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3 「ゼロ金利制約」論再考 - 内閣府経済社会総合研究所

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3 「ゼロ金利制約」論再考 - 内閣府経済社会総合研究所
3 「ゼロ金利制約」論再考
白川方明
要 旨
.名目金利はゼロ以下には低下しえないため,物価が下落すると,市場実
質金利が上昇し,均衡実質金利を上回ることが起こりうる.このような事
態に陥ると,金融政策は有効性を失うことになる.また,そうした危険を
強く意識する場合には,金融政策運営に当たっての目標物価上昇率はゼロ
ではなく,若干のプラスであることが望ましいことになる.
.日本経済は 1990 年代後半以降,緩やかながら持続的な物価下落を経験
した.
「ゼロ金利制約」の理論からは,物価下落と景気後退の悪循環,す
なわち,デフレ・スパイラルの発生が予測されたが,実際には,そうした
事態は発生しなかった.そうした事態を「ゼロ金利制約」の理論の枠組み
に即して点検すると,以下のような仮説が考えられる.
第 1 の仮説:日本経済の均衡実質金利は落ち込んだが,落ち込みは一
時的であったため,デフレ・スパイラルには陥らなかった.
第 2 の仮説:日銀が採用した時間軸政策の効果から,短中期金利が低
下したため,ゼロ金利制約が緩和された.
第 3 の仮説:開放経済下では為替レートの減価がネット外需の増加,
対外純資産ポジションにかかわるキャピタル・ゲインの発生等をもたら
80
し,これらのメカニズムによってゼロ金利制約が緩和された.
第 4 の仮説:デフレ・スパイラルが発生するかどうかを左右するもっ
とも大きな条件は金融システムの安定が維持されるかどうかである.
1990 年代後半以降の日本については,政府による債務の全額保護や日
銀による特融の実行によって,システミック・リスクの顕在化が防止で
きた.
.今回の日本の経験が普遍性を有するかどうかは,上記の検討だけからは
明らかでない.「ゼロ金利制約」の理論の現実的妥当性については,以下
のような多面的検討を要する.
.第 1 は,金融システムの安定性との関係である.19 世紀後半以降にお
ける世界のデフレのエピソードについて先行研究を見ると,物価下落と経
済活動の低下とが同時に発生するケースは数としては多くはない.両者が
同時に起きているケースは金融システムが動揺した 1930 年代の大恐慌期
に集中している.こうした事実は,金融システムの安定性との関係につい
て,中央銀行による「最後の貸し手」機能や決済システムの運営方式を含
め,多面的な検討の必要性を示唆している.
.第 2 は,グローバル化の進展の影響である.従来のゼロ金利制約の理論
は開放経済を明示的には想定していないが,この点は,ゼロ金利制約の理
論の現実的妥当性を評価するうえで大きな欠陥である.GDP に対する輸
出入ウェイトの上昇や国際資本移動の活発化を明示的に考慮した場合には,
デフレ・スパイラルの可能性が相対的に小さくなる可能性も考えられる.
これらの点について,今後,理論と実証分析の両面から研究の進展が期待
される.
3 「ゼロ金利制約」論再考
81
1 はじめに
1990 年代後半以降,日本経済は緩やかながら持続的な物価下落を経験し
た.消費者物価指数(全国,除く生鮮食品)の年間平均でみると,ピークは
1997 年度,ボトムは 2005 年度であり,この間に消費者物価指数の水準は
2.6%下落した(図表 3 1).月次ベースで前年比下落率が最大を記録したの
は 2001 年 5 月であり,下落率は 1.1%であった.どのような状態をデフレ
と呼ぶかは言葉の定義によるが,1990 年代以降の日本のマクロ経済政策運
営ないし金融政策運営をめぐる議論において,もっとも活発に議論された
テーマの 1 つは一般物価の継続的な下落という意味でのデフレーション(以
下では,「デフレ」と呼ぶ)の問題であった 1).
物価の下落をめぐる論点は多岐にわたるが,1990 年代以降の議論におい
てもっとも大きな論点となったのは,物価の下落はデフレ・スパイラル――
物価の下落が景気悪化をもたらし,これが原因となってさらに物価の下落が
生じるという,物価下落と景気後退の悪循環――をもたらすかということで
図表 3 1
1997 年度以降の消費者物価の動向
消費者物価指数
(除く生鮮食品)
前年比
(%)
102.8
102.7
102.6
102.0
101.2
0.7
−0.1
−0.1
−0.6
−0.8
1997 年度
1998 年度
1999 年度
2000 年度
2001 年度
1997 2006
年度下落率
2002 年度
2003 年度
2004 年度
2005 年度
2006 年度
消費者物価指数
(除く生鮮食品)
前年比
(%)
100.4
100.2
100.1
100.0
100.1
−0.8
−0.2
−0.1
−0.1
0.1
−2.6
注) 消費税調整後
1) 「デフレ」は一般の政策論議においては以下の 3 通りの意味で使われる.第 1 は一般物価の継
続的な下落,第 2 は資産価格の下落,第 3 は経済活動の停滞である.本稿で取り上げるデフレは,
第 1 の意味,すなわち,一般物価の継続的な下落である.
82
あった.デフレはデフレ・スパイラルを発生させる危険が大きいとすると,
需給ギャップのマイナスが解消していても,あるいは成長率の水準が高くて
も,マクロ経済政策,ないし金融政策運営上,デフレの防止は非常に重要な
政策課題となる.また,そうした考え方に立つと,金融政策運営上,目標物
価上昇率の設定に当たっても,デフレに陥ることを防ぐための「糊代」
(safety-margin)をとって若干のプラスにすべきという考え方が生まれる.
一方,この間の日本経済の現実の展開を見ると,1990 年代以降,経済成
長率は低迷した.また,景気循環という観点から見ると,金融機関の大型経
営破綻が相次いだ 1997 1998 年および世界的な IT バブル崩壊後の 2001 年
にはとくに厳しい景気後退を経験した.ただ,前述のデフレ・スパイラルの
発生という点について見ると,緩やかながら物価下落が続く下で,戦後最長
の景気拡大が実現しており,デフレ・スパイラルの発生という事態は回避さ
れた.1990 年代以降の日本経済の長期低迷については多面的な検討が必要
であるが,本稿は論点を絞り,デフレ・スパイラルはなぜ生じなかったかと
いう問題を取り上げる.具体的には,デフレ・スパイラルを発生させるメカ
ニズムとして近年関心を集めている「ゼロ金利制約」の議論を取り上げ 2),
現実の日本経済においてデフレ・スパイラルが発生しなかった理由をこの議
論の枠組みに即して検討することを目的とする.
本稿の構成は以下のとおりである.第 2 節では問題の所在を説明する.第
3 節では「ゼロ金利制約」論を検討するためのいくつかのポイントを提示す
る.第 4 節では日本の経験を振り返り,日本経済がデフレ・スパイラルに陥
らなかった原因について考えられる仮説を提示する.第 5 節では日本の経験
を過去のデフレの経験のなかに位置づけて若干の評価を行う.第 6 節では今
後の研究課題を指摘する.第 7 節では暫定的な結論を述べる.
2 問題の所在
2.1 「ゼロ金利制約」の議論
ゼロ金利制約の議論は以下の 3 つの要素に還元される 3).
2) デフレ・スパイラルをもたらす要因としては,名目金利の下方硬直性も指摘されている.日本
経済についての名目賃金の下方硬直性に関する実証研究としては黒田・山本[2006]を参照.
3 「ゼロ金利制約」論再考
・第 1 の要素
83
金利はゼロ以下には低下しえない.これは,仮に金利がマイ
ナスになると,家計や企業は預金から現金に資産選択をシフトさせること
によるものである 4).
・第 2 の要素
名目金利がゼロに到達するもとで,予想物価上昇率がマイナ
スに転じると,市場実質金利だけが上昇し,均衡実質金利(自然利子率)
を上回ることが起こりうる.
・第 3 の要素
市場実質金利が均衡実質金利を上回ると,金融政策は刺激効
果を発揮できなくなるため,マイナスの需要ショックの影響を相殺するこ
とができなくなることが起こりうる.
