状態に引き下げた
いという妬みから、自分が掘った墓穴のなかに他人が陥ったのを見て喜ぶ気持ちか
ら、損害を加えた者に、彼が被害者に加えたのと同じものを加えたいという復讐欲か
ら努められる。このようにして正義の現実への貫徹は、自らを実現するために苦悩を
それに奉仕させる「理念の狡知」←(ヘーゲル)にとっての一例である。
Ⅴ.正義はそれ自体のなかにひとつの克服し難い緊張を含んでいる。平等は正義の
本質であり、したがって一般性がその形式である ― そしてそれにもかかわらずそれ
には、個別事例と個々人をその唯一無類性において正等に評価しようとする思考が内
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在している。個別事例と個々人のためにこのようにして努められた正義が衡平と呼ば
(1720)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
25
れる。しかし衡平の要求を完全には充足することができない。正義の個別化というの
はひとつの自己矛盾である。しかしその一般性は恩寵を知っているのであり、特殊化
もつねにまた全般的なものの一形式である。それは漸進的に個別化に接近するのであ
るが、しかしそれは決してこれに到達することができない。正義における衡平の傾向
は、それゆえに特殊化のなかにはひとつの部分的な充足しか見出さないのである。た
とえば民法における全員の平等に代わって労働法における雇傭者と被雇傭者との、労
働者と社員との差違が現われる場合、それは最も広い全般化と余すところのない個別
化との間のひとつの調整である。[24]
Ⅵ.正義はひとつの形式的な理念である。それは次の二つの問いにどのような答え
も与えることができない。それはむしろ答えられているものとして前提としているの
である。それが意味しているのはむしろ、等しいものを等しい取り扱いこと、等しい
尺度に従って等しくないものを等しくないように取り扱うことである。【143】しかし
それは、 1 .誰が等しい、もしくは等しくないとみなすことができるのかを確定する
ことも、 2 .どのようにして等しいものと等しくないものを取り扱うべきであるとみ
なすこともできない。平等はつねに互いに等しくないものからの抽象でしかないので
あって、それというのも諸物と人々は、
「ある卵がもうひとつの卵と同じでない」の
と同様に互いに等しくないからである。たとえば同じ犯罪構成要件の二人の実現者
は、彼らが等しく犯したがゆえに同じ科刑に服させるべきか、それとも彼らはそれぞ
れに異なっている前科とそれぞれに異なっている危険性という尺度に応じて異なって
取り扱われるべきか、平等もしくは不平等のこれらの問いは、正義がその票決を与え
る前に、目的的な諸考量に基いてあらかじめ判定されていなければならない。同様に
刑罰の種類と絶対的な重さも正義から導き出すことができない。正義は刑罰の比例的
な程度をつねにある与えられた刑罰体系の内部においてのみ確定することができるの
であるが、しかし刑罰体系それ自体を確定することができないのである。刑罰体系が
上から最も過酷な死刑をもって始まり、下から拘禁刑をもって終わるのか、それとも
上から終身刑をもって始まり、下から最小限の罰金刑をもって終わるのか、これにつ
いては、正義は何も言うことができない。正義は、与えられた責任と危険性の点に相
応する、ある与えられた刑罰体系の点を決定することしかできないのである。法律が
等しい地位に置かれた者の全員とって等しく、それゆえに一般性をそれ自体のなかに
担っているという法律の形式しか正義は決定することができないのである。このよう
に一般的な、等しい地位に置かれている者の全員にとって等し並に妥当している諸法
律の内容については、これに対して正義は何も言うことができないのである。
Ⅶ.これによってもちろん、もっぱら正義から導き出すことができる、内容的に規
定された法的諸命題も存在してないということが言われてはならない。まさに法の適
26
同志社法学 60巻 1 号
(1719)
用に関する法的諸命題は内容的にももっぱら正義から規定されていることがあり得る
のである。たとえば裁判官の独立もしくは、事前の弁護手段を欠いている最終的な処
罰が許されないことは、それに従えば正義それ自体と同様に絶対的な性格を有してい
る正義の純然たる諸要求である。法的諸命題の大多数の例は、しかし正義からその形
式を、すなわち全員の取り扱いの平等と法律による一般性を受け取っているのに対し
て、その内容は、したがってこれと同様に法の理念に属しているもうひとつの原理、
すなわち合目的性によって決定されなければならないのである。
文献:Giorgio del Veccio, Die Gerechtigkeit, 1940; Nef, Gleichheit und Gerechtigkeit,
1941; Emil Brunner, Gerechtigkeit, 1943; Radbruch in”Justice and Equity
( The New Commonwelth Institute Monograph)1935.[25]
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第八節 合目的性
Ⅰ.法的諸命題から導出するためには、正義は合目的性による補充を必要としてい
る。そのさい「法の目的」のもとに理解されなければならないのは経験的な目的設定
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ではなく、為されて然るべき(gesollte)目的理念である。正義の概念が法哲学に属
しているのに対して、法の目的理念は倫理学から読み取られなければならない。倫理
学は義務論と善論とに分割される。倫理学上の諸善のもとに、倫理的な諸義務の内容
をなしている諸価値が理解されなければならない。法の目的は倫理的な諸善にも倫理
的な諸義務にも関係づけられなければならない。
Ⅱ.倫理学的善論はその担い手の本質に従って、これを次の三つに区別することが
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できる。すなわち第一の担い手は個別的人格性であり、第二の担い手は全体的人格性
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であり、第三の担い手は文化価値である。この三種類の価値の順位を、われわれは次
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の三つの価値体系に区別する。すなわち個人主義的な価値体系は個人的人格性の諸価
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値を、超個人主義的な価値体系は全体的人格性の諸価値の価値体系を、超人格主義的
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な価値体系は最高の諸善としての文化価値を注視するのである。
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この三つの価値に相応している共同生活の諸形式は個人主義的な「共同社会」、超
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個人主義的な「全体社会」、間人格的な「利益社会」である。諸理念を具象化するた
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めには、ひとつの契約関係としての利益社会が、人の身体のあり方を模したひとつの
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有機体としての全体社会が、そして職工がそのなかで直接的に人から人へとではな
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く、間接的に彼らの共同作業を通して互いに結びつけられているような石工組合とい
う形式における文化的な作品創造の共同社会が考えられる。人間の共同生活のこのよ
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うな三つの形式の理想を標語的に表現するならば、自由、権力、文化ということにな
る。個人主義的な理想、すなわち自由は政党政治的に、自由主義的な、民主主義的な、
(1718)
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グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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そして社会主義的な諸政党のなかに形態を見出した。自由主義的な見解によれば、人
格性価値は ― 数学的に言われるならば ― ひとつの無限の、もはや乗じることがで
きない価値であり、あれほどに大きな多数利益に対してまでも自らを貫徹することに
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根拠づけられている。これに対して民主主義的な思考はこの利益には有限的な価値し
か認めない、言い換えれば、多数という総計された人格性諸価値が少数というそれら
に先行するのである。民主主義が形式的な、法的な自由しか保障しないのに対して、
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社会主義は実質的な民主主義を、言い換えれば、事実的な、経済的な自由を個々人の
ために保障するのであるが、しかし個人主義的な最終目標から遠ざかっていない。超
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[26]個人主義的な、有機体的な理論は、これに対して権威的なもしくは保守的な諸
政党の基盤であり、これによれば国家は成員のためにではなく、成員が国家のために
現に存在しているのであり、国家の任務は国家市民の多数の利益をも超えて聳え立っ
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ているのである。最後に、間人格的な見解は、どのような政党教義にも定着を見出さ
なかった。しかしそれは、そのような諸民族の文化的な作品だけが生延びていること
から、たとえば没落した諸民族の後の歴史的な評価の唯一の尺度を形成しているので
ある。
Ⅲ.この三つの価値分類の順序を、一義的かつ証明可能な仕方で確定することはで
きない。法の最高の諸目的と諸価値は様々に異なっている諸民族と諸時代および社会
的な諸状態の尺度に従って様々に異なっているばかりでなく、主観的にも人から人
へ、それぞれの法感情、国家観および政党の立場、宗教もしくは世界観に応じて様々
に評価される。判定は自らの人格性の深部からしか、良心の決断からしか創り出すこ
とができない。科学は、この三つの価値群の整備に自らを制限しなければならないの
である。科学は、次の三つの仕方で役立っている。すなわち、 1 .それが可能な諸々
の評価を体系的な完全性において展開するというようにして、 2 .それが実現のため
の手段を、そしてこれとともにそれを通して条件づけられた諸帰結を明らかにすると
いうようにして、 3 .それがいっさいの評価的な態度の世界観的な諸前提を明らかに
するというようにして。このような相対主義は三重の仕方で個々人に、彼は何をなす
べきかを確かに教えないのであるが、彼が本来的に何を欲しているのか、言い換えれ
ば、彼が守備一貫性の法則に服しているならば、一貫するところとして何を欲しなけ
ればならないのかを教える。
Ⅳ.法によっても努められなければならない最高の諸財を求める問いがわれわれに
相対主義的な諦念へと強いるのであれば、義務の普遍的な本質についての理論から
― それもまた内容的に規定されようとしているように ― 法に対する絶対的な諸要
求が生じてくる。もちろん法は、倫理的な義務充足に直接的に奉仕するという課題に
身を置くことができない。倫理的な義務充足は概念必然的に自由のひとつの営為であ
28
同志社法学 60巻 1 号
(1717)
り、それゆえに法の強制を通して充足するということはできない。法は倫理上の義務
充足を強制することができないのであるが、しかしこれを可能にする。すなわち法は
倫理上の義務充足の可能性、もしくは別の言葉をもって言うならば、それがなければ
内的な自由が実存在することができないほどの外的自由の尺度である。あの外的な自
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由を保障するということが、人間的諸権利の本質であり、核心である。それだから、
それらがこのもしくはあの表現形式において実定的―法的な形態を見出したというよ
うにしてでは確かにないが、倫理的な義務充足を[27]可能にするというようにして、
これらの権利は絶対的な性質のものである。これとともに【146】ある種の範囲にお
いて自由主義はどのような見解においても、民主主義的もしくは社会主義的な見解に
おいても、権威的な見解においてさえ、必然的な刻印であることを証明しているので
ある。他方で自由主義は、それ自体から完結した法および国家秩序を生み出すことが
できないのであり、それは何らかの国家観のひとつの修正形式である。人間的諸権利
と超個人主義的な国民全体もしくは間人格的な文化的諸価値との間の価値関係を決定
するのは配分的正義である。超個人主義的な立場(
「汝は何者でもない、汝の国民が
すべてである」
)」によるか、もしくは間人格的な立場(
「フィデイアスの一個の彫像
は古代の万人の奴隷の災厄を埋め合わせる。」←トライチュケ( Treitschke)←)に
よる人間的諸権利の完全な否認は、しかし絶対的に不正な法である。
文献:Radbruch, Le relativisme, Archibes de Ph. D. dr., 1936.
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第九節 法的安定性
法の目的を問う問題は、それが倫理学的善論を目標としていた限りで、相対主義の
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なかで終わっていなければならなかった。したがってその限りで正しい法を論定する
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ことができないからには、それは、それも確定されたものを貫徹することもできる権
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力を通して確定されなければならないのである。このことは実定法の正当化であっ
て、それというのも法的安定性は、これを法の実定性を通してのみ充足することがで
きるからである。これとともに法理念の第三の構成部分として、法的安定性が示され
る。
Ⅱ.法的安定性のもとにわれわれは、たとえば謀殺、故殺、窃盗といったものから
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の法を通しての安全 ― これはすでに合目的性の諸概念のなかに含まれている ― で
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はなく、法それ自体の安定性を理解する。これは、次のような四重のことを要求する。
1 .法は実定的であること、それは制定された法であること、 2 .このように制定さ
れた法は法で、言い換えれば諸事実に基いて根拠づけられており、たとえば「信義と
誠実」のような、「善良な風俗」というような一般条項を通して裁判官を、個別事例
(1716)
29
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
に関して自らの価値諸判断に追い遣ることはないということ、 3 .法的に根拠づけら
れたこのような諸事実が可能な限り誤謬から免れて確定されていなければならないと
いうこと、それらが「実用的である」ということ。このためにはしばしばその拡張は、
もともと考えられていた諸事実の諸徴候を通しての補充は甘受されなければならな
い。行為能力が個人的な内的成熟にではなく、全員のために等し並に画定された成熟
年度に依存させられている場合がそうである。【147】 4 .最後に、実定法は ― 法的
安定性が保障されていなければならいのであれば ― あまりにも[148]たやすく朝
令暮改に服することがあってはならないこと、どのような思いつきの法律正文への改
鋳をも何の妨げもなく可能にしているような機会立法の手に帰することがあってはな
らないということである。権力分立論の「チェック・アンド・バランス( checks and
balance)」と議会という装置の鈍重さは、この視点のもとでは法的安定性のひとつの
保障である。
Ⅲ.かくして法的安定性は実定法の妥当を要求する。法的安定性の欲求は、しかし
また事実上の諸状態が法的な諸状態になることへと、それどころか際立ってパラドク
シカルな仕方で、不法から法が生成するということへと導くもあり得るのである。国
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際法における事が現にある状態(statud quo)のような純事実上の諸状態は、民法に
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おける占有は、それが法的な基盤に基づいているのかを顧慮することなく法的保護を
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享有している。時効取得や時効が意味しているのは、ある一定の時間の経過を通して
ある不法な状態がある法的な状態に転化する、ということである。法的安定性のため
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に、つまりはこれをもって争いはいったん終結を見出すのであり、誤判もまた確定力
を見出す、それどころか事例法または先決例尊崇が行き渡っているところでは、個別
事例を超えてこれと等しい将来的事例もまた妥当を見出す。もともとは違法であった
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慣習が法になり、やがてこの慣習と対立している法を押しのけることもできる。革命
は、したがって反逆は、それが勝利を収めない限りで犯罪であるが、しかし勝利の後
では、それが新しい法的地盤になる。革命政府というものは、それが法と秩序を維持
することができる能力を証明していることを通して正当化されるのである。またして
もここで、法的安定性は不法を新しい法に作り変えているのである。革命が成功した
後の日々では、それゆえにどのような革命政府も、それが(自らの反逆を通して破壊
された)平穏と秩序を保障するであろうことを宣言するのをつねとしているのであ
る。それゆえに法的安定性の思想は、権力と法との間に最高にパラドクシカルな諸々
の関連が成り立つことへと導くのである。権力が法に先行するのではないが、しかし
勝利を収めた権力はひとつの新しい法状態を創り出すことができるのである。
Ⅳ.法的安定性の思想はイギリス法において法理念の他の諸構成部分に対して優先
権を有しているのであり、そしてあるイギリスの法思想家、ベンサム( Bentham 、
30
同志社法学 60巻 1 号
(1715)
1748 1832年)←は、ひとつの真なる頌歌を歌い上げている。それは将来へ向けての
予見の、そしてこれとともに将来を意のままにすることの可能性を保障している、そ
れは計画すること、働くこと、倹約することのすべての基盤であり、それは、生活が
瞬間の一系列であるばかりでなく、継続性であるということ、個人生活が諸世代の鎖
のなかの一個の輪になるということを結果としてもたらす、それは文明の決定的な標
しである、それは文化人を野蛮人から、平和を戦争から、人間を動物から区別する。
【148】これとは逆にヤコブ・ブルクハルト( Jakob Bruckhard)←は「市民的安全」
←をときとして嘲笑し、まさに安全を欠いているような時代における偉大な文化的諸
現象を指摘した。たとえ1871年から1914年までの異常に長い平和の時期にひとは飽き
飽きとしてしまっていたとしても、 ― われわれは反対物を、法的安定性をその真価
において測定するためには、十分すぎるほどに体験したのである。
文献:Germann, Rechtssicherheit, in: Methodische Grundfragen, Basel 1946.
