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報告論集 - 京都外国語大学・京都外国語短期大学

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報告論集 - 京都外国語大学・京都外国語短期大学
平成 21~24 年度科学研究費補助金基盤研究(B)
文書史料による近代中央アジアの
イスラーム社会史研究
(課題番号:21320134)
研究成果報告論集
平成 25 年(2013 年)3 月
研究代表者
京都外国語大学外国語学部
堀川 徹
平成 21~24 年度科学研究費補助金基盤研究(B)
「文書史料による近代中央アジアのイスラーム社会史研究」研究成果報告論集
目次
まえがき
堀川 徹
i
野田 仁
1
カザフの「慣習法」とビイの裁判
:ロシア統治期イリ地方の事例から見る帝国の司法制度と紛争解決
イチャン・カラ博物館蔵 3894 文書の成立とその背景
―ヒヴァ・ハンの国有地を私有地に移転する勅令について―
塩谷 哲史 21
ロシア領中央アジアのシャリーア法廷における各種裁判文書の機能とその作成過程
―19 世紀末から革命期のシャリーア法廷文書を題材として―
ロシア統治期サマルカンドの上訴審
磯貝 健一 34
矢島 洋一
50
19 世紀後半ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域におけるムスリムの遺産分割
―制度と事例
アフガニスタンにおけるイスラーム法裁判制度の変容
磯貝 真澄 64
近藤 信彰
88
「近代法」の移植と土着法適用についての帝国の論理
―マレーシアと中央アジアの比較から―
ロシア 10 月革命後の人民裁判所形成に至る議論の諸相
桑原 尚子
101
中山 顕 115
社会主義ソ連時代の民事訴訟における当事者主義と職権主義
伊藤 知義
132
我が国のウズベキスタンへの担保法整備支援事業について
宮下 修一
140
まえがき
本書は、平成 21~24 年度科学研究費補助金基盤研究(B)「文書史料による近代中央アジアのイスラー
ム社会史研究」
(課題番号:21320134)の研究成果をまとめたものである。研究目的は、近代における
ロシアの中央アジア統治の実態を、特に現地に残された文書史料を利用し、行政制度と法制度の両面か
ら分析して、ムスリム地域社会の実像を明らかにすることである。
研究組織は以下のとおりである。研究代表者の堀川徹(京都外国語大学外国語学部)が研究全体を統
括し、研究分担者の矢島洋一(京都外国語大学外国語学部)が行政制度の解明をめざす A 班を、同じく
分担者の磯貝健一(京都外国語大学外国語学部→追手門学院大学国際教養学部)が法制度の研究を担当
する B 班を取りまとめ、連携研究者、研究協力者とともに研究を進めた。
研究代表者
堀川 徹
A. 行政制度研究班
B. 法制度研究班
矢島洋一
研究分担者
取りまとめ
磯貝健一
研究分担者
取りまとめ
小松久男
連携研究者
ウズベキスタン・タジ
大江泰一郎
連携研究者
ロシア・ソ連法
近藤信彰
連携研究者
イスラーム法
キスタン地域
宇山智彦
連携研究者
カザフスタン・クルグ
ズスタン地域
濱本真実
研究協力者
タタルスタン地域
宮下修一
研究協力者
比較法
野田仁
研究協力者
カザフスタン地域
木村暁
研究協力者
イスラーム法
塩谷哲史
研究協力者
ウズベキスタン地域
磯貝真澄
研究協力者
イスラーム法
研究者各自が担当研究課題にしたがって個別に研究を進めると同時に、各種の研究会やセミナー等を
開催して研究成果を中間報告し、議論を深めることで、本書収録の諸論文がまとまることとなった。
また、ウズベキスタン共和国をはじめとする海外地域で、イスラーム法廷文書やムスリム行政関連文
書の所在調査と収集を行なった。平成 21~24 年度の 4 年の研究期間にわたり、夏季(8~9 月)、ウズベ
キスタン共和国(タシケント市、ヒヴァ市、フェルガナ市、サマルカンド市)にて、研究代表者、分担
者、協力者らが調査・収集を行なった。また、平成 21 年 9 月と平成 22 年 3 月にはロシア連邦に、研究
協力者が赴いた。本書収録の諸論文は、こうした海外出張調査で収集した各種文書史料を研究するもの
を含む。
開催した研究会やセミナーなど、学術的会合は以下のとおりである。なお、中央アジアの法制度研究
会、中央アジア古文書研究セミナー、パーレン研究会については、NIHU 研究プログラム・イスラーム
地域研究東洋文庫拠点の共催を得た(活動詳細報告は次のウェブサイトを参照のこと:
http://www.tbias.jp/php/investigation_detail.php?year=past)
。
i
【平成 21 年度】
※中央アジアの法制度研究会
第 5 回研究会…平成 21 年 5 月 31 日(日)@京都外国語大学
堀井聡江(桜美林大学)
「イスラーム的土地保有とその影響―エジプト、シリア、レバノン」
矢島洋一(京都外国語大学)
「近代中央アジアのイスラーム法廷資料」
第 6 回研究会…平成 11 月 28 日(土)~29 日(日)@静岡大学・静岡労政会館
宮下修一(静岡大学)
・朱曄(静岡大学)
「日本・欧米・中国の裁判制度の概観」
伊藤知義(中央大学)
「社会主義時代および体制転換以降のロシア・中央アジアの裁判制度―民
事裁判を中心に」
杉浦一孝(名古屋大学)
「社会主義時代および体制転換以降のロシア・中央アジアの裁判制度―憲
法・刑事裁判を中心に」
大江泰一郎(静岡大学名誉教授)
「西欧とロシアにおける裁判―近代までの概観」
※中央アジア古文書研究セミナー第 8 回…平成 22 年 4 月 3 日(土)@京都外国語大学
講演 Bakhrom ABDUKHALIMOV(ウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所所長)
「ウズ
ベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所の古文書史料について」
文書講読 矢島洋一(京都外国語大学)
「ホラズム人民ソヴィエト共和国期文書」
文書講読 磯貝健一(京都外国語大学)
「中央アジア各地のファトワー文書」
♯講演者来日日程の関係上、平成 22 年度の開催となった。
※パーレン研究会準備会議…平成 22 年 2 月 23 日(火)@京都外国語大学
※2009 年タシュケント国際会議「日本・ウズベキスタンの研究協力:中央アジアの歴史と文化(史料と
方法論上の諸問題)
」…平成 21 年 9 月 3 日(木)~5 日(土)@パイタフト・ホテル・ウズベキスタン科学
アカデミー東洋学研究所(ウズベキスタン共和国)
…研究代表者、分担者、協力者、連携研究者が参加し、研究報告や意見交換を行なった(詳細は次を
参照:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/tokyo-ias/centraleurasia/meeting/2009/090904.htm)
。
【平成 22 年度】
※中央アジアの法制度研究会
第 7 回研究会…平成 22 年 5 月 30 日(日)@京都外国語大学
磯貝健一(追手門学院大学)
「革命前夜の中央アジアにおけるイスラーム法裁判システム」―コメ
ント:堀井聡江(桜美林大学)
野田仁(早稲田大学)
「カザフの『慣習法』とビイの裁判」―コメント:萩原守(神戸大学)
第 8 回研究会…平成 22 年 12 月 4 日(土) ~5 日(日)@静岡大学
伊藤知義(中央大学)「近代前後のセルビアにおける伝統法とイスラム法の影響」―コメント:大
河原知樹(東北大学)
額定其労(京都大学大学院)
「清代ハラチン・モンゴルにおける裁判」
大江泰一郎(静岡大学名誉教授)「ロシアにおける民法解釈学の不在とその法文化への影響」―コ
メント:杉浦一孝(名古屋大学)
※中央アジア古文書研究セミナー第 9 回…平成 23 年 3 月 26 日(土)@京都外国語大学
ii
磯貝真澄(京都外国語大学・神戸大学)「ロシア連邦ウファ市国立中央歴史文書館所蔵ムスリム遺産
分割関係文書の紹介」
文書講読 矢島洋一(京都外国語大学)
「19~20 世紀ブハラの遺産分割文書」
文書講読 磯貝健一(京都外国語大学)
「20 世紀初頭サマルカンドのファトワー文書」
※パーレン研究会…平成 22 年 10 月 3 日(日)@京都外国語大学
Beatrice Penati(JSPS Postdoctoral Fellow/Slavic Research Center, Hokkaido University)
“On the context of Pahlen’s report: some debates about land settlement and forestry (1905-1914)”
Alexander Morrison(University of Liverpool/Slavic Research Center, Hokkaido University)
“An exercise in futility? Some reflections on Senator Count K. K. Pahlen's Commission of Inspection in
Turkestan, 1906-1911”
【平成 23 年度】
※中央アジアの法制度研究会
第 9 回研究会…平成 23 年 6 月 25 日(土)@京都外国語大学
塩谷哲史(筑波大学)
「イチャン・カラ博物館蔵 3894 文書の成立とその背景―20 世紀初頭ヒヴァ・
ハン国における灌漑事業の諸問題―」―コメント:大江泰一郎(静岡大学名誉教授)・伊藤知
義(中央大学)
阿拉木斯(神戸大学大学院)「モンゴル文農地質入契約文書の書式の由来―清代帰化城トゥメト
旗における農地契約を中心に」―コメント:西澤希久男(関西大学)
第 10 回研究会…平成 23 年 12 月 3 日(土)~4 日(日)@静岡大学
伊藤知義(中央大学)
「旧ソ連における民事裁判」
桑原尚子(高知短期大学)
「シャリーア裁判所における民事訴訟法の整備:マレーシアを事例とし
て」
矢島洋一(京都外国語大学)
「ロシア統治期サマルカンドの上訴審」―コメント:磯貝健一(追手
門学院大学)
※中央アジア古文書研究セミナー第 10 回…平成 24 年 3 月 24 日(土)@京都外国語大学
文書講読 矢島洋一「18 世紀ハザラスプ文書」
文書講読 磯貝健一「フェルガーナのファトワー文書」
【平成 24 年度】
※中央アジアの法制度研究会
第 11 回研究会…平成 24 年 6 月 23 日(土)@京都外国語大学
堀川徹(京都外国語大学)
「中央アジア史研究のパースペクティヴ―イスラーム化と近代化―」
磯貝真澄(京都外国語大学・神戸大学)
「19 世紀後半ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域のムスリム
遺産分割」
磯貝健一(追手門学院大学)
「20 世紀初頭の中央アジア・イスラーム法廷における紛争解決過程に
ついて」
第 12 回研究会…平成 24 年 12 月 15 日(土)~16 日(日)@静岡労政会館
iii
中山顕(名古屋大学大学院)
「ロシア 10 月革命後の人民裁判所成立に至る議論の諸相」
木村暁(筑波大学)
「ブハラ・アミール国の司法行政:その機構面を中心に」
額定其労(京都大学大学院)
「清代モンゴルの『旗』統治と裁判」
※中央アジア古文書研究セミナー第 11 回…平成 25 年 3 月 21 日(木)~22 日(金)@京都外国語大学
文書講読 矢島洋一「上奏書」
文書講読 磯貝健一「ロシア領トルキスタン地方における上訴関連のファトワー文書」
※国際ワークショップ「中央ユーラシアにおける古文書の保存と研究」…平成 24 年 11 月 18 日(日)@京
都大学大学院文学研究科ユーラシア文化研究センター(羽田記念館)
基調報告 Bohodir J. HOSHIMOV(ウズベキスタン共和国フェルガナ州立郷土博物館長)
「フェルガナ
盆地の諸博物館におけるカーディー文書の保存状況(過去と現在)」―通訳:磯貝健一(追手門学
院大学)
コメント 1:矢島洋一(京都外国語大学)
コメント 2:Marsil N. FARKHSHATOV(ロシア科学アカデミー・ウファ学術センター歴史言語文学研
究所)―通訳:磯貝真澄(京都外国語大学)
♯京都大学大学院文学研究科ユーラシア文化研究センター、NIHU プログラム・イスラーム地域研究
東洋文庫拠点、科研費「19 世紀後半ロシア帝国統治下ムスリム社会の家族社会史的研究」
(若手研
究(B)・課題番号:24720327)共催
※東洋文庫特別講演会…平成 24 年 11 月 20 日(火)@(公財)東洋文庫
バハードゥル・J・ハシモフ(ウズベキスタン共和国フェルガナ州立郷土博物館長)「フェルガナ盆地
に保存されるカーディー文書の研究史について 」―通訳:磯貝健一(追手門学院大学)
マルスィリ・N・ファルフシャートフ(ロシア科学アカデミー・ウファ学術センター歴史言語文学研
究所)「ザキ・ヴァリディ・トガン:亡命期前半の生活と著作(1923~1948 年)
」―通訳:磯貝真
澄(京都外国語大学・神戸大学)
♯公益財団法人東洋文庫研究部、NIHU プログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点、科研費「19
世紀後半ロシア帝国統治下ムスリム社会の家族社会史的研究」
(若手研究(B)・課題番号:24720327)
共催
なお、研究代表者と各論文著者は、本書収録の諸論文をもとに、『近代中央ユーラシアの法制度:ロ
シア帝国と周縁諸地域における伝統的法制度とその変容』(仮題)の出版を計画している。そのため、
研究代表者と各論文著者の許諾なく、本書の一部または全部を引用・転載することを禁ずる。
堀 川 徹
iv
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
カザフの「慣習法」とビイの裁判:
ロシア統治期イリ地方の事例から見る帝国の司法制度と紛争解決
野
田
仁
早稲田大学イスラーム地域研究機構
はじめに
中央アジアの歴史における法制度と言えば、イスラーム法(シャリーア)に基づくシャリーア法廷
の存在が想起される。しかし、ムスリムの中でも伝統的に遊牧生活を送っていたものたちにとって、
シャリーアは必ずしも司法における主要な判断基準ではなかったことにも留意すべきである。近年盛
んになっているロシア帝国統治下のムスリム住民に対する制度改革・司法制度の導入の議論を参照し
ながら、中央アジアの中でも北部草原地域を中心に展開されていた遊牧民の「慣習法 adat」に基づく
裁判―いわゆる、ビイの法廷―について、その実態と、制度の運用について分析することを本稿
の目的とする。具体的には、19 世紀後半の制度を考察の対象とし、とりわけ、ロシア帝国がカザフ草
原を越えて、中国新疆の北部、イリ地方を占領していた時期のイリ地方官房文書を用いて、この地域
の事例を扱う。
カザフ=ハン一族出身のワリハノフ(1835~65 年)が早くに述べたように、
「政府は 1854 年の法 1で
ビイをより官吏として扱おうとした」
[Valikhanov 1985: 89]という指摘があり、後段でも検討するよ
うに、帝国の統治とビイと呼ばれる裁判官による裁判制度の導入は深く結びついていた。ただし、ビ
イたちの裁判は、まったくイスラーム法と無関係であった訳ではなく、同じくワリハノフが「もとも
とカザフ社会はイスラーム法を受け入れておらず、政府のイニシアティブを通じて、外管区 2の官僚
的美点とともに導入されたものである」
[Valikhanov 1985: 89, 99] 3と述べているように、帝国統治の
展開の中でカザフ社会とイスラーム(法)との距離もゆらぎが見られた。
以下、カザフ遊牧民にかかわる法制度を概観した上で、カザフ草原に導入されたロシアの司法制度
が帝国統治に有効にはたらいたという仮説のもとに、イリ地方における実例を分析し議論を展開する。
また植民地統治と宗教―ここではイスラーム―は言うまでも無く密接な関係にあり、本稿で扱う
法文化におけるイスラーム法の存在も議論に加える必要があるだろう。
1.研究史
カザフの慣習法―あるいはクルグズのそれも含めた―についての研究は数多く残されている。
それは、後述するように、ロシア帝国が遊牧民の慣習法の調査に熱心に取り組んでいたこととも関係
1
後述する西シベリアにおける法制改革のことを指している。
ロシアがカザフ草原に展開した内外の「管区」制度については[野田 2011: 68]を参照。
3
長縄[2008: 264]によれば、1868 年規定でカザフ人はウファの宗務協議会の管轄から外れ、ムッラーの
狂信から保護される存在になり、政府がシャリーアと慣習法を相反する法秩序として定式化することにな
った。[Frank 2003]も参照。
2
1
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
している。
史料的な価値も高い研究として、グロデコフの著作のみをここで挙げておくことにしたい。長くシ
ルダリア州の軍務知事を務めた(1883~93 年)グロデコフは、ハナフィー派イスラーム法学書『ヒダ
ーヤ』の英訳版からロシア語への翻訳を行うなど中央アジア社会の法体系に大きな関心を払い、トル
キスタン地方の遊牧民の慣習法について大部の著作『シルダリア州のキルギズとカラキルギズ:法的
慣習』
(1889 年)を残した。その当時の裁判制度とその実態については非常に詳しい内容となってい
る。グロデコフも参照する基礎的な文献として、イブラギモフ[Ibragimov 1878]やザグリャジュスキ
ー[Zagriazhskii 1876] 4の知見はなお価値を持っている。
制度面では、ドブロスムイスロフやクラフトの著作で整理されている[Dobrosmyslov 1904; Kraft
1898]
。
本稿では十分に分析できていないがトルキスタン地方の監察を行ったギールスによる報告もあ
る[Girs 1884]
。その他の帝政期の文献も含めて、カザフスタンで近年刊行された『カザフの古えの法
Qazaqting ata zangdari』
(QAZ と略す)叢書において、かつての研究・資料の復刻がなされていること
も付言しておく。
ソ連期の代表的な研究としてクルテレエフの著作を挙げることができる[Kul’teleev 1955]
。前述の
グロデコフに基づき、カザフにかかわる制度を広く分析しているが、執筆時の時代背景を反映し、シ
ャリーアやイスラームへの批判的態度が見られることに注意が必要である。
帝国統治と法制度のかかわりについて、西シベリアにおける裁判の具体例から分析した米国のマー
ティンの著作はきわめて重要である[Martin 2001]
。裁判の進行など個別の検討は後に譲るが、彼女に
よれば、カザフのアダト(adat)とは「遊牧社会およびその親族構造において、個人の行動と個人間
の関係とを規定する、基準となる原則」であった[ibid: 25]。ただし、留意すべき点として、シャリ
ーアとの明確な区別はできず、むしろアダトとシャリーアが両立していることをも示し、これは本稿
の議論とも大きな関係を持っている。
トルキスタン総督府内のカザフについては、サルトーリ(P. Sartori)が文書に表れている事例を検
討し、ロシア統治下における現地住民の不服申し立ての意義などについてくわしく論じた。またブル
スィナは、トルキスタンにおいて、制度の変化によるビイの権威の低下と、ロシア帝国による部族の
有力者の弱体化の試みを指摘している[Brusina 2005]。とくにサルトーリの議論も参照しつつ、本稿
では、カザフも含む多様な集団で構成される地域における司法制度とその実践を検討する 5。
2.前史:1822 年以前の状況と 1822 年規約の制定
ロシア帝国におけるカザフ社会の司法制度は、1822 年の制度化により大きく変化することになる。
それ以前の状況について、ここで簡単にまとめておこう。
モンゴル帝国以降、遊牧民とムスリム定住民の接触により、遊牧民の慣習法であるヤサとイスラー
ム法であるシャリーアが並立して用いられていたことは知られている[川口 2007]。カザフもムスリ
4
トルキスタンにおけるカザフの民衆法廷についての考察は[QAZ6: 294]
。
日本では高橋[2000; 2001]によるロシア帝国の司法改革(1864 年~)の検討が中央アジアの事例も扱っ
ている(ただし、中央アジアに敷衍されるのは 1898 年のことになる)
。また少し後の時代になるがパーレ
ンによる査察の記録に基づいた伊藤[2000; 2001]の考察もカザフ草原の法制度に言及する。
5
2
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
ムではあったけれども、彼らの法文化は、シャリーアに拠る要素は少なく 6、むしろ遊牧民の法文化
、すなわちア
の体系に属していると考えられる 7。現代カザフ語では「アデトädet」や「グルプġurip」
ラビア語のadat、‘urfに由来する「慣習(法)」を意味する単語が存在するが、いつからの言葉遣いか
は不明であり、もとよりこれらの慣習は文字化されるものではなかった。
カザフ=ハン国時代においては、タウケ=ハン(在位 1680-1718 年)がまとめたとされる『七項法典
Zheti zharġi』がよく知られている。ハン一族や長老たちが合議により裁定を行う様子は 18 世紀から
19 世紀初頭にかけてのロシア人による記録にも見出すことができる 8。また裁定にかかわる者として
「ビイ」という称号を持つ者がおり、叙事詩などで描写されるほか、カザフ草原を訪れたロシア人の
記録中にも、その裁判の様子が簡述されている。19 世紀初頭のシャンギンによれば、
「案件の裁定の
ために自分たちの判事、すなわちビイを選出する」と言い、判決における量刑などを挙げている
[Shangin 2003: 131]
。同じ頃 1803 年にカザフ草原を訪れたガヴェルドフスキーの証言によれば、
「民
衆の判事はビイと呼ばれている」のであり[IKRI5: 430]、また殺人に対する補償であるクン 9、家畜
盗に対する合法的報復であるバルムタなどの遊牧民の法的慣習にかかわる語についても情報を得てい
た[IKRI5: 91]。ただしこの時期の具体的な司法手続き―そのようなものがあったとすれば―につい
ては、ほとんどわかっていない。
このようなカザフ社会における法制度は、1822 年に制定された新しい規約(シベリア=キルギズに
かんする規約Ustav o sibirskikh kirgizakh)をきっかけに変化していったと考えられる。カザフ草原の北
西部は、ロシア帝国の統治下に組み込まれ、西シベリア総督府およびオレンブルク総督府の管轄下に
分けられた。この規約は前者が管轄する地域について定められた法規である 10。この中では、行政区
としての管区開設が定められ、管区を統括し裁判機関も兼ねる管区庁 11が設置された。管区の代表者
であるアガ・スルタンには管区内の平穏と秩序を保つことが役割として課されていたが、審理におけ
る権限は議長としての役割にとどまっていた
12
。むしろ補佐役であるザセダーチェリ(zasedatel')と
いう役職が、
「判事」として機能することを求められていたようである[Kraft 1898: 40]13。
規約の条文によれば、刑事案件(殺人、略奪、バルムタ、大逆罪)と民事案件の区別があり、刑事
については管区長が県法廷と同等の権限をもって裁定にあたる旨が定められていた 14。民事は、アウ
6
ソ連期のフークスは、タウケ=ハンのジェティジャルグにおけるイスラーム的要素を否定している[Fuks
2005: 622-623]
。
7
1640 年の『モンゴル=オイラト法典』などが代表的なもの[田山 1967]。たとえば、9頭を単位とした
家畜罰を特徴とするが[島田 1981: 336]
、カザフなどにも同様の罰が見られる。
8
たとえば P.ルイチコフの覚書(1774 年)が、ハン一族や長老たちの合議による裁判を描写している[IKRI4:
202]
。
9
Qun。すなわち血を表すペルシャ語 ḫūn に由来する。
10
くわしくは[野田 2011]を参照。
11
1822 年規約 22 項(露語 Okruzhnoi prikaz / テュルク語 Nāḥīya dīvān maḥkamasï)
。同 210 項では、刑事事
案において初級審の役割を果たすことが規定される。以下、ロシア帝国による規約・規定については
[MIPSK]を参照している。
12
規約 56 項および 213 項。アガ・スルタンについては[野田 2011: 69]。
13
規約 64 項は、ヴォロスチで選ばれたビイの仲立の元にロシア人 zasedatel’を通じて予審を行うことを規
定。
[野田 2011: 70]も参照。限られた用例ではあるが、テュルク語文書中にこのザセダーチェリについて
qāżī と記すものがあり、このことを裏付けるだろう(1847 年の文書)
[TsGA RK: f. 374, op. 1, d. 1764, l. 33]
。
14
規約 210 項による。裁判の具体的な審理の過程はほとんど明らかになっていないが、一例として、1820
年代後半の案件についての台帳 Registr が残されている。その中では、おもに盗みにかかわるもの、原告が
出頭しなかった、被告が逃走した、部族のスルタンが同意しなかった等の理由で解決に至らなかった事案
3
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
ルまたは郷のビイを通じて審理されることになっていた(215 項)。ビイは口頭で、カザフの法(zakon)
と慣習とに従って裁定を行い(216 項)
、不服の際は証拠を付けてオムスク州長に申し出ることができ
た(217 項) 15。この民事にかかわる規定は、のちの 1867 年以降のビイによる「民衆法廷」に継承さ
れていったと考えられる。
この規約が定められたことの中でもう一つ重要な作業として、慣習法の収集がある。規約 68 項に基
づいて、23 年にオムスクに特別臨時委員会を設置し、その主導により、1824 年から収集を開始した。
その成果はサモクワソフによってのちに公刊された[Samokvasov 1876; MKOP1: 32-91]。当局により
「収集」されたこのテキストに基づいて、実態とのすり合わせが行われたのである 16。具体的なプロ
セスとしては、オムスク州局から各管区に通達を行い、あわせて収集した慣習法の印刷物を配布した 17。
各管区庁では注記をして返却した。中には、バヤンアウル管区庁からオムスク州長官宛て報告のよう
に、
「古くからの慣習qadimgi żangïmïz 18に非常によく似ているので、過不足はない」ことを伝えるもの
もあるが 19、異議が出る場合もあった。
また 1838 年の制度改革によって
「シベリア・キルギズの個別統治にかんする規定」が定められたが、
ここでは、カザフの法と慣習について収集し、精査し、理解することが西シベリア総局にとって急務
であるとみなされていた[MKOP2: 19]
。
これらの―言わば「官製」の―テキスト自体もいまだ十分に検討されているとは言い難いが、
本稿では収集の経緯と手続きを整理するにとどめておく。収集された慣習法は多岐にわたるが、その
中にはイスラーム法と関連づけられるものもある。ディアンドレによるテキスト(1846 年)には、刑
罰についてハッドkhat刑に言及があり[MKOP1: 172]
、またtalak、すなわち離婚の規定も見られる 20。
根拠として、一例としてサラフスィー(Shams al-Aimma al-Sarakhsi)の言説やクルアーンの注釈を附
し[MKOP 1: 202]
、死刑についてもクルアーンの引用がある[MKOP2: 173]21。このテキストの中で
イスラームの要素がとくに濃く現れているのは、よりタタールの影響が強い、西端のオレンブルグ総
督府管轄地域(小ジュズ)のものだからかもしれない。
いずれにせよ、これら収集された「慣習法」記載のことがらこそがビイの裁判の対象であった[QAZ5:
424-426]。またマーティンが述べるように、このような「慣習法」はロシア帝国法とは対立するもの
として設定され、かつ将来の包摂の対象となるべきものとなっていたことにも留意しておきたい
[Martin 2001: 4-5]
。第 4 節で詳細を検討するが、裁判上―とくに 67 年以降―あらわれるアダト、
すなわちカザフの慣習法は、量刑の判断基準、もしくは極論すれば裁判自体の正当性の根拠にしかな
らず、訴訟内容が合法か否かを問うシャリーアのような役割を持たなかったようである。
を記載している[Konshin 1900: 47-51]
。
15
この時代の裁判は文書には基本的に残っていないが、上級機関に訴えたときに記録が垣間見えることが
あった(規約 223 項前後も参照)。1830 年代の具体的な紛争の事例については別稿で改めて検討したい。
16
[GAOmO, f. 3, op. 1, d. 312, l. 256-]は 1827 年における、1822 年規約の補足説明。
17
アクモラ管区庁以下、各管区庁への通達(1837 年)
[GAOmO, f. 3, op. 1, d. 317, l. 188]。
[ibid.: l. 140~]
は配布された印刷物で、サモクワソフのテキストと同一のものであった。
18 付されたロシア語訳でも「慣習 obychai」と訳されている。
19
[GAOmO, f.3, op.1, d.317, l. 257]
。
20
[MKOP1: 190]。のちの判決文でも、talak という言葉づかいは見られた[Grodekov 2011: 355]
。
21
またディアンドレが編纂したテキストでは、ビイの法廷が常にコーランを始めとするシャリーアに依拠
するわけではないことについて指摘がある[MKOP1: 165]。 それでもソ連期のフークスによれば、その編
纂した内容は不当にシャリーアを評価し、ビイのそれを遅れたものとする内容であった[Fuks 2005: 625]。
4
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3.1867、1868 年の規定
その後、ロシア帝国によるカザフ草原・中央アジア統治はさらに展開し、前段階の「ロシア帝国法
のシベリア=キルギズへの普及にかんするシベリア委員会規定」
(1854 年) 22を経て、トルキスタン総
督府が創設された。これを受けて、北部の草原地帯もステップ諸州として再編された。この過程は、
以下の二つの規定に拠っている。1867 年の「セミレチエ・シルダリア両州臨時統治規定」
(トルキス
タン総督府) 23および 1868 年の「ステップ各州(ウラル、トルガイ、アクモラ、セミパラチンスク)
臨時統治規定」である。
この体制は、1886 年のトルキスタン地方統治規定の制定まで続くことになる。法制度においては、
1868 年規定の 91 年における改訂時にカザフのビイの権限に大きな変化が見られたため[Martin 2001:
93]
、本稿でも 1891 年を一つの区切りとして考えることにしたい。なお、この一連の制度改革は、68
年規定中の遊牧民の土地の国有化とも関連づけられよう 24。
もっとも大きな変化は、これまでロシアによる制度の中でも言及されてきたビイの存在が、公式に
選挙を経て選任されるものとして改めて定義されたことにある。伊藤[2001: 4]も、67 年規定で重要
な点はビイの選挙制度制定にあったことを指摘している。ここに、カザフの「民衆法廷narodnyi sud」
が整備されることとなった 25。これについて、グロデコフは「(カザフの)民衆法廷とは、選任された
裁判官―ビイ―によって、民衆の慣習にしたがって行われる案件の審理[の場]である」と定義
している。
またギールスは、
カザフを含む遊牧民にはカーズィーではなくビイの法廷があり、
「彼らは、
成文法を知らず、ただアダトという慣習法にのみしたがっている」と述べている[Girs 1884: 325]
。
マーティンはまさにこの 19 世紀後半を対象にし、伝統的なビイと選挙により選出される「公式のビ
イ official bii」とを明確に区別し[Martin 2001: 88]
、帝国の植民地行政においてビイが果たした役割を
明示した。すなわち「ビイを頼みとするのは、正義を擁護する能力ではなくて、彼らの植民地統治の
法・行政メカニズムの理解によるものであった」
[ibid.: 159]と言うのである。彼女の考察対象は、19
世紀末を中心とするステップ地域の事例であり、南方のトルキスタン地方との違いには考察の余地が
ある。また本稿では、帝国と人々の間の媒介として果たしたビイの機能だけではなく、ビイの裁判そ
のものがカザフ社会に及ぼしていた影響についても考えてみたい。
以下、グロデコフが整理した内容を、おもに 1867 年規定に沿って確認しておこう。
まず、3 種類の法廷があった。I. 陸軍裁判所(比較的重い案件)およびII. 帝国法に基づく法廷以外
22
その特徴として、ビイの法廷の機能が縮小し、代わって管区庁のそれが広がった。ビイの称号は残った
が、スルタンや有力者に限られる予定であったという[IK3: 311-312]。
23
[伊藤 2001]では、1865 年のトルキスタン総督府の規定も参照している。なおセミレチエ州がトルキス
タン総督府下にあったのは、1882 年までである。
24
1868 年規定の 119-121 項[MIPSK]
、また[Martin 2001: 131]も参照。
25
高橋の整理にもあるように、ロシア式の法廷との二本立てであったことを最大の特徴としている[高橋
2001]。民衆裁判については以下のように整理している。
「民衆裁判所には単独制の民衆判事と、上訴審で
ある民衆判事会議(定例会および臨時会)がある。その管轄は極めて広く、現地の住民によってなされた
すべての犯罪(国家的法益にかかわる罪を除く)および現地住民の間のすべての民事事件が審理される」
[高
橋 2000: 102]
。関連して、対ムスリム政策について、
「民衆裁判所の活動にロシアの司法が直接的に介入す
るのは避けねばならない」という司法省の判断があったという[高橋 2000: 97]
5
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の法廷として、III. 「民衆法廷」が設定された。ここではバルムタ
26
、カザフ同士における殺人も扱
27
う[MKOP2: 24] 。ただしステップ諸州ではこの2つはロシア法廷に依然として委ねられていた
[Dzhampeisova 2006: 206]
。民衆法廷は対象額に応じてさらに 3 種に分けられる。①一人の法廷(100
ルーブル/馬 5 頭/羊 50 頭を上限とする)28、②郷会(上限 1000 ルーブル)29、③特別集会である 30。
なおステップ諸州では一人のビイの法廷と特別集会の特権は、郷会の縮小された権限に比べ増大した
[Dzhampeisova 2006: 206]
。規定では、各郷(ヴォロスチ)に 4 から 8 人のビイを選任することが定
められていた。選出されたビイは軍務知事が承認する。俸給はないが、ビイルクと呼ばれる手数料を
徴収する権利を持った(訴訟額の 10%以下で、殺人や侮辱の際は慣習にしたがう)31。
規定に定められた裁判の流れは以下の通りである。ビイの法廷は公開で行われ、各行政区の長は被
告・証人を出頭させる義務を負った。法廷において、ビイは原告の訴えを台帳に記し、被告や証人に
陳述させる[Grodekov 2011: 154]
。ビイの決議(postanovlenie)も簡潔な言葉で特別の帳面(kniga)
に記され、そこにビイは印を押さねばならない。台帳に記すべき内容として、訴訟内容(双方の陳述
は省略)
、科料とビイルクの金額と判決、執行すべき日にち、判決の日付、原簿との対照番号、印があ
った。判決(reshenie)は決議(postanovlenie)の写しの交付により双方に伝えられる。写しを受け取
った者は裁判記録(protokol)の裏面に署名をする[Grodekov 2011: 158]
。
以下の図は判決台帳の見本で、写しを記し切り離す部分や受け取りの署名をする欄などを確認でき
る。
図1:シルダリア州の判決台帳のサンプル[Grodekov 1889: 付録 15-16] 32
barïmta(Kaz.)。ロシア語では баранта (baranta)と表記され、一般的な「略奪」の意味でも用いられた。
カザフ社会の中では、これは犯罪ではなく[Martin 2001: 149]
、したがって刑事案件とも扱われず、ビイの
法廷で審理を行った。オイラト語を始めとするモンゴル系の言語における「barimuta=根拠」との関連も考
えられる。
27
そもそも Grodekov[2011: 125]が指摘するように、カザフ社会においては民事・刑事の区別がなく、罪
の概念もあいまいであった。
28
Kraft[1898: 70]によれば、権利としてはあったが、一人の法廷はほとんど失敗の試みであったという。
29
volostnyi s’ezd。郷長も出席するが、彼らが事案に介入することは許されていない。セミョーノフの記述
を参照[セミョーノフ 1977: 163-168]
。婚姻取りやめにかんする裁判において「ビイらは、本格的に事件を
審理しはじめた。ただちに論争がはじまった。論争ははじめのうちこそおだやかだったが、だんだん熱を
おびてきて、やがては口論にかわった」[前掲書: 166]
。
30
chrezvychainyi s’ezd。決定審である[Grodekov 1889: 183]
。また[Martin 2001: 87]、[MKOP2: 25]も参
照。高橋[2000: 102]はこの「民衆判事会議」を上訴のための機関と位置付けている。ただし 67 年規定に
おいては明確な審級の規定はなく[伊藤 2000: 7]
、86 年のトルキスタン地方統治規定で明確になった。
31
67 年規定 186 項である。ビイルク(bilïq)は、グロデコフによれば、 50 ルーブルの手数料、あるいは
10 パーセントの金額と説明されている[Grodekov 1889: 192]
。
32
左から整理番号、日付、双方による訴えの内容(以下、テュルク文面とロシア文面との間に相違がある)
、
26
6
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上のような判決台帳の書式と判決文交付の制度は、定住民のいわゆるシャリーア法廷とも共通の形式
と見られる。ただし、裁定にいたるまでの過程や何を根拠として決まるのかについては個別に検討す
る余地があるだろう。
それでは、ここに新しく制度化されたビイの法廷では何を以って「判決」としたのだろうか。比較
的早い時期の判決文の例として、1875 年の郷スエズド(郷会)の判決文を紹介しておこう[MKOP2:
153]
。
①概要:カザフの Baigaska Sandybaev は Baigirei Kuldzhanov に対して、3 頭の馬を盗まれたことに
ついての不服申し立てを行った(1875 年 5 月 17 日付け)。
②ビイの民衆法廷の郷スエズドの判決:この案件の審理によれば、原告は法廷に対し被告につい
ての明らかな証拠を提出しなかった。被告は供述において無実を訴えた。原告は多くの時間を無
駄にし、申し立てを当局に対し行わなかった。したがって彼[被告]に対して 50 戸(kibitka)の
内から宣誓人を一名のみ選出し、もし選任された者が被告の無実を正当化すべく宣誓を受け入れ
るならば、訴訟において原告は敗訴となる。もし受け入れなければ、原告に対して[被告は]馬
について完全なる支払いを、馬には馬でするように。あるいは、宣誓のために選ばれたカザフの
Kuzentai Baitemirov に[支払いは]委託される。彼らを妹のところへ宣誓のために解放した。こ
れによって事案は解決されたとみなされる。期日が彼らに対して指定され、6 月 5 日に解決され
ることとなった。
[3 名のビイの署名を付す]
③判決がいつ申し渡され、受領されたか:5 月 17 日にビイの判決は原告と被告に申し渡された。
④判決がいつ執行されたか:5 月 17 日にビイの判決はビイによって指定された期間で執行に移さ
れた。原告と被告は互いに平和的に和解した。
なお、判決の際には郷長が同席した 33。
かつてはアラジプ(Aladzhip、まだらのひもを切ること)によって結審のしるしとしていた
34
。す
35
でに述べたように 1867 年以降は、ビイの台帳に判決が記されるようになる 。クルテレエフは、処分
や罰にかかわる3つの法源を示している[Kul’teleev 1955: 87]
。すなわち1.adatあるいはzang(慣習)
、
2.ビイの決定(bilik)
、3.集会における決定事項(ereje)である 36。ただし、慣習とは言ってもそ
の根拠となるもの―たとえばシャリーア法廷におけるファトワーや法学説の類―は存在せず、判
決文においても単に「アダトによって」という文言そのものが見えるにすぎない場合が多い[Grodekov
2011: 272]
。したがって、ビイたちの意見の違い(量刑判断)についてはその時の状況次第で、ずれが
あった[Grodekov 1889: 147]
。
判決・写し受領の署名、切り離して交付される判決の写し、判決に基づく補償の受領について原告の署名・
郷長などによるその確認の署名の欄となっている。ただしここに見えているテュルク語の文言はあくまで
シルダリア州での用例であり、本稿が扱うイリ地方では「原告」以下の用語は、ここに示されているもの
とは相当異なっていた。
33
[TsGA RK: f.413]に基づくとの注記がある。
34
[Grodekov 1889: 181]あるいは原典として[D’Andre 1846: 179]。
35
67 年規定 208 項[QAZ2: 316]
。
36
エレジェは、むしろスエズドの前提の合意事項とも考えられる(1869 年のヴェールヌイ郡とトクマク郡
の特別集会)[QAZ5: 168]
。次節でも再度検討したい。
7
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むしろ裁きの場において、判断の直接の根拠となっていたのは、証人(svideteli 37)と、上の例に見
える宣誓人 38の存在であった。たとえば 1876 年のクラマ郡のビイのスエズドでは、「adatに従って、
4名の宣誓人が指名された」という[Grodekov 2011: 266] 39。とくに被告にとっては、否認のための
宣誓は重要であり、できない場合は敗訴となり償いを余儀なくされるのであった[Dzhampeisova 2006:
115]
。裏を返せば、宣誓する者がいるかどうかしか法廷では確認せず、ときには虚偽の宣誓もあった
のである[伊藤 2001: 3]
。基本的に、被告が反訴の宣誓をできなければ原告の訴えが認められるとい
う流れであった 40。サルトーリによれば、あえてシャリーア法廷を選択するカザフがおり[Sartori 2011]、
その理由として、判決文が文書として残り、権利保護のありかたがビイの裁判とは違うことを挙げて
いる。
なお、重大事件についてはロシア帝国法で裁くという規定もあり 41、当局が帝国法の敷衍を志向し
ていたこともたしかである 42。少なくともこの時期のビイの法廷は、選挙で選ばれたビイを通じて人々
が請願を満たすという一つの行政的な手続きとして存在していた。またそのことは、ビイがより帝国
の官僚的な存在になっていたことも意味している。
4. 19 世紀後半のロシア帝国の多民族支配と紛争解決:イリ地方の場合(1871-81 年)
本節では、考察を深めるために、イリ地方の制度・実例に限定して議論を進めてみたい。この地域
は、よく知られているように、ロシアによる「イリ事件」によって、10 年間という短い時間ではあっ
たがロシアの統治を受けた。この間の官房文書史料は一つにまとめられており、ロシア統治の急速な
展開とそれに対する現地住民の対応を見る上ではきわめて興味深い史料群となっている 43。
1871 年のイリ地方(ロシア語ではクルジャ地方 Kul’dzhinskii krai)占領後、この地域はセミレチエ
州管轄下に置かれたため、67 年規定が適用されることとなった。この地域の最大の特徴は、多民族で
構成される空間であったことにある。カザフ以外にもタランチ、トルグート、オイラト、ドゥンガン
などの様々な信仰、生活様式を持つ集団が比較的狭い範囲に隣り合って存在していたのである。その
ことは集団間の紛争をしばしば引き起こし、ロシア当局はその解決に労力を割くことを余儀なくされ
た。したがって、この地域に適用された司法制度とその実態を分析することは、多民族統治と紛争解
決の有効な手段を考えることにもなるだろう。そもそもトルキスタン地方におけるロシア統治がはじ
まって日も浅く、ある程度の手ごたえを受けて導入されたものかも判断し難い。だが、イスラームの
濃淡や異教徒との関係などより複雑な要因はあったにせよ、何らかの形でトルキスタンでの実践の応
37
ディアンドレのテキストに見える例として、姦通について4人以上(女性でもなく、15 歳以下でもない)
の証人を要する、ビイの判断や犯罪の大きさによって宣誓をする場合がある、シャリーアの知識がない者
は宣誓をしてはいけないなどの記述がある[MKOP1: 168]
。
38
カザフ語では jan berušu。
39
たとえばサモクワソフのテキスト 59 項に証人の要件が見えるが、この文面を念頭に置いているかどうか
は確実ではない。
40
シャリーア法廷と同様の過程と考えられる[磯貝 2010]
。シャリーア法廷の証人については[伊藤 2001]
も参照。.
