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山形県立博物館研究報告

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山形県立博物館研究報告
山形県立博物館研究報告
第
5
号
8ULLETIN
OF
THE YAMAGATA PREFECTURAL MUSEUM
5
No.
山
形
県
立
博
物
館
Y AMAGATA PREFECTURAL MUSEUM
Kajo
Machi, Yamagata City, ]apan
March,
1
9
8
4
序
当博物館の研究報告第5号を発行いたします。 当博物館は、 地学・植物・動物・
考古・歴史・民俗・教育資料 館 (分館)の7部門をもっ総合博物館で、 山形県を中
心に広く自然・人文の両面にわたり、 博物館資料の収集・保存・展示・ 調査研究・
教育普及等の活動を行っております。
当館の研究報告書は昭和47年度に第1号を発行し、 以後第4号( 昭和5 0年度)
まで継続しましたが、 これ以降は館内改装(展示替え)事業をはじめ各種事業およ
び予算等の関係で中断の止むなきに至り、 まことに牌肉の嘆を かこって参りました。
幸い本年度は職員の体制もととのい、 また、 館内改装事業等は今にして関係資料
を 整理記録しておかなければ、 悔いを千載に残すおそれのあるとの考え から 、 この
関係記録の整理収録 をはかり、 他の研究を併せ、 研究報告第5号を発行することと
しました。
本号所載の「草木塔の調査報告」は当館の初代館長結城嘉美先生が長年にわたっ
てすすめられてき た草木塔に関する基礎的調査の集成であります。 草木 (供養)塔
は、 本県置賜地方に集中してみられる供養塔ですが、 先人の敬度な自然観を物語る
まことに特色ある資料です。
繁忙な日常業務の中でこれらの調査研究をすすめられた 職員の労を多と するとと
もに、 本研究書が、 山形県の自然や人文の研究にいささかでも碑益するところがあ
れば幸いです。
昭和 59年2月
山形県立博物館長
大
友
義
助
目
次
展 示改装 整 備事業 報告 :
草 木塔 の 調 査報告 : 結 城 嘉 美
……………………………………….. . ・H・H・H・-… 右 1
3
1 9 8 4年3 月
山形 県立博物館研究報告 第 5 号
展示改装整備事業報告
業
I
はじめに
務
課
予時
の 歴 史 か ら 学 ばな け れ ばな ら な い 先 人 の知恵や生
本館 は 、 昭和 4 6 年 4 月 、 山形県総合学 術調査
会 が収集 し た 資 料 を 基礎に し て 設立 さ れ た 。
山 形 の 自 然、と 地域 の 生 活を 共通 し て 理解 で き る
よ う に と い う 目 的 で構想が立 て ら れ た が 、 結果的
き 方 を 明 ら か にす る。
1
(1)
展示替えの必要性
当博物館 は 、 開 館 以 来 5 年 目 ( 昭和 4 6 年
の 部 門 別 の 展示 に な っ た o 開館以 来 3 年 目に し て 、
開館 ) を 迎え 、 そ の 間 資料の収集 に 努め 、 現在約
4 万点 ( 未整理資料 6 万点 ) の 資料 を 保存す る こ
館内 外 か ら 、 本 館の 部 門 別 展示 は 、 自 然 環境、 生
と が で き 、 県 民 の た め 山 形 県 の 自 然 や歴 史 、 民俗
活環境 に 対す る 県民 の 意識、 関心 が変化し 、 時代
の 要求に マ ッチ し て い る か ど う か と い う 疑 問が 出
に 関す る 資料 を 展示 し 、 そ の理解 を 深 め て き た o
(2)
し か し 、 最近 に お け る 社会 の 動 向 か ら 、 本
に は 、 地学 、 動物 、 植物 、 考 古 、 民俗、 一部歴史
さ れ 、 展示計画委員 会 、 展示協力 員 会 が 組織さ れ 、
県 の 豊か な 自 然 を保 全 し 、 県 民 の 自 然保護 思 想を
展示改装 の 構想が検討 さ れ た 。 こ の事業 は 足掛け
泊養 す る と と も に 、 急激な 社 会 変 貌の な か で 、 失
7 年 に わ た り お こ な わ れ 昭和 5 5 年 度で完了し た。
わ れ つ つ あ る 伝 統的 な 生 活態 度や心 を 育 成 し て い
こ の 展示改装 整備事業 の 報告は 、 以 前に 何 ら か
く こ と が 、 今 日 に お け る 県 民 の 重 要な 課題 に な っ
の 機会 に 発表すべ き では あ っ た が 、 諸般 の事情 よ
り そ の 機会 を 得な か っ た O
こ の 度、 報告す る 機会 を 得た が 、 詳細な 事項 ま
て い る。
(3)
当博物 館 で は 、 こ れ ま で、 動物 、 植 物 、 地
学 、 考古、 歴史、 民俗の 部門毎の展示に よ っ て 、
で ま と め る こ と は 、 当 事者 の 転 出等 が あ り 不 可能
部 門 毎 の 啓発に 重点 を お い て き た が 、 こ れ ら の 方
で あ っ た 。 記録、 今 後 の 参考資料 に す る 意味に お
法 に よ っ て は 、 県民 の か か え て い る 重要な 課題や
い て 、 そ の 経過の 概要 を 報 告 す る も の で あ る 。
要請 に 応 え る こ と が で き な く な っ て き て い る 。
( 4 ) 県民 が 厳し い 自 然 とた た か い な が ら 、 長 い
H
歴史と 伝 統の な か で築 き あ げ て き た 生 活や 文 化を
展示替の 基本方針
県民 が 山 形 県 と い う 郷土を 正 し く 理解 で き る よ
さ ら に 発展 さ せ て い く た め の エ ネ ル ギ ーを 培 う た
う に 、 自然 の し く み や 、 そ こ に 育 っ た 文化の流れ
め に 山形 県 の 自 然 と 歴 史 の 全体 構造 の な か で\重
が 全体的に わ か る よ う に 展 示内 容を 検討す る 。
要な 課題 に つ い て 系統的 に 編 成 替え を す る 必要が
(L)
県民 が 山 形 県 の 豊か な 自 然 を 守 り 育 て る た
ある。
め に 、 知 ら な け れ ばな ら な い 自 然 の法則を 明 ら か
に す る。
(2)
県民 の 生活や 心 を 豊 か に す る た め に 、 山形
※ 。奥山武夫(業務課長)
尾形奥典(学芸員)
。金山耕三(学芸員)
0印
文責任者
2.
展示替えの目的
(1)
県民 が山形 と い う 郷土を 正 し く 理解 で き る
。高橋静夫(学芸員)
高橋信弥(研究員)
野口一雄(学芸員)
4
展示改装整 備事業報告
と と も に 、 将来 い か に あ る べ き か を 考 え ら れ る よ
う に す る。
(2) そ の た め 、 県 民 が 山 形県 の 自 然 の し く み や
そ こ に 育 っ た 文化 の流 れ が 理 解で き る よ う に す る 。
(3) 山形 県 と い う 郷土 を 、 日本 全体 と の つ な が
。 展示 計 画案作成 の 手 順 に つ い て 0
(3)第 3 回 昭和 5 0 年 7 月 9 、 1 0 日
。 展示 の 全体 計 画に つ い て (全体 会 )
。 展示 の具 体的 計画に つ い て (分科会 )
。 全体 計 画の 確 認に つ い て (全体会 )
り の な か で 、 そ の位置 づけ が理解 で き る よ う に す
る。
3
( 4 ) 県民 が 、 豊 か な 自 然 を 守 り 育 て る た め に 知
ら な け ればな ら な い 自 然 の法則性や 、 郷土 の 歴 史
の な か で学 ばな け れ ば な ら な い 先人 の 知恵 と 生 き
方 を 明 らかにする。
(5)
展示計画の策定
1
(1) 第 1 回 委員 会
(i ) テーマ 展示 を重視 し 、 分類展示 を 併用 す
る。
( ii ) テーマ の 設 定 は 、 自 然 の し く み 、 法 則性 、
こ の こ と に よ っ て 、 県民 の地域的 な 連帯感
や地域 社会 に 対 す る 所属感 が培われ る よ う に す る 。
皿
検討された展示構想
自然 史 等 の 関連や 人 間 と の か か わ り あ い を
重視 し て 設定す る 。
(iii )展 示 の 方 法 は 、 そ の 時代 の 庶民 の 生 活や
心 が 浮き 彫 り に さ れ る よ う に 工夫す る と と
も に 、 自 然環 境 が 構造的 に と ら え られ る よ
う にす る。
展示計画委員、 展示協力員の組織
こ れ ま で述 べ た 基本 的 な 構想の も と に 、 展示計
画員 会 、 展示協力員 会 を組織 し た 。
(1) 展示 計 画委員 の 構成
( ア)研究者 3 名
(イ)学 識経験者 5 名
( ウ ) 教 育 行政関係者 5 名
(2) 第 3 回 委員会
( i ) テーマ 展示 を重視 し 、 分類展示 を 併 用 す
る。
(ii)
山形 県 の 特色 が 日本 史や世界 史 と の つ な
が り の な か で 、 そ の 位置が わ か る よ う に 展
示す る 。
(2) 展示協力員
(ア)人 文 関係
7名
(イ) 自 然関係
6名
(iii )山 形 県 の 豊 か な 自 然 の し く み を 、 法則性や
な り た ち が わ か る よ う に 展示す る 。
。v )山形 県 の 歴 史 の 全体 的 な 流 れ と 、 そ の 時
2.
協議の経過
(1)第 1 回 昭和 5 0 年 4 月 3 0 日
。 博物館 の 役割 と 展示替の 必要 性 に つ い て O
。 常 設 展(旧 ) の 解 説 案内。
。 展示 替の 基 本 方 針と 展示 構想に つ い て 。
。 展示 の 具体 的 構想に つ い て 。
。 展示 計 画案の作成 ま での手 続 き に つ い て 。
(2) 第 2 回 昭和 5 0 年 5 月 2 7 日
。 展示 テーマ の 全体 構成 に つ い て 。
。 テーマ 毎 の 構成 内容に つ い て 。
。 具体的 な 展示方 法 に つ い て 。
。 展示資料 の所在に つ い て 。
代 の 庶民 の 生活や心 が わ か る よ う に 工夫す
る。
(v )特 に 、 米 づく り の 歴史 と 農民 の く ら し ゃ
文 化 を 中心 に 厳し い 自 然 と の た た か い の 過
程や そ こ か ら 生 み だ さ れ た 伝 統的生 活様 式
が 明 ら か に な る よ う に 工夫す る 。
(vi ) 分類展示 は 、 そ の 視点やね ら い を 明 確 に
し て 、 系統的 に 展示 し 、 学 術研究 の た め の
資料は 、 必要 に 応 じ て 公開す る 。
Ni � 展示方法 は 、 資料 の も つ 価 値 が 明 ら か に
な る よ う に 生 活や 環境 と の 関連 を 重 視 し て
展示す る o
1 9 8 4年 3 月
山形県立博物館研究報告 第 5 号
4.
検討された展示の具体的構想
(1)
第 1 回委員 会
(il
(エ ) 自 然 環境 と 人 間 生 活 と の か か わ り あ い
を 植 生 の 変 化か ら 明 ら か に す る 。
(iil
自 然 部門
(ア)
5
人文部門
(ア ) 人 間 の 住み は じめ を 自 然 と の 関連 の な
山 形 県 の 現地形 の な り た ち を 地 史 的 に
明 ら か に す る。
かで明 ら かにする。
(イ)山 形 県 の 豊か な 自 然、を 構成 し て い る 環
(イ )山形県 の 歴 史 の変革期を 文 化史 的 に 明
境的 条件を 明 ら か に す る 。
(ウ ) 生物 と 自 然 環境 と の か か わ り あ い を 明
ら か にす る。
(ゥ) 厳 し い 自 然 環境 の な か で生 き て き た 農
ら か にす る 。
(エ) 生 物 の 適応を 気候εの 関 連 で 明 ら か に
民 の く ら し や 文 化を 明 ら か に す る o
(ェ)
する。
(ォ)
最 上川 舟運 と の 関 連 で 明 ら か に す る 。
(オ)山形 県 の 明 治以 後 の 動 き を 世 界 の 歴 史
自然 環境 と 人 間 生 活との か か わ り あ い
を 植生 の 変化か ら 明 ら か に す る 。
(カ)
環境 と 生 物 の 共 存 関係 を 食物 連 鎖か ら
明 ら かに す る 。
(iil
人 文 部門
(ア ) 人 間 の住 み はじめ を 自然、 と の 関連 の な
か で 明ら か に す る 。
山 形県 の 文 化的 、経済的発展 の 基 礎を
の な か で明 ら か に す る o
5.
検討された展示の構成内容
第 1 回、 2 回、 3 回の 委員 会 で検討 さ れ た が 以
下 第 3 回委員 会 で検討 さ れ た 事 項に つ い て 掲 げる 。
1 -1
山形のな り た ち
(イ)山形県 の 歴 史 の 変革期を 政 治的 に 明 ら
山形県 の現地形 の な り た ち を 地 史 的 に 理解
か にす る。
(ウ )厳 し い 自 然 環境 の な か で生 き て き た 庶
さ せ る。
民 の生 活を信仰と の 関 連 の な か で 明 ら か
に す る。
(ェ)
山形 県 の 文 化的 、経済的発展 の基礎を
最上川 舟運 と の 関連 の な か で 明 らかにする。
(オ) 山形県 の 風土 の な か で 生 き て き た 庶民
の く ら し を 、民俗 資料 と の 関 連 で 明 ら か
にす る o
(カ)
く展示 項 目 〉
①
②
③
④
⑤
自 然部門
(ア ) 山形県 の 現地形 の な り た ち を 地 史 的 に
明 ら か にす る。
(イ )山 形 県 の 豊 か な 自 然 を 構成 し て い る 環
境的 条件を 明 ら か に す る 。
( ウ ) 自 然 環境 と 生物 の共存関係 を 食物 連 鎖
か ら 明 らか にする。
海成 層 の た い 積
出羽奥羽 山 脈の 形成
内 陸盆地 の 湖 沼時代
現地形 の完成
1 - 2 象の い た こ ろ
ナ ウ マ ン 象がす ん でい た 新生代第四紀 の 自
明 らか に す る 。
(il
激 し い 海底火 山
⑥
山 形 県 の 近 代 化を 峠 の 開発 と の関連 で
(2) 第 3 回委員会
山形の基盤
然 環境 を 理 解 さ せ る 。
く展示 項目〉
①
②
③
④
第 四紀 の 植 生
第四紀 の 動物相
第 四 紀 の 気候変 化
大 陸と の 関 係
1 -3
豊 か な 自 然林 と 動物 た ち
山形県 の 自 然、植 生 の 地理的分 布 を 理解 さ せ
る と と も に 、動物 と 植物 は 、互い に 助け あ
6
展 示 改 装 整 備 事 業 報告
っ て 生 き て い る こ と を 理解 さ せ る 。
く展示 項 目 〉
①
山形 県 の 自 然 植生
②
⑨
生 息地 別の 生 態
③ 渡り
1 9 つ く ら れ る 自 然、
-
人 びと は どの よ う に 自 然、の し く み を 利用 し
自 然林 の 構成
③
食物連 鎖
④ コ ナ ラ ・ プナ林 の 小 動物 た ち
1 4 高 山 の生物
-
山形県 の 諸高 山 に お け る 生物 の 垂直 分 布 の
特色を 理解 さ せ る 。
く展示様 目 〉
①
蔵王連峰 の 生 物 の 垂直 分 布
②
-
1
て き た か理解 させ る 。
く展示 項 目 〉
①
⑨
④
1
1 -10 外 国か ら き た 植物
5
果 物 の 源流 を 外 国 と の つ な が り に よ っ て 理
雪 と 生物
解 させる。
く展示 項目〉
冬 眠す る 動 物
ノ ウ サ ギの体色変化
-
サ ケ の のぼ る 川
自 然帰 化植物 の 県内 分 布や 生 態及び野菜、
く展示 項 目 〉
③
山仕事
偽高 山 の 垂直分布
せる。
②
ス ギ の一生
③
雪 に 適応 し て 生 き る 生物群 の 生 態を 理解 さ
①
人 工林 と 自 然林 の 分布
①
自然帰化植物
(2)
野菜、果物 、稲の 源 流 を さ ぐる
2 -1 山形の あ け ぼ の
雪 に 保護 さ れ る 植物
山 形 の 先 史 時代 の 人 び と が どの よ う な 生活
6
と 文 化を 築 い て き た か を 理解 さ せ る O
暖流 と 生物
庄 内 地 方 に は 、暖流 の 影響で 南方 系の 生物
く展示 項 目 〉
が 生 息 し て い る こ と を 理解 さ せ る 。
①
く展示 項目〉
①
暖流 と 寒流 の海 辺
②
南方 系の 生 物 た ち
1
北限 地 の 南 の 動物
7 昆虫の 世界
③
-
②
④
③
水 辺 の 昆虫
④
氷河 時 代 の 生 き 残 り の チ ョ ウ
⑤ 世界 と つ な が り を も っ 山 形 の チ ョ ウ
1 8 野 鳥 の 世界
稲作 は じま る
山形 の 古 墳
2-2
出 羽 国の な り た ち と 聞か れ た むらむ
り
古代社会 に お け る 人びと の く ら し を 嶋むら
や 荘 園 の ひろが り に よ っ て 理解 さ せ る 。
く展示 項 目 〉
昆虫の 一 生 と 食草
② コ ナ ラ ・ ブ ナ林 と ス ギ林 の 昆虫
縄文 の 世界
③
山形県 の 昆虫の 生 態や 分布 を 理解 さ せ る 。
①
人 の 住み は じめ
く展示 項目〉
①
出羽固と 城輪柵
②
嶋むらの 生活
①
荘園の ひろが り
2-3
-
山 岳信仰 と 人 びと のね が い
中 世 の農村 の く ら し を 山 岳信仰や 豪族屋敷
山形県 の野鳥 の 生 態や 分布 を 理解 さ せ る 。
図に よ っ て 理解 さ せ る 。
く展示 項目〉
く展示 項 目 〉
①
①
県内 の分布
出 羽 三 山 と 農民 の信仰
山形 県 立博物館 研究報告 第 5 号
②
1 9 8 4 年3 月
①
自然と のたたかい
⑨ 米づ く り と 農具の 発達
豪族の い る 村
③
③ ④
戦国時代 の 山 形
2 - 4 諸藩の成 立と 藩政改革
⑤ ⑥
藩 政 の変遷を通 し て 近世 に お け る 庶民 の く
ら し を 理解 さ せ る 。
く展 示 項 目 〉
①
①
藩校と 養蚕の 奨励
分 類 展示
く自 然 部門〉
庄 内の 砂防林
①
山 形 の 化石
②
③ ④
⑤⑥ ⑦
最上川 の 舟運 が 山 形 の 経 済 の 発 展や 文 化の
交流 に 果 し て き た 役割 と 当 時 の 農民や町人
の く ら し を 理解 さ せ る 。
く展示 項 目 〉
⑨
。)
商人 の 活躍
2 -6 山 形 県 の 誕生 と 近代化へ の あ ゆ み
③④
⑤⑥ ⑦ @
藩か ら 県 へ
④
く展示 項 目 〉
①
②
昭和 の 不景気
戦時 下の く ら し
③
戦後 の諸改革
2 - 8 米づ く り と 農民 の 文化
あか り の歴史
山 形 のや き も の
山形 の い も の
山形 の こ け し
山形 の土人形
W
t
基本計画の策定
)
1t
(
抜い て き た 県民 の 生 活を 理 解 さ せ る 。
昔の 子 供 の 遊 び具
ろ う そ く f乍 り
鉄道 の 開通 と 近代産業
2 -7 激動 の 時代
明治初 期か ら 戦後 ま で 激動 期の な か で 生 き
石 器 、 土器 の 変 遷
⑨
く展示 項 目 〉
近代学校 の 成 立
両生類 と ハ虫類
①
連で理解 さ せ る 。
①
最 上川 の 魚貝類
く人 文部門〉
山 形 県の 近代化の過程を 日 本 の 歴史 と の関
二 島 県 令と 道路 の 開さ く
山形の鉱物
キ ノ コ 、 山 葉、 海 草 、 薬 草 、 毒草
代 表的 な 県 内の 野 鳥
⑨
大石 田 の河岸
②
山 形 の地 下資源
山 形 の岩 石
庄 内浜の 魚 貝類
紅花の 里
①
年 中 行事
1
飢僅と ー授
2 - 5 に ぎ わ う 最上川 舟運
⑤
主婦の し ご と
農民 の 文 化
④
①
農家の く ら し
3-
諸藩 の成立と 城下町
②
全館の構成
展示 替の ね ら い を 達 成す る た め に 、 全館 の 構
成 を つ ぎ の と お り にす る。
相 談 コ ーナ ー
県民や見学者 の 疑 問や 質 問に 応 え る た め に
相 談 コ ーナ ー を 設置 し 、 入館 者 の 興 味や 関心
山 形の 農民 が き び し い 自 然 と た た か い な が
の拡大 を はか る 。
ら 米づ く り を し て き た 歴史的な 過程と 、 そ
(2) 学 習 ・ 休憩コ ーナ ー
こ か ら 生 れ た 豊 か な 文 化を 理解 さ せ る 。
く展示 項 目 〉
7
見学 者 の 休息を はか る と と も に 、 展示室で
学 ん だ こ と を 整理や復 習、 さ ら に 自 発的な 学
8
展 示 改 装 整 備 事業 報 告
習の 発 展 の ため に 学 習テーフeル を 設 け て そ の
(5)
エ ピソードコ ラム
利用 の 便 を は か る 。
(3)ギ ャラ リ ー
山 形 県 の 自 然や そ の心 を 探 る ため に 、フォ
テーマ内 容に 関連 の あ る 興 味深い 挿話を 資
料、イラス ト 、図 表 な ど に よ っ て ス ポッ ト 的
に 紹介 し、知的関心や豊かな 情操を 培う よ う
ト ギ ャラリ ーを 設 け 、展示 効果 の 拡大 を は か
にする。
る。
(6)
( 4 ) 第一展示室
「豊 か な 自 然 と そ の め ぐみ」と い う テーマ
表現不可能な 内 容に つ い て は 、映像に よ っ
て 展 開し、イマジネ ーシ ョ ンを か き たて る よ
で展開す る 。
う にする。
(5)
映像
第 二展示室
「山 形 の 大 地 に 刻 ま れ た歴 史 」と い う テー
マで展開 す る 。
(6)
第三展示室
※
「激動 す る 山形 1 0 0 年 」 と い う テーマ
3. 展示の展開
(1) 対 象
(ア) 小学 校4. 5 年 か ら 中 学 1 年 ぐら い の 児童
生徒 が 見 て も わかる こ と を 原則 と す る が 、
で 展開す る 。 な お 、第三展示 室 は 、特別展や
内 容に よ っ て は 、専門的な 研究や学術的な
催 し物 展 の 会 場と して 利 用 す る ため 、可動 的
研究に も 役立つ よ う に す る O
(イ) 情報の 質を 区分し、対 象 に よ っ て 必要な
な 展示場と して 利 用 す る 。
※そ の 後 、検討 を 重 ね 、第三展示室 の テー
情報が 選択で き る よ う に 展 示 内容を 構成す
マは 「近 代 山 形 く ら しの う つ り か わ り J に
変更さ れ た。
る。
( ウ)学校 に お け る 教 育 過程の 補助的な 役割を
担う の で は な く 、社会 を 構成 して い る 一 員
と して の 子供 の 自主性や 創造力を 培う こ と
を ね ら い と して 展開す る 。
2. 展示システム
(1)
テーマ展示
各 展 示区分は 、テーマに 基 づい て 展 開し、
テーマの も つ意 味を 理解 さ せ る よ う に す る 。
'2) 展示 の 視点
(ア) 学 問的に 体系づけ ら れ た知 識を 教 え る と
(2) 分類 展示
い う 展 開で な く 、現在 の 県 民生活を 考 え る
自 然、分類 お よ び人為分類 に よ っ て 、豊 富な
素 材と して の 自 然、や 歴史 を 取扱 う と い う 基
資 料を 提供 し、系統的 な 理 解 を 深 め る よ う に
本的 な 視点で展 開す る 。
(イ) 県民が 直接体験で き る 日 常 生活に 関連す
するo
(3)研 究 展示
る 身 近 な 問題か ら 展 開す る 。 そ の 場合、県
と く に 選定 さ れ たテーマに つ い て 研 究成果
民の要 求や関心 は 何か と い う こ と を と ら え
を 具体的 に 解説 し、研究者や教 育 者 の知的 欲
て 、そ の 問題か ら 語 り か け て い く よ う に す
求に 応 え る よ う に す る 。
( 4 ) アテンシ ョ ンゲッタ ー
る。
(ウ ) そ れ ぞれ の テーマは 、県 民の ため に 何 を
各 コー ナ ーの 中 心的 な 課 題 を 象 徴す る 展 示
触発 し、何を 感 じさ せ 、何を考 え さ せ よ う
物 に よ っ て 見学者 の 注目 を ひき 、興味や 関 心
と す る の か と い う こ と を 明 確に して 展示 内
を い だ か せ る と と も に 、疑 問を 投げかけ る よ
う にす る 。
容を 構成す る 。
(ェ)
テーマの 構成は 、県民に 訴 え る 価値 の あ
1
山形県立博物館研究報告 第5号
る もの を 精選 し 、 そ の相乗 効果 が あ が る よ
う に 構成す る 。
(オ) 模型 、 ジオラマ 、 パノ ラマ 、 図 表等は 、
984年3月
2 -0
山 形 の 大 地 に 刻 ま れ た歴 史
(ア)構成
2 -1
何 を わか ら せ よ う と す る か と い う ね ら い を
明 確 に し て 作 製す る 。
(カ)
2 -2
1
-1
-3
2-4
藩 政と 庶民 の く ら し ~藩 の な り た
2-5
最上川 の に ぎ わ い ~最 上川 の もた
-
5
1 -6
昆虫の 世界 ( テーマ 展示 、 分類 展
示)
-
2
6
米 づ く り の く ら し と 心 ~き びし い
自然の中 で--- ( テーマ 展示 )
(イ)
、 ね らい
( i ) I山 形 の あ け ぼの 」で は 厳 し い 自然と
野鳥の 世界 ( テーマ 展示 、 分類 展
たたか い な が ら 生 活の場 を 切 り 開 い て き
示 、 研究 展示 )
た原 始人 の く ら し を 、 狩猟 ・ 採集 か ら 稲
作へ の 変遷を 中 心 に 理解 し 、 人 間 の 生 き
暖流 と 雪の 山形 ( テーマ 展示 、 分
類 展示 、 研究 展示 )
1 -7
ち と 藩 政下の 人 びと --- ( テーマ 展示)
ら し たもの --- ( テーマ 展示 )
森林 の 科学 ( テーマ 展示 )
植物 の 世界 ( テーマ 展示 、 分類展
武士 の 動き と 農民 の願 い ~中 世武
土と 農民 信仰 --- ( テーマ 展示 )
示)
1 -4
1
山 形の な り たち ( テーマ 暖示、 分
類展示 )
1 -2
1
研 究 展示 )
2 -3
豊か な 自然、と そ の め ぐみ
(ア) 構成
ひ ら か れ る 出羽国 ~進む開拓 と 出
羽 田の な り たち --- ( テーマ 展示 、
そ の 機能と ね ら い を 明確 に して 使 用 す る 。
1 -0
山形の あ け ぼの ~狩猟 ・ 採集 か ら
稲作 へ --- ( テーマ 展示 、 研 究 展示)
展示 効果 を 高 め る ため の 視聴覚機器等 は 、
(3) 展示 の 構成 ( テーマ )
9
心のふ る さ と 山形
る 知恵 を 感 じさ せ る 。
( ii ) I ひ ら か れ る 出羽国 」では 、 古 代 山 形
(イ) ね ら い
( i ) I山 形 の な り た ち 」で は 、 "山 か ら ヒ
ト デが " こ れ は 何 故 だ ろ う ?と 見学 者 に
に お け る 稲作 の 発達 と 律令制度の もと に
く み こ ま れ て ゆ く 山形 の す が た を 通 し て 、
古 代 の 人 びと の 生 活を 理解 さ せ る 。
ひと つの 意外性を 感知 さ せ 、 山 形 の な り
(iii ) í武士 の 動き と 農民 の願 ぃ」で は 、 村
たち に 対す る 関心 と 科学 す る 心 を 育 て る
む ら を 聞い て き た農民 の 姿 と 豊 作 を 祈る
こ と に あ る。
( ii ) I 森林 の 科学 」では 、 何気な い 自然、の
姿と そ の 中 に 厳 と して 貫か れ て い る 法則
農民 の 心 を 、 出 羽 三 山 信 仰 な ど に よ っ て
性を 強 調し 、 自然愛護 の 精 神 を 届養 す る o
( iii )生物 と 環境 の つな が り に つい て は 「植
物 の 世界 J I 昆虫の 世界 J I野 鳥 の 世界」
の 各 コ ーナーで 具体 的 な 例を 掲 げ理解 さ
せる。
理解 し 、 敬け ん な 中 世農民 の心情 を 今 日
と の関 わ り 合 い で考 え さ せ る 。
( iv ) I藩 政と 庶民 の く ら し 」では 、 近世諸
藩 の 成 立 と 庶民 の く ら し を 通 し て 、 県 内
各 地域 の 歴 史 的 風土 の 形成 を 考 え さ せ る 。
(V)
I最上川 の に ぎ わ い 」では 、 か つて 山
形 の経 済 、 流通 の 大動 脈と し て 、 人 びと
( i叫 「暖流 と 雪 の 山 形」では 、 「暖流 と 生
の 生 活を 支 え た最 上 川 の は た ら き を 、 大
物J I雪 と 生物 」と の 関係 を 知 り 、 山 形
石 田 町 の パノ ラマ を 通 し て 理解 さ せ る 。
( vi ) I米 づ く り の く ら し と 心 」で は 、 米 作
県 の 豊か な 自然に つい て 理解 さ せ る 。
10
展示改装整備 事業報告
県 山 形 の基盤が築 かれ て き た 経過 と 農民
3 -3
山 形 の や き も の ( 分 類 展示 )
の労苦 を 理 解 し 、今 日 の 農業 を 理 解 さ せ
3 -4
山 形 の郷土玩 具 ( 分類展示 )
3 -5
る。
3 -0
(オ) 2 -5 r 最上川 の に ぎ わ い 」、 2 -6 r
米 づ く り の く ら し と こころ 」に つい て は 、
激動 す る 山形 1 0 0 年
歴 史 的 に 逆の ぼ る と 、 2 -4 以 前の テーマ
(ア)構成
3 -1
3 -2
3 -3
明治維新 と 山形県 の 誕 生
と 重 な り 、扱い が困難 な た め 、通史的扱い
く ら し の う つ り かわ り
イ ラ ス トマ ップ山形 1 0 0 年
か ら は ず し て 展示す る 。
付)ね ら い
(i)近代 1 0 0 年 の 激動の 中で生 き て き た
4.
