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Title 坑夫は乏しい糧を坑内にもとめ - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ

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Title 坑夫は乏しい糧を坑内にもとめ - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
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坑夫は乏しい糧を坑内にもとめ : ゲーテとイルメナウ鉱山
柴田, 陽弘(Shibata, Takahiro)
慶應義塾大学藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.46, (1984. 12) ,p.103- 130
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00460001
-0103
陽
弘
坑夫は乏しい糧を坑内にもとめ
ゲーテとイルメナウ鉱山l
田
1卜︵
2
︶
レlオンハルト宛ての手紙でこう述懐している。
︵
4
︶
一八二0 年代に、
私は夙に確信しているのですが、 さまざまな地球の形成を説明するのに暴力革命を利用しなければならないのは、
たとえば、
ン
機体の絶滅理論とを結びつけた。このような学界の動向の中にあって、 ゲーテはひとり静穏な自然の法則に固執した。
よる全滅のためであると推論した。さらにエリl・ド・ボlモンは、 フォン・ブlフの継時的隆起理論とキュヴィエの有
山運動を理論化し、 キ ュ ヴ ィ エ は 岩 石 と 動 物 相 の 相 関 を 考 究 し 、 地 層 に お け る 動 物 相 の 突 然 の 中 断 は 、 地 殻 の 大 変 動 に
カタヲリスz
示したゲiテは、すでに水車に挑む孤独な騎士だった。 フ ォ ン ・ ブ l フ は ド イ ツ 周 辺 の 山 系 を 分 類 し て 、 隆 起 に よ る 造
この分野でひとつの飛躍が成し遂げられた。火成論と造山運動理論が合併したのである。ほぼ一貫して水成論に愛着を
る。破局理論、火成・水成論、現実説がそれである。これらはいずれも地質学に関連している。
カタストロフィーアクトウアリテ
G ・リンクによれば、十八世紀の八十年代からその死にいたるおよそ五十年間、ゲーテが没頭した課題が三つあ
柴
んと言っても自然に最もふさわしい平穏な作用では片づけられない場合だけだということです。
な
-103-
I
フランスのデマレが、 オiベル一一ュの柱状玄武引を火成引と認定したのは一七六三年のことである。む石学の進歩に
よって、最終的に玄武引火成説に落ち着くのに、以後およそ九十年を必要とした。その間には火成論者、水成論者が入
︵
ω
︶
ニ
L
り乱れて、激しい論戦が民関された。ゲーテは両者の調停を試みたこともあるが、結局、水成論が理屈を越えてかれの
肌に合っていた。 とりわけ晩年のゲ!テは、水成論の忠実な週奉者だった。﹁オlベル一一ュに当てはまることが、
運動理論を火山に結びつけることなどは言ぷ道断だった。強引な帰納や渋った類推は、自然な論理の展開を尊ぶゲlテ
小口座﹂と批﹂評したのも同じ文脈である。すlベルニュのごときフランスの一地域の観察を玄武岩全体に当てはめ、造山
ことがあるかち、というのである。ゲーテにとって火成論は惇主しいものだった。﹁︵火成論の︶新しい世界創造の物置
︵
8 ︶おぞ
と聞いて、これのみで玄武行火成論を主張するのは早計であると、ゲーテは論評した。子段を変えても同じ結果になる
命のために一貫して手を尽している。 G ・ ワ ッ ト が 熔 鉱 炉 で 玄 武 れ を 溶 解 し 、 冷 却 し て 玄 武 行 柱 を 人 工 的 に 作 り 出 し た
一八一七年にかれが死ぬと、火成品によって次第に圧倒されるようになる。 し か し ゲ l テ は 孤 立 無 援 、 水 成 説 の 延
われる﹂と、 ゲ ー テ は 書 い て い る 。 水 成 論 の 総 帥 だ っ たA ・
G −ヴェルナ!の権威でかろうじて支えられていたこの理論
ーリンゲンの森にも当てはまるはずであると、証明を移しかえてしまうところに、この間題の主な障害があるように思
ア
の容質に一反していた。 し ば し ぼ 引 用 き れ る ﹃ ブ ァ ウ ス ト ﹄ 第 二 部 第 二 幕 ﹁ 古 典 的 ワ ル プ ル ギ ス の 夜 ﹂ の 中 の 、 火 成 論 者
おお、 タlレスよ、きみは一夜のうちに、
ア ナ グ サ ゴ ラ 1 スと水成論者タ!レスの向然折門学論争は、この聞の機微をよく表わしている。
アナクサゴラ!ス
﹂んな山を泥から作り出したことがあるか。
−
-10ι
も
タlレ
ス
自然とその生き生きした流れは、
昼や夜や時間などに縛られることがなかった。
自然は規則正しくあらゆる形を作り、
規模は大きくとも暴力にはよらないのだよ。
ア ナ ク サ ゴ ラ i スは﹁火炎のガスがこの討を作ったのだ﹂と主張し、
タl レスは﹁出気の中で生物が生じた﹂と反論
︵ロ︶
する。この論争はさらに第四幕﹁高山﹂の場の、 ファウストとメアイストーブェレスに引き継がれる。 メフィストが火
とガスによる珍妙な造山理論をまくしたてると、 ブァウストは落ち着き払ってこれに論駁する。
山山は気高く黙している。
わたしは、 どこから、 とか、 なぜ、 などと間わない。
自然が自らの中に自分を築いたとき、
地球を純粋に丸く仕上げた。
地球は峰や谷を喜び、
山行に岩を、山に山を並べた。
やがて丘を快く下へと傾斜させ、
ゆるやかな線を描いて谷につなげた。
-105-
そこに緑が萌え、成長している。自然は、
ア
自ら楽しむのに狂気の激変を必要としない。
ところがすでに、若きゲ lテが一七八四年に書いた論文﹁全地質形成の基盤としての花山岡山どのつぎの一節が、
ウストの右の思想を先取りしているのである。
︵
日
︶
大きな活動や激しい力によって生じる結果だけが目につくので、人は自然が大きな物を産み出すのに強力な手段を用
いるものだと、 いつでも考えがちである。 たとえ自然に毎日、別のことを教えられていても。
J
﹃ファウスト﹄ ばかりでなく、﹃ヴィルヘルム・マイスターの一遍照時代﹄などのゲ lテの芸術作品には、無数の鉱山な
