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2008年9月1日

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2008年9月1日
大阪教育大学地理学会会報
第 55 号
2008 年 9 月 1 日
目
次
地理オリンピック(正木久仁)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1
平成 20 年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2
地理学教室教官人事および新専攻生‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
平成20年度巡検案内‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3
須磨の水系(占部太)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥8
地理学教室を卒業して 10 年たって(村上健太郎)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10
平成 20 年度教員養成課程野外実習報告(舟井 洋人)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥13
石川県南加賀地域における白山信仰(西出佳那子)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥15
離島の航空交通(奥野一生)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥16
諸連絡‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥26
地理オリンピック
正木久仁
この夏、オリンピックと名づけられた行事が 3 つ開催された。8 月 8 日から 24 日まで 204 の国、
地域が参加した北京オリンピックと、ひき続き同所で開催されたパラリンピックがある。北京オリ
ンピックはアジアで第 3 回目の夏のオリンピックであるが、
サッカーのワールドカップなどと同様、
開催地の決定は地域性や政治性が絡んだ問題であり、興味深い。冬季大会では以前から環境に及ぼ
す影響が問題視されているが、北京では大気汚染や食の安全等、急速な経済成長に伴う問題にも関
心が集まった。大会期間中に大きな問題が起きなかったが、経済効果を期待するだけでなく、環境
問題や社会問題は今後ますます重要になろう。国別獲得メダル数では中国の圧勝に終わったが、男
子 100m走のボルト(ジャマイカ)の世界新記録も驚きであった。多くの競技で国境を越えた指導
者の移動が伝えられたが、一方で、熱烈なナショナリズムも露骨で、真の国際化が課題であろう。
北京オリンピックと重なる時期に、もう一つのオリンピックが開催された。世界地理オリンピッ
クである。地理関係者以外にはほとんど知られていないと思うが、世界地理オリンピックは高校生
を対象として 1993 年に始まり、2 年ごとに開催されている。第 7 回目の今年は 8 月 7 日から 12 日
までカルタゴで開催された(場所が不明な人は地図で探してください)
。参加国は 24 カ国(北京オ
リンピックの 1 割!)
、各国 4 名、全体で 96 名の選手が参加した。日本は 2000 年の第 3 回大会(ソ
ウル)以来の参加であったが、参加者の一人が 90%以上の正解に与えられる「金メダル」
(それも
-1-
最高位)を獲得するという、すばらしい成果をあげた。伝統的に東ヨーロッパの国々が優秀な成績
を獲得してきたが、今回、日本の高校生が最高位を獲得したことは、地理嫌い、地理離れといわれ
る昨今の日本の地理学界にとって明るい話題であることは間違いない。
試験は筆記試験(論述)
、マルチメディアの映像試験、フィールドワーク試験の 3 種目あり、い
ずれも英語で出題され、英語で解答することになっている(辞書持込可)
。今回の試験問題はまだ公
開されていないようであるが、国際地理オリンピック公式ホームページ
(http://www.geoolympiad.org/)に過去問が公開されていますので、関心のある人はそちらを見て
ください。現在、日本の中高で教えられている地理と比較して、地理活性化の方策を探ってみては
いかがでしょうか。単なる知識だけでなく、地理の基礎・基本は何か、また社会的意義を何処に求
めようとしているのか、考えてみて下さい。
平成20年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事)
前期
4
1 日(火)
月 8 日(火)
5
後期
学部ガイダンス
10
1 日(水)
後期授業開始
入学式
月
4 日(土)~6 日(月)
日本地理学会秋季大会(岩手
大学)
10 日(木)
授業開始
9 日(金)
地理新専攻生歓迎会
11
8 日(土)~10 日(月)
人文地理学会(筑波大学)
教室巡検紀泉わいわい村
月
9 日(日)
第 3 回巡検京阪方面
23 日(日)
第 4 回巡検京都方面
月 16、17 日(金土)
18 日(日)
教官懇親会
3 日(火)
第 1 回巡検大阪市内方面
12
14 日(日)
大阪教育大学地理学会
月 28 日(土)
第 2 回巡検尼崎方面
月
25 日(木)
冬休み開始
7
授業終了・打ち上げコンパ
1
5 日(月)
授業再開
月
17 日または 18 日
第 5 回巡検明日香方面
27 日(火)
後期授業終了
31 日(土)
大学院入試
8 日(日)
卒論修論発表会 謝恩会
卒業・修了式
6
23 日(水)
月
8
3 日(日)~6 日(水)
月
18 日(月)~20 日(水)
二部地理学野外調査実習
2
(郡上八幡)
月
教員養成地理学野外実習
(伊賀上野)
9
1 日(月)~3 日(水)
月
6 日(土)
教養学科地域環境科学野
3
24 日(火)
外実習(淡路島)
月
28 日(土)~30 日(月) 日本地理学会春季大会(帝京
大学)
大学院入試
-2-
地理学研究室人事
平成 20 年度の非常勤の先生方は次のとおりです。
関口靖之:小専社会 I・II, 地理学基礎論 I・環境文化動態論 I
本岡拓哉(大阪市立大学大学院生):地誌概論・地域環境論
吉田雄介(関西大学非常勤講師):暮らしの環境と地図
平成 20 年度 新専攻生歓迎会
日時:平成 20 年 5 月 9 日(金)午後 6 時~8 時 柏原キャンパス生協食堂
平成 20 年度 地理学新専攻生
本年度下記の諸君を新たに地理学研究室に迎えました。
大学院修士課程(社会科教育専攻地理学専修) 3 名
高橋雅志(大手前大学)、舟井洋人(奈良大学)、森田淳一郎(奈良大学)
学部(小学校課程人文社会専攻・中学校課程社会専攻 3 回生) 12 名
浅場隆宏、浦川香織、高坂直輝、小西勝也、犀川雄創、島谷由香利、清水建伍、根井玲英奈、
濱森壮太郎、袋谷紀之、万野裕香、山田翔平
学部(教養学科社会文化コース 4 回生)8 名
有田美樹子、伊藤絵梨、江草美紀、菊川礼奈、佐野仁康、福嶋通玄、松原史哲、森永あさ美
平成 20 年度日曜巡検・野外実習
教室巡検根来街道方面(教員養成在学生セミナ-)
[期
日] 平成 20 年 5 月 16、17 日(金・土)
[集合場所] 集合場所 南海電鉄樽井駅
[集合時刻] 集合時刻 午前 10 時
[主
題] 主題 根来街道に沿う自然環境と歴史
[経
路] 南海樽井駅→徒歩→紀泉わいわい村(宿泊)→徒歩→根来寺解散
[指
導] 水野恵司・山近博義
[地
図] 地形図 2 万 5 千分の1地形図「樽井」
[費
用] 5000 円(宿泊費・昼食)
-3-
第 1 回巡検 大阪市内方面
[期
日] 平成 20 年 6 月 3 日(火)
[集合場所] 京阪電車天満橋駅改札口
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 変身する都心地区を巡る
