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北京の仏塔 Ver 01

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北京の仏塔 Ver 01
北京の仏塔
Ver 01
目
前言:仏塔のルーツ
2
(1)密檐式塔
3
(2)楼阁式塔
5
楼阁式砖塔
5
楼阁式琉璃塔
7
(3)喇嘛塔
9
覆鉢式喇嘛塔
9
屋頂式喇嘛塔
11
(4)金刚宝座塔
12
高台式金剛宝座塔
12
平台式金剛宝座塔
13
屋頂式金剛宝座塔
14
(5)群塔
後記:傘蓋と仏塔
次
15
17
-1-
前言:仏塔のルーツ
先ず仏塔の原型、ルーツを見てみよう。
インドの古代都市ヴィディシャーの南郊外に三基のストゥーパが保存されている。第 1
ストゥーパが一番大きい。前 3 世紀中葉、マウリヤ朝のアショカ王の時代に創建された。1
世紀後のシュンガ朝の時代にそのレンガ積みのストゥーパを改修している。全体を石で覆
い大きく強固になり現在に伝わっている。釈迦の最古の墓塔である。
写真 001 釈迦の墓塔・ストゥーパ
円形の台座(基壇)の上に半球状にレンガを積み上げ(アンダ・覆鉢)
、其の上部を平ら
にし(平頭(ひょうず))
、柵で正方形に囲っている。この中に仏陀の舎利を収める。科学的な
調査が入ったときには空であったという。ともあれ、一番重要な場所である。
さらに真ん中から傘竿 (さんかん)を立て、傘竿に三重の傘蓋 (さんがい)を取り付
けている。いたって簡単で簡素な構造である。このストゥーパの構造は仏塔の構造の原型
である。
インドの神話によると、アンダは、宇宙を創成した卵、あるいは宇宙の中心である須弥
山(しゅみせん)だという。傘竿は、天と地を結ぶとされている。また傘蓋は傘、日傘の
ことである。陽射しの強いインドでは高貴な人に日傘を差し掛けるのが礼儀とされた。上
のストゥーパでは釈迦を尊敬し、三重の傘蓋を差し掛けているのである。この傘蓋が以下
に述べる仏塔にどのように使われ、変遷しているかにも注目しよう。ストゥーパは釈迦の
墓塔であるとともにインドの宇宙観を表現している。仏教観を表現しているのではない。
ストゥーパが仏塔として中国に伝わって以来、中国が持っている建築技術と融合し、幾
つかの新しい形式が生まれ、中国古代建築の重要な要素となった。しかしながら、中国に
-2-
伝播するルートによって塔の性質もさりながら、塔の構造も変化している。
一般に塔はその構造、造型、平面、重層、材料、用途などで幾つかに分類されている。
ここでは北京に存在する塔を構造と材料で区分し、代表的なものを写真で紹介しよう。
(1)密檐式塔
中国に仏教が伝わった第一のルートはシルクロード経由である。このルートを経て入っ
た仏教を中国では漢伝仏教と呼んでいる。このルートを経て中国の建造技術と融合した塔
は密檐式塔と楼閣式塔が代表である。北京に存在している代表的なものを紹介しよう。
写真 101 天宁寺塔
密檐式塔は西漢時代に始まり隋唐に隆盛し遼金代に成熟している。密檐式塔は当初は木
塔であったが後、磚(レンガ)塔に変化した。独特の風格を持っている。唐、遼代の重要
な塔形式で、隋唐代は四角、遼金以後は六角、八画形の三種がある。明清代はほとんど建
-3-
立されていない。中国の北方に多く、遼寧省に多い。陕西、河北、河南、四川等に歴史的
価値の高い塔が多くある。
北京天宁寺塔は広安門外に1120年に創建され、遼代に重修されている。高さ 57.8 メ
ートル、八角13層密檐式実心磚塔である。密檐式塔は実心式で塔身内部が空洞でないの
で登塔できず、一般には仏像が塔身の外面に彫刻されている。
塔は下部から基台、塔身、塔刹の三部に区分して見るのがよい。基台は名の通り塔の基
礎部分であり、平台、須弥座などからなり、須弥座には仏教関連の文様を彫刻する。その
上が塔身と呼ばれ、塔の本体である。四面に仮の門が彫刻され、金剛力士像や菩薩像が彫
刻されており、遼代の壮麗な彫刻が残っている。この上に13層の密檐が威容を誇ってい
る。この塔身の上に宝珠が乗っており、宝珠形塔刹と呼ばれている。この13層密檐が何
を意味するのだろうか?
