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ダウンロード - 奈良文化財研究所
大 阪市平野 区 長原・瓜破遺跡発掘調査報告 H 2000年 度大阪市長吉瓜破地区 土地区画整理事業施行 に伴 う発掘調査報告書 2003。 3 財団法人 大阪市文化財協会 長 原 。瓜 破 遺 跡発 掘 口 査 報告 H 本書 には長原遺跡西南地区の発掘成果 を収録する。 飛鳥時代 の柱穴 を検出 したことで、同 時代 の集落 の南端を確認で きた。 中世 の灌巌用水路 と中世馬池の樋口を 検出 し、瓜破台地 と馬池 の歴史を考える 上で、貴重 な資 料が得 られた。 この地域の灌漑体系 の一大変革 であつ た新大和川の開塁事業前後の景観変遷 を うかが うために、発編成果 と古絵図 ・古 文書 などの付合 せを行 つてみた。 J 大阪市平野 区 0瓜 長原 破遺跡発掘調査報告 2000年 度大阪市長吉瓜破地区 土地 区画整理事業施行に伴 う発掘調査報告書 2003。 3 財団法人 大阪市文化財協会 ︵なく係 ︶ 識K 曜魔 製輩 ■ 区製 極目慶 興Ц畔 『長原・瓜破遺跡発掘調 査報告』 XX 頁 図 正誤表 行な ど 誤 正 右 16行 図41溝 出土土管 図41溝 出土土管 0陶 管 95-44 83-44 9行 木靴 木沓 13行 土師質重 土師質土盤 図 41 溝 出土土 管 溝出土土管 ・ 陶管 2 左端 大阪市平野 区 長原・瓜破遺跡発掘調査報告 2000年 度大阪市長吉瓜破 地 区 土地 区画整理事業施行 に伴 う発掘調査報告書 2003。 3 財団法人 大阪市文化財協会 序 文 本書 は、大阪市 長吉瓜破地区 土地区画整理事業 に伴 う発掘調査成果 を収 めた 『長原 ・瓜破遺跡発掘調査報告』シ リーズの第20冊 目に当るとともに、最終冊で あ る。 本書 では2000年 度 に行 つた調査成果 を収録 している。同地区の区画整理事業に 伴 う調査 も、本書干J行 とともに終了す る。 同年度 の調査地 は長原遺跡西南地区の 2個 所 にとどまったが、瓜破台地 と馬池 の中世 の姿 を復元 で きる成果が得 られた。 ひと くちに20年 といって も、長原遺跡 は30年 前 には知 る人ぞなか った遺跡 であ るか ら、 この間、新発見 の連続 であ つた。調査成果 を前 にす ると、新知見 の多 さ に感慨 ひとしおであ る。 今後 は、調査 の成果 を多 くの市民 に還元すべ く、普及 ・啓発活動 に努 めたい。 最後 に、発掘調査お よび報告書作成 にあたって、 ご理解、 ご協力 を賜 った関係 機関各位 と、玉稿 をお寄せ いただいた先生 に心 よ りのお礼 を申 し上 げ る。 2003413ノ 月 財団法人 大阪市文化財協会 理事長 脇 田 修 夕J 口 一 、本書 は大阪市建設局長吉瓜破 区画整理事務所が施行 した、大阪市平野区内における2000年 度土地区画 整理事業施行 に伴 う発掘調査 の報告書 であ る。 一、発掘調査 は、財団法人大阪市文化財協会調査課長京嶋覚の指揮 の もとで、調査主任 (現 、主任学芸員)黒 田慶一 と調査員 (現 、学芸員)李 陽浩が行 った。各調査 の地番 ・面積 ・期間 。担当者 は表 1に 記 した。 一、本書 の編集および執筆 は京嶋 の指揮 の もと、李 との検討や調査記録 をもとに、黒田が行った。石器遺物 の記述 については学芸員絹川一徳 の教示 を得た。英文要 旨の作成 は黒田が行 い、 ロン ドン大学大学院生 の幕内博子氏 の御教示 を得 た。 一、遺構写真 は主 として担当 した黒田・李が撮影 したが、一部 は徳永囲治氏 に委託 した。遺物写真の撮影は 西大寺 フォ ト杉本和樹氏 に委託 した。 一、樹種同定 と年輪年代測定 については、独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所 の光谷拓実氏 の御教 示 を得 た。 一、発掘調査 と報告書作成 の費用 は、大阪市建設局お よび同市水道局 。同市下水道局 。日本電信電話株式会 社 ・関西電力株式会社 。大阪 ガス株式会社が負担 した。 一、本書 に掲載 した石器遺物は、大阪市文化財協会 での石器整理番号 である登録番号 で管理 されてい る。各 石器遺物 の登録番号 は、本文 で使用 した報告番号 の前 に、00-12次 調査 は00AC、 00-29次 調査 は00 ADを 付加 した もの とする。例 :報 告番号 139の 場合 は00AD139。 一 、発掘調査 で得 られた出土遺物、図面 。写真 などの資料 は当協会が保管 してい る。 夕J 一、本書 において用 い る地層名 は、原則的 に各調査 ごとに個別に記載する。長原遺跡 の標準層序 との対比 は [趙 哲済2001]に 基づいて行 い、標準層序 の表記 は、文中では長原○層 とし、図表等ではNGO層 とした。 一 、遺構検出面 の層序関係 に基づ く呼称お よび形成過程 に基 づ く呼称 は、 [趙 1995]に 従 って行 った。 一 、遺構名 の表記 には、掘立柱建物 ・竪穴住居 (SB)、 溝 (SD)、 井戸 (SE)、 堤 (SF)、 土壊 (SK)、 (SP)、 ビッ ト その他 の遺構 (SX)、 自然流路 (NR)の 略号 を用 いた。略号 の後 ろには各調査次数 ごとの通 し番 号 を付 した。 一 、水準値 はToP。 値 (東 京湾平均海面値 )を 用 い、本文 ・挿図中ではTP士 Omと 表記す る。 また、挿図中の 方位 は座標北 を示 し、座標値 は旧来の国土平面直角座標 (第 Ⅵ系 )の 値 であ る。 一、本書 で頻繁に用 いた土器編年 と用語 は下記 の文献 に拠 っている。本文中では煩雑 さを避けるため、 これ ら引用 ・参考文献 をその都度提示する ことは行 わない。円筒埴輪 :[り ‖西宏幸 1978]、 古墳 ・飛′ 鳥時代 の須恵器 :[田 辺昭三 1981]、 飛′ 鳥・奈良時代 の土器 :[古 代 の土器研究会 1992]、 中世 の土器 :[中 世土 器研究会 1995]、 近世 の陶磁器 :[九 州近世陶磁学会 2000]・ [大 橋康二 1994] 肥前陶磁器 の時期 区分 は以下の とお りである。 I期 :1580∼ 1610年 代、 Ⅱ期 :1610∼ 1650年 代、 Ⅲ期 :1650∼ 1690年 代、 Ⅳ期 :1690∼ 1780年 代、 V期 :1780∼ 1860年 代 本 文 目 次 序文 例言 第 I章 第 1節 1 01 2000年 度 の発掘調査 と報告書 の作成 ……………………………………………… 1)発 掘調査 ・…… ……… … … ……… ………………………………………………… 01 調査 の経過 と概 要 ・-00… ……………………………………………………………… 2)報 告書 の作 成 。……………………………………………………………………… 。 1 第 2節 発掘調査 の経過 と概 要 ・………………………………………………… ‥ ………… 1)00-12次 調査 。…… 1・ ……… … …………………………「°……………………… 2)00-29次 調査 ・…………………………………………………………………… ‥ 3 3 4 長原遺跡西南地 区 の調査結果 ・………………………………………………………… 7 第 1節 00-12次 調査 … … … …… …………………………………………………………… 。 7 1)層 序 とそ の遺物 。… ……… … … ……… ……………………………………………・ 7 第 Ⅱ章 ii)各 層出土 の遺物 i)層 序 2)遺 構 とそ の遺物 ・………………………… … … … …………………………………・ H li)近 世 ∼近代 i)飛 `鳥 時代 3)小 結 。………………… ……… … … ………………………………………………… 。12 第 2節 ……………………………………………………………… ………… 。14 1)層 序 とその遺物 ・…………………………………………………………………… 。14 00-29次 調査 li)各 層出土 の遺物 i)層 序 2)遺 構 とそ の遺物 ・… …………………………………………………………………・ 35 i)鎌 倉時代 ii)室 町時代 iil)近 世 ∼近代 iv)更 新世 3)小 結 ・… ………………………………………………………………………………・ 55 遺構 の検討 。…………… ………………………………………………………………… 57 第 1節 馬池 と中世 の灌漑用水 路 。…… ……………………………………………………… 57 第 Ⅲ章 1)中 世 の灌漑用水路 の復元 ・…………………… ……………………………………・ 57 2)中 世 の灌漑用水路 の廃止 ・………………………………………… ………………・ 59 第 2節 馬池 と八 箇用水 一近世大和 川北岸地域 の水利事情 ― ・‥ ………………………… 61 1)は じめ に 。… …………………………………………………………………………・ 61 -1- 2)大 和川付 替 え前 ・……………………………………………………………………・ 64 ii)東 1)狭 山池懸 り ili)馬 瓜破村 と狭山池用水 市)東 除川 と村 々溜池 池の利用 v)川 辺村 と王水 3)大 和川付替 え後 の変化 。………………………………………………………… … 。70 ii)落 堀川開盤 i)瓜 破台地 と新大和川 iii)寛 組 と八箇用水 市)大 和川北岸諸樋 v)犬 走 り井路から八箇用水へ 宙)喜 連 3ケ 村の取水 vii)長 原村馬池から瓜破村下 ノ池ヘ 4)お わ りに ・…………………………………………………………………………… 。77 引 用 。参 考 文 献 ・… … … … … … … … … … … … … ‥ … … … … … … … … … … … … … … … … 81 あ とが き 。索 引 英文要 旨 報告書抄録 ― n― 原 1 色 図 版 長原村絵図 [享 保 8年 ] 目 次 9 00-29次 調査 00-12次 調査 北区 中世 の遺構 上 :調 査 区全景 (南 から) 上 :第 4d層 上面 (北 か ら) 下 :SP501検 出状況 (南 か ら) 下 :第 4d層 上面 (東 か ら) 2 00-29次 調査 北半 3 00-29次 調査 南半 4 00-29次 調査 南区 近世 の遺構 1000-29次 調査 北区 中位段丘構成層上面 上 :自 然流路 と足跡化石(西 か ら) 下 :ナ ウマ ンゾウの足跡化石 (東 か ら) 1100-12次 調査 1200-12次 調査 出土遺物 1300-12次 調査 1400-29次 調査 出土遺物 上 :南 区第2c層 上面 (南 東 か ら) 下 :北 区第2a層 下面 (北 か ら) 1500-29次 調査 出土遺物 00-29次 調査 南区 中世 の遺構 1600-29次 調査 出土遺物 1700-29次 調査 1800-29次 調査 1900-29次 調査 出土遺物 出土遺物 下 :SD301ア ゼ撤去後 (南 か ら) 2000-29次 調査 2100-29次 調査 00-29次 調査 北区 中世 の遺構 2200-29次 調査 出土遺物 上 :南 端 (南 東 か ら) 下 :SD201(西 か ら) 00-29次 調査 近世の遺構 上 :SD301(南 か ら) 下 :SD301(北 か ら) 00-29次 調査地中央部 中世 の遺構 上 :SD301堆 積状況 (南 か ら) 上 :第 3a層 下面 (東 か ら) 下 :第 3a層 下面 (北 か ら) ― Ш ― 出土遺物 出土遺物 出土遺物 出土遺物 出土遺物 図 目 図1 土地区画整理事業施行範囲 と調査地 ・……。2 図27 図2 ……………。3 長原遺跡西南地区の調査位置 。 図28 SX401実 測図 00-12次 調査 区配置図・……………………。4 図 4 00-29次 調査 区配置図 ……………………… 5 図 5 00-12次 調査 区平 ・断面図 。¨……………。8 図 6 第 1層 出土遺物 ・¨¨………・・¨“・・―¨。9 図 7 各層出土遺物 ・……………………・・………。9 図 8 石器遺物 (第 4層 )・ ………………………… 10 図 9 SP501実 測図 ・¨¨¨¨…………………… 11 図29 SD301。 SF301断 面図 ・¨¨……………… 36 図30 SD301断 面図 ・……………………………… 図31 SD301出 土須恵器・土師器 。……………… 38 図32 SD301出 土羽釜 図33 SD301出 土遺物 ・…・・……………………… 図34 SD301出 土木製品 。¨¨¨¨……………… 41 図35 SF301に 伴 う杭 ……………………・ 11 図36 SD201出 土遺物 ・…………………………… 挿 図3 図 10 SP501出 土須恵器魅 図1l SD101出 土遺物 ・……………・・……・・・・… 次 地山上面遺構平面図 (2)。 ………………… 34 。……………・ ・……………… 35 37 。 ・・・ ・¨・・………………… 39 40 。……。 ・…………………… 42 43 12 ¨“・・・ ・…………………。46 図37 近世 の畑平面図 。 図12 飛鳥時代 の遺構分布図 ・…………………… 13 図38 近世 の畑 と梨溝痕跡 ・………………………・ 47 図 13 調査 区西壁断面図・……………… 15 図39 近世 ∼近代 の溝平面図 ・……………………。48 図 14 第2a層 出土遺物 ・…………………………… 17 ・…………。49 図40 近世以降の遺構 出土遺物 。……・ 図 15 第2a∼ 2c層 出土遺物 ・……………………… 18 図41 溝出土土管 ・…………………………………。51 図 16 第2c∼ 2d層 出土遺物 ・……………………… 19 図42 図17 第2d層 出土遺物 ・…………………………… 21 図43 足跡化石実測図 ・¨¨………・・・・…………・ 53 図18 ・……… 23 ……………・ 第2e∼ 3a層 出土遺物 。 図44 馬池 と調査地点 。……………………………。57 図 19 第3a∼ 3b層 出土遺物 ・……………………・。24 図45 馬池谷復元図 ・¨¨¨………………………・ 58 図20 第3a。 4a∼ 4b層 出土遺物 …………………。25 図46 慶長 13(1608)年 製造、狭 山池東樋復元図 。59 図21 石器遺物 ・…………………………………… 26 図47 大和川周辺等高線図 。………………………。62 図22 軒丸瓦 ・丸瓦 。¨¨………………………… 27 図48 狭 山池分水 図 ・………………………………・ 63 図23 丸瓦 ・平瓦 ・………………………………… 28 図49 東瓜破村下絵図 。……………………………。65 図24 平瓦 。………………………………………… 29 図50 本 寸絵図写 。……………………………………・ 67 図25 ・・・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・・ ・・・ 30 平瓦 ・・・・・・・ 図51 王地丸樋 ・馬池間大和川堤樋絵図・………・ 72 図26 地山上面遺構平面図 (1)。 ………………… 33 00-29次 次 目 表1 2000年 度土地区画整理事業 に伴 う発掘調査一覧 ・ … … … … … … … … … … 。 表2 写真 3 狭山池東除川 (中 樋 )筋 の丹北 1 目 次 44 写真 4 ナウマ ンゾウ足 印 2(南 か ら)… ………… 54 出土状況 ………………………… 44 写真 5 川辺村絵図 ・¨……………………………。68 檜材 の杭222・ ……………………………。45 写真 6 川辺村領内絵図 ・¨¨……………………。78 l SD302断 面 ………………………………… 写真 2 慶長 17(1612)年 ・・・・・・・・ 64 ・・・・・・・・ ・・ 郡 ・住吉郡村 々・・・・・・ 宣︵ 写真 ・…………………… 52 NR501と 足跡化石 。¨。 SF301杭 -lV… 第 I章 第 調査 の経過 と概要 1節 2000年 度 の 発 掘 調 査 と報 告 書 の 作 成 1)発 掘 調査 2000年 度 の土地区画整理事業 に伴 う発掘調査件数 は 2件 、発掘総面積 は1,150m2で 、す べ て長原遺跡西南地区である(図 1、 表 1)。 調査 はまず00-12次 調査が 6月 1日 に開始 し て 7月 H日 に終了 し、やや間を置 き、00-29次 調査が 9月 13日 開始 で、翌2001年 3月 2 日に終了 したの を最後 に、長吉瓜破地区の土地区画整理事業 に伴 う発掘調査 をすべ て完了 した。各調査次数の担当者 ・調査面積 。調査期間は表 1の とお りである。各調査 とも基本 的には、現代盛土お よび現代作土 を重機掘削 し、それ以下 を人力掘削 し、遺構 の精査 に努 めた。調査 にて検出 した遺構 および遺物 は、実測図や写真 によって記録 し、遺物 について 保存処理が必要なものはその都度処理を行 った。なお調査次数 は遺跡記号NG(長 原遺跡)の 後 に年度、各年度 における調査開始順 の番号 を付 けて表記 してい るが、煩雑 であ るため本 文ではNGを 省略 して表記す る。 2)報 告書 の作 成 現場終了後 の遺物 の水洗 ・マーキ ング・接合お よびお もな遺物 の図化、写真 の整理な ど の基本的な整理作業、および各現場 における層序、遺構 の検討 は、終了後 ただちに各調査 担当者が行 っている。2002年 度の報告書作成に伴 う図面 。写真 。遺物な どの整理作業 は、 調査課長京嶋、長原調査事務所長高橋 の指揮 の もと黒田が行 った。各調査次数の報文 の執 筆 は、各調査担当者が作成 した完了報告書 をもとに、黒田が行 った。 表 1 2000年 度土地区画整理事業 に伴 う発掘調査 一覧 発掘次数 面積 調 査 地 番 担 当 者 調 査 期 間 長原遺跡 西南 地 区 NG00-12次 NG00-29次 150m2 1,000m2 平野区長吉長原西 3丁 目 同 長吉長原西 3丁 目 李陽浩 黒田慶一 -1- 2000年 6月 1日 ∼2000年 7月 11日 2000年 9月 13日 ∼2001年 3月 2日 N G ヽ イL l 図 1 土地区画整理事業施行範囲 と調査地 -2- 第 2節 発掘調査 の経 過 と概 要 1)00-12次 調査 本調査地は長原遺跡西南地区に位置 し、瓜破遺跡に隣接する。周辺では1982年 度以降多 くの調査が行 われてお り、古墳時代から鎌倉時代の遺構が見つかつている(図 2)。 とりわけ、北側 に隣接する89-67次 、97-18次 調査では、飛`鳥 時代の掘立柱建物が見つ かつてお り、周辺一帯 に飛`島 時代の遺構が数多 く存在 したことが知 られている。 今回 も区画整理に先立ち発掘調査を行うことになった。調査では現代盛土を地表下約 1 mま で重機で掘削 し、それ以下については人力で掘削 を行 った。 N C l X-155,500 図2 長原遺跡西南地区の調査位置 (点 線 は馬池 の輪郭) -3- N C 調査 は 6月 1日 に開始 し、 7月 l 4日 に発掘調査 に係 わる掘削や実 測 ・記録作業を終了 し、 7月 H日 に埋戻 しを含めたすべ ての現場作 業 を終了 した。 2)00-29次 調査 本調査地 は長原遺跡西南地区に 位置 し、00-12次 調査地の南側で ある。本調査地南端は旧馬池の堤 で、近時 の99-42・ 43次 や99- 46次 で馬池 の堤 が調査 されて い る。99-46次 調査地 に北接す る98 -8次 では、古墳時代後期 から飛 鳥時代 にかけての遺構 。遺物が検 出されている。 また当地は本調査地東隣の大阪 府立長吉高校 の校舎建設時の発掘 図3 IT 調査 (1974年 、図 2)で 、旧石器時 00-12次 調査区配置図 代遺物な どが出土 したことから、 「長吉野山遺跡」に指定 された。 