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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 1880年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 Author(s) 坂本, 倬志 Citation 経営と経済, 55(1), pp.97-123; 1975 Issue Date 1975-06-30 URL http://hdl.handle.net/10069/27940 Right This document is downloaded at: 2017-03-29T10:08:49Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 1880年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 97 1880年代イギリスにおける電気普及 の遅れと初期電灯企業 坂本悼志 I 電灯の発明から実用化へ Ⅱ イギリスにおける電灯普及の遅れ Ⅲ アーク灯とガス灯との競合 Ⅳ 80年代初期のイギリス・アーク灯企業 Ⅴ 白熱電灯とガス灯 Ⅵ 白熱灯企業 −中央発電所の試みと失敗− I 電灯の発明から実用化へ 電気エネルギーの生産・供給を目的とする電力産業が成立するのは,19世 紀の第4四半世紀以降のことである○初期の電気エネルギーの利用は主とし て照明用に向けられ,発電技術と照明技術はそれぞれ互いに密接な関連をも って発達してきた1)。ここでとりあえず,電灯が商業ベースで利用される以 前のいわば技術的克服時代の歴史を概観しておこう2)。 電気脚明の歴史はア,ク灯(arclight)にはじまる。イギリスのデイヴィ (Sir Humphry Davy)は,1808年ロンドンの王立科学研究所(Royal Institution)において,電源を強力なボルタ電池からとり木炭を電極にして ァーク(弧流)を継続的に発光させる実験に成功した。デイヴィの発明した ァーク灯は電源および電極(ランプ部分)が不完全であって,当然ながら実 用化には程遠かった。1870年代後半に商業的普及が開始されるまで,アーク 灯はランプと発電装置における幾多の技術的改良を経なければならなかった。 たとえばアーク・ランプについてみるなら,デイヴィが電極として使用した 木炭は消耗が早すぎてごく短時間しか発光しなかったので・1844年フランス 9 8 経営と経済 人フーコ- ( J . B. L . Foucault) は,石炭ガス発生炉から採れるカーボン として硬質で長持ちする炭素梓をつくった。また 1 8 6 0年代には,セリ を素材 l ン ( V .L . M. S e r r i n ) がソレノイドを利用した炭素椋自動調整装置を発 明し,炭素棒の燃焼によって拡大する両電極の間隙を一定に保つようにした D しかし,ランプ部分の改良が実用にたえられるほどに進展するのは,へフ F . vonHefner-A l t e n e c k ) ,カレ ( F . Carre),ヤ ナー=アノレテネック ( ブロホコフ ( P a u l] a b l o c h k o ff ),ブラッシュ ( C .F . Brush) などの発明 家が活躍する 1 8 7 0年代後半に至ってからのことであり,それは発包装置の実 用化が可能になった時期と前後する o 発電部門においては, 1 8 3 1年にファラディ (MichaelFaraday) が放械エ ネノレギーを電気エネノレギーに変換させる装置=発電段の原理を発見した。翌 i x i i ) はこの原理をもとに 2台の回転式小 年,フランス人ピキシ (M. H. P 発電機を製作している D その 2台目の段械には彼自身が発明した整流子が取 付けられていて,アーク灯に必要な直流電気が得られるようになっていた 3)。 永久磁石ないしコイルのいずれかを政械力で回転させて電気を発生するこの Saxton) ,クラー 桓のいわゆるマグネト発電機は,その後,サクストン ( ク ( E . M. C l a r k e ) ,ノレ ( N o l l e t ) ,ホームズ (Holmes) などの諸改良 によって問次効率を高めてきた。とりわけホームズの製作による発百政が 1 8 5 8年にサウス・フォランド灯台 (SouthForelandL ightHouse) に取付 けられるに及んで,マグネト発電機は照明用電源として一定の技術水準をも つに至ったといえよう O しかしながら場磁石に永久磁石を使用しているかぎり,発白抜はコストと 発電能力の点で限界につきあたらざるをえなかった。これを克服するのが自 8 3 0年代末にフランスの 己励磁式の発電践である。自己励磁の原理はすでに 1 モアニヨ ( Moigno) とレヤーノレ (Rai l 1a r d ) によって発見されていたが, S .H j o r t h ) が1 8 5 5年に製作した発電 実際への応用はデンマーク人ヨアト ( 肢が最初であった 4) 。しかし,どういうわけか,彼の白肋発足械のパテント は約 1 0年間誰にもその真価を認められないままうずもれていた。ところが 1866-7年になると,ワイノレド (H. WildeC 英))をはじめとしてジーメン 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 99 ス ( V V e r n e rS i e r n e n sC 独)),ファーマー (M. G. Farrner C 米)),ホイ S i rC. VVheatstone (英))らは相継いでしかもそれぞれ独立 ートストン ( に自励式発電機を開発した。なかでもジーメンスの発電段は,ヨアト,ワイ 0 1石をも不用とした点できわめて草新 ノレドの発電機についていた励起用永久 f 的であり,乙乙に構造的に真の白励発電機が誕生したといえる O ただし乙れ らの発電機は発生電流の強さが安定していないという実用上の欠陥が共通し てあった。グラム ( 2 . T. G r a r n r n e )は 1 8 7 0年にこの不安定性を除去する ために環状巻電機子を発明した。グラムのこの発明によってほぼ今日の発電 機の原型ができあがったとみなしてよいであろう O ところで,マグネト発電機から自励発電限への技術的発展は,発電の効率 8 7 7年にロンドンの水先案内協 ・コスト面において大きな飛躍を芯味した。 1 会( TrinityHouse)の行なった試験によると,ジーメンス発 4 1 1 授はサウス・ . 6 ' " " ' ' 4 . 4倍の強さの光を発生するが照明コストはその フォランド型発電段の 3 5分の l以下であった 5) o また別の宍』股では, 1 8 7 3年のジーメンス発む倣の 1 J D i i光 1 [1寺問当り点灯コストは灯油による場合の 1 49 . 6にすぎなくなっていたの 0年前のホームズ発電機は同様の実験で灯油の 1 1 1 9 6のコス に対し,その約 1 トを要した 6)。このように自励発電機の出現によって,灯台などの古い光出力 8 7 0年代の前半にすでにアーク灯は従来 を必要とする照明に関するかぎり, 1 の照明手段よりもはるかに低いコストで利用することができたといえようわ。 もうひとつの屯灯である白熱白灯も,その実用化までの歴史は長かった。 E灯の j見合もその原理はデイヴィによって発見された アーク灯と同総,白熱 f ( 1 8 0 2年) 0 しかし,白熱む灯はアーク灯以上に技術的囚苅を経駁した。白 熱 m灯システム閃発上の 2大日出として,むね(=禿むね)の川忠と n空問 題があった D 前者は,アーク灯とほぼ共辺の問題でおり,既述のように, 1 8 7 0年代には一応宍用化にたえうる禿;立政が閃禿されていたが,役者は白熱 灯 l こ同有な技術 ((]v~ffi 閃であった。すなわち,白熱灯は細い抵抗 ~~j~ ~,こむ流を辺 し , ' r , j : i 日に烈することによって発光させるので,空気中では抵抗かがすぐに ' J Jにすぎない。したがって,発光町間を長 限化してしまって発光時間は昨日日 I 聞をできるだけれ空状態にして政化を防ぐ必要が くするためには抵抗ねの m 1 0 0 経営と経済 ある。しかし乙の問題も, 1 8 6 5年シュプレンゲ、ノレ (HermannSprengel) による水銀真空ポンプの発明によって解決された。真空技術はその後も発達 し , 1 8 7 5年にクノレックス ( S i rV V . Crookes) が行なった真空中の放電現象 の実験においでほぼ完全な真空が得られるまでに至った。 8 7 0年代後半からにわかに白 このような 2大隆路が克服されるに及んで, 1 熱電球の研究が活発になった。白熱電灯の実用化への技術的基礎の成立は, イギリスのスワン(J. W. Swan) と ア メ リ カ の エ ジ ソ ン (ThomasA. E d i s o n ) の貢献に帰するところが大きい。 