この塔には傘蓋が見当たらないことに注目しよう。
この天宁寺塔は遼代の塔の形式と美しさを残しており、明代(1576 年)の創建になる慈
寿寺塔のモデルともなっている。また、20世紀に建てられた2座の塔のモデルともなっ
ている。この例を以下に紹介しよう。
写真 102 北京大学博雅塔
写真 103 西山八大処霊光寺仏牙塔
博雅塔は北京大学創建時貯水塔として 1924 年に建立された。現在もその機能を果たして
いる。西山八大処の霊光寺仏牙塔は 1959 年の建立である。西山八大処の観光資源としても
名高い。
博雅塔の塔刹は宝珠形、霊光寺仏牙塔の塔刹は後に述べる覆鉢塔形塔刹である。
「塔刹」
の呼称は中国では一般的だが、日本では「相輪」と呼んでいる。なぜこのような相違が生
じたのだろうか? この謎を解く鍵が北京最古の密檐式磚塔・燃灯塔にある。
-4-
写真 104 燃灯塔全景
写真 105 燃灯塔塔刹
燃灯塔の原名は燃灯舎利塔、俗称通州塔である。通州区西海子公園の西北、通惠河岸に
建っている。創建は 557 年とも 663 年とも言われ北京最古の塔である。日本の法隆寺五重
塔が 710 年ごろ再建されているので、約 50 年から 150 年早い創建となる。
1679 年大地震に会い損壊、1697 年に改修している。このとき仏陀の歯、および数百の骨
粒が発見されている。その後 1900 年 8 カ国連合軍に破壊され、1976 年塘山地震に遭遇、
満身創痍の古塔である。
高さ 53 メートル、13層密檐式実心磚塔である。第一層の塔身は高く、門と窓を交互に
配置し、多くの彫刻を残している。檐の角に風鈴を持ちその数2224個、中国最多の風
鈴を持つ塔である。
1985 年重修するとき、塔刹の部分を改造した。高さを 5 メートル増し、相輪2、圓光1、
仰月1、宝珠4を加え、避雷針を付けた。そして、蓮花座(須弥座)と各檐を直し、風鈴
を補充し、全面に塗装を施した。真新しい塔として 1987 年一般に公開されている。
修復の技術レベルを問わないとすると、須弥座と塔身はほぼ原型を取り戻しているので
あろうが、塔刹を大きく改修している。塔刹に銅鏡があったとされているが、圓光に替わ
っている。
塔刹は一般に刹座、刹身、刹頂、刹杆(刹柱ともいう)から構成されている。燃灯塔の
塔刹の場合、刹座は須弥座と受け花、刹身は 9 重の相輪、刹頂は圓光、十字仰月、4宝珠
から成っており、これらを刹杆に固定している。相輪と呼ぶ円環を多く持つこの形式の塔
刹を相輪形塔刹と呼ぼう。
この塔刹の構造は法隆寺五重塔の相輪とよく似ている。燃灯塔で 9 重相輪と呼ぶ部分を
法隆寺五重塔では9輪と呼んでいる。ストゥーパの傘蓋がこれらには無い。傘蓋の意味が
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薄れ、相輪が重要視されている。こんなことから日本では塔刹の呼称は消えて、相輪の呼
称が使われるようになったのであろう。では相輪は何を表しているのだろうか?
