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いま、なぜ亜麻なのか - 名寄市立大学/名寄市立大学短期大学部

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いま、なぜ亜麻なのか - 名寄市立大学/名寄市立大学短期大学部
いま、なぜ亜麻なのか
―製麻業復活への期待―
三 島 徳 三
名寄市立大学・市立名寄短期大学道北地域研究所
「地 域 と 住 民」 第26号 抜 刷
2008年 3 月
いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
名寄市立大学・市立名寄短期大学
道北地域研究所 年報 第26号(2008)
いま、なぜ亜麻なのか
―製麻業復活への期待―
三島 徳三
1.北海道における製麻業の顛末
わが国の製麻業は明治初期に始まり、昭和40年代初頭に姿を消した。製麻の主原料である亜麻は日本では
北海道が栽培適地とされ、第一次世界大戦時の好況期と太平洋戦争の末期には、約4万haもの作付がなさ
れた。現在の北海道の稲作付面積が約12万haであるから、その3分の1に当たる面積が亜麻栽培に向けられ
ていたことになる。参考までに北海道における亜麻の作付面積と茎(圃場で乾燥させたもの)の反収の推移
を図1に示した。第二次大戦後では減少が著しいが、戦前の北海道では、亜麻は北海道の畑作を代表する作
物であったのである。
図1
北海道の亜麻作付面積と茎反収の推移(5年平均)
(出典)原松次著『北海道における亜麻事業の歴史』、6頁
収穫された亜麻は、圃場で乾燥後、亜麻工場に運ばれ亜麻繊維を取り出す作業工程に入る。この工程を製
線または製繊と呼ぶ。亜麻工場は、大正末の最盛期には50を超え、北海道の重要な地場産業として位置づい
ていた。亜麻工場で採取された繊維は、紡績工場で各種の糸に紡がれ、さらに用途に応じて加工(織布、縫
製など)され最終のリネン(亜麻)製品になる。
札幌の昔を知る者は、創成川の東堰堤に沿って威容を誇った帝国製麻の工場を記憶していることだろう。
昭和40年代に取り壊された赤レンガの工場は、明治末から半世紀にわたり、リネン製品を供給し続けた巨大
な紡織工場であった。
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名寄市立大学・市立名寄短期大学
道北地域研究所
年報 第26号(2008)
もともと製麻業は、わが国では帆布(はんぷ:軍用機や車両・物品を覆うシ−トとしても使われる)
、天
幕(テント)
、トラック用幌(ほろ)
、軍服など陸海軍の特殊需要が大半を占める軍需産業として発展した。
それゆえ第二次大戦後の製麻業は、軍需を失い、生活用品としての繊維製品市場への転換が思うようにでき
ない中で、厳しい経営を迫られる。
止めを刺したのは石油を主原料とする化学繊維の登場である。戦後の新情勢に機敏に対処できなかった製
麻業は、会社間の統廃合を繰り返したのち、最終的に昭和43(1968)年、十勝にあった帝国繊維株式会社
音更工場の閉鎖をもってわが国から消滅する。
爾来40年、日本国内では亜麻の栽培も、繊維採取を目的とした製麻業の操業もなされていない。だが、最
終製品であるリネン製品の需要は引き続き存在し、最近ではその需要が増大してきている。しかしながら、
亜麻や製麻業に関する研究は現在では皆無と言ってよい。本稿はこうした研究の空白を埋めるとともに、こ
の産業に関する啓蒙を意図した小論である。
なお、リネン(亜麻)製品の製造工程は、製繊、製糸、織布、縫製の各工程からなるが、ここで取り上げ
るのは製繊(亜麻工場による繊維の採取)とこれに原料供給する亜麻栽培のみである。
2.名寄の亜麻工場と亜麻栽培
私が、現在研究の場としている北海道名寄市も、かつて製麻業が主要産業であった時代があった。大正4
(1915)年10月に帝国製麻株式会社名寄製線工場が操業を開始するが、これは第一次大戦にともなう好景
気の中で、亜麻製品に対する世界的な需要が拡大したことが背景にある。
名寄の製線工場(地元では亜麻工場と呼んでいた)は、現在の国道40号線の西側、西4条南10丁目あたり
から南西に約30haの敷地を有し、事務所、工場、倉庫、社宅など計29棟もの建物・施設が建てられていた。
(写真1)
写真1 帝国製麻株式会社名寄製線工場(大正中期)
(出典)『写真集なよろ』(戦前編)
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いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
亜麻工場では、最盛期(1925年)に110名もの従業員、季節工も含めると総勢200名以上が働いていた。
当然、亜麻栽培も盛んであった。記録によれば、大正7(1918)年に350haの作付が名寄地区でなされ、智
恵文地区でも大正10(1921)年に213haもの作付がなされている。だが、第一次大戦後の不況、およびそ
の後の金融恐慌、昭和恐慌の進展の中で製麻業は停滞し、亜麻栽培も両地区合わせて100ha前後まで減少し
