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臨済禅における公案の意義
孝 臨済禅における公案の意義 ー言語構造と修行体系との結びつき| はじめに 弘 l︶ お お ぜ っ し ん ︵ の﹁修行体系﹂のなかにおける公案の持つ﹁言語構造﹂を分析してみたい。観念論や概論ではなく、あくまでも平凡 家の坐禅会﹀と﹁臓八大接心﹂︿雲水を中心とする入室参再の修行﹀とを取りあげ、次いで坐禅と公案という臨済宗 ろまつはつ そのために先ず九州随一の専門道場とされる梅林寺での修行体系の具体的実践例として、﹁黙声会﹂夏季大接心︵在 を通して考察を試みることとする。 り、梅林寺︵臨済宗妙心寺派﹀の﹁地域へのかかわり﹂は割愛し、﹁修行のしくみ﹂について、﹁公案﹂との結びつき 留米と梅林寺地域へのかかわりと修行のしくみ﹂と題して講演する機会を得た。今回、論文として執筆するにあた 平成二十六年三一 O 一四﹀五月十日、久留米工業高等専門学校において、第六十二回九州中国学会が開催され、﹁久 尾 な一学徒の立場からその修行の形態をできるだけ具体的に、反省的に論述できればと願っている。 -57一 牛 •:i····ll 圃 梅林寺玄関 (正面に守護神の章駄天が祭られている) 中国哲学史科に在籍していた四年生のときである。なぜ禅寺の門を叩いたのかと問われるなら、その当時、荒木見悟 -58ー 梅林寺での修行体系 ‘E鴨・all'' 一章 もくせいかいおおぜっしん 黙声会夏季大接心 梅林寺山門 (山門をくぐり、右に折れると玄関に通じる) 福岡県久留米市京町に梅林寺という臨済宗妙心寺派の専門道場がある。ここで坐禅を始めたのは、九州大学丈学部 ( イ ) 先生に師事して、朱子学・陽明学のみならず、禅・華厳の講義・演習をうけており、その高度な教義体系・論理構造 に圧倒され、生身を通して坐を組まなければ到底受けとめられないと感じたからである。学部生・院生・助手、さら には大分大学教育学部に赴任して不惑の年齢に達するまで︿途中一年間のブランクはあるが﹀、あわせて十七年間に わたって梅林寺に出入りすることになった。先ず初心者に適した黙声会の日課を紹介し、具体的な修行の内容を述べ 四 時 リ 目 四 時 半 むきど っ h て ん ぞ h らい はい かんきん だ ばい さ れい い ひ し ゆ か んのんぎ よつ ばいと つ F h 禅堂にもどり、般若心経︵を唱え了三拝・茶礼︿熱い梅湯を飲む﹀・正坐︿し はんにやしん ぎよ っ さ ん 午前三時|四時 方丈︿本堂﹀ において老師の礼拝、 雲水の看経︿大悲呪、観音経など﹀ 午前三時。 つ窟 0 てみたい。黙声会は毎年七月三十一日の午後五時まで受けつけてその夜から宿泊し、八月一日の午前二時︵翌日から 待剛 を直日︿坐禅の指導監督の僧﹀に従って無言で食す。飯台看︵給仕役﹀はこの坐禅会に参加したものが交替でおこ な 、 つ 。 禅堂坐禅︵粥後一位﹀午前五時半下上ハ時禅堂にもどり、茶礼︿番茶を飲む﹀ のあと直日の指示に従って坐禅。 一位︿線香一本が燃えつきるまで﹀はほぼ三、四十分。 -59一 午前三時﹀に起床し、八月五日の昼食後に片付けをおえて分散する。以下はその日課︵時間割﹀である。 て禅 粥座︿朝食﹀午前四時半五時半食堂に移動し、典座︿炊事役﹀が用意したお粥・漬物︿塩がふき出たたくあん﹀ 午 開静︵起床﹀ とんぎ ょう ︿朝の勤行﹀ 朝 課 粥主堂 座主〈 を金 禅堂坐禅︵講本下見﹀午前六時六時半冬の蝋八のときは坐禅したまま、渡された講本を下見するが、黙声 会のときは坐禅をして本堂にあがるのを待つ。 講座午前六時半七時半本堂の大広間の講座台︿大きな椅子の形をした台に坐禅の状態で腰をおろす﹀にあがっ す そくかん o老師は五日間、数息観のしかたや留意点、公案は人聞を練ること、ときにはお粥のたきかた︿火ぜめ水 ︵ 5︶ た老師を左右から扶むような形で、雲水と居士・大姉・子供たちが向いあって坐を組む︿女性や子供たちは正坐で もよい﹀ ぜめでトロリとなる|修行と同じである﹀にまで話しがおよぶ。 とう す そっ h されい 休息午前七時半|八時禅堂にて小休止。束司︿トイレ﹀へ行ったり、禅堂に付属する裏庭に出て手足を伸ばし o老師・雲水・居士・大姉・子供たち全員そろっての粛然 たり、ひといき入れたりする。黙声会初日の八月一日のみ、講話のあと本堂にのこり、老師を正面に総茶礼︿湯呑 やかん にそそがれた薬曜の茶を合掌したあと一斉に飲みほす︶ とした親睦の場となる。茶礼は粥座・講座・斎座のあと、禅堂にもどって必ずおこなわれる。 どくさん ば 独参午前八時十時黙声会のときは五十名以上の人数になるので、十名ほどの集団で独参場︵十二回畳ほどの広 つ ち か ん し ょう い ん り ょう さ﹀に、順次禅堂や本堂︿小・中・高校生は本堂で坐禅をする﹀から移動する。のこりの者はそのまま坐禅をつづ ける。自分の番がくれば、槌で喚鐘︿老師の居室である隠寮に入ることを報知する鐘﹀を二つ叩き、正坐から立ち けん げ あがって長い廊下を通り隠寮に入室する。作法通り合掌礼拝し、各自に課された数息観︿数をかぞえること﹀をお こなったり、公案の見解︵自分なりの解答﹀を呈示する。 さいざ 斎座︿昼食︶午前十時半十一時半食堂に移動し、作法通り、麦めし・皮っきのジヤガ芋の入ったみそ汁・漬 物︿たくあん﹀を食す。食堂は板の間のため、正坐して食しなければいけない。うどんの時は、足がしびれて立て -60一 十 禅堂や本堂にもどり坐禅。 時 なくなる。 i 時 午後一時|二時︿半﹀ o限りなく睡魔がおそってくる。 午前十二時|午後一時。この時点ですでに一日が過、ぎたような気がする。 十 午 後 五 時 六 時 食堂に移動し、作法通り、お粥と漬物を食す。 午 後 六 時 七 時 人数が多い時は、この時聞を利用して風日に入ることができる。 薬石︿夕食﹀ ゃくせき っしみ、石けんを使わずにかかり湯だけで五体を洗う。女性のみ近くの銭湯に行くため、 一時下山が許される。 開浴︿入浴︶午後四時五時人数が多いので順次入浴。三黙堂︿僧堂・食堂・浴室﹀ の一つなので、私語をつ イスキャンデーやクリームパンなどが配られ、地獄に仏のような気がする。 など。作務が終ればおやつとして、梅林寺羊藁︵たくあんのこと﹀をつまむ。有難いことに壇家のはからいで、ア 下、はだしのまま﹀、風日掃除・風日たき︿男性担当﹀、典座︿台所﹀の手伝い︿女性担当﹀、東司︿トイレ﹀掃除 てんぞとうす 作務︿作業﹀午後二時︵半﹀|四時僧堂︿禅堂・本堂︶内外の勤労作業。掃き掃除・拭き掃除、草取り︵炎天 さむ 午 午後七時|十時 独参と坐禅のくりかえしである。暑くて長い夜がふけていく。、せっかく風日で汗を流して -61一 坐 禅 休 , 白 、 坐 禅 体 息 , 独 参 きんひん も、また多量の汗が顔や体からふきだす。坐禅は三、四十分も経ると足がしびれるので、直日のあとについて一列 6︶ し 。 となり、禅堂内と外の回廊を経行︿歩行運動﹀する。集団で足早に歩きまわるため一陣の風がおこり、足のしびれ と苦痛はやわらぎ、睡魔から解放される。 かいちんたん︵ ぜいがん もん ︵7 ︶ ち ん 解定︿就寝﹀午後十時各自が坐禅している単青畳一枚ほどの広さ﹀に正坐して、﹁白隠禅師坐禅和讃﹂と﹁四弘 誓願丈﹂を唱えたあと、その場において三拝したあとすぐに開定︿開枕ともいう﹀する。初日、二日は興奮し暑く もあり、なかなか寝つかれないが、三日を過、ぎると熟睡し、すぐに午前三時の間静となる。 