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ニュージーランドと戦犯裁判 ――戦犯裁判終了へのイニシアティブ
ニュージーランドと戦犯裁判 ――戦犯裁判終了へのイニシアティブ 林 博 史 要旨 対日戦犯裁判の打ち切りのイニシアティブをとったのはニュージーラ ンドだった。ニュージーランドは東京裁判に判事と検察官を送り込み、日本 占領にも参加したが、東京裁判におけるアメリカ人首席検察官の訴追指揮の まずさや不必要に長期化する裁判の現実を前に、自らは BC 級戦犯裁判をお こなっていなかったニュージーランドが戦犯裁判終結を提起していった。そ の結果、極東委員会での「勧告」決議となり、対日戦犯裁判は終結を迎える ことになる。 キーワード 戦犯裁判 東京裁判 太平洋戦争 ニュージーランド 極東委 員会 昭和天皇 はじめに 第二次世界大戦後、連合国は日本軍の戦争犯罪に対して戦犯裁判をおこ なって裁いた。侵略戦争を計画、準備、開始、遂行した国家や軍の指導者 については、極東国際軍事裁判所(東京裁判)を設置して、11 か国が判 事と検事を送り込んでいわゆるA級戦犯を裁いた。同時に、戦時国際法に 違反する具体的な非人道的行為については、連合国 8 か国(中国国民政府 と中華人民共和国を考えると9政府)がBC級戦犯裁判をおこなって、通 例の戦争犯罪などを犯した戦争犯罪人を裁いた 1。 これらの連合国の中で、ニュージーランドは日本の降伏調印文書の正式 の調印国の一つとして、極東委員会に参加し、かつ東京裁判には判事と検 事を送り込んだが、自らはBC級戦犯裁判を実施しなかった。このニュー ジーランドが、1948 年より極東委員会において連合国の戦犯裁判の終了 に向けて動きはじめた。ニュージーランドの提案を基に、49 年 2 月には 極東委員会においてA級裁判の打ち切りを決議、3 月にはBC級裁判の終 了日を設定する勧告決議を実現し、戦犯裁判終了に向けての連合国の動き ─ 51 ─ に大きな影響を与えた。 なぜニュージーランドがこの段階で戦犯裁判の終了に向けて積極的な動 きを見せたのか、この点について日暮吉延氏は、 「ニュージーランドは、 独自のBC級戦犯を抱えていない点」を指摘している 2。その点はその通 りであろうが、まだ十分に分析がなされているとは言えない。本稿では、 この戦犯裁判終了の決議を中心に、ニュージーランドの第二次世界大戦中 における対日戦との関わりを含めて、その動向を検討したい。 Ⅰ 第二次世界大戦とニュージーランド 第二次世界大戦へのニュージーランドの関わりは、1940 年に英連邦軍 の一員としてエジプトに派兵したことに始まる 3。戦争中は一個師団 (ニュージーランド第 2 師団)が北アフリカから地中海地域での戦闘に従 事した。 対日戦に関しては、南太平洋でいくつかのイギリス領の防衛を担当し た。ハワイとクック諸島を結ぶファニング諸島やフィジーなどに派遣、太 平洋戦争の勃発後の 1942 年 5 月には第 3 師団が編成された。 ただニュージーランドが防衛を担当した島々は後に米軍が管轄するよう になり、第 3 師団は本国に送還された。またニュージーランドには米軍の 南太平洋方面軍司令部(最高司令官ハルゼー海軍提督)が置かれ、第 1 海 兵師団もやってきて、約 2 万名の米軍が駐留することになった。 1942 年 8 月以降、米軍がガダルカナル攻略戦に乗り出すと、ニュー ジーランド空軍がその支援に派遣される一方、陸軍第 3 師団はニューカレ ドニアの防衛にあたり、またノーフォーク島やトンガの警備にも部隊が派 遣された。 この間、ニュージーランド政府は地中海方面に派遣していた陸軍の一部 を太平洋方面に戻すように米英両国に求めたが実現せず、第 2 師団は 1943 年 10 月からはイタリア攻略戦に参加、45 年 5 月にはトリエステの占 領に参加し、ヨーロッパの戦争が終わるまでヨーロッパにとどまった。 太平洋では第 3 師団の構成部隊がトレジャリー諸島などの攻略戦をおこ なったが、兵員不足が深刻な問題となり、44 年秋に第 3 師団は解散する ことになり、太平洋戦線ではニュージーランド陸軍はほとんど貢献するこ とはなかった。 ニュージーランド海軍は 2 隻の軽巡洋艦を中心とする部隊で、大西洋や ─ 52 ─ インド洋での戦闘に参加した後、43 年にソロモン海沖の海戦に参加、45 年にはイギリス太平洋艦隊に加わり、沖縄戦や日本本土への攻撃作戦に参 加した 4。 空軍はヨーロッパでは、イギリス空軍の指揮下に参戦するとともに、太 平洋地域では、シンガポール、マラヤ防衛に参加、その後はガダルカナル やフィジー、ソロモン諸島などで戦争に参加した。 第二次世界大戦におけるニュージーランド軍は、最大時で 15 万名あま り、海外に従事した将兵は最大時 7 万名ほどである。そのうち戦死者は 1 万 1671 名、負傷者 1 万 5749 名、捕虜 8469 名となっている 5。当時の人 口が 163 万人ほどであったので、軍に動員された人数はかなり大規模で あったと言える。 大戦前はニュージーランドの日本に対する関心はきわめて低かった。 1936 年時点でニュージーランド在住の日本人はわずか 72 人にすぎず、い くらかのウールが日本に輸出されていただけで経済関係も乏しかった。反 アジア感情も強く、輸出の 9 割以上を占め続けていた母国であるイギリス 志向が強かった。しかし大戦を経て、戦争が終わった 1945 年時点では日 本の侵略からの防衛が重要な関心事となっていた 6。 ただし本国のすぐ北側のインドネシアからニューギニアに日本軍が侵攻 し、さらに北海岸地域がくりかえし日本軍による空襲をうけたオーストラ リアが非常に強い恐怖心を抱いたのに比べて、ニュージーランドは戦場か ら 3000 キロは離れていたことから、 「この危機に対する反応は明らかに大 きく異なっていた」と言えるだろう 7。そのことが戦犯裁判においての両 国の姿勢の違いにつながっていくのではないかと思われる。 Ⅱ 日本占領とニュージーランド 日本の敗戦後、日本の降伏調印にあたってニュージーランドも署名国と して参加した。