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能古博物館だより 第61号
F ︲ ︱︱大日本水産会が真藤氏 へ贈る 今 号 は真 藤 慎 太 郎 氏 の遠 縁 に当 る安松淳祐 さん ︵ 友 の会会員 ︶に ﹁ 東 京 のお いさん ﹂と題 し て鋼 像 の主 の 。 横顔 を寄稿して頂 きました 安松 さ んは最近まで銅像 の存在を知らなか ったそう です。 2、3面に関連記事︶ ︵ 映画 俳 優 ・ 進藤 英太郎 の名前 に懐 かしさを覚え るのは大正から昭和ヒ トケタ生 まれ の方 々でし ょう。悪 役 が得 意 の個 性 派 俳 優 を 東 映 映 画 の 時代劇で見た記憶がありまえ さり な がら 銅 像 の主 真 藤 慎 太 郎 。 氏についてはついぞ知りませんでした 平成九年に当館 の運営に携わるよう 、 にな ってから 福 岡 市 出 身 で北 洋漁 、 業 の開 拓者 であり 郷 上が生んだ政 治家緒方竹虎氏 の有力な後援者だ っ 。 、 た といった知識を得ました 。 ・ 進藤英太郎︶ 氏の横浜邸に移された 後に亀陽文庫 の設立を聞かれた英太 郎さんから翁寿像を福岡に移しては どう かと話 された こと があ る。昭和 。 、 五十二年英太郎さん御死去 その後 、 御息 女 の真藤嘉 世子 さんから 父も 、 言 っておりましたので とな って現立 。 当時の当館理 地を得た次第 であ る ﹂︵ 事長庄野寿人氏記す︶ 理 事 長 兼 館 長 始 = わ踏 北 洋 漁 業 の開 拓 者 政 治 家 緒 方 竹 虎 氏 の支 柱 ヽ 今夏 の常軌を逸した酷暑は夏休み 期間中 の入館者滅 とな ってはね返り 。 ました 待 てど暮 らせど 1人も訪れ 、 。 ず ゼ ロを記録した日もあり ました たまに汗び っしょりで入 ってこられる と、受付けの女性はさながら ﹁ お客様 。 は神様です﹂の思いをしたそうです 、 最 近 別 館 横 にあ る ﹁ 真藤 慎 太 郎 翁喜寿像 ﹂H写真 上=について質問を 。 受 けました 当館 と の関 係 がいま ひ と つは っきり しな いのが原 因 でし ょ 。 う 像 の高 さ は 0 7センチと さし て大 。 き く あり ません 館 便 り 第 3号 ︵ 平 成 2年 1月 ︶に建 立 ま でのいき さ つ 。 が次 のように書 いてありました F﹂の寿像 は、昭 和三十 四年、真藤 、 先生七十七歳 即ぢ喜 寿 の視 いに日 。 本水産会から贈塁されたものと聞く ﹂の立派な像が能古博物館に 中略︶ン ︵ 、 立 つ出 来 は 博物 館 の設立 は財団 法 、 人亀 陽 文庫 で そ の創 始者 が翁 であ 。 、 る 寿像は、 当初 東京千代口区霞ヶ関 。 の真 藤 邸 に 先生劉 宛去 硲 和 四十 六年 一 、 月 ︶の後 は 後 嗣 の真藤 辰五 映画俳優 郎︵ 寛 原 2010年 (平成22年 )10月 能古博物館だより (1)第61号 ジ 、 、 中 央区 ぼ く は 明 治 十 六年 七月 福 岡 市 紺 屋 町 ︵ 、 、 。 大 名 1丁 目 ︶ 父 利 吉 母 ナ ツの長 男 に生 まれた 姉 。 、 二 人 の次 に ぼ く 以 下 弟 二人 の六 人 姉 弟 であ る 父 、 。 の身 長 五 尺 八 寸 ︵1 ・6 7財 ︶ 当 時 と し ては大 男 姉 、 も 自 分 た ち も みん な 父 親 に似 て大 柄 ぼ く は 子 供 。 中略 ︶ 相 撲 によ く 出 さ れ た ︵ 、 付属 ︵ 福 岡 師 範 学 校 付 属 小 学 校 高 等 科 ︶時 代 に × 幼 いころ真 藤 慎 太 郎 氏 と緒 方 竹 虎 氏 が結 んだ友 情 は 。 終 生 変 わら な か ったと いわれ る 館 便 り 第 3号 ︵ 平成 2 年 1月 ︶掲 載 の﹁ 真 翁 聞 きがき ﹂はそ の出 会 いを次 のよう 。 に伝 え る 竹馬の友 ! 緒方竹虎氏との出会い 3歳︶ やすま つ じゅんすけ 一 憂山部ガス情報システム佛社長 ・7 ︵ 、 、 特 に高 校 大 学 への進 学 や 社 会 に出 ると きな ど 、 私 の人生 の節 目 には いろいろ示 唆 に富 む話 を 開 か 、 せ ても ら い 今 でも それ は私 の生 き 方 の指 針 のひと 。 つにな っている 5 1 0 、 昭和 4 年 月 米 寿 の祝 いに母 と 出 席 し た のが 。 最 後 の出 会 いにな った ☆ 0 、 ﹁ ど う お いさん ﹂が他 界 し て4 年 やら 私 も 初 め 。 て会 った時 の ﹁ お いさん の年 に達 した N君 のお 齢 ﹂ 、 、 陰 で 期 せず し て ﹁ お いさん﹂と 〃 再 会 〃出 来 る のも 。 