ただ最近、当地周辺 に分布す る地山層 は、中期旧石 かつ て 器時代以前 の ものであ ることが半J明 したか ら、中期旧石器時代 の遺構 。遺物 の発見 も期待 で きた。 調査後 の工事 との兼合 いで、調査地 を南北 に 2分 割 して南 ・北 2区 を設け、南区から作 業 にかか つたが、降雨による日程 の遅れか ら、南区の北端 の精査 を後回 しにし、北区の調 査 と同時 に行 うことと した。重機掘削で現代盛土 と現代作土 を除去 し、それ以下は人力で 掘削 し、適宜遺構 の精査 。検出等 の作業 を行 った。 調査最終段階で北区の中央 に、旧石器遺物探査用 の トレンチ を設定 したところ、西壁 に ナウマンゾウの足跡 の可能性 のあ る凹みが確認 された ことか ら、足跡化石 と旧石器時代遺 物 の検出 に努 めた。 -4- N G Y-39,6501 J X-155,550 ,650 0 50 1oom l : 1,200 図 4 00-29次 調 査 区配 置 図 空 中写真測量 は11月 24日 と 1月 31日 の両 日実施 した。調査 は 2月 20日 に終了 し、同 日か ら埋 戻 し、 3月 2日 すべ ての現場作業 を終了 した。調査 開始 に当 り公共座標 に合 わせ て 5 mメ ッシ ュ を組 み、それ に基 づ い て実測 、遺物 の取 上 げ を行 った。 -5- 第 Ⅱ章 第 1節 長原遺跡西南地区の調査結果 00-12次 調 査 1)層 序 とそ の 遺物 i)層 序 (図 5) 調査区内では現代盛土以下に、近世 の作土層 を検出 した。地山上面 は中近世 の開発 で大 きく削平 されてい るようであ る。 第 0層 :現 代盛土である。 第 1層 :層 厚 5∼ 15cmを 測 る黄灰色(2.5Y4/1)粗 ∼細粒砂混 リシル トの現代作土層 である。 第 2層 :層 厚 5∼ 15cmの オリーブ褐色 (2.5Y4/6)細 ∼極細粒砂混 リシル トである。以下、 第 4層 までは近世 の作土層 で長原 2層 に相当す る。 第 3層 :層 厚 5∼ 15cmの 粗 ∼細粒砂 を含む黄褐色 (2.5Y5/6)極 細粒砂混 リシル トである。 第 4層 :最 大層厚 10cmの 粗粒砂 を含 む黄褐色 (2.5Y5/4)極 細粒砂混 リシル トであ る。 第 5層 :細 粒砂 を含 む黄褐色 (2.5Y5/6)混 リシル トの地山層 であ る。 ii)各 層 出土 の遺物 (図 第 1層 出土遺物 (図 6、 6∼ 8) 図版 13) 土製 ミニチ ュア1は 梵鐘 で、撞座 よ り左 1/6が 残 つている。土人形2は 唐子 を表す。 いず れ も18世 紀頃の ものと思 われる。 肥前磁器片3は 周囲 を打ち欠いて不整六角形にしたオハ ジキである。肥前磁器碗 26と 同 じ 文様 と思われ、 V期 の碗 の一部 と思 われる。 第 2層 出土遺物 (図 7、 図版 13) 瓦 質橘鉢6は 口縁 部断面が三角形 を呈 し、外面は ヨコナデ、内面はタテナデを施す。 15 世紀前半頃 と思われる。 第 3層 出土遺物 (図 7) 瓦器椀 11と 12が 出土 した。11は 退化 した高台 をもつ。13世 紀前半 に位置す る。12は 復元 -7- E oヽ 一+ L卜 ● l :200 〇〇一 ¨ 一 l===HHH=日==HHHHHHHHH=H=HHHHHHHH円円H円同円=HHH=HJ T E崎 〇 α卜 ヽ l -8- 平 ・断面図 00-12次 調査 区 図5 E O.〓 + N G 10m 5 0 第 1節 00-12次 調査 口径 12.2cmで 、 13世 紀後半 であ る。 第 4層 出土遺物 (図 7・ 図版 11∼ 13) 8、 恩 ] ︵ 倒 脚 螂 円 鋤 珈 ﹃ 土師器椀9は 器形が瓦器椀 に似ている。型作 りによると思われる。13世 紀前半であろう。 を す 成 形 部 2 m O 9 3 径 赤絵碗 10は 復元 口径 13.4cmで 、中国製 の可能性 がある。 17世 紀前半 であ る。 響 ヽ 蘊 ヽ 丁 ヽ T ヽ 710 丁 丁 可 `夏 ≡ ヲ L4 =丁 ン 10 図7 第 2層 (6)、 第 3層 地山上面 (16・ 17) (11・ 12)、 第 4層 (9。 1:4 各層出土遺物 10。 13・ 15)、 -9- 第 2∼ 4層 (4 5。 7・ 8。 14。 18)、 図 8 石器遺物 (第 4層 ) る。 須 恵 器 捏 鉢 15は 東 播 系 で 、 12世 紀 末 ∼ 13世 紀 初 頭 と考 え られ る。 石器遺物 として19∼ 21が 出土 した。 いずれ もサ ヌカイ ト製 であ る。 19は 横形剥片 である。山形 の打面部 を形成 して剥離 されたもの と思 われる。 20は クサ ビであ る。厚 みのある剥片 を素材 と してい る。表面 の右側縁、上端部 に敲打 に よ り生 じた剥離痕 が認め られる。 21は ス ク レイパーである。幅広 で大型、かつ厚 みのあ る剥片 を素材 としてい る。素材剥 片 の表面 は、全体が 自然面 である。素材剥片 の周縁 よ り、やや深 い調整剥離 を連続 して施 してい る。大型 の石鏃などの半成品の可能性 もあろう。 19∼ 21も 後世 の作土層 よ り出土 してお り、所属時期 は不明である。石器遺物 の風化度が それぞれ異なっていることからも、旧石器時代か ら弥生時代 までの遺物が混在 してい るも の と思 われる。 第 2∼ 4層 出土遺物 (図 7、 図版 12) -10- 第 1節 00-12次 調査 須恵器甕4と 器台5が 出土 した。4は 口縁部 と突帯 の間に波状文を施す。ON46型 式 と思 わ れる。5は 2本 の突線 の上下に波状文 をもつ。TK208型 式であ る。 土師器皿7・ 8は それぞれ復元口径 15。 2cm、 15.4cmの 皿AⅡ に当 り、平城官 Ⅵに位置する。 また土師器皿14は 復元 口径9.6cmで 、14世 紀頃の もの と思 われる。 円筒埴輪 18は 一次調整 のナナメハ ケ後、断面が不整形 で突出度が低 い タガを付け、円形 のスカシ孔 を施す。 V期 に属す る。 地山上面 (図 7、 図版 12) 須恵器杯 身16は 断面 はセ ピア色 を呈 し、復元 口径 10.5cmで 、ヘ ラケズ リは時計回 りであ り、TK208型 式 と思 われる。 土師器皿17は 浅 くへ こむ円板形 の底部 に短 い体部が立上る。体部 は強いヨコナデが加 え られ、底部 との間に明瞭な稜線が形成 される。 13世 紀 と考 えられる。 2)遺 構 とそ の 遺物 i)飛 `鳥 時代 SP501(図 9。 10、 図版 1。 12)調 査区北端 の地山上面で検出 した柱穴 で、掘形 の平面 は南 ′ メ ジ 北0.3m、 東西の長辺0.6mの 台形を呈 し、深 さは 0。 」 lm残 っていた。西端 に直径0.2mの 柱痕跡が \ 見 られた。掘形から飛`鳥 時代 の須恵器魅 22が 出 TP+10.5m 土 した。 須恵器建 22は 円孔 のある体部破片 であ り、稜 線 は不明瞭であることから、口頸部が長大化 し た魅 最終末の ものと考 えられる。TK209型 式で 0 50cln l :20 あろう。 図 9 SP501実 測 I図 ii)近 世 ∼近代 SD101(図 11、 図版 13)調 査 区の東端 で検 出 した北で東 に15度 振 る 幅 lm以 上 、深 さ 4mの 現代溝 で あ る。長原地域 は正 方位 を示す中河 0。 内条里 内 で あるが、当地 は馬池谷 に影響 され、方位 を大 きく振 ってい 0 5m l:4 る。 須恵器甕23は 口縁部 を肥厚 させ、端部 は丸 くお さめる。 6世 紀 頃 の -11- ー 図 10 SP501出 土 須 恵器建 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 もの とみ られる。瓦器椀24は 見込みに斜格子 の暗文 を施す。 12世 紀頃 と考 えられる。 唐津焼皿25は 折 り縁 皿で、 日縁部 をやや内傾 させ 、灰釉 を施す。 Ⅱ期 に属す る。 肥前磁器 は碗26・ 27・ 30、 皿28が 出土 した。26は 体部外面 に丸の内に実線 と点線で平行 線 を描 く丸文 と口縁下 に圏線 を巡 らせる。 V期 と考 えられる。27は 高台 と底部外面 に 3条 の圏線 を巡 らせる。 Ⅳ期 に属す る。28は 底部 は蛇 ノ ロ凹形高台で、見込みに草文 と揺れ る 連珠 を描 く。 V期 と思 われる。30は 桐文 を描 くⅢ期 の碗 の周囲 を欠 き取 り、お は じき状 に したものであ る。 堺焼橘鉢29は 口縁部内面 に段 があ り、細 かい橘 り目を施す。 18世 紀後半 と考 えられる。 3)小 結 今回の調査 では、調査区北端 の地山上面で飛 `鳥 時代 の柱穴SP501を 検出 した。 ほかに同 時期 の遺構 が検 出されなか ったことから、北方 に展開す る飛鳥時代 の掘立柱建物群 は当地 よ り南 には延 びてい ない と推定 される。SP501検 出の意義 を考 えてお きたい。 馬池谷西側 には東西 2個 所、飛鳥時代 の建物群が集中す るところがある。今回調査地 と 「東群」[大 阪市文化財協会2001a・ 同様馬池谷 を臨む、97-18・ 49次 調査地 を中心 とした b][高 橋 工2000]と 、その西南方400mの UR86-11次 調査地 を中心 とした「西群」[大 阪市 文化財協会 1994・ 1999a。 2000b]で ある。後者 は建物配置が コ字形 を呈す るなど、官衛 の可能性 のあ る建物群 であ り、東群 と西群 の間には南北に延びる小 さな埋没 した谷地形が 存在 し、両者 を分けている。SP501は 東群 に属す るか ら、 ここでは東群 とSP501の 関係 を ︲ ︲ 角 ︶ 躙 R = Ч ヽ 図H SD101出 土遺物 -12- Q 5 7 ︲ N G 195176 ︲ l 検討す る。 ︲ ︲ ︲ 北に細長 く延 びる尾根状 の高まりにある。 ︲ ¬ 東群 は標高 10.5∼ 12.5mの 高 さで南 から ︲ X-155,400 ︲ ︲ この高地 は北側 を小谷 によって分断され、 、 半島状 の地形 となっている。図12に 示 した ように、SP501の 北方には建物 1∼ 10が 存 在す る。 [大 阪市文化財協会2001b]は 出土 遺物からこれらの建物を 1・ 2期 に分けて 1 いる。すなわち 1期 がTK209型 式、 2期 が 1440 │ TK217型 式 に該当す る。 │ │ ① l期 :総 柱建物 2棟 (建 物 4・ 5)、 側 │ │ 柱建物 (建 物 ノ 3棟 (建 物 8∼ 10)、 竪穴住居 1棟 7)で あ る。建物 8・ 9は 建物 4・ 5 と並 存 した こ と も考 え られ る。 ,480 建物 7は 竃 を有 してい ることか ら簡易 な 構 造 の厨 房 で あ つた可 能性 が あ り、建物 8・ 9と は溝 Dで 区分 されてい るか ら、空 間的 な機 能分化 を示 す可能性 が あ るも また東西方向の溝 Bよ り南 に分布 してお り、 これが 建物 群 の北 を区画 す る もので あ つた こ とが 考 え られ る。 ②第 2期 :建 物 1∼ 3が 該当す る。建物 3は 東面庇 を有する総柱建物で、建物 2と は近接 しす ぎているため同時存在 しえない が、建物 1と は共存 じうる。 以上のように、建物群 は 1期 の ものが南 半 に、 2期 の ものが北半にあることがわか る。SP501は TK209型 式 に属するから、 1 期 の建物群が ここまで拡がることがわかっ 1 : 1,200 た。 図 12 飛 鳥 時 代 の 遺 構 分 布 図 -13- 第 2節 00-29次 調 査 1)層 序 とそ の 遺物 i)層 序 (図 13) 調査区南端 は馬池北堤 で、それか ら北に32mの SD106を 境 に地山が lmほ ど高 くなる段 があ り、北区の地山面 は中央 から北西方向に徐 々に高度 を下 げる。南区ではその大半 を中 世 の灌漑用水路SD301が 占め、その埋没後 に田や畑 として耕作 され、畝間溝や梨溝群は都 合 4面 6時 期確認 で きた。北区は地山が高 くなる南側 の地山上面で、畝間溝 や梨溝が同時 に検出されるが、北側 は地山面 を含めた 4面 で、型溝 と人や偶蹄類 の足跡 と思 われる踏込 み跡 を検出 した。 第 0層 :現 代盛土 で、層厚 は約 lmで あ る。 第 1層 :現 代作土である。含粗粒砂 オリーブ黒色 (5Y3/2)シ ル トか らな り、層厚 は20 cmで あ る。 第2a層 :南 区では層厚 10cmの 合粗粒砂黄褐色 (2.5Y5/4)粘 土で、北区では層厚 10cmの 灰 オリーブ色 (5Y5/2)粗粒砂混 リシル トである。本層上面ではお もに東西方向の型溝 を検 出 した。 第2b層 :南 区北端 では層厚数cmで 分布す るが、南区のほとんどでは第2c層 を畝 とす る畝 間溝 の埋土 としてのみ存在す る黄褐色 (2.5Y5/3)粘 土混 り砂礫 であ る。本層下面で 2時 期 の畝 と畝間溝 を検出 し、南北方向の畝が古 い。 第2c層 :南 区では層厚 10cmの 含粗粒砂暗灰黄色 (2.5Y5/2)粘 土質 シル ト層 で、北区は 層厚 10cmの 灰 オリーブ色 (5Y6/2)粗 粒砂混 リシル ト層 であ る。本層中途 で南北方向の畝 と畝間溝 を見 つ けた。 第2d層 :南 区 に分布す る層厚 10cmの 灰 白色 (7.5Y7/1)粗 粒砂混 り粘土層 であ る。本層 上面 で 2時 期 の畝間溝 を検出 した。東西方向が古 く、南北方向が新 しい。 第2e層 :南 区に分布す る層厚 10∼ 20cmの 合粗粒砂黄褐色 (10YR5/6)シ ル ト層であ る。 第2a層 か ら本層 まで肥前陶磁 器が含 まれ、長原 2層 に相当す ると考 えられる。 第3a層 :南 区では層厚 10∼ 30cmの 黄褐色 (2.5Y5/3)粘 土質細粒砂層、北区では層厚 10 cmの 灰オリーブ色 (5Y5/3)粘 土質 シル ト層 として分布 し、土師器 ・須恵器 。瓦質土器片を 含 む。北区では下面 で梨溝 を検出 した。 -14- + L卜” E R S C嘔0 .”一 CrO .0 一 :]]] 引禦J枢 郷 ЮD嘔 ﹀熟粂き‘Oけ 帥 ・博哨 ・林陣 円□ 00-29次 調査 区西壁断面図 図13 -15- 第Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 第 3b層 :南 区 に分 布 す る層厚 20∼ 70cmの 黄褐 色 (2.5Y5/3)粘 土 質 シル ト∼粗 粒 砂 で 、 SX301内 で厚 く分布 し、瓦 質土器や青磁片な どを含 む。 第3c層 :灌 漑用水路SD301内 に分布す る、層厚30cmの 水田耕土である。お もに灰 オリー ブ色 (5Y5/2)粘 土混 り粗粒砂 か らな り、中世瓦、瓦 質橘鉢 や同羽釜 などを含 む。 第3d層 :上 部 はお もに暗灰黄色 (2.5Y5/2)粘 土質 シル トからな り、下部 は灰 オリーブ色 (5Y5/2)粗 粒砂混 リシル トであ る。 15世 紀頃の瓦 質の羽釜片 を含 む。SD301埋 没過程 の 第 Ⅲ期 の埋土であ る。 第3e層 :巨 大 な地山土の塊 と砂礫層 からなる。層厚 は1.5m以 上で、13世 紀頃の瓦器椀 を 含 む。第 Ⅱ期 の埋 土である。 第3f層 :灌 漑用水路SD301を 閉塞 した堤SF301を 構成 している土層で、当時の地表土 (粘 土質土)を 母材 として厚 さ10cmで 水平 に積 まれた土層 と、その前面 に施 された砂礫層からな る。SD301埋 没過程 の第 I期 の埋土である。 第4a層 :北 区に分布す る層厚 15cmの 灰 オリーブ色 (5Y6/2)粘 土 質 シル ト層 である。 第4b層 :北 区に分布す る層厚数cmの 灰黄色 (2.5Y6/2)粘 土質細粒砂層 で、 12世 紀頃の 瓦器椀片 を含 む。 第4c層 :北 西隅のSX401に 分布す る層厚20cmの 合粗粒砂灰白色 (2.5Y7/4)粘 土質 シル ト 層 で、埴輪や飛鳥時代 の須恵器 を含 む。 第4d層 :北 西隅のSX401に 分布す る層厚 10cmの 合粗粒砂黄褐色 (2.5Y5/3)粘 土 質 シル ト層 で、基底面 (第 6層 上面)に 踏込み跡が見 られる。第4a層 か ら本層 までが、長原 4層 に 相当す ると思われる。 第 5層 :NR501の 埋土 としてのみ存在す る灰 オリーブ色 (5Y6/2)細 礫混 り粗粒砂 ∼粘土 混 り粗粒砂 であ る。長原 15層 に相当す る。 第 6層 :層 厚 40∼ 65cmの 灰 白色 (5Y7/2)シ ル ト質粘土層で、ベースの粘土層 か ら吾彦 火山灰層 (8.7万 年前)と 北花田火山灰層 (9。 1万 年前 )に 由来す ると思われる石英や長石 が抽 出された ことか ら、本層は長原 16A層 に該当す ると考 えられる。 ii)各 層 出土 の遺物 (図 14∼ 25、 第2a層 出土遺物 (図 14・ 15、 図版 14∼ 21) 図版 19。 20) 須恵器 は器台31、 高杯32、 杯身34、 無頸壺35が 出土 した。31は 断面がセピア色で、脚部 端面 は水平 である。TK23型 式 と考 えられる。 ロー リングによる磨滅が激 しい。32は 四方 向 に長方形 スカシ孔 をもつ脚部で、TK216型 式 に属す る。34は 復元 口径 14.Ocmで 、TK43 -16- ‐ ヽ ほ 32 憑重重重が ⇔︲ ゝ ¬ イ 11'75'1718 ビ≦≦二≧≡曇菫≧J====_二 ≧墜かヽ 43 1「 4 ) 図 14 第2a層 出土遺物 (54・ 55は 縮尺 1/2) -17- 10 20cm … … ヽ 9 ′ ∠ ` \二二」」三二 夕 66 1 % 二 肛 ´ 69 10 第2a層 (62・ 69)、 図15 第2a∼ 2c層 出土遺物 第2b層 (59)、 第2c層 (56∼ 58・ 20cm 60・ 61・ 63∼ 68) 型式に属す る。35は 復元 口径7.Ocmを 測 り、焼成時 に蓋を置いた痕跡があることから壺 Aで 、 平城宮 Ⅵ頃の もの と思われる。土師器高杯33は 杯部 の底部であ る。 5世 紀代 の ものと思わ れる。 軟質施釉 皿36は 内面に飴釉 を施 したもので、 18∼ 19世 紀 の関西産 と思われる。 陶器揺鉢37は 肥厚 させた口縁部外面 に凹線 を巡 らせる。 胞烙38は 口縁部内外面にていねい なナデを施す。18世紀後半 と思 われる。 瓦質羽釜39は 内傾す る口縁部 に凹線 を用 いて 3条 の段 を表現 している。 日縁端部 は丸 み を残す。 15世 紀中葉 に位置す ると思 われる。瓦器椀40は 内面 にラセ ン状暗文が見える。 13 世紀 であ る。 土 師質羽金41は 復元 口径 8.Ocmの ミニチ ュアで、17世 紀前半 の もの と思 われる。 瓦質火鉢42は 高 い高台 をもつ。 18世 紀 の もの と思われる。 肥前磁器 は碗蓋43、 碗44∼ 46・ 48∼ 50・ 52が 出土 した。43は 圏線 を多用す る。 日縁端 部か ら返 しにかけて砂 が付着す る。 Ⅲ∼Ⅳ期前半 の ものと考 えられる。44は 口縁部直下 に 圏線 を巡 らせる。 Ⅲ期 の ものである。45は 体部外面 に蔓草 を描 く。 Ⅳ期 である。46は 内外 面 とも圏線 を多用 し、体部外面に菊花文を配す る。畳付 けは露胎 で砂 が付着す る。 Ⅲ期 と -18- ○ ` 76 ` :4 9 ヽ 「 : =〓 =:l180 iiI:]テ │=ヨ │===〓 86 … … … … … ∫ 81 ii [::::ii::;│ … ::71i7 3 ` 普 8 ` く(〔 ` ` ‐ ` こ 三 二 三 二 49 :::1二 t4 1:III[7コ │:5 =53/グ 1:4 図 16 第 2c∼ 2d層 出土 遺 物 第2c層 (72・ 78・ 85・ 92)、 第 2d層 (70。 