雪 と 山形 ( 分 類展示 )
V
実施設計
~最終的な展示構成〈テーマ〉展示項目~
県 民 の 生 活を 国際的 視野の も と に 理解 し 、
1 -0
明 日 の山形県 を 展望す る 。
1 -1
豊 か な 自 然 と そ の め ぐみ
山形のな り た ち
1 -1 -0 山 か ら で た ヒ ト デ ( ア テン シ ョ ン
ゲッタ ー ) 、V TR、日 本列 島 の
変更した展示構成〈テーマ〉
( ア) 2 -3 の 「武 士の 動き と 農民 の願 い 」の
お いた ち
古生代 の 山 形 「海底 に 眠る 山 形 」
展示資 料の 不足 、展示 効果 な ど い ろ い ろ 検
1 -1ー 1
1 一1 -2
中 生代 の 山形 「海底か ら 陛へ 」
討 を 加 え 、「武士の 動 き 」の テーマ に 変 更
1 -1 -3
新生 代新 第三紀 の 山 形
テーマ に つい て は 、農民 の 願い を 表現 す る
「ふ た た び海底へ 」
。 ソロ バ ン 玉石 ( エ ピソード )
し た。
イ)
(
山 岳信仰 、特 に 三山 信仰に つい て も 扱 う
必要 が あ る が 、展示 ス ペース の 面 か ら 大 き
く は 扱 う こと は 不 可能で あ る 。 概説的 な 扱
い と し 「三 山 信仰 へ の 道 」の テーマ を 設定
する。
(ウ) 2 -6 r 米 づ く り の く ら し と 心 」を 「米
づ く り の く ら し と こころ 」に 変更す る 。
(斗 3 -0 r 激動す る 山 形 1 0 0 年 」に つい
1 一1 -4
r 静か な 海底 で 」
。 田川 の 魚化 石 ( エ ピソード )
1 ー 1 -5 r 海 か ら 湖沼へ 」
1 -1 -6 新生代第四紀の 山形「く り か え す
氷期 」
1
_.
1 一7
r火 を ふ く 山やま 」
。 ナウ マ ン 象 の 化 石 ( エピソ ード)
r 最上川 と 郷土 の す が た J
。 美 し い 鉱物 ( エ ピソード )
進化 の 系統樹
て は 県 政の変遷的 な 展示 を 通 し 、明 日 の 山
形を考え る コ ーナーで あ る が 、県 政 を 芯に お
1 -1 - 8
い た 点 に は 、い ろ い ろ な 問題 が あ る の で 、
1 一l - 9
この コ ーナーは 、明 治以降の 風俗史的 な 扱
1 -1 一1 0 化 石 に み る 山 形 の 植物
い の テーマ と し 、民 俗 の 分 類展示 に し 、可
動的 な 展示 場と して 利用 す る 。 以下の テー
マ に 決定 す る 。
3 -0 近 代 山 形 く ら し の う つ り か わ り
3 -1 街か ど の 風俗 ( テーマ 展示 )
3 -2
あ か り の う つ り か わ り ( 分 類 展 示)
1 -2
森林 の 科学
1 -2 -0 鳥 の 王者一 イ ヌワシ ( ア テン ショ
ン ゲッタ ー )
1 -2 -1
コ ナラ ・ ブナ林の 動物 た ち ( ジオ
ラマ )
山形県立博物館研究報告 第 5 号
1 -2-2
1 -2-3
1 9 8 4年3 月
11
自 然林 の し く み ( テーマ 展示 )
動物 と 植物 の つな が り ( テーマ 展
1 -6-6
山形 の 淡 水貝 と 陸産 貝 ( 分類展示)
1 - 6 一7
庄 内 浜の海岸生物 ( 分類展示 )
示)
1 -6-8
特 殊 な 分 布 を 示 す 山 形 の動物 ( テ
ーマ 展示 )
。 テン サラ バサラ ( エ ピソード)
1-3
植物 の世界
1 -3 -1 植物 の 分 布 と ひろ が り ( テーマ 展
1 一7
心 の ふ る さ と 山形
北 か ら の 植物 、南 か ら の 植物 ( テ
2 -0
山 形 の 大地 に 刻 ま れ た 歴 史
ーマ 展示 )
2-1
山形 の あ け ぼ の
1 -3 -3
生 き 残 っ た 植物 ( テーマ 展示 )
2-1 -1
人 の す み は じ め ( メ イ ン・イ メ ージ)
1 -3 -4
外国 か ら き た 植物 ( テーマ 展示 )
2 -1 - 2
縄文時代 の く ら し ( メ イ ン ・ イ メ
示)
1 -3-2
1 -3 -5
ージ)
植物 の な かま わ け ( テーマ 展示 )
2 -1 -3
日 向洞 穴 の 人びと ( ジオラ マ )
昆虫の 世界
1 - 4 - 1 山 形 の チ ョ ウ ( テーマ 展示 )
2-1 -4
山形 の縄文土器
。 縄文 人 の ね が い ( エ ピソード)
1 - 4 -2
昆虫の す み か と く ら し ( テーマ 展
2-1-5
縄文人 の四季
示)
o昆虫の チ エ ・ ミ ツ バチ ( エ ピソ
2-1 -6
縄文 人 の 交易
2 -1 -7
山 形 の遺跡分布
2 - 1 -8
弥生時代 の く ら し ( メ イ ン ・ イ メ
1-4
1 -4-3
昆虫の な かま わ け ( 分類展示 )
ージ)
2-1 -9
1 -5
1 -5 -2
1 - 5 -3
1 - 5 -4
1-5-5
鳥 の す み か と く ら し ( ミ ニジオラ
2 - 1 - 10 山 形 の 古 墳
マ)
2 - 1 -1 1 古 墳の ひろ が り
鳥の 渡 り ( テーマ 展示)
鳥 の な かま わ け
2 -2
圧内 海 岸の野鳥 ( 研究展示 )
2-2-1
飯豊連峰 の野鳥 ( 研究 展示)
2-2-2
暖流 と 雪の 山 形
1 - 6 -0 庄 内 海 岸に く る 南 の カメ ( ア テン
ショ ン ゲッタ ー)
1-6-1
-6-2
ひ ら かれ る 出 羽 田
嶋む ら の く ら し ( メ イ ン・イ メ ージ)
出 羽国 の成立 と 条里 制 ( メ イ ン ・
イ メ ージ)
1 -6
1
ージ)
野鳥 の世界
1 - 5 -1
古 墳時代 の く ら し ( メ イ ン ・ イ メ
2 -2 -3
出羽の国 街
。 古代農民 の あ し あ と ( エ ピソード)
2 -2 - 4
出羽国 の 古社寺 ( メ イ ン・イ メ ージ)
暖流 と 生 物 ( テーマ 展示)
2-3
1 -6-3
生物 の 冬ご し ( テーマ 展示 )
武 土の 動 き
2 - 3 - 1 武 士の 台頭 ( メ イ ン ・ イ メ ージ)
1 -6 -4
トウ ホ ク ノ ウ サギ の体色 変化 ( 研
2-3-2
1 -6-
5
雪 と 生物 ( ジオラ マ )
究展示 )
最上川 の 魚類 ( 分類展示 )
2-4
豪族の い る 村
。 平 和 を 願 う 人 びと ( エ ピソード)
藩政 と 庶民 の く ら し
12
展 示 改 装 整備事業 報 告
2 - 4 ー1
最上氏 の 統ー と 諸 藩 の 分立 ( メ イ
ン ・ イ メ ージ )
o駒姫 ( エ ピソード )
VI
展示の実際
全面展 示 替工事では あ る が 、 既存 の 展示 ケ ース
は 出来 る 限 り 生か し、 島 展示 を 設 け て 、 有 効な 展
2-4- 2
域下 町の く ら し ( メ イ ン ・ イ メ ージ)
示 ス ペース を と り 、 テーマ に 沿 っ た 動 線 を 設定 し
2-4-3
藩政下 の 村 ( メ イ ン ・ イ メ ージ )
たO
2 -4 - 4
飢箆 と ー授
2 - 4 -5
生産 の 高 ま り
。 ベ に ばな 歳時記 ( ロ ータ リービ
ジョ ン )
2-4-6
山形 の 人物
第一展示 室は 、 自 然 部 門 の 展 示 室で あ る が 、 展
示 ケ ース 、 展示 台 等 は 白 色 を ベース に し、 明 る く
広 さ を 感じら れ る よ う に 工 夫 した。
第二展示 室は 、 人 文部 門 の 展 示室で 、 展示 ケ ー
ス 、 展 示台 は セ ピア 色 に し、 床に カーペッ ト を は
り 、 お ち つい て 、 じっ く り 観覧 で き る よ う な 雰囲
2-5
最上川 の に ぎ わ い
2 -5 1 最上川 の 舟運 ( メ イ ン ・ イ メ ージ)
2 - 5 -2 最上川 舟運の 繁栄
。 芭蕉 ( エ ピソード )
o河岸 の 町 ・ 大石田 ( パノ ラ マ )
気に す る よ う 工 夫 した 。
第三展示 室は 、 特別展 な ど の 会 場と して 利用 す
る こ と が 可能な よ う に 、 移動可能な 展 示に す る た
め 、 演示 具を 工 夫 した O
音 響に つ い て は 、 で き る だ け 交錯しな い よ う に
工 夫 した 。
2 -6
三 山信仰へ の道
2 - 6 -1
信仰 の 山 ( メ イ ン ・ イ メ ージ )
2 -6 - 2
出羽三 山と 庶民信 仰
。 古 鏡 と 鏡池 ( エ ピソード )
予算措置 の 関 係 で 、 以 下の よ う な 年 次計画の も
と に 工事を 行 っ た。
昭和 5 0 年 度 ( 予算 3 5, 5 0 ,0 0 0 円 )
o企画書 。 基本 設 計
2-7
昭 和 5 1 年 度 ( 予算 1 6, 5 0 ,0 0 0 円 )
。 第一展示 室実 施設計
2 一7 -2
昭 和 5 2 年 度 ( 予算
。 第一展 示室工事
米 づ く り の く ら しと こ こ ろ
2 - 7 -1 米 づ く り の 一年 ( メ イ ン ・ イ メ ージ )
2 一7 - 3
農家の い ろ り ばた
。 農家の 居間 の復元
農家の 冬仕事
4 2 ,0 0 0 ,0 0 0 円 )
山形の な り た ち 、 植物 の 世界 、 昆虫の 世 界 、
野鳥 の 世界 、 森林 の 科学
。 相談 コ ーナー工事
3-0
3- 1
近 代 山形 く ら しの う つ り か わ り
街か ど の 風俗
3 -1 - 1 文 明 開化と く ら し
3 -1 一2
大正の く ら し
3-1-3
昭和 の く ら し
3- 2
あ か り の う つ り か わ り ( 分類展示 )
3-3
3 -4
山形 のや き も の ( 分類展 示 )
山形 の 郷土玩 具 ( 分類展示 )
3- 5
雪 と 山形 ( 分類展示 )
昭和 5 3 年 度 ( 予算
。 第 一 展示 室工 事
4 0 ,5 9 0 0, 0 0 円 )
森林 の 科学 ( ジオラマ ) 、 暖流 と 雪 の 山形 、
心 の ふ る さ と 山形
。 学 習 ・ 休憩コ ーナ ー工事
。 第 二 ・ 第 三 展示 室実 施設計
昭和 5 4 年 度 ( 予算
。 第二展示 室工事
6 0 0. 0 0 0. 0 0 円 )
山形 の あ け ぼ の 、 ひら か れ る 出 羽 園、 武士
の 動 き 、 藩政 と 庶民の く ら し、 最上川 の に
山形県立博物館研究報告 第 5 号
1 9 8 4年 3 月
13
ぎ わ い 、三 山信仰へ の 道 、米 づ く り の く ら
第三展 示室 は 、特別展 示室 の 半 分を 、移動可能
し と こ こ ろ 、近 代 山 形 く ら しの う つ り か わ
な 間仕切 り パネ ル で仕切 っ て 常 設展 示室 と した も
り
の で 、全室 を 特 別 展 示室 に 利用 で き る よ う に 、可
昭和 5 5 年 度 ( 予算
。 第三展 示室工事
3 2 ,0 0 0, 0 0 0 円 )
山 形 の あ け ぼ の ( ジオ ラ マ を 含む )
展示 替工事中 も 平 常 開館 に して 、各年 度毎 に 完
成 した コ ーナ ーは 、順 次公 開した 。
動展示 と した 。
第三 展示室 の 展示 は 、テーマ 展示 と 分類展 示を
併 用 し、壁面 の 解 説 パネ ル を 展 示台 上 の実物資料
で 構成す る の を 原則と した が 、壁面 に 実 物資料 を
展示 した コ ーナ ーも あ る 。
施工業者 は 株式会 社乃村工芸 社で あ る 。
1
2.
展示の構成
解説パネルの構成
第一展示室 の 解 説 パネ ル は 、テーマ 展 示と 分類
第一展示室 は 、周 囲 に あ る 既設の 壁面 ケ ース を
展 示、研究 展示 と で 、形 態、構成等に 差を つ け 、
でき る だけ 生か す こ と と し、展 示室 の 中 央部 に 展
テーマ 展 示 の 中 で も 、テーマ に よ り 多少 の 差が あ
示パネ ル や独立展示ケ ース を セ ッ ト して 展 示ス ペ
る。
ース の不足 を 補い 、展示 に 変 化を も た せ る よ う に
工 夫 した 。
第一 展示室 の 展示 は 、テーマ 展示 を 主 体 と し、
分類展 示、研究 展示も 併用 したO
「山形 の な り た ち 」の メ イ ン パネ ル は 横 9 0 cm、
縦 1 3 0 cmで 、内 容は 、テーマ 名 、メ イ ン コ ピー、
古 地 理図 、サ ブ コ ピー、そ れ に テーマ に よ り 分布
図 や解説 イ ラ ス ト 等 を 盛 り 込ん だ‘。 サ ブパネ ル は
テーマ 展 示は 、テーマ ご と に 解 説パネル 、バッ
テーマ に よ り 多 少 差が あ る が 、 メ イ ン パネ ル よ り
ク パネ ル で 壁面 を 構成 し、展 示台に 標本資料や 模
型を 展 示す る の を 原則と し、分類展 示 ・ 研究 展示
小 さ い 、横 6 0"-' 7 5cm、縦 7 5"-'9 0cmの パネ
は 解 説 パネル と 標本 資 料と で 構成す る の を 原則と
した。 以 上 の ほ か 、大 テーマ の 導 入 部 に ア テ ン シ
ョ ン ゲッタ ーを 配置 し、ま た 、ジオラ マ や エ ピソ
ード コ ラ ム を 設 け た 。
第 二展 示室 は 、第一展示 室 の 反省か ら 既設 の 壁
面ケ ース に 必ず しも と ら わ れ ず 、木組み を 取 り 入
れる な ど 動線 を 明 確 に し、ま た 変 化に 富む 展 示を
心掛け た。
第二展 示室 の 展示 は 全て テーマ 展 示と し、テー
ル を 使 用 し、内 容は 解説 コ ピーや イ ラ ス ト 等 で 構
成 した o
「植物 の 世界 」以 下の 解 説 パネ ル は 横 9 0 cm、
縦 1 3 5 cmで 、 メ イ ン パネ ル は 、テーマ 名 、 メ イ
I 真 、イ ラ ス ト 、図 等 で
ン コ ピー、サ ブ コ ピー、写
内容を 構成 し、サ プパネ ル は サ ブ コ ピ ー、写 真 、
イ ラ ス ト 、図等 で 構成 した 。
分類展示お よ び研究展 示の パネル は 横 9 0 cm、
縦 2 4 0cm ( 壁面 ケ ース 内 は 2 2 0 cm ) を 原則と
し 、メ イ ン コ ピー、図 、写 真等 で 構成 した 。
マ ごと に 、解 説 パネル 、バック パネ ル で 壁面 を 構
コ ピーは 横 書 き と し、 メ イ ン コ ピーは 、「山 形
成 し、前に 展示台 、展 示ケ ース を 据え て 実物 資料
の な り た ち 」が 1 行 1 6 字 で 8 行 、 1 3 0 字以 内 、
や レ プリカ資料 を 展示 す る の を 原則と した。 以上
の ほ か 、テーマ に よ り 、ア ン ド ン ボック ス を 不り用
「植物 の 世界 」以 下は 1 行 2 6 字 で 4 行 、 1 0 0
して 絵 図 の 写真 を 展示 した り 、ジオラ マ や パノ ラ
字 以 内 と し、サ プ コ ピーは 、図 や 写真等他 の情報
マ 模型を 製作展示 し、ま た 、民家の一部 を 再現 し
と の 関連 も あ り 一定 しな か っ た 。 分類展 示、研 究
展 示の メ イ ン コ ピーも 1 行 2 6 字 で 4 行 、 1 0 0
さ ら に 、第一 展示室 同 様 エ ピソードコ ラ ム を 設 け
字 以 内 と した。
た。
第二展 示室 の解 説 パネ ル は 、原則と して 横 9 0
14
展 示 改 装 整 備事業 報 告
側、縦 2 6 7cm ( 壁面 ケ ース 内 は 2 3 3cm ) の パ
ネ ル を 使用 し、観覧者 の 目 線 の 高 さ を 考慮して 、
床上 190cmか ら 6 5 cmま で ( パネ ル 上 方 よ り 9 0
cmか ら 2 1 5 cmま で ) の 中 に 情報 を 盛 り 込ん だ。
cm、縦 9 0 cmの サ ブパネ ル を お こ し、各時代 の 県
庁お よ び街角の 風俗 の 写 真 を 盛 り こ ん だ。
「あ か り の う つ り か わ り 」以 下の 解 説 パネ ル は
上方 9 0cmの 部 分に は 、メ イ ン パネ ル に は 、イ ラ
テーマ名 、 メ イ ン コ ピー、サ プ コ ピーお よ び、テ
ーマに よ り 図 表 、分布 図等 を 盛 り 込ん だ、。
ス ト を シ ル ク ス ク リ ー ン 印 刷 した 銅板 ( 8 0cmX
メ イ ン コ ピーは い ず れ も 1 行 3 0 字 で 6 行 、180
8 0cm ) を は り つ け 、サ ブパネ ル は 空 白 の ま ま と
字以 内 、サ ブ コ ピーは 1 5 0 字 前後 と した O
して テーマの 区分を 明 確 に した 。
こ の イ ラス ト は 項 目 イ メ ージイ ラ ス ト と 呼 び、
3
パックパネルの作成
展示 テーマを 印 象 づけ る 実物資 料を イ ラ ス ト 表現
解 説 パネル と 共 に 壁面 を 構成す る バック パネ ル
した も の で 、土 器 、埴輪、仏像、絵巻物 、兜、絵
は 、第一展示 室 、第二展示 室 共 に 、テーマに ふ さ
馬 等 、山 形 に 直 接関 係 あ る 、あ る い は 県 内 に 所蔵
わ しい 資 料写真や情景 写 真 、イ ラ ス ト を も っ て 表
保 管 さ れ て い る 資 料か ら 選択した。
現 した。 こ れ ら の う ち 、第一展示室 は 「山形 の な
解 説 パネル に 盛 り 込ん だ情報 は 、時 代 区分 の帯 、 り た ち 」の 7枚、第二展示室 は 「山形 の あ け ぼ の」
テーマ名 、 メ イ ン コ ピー、サ プ コ ピー、 図 、写 真
の 2枚 と 「ひ ら か れ る 出羽田」の 1枚、計1 0枚
は イ ラ ス ト パネ ル と し、他 は 写 真 パネル と した 。
等 で 、 メ イ ン パネ ル と サ ブパネ ル と の 差は ほ と ん
どな い。
時代 区分の 帯 は 、旧 石 器 、縄文、弥 生、古 墳、
奈良 、平 安 、鎌倉、室 町、安 土 ・ 桃山 、江 戸 、明
写 真 に よ る パ ック パネ ル は 、形状 、大 き さ 共 に
種 々 あ り 、 カラ ー、モノ ク ロ 共 に 使 用 した。
バック パネル を は じめ 解 説 パネル そ の 他 に 使 用
治 ・ 大 正 ・ 昭和 の 1 1 区分と し、該 当 す る 時 代 を
した 写 真 は 、一部館所 蔵 の ネガか ら 選 び、大 部 分
色 分け して 、一見 して そ の展 示 の 属す る 時代 が 分
は 新 た に 館職員 叉は 施 工業 者 委託 の カメ ラ マ ン が
か る よ う に 工 夫 した も の で あ る 。 時代 区分を こ え
て テーマ設定 し、展 開して い る 「最上川 の に ぎ わ
撮影した が 、第 二展示室 の 「米 づ く り の く ら し と
い 」、「三 山 信 仰へ の 道 」、「米 づ く り の く ら し
っ た 。 しか し、機械化以 前の 米 づ く り の 姿を 写 し
と こ こ ろ 」の 3 コ ーナ ーに は 、時代 区分の 帯 は 無
し、。
て い る も の は 少 く 、中 で も パ ック パネ ル に 拡大 し
コ ピーは 横 書 き と し、 メ イ ン コ ピーは 1 行 3 0
字 で 6 行 、 1 8 0 字以 内 、サ プ コ ピーは 図 や 写真
の 中 に は 、適した も の が 見 つ か ら ず 、 新た に 演出
等 、 他 の 情 報 と の 関 連 で長 短が あ る が 、 2 0 0 字
と 針仕事の 2 点 ) 。
尚、第 一 展示室 の 最後 に あ る 横 4 5 0 cm、縦 265
前後 を 原則と した。
こ こ ろ 」の コ ーナ ーは 、ほ ぼ全部が 借用 ネガに よ
う る ネガは 稀で あ っ た 。 解 説 パネル に 入れ た 写 真
して 撮影した も の も あ る ( 水 か け 、わ ら じづ く り
コ ピー以外 で解 説 パネ ル に 時 り 込ん だ情報は 、
cmの 大 き な 写 真 パネ ル は 、テーマ「心 の ふ る さ と
遺跡 分布 図 、地 図 、図 解 、 グ ラ フ、系図 、 年 表 、
山形 」 を 1枚の 写 真 で表現 した も ので、あ る。 「山 と
写真等 で 、テーマに よ り 適宜選 択した 。
川と花と 」、
す な わ ち 、内 陸か ら も 庄 内 か ら も 仰 ぐ
第 三 展示 室 の解説 パネ ル は 横 9 0 cm、縦 1 5 0
こ と の で き る 美 しい 月 山 、母な る 最上川 、山 形 の
cmの パネ ル を 使用 した 。 「街角の 風俗 」は 明 治 、
大 正 、昭和の 3 期 に 分け て そ れ ぞれ 解 説 パネ ル を
春 の野 を お お う 果樹 の 花 の 3 っ こ そ山 形 を 象 徴す
お こ し、そ の 内 容は テ マ名 、メ イ ン コピー、 年
山 よ り 撮影した も の で あ る 。
第一展示 室 の 7枚の イ ラ ス ト パネ ル は 、山 形 の
表 、写 真 で 構成 した O こ の コ ーナ ーの み 、横 9 0
る も の と して 、昭和 5 3 年 5 月 、寒河 江市の 高 瀬
山形 県立博物館研究報 告 第 5 号
1 9 8 4年3 月
15
地史 を 物 語 る も の で 、 古 生代 、 中 生代 各 1枚、 新
4.
