...

文学研究論集第m号 m . 2

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

文学研究論集第m号 m . 2
文学研究論集第16号㎎.2
志賀直哉﹁赤西蠣太﹂論
1︿男﹀たちの嘘と契約1
︾ωε身o︷.、︾国︾ZHωロ一臣国一↓﹀、.
⋮ζ①ωきα軍oヨδ①ω﹀日8σq︼≦窪
博士前期課程
日本文学専攻 二〇〇〇年度修了
田 中 絵美利
↓︾2︾囚︾国ヨ凶ユ
︵4︶
とっても唯一のと言ってもよい純乎とした恋愛小説﹂という最高の讃辞
もある作品であろう。しかし、それとは裏腹にそのテクスト分析はあま
﹁赤西蠣太﹂は、志賀直哉の短編のうちでは比較的よく知られ、人気
太切腹未遂事件﹀がある。これは、腸捻転で苦しんだ蠣太が側に居合わ
テクスト中に蠣太が自分で自分の腹を切ったというエピソード、︿蠣
か。
を送ってきた。しかし、﹁赤西蠣太﹂は単なる︿恋愛小説﹀なのだろう
ヤ ヤ ぬ
り進んでいないのが現状である。﹁赤西蠣太﹂はこれまで︿恋愛小説﹀
せた按摩の安甲に手伝わせて自ら腹を切って﹁腸のよちれ﹂を治した、
︿蠣太切腹未遂事件﹀
として受容されることが多かった。確かに、まともに言葉も交わしたこ
しかし、︿恋愛小説﹀とカテゴライズされているテクストにこのような
とテクストでは表向き語られ、そのようにこれまでは理解されてきた。
ヤ も も
を通わせるという奇蹟の恋物語は、読者 特に男性読者に夢を抱か
荒唐無稽、奇想天外なエピソードが組み込まれていることにこれまでは
とのない男女、しかも美女と醜男が互いにいつしか思いを寄せ合い、心
せ、︵男性︶読者たちはそこに﹁真正な愛﹂、﹁無償の愛﹂、﹁最も望まし
余り注意が向けられていなかった。いや、その荒唐無稽さには気付きな
︵1︶ ︵2︶
い恋愛﹂、を読み取り、﹁凡百の恋愛小説をはるかに越えた、志賀直哉に
︵3︶
一257一
看過されてきたのである。
がらも、このエピソードが採用されたことの意味、必然性はうかつにも
の解答を見つけ出していきたい。
か、小論においてはテクストに真摯な態度で向き合うことによ・って、そ
に蠣太は自ら腹を切るなどという超現実的な行為を成し遂げたのだろう
二 ︿語り手﹀の導きに従って
︿蠣太切腹未遂事件﹀エピソードの意義に関しては、既にいくつか指
摘がなされている。このエピソードによって、それまでは語られなかっ
の構造によって裏付けられる。まず、テクスト全体の︿語り手﹀の所在
た礪太の間者という裏の顔が明らかにされるのであり、勝倉壽一はこの
エピソードから蠣太の﹁凄絶な意志力﹂、.﹁決断と実行能力を備えた間老
︵5︶
の本性﹂を読み取っている。また、宮越勉は、これが老女蝦夷菊の﹁の
︵6︶
ちの蠣太への好意、善処につながる﹂と指摘している。
を確認するために、テクストのラストの部分を引用したい。
一味の敗けになつた事は人の知る通りである。
間もなく所謂伊達騒動が起つたが、長いごたくの結果、原田甲斐
その根拠をまず明らかにせねばならないだろう。その不自然さは︿語り﹀
前章で︿蠣太切腹未遂事件﹀エピソードを不自然であると述べたが、.