いし地質学のモチーフが現われている。この分野へのゲ lテのなみなみならぬ関心は、 ひとえにヴァイマルで公務とし
一七七六年六月から執務を開始する。かれは翠一七七七年二月
て従事しなければならなかったイルメナウ鉱山再開発問題に触発されたものだった。﹃ヴェルタ l﹄と﹃ゲッツ﹄の若
き詩人として小公国ヴァイマルに招問されたゲ lテは
に創設された鉱山委員会の議長として、永く休鉱状態にあったイルメナウ鉱山を再び蘇らせようと努める。そしてこの
職業上の営為とともに、地球の創世と右石界への思索を深めていく。注目すべきは、白然研究者としてのゲ lテの最初
の関心が地質学に向けられたことであり、 イルメナウ鉱山をはじめとするさまざまな鉱山との交渉を通じて、技術と科
学の連繋について洞察を深めたことである。 ゲーテの詩的品川口為と公務とは、明らかに分離しがたく結び合っていた。た
-106
フ
とえば﹃ヴィルヘルム・マイスタlの修業時代﹄の第二巻第四章には、 っさのような描写がある。ヴィルヘルムが水車
亭で、坑夫たちの音楽を聴く場面である。 ひ と り の 坑 夫 が 鶴 鳴 を も っ て 登 場 し 、 仲 間 の 演 奏 に の っ て 試 掘 の 所 作 を 演 じ
始める。それがしばらく続いた後、人垣の中から別の坑夫が扮する農夫がひとり進み出て、坑夫にむかつて、ここを立
ち去れと嚇す身ぶりをする。人の耕地を勝手に掘り返しては悶ると件めるのである。坑夫はすこしも騒がず、採掘権に
ついての鉱業の初歩的知識を農夫に説明する。
聞き慣れぬ術語がわからない農夫は、いろいろと間の抜けた質問をし、自分の方が利口だと感じた見物人たちは、その
度に大笑いした。坑夫は農夫に教えようとして、この士地の地下資源が掘り出されたら、結局は農夫のふところにも
︵
は
︶
その利益が流れこむのだと証明してやる。最初は殴りかからんばかりの剣幕だった農夫も、しだいに懐柔されて、仲の
よい友人になって二人は別れた。とりわけ見事だったのは、坑夫がきわめて鮮やかにこの争いを収めたことだった。
この﹁坑夫と農夫﹂の劇中劇は、 イルメナウの伝承劇から材を採っている。このほかにも﹃修業時代﹄には、 イルメ
11
フランシス・ベーコン︵一五六一ー
ナウの雰囲気が色濃く反映している個所が多い。このように鉱山のモチーフを抜きにして、 ゲーテの詩作品を語ること
はできないのである。
﹃ 色 彩 学 史 の た め の 材 料 ﹄ の 中 に 収 め ら れ て い る ﹁ ベ l コ・フォン・ベルラム
一六二六︶﹂の項で、 ゲ ー テ は 、 ベ ー コ ン が 手 工 業 者 や 製 造 業 者 の 機 械 的 仕 事 を あ ま り に 軽 視 し て い る と 慨 嘆 し 、 手 工
業者と芸術家はベーコンの道を行く哲学者よりも、逸速く特殊から普遍へと到達するだろうと推論している。そしてさ
d
門
らに、技術と美術に科学のれうところが極めて大きいと述べ、技術者や美術家が道日パを伎う仕事師として見下げられて
いる現状を告発する。そしてこの科学と技術との理想的調和が、見事にその人のうちに体現されている同国人ゲオルグ
・アグリ l コラを引き合いに出して、こう称議している。
かれはすでに十六世紀の前半に、我我が専門の色彩学で望んだことを、鉱山の分野で成し遂げている。かれがなるほ
ど字通であったのは、すでに久しく取扱われ、完結している、その内部はきわめて複雑ではあるが、常にひとつの日
-108-
的に導かれた自然と人仁の中へ踏み入ることができたことである。山岳は鉱山によって開発され、重要な天然物は原
鉱として採掘され、熔鉱され、処理され、加工され、選鉱され、精錬されて、人間の口的に供せられる。これが、鉱
山医として山に暮していた同外者のかれの興味を強く惹きつけた。それというのも、 かれ自らが、有能で、十分に身
r
辺を観察する自然であったためである。その上、 か れ は 古 代 の 精 通 者 で 、 古 代 訴 に よ っ て 教 義 を 井 に つ け 、 そ れ を 楽
楽と優雅に使いこなした。 かように我我がかれに讃嘆の念を禁じえないのは、 か れ の 著 作 が 新 旧 の 鉱 山 業 と 新 旧 の 治
. 学の全域を叙述しており、臥只重な贈物として我我に捧げられているからである。 か れ は 一 四 九 四 年 に 生 ま
金
山
一
ァ
・
山
. hh
一五五五年に没した。それゆえ、 かれは新しく勃興し、 た ち ま ち 頂 点 に 注 し た 夫 術 と 文 学 の 最 も 高 く 最 も 美 し い
コ ベ ル ニ グ ス が 地 動 説 を 明 え た 時 代 に 生 き た ア グ リ l コラは、鉱山の体系書﹃デ・
レ・メタリカ﹄︵一五五六︶によって、科学と技術の調和を附る先駆者となった。かれはこの書物をこう書き始めている。
︵
同
︶
グ!テンベルクが活字を鋳造し、
時代に生きたのだった。
れ
かねぽり
多くの人は、鉱山の仕事は何かゆきあたりばったりのもので、汚ない仕事であり、技術も学問も、 また肉体的な骨折
干ま
L
りもいらない仕事だと考えている。しかし、採鉱の部門部門をこまかに思いめぐらしてみると、決してそうではな
い、と私は思う。なぜなら、鉱山師はその技術について最大の経験を持っていなければならない。まず、どの山また
きれつ
ば丘を掘り、谷間や野原のどこを掘ればうまくいくか、あるいはいかないかを心得ていなければならない。次に鉱
されき
脈、亀裂、断層がわからなければならない。あるいはまたいろいろと錯雑した土質を知り、溶解物、宝石類、普通の
砂礁、大理石、円石、金属、その混合物たどの稀類に通じ、きらにそれぞれの採掘が地中でどのように行なわれなけ
ればならないか、 その方式にも通暁していなければならない。最後にあらゆる素材を試験してこれを溶鉱できるよう
L
すず
にするその技術を知ってい ほければならない。その技術だけでもなかなか複雑である。なぜなら、金と銀でこの操作
︵
げ
J
は異なっており、銅、水銀、鉄、鉛類それぞれ異なった操作を必要とする。 しかもこの鉛類が、錫、蒼鉛、鉛でそれ
ぞれまた異なった方式がいるのである。
やまし
さらにアグリ l コラは寸鉱山削は多くの技術や学問に無学であってはならない﹂と述べ、その学問技術を八つ挙げて
いる。すなわち哲学︵今日の物理学︶、医学、天文学、測量術、竹件数、建築術、閃学、法律︵とくに鉱山法︶がそれであ
︵川出︶