[経
路] 天満橋駅→新八軒屋浜→北浜→堺筋→本町→御堂筋→心斎橋で解散予定
[指
導] 正木久仁
[地
図] 1 万分 1 地形図「大阪城」
[そ の 他] 雨天決行。昼食時に一時解散。入館料等で 1000 円程度必要。
第 2 回巡検 尼崎方面
[期
日] 平成 20 年 6 月 28 日(土)
[集合場所] JR尼崎駅北出口
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 尼崎の中・近世史跡めぐり
[経
路] JR尼崎駅→(バス)→近松記念館→塚口→(バス)→阪神尼崎駅→尼崎旧城下町
地区→阪神尼崎駅で解散
[指
導] 山近博義
[地
図] 2.5 万分の 1 地形図「大阪西北部」「伊丹」
[そ の 他] 雨天決行。昼食時に一時解散。バス代や入館料として 1000 円程度。
第 3 回巡検 京阪沿線方面
[期
日] 平成 20 年 11 月 9 日(日)
[集合場所] 京阪枚方市駅
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 淀川左岸
[経
路] 淀川資料館→破堤跡→枚方寝屋川の諸水路→寝屋川市駅解散
[指
導] 水野恵司
[地
図] 2.5 万分の 1 地形図「枚方」「大阪東北部」「吹田」
[そ の 他] 雨天決行。昼食時に一時解散。バス代や入館料として 1000 円程度。
第 4 回巡検 京都方面
[期
日] 平成 20 年 11 月 23 日(日)
[集合場所] 近鉄京都線向島駅 改札口
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 京の風水めぐり
-4-
[経
路] 向島駅→巨椋池干拓地<朱雀>→京阪三条駅→三条大橋鴨川<青龍>→船岡山<玄武>→
北野白梅町→木嶋神社<白虎>→嵐電太秦広隆寺駅解散
[指
導] 今里悟之・山近博義
[地
図] 2.5 万分の 1 地形図「宇治」「京都東南部」「京都東北部」「京都西北部」 20 万
分の 1 地勢図「京都及大阪」
[持 参 品] 雨具,筆記具,地図,配布資料,カメラ(適宜)など
[そ の 他] 雨天決行。昼食時は一時解散。京都市内の移動は主に電車と路線バス(交通費は 1000
円程度)。事前に配布資料を熟読のこと。要所では学生自身が読図してコースを先導する
第 5 回巡検 明日香方面
[期
日] 平成 21 年 1 月 17 日か 18 日(後日実習室に掲示)
[集合場所] 近鉄桜井駅
[集合時刻] 10:30
[主
題] 飛鳥の中心部と水源地
[経
路] 桜井駅→バス→多武峰→上→石舞台(昼食)→伝板蓋宮跡→飛鳥坐神社→甘樫丘→
橿原神宮前駅解散
[指
導] 関口靖之
[地
図] 2.5 万分の 1 地形図「畝傍山」
[そ の 他] バス代 460 円必要
二部地理学野外実習
[期
間] 平成 20 年 8 月 3 日(日)~6 日(水)
[場
所] 岐阜県郡上市八幡町、世界分布図センター(岐阜県図書館内)
[主
題] 地方小都市における町並み保全、町づくり
[指
導] 正木久仁
地理学野外実習
[期
間] 平成 20 年 8 月 18 日(月)~20 日(水)
[集合場所] 伊賀鉄道伊賀上野駅
[主
題] 城下町伊賀上野の地域調査
[指
導] 山田周二
地域環境科学野外実習
[期
日] 平成 20 年 9 月 1 日(月)~3 日(水)
[集合場所] 兵庫県南あわじ市役所
[主
題] 南あわじ市の地域調査「線香」「鉄道」「バス」
[指
導] 辻本英和
-5-
平成 20 年度大阪教育大学地理学会
下記の通り、本年度の大会・総会が開催されます。会員の皆様方のご参加をお待ちしております。なお、
当日は日曜日ですので、大会会場へは恐れ入りますが、正門の方からお入り下さい。また、駐車場はあ
りませんので、お車でのご来場はご遠慮下さい。
日
時:平成 20 年 12 月 14 日(日)10 時より
場
所:大阪教育大学天王寺キャンパス中央館 212 教室
日
程:
3 回生野外実習報告
4 回生卒論中間発表
有田美樹子: アメリカで発行されたガイドブックから見る日本のイメージとその変容
伊藤絵梨:
文学作品に描かれた地理
植村亮太:
奈良西和地域ニュータウンにおける大規模土地改変
江草美紀:
広島県福山市走島の葬送儀礼における地理学的考察
中東洋行:
比尊寺の寺域に関する研究
松原史哲:
花崗岩海岸における波食棚の形成について
修士論文中間発表
芝裕祐:
災害の伝承に関する研究
森晃史:
中学校を事例とした身近な地域における GIS 教育の実践
研究発表
羽原隆造:
開発教育のすすめ ~マダガスカルでの国際協力活動を通じて~
平成 20 年度卒業論文修士論文発表会
日
時:平成 21 年 2 月 8 日(日)11 時より
場
所:大阪教育天王寺キャンパス中央館 212 教室
日
程:
卒業論文発表
浅場敦:
鉄道駅周辺の土地利用に関する研究
菊川礼奈:
愛媛県北部地域における旧藩境域について
駒田隆浩:
西宮市における震災後の土地利用変化について
佐野仁康:
奈良県におけるショッピングセンターの分布及び特性
福嶋通玄:
ツーリストが旅に求めるもの
森永あさ美: 子供を持つ女性の保育所選択理由と保育環境−豊中市の保育所を事例に−
山内章弘:
岸和田城の機能の歴史的変遷
-6-
修士論文発表
伊藤大樹: 観光地としての城郭の集客効果に関する考察
卒業生・修了生予餞会:
懇親会(送別会)
:参加ご希望の方は、当日会場受付でお申し込み下さい。
-7-
須磨の水系
占部 太
私の住む須磨には、源氏の頃から、あるいは万葉の古から、数多くの伝承のある事は衆知であ
る。ロマンスの人業平の浮世の跡に、いかにも浜風に屈曲した腰かけ松、諸行無常の敦盛塚、本願
寺宗徒の砦、現離宮公園、明治天皇行幸の宿等、どれ一つとっても簡結に述べ難い史証である。こ
こでは文化史に触れる事を最小限にし、出来得る限り、自然科学的視点から須磨を語ってみたい。
とは言え、チームを組んでのプロジェクト的研究ではない理由から、実証困難な冒険的夢想である
点も多々あろうかと思われる。ただしかし、先達への畏怖を棚上げにし、自らの大器晩成の里程標
を記す目的で、今、ここに、拙文を刻むこととする。
須磨の字源につき、有井氏は、
「洲浜」説を推奨する。
(
「ひょうごの地名を歩く」1989 年 4 月
《P.P.86-87》
)御前の浜が、兵庫であることは、風土記にも(吉野 裕訳「風土記」2000 年 2 月
《P.P.332-333》
)見受けられ、ここに摂津が浜中心の生活圏であり、藻刈り塩田もあり、京への駅
の中継地の「洲浜」である事は、説得力を放つ。ただ、今、私は、さしたる抵抗なく、
“洲海”の
語を付したいのである。なぜなら、駅たる事が、行きずりのロマンスや別れを生むのは、源氏須磨
にも見られるではないか。今昔を問わず、須磨が駅とロマンスの海郷であることは確からしく、受
け容れ易い。又、境川という鉢伏谷に標して、摂津の隈をオトにして、とてもいい塩配だ、と今、
この造字に安居したいのである。
須磨には、山があり海があり、川があり泉があり、駅があり、道がある。瀬戸内の塩田が発達
し、三木街道あるいは徳川道という迂回が塩の道でもあった、という事は、一抹の興趣を呼ぶこと
だろう。旧石器以来、海の集落として越の民、そして若狭の浦々と比するとするなら、本邦中世の
か
こ
水手、ワタリ等々の水との関わりの濃厚な民の躍動が想起されるではないか。修法の道が塩ヶ原と
転化したのも空海の再度との結節をイメージする場が山中に確かにあったのである。手元に取引記
録がない為、実証は、もとより放擲する腹だが、あるいは、キャラバンの心を汲む事も、至難とま
では言い捨て難いのだ。
須磨に暮らしつつ、歩きながら思うのは、
「まぁ、なんと緑が豊かな事でしょう。
」との感嘆で
ある。調としての塩干も、かつての海民の誇りと共に、その感嘆ありて、鎮護国家に資したのであ
ろうか。
「時代の趨勢」として、今、天然の恵みに背を向ける事は、流れに棹するがことしである。
鈴木の陵駕も泡沫となりし、先の大戦後の神戸にはただ、山と海とが残ったのである。そして、そ
