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ヒューム道徳感情の一考察
ヒ ュ ー ム 徳 感 晴 の 一 考 察 一一 同感 理 論 を 中 心 と して一― 横 山 兼 作 (― ) 周知 の如 く,十 七 世紀 か ら十八 世紀 にか けて ,英 国道徳 哲学 の主 要 な論争 の一 つ をな した ものに , 「 道徳 的菩悪 の究 極 的区別 は理性 に もとず くか, 好 み (tastC)に もとず くか」 とい う問題 が あ っ た。 カ ッ ドワース (R.Cudworh)ゃ ウォ ラス トン (W,W01lastOn)な どが 前者 の理 性主 義 の立 場 を とり,い わゆ るモ ラル・ セ ンス学 派 と呼 ばれ る シ ャ フッベ リー (Shattesbury)ゃ ハ チス ン (F. Hutcheson)な どが,後 者 の感情 を重んず る立場 に立 って いた。 ヒ ューム も この 後者 の立 場 に立 つ わ けで あ る。 道徳 の実践 的な るに比 して理性 は非 能動 的 (inac● VC,inert)で しかない こと, 道徳 性 は対 象 的真 理 の問題 で はな くて,主 観 の事実 で あ る, と して ウォ ラス トンな どの理性 の立 場 を攻 撃 す る ことか らその道 徳論 を展 開 し,「 道徳性 は判 断 され るとい うよ りむ しろ感 じられ るもので あ る。)Jと い う確信 の下 に,MOral distinctions derived from λmOral scnseと 題 したので あ る。 ヒ ュー ムは ここで,ハ チ ス ンな ど のモ ラル・ セ ンス学派 の系列 に一 応立 った ことを意 味 しよ う。 と ころで ヒュー ム において も,道 徳 的善悪 を区別す るその感 は快 と苦 に あ るとされ た。 けだ し徳 か ら生ず る感 じは快適 で,悪 徳 か らの それ は不快 で あ る故 に。 ただ それ は単 な る快 苦 のす べ てで は な く,道 徳 に特異 な感 じを さす 。 そ こで ヒュー ム は次 の よ うにい う。「 あ る行 為 や気持や性格 やが 有徳又 は悪徳 で あ る。何 故 か。 それ は,そ れ らを眺 め ると「 特殊 な快・ 不快 」 (pleaSure or unea… siness or a particular kind)を 生 じるか ら」(2)と 。 この 特殊 な快 「 苦」 が 即 ち ヒュー ムのモ ラル・ セ ンスで あ る。 そ こで今 しば ら く, その ヒュームの道徳 感情 た る 特 な快 「 殊 苦 」 に注意 してみ よ う。 ヒュー ム に よれ ば,「 快 」 の名 の下 に,実 は,様 々な感 じが あ るので あ って,例 えば名 曲 もよ き酒 も等 しく快適 で あ り,又 その快 にお いて そのよ さ も決 め られ るが, しか し酒 を和音 的 とも,曲 を よき味 とも云 い は しない。 それ と同 じ く,「 無生 /12も あ る人 の性格 や 気持 も共 に 満 足 を 与 えよ う。 だが, その満足 は異 って い るので, それ らにつ いて の我 々の気持 を混 乱 させ られ る ことはな い。 そ して一 方 に徳 を帰 し,他 方 に帰 さず にす む ので あ る。 否,性 格や行為 か ら生ず るす べ て の 気 持 が,我 々の賞 護 し又 は非 難 す る 特異 な (peculiar)感 じで もな い。 敵 のよ き性 質 は我 々 には有害 (1)Da d Hume:Treatise of Human Nature.(以 Oxford Press) (2)T。 471 下 。 T。 と 略 )P・ 470。 (Selby一 Bigge,ed 74 横 山 兼 で あ るが,そ れで も我 々の敬重 と尊敬 を起 させ るで あろ う。道徳 的善 とか悪 とか名ず け られ るその 感 じ乃 至気持 を生 む のは, あ る性 格 が我 々 との特 殊 な利害 関係 な しに (WithOut rcrcrcnct t。 。ur particular intcrcst),一 般 的 に (in gcnCral), 考察 された ときで あ る。 」 (1)ヒ ュー ム のモ ラル・ セ ンス た る「 特殊 な快苦 」 に ここで一 応 ,明 確 な規定が与 え られ たわ けで あ る。即 ちそれ は,1). 人 の性 格 , 行 為 を,2).無 私 的 (dね intercsted),一 般 的 に眺 めた とき生 ず る感 じとい う こ とにな る。 これ を,ハ チ ス ン初期 の論文 に見 られ る次 の よ うな表現 と比 べ て見 よ う。 「 我 々 は ,モ ラル・ セ ン ス と呼 ばれ るあ る崇 高 な感 (SensC)に よ って,何 らの 自然 的利益 の期待 もな いのに ,あ る行 為 をυヒ め て 快 を感受 し,そ の人 を愛 す るよ うにな るので あ る。(我 々 自身 がそれ をな した と意識す るときは 尚喜 びを覚 え るが )。 」 (4)こ の限 りで は, ヒュームの「 特殊 な快苦 」 も これ と甚 だ似 て い るとも云 え よ う。 ただ とュー ム は,ハ チ ス ンな どが い う,い わば本能 的能力 と して のモ ラル・ セ ンス を認 め え な いので あ る。我 々の義務 はいはば無数 にあ るのに,そ の一 々をかか る本能 によ って知 り,倫 理 の 数 々の教 えを全 き幼 な児 の心 に 印す ことは不 可能 で あ るとい うに あ る(5)。 そ こで ヒ ュー ム は,い わ ゆ る彼 の「 実験 的方 法」 (CXperimcntal methOd)1こ もとず き ), その道 徳 感情 の根拠 とな りう (° る,よ リー般 的な (general)原 理 を,新 た に人 間本性 の 中 に探 し求 めね ばな らなか うたので あ るЬ そ して その結果 と して要請 され た ものが, 外 な らぬ ヒュー ム の「 同感 」 (Sympathy)の 原 理 で あ った といえ よ う。 「 人 間本性 論 」 の「 道徳 篇」 (Of thC Morals)の 結 論 において, ヒ ュー ム は誇 り を もって,「 同感 は道 徳 的区別 の主 要 な源泉 で ある」 と宣 言す る こととな ったが,か くて この 同感 は , ヒュー ム道徳論 の一一 特 に初期 の立 場 の一― 中心 的原 理 とな ったので あ る。 ただ,同 感 は, ヒ ュー ム の感情論 を も貫 く甚 だ重 要 な原 理 で はあ って も,必 ず しも道徳 プ ロパ ー の 原 理で はない。従 って そ こか ら,(か か る 自然 的原 理が いか に して道徳 的感情 の根 拠 とな りうる か 、 とい う,極 めて重 大 な 問題 が提起 され る ことになろ う。 既 にハ チ ス ンが,後 年 の「 道 徳 哲学大 系 」 において,同 感 の意 義 を高 く評価 しなが らも, しか しそれ は道徳 的区別 の原 理 とは決 して な り えな い と鋭 く批判 してい るのを見 る(7)。 ヒュ_ム の道徳感 情 は,い わゆ るモ ラル・ セ ンス学派 の立 場 と極 めて微妙 な関係 にあ るといえ よ う。 以 下 , この同感 の原 理 を 中心 に,道 徳 的善 悪 の究 極的区別 に於 け る ヒュー ム道徳 感情 の特質 的性 格 を,一 応 「人 間本性論 」 の立 場 に限 って少 しく考察 して見 よ うと思 う。 (3)T,472 14) F. Hutcheson : An lnquiry concerning MOral Good and Evil.(Selby― Moralists.p,72) Bigge ed, British (5)T.473 (6)拙 稿「 バ トラー徳論 の一 考察―良心 と 自愛 の問題 の根底 に あ るもの一 」 第 1号 )参 照 (7) F. Jttutcheson :System of MoraI PhiIOsOphy, p. 19f, 53. (一 関工 業高等専 門学校研究紀要 ヒユ…ム道徳感情 の一考察 (二 ) ヒュー ムの道徳感 情 た る「 特殊 な快苦 」 とは,上 に見 た如 く,性 格 や行為 を無私 的,一 般 的に眺 めた とき生ず る感 じの こ とで あ ったが, ここに実 は ヒュー ム道徳感 情 の特徴 的な側 面 が 明 らかで あ る ともいえ る。 即 ち, ヒュー ム にお いて は,「 徳・ 悪徳 は,音 や色 や,熱 や ,冷 た さに比 較 出来 よ う。 