る。ここには明らかに技術が科学と手を組んだ最初の形態が述べられている。ノイブルガーが﹁鉱業がなくては技術は
ない﹂と言ったのは、げだし名一一目だった。中枇以来鉱山業と金属業がドイツの国民経済を支配していたにもかかわら
ず、ゲ Iテの時代においても、 なお鉱山の仕事は胡乱なイメージを払拭しきれなかった。しかしゲ lテはイルメナウ鉱
-109-
一七七六年五月三日のことである。前年の九月にヴァイマ
山との関わりの中で、技術と科学の結合について、時代の先端をゆく洞察を深めることになったのである。
とになった。
イ ル メ ナ ウ 鉱 山 の 歴 史 は 古 く 、 遠 く 一 二OO年まで遡ることができる。
一五九
一六一八年から一九年にかけては年間四0 ・五 t の銅と二四O 均の銀を産出
一五五六年には六二一ツェントナ l の銅を産出し、
二一一六年にフリードリッヒ二世は、 イ ル メ ナ ウ の 領 主 ポ ッ ポ ・ フ ォ ン ・ へ ン ネ ベ ル ク 伯 に 鉱 山 権 を 与 え て い
シュロイジンゲン、
へ ン ネ ベ ル ク 伯 爵 家 が 死 に 絶 え た 後 を 引 き 継 い だ ザ グ セ ン 諸 侯 、 ならびに、 イルメナウ、
マイ aニンゲン、 テーマル、 ズ lル、 ヴ ァ ズ ン ゲ ン の 各 都 市 が 負 担 し た 。 資 金 難 で 工 事 は し ば し ば 中
用およそ六万グルデンは
人力、馬力、水力による排水装置が考案され、横坑から水を誘動排除しようとする工夫もなされる。これらに要した費
するなど、まずまずの成績だった。すでに一四七四年には、湧出する地下水を汲み上げる対策に人人は頭を悩している。
七年には二七七八グルデンの純益を上げ、
る。文献は一二七三年に造幣所があったことを伝えている。
した。
オット i ・ フ ォ ン ・ マ イ セ ン が 、 皇 帝 フ リ ー ド リ ッ ヒ 一 世 パ ル パ ロ ッ サ か ら 鉱 山 権 を 得 て 、 使 用 料 を と っ て 一 般 に 開 放
一一六八年に銀が発見され、 翌年には辺境伯
る。この訪問で、 ﹁ 之 し い 糧 ﹂ に も 事 欠 く 住 民 の 困 窮 と 、 当 地 の 合 銅 頁 店 鉱 山 の 坑 道 の 崩 壊 状 態 を つ ぶ さ に 観 察 す る こ
いた。ゲ lテは二十六歳の若さだった。 イルメナウはヴァイマルから騎馬でおよそ六時間、 イ ル ム 河 流 域 の 小 邑 で あ
ル 政 権 を 継 承 し た 十 八 歳 の カ l ル・アウグスト公の委託をうけ、 イ ル メ ナ ウ 市 内 に 折 か ら 起 こ っ た 火 事 の 視 察 も 兼 ね て
ゲーテが軽騎兵の案内で初めてイルメナウを訪れたのは、
I
I
ハリ
酌i
つ い に 一 六 二 五 年 に 閉 山 さ れ る こ と に な っ た 。 筆 頭 株 主 ハ ウ ル ・ ヘ ル フ ェ リ ッ ヒ の 莫 大 な 負 債 が 、 その直接の原
一七三九年五月九日に、下フライパッハ池のダムの決壊によって、 又もや同鉱山は廃坑の憂き目を見るにいたる。
え含銅頁岩層は傾斜のいかんにかかわらず、 フレッツと見倣されなければならない。 ロートリlゲンデと苦灰統の層序
レッツは沈積順に重なる鉱物含有の岩層であり、鉱脈は岩層の裂け目にあとから土砂が満たされたものである。それゆ
解釈しなおした。それによると地層の平坦か急峻かによって区別するのではなく、生成史によるのである。すなわちフ
、 フレッツと鉱脈を新たに
脈と見倣された。 フライベルクの測量技師オッベルはその著書﹃測量術入門﹄︵一七四九︶ で
頁岩層はブレッツであり、 イルメナウやエルツゲビルゲ地域では鉱脈である。 シュトゥルムハイデは、 フレッツ上の鉱
いゆるい傾斜の地層であり、﹁鉱脈﹂は急傾斜をなす薄い鉱床岩塊である。この定義によれば、 マ ン ス フ ェ ル ト の 含 銅
﹁鉱脈﹂かは幾何学的な位置関係によって決められ、生成の仕方は問題にされなかった。﹁フレッツ﹂は水平かそれに近
鉱脈の様相を呈しているため、鉱脈専門の坑夫が投入されていた。十六世紀から十八世紀にかけては、﹁フレッツ﹂か
やハlルツ山地の麓は、含銅頁岩のフレッツが帯のように取り巻いている。ところがイルメナウ近傍で急に落ち込んで
この時期の同鉱山の財政上の破綻は、地質学上の推定に誤りがあったことも一因となっている。テュlリンゲンの森
700
権と収益の請求権のみを共通に詔保するという法律関係の複雑さが加わった。これがのちにゲlテを悩ますことにな
ざましい成果をあげたが、経済的には我欲の強い経営者の乱脈経理のために振わなかった。さらにザクセン諸侯が鉱山
経営の実権が、十分に教育をうけた有能な官僚の手にゆだねられていた。他方この時期のイルメナウ鉱山は技術的にめ
されたイルメナウ鉱山の財政的岐綻は、まず経営陣の人材に原因があった。ザクセンでは鉱山所有者の権利は制限され、
悶だった。一一一十年戦争による不況も、新しい資本の流入を妨げた。その後十七世紀末から十八世紀初めにかけての再開
l
における一つの薄い固に過ぎないからである。鉱山監督官ケラーがこれを鉱脈と解して、 シュトヮルムハイデ鉱脈の続
きを捜した作業が徒労におわったのも、当時の学問の水準からは理由のあることだったのである。イルメナウ鉱山再開
発に当たって、 トレブラ、ゲiテ、 フ ォ ー ク ト ら は こ の 最 新 の 学 説 を 支 持 し た 。 し か し イ ル メ ナ ウ 近 傍 の 含 銅 頁 岩 岡
が、平坦な部分で鉱石をほとんど合まないか、全然含まないかのいずれかであることが判明し、 その根拠が理論化され
たのはずっと後世のことである。ゲーテとその協力者たちが、合銅頁山川の水平部分を想定し、これに竪坑を掘り下げ
て鉱石を探り当てようと試みて失敗したのは、当時の地質学の水準から見て無理からぬことだった。
︵
加
︶
イルメナウ地域はほとんど例外なく、 か つ て は 水 平 だ っ た 成 肘 れ か ら で き て い る 。 そ の 厚 み は さ ま ざ ま で 、 下 か ら ロ
lトリlゲンデ︵赤底統︶、百一民統、雑色砂岩の順に重なっており、それらの間に中間段階の成闘が挟まれている︵図 I
。
︶
K
イ ル メ ナ ウ と ロ ー ダ 付 近 の ロ l トリ lゲ ン デ は 、 院 成 下 部 二 世 系 の 粒 子 の 荒 い 赤 色 の 風 化 磯 回 で あ る 。 そ の 上 部 の 背 .