何 か のご縁 であ ろう か o ・ ・ 、 、 猛暑 の日 々が落 ち着 いてきた 9月 中旬 私 は ﹁ 鋼 。 お いさん ﹂はす 像 のお いさん ﹂と 初 めて対面 した ﹁ っかり 小 柄 にな っていた。 ☆ 、 。 が 私 と の関わり に ついて少し触れ させて頂 きた い 楽 し みだ った。 ☆ 、 、 タイト ルの﹁ 東 京 のお いさん ﹂と は 当 時 私 の母 。 真 藤 慎 太 郎 ﹂を 話 す と き の愛 称 であ る が﹁ 、 お いさん ﹂と の関 係 を 説 明 す ると 母 は 簡単 に , トク﹂の子 女 で、 家系 図 にあ る ﹁ 利 苦 ・ナ ツ﹂の3女 ﹁ お いさん﹂は母 の正 真 正 銘 の叔 父 に当 従 って弟 の ﹁ り 、 私 から は大 叔 父 と いう こと にな る。いつの頃 か ら か私 も 自 然 と ﹁ 東 京 のお いさん ﹂と呼 ぶよう にな った。 =﹁ から転載 真翁聞 きかき﹂ 局島 姓 で 箱 崎 に 現 存 九 十 オ ︶ ︵明 治 八 年 生 一 、 業 院 川 端 に健 在 七 十 六 オ ︶ ︵明 治 廿 二 年 生 岡 本 家 に 養 子 ヵ メ ︵東 映 俳 優 進 藤 英 太 郎 の 母 ︶ エ ン 1月現こ 9年1 昭和3 ◇真藤家 の系図◇ ︵ 父 利 者 母 チ ツ ト ク 慎 太 郎 藤 者 郎 利 〓一郎 、 、 ﹁ お いさん﹂の存 在 は 以前 から 知 っては いた が 、 直 接 顔 を 合 わ せ る よ う にな った のは中 学 2年 生 。 5 頃 、 の頃 であ る 当 時 ︵ 昭和 2 年 ︶ 我 が家 は父 が亡 く なり 、 母 が働 きな がら 、 私 を 筆 頭 に 4人 の息 子 、 、 を 育 てている環 境 にあ ったた め そ の事 に同 情 し 、 何 かと 助 言 し てくれ るよう にな った のが 事 の始 ま 。 り る あ で 、 、 そ の頃 冷 お いさん ﹂は東 京 に居 を 構 え 時 折 来 福 、 、 す る生 活 であ った が 来 橋 す ると 決 って 私 は母 に 。 同 行 し てホ テルを 訪 ね たも のであ る 面 談 中 は柔 、 、 道 で鍛 え た巨 体 に似 合 わず 孫 に接 す るよ う に い 、 、 つも 柔 租 で 穏 やかな 態 度 で接 し てくれ 会 う のが / 、 古 希 を 過 ぎ ど う や ら サ ラリ ー マン生 活 にも 終 、 ﹂れ ま でいさ さか疎 還 で 止 符 を 打 った のを 契 機 に す 、 あ った 高 校 時 代 の岡 級 生 と 旧 交 を 温 める こと が 。 多 く な った 、 、 つい先 頃 そ の中 の1人 で 現 在 千 能 古 博 物 館 ﹂の 運 営 に携 わ っている N君 から ﹁ 友 の会 ﹂入会 のお誘 。 いが送 ら れ てきた 、 縁 続 き の私 と し ては はな はだ勉 強 不 足 な 話 だ 、 、 が 添 付 された資 料 から 大 叔 父 真 藤 慎 太 郎 の鋼 。 像 が敷 地 内 にあ る こと を 初 め て知 った し か も 東 、 、 京 の自 宅 にあ った像 が 色 々な 方 のお骨 折り で ふ る さ と に帰 る に至 った 経 緯 が事 細 かに書 いてあ っ 。 た 、 、 思 い起 こせば 私 が知 る ﹁ 東 京 のお いさん ﹂は 年 0 8 0 齢 にし て7歳 頃 から この世 を 去 った 8歳 ま での2 、 年 足 ら ず で それ も 親 戚 と し ての側 面 だ け であ る 米寿視賀会の真藤慎太郎氏=安 松淳祐さん提供= 2010年 (平成22年)10月 (2) 能 古博物館 だより 、 、 緒 方 竹 虎 と そ の両 見 の雄 平 大 象 それ に中 野 正 剛 が そ れ ぞ れ 学 年 の違 いは あ る が 一緒 にな った こ 。 と があ る 、 、 ぼ く は明 治 十 六 年 七 月 竹 虎 は二十 一年 一月 数 、 、 え年 で五歳 違 いであ るが 〓一 月を区 切り に早生 まれ 、 遅 生 ま れ で学 年 令 が前 後 す る ので 竹 虎 と は 四 学 、 、 年 差 があ った が 竹 虎 は成 績 抜 群 小 学 校 で学 年 飛 、﹂ び 越 し 進 級 と なり ア れ に学 期 中 に上 級 編 入 があ って、ぼ く と 一学 年 差 にな っていた。 、 緒 方 三 兄 弟 は 学 業 優 秀 だ け でな く 揃 って温 厚 、 。 、 君 子 型 で 少 年 仲 間 にも 敬意 を持 たれ ていた ただ 、 。 ぼ く と 竹 虎 は ウ マが合 い 登 下 校 を 一緒 に歩 いた 後略 ︶ ︵ 、 な い時 であ ったが 会 社 の近 所 にはわり と菓 子 屋 が 、 。 