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Page 1 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!! はじめに 経済学は以前から,現代の問題である自然
千葉大学
経済研究
第29巻第2号(2014年9月)
!!!
論 説
!!!
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!!!!!!!
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
――「システムの精神」の諸解釈から――
野
沢
敏
治
はじめに
経済学は以前から,現代の問題である自然環境との共存や生活・福祉
の視点の導入を,そして世界経済のなかでの「諸国民の富」の実現を研
究すること等が求められている。自発的に。経済学史も経済学のなかの
一つであるから,時代の要求から離れていることはできない。でも過去
の経済学が現在の課題に直に答えることはない。過去の経済学はその歴
史的な文脈のなかで理解されるべきである。その歴史に内在することで
現在への示唆を得なければならないだろう。今日の時論は経済学史の専
門テーマに変換される。スミス経済学の場合はどうであったか。ある者
はスミスにおける経済と法の関係を,他の者は経済と倫理との関係を研
究してきた。私は本稿で経済的自由と政治の関係をテーマとする1)。
1)古典についてのモノグラフはそのままで現代的な課題と関連がつけやすい。
スミス研究とTPP,リスト研究と後発国の経済開発,マルクス価値論と近代
批判,ケインズと福祉国家,等。では経済学の通史はどうか。それはアカデ
ミズムを満足させるか,大学教育で教科書になる程度の役立ちしかないよう
にみえる。だが,ある時代や国の古典は他の時代や国では一見してそれと異
なる理論や政策の形をとって受けつがれる。規制緩和とか市場化と,いかに
もスミスらしいことを唱えるところに本当のスミスはいるか。通史はこうい
う問いを発させてくれる。参照,拙著『経済学史と対話する』の「序」
。
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
どうして政治に目を向けるのか。それはスミス経済学の性格を政治を
媒介にすることでダイナミックにつかむことができるからである。通例,
政治といえば重商主義が行なう国家介入のことであり,J.スチュアー
トの貨幣的経済理論の政治経済学がそれだとみなされ,スミスはそれと
闘った自由主義者だと考えられてきた。それは正しい。だがスミスは政
治一般を否定してはいない。自由主義には自由主義の政治があったので
ある。本稿はそのことを視点をかえて再考してみたい2)。
Ⅰ
政治学からの問い――丸山真男と福田歓一・加藤節
問の1――政治と国家を混同していないか
丸山真男は1989年3月に内田義彦が亡くなった後,「内田義彦君を偲
(
『私の中の内田義彦』1989年11月)という一文を寄せた。丸山は内
んで」
田の『経済学の生誕』が1953年に刊行された時,「膝を打って喜び」
,こ
れで政治学史が経済学史と「共通の土俵でディスカッションできる」と
思ったと書いている。丸山は「決断」と「作為」の観点から日本の政治
思想史を研究していたが,比較のために西洋古典古代の政治思想および
近世以降のマキャヴェリや,ホッブス,ロック,ルソーの3人の社会契
約論を参照していた。それからすると,彼は社会の成立においてスミス
! !
から始まる経済学研究と違うものを感じていた。彼は内田の『生誕』に
おいてその違いを共通の広場で検討させてくれると思ったのである。
その結果はどうであったか。丸山は後に自分用に作った雑記帳に次の
ようなメモを残している。1961年以降のことと思われる。――「レッ
セ・フェールの正統派経済学とマルクス経済学とは,経済法則(自然秩
2)私は『社会形成と諸国民の富』
(1991年)においてスミスが重商主義の国家権
力を作っている構造を分析し,それを破ろうと彼なりきに政治を論じていた
ことを展開しておいた。
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序)と国家との関係で,おどろくほど一致する。両者とも,経済法則の
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
自律性の信仰に立っている。両者とも,まさにそのことによって(――
傍点は丸山のもの。以下同様)
,国家権力の役割をまさにその自律的領
域の円滑な運行を保障する不可避かつ不可欠の契機として認識する。国
! ! ! !
家なしには経済的再生産過程が円滑に循環しないというそのことが,経
済の自律性の主張とどう調和するのかは問われない。(産業資本段階で
も国家の介入なしにはすまされない。ただ介入の性質と程度がちがうだ
けだ。
)そうして最後に両者とも国家と政治を同視し,個人および階級
以外の国家内集団,もしくは超国家的集団の次元での政治過程の問題を
(丸山真男『春曙帖』より)
少くも科学的問題としては看過する。
」
政治学と経済学はお互いに対話をしたのだが,どうしても視角の違い
が残ったようである。丸山は内田のスミス研究や経済学史研究に対して,
国家を経済を円滑にするための機能としてだけでなく,権力を成立させ
る政治過程として捉えるべきだと批判するのである。
丸山は若いころ,戦中の日本ファシズムに対抗するのに歴史主義では
限界があり,自然法の立場が必要だと認めた。それは天賦人権のように
超越的で歴史の実証を超えるものであった。たとえば,彼は近代的人権
のなかの最も基本的な所有権について,岡本綺堂が所有権は天皇といえ
どもみだりに侵すことはできないと発言したことを取りあげ,所有権が
絶対的なものであることを知る。他方,内田のスミス経済学からすれば,
所有権は歴史的に作られてきている。自然法にも超絶的でなく,次のよ
うに,歴史的に確認できる経験的自然法がある。人は社会のなかで分業
の一端を担い,その自己労働の生産物を他の人の労働生産物と交換し
あっている。人はその商品交換をしていくなかで次第に正確な「正義」
の感覚を身につけていく。これはおれのもの,それはおまえのもの,お
れはそれと交換に喜んでこれをおまえにあげよう,と。相互に所有権を
尊重したうえでの交換的正義の意識が,法意識が,人の心に育ち,近代
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
の「商業社会」ができていく。それは村の慣習や町の同業組合の規則と
対立して出てくる。同時にそれは上から近代化を進める本来的重商主義
の国家暴力とも対立する。でもだからといって社会は無秩序にはならな
い。人は経済社会の内部で,上や外から強制されなくても,勤労と節約
の経済倫理を身につけ,正義の法意識を成立させるからである。この成
熟した状態を「市民社会」と言う。しかし国家そのものはなくならない。
国家はその機能として市民社会内の正義を守ることに限定される。
丸山はそれでも政治学の立場から,社会秩序は交換的正義の意識だけ
では成立しないと考える。権利は国家権力に裏づけられて初めて定着す
る。私的個人間での自己規制はそれだけでは弱く,公共の政治行為を通
じて確実なものとなる。政治思想の独自性を強調する丸山からすれば,
内田の経験的自然法の解釈には満足できないものがあったのである。丸
山は権力を作る政治過程の方に注目する。
内田はこの丸山に対してどう答えたか。内田の答は別の所で検討する
ことにして,本稿では私の考えを出してみたい。
問の2――シヴィル・ソサエティの訳語は「市民社会」か?
丸山と同系の福田歓一と加藤節も経済学とのずれを意識していた。
福田は『民主主義思想の源流』(有賀弘ほか編,東京大学出版会,1986年)
に論説「日本における政治学史研究」を寄稿した。彼も丸山を受け継ぎ,
政治思想がマルクス主義的に経済的な下部構造に規定されることに不満
をもち,その独自性を押し出して,西洋の政治学史を研究していた。彼
は「シヴィル・ソサエティ」という英語を政治的な意味でなく経済的に
使うことに疑念をもつのである。
福田が言いたいことはこうである。――17,18世紀の近代西欧で契約
国家論が展開される。それは絶対主義国家(スタトという権力主体がゲ
ルマン的地域国家を単位として作ったもの)を,逆に被治者を主体とし
て人的共同体に作り直そうとしたものである。その時に契約論者はポ
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リースとかキヴィータスという古典古代の都市国家の用語を用いる。契
約論者にとって国家はコモンウェルスあるいはリパブリックであり,シ
テやシヴィル・ソサエティ,ポリティカル・ソサエティと呼ばれるもの
である。それらの能動的な主体が,総体としてはピープルであり,個人
としてはシトワイヤンである。以上の政治学史の常識からすると,シ
ヴィルを「市民」と経済人的に訳すのは不正確である。
福田はさらに次のように続ける。――シヴィルは18世紀半ば以降にな
ると,フランス革命の人権宣言にあるように人間はブルジョア的な人間
オムと政治的な公民シトワイヤンに分離される。19世紀になると,ヘー
ゲルは前者をビュルガーリッヒと形容し,後者をシュタートビュルガー
と名づけて区別する。だが日本では都市国家の歴史をもたないから,シ
トワイヤンを商工業に携わる「市民」と訳して怪しまない。そのために
(同 書,298頁)が生まれる。
「市民社会という正体のわからぬ言葉」
……市民社会論者は経済的市民の側から政治の問題を考えていくのだが,
この福田の経済学史研究に対する疑問には答えねばならない。
(
『政治と人間』1993
福田の後学にあたる加藤も「「市民社会」の概念」
年,所収)において日本の市民社会論を批判する。
「シヴィル・ソサエ
ティ」はスミス研究者の高島善哉等によって経済的な「市民社会」と翻
訳されたのであるが,その原義は歴史的にみると,17世紀のロックに
よって論じられた政治社会のことである(――後でも注意を促すが,ス
ミス自身はシヴィル・ソサエティをポリティカル・ソサエティの意味で
使っている)
。それが18世紀半ばになると,スミス等によって経済的な
「コマーシャル・ソサエティ」
(「商業社会」
)に意味が変わる。加藤は
これでシヴィル・ソサエティの本来の意味があいまいになったと批判す
る。彼によると,ロックのシヴィル・ソサエティはそれを構成するプロ
パティ(財産と人格)の主体の間での同質的な人間関係と,プロパティ
! ! ! ! !
