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哲学者のためのパラダイム論

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哲学者のためのパラダイム論
哲学者のためのパラダイム論
H・I・ブラウン『科学論序説』をめぐって
飯田 隆
1985 年
他の分野のことは知らないが、哲学者が交わす哲学についての世間話(必
ずしも、哲学的な世間話ではない)にも、
「パラダイム」という用語は浸透し
つつあるようである。大は、
「認識論における新しいパラダイムが必要だ」と
いったものから、小は、
「あいつとはパラダイムが違うから話が通じない」と
いったものまで、その用例に事欠きはしない。こうした事態を前にして、潔
癖な哲学者が取るべき道は、二つにひとつであろう。第一は、「パラダイム」
という語を使うことを差し控えることである。かれが、ただ「安全第一」を
心がけているだけの哲学者でない限り、かれには、そうするだけの哲学的な
理由があるであろう。それは、(a) 「パラダイム」という概念は、哲学に限ら
ず他の分野においても、自分が良心の呵責を覚えずに使用できるほど明確な
ものではないと判断することから、あるいは、その概念に伴う理論に何らか
の問題があると判断することからであるからかもしれない。さもなくば、そ
れは、(b) 「パラダイム」という概念は、哲学以外の何らかの分野には正当
に適用できるとしても、哲学に適用するのは誤りであると判断するからであ
るかもしれない。他方、第二の道は、第一の道を取る潔癖な哲学者に対して、
かれの判断が根拠のないものであることを立証することである。すなわち、
(a′ ) 「パラダイム」という概念は明確なものとすることが可能であり、また、
それに伴う理論にも問題がないことを示し、かつ、(b′ ) 「パラダイム」の概
念は哲学にも正当に適用できることを示すことである。
もちろん、たかが哲学についての世間話に対して、これほど目くじらを立
てる必要はない。だが、私のように、お世辞にも潔癖とは言えないような人間
にとってすら、
「パラダイム」や「リサーチ・プログラム」といった語を、哲
学に関して、自分でつい使ったり、人が使っているのを聞くとき、何となく居
心地の悪さを感ずるのも事実である。この居心地の悪さをどうにかしなけれ
ばと思っていた矢先に、H・I・ブラウン(H. I. Brown)の著書 Perception,
Theory and Commitment: The New Philosophy of Science 1 が、『科学論序
説—新パラダイムへのアプローチ』2 として、訳書が刊行されたのは、私に
1 1977,
The University of Chicago Press.
2 野家啓一・伊藤春樹共訳、一九八五年、培風館。ブラウンからの引用はすべてこの訳書に
1
とってまさに時宜を得たことであった。
ブラウンのこの本には、二つの大きなメリットがある。ひとつには、今世
紀の科学哲学における問題状況の変遷を、読者の側での予備知識をほとんど
仮定しないで、新鮮な形で「再構成」してみせてくれることであり、もうひ
とつには、この「再構成」自体が、今世紀の科学哲学が幾多の変遷を遂げた
結果生じた理論(それをブラウンは「新しい科学哲学」と呼ぶ)の例証とし
て働くように意図されていることである。
(つまり、二つのメリットは、それ
らが互いに緊密に結び付けられていることから、自動的に第三のメリットが
生み出されるように仕組まれている。)ブラウンによれば、
「新しい科学哲学」
が提出する「一群の諸前提によって統制された探究という[科学についての]
描像が、科学のみならず科学哲学に対しても適用される」(iii 頁)のであり、
また、
「新しい科学哲学の展開は科学革命と同じ種類の知的革命を哲学の内部
で醸成する」(同所)のである。
こうした主張に直面して、もはや、
「たかが哲学についての世間話」と高を
くくるわけには行かない。潔癖であろうがなかろうが、哲学者であるならば、
こうした主張の吟味を避けて通るわけには行くまい。それは、また、何らか
の口実なしには気恥ずかしくて、なかなか問えない問い、すなわち、
「哲学と
は何か」という問いを問うための絶好の口実ともなるように思われる。何し
ろ、ブラウンの書物を構成している「二つの部分は、あい伴って一つの論証
を、科学的方法と哲学的方法とは根本的に類似のものなのだというテーゼの
論証を形作っている」(iv 頁)というのであるから。
I 自己適用
周知のように、今世紀の科学哲学は論理実証主義とともに始まったと言え
