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北原教授講話概要

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北原教授講話概要
講話概要『いま必要な中心市街地活性化とは』
弘前大学教育学部
北原啓司
教授
今日は30分位お話をということでしたので、私が今係わっている話とか、今、コンパク
トシティということで、青森からコンパクトシティの話とが出てきているわけですけれども、
ちょっと勘違いされているところもありまして、コンパクトシティというと、ちっちゃい街
のことだろう、今さら大きくなったまちを縮めることなどなどできるのかと、まともに訊か
れることもあります。
コンパクトシティというのは、街をちっちゃくするということではなくて、街を濃く使っ
ていくと、まちを濃く使っていくこと自体を、もういっぺん地域の人達がうまく組み立てて
いくことから始める、ということについて今日はスライドを使ってお話します。
お渡ししている紙は今日のスライドの中で文字が入るもの全部お渡ししましたので、前の
方はいりません。
実は今日のスライドはおそらく7~80枚あるんですが皆さんには紙のものと大事な写真
だけ24枚打ち出ししました。
目で見て感じていただきたいので、今日はこういう形で進めて行きたいと思います。
僕は建築出身でして、ものを作る人間であり、もちろん物を作ると同時に都市計画・まち
づくりをやってきております。建築の人間はこういうクールビズの季節になると、ネクタイ
しない代わりに丸首のシャツを着ています。皆さんの中にも一人います。西方さんは私みた
いな格好をしているので、こういう首をしている人は建築に携わる人間だと思ってもらって
おかしくないと思います。
最初は中心市街地という言い方を含めて、自分なりにおさらいなんかしていきたいのです
けど、 1970 年代 、この 頃に 実は中心市 街地というの が少しいろ いろなところ で出始める わけ
です。最も有名な事例が日本一番最初に、買い物・ショッピングといういわゆる車が入れな
いまちづくりをおこなったのはどこかというと、以外にも旭川なんです。旭川が日本最初の
買い物公園をつくりました。
仙台の一番町とか横浜とかいうのはご存知のとおりで、このあたりというのはショッピン
グモール、それから実は行くとびっくりしますが、高松や新潟のアーケードなんか半端じゃ
ありま せん 。1k mく らい つなが って いたり 、高 さ 3 階く らい のアーケード とかで雨が あた
らないようにしようと作ったり、実はその頃、商店街は非常に何がよかったのかというと、
歩いて貰う、そのついでにお金を落として貰おう、使ってもらおう、ですからほんとに迷う
ことなく、今から 30 年前は私たちの先輩たちは歩いてもらったらこれはしめたものと必死に
やった わけ です。 その 時に車が入 れなければ いいというこ とで、 1974 年に銀 座が日本で 最初
のいわゆる歩行者天国をします。歩行者天国は毎日はできないけどたまにしようと、こうい
うことで買い物ということを考えたわけです。
ところがその頃に大きな店舗がクローズしました。ご存知の大店法というのが出来たのが
1974 年 です 。や っぱり 、こ ういうふう なものに対し て、中心商 店街にダイエ ー作ろう、 ヨー
カドー作ろうという話が当然来たわけです。で、その時に一番最初、思い出すと 1500 ㎡以上
の出店を規制しました。今、考えると 1500 ってかわいいもんだと思うんですが、その時これ
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は大規模店舗だったわけです。で、これはすぐに改正されました。
5 年後、実はもっと厳しくなったわけです。 500 ㎡以上の場合も相談にして下さい。
500 ㎡なんて大規模店舗じゃないという気もします。しかし当時はそれくらい資源のことを
考えている時代でした。ところが 80 年代はそういう状況の中で、歩いてもらってナンボだっ
ていう話じゃなくて、世の中に、大規模再開発の複合施設、駐車場がどばっとある。
とりあえず、集まってもらってお金を落としてもらう。この当時のことを僕はよくいろん
な授業で「クジラの時代」といっています。この頃、クジラの再開発でした。大きなクジラ
があって、その地域に住んでいた人たちがテナントになって地下の食料品に入る。
弘前 は、 1990 年代前 半に ダイエーが できました。 中心市街地 の駅前の商店 街の方々は みん
なダイエーの地下にはいりました。このダイエーは 2 年前に10月にきえました。
このクジラの中に入っていた人たちはクジラと共に結局、辞めざるを得なくなりました。
クジラともうひとつ大事な開発にイルカの開発というのがあります。イルカというのはクジ
ラの中にあえて入らずに、でもクジラの脇で気持ち良く泳いでいく、例えば今能代で、ジャ
スコがありますが、ジャスコ近辺の商店街で、あくまでもジャスコの脇で少し小さく距離を
置きながら、イルカが徒党を組んで、一緒に泳いでいる。本当はそうなんですけど、この時
代はあそこに入ったら楽だろうって、イルカたちが考えることをちょっと辞めて、あるいは
ついつい言われて中に入らざるをえなかった時代があります。結局その大きなクジラたちは
今どこの町でも消えていきました 。残っているのは 、頑張って残ったイルカの仲間だけです 。80
年代はバブルというのがあって非常に景気が良かった。もうひとつ神話がありました。駐車
場さえつくれば客が来る。そうじゃなかったことは皆さんご存知だとおもいますが、そうい
う話があったために大きな施設に駐車場さえつくればなんとかもった時代があります。しか
しその頃にすでこの前川さんという人は、当時、日銀の総裁です。弘前には有名な建築家・
前川クニヲという人の建物がいっぱいあって、その方のご兄弟さんなんです。この方がいう
わけです 。「駄目だ。 これ以上厳し くしていく と中心市街地 に大きな店 舗はくるなと か、アメ
リカの店舗来ちゃいけないというとマズイ」といって規制緩和という言葉が出てきたのが今
から 20 年前です 。その頃からだんだん 、だんだん世の中に違う流れが出てきてしまいました 。
しかし大店法がありましたので、この頃は通じたわけです。そしてバブルが弾けました。ご
存知の規制緩和ということをして少し元気にしてやらなきゃいけない時代になってきた。も
うご存知の日本で一番最初に来たアメリカの代表店舗トイザらス、最近トイザらスとワープ
ロで打つと、ちゃんと自動的にひらがなで“ら”の字がでてくるくらい普通の名詞になっち
ゃいました。
当然 大店 法が変 わっ てきます。 あそこまで 厳しくしてた やつが、 3000 位ま でいいんじ ゃな
いか、ということです。そしてまたまたどんどん緩くなってきます。もう 1000 ㎡未満につい
ては全く自由にしていいんではないか、そして閣議にまで相談され、ちょっとそれの裏返し
として今から9年前に中心市街地活性化法、これを見ますと凄い長い名前なんですけれど、
中心市 街地 活性化 法と 都市 計画法 の改 正とが 行わ れる 。そし てその 2 年後に はとうとう 大店
法が廃止されてその代わり大店立地法、これは何が変わったか、ご存知の方いらっしゃると
思います、大店法では大きな店舗をつくるときには、ある程度ちゃんとしないと出来ない、
むしろ出来ないというお話でしたが、この立地が入っていることからわかるとおり、これは
大きな店を立地させるための法律です。つまり、もし大きな店舗を作るのだったら駐車場は
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このくらいにしなさい、近隣の迷惑のことを考えなさい、緑もしっかり考えなさい、地域の
ことを考えなさい、考えてたら作ってもいいですよ、という法律ですから、全く思考が変わ
りました。この三つを良くご存知のまちづくり三法と呼んだわけです。この三つをまちづく
り三法と言い方しているの、僕等はこれでまちづくりはできるものだろうかとおもいました
が、当時は国はこれを三法、三法といいました。この時に出てきた言葉は、もう大きな店舗
は出来ない、じゃあどうするんだろう?じゃあ集まってもらってお金を使って貰うのじゃな
くて、実は住んでもらうということで初めてここで「街なか居住」という言葉が生まれてく
るわけです。その当時最初に出来た言葉は街なか居住ではなくて都心居住でした。僕がもし
かしたら街なか居住という言葉を初めて行った人なんです。というのはある学会で都心居住、
都心居住といって、東北の地方都市で都心居住と言葉を言って地域がどこまで理解されるか、
地方都市の街のなかなので都心という言葉を変えて街なか居住という言葉にしました。街な
かにどんどん住んでいってもらう、住んでもらってお金を使ってもらおうと。このころ車社
会に対して、少し車どうだろう?というところもあったもので、街中に住んでもらおうと、
高齢化社会も来ているという話で、じゃあ、お年寄りが街なかに住むということで、もしか
したら、街なかが元気になるんじゃないかという話が出たのが、丁度 20 世紀の末です。そし
て今になってきたわけです。去年、まちづくり三法が改正になったわけです。理由はなぜか?