(2)楼阁式塔
楼格式塔は南北朝時代までさかのぼることが出来る。この塔の特徴は層間が広く、上に
上がるに従って狭くなっている。一見すれば高層の楼閣に似ている。各層に窓を開け、塔
内は空心で、レンガまたは木製の階段を設け頂上まで上ることが出来る。楼閣式塔は一般
に塔身の各層壁内に仏像を安置している。
木塔が起源であるが、火災や風雨に弱いことからレンガ式に姿を変えた。平面も四角、
六角、八角、十二角とあり、建築材料も木材、レンガ以外に石材、瑠璃、金属など多種で
ある。初期のものは伝わっていないが、唐代以降の磚塔、石塔が多く残っている。北京に
残るものは磚塔と瑠璃塔である。
楼阁式砖塔
写真 201 良郷塔
写真 202 良郷塔の塔刹
良郷塔は房山区良郷の小高い丘の上に立っている。良郷多宝仏塔が正式名で通称昊天塔
とも呼ばれている。遼代(916~1125 年)の建造である。8角5層空心式楼閣磚塔である。
塔刹は豪快な構造で人を威圧する雰囲気がある。刹座である8角須弥座の上に大きな蓮弁、
その上に刹身の3層相輪が倒立しており、さらに上に傘蓋、刹頂に宝珠が乗る。宝珠形塔
-6-
刹である。戦乱時の古武士の風格がある。遠望がよかったので遼が宋と戦ったとき軍事視
察用として使われたと言う。仏教が中国に入ると傘蓋は華蓋また宝蓋とも呼ばれている。
受花を蓮弁とも呼んでいる。
北京唯一の楼閣磚塔なのだが最近行われた修復作業の実情は破壊作業に等しく、塔身の
彫刻はモルタルで上塗りされ無残な状態となっている。また塔の基礎が緩んで塔自体が傾
いている。早く本格的な修復作業を行わないと大変な文化財が消失してしまう。
北 京 に は も う 一 座 の 楼閣磚塔が有る。玉泉山玉峰塔(1736年建立)があるのだが、
軍事施設内なので一般のものは遠望するしか方法がない。
楼阁式琉璃塔
楼格式塔の表面を瑠璃で覆い、華麗さを演出している。瑠璃は中国の伝統的な高級材料
である。一般に黄、緑、藍、白、赤などが多い。陶器の表面を瑠璃処理し、風化や腐食防
止に大きな効果を示している。北京には二種類の楼格式瑠璃多宝塔がある。
写真 203 頤和園瑠璃多宝塔
写真 204 塔刹
頤和園瑠璃多宝塔は八角七層の瑠璃塔である。下三層は重檐楼格式、上三層は密檐式で
珍しい構成である。高さ 16 メートルでその色彩と共に瑠璃塔の傑作である。創建は清代乾
隆年間である。
塔刹がまた特異である。下から宝珠と傘蓋を備えている。その上の鈴鐸の形状と水煙の
文様が独特である。華麗さを際立たせている。水煙のルーツは火焔宝珠である。宝珠はあ
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らゆる願いを叶える力を備えており、その力が炎となって表れているのが火焔宝珠である。
しかし、火焔では火災を起こすので水煙にとって替わった経緯がある。
塔刹部分は全て銅製で、その表面に鍍金処理を施したものである。当初は黄金色に輝き
塔身の瑠璃とよく調和していたであろう。この形式は鈴鐸式塔刹と称されている。この塔
は玉泉山経縁寺に建立されている瑠璃多宝塔を模したものであるが、経縁寺の瑠璃多宝塔
は公開されてない。
写真 205 香山瑠璃多宝塔
香山公園を巡ると大召廟の南に周囲の緑とよく調和した楼格式瑠璃多宝塔が目に入る。
八角七層の楼格式実心瑠璃塔である。塔刹は宝珠形であり、当初宝珠は黄金色に輝いてい
たであろう。高さ 40 メートル、基座の部分を保護するために回廊式の屋根を設けている。
この回廊の周囲には仏像が彫り込まれている。また基座は漢白石の欄干で囲われている。
珍しい構造である。清代乾隆帝により1780年に建立された。
この瑠璃塔は煌びやかで華麗であるが制作費も膨大である。皇家専用の装飾塔である。
香山瑠璃多宝塔と同形の塔が承徳須弥福寿之廟に同時に建立され万寿塔と称されている。
-8-
(3)喇嘛塔
塔身部分が鉢を覆した形であることから覆鉢式ともいう。日本では鉢伏式と呼ばれてい
る。元代以降に主流となった塔形式で、チベット仏教の伝播に伴い中国各地で建造された。
第二の伝播ルートである。このルートで中国に入った仏教は蔵伝仏教と呼ばれている。蔵
とはチベットを指す中国語である。チベット仏教を喇嘛教とも呼んでいる。喇嘛塔と呼ば
れている由縁である。北京には比較的多い。
元代に始まり、明清代に多く建立された。概観上インドのストゥーパに酷似している。