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第十節 価値諸理念の順位
三つの価値理念が互いに補完し合っている必要があること、正義の形式的な性質
が、目的思想の相対主義が法の実定性と安定性を要求しているように、その内容的な
補充のために目的思想を必要としていることが示された。三つの価値理念は互いに必
要とし合っているのであるが、しかし互いに矛盾し合ってもいるのである。
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Ⅰ.「人民の安寧が最高の法である(Salus populi suprema lex esto)」←と一方で
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謳われ、もっぱら合目的性だけが問題とされる。これに対しては、正義は国家の基礎
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である( iustitia fundamentium regnorum)←、すなわち正義はすべての法の根底
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であると答えられる。第三の側からは、
「世界が滅ぶとも、正義をして行なわれしめ
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よ( fiat iustitia, peraet mundus)」←と謳われる。実定法は他のあらゆる法価値を
犠牲にしてまでも妥当しなければならない一方で、これとは別の見解によれば、実定
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法はその無制約性において再び不法に転化する、すなわち「法の極は不法の極である
(summum ius, summum iniuria)」←ということである。このようにして法理念の
内部では、解決を要求している相互的な諸々の緊張関係が成り立っているのである。
Ⅱ.1933から1945年まで、法は国民にとって利益になるもののすべてであるという
ことが繰り返し告知された。これとともに極端な形式において超個人主義的な目的理
念が、公共善と権力の妥協のない立場が、個人的な人間的諸権利の完全な否認が強調
された。これこそまさに正義に対する目的思想の僭越の一事例である。それというの
も正義こそ、個人性と権力との価値関係を規定する当のものだからである。それゆえ
に正義は合目的性に先行する。そしてまた法的安定性は合目的性に対して優先権を有
(1714)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
31
する。それというのも合目的性は普遍的に妥当するどのような論定をも許さないから
である。そこから誤って考えられたか、それとも自称するところの合目的性を恣意か
ら区別することはできないのである。しかし法的安定性の意味と本質はまさに、逆ら
っている合目的性の諸要求に直面して一義的に明白な法を創り出す当のものである。
Ⅲ.決定的な衝突は、正義と合目的性との間に成り立っている。法的安定性は確か
に【149】実定法が不法であってもその適用を要求するのであるが、しかし不正な法
の等し並の適用は、
[30]昨日も今日もそれをあるものにも他のものにも適用するこ
とは、まさに正義の本質をなしているあの平等に相応しているのである。ただ、ここ
では ― 正義に測られて ― 不法が全員に均等に正しく分配される結果として、正義
の再建が何よりも先ず均等でない取り扱いというものを、つまりは不正義を根拠づけ
ているだけのことである。それゆえに法的安定性が正義の一形式であるからには、正
義の法的安定性との矛盾は正義のそれ自体との衝突である。この衝突は、それゆえに
これを一義的に判定することができないのである。問題は、ひとつの尺度の問題であ
る。実定法の不正義が実定法を通して保障されている法的安定性がこの不正義に対し
てそもそももはや重要でないほどの程度に達しているところでは、この種の事例で
は、不正な実定法は正義に席を譲らなければならないのである。しかし通例としては、
実定法を保障している法的安定性は、まさに正義のひとつのより劣る形式として、正
義に適っていない実定法の妥当をも是認するであろう。Legis tantum inerest ut certa
sit, ut absque hoc nec iusta sesse possit(ベーコン(Bacon))←(法律にとって安定的
であることは、それなしでは法律が正しくあり得ないほどに重要である).
文献:Radbruch, le but du droit, Annuarie de l'Institut de Philosophie du Droit,
1938/38.[31]
第三章 実定法
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第十一節 法の概念
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Ⅰ.法の概念の法の理念との関係は、存在の当為との関係と同じである。法はひと
つの存在的事実であるが、それにもかかわらず法概念を帰納的に、経験的に法的諸現
象から導出することができない ― それというのもこのためには、このような法的諸
現象が何よりも先ず「法」として現象していることが認められていれなければならな
いからである。法の概念は、それゆえに先験的な性質のものであり、演繹的にしか獲
得することができないのである。
32
同志社法学 60巻 1 号
(1713)
Ⅱ.法はひとつの文化現象であり、法の概念はひとつの文化概念である。しかし文
化的諸概念は価値的な諸概念でもなく、それらは存在的な諸概念でもない。それはむ
しろ「価値に関係づけられた」諸概念である。それだから文化概念としての「科学」
は真理の価値概念と同一に理解されない。それは認識された諸真理だけでなく【150】
、
ある時代の科学上の諸々の誤謬をも含んでいるのであるが、しかしそれはどのような
純然たる存在概念でもない。すなわちそれは「科学上の」諸々の誤謬を、言い換えれ
ば、科学上の真理であることに務め、そして要求する諸々の誤謬を、それらの過誤が
真理の途上にある諸々の誤謬を包括しているのであり、この意味において科学の文化
概念は「価値に関係づけられ」いるのである。現に「芸術」もまた成功した芸術作品
の総体であるばかりでなく、偉大な芸術とならんで身の毛もよだつようなまがい物も
含んでいるのであるが、しかしこれが芸術家の努力の失敗に終わった結果である限り
で、その努力はいくらかは美に向けられているのである。そして結局のところ、法は、
それが正義を射当てたか、それとも射損じたかとはかかわりなく、正義を実現すると
いう意味を有している存在的諸事実の総体であるとする点で、事情はこれとは別のも
のではない。すなわち法とは、法理念を現実に移すという意味を有しているところの
ものである。法概念は法理念に方向づけられているのであり、法理念は法概念に論理
的に先行しているのである。
Ⅲ.これとともに法の概念から、法とは 1 .たとえばある法律の、もしくはある慣
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習の経験的な形態を担っているひとつの現実、それゆえに実定的でなければならない
ということ、 2 .それが法理念の具現化として他の現実を評価し、促進しつつ高める
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もの、したがってそれは規範的でなければならないということ、 3 .それが正義の欲
せられた現実化として人間の共同生活を規制しなければならないのであり、それだか
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ら社会的な[32]性質のものでなければならないということ、 4 .それが努められた
正義のためにそれがかかわっている全員のための平等を定立しなければならないこ
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と、かくして全般的な性質のものでなければならないということが明らかになる。
Ⅳ.国家の諸々の意思表明もまた、それらがこのような諸要素のひとつを欠いてい
るときは、法たる性質を欠いた権力の断言にすぎない。それゆえにたとえば法の全般
的な性格が意識的に否認され、正義が全く努められないところでは、そのようにして
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作られた諸指令は権力の断言にすぎず、決して法的諸命題ではない。それだから、ひ
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とつの党だけを合法化し、同じ性格を有する他の諸団体を排除する国家、「一党国家」
はどのような法的形象でもない。それだからある種の人々に人間的諸権利を否認する
ような法律は、どのような法命題でもない。かくしてここには法と非 法との間の明
確な限界が与えられているのであり、その一方で、上に(第十節)示されたように、
法律上の不法と妥当している法との間の限界はひとつの程度限界にすぎないのであ
(1712)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
33
る。
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Ⅴ.すでに触れられているように、法の概念は経験的な性質を有しているのであり、
それは経験的な諸事実から帰納的に、経験的に導き出されるのではなく、むしろそれ
は、このような経験的諸事実をそもそも「法的」諸事実として把握することをはじめ
て可能にするのである。しかし法それ自体の概念をもって、そのなかに必然的に含ま
れている諸概念のすべてであるのと同様に先験的であり、経験の【151】うえに根拠
づけることができるのではなく、むしろ何らかの法的経験の手段と道具であり、そこ
からそれゆえにある一定の法秩序に結びついているのではなく、何らかの法の科学的
な理解にとってすべての時間と国民に必然的な認識カテゴリーである。それだから客
観的および主観的法の諸概念の法学的思考を欠くことができないのである。それはさ
らに法命題の概念とその構成部分、すなわち構成要件と法的効果を、法源の概念、適
法性と違法性をばかりでなく、主観的な法の概念をも法義務の、法的諸関係の、権利
の主体および権利の客体の諸概念をも任意に用いることができるのである。この先験
的な法的諸概念の委細を尽くした図表を呈示することに、これまでのところ成功して
いない。このような諸概念が何らかの法を把握するために必要であるということが、
有意味的にいっさいの法秩序に対して提起することができることが、それらのもとに
すべてを観ることができる諸視点が、法的認識の諸カテゴリーが、要するに、何らか
の法秩序の法学的な加工がなければ可能でないあの概念的な諸々の道具立て兵器庫が
問題になっているのである。[33]
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第十二節 法の妥当
法の妥当の、法の拘束性の、その義務づける性質の問題は当為のひとつの問題であ
る。すでにこれを通して、実定的な法律の根拠を求める、もしくはそもそも諸事実の
根拠を求める問いに余すところなく答えることができないということがわかるであろ
う。
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Ⅰ.法の妥当の根拠づけのために法学的な妥当の理論というものが展開された。そ
れは、ある法命題の妥当をつねにより高い法的諸命題から正当化するという課題を自
らに課している。そのようにしてそれは命令を、その実施のために役立っている法律
に還元し、法律を、立法者の方向を規範化している憲法に還元する。しかし、ある法
秩序の最高の諸規範(もしくは、好んでそう言われるように、根本的諸規範)はその
妥当を、法学的にはもはや証明することができない。法学的妥当理論はそれゆえ、た
とえは慣習法と制定法とが、国家法と教会法とが、国内法と外国法とが、国別法と国
際法とが、法と倫理とが等々というように、相い異なる規範諸体系が互いに争いなが
34
同志社法学 60巻 1 号
(1711)
ら対立しているところでは無力をさらけ出す。それはこの種の諸規範衝突の場合にあ
る規範体系もしくはこれとは別の規範体系の地盤のうえにのみ立つことができるので
あるが、しかし実質的に判定された立場を、両規範体系を超えて占めることができな
い。【152】そこから法学的妥当理論はある規範体系の、そしてこれとともに全規範体
系の妥当を根拠づけることができないのである。
Ⅱ.そこで法から社会的な事実世界へと一歩飛び出すことを通して実定法の妥当を、
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社会学的な妥当理論を、つまりは権力説および承認説を通して実定法の妥当を正当化
することが試みられた。
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1 .現に権力説は法の妥当を、いっさいの個別事例におけるその貫徹では確かにな
くても、その貫徹から導き出すことを試みるのであって、これが意味しているのは、
たとえば発覚していない犯罪が処罰されないと言明されるのは、諸事例の通例として
その貫徹力によるからである。しかし貫徹するための権力は、当為というものではな
く、必然というものしか根拠づけることができないのである。
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2 .承認説はしかし、実に法に承認を否認する確信的行為者に対して無力をさらけ
出す。この理論はさらに、ある法命題をもってその諸帰結もまた承認され、これとと
もに論理的首尾一貫性によって現実的な承認に承認する べきであることを同置する
ことの認容を余儀なくされている。ある法命題の論理的に必然的な諸帰結が一貫する
ところとして承認されなければならないのであれば、承認説は思いがけなくも現実的
な承認による正当化から単なる承認する べきであることへと移行する。
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Ⅲ.しかしこれとともに社会学的妥当説は哲学的妥当説に変化する。実際のところ
法の妥当は実定的な法的諸命題にも権力もしくは承認といった諸事実にではなく、よ
り高い、もしくは最高の当為というもの、超実定的な価値というものにしか根拠を求
めることはできないのである。たとえある法律が正義の要求をも合目的性の要求をも
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充たしていない場合であっても、それはいずれにしてもひとつの価値、すなわち法的
安定性という価値は充足しているのである。もちろん法的安定性は ― すでに示され
たように ― 、法的安定性が、たとえば勝利を収めた革命、自己を貫徹する慣習法お
よび ― 主観的な法の領域では、時効取得と時効というような新しい法を裁可すると
ころでは実定法に対抗する。ひとは実定法のこの種の克服を法律外の権力関係を通し
て快く承認する傾向にあるのに対して、実定法から法理念を通しても妥当が奪われる
ことがあり得るという思想に対しては、奇妙なことに粘りのある抵抗を敢行する。あ
る経験的な事実が法律と同様に、そこから例外のない妥当というものが生じてくるほ
どに予定調和というものを通して一致しているというのであれば、それは不可解なこ
とであろう。【153】法的安定性は他の諸価値と並ぶひとつの価値にすぎない。正義に
適っていないある法律の実定法を通して保障された法的安定性は ― すでに先に(第
(1710)
35
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
十節)示されたように ― 、それに含まれている不正義が、これに対して実定法によ
って保障されている法的安定性が重要でなくなるほどの程度を占めている場合には、
このような価値を失う。それゆえに諸事例の通例において実定法の妥当を法的安定性
を通して正当化することができるにしても、ある種の例外的な諸事例において法外に
正義に適っていない諸法律には、このような諸法律から不正義を理由に妥当を否認す
る可能性がどこまでも残るのである。
文献:Radbruch, Gesetzliches Unrecht und übergesetzliches Recht, Södd. Juristen
zeitung, August 1945; auch in: GRGA Bd. 3 Rechtsphilosophie Ⅲ, S.83 93.[35]
弟四章 法およびその他の文化的諸規範
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第十三節 法と道徳
法と道徳との概念を、正義と人倫との概念を区別することは、誰よりも先にトマジ
ウス(Thomasius)とカントによって行なわれた。倫理上の諸価値を決定するのは
自己の良心だけであり、法秩序ではない。このことは実際上、法に対する侵害を名誉
を剥奪する刑罰をもって罰することができるという重要な帰結を有する。
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Ⅰ.法と道徳との本質的な差異は、法が人と人との間の諸々の関係を対象として有
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しているのであるが、道徳はこれに対して、個別的存在者としての人間を対象として
有している。それゆえに法的諸義務はつねにある権利主体の他の権利主体にたいする
諸義務である。どのような法的義務もある主観的法[権利]と対立している。他の者
に権利が付与されているがゆえにのみ、ある者が法的に義務づけられているのであ
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る。法的義務は「義務と責務」であり、これに対して道徳的義務は義務それ自体であ
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り、それにはどのような権利者も対立していない。それゆえに法は命令的―付加語的
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な 性質を、道徳は純命令的な性質を有しているのである←(Perrazyki, Über die
Motiv des Handelns, 1907)。
Ⅱ.人間の共同生活のひとつの秩序としての法の本性からは何よりも先ず、道徳の
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内面性に対して法の外面性が帰結するように見えるのであって、それというのもその
外面的な態度をもってのみ人間は共同生活に割り込むからである。事実としては法も
また【154】、たとえばそれが善良な風俗を顧慮し、故意と過失を問う場合には、内的
な態度とかかわり合う。保安と改善として把握された刑罰は心情へと、行為者の人格
性へと向けられている一方で、外部的な行為は必要な徴候としてのみ必要とされるの
で あ る。「 何 人 も 思 想 ゆ え に 罰 は 加 え ら れ な い( cogitationis poenem nemo
36
同志社法学 60巻 1 号
(1709)
patitur)」←という命題は、「実用性の」、法的安定性のひとつの要求にすぎず、法概
念の帰結というものではない。内部的な態度が通例としてある外部的な態度と合致し
ていることにおいてのみ法的諸効果を根拠づけることができるにしても、それでもや
はり、それらのなかで単なる内部的態度それ自体が法的諸効果を引き寄せる諸事例も
存在しているのである。現にたとえば福祉教育が内的な不良化をその前提としている
場合には、外的な[36]態度は徴憑としてのみ証明のために役立っているにすぎない
のである。それゆえに(クラウゼ(Krause)←学派,とくにレーダー(Röder)←が
それを主張したような)
「内部的な法」もまた存在しているのである。かくして外面
性はその対象からして法に帰属していると認めることができないのである ― が、し
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かしその関心方向からすれば、確かにこれを認めることができるのであって、それと
いうのも内部的な態度というものは法によってそれ自体のためにではなく、あるいは
生じることもあり得る外部的な諸結果から観察されるのである。これとは逆に、道徳
は外部的な態度を内心的な心情の表現としての評価するのである。
Ⅲ.カントが法の義務づけの仕方を法の外面性のうえに根拠づける場合、彼が外部
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的な充足(合法性)で十分だとし、どのような理由によるのかを問うことのない、必
ずしも法規範の尊重によることは必要ではない法律の服従だけを要求する場合、この
ことも法の本質にではなく、法的安定性の諸根拠に還元することができる。法の領域
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でのこのような合法性に道徳の義務づけの仕方としての道徳性を対置する←のである
が、しかし義務感情による義務充足に基いていないような法秩序は、ひとつのきわめ
て不安定な、きわめて偶然的な状態に根拠づけられているのであり、事実として法秩
序もまた決して、法的心情を獲得しかつ促進することを断念していないのである。た
とえば行刑が改善に到達することを求め、もしくは国家が教育制度を整備する場合、
そこでは法的な態度というものへの関心ばかりでなく、法的な心情というものへの関
心もまた表現されているのである。
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Ⅳ.最後に、法の妥当源泉の外面性を主張し、道徳の自律に対して法には他律が帰
属することを認めることも適切ではない。他律的な義務づけというのは自己矛盾であ
り、外部的な法規範それ自体でなく、むしろ規範の自己の良心への受容だけが義務づ
けられることができるのである。法の他律が意味しているのは、良心が自己法則的に
展開された規範複合体をわがものとすること、これはあたかも【155】良心の義務と
しての誠実性が論理的に自己法則的な真理に準拠していることと全く同じであるとい
うことにすぎない。しかしこのような規範複合体の拘束性は、妥当は、これを、それ
が自己の良心のなかに受け容れられたことにのみ根拠づけることができるのであり、
したがって問題は良心の内容である。しかし自律的な諸々の義務づけを倫理的な義務
づけとして格づけることができるならば、法による義務づけ、その妥当は結局のとこ
(1708)
37
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
ろ個々人の道徳上の義務のうえに根拠づけられるのである。
( Laun, ← Recht und
Sittlichkeit, Hamburger Rektorsrede, 1924. ←参照)
Ⅴ.しかし法の命令は、それ自体が道徳上の諸目的に役立っており、[37]道徳の
充足を目標としているがゆえにのみ、これを良心の義務にまで持ち上げることができ
るのである。法は道徳を、これが必然的に自由のひとつの営為であるがゆえに確かに
直接的に実現することはできないが、しかし道徳を可能にすることは確かにできるの
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である。すなわち、法は道徳の可能性であるとともに、もちろん同時に不道徳の可能
性でもあるのであり、これを通して道徳から内容的に区別される。このような理由か
らイエーリング(Jhering)は、権利を求める闘争が自己主張のための闘争であり、
内的な、倫理的な自由の必然的な前提を表わしている外的な自由のための闘争である
ということ、そしてそれゆえに権利を求める闘争はそれ自体として倫理上の義務であ
るという理論を主張することができたのである←。
道徳から内容的に区別された法は、かくして道徳とは二重の絆を通して結びつけら
れている。すなわち、道徳は、道徳を可能にすることが法秩序の目標であるがゆえに
法の妥当にとっての根拠である、ということである。
文献:Nef, Recht und Moral, 1937.