多 か った 緒 方 君 は有 名 な 甘 党 であ ったから 会 社 、 の美 人 の秘 書 が 大 いに甘 いも のを サ ービ スし て同 、 。 氏 を 満 悦 させた 真 藤 慎 太 郎 君 も 盛 ん に訪 ね てき 。 中略 ︶ ては甘 い菓 子 をねだ った ︵ 甘 いも のを 囲 ん で緒 方 君 はジ ュンジ ュンと論 じら 。 、 れ 辛 い舞 台 では真 藤 君 の声 が高 いのが普通 だ った 、 、 われわれ二 人 は 国 難 が余 り にも 深 刻 な のを 見 て 、 どう し ても 二十 年 は死 なぬ 死 んではな ら ぬと堅 く 。 中略 ︶ 誓 いあ った ︵ と 真 藤 君 は 口癖 緒 方 は利 権 に無 関 心 だ から ︱ ・ 。 、 のように悦 んだ 緒方君を清浄無 垢 に終始 さすのは 。 友 人 の責 任 であ ると 二人 は云 いあ った 真 藤 君 が資 、 金 集 めが下 手 だと 評 判 された のも 自 縄自 縛 の感 が 。 ないでもない ︵ 中略 ︶ 、6 、 8日、 を推進 鳩山首相 の後継者 と目されたが 5年 1月 2 ︲ 、 7 で 去。 6 著書 に﹃人間中野正剛 只 5年 ︶ 翌 軍 人 の生 歳 死 。 5 涯 ︱十回想 の米内 光政只 5年︶がある 2日 岡 8 年 8月 2 明治 1 出光佐三氏略歴 1885 ︵ 福 ︶ 、 。 。 。 県 生 まれ 父 は藍 問 屋 旧制福 岡商 業 神戸 高 商 卒 一介 の丁 稚 として神 戸 の貿 易商 社酒 井商 会 に入り 実務 を身 。 に つける 19 1 1年 独 立し て門 司 に出 光 商 会 ︵ のち 出 、 。 光 興産 と 改 称 ︶を創 業 ﹁ 大 地 域 小 売 業 ﹂を 目 指し 九 州 。 、 、 地区を制圧し て朝 鮮 中国 南方 へ進出す る 敗戦 によ る 、 と﹁ 打撃 は大 きか ったが ﹁ 民族 民族資本 ・ 家族主義経営 ﹂ 、 経 営 ﹂に立脚した強力なリーダーシップを発揮 独特 の事 。 業展開をみせる 特 に備年 には石油国有 化を果たしたば かり のイランから自 社 タンカー日章 丸 によ って大量 の石 、 。7 、 油 を輸 入 大 きな 話 題 を呼 んだ 5 年 徳 山精 油 所 を完 、 貫した経 営体 制を実 現 成 初 めて輸 入 。 製油 ・ 販売 ま で 一 。︲ 。6 、 。2 を退 き 会長 に就任 7 する 6 年 社 長 年店主 とな る 8 。 、7 年 3月 7日 9 歳 で死去 昭和39年 、真藤慎太郎氏の長寿を祝う会が福岡市で開か れた。席上、出席者 に記念品として和本仕立ての『 真翁聞きか き』(真藤慎太郎先生寿筵会発行リト 売品)が贈られた。 真藤氏 が自らの前半生を語り、 進藤一馬福岡市長が序文を書いた。 、 、 真藤 緒方 出光 の誓 い 、 コ一 十年 は死なぬ 死ん ではならぬ﹂ 。 ︲ =﹃ ︵ 後 略 ︶ 回 想 の緒 方 竹 虎 ﹄昭 和 3年 4月 発 行 緒 方 君 は二十 年 長 生 き の約 束 を 反 古 にし て先 に 。 中 略 ︶ち と ひど 過ぎ やしな いかと情 けな く 行 った ︵ 思 って 居 る =から転 載 0日山 明治 拠︶ 年 1月 3 形 緒方竹虎 氏略歴 1888 ︵ 。 、 。 県生 まれ 幼時 官 吏 であ った父道平 の任地福 岡に移 る 、 。 、 修 猷館 卒 後 東 京 高 商 中 退 早 大 専 門 部 政緑 科幕 19 。6 5 11年 朝 日 新 聞 社 入社 。2 年東京編 集局 長 3 年 二二 一 、 、 隊 に沈着 に応接 事なきを 六事件 の際 朝 日新聞襲撃 の一 。 。 。4 専務取締役 3 年 得 る 同年朝 日新聞 主筆 ・ 4年副 社長 4 、 。 、 ﹂の間 中国要 人 小磯 米内 内閣 の回務 相 ・ 情報局 総 裁 テ 、 。 を介して田中和平工作を図るが 重光葵ら の反対で失敗 。5 2 内閣 書記 官長 4 年 1月 敗戦後 の東 久遍 内閣 の国務 相 ・ 。 7年解 除 ︶され、6 4 4年 8月 公職追放 戦犯容疑者 に指名 ︵ 0月 院 に初 当 。第 4、5次吉 田内 5年 1 追 放解 除後 の2 衆 選 、 。 、 5年吉田内閣総辞職に際しては 閣 の官房 長官 副総 理 4 、 、 口田辞任後 自 衆議院解 散を主張する吉田総理を説得 士 、5 自 由 民 主 党 を結 成 ︶ 由 党 総 裁 に就 任 5 年 の保 守 合 同 ︵ 「 真翁 聞きかき」の表紙 元 帥服 といわれた日魯漁業鶴 の制服を着用した真藤慎太郎氏 =「 真翁聞きかき」より転載 ・昭 和 10年 撮影 =注 :同 氏は昭和 9年 ・同社専務取締役 に就任。 ∼ 出 光 三氏 の回顧 ∼ 佐 、 緒方君 ︵ 緒 方 竹 虎 氏 ︶が戦 犯 容 疑 引 き 続 き 追 放 、 、 とな り 外 出 が出 来 る よ う にな ってから は 歌 舞 伎 、 鶴 光 興産 ︶全 一二 日 お き に顔 座 の隣り の私 の会 社 ︵ 。 を 出 された そ の頃 は甘 いも のがなかなか手 に入ら 桜の木の下 に待 む 「 真藤慎太郎翁喜寿像 」 (能古博物館サポー ターズクラブ ・ 伊藤公夫 さん描 く) 第61号 能 古博物館だより (3)2010年 (平成22年 )10月 福 岡藩 西部 の貴 重な 民間 記 録 ら6人で研究 早船正夫︵ 代表︶ 、 能古 博 物 館 は 江戸 期 の古 辞 学 者亀 井南 冥 一 門の 、 遺 品 関 係 資 料 を 集 めた ﹁ 亀 陽 文 庫 転で有 名 であ る 、 が 筑 前 五 カ浦 廻 船 の基 地 のひと つであ る能 古 に因 、 む 廻 船 関 係 の資 料 ・ 物 品 のほか 姪 浜 旦 過 町 にあ っ た石 橋 家 の寄 贈 によ る江 戸 後 期 から 明 治 期 にわた 。 る多 く の文 書 を所 蔵し ている 、 姪 浜 旦 過 町 石 橋 家 は 江 戸 中 期 以降 筑 前 国 福 岡 、 、 、 藩 下 早 良 郡 姪 浜 村 にお いて廻 船 間 屋 酒 造 業 醸 、 、 造 業 な ど を営 み 藩 の財 政 にも 貢 献 したよう で 藩 、 0 普 ︶ 注こと いう から 2 人 扶 持 ︵ 歴 代 当 主 は大 庄 屋 格 ︵ 。 地位 を与 えられている 、 いう ま でもなく 地 方史 は地 方ごとに特 有 の地域 社 会 をかたちづく っ 印 る異 な た階 層 の 可 立場からの見方を べ 面 P i ” 中 れ 押 辛 ヽ 射 申 中 、 調ながら福岡藩あ 寺 るいは黒 田家 側 の 蠍文書は相当量残 納 翻 設 採 卸 瑚 卵禁 涯 、 が いず れ も 支 配 。 、 者 側 お 上 側 から のも のであ る 民 側 のも のと し て 、 は 福 岡 城 下 湊 町 の加 瀬 家 に伝 わ る ﹁ 加瀬 家 文書 ﹂ 、 ︵ 福 岡 市博 物 館 所 蔵 ︶が有名 で それにより 市 部 にあ った有 力 商 人 と藩 と の関 係 、商 家 一般 の様 子な ど を 。 、 う かが い知 る 事 が でき る それ に対 し て 姪 浜 石 橋 、 家 は早 良 ・ 恰 土 圭b摩 郡 役所 の管 轄 下 にあり 残 って 、 いる文 書 も 郡 部 の商 家 特 有 のも の たと えば 土 地 ・ 、 、 田畑 ・ 家屋 敷 永 代 売 渡 証 文 借 用 証 な ども 多 く そ れらを通 じてこれま での歴 史資 料 に欠 落し ている部 。 、 分 を 埋 めるも のと し て期 待 され る 実 際 福 岡 藩 西 、 部 については残 っている文書 は必ず しも多 く はなく 、 、 そ の意 味 でも 石 橋 家 文 書 の解 読 ・ 解 析 は 地方 史 。 研 究 への寄 与 すると ころが少な くないであ ろう 、 0 そ のよ う な 観 点 から 平 成 2 年 福 岡 市西区 姪浜 、 、 、 、 地区 において 早船 正 夫 ︵ 代表 ︶ 伊 佐 英 喜 原 田 一 男 、 、 原 順 子 瀬 戸 美 都 子 石 橋善 弘 を メンバーとす る ﹁ 石 。 、 橋 家 文 書 研 究 会 ﹂が結 成 された 研 究 会 メンバーは 、 いず れも歴 史 学 を 職 業 と す る者 ではな いが 定 期 的 、 に相 集 って文 書 リ スト の作 成 解 読 ・ 解 釈 な ど にあ 、 。 たり す でに相 当 の成果 を得 ている 興徳 寺 の類 焼被 書 と替 地 ここでは与 え られた紙面 の都 合 も あり 、解 読 済 み 、 のも のの中 から 石 橋 家 文 書 のう ち で最 も 古 いも のH仮 番 号 0 0 1 ・天 和 2 ︵1 6 8 2︶年 興 徳 寺 の 類 焼 被 害 にと も な う 替 地 通 知 書 日を ひと つだ け紹 。 介 し よう 、 1 6 82︶年 春 、姪 浜 下 野 それによ ると 天 稲 2 ︵ 間︵ 現福 岡 市 西 区 姪 浜 6丁 目 付 近 ︶にあ った興 徳 寺 、 が類 焼 被 害 にあ った た め 崇 福 寺 の末 寺 光 明 寺 跡 、 現 在 の興 徳 寺 の場 所 福 岡 市 西 区 姪 浜 5丁 目 ︶に ︵ 。 、 ﹂のよ う な 場 合 元 の場 所 替 地 す る こと にな った テ 、 は召 し上げ られ る のが通 例 であ るが 興 徳 寺 が由 緒 降町 タ ー ある古寺 であ るのでそのまま新しい場所を拝領 させ 、 る 替地後 の年責 ・ 諸 公役 は従前 通り免除 するとし 、 に っ てい て 寺 て め 興 取 て な 徳 側 を 極 寛 大 置 措 通 知 注こ・ している。