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先進国でも途上国でも、人々は暮らしを脅かすさまざまなリスクにさらされ

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先進国でも途上国でも、人々は暮らしを脅かすさまざまなリスクにさらされ
10
Sawada Yasuyuki
はじめに
一般に、先進国でも途上国でも、人々は暮らしを脅かすさまざまなリスクにさらされて
いる。事故や病気・自然災害は、人々の生活に深刻な悪影響を及ぼす。例えば、農業生産
は価格・収量に関するさまざまなリスクを伴うものであるが、そういったリスクは特に、
途上国の半乾燥地域に暮らす貧しい農民に降りかかるものである。しかし、経済発展を順
調に遂げつつある状況でも、人々は貧困に陥るリスクを常に抱えている。1997 ― 98 年にア
ジア諸国を襲った通貨危機は、まさにその典型例であった。
アジア通貨危機それ自体は、通貨が急速に下落するという現象であったが、国内の金融
危機を伴うという特徴をもつものであった。これを双子の危機(twin crisis)と呼んでいる。
Kaminsky and Reinhart[1999]の研究によると、1970 年代の多くの通貨危機と異なり、1980
年以降において、金融危機と通貨危機の同時発生という双子の危機が急増していることが
わかる(第1表参照)。
このような双子の危機は、後述するようなさまざまな経路で人々の生活に影響を及ぼす
ものとなった。アジア通貨危機は、1998 年に 1 人当たり経済成長率を大幅に低下させ(次ペ
、特にインドネシアを中心として激しいインフレや失業を生み(第 2 図・第 2 表)、
ージ第 1 図)
家計のもつ富の実質的価値を瞬時に減少させるものであった。そして、このような状況を
皮切りとして経済危機のさまざまな負の社会的インパクトが認識されるようになった。例
えば、2001 年に緒方貞子、アマルティア・センの両氏を共同議長として「人間の安全保障
委員会」が国際連合の関連委員会として設置されたが(澤田[2006])、1998 年にその先鞭を
付けた小渕恵三首相(当時)の主張の背後にも、アジア通貨危機が貧困層に与えた影響への
第 1 表 長期的に見た経済危機の頻度
危機の
タイプ
1970―79年
1980―95年
総数
1年あたりの回数
総数
1年あたりの回数
通貨危機
双子
単発
26
1
25
2.6
0.10
2.50
50
18
32
3.13
1.13
2.00
金融危機
3
0.30
23
1.44
(出所)
Kaminsky and Reinhart[1999], Table 1.
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 39
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
第 1 図 1人当たり実質GDP成長率(購買力平価, 2000年価格)
10
5
1
人
0
当
た
り
実
質 −5
G
D
P
成 −10
長
率
−15
−20
1990 91
92
93
94
95
インドネシア
96
韓国
97
98
99 2000 01
マレーシア
02
03
フィリピン
04
05(年)
タイ
(出所)
World Development Indicators, the World Bank.
第 2 図 消費者物価指数の動き
180
160
消
費
者
物
価
指
数
︵
2
0
0
0
年
=
1
0
0
︶
140
120
100
80
60
40
20
0
1990 91
92
93
94
インドネシア
95
96
韓国
97
98
99 2000 01
マレーシア
02
03
フィリピン
04
05(年)
タイ
(出所)
World Development Indicators, the World Bank.
第 2 表 失業率の動き
年
インドネシア
韓 国 マレーシア
フィリピン
タ イ
(%)
1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004
―
2.5
4.7
8.1
2.2
―
2.4
―
9
2.7
2.9
2.5
3.7
8.6
1.4
―
2.9
3
8.9
―
―
2.5
―
8.4
1.3
―
2.1
3.1
8.4
―
4.1
2
2.5
7.4
1.1
4.7
2.6
2.5
7.9
0.9
5.5
7
3.2
9.6
3.4
6.3
6.3
3.4
9.2
3
(出所)
World Development Indicators, the World Bank.