確かに、﹁野暮臭い何処までも田舎侍らしい侍﹂として登場した蠣太
が実は白石から派遣された間者であるという意外性を暴露するために
は、コ々値段を訊いては、あれかこれかと指を箸にした手を菓子の上
でまごくさすL﹁特に働きのある人物とも見えない﹂蠣太とはまった
う。とは言え、このエピソードはあまりに突飛すぎるのではないだろう
夷菊が嘱太に善処を取りはからう必然性を、用意しておく必要もあろ
最後に蠣太と小江の恋がどうなつたかが書けるといいが、昔の事で
甲斐の為に人知れず殺されたのだらうと云ふ事だつた。
郎をたつねて見たが、どうなつたか皆目行方が知れなかつた。それは
事件が終つてから蠣太は本名にかへつて、同じく変名して居た鱒次
か。自分で自分の腹を切って腸捻転を治し生還するなど、どう考えても
今は調べられない。それはわからず了ひである。
く正反対の、間者としての蠣太の一面を披歴する必要があろう。後に蝦
﹁医学的無理﹂である。これまでは、﹁読者も、鷹揚な笑いの内に此の難
歩違えぱテクスト全体を破綻させる危険性すら孕んでいる。
に、このエピソードは現実性を無視しており、余りに不自然であり、一
どと、安易にこのエピソードを受容してしまってはいけない。明らか
所を通過捻﹂来たかも知れないが・このエピソードの不自然さは無視
︵9︶
出来る類のものではない。﹁人間としてのリアリティをも黙殺した﹂な
の︿語り手﹀が蠣太の時代を﹁昔﹂と呼び得る位置にいることが分かる。
を見ても﹁昔、仙台坂の伊達兵部の屋敷に﹂と語り始められており、こ
よりもずっと下った時代に設定されていることが分かる。テクスト冒頭
ようと思っても﹁昔の事で今は調べられない﹂ほど、礪太の生きた時代
この引用部分から判断すると、︿語り手﹀の位置は蠣太のことを調べ
︵7︶
何故この奇妙なエピソードはテクストに採用されたのだろうか、本当
一258一
︿語り手﹀は、蠣太と小江のその後に関しては﹁調べられない﹂と断
たと云ふ噂だつた。往づ、で見聖ど成程半死半生の礪太が仰向けになつ
も蠣太が何故そんな事をしたかは知らなかつた。医者悶訊.“ど実際腹
てうつらくして居た。傍には親友の鱒次郎がついてゐたが、鱒次郎
語られているのだろうか。テクスト内では実在の人物として語られてい
を十幾針か縫つたと云ふ。 ︵傍線筆者による︶
つているが、では、その他の言説は全て﹁調べ﹂11︿調査﹀に基づいて
る蠣太ではあるが、︿語り手﹀が入手することの出来た、伊達騒動に関
たという資料が読者の前に明らかにされない以上、︿語り手﹀が本当に
れ脚色を加えなければならなかったはずだ。いや、︿語り手﹀が参照し
構成する段階で、︿語り手﹀は資料などから集めた情報に多かれ少なか
太や小江の心情を正確に記した資料などがあるはずはない。テクストを
に想像できる。いくら︿語り手﹀が﹁調べ﹂ようと思ったところで、蠣
もかく、︿語り手﹀が地上に降り何も知らない一登場人物と化したこと
いったん︿神の目﹀を捨てたことの意味については後に考察するが、と
るほどの近しい知人としての立場にあるのである。ここでく語り手Vが
き、蠣太の生活を側で見ていた目撃者、しかも蠣太の見舞いに駆け付け
︿語り手﹀は明らかに登場人物と同じ位置にある。礪太と同じ時代に生
﹁行つて見ると﹂、﹁医者に訊くと﹂という言説から判断して、この
わった一人の間者についての資料には限界があったであろうことは容易
﹁調べ﹂ようとしたのかすら確認は出来ない。テクストにおいて︿語り
のように虚構を語っているのかは断言出来ないが、どちらにしろ、︿語
手﹀が実際に蠣太について調べた上で語っているのか、或いは調べたか
れるエピソードは安甲の︿語り﹀そのままを再現しており、地上に降り
事件﹀の真相が採用される。﹁それにょるとかうだつた﹂と語り始めら
にょり、テクストには﹁本統の事﹂として、安甲の語る︿礪太切腹未遂
も ぬ も カ
り手﹀はテクストを構成する上でかなり主観的、恣意的にならさるを得
た︿語り手﹀はそれを無批判に受け入れる存在であるかのように思われ
も ぬ あ へ
なかったはずだ。即ち、このテクストは︿語り手﹀によるフィクション
る。、
だけぬかしていたが︶彼が若い頃下手なもみ方をして一人腸捻転で殺
⋮安甲は仰天して了つた。何故なら、︵蝦夷菊に話す時には彼はそれ
ないと警告を発しているのである。
一方で、明らかに読者にそれを﹁本統の事﹂として受け入れるべきでは