機能しなかったからです。一番の敗因は、当時の中心市街地がこの三法が出来れば守ってく
れ る と 思 っ て 実 は 期 待 し ま し た 。 三 法 と い う の は 、 特 に 中 心 市 街 地 活 性 化 法 と い う の は 、 13
の省庁が補助金を作りました。そんなに貰えるのか、メニューはものすごい数だったんです。
しかし、今までのまちづくりの行政施策とは違っていました。
これまでは国の補助金少なかったですけど、国から言ってもらえたんです。能代がこんな
まちづくりをするならこんな補助金があるよと言ってくれたんです。じゃあそれをもらえる
ように条件整理して、文書書きますから補助金下さいと、今までのまちづくりは全部それで
補助金を貰っていました。
中心 市街 地活性 化法 は違 います 。 13 省庁から貰え ると書いて ますが、どれ を貰えると 言っ
ていません。うちの街はこんなことしたいからあそこの補助金とこの補助金に手を出そうと
して手を出さないと、こっちからなにもしない限りは向こうから働きかけはなかったのです。
ただ、三法改正しても何も変わらないじゃないかといってる街もあるのです。上手な街はし
たたか にい ってい っぱ いも らって きま す。ひ とつ の街 が 3 つも 4つも補助金 貰っている 街も
あります。よくわからない部分は県がそのうち教えてくれるだろうとかいろんなことを考え
て、動きませんでした。だから改正になったのです。そしてこういう名前がいっぱいあって、
やっぱり郊外をこれ以上広げていっても薄くなるというような、全国共通になります。で、
改正したわけです。そこで考えなきゃいけないのです。もうご存知のとおり、これからはい
わゆる都市計画区域内とか商業地域とか近隣商業地域とか名前のついてないところでは、
10000 ㎡を超える大規模店舗は立地しにくくなります 。普通では出来なくなります 。今度の 11
月以降はもう何も建たなくなります。それを聞いて中心市街地の方々結構よろこんでらっし
ゃる方もいます。しかし、大事なことはそっちに出来なくなったそのお客さんがじゃあ中心
市街地に来てくれるのかということです。つまりこれが中心部がこうやって郊外をアウトと
いえばこっちはセーフになるだろう、一回外にいった人達は郊外にお店が出来なくなってし
まったときに、街なかに一体どうやって復活させるのか、このことについてなにも選択はな
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いわけです。だからってやっぱり作戦を考えなくちゃ駄目なんで、それを国は、実は選択と
集中という形にしてしまったわけです。つまり作戦を考えているところで、ちゃんと地域で
一丸となって考えているところを選択してあげてそこに集中してお金を出そうという補助金
の仕組みに変わってしまいましたから、残念ながらバランスを考えて、この街とこの街とこ
の街を全面的にこの中心市街地のモデル事業にしようと、そういう上から見るのではなくて、
やりたい所にやらせよう、そういう風になってきたということは結局は外に出来なくなった
ら、今やっているもの以外できなくなったら安泰だとか考えるのではなくて、その時にじゃ
あ街なかはどうするかという作戦を考えないことには、なにもこないということです。これ
は国が厳しいといわれても、そのために市町村合併をして減らしてきているのですから、こ
れは本気でこないということです。ということは、はっきり言って生き残っていくためには
コンパクトなということだけではなくて、持続可能な、例えば能代であれば能代であり続け
るために、何を考えなければいけないのか。今までだって郊外店舗がきました。今も郊外店
舗が出来てしまいます。そういう中で、それに対して中心市街地がどう勝負するか、そもそ
も勝負するキャパがないじゃないか、いや違う中心市街地で何をやるのかということを今必
死で考えないといけない、それがこの委員会だと思うわけです。今日はその時本気で考えて
いるところだけ支援をする、地域みんなで考えるところだけを支援をする、初めて国はNP
Oなどボランティアグループや市民活動などそういうグループの正面から見た人が、一緒に
しくみを考えることについて補助しました。先に、副会長さんにゴミのことやっているから
中心市街地は・・・とさっきおっしゃっていましたけど、実際、国は今まで商店街の商業近
代化事業とかアーケード事業とか商店の人たちだけではなくて、市民がしっかり支援して買
い物するだけではなくて、市民が商店街を環境整備であるとか、一緒に動きながらやってい
くことに入っていくことを行政が支援すると言っちゃったわけです。それが中心市街地活性
化協議会です。
弘前もおくればせながら今月一緒に動きます。僕も今度、会議に参加することになってい
ますが、弘前は中心市街地活性化協議会の大きなメンバーに弘前大学を入れようとしていま
す。大学だって商店街と関係するわけです。今、この会には能代工業高校の先生いらっしゃ
いましたし、あるいは看護の関係の方などいらっしゃいましたし、つまり、これは商店街の
ためだけじゃなくて能代の中心市街地がどこまで元気になっていけるか、いや、元気じゃな
くても今以上にもっていけるかその時に係われる人というのはさまざまな職種やさまざまな
立場の人がいるわけで、その方々みんなで考えるということに支援するというわけです。実
はこの支援に一番最初に国が支援するといったのは青森と富山でした。青森はそれこそ子育
て支援の NPO の女性の方々とか、それから高齢者の方々に買い物するときに荷物を運ぶお手
伝いをしてくれるグループだとか、そういう方々を全部いれて、でも急いでですが計画をつ
くりました。
富山は、新しいタイプのチンチン電車、LRTというものを日本で最初に導入しました。
ドイツから買ってきたものですが、地面から 5 cmから 10 cmくらいの高さですから、車い
すの方や、高齢者の方がそのチンチン電車を使ってまち歩きをするのに関係ある人達を委員
に選びました。バス会社もありました。そういう関係する人たちを委員にして、独特のその
街としての独自のプログラムを作ってやっているところには、何とか選択と集中にいれてい
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こうということですから、今、能代を考える、じゃあ今何を考えるべきかというそのあたり
について、私はあくまでアドバイザーとしましてですね、もしくはこうしなさいといえるよ
うな人であればとっくに事業しているということですから、こんなことを考えているヒント、
僕が弘前でやったこと、あるいは青森とかみてこれ凄いなとおもったこと、ちょっといくつ
かみせてみなさんに今後の議論に使っていただければと思ってお見せしたいわけです。
タウンマネジメントということばをお話したいのですが、昔この言葉が流行って、なんだ
それは?、マネジメントという言葉ですが、私あんまり良いイメージありません。
実はマネジメントとはもっといい意味なんです。僕は、マネジメントは子供を育てるのと
一緒だと思っています。ですので、まっすぐ育てたいと思います。
子どもを育てるとき、小さいときにあまりにもひどいしつけをして、自分の子供が悪いこ
