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懐疑と意味 - 日本大学文理学部

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懐疑と意味 - 日本大学文理学部
懐疑と意味
飯田 隆
1990 年 3 月
どんな事実も確実と見なさない者にとっては、自分の用いる言葉
の意味もまた確実ではありえない。1
対話篇の形で書かれたものを除けば、ふつう、哲学書は登場人物をもたな
い。しかし、例外は常にある。そうした例外のなかで私がもっとも気に入っ
ているのは、デカルトの『省察』に登場する(「登場人物」と言うことはでき
ないかもしれないが)「強力で狡智にたけた欺瞞者」である。ところが、『省
察』を実際に読んでみるとだれもが気付かざるをえないように、残念ながら、
この欺瞞者は、それほど「強力」でも、それほど「狡智にたけて」もいない。
これほど魅力あるキャラクターを作り出しておきながら、デカルトは、かれ
(?)を正当に遇していないと言わざるをえない2 。
以下で試みるのは、その創造者によってかくも不当に扱われたキャラクター
を弁護することである。ついでに言えば、この試みは、哲学的教訓を伴って
いないわけでもない。
I
「第一省察」におけるデカルトの懐疑は、一見きわめて徹底しているよう
に見える。われわれは夢をみているのかもしれないという議論に引き続いて、
強力で狡智にたけた欺瞞者の想定に至って、懐疑は頂点に達する。外界の存
在のみならず、数学的真理すら懐疑のなかに引き入れられる。
「これだけ徹底
した懐疑から、いったいどのようにして脱け出すつもりだろう」とだれもが
思うはずである。ところが、欺瞞者の想定を額面通り取る読者は、「第二省
察」で肩すかしをくらうことになる。周知のように、ここでデカルトは、欺
1 L.Wittgenstein, Über Gewißheit. §114. 黒田亘訳「確実性の問題」
(『ウィトゲンシュタ
イン全集9』一九七五、大修館書店)三六頁。
2 このキャラクターに対して、デカルト以上のひどい扱いをした哲学者がいないわけでないこ
とは記録にとどめておくべきであろう。しかも、それは、ウィトゲンシュタインの弟子のひとり
である。次を見よ。 O.K.Bouwsma, “Descartes’ evil genius” The Philosophical Review 58
(1949) 141-151. Reprinted in A.Sesonske and N.Fleming (eds.), Meta-Meditations. 1965,
Wadsworth. pp.26-36.
1
瞞者が力のかぎり私をあざむいているとしても、まさにそのように私が考え
ることによって、
「私は存在する」は確実であるとするのである。なぜこれが
「肩すかし」という印象を与えるかを説明しよう。
デカルトの企ては、かれのいわゆる「方法的懐疑」を通じて、確実な真理
を確保することにある。方法的懐疑は、それまで知識とされてきたものが、
「知識」と呼ばれるだけの正当性をもつかどうかを吟味することによって進行
する。これまで知識とされてきたものの多くは、この吟味によって、何らか
の点で欠けるところのあるものとして、
「知識」の名に値しないとされる。そ
うすると、方法的懐疑という試練を通過して最終的に確保されるべき真理は、
単に真であるということだけでその資格を得るのではない。それは、デカル
トにとって「疑いえない」真理、確実な真理としてデカルト自身が「知って
いる」と言えるものでなくてはならない。
「私は存在する」が真であるだけで
は不十分であって、デカルトは、それが真であることを確実に知っているの
でなければならない。そしてまた、「私は考えている」についても同様であ
る。
「私は考えている」が確実に真であることをデカルトは知っていなくては
ならない。つまり、デカルトの企てにとって本質的であるのは、
(1)
私は考えている
の真理性を確立することよりは、むしろ、
(2)
自分が考えているということを私は知っている3
の真理性を確立することなのである。実際、
「知っている」の通常の意味を認
めるならば、(1) は (2) からの帰結であるが、何らかの前提なしには (2) は (1)
から帰結しないのである4 。
「第二省察」の決定的な箇所を読む者にとって、デカルトの発言 (2) には、
まったく疑いをさしはさむ余地がないように見える。たとえば、デカルトが
実際には考えていないのに、欺瞞者によって「私は考えている」と考えさせ
られているということは矛盾である。しかし、何事にも、ある程度、抵抗し
てみたあとでないと受け入れようとしない哲学者ならば、強力で狡智にたけ
た欺瞞者というキャラクターに、もう少し、肩入れできないだろうかと考え
るかもしれない。
そうした哲学者になったつもりで考えてみよう。さて、次のような可能性
は排除されていないように思われる。すなわち、
「デカルトは考えている」が
真であり、したがって、そのときデカルトが「私は考えている」と発言するな
らばその発言が真となる場合でも、もしもデカルトが「私は考えている」と
3 本論とは直接関係ないが、
「自分が考えていることを私は知っている」は、
「自分が考えてい
るということを私は知っている」と異なり、二通りの読みを許すことを指摘しておきたい。これ
は、興味深い文法的事実であると思われる。
4 同様の指摘は、次にも見られる。 Anthony Kenny, Descartes: A Study of His Philosophy.