の自然の宝、水流としては福田川、妙法寺川が、須磨の河谷なのである。
かつて、近畿トライアングルに、
「六甲変動」があった。山が高まり、海が沈むからこそ、河
川の三作用が継続するのである。一般に、六甲の川は必従河川である。傾動ブロックとしての六甲
山系を刻むのは、それらが上流へと触手をのばすからである。妙法寺川は、ある種、先行谷であり、
-8-
那須与一碑付近で、険しい谷を為す。板宿とはまさに「板井戸」であり、谷口集落なのである。須
磨断層と、高取山断層に、界された地塊が右横ずれしながら隆起したことを、千守川と妙法寺川の
S 字カーブが否みようもなく物語っているではないか。離宮公園には新池があり、この地下は、単
なる沖積土質ではないので、天井川による千森川の争奪は、生来し難いのであろう。現在、過去、
未来。離宮道が西須磨を画するのは、河道の推測よりもむしろ皇紀にこそ、巡らすべきであり、こ
こでは東須磨の涌泉をも探るべきではあるが、今、西須磨の湧泉に当面して想うのは、
「こんこん
と」という事実である。ここに、PH の偏向はなく(例えば赤御影の霊泉、ショウブの新池、福祥
寺十三重の塔の泉)
、雑菌さえ除けば上質の浄水となろう。実に、僕達、私達は、生活の肉部とし
て、これらの泉に親しんでいるのであるから。
一方福田川は、山の裏である。適従河川なのだ。大阪グループの播州の河川として、稲田の庄
に、似つかわしいのである。かつて、摂関家の荘が立ち、民として重層の寄進先を奉じて争乱の地
となったことと無縁ではなさそうだ。奥須磨公園にも谷があり、川がある。塩屋谷川である。源流
の侵食は、もちろん目視で判別できるが、ここで、厄神の機能は、海の幸への転生であろうか。と
述べておくにとどめる。
私が、
「さだまさし」に、想起するのは、峠である。それも、小部峠、木見峠である。大菩薩
峠は未だ述べられない。
「庭に風吹いて稲穂がそよぐ」という事は、見事に沖積平野を詠う。六甲
は、花崗岩の山体であり、風化にもろいのは、僕達私達の了解事項であり、であるからこそ、植樹
運動があったのだ。その山野の対比を、ここに、水に語ってもらった。
以 上
・ 植生図、主要動植物地図、28 兵庫県(文化方)
・ 神戸市および隣接地域地質図(神戸市調査庁)
・ 土砂災害、水災害に関する危険予想個所図、須磨区(兵庫県神戸県民局)
・ 日本の活断層図 B 中央日本(活断層研究会編)
・ 神戸の文化財(神戸市教育委員会編)
・ 神戸市紀要「神戸の歴史」第 13 号(神戸市)
・ 変動する日本列島(藤田和夫 著)
・ 六甲山の地理(田中真吾 編著)
・ 神戸の植物化石(堀治三郎 著)
・ 海と列島の中世(網野善彦 著)
・ 神戸の歴史 研究編(落合重信 著)
・ ひょうごの地名を歩く(有井基 編著)
・ 塩の道(宮本常一 著)
・ 山の民 川の民(井上鋭夫 著)
・ 昭和時代年表(中村政則 編著)
・ 風土記(吉野裕 訳編)
・ 源氏物語(紫式部)
-9-
地理学教室を卒業して 10 年たって
村上健太郎
私は,1997 年に大阪教育大学を卒業しました。その後,大阪府立大学大学院の博士前期課程,
後期課程を経て,現在,岸和田市立きしわだ自然資料館で学芸員(植物担当)をしています。大阪
教育大学での 4 年間は,教養学科の社会文化コースに所属していました。卒業論文の指導は辻本英
和先生にお世話になり,水野惠司先生や正木久仁先生ら,教員養成課程の先生方にも,講義やゼミ
ナールでそれぞれお世話になりました。
地理学を勉強した人間が,どうして自然史博物館で植物担当の学芸員になったのか,不思議に
思われるかもしれませんが,皆さんもご存知の通り,辻本先生や水野先生は自然地理学を専門とさ
れています。私は,先生方の授業を受けるうちに影響を受けて,理系分野に移ってしまった人間と
言ってもよいと思います。大学院に進学したいと思った当初,私は,地理学の研究室で,自分のし
たい研究ができそうな大学院を探したのですが,地理学の範囲では,そうした研究室が限られてい
たり,遠方だったりして,迷った結果,理科系に転じることに決めたのです。実は,先生方にはあ
まり話したことがありませんが,この決断には,辻本先生や水野先生が大阪教育大学を卒業されて
筑波大学の大学院(地球科学研究科)に進学されたときの経験談がとても役立ちました。そして,
当時,教員養成課程で教授をされていた石井孝行先生から「生態学をやりたいなら,まず,植物な
り,動物なりの基礎的な調査法,研究法を身につけたほうがよい。そのためには,地理学の枠組に
こだわっていてはいけない。修士号なり,博士号なりをとって,研究者としてひとり立ちできるよ
」と言われ
うになったときに,地理学に戻って来たいと思ったら,そのときに戻ってくればよい。
たことも,決断するきっかけになったと思います。
理科系に転じてみると,自分の数学(特に統計学)の知識がとても浅いことに気づかされ,苦
労する面はありました。しかし,よく考えてみると,数学の知識不足については,地理学を専攻し
ていても,地形や地質,経済などを扱うことになれば,やはりどこかで同じ思いをしたかもしれま
せん。また,私が現在所属し,研究発表を書いたり,研究論文をしたりしている緑化工学会や景観
生態学会,造園学会なども,実は,文系と理系の境界領域を扱うことが多く,地理学によく似た面
を持っています。これらの学会の研究者の中には,地理学,歴史学,社会学,都市計画学,生態学,
情報科学など,他の学会でも活躍している研究者が多く在籍しており,文系・理系を問わず,多方
面からのアプローチをして,学会で議論を戦わせることが日常なのです。こうしたことを実感する
ようになると,大学入試までは,全く違うものに見えていた理系か文系かといったことも,それほ
ど大きな違いはないように思えてきました。そもそも,社会が必要とする難しい課題というのは,
理科系や文科系といった枠組みを越えた問題が多いのです。地球温暖化にせよ,生物多様性保全に
せよ,そうした種類の問題と言えますし,このような難しい問題を扱う学問では,必然的にその枠
- 10 -
組みを越えなければ,十分な議論ができないことが多いのです。
私は,自然史博物館で普及活動や標本の収集・整理を行う傍ら,都市域での生きものの保全を
目指した研究を行っています。大学院での修士論文や博士論文では,京都市の市街地にある約 40
箇所の社寺林(神社や寺に付属する森林)を巡って,そこに生育する樹木やシダ植物を記録し,そ
れらの多様性を保全するための研究を行ってきました(村上・森本,2000; 村上ほか,2003; 村上,
2005; Murakami et al., 2005)
。都市に生きる植物の生き方を見ていると,人間以上に地表面の凸
凹に影響を受けていることがわかります。尾根と谷底では,生育している植物の種類が全く違って
います(写真1)
。斜面方位の違いや地表面の撹乱頻度(崩れやすさ)によっても植生の様子は全
く違っています。私が専門にしているシダ植物は,湿った崖地に多く見られますが,平坦な場所で
は,きわめて少ない種数しか見られません。なぜそうなるのかについて,細かく説明するのは,今
回のテーマにはそぐわないので割愛しますが,こうした植物たちの生きている環境を調べるのに,
辻本先生や水野先生らから大学時代に学んだ「地表面の凹凸の見方」は,とても役に立っています。
地理学の「地」は「地球,大地」のことであり,
「理」は「きめ,模様および理(ことわり)
」だと
いうことを,山近先生の授業で習った記憶がありますが,大地のことわりを学んだ地理学での学習
経験は,確実に他の分野でも生きていますし,理系,文系に関わらない,すべての地球上の環境科
学の基礎と言えるかもしれません。今,地理学教室で勉強している学生の皆さんには,そのような,
すべての基礎につながる勉強をしているのだということを認識してほしいと思います。そして,皆
さんの前には,分野を越えた,さまざまな可能性が広がっているということを,自覚していただけ
ればと思います。また,どこかでお会いしましょう。
(文献)
村上健太郎・森本幸裕 2000. 京都市内孤立林における木本植物の種多様性とその保全に関する景
観生態学的研究. 日本緑化工学会誌, 26 巻 3 号, 345-350.