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 40
6.1
4.1
3
10.1
2.4
8.1
3.8
3.5
9.8
2.6
9.1
3.1
3.5
10.2
1.8
9.5
3.4
3.6
10.2
1.5
9.9
3.5
3.5
10.9
1.5
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
懸念があった。
とはいえ、
「V 字回復」としばしば形容されるように、これらアジア諸国におけるその後
の経済成長率は、危機以前の水準を取り戻したように思える(第 1 図、および Ito[2007])。
今、アジア経済危機の 10 年間を振り返り、その社会的なインパクトを分析し、理解を深め
ることは、今後も頻発するであろうさまざまな経済危機が人々にもたらす悪影響を予測し、
それに対する事前・事後の政策介入のあり方を考えるうえで有益であろう。
1 通貨危機の直接的影響
まず、アジア通貨危機が直接に人々の厚生に与えた負の影響について、整理してみる。
このような負の影響が生まれる経路には大きく分けて三つある(澤田[2003])。第一に、為
替レートの減価が輸入財価格の上昇に転嫁(pass through)され、経済にインフレ圧力をもた
らし(第 2 図)、実質所得が大幅に低下したことである。例えば、通貨が急激に下落したイン
ドネシアでは、1998 年のインフレ率は 58.4% にのぼり、その結果、実質賃金の下落幅が拡大
した。
第二に、アジア諸国の企業においては、しばしば外貨建ての借り入れによって企業の投
資が融通されていたため、為替レートの減価によって直接的に企業のバランスシートが悪
化するという経路(balance sheet channel)があった(1)。このバランスシートを通じた経路によ
って企業の業績が瞬時に悪化し、失業率が急激に上昇した可能性がある(第2表)。
第三の経路は、ドルで資金調達する国内の金融機関が、現地通貨建てで貸し付けを行な
うという「通貨のミスマッチ」と、短期で資金調達して長期に融資を行なうという「満期
のミスマッチ」という二つのミスマッチ、すなわち「ダブル・ミスマッチ」に起因する。
通貨危機は、ダブル・ミスマッチを抱える国内金融機関を直撃し、金融危機を引き起こし
た。その結果、通貨危機が双子の危機として現われ、同時に発生した金融危機が信用逼迫
(credit crunch)を引き起こした。信用逼迫とは、緊縮的な金融政策や銀行の信用供給の低下
などを通じて信用市場における供給量が下がり、結果として信用に対する超過需要と信用
割り当てが生ずる状況を指す。信用逼迫は、特に中小・零細企業など銀行借り入れに依存
せざるをえない企業の資金繰りを悪化させ、倒産や失業の増加を生み出す。例えば、韓国
における個人事業主の倒産件数は、1997 年から 1998 年の 1 年間の間に実に 46 倍にも跳ね上
がっている(澤田[2003])。
以上のような諸経路を通じて、1 人当たりの実質所得水準が 1997 年から 98 年の 1 年間に激
減することになった(第 1 図)。また、危機後に国際通貨基金(IMF)が課した緊縮的な政策
がさらなる経済の危機をもたらしたと考える意見も強い(スティグリッツ[2002])。このよ
うな実質所得の急激な低下は家計の厚生にどのような影響を及ぼしたのであろうか。そし
て家計はいかにして生活の安定を維持しようとしたのであろうか。以下に解説していくよ
うに、その実態は、危機の前後を挟んだ家計の個票データ(ミクロデータ)を詳細に分析し
たいくつかの研究によって明らかになっている(Frankenberg, Smith, and Thomas[2003]; Alem
。
and Townsend[2003]
; Townsend[1999]
; Goh, Kang, and Sawada[2005]
; Kang and Sawada[2007a]
)
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 41
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
第 3 表 インドネシアにおける1人当たり
実質消費の変化率
(%)
1997年から1998年にかけての変化率
−23
−9
−34
−35
−37
1人あたり総消費
食糧
非食糧
衣服・家具・儀式
医療・教育
(出所)
Frankenberg, Smith, and Thomas[2003], Table 1.
第 4 表 韓国における1人当たり実質消費支出の変化率
(%)
1997年
第2―第3
四半期
総消費支出
食糧
医療
教育
娯楽
2.65
7.42
−6.48
39.57
10.90
1998年
第3―第4
四半期
第4―98年
第1四半期
第1―第2
四半期
−3.37
−4.39
7.38
−48.11
−26.32
−12.15
−29.52
−26.28
48.89
−22.85
−10.91
1.00
11.46
−53.79
7.17
第2―第3
四半期
0.62
2.55
−4.75
40.66
4.31
第3―第4
四半期
10.75
14.75
0.00
−41.67
−3.06
(出所)
Kang and Sawada[2005].