り手﹀は、安甲の︿語り﹀を﹁本統の事﹂として採用しているが、その
−ところが、この時の入語り手﹀の態度は明らかに矛盾している。︿語
であると言えるのだ。︿語り手﹀は歴史資料に基づいて構成したのなら
ば本来は知り得ない登場人物たちの内面奥深くへ入り込み、彼らの心情
の推移を詳らかにする。︿語り手﹀は、神の目を獲得した立場にあり、
全てを知り、全てを操作出来るのだ。
ところが、︿蠣太切腹未遂事件﹀に関して、︿語り手﹀の立場は例外に
ある。
或時不意に蠣太に就て妙な噂が立つた。それは蠣太が切腹未遂をやつ
一259一
くなるだらう﹂安甲の頭にはそんな事が想ひ浮んで来た。
ら起してゐたのか解らないが、何しろこれから俺に按腹を頼む人はな
角これはえらい事が起つた。自分がしたのか、自分が手をつける前か
でも仕方がないと思つた。それにしろ自分一人は心細かつた。﹁兎も
蠣太の今の様子と変りなかつたからである。かうなつたら医者を呼ん
した事がある。彼が按腹をして其翌日又出掛けて行つた其時の様子と
態度の不自然さをも読者に知らせている。この︿語り手﹀の態度は、安
をひどく概略にして了つた﹂ことを付け加え、︿語り手﹀である安甲の
題の核心部を語るときには﹁何故か少し落ちつかない様子になつて、話
本来﹁お饒舌﹂であるはずの安甲が、腸捻転を如何に治したかという問
性が疑問視されるべきことを読者に知らせているのだ。そしてさらに、
可能性が多分にあるべきことを指摘することで、安甲の︿語り﹀の信愚
お饒舌の按摩安甲はここまで話すと急に黙つて了つた。そして後は
手﹀の導きに素直に従ってテクストを追っていくのであれば、安甲の
いるそれとは全く正反対であり、矛盾していると言えるだろう。︿語り
甲の語った︿蠣太切腹未遂事件﹀の真相を﹁本統の事﹂として採用して
何故か少し落ちつかない様子になつて、話をひどく概略にして了つ
く語りVを﹁本統の事﹂として受け取ってはならないのである。これま
しぐべり
た。つまり蠣太は﹁どうせ助からないものなら﹂と云つて自分で腹を
での﹁赤西蠣太﹂研究においては、︿語り手﹀の﹁本統の事﹂という言
葉のみに目を向け、その後︿語り手﹀が繰り返し読者に向けて発してい
切つて、安甲に手伝はせ、.腸のよちれを直して了つたと云ふのだ。
︵此場合其話を聞いてゐる老女に若し少しでも医学上の智識があれば
る警告には全く無頓着だったと言わねばならない。安甲は蝦夷菊に﹁本
サイン
所が生憎、老女には其智識がなかつた。又仮にあつたにしろ、老女は
それが決して﹁本統の事﹂ではないことを、︿神の目Vを持つ︿語り手﹀
統の事﹂として語り、それを蝦夷菊も﹁本統の事﹂として受け取ったが、
﹁さうして出血はどう処置しました﹂と訊かねばならぬ所ださうだ。
只々蠣太の勇気に感服してゐる所だつたから、其際其疑問は起せなか
は知っているのである。そして︿語り手﹀は読者が蝦夷菊同様騙されな
も カ ヵ ヘ カ も
つたかも知れない。そして先を読めば解るが、どうした事か蠣太は遂
いように、安甲の︿語り﹀の欺瞳から抜け出すべき道しるぺを読者に提
を向けるべきことを示唆している。即ち、︿語り手Vは蝦夷菊が問わな
︿語り手﹀は、それを直接的には語ってはいない。しかし、いくつかの
では、︿蠣太切腹未遂事件Vの本当の真相とは一体何なのであろうか。
三 嘘を吐く<男﹀たち
示しているのだ。
に腹膜炎にもかからずに済んだのである︶
︿語り手﹀は安甲のく語りVに自ら口を挟み、安甲が語らなかった安
かった出血の問題を問うべきことを読者に喚起し、医者も立ち会わない
言説から推測することは可能であろう。推論の域を出ないかも知れない
甲の秘密、安甲の心の動揺を読者に暴露し、安甲の︿語り﹀に疑いの目
状況の中自分で自分の腹を切り開いたとするならば、当然失血死になる
一260一
まず、確かな事実としてあることから整理していく必要がある。間違
が、考えていきたい。
安甲が語る理由、それを捉えるためには、安甲の︿語り﹀そのものだけ
して、その目的は︿語る/語らない﹀という取捨選択の基準ともなる。
ければならなかったのだろうか。
何故、安甲はあのような荒唐無稽な作り話を作り出し、︿嘘﹀を吐かな
の場に居合わせた安甲はこの真相をこのまま語らなかったのだろうか。
以上のような経緯を︿蠣太切腹未遂事件﹀の真相だとすると、何故そ