1 8 4 0年代にすでに電球の発明を志したことのあるスワンは, 7 0年代中葉の クルックスの研究に刺激されて再び電球の発明に取組んだ。彼は真空技術者 スターン (Char 1e sStearn) の協力をうけつつ,カーボン繊条から発散す る蒸気によって生ずる電球内の黒化現象を取払うことに成功し, 1 8 7 8年に実 用カーボン電球をニューカッスルで初公開した。その後は,抵抗体としての 8 8 0年に製作されたス カーボンの品質改良と製法の簡易化に努力を集中し, 1 ワン電球は工業化への道を聞いた。乙の電球に用いられた高抵抗のカーボン ilament は強度と弾力に宮むものであり,この時はじめて「フィラメント Jf という名称が用いられた。かくして,スワンは, 1 8 8 1年にクロンプトン ( C o - l e c t r i cLightingC o . を設立し 8) 電 l o n e lCrompton) とともに SwanE 球生産を開始した。 アメリカにおいてはエジソンが,スワンとほぼ時を同じくしてカーボン電 8 7 8年に白熱電球の発明に本格的にとりかか 球の発明に成功している D 彼は 1 り,数ヶ月後,細い白金線をフィラメントとした高抵抗の電球の製作に成功 した。しかし,白金をフィラメントにしたのでは白球コストがあまりにも高 くっき,到底企業化は望めなかったからそれを断念し,カーボン白球の開発 に専心した。最初に成功したカーボン・フィラメントは木市j i の縫糸を完全に 0年には,よく知られているように日本の京都産 炭化したものであったが, 8 真竹がその材料として最も辺していることが発見された。かくして,エジソ ンは電球の本格的生産に岩手するため, 8 0年 EdisonLampCompany を 設立した 9) 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 0 1 注 1 ) 電気を利用する事業としては電信事業がはやくも 1 9 世紀中葉に,アメリカ合衆 国 , ドイツ,イギ、リスなどで確立していたが,通信のための屯気はごく微量で 足りたため大量の電気発生を目的とする発電機械の技術ととくに関連している とはいえなかった。(とりあえず,竹内宏『電気機械工業』克洋経済新報社, 昭和 4 8年,第 2草を参照。) 2 ) 本節の技術史l 乙関する叙述はとくにことわりのない限り,主として次の諸文献 の関連個所に依拠している。 E .W.Byrn,TheProgressofI n v e n t i o ni nt h eN i n e t e e n t hC e n t u r y .( 19 0 0 . r e i s s u e d,1970) R. H. Parsons,TheEarlyDaysoft h ePowerS t a t i c nI n d u s t r y .( 1939) H. C . Passer,TheE l e c t r i c a lManufacturers,1 8 7 5 1 9 0 0 .( 1953) A. A. Bright ] r .,TheE l e c t r i cLampI n d u s t r y .( 19 4 9 ) G. Siemens,HistoryoftheHouseofSiemens. Vol .1 .( 19 5 7 ) P . Dunsheat h,A History0fE l e c t r i c a lE n g i n e e r i n g .( 1962) A. G. Whyte,Forty YearsofE l e c t r i c a lP r o g r e s s .( 19 3 0 ) 日本百球工業会『日本屯球工業史~ (昭和 3 8 年) asser, 3 ) 交流用のアーク・ランプがはじめて閃発されたのは 1 8 9 0年代である。 P 。 ρ .c i t .P .6 5 . 4 ) 最初の白肋式充屯!誌を製作したヨアトの功誌は一般に認識されていない。前掲 文献の中ではノ fーンだけがこれを評価している。 Byrn,o p .c i t .,P P.4 0 41 . 5 ) “Report on t h e Trinity House Tests, "TelegraPhicJ o u r n a l . Vol .5 . pp. 257・2 6 4 . 6 ) Dunsheath,0ρ c i t .,P P. 1 0 6 1 0 7 . 7 ) しかしながら灯台におけるアーク灯の普及は決して順調なものではなかった。 1 8 5 8 年にサウスフォランド灯台に初めてアーク灯が使用されて以来, 1 8 8 0年ま 止界ではわずか1 0の灯台(そのうち 5はイギリス)がアーク灯照明をして でに I p .c i t .,P .1 0 7 . いたにすぎなかった。 Dunsheath,o 8 ) I b i d .,PP. 1 3 1 1 3 2 . 0ρ c i t .,P .9 3 . 9 ) Passer, f 父丹、{.ムイてすえ 1 0 2 ' 1 ' ι ι ユ <- 什ヰ二 1M E イギリスにおける電灯普及の遅れ 屯気 n a l 月の原理が発見されてからほぼ 4分の 3世紀を経た 1870年代末から 80 年代初めにかけて,ょうやく屯灯の尖 r~~ 的利用が閃始されるのであるが, イギリスでのその後の普及は必ずしもはかばかしいものではなかった。とい < k F !における急速な普及に比 i反するなら,少 うよりは,たとえばアメリカ合 n なくとも 80年代のイギリスでは氾灯による照明がほとんどなかったといって も過言ではないであろう。「屯灯はロンドンよりむしろ市洋諸山の方が普及し iう戸さえ 80年代末に 1 mかれるほどの状忠であったわ。一方, ている o J とl アメリカにおけるむ灯の珍追は目江しいものであり,街路照明では 1885年ま でにアーク灯によるガス灯の代二位はほぼ完了していたしの, 90年には全アー ク灯玖は 23万灯以上を数えた(古川表参照)。これに比べてイギリスでは, 1890年のアーク灯による街灯はわずか 700灯にすぎなかった 3)。 1 正気照明としてはその後アーク灯よりもはるかに主主J な地位を占める白熱 むよ「の利用においても,イギリスの返れは凱若である O とりあえず,白熱灯 1 ]央発屯所数を取上げてみるなら 4) 1 880年 代 末 普及のひとつのお仰となる 1 までにアメリカでは約 600ケ所も建設されていたのに対し,イギリスではご く小規模のものが 10数ケ所存在したにすぎなかったの。 百灯技術の克服 1 3代に多くの%れた科学者,発明家を出して日灯の尖用 化に大きな貢献を与えたイギリスが,いざむ灯の宍用化時代にはいると反転 して後巡回なみの普及しか経験しなかったのは一体なにゆえであろうか。 80年 代 の イ ギ リ ス に お い て は , お よ そ 次 の 3つ の 理 由 が 考 え ら れ よ 〔 沼 l去 〕 年 アメリカにおけるアーク灯の普及(1881-1912年) 次│ァごク 1 8 8 1 1 8 8 5 1 8 9 0 1 8 9 5 1 9 0 2 1 9 1 2 kpl 6, 0 0 0 0 0 0 96, 2 3 5, 0 0 0 3 0 0, 0 0 0 0 0 0 3 8 6, 5 0 5, 0 0 0 (出ょ日) 1881 1902年は H. C . Passer,The E l e c t r i c a lManufacturers,1875-1 卯 o .( 19 5 3 ) ・ P .7 0 . 1912年については Departmento f l e c t r i cLightandPower Commerce,Central E s . S t a t i o n s and S t r e e t and E l e c t r i cRailωαy ( 19 1 2 ) P. 1 7 . 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 0 3 つo ( 1 ) 1 8 7 3年 以 降 , い わ ゆ る 「 大 不 況 J (GreatDepression) と 呼 ば れ る 周知の長期的経済停滞の中にあって, 1 8 8 2年 の 小 ブ ー ム 以 後 8 0年代末に至る まではよ元気の後退j 切にあたっていたこと。このような経済の j 完治則には,む 気 産 業 の よ う な 新 部 門 へ の 投 資 は な お さ ら 狭 め ら れ る と 思 わ れ る D また電灯 0年代のブーム J V Jから,一転して に 対 す る 需 要 側 面 か ら み る と , 建 築 循 環 が7 8 0年 代 初 め か ら 末 に か け て 下 降 却 ] に あ っ た こ と は , 電 灯 照 明 と ガ ス 灯 と の 選択範囲を狭めた。