言い換えると,以上の 3 つが正しいとすれば,金融政策はゼロ金利に接近
するにつれ有効性を失う危険に直面することになる.そうした危険を強く意
識する立場に立つと,金融政策の目的である物価安定の解釈に当たっても,
目標物価上昇率の下限はゼロではなく,若干のプラスであることが望ましい
ことになる.ゼロ金制約の問題をもっとも早い段階で指摘した Summers
[1991]は,この点について以下のように述べている.
The real after-tax interest, the rater at which corporations, for example,
can borrow, has been negative, in about three-quarters since World War Ⅱ.
That couldn t happen if we had a zero rate of inflation. The nominal interest
rate cannot be negative. (pp. 627)
実際,海外中央銀行における目標物価上昇率や物価安定の数値的定義の背
後にある経済理論上の根拠を説明した公式文書を見ても,プラスの数字を掲
げる論拠の 1 つとして,ゼロ金利制約は必ず言及されている 5).また,目標
3) 高村・渡辺[2006]は流動性の罠に関する優れたサーベイ論文であり,本論文の執筆に当たって
も大変有益であった.
4) ただし,電子マネーが将来発達し,現金の利用を完全に代替するような世界を想定すると,電
子マネーに付す金利水準を調整することによって,マイナス金利を実現することは可能となるか
もしれない.
5) プラスの目標を掲げる論拠としては,ゼロ金利制約,名目賃金の下方硬直性,消費者物価の測
定誤差が挙げられることが多い.前 2 者は理想的な物価指数で測定してもプラスの上昇率が望ま
しいという議論である.日本銀行は 2006 年 3 月に「中長期的な物価安定の理解」を発表したが,
そこでもゼロ金利制約は 1 つの要素として考慮されている(日本銀行[2006]).
84
物価上昇率を公表するか否かにかかわらず,ゼロ金利制約やその背後にある
デフレの危険をどの程度深刻なものとして認識するかは,現実の金融政策運
営を考える際にも重要な論点となる.たとえば,FRB は 2003 年 6 月にフェ
デラルファンド・レートの誘導目標を既往最低水準である 1%にまで引き下
げたが,そのときの判断に当たっては, an unwelcome substantial fall in
inflation を未然に防ぐことが強く意識されていた 6).さらに,そうしたデ
フレの危険に関する FOMC メンバーの認識に大きく影響したのは,日本の
1990 年代のデフレの経験であったといわれている 7)8).その意味で,日本の
デフレの経験をどのように評価するか,また,そうした経験をも踏まえて,
ゼロ金利制約やデフレ・スパイラルの危険をどのように評価するかは金融政
策運営上,重要な論点である.
2.2 日本の「ゼロ金利」の経験
ゼロ金利制約は金融政策運営上の重要な論点として近年活発に議論されて
きたが,現実の経済において金利がゼロ近辺にまで低下したケースは非常に
限られていることもあって,ゼロ金利制約の現実的な影響を分析した研究は
非常に少ない 9)10).
最初に,日本の経験を振り返ってみよう.日本のコールレート(図表 3 2)
は 1990 年央にはすでに 0.5%にまで低下していたが,1998 年 9 月に誘導目
標金利は 0.25%に引き下げられた.1999 年 2 月には,いわゆる「ゼロ金利
6)
2003 年 6 月の FOMC の声明文では以下のように述べられている. The Committee perceives
that the upside and downside risks to the attainment of sustainable growth for the next few quarters are roughly equal. In contrast, the probability, though minor, of an unwelcome substantial fall
in inflation exceeds that of a pickup in inflation from its already low level. On balance, the Committee believes that the latter concern is likely to predominate for the foreseeable future.
7) 2003 年の FF 金利引き下げ時の判断やその背後にあった日本のデフレの経験等について,
Greenspan(前 FRB 議長)の回想録には以下のような記述が見られる. Japan had figuratively
opened its money taps, driven interest rates to zero, and run a large budget deficit, yet its price
level had continued to fall. The Japanese seemed unable to break the grip of deflation and must
have been quite fearful that they were in the type of downward spiral that nobody had witnessed
since the 1930s.(中略)We wanted to shut down the possibility of corrosive deflation; we were
willing to chance that by cutting rates we might foster a bubble, an inflationary boom of some sort,
which would subsequently have to address. (Greenspan[2007],pp. 228 229)
8) Ahearne
[2002]はそうした考え方をサポートする研究として,しばしば引用される FRB
エコノミストによる分析である.
3 「ゼロ金利制約」論再考
図表 3 2
85
日本のコールレートの推移
(月中平均,単位:%)
9
8
7
6
5
4
3
2
1
0
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
年7月
85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07
出所) 日本銀行.
政策」が採用されるもとで,加重平均のコール・レートは 0.02%にまで低
下した.さらに,2001 年 3 月には「量的緩和政策」が採用され,同政策採
用期間中,コールレートは大半の日において 0.001%で推移した.「ゼロ金
利制約」の「ゼロ」の定義にもよるが,日本は 1990 年央以降,ほぼゼロ金
利制約に直面し,1999 年以降は文字通り「ゼロ金利制約」に直面したといえ
る.
一方,日本の実体経済の推移を振り返ると,景気は世界的な IT バブルの
崩壊を受けて厳しい局面を経験したが,2002 年初を底に緩やかに回復に向
かい,本論文執筆時点では戦後長期の景気拡大が続いている.一方,消費者
9) ただし,これまでも特定の取引についてマイナス金利が発生することはあった.たとえば,
1970 年代のスイスではスイス・フランの切り上げ予想から大量の資本が流入し,非居住者保有
のスイス・フラン建て預金にはマイナス金利が発生した.日本でも量的緩和政策採用期間中は円
転コスト(ドル対価の円の直買い・先売りによる円資金調達コスト)がマイナスになったり,
コールレートが一時的にマイナスになる現象が観察された(日本銀行金融市場局[2005],西岡・
馬場[2004]).しかし,経済全体としてオーバーナイト金利がマイナスになった事例はない.近
年においてオーバーナイト金利水準が全体としてゼロの接近した事例としては,日本のほかに,
2000 年代初頭のスイスがあげられる.1930 年代の米国もフェデラルファンド・レートは低下し
たが,近年の日本のコールレートと比較すると,かなり高かった(Baba, Nishioka, Oda, Shirakawa, Ueda, and Ugai[2005]).
10) この点を補うため,カリブレーションの手法を使ったシミュレーションも試みられているが,
前提となるパラメーター自体はゼロ金利環境で推計されたものではないため,現実のデータに基
づく定量的な評価とは言い難い(たとえば,日本については,鵜飼・小田・渕[2007]参照).
86
図表 3 3 日本の消費者物価上昇率と景気動向指数の推移
(2000年=100)
115
(前年比,
%)
1.5
1.0
105
0.5
100
0.0
95
−0.5
90
−1.0
85
−1.5
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
年7月
年1月
110
95 95 96 96 97 97 98 98 99 99 00 00 01 01 02 02 03 03 04 04 05 05 06 06 07 07
消費者物価指数前年比(右目盛)
景気動向指数
(CI,
一致系列)
(左目盛)
出所) 総務省.内閣府.
物価指数の下落率は 2001 年度(平均)および 2002 年度(同)にはマイナス
0.8%にまで拡大したが,その後は緩やかながらマイナス幅が縮小し,2006
年度以降はおおむねゼロ%近傍で推移している.2000 年代初の時点では,
「デフレが続く限り景気回復はありえない」という主張も聞かれたが 11),現
実には物価上昇率がマイナスないしゼロ近辺を続けるもとで戦後最長の景気
回復を続けている(図表 3 3).このような日本経済の展開は,前述のゼロ金
利制約やデフレ・スパイラルの議論に照らした場合,どのように解釈すべき
であろうか.
11) たとえば,2003 年 3 月に「現代研究グループ」により発表された「日本経済復活への提言」
では以下のように述べられている(現代研究グループ[2003]).「日本経済はデフレが継続する
深刻な状態にある.デフレが実質債務を増加させ,逆資産効果から債務者(中略)の消費や投資
を抑制している.さらに,デフレ継続の期待が将来の収入期待も減退させ,所得効果によって消
費,投資をいっそう抑制する.新規の不良債権も次々に発生して,銀行部門の財務体質の弱体化
は止まらない.公的部門の実質債務も増大する.デフレ問題の解決なくして,景気回復・財政再
建はありえない.
