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小論文
2008(平成20)年度
法務研究科 法務専攻(法科大学院)A日程 入学試験問題
「 小 論 文 」
〈180 分〉
(注意:解答はすべて解答用紙に記入すること。)
(注)【問題1】【問題2】の両方に解答すること。
【問題1】
次の文書1を読み、以下の設問に答えなさい。
(A)哲学者オークショットのように、職業教育と大学教育とを区別する教育システムの構
想は現代のわが国においても妥当といえるか。あなたの見解を、理由を付して述べな
さい(なお、見解の内容そのものによって得点に差をつけることはない)。
(B)著者のように学問と実務を関連づけてそれぞれの役割を説明する手法に対しては、異
論も考えられよう。そこで、著者の手法に異を唱える立場に立って、現代における「学
問の使命」を説明しなさい。
文書1
「講義のないとき、大学の先生は何をしているんですか」という質問を良く受ける。
学生からすれば、週に何回かの講義以外は姿を見ることもなく、いったい何をしているのか、
と疑問に思うらしい。
「研究をしている」と答えても、納得する学生は少ない。「研究って何をするんですか」
という質問がやってきて、答えに窮したことは一度や二度ではない。同僚の経営 学者は、
「そんなに経営に詳しいなら、なぜ経営者にならないのですか」と聞かれて目を白黒させて
いた。
こうした疑問は学生だけのものではない。おそらく多くの人が同じ思いを抱いているので
はないか。日本の技術力に直結する理系の学問はともかく、文系、とくに人文・社会系の学
問は、社会のどんな役に立っているのか。近年、大学改革の議論で文系の学部が槍玉に上が
るのも、こうした問いの答えが曖昧だからであろう。
確かに経営学を学んだからと言って、優れた経営者になれる保証はない。事実、日本の高
度成長を支えた企業の経営者に、大学で経営学を学んだ者は少ない。一般に実務家は実務の
コツを、自身の経験や見聞、あるいは直感で身につけるのが普通だ。
学問の世界は、実務の世界とは異なる。学問が目指すのは、実務家の経験を集めて、その
中に共通性や、場合によっては法則のようなものを取り出すことにある。例えば経営学なら、
成功した企業や経営者の事例を比較考量することで、従来正しいとされてきた法則の誤りを
指摘したり、別の正しい法則を打ち出したりする。
そうした学問の仕事は、実務家の世界ではまったく役に立たないかと言えば、そうではな
い。おそらく、学問が明らかにするさまざまな法則は、もしそれが正しいものであるなら、
実務家の経験や直感をうまく説明する働きをするであろう。その意味で、学問は実務の世界
を裏側から支えている。実務家が自らの経験や直感のうちに閉じこめている「何か」を、誰
の目にも明らかなかたちで言葉にし、説明すること。それが学問の一つの使命であろう。
こうした説明能力こそ、大学が社会に提供できる貢献である。かつて哲学者のオークショ
ットは、職業教育と大学教育とを区別し、職業教育では知識を教えることが目的だが、大学
教育では物事を説明するやり方を教えることが使命であると述べた。知識は「すでに知って
いること」であるが、学問は「まだ知らないこと」を探究する術である。学者の仕事は、従
来の説明では、まだ十分に明らかでない課題を見つけ出し、それに答えることにある。その
意味では、大学は知識を学ぶところではなく、まだよく分からない物事をうまく説明する能
力を身につける場所なのだ。
これは、大学で何を学ぶか、という問いに対する一つの答えになるであろう。変化の激し
い時代、既存の知識では説明のつかない出来事は多い。そうした時代こそ、学問の持つ力が
問われていると言える。
(出典:柴山桂太・産経新聞[大阪本社版]2007年7月20日付 文化欄「文明の興亡」<28>。
なお、問題文では、縦書きの原文を横書きに変えてある。)
【問題2】
次の文書2を読み、以下の設問に答えなさい。
(A)著者は「では、なぜ私たちは誤った見解や無内容な主張に納得してしまうのでし