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弟十四節 法と習俗
Ⅰ.習俗( Sitte)の概念を確定することを、次の二重の根拠から必要としている。
すなわち一方では、法はしばしば「善良の風俗(guten Sitte)」に、「交通マナー
( Verkehrssitte)」に関係づけられるという理由からであり、他方で、習俗は、国際的
な慇懃さはどのような国際法上の義務づけをも生じさせることがないように、法的諸
効果を招来することができないという理由からである。
Ⅱ.法と習俗との区別は、法と道徳との区別よりも困難であることの実を示してい
る。とくに法の習俗に対する特有性を、強制が法に一貫した固有のものでないことか
ら、法的強制のなかに探し求めることはできないのであり、強制可能性は通例として
法の効果でしかないのであるが、しかしその本質を【156】形成しているのではない。
他方で習俗は、たとえば社会的ボイコット〔村八分〕のように、強力な、心理学上の
強制手段を用いることができる。最後に、習俗の概念には様々な類の現象が含まれて
いる。
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Ⅲ.「慣習」―「慣行」―「習俗」、この系列は、法と道徳が、習俗を抜きん出て、
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習俗を「悪習」として、もしくは逆に「善良の風俗」として評価するというようにし
て、次いでさらに先へと進行する事実的なものを通して条件づけられていることから
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同志社法学 60巻 1 号
(1707)
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の規範性の漸増的な解放というものを特徴づけている。しかし習俗は、民俗に「良俗」
が対置されるというようにして、美学的評価というものをも被る。良俗にはとくに、
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それらが「慣行」と「慣習」として育ってゆくのではなく、
「慣わし」として意識的
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に作り出されている限りで、交際の諸形式が属している。慣わしは民俗ではなく、
「礼
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儀作法」、すなわち田舎者の「とんまな」
[38]振る舞いから区別される市民の良風か、
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それとも「慇懃な態度」、すなわち宮中の礼式かの何れであれ、身分の風習である。
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良風の最先端は「礼儀感覚」であって、その礼儀作法と慇懃な態度との関係は衡平の
正義との関係と同じである。礼儀感覚もまた個別事例にのみ当てはまるのであり、そ
れゆえに原則において把握することができないのであり、直感にのみ委ねられるので
ある。民俗は結合的に働くのに対して、慣わしは分離的に働く。後者にとって本質的
なのはとりわけ、果たしてまた「立ち居振る舞いを心得ている( savoir faier)」とい
う言い方がされるように、誰もが「似つかわしいことを知っている」ということであ
る。現に慣わしの領域では、道徳と法におけるのとは逆に、規範違反性の意識は負担
的にではなく、負担免除的に働く。何が似つかわしいのかを知っている者は、愛すべ
き女たらしとして優美な若い婦人方とともにこの似つかわしさを見下すことが許され
るのであって、それというのもすでに何が似つかわしいのかを知っていることが、こ
のような身分的風習が固有のものであるサークルに彼が属していることを保証してい
るからである。もちろんより低い身分の者はそのつどより高い身分の身分的風習をわ
がものにすることに努めるのであり、そして後者はこれによって、その身分的風習を
絶え間なく変更し、より繊細なものにすることを余儀なくされる。民俗の領域では「古
来の習俗」が優先権を享有するのに対し、身分的風習の領域では、まさにこれとは逆
に「最新のモード」が優位を占める。
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Ⅳ.民俗と身分的風習は法と道徳に対してきわめて異なった関係にある。民俗はひ
とつの克服された発達状態を表わしている。そこでは法と道徳とはいまだ未分離のま
まに並存しているのであり、それは法と道徳に概念的に並立しているのではなく、歴
史的に前後関係にある。前者から法と道徳が発達してきたのであり、習俗は、それが
法と道徳のひとつの見透し難い無差別状態を表わしているがゆえに、概念的にきれい
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さっぱりとそれらから区別することができない。これに対して慣わしは、繊細な身分
的風習は、法と道徳とならんで民俗から発達してきた、ひとつの意識的に矛盾に満ち
た継続形成である。【157】意識的な矛盾において精細な風習は一方で外面的な態度で
満足するのであるが、しかし他方で、自己に対する意義をひとつの内面的な態度の表
現として評価されることを要求する。丁重な挨拶は、そこに表現されている尊重の念
が実際には持ち合わせられていない場合であっても、尊重の表現として甘受されるの
である。慣わしの本質は、それゆえに見せかけのものを存在しているものとして受け
(1706)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
39
止めることを命じ、また許している「儀礼上の虚偽」である。民俗と繊細な風習は、
それゆえに概念的に明瞭な標識を通して区別されるのであって、それというもの民俗
は無差別的状態として法と道徳の区別に先行するのであるが、これに対して繊細な風
習は ― 法と道徳がすでに習俗から形成されてしまった後に ― 同時的な外面性と内
面性の意識的な矛盾のうえに基いているからである。
文献:Jhering, Zweck im Recht, Bd. II; Ferd. Tönnies, Die Sitte, 1909.
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第十五節 法と宗教
Ⅰ.何よりも先ず、ここで提唱されている価値哲学の枠内で宗教の本質が確定され
なければならない。価値哲学には評価的な態度が特有のものである ― それは善と
悪、美と醜、真と偽を区別する ― とすれば、自然科学は価値盲目的な態度を通して
特徴づけられる ― それは諸事実をその価値を顧慮することなく確定する ― とすれ
ば、文化科学は価値に関係づけられた考察方法に基いている ― それは存在諸事実を
その価値的な意味において理解する ― とすれば、宗教は価値の超克である。自然諸
科学の価値盲目的な態度があらゆる価値の対立のこちら側に立っているとすれば、宗
教の価値超克的な態度はそのあちら側に立っている。ところで、「価値超克」とは何
であるのか。
Ⅱ.キリスト教は、新約聖書と旧約聖書のあの二つの言葉、すなわち「彼が作り終
えていたものを彼が見渡したところ、それはたいへん見事であった」←と「神を愛す
る者には、すべてが最善に役立たなければならない」←に包み込まれている。宗教に
とっては、結局のところそしてあらゆることにもかかわらず、どのような存在も善で
ある。宗教は価値と無価値との、幸福と不幸との対立を超克するのであり、それは罪
責からさえ救済する(幸福なる罪過(felix culpa))。このようにしてキリストの宗教
は価値と無価値のかなたの愛であり、その太陽が正しきことと正しからざることのう
えに照らし出させる恩寵であり、あらゆる理性とその諸々の問題よりも高い平和であ
る。善でないものは本質的でなく、本質的な存在のより深い意味においては見かけの
うえだけで存在しているにすぎない。それゆえにあらゆる現象に対しては、次の二重
の態度が可能である。すなわち、諸現象は価値哲学の意味において価値的であるか、
それとも価値に反しているかであり得るのであり、もしくはそれらは【158】宗教の
意味において対象を超えて価値的であり得るのか、それとも本質的ではありえない
か、とうことである。
Ⅲ.法もまたこのような二重の態度表明に服している。すなわち、法は世俗的ない
っさいの視点のもとでは価値に満ちているのと同時に、しかし宗教上の視点のもとで
40
同志社法学 60巻 1 号
(1705)
は本質なきものであり得る、ということである。そして実際のところ法にはキリスト
教の見方においてしばしば究極的な価値付着性が否認されている。
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1 .福音派の見解は法の完全な無価値性への方向において進展している。葡萄畑の
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労働者についての比喩←のなかで正義の要求を大がかりな身振りをもって除去され
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る。山上の垂訓←は、それが打たれた者にもう一方の頬を差し出し、上着を盗まれた
者になお下着をも与えることを命じているとき、不法を被ることは本質的ではないこ
とを言明しているのである。それは、悪に逆らうなという、すべての価値の最も高貴
な転換へと注ぎ込んでいるのである。[40]
2 .このような見解からルドルフ・ゾーム( Rudolf Sohm)←は教会法を反キリス
ト教的←であるとみなしている。教会法はキリスト教の本質と矛盾しているのであっ
て、それというのも法の強制はキリスト的生活を強制することができず、法の形式主
義は永遠の至福を決定することができないからである。ゾームよりいっそう一貫して
トルストイ(Tolstoi)はこのような見解を、教会法を超えてすべての法にまで押し
及ぼす。すなわち、人間的な諸関係はもっぱら隣人愛を通してのみ規定され得るので
あるが、しかし法は、それが外面的な態度に見かけのうえだけの固有価値を賦与する
というようにして、内面的な態度 ― 結局のところこれだけが問題である ― をいわ
ば横目で掠めるだけで、キリスト教の人倫を転倒させた、と言うのである。ゾームが
キリスト教共同体のセクト的な無政府主義に到達しているのに対して、トルストイは
人間的な社会一般のための無政府主義的な共同生活というものを要請しているのであ
る。しかしながら結局のところゾームよりも、さらにはトルストイよりもさえ徹底的
なのは山上の垂訓それ自体であって、それというのもそれは、法には反キリスト教的
な無価値をいまだかつて認容したことはなく、法を完全に本質なきものとして、抵抗
するに相応しいものでさえないとみなしているからである。
3 .これに対してルター(Luther)のより強い精神は、法の世俗上の必要性と宗
教上の無本質性との解決し難いアンチノミーを根拠づけること←に嵌まり込んでい
る。彼は政治と法に暫定的な自律というものを保障し、とくに教会法をひとつの純然
たる世俗的な事柄と見て、彼は思い煩うことなく領主に教会統治権を引き渡してい
る。彼は宗教上の信仰、愛および慈悲とならんで法および国家の独自法則性を認容し
ているのである。もちろんそれはひとつの暫定的で問題をはらんでいる自己法則性で
あって、それというのも【159】ひとはあたかもそのなかでは生きていないかのよう
に生きなけれればならないのであり、そこへは猛火か竜巻のように宗教が進入するこ
とができるからである。宗教上の態度の重さに対する法の窮極的な無神聖性、その無
価値性および無意味性のこのような強調は、一方では絶対的な諸侯国の発展に、他方
でドイツ人の政治に対する無関心に決定的に関与していたのであって、それらの無価
(1704)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
41
値性の結果として究極的な価値への方向づけは承認されなかったのである。より高い
神聖さを欠いている法というものがどこに赴くのか、われわれ全員が体験した。カト
リシズムの教会と同様に福音派の教会は(そして福音派の信仰告白の内部では、カル
ヴィニズムが)法にひとつの宗教上の根拠づけを与えている。
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4 .カトリックの見解によれば、法は確かに恩寵の秩序にではないが、しかし創造
の秩序に属しているのであり、それゆえにこれと同様に神によって定められている。
キリスト教と[41]全キリスト教徒は、それらの最下段には確かに完全なキリスト教
的ではないが、しかしそれでもキリスト教に逆らうものではない自然法という形象が
その席を占めているような精神的な諸身分と諸状態の段階構造を形成している。実定
法もまた、それが理性を通して認識することができる自然法に相応している諸規範を
神によって定められている限りで、宗教的な価値のひとつの反映である。神による自
然の法(ius divinum naturale)とならんでさらに、神による実定的な法( ius divinum
positivum)、すなわち啓示を通して教会のために定められた法もまた置かれているの
である(第二十項参照)。山上の垂訓における法の無価値性、ゾームとトルストイに
おける法の反キリスト教性、ルターにおける法の不確かな自己法則性には、カトリッ
クの側では法のひとつの相対的な本質付着性が対抗しているのである。
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Ⅳ.ひとつの法制度のなかに宗教的なものが、すなわち恩赦において直接的に法の
領域のなかに突出している。法の自己法則性の提唱者たちはこれを十分に認識してい
た。現にベッカリアー(Beccaria)とカントは法の自己法則性を突破するものとし
てこれを難詰した←。他の側面では、恩赦にひとつの排他的な法的意義を賦与するこ
とに努められた。イエーリングはそれを「法の安全弁」として特徴づけた←。すなわ
ち、それはある不正な判決に対して法に、実定法に対して正義に、全般化する正義に
対して個別事例の衡平に、そしてまた確かに法一般に対する国家の賢慮に真価を発揮
させるために役立っている、というわけである。しかしこれをもって恩赦の本来的な
意味が射損ねられている。恩赦の特性は「どのような強制も知らない」ということ、
正義の強制をも知らないということである。それは誘導された福祉活動にではなく、
非合理的であることが意識されている施し物に較べられる。自然界における【160】
奇蹟と言えるものが、法の世界における恩赦である。その意味こそまさに、法と正義
の諸々の限界と被制約性を指し示していることにあるのである。恩赦の意味は、恩赦
がもっぱら国家によってではなく、たとえば哀れな罪人を処刑の途上で解放すること
が許された公国女子大修道院長によってといったように、国会外の、精神的な箇所か
ら行なわれたときには、最も純粋な形で表現される。今日でもわれわれは国家的な祝
祭日を契機とした特赦のなかに非合理的な恩赦の形式を有している。
文献:Radbruch und Tillich, Religionsphilosophie der Kultur, 2 . Aufl., 1920;
42
同志社法学 60巻 1 号
(1703)
Radbruch, i. d. Ztschr.”Evangelisch Sozial , 1927; Grewe. Gnade und Recht,
1936.[42]
第五章 偉大な諸々の法文化
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第十六節 ローマ法
われわれは偉大な諸々の法文化の法哲学的、理想型的な考察に立ち向かうのであ
り、ローマ法をもって始める。
Ⅰ.ローマの法思考の独自性は法の自己法則性の強い意識において、もしくは批判