71・ 73∼ 77・ 79∼ 84・ 86∼ 91。 93∼ 96) -19- 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 思 われる。48・ 49は 外面 の口縁部下 に圏線 を巡 らせ、一重 の網 目文 を施す。 Ⅲ期 であ る。 50は 外面 に二重 の網 目文を描 く。 Ⅳ期 に属す る。52は 見込みは蛇 目状 に釉ハ ギ し、高台は 露胎 であ る。 Ⅳ期 に属す る。 肥前陶器碗47は 内面 は自化粧 し、外面は圏線 を描 いた後、透明釉 をかけている。畳付け は釉ハギ している。 Ⅲ期 に属す る。唐津焼皿51は 内面の 2本 の圏線間に笹葉様の絵 を描 く。 Ⅲ期 と思 われる。 関西系陶器53は 高台内 に墨書「天 トロ (賦 力)」 をもつ。 18世 紀頃の もの と思 われる。 土製 ミニチ ュアとして騎馬人形54、 神像55が あ る。54は 馬具 を装備 した馬にまたがる。 55は 中空 に作 られ、木靴 を履 いた神像 を表 してい る。 唐津焼大皿62は 三 島手 で、自泥 の充填が曖味 であ る。 Ⅲ∼Ⅳ期 と思 われる。 褐釉陶器蓋69は 内面に灰釉、天丼部外面 に鉄釉 を塗る。 19世 紀 であ る。 以上 の遺物 か ら本層 の形成 は19世 紀 であ る。 第2b層 出土遺物 (図 15、 図版 16) 須恵器器台59は 断面 セピア色の鉢部の破片であ る。細 かい条線 のタタキの後、波状文 を 施す。TK208型 式 と思 われる。 第2c層 出土遺物 (図 15。 16、 図版 15。 18。 19) 須恵器 は杯蓋56∼ 58が 出土 した。56は 復元 口径 11.8cmで 、天丼部 との境 の稜線 から次第 に開いて口縁部 に達す る。 口縁端部 は水平 で、ヘ ラケズ リは時計回 りである。57は 復元 口 径 12.2cmで 、口縁部 に向 って開いている。 口縁端部 は水平 で、ヘ ラケズ リは時計回 りであ る。58は 外面がセピア色で、ヘ ラケズ リは時計回 りである。いずれもTK216型 式である。 肥前陶器 は皿60と 碗92が 出土 した。60は 外面に透明釉、内面 に銅緑釉 を掛け分けている。 内野山の製品 と思われる。92は 口縁下に二重圏線 と蔓草文 を描 く。いずれ もШ期 であ る。 肥前磁器 は碗 61・ 67、 小 皿68、 瓶85が 出土 した。61は 外面 に菖蒲文 を描 く。 Ⅳ期 であ る。67は 高台か ら底部外面 にかけて 4条 の圏線 を描 き、体部外面に花斉文 を描 く。畳付 け は露胎 で、 Ⅲ期 に属す る。68は 型作 りで、日縁端部 は水平面 をなす。 Ⅳ期 と思 われる。85 は畳付けは釉ハ ギ し、高台付け根 に圏線 を 2本 描 く。 Ⅲ期 と思 われる。磁器皿78は 内面 の 区画間 に葉文 を配する。肥前磁器 と思 われるが、青花 の可能性 もある。 唐津焼 は水差63、 碗64が 出土 した。63は 口縁部がやや反る。 Ⅱ∼Ⅲ期 と思 われる。64は いわゆる御器手 でⅢ期 に属す る。 「 く」字形 に下方へ強 く折 り曲げるが、折 り曲げ をやや拡げて 関西系陶器鍋65は 口縁部 を -20- 第 2節 00-29次 調査 把手 を作 り出 してい る。 18世 紀 と考 えられる。 瀬戸美濃皿66は 、碁笥底内 に別個体 の溶着痕があ る。 16世 紀後半 に位置す る。 青花 皿72は 粗製 の もので、圏線 を多用 してい る。 17世 紀前半 と思 われる。 以上 の遺物 か ら本層 の形成 は18世 紀後半である。 第2d層 出土遺物 (図 16。 17、 図版 18) 須恵器 は杯身70と 壺97が 出土 した。70は ていねいな逆時計回 りの回転ヘ ラケズ リを施す。 TK43型 式である。97は 波状文 を描 く。内外面 に自然釉 が付着 し、TK208型 式 に属す る。 備前焼摺鉢73は 口縁部 の高 さが2.8cmを 測 る。 16世 紀前半 に位置す る。 瀬戸美濃溝縁 皿74は 菊花 を形作 っている菊皿であ る。 16世 紀末であ る。 唐津焼 は碗75。 76・ 84、 皿71・ 98、 筒形碗 100、 鉢 103が 出土 した。71は 溝縁 皿で Ⅱ期 である。75は 削 り出し高台で、底部 は露月 台である。 I期 に位置す る。76は 底部を糸切 り後、 台 高台内 を削 つている。見込みに練 り砂 目痕が見 られる。 I期 である。84は 底部外面 は露月 で、内面 に灰釉 を施す。 Ⅳ期前半 と思 われる。98は 外面底部 は高台 も含 めて露胎 で、見込 みに粗 い練 り砂 目が見 られる。 Ⅱ期 である。100は 灰 白色釉 を施す。 Ⅱ期 である。103は 溝 縁 をもち、白色釉 を施す。 Ⅱ∼ Ⅲ期 に属す る。 丹波橘鉢77は 密にス リメを刻んでいる。 17世 紀 であ る。 lii:│::I:'F17 1:;;│12 10 図 17 第 2d層 出土遺物 -21- 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 肥前磁器 は碗79∼ 81・ 86∼ 88。 90。 91・ 93∼ 95。 102・ 104∼ 107、 瓶89が 出土 した。 79は 一重 の網 目文で、 Ⅱ∼Ⅲ期 に位置す る。80は 一重 の網 目文で、 Ⅱ∼ Ⅲ期 であ る。81は 口縁外面に 2本 の圏線 を巡 らせる。 Ⅱ∼ Ⅲ期 であ る。86は 口縁外面 に 2本 の圏線 を描 き、 放射状文 を配す る。 Ⅱ∼ Ⅲ期 に属す る。87は 透明釉 を内外面で掛け分け、外面 に檜垣文 を 内に描 いた丸文 を配す る。 Ⅲ期 である。88は 口縁下 に 2本 接近 して圏線 を描 き、草花文 を 配する。Ⅲ期に位置す る。89は 畳付 けを釉ハ ギす る。 Ⅲ期 である。90は 草文の上に一重網 目を描 く。 Ⅲ期 に属す る。91は 型紙刷 りで桔梗文 を配す る。 Ⅳ期前半であ る。93は 底部外 面に圏線 を多用 し、高台内にも1つ 配する。Ⅳ期で も初期 の作品 と思 われる。94は 高台上 部外面 に圏線 を描 く。畳付けは露胎で、粗 い長石砂 が密 に付着す る。 Ⅲ期 に属す る。95は 高台内を深 く削 り、底部が薄 くなってい る。畳付 けは露胎 で砂 目痕がある。 Ⅲ期 であ る。 102は 透明釉 を器 の内外 で掛け分け、外面 に菊文 を描 く。 Ⅲ期 である。104は 高台の内外面 に露胎部分があ り、畳付けに粗 い長石砂 が付着す る。体部下部 に圏線が 1本 描かれている。 Ⅲ期 である。105は 透明釉 を内外面で掛け分け、外面の 2本 の圏線間に笹文 を描 く。 Ⅲ期 で ある。106は 高台 と底部外面 に圏線が入 り、露胎 の畳付けに長石砂が付着す る。 Ⅲ期 と思わ れる。107は 畳付けから高台内面にかけて露胎 で、高台外面 に圏線 を 1本 巡 らせる。 Ⅲ期 と 考 えられる。 肥前青磁碗82は 釉 を掛け分けてい る。 Ⅲ期 に属す る。 州窯の製品で、畳付け と高台内は露胎、見込みに丸文 を描 く。17世 紀前半 青花碗83は '章 以前 の ものであ る。 信楽焼揺鉢96は 鉄釉 を施す。 17世 紀 に位置す る。 瓦質土器羽釜99は 鍔部 を欠失 し、やや内傾する口縁部 をもつ。 口縁端部は水平である。 15世 紀後半 に位置す る。 軟質白磁碗101は 内野山系で、畳付けから高台内面 にかけては露胎である。 Ⅱ期 に属す る。 したがって本層の形成時期は18世 紀前半である。 第2e層 出土遺物 (図 18、 図版18・ 19) 須恵器 は壺 108と 甕109が 出土 した。108は 口縁端部 を上 につ まみ上げてい る。TK47型 式 とみ られる。109は 内面 の当て具痕 をていねい にナデ消 している。TK47型 式以前 の もの である。 青花 は皿111と 碗 114が 出土 した。111は 内外面 とも圏線 を多用 し、見込みに牡丹文 を配 す る。 17世 紀前半 と考 えられる。114は 外面 に芭蕉葉文、見込みに二重圏線か らなる丸文 -22- 第 2節 00-29次 調査 を もつ レ ン ッ ー碗 で 、 16世 紀 前 半 の もの で あ る。 肥前磁器碗 112は 口縁外面 に圏線 を引 き、遠山を描 く。 Ⅱ期 である。唐津焼碗 113は 溝縁 をもつ。 Ⅱ∼ Ⅲ期 とみ られる。 以上 の遺物 か ら本層 の形成 は17世 紀後半であ る。 第3a層 出土遺物 (図 18・ 19、 須恵器 は壺110、 高杯 115。 図版 16・ 17) 116、 器台119が 出土 した。110は 口縁端部 に稜線 を有す る。 TK23型 式 と思われる。115は 長方形のスカシ孔 をもつ。 2本 の突帯 はするどい稜線 をもつ。 TK73型 式 であ る。116は 長方形 のスカシ孔 を四方 に配 したとみ られる。TK216型 式 と思 われる。119は 2条 ずつの突帯間に波状文 を描 き、三角形 のスカシ孔 を一段 ごとに交互に配 してい る。TK23型 式 に位置す る。 瓦質土器羽金 121は 内傾す る口縁部 をもち、日縁端部 は丸 みを残す。鍔部の下面からヨコ 方向のヘ ラケズ リが体部に及 んでいる。 15世 紀前半 に位 置す る。 弥生土器甕124は 体部上端 を直角 に近 く折 り曲げて、日縁部を成形す る。畿内第 Ⅲ様式の 土器である。須恵器杯蓋 125は 復元径 15。 Ocmで 、杯 BⅢ 蓋 に属 し、平城官 Ⅱであ る。 瓦質土器は羽釜 126と 橘鉢 127が 出土 した。126は 内傾す る口縁部 と鍔 の境 に直径 5111mの 円孔 を穿 つている。 15世 紀前半 に属す る。127は 口縁端部 の断面が三角形 を呈する。 15世 紀前半 に位置す る。 第3b層 出土遺物 (図 19。 21、 図版 14・ 17) 主_墓二色 109 図18 第2e∼ 3a層 出土遺物 第2e層 (108。 109。 111∼ 114)、 第3a層 (110。 115) -23- ― 第3a層 図19 第3a∼ 3b層 出土遺物 第3b層 (117・ 118・ 120・ (116・ 119。 121)、 ヽ 122・ 123) 青磁 は輪 花 皿 117と 碗 118が 出土 した。 117は 端 反 で 、外 面 に蓮 弁 を内面 に連 続 す る弧線 を線 刻 で 描 く。 16世 紀 の もの で あ る。 118は 外 面 蓮 弁 文 で 、 14世 紀 に位 置 す る 。 瓦質甕120は 体部 をタタキ成形 してい る。 14世 紀後半 ∼15世 紀前半 に位置する。 土師質羽金は122と 123が 出土 した。122は 火中 して明褐色 を呈す る。 口縁部 に 3条 の凹 線 で段 を表 わす。123は 内傾す る口縁部 に 3条 の凹線 で段 を表現す る。 いず れ も15世 紀前 半 と考 えられる。 石器遺物141は サヌカイ ト製の クサ ビで、上下両端 に敲打 によ り生 じた剥離痕が表裏両面 に見 られる。 また表面右側縁 には裁断面 も認め られる。 本層 の形成 は16世 紀 と考 えられる。 (第 3c∼ 3e層 出土遺物 については、SD301の 項 で述べ る。) 第4a層 出土遺物 (図 20、 図版 15) -24- ヽ 125 `124 ―ゝ ヽ マ (1:::::::::::│::::F==::::)),〔 8 ‐ ` モII=量 ≡萱更で35 ∈ 壬 冒 三 三 11二 三 ≧ 》 136 1:4 図 20 第 3a。 4a∼ 4b層 出土 遺 物 第3a層 (124∼ 127)、 第 4a層 (128。 129・ 131・ 132)、 第4b層 (130・ 133∼ 138) -25- 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 須恵器 は杯身128、 甕129、 高杯 131・ 132が 出土 した。128は 断面 はセピア色 で、時計回 りのヘ ラケズ リを施す。ON46型 式である。129は 丸 くおさまる口縁端部 と、頸部 にカキメ をもつ。TK10型 式 と考 えられる。131は 長方形 のスカシ孔 を四方 に穿 つ。TK208型 式 で あ る。 132は 長方形 のスカシ孔 を三方に配す る。TK216型 式 と思 われる。 第4b層 出土遺物 (図 20・ 21、 図版 14∼ 16) 須恵器 は無蓋高杯 130、 甕133、 高杯 134・ 137、 椀 135、 杯蓋136、 器台138が 出土 した。 130は 杯部 の破片 である。ヘ ラケズ リは時計回 りで、突帯 の間に波状文 を施す。TK216型 式 である。 133は 口縁端部 を丸 くおさめ、頸部 にカキメをもつ。TK10型 式 に属す る。134 は低 い脚部でスカシ子Lは ない。TK208型 式 と考 えられる。135は 高 さ1.lcmの 付け高台 を有 す る。 11世 紀前半 の もの と思 われる。136は 復元口径 13.2cmで 、時計回 りのヘ ラケズ リを ていねいに施 している。 口縁端部 は水平である。ON46型 式である。137は 脚部の破片 で、 四方 に長方形 スカシ孔 をもつ。端部 は丸 くおさめ られる。TK216型 式 であ る。138は 脚端 縁 は上方へつ まみ上げられ、端部は平坦 におさめ られる。波状文施文前 の ヨコハ ケによる 条線 が残 る。TK73型 式 に位置す る。 石器遺物139。 140は いずれもサヌカイ ト製である。石鏃139は 凹基無茎式、石匙140は 表 面の下半部が大 きく欠損 している。つ まみ部か ら側縁 にかけてていねい に細部調整が施 さ れてい る。 各層 出土瓦類 (図 22∼ 25、 図版 20∼ 22) 図 21 石器遺物 第3b層 (141)、 第4b層 (139。 -26- ` ` τ 二 : 147 46 図 22 軒丸瓦 ・丸瓦 1層 2a層 第 (149)、 第 (144・ 151)、 第2d層 (143・ 145。 147・ 153)、 第3a層 (152)、 第3b層 (148)、 第3d層 (142・ 150)、 第4c層 (146) -27- ︲ 5 ︲4 弓︲ パロHH ︲ 2 4 ︲ ′ ︲ 幽 口 ︹ ︺ H 目 国 [ ︻ ︲ , よ 警︲爆︲ 一 ヽ 、 ′ ノ l 一 ワ ︲ ︲ ︲︲ 6 ,5 ︲ 一 5 5 ︲ :161 ′ ‐: 160 │ 163 10 162 1:4 図 23 丸 瓦 ・ 平 瓦 第 1層 (157)、 第 2d層 (159・ 161・ 163)、 第3c層 (155。 156・ 162)、 第 3d層 (154・ 158)、 第 4c層 (160) -28- 一 轟 ` 口 :167 1:4 図 24 平瓦 第2d層 (167)、 第3a層 (165)、 第3b層 (169)、 -29- 第3c層 (164・ 166・ 168) 三 ¬Ю ´ 171 ヽ::``:::::::::::::i:3 │ -11 ヽ 176 二 ヽ -1 174 涸 │ ::□ I 一 - 日 178 :: 177 o :_ lo 175 20cm l:4 図 25 平瓦 第 1層 (170。 177)、 第2c層 (174)、 第2d層 (173)、 第3c層 (172・ 175・ -30- 176)、 第3d層 (171)、 SD201(178) 第 2節 00-29次 調査 「瓦質」 瓦類 の焼成 は、断わらない限 り断面が灰 白色 で表面が燻 しのため暗灰色 を呈す る であ る。 第 1層 出土瓦類 丸瓦 は149と 157が 出土 した。149は 凸面 は縄 ロタタキ後、ていねいなタテ方向のナデで、 凹面にコビキAと 細かい布 目痕 と側縁際に幅広 い面取 りがみ られる。高温焼成で須恵質を 呈する。鎌倉時代 の瓦 と考 えられる。157は 軒丸瓦 の瓦当がはず れたもので、凹面に細か い布 目痕がみ られる。江戸時代 の瓦である。 平瓦 は170と 177が 出土 した。170は 凸面 に格子状 の もの をヘ ラ描 きし、凹面 をていねい にナデ調整 した中近世 の瓦である。177は ほとんど湾曲しない分厚 い もので、凹面 にタタキ 原体 の小 日で叩いた痕跡がある。側面 は凸面に対 して、ほぼ直角 にヘ ラ切 りしてい る。近 世 の瓦である。 第2a層 出土瓦類 軒丸瓦144は 巴頭から尾への方向が左回 りの三つ巴文で、珠文 も大粒 である。瓦当裏面 に 丸瓦接合用のカキヤブ リを有す るが、巴 と珠文間に2.2cmの 間隔をあけて、焼成前に直径0.8 cmの 円形 に穿孔 してい る。近世初頭 の瓦 と思われる。 丸瓦 151は 凹面にコビキAと 細 かい布 目痕、側縁 に幅広 い面取 りがみ られる。 第2c層 出土瓦類 平瓦174は 凸面に長石 。石英 。チャー トからなる離れ砂が付着 し、凹面に細かい布 目痕が ある。古代 の瓦である 第2d層 出土瓦類 軒丸瓦 は143と 145が 出土 した。143は 左回 り三つ巴文で、長い巴尾 をもつ。瓦質 を呈す るが、高温焼成である。中世 の瓦である。145は 左回 り三つ巴文 と思 われ、細 い巴尾 と大粒 の珠文がみ られる。近世初頭 の瓦である。 丸瓦 は147・ 153・ 159が 出土 した。147は 凹面に粗 い離 れ砂 が付着す る。153は 凹面にコ ビキAと 側縁 の面取 りがある。159は 凹面に布 目痕 と深い面取 りがある。いずれも中世 の瓦 である。 平瓦 は161・ 163・ 167・ 173が 出土 した。161は 砂 を多 く含 む胎土で、凸面に縄 ロタタキ 痕 と長石 ・石英 。チャー トの粗粒 の離れ砂 がみられ、凹面に布 目痕がある。須恵質 を呈 し、 中世以前 の瓦である。163は 凸面 は長石・石英 の粗粒砂 からなる離れ砂が付着 し、凹面には 布 目痕がみられる。凹面側端縁 を軽 く面取 りす る。中世 の瓦である。167は 凸面 に縄 ロタタ -31- 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 キ痕、凹面に布 目痕がみ られ、凹凸両面に細かい離 れ砂 が付着す る。須恵質 に焼成 されて いる。古代 の瓦である。173は 凸面 に縄 ロタタキ痕 と長石 ・石英の離 れ砂 が、凹面 に布 目痕 がみ られる。古代 の瓦である。 第3a層 出土瓦類 丸瓦152は 凸面 に幅 l cmと 密なタテ方向のナデがみられ、凹面にコビキAと 細かい布 目痕、 幅広 い側縁 の面取 り、吊 り紐痕があ る。中世 の瓦である。 平瓦 165は 凸面 に大柄な正格子のタタキ痕があ り、凹凸両面 に長石 ・石英 。雲母からなる 離 れ砂 が付着す る。中世以前 の瓦である。 第3b層 出土瓦類 丸瓦 148は 凹面 に布 目痕 と側縁 の軽 い面取 りをもつ。中世 の瓦 であ る。 平瓦169は ほとんど湾曲をもたず、凸面 は未調整 で煤が付着 し、凹面は平滑である。中世 の瓦 であ る。 第3c層 出土瓦類 丸瓦 は155と 156が 出土 した。155は 玉縁接合部の破片 で、玉縁部凹面 から丸瓦部凹面 の 側縁際 に加 えられた深 い面取 りのため、丸瓦部凹面 は浅 い箱形 を呈す る。鎌倉時代 の もの と思 われる。156は 玉縁部のみの破片で、凹面の三方 に深い面取 りがみ られる。中世 の瓦で あ る。 平瓦 は162・ 164・ 166・ 168・ 172・ 175。 176が 出土 した。162は 凸面 に縄 ロタタキ痕 が、凹面に布 目痕が見 られる。古代 の瓦である。164は 凸面 はハケ状 の工具でナナメ方向の ナデで、凹面 は付着 した離れ砂 をていねい なタテ方向のナデで、沈めている。室町時代 以 降の瓦である。166は ほとんど湾曲をもたず、凸面 は平滑、凹面にハケ調整が見 られる中世 の瓦である。