ょうか?」と問いかけているが、その理由についてどのように結論づけているか。
解答用紙10行以内でまとめなさい。
(B)あなたにとって「常識」とは何か。その常識に従うことの意義と問題点について
述べなさい。
文書2
† 「常識」とは何か
私たちの日常生活を支えているのは「常識」です。この「常識」とは何かについて、
まずはその定義をはっきりさせることから始めましょう。日常会話における「常識」
とは、
「多くの人がXを知っている」かつ「多くの人がXを正しいと思っている」
→ Xは「常識」である
と定義づけることができます。
具体例で考えてみましょう。ある事実についての知識、例えば「江戸幕府の初代将
軍は徳川家康である」について、それを知っている人が日本国民の大多数であるなら
ば「江戸幕府の初代将軍が徳川家康なのは常識である」ということができます。
常識という用語をその定義から考え直すと、
「常識」は「常識だから正しい」という
ことを意味しているわけではないことに気づかされます。
このことを理解していただくために、
「世の中では常 識とされている」もうひとつ
の命題、
「人間は皮膚呼吸しないと死んでしまう」について考えてみましょう。これも
徳川家康の例と同様、多くの日本人が違和感なく受け入れている知識だと思います。
化粧を落とさずに寝ると皮膚呼吸ができなくて肌に悪いとか、全身にやけどを負うと
皮膚呼吸ができなくて死んでしまうとか……テレビで誰かが言っていたのか本で読ん
だのか、どこで仕入れた知識かは覚えていないけれど、たいていの人が受け入れてい
る「常識」です。しかし、これは科学的には誤りです。人間は両生類ではありません
から、皮膚呼吸をしなくても死んだりはしません。
「Xが正しい」ことは、
「Xが常識である」ための必要条件ではなく、
「大多数の人
がXを正しいと思っている」ことこそが「Xが常識である」ための必要条件なのです。
したがって、ある言説が「常識」として語られていても、それが正しいか否かは別の
ものとして検討していかなければなりません。
事実誤認に基づく常識から脱け出すために必要なのは、正しい知識を得ることです。
言い換えれば、正解を知ればそれで足りるのです。例えば、
「蟹味噌を蟹の脳みそだと
思っている人がいるが、むしろ肝臓に近い臓器だ」と教えてもらうことで、誤った常
識から容易に抜け出すことができます。しかし、経済や社会・政治といった、あまり
身近でない問題についての「常識」から抜け出すのはそう簡単なことではありません。
単純に正否の検証ができるタイプの「事実に関する言及」とは異なり、政治や経済
に関する特定の考え方が「常識化」するためには、ある解釈・提言を聞いた上で、そ
れに納得するというプロセスを経なければならないからです。
では、なぜ私たちは誤った見解や無内容な主張に納得してしまうのでしょうか?そ
れは、私たちが他の人の意見を聞いて判断をする際の心の働きによると考えられます。
社会問題についての言説に出会ったとき、私たちの内部で働いているのは論理やデー
タによって妥当性を確かめようという理性だけではありません。その意見が自分にと
って都合がよいか、自分の気分に合っているかという打算と好悪の感情が必ず働きま
す。ある言説に対する態度を決めるに際して、このような感情の働きは、しばしば理
性を上回る力を発揮します。
そして、本章の後半で再論するように、ひとたびある主張が世の中で「常識」とみ
なされるようになってしまうと、それに対して否定的な態度をとるのは非常に困難で
す。私たち自身が、実際は間違った主張を「常識である」と把握してしまったとき、
自力でそこから抜け出すのもまた同様に難しいことです。言い換えるならば、経済・
社会・政治に関する誤った言説がひとたび常識化してしまった場合、そこから抜け出
すには大変なコストを要するということです。
そこで、このような誤った言説や無意味な提言が常識化するプロセスを検討するに
あたって、その第一歩である「自分の気分に合っている」から「何となく納得する」
ということについて、考えてみましょう。
† なぜこの本を読もうと思ったのですか?