生代 5枚と した 。 「山形 の な り た ち 」の 展示 は 、
展示物 は 、 テーマに 沿 っ て よ り 質の 高 い 資料 を
資料の展示
山形 に 関係資料 の 少 い 古 生代 、 中 生代 の 展 示ス ペ
選 び、 可能な 限 り 標本 資料 ・
F 実物資料 を あ て た O
ース を 狭く し、 関係資料 の 多い 新生代 の ス ペース
た だ 、 ゆ っ た り と 観覧 して ほ しい と の 配 慮から 資
を広 く と っ て 、 内 容豊 かな 展示 を と 意図 した から
料 を 精選した の で 、 展 示資料が 少 い 感は しな い で
であ る 。
も な い。 とう した 中 で 、 第一展 示 室の 「昆虫の な
「海 底 に 眠る 山 形 J ( 古 生代 ) 、 「海底 から 陸
かま わ け 」の コ ーナ ーの 昆虫標本 展示や、 第二展
へ J ( 中 生代 ) 、 「ふ た た び海 底 へ J ( 新 生代 ) 、
示 室の 「嶋むら の く ら し」の コ ーナ ーの 土 器 の 展
「静かな 海 の 底 で J ( 同 ) 、 「海 から 湖沼へ J (
示 な ど は 、 デ モ ン ス ト レ ーシ ョ ン 展示 と も い う べ
同 ) 、 「く り かえ す 氷 期 J ( 同 ) 、 「火 を ふ く 山
く 、 多 数 の 資料 を 展 示 し、 資料 の 豊 富さ を 印 象 づ
々 J ( 同 ) の テーマ に 沿 っ て 生物や環境を 想像復
けた と こ ろ も ある。
元した も の で 、 で き る だ け 山形 に 合 わせ 、 しかも 、
小学 生以 下 に も 理解で き る よ う 配 慮、して 描き 上 げ
展 示 資料 は 、 県 内 で収 集 、 採 集 した も の や 、 県
内 に 所蔵 さ れ て い る もの 、 さ ら に 、 山形 に 関 係 あ
た。 な お 、 新生代 に つ い て は 特 徴あ る 場面 を 設定
る も の を 中 心 と した が 、 第一展 示室で、は 、 県 内 資
した が 、 時間 的に き わ め て 長 い 期間 を 一 場面に 表
料 と の 対比な ど の 必要 から 、 県 外 産 の 資料 も かな
現した 古 生代 、 中 生代 の 両場面 は 、 生物 等 を 、 動
り 展示 した 。
レ プリ カ資料 を 含 め て 、 資料 の 展示 方法 は 、 壁
線に 沿 っ て 古 い 方から 描き 分け た。
パネル の 大 き さ は 横 2 70 �4 5 0cm、 縦 220
面ケ ース 、 独立 ケ ース 等 、 ケ ース 内 展示 を 主 と し
cmで原画を セ ピア 系の 色 調で 描き 上げ 、 カラー写
た 。 資料 の 破損、 汚損や 盗難 を お そ れ た た め で あ
真引 き 伸ばしに よ っ て 仕上げ た。
る 。 露出展示 を した の は 、 第 一展示 室で は 3 つ の
第二展示 室の 3枚の イ ラス ト パネ ル は 、 旧 石 器、
ア テ ン シ ョ ン ゲッタ ーの 資料お よ び「木 材の い ろ
縄文、 古 墳各 時 代 の 人 々 の 生活の 様 子 を 表わ した
い ろ 」の コーナ ーの 木 材標本 の み で特 に 少 く 、 第
も の で 、 そ れ ぞれ の時代 を 特 徴づけ る 場面を 設定
し、 考 古 学 上 の 考 証の 下に 描い た 。 場面の 設定 で
二展示 室で は 「日向 洞穴 」ジオラマを は じめ 、 「
留意 した とと は 、 調査が 行 な わ れ た 比 較的知名度
と 「桶屋 の 仕事場」の 両コ ーナ ー、 さ ら に 「米 づ
の高 い 遺跡 を 選 ん で比 定 した こ と で 、 さ ら に 、 画
く り の く ら しと こ こ ろ 」の 全資料 と 、 かな り 多数
面の 構成 で は 、 各時代 の 生業や 住居、 衣服、 自然
の 資料 を 露 出 展示 し、 第三展示 室で は 、 「雪 と 山
環境 の 差違を 明確 に表現す る よ う 心 掛け た。
約 2万年 前の 月 山山 麓で の ナ ウ マ ン 象 狩 り 、 約
形 」の 全資料 を 露出展示した。 い わ ゆ る 民俗資料
4 千年 前、 熊 ノ 前遺跡 に 住ん だ 人 々 の く ら し、 約
1 3 0 0 年 前、 嶋遺跡 に 住ん だ 人 々 の く ら しの 3
れ た O な お 、 「桶屋 の 仕事場」 に 展示した 鈎や せ
場面 と し、 施工業者 を ま じえ て 場面比定 した 遺跡
しば り つ け る な ど 、 観覧者 の 不 層、の 負傷や 持ち 出
の 下 見 を し、 諸資料 を 参考に して 描い た 下絵 に 修
しの 予防に つ と め た 。
正を 加 え な が ら 構想を 練っ て 描き 上 げた。
一水会 々 員河 西 昭 治氏 が 描い た 油絵 で 、 大 き さ
は 1枚は 横 1 8 0 cm、 縦 1 4 0 cm、 他 の 2枚は 、
横 1 8 0 cm、 縦 1 8 0 cmで、あ る 。
城下 町の く ら し」の 中 の 「呉服太物 商の 庖さ き 」
が 中 心 で は あ る が 、 露出展示 を で き る だ け 取 り 入
ん な ど の 刃物 に つ い て は 、 刃を つぶ し、 演示 具に
5.
レプリカの製作
展示物は 可 能な かぎ り 標本資料 や実物資料 を も
っ て す る よ う に つ と め た が 、 次の 場合 は レ プリカ
資料 を も っ て 代 え た 。
16
展 示 改 装 整 備事業 報 告
1 . 資 料 の 保存 上 の 観 点か ら 、 長期間展示 を 伴
う 常 設展示 を 極 力 避け な け れ ばな ら な い 資料。
2 . 信仰上 の 問題や 所蔵者 の 意 向 か ら 、 長 期 間
に わ た る 借用 展示 が 不可能な 資料。
3 . 資料 の 材質等 か ら 標本 又は 実物 に よ る 展示
が 不 可能な 資料。
予算 上 の 制約 も あ り 、 第一展示室で は 、 楠山産
ヒ ト デ化石 ( 県指定 天 然記念 物 ) 、 ヤ モ リ 、 ヨー
ロ ッパカプ ト エ ビの 3 件 5 点 、 第二展示 室では 、
慈恩寺 木 像阿弥陀如来 坐像に つ い て は 文化庁係官
( 鷲塚主 任 文化財 調査官 ) の 出 張 指導 の 後 に 着手
した。 な お 、 2 社か ら は 直 接発注を 強 く 求め ら れ
た が 、 直接契約 は 締結 しな か っ た 。
い ず れ の資料 に つい て も 、 成形は業 者 工 場で行
っ た が 、 型取 り お よ び着 色 は 、 化石、 仏像、 懸仏、
党鐘は 現 地 で 、 土 器 、 土 偶、 足 跡 、 棟札 、 銅鏡は
本 館 で 借用 の 上 、 本 館作業 室で行 い 、 経典、 古 文
蟹沢遺跡 出土 異形 注口 土 器 、 釜淵遺跡 出土土 偶 (
書 、 絵 暦は 借用 の 上 、 本 館職員 が 施工業 者 の 下に
持参して 撮影等 を 行 い 、 ヤ モ リ 、 カブ ト エ ビ は 資
重要 文化財 ) 、 江俣遺跡出土 籾圧痕土 器 、 堂 森遺
料 を 業 者 に 提供 した O
跡 出土平 織圧痕土器 、 神立 洞穴遺跡 出土 レ ピア ヘ
各業者共 、 資 料 の 材質を 吟味して 型取 り す る な
ッド 、 山辺条里遺構農民の 足 跡 、 慈恩、寺 木 像阿弥
ど 、 細心 の 注意 を は ら い 、 技術を 結集して 作 業に
陀如来 坐像 ( 重 要 文化財 ) 、 若松寺 金銅聖観音 像
当 っ た が 、 出来 ・ 不 出 来 が み ら れ 、 ま た、 作業 後
懸仏 ( 同 ) 、 成島八幡宮棟札 、 普光 寺発鐘 ( 県指
1 年 程た っ て 資 料 に 変調を 来 た した と の 指摘が あ
定 有 形 文化財 ) 、 石行 寺大般 若経第百巻 ( 同 ) 、
り 、 復 旧 の 手 だ て を 講 じた 例 ( 懸仏 ) も あ っ た 。
蔵 増大膳亮宛最上義 光 書状 、 戸 沢安 盛 宛最上 義光
起 請文、 金峯 山宛最上 義光寄進状、 宝瞳寺宛最上
義光和歌懐紙、 羽黒 山絵暦、 羽 黒 山 御 手 洗池 出 土
銅鏡 ( 重要 文化財 、 平 安 鏡 2 、 鎌倉鏡 1 、 室町鏡
1)
6.
ジオラマ・パノラマ模型の製作
r森林 の 科学 」ジオラ マ
第一展示室で 、 山形 の な り た ちに 続 く 大 テーマ
1 、 計 4 面 ) の 1 7 件 2 0 点 、 合 計2 0 件 2 5 点
で あ り 、 代表 的な 展示 と して 製作 した の が 、 「森
を 製作 して 展示 に あ て た 。
林 の 科学 」ジオラ マ で あ る 。
レ プ リ カを 製作す る 資料 を 確 定す る ま で に は 、
ジオラ マ は 、 山形で も っ と も 身近 に み ら れ る コ
所蔵者 と 数 回 に わ た る 交渉を も ち 、 最終的に は 「
ナ ラ ・ ブナ林 の 中 で 繰 り 広 げ られ る 動 物 と 植物 と
資料 複 製許可 申 請書 」 を 出 して 「承 諾書 」 を も ら
の か か わ り を 「コ ナ ラ ・ ブナ 林 の 動物た ち 」、 「
う と い う 、 き ち ん と した 手続 き を取 っ た 。 交渉の
自 然林 の し く み 」、 「動物 と 植物 の つ な が り 」の
過程では 、 信仰 の 対象 で も あ り 、 全 く 同 ーの 姿で
3 つ の テーマ を と お して 理解 で き る よ う に 製作 し
は 困 る ( 仏像 ) と い っ た 声や 、 後 日 真 偽問題が 出
た。
な い よ う に レ プ リ カ資 料 に そ の 旨を 明 記 す る よ う
ジオラ マ を 構成 して い る 植物 は 、 高 木層 と して
7 本 の ブナ ・ コ ナ ラ ・ ミ ズ ナ ラ が あ り 、 亜高 木 層
に ( 古 文書 ) と の 条件を 付 した も の も あ っ た 。
重要 文化財 に つ い て は 、 文化財保 護法 に 基 づい
に ウ リ ハダカエ デ ・ ハウ チウ カエ デな ど を も ちい 、
て 、 文化庁長官 宛に 、 複 製品製作仕様 書 と 所 蔵者
の 承 諾書 を 添え て 、 「現 状変更等 許可 申 請書 」を
低木層 に は ミ ヤ マ ガマ ズ ミ ・ ヒ メ ア オキ ・ オオバ
ク ロ モジ ・ チシ マ ザサ な ど 、 草 本 に は ヤ マ ソテツ・
提 出 して 承認 を 求め 、 合 せ て 、 指導助言 を 要 請し
シ ョ ウ ジョ ウ パカ マ ・ マ イ ズ ル ソウ な ど カ:ぁ
た。 文化庁か ら は 、 施 工業者 の 推せ ん と 事前検 分
る。
実施の 指導 が あ り 、 重要 文化財 の レ プ リ カ製作 に
つ い て は 推せ ん の あ っ た 2 社に 委託 した。 両社の
担 当 者 は 直 接文化庁の 指導 を 受 け て 作業 に 着手 し、
ほ か に 、 ナ メ コ ・ ツ キ ヨタ ケ な ど の キノ コ類、
コ ケ 、 林 内 風倒木 、 ほ ぼ 全面に しか れ た 落葉な ど
か ら な っ て い る。
山形 県立博物館研 究報告 第 5 号
1 9 8 4年3 月
17
ジオラマ 奥 の 壁面に は 樹林 の 絵 を 描き 、 森林 の
広が り が あ る よ う に した O
て 労 力 は ほ と ん ど 本 館職員 の手 で お こ な っ た 。
動物 は 、 カモシ カ ・ キツ ネ ・ タ ヌキ ・ リス な ど
の晴乳類、 オオタ カ ・ カケ ス ・ シ ジュ ウ カラな ど
所蔵 の も の使用 して 製 作した 。
ヤ マ ア カガエ ル ・ ヘビ の ヤ マ カガシ ・ ム カデ ・
の鳥類、 ほ か に ヤ マ ア カカザ エ ル ・ ヤ マ カガシ ・ ム
キノ コ類な ど は 原 資 料 を 本館 が提供 して つ く っ た
カデな ど で、あ る 。
レ プリカで あ る 。
季節 は だ い た い 1 0 月 下 旬ごろ の秩季に あ わ せ
ま た 、 動 物 の 剥製標本 は キツ ネ を の ぞい て 本館
ジオラマ に は 音響効果 が つ い て お り 、 自 動ス イ
であ る 。
ッチに よ る 4 チャン ネ ル の立体音が使用 さ れ て い
ジオラマ は 、 大 き さ 約 6 m直経 の ほ ぼ円型で、
高さ 約 3 . 6 mの 空 間 に 展 開 さ れ て い る 。
る 。 谷川 の 昔、 虫の 戸 、 ヒ ヨドリな ど の 鳥 の 戸 で
観覧 者 は 前面部の約 1 . 8 mX 1 .7m の ガラス 面
森林 内 の ふ ん 囲気が 一層 で る よ う に した。
2) 鳥 の す み か と ミ ニ ジオラマ
3枚か ら そ れ ぞれ 角度を か え て 内 部を 観察 で き る
第一展示 室の テーマ 展示 の 1 つ で あ る 「野鳥 の
よ う にな っている。
正面 、 真中 の ガラス 面 は 「コ ナ ラ ・ ブナ 林 の 動
世界 」は 、 「鳥のすみか と く ら し」、 「鳥の 渡 り 」、 「
物た ち」で 、 手 前に 置か れ た ア ン ド ン ボ ック ス に
は、 ジオラマ 内 の 動 物 ・ 植物名 が わ か る よ う に な
しが 理解 で き る よ う に 展 示 を 展開 して い る 。
って お り 、 秩 季に は 姿を 消して しま う 夏 鳥や そ の
も ち、 さ ま ざ ま な 環境 の 中 で 生活して い る た め 、
他の 動物 も だ し て あ る 。
「鳥 の す み か と く ら し」の コ ーナ ーで は 「水 辺の
右側 ガラス 面は 「自然林 の しく み 」で 、 自 然林
鳥のなかま わけ 」な どを と お して 、 野鳥のすみか と く ら
鳥 は 、 そ れ ぞれ の 生活に も っ と も 適した 形 態を
鳥 」、 「草 原 の鳥 」、 「村 里 の鳥 」 、 「山林 の鳥」、
はちょう ど 4 階建の ビ ル ディン グの よ う に な っ て
「高 山の鳥 」の 5 つ ク 'ル ープに わ け 展示 して い る 。
お り 、 種類の ちが う 多 く の 植物 が 集 ま っ て 、 う ま
各 ク eル ープの 生息環境 を モ ノ ク ロ バック 写真 で
く 共存 して い る こ と を イ ラス ト を 用 い て 説明 して
表現 す る と と も に 、 く ら しの な か み を よ り わ か り
あ る 。 ま た 、 森林 の ま わ り や ふ ちは 、 つ る 植物や
や す く す る た め に 、 そ れ ぞれ の グル ープの な か の
小低木 に お お わ れ て い て 、 こ れ に よ っ て 林 の 中 に
1 種 を と り あ げ て 、 巣、 卵、 親鳥 の 剥製を 配 した
日光や 風が 直接入 る の を 防 ぐ は た ら き を して い る
こ と を イ ラス ト や ジオラマ 内 に 実 際 に マ ン ト 群 落、
営巣状況ジオラマ を 製作した O
ソデ群 落を 製 作して 理解 で き る よ う に して あ る 。
の 斜 め 上 か ら の ぞ く ボ ック ス 状 の も の で 、 ミ ニ ジ
オラマ ま た は ス ポ ッ ト ジオラマ と 呼ん で い る 。
左側 のガラス 面で は 、 「動物 と 植物 の つな が り 」
と し、 土中 の 断 面に ミ ミ ズ ・ モ グラな ど も 展示 し
て 、 森林 の 中 で の 生物 た ちが "食 べ た り ""食べ
られた り "の 関係 ( 食物連 鎖 ) を イ ラス ト ・ ジオ
ラマ を み な が ら 理 解 で き る よ う に した。
ジオラマ の 大 き さ は 、 5 2cmX 4 7cmX 3 Ocm
「水辺の鳥」では 、 巣を川原の 割足利の 上 に つ く っ た
イ カル チドリを だ、した。 「草原の鳥」では シパ草 と ヨ
モギ の繁み の 中 に 巣を つ く っ た ヒバリを 、 「村里の
鳥」では カキの木 に 巣を つ く っ た 、 カワラ ヒワ と し
植物 の 資料収集 は 秩 季に あ わ せ て 、 2 年間 に わ
た。 rú琳の鳥」は木の根元に 巣をか け た ホオジ ロ を
た っ て お こ な い 、 主 と して 月 山 ・ 朝日連峰 の西
だし、 「高山の鳥」では、 地上の石か げ に つ く ら れ た
ビ‘ン ズイ の 巣を 製 作し て 代 表 と し た 。
川町内 で収集 した 。 高 木 ・ 亜高木 の ブナ ・ ミ ズ ナ
ラ ・ コナ ラな ど の 木 材は 営林 署の 好意 で払い 下 げ
て も ら っ た も のである。
資料収集は 、 機械力 を 必要 と す る も の は 別 と し
3)
r日向 洞穴 の 人 びと 」ジオラマ
第二展示 室の 最大 の 山場と して 製 作展示 した の
が 、 約 1 万年 前日向 洞穴 で く ら した 人 々 の 生活の
18
展 示 改 装 整 備事 業 報 告
一 場面 を 復 元した 「 日 向 洞穴 の 人 びと 」ジオラマ
である。
高 畠 町 に あ る 日 向 洞穴 は 、 昭和 3 0 年 �3 2 年
の 3 次に わ た る 発 掘 調査の 結果 、 日 本 で 最も 古 い
土 器 の 1 つ、 徴隆 起線縄文土器 が 発見 さ れ た 洞穴
遺跡 で 、 国 指定 の 史跡 と な っ て い る 。
集 し、 槍 ・ 斧 の 柄 や 弓の 材料 は 雪 に お お わ れ た 山
か ら 伐 り 出 し、 イ ノ シ シ は 神 奈川 県 丹沢 か ら 、 シ
カの 皮は 宮城県 金華 山か ら 入手 した も の で あ る 。
今 日 、 イ ノ シ シ や シ カは 山形に は 生息して い な い
が 、 こ れ ら の 骨 が 日 向 洞穴 か ら 多数 出 土 して い る
の で ジオラマ に盛 り こ ん だ も の で あ る 。
ジオラマ で、は 、 奥行 1 0 数 mの 洞穴 の入 口 か ら
な お 、 縄 文人 の 人 体は 学 問的な 裏 付 け を も っ て
2 m程で切 っ て 、 そ こ に 縄文人 の 家族が 生活して
復原 し、 製作 した も の で あ る が 、 彫塑風 に 仕 上げ
い る 様 子 を 再現 し、 観覧 者 は 洞穴 の 奥 か ら 入 口 方
て 、 写実 的な 彩色 な ど は しな か っ た 。 観覧 者の 目
向 を 見 る 形 に した 。
が 、 洞穴内 の 生活の 様子全体に 向 く こ と を ね ら っ
縄 文人 の 生活情景は 、 秋の 日 の 午後 、 妻が 炉の
た も の であ る 。
I大 石 田 河 岸 」パノ ラマ 模型
そ ば で ド ン グリを 加工 して ク ッキーを 作 っ て お り 、
4)
夫 は イ ノ シ シ を か つい で 狩 り か ら 帰 り 、 子 ど も が
「最上川 の に ぎ わ い 」の コーナ ーは 、 小 鵜飼船
喜 び迎え て い る 様 子 が 中 心 で 、 洞穴 内 に は 、 土 器
や 筏の 模型 、 船箪笥や 米 植な ど の 船中 道具、 ろ や
や 石 器 な ど の 生活用 具や 木 の 実な ど の 貯蔵 食物 も
権な ど の 資 料 を 展 示す る と と も 、 山場と して 、 最
配置 し、 さ ら に 、 背 景 に は 古 白 竜湖の 湿原 が 間近
上川 舟運の 最大 の 河岸 と して 繁栄 した 大 石田 河 岸
に 見 え 、 遠 く 吾妻 の 山々 を の ぞむ 絵 を 描い て 、 生
の に ぎ わ う 様 子を 、 パノ ラマ 模型 と して 製作 し、
活実 感が 出 る よ う に つ と め た 。
約 1 万年 前、 縄 文時代 草創 期 の こ と だ け に 考 証
展示 した。 当 初、 江戸時代 、 最上川 舟運の 主役 と
に は 特 に 力 を 入 れ 、 柏倉亮吉氏を は じ め 県内 考 古
資 料不足 で断念 せ ざ る を 得 な か っ た 。
して 析すした 締船の 模型を 製作す る 計画が あ っ た が 、
学 者 の 指導助言 を 得 た ほ か 、 ジオラマ 構成物 の 復
大 石 田 河岸 パノ ラマ 模型 の 製作 の た め の 本 格的
元に は 小林 達 雄氏 の 指導 を 受 け 、 縄文人 の 復原 に
つい て は 鈴木 尚氏 に 依頼した 。
な 調査、 資料収 集は 、 第 二 展示 室施工 の 前年、 昭
和 5 3 年 早 々か ら 開 始した。 大 石 田 の 歴史 や 最上
縄 文人 の 人 体は 、 成 人 男 女、 小 人 男 各 1 体、 計
川 舟運史 に く わ しい 研究者 ( 横 山昭男氏 、 梅津 保
一 氏等 ) の 指導 ・ 助言 を 得 る と と も に 、 大 石 田 町
3 体 と し、 い ずれ も 日 向 洞穴 の年代 に 近 い 、 長野
県 栃原 岩陰出土 の 人骨 を 資料 と して 復 原 し、 剥製
前の イ ノ シ シ を か つい で ポ ーズ の 参考 に す る な ど
教 育委員 会 の 協 力 を 得 な が ら 、 しばしば大 石田 の
して 製作 を 進 め た。 ま た 、 土 器 は 日 向 洞穴 出 土 の
影を した り 、 ま た 、 北 上市立博 物 館の 黒 沢 尻河 岸
土器破片を も と に 推定復原 し、 石槍や 石斧 も 日 向
の パノ ラマ 模型 を 見学 し、 種 々助言 を 得 た 。 そ の
洞穴 出土遺物 を 資料 と して レ プリカ製作 した も の
結果
で あ り 、 槍や 斧 の 柄や 弓の 材料 に つい て は 福井県
鳥 浜見 塚遺跡 出土遺物 を 参考 と した。
調査を し、 古い 姿を と ど め る 家屋や堂社の 写真 撮
l
大 石 田 町 絵図
( 大 石田 東町所蔵 )
背景 に 描 く た め の 植生や地形 、 ま た 、 洞穴 内 の
2 . 大 石 田 村 絵 図 ( 梅 津保 一氏所蔵 )
を 基本 的な 資料 と し、 「大 石 田 町 誌 J ( 長 井政太
敷物や 食物 、 衣服、 道 具の 材料等 に つい て の 、 日
郎著 ) や 聞 き 込み ・ 写真等現地 調査の成果 を 加 え
向 洞穴 の 立 地 に 合 わ せ た 検 討は 、 主 に 自 然部門 (
て パノ ラマ 模型 の 製作に 取 り 組 ん だ。
植物 ・ 動 物 ・ 地学 ) 担 当学芸員 の 手 に よ る も の で 、
収集は 全職員 が 分担 して 行 っ た 。 す な わ ち 、 炉の
こ う した 資料 の 中 で 、 最も 参考 と な る 資料は 「
大 石 田 町 絵 図 」で 、 港に つな が れ て い る 多数 の
ま わ り の 石や 敷 き つめ た マ コ モは 日 向 附近か ら 収
船や川 岸 に 建 ち な ら ぶ 土蔵 、 大通 り に 面 した 大小
山形 県立博物 館研究報告 第 5 号 1 9 8 4 年 3 月
19
の商家、 広 い境 内 と 大 き な 伽蓋を も っ た 寺院 等 々 、
え つつあ っ た。 さ ら に 、 神社・ 寺院の中 に は今日
繁栄す る 大 石 田 河 岸 の 様子 を 、 色彩豊か に 生き 生
廃絶して しま っ た も の も あ り 、 ま た 、 存 続 して い
き と 描 い て お り 、 こ の 絵図 を 主 た る 典 拠と した。
る も の で も 姿を 大 き く 変 え て い る の が ほ と ん ど で
な お 、 こ の 絵図 に つい て は 、 享保年間 の も の と す
あ っ た 。 寺 社や役所 な ど 、 建物の 規模を 伝 え る 資
る説 も あ っ た が 、 川 船役 所 が 設置 さ れ た 寛 政 4 年
料 は 稀で 、 聞 き 取 り 調査に よ っ て も 、 調査ごと に
( 1 7 9 2 ) 以後 、 乗 船寺 ・ 浄願 寺が焼失した 天
保元年 ( 1 8 3 0 ) 以 前、 す な わ ち 、 文化 ・ 文政
異っ た 答が返 っ て く る な ど 、 資料収 集は 容易で な
か っ た。
年間頃の 様 子 を 描い た も の と 判 断 し、 時代設定 を
請負い 契約後 、 施 工 に 先立 っ て 、 地元 大 石 田 で
した。 ま た 、 季節 は 、 村 山 地 方 の 天 領の 村々 か ら
の廻 米 が 酒田 に 向 け て さ か ん に 積下 さ れ る 春 を 想
地元 の研究者 、 関 係 者 を 含 む 検 討会 と 現地 調査会
( 出 席者 ー梅 津保 一 氏 ・ 斎藤政蔵氏 ・ 常 盤 富男氏 ,
定した。
阿 部 次雄 氏 等 ) を 聞 き 、 以 上 の よ う な パノ ラ マ 製
パノ ラ マ の 範囲 に つ い て は 、
1.