イギリス政府は英連邦軍として日本占領に参加することと し、その英連邦軍にインドとオーストラリアに加えてニュージーランドに も軍隊の派遣を求めた 8。1945 年 12 月にマッカーサー連合国軍最高司令 官と英連邦軍司令官との間で合意がなされ、英連邦軍は中国四国地方の占 領を担当することになった。英連邦占領軍(British Commonwealth Occupation Forces: BCOF)は、オーストラリア軍のノースコット中将を司令官と し、オーストラリア、イギリス、インド、ニュージーランドから部隊を派 ─ 53 ─ 遣して構成された。司令部は広島に置かれた。オーストラリア軍が広島 県、英印軍が岡山、鳥取、島根と四国 4 県、ニュージーランド軍が山口県 を担当した。英連邦軍は 1946 年 2 月よりこの地域に駐留を始め、ニュー ジーランドは、イタリアにいたニュージーランド第 2 派遣軍から部隊を日 本に送ることにし、イタリアから移動させて 46 年 3 月に日本に到着し占 領任務についた。長期にわたってヨーロッパで戦ってきた部隊を復員させ ずに引き続き占領軍として日本に派遣することには抵抗があったようだ が、本国を含め太平洋地域には派遣できる部隊がなく、ヨーロッパから移 動させることになった。ただ 7 月以降、本国で召集した将兵との交代を急 いで進めた。 英連邦占領軍は当初の部隊は全体で 3 万 5000 名あまり、うちオースト ラリア軍が 1 万 1400 名あまりで最も多く、ニュージーランドは 4425 名を 派遣した 9。山口県では、長府、小月(下関) 、山口、平生、防府、岩国 などに駐屯した。このニュージーランド第 2 派遣軍の主力部隊は陸軍第 9 歩兵旅団であり、その司令部は長府におかれた。このニュージーランド占 領軍は、JAYFORCE と呼ばれている。 英連邦軍は 1946 年 11 月にイギリスが一個旅団を撤退させる決定をおこ ない、47 年 2 月に撤退させた。その後、ニュージーランド軍の撤退につ いても議論が進み、ニュージーランド軍は 48 年 7 月から 11 月にかけて撤 退し、占領任務は米軍に任された。 日本占領に関して、ワシントンに設置され 1946 年 2 月から活動を開始 した極東委員会にもニュージーランドは 11 か国の構成員の一員として最 初から参加した。この極東委員会を通じて、連合国による対日占領政策へ の発言権を確保した 10。 日本の戦争犯罪に対する英連邦諸国の会議にはニュージーランドもオー ストラリアなどと並んで参加しており、46 年 4 月に開廷した東京裁判に おいても、ニュージーランドは 11 か国の一つとして判事ならびに参与検 察官を送り込んだ。判事を務めたエリマ・ハーベー・ノースクロフトと参 与検察官になったロナルド・H・クィリアムは、ニュージーランドの戦犯 裁判政策に重要な影響を与えた人物でもあった 11。 BC級戦犯裁判については、ニュージーランドは独自の戦犯裁判を実施 しなかった。しかしオーストラリアの捜査陣のなかにニュージーランドの スタッフを送り込んで、ニュージーランド人が被害者となった戦争犯罪事 ─ 54 ─ 件を追及した。なかでもジェイムズ・ゴッドウィンは、東京でオーストラ リアの戦争犯罪捜査陣に加わって捜査をおこなっていたが、近衛師団長西 村琢磨中将の戦犯裁判において、証拠を操作して西村中将を死刑に追い込 んだ人物として問題にされている 12。 ニュージーランドに関わる日本軍の戦争犯罪としては、英領植民地ギル バート・エリス諸島のタラワ(現在、キリバス共和国)とオーシャン島 (バナバ島、現在、キリバス共和国)でのニュージーランド人の殺害、シ ンガポールなどで日本軍に捕らえられた捕虜の虐待であった。タラワで は、22 人の英連邦人が日本軍によって処刑されたが、かれらは沿岸監視 員として勤務していた者たちであり、そのなかにニュージーランド政府の 無線通信員も含まれていた。オーシャン島では 6 人のヨーロッパ人が処刑 されたが、そのなかの 1 人がニュージーランド人だった。南太平洋の島々 には、イギリスの植民地支配、あるいは英連邦による委任統治のために ニュージーランド人がそのスタッフとして派遣されていた。また沿岸警備 や無線通信のためのスタッフもいた 13。 捕虜の虐待事件については、オーストラリアが香港でおこなったサヌキ 丸のケース、アメリカ陸軍が横浜でおこなった大船収容所のケースなどに ニュージーランドも関わっている。前者は先に紹介したゴッドウィンが被 害者のケースであり、後者でもゴッドウィンが法廷で証言している 14。 ニュージーランドの場合、南太平洋の一部の島に残って日本軍に捕まっ たニュージーランド人が殺害されたケースと、捕虜への虐待が、日本の戦 争犯罪に関わるケースであった。オーストラリアの場合は、ニューギニア などで日本軍と直接の戦闘を繰り広げ、また多くの委任統治領が日本軍に 占領されたこともあって日本軍の戦争犯罪との関わりが大きかったのに対 して、ニュージーランド軍は日本軍との直接戦闘をほとんどおこなってお らず、日本軍に占領された委任統治領も少なかったこともあって、戦犯裁 判になったケースは非常に少ない。日本軍によって数多くの空襲を受け、 直接の軍事的脅威をうけたオーストラリアとは、かなり違った戦争体験で あったと言えるだろう。 Ⅲ 天皇の訴追問題 天皇を戦争犯罪人として訴追するかどうかについてのニュージーランド の政策について一言で説明すると、天皇が戦争犯罪人に相当するという認 ─ 55 ─ 識を政府関係者の何人もが持っていたが、政治的理由により訴追を留保し たと言えるだろう。その点について見ていこう。 1946 年 1 月 18 日の『イーヴニング・ポスト』に東京のインターナショ ナル・ニュース・サービスの配信記事として、オーストラリアとニュー ジーランドの両者が太平洋の戦争犯罪人リストのトップに天皇を指名した という報道が流された 15。ニュージーランド政府は直ちにそれを否定する コメントを出し、翌日の新聞に掲載された。 