ていく。しかし、第二次大戦中に再び上昇し、両地区の栽培面積は昭和19(1944)年には約300haまで盛
り返す。製麻業と亜麻栽栽培は、この地でも軍需と一蓮托生であったのである。
軍需がなくなった第二次大戦後、製麻業は産業用需要と生活品需要に支えられ、名寄工場も亜麻繊維の製
造工場として着実な展開が図られていく。だが、前述した化学繊維の登場を機に、製麻業は一転して不況産
業になり、昭和30年代には全道的に工場閉鎖が進むとともに亜麻栽培も急減する。そして帝国繊維(戦後の
集中排除法により社名を変更)名寄工場も昭和40(1965)年をもって閉鎖された。この過程で亜麻栽培も
減少し、昭和20年代には名寄・智恵文両地区で100数十haを維持していた作付面積は、昭和30年代に入ると
100ha前後に落ち込み、昭和40年の68haを最後に、この地区から亜麻の姿は消える。かつて隆盛を誇った
名寄の亜麻工場の跡地は、住宅地や学校用地に再開発がなされ、いまは「麻生地区」という地名が当時の名
残を留めているのみである。
なお、2006年4月に名寄市と合併した風連地区にも、大正7(1918)年から昭和3(1928)年の10年間、
北海道亜麻工業株式会社経営の亜麻工場が稼働していたことを付記しておく。
3.亜麻復活の時代が近づいている
かつて北海道の産業史に巨大な足跡を残し、名寄でも有力な地場産業として栄えた製麻業ではあるが、い
までは歴史の彼方に追いやられ、その面影さえ忘れられようとしている。だが、亜麻は必ず復活する、また
復活させなければならない、という思いを私は名寄に赴任して以来、抱き続けている。それはなぜか。大袈
裟に言えば、社会科学者としての歴史の透視が、こうした思いに確信を与えている。亜麻復活の時代は確実
に近づいている。それは次のような理由からである。
今世紀半ばにも現実化すると言われている石油資源の枯渇は、生物由来の繊維原料の見直しを遅かれ早か
れ迫っていくだろう。ニュ−ヨ−ク原油市場の先物価格(翌月渡し)は2008年2月の時点で1バ−レル当た
り100ドルを超えた。これは数年前の3∼4倍の水準である。そこには国際投機資本の暗躍があるとはいえ、
新興国の経済成長に伴う、原油需要の増大があることは明らかである。
地球温暖化対策への国際社会の連携が広がれば、省エネルギ−と脱石油の動きが広がり、石油枯渇のXデ
イは多少伸びるかも知れない。だが、それも中国やインド、ロシアなど新興国の経済成長によって、あっと
言う間に呑み込まれてしまうであろう。
いずれにせよ石油がなくなれば、生物由来の繊維であり持続的生産が可能な養蚕、綿作、牧羊、そして亜
麻栽培を復活させなくては、衣料資源の確保ができなくなるだろう。その中でも気候適応性のある亜麻は、
多くの土地で栽培可能である。優れた繊維原料である亜麻は、紀元前4000年の昔から衣料に用いられ、実
に6000年の歴史をもつ。それに対し、わが国で亜麻が栽培されなくなったのは、半世紀にも満たない。自
然との共生の中で人類が連綿と伝えてきた技術は、そう簡単にはなくならないのである。
ロングタ−ムから見て亜麻の復活が必要なことは、地球資源と経済成長に対する楽観論者でないかぎり、
比較的理解は容易である。だが、日本という国の範囲でショ−トタ−ムから見ても亜麻復活の可能性が高ま
っているのである。それはホンモノを求める消費者によるリネン製品の再評価の動きである。
関心のある者は、国内トップのリネン製品の取扱商社である「帝国繊維(テイセン)
」のウェブサイトを
開いてみると良いだろう。キッチンル−ム、ダイニングル−ム、バスル−ム、ベッドル−ムなど室内で用い
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道北地域研究所
年報 第26号(2008)
られる繊維製品は数々あるが、それらを肌ざわりの良いリネンにすることが、
「豊かで充実した生活」のシ
ンボルになりつつある。ハンカチやバック類でも、リネンは高級なそれの代名詞になりつつある。そうした
動きは、アパレルの世界にも広がってくるに違いない。女性の高級下着であるランジェリ−は後に説明する
ように、元来はリネンから縫製されているのである。
化学繊維から生物由来のホンモノの繊維製品を求める消費者の動きは、経済成長が一段落し成熟社会に入
った先進国を中心に、今後、着実に広がっていくだろう。そうした世界的趨勢に歩調を合わせ、
「リネンの
ある生活」を実現させる製品需要が、日本でも予想以上に早いテンポで増大している。だが残念ではあるが、
供給面の対応ができていない。そのため、現状ではリネン製品の先進産地であるヨ−ロッパから、既製品を
輸入することによってしか、増大する需要に対応できなくなっている。しかし、EU共通通貨であるユ−ロ
高の中で割高な製品輸入になっているのが現実であり、リネン業界の国内生産に対する期待は日々高まって
いるのである。
紡織も縫製も日本の技術は卓越している。問題は亜麻繊維を国内でいかに安定的に確保するかである。日
本のリネン業界は、いま国内の亜麻に熱い視線を送っているのだ。
このようにロングタ−ムから見ても、ショ−トタ−ムから見ても亜麻に対する期待は高い。だが、日本国