また、替 地に際して、清 芳軒 圭 一 楽院 ︵ 白遵 寺 跡 ・ 古畠 等を除 いた旧跡 地 の面 積を 猫 天神 ・ 。 8歩 約 1378坪 と 4反 5畝 2 ︵ ︶ 確定している 、﹂ なお テ の替地通 知書 の差 出人は崇福寺奉行首座 し ゅそ︶、報首 座 、覚 林 であ る。また、土地 の引 渡し ︵ 、 保証 人には黒田藩中老 の立花 勘左衛門 のほかに 関 、 。 与兵衛 伊丹伊兵衛が名を つらねている 朽 み ぅか 歩 絡 ウ 松 各 一 ソ絡L ダ な及多幣かぶ 修陥 す 打 ″ 塚 祐 材 す八イ 揚 告 擦 骸 殆ヒ ″ 九 重 津徐 襟 劇を 行 総 材 絡 ゑ ︱ と拓 k 琢 洗 溢 修れ 核 材 控 形 r ・ 人′ ″カキ ユロ 弔 印 轡 私 著々 玖 絡f ・ 仮番号001:興 徳寺の類焼被害に伴う替地通知書=天 和2(1682)年 = 2010年 (平成22年 )10月 141 能古博物館 だより 第61号 能古博物館 だより (5)2010年 (平成22年 )10月 1 、 当時 文 = の概 要 は以1 のよう な も のであ る が ﹁ 、 姪 浜 に沢 山 あ った塔 頭 の位 置 から い えば いま の場 、 所 は奥 にあ り すぎ る ﹂と 感 じ ていた 方 も あ ろう が 、 じの文 書 によ って興 徳 そ のよ う な 方 々にと っては テ 。 、 寺が現在地にあ る事情 が納得 できる待 であ る 他 方 藩 i 黒 =家 の市 提 寺 であ る紫 柄 寺 側 に これ に対 応 、 す る文 書 が残 っているかど う か 引 渡 し保 証 人 の関 、 、 与 共 衛 伊 丹 伊 兵 衛 と はいかな る人物 か そも そも この火事 の発 生 は天和 2年 の何 月 何 日 で、そ の規模 について他 に記 録 があ るかど う かな ど の新しい疑 問 ・ 興徳 寺 と亀井南冥生誕地 を掲載 した姪浜、愛宕、下 山門地 区の歴史散策 マッえ =福 岡市西 区役所企画課編集 = 。 楠 のF木が見事な興徳寺境内 点 が出 てく る 、 さら に 崇柄 寺 と 興 徳 寺 の問 でや り 取 り さ れ た 文 書 の写 し が何 故 石 橋 家 に残 っていた のか な ど 疑 問 は つき な いず ﹂ のよ う な 疑 問 点 を ひ と つひ と つ解 明 す る 事 が地 方 史 ヘ の貢 献 に な る 。 であ ろう 、 ﹂の小文 を 契 機 と し て能 市 博 物 鮒 いず れにし ろ ア 石橋 家 文 書 ﹂に ついて関 心を 寄 せていただ け 所 蔵 の﹁ 。 、 、 れば 望 外 の喜 び であ る また 木 尾 な がら 興 徳 寺 の 、 歴 史 に ついて いろいろご教 示 いただ いた九 州大学 服 1 。 日本 史 ︶にお礼を中 1・ げたい 部 英雄 教 授 ︵ 0人 注 l L慶 応 分 隈 帳 ﹂によ ると 2 扶 持 とな っている 、 が 江 戸 末 期 にな る と 藩 の財 政 も 苦 し く な り 、そ のた め市 部 ・郡 部 を 問 わず 富 裕 層 から 、 金 を 集 め ては そ のお返 し と し て扶 持 を 乱 発 18 3 4︶年 した模 様 で、石 橋 家 には天 保 5 ︵ 2 0 ︲月 付 けで5 人扶 持を 受 けたと いう 記録 が残 っている。 。 注 2 告大 庄 屋 ﹂と ﹁ 大庄 屋 格 ﹂は別 物 であ る 前 者 は 、 多 数 あ った庄 屋 の中 から 指 名 された者 それ 、 に対 し て後者 は 落 への貢 献 の著 しい者な ど に 。 家 の﹁ 格﹂として与えられたも ののよう であ る 楽 ﹂を と ってできた 注 3o 清 芳 軒 の﹁ 清 ﹂と 三楽 院 の﹁ 。 、 のが 現在 の﹁ 清楽 寺 ﹂であ る 筆者紹 介] いしばし よし [ 0 1935 ひろ 昭和 1 年︵ ︶ 福 。 岡市姪浜町に生まれる 福 岡 師 岡教育大学 の 範 学 現 校 ︵ 福 、 前身 ︶ 中学校 修猷館 付属小 ・ 、 。 高校 東大院卒 名古屋大学名 。 。 誉教授 理学博士 国野原ホール﹂ のご案内 ☆ 海の部屋﹂と﹁ ☆﹁ 、 季 節 ごと の句 会 や 研 修 会 サ ー ク ル の発 表 会 や 反 省 、 。 会 な ど 色 ん な 集 ま り に ぴ った り です 博 多 湾 の ﹁へそ ﹂ 、 、 と 言 わ れ る 緑 豊 か な 能 古 島 で のび のび と 心 ゆ く ま で 、 し か も 手 軽 に集 ま っていた だ け る よ う ふた つの広 い部 。 屋 を リ ー ズ ナブ ルな 料 金 で用 意 いたし ま し た お 気 軽 に 。 