1945 年 10 月 24 日に在ニュージーランドの米公使が米本国の国務省に 送った報告の中で、天皇について、捜査の結果、日本の侵略政策になんら かの形で責任があることが示されれば、裁判にかけられるべきであるとい うのがニュージーランド政府の考えであると報告されている 16。 問題の報道のあった 46 年 1 月 18 日、当時、極東委員会の一員として日 本を訪問していたカール・ベレンセン(駐米公使・極東委員会ニュージー ランド代表)は、外務省に対して、問題の報道についての真偽を確かめる 質問をしたうえで、 「私の意見では、ヒロヒトは疑いもなく戦争犯罪人で あり、適当な時期に適当な状況下でそのように処理されるべきである。し かし降伏条件と占領軍によって現在天皇を利用していることに照らして、 タイミングと公表の問題は深刻な困難をおこすだろう。たぶん、もっとも よい方法は当面、コメントを差し控えることだろう」と外務省に自らの考 えを伝えていた 17。 外務省が 1 月 19 日付で作成したメモ「ヒロヒトと太平洋の戦争犯罪人 リスト」では、「ヒロヒトを引き続き利用できる限り、ニュージーランド はヒロヒトの戦争犯罪への責任についての決定を保留することが好ましい だろう」と結論づけている 18。 1 月 21 日外務省からベレンセンに送られた電報では、新聞報道につい てそのような事実はないと否定したうえで、ただし今後、ヒロヒトの名前 を指名することを排除するものではないと説明し、状況によっては戦犯と して指名する可能性があることを否定しなかった 19。 さらに「ヒロヒトは降伏においても占領軍の任務を助けるうえでも有益 な役割を果たしてきたと考えるので、彼を戦争犯罪人として指名すること はきわめて注意深い考慮が必要であると思われる」と天皇を政治的に利用 する利点があることを指摘し、戦犯指名には慎重であるように主張してい る。またニュージーランド政府が主要戦争犯罪人として誰かを指名するか ─ 56 ─ どうかについては、十分な情報がないので独自のリストは出さないが、他 国政府が提出したリストへのコメントはおこないたいとしている。そのう えでタラワとオーシャン島での犯罪に関心があるとも伝えている。 1 月 30 日には、外務次官補のフォス・シャナハンからニュージーラン ド駐在オーストラリア大使に対して、 「天皇を戦争犯罪人のリストに入れ るかどうかという問題は、健全で民主的な基礎の上に日本の地位を確立し ようとしている占領当局にとって、天皇の価値あるいはほかの点について 後の時点でその評価が決定されるまで、留保されるべきであるというの が、ニュージーランド政府の見解である」と伝えている 20。これはロンド ンに設置された連合国戦争犯罪委員会にオーストラリアが提出した主要戦 争犯罪人リストのなかに天皇ヒロヒトを指名していたことへの意見表明で あった。 東京裁判の参与検察官であったクィリアムは、4 月 24 日の外務省への 手紙のなかで、検察団会議において、ソ連の代表が天皇を訴追者のリスト に入れるように主張しなかったのは驚きであると伝え、さらに 5 月 21 日 には、天皇の除外は避けられないと思うとの意見を伝えている 21。 このような経緯を見ると、ニュージーランド政府内では、天皇は戦争犯 罪人に相当するという考えが存在していたが、占領行政の遂行など政治的 に利用できることを考慮して、戦犯としての指名はおこなわないという方 針で臨んだことがわかる。この点では天皇訴追を要求したオーストラリア とは異なり、イギリスやアメリカに同調したのである。 Ⅳ 戦犯裁判終了への政府内の議論 東京裁判に参与検察官として関わっていたニュージーランドのロナル ド・クィリアムはすでに 1947 年 1 月の時点で検事の辞任の意思を本国政 府に伝えていた。これは翻意して残ることになるが 22、その直後の 3 月に は判事だったノースクロフトが辞任したいという意向を本国に伝えた。こ れも首相らが慰留した結果、判事を続けることになったが、検察ならびに 裁判長の運営方法のまずさによって長びく裁判に批判的だったことがうか がわれる 23。 同年 8 月にはクィリアムは、首席検察官のキーナンに対して、戦犯容疑 者を 2 年にわたって訴追することもなく拘禁し続けていることに抗議し、 そのことを本国にも伝えた。本国政府もそのことに衝撃を受けた 24。クィ ─ 57 ─ リアムは同年末には帰国してしまった。 1948 年 1 月 24 日、駐米公使館の参事官ガイ・リチャードソン・パウル スは、オーストラリアによる日本の戦争犯罪人についてのメモに対する意 見を外務省に送り、そのなかで、戦争犯罪捜査を 49 年まで継続すること に疑問を呈し、1948 年 12 月 31 日を期限として捜査を打ち切ることを関 係国間で合意するように提案した 25。ただパウルスは、極東委員会がその ための適当な機関だとしながらも、ニュージーランドがそのイニシアティ ブをとる必要はないし、好ましくないと主張していた。また当時、連合国 間で議論になっていた日本との平和条約に戦犯捜査と訴追についての条項 を入れるかどうかという問題についても、もし平和条約にそうした条項を 入れるとしても日本政府の責任でやらせてはどうかと提案している。 また 47 年末に帰国していたクィリアムは 48 年 1 月 29 日に首相宛に手 紙を書き、47 年 8 月に捜査の遅れと容疑者を長期にわたって拘禁してい ることについて首席検察官に抗議したことにも触れ、この問題は、現在進 行している東京裁判に続けて、新たな主要戦犯裁判をおこなうかどうかに 関連しているとし、降伏から時間がたっており、また現在進行中の裁判が 不必要に長期化していることを鑑みて、さらなる裁判は不適切であると意 見を述べた。なお他方では、東京裁判そのものへの批判に対して、東京裁 判は正当であると擁護している 26。 クィリアムに対して、外務次官補シャナハンは、3 月 18 日に書簡を送 り、主要戦犯についての第二の裁判はほとんど意味がないとしてクィリア ムに同意しながらも、A級戦犯であると同時にBC級犯罪で深刻な容疑が ある者をどう扱うかという問題があるとし、BC級について現在なお新し い深刻な残虐行為が明らかにされているが、その捜査の進行が遅いので、 捜査を促進するために終了日を設定すること、その期日としては 48 年 12 月 31 日が適当であるとの考えを伝えている 27。 