生還したのは奇跡的なことであるとは言い得るのではあるが。
るから、開腹手術にはかなりの危険が伴ったであろうし、蠣太が無事に
ということになる。もちろん、設備も何も整っていない時代のことであ
結果、医者の適切な処理により死を免れた、という当たり前の筋書きだ
い。つまり、事の真相は、腸捻転を起こした蠣太が生死の境を彷径った
が開腹手術の末に生還したという事実から考えると、そう考えるしかな
るのが妥当なのではないか。腸捻転を起こしたという事実、そして蠣太
たのは医者−蠣太の腹の縫合処理を行ったとされている医者だと考え
常識的な観点から考えると、蠣太の腹を切り開き﹁腸のよちれ﹂を治し
切って﹁腸のよちれ﹂を治すなど、あり得るはずがない。それならば、
腸捻転になって生死の境を彷径ったからと言っても、自分で自分の腹を
たと考えるしかない。とは言え、何度も繰り返すことになるが、いくら
必要があったことは間違いない。とすると、やはり蠣太は腸捻転になっ
幾針縫つ﹂ていた。ということは、蠣太が何らかの理由で腹を切り開く
来ないのである。
か解らない﹂のであり、自分に責任が帰せられる不安を捨てることは出
も関わらず、﹁自分がしたのか、自分が手をつける前から起してゐたの
いった時点で蠣太が既に腹を押さえて苦しんでいたのを知っているのに
十分に考えられたのである。そして安甲自身も、自分が蠣太に呼ばれて
ることとなれば、腸捻転の原因として安甲の按摩の腕が疑われることは
蠣太の腸捻転が世間に明らかとなり、その場に安甲が居たことも知られ
ち合わせていない当時の人々には、そのような判断が付くはずもなく、
関係のものであろう。とは言え、安甲を含めた、専門的な医学知識を持
の腸捻転も、安甲が訪れる前からのものであり、安甲の按腹とは全く無
ら腸捻転になったり、人が死に至るなどということは考えにくい。蠣太
﹁按腹を頼む人はなくな﹂ってしまうからである。実際、按腹の失敗か
こした際にもその場に居合わせたことが明らかになると、最早安甲に
か。もし、その事実が人の知るところとなり、更には蠣太が腸捻転を起
いる。安甲は、その事実を意図的に隠しているのである。それは何故
い頃下手なもみ方をして一人腸捻転で殺した事﹂を敢えて﹁ぬかして﹂
をも知り抜いている。安甲は蝦夷菊に︿嘘﹀の物語を語ったとき、﹁若
神の目を持つ︿語り手﹀は、安甲によって故意にく語られない部分V
り﹀は︿語られない部分﹀によって裏付けられるとも言い得るのだ。
でなく、安甲が敢えて語らなかった部分をも考慮する必要がある。︿語
も カ も も ぬ ぬ ぬ も も ヘ へ
︿語り﹀は絶えずその︿語り手﹀の主観を表し、そのく語り手Vの内
恐らく、不安になった安甲が慌てて医者を呼んできたことにより、礪
いなく、蠣太は﹁半死半生﹂の状態にあり、﹁医者に訊くと実際腹を十
面をも照射するものである。︿語り手﹀は絶えず目的を持って語る。そ
一261
が応でも職を失ってしまう。安甲にとっては、それこそが最悪の事態
それを契機に過去の過ちまで表沙汰になってしまったのでは、安甲は否
だ。自分の責任とは決めかねている蠣太の腸捻転の責任を負い、更には
ちをわさわさ世間に知らしめる必要はない。最悪の事態は、免れたの
う必要はなくなったのである。蠣太が無事でいる以上、安甲は自分の過
太は危うきを逃れたのだろう。少なくとも、安甲は蠣太の死の責任を負
いきたい。︿語り﹀の対象は、︿語り﹀の目的に忠実に選別されるはずだ。
更には、何故安甲が蝦夷菊に語ったのか、という問題にも踏み込んで
だ。
失はなかったのか、そんな単純な疑問すら起こせなくなってしまったの
を海老のやうにして苦しがつて居﹂る蠣太に針や按腹を施した安甲に過
の余りの勇気に感嘆した人々は、結局腸捻転は何故起こったのか、﹁背
甲の︿語り﹀の目的だ。蠣太の使いで安甲を呼びに行った人物がいる以
もらし下さらぬやう﹂かう繰返し繰返し老女に頼んで帰つて行つた。
﹁然し此事は堅く口留めされて居るのですから、どうか誰方にもお
だ。安甲には、自分の職、社会的地位を守る必要があった。これが、安
上、安甲がその場にいたことは隠し通せない。安甲は自ら︿語る﹀こと
た後の蝦夷菊の反応を見てみたい。蝦夷菊は安甲の話にかすかな疑問す
そして、安甲の︿語り﹀は明らかに効を為した。安甲の︿嘘﹀を聞い
ではなく皆に、︿蠣太切腹未遂事件﹀を耳にしたことある人全てに聞い