作 方 針を 確 認 した。
大 石 田 河 岸 を 象 徴す る 1----数 棟の建物 を 中
そ の 後 、 施工業 者 も現地 に 入 っ て 、 地形 調査を
心 に 、 で き る だ け 狭い 範囲 で 、 細密に 表現 す
含 む 調査を 綿密に 行 い 、 明 治 初期 の 大 石 田 4 か村
る。
の 様 子 を 伝 え る と い う 「大 石 田 村絵図」か ら 、 町
2 . 大 石 田 河 岸全体の 様 子が わ か る よ う に 表現
する。
割 や 土 地 利用 の 状 況 を 読 み と っ て 図 面 を 作 り 上 げ
た。 そ の結果、
と い う 2 つ の表現 方 法 が 考 え ら れ た が 、
1 . 川 船役所 を は じめ 、 上下す る 荷物 を 集 中的
1. 範囲 は 、 川 港で あ る こ と を 明 ら か に す る た
に 保 管す る な ど の 機能を 持っ て い る 建物 ・ 施
田 4 か 村 の ほぼ全域 を 含 む も の と し、 対岸 か
設は な く 、 河岸 を 象 徴す る 建物が 見 当 ら な い
ら 僻撤す る 形 で 展示す る 。
」と 。
2 . 大 石田 の 最上川 川 岸 の ほ ぼ 全域 で 船が発着
して い た こ と 。
3 . 川 べ り に は 土蔵が建 ち な ら び、 有 力 商人 は
街道 に 面 して 軒 を 連 ら ね て い た こ と 。
め に 対岸 横 山地 区の 一部 を 含 め 、 当 時 の 大 石
2 . パノ ラマ 模型の 大 き さ は 東 西 2 5 0 cm、 南
北 1 3 0 cmと し、 縮尺 3 0 0 分の 1 で 製作 し、
手 前 と 後 方 の 縮尺 を 変 え た り 、 遠景 を 絵 画で
表現 した り は しな い。
4 . 乗船寺や 浄願寺、 西 光 寺 、 愛宕社等 、 大石
3 . 地形に つ い て は 、 水 平 縮尺 と 垂直 縮尺 の比
を 1 : 2 .1と して 立 体感 を 強 調す る 。
田 町 人 の 尊 崇 に さ さ え ら れ た 立派な 寺 社が 、
4 . 寺院 ・ 神 社等 の 堂 社や役所 は 、 そ れ ぞれ個
最上 川 か ら 町並 を へ だ て て 立地 して い た こ と 。
別 に 製作す る が 、 民家は 商家 4 タ イ プ、 一般
な ど の 点 か ら 、 大 石田 の町 お よ び川 港の ほぼ全域
町屋 2 タ イ プ、 農家 3 タ イ プ、 土蔵 2 タ イ プ
を範囲と す る こ と が 、 大 石 田 河 岸繁栄 の 実 態を 表
を 基本的な タ イ プと して 製作 し、 町割 を 基盤
現す る、 よ り よ い 方 法 で あ る と 判断 した。
と して 、 適宜組み合せ な が ら 配置す る o
こ こ で 問題な の は 、 典 拠 と した 「大 石 田 町 絵
5 . 川 船は 、 大 中 小 3 タ イ プ と し、 帆を 張 っ て
図」当時 の建物や町並 が ど の 程度残 存 して い る か
い る も の 、 ま い て い る も の 、 積荷の あ る も の
であ っ た 。 川 岸 は 高 い コ ン ク リー ト の 堤 防に か わ
な い も の 、 航行 して い る も の 、 港に つ な い で
って 昔日のお も か げ は全く な く 、 道路 も 付 け か え
あ る も の等 々 、 適宜配置す る 。
られた 部 分が あ り 、 町並 も 伺回 か 火 災 に 遭っ た り 、
ま た 、 近年急速 に 改 築 が 進行 して 、 古 い 家並 は 消
6 . 人 馬 も 製作 、 配置 し、 町 の に ぎ わ い を 表現
す る よ う にする。
20
展 示 改 装 整 備事 業 報告
と い う 方 針を た て 、製作 を 進め た 。 そ の 後 も 、施
工業者 と 緊密な 連絡 を 持ち 、不足資料 を 補 っ た り 、
本 館職員 が 製作現場に 赴い て チ ェ ッ ク す る な ど 、
よ り 正確 な パノ ラ マ 模型の 製作 を め ざ した 。
な お 、B G M に つ い て は 、今 日 一般 に 流 布 して
い る 「最上川 舟唄 」では な く 、元唄 と も い う べ き
舟唄 を 選 び、船宿 の 家に 生れ 、何 度か 船で 酒固 ま
で往来 して 、船頭 か ら 直 接こ の 舟唄 を 習 っ た と い
う 、新庄市 本 合海 在 住の 加藤喜平治氏 ( 当 時 7 6
才 ) に 歌 っ て も ら い 収録 した。
5) 農家の い ろ り ばた
第二展示 室 の 「米 づ く り の く ら しと こ こ ろ 」の
中 の 「農家の い ろ り ば た 」の コ ーナ ーは 、旧 展示
の 民家を 移 設 した も の で あ る 。
旧 展 示 の 民 家は 、約 3 0 0 年 続い た 飯豊 町 中 津
川 地 区の 民 家を 昭 和 4 5 年 に 調査し、山形市成沢
地 区の 民 家の 解 体材を 利用 して 、ざしき を 中 心 に
そ の 一 部 を 再 現 した も の で 、展示 室 の ス ペ ース の
関 係か ら 、台 所ゃ に わ ( 土 間 ) を は じめ 全般 的に
間づま り に な っ て い る 。
新展示 では 、方 向 を 変 え て 移 設 し、「米 づ く り
の 一年 」の 中 の 小 正 月 に 位置 づけ た 。 な お 、い ろ
り ばた の着座等 の 名 称は 、山 形 市 村 木 沢地 区の 呼
称に よ っ た。
τ
(1)
アテンシ ョ ンゲッ タ ー と エ ピ ソ ー ド コ ラム
ア テン シ ョ ン ゲ ッ タ ー
第一展示室「豊 か な 自 然、と そ の め ぐみ 」で は 、
各 コ ーナ ーの導 入 部 に 、そ の コ ーナ ーの 中 心 的課
題を 象 徴す る 資 料 を 、特 製の 展示台 に 展 示 して 、
観 覧 者 の 注目 を ひ き 、興 味や 関 心 を い だか せ る と
と も に 、疑 問を な げか け よ う と した。
こ れ を ア テン シ ョ ン ゲ ッ タ ーと よ び、 ヒ ト デ化
石 ( レ プ リ カ ) 、イ ヌワシ の 剥 製、オサガ メ の 剥
製の 3 資料 を 配 置 し、解 説 文も 他 と 異な る 散 文詩
風 に した o
ヒ ト デ化石は 「山 か ら 出 た ヒ ト デ」の テーマ の
下 に 「… … な ぜ 、海に す む ヒ ト デの 化石 が こ ん な
山 中 か ら で て く る の で し ょ う か。 … … 化石や 岩 石
な ど を 手 が か り に して 、 " 山形 の な り た ち "を さ
ぐ っ て み ま し ょ う 。 」 と の解 説 を 付 し、 「山 形 の
な り た ち 」の 導 入 と して い る 。
イ ヌワシ は 「鳥 の 王 者 イ ヌワシ 」 と して 「森林
の 科学 」 以 下の 、オザガ メ は 「庄 内 海岸 に く る 南
の カ メ 」と して 「暖流 と 雪 の 山 形 」の導 入 と し、
そ れ ぞれ 自 然 の しく みや環境 と 生物 と の 関 係 を 理
解す る と い う 、テー マ の ね ら い を 示 して い る 。
( 2) エ ピソードコ ラ ム
展示資料 の 中 か ら 、展 示 テーマ に 沿 っ て 特 に 興
味あ る 資料 を 選 び出 し、解 説 コ ピーや図等 の 情報
も 盛 り 込む と と の で き る 特 製の 展示 台 を 利用 して
展示 した も の で あ る 。
第一展示室 で は 、ソロ パ ン 玉 石 、田川 の 魚 化石 、
ナ ウ マ ン象の化石、美 しい 鉱物 ー誕 生石、昆虫の チ
エ ー ミ ツ バチ 、テン サ ラ パ サ ラ の 6 件で 、い ず れ
も 標本資料 を 展示 した 。
第二展示室 で は 、「縄文人 の ね が い J r 古代 農
民 の 足 あ と J r 平 和 を 願 う 人 び と J r 駒姫 J r 芭
蕉 J r 古 鏡と 鏡池 」の 6 テーマ と し、釜淵遺跡 出
土 土 偶 ( 重要 文化財 ) 、山 辺条里遺跡 出 土足 跡 、
石行 寺大般若経 第 百巻 ( 県 指定 有形 文化財 ) 、駒
姫辞世幅 、五 月 雨歌仙 ( 県 指定 有 形 文化財 ) 、羽
黒 山 鏡池 出 土 銅鏡 ( 重 要 文化財 ) を 展示 した。 た
だ し、資料 の性 質 上 、実物 資 料 の 展 示 は 無理 で 、
復 製資料 の 寄贈 を 受 け た 五 月 雨 歌仙 お よ び、カラ
ー写 真 の 展 示 に と ど ま っ た 駒姫辞世幅 を 除 き 、 レ
プ リ カを 作 製し、展示 した 。
8.
(1)
V T R と ロ ータ リ ー ビ ジ ョ ン
V T R r 日 本 列島 の お い た ち 」
「山形 の な り た ち 」の 前に 、V T R r 日 本 列 島
の お い た ち 」を 設置 して 、山 形 の 大地 の お い た ち
の理解 の便 を は か っ た o
古 生代 よ り 、ほ ぽ 日 本列 島 が 今 日 の姿を 呈す る
よ う に な っ た 約 1 万年 前ま で の 日 本 列島 の お い た
ち を 、古地理図や イ ラ ス ト 等 を 利用 して 簡 潔 に 解
説 した も の で 、鳥海山 噴 火 の 空 撮を 取 り 込ん だ り 、
ナ レ ーシ ョ ン で 、朝日 ・ 飯 豊連峰の形成や 、グ リ
ー ン タ フ . �炭 の 形成等、山形 の 地 史 の 特 徴的な
事象 を 日 本列島 の 地 史 に 位置 づ け る 様 に した 。
シ ナ リ オの 作 成は 施工業 者 の 担 当 デザイ ナ ーや
デ ィ レ ク タ ーを ま じえ た 学 芸 員 会 議 で、行 っ た が 、
山形県立博物館研 究報告
時間 、 内 容、 表現 方 法等 に つ い て 、 しばしば、 学
芸員 と 施工業者 の 意見 が 対立 した 。 ほ ぽ学芸 員 の
考 え を通 した が 、 こ れ が 、 展示改装工事全体を 、
学芸員 =博物館主 導 で 進 め る こ と が で き た 分岐点
と な っ た よ う に思われる。
た だ 、 当 初 、 3 --- 4 分間 を 考 え た が 、 内 容豊 富
で、 結局 6 分 1 0 秒余 と な り 、 長過 ぎ の 印 象 は ま
ぬ がれ な い。
(2) r 紅花歳時記」 ロ ー タ リ ー ビジ ョ ン
第二展示室 の 「藩政 と 庶民の く ら し」の 中 の 、
「生産 の 高 ま り 」の コ ーナ ーで は 、 紅花 を と り あ
げて そ の 生産 ・ 流 通 に つ い て 詳説 した 。 紅花 は 、
江 戸時代、 村 山地 方 を 中 心 に 各 地で栽培 さ れ 、 そ
の 生産高 は 全国 の 過半 を 占 め て 山 形 の 経済 を さ さ
え る 重要 な 産物 で あ っ た か ら で あ る 。
こ の コ ーナ ーの 中 d心 を な す ロ ータ リ ービ ジ ョ ン
では 、 東根市の武 田陽 氏 所蔵 の 「紅花絵巻 」か ら
「種 ま き 」、 「花 つ み 」、 「花餅 づ く り 」、 「 紅
花 の 船積み 」等 1 1 場面 を 選 び出 し、 ほぽ原寸大
で表現 した O
当初 、 左 右 に 動 か して 「紅花絵巻 」全巻 を 盛 り
込むこ と を 考 え た が、 機器の都合で上下 に 動 く 方
式 を 採用 せ ざ る を え な か っ た O ま た 、 詳細 な 解 説
を盛 り 込ん だ ナ レ ーシ ョ ン を 入 れ る と と も 考 え た
が 、 約 4 m離れ た と こ ろ に B GMを 不明した 「大石
田河岸」パノ ラマ 模型が あ り 、 音響の 重複 が 確 実 と
み ら れた の で 、 ロ ータ リ ービジョ ン で は 、 画面に
ス ーパーを 入れ る に と ど め た。
9. 解説文 〈 コ ピー) の作成
解説パネ ル の 解 説 文 ( コ ピー ) は 、 メ イ ン コ ピ
ー と サ ブ コ ピーか ら な っ て い る 。 メ イ ン コ ピーは
小学 5 年か ら 中 学 1 年 ま で の 児 童 生徒 が 理解 で き
るよ う に 、 さ ら に 、 メ イ ン コ ピーの み に よ っ て テ
ー マ の概要 を 理解 で き る よ う に 考 慮 して 作 成 した D
ま た 、 全国 的、 全日本 的な 位置 づけ か ら 書 き お こ
し、 山形の特性 を 盛 り 込む こ と に つ と め た O
サ ブコ ピーは 、 メ イ ン コ ピーよ り 内 容を 深 め た
も の と し、 分布 図や写真 ・ 図 表 等 の解説 を 主 体 と
した も の も あ り 、 よ り 深い 理解 に 役立つ よ う に 配
慮 した。
第5 号
1 984年3月
21
解 説 パネ ル の コ ピーは も ち ろ ん 、 ラベ ル に 加 え
た コ ピーも 、 全学芸 員 が検 討に 参加 し、 テ マ担
当 者 以 外 の 理 解 に ベ ース を 置 い て 作 成 した 。
1 0 ラベル 〈ネームプ レ ー ト〉
第一展示 室 の ラベ ル は 、 横 9cm、 縦4cmの大 き
さ 、 白 地 に 黒 文 字 の ラベ ル に 統一 し、 上段 に 資 料
名 ( 和名 ) 、 中 段 に 学名 、 下段 に 採 集地名 を 記載
した。 資料所蔵者名 は 、 当 初 、 展示室 の 一 角に協
力者一覧 表 を 掲示す る 計 画が あ り 、 ラベ ル に は 入
れな か っ た。
一方 、 第 二展示 室 お よ び第三展示室 の ラベ ル は
A ・ B . C ・ D ・ E の 5 タ イ プと した O
A タ イ フ。 は 、 横 9 側、 縦 4 .5cmの 大 き さ で 4 段
に 分け 、 上 か ら 、 資料 名 、 時代 ・ 年 代 、 収 集地 名 、
所蔵者 ・ 寄贈者 名 を 記 載 した。 B タ イ プは 横 9cm、
縦6cmで 、 A タ イ プの 下 に 2 行 ( 3 0 字 ) 以 内 の
解 説 を 加 え た も の で あ る 。 C タ イ プは 横 1 2 cm、
縦 9 .5cmで 、 A タ イ プに 5 行 ( 1 0 0 字 ) 以 内 の
解 説 を 加 え た も の 、 D タ イ プは 横 2 4 cm、 縦 9 . 5
cmで 、 C タ イ プの 右 側 に 図 解や 写真 ・ 古 文書 の読
み な ど 、 よ り く わ しい 情報 を 加 え た ラベ ル で あ る 。
最も 基 本 的な A タ イ プに 加 え て 、 解説情報 の 多 少
に よ り B --- D タ イ プを つ く っ た も の で あ る 。
以 上 の ほ か 、 同 一遺跡か ら 出 土 した 考古資料等
の 一括資料 に つ い て は 、 A --- D タ イ プのラベ ル を
用 い て 一括解説 し、 さ ら に 、 各資料名 の み のラベ
ル を 付 した。 こ れ が E タ イ フ。 で 、 横 6cm、 縦 1 . 5
cmで あ る 。
A ・ B ・ E タ イ プは黒地 に 白 ぬ き 文字 、 C ・ D
タ イ プは 白 地 に 黒 文字 の ラベ ル で あ る 。 黒 地 に 白
ぬ き 文字 の ラベ ル は一見重厚 で あ る が 、 見 え に く
い こ と が欠点で あ る。
四
( 1)
問 題 点 と 今 後 の 課題
動 線に つい て
予算 の 関 係 で 、 旧 展 示 の 常 設展示 ケ ー ス を で き
る 限 り 改装 し な い 方針で動線 を 考 え た た め 、 見返
し の 動 線 、 袋 小 路 的な 順路 が で き て 、 意 図 し た 動
線 に 沿 っ て 見 学 し な い 観 覧 者 が あ る 。 例え ば、 第
一展示室 ( 自 然部 門 ) の出 口 か ら 第二展示室へ の
22
展 示 改 装 整備事 業 報 告
大 き い 動線 で あ る が、 第一展 示 室の 入 口 から 出 て
第二展示 室を 逆順路 を 辿 る 見 学 者 が い る 。 ま た 、
テー マ に 沿 っ て 展示 し て い る が 、 第一展示 室では、
「 鳥の 渡 り 」、 「鳥のなかまわけ」のコーナ ーの島展示、
「森林の科学」の見返しの展示に な っ て い る 「植物の世
界」、 第二展示室では、 「出羽国の古社寺」が 「ひら か
れる 出羽国 」の見返し、 「山形の人物 」が「河岸の町大
石田 」の見返しな ど、 死角的な コ ーナーにな っ た。
し かし 、 観 覧 者 に 対し て 、 テ ー マ に 沿 っ て 全部
の展示物 ・ 解説 文 を 見 て も ら う と い う 狙 い が必 要
かど う かに つ い て 論議 さ れ た o 観 覧 者 が 学 習の 目
的 を 持ち 、 テー マ 毎 に 学 習で き る 展 示で あ る 必 要
もある。
本 館 の 展 示 替は 、 狭い 既存 の展 示空 間 を 利用 し
な け れ ばな ら な い 物理的な 条件の た め 、 す べ て の
課 題を 満す こ と は で き ず 、 妥 協 で き る 点 を 見 出 す
議論 で あ っ た 。
(2) 資 料 の 退 色 ・ 劣化に つ い て
資料 の 退 色 、 劣 化に つ い て は 、 基 本 的 に 、 資料
の保存 と 展示公 開 の両立 を 考 え な け れ ばな ら な い
の は 当 然 で あ る 。 展 示資料の 更新 の 立 場を 優 先 的
に 展 示 内 容 を 検 討 し た が 、 資 料 の 退色 ・ 劣 化の 恐
れ の あ る 貴重 な コ レ ク シ ョ ン 資 料 に つ い て は 展 示
を ひかえ た 。
魚 の 液 浸 標本 や キ ノ コ の 液 浸 標本 は 劣 化が は げ
し い が 、 退 色 に 対応 し た 収集 は 困難 で更新 が で き
な い も の や、 漆器 類な ど の 劣 化の は げ し い も の は 、
レ プ リ カ の展示 を考 え ざ る を得な く な っ て い る 。
ま た 、 鳥 の 剥製標本 の よ う に 収 集 不 可能な も の で、
レ プ リ カ 作製の 困難な も の も あ り 、 今後 の 大 き な
課題と な っ て い る 。
カ ラ ー コ ル ト ン の 退 色 に つ い て は 、 2 - 3 年毎
の 更新 を 考 え た が、 業者 撮影の 写真 、 版権購入 の
写真、 本 館 撮影の 写 真 な どが あ り 、 手 続 き 上 、 予
算的な 措 置 な どの 問題が あ り 、 当 初 の 計 画の よ う
に は進 ん で い な い。
パネ ル 中 の グ ラ フ イ ジ ク の 退 色 に つ い て は 当 初
あ ま り 予想し な かっ た が、 汚れ、 退色 が見 ら れ る
よ う に な り 、 新 た な 問題点 と し て 生 じて い る 。
(3) 借 用 資 料 の 展示 に つ い て
当 初 の 予 算 の 都 合で資 料 の 複 製化が で き な かっ
た 展示資料 に つ い て は、 借用資 料の展示をせざる を
得 な かっ た 。 特 に 、 人 文部 門 の 展示資料 に 借 用 資
料 が 多 い 。 借周期限 が 1 年 の た め 、 借 用 の 更新手
続 き が煩雑 で あ る 。 本 館 では 、 寄託制度 が確立 し
てい な い点も 大き な 障害に な っ て い る 。
借用 資料 に つい て は 、 今 後 複製化、 寄託 制度の
確立 が急務 で あ る 。
(4) 照 明 に つい て
基本 的 に は 、 第一展示室 ( 自 然部門 〕 は 、 展 示
ケ ー ス 内 、 フ ロ ア 共 に 明 る く 、 第二展示 室 ( 人 文
部門 ) は 、 展 示 ケ ー ス 内 を 明 る く す る 方針で展示
し た 。 当 然、 照 明 に つい て は 、 展示効果 と 資 料 の
保存 と は相反 す る も の で あ る が 、 資料 の 退 色、 劣
化の 項 で も 述 べ た と お り 、 資料 の 展示 効果 を 考 え 、
ス ポッ ト 照 明 を 多 く 取 り 入 れ 、 展示資 料 は 可能な
限 り 展 示 替す る 方 針を と っ た 。
し かし 、 資 料 の 展 示 替は 、 ラ ベ ル の 交 換、 解説
文 の 交換な ど も 伴 い 、 容易 に い かな い の が現状 で
あ り 、 一 部、 照 明 を お と し て い る 部 分も あ る 。
(5) 音 響、 映 像器 機 に つ い て
ビデオ コ ー ダ 一、 ロ タ リ ー ビジ ョ ン 、 8 ト ラ ッ
ク テ ープ レ コ ーダ ー を 使 用 し て い る が 、 当初、 器
機 の ト ラ フ・ ル 、 テー プの 更新 は 考 え て い た が 、 セ
ッ ト の 器 機 の メ ー カ ー不統ー や地 元 業者 の 修理 不
可能、 メ ーカ ー の 製造 中 止 な ど、 器 機 全部 の 交換
を 検討せ ざ る を 得 な い も の が生 じて き て い る 。
ス イ ッチ も タ ッチ 式 、 セ ンサ ー 式 が あ る が、 ト
ラ ブル の 多い 部 分で あ る 。 ハ ー ドな 面 、 ソフ ト な
面 に お い て 、 館 自 体、 地 元 業者 に よ る 修理 可能な
器 機 の 選 択な ど 、 ア フ タ ー ケ ア に つい て は 十 分検
討が必要で あ る 。
(6) 今後 の 展 示 替に つい て
展 示 替後 の 情報の変化、 新 資 料 の 収 集 、 資 料 の
退 色 ・ 劣 化に 伴 う 展 示 替の必要 性が生 じて き て い
る 部 分が あ る 。
本館 で は 、 テ ー マ 毎 の 常 設展 の 展 示 替、 新資料
の展示、 複 製化を年次計 画に も と ず い て 検討 し て
いる。
山形 県立博物館研究報告 第 5 号
1 9 8 4年3 月
23
展示改装 に よ る 展 示資 料等一覧
物
地 学
1 70
植 物
152
複 製 品
6
5
模
型
4
写
真
21
実
資
料
ノレ
不
解 説
イ ラ ス ト パ ネ ル
写
ー/
真
オ
-'、,、.
フ
ネ
'マ
ノレ
等
16
13
5
。
動 物
1 932
。
17
。
。
25
。
。
9
3
佐藤 信 一 ( S . 4 9 --- 5 0 )
誉 田 慶恩 ( S . 5 1 --- 5 3 )
遠藤 来二 ( S . 5 4 )
鈴木 幹雄 ( S . 5 5 --- 5 6 )
副館畏
鈴 木 秀直 ( S . 4 9 --- 5 0 )
遠藤輝太郎 ( S . 5 1 --- 5 3 )
大 場 義夫 ( S . 5 4 --- 5 5 )
業務標
村川
信夫 ( 資 料専門員
S.