シャナハンからの書簡に対してクィリアムはすぐに 3 月 22 日付で返事 を書き、第二のA級戦犯裁判には反対であることを改めて伝え、ただ「状 況が許せば、A級戦犯容疑者をBC級犯罪で裁判にかけることに賛成であ る」と伝えた。また捜査が困難であることは理解するが、迅速な裁判はき わめて重要であり、現在生じている長期にわたる遅れはきわめて深刻であ るとし、アメリカの法律家たちの無能ぶりを批判した。そして捜査と裁判 をできるかぎり速やかに終わらせるためには「終了日の設定は絶対必要で ─ 58 ─ ある」とし、捜査終了を 1948 年 12 月 31 日とするのであれば、裁判の終 了は、たとえば 1949 年 6 月 30 日とするのがよいのではないかと提案して いる。また平和条約のなかに戦争犯罪捜査と訴追が無制限に続くような規 定を入れることは好ましくないとも主張している。たしかに期限を設定 し、その後に得られた情報によって訴追できなくなると、重大な戦争犯罪 人が裁かれなくなるかもしれないが、捜査と裁判の遅れほどには深刻では ないだろうと、終了期限を設定することを主張した 28。 このようにして、本国、東京、ワシントンのそれぞれのニュージーラン ド 政 府 関 係 者 の 意 見 が 一 致 し た こ と を 受 け て、1948 年 3 月 29 日 ピ ー ター・フレイザー外相(首相が兼任)は、ワシントンの駐米公使ベレンセ ンに対して、適当な機会をとらえて極東委員会において次の提案をおこな うように指示した。 その内容は、第一に「A級戦争犯罪についてはこれ以上の裁判はおこな わない。ただし必要であればA級容疑者をBC級犯罪で裁判にかけるこ と」 、第二に「軽戦争犯罪の捜査に終了日を設ける。できれば 1948 年 12 月 31 日がよいだろう。またすべての裁判をできれば 1949 年 6 月 30 日ま でに終了させること」の二項目である 29。 Ⅴ 極東委員会への提案と議論 その直後の 1948 年 3 月 31 日、極東委員会の第五小委員会(戦争犯罪人 担当)が開催されたが、このときは東京裁判の首席検察官キーナンを招い て話を聞く場となり、ここでは戦犯裁判終了の提案を出すことを控えた。 この席でキーナンも、こうした国際法廷はもうやるべきではないという意 見を述べている 30。 この日、シャナハン外務次官補は東京のノースクロフト判事に対して、 外相からの 29 日付の指示の内容を伝えている。 ノースクロフトは、4 月 20 日にシャナハンに対して、「これ以上のA級 裁判は好ましくない」と外務省の見解に同意することを伝え、 「国際刑事 法の体系がはっきりと浮かび上がったとすれば、ニュルンベルクと東京で の裁判の主要な目的は達成されたことになるだろう」と東京裁判そのもの についてはその意義を評価しながらも、これ以上の裁判は必要ないことを 主張した 31。 なお極東委員会では、キーナンが出席した際に、戦犯容疑者の釈放は誰 ─ 59 ─ の権限なのか、釈放にあたってほかの連合国の代表と協議をしたのか、な ど質問が出されており、それらの疑問についての回答がなされるまで、 ニュージーランドの提案は提出を留保する状況が続いた。その間、オース トラリア政府が、1949 年 6 月 30 日までに裁判を終わらせるように最大限 の努力をすることを決定したということが伝えられ 32、それを受けて外務 省は 7 月 5 日、ワシントンのニュージーランド代表に対して、提案を提出 するように指示した 33。 この指示にしたがって、7 月 29 日に開催された第 117 回極東委員会に おいてニュージーランド代表は次のような提案をおこなった。第一項目と して、A級犯罪については、 「日本人戦争犯罪人のさらなる裁判をおこな わない」、ただしA級犯罪容疑者がBC級犯罪について裁かれることはあ りうる。第二項目として、BC級犯罪については、 「12 月 31 日以降は捜 査をおこなわない。またそれに関するすべての裁判は 1949 年 6 月 30 日ま でに完了するものとする」という内容である(FEC314)。この提案ととも に提出されたニュージーランド政府の説明書において 34、 「ニュージーラ ンド政府は、日本人戦争犯罪人容疑者の無期限に長引く裁判は、有用な目 的に貢献するものではなく、逆に日本国内において連合国の大義に不都合 な反応を引き起こすおそれがあると考える。すでに日本の降伏から 3 年近 くがたち、戦犯処罰のような敗北の直接の帰結を終わらせることを考えな ければならない時期がきた」と最初に述べている。そのうえで、A級戦犯 について、現在の裁判が予想外に長期化しており、さらなる裁判は、茶番 劇になるか、少なくとも厳しい批判にさらされる深刻な危険性が生じるか もしれないと、これ以上はA級裁判をおこなわない理由を説明した。 ついで、BC級戦犯については、 「まだ発見され裁判にかけられ処罰を 受けるべき個々のケースがあるかもしれないが、全体としてニュージーラ ンド政府は、これらの犯罪の裁判に期限を設定し、そうすることによっ て、現在の訴訟手続きと捜査を促進するためにあらゆる努力を払うべきで あるということが望ましいと信じる」と説明している。 この日、パウレス参事官は外務省に、本日、極東委員会に提案したこと を報告し、そのなかで、非公式な反応であるが、ソ連とイギリス、カナダ の代表は非常に好意的であり、米代表からも本国政府の政策はわからない が歓迎されるだろうと言われたことを報告している 35。 ニュージーランドの提案 FEC314 はその後、極東委員会の第五小委員会 ─ 60 ─ で検討されることになった。10 月 11 日の第 10 回第五小委員会の議論で は、非公式の態度表明であったが各国が意見を述べ、第一項(A級)と第 二項(BC級)の両者について賛成の意思を表明したのがフランスとイギ リスのみで、ソ連は「反対ではない」という意思表示だけだった。