これ らは……対 象 に存す る性 質 で はな くて,心 の 中 の知覚 にす ぎない」 (1)と す るいわば甚 だ 主観 的な立場 にあ りなが ら, しか し他 方 で,そ の感 じ,そ の判 断 は,あ くまで無私 的,客 観 的でな くて はな らぬ と強調 されて い るので あ る。果 して この二 つ の側面 が共 に成 り立 ち うる ものか は甚 だ 問題 で あろ うが,そ の両側面 の強調 は, ヒュー ム道徳論 その もの を貫 く特色 を もな して い るといえ る。 ヒ ュー ムに おいて要請 され る同感 の原 理 は,い わば この二 つ の側面 を結 びつ け る役 を果 さな く て はな らない もの といえ よ う。 そ もそ も, ヒュー ムの同感 とはいか な る 原 理で あ るか, 暫 く ヒュー ム 自身 の 語 ると ころを き こ う。 同感 につ いてい わばは じめて 語 られ る「 情緒 篇 」 (OF the PassiOns)第 一 部 第 十 一 節 におい ぽ)「 人 間本性 の性質 の で て, ヒ ューム は次 の如 くい う。 中 ,そ れ 自身 において も,又 そ の結果 にお いて も,他 人 に同感 し, コ ミュニ ケ ー シ ョンによって その性 向や気持 を受 け とる性癖 ―― それが い か に我 々 自身 の もの と異 って いよ うと,い な反 対 で さえ あ って も一一 この性癖程 ,顕 著 な もの はな ぃJ(3)と 。 これ によ って み るに, ヒュー ム の同感 とは,何 よ りも,我 々の情緒 ,気 持 の コ ミュニ ケ ー シ ョン と して と らえ られ て い るといえ よ う。 ヒュームの感 情論 ,道 徳論 を通 じて,同 感 が 極 め て大 きな意 義 を もつ の も, この機能 において に外 な らない。 この コ ミュニ ケ ー シ ョンの具体 的描写 が「 道徳篇 」で次 のよ うにな され て い る。「 等 し く張 られた弦 において,一 方 の運 動 が他 の弦 に伝 わ る如 く,す べ て の人 の感情 はた ちど ころ に一 人 の人 か ら他 の人 につた わ り,あ らゆ る人 に対応 的 運 動を生 む。」 (4)ヒ ュ_ム において,注 目され るのは, この伝達 され る情緒 ,気 持 の 中 に,我 々 自 身 につ いて の他人 の気持や意見 (OpiniOn)も 合 まれて い る ことで, これ は特 に 「 人 間本性論 」 の 立 場 が後 の立 場 よ りも,よ り顕者 な特色 をな してい るといえ る。「 我 々の想像 は容易 にその位 置を 変え る。 そ して我 々 自身を他 人 に見 え る通 りに眺め るか,他 人 を他人 自身 の感 じるままに考 え,か くて些 か も我 々に は属 さず,た だ 同感 に よ って のみ あず か り得 る気持 に入 り こむ ので あ る。」 (S)ヒ ュームによれ ば,「 人 の心 は互 い に鏡 」 ① で あ るとい う。 我 々はか く同感 によ って 他人 の気持 に (1)T.469 12)「 人間本性論」の「情緒篇」と「道徳篇」は密接な関係にあると思われI考 察に当って特に区別 していな 理 理 2景 参 学 倫 会 学 年 報 第 照 盆 暫鞍縦篭認筆 fr蠣 柑靴g驚 愁 江 乳 ぎ 晩 宇 よ 『 (3)T.316 い 。 14)T,576 (5) T. 589 (6)T.365 76 横 山 兼 作 入 り こみ ,そ こか ら自己を眺め,互 いにその心 を交 流 し合 ってい る こ とにな る。 ヒュー ムにおいて, この よ うな同感 の,即 ち心 の コ ミュニ ケー シ ョンのメ カニ ズ ムは,そ の観念 一― 印象 の体系 に もとず く。即 ち印象根源主義 とも呼 ばれ る ヒュー ム の立場 において,観 念 (idCa) とは「 印象 」 (impression)の 淡 い ものに外 な らず ,そ こか ら,あ る情緒 の観念 が接近 (COntiguity) や 類似 (rcsemЫ ancc)の 関係 において あ らわれ る とき, その観念 は直 ちに印象 に転換 され る こ と (7)「 私 が あ る人 の声 や 身振 りに に な る。 この観念 の 印象 へ の転換 が外 な らぬ 同感 なので あ る。 情緒 の結果 を見 ると,私 の心 は直 ちにそ の結果 か ら原 因へ と うつ り,そ の情緒 の極 めて生 き生 き した観 念 を形 づ くり,す ぐ情緒 そ の ものに転換 され るので あ る」。結果 か ら原 因へ とた どるのみ な らず , (8)こ のよ うに して 々 は 原 因か ら結果 へ と至 る こと,勿 論 で あ る。 ,我 々 自身 には直接現前 しな い 我 他 人 の気持 を感 じ,同 じよ うな情緒 を もつ ことにな るわ けで あるが, ヒュームに よれば,人 類 間 に は大 きな類似性 が あ るた めに ,(り 同感 は全人 類 に及 び,時 には人 間を越 えて まで及 ぶ とい う。(1。 ) と ころで, ヒュー ムの 同感 とは上 のよ うな コ ミュニ ケ ー シ ョンを さす な らば,そ れ は他人 の気持 を その ままに うけ と り, ヒュー ム的な分 け方 でいえ ば,快 適 な気 持 か らは快適 な気持 を,不 快 な気 持 か らは不快 な気持 を受 け とる ことであろ う。 この限 りで は,同 感 はいわば,「 無私 的」 で あ り , そ の こ と 自体 に Cgoの 操 作 の入 る余地 はないで あ ろ う。 一 体 ,「 同感 において は,我 々 自身 は い か な る情緒 の対象 で もな い。 又 ,I我 々の注 意を我 々 自身 に 固定す る何 もの も存 しない。」 (11)従 っ て ,か くの如 くに して他人 の気持 に入 りこみ,或 は他 か ら注入 され るとき,そ れ は 自己 に 自然 な , 力 至固有 の気持 とは当然異 質 の もの とな るで あろ う。 特 にそれ は,「 比 較 」 (COmparison)の 原 理 ―一 ヒュー ム において , 甚 だ利 己的な原理 で, 嫉 妬 や悪 意 の源 ともな るもの とされて い る一一 と j`あ る は,端 的に対立することにもなる筈である。 町ヶ とき,義 )1と 「花火あ快t&こ れを之あ装ま ゲ 芳 自熱た決を二えな。をしモ之あ議 ,義 を邑身あと比扶きれを善を生心。技あ善1&,之 れ邑身 たおお老老えれt&義 好 善基あるか, じふじ 義ガ自身あ睾毛あ歳ぶを増じ,義 だ 棋を二えな。 」 (プ 1と Iと 1と 1と (12) ただ, ヒュー ムの 同感 は, この よ うな diSintcrestedな コ ミュニ ケ ー シ ョンで はあ って も,そ れ は 甚 だ受 動 的 で あ り,い わ ば受 動 的感染 を意 味 し,そ れ 自体 は必 らず しも能 動的な,愛 他 的,仁 愛 的 原 理 とは され て い ないので あ る。後 の「 道徳原理研究 」 (Enquiry cOnccming thc Principles of MOrals)の 立 場 とちが って,同 感 と「 人類愛」 (10VC Of mankind,humanity)を ヒュー ム はは っき りと区別 し,か か る人 類愛 は存 しな い と して 次 の如 くい う。「 一 般 的 に云 って,人 間 の心 には,個 人 的な性質や , 我 々 自身 へ の奉仕や関係 をはなれ た, 只 単 な る, その もの と して の人類愛 は存 し 7 3. , 6 7 5 7 3. T, 8 . 4 T. 6, 7 5 T. T。 0 4 3 m口9 側側 側 T, T. 320, 385, 427 ヒユーム道徳感情 の一考察 77 な い,と 断言 出来 よ う。 な る程 ,い か な る人 で あれ,い な,ど のよ うな生 き物 で も,我 々の近 くに もって来 られ,生 き生 き とあ らわれて,そ れ の幸・ 不 幸 が何 らか の程度 で我 々に影響 しないよ うな も の はない。 しか し, これ は単 に同感か ら来 るのであ って,人 類 へ のかか る普遍 的愛情 の証 左 で は な い。 ……・我 々 は仲 間を一 般 に愛 す るが,そ れ は他 の娯楽を愛 す るの と同 じで あ る。 」 (13)同 感が このよ うに,必 らず しも愛他 的原 理 でないのは,そ の同情 , あわれみ (pity,COmpassion)の 考 え 方 に も示 されて い る。 