その手始めとして、
「なぜ人は本を読むのか?」という問題について考えてみます。
面白いから読む娯楽書と違って、本書には波瀾万丈のストーリー展開も、抱腹絶倒の
エピソードもありません。これは他の多くの人文・社会科学系の著作やビジネス書な
ど広義の教養書に共通する性質です。にもかかわらず、教養書を読む人がいるのはな
ぜでしょう?
この問いに対しては、多くの人が「知的好奇心から」という答えを思い浮かべたか
と思います。確かに、自分の知らない事柄について、新たな知識を得ることは楽しい
経験です。しかし、
「自分が知らない事柄」ならば何でも知りたいというわけでもない
でしょう。
もう一つの代表的な答えは、
「××するために役に立つと思うから」というもので
す。特にビジネス書を読む動機としては、これはある意味「正統派」といえるでしょ
う。知的好奇心を満たすという場合でも、
「いつの日にか、何らかの意味で自分の役に
立つかもしれない」という観点から選択が行われていることが多いかもしれません。
例えば、自分の生活に何のかかわりもない中世南アジア王室の相続制度や嫌気性バク
テリアの研究史に興味があるという人は、そんなに多くないでしょう。
このように、教養書を読むのは「自分の知らないことを知る」
「何かに役立てる」た
めであるとまとめることができます。とすると、娯楽書と教養書では「どの本を読む
のか」という選択基準や、
「どれが良い本なのか」という評価基準において少なからぬ
差がありそうです。
娯楽書を選ぶ場合の基準は明確です。自分が読んで面白い(と予想される)ものを
購入すればよいのです。例えば、名探偵の推理が読みたいならば本格ミステリを、歴
史上の偉人の人生を感じたいならば大河モノを選べばよいでしょう。このような選択
を容易にするために、広告や表紙には内容やストーリーのあらましが書いてあります。
さらに、自分好みのストーリーを書いてくれる作家やマンガ家の作品を買っていれば、
「期待はずれ」になる可能性をより小さくできるでしょう。
一方、教養書を選ぶ際には、
「自分の知らないことを知る」
「何かに役立てる」こと
ができる本を選ぶ必要があります。しかし、私たちは本当に「自分の知らないことを
知る」
「何かに役立てる」という目的に合った本を選んでいるでしょうか?少なからぬ
人が、社会科学書・ビジネス書についても、
「自分が読んで心地よいと感じるもの」を
選んでいるのではないでしょうか?
例えば、
「次のボーナスでは株を買って、ちょっと儲けてやろうか」と考えている人
にとって、
『大型景気の到来―2008 年日経平均は 30000 円になる』と銘打たれた本は
なかなか魅力的に感じられることでしょう。株で儲けたいと考えているということは、
自分が株を買った後に株価が上がってほしいという希望を持っているということで
す。したがって、彼(彼女)にとり「株価が上がるぞ」と言ってくれる本は、心地よく、
気分に合うということになります。
逆に、ヒルズ族に代表されるようなニューリッチに対して、幾分の嫉妬を込めてか
もしれませんが、苦々しい感情を抱いている人は、
「現在の景気拡大は幻想であり、よ
り深刻な不況が忍び寄ってきている」という論調の本、例えば『空虚な回復 − 新た
な経済危機の時代』といったタイトルの本を「ちょっと読んでみたいな」と感じるの
ではないでしょうか。彼(彼女)らは、株式投資などで金を稼いでいる成り上がり者な
んて大損してしまえばよいのだという自身の感情を後押ししてくれるような話が聞き
たいだけなのです。
私たちは、
「自分の知らないことを知る」本を探しながら「自分の知っている(漠然
と感じている)ことが書いてある」本を購入し、読書を「自分の役に立てる」ことを
目標としつつ、
「自分の思想・行動に何ら影響のない(読んでも読まなくても変わらな
い)