る。ブラウンも言うように、論理実証主義にとって、科学と哲学とは截然と
分離されたものであった。
「論理実証主義者に言わせれば、知識を生み出す探
究には二つの形態がある。その一つは様々な科学が携わる経験的探究であり、
もう一つは哲学が任務とする科学の論理的分析である」(一二頁)。ホワイト
ヘッド=ラッセルの『数学原理』を数学の言語の論理的分析と見なすことが
できるとするならば、これを模範とした論理実証主義者にとって、哲学とは
科学の言語の論理的分析であったと言えるだろう3 。こうした哲学観に従うな
拠った。本文中、頁数だけの指示は、この訳書に対するものである。
3 ブラウンはこうした言い方を認めるだろうと思われるが、論理実証主義をこのように特徴づ
けることは、いくぶん偏った観点であるように私には思われる。その理由は、こうした特徴づけ
がカルナップに対してはほぼ当てはまるものであるとしても、論理実証主義全体をカルナップに
よって代表させることは、論理実証主義の遺産を正当に評価することにはならないと思うから
である。特に、ブラウンの叙述ではまったく触れられていない、アインシュタインの相対性理論
が論理実証主義の形成に果たした役割は、もっと探究されて然るべきものである。ライヘンバッ
ハやシュリックの初期の著作を一瞥するだけでも、もっぱらフレーゲ=ラッセルの「新しい論理
学」からの影響が圧倒的であるカルナップとの相違は歴然としている。相対性理論との関係で論
理実証主義を見直すことは、ブラウンの叙述から浮かび上がって来るのとはまた別の、科学と科
学哲学の関連を明らかにするだろうということは、十分に予測できることである。
2
らば、哲学が、経験的探究を事とする理論をその対象としながら、それ自身
は経験的探究ではない以上、哲学的分析の成果が哲学自身に適用されるとい
う「自己適用」といった事態は生じない。
ところで、さっそくではあるが、ここで問題となっている「自己適用」を、
それと混同されやすい別の事態から区別しておく必要がある。その区別を導
入するひとつの方法は、論理実証主義者による知識の二分割の主張に対して
提起される次のような反論を考えてみることであろう。—つい今しがた述べ
たように、論理実証主義者は、知識の全体が、科学が携わる経験的探究と、
哲学が任務とする科学の論理的分析という、二種の探究によって生み出され
ると主張する。しかし、知識がこの二種の活動によって生み出されるものに
尽きるという主張は、それ自体、知識には属さないのだろうか。だが、この
主張自身は、別に経験的探究の成果であるようには見えないし、また、科学
の論理的分析の一部を構成するようにも思えない。ということは、こうした
主張をすること自体が、その主張に対する反例として働くことになるのでは
ないか。
この反論は、悪名高い検証原理に対して持ち出されたと同じトリックを用
いている。あるいは、知識が科学の成果と論理分析の成果に尽きるという主
張は、検証原理のひとつの表現であると言ってもよい。このいささか安っぽ
く見えるトリック4 を成り立たせているものは、科学の言語の論理的分析とし
て得られた成果を、哲学自身に対して適用するという意味での「自己適用」
ではない。このトリックが利用しているのは、むしろ、哲学の規定とは哲学
自身によってなされる自己規定でしかなく、したがって、それ自身哲学に属
さざるをえないという、哲学の「自己回帰性」である。
つまり、
「哲学とは何か」という問いをめぐる議論は、それ自体哲学的議論
であり、その問いに対して与えられる答がどのようなものであれ、その答が
また哲学的吟味の対象となるという意味で、「自己回帰性」は、哲学の「本
質」に属するものである。これに対して、哲学の「自己適用性」は、ずっと
限定された現象であると思われる。哲学における自己適用の要点は、ある自
己規定のもとにおける哲学のなかで得られる結論が、その同じ規定のもとに
ある哲学自身に対しても適用されるということである。こうした自己適用が
可能であるためには、どのような自己規定を伴う哲学でもよいというわけで
ないことは、たとえば、論理実証主義の哲学観がそうした自己適用を許さな
いことからも、明らかであろう。
「新しい科学哲学」において問題となるもの、そして、ブラウンが積極的
に利用しようとしているものは、さしあたっては、哲学の自己回帰性ではな
く、自己適用可能な哲学観である。
「古い科学哲学」の主要な関心事が、もっ
ぱら、個々の科学理論の論理構造の分析と科学理論一般についての形式的探
4 「安っぽく見える」というだけであって、実際に「安っぽい」わけではない。こうしたト
リックのもつ含みに対する、小論とは異なる視角からの評価については、次を参照されたい。H.