の侵害を処罰する国家権力とを分けずに関係づける議論があった。それ
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
が18世紀になると,シヴィルは政治的な意味をもたなくなり,私的人格
としてのブルジョアが前面に出てきて,民法領域の自由で平等な取引関
係の意味に変わる。社会が国家から分かれて自立する。加藤はスミス研
究を参考にして,この市民社会の自立を促した原因を特定する。それが
国家の干渉なしでも成立する経済の自律メカニズムであり,分業と交換
で作られる国民的経済である。市民社会は豊かさと便宜をもたらす文明
社会なのである。この市民社会では労働力も商品化されるので,そこに
階級対立と富の不平等が生まれるが,そのマイナスを補って余りあるプ
ラスが生まれる。……こうして加藤にあってはスミスから政治は消える。
私は以上の政治学からの問題提起を受け,スミスにおける経済と政治
との関係について改めて検討してみる。そのために媒介となるのが『道
徳感情論』第6版における改訂である。以下のⅡ∼Ⅵはそこに入るまで
の準備である。
Ⅱ 18世紀政治学の特徴づけ――社会契約論から国家構造論へ
18世紀イギリスの政治思想についてはすでにL.スティーヴンやH.
J.ラスキの研究がある。ここではそれらとともに福田歓一の政治学史
研究と水田洋の社会思想史研究を参考にしておく。福田は政治論の固有
性を強調し,権力形成の論理に対して一つの焦点を当てている。水田は
社会理論・思想の発展を追う。両者には視角に違いがあるが,対話がで
きないわけではない。近代では原理的には利己的諸個人が集まって社会
秩序が作られるのだが,それはいかにしてか。そのさいに,多くの政治
思想家は人間とは何かを問うことから始めていた。
ホッブスは人間が社会の成立の前に生物であることから出発する。そ
れはわざわざ論証するまでもない絶対的な事実である。人間は外界と物
質のやり取りをして生命を維持している。それが自己保存である。この
自己保存の必要から対象を欲する行動が善であり,それから逃れようと
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することが悪となる。これは普通の意味の道徳的善悪の議論ではない。
ホッブスにあっては,人間間の感情や行動を規律する倫理の前に,生物
的に欲求を満たそうとする人間がいるのである。それが対他関係のなか
に入ると,欲求は変質する。人間は他の人間と比較して自分が勝ってい
ると喜びを感じ,劣っていると悲しむ。人はお互いを不信と疑いの目で
見,競争しあう。その証拠に人は家を出る時にドアに鍵をかけるではな
いか。また人は将来を予見する能力をもつから,その時のために物を
取っておこうとする。その慎重な行為によって人は財産を作り,それが
他の人を支配する力を与える。すると人はこの力を自己目的として追求
するようになる。そして他人がもつこの力を狙うようになる。ホッブス
は各人が自分の生命と財産の自由を求めてその力を自由に使うことを自
然権だと認めた。これでは社会は万人が万人に対して狼となる戦争状態
になってしまう。戦争状態では各人は自己保存ができなくなる。自然権
からは社会秩序は生まれない。
そこで制度を作って社会に秩序をもたらすことが必要になる。自然権
に対して自然法が出てくる。各人に自己保存を可能にさせ,しかもすべ
ての人を平和に共存させるためにはすべての人が自然権を放棄せねばな
らない。理性はそうしなければ秩序は成立しないと教える。このように
ホッブスは行為の判断基準を理知的な社会的功利におくのである。さて,
諸個人は自分たちとは異なる第3者を主権者に指名し,それに従うこと
を約束する。ここで彼の言うコモンウェルスが成立し,この主権者が立
法者となる。立法者は社会の人々から委託を受けて立法行為をするから,
国家の成員の力を自分の力として用いて絶対的であることができる。
スミスはどうか。彼にも人間論はあるが,自然状態とか戦争状態を想
定することはない。スミスの人間は始めからかなり成熟していて,他人
のことに関心をもつとともに,他人の目を気にする存在である。人に共
感し,人から共感される場が拡大進化している。各人はその社会のなか
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
で自分の感情や行動を規制するのである。社会的なルールは「公平な観
察者」の「共感」によって作られていく。社会秩序を成立させるために
最初から立法者がもち出されることはない。彼にあっては抽象的な自然
権論はなくなり,歴史的な自然法が表に出てきている。また,ホッブス
の自然状態では人間は生産に限界のある物を分配していたが,スミスは
そこでの生産力の発展を認め,それを可能にする分業や技術・資本蓄積
を問題にしていく。彼は分配すべきパイの増大を考えるのである。
ホッブスの次にロックが出てくる。ロックも人間論から始める。ただ
彼はホッブスと異なり,自然状態の人間に感性をコントロールする理性
を与える。彼はそれを,後の J.スチュアートやスミスの水準からすれ
ば未発展であるが,歴史的に発展段階的に説明していく。
まずアメリカの先住民の採取経済から始まる。そこでは人は感性的に
動き,社会の拘束はない。それでも自己保存の追求は戦争状態にならな
い。慈愛深い神が人間の生存に必要な物を豊かに与えてくれるからであ
る。(その神はカルヴァン的な恐ろしい神ではない。
)ここでは財は共有
される。でも神は人間に食物を無限には与えない。そこで人間はより多
くの食物を求めて自然に労働を加える。社会は農耕状態に移行する。こ
の労働とは現在の欲望を抑えて将来に豊かな財を享受する活動のことで
ある。ロックの自然状態の人間はホッブスと違って理性の持主なのであ
る。その労働が私有財産・プロパティを生む。その所有は投下された労
働によって正当化される。(労働全収益権の成立。
)この自己労働に基づ
くプロパティが人格的独立の基礎になる。ロックの労働はこうして神聖
なものになる。彼はホッブスのようにすぐに政治状態には移らない。
ところで私有財産は不平等と差別を生む。それは次の貨幣経済の社会
になって広がるが,ここでも秩序は成立する。人間は私的所有権の主体
として他の人間の私的所有権を尊重するからである。個人は自己保存を
他人と平和に追求できる。だがこの状態でも争いは起こる。人はプロパ
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ティを侵害されれば,それに対して復讐し処罰する権利をもつ。でもそ
れをめいめいが主張するのであれば,争いは止まない。争いを権威を
もって解決する公権力が必要になる。その時に諸個人がもっていた物理
的な力は公共のために合法的に組織される。社会は自然状態からコモン
ウェルス,あるいはポリティカル・ソサエティの政治状態に移らねばな
らない。それは契約によって作られる。ここでもホッズスの時と同様に,
そうしなければ社会は成立しないという功利主義的な判断が働く。所有
権はそこで権力によって保障される。
付随的になるが,ロックでは国家のなかでも立法権が至上の権力とな
る。立法機関が自然法とは何かを解釈して法律にする。人民はその立法
部に立法する権能を信託する。ここで自然法を規範とする「自然的自由」
の状態から実定法の領域に移る。国王の執行権はこの立法権から制約を
受ける。もしも国王が専制者となり,下院から立法権をとりあげて自分
で立法すれば,人民は自分の自由を取り戻すために抵抗したり政府を代
える権利をもつことになる。このロックの抵抗権が後のアメリカ独立や
フランス革命に影響を与えたのは研究者が指摘する通りである。
スミスもホッブスやロックとともに,国家の前に社会を置いている。
でも彼は社会をロックよりもずっと歴史に密着して観察し,そこに留ま
!
る。彼が大学で行なった法学講義がテーマにしていたように,国家の制
!
! ! ! ! ! !
度は財産と分配の歴史のなかで観察される。また国家を論ずる場合でも,
! ! ! !