アメリ カとオーストラリアは第一項には賛成だが、第二項には保留した。オラン ダと中国は個人の意見としては原則として賛成を表明し、インドとフィリ ピンは本国からの指示がないとして態度を表明しなかった 36。 その後の第五小委員会ならびに執行小委員会の議論のなかで、いくつか の修正がなされていく。この提案を極東委員会としての政策決定文書とす るのか、あるいは勧告とするのか、が議論になる。勧告であれば、各国は 必ずしも守る義務はなくなる。また文章中に「もし可能であれば if possible」という文言を入れることが提案された。この文言が、何を修飾する のかをめぐっても議論がなされた。この文言が入れば、より拘束力が弱く なることは言うまでもない。 10 月 25 日の第 12 回小委員会において、第一項のみが政策の問題であ り、第二項は勧告とし、裁判終了日について「もし可能であれば」という 修飾語が付け加えられた修正が採択された(FEC314/2) 。その修正への賛 成はニュージーランド、オーストラリア、フランス、アメリカ、インドの 5 か国で、ソ連は反対、他の 4 か国は保留した。 この修正案が極東委員会の執行小委員会に回され、そこで、また修正が なされた。11 月 16 日の執行小委員会において、第一項を政策、第二項を 勧告とし、「もし可能であれば」という文言が捜査と裁判の終了期日の両 方にかかるように挿入された修正案が採択された(FEC314/4) 。これには ニュージーランド、フィリピン、イギリス、ソ連が保留したが、他の 7 か 国が賛成し採択された。 極東委員会でこうした議論がなされているなか、東京裁判では判決の朗 読が 11 月 4 日から 12 日までおこなわれ、刑の言い渡しが 12 日になされ、 ここに東京裁判は閉廷した。絞首刑の執行は 12 月 23 日であり、その翌日 には拘禁されていたA級戦犯容疑者が釈放された。 他方、GHQは 10 月 27 日に「戦争犯罪被告人裁判規程」を制定し、主 要戦争犯罪人に相当するがA級犯罪ではなくBC級犯罪について裁く、い わゆるGHQ裁判を実施することとした。この裁判は準A級裁判とも言わ れるが、実際に訴追されたのは 2 人の将軍だけだった。アメリカはこの裁 ─ 61 ─ 判をできるだけ国際裁判の形をとろうとして、各国に判事などの任命を依 頼した。ニュージーランドも判事任命の依頼をGHQから受けるが、11 月 6 日外相は東京の英連邦連絡使節団に対して、証拠収集には協力するが 判事推薦を断るとGHQに回答するように指示した 37。 11 月 24 日の第 129 回極東委員会においてオランダは、裁判を早く終わ らせるのは賛成だが、勧告の期限後もインドネシアで引き続き捜査と裁判 を実施できるようにしたいと拘束力を持つ決議には反対する意向を示し た。 12 月 9 日の第 131 回極東委員会では、フィリピンが反対意見書を提出 した。フィリピンは、 「残っているケースが 40 件、関係する容疑者が 150 人おり、1949 年 6 月 30 日までに終わらせたいが、同年 12 月 31 日までに は確実に終わらせたい」 。ただ早く終わらせることは重大な関心事である が、期限を切ることには反対であるとし、第一項のA級についてはGHQ がすでにこれ以上の裁判をおこなわないと決めているので決議は不必要で あり、第二項のBC級については、決議は各国の主権に属する問題への余 計な侵害であり、過度に急がせることは罰を受けるべき者を免罪するもの だとして、全体として反対の意見を表明した。 討論にあたって、カナダは、日本の侵略の主な被害を受けた国々が受け 入れられる提案に賛成するように指示されているとし、フィリピンが反対 するので採択の延期を提案、フランスやオーストラリアも延期に賛成し た。また東京裁判の判決に関して弁護側がアメリカの最高裁判所に訴えて いることも考慮され、審議は延期された。12 月 20 日に米最高裁が訴えを 却下した後の 12 月 30 日に開かれた第 135 回極東委員会では、フィリピン があらためて反対の意見を表明した。ニュージーランド提案の年末の期限 はすでに現実的ではなくなっており修正せざるをえなくなっていた。この 会議でオーストラリアやオランダも決議に否定的な意見を述べ、中国は、 全体が合意できるように修正した方がよいと主張し、結局、ニュージーラ ンド提案は再び第五小委員会に差し戻されることになった。 1949 年 1 月 12 日に開催された第 14 回第五小委員会において、この提 案が取り上げられたが、そこでは、A級戦犯裁判ははたして終わったの か、あるいは一時中断しているだけなのか、国際軍事裁判所は正式に解散 したのか、そうだとすれば誰の権限でそうしたのか、などの疑問が出され た。 ─ 62 ─ これは米政府に確認することになり、2 月 18 日の第 15 回第五小委員会 において、アメリカ代表からその回答がなされた。 アメリカの回答は、 「A級戦犯裁判は 2 月 4 日をもって終了した。なぜ ならA級戦犯容疑者はもはや拘禁されておらず、A級戦犯容疑者をさらに 逮捕することも検討されていないからである」 。正式の解散宣言はない。 ただし元A級戦犯容疑者を釈放したからといって、さらなるA級戦犯容疑 者の裁判を理論的に排除するものではないというものだった。 ニュージーランドは、BC級について捜査の期限を 1949 年 6 月 30 日、 裁判の期限を 9 月 30 日にするという修正提案をおこなった。それに対し てソ連が、第二項は各国政府に対する勧告であり、極東委員会の権限を逸 するとして、反対意見を表明した。議長(中国代表)は、決議を二分割す るというインドの提案(第一項の政策部分を委員会に提案し、第二項の勧 告は第五小委員会でさらに検討するという案)ではどうかと各国代表に打 診した。それに対して、明確に分割案を支持した国は米中印など少なかっ た。 ニュージーランドは修正提案(期限だけ修正)を採決に付すことを求 め、その結果、賛成 6、反対 0、棄権 4(米中ソ比)で採択された。