Putnam, Reason, Truth and History, 1981, Cambridge University Press, Ch. 5.
3
究であったとするならば、
「新しい科学哲学」が手を変え品を変え強調してき
たことは、科学において古い理論が新しい理論に取って代わられる過程を研
究することの重要性であり、このような過程の研究においては形式的探究が
いかに不毛なものでしかないかである。理論交代の過程の研究は、単に、
「新
しい科学哲学」が自ら設定した課題のひとつとして考えられているのではな
く、一般に、科学哲学が当然扱わなければならない問題、しかも、その最重
要な問題のひとつとして考えられている。この主張が、もうひとつの主張、
すなわち、科学哲学もまた、科学と同様に、理論の交代を通じて「進化する」
(ただし、この語は価値的含みをもたないとする5 )という主張と結び付けら
れるとき、自己適用は不可避となる。つまり、
(A) 科学哲学は、一般に、理論の交代という現象を扱うことが
できなくてはならない。
と、
(B) 科学哲学もまた、科学と同じく、理論の交代を通じて「進
化」する。
とから、
(C) 科学哲学は、科学哲学における理論の交代という現象を扱
うことができなくてはならない。
という結論が出て来る。
「新しい科学哲学」を代表する哲学者たちのすべてが、こうした「科学哲
学の自己適用」を支持するかどうかは疑わしい。たとえば、ファイヤアーベ
ントが (B) を受け入れるとは思えない6 。また、クーン(哲学的により興味深
い「前期クーン」に限って)が、こうした自己適用の可能性を意識していた
とは信じ難い7 。私の知る限り、自己適用の可能性を積極的に開拓しているの
は、ブラウンのこの書物以外には、知識社会学における「ストロング・プロ
グラム」
(ブルーア、バーンズ)のみである。ブルーアは、このプログラムが
満たすべき要件のひとつとして、
「反射性 Reflexivity」の名のものとに、
「そ
こで用いられる説明のパターンは、社会学自体に対しても適用可能でなくて
はならない」という条件を挙げている8 。
5 これは無理な注文と思えるかもしれないが、クーンも同じような注文をしているのだから、
許されてよかろう。
6 ただし、どんな形の自己適用をもファイヤアーベントが受け入れないというわけではあるま
い。いま典拠なしに書いているので私の記憶違いかもしれないが、自己適用型の反論に対して、
ファイヤアーベントがそれを平然と受け入れている箇所が、かれの著作のどこかにあったと記憶
する。
7 その証拠のひとつとして、ブラウンの原書の裏表紙に引かれているクーンの表現を引くこと
ができよう。そこでクーンは、ブラウンの書物の全体的構想を「きわめてオリジナル」であると
評している。
8 D. Bloor, Knowledge and Social Imagery, 1976, Routledge & Kegan Paul.
4
こう見ると、自己適用の可能性が、
「新しい科学哲学」の側から、自らの立
場のメリットとして積極的に利用されることは、どちらかと言えば、まれな
ことだと言ってよかろう。それは、むしろ、
「新しい科学哲学」の首尾一貫性
を疑問視する材料として、その反対者によって用いられて来たことの方が多
いと思われる9 。したがって、まず問われなければならないことは、こうした
自己適用可能性が本当にメリットとなるかどうかである。
自己適用可能性を科学哲学にとってのメリットであるとする理由として、
さしあたって、二つのものが考えられる。ただし、どちらの理由も、科学哲学
が、理論の構成および批判という形で進行するという意味で、理論的営みで
あることを前提する。そうした前提に立ったうえで、自己適用可能性を、理
論一般が満たすことが望ましい条件のひとつとして考えようとするのである。
第一に、理論は、他の条件が同じであるならば、その適用範囲がより包括
的であるほうが望ましい。この観点からは、通常の科学的理論に対してだけ
でなく、科学哲学の理論に対しても適用可能であるような理論の方が望まし
いことは明らかである。第二に、こうした考慮から、科学哲学の理論をもそ
の適用範囲に収めたとしても、自己適用可能でないような科学哲学の理論は、
他の科学哲学の理論に対しては適用可能であっても、
(当り前であるが)自分
自身には適用できない。しかし、科学哲学の理論であるという点では自らを