契約論や功利主義によってでなく,既にできている国家構造の側から研
究される。そして重商主義のこまごまとした法律・政策・租税行政を批
判し,それらのなかから残して生かすべきもの=所有権の保護や国家の
3機能等を分ける。これは狭義の経済学でない。経済社会の領域を大き
く広げつつ,政治と間接的にでも関連させて政治の位置を問い直す経済
学である。それも政策のための経済科学というものではない。国家や財
政に総括される政治経済学というものでもない。スミスは重商主義と重
(183)
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
農主義の学説・政策を批判してきた最後に,それらの諸政策が取り払わ
れれば,「自然的自由のシステム」が実現すると考えた。そのうえで国
家論が展開されていることに注意せよ。最後の国家論も3つの国家機能
が分業と交換の発展史によって基礎づけられている。ここにも市民社会
史が浸透しているのである。
ところでスミスには自由主義的な国家観とは別に古典古代的な国家観
がある。当時の古典古代鑽仰の代表者はA.ファーガスンであった。彼
は文明化は富裕をもたらしたが,人間の腐敗と堕落をも生んだと批判す
る。彼は分業や商人精神に対して国民精神や全体への関心を,名誉や勇
気の徳を説く。スミスも分業が人間形成にとってプラスとなること以外
に,知的能力や社会的な交通能力,軍事的な徳を犠牲にすると見ていた。
しかし彼はそれらを回復するのに共和政体を求めることはない。イギリ
スのような中規模の大きさの国に適合的なのは,狭い小国で実現可能な
共和政体ではない。スミスは『国富論』で,イギリスに必要なのは,軍
事力の観点からは常備軍の維持であり,尚武の精神の涵養の観点からは
国民軍であると説く。それに加えて下層階級への国家教育や中層以上の
階級に対する科学教育の普及を求める。スミスは市民社会史がもつマイ
ナス面を矯正する国家的英知の活動を認めているのである。
重商主義の国家は解体されねばならない。そのためにはまず現実の国
家ができている構造を知り,次に歴史を貫いて作られてきた経済法則を
つかみ,そのうえで政策と法律を作らねばならない。スミスはそのさい
に国民の政治能力を検討している。それは国家から市民社会へと歴史を
見る社会思想史研究が見逃したことである。スミスは政治の担当者につ
いて考察している。ただし,福田はスミスは貴族を政治の担い手にした
と解釈することには留保が必要である。
以上のホッブス,ロックに対して,18世紀のイギリスでは政治は古来
からの国制の伝統をめぐって議論され,自然権の議論は抽象的だと斥け
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られていく3)。それが18世紀の後半から政治的権利の有無や政体の良否
をめぐる議論が再びなされていく。
大陸ではどうであったか。17世紀にグロチウスが出てくる。スミスは
この彼から自然法学を学ぶのである。グロチウスはそれぞれの国の国法
を越えた普遍的な秩序=自然法を求めた。国家は他の国家と条約を結ん
で国際的な共同体を作る。だから戦争の時であっても国家間に規範はあ
るという議論になる。スミスはこのグロチウスの自然法を受け継ぎ,平
和共存ができる条件を国際経済の場面で具体的に探っていった。ある国
の貧富はその国の内部の事情のみでなく,他国との関係のありかたにも
よるという貴重な認識を得つつ。
次に18世紀フランスのモンテスキューについて。彼もスミスが法学を
構築する時にモデルにしようとした人物である。彼はフランスの旧制度
は改善されるべきだと考えたが,革命に対しては懐疑的であった。
モンテスキューは権力の正当性を契約に求めない。彼は政治を原理的
に考察するようなことはせず,実証可能な政治の制度=国制(コンス
ティチューション)の機構を,観察する。彼はそれを非ヨーロッパにま
で広げて世界的に調べ,環境や風土と関連させる。法制度や習俗はそれ
ぞれの国の自然的・社会的な理由によって作られるから,どれが唯一で
3)イギリスの権利宣言の歴史を追うと,そのなかに過去の伝統に根拠を求める
考えが入り込んでいることが分かる。たとえば,かの権利章典もそうであっ
た。1688年に名誉革命が起き,翌年12月16日に権利章典が制定されて国法と
なる。それは僧俗の貴族と庶民がオレンジ公とメアリに提出した宣言文で
あった。そのなかでジェームズ2世が治世中に行なった新教と「わが国の既
知の法律および自由」を破壊した12個の罪悪があげられ,13項目にわたって
「わが国の人民の真正で・古来から伝えられ・疑う余地のない・権利および
自由」が主張される。その内容は王権を国会の立法に従わせて権限僭取や専
制,勝手な税の徴収を許さないものであり,選挙の自由や言論の自由等の人
権を認めさせ,随時の国会の開会を定めたものであった。人民はそのことと
引き換えに2人の新教徒を国王および女王とすることを認めたのである。
(185)
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
正しいということにならない。どれも価値的に相対的となる。スミスは
その比較方法を「法学講義」や『国富論』に受け継いだ。その比較基準
として,モンテスキューは国制を君主制・貴族制・共和制と類型的に分
ける。それらは主権を一人がもつか,一部の少数がもつか,全部がもつ
かで分けられる。それらの型から外れるのが専制であり,これが問題と
なる。それは一人の君主が人民を法でなく恣意的に統治するものであっ
た。前に少し出しておいたが,専制はオリエントのような大国に,君主
制や貴族政は中規模の国に,共和制は小国に適するとされる。さて,モ
ンテスキューと言えば3権分立論で有名である。それは裁判所の司法・
君主の行政・2院制の立法というように3権を対等に並べ,それらが相
互に制約しあって均衡をとるというものであった。彼はそのことで自由
は確保されると考えたのである。この権力分立はイングランドをモデル
にしたとされるが,実際のイングランドは議会主権であり,議会の多数
派が内閣を構成するという議院内閣制であった。3権分立は彼の郷国フ
ランスでは実現せず,アメリカ合衆国に受け入れられる。
モンテスキューは以上のように国家構造を比較検討して,フランスに
関しては革命でなく,機構の改革を考えたのである。
Ⅲ
スミス経済学の性格を示す3つの断片
スミスも18世紀イギリスの政治のなかにおり,モンテスキューから影
響を受けた人間である。そのスミス経済学の性格を一瞥しておく。
スミスは本源的資本蓄積期の,産業革命に入りだしたころの経済学者
である。認識論的には大きくは経験論哲学の,宗教的には啓示宗教から
自然宗教へと向かう時の知識人である。政治的には名誉革命後の安定期
が破れて植民地独立運動と議会改革運動が起きた時の経済学者である。
私の本稿での仕事は,結局のところ,以下のすでに知られている3つ
の文書を多少とも展望をもって意味づけることにある。以下に文書のみ
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千葉大学
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をあげておく。
1)スミスは大学で道徳哲学と修辞学・文学を講義している。本稿で
直接的に関係のあるのは前者である。前者の内容は彼の弟子である J.
ミラーが証言している。それは4つの部門,自然神学・倫理学・法学・
経済学からなっていた。どの部門でも歴史的な観察と経験的な方法が用
いられ,18世紀の知性の特色が出ている。そのなかでも法学のテーマ―
―人間と自然との物質代謝と財産の蓄積の発展が法律と政治の分野にど
う対応した改革をもたらすか――が注目される。そこから第4部門の経
済学が生まれるのである。いかにして『国富論』が生まれたかについて
は,すでに高島善哉や,特に内田義彦の内在的で古典的な研究がある。
後の研究者はそれをきちんと受けとめておかねばならない。
ミラーの証言はこうである。法学についてはスミスは「モンテス
キューから示唆をえたとおもわれる案を踏襲した。すなわち,公法・私
法両面にわたって法が未開野蛮な時代からもっとも洗練された時代にい
たるまで漸次進歩してきたさまを跡づけ,生存と財産の蓄積とに役立つ
技術が,法律と政治の分野に,いかに対応した改善ないし変革をもたら
すかということを指摘しようとつとめた。
」
「講義の最後の部分で彼は政
! !
治的規制を検討したが,彼によれば,それは正義の原則にうえにたつも
! !
のではなく,便宜の原則のうえにたつものであり,その意図は国家の富
と力と繁栄との増大であった。この見地から,彼は商業,財政,教会お
よび軍事の機構にかんする政治制度を考察した。これらの問題に関する
説明は,後年彼が『国の富の性質および原因に関する考察』と題して公
(J.レー『アダム・スミス伝』大内兵衛・
刊した書物の内容を含んでいた。
」
節子訳,68―69頁)
2)スミスの経済学を貫く根本思想がある。それは彼が1755年32歳の
時に声明した「不変のテーマ」である。それは実に大胆で力強い表明で
あった。
(187)
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
「政治家や政策立案者は,人間を一種の政治工学の材料と考えるのが
普通である。自然が人間関係に働きかける過程において,立案者は自然
を妨害する。これに対して自然が要求することは,自然をそのままにし
ておいてほしい,自然が正々堂々とその目的を追求しうるようにさせて
ほしい,ということだけである。それによって自然はその計画を成就せ
しめうる。……国家をしてもっとも野蛮な状態からもっとも富裕な状態
へと進ませるために必要なものは,平和と軽い税とある程度の司法行政
と,ただそれだけであって,それ以外に必要なものはほとんどない,後
は事物自然の成行によって実現される。この自然の成行を妨げ,事物を
他へむかわしめ,社会の進歩をある一点で抑止することに努めるような
政府はすべて不自然である。かかる政府がみずからを維持しようとすれ
ば,どうしても圧政的,暴君的足らざるをえない」(レー,前掲書,78頁)
3)スミスといえば,あの「見えざる手」のスミスとして有名である。
それは直接には資本投下の自然的順序論の文脈で出てくる。
「あらゆる個人は,自分の資本を国内の勤労の維持に使用すること,
したがってまた,その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこ
の勤労を方向づけること,この双方のためにできるだけ努力するのであ
るから,あらゆる個人は,必然的に,この社会の年々の生産物をできる
だけ多くしようと骨おることになるのである。いうまでもなく,通例か
れは,公共の利益を促進しようと意図してもいないし,自分がそれをど
れだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。外国の勤労の維持よりも
国内の勤労のそれを好むことによって,かれはただ自分の安全だけを意
図するにすぎぬし,また,その生産物が最大の価値をもちうるようなし
かたでこの勤労を方向づけることによって,かれはただ自分の利得だけ
を意図するにすぎぬのであるが,しかもかれは,このばあいでも,他の
多くのばあいとおなじように,見えない手に導かれ,自分が全然意図し
てもみなかった目的を促進するようになるのである。かれがこの目的を
78
(188)
千葉大学
経済研究
第29巻第2号(2014年9月)
全然意図してもみなかったということは,必ずしもつねにその社会に
とってこれを意図するよりも悪いことではない。かれは,自分の利益を
追求することによって,実際に社会の利益を促進しようと意図するばあ
いよりも,より有効にそれを促進するばあいがしばしばある。わたしは,
公共の幸福のために商売しているというふりをする人々が幸福を大いに
(スミス『諸国民の富』Ⅰ,
増進させたなどという話を聞いたことがない。
」
大内兵衛・松川七郎訳,679―680頁)
以下で本論に向かわねばならないが,もう少し検討しておくことがあ
る。
Ⅳ
市民社会と国家の間係――高島善哉
これまでのスミス研究は国家をどう位置づけてきたか。高島善哉の
『経済社会学の根本問題』
(1941年)がその典型である。同書は「経済
と国家」の問題を考えるのに貴重な方法を教えてくれる。
同書は1930年代の日本とヨーロッパにおける危機を背景として生まれ
ている。それは世界史的には,自由資本主義が修正資本主義へと構造的
に変化する時であった。日本では満州事変後の準戦時統制が日中戦争を
契機に戦時統制に発展し,欧米に対抗して「新秩序の建設」を「聖なる
任務(前掲書,序,1頁)としていた。日本は自由資本主義の「市民社会
(同書,242頁)にあったのである。自由主義の「夜
そのものの解体期」
警国家」や「安価な政府」は受け入れられず,個人主義は「国民協同体」
への移行を求められていた(同書,111頁)。
このような時にあえて近代市民社会を研究することは,それが封建制
(同書,
や絶対主義に対立するだけでなく,「全体主義国家への対蹠物」
188頁)となることを意味したのである。内田義彦は後にこの問題意識
を継承して経済学史のテーマに変換し,スミスは中世的なものだけでな
く,近代市民革命後の本来的重商主義の「全体主義」を批判したと解釈
(189)
79
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
していく。
以上のような時に現代の経済学は時代の課題に立ち向かっているか。
高島は現代の経済学を純粋経済学,マルクス経済学,ドイツ歴史学派お
よびその系統を引く経済学と3つに整理し,それぞれの特徴と問題点を
あげる。そしてそのどれも不十分だと批判して,新たな経済学を構想す
る。それも経済学の歴史研究において。その研究の仕方を見ると,彼は
経済と政治を切り離してあれ「か」これかと対立させるだけでなく,あ
! !