的に表現されるならば、ラテン精神の「分離思考」において表現される。すなわち、
法は、
1 .習俗、道徳、宗教といった他のすべての種類の規範に対して孤立化されられる。
ローマ法はあらゆる法秩序のなかで宗教からごくわずかな影響しか被らなかったとい
ってよい。
2 .法的評価は事実認定から厳密に区別される ― 法定手続き( Verfahren in iure)
の真理手続き(Verfahren in indictio)からの分離を考えてみよ。
3 .法は、その経済的な諸機能と同様にその経済的な基盤から厳密に孤立化させさ
れる。何人もローマ法からローマの経済生活および経済思想のひとつの汲みつくされ
た象をももたらすことができない。
4 .法規範もまた法生活から切り離される ― パピルス古文献学がはじめてわれわ
れにローマ法と並んでローマの法生活をも示すことができた。【161】
5 .同様に法を超える目的思考、それゆえに法哲学と法政策もどのような決定的な
役割を演じていない。
6 .最後に、私法は公法から厳密に分離される。ローマ法は何よりも先ず私法であ
り、その結果として個人主義的な法であることから、たとえ手形、無記名証券、商事
会社といったまさに本来的に資本主義的な経済的諸制度がドイツ的な性質のものであ
れ、それは資本主義的な経済秩序になることができたのである。
ローマの分離思考がドイツ法に対して意味しているのは、ひとつの国家的な差異と
いうよりもむしろ発展段階におけるひとつの差異である。より高い発展段階では ―
すでに法的安定性のために ― いっさいの法秩序は分離思考に開かれていなければな
らないのである。
(1702)
43
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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Ⅱ.ローマ法にとって特徴的であるのは、さらにその決議論的な、事例法的な成立
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の仕方である。諸法律は大体においてローマ法の発達の始まりには十二表法( Zwölf
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Tafel)←と終りにはローマ法大全(Das corpus iuris)←が成り立っているにすぎな
い。それらの間には、事物の本性に、個別事例に根拠づけられるローマ法律学の大が
かりな発達が置かれている。それが事例法であるにもかかわらず、ローマ法はその法
的諸形式を通して、用いられる法的諸形象の倹約を通して、経済的にきわめて様々に
異なっている事実関係にとって同じ法形式を、たとえば動産と不動産にとって同じ所
有権を用いることを通して際立っている。けれどもこのような一般性への衝迫は、
諸々の抽象に対する、諸々の定義に対する、構成と体系論に対する際立った慎重さと
対を成しているのである。一般的な諸々の構成を通してよりもむしろローマ法は、
「あ
たかも」今の事件がそれらと同じであるかのように、すでに判定されている法的諸事
例を用いることを通して切り抜けた(諸々の擬制)。いわゆる「定則―法律学」は法
を定則から(ius ex regula)からではなく、定則から法を(regla ex iure)導き出さ
なければならないことを強調するのであるが、しかしそれにもかかわらず、きわめて
広い採用を(たとえばイギリス法においても)見出した大きな衝撃力をもつ一連の法
学上の指導諸命題を形づけた。
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Ⅲ.総括的に次のように言うことができる。すなわち、ローマ法の本質的な法的目
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標は法を超えている、たとえば福祉目的のなかにではなく、全般化する正義のなかに
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でもなく、むしろ個別事例の適切な規制のなかに、したがってとりわけ善意( bana
fides)←と関連する衡平のなかに求めた。その結果としてローマ法は、われわれが
それを要求しているのがつねであるよりも低い程度の法的安定性をもって満足した。
Ⅳ.ローマ法が、それが受け継がれたところでは事物の本性に基く法学というもの
から【162】書籍学というものになったということ、ローマに類縁した法の精神が事
物の本性からしてまさに、ローマ法を採用するに至っていないところ、すなわち英米
諸国において支配したということはひとつの歴史的パラドクシーである。そこからロ
ーマ法はその継受以来、論難を被リ続けた。現にすでに農民戦争において蜂起した農
民たちから、ついで再び、とくに1848年における、ドイツの統一と自由の提唱者たち
において、後には市民法典をめぐる闘争において、そしてついには国家社会主義を通
して、というように。ゲルマニストたちはローマ法に対するその闘争に当たって、ロ
ーマ法がドイツの地域諸法の背後で普通法というものの統一を作り出したというこ
と、他方で、ローマ法がほとんどどのような[44]国家的特有性をも取り除いていて
万民法( ius gentium)になったがゆえにのみ、継受が可能になったということを見
過ごした。あの時代の統一の提唱者たちと並んで自由の提唱たちもまた、国家主義的
な心情をもった人々と並んで自由主義的な心情をもった人々もまた、まさにローマ法
44
同志社法学 60巻 1 号
(1701)
が圧倒的に個人主義的で私法的に方向づけられているにもかかわらず、ローマ法に反
感をもったということは、いっそう不可解である。彼らの反対は、全体として(in
toto)継受されることが全くなかった公法に基いているのであり、これに対しては、
ヴィザンチン的絶対主義を具現化しているという非難が加えられたのである。自由主
義の抵抗は、ローマ法に対してというよりもむしろ、その当時の提唱者たち、すなわ
ち歴史学派と、それに合流した無味乾燥な実証主義の反動的な静寂主義に対して、実
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際には非歴史的な純ローマ法への回帰というもの、いわゆるパンデクテンの現代的適
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用( usus modernus pandectarium)←の時代に適合させる試みの融合、必要とさ
れる諸々の法改正と法典編纂に対して向けられていたのである。ローマ法の批判はそ
のすべての形式において古典的なローマ法律学にではなく、その継受がわれわれの側
に成り立っていたヴィザンチンの書籍諸法に当てはまったのである。
文献:Fritz Schulz, Die Prinzipien des Römisches Rechts, 1934.
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第十七節 英米法
Ⅰ.イギリスは、すでにオックスフォードの注釈者たちの時代にローマ法を学んで
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いたにもかかわらず、どのようなローマ法の継受も経験しなかった。イギリスでは他
のどこよりも早く形成され、それ自体として閉鎖的であった法曹階級は、継受に対す
る闘争の担い手であり、法律家の若手の教育を大学に委ねるのではなく、自らの掌中
に置いておくというようにして、それを窮極的にも排除したのである。このことは、
イギリスではローマ法がイギリスにおいてローマ法が効果を発揮しなかったことを言
わんとしているのではない。【163】阻止されたのは確かに個別的なローマ法の法的諸
命題であったが、しかしローマ精神の浸透ではなかった。イギリスの方法論へのこの
影響はすでにメランクトン( Melanchton)←のローマ法への次のような賞賛演説が
示している。
「ヨーロッパでは、諸々の法律事件をローマの諸法律からではなく、自
国のそれらから評価する諸国家が存在している。そしてそれにもかかわらず、そこで
国家の営みを指導するであろう人々は、通例として外国においてローマの諸法律を学
び、そして、私の聞くところによれば、何と言ってもやはりわれわれの法律が彼らに
は用いられていないところで、何ゆえに彼らの認識にこのような努力が用いられるの
かという問いに対して、彼らが彼らの祖国の諸法律を正しく評価するために、彼らは
ローマの諸法律から諸法律の魂と精神を読み取る、言い換えれば、そこから力と衡平
の本質を手に入れると答えるのをつねとしている。」←ここで演者は、[45]は,コモ
ン・ローの修正としての衡平( Equity)へのローマ法の影響を正しく見ているのであ
る。
(1700)
45
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
Ⅱ.イギリスのコモン・ロー( common law)は、ローマ法と同様に、事物の本性
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か創り出されるひとつの事例 法(Fall Recht)、ケース・ロー( case law)である。
イギリス法においても制定法 ― statute law ― はひとつの制限された役割、つまり
は個別的な法領域のひとつの部分的な規定としての役割しか演じていない。大陸での
他の諸国とは異なって立法は、法の全体をひとつの法典の対象とすることには移行し
ていないのである。ローマ法と同様にイギリス法もまた法曹法(judgmade law)で
ある。イギリスの裁判官たちは先ず最初に慣習法に、地方の諸々の慣習に対する共通
イギリス法に拠り所を求める ― そこにコモン・ローという名称が由来する。しかし
実際のところでは、彼らは慣習法を適用するのではなく、裁判所の慣行という形式に
おいてでもなく、すでに個別的な先決例を通して新しい、同種類の事例にわたって拘
束力を有する法を生み出すのである。
Ⅲ.イギリス法はイギリス法曹階級の作品である。四つの法曹学院に分類されて
( Inn of court)この法曹階級は法学者、より上級の検察官、当事者間の交渉において
訴訟を準備することに責務を負っている事務弁護士(Soliscitor)とは違って法廷の
審理に参加することに条件づけられている法廷弁護士(Barrister)を包括している。
この弁護士団から出て裁判官および大法官となる。このような法曹階級に担われて法
の自己法則性、すなわち法の支配( rule of law)が他のどこよりも強力に生きている。
モンテスキュー( Montesquiu)はその権力分立論をイギリスの法生活から一般原則
化することができると信じた。彼によれば裁判官は単に制定された法を適用すること
が許されているだけであり、このためには読むことができる「目以外の何もの」をも
必要としてないのに対して、法の定立はもっぱら議会に留保されている←。事実とし
てはイギリスの裁判官が適用しているのは、法律のほんのわずかな部分でしかなく、
これに対して圧倒的に【164】、自由な法創造を通して補充し、継続形成している裁判
所の諸先決例が適用されている一方で、議会はその立法権能をコモン・ローに対する
賢明な抑制においてのみ行使するにすぎないのである。議会のこのような任意な抑制
を通して、法曹階級の自律を通して法律の自己法則性、そしてこれとともに法治国家
― ルール・オブ・ロー ― は、法の継続形成をもっぱら議会に割り与えるよりもは
るかに信頼に値する形で保障しているのである。
Ⅳ.コモン・ローがますます「厳格法(ius strictum)」に向けて硬直していったとき、
個別事例の正義が実現することを求められるその修正の必要が、そしてこれとともに
衡平法(Equity)というものが成り立った。ローマの法務官たちの「衡平と善による
訴権(actiones ex aequo et bono)」に対応してイギリスの大法官[45]によって訴権、
いわゆる「命令( Writs)」がコモン・ローの厳格さ硬直さを除去するために保障され
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た。このような衡平法は一種の官房司法として悪名の高い星座裁判所←の刑法上の官
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同志社法学 60巻 1 号
(1699)
房司法と並行して成り立った。大法官は法の最高の官吏であり、最初は聖職者であり、
次いで法律家であったのであるが、いよいよもって独立の裁判官になった。衡平司法
の起源は、ローマおよびカノンの衡平法によって鍛えられたそれに固有の良心
( conscience)であった。衡平についての諸々の判定は差し当たり、個別事例の正義
としての衡平の性格に即して、他の諸事例の先決例として決定的ではなかった。十九
世紀の始め以来はじめて、先決例の意義が衡平による諸判定にも貫徹した。そのよう
にしてエクイテイーは、コモン・ローと並んでケース・ローの第二の種類になったの
である。1873年の裁判所法の改正を通して首尾一貫したエクイテイー裁判所とコモ
ン・ロー裁判所とがひとつの統一的な裁判所組織に融合したのであるが、しかし今日
でもなおエクイテイーとコモン・ローとの分離された体系論的描出が維持されている。
Ⅴ.イギリスのケース・ローの本質こそまさに、事物の本性から、個別事例から出
発している当のものである。法の発見は直ちに個別事例における実践的な適用の試練
と答責に耐えるものでなければならない。立法者はその諸規範を提示するに当たって
確かにある種の法的諸事例を念頭に置くことによっても支配されているのであるが、
しかし、重大事例の一時的な圧力がない場合では、現実的な諸事例ではなく、偶然に
思い浮かべられた法的諸事例にすぎない。大陸の観察者によってたいていの場合、ケ
ース・ローの柔軟性が強調されるのであるが、逆にイギリスの法律家はその硬直さを
強調する。実際のところイギリスの法曹階級はそれ自体として大陸の法律家よりも高
い程度において創造的であるが、しかし個々の裁判官は、大陸の裁判官よりも強く先
決例の巨大な負担に結びつけられているのである。【165】イギリスの観察者たちは彼
らの法の柔軟性をも、まさにケース・ローの柔軟性によって条件づけられている法的
安定性を褒め称えることはない。先決例の見渡し難い充満はますますひとつの危険に
なっているのであり、この危険は自国のケース・ローへのあらゆる誇りにもかかわら
ず、やはり時として法典編纂もしくは立法者による他の救助手段を求める要望を表明
させているのである。
VI .アメリカ合衆国において法律は、すでに今日ではイギリスにおけるよりも強い
役割を演じている。個々の州では、刑法典、刑事訴訟法典が、部分的には民法典もま
た存在している。しかしこのような法律の基盤のうえでもケース・ローは頑張り通し
ているのであり、諸法律の裁判所によるきわめて独断的な解釈が先決例になる。これ
に対して諸々の憲法は、とくに連邦憲法は並はずれた、ほとんど宗教的な尊重という
ものを享有している。連邦憲法の番人は、おそらくはこの地球で最も強力であろうワ
シントンの最高裁判所( Supreme Court)である。その諸々の判定において憲法の精
神力は、しかしその漸次的な再編もまた後々まで影響を及ぼし続けている。それらの
なかでは政治家の精神が、同時に法衣を纏って支配している。裁判官としての著名な
(1698)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
47
人物の偉大な系列が最高裁判所を通して世界に広がる名声に達しているのであり、そ
の時代の最も偉大な法律家がオリヴァー・ウェンデル・ホームズ( Oliver Wendell
Holmes)←である。
文献:Radbruch, Geist des englischen Rechts 2 . Auflage 1947[ GRGA Bd. 15, S. 25
76]; Radbruch, O. W. Holmes, Südd. Jursitischen Ztg, 1946[ GBGA Bd. 15, S.
136 142].
