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三浦茜
婚外子の日比国際児の現状とこれから 国際学部国際学科 比較文化コース 牧田 東一ゼミ 学籍番号:20427237 三浦 茜 目次 ■はじめに p3~4 ■第1章 JFC の現状 p5~8 第1節 JFC とは何か p5 第2節 JFC の抱える問題と現状 p5~7 第3節 JFC のこころの問題 p7~8 JFC が生まれる背景 p9~12 第1節 フィリピン人女性が来日する理由と過程 p9~10 第2節 エンターテイナーとしての仕事と日本人男性(JFC の父親)との出会い ■第2章 p10~11 第3節 日本人男性(JFC)の父親 p11~12 JFC の父親に対する想い ■ 第3章 p13~17 第1節 JFC の父親に対する想い p13~15 第2節 父親への想いをミュージカルに~DAWN 劇団「あけぼの」~ p15 第3節 DAWN 劇団「あけぼの」の来日公演 The Gift を見て p15~16 第4節 子どもたちの将来の夢 p17 政府と NGO の取り組みとこれから ■第4章 p18~21 第1節 NGO の取り組み・支援 p18 第2節 フィリピン政府の取り組み p18 第3節 日本政府の取り組み p18~21 ■終わりに p22~23 ■ 参考文献、参考 HP p23 2 はじめに 「もし結婚できなかったらさぁ、フィリピーナでも買えばいいじゃん? フィリピーナッ!」 筆者が高校生の頃、アルバイト先のスーパーマーケットで耳にした信じがたい言葉である。 それまで、フィリピンと言えば、暖かい国、アジア、バナナ、英語、貧しそう…という漠 然としたイメージしか持っていなかった。フィリピーナ?買う?たしかに、フィリピン女 性と日本人男性のお客様は多いけれど、フィリピンって一体どんな国なのだろう?この時、 初めてフィリピンという国に興味を抱いたように思う。 2004 年 8 月、筆者は念願であったフィリピンの養護施設に 3 週間ほど滞在する機会があ った。美しい空、陽気な人々、人懐っこい子どもたち、思わず踊りたくなるような大音量 の音楽、暖かい気候、のどかな風景…筆者は一度でフィリピンの虜となった。しかし、そ の一方で、街中には多くのストリートチルドレンが存在していた。物乞い、ゴミ拾い、飴 売り…形態は異なるが、ボロボロの服を身にまとい、懸命に働く子どもたち。観光客が食 べ残したハロハロ 1 を夢中であさる子どもたち。日本では、まず見ることのない光景だった。 この時、正直なところ、筆者はまだ JFC(Japanese Filipino Children:日比混血児)の 存在をしらなかった。ただ、この街中での衝撃的な光景と次に述べる養護施設での生活が、 ストリートチルドレンへ強い興味を持つきっかけとなった。 いつもは明るく冗談を言い、暗い過去など感じさせない子どもたちが、家族に関わる話 になると様子が一変する。 ‘Father, Mother’という単語を口にするときに見せる、切なそ うな顔。なぜ、ストリートチルドレンは減らないのか?どうしたらストリートチルドレン は減るのか?子どもにとって家族とは何か?子どもたちの悲しそうな表情を見るたびに、 そのことを考えずにはいられなくなった。 帰国後、筆者はフィリピンについて少しでも詳しくなりたいと思い、フィリピンに関連 する本やインターネットのサイトを見るようになった。そして、偶然目にしたサイトで初 めて、ストリートチルドレンの中には、日本人とフィリピン人との間に生まれた子ども (JFC)も存在することを知ったのである。日本で生活していると、ストリートチルドレン はテレビや本でたまに目にするくらいで、ほとんど関係のない遠い国の話に聞こえる。し かし、日本が加害国としての側面を持つことも事実である。街中で出会った子どもたちの 中に JFC がいたかどうかは分からない。ただ、どうにかして一人でも減って欲しいと願っ ていたストリートチルドレンを‘日本人が増やしている’という事実が、筆者には、あま りにも衝撃的で許しがたかった。 近年、外国人との交際や国際結婚も珍しいことではなくなってきた。日本には、フィリ ピン女性と出会うサイトや、フィリピンパブが数多く存在する。もちろん、国籍が違おう と肌の色が違おうと、恋愛や結婚は当人同士の自由である。筆者も、国を越えての恋愛に 1 タガログ語で‘混ぜこぜ’という意味。蜜まめ、あんこ、宇部芋のあんこ、ナタデココ、 果物、アイスクリームなどが一緒に入っている、フィリピンの一般的なかき氷を指す。 3 反対するつもりは全くない。 ただ、問題なのは、子どもができても責任をとらない男性の存在である。子どもの認知 や養育を拒否する男性が数多くいる。日本人男性にとっては、軽い遊びのつもりでも、子 どもや母親には一生の問題となる。そして、これは日比の関係を悪化させる問題でもある と筆者は考える。 第 1 章では、JFC の現状とその問題について取り扱う。子どもたちがどのような状況に 置かれているのか、何が問題となっているのか、日比両方の JFC を紹介し、考察していき たい。第 2 章では、JFC の母親(フィリピン女性エンターテイナー)を取り巻く問題や、 JFC の父親について取り上げる。第 3 章では、筆者がフィールドワークを行い、そこで感 じたことなどを取り扱う。第 4 章では、JFC が抱える問題を、これからどのように改善・ 解決していけるかを考察するつもりである。 なお、本稿で取り上げる JFC は、父親から認知や養育を拒否された婚外子とさせていた だく。 4 第1章 JFC の現状 1. JFC とは何か JFC とは、日本人とフィリピン人の間に生まれた子どもたちのことで、ジャパニーズ・ フィリピーノチルドレン(Japanese Filipino Children)の略称である [荒牧 2001:38]。 JFC は多くの場合、父親が日本人、母親がフィリピン人である。父親に捨てられた子ど もたちが、マニラ周辺だけで 1 万人、フィリピン全島では数万人いると言われている。日 本で暮らす子どもたちもいるが、正確な数は把握できていない。 昔は「ジャピーノ」、「日比混血児」などと呼ばれていた。しかし、「ジャピーノ」の語源 が「じゃぱゆきさん 2 」からきていること、混血児の「混血」が「純潔」の反意語として使 われていることが、差別的であるとしてあまり使われなくなった。現在では、日比国際児、 フィリピーノ・ジャパニーズと呼ばれることもある[国際子ども権利センター 1998: 11-12,133-134]。 2. JFC の抱える問題と現状 (1) 国籍問題(日本で暮らしているケース) 近年、日本において、無国籍の子どもが増えている。1986 年の在留外国人登録にある無 国籍欄の 0 歳から 4 歳までの子どもは 69 人であったが、13 年後の 1999 年には 837 人に増 えている。