168は 凸面 にチャー トを含 む離れ砂、凹面 に凸面台の縁 と布 目の痕跡がみえる。 中世 の瓦である。172は 凸面に縄 ロタタキ痕が、凹面に粗 い布 目痕がみられる。高温で焼成 している。古代 の瓦である。175は 凸面に縄 ロタタキ痕が、凹面に布 目痕がある。断面は外 側が自く、内側が黒 い、いわゆるアンコ状になっている。古代 の瓦である。176は 凹面台で 成形 したようで、側面のヘ ラ切 りに伴 い粘土 カスが凸面側 に飛出している。凸面 は未調整、 凹面 はハ ケ調整 されてい る。中世 の瓦である。 第3d層 出土瓦類 軒丸瓦142は 左回 りの三つ巴文で、巴頭 は トビロを呈 し、巴尾 は長 く4分 の 3周 して、次 の巴尾に連結する。復元珠文数 は約28個 を数 える。周縁部 は高 く歪み も少な く、瓦当厚 は -32- 図 26 地山上面遺構平面図 (1) -33- % ク / ︲ \ 図27 地山上面遺構平面図 (2) -34- 第 2節 00-29次 調査 大 きい。瓦当裏面周縁 に範 に押 し込んだ際の凹みがある。鎌倉時代 の瓦 と思 われる。 丸瓦 は150・ 154・ 158が 出土 した。150は 凸面 にタテ方向のていねいなナデ、凹面にコビ キAと 細 かい布 目痕 と、幅が広 く深 い側縁 の面取 りがみ られ、高温焼成 の瓦質 を呈す る。 154は 丸瓦部凸面の縄 ロタタキはスリ消 され、玉縁部凸面 には ヨコナデがみられる。凹面 は コビキAと 布 目痕、側縁 の深 い面取 りがある。玉縁部が長 いことか ら、鎌倉時代 の瓦 と考 えられる。158は 凸面 はていねいなタテ方向のナデ調整、凹面 は布 の重ね目をもつ細 かい布 目痕が見 られる。高温焼成 で須恵質を呈す る。鎌倉時代 の瓦 と思われる。 平瓦 171は 凹面 をていねい にナデ調整 した中世 の瓦である。 第4c層 出土瓦類 丸瓦 146は 凹面に布 目痕があ り、須恵質である。奈良時代以前 の瓦であ る。 平瓦160は 広端部 に向 って厚みを増す ことから、軒平瓦の一部 と考 えられる。凹凸両面 と も、タテ方向のヘ ラケズ リで調整する。須恵質で、奈良時代以前 の瓦である。 以上のように古代から近世初頭にいたる瓦が包含層から出土している。近辺には古代寺 院として瓜破廃寺[大 阪市文化財協会1992b]と 成本廃寺[大 阪市文化財協会2000b]が 知 ら れ、中世寺院として瓜破東 3丁 目(字「光流寺」 )の UR83-3次 調査[大 阪市文化財協会2000b] があるが、いずれも客土 として運搬するには遠隔でありすぎる。本書図44を 見ると、馬池 の西に接 して字 「寺池」 があり、近辺に古代以来の寺院が存在 した可能性が考えられる。 国 2)遺 構 とそ の 遺物 i)鎌 倉 時代 SX401(図 m、 ¬ 28)北 区北西隅で検出 した南北 6 東西 2m以 上の耕作地 と思われる落込みで、 基底面に耕作痕跡や踏込みが見 られる。 この落込 みに分布す る第4c・ d層 は奈良時代 までの遺物 し か出土 しなかったが、周辺の状況から長原 4層 相 x・ x・ 当の遺構 の可能性が高 い。 の断面 図は 図 13最 下段 図 ii)室 町時代 SD301(図 29∼ 34、 図版 6・ 7)人 工的に掘 られた灌漑用水路で、地山 を深 さ2.5m以 上掘込 1 :100 んで作 られてい る。近世馬池北堤 の下層 でボ ト -35- 図 28 SX401実 測 図 、 ]]] 邊 CEO . ∞ E o. o ││││ │││ 図29 SD301。 SF301断 面図 -36- きヽ 国国 -37- O〇一 ¨ 一 I= = = = = = = = = = = = = = = = = = u = = = = = T E n O 引 業肛 ニミ ヽⅢШ ムミヽ狐S 団Ш き ヽ回 ニミ ヽ国Ш SC調ヨ製 同国 SD301断 面 図 図 30 ` : ′‐181 ≦ 」 量 上 ヽ 昼 ぉ 184 1:4 図 31 SD301出 土 須 恵 器 。土 師器 第3c層 (180。 181・ 183・ 184。 186・ 188。 192・ 195)、 第 3d層 (179。 182・ 185・ 187・ 189∼ 191・ 193・ 194。 196∼ 200) -38- 10 1:4 図 32 SD301出 土羽釜 第3c層 (202・ 203・ 205。 206。 208)、 第 3d層 (201・ 204・ -39- 207)201は 土 師質、それ以外 は瓦 質 第Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 ル・ネック状に幅3.7mと 細 くなるほかは、幅10m以 上に広が つている。 この狭 くなった部 分 は樋 口と考 えられる。 この部分 に閉塞用 の堤SF301を 構築 し、水流 を止めてか ら水路全 域 を埋めてい る。埋土には 5世 紀代 の須恵器な ど古 い ものが多 いが、瓦質羽釜が示す 15世 紀前半頃の廃棄 と思 われる。掘削 は底面直上の第3e層 で検出された瓦器椀209の 13世 紀頃 の可能性があ る。当水路 を埋める過程 は、次 の第 I∼ Ⅵ期が考えられ る。 第 Itt SF301を 構築す る。 第 Ⅱ期 SF301の 北側に地山土を東 。西両岸 から掘削 した りな どして、層厚 1.5mの 土砂 を入れる。 第 Ⅲ期 SF301の 両脇 と第 Ⅱ期 の土砂 上に、層厚 lmほ どの新 たな土砂 を入れる。埋土 か ら15世 紀頃の瓦質羽釜が検出された。 この土砂 によってSD302は 埋め られる。 二 川 ヽ 1:4 図 33 SD301出 土遺物 第3c層 (210。 212・ 214・ 215)、 第 3d層 (211・ 213)、 第3e層 (209) -40- 第 2節 第Ⅳ期 SF301直 上の凹地に厚 さ 7 00-29次 調査 cmほ どの薄層 を密 に積 んで、谷間 を埋める。 第 Vtt SF301の 北面に厚 さ数十cmの 土 を入れ、第3c層 を作土 とす る水田耕作 を開始す る。 第 Ⅵ期 第 Ⅳ期 の土砂上や地山上に厚 さ lm前 後 の盛土を施 し、馬池北堤 を築 く。堤上 に溝SD202を 掘 る。 SD301出 土の遺物 上下 3層 (第 3c・ 3d・ 3e層 )に 分け られる。 第3c層 出土遺物 須恵器 は杯蓋180、 杯身181・ 183、 高杯 184。 186、 無蓋高杯 188、 甕192・ 195が 出土 し た。180は 復元 口径 14.Ocmで 、体部 。天丼部の境 の稜線 は失 われている。TK43型 式 に属す る。181は 外面がセピア色 で、ヘ ラケズ リは時計回 りであ る。TK208型 式 であ る。183は 酸化炎焼成で、橙色 を呈す る。関東系土器 とみられTK43型 式併行 であろ う。184は 脚部の 破片 で、ON46型 式 と思 われる。186は 脚部の破片 で、断面 はセ ピア色 を呈す る。TK208 型式 と思われる。188は 杯部 に 2条 の突帯 と波状文 をもつ。TK23型 式 に属す る。192は 断 面セピア色 で、凹線 の下方に縦長の波状文 を施す。TK47型 式である。195は 頸部 にカキメ が見 られる。TK10型 式 であ る。 瓦質土器は羽釜202・ 203・ 205。 206。 208、 橘鉢212・ 214、 甕215が 出土 した。202は 口縁部外面やや下方に 2段 の低 い段 を作 る。 15世 紀後半であ る。203は 口縁部外面 は 3本 の凹線で 3つ の段 を表現す る。15世 紀中葉 に 3つ の段 を作る。15世 紀中葉である。206は 炭素 を失い全体に灰白色 を呈す るが、口縁部 外面 に弱 い 3本 の凹線で、 3つ の段 を表 わ す。 15世 紀中葉である。208は 口縁部外面 は 3本 の凹線で 3つ の段 を表現す る。15世 紀中 葉 に位置す る。212は 口縁部断面 は三角形 で、内外 ともていねいなナデ調整を施 される が、外面の口縁部 と体部 との境 にハ ケ調整が -41- 217 │ 216 残 る。内面 は原体 7本 の櫛 で、2.5cmの 間隔 をあけてスリメが施 される。15世 紀前半 とみ ∩= u n 目 H = r I = = = = = H U ∩= = = = = = 日 Π 川 H I 位置す る。205は 日縁部外面は 3本 の凹線で 図 34 SD301出 - 10cm 1:4 土木製 品 第3e層 (216・ 217) 月TW#ゝ 8 ︲ 2 ○ ○ O O 。 ○ ︲ 2 u 聡 ︱ ︲ ︲ ︱ Ц ︲ ︱ ︱ ︲ い ヽ N O 十 十 鯛 ︱ O ︲ ︲ ︲ ︱ ︲ ︲ 1 ︱ ︱ ︲ 図35 SF301に 伴 う杭 -42- られる。214は 復元 口径36.8 cmで 、日縁部断面 は三角形 を呈 し、内外面 を細かいハ ケ調整後、 ヨコナデす る。 月 15世 紀前半 の もの と思 われ 227 0 る。215は 復元 口径 34.Ocm 226 で、短 い頸部 をもつ。外面 図 36 SD201出 10m 1 : 4 土遺物 はタタキ痕、内面 はハ ケ調 整後、ナデを施す。 15世 紀前半 であ る。 青白磁合子蓋210は 中国製で、つ まみの周囲に十六弁の菊花 を浮文で表現 し、上面のみ施 釉す る。 13世 紀後半 と思われる。 第3d層 出土遺物 須恵器 は杯蓋 179、 杯身182、 高杯 185。 187、 器台189、 甕190。 191・ 193・ 194・ 198 ∼200、 壺196が 出土 した。179は 体部 。天丼部境 の稜線 は突出 し、天丼部 は高 い。TK47 型式 である。182は 復元 口径 12.2cmで 、TK209型 式 と思 われる。185は 脚部 の破片 で、円 形 のスカシ孔 を 4つ 不等間隔で配す る。TK208型 式であ る。187は 脚部 の破片 で、三方に 長方形のスカシ孔 をもつ。TK47型 式である。189は 脚部 の破片 で、長方形 のスカシ子Lは 五 方向 にあいてい ると思 われる。原体 6本 による波状文 は不規則 な施文 であ る。ON46型 式 に位置す る。190は 口縁部直下 に幅広 い突帯 を付 ける。MT15型 式 に属す る。191は 全体に セピア色 を呈 し、突帯間 に波状文 を施す。TK208型 式である。193は 口縁部下 に高 い突帯 をもつ。TK216型 式 と考 えられる。194は 口縁端部 を丸 くおさめ、頸部 に 「×」印のヘ ラ記 号 をもつ。TK10型 式 と思 われる。196は 平底 の壺の体部破片 で、平城官 Ⅲの壺 Nに 底部が 似てい る。198は 断面がセピア色で、突帯間 に波状文 を施す。ON46型 式である。199は 焼 成温度が低 く、第二酸化鉄 のため明褐色 を呈す る。外面 に綾杉文のタタキ痕、内面 にてい ねいなナデを施 されている。200は 内傾する口縁部をもち、外面に原体 3本 の櫛 でキザ ミメ を施 してい る。TK47型 式 であ る。 土師器把手197は 甑か鍋 に伴 うものと考 えられ、上部中央 にヘ ラによる切込みをもつ。T K216∼ 208型 式併行 とみ られる[京 嶋覚 1992]。 土師質羽釜201は 外面 に炭素が吸着 している。 口縁部 は凹線 3本 によって 3つ の段 を作っ てい る。 15世 紀前半 と思 われる。 -43- 瓦 質 土器 は羽釜 204・ 207、 発 211、 揺鉢213が 出土 した。204は 口縁部は凹線 3本 によって 3つ の 段 を作 る。 15世 紀前 半 で あ る。 207は 口縁部外面やや下方 に 2本 の 凹線で 2段 を表現す る。 15世 紀 前半 に位置す る。211は 表面 の 炭 素 を失ってい る。日縁部か ら体部 にか けて の 断面 は U字 形 を呈 す 写真 l SD302断 面 る。 14世 紀後半である。213は 復 元 口径 34.Ocmで 、 日縁 部 断面 は三 角形 を呈 す る。 内外面ハ ケ調整後、ナデを加え、内面 に は疎 らにス リメ を施 す 。 15世 紀 前 半 に位 置 す る。 第 3o層 出土遺物 瓦器椀 209は やや退化 した高台 をもつ 。 13世 紀 に位置す る。 木製板材216は 桶 の材 と思われ、板 目取 りされてい る。 タガの 当 った部分が痩 せ ないで 、 帯状 に高 く残 っている。中央 に釘穴がある。 木製部材217は 断面が丸 く弧 を描 くように板 目取 りされてい る。上下が欠損 してい るが 、 残存 中央部近 くに直径 1.6cmの 円形孔が穿 たれて い る。 SD302(写 真 1)幅 0.6∼ 2.Om、 深 さ0.5∼ 1.Om、 長 さ5.Om以 上の溝 で 、第 Ⅲ期 に埋 め られてい る。馬池 が満水 になった 際 の水抜 きのために設け られた溝 と思 われる。 SF301(図 29。 35、 写真 2・ 3) 上辺の幅 1.2m、 下辺 の幅 3.5m 以上 の 断面形 が台 形 を呈 す る、 SD301を 閉塞す るために第3f層 で 構築 された堤である。北面 には土 留 めのために、 6本 の杭が打設 さ れて い た。 写真 2 杭 218∼ 223は SF301の 1ヒ 面 に SF301杭 出土状況 -44- 第2節 00-29次 調査 打 込 まれ た杭 で 、構 築 時 の 土留 め の ため の もの と考 え られ る。 SD301溝 底部 に刺 さ って い たの は222・ 223の み で 、 これ らは支持 杭 と考 え られ 、 ほか は補助 用 に用 い られ た 。樹 種 は 218∼ 221・ 223の マ ツ属 複 維 管 東 亜 属 (Pinus subgen.,ノ OXyfο n sp.)い わ ゆ る二 葉 松 類 マ ツ 科 で 、222の み ヒノキ (chamaecypals οbrysa)ヒ ノキ科 であ つ た。 218は 全長89cmで 曲 った枝 を用 い 、杭先 の面取 りは 1面 であ る。219は 全長146cmで 、杭先 の面取 りは 3面 である。220は 全 長108cmで 、杭先 の面取 りは 2面 である。221は 全長89cmで 、 杭先 の 面取 りは 2面 である。223は 全長 250cmで 、杭先 の面取 りは一 方向か ら 3回 の切削で形成 されて い る。 唯 一 ヒノキ材 であ る222は 、心材 (赤 身)を 残す が 、辺材 (白 太 )は 失われて いた。遺存 して い る もっと も外側 の年輪 はA.D. 536か 537年 だが 、伐採年代 は +100∼ 200年 で考え るべ きであ ろ う。す なわ ち飛鳥か ら奈良時代 にかけての 伐採 と考 え られ る。残存 長 304cm、 最大径 13cmで 、杭先 の面取 りは 6面 の 多面 体ある。杭 の先端 か ら44cmと 85cmの 位置 に、直径 l cmで 貫通 した穴が見 られ、先端か ら17cmと 24cmと 174cmの 位置に貫通 し ない縦 3 cm、 横 l cmと 直径 l cmと 縦 2 cm、 横 l cmの 長方形や円 形 の穴が 3個 あ り、 これ らは木舞や胴縁 を差込んだ穴 と思われ るこ とか ら、古代建築 の柱材 を転用 して15世 紀 に杭 として用 い られた と思 われる。 これ らの杭はSF301構 築時 に横矢板 と組合 わせて壁面 を養生 した もの と思 われる。補助杭 218・ 220の ようにSF301の 中途 に打込 まれた ものは、中腹 よ りも_Lの 壁面 を支えた ものであろ うが、横矢板 は除去 されたの か、残 ってい なか った。 ili)近 世 ∼近代 SD201(図 36∼ 38・ 41、 図版 4・ 16・ 18・ 19・ 22、 写真 1) 長原 2層 段階で 、馬池堤 の北裾 に設けられた東西溝 で、幅 1.0 m、 深 さ0.6mを 測 り、方位 は東 で北 に約 10度 振 る。 平瓦 178は 凹面 に原体が 2本 の櫛 で カキヤブ リを入れてい -45- 写真 3 檜材 の杭222 (縮 尺 1/20) 、 \o \ . 四 。N鵬 旧引 興R 根 -46- 。Noヽ 旧 銀 8ヽ \. 図37 近世 の畑平面図 ヽ ゴ引 ノ 眩 夢 図38 近世 の畑 と型溝痕跡 -47- 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 る。 近 世 の瓦 で あ る。 須恵器甕224は 口縁端部 を丸 くお さめ、突帯間に波状文 を描 く。ON46型 式 であ る。 唐津焼皿225は 底部外面 は碁笥底、見込みに胎土 目が見 られる。 Ⅱ期 だが、豊臣後期 によ くあるタイプであ る。肥前磁器は手塩皿226と 筒形碗 227が 出土 した。226は 型打ち成形 で 放射線状 に稜線 を付け、日縁端部 は水平 に切 る。 Ⅲ期 と考 えられる。227は 圏線 の上に遠山 を描 く。 Ⅱ期 の ものであ る。 237は 胴部径 16.Ocm、 同厚 さ1.5∼ 2.Ocm、 玉縁端部径 11.5cm、 全長28.4cmの 瓦質土管であ る。最上部 1.5cmが 円錐形 を呈す る砲弾形 の木型頂部 に、幅4。 Ocmの 粘土紐 を巻 き、粘土紐 の下半 を木型 との間 に巻込むようにして粘土板 を木型 に巻付 け成形 した。胴端部 は別 の土 管玉縁部 との擦 り合 わせのため、幅2.5cm、 深 さ1.Ocmの 時計回 りのヘ ラケズ リを加 えてい る。 SD202 馬池北堤 上 に堤 を横 断 して掘 られた幅 2.Om、 深 さ1.5mの 溝 で 、水 成堆積物 で b b′ TP十 ` 電 蓮 多 … 一 ●ゝ 図 39 近世 ∼近代 の溝平面 図 -48- 第 2節 00-29次 調査 埋 没 して い る。 池満水 時 の 放水 路 と思 われ 、遺 物 が な い の で 時期 は不 明 だが 、 中世 に さか のぼる可能性 も残 る。 SD106よ りも南側 で、近世 の畑 を 3面 検出 した。 第2d層 上面検出畝群 (図 37) 東西方向 と南北方向の畝間溝 を同一面 で検出 した。切合 い関係 から前者 のほ うが古 い。 前者 は東 で北 に 8∼ 9度 振 り、畝間溝 の心 々間は0.6∼ 1.4m、 後者 は北 で東 に 5度 振 り、 畝間溝 の心 々間は0.5∼ 1.6mで ある。第2c層 で埋没す る。 18世 紀前半か ら後半にかけての 畑 であ る。 第2c層 中途面検出畝群 (図 37) 第2c層 掘削中に検出 した同層上面 の畝間溝 とは位置を異 にす る畝お よび畝間溝 であ る。 方位 は南北方向で、北 で東へ 5度 振 り、溝 の心 々間は1.0∼ 1.5mで あ る。 18世 紀後半 の畑 であ る。 第2c層 上面検出畝群 (図 38、 図版 5) 南北方向 と東西方向の畝間溝 を同一面 で検出 した。切合 い関係 から前者が古 い。前者 は 北 で東 に 5度 振 り、溝 の 心 々 間 は20m前 後 で 、後 者 は溝 を 5条 検 :嚢 出 した に過 ぎな い が 、 東 で 南 に 20度 振 り、 ヽ ′ 々間 は1.3∼ 2.lmで あ 亡 る。 18世 紀後半 か ら19 世 紀 にか け ての 畑 で あ 第 2b層 上面検 出梨溝群 ︱ 腋︲ ︲ る。 (図 38、 図版 5) 基 本 的 に東 西 方 向 の C=i::::::::::]::::::::::ii::2 ‘ 5 溝群 だが 、 SD106を 境 10m に して 方 位 を異 に す る。 SD106の Jヒ 領1で は 東 で南 に H度 振 り、南 236 図 40 近世 以降の遺構 出土遺物 SD101(228)、 SD102(229)、 SD104(230。 SK101(232・ 235。 236) -49- 231)、 SD106(233・ 234)、 第 Ⅱ章 長原遺跡西南地区の調査結果 側 では東 で北 に12度 振 る。