この 修正提案(FEC314/7)が、2 月 24 日に開催された第 142 回極東委員会に 提出された。 Ⅵ 戦犯裁判終了決議の採択 ここでインドから決議を前半と後半で分割し、まず前半のみを採択する という提案がなされ、議長が非公式に打診したところ、全代表から同意を 得、決議案が第一項(A級関係)と第二項(BC級関係)の二つに分割さ れて、それぞれが文書 FEC314/8 と FEC314/9 にされた。そして FEC314/8 が採決に付され、賛成 9、反対なし、保留 2(フィリピンとソ連)となっ て採択された。 その内容は、 「極東委員会は、政策の問題として以下のことを決議する。 1946 年 4 月 3 日に採択された『極東における戦争犯罪人の逮捕、裁判、 処罰』と題された極東委員会の政策決定の第一条a項に分類された犯罪に 関して、日本人戦争犯罪人のさらなる裁判は行わない」というものであ る。 この第一条a項とは、 「平和に対する罪」 、いわゆるA級戦争犯罪を定め ─ 63 ─ た条項である。つまりA級戦争犯罪について、これ以上の裁判は行わない という政策決定である。ただこの段階では、すでに東京裁判の継続裁判は おこなわないことがアメリカ政府をはじめほとんどの連合国の意向だった のであり、実態を追認したにすぎないという評価も可能であろう。ただ 2 月 18 日にアメリカ代表が答えたように、今後、新たにA級戦犯裁判をお こなう論理的な可能性がなかったわけではないので、日本に関してA級戦 犯裁判はもはやおこなわないということを連合国の公式の政策として決定 したことの意味はあるかもしれない。 さて当初の決議案の第二項については採択が延期され議論がなされてい く。3 月 24 日の第 146 回極東委員会では、ソ連が、極東委員会には各国 政府に対して勧告を出す権限は与えられていないとし、そのうえで、極東 委員会の権限は日本占領に関しての政策決定にあるので、勧告ではなく 「政策の問題として」の決定とすること、ならびに日本でおこなわれる戦 犯裁判のみに適用されるように修正すべきであると修正提案をおこなっ た。フィリピンも各国の裁判にまで極東委員会が管理監督する権限はない など 4 つの理由を挙げて、あらためて反対を主張した。 同じ英連邦の隣国であるオーストラリアも、この決議はあまり意味がな い、オーストラリア政府としては期限までに終わらせるように努力する が、できるかどうかわからないと消極的な意見だった。この時期、オース トラリアは香港での裁判を 48 年末に終わってから、裁判にかけるべき ケースが残っていながら裁判地を確保できず、探していたところであり、 裁判を速やかに実施したいとは考えていたが、その目処がたっていない状 況だったことが、こうした意見に反映されていると思われる。 カナダもオーストラリアに同調し、実際に日本の被害を受けた国、特に フィリピンの意見を考慮し、カナダとしては保留するとした。このように 反対あるいは消極的な意見が多かったこともあり、イギリスは、採択の延 期に反対しないと表明、この日も採択はおこなわれなかった。 次に 3 月 31 日の第 147 回極東委員会では採択に持ち込まれ、賛成 6 (ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、アメリカ、フランス、 インド) 、反対 1(フィリピン) 、保留 4(カナダ、オランダ、中国、ソ連) で採択された。 ここで採択された決議は次の通りである。 「極東委員会は、委員会の構成国政府に対して、以下の勧告をおこなう。 ─ 64 ─ 1946 年 4 月 3 日に採択された『極東における戦争犯罪人の逮捕、裁判、 処罰』と題された極東委員会の政策決定の第一条b項ならびにc項に当て はまる犯罪に関して―上記の政策決定の第一条a項に当てはまる犯罪の容 疑者によって犯されたと申し立てられている、そのような犯罪を含む―、 もし可能であれば、捜査は 1949 年 6 月 30 日までに終了させ、そしてそれ に関わるすべての裁判はもし可能であれば 1949 年 9 月 30 日までに終了さ せる。 」 この短い文中に「もし可能であれば」という文言が二つも入り、捜査と 裁判終了日の両方にかかるように挿入されている。また政策決定ではなく 「勧告」であるということもあり、この決議は拘束力をもたないものとし て採択された。この点でA級の扱いとは異なっていた。 ところでイギリスはBC級戦犯裁判を実施するにあたって、いつごろま でを目処として考えていたのだろうか。イギリスがBC級裁判についての 基本方針を固めたのは 1945 年 10 月 12 日の司法長官が主宰した会議だっ たが、このとき 1946 年 7 月 31 日までに最低 500 ケースを裁判にかけ、残 された重要なケースはその後検討することとされている 38。しかし裁判が 始まると、とてもその期間では処理できないことがわかり、1946 年 7 月 になると陸軍省は同年 12 月末までに裁判を終了させるという目標を掲げ るように提案した。しかし対日裁判を担当していた東南アジア連合地上軍 など現地は、その期限ではとうていできないと反発した。ただ 47 年 6 月 末までにはできるだけ終わらせるように努力することとした。しかし実際 にはその期日をもこえて裁判は継続したが、48 年に入るとスタッフも大 幅に減らされた。47 年中に北ボルネオとビルマでの裁判が終了、48 年 1 月にマレー半島、3 月にシンガポールでの裁判が終了した。イギリスが実 施した最後の裁判は香港で 48 年 12 月 20 日に閉廷した。その後もいくつ かのケースの捜査は継続していたが、それらについても捜査の打ち切りが 決定され、今後裁判をおこなわないことが最終的に確定したのは 1949 年 10 月のことである。 東京裁判の終了は 1948 年 11 月であるが、各国の戦犯裁判の終了日は 39 、中華民国は 1949 年 1 月、アメリカは海軍が 49 年 4 月、陸軍が同年 10 月、GHQ裁判は 49 年 9 月、オランダとフィリピンは 49 年 12 月、フラ ンス 1950 年 3 月である。