日本人が父親であるにもかかわらず無国籍となった JFC は、国内に 1000 人以 上いるとされている[荒牧 2001:46,69-70]。 現行の国籍法によると、国籍の取得は「出生による国籍取得」 (第二条)、 「準正 3 による国 籍の取得」(第三条)、「帰化 4 による国籍取得」(第四条以下)となっている。出生による国 籍取得は、①出生の時に父または母が日本人であるとき、②出生前に死亡した父が死亡の 時日本国民であったとき、③日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、 または国籍を有しないとき、となっている。また、「出生のとき」とは、子どもが生まれた ときを示し、子どもが生まれる前に胎児認知をする必要がある[民事局 HP 2006,12,05]。 日本の国籍法では、日本で生まれただけでは日本の国籍を得ることはできないのである。 そのため、兄弟でも国籍が異なってしまうことがある。ここで、実例として、バルゴ・マ 2日本に出稼ぎ労働に来る女性のこと。フィリピンではナイトクラブで働く女という印象が ある。彼女たちの多くは夜の街で働き、売春斡旋や不法滞在などの社会問題の温床となっ ている。 3日本人父と外国人母との婚姻前に生まれた子は,原則として,父から胎児認知されている 場合を除き,出生によって日本国籍を取得することはない。しかし,出生後に,父母が婚 姻し,父から認知された場合(準正嫡出子となった場合)で,要件を満たしている場合に は,法務大臣に届け出ることによって,日本国籍を取得することができる。 4 帰化とは,その国の国籍を有しない者(外国人)からの国籍の取得を希望する旨の意思 表示に対して,国家が許可を与えることによって,その国の国籍を与える制度。日本では, 帰化の許可は,法務大臣の権限とされている[民事局 HP 2006,12,05]。 5 イラ母子について紹介することとする。 フィリピン人のバルゴ・マイラさんの娘 2 人は、同じ父と母から生まれたにもかかわら ず、制度上の問題により姉がフィリピン人、妹が日本人という理不尽な状況に置かれた。 次女は胎児認知 5 が可能となり、日本国籍を取得できた。しかし、長女は認知手続きに必要 な母の出生証明書をフィリピンから取り寄せることなどに時間を要し、生後認知のため日 本国籍を取得できなかった。マイラさん達は、強制退去に怯えながらも、1995 年 4 月に出 生による差別を禁じた日本国憲法や子どもの権利条約違反だとして、長女の日本国籍確認 訴訟を起こした。1996 年 6 月、大阪地方裁判所においてバルゴ・マイラさんの長女の国籍 取得を認めないという完全敗訴の結果が出されたが、同年 9 月 6 日、バルゴ・マイラさん と長女に対し、法務省は 1 年間の在留特別許可を出した。第二審では、①第一審では国側 から述べられなかったマイラさんのケースと子どもの権利条約や国際人権規約との関係を 強く問うていくこと、②マイラさんが簡易帰化しようと思えば取れるのか、今までのケー スであるのか、またどのようにすればよいか、という二点を中心に準備書面を提出し、国 の違憲性を追及した。「マイラさんの長女に国籍を求める要望書」の署名活動が新たに開始 されたが、一審と同じく国側は答えようとしていない[国際子ども権利センター 1998: 71-75]。 また、外国人女性と日本人男性のあいだの婚外子(国際婚外子)への差別の実態が明ら かになった例として、「ダイちゃん事件」が挙げられる。 1991 年 9 月、フィリピン人女性のアピリン・プラレス・フロリダさんは、広島でダイス ケちゃんを出産した。父親は日本人であったけれど、二人は法的婚姻関係ではなかった。 父親は、子どもが日本国籍をするために必要な「胎児認知」を役所に届け出たけれど、同 月におこったピナトゥボ火山噴火により、フィリピン国内の郵便事情が悪化し、手続きに 必要な書類が届いていなかった。そのため、ダイスケちゃんは母親と同じフィリピン国籍 となり、母親がオーバーステイだったため、入国管理局から強制退去命令が出されてしま った。この事件から、国際婚外子は胎児認知を受けないと国籍を取得できないという現行 国籍法解釈の不合理性と、外国人の母親に在留資格がないために母子ともに父親から切り 離されて、強制退去させられるという入管行政の非人道性が明らかになった[国際子ども権 利センター 1998:76 -78]。 超過滞在のフィリピン人女性は未婚である場合が多く、子どもを産んでからもオーバー ステイの発覚を恐れ、出生届を出せずにいるケースが多い。その結果、出生届を出されて いない子どもたちは統計的な把握がされず、事実上無国籍状態に置かれてしまう。超過滞 在であると生活保護などの援助が受けられないだけでなく、健康保険にも加入できないた め、医療費が高額になる。風邪で入院し、入院費が約 17 万円に上ったケースもある。全額 5 出生前の胎児の段階で、父子関係を確定させる目的で父親が「自分の子である」ことを認 めること。行政窓口に届出をする。婚姻関係にない外国人女性と日本人男性のあいだの子 の日本国籍取得のために唯一有効な戸籍法上の手続[国際子ども権利センター 1998:78]。 6 負担の治療費はとても高いため、病院を避ける傾向があり、生命に関わる重大な問題へと なってしまう。 また国籍をもたない子どもたちは、本来受けるべき医療・社会保障などの行政サービス を受けられないだけでなく、学校に行けない、働けない、結婚することができない、投票 できないなど、人間としての尊厳を持って生きていくことさえできないのである [荒牧 2001:44-46]。 (2)フィリピンにおける差別や偏見 JFCは一般的に母親とその兄弟姉妹、祖父母と生活し、家族内では「ハポン 6 」の子ども として特別待遇で育てられるケースが多い。子どもたちの祖母は、「ハポンの子」という理 由から、玩具や着るものを他の孫よりも上等なものを与えたりする。また、「ハポンの子」 なのに、満足に着るものやお弁当、こずかいを与えられない…と悩んだりもしている。こ のようにハポンの子を優遇するのは、外国に占領されていた歴史が長いことから、外国人 を崇拝する傾向があるためである 7 。そのため、就学以前の子どもたちはハポンの子として 優越感を持って育てられる傾向にある。 しかし、ある程度成長し、家族以外の人と接する機会が増えると、今までとは違った否 定的な待遇をうけるようになるのである。先生や同級生、近所の人から「シンキット 8 」と 言われ身体的な違いを強調される、名前の代わりに「ホンダ」「トヨタ」「カラオケ」など 知っている日本語で呼ばれる等の差別を経験することとなる。学校での差別はより深刻で ある。たとえば、日本人の名前をもつ子どもに「おまえは日本人の名前だな。日本人か? もし日本人だったら、日本語を話してみろ、書いてみろ」と学校の先生から強要されたケ ースもある [国際子ども権利センター 1998:139]。