とをして、この子の悪いところをなんとか直さなくちゃいけないと思って、一生懸命、親は
悩みます。しつけをします。あるいはいいところを伸ばそうとしてそのためだったらちょっ
とお金をだしてもいいから頑張ってこの子育てたいと思います。それは親心いや、それを大
事にする気持ちがあるからです。街も一緒であって、街も問題点があると、小さくしてあげ
よう、いいところはどんどんのばしてあげたい、それがまちづくりで最も大切なこと、育て
ること、マネジメントなのです。タレントのマネージャーなんて、まさにマネジメントして
そのタレントを立派なタレントにして行くわけです。愛情でやります。ある程度厳しくやり
ます。
僕はまち育てという言葉は優しい言葉じゃなくて、とても厳しく自分の街を評価して、街
の人がしっかり考えて、どうやって伸ばしていくんだと、子どもを育てるのと同じ。お金を
そんなに掛けたくない、そこら辺をしっかり考えてタウンマネジメントということを今の時
代もう一回考えてみたいと思っています。何のために、能代をマネジメントするかというこ
とです。つまり結局、何を育てていって何を直しいていくか、この当たりは、当然、皆さん
で、行政だけじゃなく関わったみなさんが考えていかなきゃいけない。
商店街だけでも足りないわけです。
発見的指導という方法があります。見つけてきたものをしっかり調べてその結果を皆がし
っかり考えてそしてそれを元にしながら新たな提案をして行くこの4つの手法を発見的手法
といいます 。実はですね 、小学校のほうで 2002 年から総合的学習という時間が始まりました 。
皆さんご存知、新聞でゆとり教育とメディアが書いてしまったために、あれは 3 時間 4 時間
どこかに見学に行くとか、結構時間つぶしなようなところがあって、おかげで分数の計算が
できなくなってしまったと、基礎学力が下がったといっていますが、文部省が 1999 年に出し
た総合的学習時間をゆとりという言葉では表現していません。発見して、調べて、考えて、
提案するこれをしっかりやっていく、いきながらどんな力を育てるのか、生きる力を育もう
といったわけです。僕はこれにゆとりなどないと思うわけです。
地域のこと見つめて、調べて、考えて、そうとう忙しい仕事です。そのためには国語、算
数、理科、社会も勉強しないととても考えられません。残念ながら、学校には伝わらなくて、
ゆとりの方にばっかり走ってしまった。うまくやっているところは凄くいい生きる力を育ん
でいます。考えてください、能代が能代市として生き抜いていく力を育むために、やっぱり
地域のほんとに必要な問題や、自分たちの大事なもの、あるいは、ここはやっぱりなんとか
しなきゃいけないんだっていうものを明らかにしていく、発見的手法というのは非常に重要
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です。なぜ重要かというと、どんなのがでてくるかわからないからです。よくこの発見的手
法に対する批判は「出たとこ勝負」ではないかと、普通やはりものはしっかり並んでおいて、
落とすべきところは考えておいてそして進めていく。出てきたものについて責任を持ってし
っかり考えていく地域の方が見つけていくという手法で地域をみていくスタンスを私は考え
ていきたいと思います。それを子供達に伝えています。
問題は何かというと、これをつくりましょう、これを儲けましょうという話ではなくて、
じゃあ私たちは能代で、能代の中心市街地で、どんな物語を味わいたいかということです。
それは誰を想定するかということです。能代工業の高校生と考えてもいいわけですし、ある
いは地域のおとしよりの方でもいいわけです。これがいっぱい、多様に提案できるところが
強いわけです。ですから誰がこの物語を味わいたいのか?どこでそのシーンをどんな場所で、
どのシーンでそんなシーンを見てみたいのか?どんなものその場面で私たちは得ることが出
来るのか?なんでそのことにこだわりたいと考えるのか?その物語のロケシーンをどうやっ
てつなげていくのか、それをみんなの知恵でつなげていくと、もしかしたら中心市街地、こ
の中心 市街 地とい う言 い方 も中途 半端 かもし れま せん 。私も 能代は降 りたのは 2 回目な んで
すが、今日いろいろ見せて頂いて、商店街がクロスしていろんな商店街があります。商店街
から始まる中心市街地に住んでらっしゃいます。銭湯もある、いろいろ見てきました。そう
いうののつながりをどう繋げていくのか、そういう物語が、本当に中心市街地の活性化なる。
ただ単に売上伸ばそうというだけじゃないというとことである。だからこそ今日これだけ
多様な方が集まっているということがまずひとつとしてあります。今日はつながりを作るヒ
ントになりそうなヤツをいくつか持ってきました。最初はあの有名なコンパクトシティ青森
がやった、物語を“縦”につなげる事例です。実は駅前にアルヴェという建物があります。
この景観をみるととんでもない建物です。青森市の景観委員会でこんな建物建てちゃいけな
いといったのに建ててしまいました。建てた東京で有名な建築事務所の方は、ある別のシン
ポジウムにいらしたもので、僕はここぞとばかりにいいました。どうしてあんな色にしたん
ですか?彼は「青森は 10 月から 3 月まで雪に閉ざされている。雪に閉ざされた灰色に雲をみ
てると暗くすさんだ気持ちになる。その時に青森市民に明るい元気を与えたい。なのでこう
いう色にした 。」とい うので、僕は 非常に頭に きて「よけい なお世話だ 」と言いまし た。そし
て今日もわざと晴れた日の写真を持ってきました。青森にもちゃんと青空はあるじゃないか
と。どうしてもイメージで、東京からくるとですね、青森は暗い。とんでもない、青森は元
気ですよ。ただ、このビルは建物としては変なんですが、実は、もうひとつ見せたい、再開
発ですばらしい、確かにクジラです。しかし、このクジラの中に非常に細かい配慮がある、
つまり中心市街地の物語をつないでいく、つないでいく為のちょっとしたヒントを出してい
る、これをすばらしいといって青森の市町村に紹介しています。これをお見せします。ここ
はね 、西武がこようとしたんです 。堤義明さんです 。1990 年代にここに入るといったんです 。
中心市街地の商店街のみなさんも夢を期待して自分で別の仕事しないで、入るといって、こ
こに食料品店全部入ってそれから再開発組合をつくりました。まさにクジラの中にはいった、
地域の小さな魚たちがはいった状態です。ところが 1994 年です。わすれもしません。 11 月 1
日の東奥日報という新聞の一面に、市長に堤義明さんは頭を下げているのです。土下座に近
かったです。西武撤収。キーテナントとして入るはずだった西武が違約金を払っていなくな
ってしまいました。残された魚たちは困るわけです。青森市が公共施設を入れるしかなかっ
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たんです。それが結果的に今ああいう形になったわけです。このビルには市場があって、フ
ァッションビルがあって図書館がある。市民の参画プラザがある。普通の女性をターゲット
にしたファッションビルです。しかし、建築家ががんばらなければいけなかったのは、地下