れ「と」これというように,お互いを媒介させ関係づけている。その方
法が当時の現代に緊要の課題となったのである。
当時,ヘーゲル思想が復興し,全体主義のイデオローグにされていた。
ヘーゲルは『法の哲学』において人間社会は「家族」から「市民社会」
をへて「国家」に至って完成すると説いていた。中間の市民社会は利己
的な欲求の体系であるが,同時に人間が全般的に依存しあうところでも
! ! ! !
あって,それを通過することは論理的に必然なことであった。その限り
でヘーゲルは市民社会をプラスに評価する。だがその反面で,市民社会
は内部での競争の結果,貧富の格差を生む。その問題は市民社会内の職
業団体と市民社会の上に立つ行政によって解決されねばならない。そこ
で市民社会は最後の国家段階に入らねばならない。
和
哲郎はこのヘーゲルを重視した。彼は『倫理学』上(1937年)に
おいて社会を諸個人の集合でなく,家族・地縁・経済組織・文化団体等
の人倫組織の集合と考えた。この集団はそれぞれの目的を実現するため
に私的なエゴをかなり抑制している。また集団が諸個人の契約によって
作られるのであれば,そこにはどうしても個我が残るから,契約による
集団作りは否定される。彼は集団を個人に優先させるのである。そして
国家が人倫集団の最終公認者に位置づけられる。たとえば結婚するには
両親や周りの人の承認も必要だが,それは国家への届け出によって確立
する。こうして和
80
では集団形成にあたっての自発性が消えてしまうの
(190)
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経済研究
第29巻第2号(2014年9月)
である。彼はヘーゲルが市民社会を人倫の喪失態だと結論したことを受
け,市民社会を超克するには私的所有権を保護するのでなく,それを法
的に規制すべきであり,さらには国家統制をすべきだと考えた。高島は
この和
の考えにどう対応したか。
高島はヘーゲルが市民社会を論ずる点で反封建的であったと評価する。
またヘーゲルは市民社会での欲望の体系はスミス的に理性の狡智によっ
て自律しているとつかんでいた。でも市民社会は国家に向けて人倫を発
展させるための通過点でしかなかった。それはゲマインシャフトという
目的への過渡段階でしかなかった。高島はそれに対抗して,市民社会か
ら国家への道を急ぐな,もっと市民社会に内在せよと説く。彼は市民社
! ! ! !
会をヘーゲルのように論理の体系の中でなく,歴史的に「それらの生成
(同書,58頁)ものとして研究する。彼はその市民社
過程を持っている」
会を二つの方角から考察した。一つはF・リストの生産力創造の理論で
あり,それは半分ロマン主義的で半分現世的・自然法的な思想である。
もう一つはホッブスからスミスに至る社会思想史研究であり,最終駅の
! ! ! ! !
スミスにおける市民社会が一つの全体であって,そこに固有の倫理と秩
序があると議論される。
まずリストであるが,当時のドイツ経済学を歴史的にたどると19世紀
の彼に到着する。彼はドイツ・ロマン主義と国民国家統一への動きを背
景に活動しているが,反省してみると,市民社会の一定の成熟の上に
立っていることが了解される。こういうリストが,高島からすれば,正
しく受けとめられていなかった。時代はリスト復興の機運にあり,日本
はそれをナチス・ドイツから輸入していた。リスト復興者は国家的「全
体を経験論的に探り出してゆかないで,いきなりこれを手に取って見よ
! ! ! ! ! ! ! ! !
(同書,243頁)
うとする」
。その国家的全体はこれから作られねばならな
い。彼らはリストの国民生産力論や発展段階論(最終第5段階が植民帝
国)に対して直ちに今日の統制経済とブロック経済のモデルを,また大
(191)
81
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
陸的な直観理論を見ようとしていた。それは一面的で政治的であったの
である。
! !
高島はそれとは反対にリストに内在する。そして本当のリストを復興
させることで,これまた正しく受けとめられていなかったスミスを本当
のものにしようと考える。それが彼の最終目的であった。リストへの内
! !
在とはスミスとの比較を含むのであった。当時の学界の常識ではドイツ
の政治経済学はイギリスの自由主義経済学と対立し,それよりも優れて
いるとみなしていたが,彼は両者を相互に浸透させたうえで,反対にス
ミスの方がリストに優越すると論証していく。彼はこのように「冷静な
歴史研究」をもって「学説史研究の現代的意義」を示すのである。
ここに「スミスとリスト」というテーマが生まれる。この「と」は繰
り返すが,抽象的にあれかこれかと対立させるのでなく,あれとこれに
関係があることを発見し,そのうえでどちらかをとる方法であった。そ
の時に誰を誰と比較するかによって,歴史研究の現代的有用性が決まる。
高島は他の研究者のようにリストをフィヒテと,あるいはスミスをカン
トと対比することはない。彼はリストとスミスを比較する方法をとる。
この「と」の方法も後の内田によって深められる。内田は当時のハイエ
ク対ケインズという対抗図式でなく,「スミスとマルクス」というもっ
と大きな枠組を作って両者を対立させ,かつ関連させる。
再度,言おう。比較は「同一表面上の対立」であっては「真の対立」
にならない。比較は比較対象の違いを際立たせるだけではあまり意味は
ない。比較対象は「内面的必然的連関」をもち,「差異の故に統一され
るべき」ものであってこそ,意味あるものとなる。たとえば,リストは
「祖国と人類」を標語にしたが,高島はそれがイギリス経済学に対する
ナショナリズム性を示すとともに,イギリス経済学の世界性に依拠して
いると理解する。また彼はリストがイギリスの近代的な「正常国民」を
めざすことで,半分自然法的で,合理的であったと押さえる。リストは
82
(192)
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第29巻第2号(2014年9月)
ロマン主義の影響を受けているが,過去に感傷を感じることはなく,未
来に向けて創造的なのである。それは「スミスによってリストを理解す
る」ものであった。すると今度は逆に「リストによってスミスの真の姿
(同書,9,244頁)こともできる。スミスは市場分析に終始
を描き出す」
するのでなく,直観的で主体的な把握もしているのである。高島はこの
点での「忘れられた経済学者」スミスを掘りおこしていく。
以上の「スミスとリスト」というテーマはリストを「経済学史におけ
! !
る一つの流れ」のなかで理解する時に見えてくる事実である。この通史
のなかの事実を発見することころに「比較研究の妙味」と「問題の面白
! !
(同書,6頁)がある。これは個別に埋没しない高級な実証研究であ
さ」
り,地面をつついて文献や資料を漁るだけでは発見できない事実である。
高島はなぜこれほどにドイツ経済学の歴史に食い入ったのか。それは
日本のこれからの経済学の建設にとって示唆することがあると思ったか
らである。リスト自身は意識しなかったが,創造や政治の理論は後発国
(同
の「ドイツを近代資本主義化するためのドイツ的在り方に外ならぬ」
書,66頁)ものであった。
「ドイツ経済学こそはドイツ的市民社会の理論
(同書,66頁)
がそれに隠れて忍び込んだ学問形式であった」
。言い換え
れば,ゲマインシャフトの倫理を強調することによって「ドイツ的ゲゼ
(同書,65頁)のであり,ドイツにおける
ルシャフトの実現を企図した」
市民社会はマンチェスター派の自由貿易論でなく,それを否定するよう
な思想形式や保護貿易論によって作られねばならなかったのである(同
書,337頁)
。これは歴史の逆説=真実という事態であり,山田盛太郎が
すでに資本主義および学問表現の類型論として出していたものであるが,
高島はそれを受け継ぎ,内田等の研究に遺していくのである。
では日本における市民社会の発展はどんな形をとるか。高島はドイツ
的形態でよいとは言わない。彼はその答を求めてスミス研究に向かう。
以上の経済学史研究であれば,高島が「シヴィル」を政治的な「公民」
(193)
83
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
(参
でなく,非政治的・非軍事的・非宗教的な,つまり経済的な「市民」
照,
『道徳感情論』第5版の第5部第2章,310頁)と訳しても意味があると
言える。彼は国家のあり方をドイツと異なる道をたどって研究するので
ある。
スミスにも国家はある。それはどういう国家か。『国富論』は前半で
市民社会を経済学的に分析し,後半で重商主義の政策を批判して自由主
義国家の働きと財政を論じている。高島によれば,前半は「経済的革新
家的情熱」にあふれ,後半は「国士的政治家的高邁さ」(高島前掲書,196
頁)にひたされている。でも彼は両者は矛盾しないと言う。どのように
してか。後者の政治家・立法者は経済世界の法則を研究したうえで改革
を行なっていく。また『国富論』第5編は国家を構成する諸力――常備
軍中心の国防,公平な司法,国民初等教育,教会と政治の分離,課税4
原則――を展開するが,それらは前にも指摘したように,分業と交換の
市民社会史によって客観的に根拠づけられる。それはしかし,国家を経
済史に還元するものでない。スミスは「市民社会の下部並びに上部にわ
たる複雑なる諸相」をそれとして研究しているのである。
高島の結論はこうである。「スミスにおける国家は市民社会を包みな
(同書,198頁)
がら,しかも逆に市民社会のうちに吸収される」
。
以上のようにして,高島は経済学史研究を通して現代経済学の再出発
を期そうとした。私は前掲の拙著において,高島が指摘した市民社会の
上部・下部の諸相を具体的に描いてみた。以下でも,市民社会と国家の
! !