そして、日本語の読み書きができないと 「偽者の日本人」と言われ皆の前で恥をかかされる。また、「金持ち日本人の父親がいなが ら、公立学校にしか行けないなんておかしい」と父親が存在しないことや、貧乏であるこ とを強調されることがあるという [国際子ども権利センター 1998:139]。 その他に、成績がよくても「JFC」という理由から上のクラスに入れてもらえない、成績 が悪いと「JFCだからだ」と生い立ちを理由にされるなど、様々な形で差別される 9 。 (3)JFC のこころの問題 幼いうちから、上記のような「拝外」と「排外」といった正反対の待遇を同時に経験す ることで、優越感と劣等感の入り混じった複雑な気持ちを形成する危険性がある。 父親がいないことで「愛されていない」、「認められていない」という失望感、将来への 6 7 8 9 タガログ語で日本を意味する。 スペイン、アメリカによる支配だけでなく、1941 年以降日本軍からも占領を受けた。 タガログ語で目が細いという意味。 フィリピンは成績によって組が分かれている。 7 不安感から非行に走るケースもある。このように社会からはじき出され、両親や自分に否 定的な気持ちを持ってしまった子どもを非難するのではなく、精神的に支えて自分を大切 にし、自信につなげるようにしなければ、本当に子どもたちは破壊されてしまう。 また、日本から帰国した母親が精神的な問題を抱えていると、ほとんどの場合子どもに も影響を及ぼしているが分かった。ここで、2 つの事例を挙げることとする。 〈ケース 1:日本人の夫に捨てられた母親に振り回されている JFC〉 母親は精神病にかかり、完全に妄想に支配されている。「いま郵便局に日本の夫からお金 が届いたという知らせ(電波に乗って)があった。行かなければ![国際子ども権利センタ ー 1998:100]」と有りもしないお金を取りに郵便局へ行ったり、「ここで待っていたら、 きっとお父さんが来るよ」などと言って公園で一週間以上も寝泊りしたりする([国際子ども 権利センター 1998:100])。就学年齢に達しても、子どもたちは母親の病的行動に振り回 され、学校に入れないでいる。本来なら集団性を学び、自分の能力を認識していく時期で ある。しかし、このまま妄想に支配されている母親と暮らせば、子どもの精神的発達が止 まってしまうだけでなく、母親と同様に妄想の世界の住人になってしまう危険性がある。 〈ケース 2:アンビバレント 10 な感情をもつJFC〉 セブ島で祖母と暮らしている 10 歳のケンジは、栄養失調、貧血、頭痛等の症状を呈して いた。彼はフィリピン料理を食べては吐き、歯はぼろぼろに抜け落ちてしまっていた。 彼の母親も精神病にかかっているため「人が待っている」と言っては、ケンジを置いて マニラとセブの間を行ったり来たりしている。 ケンジは 4 歳まで日本で生活していたため、 父親の面影や日本での幸せな生活を覚えている。ケンジの中で「日本料理」は、日本での 幸せな思い出を繋ぐ「思慕」の存在であり、反対に「フィリピン料理」は父親と母親に見 捨てられた、受け入れがたい現状を象徴する「拒否」の存在となっている。彼はフィリピ ン料理を食べれば食べるほど、自分の身体がフィリピン人になってしまうという恐怖を抱 き、それが「食べては吐く」という食行動異常によって表現されたのである。彼は幸せだ ったニッポンというファンタジーに住むために、フィリピン料理を拒否し続けているので ある [国際子ども権利センター 1998:99-107]。 このように、JFC のこころの問題は、日本とフィリピン間の問題を顕著に表す問題を内 包している。フィリピンに残された子どもたちは、父親からの仕送りもないケースが多く、 経済的に非常に苦しい状態にある。しかし、経済面よりもこういった社会的・精神的な面 での問題のほうが深刻なのである。 10 両価性。 8 第2章 JFC が生まれる背景 JFC 問題がおこる背景には、南北問題がある。豊かな北の先進国と南の発展途上国との あいだの貧富の格差は大きく、地球上には 10 億人を越える人々が貧困に苦しんでいる。そ の結果、貧しい人々は生きるために、より良い暮らしをするために、豊かな国へ働きに出 る。つまり、海外移住労働者が激増しているのである[国際子ども権利センター1998:82-84]。 1900 年代初頭、フィリピン人はアメリカや近隣アジア諸国で働く農業労働者、工場労働 者、あるいはブルーカラー 11 のサービス労働者として、国際労働市場に参入していた。労働 市場の拡大に伴い、男性だけでなく女性も労働力の主となり、香港、シンガポール、日本、 サウジアラビア、アラブ首長国連邦、アメリカなどへ働きに出るようになった。いわゆる 「移住労働者の女性化」が生じるようになった。「女性化」は、家事労働者やエンターテイ ナー需要のほか、医療技術者、看護師、そのほか多様な職で、フィリピン人女性に海外で 働く様々な機会を拡大した。筆者がオロンガポ市内の病院を訪問した際も、優秀な医療関 係者は海外へ出ていっていると説明を受けた。 1985 年から 1996 年まで興行ビザで日本へ入国したフィリピン人は 40 万人を越え、その 大部分が女性である[DAWN 2005:29-32]。 図 1 日本へ渡ったエンターテイナーの性別ごとの人数(1996-2002 年) 80000 70000 60000 50000 男性 女性 40000 30000 20000 10000 0 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 (フィリピン女性エンターテイナーの夢と現実~マニラ、そして東京に生きる~より) 第二章では、フィリピン人女性エンターテイナー(JFC の母親)問題を中心に、JFC が 生まれる背景を探っていく。 1. フィリピン人女性が来日する理由と過程 (1)貧困問題 フィリピン人の大多数、約 8 割は貧困層であるといわれている。その中でも、ここ一ヶ 月以内に自分の家に食糧がなく飢餓感を感じた経験のある人は、最低のメトロマニラでも 全体の約 5%、最高のミンダナオのムスリム地区では 50%に届くという調査結果がでている。 11 (青色の作業衣を着るからいう)筋肉労働者。現場で働く労働者。 9 地方に行くほど、貧困層の割合は高くなる。 「家族や自分が貧乏から抜け出すため!」、「家族が家を買えるように、兄弟が学校に行け るように、そして自分自身が将来自分で商売を始められるように、単にお金を稼ぐために 日本へ行きたい!」という経済的理由から来日するフィリピン人女性がほとんどである。 フィリピン国内では大学を出ても職の保証がないし、学歴がない人はますます苦しい立 場に置かれている。高失業率、低賃金と国内で雇用状況になんの展望がないため、多くの フィリピン人が「蜜と乳の地」にあるうまい仕事を探しているのである[国際子ども権利セ ンター1998:159-174] 。 (2)家族の後押し フィリピンには充分な社会保障制度はなく、病気になった時や歳を取って働けなくなっ た時には、政府に頼ることも出来ず、窮地に陥ってしまう。そこで、家族や親戚がお互い 助け合って、支えているのである。そして、この結びつきのかたい家族関係が、問題をよ り複雑にしている。 家族や親戚など周囲の人々は、女性たちに日本行きを積極的に勧めている。なぜならば、 娘の稼ぐ外貨に依存しているからである。フィリピンの言い回しで「カビット・サ・バタ リム」(刃物をつかむ)つまり、現状がとても苦しいのであえて危険を冒すのである。 筆者がフィリピンの農村でホームステイをした際、 「あそこの家の娘は日本に出稼ぎに行 って日本人と結婚したのよ。」「誰かよい日本人を紹介してくれない?」「この娘を日本に連 れて行ってあげて」などと近所の人々から言われた。チャンスがあれば娘や親戚を来日さ せたい、日本人と結婚させたい、といった感じであった。 女性たちは、日本へ行くことを躊躇する時期があるけれど、家族の後押しを受け、まと もな生活をおくるため、家族を助けるために、人間性の抑圧、恥や不名誉を我慢して受け 入れるのである[国際子ども権利センター1998:157-158] 。 そして、多くのフィリピン人女性が、「海外パフォーミング・アーティスト(Overseas Performing Artist: OPA)」と名づけられたダンサーや歌手などの職業に魅了され、エンタ ーテイナーとして日本に働きに来るのである[DAWN 2005:29]。 2. エンターテイナーとしての仕事と日本人男性(JFC の父親)との出会い JFC の母親は 88%がエンターテイナーとして来日し、そのうち約 95%以上がナイトクラ ブで JFC の父親と知り合っている。 職場では、同伴という名の強制デート、休日の不履行、セクシャル・ハラスメント、ス トリップや男性の性欲を刺激するショー、他の店や顧客への女性の転売、買春などが起こ っている。これは、日本で働くエンターテイナーや私たち日本人には周知の事実だけれど も、事件のほとんどが知られることなく、被害にあったものも恐怖や恥のために、ほとん ど報告しない。また、顔や尻をたたかれる、暴言で侮辱される、胸などを触られるといっ 10 たお客による暴力を彼女たちは仕事の一部で、 「あたりまえのこと」としてとらえている[国 際子ども権利センター1998: 160-161]。 客との強制デート「同伴」というある種不可避な影響は、多くのエンターテイナー女性 たちが日本人客と親密な関係になることとして現れる。女性たちは、ノルマをこなすため に嫌な人と付き合うくらいなら、恋人を作ってしまおうとする。自分の身を守り、孤独や 失業に対処するためである。そして、男女の関係が発展し、やがて女性は妊娠する。 日本ではそのような妊娠は早いうちに堕胎してしまうことが多い。しかし、フィリピン では宗教上の関係 12 で堕胎が法律で認められていない。望まぬ妊娠をした女性は闇手術でお ろしたり、胎児を流すために禁じられている薬に手を出す。出産までに何らかの形でおろ してしまう割合もかなりあると思われるが、フィリピンで最も当たり前の判断はそのまま 産んでしまうことである。 この宗教・信仰の違いから、日本人は「金持ち日本人の子どもを生んで玉の輿を狙って いるのだ」と誤解し、それが新たな悲劇を生みだすもととなる[国際子ども権利センター 1998: 15-16,160-164]。 3. 日本人男性(JFC)の父親 日本人男性の年齢は、知り合った当時、20 代前半から 50 代後半まで広範囲に及んでいる。 「中年の危機」にさしかかったり、何年も連れ添った妻に飽きたり、競争が激しい日本社 会に疲れた日本人男性は、クラブに行きフィリピン女性と出会い、「恋愛」をする。この恋 愛ごっこは、一晩の女性の体を買うよりもわくわくして楽しいのかもしれない。彼らは、 フィリピン人女性に「心から愛している」「死ぬまで離れない」と言う。フィリピン人女性 は、契約切れや出産のためにフィリピンに帰国するけれど、このとき日本人男性はたいて い、結婚や子どもへの経済的援助を約束する。そして、日本人男性が女性や子どもに会い に、フィリピンに何度か来ることもある。実際に結婚式を挙げたりすることもあるけれど、 多くの場合この約束は守られず、最終的には男性が連絡を絶ち女性と子どもを捨てるので ある。別のフィリピン人女性に生ませた子どもにもまったく同じ名前をつけていた、とい うひどいケースもある。彼らは、エンターテイナーの女性たちは水商売の「堕落した女」 な の だ か ら 、 何 を し て も い い と 考 え て い る の で あ る [ 国 際 子 ど も 権 利 セ ン タ ー 1998: 21,160-166] 。 彼らの職業は、臨時日雇い、建設労働者、水商売(スナックや喫茶店の従業員)など、低 学歴、低収入の階層に圧倒的に集中している。中には、住所不住者、行方不明者もいて、 その数は全体の一割にも達している。低収入のため、養育費や慰謝料を求めても、支払い 能力のない人が全体の 7~8 割以上をしめているといっても過言ではない[松井 1998:26 ]。 12国民の 90 パーセント以上がキリスト教(カトリック)を信仰している。 11 JFC 問題の原因は、貧困や失業に悩む途上国が労働者を海外へ押し出すという不平等な 国際経済の仕組みと、風俗関連産業が大きくふくれあがって若いアジアの女性たちを引き 寄せて性的搾取をしているという日本側の事情が結びついているのである[国際子ども権利 センター1998:83]。 12 第3章 JFC の父親に対する想い 1. JFC の父親に対する想い 父親がいないこと、認知してくれないこと、会えないこと、いるのに一緒に暮らせない こと、父親が別の家族と暮らしていること…このことは、JFC の子どもたちの心に、とて も大きな傷をつくっている。また、そのせいでいじめられたり、差別的な扱いを受けてい る。 しかし、JFC の子どもたちにとって最大の願いは、父親に会うことである。まだ幼い子 どもが多いけれど、物がいえる子どもはほぼ 100 パーセントそう訴える。一方的に連絡を 絶ち母親や自分たちを捨てたひどい父親なのに、深い愛情を持ち続け、 「パパを愛している」 そして「自分たちを愛してほしい」とみんな言うのである[松井 1998:13-14]。 父親を想う気持ちは、手紙からも読みとることができる。以下は、12 歳の JFC フェルマ が父親にあてて書いた手紙である。 「パパ、どうしていますか。きっとこの手紙を見てびっくりしているでしょうね。だ ってパパに手紙を書くのはこれが初めて・・・・・・わたしはフェルマ。ここフィリピンに いるあなたの娘です。今年の 1 月で 12 歳になりました。 学校では 6 年生です。