に市場が入っています。そうするとここでこういうファッション買うときに下から魚のにお
いがあがってくるというのが危ないわけです。ということはここにエスカレータや階段を作
るのは臭いがあがってくるので駄目なわけです。動線計画を相当考え吟味しなくちゃいけな
い。結果的に外に、外というか内部にもう一つ空間をつくらなければいけなかったわけです。
降りていくと市場があります。誰が見たって普通の魚市場があります。ここでみんなが魚を
売っています。
私が誉めたいのは、たとえばここに地域の人のカフェバーと書きましたが、普通の大衆食
堂なんです。座敷があってホッケ定食が出てくるわけですが、一応夜になるとミラーボール
が回ったりするんですが、ちょっと時代が違うと思いますが、ここのすばらしいのはたとえ
ばお酒を飲むときホヤが食べたい、ここの店は出してないけど、市場にいって買ってきて食
べてもいいかというと、お店のひとは結構ですというわけです。つまり、せっかくそばにつ
くっているということ、つながっているということでOKしてくれるわけです。そういうこ
とで僕は青森らしいカフェバーだと思っています。
インターネットのいまの時代、街なかに人が集めるためにインターネットは無料です。結
局、寒い時間を何も気にしなくても街の中にいることができるこういう空間を作ったことが
よくて、いつも人がいます。だいたい 10 時から 12 時くらいまではお年寄りがいて、ここで
お弁当を食べています。そして夕方になると子供達が勉強しています。本当に静かに邪魔な
んかだれもしません。みんな勉強しています。そして図書館があります。図書館は自分の空
間を楽しむ場所です。窓のそばに並んだカウンターが一番最初に埋まります。そして、そこ
に座れなかった人がこういうふうに自ら椅子を持って行って座っているわけです。このおじ
いちゃ ん、 僕は 3 回 ここで 目撃 しま した。 つま り、言 いた いこ とは街の中心 市街地に市 民が
お気に入りの場所を持てるかどうかということなんです。この人はどこに住んでいるか知り
ません 。同 じ場所 で 3 回目 撃し てい るとい うこ とは、 図書 館に 来て本を読み たい、でも やっ
ぱり、あっちに座りたい。なぜ彼がここに座るのか。この空の向こうに何が見えるのか。八
甲田丸です。青函連絡船が停まっているわけです。今はもう動いていません。今日行っても
いるかもしれません。
別に僕はこのビルがすばらしいのではなくて、地域で、お金をかけずに長時間いてもだれ
にも邪魔されない、そしてこのついでに買い物をしているわけです。そんな場所があるかと
いうことをここは全部保証してくれました。そして何よりもすばらしいのはこれなんです。
実はロッカールームがあるんです、この図書館。このロッカールームがすばらしいのはおそ
らく日本唯一の公立図書館にある冷蔵ロッカーです。冷蔵庫なんです。つまりこれが大事な
ことです。魚を買うという行為と本を読むという行為とつなげようと思うとほんのこれだけ
でいいんです。確かにこのロッカーいつも満員です。お母さんたち下でお買い物をして魚買
って一目散にここに走ってきてここに入れるんです。 100 円です。あとで戻ってくるので、無
料です。そして、さてと、といって新聞を読んだり雑誌を読んだりするわけです。当初はそ
うでした、しかしお母さんたちはもっとしたたかです。うちの学生に一度尾行調査をさせま
したが、ここに荷物をいれて、本を借りずにすぐ外に出て化粧品を買いにいきます。つまり、
-7-
地域のなかに冷たい空間でものを置ける空間があるということのヒントなんです。これを“
縦”でやりました。考えてみください。もし、中心商店街という横のつながりのなかで、シ
ャッターが閉まっている通りがあります。そのシャッターの通りが買い物しているときにさ
っきのように休んだり、こういうロッカーに冷たい荷物を置いといてそして手ぶらで買い物
できる、そういう空間とか、高齢者がうちに帰る時に重い荷物を宅配します。実際そういう
商店街なんかもあります。そういう組み合わせをしていくとこの人たちが縦でやっているこ
と、つまりものとものをつなげるということ、出来事と出来事をつなげるっていうことを、
もしかしたら横のつながりで出来るんじゃないかと思うわけです。ここが 7 階から 6 階の部
分の図書館のこの冷蔵庫が 1 階から6階までの全く別々の都市行動をつなげてくれたんです。
だから 、僕は 、
「 これはすばらしい 」と思っていつもこれをみせています 。みんなもすごいな 、
まねしはじめるところもでて来ました。ありえるんですが、今までしなかったわけです。な
ぜ、青森市が、下に市場があるところに図書館をつくったときに、これをつくってあげなき
ゃいけないのか。民間の商売のためにつくるわけです。今まではそんなこと言わなかったん
ですが、今はもうこれは当たり前です。だから、仕掛けをしないと物はつながりません。
そんなことを思っている矢先に、 2 年前にたまたまいった静岡で面白い実験がありました。こ
れも能代の商店街の一つのヒントになるわけです。ヒントと言ってもこれは出来すぎていま
すから、あくまでヒントです。
呉服街商店街は若い人はわからないかもしれないけど、確か、昭和 50 年代に地下のガスが
地下熱で爆発した大変悲惨な事件があったところです。この静岡の事件以来、地下街がつく
りにくくなりました。
この呉服町商店街、社会実験で国からお金をもらって実験しています。商店街の一角に全
員我々集めら れます。お 茶屋です、さ すがに静岡 のお茶です。 そして 、「さあ、皆さ ん、今か
ら街を歩いて ください 。」「どこどこ行ってください 。」と、ラジオから指令を貰って行くわけ
です。このとおり、あぁ商店街ってこうだったなと思ったのです。というのは最初に行った
店は、有名なはんぺん屋さんです。このはんぺん屋さんに行くとようこそと言われて、紙を
渡されて、い わしの黒い はんぺんと卵 をわたされ て 、「絶対 たべるなよ 」と紙を渡さ れてもら
うわけです。次の指令が山葵屋へ行けと言われ、山葵屋にいきます。いろんなコマーシャル
にも出ているこの山葵屋に行くと、ここに山葵が置いてあったりする。さっきもらったはん
ぺんを持ってる人にはこれを乗っけて食べなさいというのです。乗っけるわけです。つまり
商店街の2つの店で、かっこつければコラボレーションです。つまり、このはんぺんとこの
山葵とつなっがっているんだと、えーっと思うわけです。食べると辛いわけです。そうする
とお茶屋さんが待っているわけです。で、お茶を飲むわけです。口がなんか良くわからなく
なってくると次にくるのは「街のコンシェルジェ」という人が座っていまして、案内人です
ね、それでこ の人に聞く と 、「次は お茶のあと に西武デパー トの地下に いきなさい。 パン屋さ
ん が あ な た に 何 か く れ る だ ろ う 。」。 で 、 パ ン 屋 に い く と パ ン の 耳 に 砂 糖 つ け た や つ を 食 べ さ
せてくれて、そうすると口の中が甘くなるわけです。そうすると、ラジオから声が聞こえる
よう仕掛けてあるわけです。そうすると、次はなにか。口が甘くなっているわけで、このお
母さんが、最後にいます。これはカレー屋なんです。行くと、私たちにカレーを食べさせて