村上健太郎・松井理恵・前中久行・森本幸裕 2003. 京都市内孤立林におけるシダ植物の種組成と
微地形との関係. ランドスケープ研究, 66 巻 5 号, 513-516.
村上健太郎 2005. 孤立林の樹木とシダ, 森本幸裕・夏原由博編「生物親和都市の理論と実践」京都
大学学術出版会, 83-110.
Murakami K., Maenaka H. and Morimoto Y. 2005. Factors influencing species diversity of ferns
and fern allies in fragmented forest patches in the Kyoto city area., Landscape and Urban
Planning. 70(3-4), 221-229.
- 11 -
写真1.京都市近郊のスギ・ヒノキ林における斜面の上部と下部による林床植物の違い:
(a)斜
面下部に生育する多種類のシダ植物(ジュウモンジシダ,トウゴクシダなど)
;
(b)斜面上部~尾
根に密生するシダ植物ウラジロ
- 12 -
平成 20 年度教員養成課程野外実習報告
舟井 洋人
2008 年 8 月 18 日(月)から 20 日(水)の 2 泊 3 日の日程で、平成 20 年度教員養成課程野外実習が
行われた。参加者は教員一名(山田周二准教授)と学生十四名(修士課程二名を含む)で、調査地
は伊賀上野方面であった。今回の野外実習の目的は、三重県伊賀市上野市駅周辺の市街地の様子を
特産品、町並、観光標識と 3 つのカテゴリーに分け調べること、そしてそのデータを地図にするこ
とにより、その地図から何がわかるかを考えることが目的である。
[実習前活動]
学生達は実習前に、各自 ArcGIS を用いて伊賀市
の中心市街の地形図や空中写真を合わせた地図を作
成し、
紙地図と電子地図の 2 種類の地図を用意した。
そして現地で調査する特産品、町並、観光標識の 3
つのカテゴリーごとの班に分かれ、特産品班は伊賀
市中心市街地の卸売り・小売・飲食業事業所の分布
図を、観光標識班は伊賀市中心市街地の観光地の分
布図、町並班は伊賀市中心市街地の平屋建て・2 階
建て・5 階建て以上の建物の分布図を用意し実習に
向った。
宿泊した北村屋ホテルの前で
[実習中]
8/18(月)
12 時 調査期間中お世話になる北村屋旅館前に集合、全員で上野市駅周辺の散策を開始する。
13 時 上野城跡に到着、伊賀市の周辺地理や風土・
歴史に関する説明を教員からうける。伊賀上野城に
登閣する。
15 時 上野城跡を後にし、芭蕉翁生家に向かう。
伊賀市上野は俳聖・松尾芭蕉が生誕した地としてよ
く知られている。芭蕉生誕の地というキャッチコピ
ーは上野市駅周辺の市街地の様子にどのような影響
をもたらしているのかを考えた。
17 時 上野市駅周辺を散策し、宿に帰着各々疲れた
体を休め、翌日の班別行動時の予定をたてる。
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上野城跡で説明を聞いている学生達
8/19(火)
9 時~ 調査の目的別に 3 班に分かれ、調査を開始。わたしが同行した班は特産品を調査する班で
あった。彼らの目的は上野市駅周辺市街地にある特産品を取り扱っている店屋探し、その店屋を約
10 種類の属性に分類して、データを集めることであった。分類してある属性に該当する店屋を見つ
けると彼らは紙地図と電子地図の 2 種類の地図と野帳・デジタルカメラを用い、以下の作業を開始
した。
①GPS 搭載のPDA に入っている電子地図に店屋
の位置を点打ち、通し番号を記入、属性データを入
力する。
(写真左端の人物の作業)
② 野帳に通し番号・店名・属性データを記入する。
(写真左から 2 番目の人物の作業)
③ 紙地図に店屋の位置を点打ち、
通し番号を記入
する。
(写真左から 3 番目の人物の作業)
④ 店屋を撮影する。
(写真右端の人物の作業)
①と③の作業は地図の媒体が電子か紙かの違いだけ
で、内容はまったく同じである。よって本来は電子
地図だけに作業すれば済むことであるが、トラブル
地図に調査した内容を記す作業
が起こった時のための安全策である。実際、調査初日に PDA の GPS 機能が正常に作動しないとい
うトラブルが起こった。今回の調査では PDA にインストールしてある ArcView というアプリケー
ションを用い作業している。この ArcView には PDA が動いた位置を GPS から測位し、自動的に
地図上にその動いた経路を記入していく機能が備え付けられている。よって GPS が正常に作動し
ないとこの機能も使えなくなってしまう難点があった。
17 時 上野市駅周辺市街地の調査を終え、宿に帰着。長時間の歩きながらの調査と暑さにより、疲
れも大分感じ取られた。
8/20(水)
9 時 当初の予定より 2 日目の調査範囲が回りきれていなかったため、残りの範囲を全員で調査、
各班が 2 日目にどのように調査したのか、その調査方法や分類などを報告しあいながら残りの範囲
を調査して回った。
12 時 宿に戻り、解散。今回の調査では、紙地図と電子地図の 2 種類の地図両方を用いることによ
り、非常に効率よく作業が出来ていたと思われる。今回の調査で彼らがどのような結果を見つけだ
したのか 12 月の発表会がとても楽しみである。
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「石川県南加賀地域における白山信仰」平成 19 年度卒業研究要旨
西出佳那子
本研究では,神社が信仰に基づいて建てられた建物であると考えて, 白山神社を一つの指標とし
て用い、南加賀地域の白山信仰の分布を明らかにした。加賀市・小松市北部・白山市の平野部では白
山神社の分布が多く、能美市では少
ないという結果が得られ,南加賀地
域における白山信仰の分布には偏り
がみられた(図 1)。
その要因として、白山の可視性と
八幡神社の分布の 2 因子から検証を
試みた。その結果、白山の可視性と
白山神社の分布に関係がみられる地
域もあったが、白山の可視性がない
にも拘わらず白山神社がある地域、
白山の可視性がありながらも白山神
社がない地域があり、白山の可視性
と白山神社の分布には、明確な関係
がみられない場合があった。
また、白山の可視性がありながら
も白山神社がなかった地域には,非
常に多く八幡神社が分布していた。
その理由としては、この地域が中世,
石清水八幡宮領であった時期に、荘
園領主の石清水八幡宮から勧請したものと考えられる。この地域においては、白山神社の分布の希
薄さの要因に石清水八幡宮の影響が考えられる。
さらに、白山の可視性と白山信仰の関係について.地域住民に聞き取りを行い、より地域に密着し
たデータを集め検証した。その結果、白山神社の有無に拘わらず、白山信仰と白山の可視性には大
きな関わりがみられることが分かった。
これらの調査から、南加賀地域における白山神社の分布の要因として、白山の可視性と八幡神社
の存在が少なからず影響を及ぼしていることが明らかとなり、さらに聞き取り調査により、地域住
民の白山への信仰心には白山の可視性が大きな役割を果たしていることが分かった。
(紙面削減方針に沿い、要旨のみとし、HP 版の地理学会会報に全文記載しました)
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離島の航空交通(その1)
奥野一生
Ⅰ.は じ め に
日本の国内航空交通は,戦前期からの歴史があり1),現在の路線網は,三眼対長距離路線・遠隔
地内短距離路線・中間地中距離路線に,大きく三区分できる。すなわち,比較的長距離で旅客数が
多く,また観光客の比率が比較的高い,東京・名古屋・大阪~北海道・九州・沖縄線と,比較的短
距離で旅客数の増加率が低く,また生活路線の比率が比較的高い,離島・北海道内・九州島内線と
の,対照的な路線タイプ,そして,その中間タイプに位置し,ビジネス路線の比率が比較的高い,
中国・四国・東北・北陸の各空港からの中距離を中心とした路線である。勿論,三眼以外の幹線空
港である千歳・福岡・那覇は,北海道・九州・沖縄にて中心的な空港の位置を占めて三眼に次ぐ路