統は、海中で沈積した塩分合有の成同である。まず粘土質ないし訂版質の士が沈積し、これに風化磯中の金属が混入し
て 、 合 銅 頁 岩 層 の 下 部 に 鉛 類 や 銀 や 銅 を 合 む 砂 鉱 同 を 形 成 す る 。 テ ュ l リンゲン一冊、が二百紀の海に覆われていた頃、
合銅頁岩層の上部に背灰統石灰、 石 膏 、 板 状 自 主 行 、 亦 色 頁 む が 堆 積 す る 。 二 位 紀 が 過 ぎ る と 、 粘 土 質 、 石 灰 質 の 雑 色
︵
幻
︶
砂 岩 が 沈 殿 す る 。 今 か ら お よ そ 一 低 年 か ら 三 千 万 年 前 に テ ュ l リ ン ゲ ン の 森 が 槻 状 に 迫 り 上 り 、 イルメナウ什近が千メ
ー ト ル 位 も 隆 起 し た 頃 、 断 出 而 に 沿 っ て 苦 灰 統 と 合 銅 頁 む 屈 が 斜 め に 迫 り 上 っ て 、 ほぼ垂出に似斜した︵図 H︶。この地
殻変動によって、岩層中に多くの割れ目と多孔質が生じ、 そ の 中 を 最 高 以 氏 三 百 度 に も 述 す る 地 下 水 が 循 環 し て 、 合 有
金属を沈殿分配した。 イ ル メ ナ ウ 地 域 に 広 く 分 布 し て い る 僅 か な 銅 を 合 む 合 銅 頁 岩 層 が 、 地 殻 変 動 の 影 響 に よ っ て 狭 い
地域に限定して銅鉱床を形成したのである。 イ ル メ ナ ウ と ロ ー ダ 問 の 公 似 斜 の 合 銅 頁 山 岡 の 部 分 が そ れ で あ る 。 こ の よ
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雑色砂
頁 お と 砂!
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ロートリーゲンデ
北、い砂利と傑 :
図
I
-113-
合銅れれ!再ぺ1の鉱化部分
.
喝
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図
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つ虫
−
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カ
うに含銅頁岩地域に地殻変
動が生じると
度で鉱物化現象が起こるの
は珍しいことではない。ゲ
ーテ時代の地質学で、この
ような地球史上の関連を理
解するのは無理というもの
−っこ。
争i
争J
f
上述のように十八世紀に
一七七六年
おけるイルメナウの含銅頁
岩層の解釈は
を境にして明瞭に分かれて
いる。すなわち一七七六年
以前においては、十六世紀
以来の伝統的な定義に従っ
て、急傾斜の鉱石含有の鉱
脈としてフレッツ上に位置
-114-
しているものと見倣され、このフレッツに向って竪坑が掘り下げられ、 さらにロ!トリiゲンデの中に横坑を掘撃して
含銅頁岩層と平行の鉱脈が探査された。 ケ ラ l の 試 み は そ の 一 例 で あ る 。 さ ら に 荒 唐 無 稽 な の は 、 副 鉱 山 監 督 局 長 イ ム
ローダとシュトヴルムハイデの鉱脈はイ
一七五二年に鉱山官吏グッチャlは、 つ ぎ の よ う に 辛 煉 に か れ ら
ホl フ や 鉱 山 裁 判 官 ク リ l ガ l の 提 案 だ っ た 。 鉱 脈 を 探 る 占 い 棒 に 基 づ い て 、
ルム河の対岸で合流していると主張されたのである。
の無能に挑戦した。
裂縛や鉱脈にかれらは無知なゆえに、多額の費用が造築に費された。鉱業組合員諸氏が、健編師を鉱山監督官に、
に一丁字ない牛飼いを鉱山官僚に仕立てるなら、当地でのように鉱業は崩壊してしまうだろう:::。
の出費を余儀なくされたのである。
一七九二年に鉱石が低価値であること
ダ坑も雑色砂山石層を横断して掘り進められたから、脆弱な土質に助けられて作業が捗る一方では、浸水も頻発して多額
層 と 雑 色 砂 岩 層 の た め で あ る 。 石 膏 層 内 の 空 洞 に 充 満 し た 地 下 水 が 、 しばしば噴出したからである。 マ ル テ ィ ー ン ロ i
さてイルメナウ鉱山がたびたびの浸水によって何度も閉山に追いこまれたのは、この地域一円に広がる二畳紀の石膏
ることがわかっている。
が確認されて、永年の努力は徒労に終わった。今日では、断層の裂け目と重なる急傾斜の頁持層のみが鉱化をうけてい
のフレッツと認定されて、 ヨ ハ ネ ス 新 坑 に よ っ て 水 平 部 ま で 掘 り 下 げ ら れ た が 、
ゲーテがイルメナウ鉱山に関わった一七七六年以後では、合銅頁山行層はテュlリンゲンの森の北縁に位置する急傾斜
、
声
日
υ
イルメナウ鉱山がゲ lテの管轄下におかれていた一七七六年からおよそ二十年間は、 めざましい技術上の成果のほか
に 特 筆 す べ き も の は 何 も 無 い 。 た だ ゲ l テ の 公 務 は そ の 詩 作 品 と 共 鳴 し 合 っ て お り 、 鉱 山 が ゲ lテ の 思 想 世 界 に と っ て
重要な意義をもたらしたことは否めないのである。
一七五二年十一月三日、大火がこの僻阪の小邑を灰憶に帰し、
同鉱山は一七三九年の浸水後、 ヴ ァ イ マ ル 財 務 局 の 出 費 に よ っ て わ ず か に マ ル テ ィ ー ン ロ l ダ 坑 の み が 一 時 し の ぎ に
手入れされていたほかは、混乱と破壊にまかせられた。
一七五三年十二月三十一日には、 旧 ヨ ハ ネ ス 坑 の 横 坑 が 落 穂 浸 水 す る 。 さ ら に 一 七 五 六 年 か ら 一 七 六 三 年 ま で の 七 年 戦