41
68 年規定 94 項[QAZ5: 424-426]
。
42
1854 年 5 月 19 日の Утвержденное положение Сибирского комитета о распространении на казахов
Сибирского ведомства общих законов Российской империи。
43
この間の経緯については[野田 2009]を参照。
8
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用がはかられたと見るべきだろう。
もちろん、多様な要素で構成されるイリ地方におけるすべての案件が、カザフのビイの民衆法廷で
扱われたわけではない。イリ地方の行政の中心であったクルジャのまちには、民族集団別の法廷があ
った
44
。とくに水曜日には、各民族の判事(kazy)の集会があり、重要な案件を審理したという
45
。
このような状況は、多民族間の紛争解決手段としての集会(スエズド)を想起させる。なお、イリ地
方では、現地民からの口頭での訴えを台帳(以下のviiも参照)に記すが簡潔に済ますことが多かった
という指摘もある[Aristov 1873: 46]
。
パントゥソフが整理するように、さまざまな窃盗、家畜盗、その他の盗みがカザフの民衆法廷の対
象となり、郡や地区 46にまたがる案件、またバルムタの抑止・被害者への補償を見込んだものは、ビ
イの特別集会にかけられた[Pantusov 1881: 53]。イリ統治時代のスエズドについて、1872 年にボロフ
ジル、73 年テケス、72 年ワリー、76 年サイラム=ノールにおいてそれぞれ開催したことが伝わってい
る[ibid.: 54]
。カザフにかかわる裁判を中心に、文書史料を根拠として裁判の過程を以下に再現して
みたい。
ロシアにより占領された地域
地図1:イリ地方の地図[野田 2009:162]
(網掛け部は返還されずロシア領になった所)
i) ビイの選挙 47
判事たるビイは選挙により選出された。その際、同時に選挙が行われる郷長 48分とあわせて候補者
名簿(ballotirovannyi list)が作成され、投票が行われた
49
。選出された者はセミレチエ軍務知事が承
認した。パントゥソフが示す 1877 年の統計では、南地区についてタランチの判事が 12 名、カザフが
12 名、トルグートが 6 名となっており、それぞれの民族について、処理した案件数および種別が明ら
かになる[Pantusov 1881: 208-209]
。さらに興味深いこととして、混淆裁判Smeshennyi sudおよび集会
44
たとえばムスリムであるタランチは、クルジャのまちの法廷に訴訟を提起し、かつもっぱら「調停」の
形で決着がつき、シャリーアやファトワーに基づいて争うことはまれであったことが報告されている(1872
年分第 1 地区についてのセミレチエ軍務知事宛て報告)[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 25, l. 194ob.]
。
45
イリ地方官房主任を務めたアリストフの報告による[Aristov 1873: 17-18]
。また、1879 年 1 月 13 日付け、
ドゥンガンのユーヌス=アホンからクルジャ北地区長官への文書では、イリ(クルジャ)の「ドゥンガンの
判事」が印を押していたとの記載がある[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 457, l. 7]。
46
イリ地方は、当初は 4 つの地区があったが、74 年には、第 3 地区が廃止され、その領域は第 1 地区に統
合された。76 年には第 4 地区が廃止され、南北の 2 地区となった[Pantusov 1881: 2]
47
サルトーリはタシュケントというやや特殊な地域の事例から、カザフのビイの選挙について、ビイのア
ダトについての知識や道徳が、選挙区のコミュニティーに利益をもたらすため、その有無が常に確認され、
結果としてビイの地位は不安定となったことを指摘している[Sartori 2008]。
48
ここでいう「郷」とはロシア語のヴォロスチに相当するものだが、イリ地方のカザフの場合はほぼ部族
に置き換えて考えてよい。
49
1876 年の例として、[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 170, l. 69]
。
9
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(スエズド)による裁定の件数も掲載されていることにも注意しておきたい。
ii)-1 「訴状」 50に相当する不服申し立て(‘arz-nama)
Ketmen 郷の郷長ジャンセルケよりクルジャ第四地区長官宛ての文書は、「第四地区のカザフがケト
メン郷のカザフから 27 頭の馬(at)を奪った barïmtalab alġan。また別の者から 11 頭の馬(yilqi)を
奪った…[中略]…長官は訴えを公平に扱ってくれなかった Uyāznūy načālinīk daġwasun tinklik bermädi。
かくして、我々の正当性を認めてほしい ḥaqqilarimizni alub bersängiz」という内容を持つ 1874 年 3 月
27 日受領の文書である[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 51, l. 15ob.]
。
本来は口頭での訴えを台帳に記すため、訴状は書面では残らないが、本件は一度否認された訴えの
再訴だったので書面で残ったと考えられる。この史料にあるように、テュルク語文書中では、訴訟は
「daġwa」の語によって示されていた 51。
ii)-2 「訴状」2
訴えはカザフからのみ提起されたわけではなく、他の集団からカザフの罪を訴えることもあった。
たとえばソロン 52からの訴状も確認できる。ソロンの章京の地位にあったColonggerがuyasnai(郡長)53
に対して行った、カザフによって家畜を奪われた件(1874 年 10 月)の再訴 54の要請が一枚の文書(満
洲語)となっている[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 150, l. 9оb- 10]
。
本件は実はビイの法廷ではなく、第一地区長官の裁定によって裁定されたケースである。イリ地方
のソロンとヴェールヌイ郡のカザフの間の紛争であり、当初は被告人がヴェールヌイ郡に居住するた
め、ヴェールヌイの郡判事の審理にこの件を移送するという決議も出されたが[l. 8ob.]、最終的には
イリ地方第一地区長官が審理の責任を負うことになったものである[l. 4]。この案件は、以下のiiiで
検討する文書と関係があり、詳しくは改めて検討するが、台帳の種類から判断すると調停 55の手続き
が行われたと考えられる[l. 20]
。
ii)-3 「訴状」3
露清間の文書が「訴状」的性格を持つこともある。清側のタルバガタイ參贊大臣からセミレチエ州
知事への照会(満漢のバイリンガル、1876 年)は、「貴国[ロシア]にしたがっているクゼイ部族の
カザフ suweni gurun de dahaha hesai hasak」
が清に属するケレイ部族の者から馬を盗んだ案件について、
50
ロシア統治下での現地住民からの不服申し立てが持っていた意味についても、
[Sartori 2009]の考察があ
るが、1886 年以降の状況が主なので、ロシア式の法制度がある程度機能するようになってからロシア当局
の信頼性が増したとも考えらえる。本稿では少し前の時期を扱っている。
51
早い例としては、1847 年の文書に「daw」の語が訴訟の意味で用いられている[TsGA RK: f.374, op. 1, d.
1767, l. 33ob.]。
52
シベと同じくトゥングース系の集団で、現在の中国=カザフスタン国境を成すホルゴス川付近に駐屯して
いた。
53
uezdnyi が元の語で、ここではヴェールヌイ郡長あるいはクルジャ第二地区長官を意味すると考えられ
る。
54
動詞 lehembi で表現されている。
55
[Pantusov 1881]にも調停裁判の件数などが示されている。1877 年の資料として、南地区の民事案件と
して、タランチが 452 件、カザフが 187 件、トルグートが 35 件に加え、混交裁判およびスエズドにより裁
定を行ったものが 88 件という数字が挙がっている[208-209]。
10
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清の法の下で裁くことを求めるもので、清朝側からの訴えと見ることができる[TsGA RK: f.21, op.1, d.
243, l. 3ob.]
。本稿では深く掘り下げないが、国籍の違う者どうしが紛争を起こすこともこの地域の司
法手続きに大きな影響を及ぼした。
iii)-1 召喚状(čaqru ḫatt)1
開廷に際しては、事前に関係者を召喚しておく必要があった。本文書は、片面がテュルク語で、カ
ザフのビイのボロンバイや長老のチュルマンらに、2 月 14 日の午前 10 時にクルジャ第一地区の政庁
まで来るよう求める召還状だが、ロシア語文面と比べると簡略化された内容である[TsGA RK: f. 21, op.
1, d. 150, l. 19ob.]
。一方、その反対面はロシア語で「召喚状 povestka」
(1875 年 1 月 10 日付け)とあ
る[l. 19]
。なぜか日にちが異なっており第一地区長官が郡判事として、ソロンの案件(ii -2 参照)に
ついて、15 日の朝 9 時に法廷に出頭するように求める内容になっている。
「現地住民間の案件の調停による審理の台帳」からの抜粋[l. 20]56によって整理すると、そもそも
この案件は 1874 年に原告のソロンが、被告のカザフにより家畜を奪われたことが発端である。被告ら
は、ヴェールヌイ郡のカザフのビイであるジャマンケの面前で犯行を自供し、そのことをカザフのカ
イルベクとタランチの判事トゥルデネが証明し、さらに証人としてシベ(シボ)のオフルがいた。召
喚状を送ったものの被告らは出頭せず、彼らから家畜を徴収することが決定され、証人らにも協力報
酬が割り当てられた。執行については、郷長に責任を持って徴収を行うよう第一地区長官が指示を行
っている 57。
ビイの法廷ではなく、
ソロンとカザフ間の係争で第一地区長官が調停を行ったが、証人なども含め、
この地域の係争においてきわめて多様な民族集団が関与していたことが明らかになる。
iii)-2 召喚状2
漢人の Khunge-dzhu に対して証人として召喚する内容を持つ(1877 年)
[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 118,
l. 38]
。本件は漢人が対象であったので、受取人は漢字で「受取人署名」欄に記入し、判事に返送した
ものが残されていると考えられる[l. 39]。
iv) 宣誓書
1876 年 8 月 6 日、クルジャ南地区長官からセミレチエ軍務知事宛て報告によれば[TsGA RK: f. 21, op.
1, d. 251, l. 2]、一度民衆法廷で結審したものだったが、原告(殺されたドゥンガンの妻)が満足せず、
再び口頭で不服申し立てを行い
58、2
頭の馬で補償したと述べる被告人による宣誓ではなく、原告の
訴えを聞き届け、再審することとなった。家宅捜索を行うことになり、捜索に先立って被告関係者が
出頭し宣誓を行っている。宣誓書には当人たちの署名と、郷の判事、すなわちビイらの署名捺印が必
要であった[l. 37]
。宣誓書はバイリンガルで、よく見られた書式としては、左がロシア語(kliatvennoe
obeshchanie)、右がタタール語(qāsam nāma)で定型の文言が記される。これはロシア帝国法大全に
56
57
58
1875 年 3 月 15 日付け、第一地区長官による決議(постановление № 4)。
76 年 5 月 31 日のセミレチエ軍務知事宛て報告[l. 26]
。
上訴に相当する。
11
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見えるムスリムの宣誓文と、若干の文言の相違はあるものの、共通の内容となっている 59。コーラン
の前に真実を述べることを誓うのだが、何について宣誓をするのかは盛り込まれていない所も特徴で
ある[l. 41]。
v)-1 審理の際の証言
実際には審理中の証言や陳述を直接記録したものは見出せていない。法廷の場での発言かどうかは
不明だが、被告の犯行を裏書きする内容を持つ文書はある。イリ地方ニルカ郷のタランチのアクサカ
ルであるユースフが、この郷のタランチがトルグートの馬を盗んだことを認める文書を認めている
[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 37, l. 92ob.]。このタランチとトルグート間の案件もビイの法廷の対象とはな
らず、クルジャ第二地区の大尉が予審判事を務めている。最終的に、タランチ側にも殺害された者が
いたことが判明し、双方が署名をし、手打ちにする旨を認めた誓約書(podpiska)60が提出された 61[l.
99]
。
異民族間の紛争解決に際してカザフのビイの法廷が応用されることもあったが、それだけでは限界
もあり、郡の法廷と併用されていたことがうかがえる。むしろ後述するスエズド方式が有効であった
と考えるべきだろう。
v)-2 弁明書1
クゼイのカザフがセルギオポル郡のカザフにバルムタを行った件にかかわるものである。クゼイ部
族の郷長フダイメンデの弁明(スエズドの開催前の文書ma‘lūm nāma)は、1873 年、クルジャ第三地
区長官に宛てて記された[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 52, l. 40ob.]。その中でフダイメンデは、
「自分の部
族ではそんな悪いことをした者はいない…[中略]…そのようなことをするのは、ザコンzākūn 62でも
ないし、シャリーアšarī'atでもない」と述べている。
v)-3 弁明書 2
ザイサン郡のカザフ、ジャンウザコフが、クゼイ部族のカザフにより強奪された被害額の内、1993
ルーブルがいまだ補償されていない旨を訴えた 63案件である。上の文書と同じく郷長フダイメンデは、
1871 年にバクトの地で開催されたスエズドについて、
「召喚状も見ていなければ、行った者もいない。
被疑者と目されている者たちは自分の部族の者ではない」旨を申し立てた[TsGA RK: f. 21, op.1, d. 48,
l. 16ob.]
。この弁明について、セミレチエ軍務知事からクルジャ第三地区長官宛ての文書(1873 年 8
月 20 日)において、原告からの請願も確認するようにとの指令が出されている[l. 17]
。結局、クゼ
イ部族側の弁明は認められず、補償額を払うよう求められ、責任者であるフダイメンデは拘留の憂き
59
[Arapov 2001: 148-149]
。イリ地方では、フトバの文言などについても、皇帝一族の名を読み込んで、
ヴォルガ地方で印刷された定型のタタール語文面が配布されていた[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 477, l. 5]。
60
詳しくは[Grodekov 2011: 264]
。
61
本文はロシア語だが、トルグートはチベット文字あるいはモンゴル文字で、タランチはアラビア文字で
それぞれ署名をした。
62
言うまでもなくロシア語の「法」を意味する語。
63
原告ジャンウザコフからの請願[l. 8]
。また、これを裏書きする Oraev の誓約書(71 年 7 月 12 日付け)
もあった[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 48, l. 25]
。なお、このジャンウザコフによる訴えがなかなか審理されな
かったことについては、ボゴヤヴレンスキーが言及している[Bogoiavlenskii 1898: 63]
。
12
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目を見た[l. 42]
。
vi) カザフのビイの「判決」
1873 年、ワリーの地における、クルジャ第三地区のカザフとザイサン郡pristavstva(セミパラチン
スク州)64のカザフ間の相互の訴えを裁定するスエズドの「判決」文がある[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 52,
l. 67-74]
。当該のスエズドについては以下のように複数の判決ないし決議文が残されている。
①決議 wādalï-nāma / postanovlenie, no.1。スエズド開催に際し、手続きについて定めたもので、以下の
8項目のように、後述する「エレジェ」に近い内容となっている(8 月 18 日付け、ロシア語とテュル
ク語のバイリンガル)
[ll. 64-66ob.]
。
1. 8 月 18 日に開始し、
申し立てのあった訴えの裁定が終わったときが特別集会
(artuq ṣiyāz)
の終結となる。
2. ビイは双方から4名ずつ選出する。
3. ビイの役割は、あらかじめ作成されたリスト中の案件ないしその他の案件の審理・裁定
を行うことである。それぞれの要求について、召喚状に基づき原告と被告が召喚される。
4. 審理に際し、不出頭の場合、原告(ないしその代理人)なら不服は解消されたことにな
り、被告(ないしその代理人)ならば、訴えにある損害額を支払わなければならない。
5. リストにない案件の審理に際しては、被告が出頭しない場合は、原告が、被告居住地に
おけるスエズドのあとに自分の訴訟を提起することができる。
6. 補償の細則やその他記載されていない事項については双方の合意の下に改めて決議文
を作成する
7. ビイとして双方が具体的な名前を4名ずつ挙げる。
最後に郷長 5 名、ビイ 17 名、名誉人 10 名、長老(starshina)2名が署名し、さらに双方の官員 2
名が同席した証拠として署名している。
②ビイの「判決」
(bīlarning biuluġi 65 / Reshenie biev。同じくバイリンガル文書で、8 月 18 日付けのも
のだが[l. 67-68]
、もう少し具体的な内容に踏み込んでいる。
1.双方の被害総額がほとんど等しいので審理はせず、紛争は解決し、双方が訴えについて
満足したものとする。
2.それぞれの郷長らを通じて補償を受け取る 66。
3.除外される案件の指定(ここに前述 v-3 のジャンウザコフの訴え(1993 ルーブル相当の
被害額)も含まれている)
ビイ8名の印・出席した郷長ササンとフダイメンデらの印・第三地区長官およびザイサン郡長の署
名がある 67。結審は「手打ちsalavat」 68(露文面では「平和的にmiroliubivo」)の語で示されている。
64
68 年~、セミパラチンスク州内に設けられる。
すなわちビイリクで、ここでは手数料ではなく決定のこと。
66
郷長、すなわち部族の長が補償の責任を負い、帝国の治安と現地住民社会の間で媒介者となっているこ
とについては、別稿でも検討する予定である。クルグズ社会におけるマナプの仲介者としての役割につい
ての議論は参考になる[秋山 2011]。
67
イリ地方側のカザフの長、ザイサン郡側のカザフの長、イリの第三地区長官、ザイサン郡長が臨席して
おり、この関係双方の人員の参加の下に紛争を解決しようとする体制が、のちに国際スエズドとして応用
されていったのではないかと考えられる。
65
13
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③ビイの「判決」
、19 日付け[l. 69-71]
。内容は以下の通りである。冒頭で「我々(ビイたち)は、平
和と安定とバルムタ抑止のために、以下の条件(waġda / uslovie)を定めた」ことを宣言し、各項が続
く。
1.バルムタや盗みを犯した者が殺されてもクン(ḫūn)は取らないし要求もしない。
2.バルムタをしたものが捕えられたり、摘発されたりした場合は、捕えた者・摘発した者
が3つのトクズ 69を得る権利を持つ。そのほか、捕えられた者は郷長やビイに支払いを
する。
[l. 74]。第二の決議文であり、
「訴訟案件の終結daġwalï
④「決議」
(waġdalï-nāma 70 / postanovlenie、19 日)
islarni biturmak」のためにスエズドを開催したことを記すが、具体的な情報を欠いている。
上の一連の決議文の付属文書として、裁定による補償額を承諾する旨を記した誓約書 podpiska があ
る[l. 71]
。ワリーの地のスエズドの決定に従って、リスト spisok(原告、盗まれた家畜の数、被告を
示した一覧表[l. 72]
)にあるように額が確定したので、その通りに、一か月の猶予でザイサン郡のカ
ザフに対して補償する旨の誓約である(1873 年 8 月)。クゼイ郷長のササンおよびバイジギト郷長の
フダイメンデの印と第三地区長官ボジョヴィチおよびザイサン管区長の少佐某の署名があるので、イ
リ地方に属するカザフ側の誓約書であることは間違いない。
本件は、一人のビイの法廷とは異なりスエズドなので書面で残っている決議や判決を確認すること
ができた。ただし、個々の案件の裁定の結果について記すのではなく、集会全体の約束事を規定する
にとどまっていることに注意したい。むしろ個々の裁定の内容については台帳が別に存在したと考え
られる(詳しくは vii を参照)
。なお、上の例が示すように、バルムタを止めることは主要な目的であ
った[l. 69]
。
ここで、スエズドの定義と役割について改めて整理しておこう。その由来ははっきりしないが、そ
もそもロシア司法において治安判事mirovye sud’iによる集会(スエズド)が見られるので、その系譜に
連なるものと考えられる[高橋 2001]
。グロデコフによれば、カザフの間では、殺人の際に集会が開
かれると言い、kunと呼ばれる家畜支払いによる補償の額を定めることによって直接の報復を避ける意
味合いがあった 71。ロシアによるスエズドについて、クルテレエフが指摘するように、郷間の対立や
州を越える係争の場合に開催していた[Kul’teleev 1955: 94] 72。また集会(スエズド)開催の権限が
現地機関に委譲されたことも開催の容易さにつながったであろう 73。
スエズドにおいてはしばしば規範としてのエレジェerejeが定められた[Zuev 1907: 425]
。スエズド
による決まり事(postanovlenieと呼ばれる場合も)を記録したものであり、文書化されたものが残さ
れている。エレジェそのものはロシア帝国による法制度とは関係なく作成される場合もあった。その
例として外モンゴルの西部で遊牧していたアバク=ケレイ部族のエレジェがある
68
74
。一方で、エレジ
[Grodekov 2011: 148-149]も参照。
9 を意味するが、実数とは限らず、複数の家畜などを贈呈すること。
70
本来の語義から考えると、約定などに近い単語である。
71
個人間というより部族間での紛争解決のための補償である[Grodekov 2011: 196]。
72
のちに露清間の紛争解決にもこのスエズドの仕組みが応用された[厲声 2004]
。このような国際スエズ
ドについては別稿で論ずることとしたい。
73
68 年規定 152 項。
74
モンゴル国のアルヒーフ史料で、テュルク語による。“Qazaqting zangi khaqinda”とあり、慣習法について
69
14
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ェをロシア当局が収集していた理由については、現地のやり方をロシア側が学ぶためであったとする
サルトーリの見解がある[Sartori 2011: 303]
。
上述のワリーのスエズドの決議文はむしろエレジェと呼ぶべき内容であったが、より具体的な決議
文が作成された場合も見られる
75
。1907 年の決議(postanovlenie)では、原告、被告、代理人、訴訟
内容、裁定の結果等が記され[伊藤 2001]が示すエレジェと類似の内容になっている[QAZ5: 354-355]。
あるいは先に示した 1875 年のスエズドの例も参照されたい[MKOP2: 153]
。
vii) 判決台帳
ドルベン=スムン郷のオイラトとカザフ間の係争についての一連の訴訟(スンべのスエズド)の判
決を列記したもの。書式としては左側に概要を、右側に判決を示している。
例として、第一案件について、1873 年 6 月 4 日の判決(reshenie)が以下のように記録されている
[TsGA RK: f. 21, op. 1, d. 51, l. 70-]
。
【案件の概要】ドルべン=スムンのイルギダイ
76
の某(判読できず)がカラ=キルギズ
77
のKokbureに
78
盗まれた 14 頭の馬を要求している、
(中略)当事者は調停判事を選任した 。
【判決文】Sultankulov に宣誓するよう求める。もし彼が 3 日以内に宣誓しなければ、Kokbure は馬を
支払い、またビイルクも支払う[+Kokbure の指紋]。
異民族間の案件であること、また宣誓の有無が判決の主要な部分を占め、裁定を左右しているとこ
ろに特徴がある。先に述べたように、宣誓の効力・有効性はビイの法廷において大きかったのである。
viii) 州総局の議事録
カザフとトルグート間の紛争(73 年)についてのセミレチエ州総局(Obshchee prisutstvie oblastnogo
pravleniia)の議事録が残されている[TsGA RK: f.21, op.1, d.51, ll.86-89ob.]。この件はムザルトにおけ
るスエズドによって裁定が行われた。興味深い点として、土地の分割が争点となっていることが挙げ
られる。ヴェールヌイ郡・イッシク=クル郡・クルジャ第四地区間の夏営地と冬営地をめぐる争いで
あったが、スエズドによって、双方が納得いくように境界を定め、最後に出席者 22 名が「分割証書akt
razdela」に署名をし、得心したことの証しとしたのであった 79。境界をどのように定めるかという問
題は、遊牧民の牧地選択の問題と密接なかかわりがあると思われ、改めて別に検討すべき課題と考え
ている。一つ指摘できることは、川の流れに代表される自然境界が本案件でも画定の指標となってい
る点である。関連文書からは、このスエズドがアリストフの指揮下にあり、各行政区の郷長らはスエ
ズドの目的、期間、場所等について周知することを誓約書 80に記し、集合を促していたことが明らか
になる 81。
adat とは記していないことに注意したい[MKOP2:142-148]。
75
一例として、ビイのスエズドがアダトにしたがって「記録 protokol」を取る旨を記した決議文(1884 年)
がある[Grodekov 2011: 335]。
76
清朝が与えていた爵位の一つ。
77
すなわちクルグズ。
78
ビイおよび原告・被告の印ないし指紋。
79
セミレチエ州総局が裁定を承認し、裁定の内容は現地語にも翻訳し複製をつくることも記されている。
80
出頭要請に対して提出されることがある[QAZ5: 354]。
81
イッシク=クル郡の長官からムザルトのスエズドを管理するアリストフへ、1873 年 5 月 29 日、長官がア
15
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xix) ビイの報酬(ビイルク)
1873 年 8 月 18 日付けの決議文(waġdalï-nāma)において、クルジャ第 3 地区とセルギオポリ郡間
のワリーの地におけるスエズドでは案件はすべて結審し、ビイへのビイルクは、被告から 10%を取る
権利として、郷のビイたちに伝えた旨が記載されている。それを受けて第 3 地区長官ボジョヴィチら
は、スエズドに集まったカザフたちに、裁判の対象となった家畜の数について明らかにし、セミレチ
エ軍務知事に伝えるよう要求された[TsGA RK: f.21, op.1, d.52, l. 62]
。ビイの報酬は判決に盛り込まれ
ることが常であった。
x) 補償について
2頭の馬の案件について、スンべの地のスエズドの結果、Serikbay が Bayusbay から2頭を得たこと
について、
「2 頭の牝馬 biye を自らの得心 rāzlïġum とともに受け取り、決着が着いたことの正しさのた
めに、私こと Serikbay は指紋を捺印します」という文言が見える。また Serikbay の補償受領が正しく
行われたことについて、部族の名誉判事(pačūtnī bī)の Qajqun も印を押している[TsGA RK: f. 21, op.
1, d. 51, l. 188]
。
以上、簡単に流れを整理すると、ロシアの制度下において選挙により選出されたビイは、おもにカ
ザフにかかわる係争に際し判事として機能した。特別集会(スエズド)においても判事を務めたが、
その開催にあたっては現地当局の意向が強く反映されていた。裁判のおもな関心は被害額に対して補
償がなされるか否かであり、必要に応じて証人も召喚され、また当事者の主張を裏付けするような関
連文書も提出されていた。
それぞれ扱う案件は基本的に異なるものの、イリ地方のカザフにかかわる司法手続きのプロセスを
再現し、法廷において重要視されていた内容についても確認することができたと考える。次節では冒
頭に設定した課題に照らし合わせてまとめの考察を行う。
5.考察と今後の課題
カザフの規範を示す語として、Adat[Grodekov 2011: 30-31]、Zang 82、Rasm、Nizam[Martin 2001: 157]
などの語があるが、19 世紀におけるロシア統治下の法制度の変化は、これらをも含めて、あらたなロ
シア法体系下の「ザコン」
[MKOP1: 116] 83の創出に向かわせたと言えよう。上に示した具体例を見
ても、フダイメンデの反駁の中でシャリーアと並列にザコンを挙げているのはその表れであろう。む
しろアダトは固有の表現ではない可能性があり、ロシアによる創造の要素が強い 84。いずれにせよ、
リストフへ誓約書を送る旨を報告する文書[TsGA RK: f.21, op.1, d.51, l. 59]。
82
アダトよりザングの方が慣習法以外の法も含む広い用法とみなされている[Kul’teleev 1955: 85]
。
83
オムスクにおいて刊行されていた Dala valayatining gazeti の記事(1896 年 32 号)のように、法学関連述
語のロシア語から「カザフ」語への翻訳も役割を果たしていた。
84
1847 年の文書史料において、
「カザフの法にしたがって qazaq šariġatï buyunča」
』
[TsGA RK: f.374, op. 1,
d. 1767, l. 33ob.]という言及があり、また別の文書には、殺人に対して「zang」による裁きを行ったとい
う記述がある[TsGA RK: f. 338, op. 1, d. 666, l. 11]
。
16
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慣習法とそれに携わるビイとはある程度の権威を有しており、それをロシア側が利用しようとした構
図はここでも確認できるだろう。
もちろんこれら一連の法制度改革と変化は、ロシア法への接合の過程であることはたしかである。
しかし、帝国の植民地統治の中で、より大きな意味を持っていたのは、司法手続きそのものをロシア
化することではなかっただろうか。したがって裁判の過程についても、19 世紀前半に比べれば、より
形式的なものであったと考えられる。
一方、本稿で検討した事例は清朝領イリ地方というきわめて特殊な地域の統治にあたり導入された
法制度にもとづくものであった。これは、冒頭で仮定したように、むしろ多民族統治・多民族間関係
の安定のために有効な手段として見ることができないだろうか。とくに異民族間の係争にビイの集会
(スエズド)方式の裁判が広く採用されていたことは注目すべきである 85。トルキスタンやステップ
で始まったばかりの法制度を導入し、
このイリ地方でも一定の成果を上げることができたと考え得る。
さらに留意すべきは、この地域がトルキスタンよりもさらに複雑な民族構成を持っており、かつそこ
に隣国清朝との関係が重なってくることである。仔細な検討は別稿に譲るが、より効率的な方式の模
索として、ロシア帝国領内にとどまらず、国際紛争の解決のための国際スエズドへと収斂していく一
段階としてもロシア統治時代のイリ地方の法制度は位置づけられる。
ただし、ロシアの強制的な司法制度改革の結果とはいえ、現地のカザフ人にも役割は残されていた
ことにも注意したい。単独のビイの裁判そのものは件数としては少なかったように見受けられるが、
スエズドや調停においてもビイが判事として選任され、関与していたのである。また補償の責任を部
族の長らが持たされていたように、現地社会の構成についても当時の法制度・慣行から逆に光を当て
ることができるだろう。
一方で、本稿で検討すべき課題と位置づけたカザフの慣習法とシャリーアとの交点はどこに見出せ
るだろうか。もちろんビイがシャリーアの知識を求められることはあった。なかにはアダトより重視
する者もおり、シャリーアへの志向はたしかに存在していた[Grodekov 2011: 33]
。
だが他方、ロシア政府側は、マーティンが指摘するように、カザフを含むムスリム現地民がロシア
法ではなくシャリーアに向かってしまう恐れを常に抱いていた[Martin 2001: 58]。ロシア帝国がカザ
フ草原における過激なイスラームの波及を恐れていたこととおそらくは関連して[Zuev 1907: 424]
、
イリ地方の司法文書ではイスラーム法としての「シャリーア」は、カザフがかかわる案件ではほとん
ど姿を見せない。さらに、ドゥンガンやタランチなどの他のムスリム集団が関係する案件でも、イス
ラームの要素に大きな配慮は見られず、むしろ調停的な裁定が意味を持っていたものと考えられる。
新疆においては、1860 年代から大規模なムスリム反乱が展開され、清朝統治の崩壊に直結していたこ
とも念頭にあったに違いない。
今後の課題として、比較研究がある。とくにロシア帝国内の他の遊牧民―具体的にはカルムイク
やブリヤート 86―の慣習法と司法制度との比較は、イスラームと仏教という違いはあれど、むしろ
類似点を多く見出せるだろう。あるいはトルキスタンのザカスピ州におけるトルクメンに対する慣習
85
サルトーリによれば、1886 年にトルキスタンにおいてスエズドによる第二審を設定したのは、ロシア官
吏の負担をより少なくするためであったという[Sartori 2009: 429]
。イリ地方では先行して、スエズドによ
る処理を多用し、少ないコストでの治安維持・安定化を試みていた可能性も高い。
86
1841 年にステップ法令集として編纂された。
17
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による法廷なども今後の考察の対象として、より広い範囲でロシア統治における司法制度の意義を追
求したい。
地図2:露清国境線
地図3:セミレチエ州行政区分
※注記:本稿は、科研費若手(B)「近代中央アジアの多民族社会と帝国の統治:新疆イリ地方の事例か
ら」および基盤(B)「東アジア諸国におけるムスリムと非ムスリムの共生:ライフスタイル変容の比
較研究」の成果でもある。
参考文献
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вводной статьи, комментариев и приложений Д. Ю. Арапов), Москва: Академикнига, 2001.