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第十八節 市民法典(Der Code civil)
Ⅰ.1804年から1810年までにフランスにおいてナポレオン( Napoleon)の発意に
基き、そしてその協働のもとに次のような偉大な立法作品が成り立った。すなわち市
民 法 典( code civil)
、 民 事 訴 訟 法 典( code de procedure civile)、 商 法 典( code
commerce)、治罪法典( code d'istruction criminelle)、刑法典( code penal)である。
市民法典(1804年。1807年以来、ナポレオン法典( code Napoleon)と呼ばれる)は、
世界支配をめぐってイギリス法と張り合い、他の諸国にも重要でなくもない影響を及
ぼした。現にたとえばバーデンでは市民法典がほとんど言葉通りに受け継がれた
(1804年)。その最も重要な課題は、それ以前には北部では慣習法( coutium)が、こ
れに対して南部ではローマ法が、またこの両者と並んで諸々の王令が通用していたこ
とから、フランスにおける法的統一を作り出すことであった。市民法典は、フランス
革命の政治的な諸帰結を法律のなかに定着させるという、もうひとつの課題を有して
いた。
Ⅱ.市民法典にはナポレオンの個人的な影響を、とりわけ彼によって形態化された
家父長的な家族法のなかに感じ取ることができる。しかし法学的にはこの作品に主に
関与していたのは偉大な法律家であるポルタリス( Portalis)←(1745 1807年)で
あった。【166】
Ⅲ.何よりも先ず市民法典の言葉が強調されなければならない。有名なフランスの
小説家スタンダール(Stendhal)←は、その作家としての仕事のために毎朝に先ず
適切な語調を見出すために市民法典を読み込んだと告白している。市民法典は例示列
挙主義的ではない、しかしそれは高度に営まれた抽象性を通して考え得るすべての法
的事例をあらかじめ判定しているという盲信にも支配されていいない。それは無缺欠
性と完結性を意識的に断念している。ポルタリス自身は、次のように述べている。
「ひ
とがすべてを予見することができることを知るということは、賢明な予見を意味して
いない」と。それにもかかわらず市民法第 4 条は司法拒否の刑罰のもとに彼の前にも
たらされた法的事案のいっさいの判定を裁判官に要求し、法律がこの事案に関しては
48
同志社法学 60巻 1 号
(1697)
曖昧であるか、もしくは不十分であることを口実にすることを彼に禁じている。[48]
あたかも立法者が神々であり、裁判官は全く人間ではないかのように、裁判官を自動
的な、魂なき司法の道具としてしか知ろうとしないモンテスキューと違って、それゆ
えに市民法典は裁判官の法創造を考慮に入れているのである。しかしイギリスにおけ
るのとは違ってフランスにおいては、裁判官による諸判定は、将来的な諸事例にとっ
ての確定力ではなく、個別事例の確定力しか有していないであり、事実として「法律
*
」は、法的な拘束力は有していないにせよ、それでも強力な権威を
学( Jurisprudence)
有しているのである。
Ⅳ.市民法典の政治的な諸傾向は、身分による諸々の特典に対するフランス革命と
市民権、すなわち人格の自由、法律の前の万人の平等、所有権と契約の自由、教会に
対する国家の独立の勝利に相応している。家族法を例外として市民法典は個人主義的
な諸原則によって支配されている。人間的諸権利よりも固くこれらの傾向は市民法典
を通して保障されているのであり、市民法典はそれらを単なる宣言として表現してい
るのではなく、それらは自明の構成部分として市民生活のなかに織り込まれているの
である。それゆえにナポレオンはライン同盟諸國にその法律が導入されることにあれ
ほど大きな価値を置いたのである。1807年11月15日に彼は弟であり、ヴェストファー
レンの王であるジェローム(Jerome)←に宛てて書いた。
「ナポレオン法典の善行、
公開裁判手続き、陪審裁判所の採用は、同様に貴下の王国の特徴的な識別標識になる
であろう。そして朕が貴下に朕の全思想を告げることが求められるならば、朕は貴下
の王位の進展と固定化のためには、偉大な勝利の帰結よりもその諸効果を恃みとする
ものである。貴下の臣民は、【167】他のドイツ国民には知られていない自由というも
の、平等というもの, 博愛というものを享有しないわけにはゆきません。そしてこの
自由主義的な政府はある仕方で、もしくは他の仕方で同盟の体制にとっても貴下の王
国の権力にとってもきわめて有益な諸々の変更をもたらすであろう」←と。実際のと
ころバーデンにおける、そしてドイツのライン左岸における市民法典はごく数年のう
ちに、それがフランス時代の終結後にもさらに妥当し続け、ついにドイツ民法典がそ
れに取って代わるに至るまで、あれほど大きな共感と権威を作り出すことができたの
である。
文献:Kantrowiwicz, Aus der Vorgeschichte der Freirechtslehre, 1925; Feuerbach,
Biograph. Nachlass, 1853, Bd. I, S. 126 ff.; Federer, Geschichte des badischen
Landrechts, Ungedruckte Freiburger Diss., 1974.[48]
*
「法律学( Jurisprudence)
」
、わが国では法学( Rechtswissenschaft)は、フランスでは裁判
所の諸判定のなかに定着している法を、イギリスでは、わが国では法の一般理論が占めてい
る法学の最高かつ最も一般的な段階を意味している。
(1696)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
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第十九節 ドイツ民法典(Das BGB)
Ⅰ.フランスの法典が個人的にナポレオンの顔付を透き通して表わせているのに対
して、ドイツ民法典( BGB)のなかにある個人的な立法者の顔付を探し求めても空
しく終わるであろう。BGBは、偉大な法律家は代替可能であり、代理することがで
きる人々であり、壮大な禁欲において実質的な普遍妥当性のために個人的な要素のい
っさいを消し去らなければならないというサヴィニー( Savigny)←の言葉を真実の
ものにすることを求めている。BGBは自明のものになっている後期市民時代の法的
な諸々の考え方のひとつの法典編纂であり、市民法典のように闘争や革命のひとつの
帰結といったものではない。刑法の講義がつねに刑罰の根拠と目的についての諸理論
をもって始まるのをつねとしているのに対し、自明のものになっている民法の諸原
理、すなわち所有権の自由、契約の自由、遺言の自由、単婚および相続権は BGBに
関する講義の始めにはとくに論じられないことをつねとしている。
Ⅱ.BGB は運命的な年である1873年の後にはじめて成立した。ベルリン議会のこ
の年には、外国政策的にはロシアからの漸増的な解消とオーストリアとの進展する結
びつきがあると同時に、国内政策的には自由貿易から保護関税へのこの移行の年は、
ビスマルク(Bismarck)のライヒ創建党、国家自由主義者からの解消の、文化闘争
の崩壊の、保守主義への方向転換の、そして社会民主主義に対する闘争の年であった。
この闘争は消極的には社会主義者諸法律を通して、積極的には、それ以来間もなく始
まりつつある教壇社会主義という意味における、そして社会政策のための協会という
意味における社会的立法を通して遂行されたのである。しかし極端な個人主義からの
このような離反と社会法への転向は、O・v・ギールケ(O. v. Gierke)←が超個人
主義的な、ドイツ法的な側面から、そしてアントン・メンガー( Anton Menger)←
が無産的な国民階級の利益において草案に対する厳しい批判を加えていたとはいえ、
もはや時宜を失していた。【168】この批判はほんのわずかな諸点でのみ社会法的な諸
規定にはめ込まれたにすぎない(たとえば民法第226以下、617条)。
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Ⅲ.BGB の言語は、素人でもわかるようなことを欠いている専門用語のひとつで
あり、純然たる命令の断定的に一貫した言語である。冷たくて感情がなく、完結的で
教示性がなく、つましくて理由づけを欠いている(以下の第二十九項を参照)。BGB
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の言語は同時にその方法を特徴づけている。広範にわたる抽象を通して可能な限り無
缺欠性に努められることを通して「概念法学(Begriffsjurisprudenz)
」を、つまりは
論理偏重の法的方法論を引き立てた。けれどもそれはまさに決定的な箇所では「信義
と誠実」、「善良の風俗」といった一般条項を用いているのであり、これが裁判官たち
に窮極的に人格的な価値諸判断を指し示しているのである(民法第138、157、242、
50
同志社法学 60巻 1 号
(1695)
826条)。言語と方法においてGBGは、スイスの民法典[50]
(オイゲン・フーバー
(Eugen
Huber)←に追い越された。BGBは、社会および経済法が後にBGB に侵入すること
ができないほどにまで強固に組み立てられた思想体系を形成している。少年法、労働
法、経済法、賃貸者保護法はむしろ特別な法律において BGB と並んで登場した。そ
の個人主義な性格を理由に国家社会主義は「 BGBとの訣別」を告知した。差し迫り
つつある社会法の一面性に対して、しかしながら民法の一面性がとくに強調される
( Hallstein, SJZ, 1946, 1 参照)
。
Ⅴ.←まさに政治上の本質的諸様相の欠如が、強調された国家的な特有性の欠如が、
また広く駆り立てられた抽象が、文化的にはきわめて異なっている諸事情にある東ア
ジアに継受されるということをBGBに可能にした。かつてドイツの法律家であった
ある人が朝鮮から著者に、次のように簡潔に書いてきた。
「私の仕事は、しかしまた
次のような理由から特別に魅力的です。35年前に日本によって併合された後には、朝
鮮人は日本の法のもとに生きています。日本は多かれ少なかれドイツ法を継受してい
ました。それに続いて私は朝鮮におけるアメリカ占領軍の公務員としての職に就いて
おり、私の机の上に十分に信頼に足りるベンスハイマーの法令集 ― 民法、商法およ
び民事訴訟法およびそれらの付随法規 ― を所持しており、朝鮮人とアメリカ人との
間を結びつける一種の連絡将校としてそれらを用いています。私が市民法(civil
law)とケース・ローという二つの法体系を学んできたことから、私にはアメリカ人
に朝鮮の(すなわちドイツの)国内法を説明する任務が割り当てられています。もち
ろんドイツの国内法を朝鮮―日本のそれと同置することは大きな諸々の制約をもって
のみ適切です。偉大な諸々の法典編纂はしばしば東アジアの諸溶融に適合されていま
す。家族法と相続法は朝鮮では慣習法にとどまっております。【169】私が驚いたこと
に、ドイツにおけるローマ法継についてはあれほどに綿密に究明したロマニステンが
ドイツ法の東アジアへの継受の過程の科学的な研究に従事するという考えに一度も思
い至らなかった、ということです。法社会学の立場から見て、それはひとつの興味あ
る課題でありましょうに!」
文献:Sohms zu Unrecht vergessene, klassische Darstellung des BGB in Hinnebergs
Kultur der Gegenwarr, Bd. Systemat. Rechtswissenschaft, 2 . Aufl. 1913.[31]
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第二十節 カノン法典(Der Codex Juris Canonici)
今日でもなお法学博士は両法博士( doctor utrisque iuris(J. U. D))、すなわちロー
マ法とカノン法の博士と呼ばれ、一方では市民法大全( corpus iuris civils)の、他方
ではカノン法大全( corpus iuris canonici)の形態を獲得した。
(1694)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
51
Ⅰ. カ ト リ ッ ク 法 哲 学 に 従 え ば、 次 の 三 つ の 法 源 が 存 在 し て い る。 1 . ius
humanum positivum, すなわち人間によって定められた、世俗的な法、 2 . ius divinum
naturale, すなわち創造の神によって打ち建てられ、理性を通して認識することがで
きる法、 3 . ius divinum positivum, すなわち神の啓示と教会の法(マタイ福音書16、
18:「あなたはペテロで、私はこの岩の上に教会を建てる(Tu es Peterus et super
hanc petram aedidificado eccleciam meam←)である。この法源論をカノン法が有し
ているのは、世俗法に固有のものであるあの自己法則性ではなく、むしろ教義に、教
会の風習および教会の規律に密接に結びついていることをともにもたらすのである。
Ⅱ.教会法はもともと世俗のための教会の法であった。それは教会法としてはるか
に超えていまや世俗的に規制された諸々の事項にまで手を伸ばしている。さらなる展
開の流れのなかで教会法はいよいよもって諸領域を世俗法に割譲し、もはや大体にお
いて教会のための教会法というものにとどまるほかはなかったのである。同じ発展段
階にあって国家はさらに、教会とのその関係を自ら規定することを、教会のために国
家の法を、国家教会法を創造することを要求する。他方で、教会国際法というものが
存在している。すなわち法王は主権者であり、国際法の主体であり、法的に等しい段
階で諸国家と交わり、外交使節交換権と条約締結権を有している。
Ⅲ.カノン法大全に代わってカノン法典(codex iuris canonici(c. i. c.))が登場し
ている。c. i. c.のための諸々の作業は法王ピウス十世( Papst Pius X.)←(1904年)
によって開始され、法王ベネデイクト十五世( Papst Benedikt XV.)←のもとに1917
年の法典が発効した。この法典編纂への学問上の主要な功績は当時の国務長官枢機卿
のピエトロ・ガスパリ( Pietro Gaspari)←に帰せられる。【170】
Ⅳ.カノン法典は民法典と同じくらいの範囲を有しており、法学提要(Institutionen)
の体系に従って ― 人(personae)、物(res)、訴権( actiones)に ― 編別されてい
る。これに総則編と教会刑罰に関する完結巻が加わる結果として、全部で五巻になっ
ている。c. i. c. の法律技術は現代のそれと同じである。それはラテン語で起草されて
い
る( latino sermone uteretur, eoqua digno, quantum licelet, sakurarum majestate
legum, in iure romano tam expressa feliciter ― 幸いにローマ法においてあれほどよく
表現されている、神聖なる法律の威厳に相応しいがゆえに、でき得る限りラテン語を
用いるべきである)。
Ⅴ.c. i. c. は、一方ではヴァチカン公会議とともに不謬性のドグマを、他方でイタ
リア人による教会[52]国家の併合をもたらした運命の年である1870年を通して精神
的に規定されている。現に「物理的な諸力で失われたものを精神的なそれらを通して
代えること」
、すなわち一方でますます純宗教的な領域に後退し、他方で法王の宗教
的な権力を強化する」ということが c. i. c. にとって妥当したのである。その絶対主義
52
同志社法学 60巻 1 号
(1693)
的なヒエラルキーにもかかわらず教会は、その階級をあらゆる国民層から、とくに農
民層から採用するというようにして、その深い根を国民のなかに保つことができたの
である。
Ⅵ.ヴァチカン市国という形をした教会国家というものの再建もまたガスパリスの
ひとつの作品であった。極小国家はどのような権力基盤をもなしているのではなく、
国際法上の交わりのひとつの技術上の補助手段にすぎない。聖なる椅子主権は依然と
して法王職の精神的な力に基いているのである。ひとつの国際法上の変則としてでは
なく、将来性に満ちた国際法上の新秩序の出発点として、他の精神的諸力に対しても
国際法上の主権にとっての模範と見られるべきであろう(第三十六節参照)。
文献:Ulririch Stutz, Der Geist des codex iuris canonici, 1918; Sohm, Kirchengeschicht
im Grundriß, 17. Aufl., 1911; Gerechtigkeit schafft Frieden, Paps Pius XII.; Josef
Klein.[33]
第六章 法の様式
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第二十一節 主観的法と客観的法
支配的な見方によれば、客観的な法は命令的な性格を有している。すなわち、その
なかに諸々の命令と禁止の総体が、決定づける諸規範と義務づける諸規範との総体が
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見られる、ということである。この見方はとくにビンデイング( Binding)←の規範
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説←に見られる。この説のひとつの重要な実践的な帰結は 刑法上の不法にとっては
違法性の意識が必要であるということである。しかし命令的な見解は、【171】とりわ
け二つの現象を説明することができない。 1 .それは民法において損害賠償を義務づけている不法の法的性質を全く説明する
ことができない。民事的に有責な不法は有責的で違法な故意ではなく、不法状態であ
り、これはもっぱら有責的で違法な行為を通して、つまりは不法行為を通してだけで
はなく他の諸状態、現にたとえば、動物保有者の、鉄道の、トラック運転者の所有権
者の負責におけるように、行為をするという性格をそれ自体において全く担っていな
い諸々の状態を通しても招来され得るのである。不当利得もまた、このような状態が
責任を通しても行為を通しても惹起される必要はないにもかかわらず、民法上の不法
のひとつの形式である。しかしこのような不法状態を、義務づける諸規範と責任を負
わせる諸規範に対する侵害として把握することができないのである。
2 .適法な態度に関しても、規範説にとっては同様の困難が生ずる。このような態
(1692)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
53
度は実際のところ無条件的にひとつの義務に即した態度である必要はなく、どのよう
な動機からそれがなされようとも、それは適法であり続けるのである。
実際のところ、決定づけ、そして責任を負わせる軌範は客観的な法のひとつの副次
的な形式である。その第一次的な形態、原形式は、これに対して、それを通してある
一定の状態もしくはある一定の行為が反社会的なもの、もしくはしかし、社会的に望
ましくないものとして特徴づけられる価値規範である。この第一次形式のうえに、決
定規範が目的のための手段としてのみ、副次的な帰結現象としてのみ根拠づけられる
のである。しかし不法の見解は決定規範ではなく、評価規範に準拠しているのであり、
それゆえに、そのなかに概念必然的に違法性の意識が閉じ込められているような命令