勿論 , ヒュー ム の同感 は,そ のいわゆ る同情 の源 と もな りうるもので はあ る が ,同 感 それ 自体 が即 ち仁愛 的原 理 で はない とされ るので あ る。 それ が,仁 愛 的原 理 とな るのは , 他人 の不 幸 が大 きい か,不 幸 へ の同感 が強い ときで ,そ こで は,そ の ,伝 達 に もとず き,配 慮 され る 方 向が未来 に まで及 び ,か くて ,仁 愛 の原 理 と同 じ方 向を とる こ とによ って,即 ち「 同方 向 の原 理 」 (thC prindple of parallel dircction)に よって,愛 他 的行為 とな るにす ぎない とい う(10。 従 って ,も し他人 の不 幸 が僅 かで あ るか,同 感 が弱 い ときは,逆 に「 彼 の快 へ の 同感か ら愛 が生 じ,不 快 へ の それか ら憎 が生ず る」 の原則 によ って,む しろその人 へ の憎悪や軽蔑 にな るとい う。農夫 や召使 い や 不 毛 の地 の住人 な どに対 す る軽蔑 が それで あ る (` 5)。 ヒュ_ム の 同感 は ここで は ,愛 他 的原 理 ど こ ろか ,利 己的原 理 で あ るか の如 き,方 向を とってい るといえよ う。 そ こか ら,例 えば PfiCidCrcr な どは,「 殆 ん どおおわ れない,む き出 しの エゴ イズ ム 」(1の と評 した程 で あ る。 それ は極端 で あ る と して も,Albccの 指 摘す る「 一 触 れで エゴ イ ズム に突 き落 され る」(17)可 能性 は否定 出来 ないよ うで ある。 か よ うに見 て くると, ヒュー ムの 同感 は利 己,利 他伺 れ の方 向 に も向 き うるといえ るが, しか し これ は同感 その もの か ら結果 す るとい うよ りむ しろ,同 感が他 の欲求 の体系 と密接 にかか わ ってあ る ことによ るので はなか ろ うか。 同感 の コ ミュニ ケー シ ョンそれ 自体 は利 己,利 他何 れの原理 で も な い。少 くとも,か か る無私 的 コ ミュニ ケー シ ョンに おいて,道 徳 の原 理 と して要請 され た筈 で あ る。 そ こで 次 に,少 しそれ るが,同 感 と Cgoと の 関係 をいわ ば仮説 的 に,考 察 して見 よ うと思 う。 (E三 ) 同感 において は,他 人 の気持 をそのままに受 け と り, そ こに egoの 操 作 は入 らな い とは先 に見 た と ころで あ った。 後 に も見 る如 く,我 々 自身 の利害・ 快苦 と全 くかか ゎ らない,客 観 的 に して普 遍 的な視 点 の根 拠 と して, ヒューム はや は り同感 に訴 えてい るのを見 る。 同感 その ものの客観 性 を 認 めな くて はあ りえな い こ とで あろ う。 と ころが, 例 えば道 徳 的判 断 の根 拠 と して 同感 が導入 さ 19 T,481,cf,586 lo T。 384 19 T.384 ff tO Pfleiderer,E:Empirismus「 und skepsis in David Hume's PhilosOphie,S.338 11o Albee:HistOry of Utilitarianism,P.96 78 横 兼 れ,そ の説 切に当 ってい われ て い ると ころ によると,「 同感 は我 々を我 々 自身か ら遠 く連 れ 出 し , 他人 の性格 の 中 に,恰 もそ の性 格 が我 々 自身 に損得 を もた らす傾 向を もってい るか のよ うに,そ の ときのよ うな快・ 不快 を起 す ので あ る。」 。)こ こに は,直 接 的 には勿論何 らの利害 関係 もない ので あ る。 しか し, ここで果 して他人 の気持 を他人 に属す る気持 と して 感 じて い るといえ るで あろ う か 。む しろそれ は,恰 も我 々 自身 の もので あ るか の よ うに,「 我 々 自身 の関心事 とさせ て (?)う 」 け とって いないで あろ うか。 ヒュー ム によれば,我 々 は 自分 に何 ら下」害 関係 な き 富者 を も賞 讃 し,尊 敬す るが,そ れ は同感 によ って その 富者 の味 う満足 にあずか るか らで あ るとい う。(3)そ れ は 富者 そ の人 の快 と してで あろ うか。 そ もそ も, ヒューム において は,愛 憎 の体系 は快 苦 に もとず く。 もっと も ヒュームの , 立 場 を明 確 に「 快 楽主義」 と規定 して しまえ るか は甚 だ問題 で はあ るけれ ども ,(4)し か し ,「 人 間精神 の主要 な ス プ リング乃至発 動原理 は快 と苦 で あ る」。)と す る彼 の立 場 において ,快・ 苦 が と りのぞか れ る とき情緒 の殆 ん どは不 可能 とな る しか ない。。)し か もそ の快苦 は,伺 も他人 の 快苦 で はない。 自負 ・ 自卑 は勿 論,愛 憎 において も,そ れ は他 か ら与 え られ る自分 の快苦 で あ る ヒ 。 ュームによ ると , 人 が我 々の親切 を うけ ることにな るか悪 意 に さ らされ るか は,我 々の か 彼 らうけ る快苦 によ るので (7)道 あ り,そ れ に正 確 に比 例 し,対 応 す るとい う。 徳 的 の敬重 (CSteCm), 尊敬 (rcspCCt)や 軽蔑 (COntCmpt)も 愛 憎 の一 種 で あ る(3)か らには,そ れ の もとず く快 苦 も, その 限 りでは, 自分 の快 苦 でな くてはな らぬ理 となろ う。 後 に も見 るよ うに, ヒュームに おいて 同感 が要 請 され た第一 の も のは,究 極 的価値 決定 のため とい うよ り,利 害 関係 なき人 か らの快苦 をいか に して感得 す るか に あ る如 き印象 を うけ る。 そ こか ら,我 々 自身 に何 ら関係 な き人 の す ぐれ た性質 を賞讃 す るときで も 「 彼 との交 わ りは私 に とって 満足 で あ る」 )と い う感 まで否 定 されて はいないので あ る。 ヒュー , (つ (1)T.579 (2)T,386 (3)T.357ff 14)Greenの 古典的解釈 とは反 対 に , ヒュー ム は快 楽主 義で ない と る す 見方 (特 に心 理 学的快楽主義 の面 ) も近年 はか な り多 い よ うで ある。 N. Ko Smith :The Phi10sOphy of David Hume. p. 163 ff McCilvary:Altruism in Hume's Treatise.(Phi10sOphical Re '::浄 as,だ ::il i黒 暫 ・ 寺 :tuす 署 篭盈と峰還 6(・ ,∫ )。 ew VOl xil No.3) (Mind.vЛ xxx) ezl tise. P, 70ff などそ うでぁるが,そ の主な論拠は,大 体二つに要約 出来 よう。一 つは ヒユームに於いて快苦が欲求の全てでな く,と しろ快苦を生み出す よ うな 自然的本能が あるとい う,Green で も問題 となった箇所 (T.439)で ぁ り, 他 の一 そも も快苦 求の 目的ではな く oE耳侵Ⅲ 喬 瑠 1管 に そ れ い も と 輛配 ず 韓Φ 配 酵 ぞ (6)T,438-9〕 9て (7)T.384 ど 軸 躍 鞘 ;雪 ュ t'。 力 と 。 霧津継21n追 換 〕 涯 露 櫂 ズ 怒 p.113) 鳥 電 孟i郡 ヒユーム道徳感情 の一 考祭 79 ム の同感 は この よ うに,他 人 の気持 を 自分 の ものの如 く感ず る能力 で もあ る。 しか もそ こに egoの 操 作 が入 らな い となれば, これ はいか に解決 すべ きで あ るか。 同感 のか か る性格 は,直 接的 には恐 らくそ のメ カニ ズ ムに よ るで あろ う。 同感 とは観 念 の印象 へ の 転換 に外 な らないが,そ の転換 は実 は ヒ ュー ム によ る と,想 像 に もとず くので あ る ヒュームに 。 おいて 同感 とはいわば怒像 の産 物 で あ る。想像 の力 (fOrcC Of imaginatiOn)(空 想 の活気 V acity of fancy)1こ よ って, 実在 していない気持 まで伝達 され るの もそれを示すわ けで あ る。「 我 々 は コ ミュニ ケー シ ョンに よ り,実 際 には存 せ ず ,只 想像 の力 によ って のみ予想 出来 る他人 の 快苦 を感 ず )。 _ム る こ と, しば しばで ぁる ° ヒ の 同感 は,批 判 的 に云 うな らば, 必 らず しも コ ミュニ ケ ュ 」 ー シ ョンで ないか も知れ ぬ。