特別扱いする理由がない以上、自分自身をその適用範囲から除外することは、
許されえないドグマティズムであると見なされても仕方があるまい。
とはいえ、自己適用可能性が科学哲学において実現しうる条件であるかど
うかは、別の問題である。いま、もしも自己適用可能性が科学哲学において
実現しうる条件ではないとすれば、(C) は、(A) と (B) からの論理的帰結で
あるのだから、(A) か (B) のいずれか、あるいは、両方が否定されなければ
ならない。言い換えるならば、(C) が実現しうる条件であるかどうかを検討
することは、科学哲学についてのある種の規定が受け入れうるものであるか
どおうかを検討することでもある。そして、この検討のために、ブラウンの
書物は、うってつけの素材であると言える。
II 自己正当化
「古い科学哲学」と「新しい科学哲学」とのあいだの争点のうちで最大の
もののひとつは、科学哲学が満たすべき要件 (A)、すなわち、科学哲学は、科
学における理論の変化・交代という現象を扱うことができなくてはならない、
をめぐってのものであった。
「新しい科学哲学」に属する哲学者たちは、それ
までの科学哲学がこの要件を満たしていないことを指摘し、この要件を満た
す科学哲学として自らの立場の正当性を主張した。
9 たとえば、W. H. Newton-Smith, The Rationality of Science (1981, Routledge &
Kegan Paul, p.156) におけるクーン批判などは、その適例である。
5
ブラウンは、この論争が全体として「新しい科学哲学」の勝利に終わった
と判断したうえで、この事態を、科学哲学における旧理論から新理論への交
代と特徴づける。ところで、科学哲学における「新理論」である「新しい科
学哲学」は、もともと、科学における理論の変化・交代を扱うものであった。
ブラウンの主張は、
「新しい科学哲学」が「古い科学哲学」に取って代わった
その過程自体が、
「新しい科学哲学」が科学理論の交代に関して主張する通り
の経過を辿ったというものである。少し目が回ってきたが、要するに、科学
哲学における旧理論から新理論への移行の経過自体が、新理論を例証するも
のであるというのが、ブラウンの主張である。
この点に関してブラウンが挙げている具体例をいくつか見ておこう。科学
における説明に関して、ヘンペルとスクリヴァンとのあいだで交わされた論
争について、ブラウンは、「スクリヴァンと演繹主義者たち(=ヘンペル等)
との間の論争はかみあっていない」
(七五頁)と言う。それが、
「異なった前提
基盤に基づいて考えている人々の間に交わされる論争」(同所)であり、「彼
らは自分たちの選択に対して(たとえ不可能ではないとしても)論拠を示す
必要があるとは考えないのである」
(七六頁)というのが、この論争がかみあ
わない理由であるとされる。このように、ブラウンは、この論争が、パラダ
イム・チェンジに際して起こる典型的な現象の一例であると考えている。もう
ひとつ、
「科学の合理性」についてのクーンの主張をきっかけとして生じた哲
学上の論争に関して、ブラウンの言うところは、次のものである。
「クーンの
考えをめぐる意見の対立を前にすれば、われわれは直ちに次のように疑って
みるべきであろう。ここで問題となっているのは二組の異なった諸前提、つ
まりこの場合には異なった合理性の概念を含んだ諸前提から帰結する争いな
のではないか、と」(二三四頁)。
これらの箇所でブラウンが狙っているものは、科学哲学の理論も、科学の
理論におけると同様に、一群の基礎的な諸前提によって規定されており、こ
れらの前提が変更されるときには、科学革命と同様の革命的状況が生じると
いうことを、読者に納得させることである。このように、科学哲学において
も、科学における理論の交代と平行するような現象があり、それが、科学理
論の交代の場合と同様の仕方で記述・説明されるということは、
「科学理論の
構造と哲学理論の構造との間には緊密な平行関係が存在している」(二四〇
頁)ことのひとつの証拠と見なされる。つまり、
「新しい科学哲学」が、最近
の科学哲学の内部での経験に対しても適用されうるということは、「科学哲
学もまた、科学と同じく、理論の交代を通じて『進化』する」という (B) の
テーゼを支持する証拠でもあるのである。
しかしながら、ブラウンの議論は、理論と理論についての理論(=メタ理