というのは,既存の家屋ではガス灯ーからむ灯へ照明手段 を変克するには配線設備コストが余計にかかるのに対して,析しい不足では ガス設備か電気設備かのどちらかだけのコストで済むからむ灯にとってはそ れだけ選択される阪会が多かったといえるからである O ( 2 ) 1 8 8 2年 に 成 立 し た 「 屯 灯 事 業 法 J (屯灯法・ 1 U気照明]法) Electric U Fが も た ら さ LightingAct の 存 在 に よ っ て , 私 企 業 の 資 本 調 達 に 大 き な 文 l れた 6)。 同 法 の 及 大 の 問 題 点 は , 私 企 業 の 電 灯 3 2 2 Eに 対 し て , 地 方 自 治 体 は そのヨ工業開始 2 1午 後 に こ れ を 強 { i ;1j只収しうる j 在限を賦与されていたことであ る 。 2 1年 N J限で大:日:の投下資本の回収可能性に疑問を抱く企栄次・金融家は ! この部門へのゴ~~~参加を時せざるをえなかった。 Gr~2 表〕 イギリスの建築指数(18 7 8 9 0年〉 phJ で ト ∞ 次[肌(18 8 0 = 1 l ﹃ ム 8901234567890 U788888888889 (山県) W. Hoffmann,Br 的 ・s h1 ndustry 1700 1 9 5 0 .( 19 6 5 )主主ボ Table5 4 よりじり江。 ・ 1 0 4 経営と経済 〔 第 3去 〉 イギリスの住宅起設趨勢(18 7 0 1 9 0 9年) 年 (出出 l fI住宅投資単額位(1百叩万削ポ船ンド) 建設単数位(年平千均戸 1870-79 1 0 1 . 9 2 0 . 2 1880-89 7 9 . 8 1 7 . 2 1890-99 1 0 7 . 7 2 6 . 0 1900-09 1 3 0 . 6 3 5 . 2 H.W. R i c h a r d s o nandD . H. A l d c r o f t,Buildingi nt h eB r i t i s h Economyb e t w e e nt h el V a r s .( 19 6 8 )P .2 6 . ( 3 ) 故後に,既存照明手段であるガス灯との競合問題があった。 1870 年代 にはすでに大都市のガス供給網をほぼ完備していたイギリスでは,電灯の照 明市場への進出は必然的にガス灯代替を遂行する過程であった。乙こに,単 に「光の佐禿性」というメリットだけではガス灯代替は容易でなく,低いガ ス灯価格との困雑なコスト競争が大きな問題となった。乙の点,アメリカの 事情は異なる O アメリカでは,都市のガス・システムが充分に発達しておら ずガス価格も高かった。イギリスのガ、ス産業が早くから発達していて高い効 率で供給し,都市自治体による公営化などで独占利潤を排除するのに成功し ていたのに対し,アメリカでは,ガス企業は非効率的な供給システムのまま 不当利潤を得ていた。かくして 1880年代初めでは,アメリカの都市ガス価格 はイギリスのそれの約 3倍にもなった 7) O このようなガスの相対価格のほか に,アメリカにおける都市化の急速な進行に比較して,この l 時期のイギリス では都市化の速度が衰えていたことも,電灯市場の形成にとって不利にはた らいたであろう O 電灯の実用化が可能になってから約 1 0年間は,イギリスには以上のような 諸事情が重なりあって存在し,電灯普及はほとんど進展しなかった。次節以 下では,とくに照明市坊におけるガス灯とのコスト競争に 1\{~J点を絞りつつ, そのような苦境の中での電灯企業の成立・展開過程を考察していきたい。 1 8 8 0年代イギ、リスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 0 5 注 1 ) P. C . Avebury,OnMunici ρa landN a t i o n a lTrading. ( 19 0 7 )P .1 1 4 . 2 ) Passer,o p .c i t .,PP. 4 8 5 1 . 3 ) E l e c t r i c i a n,]anuary2,1 8 9 , 1 p .2 7 5 . 4 ) 工場動力用・軌道用に電気供給がされるようになるのは 9 0 年代以降の乙とで, すくなくとも 8 0年代はほとんど照明用であった。 5 ) H.R .Meyer,MunicipalOwnershiρi nGreatB r i t a i n .( 19 0 6 ) PP. 1 9 5 7 . なお後述第V節参照。 6 ) i 電灯事業法」の内容とそのイギリス電灯事業への影響については,さしあた 8 8 0年代『電気照明法』との関連 り,拙稿「イギリス屯気事業の成立過程一一 1 を中心 l こ一一 J W-~~Ä合主.] 72巻 3号を参照されたい。 7 ) 後述, 1 0 7,1 1 5 6 頁参照。 E アーク灯とガス灯との競合 アーク灯はその t b 'f造上,普通 1, 0 0 0 3, 000燭光の強い光を発した q したが って,すでに述べたように,強い光出力を必要とする灯台では 70年代にすで に従来の照明手段(灯油・ガス)よりも低いコストで利用することができた。 しかし逆に,そのような強し 1光が一般家屋の室内照明に全く辺さないことは 明白である 1)。それゆえ,照明コストは別にしても,アーク灯はせいぜい街 路,広場,工場,公共建築物など広いスペースの照明にしか利用することが できなかった。当時のガス会社の収入の 9 0 9 6は,一般家庭・ 3 工務所などの室 内照明に依存していたことを/号えると なり小さかったといえよう 2) ,アーク灯の治在需要そのものがか O アーク灯は光質や取扱いの容易さなどではガス灯に対していくつかの利点 があった。ガス灯より白色系が多いことや,火事の危険性が小さいこと,室 内気温が上昇しないことなどがあげられよう O しかし,それだけでは沿在市 要に食い込むことは保障されなかった。照明コストにおいて大きな困地が存 在した口なるほど,アーク灯は l灯の光出力がきわめて大きいので, 1% i J 光 当りの点灯コストはガス灯よりはるかに安くついた。たとえば, 80年代前半 のニューヨーク市において 15燭光ガス灯と 1500焔光アーク灯の 1~~J 光当りの 1 0 6 f i 主主?と経済: コストを比較してみると,アーク灯は力、、ス灯の約 1 4,-..., 1 9 9 6にしかすぎなかっ た 3)。しかし,照皮は光涼からの距離の 2*1 こ反比例するという物理的法則 によって,実際の照明にとって 1悶光当りのコスト比較は無志q;jととなる O そ 0 0倍の光 れはこういう乙とである。今,上の例のようにアーク灯がガス灯の 1 の強さであるとすると,その強さに比例してガス灯を代替した場合,アーク 灯問の距離はガス灯同の距離の 1 0 0倍になる O その n , 与 2灯の中間点の明るさ 5 j合の 100分の lになり,ほとんど陪 J 尽になる は,先の法則によってガス灯の J であろう口この中間点の切るさを従来のガス灯の拐合と同じにするためには I ! t を1 0分の 1!こ縮めなければならない。いいかえれば,アー アーク灯問の距n 0倍に増やさなければならないのである。このとき,ガス灯を代替 ク灯欽を 1 0倍になるであろう。(一般的に するアーク灯の総同光数は,ガス灯のそれの 1 いうと,ガス灯の x倍の光度をもっアーク灯で代替する坊合,ガス灯総!日光 i J ( の L/X倍の総局光数がアーク灯に必安となってくる o )ただし宍際には, 街灯にアーク灯を採りいれる場合,心理的な面からこの理論値以上にアーク 灯問の距雌を近践しなければならなかったと忠われる O 以上のような理由か ら,アーク灯は効率の思い照明手段でおり,実際の照明コストはガス灯より も不利になった針。 ヤブロホコフは,アーク灯のもつ乙のような効率の思さを改善すべく a b l o c h k o f fCanc 11 eを 考 案 し た 5)口乙れは, 「ヤブロホコフ・キャンドノレ J] 台に 1 灯のアーク・ランプしか接続できなかった点を改良し, 1台 従来発電機 1 の発電機から数回路とりだし,その上,各回路に 6 1 回ず、つの「キャンドノレ J( ア ーク・ランプ)を取付けたものである これによって 1 灯の光の強さを 1 5 0,-..., 200 O 燭光にまで下げることができた。ヤブロホコフ・アーク灯の実用化は 1877年 にパリのノレーフツレ百貨居に 80灯設置されたのが最初で,翌年にはパリ市内で 300灯が点灯されていた 6) 。イギリスではやや遅れて, 1878年にビリングスゲ イト魚市場に 1 6 灯点灯されたのを初めとして,その直後にウォータールーか らウエストミンスタ椅までのテムズ河岸辺りに 20 灯のヤブロホコフ・キャン ドノレが点灯された 7) O その後,ヤブロホコフ・システムによるアーク灯がロ ンドンを中心に徐々に採りいれられるようになったが, 1879年末においてイ 1 0 7 1 8 8 0午代イギリスにおける立気合及の遅れと電灯企業の民間 ギリス全体でのその数は 1 6 5 灯にすぎなかった的。 