転換 され る観 念 は或 は他人 の もので も,転 された 換 結果 と して の 印象 は ,実 は想像 に も とず く自分 の気持 で しか ない ともいえ るか らであ る。大成 功 して もむ しろ意 せ 識 (ユ ざ る如 きを見 て 却 って我 々は快感 を感受 し,我 が前 で愚行 を演 じなが ら恥 とせ ぬの に, これ を見 る 我 々 自身が赤面す る如 き,明 らか に コ ミュニ ケー シ ョンの 断絶 を示 してい る。 それ は ヒュー ム 自身 によ って も,か くか くの事態 にはか くか くの情緒 が結 びつ くと経験上知 って い る こ とによ る,(11)と 説 明 され てい る。 もっとも,そ の こ とによ って 同感 の コ ミュニ ケ ー シ ョン的性格 が消 え るわ けで は な い。何 故 な らば, ヒュームに おいて は,か か る実際 と不一 致 な如 き 同感 は偏 した (partial)種 類 の もので あ り,(12)普 通 は, 我 の感ず るものは人 も又 感ず る ,03)と ぃ ぅ人 間本性 の大 きな類 似性 , 斉 一 性 によ って,与 え られ た 同一 観念 か らは同一 印象 が結果 し,同 じ気 持 とな るか らで あ る 。 ヒュームの 同感 とは結局 ,想 像 の力 によ って 自己を脱 出 して他 に同化 し,他 人 の気持 を恰 も自分 の ものの如 くうけ とる能力 を さす ことにな ろ う。勿論 ,同 感 によ つて 自己 の全 てが おおわれて しま うわ けで はないが,い ゎゆ るア トミックな 自我 の体系 の一 方 に,そ れをはなれて 他 と交 わ り, しか もそれを 自分 の気持 の如 く感 じて い る領域 の あ る ことは注 目に価 い しよ う。 しか ヒ ュー ム によれ も ば ,我 々の 中 に 占め るその同感 的領域 は,甚 だ広 い とされ てい る 。「 憎悪 ,怨 み,敬 重 ,愛 ,勇 気 ,歓 喜 ,昼 うつ, これ らすべ ての情緒 を私 は 自分 の 自然的気質か ら感ず るよ りも, コ ミュニ ケ ー シ ョンか らよ り多 く感ず る。」 (14)同 感 はた しか に想像 の産 で はあ るけれ 物 ど に 強 くなれ ば, 自己の気持 その もの とな り (16), も,そ れ は あ る程 度以上 か くて同一 国家 の気持 や考 え方 の大 きな斉 一 性 も それ によ る ことにな る (1)。 と ころで,我 々がいか にか か る同感 の影 響 を うけ,そ れ に左右 され るか ば しば語 られて い るところで あるが,そ の 中で も,我 々 tO T,385 ta T.371 1121 T.ib 4o T,317-8 10 T,ib l151 Cf. T. 594f l161T.316 は, ヒュー ム において し 自身 につ いて の他人 の気持・ 意見 程 ,大 き 横 IL 兼 作 な力を もつ もの はない。他人 の 目に いか に動 か され易 い存在 で あ るかを ヒュー ム は多 くの例 を あ げ て 説 明す る。例 えば,「 も し君 が あ る人 に,あ なた の息 は くさい と云 えば,彼 自身は それが伺 ら厄 介 で はな くとも,無 念 に思 うで あろ う。 ……我 々は この 同感 を,我 々 自身 には便利 な性 質 な のに た だ他人 を不 快 に し,他 人 の 目に不快適 に うつ るとい う,た だそれだ けの理 由で それ に不快 にな つて しま う程 ,遠 くまで及 ばす ので あ る。 」(7)何 故 に他人 の気 持 へ の想像 によ る コ ミュニ ケ ー シ ョン に,か くも影 響 され,ふ りまわ され るので あろ う。 我 々 は ここに,「 傲慢 な人 は他人 の軽蔑 には 甚 だ 衝撃 を うけ る」 (18)と ぃ ぅ例 に要約 され る如 き,極 めて主 我 的な 自我構 造 と, しか しそれ の 甚 だ 弱 い基盤 とを見 るで あろ う。 そ こか ら例 えば,「 自負 (p de)と 自卑 (humility)の 対象 は常 に 自 我 (SClf)で あ る。 そ の情緒 が ど こを見 よ うと,依 然 と して我 々 自身 に 目は 向け られて い る」 (19) とされ る主 我 的な 自負 も,実 はそれ の二 次的 原 因で しか ない他人 の評判 ,他 人 の気持 に支 え られ な い とき, 殆 ん ど力 を もたない ことにな る(20)。 感情 論, 更 には道徳 論 に おけ る ヒュームの 主我 的 な 面 は,「 悟性 篇」 (Of hC Understanding)の 自我論 とは明 らか に矛 盾 をなす では あ ろ う が ,た だ, ヒ ュームの 自我 はいわば「 外的 自我 」で しか な く,理 性 的,統 轄的 自我 は ヒュームで は 存在 し な い。 その 自由意志 の問題 ともかかわ ることで はあろ うが,そ の 自我 は,た しか に だ主 甚 我的であ り乍 ら, しか も依存 的,受 動 的 で しかない。 自我 の 自覚 に乏 しいだ け に,真 正 の愛 も真正 の 存在 しな い ともいえ るが (ヒ 自愛 も ュームは 自愛 を本 来 的意味で は否定 した(21)),た だ, それだ け に ヒューム において は,他 に同化 されて しま う領域 も又大 きい ともいえ , るで あろ う。他 と連 結 して の み生命 を もち うるともいえ る構 造 を,以 下 の有名 な例 はよ く示 してい るよ うであ る 。「 我 々は社 会 と関連 の ないいか な る願望 を も抱 きえない。完全 な孤独 は恐 らく我 々の蒙 りうる 最大 の罰 で あ る。 いかな る快 も仲間 か らはなれて楽 しむ ときは, しおれ て しまい,苦 は全 て ,よ り残 忍で耐 えがた く な る。 自負 や 野 心や 貧慾 や,好 奇 心や,復 しゅうや,色 情 な ど,他 の どの よ うな情緒 にか きたて ら れ よ うと,そ れ ら全て の魂乃至生命原理 は同感 で あ る。 も し我 々が他人 の考 えや 気持か ら全 くはな され るな らば,そ れ らの情緒 は何 ら力を もたな くな るで あろ う。 自然 のすべ ての 力 を合せて,一 人 の人 に奉仕 させ ,従 わせ よ。彼 の命 で太陽を のば らせ ,又 没 せ しめよ 。 海 も河 も彼 の好 む が まま に 流 れ させ ,大 地 には彼 に役立 ち,又 は快適 で あ る全 て の もの を 自 ら供給 す る如 くさせ よ しか し彼 。 は 尚依 然 と してみ じめで しかな いで あろ う。彼 が 自分 の幸福をわか ち,そ の人 の 敬重 と友情 を享受 出来 るよ うな少 くとも誰 か一人 が与 え られない限 りは。 」 (22)こ こに我 々が いか にア トミックな 自 己を越 えて社会 的存在 で あ るか,我 々の情緒 がいか に社 会 的所 産 で あ るかが され た 示 といえ る。 そ T, T. T. T. 9靱別62 93 8 6 5 3.33 側硼醐卿側例 T. T. ヒユーム道徳感情 の一考察 31 して,そ の生命原理 が 同感 で あ るとされ るとき, ヒ ュー ムの同感 は実 は単 な る コ ミュニ ケー シ ョン に とどま らず,我 々の社 会 的な存在構造 その もの と深 くかかわ って あ る ことを も示 して い るで あろ う。 ただ, ここで も見 られ る如 く,社 会 的存在 とはい って も,そ れ は必 らず しも能動 的,愛 他 的な 意 味 においてで はない。上 に述 べ た如 く,む しろ甚 だ受 動 的,依 存 的 で あ り,積 極 的 にいえば,一 体 的,更 には連 帯 的 ともいえ る在 り方 で あ る。 と ころで, この よ うな,主 我 的 に して しか もいわ ば 連 帯的な存在構 造 を,先 に見 たあの コ ミュ ニ ケー シ ョンの特色 あ る領域 ,即 ち想像 によ って 自己を脱 出 し,他 との コ ミュニ ケ ー シ ョンに い お て しか も自己 自身 の如 く感 じて い る世界 とを考 え併せ , ここに「 比 較 」 において あ らわれ る甚 だ主 我 的面 と,「 同感 」 において あ らわれ る一 体 的同化 的面 との二 重性 が,実 は ヒュー ム に おけ る 自我 の構造 その ものをな す と見 る こ とも或 は 出来 るので はあ るまいか。