線網を構築,東京~大阪線とともに,東京・名古屋・大阪~千歳・福岡・那覇線は代表的なビジネ
ス路線でもある。なお,中国・四国及び東北・北陸では,広島・仙台・松山・小松・新潟の発展が
顕著である。
筆者は,過去に,「東京からの国内航空交通」「名古屋からの国内航空交通」「大阪からの国内
航空交通」「沖縄の航空交通」「北海道の航空交通」「九州の航空交通」「中国・四国の航空交通」
「東北・北陸の航空交通」2)と題して,東京国際空港(羽田空港)・名古屋国際空港(小牧空港)・
大阪国際空港(伊丹空港)と関西国際空港からの国内航空交通,及び,沖縄各空港の航空交通,北
海道各空港の航空交通,九州各空港(九州島内空港のみで離島空港を除く)の航空交通,中国・四
国各空港(南紀白浜空港を含む),東北・北陸各空港(松本空港を含む)の航空交通について詳細
に検討し,航空交通を取り上げる際の留意点も指摘した。いわば,前述した3タイプの内,三眼対
長距離路線を東京・名古屋・大阪からの国内航空交通や沖縄・北海道・九州からの航空交通で取り
上げ,遠隔地内短距離路線である北海道内路線と九州島内路線を北海道と九州の航空交通で取り上
げ,中間地中距離路線を中国・四国・東北・北陸の航空交通で取り上げた。そこで,その続編でも
ある本稿では,遠隔地内短距離路線である離島路線を中心に,離島各空港とその航空路線について,
国内航空交通全体の中での特色,各路線状況と発達過程,近年の動向について,具体的かつ詳細に
検討する。本稿でもって,その後の変化を除き,戦後期における日本の国内航空交通を全て取り上
げたこととなる。
日本の空港を旅客数でみると,東京(羽田)国際空港が全空港旅客数の32%(2005年度)を占め
る。空港数でみると,第一種空港5空港・第二種空港23空港・第三種空港51空港,計79空港(2005
年度)中で離島空港は34空港となり,実に43%を占め,第三種空港のみでは67%を占める。このよ
うに,日本の空港を検討する上で,旅客数から東京(羽田)国際空港,空港数から離島空港は必須
といえる。
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離島空港は,第三種空港が34空港で,北海道の礼文・利尻・奥尻,新潟県の佐渡,島根県の隠岐,
東京都の大島・新島・三宅島・八丈島・神津島,長崎県の対馬・壱岐・小値賀・上五島・福江,鹿
児島県の種子島・屋久島・奄美・喜界・徳之島・沖永良部・与論,沖縄県の粟国・慶良間・久米島・
伊江島・北大東・南大東・宮古・下地・多良間・石垣・波照間・与那国,その他の飛行場が3飛行
場で,鹿児島県の硫黄島・諏訪瀬,沖縄県の伊是名である。コミューターヘリコプターのみの発着
地は3地点で,利島・御蔵島・青ヶ島である。また,以下の本文及びグラフ中では,その他の飛行
場も,「空港」の表記で統一して使用している。
なお,離島の航空交通に関する文献としては,拙稿3)以外,航空情報編集部・翼編集部・国際空
港ニュース社編集部等がある4)。また,航空を含む交通関係の資料文献については,拙稿(1998)
を参照されたい5)。
Ⅱ.国内航空交通と離島の空港
(1)全国からみた離島の空港
離島空港は空港数で第三種空港の約3分の26)を,また非ジェット空港が離島空港の約5分の4
7)
を,さらにコミューター路線のみの空港が離島空港の約4分の38)を占めている(各2005年度)。
航空路線が設定されている離島空港はすべて第三種空港であり,本土空港がジェット化されてジェ
ット機が就航しているのに対して,離島空港のジェット化は遅れており(滑走路がジェット機対応
であってもジェット便が未就航や就航時期が夏季のみの空港がある),非ジェット空港の就航機は
コミューター機であることが多い。すなわち,第三種・非ジェット・コミューターの各空港を代表
するのが離島空港である。1977年度以降の空港旅客数で,石垣空港が離島空港で最多(1973~76年
度までは奄美空港が最多,また1977~1995年度と2003年度以降は第3種空港で最多)である。一方,
礼文空港が離島空港のみならず航空路線のある空港では2002年度旅客数最少で,2003年度より定期
航空路線がなくなり,2003年度・2004年度は波照間空港が最少,2005年度は小値賀空港が最少,20
06年度は上五島・慶良間・小値賀空港の航空路線が休止となって,定期航空路線のある空港として
は,再度,波照間空港が最少となった。その波照間空港も2007年に定期航空路線が休止となり,20
08年度は週5便運航となった佐渡空港が最少となる見込みである。日本の全空港国内線旅客数に占
める全離島空港旅客数の比率は,1970年代の半ばまで上昇し続けて4%を越えた後,停滞を経て低
下し,2001年度現在は辛うじて3%であったが,2005年度は2.9%と3%を下まわった。離島航空
路線の旅客数や旅客数増加率と路線距離をみると,他の航空路線よりも比較的旅客数が少なく,旅
客数増加率も比較的低く,また路線距離も短いものが多い。また,旅客数と路線距離は全体として
正の相関関係にあるものの,四大島大都市直行路線と奄美群島や沖縄離島のコミューター路線は,
ややその相関関係から外れる傾向にある。1973年度において,第3種空港の第1位は奄美,以下,
宮古,石垣,八丈島の順で,離島空港が上位を占めていた。全空港中でも,59空港中,宮古22位・
- 17 -
石垣23位であった。2005年度においては,86空港中,石垣17位・宮古26位である。
離島航空における構成比をみると,2001年度全離島空港旅客数の内,沖縄離島空港が約6割を占
め,奄美群島空港が約2割弱,離島振興法指定離島空港が約2割強である。沖縄離島空港旅客数で
は,石垣が約5割を占め,宮古約3割,久米島約1割,他の7空港で約1割である。奄美群島空港
旅客数では,奄美が6割を占め,他の4島で4割である。離島振興法指定離島空港旅客数では,伊
豆諸島空港が約3割(1970年代前半まで約5割を占めていた)を占め,壱岐・対馬(対馬が多くを
占め,離島振興法指定離島では対馬が最多)両空港で約3割,五島・種子島・屋久島空港計で約3
割,北海道・本州日本海側離島空港で約1割である。
以上から,日本の航空交通において離島路線は,他の航空路線とやや異なる動向を示す。すなわ
ち,四大島内では開設や維持ができないような短距離であっても,海を隔てていることで,路線設
定がされて運航されている。極端な例ではあるが,沖縄県南大東空港と北大東空港間の路線は距離
62㎞,所要時間15分,1日1便(片道)の航空便がある。しかしやはり,離島航空全体の中で旅客
数が多いのは,四大島より遠隔に位置する奄美群島と沖縄離島の航空路線で,特に石垣空港は離島
空港全旅客数の約3分の1を占めている。一方,奄美群島と沖縄離島以外の離島振興法指定離島空
港の旅客数は低迷している。このように,沖縄離島の比率が高い状態は,今後も継続すると考えら
れる。
(2)離島空港の旅客数
北海道離島空港は拙稿「北海道の航空交通」で,本州日本海側離島空港の佐渡空港は拙稿「東北・
北陸の航空交通」で,本州日本海側離島空港の隠岐空港は拙稿「中国・四国の航空交通」で、沖縄
離島空港は拙稿「沖縄の航空交通」ですでに取り上げた。以下では,伊豆諸島の空港,九州離島の
空港,奄美群島の空港を取り上げる。
① 伊豆諸島空港の旅客数
第1図は,大島・新島・神津島・三宅島・八丈島の伊豆諸島5空港と,利島・御蔵島・青ヶ島の
ヘリポートにおける旅客数推移を示したものである。
大島空港は,1952年に旧陸軍飛行場を町営飛行場として不定期運送事業と使用事業等に提供され,
1955年日本ヘリコプター輸送が東京~大島線を開設した。その旅客数は,1964年第三種空港となり,
同年特定曜日運航からF-27機就航の毎日運航となって,1960年代はおおむね増加傾向が継続し
た。1970年代前半に入って減少傾向となったがこれは沖縄本土復帰後の沖縄観光ブームによる内地
離島観光ブームの終了で観光客が減少したものであり,また,1973年伊豆諸島路線完全YS-11
機化にともない機材繰りの関係から三宅島線と集約化され,東京~大島~三宅島線1日1便となっ
たことで旅客数がさらに減少した。1974~75年にかけて空港改良工事のために供用が停止された。
1977年5月熱海~大島航路に高速船が就航,1977年7月に機材が確保されてようやく再分離により