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20
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イチャン・カラ博物館蔵 3894 文書の成立とその背景
―ヒヴァ・ハンの国有地を私有地に移転する勅令について―
塩 谷
哲 史
筑波大学人文社会系
はじめに―ヒヴァ・ハン国文書の研究とその課題
15 世紀末から 16 世紀初頭にかけてキプチャク草原から南下し、中央アジア南部定住地域を征服し
たウズベク遊牧集団のうち、その一支がアムダリヤ下流域のホラズムを征服し、1511/12 年ヒヴァ・ハ
ン国を建国した。ヒヴァ・ハン国は、王朝の交代や帝政ロシアによる保護国化を経ながらも、1920 年
赤軍の支援を受けた青年ヒヴァ人 Yāsh Khīvalīklār によって打倒されるまで存続した。
本稿では、このヒヴァ・ハン国領内で作成された文書を「ヒヴァ・ハン国文書」と総称したい。ヒ
ヴァ・ハン国文書には現存するものとして、以下のようなジャンルがある。ヒヴァ・ハンの勅令 yārlīgh、
ホラズム地方内の諸都市ないし部族の統治者(ハーキム ḥākim、ビー bī など)がハンないしハン国
高官に宛てた報告書、上奏文 ‘arīża、書簡 khaṭṭ、租税台帳、ノコル 1の徴募台帳、ブハラ、コーカン
ド、イランのガージャール朝、アフガニスタンなどに派遣された使節の報告書、さらにカーズィー法
廷文書(私人の証書 vaṯīqa 類、ムフティーの法的裁定 rivāyaなど)、ワクフ文書などである 2。
ヒヴァ・ハン国文書の研究は、
すでに 1873 年のロシア軍のヒヴァ遠征後に着手されるはずであった。
1873 年 5 月ヒヴァを占領した遠征軍の総司令官であったカウフマン К. П. фон Кауфман は、ただちに
遠征軍に同行していた東洋学者クーンАлександр Людвигович Кун (生没 1840–1888 年)にヒヴァ・ハ
ンの宮廷にあった文書、写本の没収を命じた。これらはサンクトペテルブルグに移送され、1876 年帝
国公共図書館 Императорская публичная библиотека に移管された。しかし、1936 年東洋学者イワノ
フ П. П. Иванов が レ ニ ン グ ラ ー ド の サ ル ト ゥ イ コ フ ・ シ チ ェ ド リ ン 名 称 国 立 公 共 図 書 館
Государственная Публичная библиотека имени М. Е. Салтыкова-Щедрина (現・ロシア国民図書館)写
本部 отдел рукописей において発見するまで、これらの文書は研究の対象となることはなかった
[Брегель 1966: 9]。1940 年イワノフはこの再発見した文書の分類と概要を示した『ヒヴァ・ハンのア
ルヒーフ』[Иванов 1940] を出版し、その研究の始まりを告げた 3。1940 年代末から 1960 年代初頭に
かけてさらに多くの文書が、現在のロシア科学アカデミー東洋写本研究所、ウズベキスタン共和国中
央国立文書館、同国科学アカデミー東洋学研究所、そしてヒヴァのイチャン・カラ博物館で新たに発
見ないし所蔵を確認された [Брегель 1966: 69; Bregel 2007: 1]4。
1
ノコルはモンゴル語起源の語で、テュルク語では「下僕」を意味した。19 世紀の中央アジアでは、ノコ
ルは定住民より徴募され、自ら馬、武器、装備を準備して軍役に就く者を指した。彼らは通常、地税 sālghūt
を免除された [Bregel 1999: 546]。
2
これらの文書の種別の詳細については、[Брегель 1966: 69–71; Урунбаев 2001: v–x] を参照。
3
本書では、1920 年以前のヒヴァ・ハン国で作成された文書を総称して、
「ヒヴァ・ハン国文書」と呼ぶこ
ととする。
4
たとえば 1961 年サルトゥイコフ・シチェドリン名称国立公共図書館で、さらに 3000 点以上のヒヴァ・
ハン国文書が明らかになった。1962 年それらはタシュケントのウズベキスタン社会主義共和国中央国立文
21
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これにともない 1960 年代から 1970 年代にかけて、モスクワとタシュケントでヒヴァ・ハン国文書
に関する研究が多く現れた。それらは文書の精選出版や、文書にもとづく土地制度やハン国内の各民
族集団の社会経済的状況を扱った個別テーマの研究であった。その重要なものとして、
ヨルダシェフ、
コシュジャーノフ、ジャリーロフ、そしてブレーゲルらの研究が挙げられる [Брегель 1961; Юлдашев
1966; Кошчанов 1966; Брегель 1967; Жалилов 1986]。しかし 1970 年代後半から、こうした文書に対す
る関心は薄れ、また西欧など外部の研究者はこれらの史料を閲覧できない状態が続いた [Bregel 2007:
1] 5。またソ連期の研究は、もっぱら社会経済分野に限られ、また文書館に収蔵された文書を対象とし
たものであった点も指摘しておくべきだろう。
1991 年のソ連の崩壊と中央アジア諸共和国の独立後、ヒヴァ・ハン国文書の研究は新たな展開を見
せた。それは、1)文書館のみならず民間所蔵文書への注目、2)目録・テキスト・訳注の出版、3)
勅令への関心と文書中に現れる用語の確定を中心とした研究の進展によって特徴づけられる。
民間所蔵文書の研究の嚆矢となったのは、堀川徹・京都外国語大学教授を中心とした「中央アジア
古文書プロジェクト」である。このプロジェクトは、現地研究機関・研究者との協力のもと、世界に
先駆けて民間所蔵文書の収集・目録化を開始し、その成果はまず『19 世紀から 20 世紀初頭のヒヴァ
のカーディー法廷文書目録』[Урунбаев 2001] になって現れた。そこでは、1713 点のカーズィー法廷
文書に関する解説が行われている 6。
ソ連崩壊後のヒヴァ・ハン国文書研究で最も注目を集めた文書の種類は、勅令であった。
『中央アジ
アの特許状目録』[Урунбаев 2007] は、東洋学研究所に所蔵される、780/1378–79 年の日付を持つもの
(ただし偽文書とされる)から 20 世紀第 1 四半世紀にかけてヒヴァ・ハン国のみならず、ブハラ・ア
ミール国、コーカンド・ハン国で作成された 122 点の勅令、下賜状 ‘ināyat-nāma などの解説および写
真版を掲載している。またウズベキスタンにおいても、エリヤル・カリーモフがヒヴァ・ハン国領内
で作成されたカーディー法廷文書 73 点、勅令 14 点の解説および写真版を出版した [Каримов 2007]。
アメリカでは、Wood [2005] に引き続き、Bregel [2007] が出版された。Wood [2005] は、18 世紀のヒ
ヴァ・ハンたちが、ハザラスプに居住していたナドゥル・ムハンマド・シャイフ Nadr Muḥammad Shaykh
の子孫たちに与えたタルハン tarkhān を認める勅令 8 点について、写真版とテキスト、英訳に加え、
背景説明、文書中の用語の解説を付して出版した 7。また、Bregel [2007] は、おもにウズベキスタン
共和国中央国立文書館に所蔵されている勅令(タルハン・ヤルリグ 10 点、国有地の私有地への移転に
関する 9 点、官職の任命に関する 4 点)
、ハンの書簡 4 点、リヴァーヤ 3 点の写真版とテキストを、英
訳および文書中の用語の解説を付して出版した。
ただし今後のヒヴァ・ハン国文書の研究に対しては、以下の課題が残っている。1)ソ連時代の研
究史、とりわけ土地制度史やブレーゲルによるトルクメン諸部族の移動、彼らのハン国内における居
書館(現・ウズベキスタン共和国中央国立文書館)に移管された [Брегель 1967: 9–11]。この移管された文
書は、現在同文書館の所蔵分類 125 目録 2 の諸文書を構成している [Брегель 1966: 69]。
5
ただし 1980 年代に、シャイホワがヒヴァ・ハンの勅令、土地の売買文書、カーズィー法廷文書に関する
研究を行っている [Шайхова 1982; Шайхова 1986; Шайхова 1988]。
6
文書を現地の研究機関であるウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所に寄贈し、そのマイク
ロフィルムを京都外国語大学が受領し、目録作成と研究を日本側とウズベキスタン側が共同で実施すると
いう方法で始まった本プロジェクトの開始の経緯については、堀川 [1993] を参照。
7
これについては、塩谷 [2007] の紹介がある。タルハンの地位を持つ者は、税や賦役の免除、軍役負担の
免除、9 つの大罪に対する免罪といった特権を享受したとされる [Wood 2005: 29]。
22
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住、1850 年代以降の彼らの反乱のメカニズムに関する研究成果([Брегель 1961] など)が十分に参照
されていない。この点で、ソ連時代の研究史を整理し、新たに発見された文書や未利用の文書を用い
てソ連期の研究の成果と問題点を指摘した Абдурасулов [2008] の今後の研究が期待される。2)文書
出版の信頼性が問われる場合がある 8。3)文書に現れる用語や社会制度の解明と並行して、今後個々
の文書ないし文書群の史的文脈への位置づけを行う必要がある。
第 1 章 国有地を私有地に移転する勅令について
ヒヴァ・ハンの勅令は、その内容によって1)国有地を私有地に移転する旨を記したもの、2)諸
都市のカーズィー、ライースやカザフ、カラカルパクのビーなどへの任命、3)タルハン・ヤルリグ
の三つに大別できる 9。これらのうち国有地を私有地に移転する旨を記した勅令は、2010 年 7 月まで
のウズベキスタン共和国中央国立文書館、ウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所、イチ
ャン・カラ博物館における筆者の調査により少なくとも 86 点が確認されている 10。この勅令の特徴と
して以下の点が挙げられる。1)移転(売却)の目的は、
「ノコルの俸給のために nūkar mavājibī ūchūn
/ mavājib-i nūkarīya ūchūn」という言葉で示されている。2)勅令に典型的な、
「我が言葉 sūzūmīz」と
いう定型句とハンの印章がともに文書冒頭に示される。3)売買を証明するカーズィーの印章が押さ
れ、土地の価格、四囲の記述などが示されるという不動産売買証書 vaṯīqa の要素も持っている 11。4)
最後に、爾後売却された土地は、新たな所有者の私有地となり、その資格はのちの土地の所有者たち
にも引き継がれるべし、という内容の文言が続く [Bregel 2007: 3–4]。この勅令の年代分布は、
1206/1791-92 年から 1336/1917–18 年 12にわたっている。発給者別に見ると、アブルガーズィー・ハン
4 世が 1 点、ムハンマド・ラヒーム・ハン(在位 1806–25 年)が 3 点、アッラー・クリ・ハン(在位
1825–42 年)が 2 点、ラヒーム・クリ・ハン(在位 1842–46 年)が 6 点、ムハンマド・アミーン・ハ
ン(在位 1846–55 年)が 22 点、サイイド・ムハンマド・ハン(在位 1856–64 年)が 5 点、サイイド・
ムハンマド・ラヒーム・ハン(在位 1864–1910 年)が 45 点、イスファンディヤール・ハン(在位 1910–18
年)が 2 点である。また対象となる国有地は、3–5 タナーブの小規模なものから数千タナーブ [Bregel
2007: 4]、さらに約 2 万デシャチーナ(約 53000 タナーブ)におよぶものもあった 13。また対象となっ
た国有地の位置に関してここで指摘しておきたい点は、86 点中 41 点
14
がラウザーン運河とその南北
Бабаджанов [2009] は、経験、語学力の不足、作業への熱意を欠き、過去の研究成果を参照しない研究者
の手になる史料出版を批判している。
9
16 世紀以降の中央アジアにおける国有地 mamlaka-yi pādshāhī、私有地 milk の概念とそれをめぐる研究
史については、磯貝 [1999]、Schwartz [2010] を参照。
10
今後、この数は増えると考えられる。
11
ブレーゲルは、カーズィーの印章、土地の価格、四囲の記述を除いては、不動産売買証書に見られる要
素は見られないと指摘しているが [Bregel 2007: 5]、アブドゥラスーロフは自身が検討した文書にブレーゲ
ルが見られないとした要素(「本物件に付随するあらゆる権利、設備を含むものとし barcha ḥuqūq va marāfiqī
bīla」
「被陳述者はこの陳述内容に同意し 〔た〕 ma‘a qabūli-hi iyyā-hu」などの定型句)が見られるとして、
ブレーゲルの解釈を修正している [Abdurasulov 2012: 317]。
12
以下、ヒジュラ暦に対応するのはグレゴリウス暦ではなくユリウス暦である。
13
19 世紀のホラズムでは、1 タナーブは 4037–4097 平方メートルであった [Bregel 2007: 68]。またロシア
の保護国となった後のヒヴァ・ハン国では、1 タナーブ=3/8 デシャチーナと規定されていたようである。
1 デシャチーナは 1.092 ヘクタールに相当する。
14
内訳は古ウルゲンチが 31 点、カラユルグンとハナーバードが 3 点、ラウザーンが 2 点、ウアズ、カンド
8
23
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の支流 15からダリヤルク沿岸にかけてのハン国西部を対象としたものであったということである。
さて、こうした国有地の私有地への移転は何のために行われたのであろうか。ロシアのヒヴァ・ハ
ン国保護国化(1873 年)後、アムダリヤ右岸にはトルキスタン総督府の管轄下にアムダリヤ分区
Аму-Дарьинский отдел が設立され、その分区長官は、分区内の軍政およびハン国内のロシア帝国臣民
の保護、ヒヴァ・ハン国政府と帝政ロシア政府との交渉の監督を行うようになった。この分区内の土
地制度を研究したオレスト・シュカプスキー Орест Шкапский (生没 1865–1918 年)によれば、こ
うした国有地の売却(移転)は法的虚構であった。これらの売却においては、実際に金銭の授受はな
く、現実には被授与者によってすでに占有されている国有地の下賜であり、その結果件の土地は被授
与者の私有地 milk となった。この法的虚構は、ただ土地の売却だけが被授与者の取り消し不能の所
有権を確立することができたから必要とされたのだという [Шкапский 1900: 100–104; Bregel 2007: 4]。
さらにこうした虚構の売却は、ハンが国有地を自分の私有地とするための手段としても用いられた。
つまりハンは勅令を発布してある国有地を自分の高官の私有地とし、その高官は勅令の発布とときに
は同じ日にその私有地をハンに売却した。後者の手続きは、証書 vaṯiqa に記された [Шайхова 1988;
Bregel 2007: 5]。ブレーゲルもまた、このシュカプスキーの見方を踏襲している [Bregel 2007: 4–5]。し
かし近年ウズベキスタンの研究者ウルファト・アブドゥラスーロフは、こうした「〔証書との〕混合形
態のヤルリグ mixed-format yārlīq documents」の発生とその発布の意図について次のように述べ、シュ
カプスキー以来の見解に修正をせまっている。ヒヴァ・ハン国に成立したコングラト朝(1804–1920
年)は、ウズベクの一部族であったコングラト族の有力者が、他の諸部族の有力者との政争に勝利し
て建てた王朝であった。その君主たちは政敵たちから没収した土地を自分たちの協力者の間で分配し、
忠実な子飼いの土地所有者を創出するため、国有地の私有地への移転を企図した。しかしそれは売買
文書だけでは合法化できなかった。それゆえ、あたかもそれが「ノコルの俸給のために」という文言
に示された国家勤務への報酬としての土地の下賜であるように見せかけるため、証書との混合形態の
ヤルリグによって国有地の私有地への移転を合法化しようとした [Abdurasulov 2012: 318] 16。そしてヒ
ヴァ・ハンの勅令に示された売買は法的虚構であり、すでに件の土地を実質的に保有している個人に
取り消し不能の所有権を与えるためであったとするシュカプスキー以来の見解に対し、国有地の私有
地への移転は新たに灌漑された土地や没収地においても行われており、すべての事例に当てはまるも
のではない、と批判した [Abdurasulov 2012: 318–319]。またその虚構性のゆえに売買に際して実際の
金銭の授受がなかったとするシュカプスキーの指摘 [Шкапский 1900: 100–102] もまた、再検討される
べきであろう。
第 2 章 企業家による国有地を私有地に移転する勅令の「利用」―ラウザーン荘設立問題
さてこのようなアブドゥラスーロフの指摘に関連して興味深い文書が、イチャン・カラ博物館に所
ゥム・カラがそれぞれ 1 点となっている。
15
ラウザーン運河およびその北側のヤークーブ・ヤルガン、ハン・ヤプおよび南側のスフバト・ヤルガン、
シャー・ムラードの諸運河・支流を指す。なお本稿では、ホラズムにおいて河川の支流および人工の用水
路を指すアルナ ārna、および人工の用水路を指すヤプ yāp / yāf に「運河」の訳語をあてている。
16
ただしこの勅令の発布による国有地の私有地への移転の制度の発生についてのアブドゥラスーロフの議
論は、今後さらなる検討が必要であると思われる。
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蔵されているКП 3894 番の文書(以下、
「3894 文書」とする)である。本文書は、1332 年サファル月
16 日/1913 年 12 月 30 日イスファンディヤール・ハンが発布した勅令のうつしである。名宛人は、ア
ンドロニコフ公 М. М. Андроников とプチーロフ А. И. Путилов であり、ラウザーン運河両岸の国有
地約 2 万デシャチーナ
(約 53000 タナーブ)
を 65 万ルーブルで両名の私有地とする旨が記されている。
本文書は、先に述べたヒヴァ・ハンたちが「ノコルの俸給のために」という文言を伴って、国有地を
私有地に移転する勅令と形式上一致する。しかし他の同種の勅令とは異なり、1)勅令に続いて、売
買文書 vaṯīqa、20 項目からなる契約書 ‘ahd-nāma が付され、全部で 12 葉からなり 17、2)テュルク
語とロシア語の合璧であり、3)カーズィーの印章がないかわりに、11 葉目表面にアムダリヤ分区長
官ルィコシン Нил Сергеевич Лыкошин(在任 1912–14 年) がこの売買契約を認証した旨を示す自筆
署名がある、という特徴をもつ [塩谷 2012a: 60]。
この国有地の私有地への移転の対象地となったラウザーン運河は、19 世紀初頭までにカラカルパク
のラウザーン・バイなる人物によって建設された小水路 sālma にその起源を求めることができる
[Shajara: 329a]。その後 1830 年ごろに起きたアムダリヤの氾濫によって、運河の一帯は湖沼となった。
アッラー・クリ・ハンからムハンマド・アミーン・ハンまでのヒヴァ・ハンたちは、この湖沼の水を
利用して、1570–80 年代以降荒廃していた古ウルゲンチの復興、ダリヤルク南岸のハナーバードの開
墾などハン国西部における灌漑事業を推進した。しかし、1850 年に納税を拒むトルクメンの騒擾に対
してムハンマド・アミーン・ハンがラウザーン運河の最下流に石造の堰であるタシュ・ボガトを建設
し、さらに 1855 年ハンの戦死後にハン国西部でアタ・ムラード・ハンが率いるトルクメンの反乱が拡
大すると、1857 年サイイド・ムハンマド・ハンはラウザーン運河のアムダリヤからの取水口に堰(バ
ンド)を建設して、同運河を封鎖しハン国西部への水供給を制限して、反乱者たちを服従させようと
した。この封鎖はハン国西部の荒廃と定住化しつつあったトルクメンの牧畜への回帰をもたらしたが、
1867 年に反乱を起こしていたトルクメンとの和平が成立すると、1869 年には古ウルゲンチに通じるハ
ン・ヤプの復興、さらに 1872 年にはシャー・ムラード運河方面へのディーヴァーンベギ・ヤルガンの
掘削とスフバト・ヤルガンの復興が行われた。これ以降ヒヴァ・ハン国政府は、ラウザーン運河の本
流を封鎖し、その南北の支流を維持・拡張させ、それらの沿岸の灌漑地を拡大させる政策を続けた
[Shioya 2011; 塩谷 2012a]。
一方、ヒヴァ・ハン国を保護国化した帝政ロシア政府は、ピョートル 1 世(在位 1682–1725 年)の
遺志とされたアムダリヤのカスピ海への転流とそれによるロシアとインドを結ぶ通商目的の航路建設
のために、ラウザーン運河をその起点と見なしていた。すでにこの転流実現を目指して、以前アムダ
リヤがカスピ海に注いでいたときの河床(旧河床)に関する調査がロシア軍のヒヴァ遠征に前後して
開始されていたが、1878 年夏に起きたアムダリヤの氾濫と一時的な河水のサルカムシュ湖への到達を
契機に、転流は実現可能であるとする意見が強まり、ラウザーン運河一帯でいくつかの灌漑事業が行
われた。その代表的な事例は、ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公 Николай Константинович Романов
の二度(1879 年と 1890 年)にわたるハン国訪問とラウザーン運河に築かれていた堰の破壊であった
が、アムダリヤの水位の季節上昇により付近の土地の冠水被害を招くなど失敗に終わった [Pravilova
2009: 267–270]。1894 年には、1878 年夏の氾濫の調査に参加した技師ゲリマン Х. В. Гельман の提案
17
契約書部分のみ、1332 年サファル月 17 日/1913 年 12 月 31 日付となっている。
25
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にもとづき、当時のトルキスタン総督ヴレフスキー А. Б. Вревский (在任 1889–1898 年)の要求で、
ハン国政府は封鎖されていたラウザーン運河の一部を復興し、さらに一部を直線化することで、旧河
床沿岸に 10 万デシャチーナの新灌漑地を創出し、最終的にはサルカムシュ湖を経てカスピ海へとアム
ダリヤの水を導くことを可能にする新運河建設に着手することになった [Гельман 1900]。しかし、ア
ムダリヤの水位の経年変動、季節変動、当時起きていた河床の浸食による水位低下といった自然環境
に由来する要因に、灌漑工事の負担および新灌漑地の帰属問題を懸念するハン国政府による建設計画
の変更 18といった人為的な要因が加わり、建設工事は失敗に終わった。1899 年 11 月 16 日トルキスタ
ン総督府内で開催された「アムダリヤ旧河床への導水のための今後の工事の方向性の問題に関する会
議 совещание по вопросу о дальнейшем направлении работ для пропуска воды в старое русло
Аму-Дарьи」は、
「灌漑の必要のためにクフナ・ダリヤ〔旧河床〕へ大量の導水を行う大規模な工事を
企てることは、きわめて時期尚早かつ準備不十分である」とし、これまでハン国の定住民のべ 42 万
6000 人が非生産的な労働に当たってきた、と結論したのである [ЦГАРУз: ф. 1, оп. 12, д. 2102, лл.
8–11об.]。こうした背景には、1860 年代末に始まったヒヴァ・ハンのラウザーン運河一帯における政
策と転流計画との齟齬、1878 年夏の氾濫により容易に実現可能と判断されたアムダリヤのカスピ海へ
の転流という「夢想的な」技術的裏付けのない計画 [Pravilova 2009: 279–280] と結びついた新運河建
設事業の性急さ、そして古ウルゲンチ以西に過度な灌漑地の拡大を期待した帝政ロシアの軍政官や灌
漑計画立案者たちのアムダリヤの歴史に対する無知があったと言える 19。さらに新運河の流水を期待
して移住してきたトルクメンは、1899 年以降マフムード・ハン・アタリハノフのもとに結集して騒擾
を起こし、新運河の自主管理とロシア臣籍受入を主張して、ハン国に対する納税拒否と抵抗を開始し
た。
1910 年サイイド・ムハンマド・ラヒーム・ハンが没して、その子イスファンディヤール・トラがハ
ン位に即位すると、
1328 年ラマザーン月 10 日/1910 年 9 月 2 日付で勅令を発し、国庫の収支の明確化、
政府役人 ‘amaldār の俸給設定、税制改革、先進的施設の導入、灌漑網の改善と拡大ならびに定住民
への賦役 bīgār の廃止と灌漑作業への動員の有償化を布告した [ЦГАРУз: ф. 2, оп. 1, д. 291, лл.
149–149а; Погорельский 1968: 72–73]。この改革を主導したのは、大宰相 vazīr-i akbar に任命されたサ
イイド・イスラーム・ホジャ Sayyid Islām Khvāja (1913 年没)であった。彼はまず先進的施設の導
入を図ったが、これらはハン国政府の財政難を招く結果となった 20。所有面積に応じた土地所有者へ
18
ヴレフスキーはハン国政府に対し、
「殿下〔ヒヴァ・ハン〕が事業の履行をお引き受けくださる場合には、
灌漑された土地は貴殿の利用のために提供されなければならないでしょう。なぜならば、貴殿によって灌
漑が実施されるからであります。殿下が何らかの理由でこれらの事業を自身の予算で行うことができない
場合は、私〔ヴレフスキー〕がこれらをロシア政府の負担で行うよう要請しなければなりません。そのと
きには、再び灌漑された土地はすべて、公正さと現地の慣習に合わせて、ロシアに所有権 собственность が
譲渡されます」と通告した [ЦГАРУз: ф. 125: оп. 1, д. 33а, л. 9–9об.]。これに対し、ハン国政府は当初の計画
の変更を条件に自身の建設工事負担を受け入れた [Гельман 1900: 131]。
19
ロシアの東洋学者バルトリドは、
「実際には、古ウルゲンチよりも下流の地域がホラズム社会において大
きな意味を持ったことはたえてなかった。
〔13–15 世紀ごろに〕アム川の流れがサルカミシュまで達し、そ
こからウズボイに流れ込んでいたときも例外ではなかった」と述べている [バルトリド 2011: 78]。
20
ヒヴァでは、病院、郵便電信局、監獄、新方式マクタブとマドラサ、欧風の宮殿であるヌールッラー・
バイ Nūr Allāh Bāy 宮殿の建設、ヒヴァの北門にあたるコシュ・ダルヴァーザ Qūsh Darvāzasī の改築が行
われた。また、ハン国の幹線運河に架かる鉄橋の建設も決定された [ЦГАРУз: ф. 2, оп. 1, д. 314, л. 57–57об.;
Gulshan: 13–14; Юсупов 1999: 59, 65]。
ルィコシンは、こうした建設事業がハン国財政の負担となっていると指摘している [ЦГАРУз: ф. 2, оп. 1,
26
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の一律の地税 sālghūt 賦課による財政難解消が期待されたが、これもまた免税特権を持つ大土地所有
者や定住民に比べて税負担が軽かったトルクメン諸部族の有力者たちの反対に直面した [ЦГАРУз: ф.
2, оп. 1, д. 314, лл. 50об.–51; Becker 1968: 229]。1911 年には、アムダリヤ分区長官グルシャノフスキー
の介入により、マフムード・ハン・アタリハノフらはラウザーン運河一帯の浚渫を指揮し、1899 年の
騒擾後流れが止まったラウザーン運河を復興させた [ЦГАРУз: ф. 2, оп. 1, д. 314, лл. 38, 42об.–43]。し
かし翌 1912 年には、ラウザーン運河の利用と管理をめぐって、ハン国政府とマフムード・ハンらの対
立が深まり、1912 年 12 月から 1913 年 1 月にかけてトルクメンの有力者の殺害事件を契機にガザヴァ
ト運河下流域から古ウルゲンチにかけてトルクメンの反乱が発生した。ヒヴァ宮廷では、武力鎮圧を
控えようとしたイスラーム・ホジャに対し、シャイフ・ナザル・ヤサウルバシ Shaykh Naẓar Yasāvulbāshī
を中心とした強硬派の意見が優勢となり、ハン国軍とトルクメンとの武力衝突が起きて、グルシャノ
フスキーの後任であったルィコシンがロシア軍を率いてヒヴァに一時駐留する事態となった [Карпов
и Бацер 1930: 48–52]。
こうした背景で、3894 文書に示されたイスファンディヤール・ハンによるアンドロニコフ、プチー
ロフ両名に対するラウザーン運河周辺の国有地の私有地への移転が行われた。ハン国政府は、1)国
有地の売却益により財政難に直面した国庫を補填し、2)1873 年の和平条約第 12 条によってハン国
内における不動産の所有を認められていた [Жуковский 1915: 181] ロシア帝国臣民の土地所有権を確
立することで、引き続くトルクメンの抵抗をハン国内における帝国臣民の土地所有権の侵犯へと置き
換えようとした。すなわち、1913 年 7 月にイスファンディヤール・ハンは、地税負担を条件とする国
有地の分与規定案を作成し、アンドロニコフとプチーロフの土地取得もこの規定に沿って行われるこ
ととされていた [РГИА: ф. 630, оп. 2, д. 853, л. 3–3об.; ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957, лл. 17–20] 21。イスラ
ーム・ホジャはこの国有地分与計画の推進者であった。彼は 1913 年 6 月 17 日付でアンドロニコフと
ラウザーン運河周辺の国有地の売却に関する仮契約に署名している [РГИА: ф. 630, оп. 2, д. 853, лл.
1–4]。さらに 1914 年にかけて、コヴァレフスキー А. Н. Ковалевкий やゴリツィン公 П. П. Гольцын ら
がハン国内のラウザーン運河周辺やダリヤルク沿岸での土地取得を計画していたことが確認される
[ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957, лл. 23–24; ф. 7, оп. 1, д. 4995]。1913 年 8 月 9 日イスラーム・ホジャはヒヴ
ァのイチャン・カラ内で何者かによって殺害されたが 22、その後もハン国政府とアンドロニコフ、プ
チーロフの代理人との間で、国有地の分与に関する交渉は進められ、1913 年 12 月 30 日の勅令発布に
至ったのである。そして 1913 年 12 月 30 日の勅令発布後、1916 年 11 月にかけてハン国内で当時唯一
開行していた露亜銀行新ウルゲンチ支店が、土地の価格 65 万ルーブルのうち 43 万ルーブルをハン国
д. 314, л. 57–57об.]。
21
分与規定の正式な名称は、
「ヒヴァ領内の非灌漑地を諸人に賃貸ないし諸人の私有地とし、国庫への納税
を条件に分与する諸規定 Khīva yūrtīdāghī adrā’ yerlārnī harkīmgha ijāragha va milk ītīb pādshāhlīgh maw’natī
bīla bīrīlmākīnī tartīblārī / Условия раздачи разным лицам в арендное пользование и потомственное владение
свободных земель Хивинского Ханства за установленные подати」で、国有地の分与を受ける際の条件ならび
に被授与者の土地利用や灌漑に関する諸義務を定めた 20 カ条から成っていた [ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957,
лл. 17–20]。
22
イスラーム・ホジャの暗殺の理由はいまだに明らかにされていない。バルトリドは「1913 年イスラーム・
ホージャ〔ママ〕は、不可解な状況で殺害された。始まった審理はすぐに中止された。なぜなら、私が聞い
たところでは、この犯行にはハン自身の関与をうかがわせるような状況が明らかになったからである」と
述べている [バルトリド 2011: 258]。
27
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政府に納付している [РГИА: ф. 630, оп. 1, д. 478, лл. 105–106] 23。
一方、アンドロニコフらの土地取得の意図は何であったのか。当時総督府の軍政下にあったロシア
領トルキスタンでは、モスクワやサンクトペテルブルグの企業家を主体とした大規模灌漑事業の実施
とおもに綿花を中心とした商品作物栽培を目的とした農園設立計画が数多く持ち上がっていた。しか
しこれらの計画は、1886 年に公布されたトルキスタン統治規程による外国籍および特定民族籍(ユダ
ヤ人など)
、株式会社の土地所有権取得制限などの規制に直面していた [Joffe 1995: 376–378]。そのた
め企業家たちはこうした規制が及んでいなかった二つの保護国―ブハラ・アミール国とヒヴァ・ハ
ン国―に灌漑事業の機会を求めた。自らの持つ人脈を背景にサンクトペテルブルグの政界に影響力
を持った [Fuller 2006: 70–71] 宮廷貴族アンドロニコフ公は、事業への投資を企図した露亜銀行(頭取
はプチーロフ)と動力灌漑設備の導入など灌漑計画を立案したエルモラエフ М. Н. Ермолаев ととも
にヒヴァ・ハン国領内のラウザーン運河周辺における土地所有権の取得、大規模灌漑事業の実施、綿
花、アルファルファなどの商品作物を栽培する農園ラウザーン荘 дача Лаузан の開設、さらに株式会
社の設立による農園経営を計画した [РГИА: ф. 630, оп. 2, д. 853]。そして彼は、1913 年 6 月 17 日ヒヴ
ァでイスファンディヤール・ハンに謁見してこの計画を推進した [ГМИ: кп. 3894, лл. 3об.–4]。アンド
ロニコフは公 князь としての身分や統治規程の抜け穴を利用しつつ、サンクトペテルブルグの政界の
みならず財界、さらには中央アジアの保護国の君主を結びつけ、その間で仲介者として振舞ったので
ある。また資本と技術を有する企業家の灌漑計画は、1870–1890 年代に進められたアムダリヤのカス
ピ海への転流という「夢想的な」技術的裏付けのない事業と結びついた灌漑計画と比べて、ハン国政
府にとって受け入れやすいものであったことは疑いない。
さて 3894 文書には、カーズィーの印章がないかわりに、11 葉目表面にルィコシンがこの土地取得
23
勅令発布時に 10 万ルーブル、その後 5 年割賦で毎年 11 月 1 日までに 11 万ルーブルをそれぞれ土地の購
入費としてハン国政府に納付することとなっていた [ГМИ: кп 3894, л. 5–5об.]。また地税は、土地取得から
3 年経過した 1916 年 12 月 30 日以降、
毎年 12 月 1 日までにハン国政府に納入すべきとされていたが [ГМИ:
кп 3894, л. 6-6об.]、1917 年の二度の革命による混乱と露亜銀行の国営化により支払われなかったと考えら
れる。
28
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の契約を認証した旨を示す自筆署名がある。これはアンドロニコフのヒヴァ・ハン国領内の土地所有
権取得を、帝政ロシア政府が公に認めたことを意味するとともに、この案件に介入したことも意味し
ている。ハン国政府とアンドロニコフらとの交渉および分与規定案作成を知ったルィコシンは、1913
年 7 月以降トルキスタン総督サムソーノフ(在任 1909–1914 年)にこれを批判する報告を行っている
[ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957, лл. 15–15об., 23–24]。これに対して省庁間での意見の相違などからロシア
政府の対応は遅れ、1913 年 12 月に入ってやっとサムソーノフはルィコシンと当時ヒヴァでハン国政
府と土地取得交渉を行っていたエルモラエフに対し、アンドロニコフらのハン国内における土地所有
権の取得は認めるが、アムダリヤから新たな水支出を要するその土地の水利権については別途ロシア
政府と協議するよう通告を行った [ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957, лл. 60, 62–63; ф. 7, оп. 1, д. 5007, л. 28]。
さらにルィコシンは、自身が土地所有権の取得に関する契約の認証を行うことができるようサムソー
ノフに要請した [ЦГАРУз: ф. 1, оп. 17, д. 957, л. 78]。その結果、売買文書と契約書を付された 3894 文
書の原本は 1914 年 1 月 27 日ルィコシンのもとに提出され、彼がその内容を認証する旨をそのうつし
である 3894 文書に記したのである
24
。ここに帝政ロシア政府が認めるロシア帝国臣民の約 2 万デシ
ャチーナにおよぶ広大な土地所有権が、ハン国領内に確立された。その一方でサムソーノフの指示の
背景には、当時土地整理農業総局が進めていた大規模灌漑事業の推進による新灌漑地創出、新灌漑地
へのロシア人入植、入植者の綿花栽培奨励を柱とする開発政策があった [Khalid 1998: 65]。この政策
の方針に沿って、アムダリヤ流域の水資源を帝政ロシア政府が一元管理する基本原則が、1914 年 3 月
13 日大臣会議で承認された。この基本原則は、帝政ロシア政府のアムダリヤの水の高権的処分権を規
定して、ヒヴァ・ハン国政府が自国領内の灌漑事業のためにアムダリヤの水を自主裁量で利用する権
利を否定し、灌漑事業を実施する企業家には帝政ロシア政府からの水利権認可取得、事業保証金の納
入、ロシア人入植者への土地割当などの諸義務を課した [ЦГАРУз: ф. 2, оп. 1, д. 314, лл. 3–7]。ヒヴァ・
ハン国はアムダリヤ下流域に位置し、この河川にほぼ完全に水資源を依存していた。それゆえハン国
領内では、アムダリヤからの新たな水支出を伴わない新たな土地の灌漑は事実上不可能であった。こ
れにより、ヒヴァ・ハン国政府は自領内で独自に企業家を誘致した灌漑事業を行うことはできなくな
り、企業家はハン国政府から取得した土地の水利権を帝政ロシア政府に請願したものの、それはおそ
らく 1917 年の革命前に果たされることはなかった 25。そしてラウザーン荘設立計画が進展しないうち
に、運河一帯は 1915 年夏までにハン国への抵抗を続けていたマフムード・ハン・アタリハノフらの占
領下に置かれてしまうのである [РГИА: ф. 630, оп. 1, д. 478, лл. 91–95]。
結論
本稿では、ソ連崩壊後に進展してきたヒヴァ・ハン国文書の研究動向を紹介し、個々の文書を史的
24
こののち原本は、1914 年 1 月 28 日露亜銀行新ウルゲンチ支店から発送され、サンクトペテルブルグの
露亜銀行本店に到着したが [РГИА: ф. 630, оп. 1, д. 478, лл. 1–2]、その後の行方は明らかではない。またル
ィコシンの認証に際して、彼の署名が入ったうつしが作成され新ウルゲンチ支店に保管されたが [РГИА: ф.
630, оп. 1, д. 478, л. 3; оп. 2, д. 853, л. 70]、そのときにハン国政府側でも保管されることになったであろうう
つしの作成については詳らかではない。そのため 3894 文書の由来については、今後の調査が必要となる。
25
1914 年 6 月 15 日アンドロニコフは参謀本部に水利権取得の請願を行ったが、
これに関連した案件は 1916
年 7 月の時点で依然として審議中であった [ЦГАРУз: ф. 1, оп. 12, д. 1950, л. 6–6об.; ф. 7, оп. 1, д. 5007, лл.