の通りに受け取る必要はないだろう。安甲はこの︿嘘﹀を蝦夷菊にだけ
安甲は、蝦夷菊に何度も念を押して口留めしたらしいが、これは言葉
によって、自分の身を守ろうとしたのだ。
ら抱かず、﹁只々蠣太の勇気に感服﹂するばかりである。本来は抱くべ
選んだのだ。
てもらって、﹁蠣太の勇気に感服﹂してもらいたかったはずだ。︿嘘﹀の
夷菊の念頭には浮かんでこない。安甲のねらいはここにあった。︿蠣太
安甲の思惑通り、蝦夷菊は蠣太の勇気ある行動への感動を押さえ切れ
きはずである出血の処理に関する疑問も、如何に腸捻転を治したのかと
切腹未遂事件﹀の真相と称して、荒唐無稽とも言い得る蠣太の信じ難い
ずに、他人に安甲から聞いた秘密を漏らしたらしい。同じ屋敷内で働く
流布を願う安甲は、その︿嘘﹀の伝達者に相応しい人物として蝦夷菊を
勇気ある行動の顛末を語り、﹁あんな気の強い人は見た事がない﹂と付
小江が、ろくに口もきいたこともない蠣太に﹁或尊敬﹂を感じていたの
いう詳細に関する疑問も、﹁蠣太の勇気﹂への﹁感服﹂に押されて、蝦
け加えることによって、その話を聞いた老の興味は、安甲の按腹の腕前
甲は︿蠣太切腹未遂事件﹀のテーマを︿安甲按腹失敗﹀から︿蠣太の勇
として受け入れ、親に紹介する段取りまで即座に決定する小江には、蠣
う。一時は﹁気でもふれたかな?﹂という噂まで立った蠣太を結婚相手
というのは、恐らくこの勇気ある行動の噂を耳にしていたからであろ
気ある行動﹀へとすり替えることにより、人々の注目を自分から蠣太へ
太の謎の︿切腹未遂事件﹀に対する不審感は全くない。この小江の態度
への懐疑ではなく、蠣太の勇気ある行動への賞賛へと向かっていく。安
と逸らし、自分に疑惑の目が向けられることを回避したのである。蠣太
一262 一
いくという手法を採るのだろうか。神の目を持つ︿語り手﹀は最初から
して採用した上で、その矛盾点を忌揮なく指摘し、その︿嘘﹀を暴いて
では、何故︿語り手﹀は、安甲の︿語り﹀をいったん﹁本統の事﹂と
変えられていったのである。
者として選んだのだ。蝦夷菊を通して、安甲の︿嘘﹀は﹁本統の事﹂と
信愚性が伴っていくことも考慮した上で、安甲は蝦夷菊を︿嘘﹀の伝達
の信頼のある立場にいる人物で、彼女の口から語られた時に、︿嘘﹀に
いられなくなることを分かっていた。さらに、蝦夷菊がある程度皆から
することを、そして﹁口留め﹂したところで城内の者たちに喋らずには
浮かんでくる。安甲は、誰よりも蝦夷菊が蠣太の﹁勇気ある行動に感服﹂
から、感動に任せて腰元たちに蠣太の武勇伝を語った蝦夷菊の姿が思い
注意せねばならない。﹁二年近くかかつて作つた報告書﹂の在処を安甲
蠣太もまた、安甲に自分の身に関わる重要な頼み事をしていることに
と言えるのだ。
の︿嘘﹀は、蠣太にとっては寧ろ正体が露見する危険性すら孕んでいる
からは予想も付かない﹁勇気﹂を持っていることを世間に知らしめるあ
目立たぬ地味な存在であり続ける方が賢明なはずであり、蠣太が見た目
てプラスにはならないはずだ。間者という正体を隠し続けるためには、
を吐くことを許可したのだろうか。あの︿嘘﹀は蠣太にとっては、決し
た上で、︿嘘﹀を吐いているに違いない。では、何故蠣太は安甲に︿嘘﹀
言いふらせるとは考えにくい。当然、安甲は事前に蠣太からの了解を得
安甲が事件の当事者の了承もなしに、あのような荒唐無稽なく嘘Vを
共犯者となっているのだ。
だ。ここに、蠣太と安甲という二人のく男Vの間に契約が成り立ったこ
安甲の︿嘘﹀を見抜いている。それが決して﹁本統の事﹂ではないこと
︿語り﹀をテクストに採用するのは何故だろうか。何故、︿語り手﹀は地
とが確認できる。では、この︿契約﹀とは何を意味しているのだろうか。
に打ち明け、それを仲間である鱒次郎の元に届けるよう頼んでいるの
上に降り、自らが知っている︿蠣太切腹未遂事件﹀の真相を隠してまで、
この︿契約﹀は二人の︿男﹀が、互いの︿職﹀を互いに託すことによ
は、十分分かっているのだ。それにも関わらず、︿語り手﹀が安甲の
安甲に︿嘘﹀を語らせるのだろうか。
男にとっての︿職﹀がどのような意味を持つものなのかを考えれば容易
って成り立っている。そして、このく契約Vが特別な意味を持つことは、
てみたい。
に分かることである。︿男﹀がく男Vであるためには、︿職Vの保持、
この問題の解答を得るために、安甲の︿嘘﹀に対する蠣太の態度を見