くれるわけです。
この間僕は街を結構歩き回ります。でも、遠足とオリエンテーリングですから、行ってし
-8-
まうわけです。つまりですね、別にこんなので楽しくして下さいといっているわけではない
のです。
つまり原点にかえったときに、商店街って横でいろんな組み合わせで自分ひとりの楽しみ方
が出来るということをちょっと見せてみたんです。つながりを。ショッピングセンターって、
これを 1 日、半 日の うちに 大き な建 物の上 から 下全部 を使 って 、いろんな人 たちに好き に時
間を過ごさせるということを一生懸命考えたから流行ったんです。でも、あれって昔、商店
街でやっていたわけです。商店街の 500m の範囲で私たちがやっていたやつをある日ポンっと
ショッピングセンターがやってくれてしまいました。じゃあ、商店街もやっぱり原点に戻ろ
うというのが静岡のこの発想なわけです。実はね、静岡のこの商店街、もうひとつ富山の中
央商店 街、 この 2 個 だけで す。 全国 の商店 街で 、なぜ か日 本シ ョッピングセ ンター協会 に入
っているんです。ショッピングセンターってみなさんご存知のとおり、例えば、マックスバ
リューとか、ああいう所です。ところが、この商店街がなんの臆面もなく、恥も外聞もなく、
私たちショッピングセンターですからと言って開き直っているのが、僕は逆に原点に帰ろう
としている人達だからだとおもいました。日本ショッピングセンター協会に登録した日本で
始めての商店街なんです。敵じゃないですよ、あいつらがやっていることを俺たちはこうい
う風に展開出来る、うちはエスカレーター使わないでゆっくり歩かせて、そして街を歩かせ
ていくらでも楽しい工夫が出来る、あの閉じ込めた空間じゃなくて、うちは先鋭的に使える
んだ、ということを彼らは言ったわけです。でも大変ですけどね。だから、社会実験でやっ
て、これが本当に動き始めたら、どうやって横の店がつながっていくのかっていうのは、ま
だまだ考えなきゃきけません。でも、考えなきゃいけないなっていうことだけは、私どもの
苦労だけは知っているような気がしたんです。
つなげる次は再生です。地域の資源です。僕らがやったお話をします。弘前にはこんな立
派な倉庫があったんです。僕はここで、友人達と一緒に、広く開放して、奈良美智という有
名なア ーテ ィスト の展 覧会 を今か ら 4 年前 はじ めてや りま した 。若い人達が みんな集ま りま
した。この人たちはみんな奈良美智っていうアーティストのファンです。だから、奈良さん
のため だっ たらっ て、 追っ かけで す。 赤い女 性は 静岡 から来 ました。 弘前で 3 ヶ月住ん でい
て、ウィークリーマンションレオパレスを借りて住んでいた。それくらい好きだったみたい
です。でもそうじゃない人たちも集まっているのが解るわけです。
奈良美智っていうのは弘前出身のアーティストでして、弟がいます。あとは、美術の先生
だったり大工さんだったり、みんな集まって、みんなでやりはじめました。
つまり、地域の中で眠っている空間をもう一辺中心市街地のなかで使ってあげようという
取り組みです。
函館は赤レンガ倉庫を商業に使っています。これは商業じゃないんですね。ひとが行きた
いところを作ろうと考えました。建築家の方と一緒に考えたら、みんなペンキ塗りの練習を
します。毎土曜・日曜日やるんです。 3 ヶ月やりました。このおとうさん、奈良美智のファン
でもなんでもありません。ならよしとも、とも言えませんでした。奈良美智が男だとも知ら
ずに、ならみちさんという、女性だと思っていました。しかし、彼は来続けた。毎週土曜日、
日曜日自転車に乗ってくると世代の違う全く知らない若い人と作業ができる、作業ができる
と言っていますが、良く見るとわかるとおり、若い人達が仕事をしていて、彼は見ているだ
けです。でもこれでも楽しいです。この人は毎週来て皆と一緒にお昼にお弁当食べて、地域
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で行く場所が出来たんですね。だから、この作業が終わって、明日美術館の開館という日に、
全員にボランティアの人は美術展をただで見られるフリーパスをあげます。何回でも入れま
す。いらないって言ったんです。美術展になんの興味もない、私の仕事はこっちがメインだ
と。それくらい、毎週毎週中心市街地に行ける場所が出来たわけです。問題はそこなんです。
昔きてた場所なんですきっと。でも、来はじめたんです。こうやって僕らは一生懸命皆違う
お仕事して、そして例の倉庫を再生しました。
で、僕らは、これにボランティアで参加しました。これから見せる写真はいけない写真で
す。普通、美術館の中をカメラで撮っちゃいけません。僕はもぎりをやりましたし、ウエー
ターもしました。そして、ここに座ってて不穏な人がいるとダメならダメと言って、今携帯
電話にカメラがはいっているので、携帯電話取り出す段階で止める。そんなことを、全部や
って、 7 時に閉館すると見回りがあるわけです。誰か残っちゃいないかと。僕が見回る日がた
またまあって、この日しかないと思って、誰もいないことしっかり見た後で、ゆっくり撮っ
てきた写真ですので、本当は奈良美智さんに怒られちゃうんですけどお見せします。レンガ
の倉庫ででっかい皿絵をやって、これ皿なんです 1.5 mくらいの皿絵をやってこんなのを描い
ていたわけです。これ見ると、ああこれテレビでみたことある、この高そうなやつといって
もよくわかりません。僕等は学芸員みたいに、質問に答えるボランティアもしました。決め
の言葉がありました 。「これなんなの? 」「現代アートです 。」と、常にそう答えました。
ですから、弘前市民が現代アートが好きなわけではありません。で、問題はですね、これを
市民で何とかしたいと思ったときに金がない。実行委員 40 人集まりました。一人 10 万くれ
と言われました 。400 万ないとはじめられないと 。サラリーマンで 10 万はつらいわけで 、僕 、
悩みました 。「戻ってくるんですか? 」「わからない 。」。「 10 万戻ってくるためには何人入れば
いいんですか?」と聞くと 、「 2 万人入らなければならない 。」と。当時の弘前の人口が 17 万
人で、 17 万人で 2 万人は多いのか少ないのか見当も付かないので、この展覧会を一番最初に
やった横浜美術館に問い合わせをしたんです。横浜美術館は、昔 2 ヶ月で 8 万入ったという
のです。でも、横浜美術館は東京からいけますから、それは比べようがないので、もう一件、
旭川に聞きました。旭川の人口は 35 万人です。丁度弘前の倍です。これはいいと思って 、「旭
川さんに何人入りましたか?」と聞いたら 、「 1 万 2 千人 。」。そうすると計算すると 6 千人し
かはいらない。しかし、弘前には奈良美智の家族がいるわけです。友達がいるわけです。動
員がかかるだろうと、 1 万は入るだろう、ということで 10 万のうち 5 万は捨てざるを得ない
だろうと、かみさんと喧嘩はしませんが 、「私が嫌といってもやるんでしょ」と言われて 、「今
年の夏の旅行はないわね」と言われて出しました。それが実はお金、戻ってきたんです。そ