内から亜麻が消滅して40年を経た今日では、亜麻栽培や製麻業に関する知識も技術も風化している。そこで
以下では、亜麻という植物の特性と栽培方法、および製麻業の作業工程、またリネン製品の特徴などの基礎
的解説を、既存文献によりつつ行っておこう。
4.亜麻とはどういう作物か
今日のわが国で亜麻の育った姿を見ることはほとんどない。一方、
「麻」の繊維は商品化されているので、
「亜麻」を「麻」と同じように理解している人が少なくない。だが日本語の「麻」という言葉は非常に広い
概念である。
「麻」という言葉は古くは万葉集にも出てくるが、その当時、
「麻」といえば大麻(たいま、Hemp)
のことであった。徳川時代の武士の正正であった裃(かみしも)も大麻でつくられた。越後上布、薩摩上布、
宮古上布など各地に伝統的に伝わる上等な麻布の原料となったのは、苧麻(からむし、Ramie)であり、こ
れも「麻」と呼んでいた。
明治初期以降、日本の近代化の中で亜麻(Flax)の種子が欧米から導入され、北海道において爆発的な拡
大を示す。そして、同時代に発展した製麻業では、その繊維原料として当初は大麻、苧痲を用いたが、その
後、全面的に亜麻が使用されるようになった。そのため、近代では「麻」といえば亜麻、大麻、苧痲をさし、
さらに輸入原料であった黄麻(Jute)
、マニラ麻(Manila Hemp)も「麻」の中に加えるようになった。し
かし、
「麻」に包含される植物はそれぞれ形状も品質もまったく異なっている。
ここで取り上げる亜麻は、アマ科の1年草である。北海道では春に播種するが、成長すれば根本から数本
の茎が分けつし、播種後60∼80日で70∼80cmの草丈になる。1本の茎の直径は3mmくらいで、茎の表面
は木質であるが中心部に繊維質が含まれている。葉はカ−ネ−ションのそれに似ている。7月上中旬、茎の
頂上部に薄紫の5弁の花が咲く。しかし、開花しているのは早朝から昼時までで、午後には落花してしまう。
品種によっては白やピンクの花が咲くものもある。花が散ったあとに、一株で直径5mm大の数十個の蒴果
(さくか:種子の入った実)が出来る。それぞれの蒴果は5室に分かれ、各室2個の種子が入っている。地
域と気候によって異なるが、8月中に葉が落ち亜麻畑全体がいわゆる亜麻色(灰色がかった薄茶色)に変色
する。その頃が収穫期である。
亜麻は元々繊維原料を取るために栽培が始まったが、その実に含まれる油成分が優れているため、亜麻仁
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いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
油の採取を目的とした亜麻栽培も存在している。用途によって品種も分化するようになり、亜麻仁油用の亜
麻の草丈は繊維用のそれに比べて低い。また、観賞用の亜麻栽培もあるが、この亜麻は多年草である。札幌
ではかつて帝国製麻の工場があった北8条通りに多年草の亜麻を植栽する運動が広がっている。
5.悠久のリネン(亜麻布)文化
亜麻の原産地は西アジア、中でも小アジア、エジプト地方と言われている。繊維作物としては世界最古で、
そのことは遺跡によっても確認されている。エジプトで発見された約4000年前のミイラの包布は亜麻布で
あったとのことだ。同じくエジプトで発見された紀元前2700年頃の壁画(写真2)には亜麻の収穫風景が
描かれている。
写真2 亜麻収穫風景を描いたエジプトの壁画(紀元前2700年頃)
(出典)『帝国製麻株式会社30年史』、207頁
聖書の記述の中にも亜麻布はしばしば登場する。旧約聖書劈頭の天地創造の物語である「創世記」第41章
には、エジプト王パロがヨセフを同国の司(つかさ)とするにあたり、
「亜麻布の衣服を着せた」と書かれ
ている(42節)
。また、イスラエル人のエジプト脱出の物語である「出エジプト記」第9章には、雹(ひょ
う)によって「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻は花が咲いていたからである。
」とかな
り詳細な記述がある(31節)
。
「創世記」
、
「出エジプト記」とも、預言者モ−セが紀元前6世紀以前に著した
とされている書である。
新約聖書の中でも亜麻布がしばしば登場する。例えば「ヨハネによる福音書」第19章および第20章には、
十字架上で死んだイエスの遺体はユダヤ人の埋葬の習慣によって亜麻布で巻かれ、復活したイエスの墓には
亜麻布が残されていた、との記述がある。
古代社会では、亜麻が食料作物とともに栽培され、それから織った亜麻布が、王族から民衆まで広く用い
られていたことは歴史が証明している。
中世に入り、亜麻はギリシャ、イタリアを経てヨ−ロッパでも栽培されるようになり、その後ロシアにも
拡大した。明治初期に日本に導入された最初の亜麻も、このロシアの品種であった。18世紀後半から19世
紀前半の産業革命によって、欧州各国に綿紡織機が普及するまで、亜麻布は衣類だけでなく、タオル、ナプ
キン、テ−ブル・クロス、シ−ツなど室内用品として広く用いられていた。当時のヨーロッパにおいては繊