蠣太は言うまでもなく、︿切腹未遂事件﹀の当事者である。しかし、
︿職﹀における成功が不可欠なのは言うまでもない。
胃腸が弱いために好きなだけ食べることは許されない。将棋も、密談の
するでもな﹂い。唯一の楽しみは菓子と将棋であるが、大好きな菓子も
蠣太の生活を振り返ってみよう。蠣太は﹁酒を飲むでなし、女遊びを
蠣太はその真相に関して何も話してはいない。安甲の︿嘘﹀を﹁本統の
事﹂として、沈黙を守っている。蝦夷菊が安甲の︿嘘﹀を信用して蠣太
への﹁感服﹂を抱き続けていても、それを否定することも訂正すること
もなく、それをそのまま受け入れている。蠣太もまた、安甲の︿嘘﹀の
‘
一263一
ることはほとんどない。これは間者というく職Vの性質上、他人と必要
場を設けるために鱒次郎と勝負することはあっても、普段人とは対戦す
ようである。蠣太は白川の殿様に与えられた任務には、実に忠実に従事
とは言え、蠣太自身は自分の人生を﹁淋しい﹂などとは考えていない
人生が実に味気ない、淋しいものであることが分かるだろう。
葉からも分かるように、彼は二年という長きにわたって、殿様の命令に
以上に親しく交わることは避けなければならないからであろう。
﹁親友﹂である振りをする必要があったから親しい交際をしていたが、
全身全霊で尽くしてきたのである。余暇を楽しむこともなく、人生の喜
している。彼の﹁二年近くかかつて作つた報告書を白川の殿様に見せず
二人の間に︿私﹀的な意味での︿友情﹀はなかったと思われる。︿職﹀
びを見出すこともなく、ただ黙々と殿様の命に応えることを、生活の全
また、鱒次郎はテクスト中﹁親友﹂と称されているが、二人の間の友
の遂行を名目に蠣太に恥をかかすことを﹁意地の悪い微笑を浮べながら﹂
てとしてきたのである。それが蠣太にとっての生活であり、人生の価値
に天井で鼠の糞と腐らして了ふのは死ぬにも死にきれないよ﹂という言
﹁嬉しさうに﹂言う鱒次郎が、蠣太に対して真摯な友情を感じていたと
であったと言ってもいい。
情がそれほど深いものであったのかは疑問である。彼らは︿職﹀業上、
は考えられない。二人の間の︿友情﹀はあくまでも、︿職﹀の一環、フ
半ばでありながら、﹁雲州松江にゐた十二一二の頃一度さう云ふ事があつ
に無味乾燥とした詰まらないものだったと言うことが出来る。既に三十
このように見てくると、礪太の生活は何の楽しみも取り柄もない、実
で言葉にも変な詑があ﹂る﹁野暮臭い何処までも田舎侍らしい侍﹂であ
て生きる”彼”には、︿私﹀の生活はあり得ない。﹁容貌は所謂醜男の方
太﹂として生きることがアイデソティティーなのだ。﹁赤西嘱太﹂とし
本名はテクストでは明らかにされていない。“彼”にとっては、﹁赤西蠣
﹁赤西蠣太﹂という名は、間者として与えられた偽名である。”彼”の
ただけ﹂で、それ以来は女性とも全く縁のない﹁醜男﹂1。蠣太の生
る﹁赤西蠣太﹂として、”彼”は︿職>11︿公﹀に身を實すのみである。
ェイクに過ぎない。
活には、人間的な生活の楽しみ、喜び、ゆとりは全く見られない。さら
私的で人間的な喜怒哀楽の感情すら忘れてしまっていると言えるだろ
をし﹂ても、腹を立てることさえせず﹁承知で利用されて居﹂る蠣太は、
人生の全てなのである。“彼”にとって︿私﹀の生活が存在しないこと
自分としての生活は全くあり得ない。しかし、“彼”にとってはそれが
必要とされることのみをする。“彼”には、﹁赤西蠣太﹂ではない本名の
“彼”は﹁赤西蠣太﹂という︿職﹀の仮面をかぶり、﹁赤西蠣太﹂として
う。彼が感情を露わにすることは、殆どない。鱒次郎のあからさまな侮
は﹁淋しい﹂ことでも何でもないが、﹁赤西蠣太﹂として与えられた
に﹁才はじけた若侍達﹂が﹁彼を馬鹿にして、何かに利用するやうな事
辱の言葉にすら何も感じない蠣太の感情は、既に麻痺してしまっている
︿職﹀務を遂行できないことは﹁死ぬにも死にきれない﹂一大事なので
ある。
ようだ。同じ間老である鱒次郎が﹁生きくとし﹂ていて、﹁酒も好き、
女道楽も好き﹂といった生活をしていることと比較してみると、蠣太の
一264一
分において︿男﹀であることは不可欠であり、鱒次郎もまた︿職﹀を守
とを自覚出来ていた。確かに、社会的存在である以上、ジェンダー的区
との出来る鱒次郎は、セクシュアリティーの点において︿男﹀であるこ
ての役割を果たしているという点で確認される。﹁女道楽﹂を楽しむこ