」本を読んでいます。つまりは、自分が日頃から抱いている「信仰」にお墨つきを
与えてくれる、
「自分が読んで心地よいと感じる」本を選んでいるにすぎないというわ
けです。
本に限らず、雑誌やTV等のメディア、セミナーでの講演、さらには仲間内での議
論についても事情は同じです。
「自分を安心させてくれる言説」を支持する人が多い場
合、緻密な論証や丹念な実証分析が正統な評価を受けることはありません。むしろ、
より多くの潜在的な読者(顧客)の心情に沿った提言が、高い評価を受けることになり
ます。
† 韓非子の主張
このように、しっかりとした論拠を持つ言説よりも、受け手の気分にマッチしたス
ローガンが評価されるという傾向は東西を問わないようです。経済学になじみの深い
読者の中には、これまでの議論を読んで、スティグラーやガルブレイスの指摘を想起
した人も多いのではないでしょうか。そして、この傾向ははるか昔から、それも 2000
年以上前から続く傾向でもあるのです。その例としてここでは『韓非子』のメッセー
ジを紹介しましょう。
『韓非子』というと、賢く世渡りするための秘訣が書かれている本であるとか、リ
ーダーとしての心得が書かれているというイメージを持つ人が多いようです。もちろ
んそれは誤りではありませんが、
『韓非子』全編に通底するもう一つのメッセージは、
「君主にとって真に役立つ技法や、そのような技法を持つ人物(知術能法の人)が、な
ぜ正当な評価を得られないのか」
、
「なぜ正しい議論が世に受け入れられないのか」と
いう憤りです。
全くもって人に意見を述べることの難しさとは、何かを述べるのに十分な知識を
持つことの難しさでもなく、また自分の意見をはっきりと分かりやすく伝える技
術が難しいというわけでもなく、自分の意見のすべてを十分に相手にぶつけるた
めの度胸を持つことが難しいわけでもない。何といっても人に意見を述べること
の難しさは、話す相手の心を知り自分の意見をそこに上手くあてがうことが難し
いという点にある。(『韓非子』説難第十二)
『韓非子』ではこのように説得の際の最大の困難は「相手の心に合わせてやること」
であるとした上で、聞き手(この場合は君主・貴族)の気持ちに合わせて説得をするた
めの方法を説明します。例えば、聞き手が何か失敗して悩んでいるときには、類似の
失敗をしたがたいした問題にはならなかったという例を話してやる一方で、聞き手が
自信を持っているところについてはその欠点を指摘してはいけない、といった具合で
す。
戦国時代の中国では、社会・経済に関する解説や提言の受け手は主に君主・貴族に
限られていました。一方、現代ではすべての人が解説や提言の受け手です。しかし、
この韓非子の主張は、現在の言論活動についても大きな説明力があると考えられます。
現代においてもこの韓非子的手法が有効なことを示すのが、
「成功の秘訣は何か?」
という問いに対する答えと、回答者の社会的地位の関係です。
高所得を得て裕福な暮らしをしている人の多くが「成功するか否かは才能・努力に
よって決定される」という見解に賛同し、低所得者層では「成功するか否かは運によ
って決まる」という考え方に支持が集まるといわれます(どちらの見解が正しいのか
は、私には分かりませんが……)
。これは、実際に成功している人はそれが自分の実力
によるものだと思いたがるのに対し、成功していない人はそれが自分の実力のせいだ
と思いたくないという心理によります。このように、ある主張への支持が、その人の
「何気ない心理」によって決定されているというケースは枚挙にいとまがありません。
(出典:飯田泰之『ダメな議論』ちくま新書 628 筑摩書房(2006 年)16-25 頁。
なお、問題文では、縦書きの原文を横書きに変えており、註は削除している。)
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