関係を『道徳感情論』第6版を使って改めて発掘してみたい。
Ⅴ 「システムの精神」批判の本質
1
問題の始まり:エックシュタイン訳『道徳感情論』の注
4)
W.エックシュタインは『道徳感情論』
をドイツ語に訳した(1926
年)人であるが,版の異同を最初に,それも本格的に調査した人である。
84
(194)
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第29巻第2号(2014年9月)
現在ではグラスゴー版が精巧を極めた版研究をしており,伝記本では最
近の I.ロスのものが参考になる。
エックシュタインは『道徳感情論』第6版の第6部第2章のなかにあ
る spirit of system「システムの精神」をParteidoktrinarismusと訳し,
そこに注をつけて,スミスは1789年のフランス革命に対応していると解
釈した。その解釈が日本でも米林富男の『道徳感情論』訳によっても採
用され,研究者にも受け継がれてきている。それは内田のスミス解釈と
微妙にずれていた。内田はスミスの自由主義をイギリスの急進的なブル
ジョア・ラディカルズやフランス革命とつなげていたのである。
一つだけ文献上の注意をしておく。「システムの人」という名こそ与
えられていないが,その内容は既にフランス革命の40年前に出た同書初
版の第4部第1章に出ていた!これだけでも「システムの精神」批判は
! ! ! ! !
フランス革命に対してだけでないことが分かる。
フランス革命はヨーロッパに大変な衝撃を与えた。それはスミスの住
むスコットランドにも伝わり,さらにヨーロッパを越え,非ヨーロッパ
の植民地にまで広がった。スミスはそれにどう対応したか。
4)『道徳感情論』はその筋を追うだけでは理解できないものがある。スミスはど
こでも最初に命題をあげ,次にそれを例証するのだが,それは絵画のように
描かれ,文学的にすら表現されている。だがその表現は修辞的でなく即物的
であった。英語文を声に出して読んでいけば,必ず感動する場面にぶつかる。
それを日本語に写しとるのは至難の業であるが,訳本はその点で原本と並ぶ
一つの「作品」となるべきである。この本を読む人は自分の心と行ないが読
まれていると感じるだろう。同書は研究対象である以前に人生を問う書と
なっている。それに読者は意識や文化の面で異質なものにぶつかる。
「公平な
観察者」は心のなかの「一般的な人」
(a man in general)であるが,それは
個別にこだわるわれわれ日本人にとって理解するのに時間がかかる。また第
5版までの旧版ではキリスト教の贖罪信仰が人間性にかなうものとされてい
たが,異教であり無教でもあるわれわれがそれを心に実験することは優しく
ない。
(195)
85
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
2
伝記家のスミス政治論から
スミスの伝記家で彼の政治思想について見過ごすことのできない言及
をした者がいる。ロスの最新の伝記は後で検討することにして,ここで
は J.レーとF.
W.
ハーストを参照しておく。
(1895年)は今日では事実の上で補正すべきことが
レーの『スミス伝』
多いが,社会と人を見る目は確かであった。彼はスミスの政治思想につ
いても以下の注目すべき評言を残している。研究者は以下の①∼③を整
合させる道を探らねばならない。①同書第12章。レーはスミスがフラン
ス遊学中にラングドック県のモンペリエにある議会を見学したことを記
している。そこでの「県議会の復活と知事の抑制」による統治(――混
合政体!)はフランスの旧制度を改めようと考える者にとってモデルで
あった。②同書第14章。レーはスミスが陰険な政治屋と公的な理想をも
つ政治家を区別したと述べる。彼はさらにスミスが後者の政治家につい
て,理想のみを追求して臨機応変でない政治家と既得利害や確立した習
慣を考慮する賢明な政治家を区別したことを指摘する(――第6版の解
釈に生きる!)
。スミスは書斎の人であるが,世俗的に慎重な見解をも
合わせもつ人としてまったく特異であったと評される。③同書第18章。
ダンズダウン侯爵が伝えるところでは,D.スチュアートはスミスの自
由主義は革命中のフランス主義と同じものであり,国内で彼に対する疑
惑が起こったと証言している。
(1904年)である。それは不当に無
次はハーストの『アダム・スミス』
視されてきた。彼は歴代の『国富論』編集者が陥ったように無暗に博学
を衒うことがなかった。博学は「研究者」の詮索心をそそるだけであり,
スミスの思想像を読者にはっきりイメージさせる点でマイナスとなるこ
とが多い。彼はこの批判的姿勢をそのスミス伝でも貫いている5)。
ハーストは「正義と治政とに関する講義」に注目する。彼はその講義
! ! !
がミラーの証言の第3部と第4部の双方にわたると解釈するが,当たっ
86
(196)
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第29巻第2号(2014年9月)
ている。それはスミスが『道徳感情論』
初版の末尾で読者に約束したテー
マであった。そこから便宜に基づく政治的規制の部分を展開する『国富
論』が独立する。だから彼はスミスの経済学は純粋経済学と違って政治
経済学であると解釈する。それも少し注意をすれば当たっている。ハー
ストは経済学的部分より政治学的部分に重きをおくので,バランスを欠
くうらみはあるが,彼ほどスミスの政治思想を的確に捉えようとした伝
記家はいないのである。
ハーストは『国富論』の執筆過程に章をあて,その表題を「政治と研
究」
(!)としている。彼はその最初に,スミスがフランスから帰った
1766年から67年にかけてロンドンで行なった政治家との二つの仕事を取
りあげる。私はその二つを学位論文(1989年)で検討しておいた。スミ
スが帰国した時はヨーロッパの至る所で不満が抱かれて自由が求められ
ており,スミスが講義していた法学・政治学の中の商業・財政・植民地
論が「政治の第一線の問題」となっていたのである。特に植民地論につ
いて,スミスは「深く動かされ,時期を失しない中に政府をして融和策
(ハースト,前掲書,160頁)
を採らしめようと熱心に努力していた」
。ス
ミスの経済学は実際政治に役立とうしたのである。ハーストのこの指摘
も当たっている。彼も言うように,スミスの経済論は「抽象的な術語の
! !
連続で人を遠ざけることがない」
。それは「人間研究の一部門」として
論じられる。だから『国富論』は今日まで生きながらえたのである(同
5)ハーストは『道徳感情論』に対してもポイントをつかんだ理解をしている。
以下にただ一例だけをあげておこう。
「公平な観察者」による「共感」は道徳
を判断する基準であるが,それはすべての感情に対して公平なのではない。
「公平な観察者」は人の異例な幸福よりも小さな喜びに,反対に小さな苦し
みよりも深い苦悩に共感しやすいから,きまぐれである!これはスミスの議
! !
論が道徳感情の基礎的原理だけでなく,道徳感情が不規則になる現実 を了解
することに向かっていると知るうえで鋭い指摘である。読者は同書のどの
! ! ! ! ! ! !
部・編でも最初の部分だけでなく,常に終わりに向けて読み進めねばならな
い。
(197)
87
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
書,162―163頁)
。
ただし,ハーストは『道徳感情論』第6版での政治論にほとんど言及
していない。ロスがその欠を補っている。
3 18世紀西欧の知的世界における「システムの精神」批判
まず一般に「システムの精神」はどう見られていたか。それはすでに
認識論や科学の世界で問題にされていた。それが政治の世界における
「システムの精神」批判と関連するのである。
E.カッシーラーは『啓蒙主義の哲学』(1932年,中野好之の名訳がある)
において18世紀の啓蒙主義一般の精神的態度を的確につかんでいた。同
書は今日でもおよそ「啓蒙」を問題にするのであれば,参照されねばな
らない本である。カッシーラーは啓蒙主義の本当の価値をそれが説く内
! ! !
! ! !