論)という二つのレベルを、ほとんど無造作と言ってもよいほどの自由さで
行き来することによって成り立っており、何が先で何が後かを決定すること
は、きわめて困難である。それは実に見事に辻褄が合っているのだが、その
6
辻褄の合い方は何かエッシャーの絵を連想させるような辻褄の合い方である
という感じがどうしても残る。すなわち、ここには、単なる循環とは別種の
何か「奇妙な循環」が隠されているのではないかという感じが離れないので
ある。
まず第一に、ブラウンは、
「新しい科学哲学」が「古い科学哲学」に取って
代わったといううことを、端的な事実として認めてしまっているのではない
か。しかしながら、
「古い科学哲学」と「新しい科学哲学」とのあいだの論争
は、現在、いまだ決着のついていない論争である。(ひょっとすると、私は、
情勢分析においてはなはだしく誤っているのかもしれないが、少なくとも私
はそう思うし、私に賛成してくれる哲学者もいるはずである。)ブラウンの
ように、科学哲学における旧理論と新理論の交代も「新しい科学哲学」が予
測するパターンに従うということをもって、
「新しい科学哲学」に有利な証拠
と見なすというこは、こうした交代が既に生じたということを前提している。
あるいは、交代が既に生じたということではなく、単に、
「革命的状況」が現
在の科学哲学において現出していることをもって、
「新しい科学哲学」に有利
な証拠と見なそうと考えられるかもしれない。しかしながら、「革命的状況」
という形で事態を記述することが可能だと考えることは、理論の交代といっ
た事態が科学哲学においても生じうるということを前提している。
つまり、問題は、「科学哲学もまた、科学と同じく、理論の交代を通じて
『進化』する」という (B) のテーゼを、循環に陥ることなしに、どのようにし
て立証できるか、ということにある。ブラウンの議論は、結局のところ、科
学哲学の内部で現に生じた(あるいは、生じつつある)事態こそ、科学哲学
における理論の交代に他ならないという「事実」によって、(B) を根拠づけ
ようとするものであると思われる。だが、
「新しい科学哲学」がわれわれに教
えてくれるように(そして、もちろん、ブラウン自身も認めるように)、何ら
かの理論を前提しない「事実」はない。科学哲学の内部で現に生じている事
態を理論交代の「事実」であると見なすことができるような科学哲学の「理
論」とは何か。もちろん、それは、
「古い科学哲学」の流れを汲むような「理
論」ではありえまい。現在の事態を「古い科学哲学から新しい科学哲学への
理論交代」という「事実」であるとすることは、当の「新しい科学哲学」の
「理論」のなかでの話ではあるまいか10 。
III 自己論駁
だが、科学哲学においても理論の交代という事態が生じうるというテーゼ
を、ブラウンは、理論交代の「事実」からではなく、科学哲学における理論
とはどのようなものであるかというメタ理論的考察から導いているのかもし
れない。この点に関連して、もっとも興味深いのは、次の一節である。
10 しかしながら、私にはまだ、ブラウンの議論の底にある「奇妙な循環」の正体を突き止めた
ようには思われない。ここに述べたのは、そのための手探りの一歩に過ぎない。
7
科学も、そしてまた科学哲学も、どちらもある一組の諸前提によっ
て組織立てられた研究計画から成っている。すなわち、科学研究
の場合には実在のある側面の本質に関する諸前提であり、科学哲
学の場合には知識の本質に関する諸前提である。(二三〇頁)
ブラウンによれば、科学研究と科学哲学的探究とは、このように類似の構
造をもつ営みであるが、両者は、単に構造上の平行関係に立つだけでなく、相
互に直接関係しあう。科学哲学的探究の課題が科学の分析である以上、科学
研究において生じた出来事(それは科学の歴史を形作る)は、科学哲学的探
究にとっての「データ」でなくてはならない。そもそも、科学の進行が、単
調に増加する知識の集積によってだけでなく、時には、それ以前の時期の科
学研究を支配していた基礎的前提の変更といった「革命的」事態による場合
もあるという、科学史上の「事実」が、科学哲学にとっての新しい「データ」
としてクローズ・アップされて来たことが、科学哲学における現在見られる
ような状況の一因となっていると言える。しかし、こうした科学史上の「事
実」は、いかなる理論からも独立であるような、中立的な「データ」ではな
い。それもまた、