方位的 には南側の梨溝群 は馬池北堤やSD106の 方向 に規定 され たように見 える。 19世 紀後半以降の梨溝群 であ る。 以上 のように各層 の包含遺物は上層にい くほど新 しくなっている。新 しい畑 の造成 は客 土 を搬入 しての床上 げ によることを示す。最初 の畑 である第2d層 上面検出畝群 の耕作開始 が18世 紀前半であ り、その下層の第2e層 の堆積 が17世 紀後半であることから、大和川開撃 以降、馬池堤 を改修 してのち、当地は畑地 として耕作 されるようになったと考 えられる。 第2a層 上面検出溝群 (図 39・ 40、 図版 4。 19) SD101∼ 105、 SK101は 南区南部 の馬池北堤北裾 に位置す る。 SD101(図 39∼ 41、 図版 13)馬 池北堤の北側を東西にはじる、長さ2.5m以 上、幅0.5m、 深 さ0.3mの 溝 で、陶管 3本 がソケット部分 を西に向けて連結 した状態で検出された。陶管 があ る部分 は暗渠 であ ったと考 えられる。南 にやや屈折 してSD103に 繋 が り、一連 の溝 で あ る。溝内 と北岸に数多 くの杭址が見 られる。 土師質蓋228は 内面 と口縁部外面 にていねいなナデ調整 を施す。火消 し壺 の蓋 と思われる が、年代不明であ る。 陶管240は SD101か ら 3個 体 が連結 して見 つかったソケ ッ トタイプの陶管 の一つで、胴 部径20.0∼ 20.5cm、 同厚 さ1.5cm、 ソケ ット部径 26.4cm、 全長65。 3cmを 測 る。 ソケ ット部内 面 と胴端部外面 に、幅32nlmの 小日が浅い櫛状 になった板状工具 で、 4条 の深 さ l nlmの カキ ヤブリを、 日縁部 に平行 に施 している。 カキヤブリはソケット部 を上にした時、一番上に 位置す る 1条 は幅 l nllnと 細 く、ほかの 3条 は幅 4∼ 511mと 広 く、 4条 は 5∼ 7 nllnの 間隔を とつて配 されている。 ソケッ ト部 を上にして立て、内外面に鉄釉 (失 透釉 )を 施 し、焼成が 行 われたようで、胴端部には施釉漏れ した部分があ り、胴部 口縁端部 に直径 1.5cmの 砂 目痕 が あ る。 (註 1)。 SD102(図 39∼ 41、 図版22) SD103と SD105を 繋 ぐかたちで存在す る、長 さ 9m、 1。 幅0.3mの 南北溝 だが、溝底がTP+10。 7mと 前 2者 よ りも10cm以 上高 く、溝底 に土管238・ 239の 2つ が玉縁部を北 にして連結 して置かれていた。近世 の溝 だが、土管229の 出土から 近代 にも利用 されたと考 えられる。 「115」 と書 いた刻印を打 土師質土管229は 口縁部外面 に三重 圏線 の内側にアラビア数字で つ、 ソケ ットタイプの土管 である。屈曲部内面 に 1条 の幅 l ln.lで 、3 nllnの 間隔 をとる 5条 の沈線 か らなるカキヤブリを施 してい る。 238は 胴部径 12.6∼ 13.6cm、 同厚 さ0。 8cm、 玉縁端部径 10.2cm、 全長34.6cmの 外面がプロ -50- ) 10 0 ヒ ==========コ 匡======= 図 41 溝 出土 土 管 SD101(240)、 SD102(238。 -51- 239)、 SD201(237) l:6 20( 30cm =二 ___― 一 一 ― 10・ Om \ P NR501埋 積 土層下面 ロ ゾウの足跡 X-155,57 ヽ Cm -52- P 囃鼈里 『 第 2節 00-29次 調査 ンズ に近 い光沢 をもつ瓦質の上管 であ る。 きわめて薄 く作 られてい るのが特徴 である。円 筒形 の型に粘土板 を巻 き付 け、粘土板上端部を折 り曲げて玉縁部 を成形 してい る。胴部内 面 は煤 と鉄分 の付着が顕著 で、離型の方法 を示す痕跡 は不明である。胴端部内面 には幅0.5 「∧吉印」の刻印 をもつ。239は 238と 同形 の cmほ ど面取 りが加えられてい る。胴部玉縁際 に 土管で、表面吸着の炭素 はかな り失 われている。胴部径 12.6∼ 13.4cm、 同厚 さ1。 Ocm、 玉縁 端部径9。 7cm、 全長34.8cmで 、胴部内面 は煤 。鉄分が付着 し、離型の痕跡 は不詳である。胴 端部内面 には幅0.3cmほ どの面取 りが施 されてい る。 SD103 馬池北堤の北側の東西溝で、長さ5.Om以 上、幅0.4m、 深さ0.4mを 測 る。SD101 と東 で接す る。 SD104 長 さ5.5m以 上 、幅0.6∼ 0。 9m、 深 さ0.2mの 南北溝 で、SD101に 合流す る。 モ ル タル製 の土管が出土 した ことか ら、近代 に暗渠 として使 われた ことがわか った。 TP+‖ .Om TP+ 10.8m 足 印 7・ 8 1:8 図43 足跡化石 実測 図 -53- 須恵器は杯蓋230と 杯 身231が 出土 した。230は 復元口径 14.5cnl で、MT85型 式に属する。231は 復元口径 H。 4cmで 、TK217型 式に 属する。 SD105 0。 全長 H。 5m以 上、幅 2m、 深 さ0。 15mの Jヒ で西に くの 字形に曲る南北 。東西溝である。 畝間溝からの排水溝 である可能性 写真 4 ナウマ ンゾウ足印 2(南 か ら) もある。 SD106(図 40、 図版 19)1ヒ 区南部に位置 し、東で北 に 7度 振る東西溝で、北側で高 くな る段の南裾 に沿 つて掘 られてい る。長 さ13.Om以 上、幅 1.Om、 深 さ0.2mで ある。 土製 ミニチュア土 人形233は 虚無僧 を形作 る。 肥前磁器碗234は 体部外面 に丸文 を配 し、透明釉 を掛 け分けてい る。 Ⅱ期 に位 置す る。 SK101(図 40)SD104に 切 られる南北2.5m、 東西 1.2mの 不整楕円形 を呈 し、深 さ0。 25 mを 測 る。近世 の作土 で埋没 してい る。 19世 紀 の土墳 と考えられる。 関西系陶器蓋232は 天丼部のみ施釉する。 18世 紀末か ら19世 紀前半 の もの とみ られる。 青花碗235は 内外面に圏線 を多用 し、透明釉が分厚 い。 16世 紀 の ものである。 土 師質土器大 皿236は 体部 にていねい な ヨコナデを施す。 19世 紀 と思われる。 iv)更 新世 NR501と ナウマンゾウの足跡化石 (図 42・ 43、 図版 10、 写真 4)NR501は 東 で北に40 度振 る幅4.5∼ 8.Om、 深 さ0.6mの 自然流路である。NR501の 埋積土層が長原15層 、NR501 のベースになる層 は直下に火山灰層があ り、吾彦火山灰層 (降 灰時期は8.7万 年前)に 対比 さ れるか ら、長原 16A層 と考えてい る。埋積土層上面 とベースの層上面に長鼻類や偶蹄類の 足跡化石が見 られる。足跡化石 は 7∼ 8万 年前 の もの と思われ、長鼻類の ものを前者で 3 個、後者で13個 検出 した。長鼻類 は、当時 日本に生育 してい た長鼻類 の化石骨がすべ てナ ウマ ンゾウであることか ら、それら足跡化石はナウマ ンゾウの もの と判断 した。偶蹄類は オオッノジカと推定 される。 以下の記述は、[「 ゾウの足跡調査法」 編集委員会1994]が 定義 した用語を用いた。図43の 等深線は l cmで ある。 -54- 第 2節 00-29次 調査 足印 2 NR501の 北 側 、埋 積 土 層 上 面 で検 出 され、左 前 足 の足 印 と考 え られ る。 第 3。 4指 印が残存 してお り、指先 は西を向いていた。足印回の長径 は45cm、 短径 は41cmで ある。 足印 7・ 8 NR501の 北側、埋積土層下面で検出され、左前 ・後足の足印 と考 えられる。 左前足印 (足 印 7)の 後方 を左後足印 (足 印 8)が 踏 んだようで、前足 の第 2・ 3・ 4指 印 と 後足 の第 2・ 3・ 4・ 5指 印 と思 われる ものが残存 している。指先 は南 を向いてお り、足 印 8の 足印日の長径 は33cm、 短径 は26cmで あ る。 3)小 結 今回の調査 では次 のような成果 を得 ることがで きた。 1、 中世 の灌漑用水路 を検出で きた。馬池北堤は中世 も同 じ位置 に存在 し、現、馬池北 堤 の下層で灌漑用水路がボ トル・ネック状 に狭 くなっている状態 か ら樋 口と判断 した。 こ こで水量 を調整 したと考えられる。水路 を放棄す るに当 って、樋 口を閉塞 してい る。 2、 水路 を埋めて水 田にしているが、耕作開始 も長原 3層 の時期 と考 えられる。 3、 馬池北堤の構築の時期 は不明だが、樋 口閉塞 の時期が15世 紀中葉頃であることから、 中世 まで さかのぼることがわかった。 4、 調査地北区で、長原 4層 段階の耕作痕跡 を確認 した。 5、 古代 の遺構 は確認 で きなか ったが、水路の埋土や包含層 か ら古墳時代中期 ∼飛 `鳥 時 代 の須恵器 ・土師器 。埴輪 を採集 で きた ことか ら、周囲 に当該期 の集落や古墳群が広が っ ていたと推測 される。 6、 馬池の北側では既調査 で 7万 年前頃のナウマンゾウの足跡化石が確認されているが、 当地で も同時期 の ものが見 つか ったことで、足跡化石 の分布 はかな りの広が りをもつこ と がわかった。 註) 赤瓦"を 葺 くことで著名な会津若松城では、 (1)土 管に酸化鉄 を施釉 す る始 まりは不明だが、鉄釉 を施 した“ 『陶家先祖覚書』([会 津本郷陶磁器業史編纂委員会1969]所 収)か ら、慶安元年 (1648)に 、 地元 に伝 わる 冬場 の凍結 による瓦破損 を防止す るため、赤瓦 を焼 き始めたようである。会津若松市教 育委員会 近藤 真佐夫氏 の御教示 を得た。 -55- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 第 1節 馬 池 と 中世 の 灌 漑 用 水 路 馬池 は大和川開盤 をさかのぼる中世か ら存在 していた。最初 の築堤時 を限定す る ことは で きないが、今回、馬池北堤 を発掘 し(位 置 は近世 の西日樋 の東側、00-29次 )、 その下層 の中世灌漑用水路 と樋 日の廃止が、15世 紀中葉頃であ ることがわか った。それ以前 か ら馬 池 は、北方 に給水 していたのであ る。 第 Ⅱ章で述べ たようにまず樋 口を上砂 で閉塞 し、水路 はおもに地山土を掘崩す ことによつ て埋め、かさ上 げ して水 田化 した。江戸時代 に北堤 を横断す るように掘 られた水路SD202 は満水時の放水路 (常 用洪水吐)で ある可能性 もあるが、水路底 の標高がTP+10.6mで あ る のに対 して、中世 の水路SD301底 の標高 は、樋 口部分でTP+8。 Omで あるなど非常 に低 く、 地山を深 く掘下げるなどの地業 を伴 っている。中世 の馬池灌漑用水 の性格 を考 えてみた。 1)中 世 の 灌 漑用水 路 の復 元 馬池東堤 の調査 (99-42・ 43次 )[大 阪 市文化財協会2003]か ら中世の堤 の状況 を復元すると、池底 でTP+9.8∼ 10.5 m、 堤 の天端 でTP+H.7m以 上であっ た。北堤では中世樋日の横 の地山高所で TP+11.3mで あ り、樋口閉塞 と一連 の 地業 と思われるⅥ期で築造された堤の最 高所 はTP+12.lmで 、東堤 よ りもやや 旨隆がある。廃止直 高いが、同時期の可育 前の馬池堤 の標高がTP+13.3m前 後 で あるのに比 して、中世の堤 は簡単な造作 図44 馬池 と調査 地点 -57- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 であ ったといえる。東堤中世堤 の築造が、SD301開 盤時なのか、廃止後 Ⅵ期 なのかはにわ かに判断で きないが、SD301を 閉塞 したSF301天 端 の低所がTP+10.lmで 、当時の馬池の 水位 がそれ以下 と想像 されるから、SD301は 東堤築堤 よ リー段階古 い時期 の水路 と思 われ る。加 えて、SD301の 樋 口部分底 のTP+8.Omは 、中世馬池の北端 の池底標高 を示 す と思 われるか ら、馬池内 に谷筋 がは しっていたとみて誤 りなかろ う。 また今回検出のSD301の 北端 はTP+7.5mで 、北方 の喜連東遺跡 の瓜破台地上 の地山高 がTP+7.8m前 後あ り、台地上へ の用水供給 は無理 であ るか ら、馬池谷 に沿 った低地お よ び喜連村 と平野郷 の低地方面へ の給水 と考 えられる。 ただ96-71次 調査 [大 阪市文化財協 会2001a](図 45)で 明らかになったように、馬池谷 は 8世 紀末の洪水層である長原 5層 の堆 積 で埋積 し、台地部 の標高 とほとんど変 らない平坦な状態 になってい る。長原 3層 段階で は地表面 はTP+9.2mほ どであ るから、 この水路 はやは り遠隔の低地へ の配水 の可能性が 高 い と思 われる。 さて馬池 とSD301の 結節′ 点である樋日の構造 はどのようであ ったのか。大阪狭山市 の狭 山池は古代から近代 にいたる樋 の構造 を見 るには好個 の資料 である[大 阪府立狭山池博物館 0 500m 顧 図45 馬池谷復元図 ([大 阪市文化財協会2002]図 2に 加筆) -58- 2001]。 しか し幅 20m以 上 の堤 の 地下 に長 さ数十 mの 木製樋管 を横 断 させ 、水温 の高 い上 部水 を供 給 す るため に四段構 造 を もつ尺八樋 を設 け た [大 阪狭 山市教 育委員会 1994]狭 山池 と、堤 の 幅数 mで 地 山 を素掘 りしただ けの樋 口を もつ 中世馬池 では、比較 にな らない の も事実 で あ る。馬池 の樋 回は水路 戸関板(底 板)佃 1板 をせ き止 める堰 に近 い構造 で あ っ た と思 われ る。 次節 で石原佳子氏が詳 しく紹介 図 46 慶長 13(1608)年 製造 、狭 山池東樋 復元 図 ([大 阪府立狭 山池博 物館 2001]に 加 筆 ) す るが 、元禄 9(1696)年 に王水 か らの取水 のため、川辺村 と若林村 が取 り交 した証文「為取替申立合戸関樋一札之事」の内に、 「砂関」と 「戸関 (樋 )」 が見える。おそ らく砂関は土嚢袋 に砂 を詰 めて流れをせ き止めただけ の もので、戸関は狭山池の近世東樋 [狭 山池調査事務所 1995]と も共通する、中央 に男柱 が あ り、手動 で戸関板 を上下 させて放水 を調整 で きる樋 口であつたであろ う。 今回の調査は池内の取水部 ではな く、池外 の排水部 の発掘 であ ったから馬池の樋 回の構 造 を明 らかにで きなか ったが、砂関・戸関の両方 の可能性 を考慮すべ きと思 われる。 2)中 世 の 灌漑用水 路 の廃 止 馬池の東 の台地部 には東除川が大和川付替え(1704年 )ま で流れていた。東除川 は西除川 と並んで、狭山池 からの灌漑用水路 の役割 を負 ったが、当初、古代 においては古市大溝 を 水源 にしていたとい う説 もある[原 秀禎 1977]。 長吉川辺 1丁 目の調査 (83-38次 )で 東除川 本流 を発掘 し、第 1期 (8∼ 10世 紀)は 幅 8m、 深 さ2.5∼ 3m、 第 2期 (11∼ 14世 紀 )は 幅 23m以 上、深 さ1.4∼ 1.7m、 第 3期 (15∼ 18世 紀初頭)幅 40m以 上の規模 であったとしてい る。地山高所 の標高 はTP+H.lmで あ る[大 阪市文化財協会 1983]。 馬池北堤 の地山高所 でTP+11.2mで あるからほとんど高低差 は見 られない。東除川から馬池への引水 も考慮す べ きであろう。 SD301は 平野郷や喜連村 などの低地部へ の給水 を考 えるべ きだろ う。何故水路 を廃止 し -59- 第Ⅲ章 遺構の検討 たか は 、第 3c層 の水 田開発 を理 由 とす るには 、 そ の得 られ る水 田面積 か ら して根 拠 が 薄 い 。 水田はあ くまで水路埋没後 の土地利用 とい う副次的事象 として考 えるべ きであ る。 一つ水路廃上で考 えられることは、15世 紀中葉 とい う時代相 である。戦国時代 の幕開け であ る応仁 の乱 は1467年 に始 まり、室町幕府管領 を務めた畠山政長は平野区加美にあ った 河内正覚寺城 で、明応 2(1493)年 、細川政元 らに攻 められて 自刃す る。す なわち当地、河 内国丹北郡付近 も中央 の政争に巻込 まれた可能性 が大 なのである。平野郷周辺は摂津 。河 内の政治 。経済的要衝 であるから、敵方の灌漑体系 の破壊 とい う挙動 は予想 される。一つ の可能性 として提示 してお きたい。 -60- 第 2節 馬池 と八 箇用水 一近世大和川北岸地域 の水利事情 一 大阪市史料調査会 主任調査員 石原佳子 1)は じめ に 馬池 は現在埋立てられ、府立長吉高校 のグラウン ドにわずかにその跡 をとどめてい る。 近年区画整理 な どによって変貌す る以前、馬池 と周辺部 が どのようであ ったか、明治 18 (1885)年 実測 の陸地測量部仮製地図か らうかが い知 ることがで きる (図 47)。 大和国か ら流れてきた大和川 は、河内国志紀郡船橋村 ・柏原村 (現 藤井寺市 ・柏原市)付 近で石川 をあわせ 、大阪平野 を西に横切 る形 で大阪湾 に注 ぎ込 んでい る。馬池 はこの大和 川北岸 に接 し、東側に川辺村、北側に長原村、西側 に東瓜破村 の集落が存在、大和川岸 か らい く筋 もの水路が開け、 これらがまた馬池やそのほかの溜池 と村 々の田地に通 じている。 対岸 には大堀村 。別所村 。三宅村 (い ずれ も現松原市)の 集落があ り、大堀村集落 の西側 で 東除川が大和川 に流入 してい る。地図上か らみると、大和川 には りつ くようにして馬池が あ り、その両岸 に村 々が展開 してい る。 しか し、 この ような大和川 を軸 とす る景観 は、宝永元 (1704)年 に行 われた大和川付替え 工事 の結果 であ り、以前 のそれ とは大 きくことなっていた。 もともと大和川 の流路 は、石川 と合流 した後そ こから北へ流れ、複雑 に分流 した後、大 坂城 の東部で淀川 と合流 していた。玉 串川 。長瀬川がそれであ る。付替 え工事 によって、 こう した流路が西に大 きく曲げられ堺港に注 ぎ込む ことになったのである。 この大和川付 替 えは、農業生産や交通、村落連合な ど、近世大坂地域 にさまざまな影響 をもたらしたが、 と りわけ直接河道 となった沿岸村 々では地域生活その ものが一変 させ られた。川辺村 では 「正保郷帳」(正 保年間は1644∼ 48年 )に よる村高581石 にたい して133石 、東瓜破村 。西瓜 破村 では、同 じく村高が両村あわせて2813石 あ ったところ、うち585石 が河道 とな り、村 内の往来 も、田畑 の用排水 も川に分断されることになったのである(註 1)。 ここでは、馬 池を中心 とす る長原 。川辺 。東瓜破地区の用水事情 の変化 を、地域 に残 された文書類か ら 復元 してみようと思 う。なお、 ここで引用 もしくは参考 にしたのは、お もに、川辺地区に ついては辻 岡千次氏所蔵文書、長原地区については城宏氏所蔵文書 である。 -61- 鞘 ヽ`‐ ‐ ‐ ■ ‐ 「金田村」に加筆 ] 「天王寺村」 図47 大和川周辺等高線図 [明 治 18(1885)年 実測 の陸地測量部仮製地図 -62- 図48 狭山池分水図[福 島雅蔵1960] -63- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 2)大 和川付替 え前 i)狭 山池懸 り 大和川が この地域を横断する以前、大和川北岸のこれらの村 々もおおむね狭山池からの 配水 にたよっていた。狭山池からの配水 は池の北堤に設置された中樋 と大樋 により、中樋 の水 は大満池をへて東除川へ、大樋の水 は西除川に流下、下流村 々には規定の順序 。