増加に転じ,増便でさらに旅客数が増加して10万人を超えた。1985年調布~大島線開設アイランダ
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ー機が就航,1986年三原山噴火のために一時運用が休止され,1988年空港ターミナルビルが移設さ
れた。2001年3月22日に1,500mの新滑走路が旧滑走路に並行して建設・供用開始され,同年7月
1日DHC-8-Q300機就航,通常便のYS-11機便がなくなった。2002年東海汽船東京~
大島航路に超高速船ジェットフォイルが就航,航空旅客に大きな影響を与えた。2002年10月末に30
0m延長されて1,800mとなってジェット化・ジェット機が就航・新エプロンと新空港ターミナルの
供用開始されたものの,2002年度以降は旅客数減少傾向が継続,2005年大島~八丈島線開設B73
7機就航したものの,東京~大島線ジェット便維持のため,東京~八丈島線の大島寄航化といえる
ものである。2006年調布~大島線にドルニエ機就航,好評で増便された。
新島空港は,1970年村営場外離着陸場として開場,中央航空が大島~新島線を開設した。路線運
航も新島本村の借り上げによる運航であった。中央航空の基地が茨城県龍ヶ崎にあり,1972年調布
線とともに龍ヶ崎~新島線も開設,1977年龍ヶ崎~新島線は休止となった。その旅客数は,1980年
度からをグラフに表示しているが,緩やかな増加傾向を示し,場外離着陸場から第三種空港となっ
た1987年7月ノーマッド機就航(1995年運航終了),1990年代に入って減少傾向に転じた。2000年
3月15日ドルニエ228型機が就航して,2000年度は急増したものの,2002年東海汽船東京~新島
に超高速船ジェットフォイル就航もあって,それ以後は減少に転じた。しかし,ジェットフォイル
が直行便から大島経由便に変更されたりして所要時間が増加,その後は横ばいで推移していたが,
2007年度に定期便が全便ドルニエ機使用となり,旅客数が大きく増加した。
神津島空港は,1992年滑走路800mの第三種空港として供用開始,新中央航空が調布~神津島線
を開設した。その旅客数は,開設期の需要が一巡して1990年代後半に減少傾向となった。2000年ド
ルニエ228型機が就航して大型化され,2001年度は過去最高を記録したが,2002年東海汽船東京
~神津島に超高速船ジェットフォイル就航もあって,2002年度以降は減少に転じた。ジェットフォ
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イルが就航しているものの所要時間が長く,ドルニエ機使用便は3便全便となって航空側も競争力
を維持,1万人を割り込まない旅客数を維持,2007年度は増加傾向となった。
三宅島空港は,1966年滑走路1,100mの第三種空港として供用開始,全日本空輸が東京~三宅島
線を開設した。その旅客数は,1970年代前半に沖縄本土復帰後の沖縄観光ブームによる内地離島観
光ブームの終了で観光客が減少して,航空旅客も減少に転じた。特に,1973年4月伊豆諸島路線完
全YS-11機化(全日本空輸からF-27機引退)にともない機材繰りの関係から大島線と集約
化されて旅客数が減少した。1976年1,200m滑走路供用開始,1977年7月に機材が確保されてよう
やく再分離により増加に転じ,1970年代後半から1990年代までは横ばい傾向が継続した。しかし,
2000年8月の三宅島雄山噴火で三宅島空港は閉鎖,長らく東京線は運休が継続したが,ようやく,
2008年4月26日より1日1便DHC-8-Q300機就航で再開されることとなった。ヘリコプタ
ー便「アイランドシャトル」も,噴火により三宅島空港寄航を休止していたが,2005年6月24日~
8月末の期間に三宅島便一時運航が再開され,同年10月1日から三宅島便が継続しての運航再開と
なった。
八丈島空港は,1954年旧陸軍飛行場を村営場外離着陸場として活用,青木航空が東京~八丈島線
を開設した。その旅客数は,当初はセスナやタブ・ヘロンでの特定曜日運航であったのが,1960年
DC-3機就航で輸送力が増加して旅客数も大きく増加,1962年滑走路1,200mの第三種空港とし
て供用開始,F-27機就航・毎日運航となり,1969年YS-11機就航,1970年名古屋線開設F
-27機就航,1972年滑走路を1,500mに延長,1973年名古屋線YS-11機就航,八丈島は「日
本のハワイ」と称され,第一次ベビーブーム世代の新婚旅行先として人気があり,当時としては旅
客数が多かった。1954年度の開設以来,1958・59年度及び1968年度を除き,1971年度までは離島空
港旅客数第1位を継続した。1982年滑走路を1,800mに延長・東京線ジェット化(B737機就航),
1985年名古屋線休止,2000年6月東京線完全ジェット化(全便B737機に・YS-11機八丈島
線引退)されたものの,旅客数の大きな増加にいたっていない。2004年滑走路を2,000mに延長,2
005年大島~八丈島線開設B737機就航も,前述したように,大島線ジェット便維持の意味合い
が強い。
利島へリポートでは,1993年東邦航空が大島~利島~三宅島間のヘリコプター路線を開設した。
御蔵島へリポートでは,1993年東邦航空が三宅島~御蔵島~八丈島間のヘリコプター路線を開設
した。
青ヶ島へリポートでは,1993年東邦航空が八丈島~青ヶ島間のヘリコプター路線を開設した。
② 九州離島空港の旅客数
第2図は,対馬・壱岐・小値賀・上五島・福江・種子島・屋久島・硫黄島・諏訪之瀬の九州離島
9空港の旅客数推移を示したものである。
対馬空港(旧)では,1963年竹敷に水上飛行場が開設(エプロン・ターミナルビル配置)されて,
1964年長崎航空が長崎~対馬線を開設(グース機就航),1966年長崎航空が長崎~壱岐~対馬線を
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開設(マラード機就航),いずれも短期間の水上機使用路線で旅客数も僅かであり,1968年に廃止
が決定され,その後,空港施設は海上自衛隊基地に利用されている。
対馬空港(現)では,1975年滑走路1,500mにて供用開始,全日本空輸が福岡~対馬線を開設,1
976年全日本空輸が長崎~対馬線を開設した。その旅客数は,福岡・長崎両線の増便で,1977年度
は大きく増加した。1983年新ターミナルビル完成・滑走路1,900mに延長・ジェット化されて福岡
線・長崎線B737機各1便就航で,さらに旅客数が増加,1983年度八丈島空港を上まわって離島
振興法指定離島空港では第一位,全離島空港中でも石垣・宮古・奄美に次いで第四位の旅客数を継
続している。1986年長崎線全便YS-11機化による供給減,1991年末福岡博多~対馬厳原ジェッ
トフォイル就航もあったが,ジェットフォイルの便数が少ないために航空旅客数には影響を与えず,
1995年度40万人を超えて過去最高となった。1997年長崎線B737機1便再就航,1998年福岡線・
長崎線完全ジェット化(YS-11機対馬路線引退)で,減少・横ばいから旅客数が再度増加した。
しかし,2000年に2隻目のジェットフォイルが就航,対馬厳原行が2便に増便され,2001年には対
馬比田勝にもジェットフォイルが厳原から延航されて,航空旅客数が減少,以後も減少傾向が継続,
2005年には福岡線にDHC-8-Q400機就航でジェット便が大幅減少となった。2007年11月に
福岡線が全便再ジェット化されたが,6便(ジェット便3便+DHC-8便3便)から4便(ジェ
ット便4便)と便数が減少した。
壱岐空港では,1965年滑走路1,200mにて供用開始,長崎航空が福岡~壱岐線を開設した。その
旅客数は,1967年全日本空輸福岡線開設F-27機就航,1972年全便YS-11機化,1976年増便,
1977年長崎航空長崎線開設貸切運航開始,1980年長崎~壱岐~対馬線運航開始,1980年福岡線日本
近距離航空移管・増便で増加を続けた。1980年福岡~壱岐航路に高速船が就航,翌年,フェリーの
充実もあって航空旅客数は減少に転じ,1987年福岡線減便,1991年福岡~壱岐航路にジェットフォ