毎年賞やメダルをもらってるからけっこう目立っているほうか なあ。いっしょうけんめい勉強しています。そうすれば、いつかきっと自分の夢をか なえられると思うから。 ねえパパ、私には夢がいっぱいあるんだよ。もしよかったらちょっとだけ聞いてもら えますか。 一つはね、私の勉強とかを、パパが助けてくれること。 二つめはね、パパの国、日本にまた行けること。 三つめはね、パパと会うこと。 これは私の願いのなかのほんの一部だけど、パパが願いをかなえるお手伝いをしてく れたらなあって思っています! パパからお返事が来るのを楽しみにしています。 あなたの娘、フェルマより[松井 1998:21]」 短い手紙の中に‘パパ’という単語が多く入っていること、夢がすべてパパに関する内 容であること、このようなところからも純粋に父親を慕っている様子が伝わってくる。 しかし、少し年長になると、心の葛藤に苦しんだ末、父親を受け入れる気持ちになるよ うである。 1995 年に大阪の国際子ども権利センターの招きで来日した、12~14 歳の子どもたち 3 人(ミッシェル、ユキコ、シンイチ)は、父親に対する複雑な心境を、またどのように苦 13 しみを乗り越えたかを涙ながらに語った[松井 1998: 14]。 「弟たちは日本名なのに私だけはフィリピン名です。父が私のことを自分の子どもで ないと否定したとき、私はとても傷ついて何日も泣き続けました。父に対して怒りを感 じました。でも、捨てた何かの事情があったのだろう、それを理解するように努めよう、 父のよい面を見るようにしようと、思い直したのです。たとえどのように悪い人であっ て も 自 分 の 父 親 で す か ら 、 ど う し て も 会 い た い の で す [ 松 井 1998: 14] 」 「私はまだ幼い JFC が大きくならないでほしいと思うことがあります。大きくなると 心の苦しみが深くなるからです。学校ではジャパユキの子といわれるのでお友だちに心 を開くことができません。お父さんに会って私の気持ちをわかってほしいのです[松井 1998: 17]」 このように語っていたミッシェルさんとユキコちゃんは夢がかなって父親に会うことが できた。そして、今でも父親が自分たちのことを愛してくれているとわかって、あふれる ばかりの喜びを表していたようである。 「叫んで叫んで、叫び続けたい気持ちになりました。お父さんの子どもの中で僕だけが 戸籍に名前がのっていないのです。でも、僕はお父さんを許します。いろいろな難しい事 情があることがわかるからです。お父さん、大好きです。僕は日本に来たのでお父さんに 抱っこしてもらいたかった[松井 1998:17]」 「親愛なるお父さんへ、手紙とお金をありがとう。いつもお父さんからの手紙を読んで います。お父さんが僕に会ってくれたなら、僕は世界中で一番幸せな人間かもしれませ ん。シンイチ[松井 1998:18]」 「覚えていてお父さん、僕は永遠にお父さんを愛しています。僕は我慢しています。そ してお父さんのことを理解しています。シンイチ[松井 1998:18]」 「親愛なるお父さんへ、僕には、お父さんに会って抱きしめてもらえる機会がないのか もしれません。いっしょに遊ぶ機会をもてないのかもしれません。いつもお父さんのこ とを思うと淋しいです。なぜなら、お父さんのことを愛しているからです。お父さんが いなかったらこの地球上に僕は存在していないということを決して忘れません。お父さ んが会いに来てくれるのを待っています。シンイチ[松井 1998:18]」 「いつも神様にお父さんの無事を祈っています。お父さんに会うまでは完全に幸せとは いえません。今でも僕はお父さんの顔を知りません。僕の人生を完全なものにして下さ い。お父さん僕のことをわかってください。僕はもう 11 歳になりました。きっとお父さ んに似ていると思います。シンイチ[松井 1998:18]」 上記は、残念ながら父親と再会できなかったシンイチ君が、ひどく落胆しつつも、帰国 14 後に父親へ書き続けた手紙である。 ‘永遠に愛している’ ‘抱きしめてほしい’‘大好き’という愛情表現の反対に、 ‘我慢’ ‘理解’‘許す’という表現がある。この言葉と「僕の人生を完全なものにして下さい。お 父さん僕のことをわかってください。」という文から、筆者は、シンイチ君がとても葛藤し た末に父親を受け入れようとしている様子を感じた。 また、シンイチ君は日記に「お父さんもぼくを愛しているのだろうか。なぜ時間が必要 だというのだろうか。愛は学ぶことができるのだろうか。お父さんは自分の状況をまず考 えなければならないから、ぼくはお父さんに迷惑をかけているのだろうか [国際子ども権利 センター 1998:47]。」と心の叫びを書き綴っている。 父親は少しでも自分のことを愛してくれているのだろうか?ぼくのことを自分の子ども と認めてくれているのだろうか?むしろ自分の存在が父親を困らせているのだろうか?父 親には言わないけれど、子どもたちは実に多くの不安を抱えているようである。愛してい るからこそ苦しい、そんな深い心の葛藤を、この日記からも筆者は感じた。 これは何万人という同じ境遇の子どもたちが味わっている苦痛であり、それが人間とし ての崇高とさえいえる心境にたどりつかせているのであろう[松井 1998:14-18]。 2.父親への想いをミュージカルに ~DAWN 13 劇団「あけぼの」~ DAWN は JFC の子どもたちを対象に 1997 年から演劇プログラムを開始した。一方的に 父親から連絡を絶たれたことによる JFC の子どもたちの心の傷、そして周囲からの差別な どを克服するためのセラピーとして行われている。現在、JFC がその傷ついた感情や今ま でに体験したストーリーを同じ立場の仲間同士で分かち合える場となっている。歌や踊り、 演劇表現を通じて、JFC たちは自らの感情を表現することができるようになってきている。 DAWN にとって、劇団「あけぼの」のミュージカル公演は、単なる芸術活動ではなく、 婚外子 JFC の問題を広く日本の人々に伝え、子どもたち自身で自分たちのことを伝え、自 分自身を肯定するためのリハビリテーション、政策提言としてのミュージカル公演なので ある。 3.DAWN 劇団「あけぼの」の来日公演 The Gift を見て 「お父さんが見つかるかな…。」「会ってくれなかったらどうしよう…。」「日本で友達で きるかな?」そんな不安を抱えながら子どもたちは来日し、2007 年 5 月 23 日、浦和カト リック教会にて、「あけぼの」の来日公演 The Gift が行われた。 この物語の主人公は、3 人の JFC(タキ、アヤ、ユキ)。1 人の JFC が贈り物を開けると ころから物語が始まる。他の子どもたちは、中に何が入っているのか興味津々。そこから、 日本の父親と会うことのできない JFC の子どもたちと、日本で辛い経験をしたフィリピ ン人移住女性労働者の権利と福祉を守り支援することを目的として 1996 年に設立されたフ ィリピンの NGO。 