時間 によって分水 されたのである。当地域 は東除川からの配水 を受けていた(図 48)。 狭山池の池守田中家が所蔵する慶長17(1612)年「狭山池中樋水出ス割符帳」(註 2)に よる と、東除川による水懸総高は2万 3322石 、これらのうちには川辺・瓜破村 とその近村のほ 表 2 慶長17(1612)年 狭山池東除川 。 (中 樋)筋 の丹北郡 住吉郡村々 か、さらに北方の喜連村 。平野郷 も含 まれてい │1辺 本 た 。り すが 2313石 ・ 寸が 581石 。4時 分 、瓜破 本 本 寸名 水 懸 り高(石 ) 分水 時 間 16時 分、平野郷 は3200石 ・22時 分の配水 であっ 川辺村 581.7 4.0 た。 この瓜破村 は後の東瓜破村の地域で、西瓜破 瓜破村 2313.6 16.0 村部は西除川筋 にはいっていた。平野郷は東除 。 大堀村 542.1 4.0 西除両川か ら用水 を得 ていた。喜連 。若林 。大 若林村 484.84 木本村 560.0 4.0 別所村 432.9 3.0 三宅村 1664.2 11.4 喜連村 1836.78 平野郷 3200.0 堀 。三宅 。別所など周辺の村々 もおなじ東除川筋 に含 まれていた(表 2)。 承応 2(1653)年「狭 山池 懸御領私領高書帳」にも川辺村 。瓜破村が含まれて いる。長原村 はこの中に含 まれていないが、馬池 22.0 や川辺村を通 じて間接的に用水 を狭山池から得て いたようである。 ii)東 瓜破村 と狭 山池用水 「東瓜破村明細帳」(註 3)に は、狭山池からの用水 を村内田地に配水す 貞享 5(1688)年 の るについて、次のように記されている。 一 、東瓜破村用水 ハ 三里 井路 上 、北条伊勢守様御知行所狭 山溜池 よ り水取 申候得共 、此池 水者村 数八拾村 余 二而、高米 四万八千石 余江割符仕 、時取 を極 、水取 申時分者 三里之 間 江大分人足 を出 シ水番為致、庄屋 。年寄昼夜肝煎、水取 申候得共、 わつ か な らては水取 不 申候 一 、同用水者拾 三 町井路上 、森本惣兵衛様御下 三 宅村溜池水 二而養 申、 田地高米弐百石程 御座候 -64- 第2節 馬池と八箇用水 一 、同用水ハ喜多見若狭守様御知行所長原村溜池水 二而養申、田地高米弐百石程御座候、 井路上ハ領つ ゝき二而御座候 一 、右長原村領内川水先例 よ り東瓜破村下之池へ 、長原村 二余 り申時分ハ もらひ申候 村 の用水 は もっぱ ら三里上流 の狭 山池 にた よって い て、池 か ら村 まで の 間 た くさんの人 足 を出 し水掻 きを して村 内 の 田地へ 引 い た。 しか し、80も の村が同池 の用水 を利用 してお り、川下 の同村 では充 Jヒ 分 に用水 を確保す るこ 摂州住吉郡喜連村 とが困難 であった。池 水 を村 まで引 くには、 東除川からい ったん三 河州丹北郡出戸村 宅村溜池 と長原村溜池 に移 して、そ こか ら取 原村溜池が馬池のこと 西 瓜破村 水 した。 ここでい う長 であ る。 そのほか、領続 きの 長原村 の川水 を村内の 西 下 ノ池 に引 き、同村 の 河州 丹 北 郡 長原 村 余水 をもらっていた。 ここでり │1水 とい うのは 馬 池 か ら延 び る畑川 ‖とも)の (端 り ことをさ している。明細帳 とと もに作成 されたとみな される同年 の東瓜破村 河州丹北郡三宅村 下絵図 (図 49)に は、三 宅村 の 新 池 ・寺 池 か ら、長原村馬池から、 南 図49 東瓜破村下絵図 矢倉久嗣氏所蔵 貞享 5(1688)年 [大 阪市文化財協会 1983]を トレース 畑川や大小 の井路 を通 じて村内田地 に引水 していた状 況が うかがえる。 -65- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 iii)馬 池 の利用 後年 の史料 であ るが、享保 2(1717)年 、馬池用水 をめ ぐる長原村 の訴状 に池 の由来 と、 大和川開盤前 の利用が述べ られている (註 4)。 往古ハ氏神正一位 日陰大明神 と唱候、毎年五月五日之早天二 くつぬ ぎと申所 にてくつぬが せ、則此池二而馬の足をひや し、夫ι馬わたし候二付、馬池 と名付候 日陰 (蔭 )大 明神 とい うのは、長吉長原 3丁 目所在 の志紀長吉神社 を指 し、東除川及流路 の東側、長原村集落 の北端に位置 している(『 大阪府全志』4[井 上正雄 1922])。 池 に設置す 「長原村高千三百三拾石余之御田地、此地二而そたて、 る樋支配 も長原村、領地 も長原村、 外 二池 とて無御座候、則此池床七 町九反八畝弐拾八歩」と、池が長原村 にとってな くてはな らない用水池 であ る ことを強調 してい る。 池 の面積 は 8町 弱、大和川開撃 によつて池面積 が半減す る前 はこの地域では もっとも大 きな溜池であ り、長原村田地 1300石 余 をうるお していたのであ る。池 には何個所 も樋 が も うけ られ、そ こか ら畑川や井路 を通 じて、長原村 。東瓜破村 ・喜連村 に用水 を供給 してい た。各樋 の名称 と水懸 り高 は次 の とお りであ る。 馬池用水 之訳 馬池西 口樋 長原村 。 瓜破村 立合 昼夜用水掻 入 申候 内 水 乗 高拾 三 町四反九畝 瓜破村 是ハ野代筋御田地江入 申候 水乗高弐町壱反余 長原村 是ハ野山筋御田地江入 申候 同池ふた また樋 此水乗高六拾壱町八反余 長原村 是ハ長原村東面御 田地江昼夜掻入 申候 同池 南 山のはな樋 。北山のはな樋 。えいせ い樋 此三 ッ之樋 上樋 ι次第 二抜、昼夜時割 の水 享保 8(1723)年 に作成 された財す絵 図写」(図 50)に 各樋 の位置 。名称 、水路 との 関係 が記 載 されて い る。西 口樋 が東瓜破 。長原両村 に、二 股樋 は長原村 に、 えいせ い (永 世 力)樋 。 北 山の花樋 。南 山の花樋 3樋 か ら、時割 に して長原 。東瓜破 。喜連 。出戸村 に用水 を供 給 した。分水 時間 は次 の よ うに定 め られて い た とい う。 -66- 東瓜破村領 磁 珍池・井路・河川 り ‖辺 村 領 ○ 川辺新田 C)集 落 >曲 図50 本 す絵図写 享保 8(1723)年 、城宏氏所蔵 (本 書 原色図版 )を トレース 往古 時取 之訳 内 昼六時 水乗 高 三 拾壱 町七反余 長原村 是 ハ 吉留代御 田地江入 申候 夜五 時 水乗 高 五 町四反 喜連 三 ケ村 同 水乗 高 九畝 両 出戸村 是ハ西 ノ戸之内 しりはめ与 申御田地江入被 申候 -67- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 同 瓜破村 水 乗 高 弐 町 四反 是 ハ 西戸之 内 な し本東方御 田地江入被 申候 同七 ッ壱 時 水乗 高弐 町七 反 両 出戸村 是ハ三わと申御田地江入被申候 iv)東 除川 と村 々溜池 馬池 は川辺村領 であ ったが、同村 の西端にあ り、他 の村域 のほ うが高所 であ るため利用 せず、村南方 の上流村 々の溜池か ら川辺村溜池 に用水 をうつ して、あるいは東除川 から直 接取水 していた。延宝 5(1677)年 の川辺村絵図 (写 真 5)か ら、村集落が村域 の中央部にあ り、その西側 を南北に長原村 に向 って東除川が流れ、南 に張出す形 で上池 ・福富池 2池 が 存在、それ らか ら水路 が村内の田畑に通 じてお り、東除川か ら東西両岸 の田畑 に、また南 y ぐ 駆ら ン3 Vら 多電ル 竃塁 ろ ヵ 撃 ふ驀 〓 分 許暴 ○ O⑬ O● 夕、 写真 5 川辺村絵 図 _… ……」 延宝 5(1677)年 、辻 岡千次氏所蔵 -68- 第 2節 部 馬池と八箇用水 2池 か ら北 方 の 田畑 に用 水 を供 給 して い た こ とが 読 み 取 れ る 。 元禄 5(1692)年 に一津屋村升が池水 をめ ぐって、周辺村 々と争論が起 うたが、その とき の別所村訴状 に川辺村が当時どこから用水 を得 ていたか次のように述べ られている(註 5)。 一津屋村 ますか池ι之除水別所村池々江入、夫ι大堀村池江入、夫ι川辺村池江入来候 (「 乍恐返答」) 川辺村之池ヘハ小川村池之除水井ニー ツ屋村東悪水大井路ニ ケ所大堀村池へ懸 り、夫 ι 川辺村田地江込申候、其上狭山東除川之水井二大つい(王 水)之 水御田地へ入被申候、 殊 ふ くとミ(福 富)池 ヘハ狭山東除川之水込申大池 二御座候 (「 乍恐口上」 ) 上手 の一津屋村升が池、あるいは隣接 の小川村田地 の悪水が川辺村 の 2池 へ 、加 えて東 「王水」の水 が川辺村 の用水源 となったこと、 ことに福 富池が東除川用水 の移 し池 で 除川 と あ ったことが述べ られてい る。そのことは村絵図 に記 される樋 と水路 の状況か ら読み取 る ことがで きる。明治18年 実測の仮製地図記載 の等高線 によると、瓜破台地の尾根筋 にのる Om=TP-1.3m、 以下、 +は 省略 に位置 し、上池 ・福富池の標高 はOP17.5m付 近、標高OP20mか ら22.5mの 一津屋村升が 村集落 と東除川がほぼOP+15mか ら+12.5m(OP± ) 池 から下方の川辺村 2池 へ 、また村内東除川か ら両岸 の田畑に用水が下 ろされていた こと が、地形上か らもうかがえるのである (図 47)。 v)川 辺村 と王水 狭山池用水 のほかに、川辺村では若林村 から王水 といわれる用水 を取 つていた。 これは、 志紀郡碓井村から誉田八幡宮境内 をへ て王地丸井路 によつて石川左岸 の村 々 を潤 し、若林 村 で大乗川 と落ち合 う用水 であ る[藤 井寺市史編 さん委員会 1998]。 元禄 9(1696)年 、王水 を引水す るための砂関 を新たに戸関に替えるについての、樋元 の若林村 との取為替証文 に その状況が うかがえる(註 6)。 為取替申立合戸関樋一札之事 一、王水参候節者往古ι若林村御田地江水入済候上、川辺村江水指下 シ申候、則若林村領 字はかん田与申所二、川辺村オ砂関仕取来 り申候付、王水参候節者、早速右之関川辺村 ι築候節二者若林村ι毎度申遣、御普請川辺村ι相勤申来候、尤若林村二者右場所江中 関二而水取来 り候へ共、川辺村領者地形次第二高ク有之候付、若林村ι築候中関之上ヲ 川辺村ι築上ケ水取来 り申候、右井関高関二而度々切 レ、大切之用水捨 り申候付、川辺 村者大分迷惑仕、若林村 も迷惑仕候付、両村申合、立会之戸関二今度願上候事 一、右戸関樋、両村立会之上、渇水 二及候共先年之通、若林村之溜 り水川辺村江かき取申 -69- 第Ⅲ章 遺構の検討 間敷候事 ― (右 王水 、若林村 ι川辺村 へ 指下 し申候付 、往古 ι年 々五 升捨壱勺 、か ます壱連 、水銭 平野札 七 匁、毎年八 月朔 日二川辺村 ι若林村江 取 来 り申候 、 自今以後先規 之通相 勤可 申 候事 右 之通両村 相談之上証文取替 し申候 上 者 、互 二違乱有 之 間敷候 、為後 日証 文如件 元禄 九 年子十 一 月 若林村 庄屋 三左 衛 門 川辺村庄屋 権左衛 門 庄屋 三 郎右衛 門 同村年寄 七 兵衛 年寄 甚兵衛 同 喜兵衛 同 仁兵衛 同 仁 兵衛 同 二 郎右衛 門 同 武兵衛 大乗川 に連なる王水井路が若林村 まで通 じてお り、 この余水 を川辺村が若林領内字 はか ん田に砂関を築 いて取水 したとい う。文書 は、 このたび戸関を仕立てて両村立会樋 とす る についての約定 であ る。川辺村か ら若林村 に水銭等 を八 朔時に差出 していた。 3)大 和 川付 替 え後 の 変化 大和川付替え工事 によるこれら地域 の用水事情 は、従来の南 からの水系がすべ て断たれ、 かわ りに南側 を東 か ら大和川が流れるようになったことで一変 した。 i)瓜 破台 地 と新大和川 河内南部か ら中部 にかけての地勢 は、おおざっぱにいって、南部が高 く北部および北東 部 に向 って低 くなっている。狭山池 からの用水 はこうした地勢 にそって東除川 。西除川に よつて北部 の下流域 に流下 してきたのであるが、その流れが大和川 によって寸断されたの である。また、川辺か ら西側の河道地域 は南北両岸 とも瓜破台地上 にあ り、かな り地高に なっていた。 図47の 明治 18年 仮製地図から土地の高低 を読 むと、川南側大堀村集落か ら大和川、三宅 村集落 にかけてOP15m(以 下すべ てOP値 )の 等高線 をえが き、東側 の若林村集落 はその外 でそれ よ り地低 になっている。その北側 を12.5m、 10mの 等高線 が、川南 の西瓜破村地 。 東瓜破村地か ら北側の東瓜破村集落、長原村集落の北側か ら東へ続 いてい る。北側川辺村 -70- 第 2節 馬池 と八箇用水 集落 は南東 の若林村集落 とほぼおなじ程度 である。北 に張出す瓜破台地の斜面 を大和川が 横切 る形 になったので、大和川 を東 か ら西 の堺側 に流す については川底 を深 く掘 り堤防を 高 く築 くことになった。昭和 61年 測量 の 1万 分 1地 形図 によると、川辺村集落前 の明治橋 付近 で、堤高 は南北 とも大体 OPに して18.3m前 後、河道内は9。 2mで ある。堤外 は北側 で 13.3m、 南側 で15。 3mそ こそ こであ る。 そのため、大和川が村 を横切 つたとはいえ、北側村 々田地に川か ら直接取水 が困難な状 況 にあ った。 また、南側 にとっては、高 い堤防 にさえぎられて用排水 の吐け場がな くなっ た ことになった。 ii)落 堀川開撃 南岸東側 の城連寺村 で も状況 は同 じで、寛保 3(1743)年 財寸方盛衰記」(註 7)に 、 本田川床残百五十石余之場所ハ大和川東西之堤 二せかれ、南表狭 山西除川 。東除川間凡 一万人九千石程之悪水落込申候 二付、御田畑者勿論、居村へ茂水入、不時之雨 二茂御田畑 ・ 居屋鋪 一面 二水付罷成 申候 と、開盤後 の水難 が記述 されて い る。 東 除川 の流末 には排水 のための樋 が設置 されたが 、それだ けでは排水 に不十分 で 、「宝永 元 申年 、大和川違 二付 、当村領東西横堤御築立被遊候 二付 、南表之悪水 落込、御 田地 。居 村共、不時之雨 二茂五 日十 日之間水吐不 申候 二付」と、水除堤が御普請 として築 かれた こと、 「右川筋下地高二御座候 二付、毎度湛水御田地 。居村共水付罷成」 それで も 状況で、宝永 5 「り │1下 平均六尺 、巾平均二 間掘立申候」と、排水路 として落堀川が (1708)年 に百姓 自普請 で 開盤 された ことが記述 されてい る(「 村方盛衰記」)。 落堀川 は石川 と大和川合流部付近 を起 点に大和川南堤沿 い西へ流れ、南か らの悪水 を集 めた。 iii)寛 組 と八 箇用水 北側 の村 々にとって、大和川付替 えによる最大 の変化 は、南 か らの用水路 を断たれ、大 和川取水 による用水系統 を形成 しなければならない ところにあ った。 この地域 の新 しい水利系統 の基幹 になったのは寛組 と八箇用水 で、若林村 の王地丸樋 と 川辺村笠守樋 を元樋 に大和川以北 の旧東除川筋村 々で結成 され、東除川跡 を八箇用水 (八 箇 井路)と して利用 した (図 50・ 51)。 明和 3(1766)年 、寛組 7ケ 村 が大井村領内に大和川新堰設置を願 い出たときの訴状 に、 -71- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 大和川寛 の 由来 が述 べ られて い る (註 8)。 私共村 々用水之儀、宝永元 申年大和川川違已来、古来之用水、狭山東除川井溜池等、新 川 二隔 り潰地等 も有之、大和川ハ川床低 く御田地ハ地高 二御座候故、大和川之用水 ハー 向 用水 二相成不 申、用水不足仕候 二付、道明寺森下之湧水井大乗川之余水 を、大和川南方 ニ 御座候落堀川若林村領 二而井関を立、大和川 を寛 二而川北へ用水引取御田地養来申候 また後年 の 史料 で あ るが 、天保 9(1838)年 に若林村 。長原村 ・西 出戸村 か ら川辺村 に差 し入 れた文書 に も寛 の利用が記載 されて い る (註 9)。 一、新大和川筋若林村領寛組与唱私共村 々用水組、宝永元申年力組合相成、田畑相続仕罷 在、然 ル処年久敷罷成候 二付忘却之向茂有之候而者、自然 申分 二相成候 二付、今度―札 相改、左之 ケ条之通、双方申分無御座一 同承知仕候 一 、若林村領落堀川江土俵井堰可 申候事 一、王地丸元若林村 ・川辺村 。長原村三ケ組御座候処、宝永元申年ι村 々組合 二相成候事 一 、川中寛掛渡可 申事 但彼岸迄 長 原村 一一一︺ ││ 但若 林 領 鰤 ケ 群 同流 作 ハ 君 パ ^ハ 大 堀 南 本 寸 図51 王地丸樋 ・馬池間大和川堤樋絵 図、城宏氏所蔵 を トレース -72- ︹︹ 若 林村 ボ 流作 別所領 字三箇 樋 ︵ 王地丸 樋 ︶ ・境 ・… …… …・ ・ ・ ・ ・・ り 辺 ホ す 東 第 2節 馬池 と八箇用水 「是 は用 「推卜 渡井、寛 とも云」とあ り、 寛 とい うのは、F地 方凡例録』[大 石久敬 1969]に 、 「柱 を二本並べ にもして、川幅次第 水井路筋、川の上を横 にして掛越 にして用水 を通す」、 第三、四箇処 も柱を、下梁 を柱毎 に引き、桁木 を引き、其上に寛 を載 る、道具建柱 は川中 に立て、梁木柱 の上へ横 に渡 し」とあるもので、川中に柱 を立て、枕木の上に樋管 を載せ、 川向 こうから引水するための施設であつた。 「大和川渇水 幕末ごろの樋絵図(図 51)に も、大和川を挟み、若林村南岸 と北岸の両樋間に 二相成候節、此所ヱ掛樋 ヲ掛候テ、八箇 ノ用水ヲ引申候」と、寛 をかけて南岸から八箇用水 として引水 したことが注記されている(註 10)。 先 に王水 について述べたように、本来古市 郡碓井村で石川から取水 して、誉田八幡官 。道明寺村など石川の西側、志紀郡村 々をへて 若林村 にいたる王水川 (王 水井路)で 、大和川付替え後は大和川南岸沿いの落堀川 に合流 し た。もともと、若林 。川辺村がそこから取水 していたところへ、大和川付替 え後、新たな 水源 として八箇用水の元樋になったとみえる。 ただ し寛 は常時設置 されて い たのではな く渇水 時 だ けで あ ったが 、樋組 の名称 はここか らきて い た。常 日頃 の用水 は寛 によるのではな く、図51に あ るよ うに、大和川堤 の 、王地 丸樋 (字 三箇樋 )と 字 い や山樋 、笠守樋 か ら直接大和川用水 を取水 、 これ を八箇 井路 によっ て北方 に水 を下 し、あるい は馬池 に うつ して、長原村 や東瓜破村 田地へ 、あ るい は畑川筋 を利用 して東瓜破村 、喜連村 へ 配水 した もので あ る。 iv)大 和 川 北 岸 諸樋 大和川 開盤時、北岸 に新設 した諸樋 につい て、関係村 か ら樋元若林村 に宛 てた文書 が、 宝永 7(1710)年「一札 」で あ る (註 11)。 一、川辺村領北堤字か さも り八ケ村用水伏樋願上、従 御公儀様御伏被下候 二付、三ケ村 井関へ加 り申度義望 申間鋪候得 とも、新川掘 申候故、八ケ村 立会樋江一所 二頼申候、尤 川上之悪水者川下之用水 二成候儀者、川並何方 も同前 二御座候、然者三ケ村用水之妨 ニ 成不 申候間、井関一所 二被成、普請 ・諸役 。入用等八ケ村同前 二割符仕、井関オ下井路 之諸役 。入用銀者若林村江者少茂懸ケ間鋪候 と、庄屋 。年寄中江達而願 申二付、御同心 之上井関一所 二罷成満足仕候、勿論洪水之節、堤危相見へ候時者、若林村領内・川辺村 ・ 長原村 之通 二相守可 申候、為後 日証文如件 (川 辺 。長原 。出戸 ・竹 inl。 東喜連 。中喜連 。東瓜破村庄屋 。年寄 よ り若林村庄屋宛 ) 新規 に字笠守樋 八 ヵ村立会用水伏樋 が大和川北堤 の川辺村 内 に設置 された こと、川辺 。 -73- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 若林 。