に対する不服従として把握することができない ― 反社会的に行為しているという意
識が現存していたということで十分なのである。
3 .最後に、決定づける諸規範からだけからどのような法秩序も構築することがで
きないのである。それというのも決定規範からは確かに、それはそれで利益保護に役
立っている法義務が、そしてこれとともに法的に保護された利益としての法益の概念
が生ずる。しかし決定規範の助けを借りて、法益の概念よりも確かに狭い主観的な法
[権利]を根拠づけることはできないのであり、主観的な法が意味しているのは、法
益保護を自らのために要求し、これを働かせるということである。法的諸義務を根拠
づけ、これを通して諸法益を保護する決定諸規範【172】と並んで、諸法益をはじめ
て主観的な諸法にまで刻印づける権利賦与諸規範が必要である。立法者がある価値規
範の実現をもたらすのは決定規範によってか、それとも権利賦与規範を通してかは、
人間についてのその表象に従って決定される(第三十三項参照)。彼が、個人的な利
益を彼によって望まれた法実現の方向に据えられるならば、彼は権利賦与諸規範を通
して諸権利を分ち与えるであろう。これに対して、その諸目標が個人的なエゴイズム
と矛盾するならば、彼は諸義務を賦課するための決定諸規範を用いるであろう。
Ⅱ.主観的な法〔以下では権利と略称する〕はその本質からして「法によって保障
された意志力」←(ヴィンドシャイド(Windscheid)←)
、その目的からして「法に
よって保護された利益」←(イエーリング( Jhering)←)において成り立つ。『権
利のための闘争』によれば、権利の防衛は倫理的な義務であって、それというのも権
利において同時に客観的な法も防衛されるからである。と同時に権利をめぐる闘争が
意味しているのは、倫理的な自己主張であり、倫理的な諸義務の充足の可能性のため
の闘争である。イエーリングの見解に対して意義が申し立てられなければならないの
は、権利のための闘争がしばしば誤ってそう考えられた権利のための闘争であり、そ
してこれとともに必ずしも客観的な法に役立つとは限らないこと、そして「良き法」
という価値と並んで「愛すべき平和」という価値が立っているのであり、少なくとも
54
同志社法学 60巻 1 号
(1691)
瑣末な事件の場合ではこれが優先に値する、ということである。これに対して権利の
義務的な性格は、家族法と公法において白日のもとに登場する。親権が意味している
のは、義務に則した取り扱いという条件のもとに良心に委ねられる諸権利のひとつの
総体である。そして「選挙権は選挙義務である」という格言は、公的な諸権利は最小
限度において倫理的な諸義務を内在させていることがあり得るということを認識させ
る。倫理的にだけでなく、法的にも保障されている私的な諸権利の義務内実は、結局
のところ社会の思想である。ヴァイマール憲法が「所有権は義務づける」という原則
を含めているときには、生成中の社会法は法的な諸義務に向けられた所有権者のこの
ような倫理的義務を改変しているのである。
Ⅲ. 1 .権利の種類として物権、対物権と対人権、債権、もしくは絶対権と相体権
が区別される。物権は、万人と各人に向けられているのであり、それが侵害されてい
ない限りにおいて万人に、それが侵害されている場合には各人に向けられているので
ある。請求権ははじめから、そしてつねにある特定の人にのみ向けられている。物権
は自ら行為する権利であり、債権〔請求権〕は、他のある者が行為することを要求す
る権利である。前者は持続的な享受を保障し、後者はその充足を通して消滅する。
【173】物権は本来的な目標であり、債権は物権を取得するための一手段にすぎない。
ある法秩序が物権のこのような目的的な性格と請求権のこのような手段的な性格を維
持している限り、法秩序はひとつの静態的な秩序である。現に前期資本主義的な法状
態がそうであった。居住権と労働権は物権に、居住権は家屋所有権に、手工業者の経
済権はその手工業設備の所有権に、領主のその労働力を農奴としての身分に基礎を置
いていた。物権の享受に達するために、急場しのぎの仕方としてのみ役立ったのであ
り、中間商を通して長い鎖が諸々の債権を互いに繋ぎ止めるということなしに、顧客
を直接の消費者に結びつけたのである。信用経済と資本主義の発達を通して請求権は
経済のひとつの単なる手段から目的になる。すなわち経済の最終状態である資本の投
下がもはや物権においてではなく、請求権において、株券、有価証券、銀行勘定等々
において成り立つのである。物権と物権との間の長い鎖は中間商を通していよいよま
すます長くなってゆくのである。ひとはもはや自分の家に住むのではなく、借家住ま
いをする、ひとはもはや自らの生産手段をもってではなく、雇用契約をもって働くの
である。そのようにして請求権に根拠づけられたこのような法秩序は、生態的である
ことを止めたのである、それは休むことのない、不安定な、動態的な秩序に変わった
のである。
2 .さらに私権と公権とが、後者の内部で市民権と公民権とが区別される。市民権
は部分的に国家からの自由を求める権利であるのと同様に、いわゆる人間的諸権利は
国家の諸々の給付を、たとえば法的保護、社会扶助……を求める権利である。公民権
(1690)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
55
は国家における共同決定権を求める権利、とりわけ消極的および積極的な選挙権であ
る。このような権利と義務の名宛人もしくは担い手であり得るためには、国家もまた
国家で権利主体の性格を身に纏っていなければならないこと、すなわち公民と同じ次
元で法的交渉に立ち現れるということであり、刑事および行政訴訟においては、国家
のほうでも当事者として私人の当事者として対峙しなければならないのである(第二
十二節参照)。
Ⅳ.権利は人格という概念を前提としている。何人かを人格にならしめるというこ
とは、彼を自己目的として承認するということである。諸々の人格は、それに奉仕す
ることにおいて全法秩序が設定されている自己目的である。
「人格」としての法的独
自性は人間に法による権利能力の承認を通して付与されるか、もしくは、奴隷制度が
存在している限りで、奴隷には否認されるかのいずれかである。かくして人間もまた
この意味において「自然人」ではなく、「法人」である。
【174】
より狭い意味における「法人」の実在性を問う問題は、自然人の背後には個別的な
人間が置かれているように、法人の背後には前法的な実在が置かれているのかという
問いの意味において理解されなければならない。この問いは、法人の背後に成員の多
数←(サヴィニー(Savigny))か、もしくは主体的な目的財産(ブリンツ(Brinz)←)
しか見ない擬制説によって否認される。
これに対して、ひとつの超個人的な有機体としての「実在的な団体人」←について
の理論が屹立している。これは、多数人格によって形成されるような実体的な統一と
して描き出される。このような実在的な団体人は、しかしながらすべての法人の背後
には、たとえば経済上の企業のいっさいの、株式会社のいっさいの背後には証明する
ことができない。実際のところでは、問題は、しかしながら法人の背後には実体的な
諸々の現実性が置かれているのかどうかではなく、独自の法的諸目的がその背景を形
成しているのかを巡っているのである。法の諸目的に対応してわれわれは個人主義
的、超個人主義的および超人格的な目的を、個々人、団体、財団もしくは施設の三つ
の権利能力のある人格を見るのである。
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第二十二節 公法と私法
Ⅰ.公法と私法とを区別することが意味しているのは先験的な性質のものである。
けれどもこの先験性は、人々がこの先験性をあらゆる時代にわたって意識していたと
いうことを意味していない。中世はこの区別を知らなかったし、どのような法秩序も
公法と私法とが出来していなければならないことをも知っていいなかった。徹底した
社会主義国家というものはほとんど公法しか知らなかったであろうし、無政府主義的
56
同志社法学 60巻 1 号
(1689)
な社会というものはほとんど私法しか知らなかったであろう。先験的な性質が意味し
ているのはさらに、公法と私法との間の限界がつねに同じであるとは限らないという
ことであり、個別的な法領域をきれいさっぱりとこの二つの間の何れかに配分するこ
とができるということでもない。先験性が意味しているのはむしろ、どの法命題に向
けてそれが属しているのは、公法か、それとも私法かという問いを立てることができ
るということのみである。
Ⅱ.公法と私法の概念はローマ人によって目的に従って区別された。すなわち、公
法とはローマ国家に関する事柄であり、私法とは個々人の利益に関する事柄である
( pubulicum ius est quod ad statum rei Romanae spectat, privatcum ius est quod ad
singulorium utilitatem)←。今日では同順位者(並列者)間の法としての私法の構
造に従って上位者と下位者との間の法として区別される。【175】
Ⅲ.公法もしくは私法のそのつどの優先順位から、公法があらゆる法の心室として
の私法を取り囲んでいるわずかな保護枠であるか、それとも逆にそれがつねに増大す
る公法の内部においてますます狭まり行く、暫定的に手を付けずに置かれている私的
発意の余地であるのかのいずれかであるというように、相い異なる様式が生ずる。個
別的な発展過程は以下の通りである。
1 .中世の封建国家と近世初期の身分制国家では公法と私法はいまだ未分離であり、
区別されていなかった。われわれが今日では公法に割り当てている多くの領域が、現
にたとえば兵役義務がレーン契約に、課税義務がベーデに、諸侯の諸身分への懇願に
もとづづいて根拠づけられたというように、私法的に規制された。これとは逆に私法
は、現にたとえば労働契約が世襲的従属制度に根拠づけられていた場合では、公法的
に強化された。
2 .ローマ法の継受は公法と私法との明確な区別と分離とをもたらした。絶対的な
国家は諸身分に対する諸侯の主権の安定化を通して、公法は半―私法的な諸々の拘束
から解剖される。法治国家においては次いで私法は公法による絶対主義的な締めつけ
から解放される。自由主義が意味しているのは私法の支配のための闘争である。フラ
ンス革命以来君主政は国民の代表のうえに根拠づけられるのであるが、しかし所有権
は永久に不可侵的な権利というものにまで高められた。すなわち、絶対的な資本が、
絶対的な支配者が明け渡さなければならなかった王位に就く、ということである。そ
の思想上の表現を[58]私法の優位は、全公法を私法的に根拠づけること以外の何も
のをも意味しなかった社会契約説の理論に見出した。自由主義が契約説のなかの擬制
的に企てていたものを無政府主義が現実に移し変えること、つまりは権威的な権力と
いうものなしにもっぱら諸契約を通して、言い換えれば、私法を通して規制された共
同生活を作り出そうとする試みである。しかし自由主義は実際的にも公法を私法的に
(1688)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
57
貫徹することを知っていた。すでに国庫の概念が、国家が財産法上の権利主体として
個々人と同じ基盤のうえに出会わなければならないことを意味している。国家がその
公―法上の諸機能を法の主体として、
(国家の)人格性として把握されなければなら
ず、それを通してはじめて個々人の国家に対する主観的な公権が、そして個々人に対
する国家のそれが可能なものになるならば、それは公法における私法的な思考であ
る。国家が刑事および行政訴訟において【176】訴訟の当事者として私的な人々と同
じ次元で対峙するということも、これと同じ視点に属している。最後に、公法上の契
約もまた、公法におけるひとつの私法上のカテゴリーの適用を意味している。
3 .そうこうするうちに公法と私法との関係の第三の時期が切り開かれた。すなわ
ち社会法の時代である。確かに公法と私法との区別は維持されているのであるが、そ
の分離に代わって登場してきたのは、全体としては公法にも私法にも配分することが
できず、むしろ公法上の法的諸命題と私法上のそれらのひとつの混合をなしている、
新しい法的諸領域、すなわち労働法と経済法である(第三十三節参照)。
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第二十三節 実体法と手続法
実体法と手続法との区別もまた先験的な性質のものである。どのような法秩序も
― それが自力救済のものであれ、訴訟のものであれ ― 実体法上の法的諸命題を、
手続き法を通して規制することを断念することができない。訴訟およびとくに強制執
行は、確かに権力の、そして私的な諸権利の実現の最も具象的な現象形式である。強
制執行においてはじめて法の強制可能な性質が可視的なものとなり、そして破産手続
きは適切にも「物権性の試金石」であるという言い方がなされたのである。ローマ法
はそれゆえに、法を訴訟諸形式の、諸々の訴権( Aktion)のひとつの体系として把握
された。実体法は、このような見解によれば、生活諸規範からではなく、むしろ判定
諸規範から成り立っているのである。[59]
最近の法思考がはじめて実体法の手続法からの分離を明確に貫徹したのである。い
まや実体法上の諸命題はもはや単なる判定諸規範としてではなく、生活諸規範として
現われるのである。しかし訴訟は実体的な法関係に並ぶ特別な法関係として、もはや
実体法に奉仕するひとつの単なる目的方向としてではなく、むしろ独自の法的諸規範
の独自の総体として把握されるのである。現に訴訟という法関係は実体的な法関係と
は別の諸条件に結びついている。すなわち実体的な法関係は刑事訴訟においては責任
と刑罰との間に孤を張っているのであるが、これに対して訴訟上の法関係は嫌疑と判
決との間に孤を張っているのである。刑事訴訟が確かにはじめて責任を判定しなけれ
ばならないことから、責任が刑事訴訟のために根拠を与えるのではなく、手続きを通
58
同志社法学 60巻 1 号
(1687)
して嫌疑が除去され、無罪が必然的なものとして証明される場合であっても、すでに
責任の嫌疑と嫌疑に基いた訴訟は根拠のあるものであり続けるのである。【177】他方
で、ある無実の者の有罪判決は確かにひとつの誤判であるが、しかしこの誤判が確定
力を獲得しているならば、ひとつの訴訟上の有効な法的に有効な行為であるのであっ
て、それというのも法的安定性は、どのような法的争いにおいてもいったんは最後の
言葉が、この言葉が不適切であっても語られることを要求しているからである。しか
しとくに訴訟の独自の意義は、弁護人は、彼が知っているように、有責者のためにも
無罪を弁護することが許されるのかという問いへの答えにおいて実体法に対する訴訟
の独自的意義がとくに明白に立ち現われる。弁護士が、彼が実体的には有罪であるが
しかし訴訟的にはいまだ証明されていない者に肩入れする場合には、彼は確かに実体
法上の弁護士ではないが、しかしいまだに訴訟法の弁護士であり続けるのである。し
かしこの独自の訴訟上の思考は決して後に過度に洗練された識別力の帰結なのでは決
してない。アルベルト・シュヴァイツアー( Albert Schweizer)はその本『水と原始
林との間( Zwischen Wasser und Urwald)』のなかで原住民たちがどのようにしてそ
れが現実に余すところなく証明されている場合にしか、ある刑罰を正義に適ったもの
として感得しなかったのかを、また彼が有責の証明の優位を体験する必要がなかった
場合には、事実上の有罪者であってもどのように憤激するのかをありありと描き出し
ている←。[60]【178】
【121】Vorschule der Rechtspulosophie. Nachscnrift einer Vorlesung. Herausgegeben
von Herald Schubelt Joachim Stolzenberg( 法 学 生 )
. Heidelberg 1948.[ Auch
in; GRGA Bd. 3 Rechtsphilosophie Ⅲ. 1990 S. 121 277]
【130】( Merkel): Adolf Merkel, 1836年にマインツに生まれ、1896年にシュトラスブ
ルクに死す。刑法学者、プラハ、ウイーンおよびシュトラスブルクの教授。刑
法解釈論と法の一般理論を促進し、古典的な刑法学派と社会学的なそれとの間
の争いにあってひとつの仲裁的な立場を占めた。
【131】( Maine): Henry Summer Maine, 1822年にケルゼに生まれ、1888年にカンヌ
に死す。法史家および法史理論家。1869年にオックスフォードの、1887年にケ
ンブリッジの教授になった。メインはサヴィニーとダーウィンの方法をイギリ
ス法理論に導入した。彼の主要作品『古代法(Ancient Law)』のなかで彼はこ
れを基盤にして、すべての法が革命的に「身分から契約へと(from status to
contract)
」発達したというテーゼを展開している。
―(Kohler)
: Joseph
Kohler, 1849年にオッフェンブルクに生まれ、1919年にシャル
ロッテンブルクに死す。法学者。1878年にヴュルツブルクの、1888年にベルリ
(1686)
59
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
ンの教授になった。比較法、著作権法の領域での研究。法哲学上の著作物。
―(契約へ)
: ラートブルフはここでメインの主要作品『古代法』(1861年)のテー
ゼに関係づけている。
―(„Gesellschsft
“): ラートブルフはここで、Tönniesの主著『共同社会と利益社会
( Gemeinschaft und Gesellschsft)』(1887年)の表題を仄めかしている。テンニ
ースはこの作品のなかで「共同社会」と「利益社会」という、二つの社会学上
の基本概念を展開した。
―(Tönnnies)
: Ferdinand
Tönnies, 1855年にホフ・リープ(シュレスヴィク)に
生まれ、1936年にキールに死す。社会学者であり哲学者。1891 1923年キールの
教授。「ドイツ社会学協会」の共同設立者であり、1909年から1933年まで会長。
【132】(転倒する)
:Karl Marx, Zur Kritik der Politischen Ökonomie, in: MEW Bd. 13,
S. 8 f.:「このような生産関係の全体は社会の経済的な構造を、そのうえに法
的および政治的な上部構造が聳え立っており、そしてこれに特定の社会意識が
相応している現実的な基盤を形成している。実質的な生活の生産様式は社会
的、政治的、および精神的な生活過程一般を条件づける……。経済的基盤の変
更とともに巨大な全上部構造は徐々に、もしくは急速に転倒する。」
―(立たせた)
:Karl
Marx,『資本論』第二版のあとがき、in: MEW Bd. 23, S. 27:「弁
証法がヘーゲルの手のなかで被っている神秘化は、彼がその一般的な諸々の意
識形式を何よりも先ず包括的かつ意識的な仕方において描いたことをどのよう
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な仕方においても妨げない。それは、彼にあっては頭の上に立っている。神秘
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的なヴェールのなかの合理的な核心を発見するためには、それは転倒されなけ
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ればならない。」:参照。
―(物質として)
:この文言においてこの引用を確認することができなかった。こ
の思想は実質的には、Marx / Engels, Die deutsche Ideologie, in: MEW Bd. 3 , S.