れをある美術家は、弘前は現代アートの造詣が深いからだと記事に書いたんです。僕はそう
は思いません。それをお見せしたいとおもいます。実は何人はいったか。 2 万人入ればペイで
きるといったこの弘前、横浜は 8 万人入ったものに、実は 6 万人入ったのです。これはやっ
ぱり異様です 。「弘前 の真夏の奇跡 」って、ニ ュース23と かニュース ジャパンとか 、いろい
ろでて きま した。 なん で 6 万人 入っ たか、 それ は多分 この 辺の 倉庫に行きた い人がいっ ぱい
いたからです。実はもぎりしている時に青森からタクシーで来た 60 代以上のお婆さん 4 人組
がいた んで す。青 森か らタ クシー でく ると 1 万 円しま す。 タク シーの運転手 さんに待っ てろ
というんですね。青森のタクシーっていうのは見ればわかるんですね。彼らは僕の方を見て、
「 何分で見終わる? 」というんですね 。
「 早い人は 10 分 、ゆっくりの人は 1 日中見てますよ 。」、
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と言うと、運転手さんに「そうか、じゃあ 10 分待ってて」と言って、青森からきた人が本当
に 10 分で帰ってきたんです 。みんなニコニコして帰ってきたんですね 、
「 ついにやった 。」と 。
「何し に来 たんで すか?」 と 。「私 たちこの地域 の小学校に 通ってた、今 から 60 年以上 前。
この原っぱで夕方いっつも鬼ごっこしてた。かくれんぼしてた。その時に最後の砦はこのレ
ンガ倉庫にチラッと開いてる重い鉄の扉の隙間にちっちゃくこうパッと入って隠れる、それ
が最後の逃げ 場だった 。」そのころ ここは米の 備蓄倉庫で、 国が管轄し ていたので入 れなかっ
たんです。そこに子供達は、ネズミのように入っていったわけです。すると必ずみつかるん
です。首根っこつかまれてだされるんです。その悔しい思いをまだ引きずっているんです。
だからおばあさん達がいうんです 、「今日は入ってもいいんでしょ 。」と 、「 700 円払えば、そ
うです 。」。で、彼らは 700 円はらって、往復 2 万円のタクシー代を払って、 4 人できて、入っ
て 10 分で出てきて 、「何しに来たんですか? 」「壁触ってきた」というわけです。それ見たと
きに、これは美術ではないと、つまり場所の記憶が、今の物語として復活したわけです。そ
れはこの人達にとってみれば、鬼ごっこだったんですよ。みんな違うと思うんです。古いも
の使うときにノスタルジックな世界とか歴史的なものに目が行くと、新しい建物つくるとみ
んな嫌がります。これは前田さんという有名な建築家が、そういいながらつくりました。古
い建物に負けたんです。でも一生懸命みんなで考えて、協力してつくりました。で、大事な
のが英語で恐縮ですが、奈良美智さんが考えた「 I don ’ t mind if you forget me 」、中学校 2 年
で習う英単語なんですが、中学校 2 年風に訳します 。「もしあなたが私を忘れてもドンマイで
す 。」。 こ れ は 奈 良 美 智 さ ん が 作 品 を つ く っ た と き 、 作 品 を 見 た お 客 さ ん が 帰 る と き パ ッ と 振
り向いたとき に 、「今 日は来てくれ てありがと うございます 。でも私た ちのことを忘 れても気
にしませんよ 。今日はあ りがとうござ いました 。」という英 語なんです 。しかし、奈 良美智さ
んご本人の話 は違いました。ご本人に後で 、「これどういう意味ですか? 」、と聞いたら 、「ま
さかお前、俺のこと忘れるんじゃないだろうな」という意味だそうです。かなり強気なさす
が大アーティストですから、忘れるわけないだろうというそうです。でも僕はですね、もし
このレンガ倉庫がしゃべっている言葉だと思って考えてたら、そんな言葉じゃなくて、結構
含蓄のある言葉、つまり、レンガ倉庫 70 年ぶりに復活したんです。 70 年ぶりに人が入ったん
です。そして 皆言ったわ けです 。「 良かったな 。」と。た った 2 ヶ月でやっ たんです。元に戻
すとき、あと 10 日、あと 1 週間、あと 5 日というときに、僕はこれを見ていると、どうもこ
の英語を言っ ている、人 に見えてきた わけです。 で、きっとこ う言ってる んです 、「 いや、忘
れたっていいんですけどね 。。。」と 。「ね」の後ろに「 。。。」がくるような気がするわけです。
この「ね」という心のつぶやきを感じ取れるセンスを持っている人が街の中にいるかどうか
が、僕はその地域の資源が使われる一番大事なことだと思います。下手をすると、このつぶ
やき聞こえません。でも、このつぶやきを、これはたまたまレンガの倉庫でしたけど、皆さ
んの街に「い や、忘れたっていいんですけどね 。。。」と言っているものを、もしかしたら、そ
のまんま忘れてしまってないかみたいなことをもう一辺繰り返すことが大事だと思うのです。
僕らはこれで NPO をつくりました。だって、お金あまっちゃったんです。 10 万戻ってきた挙
句 4000 万余りました。資本金 4000 万で NPO つくりました。 2 年後に少しグレードアップし
て展覧会やります。そして、去年 3 ヶ月やりました。 11 万 5 千人来ました。これは凄い数だ
と思います。去年は気持ちよく 10 万出して、ちゃんと戻ってきました。段々我々も研ぎ澄ま
されてきましたけども、外も使いながら古い倉庫の中に街をつくりました。奈良美智さんが
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倉庫の中に古い路地の街を作りたい、中心市街地のイメージをつくりたいと。だからこれは
美術館ではないんです。街を歩いていると家があって、家の窓越しにアートが見える。窓の
中を覗き込む感じです。これは異様な不思議な感じの空間でした。だから、いっぱいお客さ
んきてくれました。僕がいいたいのは、こういうイベントがあるときに地域の商店街や地域
の人たちがどうやってそれに便乗するか、どうやって悪乗りしていくか、これによってすご
くいい街になれるといいたいわけです。実はこのとき、弘前市役所が大英断しました。街は
こういうときに自分達で何が出来るか考え始めたわけです。弘前市役所は私たち NPO にこう
言ってきます。弘前駅降りたときのエスカレーターを降りる前の壁におまえらのポスターを
無料で貼っていいといわれ、期間中貼らせてもらいました。そして、中心市街地のこの街路
灯にも飾っていいと。とうとう公の場所にやらせてもらいました。つまり、これで自分達に
もきっとプラスになるよと、どんどん楽しんでやっていこうということを、官も民も関係な
くはじめるわけです。バスからも話が来ました。うちのバスに、奈良美智の絵を載せてくれ
ないかと。そして 、「 A to Z 」と書いて、県立美術館も同時にオープンしたので、タイアップ
企画をしようと、何か、なんとうちのレンガ倉庫の前に、青森県立美術館行きのバスの乗り
場ができたわけです。直通バスです。そして、あろうことか、うちの美術展の半券をもって
県立美 術館 にいく と 100 円安く なる んで す。な ぜ、 県立美術館 が組み合わせ をするのか 、民
