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廻(めぐ)る水をめぐる話 - 公益財団法人クリタ水・環境科学振興財団
2015 年度クリタ水・環境科学振興財団贈呈式 (8 月 28 日(金)京王プラザホテル) 廻(めぐ)る水をめぐる話 公益財団法人水道研究センター 理事長 大垣 眞一郎 人類は、水を利用するシステムを創り出し、文明を築いてきました。水を供給するサービスが水道です。ローマの時代か らさまざまな水道が発達してきました。現在の日本における水道システムは、 「水道法」によって整備されています。水道法 (1957 年)第 1 条には、 「清廉にして、豊富低廉な水の供給を図り、もって公衆衛生の向上と生活環境の改善とに寄与・ ・ ・」 とあります。今このサービスがどのようになっているか、また、間違いなく運営するために必要な科学と技術は何なのか、 についてお話しましょう。 低廉について 「水より安い鉄」という見出しの記事が、2014 年 1 月 25 日の日本経済新聞の 1 面に出ていました。いかに粗鋼 が安いかを価格交渉上説明するための比較です。しかし、 その比較対象は記事によればボトル水の値段であり、水道 水ではありません。嗜好品であるボトル水は水道水のほぼ 1000 倍(桁で表現すれば)の値段ですので、鉄のほうが 安いといえるのです。生活の維持のために供給される水で ある蛇口から出る水道水はそのような高価格は受け入れら れませんから鉄より高くなることはありません。それでは具 体的にいくらでしょうか。図1に示すとおりです。私の個人 的な(シニア夫婦2人家族)データを示したものですが、 1975 年ごろの施設は現在 40 年目を迎えているというこ とです。1995 年ごろの施設もあと 20 年ほどで 40 年目を 迎えます。このような老朽化への対処のために維持管理、 更新や修繕の投資をしなければなりません。長期にわたり 費用が発生します。 清浄について 水道料金のみ見れば、一人一日47円程度です。顔を洗い、 風呂に入り、洗濯をして、水洗便所を使い、料理し、食器 を洗うなど、すべての水利用の値段です。 このような低廉な料金体系をいつまでも維持することは 可能でしょうか。水道水源の水質悪化、地震洪水など各 種災害への対処など経費のかかる課題が多くあります。加 えて施設の老朽化があります。浄水場、あるいは街に張り 巡らされている管路網などが老朽化しているのです。図 2 に示しますように、1975 年と 1995 年のころに都市化の進 展に伴いインフラ整備のための大きな投資を行っています。 水質は人の健康に対して安全でなければなりません。 図3に示すように、生活で利用する水洗便所以外のほとん どすべての水はまず感染性の病原性がないことが必要で す。汚染された水を介して直接に感染しないようにしなけ ればなりませんが、さらに身体を衛生な状態を保つために 安全な水による洗浄が不可欠だからです。インフルエンザ やノロウイルスの感染症が流行した時には、水道水で十分 に手を洗うことが予防の第一歩です。井戸水の不適切な使 用で1990年に埼玉県のある幼稚園でO-157病原性 大腸菌による集団下痢が流行り園児が2名死亡した事件も ありました。また、1996年にはクリプトスポリジウムとい う原虫による水道水の汚染による8000名を超える集団 下痢が埼玉県越生町で起きました。浄水処理の不適切な 7 ことが原因でした。図4に示すように米国はじめいわゆ る先進国でも多く発生している厄介な感染微生物です。 塩素に対して強い耐性をもっており、通常の水道に使 われている塩素消毒の濃度レベルでは感染力を奪うこ とができません。 感染力が高く、また、ヒト以外の哺乳動物にも感染し、 同じ原虫がヒトにも感染することが確認されています。大 腸菌群を指標として対応してきた水道の浄水処理に、新し い対応を迫るものとなりました。 8 この事態に日本では、緊急対応として図5に示すような 原水の種類(表流水か地下水かなど)とその汚染の潜在 的危険性(ヒトや哺乳動物の排泄物の混入の指標としての 大腸菌群の存在)により分類し、適切な浄水処理(急速 ろ過法、緩速ろ過法、膜ろ過法)などの処理方法を含む 対策指針を作成し現在に至っています。 しかしながら、平成25年3月末の厚生労働省の調査で は、全国20,105か所の浄水場の内、対策を必要とす る浄水場は7,254か所に上りましたが、そのう33%が 「対 策施設の設置を検討中」と回答しており、対策が十分進 んでいません。