26 ff., に展開されている。
―(無視していた)
:Friedrich
Engels, Brief an Franz Mehring vom 14. Juli 1893,
in: MEW Bd. 40, S. 96.
【133】(できる)
:a.a.O., S. 98:「歴史的な契機というものが、それがいったんこれと
は別の、結局のところ経済的な諸原因を通して世界のなかに置かれるや否や、
いまや反応し、その周囲の世界に、それ自身の原因にさえ、逆作用を及ぼすこ
とができるということ……」。
―( 審 判 )
:Friedrich
Engels, Brief an Conrad Schmidt vom 27. Oktober 1890, in:
MEW Bd. 37, S. 491.
―(Stammler)
: Rudolf
Stammler, 1851年に Alsfeldに生まれ、1938年にWenigrode
60
同志社法学 60巻 1 号
(1685)
に死す。法哲学者であり民法学者。マールブルク(1882年)、ギーセン(1884年)、
ハレ(1885年)の、そして1916年からはベルリンの教授。ドイツ法哲学におけ
る新カント主義の指導的な提唱者。
―(Weber)
: Max
Weber, 1864年にエアフルトに生まれ、1920年にミュンヘンに死
す。国民経済学者であり社会学者。フライブルク(1894 97年)の、その後はハ
イデルベルクの、1919/20年にはミュンヘンの教授。ヴェーバーをそもそも最も
著名かつ影響力の多い社会学者の一人と呼ぶことができる。科学理論のための
その諸研究を通して彼は方法的に省察された社会科学的研究の根拠づけを果た
した。ヴェーバーは社会学のほとんどすべての領域で仕事をしたのであり、宗
教哲学の創始者として通っている。
―(精神)
:Max
Weber, Die protenstantische Ethik und der Geist des Kapitarismus,
は 先 ず 最 初 に、Archiv für Sozialwissenschaften und Sozialpolitik, Bd. XX
(1904), 1 54 und XXI(1905), 1 110に刊行され、次いで Weber, Gesammelte
Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd. 1 , 6 . Aufl. 1972, S. 17 206に収録されてい
る。〔大塚久雄訳・岩波文庫〕
―( Barth)
: Paul
Barth, 1858年にBaruthe( Schlesien)に生れ、1922年にライプツ
イッヒに死す。哲学者であり社会学者。1879年からライプツイッヒの教授。
―(哲学)
:Karl
Barth, Die Philosophie der Geschichte der Soziologie, 1879.
【134】( Ihering): Ludolf von Jhering, 1813年に Aurich(東フリースラント)に生れ、
1892年にゲッチンゲンに死す。法学者。1845年にベルリンの私講師、1845年に
バーゼルの、1846年にローストックの、1849年にキールの、1852年にギーセン
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の、1868年にウイーンの、1872年からゲッチンゲンの教授、イエーリングは自
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由法運動の、利益法学の、そして社会学的刑法学派の礎石を置き、ドイツ民法
学はイエーリングに取引における過失(culpa in contrahendo)についての理
論を負っている[s. Gesammelte Aufsätze, 1881, S. 327 ff.]。
―(義務)
:Rudolf
Ihering, Der Kamph um's Recht, 3 . Auflage 1873, S. 42, 69. そこ
では次のように言われている。「権利のための闘争は権利を賦与された者のひと
つの義務である」(42);「侵害された権利の回復を求める主張は人格の自己主張
のひとつの行為である……。権利のこのような主張は、しかしながら共同体に
対するひとつの義務である」((69)。
―
( 憤 怒 類 型 ): Sigmund Kornfeld, Das Rechtsgefühl, in: Zeitschrft für
Rechtsphilosophie, 1 (1914)
, 135 ff.「心配類型」と「憤怒類型」という概念は、
本文には明示的には見られないが、しかし挙げられた諸々の感情処理から明ら
かになる法感情の諸類型が問題になっているのである。
(1684)
61
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
―(implicita)
: スコラ哲学の信仰理論によれば、キリスト教徒であれば誰もがそれ
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と知ったうえで明示的に信仰を果さなければならない ― いわゆる明示的信仰
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( fides explicita)。ちなみに平信徒にとっては明示的信仰、すなわち「私は神
が啓示したもののすべてを信じており、その教会を信ずべきものと考えている」
という信仰告白だけで十分である。この理論は、信仰の客体は神自身でしかあ
り得ないことから、ルターによって戦いが挑まれた。
【135】( Holmes): Oliver Wendell. Holmes, 1841年にボストンに生まれ、1935年にワ
シントンに死す。アメリカの連邦裁判所裁判官であり法哲学者。1902 1935年
に 最 高 裁 判 所 判 事。Radbruch, Oliver Wendell Holmes. Zur Biographie eines
amerikanischen Juristen[ SJZ 1946, S. 25 27]の、GRGA Bd. 16, S. 136 ff. にも
再録されている論文を参照。
―(られる)
:The
Path of the Law, in: Harvard Law Review, Vol. X, No. 8 (1897)
ff. (461)
. „Prophecies of what the corts will do in fact, and nathing more
pretensious, are I mien bey the law
“.
【136】(できる):学説集成 XVIII, 4 , 21のなかでパウルスによって次のような法的事
例 が 伝 え ら れ て い る。Venditor ex hereditate interposita stipulatione rem
hereditariumpersecutus alii vendit: quaestitur, quid ex stipulatione praestare
debeat: nam bis utuque non comiit.
ある遺産の売り手はそれを売却したのであるが、それに関する契約はその手
に達した遺産に属する財物は中間者でである第三者にあった。彼には契約の効
果としてどのような給付が義務づけられているのかが問題となる。それという
のも彼が財物とその売買価格を弁済していたであろう二重の拘束性は、確かに
契約を通して失われ得ないからである。
【137】(理論):Rudolf Stammler, Die Lehre vom richtigen Rechte, 1902.
【138】( 自 然 法 )
: こ の 引 用 はRudolf Stammler, Wirtschaft und Recht nach der
materialistischen Geschichtsauffassung, 1921, S. 174に見られ、そこでは総括的
に、「古い法学者たちが絶対的な異議を有するある一定の法を感得するや否や、
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彼らは間違ったことをしたのであるが、しかしもし彼らが変化する内容をもつ
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自然法というものを求めていたとしたならば、彼らは根拠のあることをしてい
たであろう。これらは、経験的に条件づけられた諸事情のもとにひとつの正し
い法を含んでいるような法的諸命題である」と言われている。
【139】(事物):Montesquieu. Vom Geist der Gesetze. Reclaim Ausgabe, S. 95のなか
でこの引用は、「その最も広い意味において諸法律とは、それらが事物の本性
から生じてくる必然的な諸関係である」と言われている。原典ではこの引用は、
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同志社法学 60巻 1 号
(1683)
De l'esprit des Rois, Oeuves Completes Tome Troisiēme, Paris 1875, S. 89.
―(
実 体 )
:Eugen Huber, Über die Realien der Gesetzgebung, in: Zeitschrift für
Rechtsphilosophie, 1 ,(1914), 39 ff.
―( educatio)
: この引用をこの文言においては確認することができなかった。かか
わっているのは Digestenstelle I, 1 , 3 である。この引用は完全には次のように
言う。 „Ius naturale est, quod natura omnia animalium docuit: nam ius istud
non humani generis proprium, sed omnium animalium, quae commune est. hinc
descendi maris atque feminae coninctio, quam nos matrimonium appellamus,
hinc liberolum procreatio, hinc educatio.
【140】(批判):上述のシュタムラーの本の指示を見よ。
【141】
(愛する)
:Goethe, Faust II, Am untern Peneios/Manto, Vers 7488, in: Werke(WA)
I, Abt., Bd. 15, S. 132.
―(
整 え ら れ る の で あ り ):Emil Lask, Die Logik der Philosophie und der
Kategorieenlehre, 1911, S. 57 ff.
【143】(理念の狡知)
:考えられているのはおそらくヘーゲルの「理性の狡知」という
言葉であろう(次いで本文の[82]の引用の仕方を見よ)
。これと関連して
Hegel, Enzyklopödie der philosophischen Wissenschaften I, §209の補足の箇所
で次のように言われている。「理性は狡賢いと同時に力強い。狡知はそもそも、
自らはこの過程に介入することなく、諸々の客体をそれら自体の本性に従って
互いに作用させ合い、互いに酷使させ合わせるというようにして、いわばその
目的を実行にもたらす。ひとはこの意味において、神の摂理が、世界とその過
程に対して絶対的な狡知としてふるまう」と言うことができる。
【147】(埋め合わせる):この箇所を発見することができなかった。
―( Treitschke)
: Heinrich
von Treitschke, 1834年にドレースデンに生まれ、1896
年にベルリンに死す。歴史家であり国家学者。フライブルク(1863年)の、キ
ール(1866年)の、ハイデルベルク(1867年)およびベルリン(1874年)の教授。
ドイツ・ライヒ議会の議員(1871 74)。トライチュケはその理論とその政治上
の諸々の活動において狂信的な国家主義者であり反ユダヤ主義者であった。
―( Bentham)
:Jeremy
Bentham, 1748年にロンドンに生まれ、1832年にロンドン
に死す。イギリスの社会哲学者であり法律家。ベンサムは功利主義者の創始者
の一人である。
【148】( Burkhardt): Jacob Burkhardt, 1818年にバーゼルに生まれ、1897年にバーゼ
ルに死す。スイスの文化学者であり文化史家。チューリッヒ(1855年)および
1858年から1893年までバーゼルの教授。ブルクハルトの悲観主義的な文化批判
(1682)
63
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
はニーチェに強い影響を与えた。
―(安全)
:この引用は、
[Ernst
Zieglerの手書きによる準備作業に基づいてPeter
Ganz によって変種された『世界史的考察』の本文である]Jacob Burkhardt,
Über das Studium der Geschichte, 1982, S. 236の次の関連から生じている。
「わ
れわれの今日の全道徳はこの安全に準拠している。言い換えれば、少なくとも
原則的に個人には所帯を守るという強い決意が省かれているのである。そして
国家が果すことができないことを保険業者が果している、言い換えれば、特定
の種類の不幸が特定の年度ごとの犠牲者によって買い取られるのである。実存
またはその年金の価値が十分になっているや否や、保険業者の不作為がひとつ
の倫理的な非難の基にさえなるのである。」
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―( esto)
: 国民の幸福が最高の法律でなければならないという格言はキケロに帰せ
られる。
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―( regnorm)
:正義は国家の基盤である。
―( mundus)
: 皇 帝 フ ェ ル デ イ デ ナ ン ト 一 世(Kaiser
Ferdinand I)[1503年 に
Alcala de Henaresに 生 ま れ、1564年 に ウ イ ー ン に 死 す。 カ ー ル 五 世 の 兄 弟。
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1558 1564年。ローマ・ドイツ皇帝の選言と言われている。そのために世界もま
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た滅びゆくとしても、正義は存在しなければならない。
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―( iniuria)
:Cicero,
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De officiis, I, 10, 33. 最高の法、最大の不法。
―(psssit)
: こ の 引 用 は フ ラ ン ツ・ ベ ー コ ン 卿(Lord
Franz Bacon)
, Über die
Würde und den Fortgang der Wissenschaften(1783), Reprint 1966, S. 763 f.,に見
られ、そこでは総括的に、
「法律というものが確実であること、法律がそれがな
ければ正しくはあり得ないということには多くの理由がある。ラッパが不確実
な呼びかけをするならば、誰が戦いに備えようとするのか。同様に法律が不確
実な表現を与えるならば、誰が服従に備えようとするのか。ひとはそれゆえに、
撃つ前にあらかじめ警告しなければならないのである。このことが正当にも意
味しているのは、裁判官の恣意にゆだねることが最も少ない法律が最善の法律
であるということである。そしてこのことを果しているのはその確実性もしく
は明確性である。
」
【149】
( Bacon): Francis Bacon, 1561年にロンドンに生まれ、1626年にハイゲート
(ロンドン近郊)に死す。イギリスの哲学者、著作家であり政治家。1584年以来、
下院に席を占める。1618年に大法官に任命される。1621年に腐敗を非難したた
めにすべての公職から解任される。
【154】(のである):Petrazycki, Über die Motiv des Handelns, 1907, S. 21 ff.