ゃぎ 夜坐︿消灯後の坐禅﹀午後十時以降居士のなかには静かに独りで坐りたいため、もしくは解けぬ公案を工夫す るため、本堂の縁側に座布団を持ちだし、さらに一時間ないしは開静まで坐禅する者もいる。禅堂は蚊取り線香が 焚いてあるからよいが、縁側ではやぶ蚊に攻めたてられ、暗聞から﹁パチン﹂という音が聞こえてくる。 以上にわたって在家の主な日課を取りあげたが、仏道修行に関しては細かい規則や作法が数多くあり、煩頂に流れ ぬよう省略した。雲水︵出家の修行僧︶の禅堂生活は、黙声会の日課とは比べようもないほど厳しいものであって、 専門道場の日常生活と修行を紹介する書は枚挙にいとまもないため、筆者としては次の図書を選んでみた。 鈴木対相﹃禅堂生活﹁︶︿﹃鈴木大拙全集﹄第十七巻所収、岩波書店、昭和四十四年六月六日﹀ しゅんぽ ︵ 日 ︶ 佐藤義英﹃雲水日記絵で見る禅の修行生活﹄︿禅丈化研究所、昭和五十七年五月二十日﹀ えしん︵ 江︶ 島田春浦﹃禅堂生活﹄︿平河出版社、昭和五十八年七月十日﹀ 西村恵信﹃禅僧の生活﹄︿雄山間出版、昭和五十八年七月二十日。生活史叢室田辺﹀ -62一 ろうはつおおぜ っしん 蝋八大接心 川に述べた黙声会夏季大接心は、一般の人々の部の修行生活であるが、高校生以上であれば雲水の一年間の総決算 ふう す な っ しょ ともいえる臓八大接心に参加することができる。居士・大姉は十一月三十日の夜九時前までに梅林寺の知客寮︿元来 は来客応接役のいるところ﹀に入る。午後九時、副司寮︵会計をつかさどる役・納所のいるところ﹀の前の板の間に きかん︵日︶ むきむったん たんとう 正座し低頭︿頭をこすりつける﹀、﹁亀鑑﹂・﹁日用規則﹂・﹁延寿堂規定﹂・﹁常住規則﹂などが朗々と読みあげられるの なか ︵ 凶︶ た ん ぶ と ん をひたすら同じ姿勢で拝聴し、三十分以上が過ぎる。そのあと禅堂に移動し、雲水は直日単・単頭単に、居士・大姉 は中単に三十分ほど坐禅する。それが終れば雲水は霊廟︵有馬氏累代の廟所﹀に追いやられ、持参した単蒲団︿雲水 けんたん の座蒲団﹀に坐禅、居士・大姉は本堂の縁側に適当な間隔をおいて坐布団に坐禅し、翌日︿十二月一日﹀の午前十二 時三十分ごろまで夜坐となり、直日による検単︿見回り﹀がすみしだい、知客寮にもどってしばし休息する。十二月 いのち︵ 日︶ けいめいかんし ょつ 一日のみ午前二時間静︿起床︶、二日から午前三時間静。臨月大接心は十二月三十日の深夜から始まっているのである。 P ﹁命取りの大接心﹂は十二月八日の鶏鳴喚鐘︿深夜十二時ごろの雲水のみの独参﹀までつづく。 十二月一日から七日までは日課が同じことのくり返しとなるので、左記の如く列挙してみたい。 開静︵午前三時﹀||朝課・茶礼︿午前三時四時﹀||走り独参︿独参場までわれ先きに走る。午前四時五時﹀ に つてん ||坐禅︿午前五時五時半﹀||粥座︿午前五時五時半。十二月一日の粥座のみ、お粥と漬物。二日から昨夜 の薬石の残りものを入れた雑炊﹀||坐禅・茶礼︿午前六時六時半﹀||小憩︿午前六時半八時。雲水は日天掃 除、居士・大姉は知客寮で休息できる﹀||独参・坐禅︿午前八時十時半﹀||斎座・茶礼︿午前十時半十一 時半。麦めし・みそ汁・漬物﹀||半時本下見︵午前十一時半|十二時。坐禅したまま足もとに聞いた﹃束嶺禅師蝋 八一不衆︿五家参詳要路門・附録梅林寺坐禅会印施﹀﹄に日を通す﹀||小憩︿午前十二時午後一時。雲水は作務。 居士・大姉は知客寮で体息、もしくは本堂の縁側で甲羅干し﹀||講座︵午後一時|一一時。講本を老師は読請され -63一 ( ロ ) どきょ つ P るが、解説などはない。坐禅・数息観・読経の要点に話しがおよぶことが多い。雲水たちは疲れきって坐禅ならぬ かム εく さ ん け ん げ 坐睡をしている﹀||独参・坐禅︿午後二時四時半。雲水は独参場で正坐して自分の順番を待っていると、突然 ばん か 兄弟子たちが現われ、﹁空独参︵見解が何もないこと﹀するぐらいなら禅堂に帰れ﹂と怒鳴られて、独参場から引 きずり出されたりもする﹀||晩課掃除︿午後四時半|五時半。居士・大姉は知客寮の掃除﹀||薬石︿午後六時十 五分|六時四十五分。粥座・斎座と違って食堂に移らず、禅堂に坐禅したまま、単前の横一丈字に連なる木のふち め に持鉢を並べる。温かい雑炊以外に米のとぎ汁で煮た大きな里芋、こんがりと油でいためたこんにゃくなどは、腹 きんひん もちもよく元気がでる﹀||走り独参・坐禅︿午後七時|十時。夜のこの三時間は気が滅入るように長い。時おり ばっさく 経行が入ると少し明るい心持ちになる。雲水は坐禅している単から、直日により引きずりおろされ、再度独参場ま 2 そ0ん で駆りたてられる。十二月一日・四日・七日の夜のみ、走り独参ではなく総参となり、直日単の全員がすめば、次 けいさくぎそう に単頭単という順序で独参場につめ、老師の居室である隠寮に入室参禅する﹀||罰策︿午後十時|十一時。禅堂 で坐禅しているとき、警覚策励の棒である警策で雲水の睡魔を払うため、もしくは坐相を正すため激しく打つ。深 夜の最後の坐禅は、一日の罰として与える警策が乱舞するなかでおこなわれる。居士・大姉は左右の背中を十ずつ 打たれるが、雲水は五十ずつ打たれる。警策の棒の先端が折れるほど打ち、また取りかえて打つ。直日は真冬のさ なか大汗をかきながら、怒声をあびせかけながら打つ。睡魔も両足の苦痛も忘れさせるほどの恐怖の一時間である︶ ||夜坐︿午後十一時午前一時半。雲水は霊廟に追いやられ、居士・大姉は本堂の縁側に移動し坐禅。十二月の なかび 初旬であるため雪がふることはめったにはないが、晴天の日がつづくと深夜は寒気が衣服にしみこんでくる。十二 月四日の中日のころは疲労が頂点に達し、半ば眠っているような醒めているような状態となり、幻聴を聞くことが ある。闇夜を透かして見ると、左右の居士たちも何かブツブツ怯いている﹀||検単︵午前一時半ごろ。直日や助 警が警策を打っているパンパンという音が霊廟から聞こえてくる。そのうちに本堂にも回ってきて、居士・大姉も おおがね みな二回ずつ打たれる。検単がすめば、雲水は禅堂にもどって坐睡、居士・大姉は知客寮にもどって坐睡するもの もいれば、横になるものもいる。冷えきった体のまま開静の合図をつげる大鐘がゴオIンと鳴り、洗面・用便・着 -64一 しんれい 服をすませることを知らせる振鈴がリン、リンと響きわたるまで仮眠をとる﹀ 十二月八日の深夜十二時ごろの鶏鳴喚鐘がすむと、雲水たちは禅堂に付属する裏庭に出て居士・大姉もそれに加わ ば くちく り、あらかじめ用意されていた青竹に火がつけられるのを眺める。しばらくすると青竹がはじける音︿パン、パチ﹀ せつげ っ か -65一 がしだし、炎上する青竹で暖をとる。この﹁爆竹﹂で、臓八大接心が事実上終ったという実感を持つ。爆竹の歓喜が (中央が雪香室老師) 昭和四十七年度勝八大接心 (中央が青山章軒老師) 一時間ほどっづき、禅堂にもどって午前一時から三十分ほど、坐禅したまま雪月花︿雪は白く散らした御飯、大根と 昭和六十三年度黙声会夏季大接心 せつりょ う じ ようどうえ 人参を薄切りにしたものを月と花に見立てる﹀をいただく。このときあれほど厳しかった禅堂に和気とゆったりとし た時聞が流れだす。そのあと三十分ほど坐禅して摂了︿終了﹀となる。午前十時から本堂で取りおこなわれる成道会 が終りしだい分散となり、梅林寺を下山する。 以上、梅林寺での修行体系に即して、黙声会夏季大接心と蝋八大接心の具体的内容を紹介した。