容(啓示批判や絶対君主批判等)でなく,新しい考え方や認識の手続き
を示したことにおく。ものごとを知るのに「体系の精神」があっては邪
魔になる。だが啓蒙主義は「体系的精神」を捨てよと主張するのでなく,
知識を固定的な体系の枠に閉じこめることに反対するのである。この啓
(
『ベルリン月刊』1784年12月号)とと
蒙主義はカントの「啓蒙とは何か」
もに啓蒙に対する通俗の一知半解に反省を迫るものである。
カッシーラーは本論でもっと具体的に啓蒙主義の考え方の特徴に論及
する。彼は18世紀の「体系の精神」批判の一つの源が17世紀のニュート
ンの科学思想にあると認める。彼はニュートンがデカルトのように体系
のための体系を求めたのでなく,事実の中から観念や一般的な言葉を獲
得したと評価する。ニュートンは実証された事実と事実の間にある内在
的な関連を,法則を,見つけたのである。カッシーラーは続けて科学の
方法を的確に言い当てる。法則は諸事実の探索が進むにしたがってはっ
きりしていくが,新しい現象の出現に対しては自らを反省するものであ
る。だから科学は事物の秘密を最終的に暴いたと言うことはできず,た
88
(198)
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だその解明に近づいたとのみ言うことができる。
カッシーラーは「体系の精神」に対抗する学問の一つとして生物学を
あげた。それは「記述の精神」を発揮し,事実と現象を収集することに
専心する。生物学は生物的現象をある観点から種や属に分類することは
あっても,分類自体を目的にすることはない。スミスも1756年に『エ
ディンバラ評論』に寄稿してレオミュールの昆虫誌に注目していた。ま
た生物はある型から別の型へ移行し変化する。自然の生命はこういう流
動状態にある。これは19世紀になって発展する進化論的発想である。進
化論は「体系の精神」からは生まれないのである。この点でビュフォン
はまだその『博物学』において体系好みから脱却できないでいた。
科学は理性の働きと言われるが,カッシーラーはそれに注意を与える。
彼は17世紀的な理性や合理主義と18世紀的なそれらと区別する。前者は
理性をもてば永遠の真理を知ることができると考えるが,後者はもっと
謙虚であって,理性は人間が所有するものでなく,それでもって真理に
近づきうる手続きにすぎないと考えるのであった。
1751年に刊行が始まった『百科全書』はカッシーラーが特徴づけた科
学的方法を提示していた。その「序論」に辞典の目的と方法が示される。
その目的は知識のすべてを順序と関連をもって示すことであったが,
その方法がやはり18世紀的であった。知識はその起源にさかのぼって調
べられ,観念は感覚に負うことが確認される。道徳や神ですら感覚が出
発点になっているのである。諸学は人間にとって有用な農業・医学から
始まり,そこから自然探求の諸科学が発展し,さらに幾何学と代数学を
生んでいく。その抽象的で一般的な学問から感覚の直接の対象に戻り,
それを再構成する学問が生まれる。それが力学と天文学だとされる。こ
れらの学問は物体間の相互関係を探るが,その時に諸事実の間に共通す
る少数の原理が発見される。それが「体系的精神」の働きであって,
「体
系の精神」とは区別される。体系的精神は相互関係の認識をどこまでも
(199)
89
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
追求し,その背後に何かの力があると神秘的に考えることはない。スミ
スもこの体系的精神を発揮して『国富論』を著したと言える。
スミスは『百科全書』を読んで,前掲の『エディンバラ評論』に「刊
行者への手紙」を寄稿してスコットランドの人々に紹介した。
『百科全
書』の編集者の一人であるダランベールは,イギリスとフランスは前世
紀末から商業戦争を繰り返してきた敵国同士であったが,学問の世界で
は両国はお互いに影響を与えつつ良い意味で競いあってきたと述べてい
た。スミスも同じ立場で両国の学問の特徴を,そして交流によって知識
が共有されることを確認する。また繰り返しになるが,スミスは1755年
に6年前の1749年からずっと「不変のテーマ」を抱いてきたと表明して
いた。それは経済の分野では重商主義政治家の「体系の精神」を批判す
るものであった。
4
スミス研究者による政治上の「システムの人」解釈
わが国のスミス研究者は「システムの精神」や「システムの人」にま
つわるスミスの政治思想をどう捉えてきたか。
A
高島善哉
高島善哉は『原典解説
(1964年,303―304頁)のなか
スミス『国富論』
で,スミスのフランス革命観には言及していないが,スミスがケネーの
「根本態度」や「心持ち」を批評しているところに注目した。スミスか
ら見ると,ケネーは医者として人体に対するのと同じく,政治体に対し
ても「純思弁的な医師」であって,厳格な養生法を守らなければ健康を
維持できないと考える人であった。ケネーに戻ると,政治体は自然の法
則に支配されるが,人間はそれを「啓蒙された理性」をもって認識せね
ばならない。その成果が「経済表」となって現われ,そこに経済の自然
法則が示されるのである。この「自然の秩序」を実現するには啓蒙的専
制君主によって「完全な自由と完全な正義」が与えられねばならない。
90
(200)
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経済研究
第29巻第2号(2014年9月)
平田清明はそれを「法専制」
(デスポティスム・レガール)と表現した
(『経済科学の創造』1966年)
。高島はこのケネーに「システムの精神」
を見出し,それをスミスの経験的自然法と対置させる。スミスでは経済
秩序は各人の思い思いの「自然的努力」が「みえざる手」によって自然
に作られていくのであった。ケネーの処方箋は事物の外から与えられ,
国家は経済の上に置かれるが,スミスの処方箋は事物の成り行きに即し
て自然に生まれ,その国家は経済のなかに吸収されるのである。高島は
そのように両者の考え方の特徴を示した後で,その違いの客観的な背景
を指摘する。それは英仏における重商主義の段階・型と近代市民社会の
発達程度の違いであった。
高島の比較史的解釈は正当であるが,それではスミスの手法はイギリ
ス経済の発展の充足感の上に安住することになり,スミスが時代に対し
てもった緊張感は薄められる。そこを内田義彦が埋める。
B
内田義彦
(1953年)を著すが,その問題意識の熾烈さと
内田は『経済学の生誕』
何層にもわたる検討の深さは余人の及ぶところでなかった。スミスは
いったい何を問題にしたのか。内田はスミスが経済学に下向していく過
程をしっかりつかまえるまで『国富論』には入らないのである。彼の研
! !
究はすべていわゆる「見えざる手」の真実を究明することに捧げられた
と言っても過言ではない。彼はエンゲルスのどうということもないスミ
ス評――スミスは『国富論』において国家を空洞化した――に「中味を
(前掲書,70頁)ことを自分の目的とした。彼はその平明な言
あたえる」
い方で大変なことをやりとげたのである。
空洞化すべき国家とは市民革命後の本来的重商主義の国家であるが,
内田はその国家の役割を高島よりも経済理論的に具体化し,権力を使っ
て貨幣資本循環G−W<A …P…W’
―G’
を作ることであったと捉え
Pm
る。J.スチュアートがその『経済学原理』で展開したのと似て,国家
(201)
91
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
が資本制的生産の前提や条件を与えるのである。ここでは経済人はその
ままでは公的な存在にならず,為政者の指導によってのみ社会人になる
ことができる。でもやがてその前提は再生産の過程のなかから結果とし
て生まれるようになる。そこに経済が自律するのである。
その場合に内田が独特なのは経済の自律性を丸山が理解したような再
生産過程や近代経済学的な均衡論のところでなく,近代資本主義の原理
である「価値法則という一つの「見えざる手」の働き」のところで捉え
たことである。価値法則とは商品交換を媒介とした社会的分業の下では
商品の交換価値は投下労働によって決定されることである。内田にとっ
てこの価値論なしの価格論や再生産論は考えられないのである。そして
また独特なのは,その価値論を市民社会の思想史研究とつなげたことで
ある。等価値の交換は人の心に次第に厳密で正確な私的所有権の法意識
を育てる。お金を借りたらいつ・誰に・どれだけ・どんな方法で返すか
は明確に決められる。相手が日ごろ嫌いな人物であってもその者が侵害
されればその怒りに共感することもある。そこまで交換的正義の感覚は
成熟する。そして経済が自律すると,国家のこまごまとした政策はいら
ない,必要なのは私的所有権の保護だけだ,国家が行なうべき仕事はそ
れ以上でもそれ以下でもない,後は放っておいてくれということになる。
その歴史の歩みを邪魔するのが重商主義の法律であり,それは自分を維
持しようとして圧政的となる。事実,当時の羊毛法等がそうであった。
でも改善された習俗が実際の法律の不条理さを耐えがたいものにさせ,
正義は結局は「自己実現」していく。彼はそう見通すのである。丸山の
疑問はここから生じていた。それほどに社会自身で秩序ができるのであ
れば,どうして国家は必要なのか,と。丸山とは別にわれわれも「自己
実現」に人間の手はいらないのかと疑問に思うのである。
内田の方では以上の価値法則=歴史法則をもっと具体化して「中味」
をだした。そこに注目すべき議論が二つあった。一つはスミスはルソー
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と国際的な共同研究をしたということ,他はヒュームの功利主義を批判
したということ。
「スミスとルソー」について。政治学史や社会思想史ではルソーは社
会契約論者,スミスは自由放任論者と対立させられている。内田は反対
に両者をお互いに浸透させることで両者の個性を押し出す。彼はその方
法を高島善哉等のテーマ「スミスとリスト」から受け継いだのであるが,
スミスをルソーと媒介させる点で,彼らとは異なる。
内田はスミスが『エディンバラ評論』に寄稿した文書から,スミスが
ルソーの『人間不平等起源論』における文明社会の危機意識を共有しな
がら,ルソーをひっくり返して別の解答を出したと読みとる。高島はス
ミスとケネーを比較して,スミスはフランスよりも相対的に繁栄してい
るイギリスを背景にして出てきていると見た。それは,しかし,時代の
なかの当事者の意識に十分に内在するものでなかった。自由主義はのっ
ぺら棒に実現するのではない。この高島に対する内田の批判は少し角度
が違うが,大塚久雄の経済史研究に対しても向けられていた。内田はル
ソーと関連させることでイギリスにおける歴史法則を見出す。それは名
誉革命後の体制のなかで生じた二つの政治危機(「ウィルクスと自由」
運動,ヨークシャー運動)を胎動としながら,アメリカの独立承認・財
政改革・対仏自由貿易を行なうことによって,原蓄国家は自由主義国家
へ移るというものであった。その場合にスミスは合理主義の側に置かれ
る。他方,ルソーのフランスではブルボン絶対王政を倒してフランス革
命を起こし,ブルジョア的所有権を成立させていく。その場合にルソー
は反資本主義の旗を掲げてロマン主義の立場にたち,上からの資本主義
を支えた「啓蒙主義」を批判して下からの資本主義化を進める条件を探
る。それがロック的な労働に基づく所有であり,それによって人格の独
立は基礎づけられる。ところで以上の二つの歴史法則は世界史的には重
なっている。すると,スミスの課題は私的所有権の確立に基づく自由貿
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
易を!ということになり,フランス革命是認につながる。これはとても
通俗の経済学史研究者では捉えることのできない歴史認識であった。
ところで,歴史法則は客観的に分析することで発見できるが,それは
!
直接には目に見えない。内田はそう言って,歴史法則の貫徹の仕方を具
! ! !
体的に知ろうとする。目に見えるのは英仏の旧帝国主義国間の対立であ
り,ナショナリズムの跋扈であった。歴史法則はその現象に覆われてい
る。彼はその様を描くのである。実に複層にわたる歴史理解ではないか。
そこでスミスは自国の国家批判に入る。彼はそのためにイデオロギー
となっている法学の批判に向かう。そのことは『道徳感情論』に示され
ている。内田は『道徳感情論』を倫理学の本というよりも,『国富論』
に方法を提供した書と位置づけるのだが,そのことを彼ほど思想燃焼的
に究明した者はいないのである。
内田は批判すべき重商主義に内在してそのなかに二つの魂を見つけた。
一つが自己労働に基づく所有であり,他はそれを否定して他人労働を搾
! !
! !
!
取することである。西欧の近代資本主義に特殊なことは前者(価値)か
!
ら後者(剰余価値)へと移行することであるが,重商主義はそれを国家
! ! !