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―( patitur)
: この引用は、Digesten
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XLVIII, 19, 18 に見られる。単なる思想を理由
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同志社法学 60巻 1 号
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(1681)
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に何人も罰せられることはない。
―(Krause)
: Karl
Friedrich Christian Krause, 1781年にアイゼンベルクに生れ、
1832年にミュンヘンに死す。哲学者。フィヒテとシェリングの弟子。クラウゼ
はカントの哲学をさらに展開することを試みた。ドイツでは彼の哲学は広い範
囲にわたって影響を及ぼしていない。これに対してスペインでは(彼の弟子で
あるレーダー(Röder)の仲介を通して)大きな哲学的および政治的な影響に
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まで達した(いわゆるクラウゼ主義(Krausismo))。
―(Röder)
: Karl
David August Röder, 1806年にダルムシュタットに生れ、1879年
にハイデルベルクに死す。刑法学者であり法哲学者(クラウゼの弟子)。クラウ
ゼと同様にレーダーもまたスペインで承認と影響に達した。そこでの十九世紀
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後半における監獄制度の改革のための運動はレーダーに帰着する(いわゆる改
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革主義( Correccionalismo )。
―(対置する)
:この思想は Kant,
Einleitung in die Metaphisik der Sitten, S. Werke,
Werke VIII(ed. Weischedell), S. 323 ff., に展開されている。そこでは S. 324に次
のように言われている。「行為の動機を顧慮することのない、行為と法則との単
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なる一致あるいは不一致は、適法性(合法則性)と名づけられる。一方、法則
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に基く義務の理念が同時に行為の動機でもあるそれらの一致は、行為の道徳性
(人倫性)と名づけられる。法的立法による義務は、ただ外的な義務である。と
いうのは、この立法は、内的な義務の理念がそれだけで行為者の選択意志の規
定根拠となることを要求せず、だがそれは、やはり法則に適合する動機を必要
とするから、ただ外的な動機だけを法則に結びつけるからである。それに対し
て、倫理学的立法は、なるほど内的な行為を義務とするのではあるが、それで
も外的な行為を除外することはなく、むしろ義務のすべてに関係するのである。
しかし、倫理学的立法が行為の内的動機(義務の理念)をその法則に含み、そ
してこうした規定が決して外的立法へと含まれてはならないというまさにその
理由で、倫理学的立法(神の意志のそれであっても)ではあり得ない。たとえ
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それが、他の立法、つまり外的立法に基く義務を、義務として、その立法の動
機に採用するとしても、なのである」
〔樽井正義・池尾恭一訳『人倫の形而上学』
(カント全集11巻、岩波書店)33/ 4 頁〕。
次いでS. 326:「倫理学的立法は(たとえ義務が外的であるとしても)
、外的
ではあり得ない立法である。法理学的立法は外的でもあり得る立法である」〔同
上訳35頁〕。
【156】( Laun): Rudolf von Laun, 1882年にプラハに生れ、1975年にアーレンスブル
クに死す。国家および国際法学者、法哲学者(カント学者)
。最初はウイーン
(1680)
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
65
の教授、1919年からハンブルクの教授。1919年にブレーメンの国家裁判所長官
に招聘される。
―(1924): Rudolf
Laun, Recht und Sittlichkeit, in: Hamburgische Universität,
Reden gehalten bei der Feier des Rektorwechsels am 10. November 1924
(1924), S. 17 ff.
―(のである)
:Rudolf
von Ihering, Der Kamph ums Recht, 4 . Aufl. 1874, S. 46 ff., 参
照。
【158】(見事であった):モーゼ書 1 、31。ルター訳では次のように言われる。”Und
Gott sah an alles, was er gemacht hatte; und siehe da, es war sehr gut .
―(ならない)
:ローマ書
8 、28。ルター訳では次のように言われる。
”Wir aber
wissen, daß denen, die Gott lieben, alle Dinge zum besten dienen, …… .
【159】(比喩):葡萄畑の労働者の比喩はマタイ福音書20に見られる。
―(山上の垂訓)
:マタイ福音書
5 7 においてイエスの諸々の箴言から組み立てら
れた、さして名もないある山の上での語りであり、それらは神の無条件的な隣
人愛のために暴力、所有および自らの権利の主張を断念するという倫理上の諸
要求を総括している。
―(Sohm)
: Rudolf
Sohm, 1841年にローストックに生まれ、1917年にライプツッヒ
に死す。教会法学者であり民法学者。フライブルク・イム・ブライスガウ(1870
年)の、シュトラスブルク(1872年)の、そして1887年以来ライプツッヒの教授。
1890年以降は民法典の完成のための第二委員会の会員。
―(反キリスト教的)
:Rudolf
Sohm, Kirchenrecht, Bd. 1 , 1892, Einleitung S. X:「教
会の本質と矛盾して教会法を形成するということに立ち至った」:参照。
―(根拠づけること)
:これについては、Malte
Diesselhorst, Zur Zwi Reich Lehre
Martin Luthers, in: Dilcher/Staff, Christentun und modernes Rechts(1984), S.
129 ff., を参照。
【160】( 難 詰 し た ): こ れ に つ い て は、 詳 細 か つ 関 連 す る 諸 々 の 引 用 を も っ て、
Radbruch, Gerechtigkeit und Gnade, in: GMGA Bd. 3 , Rechtsphilosophie, 1990,
S. 259 ff.
―(特徴づけた)
:Rudolf
von Ihering, Der Zwech im Recht, Bd. I, 4 , Aufl. 1904, S.
331(ff.)参照。
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【162】(Tafel):十二表法〔ラテン語:duodecim taburarum〕は最も早くに詳しく
知られたローマの立法作品として通っている。それらは紀元前451/450年に遡
る伝承に従って作り出され、初期皇帝時代に至るまで全法秩序の基盤として妥
当していた。本文についてはほんの諸破片しか、そしてこれらも共和国と帝政
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同志社法学 60巻 1 号
(1679)
時代の後の著作物のなかにしか保存されていない。
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―( iuris)
:ローマ法大全(Das
corpus iuris civilis )は、皇帝ユスチアヌスが528
42年に編成させたローマ法の、法律力をもって装備されたひとつの集成である。
それは Institutionen(一冊の公的な教科書)
、Digesten もしくは Pandekten(ロ
ーマの法律家たちの著作物からの抜粋)、Codex(ハドリアヌス帝からユスチア
ヌス帝に至る時代に発せられた皇帝の勅令)および Novelle(ユスチアヌスの補
充諸法律)を含んでいる。
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―(fides)
: bona
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fides はローマ法の数多くの箇所で善意( der guten Glauben)を
特徴づけている。諸々の源泉については、Heumann/Seckel, Handlexikon zu
den Quellen des römischen Rechts, 1958, 10. Aufl. S. 218 ff.
【163】( pandectarum): usus modernus はcorpus iuris civilis〔これについては上述
を見よ〕の基盤に立脚した現代法の展開を示している。
【164】(Melanchthon):Phillip Melanchton, 1947年にブレッテンに生まれ、1956年
にヴィッテンベルクに死す。人本主義者であり改革派の神学者。1518年以来ヴ
ィッテンブルクの教授。初めはルターの主要共同作業者であったメランクトン
は後に独自の神学上の立場を展開し、プロテスタントの新スコラ学者の創始者
として通っている。
―(としている)
:Philipp
Merahchton, De legibus, Orario( ed. Th. Muther), Boelau
1862, 2 . Aufl. この引用に関連したところで次のように言われている。Sunt
quaedam in Europa gentes, quae non indicant res ex Romanis legibus, sed
uernaculis. Et tamen qui ibi Respublicas gesturi sunt fere Romanaa leges apud
exteros discunt, qui, ut accipio, interrogati, quid, cum nostrarum legum non sit
apud eos usus, in eis cognoscdis tantum orerae ponant, respondere solent:
Animam se soritumque legume, sic de patriis legibus rectius indicent.
―(いる)
:モンテスキュー『法の精神』第11編「国制との関係において政治的自由
を形成する法律について」第 6 章「イギリスの国制について」
。
【165】(星座裁判所):Star Chamber, 国王ヘンリー五世によって1487年以来組織化さ
れた、大法官と国王審議官から成り立っているイギリスの裁判所であり、主と
して政治上の訴訟を司っていたのであるが、その過酷さと恣意ゆえに恐れられ
ていた。法廷内の天上が星座で飾られていたことからこの名が付いた。この裁
判所は1641年に解散された。
―( Holmes)
:上の【135】を見よ。
【166】
( Portalis):Jeab Etuenne Marie Portalis,1746年に Le Beauset に生まれ、1807
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年にパリに死す。法律家であり政治家。市民法典の、とくに婚姻法の共同起草
(1678)
67
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
者。
―( Stendhal)
:Stendhal,
本名:Marie Henri Beyle, 1783年にグルノーブルに生まれ、
1842年にパリに死す。作家。
【167】
(Jerome)
:Jerome Bonaparte, 1784年に生まれ、1807年に死す。ボナパルト一
世の兄弟。1807 13年ヴェストファーレンの国王。1850年フランスの将軍。
―(であろう)
:この手紙は、Correspondence
de Napoleon I, Tome XVI, 1864に見
られる。
―( Savigny)
:Friedrich
Carl von Savigny, 1779年にフランクフルト・アム・マイ
ンに生まれ、1861年にベルリンに死す。法学者であり政治家。1800年から1804
年までマールブルクの、1808年から1819年までランズフートの、1810年から
1842年までベルリンの教授であり、1842年から1848年までプロイセンの司法大
臣。サヴィニーは、自然法論から明確に区別され、哲学的な思弁に代って〔と
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くに古典的なローマ法の〕法源研究という厳格な方法を促進した歴史法学派を
創始した。サヴィニーはこのために補充的に、いわゆる民族精神からの法の成
り立ちの理論を展開した。
―(Gierke)
:Otto
von Gierke, 1814年にシュテッチンに生まれ、1921年にベルリン
に死す。法学者。1868年以降ベルリンでのドイツ法教授。ブレスラウ(1872年)
とハイデルベルク(1884年)への招聘後にベルルンに帰還。歴史法学派の節度
のある信奉者。ギールケは実定的な(ローマ)法に対してドイツ的法理念の優
越を主張した。
【168】
( Menger): Anton Menger, 1841年にManiowy( Galizien )に生まれ、1906年に
ローマに死す。オーストリアの法律家であり政治家。1877年以来ウイーンの教
授。民事訴訟法についての、社会主義的な社会観、国家および倫理論について
の諸々の著作物がある。メンガーはその作品、Das bürgerliche Recht und die
besitzlosen Volksklassen, 3 . Aufl. 1904年をもって有名になった。
【169】( Huber):Eugen Huber、1849年にシュタムハイム(チューリッヒ州)に生ま
れ、1923年にベルンに死す。スイスの法律家。ベルンの教授。1912年のスイス
民法典の創作者。
―Ⅴ.という項目は原典には含まれていない。
―( meam)
: ル タ ー 訳 に よ れ ば:”Du
bist Petrus, und auf diesem Felsen will ich
bauen meine Gemeinde .
―( Pius
X):Pius X.(前名:Giuseppe Sarto )1835年にリーゼに生まれ、1914年に
ローマに死す。1903年から1914年まで法王。
―( Benedikt
XV):Benedikt XV(前名:Giacomo della Chiese), 1854年にジェノヴ
68
同志社法学 60巻 1 号
(1677)
ァに生まれ、1922年にローマに死す。1914年から1922年まで法王。
【170】
(Gasparri):Pierro Gaspari, 1852年にウッシタに生まれ、1934年にローマに死
す。1914年から1930年まで枢機卿国務長官。
―(Binding)
: Karl
Binding, 1841年にフランクフルト・アム・マインに生まれ、
1920年にフライブルク・イム・ブライガウに死す。刑法学者、バーゼル、フラ
イブルク、シュトラスブルクの、1873年から1913年までライプツッヒの教授。
いわゆるドイツ刑法学の学派の争いにおいてビンデイングはいわゆる古典学派
の代表的人物であり、フランツ・フォン・リストの主要な敵対者として通って
いた。
【171】( 規 範 説 ): ビ ン デ イ ン グ の 規 範 説 は、Die Normen und ihre Übertretung.
Eine Untersuchung über die rechtsmäßige Handlung und die Arten des
Delikts, Bd. 1 , 1922, 4 . Aufl.; Bd. 2 , 1 . und 2 . Hälfte 1914, 2 . Aufl. und
1916, 2 . Aufl., という作品のなかで叙述されている。
【173】( 意 志 力 ):Bernhard Windscheid, Die Aufgabe der Rechtswissenschaft,
Leipziger Rektoratsrede 1884, 1884, S. 3 :「権利とは世界のなかに現存してい
る諸々の意志力の秩序であり……、権利は何人の意志にとっても、その内部で
他人の意志を彼によって跳ね返し、その内部で彼が命じるような余地であ
る。」:参照。
―(Windscheid)
: Bernhard
Windscheid, 1817年 に デ ュ ッ セ ル ド ル フ に 生 ま れ、
1829年にライプツッヒに死す。法学者。1847からバーゼルの、1852年からグラ
イフスヴァルトの、1857年からミュンヘンの、1867年からハイデルベルクの、
そして1874年からライプツッヒの教授。パンデクテン法学の指導的な提唱者と
してヴィンドシャイトは民法典草案の完成のための委員会に招聘され、この委
員会の最も影響力のある委員として通っている。
―(利益)
:Rudorf
von Ihering, Der Kampf um's Recht, 3 . Aufl. 1873, S. 28 ff.
―( Ihering)
:Rudif
vin Ihering, 先の【134】を見よ。
【175】(多数):Friedlrich Carl von Savigny, System des Heutigen römischen Rechts,
Bd. II, 1840(Reprint 1981)
:S. 2 :「第二に権利能力は個別的な人間以外のあ
る何らかのもの、すなわち法人というものに人工的に形成され得る」:参照。
―(目的財産)
:この理論はAlois
von Brinz, Lehrbuch der Pandekten, Dritter Band,
Zweite Abteilung( 1 . Lieferung), 1888, S. 453 585( Das Zweckvermögen )に
おいて展開された。
―( Brinz)
:Alois
von Brinz, 1820年にアルゴイのヴァイルに生まれ、1887年にミュ
ンヘンに死す。エアランゲン、チュービンゲンおよびミュンヘンのローマ法の
(1676)
69
グスタフ・ラートブルフ:法哲学入門(上)
教授。オーストリア・ライヒ参議院の議員。
―(
団体人)
:Otto von Gierke, Das Wesen der menschlichen Verbände, Berlinar
Rektratsrede, 1902, insbes. S. 23 ff.
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この引用は、Digesten I, 1, 2;公法はローマ国家の存続に関係して
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いる法であり、私法は個々人の使用と利用を対象としている法である」:参照。
【178】(
い
る
):Albert Schweizer, Zwischen Wasser und Urwald, in: ders.,
Selbstzeugnisse, 1956, S. 128:「彼が実際に犯罪を犯したことが証明されてお
り、告白しなければならない場合にのみ、彼[原住民、W・G]は、刑罰が正
しいと考える。」
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