大 友 義助 ( 業 務課長 S . 4
吉野 智雄 ( 業務課長 S . 4
菅 井 敬 一郎 ( 研究員兼学芸員
4 6 --- 5 4 )
6 --- 5 1 )
6 --- 5 7 )
S . 4 6 --- 5 2 )
叡垣 英夫 ( 主任学芸 員 S . 4 6 --- 5 6 )
佐 々 木 洋 治 ( 学芸 員 S . 4 7 --- 5 2 )
保 角 里 志 ( 学芸 員 S . 5 3 --- 5 6 )
歴
史
308
97
26
13
3
2
23
14
15
9
1
15
1
7
7
1
1
10
(1 )
( 数 字 は 在職年 度 を 示す )
古
。
展示改装事業 に 係わ っ た 旧 職員 〈 敬称 略 〉
館 畏
考
民
俗
515
。
。
5十
3174
67
9
6
75
9
73
。
23
9
40
1
11
図
版
お
よ
び
資
料
展示替前の第一展示 室
山の け も の た ち
石 沢 コ レク シ ョ ン
高山の鳥
石 沢 コ レク 、ン ョ ン( 鳥 類 )
鉱 物
臥 \.., \i 岩 石
_LI-l …祉
山地の鳥
カ モシカ
ジオラ マ
| 大型化石
H
川
変成 岩
た 積岩
物理的性
昆虫分類展示
ト寸
旧 日
海辺 の 鳥
夏
L-1
冬虫夏 草
村1
| 火成岩
乾燥 キ ノ コ
毒キ ノ コ
鉱 物
出
帰 化植物
食べt.d\i 、キノ コ
山形県の天然記念物
鉱 物
物理的性 質|
山 形 県 ・ 植物 の 特殊分布
平 地 植 物
海 浜植 物
山形県の地 下資源
乾燥 キ ノ コ
キノ コ
中生 代
コ ケ ・ 地衣
| 特 殊 な 鉱物
新生代
食用 薬 草
植 生 模 型
特殊な 鉱物
新生代
海そ う
山 形の 木 材
| 大型化石
昆虫分 類展示
鳥
山 形県 の な り た ち (地史)
山 形 県 ・ 植 物 の 垂直 分 布
展示替前 の第二展 示 室
縄
弥生時代
晩 期
嶋 遺跡
文 時
後 期
日
古墳時代
代
中 期
前 期
早 期
草 創期
旧 石器 時 代
石
�X.::l: �
歴 史時 代
石
遺跡 分布 図 ・ 編年表
あか り のいろいろ
角二山 ・ 縄 文復原 住居
米 づ く り の 用 具
11
i-1
、・1
J
〆
、
,,
,,
、
,
11
11It-』
h1
田し ご と
口花祭 り
交 易
雪 国 の 生 活 用 具
町 の く
宿 場
ら し
商 !古 の 姿
口
はたお り
農家の復元
口
山 村 の く
ら し
展示替前の第三展示室
催し物展示 ・ 特別展示場
淡水産魚類
私 の コ レクショ ンコ ー ナ ー
信 仰・ 絵馬
日 本 海 の 魚類
木製 品
い も の
日 本 海産 貝類
み の
こ け し ・ 玩具
県 内 のやき も の ・ お り も の
山 形 県立博物館 研究 報告 第 5 号
31
1 9 8 4年 3 月
カ モ シカ ( ジ オ ラ マ)
石 沢 コ レ ク シ ョ ン ( 野鳥)
32
展示改装整備 事業報告
山 形 県 の生 い た ち ( 地 史 )
鉱物の物理的性質
山 形県立博物館研究 報告 第 5 号
33
1 9 8 4年 3 月
山 形 県の植物の垂直分布
キ ノ コ (食用 キ ノ コ , 毒 キ ノ コ , 食べ な い キ ノ コ )
34
展 示改 装 整 備 事業報告
-・明酔
縄文時代の土器
銀騨自静
必忽類自陣
古語
角ニ山
縄文復元住居
山 形 県立博物 館研究 報告 第 5 号
1
35
9 8 4年 3 月
歴史時代 (蔵骨器 ・ 経簡 )
田 し ご と
36
展 示 改 装 整 備 事 業報 告
雪 国の生 活用 具
11
木ムネ叱〈仁
木 工 木 地 も の
展示 改装 後の第一展示 室 ( 自 然)
~
中世代の山形
豊 かな 自 然 と そ のめ ぐ み
古生代の 山形
~
生 き 残っ た植物
植物のなか ま わけ | 山 形の チ ョ ウ
外 国 か ら きた植物
<海底か ら陸へ> <海面こ眠るl.U1IÞ
山形のな り た ち
山 形 の| 樹 木 11
昆 虫 の 世 界
R
昆虫 の な かま わけ
鳥 のす みか く ら し
昆 虫 の チエー ミ ツパチー
鳥 の 渡 り
石
化
魚
の
田
円〕
日本 被 ち
昆 虫のすみか と く ら し
へ
沼
湖
ら
か
心のふる さ と山形
山 形 の 淡 水 具 ・陸産具
ナ ウ マ ン象 の 骨
入口
最上川 と 郷土 のすがた
物
生
プ
流
暖
新生代 第 酌 山 形
く り かえ す氷河
Lι
美 し い 鉱物
特殊 な 分 布 を 示 す 山 形 の動物
雪 と 山形
n
n
「
展示 改装後の 第二 展示室 (人文 )
~ 山 形の大 地 に刻 ま れ た 山 形 ~
最上川 の に ぎ わ い
ニ山 信仰へ の道
最 上 川 舟運 の 繁栄
信仰の山
出羽三 山 と 府民信仰
* --:fく り の一年
山形の人物
&一 一 一 一 一 ー 一 ー 一 ー 寸
米 づ く り の斗年
P一
Q1
「一 一 一 ー ー 一 「 一 ー ー ー - - j :
;
農家 の冬 仕事
"
一 ­
--ー-- -
山形の縄文土器
最上の舟運
一一
口
一
ω
占
1
0
1
恥
mut
町一
回円げ
米 十ゴく り の く ら し と こ こ ろ
農家 の い ろ り ばた
武士の動 き
豪族の い る 村
口
武士の 台頭
ジオ ラ マ
日 向 洞穴 の 人 び と
縄 文 時 代の く ら し
縄文人 の 四 季
縄 文 人 の 交易
人の住みは じ め
弥生時代 の く ら し
古 墳時…
日
口
口
山形の古
ひ ら か れ る 出 羽国
/ 古 代農民 の足あ と
出 羽 国 の 国 街 / 出 羽 国 の 成 立 と 条 里制
嶋む ら の く ら し
人類 の進化
展示改装後の 第三展示室
~
近代 山 形 く ら し の う
つ
り
かわ
り
~
L
」
「ー・ーーー『
rーーーーー
← ーー
、
11 |
�
コ
'-四回目」
」一一一一一
雪 と 山 形
日
玩
具
日
一
←一一一ー
ト一一ー
街 か ど の 風俗
山 形 の 郷土玩具
山 形 の や き も の
rーーーーー
あか り の う つ り か わ り
昭和 の く ら し
日
大正 の く ら し
文明開化の く ら し
山形 県立博物館研究報 告 第 5 号
43
1 98 4年3 月
山 か ら で た ヒ ト デ ( ア テ ン シ ョ ン ゲ ッ タ ー ) 日 本列 島 の お い た ち
議滋樹綴議
-圃圃圃・咽幽・圃
制",," 叫場厳掛掛W
掛川 、
新生代の 山 形 ・ く り か え す 氷期 ( テ ーマ展示)
骨
\
円
』ヘ'JG
AR'J
眠制hm)
睡
保
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脚間九ドl
d小)
「-vQA町O
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供高邑草
活気志望
W昔、.R
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瞳
時
督
州開城
盤
同時
山明記骨鰍
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山 形県立博物 館 研 究報告 第 5 号
a・
45
1 9 8 4年3 月
)'i-'泊
.‘
森林の科学 ・ コ ナ ラ ・ ブナ林の動物 た ち ( ジ オ ラ マ )
鳥の渡り ・ 冬に く る 鳥
( テ ー マ展示)
46
展示改装整備事業報告
鳥 の す み か と く ら し 高 山 の 鳥 ( ミ ニ ジ オ ラ マ)
笹薮溺函繊猶�i醗蹄
い つの ふ ろ か 勺 -t.iす り 勺 れ た か u. 、 わ か り l せんが、
;畠
〉轟町の山あいの曹賢て は 、 現世官監と し て 後 け 織 がれて い る そ
う てサ
2t1 か ら 3 11 に か け て 句 官官穫の神社ゃ;l'f!山の,.均
的 た も と じ 宋 か ら 鯵 い お り て 〈 る そ 昔 で す u 拾った人i車 、
一 生 、 帯般に J私 革 れ 、 理匪書量 む 宮瞳 H艇 で;事 勺 す ニ と が で 4き る
é l. ' 、 ‘ fj.; え ら tt て 、 、 ま ,',
チ ン 骨 手 以 ザ ラ (;1; ,
1 会事に-f嘗 L. fI・.If.で拙い け 4よ い ニ と
に な っ て お り 、 ;::: JJ: jt る と 、 噂 わ せ が 議 げて し ま う と レ
われて い ま す
注減 な 綱 織 に 、 食べ物のオシロ イ 告 入れ.
陣 織 がて 8 お よ う に 穴 魯 あ け て納崎、 神織に 革i つ っ て 大
切)!ご 噂 り 紙 付 て い 草 T、 神秘的な 口 マ ン 4陸 軍聾 し つつ も .
ニ のよ う に 携 し 〈 丸 〈 な る のが本線織な ふ と で す ,
テ ンサ ラ パサ ラ (エ ピ ソ ー ド コ ラ ム)
山 形 県立博物館 研究報告 第 5 号
1 9 8 4年 3 月
47
日 向 洞 穴 の 人 び と (ジオラマ)
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山 形 の縄文土器 ( テ ー マ展 示 )
48
展示改 装整 備事 業報 告
嶋 む ら の く ら し ・ 出 羽 国の成 立 と 条 里 制 ( テ ー マ展示)
武士の台頭 ( テ ー マ 展 示 )
山 形 県立博物 館研究報告 第 5 号
1 9 8 4年3月
49
城下町の く ら し ( テ ー マ 展 示 )
最上川 の舟運 ( テ ー マ 展示 )
50
展示改装整 備事業報告
河岸の町 ・ 大石 田 (パ ノ ラ マ)
米づ く り の 一年 ( テ ー マ展示)
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
1 9 8 4年3 月
51
米づ く り の 一年 ( テ ー マ 展 示 )
大正の く ら し , 昭和 の く ら し ( テ ー マ 展示)
52
展示改装整 備 事業報告
山 形 の郷土玩具
雪 と 山 形
11
五七、一
羽陽文化二十三号
浩良百話
置賜文化三八号
置賜民俗 二 一
号
毎日新聞
毎日新聞福島版
熱塩加納村史
置賜民俗記
毎日新聞「
みちのく文化」
毎日新聞
やまがた植物記
羽陽文化 一OO号
公論やまがた
置賜民俗五O号
羽陽文化 一O四号
山形新聞「
山形博物誌」
川西町自然を守る会だより
広報ながい
毎日新聞「みちのく文化」
豊かな人生九号
山形新聞
川西町史上巻
よねざわ豆本
毎日新聞
山形県林務だより
「
し
ら
た
か
の歴史をたずねて」
おきたま博物誌」
山形新聞「
草 木 塔 に関 す る文 献 資 料
三
、
ハ
ム
主立
昭和二九、七
H 三六、一
H 四 一、一一
H 四二
H 四七、四
H 四七、五
H 四七
H 四七、七
H 四七、八
九
MH四七、
H 四九
MH四九、一
O
H 五 一、二
MH五 一、六
H 五 一、七
H 五二、二
H 五二、六
H 五二、八
H 五三、五
H 五三、一二
H 五四、七
H 五四、一一
H 五五、七
H 五五、八
H 五五、
九
86
a二
ロ
草 木 塔 調 査 報
11
緑化文化の草木供養塔
川崎浩良|県内に残る草木供養碑
佐藤忠蔵|草木供養塔
木村 博|草木供養塔について
無言の告発 ご 木 一草にも魂」
草木塔」無言の訴え
「
草木塔
武田 正!樹霊信仰
結按嘉美l草木塔をたずねて
川西町の高橋さん|自然に感
謝し草 木供養塔
結披嘉美|草木塔
戸川安章|民俗資料の調査と集収
大友義助|草木塔 の謎
大友義助|草木供養塔について
戸川安章l草木塔管見
伝える山林の愛護
小山田信 一ll
蔵田順治l川西町の草木供養塔
川村吉弥|松 の木供養碑
上村良作|草木をまつる心
長 俊英|草木塔に学ぶ
緑保護 の心後世に|草木塔を自費建立
川西町の草木供養塔
小山田信一|草木塔
自然信仰 。草木塔。を見直そう
杉沢唯 一の古碑
中山三十三観音入口の草木供養塔
南陽の草木供養塔
9 8 4年 3 月
1
山形 県立博物 館研究報告 第 5 号
85
草木 供 養塔
毛下野は白川ダムから六キロメートルほど下流、白川右岸 の集落
けげの
であるが、昭和四十七年調査に訪れ、部落南方約 一キロメートルの
して、その形、 大きさから、それに該当するも のと判断したが、こ
山中の路傍で石塔を発見し、佐藤忠蔵氏の手記中にある写真と照合
西置賜郡飯豊町
大字 高峰字毛下野
四五センチメートル
若しこれが実在するとすれば、年代的に最古 のものとなる。
も不自然であり、これを草木供養塔とすることは大いに疑問である。
ている。 一方佐藤忠蔵氏 の手記中にある写真は、その文字がいかに
つ「
大乗妙典供養塔」には明らかに 「
安永六年十月十日」が刻まれ
の石面には全く刻字らしい形跡が認められず、これにより沿 って建
九0 センチメートル
安永六年 (一七七七)十月十日
佐藤忠蔵氏 の 写真 を 複 写
( 昭 和35年 4 月 1 8 日 調査)
さ
在
き
建立 年 代
幅 高
地
さ
所
大
草木 供 養塔
在
地
さ
所
大
き
質
建立 年 代
材
西置賜郡飯豊町大字高峰字洗尾 露 村)
洗尾は白川ダ ムのダムサイト近くにあって水没した大鹿から西方
山地 へ約 一キロメートル入 った小集落であったが、昭和四十七年五
月に訪れたときはすでに廃村となっていた。
この塔は佐藤忠蔵氏の調査を基にして書かれた川崎浩良氏の 「
浩
0 センチメートル
ハ
されているが、探すことができず、佐藤手記にあった写真 (
複写)
供養塔 豊川村高峯」に当るものであり、佐藤忠蔵氏の手記にも明記
昭和三十六年)中、県内に残る草木供養碑 の 「一八、草木
良百話」(
二七センチメートル
のがある。
昭和47年5 月 24 日
三軒の住居 は 解体 さ れ無人 境 と な っ て い た 。
を見ても不明確であって果して草木供養塔であったか、疑わしいも
不 厚 幅 高 不
明
明
さ
さ
一0 センチメートル
佐藤 忠 蔵氏 の 写 真の複写
( 昭和34年 9 月 1 7 日 調 査 )
84
草 木 塔 調 査 報 告
1 9 8 4年 3 月
第5号
山形県立博物館研究報告
83
四
質
上山市阿弥陀地 (
阿弥陀堂境内)
阿弥陀堂の境内で公民館 のすぐそばに建 っている。
その由来はくわしく碑に刻まれている。
碑面正面には 「
大杉碑」と大字が刻んであるが、
(
右側面)
惟大杉由来数百年栄於慈樹霊依哉弥陀大杉
而明治三十五年九月廿七日未曽有為暴風雨置
明治三十六年 (一九O三)旧六月十五日
一九七センチメートル
安其周囲二丈四尺高十五丈余記念停刻於石
武田小吉
明治三十六年奮六月十五日建之
左側面〉
(
二八 センチメートル
二0 センチメートル
石英 面岩 の 石
さ
大
建立 年 代
さ
在
き
粗竿
(
裏面)
首字中 (
十二名) の名を刻む。
六名) 世話人 (
石
工
厚 幅 高
碑
地
さ
杉
所
大
材
82
lf:.
口
草 木 塔 調 査 報
固
杉
在
碑
地
さ
建立 年 代
所
大
材
質
き
どんない様 (
山の神) の石造の小柄の前に建 っている。
古老の語るところ、どんない様の前に杉の大木があった。大正の
ぅ。村 人は神 の使 いだ、崇られては大変だと相談して、杉 の伐り
頃伐り倒して売り払 った。その時根元の洞穴から白い蛇が出たとい
西置賜郡白鷹町大字山口字越場
跡に大杉の碑を建てたというが、年代が 一致していない。
一日建立」左側下方に 「
大瀧正覚」とある。
碑面には 「
大杉碑」 の大文字と、右側に 「明治四十二年三月二十
明治四十二年 ハ一九O九)三月二十 一日
八四センチメートル
二一
一
一
センチメートル
四八 センチメートル
さ
さ
砂岩、表面少しく加工
厚 幅 高
大
9 8 4年 3 月
1
第5号
山形県立博物 館研究報告
81
困
植 立杉供 養 塔
在
さ
き
建立 年 代
地
質
米沢市大字入田沢字大荒沢
(
大荒山不動尊 の境内)
明治三十二年 (一八九九)八月
九0 センチメートル
一
七センチメートル
五八 センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
所
大
材
大荒山不動尊 の境内であるが、社殿が近年右方高台に移築された
ので、碑は元のまま旧社殿跡地の前左側に建 つ。
碑面中央には 「
奉納 植立杉供養塔」左下方に 「
氏子連中」
り右側面に 「
明治三十二年八月」と年号を刻む。
困難である。
なお、台座には、発起人として多くの人名を刻んであるが判読が
と
あ
80
止と
口
草 木 塔 調 査 報
回
塔
さ
質
山市狸森
九
月
山元小中学校の少し手前
東方)旧道北側 の磨崖悌
(
の前に、湯殿山、犬供養塔
などと共に無造作に建てら
れている。
の巨大な字が掘られ、その
松木塔」
碑面には中央に 「
六九 センチメートル
右側に 「
寓延元庚申年」左
九月吉祥日」とある。
側に 「
二四センチメートル
一一0 センチメートル
年 (一八六O)
厚 幅 高 万 上
延
さ 7c
さ
安山岩 の自然石
松木塔の 前 に あ る の が 「 犬供養塔」
木
大 建 所
立
き
在
年
代 地
材
松
1 98 4年3 月
第5号
山 形 県 立博物 館研究報告
79
国
大杉大明神
南陽市竹原寺原峠
嘉永七年 (一八五四)三月
大杉大明神
建立年 代
さ
質
六0 センチメートル
一センチメートル
一
一
一
一五センチメートル
は中央に 「大杉大明神」左側に 「土
嘉永七寅三月吉日」とある。
に「
「
先祖代 々供養」 の二行が刻まれ左側面
の碑面には、正面に 「大杉大明神」
いの杉 の老木 (一本杉) の根方にある。
を約 一・五キロメートル行った寺坂峠の旧道ぞ
回
国
屋運四郎」は明らかであるが、右側の年
南陽市竹原寺原峠
凝灰岩
センチメートル
センチメートル
五五 ・五センチメートル
加
四
工 八
地
梨郷駅 の近くから北 へ土平に通ずる道
国
号は磨滅して読みとれない。
厚 幅 高 不
明
さ
さ
在
き
建立 年 代
き
所
大
材
在
さ
さ
さ
凝灰岩 墓石形加工
厚 幅 高
地
質
所
大
材
78
8
:
:
:
.
に3
査 報
調
塔
木
草
囚
松之木供養
建立年代
明覚院法師
古老の話によると、ここ野際から勧進代平まで続いた松林があ っ
た 。 そ れ が 年 と 共 に 伐 ら れ て し ま ったが、 そ の 古 根 を 掘 り 起 し て 細
ま た そ れ を 売 って 暮 し の 足 し に し た の で 、 松 の 木 に 感 謝 し そ の 霊 を
か く 割 っ た も の や 鰹 節 の よ う に な った 松 や に が 夜 の 灯 火 で あ った。
長井市五十川宇野際(お薬師様境内)
を 刻 み 右 側 面 に ﹁ 文 政 八 酉 三 月吉 日 ﹂ と あ る 。
碑 面 に は 、 中 央 に ﹁ 明 覚 院 法 師﹂ 右 側 上 方 に ﹁ 松 之 木 供 養 ﹂
薬師堂を移転したので碑も一しょに移したものである 。
沢改修工 事 の と き 野 際 の 薬 師堂 の 敷 地 に 移 さ れ 、 さ ら に 昭 和 五 十 年
新 堀 の 渡 し 樋 の 北 約 六0 メ ー ト ル の 田 の 中 に あ った も の を 、 出 来 ケ
この碑は、もと五十川の字若柳と野際を流れる十ケ沢にかけた下
供養するために明覚院法師を導師としてこの碑を建てたと伝える。
センチメートル
一二ハ・
二
一
一八センチメートル
0 センチメートル
ハ
文政八年(一八二五) 三月
さ
さ
凝 灰 岩 、 墓 石 形 に一
加工
厚 幅 高
在
き
地
さ
質
所
大
材
地
質
大杉大明神
き
建立 年 代
在
さ
山形市大字津金沢字熊野堂
(
熊野神社境内)
熊野神社社前左側にある。伝えるところによると、昔境内には
杉がう っ蒼と繁り中でも雌杉、雄杉と称する巨樹が見事であった。
津金沢 の大スギ」と称して山形県指定
雌杉は今に残 っており、 「
天然記念物になっているが、西方 の一段高 いところにあった雄杉
一部 の村民によって営利の為に伐採処分された。ところが間
もなく村内に疫病が流行したので神罰の致すところとこの碑を建
五0 センチメートル
文化十三丙
碑面には 「
大杉大明神」と大きく刻み、左側面に 「
て雄杉 の霊を慰めたも のという。
四0 センチメートル
ろが、裏面に 「
弘化二乙巳年
慈運口」とある。とこ
子年十二月口日」右側面に詳でないが、 「
敬立之」 「
当村若者中」
一四二 センチメートル
文化十三年 〈一八 二ハ〉十二月
さ
さ
安山岩 の自然石
日
厚 市高 高
所
大
材
は
れる。
化二年に改めてお祭りをし裏に刻んだも のではないかとも考えら
弘化二年と記したも のもあるが、あるいは建立後三十年を経た弘
開眼導師大先達 知教法印」とあるので、この碑の建立年代を
「
月
984年3月
1
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
77
回
76
tヒ
仁耳
草 木 塔 調 査 報
国
地
質
南陽市池黒
二0 センチメートル
四九センチメートル
四五センチメートル、底部
一O六 センチメートル
文化十二年 〈一八 一五)七月六日
さ
大木 大明神
き
建立 年 代
さ
在
さ
幅 高
凝灰岩、表面加工
厚
所
大
材
池黒の川合輝男氏の所有地に建 っており、 ケヤキの大木を供養し
たと伝えている。基部近くから折れ倒れていたものを修復した形跡
がある。
大木大明神」その右側に 「文化十二乙亥天」左
碑面には中央に 「
側に 「七月六明日」と独得 の刻字が明瞭である。
杉 沢 の板 碑
材
在
き
地
さ
質
杉沢部落の熊野神社 の南、墓地の一隅にある古 い板碑で、昭和三
十四年福応寺那須担導師によって次 のように解読された。法華経供養
年代的にはかけ離れて古く他の草木塔との連係は考えられないが、
のためにたくさ ん の松 を植 えたそ の記念碑ともいうべきもので、
飽海郡遊佐町大字杉沢字上岡本
一応草木塔類似 のものとして記載した。
一一センチメー トル
一
一
七Ol五0 センチメートル
一六五センチメートル
永享五年 二 四三三)七月七日
さ
さ
所
大
建立 年 代
厚 幅 高
安山岩質加工
〔夜信此他》
主
主天日
七月七日熊野別宮廿二代
市口法制十組供養口口口口千本松岡也
三川口口
持継者薬跡
-ft: 呉
�・
984年3 月
1
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
75
田
74
&.
口
草 木 搭 調 査 報
⑩
き
建立 年 代
さ
赤崎部落の北端金屋部落にくいこんだ所の小学校庭の 一隅で県道
で、いつの頃か今の県道沿いに他の石碑と共に移されたものである。
伝えるところによれば、昔赤崎部落に甚三郎という樵が住んでい
ぞいにあるが、もとは熱塩温泉 への旧道沿いに建てられていたもの
福島県耶麻郡熱塩加納村赤崎
た。いつしか年老いて隠居 の身となったが、長い人生をふり返 って
墓石形に加工
も のであることは明らかである。
山道によ って交流 のあったところで、その関連によって建立された
この地は山形県境まで十数キロメートル、隣接する旧中津川村とは
草木塔」はこれが唯 一基であるが、
現在山形県以外の地にある 「
てて木 々の霊を供養したという。
の生命を断 った。自分は何と罪深いことをしてきたか」とこの塔を建
長い間木を切ることを生業として過してきたが、いくら仕事とは
「
いえ育ち盛りの若木から何百年を経た老木まで何千何万という樹木
安政六年 〈一八五九)六月六日
七六センチメートル
さ
幅 ・厚さ共に四六 センチメートル
高
不
明
塔
地
質
木
在
草
所
大
材
984年3月
1
第5号
山 形県立博物館研 究報告
73
⑨
西村山郡大江町柳川
一七0 センチメートル
花崩岩加工
部六五 センチメートル
五三センチメートル
底
地
質
昭和十五年 ハ一九四O)
さ
草 木供養 塔
き
建立 年 代
さ
在
さ
幅 高
中央部八0 センチメートル、
厚
所
大
材
青柳部落から月布川渓谷ぞいに古寺 への道を約五キロメートル進
んだ路傍に建てられている。
碑面には中央に 「
草木供養塔」その右側 に 「
紀元二千六百年記念」
左側下方に 「
柳川山林組合」とある。
在
材
き
五センチメートル、幅
一
一センチメートル、厚さ五
センチメートルの小さな塔
が立てかけてあるが年代は
不明。
左 側 に 小 さ な 「州木塔」右側 に 台石
右山
葡萄園 の 一隅であるが 「
道、左もにわ」の追分石のある
碑面には中央に 「
州木塔」右
旧道のわかれにある。
東置賜郡高畠町大字上和田字太田
側に 「
明治九子年八月八日」左側
が刻まれている。またその背後
入曾村」と@と同様の文字
に「
明治九年 〈一八七六)八月八日
九0 センチメートル
六一一センチメートル
世話人
にある台座の側面には 「
我妻喜惣兵
金子仁三郎 金子文右 エ門
五0 センチメートル
さ
さ
塔
地
さ
質
木
所
大
草
建立 年 代
厚 幅 高
安山岩で表面加工
子徳右 エ門、
金
州木塔」と刻んだ高さ
に「
なお、この塔のそばに単
工」の名がある。
石
工
72
ll::
p
草 木 塔 調 査 報
⑩
1 9 8 4年 3 月
山 形県立博物館研究報告 第 5 号
71
⑮
在
材
き
塔
地
さ
質
東置賜郡高畠町大字上和田字太田
鈎堀 のそばの葡萄園の
一隅に倒伏したまま放置
されている。
草木塔」そ
碑面には 「
の右側に 「
明治九子年八
月八日」左側に 「入曾村」
明治九年 (一八七六)八月八日
一00 センチメートル
とあり、左側面に 「
世話
二宮仁左 エ門、二宮
四八 センチメートル
四0 センチメートル
惣兵 ェ、我妻治三郎、
ている。
昭和58年 1 0 月 の現況
木
所
大
建立 年 代
さ
さ
安山岩の自然石
人
工佐藤八三郎」と刻まれ
石
厚 �ïii 高
草
草木供養塔
所
地
さ
在
き
質
建立 年 代
大
材
東置賜郡高畠町大字上和田字太田
一O八 センチメートル
四五センチメートル
二0 センチメートル
道路 (
まったけぶどうライン)東側 の葡萄圏内に残された大日堂
の小柄のある小高 い丘 の上にある。
奉供殻草木
碑面は凹凸 のままの面に刻字されたもので幸うじて 「
塔」と読みとれるが、年号は全くわからず、左側に 「口話人 二十
五人口白」とあるのみ。
一 ;1-,,-
厚 幅 高 不
明
さ
さ
安山岩
ノ1
/
f\ え ? 子ヘ
_!.. ト イ失
i
70
.tt
仁3
草 木 塔 調 査 報
⑩
1:: 瑚 附 同
国 帯 ロ時こm > J (;' �主 附 「抑骨 司 rr 簿〉斗
0 0 棉 ペ 「 囲 内 嵐 清 ペ ù ð十 (;' :2!- 連 帯 ð �客 特 今 期 同 ヨ十 喜由連十
J (;' �主 計 3 巾 「棋蝋荒うト冊J (守 〉修 吾 , ま か τ ペ 「 鑑 〉守 鵠 トャ 9+ 田 署
。 心4 τ 4 守、 選('t"
1}.\-
1}.\-
酎
置
調
問 ヨ十 覇週十
国 幕時こm > ( 固 l l > l ) 付 rr �事 〉斗
や 7 一 、 中 父 n- rr 沙
ぞ -r - ..... 中 に 命 | 庁 r.\ 以 内 什 τ R
や 7 一 、 中 父 冷 rr l
H 吉 田事 d 副HI 討
。帳
>t
�
前
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占廃 蝋 荒 神 冊
連
Z幸 中町 同 国語
叫
画
⑧
。、
ミ�
E器 摘 同 事事 諸 君 浦 揖 昨
油
川刊ω
品
∞
。
回
咽
ω
瀦
68
昌二
l=t
草 木 塔 調 査 報
⑮
草木供養塔
在
き
建立 年 代
西置賜郡白鷹町大字十王字小四王
五十峯準 一氏宅地内)
(
明治二十四年 三 八九 一)九月吉田
七二センチメートル
メートル
チメートル、基部 一四センチ
も っとも広いところ四五 セン
さ
安山岩、表面加工
幅 高
地
さ
質
所
大
材
五十峯準 一氏宅地入口の右側にある。裏山 一帯が上杉藩の領地で、
その管理の役を代 々つづけてきたのが五十峯家で、曽祖父惣吉 の時
代に山林を伐採したとき、その感謝慰霊 のために建立したも のであ
るが、現所在地は家量改築に際して移した所という。
碑面には 「
草木供養塔」その左側に 「
元山 五十峯惣吉」とあり、
裏面に 「明治廿四年九月吉田」の文字がある。
1 9 84年 3 月
山 形県立博物館研 究報 告 第 5 号
67
⑪
財木供養塔
在
き
建立 年 代
橋本部落入口の道路から
東方 へ少し離れた畑地の 一
西置賜郡白鷹町大字深山字橋本
の地を土地の人 々は山 の神
数の石塔群の中にあり、こ
隅に、庚申塔、山神等 の多
慶応二年 (一八六六)十月
様と称している。
建立地 に あ る 石碑群
地
さ
質
八七センチメートル
財木供殻塔」
碑面には 「
寅十月」と年号を刻む。
上部 の広 いところ五九 センチ
花崩岩の自然石
一八 センチメートル
樋 口金右 エ門」と
左側に 「
さ
メートル、底部四三 センチメ
さ
あり、裏面右側に 「
慶臆二
幅 高
ートル
厚
所
大
材
66
止ヒ
仁3
報
草 木 塔 調 査
⑩
き
西置賜郡白鷹町大字深山字橋本
文化七年 (一八 一O)九月
さ
底部三七センチメートル
四八センチメートル
角喋凝灰岩質の自然石
橋本から上ノ台 へ通ずる旧道の路傍に立てかけてある。そばに地
蔵堂があり以前は倒伏したまま放置されていたというが、もともと
左側に 「
九月吉祥日 弥五郎」と明記されている。
材木供養塔」その右側に 「
文化七庚午天 願主」
は
碑 こ
面 の
に 附
は 近
「 に
パ を建
ン 主立
し
た
も
の
で
あ
ろ
フ
。
材木供養塔
質
九三センチメートル
さ
所 在
さ
申高 高
五八 センチメートル
厚
地
建立 年 代
大
材
9 8 4年3月
1
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
65
⑩
草
き
建立 年 代
在
さ
碑面に明記されているとおり、山形県林業公社による造林記念に、
飯豊町森林組合が建立したもので、所在地は小国町の地内ではある
林道を約二キロメートル北 へ進み、わずかに稜線から小国町に入っ
が、九才峠から小国町と飯豊町の境界線である尾根筋に設けられた
西置賜郡小国町大字大石沢字桧椛
安山岩 の大岩塊 の台座に花岡岩 の二本の脚に支えられた、漆黒の
ているためであって、実態は飯豊町所在とすべきものである。
六七 センチメートル
玄武岩質 の外国産石材で、碑面には横書きで 「
草木塔」 「
飯豊町長
名が刻まれている。
樋口倹三書」とあり、その下に地権者代表、労務責任者、協力者 の
一O四センチメートル
昭和五十六年 (一九八 一)九月
さ
外国産の玄武岩質 の加工
幅 高
塔
地
質
木
所
大
材
64
fr.