ダーにおいて︿男﹀であるということ、それは社会において︿男﹀とし
して自己のセックスをアビールできるかという点で確認される。ジェン
クシュアリティーにおいて︿男﹀であるということ、それは︿女﹀に対
との証明はセクシュアリティー、ジェンダーの二局面から成り立っ。セ
身の中に︿女﹀を取り込めるか否か、という点にある。︿男﹀であるこ
遊び﹂という︿私﹀的な領域も持っている。二人の決定的な差異は、自
たのだと言うことになる。真実がそのまま伝わったとするならば、蠣太
のだろう。これはつまり、医者は自分の手術を隠すことだけを要請され
では知らず、ただ安甲の︿嘘﹀に口裏を合わせることだけを要請された
を守ることで安甲の︿嘘﹀に加担している。医者は恐らく嘱太の秘密ま
てはならない。蠣太の命を救った医者もまた、この契約に参加し、沈黙
そしてまた、この契約にもう一人︿男﹀が参加していることを見逃し
交換条件として安甲の︿嘘﹀を容認したのだ。
とは十分に考えられる。蠣太は自分の︿職﹀、︿男性性﹀を守るために、
シーを感じ合い、互いの︿職﹀を守るために︿契約﹀を交わすというこ
な死を意味する。そのような切実な場面に接した二人の︿男﹀がシンパ
つことを可能とした。︿男Vにとって︿職﹀を失うこと、それは社会的
安甲と蠣太を︿男﹀というコードで結び、二人の間にく契約Vが成り立
るために安甲の命を無情にも奪うのであるが、セクシュアリティーにお
の命を見事救った医者の評判は確実に上がり、名医としての名を恣に出
﹁銀鮫鱒次郎﹂もまた偽名ではあるが、鱒次郎は蠣太とは違って﹁女
いて到底︿男﹀になれない蠣太の方が、自己をアイデンティファイする
自分とは全く境遇の違う按摩の安甲との間に、︿契約﹀が成り立ったと
い。﹁犬死﹂するということは、︿男﹀として死ねないことを意味する。
はかなりの勇気を要したはずだ。しかし、﹁犬死﹂するわけにもいかな
このような蠣太にとって、自分の職務上の秘密を他人に打ち明けるの
たのである。
てしか︿男﹀になれない蠣太にとっては、それは人一倍切実な問題だっ
︿男﹀であるために︿職﹀を守り抜く必要がある。しかし、︿職﹀を通じ
だ。安甲、蠣太、医者の三人のく男Vたちは︿男﹀としての︿契約﹀を
分の名誉のためではなく他人の名誉のために︿嘘﹀の共犯者となったの
医者は︿男﹀であるからこそ、︿男﹀になれないことの意味を知り、自
︿男﹀として、安甲の切迫した状況に医者は簡単に同情出来ただろう。
な末路を辿っていくのかは、医者にもよく分かっていたはずだ。同じ
のだ。︿職﹀を失った︿男﹀が社会において︿男﹀になれず、どのよう
誉を築き上げるきっかけを逃してしまった。しかし、彼もまた︿男﹀な
とを医者は要請され、そしてそれに従ったのである。医者は、自分の名
来たであろう。そのチャソスを捨て、安甲の︿嘘﹀に口裏を合わせるこ
いう点には疑問が持たれるかも知れない。しかし、按摩であっても武士
結び、︿嘘﹀を完成させた。安甲の突飛なく嘘Vを完成させたのは、︿男V
装置として︿職﹀に執着するのは言うまでもない。︿男﹀なら誰でも
であっても、彼らは︿男﹀である。近代的な視点に立つ︿語り手﹀は、
一265 一
たちの︿男﹀としての連帯感なのだ。
四 安甲の死
1その︿罪﹀ の重さー
ていたのだ。しかし、安甲はそうではなかった。安甲は自分の︿職﹀を
守るためには必死になり得ても、他人の︿職﹀に同様の敬意を払い、他
人の痛みを自分のものとして切実に受けとめることはなかった。安甲に
とっては、契約は利己的な理由から交わしたものに過ぎず、蠣太や医者
︿契約﹀を破った安甲は、鱒次郎によって命を奪われる。これは、安
言える。
とから考えて、これは安甲の裏切りであり、一方的な契約破棄であると
挙に出てしまった。蠣太と医者が相も変わらず堅く口を閉ざしているこ
ラく薄つぺらな調子で﹂蠣太の秘密をあっさりと﹁饒舌る﹂という軽
重なる。自分の身の上の危機が去った安甲は鱒次郎に﹁手柄顔をしてペ
の仕掛けたく嘘Vが広まり、安甲の︿職﹀の安全が保証された時期とも
を渡され、それに真心をもって返答したら、理由も言わずに男は去り、
たロマソティックな部類に収まらないことは言うまでもない。嘘の艶書
︿女﹀の側に立ってテクストを見れば、これが︿恋愛小説﹀などといっ
て受けとめさせる︿語り手﹀は、明らかに︿男﹀側にある。小江の側、
であることは間違いない。男性読者たちにテクストを︿恋愛小説﹀とし