1968, Random House. p.48.
2
いう発言が表現する命題に関して思い違いをしているならば、デカルトの発
言「自分が考えているということを私は知っている」は偽となりうる。これ
が正しければ、(1) が真であるにもかかわらず、(2) が偽であるという可能性
が残されていることになる。
そして、欺瞞者が十分に強力であるならば、デカルトが何かを考えるたび
ごとにデカルトが自身の思考内容を取り違えるようにさせることは可能では
ないだろうか。欺瞞者が取りうるひとつの方法は、デカルトに、自身の用い
る言葉の意味を体系的に取り違えさせることである。
こうした可能性があまりに抽象的に思われるならば、次のような例を考え
てみるとよい。
デカルトが、ニレの木とブナの木とを取り違えているとしよう5 。つまり、
デカルトは、「ニレの木」でブナの木のことを意味し、「ブナの木」でニレの
木のことを意味するとしよう。さて、デカルトが心の中で「あそこにニレの
木がある」と言ったとすると、そのときのデカルトの思考内容をわれわれは
どう特徴づけるべきだろうか。「あそこにニレの木があるとデカルトは考え
ている」と言うべきだろうか。それとも、
「あそこにブナの木があるとデカル
トは考えている」と言う方が正しいだろうか。答えは後者であると思われる。
デカルトは、
「ニレの木」でブナの木のことを意味しているのであるから、デ
カルトの思考内容は、デカルト自身の用いた表現「あそこにニレの木がある」
によってではなく、
「あそこにブナの木がある」によって特徴づけられるべき
であろう。
今度は、同様の議論を、デカルトが「考える」という言葉が指すものに関し
て思い違いをしているという想定のもとで繰り返そう。たとえば、デカルト
は、「考える」ということで歩くことを意味しているとしよう。そうすると、
デカルトが心の中で「私は考えている」と言ったとき、かれの思考内容はど
のように特徴づけられるべきだろうか。
「自分が考えているとデカルトは考え
ている」と言うべきだろうか。それとも、
「自分が歩いているとデカルトは考
えている」と言う方が正しいだろうか。答えは後者であると思われる。デカ
ルトは、
「考える」ということで、歩くことを意味しているのであるから、デ
カルトの思考内容は、デカルト自身の用いた表現「私は考えている」によっ
てではなく、「私は歩いている」によって特徴づけられるべきであろう。
さて、
「ニレ」と「ブナ」の場合とは違って、この場合に特殊と思われるの
は、とりあえず次の点である。デカルトが心の中で「私は考えている」と言
うとき、
「心の中で言う」ということ自体が考えることを含意するならば、こ
のとき、たしかに、デカルトは考えている。したがって、この含意を認める
ならば、デカルト以外の人間が、
(3)
5
デカルトは考えている
Cf. H.Putnam, Reason, Truth and History. 1981, Cambridge University Press. p.18.
3
と言うのは正しい。それだけではない。デカルトがいかに自分の用いている
言葉について思い違いをしていようとも、デカルト自身がこのとき、
(1)
私は考えている
と発言するならば、この発言もまた正しいことになる。ただ、デカルトは「考
えている」という言葉の意味を取り違えているために、かれがそのときの自
身の思考内容を (1) によって特徴づけるならば、それは誤りとなる。つまり、
先ほどの議論により、
(4)
自分が考えているとデカルトは考えている
は正しくないのである。この場合、正しいのは、むしろ、
(5)
自分が歩いているとデカルトは考えている
の方である。
(4) が正しくないのならば、当然、
(6)
自分が考えているということをデカルトは知っている
も正しくないであろう。よって、この場合、(1) をデカルトが発言すれば、そ
れは正しいにもかかわらず、
(2)
自分が考えているということを私は知っている
とデカルトが発言すれば、それは正しくないのである。
さて、
「第一省察」で導入された欺瞞者が十分に強力であるならば、デカル
トに対して、自分の用いている言葉の意味を取り違えさせることもまた、そ
の力のなかにあるように思われる。ところが、欺瞞者に対してこのような力
を与えてしまうならば、デカルトの企てが絶望的なものとなることは明らか
であろう。デカルトは心の中で「S 」と考え、その確実であることを確信す
る。ところが、欺瞞者のせいで、デカルトは「S 」を構成している言葉の意味
を取り違えている。そうすると、
(7)
S
が実際に真であろうとも、
(8)
デカルトは S と考えている
は誤りであって、正しいのは、むしろ、「S 」とは異なる「S ′ 」についての
(9)
デカルトは S ′ と考えている
4
の方である。(8) が偽である以上、
(10)
デカルトは S ということを知っている
もまた誤りである。
懐疑を言葉の意味に対してまで及ぼすことの帰結がきわめて深刻であるこ
とは明らかであろう。みずから用いている言葉の意味までをも疑うならば、
デカルトは、自分が考えているつもりで考えていないのではないか、疑うつ
もりで疑っていないのではないかという疑いに直面せざるをえない。そして、
疑うつもりで疑っていないのではないかという疑いそのものが、その通りの
ものであるかが疑わしくなり、今度は、この疑いに対して同様の疑いが、
・
・
・
ということになる。事態はまったく絶望的である。
II
ここで興味深いのは、
『省察』に付された反論と答弁のなかでのやり取りで
ある。「第六反論」の最初に、次のような反論が述べられている。
.