禅といえばすぐに 坐禅、さらには公案を思いうかべるが、あくまでも仏教の各宗派のなかの一つである禅宗として存在するものである。 筆者は梅林寺に十七年間通ったが全く宗教信者とい、つ意識を持たなかった。ひたすら坐禅し、数息観を行じ、与えら 梅林寺における公案の言語構造 す そくかん せきし ゅ -66一 れた公案を解いてきた。以下、坐禅・数息観・公案のつながりを考察してみたい。 一一立早 雲水でもない筆者のわずか十七年間の不徹底な坐禅修行であるが、左記の如く時系列に従って、その体験内容を列 挙することから始めたい。 ︵ 日 ︶ 昭和四十六年二九七ご同四十八年 E 昭和五十八年二九生三|同六十三年 雪香室老師による指導数息観と隻手の公案︿二十六歳三十四歳﹀ ︿却︶ 昭和四十九年二九七四︶同五十七年 青障軒老師による指導数息観と隻手の公案︿二十三歳二十五歳﹀ I I I ざっそく 雪香室老師による指導雑則︵隻手の公案の応用問題﹀︿三十五歳四十歳﹀ 川昭和五十八年︿三十五歳﹀ ①富士山を三歩、歩かせてみよ ②手をかけず師家︵老師のこと﹀を立たせてみよ ねと ③手をかけず床の掛物をむこうに向けてみよ しょ っそつ F ④鐘の鳴る音を止めてみよ P ⑤聖僧様︿丈殊菩薩﹀の年はいくつか 舟蔓手を聞いて何にする︵何の役に立てるか︶ 市量手を聞いたら、分けて聞かせてみよ ⑧遠州︿静岡県西部﹀沖の千石船、帆をいっぱいにあげて行くのを止めてみよ 同昭和五十九年二九八四﹀︿三十六歳﹀ ⑨庭前の花、生か死か ⑩洛陽の牡丹、新たに蕊を吐く︿花聞く﹀ ⑪地獄へ行って赤鬼・青鬼からお湯のなかに放りこまれたとき、どうやって助かる くにとこたちのみことかいびゃく 付昭和六十年二九八五﹀ ︿三十七歳﹀ あひるちゃうすまコちゃ ⑫国常立尊︿﹃日本書紀﹄神代上に記される天地開闘の最初に出現した神﹀ はどこから出現したか しやすうく 宮家鴨の卵のなかで茶臼︵抹茶をつくる石臼︶引き回してみよ よな か﹀ ⑭木鶏︵木彫りのにわとり﹀︿ はま子 夜 に 鳴 き 、 努 狗 ︿わらで作った犬﹀ は天明 ︿よあけ﹀ に吠ゆ -67一 くせいこ つ P ⑮一口に吸い尽くす西江︵揚子江﹀ もんむゆししふげんびゃくぞういぶかし 仲昭和六十一年二九八六﹀同六十三年︿昭和六十二年は参禅せず﹀︿三十八歳四十歳﹀ けんか ⑮丈殊︵菩薩﹀は獅子に乗り、普賢︿菩薩﹀は白象に乗る。未審この釈迦、何にか乗る ⑪川向こうの陪一陛ーを止めてみよ 空夢中の祖師西来︵夢の中で、菩提達摩がインドから中国へ来た意図を問われたらどうする﹀ 雑則の⑬は、ついに老師の了解を得ることなく、筆者は昭和六十三年二九八八﹀の黙声会夏季大接心を以て梅林 0 寺を去り、入室参禅する︵老師の部屋に入り、禅問答に参ずる﹀ことをやめた。ちょうど不惑の年で、昭和が終るこ 坐禅と数息観 ろであった︿昭和六十四年一月八日が平成元年﹀ しんだいふかん 調心﹀については、中国における天台大師智顕︿五三八五九七﹀の﹃天台小止観坐禅の作法﹄︿岩波文庫、関口 真大訳、昭和四十九年﹀や日本における道元禅師二二 O O 一一五二一﹀の﹁普勧坐禅儀﹂︿﹃大正新惰大蔵経﹄第八 二冊・続諸宗部十三、恥 25801 同じく道元の主著﹃正法眼蔵﹄︿﹃道元正法眼蔵上﹄原典日本仏教の思想7 岩波書店、一九九O年﹀の﹁第十一坐禅儀﹂を読めばよいのであるが、漢文であったり平仮名まじり丈で短かすぎ ︵ 辺 ︶ たりして一般の人には不向きである。数ある入門書のなかで筆者が選ぶとすれば、原田祖岳﹃正しい坐禅の心得﹄︿大 蔵出版、昭和二十八年﹀と関口真大﹃くらしにいきる坐禅教室﹄︵現代教養丈庫五八七、昭和四十一年﹀の二書が、 具体的で分かりゃすい。しかしそれはあくまで丈章や写真による説明であって、調身︿足組み﹀・調息︿腹式呼吸﹀・ 一随一 の 水 公案の言語構造について述べる前に坐禅と数息観の関係について少しく触れてみたい。坐禅の作法︿調身←調息← ( イ ) るものである。 -69一 調心︵数息観﹀の方法は、僧堂へ行って禅堂で坐禅し、老師の部屋︿隠寮﹀ で直接指導を、つけることによって会得す んだ腹をゆっくり押すような気持で息を吐きながら、﹁ひとお!っ l﹂と数えるように教えられた。 それにつマついて﹁ふ めに数をかぞえる ︿数息観﹀。雪香室老師からは、鼻から﹁すう l﹂と息を吸いこんだら腹がふくらみ、 そのふくら 両手を合わせ両足を組み︿調身﹀、深い息をするための腹式呼吸をし︿調息﹀、雑念や妄想がわかないようにするた 梅林寺禅堂外部(回廊) たあ!っ l、みい!っ l、よお!っ l、いっ、っ!っ l、む、っ!っ l、なあなあ!っ l、ゃああ!っ l、ここのお!っ l、 ほどである。その繰りかえしが数息観である。筆者は三年間、青障軒老師に師事して、主に数息観で鍛えられた。な とおおI﹂と一から十までいったらまた一から十までかぞえなおす。筆者の場合、吸う息は数秒で、吐く息は三十秒 ︵ お︶ ぜかというと一から固まではかぞえられでも、いつのまにか雑念や妄想があらわれ、走馬灯のように回りめぐって、 数をかぞえることが中断してしまうからである。数をかぞえるのが目的なのではなく、純一に坐禅することをめぎす のである。 ロ 隻手の公案 在家の居士・大姉が三年間ほど僧堂に出入りして、坐禅と数息観を行じると、老師は﹁これはつづくな﹂と判断し て公案を与える。筆者は梅林寺の山門をくぐって三年目に青障軒老師から﹁隻手の公案﹂を与えられたが、昭和四十 むよ っ hし ゅ つ F む じ ︵ 討︶ 九年に雪香室老師が跡をつがれたため︿青障軒が高齢のため、昭和田十五年から雪香室は師家代参をつとめ、筆者は 雪香室のもとでも数息観を行じていた﹀、隻手の公案を改めて与えられたのである。 はくいん せきし ゅ︵ お ︶ 今日、日本の臨済宗の僧堂において与えられる公案の最初のもの︿初関公案︶には二種類ある。﹁趨州無字﹂の ︵ お ︶ 公案と﹁白隠隻手﹂の公案である。西田幾多郎や鈴木大拙は無字を課せられており、梅林寺では隻手を課せられる。 公案の禅思想史上における意義や公案の論理的分析は、鈴木大拙や井筒俊彦各氏の労作にゆずり、拙論では与えられ た隻手の公案を解くために、筆者がどのように取りくんだかを時系列で述べていきたい。荒木見悟先生のもとでの儒 ︵ 訂 ︶ 学︿朱子学・陽明学﹀や仏教︿禅・華厳﹀などの高度な論理的分析と雪香室老師のもとでのあまりにも卑近で全く意 味不明・理解不可能な公案に対する禅問答に挟まれて苦しんだ愚鈍な一学徒の体験の記録である。 ただ一つここに大きな問題がある。﹁室内のことは他言無用﹂ということである。老師の部屋である隠寮に入って 一対一で問答 ︿入室参/禅﹀した内容をもらしてはならぬという不丈律を犯すことになる。紙面の制限もあり必要な問 -70一 らないと思う。以下、かなり長くなるが九年間の記録のなかから選ぴあげてみたい。 答のみ取りあげるが、雪香室老師から、つけた厳格ななかにもにじみでる懇切丁寧な指導を世に遺しておかなければな 昭和四十九年二九七四﹀ ①六月三日︵黙声会﹀ ぜん む ざ ん ま い ぽんし よう 老師﹁いつまでも数息観というわけにもいくまい。心をあらゆる方面から練りあげるためには、公案というものを おんビ よつ 使、っ。白隠禅士の﹃隻手﹄の公案というものがある。白隠禅士が数息観で三昧の境地に入ったとき、お寺の党鐘が F ﹃ぼおIん﹄と鳴った。そのとき体得した内容を﹃隻手の音声を聞く﹄と名づけた。