」
(アンダーラインは著者)
3 「ゼロ金利制約」論再考
87
3 「ゼロ金利制約」論の検討ポイント
「ゼロ金利制約」を議論するためには,
「制約」の意味を正確に定義すると
ともに,制約がかかるメカニズムについても明確にする必要がある.本節で
は「ゼロ金利制約」論をについて考察するために必要ないくつかの検討ポイ
ントを説明する.
3.1 「ゼロ金利下限」と「金融政策の有効性制約」
まず,「制約」の意味するところを明確にする必要がある.
考えられる「制約」の第 1 の意味は,金利水準がゼロに到達すると,金利
はそれ以上には低下できないということである.以下では,この意味での
「制約」のことを便宜的に「ゼロ金利下限」
(zero-lower bound)という言葉
で呼ぶことにする.通常の状況では,名目市場金利(i)と均衡実質金利
(r)と予想物価上昇率(π)の間には,リスク・プレミアムを無視すると,
フィッシャー方程式(i=r +π)が成立する.しかし,名目市場金利がゼロ
に到達すると,予想物価上昇率が低下しても名目金利はそれ以上には低下し
えないため,市場実質金利が上昇する.その結果,均衡実質金利(r)が需
要の落ち込み等の理由によりマイナスになった場合,均衡実質金利が市場実
質金利(i−π)を下回り,金融緩和政策が刺激効果を生み出せない状況が
発生する可能性がある.現実の日本経済に即して説明すると,量的緩和政策
を採用していた期間中,コールレートは 0.001%(期間中平均,以下同様)
,
残存期間 1 年の国債金利は 0.04%,残存期間 3 年の国債金利で 0.25%で
あった(図表 3 4).厳密にどの期間ゾーンまでがゼロ金利制約に直面してい
たかを特定することは難しいが,短期ゾーンについてはほぼゼロの金利水準
図表 3 4
国債の期間別の金利水準
残存期間
(年)
量的緩和政策
採用期間中
量的緩和政
策解除後
残存期間
(年)
量的緩和政策
採用期間中
量的緩和政
策解除後
1
3
5
0.04%
0.25%
0.55%
0.59%
0.97%
1.28%
7
10
20
0.90%
1.35%
1.97%
1.49%
1.76%
2.24%
注) 量的緩和政策採用期間中は 2001 年 3 月 2006 年 2 月の平均.解除後は 2006 年 3 月 2007 年 8 月の平
均.
88
にあった.
「制約」の第 2 の意味は,
「ゼロ金利下限」の存在によって現実に金融政策
が刺激効果を発揮できなくなるという意味である.以下では,このことを便
宜的に「金融政策の有効性制約」という言葉で呼ぶこととする.多くの中央
銀行は短期金利についての誘導目標水準を設定し,この目標金利を変更する
ことによって金融政策を運営しており,その意味では,短期金利がゼロに到
達すると,短期金利の引き下げという形での金融緩和政策を実行できないこ
とは明らかである.しかし,そのことと金融政策の有効性が失われるという
ことは同等ではない.金融政策の効果の出発点はオーバーナイト金利である
が,金融機関の資金調達に占めるオーバーナイト調達のウェイトは小さい.
「短期」の範囲をもう少し広げて定義すると,ゼロ金利下限に到達する資
金調達の割合は高まる.ただし,その場合でも,長期金利までゼロになった
わけではなく,短期資金と長期資金は代替関係にある以上,一方の短期資金
市場で調整メカニズムが働かない場合には,他方の長期資金市場で何らかの
調整メカニズムが働くと考えることは自然である.また,民間経済主体の意
思決定を左右する信用スプレッドはゼロに到達したわけではない.さらに,
金利以外の経済変数,たとえば,為替レートが変動することによって,何ら
かの調整メカニズムが働く可能性もある.したがって,短期金利に関する
「ゼロ金利下限」には到達しても「金融政策の有効性制約」には直面しない
ことは理論上考えられる.
3.2 「ゼロ金利下限」の検討ポイント
上述の概念的整理を念頭に置いたうえで,最初に,
「ゼロ金利下限」につ
いて,その意味を,より深く検討する.
「ゼロ金利下限」を議論する際には,
相互に関連しているが,少なくとも以下の点について概念的に明確にする必
要がある.
a.金利の期間は? 「ゼロ金利制約」の議論において,対象とされる金利
は必ずしも明確に述べられているわけではない.典型的にはオーバーナイト
金利についてのゼロ金利下限が議論されることが多いが,前述の Summers
[1991]は企業の投資行動を念頭に置いて説明しており,相対的に長い期間の
3 「ゼロ金利制約」論再考
89
金利が想定されているようにうかがわれる.日本の量的緩和政策採用期間中
を見ると,オーバーナイト金利はゼロとなったが,前述のように長期金利ま
でゼロとなったわけではない(図表 3 5,前出図表 3 4).いずれにせよ,ど
の期間の金利がゼロに到達した場合に,
「ゼロ金利下限に到達した」と認識
するかを明確にする必要がある.
b.リスクフリー金利か,民間債務の金利か?
上述の期間の問題とは別に,
ゼロ金利に到達したと判断する場合の金融資産の金利は正確には何であろう
か.国債に代表されるリスクフリー金利なのか,それとも信用リスクをとも
なう民間債務の金利(典型的には社債金利や貸出金利)であるのかを明確に
する必要がある.民間経済主体はリスクフリー金利で資金を調達しているわ
けではないので,仮に,リスクフリー金利がゼロ下限に到達しても,信用ス
プレッドに低下余地があるかぎり,金利水準は低下する.日本の量的緩和政
策採用期間中を見ると,短期金利がゼロに到達した後も貸出約定平均金利は
一貫して低下したほか,社債(とくに低格付け社債)の信用スプレッドも全
般に低下した(図表 3 6).
3.3 「金融政策の有効性制約」の検討ポイント
3.2 では「ゼロ金利下限」の意味を検討するためのポイントを説明したが,
次に,経済が何らかの意味で「ゼロ金利下限」に達した場合に,そのことが
「金融政策の有効性制約」をもたらすということの正確な意味を考えてみよ
う.
「有効性制約」の概念的な意味
a.金融政策の有効性を制約している真の要因は何か?
92 ページの図表
3 7 はリスクフリー金利の実質イールドカーブ(市場実質金利)と均衡実質
金利のイールドカーブを示している.ケース 1 では市場実質金利が全期間に
わたって均衡実質金利を上回っている.これはゼロ金利下限によって金融政
策の有効性が制約されるケースとしてインプリシットに想定されているケー
スと思われる.
ただし,この場合でも,均衡実質金利の低下をもたらした原因まで遡って
考えた場合,これを「ゼロ金利制約」と呼ぶことが適切かどうかは必ずしも
90
図表 3 5
金利の推移
(%)
5.0
4.5
ゼロ金利
4.0
量的緩和
5年国債
10年国債
20年国債
コールレート(オーバーナイト)
3.5
3.0
2.5
2.0
1.5
1.0
0.5
1
月
1
年
06
月
1
年
05
月
1
年
04
月
1
年
03
月
02
月
1
年
年
01
月
月
1
1
年
年
1
00
99
月
1
年
98
月
1
年
月
97
月
96
1
年
年
0.0
95
出所) 白川[2006].
図表 3 6
信用スプレッドの推移
(%)
1.5
ゼロ金利
AA
A
BBB
量的緩和
1.0
0.5
12
月
12
年
05
月
12
年
04
月
12
年
03
月
12
年
02
月
01
月
12
年
年
12
出所) 白川[2006].
00
月
12
年
月
99
月
98
12
年
年
0.0
97
3 「ゼロ金利制約」論再考
91
判然としないケースも存在する.たとえば,大規模なバブルの崩壊により均
衡実質利が仮にマイナス 10%にまで低下したケースを想定しよう.そのよ
うなケースについても,市場実質金利がマイナス 10%以下になりえたなら
ば,デフレ・スパイラルを防止できるという意味で,
「ゼロ金利制約」が作
用したと表現することは可能である.しかし,そのような極端な事態を想定
して平常時より「デフレの糊代」を取るとすると,目標物価上昇率はかなり
高い水準でなければならず,その結果,物価安定のメリットを享受すること
ができなくなる.また,上述のような均衡実質利が大幅に低下するような
ケースでは,「ゼロ金利制約」の危険が顕在化したと認識するよりも,そう
した大きなショックを引き起こす事態(たとえば,バブルの崩壊,金融恐慌
の発生等)の危険と認識する方が自然である(第 6 節参照)12).1990 年代以
降の日本経済の長期低迷については多面的な検討が必要であるが,金融政策
の有効性を阻害したのは,「ゼロ金利制約」であったというより,圧倒的に
自己資本の大幅な毀損という「自己資本制約」であったように思われる 13).
b.金融政策の有効性喪失なのか,効果波及のラグなのか?