.
.あなたは、自分が思惟するということを確知するためには、
思惟すること、ないし、思惟とは何であるのか、また、あなたの
存在とは何であるのかを、知っていなければならない.
.
.もし、
まだ、あなたが、それらが何であるかを知らないとき、どうして
あなたは、自分が思惟し、あるいは存在することを識りうるので
しょうか。そうとすれば、「私は思惟する」と言いつつも、あな
たは自分の言っていることを知っておいでではないのであり、ま
た、
「だから私はある」と付け加えつつも、あなたはやはり、自分
の言っていることを知っておいでではないことになるのではない
でしょうか。それどころか、あなたは、自分が何ごとかを言った
り、あるいは思惟したりすることを知ってすらおいでにならない
のです。6
他方、デカルトは、
「第六反論に対する答弁」のなかで、次のように答えて
いる。(ただし、「第六反論」冒頭の反論に対するデカルトの答えとしては、
未完に終った対話篇「真理の探究」のなかにおけるもの7 の方が、より詳細
である。)
.
.
.反省された知識に常に先行するところの、.
.
.内的思惟たる
や、思惟についても存在についても、すべての人間に本有的であ
り、もしかして先入見によって覆われてしまっていて、言葉の意
6
7
河西章訳(『デカルト著作集 第2巻』一九七三、白水社)四七一頁。
『デカルト著作集 第4巻』一九七三、白水社、三二五∼三二九頁。
5
味によりは言葉にいっそう多く注意を払うときには、自分たちは
それをもっていないと仮想するということが、われわれにはあり
うるにしても、しかし実際にもっていないということはありえな
い、というほどのものなのです。8
「第六反論」の反論者の主張は、自分が考えていることや、自分が存在す
ることをデカルトが確実に知っているためには、考えるとは何であるか、存
在するとは何であるかをもまた確実に知っていなくてはならないということ
であろう。しかし、これは、必ずしも、
「考える」や「存在する」という言葉
の意味を確実に知っていることの保証を求めることではない。反論者の意図
は、むしろ、自分が用いている言葉(あるいは、概念)についての定義的知
識をもたない者は、そうした言葉を含む文の意味(あるいは、そうした概念
を含む命題)を理解できないと主張することにあると思われる9 。だが、こ
の主張は、明らかに、誤りである。われわれは自分の用いる言葉(あるいは、
概念)の大部分に関してその定義を知っているわけではないのである。
したがって、デカルトの答弁は、文の理解のためには、その文を構成して
いるすべての言葉についての定義的知識をもっている必要はないとする限り
では正当である。
(定義的知識が、デカルトの言う「反省された知識」に属す
ることは、明らかと思われる。)だが、ある種の言葉については、その定義を
知っていることが、その意味を知っていることであると言ってもよいかもし
れない。
「考える」や「存在する」がそうした種類の言葉でないという保証は
どこにあるのか。
また、定義的知識の確実性の問題は、意味についての懐疑の一部分に過ぎ
ない。前節におけるような言葉の意味についての懐疑は、みずから用いてい
る言葉についての定義的知識をわれわれがもたないためだけに出て来るので
はない。言葉の定義の確実性だけが問題なのだとしたら、たとえば、
(11)
考えるとは X であることを私は知っている
という主張における「考えるとは X である」という命題の真偽が問題のはず
である。つまり、この命題が「考える」の正しい定義を与えているかどうか
が問題である。ところが、意味についての懐疑が及ぶ範囲は、そうした定義
的命題の真偽の問題にとどまらない。それは、「考えるとは X である」とい
う定義の正誤に疑いをさしはさむだけではなく、より根底的に、この定義を
主張するものが「X 」に現れる言葉の意味を取り違えていないかという可能
性までをも提起するのである。仮に「考える」という言葉が「考えるとは X
8
『デカルト著作集 第2巻』四八三頁。
「真理の探究」では、デカルトは、反論者の意図をもっとあからさまに述べている。そこで
デカルトの代弁者であるユードクスは、次のように言う。
「[懐疑とは何か、思考とは何か、存在
とは何か]を知るためには、われわれの精神に暴力をふるい迫害を加えて、それらおのおのの最
近類と種差とを見つけだし、この両者から真なる定義を合成する必要がある、などと考えてはな
らないのです」(井上庄七訳『デカルト著作集 第4巻』三二七頁)。
9
6
である」という形の定義を許すとしても、この形の定義を心のなかで繰り返
す者が、定義項である「X 」に現れる言葉の意味を取り違えているために、実