オーストラリアはほとんどが 48 年 12 月までに 終わっていたが、残りのケースを 50 年 6 月からマヌス島で実施し、終了 ─ 65 ─ は 51 年 4 月になった。なお極東委員会にも参加しておらず、1949 年に建 国された中華人民共和国は 1956 年に戦犯裁判を実施しているが、これは 例外である。 各国の終了日を見てみると、イギリスは明らかにこの「勧告」の裁判終 了日を意識して捜査を打ち切っており、アメリカも同じである。決議に反 対あるいは保留したフィリピンとオランダの場合も、終了期限を少し越え てはいるが、「勧告」の終了日を意識しているのではないかと思われる。 したがって、この「勧告」は当該政府に対して、その終了期日を越えて裁 判はできるだけおこなわないように、おこなう場合もできるだけ速やかに 終わらせるようにという圧力にはなったと考えられるので、現実の裁判の 進行に影響を与えたと思われる。 ニュージーランド政府内では、 「もし可能であれば」という文言がない 方がよかったという意見もあったが、それをいれなければ合意を得られな かっただろうということで納得せざるを得なかったようである 40。 日本国内でおこなわれていたアメリカ陸軍による横浜裁判は 1949 年 10 月 19 日に最後の裁判が終了した。その日、GHQは、日本における最後 の戦犯裁判が今日終了したと宣言し、極東においてアメリカはもはや戦犯 容疑者を拘禁していないと発表した 41。 この直後のニュージーランドにおける総選挙で第二次世界大戦中、 ニュージーランドの政権を担っていた労働党が敗れ、1949 年 12 月に国民 党政権が生まれた。1940 年 4 月から 49 年 12 月まで 9 年あまり続いた労 働党のフレイザー政権が終わった。 おわりに なぜニュージーランドがこのように戦犯裁判終了へのイニシアティブを 取ったのだろうか。 ニュージーランド政府関係の文書を読んでいると 42、ニュージーランド 政府の政策決定において、東京裁判に参加したノースクロフトとクィリア ムの意向が一定の影響を与えていたと思われるが、彼ら二人とも、戦犯裁 判の長期化には批判的であり、容疑者を裁判にかけずに長期にわたって拘 禁していることは許されないと考えていた。特にキーナンをはじめアメリ カの拙劣なやり方には痛烈な批判をしていた。またウェッブ裁判長の法廷 指揮に対しても厳しく批判していた。二人は東京裁判そのものの積極的な ─ 66 ─ 意義を評価していたが、検察や判事らの運営には苛立ちを隠さなかった。 裁判長期化への批判はすでに 1947 年中から生まれていた。 ニュージーランドは独自のBC級戦犯裁判をおこなっていなかった。ア ジア太平洋戦争において、日本軍との直接の戦闘をそれほど経験せず (ニュージーランド人の捕虜も少ない) 、また占領された地域(委任統治領 など)も小さかったことがその前提にある。 そのため重大な戦争犯罪が起きたにもかかわらず、犯人を特定あるいは 逮捕できず、または起訴できるまでの証拠が集まらない状況下で捜査を継 続しているようなケースはなかった。イギリスの場合、早期に裁判を終了 させる意図はありながらも、復員などによるスタッフ不足、戦争犯罪捜査 の困難さなどのために戦犯裁判が長期化せざるを得なくなっていき、早く 裁判を打ち切ると、重大な犯罪人を免罪する結果になってしまうことを恐 れ、その矛盾のなかで、ズルズルと終了時期が延びていった。そうした裁 判実施国に比べて、比較的に裁判打ち切りを言い出しやすかったことは指 摘できるだろう。 ニュージーランドの提案は、その矛盾のなかで悩んでいる各国政府に とっては、一部からは反発をうけることになるが、他方で、早期の裁判終 了を望んでいる点では各国ともに共通であり、その結果、多くの保留を出 しながらも極東委員会で採択されることになったのであろう。拘束力のな い、比較的に緩やかな勧告になったが、たとえばイギリスがシンガポール 華僑粛清での重大な責任者と見なしていた辻政信の追及を断念したのは、 この決定が影響していたことなどを考えると 43、戦犯裁判を終了させると いう連合国の意思表示として、裁判実施国に裁判終了への圧力となったと 言ってよいだろう。 (注) 1 その全体像については、林博史『BC 級戦犯裁判』岩波新書、2005 年、林博 史『戦犯裁判の研究―戦犯裁判政策の形成から東京裁判・BC 級裁判まで』 勉誠出版、2010 年、参照。 2 日暮吉延『東京裁判の国際関係―国際政治における権力と規範』木鐸社、 2002 年、541⊖542 頁。 3 大戦中のニュージーランド軍についての叙述は、David McIntyre,“New Zealand", in I.C.B. Dear ed., The Oxford Companion to the Second World War (Oxford: ─ 67 ─ Oxford University Press, 1995), pp.796-801. 4 ニュージーランドを含む英艦隊の作戦については、林博史『沖縄戦が問うも の』大月書店、2010 年、173-175 頁、参照。 5 David McIntyre,“New Zealand", pp.796-801. 6 Ann Trotter, New Zealand and Japan, 1945-1952: The Occupation and the Peace Treaty (Atlantic Highlands: The Athlone Press, 1990), pp.13-14. 7 F. L. W. Wood, The New Zealand People at War: Political and External Affairs (Wellington: War History Branch, Department of Internal Affairs, 1958), p.311. 