維製品=亜麻製品であったのである。
亜麻布または繊維製品としての亜麻は、英語ではLinen(日本語ではリネン、またはリンネルと訳される)
、
フランス語ではLin(ラン)
、ドイツ語ではLinen(ライネン)という。1867年に初版の出たカール・マルク
スの『資本論』では、第1編第1章「商品」において、
「1着の上着」と「10エレのリンネル」
(邦訳)とい
う例を出し、使用価値の異なる商品の交換の根拠の説明を行っている。この記述から19世紀中頃のヨ−ロッ
パにおいても、リネンが広く衣料原料として用いられていたことが推定できる。
毛織物工業や綿工業が登場した以降のヨ−ロッパでは、繊維産業に占める製麻業や亜麻製品の地位は低下
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年報 第26号(2008)
した。が、リネンは高級繊維として上流階級を中心に根強い需要を維持していた。格式の高いヨ−ロッパの
ホテルでは、シ−ツ、バスタオル、バスロ−ブなどのインナ−製品はすべてリネンで統一し、それらを収納
するリネン・ル−ムを設けている。ちなみに日本旅館などにある布団収納部屋をリネン室と呼んでいるが、
これは西欧のリネン・ル−ムに由来している。ついでに言えば、女性の高級下着にランジェリ−と呼ばれる
ものがあるが、もともとはフランス語で「ラン(Lin)
」から作られた下着やネグリジェなど薄い部屋着の総
称」である。
前述のように日本では、亜麻はテントやホ−ス、幌など「耐水性があり丈夫な布」のイメ−ジが強いが、
ヨ−ロッパでは「伝統的な高級繊維」としてイメ−ジされているのである。
6.麻織物の一般的性質
ここで、亜麻を含む麻織物(黄麻織物を除く)の一般的性質について述べておこう(以下の記述は森周一
著『製麻』1949、を参考にした)
。
第一に強くて丈夫なことである。この性質を利用し、わが国では帆布、包布(シ−ト)
、テント、ホ−ス
や畳の縫い糸などに用いられた。
第二に熱伝導率が高い(熱が逃げやすい)ことである。これは羊毛のように繊維に羽毛がなく、織物の面
が滑らかという麻の特質からきている。麻の衣料を着用したものならば実感しているであろうが、繊維とし
ては肌ざわりがよく涼味を覚える。この特質を生かし、戦前の日本では、麻は海軍の軍服などに使用されて
きた。現在でも夏物の衣料や靴下に麻製品がみられる。
第三に水分の吸収・発散が早いことである。これは繊維に脂肪分の含有がなく、繊維が滑らかで水分の包
容性がないからである。この性質は、水を含ませて使用するタオルやフキン、ハンカチ−フなどの繊維とし
て適している。
第四に湿潤により強度を増すことである。また亜麻糸は水分を吸って膨張し、織物の繊維が密着し、防水
しなくても水を浸透させない性質がある。亜麻糸は日本では魚網やホ−スにも使用されたが、これは麻繊維
のこの性質を利用したものである。
以上は麻織物のプラスの性質だが、欠点としては湿ったまま長く放置すれば腐食しやすいことが上げられ
る。これは麻繊維が他のそれよりもペクチンを多く含有し、微生物が繁殖しやすい性質があるからである。
そのため、麻織物については常に乾燥させておくことが必要である。
次に亜麻糸の太さと用途について述べよう。近年では紡績技術によってさまざま太さの亜麻糸が製造され
ているが、太さの程度は「番手」
(Count of yarn)という単位で表される。番手は1から100以上まである
が、数字が多くなるほど細い糸ということになる。大雑把に言うと、10番手以下を太糸、20∼50番手を中
糸、60番手以上を細糸と呼んでいる。また、亜麻糸は使用する繊維が正線(長い繊維)であれば「一亜糸」
(Line)
、粗線(短い繊維)であれば「二亜糸」
(Tow)と呼ぶ。番手の数字が大きい、すなわち細糸になる
のは「一亜糸」に限られ、
「二亜糸」では25番手ぐらいが精々と言われる。前述の用途との関連で言えば、
極細糸はハンカチ、細糸はシャツ、中糸は服地、テーブル・クロス、蚊帳、畳糸、魚網糸など、太糸は帆布、
ホースの原糸になる。現在、販売されている最高級のリネンのハンカチは150番手くらいである。
7.亜麻の栽培方法
次に北海道を例に、繊維用亜麻の栽培方法について説明しておこう。
(栽培および製繊についての叙述は、
元北海道農業試験場技官の升尾洋一郎氏執筆による「亜麻」
(養賢堂版『作物大系 第10編 繊維類・莚蓆
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いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
料類』1962)
、および元帝国繊維株式会社の技術者であった原松次氏執筆による『北海道における亜麻事業
の歴史』1980、を主に参考にした。
)
(1)整地と播種
亜麻は気候に対する適応性が高く、栽培地域は北方地域(北ロシア、スウェ−デン、シベリアなど)から
南方地域(北アフリカ、インド、南米など)まで広く栽培されているが、繊維用亜麻については温暖で湿度
に恵まれた北方地域に多く栽培されている。土壌は排水良好な肥沃地が最適である。中でも壌土または砂壌