う疑問点を挙げたが、︿語り手﹀もまたく男V性ジェソダーを持っ存在
先に、︿語り手﹀がいったん安甲の︿嘘﹀を採用するのは何故かとい
を持つテクストからは脱落を余儀なくされたのだ。
が感じていたような︿男﹀同士のシソパシーはそこにはなかった。安甲
甲が蠣太と鱒次郎の秘密を漏洩する危険性があったために殺されたわけ
自分は訳も分からないのに実家に戻され、監視を受けることとなってし
安甲が蠣太と交わした︿契約﹀、それは自らが︿男﹀であることの証
ではあるが、それ以外にも、蠣太とのく男V同士の︿契約﹀を破った罰
まった 小江にしてみれば、蠣太との一件は︿恋愛﹀としてカテゴラ
は︿男﹀同士の契約と共感関係を侵略する、︿男Vの敵となってしまっ
を与えられたからだとも言える。蠣太や医老が安甲の︿嘘﹀に協力した
イズできるほどに情報を与えられていないのだ。寧ろ、小江は蠣太と関
明でもあった。その︿契約﹀には、︿男﹀だけが理解する︿男﹀である
のは、同性として安甲の︿職﹀を守るぺき必要性を感じたからだった。
わったことで散々な目に遭ったと言ってもいいくらいだ。このような
た。安甲は︿公﹀に絶対的な価値を置く<男﹀の論理のタブーを犯すと
彼らが安甲に対して感じたシソパシー、それは同じ︿男﹀として︿男﹀
︿語り﹀を美しい恋物語として語る︿語り手﹀は、︿男﹀である。そして、
ことの悲哀が滲み出ている。しかし、安甲はその︿契約﹀を一方的に破
だけが感じ得る苦しみや痛みを共有することによって生まれた。︿職﹀
︿男﹀である︿語り手﹀は、︿男﹀としての︿契約﹀を破った安甲を許す
いう︿罪﹀を犯してしまったため、蠣太を主人公とした男性ジェソダー
に絶対的な価値を置かさるを得ない︿男﹀たちは安甲の身を自分の身と
ことは出来ない。︿語り手﹀は安甲の︿嘘﹀をそのままテクストに採用
ってしまった。蠣太が﹁もう助かると決つて暫くし﹂た時、それは安甲
重ね、置き換えることによって、その痛みを自分のものとして受け取っ
一 266 一
することによって、安甲に︿罪﹀を再現させ、安甲の︿男﹀としての恥
ずべき行為を読者の前に晒す。安甲は︿語り手﹀によって﹁本統の事﹂
というお墨付きを貰って語ることにより、より一層その︿罪﹀を重くす
る。安甲の︿罪﹀はテクストという半永久的に他者の目に晒される媒体
の中に暴露されることによって、半永久的にその︿罪﹀を再現、追想さ
せられるという︿罰﹀を与えられたのだ。罪人にとってこれほど重い
︿罰﹀があるだろうか。︿語り手﹀は鱒次郎の手によって安甲をテクスト
から排除するという︿罰﹀以上の︿罰﹀を、安甲に与えたのである。
小論冒頭で﹁赤西蠣太﹂は単なる︿恋愛小説﹀なのか、という問題提
起をした。それはある意味、︿恋愛小説﹀であろう。︿男﹀の視点から読
む読者たちはその︿恋愛﹀の素晴らしさに安易に感動できる。しかし、
その︿恋愛﹀が語られる以前にテクストにおいて提出される︿男﹀たち
の︿契約﹀の内実に目を向けてみると、︿職﹀を巡った︿男﹀たちの存
在の不安定性が明らかになり、︿恋愛﹀はその︿男﹀たちの不安を救い
出すかのように付置されているとも見得る。︿男﹀である︿語り手﹀は、
︿男﹀として苦しみ、︿男﹀としての誠実さを突き通した蠣太には、︿恋
愛﹀という救いを与えた。しかし、︿男﹀としてのタブーを破った安甲
には、︿死﹀と永遠の汚辱を与えるのである。こう考えると、﹁赤西蠣太﹂
は︿恋愛小説﹀である以前に、︿男﹀であることの意味、︿男﹀として守
るべき︿契約﹀を改めて︿男﹀性読者に問いただしたテクストであると
も言えるだろう。
︵1︶ 津田洋行﹁志賀直哉﹃赤西蠣太﹄私論﹂︵﹃文芸研究﹄第五十一号︶昭和
︵2︶ 越智良二﹁﹃赤西蠣太﹄の可能性﹂︵﹃愛媛大学教育学部紀要第H部
五十九・三 明治大学文芸研究会
︵3︶ 注2に同じ。
人文・社会科学﹄二十三巻︶平成三・二
︵4︶ 注1に同じ。
︵5︶ 勝倉壽一﹁志賀直哉﹃赤西蠣太﹄論ー﹃和解﹄への道1﹂︵﹃福島大
︵6︶ 宮越勉﹁志賀直哉のラブレター・トリックー﹃赤西蟻太﹄と﹃いたづ
学教育学部論集 人文科学部門﹄第六十六号︶平成十一・六
︵7︶ 注2に同じ。
ら﹄1﹂︵﹃群系﹄第九号︶平成八・八 群系の会
︵8︶ 注2に同じ。
︵9︶ 関谷︸郎﹁赤西蠣太﹂︵﹃高校通信東書国語﹄二百九十六号︶平成元・十
東京書籍
一 267 一
注
Fly UP