際にはまったく別の命題を表現していないかという可能性までが問題となる
のである。
すべての言葉を定義することは循環に陥らない限り不可能であるという自
明の事実を思い出すならば、こうした考察から、ひとは自然に次のような考
えに導かれよう。すなわち、ある種の言葉は、定義という形で他の言葉を通
じて理解されるのではなく、直接その意味が理解されるのではないか。そし
て、その種の言葉の意味については、疑いの生ずる余地がないのではないか。
対話篇「真理の探究」のなかで、デカルトは、自身の代弁者であるユードク
スに次のように語らせている。
.
.
.われわれが定義しようとすれば、かえっていっそうわかりにく
くしてしまうようなものがいくつかあるのです。というのは、そ
れらはきわめて単純できわめて明晰であるため、それらについて
は、それら自身によって認識し理解するにしくはないのです。.
.
.
10
.
.
.
[存在、懐疑、思考]は、それ自身によってでなければ知られ
えず、それらについては、われわれ自身の経験や、各人がそれら
を検討するときにみずからのうちに見いだすところの、意識すな
わち内的証言によってでなければ、納得することができないので
す。したがって、まったく目の見えない人に、白とは何かをわか
らせようとして、白の定義を与えても無駄であり、それをわれわ
れが知るためには、目を開いて、白いものを見るだけで十分であ
るように、懐疑とは何か、思考とは何かを知るためには、疑った
り考えたりするだけで十分なのです。.
.
.11
ここに引いたデカルトの主張の最後のもの「思考とは何かを知るためには、
考えるだけで十分である」は、どのように解釈されるべきだろうか。ひとつ
の自然な解釈は、ここでデカルトは、思考について次のような主張を行って
いると考えることであろう。
(A) 任意の者 x について、x が考えているならば、そのとき自
分が考えているということを x は知っている。
一般に、ある概念 ϕ に関して、それが何であるかを知っていることとは、そ
れが、どのような場合に適用され、どのような場合に適用されないかについ
て、ある程度の観念12 をもっていることであろう。そのことのなかに、ϕ が
10
11
12
『デカルト著作集 第4巻』三二七頁。
同書、三二八頁。
ここで「観念」というのは、デカルトにおけるような意味でではない。
7
適用されるケースのあるものについて、
「ϕ であることを私は知っている」と
正しく主張できるという条件を含めることは自然であろう。しかし、(A) が、
思考に関して主張するものは、概念一般についてはとうてい成り立たないよ
うな、きわめて強い条件である。思考に関しては、それが思考の主体にかか
わる限り、それが適用されうるいかなる場合についても、そうであることが
主体に認知されないことはないというのである。これが、一般に成り立たな
いことは、たとえば、
(12) 任意の者 x について、x が歩いているならば、そのとき自
分が歩いているということを x は知っている。
が正しくないことからわかる。(夢遊病者を考えればよい。)
ところで、(A) は、前節の最初で問題とした、
(1)
私は考えている
(2)
自分が考えているということを私は知っている
から
への移行を無制限に許すものである。ところが、言葉の意味についての懐疑
は、まさに、この移行への反例を提供するものであった。(A) をただ主張す
るだけでは、問題は解消されないままに残る。
それだけではない。(1) から (2) への移行が許されるということは、コギト
(「私は考えている」)の明証性の実質である。なぜコギトが疑いえないもの
であるのか。それは、自分が考えていることを私が知っている((2))からで
ある。そのことを私が知っているのはなぜなのか。それは、私が考えている
((1))からである13 。言葉の意味についての懐疑がこうした移行を違法とす
るならば、デカルトは、懐疑から脱出するための「アルキメデスの一点」を
もたないのである。
III
(1) から (2) への移行を正当化できるためには、言葉の意味についての懐疑
を拒否する正当な理由がなければならない。とりわけ、
「考える」という言葉
の意味について誤りを犯していないかという疑いを、デカルトは退けること
ができなくてはならない。
一般に、ひとは、自身の用いる言葉の意味について思い違いをしているの
ではないことを、どのようにして確かめるだろうか。この問いに答えること
はむずかしくない。辞書にあたること、他人に尋ねること、まわりの人々の
13
Cf. A.Kenny, Op. cit. p.51.