5–6]。
29
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文脈に位置づけるという現在の課題に対し、今からちょうど 100 年前に作成された 3894 文書を題材
にその史的文脈への位置づけを試みた。ヒヴァ・ハン国文書中に見られるハンの国有地を私有地に移
転する勅令は、すでに 19–20 世紀転換期のオレスト・シュカプスキーの研究以来注目されてきた。シ
ュカプスキーは、この移転が対象となる国有地をすでに占有していた保有者に所有権を追認するとい
う法的虚構であり、実際の金銭の授受はなされなかったと結論したが、近年アブドゥラスーロフは実
際に移転が行われた事例もあると述べ、こうした見方に疑問を提示した。本稿で扱った 3894 文書に
示された国有地の私有地への移転は、
このアブドゥラスーロフの主張を裏付けるものとなる。
つまり、
少なくとも 1910 年代にはハン国内での灌漑事業と農園設立を計画した企業家への国有地分与という
目的のために、金銭の授受と新たな所有者への実際の所有権の移転が行われたのである。ヒヴァ・ハ
ンの国有地を私有地に移転する勅令の発布は、より広い目的を持っていた可能性があり、発布された
時期ごとの背景事情を踏まえて考えるべきだろう 26。そして 3894 文書に示された勅令の発布の背景に
は、ロシア領トルキスタンで規制されていた灌漑事業に必要な土地所有権を確立しようとしたという
企業家と、改革の実施に伴う財政難を国有地の売却益とそこからの地税収入によって補填するととも
に、ハン国領内で保証されたロシア帝国臣民の土地所有権を盾に長期化するトルクメンの抵抗を抑え
込もうとしたヒヴァ・ハン国政府の目論見の一致が存在した。しかし両者の目論見は、国家目標のた
めに企業の利益を犠牲にする [Joffe 1995: 375–386] 帝政ロシア政府の政策がロシア領トルキスタンか
らハン国領内に及ぶとともに、ヒヴァ・ハンの自国領内における灌漑の自主裁量の権限が剥奪される
という現実の前に挫折したのである。
※注記:本稿は、科学研究費補助金「文書史料による近代中央アジアのイスラーム社会史研究」
(基盤
研究(B)
、課題番号:21320134)ならびに同補助金「ロシア進出前後の中央アジア社会に関する歴
史地域学の試み」
(若手研究(B)
、課題番号:22720263)の成果の一部である。また本稿の内容が
筆者の既刊論文と一部重複することをお断りしたい。
参考文献
【文書館略号】
ГМИ: Государственный музей-заповедник «Ичан-калъа».
ИВАНРУз: Институт востоковедения им. Абу Райхана Бeруни Академии наук Республики Узбекистан.
РГИА: Российский государственный исторический архив.
ЦГАРУз: Центральный государственный архив Республики Узбекистан.
【一次文献・未公刊】
Gulshan. Mullā Ḥasan Murād Qārī Kāmkār, Gulshan-i Sa‘ādat, ИВАНРУз, рук. инв. № 7771.
Shajara. Muḥammad Yūsuf Bayānī, Shajara-yi Khvārazmshāhī, ИВАНРУз, рук. инв. № 9596.
【一次文献・公刊】
26
おそらく磯貝 [1999: 56] が指摘するように、中央アジアにおいて優勢であったハナフィー派法学のウラ
マーたちの国有地の処理をめぐる議論の展開を明らかにすることが、この問題を解決するために必要であ
ろう。
30
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Общественные
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ロシア領中央アジアのシャリーア法廷における各種裁判文書の機能とその作成過程
―19 世紀末から革命期のシャリーア法廷文書を題材として―
磯
貝
健 一
追手門学院大学国際教養学部
1. はじめに
ソ連邦が崩壊し、現地の各種文書史料にアクセスすることが可能となった 1990 年代以降、ロシア帝
政期中央アジア史に関する研究は新たな時代を迎えたといってよい。このことは帝政期中央アジアの
シャリーア法廷研究についても当て嵌まり、ロシア語や現地語で筆記された行政文書、および、実際
に当時のシャリーア法廷で作成された現地語法廷文書に依拠しながら、ロシア当局が現地のシャリー
ア法廷にもたらした影響の諸相についてこれを具体的に解明しようとする研究が、近年イタリアのサ
ルトリ Paolo Sartori を中心に進められつつある。
ところで、このような帝政期中央アジア・シャリーア法廷研究の進展は、現地諸機関に所蔵される
膨大な量の法廷台帳の利用に拠る所が大きい。中央アジアのシャリーア法廷は、もともと各種契約の
認証、および、シャリーアに準拠した裁判の遂行をその業務の柱としており、こうした業務遂行の過
程で証書や判決といった種々の文書が法廷から当事者に交付された。しかしながら、法廷台帳の作成
が一般化していたオスマン帝国とは異なり、中央アジアでは、或る年度にシャリーア法廷で作成され
た様々な文書の内容を冊子に記載して保管するという習慣は存在していなかったようである。ところ
が、ロシア帝国が中央アジアの一部を自国領に編入すると、ロシア当局はシャリーア法廷を主宰する
個々のカーディー(裁判官、当時の正式名称は「民間判事 narodnyi sud’ya」)に証書台帳と判決台帳とい
う、二種の台帳の作成を義務付けた。かくして、帝政期のロシア領中央アジア(当時の行政上の呼称は
「トルキスタン地域 Turkestanskii krai」)については、我々は域内の所定の地域のシャリーア法廷で、
所定の年に作成された証書(ロシア語:akt、現地語:wathīqa)や判決(ロシア語:reshenie、現地語:ḥukm)
の総体を眺めることができるのである。
本稿は当該地域のシャリーア法廷裁判を取り扱うものであるが、このようなテーマを研究するうえ
で、帝政期に判決台帳が導入されたことの意味は極めて大きい。
中央アジアのシャリーア法廷裁判の審理の過程では、訴状、判決のほかにファトワー(法鑑定文書)
であるとか、さらには、ロシア領内に特有の文書であるカーディーの覚書、といった各種の文書―本
稿ではこれらの文書を一括して「裁判関連文書」と呼ぶ―が法廷の内外で作成された。ところが、
上記の文書は基本的に別個の紙片に記載され、しかも、当地には同一案件に関連する紙片状の文書群
を一纏めにして保管する習慣がおそらくはなかったことから、結果として各種の裁判関連文書は個々
ばらばらに伝存することになった。したがって、紙片上の裁判関連文書から、或る一つの裁判の審理
過程全体を再構成することは、余程の偶然が無い限り、ほぼ不可能であるといってよい。
一方、ロシア統治期の判決台帳に収録される個々の判決文―本稿では「台帳判決文」と呼ぶ―に
は、原告の訴え、審理中の当事者双方の発言、当事者が証拠やファトワーを提出した場合はその内容
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―証拠についていえば、証拠が証人の証言ならば証言内容、文書ならば文書の種別および台帳登録
番号等―、そしてカーディーによる裁定の結果―一方の勝利で終わったのか、または、和解が成
立したのか―に至る一連の審理過程が簡潔明瞭に記載される。現地のシャリーア法廷を舞台とする
個々の紛争解決過程については、ロシア当局により導入された判決台帳を利用することで、初めてこ
れを再構成することが可能になったとさえ言い得るだろう。
しかしながら、断片的に伝存する紙片状の裁判関連文書と台帳判決文の内容を見比べた場合、じつ
は後者は審理過程で作成された各種文書の内容を全て記載しているわけではないことが容易に見て取
れる。たとえば、審理過程において、当事者が法廷外で獲得したファトワーをカーディーに提出して
いたならば、台帳判決文にはこのファトワーの内容が大体二、三行を割いて提示される。ところが、
実際のファトワー文書に記載されるテキストは殆どの場合はるかに長大であり、余白部分には台帳判
決文に記載されることのない、アラビア語法学書からの引用文が原語のまま所狭しと書き込まれてい
る。また、台帳判決文にその内容が収録されるファトワーは、最終的に裁判で勝利した側が提出した
それであるが、実際の裁判においては原告、被告の双方が別々のファトワーを獲得し、これをカーデ
ィーに提出することも決して珍しいことではなかった。つまり、審理過程において原告と被告の双方
がファトワーを提出したというケースでは、台帳判決文には勝者が提出したファトワーの内容のみが
記録され、敗者が提出したそれは採録されなかった可能性が極めて高い。さらに、後述するような、
ファトワー作成のための資料としてカーディーが当事者に交付した覚書にいたっては、台帳判決文か
らはそのような文書の存在自体、窺い知ることができない。
要するに、台帳判決文はシャリーア法廷における紛争解決過程の全体像を把握するには非常に有益
な史料であるが、一方で、紛争解決過程の詳細を知るためには紙片状裁判関連文書も一定の意義を有
するのである。本稿では、この紙片状裁判関連文書を利用して、ロシア領中央アジアのシャリーア法
廷における各種裁判文書の機能とその作成プロセスについて考察し、さらに、そもそも台帳判決文は
如何なる資料にもとづいて起草されたのかという問題につき、現時点での筆者の見解を提示してみた
い。
2. 使用史料の出自と特徴
さて、本論に入る前に、本稿で使用する裁判関連文書の出自と、種別毎の特徴について簡単に説明
しておく。
本稿で使用する各種の紙片状裁判関連文書は、いずれも 2001 年以降にウズベキスタン共和国内各地
の博物館において、カタログ作成を目的として現地研究者と共に撮影したものである。以下、本稿で
使用する史料の所蔵機関と、
その撮影年、
および撮影対象となった文書の推定される作成地について、
その一覧を掲げる。ただし、撮影対象となったシャリーア法廷文書には、裁判関連文書だけでなく、
各種証書も含まれることを付言しておく。
機関名称
国立イチャン・カ
ラ博物館保護区
撮影年
推定される作成地の傾向
ほぼ全ての文書がヒヴァ・ハーン国領由来のものと推定される
2001-2007 年
が、ごく一部、ロシア帝国領アムダリア管区に由来する文書も含
まれる
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サマルカンド州立
博物館
国立ブハラ建築美
術博物館保護区
2002 年
2006-2008 年
が、「34508-11」番台の文書はロシア帝国領フェルガナ州ナマン
ガン市およびその近郊に由来する文書である
2003-2004 、
物館
2006-2007 年
立博物館
シア進出以前のブハラ・アミール国領に由来する文書も含まれる
ほぼ全ての文書がブハラ・アミール国領由来のものと推定される
フェルガナ州立博
アンディジャン州
ロシア帝国領サマルカンド州に由来する文書が多いが、一部、ロ
2003 年
ナマンガン州立博
2003-2004 、
物館
2006 年
ロシア進出以前のコーカンド・ハーン国領に由来する文書と、ロ
シア帝国領フェルガナ州に由来する文書が混在する
次に、本稿で利用する紙片状裁判関連文書の種別とその発行者(=捺印者)、および、文書内での日付
記載の有無につき、やはりその一覧を提示しておく。
種別
発行者(捺印者)
日付の記載
訴状
ムフティー
無し
カーディーの覚書
カーディー
有り
ファトワー
ムフティー
無し
判決ないしその梗概
カーディー
有り
上掲の表から分かるように、訴状とファトワーには日付が記載されない。これは歴史研究の史料と
しては致命的な欠点であり、とくに、本稿のようにロシア帝国領のシャリーア法廷を研究対象とする
場合、いずれの文書がロシア統治下で作成されたのかが不明なままでは研究が成り立たない。しかし
ながら、日付の記載がない訴状やファトワーについても一定程度の年代確定が可能な場合もある。
後述するように、紙片状裁判関連文書の場合、一枚の紙片の両面に、関連する別種の文書が記載さ
れることがある。たとえば、訴状やファトワーの反対面に判決梗概やカーディーの覚書が記載されて
いるような場合には、後者の日付から前者の作成年代をほぼ確定することが可能である。また、訴状
やファトワーに捺されたムフティーの印章も、場合によっては年代確定の有力な手掛かりと成り得る。
カーディーやムフティーの印章銘文には、時にヒジュラ暦の年号が含まれることがある。これは印章
の所有者が、印章銘文に記載される職掌に任命された年を示すものであるが、このようなタイプの印
章が捺されている文書の作成時期は、銘文に含まれる年代から大きく隔たることはないものと推定さ
れる。
ただし、以上のような手掛かりに依拠したとしても、所詮すべての訴状やファトワーの作成年代を
確定することは不可能である。本稿の主要史料であるファトワー文書はそれ自体非常に興味深い史料
類型ではあるが、個々の文書の作成年代が正確には分かり得ない以上その扱いは極めて難しく、ファ
トワー文書を利用した歴史研究においては、多くの場合、推論を述べる以上の事ができないこともこ
こに告白せねばならない。
3. ファトワーと「カーディーの覚書」
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(1) タズキラの実例
さて、以上のような史料上の制約を踏まえた上で本論に入ろう。
本稿で利用する裁判関連文書には、ロシア帝国トルキスタン地方フェルガナ州に由来するものとお
ぼしき文書が多数含まれているが、フェルガナ州由来のファトワー文書の特徴の一つとして、本文中
に「タズキラ tadhkira」と呼称される文書への言及がしばしば見出される事が挙げられる。ファトワ
ー文書において頻繁に言及されているにもかかわらず、タズキラの実物が伝存するのは極めて稀なこ
とであるが、今回調査対象とした裁判関連文書中にはこのタズキラの実物が四点含まれている。
この内の一つが、国立ブハラ建築美術博物館保護区(ロシア語名称:Bukharskii gosudarstvennyi
arkhitekturno-khudozhestvennyi muzei-zapovednik、以下 BGAM と略記)に所蔵される 34508/11-2 文書で
ある。本文書は帝政期の文書ではなく革命期(1923 年)のそれであるが、一枚の紙片の片面にファトワ
ー、その反対面にタズキラ、および、タズキラの内容に関連したファトワーがそれぞれ記載される、
極めて珍しい史料である。以下、それぞれの文書の本文部分のみについて、原文と日本語訳を提示す
る。
ファトワー面原文(ペルシア語)
‫ ﺍﺭﺙ )؟( ﺩﻋﻮﻯ ﻗﺪﺭ ﺣﺼﻪ ﺍﺷﺮﺍ ﺑﺮ ﺧﺼﻤﺎء ﺣﺎﺿﺮﻳﻦ ﺧﻮﺩﻫﺎ ﺑﺎﻗﻰ ﺑﺎﻯ ﻭ‬... ‫ﺩﺭﻳﻨﻤﺴﺌﻠﻪ ﻛﻪ ﺑﺮ ﺗﻘﺪﻳﺮ ﺁﻧﻜﻪ ﻓﻀﻴﻞ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻭﻟﺪ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﺑﺎﻯ ﺑﻤﺤﻀﺮ‬
(‫ﺗﺮﻏﻮﻥ ﺑﺎﻯ ﻭ ﺟﻮﺭﻩ ﺑﺎﻯ ﺍﻭﻻﺩ ﻛﺒﺎﺭ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻭﻟﺪ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﺑﺎﻯ ﻛﺮﺩﻩ ﺑﺎﺷﺪ ﺑﻌﺪ ﺻﺤﺔ ﺍﻟﺪﻋﻮﻯ ﻭﻟﺰﻭﻡ ﺍﻟﺠﻮﺍﺏ ﻋﻠﻴﻬﻢ ﻣﻼ ﺗﺎﺟﻰ ﺣﺎﺟﻰ ﻭﻟﺪ ﺳﺘﻢ )؟‬
‫ﺑﻘﺎﻝ ﻭﻛﺎﻟﺔ ﺑﺎﻟﻤﻮﺍﺟﻬﺔ ﺍﺯ ﻗﺒﻞ ﺑﺎﻗﻰ ﺑﺎﻯ ﻭ ﺗﺮﻏﻮﻥ ﺑﺎﻯ ﻭﻟﺪﻯ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﺟﻮﺍﺏ ﺩﺍﺩﻩ ﺑﺎﺷﺪ ﺍﻳﻦ ﺩﻋﻮﻯ ﻛﻬﻨﻪ ﺑﻌﺪﻡ ﺳﻤﺎﻉ ﺁﻥ ﻣﺴﺘﻔﺘﻰ ﻣﻦ ﻛﻤﺎ‬
‫ ﺟﻮﺍﺏ ﺷﺮﻋﻰ ﻛﻪ ﺑﻼء ﺍﻭﺑﻨﻌﻢ‬... (‫ﺩﻟﺖ ﻋﻠﻴﻪ ﺍﻟﺘﺬﻛﺮﻩ ﺷﺮﻋﺎ ﺩﺭﻫﻤﻴﻨﺼﻮﺭﺕ ﺍﻳﻦ ﺩﻋﻮﻯ ﻣﺪﻋﻰ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﺑﺎ ﻣﺤﻀﺮ ﺷﺮﻋﻰ ﺑﺼﺤﺖ ﭘﻴﻮﺳﺘﻪ ﺳﺖ )؟‬
‫ﺳﺖ ﺑﺮ ﻣﺪﻋﺎ ﻋﻠﻴﻬﻤﺎء ﻣﺬﻛﻮﺭﻳﻦ ﻻﺯﻡ ﺑﻮﺩﻩ ﭘﺲ ﺭﺳﺪ ﻣﺮ ﺟﻨﺎﺏ ﻗﺎﺿﻰ ﺍﺳﻼﻡ ﺭﺍ ﻛﻪ ﻣﺪﻋﺎ ﻋﻠﻴﻬﻤﺎ ﻣﺬﻛﻮﺭﻳﻦ ﺭﺍ ﻛﻪ ﺟﺒﺮ ﺑﺠﻮﺍﺏ ﺷﺮﻋﻰ ﻧﻤﺎﻳﻨﺪ ﻭ ﺩﺭ‬
‫ﻣﺠﻠﺲ ﺛﺎﻧﻰ ﺑﺪﻓﻊ ﺩﻳﮕﺮ ﺳﻤﺎﻉ ﻧﻰ ﻧﻤﺎﻳﻨﺪ ﺑﺸﺮﺍﺋﻄﻪ ﻳﺎ ﻧﻰ ﺑﻴﻨﻮﺍ ﺗﻮﺟﺮﻭﺍ ﺑﻮﺩﻩ ﻭ ﺭﺳﺪ ﻭﷲ ﺳﺒﺤﺎﻧﻪ ﻭﺗﻌﺎﻟﻰ ﺍﻋﻠﻢ‬
(アラビア語法学書からの典拠引用部分は省略。また、本文と典拠引用部分の間に存するスペースに 4
名のムフティーが捺印)
ファトワー面日本語訳
以下の問題について。案件は次の通りである。アガールク・バーイの息子たるフザイル・アガール
クが、(一部未解読)訴状をもって、出廷している自身の訴訟相手達、すなわち、アガールク・バーイ
の息子たるマフムード・アガールクの成人した息子達であるバーキー・バーイ、トゥルグーン・バー
イ、ジューラ・バーイを相手取り、自身の相続分を求め訴訟を提起したとする。そして、訴訟の有効
性が確認され、被告達に返答の義務が生じたのち、[前述の被告達のうちの]バーキー・バーイとトゥ
ルグーン・バーイが法廷での原告への対応のため任命した代理人、即ちスタム(?)・バッカールの息子
たるムッラー・タージー・ハーッジーが以下の様に返答したとする。
「こんな昔の事を持ち出した訴え
は棄却されるべきだというファトワーを私は要請致します。
」なお、これについてはタズキラに記載
されているとおりである。
聖法に鑑みて、諸要件に照合すれば、この場合、適法な訴状によりなされた前述の原告の訴えは有
効であり、(一部未解読)前述の被告両名には「はい」か「いいえ」の返答を行う義務が生じるのでは
ないか?また、イスラームのカーディー閣下は、前述の被告両名に適法な返答をなすよう強制し、二番
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Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
目の審理の場でなされた別の反訴についてはこれを棄却することができるのではないか?解き明かし
たまえ、さすれば報酬を受けられましょう。
被告には返答を行う義務が生じるし、カーディーはそのようにすることができる。神―讃えあれ、
至高なるかな―は最も良く知り給う。
タズキラ面原文(チャガタイ語)
‫ ﺻﻮﺭﺕ ﺣﺎﺩﺛﻪ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻁﺮﻳﻘﻪ ﺩﻩ ﺻﺎﺩﺭ‬... ‫ ﺑﺮ ﻣﻴﻨﮓ ﺍﻭﭼﻴﻮﺯ ﻗﺮﻕ ﺑﺮﻳﻨﭽﻰ ﻳﻠﺪﻩ ﺍﻳﺮﺩﻳﻜﻪ‬۱۳٤۱ ‫ ﻧﭽﻰ ﻣﺎﻩ ﺭﻣﻀﺎﻥ ﺷﺮﻳﻒ ﺩﻩ ﺳﻨﻪ‬۱٦ ‫ﺗﺎءﺭﻳﺨﻘﻪ‬
‫ ﻧﭽﻰ ﺭﻣﻀﺎﻥ ﺩﻩ ﻓﻀﻴﻞ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻣﺪﻋﻰ ﺿﻤﻦ ﺑﺮﻟﻪ ﻣﻼ ﺗﺎﺟﻰ ﺍﻓﻨﺪﻯ ﻭﻛﻴﻞ ﺑﺎﻗﻰ ﺑﺎﻯ ﻭ‬۱۱ ‫ﺑﻮﻟﺪﻳﻜﻪ ﺑﻮﻟﻐﺎﻥ ﺍﻳﻜﺎﻥ ﻛﻪ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺗﺎءﺭﻳﺨﺪﻥ ﺑﺶ ﻛﻮﻥ ﻣﻘﺪﻡ‬
‫ﺗﺮﻏﻮﻧﺒﺎﻯ ﻭﻟﺪﻯ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﺑﻘﻤﺘﻮ ﺩﺍﺭ ﺍﻟﻘﻀﺎء ﻏﻪ ﺣﺎﺿﺮ ﺑﻮﻟﻮﺷﻮﺏ ﺻﻮﻧﮕﺮﻩ ﻓﻀﻴﻞ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻣﺪﻋﻰ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﻧﻰ ﺩﻋﻮﺍﺳﻰ ﺻﺤﺖ ﻏﻪ ﻳﺘﻴﺐ ﻣﻼ‬
‫ﺗﺎﺟﻰ ﺍﻓﻨﺪﻯ ﻭﻛﻴﻞ ﻣﺪﻋﻰ ﻋﻠﻴﻬﻤﺎﻯ ﻣﺬﻛﻮﺭﻻﺭ ﻏﻪ ﺟﻮﺍﺏ ﻻﺯﻡ ﺑﻮﻟﻐﺎﻧﺪﻩ ﺑﻮﻟﻄﺮﻳﻘﻪ ﺩﻩ ﺟﻮﺍﺏ ﺑﺮﻏﺎﻥ ﺍﻳﻜﺎﻥ ﻛﻪ ﺑﻮﻟﻜﻬﻨﻪ ﺩﻋﻮﻯ ﻋﺪﻡ ﺳﻤﺎﻋﻴﻐﻪ ﻣﺴﺘﻔﺘﻰ‬
‫ ﻧﭽﻰ ﺭﻣﻀﺎﻥ ﺩﻩ ﻓﻀﻴﻞ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﻣﻼ ﺗﺎﺟﻰ ﺣﺎﺟﻰ ﻭﻛﻴﻞ‬۱۱ ‫ﻣﻦ ﺩﻳﺐ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﻀﻤﻮﻧﻐﻪ ﺗﺬﻛﺮﻩ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﻣﻬﺮﻻﻧﻴﺐ ﺗﻤﺎﻡ ﺑﻮﻟﻐﺎﻥ ﺩﻥ ﻛﻴﻦ ﻣﺬﻛﻮﺭ‬
‫؟(ﻳﻜﻪ ﻣﻨﻰ ﺣﻘﻴﻢ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺑﺮ ﺣﺠﺮﻩ ﺍﻭﺭﻧﻴﻨﻰ ﺑﺮﺳﻪ ﻻﺭ ﺭﺍﺿﻰ ﺑﻮﻟﻮﺭ ﺍﻳﺮﺩﻳﻢ ﺩﻳﺪﻯ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﻓﻀﻴﻞ ﺍﻏﺎﻟﻖ ﻧﻰ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺍَ ْﻳ ْﺘﮕﺎﻥ‬... ‫)ﻣﺬﻛﻮﺭ ﻣﺪﻋﻰ ﻋﻠﻴﻬﻤﺎ‬
‫ ﺗﺬﻛﺮﻩ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺑﺮﻳﻨﮓ ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﻭ ﺍﻟﺤﺎﺡ ﻗﻴﻠﺪﻯ ﺑﻨﺎﺑﺮﺍﻥ ﺍﻳﺘﮕﺎﻥ‬...‫ ﻧﭽﻰ ﺗﺎءﺭﻳﺦ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﺩﻩ ﻁﻠﺐ‬۱٦ (‫ﺳﻮﺯﻳﻨﻰ ﺗﺎﺟﻰ ﺣﺎﺟﻰ ﻭﻛﻴﻞ )ﻣﺬﻛﻮﺭ‬
‫ ﺑﺮﻳﻠﺪﻯ ﺧﺎﻟﺺ ﻻﺭ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺧﻠﻴﻞ )ﺣﺎﺟﻰ( ﻣﻌﺮﻭﻑ ﻭ ﻣﻼ )ﺻﺎﺣﺐ( ﭼﻘﻮﺭ ﻛﻮﭼﻪ ﺩﻫﻪ ﻗﺎﺿﻰ‬... ‫ﺗﺬﻛﺮﻩ ﺍﻳﻜﻨﭽﻰ ﻣﺠﻠﺲ ﺩﻩ ﺗﺬﻛﺮﻩ ﻗﻴﻠﻴﺐ‬... ‫ﺳﻮﺯﻳﻨﻰ‬
‫ﺳﻰ ﻣﻬﺮﻭﻡ ﺑﺎﺳﺘﻮﻡ‬
(本文に付随するファトワー、および、このファトワーのアラビア語法学書からの典拠引用部分は省略。
また、本文末尾に 1 名のカーディーが、ファトワーの典拠引用部分には少なくとも 2 名のムフティー
が捺印)
タズキラ面日本語訳
1341 年、聖なるラマダーン月 16 日 1のこと。(一部未解読)本案件は以下の様な経過を辿ったとのこ
12F
とである。本日より 5 日前のラマダーン月 11 日、反対面に記載される原告、フザイル・アガールクが、
マフムード・アガールクの二人の息子であるバーキー・バーイとトゥルグーン・バーイの代理人、ム
ッラー・タージー・ハーッジーと共に法廷に出頭したのち、前述の原告であるフザイル・アガールク
の訴えが有効とみなされて、前述の被告両名の代理人であるムッラー・タージー・エフェンディーに
返答の義務が生じた際に、[後者は]次の様に返答したとのことである。
「こんな昔の事を持ち出した訴
えは棄却されるべきだというファトワーを要請致します。
」2
13F
この内容についてタズキラが作成され、これに[私の]印章が捺され、一旦審理が終わった後に、同
じラマダーン月 11 日にフザイル・アガールクが、被告両名の前述の代理人であるムッラー・タージー・
ハーッジー[に対し](一部未解読)「私の権利として、部屋一つ分の代わりになるものを彼等がくれるな
ら私は満足していたのだが」と言明した。前述のフザイル・アガールクによるこの発言につき、前述
の代理人であるタージー・ハーッジーは、上述の[ラマダーン月]16 日に、(削除部分一部未解読)「覚
書を作成して、これを[自分に]寄越すように」と[私に]願い出た。このため、[私はフザイル・アガー
ルクの]発言について(削除部分一部未解読)、二番目の審理の場でタズキラを作成し、(一部未解読)下
付した。
証人:ムッラー・ミール・ハリール・ハーッジー・マゥルーフ、ムッラー・(サーヒブ?)。チュクー
1
グレゴリオ暦に換算すると 1923 年 5 月 2 日。
ここまで主文の末尾には、推定を表す表現 īkān が付加されるので、この箇所は本文書が扱う新規案件の
前提となる状況を述べたものとみなされる。となると、これ以降に配置される文章こそが、本文書が扱う、
新たに生起した案件の内容となろう。
2
38
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
ル・クーチャ区 3のカーディー[である]私は自分の印章を捺した。
国立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵 34508/11-2 文書の内容分析
(2) 紛争の概要
これら二通の文書は、その文面から判断して、明らかに同一の裁判の審理過程で作成されたもので
ある。そこで、まずはこの裁判における原告と被告、および、係争対象について下記にその一覧を提
示しておこう。
原告
被告
フザイル・アガールク
実際の被告(代理依頼人)
形式上の被告(被告代理人)
原告の請求
内容
バーキー・バーイ、トゥルグーン・バーイ、ジューラ・
バーイ
ムッラー・タージー・ハーッジー
原告の相続分の引渡し
なお、上掲の文書本文では、当事者の名前を記載する際に必ず直近の男性尊属の名前が記載されて
いる。ここから、原告フザイル・アガールクと、実際の被告である三名の人物はおじと甥の関係にあ
ったことがわかる。即ち、この裁判はおじが甥を訴えた結果遂行されたものである。
(3) ファトワーとタズキラ
本紙片に記載された二通の文書の内容について考察するにあたり、まずは、両文書の発行者につい
て確認しておきたい。文書の発行者―起草者ではない―とは、即ち文書に捺印した人物であると
見て良いだろう。ファトワー文書に関して言えば、4 名の捺印者は全てムフティーであり、これがム
フティーにより発行された文書であることは疑い無い。一方、その反対面に記載される文書―後述
するように、これが「タズキラ」である―の場合、カーディーとムフティーの双方が捺印しており、
発行者がカーディーであるのか、それともムフティーであるのか一見しただけでは不明瞭である。た
だし、当該文書の本文が一貫してカーディーの一人称文を採用していることを考慮するならば、文書
本体の発行者はカーディーとすべきであり、ムフティーはあくまで本文下方に付記されたファトワー
部分のみの発行者として捺印したとみなすべきであろう。
さて、本紙片の片面全体を占めるファトワー文書には、上述したようなフェルガナ州由来のファト
ワーに特有の、「タズキラ」なる文書への言及が見られる。「タズキラ tadhkira」はアラビア語由来の
単語で、メモや覚書といった意味を持つ。ただし、同一紙片の片側に記載されたファトワーが「タズ
キラ」に言及することのみをもって、反対面の文書を「タズキラ」とみなすわけにはいかない。なぜ
なら、反対面に配置される文書の文面には、それが如何なる類型の文書であるかを確定するための文
言が存在していないからである。
3
ナマンガン市内の区の名称。
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問題の文書の類型を知るための手掛かりは、ファトワー文書に見える「なお、これについてはタズ
キラに記載されているとおりである」という一文である。文中の「これ」とは、文脈上、この一節に
先行する直近のテキストの内容を指すはずであり、それは、(1)原告の訴えが有効であると確認された
こと、(2)被告に返答義務が生じたこと、(3)その際に被告側代理人が「こんな昔の事を持ち出した訴え
は棄却されるべきだというファトワーを私は要請致します」と言明したこと、という三点にまとめら
れる。翻って、ファトワー文書の反対面に配置される文書は、まさにこの三点全てについて記載して
いるので、本文書こそファトワー文書中に言及される「タズキラ」であることは確実である。
また、ファトワー文書とタズキラの関係であるが、ファトワー文書内にタズキラへの言及が存在す
る以上、前者が後者を参照しながら作成された文書である事は明らかである。つまり、このタズキラ
はムフティーがファトワーを提出する際参照すべき資料として、カーディーが作成した審理過程の記
録なのである。
(4) 審理の過程とタズキラの構造
I. 本文の内容
つぎに、タズキラの内容から本裁判の審理過程について整理しておこう。
まず、冒頭にある 1341 年ラマダーン月 16 日という日付であるが、これはこの文書が作成された日
を表す。これに引き続いて、審理過程の説明がなされる。これによれば、本裁判の審理が開始された
のは 1341 年ラマダーン月 11 日のことであり、この日に行われた第一回目の審理において、被告側代
理人は原告の訴えに対し反訴で応じる戦略を採用した。上述の「こんな昔の事を持ち出した訴えは棄
却されるべきだというファトワーを私は要請致します」という被告側代理人の発言のうち、
「こんな昔
の事を持ち出した訴えは棄却されるべきだ」という部分は被告側の反訴の意思を、
「ファトワーを私は
要請致します」という部分は、反訴を成立させるために被告側代理人が審理を中断させ、法廷外でフ
ァトワーを獲得しようと目論んだことをそれぞれ意味している。
ここで一旦審理は中断されるのだが、既にこの時点でカーディーが一通目のタズキラを作成してい
ることは注目に値しよう。また、本文から明らかなように、タズキラは各回の審理中に作成され、カ
ーディーのタズキラへの捺印、交付をもって初めて審理が終了した、という点にも注意したい。これ
らの事実は、タズキラが一つの裁判で複数回発行され得る文書であったということ、そして、この文
書が審理の模様をその場で記録した覚書としての性格を持つものであったことを物語っている。
さて、本文書の内容に戻ろう。前述したように、ラマダーン月 11 日に第一回目の審理は終了するの
だが、じつは同日の審理終了後、原告が被告側代理人に訴訟の取り下げを示唆するかのような発言を
している。本文に記載される「私の権利として、部屋一つ分の代わりになるものを彼等がくれるなら
私は満足していたのだが」という発言がそれである。この発言はおそらく正式な審理の場で出たもの
ではないが、そのご、後述するように被告側代理人により反訴の根拠として利用された。
本件第二回目の審理は、最初の審理から 5 日後のラマダーン月 16 日に行われている。第二回目の審
理内容の詳細はタズキラ本文からは不明だが、被告側代理人が上述の原告の言明についての覚書をカ
ーディーに作成させ、これを受領した事は確かであり、ここでタズキラの本文は終了している。
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II. 本文書の構造と交付先
次に本文書の構造であるが、既に言及したように、本文冒頭にある日付は本文書自体が発行された
日を示すものであり、これに引き続いて、本文ではラマダーン月 11 日の第一回目審理の内容が記載さ
れている。ここで注目すべきは、第一回目の審理内容を記載する箇所では、文末の動詞の直後に、伝
聞・推量を示す小詞 īkān が配置されていることである。以後、第一回目の審理終了後の原告の発言か
ら、第二回目の審理の場で本文書が交付されたことを記載する箇所にはこの小詞が使用されていない
ことから、本文書は小詞 īkān を使用する箇所と、使用しない箇所に分かたれることが見て取れる。小
詞 īkān は伝聞・推量を意味するのだから、これが使用する箇所は、ラマダーン月 11 日の第一回目の
審理の場で発行された 1 通目のタズキラを引用した箇所であり、これを使用しない箇所こそ本文書の
オリジナルな内容だと判断される。ならば、本文書本文部分の構造は以下の様に纏められよう。
冒頭句(本文書オリジナル)
1 通目のタズキラからの引
用部
本文書のオリジナル部分
「1341 年、聖なるラマダーン月 16 日 4のこと。(一部未解読)本案件は以
下の様な経過を辿ったとのことである。
」
「本日より 5 日前の」~「[後者は]次の様に返答したとのことである。