ご相 談 く だ さ い □ 設備 の内容 。 ・ 番眺めの良い部 屋=写真= 目の前 の博多 海 の部屋 H館内 で 一 。 湾から対岸 のビ ル群まで見渡せます ジオラマケー スを兼ね 。 0 た特 注 の大型 テーブ ルを 囲ん で1 人座 れます 窓 際 の椅 子 。 0 を使 えば 2 人位 は可能 隣 の喫 茶 ヨーナーに醸 金方式 の飲 。 み物を用意しています 。 ・ ール H館 内 で 一 日 野 ホ 番広 い部 屋 新 老 人 の会 の日 野原 原 9歳 ︶が、島 内 の子どもたちに ズ叩の授 業﹂を行 っ 重 明会 長 ︵ 9 。 ム たのを記念して命名しました ︿ 議 用テーブ ルと折りたたみ 。 、 0 椅 子 マイクを使 って約 5人程度 の集会が できます □ ご利 用料金 、 4 000ロ ・ 大 人 ひと り 4 0 0 円 の 入 館 料 、 プ ラ スー 0 0 円 で ど ち ら か の 部 屋 を 4 時 間 ま で利 用 でき ま 。 す ︰ 最低 基 本 料 金 2時 間使 用 で ︵ 、 、 、 ・ 開催 曜 日 人 数 時 間 飲 料金 ・ み物 な ど のご相 談 を お 受 け し 。 ます 8831 2887︶ 電 話 0921 ︵ FAX0921 8831 2881︶ ︵ 展示 ︱IL 海外引揚げ の記憶 ﹂ に追 い風 ﹁ 忘れまい 博多湾 ・ 昭和 の歴史﹂ 0 開館 2 届 年 記 念 特 別 展 ﹃博 多 湾 物 語 ﹄で﹁ 海外 引 、 揚 げ の記 憶 ﹂を 取 り 上げ 現 在 も 別 館 2階 に展 示 中 、 の能 古 博 物 館 では ﹁ 展 示 の追 い風 にした い﹂と 原 寛 、 。 理事 長 毛戸 彰 理事 ら 3名 が参 加 した × また 小 冊 子 ﹃博 多 湾 物 語 ﹄の手 サザ エさん誕 生 ﹂で 8 おな じ み の評 論 家 樋 日恵 子 さん ︵7 歳 ︶も 東 京 から 、 。 駆 け付 け 2日間 熱 心に取 材した 元中学教 、 員 Hは 父 の敗 戦 直 、 前 の召 集 2 歳 の弟 、 の死 収 容 所 で の越 、 冬 生活 ソ 連 兵 の女 、 狩り 母と 妹 ︵死 産 ︶ 、8 の死 3 度 、 線脱出 3 姉妹だけ 、 、 、 の帰 園 父 と の再 会 極 貧 の暮 らし そ のなか での高 、 、 校 大 学 進 学 な ど 生 活 の基 盤 の全 てを 失 った引 揚 、 者 な ら では の戦 後 の半 生 を し っかり と した 日調 で 。 話 した 。 二日 市 保 養 所 は壊 さ れ て今 は跡 形 も な い 敷 地 、 の一 角 に水 子 供 養 の﹁ お地 蔵 さん ﹂が祀 ら れ 毎 年 5 月 M 日 に関 係 者 が集 ま って供養 を 。 す る そ の脇 にあ る﹁ 仁 ﹂の 一 文字を 大 きく 刻 んだ自 、 ﹂の 然 石 の碑 は レ 場 所 で行 な わ れ た医 師 たち の人通 的な行為に感 動 し た児島 敬三さん ︵ 元 修猷館高 校教 諭 ・故 人 ︶が 昭 和 、 6 5年 3月 自 費 で 。 建 立 した 施設跡見学の一行。原理事長、毛戸理事も加わった。 =筑 紫野市の 「 仁の碑」 前で = 体験 者 の話 聞 く 樋 日恵 子 さんも参 加 シンポジ ューム﹃20 10年 、いま 引 げ を問 戦 後 揚 8日 、 う ︱ 帝 国 崩 壊 と 戦 後 東 アジ ア社 会 ︱ ﹄が 9月 1 福 岡 市 箱 崎 の九 大 箱 崎 キ ャンパス内 ﹁ 国 際 ホール﹂で 、 9 日 は 開 かれ 翌 1 福 岡 市 博 多 区 や 筑 紫 野 市 の引 揚 。 げ 関 連 施 設 跡 を 巡 った 樋 田さん は能 古 博 物 館 と の縁 で ﹁ 海 外 引 揚 げ ﹂に 、 着 目 し とり わ け国 によ って秘 かに開 設 された医 療 厚 生 省 引 揚 援 護 局 二日 市 保 養 所 ﹂の実 態 を 3 施設 手 。 年 前 から 追 っている 旧 別 法 の堕 胎 罪 が存 在 した敗 、 ﹂の施 設 では朝 鮮 半 島 や中 国 ・ 旧 満 州 から 戦 直後 テ 、 引 揚げ てきた女 性 たち の堕 胎 手 術 や性病 の治療 が 1946年 3月 から 翌 年 秋 ま で極 秘 裏 に行 われた。 。 そ の数 は 400人とも 500人とも いわれ る 、 女性 たち は数戦 後 旧 ソ連 軍 の兵 士や現 地 民 に暴 、 、 行・ 強 姦 され 妊 娠 したり 性 病 に罹 ったま ま 失意 の 。 、 帰 国 を した 帰 国 途 上 絶 望 のあ まり 引 揚 船 から 玄 。 界 灘に身 を 投げ た少 女 も いた 超 法 規 的な 堕 胎 手術 、 は 旧京城帝 大医 学部出身 の医師 を中 心に行われた。 