ここでは、まず、通貨危機前後の家計の消費水準の動きをたどることによって、家計の厚
生水準への通貨危機の直接的影響をみてみることにしよう。
まずインドネシアについては、Frankenberg, Smith, and Thomas[2003]がランド研究所のプ
ロジェクトの一環として通貨危機前後の家計パネル調査(2)のデータを収集・分析している。
彼女らの分析によれば、通貨危機による実質所得の急落に直面した家計は、教育・医療費
および衣服・家具・儀式への支出を大幅に低下させている(第 3 表)。1997 年から 98 年にか
けての衣服・家具・儀式、医療・教育費支出はそれぞれ 35%、37% も減少した。一方、食料
品価格上昇の影響もあり、食糧の支出低下は9 %にとどまった。
韓国については、Kang and Sawada [2005] が、約 4500 の家計の個票データである
Household Income and Expenditure Survey(HIES)を用い、通貨危機前後における消費変化を分
析している。この研究によると、通貨危機が勃発した 1997 年の第4 四半期においてはまず娯
楽費支出が平均して 26% もの低下をみせ、その後 1998 年の第 1 四半期に入ってから食糧消
費が大幅に低下したことがわかる(第 4 表)。他方、教育費支出の変動についてはその季節性
で大半が説明され、通貨危機固有の影響は統計的には見出すことができない。これは、危
機によって教育費支出が大幅に下落したインドネシアとは顕著に異なる点である。
2 通貨危機は貧困層を直撃したか?
それでは、通貨危機は、特に貧困層の生活水準に対して悪影響を及ぼしたのであろうか。
このような視点を分析するためには、ミクロデータが強力な情報源となる。Friedman and
Levinsohn[2002]は、インドネシア全国レベルの家計調査である SUSENAS データと財別の
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 42
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
第 3 図 インドネシアにおける通貨危機の厚生効果
1.5
等
価
変
分
の 1
危
機
前
支
出
に
対 0.5
す
る
比
率
都市貧困ライン
都市
地方
地方貧困
ライン
0
10
12
11
1996年の1人当たり消費支出(対数値)
13
(出所)
Friedman and Levinsohn[2002], Figure 1.
価格変動データを用い、通貨危機の厚生効果を集約した指標である「等価変分」を推計し
ている。
「等価変分」とは、通貨危機前後で一定の家計の厚生水準(生活水準)が達成され
るためには、通貨危機後にいくらぐらいの追加的な消費支出が必要となるかを数量化した
ものである。言い換えれば、等価変分は通貨危機によって生じた財価格上昇がもたらした
負の厚生効果を示すものである。
この等価変分と 1 人当たり総消費との関係を示したのが第 3 図である。この図から、都市
貧困層が通貨危機によって最も深刻な打撃を受けた一方、地方在住の貧困層への影響は相
対的には軽微にとどまったことがわかる。後者の理由については、地方の貧困層において
は農作物の自家消費比率が高く、食料品価格上昇を通じた通貨危機の悪影響からある程度
隔離されていたことがデータからわかっている。
韓国については、前出の Kang and Sawada[2005]に加え、Korean Household Panel Survey
(KHPS)を用いた研究である Goh, Kang and Sawada[2005]は、通貨危機の影響について所得
階層ごとに分析している。Kang and Sawada[2005]では、貧困層が大幅に食費を減少させて
いる一方、富裕層は奢侈的な消費を削減しているというパターンが若干みられるものの、
Goh, Kang, and Sawada[2005]によれば、貧富の程度によらず、通貨危機はすべての所得階
層に対してある程度均一な悪影響を及ぼしており、貧富の差あるいは相対的な貧困が拡大
したという傾向は明確にはみられていない。他方、後述するように、絶対的貧困に対して
は明らかに悪化させる影響をもっていたことがわかっている。
タイについては、独自に収集した家計パネルデータを用いたAlem and Townsend[2003]の
分析がある。この調査結果によれば、貧困地域であるタイ東北部においては、貧困層が通
貨危機からより強い悪影響を受けているとみられる一方、相対的に発展した中部地域では、
逆に富裕層がより深刻な影響を受けていることが示されている。この結果は、第 3 図で示し
た Friedman and Levinsohn[2005]の結果とは異なるものであるが、いずれにしても通貨危機