勿 論 ,同 感 は皆 同 じで はな く , それ に応 じて主 我 的 自己 との関係 も異 な るが,程 度 の差 は あれ , 自我 の構 造 その ものの 中 に,い わ ば他人 で あって他人 で ない一 体 的領 域 を合 む ので はなか ろ うか。 も しそ うで あ るな らば,同 感 が社 会 的存在 の生命原理 とはい って も,よ り適 切 には,そ の生命原理 は同感 その もの とい うよ りむ しろ ,そ れ の基 く連帯で あ るともいえ るで あろ う。我 々は親戚 ,知 人 の軽蔑 には耐 えが た く,そ こか ら 脱 出 して見 知 らぬ人 の 中 に入 らん と しr23ち 居 させ られ るはな べ て の罰 の最 或 は孤独 は耐 えがたい とい って も, た るもの(21),と しか し憎 む者 と同 ぃ われ る とき, こ こに連 帯 的関係 によ る同感 の強 さ と しか しそ の 同感 に あ らわれ た連 帯 の断絶 の意識 にお け る耐 えが たい苦痛 とを見 出す よ うで あ る。 ただ,も し ヒュームの 自我構造 が,か く主 我的面 と連 帯 的面 との二重 をな し,同 感 はその連 帯 に深 くつ らな るもの となれ ば,実 はそ こに こそ,甚 だ問題 を も合 む といわ な くて はな るまい。何故 な ら ば,そ もそ も同感 は 関係 に左右 され るもので あ ったか らして,そ の関係 に応 じて同感 は異 る ことに な り,つ ま りは,連 帯 の度 に応 じて コ ミュニ ケー シ ョンは同 じでな くな るか らで ある。 コ ミュニ ケ ー シ ョン 自体 は受 動 的,diSintcrestedで は ぁって も,そ の コ ミュニ ケ ー シ ョンの さも 強 ,主 我 的 自 己へ の影響 も,現 実 的 には,関 係 によ って ,つ ま りは様 々の連帯 的関係 に応 じて異 るで あろ うか ら で あ る。 や がてみ る同感 の甚 だ しい偏頗性 もそれ によ るで あろ う。例 えば,恋 人 を非難 されれ ば甚 だ不快 にな り,(25)親 戚・ 知人 の幸・ 不幸 は単 に 同感 の力 だ けで恰 ももともと 自分 の もので あ るか の如 くこれを喜 び,又 は悲 しむ とい う。 t26)同 感 は ここで は愛 の原理 とな る。 その結果 ,「 我 々の 他人 に対 す る親愛 の情 は全 部集 めて,利 己的な るものの全 てを越 さない人 はまれで あ る」 (27)と ぃ われ る程 にな り, ヒ ュー ム の利他主義 を根 拠ず け るが, しか し,後 に も見 る如 く,全 く無 関係 な 見 知 ぬ人 の幸・ 不幸 に 同感 して もそれ は単 な る想 像 の域 を越 えず ,そ の人 の ためにび た一 枚 た りとも 2 2 3 9 8 3 7 8 4 T. 狂 上 4 2 3 T, 0 7 4 硼閉開鰤閉 T. T. 横 兼 作 提 供 しは しない,と し,ゃ は り限 られ た仁愛 の考 え方 と矛 盾 す る もので ない とい う。 ('3)不 J害 に も とず く人 為 的な (artiaCial)正 義が な く,人 間本性 の 自然 の ままに従 うと ,「 社 会 は直 ちに分解 し , 全 て の人 はあ の野蛮 で孤独 な状 態 に,即 ち社会 に於 いて想像 出来 る限 りの悪 い状 態 よ りも更 に悪 い 状 態 に お ち こむに ちが いな い」 (29)と ぃ ぅ程 , ヒ ュー ムは利 己的面 も見 てい るが,同 感 はそれを些 か た りと も変 え る こ とにな らな い。 ヒュー ムの 同感 は,そ の連帯性 と,主 我 的 自己へ の関係 によ っ て ,愛 に も,利 己に も通 じるといえ よ う。次 に同感 のその関係 によ る偏頗性 とその訂正 の問題 を見 て見 よ う。 (Eヨ ) 先 に も述 べ た如 く,同 感 は接近 ,類 似 の 関係 に支 配 され るもので あ った。従 って その関係 に応 じ て ,同 感 の感 じも又変 動 を免 れ ない。我 々は例 えば,見 知 らぬ人 よ りは知人 に,敵 よ りは味方 によ り多 く同感す る。 と ころが我 々の道徳 的是 認や非難 はかわ らない。遠 くの国 のよ き性質 も身近 か の 人 と同 じ く賞讚す る。我 々の道徳 的菩悪 の区別 は実 は,同 感 によ らな いので はあ るまいか一― 。「 道徳 篇」第 二 部 に於 いて ヒュー ムが まず 問題 と した の は これで あ った。 これ は同感 の体系 の致命 的 な難点 ともな る ものだ け に, ヒュー ム の最 も苦慮 した と ころで あ った と思 われ る。 と ころで ヒュー ム は,我 々の おかれて い る状 況 はたえず変動 し,他 とそれぞれ 特殊 的関係 に立 っ て い るので あ るか ら,も し 自分 の特殊 な視点 (poculiar pOint Of ew)の みか ら人 を視 るな らば ,わ け のわか った交わ りは出来 るものでない と して,次 の如 くい う。「 このよ うなたえ ざる矛 盾 (ω 2‐ サ 紹肋 彦 力η ∫ )を 防 ざ, 物 事 のよ り確 固 と した (0,ル )判 断 に 達 す るために,我 々はあ る不変 不動 の α 解′ (∫ ″ ウ),一 般 的な (v″ ♂ )視 点 を定 め,思 考 に際 しては,現 在 の立場 が ど うで あれ,我 々 自身 を常 にその視点 の 中 に お くので あ る。 …… このよ うな反省 (reflCXiOn)に よ って,そ の瞬間 的な見 か けを訂正 (COrrCCt)す るので あ る」 と(1)。 これが ヒュー ムの同感 の訂正 で あ る。 ここで道徳 的区別 にあ る種 の理 性 乃至知性 の導入 され た こ とが注 目され るが, この際 まず驚 ろ くこ とは, この よ うな不変不動 の視点 の下 に於 いて は,先 に無 私 的 コ ミュニ ケー シ ョンとみた 同感 が いか に も利 己的原理 で あ るか の如 く,印 象 ず け られ る ことで あ る。 ヒュー ムは ここで更 に くり返 し,道 徳 的判 断 は我 々 自身や友人 の利害 の観 点か らな され るべ きでない │し , このよ うにつ け加 え る。「 我 々はあ る程度 の利 己性 を人 間 に許 容す る。何 故 な らそ れ は人 間本性 か ら分 か ちが た く,我 々の組成 に固有 で あ るか ら」と(2)。 後 に見 る如 く,結 局 は又 同感 に訴 え るので あ るか らして,同 感 その もの を,か く利 己的原理 と して ヒュー ム 自身が見 てい る は 筈 ないのだ が,た だ 同感 は 関係 によ って甚 だ しい偏頗 性 を あ らわ し,甚 だ利 己的 に も機能 しうる こと 側⑬側② T. 586 t T, 497 T. 581--2. cf T. 603 T. 589 ヒユーム道徳感情の一考察 を示 してい るで あ ろ う。 それ に関 して は,上 に見 た と ころで あ った。 ただ,そ うな ると,同 感 のそ の偏頼性 を見 ,そ の訂 正 を要求 す る この反省 の原理 は,よ り注 目に価 いす るもの とな ろ う。 道徳性 の一 般 的規 則 (thC gCneral rulc of morality)と も呼 ばれ る, この Steadyで gcneralな 視 点 ,gcneral inaltcrable standard(3)を 要求す る立場 は,そ の まま,ア ダ ム・ ス ミス の impartial spcctatorに 通 じるもの といえ るで あろ う。 この理 性 的原 理 は, 単 な る手 段 的理 性 で はあ りえな い。 MacNABB は ヒュー ム の この理 性 に注 目 し,「 それ は カ ン トの実 践 理 性 一一 我 々の格率 の普 遍 的法 則 へ の従属 を命ず る一― に酷似す る。 …… それ は秩序 と混 乱 ,調 和 と聞争 ,不 易 と変化 にかかわ る」 (4)と 評 してい る。 ただ, ヒュー ム に於 いて は,い か に普遍 的視点 が強調 され よ うとも,そ れ は所 詮形 式 を越 え るも ので はあ りえず ,究 極 的価値決定 はあ くまで快苦 の感 で あ り,結 局 はや は り同感 の感 じに よ る しか な い ともいえよ う。 しか し,そ れ に して も,次 の如 くいわれ る とき,問 題 が残 らざるを得 な いで あ ろ う。即 ち,「 か く我 々の は じめの立場 を はなれて後 は,我 々の考察す る人 物 と何 らか の交 わ りを もつ者 へ の 同感 によ って我 々 自身 を固定 す る程 ,便 利 な もの は あ り得 ない」 と(5)。 