『こ
んな昔の事を持ち出した訴えは棄却されるべきだというファトワーを要
請致します。』
」
「この内容についてタズキラが作成され」~「二番目の審理の場でタズ
キラを作成し、(一部未解読)下付した。」まで
次に問題となるのは、一体この文書が誰に交付されたものなのか、という点である。タズキラ本文
を見る限り、本文書は被告側代理人に交付された 2 通目のタズキラであると判断される。しかしなが
ら、
本文書反対面に記載されるファトワーは、被告側代理人による反訴の成立を否定するものだから、
このファトワーは原告が獲得し、カーディーに提出されたものとみなければならない。
また、既に述べたように、このタズキラの本文下方には、タズキラ本文に付随して提出された、反
対面記載のファトワーとはべつのファトワーが付記されている。その内容を要約すれば、ラマダーン
月 11 日の第一回審理終了後に原告が被告側代理人に向け述べた「私の権利として、部屋一つ分の代わ
りになるものを彼等がくれるなら私は満足していたのだが」という発言は、決して「矛盾(tanāquḍ)」
とはみなされない、というものである。これが何を意味するかについては少々説明が必要であろう。
上に述べたように、本裁判の第一回審理の場で、被告側代理人は「こんな昔の事を持ち出した訴え
は棄却されるべき」と主張し、原告の訴えに対し反訴で応じている。次いで、第二回目の審理の場で
は、被告側代理人は、第一回審理終了後の原告の発言についてカーディーにタズキラを作成させ、こ
れを受領した。第二回審理の場における被告側代理人の行動は、間違いなく反訴に関連するものであ
り、このことは、問題のタズキラの反対面に記載されるファトワーの「二番目の審理の場でなされた
別の反訴」という表現により裏付けられる。
つまり、上掲のタズキラ本文には明記されない第二回審理の内容とは、次の様に推測される。第一
回審理の場で被告側代理人は反訴を行い、自らの反訴の正当性を裏付けるファトワーを獲得すると言
4
グレゴリオ暦に換算すると 1923 年 5 月 2 日。
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明したが、第二回審理では、この反訴が棄却された。その理由が、被告側代理人が結局ファトワーの
獲得に失敗したためであるのか、または、被告人がファトワーを獲得しこれをカーディーに提出した
ものの、カーディーが自己の判断によりこの反訴を棄却したためであるのかについては不明である。
いずれにしても、最初の反訴を棄却された被告側代理人は、第一回審理終了後になされた原告の発言
を根拠として、第二回目の審理の場で再度反訴を試みた。被告側代理人は、上記の原告の発言「私の
権利として、部屋一つ分の代わりになるものを彼等がくれるなら私は満足していたのだが」を、そも
そもの原告の訴えの内容に「矛盾」するものとみなしたのかもしれないし、または、そう強弁しただ
けなのかもしれない。いずれにしても、このとき被告側代理人が 2 通目のタズキラを受領したのは、
これをもって自身の反訴を正当化するファトワーを獲得するためであったとみるべきである。
要するに、
上掲タズキラ面に付記されたファトワーの内容とは、第一回審理終了後の原告の発言が、
そもそもの原告の訴えの内容に「矛盾」しているとする被告側代理人の主張を反駁するものなのであ
る。ならば、ここで問題としている国立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵 34508/11-2 文書とは、片面
に原告に交付されたタズキラ、反対面に原告に交付されたファトワーをそれぞれ記載した文書と見る
ことができる。
つまりこのタズキラは、被告側代理人に対抗してファトワーを獲得しようとした原告が、ファトワ
ー発行者であるムフティーに提出すべく、カーディーから受領したタズキラなのである。となれば、
タズキラ本文にある、このタズキラの交付先が被告側代理人であることを明示する文章の解釈が次に
問題となるが、これについては、原告に交付されたタズキラを、被告側代理人に交付されたタズキラ
のコピーとみなすことで解決が可能である。そして、当事者の一方に交付されたタズキラのコピーを
もう一方の当事者に交付することが可能であったとするならば、カーディーの手許にはタズキラの原
本が保管されていたはずである。
上記の内容を纏めるならば以下の様になる。まず、カーディーは各回の審理の際に、そこで生起し
た内容を記録していた。これが当事者に交付されるタズキラの原本である。そして、当事者の要請に
応じて、原本に記載された内容を紙片に記載し、これに自身捺印して当事者に交付した。これが紙片
状のタズキラである。タズキラは複数回発行されることもあったので、2 通目以降のタズキラを交付
する際には、カーディーは先に交付したタズキラの内容を引用し、これに新規に生起した事態の記録
を付加して新たな紙片状のタズキラを作成した。また、或る回の審理が終了し、次回の審理が始まっ
ていない時点で両当事者からタズキラ交付の申請がなされた場合―本文書が交付されたのはまさにこ
のようなケースである―、カーディーは当事者の一方に交付したタズキラのコピーをもう一方の当事
者に交付した。裁判の過程で作成されたこのようなタズキラは、これを受領した当事者によりムフテ
ィーに提出され、ファトワー作成の資料として利用された。
さて、
国立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵 34508/11-2 文書の内容からは以上のことが読み取れた。
ただし、本節で未だ論じていない問題が二つ残されている。
まず、上述したように本文書はロシア帝政期のものではなく、革命期になってから作成された文書
である。したがって、ここに指摘した内容が帝政期のシャリーア法廷にも当て嵌まるかいなかについ
ては、帝政期のシャリーア法廷文書に依拠して判断するほかはない。
第二に、これまで敢えて議論の対象から外していたもう一つの極めて重要な問題がある。それは、
本文書タズキラ面に現れる「反対面(ḍimn)に記載される原告、フザイル・アガールク」という表現で
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ある。この文書のファトワー面にも、フザイル・アガールクが原告として表示されるので、素直に読
むならば、タズキラ面の「反対面に記載される原告」という表現における「反対面」とは、同じ文書
のファトワー面を意味するものと解釈できる。しかしながら、この解釈は本文書のファトワー面が、
タズキラ面を参照しながら作成されたとする前述の解釈と矛盾する。
以下、上記二つの問題について帝政期シャリーア法廷の裁判関連文書に依拠しながら考察していこ
う。
4. 訴状とタズキラ
(1) 帝政期サマルカンド州由来のファトワー文書
さて、前節の最後で提起した問題を考察するにあたり、まずは帝政期サマルカンド州由来のファト
ワー文書を取り上げてみたい。先述したようにファトワー文書は書式上、日付の記載を欠く文書なの
で、その正確な作成年代を確定することは不可能である。ただし、筆者が以前別稿で利用した、サマ
ルカンド州立博物館(ロシア語名称:Samarkandskii oblastnoi kraevedcheskii muzei、以下 SOKM と略記)
に所蔵される KP4063/29 番台の番号を付された 101 点の紙片状ファトワー文書は、いずれも 19 世紀
最末期から 20 世紀初頭、即ちロシア帝政期にサマルカンド州で作成された可能性が高い。ここでは、
これらのファトワー文書に依拠しながら帝政期シャリーア法廷における裁判関連文書作成実務の実態
を追っていこう。
まず、これらのファトワー文書群に含まれる KP4063/29-36 文書の内容を紹介する。通常ファトワー
文書では、最初に問題となっている案件の概要説明がなされ、これに引き続いてファトワーの具体的
内容が記載される。ところが、本文書は案件の概要説明部分が省略されているため、このファトワー
が如何なる裁判に関連して提出されたものであるのかは一切不明である。ともあれ、以下に冒頭の定
型文や、右余白部に記載されたアラビア語法学書からのファトワーの典拠引用部分を除く、本文部分
のみを訳出してみよう。
「聖法に鑑みて、諸要件に照合すれば、もしも高貴なる聖法の担い手であるイスラームのカーディ
ー閣下が、原告たるアブドゥッザーヒル・アクサカルの同意なしに、被告たるユダヤ人ダーウド・マ
フワシュ(? Dāwud MḤWSh)に対し、法学者達と協議するために 3 日間の猶予を与え、さらに、前述の
被告の請願に応じて、ムフティー達(ahl-i iftā)の閲覧に供するため、訴状(maḥḍar)とそこに記載される
原告の訴えの詳細を被告に交付するのならば、[カーディー閣下は]来世での報酬にあずかるのではな
いか。答えよ、さすれば報われよう。
」(本文下方に、本文の内容を肯定する 2 名のムフティーの回答
と捺印有り)[SOKM KP4063/29-36]
上掲の訳文から分かるようにこのファトワーの趣旨は、被告がムフティーからファトワーを獲得で
きるよう、三日を限度として審理を中断させるようカーディーに勧告することにある。だが、我々に
とってより重要なのは、このファトワーの後半部分が、被告に訴状を交付するようカーディーに勧告
しているという事実である。このことは、当時、ファトワーを獲得しようとする当事者のために、カ
ーディーが訴状の写しを交付する場合が有り得たことを物語っている。
一方、上記 101 点のファトワー文書のうちには、このことと関連して非常に興味深い文言を有する
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文書が 5 点存在する。その文言とは、ファトワーを獲得しようとする当事者が、片面に訴状、もう一
方の面には先述したタズキラに相当する文書が記載された紙片を持参して、これをムフティーに提出
していたことを示唆するものである。以下に、その一覧を掲げておこう。
所蔵番号
SOKM
ファトワ
ー受領者
原告
KP4063/29-34
SOKM
原告
KP4063/29-42
SOKM
文言
「なお、以上の[原告の訴えに対する]被告側代理人の返答内容は、原告
の訴状の反対面(ẓahr-i maḥḍar-i mudda`ī)に記載されている」
「なお、以上の内容は前述のカーディー閣下が原告の訴状の反対面
(ẓahr-i maḥḍar-i mudda`ī)に記載している」
原告
「[以上の内容は]過去のカーディー達の慣行に則り、[カーディーが]原告
KP4063/29-46
女性の訴状の反対面(ẓahr-i maḥḍar-i mudda`īya)に記載し、捺印している」
SOKM
「なお、以上の[原告の訴えに対する]被告の返答内容は、前述のカーデ
KP4063/29-48
原告
ィーが過去の卓越したカーディー達[の慣行]に則り、原告の訴状の反対
面(ẓahr-i maḥḍar-i mudda`ī)に記載している」
SOKM
KP4063/29-62
原告
「以上の内容はイスラームのカーディーが原告の訴状の反対面(ẓahr-i
maḥḍar-i mudda`ī)に記載し、捺印している」
上掲の一覧より明らかなように、これらのケースでは、カーディーが訴状の反対面に審理の経過説
明を記載し捺印したうえで、これを当事者―ここではいずれも原告である―に交付しており、さ
らに、
この紙片を受領した当事者は、
この紙片をムフティーに提出してファトワーを作成させている。
以上のことから、少なくとも帝政期サマルカンド州シャリーア法廷の裁判においては、ファトワー
を獲得しようとする当事者に対し、カーディーが審理経過の記録を訴状反対面に記載して、自身捺印
したうえでこれを交付する慣行が存在していたことが分かる。また、帝政期サマルカンド州の裁判関
連文書には、少なくとも現時点で筆者の知る限り、
「タズキラ」という語は現れない。上に挙げた 5
例を見ても、フェルガナ州由来の文書であれば「タズキラ」として言及されるはずのカーディーによ
る審理記録は、たんに「訴状の反対面(ẓahr-i maḥḍar)」に記載されたものとされるのみで、特定の呼称
は与えられていない。このことは、ロシア帝国領中央アジアのシャリーア法廷が、州毎に異なる業務
上の慣行を有していた可能性を示唆するものである。
ところで、これまで述べて来たように、帝政期サマルカンド州シャリーア法廷の裁判の当事者は、
ファトワー獲得のために、
ムフティーに原告の訴状を提出する場合があった。
残念ながらこの訴状が、
原告が訴訟を提起した際に実際にカーディーに提出した、いわば原本であったのか、または、カーデ
ィーが審理経過の記録を交付する際に併せて交付した原本のコピーなのかについては現在のところ不
明である。ただし、帝政期のサマルカンド州とフェルガナ州の双方において、訴状の裏面に判決の梗
概が記載される例が見られることから、裁判の開始に先立ち原告がカーディーに提出した訴状の原本
は、裁判が終了するまでカーディーの手許に保管され、その裏面に判決の梗概を記した上で裁判の勝
利者に交付されていた可能性が高い。ならば、裁判の途中で当事者がムフティーに提出した訴状は、
原本ではなくコピーであった可能性の方が高いのではなかろうか。
(2) 帝政期フェルガナ州由来のタズキラ
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じつは、今回史料として利用する帝政期から革命期のフェルガナ州由来の文書には、まさに片面に
訴状が、そして反対面にタズキラが記載される紙片状文書が複数含まれている。この種の紙片の訴状
面には、本来訴状に捺されているはずのムフティーの印章が見られないが、このことは、これが訴状
の原本ではなくコピーであるという上に述べた推測を補強するものであろう。一方、この種の紙片の
タズキラ面は、大抵の場合カーディーの印章を有しており 5、タズキラ面の方がこの紙片状文書の本
体であったことを物語る。以下、このような紙片状文書の一例として、帝政期フェルガナ州由来の国
立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵 34508/11-5 文書の訴状面の概要を紹介したうえで、さらに、タズ
キラ面の原文と日本語訳を提示しておこう。
まず、本文書が関係する訴訟の概要は下記のようなものであった。
原告
ムッラー・ムハンマド・イブラーヒーム
被告
アブドゥッラッザーク
原告が被告に貸与した元本 200 ソムと、その 18 ヶ月分の利子 57 ソム 6 ティーン
原告の請求内容
の弁済、および、債務取り立ての際に被告が原告を侮辱し、暴行を加えたことに
ついてのタァズィール刑(カーディーの裁量刑)の執行
この訴状もムフティーの印章を欠いており、さらには、本来ならば訴状本文の末尾に記載されるべ
きカーディーへの形式的な請願文も明らかに省略されている。次に、タズキラ面の原文と日本語訳を
提示する。
タズキラ面原文(チャガタイ語)
‫ﺗﺎﺭﻳﺨﻘﻪ ﺑﺮ ﻣﻴﻨﮓ ﺍﻭﭼﻴﻮﺯ ﺍﻭﺗﻮﺯ ﺑﺮ ﻧﭽﻰ ﻳﻠﺪﻩ ﺍﻭﺗﻮﺯ ﻧﭽﻰ ﺷﻌﺒﺎﻥ ﺩﻩ ﺍﻳﺮﺩﻳﻜﻪ ﻣﺪﻋﻰ ﺿﻤﻦ ﻧﻰ ﺩﻋﻮﺍﺳﻰ ﺻﺤﺖ ﮔﺎ ﻳﺘﻮﺏ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺮﺯﺍﻕ ﺑﺎﻯ ﺿﻤﻦ ﻏﻪ‬
‫ﺟﻮﺍﺏ ﻻﺯﻡ ﺑﻮﻟﮕﺎﻧﺪﻩ ﺍﻳﺪﻳﻜﻪ ﻣﻨﺪﻩ ﺑﺮ ﻳﻮﺯ ﺻﻮﻡ ﻓﻠﻰ ﺑﺎﺭ ﺍﺟﺎﺭﻩ ﺳﻴﻨﻰ ﺗﻤﺎﻡ ﺑﺮﮔﺎﻧﻤﻦ ﺩﻋﻮﻯ ﺣﻘﺎﺭﺕ ﺗﻮﻏﺮﺳﻨﺪﺍﻥ ﺑﻴﺶ ﺻﻮﻡ ﻓﻞ ﺁﻟﻴﺐ ﺍﺑﺮﺍء ﻗﻴﻠﮕﺎﻥ ﺩﻳﺐ‬
‫ ﻛﻮﻓﻴﻪ ﻛﻮﺗﺎﺭﻳﺐ‬... ‫ﺧﺎﻟﺼﻼﺭ ﻣﻼ ﺳﺎﺗﻴﺐ ﺍﻟﺪﻯ ﺧﻠﻴﻔﻪ ﺭﺟﺐ ﺑﺎﻯ ﺍﻭﻏﻠﻰ ﻭ ﺍﺧﻮﻧﺪ ﺟﺎﻥ ﻣﺤﻤﺪ ﺯﺍﻫﺪ ﺍﻭﻏﻠﻰ ﻭ ﺻﻮﻓﻰ ﺟﺎﻥ ﺑﺎﻯ ﺑﭽﻪ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺗﺬﻛﺮﻩ ﺩﺍﻥ‬
(‫ﺑﺮﻳﻠﺪﻯ ﺩﻳﺐ ﭼﻘﻮﺭ ﻛﻮﭼﻪ ﻗﺎﺿﻰ ﺳﻰ ﻣﻼ ﺁﺧﻮﻧﺪ ﺍﻳﺸﺎﻥ )ﺑﺎﺳﺘﻢ ؟‬
‫ ﻗﺎﺿﻰ ﻣﻼ ﺍﺧﻮﻧﺪ ﺍﻳﺸﺎﻥ ﻣﺨﺪﻭﻡ ﺑﻦ ﺩﺍﻣﻼ ﺳﻌﺪ ﺍﻟﺪﻳﻦ ﻗﺎﺿﻰ ﻣﺮﺣﻮﻣﻰ‬:‫ﻣﻬﺮ‬
печать: народный судья Чукуръ-Кучинской части гор. Намангана Ферганск. обл.
タズキラ面日本語訳
1331 年シャァバーン月 30 日 6のこと。反対面記載の原告の訴えが有効なものとみなされ、反対面記
17F
載のアブドゥッラッザーク・バーイに返答の義務が生じた際、[後者は]以下の様に述べた。
「私には 100
ソムの現金があり、原告への賃料は全額支払っています。[私が原告を]侮辱したとの原告の訴えにつ
いては、原告は 5 ソムを受け取って[私を]免責しています。」証人:ラジャブ・バーイの息子たるムッ
ラー・サティプ・アルディ・ハリーファ、ムハンマド・ザーヒドの息子たるアーホンド・ジャーン、
スーフィー・ジャーン・バーイ・バッチャ。このタズキラより(一語未解読)コピーを作成し、交付し
た。チュクール・クーチャ区のカーディーたる私、ムッラー・アーホンド・イーシャーンが捺印した。
5
フェルガナ州立博物館(ロシア語名称:Ferganskii oblastnoi kraevedcheskii muzei)所蔵 4/1 文書は、一枚の紙
片の片面のみに文字の記載があり、文字面は上下に分割され、上方に訴状、下方に 1340 年ズー・ル・ヒッ
ジャ月 24 日付(西暦 1922 年 8 月 18 日)のタズキラが配置されている。しかしながら、本文書には一切の印
章が捺されず、タズキラの発行者であるカーディーの名前も記載されない。
6
ユリウス暦換算ではグレ 1913 年 7 月 22 日、グレゴリオ暦換算では 1913 年 8 月 4 日。
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アラビア文字印章銘文:故ダームッラー・サァドゥッディーン・カーディーの息子たるカーディー・
ムッラー・アーホンド・イーシャーン・マフドゥーム
ロシア語銘文:フェルガナ州ナマンガン市チュクル・クチ区民間判事
本文の内容は、原告の訴えの一部について被告がなした反訴の言明を記録するものである。ここで
問題となるのは、筆者が波線を付した部分、すなわち、このタズキラが同内容の先行するタズキラか
らのコピーであるとの文言である。反訴を選択した被告は、そのご、ただちにタズキラを受領し、フ
ァトワー獲得を目指した可能性が高い。だとすれば、本文書のコピー元は被告に交付されたタズキラ
であったかもしれず、となれば、本文書は被告に交付されたタズキラと同内容の、原告に交付された
タズキラであったことになる。
いずれにしても、本文書が先行するタズキラのコピーであったという事実は、カーディーの手許に
タズキラの原本ともいうべき審理記録が存在し、ここから当事者に発給する紙片状のタズキラが用意
されたという先に述べた推測を裏付けるものであろう。また、帝政期以降のフェルガナ州由来の文書
に、一方面に訴状、反対面にタズキラを配置する紙片状の文書が複数見出されるという事実は、ファ
トワー獲得を目指す裁判の当事者に、訴状とタズキラを同一紙片に記載して交付したサマルカンド州
シャリーア法廷の慣行が、同州にも存在していたことを明確に物語っている。
また、タズキラに訴状のコピーが添付されるのは、おそらく個々の当事者にとっての 1 通目のタズ
キラにかぎられることであったろう。なぜなら、原告なり被告なりが個人として 2 通目以降のタズキ
ラを受領する場合、彼の手許には 1 通目のタズキラの反対面に記載された訴状のコピーが既に存在し
ているからである。
(3) 複製されるタズキラ
さて、ここで本稿の前半部で検討した国立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵 34508/11-2 文書に今一
度立ち返ってみたい。筆者は先に、この文書のタズキラ面に記載される「反対面(ḍimn)に記載される
原告」という文言を問題とし、もしもこの「反対面」がファトワー面を指しているのだとしたら、フ
ァトワー面がタズキラ面より先に完成していたことになり、タズキラを参照してファトワーが作成さ
れたという大前提と矛盾してしまうことを指摘した。
しかしながら、下記の二点を考慮するならば、この問題は矛盾なく解決することが可能である。即
ち、
① 1 通目のタズキラの反対面には、訴状のコピーが記載されることがある
② 2 通目以降のタズキラは、先行するタズキラの文面を引用しつつ、これに新たに生起した事態の
記録を付け加えて作成される
の二点である。
さて、前述したように 34508/11-2 文書のタズキラ面自体は原告に交付されたタズキラだが、これは
先に被告に交付された 2 通目のタズキラの完全なコピーであり、さらに、その文面の前半部は被告に
交付された 1 通目のタズキラからの引用から成り立っていた。問題の文言「反対面に記載される原告」
が現れるのはまさに文書前半部なので、元々この文言は被告に交付された 1 通目のタズキラに記載さ
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れていたことになるが、その場合、その反対面には訴状のコピーが記載されていた可能性が高い。と
なれば、この「反対面」とは、被告に交付された 1 通目のタズキラの「反対面」に記載された、訴状
のコピーであったと推測されるのである。このように考えるならば、この「反対面」は 34508/11-2 文
書のファトワー面を指してはいないことになり、ファトワー面の内容がタズキラ面を参照して作成さ
れたという前提は崩れないことになる。
この推論を補強するためには、タズキラの文面が他の文書―後続するタズキラであれ、ファトワー
であれ―に引用される際に、改変無く引用される例を示さなければならないが、その実例を提供する
のが帝政期フェルガナ州由来のファトワー文書である、国立ブハラ建築美術博物館保護区所蔵
34508/11-74 文書である。
本文書は 1 枚の紙片の片面のみにファトワー文書が記載され、反対面は白紙となっている。ファト
ワー文書の常として本文書にも日付の記載は無いが、本文書に関連する裁判の原告側代理人、ムッラ
ー・ムヒーゥッディーン・アーホンド(父親はハーリク・パフラヴァーン)Muḥīy al-Dīn Ākhund b. Khāliq
Pahlawān は、同じ国立ブハラ建築美術博物館保護区に所蔵される帝政期フェルガナ州由来の 1334 年
ラビーゥ第 1 月 17 日付タズキラ(34508/11-62 文書)の末尾に証人として登場するので、本文書も帝政期
フェルガナ州由来のファトワーと見て大過ない。本文書に関連する裁判の概要は以下の通りである。
原告
被告
原告の請求
内容
実際の原告(代理依頼人)
ムッラー・ムヒーゥッディーン・アーホンド
形式上の原告(原告側代理人)
ビービー・ハーン・ビービー(妻)
バーバー・クル・バーイ(夫)
離婚の成立、婚資の支払い、所定の物品の引渡し
本文の内容から、このファトワーは原告に交付されたものであることが明白である。ここで注目す
べきは、本文書において、原告がムフティーに提出したタズキラの内容が一部引用されていることで
ある。その箇所の原文と日本語訳を以下に提示する。
原文(ペルシア語だが、タズキラ引用部分はチャガタイ語)
‫( ﻋﻠﻴﻪ ﻣﺬﻛﻮﺭ ﻁﻼﻕ ﻣﺬﻛﻮﺭﮔﺎ ﻣﻨﻜﺮ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﺍﺷﻴﺎء ﮔﺎ ﺷﻮﻧﺪﺍﻍ ﺟﻮﺍﺏ ﺑﻴﺮﺩﻳﻜﻪ ﺧﺎﺗﻮﻥ ﻳﻌﻨﻰ ﻣﺪﻋﻴﻪ‬sic) ‫ﺑﻌﺪ ﺻﺤﺔ ﺍﻟﺪﻋﻮﻯ ﻭﻟﺰﻭﻡ ﺍﻟﺠﻮﺍﺏ ﻋﻠﻴﻪ ﻣﺪﻋﺎ‬
‫ﺿﻤﻦ ﺑﻴﻼﺩﻭﺭ ﻗﺎﻧﭽﻪ ﺑﺎﺭ ﺍﺷﻴﺎء ﺑﺎﺭ ﻗﺎﻧﭽﻪ ﺍﺷﻴﺎء ﻳﻮﻕ ﻟﻴﮕﻰ ﻧﻰ ﻣﻦ ﺑﻴﻠﻤﺎﻳﻤﻦ ﮔﻮﻳﺎﻥ ﻛﻤﺎ ﺗﺪﻝ ﻋﻠﻴﻪ ﺍﻟﺘﺬﻛﺮﺓ ﺍﻟﺸﺮﻋﻴﺔ‬
日本語訳
原告の訴えが有効となり、被告に返答の義務が生じると、前述の被告は前述の離婚に関してはこれ
を否認し、[原告が引渡しを求めている]物品については以下の様に返答した。
「妻、即ち反対面に記載
される原告が知る事です。どれだけの物品があって、どれだけの物品がないのか私は知りません。
」以
上、適法なるタズキラに記載されるとおりである。
問題は筆者が波線を付した「反対面に記載される原告」という文言である。既に述べたように、こ
の文書の反対面は空白となっているので、この「反対面」とは本文書が記載される紙片の反対面では
有り得ない。また、文脈から明らかなように、この文言が現れる箇所は、原告がムフティーに提出し
たタズキラからの引用で成り立っている。つまり、この「反対面」とはタズキラの「反対面」なので
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あり、当然そこには訴状のコピーが記載されていたはずなのである。
以上のことから、タズキラがファトワー文書に引用される場合、その文言は一切改変されずに引き
写されたのだといえよう。そして、先行するタズキラが、後続するタズキラに引用される場合もまた
同様である。タズキラは他文書において次々に複製されたのである。
5. おわりに
本稿で明らかにしたロシア帝国領中央アジア・シャリーア法廷の裁判関連文書作成システムは以下
のようにまとめられるだろう。
訴状
カーディー
当事者
ムフティー
原告、訴状を提出し、
認証を依頼
原告、訴状を受領
タズキラ
訴状を受理
←
原告、訴状を提出
依頼受理
←
タズキラ作成を要請
→
タズキラを受領
→
訴状を受理
←
訴状を認証、捺印して原告に交付
→
タズキラを受理
←
タズキラを参照し、ファトワーを交付
タズキラ原本より、紙片
状タズキラを作成、捺印
して交付(当事者にとっ
て最初のタズキラには訴
ファトワー
状のコピーを添付)
タズキラを提出し、
ファトワー交付を依
頼
ファトワーを受領
ファトワーを受理
←
ファトワーを提出
この表を見れば理解されるように、少なくとも帝政期以降の中央アジア・シャリーア法廷において
は、すべての裁判関連文書はカーディーの管理下に置かれていた。カーディーは訴状を受理し、審理
開始後は自身の手許にある審理記録に、当事者の発言を逐一記録した。そして、当事者がファトワー
を獲得しようとする際には、審理記録をもとに、日付入のタズキラを作成し、捺印したうえでこれを
交付した。さらに、紛争が解決した場合、カーディーは判決を提出し、その内容を台帳に記入したが、
台帳判決文には裁判の勝利者が提出したファトワーの梗概が記載されることもあるので、カーディー
は自身に提出されたファトワーの内容を審理記録中に記載していたはずである。そして、これは現時
点では推測の域を出るものではないが、そもそも台帳判決文自体、タズキラの原本たる、このカーデ
ィーの審理記録をもとに作成された可能性があるだろう。ならばタズキラは、帝政期以降のシャリー
ア法廷の裁判が、カーディーにより相当程度一元的に管理され、文書化されていたことを象徴する文
書類型であると言い得る。
ただし、タズキラ、ないし、これに類する文書が、ロシア進出以前の中央アジアには存在しなかっ
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たと確言することはできない。たしかに、今回調査対象とした中央アジア各地の紙片状文書のうち、
明らかにロシア帝国領に由来しない文書からは、タズキラの実物はおろか、タズキラの存在を窺わせ
るものさえ見出すことはできなかった。しかしながら、今後の調査により帝政期以前、または、時期
的には帝政期でもロシア領外の保護国領に由来する中央アジアのタズキラが発見される可能性は十分
にある。
しかしながら、現時点で筆者が確認し得たタズキラの実物はすべてロシア領由来の文書であるし、
さらに、タズキラに言及する他種の文書にしても、その多くがロシア領内に由来することがほぼ確定
可能なものばかりであることも事実である。それでは、もしもタズキラがロシアによる中央アジア統
治に関連して登場した文書だとするならば、その登場の理由は如何なるものであったのだろうか。
この問に答えるには、ロシア当局がどのようにシャリーア法廷を管理しようとしたのか、という問
題に触れないわけにはいかない。そもそもロシア進出以前の中央アジアにおいては、理念上ファトワ
ーを独占的に発行できるムフティーは、裁判に関与しながらも、カーディーから独立した存在で有り
得た。ところが、帝政期の『トルキスタン統治規程』第 3 章「民間法廷」を見ると、民間判事(narodnyi
sud’ya)―現地語文書では「カーディー」と記載される―についての規程は存在するが、ムフティ
ーについての言及は皆無である。これは、ロシア当局がシャリーア法廷業務における責任の所在を、
カーディーに一元化したことを意味する。また、帝政期のフェルガナ州では、ロシア当局がムフティ
ーの選定をカーディーに委ねる方針を採ったことが確認できる。つまりロシア当局は、本来カーディ
ーから独立した存在であったムフティーをカーディーに従属させ、一方で、後者にシャリーア法廷業
務の全責任を負わせる方針を採用したのである。このような背景を考慮するならば、帝国領内の中央
アジア・シャリーア法廷裁判において、カーディーがタズキラの発行により、ファトワー交付過程ま
でをも含む裁判のプロセス全体を管理したのはむしろ当然であったといえる。勿論、この時期交付さ
れたすべてのファトワーがタズキラをもとに作成されたわけではないだろうが、これ以前には存在し
なかったタズキラという文書が、ファトワーの交付を依頼する当事者からムフティーに手渡されたと
き、
ムフティーはファトワーの発行という業務に以前ほどの独立性を感じられなくなったはずである。
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ロシア統治期サマルカンドの上訴審
矢
島
洋 一
京都外国語大学外国語学部
はじめに
1908 年、ロシア皇帝ニコライ二世の命令でトルキスタン視察を行った元老院議員パーレン
(Константин Константинович Пален, 1861-1923)は、その膨大な報告書のうち中央アジアの司法制度
について扱った『トルキスタン地方の民衆法廷』の中で以下のような訴訟について言及している。
1907 年、スルタンバエヴァ訴訟に関するサマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区の民衆判事の判決が、
検察機関により上訴され、管区法廷により破棄された。彼女は子供の時、一人のサルトとの結婚を世話さ
れていたが、その後他の男性と結婚した。彼女の最初の婚約者が、スルタンバエヴァを強制的に自分と結
婚させるよう民衆法廷のもとに訴訟を起こし、彼女と結婚したことで夫を罰するよう訴えた。民衆判事は
請求をかなえ、スルタンバエヴァの夫を一年半投獄するよう判決を下していたのである 1。
帝政ロシア統治下のトルキスタン地方では、イスラーム法に基づく伝統的なカーズィー(カーディ
ー)法廷も民衆法廷(народный суд)として存続したが、いくつかの点でロシア当局の管理のもと新
たに導入された制度があった。うち一つが審級制度の導入である。ここでパーレンが言及しているサ
マルカンドの訴訟は、民衆法廷の判決がロシア当局が管轄する管区法廷(окружной суд)において検
察の上訴(プロテスト)により破棄された例である。
こ の 一 連 の 訴 訟 に 関 す る 法 廷 記 録 が 、 ウ ズ ベ キ ス タ ン 共 和 国 中 央 国 立 文 書 館 ( O‘zbekiston
Respublikasi Markaziy davlat arxivi = Центральный государственный архив Республики Узбекистан、以下
ЦГА РУз)に残されていた。本稿ではそれらの法廷記録を、ロシア統治期中央アジアにおける上訴の
事例として紹介したい。
1.訴訟の経過
本件には三つの訴訟が関連している。それぞれの訴訟の概要と法廷記録は以下の通りである。
(1)サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラール区民衆法廷 1906 年第 2 番判決(1 月 1 日)
ムハンマド・ユースフの息子ムッラー・マフムードが、許嫁であるスルターン・バーイの娘ダード
ラフ・アーイに同居を求めて訴えを起こし、認められた。ダードラフ・アーイは未成年時に父親の同
意によりムッラー・マフムードに嫁ぐことが決められていた。
1
Пален, Константин Константинович, Народные суды Туркестанскаго края, С.-Петербург, 1909, стр. 114.