7 0年 代 末 の 時 点 で は , ヤ ブ ロ ホ コ フ ・ シ ス テ ム は 最 も す ぐ れ た ア ー ク 灯 シ ステムのひとつであったということができるが,それにもかかわらず,その 普及が必ずしも速やかだったとはいえなし ' 0 その長大の原因として,やはり ガ ス 灯 と の コ ス ト 格 差 が あ げ ら れ よ う 。 当 時 , 改 良 型 の ガ ス 然 必 回i i(gas burner) に よ っ て , ほ ぼ ヤ プ ロ ホ コ フ 灯 に 匹 以 す る 強 さ の 光 が 何 ら れ る よ う に な っ て い た ( サ ッ グ ・ ガ ス 灯 Sugggasburner) 。 第 4表 は 両 者 の 照 明コストを比政したものであるが,テムズ河岸辺りのヤブロホコフ・アー ク灯の照明コストは,ほぼ同じ切るさの力、、ス灯の約 3倍 に も の ぼ っ た の で あ る。氏系惇コストはその後の諸改良によって急述に低下していくとはいえ町, 発 電 コ ス ト だ け で ガ ス 灯 総 コ ス ト の 2倍 以 上 に も な っ て い る O ところで, 1 8 7 0年 代 末 か ら 8 0年代初めにかけて,ヤフ、、ロホコフ・アーク灯 のほかにもすぐれた改良アーク灯システムが現われていた。中でも長も大き Gr~ 4去 〕 ヤブロホコフ・キャンドノレとサッ夕、・ガス灯の 1灯 1n~j 川当り ( l F位:ペンス) 一¥ ¥ Jー 土 ヤプロホコフ・ キ ャ ン ドノレ 5 0 m 光) ( 1 3 6 0 0 │テ ム ズ 河 町 り ii323}63 iitiJ)74 │一一一一一一一一一一一 I川 照 明 推 定 I ¥ o i f } 4 0│ ( : J 2 3 } 4 2 155m光 2 . 2 2 . 5 265J~~ 光 3 . 7 4 . 0 サッグ・ガス灯 c 注 : 在 主 ) 1 7 1 0 ヤフブプ、引、ロホコフ.キヤンドノルレの i 6 印0 ) 丁 : 灯以 l( 4 {切推 j住 定」 とは, 当 三j l 、 川 山 : 山 1 ; 3 1 : ) J ロ 心 段 j 涜 をt 伎 i 江 : 月 用 ] し た山 1 J 見 J 合6 印O 灯 主 五 辿 i i 紀粘;できるとして, その l灯当りのコストを H t 定したものである。 ({Hii ゴ'~.) (a) は史的資木,迎 jl~ ,工1jf の名 n 用の合計。 (b) は以来 lr ìì'í ;[~'(o (山県) 1 .C . R Byatt,The B r i t i s hE l e c t r i c a lI n d u s t r y .( unpublished 1 9 6 2 )P. . 9 x f o r c l, Ph. D . t h c s i s,O 1 0 8 経営と経済 な期待を寄せられていたのが,アメリカ人ブラッシュのシステムである。彼 は,複式炭系椋,炭素梓の銅メッキ,自助電~1t調整装置などランプ。の三大改 ‘ 10) 良を行なって注目をないたが ,発電機の改良はそれ以上に重要であった。 8 7 7 7 8年にフィラデノレフィアとボストンで行 ブラッシュ発電ぬは,すでに 1 なわれたアーク灯システム展示会で最優秀賞を獲得しているが,その特徴は 9年までに, 1 6灯 を 直 列 接 続 で き る 高 出 力 発 発電容量の大きさにあった。彼は 7 電機を開発していた 11) 口さらにその上,ブラッシュ・システムではアーク・ , 0 0 0燭うもにしてあった D ヤブロホコフ・システムではう巳 ランプの明るさを 1 5 0 2 0 0燭光にしてあったが,これはかえってアーク灯のもつ特 を分割して 1 長 ( た と え ば 1燭光当りの電気コストが低い)を喪失してしまっていたとい 0 0 0燭 光 の 強 烈 な も の で あ える。また,ジーメンス・システムでは l灯 が 3, ったが 12) これはすでに述べたように無駄の多い切るさであった。ブラッシ ュ・システムはこの 2 システムの中間の明るさを採ることによって,アーク 灯の特長を活かしつつ照明効率を高めることに成功したといえよう O 発電機,ランプなどアーク灯システムの霊安部分において大きな改良を遂 げたプラッシュ・アーク灯は, 1 8 8 0年にはアメリカ合衆国で 5, 0 0 0灯 が 点 灯 され,アーク灯市場の 8 0 9 6を占めていた 13) 。この伝秀なシステムはイギリ スにも上陸し, 8 0年代・アーク灯事業の中心的な役割を果たすことになる。 注1) 当時の標準ガス灯は 1 6燭光であった。もっともこれは今日の 2 5ワット白熱電球 の明るさほどであるから,照明水準そのものが低かったといえよう。 2 ) P a s s e r,o p .c i t .,P .8 0 . 3 ) I b i d .,P .4 9 .T able5 より計算。 4 ) 街路照明にアーク灯が急速に普及したアメリカ合衆国においても, 1 8 8 0 年代前 半はアーク灯の方がガス灯よりも割高であった。 I b i d .,P P .4 8 5 0 . 5 ) r ヤブロホコフ・キャンドノレ」の椛造については, Byrn,0ρ c i t .,P P .6 4・ 6 5 . を見よ。なお,乙の製造会社はフランスの S o c i e t eGeneraled ' E l e c t r i c i t eであった。 P a r s o n s, 。ρ c i t .,p .4 . 6 ) I b i d .,P .3 . 7 ) 1b id .,P .4 . 1 8 8 0年代イギ、リスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 0 9 8 ) E l e c t r i c i a n,] anuary3 , 1 1 8 8 0,p .1 21 . 9 ) 炭素棒ほ主としてアメリカからの輸入に依存するものであった。 8 0年代初期の アメリカでは,炭素棒製造の専門会社が族生し激烈な価格競争を毘閃した。炭 0 0 本当りの平均価格ほ次のように急速に低下する。 P a s s e r,o p .c i t ., 素棒1, 0 p .5 9 . 1 8 7 9 年 …. . 2 5 0ドノレ 1 8 8 2 年 … ・ ・ 6 3ドノレ 1 8 8 6年一…. 1 0ドル 1 0 ) Ibid.,p .1 8 . 1 1 ) I b i d .,P P .1 51 7 . ・ 1 2 ) なお,ジーメンス・システムでは,発電機 l基につき 1灯のアーク灯しか技続 できなかった。 後掲沼 5表参照。 1 3 ) P a s s e r,o p .c i t .,p . 2 0 . 町 8 0年代初期のイギリス・アーク灯企業 イギリスにおける最初のアーク灯関連企業は,グラム発電機の輸入販売を 8 7 8年に設立された B r i t i s hE l e c t r i cL ightCo. であった。 80 目的として 1 年前後には,乙のような愉入販売会社がいくつか成立する o ロンタン ( Lon- l e c t r i cL ight and Power GeneratorCo. や , t i n ) ・ランプを扱った E ヤプロホコフ・アーク灯の E l e c t r i candMagneticC o . などがその代表で ある 1)。 アーク・ランプの製造は, 1 8 7 8年にクロンプトン (R. E. B. Crompton) が閃始した。 7 9年までに彼のアーク灯は 6灯が利用されたにすぎなかったが, 1 1 1 ; えを開発し 翌年,ブラッシュ・システムの出現に刺激されて自ら多灯用発 7 一 た結果, 2 0数 ケ 所 l 乙彼のシステムがかりいれられた 2) 。また, f E伝 部 門 の 製 r o s .C o .も , 7 0年 代 後 半 造会社として主要な地位を占めていた SiemensB にはアーク灯システムの製造に~:手した 3) O しかし,製造会社として後に最 8 8 0年に設立された Anglo-American Brush も主要な役割を果たすのは, 1 E l e c t r i cL ighting Corporat i o n (以下,ブラッシュ社と略称)である O こ 1 1 0 経営と経済 の会社は,当初,アメリカの親会社 ( B r u s hE l e c t r i cC o . )の販売代理を 業務としていたが, 80年末には市 ~l世に対応してブラッシュ・システムの生 産を閃始した針。 1881年のイギリスにおいては,主として,ブラッシュ,ジーメンス,クロ ンプトン,ヤブロホコフの各システムがアーク灯照明市坊を分割していたと いえる O ただし,ヤブロホコフ・システムは次第に重要性を失いつつあり, 最も成功していたのはブラッシュ・システムであった的。 ブラッシュ社は,そのシステム f i ! ?裂の地加に対応して新しい販売方式をと りいれた。従来はアーク灯装百の生産と,最終賠入者への直接販売を兼業し ていたが, 1881年以降生産に専門化し,製品の収売を{也の会社に委託した。 