そこで白隠禅師が到達した境 それがし 地を自分が体得する。そして﹃隻手﹄の公案は、どういうことを意味しているか考えてみなさい﹂ ②同年、八月四日︿同上﹀ 某︵以下、筆者のことを﹁某﹂と記す︶﹁隻手。二つの事が相い依って、一つの働きをなすことだと思います﹂ 老師﹁たとえばどういうことかな﹂ 某﹁草履や箸などは二つあって一つの働きをなしています﹂ 老師﹁それでは三つ、四つの場合はどうか﹂ 某﹁四つといっても、もとに返せば一つです。すなわち一から二つ三っと分かれていくのです﹂ 老師﹁一から一が出るかな﹂ 某﹁:::::::::﹂ 老師﹁数字とか論理とかの問題ではない。白隠禅士の境地はどういうものかを体得する﹂ ③同年、九月十五日︵敬老の日﹀ 某﹁隻手。本来の自分は何ものにも依存しない独立した存在であることだと思います﹂ 老師﹁とらわれない心ということは、本にも書いてある。それではとらわれない心になったとき、その心は何をと -71一 らえるのか。禅というものは顕であれこれ考えるものではない。腹で考えて心でとらえる。論理的な考えは一切捨 てる。とにかく一心に坐禅すること。その胸中を持ってくる﹂ ④同年、十二月一日︵臓八﹀ 某﹁隻手。脈に触れるとドクドクという鼓動が伝わります。心とはそういう生命の躍動を言、っと思います﹂ 老師﹁そういうことではない。そういうふうに考えるのではない。数息観で心を磨いていく。そのなかである物が おのれ 刺激となってハツと悟る。その契機は人それぞれの違いがある。白隠禅師は党鐘が刺激となり、その悟った境地を ﹃隻手﹄として表現した。己と党鐘の聞には紙一枚のへだでさえない境地、鐘と自分とが融合して、鐘が自分とも、 自分が鐘とも言いようがない境地があるはず。非常な緊密感がある。二而一なる境地をつかむ。あなたは表現を知 りすぎている。悟りの境地とは科学的に心理学的にグラフか何かで表現できるものではない。そんなものとは全然 ︵ お ︶ ちがう。学問なんか知らない、何も知らない素朴ななかにこそ悟りが生まれる﹂ 昭和五十年二九七四﹀ ⑤十二月四日︿蝋八﹀ 某﹁隻手。自他ともに滅ぶ﹂ 老師﹁そういうむずかしい言葉ではなくて、漢字にしたら一字、もしくは二字ですむものがある。言葉のせんさく ではなくて自分の心境を述べる。あまりむずかしい言葉を使、っと遠回りをすることになる。対象物と自分、平凡な 言葉でよい。自分の境地は何か﹂ ⑥同年、十二月五日︿向上﹀ 某﹁隻手。本当の自分、真の自我だと思います。だから白隠禅師と党鐘の音とが一枚になったと言ってもよいし、 もともとのものが禅師と党鐘の音にわかれたとも言ってよいと思います。だから烏を見ては烏となり、木を見ては -72一 み そく ほう︵剖︶ 木となるところの自由な真の自我だと思います﹂ P し き し ょつ こ う 老師﹁それは多元か、二元か、二冗か﹂ 某﹁一元です﹂ 老師﹁そうだの。色・声・香・味・触・法は、一つ一つの世界でもあり、それだけでも真実である。空は二冗の世 界、一体の世界、隻手とは一体ということを言ったものだ二つがピタツと一枚になる。その前とその後は二つで あるが、その瞬間に一つになる。庭前の柏樹子と答えたものがいるが、それは柏樹子が機縁になって悟ったものだ の。自己を中心としてどんなものが一体となるか。森羅万象さま、ざまの現象があるが、自分と一体となるものを一 つずつあげてみる﹂ ⑦同年、十二月六日︵向上﹀ 某﹁隻手。日月星辰・山川草木と一体になることによって、それぞれが価値的に加損されることなく平等にあると いうことがわかります。しかしどうも我見が強くて一体というところまではいきません。我をなくそうとすれば、 かえって強くなるような気がします﹂ 老師﹁それは我というものが浮足だってくるからだの。我々は心を一切のものに及ぼさねばならぬ。一つ二つでは だめだ。好き嫌いではだめだ。心を広く及ぼすといっても、情緒的に言えば慈悲ということになり、禅的には無我 ということになる。だから高いものから低いものへ、大きいものから小さいものへと整理してみる。天から地、地 のなかでも高い山から低い山、たとえば富士山など。それから一つ一つのものに心を及ぼしていかねばならぬ。日 にも隻手、月にも隻手というふうに、一つ一つ隻手をつけていく。﹃日もせきIしゅうI﹄と、何の理屈もいらぬ。 月、雲と一つ一つ腹のなかに収めていく﹂ ﹁白隠隻手﹂の公案がどういうものであるかを雪香室老師によって、昭和四十九年二九七四﹀の八月から同五十 年の十二月にかけて、根気よく一対一の問答で教えられた。我意を立てず、教えられる通りに﹁隻手の体験﹂をして -73一 いけばよいのだ。これ以降、いわゆる﹁隻手をつけていく﹂、﹁隻手をならべる﹂という隻手の体験が、老師との問答 を通して五十一年から五十七年二九八二﹀まで七年間かけてつづけられる。長くなるので以下にその隻手の工夫を するための言語構造を略記するにとどめたい。註︿却﹀で述べた六根・六境・六識の十八界にもとづいたもので、﹃般 げん きゅうりせんぶりもぐさあしちがやこけしば 若心経﹄の空観の世界が、隻手の公案によって実有の世界として見えてくるのである。 あられ ①色︿いろかたち、存在するもの﹀|眼 ほだかやりがだけ 付天・・日、月、星、雲、雨、雪、譲、電・・。 口山:富士山、穂高、槍岳・阿蘇山、由布岳・。 日大地・岩、土、高原、畑・公園、学校・・。 四川:石狩川、最上川:筑後川、遠賀川・・。 とびからすあひるはち?っみみず 田植物・杉、松、南天・・桜、牡丹・、稲、麦・トマト、胡瓜・千振、支・葦、茅・苔、芝・ 0 同動物・陸上︿鳶、烏、雀、燕・・家鴨、にわとり・・。見虫。問虫類。両生類﹀、土中︿駈、もぐら・・﹀、水中︿海水 魚、淡水魚﹀ 同乗りもの・・・空中、地上、水上、水中。 川建物:・地上の建物︿公共国会議事堂、裁判所:・。民間銀行、デパート:・﹀、家屋︿家一軒の各構成部位の名 0 せきふすま 称をあげる。柱、瓦、台所、洗面所などすべて﹀。寺院の配置など。 ②声︿声、音﹀耳 ハ門自然の音︿雨の音、風の音、川の音、海の音﹀ 0 0 口生き物の声︿人間の声・・・笑い声、泣き声など。人間の出す音:・咳、くしゃみ、足音、障子の音、襖の音など。動 物の声︶ 白人工の音︿寺の鳴り物、日本の楽器、西洋の楽器、騒音﹀ -74一 YA び ハ円高尚な香り︿白檀、沈香など﹀ びゃくだんじんこう ③香︿香り、匂い﹀鼻 0 きんもくせい 0 口花の香り︿梅、菊、沈丁花、金木犀など﹀ 白人工の匂い︿香水、線香など﹀ みぜっ 0 四嫌な匂い︿薬、消毒液、死体:人間・犬猫など﹀ ④味︿あじ﹀|舌 す 0 0 0 ハ門酸味︿夏みかんの酸いいもせきIしゅうl、レモン、カボス、梅ぼし・︶ せんぶり 0 口苦味︿にが瓜、千振、コーヒー、ピ Iル・﹀ 臼甘味︿砂糖、羊かん、鰻頭、ケーキ・・﹀ 0 0 しん 四辛味・鹸味︿唐辛し、山根、練り辛し、塩、醤油、漬物・・﹀ 回渋味︿渋柿、椎の実、渋茶・・﹀ 0 同えぐい味︿山芋、里芋、竹の子・﹀ 出淡白な味︿水、御飯、白菜・・・﹀ かゆ ⑤触︿からだ、皮膚に触れて感じるもの﹀|身 0 痛い︵ずきずき、ちくちく、ひりひり﹀・庫い、寒い・冷たい・温かい・熱い、 固い・柔らかい、 ぎらぎら・つる ほ 三 つ つる・ぬるぬる・べとべと。 むさぼりいかりおろか ⑥法︿心で知覚するもの﹀|青山︿心で知覚すること﹀ ハロ二毒︿貧欲・膿主・愚痴﹀、七情︵喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲﹀、財産、地位、名誉、長寿。 