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イルが就航して減少が加速し,1991年度は屋久島空港旅客数を下まわった。1997年12月福岡線2便
に減便,1999年1月末で福岡線休止で長崎線のアイランダー機路線のみとなり,空港旅客数は1万
人を下まわって最多期の10分の1以下まで減少した。2001年長崎線機種変更DHC-8-200機
就航,運賃も若干安くなり,旅客数は一転して大幅に増加したが,福岡線運航時の水準までは戻し
ていない。
小値賀空港では,1985年滑走路800mにて供用開始,長崎航空が福岡・長崎~小値賀線を開設し
た。その旅客数は,1993年佐世保~小値賀航路に高速船が就航して減少,1998年2隻目の高速船が
就航して,さらに減少した。2004年福岡線休止,2006年長崎線休止,小値賀空港から定期便がなく
なった。
上五島空港では,1981年滑走路800mにて供用開始,長崎航空が福岡・長崎~上五島線と福江~
上五島線を開設した。その旅客数は,1990年長崎~中通島航路にジェットフォイルが就航,航空旅
客数が大きく減少した。1997年2隻目のジェットフォイルが就航,1998年長崎~鯛之浦(中通島)
にも高速船が就航,減少傾向はより一層顕著となった。2004年福岡線休止,2006年長崎線休止,上
五島空港から定期便がなくなった。
福江空港では,1963年滑走路1,100mで供用開始,長崎航空が長崎~福江線を開設した。その旅
客数は,1973年滑走路1,200mに延長,1976年滑走路1,500mに延長・全日本空輸福岡線開設で増加,
1988年新ターミナルビル完成・滑走路2,000mに延長・ジェット化・福岡線B737機就航でさら
に増加,長崎線と福岡線の旅客数が逆転した。しかし,1990年長崎~福江にジェットフォイルが就
航,減少傾向に転じた。1996年エアーニッポン関西線開設があったものの,1997年2隻目のジェッ
トフォイルが就航して減少傾向は顕著となり,1998年福江空港全便ジェット化(YS-11機福江
線引退)されたものの減少傾向は継続,2001年関西線休止,2002年オリエンタルエアーブリッジ長
崎線開設DHC-8-200機就航・エアーニッポン長崎線廃止(ジェット便消滅)でさらに旅客
数は減少,2002年度は屋久島空港旅客数を下まわった。2002年オリエンタルエアーブリッジ福岡線
開設DHC-8-200機就航,2003年オリエンタルエアーブリッジ福岡線廃止,2005年福岡線機
種変更DHC-8-Q400機就航で,福江空港発着ジェット便は,季節便を除き,消滅した。新
空港開港による移転・コミューター化空港を除いて,ジェット化空港からジェット便がなくなった
のは初めてである。2007年11月に福岡線が全便再ジェット化されたが,4便(DHC-8便4便)
から3便(ジェット便3便)と便数が減少した。
種子島空港(旧)では,1952年8月に中種子町高峯競馬場跡を使用して,東亜航空が鹿児島~種
子島線を開設した。1958年3月に中種子町営種子島空港が滑走路800mで同町野間に開港,東亜航
空が鹿児島~種子島線を開設,同年7月富士航空も鹿児島~種子島線を開設した。同年12月県営に
移管,第三種空港となった。その旅客数は,1958・59年度に八丈島を上まわって離島空港中第一位
の旅客数となったが,1960年度は八丈島を下まわった。1962年滑走路1,200mに延長されて順調に
増加,1963年屋久島線開設,1964年10月富士航空は合併で日本国内航空となり,同時に同航空鹿児
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島・屋久島線は休航となった。1969年YS-11機就航,1970年全便YS-11機就航で旅客数が
大きく増加,1973年滑走路1,500mに延長された。1975年大阪線開設,その後も順調に旅客数は増
加したが,1989年超高速船ジェットフォイル鹿児島~西之表間就航で影響を受けて停滞傾向となり,
1992年2隻目のジェットフォイル就航で航空旅客数は減少傾向に転じた。1995年3隻目のジェット
フォイル就航で航空旅客はさらに減少,2000年度旅客数は屋久島空港を下まわって全離島空港中第
10位となり,減少傾向は継続,2006年に新空港移転で旧空港は閉鎖された。
安納空港(飛行場)9)は,1958年12月当時の西之表町が東海岸の安納に建設したもので,富士航
空が1959年から1964年4月まで鹿児島~西之表(安納)を運航,時刻表にも掲載された。西之表市
街地に近い有利性から中種子の空港に伍する旅客数があったものの,滑走路方向の問題や一島二空
港が許可される情勢にはなく,第三種空港とはならなかった。滑走路跡地は,養魚池に転用されて
いる。
種子島空港(現)では,2006年3月に旧空港から移転して滑走路2,000mで開港,同時に鹿児島
線と大阪線が開設された。ジェット化対応空港であるが,定期便としてのジェット便はなく,ジェ
ット機はチャーター便としての飛来のみである。2007年度旅客数は、ついに10万人を下まわった。
屋久島空港では,1963年滑走路1,100mにて供用開始,富士航空と東亜航空が鹿児島・種子島~
屋久島線を開設した。1964年富士航空は合併で日本国内航空となり,同時に鹿児島・種子島線を廃
止,東亜航空のみの運航となった。1974年の滑走路延長工事による閉鎖を経て,1975年滑走路1,20
0mに延長されてYS-11機が就航,旅客数は大きく増加,1976年滑走路1,500mに延長された。
1988年度10万人を超え,1989年超高速船ジェットフォイル就航で観光客が急増,船名から「トッピ
ー効果」と称されるとともに,航空旅客数も相乗効果でむしろ増加した。1991年度壱岐空港旅客数
を上まわり,1992年2隻目のジェットフォイル就航,1993年屋久島のユネスコ世界自然遺産登録で
観光客がさらに増加,1995年3隻目のジェットフォイル就航でようやく航空旅客数に影響を与えた。
屋久島は観光路線の色彩が濃く,鹿児島空港と鹿児島港の所要時間が長いため,遠方からの観光客
は鹿児島空港での乗り換えのみで済む航空の利用が多く,相乗効果(ジェットフォイル就航で,供
給不足解消と観光客増加に貢献)で増加を継続した。1999年度までは全離島空港中第10位であった
のが,2000年度種子島空港旅客数を上まわって非ジェット化空港では丘珠空港を除いて最多空港と
なり,2002年度福江・徳之島空港旅客数を上まわって,九州離島・奄美離島空港では奄美・対馬空
港に次ぐ位置,全離島空港中では第7位となった。しかし,今後の航空便増便は困難なことが多い
ので,屋久島でも滑走路延長・ジェット化が論議される可能性がある。
硫黄島空港は,1973年10月にヤマハが非公共用飛行場として開設,1973年日本内外航空鹿児島~
硫黄島線開設アイランダー機・セスナ機就航,1977年日本内外航空屋久島~硫黄島線開設アイラン
ダー機就航,1982年運航休止となった。ヤマハによるリゾート開発と関連して空港と航空路が開設
されたものである。1994年4月にヤマハリゾートから三島村に移管され,村営飛行場となった。村
営飛行場としては本邦初である。
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諏訪之瀬空港は,1975年8月にヤマハが非公共用飛行場として開設,1975年日本内外航空鹿児島
~諏訪之瀬線開設アイランダー機・セスナ機就航,1982年運航休止となった。ヤマハによるリゾー
ト開発と関連して空港と航空路が開設されたものである。1997年4月にヤマハリゾートから十島村
に移管され,村営飛行場となった。
③ 奄美群島空港の旅客数
第3図は,奄美・喜界・徳之島・沖永良部・与論の奄美群島5空港の旅客数推移を示したもので
ある。
奄美空港(旧)は,1964年滑走路1,240mにて供用開始,東亜航空が鹿児島~奄美線を開設した。
その旅客数は,1965年那覇線開設を経て1968年度10万人を超え,1969年沖永良部線開設,1973年大
阪線直行便開設,1976年与論線開設と新規路線開設もあって1980年度までは順調に増加,1973~76
年度は離島空港及び第三種空港旅客数第1位であった。しかし,沖縄離島空港の発展によって,19