その際,ブラッシュ社はこれらの会社に対し,特定地域において,ブラッシ ュ・アーク灯システムの独占的販売権を一定期間委設するという方式をとっ た 6)。これらの会社は Brushc o n c e s s i o n a r yc o m p a n i e sと呼ばれ,アーク 灯の供給事栄に専念することになった(以下,これらをブラッシュ・アーク ヤ7 "ロホコフ,ジーメンス,ブラブシュ各アーク灯システム C~15 去〉 立と照明コスト のねi 「 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 システム名 一 一 一 _ _ _ _ 発 電 総 1廷 に よ る 点 灯 数 n の 問 1 ) 1 ヤブロホコフ lジ ー メ ン ス │ ブ ラ ッ シ ユ I(1878咋 ) I (1880年 ( 1 8 8 1年) l も う 版関│ ラ ン ( │ 1, 0 0 0 *~~ 0 . 6 9 l .3 3 2 . 0 2 3 . 2 7 2 . 7 3 6 . 0 0 0 . 6 9 不明 .ペンス 1)は建物を除く。 2 ) は労倒コストを除く。 (出典) Byatt,o p .c i t .,P .1 3 . (註) 3, 0 0 0 I プ j.'~)\ z j Y f ミ t 1 5 0 I 3 0 . 3 2 5 . 0 2 2 . 3 1 2 . 3 8 9 . 9 計- n 1 6 1 2 0 . 5 1 1 4 . 0 2l .0 9 4 . 6 3 5 0 . 1 単位:ポンドケー ジ 辺 1j 土 1 1 転 l 位 I時 コf ス 日当ト り〉 l 1 I 8 . 8 1 8 . 0 1 0 . 0 1 9 . 5 5 6 . 3 設 { ; t f , 'コ ス ト 発 白 抜 (1灯当り) 2 0 I 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 1 1 灯会社と総称する)。乙れらの企業は,新規設立に際してブラッシュ社から 資金借入が可能であり 7) ,また特定地域における独占揺に関しては,街路, 公共施設などの照明のほかに,その地域内の一般企業が自家発電装置(ブラ ッシュ・システム)を取付ける場合も,ブラッシュ・アーク灯会社は装置価 格の 596の手数料を徴収することができた 8)。 さて, 1882年の前半,なかんづくその第 2四半期にアーク灯ブームが生ず るD これは, 81~82年の経済の小ブームを背景にして 9) ブロッキー (Broc- ($6表〕 ロンドンにおける各アーク灯システムの点灯コスト(18 8 2 年) A 地区 一 一 ¥ 1 2 ヶ 月 間 探 訪j 究(f,) 6 6 0 2, 0 0 7 2, 0 5 0 1, 5 0 0 固定資本史(工事究を合む)( f , ) 7 5 0 5 0 0 1, 6 5 0 , 15 5 0 1 2ヶ 月 間 点 灯 給 費 用 ( f , ) , 14 1 0 2, 5 0 7 3, 7 0 0 3, 0 5 0 3 次 32 1 7 29 48 代替されるガス灯数 1 5 0 1 5 2 1 4 4 1 4 4I ア 一 ク 土 了 (的考) 代合されるガス灯の照明コストはf, 690( 15 2 灯〉と推定される。 B 1 : m区 一一一一次一三 1, 0 0 0 , 11 1 7 1, 6 2 0 ( f , ) , 13 5 0 1, 8 5 2 2, 2 6 7 4, 1 3 0 1 1用(f,) 2, 1 9 0 2, 8 5 2 3 8 4 3, 5, 7 5 0 8 0 3 6 固定資本日(工 ~J T- 1~ を合む) 灯 政 2 8 代替されるガス灯玖 1 2 5 ク j Weston 8 4 0 1 2 ヶ 月 同 校 日 ] ~~(f,) 12 ヶ月間点灯 r;:.~ o e l Brush I P i l s e n I J 1 1 0 ( f : : : ! 考 ) 代J e ! }されるガス灯の照明コストはf, 5 5 1( 1 1 5灯)と推定される。 ( 注 A. B. 両地区とも点灯時間ば日没から日丹まで。 U l l s l J J Electrician,May27, 1 8 8 2 ;J u l y1 5,1 8 8 2 . 1 1 9 1 1 2 経営と経済 k i e ) ,ピノレセン ( P i l s e n ) などの新しいアーク・ランプの開発とともに 10) とりわけブラッシュ・アーク灯会社の各地におけるアーク灯デモンストレー 8 8 2 ションが大きな刺激になったものと思われる。このブームを反映して, 1 年中に 3 7にものぼる電灯会社(この中にはごくわずかながら白熱灯会社も含 まれる)が新規登録された。そのうちの約 3分の lはプラッシュ・アーク灯 企業が占めた(第 7表参照)。アーク灯ブームがプラッシュ・システムのあ る程度の成功と将来性への大きな期待がひとつの導火線となっていた乙とは, 次の事実によっても明らかであろう D それは,ブラッシュ林への急激な投機 0ポンド額面林は, 82年 4月に 2 8ポンドの高値をす 熱の高まりである。その 1 5月には 6 8ポンドのピークに達した O しかも投椴熱が静 でに示していたが まった 9月においても,なお, 24ポンドの値を維持していた 11)。 〔 沼 7表) 1 8 8 2年に新規登録されたブラッシュ・アーク灯企業 (単位:1 0 0 0ポンド) 業 企 名 │公称資本│払込資本 BirminghamandWarwickshireBrushE .L .&P . BrushE .L .C o .o fI r e l a n d .C o .o fS c o t l a n d BrushE .L . &P . BrushMidlandE .L . &P . &P G r e a tWesternE .L . Supply HammondE .L . &P . M e t r o p o l i t a nBrushE .L . &P P r o v i n c i a lBrushE .L . &P lM 山 Y o r k s h i r eBrushE .L . &P 一 1 0 0 2 5 0 3 0 0 2 5 0 2 5 0 3 0 0 0 0 0 1, 2 0 0 1 0 0 3 0 0 1 0 0 1 3 0 1 5 0 1 2 5 1 2 5 3 0 0 5 0 0 1 0 0 1 0 0 2 0 0 (出典) E l e c t r i c i a n,] anuary6,1 8 8 3,P P .1 8 1 2 . このようなアーク灯ブームは,当時技術的にようやく実用化への追を踏み 出していた白熱電灯への関心をも喚起することになり,中央発電所建設への 到Jきが見られた。白熱電灯はアーク灯と違って 1 灯の消去電力が低く多数の電 ー 12) 球を連結しうるかり ,それだけ中央発電所方式への志向が強かった。も ちろん,この当時の送電技術では,自家発電装置にくらべて中央発電所方式 が大きな規校の経済性を有していたとは必ずしもいえないが,着々とした電 1 1 3 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 気技術の進歩からすれば,将来の電灯照明が必然的に中央発電所方式に依存 するであろうことは明瞭であった 13)。エジソンが 1882年 4 月にロンドンのホ ウノレボンに「ジャンボ」発電機を設置し 14) ,ニューヨークのパー jレ・ストリ ート発電所に先がけて行なった試験的中央発電方式電気供給の成功は,その 後のイギリス電気事業に明るい展望を与えたかにみえた。しかし,同年 8月 に成立した「電灯事業法」と以下に叙述するような事情のもとに, 80年代の イギ、リスは電気普及に関する限り完全な沈滞期にあった。 注1) I . C. R. Byatt,The British Electrical Industry,1875-1914. (unpub- l i s h e dPh. D. t h e s i s,Oxford,1 9 6 2 )P P. 1 7 1 8 . 2 ) E l e c t r i c i a n,]anuary8,1 8 8 , 1 p .9 0 . 3 ) I . C. R. Byatt, “E l e c t r i c a l Products",D. H. Aldcroft ( e d . ),The /British Industry and Foreign Competiton, 1875-1914. Development 0 ( 19 6 8 )P .2 4 4 . 4 ) E l e c t r i c i a n,December4,1 8 8 0,P . 31 . 5 ) E l e c t r i c i a n,January7,1 8 8 2,P .1 2 2 . 6 ) Byatt,0ρ .c i t .,P h. D. t h e s i s,p .1 9 . なお,この方式はアメリカのプ ラッシュ社を踏襲したものである。 7 ) Ibid,P .1 9 . 8 ) Passer,o p .c i t .,P P. 1 9・2 0 . 