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ジャック・ロンドンとシェイクピア「ヤア!ヤア!ヤア!」

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ジャック・ロンドンとシェイクピア「ヤア!ヤア!ヤア!」
ジャック・ロンドンとシェイクスピア
坂本 眞司(大阪府高槻市)
(1)
ジャック・ロンドンの「やぁ!やぁ!やぁ!」
にはシェイクスピアの匂いがする。こ
う云ったら読者諸兄は驚くかも知れない。 だが『あらし』が、まさにそうなのである(2)。
「やぁ! やぁ! やぁ!」のストーリー展開は至極簡単である。話は、マクアリスター
と呼ばれる、小柄で、しなびた大酒飲みの男が、どういう訳か 6,000 人からなるウーロン
島の王様はもちろん、住民全部を顎で使うだけの強力な支配力を持っていて、
「私」という
男が、その秘密を住民のひとりから聞き出すという設定である。
いっぽう、シェイクスピアの『あらし』の方は、魔法に凝って政治をおろそかにしたた
め、ミラノ大公としての地位を、弟のアントニオと彼に味方したナポリ王に奪われ、絶海
の孤島に追いやれたプロスペローとその娘ミランダの島での生活を描いたものである。
マクアリスターは、島ではただひとりの白人で、貿易商人でもある。日がな酒を飲み、
仕事もせずぶらぶらしている酔っ払いの、ひ弱なこの男がひとたび命令を下すと、島中の
人間全部が、逆らいもせず、唯々諾々として彼の命令に従うのである。 なんとも不思議な
話である。その支配力の原因は何か。 私にはそれが疑問であった。
「私」とは、島にやっ
て来た彼以外のもうひとりの白人のことである。
この島の王は、身体が 6 フィート 3 インチ(約 1.90m)もある大男で、顔は北米インデ
ィアンのように鷲鼻で、 生まれついての王であるように威厳があり、力の強い男であった。
それでも、この小おとこの命令には逆らえず、
「私」が島の住民の踊りを見たことがないと
云っただけで「すぐに村で最高の踊り手を 100 人、男女ペアで連れて来い」というマクア
リスターの無茶な命令にも従容として従い、一時間後には必要な人数を集め、炎天下にも
かかわらず、島民を 2 時間にわたって踊らせ続けた。
しかし、彼の云うことを聞いたからといって、王や島の住民が彼のことを好きだったと
いうなわけではない。ダンスが終わった後、悪態をつきながら、王がみんなを解散させた
ことからもそれが分かる。むしろひどく憎んでいて、3ヶ月もの間、全島民が司祭長と一
緒になって、あらゆる呪術を試み、彼を呪い殺そうとしたくらいである。それなのに、彼
ときたら、どんな神通力を使っても、それが通じなかったのである。
『あらし』では、プロスペローはミラノ大公の成れの果てである。弟とナポリ王に裏切
られ、この孤島に流れ着き、原住民であるキャリバンや空気の精であるエアリアルを得意
の魔法で家来とし、さらにはたくさんの妖精を魔力によって支配した。
新世界に上陸したプロスペローとミランダは、自分とはまったく異なる人間(キャリバ
ンの母親は魔女シコラクスである)が、すでに居住しているのを発見する。この島での人
間はキャヤリバンひとりであったから、プロスペローとミランダのふたりは、まず彼に言
葉を覚えてもらうことから教育を始めた。理由は、家来として、奴隷として、薪割り、水
汲み、火おこし、その他使い走り、雑用なら何でもこなせるようになってもらわなければ
ならなかったからである。
一方、空気の精であるエアリエル、シコラクスによって 12 年間も木の股に封印されて
いたが、プロスペローに助けられ、その見返りとして彼の命令に従うことを約束する。
しかし、キャリバンもエアリエルも、素直にプロスペローの命令を聞き入れたわけでは
ない。プロスペローがキャリバンのことを「あいつは素直に返事をしたためしがない」と
罵ると、ミランダも「あれは悪党です。見るのもいや」と云う。ところが、キャリバンは
キャリバンで、
「この島は俺のもんだ。お袋のシコラクスから俺が譲られたのに、お前が横
取りしやがった」
、こう心の中で不満を漏らす。それでも「あいつには逆らえない。彼の術
は強力だ」と云って、しぶしぶ命令に従う。