土の沖積地が良いが、有機物を十分に投入すれば火山灰地も適している。
亜麻は日本では外来作物であり、したがって種子については当初、ロシア、ベルギ−、アメリカの3国か
ら輸入していた。1919年から北海道農業試験場において品種改良を開始し、北海道に合った国産品種の開
発に成功した。中でも1955年に亜麻農林1号として優良品種に決定した「あおやぎ(青柳)
」は、晩熟品種
であるが、草丈・有効茎長が長く茎収量も多い。また、繊維の歩留および品質が良好で、亜麻が罹患しやす
い立枯病等への抵抗性も強い。
亜麻の種子は小小のため整地の良否は生育に大きな影響を及ぼす。整地が不十分であれば発芽が不良とな
り、収量の低下を招くからである。堆肥などの有機質肥料や土壌改良材の投入は土壌の物理性の向上のみな
らず収量増にも効果的である。プラウによる耕起後にはロ−タリ−による砕土が必要だが、柔らかい土壌で
は無耕起にしロ−タリ−をかけるだけで十分のように思われる。
施肥は元肥として10a当たり窒素4kg、燐酸2kg、加里5kg、石灰3kg程度を施すとされているが、播
種量や前作いかんによってそれぞれの施肥量は変わってくる。追肥は原則として行わないが、追肥する場合
は発芽後10∼15日以内に行わなければ効果が少ないとのことだ。
播種は昭和30年代までは散播か、畝幅約9cmの条播であったが、中耕除草のことを考えれば、カルチベ
−タなどを入れることができる程度の畝幅で条播した方が良いように思われる。10a当たりの播種量はこれ
も昭和30年代までは7.2∼9.6kgであったが、条播では当然これより少なくなる。播種時期は北海道では4月
下旬∼5月上旬だが、地域と気象条件によってこの時期は前後する。
(2)栽培管理
次に栽培管理に移るが、作業的にいちばん労力を要するのは除草である。第二次大戦前は手取りで行って
いたが、戦後は除草剤の使用が一般的となり大幅な労力軽減となった。亜麻は雑草との競合に弱い作物なの
で、除草の程度が収量の多寡のみならず、収穫作業の困難度も左右する。現在ではカルチベ−タのような優
れた中耕除草機械が普及しているので、除草剤を使わなくても、かなりの程度の除草ができるように思われ
る。
害虫では夜盗虫などの幼虫が開花初期から成熟期の亜麻の未成熟部分に食害を与えることがある。
病害では前述のように立枯病がもっとも恐ろしい。これが発生すると茎は褐変し枯死落葉する。収穫間近
に発病した茎は製繊後も表皮が繊維に固着し、品質を著しく低下させる。病原菌は土壌中で越年し、翌年の
伝染原となるので、罹病茎は抜き取りして焼却する以外方法がない。防除法としては種子消毒とともに、長
期輪作(立枯病抵抗性品種以外の亜麻では少なくても6∼7年の輪作)があるが、前述の「あおやぎ」は立
枯病の耐病性が強く、短期輪作も可能とのことである。また、水田の前作に亜麻を植えると水稲栽培中に菌
が死滅するので、立枯病の発生はほとんどないと言われている。北海道では田畑輪換によって亜麻をロ−テ
−ション化していけば、この問題は回避できるのではなかろうか。
畑作で輪作を行う場合、前作としては麦類、豆類(豌豆を除く)
、甜菜、馬鈴薯などが良いとされている。
基本は堆肥および肥料を多量に施し、前作の残効を利用しうる作物、根菜類のように土壌を柔らかくする作
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物が適している。ヨ−ロッパでは、前作は燕麦、菜豆が最良で、大麦、小麦、甜菜、馬鈴薯がこれらに次ぐ
とされている。いずれも北海道の特産物でもあり、この地では亜麻のロ−テ−ション作物に事欠かない。ま
た、地力維持作物として赤クロ−バ−を亜麻の播種に合わせて混播する方法もあり、北海道でも試みられた
ことがある。赤クロ−バ−を混播しても亜麻の収量は減少せず、かえって土壌保全、雑草の抑制になる。ま
た、後作の増収効果も大きいと言われる。
升尾洋一郎氏は亜麻を取り入れた輪作形式(7年輪作)を3例紹介しているが、それらは次のようなもの
である。
第1例 豆類➝亜麻➝菜種(タマネギ、根菜類)➝麦類(赤クロ−バ−間作)➝赤クロ−バ−➝タマネギ
(根菜類)➝麦類
第2例 麦類➝亜麻(赤クロ−バ−混播)➝タマネギ(根菜類)➝豆類➝根菜類➝麦類(赤クロ−バ−混
播)➝豆類
第3例 根菜類➝亜麻(赤クロ−バ−混播)➝赤クロ−バ−➝麦類➝豆類➝根菜類➝麦類(赤クロ−バ−
混播)
この輪作形式に出てくる作物は現在でも北海道の経済作物であり、7年輪作といってもそれほど難しいこ
とではないように思われる。
(3)収穫
亜麻の収穫時期は北海道では播種後90∼100日である。これを前述の播種時期と合わせると4月下旬播種
の場合は7月下旬∼8月上旬、5月上旬播種の場合は8月上旬∼中旬となる。いずれにしても稲作の収穫期以
前であり、畑作でも馬鈴薯を除き、多くの作物が収穫期以前なので労働競合は回避される。収穫適期の外徴
は、亜麻の茎の下部3分の1が黄変・落葉し、圃場全体が淡黄色(いわゆる亜麻色)になった時である。収
穫適期を逃すと二次生長や倒伏が起きることがある。また、早期に収穫すると、繊維品質は良好だが、茎の