図表 3 7 の
ケース 2 は,ゼロ金利下限のため市場実質金利が上昇しているが,市場実質
金利の水準自体は依然として均衡実質金利を下回っているケースを示してい
る.このケースでは,金融政策の効果はゼロ金利下限に直面しないケースと
の比較では有効性は低下しているが,金融政策自体は依然として緩和的であ
る.この場合,金融政策が緩和効果を十分発揮するまでタイム・ラグは長く
なるが,金融緩和政策が有効性を失ったわけではない.現実の経済を見ると,
経済主体のマインドの変化をはじめ,金融政策の効果を強めたり弱めたりす
る制約要因はいつも存在していることを考えると,ケース 2 において,「ゼ
ロ金利制約」をシングル・アウトとして制約要因と考えることが適切かどう
12) 小田・村永[2003]は日本経済に関する小型の構造モデルに基づいて自然利子率(均衡実質金
利)を推計している.彼等の推計によると,自然利子率は 1997 年以降 2002 年第 1 四半期までの
大部分の期間でマイナスとなっている.
13) Ahearne
[2002]は FRB/Global モデルと呼ばれる標準的なニューケインジアン・モデル
を使って 1991 年から 1995 年初の間における短期金利の 2.5%ポイント追加引き下げの効果に関
するシミュレーションを行っている.彼等の分析は自己資本制約を組み込んでおらず,この時期
の日本経済の分析には不適切と思われるが,そうしたモデルであっても,シミュレーション結果
によると,物価上昇率の下落は回避できるものの,成長率はほとんど変化していない.自己資本
制約の影響を組み込んだ分析については,木村・藤原・原・平形・渡邊[2006]参照.
92
図表 3 7
市場実質金利と均衡実質金利のイールドカーブ:
つのケース
ケース1
(金利)
市場実質金利
均衡実質金利
(期間)
ケース2
(金利)
均衡実質金利
市場実質金利
ゼロ金利
下限の存在
↑から市場
実質金利が
上昇
(期間)
ケース3
(金利)
均衡実質金利
市場実質金利
(期間)
3 「ゼロ金利制約」論再考
93
かも 1 つの論点である.
金融政策の有効性が制約されるメカニズム
前述したゼロ金利制約の意味に関する検討を踏まえると,金融政策の有効
性が制約されるかどうかを判断するためには,以下の点を検討する必要があ
る.
a.発生するショックは一時的か永続的か?
ゼロ金利下限に到達している
状況の下で,経済に発生するショックの長さ(duration)も重要である.図
表 3 7 のケース 3 は一時的なマイナスの需要ショックの発生によりイールド
カーブの短期ゾーンにおいてのみ市場実質金利が均衡実質金利を上回るケー
スを示している.
このようなケースにおいても,短期資金と長期資金の間に代替性が存在す
るならば,制約のかからない期間に取引がシフトする可能性がある.そうし
たシフトが生じる程度に応じて,金融政策の有効性制約は緩和される可能性
がある.
b.リスク・プレミアムの取り扱いは?
図表 3 8 は社債による資金調達を
行って設備投資を検討している企業の状況を表している.簡単化のために投
資収益率については不確実性はないと仮定する.他方,社債による資金調達
については,当該企業の社債のデフォルトの危険(信用リスク)に関する社
債投資家の評価が反映されている.社債の投資家は損失の数学的期待値をカ
バーするだけの金利を最低限要求する.さらに,予想は不確実であるため,
リスク・プレミアムを要求する.したがって,設備投資を検討している企業
から見ると,投資家のリスク・プレミアムの水準如何によって,設備投資を
実行するケースもあれは,断念するケースもある.たとえば,ケース 1 では,
この企業は設備投資を行うが,ケース 2 では設備投資を行わない.通常,
「ゼロ金利制約」の議論では,リスク・プレミアムは明示的には考慮されて
いないが,設備投資行動が萎縮するような状況の下では,リスク・プレミア
ムの現在の水準や将来の変動は経済主体の行動に大きな影響を及ぼす.仮に,
リスク・プレミアムの水準が高く,その変動も大きいとすると,もっぱらリ
スク・フリー金利に着目してゼロ金利制約を議論することの現実的妥当性は
低下する.
94
図表 3 8
リスク・プレミアムの変動
信用リスクの変動
(リスク・プレミアム)
投資収益率
信用リスクの期待値
リスク・フリー金利
ケース
リスク・プレミアムが小さい
ケース
ケース
リスク・プレミアムが大きい
ケース
その意味で,信用スプレッドがどのような要因で変動しているかは金融政
策の効果を分析するうえで重要である.この点については,社債の信用スプ
レ ッ ド の う ち,損 失 の 数 学 的 期 待 値 で 説 明 で き る 部 分 は 少 な い こ と が
credit spread puzzle の 名 前 で 知 ら れ て い る.た と え ば,Amato and
Remolona[2003])は期間 3 5 年の AAA 格社債の信用スプレッド(1997 年
1 月 2003 年 8 月,以下同様)は 63.86 ベーシス・ポイント,このうち,損
失の数学的期待値で説明できる部分は 0.18 ベーシス・ポイント,BBB 格に
ついては,それぞれ 170.89 ベーシス・ポイント,20.12 ベーシス・ポイン
トという推計結果を報告している(図表 3 9).その意味では,金融政策がリ
図表 3 9 社債の信用スプレッドと損失の数学的期待値
〈単位:ベーシス・ポイント〉
満
格付け
AAA
AA
A
BBB
BB
B
1 3年
3 5年
期
5 7年
7 10 年
スプレッド
期待損失
スプレッド
期待損失
スプレッド
期待損失
スプレッド
期待損失
49.50
58.97
88.82
168.99
421.20
760.84
0.06
1.24
1.12
12.48
103.09
426.16
63.86
71.22
102.91
170.89
364.55
691.81
0.18
1.44
2.78
20.12
126.74
400.52
70.47
82.36
110.71
185.34
345.37
571.94
0.33
1.86
4.71
27.17
140.52
368.38
73.95
88.57
117.52
179.63
322.32
512.43
0.61
2.70
7.32
34.56
148.05
329.40
出所) Amato and Remolona[2003].
3 「ゼロ金利制約」論再考
95
スク・プレミアムに及ぼす影響を点検することは重要である.
c.金利以外の調整メカニズムが作用しないか?
仮にゼロ金利下限が存在
するが故に均衡金利への調整が図られない事態に直面すると,他の変数が変
化することによって調整が行われることも予想される.自国通貨の為替レー
トの減価はそうした調整がなされる際のもっとも自然な変数である.
4 なぜ,デフレ・スパイラルに陥らなかったか
本節では前節の検討を踏まえながら,短期金利に関するかぎりゼロ金利下
限に到達したにもかかわらず,日本経済がデフレ・スパイラルには陥らな
かったことを説明するいくつかの仮説を検討する.
4.1 均衡実質金利の一時的落ち込み
第 1 の仮説
日本経済は均衡実質金利の落ち込みに直面したが,落ち込みは
一時的であったため,デフレ・スパイラルに陥らなかった.
第 3 節で説明したように,多くの経済主体が均衡実質金利の落ち込みを一
時的なものと判断する場合には,デフレ・スパイラルは発生しない.均衡実
質金利と市場実質金利の水準を正確に比較することは難しいが,均衡実質金
利の近似値として企業経営者に対するサーベイ調査による予想成長率を見る
と(図表 3 10),現実の成長率の低下とともに 2000 年代初頭までは低下して
いるが,2000 年代の低下を見ると,予想成長率は先行き 3 年ないし 5 年と
いう中期のタイムスパンでは,短期の成長見通しほどには低下していない.
このようなサーベイ調査からは,均衡実質金利の落ち込みが一時的であった
可能性が示唆される.
4.2 時間軸効果
第 2 の仮説
日本銀行は消費者物価指数の前年比が安定的にゼロ%以上とな
るまでゼロ金利を継続することを約束したが,これによる時間軸効果によっ
て短中期金利が低下したため,ゼロ金利制約が緩和された.