エアリエルもそうだ。 プロスペローが自分をこき使うのをぼやいて「まだ、仕事があ
るのか。嘘もつかず、しくじりもせず、不平不満も云わないで努めてきたんだ。 これ以上
こき使うなら, 約束を思い出してもらわなきゃ」、このように愚痴る。
アルジェリヤからやってきた母親シコラクスが息子キャリバンに教えていた言葉は、疑
いもなくイタリア語ではなかった。エアリエルは空気の精だったから、多少事情は異なっ
ていたとしても、意志伝達の手段としてプロスペロー、ミランダから言葉の教育を受けた
ことは想像にしくはない。
他方、マクアリスターの支配する島の住民のしゃべる言葉は、メラネシア土語と英語の
混成語「ペシュ・ド・メール」であった。すくなくともマクアリスターの話す最低限の英
語が彼らに分からなければ、交易のための意志疎通は図れないからである。
どちらの場合も、それまでの言語を捨てて、教えられた言葉に切り替えることは、いわ
ば奴隷労働あるいは搾取労働を受認することにほかならない。 云いかえれば、言葉を教育
する最大の目的は、
支配するものと支配されるものとが身分の差を自覚し 下位のものが上
位のものの命令に従うことを覚えることにあった(3)。こう云って過言ではあるまい。
かって、この島の住民は好戦的でさえあった。多くの捕鯨船や貿易船が座礁したり、修
理のため、あるいは水や食料を求めてやってきたとき、彼らは、船に積まれている財宝を
狙って船を襲い、たくさんの乗組員を殺戮した。
あるとき、同じように、やってきた船を襲い、乗っていた船長以下ほとんどの乗組員を
殺害したが、すんでのところで一人の白人と 3 人の黒人を取り逃した。 逃げながら、こ
の白人は、船上から銃を撃ち、ダイナマイトを投げるたびに「やぁ! やぁ! やぁ!」と
叫んだ。これ以上ダイナマイトの被害を恐れた住民は深追いをやめた。どうせ大海原で彼
らは死ぬのだからと判断して。彼の名をマクアリスターと云った。
ところが、この白人がほかの仲間を連れて、それから一ヵ月後、この島へふたたび現れ、
報復と称して島の住民に対し、全員皆殺の挙に出たのである。住民はもちろんのこと、鶏
といわず、豚といわず、動くものすべてのものを徹底的に破壊し、殺戮した。彼は、前回
逃げたときと同じように、銃を撃ちダイナマイトを投げ「やぁ! やぁ! やぁ!」と大声
を上げながら、住民を島の突端に追い詰め、絶体絶命とした。 水も食料も日除けもなかっ
た。飢えと渇きと暑さのために何十、何百、何千人もの死者が出た。 報復者たちは容赦し
なかった。子供も乳飲み子も女も、みんな一緒だった。 ついに住民は全面降伏した。 命
を助けてもらえるなら、彼らの云うことは何でも聞くという条件の下に。それまで 25,000
人もいた住民は、そのとき 3,000 人に減っていた。白人たちは、その約束を果たす監視役
としてマクアリスターを島に残した。
その後、
住民はこのたったひとり一人の白人を2 度と襲ったり、
殺そうと思わなかった。
住民にとって、彼は悪魔の再来であった。あまりにも大きな恐怖、あまりにも非道な精神
的・肉体的ショックの故に、住民は、打ちのめされ、気力を失い、去勢されてしまった。
「やぁ! やぁ! やぁ!」の言葉は、恐怖と呪いのキーワードとして、その後住民の心に
長く「刷り込み」されることになったのである(4)。DNA による本能的な「刷り込み」で
はないにせよ、少なくともマクアリスターがこの島で生きて在る限り、
彼は住民にとって、
神であり、悪魔であり、島の王の王であった。
マクアリスターは、恐怖の力で島民を抑圧し、
「やぁ!、やぁ!、やぁ!」の呪文によっ
て、彼らをマインド・コントロールし、高度のハイテクノロジー(武器、火薬)と言語の
教化(英語交じりのメラネシア語)という手段によって、島を掌握して労働力を確保、そ
の結果として自分たちの欲しいものを手に入れた。
いっぽう、
プロスペローは魔術という当時最高のテクノロジーを駆使して、
言葉を教え、
キャリバンから島の所有権を取り上げ、エアリエルやその他の妖精を支配下に置き、召使
として酷使した。
映画、
「ラスト・サムライ」は、珍しく日本人の渡辺謙が主演、トム・クルーズが競演す
るハリウッド映画である。表題が示す通り、時代は江戸から明治へと移行し、サムライの