4歳 ︶に 初 日 のシンポ で 万看 護 師 の村 石 正 子 さん ︵8 筑紫野市在住 日 が 手 術 に立 ち 会 った 模 様 を 語 っ 。 た ﹁ 引 揚げ 港 ・ 博 多 を 考 え る集 い﹂ 、 の会 員 で 敗 戦 を 北 朝 鮮 の国 民 学 9歳 ︶で 校 3年 ︵ 迎えた山本 千恵 7歳 ︶対 子 さ ん ︵4 太宰府市在住 ・ 山本 千恵子 さん (右)と樋 口さん。 =引 揚者が上陸 した博多港岸壁の近 くで = ▽主 催 ﹁ 帝 国 崩 壊 後 の人 口移 動 と 社 会 統 合 ﹂研 究 会 ▽共 催 。 ﹁ ・ る を え げ 引 い 多 揚 港 博 考 集 上智 大 学外 国語 学 ﹂ =事 務 局 ・ あららぎ ︶ 部国際関係論 蘭 ︵ 研究室 = 樋 田子 さんに当時の状況 を話す村石正子 さん (左)。=筑 紫野市 内のホテルで = 2010年 (平成22年)10月 (6) 能古博物館 だより の役割を説明する「 引揚げ孤児収容施設「 聖福寮」 SI の会員森下昭子さん (83歳) 揚港 ・ 博多を考える集い」 =写 真の中央奥 ・ 福岡市博多区の聖福寺山門前で= カンガルー島☆ ☆豪州 ・ ケープジャービス∼ ぶネショー航路] [ 早 朝 にアデ レードをバスで出 発 し て約 2 。 時間 フリ ュウリ ュウ 島 の 半 突端 の町ケープ ジ ャービ スから カ ー フェリ ー でカ ン ガ ルー島 のぶネシ ョー ヘ。シー ル ・ベ イ自 然 保 護 区 で アシカ H写 真 ① H 、 を 観 察 し フリ ン ダ ーズ ・チ エイ ス 国 立 公 園 では リ マー カブ ル ロック スH写 真 ② =を 見 I H 写 真 ③ H は S E A L I N K 社 の 運 航 。 直 。 学した 島 は1802年に英国 人 の航海士 フリ ンダーズによ って発見 、 。 された 水と食糧 の不 足にあえ いでいた フリンダーズたち は 偶 、 然 この島に上陸し 日 の前に現れたカンガルーを つかまえて鋭え 。 をしのいだという その感謝 の意味を こめて﹁ カンガルー島 ﹂と名 。 付けたとか ェ リ 観光客主体 のダイヤ編 成 料金は割高 フ 0辞。ダィヤは 一 応 1日 8往復組 んでいる 線距 離 で約 2 、 が 確 かな のは朝 の2往 復 と 。 夕 方 7時 台 の1往 復 のみ そ れも朝 の1往 復 は冬季 の約 1 。 ヶ月間 、間 引 き される 残り の ダイヤは夏 季 のエーズに備 え 。 たも の 観 光 客 の需 要 があ れ 。 ば 運 航 する 島 を 訪 れ た のは 冬 季 の 6 月 だ った ので往 路 は朝 9時発 、 の始 発 帰 路 は午 後 7時 半 の 。 5∼ 8 8 、 1 ︲ 最終便 にな った 料 金 は大 人往 復 8が 学 生 ︵ 4 、 4歳 ︶ ∼ ど も 1 8 が 要 証 明 書 ︶同 7 子 ︵ 歳 ︶と高 齢 者 ︵ 。 0数 円 で 8が Hl ドル8 同4 豪 換算 し てみて欲しい出 さほ ど 安 く はな いが、船 室 は各 国 の若 者 で結 構 賑 わ って 。 いた =写 真 ④ = 車 両 の料 金 は長 さ 5財 ま での普 通 。 、 0 乗 用革 で往復 1 72が 自 転 車 は同 2が だ った と け ち も る を 士 い 冗 取 船 持 や 女 員 店 掛 性 。 目をひいたのは操船に従事する人員の少なさ カー デッキヘの車の出し入れは係員の指示を仰ぐでもな く運転手がひとりでやっていたしH写雲⑤・ バックで入 、 れる出 舶 ︵ 金 先 で太 を いもやい︵ 係留索 ︶ 取 る 女 性 船 員 =写 、 真⑥ 日は 終 わ る と 船 内 売 店 の売 り 子 。 に早 変 わ り 入 港 す る 船 から も や い を 受 け 取 った 男 性 、 H写 真② ・ 矢 印 Hは 閑 散 期 のせ いか 乗 船 券 のも ぎ り を 兼 。 N︶ 務 し ていた ︵ ノオ カンガル ー 島 第6 1 号 能 古博物館 だより (7)2010年(平成22年)10月 ︽カ ン ガ ル ー 島 ︾ アデ レー ド の南 西 約 1 5 0ゴ に位 。 置 す る オ ー スト ラ リ アでは 3番 目 、 に大 きな 島 で 面 積 は東 京 都 の約 2 。 倍 野 生 動 物 の宝 、 庫 で カ ンガルー は 、 、 も ち ろ ん コアラ 、 アシカ フェアリ ー 、 ペンギ ン ワラビ ー 、 な ど さ まざ ま な 動 物 が野 生 で見 ら 。 れる また大自然 に よ って造 り 出 さ れた 奇 岩 や 鍾 乳 洞 も すば ら しい。 (8)第61号 2010年 (平成22年)10月 能古博物 館だより ①①①②⑬②②④②⑤①②①④⑮②①⑫④①①⑫②①③④②①⑮②③①②①①①① 友 ③②①②②⑩ 獣 容 暑 層 宮 誉 ]置 暑 [暑 脅 督 借 雪 昌 畠 置 魯 昌 含 旨 昏 暑 最 曇 ]」 曾 督 昏 8富 :骨 自 昌 暑 ③②①①②②①②①③⑬①②③①⑤⑭①②②④④③④②①①②①③④⑤①①③①① 敬 称 個 善蓉絵昇爵繕 ぬ 彰豪千准キ典 賛 三春輔ョ雄 会 ミ 員 ②◎③⑬⑬① ^ 日順 敬称時 五十土 法人協賛会員 ︵ o医療法人 笠松会 有吉病院 ・福岡メディカルリース ・税理士法人 エム ・ シー ・医療法人恵光会 原病院 エイ・ ・ギ r フリー倉 o︵ 株︶サンコー ・医療法人社団 江頭会 さくら病院 ・浄満寺 o医療法人社団度徳会 岡部病院 o ︵ 株︶メディカルアシスト青葉 o多々良福社会 ・ 医療法人 大乗会 特別養護老人ホームなごみの里 福 岡り八ビリテーション病院 ・多々良福社会 たいようの里 o︵ 株︶彩苑 o︵ 株︶CDS o︵ 株首王友技建 工業 轡 畳 暑 骨 雪 置 雪 ] 昌 昌 昌 暑 B骨 雪 轡 督 督 占 昌 旨 冒 昌 曾 督 督 昌 皆 骨 暑 旨 昌 B8g貫 暑 上 出石 安足 明 野 口野 藤 立 石 道 親 智 文 晴散 雄 恵 英道人 子 敬 晃 査 係 堅軽 最 堅 巳 貝 」 管霧 最 垂 ①③①④②③◎◎②⑬①②①①①②③③②⑥①①①①①①①⑮②①③②③◎②①④響 ⑤ ① ② ③ ② ①録 は ③③②①⑬③ 巻 ⑤⑬②④②①①⑮③③①②①②①⑬①②①①②①①③②①③①⑤④①②①①②①① o︵ タカテクノサービ ス 有︶ ・ 株︶HSS九州事業部 エームサービス︵ o︵ トータル・ コーポレーション サポート・ 有︶ o︵ ホームケアサービ ス 株︶ ・ 医療法人社 回 康徳会 岡部病院 ・福 岡住宅流通サービ ス︵ 有︶ o西日本シティ銀行 土井支店 ・センタービジネ ス 蚤 常 昌 魯 蟹 醤 畳 合 暑 '昌 雪 昌 置 暑 昌 暑 皆 習 昌 蛋 暑 昌 暑 昌 暑 曾 雪 暑 暑昏 昌 母 !皆 骨 」 暑 寺寺津津多平層 空 選 思 量 暑 昌 昌 母 g言 号 曇 ]昌 暑 昌 ] 昌 昌 信 撹 宮 魯 昌 昌 昌 冒 暑 暑 暑 暑 昌 居 昌 母 ]置 旨 昌昏 昌 昌 暑 自 目 曇 子澄 最 豊 握 暑 [昌 畳 暑 ]昏 母 警 ]晶 畠 暑 置 昌 母 雷 雪 昌 昌 轡 督 昌 暑 倉 旨暑 旨 :]暑 暑昌昌 ン昌 原原原原永戸 礼真寛敬 野井 ①②⑤①③②①①①③②②②④①①①①①②⑩②①①①④④①②①①⑥②②③②② ①②①②③③ 暑 蜃 魯 雷 嶺 昌 晶 ;暑 畠 】 昌 昌 昌 富 昌 昌 営 ]唇 ]昌 畳 皆 昌 督 8宮 倍]昌 昌昌昌 余森需醤偏葬 博利文康智鉄 司治子治美夫 ①⑮①①①②①①⑤①①①①⑥①②①③②③③⑤①④①④⑤①⑥④②①①② ①①⑥③①⑥ ー ーー ー アクセス ーーー 市営渡船(フェリー) 姪浜 一能古島 間 :約 10分 西鉄バ ス 」R 博 多駅 博多口正面A の りば 3 0 0 、3 0 1 、3 0 2 番 能古》 受‖合 場そ 子: 約5 0 分 能古島渡船場より博物館 まで ・ 徒歩 :約8分 ・ アイランドパ ー ク行 き西鉄バス停 「 能古学校前」下車、 徒歩下り約3分 天神 三越 前 l A の りば 3 0 0 、3 0 1 、3 0 2 香 能古渡船場行 : 約3 0 分 市営地下鉄 : 「 蛭浜駅」下車 乗り継ぎ 西鉄 バ ス姪浜駅 南 口 9 8 香 能古渡船場行 : 約1 5 分 タクシー : 約1 0 分 土 曜 ・日曜 と祝 日 開 館 日/毎 週 金 曜 ・ 6 30 8 00 30 15 45 問合 せ 姪浜旅客待台所 T E L 0 9 2 - 8 8 1 - 8 7 0 9 能古旅客待合所 T E L 0 9 2 - 8 8 1 - 0 9 0 0 15 45 開 館 時間/10:00∼ 17i00(入 館16:30ま で) 00 30 15 45 (注)冬 季(12月∼2月)は、 年末年始及び展示 物入れ替えなどで長期休館を原則としていま 入 館 料/大 人400円 高校生以下無料 坑 御用の場合は事前にお問い合せ願いま曳 ※ 団体の場合は休館日にかかわらずご相談くたさい 一 十一― ―― 渡船場か らアイランドパ ー クヘ の西鉄バス時亥」 表… … lF盤 lF櫨 王 官 lβ 宇 │キ 歩 濫 松 盤 畳 岳 盟 │1盟 艦 松 樹 岳 岳 盟 濫 温 濫 濫 濫 格 温 鑑 法 樹 島 岳 3 5 3 5 3 5 1 8 3 5 3 5 3 5 4 5 4 5 5 6 祝4 5 56題 45 ン ` 晏│ 1 45 56日 ※ 繁忙期はパス、渡船とも臨時便が運行されます。 6ン 留 4加髄 言 淵劇 窯 ュ 陥橘 陥n酬艦縦:品 、 。 rttLま