白人間関係︿他者と自己﹀両親・兄弟姉妹・妻子・友人など︿父もせきIしゅうl、母もせきIしゅうl 1 ・ ・ 最後に私︿私もせきIしゅうI﹀ 0 -75一 ﹁隻手をならべる﹂ことはこれで終了となるが、さらに水ももらさぬ指導があって、復習︿隻手のおさらい﹀を二 ︵ お ︶ 度くり返したのち、﹁隻手一句に言い将ち来たれ﹂、さらに﹁一句どこまで届く﹂に答えることによって、筆者の場合、 九年間の﹁白隠隻手﹂の公案が事実上終了して、次の段階の雑則に移ることになる。 隻手の雑則︵種々の公案﹀ すでに述べたように筆者は、﹁白隠隻手﹂の応用問題として十八則の公案を与えられた。隻手の公案では、雪香室 ︵ 砧 ︶ 老師の厳格ななかにもにじみでる懇切丁寧な指導を知ってもらおうとあえて拙論に引用した。しかしこの雑則の解答 ①富士山を三歩、歩かせてみよ ⑧遠州沖の千石船、帆をいっぱいにあげて行くのを止めてみよ ③手をかけず床の掛物をむこうに向けてみよ ②手をかけず師家︿老師のこと﹀を立たせてみよ 花 つ 聞 か の仕方には二疋のパターンがあることを紹介するにとどめたいと思う。 に〉 すの る年 は にか 蕊1 を 吐 -76一 ヤ す ののをネ長ソで 牡花聞〈表 丹、い丈現 生た殊す 新から菩る た死何薩 動作で表現する 容 量主主言 陽前手僧言葉 I I E ¥fち る現 音ねす をる 県 高 忌悼と め て Lか ⑮⑫ ので 日 く 常 ; こ ~rT か はのお 子し玉と 夜ゃ子 にのこ 鳴なえ きか〉 、でと 努す茶2動 狗イ臼よ作 はをで 天引表 明き現 に回す 吠しる ⑪川向こうの喧嘩を止めてみよ 鶏f 鴨:;,~ ゆて 呈示することにより、雑則の第十七番まで進んだが、第十八番の﹁夢中の祖師西来﹂は、老師の了承を得ることなく 師の懇切丁寧な指導のもとに、坐禅し入室参禅︵独参︶するなかで、かすかな手がかりを与えられ、なんとか見解を けんげ して成仏しなければならない﹂と言われるが、筆者はそのように自己を信ずることができないからである。しかし老 語構造に深い意味があるのではないかとしきりに考えるからである。さらにもう一つ切実なことだが、老師は﹁見性 これら十八則を解くために六年の月日が流れている。なぜかというと、一つは公案の言語表現にとらわれ、その言 み よ ⑮丈殊︿菩薩﹀は獅子に乗り、普賢︿菩薩﹀は白象に乗る。未審この釈迦、何にか乗る しふげんびゃくぞういぶかし ⑪地獄へ行って赤鬼・青鬼からお湯のなかに放りこまれたとき、どうやって助かる 市隻手を聞いたら、分けて聞かせてみよ 言葉と動作で表現する 出色 み よ 噌」 鳴去 くと 止 ~~国二 ④ 鐘音 県~~音 -77一 N v 梅林寺を去ったので、未解決のまま残されることとなった。 おわりに 二十代、三十代の若い居士にまじって、香夢室・青障軒・雪香室老師の三代にわたって仕えてこられた老居士の T さんが、私たちに﹁公案は坐禅させるためにあるのです﹂と言われたのを今でもよく記憶している。居士のなかには 公案の数をかせぐことに喜びを見いだしている人もいたし、見性したと誇っている人もいた。筆者は四十歳のとき、 しずてる 見性することもなく梅林寺を去ったから、見性する︿悟る﹀ことはどいうことであるか知らない。この拙論のおわり にあたり、上田閑照﹃西田幾多郎人間の生涯ということ﹄︿岩波書店同時代ライブラリー出、一九九五年﹀にあ る一文を引用して、筆者の現在の心境を現わしたいと思う。西田幾多郎のことばは修行の本質を衝いている。 ﹁その森本︿西田幾多郎の最初の弟子の一人森本孝治︶がまだ二回生のころ、ある機会に西田先生︿西田幾多郎・ 四三歳ごろ﹀に尋ねます。森本はすでに自分でも禅の道を歩みたいと考えていたので、﹃禅修行者は若い元気な時 すベ でないとやりにくい、先ずこれに取り組もうと存じますが、先生いかがでしょうか﹄と尋ねた。それに対して﹃先 生日く、見性とか頓悟とか直覚とかは、二度に凡てが明らかになるものじゃない、球が転ずるが如く少しずつ局面 が展開して明らかに見えてくるものなんだ、と片手に丸いものをもっ様子をなし、少しずつそれを動かして示され こいしだいし ﹃ 禅 森本省念の世界﹄春秋社﹀﹂︿第四章禅と哲学、一 O七頁︶ ました﹄ ︿ ︹ 註 ︺ ︵ 1︶筆者は出家の雲水ではなく、在家の修行者︵男性は居士、女性は大姉とい冶主であったので、修行体系といっても居士の経 験にもとづくものである。 ︵ 2︶梅林寺の沿革については、木庭居士︵詳細不明︶の編になる ﹁ 江南山梅林禅寺沿革﹄︵昭和二十二、三年頃か。昭和四十五年 -78一 ﹁ 久留米人物誌﹄︵菊竹金文堂、昭和五十九年十月一日。︿百円門︵梅 十月二十二日に初写した二十三頁の小冊子が久留米市立図書館に収蔵されている︶、九州の寺社シリーズ 6 ﹁ 筑後 梅林禅寺﹄ ︵九州歴史資料館、昭和五十八年一一一月一二十一日三篠原正一 珍つぜん 林寺の開山︶﹀などを参照。梅林寺は久留米藩主有馬氏の菩提寺である。 こじだいしおおぜっしんまた九ピつはつ ︵ 3︶黙声会の創立については、﹁黙声会、明治二十八年、先々住職猷禅老師時代ニ、田中慶介︵八女郡長︶、渡辺堅吾氏等、有志 こ予つむしつおよびせいしテっけん 者ノ主唱ニ依リ創立。会員ハ毎年居士・大姉ノミノ夏季大摂心会一一集合、又雲水ノ臓八大摂心会一一参/加スルヲ得ルモノナリ。 かっ けり#ん o︵呈史アリ、軍人アリ、教師アリ、実業家アリ、学生 現今ハ香夢室、及青障軒老師ノ指導下ニ、会員ハ梅林寺一一起臥シ、其ノ道場金剛窟一一テ坐禅ヲナシ、又境内種々ノ作務ヲ行ヒ、 且老師ノ提唱ヲ聴ク。会員ハ常ニ五十名乃至八十名、全国ヨリ馳セ参ズ アリ、婦人アリ。創立以来、既一一五十有余ノ星霜ヲ経、会員亦千名ヲ超工、黙声会ノ世道人心ヲ禅益、センコト、蓋シ甚大ナル さんしようけん モノアラン﹂︵木庭居士編 ﹁ 江南山梅林禅寺沿革﹄二、歴代中川著シキ事蹟アル者同黙声会︶とある。とれによると黙声 会の創立は明治二十八年二八九五︶であり、そのときの住職は第十五世の猷禅玄達二八四一一九一七、室号は三生軒︶ すがとちおしげ である。夏目激石二八六七一九一六︶は、明治二十七年二八九四︶十二月下旬から翌年一月七日まで、久留米出身の友 十 め P払ツ事&kdレ﹂ 人菅虎雄二八六四一九四三︶の紹介で鎌倉の円覚寺の師家で管長であった釈宗演二八五九一九一九︶に参禅している へきがんろくはちたけ o同年の九月初めに一週間ほど福岡県各地 が︵荒正人 ﹁ 激石研究年表﹄︵集英社、昭和四十九年十月二十日。︿明治二十七年、九八頁﹀︶、明治二十九年に同じく旧制第五 高等学校教授をしていた菅虎雄の斡旋で熊本の同校に赴任した︵向上、一一一一頁︶ 0 を旅行し、日時は不明であるが久留米の梅林寺を訪ね、三生軒老師︵猷禅玄達︶による ﹁ 碧巌録﹄の提唱を聞いている︵原武 o小学校一年生以上のとともあったが、家に帰りたがったり、寝ぼけて 夏目激石と菅虎雄布衣禅情を楽しむ心友﹄教育出版、センター、昭和五十八年。一四一頁一四四頁︶ 哲 ﹁ ︵ 4︶梅林寺の黙声会は小学校五年生以上︵男女を問わず︶ o現在は法嗣の東海大玄老師︵室号は悠江軒︶に後席をゆずり、 はっす 本堂の縁側から落ちたりしたため変更となる。小・中・高校生は本堂の大広間で坐禅。 かんせいみのう ︵ 5︶筆者が直接的に師事したのは東海大光老師︵室号は雪香室︶ はくいんえかく 閑栖︵隠居︶として久留米市郊外の耳納連山ふもと山本分院に退き、静議な生活をおくつておられる。 ︵ 6︶白隠慧鶴二六八五|一七六人︶が平易に説いたもので、﹁衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の -79一 だん がく 外に仏なし︵ ﹁ 白隠禅師法語集﹄第十一冊所収、禅文化研究所、 白隠和尚全集﹄第六巻所収、龍吟社、昭和九年。もしくは ﹁ 平成十四年︶で始まる漢字・仮名まじりの法語である。 ︵ 7︶仏道修行に精進するものが唱える四種の弘大なる誓願文である。﹁衆生無辺壁一=一願度 煩悩無尽笠一=一願断 法門無量誓願学 無上証言願成﹂ ︵ 8︶ごの童日の初版名は ﹁ 禅堂の修行と生活﹄︵﹁三月寸EEZc ご FON自由豆島EZcロ片﹂の翻訳︶で、昭和十年一一一月、森江書店 の発行。との書の内容的な特色については末尾に附せられた朝比奈宗源氏二八九一ーー一九七九、もと円覚寺派管長︶の解説 が要を得てすぐれている︵ ﹁ 鈴木大拙全集﹂にはどういうわけかとの﹁解説﹂が省かれている。編集責任者の見識が疑われる︶ 朝比奈氏が、﹁居士はとの書を ﹁ 禅僧の修行﹄ 禅堂の修行と生活﹄と題されたが、その内容から云うと、英文原著のように ﹁ とする方が適切であった﹂︵保存版 ﹁ 鈴木大拙選集﹄第一一一巻、昭和三十六年九月二十日。一一一一六一一一一七頁︶と述べている のは同感であるし、﹁今日まで出た我が国のとの種の書中、一般人にどれほど僧堂生活の意義を分りやすく示した書はなかった。 居士は僧堂に於ける諸行の意義を説くに、しばしば著名な人々の問答や商量を引いたり、簡潔な文章や詩備を引いたりして、 一九六六。大拙は鈴木貞太郎の居士号。鈴木大拙 禅に対する了解の正確さを期し、自己の意見による説明を極度に控え目にしていらるる、とれもとの書の荘重さを増し依頼感 を深めしめている﹂︵向上、二二九頁︶とあるのは、鈴木大拙二八七O ろ予つはつ は出家の禅僧ではなく、在家の修行者・居士で禅思想史研究者である︶をよく知る人の言である。 0 ︵ 9︶との童日は副題に﹁絵で見る禅の修行生活﹂とある通りで、題目にたとえば﹁臓八﹂︵九九頁︶とあれば、上段に的確でユ Iモ ラスな劇画がはめとまれ、下段に具体的でわかりやすい説明が附されている。 ︵叩︶との書は禅僧で教員でもあった島田春浦氏二八七六|一九七五。臨済宗妙心寺派である神戸の祥福寺で修行︶が、自身の りF2み ん 修行内容を細かく具体的に、しかも自己満足におちいるととなく第三者の如き視点で叙述しているとごろに特色がある。本主回 の初版は大正三年八月十三日で、光融館の発行。末尾に附された秋月龍張氏の解説に、﹁なお有名な鈴木大拙先生の英文コペ日。 ご F O N Bロ包込町−2Zcロベが、ペコ月間山山田Z5ロロ豆島町EωC口店守から発行されたのは、 一九三四年︵昭和九年︶で HHEmO E− ﹁ ぺ あり、その日本語訳 ﹁ 禅堂の修行と生活﹄が森江書店から初めて刊行されたのが昭和十年であった︵改版 ﹁ 禅堂生活﹄は、昭 -80一 ム イ 道 れよう﹂︵二二六頁︶とある。 和二十三年大蔵出版社刊︶のだから、島田先生の本書の刊行が、当時としてどんな画期的な先駆的な企てであったかが察せら レJんいぎ $ ︵日︶との書は﹁生活史叢書﹂の一冊であって、中国︵主に唐代︶や日本︵鎌倉・江戸時代︶の禅僧の生活環境として、叢林︵集 団生活の場︶の施設や規則︵清規︶を詳しく説明し、あわせて叢林︵専門道場・僧堂︶中の禅堂︵坐禅の場︶での修行にも触れ、 さらには二十一世紀へ向けての禅・禅寺・禅僧の使命についても危倶や要請が示されている。概説書としてよくできているが、 ﹁わが国へ将来された禅は折しもそういういわば去勢された宋元時代の禅である﹂︵はじめに、四頁︶という著者の表現は、唐 代の禅は純禅であるという認識にもとづくもので、北宋末から南宋初期に輩出した臨済宗楊岐派の禅僧大慧︵一 O八九|一 おき 六二一︶の宗教思想のダイナミックな特色︵荒木見悟氏 ﹁ 大慧書 禅の語録げ﹄筑摩書一房、解説︶に対する理解が足りないごと に由来している。 こそ く わ がしゅう ︵ロ︶接心︵摂心とも書き、心を摂めるごと︶には二種類あり、いわゆる接心と大接心の二種類があり、 一年間にくり返しおとな われる。 ︵日︶亀鑑は、﹁禅門の徒、古則︵公案に同じ︶に参得するは、五日宗第一の公務なり﹂で始まる垂誠の文。日用規則は、﹁参禅弁 っぺいとのどうや ︿ろ 道は最も急務なり。故に入室︵独参のごと︶の時日を限らず。宜しく直日・待者に報じて進退すべし﹂という前おきから始ま ほしい まま しょうねん く ふ う る十九箇条の禅堂内の細則。延寿堂規定は、﹁若し疾病あって、此堂に入る者は、薬炉辺に向かって枕頭上︵枕もとに薬がお き っさん かれた布団のなかでも︶黙?として怒に参ぜよ︵正念工夫をせよ︶﹂で始まる看護室の旋であり、病中は自省の場でもある。 cmり 予 ゅ の僧がえらばれる︶規則は、 常住︵禅堂の内を堂内、外を常住といい、僧堂の会計・炊事などの運営をつかさどる役目で、久参 もむ 爪り恥 動中 ﹁参禅︵独参のごと︶は最も急務なり、各宜しく勉励すべし。夜坐須らく僧堂︵禅堂のごと︶に準ずべし。古人日く、 ﹁ の工夫は静中に勝るごと百千万倍す﹄と。よって此の語あり、謹んで怠惰なるとと勿かれ﹂という前おきから始まる十箇条の しょ 予 っそ予つ 細則。常住を担当している僧は自己に割りあてられた役目に忙しく、堂内で坐禅する時聞がないので夜坐に取りくみ、自ら進 んで独参︵入室・参/禅ともいう︶しなければならない。 ︵日︶禅堂は前門︵本堂への出頭、老師の部屋への独参などのときにのみ出入する︶から入ると、日の前に聖僧︵般若の智慧を有 -81一 する文殊菩薩の像︶を安置した嗣が立っており、その左側の敷き瓦の通路にそって並んだ昼十四枚︵雲水十四名が寝泊り、坐 禅できる修行生活の場︶の高座を直日単、右側のそれを単頭単、その両単に挟まれた中央︵聖僧の真裏︶に並ぶ昼八枚︵背中 わはO仇 九んJん 付 川 あわせに十六名が坐禅するととができ、主に居士・大姉の坐席となる︶のそれを中単という。 日 ︶ ﹁ 岩波 仏教辞典﹂︵一九八九年一一一月五日︶の﹁蹴八﹂の項に、﹁宋の呉白牧 ﹁ 夢梁録﹄ 7に ﹁ 十二月八日、寺院とれを臓八 と謂う﹄とあり、釈尊の成道の日をいう﹂︵八四五百︵︶とある。 五家参詳要路門﹄五巻︵ ﹁ ︵日︶束嶺円慈二七二一ーー一七九二、白隠慧鶴の法嗣︶編 ﹁ 大正新情大蔵経﹄第八一冊・続諸宗部十二、 しんとう ば ったん 比2576︶の﹁附録二門・臓八示衆第一﹂︵原漢文︶の﹁第七夜﹂︵六一六百つまでを書下し文にした全二二頁の冊子。 ︵げ︶その年の新しい入門者を新到︵いわば雲水の一年生︶、二年目を旧新到、三年日から末単といい、入門の年次によって階級 名が違い、上下の八刀は絶対である。腺八大接心は新到のためにあるもので、新到の数が少なければ、旧新到も再度駆りだされ、 新到が二名ほどであれば、居士たちが新到なみに鍛えられる。 日目︶ ﹁ 岩波 仏教辞典﹄の﹁成道会﹂の項に、﹁釈尊の成道を祝って行われる法会のごと。わが国では、釈尊は十二月︵臓月︶八 ね はん っす か っ 一九四五、室号は香夢室︶ 日に成道したと伝えられているため、成道会を臓入会ともいい、ごの日に行われるのが普通であるが、南方仏教ではウェ Iサ けは ク祭として、五月の満月の日に誕生・浬繋などと一緒に祝われている﹂︵四三七頁︶とある。 