一七七一年とその現年の凶作とが経済の波弊に拍車をかけた。 カ ー ル ・ ア ウ グ ス ト が 政 権 を 引 き 継 い だ 一 七 七 五
︵
お
︶
v ・シュタイン夫人に、﹁まもなく貧しいもぐらもち述に仕事とパンを与えることができたらと思います L と
を採らなかった。租税や信用貸しに頼らず、経済の活性化を積極的に押し進める。 イルメナウ鉱山の再開発はその一環
である。
一八三五年のワラキアでのモルトケの記録もその一つである。ゲーテがイルメ
書 き 送 っ て い る 。 ゲ ー テ は 一 七 七 六 年 に 初 め て 、 イ ル メ ナ ウ の 住 民 の 貧 困 を 目 撃 し て い る 。 ヨi ロッバの貧民の悲惨な
生活水準についての証言は無数にある。
マリ l エンベル
ナウの貧民の救仰の道が、鉱山の再開発を措いてないと考えたのは自然のなりゆきだった。そのためにはまず専門家の
鑑 定 を 侠 た な け れ ば な ら な い 口 白 羽 の 矢 が 立 て ら れ た の は 、 ク l アザグセンの副鉱山監督局長にして、
ク の 鉱 山 監 督 官v ・トレプラだった。 かれは一七七六年五月六日に、 まず書類のみによって楽観的な鑑定を提出した。
-116-
1
J
I
年の一ヴァイマルの状況は、ざっとそのようなものだった。ゲーテもアウグスト公も、財政状態の好転を阿るのに消極策
と
つ い で 同 年 の 七 月 、 機 械 技 師 長 メ ン デ と ブ レ ッ ツ 鉱 山 の 専 門 家 シ ュ ラ イ パ l坑夫長とイルメナウに赴き、 ア ウ グ ス ト 公
とゲ l テ の 一 行 に 合 流 し て 、 再 開 の 可 能 性 に つ い て 検 討 を 重 ね る 。 ト レ プ ラ は 含 銅 頁 岩 と 砂 鉱 府 の 急 傾 斜 の 部 分 も ブ レ
ッツであり、鉱物を含むという前提から出発した。すでに十八位紀の初頭までに、 ブレッツのその部分はあらかた掘り
尽されていたので、 イルメナウとロ lダ聞のシュトゥルムハイデ前一山に竪坑を掘って、 お よ そ 二 百 メ ー ト ル の 深 さ に 平
一七八九年のフランス革命も、
坦なブレッツを掘り当てようと計画した。十日い設備をそのまま利用し、採掘と排水装置のエネルギーを中央溝渠から供
給するというものだった。技術の基礎は水力にあり、蒸気機関は速いかなたにあった。
イギリスに始まった産業革命も、 ド イ ツ の 小 川 巴 で は 風 の 便 り に 聞 く ぐ ら い だ っ た 。 ド イ ツ に お い て 工 場 制 手 工 業 か ら 資
一八00年代からである。一組歴機械工ジャン・ワセ lジュがドイツ
一七六七年には、 ザ ク セ ン で 揚 水 用 水 圧 機 関 が 製 造 さ れ て い
一七八九年マンスフェルトで、 そ れ ぞ れ 蒸 気 機 関 が 組 み 立 て ら れ た 。 し か し 世 紀 の
一七五一年である。
本主義的工場制機械工業への移行がおこったのは、
一七八八年タルノヴィッツで、
最初の蒸気機関を組み立てたのは、
る
口
︵
お
︶
変わり目のドイツはほとんど蒸気力を使用せず、何ムけかのニュ l コ メ ン 機 関 、 わ ず か な ワ ッ ト 式 機 関 が 作 動 し て い た に
過ぎない。イルメナウの新ヨハネス坑においては、伝統的な水力に依存する精巧な揚水機械が考案されたのである。
ゴI 夕、
マイ aニンゲン、 ヒルトブルグハウゼン、
一七七七年九月十五
コープルク、 な ら び に 選 帝 侠 領 ザ グ セ ン
一七八四年の鉱山開設にこぎつけるまでにゲ lテ を 最 も 悩 ま し た の が 、 夜 雑 な 法 律 ・ 経 済 問 題 だ っ た 。 旧 へ ン ネ ベ ル
グ鉱山の鉱山権の所有者は、
の諸侯である。ゲlテは﹁法の厳格よりむしろ調停によって﹂川鉱山の負債を解決しようとする。
日 ま で に 、 新 鉱 山 に 対 す る 請 求 権 を 通 告 す る よ う に 求 め た の に 対 し 、 ザ グ セ ン 選 帝 侯 と ゴ lタ侯は共同経営の意志はな
い、鉱山十分の一税およびその他の権利を留保すると要求してくる。ザグセンならびにヴァイマルの鉱山法によれば、
i
円
あ ら ゆ る 債 権 は 閉 山 に よ っ て 失 効 し て い る は ず で あ る 。 しかしゲ l テ は 、 事 態 を 政 治 的 に 解 決 し よ う と す る 。 と い う の
一七八一年にゲ lテは
も 、 新 事 業 の エ ネ ル ギ ー 源 で あ る 溝 渠 の 一 部 が ゴ l タ領を通っており、 ヒ ル ト プ ル ク ハ ウ ゼ ン か ら は 熔 鉱 炉 用 の 木 材 の
供給が期待され、 クl ア ザ ク セ ン か ら は 技 術 的 専 門 的 な 援 助 を あ お ぐ 必 要 が あ っ た か ら で あ る 。
﹂う書いている。
ヴァイマルからすれば、最高の和合と最も厳正な道を歩もうと欲したならば、両宮廷の声明後に、当然十分の一税の
︿
お
︶
関与から閉め出すこともできたであろう。なぜなら、 た と え ど ん な に 反 対 さ れ よ う と も 、 収 益 は 関 与 と 努 力 に 応 じ て
享受されるべきであるとの、明瞭な協定の条文が残っているからである。
さらに同鉱山には、 ヴ ァ イ マ ル 財 務 局 の 立 て 替 え 金 を 別 に し て 、 約 七 万 タ l ラ l の 負 債 が あ っ た 。 筆 頭 債 権 者 は フ ィ
リピ lネ ・ シ ャ ル ロ ッ テ ・ フ ォ ン ・ ゲ ル ス ド ル フ で 、 六 万 五 千 タ l ラーである。同家所有の株式はもともと二百四株、