96
図表 3 10 日本の中長期の予想成長率と実質金利
(年平均,%)
6
短期実質利子率
5
企業の期待実質GDP成長率
現在から 1 年先
現在から 3 年先
現在から 5 年先
4
3
2
1
0
−1
1985 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 06
(年度)
注) 1.企業の期待成長率(
『企業行動に関するアンケート調査』〈内閣府経済社会総合研究
所〉に記載されている)は,線形補完で補われている.
2.短期実質利子率=コールレート(オーバーナイト,無担保)−CPI(生鮮食品を除く)の
前年比変化率.
出所) 白川[2006].
量的緩和政策採用以降の中長期金利の推移を見ると,2002 年から 2003 年
にかけて低下している(前出図表 3 5).金利の期間構造理論を前提とすると,
消費者物価指数に基づく約束は将来にわたる予想短期金利(オーバーナイト
金利)と,将来の短期金利に関する不確実性を反映したプレミアム(ターム
プレミアム)の両方を低下させることを通じて長期金利を低下させると考え
られる.
ただし,そうした約束がない場合でも,市場参加者は経済・物価情勢に応
じて先行きの短期金利を予想しているため,時間軸効果を統計的に検証する
ことは容易ではない.Oda and Ueda[2005]は簡単なマクロ経済モデルと
ファイナンス理論を用いて時間軸効果のない場合の金利水準を推定し,これ
と現実の金利水準を比較することによって時間軸効果の存在を検証している
(図 3 11)
.それによると,時間軸効果の大きさは 2002 年頃までは 0.1%程
度であり,2003 年には 0.2 0.5%に拡大している.また,期間別に見ると,
時間軸効果は 3 年物がもっとも大きい.時間軸効果の存在やその大きさを厳
密に検証することは難しいが,上述の推計結果は以下の 2 つの点で比較的
3 「ゼロ金利制約」論再考
図表 3 11
97
時間軸効果の推定
①3年物金利
(%)
0.7
時間軸なし
0.6
時間軸あり
0.5
0.4
ゼロ金利政策時
量的緩和時
0.3
0.2
0.1
0
Ⅱ Ⅲ
1999
Ⅳ
Ⅰ Ⅱ
2000
Ⅱ
01
Ⅲ
Ⅳ
Ⅰ
02
Ⅱ
III IV
Ⅰ
03
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
(年)
出所) Oda, Nobuyuki. and Kazuo Ueda[2005].
リーズナブルな結果であるように思われる 14).第 1 に,景気後退ないし回
復の初期局面では「約束」の有無にかかわらず予想金利は低いので,時間軸
効果は存在したとしても大きいとは考えにくいが,推定結果はそうした推測
と整合的である.第 2 に,景気回復が本格化してくると,ゼロ金利継続期間
に関する不確実性が生まれてくるため,この時期になって初めて時間軸効果
の存在がテストされる.その意味で,世界経済の好転を反映し,日本の景気
回復が次第に明確化していった 2003 年の時間軸効果が拡大しているという
推定結果は時間軸効果の存在と整合的である.第 3 に,中央銀行が将来の金
融政策を約束する場合でも,将来の不確実性の大きさを考えると,遠い将来
について約束することはできないし,また約束したとしてもそうした約束が
信じられるとは想像しにくい.その意味で,時間軸効果が 10 年や 5 年では
なく,3 年程度で最大になっているのもリーズナブルな推定結果のように思
14) モデルによる検証は有益であるが,一方で,結論は選択するモデル(経済構造)に左右され
る.加えて,マクロ経済モデルにおける重要な変数である GDP ギャップ等の推定値は今後も改
定され,その結果,時間軸効果の推定結果も影響を受ける可能性がある.その意味で,時間軸効
果についての厳密な検証は難しいことに留意する必要がある.
98
われる.
4.3 開放経済における調整メカニズムの作用
第 3 の仮説
ゼロ金利制約の議論はインプリシットに閉鎖経済(クローズ
ド・エコノミー)を前提としているが,現実の経済は開放経済であり,閉鎖
経済では期待できないさまざまな調整メカニズムが作用した結果,デフレ・
スパイラルには陥らなかった.
2002 年以降の日本の景気回復のパターンをいざなぎ景気とバブル景気と
比較すると,今回の景気回復をリードした主役は純輸出であった(図表
3 12)
.また,輸出に次いで高い寄与度を示した設備投資についても,輸出
比率の高い企業ほど設備投資の増加率が高く(図 3 13),海外経済の動向が
大きく影響していることが示唆される 15).このような日本経済の動きの背
後には以下のような開放経済の調整メカニズムが作用したと考えられる.
第 1 に,円の実質為替レートが大きく低下した(図表 3 14).円の実質実
効為替レートは 2001 年初以降,量的緩和政策解除時までの間に 18.5%低下
した 16).円の実質実効為替レートの減価を分解すると,名目為替レート減
価の寄与度は 1/3 強,日本の物価上昇率が輸出相手国の物価上昇率よりも低
いことの寄与度は 2/3 弱であった.いい換えると,実質為替レートの構成要
素のうち,国内物価の下落はゼロ金利政策の議論ではデフレ・スパイラルの
危険を高める要因として意識されるが,これは同時に対外競争力の上昇要因
図表 3 12 景気拡大局面における需要項目の動き
実質 GDP
純輸出
(輸出)
設備投資
個人消費
公共投資
いざなぎ景気
(65/4 70/3)
バブル景気
(86/4 91/1)
今回の景気拡大
(02/1 07/2)
11.5
▲0.3(▲2%)
0.9( 8%)
2.9( 25%)
5.9( 51%)
1.0( 9%)
5.4
▲0.2
(▲4%)
0.5
( 9%)
2.1
( 38%)
2.4
( 45%)
0.2
( 4%)
2.2
0.7( 31%)
1.3( 59%)
0.8( 37%)
0.7( 35%)
▲0.4(▲20%)
出所) 日本銀行調査統計局[2007].
15)
16)
日本銀行調査統計局[2007]参照.
日本銀行算出の実質実効為替レートによる.
3 「ゼロ金利制約」論再考
図表 3 13
99
製造業大企業の業種別にみた設備投資と輸出の関係
(03­06年度の設備投資平均増加率,%)
30
25
20
繊維
15
木材・木製品
非鉄金属
精密機械
化学
5
電気機械
その他
紙・パルプ
10
一般機械
鉄鋼
窯業・
土石製品
輸送用機械
石油・石炭製品
0
金属製品
食料品
−5
−1
0
1
2
3
4
5
(03­06年度の売上高増加率平均輸出寄与度,%)
出所) 日本銀行調査統計局[2007].
図表 3 14
190
円の名目実効為替レートおよび実質実効為替レートの推移
(90 年 1 月=100)
170
150
130
110
90
70
05 06
年1月
年1月
03 04
年1月
年1月
01 02
年1月
各目実効為替レート
年1月
99 00
年1月
年1月
98
年1月
97
年1月
96
年1月
95
年1月
94
年1月
93
年1月
92
年1月
90 91
年1月
年1月
年1月
50
07
実質実効為替レート
出所) 日本銀行.
でもあり,純輸出の増加をもたらすことを通じてデフレ・スパイラルの発生
を防止する効果を有した.実質為替レートを規定するもう 1 つの変数である
名目為替レートの決定要因は複雑であるが,円の名目為替レートは日本経済
に対する弱気の見方を反映し低下した.
第 2 に,そのようにして実現した円の為替レートの減価はさまざまなルー
トを通じてデフレ・スパイラルの防止に寄与した.もっとも直接的なルート
はネット外需の増加を通じる効果であるが,巨額の対外純資産残高に発生す
100
図表 3 15
日本の対外純資産の増減状況
(単位:兆円)
60
50
対外純資産増減
為替レート要因
2001
2003
40
30
20
10
0
−10
−20
2000
2002
2004
2005
2006(年)
出所) 財務省「本邦対外資産負債残高」
.