年次 9 ) たとえば,ロンドンにおける国内向け新資本発行 0年代末のトロフから 8 0年代 額は,右表のように 7 初めにかけて急増している。 1 0 ) E l e c t r i c i a n,January 6,1 8 8 3,p .1 81 . 1 1 ) Byatt,o p .c i t .,P h. D. t h e s i s,p .2 3 . 1 2 ) 1890年前後では,エジソン白熱電球は 50~65 ワッ トに対し,アーク・ランプ(トムソン=ヒュース トン製とマキシム=ウエストン製)は 500~700 ワ ットであった ( P a s s e r, 。ρ c i t .,P P. 3 3,1 7 0 より~~出)。 1 3 ) 自家発電方式と中央発 f E 方式の主な差異は次の点 1 8 7 8 1 8 7 9 1 8 8 0 1 8 8 1 1 8 8 2 1 8 8 3 1 8 8 4 1 8 8 5 1 8 8 6 I(政百万行治ン F 戸 ) 1 8 . 3 1 5 . 8 1 9 . 2 2 9 . 3 2 8 . 6 2 4 . 8 2 5 . 5 1 4 . 5 2 2 . 7 (出典) C .K.ホプソン (間井克巳沢) W 資本 輸出市 j (昭和 4 3年) 1 5 6瓦。 1 1 4 経営と経済 にもとめられよう。前者は,発電装置から電灯にいたる照明設備一式を単位と して需要家へ販売するのに対し,後者は,発電所から需要家へ電気を供給し, 照明時間ないし電気伎用呈に応じて料金を徴収する。 1 4 ) 最初,エジソン 1 6燭光電球1, 0 0 0灯用..すぐに続いて 1, 2 0 0灯用の発足械が設置 arsons,o p .c i t .,P .1 1 . された。 P V 白熱電灯とガス灯 アーク灯がその強光度のゆえに照明利用の範囲を制約されざるをえなかっ たのに対し,白熱定灯はほぼガス灯と同じ強さの光を発することができたか ら,その意味ではガス灯照明を全面的に代替しうる可能性をもっていた。実 際,英米両国でも,白熱電球の光の強さはその実用化の当初からガス灯と同 じ1 6燭光が標準的であった。それは,ガス灯との照明コスト比較をー居容易 にしようとする志図をも含んでいたと思われる。 白熱電灯は従来のどんな照明よりも,光質や取扱いの容易さの点で疲れて いた D アーク灯が物質(炭素梓)を燃焼させて発光させる点では,ガス灯を 含めたそれ以前の照明方法と異ならなかったといえるが,白熱電灯は,高抵 抗の物質に電流を通し,それを熱して発光させるという点で画期的な照明方 法であった。また,アーク灯が光の強さの調整を自由にできなかったのに対 し,白熱灯ではそれがある程度可能であった。さらに,ガス灯との比較では さまざまな点において侵っていた。焔を出さないので,きわめて安定した光 を発し,室内を汚す心配がなく, ~!\の発散がほとんどないこと,火事の危険 性がないことなど。このような質的面における佼位性から,白熱電灯の照明 価格がガス灯価格と同じになるか,近似してくれば,ガス灯から白熱灯への 代替が急速に進行するだろうことは明白である。手突,アメリカにおいて, , .1) エジソンは,企業化に際して白熱灯価格をガス灯価格 と同ーに固定するこ とによって照明市場への進出を確実にし,しかるのちに,発電機,送電網, 計器,電球など電灯システムのあらゆる分野においてコスト削減的発明・改 良を行なって利潤を増幅することに成功した 2)。 しかしながら,イギリスにおいては都市ガス・システムが高度に発達してお 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 1 1 5 り,きわめて安価にガスが供給されていたから,アメリカとは異なって,白 熱電灯の普及は容易ではなかった。もっとも,電灯は上述したようなすぐれ た特質をもっ照明手段であったので,その普及にとって必ずしもガス灯以下 の照明コストは要求されなかった。ホテノレ, レストラン,劇場,公会堂,商 庖,事務所,あるいは大きな私邸などでは,むしろ照明価格の高いのを度外 祝して電灯を採りいれる傾向にあったといえる 3) D しかし,とはいっても, 乙のようないわば特殊な需要家だけを対象にしていたのでは,電灯の普及は おのずから限界があり,問題は一般住宅の照明需要にいかに食い込むことが できるかということにあった。とすると,やはり問題の中心はガス灯との相 対コストであった。 , 4) ノイイアットの試算によれは ,1 8 8 0年代初めの 1, 0 0 0立方フィート当りの ガ ス 価 格 は , ロ ン ド ン で 3シリング,北部大都市(マンチェスター,リー ズ , リヴァプーノレ,ノ fーミンガム,シェフィーノレド)では 2シリング 6ペン ス,イギリス全体の平均でほ 3 シリング 6ペンスから 4 シリングであった D 当時, 1 6燭光ガス灯は l灯 1時間に 5"'6立方フィートのガスを究消した。 灯1 時間のガス点灯コストは,ロンドンで 0 . 1 8 " ' 0 . 2 2ペンス, したがって, 1 . 1 5 " " ' 0 . 1 8ペンス,全国平均では 0 . 2 1 " " ' 0 . 2 8ペンスということ 北部大都市で 0 になる O 他方,白熱電灯照明コストは次のように概算することができょう D 80 年代初めの白熱電球の l 燭光当りのれJFl-~屯気エネルギーは約 4.5 ワットで あった(これは白球の効率改善とともに少なくなり, 9 0年代初めでは 3 . 5ワ 〉 ザ ー ットほどにまで減少するかタ ,ての後は今世氾伺叫におけるタングステン・ フィラメントの開発に至るまで急激な変化はみられない) 6)。当時のむ気コ ストは 1キロワット 1 1 1当り 9"'10ペンス (90年代初めで 7ペンス前後)な 6 j 窃光白熱む球の l時間当り点灯コストは ので,前の数字と組合わせると, 1 0 . 6 5 " " ' 0 . 7 2ペンスであったことになる O これをガス灯コストと比政してみる なら, 8 0年代初めの f E気照明はガス灯の 2.5"'3.5倍も日くつく光であったと いうことになろう。屯気とガスとのこのような大きなコスト絡差が,イギリ スにおける屯灯詐及の主要な陣内要因となっていたことは否めない。 その点,アメリカではどうであっただろうか。エジソンは, 1 8 8 2年 l 乙始動 1 1 6 経営と経済 したパーノレ・ストリート発電所からの電灯料金を, 16燭光灯 1時聞につき1.2 セントに決定した 7)。乙れは,金本位制下のレート (4.85ド ノ レ = 1ポンド) で換算すると 0.59ペンスとなり,イギリスの場合よりもやや低めであるが大 差はない。ところで,当時のニューヨーク市のガス価格は平均して 1, 000立 方フィート当り 2.25ドノレであって 8) これをポンドに換算し 16燭光 1時間当 りの点灯コストを試算すると, 0.56'""0.67ペンスとなる O 乙の値は,エジソ ンが電気供給するにあたって,電気価格をガス価格に等しく設定したことを 立証すると同時に,アメリカにおけるガス価格がイギリスに比較してきわめ て高かった(約 3倍)ことをも示している D かくして,両国でほぼ同じ電気価格が,アメリカにおいてはガス価格と同 等であったのに対し,イギリスではガス価格の約 3倍にも匹敵するという顕 著な相違が両国間に存在したのである O したがって,エジソンはガス灯価格 を電灯に採りいれることによって 80年代急速に市場を拡大していったが(第 8表),ガス価格の安いロンドンにおいて同 b方法をとることは不可能であっ i g h t たと思われる。 80年代初期の白熱電灯はイギリスにおいては「賀沢な光Jl o fluxury (ジーメンス)だったのであり 9) その認識の上にたってガス灯を 代替していかなければならないという大きなハンディキャップがあった。 〔 第 8表 〉 エジソン・システムの成長(18 8 11 8 8 8 年) ・ 自家発電方式 年 中央発電方式 次 矛 > l 壬ζ ヲ E 数│電 土 丁 数 発電所数│電 灯 1 8 8 1 8 1 8 8 2 1 5 3 2 9, 2 0 0 1 8 8 4 3 6 8 7 4, 4 0 0 1 8 3 4, 0 0 0 , 15 0 0 1 8 5 8 9 0 0 1 4 9, 7 0 0 3 4 3, 1 8 5 8 0 0 3 8 5, 1 8 8 6 1 8 8 8 , 12 9 1 (備考) 8 0年代半ばでは,エジソン電灯は白熱電灯照明市場ーの 8 0 タどを占め ていた。 (出典) Passer, 。ρ c i t .,pp. 1 1 7,1 2 , 1 2 0 5 . ー 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 117 電灯によるガス灯代替を困難にした他の要因として,ガス灯分野における 技術進歩がガス灯コストをさらに引下げる傾向にあったことがあげられよう D なかでも, 80年代半ばにウェノレスバッハ ( c . A. von Welsbach) が発明し た「ガス・マントノレ 10) Jgas mantle(白熱ガス好〉はガス産業の発展に大き な貢献を与えた。