8
言葉使いを注意深く観察すること、等々であろう。自分が「ニレ」と「ブナ」
とを取り違えていないかどうかは、植物図鑑の挿絵と記述を検討することや、
樹木に詳しいひとに聞くことによって確かめることができる。
「考える」とい
う言葉についても、それが公共の言語に属するものである限り、本質的にこ
れと変わらない。
「考えてごらん」と子供に言って「何をすればよいの」と問
い返されて説明を試みる大人や、自分がいましていることは「考える」と呼
ばれることだろうかと問いかける子どもを想像することができる。
ところが、コギトに到達しようとしている段階のデカルトにとっては、言葉
の意味を確かめるための、こうしたありふれた手段は許されていない。デカ
ルト流の懐疑が、デカルトを、まさに、そのような状況に置いたのである。意
味についての懐疑は、実は、デカルト流の懐疑からの自然な帰結なのである。
言葉の意味を確かめるための通常の手段を、コギトに到達しようとしてい
る段階のデカルトが使えないことは明らかである。省察のこの段階では、デ
カルトは、感官が告げるもののすべてが虚妄であり、外界に属すると思われ
るいっさいのものは幻影であると仮定している。言葉の意味を確かめるため
の通常の方法は、本質的には、自身の用法と他人の用法との一致・不一致に
訴える。他人の言語活動の観察に依存するこの方法は、感官を通してのもの
であり、外界の存在を前提している。そうすると、デカルトは、ここで次の
ように疑ってみるべきではなかっただろうか。
私は、これまで自分の使ってきた言葉について、その意味を誤っ
て使っているのではないということを当然と考えてきた。しかし、
思いだしてみるならば、私は、子供だった頃、多くの言葉を間違っ
た意味で使っていた。また、つい最近まで、私は、
「ブナ」と「ニ
レ」とを取り違えていた。私が同じような誤りを他の言葉につい
ても犯していないという保証はどこにあるだろうか。だが、どう
して私は自分の言葉使いが誤りであるとわかったのだろうか。そ
れは、他人に教わってである。しかし、他人が告げたことが正しい
という保証はどこにあるのか。それだけではない。あることを他
人が告げたと私が思ったとしても、そうしたことが本当に起こっ
たかどうかを疑う理由がある。いや、それだけではない。そもそ
も他人の存在ということすら疑ってみるべき理由があることに私
は気付いたのではなかったか。ということは、自分の言葉使いが
間違いであると結論したとき、かつての私の結論は誤っていたの
だろうか。しかし、他人の証言をあてにすることができないとす
ると、私の言葉使いが間違っていないということを何が保証する
のだろうか。
たしかに。デカルトが自身の用いる言葉の意味について誤っていないことを保
証するものが、他人との一致ではないとしたら、いったい何が保証するのか。
9
デカルト的枠組みのなかで、この問いに対する答えを探すとすると、それ
は、きわめて大きな問題をはらむふたつの想定に行き着くと思われる。ひと
つは、デカルトが省察のなかで用いる言語が、公共の言語ではなく、デカル
ト当人によってのみ意味を与えられる言語であるという想定である。そして、
もうひとつは、そうした言語に属する語彙はすべてデカルト自身の心的内容
を指すという想定である14 。
しつこいようだが、もう一度、
「ニレ」と「ブナ」の例に戻ろう。デカルト
が「ニレ」でブナのことを指し「ブナ」でニレのことを指すとき、それが誤
りであるとすることには、デカルトがわれわれと同じ言語を用いているとい
う想定がある。(もちろん、デカルトは日本語を知らなかったであろうから、
事実問題として、この想定は、歴史上のデカルトについては誤りである。し
かし、ここまで読まれてきた読者はとうに気付かれているように、ここで問
題となっているのは歴史上のデカルトではない。)だが、デカルトがわれわれ
と同じ言語を用いているのではないという想定も可能である。そうした想定
のもとでは、デカルトの思考内容をかれの発言から取り出すためには、翻訳
という作業が必要となる。つまり、いわばデカルト語から日本語への翻訳を
介してはじめて、デカルトの思考内容を確定することができる。デカルト語
の「ニレ」は日本語の「ブナ」に翻訳されるべきであり、デカルト語の「ブ
ナ」は日本語の「ニレ」に翻訳されるべきであるとしたら、どうなるか。その
場合の結論は、もちろん、デカルトが自身の用いる言葉の意味について誤っ
ているということではなく、デカルトがわれわれと同じ言語を用いていると