収量と繊維の歩留が悪く、良質な種子もとれない。
昭和20年代まで亜麻の収穫はもっぱら手抜きであった。その方法は「両足を広げ体を傾け両手で茎の上方
を抱えこむように握り引抜き、根を足に打ちつけ土を落とし根本を揃え圃場に整然と横たえ並べる」
(原前
掲書、115頁)というものであった。この作業は過重で、亜麻作全労働の半分以上を占めていた。
一方、ヨ−ロッパでは1930年代から亜麻収穫機の開発に着手し、1940年代中頃には実用化の段階に入っ
ていた。第二次大戦後の労働力不足に直面していた日本の製麻業界ではこの情報を察知し、1952年には帝
国製麻など3社協同でベルギ−から小型収穫機(デポ−タ−式)3台を輸入し、圃場で抜き取り試験を行った。
その結果「1台当たり(作業者3人)能率は高く1日1町歩前後であるが、雑草も共に抜き、茎の姿は乱れ
根株が不揃いとなり好ましくない点がはっきりした。
」
(原前掲書、116頁)とのことである。その後、製麻
会社ではさらに改良型の小型収穫機を試作したが、機能不良で結局導入を断念せざるを得なくなった。
1961年から2∼3年、北海道の機械化助成事業によるテコ入れもあり大型収穫機械の導入が図られた。
これもベルギ−製で能力的には1日当たり5∼7町の処理が可能であった。製麻会社では1962∼63年にかけ
計64台の大型収穫機の導入を行い、生産農家に賃貸した。しかし、結果的には小型収穫機と同じ欠点を露呈
し、利用は一部に留まった。
大型収穫機械導入の試みから数年を経たのち、北海道から亜麻栽培が消えてしまった。そうした事情もあ
って、国内においてはその後亜麻収穫機の開発はなされていない。しかし、現在では野菜や畑作の収穫機械
の開発が目覚ましい。需要があれば北海道に合った亜麻収穫機械の開発は可能であろう。稲や麦のコンバイ
ンで代替するという案もあるが、繊維用亜麻では茎の切断部分から水分や雑菌が入りこみ、繊維部の品質を
低下させるという問題があり、好ましくない。
− 8 −
いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
(4)乾燥と格付け
手取りにせよ機械収穫にせよ、抜き取った亜麻は圃場で数日、乾燥させなければならない。乾燥にはいく
つかの方法があるが、昭和20年代までの北海道で一般になされていた乾燥方法は島立て法というものであっ
た。これは、圃場で2∼3日手返ししながら乾燥させた亜麻をさらに小束に結束し、根元を下にして4∼5日
寄せ立てするものである。そして、茎を握って湿り気がなくなれば、本積という乾燥方法に移る。本積は、
通風排水の良い場所に丸太を組み合わせて土台をつくり(地上部から約30cm離す)
、その上に乾燥した亜麻
を積み上げ、最上部に雨除けのシ−トを被せて行なう。本積期間は通常2∼3週間で、これを過ぎると亜麻
の青味はすっかり取れ、独特のビワ色になる。
乾燥は抜き取りに次いで労働時間を要する作業なので、昭和30年代に入るとバラ干しと呼ばれる乾燥方法
が考案され北海道で急速に普及した。これは圃場の地表部から約60cmの高さに長さ10mほどの丸太を横木
として置き、それに抜き取った亜麻を結束せずに並べて天日乾燥させる簡単な方法である。夜間や降雨時に
はポリエチレンのシ−トをかけ風で飛ばないようにしておく。乾燥期間は7∼10日だが、内部にある茎をム
レないように陽の当たる外側に入れ替える手間がかかる。
農家レベルの最後の作業は脱種である。これは乾燥が終了した亜麻茎の蒴果から種子を取りだすもので、
従来は厚い板に叩きつけるか脱穀機を用いて行っていた。しかし、この作業もけっこう大変なので、1960
年代後半に製麻会社がベルギ−から脱種機を輸入し、自動結束機と連動して省力化を図った。なお、ヨ−ロ
ッパでの亜麻茎の買付けは蒴果付きで行われるとのことである。
日本では脱種した茎(これを生茎と呼ぶ)と種子は別々に買付けがなされていた。生茎については日本農
林規格によって1∼5等、および等外の格付けがなされ、買付価格も規格によって異なっていた。参考まで
に1962年(昭和37年)の規格の内容および価格の詳細は表1のとおりであった。
表1 亜麻茎の日本農林規格 (昭和37年現在)
事項
水 分
等級
1
2
3
等 12%以下
〃
〃
〃
〃
茎 長
80㎝
以上
75 〃
70 〃
正常茎
細 度
80㎝以上 75cm以上 70cm以上 65cm以上
20本以
上のもの
〃
〃
18∼19本
のもの
16∼17本
のもの
14∼15本
のもの
18∼19本
のもの
16∼17本
のもの
14∼15本
のもの
品 質
1等標準品
3%以下
のもの
2,700
2 〃
5 〃
2,600
3 〃
6 〃
2,500
7 〃
2,350
8 〃
2,100
18∼19本
4 〃
のもの
16∼17本 18∼19本
5 〃
のもの
のもの
4
〃
〃
65 〃
〃
5
〃
〃
65 〃
〃
等
外 1等,2等,3等,4等,及び5等に該当しないもの。
昭和37現在
不良茎及び
100kg当
きょう雑物
価格
円
(注) (1)茎長とは乾茎の子葉こんの平均位置から茎長の穂の中央部の平均位置までの長さ。