当初は活仏の墓塔として利用された以外に、塔内に仏像を蔵しているので礼拝の対象とし
て多くの市民に親しまれている。
覆鉢式喇嘛塔
写真 301 北京妙应寺白塔
-9-
妙応寺の喇嘛塔は塔身が白く、また周囲の建物から抜きん出て高いので遠くからも良く
見え、白塔として市民に親しまれてきた。1271 年の創建で、元の皇帝フビライがネパール
から技術者アニガと共に工匠たちを招聘して建造したものである。
台基である基壇は亜字型をした高さ 9 メートルの基礎の上に二重の須弥座を持っている。
その上に大蓮弁と覆鉢からなる塔身が乗り、さらにその上に相輪と天蓋、そして 5 メート
ルの小喇嘛塔からなる塔刹が乗る。総高さ五十メートルを超える。天蓋の上の刹頂を小喇
嘛塔式刹頂と呼ぶ。喇嘛塔の傑作であり、北京で最古の喇嘛塔でもある。
チベット仏教では傘蓋は13層をもって最高とされている。円環を重ねて傘蓋を象徴し
て表現している。この部分を中国では相輪、金盤また承露盤と呼んでいる。傘蓋は天蓋ま
た華蓋と呼称されている。
18世紀初頭に建造された頤和園須弥霊境の喇嘛塔を見て、塔刹の変遷を確認してみよ
う。
写真 302 頤和園須弥霊境の喇嘛塔
写真 303 塔刹
塔身は倒立した鉢伏が二段、その上に塔刹が乗っている。刹身の傘蓋が天地蓋の二重
構造に変わっている。また刹頂は下から月、日、火焔宝珠と並ぶ。この刹頂は日月形と呼
称され、天地蓋ともども広く流布している。
北京の喇嘛塔は他に北海瓊華島の永安寺白塔(1651年建造、1743重修)が良く
知られている。その他、後に述べる銀山塔林(大延霊寺)の二座の喇嘛塔(13~14世
紀建立)や延寿寺喇嘛塔など多く残存している。相輪の層数やその上の宝珠の構造は種種
ある。墓主の遺徳を表現しているといわれ、興味が尽きない。
- 10 -
屋頂式喇嘛塔
ルーツはチベットのサムイエ寺(桑耶寺)である。赤松德赞(ティソン・デツェン)王
がインドの高僧莲花生(パドマサンバヴァ)大师を招いて建立させた。762 年から工事を始
め 779 年に完成している。チベット最古の寺院である。
この桑耶寺はインドのパーラ王朝時代にマガダ(摩揭陀)に建立された烏達波寺(印度
名 o-tanta-pu-ri 寺院)をモデルにしたものである。桑耶寺の本殿を烏策大殿と呼んでそ
の名を引き継いでいる。
寺院等の屋頂上に喇嘛塔形式の塔を建て、崇拝の対象とした。13世紀以後チベット仏
教の興隆とともに中国全土に広がっている。屋頂上に一座の塔を持つ単塔のものと、5座
の塔を方形に配置し金剛界を表現した金剛宝座塔形式のものがある。ここでは単塔の例を
紹介しよう。
紫禁城の保和殿の北側に立つと、養心殿のさらに北にひときわ華麗な殿堂が目に付く。
雨花閣である。チベット仏教にしたがって皇帝のために祝福を捧げる場所である。
屋内には四天王像を始め多くの仏像が安置されている。屋上に小さな黄金色に輝く喇嘛
塔が立っている。方形の須弥座の上に覆鉢式塔身、塔刹は13重相輪、傘蓋から成る刹身、
および仰月・日と火焔宝珠からなる日月形刹頂より構成されている。創建当時は黄金色に
輝き、華麗さを際立たせていたであろう。屋根先の4匹の龍や軒下の12匹の龍が権威を
象徴している。
写真 304 紫禁城雨花閣
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北京でみられる単塔の屋頂式喇嘛塔の他の例として、頤和園宝雲閣、福佑寺(西城区北
長街北口路東)、北海七佛塔の塔亭等が知られているが、いずれも公開されていないので遠
望する以外に方法がない。
(4)金刚宝座塔
金剛宝座塔は密教の金剛界に属する5部の如来(大日如来、阿鼻如来、宝生如来、阿弥
陀如来、不空成就如来)を祀る5座一組の宝塔である。すなわち金剛界曼荼羅を表現する
建築群である。この種の建築群には三種の形式が知られている。
高台式金剛宝座塔
中国では明代以降流行するが、そのルーツは印度ブッダガヤの大菩薩寺である。創建は
グプタ朝時代(5~6世紀)である。台基が高く、その上に5座の塔を配置している。こ
の構造は壜(また罎・墰・罈:つぼ、甕の意味)城と呼ばれる。中心の塔は他の四隅の塔
より大きい。密檐式や覆鉢式のものが多い。
写真 401 大正觉寺金刚宝座塔 北面
大正覚寺は五塔寺として北京の市民に親しまれている。1473に建立を始め1478