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ЦГА РУз, ф. И-371, оп. 1, д. 8
同区 1906 年判決台帳。ただし л. 1-3 が欠。
ロシア統治期の中央アジアでは、民衆判事(народный судья =カーズィー)たちは主に証書台帳
(книга актов)と判決台帳(книга решений)の二種類の法廷台帳の記載が義務付けられていた。うち
判決台帳は訴訟専用の台帳で、一案件に二葉が充てられ、一葉目表に訴訟の内容、裏に判決が書かれ、
二葉目に判決の写しが作成され切り離して当事者に発給される。上記第 2 番判決は л. 3-4 に書かれて
いたはずだが、л. 3 は失われ、л. 4 は写しを切り取った後の耳のみ残されている。
(2)サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラール区民衆法廷 1907 年第 105 番判決(5 月 28 日)
マフムード・バーイ(=上記ムッラー・マフムード)がムッラー・バーバーを代理人として、アブ
ドゥルハリーム・バーイを相手取り起こした訴訟。
アブドゥルハリーム・バーイは、マフムード・バーイとダードラフ・アーイが正式に婚姻している
にも関わらず後者と同居し性行為に及んでいる廉で訴えられ、カーズィーは原告の訴えを認め、アブ
ドゥルハリームにタアズィール(ta‘zīr)刑として 18 か月間の禁錮(ḥabs)を言い渡した。
ЦГА РУз, ф. И-371, оп. 1, д. 9
同区 1907 年判決台帳。
この案件は л. 209-210 に記載され、判決の写しである л. 210 は切り取られ耳のみ台帳に残っている。
(3)サマルカンド管区法廷 1907 年第 138 番訴訟による上訴審(7 月 11 日上訴、10 月 3 日判決)
検察官による上訴により、ロシア法では強制的な結婚が認められないことなどを理由に、上記(1)
(2)の民衆判事による判決が破棄された。
ЦГА РУз, ф. И-130, оп. 1, д. 3456
л. 1:提議(предложение)1907 年 7 月 11 日付 用紙に手書き記入
л. 2:プロテスト(протест)1907 年 7 月 11 日付 タイプ打ち
л. 3:議事録(протокол)1907 年 10 月 3 日付 用紙に手書き記入
л. 4:決定(резолюция)1907 年 10 月 3 日付 用紙に手書き記入
2.法廷記録
以下、上記(1)~(3)の訴訟に関する法廷記録のテキストと日本語訳を提示する。太字は印刷部
分、斜体は署名を表す。葉数表示は裏面も含む。
(1)サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラール区 1906 年判決台帳より[ЦГА РУз, ф. И-371, оп. 1, д. 8]
[л. 4]
‫ﻧﭽﯽ ﻳﻠﺪﻩ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻳﻨﻮﺍﺭ ﺁیﻧﻴﻨﮓ ﺑﺮﻻﻧﭽﯽ ﮐﻮﻧﻴﺪﻩ ﺍﻳﮑﻴﻨﭽﯽ ﺭﻗﻢﺩﻩﻏﯽ‬۱۹۰۶
51
‫】‪Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止‬‬
‫ﺣﮑﻢ ﻣﻌﻠﻮﻡ ﺑﻮﻟﺪی‬
‫ﻣﺪﻋﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﻣﺤﻤﺪ ﻳﻮﺳﻒ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺭﺍﺿﯽ ﺩﻭﺭﻣﻦ‬
‫ﺳﻮﺩﻳﻪﻧﻴﻨﮓ ﻣﻬﺮی‬
‫ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ‬
‫ﺣﮑﻢﻧﻴﻨﮓ ﮐﻮﻓﻴﻪﺳﻴﻨﯽ ‪۲‬ﻻﻧﭽﯽ ﺭﻗﻢﺩﻩ ﺁﻟﺪﻡ ﺳﻠﻄﺎﻥ ﺑﺎی ﺑﺎﻗﺮ ﺑﺎی ﺍﻭﻏﻠﯽ ‪۱۰‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻨﻮﺭﺩﻩ ﺁﻟﺪﻡ ﺍﻧﯽ ﺧﻂ ﺑﻴﻠﻤﺎی‬
‫ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻴﺮﺯﺍ ﺣﺎﻣﺪ‬
‫‪۱۹۰۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻠﯽ ‪۲۹‬ﻻﻧﭽﯽ ﺍﺑﺮﻳﻞ ﺁﻳﻨﺪﻩ ﺣﮑﻢ ﮐﻮﻓﻴﻪﺳﻴﻨﯽ ﺁﻟﺪﻡ ﺳﻠﻄﺎﻥ ﺑﺎی ﺍﻧﯽ ﺧﻂ ﺑﻴﻠﻤﺎی ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻴﺮﺯﺍ‬
‫ﺣﺎﻣﺪ‬
‫。‪1906 年 1 月 1 日第 2 番判決が通知された‬‬
‫。‪私ムッラー・マフムード・ムハンマド・ユースフ・オグリは同意します‬‬
‫‪判事印‬‬
‫‪原告‬‬
‫‪被告‬‬
‫。‪第 2 番判決の写しを、私、スルターン・バーイ・バーキル・バーイ・オグリが、1 月 10 日に受け取った‬‬
‫〕‪彼が文字を知らないため、ミールザー・ハーミド〔が署名した‬‬
‫。‬
‫‪1907 年 4 月 29 日、私、スルターン・バーイが判決の写しを受け取った。彼が文字を知らないため、ミー‬‬
‫。〕‪ルザー・ハーミド〔が署名した‬‬
‫]‪(2)サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラール区 1907 年判決台帳より[ЦГА РУз, ф. И-371, оп. 1, д. 9‬‬
‫]‪[л. 209‬‬
‫ﻋﺮﻳﻀﻪﻻﺭ ﻣﻀﻤﻮﻧﯽ‬
‫‪۱۹۰۷‬ﻧﭽﯽ ﻳﻠﺪﻩ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﺎی ﺁﻳﻨﯽ ‪۲۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﮐﻮﻧﻴﺪﻩ ﻣﻦ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﺪ ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ‬
‫ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﺎی ﺳﻮﺩﻳﻪﻏﻪ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ‬
‫ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﻨﯽ ﻓﻘﺮﺍﺳﯽ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﻣﺤﻤﺪ ﻳﻮﺳﻒ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻭﮐﻴﻞ ﺷﺮﻋﯽﺳﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺪﻭﻡ‬
‫ﻣﻼ ﺧﺎﻥ ﻣﺨﺪﻭﻡ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺣﺎﺿﺮ ﺑﻮﻟﻴﺐ ﻋﺮﺽ ﻗﻴﻠﺪﻳﮑﻴﻢ ﻣﻦ ﻭﮐﻴﻞ ﺷﺮﻋﯽ ﺩﻭﺭﻣﻦ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎﻳﻨﯽ ﺟﺎﻧﺒﻴﺪﺍﻥ ﺍﺻﻠﯽ‬
‫ﮐﺎﺑﺪ ﻭﻟﻮﺳﻨﯽ ﮐﻠﻪ ﮐﭙﻪ ﻗﺸﻼﻗﻴﻨﯽ ﻓﻘﺮﺍﺳﯽ ﺣﺎﺿﺮﻏﻪ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﻐﻪ ﺍﺳﺘﻘﺎﻣﺖ ﻗﻴﻠﻐﻮﭼﯽ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﺑﺎی ﻣﺆﻣﻦ‬
‫ﺑﺎی ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻣﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ ﻧﮑﺎﺡﻟﻴﮏ ﺧﻮﺍﺗﻮﻧﯽ ﻣﺴﻤﺎﺓ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﺳﻠﻄﺎﻥ ﺑﺎی ﻗﺰﻳﻨﯽ ﮐﻪ ‪۱۹۰۶‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻠﯽ‬
‫ﺑﺮﻳﻨﭽﯽ ﻳﻨﻮﺭ ﺁﻳﯽ ﺍﻳﮑﻨﭽﯽ ﻧﻮﻣﺮﻏﻪ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﻣﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ ﺧﻮﺍﺗﻮﻧﯽ ﺍﻳﮑﺎﻧﻴﻐﻪ ﻭ ﻣﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻤﻐﻪ ﺍﻁﺎﻋﺖ‬
‫ﻗﻴﻠﻤﺎﻗﻴﻐﻪ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺍﻳﺪﻳﻨﮕﺰ ﻣﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻤﻨﯽ ﺧﻮﺍﺗﻮﻧﯽ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﺍﻭﺯﻳﻨﯽ ﻧﮑﺎﺡ ﺑﺎﻁﻠﻴﻐﻪ ﮐﻴﺮﮔﻮﺯﻭﺏ ﺍﻧﯽ ﺍﻳﻼﻥ‬
‫ﺧﻠﻮﺕ ﺍﺟﻨﺒﻴﻪ ﻭ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺩﻭﺭ ﮐﻪ ﺍﻭﻝ ﻭﺟﻬﺪﺍﻥ ﻣﻮﮐﻠﻤﻐﻪ ﻋﺎﺭ ﻻﺣﻖ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﺴﺘﺤﻖ‬
‫ﺗﻌﺰﻳﺮ ﺍﻗﺼﯽ ﺍﻟﻐﺎﻳﺖ ﻣﻦ ﺍﻟﺘﻌﺰﻳﺮ ﻭﺍﻟﺤﺒﺲ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﺩﻭﺭ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ‪۱۹۰۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻠﯽ‬
‫ﺑﺮﻧﭽﯽ ﻣﺎی ﺁﻳﻴﺪﻩ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻓﻌﻞ ﺷﻨﻴﻊ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﻐﻪ ﺑﻮﻟﺪی ﺩﻳﺐ ﺍﻭﺯی ﺍﻗﺮﺍﺭ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺗﺮﮐﺴﺘﺎﻥ ﻣﻀﺎﻓﺎﺗﻴﻐﻪ‬
‫ﺟﺎﺭی ﺑﻮﻟﻤﻴﺶ ﭘﻼژﻳﻨﻪﻧﯽ ﻻﻧﭽﯽ ﺑﺎﺑﯽ ﻳﻮﺯﻩﺳﻴﺪﻥ ﺳﻴﺰﻏﻪ ﺗﻴﺸﻠﯽ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﻗﻴﻼﻣﻨﮑﻢ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ‬
‫ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻨﯽ ﻭﮐﺎﻟﺔ ﻗﻴﻼﺩﻭﺭﻣﮕﺎﻥ ﺩﻋﻮﻳﻤﻨﯽ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺳﻮﺭﺍﺏ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺣﮑﻤﯽﻧﯽ ﺍﻧﯽ ﺣﻘﻴﻘﺔ ﺟﺎﺭی ﻗﻴﻠﻴﻨﮕﻴﺰ‬
‫ﺩﻳﺐ‬
‫‪Содержаніе жалобы.‬‬
‫ﺑﺮ ﻧﻔﺮ ﺍﻳﺮﮐﮏ ﺣﮑﻢ ﺍﻭﻥ ﺳﮑﺰ ﺁی ﺗﻮﺭﻣﻐﻪ ﺣﺒﺴﻐﻪ‬
‫ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺣﮑﻢﻧﯽ ﺍﻭﮐﺮﻭژﻧﺎی ﺳﻮﺩ ﻣﻨﺴﻮﺥ ﻗﻴﻠﮕﺎﻥ‬
‫‪52‬‬
‫】‪Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止‬‬
‫ﻋﺮﺿﻪﭼﯽﻻﺭﻧﻴﻨﮓ ﻗﻮﻟﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺪﻭﻡ ﻣﻼ ﺟﺎﻥ ﻣﺨﺪﻭﻡ ﻋﺮﺽ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﻣﻬﺮﻡ ﺑﺎﺳﺘﻢ‬
‫ﻣﺬﮐﻮﺭ ﺣﺎﺩﺛﻪ ﺟﺎﻳﯽ ﻣﻨﯽ ﻗﻮﻝ ﺁﺳﺘﻤﻐﻪ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺍﻳﺸﻨﯽ ﺳﻮﺭﺍﺩی ﺍﻭﺯﻭﻣﻐﻪ ﺗﻴﺸﻠﯽ ﺩﻳﺐ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﺪ‬
‫ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺳﻮﺩﻳﻪﻧﻴﻨﮓ ﻣﻬﺮﺍﻭﺭﻧﯽ‬
‫ﺑﻴﻮﺭﻭﻕ‬
‫‪۱‬ﻧﭽﯽ ﺍﻳﺶﻧﻴﻨﮓ ﺣﻘﻴﻘﺘﻴﻨﯽ ﻭ ﺻﻮﺭﺍﻭﻳﻨﯽ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﺎی ﺁﻳﻨﯽ ‪۲۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﮐﻮﻧﻴﮕﺎ ﺗﻌﻴﻦ ﻗﻴﻠﻮﻧﺎﺩﻭﺭ‬
‫‪۲‬ﻧﭽﯽ ﺍﻳﺶ ﺻﻮﺭﺍﻭﻳﻨﻪ ﭼﺎﻗﺮﻭﻻﺩﻭﺭﻻﺭ ﻣﺪﻋﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺪﻭﻡ ﻭﮐﻴﻞ ﻭ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ‬
‫ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﻦ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﺑﯽﺧﻂ ﻗﺎﺿﯽ ﻭ ﺑﯽﺧﻂ ﺍﺟﺎﺯﺕ ﻗﺎﺿﯽ ﺑﺮ ﻣﻼﻧﯽ ﮐﻴﻠﺘﻮﺭﻭﺏ ﻧﮑﺎﺡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺁﻟﻴﺐ‬
‫ﺍﻧﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﺪﻳﻢ ﺩﻳﺐ ﺍﻗﺮﺍﺭ ﺑﻮﻟﺪی‬
‫ﻧﭽﯽ ﮐﻮﻧﻴﮕﺎ ﻣﻮﻗﻮﻑ ﻗﺎﻟﺪﺭﻭﻟﺪی‬
‫‪۳‬ﻧﭽﯽ ﺻﻮﺭﺍﻭﻳﻨﯽ‬
‫‪Распоряженіе.‬‬
‫ﺣﮑﻢﺩﻳﻦ ﺍﺳﭙﺮﺍﻓﮑﺎ‬
‫ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻓﺎﻳﺪﺍﺳﻴﻐﻪ‬
‫‪۱‬ﻧﭽﯽ ﺍﻳﺶ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻨﺪی‬
‫‪۲‬ﻧﭽﯽ ﺣﺒﺲ ﮐﻪ ﻗﻤﺎﻭﻏﻪ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻨﺪﻳﻼﺭ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﻨﮑﻮﺣﻪ ﻏﻴﺮ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﺑﯽﺍﺫﻥ ﻗﺎﺿﯽ ﻭ ﺑﯽﺍﺟﺎﺯﺕ‬
‫ﻗﺎﺿﯽ ﺑﺮ ﻣﻼﻧﯽ ﮐﻴﻠﺘﻮﺭﻭﺏ ﻧﮑﺎﺡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺁﻟﻴﺐ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﺪﻳﻢ ﺩﻳﺐ ﺍﻗﺮﺍﺭ ﺑﻮﻟﮕﺎﻥ ﺳﺒﺒﻠﯽ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺑﻴﻮﻧﭽﻪ ﺭﻭﺍﻳﺖ‬
‫ﻋﻠﻤﺎ ﻳﻮﺯﻩﺳﻴﺪﻥ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻧﯽ ﻣﺪﺕ ﺍﻭﻥ ﺳﮑﻴﺰ ﺁی ﺁﺧﺮﮔﯽ ﻧﻬﺎﻳﺖ ﻏﺎﻳﺖ ﺗﻌﺰﻳﺮ ﺍﺑﻠﻮﺳﻨﺎی ﺗﻮﺭﻣﻐﻪ ﺣﺒﺲ‬
‫ﻗﻴﻠﻤﺎﻗﻪ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﺪﻳﻢ‬
‫‪۳‬ﻧﭽﯽ ﺗﺮﮐﺴﺘﺎﻥ ﻭﻻﻳﺘﯽﺩﻩﻏﯽ ﺧﻠﻖﻻﺭﻧﯽ ﺑﺎﺷﻘﺎﺭﻣﺎﻕ ﺣﻘﻴﻨﺪﺍﻏﯽ ﭘﺎﻻژﻳﻨﻴﻪ ﻧﻈﺎﻡﻧﻴﻨﮓ ‪۲۱۷‬ﻧﭽﯽ ﺑﺎﺑﻴﻐﻪ ﻣﻮﺍﻓﻴﻖ‬
‫ﭘﻞ ﻁﻠﺐ ﻗﻴﻠﻤﺎﻏﯽ ﺧﺼﻮﺻﻴﺪﻩ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻨﺪﻳﻼﺭ‬
‫‪۴‬ﻧﭽﯽ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻐﺎﻥ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺑﯽﻟﻴﻖ ﭘﻠﯽ ﻁﻠﺐ ﻗﻴﻠﻨﻮﻏﻪ ﺗﻌﻴﻦ ﺑﻮﻟﺪی ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﻣﺤﻤﺪ ﻳﻮﺳﻒ ﺍﻭﻏﻠﻴﺪﺍﻥ ﺑﻴﺮ‬
‫ﺻﻮﻡ ﺗﻴﻦ‬
‫ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﺪ ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﺎی ﺳﻮﺩﻳﻪﻧﻴﻨﮓ ﻣﻬﺮﺍﻭﺭﻧﯽ‬
‫‪Справка изъ рѣшенія.‬‬
‫№ ‪Рѣшеніе‬‬
‫ﺭﻗﻢ ‪ ۱۰۵‬ﺣﮑﻢ‬
‫‪۱۹۰۷‬ﻧﭽﯽ ﻳﻠﺪﻩ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﺎی ﺁﻳﻨﯽ ‪۲۸‬ﻻ ﻧﭽﯽ ﮐﻮﻧﻴﺪﻩ ﻣﻦ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﺪ ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ‬
‫ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﺎی ﺳﻮﺩﻳﻪﺳﯽ ﺩﻭﺭﻣﻴﺰ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ‬
‫ﺍﺣﺮﺍﺭ ﭼﺴﺘﻴﻨﯽ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﻨﯽ ﻓﻘﺮﺍﺳﯽ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﻣﺤﻤﺪ ﻳﻮﺳﻒ ﺑﺎی ﺍﻭﻏﻠﯽﻧﯽ ﻭﮐﻴﻠﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺬﻭﻡ ﻣﻼ‬
‫ﺟﺎﻥ ﻣﺨﺬﻭﻡ ﺍﻭﻏﻠﯽﻧﻴﻨﮓ ﺍﺻﻠﯽ ﮐﺎﺑﺪ ﻭﻟﻮﺳﻴﻨﯽ ﮐﻠﻪ ﮐﺘﻪ ﻗﺸﻼﻗﻴﺪﺍﻥ ﺣﺎﺿﺮﻏﻪ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﺪﻩ ﺍﺳﺘﻘﺎﻣﺖ‬
‫ﻗﻴﻠﻐﻮﭼﯽ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﺆﻣﻦ ﺑﺎی ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺍﻭﺳﺘﻴﺪﺍﻥ ﺑﻴﺮﮔﺎﻥ ﻋﺮﺿﻪﺳﯽ ﺑﻮﻳﻨﭽﻪ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﺪﻋﯽ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﺍﻳﻼﻥ‬
‫ﻭﮐﻴﻠﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺬﻭﻡ ﻫﻢ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻧﯽ ﻣﻦ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﺎی‬
‫ﺳﻮﺩﻳﻪﺳﯽ ﺩﺍﺭﻭ ﺍﻟﻘﻀﺎﻏﻪ ﺣﻀﻮﺭﻳﻤﻐﻪ ﺣﺎﺿﺮ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﻣﺮﺍﻓﻌﻪﻻﺭﻳﻨﯽ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺳﻮﺭﺍﺩﻳﻢ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻣﺪﻋﯽ ﻣﻼ‬
‫ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺬﻭﻡ ﻣﻮﮐﻠﯽﻧﯽ ﺣﻀﻮﺭﻳﻐﻪ ﻭﮐﺎﻟﺔً ﻣﺤﻀﺮ ﺷﺮﻋﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻏﻪ ﺩﻋﻮی ﻗﻴﻠﺪی ﮐﻪ ﺍﻭﺷﺒﻮ‬
‫ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﺍﺟﻨﺒﯽ ﮐﺸﻴﺪﻭﺭ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ ﻧﮑﺎﺡﻟﻴﮏ ﺧﻮﺗﻮﻧﯽ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﺳﻠﻄﺎﻥ ﺑﺎی ﻗﻴﺰیﻧﯽ ﺑﺎﻭﺟﻮﺩ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ‬
‫ﻧﮑﺎﺣﻴﻐﻪ ﺍﻳﮑﺎﻥ ﺑﻴﻠﮕﺎﻥ ﺍﻭﺯﻳﻨﯽ ﻧﮑﺎﺡ ﺑﺎﻁﻠﻴﻐﻪ ﮐﻴﺮﮔﻮﺭﻭﺏ ﺍﻧﯽ ﺧﻠﻮﺕ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺩﻭﺭ ﮐﻪ ﺑﻮﻟﻮﺟﻬﺪﺍﻥ‬
‫ﻣﻮﮐﻠﻢﻏﻪ ﻋﺎﺭ ﻻﺣﻖ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﻧﻬﺎﻳﺖ ﺩﺭﺟﻪ ﻗﺘﻴﻖ ﺟﺰﺍﻏﻪ ﻣﺴﺘﺤﻖ ﺑﻮﻟﮕﺎﻧﺪﻭﺭ ﺍﺯﺑﺴﮑﻪ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ‬
‫ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﻣﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ ﺧﺎﺗﻮﻧﯽ ﺍﻳﮑﺎﻧﻴﻐﻪ ﻭ ﻣﻮﮐﻠﻤﻐﻪ ﺧﺎﺗﻮﻥﻟﻴﮏ ﺍﻣﻮﺭﻻﺭﻳﻐﻪ ﺍﻁﺎﻋﺖ ﻗﻴﻠﻤﺎﻗﻪ ﺍﻭﺯﻳﻨﮕﺰ‬
‫‪۱۹۰۶‬ﻻﻧﭽﯽ ﺋﻴﻠﯽ ﺑﺮﻧﭽﯽ ﻳﻨﻮﺍﺭ ﺁﻳﯽ ﺍﻳﮑﻨﭽﯽ ﻧﻮﻣﻴﺮﻏﻪ ﺣﮑﻢ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺍﻳﺪﻳﻨﮕﺰ ﺑﻨﺎﺑﺮ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻓﻌﻞ‬
‫‪53‬‬
‫】‪Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止‬‬
‫ﺷﻨﻴﻊﻧﯽ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺋﻴﻠﯽ ﺑﺮﻳﻨﭽﯽ ﻣﺎی ﺁﻳﯽﺩﻩ ﻣﻼ ﻗﻠﻨﺪﺭ ﮔﺬﺭﻳﻐﻪ ﻗﻴﻠﮕﺎﻥﻧﯽ ﮐﻪ ﺳﻴﺰﻧﯽ ﺣﻀﻮﺭﻳﻨﮕﺰﻏﻪ ﺍﻗﺮﺍﺭ ﺍﻭﭼﻮﻥ‬
‫ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺣﺎﺩﺛﻪﻧﯽ ﺳﻮﺭﺍﻭی ﺗﺮﮐﺴﺘﺎﻥ ﻣﻀﺎﻓﺎﺗﻴﻐﻪ ﺟﺎﺭی ﺑﻮﻟﻤﻴﺶ ﭘﻼژﻧﻴﻪﻧﯽ ‪۲۱۴‬ﻻﻧﭽﯽ ﺑﺎﺑﻴﻐﻪ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﮔﻨﺎﻩ‬
‫ﮐﺎﺭ ﺑﻮﻟﻤﻴﺶﻏﻪ ﺟﺰﺍ ﺗﻌﻴﻦ ﻗﻴﻠﻤﺎﻗﯽ ﺑﻴﺰﻏﻪ ﺗﻴﺸﻠﯽ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﻭ ﻁﻠﺐ ﻗﻴﻼﻣﻦ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ‬
‫ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻏﻪ ﻗﺘﻴﻖ ﺍﻳﻨﮓ ﺁﺧﺮﺩﺍﮔﯽ ﺟﺰﺍﻏﻪ ﻣﺴﺘﺤﻖ ﻗﻴﻠﺴﻨﮕﺰ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺗﻮﻏﺮیﺩﺍﻥ ﻗﻮﻟﻮﻣﻐﻪ ﻋﻠﻤﺎﻻﺭﺩﻥ ﺁﻟﮕﺎﻥ ﺭﻭﺍﻳﺖ‬
‫ﺍﻳﻤﻪ ﻫﻢ ﺑﺎﺭﺩﻭﺭ ﺩﻳﺐ‬
‫ﺍﻭﺷﺒﻮ ‪۱۰۵‬ﻻﻧﭽﯽ ﻧﻮﻣﻴﺮﻟﯽ ﺣﮑﻢ ﺧﻄﯽ ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺍﻭﮐﺮﻭژﻧﺎی ﺳﻮﺩﻧﯽ‬
‫‪۱۹۰۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻠﯽ ‪۳۰‬ﻻﻧﭽﯽ ﺍﻭﮐﺘﺎﺑﺮ ﺁﻳﻴﺪﻩ‬
‫‪۱۳۸‬ﻻﻧﭽﯽ ﻧﻮﻣﻴﺮﻟﯽ ﺣﮑﻢﻻﺭی ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻨﺴﻮﺥ ﺑﻮﻟﮕﺎﻥ ﺩﻭﺭ ﺩﻳﺐ‬
‫ﺳﻤﺮﻗﻨﺪ ﺍﻭﻳﺎﺯﺩﻧﯽ ﺣﺎﮐﻤﯽ ‪۱۹۰۷‬ﻻﻧﭽﯽ ﻳﻠﯽ ‪۱۹‬ﻻﻧﭽﯽ ﺍﻭﮐﺘﺎﺑﺮ ﺁﻳﻴﻨﺪﻩ‬
‫‪۱۴۶۴۲‬ﻻﻧﭽﯽ ﻧﻮﻣﻴﺮﻟﯽ ﭘﺮﮐﺰ ﺍﻳﻼﻥ ﺍﻋﻼﻡ ﻗﻴﻠﺪیﻻﺭ‬
‫ﺩﻳﺐ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﻣﺤﻤﺪ ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ ﺍﻭﻏﻠﯽ‬
‫ﺩﻳﻮ ﻗﻴﻠﻐﺎﻥ ﻋﺮﺿﯽ ﺳﺒﺒﻠﯽ ﻳﻮﻗﺎﺭﻳﺪﻩ ﻧﺎﻡﻻﺭی ﻣﺬﮐﻮﺭ ﺍﻳﮑﯽ ﻁﺮﺍﻑ ﺩﻋﻮﺍﮔﺮﻻﺭﻧﻴﻨﮓ ﺩﻋﻮﺍﺳﻴﻨﯽ ﺻﻮﺭﺍﺏ ﺣﻘﻴﻘﺖ‬
‫ﻗﻴﻠﺪﻭﻡ‬
‫ﺑﻮﻝ ﺍﻳﺶﻧﻴﻨﮓ ﺻﻮﺭﺍﻭﻳﻨﻪ ﭼﺎﻗﺮﻭﻟﻐﺎﻥ ﻫﻢ ﮐﻴﻠﻴﺐ ﻣﻌﻠﻮﻡ ﺑﻮﻟﻐﺎﻥ ﺁﺩﻡﻻﺭ ﻣﺪﻋﯽ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﻭﻫﻢ ﻭﮐﻴﻠﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ‬
‫ﻣﺨﺪﻭﻡ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻣﺪﻋﯽ ﻭ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪﻧﯽ ﻣﻦ ﺛﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ‬
‫ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﺎی ﺳﻮﺩﻳﻪﺳﯽ ﺣﻀﻮﺭﻳﻤﻐﻪ ﺣﺎﺿﺮ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﻣﺮﺍﻓﻌﻪﻻﺭﻳﻨﯽ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺳﻮﺭﺍﺩﻳﻢ ﻣﺪﻋﯽ ﻭﮐﺎﻟﻪ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ‬
‫ﺩﻋﻮیﺳﻴﻨﯽ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪﻏﻪ ﻗﻴﻠﺪی ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪﺩﺍﻥ ﺳﻮﺭﺍﺩﻳﻢ ﻣﻦ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﻧﮑﺎﺡ ﻣﺴﻠﻤﺎﻥﻟﻴﮏ ﺍﻳﻼﻥ‬
‫ﺑﯽﺧﻂ ﻧﮑﺎﺡ ﻗﺎﺿﯽ ﻭ ﺑﯽﺍﺟﺎﺯﺕ ﻗﺎﺿﯽ ﺑﺮ ﻣﻼﻧﯽ ﮐﻴﺮﮔﻮﺯﻭﺏ ﻧﮑﺎﺡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺁﻟﺪﻳﻢ ﻧﮑﺎﺡ ﻭ ﻧﻴﺘﻐﻪ ﮔﻮﺍﻩ ﻫﻢ ﻳﻮﻕ‬
‫ﺍﻳﺪی ﻧﮑﺎﺡ ﻗﻴﻠﮕﺎﻥ ﻣﻼﻧﯽ ﻫﻢ ﺑﻴﻠﻤﺎﻳﻤﻦ ﻭ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﺍﻳﻼﻥ ﺧﻠﻮﺕ ﻭ ﻣﺠﺎﻣﻌﺖ ﻗﻴﻠﺪﻳﻢ ﺩﻳﺐ ﻣﺬﮐﻮﺭﻩ ﺩﺍﺩﺭﻩ‬
‫ﺁﻳﻨﯽ ﻧﮑﺎﺡ ﻭ ﻣﺠﺎﻣﻌﺖ ﻗﻴﻠﮕﺎﻧﻴﻐﻪ ﺍﻗﺮﺍﺭ ﻗﻴﻠﺪی ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻣﺪﻋﯽ ‪۱۹۰۶‬ﻻﻧﭽﯽ ﺋﻴﻠﯽ ﺍﻳﮑﻨﭽﯽ ﻧﻮﻣﻴﺮﻏﻪ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی‬
‫ﻣﻮﮐﻠﯽﻧﯽ ﺧﺎﺗﻮﻧﯽ ﻭ ﻣﻮﮐﻠﻴﻐﻪ ﺍﻁﺎﻋﺖ ﻗﻴﻠﻤﺎﻕﻟﻴﮏﻏﻪ ﺑﻮﻟﮕﺎﻥ ﺣﮑﻢﻧﯽ ﮐﻮﭘﻴﻪﺳﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﻗﻮﻟﯽﺩﺍﮔﯽ ﻋﻠﻤﺎﻻﺭﺩﻥ‬
‫ﺁﻟﮕﺎﻥ ﺭﻭﺍﻳﺖﻧﯽ ﻣﻨﮕﺎ ﮐﻮﺭﺳﺎﺗﻴﺐ ﻭ ﺑﻴﺰﻧﯽ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﺣﮑﻤﻴﻨﮕﻴﺰﻏﻪ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺣﺮﻣﺘﻠﻮ ﺍﻭﻳﺰﺩ ﺣﺎﮐﻤﯽﺩﺍﻥ ﺛﻤﺮﻗﻨﺪ‬
‫ﺍﺳﺘﺮﺷﯽ ﺁﻗﺴﻘﺎﻟﻴﻐﻪ ﻣﺴﻤﺎﺓ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﻣﻮﮐﻠﻢﻏﻪ ﺗﺎﭘﺸﻮﺭﻭﺏ ﺣﮑﻢﻧﯽ ﺍﻭﺭﻭﻧﻐﻪ ﮐﻴﻠﺘﻮﺭﻣﺎﻗﻪ ﭘﺮﮐﺰ ﺑﻮﻟﮕﺎﻥ ﺩﻳﺐ‬
‫ﻣﻌﻠﻮﻡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﻭﻫﻢ ﻋﻠﻤﺎﻻﺭﺩﺍﻥ ﺍﻭﺷﺒﻮ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ ﻧﮑﺎﺣﻴﻐﻪ ﺗﻮﺭﮔﺎﻥ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﺑﺎﻭﺟﻮﺩ ﻣﻮﮐﻠﻢﻧﯽ‬
‫ﻧﮑﺎﺣﻴﻐﻪ ﺍﻳﮑﺎﻧﯽﻧﯽ ﺑﻴﻠﻴﺐ ﺍﻭﺯ ﻧﮑﺎﺣﻴﻐﻪ ﺑﺎﻁﻠﻴﻐﻪ ﮐﻴﺮﮔﻮﺭﻭﺏ ﺍﻧﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﮕﺎﻧﻴﻐﻪ ﺍﻗﺮﺍﺭ ﺍﻭﭼﻮﻥ ﻣﺬﮐﻮﺭﻏﻪ‬
‫ﻗﺘﻴﻖ ﺟﺰﺍ ﻳﻌﻨﯽ ﺍﻭﻥ ﺳﮑﺰ ﺁی ﺗﻮﺭﻣﻪ ﻭﻳﺎ ﺍﻭﭼﻴﻮﺯ ﺻﻮﻡ ﺍﺷﺘﺮﺍﻑ ﻻﺯﻡ ﺩﻭﺭ ﺍﮔﺮﺩﻩ ﻗﺎﺿﯽ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺑﻮﻳﺮﻭﻏﻴﻨﯽ‬
‫ﺩﺍﺩﺩﺍﻥ ﺟﺎﺭی ﻗﻴﻠﻴﺐ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﺟﺰﺍﻧﯽ ﺗﻌﻴﻦ ﻗﻴﻠﻤﺎی ﺗﺄﺧﺮ ﻗﻴﻠﺴﺎﻻﺭ ﻗﺎﺿﯽ ﮔﻨﻪﮐﺎﺭ ﻣﺴﺘﺤﻖ ﻋﺰﻝ ﺩﻭﺭﻻﺭ ﺩﻳﺐ‬
‫ﺭﻭﺍﻳﺖ ﺑﻴﺮﺩﻳﻼﺭ ﺩﻳﺐ ﺍﻳﺪی ﮐﻪ ﻣﺪﻋﯽﻧﯽ ﺑﻴﺮﮔﺎﻥ ﺣﮑﻢ ﮐﻮﭘﻴﻪﺳﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﺭﻭﺍﻳﺘﻨﯽ ﺗﻔﺘﻴﺶﻻﺭ ﮐﻮﺭﺩﻭﻡ ﺩﺭ ﻭﺍﻗﻌﻪ‬
‫ﻣﺬﮐﻮﺭ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎیﻧﯽ ﻧﮑﺎﺡﻟﻴﮏ ﺧﺎﺗﻮﻧﯽ ﻭ ﺍﻧﮕﺎ ﺍﻁﺎﻋﺖ ﻗﻴﻠﻤﺎﻗﻪ ﻣﻮﺍﻓﻖ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺑﻮ ‪۱۹۰۶‬ﻻﻧﭽﯽ ﺋﻴﻠﯽ‬
‫ﺍﻳﮑﻨﭽﯽ ﻧﻮﻣﺮﻏﻪ ﺣﮑﻢ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﻭ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁﻳﻨﯽ ﺑﯽﺧﻂ ﻗﺎﺿﯽ ﻭ ﺑﯽﺍﺟﺎﺯﺕ ﻗﺎﺿﯽ ﺑﺮﻣﻼﻧﯽ‬
‫ﮐﻴﻠﺘﻮﺭﻭﺏ ﻧﮑﺎﺡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺍﻧﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﺧﻠﻮﺕ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﺪﻳﻢ ﺩﻳﺐ ﻭ ﺑﺮ ﺩﺭﺳﺖ ﻋﻠﻤﺎ ﻳﻮﺯﻩﺳﻴﺪﻥ ﺷﺮﻳﻌﺖ ﺑﻮﻳﻨﭽﻪ‬
‫ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻏﻪ ﻗﺘﻴﻖ ﺍﻭﻥ ﺳﮑﺰ ﺁیﻟﻴﮏ ﺗﻮﺭﻣﻪﻏﻪ ﺣﺒﺲ ﻗﻴﻠﻤﺎﻕ ﻭﻳﺎ ﺍﻭﭼﻴﻮﺯ ﺻﻮﻡ ﺍﺷﺘﺮﺍﻑ ﻻﺯﻡ ﺑﻮﻟﻮﺏ ﻗﺎﺿﯽ‬
‫ﺍﮔﺮﺩﻩ ﺣﮑﻢ ﺗﺄﺧﺮ ﻗﻴﻠﺴﺎﻻﺭ ﻗﺎﺿﯽ ﮔﻨﻪﮐﺎﺭ ﻭ ﻋﺰﻟﯽ ﻻﺯﻡﻟﻴﮕﯽﻧﯽ ﺭﻭﺍﻳﺖﻧﯽ ﻣﺴﺌﻠﻪﻻﺭﻳﻨﯽ ﺍﻭﻗﻮﺏ ﺑﻴﻠﻴﺐ ﺷﺮﻳﻌﺖ‬
‫ﺑﻮﻳﻨﭽﻪ ﺭﻭﺍﻳﺖ ﻋﻠﻤﺎ ﻳﻮﺯﻩﺳﻴﺪﻥ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﺑﺎﻭﺟﻮﺩ ﺩﺍﺩﺭﻩ ﺁی ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎیﻧﯽ ﻧﮑﺎﺣﻴﻐﻪ ﺁﻟﮕﺎﻧﯽﻧﯽ ﺑﻴﻠﻴﺐ‬
‫ﺑﯽﺍﻣﺮ ﻗﺎﺿﯽ ﻭ ﺑﯽﺧﻂ ﻗﺎﺿﯽ ﺍﻭﺯ ﻧﮑﺎﺡ ﺑﺎﻁﻠﻴﻐﻪ ﮐﻴﺮﮔﻮﺯﻭﺏ ﺍﻧﯽ ﺍﻳﻼﻥ ﺧﻠﻮﺕ ﻭ ﺟﻤﺎﻉ ﻗﻴﻠﮕﺎﻧﻴﻐﻪ ﺍﻗﺮﺍﺭ‬
‫ﺍﻭﭼﻮﻥ ﻣﺬﮐﻮﺭ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢﻧﯽ ﻣﺪﺕ ﺍﻭﻥ ﺳﮑﺰ ﺁی ﺍﺑﻠﻮﺳﻨﺎی ﺗﻮﺭﻣﻪﻏﻪ ﺣﺒﺲﻏﻪ ﺍﻭﺗﻘﻮﺯﻭﺏ ﺟﺰﺍ ﺑﻴﺮﻣﺎﻗﻪ ﺣﮑﻢ‬
‫‪54‬‬
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‫ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺣﮑﻢﻧﯽ ﻣﺪﻋﯽ ﻭ ﻣﺪﻋﯽ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪﻏﻪ ﺍﻋﻼﻡ ﻗﻴﻠﻴﺐ ﺛﻤﺮﻗﻨﺪ ﺷﻬﺮﻳﻨﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﺍﺣﺮﺍﺭ ﻗﻄﻌﻪﺳﻴﻨﯽ ﻧﺎﺭﻭﺩﻧﯽ‬
‫ﺳﻮﺩﻳﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﺤﻤﺪ ﻋﻴﺴﯽ ﺧﻮﺍﺟﻪ ﻗﺎﺿﯽ ﻣﻼ ﻣﻴﺮ ﺷﺮﻳﻔﺨﻮﺍﺟﻪ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻣﻬﺮﻭﻡ ﺑﺎﺳﺘﻢ‬
‫ﻧﭽﯽ ﻣﺪﻋﯽ ﻋﻠﻴﻪ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﺤﻠﻴﻢ ﻋﺒﺪ ﺍﻟﻤﺆﻣﻦ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺣﮑﻢ ﺍﻳﺸﻴﺘﻢ ﺭﺍﺿﯽ ﻳﻮﻕ ﻣﻦ ﺍﻧﯽ ﺧﻂ ﺑﻴﻠﻤﺎی ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻦ‬۱
‫ﺧﺎﺗﻤﺪﺍﻥ ﻗﻮﻟﻮﻡ ﻗﻮﻳﺪﻡ‬
‫ﻧﭽﯽ ﻋﺮﺿﻪﭼﯽ ﻣﺤﻤﻮﺩ ﺑﺎی ﻣﺤﻤﺪ ﻳﻮﺳﻒ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﻭﻫﻢ ﻭﮐﻴﻠﯽ ﻣﻼ ﺑﺎﺑﺎ ﻣﺨﺬﻭﻡ ﻣﻼ ﺟﺎﻥ ﺍﻭﻏﻠﯽ ﺣﮑﻢﻧﯽ‬۲
‫ﺍﻳﺸﻴﺘﻮک ﺭﺍﺿﯽ ﺑﻮﻟﺪﻭک ﺍﻧﯽ ﺧﻂ ﺑﻴﻠﻤﺎی ﺍﻟﺘﻤﺎﺱ ﺍﻳﻼﻥ ﻣﻦ ﻗﻴﺎﻡ ﺍﻟﺪﻳﻦ ﻣﺨﺬﻭﻡ‬
‫ﺗﺮﺳﻮﻥ ﺑﺎﻗﯽ ﻧﺎﻡ ﺁﻗﺴﻘﺎﻝ ﻣﻼ ﺗﺮﺳﻮﻥ ﺑﺎﻗﯽ ﺍﻭﻏﻠﯽ‬
訴えの内容
1907 年 5 月 27 日、私、サマルカンド市ホジャ・アフラール区の民衆判事であるカーズィー・ムッラー・
ムハンマド・イーサー・ホジャ・カーズィー・ムッラー・ミール・シャリーフホジャ・オグリのもとに、
サマルカンド市ホジャ・アフラール区のムッラー・カランダル街区の住民マフムード・バーイ・ムハンマ
ド・ユースフ・オグリの聖法に則った代理人ムッラー・バーバー・マフズーム・ムッラー・ハーン・マフ
ズーム・オグリが出頭し、以下のように申し立てた。
「私はマフムード・バーイの聖法に則った代理人です。あなたは 1906 年 1 月 1 日の第 2 番判決により、私
の依頼人の正式な婚姻による妻であるダードラフ・アーイ・スルターン・バーイ・キズィが、私の依頼人
の妻であること、また私の依頼人に従うべきことを判決で言い渡しました。ところが、もとカーブド郷カ
ッラ・カパ村の住民で現在はムッラー・カランダル街区に居住するアブドゥルハリーム・バーイ・ムウミ
ン・バーイ・オグリは、私の依頼人の妻であるダードラフ・アーイを無効な婚姻により娶り、彼女とヒル
ワの状態で性交をしています。そのため私の依頼人に恥辱を与えており、上述のアブドゥルハリームは懲
戒や禁錮のような極度のタアズィール刑に値します。上述のダードラフ・アーイに対して 1907 年 5 月 1 日
に上述の破廉恥な行為に及んだのはムッラー・カランダル街区でのことだというこのアブドゥルハリーム
自身による陳述により、トゥルキスターン地方に通用している規定の第〔214〕条によりあなたの所轄なの
で、上述のアブドゥルハリームに対して私が代理人として行った訴えをあなたがシャリーアに従って審理
し、シャリーアの定めを正しく行き渡らせてくださいますように。」
(余白の書き込み)男性一人を牢獄に十八か月間の禁錮に処する。
(余白の書き込み)この判決は、管区法廷が破棄した。
原告署名:ムッラー・バーバー・マフズーム・ムッラー・ジャーン・マフズームが訴え、私の印を捺した。
「上述の出来事の場所は私の管轄下であるため、この訴訟の裁判権は私に属する」と言って、カーズィー・
ムッラー・ムハンマド・イーサー・ホジャ・カーズィー・ムッラー・ミール・シャリーフホジャ・オグリ
が判事印を捺した。
処理
1.訴訟の審理は、この 5 月 27 日に決まった。
2.訴訟の審理に召喚されたのは、原告である代理人ムッラー・バーバー・マフズームと被告アブドゥルハ
55
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リームである。上述のアブドゥルハリームは、
「私は上述のダードラフ・アーイを、カーズィーの文書もカ
ーズィーの許可証もない一人のムッラーを連れて来て婚姻をなして手に入れ、彼女と性交をしました」と
認めた。
3.審理は
日に終了した。
判決の照合
1.訴訟は、
の勝訴となった。
2.禁錮刑が下された。上述のアブドゥルハリームは、「私は、他の人と婚姻しているダードラフ・アーイ
をカーズィーの承認もなくカーズィーの資格もない一人のムッラーを連れて来て婚姻して手に入れ性交し
ました」と認めたため、私はシャリーアに基づき、学識者たちのリヴァーヤトに従い、上述のアブドゥル
ハリームを 18 か月間州の監獄に禁錮するという判決を下した。
3.トゥルキスターン地方統治規程第 217 条に従い、金銭を求めることについて判決をなした。
4. 判決を出したことによるビー職の代金請求は、マフムード・バーイ・ムハンマド・ユースフ・オグリか
ら 1 ソム
ティンと定められた。
カーズィー・ムッラー・ムハンマド・イーサー・ホジャ・カーズィー・ムッラー・シャリーフホジャ・
オグリ
民衆判事の印を捺した。
判決
第 105 番
1907 年 5 月 28 日、私、サマルカンド市ホジャ・アフラール区の民衆判事カーズィー・ムッラー・ムハン
マド・イーサー・ホジャ・ムッラー・ミール・シャリーフホジャ・オグリは、サマルカンド市ホジャ・ア
フラール区ムッラー・カランダル街区の住民、マフムード・バーイ・ムハンマド・ユースフ・バーイ・オ
グリの代理人ムッラー・バーバー・マフズーム・ムッラー・ジャーン・マフズーム・オグリが、もとカー
ブド郷のカッラ・カッタ村出身で現在ムッラー・カランダル街区の住民であるアブドゥルハリーム・ムウ
ミン・バーイ・オグリについて出した訴えにより、この原告マフムード・バーイとその代理人ムッラー・
バーバー・マフズームと被告アブドゥルハリームを、私、サマルカンド市ホジャ・アフラール区の民衆判
事が、法廷の私のもとに召喚し、その係争をシャリーアに従い審理した。上述の原告ムッラー・バーバー・
マフズームは、自らの依頼人の隣席のもと、代理人として聖法の法廷で以下のように上述のアブドゥルハ
リームを訴えた。
「この被告は余所者であり、私の依頼人の正式な妻ダードラフ・アーイ・スルターン・バーイ・キズィを、
私の依頼人と婚姻していることを知りながら、自分の無効な婚姻に引き入れ、彼女とヒルワの状態で性交
をしており、そのため私の依頼人に恥辱が加えられています。上述の被告には極度の厳しい罰が相応しい
のです。何より上述のダードラフ・アーイが私の依頼人の妻であること、また私の依頼人に従うべきこと
は、あなた自身が 1906 年 1 月 1 日第 2 番判決で言い渡していることです。上述のアブドゥルハリームは同
年 5 月 1 日、ムッラー・カランダル街区で上述の破廉恥な所業をしたことを認めているため、トゥルキス
ターン地方で通用している規定の第 214 条に従い、
上述の罪人に刑を定めることをはあなたの所轄なので、
シャリーアに従い、上述のアブドゥルハリームに厳しい最も徹底的な罰を与えてくださるようお願い致し
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ます。この件について学識者たちから得たイマームたちのリヴァーヤトもございます。」
(余白の書き込み)
この第 105 番判決はサマルカンド管区法廷 1907 年 10 月 30 日第 138 番判決により破棄された。
サマルカンド郡長官が 1907 年 10 月 19 日第 14642 番命令により告知した。
カーズィー・ムッラー・ミール・ムハンマド・イーサー・ホジャ・カーズィー・ムッラー・ミール・シ
ャリーフホジャ・オグリ
以上の訴えにより、私は上記の両当事者の主張を審理した。
本訴訟の審理に召喚され調べられた者は、原告マフムード・バーイとその代理人ムッラー・バーバー・
マフズームと、被告アブドゥルハリームである。
私はこれらの原告と被告をサマルカンド市ホジャ・アフラール区民衆判事である私のもとに出頭させ、
この係争についてシャリーアに従い審理した。原告は代理人として被告に対して訴えを起こし、私は被告
から以下のように聴取した。彼は、
「私は上述のダードラフ・アーイを、ムスリムの婚姻でもってカーズィ
ーの婚姻書もなくカーズィーの資格もない一人のムッラーを引き入れて婚姻し、手に入れました。婚姻に
もその意志にも証人はなく、婚姻を執り行ったムッラーも知りません。また私は上述のダードラフ・アー
イとヒルワの状態で性交しました」と言って、上述のダードラフ・アーイと婚姻し性交したことを認めた。
上述の原告は、ダードラフ・アーイが彼の依頼人の妻でありまた彼の代理人に従わなければならないとい
う 1906 年の第 2 番判決の写しと、学識者たちから得たリヴァーヤトを私に示し、「私たちはあなたのこの
判決に従い郡長官様からサマルカンド上級アクサカルに宛てた、ダードラフ・アーイを私に依頼人に引き
渡し、判決を執行するよう命じた命令書があります」と述べ、また「このアブドゥルハリームが、私の依
頼人と婚姻しているダードラフ・アーイを、私の依頼人と婚姻していることを知っていたにも関わらず、
自らと無効な婚姻をさせ、彼女と性交に及んでいることを認めたため、上述の者には厳しい罰、すなわち
18 か月の牢獄あるいは 300 ソムの罰金が科せられ、もしカーズィーがシャリーアの命令を正しく行き渡ら
せて上述の罰を定めることをせず怠れば、カーズィーが罪人となり罷免されるべきである、というリヴァ
ーヤトを学識者たちが発行しました」と言っている。私は、原告が提出した判決の写しとリヴァーヤトを
検討した。実際、上述のダードラフ・アーイがマフムード・バーイの正式な妻であり彼に従うべきことに
ついてはこの 1906 年第 2 番判決があり、上述のアブドゥルハリームは「私は、ダードラフ・アーイと、カ
ーズィー文書もなくカーズィーの資格もない一人のムッラーを連れて来て婚姻をなし、彼女とヒルワの状
態で性交しました」と言っている。一人の適正な学識者による、
「シャリーアにより、アブドゥルハリーム
に厳しい 18 か月間牢獄への禁錮か、300 ソムの罰金が課されなければならない。カーズィーがもし判決を
怠れば罪人であり罷免されなければならない」というリヴァーヤトの内容を読んで知り、シャリーアによ
る学識者のリヴァーヤトに従い、上述のアブドゥルハリームはダードラフ・アーイがマフムード・バーイ
が正式に娶った者であることを知りながら、カーズィーの命令もカーズィーの文書もなく、自身の無効な
婚姻により連れて行き、彼女とヒルワの状態で性交に及んでいることを認めたため、上述のアブドゥルハ
リームを 18 か月間州の監獄に禁錮するという罰を科す、という判決を原告と被告に通知し、私サマルカン
ド第 2 ホジャ・アフラール区民衆判事カーズィー・ムッラー・ムハンマド・イーサー・ホジャ・カーズィ
ー・ムッラー・ミール・シャリーフホジャ・オグリが印を捺した。
57
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
1.被告アブドゥルハリーム・アブドゥルムウミン・オグリ
私は判決を聞きましたが、同意しません。彼
が文字を知らないため、私、ハータムダーンが署名した。
2.申立人マフムード・バーイ・ムハンマド・ユースフ・オグリとその代理人ムッラー・バーバー・マフズ
ーム・ムッラー・ジャーン・オグリ
私たちは判決を聞き、同意しました。彼が文字を知らないため、私、
キヤームッディーン・マフズーム〔が署名した〕
。
(署名)トゥルスン・バーキー
アクサカルの名前は、ムッラー・トゥルスン・バーキー・オグリ
(3)サマルカンド管区法廷記録より[ЦГА РУз, ф. И-130, оп. 1, д. 3456]
[л. 1]
М. Ю.