8 ニュージーランド占領軍の経過については、Laurie Brocklebank, Jayforce: New Zealand and the Military Occupation of Japan 1945-48 (Auckland: Oxford University Press, 1997), Ann Trotter, New Zealand and Japan, Chapter 3, 千田武志『英連 邦軍の日本進駐と展開』御茶ノ水書房、1997 年、参照。 9 Laurie Brocklebank, Jayforce, p.54. 10 極東委員会の資料について注記のないものは、山際晃解説『The Far Eastern Commission 極東委員会』第 1・2 巻、東出版、1994 年、を参照。また極東委 員会関係文書などニュージーランドの外交文書について、Robin Kay ed., Documents on New Zealand External Relations, Vol.2 The Surrender and Occupation of Japan (Wellington: Historical Publication Branch, Department of Internal Affairs, 1982) からの引用については <DNZ> と略記する。 11 東京裁判へのニュージーランドの関わりについては、日暮前掲書のいくつ かの箇所で言及されている。また粟屋憲太郎『東京裁判への道』上下、講談 社、2006 年、戸谷由麻『東京裁判―第二次大戦後の法と正義の追求』みすず 書房、2008 年、も参照。 12 ゴッドウィンの捜査活動については、James Mackay, Betrayal in High Places (Auckland: Tasman Archives, 1996), 西村琢磨裁判との関わりについては、Ian Ward, Snaring the Other Tiger (Singapore: Media Masters, 1996) を参照。 13 戦争中にソロモン諸島などの島々でニュージーランドやオーストラリアな どのスタッフがおこなっていた活動の一端については、ジェフリー・ホワイ トほか編、小柏葉子、今泉裕美子訳『ビッグ・デス―ソロモン人が回想する 第二次世界大戦』現代史料出版、1999 年、において、島民たちの証言の中で 触れられている。 14 文書 106/3/22/Part6(ニュージーランド国立公文書館所蔵) 。以下、同国立公 文書館の所蔵資料については <NNA> 文書番号を記す。 ─ 68 ─ 15 <DNZ> pp.1508-1511. なお日暮前掲書 204 頁で天皇訴追問題についての ニュージーランド政府の対応を簡単に紹介している。 16 <DNZ> pp.1511. Ann Trotter, p.78. 公使の報告の出典は U.S. Department of States, Foreign Relations of the United States.1945, Vol.6, pp.782-783. 17 <NNA> 106/3/31, <DNZ> pp.1508-1509. 18 <NNA> 106/3/31. 19 <NNA> 106/3/31, <DNZ> pp.1509-15011. 20 <NNA> 106/3/30. な お 英 連 邦 諸 国 間 で は Ambassador( 大 使 ) で は な く High Commissioner と呼ばれているが、大使と同等の存在なので、ここでは 大使と訳した。 21 <NNA> 106/3/31. 22 日暮前掲書、357 頁。 23 <NNA> 106/3/22/Part5. 24 <NNA> 106/3/22/Part5. 25 <NNA> 106/3/22/Part6. 26 NNA> 106/3/22/part7, <DNZ> pp.1702-1707. 27 <NNA> 106/3/22/part7, <DNZ> pp.1710-1712. 28 <NNA> 106/3/22/part7, <DNZ> pp.1712-1715. 29 <NNA> 106/3/22/part7, <DNZ> p.1715. 30 <NNA> 106/3/22/part7. 31 <NNA> 106/3/22/part7, <DNZ> pp.1717-1719. 32 6 月 23 日付、オーストラリア駐在ニュージーランド大使よりニュージーラ ンド外相宛、<NNA> 106/3/22/part7. 33 <DNZ> p.1717. 34 <NNA> 106/3/22/part8. 35 <NNA> 106/3/22/part8, <DNZ> pp.1719-1720. 36 <NNA> 106/3/22/part8. 以下、極東委員会での議論の 1948 年分は同ファイル より。1949 年分は <NNA>106/3/22/part9 による。 37 <DNZ> p.1723. 38 林博史『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998 年、 37⊖38 頁。以下、イギリスの動きは同書参照。 39 林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005 年、73⊖74 頁、参照。 40 1949 年 4 月 12 日 付、 レ イ ド 外 務 次 官 よ り 駐 米 大 使 宛、<NNA>106/3/22/ ─ 69 ─ part9. 41 <NNA> 106/3/22/part10. 42 ニュージーランドの戦犯裁判に関わる政策はもっぱら外務省で議論されて おり、国防省はまったく出てこない。この点はオーストラリアと似ている。 43 林博史『裁かれた戦争犯罪』101⊖102 頁。 * 本稿は、科学研究費補助金・基盤研究(B)「対日戦争犯罪裁判の総合的研 究」(研究代表者粟屋憲太郎、2007 年度―2009 年度)ならびに基盤研究 (B) 「連合国による対日対独戦犯裁判政策の総合的研究」(研究代表者伊香 俊哉、2011 年度⊖2014 年度)の研究成果である。 ─ 70 ─