これは、 「適切なろ過」すなわちろ過池ご とに処理水は濁度0.1度を維持しなければならないとい う指針の達成が困難なことと、代替となる紫外線処理の 普及の遅れによるものと考えられます。 一般的に、基準や規格あるいは制度は一度できてしまう と、なかなかその変更が難しいものです。このことをうま く表現した警句があります。図6に示しました。 1990年に京都で開催された世界水環境国際会議の 論文です。下水処理水の農業への再利用に関するカリフォ ルニア州の厳しい基準とWHOで決めようとしている基準 の適否を討議する論文の中にあった言葉です。 「基準と言 うものは、考えるという行為を遠ざけさせてしまう(格好 の)道具である。」訳すとこんな感じでしょうか。著者の Shuval 教授は、一つの基準(この場合は米国のカリフォル ニア州の厳しい排水再利用基準)が何度も引用されている 内に神格化され、誰も批判的に検討しなくなる(考えなく なる)ことについて語っていたのです。より一般的に解釈 すると次のようになるでしょうか。基準や規格はその制定 に当たって、その時の状況の中で、社会あるいは専門家集 団が合意形成を図りながら基準などを決めます。したがっ て、基準や規格は、出来上がった時点で、その状況下で の高い合理性を有し、多くの関係者の合意を得たものに なっています。しかし状況が変化しても、いちど高い合理 性と広い合意を得たものですので、その変更や改訂には大 きなエネルギーが必要になります。これも「考えることを遠 ざけさせる」原因になっているのではないでしょうか。何事 にも、状況の変化に応じて柔軟な対応が必要となります。 関係者が多い社会インフラの整備事業では特にこの柔軟 な対応が重要です。 上に示したクリプトスポリジウムの対策指針では、紫外 線による水処理が入っています。科学的にも技術的にも紫 外線のクリプトスポリジウムに対する消毒効果は十分明ら かになっています。しかし、表流水(地下水でない河川水 など)への適用に関しては、 日本ではその適用するに当たっ ての諸条件を現在調査研究中であり、普及はこれからにな ります。 豊富について 水資源は、 「資源」という言葉が使われますが、他の資 源との最も大きな違いは、代替物質がないという点です。 水の資源としての特徴を図7に示しました。 フォルニア州ではここ4年にわたり渇水が続いています。 1994年に西日本で大渇水がありました。その時の名 古屋市とその周辺での地盤沈下のデータが図9です。観測 井1500か所のうち、渇水の年の1994年のみ、2cm 以上の地盤沈下が69か所、1-2cmの地盤沈下が545 か所で観測されています。渇水に伴い、生活や農業など多 くの活動で地下水をくみ上げて利用したためであると考え られます。水が自然界と社会の中でさまざまにつながって いることの端的な例です。 災害について 水は代わりのものを選択するということができない資源 です。この水資源が常に豊富に社会に供給されていること が必要です。しかし、近年さまざまな懸念が生じています。 地球規模の気候変動への懸念がその一つです。2013 年9月のIPC C の作業グループ1の第5次評価報告書に は、21世紀は、乾燥地帯はますます乾燥するようになり、 雨量の多い地域はますます雨量が多くなり、乾季はますま す乾き、雨季はますます雨が降るようになるだろうという 警告があります。日本の降雨の記録もその傾向を示してい ます。 先の2011年3月11日の東日本大震災による水道の断 水は260万戸以上(その内停電によるものは約76万戸) であったと言われています。20年前の1995年1月17日 の阪神淡路大震災では多くの管路が損傷し、耐震管への 更新や浄水場の耐震化の強化の必要性などの教訓が、そ の後の国の水道行政政策に反映されました。 地震や津波などでなくても、水道の事故が起きます。米 国ロスアンジェルス市の例ですが、2014年7月に口径約 800mmの配水管が破裂し、街に約4万立方メートルの 水があふれた事故がありました。使用90年以上の古い老 朽管であったとのことです。このような事故は日本始め各 国で生じています。管路の維持管理と老朽管の更新が必 要です。 神戸市では大深度地下使用法による、東西に走る内径 2400mmの大口径の新送水管路を今年度完成させ、既 図8は、1981年から2010年までの平均降雨量との 偏差を1890年から示したものです。