間がやっていることを。何でもいいんです。うまく乗りながら、みんなで元気にしていこう
ということなんです。街の駐車場の殺風景なところに、この看板を置きました。一番したた
かなのは本屋さんです。当然奈良美智さんの本も置きます。どんどんこうやって売り出すわ
けです。しかし、今まではこれしかかわからなかったわけですが、弘前の街は変わりました。
まず、動いたのはお菓子屋さんです。ケーキ屋さんが奈良美智さんにお願いしてこういうチ
ーズケーキを売りはじめます。これ全部ただです。商標、いいんです。好きにやっていいと
言われたんです。悔しいのは和菓子屋です。和菓子にはあまり合いません。と思っていたら
この和菓子屋さん、開運堂さんがうちもやりたい、和菓子で何ができるのかといったら、和
菓子の横に人形を置いて、落雁とかそういうものにまで奈良美智効果で一緒に飾り出したわ
けです。これは商店街を活性化したいと動いたわけじゃなくて、街でみんなが活動したいと
か、集まりたい場所をつくりたいとか、いつのまにかどんどん動きはじめました。
次は私の空間をみんなのものにする。弘前のとなりの黒石の話をします。小店という空間
があります。こちらにも何件もあります。雪が降っても歩ける歩道です。ご存知のとおりこ
の空間は市の道路ではありません。この人の持ち物です。この人の敷地、この人の道路がつ
ながっているから歩けるのであって、危ない歩道です。誰か辞めたといればこの歩道は止ま
ります 。こ の歩道 が江 戸時 代から 3 百年、 黒石 の町は つな がっ てきました。 一軒一軒、 私物
です。言いたいことは、このまちづくりを続けていくためには黒石の役所は何を考えていた
かというと、この土地の固定資産税を総てただにしたことです。そうしないと残ってくれま
せん。この土地の税金取ってないんです。
それをですね、僕がいいたいのは、こういう雁木みたいな空間を残していきましょうと能
代にいっているのではなくて、あの私物の空間を保存しているという発想を違う展開で皆さ
ん 考 え て く だ さ い と い うこ と で す 。 TMO 、 ま ち づ く りの 会 社 は 小 店 で 三 味線 を 弾 く と い う こ
とを社員にやらせました。この人はまちづくり会社の社員です。業務は、小店で三味線をひ
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くことです。彼の社員としての目標は 10 年以内に全日本津軽三味線コンクールチャンピオン
になることです。かわいそうすぎます、その目標は。でも凄いと思います。毎日弾いていた
んです 。そ したら 3 年前に 準優 勝し ちゃっ たわ けです 。準 優勝 したら地域の 人が黙って いま
せんからとうとう CD デビューして、会社を辞めてしまいました。この子が成長するのが会社
のスピードに勝ってしまったために、この会社はまだ赤字なんですが、この人がいなくなっ
て大変なんです。でも、思ったのは、小店で演奏しているうちにだんだんだんだん私的な空
間で、今日は警察の方もきていらっしゃるのでわかると思いますが、ストリートミュージシ
ャンていうのはほぼそうで、やっちゃいけない場所で演奏するわけです。道路の使用許可を
取らなきゃいけない。でもあんな“ゆず”とかミュージシャンが判子もって、ゲリラ的に演
奏するわけないわけですから、みんな出さないでやっているわけです。しかし、この空間は
道ではなくて、高橋さん宅の庭なんです。ですから演奏しても怒られないわけです。しかも、
中心市街地いま空洞化してて車が走りません。ほとんど写真を撮っても車が邪魔しない。そ
んな殺風景な空間で我々は音楽を聞いてるわけです。半分くらいのところにいて、ここは舞
台だね、なんて言っているわけです。実は皆さんに言いたいのは、黒石市がすごいことをや
りました。裏庭を市が買い取って公園にしたんです。中心市街地には土地がないなんて言っ
ているけど、民間の土地を公的に使わせてもらえばいいんじゃないか。つまり、今、裏の空
き地を繋げていけば、中心商店街のもしかしたら新しい顔が出来るかもしれない。これに黒
石は賭けているんです。ワークショップやって街なかにこんなのがあるよとやるわけです。
実際に今作業しています。きれいにリニューアルして、中の蔵とかきれいに見立てて、楽し
いことして、蔵を利用して JAZZ のコンサートやったりとかはじめました。そしたら、この前
福井県の人から、いいもの見せてあげると言われてみてきたんです。裏の空間が辻となった
福井の武生という町です。普通のまさに能代にもあるような商店街です。でも、商店街には
裏の部分もまたあるわけです。大したものないなと思っていたら、ここちょっとくぐってご
らんと言われ 、くぐった ら 、「これ ウソだろう !?」と。こ っちがメイ ンです。つま り、裏は
なんでもできるから、その変わり、市役所の方もいらっしゃいますが、これを建てるために、
後ろの敷地を道路認定しなければいけないわけで、いろいろテクニックを使っているわけで
す。そうすると、みんな立ちはじめるわけです。いつの間にか蔵を使ったあたらしい街なみ
が出来るわけです。ある店は表にあった店をたたんでシャッターにして裏につけようとした。
本末転倒だと思うですけど、こんなにやれるんであれば、表でやればいいじゃないか、やり
にくいから裏でやってこっち表にしてむこう裏にしたんです。するとみんな思い切った事が
出来るんです。ちょっと驚きました。信じられない世界を見た感じです。ここまでやるのが
いいのかわかりません。しかし、言いたいのは、民間の土地だからとか市の土地だからとか
という話ではなくて、民間の土地にちょっといろいろと考えることによって、もしかしたら
まだまだ使ってない空間をあたらしい匂いで、これなんかチャレンジショップです。この倉
庫使っていいと言ったら、若い子が、花屋やりたいってきたわけです。 2 年間使わせてもらえ
る、するとどんどん若い子が集まってくるわけです。すると古い歴史ある商店街に新しい人
たちが、負けてられるかと勝負できれば本当はいいのですが、ここはまだ裏しかがんばって
いません。でも、こういうのもあるかなと思って見ています。
最後に弘前の事例で終わりにします。弘前で私たちが建築家の人たちと、商店街のリニュ
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ーアルのお手伝いをしました。しかし、今日いいたいのは、こうやって物語をつなげていこ
うと思ったときに、それを支えるようなことをしないと物語は繋がらない。実際ここ、私た
ち 、「土手 町に住みま せんか?」と 宣伝して、 ただただ、ア ーケード整 備すればいい のかとお
じさん達に怒鳴りました。ところが、住むことを考えたときに、そのおかげでこの方々がこ
の 3 年間 のプロ ジェ クトの のち 戻っ てきま した 。国勢 調査 で人 口も増えまし た。なぜな ら、
商店主が戻ってきたからです。郊外から通いだった人たちが住み始めて、住めばこの地域の
問題点はわかるはずだといって、住んでくれました。住み始めて、よし、あながちこの街は
まずい街じゃないといって、裏にアパート経営も始めました。その時にこの東奥日報販売店