13 15 たくさんの記憶が呼び起こされる。子どもたちそれぞれの現在の生活、両親がどのように 出会ったのか、子どもたちが父親に対してどんな想いを持っているのか、そして将来の夢 …。 タキとアヤは学校に通っているけれど、ユキは経済的な事情から学校に行くことができ ない。アヤとユキは、それぞれの日本人の父親に会う日を夢見ている。でもタキは、自分 と母親の元から去って母に辛い思いをさせた父親に憤りを感じている。子どもたちはどん な風に自分の両親が出会ったのかを思い出し、まだ父親たちがそばにいた、幼い頃の思い 出について語り合う。 JFC の子どもたちが父親と母親の間にあったことをもとに、自分たちでストーリーを考 え、それを言葉や歌、踊り、顔や体全体で表現した。 フィリピン人の母親は、父親との関係を隠さずに話す人が多いようである。また、ひど いことをした父親に対して反感を持たずに育つ子どもが多いのは、母親が父親のことをあ まり悪く言ったりせず、しっかりと子どもに愛情を注ぐからである[国際子ども権利センタ ー 1998:41-43]。 「私たちのお父さんよ。命をあたえてくれたのよ。お父さんがいなくても、こんなに大き くなれたのよ。いつになったら伝えられるのだろう…。」 「お父さん、どうして帰ってこないの?顔も覚えていないけれど、本当にお父さんのこと を思っている。もう一度会いたい…。」 「お父さん、どうして私たちをおいていったの?お父さんとお母さんの間にあったことを 知っているけれど…愛しています。 」 たどたどしい日本語で、子どもたちは父親に逢いたい想いをメロディーにのせた。 劇の中盤、父親がプレゼント(ゲーム機)をフィリピンにいる子どもたちに送るシーン があった。「今はプレゼントでごまかそうとしているだけ…。」というセリフが、筆者にと って、とても印象的であった。まさにモノやお金で済ませようとしている日本人男性を象 徴しているかのようである。 初め、子どもたちのあまりにも無邪気な姿とかわいい笑顔からは、子どもたちを取り巻 く厳しい環境は想像しがたいものがあった。しかし、劇の終盤になると子どもたちの心の 底にしまわれていた気持ちを聴くことができた。 「I don’t like my father…僕がどれだけ傷や悲しみを、すべてを吐き出してしまったらいい の?いつの日に、憎しみや悲しみはなくなるのだろう…。 」 「みんなは知っているのかな・・・。僕らの深いこころの傷を・・・。みんなの視線に傷ついて います。一緒に歩いていけたらいいな、みんなが分かってくれるはずさ。」 「一緒に向かいあえたら、たくさん笑顔でいられるのに。幸せになれるのに。」 このメッセージは筆者の心に強く響いた。子どもたちは父親の愛情を欲しているだけで なく、周囲からの理解も強く求めているのである。 16 4.子どもたちの将来の夢 「家族を助け楽にさせてあげたい」 「将来、良い仕事を得るためには一生懸命勉強をしな きゃ」 「弁護士になって困っている人を助けてあげたい」婚外子 JFC の子どもたちは、普通 なら自分のことしか考えられない年頃から、現実を直視するたくましさを持っている [国際 子ども権利センター 1998:61]。 今回来日した子どもたちも将来の夢を聞かれると、医者、看護師、エンジニア、メンテ ナス職員・・・と笑顔でしっかり答えた。 公演の前日に父親と再会することができたタカアキ・オオヤマは、「将来は医者になりた い!お父さんが病気なので僕が治してあげたいから!」と目をキラキラさせながら答えた。 ‘父親との再会’という夢が果たせた後もなお、夢は父親に関することなのである。 多くの JFC たちも、同じように様々な困難を抱えながらも、父親との再会を夢見ている。 子どもたちは強く、希望に満ちている。しっかりと学び、家族や周りの人々とつながるこ とで、夢や希望を叶えられると信じているのである。 17 第4章 政府と NGO の取り組みとこれから 不法入国者、不法残留者、不法就労者、出国命令書の交付を受けた者、どれをとっても フィリピン人が占める割合は毎年高い。今後、婚外子の JFC を増やさないためには、まず 母親となるフィリピン人女性の出入国や働き方について考える必要がある。そして、同時 に、現在生活している JFC へのきちんとした対応も大きな課題であると筆者は考える。 日本政府とフィリピン政府、NGO が現在どのような取り組みをしているのか、また、フ ィリピン人女性の新たな可能性について考察していきたい。 1. NGO の取り組み・支援 在日 JFC のために、JFC 弁護団と連携した法的支援(父親への養育費・認知請求等)、 JFC の父親の所在確認「父親探し」、行政手続き支援(日本国籍(再)取得)、JFC・母親 への日本語教師派遣、学習指導等の様々な支援を行っている。 また、在比 JFC のためには、JFC 母子への法的アドバイス、カウンセリング、行政手続 支援(出生登録、日本の住民票の請求方法等)、日本語教室の開催、ワークショップの開催、 JFC 奨学金、学資保険の加入の奨励等を行っている。 日本では父親探し、フィリピンでは金銭的・精神的サポートをしているのが特徴である。 2.フィリピン政府の取り組み 国内および国外への人身売買の送出国という現実を抱えてきたフィリピンでは平成 15 年 5 月、「人身売買禁止法」(共和国法 9208)を制定した。同法第 4 条では、売春、ポルノ、性 的搾取、強制労働、奴隷、非自発的労役、債務奴隷の目的で、国内あるいは海外雇用に従 事させたり、そうしたことを目的とするフィリピン女性と外国人との結婚の斡旋を禁止し ている。「海外パフォーミング・アーティスト」という呼称で、歌手やダンサーとして勧誘 されたにもかかわらず(日本では「興行ビザ」)、日本のクラブでホステスの仕事や、性的搾 取を含む契約外の「労働」を強要されている多数の女性にとっても同法の効力が期待され ている。 3.日本政府の取り組み (1)犯罪に強い社会の実現のための行動計画 入国管理局では、平成 20 年までの 5 年間で不法滞在者を半減させることを目指し、不法 滞在を目的とする外国人を日本に「来させない」「入らせない」「居させない」を 3 本柱と して、関係機関と緊密に連携しながら、積極的に不法滞在者対策に取り組んでいる。 具体的な方策として、「来させない」:厳格な入国事前審査の実施、厳格な審査等のため の関係機関との連携、海外広報の積極的な実施、「入らせない」:厳格な上陸審査(事前旅 18 客情報システム、セカンダリ審査 14 、及びプレクリアランス 15 )、「居させない」:在留関係 諸申請に係る厳格な審査の実施、効果的な摘発の実施、入管法第 65 条による身柄引取りの 積極的活用、不法滞在者の出頭申告の促進、関係機関との積極的な情報交換等である[厚生 労働省HP 2007,11,10]。 (2) 人身取引対策行動計画 入国管理局は、平成 16 年 12 月に総合的・包括的な人身取引対策を講ずることを目指し て「人身取引対策行動計画」を策定した。日本政府が行う人身取引防止のための取り組み は、大きく分けて、 「予防」 「保護」 「訴追」の 3 つに分けられる。具体的には、 「予防」 :出 入国審査の厳格化・空港直行通過区域(トランジットエリア) 16 におけるパトロール活動・大 使館等との連携、「保護」:帰国希望者に対する迅速かつ円滑な帰国協力・被害者に対する 原則在留特別許可、「訴追」:不法就労助長事案に対する積極的取り組み、である。これら の取り組みをより積極的・効果的に行うためには、関連する法律や制度との連携が欠かせ ない。 平成 17 年に入国管理局が保護(在留特別許可)又は帰国を支援した人身取引の被害者は 115 人(全員女性)で、フィリピン人が 47 人と最も多く、全体の 40.8%を占めている。事 情聴取等においては、できる限り女性の担当官が対応し、被害者の母国語の通訳を介して 意思の疎通を図りつつ、柔和な態度で不安感を払拭できるように手続きをすすめるなどの 配慮もされている[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 (3)出入国管理及び難民認定法施行規則の一部を改正 平成 16 年 2 月に成立した「出入国管理および難民認定法の一部を改正する法律」では、 外国人の不法入国や不法就労に対しての罰則が強化され、その外国人が再び来日すること を拒否する上陸拒否期間が延長された。また同時に、「出国命令制度」が新設され、自ら入 国管理官署に出頭した不法残留外国人については、日本に入国後に窃盗罪等の所定の罪に より懲役又は禁錮に処せられていないこと、過去に退去強制歴等のないこと等、いくつか の条件はあるが、出国後の日本上陸拒否期間を 1 年とした。同法は「予防」と「訴追」に 重点を置き、 「出入国管理の強化」を狙ったものであるといえる[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 14 上陸審査ブースでは、明らかに上陸条件に適合する外国人に対してのみ上陸許可を与え、 入国目的等に疑義が持たれる外国人については、別途の場所において、上陸条件の適合性 について改めて慎重な審査を実施するもので、上陸審査の円滑・迅速化と厳格化を同時に 達成するものである[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 15 外国の空港に入国審査官を派遣して現地で上陸条件の適合性について事前チェックを行 い、上陸拒否事由に該当する外国人については日本への渡航を事前に取りやめさせ、また、 本邦において行う活動が虚偽のものでないかどうかを確認するもので、入国する空港又は 海港での審査の簡素化及び待ち時間の短縮を図るとともに、不法滞在者の発生を抑制する ものである[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 16 本邦において航空機を乗り換える旅客が通過する経路および乗り換えのためにとどまる ことができる空港内の場所[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 19 (4)在留資格取消制度の新設 入管法改正で「偽りその他不正の手段」により上陸許可を受けたり、または在留資格に 係る活動を正当な理由なく 3 ヶ月以上行わないなどの場合に、上陸許可や在留資格を取消 すことができることができるようになった[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 (5)在留資格「興行」に係る上陸許可基準の見直し 我が国に在留する外国人が、資格外活動許可を受けることなく、付与された在留資格以 外の報酬を受ける等の就労活動を専ら行っていた場合、資格外活動として退去強制手続き がとられる。違反者を国籍別に見ると、フィリピン人が最も多く、全体の約半数を占めて いるため、2005 年 2 月、在留資格「興行」に係る上陸許可基準の見直し・上陸審査及び在 留審査の厳格化が定められた。また、上記の上陸許可基準の見直しに加え、招聘業者等が 人身取引に関係することがないように、上陸審査・在留審査の厳格化も図っている[厚生労 働省 HP 2007,11,10]。 上記のように、近年の日本では様々な対策がとられるようになった。法務省が発表した 「平成 18 年における外国人入国者及び日本人出国者の概況について(速報)」によると、平 成 18 年にフィリピンから「興行」資格で新規に来日した歌手やダンサーなどのエンターテ イナーは 8607 人へと減少した。これで、過去最高を記録した平成 16 年の 82741 人(大半が 女性。男女の内訳は非公開)、そして半減した平成 17 年の 47765 人からさらに激減したこ とになる[法務省 HP 2007,11,10]。 過去最高時から約 10 分の 1 に減少した結果となる。入国や在留資格を厳しくすることで、 来日するフィリピン人女性エンターテイナーの数は今後も大幅に減っていくのではないか と、筆者は期待する。 そして、次に、エンターテイナーとしてではなく彼女たちが活躍できる場を考察してい きたい。 2.新たな可能性 ~看護誌・介護福祉士としての来日~ 日本とフィリピンの両政府首脳が 2006 年 9 月、二国間の経済連携協定(EPA)の署名を行 ったことで、一定の要件を満たすフィリピン人の看護師・介護福祉士の候補者を日本に受 け入れることが決まった。経済連携協定の署名は日本にとってフィリピンとは、シンガポ ール、メキシコ、マレーシアに次ぐ 4 番目となるものであり、フィリピンにとっては初め ての調印となった。 しかし、交渉はなかなかスムーズに進まなかった。厚生労働省は「外国人を受け入れる と若者や女性の雇用機会喪失、労働条件低下につながる」という考えから当初反対姿勢を とった。また、日本看護協会をはじめとする実際に従事する人たちの団体もマイナス影響 20 への懸念から難色を示した。最終的に、労働市場への悪影響を避けるため、最初の 2 年間 で 1000 人(看護師 400 人・介護福祉士 600 人)から始動することでようやく合意に達し たのである[HURIGHTS OSAKA HP 2007,11,10]。 (1)日本の受け入れ体制 厚労省は、 「フィリピン人看護師等の受入れの実施に関する指針」(案)を作成し、2006 年 末から 2007 年 1 月下旬までパブリックコメント 17 を行い、条件整備を急いだ。 同案では、唯一の受け入れ窓口として、海外の医療福祉の人材研修機関である国際厚生 事業団を指定している。