ロ
木 塔 調 査 報
草
⑩
木
在
き
建立 年 代
西置賜郡飯豊町大字下屋地
(
竹村喜助氏宅地内)
昭和五十 一年 ハ一九七六)八月
二0 センチメートル
一0 センチメートル
五0 センチメートル
さ
さ
安山岩の自然石
厚 幅 高
塔
地
さ
質
草
所
大
材
旧中津川村で多年郷土史関係の万般について情熱を燃しその調査
にあたってこられた竹村喜助氏が独力で建立したも のであるが、未
だ自宅前に立てかけてあるだけで建立地を定めていない。
竹村喜助
昭和五十 一年八月」 「
碑面には、横書きで 「
草木塔」 「
建立」 の文字が三行に刻んである。
984年3月
1
山 形 県立 博物館研究報 告 第 5 号
63
⑩
草
在
き
質
建立 年 代
西置賜郡飯豊町大字上原字下高瀬、
高橋要 一氏宅地内〉
(
もと須郷 へ通ずる旧道 の六
角峠 の厳 の中に放置されてい
六 角 峠 に放置 さ れ て い た
( 昭和49年療影 )
たものであるが、昭和五十
年所有者である高橋要 一氏が
自宅前に移し保存をはかつて
いる。
昭和廿九年七月」、
に「
碑面には、 「
草木塔」右側
底部二五センチメートル
て右側面に 「
高橋春美
死亡している。
地に住み昭和三十六年四月に
二十八年飯豊町上原に生まれ同
才」とある。高橋春美は明治
上部 一九 センチメートル
二ハセンチメートル
昭和二十九年 三 九五四)七月
キC
幅 高
安山岩 の自然石
そ
十 し
塔
地
さ
木
所
大
材
62
告
報
査
調
塔
木
草
⑩
( 羽黒 神社 境 内)
西置 賜 郡 飯 豊 町 大字 小屋 字 羽黒
さ
O 五 センチ メート ル
一
大正 三 年 ( 一九 一四 ) 十 月
さ
草
塔
建立 年 代
幅 高
安山岩 の 自 然石
五 センチ メート ル
一
チ メート ル
下 部 の 広 いと こ ろ で 四 二 セ ン
上部 で 三 六 セ ン チ メ ー ト ル
厚
在
き
地
さ
質
木
所
大
材
羽黒 神社 の 境 内社 殿 の 右 側 に ある 。 近 年 彫 り 直 し を 行 い 基 部 を コ
ンク リ l 卜 でか ため た。
碑 面 に は、 中 央 に 「 草木 塔 」そ の 右 側 に 「 大正 三 年 十 月 」左 側 に
「 大字 小屋 」 を 刻 む 。
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研 究報告
6
1
⑩
西置賜郡大字白川字大谷地
九 才 峠 か ら 小 国 町 と の 境 界 を 北 方 へ 約 二 キロメ ート ル ほ ど の 路 傍
に建ててあるが、昭和四十九年道路改修に際してここに移したもの
といトフ。
伊藤福馬
中善寺辰次
碑面には中央に﹁草木塔﹂右側に﹁明治 三 拾四年﹂左側に﹁旧六
月建之﹂とあり 、右 側 面 に ﹁ 斎 藤 松 蔵
木五郎右エ門﹂の名を刻む。
鈴
在
六七センチメートル
上部一 0 センチメ ー トル 、
底部 三 一センチメ ートル
二0 センチメートル
安山岩の自然石
キC
さ
明 治 三 十 四 年 ( 一 九O 一)旧六月
幅 高
厚
草
塔
建立年代
き
地
さ
質
木
所
大
材
s
対ロ
器
桐
思
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⑧
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恒 醐 謹話 題 醐 t' -fく {ゆ期待 朴但 擢 �
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1 1 0 ギ 入 小 、 _ .L.. え
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1 1 1 0 ギ 入 小 、 _ ...l-
4 く O ギ 入 小 、 _ .L.. え
ili\ >l8 1 1 + < 社 ( 1 < 兵 同 ) < 町
担
畢
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昔話 ヨ ヨ同 e 佃 亀話 回
十 1 1 走柑 ( � 担保 霊 能 ..lJ :;. 0 ν :;. tQ ) Q 柑 1E 1.i 掲 の ν , 41ロ 同 -R ...D 怒
恥 £ ν 時) .Ç 12 制 ν ゐ 士 ν -IG tQ 。
寝起 伺 」 よJ 夜 、ミ � -IG tQ 。
種 目 12 tHト 骨< 12 r掛*�J W 翠 12 r 窓 辺 中 〈 社 < ar:: J 判事 12 r期
待榊珊モト
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
59
⑩
草
木
塔
建立年代
西置賜郡飯豊町大字宇津沢
ムハ占ハセンチメートル
明 治 二 十 二 年 ︿ 一 八 八 九 ) 八 月 二 十日
キ
C
センチメ ート ル
宇 津 沢 部 落 を 過 ぎ 宇 津 沢 川の 上 流 滝 の 沢 の 山 道 の 傍 に 立 て か け て
あ る 。 昭 和 四 十 二年 の 羽 越 水 害 後 川底に流れ ついていたものを拾い
。
あげたもので 、 も と 附 近 の 山 道 に 建 て ら れ て いたものであろ う
佐東 口 口
山 口 助 国 ﹂ 左 側 に ﹁ 八 月 廿 口﹂ 下 方 に ﹁ 若
碑 面 に は 、 中 央 に ﹁ 草 木 塔 ﹂ 、 そ の 右 側 に ﹁明治 弐 拾 弐 口 ﹂ そ の
下に﹁施主
連中﹂と刻む 。
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込 三/
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二八 セ ン チ メ ー ト ル
0
二
安山岩の自然石、碑面少し加工
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J4
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さ
高
幅
厚
在
き
地
さ
質
所
大
材
H 剖 J '(守 田 窪 附 , 、.::s ðl' 作 「 丑 :1t: l J (ì �十寸1
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完 柑 同 国語
川
蹄
制
⑧
u、
αコ
時
難
剛
別調
識
労
制
材
西置賜郡飯豊 町大 字小 坂
ニ
0 セ ン チメ ー ト ル
四0 セ ン チ メ ー ト ル
一三0 セ ン チ メ ー ト ル
明治十八年(一八八五)八月八日
さ
さ
在
き
塔
地
さ
質
木
所
大
草
建立年代
厚 幅 高
安山岩の自然石
昭 和 四 十 二 年 八 月 の 羽 越 水 害 に よ って 流 失 し て し ま い 、 白 川 ダ ム
に よ る 水 没 地 帯 に な って し ま った が 、 以 前 小 坂 部 落 南 端 に 白 川 に か
一村﹂
け た 上 覧 橋 が あ った 。 そ の 西 の た も と に あ ったもので、 昭 和 四 十
。
年 の 当 時 は 写 真 の と お り 前 の め り に 傾 む い て お った
碑面には中央の﹁草木塔﹂と右側の﹁明治十八年八月八日
。
の 文 字 が 明 ら か で あ った
1年 7月 2日撮影
昭和 4
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
57
⑩
56
告
報
査
調
塔
木
草
⑩
木
在
き
塔
地
さ
建立 年 代
所
大
材
質
西置賜郡飯豊町大字川内戸
明治十六年 〈一八八三)七月
八六センチメートル
二0 センチメートル
四九 センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
草
川内戸公民館 の南側に庚申塔、古峯神社、湯殿山など七基が並ん
で建てられている左端 のも のであるが、以前は公民館前面の道路に
面しであったものである。
碑面には、中央に 「
州木塔」その右側に 「
明治十六年七月」左側
に ご 村中」とある。
1 9 8 4年3月
山 形県立博物館研究報告 第 5 号
55
⑩
質
宇津沢部落中ほどの道路 の
水 田 の一 隅 に う つ ぶ せ に な っ て 放置 さ れ て
い た も の を 掘 り 起 す ( 昭和46年撮影)
北側杉 の根方に建立されてい
路南側 の水田の一隅にう つぶ
るが、昭和四十六年当時は道
西置賜郡飯豊町大字宇津沢字馬神沢
せに倒れていた。多分基盤整
備事業の際この附近にあった
さ
在
き
慶応元年 (一八六五〉六月吉田
九 一センチメートル
ものが放置されていたも のと
さ
草
建立 年 代
ハ九センチメートル
考える。埋没部を含めた全長
左 エ門」と刻んである。
左側に 「六月吉日 山 口八良
その右側に 「
慶臆元乙丑年」
碑面には中央に 「
草木塔」、
った。
は 一O二 センチメートルであ
九 センチメートル
高
安山岩 の自然石
厚 幅
塔
地
さ
木
所
大
材
54
色ニ
I=l
草 木 塔 調 査 報
⑩
在
き
西置賜郡飯豊町大字白川
七0 センチメートル
文久二年 (一八六二)八月
-A」
基部の広 いところで五O セン
チメートル
一五センチメートル
安山岩 の自然石
さ
高
幅
厚
草
建立 年 代
材
白川寺の境内、参道 の左側に湯殿山などの石碑と並んで建 つ。
草木塔」その頭部に種子らしきも のが見える
碑面には、中央に 「
八月初天」の文字を刻
文久二成年」右側に 「
が判然せず。左側に 「
む。
塔
地
さ
質
木
所
大
984年3月
1
第5号
山形県立博物館研究報告
53
⑨
塩 ノ畑 地 内 道 路 の 北 側 に 沿 い
水田 の 一 隅 に あ る 。 も と は 少 し
盤整 備 工 事 に 伴 ない 現在 地 に 移
右端が草木塔(昭和58年現況)
北方 の ケ ヤ キ の 下 に あ っ た が 基
西置 賜 郡 飯 豊 町 大 字 塩 ノ 畑
碑 面 に は 、 中央 の 「 草木 塔 」
され た も の で あ る 。
一 三五 センチ メート ル
の 文 字 は 明 瞭 で あ る が 、 風化 磨
安政 五 年 ( 一八 五 八 )
九0 セ ン チ メ ー ト ル
滅 が 甚 だ しく 右 側 の 年 号 の 読 み
が 正 しい こ と が 判 明 した 。
て 精 査 し た 結 果 「 安政 五 戊 午 歳 」
に じ て い る が 、 今 回拓 本 を と っ
延 享四 年 」 〈
羽 陽文 化 一 O O 号 )
続 五 年 八 月 」 、 戸 川 安章 氏 は 「
に つい て は 、 佐藤 忠 蔵 氏 は 「 享
二0 セ ン チ メ ー ト ル
花岡 岩 の自 然 石
大」
さ
草
塔
建立 年 代
高
幅
厚
在
き
地
さ
質
木
所
大
材
草
在
き
建立 年 代
質
碑面は中央に 「
草木塔」の
大文字、右側に 「
天保十年」
左側に 「四月八日」の文字が
明らかである。
小山田信 一氏の豆本 「
草木
塔」十七頁所載 の写真は、こ
れとは別のものである。
昭和58年 1 0 月 1 7 日 、 や ぶ の 中 か ら 掘 り 起 し た も の
広河原部落 の入口 ハ
北端)
の橋を渡 ってすぐ右手に建 つ。
しい。昭和四十六年当時は今
古くはここが通路 であったら
西置賜郡飯豊町大字広河原字原崎
の道路沿 いに 一軒の住宅があ
いたが、現在は住宅は完全に
りその裏手にこの塔が建 って
天保十年 (一八三九)四月八日
八四センチメートル
七五センチメートル
撤去され附近 一帯はタラノキ、
下部二六センチメートル
おおわれて塔の所在は全く判
クマイチゴが生い繁り蔓草に
上部 一六センチメートル、
さ
さ
塔
地
さ
木
所
大
材
高
。耳
厚
安山岩 の自然石
らず、ようやく薮の中に倒伏
している大石を見 つけ、裏返
してこの塔 であることを つき
とめた。見守る者もないまま
に雪 のため倒伏したものらし
。
u、
52
木 塔 調 査 報 告
草
⑩
1 9 8 4年 3 月
山 形県立博物館研 究報 告 第 5 号
51
⑮
建立 年 代
在
き
西置賜郡飯豊町大字小屋字小手屋
文政十三年 (一八三O)三月十三日
七二 センチメートル
三0 センチメートル
安山岩 の自然石
権平峠 へ通ずる旧道のわかれ、
並 湯
立 殿
し 山
三
側に 「文政十三年」左側に 「
草木塔」右
碑面には中央に 「
草木塔である。
ているが、その左から二番目が
ヵ:
月十七日」の文字が明らかで あ
左 か ら 2 番 目 が 「草木塔」
土
堤
の
上
に
馬
頭
観
世
音
庚,
申
塔
な
ど
六
基
の
石
塔
る。
さ
木
所
大
材
高
幅
塔
地
さ
質
草
草木 供養塔
材
き
東置賜郡川西町大字西大塚
(
高橋通三郎氏宅地内)
二七センチメートル
八0 センチメートル
一三五センチメートル
昭和四十七年 (一九七二〉九月十日
さ
花崩岩の自然石
厚 幅 高
所
大
建立 年 代
在
大」
地
さ
質
50
草 木 塔 調 査 報 告
⑩
昭和四十七年、自然保護 の戸がも っとも高まったころ、川西町自
然保護 の会の会長であった高橋通三郎氏が独力で自宅 の庭に建立し
たものである。
草木を愛してそのめぐみに
草木供殻塔」その左側に 「
碑面には 「
紀元 一九七二年建立」
感謝し青 い地球を守ろう」と刻んだ。裏面に 「
とある。
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
49
⑩
草木供養塔
中 郡 駅 か ら 北 へ 約 五00メ ー ト ル の と こ ろ か ら 西 へ 分 か れ る 道 を
ま た 五0 0メ ー ト ル ば か り 登 った 墓 地 隣 接 の 薮 の 中 に あ る 。
月二十 三 日 ﹂ 左 側 面 に ﹁ 高 橋 弥 平 次
大木口弥
高橋口口
大木平
角柱状の加工石で正面には﹁草木供殻塔﹂右側面に﹁大正八年十
東置賜郡川西町時田
一五センチメートル
一一一センチメートル
一三七センチメートル
吉﹂を二行に刻む。
さ
大正八年(一九一九)十月二十 三日
さ
建立年代
高
凝灰岩の加工
厚 幅
在
き
地
さ
質
所
大
材
48
tI::.
口
草 木 塔 調 査 報
⑨
草木供養塔
質
一三七センチメートル
置賜郡川西町下小松 〈
龍蔵神社境内)
明治二十五年 (一八九二)十月
さ
地
さ
建立 年 代
大
さ
安山岩 の表面加工
二九l三七センチメートル
メートル
下部の広 いところ七五センチ
中央部五九 センチメートル、
幅 高
在
き
東
厚
所
材
てんしょ
龍蔵神社の境内参道の左側にあって、凝灰岩 の台座 の上に建 つ。
よく磨かれた碑面には中央に筆書で 「
草木供養塔」右側に 「
明治
廿五年歳在壬辰十月」左側下方に 「
度外老人書」とある。
1 9 8 4年 3 月
5号
山 形県立博物館研究報告
47
⑩
塔
材
在
さ
東置賜郡川西町上奥田字飯原
凝灰岩 墓 石 形に加工
一七センチメートル
二九センチメートル
0 センチメートル
ハ
明治九年 (一八七六)
キC
さ
木
所
大
建立 年 代
地
質
厚 幅 高
草
き
道 路 西 側 に 大 宮 様 と いう 石 の小 嗣 が あ り そ の前 方 に 二 段 の台 石 の
上に建ててある。
草木塔」その下の横に ご 村中」、右側に 「
碑面中央には 「
明治
九年」とあるが左側 の月日は摩滅して不明である。
大
在
き
さ
建立 年 代
所
草木 供養 塔
地
材
質
東置賜郡川西町大字時田
(
四柳清徹氏宅地内)
一六センチメートル
中央部で三五センチメートル
ハ
0 センチメートル
明治二年 (一八六九)三月
大」
厚 幅 高
凝灰岩 前面加工
さ
46
草 木 塔 調 査 報 告
⑩
道路ぞいの八幡寺境内に隣接する四柳清徹氏住宅前に建立されて
いる。
碑面には中央の 「
草木供養塔」右側に 「明治二巳年」左側に 「
三
月門口 」とあり、かなり摩滅している。
1 984年3月
第5号
山 形県立博物館研究報 告
4' 5
⑮
木
在
き
塔
地
さ
建立 年 代
所
大
材
質
東置賜郡川西町玉庭字御伊勢町
〈
瑞光寺境内)
明治元年 〈一八六八)十 一月
一0 センチメートル
0 センチメートル
四五センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
草
瑞光寺境内庭園 の一隅にある。
明治元戊辰年 十 一月建立」
草木塔」 のみ、裏面に 「
碑面には 「
と二「
仔に、またその下に 「
宥寛、宥恵」が二行に書かれている。
44
8::.
1=1
草 木 塔 調 査 報
⑩
き
塔
地
さ
建立 年 代
在
木
所
大
材
質
東置賜郡川西町玉庭字犬川
慶応元年 ハ一八六五)十月
四六センチメートル
一一一
センチメートル
二四センチメートル
さ
さ
凝灰岩、加工
厚 幅 高
草
犬川部落南端人家の裏手にあるが、このあたり旧道に沿 っていた
と考えられる。近くに砂防ダ ム工事場 への道路ができて隔離され 一
:・
」が幸うじて読みとれる。
碑面は 「
草木塔」、右側面に 「
慶臆元年十月」、左側面に 「
施主
層荒廃している。
門口
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
4
3
⑫
長沢部落の南端、道路の
北側に沿 い道路改修 工 事 のた
めかやや後に傾むいている。
碑 面 に は ﹁ 草 木 供 娘 塔﹂
ィ
ふ
ハ
右側の布で被われているのが銭神
草木供養塔
東 置 賜 郡 川 西 町 大 舟字 長 沢
右側面に﹁元治元子歳八月
吉 日 ﹂ と あ る 。 凝 灰 岩 の切
元 治 元 年 ( 一 八 六 四 ) 八 月吉 日
六五センチメートル
石の二段の台座があり、
の上段前面に﹁施主柳沢孫
ニ
0 センチメートル
一一一センチメートル
﹁上組中﹂が刻まれて
なお、 左 方 に は 地 蔵 様 の
小嗣があり、右方には銭神
と云う石の小柄があり常に
供 物 が 供 え ら れ 旧 暦 三 月十
五日にはお祭りが行われる
。
とい う
そ
建立年代
さ
さ
凝灰岩で墓石形に加工
L
いる 。
七
厚 幅 高
在
き
地
さ
質
所
大
材
42
&
p
草 木 塔 調 査 報
⑩
草木 供養 塔
在
さ
き
建立 年 代
地
質
東置賜郡川西町上小松
月十七日
一
一
嘉永三年 (一八五O)一
七六 センチメートル
一一一センチメートル
三 一センチメートル
さ
さ
凝灰岩 で墓石形に加工
厚 幅 高
所
大
材
諏訪神社鳥居を入ってすぐ左側に山神塔、庚申塔、象頭山などの
石碑とならびその左端に建 つ。
碑面に 「
草木供養塔」左側面に 「
嘉永三成年三月十七日」の文字
があり、凝灰石の二段の台座がある。
1 9 8 4年 3 月
第5号
山 形 県 立博物館研究報告
41
⑮
き
塔
地
質
建立 年 代
在
さ
東置賜郡川西町玉庭字温井
七センチメートル
一
八0 センチメートル
嘉永二年 〈一八四九)月日不明
いる。
凝灰岩質 の硬 い自然石で三個に砕けて
さ
木
所
大
材
高
市高
草
は「
安永二年」と記録して
いるが、今回の調査では 「
嘉永二年」が正しいことが
わかった。左側 の月日は佐
藤忠蔵氏は八月九日と読ん
でいるが今次 の調査 では読
みとれなかった。
昭 和 58年 1 0 月 1 4 日 現状撮影 、 右側の も の は 「飯 豊 山 」
上和合から行 って部落
の入り口左側にある 「
飯
豊山」 の巨大な石碑 の立
つ台石の上に割れたまま
立てかけているが、もと
はその手前数十 メートル
右側のお堂の前にあった
もので、道路の改修工事
の際破壊されたまま放置
されていたも のである。
草木塔」の
碑面には 「
文字が明らかであるが、
右側の年号は佐藤忠蔵氏
40
止ヒ
口
草 木 塔 調 査 報
⑩
塔
地
さ
質
東置賜郡川西町玉庭字矢 ノ沢
弘化二年 〈一八四五)三月吉田
さ
在
き
建立 年 代
さ
木
所
大
材
八二センチメートル
幅 高
安山岩 の自然石
下部
二一センチメートル
上部で 一九センチメートル、
ところが三四センチメートル
チメートル、その下 のせまい
チメートル、上部で三五セン
底部がも っとも広く四七セン
厚
草
矢 ノ沢はすでに廃村であるが、馬場からの車道と塚田から入る道
廃道に等しい) の交わる地点にある。
(
碑面には、 「
草木塔」その右側に 「
弘化二年」左側に 「
三月吉田」
と明瞭である。
984年3月
1
第5号
山形県立博物館研究報告
39
⑮
草木 供 養 塔
東 置 賜 郡 川 西 町 玉 庭 字 朴 ノ沢
高 国 寺 の 門 前 で参 道 の 右 側 の 厳 の 中 に あ る 。 も と こ こ に 薬師 堂 が
あっ た が 、 道 路 改 修 に よ り 堂 ば 寺 院 本 堂 の 南 方に 移築 さ れ た が 、 草
木 供 養 塔 、 古 峯 神 社 の 石 柱 な ど は も と の 位 置 に 残 され て い る。
碑 面 は 摩 滅 し て 中 央 の 「 草木 供 養 塔 」 右 側 の 「 天保 七 申 年 」 が 辛
うじ て 読 み と れ る が 、 左 側 下 方 に 「 日」 の 字 が 見 え る が そ の 他 は 不
明
。
八 三 六 )月 日不 詳
天保 七 年 ( 一
七 七 センチ メート ル
凝 灰 岩 で多 少 加 工 し て い る
底部 で四 五 セン チ メ ート ル
さ
建立 年 代
高
幅
在
き
地
さ
質
所
大
材
38
&.
ロ
草 木 塔 調 査 報
⑫
大
き
建立 年 代
在 地
塔
さ
質
東置賜郡川西町玉庭字高野沢
六0 センチメートル
文政十二年 (一八二九)三月十七日
高
高野沢部落東端、道路北側の一軒屋背後 の丘陵にあるが、古くは
ここが通路であったらしい。目下道路の再改修により碑 の前約 一0
メートルほどのところが開削され辛うじて現状が保たれている。
碑面には、太く 「
草木塔」の文字が刻まれ、その右側に 「
文政十
二丑年」左側に 「三月十七日」とある。
四二セノチメートル
ま生 い繁る厳 の中にある。
の後間もなく起して基部を コンクリートで固めたが、現在はそのま
昭和四十六年九月には厳の中に倒れたまま放置されていたが、
二0 センチメートル
そ
木
所
材
さ
さ
安山岩の自然石
厚 幅
草
1 9 8 4年 3 月
山 形県立博物館研 究報告 第 5 号
37
⑫
草 木 供養塔
在
き
建立 年 代
地
さ
質
東置賜郡川西町大舟 (
新蔵峠 への旧道)
文化十三年 (一八 二ハ)八月
二四センチメートル
ニ占
ハセンチメートル
八0 センチメートル
さ
さ
凝灰岩加工
厚 幅 高
所
大
材
大舟上部落から新蔵峠 への旧
道をわずか登った路傍 の 一角に
他の多く の石塔と共に建 ってい
るが、これらは前面の平野を通
った旧道ぞいにあったも ので基
盤整備 の際にここに移されたも
のである。
二段の台石の上に建てられ、
草木供養塔」を刻み、
碑面には 「
文化十三丙子年八月
右側面に 「
吉祥日」とある。
草 木 供養 塔
建立 年 代
質
き
東置賜郡川西町玉庭字柴引
(
加藤隆 一氏宅地内〉
寛政九年 〈一七九七)閏七月十四日
六七センチメートル
もとは前面 (
東方) の水田地帯を通る旧道の 一里壊に建てられて
いたも のであるが、基盤整備によって現在の道路西側に移されてい
た。それが道路 の拡幅などによって倒壊 のまま放置されていたもの
を、昭和五十八年八月所有者である加藤隆 一氏が自宅南側に、六面
瞳や地蔵様の塔と共に移した
ものである。
側の 「
閏七月十四日」は明瞭
である。
昭和52年道路 ぞ い に あ っ た 当 時の状態
左 端 が 「 草 木供養塔」
地
さ
読 円 。
所
大
材
は
中
央
に
「
と
あ
る
が
、
右側には 「
寛政九丁巳天」左
子 養
ら 塔 碑
在
々C
ぷ者里
も
の
は
全
く
二八センチメートル、
底部四三センチメートル
一七センチメートル
安山岩 の自然石
め 内 草
な の 木
い 種 供
昭和58年 1 0 月 、 左 端 が「草木供養塔 」
さ
幅 高
厚
36
fr.
