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堀江 湛編 『国会を考える ー 統治システムと国会』

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堀江 湛編 『国会を考える ー 統治システムと国会』
堀江 湛編
﹁国会を考える
︵信山社︶
統治システムと国会﹂
三 宅 正 樹
高めている現状が批判されている。
第二章﹁日本国憲法と国会﹂︵日笠完治︶は、近現代
立憲主義の基本的精神とその憲法理論的体系から、国
のどのような実定法的憲法原則が国会制度を支えてい
会のあるべき姿を論ずる規範学的国会論、日本国憲法
ズの第一巻である。堀江湛氏を含めて四人の編者は、
を論じている。第一の立場からは勿論のこと、第二の
つの立場から国会を分析し、最後に国会のあるべき姿
のように活動しているのかを論ずる現実的国会論の三
るのかを論ずる憲法条文的国会論、国会が現実にはど
国会の現状への反省をうながすためにこのシリーズを
立場に照らしてみても、国会の現実は憂慮に耐えない
本書は、﹁国会を考える﹂という七巻にわたるシリー
信山社叢書として編集された、と拝察される。冒頭の
する信頼は、ほとんど失われているといってよい﹂と
るという建前がまったく空洞化している現実を、日笠
官僚の国会進出などによって、国会が全国民を代表す
ものであることがわかる。国会議員の世襲化、大量の
いう現状認識から出発して、いまこそ、国会はどうあ
氏はえぐりだしている。
﹁刊行の辞﹂にあるように、﹁いまや、国民の国会に対
るべきかを真剣に考えるべきである、という思いがシ
任ざれた、という経歴からも予想されるように、国会
リーズ全体をつらぬいている、といってよいであろう。
は、本書であつかう主題を概観して論じたものである
運営の現実について、ユニークな考察を展開している。
了後、政党勤務の経験を経て北陸大学法学部教授に就
が、ここで早くも、議院運営委員会にかわって、国会
例えば、予算について、衆議院の予算委員会が審議し
第三章﹁国会運営の状況﹂︵村川一郎︶は、大学院終
対策委員会が国会運営の中心に位置するようになった
て、衆議院の本会議が議決するまで、参議院は何もす
第一章﹁わが国の統治システムと議会政治﹂︵堀江湛︶
ことによる、国会自体の形骸化が、国民の政治不信を
ることがないのであるが、村川氏は、これは時間の無
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駄であると断じて、その間に参議院が予算決算を審議
首とする立憲政友会が創設されている。また、清国で
一九世紀最後の年であるが、この年に、伊藤博文を党
確立﹂というとらえ方が重要である。一九〇〇年は、
での予算の審議が十分になされているとは到底言い難
するようにすべきではないか、と提案している。国会
れている。陸海軍大臣現役武官制が確立されたのも、
勃発した義和団の乱の鎮圧のために、日本軍が派遣さ
この年である。これより前の日清戦争で日本が勝利を
いけれども、決算の審議という大事な仕事は、氏によ
ある。まことに惜しむべきことに、本書の﹁あとがき﹂
く変えていた。また、本格的な普選運動の開始も、一
収めた事実は、国民の意識を、戦争肯定の方向に大き
れば、それよりもはるかになおざりにされているので
った集中豪雨は、那須の別荘で論文執筆中の氏の命を
から、富田氏は、この時期に、日本は明治維新に匹敵
八九七年以降のことである。これらのさまざまな変化
によると、九八年八月、栃木・福島県境の山間部を襲
奪った。本章は、氏の絶筆である。たまたま評者︵三
でもなく、この意味での﹁一九〇〇年体制﹂は、一九
基本的には敗戦まで続いたと考えておられる。いうま
するような変貌をとげた、と考えて、﹁一九〇〇年体制
宅︶の手元にある九九年三月刊行の﹃北陸法学﹄第六
み﹂︵富田信男︶は、一八九〇︵明治二三︶年に第一議
〇〇年に突如出現したものではなく、一九〇〇年に生
巻第四号は、氏の追悼号である。
会が開会して以来、五・一五事件により政党内閣が崩
じた変化に限定されるものでもない。一九〇二年の日
の確立﹂を提唱しておられる。そして、この体制が、
壊するまでの帝国議会の歴史をたどり、さらにそれ以
第四章﹁帝国議会の歴史 屈折する民主主義への歩
後の時期への展望を付加したものである。極端に制限
の五・一五事件まで、八年間、七代の政党内閣が続い
の中で、一九二四年の加藤高明内閣から、一九三二年
た。
英同盟の成立も視野に収められている。この体制の枠
そして巧みに叙述されている。同時に、本章には、富
外交面でいえば、この時期は、幣原喜重郎が外相の
された選挙権のもとに開始されて普通選挙へとたどり
田氏の独創的な見解が示されていることは見逃せない。
つき、そして軍部に屈伏していくその歴史が、簡潔に、
そのうちの一つをあげるとすれば、﹁一九〇〇年体制の
一75一
地位にあって、いわゆる幣原外交を展開した時期とほ
ぼ重なる。ただし、二七年から二九年までの、田中義
考察としても有益である。特に興味をひかれるのは、
が、張作森爆死事件により、辞任を余儀なくされた。
幣原外交とは逆の、対中武断外交を展開しようとした
たのである。田中は、外相を兼務し、山東出兵など、
がいわれるように政党はみずからの墓穴を掘りはじめ
州軍閥の雄﹂田中義一を総裁に迎えた時から、富田氏
退けられていた時期でもある。そもそも、政友会が﹁長
断絶した時期であると同時に、幣原が外相の地位から
しても、東ドイツが西ドイツに併合される形式をとっ
されたのはフランスだけであって、ドイツ再統一に際
増田氏によれば、第二次世界大戦後に政治体制が変更
背景に、今度はその鎮圧に乗り出して成功を収めた。
を起こした際には、ドゴールは、強力な大統領権限を
例である。アルジェリア駐屯軍が、六一年に再度反乱
中する第五共和制を五八年に発足させたフランスの事
支持を受けて登場したドゴールが、大統領に権限を集
理に成功しなかったために、アルジェリアの反乱軍の
議会に基礎をおく歴代の内閣がアルジェリア危機の処
なお、幣原外交の終焉と政党政治の終焉との間には約
たのであって、政治体制の変革は生じていない。
一を首相とする政友会内閣の時期は、民政党の内閣が
半年の時差がある。第二次若槻内閣が三一年一二月に
犬養毅を首相とする政友会の内閣が成立したが、三二
る。これからの続編についても期待したい。
四六版二六〇頁のコンパクトな体裁をとりながら、
充実した読み応えのある本が刊行されたことを歓迎す
総辞職して、幣原も外相の地位を去った。その後には
年の五・一五事件で犬養が殺害され、わが国戦前の政
党政治は終わりを告げたのである。
﹁イギリス議会から学ぶもの﹂︵前田英昭︶、第七章﹁ド
第五章﹁アメリカの連邦議会﹂︵駒村圭吾︶、第六章
︵増田正︶は、欧米諸国の議会の在り方について整理
イツの議会﹂︵加藤秀次郎︶、第八章﹁フランスの議会﹂
した知識を提供している。比較政治学的な立場からの
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