ПРОКУРОРЪ САМАРКАНДСКАГО Окружнаго Суда.
Іюля 11 дня 1907 года. № 3337
Предложеніе.
На основаніи ст. 218 Турк. Полож. при семъ имѣю честь предложить на разсмотрѣніе Суда
протестъ мой на рѣшенія Народнаго Судьи 2 Ходжа-Ахрарскаго участка гор. Самарканда отъ 1
января 1906 года за № 2 и 28 мая 1907 года за № 105.
Приложеніе: переписка на 11 полулистахъ
И. об. Прокурора Ратобыльскій
Секретарь Хмельницкій (?)
法務省
サマルカンド管区法廷検事
1907 年 7 月 11 日
第 3337 番
提議
トルキスタン規程第 218 条に基づき、私は本状によってサマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区民衆判
事の 1906 年 1 月 1 日第 2 番判決と 1907 年 5 月 28 日第 105 番判決に対するプロテストをいたしたく存じま
す。
付記:11 ページに清書(?)
。
検事代理 ラトブィリスキー
書記
フメリニツキー(?)
[л. 2]
Протестъ
Народный Судья 2 Ходжа-Ахрарскаго участка гор. Самарканда разсмотрѣвъ дѣло по жалобѣ
довѣреннаго туземца жителя кв. Мулла-Календаръ, туземной части гор. Самарканда Мулла
Махмуда Мухамедъ-Юсупова - Мулла Баба махзума Мулла-Джанова о томъ, что туземка тогоже
квартала Дадаръ-ай Султанбаева, будучи сосватана, въ малолѣтствѣ, съ согласія отца ея, въ жены
довѣрителя жалобщика - Мухамедъ - Юсуфова, не подчиняетця требованію этого договора,
рѣшеніемъ своимъ отъ I января 1906 года за № 2, опредѣлилъ: обязать туземку Дадаръ-ай
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Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
Султанбаеву на совмѣстное жительство съ законнымъ мужемъ Мухамедъ-Юсуфовымъ и
подчиняться ему какъ таковому.
Далѣе къ томуже Народному Судьѣ 2 Ходжа-Ахрарскаго участка и отъ того же жалобщика
Мулла-Джанова, какъ повѣреннаго Мухамедъ-Юсуфова, вновь поступила жалоба въ текущему году
о томъ, что нѣкій Абдухалимъ Муминбаевъ женился на законной женѣ довѣрителя его
Мухамедъ-Юсуфова Дадаръ-ай Султанбаевой, разсмотрѣвъ каковую жалобу Народный Судья
рѣшеніемъ отъ 28 мая с. г. за № 105, опредѣлилъ: подвергнуть Муминбаева тюремному заключенію
срокомъ на 1½ года.
Имѣя въ виду 1) что согласно общимь законамъ Россійской Имперіи принудительное вступленіе
въ бракъ не можетъ быть допустимо, что по дѣламъ такого рода женщина и не можетъ служить
предметомъ иска, а потерпѣвшей сторонѣ предоставляется лишь право иска объ убыткахъ, если
таковыя вызваны неисполненіемъ женщиной своего общѣанія вступить въ супружество; 2) что по
данному дѣлу рѣшеніе за № 2 постановлено на основаніи документа, составленнаго 22 года тому
назадъ, тогда какъ по медицинскому свидѣтельству врача возрастъ туземки Дадаръ-ай Султанбаевой
въ настоящее время опредѣдляется лишь въ 21 годъ, каковое обстоятельство уже исключаетъ
всякую возможность предполагать, что 22 года тому назадъ Дадаръ-ай могда быть засватана за
Мухамедъ-Юсуфова и 3) что согласно ст. 211 Туркестанскаго Положенія Народные Судьи
налагаютъ наказанія лишь за преступленія и проступки, чего въ данномъ случаѣ со стороны
туземца Абдухалима Муминбаева (рѣшеніе за № 105) не было, т. е. въ женитьбѣ его на Дадаръ-ай
Султанбаевой нѣтъ признаковъ ни того ни другого, я, на остованіи ст. 218 Полож. объ Упр. Турк. Кр.,
прошу Окружный Судъ рѣшѣнія Народнаго Судьи 2 Ходжа-Ахрарскаго участка гор. Самарканда отъ
1 января 1906 года за № 2 и 28 мая 1907 года за № 105, какъ постановленныя съ превышеніемъ
власти, отмѣнить.
Составленъ 11 іюля 1907 года въ городѣ Самаркандѣ.
И. об. Прокурора Ратобыльскій
プロテスト
サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区の民衆判事は、サマルカンド市の現地民居住区であるムッラ・
カランダル地区の現地住民ムッラ・マフムド・ムハンマド・ユスフォフの代理人ムッラ・ババ・マフズム・
ムッラジャノフによる、
「同地区の住民ダダル=アイ・スルタンバエヴァは、未成年時に父の同意により原
告の依頼人であるムハンマド・ユスフォフと結婚することになっていながら、正式な夫であるムハンマド・
ユスフォフと同居し彼に従うようダダル=アイ・スルタンバエヴァに義務付けた 1906 年 1 月 1 日の第 2 番
判決によって確定したこの契約に基づく召喚に応じていない」との訴えによる訴訟を審理した。
さらに本年、同じく第 2 ホジャ・アフラル区の民衆判事のもとに、同じくムッラ・ユスフォフの代理人
である原告ムッラジャノフによる訴えが受理された。それは、アブドゥハリム・ムミンバエフなる者が、
彼(ムッラジャノフ)の依頼人ムハンマド・ユスフォフの正式な妻ダダル=アイ・スルタンバエヴァを妻
としているというものである。民衆判事はその訴えを審理し、同年 5 月 28 日の第 105 番判決により、ムミ
ンバエフを禁錮一年半に処す裁定を下した。
しかし、1)ロシア帝国一般法によれば、強制的に結婚に入らせることは許されない。このような訴訟に
おいて女性は係争の対象とはなり得ず、被害者にはただ、結婚生活に入るという約束をその女性が履行し
なかったことによって生じた損害に関する訴訟を起こす権利だけが与えられる。2)当該の訴訟に関する第
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2 番判決は 22 年前に書かれた文書に基づいて出されたものであるが、医師の医学的診断によればダダル=
アイ・スルタンバエヴァの年齢は現在まだ 21 歳と判定されている。その事情は、22 年前にダダル=アイが
親の承諾によりムハンマド・ユスフォフに嫁ぐことが決まっていたという前提のあらゆる可能性を排除し
ている。3)トルキスタン規程によれば、民衆判事が罰を課するのは犯罪と過失に対してのみであり、それ
は本件においてはアブドゥハリム・ムミンバエフの側にはない(第 105 番判決)
。つまり、彼がダダル=ア
イ・スルタンバエヴァを妻としたことにおいてはそのどちらの要件もない。──以上の点を考慮し、私は、
トルキスタン地方統治規程第 218 条に基づき、サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区の民衆判事による
1906 年 1 月 1 日の第 2 番判決と 1907 年 5 月 28 日の第 105 番判決を、
越権による決定として破棄するよう、
管区法廷に訴える。
1907 年 7 月 11 日サマルカンド市にて作成
検事代理 ラトブィリスキー
[л. 3]
Д. № 138
1907 г.
ПРОТОКОЛЬ
ПУБЛИЧНАГО СУДЕБНАГО ЗАСѢДАНІЯ САМАРКАНДСКАГО ОКРУЖНАГО СУДА.
1907 года Октябля 3го дня.
По протесту Прокурора Суда на рѣшенія Народнаго Судьи 2го Ходжа Ахрарскаго участка гор.
Самарканда отъ 1 января 1906 года за № 2 и 28 мая 1907 г. за № 105.
Въ засѣданіи присутствовали:
Предсѣдатель отвующій Н. В. Гурскій
Члены Суда: Мир. Судья Г. Г. Фонъ Ренненкампфъ, Поч. Мир. Судья А. А. Обрѣтенскій
При Тов. Прокурора В. Ф. Ратобыльскомъ Секретаря П. А. Крайнемъ
Засѣданіе по этому дѣлу открыто въ 11 час утра.
Въ засѣданіе Окружнаго Суда по этому дѣлу Никто не явился и вызывных повѣстокъ никому не
насылалось.
Дѣло было доложенъ Г. Предсѣдательствующимъ Н. В. Гурским
Товарищъ Прокурора поддерживалъ протестъ.
Затѣмъ Окружный Судъ, по совѣщаніи, постановилъ резолюцію.
Засѣданіе по этому дѣлу закрыто въ 11 часа 5 мин. дня.
Предсѣдательствующій Гурскій
Мировой Судья Ф. Ренненкампфъ
Поч. Мировой Судья Обрѣтенскій
Пом. Секретаря П. Крайнемъ
1907 年第 138 番訴訟
サマルカンド管区法廷公開開廷期間議事録
1907 年 10 月 3 日
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サマルカンド市第二ホジャ・アフラル区民衆判事の 1906 年 1 月 1 日第 2 判決と 1907 年 5 月 28 日第 105
判決に対する法廷検事のプロテストについて
会議の出席者は以下の通り。
議長
N. V. グルスキー
判事
治安判事 G. G. フォン・レンネンカンプフ、名誉治安判事 A. A. オブレテンスキー
検事
V. F. ラトブィリスキー、書記
P. A. クライネム
本件に関する会議は午前十一時に開始した。
本件に関する管区法廷会議においては出頭者はなく、出頭命令は誰にも出されてはいない。
議長を務める N. V. グルスキー氏によって案件が報告された。
検事が上訴を支持した。
続いて管区法廷は審議ののち決議をなした。
本件に関する会議は午後十一時五分に終了した。
議長
グルスキー
治安判事
F. レンネンカンプフ
名誉治安判事
書記補
オブレテンスキー
P. クライネム
[л. 4]
Д. № 138
1907 г.
РЕЗОЛЮЦІЯ.
1907 года октября 3 дня. По указу ЕГО ИМПЕРАТОРСКАГО ВЕЛИЧЕСТВА,
Самаркандскій Окружный Судъ въ публичномъ судебномъ засѣданіи, въ которомъ
присутствовали:
Предсѣдательствующій Н. В. Гурскій
Миров. Судья Г. Г. Фонъ Ренненкампфъ
Члены Суда:
Почет. Миров. Судья А. А. Обрѣтенскій
При Товарищѣ Прокурора В. Ф. Ратобыльскомъ
и Помощ. Секретаря П. А. Крайнемъ
ВЫСЛУШАВЪ: Дѣло по протесту Прокуроромъ Суда на рѣшенія народнаго Судьи 2го
Ходжа-Ахрарскаго участка гор. Самарканда отъ 1 января 1906 года за № 2 и 28 мая 1907 г. за № 105,
находитъ, что присужденіе туземка Дадаръ-ай Султанбаевой къ совмѣстному жительству съ
Мухамедъ Юсуфовомъ въ виду того, что 22 года тому назадъ она была сосватана съ нимъ по волѣ
отца своего, представляется непровѣреннымъ и противозаконнымъ актомъ, ибо по законамъ
Россійской Имперій принудительное вступленіе въ бракъ не можетъ быть допустимо и женщина не
можетъ бытъ предметомъ иска, темъ болѣе, что въ данномъ случаѣ, отвѣтчица Дадаръ-ай вышла
уже замужъ за другое лицо Абдухалима Муминбаева. По яснымъ соображеніямъ рѣшеніе 2го
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Ходжа-Ахрарскаго народнаго Судьи г. Самарканда отъ 1 января 1906 года за № 2, какъ
постановленное съ превышеніемъ власти, подлежитъ отмѣнѣ. Такжѣ подлежитъ тоже отмѣнѣ и
приговоръ того же Судьи отъ 28 мая сего года за № 105, коимъ онъ присудилъ Абдухалима
Муминбаева за вступленіе въ бракъ съ Дадаръ-ай Султанбаевой, просватанной за Мухамедъ
Юсуфова, къ тюремному заключенію на полтора года, ибо въ одномъ фактѣ женитьба Муминбаева
на Султанбаевой не заключаетъ признаковъ уголовно-наказуемаго дѣянія. На основаніи
изложеннаго, Окружный Судъ опредѣлилъ: рѣшенія 2го Ходжа-Ахрарскаго народнаго Судьи г.
Самарканда отъ 1 января 1906 года за № 2 и 28 мая сего года за № 105 отмѣнить.
Гурскій
Гер. (?) Ренненкампфъ
Обрѣтенскій
1907 年第 138 番訴訟
決議
1907 年 10 月 3 日。皇帝陛下の御命令により、サマルカンド管区法廷は、
議長
N. V. グルスキー
判事
治安判事
検事
V. F. ラトブィリスキー
G. G. フォン・レンネンカンプフ
書記補 P. A. クライネム
が臨席した公開開廷期間において、以下のように審理した。
サマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区民衆判事の 1906 年 1 月 1 日第 2 番判決と 1907 年 5 月 28 日第 105
番判決に関する法廷検事によるプロテストに関する訴訟は、ムハメド・ユスフォフと同居するよう現地民
女性ダダル=アイ・スルタンバエヴァに命じた判決―22 年前に彼女が父親の意向でユスフォフとの結婚
を世話されていることを考慮したもの―は、精査されておらず法に反した決定であると判断する。なぜ
ならロシア帝国法によれば強制的な結婚は認可することができず、また女性を係争の対象とすることはで
きず、ましてやこの場合、被告ダダル=アイは既に他の人物アブドゥハリム・ムミンバエフに嫁いでいる
からである。明白な理由により、サマルカンド市第二ホジャ・アフラル区民衆判事の 1906 年 1 月 1 日第 2
番判決は、越権による決定として破棄されるべきである。またムハメド・ユスフォヴァに嫁ぐことになっ
ていたダダル=アイ・スルタンバエヴァと結婚した廉でアブドゥハリム・ムミンバエフに一年半の入獄を
宣告した同判事の同年 5 月 28 日第 105 番判決も破棄されるべきである。なぜなら同じ事実において、ムミ
ンバエフがスルタンバエヴァを娶った事は、刑事罰を課されるような所業の要件を満たしていないからで
ある。以上の理由により、管区法廷はサマルカンド市第 2 ホジャ・アフラル区民衆判事による 1906 年 1 月
1 日第 2 番判決ならびに同年 5 月 28 日第 105 番判決を破棄することに決定した。
(署名)グルスキー、レンネンカンプフ、オブレテンスキー
おわりに
イスラーム法では、虚偽の証言などによりカーディーが誤判する可能性を認めるが、判決の公正さ
を保証する制度が乏しく、審級制度もない。しかし、神による最後の審判といういわば究極の上級審
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をもつイスラームにおいては、現世における不公正は来世における賞罰によって解消され最終的には
帳尻が合うことになっている。ロシア統治下の中央アジアではイスラーム法による司法制度を基本的
には維持していたが、審級制度の導入はそのような本来神が管轄すべき領域の侵食ともいえる。それ
はイスラームの理念の否定であり、ロシア統治期からソヴィエト期にかけてイスラーム法がその力を
失っていく過程において重要な意味を持つと思われる。
本稿で紹介したのは民衆法廷の判決が管区法廷によって破棄された事例であるが、上訴先としては
他にも複数の民衆判事の合議によるスエスト(съезд)法廷があった。またスエスト法廷の判決が管区
法廷に上訴された例もあり、
その場合は事実上の三審制をなしていた。中央国立文書館にはそれら様々
な形態の上訴に関する記録が数多く残されている。それらを調査することで、近代中央アジア法制史
における審級制度の実態やその導入の意義を検討していくことが今後の課題である。
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19 世紀後半ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域におけるムスリムの遺産分割
―制度と事例
磯
貝
真 澄
京都外国語大学外国語学部
はじめに
ロシア帝国のヨーロッパ部にあたる領域で、ヴォルガ中流域やウラル南麓からカザフ草原北端に広
がる地域は、テュルク系ムスリムの居住地である。現在も、タタルスタン共和国ではタタール人が住
民の半数を占め、バシコルトスタン共和国ではバシキール人とタタール人の人口をあわせると、やは
り住民全体の過半となる。彼らの多くはムスリムである。さらに、その周囲の諸州、諸共和国にもタ
タールやバシキールが居住することを考えると、ヴォルガ・ウラル地域はテュルク系ムスリム出自の
人々が大きな存在感を持つところと言える。
この地域のムスリムが、いかなるイスラームの信仰を保持し、それに基づく社会を形成・維持して
いたのか、その歴史的実態は必ずしも詳らかにされていない。その第 1 の理由は、ソヴィエト連邦で
は宗教関連の研究を行なうのが困難だったためである。同じ時期、旧西側の研究者の方はソ連領内に
保存される史料を閲覧できず、ある程度限定された研究課題のみを扱う傾向にあった。さらに遡及し
て、ロシア帝国時代の東洋学も、この地域のムスリム社会の歴史研究には、それほど関心を示さなか
った。したがって、実質的な研究は、ソ連解体後に開始されたも同然の状況である。
第 2 の理由は、史料が僅少なことである。特に、18 世紀後半までにムスリムによって書かれ、残さ
れた史料は僅かである。ロシア語史料も、ムスリム社会の中の様子をよく語り得るものではない。だ
が、ロシア帝国政府がこの地域を管轄するムスリム行政機関を設置した 18 世紀末以降については、研
究史料として利用し得る文献(文書・写本)の残存状況が、時代を下るにつれて良くなる傾向にある。
本稿は、このムスリム行政機関、オレンブルグ・ムスリム宗務協議会の業務の過程で作成された文
書類をもとに、この地域の 19 世紀後半におけるムスリム生活とイスラーム法のありかたを明らかにす
るための、一つの試みである。ただ、ムスリム生活全般を対象に検討することは、先行研究でも未解
明な問題が多いため、今のところ容易でない。そこで、本稿は先行研究と史料の状況を踏まえ、特に
ムスリムの遺産分割案件の法的・行政的処理をとりあげることとする。つまり、19 世紀後半の、ロシ
ア帝国統治下にあったヴォルガ・ウラル地域で、ムスリムがいかにして遺産分割を行なっていたか、
基本的な事実を解明し、整理する作業が、本稿の課題である。
ヴォルガ・ウラル地域のテュルク系ムスリム社会で受容され、普及したイスラーム法は、ハナフィ
ー派のそれである。この地域のテュルク系ムスリムは、特に 18 世紀中頃以降、ブハラやサマルカンド
の諸都市に代表されるマー・ワラー・アンナフルのムスリム社会と、人的・知的交流を持ったことが
知られる。イスラーム法の専門家であるウラマーの養成も、この地域のマドラサのみならず、マー・
ワラー・アンナフルへの遊学という手段によっても行われた[小松 1983: ; Frank 2012]。また、19 世紀
には、この地域のマドラサの教育課程は基本的に、マー・ワラー・アンナフルのそれに準じたもので
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あった[磯貝(真) 2012]。19 世紀後半になると、ヴォルガ・ウラル地域のウラマーの関心は徐々に、マ
ー・ワラー・アンナフルからオスマン帝国(やエジプト)へと移り始めるが、少なくともそれまで、
彼らの学識の基礎は中央アジア定住社会のハナフィー派イスラーム法学であった。
それと同時に、ヴォルガ・ウラル地域のテュルク系ムスリムの法的生活は、ロシア帝国の普通法に
よって規定されていた。つまり、ロシア帝国の普通法が規制/保障する、イスラーム法由来の規定が、
この地域のムスリムのムスリムとしての生活を、法制度的に成立させていたのである。そして、この
ことにかかわる業務を担当したのが、上述の宗務協議会であった。
こうしたことを踏まえたうえで、本稿の内容と構成であるが、まず、I.先行研究と史料の状況をも
とに、19 世紀後半ヴォルガ・ウラル地域のムスリムの遺産分割を研究する意義を明確化する。次に、
II.ロシア帝国の法・行政制度における、ムスリムの遺産分割の規定を確認する。そして、III.実際に作
成されたムスリム遺産分割案件の文書から、イスラーム法の専門家であったムスリム知識層の実務の
実態を探るものとする。なお、本稿では、日付は露暦による。
I. 問題の所在と研究の意義―最近の研究と史料の状況より
ヴォルガ・ウラル地域のムスリム出自の歴史研究者が、ロシア帝国における「イスラーム」に着目
して研究テーマを選択する傾向は、近年顕著となっている。この現象の背景には、1990 年代後半以降
の、Kemper 1998 や Frank 2001 など欧米の東洋学研究者による研究の影響があると考えられる。ある
いは、ソ連解体期以降進展している、ロシア連邦における宗教(正教であれ、イスラームであれ)の
復興も、これを後押ししているだろう。いずれにせよ、
「イスラーム」とみなされるものが研究対象に
選ばれるのである。
一例として、2007 年にカザン市で開催された学術会議の成果論集である『ロシア帝国におけるイス
ラーム諸制度の存在についての史料』
(カザン、2009 年)を概観すると、収録論文の主題は、ムスリ
ム「聖職者」の制度・実態、モスクの建設・維持、マドラサとマクタブ、ワクフと慈善、ムスリム住
民を対象としたゼムストヴォの初等教育普及活動、正教ミッションとムスリム住民のそれへの対応な
どである。史料としてムスリム住民の教区簿冊を利用しようとする論文もある[Загидуллин (ред.) 2009]。
ただ、ここで問題が 1 つ提起できよう。上述の論集にみられるように、現地研究者が「イスラーム」
または「イスラーム諸制度」の研究と呼ぶもののなかには、帝国行政におけるムスリム統治制度研究
と、ムスリム住民が構築したイスラーム的社会の研究の双方が含まれる。そして、前者には、ムスリ
ム住民に対して単に行政的に対応するための制度と、ムスリム住民のイスラーム的な生活を監督・規
制/保障するための制度の研究が混在する。イスラーム的な生活を監督・規制/保障するための制度
とは、帝国行政のなかで実際に、イスラームの教義を根拠の一部とし、構築された制度である。かく
して、帝国のムスリム統治制度研究とイスラーム的社会研究、イスラームの教義にかかわる問題とか
かわらない問題が混然一体となったまま、
「イスラーム(諸制度)
」研究という漠然とした枠組で研究
が行なわれるという現状がある。なかには、何がイスラーム的な(イスラームの教義に由来する、ま
たはムスリム政権下で歴史的に形成された)要素なのかを十分に確認しないまま、分析を進めるもの
も少なくない。
こうした問題はあるものの、ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域の「イスラーム」研究は増加してお
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り、多くの興味深い事実が明らかになりつつある。研究対象として最もよく選ばれるのは、マドラサ
やマクタブである。そのほとんどの研究が「新方式」のマドラサやマクタブをとりあげており、それ
以前については手薄であるが
(したがって、
「イスラーム」
研究というスタンスをとらないものも多い)、
カザンやウファの若手研究者の準博士論文まで含め、研究は相当数にのぼる。モスクの研究も少なく
なく、なかにはモスクの数を数えてイスラーム的社会文化の存在を指摘するような単純な分析も存在
するが、しかし、特に Загидуллин 2007 は、モスクや礼拝所とそこにおける儀礼について数多くの新
たな事実を確証し、多角的に明らかにする好著である。ワクフも、史料は少ないが、研究者の注目す
るところである[Азаматов 2000; 長縄 2009]。
その一方で、まとまった量の史料が存在するにもかかわらず、ほぼ手つかずと言ってよい研究課題
がある。それは、イスラーム家族法と直接的にかかわる諸問題である。宗務協議会の主要業務には、
ムスリム住民の婚姻や遺産相続を中心とする、イスラーム家族法関連の問題案件の処理が含まれてい
た。実際、ウファ市のバシコルトスタン共和国中央歴史文書館の宗務協議会のフォンドには関連の行
政文書がかなりの数、現存する[ЦГИА РБ, Ф. И-295]。しかし、その研究の方は、農村史の専門家が著
した先駆的家族社会史研究であるАсфандияров 1997 の一部と、宗務協議会によるムスリム行政の制度
と実態を包括的に解明した「イスラーム」研究であるАзаматов 1999 の一部を除けば、管見の限り、皆
無に等しい。しかも、本稿が研究対象とする遺産分割の問題を扱った部分は、Асфандияров 1997: 74-78
とАзаматов 1999: 140-144 に限られるのである。これらに加え、ロシア帝国の普通民法でイスラーム法
に従った相続分計算を保障する条文が編纂された過程を説明する、Мухаметзарипов 2010 がある 1。
研究が行なわれなかった理由は、史料が存在しないからではない。むしろ、ムスリムの遺産分割案
件を処理した行政文書が十分に現存するという事実は、当該問題が宗務協議会にとっても、管轄下の
ムスリム住民のイスラーム的社会生活にとっても重要だったことを示すだろう。実際、19 世紀後半の
宗務協議会の業務状況から、遺産分割の処理が無視できない規模であったことがわかる。アザマート
フによれば、1865~1868 年に宗務協議会が処理した全案件の 11%が、財産分割であった[Азаматов
1999: 140]。1890 年頃になると、宗務協議会は年間 1,200 件弱の案件を処理していたが、そのうち遺産
分割や遺言の件数が 200~250 件、離婚や婚姻解消が 150 件程度あったという[ПС ОМДС: 29]。
また、西欧と比較して独特の発展を遂げたことで―特にムスリム行政との強い結びつきで―知
られるロシア帝国の東洋学が、イスラーム法研究においては遺産分割学を早くから研究課題としてい
たという事実も、行政的観点からムスリム住民の遺産分割の処理が重要とみなされていたことを裏付
ける。ニコライ・エゴロヴィチ・トルナウ(1812~1882)は 1850 年、ロシア東洋学最初のイスラーム
法研究書となる『ムスリム法学初歩解説』を発表するが 2、この時すでに、相続法の説明には他の項
Мухаметзарипов 2010 は、バシコルトスタン共和国中央歴史文書館の宗務協議会フォンド所蔵文書を利用
していない。また、この研究は有用な情報を含む一方で、明らかな誤りも見受けられる。
2
ただ、トルナウはイランで外交職、カフカースで行政職にあったため、スンナ派よりもシーア派の法規
定の方を、より専門的に理解していた。ところで、イスラーム法について簡単に解説する書物はトルナウ
の著作以前に出版されており、それはミルザ・アレクサンドル・カスィモヴィチ・カゼム=ベク(1802~
1870)が、1845 年にカザンで出版した『ミュフテッセル・ウル・ヴィカエト』に付した、序文である[Торнау
1991(1850): VIII; Рзаев 1989: 177-178]。カゼム=ベクやトルナウのイスラーム家族法研究と帝国のムスリム
統治については、Crews 2006: 176-189 を参照。ロシア東洋学史について簡潔な解説は、Schimmelpenninck van
der Oye 2011。『ミュフテッセル・ウル・ヴィカエト』
、すなわち al-Nuqāya al-Mukhtaṣar al-Wiqāya について
は、GAL GI: 378; GII: 213; 磯貝(真) 2012: 13, 22-23。
1
66
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目よりも多くのページを割いていた[Торнау 1991(1850): 399-426]。イスラーム法研究を続けながら、彼
はこの著作を改訂し、1855 年ドイツ語訳、1860 年フランス語訳を出版すると、1866 年新たに、
『ムス
リム法第 1 巻―法に拠る遺産相続について』と題する業績を公刊した。これに続く巻は出版されな
かったようだが、ともかく、250 頁を超えるこの研究は、帝国の普通民法によるムスリムの家族と遺
産相続の規定が、イスラーム家族法に合致するか否かを調査した図表までも付録に収める、労作であ
った[Торнау 1866]。
こうした諸々の事実から言えるのは、ロシア帝国のムスリム統治制度とイスラーム的社会の研究に、
遺産分割の処理をめぐる諸問題の分析が不可欠ということである。しかも、イスラーム家族法関連の
諸問題のうち特に遺産分割に着目することについては、いま一つの理由がある。宗務協議会はロシア
語で行政文書を作成していたが、ムスリムの遺産分割案件を処理した文書は、婚姻等の他の諸問題を
扱った文書類と比べ、
そのなかにアラビア文字表記のテュルク語で書かれた文言や文書を含む事例が、
多く観察されるのである。
こうした宗務協議会文書に含まれるアラビア文字テュルク語文言・文書は、
これまで全く研究されていないが、ムスリム統治制度のなかでムスリム自身が作成したものとして、
当然に研究価値を有する。これらを利用すれば、ロシア語史料の分析が中心となっている従来の「イ
スラーム」研究、またはロシア帝国論が未だよく明らかにし得ないムスリム社会の実態、すなわち、
ロシア帝国のムスリム住民はいかなるイスラーム的社会を形成したのかという社会史的な研究課題の
解明に、迫ることができよう。筆者は、このことこそが、最大の意義と考える。また、本稿が明らか
にしようとするヴォルガ・ウラル地域の事例は、やはりロシア帝国の統治下にあった、植民地トルキ
スタンの類似事例の分析にも有用なはずである。
さらに、イスラーム家族法の諸研究に照らしても、19 世紀のロシア帝国統治下のムスリム遺産分割
をめぐる諸問題は検討に値する。よく知られるように、19 世紀以降、ムスリム諸国・地域では西欧諸
国の進出を受けて近代的な成文法の編纂が行なわれたが、その多くの国や地域で家族法は、古典的な
イスラーム家族法を踏襲してまとめられた。そして、現代のムスリム家族法の中でも特に相続法は、
古典法をほぼそのまま踏まえた内容の条文であるか、または条文化されておらず古典法が適用される
かという状況にある[柳橋 2005: 491]。本稿の問題関心に沿って研究を進めれば、こうしたヨーロッパ
諸国の影響・統治下のムスリム家族法や、ムスリム諸国における法の近代化という、より広い研究テ
ーマにも有用な事例を提供できよう[柳橋(編著) 2005; 堀井 2009]。
II. ロシア帝国の法・行政制度としてのムスリム遺産分割
II-1. オレンブルグ・ムスリム宗務協議会によるムスリム行政の概要
先に述べたように、ロシア帝国政府は 18 世紀末、ヴォルガ流域や沿ウラル地方のテュルク系ムスリ
ム住民を管轄する行政機関を設置した。1788 年 9 月 22 日付のエカテリーナII世の勅令に基づき、1789
年 12 月 4 日ウファ市に創設されたウファ・マホメット教法宗務協議会、1802 年の改称後のオレンブ
ルグ・ムスリム宗務協議会 3が、それである。この機関は、1803 年に聖宗務院の宗務総監の管下に入
るが、1810 年に異国信仰宗務主局が創設されると、その管下となった。1832 年、異国信仰宗務主局が
原語は Оренбургское магометанское Духовное собрание であり、わが国では「オレンブルグ・ムスリム宗
務協議会」が定訳であるが、より直訳的には「オレンブルグ・マホメット教宗務協議会」である。
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異国信仰宗務庁と改称し内務省管下に入ると、この機関もともに移管された。よって 19 世紀後半、宗
務協議会は基本的に、内務省異国信仰宗務庁管下にあった。
宗務協議会の組織は、ムフティーと呼ばれる協議長 1 名、カーディーと呼ばれる協議員 3 名と、書
記官、事務官、通訳官等々の官吏で構成された。その管轄下のムスリム居住地域には、ロシア正教会
の教区に相当するものとしてのマハッラが設定された。地域のムスリム社会では、マハッラ 1 つに集
会モスク 1 つが設置され、そこに通例、正教会教区司祭に相当する「聖職者」とみなされるイマーム
1 名とムアッズィン 1 名の計 2 名が任命された。宗務協議会の重要な任務は、このムスリム聖職者候
補に対する審査を実施し、イマーム、ハティーブ、ムダッリス、ムアッリム、ムアッズィン(アザー
ンチェ)などの聖職者資格を認定することであった。イマーム候補者は、
「イマーム・ハティーブとム
ダッリス」のように導師・説教師と教師資格を併せて認定される場合が少なくなく、所定の手続きを
経て県庁より政令(ウカーズ)をもって任命され、任地のマハッラで職務にあたる「政令のムッラー
(указный мулла / ukāzlī mullā)
」であった。この他、アーフンドという職位があったが、これはイマ