(2)細度とは乾茎の子葉こんの平均位置から茎長1/3の位置における3cm幅間の茎の本数を言う。
(3)各等標準品は別に定めるところによる。
(品質判定に用いる標準品は毎年各等級別の見本茎がつくられ,これによって判別する)
(出典)養賢堂版『作物大系 第10編 繊維類・莚蓆料類』、66頁。
8.製繊工場(亜麻工場)とその工程
(1)浸水と乾燥
格付けされ製麻会社に収買された生茎は、亜麻工場によって繊維が採取される。亜麻工場は当初は製線工
場、後に製繊工場とも呼ばれたが、亜麻工場の方が一般には通用する。
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名寄市立大学・市立名寄短期大学
道北地域研究所
年報 第26号(2008)
亜麻工場の工程は大きくは浸水と製繊(線)に分かれる。浸水は、微生物による醗酵作用を利用すること
によって、亜麻茎の繊維の束を包囲している皮層(木質部)の分離を容易にするための処理である。
生茎はそれぞれ同質なものに区分けされた後に、コンクリ−ト製の浸水槽に茎を立てにして詰め(これを
枠詰めと呼ぶ)蓋をする。その上で先ず水を注ぎ(これを先水処理と呼ぶ)
、微生物の活動を阻害するタン
ニン、クロール、糖分などの物資を溶出させる。先水処理は7∼8時間行い、その後いったん排水した後に、
今度は29℃くらいの湯を注ぎ、温度を徐々に高め34℃くらいまでにする。温湯によって嫌気および通性嫌
気菌が増殖し亜麻茎のペクチンの分解(醗酵)が盛んになるからである。温湯浸水の期間は通常1週間だが、
この醗酵過程で酪酸、乳酸などの酸が形成され、独特の悪臭が出る。
浸水によって繊維束から皮層(木質部)が容易に剝がれるようになれば、亜麻茎を浸水槽から引き出し水
を切って天日乾燥させる。この乾燥は茎の穂先を中心に円錐形に立てて行なうが、この作業を散茎と呼んで
いた。乾燥期間は晴天で3∼4日、曇天時には1週間前後で、期間中は1日1回手返しをする。自然乾燥では
気候に左右されるだけでなく、手間もかかるので、外国ではこれを熱風などによる人工乾燥で行うところも
あるようだ。
(2)製繊工程
浸水後の乾燥を終えた茎を干茎と呼ぶ。干茎は生茎に比べて20%くらい軽くなる。干茎はいったん倉庫に
貯蔵され、亜麻工場の作業計画に合わせて繊維が採取される。これが製繊(線)であり、具体的には干茎を
機械で破砕し、木質部などを除去して繊維を取り出す作業であり、亜麻工場におけるもっとも重要な工程で
ある。
製繊工程はまず干茎を砕く作業(砕茎作業)から始まる。これは干茎の繊維束と木質部の分離を容易にす
るためのもので、通常はブレ−カ−と呼ばれるドラムの付いたロ−ラ−で行う。砕茎工程を経た干茎は外部
から力を加える(叩く)ことによって木質部を完全に除去し、繊維のみを取り出す。これが狭義の製繊工程
である。製繊は昭和20年代まではム−ランと呼ばれる機械を用いて行われていた。ム−ランはフランス語で
あり、この機械もベルギ−から輸入した。ム−ランは12枚の羽根の付いた風車のようなもので、動力源によ
ってム−ランを回転させ(1分間に180回転)
、それに先の砕茎を当てることによって木質部を叩き落とし、
繊維を取り出すのである。こうして採取した長い繊維を正線(しょうせん)
、千切れて床に落ちた繊維を粗
線(そせん)と呼び、後者は粗線用ム−ランにかけ二級の繊維として仕上げた。
製繊機械は昭和30年以降、ム−ランからタ−ビンと呼ばれる自動製繊機に移行した。タ−ビンは、エンド
レスベルトで砕茎をはさみ、ベルトによって自動的に移動している間に金属製の翼で茎を連続的に叩き、木
質部と繊維を分離、正線のみを取り出す機械である。分離した木質部と短繊はファンの風力によって集めら
れたのちに、粗線が取り出される。タ−ビンもベルギ−からの輸入品であるが、処理能力はム−ランの5∼
6倍である。すなわち、ム−ランは1台の機械に作業員が1名付き、1日20kgの正線を採取したが、タ−ビン
は1台のそれに7名の作業員を要するが、1日当たり約800kgの正線を採取した。
最後に干茎に対する繊維の歩留を原前掲書からみておくと、正線で14∼19%、粗線で4∼10%で、年に
よって変動がある。正線、粗線の残りが木質部を中心とした亜麻殻で重量的には約67%になるが、これは工
場のボイラ−用燃料や従業員の家庭用燃料に用いられた。
(3)北海道における亜麻工場の分布
このように亜麻工場は、生茎の浸水、干茎の保管、製繊機械による繊維の採取という工程を要する工場で
あり、農業と密着した地場産業であった。北海道には、明治22(1889)年に札幌に開設された雁来工場から昭
和43(1968)年閉鎖の十勝の音更工場まで、累計85の亜麻工場が設立された(図2)
。そのうち53工場が亜
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いま、なぜ亜麻なのか―製麻業復活への期待―
麻景気に沸いた大正時代に設立され、明治時代に18工場が、昭和時代に14工場が設立されている。稼働年
数はさまざまで、中には設立後数年で操業を停止した工場もある。製麻会社が設立した工場とは別に、大正