「われわれの認識論の文脈の内部に[存在する]歴史的知識
に関する理論」
(二六六頁)のもとでの「データ」なのである11 。科学哲学の
理論と「その理論が向けられているデータとの間の葛藤」
(二五三頁)は、理
論の交代というドラスティックな事態にまで立ち至らずに解消できることも
ある。だが、既存の理論の手直しでは済まないような事態が生ずることもあ
りうる。既存の理論の基礎にある「諸前提が生み出した科学に関する哲学的
諸問題が手に負えないとと判断されたら、その諸前提を変更する必要がある」
(二六八頁)。つまり、科学哲学において理論の交代が生ずるのは、それまで
支配的であった科学哲学的理論の基礎にある認識論的諸前提が変更されると
きである。
ほぼこうしたものが、科学哲学における理論の変化・交代についてのブラ
ウンの描像である。それが、
「新しい科学哲学」が描いてみせた、科学理論の
変化・交代についての描像と、そっくり対応していることは、容易に見て取
れよう。だが、ここでもまた、この各部分が見事に照応し合っている図柄か
ら一歩身を引いて、次のように問うてみるべきではないだろうか。すなわち、
科学哲学上の理論と科学理論とのあいだのこうした対応が成り立つのは、そ
れ自体、何らかの認識論的前提によって規制されている理論の内部において
ではないか、と。あるいは、もしも、将来、そうした認識論的前提が取り払
われるようなことが起こるとき、この見事な図柄はどうなるのか、と。
この問いに答えるために、ブラウンの主張をもう少し仔細に検討してみる
とき、科学哲学上の理論と科学理論のあいだの完璧と見えた対応には、ほこ
11 科学史上の事実の理論負荷性が明示的に認められていることは、この中心的な論点に関する
立場が最後まで曖昧なままであるクーンの『科学革命の構造』と比較して、ブラウンの書物が優
れている所であると言えよう。ただし、この論点を認めることが困難に導かないかどうかは別問
題である。
8
ろびがあることに気付かされるだろう。ブラウンは、異なる科学理論は異な
る世界を招来するといった極端な立場は取らない。
「科学者は実在世界の理解
を試みているのであるが、この実在世界は科学者の理論から独立に存在して
いるという意味で客観的である」(二四七頁)。こうした「客観的実在」に関
わる伝統的な真理概念を、ブラウンは、
「真理 1 」として保存している。これ
までの科学哲学の理論に対してブラウンが変更を要求するのは、こうした伝
統的な「実在」や「真理」の概念についてではなく、
「科学的知識」という概
念についてである。ブラウンに従えば、
「科学的知識」は、伝統的な意味での
真理(=真理 1 )を必要条件とするものではない。
「その時代の科学者が積極
的に科学的知識とみなしているものが科学的知識なのである」(二四一頁)。
つまり、科学的知識に要求されるものは、科学者共同体に受け入れられてい
ること(これをブラウンは「真理 2 」と呼ぶ)でよいのである。したがって、
次のような言い方が許されることになる。
ここでわれわれは対立する理論の一つはある集団にとって真 2 で
あり、もう一つの理論はそれと対立する集団にとって真 2 なのだ、
と言わねばならない。言うまでもなく、真 1 でありうるのは、あい
争っている理論のたかだか一方にすぎないのである。
(二四五頁)
科学的知識に対するこうした観点は、用語法の問題は別として12 、私とし
ては、とりたてて文句をつけたくなるようなものではない。問題は、こうし
た観点に対して自意識的になるところから生ずる。
(そして、自意識的になら
ざるをえないのは、哲学の宿命である。)すなわち、科学的知識に対するこう
した観点は、それ自体、科学哲学上の理論の一部であり、したがって、廃棄
される可能性もあるということに気付くならば、ここで言われている「実在」
や「真理」
(真理 1 の方)が、それほど安心できるものであるか疑わしくなっ
て来るはずである。
「科学理論の前提は実在の本質にかかわり、科学哲学の理論の前提は認識
の本質にかかわる」と言われるとき、われわれは、何か二つの互いに独立で
ある領域が存在するかのように錯覚してしまう。しかしながら、
「科学理論の
前提は実在の本質にかかわる」という主張は、「認識の本質にかかわる前提」
以外の何物だろうか。科学理論も科学哲学の理論も、われわれの認識のため
の手だてであろう。科学理論をどう規定するかは、われわれの認識の本質に