図表 3 16
日
本
ス イ ス
ド イ ツ
イタリア
フランス
カ ナ ダ
英
国
米
国
主要国の対外資産・負債残高
対外資産
対外負債
対外純資産
同,対 GDP 比率,%
341.2
558.1
155.4
290.7
128.1
276.6
59.7
500.2
826.1
208.1
343.0
121.3
282.8
123.0
269.7
78.4
521.4
1077.4
133.0
215.1
34.1
7.9
5.0
6.9
−18.7
−21.1
−251.3
25.9
42.4
120.1
3.7
4.0
4.6
−23.5
−13.2
−22.2
00 年末
06 年末
00 年末
00 年末
00 年末
00 年末
00 年末
00 年末
00 年末
出所) 日本銀行国際局[2001,2007].
るキャピタル・ゲインを通じる効果(資産効果)も指摘できる(図表 3 15).
日本の対外純資産残高は 2000 年末で 133.0 兆円(2006 年末 215.1 兆円)と
世界最大であり,名目 GDP に対する比率も 26%(2006 年末 42%)と圧倒
的に高水準である(図表 3 16).このような日本の対外純資産ポジションの
構造を前提とすると,円安によって巨額のキャピタル・ゲインが発生す
る 17).キャピタル・ゲインのうち,公的部門に発生するキャピタル・ゲイ
ンについては経済活動に直ちに影響を与えるとは考えられないが,民間部門
17) 2000 年末で見ると,純資産は公的部門が 45.3 兆円,銀行部門が 21.8 兆円,その他部門が
65.9 兆円である.
3 「ゼロ金利制約」論再考
101
に発生したキャピタル・ゲインは民間部門の経済活動を下支える効果を発揮
したと考えられる 18).
第 3 に,内外の成長率格差自体がネット外需の増加をもたらした.また,
設備投資も海外経済の動向に左右される度合いが高まっている.
4.4 金融恐慌の回避
第 4 の仮説
日本銀行の最後の貸し手機能や政府の公的資金投入により,
「金融恐慌」の発生が回避されたことがデフレ・スパイラルの発生防止に大
きく寄与した.
われわれが「デフレ」という言葉で想像する代表例は,1930 年代の米国
における大恐慌の経験のように,金融システムが全面的に不安定化するよう
な事態と併存している(第 5 節参照).金融恐慌と呼ばれる状況に陥ると,経
済活動は極端に収縮する.この点で 1990 年代以降の日本を見ると,バブル
の崩壊にともなう不良債権の増加を主因に金融システムは不安定化したが,
預金者が元本を失いシステミック・リスクが全面的に広がるというような事
態だけは何とか回避された.
金融システム問題の直接的な原因は自己資本の大幅な毀損であり,これを
解決するためには,公的資金による資本注入が不可欠であった.それと同時
に,これが実現するまでの間は,システミック・リスクの顕在化を回避する
ことが最低限必要であった.この面では,政府による金融機関債務の全額保
護の宣言と,日本銀行による「最後の貸し手」機能に基づく個別金融機関へ
の貸出は大きな役割を果たした.図表 3 17 は日本銀行による「特融」19) の
残高の推移を示しているが,ピーク時には 4 兆円にも達した.さらに,量的
緩和政策の枠組みも潤沢な流動性供給や信用スプレッドの圧縮を通じて,日
本の金融システムの不安定化を回避することに寄与した.また,最終的に金
融機関に対する公的資本の注入も実現した.1990 年代以降の日本では不良
18) 対外純資産残高の変化を通じる影響については小宮[2002]によって強調されている.
19) 「特融」とは,システミック・リスクを回避するために,無担保,もしくは通常の担保の条件
を大幅に緩和したうえで,実行する貸出である.法律的には旧日本銀行法のもとでは,日銀法
25 条による主務大臣認可を経て行う貸出であり,新日本銀行法のもとでは,日銀法 38 条に基づ
く貸出である.
102
図表 3 17
日本銀行の特融残高の推移
(単位:10億円)
4,000
3,500
3,000
2,500
2,000
1,500
1,000
500
−
1995
96
97
98
99
2000
01
02
03
04
05
06
07
(年)
出所) 日本銀行ホームページ.
債権問題の解決に長い時間を要したが,民間金融機関による不良債権処理の
努力とこれらの政府や中央銀行の施策によって,金融恐慌というシステミッ
ク・リスクが顕在化する事態だけは何とか回避できた.日本銀行の「最後の
貸し手」機能や政府の公的資金投入により,リスク・プレミアムの拡大が回
避されたが,これは実効金利の上昇を回避することを通じてデフレ・スパイ
ラルの防止に寄与した(前出図表 3 8).
5 日本の経験は特殊か普遍的か
前節では日本経済がデフレ・スパイラルには直面しなかった事実について,
その原因を説明するいくつかの仮説を検討したが,どの仮説が妥当するにせ
よ(あるいは,それ以外の仮説が妥当するにせよ)
,たまたま「幸運」に恵
まれただけと解釈すべきなのか,それとも,より普遍的な結論として日本の
経験を解釈してよいのかが論点となる.日本経済がデフレ・スパイラルに陥
らなかったことの原因として,たまたま「幸運」に恵まれたことを強調する
論者は,2002 年以降,海外経済が高い成長率で回復したことの影響を強調
する.図表 3 18 は世界経済の成長率の推移を示しているが,2003 年以降は,
高い成長が続き,とくに中国経済の成長は目覚ましかった.海外経済の高い
成長という要因を強調する立場に立つ場合は,均衡実質金利の低下が一時的
3 「ゼロ金利制約」論再考
図表 3 18
世界全体
先 進 国
新興アジア諸国
日
本
米
国
ユーロエリア
中
国
103
世界経済の成長率の推移
2000 年
2001
2002
2003
2004
2005
2006
4.8
4.0
7.9
2.9
3.7
3.9
8.4
2.5
1.2
1.2
0.2
0.8
1.9
8.3
3.1
1.6
5.4
0.3
1.6
0.9
9.1
4.0
1.9
3.2
1.4
2.5
0.8
10.0
5.3
3.3
5.8
2.7
3.9
2.0
10.1
4.9
2.5
4.7
1.9
3.2
1.4
10.4
5.4
3.1
5.3
2.2
3.3
2.6
10.7
出所) IMF World Economic Outlook(2007 年 4 月)
図表 3 19
米
国
日
本
ド イ ツ
フランス
英
国
20 世紀以降の主要国の物価下落の経験
ピーク年
年平均のピー
ク/ボトム下落率
累積下落率
(%)
持続期間
(年)
最大年間下落率
(%)
1920
1926
1920
1928
1902
1920
−8.5
−4.4
−6.1
−6.2
−0.3
−5.3
−16.3
−26.9
−46.7
−22.6
−1.0
−42.3
2
7
10
4
3
10
−10.8
−10.3
−18.7
−9.6
−1.0
−27.5
出所) Bordo and Filardo[2005]の Table2 からの抜粋.
なものに止まったのは,たまたま,この時期にそうした海外経済の回復・成
長という幸運に恵まれたことによるものと考える.
5.1 過去のデフレの経験
上述の問いに答えるためにはゼロ金利に接近した現実の経験について実証
的に分析することが必要であるが,その検討に入る前に,今回の日本の経験
はデフレの経験のなかで例外的な事例(outlier)なのか,一般的な傾向に
沿ったものであるかという点について確認することが必要である.Bordo
and Filardo[2005]は 19 世紀以降の世界のさまざまなデフレの経験について
詳細な研究を行っている(図表 3 19).図表 3 20 は 19 世紀後半以降のデフ
レ期の事例(88 ケース)について,産出量の変化率(横軸),物価の下落率
(縦軸)を表しており,いずれもデフレのボトム水準からの変化率を示して
いる.横軸のゼロよりも右側は産出量が増加しているケース,左側は産出量
が減少しているケースである.これに基づき,彼等は以下の事実を「定型化
104
図表 3 20
0
fr81
uk20 ca20
ca
us
−10
Peak-to-trough change in P
デフレの事例と経済活動
de
fr
be
sp
au
−20
au’
90
nz nz’
↑20
−30
−40
−50
−60
−40
−20
0
20
40
60
80
Change in output
出所) Bordo and Filardo[2005].