いう想定の方が誤っているということであろう。
しかし、デカルトの用いる「ブナ」
「ニレ」がデカルト語に属するものであ
るとしても、この種の言葉については、デカルト語の発明者兼使用者である
デカルト自身にとってさえ不確実な要素が存在しうる。第一に、こうした言
葉は外界に属する事物を指すものである。もしも外界に属するもののいっさ
いが疑わしいのであるならば、
「ブナ」と「ニレ」をそもそも区別して用いる
必要はないのかもしれず、さらには、こうした言葉が意味をもつかどうかも
疑わしくなってくる。第二に、仮に外界が存在するとしても、デカルトが常
にブナ(=デカルト語では「ニレ」によって指される)とニレ(=デカルト
語では「ブナ」によって指される)とを区別できるとは限らない。もしもデ
カルトがこれまでにブナと出会った機会の半数では「ニレ」を用い、残りの
半数では「ブナ」を用いているとすると、デカルト語の「ブナ」と「ニレ」の
意味の違いについて、デカルト自身でさえ怪しいということになろう。
「ブナ」や「ニレ」といった外界に属する事物を指す言葉は、それが個人
的符丁として用いられる場合でも、各々の適用例において、それが本来意図
14 こうした言語がウィトゲンシュタインの問題とした「私的言語」ときわめて類似している
ことはたしかであるが、まったく同一であると断言できるかと言うと、いまの私にはわからな
い。
「同一である」とする解釈は、次に見られる。A.Kenny, “Cartesian privacy” in G.Pitcher
(ed.), Wittgenstein: The Philosophical Investigations. 1968, Macmillan. pp.352-370.
10
されていた通りに適用されているかどうかが問題になる。たとえば、「ブナ」
が、植物のある種類を指すための個人的符丁として導入されたものであると
すると、それが「同じ」種類の植物個体に適用されているかどうかが、
「ブナ」
が正しく使われているかどうかの基準となる。そして、こうした正誤の判定
においては、その個人的符丁を案出して使用している当人が必ずしもオーソ
リティを所有しているわけではない。もしも「ブナ」がデカルトだけにとっ
ての符丁であるとしても、それをデカルトが正しく使用していないというこ
とを他人が正当に指摘することは可能である。外界の事物を指す言葉に関し
ては、それが公共的に通用する言語における場合でも、個人的符丁として用
いられている場合でも、それを使用している者がその意味を取り違えていて、
そのことが発見されるという事態を考えることができる。
ここで登場するのが第二の想定である。すなわち、デカルト語はデカルト
自身の心的内容について語るための言語であるという想定である。
ひとは自身の心的内容について語る限り間違いを犯さないという主張が、
この想定の背景にある。ひとは、各時点において、自身の心的内容が何であ
るのかをくまなく知っている。デカルトの手紙の一節には次のようにある。
私の心のなかにあるもので、私が意識していないものは何もない。
15
デカルトは、自身の心的内容の各々に対して名前を与えるだけでよい。心的
内容は、いわば、すでに分節化されてあるのであり、デカルト語に属する言
葉は、このすでに存在している分節化をたどることによって意味を得るので
ある。
デカルト語に属する言葉の意味についてデカルト自身が疑いを抱いたとす
ると、その疑いは、自身の心的内容の同定に関する疑いとなる。だが、後者
の種類の疑いがあらかじめ排除されている以上、デカルトは言葉の意味につ
いての懐疑に悩まされる心配はないことになる。
だが、このような言語の想定が、(1) から (2) への移行を正当化するもので
はなく、むしろ反対に、このような移行が正当であることを前提しているこ
とは、明らかである。なぜならば、ひとが自身の心的内容に関して誤りを犯
すことはないという主張は、前節の
(A)
任意の者 x について、x が考えているならば、そのとき自
分が考えているということを x は知っている
を心的述語 ϕ 一般に拡張した
15 メルセンヌ宛の手紙、1640 年 12 月 31 日( A.Kenny (ed.), Descartes: Philosophical Letters. 1970, Clarendon Press. p.90.)このテキストは、次から知った。 M.Wilson, Descartes.