同感 の変動性 の 故 にそれを訂 正 した筈 で あ るのに ,こ こで その訂正 の原理 と して同感が もって こ られ た か ら で あ る。 これ はやや後 の方 で,更 に明確 にのべ られ ,我 々 自身 へ の快苦 ,利 害をはなれ た「 一 定 した」 (COnStant),「 普遍 的」 な (univCrsal)立 場 は,先 程 ものべ た如 く, 考察す る当の人 物 又 は彼 とか かわ る者 へ の 同感 で あ り,そ れ のみが「 道徳 的区別 の依存す る特殊 な感 じを生 む」 (5)と ぃ ぅ。 こ のよ うな「 穏 和 な情緒」 (Calm passion)と しての 同感が,「 いわ ゆ る理性」 あ るが, しか し,同 感 を更 に訂 正 しうる理性 的同感 とは, 一 体 , (SO― Called reason)で どの よ うな同感 を い うので あ る か 。 も しか よ うな同感 とは,一 切 の変動性 を許 さず,不 変不動 の視点 に於 け る,普 遍妥 当 的な同感 の ことを指す な らば,一 切 の関係 の 中 にあ る しか ない ヒュー ム の 同感 の体系 の 中 に果 して 存在 しう るで あ ろうか。 それ は正 しく Grccnの い う全 く誰 も感 じない感 じ (unfClt fCcling)へ の 同感 (7)と い う こ とになろ う。 これ はそもそ も同感 で あ るか 。 ヒュー ムのい うかか る同感 は, 実 際 的 には訂 正 の後 の方 でいわれてい る広 汎 な 同感 (CXtentiVe sympatlly)を 意味す るであろ う。 ヒュー ム は これ こそが徳 の感 じの依存す る原理 だ と して い るか ら で あ る。 ヒ ュー ムの CXtCnsivc sympathyと 名 ず け られ るものはやや あ い ま いで はあ るが (3), ここ で は,全 人類 に及 ぶ とい う意味で いわれて い るもので あ る。 ただ, ヒューム は ここで それ を人類愛 (3) T. 603 (4)D.Go C.MacNABB:David Hune,His theOry or knowledge and mOranty p■ 16-7 cf.A. D.Lindsay:lntroduction tO Hume's Treatise VOI I.xii(Everyman′ s Lib.) (5) T. 583 (6) T. 591 (7)Green:IntrOductiOn to Hume's Treatise on the Human Nature,P,59(GFeen― GrOss) (81 ここにい われ るよ うな意味での extens eの 外 に 未来 に まで及ぶ とい う意味 で も,extens e sympathァ がつか われ てい る (T.386)。 ただ ,そ の同感 は,こ この場合 とむ しろ逆に ,甚 だ強い同感で あ る。 横 山 兼 と区別 し,結 局 は先 に もふれ た,単 な る想像性 に帰 して しま う。即 ち ,道 徳 的是 認 のよ うに,感 じ が 単 に我 々の好 み にふ れ るだ けな らば,そ れ は想 像 の域 を出 る必要 はな い とい う。 な る程 ,実 際 は 安 全 で あ るが 格好 だ け いか に も倒 れ そ うな建物 の場合 の如 く, 事物 の見 か けの 向 傾 (Secming tcn_ dCnCy)も 心 に影 響 し,実 際 の場 合 と似 た感 じを生 むが ,そ の感 じは甚 だ異 ってい るので ,他 方 を少 しも損 う こ とな く共 存 出来 るとい う。「 敵 の都市 の要塞 はその強 さの に しく 故 美 思 われ るが,そ れ の 全面 的破壊 を ものぞみ うる」如 く か くて, ヒュー ム に於 け る徳 の感 はや は り,甚 だ 淡 い単 な る想像上 の もので しか ない こ とにな った といぇ よ う。 しか しこれ が果 して ヒ ュー ムの 最初 に見 た道 徳 感情 で あ ったか。後 の「 道徳原理研究 」 に於 いて ヒュー ム は,「 本性 論」 の場 と ん 合 殆 ど同 じよ うな例 を もあげ, しか し,道 徳 的感情 は決 して想 像上 の (imaginttry)も ので な く ,実 在 す る (。 )。 (rcal) 感 じで あ ると強調 して,甚 だ対 照 的な云 い方を して い る。 (1。 )そ れ は 本性 論」 の立 の 場 否定 で あ 「 るか,そ れ とも不徹底 の補 いで あ るか。 (五 ) 既 に述 べ た如 く,道 徳 感情 の主観 的側面 と客観 的側面 との,い わば二 つ の側面 を 満す べ く要 請 さ れ た ともい え る同感 の原理 には,上 述 の如 く,特 にその客観 の面 には 極度 に留意 されていた。 それ 自体 は無 私 的 な コ ミュニ ケ ー シ ョンにす ぎない同感 の原理 で はあ って も,現 実 的 には一一 その独 特 な 自我構造 との密接 な関連 によ ってか―― ,甚 だ しい偏頗性 を免れ ず, ここに殆 ん ど理 性 的 ともい え る原理 の導入 によ って,更 に修正 の手 が加 え られ た。 そ こに は多 くの問題 を残 し,道 徳感情 を 同 感 に帰す ことの 困難 さを示 して い るとも云 えよ うが,あ くまで も,そ の 客観性 を強調 し,根 拠 ず け るべ く試 みたのは, ヒュー ム道徳論 の最大 の特色 をなす で あろ う。 ただ,先 に も述 べ た如 く,い か に客観性 が 強調 され よ うとも,そ れ は ヒュー ムに於 いて ,畢 党 ,道 徳 的善悪 の究 極 的区別 に当 って の 形式 で しか あ りえない。究極 的 には価値 はやは り感 じ られ るもので あ り,結 局 は快 苦 によ る しか な い。「 満足 と不快 は徳・ 悪徳 の本性 その もの (the very nature and essencc)で あ る。 」 (1)た だ FHB題 は,そ の徳・ 悪徳 の本性 をなす とい う快 苦 の感が ,果 して 同感 によ る快 苦 で あ るか ど うかで あ る。 まず,人 の評価 につ いて の次 の よ うな極 端 な例か ら見 て い こ 9硼側 うと思 う。「 我 が国民 が他 国民 と戦 ってい る ときは,我 々は彼 ら他 国民 を,残 忍で,不 誠実 で,不 正 で ,兇 暴 な性 格 と して忌み嫌 う。 が ,我 々 自身 や連合 国 の者 は常 に公正 で,穏 健 で,慈 悲深 い と思 う。 も し敵 の将軍 が勝 てば,彼 に 人 間 の形 や性 格 を許容す る ことはむずか しい。 ォ リヴ ァー・ ク ロム ウェル ル や ュクサ ンブール公 に T. 586 f Enquiry,P.217(OxfOrd) T. 296 ヒユー ム道徳感情 の一考察 85 つ いて報 じ られ てい るよ うに,彼 は魔法使 いで あ る。彼 は鬼 神 と交通 して い る。彼 は兇暴 で,死 と 破 滅 を喜ぶ―― 。 と ころが, 勝 利 が我 が方 に あ るとき,我 が指揮 官 は全 く対照 的 なよ き性質 を も ち,勇 気 や指揮 の権化 で あ るのみ な らず ,徳 の かがみで あ る。彼 の裏切 りは我 々は これ を策 略 と呼 び , 彼 の残忍 さは戦 争 に不 可欠 な悪 で あ る。 つ ま り,t彼 の欠点 の全 てを我 々は軽減 しよ うとつ と め ,又 はそれ に近 い徳 の名 において もった い をつ ける。 このよ うな考 え方 は 日常生 活 において普 通 の ことで あ る。」 (?)こ こに我 々が いか に快苦 に,そ れ も自己にかかわ る快 昔 や利害 において人 を評 価 す るかが,よ く示 され て い るといえよ う。既 に これ に関す る ことは述 べ た ことで もあ ったが,注 目され るのは, ここで 単 に好悪 が表 明 されてい るのみ な らず,そ の快苦・ 利害 に もとず いて,徳・ 悪 徳 の評価 がな されて い る ことで あろ う。 しか も ヒュームの課題 は,か か る「 日常生 活 に普 通」 に 見 られ る事 象 の観察 によ って道 徳 の根 拠 を探 る ことにあ ったので あ る。勿論上 の例 は真 正 な道徳 的 評 価 では決 してない。我 々の評 価 が く主観 的,利 己的 とな りが ちだか ら こそ,先 の訂正 も,同 感 の 無 私性 も意味を もった もので あ った。 