せいし さっけん ︵凶︶註︵3︶にも記した梅林寺第十五世住職・師家︵猷禅玄達︶の法嗣である陪禅束達二八七O の法系を受けたのが東海玄照︵室号は青障軒︶である。法嗣である東海大光︵室号は雪香室︶に後席を譲るまでの三年間、師 事するごとになった。取りつく島のないような厳然たる風貌の青障軒老師二九七九年没︶に、大学四年生であった筆者は、﹁明 治生まれの禅僧は何と怖ろしいものであるか﹂という印象を持った。との東海玄照の兄弟子が加藤耕山二八七六|一九七一、 曹洞宗の禅僧︶で、本来なら陪禅束達︵香夢室︶の跡をつぐはずであったが、 一人の妙齢の女性を好きになったために梅林寺 りょ うみん を出たごとは、今でも梅林寺での語り草になっている。加藤耕山の人物と境涯については、 ﹁ 坐禅に生きた古仏耕山|加藤耕 山老師随聞記﹄︵秋月龍現・柳瀬有禅著、柏樹社、昭和五十九年︶に詳しく、﹁第二章 梅林寺修行時代﹂︵三六|六九頁︶は 大正から昭和初期にかけての梅林僧堂の修行内容を知るごとができる好資料である。 -82一 うれしの ︵却︶東海玄照の法嗣が東海大光︵室号は雪香室︶である。雪香室老師は昭和二年二九二七︶、佐賀県嬉野の在家の生まれで、十 だぴ 三歳で得度。昭和二十年八月九日の長崎市原爆投下の時、長崎市南十キロほどはなれた深堀造船所で勤労奉仕中であった。翌 日から負傷者の救援活動、遺体の奈毘に従事し、二次被爆にあう。筆者の思師荒木見悟先生︵大正六年生︶夫妻は爆心地の三 キロ以内で被爆、五ヶ月にも満たない長男を亡くされている︵自叙伝 ﹁ 釈迦堂への道﹄葦書一房、昭和五十八年。一一一一四頁︶ かとう 十八歳の青年僧と二八歳の若き中国思想研究者︵長崎師範学校教員︶は、ともにとの世の地獄を見たのである。青年僧は昭和 二十二年に梅林僧堂に掛搭︵入山修行するとと︶して青障軒老師のもとで修行を積み、昭和四十九年︵四十七歳︶に梅林寺第 十八世住職・師家となる。平成十四年︵七五歳︶に後席を法嗣の東海大玄︵室号は悠江軒︶に譲り、註︵5︶に記したように 雲水の初心にもどった生活をしておられる。現在、筆者を含めた︵すでに前期高齢者となった︶居士たちが、 一年に一回は訪 れて入室参/禅とはちがう自由な対話をさせていただいているのは有難いごとである。 ︵幻︶原田祖岳二八七一一九六ごは、註︵凶︶に記した加藤耕山と交流があり、同じく曹洞宗の出身であるが、臨済禅を学 けんしよう んだ禅僧として知られている。秋月龍現 ﹁ 鈴木大拙の言葉と思想﹄︵講談社現代新書一 O三、昭和四十二年︶のなかで、原因 はやぎと 祖岳老師という実名をあげ、﹁鈴木先生の今日の禅に対するいま一つの批判は、その見性教育の心理主義的傾向についてであ ります﹂︵一四二頁︶として、悟りの心理的経験︵直覚︶を作為的に起ごさせるごと︵老婆親切な早悟り︶への批判が述べら 0 れている。しかし ﹁ 正しい坐禅の心得﹄は、原因祖岳八十二歳のときに書かれたもので、博覧強記を誇らず自己の修行経験に もと手ついて信ずるとごろが簡潔にまとめられている︵全二二頁︶ ︵幻︶関口真大二九O七一九八六︶は、大正大学名誉教授・天台宗勧学大僧正として天台宗の修行と研究をあわせて修めた僧 0 天 侶である。 ﹁ 天台止観の研究﹄︵岩波書店、昭和四十四年三 ﹁ 摩詞止観|禅の思想原理﹄︵岩波文庫上下二冊、昭和四十一年︶、 ﹁ 台小止観|坐禅の方法﹄︵岩波文庫、昭和四十九年︶などがあり、いずれも難解であるため、 ﹁ 天台小止観﹄にもと手つきながら、 ﹁坐禅をしてみたい﹂という人たちのためにわかりやすく解説したものが、 ﹁ くらしにいきる坐禅教室﹄である。註︵幻︶で述 べた原因祖岳の ﹁ 正しい坐禅の心得﹄は、坐禅が仏道修行のための正しい方法であるごとを主張するものであるが、との ﹁ く らしにいきる坐禅教室﹄は、宗教性や宗派性を全く感じさせない書きかたである。 -83一 昭和五十九年︶が参考になる。とれは日本のみならず、インド・中国における坐の文化の流れを比較・分析したものである。 坐の文化論|日本人はなぜ坐りつづけてきたのか﹄︵講談社学術文庫六六五、 ︵お︶なぜ坐るのかというごとについては、山折哲雄 ﹁ 臨済宗の場合、坐禅は悟りを得る︵見性する︶ための修行方法であるが、山折氏が﹁道元のそれは、坐禅がすなわち仏教であり、 あり ぶっしょういわがく なんかれごっしきしよう o学︵修行者のごと︶云く、 ﹁ 越州録﹄秋 それが ﹁ 悟り﹄そのものの具体的なあり方だとしている点に、根本的な違いがあるというごとである﹂︵上掲書、二 O八頁︶ と述べているのは、正鵠を得ている。文中の﹁それ﹂は﹁坐禅払珊﹂を音 いレ志予︵ノ?レゆ宇︵パむゆ予︵ノ?レん ま ︵叫︶唐代末期の禅僧越州従詮︵七七八|八九七、百二十歳の長寿︶の言行録 ﹁ 越州録﹄︵筑摩書房禅の語録日 りょ う み ん く し かみしも 月龍現訳注、昭和四十七年︶の第一一一一一一番に、﹁問う、 ﹁ 狗子にも還た仏性有りや﹄ o師云く、 ﹁ 無し﹄ すめ九 ん滅的 ﹁ 上は諸仏に至り、下は鎧子に至るまで、皆な仏性有り。狗子に什慶としてか無き﹄。師云く、 ﹁ 伊に業識性︵主客対立の意識、 迷いの性質︶の在る有るが為なり﹄﹂︵問、狗子還有仏性也無。師云、無。学云、上至諸仏下至鎧子、皆有仏性。狗子為什感無。 九九弘山印?レ o州云く、 ﹁ 越州録﹄にあった後半が省かれている。日本の 無﹄﹂とあって、 ﹁ ﹁ 無門関﹄平田高士一訳注、昭和四十四年︶では、第一則﹁越州狗子﹂として位置づけられ、﹁越州和尚、因みに 師云、為伊有業識性在︶とあるのにもとづく。南宋後期の禅僧無門慧開︵一一八一一一一一一六O︶の著書 ﹁ 無門関﹄︵筑摩書一房 禅の語録凶 かえまむ 僧問う、 ﹁ 狗子に還って仏性有りや也た無しゃ﹄ 無門関﹄を重んじ、﹁越州無字﹂の公案、もしくは﹁狗子仏性﹂の公案という。とのごとに関 臨済宗専門道場では伝統的に ﹁ する学術的な考察は、柳田聖山 ﹁ 禅と日本文化﹄︵講談社学術文庫七O七、昭和六十年︶所収の﹁無字のあとさきそのテキ ストをさかのぼる﹂に詳しい。註︵日︶で述べた大慧と﹁無字の公案﹂に関するすぐれた論考に、庚田宗玄氏の﹁ ﹁ 狗子無仏 えかくやぶとうじ 無字﹄にとめられたもの﹂︵臨済宗妙心寺派 ﹁ 教学研究紀要﹄第3号、平成十七年四月︶ 性話﹄に関する考察1者話禅における ﹁ がある。 やせんかんなこのあときき ︵お︶日本臨済宗中興の祖といわれる白隠慧鶴二六八五|一七六八︶六十九歳のときに書かれた ﹁ 薮柑子﹄︵講談社禅の古典叩 たまごといかただいまうち£わち Fつぶつよう 白隠 ﹁ 夜船閑話・薮柑子﹄鎌田茂雄一訳注、昭和五十七年︶に、﹁此五、六ヶ年以来は、思ひ付きたる事待りて、隻手の声を聞 九んがんムV 九んデL 令めん\弘山印私むれソ 届け玉ひてよと、人毎に指南し侍るに、︵中略︶蓋し隻手の声とは如何なる事ぞとならば、即今両手打合せて打つ時丁々とし て︵パチパチと︶声あり。唯隻手を挙る時は音もなく香もなし﹂︵八六頁︶とあるのにもとづく。白隠自身は﹁無字﹂の公案 -84一 え に取りくみ悟りを得、﹁無字﹂の公案を使って指導してきたが、六十三、四歳ごろから﹁隻手の音声︵片手の音を聞けこを公 案にして指導するようになった。註︵弘︶に紹介した柳田聖山 ﹁ 禅と日本文化﹄に、﹁後年、白隠は ﹁ 隻手の声﹄という公案 れU い し をつくって、人びとにその工夫をすすめる。 ﹁ 無字﹄に代わる新しい公案である。白隠は、との方が疑団が起とり 隻手﹄は ﹁ やすいとする﹂︵一七一百ハ︶とある。