1978, Routledge and Kegan Paul. p.98. ウィルソンは、この箇所に見られるようなデカルト
の仮定を「思考の認識論的透明性 epistemological transparency of thought」と呼んでいる。
11
(B) 任意の者 x について、x が ϕ ならば、そのとき自分が ϕ と
いうことを x は知っている
という主張に他ならないからである16 。
強力で狡智にたけた欺瞞者は、外界が存在しないにもかかわらず、それが
存在するように見せかけることができる、とデカルトが考えたとしても、か
れはまだ、欺瞞者の力と狡智を十分に評価していなかったと言える。自身の
心的内容に関してデカルトは全知を誇れると考えたが、欺瞞者の力と狡智が
デカルトに自身の心的内容を取り違えさせるほどのものであることは可能な
のである。
IV
デカルトは、『省察』において、かれ自身もその創始者のひとりである近
代の科学に対して、強固な哲学的基盤を与ええたと自負した。ところが、そ
の後の哲学者の多くは、皮肉にも、デカルトの結論にではなく、かれにとっ
ては、それに至るための方法に過ぎなかった懐疑的議論の方にもっぱら注意
を払ってきた。こうして、一般の(?)哲学者は、
「第二省察」の途中までし
か『省察』を読まない、と真摯なデカルト研究者から苦言を呈されることに
なる。
『省察』を最後まで読もうともしない哲学者を弁護するつもりではないが、
こうした哲学者の態度にもまったく理由がないわけではない。まず、最終的
には神をもちださざるをえないようなデカルトの「解決」に満足できるよう
な哲学者は現在ほとんどいないということが挙げられる。だが、より重要な
ことは、どこに懐疑的議論の中心的問題点を見るかについて、最近の哲学者
とデカルトとの間に大きな見解の相違があることであろう。懐疑的議論につ
いて論ずる最近の哲学者のあいだには、次のような合意が存在するように思
われる。それによれば、いまや問題は、デカルトのように、懐疑に抗して確
実な真理の領域を確保することではない。懐疑的議論はさまざまな形を取り
うる。何らかの領域を懐疑を受け付けない領域として確保するだけでは、そ
のように特権視された領域に関する新種の懐疑的議論がふたたび頭をもたげ
ないという保証はない。懐疑的議論が出現してしまった後では手遅れとも言
えるのであって、むしろ、取るべき方策は、種々の懐疑的議論が出て来る土
壌を明るみに出すことによって、懐疑的議論の出現自体を不可能とすること
16 自身の心的内容について語るために、デカルトによって作られ、デカルトに固有な「デカル
ト語」という発想は、(1) から (2) への移行を正当化する役に立たないだけでなく、それ自体と
しても、「言語」と呼べるかどうか怪しい。しかし、この点を検討することは、ウィトゲンシュ
タインの「私的言語論」という、現在の私の手に余る領域に入り込むことであるゆえ、ここでは
言及するにとどめる。
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であろう17 。懐疑的議論の問題性をこのように捉えるならば、検討すべき最
大の事柄が懐疑の設定そのもの—『省察』においては、まさしく「第二省察」
のはじめまでの箇所—であることは理解してもらえよう。
懐疑的議論を用意する土壌とは何か。私の見るところ、そのもっとも基本
的な要因のひとつは、われわれの知的営みのすべてを命題知のモデルで考え
ることにある。
「p であることを私は知っている」という形の主張を行う者は、
常に、「きみは、p が真であると信ずるだけの十分な証拠をもっているのか」
という問いに答える用意がなくてはならない18 。これは、知識という概念に
ついてわれわれがもっている了解の一部である。この了解は、懐疑論者にも
共有されている。それどころか、これこそ、懐疑的議論の出発点である。知
の主張がそれを裏づける証拠を必要とするという指摘がまったく正当である
以上、われわれは、そうした証拠を提出する義務がある。この義務を果たそ
うとしてまず気付かされることは、われわれの行ってきた知の主張が、これ
まで正当化が要求されなかったために正当化されないままにとどまってきた
暗黙の一般的前提に依存しているということである。いまや、こうした前提
が取り出され、正当化されなければならない。しかし、このような一般的前
提を循環に陥らずに正当化することは不可能である。結局、われわれが行う
知の主張は、それを裏づけるような証拠を欠いているのである。
懐疑論者のこうした議論は、大きな説得性をもっている。しかしながら、
そのゆえをもって、懐疑的議論がわれわれの知的営みの全体に対して壊滅的
であると考えるならば、それは、そう考える者が、議論の出発点からすでに
懐疑論者の術中にはまっていたことの証である。
われわれの知的営みは、すべて、命題知の形で表現されるような項目的知
識だけから成り立っているわけではない。その基底には、命題知の形で捉える
ことがまったく不適当であるような、ある種の実践的能力が存在している19 。
そして、実践的能力に対しては、命題知の主張に対するような正当化が必要
なのではない。ある個人がそのような能力をもっているという主張は、たし
かに、命題知の主張であり、それには正当化が必要となろう。しかし、実践
的能力の行使においては、正当化の要求が生ずる余地はない。実践的能力に
ついては、疑いに常に取り巻かれながらの行使ということはありえない。実
践的能力の行使において、疑いが繰り返し繰り返し生ずるということは、そ
の能力が身についていないことの証拠に他ならない。
17 懐疑論についての最近の研究のなかでこのような態度を鮮明に打ち出しているものとして、
次の二冊が挙げられる。 Barry Stroud, The Significance of Philosophical Scepticism.1984,
Oxford University Press. Marie McGinn, Sense and Certainty. 1989, Basil Blackwell.