これは,光質において白熱電灯に遜色なく,また,従来の ガス・ランプの約 6倍の高い効率をもっていたので,白熱電灯よりもはるか に安くついた D アメリカにおいてすら, 90年代以降実用化されたこのウェノレ スバッハ・マントルの出現によって,電灯が完全に照明市坊を掌握することは 000万 灯 l こまで増加した 11) できず, 1900年までにガス灯の利用は 1, イギリ スにおける電気照明の普及はきわめて緩慢であった。第 9表が示すように, 白熱電灯が開発されてから約 1 0年後の 1890年代初めにおける照明市場でのそ の地位は,ほぼ無視されうるものであった。 90年代にようやく電灯事業が軌 道に来り,発展してくるとはいえ, 1900年における電灯普及率はガス灯の 1 0 分の lにも充たなかった D 〈 第 9表 〕 英・米両国におけるガス灯と白熱電灯の普及 0882-1900年) 単位:1 6燭光点灯延べ時間数(百万時間) イ 年 ギ アメリカ合衆国 ス 次 ガス灯│屯幻│合 1 8 8 2 I 1 3, 3 2 0 Iほぼ O 計│ガス灯│電 灯 l 合 計 l 日 ,3 2 0I 1 3, 1 2 0 1 8 9 1 5 5 0 2 4, 1 9 0 0 ( 註 1 8 8 2 年のアメリカの数字は不明。 (出兵) Byatt,o p .c i t .,p .5 6 . 注1) 約 4 0 0のガス会社による合理的価格は 1 6燭光灯 1時間照明につき1.2 5セント。 Passer,o p .c i t .,p .7 6 . 2 ) I b i d .,p p .1 7 7・1 7 8 . 1 1 8 経営と経済 3 ) D. Knoop, P r i n c i p l e s and Methods 01M u n i c i p a l Trading. ( 19 1 2 )p . 2 5 0 . 4 ) 以下, Byatt,0 ρ c i t .,Ph. D. t h e s i s,pp. 40-44を参照。 5 ) Passer,o p .c i t .,p . .1 0 7 . 6 ) 金属フィラメント電球から,回期的な引総タングステン・フィラメント電球に J i j釘『日本白球工業史~ 2 2 0・2 3 1 至る諸発明・改良については,さしあたり, t 頁を参照せよ。 7 ) Passer,o p .c i t .,p . 91 . 8 ) I b i d .,P P .9 , 1 1 9 7 . 8 0年代初めのアメリカのガス価格が高いのは,主とし て都市ガス・システムの遅れに起因する。しかし,その後の急述な発廷にとも なってガス価 j 与の低下は顕若であった。 88年には,ニューヨークで1.2 5ド ノ レ , " " 1 .5ドノレにまで低下した。 全国的にも 1' 9 ) E l e c t r i c i a n,June1 7,1 8 8 2,P P .1 0 8 1 0 9 . p .c i t .,PP. 337・3 3 9 . 1 0 ) Byrn,o 1 1 ) Passer,o p .c i t .,pp. 1 9 61 9 7 . なお,電気庄業からのインパクトへのガス ・ 産業の対応は,乙のような照明における改良とならんで,料E ・暖房などの熱 8 9 0年代に 源としての利用の開発があった。ただし,それが宍用化されるのは 1 はいってからのことである。 J . H. Clapham,An Economic History 01 .2 .( 19 3 2 )P .1 0 7 . ModernB r i t a i n,Vo1 V I 白熱灯企業 一一中央発電所の試みと失敗一一 白熱屯灯が実験室の外へ出て実用化への歩みを踏み出したのは,イギリス では, 1880年から翌年にかけてニューカッスノレでスワン屯灯のデモンストレ ーションが行なわれたのが最初であるといわれている 1) o 81年 12月 に ロ ン ド ンのサヴォイ劇場で 1, 200灯の白熱灯による全館照明が行なわれたことは, 電灯への認識をー居広めるに役立った。ただしこれは,ジーメンス交流発電 機 6基を備えた自家発電装置によるものであった 2)。 世界最初の白熱灯用中央発電所はエジソン社によるホウノレボン発電所(ロ 1 8 8 0午代イギ、リスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 119 ンドン)であって, 1882年 l月に始動した。これは,すでに触れたように, ニューヨークのパール・ストリート発電所の「ジャンボ」発電機と同型機の試 験運転を目的としたもので,採算は目的になかった。この実験迩転における 主要な成果は,大型発電!殺の並列運転の可能性が確かめられたことであり, これはのちのエジソン・システムの発展に大きく寄与したの。 中央発電方式による白熱灯照明供給の企業化は, 1880年代のイギリスでは ほとんど成功しなかったといってよいであろう。 1 8 8 2 " " " ' 8 8年間に建設され, 実際に企業目的で運転された中央発電所はイギリス全体で 12を数えるにとど まった D これは,すでに検討したように,電気のガスとの相対コストがイギ . . , 88 年間に施行されていた「電灯 リスではきわめて不利であったことと, 82, 事業法」の影響の大きさを示しているといえよう o 12の発電所のうち 1 む 灯事業法」の適用対象になり商務省から事業の認可を受けているものは 2発 電所だけであった引 O 残り 10発 電 所 は “ marauding system" と呼ばれる l'屯灯*~~法」の適用範囲を逃れていた。すなわち,同法 方法で送電し 5) の対象とする電気事業は,送電のために公用地(主に道路への坦設)を伎用 〔 第1 0表) 1 8 8 8 年に逆転中の中央発電所 ? 金 二 J [ i , で 丁 、 t U . 所 始動年次 名 Eastbourne Hastings Liverpool GrosvenorGallery (London) London S h e f f i e l d ホS t .A n s t e l l Taunton *KcnsingtonandKnightsbridge(London) Brighton ChathamandRochestcr I 1 8 8 2 1 8 8 2 1 8 8 3 1 8 8 5 1 8 8 5 1 8 8 6 1 8 8 6 1 8 8 7 1 8 8 7 1 8 8 7 1 8 8 8 ( { ; i : 1J j ") キ印は向抗告より事業免詐を取得しているもの。 (山県 Meyer,o p .c i1 . , PP. 1 9 5・1 9 6 . ただし Brighton と GrosvcnorGalleryの始到午次は parsons,o p .c i t . より川足。 1 2 0 経営と経済 する発電所に限られており,したがって自家発百はこれに該当しない。その ほかに,公共用地を全く利用しないで,電灯需要家の屋根から屋根へ架線送 電を行なう場合も「電灯事業法」の適用外になった。これが“ maraudmg s y s t e m " である D もちろん,このような方法で屯気供給を行なう範囲はき わめて限られたものであったから,発電規校ないし取付電灯数はかなり小さ かったものと推測してよかろう口 このようにイギリス包灯事業のその発端におけるパフォーマンスはきわめ て貧しいものであった。しかし,企業活動そのものが全くみられなかったと いうわけではなく,いくつかの企業がなかんずく 8 0年代前半,中央発宿所建 設に;立欲を燃やし白熱灯*栄を試みた。 白熱電灯にはほとんどのアーク灯会社が関心を抱いた O ジーメンス社は早 くも 1 8 8 1年にアーク灯とともにスワン電球の照明を行なっているしめ, E l e c t r i cL i g h tandPowerG e n e r a t o rC o . も1 8 8 2年にマキシム (Hiram s .Maxim) の白熱電球パァントを賠入した , 7) 。しかし,大呈照明をめざす 中央発電所建設に最も志欲的だったのはブラッシュ・アーク灯会社であった ということができょう o 1 8 8 2平「電灯事業法」が実施されると,多くの「哲 定命令」申請がなされ,同年中に認可されたのは 69件にのぼったが,ブラッ シュ・アーク灯会社はそのうち 37件を占めた 8)。 しかしながら,中央発電所の建設は決して容易ではなかった口ブラッシュ ・アーク灯会社は,それゆえ,白熱灯照明を小型のポータブノレ発電機(ある いはセミ・ポータプソレ型)によって供給する方法をとった O たとえば,グレ イト・ウエスタン社はブリストノレとカーディフにこのような方法で白熱灯を 供給したが,その総数は 398灯にすぎなかった 9) O しかもこの場合,アーク 灯 62灯を同ーの電源から供給するという技術的に中途半端なものであったロ ブラッシュ系ではそのほかに,ブラッシュ・ミッドランド社,サウス・イー スタン・プラッシュ社,ハモンド社などが白熱灯照明を試みたが,結果的に はすべて失敗に終った。