ライブツィヒの商人ラッボルト博士の破産で、 そ の 債 権 を 引 き 継 い で さ ら に 五 十 五 株 を 加 え て い た 。 ゲ ー テ は 新 発 足 の
一七八三年、幅密顧問官フォン・エッカルトが、﹃イルメナウ旧鉱山についての報告:::なら
鉱業組合に負債のないきれいな事業を委託しようとして、 ゲ ル ス ド ル フ 家 に 示 談 金 六 千 タ l ラ ! と 年 金 三 百 タ l ラ l を
︵
却
︶
支払う取り決めを結ぶ。
び に 新 鉱 業 組 合 に よ っ て 同 鉱 山 を 再 開 す る 提 案 ﹄ を 刊 行 し た 。 イルメナウ鉱山小史とその現状、再開計画とその費用、
株式の公募を内容としている。それによると、新鉱業組合にかなりの自由と特典を保証し、組合員の持株についても資
本主義的自由処分権を留保している。 ま た 鉱 山 官 僚 、 坑 夫 、 精 錬 夫 に 免 税 と 移 住 権 を 認 め る な ど 、 封 建 体 制 下 に お い て
-118-
は異例の措置を講じている。
一株につき二十タ lラ
一七八三年に当初の v ・トレプラの案は若干の修正を施される。 旧ヨハネス坑を再開する代わりに、 シュトゥルムハ
イデに七五 mほ ど 近 づ い た 個 所 に 竪 坑 を 掘 る こ と に し た の で あ る 。 今 や 鉱 業 組 合 が 設 立 さ れ 、
ー、合計千株二万タ iラ ! の 資 本 金 が 定 め ら れ た 。 十 タ lラ lは売買のときに、 五タ lラ lは 鉱 山 稼 動 後 す ぐ に 、 残 り
の五タlラ!はさらにその翌年に支払うという条件だった。同鉱山には大きな期待が寄せられていたため、短期間に株
式はすべて売却された。鉱山組合の帳簿の記帳は、鉱山委員会書記のフォークトの義務となった。大部分が民間の組合
︵
担
︶
員の出資に頼り、運営は国家がおこなうという変則の形態を採っていた口組合員の内訳は、ザクセン・ヴァイマルが四
三四株、外国が五六六株である。さらにその内容を見ると、ヴァイマル宮廷が四二、貴族五一二、市民三O 八、自治体・
ヒルデスハイムの未亡人健康保険組合四である。ヴァイマルにおける貴族の持株が全体
組 合 な ど が 三 一 、 市 民 の 中 で は ヴ ィ lラントが一 O 、 ゲーテが一二である。国外では、 ゴ lタとマイニンゲンの宮廷が二
、 貴 族 一 七O 、市民一二六九
の十一%、国外での三十%に比べて、経済力の低さが印象づけられる、市民・貴族階級のうち、官僚ないし宮廷人は一
八五株を所有している。農民階級の参加がないことからも、この国家事業の性格が推量できるのである。出身地別に見
ると、 ヴァイマル市一八四、 イルメナウ六九となる。 ま た 一 人 あ た り の 持 株 数 を 調 べ る と 、 国 外 の 二O 株 三 人 、 十 五 株
一人に比して、 ヴァイマルでは十二株一人が筆頭である。このヴァイマル騎士領の領主に続いて、 アウグスト公、 その
妃 ル イ lゼ、大公妃未亡人アンナ・アマ lリア、皇太子カ l ル・フリ iド リ ッ ヒ 、 詩 人 ヴ ィ ! ラ ン ト 、 福 密 秘 書 官F ・
J ・ベルトゥフがそれぞれ六株ずつ所有している。この小公園の経済的基盤の脆弱を一不すものと言えよう。新ヨハネス
坑 開 撃 の 前 途 に は 予 測 の つ か な い 困 難 が 立 ち は だ か っ て い た た め 、 二 万 タ lラ ー で は 足 り な い こ と が 次 第 に 明 ら か に な
ハヨ
った。そこで一七八八年一二月十八日、鉱山株追加出資の続初の要請がなされ、 ほ ぼ 二 ・ 三 年 置 き に こ れ が 統 け ら れ る
が、株主の支払いが年年とどこおっていくことが統社に出ている。
︵
お
︶
こうして一七八四年二月二十四日に、 よ う や く ヨ ハ ネ ス 新 坑 の 開 設 ま で こ ぎ つ け る 。 イ ル メ ナ ウ 市 の お 歴 歴 が 招 待 さ
れ、郵便局の広間に集合している。枢密顧問官フォン・ゲl一アが祝昨を述べる。その問、街路では坑夫たちがパレード
で気勢をあげている。 つづいて祭日の礼拝がおこなわれ、 さ ら に 全 員 が 行 列 を つ く っ て 緑 の 慌 の 若 枝 で 飾 ら れ た 新 坑 の
一七八四年十月十八日には、 マ ル テ ィ ー ン ロ l ダ 坑 に 復 活
入口へと進む。鉱山官吏シュライバーが華奔な鶴鳴を差し出し、それでゲlテが最初の一撃を加える。コ﹂無事で
戸山内﹂三明。
。︸口内︸内mH
このように祝福されて始まった時坑の掘幣は似調に進み、
一日の進度はおよそ二十六仰である。毎日一・二五凶の
祭までには注する、 と大公に部内できるまで渉っている。 そして一七八五年六月にマルティーンロlダ坑を貫通する。
深さ五十二ラハタ! ︵
約
一 O 四旧︶に十六ヶ月を要したから、
土砂が、三人用千巻き揚げ機の桶に運ばれて地上に捨てられた。この機械は九十ラハターまでは有効だった。予想では
含銅頁山行層に到るまでには、 さ ら に 六 十m掘 り 下 げ る 必 要 が あ っ た 。 そ こ で マ リ ! エ ン ベ ル ク の 機 械 工 夫 長 オ ッ ト ー を
招 陀L て 、 水 刀 巻 き 上 げ 機 を 組 み 立 て さ せ た 。 こ の 水 市 の 動 水 を 確 保 す る た め 、 中 央 溝 渠 を 六 百m延長した。 シュトゥ
一七八五年の六月と十一月に、 ゲーテはこの溝渠の保全状態を視察している。
︵
担
︶
ツァバッハからヨハネス坑にいたるこの人工溝渠は、新鉱山の重要なエネルギー源であったから、盤備には制心の注意
が払われた。