口
草 木 塔 調 査 報
⑩
米沢市中央五丁目 (
猪俣市弥氏玄関前)
⑩
さ
建立 年 代
立つ。
米沢市中央五丁目 (
西蓮寺墓地内)
昭和五十五年 〈一九八O)十 一月
ム
ハム
ハセンチメートル
四六センチメートル
安山岩、表面加工
命
左側に 「
明誉西杏」と刻む。蓮弁を型どる立派な台座の上に
---­
d・99
e
w-dAe
碑面には 「ウム 草木塔」右側に 「
昭和五十五年十 一月」
その霊を慰めるために建立したという。
を現在地に移転した。そのとき杉 の古木を多数伐採したので
西蓮寺は、国道の大改修により境内を割愛し、本堂と墓地
(吃字}
質
昭和五十四年 (一九七九)七月十九日
六=一
センチメートル
四センチメートル
一
上端二0 センチメートル
二五センチメートル
在
き
建立 年 代
大」
安山岩の自然石
多年染色業を営み、特に草木染に情熱をかたむけておられ
る農園工房社長猪俣市弥氏が 「
草木の霊に感謝しその霊を慰
塔
地
木
所
大
在
き
めるため」建立されたものである。
y
�・
弘事�守司』 叩酔,唱叫肝
さ
草
碑面には、中央に 「
草木塔」その右側に 「
昭和五十四年己
さ
�
宅
⑩
未天」左側に 「七月十九日」を刻む。
幅 高
全
大
材
草
zv
'
幅 高
厚
木
所
塔
地
さ
質
材
�.
1 9 84年 3 月
第5号
山 形県 立博物 館研究報告
35
34
8=.
1=1
草 木 塔 調 査 報
⑫
き 在
さ 地
質
米沢市大字築沢字屋敷 (
山林中)
六六センチメートル
幅 高
さ
さ
安山岩 の自然石
一=一
センチメートル
メートル
チメートル、底部三 一センチ
中央部 の広 いところ五O セン
厚
草木供養塔
大 所
材
量敷部落西方山地の中腹にあるが、もとここに態野堂があったが、
態野堂が下の墓地に移されてからは、顧みる者もなく倒伏のまま放
置されていた。今から七O年ほど前に鈴木重太という者が独力で建
立したと伝えている。
碑面に 「
草木供養塔」とあるだけで他に文字全くなし。
町 的社 噌∞∞ 同 酔 ω掠
申 出掛山肌庫 埴 容 世 阿 世 絵 ヨ
M
M
⑧
冊 4ぐ さ 糊 揺F
� 柑 君
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相
制例 措 ど
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社 主1 十
nt: 幽仁工1 ト ム
I'\J Q 何 事 !J r 罫 謀 川 十 � 叶」 何
畑誼 阻 毒!: Q 挺信 号� \:lゴ 組 制J Q 1� -W f;: !J
書生 阻 !.2 � ' モト 司く !J r三t*革担� J
併 記 将 軍 国 !J ti r 慢 州
事 以 r � < m:: � く 国 側 J ti � 心 会 や � の も , flnr f@ Q
捜*同制J
Q 1 �詰 1モ � '
※ ÇJ:;: 悟 +< �小 緋 区 {伴 尽 走〈魁 信号4 ぽ 明 書-K:)
1 1 1 ギ 入 小 、 - -'- え
1 1 同 ギ 入 Tト 弐 - -'- え
国 同 ギ 入 yト 弐 - -'- え
口」 心 掲 げ
状J
択J
E 議E 川 + 刊 社 ( 1 � O � く ) � < m:: � ( m
根E
畢
匝を
{何 ヨ ヨ同 e 佃 能 回
草木供養塔
山 の神神社境内〉
米沢市大字綱木 (
明治十二年 (一八七九)八月十五日
二 0 センチメートル
安山岩 の自然石
一0 センチメートル
下部四0 センチメートル
上部六0 センチメートル、
さ
在
き
建立 年 代
キ片」
幅 高
厚
所
大
材
地
さ
質
32
草 木 塔 調 査 報 告
⑬
山の神神社鳥居の前の右側に、巳待供養塔の背後に重なるように
斜に建 っている。
明治十二年八月十五日」
草木供養塔」右側に 「
碑面には、中央に 「
村中為安全建立 施主人中川新八、梅津豊吉」を刻む。
左側に 「
1 9 84年 3 月
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
31
⑭
木
所
大
在
き
塔
地
さ
建立年 代
材
質
米沢市大字 口田沢字上中原
上中原バス停留所から西方 へ約 一00 メートル、国道 士 二 号線
に沿 い約二0 メートルほど北側 の松林 の中にあるが、道路改修 の際
にここに移転されたものという。
碑面は、中央に 「
草木塔」その右側に 「
慶臆元年七月廿日」左側
下方に 「
三田沢講中」と、 いずれも行書体にくずした字を刻む。
六七センチメートル
之御札」を配るならわしがある。
地元の田沢寺 の住職によって供養を行 い、関係者には 「
草木塔供養
毎年五月二十日の早朝近在 の人々が集ま って清掃旗立を行 った後、
四六センチメートル
一五八 センチメートル
慶応元年 (一八六五)七月二十日
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
草
30
&
1=1
草 木 塔 調 査 報
⑬
塔
地
在
き
さ
質
建立 年 代
大
市万世町無
センチメートル
一一五センチメートル
二 一四センチメートル
七年 (一八五四)十月 一日
凝 厚 幅 高 嘉 米
灰
永 沢
さ
さ
岩質で前面やや加工
一
木
所
材
簾
一
一
草
国道 三号線万世大路 の綱木から、天王川に沿 って東方 へ約一
右側面に 「
嘉永七寅年十月二日」を刻む。
碑面には 「
草木塔」 の大文字と右側に ご 村中」が刻まれており、
草木塔としてはも っとも巨大なも のである。
にある。幅二メートル高さ四0 センチメートルの台座 の上に建ち、
ロメ1トル、旅纏部落を出はずれたところ、山の神神社参道の右側
キ
984年3月
1
山 形 県立博物館研究報告 第 5 号
加
⑫
草木供養塔
在
き
建立 年 代
地
さ
質
米沢市小野川町塔之原
弘化二年 (一八四五)
六一一
センチメートル
二五センチメートル
二九センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
所
大
材
小野川温泉対岸 の甲子大黒天の社殿の背後 の山腹に建てられてい
るが、近年四キロメートルほど下流 の赤芝町羽黒堂から移したもの
という。碑面には 「
草木供殻塔」とあり、その右側面に 「
弘化二巳
天」とある。
草木供養塔
在
材
き
刈安部落 の入口 (
西端)、国道 一一
一
一
号線に沿う南側 の山上に山の
神の社殿があり、鳥居をくぐ って百数十段のせまい石段を登るので
(党字)
バク 草木供養
碑面中央に 「
あるが、その鳥居のそばに建ててある。
米沢市万世町刈安 ハ
山の神境内)
六五センチメートル
月九日」とあり摩滅 のため判読
側に 「
弘化乙巳年」左側に 「
九
東原寺」 の文字があるという。
氏によれば、基部 の埋没部に 「
が困難である。なお小山田信
二0 センチメートル
字がほとんどかくれている。右
塔」とあるが基部埋没して塔の
八0センチメートル
弘化二年 (一八四五)九月九日
キC
さ
凝灰岩質の自然石
厚 幅 高
所
大
建立 年 代
地
さ
質
28
lf::
仁I
.
草 木 塔 調 査 報
⑪
9 8 4年 3 月
1
第5号
山 形 県立博物館研究報 告
27
⑩
在
き
米沢市大字 口田沢字塔婆沢
文政九年 (一八二六)八月十五日
さ
草
建立 年 代
さ
ル、底部三三センチメートル
八 センチメートル
一
安山岩の自然石
国道 ご 二 号線を潜清水から三00 メートルほど西 へ進み、道路
北側に沿 って通称下の町墓地がある。その一隅道路に面して建 つ。
碑面は 「
草木塔」 の力強い刻字だけであるが、右側面には 「
文政
八月十五日町方施主」とある。
丙戊歳」、左側面に 「
九
塔
地
さ
質
八 一センチメートル
�ïii 高
広 いところ四七 センチメ1ト
厚
木
所
大
材
草 木 供養塔
米沢市大字 口田沢字
文政六年 (一八一一
一
吉
岡
二上
八O センチメ
広 いとこ
トル、一
一
四0 センチメ
ところが
センチメl
ノレ
神
八 原
月
八
日
一
在 地
さ
質
建立 年 代
大
き
'-../
チメートル
びれた
分 ろ
七 の で
セ
五
ソ
。
の
く
やや後 へ傾 いて建 つ
安山岩 の自然石、凝灰山
石の台石の上に
ノレ
幅
厚
所
材
さ
さ
26
止と
o
草 木 塔 調 査 報
⑨
神原部落 の西のはずれにある勝軍地蔵尊 の境内、社殿の向 つ
側にある。
八月八日 神原」と刻む。
側に 「
碑面には、中央に 「
草木供養塔」、その右側に 「
文政六天」、
て
右
左
草木供養塔
米沢市大字築沢字大代原
米沢市立三沢東部小学校の校庭の一隅に道路に面して建立。
碑面は、中央に﹁草木供養塔﹂その右側に﹁文政六年二月﹂左側に
﹁三 築沢村﹂
右側面に
エ門情野忠右エ門与兵
寛政六甲寅歳鈴木権右
一
O 八センチメートル
衛為後年不時之資請官
文政六年(一八二三)二月
中 央 の 広 い と こ ろ 七0 センチ
府以鹿之沢助之沢屋敷
沢越戸沢為留山委後来
メートル、底部五六センチメートル
五0 セ ン チ メ ー ト ル
之邑長継 三子之志示厚
左側面の刻字
建立年代
さ
さ
在
き
地
さ
質
所
大
材
高
幅
厚
安山岩の自然石
左側面に
也故樹木繁茂而資不
可挙而数也於是因供娘
加藤孫右エ門
草木記 三子之功以示後世云
裏面に
エ衛ェ兵
門
門衛
清野信右エ門
遠藤六郎兵衛
遠藤七郎兵衛
遠藤源兵衛
土屋門三郎
金
藤木木々
喜新佐木
右兵右次
鈴木甚五右エ門
蔵
人話世
以上のよ う に 建 立 の由来を刻んでいるのはこの碑だけである。
同
加鈴鈴佐
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
2
5
⑧
24
丘=
口
草 木 塔 調 査 報
⑦
木
塔
在
き
地
さ
建立年 代
所
大
材
質
川西町 へ通ずる県道 (口田沢川西線の南側崖下の子安地蔵尊
を-柑る地蔵堂の右側斜面にある。大正 一O年に道路が改修され
斜に傾むいているが、碑面には 「
草木塔」右側面に 「
文政六
る前は旧道がここを通 っていたという。
米沢市大字 口田沢字中原
未年八月」が明らかである。この碑建立以前のも のはすべて 「
草木供養塔」 であるから 「
草木塔」と刻む最古のものといえる。
文政六年 (一八二三)八月
八四センチメートル
二四センチメートル
四五センチメートル
さ
さ
安山岩の自然石
厚 幅 高
草
1 9 8 4年 3 月
第5号
山 形県立博物館研究報 告
23
⑥
草木供 養塔
在
き
建立年 代
地
さ
質
米沢市大字入田沢字大荒沢
文政元年 (一八 一八)八月
三Ol 一七センチメートル
一
七センチメートル
九0 センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
所
大
材
国道 三 二 号線から大荒山不動尊 への旧道を水路に沿うて
約 一00 メートルほど入 った路傍 の杉の根方にあり基部埋も
れて塔の字ようやく見える。
碑面には、中央に 「
草木供養塔」、その右側に文政元年八
村中」 の文字がある。
月」左側下方に 「
2
2
止と
ロ
査 報
塔 調
木
草
⑤
草木供養塔
建立年代
米 沢 市 大 字 築 沢字糸畔
糸 畔 部 落 の 北 端 、 道 路 西 側 に 沿 って 建 て ら れ て い る が 、 以 前 は 反 対
草 木 供殻 塔 ﹂ 右 側 に ﹁ 文 化 十 三 年 ﹂ 左 側
側 の 東 側 に 西 面 し て あ った も の で あ る 。
陀'
f}
{
碑面には、中央に﹁ウム
に﹁四月七日﹂を刻む 。
建 立 年 号 の 刻 字 は 一 部 摩 滅 し て 読 み 取 り に く い 為 に 、 戸 川 安 章 氏の
(羽陽文化一 O 八 号 ) には﹁文化十笑酉年、 四月廿日﹂
とあり、小山田信一氏の豆本﹁草木塔﹂には﹁文化六年四月﹂とある
﹁草木塔管見﹂
広いところで七九センチメートル
が、今次の調査で拓本をとり精査した結果、以前佐藤忠蔵氏が記録し
、 四月七日﹂が正しいことが判明した。
た ﹁ 文 化 十 三年
二七l二 九 セ ン チ メ ー ト ル
一一六センチメートル
文化十三年(一八二ハ)四月七日
さ
さ
花樹岩の自然石
厚 幅 高
在
き
地
さ
質
所
大
材
1 9 8 4年 3 月
山形県立博物館研究報 告 第 5 号
21
④
草木供 養塔
さ
建立 年 代
在
き
米沢市大字入田沢字戸長里
文化四年 (一八O七)八月八日
七二センチメートル
六 一センチメートル
二0 センチメートル
旧道の西側に沿う小高 いと
ころの石塔群 の中にある。基
部が埋もれて斜に傾むいてい
中」を刻む。
八月八日講
卯富村」左側に 「
文化四丁
である。右側には 「
が、種子は明らかに 「ウム」
「
草木供養塔」が刻んである
碑面中央には大きな種子と
る。
地
質
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高
所
大
材
旧 道 ぞ い の石碑群、 右 端 が 「草木供養塔」
20
草 木 塔 調 査 報 告
③
草木供養 塔
地
在
き
さ
建立年 代
大
質
米沢市大字 臼田沢字上屋敷 (
薬師様境内)
政十二年 (一八OO)八月十五日
二九 センチメートル
二五センチメートル
七六センチメートル
さ
さ
安山岩 の自然石
厚 幅 高 寛
所
材
(党'F)
公民館と同居するお薬師様社殿のそばにある。
右に傾むいているが碑面には中央に 「
パク 草木供殻塔」右側に
寛政十二申天」左側に 「
八月十五日 導師瑞林寺」とある。
ー「
1 984年3月
第5号
山 形県立博物 館 研 究報 告
19
②
草木供 養塔
き
建立 年 代
国道= 二号線の西側 に沿 い約二メートルの高処に建 つ。すぐ背後
に住宅が建 って甚だ景観を損ねている。
碑面には、中央に 「花 草木供養塔」、その右に 「一悌成道観見法
界」さらにその右側に 「
寛政九丁
成悌」さらにその左側には 「
八月
米沢市大字入田沢字白夫平
一一一
0 センチメートル
十三日 中通」を刻んでいる。
草木国土悉皆
巳年」、左側には 「
九0 センチメートル
経文と併記されているものはこの
寛政九年 (一七九七)八月十三日
二0 センチメートル
碑だけであり、草木塔 の信仰的背
景をたどる上からも貴重なも ので
ある。
なお、この碑の左隣に
寛政九丁巳天、八月十三
飯豊山供殻塔」が
日の 「
建 っている。
右側 に 同 年 同 月 建立の飯豊 山 供養塔が あ る 。
に 永 一 了 、�品.#� 司nJ2
在
さ
さ
さ
安山岩の自然石
厚 幅 高
地
質
所
大
材
草木供 養塔
所
大
き
地
建立年 代
材
質
米沢市大字入田沢字塩地平
0 センチメートル
一一一
安永九年 (一七八O)七月十九日
さ
さ
在
さ
四八 センチメートル
塩地平部落入口の国道 三 二 号線に沿う東側 の墓地内にある。不動
様の粗末なお堂のそばの厳の中に前 のめりに半ば埋まっており、碑
面には中央に 「
草木供殻塔」右側に 「
安永九子天」左側に 「七月十
九日」 の文字が、辛うじて判読される。
現在発見されている草木塔としては履古 のものである。
\...
、
二 センチメートル
一一
�,
-、---
厚 幅 高
安山岩 の自然石
ル
ヰノ
ルhf
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l江
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4二
18
草 木 塔 調 査 報 告
①
17
山 形県立博物館研究報告 第 5 号
草
木
供
養
塔
1
9 8 4年3 月
地図は地理院発行五万分の一を使用
1
6
t
と
仁3
査 報
調
木 塔
草
考えるようになり、 そ こ か ら 伸 び ゆ く 生 命 を 人 間 の 役 に た て る た め に
い
ト
フ
。
また、 大 荒 沢 不 動 尊 境 内 の 明 治 三 十 二 年 建 立 の ﹁ 植 立 杉 供 養 塔 ﹂ 図
からは、 い か に も 植 林 し た ス ギ の 生 育 を 希 う も の が 読 み と ら れ る し 、
伐採された草木の霊を慰めようという考えが生まれたのではないか﹂
と考察され、草木塔の発生はこのような信仰を鼓吹した宗教者乃至宗
上 山 市 阿 弥 陀 地 の ﹁ 大 杉 碑 ﹂ 凪 に は 、 明 治 三 十 五 年 の 暴 風 に よ って倒
れ た 大 ス ギ を と む ら った も の で あ る こ と が 明 記 さ れ て い る 。
派の信仰的背景によるものであることが述べておられる。
佐藤忠蔵氏は、安永元年二月、江戸の大火で上杉家の上屋敷が類焼
またその所在地が全国的にみても極めて限られた地域に集中している
﹁草木塔﹂は黙して語らず、
が け 宿 泊 し て 御 林 を 伐 採 し て 江 戸 へ 送 り 、 いち 早 く 上 屋 敷 を 再 建 す る
ことに つ い て も 、 今 後 の 検 討 の 余 地 が 残 さ れ て お り 甚 だ 興 趣 を そ そ る
しかしながら、多くの﹁草木供養塔﹂
ことができた 。 こ の と き 伐 採 さ れ た 樹 木 に 感 謝 し 霊 を な ぐ さ め る た め
課題でもある。
したので、竹俣家老が直ちに帰藩して数百人を動員し、田沢村に小屋
に安永二年にはじめて草木供養塔を建てたとしておられるが、安永二
とは云え、この発生については、戸川安章氏が述べられているとお
り
、 宗 教 的 な 背 景 の も と に 特 定 の 宗 教 家 に よ って創建されたものが、
年建立となされた温井のもの⑮は嘉永二年と改めるべきものであるし
最古の塩地平のもの①は安永九年であって、御林伐採とは必ずしも結
ま た 継 承 さ れ て き た も の で あ って 、 今 日 的 な 課 題 で あ る ﹁ 自 然 保 護 ﹂
山に生きる人々の 素 朴な信仰と自然崇拝に支えられ、地域的に伝播し
他 に 口 碑 の 語 る も の に 、 白 鷹 町 十 王 の 明 治 二 十 四 年 連 立 の ﹁草木供養
の原点にかかわる 貴 重 な 石 造 文化 財 で あ る こ と は 疑 う 余 地 の な い と こ
びつかないようである。
このあたり一帯が上杉藩の領愉 であったが、明治に
塔
﹂ @がある。もと -
ろである。
J
な って 人 手 に 渡 り 二 ヘ ク タ ー ル 余 の 美 林 が 伐 採 さ れ た 。 こ の と き 伐 採
の 業 に あ た った 五 十 峯 惣 吉 氏 は 、 こ の 美 林 に 斧 を 入 れ る こ と を た め ら
った と い うが 、 伐 採 後 そ の 霊 を 慰 め る こ め に こ の 碑 を 建 て た と 伝 え て
いる。なお口碑は草木供養塔類似のものとしてとりあげたものに多く
残 さ れ て お り 、 南 陽 市 池 黒 の﹁大木大明神﹂ 固 は 、 五 十 ア ー ル に わ た
って 枝 を 張 る 大 ケ ヤ キ が 風 倒 し た あ と に 建 て た も の と い う し 、 山 形 市
津金沢の﹁大杉大明神﹂回は、今に残る大スギハ雌スギ)と対をなし
て い た 雄 ス ギ を 伐 採 し た と こ ろ 疫 病 流 行 の た た り に 遭 い 、 その 霊 を 慰
めたものと伝え、南陽市寺原峠の﹁大杉大明神﹂回国は、峠の一本ス
ギ を 伐 り 倒 し た と こ ろ 赤 い 血 を 流 し た の で そ の 霊 を と む ら った も の と
建碑 の 由 来 に つ い て
草 木国 土 悉 皆 成 悌 」 を刻 んで い
悌 成 道 観見 法 界 」 「
氏 の 解 説 ( 羽陽 文 化 一O 四 号 ) にく わ し く 、 氏 は 草 木国 土 悉 皆 成 併
石 塔 ( 安永九 年 ) との 関 連 が考 え ら れ る 。こ の 点 に 関 し て は 戸 川 安章
に右 の 経 文 だ け を刻 む国 道 三 二 号 線 の 神 原 と戸 長 里 聞 の 路 傍 にあ る
る も の で あ る 。そ の 為 に 米 沢市 立 米 沢東 部 小 学校 東 方 の 六 面 瞳 や 、
塔 」 の 両 側 にご
の 「草木 供養塔」 ② で あ ろう。寛政九 年 と第 二 番目 に古 く 「 パク 草 木供 養
陀守)
(
こ れらの もの に比 し て 重 視 し な げ れ ば な ら な い も の は 、 米 沢市 白 夫 平
え草 木塔 建 立 の 本 質 的 な 説 明 にか か わ る も の で は な い 。
村 中 為 安全 建 立 」 と あ る が、 現 実 的 な 素 朴 な 願 い を托 し て い る とは 云
色彩 が濃 い 。 ま た 明 治 十二 年建 立 の米 沢市 綱木の 「草木供養塔」⑮ には 「
養塔 を 碑 名 に選 んだ が 、 む し ろ先 人の 功 績 を た た え る 顕彰 碑 とし て の
世 に伝 え る 」 とい う も の で 、す で に村 内 諸 所 に 建 て ら れ て い た草 木供
大 な も の にな っ た 。そ こ で 草 木 を供 養す る と 共 に 三 人の 功 を 記 し て 後
継 い で 山 林 の 育 成 につ と め た 結果 、 樹 木 がよく 繁栄 し そ の 資 た る や 莫
之 沢助 之 沢屋 敷 沢越 戸 沢 を留 山 とし た 。そ の 後 代 々 の 庄 屋 がそ の 志 を
野中学相ェ門 与 兵衛 の 三 名 が不 時 の 災 に備 え る た め に 、 藩 に 願 い 出て 鹿
の 左右 の 側 面 に九 行九 十一 字 を刻 んで お り 「 寛政 六 年鈴木権右 ェ門、 清
市 立 三 沢東 部 小 学校 校 地 の 一 角 に あ る 「草木供 養塔 」① 唯一基 で ある。塔
建 立 の 由 来 につ い て 碑 面 に 明 記 さ れ て い る も の は 、 米 沢市 大 字 築 沢、
五
とい うこ と ば か ら 、 の ち には 草 木供 養 とい うこ と にウ エイ ト をか け て
単
神原、 戸長皇聞の路傍にある「草木国土悉皆成仏」碑(中央のもの)
米沢東部小学校東方の六面憧
984年3月
1
第5号
山形県立博物館研究報告
15
白鷹町橋本の﹁材木供養塔﹂@と﹁財木供養塔﹂@は、年代では前
者が文化七年(一八一 O
) 後 者 が 慶 応 二 年 ︿ 一 八 六 六 ) で、かなりの
O 四号)と記
しておられるが、これは佐藤忠蔵氏の文化十三年︿一八一六)が正し
へだたりはあるが、所在の位置はわずか二百メートルと近接している。
l
ν、 戸 川 安 章 氏 は 文 化 十 英 酉 年 ( 羽 陽 文 化 一
、
い こ と を 確 か め る こ と が で き た 。 ま た 米 沢 市 刈 安 の ﹁草木塔﹂ O は
このあたりは藩政時代から実測川の上流から伐り出される材木の集散
草木塔)
小 山 田 信 一 氏 が 豆 本 ﹁草木塔﹄ではじめ て 報 告 し た も の で あ る が 、 こ
地であり、盛んに﹁木流し﹂が行われたのでとくに﹁材木﹂を冠し
﹂
シ
の 建 立 年 代 文 化 二 年 は 弘 化 二 年 (一八四五)が正 し いことなど今次の
たことが考えられる 。
一側面に
﹂れまで 草 木塔に つい て 解 説 を な さ れ た 方 々 の 多 く は 、 米 沢 市 立 東
調査によって明らかにすることができた。
年 代別一 覧 表 を 見 れ ば 、 昭 和 に な っ て か ら の 七 基 と 年 代 不 明の
、
部小学校東方の鉄道線路ぞいにある六面瞳(年代不明) で
﹁大乗妙典一万部﹂
ものを除く四十九基の年代分布は、文政年間や元治、慶応にやや集中し
てはいるが、 ほぽ均等であ って 、 明 治 時 代 の 十 四 基 、 大 正 時 代 の 二基
二 二 号線 の 神 原 と 戸 長 里 の ほ ぼ 中 間 の 路 傍 に あ る ﹁ ウ ム 一 例 成 道 観
﹁材木供 養塔﹂
﹁財木供養塔﹂
﹁奉供養草木塔﹂
﹁草 木 塔 ﹂ は 文 政 六年 の 米 沢 市 中 原
なものと考える。
(嘉永六年)
﹁一悌成道観見法界﹂と
その関連において 草 木 塔 発 生 の 背 景 を 探 る た め に は 見 の が せ な い 貴 重
﹁
草 木 国 土 悉 皆 成 悌 ﹂ を ﹁ 草 木供養塔﹂の両側に併刻したものがあり、
政 九 年 ) のように、唯一基だけではあるが、
し た。 し か し 、 こ れ ら の も の も 米 沢 市 白 夫 平 の ﹁ 草 木 供 養 塔 ﹂ ② ︿ 寛
きもあるが、本稿ではこれらを﹁草木塔﹂と見なさず除外することに
の碑も、 左側 面 に ﹁ 草 木 国 土 悉 皆 成 悌 ﹂ を 刻 む の で ﹁草木塔﹂ とする向
上げ、 さ ら に 天 童 市 乱 川 橋 の た も と の ﹁ 南 無 妙 法 蓮 華 経 ﹂
(安永九年) の碑を﹁ 草 木 塔 ﹂ と し て 取 り
陀'
f)
(
﹁草木国土悉皆成悌﹂の二行を刻むものと、国道
にいたる百三十年にわたり、地域住民の聞に建立の精神が連綿として
見法界草木国土悉皆成悌﹂
碑名について
受けつがれてきたことがわかる。
ある。
所 在 の も の が こ と ご と く ﹁草 木 塔 ﹂ で あ る こ と は 一 考 に 値 す る よ う で
くなる。なお地域的に両者の分布を見た場合、飯豊町(旧中津川村)
の⑦が巌初である。その後は両者交々ではあるが﹁草木塔﹂の方が多
、
す べ て ﹁ 草 木 供 養 塔 ﹂ で あ って
最も古い米沢市塩地平のもの①から文政のはじめまでの古いものは、
各一基がある。
部分を占めているが、
五十八基の うち ﹁草 木 供 養 塔 ﹂ 二 十 五 基 と ﹁ 草 木 塔 ﹂ の 三十 基 で 大
四
1
4
a
二
口
査 報
調
広
木 事
吋
草
1984年 3月
第 5号
山形県立博物館研究報告
13
大正 三
飯豊町小屋羽 黒
⑮草 木 塔
じて読みとることができる。戸川安章氏は安永四年(一七七五)
陽文化一 O 四 号 ) と 読 ん で お ら れ る が 、 佐 藤 忠 蔵 氏 の 安 永 九 年 ︿ 一 七
八O) (置賜文化 三八号 ) が 正 し い。な お 佐 藤 忠 蔵 氏 は 同 誌上 で
、
庭 村 温 井 ︿ 現 川 西 町 ) のものを安永 二年 (一七七 三) としておられる
が 、 こ れ は 明 ら か に 嘉 永 二年 ( 一 八 四 九 ) の誤りである 。 また豊川村
大字 高 峰 字 毛 下 野 ハ 現 飯 豊 町 ) に あ る と し た 安 永 六 年 十 月 十 日 ﹁ 草 木
供養塔﹂は、佐藤氏の写真に照してようやく同形の碑石を探し当てた
﹁安永六年十月十日﹂が明らかである点など
が、これには全く刻字の跡が見られず、 か た わ ら に 寄 り そ っ て 建 つ ﹁
大乗妙典供養塔﹂には、
。
か ら 、 こ の 塔 の 所 在 は 疑 わ し い も の と し て こ れ を 取 り あ げ な か った
さらに佐藤氏は飯豊町塩ノ畑の﹁草木塔﹂を享蔽五年八月(一五三二)
昭和一五
飯豊町上原
大江町柳川
@草木供養塔
@草 木 塔
@ 草 木供 養 塔
からみても、この時代のものや巌も古い安永九年をさらにさかのぼる
草木供養塔﹂ @であ って、この間十数年の空白があること
川西町柴引の ﹁
@ 草木供養塔
昭和二九
川西町西大塚
@草木塔
ものが、未発見のまま埋もれているか、 あ る い は す で に 失 な わ れ た も
川西町時田
昭和四七
飯豊町下屋地
⑬草木塔
のがあるととも考えなければならない。また高畠町太田(旧和田村)
大正八
と 報 じ て お ら れ 、 戸 川 安 章 氏 は ま た 延 享 四 年 ( 一 七 四 七 ) (羽陽文化
一OO号、 一
O 四号) と し て お ら れ る が 、 こ れ は 小 山 田 信 一 氏 の 豆 本
﹃草 木 塔 ﹄の ﹁ 安 政 五 戊 午 歳 ﹂ が 正 し い 。し たが って 現 時 点 で は 塩 地
昭和五
米沢市中央五
⑬草 木 塔
大日 堂 の 小 嗣 の あ る 丘 の 上 に 建 つものは、 いかにも年代の古さを思わ
平 の 安 永 九 年 ︿ 一 七 八O) が最も古いものとなる。
昭和五四
米沢市中央西蓮寺
⑮草木 塔
﹁七月十九日﹂が辛う
米沢市糸畔の﹁草木供養塔 ﹂ ① は、小山田信一氏は文化六年ハ豆本
読みとれず残念なことである。
せるものがあり、辛うじて﹁奉供殻草木塔﹂は判読されるが、年号は
これに次ぐものは寛政九年(一七九七)の米沢市白夫平のもの②と
昭和五五
飯豊町森林組合
﹁安永九子天﹂
羽
玉
一九O 九
一九一 O
一九二O
一九四O
一九五四
一九七二
一九七六
一九七九
一九八O
昭和五六
地にある﹁草木供養塔﹂①で、
今日知られている五十八基のうち巌古のものは、米沢市塩地平の墓
一九八
.