長原 3ケ 村井関の王地丸樋 に加入 して、先 の笠守樋 と合 わせ 8カ 村 の水源 と し、諸 「八ケ村」とは、 ここで一札 を差 し入れ 役 8ケ 村同前 に負担す ることが定 められた。 また、 た、川辺 。長原 。出戸 ・竹渕 。東喜連 。中喜連 。東瓜破村 に、樋元 の若林村 を加 えたもの である。 次 の文書 も同 じく宝永 7年 の もので、寛 をわたす若林村南岸字 きせん樋 か ら北岸王地丸 樋 (字 竹河)の 南北堤 2個 所樋 に長原村 が加入す ることと、北堤 の川辺村字 いや山に樋 を新 設す ることを定 めてい る (図 51)。 設置 された北堤樋 はいず れ も公儀普請所 であ った。 (註 12)。 一本L 一 、若林村領南堤字 きせん町二用水伏樋壱 ヶ所、同村領北堤字竹河 二用水伏樋壱 ヶ所、右 弐 ヶ所之用水樋者若林村 。川辺村 。長原村 三ケ村立会御願申上、従 御公儀様御伏替被 下候事 一、新川 二罷成候 二付、右長原此方二交 り申度由、若林村庄屋 。年寄中へ願 申候故、御同 心 二而三ケ村立会樋罷成候、尤川上之悪水者川下之用水 二成候義者、古来オ川並何方茂 同前之事 二御座候 二付、若林村御田地江入済、其次川辺村 。長原村段 々二取申候事 (中 略) 一、川辺村 いや山二おゐて、川辺村 。長原村両村立会用水樋願上、従 御公儀様御伏被下、 大堀村領川之内二丼関 ヲ申候 図51に みえる若林村南北樋 のほか に、 いや山に も樋 を新設、 これは対岸 が東除川流末 に な り、大和川 と落合 い川水 が多 い ところを、井 関 を立 て川敷 の北側 に導水 、東除川狭 山用 水 にかわ る水 源 と したので あ る。 v)犬 走 り井 路 か ら八 箇 用水 ヘ 同文書 は、続 い て、新 しく川 敷 内北堤添 い に大走井路 を もうけた ことを述 べ る。 八ケ村迄之用水 二而候得者、流細 ク届 キ兼不 申与存候所、殊八ケ村内六ケ村之義者、川 内井関ι下村 々程遠 ク候ゆへ 、用水届 キ申間敷候間、若林村領北堤犬走 二丼路口付候者、 か さ水 も弥多 ク参 り、川辺村 。長原村之義者不及申、下六ケ村迄快 ク用水取可申候間、井 路付 させ給候 東 除川跡が八箇用水 になるのだが 、王地丸樋 や い や山樋 か ら瓜破台地上 まで直接導 くの は無理 だったため に、大和 川 の河川敷 内 に新井路 を掘 立 てることに な った。 これ を大走井 -74- 第 2節 馬池 と八 箇用水 路 といい、堤沿い に丼路 を掘るについて、新堤 でまだ危 うい としぶる若林村 を説得 して付 けたのであ る(図 51)。 この井路 か ら笠守樋 で北側 に取水 した。 宙)喜 連 3ケ 村 の取水 この樋組 について今 に残 るもっとも古 い文書 は、付替え工事完了直後 の宝永元年 H月 に 喜連 3ケ 村 から瓜破村 に差 し入れた一札 で、大和川北堤 に設置 された五十 間樋 と八箇村立 合樋か らの取水 についての記述がある (註 13)。 一本L 一、大和川筋北堤長原村領内字馬池之東表二喜連三ケ村用水樋御願申上、被仰付、喜連三 ケ村用水入 申候、東瓜破村領用水ハはた(畑 )り ‖筋川上 したり水、川辺村領八ケ村立会樋 ι御取被成候二付、右喜連村之樋ニハ御加 り不被成、尤喜連三ケ村茂川辺村領八ケ村立 会樋之用水取 申候、右弐ケ所樋之用水 はた川筋 二而一所 二落合、喜連三ケ村取申候間、 東瓜破村領右用水堰字鏡田すな原嶋之脇、三ケ所戸建堰 ヲ以、前 々之通水御入可被成候、 右用水入仕廻 申候 ハ ヽ、戸建堰 ヲ取、喜連村三ケ村へ水引下 し可申事 一、右喜連村之樋 オはた川井路筋喜連三ケ村へ水引申時分、岸崩等有之候 ハ ヽ、喜連三ケ 村ι普請為致可 申事 右之通相究申上ハ少茂相違 申間鋪候、為後 日一札如此 二御座候、以上 宝永元戊 申年十一月 (西 喜連村 。中喜連村 。東喜連村庄屋連印) 東瓜破村庄屋 。年寄中 新大和川 開整 に及 んで 、新 しい用水 源 と して同川北 堤 の馬池東 に喜連 3ケ 村立会用水樋 を設置、 この五 十 間樋 に よ り大和川 か ら取水 す ることになった (図 51)。 この際、東瓜破村 は畑川筋 を通 じて、「り │1辺 村領八ケ村立会樋」よ り取水す るので、 この樋 には加 わらないこ と、また同用水が畑川筋で喜連 3ケ 村 の用水 と一緒 になるので、 この 「八ケ村立会樋」か ら の用水 も、東瓜破村 と同様受水 していることを付 け加 えてい る。喜連村 の用水 と東瓜破村 の用水 とを分かつために東瓜破村領字鏡田砂原に戸建堰 を設け、同村が取水 したあ と喜連 3ケ 村へ用水 を下す こ と、 3ケ 村が取水 したために岸崩 れなどあ ったばあい、普請 の責任 を負 うことを長原村 に対 して約束 した。 ここにみえる 「八ケ村立会樋」とい うのは、東除川流末 の対岸、川辺村内大和川北堤 に設 置 された笠守樋 を指 し、東除川 からの用水 にかわるもの として、宝永元年 の大和川開盤時 に新設 されたもの とみ られる。 -75- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 vii)長 原村 馬 池 か ら瓜 破 村 下 ノ池 ヘ この川辺村 立会樋 か ら取水 した大和川用水 を馬池 に導 き、 さらに瓜破村下 ノ池 へ 引水 す るについ て、そ の利用 を同村 と長原村 間で取決 めたのが 、次 の宝永 5(1708)年 の文書 で あ る (註 14)。 一札之事 一、川辺村領立会樋 二瓜破村相加 り、野代 。成本表江ハ水入申候得共、瓜破村下之池江水 込口無之候 二付、長原村馬池之中ツ水通シ、右下之池江水込申様 二此度願 申候処、御同 心被成被下辱存候事 一 、馬池江水九分込 り申候ハ ヽ瓜破村下之池江水御下 シ被下筈、尤下之池江水引候節者長 原村 ・瓜破村庄屋年寄立会、分木 ヲ立置、馬池之水減 シ不 申候様 二可仕事 一 、水込候儀、毎年冬春 之中二込可 申事 一 、下之池江水引候内ハ、瓜破村 ι所 々二番人 ヲ付置、御田地パ勿論、馬池堤井井路筋少 茂損 シ不 申候様 二可仕候、尤井路両脇へ随分水 もり不 申候様 二可仕事 一 、右下之池へ水七分 目込 り候者、馬池水十分 二御込、其上少 シ宛御下 シ、下之池へ茂十 分込候約束之事 一、下之池江水込候内茂長原村領御 田地井野代 ・成本表へ茂何時茂御入可被成事 一、下之池 二水十分込 り候以上 二而茂野山之樋 ふ さき置、や は り下之池へ請込除ι落 シ、 長原村領江悪水懸 ケ 申間鋪候、但野 山井路筋 に長原村オせ き上ケ申間敷候、尤野山之樋 之上地形少茂取下ケ申間鋪候事 一、夏中二茂用水御田地江入仕廻、馬池江込 り申候ハ ヽ右 之通 二致 シ、下之池へ茂御下 シ 被 成候筈 也 右 之通互 二違背仕 間鋪候 、若不念致 シ井路筋損 シ 申候 ハ ヽ、瓜破村 ι以前 之 こ と く繕可 申 候 、若御 田地損亡仕候 ハ ヽ、見分之 上作 主 少茂損失無 之様 二瓜破村 ι よなひ可 申候 、為後 日証文働件如 宝永 五 歳子 七 月十 三 日 (瓜 破村庄屋 。年寄 か ら長原村庄屋 。年寄宛 ) 川辺領立会樋 に瓜破村が加入、瓜破村野代・成本に水 を入れたいが、瓜破村下 ノ池 に水 「長原村馬池之中ツ水通 シ、右下之池江水込申候」と長原村 に申 し入れ、利 込口がないので 用にあたつて長原村取水 を優先するとして次のように約束 した。 ①下 ノ池への引水 は馬池 に水 9分 入 った後 に下す こと、その際まず下 ノ池は 7分 目にと -76- 第 2節 馬池 と八箇用水 どめ、馬池に十分水込め終えて後に少 しずつ十分目まで込めること。②引水時には長原・ 「分木ヲ立置、馬池之水減シ不申様二可仕事」 。③水込めは 瓜破村の庄屋 。年寄が立会、 毎年冬・春の内に限ること。④池引水中は瓜破村から番人を付け、長原村田地・馬池堤・ 「少茂損シ不申様二可仕候、尤井路両脇へ随分水もり不申候様二可仕事」に注 井路筋 とも 意し、東瓜破村が修繕にあたること。⑤東瓜破村野代、成本へ水入れてよいこと。⑥下 の池に水込め終えて後は長原村字野山の樋をふさぎ、 「長原村領江悪水懸ケ申間敷候事」 。 ⑦夏中について、用水が長原田地へ十分はいつた後は瓜破村にも下されたいことを定め た。 「字野代」がその ここにみ える 「字野山」 「字野代」は、「字野 山」が馬池西隣の長原村田地、 西隣の東瓜破村田地、下 ノ池 はその西隣 にあ って、馬池西 日樋 か ら字野山・野代 を通 つて 下 ノ池にいたる用水路 を築いて引水、 これが野代 だけでな く東瓜破村南部の用水 となった。 北部については、笠守樋 か ら八箇用水 によって長原村 を経て村内に、あるいは宝永元年 の 文書 にみえる畑川 を通 じて八箇用水 を引 き入れたのであ る。 4)お わ りに 写真 6は 天保14(1843)年 の川辺村絵図で、新大和川が村内を横切るかたちで開盤 されて 後 の、川 に分断 された村 のようす を示 してい る。 居村部以南 のかな りの田畑が新川床 にな り、濃色 で表示 される街道 も川 で途絶え、橋が 掛けられた。居村部南 の北堤 には用水樋 が設置 (笠 守樋 )、 北堤内側 を東 から来 る井路 と一 所 になって、そ こから街道沿 い に八箇用水が北 の長原村 にむかって流れる。八箇用水東側 の旧東除川流路 の大半 は開発 され川辺新田に、新川 で村 と分断された福富池 は用水池 とし ての存在意味 を大 きく減 じ、西半分が開発 され丑改新田となった。大和川付替 え前 の写真 1と 比較すると、新大和川 と八箇用水 で区切 られる新 しい景観 とともに、東除川が大幅 に 縮小 し、溜池 も小 さくな り、かわ りに新田が うまれたようすが うかがえるのであ る。 「り 「当村田畑早損所 二而御座候」と、 宝暦10(1760)年 の ‖辺村明細帳」(註 15)に は、同村が 「当村木綿作稲作隔年 二仕付候」ことを記 している。絵図 に示す 同村 が早損場 であること、 本田部で も隔年に木綿作が仕付 け られていたと思 われる。同 じ瓜破丘陵上にあ って大和川 か らも遠 く、馬池 と八箇用水 に用水 のほとんどを依存せ ざるを得 ない長原村 にとっては用 水難 はさらに深刻 であ ったためか、同村 の城家文書 に次のような丼戸掘 り証文が多数残 さ れてい る。 -77- ヽ子 いヽ 安 │ン ノ/ ヽ ′ ノ 爆 ●●ヤ "0 ts<*- 涌勒 7 1 ふ │ヽ \ 旧東聡別︲︲ ・ ヽ 11 ” ヽ■Υ ■ 、 オ 昌 ′, 留ヽ 落堀ノ ││ 〕だ ヽ ・l<B ・ illや ― (摂 大堀 11ヽ ヽ ヽ卜 ぜ リ 'ミ ヘ イ ‖ 0 ギ 「 ヽ」 ヽ 電 (│ 、へ′γ ■ ヽ′■ lヽ マ I 1と ( ヽ 、 ヽヽ ヽ │き '`. 1 南 第 2節 馬池と八箇用水 組合井戸証文之事 ― 字 四分 一 上 田壱反壱畝歩 権兵衛持地之内 二今 度六人 して組合 、新井戸掘置候 、諸入用六人 へ 割合 出 シ 申候 、 自今 以後組 中廻 リニ水 明可 申候 、尤組 中之内 二水入用候 間ハ外 へ か さぬ はつ二御座候 、 但 シ入用銀弐拾八匁 四厘 権兵衛 、弐拾 二 匁 四分 三厘徳兵衛 、善兵衛拾 四匁 三 分 八厘 、拾 弐匁六分弐厘庄兵衛 、三拾 三 匁六分 一厘長兵衛 、右六人銀 〆百三拾三匁弐 分、右 之井戸 諸入用 二払相済 申候 、壱 人年 二 米弐升 つつ 、為後 日証 文傷而如件 寛延 三 年午 ノ八 月 日 長原村組合井戸主 権兵衛 印 同 庄兵衛 印 同 徳兵衛 印 同 善兵衛 印 同 八 兵衛 印 同 長兵衛 印 権 兵衛 所 持 の 長 原村 内 田地 に同人 含 め 6人 で 井 戸 を掘 り、用水 の 補 い と したの で あ る。 井 戸 掘 り入 用 銀 133匁 余 を分 担 し、 さ らに米 を年 2升 ず つ とあ るの は 、井 戸 地 主 の 権 兵 衛 へ の 支 払 い で あ ろ うか 。 新大和川付替 え後 の用水事情 はそ の後好転 せ ず、川 の水量減少 もあ い まって、八 箇用水 上流 部 の村 々では同用水掛 か りか ら離脱す る動 きも見 られた。安政 4(1857)年 、東 出戸村 が組 か ら離 れ負担 を拒否 した争論 もその一つ である。残 る村 々 だけでは 「御大切御 国役堤囲」 の御用 が勤 め られ ない と樋組 の村 々か ら東 出戸村 に対 し引止めにかか り、国役堤 の負担 だ け は今後 も分担す るこ とで和談 が 成立 した もので あ る (註 16)。 八 箇用水 あ るい は八 ケ村 の樋組 とはい え、大和川付替 え後 の水利事情変転 の結果、当初 の構 成村 も減少、 ない しは変化 せ ざるをえなか ったのは もちろ んの ことで あ るが 、 これ ら は今後 の課題 で あ る。 [付 記 ] 史料 の閲覧 お よび掲載 につ き、所蔵者の辻 岡千次氏、城宏氏 に御了解 と協力をいただいた。 記 して感謝 いた します。 註) (1)『 大和川付替工事史』[畑 中友次 1955]。 『大阪府全志』4[井 上正雄 1922]に よれば、延宝 また、瓜破村 は 8(1680)年 に東 。西瓜破村 に分村 した とい う。 -79- 第 Ⅲ章 遺構 の検討 (2)池 尻 。田中家文書、 [狭 山池調査事務所 1996]所 収。 (3)大 阪市堂島資料室旧蔵。 (4)「 馬池用水 につ き長原村訴状」、城宏氏所蔵。 (5)妻 屋宏氏所蔵、 [松 原市史編 さん委員会 1976]所 収。 (6)城 宏氏所蔵。 (7)長 谷川正彦氏所蔵文書、 [松 原市史編 さん委員会 1978]所 収。 (8)小 泉豊氏文書、 [藤 井寺市史編 さん委員会 1990]所 収。 (9)天 保 9年 間 4月「一札」、辻岡千次氏所蔵。 (10)安 政 4年「八箇樋組 一件諸書物写」の うち、城宏氏所蔵。 (11)前 掲 (10)。 (12)辻 岡千次氏所蔵。 、大阪市堂島資料室旧蔵。 (13)「 畑川用水 一札」 (14)城 宏氏所蔵。 (15)辻 岡千次氏所蔵。 (16)辻 岡千次氏所蔵、安政 4年 2月「差入 申一札之事」。 -80- 引 用 参 考 文 献 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969、 『会津本郷焼のあゆみ』 井上正雄1922、 『大阪府全志J4 清文堂 下、近藤出版社 大石久敬1969、 大石慎三郎校訂『地方凡例録』 vol.3、 大阪狭山市教育委員会1994、 「近世初期の尺八樋 (一 部)を 発掘」:『 いけだより』 pp.2-3 大阪市文化財協会1983、 『大阪市住宅供給公社住宅建設 に伴 う長原遺跡発掘調査 (NG83-38)略 報』 1989、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』I 1990、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』Ⅱ 1992a、 『長原 ・瓜破遺跡発掘調査報告』Ⅲ 1992b、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』Ⅳ 1994、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』Ⅶ 『長原遺跡発掘調査報告』Ⅵ 1997a、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』 Ⅸ 1996、 1997b、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』測 1999a、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』XIl 1999b、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』Xlll 1999c、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』XIV 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』XV 2000b、 『瓜破 。 瓜破北遺跡発掘調査報告』 2000a、 2001a、 『長原 ・瓜破遺跡発掘調査報告』nI 2001b、 「長原・瓜破遺跡発掘調査報告』)酬 2002、 「瓜破遺跡発掘調査報告』Ⅱ 2003、 『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』XIX 大阪府文化財調査研究センター2002、 『津田城遺跡一一般国道 1号 バイパス(大 阪北道路)建 設 に伴 う埋蔵文 化財発掘調査報告書 一』(調 査報告書 第71集 ) 大阪府立狭山池博物館2001、 「大阪府立狭山池博物館 図録 1 常設展示案内』 大橋康二1994、 『古伊万里の文様』 理工学社 川西宏幸1978、 「円筒埴輪総論」:『 考古学雑誌』 第64巻 第 2号 日本考古学会、pp.95-164 九州近世陶磁学会2000、 『九州陶磁の編年』 京嶋覚1992、 「古墳時代後半期 における土師器の器種構成」:大 阪市文化財協会編『長原・瓜破遺跡発掘調査 報告』Ⅲ、pp.187-200 95号 、pp.6-7 黒田慶-2001、 「大地の記憶 一馬池の成立ち一」:大 阪市文化財協会編『葦火』 古代の土器研究会1992、 『古代の土器 1 都城の土器集成』 狭山池調査事務所1995、 『狭山池遺跡東樋遺構現地説明会資料』 1996、 狭山池調査事務所編『狭山池 史料編』 -81- 「ゾウの足跡調査法」 編集委員会1994、 『ゾウの足跡化石調査法』 地学ハ ン ドブックシリーズ 9 地学団体研 究会 高橋工2000、 「飛鳥時代の集落について」:大 阪市文化財協会編『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』XV、 pp。 145 -149 田辺昭三1981、 『須恵器大成』 角川書店 中世土器研究会1995、 『概説 中世の土器・陶磁器』 真陽社 趙哲済1995、 「本書で用いる層位学的・堆積学的視点からの用語」:大 阪市文化財協会編『長原・瓜破遺跡発 掘調査報告』Ⅷ、pp.41-44 2001、 「長原遺跡の地層」:大 阪市文化財協会編『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』nI、 畑中友次1955、 pp。 7-28 『大和川付替工事史』 大和川付替二百五十年記念顕彰事業委員会 原秀禎1977、 「河内古市大溝の検討」:古 代を考える会編『河内古市大溝の検討』(古 代を考える11)、 pp.1-9 福島雅蔵1960、 「近世河内狭山池の分水慣行」:大 阪歴史学会編『封建時代の村 と町』、pp.395-437 藤井寺市史編 さん委員会1983、 『藤井寺市史』 第 6巻 上 史料編 藤井寺市 1986、 『藤井寺市史J第 3巻 1988、 『藤井寺市史』 第 6巻 中 史料編 藤井寺市 1990、 『藤井寺市史』 第 6巻 下 史料編 藤井寺市 1998、 『藤井寺市史』 第 2巻 松原市史編 さん委員会1976、 『松原市史』 第 5巻 1978、 史料編 藤井寺市 通史編 藤井寺市 松原市役所 『松原市史J第 3巻 松原市役所 若林幸子2002、 「土管内面の製作 ・調整痕跡について」:大 阪府文化財調査研究センター編『津田城遺跡 ―一 般国道 1号 バイパス(大 阪北道路)建 設に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告書 一』、pp.77-82 -82- と が き 21世 紀 の到来 と共 に、20年 にわたった長吉瓜破地区土地区画整理事業 に伴 う発 掘調査 も終焉 を迎えた。この間に得 られた資料 は莫大 な量である。 また調査前 には 田畑が広が つていた景観 も、す っか り住宅地 になってい る。 通史" 発掘調査成果 も調査次数の数 に比例 して蓄積 され、内容的にもこの地区の“ を書けるほど充実 していった。 