マルティーンロ iダ 坑 下 部 の 空 聞 が 広 げ ら れ た 。 こ れ ま で の 時 坑
略坑開繋は、水力巻き持げ機が一七八六年十一月に完成し、 それと共に使われ始めた採掘機械の働きによって、著し
く渉った。そして子同しよく排水装置設置のために
-120-
の 横 断 面 は 、 何 世 紀 も の 習 慣 に 従 っ て 縦 横 が 一 ・ 四 m ×三・四川だった。これがゴ一つの導脈に分かれ、一つは梯子つきの
一七八七年九月の
通 路 、 二 つ は 採 掘 用 に 当 て ら れ て い た 。 こ の 横 断 出 を 一 ・ 四 m×五・コ一 mに広げ、 五 つ の 導 脈 に 分 け た 。 左 右 の 広 げ た
二導脈を補助室とし、これにはポンプなどを置いた。この予防措置が早々と役に立つことになった。
浸 水 が そ れ で あ る 。 す で に 深 さ 二 三Om、 石 膏 凶 胞 の 下 限 に 達 し 、 苦 灰 統 行 灰 の 最 初 の 屑 を 吊 桶 で 巻 き 揚 げ よ う と し て い
︵
お
︶
た と き 、 水 が 噴 出 し た 。 坑 夫 た ち は ほ う ほ う の 体 で 逃 げ 出 し た 。 水 が 次 第 に 二 ニOm上 部 の マ ル テ ィ ー ン ロ ー ダ 坑 ま で
一方では竪坑
上ってくる。このとき機械工夫長オットlの講じていた予防手段が威力を発障する。折り返し凹転をする水車の回転軸
わきに、万一のために排水梓用のクランク・ピンを備えつけていたのである。これに水平梓を取りつけ、
内 を 通 っ て い る 垂 直 梓 を 十 字 形 な い し 三 角 形 の ク ラ ン ク に よ っ て 上 下 さ せ る 。 こ の 垂 直 梓 に マ ル テ ィ ー ン ロ lダ 坑 の 水
︵
お
︶
一 七 八 七 年 十 二 月 と 翌 八 八 年 一 月 に 浸 水 し 、 似 排 水 装 置 で は 手 当 て し き れ ず 、 マルティーン
一七八七年十一月十八日にふたたび背灰統石灰岩を掘り進むことができるようになった。ところが
平 而 で ピ ス ト ン ポ ン プ を 接 続 し て 排 水 す る 構 造 に な っ て い る 。 日任二Om のピストンホンブを継ぎ足すことによって、
次第に水を克服し、
事故がつぎつぎに起きた。
ローダ坑上部の石膏層に高さ一 Om、縦一 Om、横二mの 部 屋 を 穿 っ て 、 新 た な 揚 水 装 置 用 の 水 車 を 取 り 付 け た 。 日 任
九mの 水 車 に 水 平 梓 を 接 ぎ 、 三 角 形 の ク ラ ン ク に よ っ て 二 本 の 竪 坑 梓 に 動 力 を 伝 え 、 こ れ が 口 径 三Om のピストンボン
一七八八年八月に稼動を開始したこの排水装置の作業方に
プを作動させる仕組である。 エ ネ ル ギ ー 源 の 動 水 は 、 深 さ 九 五 mに あ る 水 車 に 樫 坑 通 路 内 の 樋 を 伝 っ て 導 か れ 、 ポンプ
で揚げた水と一緒にマルティーンロ!ダ坑から排出される。
ついて、同年十月にゲlテはこう報合している。
ワ
臼
それから私は、水を克服しようと真剣に取り組んでいるイルメナウへ騎行しました口装置が組み立てられると、 たち
まち何ラハターも水が汲み出されますが、装置を坑内に持ちこむのは煩雑で危険な作業です。ともかく水車は大変う
まく組み立てられたように思われますし、 クランク・ピンと十字形クランクをつけて、聞の中で全く重重しく見えま
す。十二インチと十一インチの装置が地下水を汲み上げます。水は今や横坑の下二五ラハターまでになっています。
作業を自分で検在するため、私はそこまで下りました。
おそらくこの記述は、九月二十四日から二十六日にかけて、排水装置を視察し地下水の水面まで竪坑を下ったときの
︵
却
︶
ことをきしている。装置は効果をあげたが、漏水も強かったのでさらに一台を据えつけることになった。この﹁地下の
ネ プ チ ュ ー ン 退 治 ﹂ の た め 、 シ ュ ネ iベルグからバルトアウフが招刊され、口径二一・一一一 mの水車を導入することに決
︵州制﹀
定する︵図田︶。この装置では、クランク梓を通して上部の衡挺へ力が伝わり、同坑梓を上下に動かす。一七九O 年九月
かみ
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十 七 日 に 運 転 開 始 し 、 一 日 に 八 五O 凶の水を汲み上げた。この頃上シレジアに旅したゲlテは、揚水装置に関心を寄せ、
︵
ニ
ュ i コメンの蒸気機関と揚水用水圧機関のスケッチをしている︵凶 W ・凶 V︶。水面が竪坑のほぼ底まで下がってはい
一七九一年一月、バルトアウフは画期的なアイデアを思いつく。
︵
必
︶
たが、水から完全に解放されるために機械をさらに強化しなければならない。竪坑横断面はすでに利用し尽しているの
で、意気阻喪し始めている人々の顔つきは冴えない。
採掘桶を平行でなく前後して動かすようにして、新装置の梓に空間をさくようにしたのである。同年六月、ゲlテは鉱業
一七九二年九月
組合会議を召集して、この案を株主たちにはかり、承認をとりつけた。直ちに坑内が改造され、さらに口径一二・一ニ mの水
車二台とピストン口径一二Om のポンプ十四台が据えつけられる。 四台の水車はめざましい働きをみせ、
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三日、大公の誕生日にようやく最初の頁
岩が搬出されるところまでこぎつけ、
ルメナウ全市をあげての祝日となった。
ゲーテはフランス 革命 軍 と の 戦 役 に出征
中で、この祭には参加できなかった。
﹂う して 永 い 労 苦 の末、最初のフレッ