の人がうちはアパート経営できないということで、せっかく人が集まりはじめて、人が住み
始めて 、う ちでや れる こと はない か考 えてい たの がこ れです 。新聞販 売店とは夜中 の 3 時か
ら 5 時ま でがメ イン なんで す。 一生 懸命、 新聞 の折込 広告 をい れるんです。 そういう夜 中に
やらなきゃいけない仕事をやったら朝からシャッター下りているんです。商店街に申し訳な
いといって、ここなんです、この部屋がいいんです。裏でいいから、 1 階と 2 階を市民のスペ
ースにしたいので設計してくれときたんです。弘前の建築家の人達と嘘だろうと思ったんで
すけど、いやそうだとおっしゃるものですから、このオーナーの気持ちが変わらないうちに
早くつくろうとみんなと協働に考えて、ワークショップでつくりました。だって、ここの空
間だけでいいからあと全部みんなに使わせてあげるからというオーナーいるはずない。出来
たわけです。 NPO の人たちに月 500 円ですと。ギャラリースペースは人に貸すんです。これ
はインターネットです。さっきのアウガには 50 台ありましたが、たった3台です、いいんで
す。建築家の仲間達です。僕はせっかくなのでうちの研究室のゼミをたまにここでやります。
うちの大学から歩いて 15 分なんです。学校だとここでやると 500 円かかります。でもここに
くると気分が変わります。卒論発表会を毎年ここでやっています。地域のひとたちが見に来
てくれます。秋田県庁の建築住宅課の人たちも観に来てくれました。このお父さんは水戸か
らきました。自分の息子か人様の前で卒論発表するのは大変なことだと言って、水戸から車
を飛ばして見に来たわけです。地域の人たちが学生を育てる、出会いの場所なんです。夜は
当然宴会もします。ときどきこうやってパーティーします。この人たち、上で歌っていたコ
ーラスの人た ちです。酔 っ払ったおじ さんに 、「君たちも下 に降りてき て、ビールを 飲まない
か 」と 。
「 おじさんたちのビールと焼肉の匂いで終始気になって練習に身が入らないんだ 」と 。
「一曲歌って くれたらビ ールと焼肉を ごちそうす るよ」と言っ たら 、「 ほんとにいい ですか」
と言って降りてきてくれて、一曲どころか五曲も歌ってくれるわけです。こうやって、焼肉
を食べて、ビールを飲んで、名前は知りません。もしかしたら、うちの学生かもしれません。
でも、楽しくやりました。街っていうのはこういう出会いの場で、誰かわかんない人達と会
える。さっきの青森の大規模空間ではなくて、商店街のほんの片隅でこういうことができる
と楽しくなるわけです。この隣にデイサービスができました。高齢者の方のコンピュータ教
室もやりました。つまり、行く場所が出来る。それを言いたいわけです。今までは新しいも
のつくろう、つくろうとしてきました。今からはストックを使って、古いものをもう一辺輝
かせることが大事だと思います。だから、まちづくりというのは街に住みながら、街の生活
を育てる、そして街の魅力を確認しながら、どうやって進めていくか、街に関わる人をふや
すということ、じっくり育てていかなきゃいけない。 1 ヶ月ごとに評価すると 1 ヶ月 2 ヶ月後
に客がどんどん増えたと、この数でがっかりしちゃだめなわけで、本当にじっくりやってい
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くしかないわけです。タウンマネジメントは街育てだし、それが出来れば、街をコンパクト
シティと呼べると話しています。
秋田の県内でもまちづくりのお手伝いしています。今年もやるんですが、大館の大学生が
こんなこといったんです。土曜日の午後にどんな生活していますか?紙芝居を作ってくださ
い。その子の紙芝居は、朝彼女に電話してデートの約束をする。どこに連れてってくれるの
と。ジャスコに行こうというと、NGが出るわけです。彼女は別れたいというわけです。そ
んなことしか考えられない人とはつきあいたくない。郊外なんかしょっちゅういくじゃない。
本当に私を大事にして、デートを楽しませてくれるんだったら街のなかで面白いことやらせ
てよ、とその子がいう、これからは街なかに行きたいっていう、半分はやらせっぽい紙芝居
なんですが、言っていることは、これは僕はキーワードだなと。いつも行っているところは
デートにならないというのは、なかなか凄い表現ですが、つまり街なかデートに耐えられる
中心市街地というのがあるわけです。たまに行った街なかで、どう物語を味わえるのかって
い う 、 そ う い う こ と で 勝 負 し な き ゃ い け な い 。 最 近 、 僕 が 好 ん で 学 生 に 言 う 言 葉 で す 。「『 空
間』と『場所 』は違う 」。そこかし こに空間は ある。空洞化 、空間がい っぱいありま す。でも
それを場所にするとなった時に、空間が場所になった時に、私達は中心市街地に行く宛がで
きます。空間はいっぱいあるけど場所は少ないんです。その場所をつくることが中心市街地
が考えていくかということ、そしてどうやって地域の方々がつくっていくのかというお話し
たくて今日はやりました。
倍以上話してしまって、反省しています。
しかし、今日は家に帰れません。電車は 8 : 25 が最終です。帰れないので許してください。
今日はじっくりお話しようと思いまして。
結局、さっき見せたものの復習です。
このおじいちゃんは、街なかの、あの施設のあの空間に自分の場所を持てただけで、隣のマ
ンションに住む意義があります。
このおじいさんは中心市街地にいく目的ができたことで自転車に乗る生きがいが出来たわ
けです。残念ながら今このレンガ倉庫は閉まっています。いつかまたこういう作業があった
らよろこんできてくれるはずです。その場所をどうやって作るのかという努力は、街によっ
て違うと思うんです。
この子たちは、知らない人の前で歌を歌いました。下手なんです。でも、歌えたんです。
で、一緒にはじめての人達で、これって街だなって思うんです。それは大都市じゃなくても、
嫌、ちっちゃな街だからこそ、出来ることだとおもいます。
それが若い人達と一緒にいるまちづくりだと思います。
そういう場所をつくるっていうことが、中心市街地の活性化のすごく大切な側面をもって
いるということをお話したいと思います。
最初の方は、中心市街地の政策的な話をしましたが、大事なことというのは、協議会のみな
さんが集まって、この能代の街なかにどういう場所を持てるか、それはご自身です。自分の
家族や自分の友人も持てるということ、勿論、そこで商売してらっしゃる方もいます。その
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方と一緒にお客さん達をどう呼び込むかということを考える時に、大きな建物や店がない。
ちいさなイルカが一生懸命頭を寄せ合って、自分が生きのびていくための、ちょっと時間は
かかるけど、派手じゃない、地道なそんな話をやっていくのが今一番大事と僕は常々思って
います。
終わります。
どうもありがとうございました。
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