世界が消滅せんとするとき、明治新政府に抵抗して最後の戦いを挑み、サムライとしての
矜持と名誉を守って戦死する彼らの生き様を描いたものである。
そこには、政府軍の高速連射銃という近代兵器の前で、弓矢と刀槍をもって戦いを挑む
彼らの空しい姿があった。敵陣にあと一歩と迫りながら、ばたばたと倒れていく彼らの姿
は、結局ハイテクノロジーを有する相手の前には、どんなにすぐれた、それまでの固有文
化を持っていても、なすすべもないことを物語った。
「やぁ!、やぁ!、やぁ!」の住民も、
『あらし』のキャリバンもエアリエルも、西欧と
いう巨大文明の前には、いかなる抵抗を試みようとも、結局のところ生き残るためには、
その前に膝まづき、手を合わせ、恭順の意を示さなければならなかった。
今西雅章ほか著『シェイクスピアを学ぶ人のために』を見ると, 『あらし』における「島
の原住民キャリバンと西欧人プロスペロー、ミランダとの遭遇は、新大陸における原住民
と西洋人との出会いに相通じるものがある」と書かれている。
西欧人の有する知識やテクノロジー、物質面での圧倒的な優位性は、原住民をして西欧
人に対する絶対的な神格化と服従の心を生み出す。その結果両者の位置関係が決定する。
島での生存に必要な情報の供与と労働力の奉仕という形を取ることによって原住民は生き
延びることを赦され、同時に新大陸における西欧人の原住民に対する略奪・搾取という形
が生まれる。それによって、双方の歴史的事実を伺い知ることが出来る(5)。
因みに、
『あらし』というタイトルの代わりに「やぁ! やぁ! やぁ!」
、
「プロスペロー」
の名前の代わりに「マクアリスター」と置き換えてみると、そっくりそのまま意味の繋が
ることに読者は驚かされるだろう。
プロスペローとキャリバンの関係を考えれば、そこには容易に、先住民の否定、所有権
の剥奪、労働資本の搾取といった、植民者と原住民の関係に触れる基本パターンを確認す
ることができる(6)。マクアリスターと島の住民の関係も然りで、プロスペローの生存基盤
がキャリバンの強制労働に依存さうるように(7)、マクアリスターの仕事の成果は島の王の
支配下にある島民の強制労働に依存しているのである。 そしてプロスペローはエアリエ
ルを(8)、マクアリスターは島の王を下請企業の社長としてこき使う。
プロスペローが優位を主張できるのは言語と魔術、マクアリスターが優位を主張するの
はテクノロジー(火薬)に裏打ちされた「やぁ! やぁ! やぁ!」という呪文であった。
プロスペローのテクノロジーも, 西欧文明のテクノロジーも、 相手のテクノロジーよりも、
自分たちの方がはるかに優れていると見せつける点では、
どちらも共通している。
しかし、
それによって、民族間、人種間で異なる固有の文化は否定され、この大きな文化的優位に
立つテクノロジーの前に、人々は首を垂れ、膝まづき、絶対的服従を誓わざるを得ないの
だ。ふたつの作品は、この歴史的事実、社会的必然性を極めて的確に示唆している。
その他の類似点をふり返ってみると、
『あらし』では、
「アロンゾーとキャリバンによる
プロスペロー暗殺計画が未遂に終わったこと」
、
「マクアリスターに対する住民や司祭長の
呪詛による暗殺計画が失敗に終わったこと」などがある。
時代が異なり、主題も違いながら、これほど内容に類似点が見られる作品も珍しい。
では、最後の結末はどうだろう。
『あらし』は、生活も精神も安定し、作者生活としては
円熟したシェイクスピア晩年の作である。プロスペローは復讐を放棄し、事実を肯定した
上で、弟やナポリ王を赦し、どちらの側にも責任があったことを認め合い、ミランダとフ
ァーディナンドの結婚を認めた上、島の所有権を元の持ち主キャリバンに戻し、 エアリエ
ルを自由の身に解放して、めでたしめでたしで終わる。
ところが、
「やぁ! やぁ! やぁ!」となると、そう、うまくはいかない。住民は最後の
最後まで彼を赦そうとはせず憎み続け、彼は彼で、飲んだくれたまま生き続ける。
『あらし』
のエンディングとは異なり、「やぁ! やぁ! やぁ!」のそれは暗くて重い。
「われわれは、みな一度は失ったが、また取り戻したのだ」
。
『あらし』の最終章で叫ば
れるゴンザーロのこの台詞は、地位と名誉と富がプロスペローの手に戻った喜びを祝福し
た言葉である。