.
.
.
L
.
.
五 四
、
ノ
九 八 七
一八六五
一八七O
一八八O
慶 応元
米沢 市 上 中 原
⑮草 木 塔
⑪草 木 塔
@草 木 塔
川西町犬川
飯豊 町宇津沢
⑫草 木 塔
@草 木 供 養 塔
川西町 御 伊 勢町
白鷹町橋 本
慶 応四
@草 木 供 養 塔
⑮草 木 供 養 塔
@草 木 塔
@草 木 塔
@草 木 塔
川西町時田
米沢 市 綱 木
太田
高畠 町 太 田
川西町飯原
明治
明治 九
明治 一 二
@草木 塔
一八八五
一八九O
一 九OO
ノ、
ノ、
慶
応
明治 二 ハ 飯 豊 町 川 内 戸
_._
明治 二 五
明治 二 四
明治 一 九
明治 一 八
米沢 市 初 神
飯豊町白川
飯豊 町 遅谷
川西町龍蔵神社
白鷹町十 王
飯 豊 町 宇 津 沢 滝 ノ沢
飯 豊 町 広河 原
飯豊町小原
⑬草 木 供 養 塔
@草木 塔
@草 木 塔
@草木 供養 塔
@草 木 供 養 塔
@草 木 塔
@草木 塔
@草 木 塔
七
明治 二 二
八
九
明治 二 八
四
五
ー.L..
七
八
明治 三 四
九
明治 三 九
四
ノ、
五
_._
八 七
。
_._
ノ、
七
九 八
四
ノ、
五
_._
七
九 八
四
12
8ニ
J:l
報
査
調
塔
木
草
一八二 一
文政六
文政七
文政九
川西町朴ノ沢
一八四三
嘉永
弘
化
米沢市刈安
川西町矢之沢
⑪草木供養塔
⑫草木供養塔
@草木塔
米沢市無能
@草木塔
⑬草木塔
@草木塔
飯豊町塩 ノ畑
@草木塔
川西町温井
安政五
福島県熱塩
⑮草木塔
@草木供養塔
安政六
飯豊町白川寺
@草木供養塔
川西町上小松
文久
川西町大舟長沢
嘉永七
元治元
一八五O 嘉永三
一八六O
)11
野
⑦草木塔
④草木供養塔
@草木供養塔
@草木供養塔
⑬草木塔
⑫草木塔
⑧草木塔
⑫草木供養塔
⑧草木塔
。
米沢市中原
大代原
南陽市荻
米沢市塔婆沢
文政 一二 川西町高野沢
天保七
天保 一O 飯豊町広河原
五 四
ノ、
九 八 七
五 四
ノ、
神
原
。
ク
一八三O 文政 二ニ 飯豊町小屋
一八四O
一ι,
ームー・
九 八 七
四
--L・
五 四
ノ、
七
九 八
五 四
ノ、
九 八 七
1 9 8 4年 3 月
山 形県立博物 館研究報告 第 5 号
11
西
安
永
九
九
号
沢
米
夫
市
白
塩
市
平
地
在
平
地
一七九八
一八一 O
一八 二O
文化
文化七
文化四
米沢市糸畔
川西 町 大 舟
白鷹町橋本
米沢市戸長里
米沢市上屋敷
@ 草木 供 養 塔
⑤ 草木 供 養 塔
④草 木 供 養 塔
@材木供養塔
④草 木供養塔
③草木供養塔
文政元
米沢市大荒沢
一八O O 寛 政 一二
九
、 五 四
九 八 七 ノ
五 四
ノ
、
九 八 七
建立年代について
政
寛
年
年 代 分 布 一覧 表 ( 不 明 の も の ⑫ ・@ を 除 く )
①
塔
養
草
供
木
@
養
供
草
塔
本
@
塔
養
供
木
草
、
一
暦
七六五四三二 一 O
九九八七六五四ニ一一八
0
所
川
西 沢
米
柴引
町
七
七
1
0
昌二
に3
査 報
調
塔
木
草
碑
名
9
山 形 県立博物館研究報 告 第 5 号
1 9 8 4年 3 月
県内の所在地図
米 沢 市
1 9
1 7
川 西 町
1 5
1 4
飯 豊 町
1 4
1 2
小 国 町
1
白 鷹 町
3
3
高 畠 町
3
3
南 陽 市
1
1
大 江 町
1
福 島 県
1
言十
三 沢 村
1 4
中 津川 村
1 2
玉 庭 村
1 0
和 田 村
3
万 世 村
2
中 郡 村
2
鮎 員 村
2
南 原 村
小 松 村
犬 川 村
1
吉 野 村
1
十 王 村
1
5十
5 0
I
5 8
5 0
旧市町村別の所在地図
旧市町村J]IK昭幸Iめものを除く;
(昭和 の も の
を除 く )
所在地別 ( 基 )
記
担
町
z
六
れ
瞳
面
た
所在について
大 (
、
¥
.
.
.
.
.
.
.
1
接 す る 耶 麻 郡 熱 塩 加 納 村 に あ る も の で 、 こ の 発 生 は 飯豊 町との交流に
に限られることになる。福島県の一基も、飯豊町と県境をはさんで隣
とく山形県内である。さらに西村山郡大江町の一基を除けば置賜地方
五 十 八 基 の 所 在 地 は 次衰 のとおりで 、 福 島 県 の 一 基 を 除 け ば こ と ど
も
の
よるものであることは確かであり、大江町のものは昭和十五年の建立
﹁草木供養塔﹂
一
五
一一一一
一
五
七九八
一 一一
行の色彩が濃いことも否めないようである 。
い の 目 に つき 易 い 所 が 選 ば れ た た め と 考 え ら れ る が 、 多 分 に 地 方 的 流
村に住む者の生活に係わるものであることと 、多くのものが旧街道ぞ
中津川村に集中していることがわかる。このことは草木塔の発生が山
の所在を 、 旧 町 村 別 に 示 す な ら ば 次 表 の と お り で 、 旧 玉 庭 村 、 三沢 村 、
試 み に 昭 和 に な って か ら の も の 七 基 と 福 島 県 の も の を 除 い た 五 十 基
である。
小 国 町 地 内 で は あ る が 、 飯豊町との境界にあるもので、 実 態 は 飯豊 町
示す一基は昭和五十六年飯豊町森林組合が植林記念に建立したもので
な お 置 賜 地 方 に あ って も 小 国 町 か ら は 全 く 発 見 さ れ て い な い 。 表 に
三 七九八
の
で あ る か ら 一 応 考 慮 の 外 に お く と す れ ば 、 ﹁草木塔﹂
五 六 L明
J
六六、明
J
九¥明
J
年
十 (
年
(
年 年(
年
(
そ
の所在は 、 現 時 点 で は 山 形 県 の 置 賜 地 方 に 限 ら れ る と 断 定 し て は ば か
和
昭 文
政 不
( 安
政 永
安 不
ハ 安
永 不
(
回
00000000
らないものと考える 。
査
明
不 明
不 外
除 明
不 明
不 外
除 除
外
調
未
②
⑪⑪
。
七
八
Z
一
九
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八七
九
五 七
、
、
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一
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一
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、
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沢
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校
東
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山
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(
内
諏
訪
神
社 下
野
品
山
町
矢
之
沢 町
距
豊 町
小
松
上 町
峰
高
毛 町
峰
洗
高
尾 市
大
宇
日 市
東
部
苑
市
湯
招
一
一
、
〔
米
沢
沢
米
豊
飯 豊
飯
川
西
j
津
中
"
米
沢 川
西
8
止と
ロ
査 報
木 塔 調
草
大 字 小 屋 字 羽 黒 (羽 黒神 社境 内〉
大 字 白川 字 大 谷 地
草木塔
草木塔
十 二神 社境 内〉一草 木 塔
大 字 遅 谷 字 高稲 場 (
昭和二十九年(一
九 五回〉 二 七
大正 三年 〈一
九 一四)
十 四 年(一九O 一〉
明治 二
明 治 二十八 年(一八 九五〉
草 木塔
文 化 七年 (一八 一O〉
昭和 五十 六年(一九八 一)
二O
大字上犀 子下高瀬禽 橋要一氏宅地@ 一草 木塔
西置 賜 郡 小 国 町 大 字 大 石 沢 字 桧 椛
材木供養塔
慶 応 二年〈一八 六六)
昭和 五十 一年(一九 七六〉
西 置 賜 郡 白鷹 町 大 字 深山 字 橋 本
財木供 養塔
昭和十 五年 〈一九四O〉
万延 元 年三 八 六O〉
二七
一五
ハ角 峠 に あ った も の
林道 改 修 によ り こ こ に移 建
⑬⑫@@@
⑬@
草木塔
大字 深山 字 橋本
十 四 年 (一八 九一〉
明治 二
草 木供 養塔
文 化十 二 年〈一八 一五〉
文化十 三年(一
八 二 ハ〉
文 政八 年(一八 二五〉
松木塔
明治 三十 二 年 (一八 九九〉
一
一
一
大 字 下 屋 地 (竹村 喜 助 氏 宅 地 内)
d氏宅地内)
一
草 木供 養塔
大字十王字小四王室 十峯準一
(不 明 )
八 二四〉
一
文政七年〈
奉供 養草 木塔
明 治 九 年(一八 七六〉
草 木供養塔
草 木塔
明 治 九 年(一八 七六)
南 陽 市 大 字 荻 (荻 小 学 校 校 地 内〉
大 字 上和 田 字 太田 (釣堀 の そ ば〉
草 木塔
東 置 賜 郡 高 畠 町 大 字 上和 田 字 太田 (大 日 堂〉
大 字 上和 田 字 太田
西村 山 郡 大 江 町 大 字 柳 川
八 五九 〉
安政六年(一
大 杉 大 明神
経之 木 供 養
明覚院法師
大杉大明神
上山 市 狸 森
植立杉 供 養塔
(不 明〉
嘉永 七 年(一八 五四〉
米沢 市 大 字 入田 沢 字 大 荒 沢 (不 動 尊 境 内〉
先祖代 々供養
大 杉 大 明神
〉
永 享 五 年〈一四 三 ニ
草 木塔
〔草 木 塔 に 類 似 す る も の
飽 海 郡 遊 佐 町 大 字 杉 沢 字 上田 本
南陽 市 池 黒
山 形 市 大 宇 津 金 沢 字 熊 野堂 (熊 野神 社境 内)
長 井 市 五十 川 宇 野際 (お 薬 師 様 境 内〉
南 陽 市 竹原 寺 坂 醇
法華 経 供 養
千本 松 植 也
大 木 大 明神
福 島 県 耶 麻 郡 熱塩 加 納 村 赤 崎
\._/
。 一
四
fI
H
11
fI
fI
fI
11
fI
11
fI
@
⑬
@⑪ @@@@@⑪@⑬⑬@⑬⑬⑪
回巴回回囚 回国田
984年3月
1
第5号
山形県立博物館研究報告
7
庭 字 柴引 〈 高橋 隆 一氏宅 地 内 )草 木 供 養 塔
賜 郡 川西 町 玉
東 置
寛 政 九 年( 一七九 七〉
庭 字 高野 沢
玉
草木 供 養 塔
草木 塔
弘 化 二年( 一八四五)
天 保 七年( 一八三六)
文 政 十 二年(一八二 九)
文 化 十 三年( 一八二 ハ〉
庭 字 朴ノ 沢 ( 高国 寺境 内 )
玉
草木 塔
新 蔵 峠 への 旧道 ぞい ) 草 木 供 養 塔
大 舟{子大舟上(
庭 字 矢ノ 沢
玉
嘉 永 三 年( 一八五O〉
嘉 永 二 年( 一八四 九〉
草木 供 養 塔
元治 元年( 一八六四〉
草木 塔
草木 供 養 塔
井
庭 字温
玉
上小 松 ( 諏訪 神 社 境 内 〉
大 舟字 長沢
草木 供 養 塔
草木 塔
明 治 九年( 一八七六)
明 治 二年( 一八六九〉
慶 応 四 年( 一八六八)
慶 応 元年( 一八六五)
草木 塔
明 治 二十 五年(一八九 二〉
草木 塔
草木 供 養 塔
大 正 八年三
玉
庭 字犬 川
草木 供 養 塔
昭和 四十 七年( 一九七二)
庭 字 御伊 勢 町 ( 瑞光 寺境 内)
玉
草木 供 養 塔
文 政 十 三年( 一八三O)
下 小 松 ( 龍蔵 神 社 境 内 〉
上奥田 字 飯 坂
時 田 ( 四 柳清 徹 氏宅 地 内 )
草木 塔
一九〉
天保 十 年( 一八二
文 久 二 年( 一八六二)
安 政 五 年( 一八五 八〉
西大 塚 ( 高橋 通 三郎 氏宅 地 内 )
慶 応 元年( 一八六五〉
九一九)
西置
賜 郡 飯 豊 町大 字 小 屋 字 小 手 屋
草木 塔
大 字 白 川字 屋 敷裏( 白 川寺境 内 ) 草 木 塔
大 字 塩ノ 畑
草木 塔
草木 塔
大 字 宇津 沢 字 馬神 沢
一六
一六
二 四
二 八
二四
二八
一
一六
一一
ムハ
草木 塔
明 治 十 八年〈 一八八五〉
大 字小 坂
草木 塔
明 治 二十 二年(一八八九〉
二九
の 神神社 境。
大 {圭仏 河原 字大 冗( 山
草木 塔
二九
大 字 宇津 沢 喜波 山
明 治 十 九年( 一八八六〉
明 治 十 六年( 一八八三〉
⑬⑪⑮
旧
道 の 一里 塚 にあ った も の
羽越 水 害 後 付 近 の 河床から 拾 い
あげ たも の
羽越 水 害 で 流 失
水 田 地帯 の 旧
道 ぞい にあ ったも の
⑦⑦@@@@@⑬⑪①④
③⑪⑬②@@@⑬
二五
草木 塔
--L.
二五
大 内 川内 戸字 中 原
四
ノ、
九
。
八
四
九
/1
11
大 字 広 河原 字 原 崎
時
田
八
。
一
一
一
一
一
11
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11
11
11
H
11
11
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11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
6
昌二
口
報
査
調
塔
木
草
⑬⑫⑪⑩⑮⑬@@@@@@@@⑫⑫@@@@@⑫@@
5
山形県立博物館 研究 報 告
⑬ ⑬⑪⑬⑬⑪⑬⑫
中
m中
・ 大
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信
省
O⑬⑨⑧⑦⑥
字
大
縛 万
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" 大
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縛 大
智
世 字
央央
ZEi ZSZ E
U
主
蓮 玄
事
俣
宅
民(告
〉
向書(神
境
内
)
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(市町村別年代順)
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木木
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草 木
草 木
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草 木
草 木
草 木
草 草
木 草
木 木
草 木
草 草
木 草
木 木
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木 草
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調
木 塔
草
翌昭和四十六年、県立博物館に職を転じたので、館の調査業務の一
立年の誤りを正し次の一覧表のとおりに整理した。その総数五十八基
同⑭)は未調査のため除外した 。 ま た 建
類似の項にうつし、米沢市招湯苑 (
る光め、川西町矢ノ沢︿同⑬﹀は探し当らず、米沢大荒沢不動草場内の(同@)は
部に取りあげてもらい、学芸員の吉野智雄氏、嘱託の布施隆氏と共に
であるが、別に﹁草木塔類似﹂の項を設け十基を付記することにした。
したのであった。
調査をつづけることになり、昭和四十八年に一応の資料を整えたので
な お 、 白 鷹 町 教 育 会 編 さ んの ﹃し ら た か の 歴 史 を た ず ね て ﹄ (昭和五
十 六 年 刊 ﹀ の一一五頁に、 草 木 供 養 塔 と し て 写 真 を そ え て 記 し て い る
あった。
時、たまたま高度成長に伴なう公害や自然の破壊が大きな社会問題
中 山 三 十 三観 音 入 口 に あ る 巨 大 な 石 碑 は 、 碑 文 の読 み 誤 り で あ って草
木塔とは無関係のものである。
マスコミは草木塔こそは自然保護の原点に
として叫ばれるにいたり、
係 わ る も の と し て 取 り あ げ た た め に 、 に わ か に 世 人 の 関 心 を 呼 び、 新
た な 情 報 の 提 供 も あ って さ ら に 数 基 を 加 え る こ と が で き た 。 ま た 川 西
町 西 大 塚 の 高 橋 通 三 郎 氏 が 邸 内 に 立 派 な 草 木 供 養 塔 を 建 立 し て 大 いに
話題をにぎわしたのもこの頃であった。
(羽陽文化一 O 四 号 ﹀ 、 大 友
一方、民俗学の立場からは、戸川安章氏の﹁民俗資料の調査と集収﹂
(羽陽文化一 O O号 ) や ﹁ 草 木塔管見﹂
( 公 論 や ま が た 昭 和 五 十 一 年 一 月 ) ﹁草 木 供
(置賜民俗五O 号 ) な ど の 発 表 が あ り 、 建 立 の 意 義 に
義 助 氏 の ﹁草 木 塔 の 謎 ﹂
養 塔 に つ いて﹂
係わる考察が行われている 。 そして昭和五十五年七月、多年調査研
つけ て お ら れ た 米 沢 市 の 小 山 田 信 一 氏 は 、 よ ね ざ わ 豆 本 ﹁草 木
究 を つ守
塔 ﹄で 、 四 十 八 基 を 記 載 す る と 共 に 、 置 賜 地 方 に お け る 発 生 の 背 景 な
どを手際よくまとめて刊行された 。
県 立 博 物 館 は 、 こ れ ら の 方 々 の 業 績 に 照 ら し、 以 前 の 調 査 資 料 の 不 備
を補い、新たに追加する必要も生じたので、 昭 和 五 十 八 年 秩、 学 芸 員
金山耕三と研究員高 橋信弥が 参加して十数回にわたり再調査を 実 施 し た 。 そ
の 結 果 、 小 山 田 氏 の 豆 本 ﹃草 木 塔 ﹄の 四 十 八 基 に さ ら に 十 四 基 を 加 え 、
一 方 米 沢 市 大 字 口 田 沢 ( 通 称 大 明 神 ) (豆本番号②) は 経 文 だ け で あ
1 984年3月
第5号
山形県立博物館研究報告
1
草木 塔
日周
草木塔をたずねて
の
査
幸良
去と
仁1
城
美(
山形県立博物館嘱託
最
専念 し 、 昭 和 四 十 一年 『 置 賜 文 化 』 第 三 十 八 号 に 「 草 木 供 養 塔 」 と 題
っ た 。 佐 藤 氏 は 昭 和 二 十 八 年 七 月 か ら 老 躯 単 身 自 転 車 を 駆っ て 調 査 に
そ の 調査 に 先 鞭 を つ け ら れ た の は 、 米 沢 市 門 東 町 の 故 佐 藤 忠 蔵 氏 で あ
塔 」な る 石 造 物 が 、 極め て ユ ニ ー ク な 民 俗 資料 で あ る こ と に 着 目 し 、
さ ら に 柴 引の 草 木 供 養 塔 一 基 を 加 え ら れ
れ は 昭和 四十 四年 ま で の 調査 で あ る た め に 『 置賜 文 化 』 の 三十 三基 に
と も い う べ きも の を 示 さ れ 、 心よく 閲 覧 を ゆ る さ れ た の で あ っ た 。 こ
た が、 草木 塔について は 、 前 記 『 置賜 文 化 』に発表 され た も の の 原典
氏 は 草 木 塔 の ほ かに も 郷土 史 関係 の い ろ い ろ な 業 績 を ま と め て おら れ
昭 和 三十 六年 ) の 中 に、 「 県 内
後川 崎 浩 良 氏 は そ の 著 『 浩 良 百 話 』 (
木 供 養 碑 」 の 記 事 で あっ て 、 こ こ で は 九 基 の 発 見 を 掲 げ て い る 。 そ の
の 協力 を 得 、 長井 市 の 清 野 正 氏 の 運 転 す る 車 で 川 西 町 と 飯 豊町 の 調査
月 二 十 七 日 当 時 県 立 博 物 館 の 準 備 室 に お ら れ た 吉 野 智 雄 ・布 施 隆 両 氏
こ の 資 料 に 基 づ き 、 早 速 佐 藤 氏 の 足 跡 を た ど って み る こ と と し 、 十
に 入っ た が 、 所在 地付 近の 住 民 に 尋 ねて も ほと んど 知 る 者 は な く 、 草
から ず も 塩 ノ 畑 の 草木 塔 を 見 、 さ ら に 白 川 を 渡 る 上 覧 橋 の た も と の 草
が 改め て 思 い知 ‘
りさ れ る と 共 に 、 そ の 再 確 認 の 急 務 で あ る こ と を 痛 感
う に つ い に 所在 を つ き と め る こ と が で き な かっ た な ど 、 佐藤 氏 の 労 苦
や ぶ の 中 に 倒れ た ま ま 放 置 さ れ て あ っ た り 、 飯 豊町 洗 尾 や 毛 下 野 の よ
や ぶ の 中 に 前 の め り に 倒れ て い る も の を 見 て 強 く 打 た れ る も の が あ り 、
私は 、 昭 和 四 十 一年 七月 二 日 、 飯 豊町 谷 地 平 の 植物 調査 の 帰 途 、
記 載し た 。
に 残る 草木 供 養 碑 」と し て や は り 佐 藤 氏 の 調査 に よる も の 三 十 三 基 を
一基 毎 に 写 真 を 貼布 し 見 取
し て 三十 六基 の 所在 を 報 告 し た 。 こ の 佐 藤 氏 の 業 績 を 最 初 に 紹 介 し た
だい た 名 刺 を 見 て 意 外 に も 若 柳 流 の 舞 踊 の お 師 匠 さ ん と 知 っ て 驚 い た 。
った 。 当 時 七 十 八 才 と い う 小 柄 な ご 老 人 と の 初 対 面 で あ っ た が 、 い た
佐 藤 忠 蔵 氏 を 米 沢 市 門 東 町 に 訪 ね た の が 昭 和 四 十 五年 九月 の こ と で あ
そ の 調査 を 思 い 立 っ た の で あ る が 、 そ の 方 途 も な い ま ま に 時 を 過 し 、
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図を 書きそえた も ので あっ た 。
は
の は 、 昭 和 二十 九年 七 月 発 行 『 羽 陽 文 化 』 二 十 三 号 の 「 緑 化 文 化 の 草
山形 県 の 置 賜 地 方 に 多 く 残さ れ て い る 「 草 木 供 養 塔 」 ま た は 「 草 木
一
、
昭和 5 9 年 3 月 2 0 日
印 刷
昭和 5 9 年 3 月 3 1 日
発 行
山 形県立博物館研究報告 第 5 号
発 行者
山 形 県立 博物館
山形市霞城町 1 - 8
TEL ( 0 2 3 6 ) 4 5 - 1 1 1 1
印刷所
ア ベ印刷
J
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