の与えた影響が地域によって異なるということは、景気変動の伝達経路がマクロ経済への
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 43
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
統合度によって異なることを示唆しており、興味深い。
3 家計の対処行動
さて、危機の影響を受けた家計は、どのようにしてそれに対処しようとしたのであろう
か。まず重要な対処手段は、資金の借り入れである。資金借り入れが可能である家計は、
予期せぬ実質所得の低下に対して将来の所得を今期の予期せぬ損失の埋め合わせに用いる
ことができ、消費を平準化することが可能となる。しかしながら、アジア通貨危機におい
ては、双子の危機として同時に発生した金融危機が信用逼迫を引き起こしており、リスク
対処の手段としての資金借り入れの機能を弱め、人々の生活に悪影響を及ぼした可能性が
ある。
Kang and Sawada[2007a]は、KHPSの家計データを用い、韓国の家計が資金借り入れの制
約に直面する確率を推計している。その推計結果によれば、通貨危機が発生した後、金融
危機に伴う資金借り入れの制約はすべての家計においてより深刻化しており、信用逼迫の
問題が家計レベルで顕在化したことを示唆している。さらに、Kang and Sawada[2007a]は、
このような借り入れ制約による厚生水準のロスが、1998 年では 97 年のそれに比べて少なく
とも約30% 以上増加したことを示している。
第二に、重要であるのは、自己の所有する実物資産や金融資産を取り崩すことである。
Kang and Sawada[2007a]によると、通貨危機の発生後 1998 年における韓国家計の資産売却
額はほとんど増加しておらず、危機への対処手段としての資産取り崩しが広範には行なわ
れていなかったことを示している。通貨危機・金融危機の時期においては、地価・株価と
いった資産価格が急速に下落したため、多くの家計が合理的な判断として資産の取り崩し
を手控えた可能性がある。Frankenberg, Smith, and Thomas[2003]では、同様の傾向がインド
ネシアにおいても見出されている。ただし、インドネシアにおいて特徴的であるのは、多
くの家計が危機前に保有していた金を売却したことである。実のところ通貨危機後に金価
格が上昇しており、家計がそのような価格変化に敏感に反応したものと思われる。
第三に、家計は労働時間を延ばすことで実質所得・実質賃金の低下に対処することがで
きる。Frankenberg, Smith, and Thomas[2003]によると、インドネシアの家計は通貨危機後に
1 週間あたり平均して約 5 時間程度の労働時間を増加させており、労働供給増によるリスク
対処のメカニズムが働いていると考えられる。また、Fallon and Lucas[2002]の分析によれ
ば、1997 年から 98 年にかけて農業部門の雇用が韓国、タイ、インドネシアでそれぞれ4.0%、
3.5%、13.3% 増加しており、農業の就労機会が家計所得低下に対する一種の保険機能を提供
していたことが示唆される。この結果、タイやインドネシアにおいては、都市部門から農
業部門・地方への移住が、地方から都市への人口流入を上回ることとなった。また、そも
そもアジア諸国の企業が雇用調整を行なう速度は比較的緩やかであり、通貨危機の後に企
業が解雇等を通じて雇用調整を進めたという傾向が必ずしもみられないという研究もある
(阿部・久保[2003]
)
。
最後の対処方法は、家族・親戚などからの援助金に頼るということである。Kang and
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 44
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
Sawada[2005]によると、韓国における私的援助の受け取り額が危機後に一世帯あたり約
7% 上昇しており、絶対額は小さいものの、危機への事後対処法としてある程度の役割を果
たしたことが示されている。さらに、Kang and Sawada[2005; 2007b]は、このような私的援
助のネットワークが通貨危機発生後に強化されたことを見出しており、公的支援の不足を
補うものであったことを示している。
4 危機後 10 年間の貧困問題
第 1 図にみられるように、アジア通貨危機に瀕した諸国の経済は1999年以降急速に回復し
「V 字回復」がもたらされた。しかしながら、一時的とはいえ通貨危機の悪影響が長期にわ
たる持続的な負の効果を生んだという可能性も否定できない。例えば、失業した労働者は、
再び職を得るために長期にわたる調整時間や調整費用を必要としたかもしれない。また、