しかし島に戻ったマクアリスターが、もし同じ立場に立って心情を吐露したとすればど
うだろうか。 たしかに言葉だけは同じかもしれない。復讐のために島に戻った。欲するも
のは手に入れた。これからも手に入る。だが中身はまるで違う。彼には地位も名誉もくそ
喰らえだ。 彼にとって必要なのは富だけである。権力が手に入ったのは予想外の儲けだっ
たが、彼には富さえ手に入れば文句はない。一日中酒を飲み、ぐうたら寝て暮らすことが
出来るのだ。自堕落で虚無的な生活態度は、心の平穏からは程遠い。
ジャック・ロンドンの心にも、平穏はまだ訪れていないのである。
もともと、ジャック・ロンドンは、虐げられた下層アメリカ人のひとりであった。1900
年前後のアメリカは貧富の格差が増大し、圧倒的に資本家が有利な社会体制であった。20
世紀には合法、非合法を問わず、自然発生的に社会改革運動が湧き起こった。ジャック・
ロンドンもその運動に加わる一員であった(9)。 そのためストライキやデモの嵐が吹き荒
れ、労使対立の狭間で、ジャック・ロンドンの生涯にも大きな影響を与えた。資本の力を
背景に、自らは汗を流さず、労働者を搾取して富の蓄積を一方的にはかろうとする輩を、
(10)
彼は許せなかった。
「やぁ!、やぁ!、やぁ!」の作品は暗くて重い。前節で述べたとおり、ジャック・ロ
ンドンの心に落ち着きがないのはその辺にあったのかも知れない。
さて、唐突なことを書く。平家物語に表れる源義経の人物像は「出っ歯のぶ男」であっ
た。為政者の歴史は為政者側の記録しか書かれない場合が殆どである。
書かれたとしても、
敵対する側の記録は、平家物語同様悪く書かれるか抹消されるかのどちらかである。
ジャック・ロンドンの描くマクアリスターの容姿も、大酒のみで小おとこ、島の住民か
らは追いかけられて逃げ回り、
「やぁ! やぁ! やぁ!」と空威張りに叫んでは海に向かっ
て逃げ出した惨な姿である。どう考えても風采の上がらぬ男に描かれている。 そこへ行く
と、島の住民の方は、王を始めとして悪い形で書かれているところは殆ど見当たらない。
王の記述に至っては、
「北米インディアンのように鋭い鷲鼻を持ち、 生まれながらに王と
しての威厳がある」というように如何にも好意的ですらある。
これらの事実から読み取れるジャック・ロンドンの視点といえば、これはもう、明らか
に支配階層を象徴するマクアリスターの側にではなく、虐げられ、搾取された、哀れな島
民を擁護する立場にこそあった、と考えるのが妥当というものではないだろうか。
そういえば、ジャック・ロンドンの別の作品「老人たちの結束」も、インディアンの平
和な固有文化と生活が、西洋文明の下に滅びて行くさまを描き、白人の横暴な植民地主義
を告発した作品となっていた。
私にとって、生涯の友であるシェイクスピアが、時代も主題も異なっていながら、ジャ
ック・ロンドンとこうも多くの類似点で繋がっているとは思いもよらぬことであった。
なんだか嬉しくならずにはいられない気分である。
テキスト
(1)ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳、『アメリカ残酷物語』、新樹社、2003
参考図書
『シェイクスピア全集(あらし)
』
、第 3 巻、喜劇Ⅱ、筑摩書房、1968、
(2) W.Shakespeare, 和田勇一訳、
p.313.
(3) 本橋轍也著、『本当はこわいシェイクスピア』、講談社、2004, p.31,
(4) 濱嶋 朗ほか編、『社会学小辞典』、有斐閣、2002, p.32
(5) 西雅章ほか著、『シェイクスピアを学ぶ人のために』、世界思想社、2003、p..360
(6) ‐同上‐、p.361, p.363
(7) ‐同上‐、p.364
(8) ‐同上‐、p.364
(9) 長山靖生著、『謎解き少年少女世界の名作』、新潮選書、2003、pp.178-181
辻井栄滋著、『20 世紀最大のロングセラー作家』、丹精社、2005、pp.13-14
(10)ラス・キングマン著、辻井栄滋訳、
『地球を駆け抜けたカリフォルニア作家(写真
版ジャック・ロンドンの生涯)』、本の友社、2004, p.79
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