日本全国を見渡 して も2万 年前 か ら現代 に至る通 史 を書ける地域 はどれ ぐらいあ るだろ うか。 これは地域住民 にとって も財産であ ると思 う。 今回報告書 は、 とうとう最終‐ を迎えたわけだが、 よ り多 くの一般 の人に受入 llll・ れて もらえるような、“ 長吉 ・瓜破史"を 編 むための作業 はこれか らも続けてい き たい。 末筆 ではあるが、本書 を成す に当 って関係各位 には並 々ならぬ協力 を賜 つた。 改 めて謝意 を表す とともに、今後 とも当協会 の事業へ の変 わらぬご理解 とご支援 をお願 い 申 し上 げる次第であ る。 (高 橋 工) 索 弓 │ 索引 は遺構 。遺物 に関す る用語 と、地名 。遺跡名 などの固有名詞 とを一括 して収録 した。 M MT15 MT85 0 0N46 T TK10 TK23 TK43 TK47 TK73 43 54 11,26,41,43,48 26,41,43 16, 23, 41 16,21,41 22,41,43 23,26 TK208 11, 20, 21, 26, 41, 43 TK209 TK216 TK217 11,13,43 16,20,23,26,43 13, 54 足跡化石 と の は 八 箇用水 ひ 東 除川 55 4,53∼ 16,54 12,18 H,12,58 11 12,20,21,23,48 59,61,64,68∼ 78 20,54 北花 田火 山灰 層 16 23 10,24 12 58,59,63∼ さ 堺焼 狭 山池 平城宮 Ⅱ 平城宮 Ⅲ 平城宮 Ⅵ ほ 掘立柱建物 や 大和川 20 28∼ 32,35,45 23 43 ll,18 3,12 27,28,31,32,35 50,57,59,61,62,64,66, 70∼ 畿 内第 皿様式 く クサ ビ へ ま 丸瓦 関西系 陶器 7, 12, 18, 20,22, 23,48, 54 平瓦 川辺 61,71,73,74,77,79 59,61,64∼ 66,68∼ 72,74, 75, 77 月 巴前磁 器 暗文 円筒埴輪 27, 31, 32 軒丸瓦 肥前 陶器 か 唐津焼 き せ 吾彦火 山灰 層 う 馬池谷 え す 9 あ 赤絵 66 ス ク レイパ ー 10 青花 20∼ 22,54 16,22,24 青磁 10, 26 石動失 21 瀬戸美 7ie 土管 48,50,53,55 35 軒平瓦 し 志紀長吉神社 弥生土器 65,69,70, 77,79 23 Archaeological Reports of Nagahara and Uriwari Sites in Osaka, Japan Volume XX A Report of Excavations Prior to the Development of the Nagayoshi-Uriwari Area in fiscal 2000 March 2003 Osaka City Cultural Properties Association Notes The following symbols are used to represent archaeological features and others in this text. NR Natural stream SB Building SD Ditch SE Well SF Blockade SK Pit SP Posthole or pit SX Other feartures CONTENTS Preface Explanatory notes I Chapter Outline and progress of research ......... S.l Outline of excavations in fiscal 2000 ....... 1 1 ) Excavations 2 ) About the publication of the report S.2 Outline and progress of excavations I ) Research area 2 ) Research area Chapter II ................. 3 ..........3 .........4 NG00-12 NG00-29 Results of research of the South-western sector of the Nagahara Site .........7 S.1 Research area NG00-I2 1 ) Stratigraphy and remains of the strata ii ) Remains of the strata i ) Stratigraphy ...... 7 .................7 2 ) Features and remains i ) The Asuka period ii ) From the Edo to the Modern period 12 S.2 Research area NG00-29 I ) Stratigraphy and remains of the strata ii ) Remains of the strata i ) Stratigraphy remains period 2 ) Features and i ) The Kamakura iii) From the Edo to the Modern 3) .....14 ................ 14 .......... 35 period ii ) The Muromachi period iv) The Middle Palaeolithic Conclusion .............55 ............... 57 Chapter III Discussion of features .......... ....57 S.1 Umaike reservoir and irrigation in the Medieval period ........... ....57 1 ) The re-emergence of irrigation in the Medieval period ............. 59 2 ) The discontinuity of irrigation S.2 Umaike reservoir and the irrigation channels of Hachiga - Irrigation in the northern site of Shin-Yamato River in the Edo period - ......................61 1) Introduction ...........61 River 2 ) Before the construction of Shin-Yamato i ) Irrigation water from Sayamaike reservoir -i- .................64 ii ) Relations between Higashi-Uriwari village and the irrigation water of Sayamaike reservoir iii) Utilization of Umaike reservoir iv) Relations between Higashiyoke River and the reservoir of each villlage v ) Relations between the village of Kawanabe and the irrigation channels of Osui 3 ) Changes after the construction of Shin-Yamato River ......70 i ) Plateau of Uriwari and Shin-Yamato River ii ) Construction of Otoshihori River iii) Kakehi-Gumi and the irrigation channels of Hachiga iv) Irrigation channels of Ochimaruhi, Iyayamahi and Kasamorihi v ) Irrigation channels of Inubashiriiro to the irrigation channels of Hachiga vi) Umaike reservoir in Nagahara village to Shimonoike reservoir in Uriwari village 4 ) Conclusion .............77 Bibliography ................. 8l Postscript Index English Contents and Summary Reference Card ― u― ENGLISH SUMMARY Introduction The Nagahara site is located in southeastern Osaka city and contains archaeological materials dating from the Palaeolithic to the Edo Period. This report covers the excavations undertaken in two areas around the Nagahara site (with a total area of 1,150 nt^ ; foUowing the rezoning of land in the Nagayoshi and Uriwari districts in fiscal 2000. The investigated areas consist of two southwestern areas (NG00- 12 and NG00-29). Below is an outline of the notable materials recovered and phenomena observed during these excavations arranged chronologically by archaeological period. 1 ) The Middle Palaeolithic From strata dating to 70,000 bp, the fossilized footprints of several species of megafauna, including the Naoman elephant and the Bighorn deer, were excavated near an old natural stream. However, there is no evidence of human occupation at this site. ) The Asuka period There are remains of a settlement from the early Asuka period in NG97 -L8 & 49 situated in the north of NG00-12. One post-hole was discovered in the northern end of NG00-12, and in NG00-29, which is located on the southern side of NG00-12, no such remains were found. Therefore, the post-hole is thought to be a part of a structure located in the southern end of the settlement. 2 3 ) 4 ) The Muromachi period The tap from the reservoir and the irrigation channel itself were discovered from the Medieval layer. The inigation channel was more than 2.5m in depth, and the width of the tap was narrower than the channel giving it a bottle-shaped image from above. When the irrigation channel was abandoned the tap was blocked, the channel was filled up with ground, and the area was turned into a paddy field. The Edo period There were four layers of agricultural fields near the northern embankment Umaike reservoir. of Further reading Osaka City Cultural Properties Association Uriwari Vols.I-[I) 1989-2000 Archaeological Reports of the Nagahara Osaka (In Japanese, with English summary except for -iii - sites Vols.I-XIX, 報 告 書 抄 録 ながはら 。うりわ りいせ きはつ くつちょうさほうこ く20 ふ りが な 長原 ざ瓜破遺跡発掘調査報告 XX 書名 2000年 度大阪市長吉瓜破地区土地区画整理事業施行 に伴 う発掘調査報告書 副書名 巻次 シリーズ名 シ リーズ番号 編著者名 黒田慶一 。石原佳子 ・高橋 工 編集機 関 財団法人 大阪市文化財協会 〒540-0006大 阪府大 阪市 中央 区法 円坂 1-1-35 所在 地 発行年 月 日 長原遺跡 2003年 3月 31日 西暦 ふりがな 所 1又 遺跡名 TEL.06-6943-6833 コー ド ふりがな 所在 地 市 町村 遺跡番号 27126 大阪市平野区 長吉長原西 3丁 目 調査面積 調査期 間 北緯 東経 135 12次 20000601∼ 20000711 150 34 29次 20000913∼ 20010302 1,000 長原遺跡 種別 溝 田畑 そ の他 主 主 な 時 代 主 な 遺 構 (長 吉瓜破地区)施 な 遺 物 旧石器 時代 石器遺物 弥生時代 弥生土器 ・石器遺物 古墳時代 土地区画整理事業 行に伴う調査 40 所収遺跡名 調査 原 因 (m2) 須恵器 飛鳥時代 柱穴 土師器 ・須恵器 平安 ∼鎌倉時代 足跡 瓦器 ・須恵器 ・輸入磁 器 室町時代 溝 ・閉塞用盛土 ・水 田 瓦質土器 ・瓦 江戸 時代 畑 陶磁器 ・瓦 ・土人形 ・瓦質土管 原色 図版 ,浄 原色 図 版 薫 ヽか ' 案 長 原 村 絵 図 害子保 八年 ] ︰ と ″ 難 ンン←V ¥ ● ヽ●11ゴ て」ヽ で ● ,pl縫 建 ●ヽ。ぼ ●宇 仰 湊 ○ヽき\壕 長原村絵 図 [亨 保 8(1723)年 ](城 宏氏所蔵 、付 図 の★ 印 は今回調 査地 ) 図 / ・ , 0 9 0︲ 2次 調 査 ヽ ヽ “ ヽ ヽ ,︵・ SD2011西 か ら ' L 0 01 9次 調 査 南 区 近 世 の遺 構 図版 四 〇 2 南 端 1南 束か iD I 第2c層 │1白 i(南 束か ら 01 9次 調査 近 世 の遺 構 図版 五 〇 2 IN/11〈 ) )) 北 │〈 第 2a晴 卜 it北 か ′ 1白 01 9次 調 査 南 区 中 世 の 遺 構 図版 六 〇 2 , )3011北 か ら S「 01 9次 調 査 北 区 中 世 の遺 構 図 版 八 〇 2 ) 第3a層 下面 (東 か ら ) 第3a層 下面 (北 か ら 01 9次 調査 北 区 中 世 の遺 構 図版 九 〇 2 第 4d層 1山 i(北 か ら ) 第 4d層 111r[it殊 てか ,1)) 〇 9次 調 査 北 区 中 位 段 丘 構 成 層 上 面 図 版 一〇 〇 2 嶽 身 t 鈍 ・ ・ 顎 , ′ ︶ , ¨ 汁 ■年 ■ 01 2次 調査 出 土 遺 物 図 版 一 一 〇 1 21は 第 4層 (19ヽ 21)[19・ 20は 原 ヽ 1^、 1.11音 ] 01 2次 調 査 出 土 遺 物 図 版 一二 〇 1 117)、 地 山 L面 (13)、 第 4層 11・ 18)、 01 2次 調 査 出 土 遺 物 図 版 一三 〇 1 第 1,11〕 01 9次 調 査 出 土 遺 物 図 版 一四 〇 2 第3b層 (141)、 第4a層 (124)、 第4c層 (139・ 140)[139∼ 141は 1.3倍 ] 01 9次 調査 出 土 遺 物 図 版 一五 〇 2 134 181 184 18(う )、 第3d層 (185・ 187)、 第4bl再 (131)、 鈴 lc坪 11lf),1 136) 01 9次 調 査 出 土 遺 物 図 版 一六 〇 2 59 第 2bl善 (59)、 第 3al司 1119)、 ′ 第3ciぎ (192)、 第 3d層 (189ヽ 191)、 189 第4c llBI(138)、 SD2()1(22rl) 01 9次 調査 出 土 遺 物 図 版 一七 〇 2 212 第3a層 (121)、 第3b層 (117・ 118・ 120)、 第3c層 (203・ 210・ 212・ 215)、 第3d層 (196・ 201) 01 9次 調 査 出 土 遺 物 図 版 一八 〇 2 第2c層 (72)、 第2d層 (76)、 第2e層 (111)、 SD201(225) 01 9次 調査 出 土 遺 物 図 版 一九 〇 2 55 第2a層 (54・ 55)、 54 第2c層 (78)、 第2e層 (112・ 114)、 SD106(233)、 SD201(227) 01 9次 調 査 出 土 遺 物 図 版 二〇 〇 2 第2a層 (53・ 144)、 第2d層 (143・ 145)、 第3c層 (155)、 第3d層 (142・ 154) 01 9次 調 査 出 土 遺 物 図 版 二 一 〇 2 第2d層 (147)、 第3c層 (162・ 172)、 第4c層 (146・ 160) 0 9 01 2次 調 査 出 土 遺 物 239 SD102(238・ 239)、 SI)201(237) 大阪市平野区 長原 ・瓜破遺跡発掘調査報告 XX ISBN4-900687-69-3 2003年 3月 31日 編集 ・発行 発行 ◎ 財団法人 大 阪市 文 化 財 協 会 〒540-0006 大阪市中央区法円坂 1-1-35 (TEL 06-6943-6833 FAX 06-6920-2272) 印刷 ・製本 株式会社 中 島弘 文 堂 印刷 所 〒537-0002 大 阪市東 成 区深江南 2-6-8 Archaeological Reports Of Nagahara and Uriwari Sites in(Dsaka,」 apan Volulme XX A Report of Excavations Prior to the Development of the Nagayoshi-Uriwari Area in fiscal 2000 March 2003 0saka City Cultural Properties Association A蜜畑■爛唱彙J… d N― a and U壼 剛直 S綸困h叫 VoE XX A Repqtof, Excavrtims Prior to rfrc Developmeot of the Nagayo$i-Uriwari Area in fiscal 2fi)0 m20103 0saka City CultlmIPropmies Association J…