危機に対処するために物的資産や金融資産を処分した家計においては、それらの資産スト
ックを回復することは不可能であったかもしれない。さらに、教育や健康に対する短期的
な負の影響は、人的資本の蓄積を阻害し、長期にわたって負の効果をもちうるかもしれな
い。事実、1997 年から 98 年にかけて、インドネシアの中等・高等学校退学率が男子では
11.6%、女子では 10.4% 増加していた。このことは、子供の労働所得あるいは家計内労働が、
通貨危機によって低下した家計所得に対する保険的機能を果たしたことを示していると考
えられるが、一方で人的資本蓄積が損なわれることで長期的な所得増加を犠牲にしている
可能性がある。
Burton and Zanello[2007]は、危機後の 10 年間にフィリピン、韓国、マレーシアにおいて
所得が不平等化したことを見出している。このような相対的な貧富差の拡大に加え、ここ
では、通貨危機がもたらした絶対的貧困への長期効果を把握するため、貧困ライン以下の
生活を営んでいる人口の比率、すなわち貧困人口比率の変化をみてみることにする。次ペ
ージ第 5 表は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイにおける貧困人口比率の長期
変化をまとめたものである。すべての国に共通する傾向として、通貨危機後に短期的に貧
困人口比率が増加したが、長期的には貧困人口比率が低下しつつあることがわかる。
このような貧困人口比率の長期変化をたどるため、家計ミクロデータが頻繁に得られ、
より正確な分析が可能である韓国のケースに注目してみることにする。国内貧困ラインを
用いた研究である Kang and Kwon[2006]が示しているように、韓国の都市部においては、
通貨危機によって一時的に貧困人口比率が急上昇した(第 4 図)。危機後において貧困人口比
率は低下傾向にあるものの、危機前の貧困人口比率低下の傾向線には復帰しておらず、危
機が恒常的な貧困悪化効果をもたらしたことが示唆される。したがって、危機後の 1 人当た
り国内総生産(GDP)の回復は、必ずしも貧困層に十分行き渡っていないのかもしれない。
この貧困人口比率の変化パターンと、第 1 図の 1 人当たり GDP 成長率で示されるような V
字回復パターンの関係をみるため、Kakwani[1993]の手法に従って、貧困の所得弾力性を
計算してみることにしよう(3)。この弾力性は、韓国の 1 人当たり GDP が 1% 変化したときに、
貧困人口比率が何 % 変化するかを示すパラメータであり、一般には負の値をとる。韓国の
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 45
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
第 5 表 貧困人口比率
(%)
インドネシア
貧困ライン
年
1ドル
2ドル
マレーシア
1ドル
国内
ライン
フィリピン
1ドル
2ドル
1981
1984
20.70
28.15
75.84
1989
21.64
55.03
23.5
62.01
24.9
57.02
17.86
54.06
24.6
55.48
6.02
37.48
2.21
28.28
0.93
1990
17.10
1991
1992
0.43
17.39
64.19
1994
17.5
1995
1996
2ドル
1.20
1988
1993
1ドル
1.96
1985
1987
タイ
0.90
52.72
8.90
14.12
59.73
1998
26.33
75.95
0.00
28.17
1999
7.58
55.16
2.03
31.61
2000
7.19
55.39
1.96
32.51
7.78
52.89
0.89
25.81
1997
0.14
16.6
5.50
43.92
18.1
44.92
13.49
43.87
2001
2002
2003
2004
(出所)
フィリピンの1人1日1ドルの貧困ラインに基づいた1985―2000年データについては、Sawada and Estudillo[2005a;
2005b]の推計によるもの。マレーシアの国内貧困ラインに基づいた数値については、OECF[1997], マレーシア
政府資料。その他の数値は、PovcalNet, World Bank(http://iresearch.worldbank.org/PovcalNet/jsp/index.jsp)でデ
ータが入手可能なもののみ。
第 4 図 韓国都市部における貧困人口比率の変化
30.00
25.00
20.00
15.00
10.00
5.00
0.00
1982 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04(年)
(元データ出所) Kang and Kwon[2006].