ツが採 掘されたが、 ほどなく鉱石を含ま
さらに三本の横坑が掘られ
石が含まれないことがわかったので、方
王子 切羽である 。 あ との二つの切羽に 鉱
にルイlゼン切羽、北東にベルンハルト
た。南西にカlル・アウグスト切羽、南東
竪 坑から、
ないことが判明した。そこで二三五 mの
イ
向を転じ、カlル・アウグスト切羽に 平 行
して掘り進められた。毎日四四桶ないし
二六四 ツェン トナ!の土砂が搬出され、
九三年には合計九六人の坑内労働者が従
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B 衡挺
G1G2 排水キ早
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K1K2 クランク梓
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V ゲーテのスケッチに基づ く水圧機関 1
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ゲーテのスケッチに基づく揚水用蒸気機関 1
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一八二五年には四六OO人の坑夫が働いていた。 イルメナウは規模が小さく、低価値の地下資源しか残されてい
事していた。これは他の鉱山地域に比べてかなり少ない数である。 たとえばフライベルクには千の鉱脈と無数の坑道が
あり、
︵
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ないことが次第に明らかになっていく。そのために高価な熔鉱過程を効率化することが焦点となった。ゲーテは一七八
七年の﹃第二イルメナウ報告﹄の中で、﹁ボルンの混求法︵銀合有の原訂と粗銀を水銀と出合する︶の発明﹂は、イルメ
ナウの鉱業の見通しを明るくすると述べている。 八O年にボルンが開発し、 八六年にトレプラが伝えたこの方法は最新
一七九三年
ではあったが、結局危険を避けるために伝統的な俗鉱技術が採用された。 シレジアとエルツゲピルゲでのゲ l一アの見聞
︵
必
︶
などが加味され、熔鉱過程に改良が施される。金属含有物の純化のために、砕鉱場と洗鉱場が設けられる。
四月までに、 五万ツェントナ!の頁山行と砂鉱が搬出されている。化学分析では、頁山に銅と銀のわずかな痕跡があるだ
0 ・一%の銀を合む。
シュラl
一七九三年に精錬工夫長シュラ l ダ lら
けである口砂鉱には数%の鉛と0 ・
00三%の銀を合むだけである。選鉱により一ツェントナ lの土砂から約四%の金
同合有原料がとれる。砕鉱ではコ一O%の鉛、二匹の銅、
が新熔鉱炉を築く。 八月に頁おを熔鉱し、鉱石砕粉を熔鉱するが、 かなりの金属の損失が生じただけである。
ダーは砕粉熔鉱に熟練していない。送風が強すぎるために、高熱の熔鉱用の火が得られる反而、金属粒子や塵状の砕
粉、蒸発しやすい酸化鉛などの大部分を、熔鉱炉の煙突から空中へ吹き飛ばしてしまったのである。もともと低価値の
︵
ぷ
︶
一七九六年三月、 イルメナウ鉱山は﹁消えつつある炎﹂にますます似てくると、ゲーテは述懐している。
︵
灯
︶
イルメナウの鉱μ にとっては、この損失は桶手だった。成果のない熔拡の試み、作業の停滞、株主の不信など問題は山
積している。
一七九六年十月二十五日午前二時のことである。 カール・アウグスト切羽が昭坑から両へ二一二二川掘り進まれ、高価値
の砂鉱が発見されて、 ようやく前途に昭光が見え始めた頃、この不運な鉱山に破片がJれた口 マルティンロ lダ坑が必
ワ
山
盤に見舞われたのである。 ゲーテは十一日間復旧作業に奔走する。肝心なことは新ヨハネス坑に平行している﹁忠臣フ
リードリッヒ坑を早急に通行できるようにし、採掘用の桶によって水を保全するばかりでなく、時坑内の水を横坑から
︵泊叩 J
排除すること﹂であり、﹁大量の水が落盤個所に集まって﹂危険が増大するのを避けることである。こうして A ・V−
フ
ンボルトの考案になる通風装置を備えつけ、落盤個所の上に坑井を掘って、最初の地層が除かれると、 せきとめられて
いた水が土砂を突然押し流して、横坑はふたたび復旧した。すでに一七九八年の五月になっていた。この事故によっ
て、最後まで残っていた株主たちもすっかり怖気づいた。経営続行に必要な資金が集まらなくなったのである。
一八一二年七月のことである。結局、総額七万六千タ lラーを呑みこん
ヴァイマル公園は坑道を保全しつづけたが、経験に照らして埋蔵量の残余に期待がもてず、管理のための出費も少な
くなかったので、廃坑の最終決定が下された。
で、無収倍のまま閉山されたことになる。 イルメナウ鉱山は封建制度下にあったにもかかわらず、管理体制や所有関係
は資本主義的経営の片鱗を川すものだった。 しかも特筆すべきは、技術的にめざましい成果をあげたことである。水力
3
いずれもそれは時代の制約のしからしむるところだった。
による排水において時代の先端をいっていた。事業が水泡に帰したのは、地質学上の推測に誤りがあったからであり、
低側偵の鉱石を扱う熔鉱技術が拙かったからである
一八一一二年八月二十八日、 八十二川目のゲ iテの最後の誕生日に、 イルメナウの坑夫たちは松明行列でかれに敬意を
表した。 その一週間後、友人のツェルタ lに淡々と心境を述べている。
これほどの永い年月を経てみれば、持続しているもの、消滅したものを見渡すことができる。成功したものは晴れや
かに目立っているが、失敗したものは忘れられ、諦められてしまっている。炭焼きから陶工にいたるまで、人人はみ
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