ただ ,価 値 の本質 は快苦 に ,そ れ も多 く利害 的快苦 におかれて い る ヒューム に於 いて,た しか に直接 的特殊 的快苦・ 利害 は斥 け られて も,そ れ と全 く異 の価値 質 全 く異 質 の特異 な道 徳 的快苦 を い か に して考 え うるで あ ろ うか。 ヒ ュー ムの 同感 は果 してそ のよ う な能力を もつ もので あ るか 。 改み て述 べ るまで もな い こ となが ら, ヒュー ムの 同感 は全 く自然的 能 力 で しかない。 それ はあ らゆ る情緒 ,快 苦 の気持,更 には意見 まで も無 私 的 に,そ の ままに伝達す る能力 で はあ って も,特 に道徳 的価値 にのみかかわ るわ けで はない(a)。 や がて考 され る 察 如 く感 じ の ちが い はあ るが, しか しこれ は 同感 その ものよ りも,む しろ対象 の ちが いか ら来 るもので あ り 同感 の 自然性 に変 りはないで あ ろ う。 ヒュー ムの同感 の立場 は上 の甚 だ主観 的利 己的 な立 場 とは根 , 本 的 に異 るもので あ るが,そ れ は主 に形 式 か ら来 る区別 で あ り,内 容 的 に まで異質 な価値 基準 を ヒ ュームに おいていかに して根 拠 ず け うるで あろ うか。 ここで, ヒュームの 同感要請 のプ ロセス に注 意 してみ よ う。甚 だ 驚 く こ とには ,そ れ はかか る全 く異 質 の,道 徳 に特異 の感 じを感得 す るため ど ころか,極 言すれ ば,道 徳感情 の客観 性 で す ら第一 義 で な く,関 係 な き人 か らの快苦 は,た だ 同感 によ って のみ感 じ られ る故 , とい う印象 を うける。 それ につ いて は既 にかん たん にふ れてあ るが, ヒューム はそれ を美 的判 の で の よ 断 例 次 うに くわ し く説 明 してい る。「 我 々の美感 は極 めて 多 くこの原理 に依 存 す る。 あ る物 が その所有者 に を生 快 む 傾 向を もつ場合,そ れ は常 に美 しい と見 な され,苦 を生 む傾 向を もつ 物 は全 て不快 で 醜 い。 …… 美 しい と呼 ばれ るものは,あ る結果 を生 む傾 向に よって のみ快適 なので あ るが,そ の 結果 はあ る他 の 人 の快又 は利益 で あ る。 我 々 の何 ら友情 を もたぬ見 知 らぬ人 の快 は,同 感 によ って のみ我 差を快適 (2)T.348 0)も っとも ヒユームの同感は,先 の連帯的 自我構造との関連 に於いて見 るとき,内 在化 して 自己に於 ける他 人の目,更 には 自己に於ける社会 の 目ともなる可能性を有 し,そ こか ら世間道徳の 根拠 ともな りうる面をも つ といえる。 しか し同感原理が,道 徳的区別 において,そ の快苦以前に価値的 根拠 ,価値 意識を持 つ と考え れば,こ れは ヒユームの原則的立場 と矛盾す る。 これについては他 日稿を改 めて考察 したい。 横 兼 作 な らしめ る故 に,我 々が,有 用 な る全 て の物 に見 出す美 は, この原 理 によるので あ る」 と(4)。 ここ で は,た しか に美感 の多 くが 同感 に依存 す るといいなが ら,そ の 同感 の要請 は,美 的価値 の究 極 的 決定 のため とい うよ りむ しろ,究 極 的価値 た る快苦 の感得 のため,が 第一 義 の如 き印象 を うけ る。 恰 も,美 的価値 の快苦 的基準 は既 に定 ま って あるが如 く。 と ころが,我 々の美感や道徳 感情 が この 同感 に もとず くとされ るとき,我 々の 同感 に期待 す るのは,実 にその究 極 的価値決定 の能力 なので あ る。 も っとも, ヒューム に於 いて は ,具 体 的事例 を離れ た美的判 断 も道徳 的区別 もな く,上 の こ と は単 な る我 々の印象 で しかな いが, しか し, も しこの要請 のプ ロセス か らうけ る感 じの如 く,快 苦 が根 本 に あ り,同 感 はその快 苦 の,無 私 的な伝達 の条件 で しかないな らば,仮 りに,快 苦 を無 私 的 に感 じさせ うるな らば,道 徳 的 区別 に同感 は必ず しも必要 で はない, とい う ことにな らな いか。 ヒ ューム もそれを肯定 す るか の如 くで あ る。「 公共 的利害 へ の傾 向を一 切 もたず に只他人 に直接 的 に 快適 で あ るとい う こ とか ら,そ の価 値 を得 て い るもの もあ る し,そ れを所有 す る人 自身 に直接 的 に 快適 で あ るとい う こ とで有徳 とされ る性 質 もあ る。 性 格や心 の作用 はそれぞれ,快 適 か不 快か の何 れかの特殊 な感 じを もって い る。前者 が有徳 で あ り,後 者 が悪徳 で あ る。 この特殊 な感 じが道徳性 その もので あ り,従 って説 明を要 しない。 しか し,い か に徳 と悪徳 との区別 が個 々 の性 質 の,我 々 自身又 は他人 に起 す直接 的快 又 は不快 か ら流 れ出 るよ うに見 え ると して も,か くも しば しば強調 さ れて きた同感 の原 理 に も甚 だ 多 く依 存 す る」(5)の で あ る。 これ は ヒュー ム の単 な る逸 脱 で あ ろ う か 。 も しそ うで ないな ら,同 感 は必ず しも,道 徳感情 の根拠 の全 てで はな い こ とにな ろ う。 ヒュー ム はた しか に,先 に見 た如 く,全 く無 私 的な同感 の感 じを ,道 徳 の特殊 な感 じの唯― の (alonC)根 拠 とも して い るが, しか し「 道徳論」 の結 論 の宣 言 で も, それ は「 主要 」な (ChiCf)源 泉 とはい われて も,唯 ― の とは されて い ない こ とに気 付 く。更 に先 に引用 した「 同感 によ って 我 々 自身 を固 定 す る程便 利 な ものは あ り得 ない」 か ら して も,必 らず しも同感 でな くともよい こ とにな ろ う。 そ こか ら,同 感 はただ,快 苦 の無私 的伝達 に 道 って最 も便利 で有力 な手 段 的能力 にす ぎな い とい う こ とに もな る(6)。 も しそ うな ら,極 言 すれ ば,同 感 は必 ず しもモ ラル・ セ ンスで はな い とい う ことに な るで あろ う。 そ して少 くとも, ヒ ューム は,同 感 の快苦 を,直 接 的,利 害 的快苦 と必 らず しも全 く異質 の もの とは考 えていない とい う ことにな る。 も つとも, ヒ ュームの 同感 はか よ うに必ず しも道徳 的能力 ではな く,従 って 自然 的快苦 ,利 害 と 全 く異質 の快苦 を生 むわ けで はない, と して も, しか し,同 感 による感 じに於 いて 区別 の あ る こ と はい うまで もな い。 それ は先 に一 言 ふ れた如 く,同 感 その もの とい うよ り,そ の対象 に もとず くわ けで あ る。例 えば,「 便利 な家 と有徳 な性格 とは同 じ是認 の感 じを起 しは しない 。我 々の是認 の源 は (4)T。 576 (5) T.590 俗)し か し,MacNABBの 如 く, ヒユームはここに様 々の倫理的態度を許容 したものと見れ ば,行 きすぎる のではあるまいか。 ヒユームでは,究 極的根拠 は快苦であ り,こ れは動かないか らで ある。 cf.MaclWABB :David Hume.P・ 194∼ 9 ヒユーム道徳感情の一考祭 87 同 じで,同 感及 び それ らの有用性 の概念 か ら来 るので あ るが 。」 (7)か ょ ぅに して 無 生 物 と人 の性 格 ,行 動 の感 とは区別 出来 るので あ り, これが「 特殊 な快苦」 と して最 初述 べ た と ころで あ った。 と ころが, ここまで は感 じに於 いて 区別 出来 て も, ヒ ュー ム の 同感 か ら して はそれ以上 は不 可 能 と な る。 つ ま り心 の性質 (mental qualitics)に 関す る限 り,視 点 が一 般 的 で あ りさえすれ ば,快 苦 に お いて全 て有徳 か悪徳 か に分 け られ,そ こに質 的区別 はつ か ないのであ る。 もとも と 特殊 な快 苦 「 」 も,そ の規定 を 狭 く解 す とき,実 はそれ以上 は要求 されて い なか った ともとれ るで あろ う。 か く て ,「 我 々 自身又 は他人 の性質 で,眺 め,又 は反省 して我 々に満足 を与 え る全 て の ものは,勿 論有 徳 で あ り,不 快 を 与 え る如 きあ らゆ るものは悪 徳 で あ る」 (り とい う こ とにな る。