1970年以降、降 雨量の変動が激しくなっているように見えます。なお、カリ 9 設の2本の送水管路の運用と合わせ、水道システムの強靭 性を増しています。この3本目の新送水管は、既設管路の 更新時にも役立てることができます。東京都水道局も40 年以上の工事の継続により、送配水管網の多重化と耐震 性を進めてきており、緊急時にも東京のほぼ全域で水道 水の送水と配水の融通ができるようになっています。 水道水源の汚染事故も社会に大きな影響を及ぼします。 図10に最近の米国の事例です。化学工場の事故でウエス トバージニア州の水道水源の河川が汚染した例です。水道 の供給を止めるのではなく、”DO NOT USE WATER” という緊急事態の指令により、健康への影響を防ぐため、 水洗便所用水と消防用水を除いて他の使用を禁止してい ます。飲料水は別にタンクローリーあるいはボトル水による 応急給水を行っています。日本での事故の例が図11です。 2012年5月、利根川上流に位置する工場からの化学 物質の流出により千葉県5市で90万人が断水や減水の影 響を受けました。この時は、給水停止の措置が取られまし た。東日本大震災の時も原子力発電所から飛散した放射 性物質が水道水源に流入し給水継続かどうかその対応に 関係者は大変な苦労を強いられました。 このような水質事故の時に、飲み水など以外の水洗便 所用水や消防用水などの水の利便を、給水の継続によって どこまで維持するのか、難しい判断が求められます。現在、 国において広い観点から給水継続の対応のあり方につい て検討が進められています。 排水の再利用について 降雨の量が少ない地帯、あるいは、人口が集中した大 都市域では、水資源自体が不足します。そのため世界各 地で、下水などの排水の再利用が工業用水に限らず都市 用水、農業用水でも用いられています。メキシコ市は下水 を農業灌漑に、香港は海水を水洗便所用水に、中国は 北京など大都会で下水処理水の再利用を、シンガポール も下水処理水の飲料水化を、日本でも、東京では西新宿 の高層ビル群では1984年より水洗便所用水に下水処理 再生水を用いてきた長い実績があります。同様のシステム が品川の芝浦下水処理場から大崎、汐留、品川のオフィス 街区に配水されています。特殊な例では、東京西部の玉 川上水では、景観維持のために水路に下水処理再生水を 10 1986年から流しています。香川県多度津町では農業用 水に下水処理再生水が利用されされています。沖縄では、 海水淡水化も導入される一方、農業用水へ下水処理水の 適用が研究されています。 図12は水質をエネルギー表示で表した図です。海抜0 mにある飲料水を水質の基準として、その水質を得るため に必要なエネルギー量を kWh/m3 で表現したものです。下 水処理水が、海水淡水化に比べエネルギー的には優位に あることが分かります。科学的には安全と言えても飲料水 として住民が受け入れるかどうかが世界各地で課題となっ ています。 社会のための、社会の中の科学技術として ローマ時代に大規模な水道システムが建設されていたこ とはよく知られています。塩野七美氏の「ローマ人の物語」 の第10巻(新潮社、2001年)によると、当時は、社会 インフラストラクチャーという言葉はなく、水道、街道、橋、 医療システム、教育システムなどは、 「人間が人間らしく生 活をおくるためには、必要な大事業」と呼ばれていたそう です。現代の社会インフラをも端的に表現する良い言葉で す。水道をはじめとするこれらの事業は、個々人では建設 し運営することができない大きな複雑なシステムであり、社 会全体で協力して作り上げなければならないシステムである ということです。すなわち社会が担う「公」の事業とも言 えます。 「公」とは、その事業の性格としての意味であり、 運営主体が政府や地方自治体であることを条件とするもの ではありません。しかし、既に述べたように、水は、低廉で、 清浄で、豊富に供給される必要があります。社会の生活と 生産のための資源としての水の供給は、市場(マーケット) にすべてを委ねることはできません。社会に「必要な大事 業」を動かす体制が必要です。 水の供給システムには広い知識と多くの関係者が関わっ ています。科学的で技術的な根拠に基づき、分野を超え た知識と経験を集め、常に新しい構想を導入することので きるような柔軟な体制の構築が求められています。