国際問題 No. 563(2007 年 7 ・ 8 月)● 46
アジア通貨危機と貧困問題―危機後の 10 年間を振り返って
第 5 図 貧困削減の所得弾力性
0
−1
−2
−3
−4
−5
−6
1982 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04(年)
(出所)
第4図の数値に基づき、筆者作成。
貧困指標を用いて計算された弾力性値は第 5 図に示されたとおりである。予想どおり、所得
変化の貧困削減効果は、通貨危機を境に 1990 年代前半の− 5% 程度から− 4% 前後へと弱ま
(4)
っており、国全体の経済成長の貧困層への均霑効果(トリクルダウン効果)
が通貨危機によ
って恒常的に弱められた可能性がある。とはいえ、Dollar and Kraay[2002]が示したように、
持続的な貧困削減には経済成長が不可欠であり、貧困層に有利な経済成長(pro-poor growth)
を推し進めるとともに、補完的に直接的な貧困削減を目指す福祉政策を拡充していること
が必要であろう。
おわりに
本稿では、アジア通貨危機が貧困に与えた影響について、家計のミクロデータを用いた
諸研究の成果をサーベイし、危機に瀕した諸国の家計データから見出された知見について
まとめた。全体を通じてわかったことは、通貨危機が貧困層に与えた影響は、タイミング、
都市住民と地方住民、あるいは国や地域によって異なり、非常に多様な側面をもつという
ことである。特に、通貨危機によって貧困層がより深刻な悪影響を受けるとは限らないこ
とには留意すべきであろう。例えば、為替レート下落という形で起こる通貨危機は、輸出
向け換金作物を生産していた農民にとって、正の厚生効果をもたらす。Fallon and Lucas
[2002]によると、輸出用米の主要産地であるタイ北部において 1997 年から 98 年の間に貧困
人口比率が有意に低下した。とはいえ、通貨危機が生み出すさまざまな悪影響に対して生
活を守るための十分な対処手段をもたない貧困層が、危機に対する脆弱層となってしまう
可能性は高い。さらに、韓国のケースにみられるように、マクロ経済が順調に回復する一
方、貧困層へ成長の成果が必ずしも十分には波及していないという問題もある。
家計は、このような事態に対して、さまざまな対処手段を用いてきたこともわかった。
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しかしながら、通貨危機はマクロのショックをもたらすものであり、人々の間での自発的
な取引ではそのリスクを十分には分散できないかもしれない。ここにおいて、政府は広い
意味での保険機能の提供者として重要な役割を果たしうる。例えば、韓国では通貨危機の
直後に失業保険の受給対象者枠を拡大し、さらにワークフェアを導入するなどしてかなり
の効果を上げた(World Bank[2000]; 寺西編[2003]; 澤田[2003])。政府は、人々の事前のリ
スク管理能力・事後的なリスク対処能力を高めるために経済取引環境を整備するとともに、
さまざまな公的保険機能を補完的に提供していくことが不可欠である。
いずれにしても、通貨危機の貧困への影響を正しく認識し、公共政策に役立てていくた
めには、ミクロデータに基づいた精緻な実証分析が不可欠である。今後は、より迅速にそ
のような情報を収集し、分析結果を政策に反映できるような分析手法を積極的に開発して
いくことが必要である。例えば、第 3 節で簡単に紹介したように、Friedman and Levinsohn
[2002]が提案している等価変分の計算方法は、このような手法のひとつとして、これから
も活用されるべきであろう。
( 1 ) このような経路は、例えば Krugman[1999]によって定式化されている。
( 2 ) ここで観察対象が N 戸の家計だとする。ある一時点の N 戸の家計の情報を集めたのが「クロスセ
クション・データ」であり、N 戸の家計のそれぞれについて時系列的に複数の時点の情報を集めた
のが「パネルデータ」である。
「パネルデータ」を用いると、時間を通じた家計の行動を明示的に
分析することが可能であり、さらに観察不可能な説明要因であっても、時間を追って変化しない
個別の家計の固有の要因(固定効果)については、その影響を制御した計量経済学的な分析が可
能になる。
( 3 ) Kakwani[1993]によれば、貧困ギャップ指標でみた場合の貧困の所得弾力性は、
[
(貧困人口比
率−貧困ギャップ指標)
÷貧困ギャップ指標]によって与えられる。
( 4 ) 均霑効果は、英語では trickle-down と呼ばれる概念の訳語であるが、経済成長の成果が貧困層に
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