更 に ヒュー ム に 於 いて,愛 憎 , 自負 と 自卑 は快苦 に もとず くと ころか ら,「 愛又 は 自負 を起 す いか な る心 の性質 も 有 徳 で あ り,憎 又 は 自卑 を起す いかな る性質 も悪 徳 で あ る」 (り とぃ ぅ ことに もな る。 ヒ ュー ム の 極 めて 巾広 い徳 の 内容 はよれ によるわ けで あ る。即 ち, 自己又 は他人 に有用 で あ るか,直 接 快適 な 全 て の性質 は有徳 で あ り,そ の反対 は悪徳 で あ る(10)。 特徴 的な ものを若 干見 ると一一 まず ヒ ュー ムに よれ ば 自負 は徳 で あ る。何 故か 。それ を もつ 人 が 快適 で あ り,そ の快感 を我 々 も同 感 に於 いて感ず る故 に。 そ こか ら,自 卑 は反 対 に悪徳 とな る。 と ころが, 自負 は,同 感 に於 いて人 に快 を与 え我 々の心 を高 め るが,そ れだ け我 々 自身を相対 的 に低 め ることにな り ,そ の「 比 較」 に よ って不快 とな るも これ へ の同感か ら逆 に 自負 は悪 徳 とな り,反 対 に 自卑 が徳 とな る, とい う。結 局 ,我 々の 自卑 は外面上 を越 えて まで要求 されず ,「 真 の,そ して心か らの 自負乃至 自己敬重 iま ,も し巧 み にか くされ ,十 分 な根拠 を もつ とき ,高 潔 な人 の性格 に とって本質 的で あ る。」。つ 説 明 は苦 し ま ぎれで あ るが ,同 感 によ る徳 の 区別 を よ く表 わ してい るといえ よ う。 最 も特徴的なのは, 自然 的才 能 (natural abJities)に 関す るもので あ ろ う。 ヒュー ム によれ ば, 自然 的才能 も「 心 の性質 」 で あ り,快 を生 み,人 の愛情 や尊敬 の対象 とな る。従 って他 の普通 に 道徳 的徳」 といわれ る もの と区 「 る根 別す 拠 は何 ら存せ ず ,「 これ に関す る論議 は言葉上 の論議 にす ぎな い。」 (12)ヒ ュ_ム に よ る と, ここで, も し, 自然 的才能 は他 の道徳 的徳 と感 じに於 いて何 か しら 異 な る (SOmcWhat difrc‐ rCnt)と して区別 され るか も知れぬが, しか しそれ な らば,他 の徳 もそれぞれ 感 じに於 いて異 って い るので あ り,従 って これ だ けを特 に区別す る理 由 にはな らぬ とい う。 (13)か くて 自然 的才能 も等 (7)T,617 (8) T, 575 (9) To ib. 10 T.591 11)T.598 1動 T,606 側 が 祀象と 為 べ と て 的 徳 比 たOnferiの も の で ,劣 っ ろ も あ う ヽ 蓬 と 乳 鵡 穐 牝 新 駕 譜 ,更 に時々,他 の道徳的徳とは一応別にして述べた り して若千あいまいさもな くはない。Stewartに ユーム F・ よれば,ヒ は自然的才能を区別する考え方に反対はし 擢 ど 舛捧 疑聾鍋鍵義拗殺ど 鐵槃議♂ I襲 横 I14 兼 作 しく道 徳 的徳 に合 まれ る こ ととな り, ことに甚 だ特色 あ る徳 の 内容を示 したわ けで ある。 度 々述 べ た如 く,同 感 の体 系 は,そ の客観 の面 に於 いて 極度 に配慮 され , ヒュームの一 大特色 を な して いた。 その点 に於 け る ヒ ュー ム同感 理 論 の 意義 は決 して小 さ くな い。只 ヒ ュームの 同感 その ものは ,快 苦 の無私 的 コ ミュニ ケ ー シ ョンではあ って もや は り自然 的能力 で しか なか った となれ ば その 自然的 コ ミュニ ケー シ ョンの快苦―一 時 には その コ ミュニ ケー シ ョンを経 な い直接 的快苦―一 に もとず くとき,上 の 中広 い徳 の 内容を結果す るはむ しろ必 然 といえ よ う。 そ こで愛憎 , 自負 。自 卑 を起 す性 質 を全 て徳 ,悪 徳 となす とき,ヒ ュー ムの道徳 の原理 は,我 々の好悪 の情 の根拠 に甚 だ 近 い といえ る。 も っとも,判 断者 の特殊的視点 が きつ く斥 け られ てい る以 上 ,Kyddも 指摘す る如 くそれ は決 して単 な る好悪 の原 理 で はない(14)。 しか し, ヒュー ムの 同感 の体系 は それ と全 く異質 で もあ りえないで あ ろ う。一 般 的視点 に立つ 限 り,好 悪 の原理 以外 の根拠 は提 示 されて いない ので あ る。従 って ,我 々の最 初 に提 出 した, ` かか る 自然的原 理 が いか に して道徳 的感情 の根拠 とな りう るか、 とい う疑 間 は依 然 と して残 らざるを得 ないであろ う。「 気 高 く,寛 容 な行 為程 うるわ しく美 しき光景 はな く,残 忍で裏切 りの行為程ぞ っとさせ るものはない 。」 (15)ヒ ュ_ム は道 徳 感情を この よ うに も見 て い るが ,か か る「 特殊 な快 苦 」 に於 いて ,も し,全 く道徳独 自の特異 な感 情 が意 味 され て い るな らば ,同 感 の体 系 はその著 しい特色 に も拘 らず ,そ の感情 を つ いに説 明 し得 ない こ とにな る のでは あ るまいか。 同感 の体系 によ る ヒュー ムの道徳感 情 は,い わ ゆ るモ ラル・ セ ンス 学派 の立 場 ともか な り遠 い ものの如 く思 われ る。 ヒュームは しば しば道徳感 を「 良 心」 (COnSCiCncc)と も,「 義 務感」 (SCnSC Of duty)と も呼 び,そ の実践性 を強調 す るが, しか しそれ は,バ トラー な どの良 心 の概念 と原則 的 には,勿 論か な り異 るであろ う。 「 義務感」 と して見 た ヒュー ム道徳感情 の特徴 はむ しろ,「 我 々の義務感 は常 に情 緒 の普通 で 自 然 な経 過 に従 う」(16)と す る考 え方 によ くあ らわれ てい る。 つ ま り情 緒 の普 通 の在 り方 ,そ して普 通 にみ られ る程 度 が 義務 とな るわ けで,そ れ は必 らず しも高 い規範 の意識 で はな い そ こか ら ヒ 。 , ュ ーム によると,か か る 自然 的義務感 に従 う ことは,社 会 全 体 的 には 和を もた 平 らす ど ころかむ しろ 妨 げ ともな りかね ない こ とにな る。 なん となれば,人 間 は全 く利 己的 とはいえな いが そ の 愛 情 は 甚 だ偏頗 で あ る。従 ってその 自然 の ままで あるとき,先 に引用 した如 き,あ りうる限 りの最悪 の状 態 とな るか らで あ る。 そ こで ヒュー ム は こ うもい う。「 我 々の 自然 な,啓 蒙 され ない道徳 性 の観 念 は,我 々の愛情 の偏頗性 を救 済 す るど ころか,む しろその偏 頗性 に順応 し,そ れ に更 に力を加 え , 影 響 力 を与 え る ので あ る」 と(17)。 か くて ヒューム に於 いて は ,自 然 的才能 まで徳 とす る甚 だ 巾広 い ι む Kydd;Reason t9 Cf,T,472 to T.483f tη T.489 and conduct in Hume's Treatise, P. 174 ヒユーム道徳慰 隋の一考察 徳 の 内容 をな し乍 ら,そ れ らの徳 の 中心は,結 局,利 害 の念か ら発 した人為 的正義の徳 とい うこと になろう。正 義は元来,徳 ではない。その 自然的責務 (natura1 0bligatiOn)は 利害 で しかないが , しかし,社 会が大きくな り,直 接的利害が関係 しない場合で もュ我々は他人の利害への同感によっ て快苦を藤得 し,か くて,そ れを道徳的徳と呼び,道 徳的責務があるというのである。 ヒュ…ムは 「 道徳篇」 のは じめに於いて F道 徳 は何 ものにもまして我 々の関心する主題 である。我 々は社会 の 平和が一 にかか ってその│あ らゆる決定 に存すると思 う」 98)と のべ て,道 徳 に対す る並 々な らぬ関 心を見せたが,そ の社会 の平和がかか って いる道徳的決定 とは,主 に人為 的正義 とそれ の道徳的操 拠ずけを指すともいえよ う。 これは後 の立場 とや 式異 なる.と ころもあるが, ヒュームの道徳論の立 場は少 くともモ ラル・ セ ンス学派か らかな り遠 くュむ しろ功利主義 の方 に大 きく傾 いている如 くで ある。 しか し, これは更に今後 の課題 で もある。 (昭 和43年 9月 30日 受ゆ l181 T,455