された事実」(stylized facts)として報告している 20).第 1 は,産出量の縮
小をともなうデフレは稀であることである 21).第 2 は産出量の大幅な減少
をともなうデフレ(彼等の言葉を借りると, ugly deflation )は大半が 1930
年代の大恐慌期に集中していることである( In history, deflation has often
coincided with robust economic growth. This is in sharp contrast to the
conventional wisdom that generally is drawn from a more limited focus on
deflation in Japan in the 1990s and deflation episode in the Great Depression. ,
pp. 9)
仮に,彼等の分析が正しいとすると,デフレ・スパイラルには陥らなかっ
たという日本の経験は例外的な事例ではなくなる.デフレ・スパイラルの危
険に関する理論は圧倒的に 1930 年代の米国における大恐慌の経験に影響さ
20) 彼等はデフレへの懸念について, To an observer looking at the long history, current concern
about deflation may seem to be somewhat overblown と述べている(p. 26)
.
21) Bordo and Filardo[2005]は物価下落率と GDP 成長率の関係に基づいて分析を行っているが,
GDP には上昇トレンドがあることを考慮すると,厳密には GDP ギャップと物価下落率との関係
について分析する必要がある.この点は青木浩介氏(LSE)の指摘に基づく.
3 「ゼロ金利制約」論再考
105
れている.その意味で,1930 年代の米国の経験だけからデフレの経験に関
する教訓を引き出すことは,ややミスリーディングである.それでは,1930
年代の米国ではなぜ,経済活動が大幅に収縮したのだろうか,近年の日本の
デフレの経験はどのような点で 1930 年代の米国とは異なっていたのかを検
討する必要がある.1930 年代の世界のデフレの経験に関しては,Bordo and
Filardo[2005]は,米国については銀行危機という形でシステミック・リス
クが顕在化したことを,また,金ブロック圏(フランス,ベルギー,オラン
ダ,スイス,イタリア等)については固定為替レートを維持したことを理由
としてあげている.本稿の著者も上述の 2 つの論点はデフレの危険を考える
うえで非常に重要と考えており,以下ではこれらの点について,近年の日本
の経験との比較を行うこととする.
5.2 金融システムの安定性
多くの研究者が指摘するように,金融システムの安定性が維持されるどう
かは経済活動の大幅な落ち込みを回避するうえで決定的に重要な要素である.
米国の場合,1930 年代のデフレ期においては FRB が「最後の貸し手」機能
を果たさなかったことからシステミック・リスクが顕在化し,マネーサプラ
イ残高は約 1/3 も減少した 22).この間の日本のマネーサプライの動きをみ
ると,バブル崩壊直後に伸び率は大幅に低下したが,不良債権問題が深刻化
した 1990 年代後半においても残高が減少することはなかった.これに対し,
日本銀行はシステミック・リスクが顕在化することを防ぐために,
「最後の
貸し手」としてアグレッシブに行動した(前出図表 3 17).そうした「最後
22) Bernanke[2002a]は 1930 年代初頭における FRB の銀行危機への対応について以下のように
述べている. It was in large part to improve the management of banking panics that the Federal
Reserve was created in 1913. However, as Friedman and Schwartz discuss in some detail, in the
early 1930s the Federal Reserve did not serve that function. The problem within the Fed was
largely doctrinal: Fed officials appeared to subscribe to Treasury Secretary Andrew Mellon s
infamous liquidationist thesis, that weeding out weak banks was a harsh but necessary prerequisite to the recovery of the banking system. Moreover, most of the failing banks were small
banks (as opposed to what we would now call money-center banks) and not members of the
Federal Reserve System. Thus the Fed saw no particular need to try to stem the panics. At the
same time, the large banks ̶̶ which would have intervened before the founding of the Fed ̶̶
felt that protecting their smaller brethren was no longer their responsibility. Indeed, since the
large banks felt confident that the Fed would protect them if necessary, the weeding out of small
competitors was a positive good, from their point of view.
106
図表 3 21
信用スプレッド――近年の日本と 1930 年代の米国の比較
(%)
3.0
U.S. CP spread
2.5
Japan CP spread
2.0
1.5
1.0
0.5
0.0
30
95
31
96
32
97
33
98
34
99
35
00
36
01
37
02
38
03
39(United States)
04(Japan)
出所) Baba, Nishioka, Oda, Shirakawa, Ueda, and Ugai[2005].
の貸し手」としての行動の違いは,信用スプレッドの水準の差となって明確
に現れている.図表 3 21 の 1930 年代と 1990 年代以降の日本についてコ
マーシャル・ペーパー(CP)の信用スプレッド水準を比較したものである
が,日本の場合は信用スプレッドがゼロに近いのに対し,米国の場合は大半
の時期で 0.5%を上回っており,ピークでは 2.5%を超えている.
金融システムの安定,システミック・リスクの回避という点では,決済シ
ステムの面での変化も大きい.システミック・リスクの潜在的な大きさを左
右する直接的な要因は未決済残高の大きさであるが,過去 20 年位の間に大
きな改善が図られた.とくに,大きいのは日銀ネットの稼動開始(1988 年),
内国為替決済制度の即日決済への移行(1993 年),国債取引に関する資金・
証券の同時決済化(1994 年),即時グロス決済(RTGS)への以降(2001 年)
であるが,そうした決済方法の違いは 1930 年代との大きな違いとして指摘
できる 23).
5.3 グローバル化の進展の影響
1930 年代の米国と今日の先進国の経済を比較した場合,もっとも大きな
23)
日本における決済システムの改革については,日本銀行決済機構局[2006]参照.
3 「ゼロ金利制約」論再考
107
違いの 1 つは経済や金融市場のグローバル化の進展である.以下で述べるよ
うに,1930 年代と異なり,今日では一国の経済はさまざまな対外経済関係
を有しているが,そのこと自体がデフレ・スパイラル発生の蓋然性を低下さ
せる方向に作用している.
a.輸出入ウェイトの上昇
自由貿易体制を前提とすると,デフレ・スパ
イラルの発生が懸念されるような経済状態に陥ると,実質為替レートは減価
し,純輸出の増加をもたらすことを通じてデフレ・スパイラルの発生を抑制
すると考えられる.また,前述のように,近年,設備投資も海外経済,海外
市場の動向に左右される度合いを強めている.さらに,成長率格差も同様の
作用をするはずである.そうした対外経済関係を通じるデフレ・スパイラル
回避の調整メカニズムの大きさは輸出入の対 GDP 比率という伝統的な尺度
だけでは測れないが,輸出入の対 GDP 比率だけ見ても,米国の 1930 年代
前半は 7%であるのに対し,2000 年代前半は 25%と上昇している.これに
上述したような設備投資を通じる影響も含めて考えると,海外経済の影響は
1930 年代よりも強まっていると考えられる.
b.クロスボーダーの資本移動の活発化
クロスボーダーの資本移動は,金
融資本市場の自由化,情報通信技術の発達,規制や会計制度の標準化の進展
等によって活発化しているが,これらの変化はいずれも海外の金融資産の保
有・売買にかかわる有形・無形のコストを低下させている.その結果,多く
の国において金融資産選択における国内金融資産への偏り(ホームバイア
ス)が緩やかながら緩和される方向にあり,以前であれば国内の金融資産に
向かった貯蓄が海外の金融資産に向かう傾向を強めている.ちなみに,国際
的な資本移動グローバルな貯蓄に対するクロスボーダーの貯蓄(対外資本移
動)の比率の推移を見ると(図表 3 22),1990 年代央までは 20%程度に過ぎ
なかったが,2006 年には 50%にまで上昇している 24).
そうした資本移動の活発化は以下のルートを通じて,デフレ・スパイラル
の危険を相殺する方向に作用する.第 1 に,資本移動の活発化はそれに対応
して経済収支の不均衡も拡大し,各国の対外純資産のバラツキも大きくなる
ことを意味する.この結果,日本のように対外純資産がプラスの国について
24)
Higgins and Klitgaard[2007]参照.
108
図表 3 22 グローバル貯蓄に対するクロスボーダーの貯蓄の比率推移
Five-year moving average(percent)
50
World exleding United States
40
30
20
10
0
1985 86
88
90
92
94
96
98
2000
02
04
06
出所) Higgins and Klitgaard[2007].
は,自国通貨の減価による当該国の対外純資産の増加がデフレ・スパイラル
の危険を相殺する方向に作用する傾向が強まる.第 2 に,国際分散投資の進
展によって,リスク・プレミアムの拡大を抑制する効果が期待できる.デフ
レ・スパイラルないし,それと密接な関連を有する金融システムの安定性を
確保するうえで,リスク・プレミアムの水準が急激に拡大しないことは重要
である.米国の 1930 年代の社債の信用スプレッドは異常に大きいが,資本
移動が活発化した経済では,内外の多様な投資家の投資を期待できるので,
ホームバイアスの強い状況との比較では,国内要因によるリスク・プレミア
ムの一方的拡大は抑制される.