同事業団は、日本の病院や介護施設からの受け入れ希望と、フィ リピンの労働雇用省傘下の海外雇用庁(POEA)が選抜した候補者とを調整し、候補者の来日 という流れをつくっていく。知識および技術の習得に際して、候補者は、受け入れ機関(病 院や介護施設)と雇用契約を結ぶのである。これまで、外国人研修生・技能実習生の受け入 れに端的にみられるように、あいまいな契約のため、低賃金や虐待など多くの人権侵害を 生んできたことがその背景にある。今回の計画では透明性確保のため、国際厚生事業団へ の受け入れ機関による定期と随時の状況報告を義務付けている。 看護師・介護福祉士の候補者たちは、最初の半年間は財団法人海外技術者研修協会 (AOTS)及び国際交流基金による日本語研修を受け、その後病院や介護施設で研修を通じ て知識や技術を習得する。 入国の要件は、看護師がフィリピンの看護師資格の保有者、3年間の看護師の実務経験、 日本人と同等以上の報酬。介護福祉士が、フィリピン介護士研修修了者(TESDA の認定保 持)+4年制大学卒業者」又は「看護大学卒業者」 日本人と同等以上の報酬。日本での在 留期限は看護師候補者が 3 年、介護福祉士候補者が 4 年となっており、その期間内に日本 の国家資格が取得できなければ帰国、資格が取得できれば上限 3 年(更新回数の制限はない と明記されているが、家族呼寄せへの言及はない)の在留が許可されることになっている[厚 生労働省 HP 2007,11,10]。 日本語での国家試験に無事合格できるか、給料から諸経費などを引かれた後、どれだけ のお金が彼女たちの手元に残るか、言葉や文化など違う国でうまくコミュニケーションが はかれるか等、さまざまな問題があるけれど、今後フィリピン人女性達にとって、新たな チャンスであることは確かである。 17行政機関が法令や政策の立案等を行おうとする際にその案を公表し,立法案に対して広く 国民から意見や情報を提出してもらう機会を設け,行政機関は,提出された意見等を考慮 して最終的な意思決定を行うというもの[厚生労働省 HP 2007,11,10]。 21 おわりに 婚外子の日比国際児問題を考えるにあたり、母親であるフィリピン人女性エンターテイ ナーの問題が切っても切り離せない関係にあることを強く感じた。 第 2 章でふれたように、貧しさから家族を救うために来日し、同伴制度やノルマ・孤独 から日本人男性と親密な関係になる。そして子どもが誕生すると簡単に見捨てられ、さら に貧しくなるだけでなく、精神的にも傷つけられる。母親だけでなく、子どもたちにも差 別や心の葛藤など辛い現実が待っている。 筆者は、このような負のサイクルを断ち切る一番の方法は、フィリピン人女性がエンタ ーテイナーとして来日することを防ぐことであると感じた。近年、日本政府が行った出入 管法の改正や在留資格取消制度の新設は、もう少し早く制定することができなかったのか、 と思うところもあるけれど、エンターテイナーの入国者数を過去最高時から約 10 分の 1 に 減少させるなど、かなりの効果を発しているようなので、今後もその効力を期待したいと 思う。 そして、ここで述べておきたいのが、筆者は決してフィリピン人女性の来日すべてを阻 止したいわけではないということだ。フィリピン国内で仕事がなく、高収入を得るために 来日するのならば、日本できちんとした仕事に就けばよい。看護師・介護福祉士ならば日 本国内でも人手不足になっているし、国を通しているので、安定した給料も望める。 2007 年のフィリピン人看護師・介護福祉士の受け入れに関する世論調査では、 「フィリピ ン人看護師・介護福祉士の両方の受け入れに賛成である」が 20,75%と、まだまだ賛成は少 なかった[リアル世論調査 HP 2007,11,10]。フィリピン人に日本人の介護は無理、という声 が強いのも現実であるけれど、まだ何も始まっていない。フィリピン人看護師・介護福祉 士が日本人看護師・介護福祉士に劣るとは思っていない。うまく溶け込んで仕事に打ち込 める環境さえ整えば、今後ますます少子高齢化がすすみ人材不足の日本では、ひとつの大 きな力となるはずである。現場が、偏見や先入観を捨てて、受け入れ環境を整えることが 大切であると思う。フィリピン側の批准がなされないために、受け入れが来年にずれ込む 見通しとなったけれど、一日も早く彼女たちが活躍できることを願う。 そして、何よりも大切な JFC の子どもたちのこれからのことも考えたい。第 3 章でもふ れたように、JFC の子どもたちが望むことは、同情や哀れみではない。何よりも父親から の愛情を必要としている。父親はすでに家庭をもっていたり様々な理由から、子どもたち の前に姿を現すことはない。しかし、子どもたちがどんな思いで生活しているか、また、 どんなに会いたいと願っているかを、彼らに一度考えてもらいたいし、知ってもらいたい と筆者は思う。 子どもたちは周囲からの理解も同時に求めている。私たち日本人が考え直さなければな らないことが多くある。買春ツアー、フィリピンパブ通い、差別、無知。需要が多いから 供給も増える。何気ない言葉や態度が人を傷つける。 22 筆者が「日比国際児(JFC)」と言っても、その存在を知っている人は周囲に一人もいな かった。「知らない」ということはとても怖い。知っていれば防げることもあるし、傷つけ なくてすむこともある。 知るということはとても大切である。DAWN の演劇活動もそうであるが、まずは JFC の 存在を知り、理解を深め、生活しやすい環境をつくってあげることが、今後の課題ではな いだろうか。そして、日比の関係がより良くなることを期待している。 参考文献 荒牧重人(2001) 『アジアの子どもと日本』明石書店 DAWN(2005) 『フィリピン女性エンターテイナーの夢と現実 ~マニラ、そして東京 に生きる~』明石書店 岩波ブックレット No,446 国際子ども権利センター(1998) 岩波書店 『日比国際児の人権と日本 ~未来は変えられる~』 明石書店 松井やより(1998) 『日本のお父さんに会いたい 小笠原浩方(2002) 『子どもの権利とは ~日比混血児はいま~』 ~いま見つめ直す《子どもの権利条約》~』太 洋社 萩原康生(1996) 武田丈(2005) 『アジアの子どもと女性の社会学』明石書店 『フィリピン女性エンターテイナーのライフストーリー ~エンパワーメ ントとその支援~』関西学院大学出版会 参考 HP HURIGHTSOSAKA HP (2007.11.10) 厚生労働省HP 法務省 HP (2007.11.10) (2007.11.10) リアル世論調査 HP http://www.hurights.or.jp/ http://www.mhlw.go.jp/bunya/koyou/other07/07-2.html http://www.moj.go.jp/ (2007.11.10) http://www.yoronchousa.net/result/1571 23