かかわることであり、また、科学哲学の理論をどう規定するかも同様である。
したがって、先の主張が正しいならば、それは、それ自体、認識の本質にかか
わる前提として、科学哲学の理論に属するものでなくてはならないのである。
ここで事態が一気に悪化するのは、こうしたテーゼに、認識論的前提の変
更という形で科学哲学の理論も交代を繰り返すという主張が付け加えられる
ときである。科学理論の場合には、ある理論を支持しつつ、その理論が誤っ
12 伝統的な真理概念を「真理 」として温存している限り、
「真理 2 」は、どのような名称で
1
呼ばれようとも、真理を指すものではない。
9
ている可能性を認めること、その理論が将来別の理論に取って代わられる可
能性を認めることには、何ら不都合はない。それに対して、科学哲学の理論
に関して、(i) 科学哲学の理論は一群の認識論的諸前提によって組織立てられ
ており、(ii) それらの認識論的前提が変更されることによって理論の交代が
生ずるという、二つのテーゼが立てられるとき、(i)・(ii) は、すぐ前のパラグ
ラフでなされた議論によって、それ自体、ある科学哲学の理論の構成要素と
ならざるをえない。そして、この科学哲学的理論のなかで、(ii) は、その理論
自体を切り崩すように働くのである。
つまり、科学哲学の理論を組織立てている認識論的諸前提なるものは、科
学理論の基礎をなしているような諸前提と同列に扱うことはできない。その
理由は二つある。ひとつは、哲学の「自己回帰性」に由来するものである。
科学哲学とはどのようなものであるかという論議自体が、科学哲学に属する
他ないのである。したがって、「認識論的前提はいかにして変更されるのか」
という問いに対する答自体、もしもこの問いが前提しているように科学哲学
の理論が認識論的前提をもつとするならば、他の認識論的前提とならぶ、も
うひとつの認識論的前提なのである。もうひとつの理由は、認識論的前提な
るものがあるとしても、それは、あまりに包括的かつ基本的であって、その
すべてを明示的に定式化しようとすることは無意味な企てになるのではない
かという疑念である。たしかに、
「問題となっている理論そのものが哲学的理
論であろうとなかろうと、その諸前提を明るみにもたらすことは哲学的課題
[. . . ]である」
(二六六頁)ということは正しい。しかしながら、科学哲学の
理論が、真理や実在といった概念についての理論でもあるとするならば、これ
らの概念についてわれわれがもっている諸前提を完全に明示できると考える
ことは、われわれの概念枠に代わりうる「他の概念枠」という、理解し難く、
究極的には意味をなさない(incoherent)考えに行き着くことであろう13 。
こうした考察が指し示しているものは、科学哲学もまた、科学と同じく、理
論の交代を通じて「進化」するという哲学観に無理があるのではないかとい
うことであろう。だが、こうした哲学観を否定することは、哲学における理
論の存在をも否定することではない。ある一定の哲学的問題に関しては、哲
学的理論は存在しうるし、また、そうした理論が変化したり、他の理論に取っ
て代わられることもありうる。だが、
「科学哲学」をよほど窮屈な仕方で限定
しない限り、科学哲学が扱わなければならないのは、単独の哲学的問題では
なく、互いに複雑に連関し合う哲学的問題から成るネットワークであるはず
である。そして、哲学的問題の多くは、それがもともと哲学のある特定の分
野で生じたとしても、その分野だけで解決がつくものではなく、必ず、哲学の
全領域にまで波及せざるをえないという性質をもっている。このことは、次
のことを意味する以外の何物でもあるまい。すなわち、哲学のある特定の分
13 次を参照。D. Davidson, “On the very idea of a conceptual scheme” in D. Davidson,
Inquiries into Truth and Interpretation, 1984, Clarendon Press. (土屋俊訳「経験主義の
第三のドグマ」『現代思想』一九八五年七月号)
10
野と見なされた科学哲学は、その内にさまざまな哲学的理論を含むが、それ
らすべてを統括するような「科学哲学」という理論は存在しえないのである。
11
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