に竣工している。高台である台基は 7.7 メートルの高さがあり。南北 18.6 メートル、東西
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15.7 メートル、下から須弥座、その上5層にわたって仏像が彫られている。この台基は宝
座とも呼ばれており、内部は回廊となっている。宝座から 44 段の階段を登ると台基の上に
出る。台基への出入り口は瑠璃瓦で装飾された罩亭である。
五塔の中央が一番高く 8 メートル、4角13層密檐式磚塔である。須弥座、塔壁、13
層密檐、そして頂部には小喇嘛塔形塔刹である。他の4座は11層密檐式である。須弥座
から塔刹の頂点まで正方錐体となっている。塔壁には主尊が彫られ、他の表面には小仏像
が一面に彫られている。5座の塔すべてで1560尊になると言う。
4角密檐式磚塔は唐代の流れを汲むものであるが、彫刻類は遼金代の北京地区の密檐式
塔の流れを汲むものとされている。また、正方錐体の造型は中国の塔建築で歴史上最初の
ものであるという。このモデルは先に述べた印度ブッダガヤの大菩薩寺である。
北京にはこの高台式の金剛宝座塔が比較的多く、他に玉泉山妙高塔(1672年建立)、
碧云寺金刚宝座塔(1748年建立)、西黄寺清净化城塔(1780年建立)がある。
平台式金剛宝座塔
写真 402 云居寺北塔主塔
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平地に強固な基礎を築き、その上に五塔を四角とその中央に建立し金剛界を表現したも
のである。この形式の例には雲居寺の北塔がある。711年に建立されており、主塔は楼
格式塔と喇嘛塔の組み合わせであり珍しい構成である。
高さ約30メートル、下部は二層楼閣式塔、中部は覆鉢を持つ喇嘛塔、上部は九層の相
輪をもつ塔刹である。建立された遼代には喇嘛塔の実例はなく、一度崩壊し元代に修復さ
れたとき上部を喇嘛塔として改修したのではないかとの、推測もある。現在文字による記
載が残されていないと言う。北塔の4角には小さな石塔が4座保存されている。4角7層
密檐式錐形頂の唐代の形式を留めている。
また後に述べる銀山塔林(大延霊寺)の主5塔も平台式金剛宝座塔とされている。
屋頂式金剛宝座塔
屋頂式喇嘛塔のルーツはチベットの桑耶寺であることは先に述べた。屋頂の喇嘛塔を金
剛界に沿って5座設うけた構造も桑耶寺の主殿烏策大殿に表現されている。これと同じ構
造を持つ殿堂が北京には三座ある。
雍和宮の法輪殿の平面は十字形であり、中心と四方に瑠璃瓦の小塔を持っている。中心
の塔は最大で藍色の覆鉢を持ち鍍金処理をした小喇嘛塔式塔刹を持っている。清康煕 33 年
(1694 年)建立された。
写真 403
雍和宮法輪殿屋頂南面
この形式の金剛宝座塔として、他に碧雲寺羅漢堂、戒台寺戒壇殿が知られている。
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(5)群塔
複数の塔が一箇所に集中的に建立されているものを呼ぶ。北京には比較的多く、上方山
兜率寺には数十座の塔が並ぶ。保存状態の良いものは10数座である。また昌平区下庄郷
の銀山塔林には密檐式大塔が 5 座並び、古来北京の名所となっている。また門頭溝区の潭
柘寺塔院には78座の塔が林立し、北京最大の群塔となっている。
写真 404 潭柘寺外の群塔
潭柘寺の群塔中最古の塔は1138-1140年間に建立されている。寺院の創建は古
く普代(265-316)と言われている。 その後清代までの高僧たちの墓塔であり、塔
の構造や風格はそれぞれに個性がある。保存状態はよく、貴重な建築資料でもある。
銀山塔林は大延霊寺内に残存する5塔の密檐式塔を中心とする群塔である。冬には周囲
の山々が雪に覆われ銀色に輝くことから銀山塔林の愛称で親しまれている。
現在 18 座の塔が残存している。唐代から明代までの建立で、座数では元代のものがおお
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い。仏塔博物館の異名を持っている。
写真 405 北京銀山塔林(大延霊寺)12世紀金代
中核になる5座は遼、金代の建立で8角13層密檐式磚塔が3座、6角 7 層密檐式磚塔
が2座である。いずれも台座、塔身に精美な彫刻を今に伝えている。また、現在の状態が