6 若干の論点
本稿は近年の日本の経験に基づいて,「ゼロ金利制約」の議論の現実的妥
当性を検討した.この問題について答えを出すためには多面的な角度からの
検討が必要であり,本稿も現時点での暫定的な評価という域を大きくは超え
ない.本節では,「ゼロ金利制約」を考えるうえで重要ではあるが,本稿で
は十分には取り扱わなかったいくつかの論点を指摘したい.
3 「ゼロ金利制約」論再考
109
6.1 デフレの危険とバブルの発生の危険
本稿では「ゼロ金利制約」論を検討したが,「ゼロ金利制約」がもっとも
深刻な制約となるケースは実質均衡金利が一時的にではなく,かなり長期間
にわたって大きく低下するケースである.そのようなケースは「ゼロ金利制
約」というより,実質均衡金利の低下自体をもたらすショック自体に起因す
る制約と考えた方が自然であるが,過去の歴史を振返ると,そうした実質均
衡金利の大幅な低下はバブル崩壊の過程で生じていることが多い.ここで問
題となるのは,「ゼロ金利制約」論の政策的インプリケーションとしてあげ
られる「デフレの糊代」の評価である.バブルの発生原因は複雑であり単一
の要因で説明できるものではないが,低インフレの下で足許の低金利が長期
間にわたって継続されるという予想がバブル発生の一因であるとすれば,デ
フレの危険だけを強調するだけでなく,バブル発生の危険についてもバラン
スよく評価する必要がある 25).
6.2 対外経済関係の重要性
第 5 節で指摘したように,デフレ・スパイラルやゼロ金利制約の問題を考
える際には,対外経済関係を明示的に組み込んだ理論モデルで分析すること
が不可欠である.仮に,先進国が管理貿易体制にあり,日本の為替レートが
固定相場制であったならば,1990 年代後半以降の日本経済においてデフレ・
スパイラルが発生したことも考えられる.それだけに,自由な貿易体制や国
際資本移動を保証し,変動為替レート制度を採用することは,「ゼロ金利制
約」やデフレ・スパイラルの危険を防ぐうえで非常に重要な要素である.
6.3 時間軸効果の有効性と限界
短期金利がゼロに到達した場合,中央銀行の金融政策運営にとって,もっ
とも即物的な制約は通常の短期金利引き下げという形での金融緩和政策を実
行できないことである.しかし,その場合でも,将来の経済状態に対する見
方を反映して,ゼロ金利が持続する期間の長さについての市場参加者の見方
が変化することによって,相対的に長めの期間の金利水準は変動する.さら
25)
資産価格と金融政策についての考え方については,翁[2007],White[2006]を参照.
110
に,ゼロ金利継続に関する「約束」を行うことによって,時間軸効果も期待
できる.
しかし,市場における中長期金利の自立的な低下や「約束」による効果に
ついては,同時に限界も認識しておく必要がある 26).
第 1 に,実態的な効果が変わらない場合でも,短期金利(政策金利)の引
き下げという visible な政策手段を活用できないことは,中央銀行にとって
金融政策の説明を難しくする側面があることは否めない.
第 2 に,時間軸効果の大きさについて過大な期待をもつことはできない.
時間軸効果については,
「本当に有効であるのならば,ゼロ金利継続の基準
となる消費者物価上昇率をもっと引き上げた方がさらに有効性が増すのでは
ないか」という疑問が予想される.たとえば「4%の消費者物価上昇率を 10
年間経験するまでゼロ金利政策継続する」ことを日本銀行が約束したと仮定
しよう.一見すると,これによって時間軸効果は強化されそうであるが,
「時間的非整合性」の問題を考えると,必ずしもそのような効果は期待でき
ない 27).上記の点とも関連するが,現在の委員会のメンバーはどの程度将
来の委員の意思決定を拘束できるかという論点も存在する.日本銀行政策委
員会の場合,委員の任期は 5 年である.いい換えると,ある時点での委員会
全体としての残り平均任期は 2.5 年である.このため,仮に「約束」が有効
であると判断しても,自らの残り任期をはるかに超えるような期間にわたる
約束を行うことは中央銀行に対する民主的なコントロールという観点から見
て問題が発生する.また,ある程度の時間軸効果を期待できるとして,低金
利の継続を約束するオーバーナイト金利の水準としては,0.001%がよいの
か,もう少し高い水準がよいのかという論点である.短期金融市場は流動性
の配分という重要な機能を担っているが,金利をゼロにすると,信用リスク
に関するプレミアムまで圧縮してしまう結果,長期的には経済の自律的発展
26) 白川[2005,2006]参照.
27) これは,民間経済主体は 4%の消費者物価上昇率が 10 年間も継続するという事態は望ましく
ないと判断するとともに,責任ある中央銀行がそのような政策を 10 年間も維持するとは考えな
いだろうと予想する可能性が高いことによる.いったん経済がデフレ環境から脱却したら,当初
の大胆なコミットメントはもはや最適な政策枠組みとはならない.クルーグマンは,中央銀行は
流動性の罠の下では「『無責任になることについて,信頼できる約束』をしなければならない」
( a central bank must credibly promise to be irresponsible )
(Krugman[2000])と述べたが,中
央銀行が無責任であり続けるのは難しいし,無責任であることを信じ込ませることも難しい.
3 「ゼロ金利制約」論再考
111
を阻害するリスクを抱えることになる.その意味では,時間軸効果を実現す
るために継続を約束すべき低金利の水準についても検討する必要がある.
7 結論
日本経済は 1990 年代後半以降,緩やかながら持続的な物価下落を経験し
た.
「ゼロ金利制約」の理論からは,物価下落と景気後退の悪循環,すなわ
ち,デフレ・スパイラルの発生が予測されたが,実際には,そうした事態は
発生しなかった.そうした事態を「ゼロ金利制約」の理論の枠組みに即して
点検すると,以下のような仮説が考えられる.
第 1 の仮説は,日本経済の均衡実質金利は落ち込んだが,落ち込みは一時
的であったため,デフレ・スパイラルには陥らなかったというものである.
第 2 の仮説は,日銀が採用した時間軸政策の効果から,短中期金利が低下し
たため,ゼロ金利制約が緩和されたというものである.第 3 の仮説は,開放
経済下では為替レートの減価がネット外需の増加,対外純資産ポジションに
かかわるキャピタル・ゲインの発生等をもたらし,これらのメカニズムに
よってゼロ金利制約が緩和されたというものである.第 4 の仮説は,デフ
レ・スパイラルが発生するかどうかを左右するもっとも大きな条件は金融シ
ステムの安定が維持されるかどうかであるが,1990 年代後半以降の日本に
ついては,政府による金融機関債務の全額保護や日銀による特融の実行に
よって,システミック・リスクの顕在化が防がれたというものである.
もっとも,今回の日本の経験が普遍性を有するかどうかは,上記の検討だ
けからは明らかでない.
「ゼロ金利制約」の理論の現実的妥当性については
今回の日本の経験も踏まえたうえで,多面的な検討を要する.
検討を要する第 1 の分野は,金融システムの安定性との関係である.19
世紀後半以降の海外のデフレのエピソードについて物価と経済活動の関係を
見ると,物価下落と経済活動の低下とが同時に発生するケースは数としては
多くはない.両者が同時に起きているケースは金融システムが動揺した
1930 年代の大恐慌期に集中している.こうした事実は,金融システムの安
定性とデフレ・スパイラルの発生の有無が関係している可能性を示唆してい
る.中央銀行による「最後の貸し手」機能や決済システムの運営方式など,
112
通常はデフレ・スパイラルの文脈では取り上げられない論点についても,検
討を深める必要がある.
検討を要する第 2 の分野は,グローバル化の進展の影響である.従来のゼ
ロ金利制約の理論は開放経済を明示的には想定していないが,この議論の現
実的妥当性を評価するうえで大きな欠陥である.GDP に対する輸出入ウェ
イトの上昇や国際資本移動の活発化を明示的に考慮した場合には,デフレ・
スパイラルの可能性が相対的に小さくなる可能性も考えられるが,これらの
点について,今後,理論と実証分析の両面から研究の進展が期待される.
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