期には農家グル−プによる自家製線組合が18カ所設立され、浸水池とム−ラン数台を備え操業したとの記録
がある。
図2 北海道で過去に設立された85の亜麻工場の分布図
(出典)原松次著『北海道における亜麻事業の歴史』、6頁
亜麻工場の稼働は時代によって変動があるが、これらの工場に雇用された従業員は正規雇用・季節雇用合
わせて膨大な数に上り、北海道の重要な就業先であったことは厳然たる事実である。
翻って現在の北海道を鳥瞰すると、道央圏を除いて人口減少が著しく、地方は中心都市を含めて過疎化と
高齢化が進んでいる。郊外型大型店舗の進出と相俟って、地方の市街地商店街はいずれもシャッタ−通りと
化している。こうした現実に歯止めをかけ、地方の定住者を増やすには新たな産業の育成しかない。
製麻業は寒冷地北海道の気候条件に適した亜麻を原料とした産業であり、国や地方自治体がその気になれ
ば、十分に再興可能である。その担い手もかつてのように製麻会社や農業者に限定する必要はない。公共事
業費の削減によって仕事を失っている土建業者も十分参入し得る。要は長期的な見通しに立った戦略が立て
られるかどうかである。最初に述べたとおり、リネン製品の需要は拡大期に入り、国内からの繊維原料の供
給が強く求められているからである。
余録―亜麻栽培に挑む―
昨年、知人から借地している3a程度の畑に亜麻の種子を播いてみた。油糧用の亜麻の種子は、札幌にあ
る有限会社亜麻公社の協力を得てかなりの量が入手できた。ここは、健康食品として亜麻仁油のサプリメン
トおよびドレッシングを製造・販売している会社である。亜麻の種子から搾油するのだが、その原料である
亜麻種子は、札幌近郊の契約農家から調達している。
繊維用の亜麻の種子の入手では難航した。北海道立中央農業試験場遺伝資源部には4種類の亜麻種子が保
存されていたが、絶対量が少ないだけでなく、私のように個人的に栽培する者に対しては供給してくれない
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名寄市立大学・市立名寄短期大学
道北地域研究所
年報 第26号(2008)
ことが分かった。困り果てて、名寄にある薬用植物資源研究センタ−北海道研究部に相談したところ、偶然
にも展示用として繊維用亜麻の栽培が細々ながら続けられていることが分かった。品種は北海道で開発され
た前述の「あおやぎ」である。展示用のためビニ−ルハウスで苗をつくり移植栽培するとのことであったの
で、その苗を分けてもらい、先ほどの畑に植え付けした。その後、ある大学の薬用作物研究室にも繊維用亜
麻の種子が保存されていることが分り、ごく少量の種子を頂いて、畑に直播した。
7月までに油糧用亜麻は60cmほどに、繊維用亜麻は90cmほどに成長し、いずれも紫の可憐な花をつけ
た。亜麻の花は夜明けとともに咲き出し、昼には落花してしまう。近くで見ても、遠くから見ても美しく心
が和む花であるが、美人薄命である。
落花ののち穂先にたくさんの実(蒴果)がついた。試作の目的は種子の確保だから、秋に薄茶色に色づい
た亜麻を鎌で刈り取り、数日間乾燥後、脱穀(?)した。脱穀機があるわけではないので、どうしようかと
悩んだが、名寄の北国博物館の保管庫に戦前、使用されていた千歯こぎがあるのを思い出し、館長にお願い
して借用させていただいた。
こうして脱穀はできたのだが、種子を取り出すにはさらに実を叩いて種子と殻を分離する必要がある。昔
の唐箕(とうみ)のようなものがあれば良いのだが、今日では入手が困難である。5月の連休明けには種を
播かなくてはならない。実のまま播いても発芽すると思うが、時間をみて知り合いの農家と相談してみたい。
付記
本研究については(財)北海道開発協会開発総合研究所の平成19年度の研究助成を受けている。
【参考文献】
原 松次『北海道における亜麻事業の歴史』噴火湾社、1980
養賢堂版『作物大系 第10編 繊維類・莚蓆料類』養賢堂、1962
山田酉蔵『亜麻百年』金剛出版、1967
森 周一『製麻』ダイヤモンド社、1949
阿部松治『亜麻工業』個人出版、1935
帝国製麻株式会社『日本の製麻業』1936
北海道立総合経済研究所編『北海道農業発達史』
(上巻・下巻)1963
帝国製麻株式会社『帝国製麻株式会社三十年史』1937
帝国製麻株式会社『五十年史』1959
北海道亜麻事業七拾周年記念会『北海道亜麻事業七拾周年記念誌』1957
日本繊維協議会編『日本繊維産業史』
(総論編・各論編)1958
山田定市「製麻業の推移と亜麻生産の展開過程」
『北海道農業研究』第22号、1962
沢口信光「特約制度下の亜麻作について」
『北海道学芸大学紀要』
(第一部)第6巻第2号、1955
佐藤良治「亜麻工業と原料事情」
『調査月報』No.43、北海道拓殖銀行調査部、1955
北海道農務部編『戦後における製麻業界の推移とその発展』北海道亜麻増産協会、1960
名寄市『新名寄市史』第1巻、1999
名寄市『新名寄市史』第2巻、2000
名寄新聞社『続・なよろ百話』
、1986
名寄新聞社『続々・なよろ百話』
、2000
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