の暴力と排他的なナショナリズムを通じて強行した。スミスはその重商
主義を批判するのであるが,その課題を自分の学問的テーマに変換する。
当時の法学は法と政策を全体のための効用をもたらすか否かでもって価
値判断していた。したがって,それを批判するのに,ヒュームのように
道徳を功利主義に基礎づけるのでは十分でない。そこで内田はスミスが
「共感」論に拠ったことに注目する。スミスは人間の感情と行動の良し
悪しを「公平な観察者」による「共感」で基礎づけていた。スミスは人
間の徳性のうちで所有権=正義だけが権力によって強制でき,それを破
る者を処罰できると認める。その正義には物だけでなく,人の生命と名
誉に対する尊重も含まれ,広く人権にかかわっている。内田はこの人権
が国家権力で守られることを正当化するものは何かと問う。それは正義
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を破ると「シヴィル・ソサエティ」は維持できないからか。これは理性
や社会的効用の観点からの価値判断である。スミスはそうでないとはっ
きり答える。人は直接には,特定の人に加えられる特定の被害に立場交
換をし,その被害者の憤りの感情に共感するから,国家の処罰を認めて
いる。社会秩序を考えることはその共感による正当化を後で強めるもの
でしかない。個人への関心は全体に対する関心からは起きない。全体に
対する関心は個人に対する関心から構成される,と。スミスは同じこと
を自然界にも適用した。自然界では個体の維持と種族の増殖という目的
のために手段が実にうまく配置されている。そして手段はそれ自体のた
めに追求されている。だからと言って,それは悪いことだけではない。
目的を直接追求しても,うまく実現するとは限らない,と。スミスはこ
の「自然の欺瞞」を,手段の自己目的化を認めるのである。内田は以上
のように理解して「見えざる手」を思想的に深めた。この考えかたはあ
の R.プライスの道徳論を批判するものであり,やがて『道徳感情論』
第6版第6部にも生かされることになる。
内田のスミスは社会的効用の観点からの正義の強制では公益の名目で
国家強制力を働かせる範囲を不当に広げてしまうと懸念するのだが,こ
の重商主義の法の下で追求されたのが貨幣的富,黒字の貿易差額であっ
た。スミスはそれに対して真実の富,消費的富,生産と消費のバランス
を追求する。内田は法学者スミスの後ろに経済学者スミスを見ていく。
以上まできて,内田はようやく『国富論』のなかに入ることができる
のである。それが経済学の「生誕」の意味である。
ところで,内田はスミスの政治論に関しては少し読み込みすぎてし
まった。スミスは以上の「見えざる手」の内実をもって重商主義政治家
の「上級の慎慮」を批判したと解釈される。そこから重商主義の全体主
義的な政策が出てくるとも言われる。だがスミスは実際には「上級の慎
慮」を批判してはいない。「上級の慎慮」の内容は後述するように,反
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スミス経済学における政治の位置・問題の構成
対に重商主義的政治家や「システムの人」批判につながるのであり,さ
らには『国富論』やその改訂で窺えたように,スミスの自由主義を実現
する時にも要求される政治行動であったのである。この点の展開は後に
廻さねばならない。ただ,内田が「システム」と言う言葉を注解してい
るところはマルクス歴史理論を理解する上で大事である。――システム
は学説と政策の2つを含み,学説の上に立つ政策のことである。それは
一定の階級の利害を隠しているが,ある程度それから独立している。だ
からある階級の利害は「システムの精神」をもった政治家を媒介にして
実現される。その媒介の理論的な環となるのが学説である。この「シス
テムの人」によってのみ重商主義植民帝国の建設はできた(参照,内田
前掲書,297頁)
。
私は以上の「システムの人」論にあまり付け加えるものをもたない。
内田はスミスの理論は人の心とその「変化」の洞察の上に立てられてい
ると考える。それは本当に奥深い把握であった。その証明はスミスの次
の認識からもできる。アメリカ植民地は今は航海条例に従って鉄の輸出
を本国に限定されているが,それは広いイギリス市場を保障されること
になって植民地には有利である。だが将来彼らがその鉄を加工できる技
術をもつ段階になれば,人心は変化して,その規制に我慢しなくなるだ
ろう。内田はまたこう押さえる。スミスは「システムの人」が社会をな
す人間がどう考え行動するかを見ないで自己の哲学をおしつけることを
嫌った。そして,スミスは自由な土地所有の創出を基礎にした国際間の
自由貿易の必然性を見通しつつ,自由貿易が急速にか徐々にか実現され
るのは人心の変化を基礎にして決定されねばならないと主張した,と
(参照,同書,306頁)
。内田は気づいていたのか分からないが,「システ
ムの人」批判はスミス自身の自由主義的改革に対する自己規制でもある
ことを認めているのである!
C
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水田洋
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「システムの人」批判とフランス革命との関係について幾つも発言し
(1973年)の
ているのは水田洋である。水田は彼が訳した『道徳感情論』
解説で次のように,スミスはフランスで起きた1789年7月14日の事件の
新聞報道や「フランスにおける革命」の新聞記事を知って革命前夜にお
ける民衆暴動から革命について判断したのでないか,と推論した(参照,
同訳書,541頁)
。また水田はスミスが同年のフランス革命における民衆
の動きを1761年のカラス事件の時のトゥールーズの民衆の動きと同一視
したと推測し,スミスのフランス革命理解は正しくないと解釈していた。
この推測は妥当か。
水田のスミス論は常に伝記的実証にこだわって慎重である。彼はフラ
ンス革命に対する3人の態度をあげる。E.バークは反発し,J.ミ
ラーは支持する。他方で,D.スチュアートはスミスの思想が危険視さ
れるのを恐れて発言を抑制したと述べ,スミスはそれらのどれでもない
と消去法的である(参照,同書,540頁)。スミスの政治家・立法者観が積
(1965年)下の「解
極的に論じられることはない。彼はその訳書『国富論』
説」でも同様であって,スミスのフランス革命観は文献実証的にみると,
プライスやバーク,T.ペイン等のように詳しく知ることはできない。
それはその通りであるが,だからと言って,スミスに政治思想があるこ
とを見過ごすことはできない。
問題は次のことにもある。スミスは第6版でカラスの最後の抗議に言
及して旧版とは異なって良心と世論と対立させたが,この第6版におけ
る変化は彼が社会の異質的な構造に気づいたことを意味する(「哲学と思
想」1973年10月,第10号)と解釈される。それは妥当な解釈か。スミスは
初期には社会の同質性を,後期にはその対立性を知ったとみなされるの
(422頁)にお
である。他方,水田は上掲の訳書『国富論』下の「解説」
いては高島の比較史的方法を受け継いで,スミスは産業革命中のイギリ
スの進展に満足しており,急激な改革を望まなかったと解釈している。
(207)
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これでは両者の解釈は整合しなくなるのでないか。また第6版における
スミスの考えに変化はあるにしても,それは断絶的なのか,以前にあっ
たものを表に出して発展させたのか,もっと検討が必要である。
(1968年)で,スミスはフ
水田はもう一つの本『アダム・スミス研究』
ランスの貧困に対して改革の必要を認めたが,それは革命を予言したこ
とにならないと言う。これは文献実証的には当たっているのだが,ここ
でもスミスの政治像は間接的にしか提示されない。スミスはフィジオク
ラットのような理想主義的改革者でもフランス的なブルジョア革命の思
想家でもなく,そうかといって反革命の側でもない。ではスミスはどこ
にいるのか。
水田に対しては以下のような問題点をあげることができる。スミスの
考えはブルジョア・ラディカルズの主張と違うのは確かであるが,フラ
ンス革命の急進性を前にして改良的・保守的になったと解釈する余地を
残したと思う。これは次の二つの点で再検討する余地がある。①「シス
テムの人」はフランス革命に対してだけでなく,前にも述べたが,スミ
ス自身の自由主義の実践に対する自己規制でもある。水田ではそのこと
が見逃されている。文献実証的にはフランス革命以前の『国富論』第2
版(1778年)のなかで,スミスは1773年の改訂穀物法に関連させて漸進
的な自由化を進めるソロン的立法者を評価しているのである。②産業革
命はスミスの自然的システムを,またはスミスのユートピアを,実現し
たものか?スミスは資本主義を階級社会として分析しているが,その社
会から生ずる疎外を見逃していない。それは水田の方法では捉えられな
い。
付注 ケネー研究はスミス研究にどう対応したか。その一例は平田清明に
(『経済学説全集』2所収)においてスミ
ある。平田は「スミスの重農主義批判」
ス研究に対して以下のように反論する――スミスとケネーを二つの自然法思
想の違いとして比較するのは社会思想史研究の成果である。だがスミスのケ
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ネー批判は彼の方法や思想的根本態度・心性を示しているとしても,その前
後の経済理論的文脈から切り離されてはならない。スミスはどんな理論的主
張をしたか。それはケネー「経済表」を批判しており,スミスの節約・蓄積・
生産的労働論は穀物輸出奨励金制度に対する批判と関連されている。この理
論的アプローチから比較すれば,ケネーの再生産論の優越性が確認される。
高島はスミスがケネーから再生産論を学んだことは認めていた。内田もそ
のことを認め,スミスの再生産論を生産的労働論 (特に第2規定に注目して)
において展開した。私も高島・内田を受けてスミスの社会的再生産の過程を
表に作成してみた。平田はこれらのスミス研究に対してケネーをもっと理論
内在的に捉え,マルクス再生産論の成立につなげていくのである。
5 「システムの精神」
・政治改革 対 保守的な習慣・時効論
最後に,スミスと比較して3人の政治思想を取りあげておく。
1) J.チュルゴー
チュルゴーは重農学派の一員であるが,セクト的精神の持主でなく,
自由主義的であった。その点で彼はスミスに近いが,スミスの方はチュ
ルゴーが正しい改革のためには世論や偏見を無視してもよいと考えたこ
とに批判的であった。
(津田内匠訳『チェ
チュルゴー自身は「ヴァンサン・ド・グルネー賛辞」
ルゴ経済学著作集』所収)において,自分の思想をこう語っている。――
グルネーは変革に敵対的な人々から「体系の人」と呼ばれた。だが彼は
一切の事柄を自分の考えに合わせたり,一部を見ただけで全体を判断す
る「体系の精神」の持ち主ではない。彼は内的に確信した真理から正確
な論理によって帰結を演繹した。人はその一貫性のために彼を「体系の
人」とそしるが,彼は自分の考えを事物に合わせようとした点で真に考
える人であった。体系にもこの二つの意味があるのだ。彼は生きた経済
を法規や検査によって指導することはできないと考え,政府はすべての
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人を歩くにまかせよと主張したのである。彼は公共的な精神とまっすぐ
な心情をもち,私的利害を通すために例外を求めることには頑固に反対
した。人は一般的には自由取引を認めるが,個別のことになると利害と
慣習のために原理の修正と例外を求める。彼はそういう例外は国民のた
めにならないと考えて拒否した。だから彼は体系論者と非難された。
チュルゴーはそこまで述べて,しかし現実には手加減は必要であり,
改革には準備と慎重さが求められるとブレーキをかけるのである。そう
とすれば,スミスのチュルゴー評はそのままでは受け入れられないが,
チュルゴーは財務総監として穀物輸出の自由を実施した時にはこの慎重
さを保持できなかったのである。スミスの批判が当たるのはこの時の
チュルゴーに対してである。
2) R.プライス
スミスは1785年12月22日付け G.チャーマーズ宛の手紙のなかでR.