創建当時のものとは思えないが、5塔それぞれの塔刹は個性があり、遼金代の塔刹を垣間
見ることが出来る。5塔のうち最古のものは 1145 年建立である。またこの5塔は中央に一
座、4角に4座、正確な位置に配置をしていることから金剛宝座塔とされている。
写真 406 塔刹
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次に向かって左前の塔・懿行禅師塔の塔刹が他のものより比較的保存が良いので拡大し
て見てみよう。二連の受花からなる刹座の上に覆鉢の刹身が乗る。その上の刹頂は下から
火焔宝珠、仰日と仰月からなる日月形刹頂だが、18世紀の喇嘛塔の刹頂(写真 303)と比
べると、三つの要素が上下逆になっている。懿行禅師塔の刹頂が日月形刹頂の原型であろ
う。他の4座の塔には同様の二連の受花からなる刹座が残っており、他の4座の塔頂の形
状はほぼ同じであったと推測できる。
日月はこの世のすべての中心であり、地中世界、六道世界、仏の世界もまた日月・太陽
と月を中心としているとする、仏教観を日月形刹頂は表している。また、この5座の密檐
式磚塔には傘蓋を付帯していないことにも注目しておこう。
後記:傘蓋と仏塔
古代インドでは傘蓋を高貴な人や上位の人に差し掛けるのが礼儀である。出来れば二重、
三重に差し掛ける。写真 001(ページ2)のように墓塔であるストゥーパに三重の傘蓋をさ
し掛けるのは仏陀への尊敬の表現である。インドやチベットの祭りなどに持ち出される。
下の写真 002 を参照されたい。
写真 002 傘蓋を掲げる教子図
時代が経るに従い、差し掛ける傘蓋の数は増える。またチベットに仏教が伝わると傘蓋
の伝統も伝わる。自然と傘蓋の数は増え、7重から多いときには9重の傘蓋を従者は持つ。
同時に古代インドではこの傘蓋を冠・帽子に表現し、権威と高貴の象徴としている。
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写真 003 Anbika 女神(石版 51×37cm RAVI VARMA PRESS)
その例として、写真 003 を紹介しよう。Anbika 女神は神と人間の共通の敵にうち勝つ闘
いの女神である。シヴァ神妃のドゥルガーと同一視されることもあるという。この女神の
上に傘蓋が掲げられ尊敬の表現としている。また女神の被っている王冠に注目していただ
きたい。この冠が密檐式塔や喇嘛塔に酷似している。これらの習俗が仏教・仏塔と共に伝
播している。仏教の伝播はインド社会の文化文明の伝播でもあったといえる。
写真 004 七重の傘蓋を持つストゥーパ
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写真 005 大白傘蓋仏母
出典:タキシラ博物館
出典:「絵画タンカ」
そして、最高の13重の傘蓋を掲げる仏が生まれる。大白傘蓋仏母である。これらの傘
蓋こそ崇拝の最高の表現なのである。写真 004、005 を参照ください。
この傘蓋が塔に表現されると、一番上に飾った傘蓋が取り付けられ、その下に傘蓋の象
徴として円環が幾重にも取付けられる。呼び名も相輪と変わる。チベット仏教と共に広ま
った覆鉢式仏塔・喇嘛塔では最高の13重の相輪が用いられ、その上に豪華に飾った傘蓋
が乗る。本来の傘蓋による仏陀への尊敬の表現である。写真 301(ページ9)を参照下さい。
一方、漢伝仏教では傘蓋が無くなり、相輪や宝珠、13層、時には13層以上の密檐に
替わる。写真 105(ページ5)
、202(ページ6)等を参照下さい。元代に入り蔵伝仏教が
広がると傘蓋が復活する。喇嘛塔や金剛宝座塔がその例である。清代に入ると傘蓋は天地
蓋となり二重になる。写真 302、303 を参照ください。
また漢伝仏教と共に仏塔が日本に伝わると、日本の木造建築技術と融合し、三重塔、五
重塔が築かれる。おのずと傘蓋は無く、九輪が残り、龍車、水煙等の新しい要素が加わり、
装飾が華美になる。塔刹の呼び名も相輪に変わる。傘蓋の本来の意味が伝わらなかった結
果である。
覆鉢式仏塔が仏塔のルーツであるストゥーパに酷似していることはすでに述べた。チベ
ット仏教が伝えている覆鉢式仏塔・喇嘛塔のみがインドで始まった仏教の開祖・仏陀を尊
敬する正しい塔表現を今に伝えている。
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