18 「誰かがあることを信じている場合、
『彼はなぜそう信じるのか』という問にわれわれがい
つも答えられるとは限らない。しかし彼が何かを知っているのであれば、われわれは、『彼はど
うしてそれを知っているのか』という問に答えることができなければならぬ。」Wittgenstein,
Op.cit. §550. 邦訳、一三七頁。
19 これは、もちろん、
『確実性の問題』におけるウィトゲンシュタインの基本的テーマである。
この点に関しては、M.McGinn, Op. cit. がもっとも明快に論じている。また、同様な論点を
指摘したものとして、関口浩喜「ウィトゲンシュタインにおける直示的定義の問題」(『哲学誌』
第 32 号、一九九〇、東京都立大学哲学会)を参照されたい。
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われわれの知的営みの基底にある実践的能力のなかでももっとも重要なも
のは、言語を用いるという能力である。もしも、言語の使用の基盤にあるも
のがある種の命題知であると考え、それに対して正当化を要求するならば、
その結果は、言葉の意味についての全面的な懐疑論を招き寄せることとなろ
う20 。命題知のモデルをわれわれの所有する実践的能力に対してまで拡張す
ることによってのみ、懐疑的議論は、われわれの知的営みへの脅威となりう
る。だが、懐疑がそこまで及ぼされるならば、それは、懐疑的議論そのもの
を了解しがたいものとしてしまう。
こうした事情は、次の文章に見事に描かれている通りである。
.
.
.命題や真理が探究という一連の行為のなかで果たす役割に照
準して「知識」や「確かさ」をとらえる視点では、すでに知識と
行為を隔てる概念上の障壁は存在しない。探究とは言語記号を用
いる行為、すなわち「言語行為」である。道具を使って作業をす
る人間にとって自分の理解する道具の種類、かたち、機能が疑い
えぬものであるように、探究がそのつど予想している確実なもの、
誤りえぬもののなかには、用いられている言葉の意味の理解が含
まれている。命題を構成している言葉の意味がまず疑われなけれ
ばならぬとしたら、命題をたてたり検証したりする行為は成りた
たないであろう。21
デカルトの欺瞞者は、懐疑的議論という設定のもとでは、デカルトが想像
した以上の猛威をふるうことができる。しかし、懐疑的議論がわれわれの知
的営みについての根本的誤解のうえに打ち立てられたフィクションであるの
と同様、欺瞞者もまたフィクション以外の何物でもありえないのである。
20 この点を考慮するならば、たとえば、次のような観点には容易ならない困難がひそんでいる
ように私には思われる。
「話し手が自身の言語を知っているというときに、かれが所有しているの
は、実践的知識、その言語の話し方の知識である。しかし、このことは、この知識を命題的知識
として表現することへの反論とはならない。手続きや慣習的実践を習得していることは、常に、
このような形で表現できる.
.
.よって、意味の理論において、話し手が所有している実践的能力
は、かれが一群の命題を把握していることとして表現される。話し手による文の理解は、その文
の構成要素である語の意味の理解に由来するのであるから、当然、これらの命題は演繹的に連
関した体系を成しているであろう」(M.Dummett, “What is a theory of meaning? (II)” in
G.Evans and J.McDowell (eds.), Truth and Meaning. 1976, Clarendon Press. pp.69-70)。
この論文の最初の数頁における「言語の知識」についてのダメットの議論は、互いに相反する思
考の糸がもつれたままになっているというのが、私の受ける印象である。このもつれを解きほぐ
すことは重要な課題であると思われるが、それには他日を期したい。
なお、これより後に書かれた著作のなかで、ダメットは、言語の知識をどのような種類の知識と
見なすべきか、そもそも「知識」と呼ぶべきかどうか、再考を要すると述べている。 次を見られ
たい。M. Dummett, The Interpretation of Frege’s Philosophy. 1981, Harvard University
Press. p.xiii, p.55, pp.75f., p.349.
21 黒田亘『知識と行為』一九八三、東京大学出版会、一九頁。
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