それは,既述の諸要因に加えて,完全な白熱灯シス テムをもたず,技術的にはアーク灯システムの域を出ていないというブラッ シュ・アーク灯会社共通の欠陥にも起因していた。生産会社であるブラッシ 1 8 8 0年代イギリスにおける電気色三及の遅れと初期電灯企業 1 2 1 ュ社が白熱灯システムの開発に着手しようとしないことは,これらの電灯 会社に大きなノ¥ンディキャップとなったのである o この点を克服するため電 灯会社みずからが技術開発に来りだすこともあったロたとえば,サウス・ウ ェスタン社は,レイン=フォックス (Lane-Fox) 電球 10)のパテントを賠入 一一 したあと,ブラッシュ発電機が白熱電灯に適さないことを知ると,独自のシ ステムを考案した口それは,高圧発電機(アーク灯用)に数基の苔電池を直 列につなぎ,照明用 l 乙送電するときは乙れらの苔電池を並列に迎結し低電 圧電流をとりだすという方法であった 11) O 、ー ブフッシュ・アーク灯会社の中 では,最も成功をおさめいたハモンド社も,白熱灯照明へ進出するにあたっ てブラッシュ・システムの欠陥を克服すべくその打聞に努力した。同社は, 当時白熱灯用定電圧交流発電機を開発していたフェランティ F e r r a n t i ) に歩みより ( s .Z. de 12) ,その子会社である ThomsonandI n c o . と自ら の子会社とを合同させることによって技術上の難関を来りこえた 13)。 プラッシュ・アーク灯会社は白熱電灯部門への参入に際して,上記のよう に自ら技術上の問題を解決してし 1かざるをえなかった。しかし,それが成功 に直結したというわけではない。サウス・イースタン社のシステムは発 想において!所新であったが,コストが高くついた 14) O ハモンド社は,ハムス テッドに中央発電所を建設する目的で「哲定命令」を取得することができた が,その時はすでに電灯ブームが崩壊しており資金の調達がほとんど不可能 になって発電所建設の計回は断念せざるをえなかった 15)。 かくして,ブラッシュ・アーク灯会社による白熱灯照明の試みはほぼ失敗 に帰した。そのうちハモンド社を除くと,白熱灯照明を試みた多くのブラッ シュ・アーク灯企業はその失敗のために経営困難となり, 1 8 8 0年代半ば頃相 ついで破産ないし親会社へ吸収合併されるという経路を辿った 16)。ブラッシ ュ系以外のアーク灯会社も白熱灯市場への参入を試みたが成功しなかった。 P i l s e nJ o e l Co.) ,マキシム=ウエストンネ土 ピノレセン=ジョエノレ社 ( (Maxim-WestonCo.) はともに 8 0年代末に清算された 17)。 さて,当初から白熱灯会社として出発した企業の活劫はどうであっただろ l i球のパテント係争の和解策として合 うか。エジソン社とスワン社は,白熱 f 1 2 2 経日'と?至済 883年 10月 , Edison andSwan UnitedE l e c t r i c Light Co. とし 併し, 1 00万 ポ ン ド の エ ジ ソ ン = ス ワ ン 社 は 最 初 一 般 需 要 家 て成立した 18)。 資 本 金 1 の た め の 大 規 模 な 中 央 発 電 所 を 企 図 し た が , す で に 82年のブームは過ぎさっ ており,しかも 1882年「屯灯手栄法」が実施されていたため資金調達はきわめ て困難であり,乙の計画は放来せざるをえなかった O それにかわって,特定 市要求への大豆照明供給という辺がとられた。その主な対象は,ヴィクトリ I 守に前者における照明は 9式の装置を日i え会社全体 ア!沢とホウノレボン駅で, 1 の約半分の収入源になった 19) 口しかし,同駅とも照明収入を大きく上回る コストがかかり, 1 884年 1 1月 ま で の 総 支 出 は 約 77, 000ポ ン ド に 達 し た 。 乙 れ は,中央発電所を建設するに匹敵するほどの金額である 20) ノ。収入に見合わぬ 大量の支出によって, 1886 年までにホウノレボン駅の照明は中止され,ヴィク トリア駅では装置 l式 を 残 し て あ と は 迩 転 休 止 に な っ た 21)。かくして,エジ ソン=スワン社による白熱屯灯事業,とりわけ中央発電所方式の照明供給は ほぼ失敗に終った。 上述のように, 1 880年 代 初 期 か ら 中 期 に か け て 白 熱 灯 照 明 市 場 へ の 企 業 参 加が若干みられたが, 80年 代 末 ま で の そ の 主 要 な 企 業 活 動 は ほ と ん ど 不 発 の 状態にとどまったのである O 注1) Parsons,o p .c i t .,p .1 0 .なお,クラッパムの説では, 1 8 8 1年にスコットラ ンドの l炭坑で利用されたのがイギ、リス最初の点灯であるとされている。 Clapham, 。ρ.c i t .,V o l .2 .p .1 0 9 . 2 ) P arsons,0ρ c i t .,p .1 0 . b i d .,p p .1 0・1 2 . Passer,0ρ c i t .,P P. 1 8 6 1 8 7 . 3 ) I r 免許 Jl i c e n s eと r @定命令 Jp r o v i s i o n a1 o r d e rの 2辺りあって,この場合は, r 免許」によるものであった。なお,乙 前掲 J8 0 8 1頁 れら 2つの認可方式の内容については,さしあたり,拙杭, r 4 ) 向務省からの事業認可の形式は, 1 を参照されたい。 5 ) Meyer,0ρ c i t .,P P .1 9 6 1 9 7 . 6 ) P arsons,o p .c i t .,P .1 2 . 7 ) E l e c t r i c a lReview,May 6,1 8 8 2,P .3 2 5 . マキシム電球については,さし 1 2 3 1 8 8 0年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業 あたり,前掲『日本'屯球工業史~ 2 0 7 2 0 8頁をみよ。 r 哲定命令」はその後も合めて 1 8 8 8年まで 8 ) Byatt,o p .c 仏, P .2 9 . なお, に8 8件が取得されたが,実際には手荒は行なわれず,結局 1 8 8 8午の時点で正式 ! r:i友会の「追認 Jを得ていたのは C helseaE l e c t r i c i t ySupplyC o . だけで あった。 Meyer, 。ρ c i t .,P .1 9 5 . 9 ) Byatt,o p .c i t .,p .3 0 . 1 0 ) 前掲『日本屯球工業史~ 2 0 8 2 0 9 頁参照。 1 1 ) Parsons,o p .c i t .,P P. 5 3 5 4 . 1 2 ) フェうンティの初期の交流発屯段の特徴については, Dunsheath,0ρ c i t ., p .1 7 3 . を会照。 1 3 ) E l e c t r i c i a n,February 1 4,1 8 8 5,P .3 0 0 . 1 4 ) E l e c t r i c i a n,December, 1 1 8 8 4,P P. 2 2 2 4 . 1 5 ) Byatt,o p .c i t .,P .3 3 . 1 6 ) たとえば,グレイト・ウエスタンネ上とブラッシュ・ミッドランド社はともに 1 8 8 4年 1 2月にアングロ・アメリカン・ブラッシュ社に企業穴収され,サウス・ 8 8 5年取庄した。 イースタン・ブラッシュ社ば 1 1 7 ) Byatt,o p .c i t .,P .3 4 . 1 8 ) 合併の径過については,次を参照せよ。 R . Jones a n c l O. Marriott, Anatomy0 /aMerger. ( 19 7 0 )P P. 2 6 2 7 .E l e c t r i c a lReview,Dcccmber 1 3,1 8 8 3,P P. 4 7 0 4 7 2 . p .c i t .,P .3 5 . 1 9 ) Byatt,o 2 D ) I b i d .,P .3 6 .E l e c t r i c i a n,November1 5,1 8 8 4,p .1 9 . 21 ) E l e c t r i c a l Review,August , 1 1 8 8 5, P 1 1 0 ; November 1 5,1 8 8 4,PP. 3 9 6 3 9 8 . 〔後註) E l e c t r i cLightingAct には辺市・ ' r 屯灯法」ないし「屯勾照明?と」という 沢;E があてられているが,木 tl::j では,それが 'm灯 2J~~l に対する tJ2 n;1jを主な内 容としている点を ~5.1日して, r'屯灯 'F~~法」と沢出しておいた。 ( 19 7 5 .4 .2 8 . )