﹁無字﹂というのは、相対的な有り・無しを超えているという音 公案として取りくむにはあまりにも具体性に欠ける。﹁隻手︵片手︶﹂であれば、わが手をみつめればよい。しかしどうして片 手で音が出るか。大いなる疑問・疑念︵疑団︶がわく。そごが白隠のねらいであった。 ︵ 鈴木大拙全集﹄第四巻︵岩波書店、昭和四十三年︶所収の﹁禅思想研究 第四 公案論二七七|一八五頁︶﹂、同第十二巻 m m︶ ﹁ 公案︵四一五|四六四頁︶﹂、同十三巻︵向上︶所収の﹁禅問答と悟り 悟り・三 禅経験について︵三四一五一七頁ごなどが参考になるが、﹁臨済の基本思想﹂︵同第三巻・昭和 ︵問、昭和四十四年︶所収の﹁禅による生活 禅の問答・二 四十三年所収︶に見られる大拙自身の修行体験と学術的研究・分析が融合したすぐれた業績とはちがって、核心を衝く説明と なっていない。悟り︵見性︶を持つごとを前提としているため、修行したとともなく、まして悟りを得たとともない読者に対 して、くり返しくり返し同じ内容を説明しているという印象をうける。 公案・禅問答・見性内容を分析的、論理的に説明して理解できるようにしたのは、井筒俊彦氏二九一四一九九三︶であ ると筆者は思っている。イスラム思想研究者で、且つユングの深層心理学の手法を取りいれ、﹁︵主体の︶意識と︵客体の︶本質﹂ というキーワードを使って東洋思想︵朱子学や禅︶を読み解ごうとした。井筒氏の ﹁ 意識と本質|東洋哲学の共時的構造化の ために﹄︵初版は昭和五十八年に岩波書店から発行。平成三年に岩波文庫本として再版。中央公論社 ﹁ 井筒俊彦著作集﹄第六巻・ 平成四年に所収。頁数は岩波文庫本に従う︶の﹁意識と本質﹂︵一一七|一八O頁。禅が分節I ・未悟←無分節・悟←分節E ・ 巳悟という存在体験・論理構造をもっととを説明︶、﹁禅における言語的意味の問題﹂︵三五一一一ーー三七四頁。禅問答に取りあげ られる公案の言語が音 の一考察﹂︵三七五|四O八頁。禅問答は公案を通しての対話であるが、常識的な対話を超えた自己の存在を根底から覆す対 話であるごとを説明︶などの三種の論文は、みごとな説明で、鈴木大拙氏よりもすぐれていると思われる。最初にあげた論文﹁意 -85一 五 一七頁ごとあるように、井筒氏は禅が仏教であるという認識はあるわけだが、筆者から見れば哲学や思想として取りあつかっ 識と本質﹂に、﹁仏教、わけても私がとれから主題的に語ろうとしている禅は、神または神に類するものを一切立てない二 ているように思われる。ととが鈴木大拙氏とちがっているのではないだろうか。 ︵幻︶大学ノ Iト3号︵凶剛×印刷︶一一一冊、同ノ Iト6号︵印刷×印刷︶一一一冊。老師との独参がすんで隠寮から出たあと廊下で、 もしくはトイレに潜んで手帳に記録した走り書きを帰宅して大学ノ Iトに清書したものである。 ︵お︶記録ノ Iトには、そのときの筆者の感じたととも記している。老師が﹁そういうごとではない。そういうふうに考えるので はない﹂と諭されたごとに対して、﹁老師は恐ろしい日で私が述べたととを否定された。老師も言われたように、とらわれな い心で何をつかむかが問題なのだ。そのつかんだものを老師に突きつけなければ、いくら美辞麗句を口にしても根のない言の 葉にすぎない﹂とある。 ︵ m m︶とのときのノ Iトに、﹁どうも老師のねらいは、対象物と自分が別物ではないというごとを悟らせようとするごとにあると思 われる。しかし安易に ﹁ 万物一体﹄というお題目は口が裂けても言えない。との言葉は中国哲学科に進学して以来、耳にたと り あ じあついさむい ができるほど見聞きしている。しかし具体的な実感を持って納得したととはまだない。自分はそのためにとうやって坐ってい ろくきょうろくじんろっこんめみみはなしたかちだところかたちあとかお るといっても過言ではない﹂とある。 ろくしきしることきくことかぐととあじわうことふれることしること ︵却︶六境、六塵のごとで、六根︵眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚・知覚機官︶、六境︵色・声・香・味・触・法︿思考の対象 となるもの﹀︶、六識︵眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の識別作用︶の一一一者を合わせて十八界︵主体と客体が成り立つ世界︶ とい冶つ。 ︵訂︶とのときのノ Iトに、﹁驚くべきととだ。空とは一体・二冗のごとか。空とはカラッポ・何もないごとではないととぐらいは 知っていた。荒木見悟先生の講義を冶つけているので、空とは空じていく、すなわち実体化・固定化を打破していくととで、 ﹁ 創 造的無﹄だと理解していた。しかし老師は ﹁ 空とは一体の世界だ﹄と言われる。だから ﹁ 隻手︵片手︶﹄とは一体の境地・空 の境地なのだ﹂とある。 ︵沼︶ごとで老師がなぜ公案の一つである﹁庭前柏樹子﹂を口にされたのか当時はよくわからなかった。註︵叫︶にあげた -86一 きょう がく o師 、 o師 、 o師はいった、 ﹁ わしは境で人に一不し ﹁ 庭さきの柏の木だ﹄﹂︵時に僧有り問う、 ﹁ 老師、境︵外界のもの、柏の木のごと︶で人に示さないでください﹄ わ ﹁ 祖師達磨がインドからやってきた精神は、何ですか﹄ o僧 、 広三っしゅ 予 つろ、 F し い ﹁ 越州録﹄第一一一番の後半部に、﹁そのとき、僧がたずねた、 ﹁ 祖師達磨がインドからやってきた精神は、何ですか﹄ o僧 、 ﹁ 庭さきの柏の木だ﹄ いかい たりはしない﹄ ﹁如何なるか是れ祖師西来の音色。師云く、﹁庭前の柏樹子﹂ o学︵修行者、僧のごと︶云く、﹁和尚、境を将つて人に一不す予﹂と わ 川0 仇 莫れ﹂ O師云く、﹁我れ境を将て人に示さず﹂ o云く、﹁如何なるか是れ祖師西来の音色。師云く、 ﹁ 庭前の柏樹子﹄︶とある。同 o州云く、 ﹁ 庭前の柏樹子﹄﹂とし、あとは無門自身の批評の語︵領︶を付け加える。両童日を合わ じく註︵叫︶にあげた ﹁ 無門関﹄第三十七則では、前半部のみならず、後半部の前段だけを取りあげ、﹁越州、因みに僧問う、 ﹁ 如 何なるか是れ祖師西来の意﹄ m︶にあげた せ読む必要があるが、越州が身辺にあった﹁柏樹子﹂を使ったように、白隠は﹁隻手﹂を使ったのである。註︵ M 井筒俊彦 ﹁ 意識と本質﹄にも﹁庭前の柏樹子﹂が取りあげられており︵一一一七一一一一七二頁︶、僧の柏樹子は﹁分節I﹂︵未悟︶、 かんし ょう 越州の柏樹子は﹁無分節﹂︵悟︶を根底にした﹁八刀節E﹂︵己悟︶であるごとがわかる。僧の柏樹子は言語理解であり、越州の 柏樹子は我執を去った空観にもとづく言語行為である。 ︵お︶註︵幻︶にあげた秋月龍現 ﹁ 鈴木大拙の言葉と思想﹄に、﹁筆者が寒松老師に ﹁ 隻手の公案﹄で参じた七年間、﹃佳支手音声を 一振りの日本万と心得て、百万の煩悩妄想の軍中に斬りとんでゆくのだ﹄という垂示の外、なに一つ教わりませんでした﹂︵一 四八頁。同様の言は二三二頁にもあるごという告白がある。 現代相似禅論﹄の英 ︵泊︶ひろさちゃ訳 ﹁ 公案解答集﹄︵四季社、二 O O六年︶に、公案に関する禅問答の解答例が載っている。 ﹁ 訳の本である﹂﹃ωEEC同任。0 5zh白血︵片手の音︶コを翻訳したものであるという。筆者が雪香室老師から与えられた公 案の解答例も含まれている。自分で解きもせぬ数学の解答集を見るようなもので何の音 いがする。 ︵お︶註︵沼︶の ﹁ 庭前の柏樹子﹄の公案に通ずるものがある。 -87ー