(1789年1月4日
プライスを批判するが,プライスの『祖国愛について』
講演)にどう反応したか。一般に「イギリスにおけるフランス革命」は
プライスの『祖国愛』から始まるとされる。イングランドでは産業革命
の過程で非国教徒の多くが財産と教養をもつ中産階級に上昇していき,
そこから政治改革の動きがフランス革命の刺激を受けて出てくる。その
指導者がユニテリアン牧師の科学者プリーストリーと哲学者のプライス
であった。1788年11月4日に革命(リヴォルーション)協会で宣言が出
され,プライスが89年11月4日に演説をする。プライスはそこでフラン
ス革命を擁護し,名誉革命体制を急進的に改革しようとする。この彼の
主張は民主主義に向かう大きな歴史から見れば正しかったと言えよう。
英仏は17世紀末から2大強国として争い,お互いに相手を「自然の敵」
とみなしてきた。そこでは愛国心が常に煽り立てられてきた。スミスも
プライスと同じくその愛国心の意義は認めるが,その論じ方や位置づけ
が異なる。スミスはプライスが求めることを人間性の立場から実現しよ
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うとする。
プライスの主張の趣旨はこうである――「賢明な人」は偏愛的な祖国
愛をもたない。祖国愛には正しくて合理的なものと偽の野心的なものと
がある。両者は区別されねばならない。人間の関心は自然の命令に従え
ば,自分・家族・恩人・友人・祖国・人類の順序をとるが,人類全体の
利益がまずあってこそ,その他の利益もあるのだから,それが優先され
ねばならない。祖国愛は世界市民や「普遍的仁愛」と対立するものでな
い。(ここはスミスとの対応上,注意しておかれたい。
)
――自由な祖国とは祖国の法律に従属することであり,祖国の行政官
に対して尊敬が払われることである。国王をほしいままに軽蔑すること
は社会秩序の破壊となる。だが権力は国民から発された信託に基づいて
おり,権力者自身に備わった権利ではない。国民は君主に追従してはい
けないが,君主も国民に対して高慢になってはいけない。知識のある人
間的な市民は統治者が公衆の下僕であって公衆によって作られることを
知っている。(ここもスミスの大衆観と比較するうえで注意が必要であ
る。
)祖国を侵害するもののうちで特に注意せねばならないのは国内に
いる敵である。それはモッブであり,権力への盲目的な追従者であり,
権力を私物化する者である。
――名誉革命は完全なものでなかった。その原理を知って完全なもの
にするのが今日革命を記念する意味である。どこが不完全か。国家構造
において代議制が不平等である。選挙は腐敗し,統治機関は金銭づくに
なっており,それらは正されねばならない。非国教徒は公民権を要求す
るが(――審査律の批判のこと)
,それは役職に就こうと望むからでは
ない。政治的正義に目覚める人は道徳的にも優れていなければならない。
3) E.バーク
(1791年)においてプライスの『祖国
バークは『フランス革命の省察』
愛』に直接反論した。そこから保守主義と急進主義との論争が始まる。
(211)
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バークにとって政治の仕組は名誉革命によって決められており,フラ
ンス革命はそれに対立するものであった。彼は平等を人為的に求めるこ
とは将来独裁を招くと予測するが,それには当たる部分があった。彼は
国家改造には慎重であって,政体変革のイノヴェーションを嫌うのであ
る。ただ彼は改善や再建のリフォーメーションは受け入れる。国家構造
を変えることは過去からの伝統や先例・典拠を保存するためにあると限
定される。これは保守主義の政治思想である。
バークはプライス等の急進主義のように政治的権利の根拠を人民の意
志におくことはない。権利の根拠は「時効」におかれる。現在の君主や
上院議員・大臣・僧侶は選挙されていないが,役職を相続することや年
数を経ることによって正当化されるのである。バークはこの時効の議論
をもってアプリオリな理論を攻撃していく。だがアプリオリの議論にも
その背後には現実的な要求があったのだが,バークはそれを理解するこ
とはできなかった。
時効の議論は実際には家柄のあるホイッグ貴族=世襲の土地所有者に
よる寡頭制を擁護するものであったが,それでもそこに汲み取るべきも
のはあった。政治の担当者は徳と英知の持ち主でなければならず,読書
と思索をする時間の余裕をもって社会の複雑な関係を広い視野で観察し,
名誉や義務を尊重せねばならないだろう。しかしそれも実際には社会の
一部の層に限られた資質であった。バークは勤勉・堅実・判断力をもつ
富裕な商人が政治に参加することを認めるが,新興のブルジョアや下層
大衆は外される。民衆のなかからわれわれにも政治のことは分かると声
が出ても,彼は認めないのである。こうしてみると,彼の社会観は身分
階層的であり,各階層はそれぞれの義務をもってタテのモラル――自己
卑下と上位者に対する忠誠心――で結ばれるのである。人は急進主義や
フランス革命のように横に水平的につながるのでない。バークはその民
主主義には自己欺瞞や虚栄心・野心が伴うと道徳的にマイナスの評価を
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する。では道徳的判断の基準はどこにおかれるか。それは過去から集積
された経験の詰まった習慣=成心(プレジュディス)におかれる。それ
が国民的な英知であると,少し神秘化されてしまう。
こういうバークにとって国教会は国家構造に不可欠のものとなる。そ
こではこの世のことはすべて神の指図による,摂理によると教えるから,
現存の秩序を破壊することは抑制される。政治と宗教は結合されるから,
政教分離が「真の宗教」を復活させるとは考えない。この点でスミスと
は異なる。したがってプライスら非国教徒の公民権要求は退けられる。
こうしてバークは熱狂的になって反革命運動に向かい,国家は道徳的
なもので王や貴族は威厳をもち,僧侶は神聖であるとまで激していく。
また彼は同じホイッグのなかの左派・フォックスがフランス革命を認め,
イギリス議会の下院の権威を高めようとすることにも反対する。彼はイ
ギリスの憲法は民主的原理と専制的原理との混合憲法であるから,どち
らか一方に傾くことはできないと主張するのである6)。
ペインはこの混合政体観に反対し,フランス革命をモデルとし,普通
の人間による平等社会を実現しようとした。彼は社会結合の原理を偏見
でなく理性に求め,権力の正統性を人民の意志におく。彼にとって政治
は平易なことであり,大衆に統治能力はあったのである。19世紀のイギ
リスはそのことを実現していったと言えよう。
(1920年)とともに,
われわれはH.
J.
ラスキの『イギリスの政治思想』
6)バークはフランス革命に対立するが,その思想は突然生じたものでなく,以
前からのものであった。1764年にアメリカ植民地は本国イギリスの圧政に対
抗しだすが,その時に彼が植民地側の議論をサポートしたものと同じであっ
た。また,1767年に「ウィルクスと自由」運動が起きた時に君主が混合政体
を崩そうとしたり,民衆の側から「革新の精神」が出てくる時に,それらに
反 論 し た も の と 同 じ で あ っ た。参 照,
『現 代 の 不 満 の 原 因 を 論 ず』
(1770
年),1774年に2度にわたってブリストルで行なった演説,同年にアメリカ課
税に関して行なった演説,1775年に行なった植民地との和解決議に関する演
説。
(213)
103
スミス経済学における政治の位置・問題の構成
以上のバークの保守主義から何を受けとめるべきか考えねばならない。
バークには健全な部分があったと言える。それは自由は過去の国民の経
験から生まれるという「一種の自発性」の思想である。思想や理論が一
般の人々に受け入れられるのは,それまでの慣習ではもはや人々の願望
を満たさなくなる時である。また大衆が公共の政治に参加するには,暴
力を爆発させるのでなく,貴族に独占されていた教育と政治訓練を自分
のものにすることが必要となる。それは繰り返すが,『国富論』におけ
るスミスの宗教論や国家教育論で準備されていたものである。
以上で『道徳感情論』第6版に入る準備は一応できたと思う。
(2014年7月8日
104
受理)
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経済研究
第29巻第2号(2014年9月)
Summary
The Position of Politics in the Economics of Adam Smith
─On Some Interpretations of‘Spirit of System’
─
Toshiharu NOZAWA
Adam Smith gave a critical comment on the‘spirit of system’and
the‘man of system’in the sixth part of the Theory of Moral Sentiments
which enlarged the past edition. The concept of two‘spirits’has been
interpretated by Walther Eckstein as the comment on the French
Revolution in 1789. It is partly true. We must pay attention to the context of the sentence which includes the word of‘spririts’
. Because
Smith thought the sovereign prince and royal reformer of all political
speculators as most dangerous. These speculators are the reactionaries to the established constitution.
In addition to that, we must take care of the followings. Firstly,
Smith proposed the invariable theme in 1755. He criticized the statesman of mercantilism who interrupted the natural course of things as
despotic tyranny like‘man of system’
. Secondly, he regarded Quesnay’
s agricultural system in the Weath of Nations contrary to the empirical natural law and liberalism. Lastly, he concluded that the request of perfect free trade would be irrational. Free trade should be
gradually brought to realization,considering the unemployment of laborers and the interest of employers who have invested much money
in the fixed capitals. In short, Smih’
s critic of‘man of system’was
self-control to his own assertion of free trade.
(217)
107
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