77年度石垣を,1981年度宮古を下まわって第3位となった。1983年奄美大島~喜界・徳之島・沖永
良部・与論線が日本エアーコミューターに移管,YS-11機から機材が小型化されてドルニエ機
が就航,1985年鹿児島~奄美大島~那覇線が日本近距離航空に移管,1981年度から1987年度まで停
滞傾向が継続,1988年に新空港に移転,旧空港は閉鎖された。旧空港跡では,旧ターミナルは撤去
され,滑走路の一部と共に観光施設に転用されている。
奄美空港(現)は,1988年に旧空港から移転して滑走路2,000mにて開港,大阪・鹿児島~奄美
線がジェット化,ようやく奄美空港旅客数の減少傾向に歯止めがかかった。1992年東京~奄美線直
行便開設,1995年那覇~奄美線ジェット化と奄美空港旅客数増加要因があったものの,1995年鹿児
島~喜界線開設サーブ機就航で奄美空港経由旅客数が減少,1996年平行誘導路及びエプロン全面供
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用開始,1997年奄美群島内路線のドルニエ機は引退した。1999年那覇線が琉球エアーコミューター
に移管,かつて使用されたYS-11機やジェット機から小型化されて,旅客数の横ばい傾向が継
続している。
喜界空港では,1959年東亜航空が鹿児島~喜界線を開設した。奄美群島初の空港開設で,旧軍用
飛行場を町営の場外離着陸場として整備,この時期は,旧軍用飛行場の有無が航空路開設に大きな
影響を与えた。その旅客数は,開設が早いものの,1965年奄美線開設・1968年鹿児島線休止により,
奄美群島内他空港の開設期を除いて,最下位が長らく続いた。1983年奄美線が日本エアーコミュー
ターに移管,YS-11機から機材が小型化されてドルニエが就航,奄美線は便数が増加,空港旅
客数も増加に転じた。1995年鹿児島~喜界線開設サーブ機就航(直行便再開)で喜界空港旅客数が
増加,1996年度与論空港を上まわり,ようやく最下位を脱した。しかし,2000年代以降,横ばい・
微減傾向が継続している。
徳之島空港では,1962年東亜航空がサンゴ礁のリーフを利用して滑走路1,080mの民営場外離着
陸場を自ら設置,東亜航空が鹿児島~徳之島線を開設した。その旅客数は,1965年鹿児島線YS-
11機就航,1973年滑走路1,200mに延長,1978年新滑走路が1,200mにて供用開始,1980年滑走路
2,000mに延長・鹿児島線ジェット化で増加した。奄美群島空港で初ジェット化であるとともに,
離島空港初本格ジェット化であった。なお,1978年宮古空港ジェット化と1979年石垣空港ジェット
化は暫定ジェット化であった。1983年奄美線がYS-11機から機材が小型化されてドルニエが就
航,空港旅客数が減少したが,その後,増加に転じ,1990年代以降は横ばい傾向が継続している。
沖永良部空港では,1969年第三種空港滑走路1,200mにて供用開始,東亜航空が奄美~沖永良部
線を開設した。その旅客数は,1972年鹿児島線開設後,1970年代は順調に増加したものの,1983年
奄美線がYS-11機から機材が小型化されてドルニエ機が就航,1980年代は停滞傾向が継続した。
1988年鹿児島~沖永良部線が日本エアーコミューターに移管,日本エアシステムからYS-11機
便の移管も始まり,増加に転じて,1994年度与論空港を上まわったものの,2000年代以降,横ばい・
微減傾向が継続している。2005年滑走路が1350mに延長された。
与論空港では,1976年第三種空港滑走路1,200mにて供用開始,東亜国内航空が奄美~与論線を
開設した。その旅客数は,1977年鹿児島線開設,1978年那覇線開設で,1980年代に増加した。1983
年奄美線にドルニエ機が就航,1994年度沖永良部空港を,1996年度喜界空港を下まわって,奄美群
島空港最少旅客数となった。1997年那覇線にDHC-8-100機が就航,旅客数は停滞傾向が継
続している。(次号に続く)
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諸連絡
1.会報 56 号の原稿募集について
会報 56 号の原稿を募集しています。論文、短報、地理授業紹介、巡検記録、エッセイ、文献紹介
など奮って投稿してください。投稿される原稿は、テキスト形式、マイクロソフトワード、一太郎、
ロータスワードプロなどによって B5 用紙、行数 34、一行 43 文字のフォーマットで、電子メールや
CDROM やフロッピーディスクで送ってください。写真や図表も可能ならデジタル形式でお願いしま
す。印刷経費や編集作業の問題もありますので、400 字換算で 30 枚以内に必ず収めてください。締
め切りは平成 21 年 8 月末日とします。
2.地理教育部会案内
地理教育部会では地理教育の研究会・巡検などの活動を行っております。地理教育研究のための
例会は、毎月第2土曜日に主に天王寺キャンパスで行っております(3、8 月は休み)
。教材研究・
資料交換・指導方法の研究などを、各例会において1~2名の発表をお願いし、それをもとにした
討論をおこなっております。最近ではパソコン利用の情報交換も行われております。巡検も定例化
され、年間3回程度行っております。また Web(http://chirikyouiku.tripod.co.jp/)上での活発な
議論もあります。地理教育部会の活動についてのお問い合わせは、下記までしてください。橋本九
二男(自宅 Tel.0745-48-4856)
3.会費納入についてのお願い
本号に会費納入用の振替用紙を同封します。平成 19 年度の会費(2000 円)を同封の振替用紙(振
替 00940-6-49251 大阪教育大学地理学会あて)
で納入してくださいますよう、
お願い申し上げます。
4. 平成 19 年度(2007 年度)学会役員
会長(教官)
・・・・・・正木久仁
顧問(元教官)
・・・・・前田昇、守田優、石井孝行
理事(教官 5 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
、山近博義、山田周二(総務)
、水野惠司、今里悟之
(編集)
理事(卒業生 3 名)
・・・磯高材、橋本九二男、奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)
:中田陽子 委員(院)
:町谷太祐
会計(学部)
:山田加奈
学生委員(4 名)
・・・・四回生:栃岡悠、増田彩
三回生:浅場敦、中東洋行
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5. 平成 20 年度(2008 年度)学会役員案
会長(教官)
・・・・・・正木久仁
顧問(元教官)
・・・・・前田昇、守田優、石井孝行
理事(教官 3 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
、山近博義、山田周二(総務)
、水野惠司、今里悟之
(編集)
理事(卒業生 3 名)
・・・磯高材、橋本九二男、奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)
:浅場敦 委員(院)
:伊藤大樹
会計(学部)
:中東洋行
学生委員(4 名)
・・・・四回生:福嶋通玄、駒田隆弘
三回生:袋谷紀之、浦川香織
6.地理卒業生就職先,進学先一覧
〔大学院〕
大場錦四郎(近畿大学附属中高)
、町谷太祐(浪速高校)
〔教員養成課程〕
中田陽子(大阪府立大学職員)栃岡悠(堺市小学校)
、山田加奈(大阪府小学校)
、荘司祐子(大阪
府小学校)
、増田彩(一燈園小学校)
〔教養学科〕
岸本恵以子(豊中市立中講師)
、酒井寬子(未定)
、鈴木千裕(雑貨屋ブルドッグ)
、田中功太郎(日
本写真印刷)
、西出佳那子(石川県立高講師)
7.編集後記
今年度 55 号はホームページ上でも見ることができます。アドレスは以下の通りです。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/chiri/kaihou/kaihou55.pdf
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