ームより「高位」の聖職者として、複数のマハッラを担当しイマームの監督などに従事した。また、
宗務協議会は、ムスリム聖職者にマハッラの教区簿冊を作成させ、ムスリム住民を管理する業務を行
った。同様にムスリム聖職者を通じ、ムスリム住民の婚姻や遺産分割など、イスラーム家族法の一部
にかかわる内容の諸問題を処理することも、主要業務の 1 つとした。モスクの建設や修繕にかかわる
問題も処理した。宗務協議会の中で、問題案件の処理は、ムフティーとカーディーの合議で行われる
ものとされた[Азаматов 1999; 2006; 長縄 2004: 2-4]。
こうした体制をとる宗務協議会で、ムスリム住民の遺産分割案件が処理されたのである。その管轄
地域には、1889 年頃はマハッラが 4,254 存在し、ムスリム聖職者はアーフンド 65 名、イマーム・ハテ
ィーブ 2,734 名、イマーム・ムダッリス 2,621 名、ムアッズィン 2,783 名を数えた。ムスリム住民は、
男女あわせて 3,405,460 名であった[ПС ОМДС: 26]。そして、彼らムスリム住民は、宗務協議会のこと
を「シャリーア裁判所(Maḥkama-i sharʻīya)」と呼んでいた。
II-2. 帝国の法・行政制度としてのムスリム遺産分割
ムスリム住民の遺産分割は、宗務協議会によるムスリム行政を研究したアザマートフによれば、19
世紀前半はアーフンドによって処理されていた。だが、19 世紀後半になると、その処理手順に変更が
加えられ、マハッラのイマームが担当するようになっていったという[Азаматов 1999: 140-141]。いず
れにせよ、19 世紀半ばまでには、帝国の普通法が制度の法的根拠となっていた。その明文は、次に挙
げる民法第 1338 条である。
第 1338 条
マホメット教徒の[死]後に遺された財産の分割は、彼らの法に従って行なわれる。しか
し、オレンブルグ宗務協議会管下のマホメット教聖職者が、遺言により、あるいは相続人の間の財産
の分割に際して生ずる、私有財産(частная собственность)についての事案を、自らの法に従って審
理し決定する(решить)権利を有するのは、当該事案に参加するマホメット教徒がそれについて請願
し(просить)、言い渡された決定(решения)を異議なく受諾する場合のみである。この場合に行なわ
れる[相続財産の]分割は、然るべき役所において(в надлежащем присутственном месте)承認され
る。しかし事案参加当事者が、自らの所有財産(собственность)に関係する聖職者の決定に対して不
服を言明し、民事上級機関(гражданское начальство)に請願する(обратятся с просьбою)ならば、当
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該 案 件 の 審 理 は 、 普 通 法 規 に よ り 定 め ら れ る 手 続 き に 従 っ て ( по установленному общими
узаконениями порядку)通常の裁判所(обыкновенное судебное место)に委ねられる。1826 年 6 月 2
日(386)
、1831 年 12 月 23 日(5033)§4、1836 年 5 月 11 日(9158)[СЗ РИ X-I 1857: 265; 1887: 184]。
この条文によれば、ムスリムの遺産分割は制度的に、次のような手順を踏むこととなっていた。①
遺産分割を希望するムスリム当事者が、イスラーム法と普通民法の、いずれに基づき行なうのかを選
択する。②イスラーム法に基づく分割を希望するムスリム当事者は、その旨請願する。この場合の請
願の対象は宗務協議会のはずである。③ムスリム聖職者が、イスラーム法に基づき、遺産分割を行な
う。④ムスリム当事者は、ムスリム聖職者が行なった分割を受諾するならば、それについて管轄の役
所で承認を受ける。
つまり、ムスリム住民は遺産の相続分計算について、イスラーム法に基づくことを望まない場合は
通常の裁判所で民法に従って計算できた。イスラーム法による相続分計算を望む者だけが、宗務協議
会に請願し、ムスリム聖職者(ムッラー/イマーム)の担当となったのである。そして、ムスリム住
民は、もしムスリム聖職者が行なった相続分計算に不服であれば、さらに上訴することができた。す
なわち、上記の手順で、④′ムスリム当事者が、ムスリム聖職者の行なった分割に不服ならば、民事上
級機関(基本的に民事裁判所だが、その前に宗務協議会に不服であると請願することが想定されてい
よう)に、その旨請願できる。その後、④″ムスリム当事者は通常の裁判所で民法に従った手続きで相
続分計算を行なう(よって、相続分の算定根拠はイスラーム法より導かれると解釈されるはずである)
と、定められていた。
こうした処理手順について、アザマートフは若干異なる解説をしている。彼によれば、ムスリム当
事者がイスラーム法による相続分計算に同意すると、マハッラのイマームが遺産分割を行なう。その
後、当事者がイマームの行なった相続分計算に不服として「再び」
、つまり宗務協議会に上訴的に請願
するか、または宗務協議会が追審(補充取り調べ)の必要を認めるならば、宗務協議会の委任に従っ
てアーフンドが相続分計算を行なったという[Азаматов 1999: 140-141]。この場合、上訴的な二度目の
審理における相続分計算もムスリム聖職者が行なうため、まちがいなくイスラーム法に基づく計算を
していたことになる。
実は、
アザマートフはこの処理手順の説明について民法第 1338 条を史料とせず、
典拠も特に示していない。おそらく彼は、こうした手順を、宗務協議会で実際に作成された文書の内
容をもとに解説している。よって、このこと自体が、法と実態のズレ、または法に明示されない手続
きの存在を示唆するだろう。
そもそも、19 世紀半ばの段階では、ムスリムの遺産分割について、関係機関の間で管轄論争すら行
われていたという。1846 年、宗務協議会とオレンブルグ国有財産院は、ムスリムの遺産分割について、
下級裁判所、イマーム、宗務協議会それぞれの出す決定が一致しないという問題、さらには、どの機
関が管轄すべきかという問題について論争した。この時、宗務協議会のムフティーとカーディーはム
スリム住民に対し、宗教的な問題―すなわち、遺産分割―は自らの所属身分にかかわらず宗務協議会
に訴えるよう指示した[Азаматов 1999: 140]。したがって、おそらく 19 世紀後半になっても、民法第
1338 条の規定にかかわらず、管轄機関や処理手順について、個別例外的取り扱いが存在したと想像さ
れる。
ただ、制度上、やはり民法第 1338 条を遵守すべきであったことに変わりはなかった。そのことを示
す史料は、宗務協議会がカザン県庁の要請に従い、1891 年 8 月 7 日付で管下のムスリム聖職者宛に発
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出した回状通達第 3587 号である。この回状通達はムスリム聖職者に、民法第 1338 条で示される諸条
件が存在する場合にのみ、相続財産の分割を行なうよう求める[СЦ ОМДС: 54 (№31)]。つまり、民法
第 1338 条の法的拘束力はもちろん、遺産分割を希望するムスリム当事者がイスラーム法に基づく相続
分計算を希望し、その旨請願したという条件がない場合には、ムスリム聖職者は相続分を計算できな
いということを、県庁と宗務協議会があらためて確認しているのである。裏を返せば、これは、当事
者による請願というプロセスを経ずに遺産の相続分計算をしていたムスリム聖職者が、実際に一定数
存在したことを示唆する。
1893 年になりようやく、宗務協議会は、民法第 1338 条を「説明(разъяснение)
」する諸規則を記載
した文書を、回状通達第 2361 号に添付して管下のムスリム聖職者に送達して、然るべき遺産分割の処
理手順を徹底させようとした。この回状通達は、マハッラのイマームが、①遺産分割の諸規則を説明
する当該文書(当然、印刷版である)をマハッラの他の文書類とともに保管すること、および、②自
らへの「指導(руководство)
」のため、当該規則文書を筆写して手もとに備えることを、指示する[СЦ
ОМДС: 91 (№51)]。そして、諸規則は次のようなものである。
1893 年 5 月 22 日付第 2863 号の内務相閣下の許可により発令された、死亡したマホメット教徒の相続
財産分割についての教区ムッラーへの指導のための、
[『ロシア帝国法律集成』
]第 10 巻第 1 部民法集
成 1887 年版第 1338 条の説明としての規則
1) ムッラーは、他ならぬ相続人のうちの任意の者(кто либо)の請願(просьба)によってのみ、相続
財産分割に着手する。ムッラーが相続人の請願なく相続財産分割に着手することができるのは、そ
れが宗務協議会により彼に委任された場合である。ムッラーは、自らの意思(воля)により、上級
機関(начальство)の委任や相続人の請願なく、相続財産分割案件に介入してはならない。
2) 相続人の請願による相続財産分割は、死亡した被相続人が属する教区のムッラーが行なわねばなら
ない。上級機関の要請によるならば、他の教区のムッラーも相続財産分割に着手することができる。
3) ムッラーは、[相続財産]分割に着手するに先だち、相続人の中に未成年者がいないか、そして未
成年者には後見人(опекун)が任命されているかということにつき、情報を収集せねばならない。
後見人が任命されていなければ、未成年者の後見人が決定されるまで、相続財産分割に着手しては
ならない。
4) ムッラーは、相続財産分割への着手に際し、すべての成年相続人と未成年者の後見人から、当該ム
ッラーによる相続財産分割行為に同意する旨の応答を得なければならない。すべての相続人がこれ
に同意表明する場合にのみ、ムッラーは分割を行なうことができる。そうでない場合には、ムッラ
ーは、相続人に対し、彼らが民事裁判所(суд гражданский)に提訴せねばならないということを説
明した後、これ[相続財産分割行為]を拒否せねばならない。
5) 相続財産分割は、すべての成年相続人と未成年者の後見人が、現在と将来においてこれをムッラー
に委ねることに同意するならば、シャリーアの規定に従い、
『ファラーイズ(Фараиз)』の書物のリ
ワーヤ(ревояты)に基づいて行なわれる。
6) これ[相続財産分割行為]については、分割を行なったムッラー、すべての相続人と証人、分割に
臨席した者により署名された、書面による証書が作成されねばならない。
7) ムッラーは、この[相続財産分割行為の]すべての完遂に際し、これに付随する下記の事柄を説明
した後、作成され、署名された証書を相続人に手渡さねばならない。(1)相続人のうちのある者が彼
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[ムッラー]の行為に満足していないか、あるいは彼ら[相続人]に対しシャリーアの規定が誤っ
たかたちで適用されたと認識するならば、その者は彼[ムッラー]を宗務協議会に上訴すること
(жаловаться)ができる。また同様に、その者は民事裁判所にも[相続財産]分割について請願す
ること(обратиться с просьбой)ができる。その民事裁判所は、相続分の配分(распределение)に
際し、普通民法(общие гражданские законы)ではなく、マホメット教の法に従うこととなる。(2)
相続人は、ムッラーにより作成された[相続財産]分割証書を、公証人(нотариус)のもとで、あ
るいは裁判所(суд)で、あるいは最後に郷役場において提示せねばならない。相続人の中に未成年
者がいる場合は、分割証書は予め、後見人を監督する機関の承認を得るために提示されねばならな
い。
[その機関とは、
]農民とバシキールは村の寄合、町人と商人と官吏は孤児裁判所(сиротский суд)、
貴族は貴族後見所(дворянская опека)である 4。
8) これで相続財産分割についての、ムッラーの責務はすべて完了する。ムッラーはこれ以上、いかな
る介入もしてはならない。ムッラーは決して相続財産目録を作製してはならず、分割証書により定
められた相続財産の取り分を相続人に引き渡す行為自体を行なってはならない。これらはすべて、
相続人がムッラーをまったく避けて、自らの意思で(добровольно)、あるいは民事上級機関
(гражданское начальство)を通じて行なわねばならないからである。
9) これら規則すべては、他ならぬ死亡した者の後に遺された相続財産の分割に該当するものである。
農民もしくはバシキールのもとで家族分割(семейные разделы) 5が行なわれる場合には、ムッラー
はいかなる介入もしてはならない。このような[家族]分割は、家族分割についての特別規則第 2361
号(особые правила о семейных разделах №2361)に基づき、村の寄合で行なわれねばならない。
協議員(член):イブラギーモフ
6
書記官:カドゥィルグロフ[СЦ ОМДС: 92-94 (№52)]
この規則文書により遺産分割の処理手順を整理すれば、以下のようになろう。まず、①任意の相続
人が、被相続人の属するマハッラのイマームによる遺産分割を希望し、宗務協議会に請願する。
(後述
する史料によれば、この請願の後、宗務協議会は担当となるイマームに委任のウカーズを発令する。
)
次に、②イマームは、未成年相続人の有無と未成年者の後見人を確認する。③イマームが、すべての
相続人と未成年相続人の後見人から、遺産分割をすることについて同意を得る。そして、ようやく、
④イマームはシャリーアに基づく遺産分割の相続分計算を遂行する。計算は「
『ファラーイズ』の書物
のリワーヤに基づ」く。その後、⑤遺産分割証書を作成するが、それに署名するのはイマーム、相続
人、証人、その他の臨席者である。そして、⑥イマームが相続人に、所定の説明事項を述べた後 7、
4
そもそも後見制度として、世襲貴族については各郡の貴族後見所、一代貴族と都市身分は各市の孤児裁
判所が管轄するということが、民法で定められる[高橋 2002: 56-61]。
5
家族分割とは、大規模になった家族を分割し、家長を別々に立て、それぞれの家長のもとに家族を形成
することである。財産もそれぞれの家族のために分割される。村の寄合が管轄するよう定められていた。
ヨーロッパ部ロシアの農民の間では特に 1880 年代以降、家族分割により、夫婦と未婚の子で構成される小
家族が急増した[高橋 2012: 128-129]。
6
アブデュルレシト・イブラヒム(ʻAbd al-Rashīd b. ʻUmar Ibrāhīmuf、1857~1944)
。西シベリア(トボリス
ク県)出身のウラマー、活動家、文筆家。1892~1895 年、宗務協議会のカーディー。彼については[小松 2008]
を参照。
7
未成年の相続人がいる場合に、イマームが相続人と後見人に対し、遺産分割証書を後見人監督機関に提
出して承認を受けねばならないことを説明しない(または、結果として、証書が後見人監督機関の承認を
受けていない)という状況が、少なからず生じたらしい。宗務協議会は 1898 年 8 月 25 日付で管下のイマ
ームらに対し、この規則を遵守するよう命じる回状を出している[СЦ ОМДС: 156 (№83)]。
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証書を手渡す。
⑦未成年相続人がいる場合は、証書は所定の後見人監督機関で承認されねばならない。
その後、⑧相続人が証書を持ち、公証人のもとで、あるいは裁判所や郷役場で所定の手続を行なって、
手続きは完了する。
上記手順③において、相続人や後見人のなかに同意しない者がいる場合は、相続人が民事裁判所に
提訴し、そこで遺産分割の処理を行なうこととなる。また、上記手順⑥で、相続人がイマームの行な
った相続分計算に不服の場合、相続人は宗務協議会か、または民事裁判所に訴える。これは上訴的段
階ということになるが、この段階であれば、民事裁判所は相続分の算定基準については、民法ではな
くイスラーム法に従う。
したがって、相続分の算定基準がイスラーム法であるか否かという観点から整理すれば、次のよう
になる。遺産分割開始前の段階でイスラーム法に基づく相続分計算に同意しない相続人が 1 人でも存
在すれば、その遺産分割は民事裁判所で民法に従って行われる。相続人全員がイスラーム法に基づい
て相続分を計算することに同意し、ムスリム聖職者が相続分算定を行なった後に、その計算に不服の
相続人が存在する場合は、上訴的段階として、宗務協議会または民事裁判所のいずれかにおいて、イ
スラーム法に基づく相続分の算定が行われる。つまり、最初にすべての相続人と後見人がイスラーム
法に従った相続分の算定に同意したならば、その後は上訴的段階になろうとも、あくまでイスラーム
法から導かれる基準で計算されたのである。
宗務協議会管下のムスリム住民の遺産分割について、帝国の法・行政制度にのっとった処理方法の
詳細が提示されたのは、1893 年になってからであった。この後、1898 年に宗務協議会は、遺産分割証
書の書式を指定する。その時に管下のムスリム聖職者宛てに通達した 1898 年 12 月 1 日付ウカーズ令
第 7522 号で、書式統一の理由を次のように説明した。
宗務協議会より教区聖職者に配布された、マホメット教徒相続人の間での財産分割についての回状規
則の適用に伴って、当宗務協議会管下の教区のマホメット教聖職者の一部は、相続財産分割を行なう
に際し、然るべき分割証書を作成していない。そしてまた[相続財産]分割や、合意による[相続財
産]分割あるいは「タハッリジュ(тахарридж 8)」への同意について、当事者の誓約文書(подписка)
も作成していない。あるいはまた証書自体を、紙の切端(лоскутки бумаги)に、分割品目の目録や一
覧表のかたちで作成しており、そして概して、同一の書式に多少なりとも従うものではない。これら
の こ と は 、 後 に な っ て 紛 争 が 生 じ た 場 合 に 、[ 相 続 財 産 ] 分 割 参 加 者 の 間 で の 多 く の 誤 解
(недоразумение)を呼び起こし、また同様に、後見人機関(опекунские учреждеия)によって未成年
の孤児の財産分割手続きにつき類似事案が照会される際の不都合をも呼び起こしている。宗務協議会
は、管下の教区のマホメット教聖職者を通じて、上述の不都合を除去し、マホメット教徒の[死]後
の相続財産分割についての上述の規則を一律に適用すべく、分割証書と「タハッリジュ」の誓約文書
の書式を作成することが必須であると認めた[СЦ ОМДС: 157-158 (№84)]。
つまり、遺産分割証書の書式を指定する理由は、ムスリム聖職者が証書を作成しなかったり、また
は作成する場合でも不適切な用紙を使用したり、あまりに異なる書式で作成したりするためであった。
それゆえ、後になって相続人の間で問題が生じたり、後見人監督機関が未成年の孤児の手続きについ
て類似事案を紹介する際に不都合が起きるというのである。また、この時、タハールジュ、すなわち
8
通達文のテュルク語訳の方には、takhāruj と記されている。
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相続分について、相続人すべてが相互に同意し、放棄したり、代わりの物品を受領したりする代償分
割についても、書式が定められた。筆者が確認した限り、1898 年以前の民法条文や回状通達類に代償
分割の規定は見られないが、実務上は当然、以前から代償分割が行なわれていたはずである。そして、
指示された書式 2 種は次のようなものであり、上述のウカーズ令第 7522 号とともにムスリム聖職者に
送達された。
①
[相続財産]分割証書書式
県
郡
村のアブドゥッラー・サドゥィコフが 1898 年 5 月 2 日死亡し、彼の[死]
後に残った相続人は、父親、妻、息子 1 名、娘 1 名である。彼にはこの他の相続人は存在しない。彼
の相続財産は、彼の葬儀の支払いをし、債務を弁済した後、そして遺言された動産・不動産の品目を
除外した後、目録と査定に従えば、288 ルーブリ相当が残った。権利能力を有する成年の相続人、お
よび未成年相続人や女相続人側の後見人は、イマーム(誰某)の臨席のもと、すべての相続人の間で
シャリーアに基づいて財産を分割することに同意を言明した。またそれゆえ、私、
郡
村
教区のアーフンド、またはイマームである(誰某)は、オレンブルグ・ムスリム宗務協議会のウカー
ズ第
号により派遣され、本年 7 月 5 日、下記の相続人側より招請された証人の臨席のもと、法
定相続人の間で上記の総額 288 ルーブリ相当の相続財産を分割した。そのなかから、父親が 1/6 すな
わち 48 ルーブリ、妻が 1/8 すなわち 36 ルーブリを受領する。その後の残り 34/48 すなわち 204 ルーブ
リは被相続人の息子と娘の間で、アサバ 9として(в качестве асабетов)、分割される。これに際しコー
ランに基づき、息子は娘 2 名分として受領する、すなわち前者は 2 倍分の 136 ルーブリ、後者は 1 倍
分の 68 ルーブリである。
相続人、未成年者の後見人、そしてまた証人は、分割証書に署名する(財産分割を行なったイマー
ムまたはアーフンドの署名)。
②
タハッリジュ、すなわちしかるべき取り分に満たない(менее против следуемой части)相続財産の受
領についての誓約文書の書式
1898 年 6 月
日、
郡
村
教区の私、すなわちイマームまたはアーフンド(誰
某)の臨席のもと、そして法定相続人の臨席のもと、同様に下記の証人の臨席のもと、すべての相続
人の同意に従って、相続人(誰某)は、
「私は、私に相続されるべき総額
目のうち(из следующих мне наследственных предметов, на сумму
ルーブリ相当の相続品
рублей)、総額
ルーブリ
相当の品目のみを受領しました。その後、残りの取り分を、残りの相続人のために放棄しました。そ
して私は今後も、訴えたり、争ったり、訴訟を起こしたりしません。
」
[と言明した。
]当該のタハッリ
ジュに、すべての相続人が同意を言明し、それについて彼ら相続人および証人は署名した[СЦ ОМДС:
159-160 (№85)]。
これら 2 種の書式のうち分割証書の方を見ると、証書に記載するよう指示された情報は、次のよう
なものである。1.被相続人の氏名・住所・死亡日、2.全相続人の続柄・人数、3.相続人は記載された以
9
男性男系血族。だが、相続法におけるアサバは次の 3 種類である。1.被相続人の男性男系血族、2.被相続
人から見た場合に、あるアサバと同じ血縁関係を有する女性(相続分は当該アサバの 1/2)
、3.被相続人の
卑属に女性のみが存在する場合の同父母または同父異母姉妹[柳橋 2005]。
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外に存在しない旨の文言、4.葬儀費用・被相続人の債務・遺言により相続分算定から除外される品目
を差し引いた相続財産の査定額、5.全相続人・後見人が担当のムスリム聖職者臨席のもとイスラーム
法に基づく相続分算定に同意した旨の文言、6.担当のムスリム聖職者の氏名・住所・職位、7.ムスリム
聖職者に遺産分割を委任するウカーズ令の番号、
8.日付、
9.相続人が招請した証人が臨席する旨の文言、
10.各相続人の相続分と算定額、11.相続人・後見人・証人の署名、12.担当のムスリム聖職者の署名。
すなわち、相続財産の品目が列挙されたり、目録が添付されたりするのではなく、あくまで相続財産
の評価額が記載され、その評価額に基づいて厳密に相続分が算定される。また、宗務協議会がムスリ
ム聖職者に担当を委任するウカーズ令の番号を記載するよう定められることから、処理手順としては、
相続人が宗務協議会宛にイスラーム法による相続分算定を希望する請願を行なうと、宗務協議会の方
は担当するムスリム聖職者に委任のウカーズを発令していたことになる。そしてムスリム聖職者は、
委任のウカーズ令をもって遺産分割に着手した。このことは、後述の、業務の過程で実際に作成され
た文書からも確認できる。
また、分割証書の書式に例として記載される相続分の計算法は、確かにハナフィー派の相続規定に
従ったものである。つまり、被相続人に息子が存在するため、被相続人の妻は割当相続人(コーラン
の記述に基づく相続人)として 1/8 を、被相続人の父は割当相続人として 1/6 を相続する。そして、
息子と娘はアサバとして相続するが、息子の相続分の 1/2 が娘の相続分となる[柳橋 2005]。
分割証書が評価額による相続分を記載するのみに限定されるためであろうが、分割証書と同時に、
タハールジュ、すなわち代償分割の証書の書式が別個に指示された。代償分割証書の内容は、その構
成から二分でき、前半は相続する財についての受領文書、後半は相続権を放棄する財についての権利
放棄文書である。これにより、相続人が相互に同意すれば、現金化して法定相続分通りに分割するこ
とのできない財の相続問題を処理できる 10。
さて、これまで見てきたように、ヴォルガ・ウラル地域のムスリム社会において、イスラーム法に
則った遺産の相続分計算は、帝国の民法により、一定の条件のもと制度的に保障されていた。その条
件とは、相続人全員がイスラーム法に基づく相続分算定に同意するというものであった。この条件が
満たされない場合を想定すれば、それは例えば、相続人のなかにイスラーム教徒でない者が含まれた
り、イスラーム教徒であっても民法による算定の方が自らにとり「得」だと考える者がいる場合だろ
う。これに関連して、アザマートフが紹介する、1869 年に宗務協議会の業務状況を調査した委員会の
指摘について、書き添えたい。その委員会は遺産分割を行なうムスリム住民について、
「宗教法による
審理を拒否する場合は極めて稀であり、それは、そのような拒否がムスリムのもとでは、まるで背教
のようにみなされるからである」とした[Азаматов 1999: 140]。この見解は、あくまで行政側の、ある
委員会の主観であり、実際に現存文書を調べれば、全員ムスリムである相続人が民事裁判所で民法に
則って相続分を算定した事例も、一定数見つかる可能性がある。が、上述の 1846 年の宗務協議会とオ
レンブルグ国有財産院の管轄論争の件も考えあわせれば、イスラーム法による遺産の相続分算定を、
信仰上の熱心さや敬虔さのバロメーターのように扱う風潮があったと想像される。
結局のところ、1890 年代になってようやく宗務協議会は、ムスリムの遺産分割の問題を処理手順や
作成する文書の書式といった細かいレベルで管理するため、制度整備を行なったと言える。上述の
10
同じ時期の中央アジアのムスリム社会における相続と権利放棄については、磯貝(健) 2013: 24-25 を参照。
74
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1893 年の民法第 1338 条の説明の通達と、1898 年の証書書式の統一は、その重要施策であった。これ
はムハンマディヤール・スルターノフ(1886~1915 在職)11がムフティーを務めた時期のことであり、
業務にあたったカーディーは、イスラーム改革を志向し、
「新方式」教育を支持したり、後にムスリム
政治運動の担い手となったりしたウラマーである。上述の史料より明らかだが、1893 年に民法第 1338
条の説明の通達を担当したのはアブデュルレシト・イブラヒムであり、1898 年の書式統一は、リザエ
ッディン・b・ファフレッディン(1858~1936) 12が行なった。要するに、宗務協議会は 1890 年代、
ムスリムがイスラーム法に則って遺産の相続分を算定することにつき、それまで以上に監督・規制/
保障を徹底すべく制度を整備したが、それを担当したカーディーは、後に改革論者として活躍するウ
ラマーであった。付言すれば、宗務協議会が管轄地域のワクフの監督・規制/保障をめぐる問題に本
格的に着手するのも 1890 年代であり、スルターノフのもとリザエッディン・b・ファフレッディンが
中心となって担当・処理した 13。
以上、帝国の法・行政制度としてのムスリム遺産分割と、それをめぐる諸問題を確認してきた。こ
れを踏まえ、以下では、そうした法・行政制度のもとでの実務の一端を明らかにする。
III. ムスリム遺産分割の実務事例
III-1. 実務に利用された法学書
先に全文を紹介した、1893 年の民法第 1338 条を説明する諸規則の第 5 に、
「相続財産分割は、……
シャリーアの規定に従い、
『ファラーイズ』の書物のリワーヤに基づいて行なわれる」という文言があ
る。つまり、この規則で『ファラーイズ』という書物が指定されたのだが、これは間違いなく、Sirāj al-Dīn
11
ムハンマディヤール・スルターノフ(Muḥammad-yār b. Muḥammad-sharīf Sulṭānuf、在職 1886~1915)は、
アラビア語を知らず、イスラーム法についての知識も十分に持ち合わせなかったが、カザン帝国大学で学
んだ経験があり、ロシア語に堪能なムフティーであった。帝国政府のムスリム政策を実行に移すよう努め、
宗務協議会の業務を整備した[Азаматов 1999: 64-70; Загидуллин 2009]。
12
リザエッディン・b・ファフレッディン(Riḍāʼ al-Dīn b. Fakhr al-Dīn、1858~1936)。ヴォルガ中流域(サ
マーラ県)出身のウラマー、文筆家。1891~1906 年、宗務協議会のカーディー。1908~1917 年、雑誌『シ
ューラー(Shūrā)』主筆。彼の宗務協議会カーディーとなる前の経歴については、磯貝 2012 を、宗務協議
会での業務や活動については、Загидуллин 2009 を参照。
13
リザエッディン・b・ファフレッディンのワクフ業務については、Азаматов 2000: 14-15 を見よ。ちなみ
に、宗務協議会の組織と人的関係については、次のような状況があった。まず、スルターノフがムフティ
ーに選任されるにあたり、重要な役割を演じたのは、正教宣教師で東洋学者のニコライ・イリミンスキー
(1822~1891)である。よく知られるように彼は、1870 年「異族人教育規則」が想定する「異族人」教育
方法、イリミンスキー・システムを考案した人物である。彼はスルターノフのことを思想的に穏健とみな
し、肯定的に評していた[Азаматов 1999: 66]。また、ムフティー選任の際は内務省が候補を推薦したが、こ
の時の内務相は、かつて教育相として「異族人教育規則」を準備した、ドミトリー・トルストイ(1823~
1889)であった。ただ、ムフティーに就任したスルターノフは、カーディー選任方法についての法改正を
実現させると、その法を遵守しつつ自らの意思を踏まえ、カーディー候補者を選ぶようになってゆく
[Азаматов 1999: 79-81; Загидуллин 2009: 146-147]。その結果、アブデュルレシト・イブラヒムやリザエッデ
ィン・b・ファフレッディンがカーディー職に就いたのである。アブデュルレシト・イブラヒムは、3 年任
期のカーディー職を務めた後、再任を望まず、宗務協議会を去った。そして、後年、スルターノフを辛辣
に批判した。だが、リザエッディン・b・ファフレッディンの方は再任を繰り返し、15 年もカーディー職
にあった。そして、スルターノフについて肯定的な見解を述べている。こうした人間関係をめぐる諸々の
事実は、1905 年第一次革命後のムスリム政治運動の中で宗務協議会改革が論題化したこと、そして近年の
ロシア帝国研究が解明しつつある国家とムスリム・コミュニティの諸関係の問題とあわせ、ムスリム社会
における宗務協議会の位置を分析する上で重要だろう。
75
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Abū Ṭāhir Muḥammad b. Muḥammad ʻAbd al-Rashīd al-Sajāwandīという 12~13 世紀の著者による、Kitāb
al-farāʼiḍ al-sirājīyaという作品を指す [GAL GI: 378-379; Сафиуллина 2003: 96]。この書物はヴォルガ・
ウラル地域によく普及していたが、そのことは複数の事実により裏付けられる。例えば、
『ソ連科学ア
カデミー東洋学研究所アラビア語写本:小カタログ』で目録化されたKitāb al-farāʼiḍ al-sirājīya写本の
総点数は 51 点であるが、そのうち 11 点は、1934~1936 年にソ連科学アカデミーのタタール自治共和
国内文献調査で収集されたものである。つまり、20 世紀初頭までヴォルガ中流域で保管されていたも
のである
14
。また、この書物は、写本のみならず印刷本も普及していたとみられ、カザンでは 1904
年、1912 年に出版された[Сафиуллина 2003: 96]。さらに、宗務協議会はムスリム聖職者候補の資格審
査で遺産分割学から出題していたが、受験者はKitāb al-farāʼiḍ al-sirājīyaを学習し、資格審査に臨んで
いた[磯貝 2012: 22-23]。
書物の普及状況からすれば、Kitāb al-farāʼiḍ al-sirājīyaの注釈書である、ʻAlī b. Muḥammad al-Jurjānī
al-Sayyid al-Sharīf(~1413)著 Sharḥ al-farāʼiḍ al-sirājīya、別タイトルKitāb al-farāʼiḍ al-sharīfīyaも、相
当に―ひょっとすると、al-Sajāwandīの原典以上に―利用されたとみられる[GAL GI: 378-379; GII:
216-217: Сафиуллина 2003: 96-97]。再び、
『ソ連科学アカデミー東洋学研究所アラビア語写本:小カタ
ログ』を見ると、この作品の写本の総点数は 44 点であり、そのうち上述のタタール自治共和国内文献
調査で収集されたものが 24 点、半数以上を占める。20 世紀初頭までヴォルガ中流域で保管されたも
のというわけである 15。このal-Jurjānīの注釈書も印刷本が普及した。カザンでは 1885 年、1889 年、1894
年、1902 年の各版が出版されている[Сафиуллина 2003: 96-97]。
III-2. 宗務協議会における実務の事例
バシコルトスタン共和国中央歴史文書館の宗務協議会フォンドは、上述のように、宗務協議会がム
スリムの遺産分割案件を処理した時に実際に作成した文書を所蔵する。それらの文書は基本的に、文
書作成当時に整理された状態のまま、保存されている。つまり、当時、ある 1 つの事案の関係文書が
まとめて 1 つの紙ばさみに収納され、1 つの дело として宗務協議会の文書庫に収蔵されたが、それが
現在もそのまま 1 дело として、紙ばさみすらも帝政期のもののまま、保管されているのである。ここ
では、事例として ЦГИА РБ, Ф.И-295, Оп.4: Д. 17702 を利用し、文書から判明する事実を確認したい。
これは、サマーラ県ブグリマ郡ティマシェヴォ村のシャムスゥルバナート・ムルザ・クズ(Shams
al-Banāt Murza qizī、Шамсибанат Мурзина)という女性が行なった、亡夫の遺産の分割についての請願
に始まる事案である。
この Д. 17702 は、①1891 年 4 月 20 日付請願ロシア語訳とそれに対する決議、②1891 年 7 月 16 日
付宗務協議会議事日誌草稿、③サマーラ県ブグリマ郡ミクリン郷の郷役場による報告書、③′ミクリ
ン郷役場報告書別添テュルク語報告書、③″ミクリン郷役場報告書別添テュルク語報告書のロシア語
訳という、種類の異なる複数の文書で構成される。以下は、少し長いが、これらの文書の原文とその
試訳である。
АР ИВ АН СССР ч.1: 201-203, 519; ч.2: 197-198 を参照。該当する 11 点は、B3052、B3085、B3093、B3110、
B3320、B3362、B3410、B3624、B3685、C2029、D576。
15
АР ИВ АН СССР ч.1: 203-204; ч.2: 197-198 を参照。該当する 24 点は、A1188(2 点所収)
、A1234、B2776、
B2783、B2834、B2887、B2921、B2928、B2960、B2972、B2973、B3052、B3190、B3219、B3257、B3571、
B3605、B3624、B3625、B3784、B3835、B3851、C2250。
14
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[ЦГИА РБ, Ф.И-295, Оп.4: Д. 17702] ※イタリックは書式に予め印字されている文言。
[Л.1]
Вх. №349-й
Прошение крестьянки Бугульминского уезда, деревни Тимашевой, прихода Валиева,
Стол III
Шамсибаната Мурзиной, от 20 Апреля 1891г. коим просит Собрание приказать
приходским ея муллам разделить имущество, оставшееся после мужа ея Мухаметжана
№187-й
Камалетдинова, так как без разрешения Собрания приходские муллы к разделу не
??(署名?)
приступают.
Присовокупляет,
что
наследниками
к
имуществу
состоят:
две
жены,
три
несовершеннолетние сына и две несовершеннолетние дочери.
Резолюция: Поручить приходскому имаму произвести раздел.
[Л.1об.]
Если нет опекуна над малолетними, то опеку пручить одному из верных людей.
Переводчик Кадыргулов
①請願ロシア語訳・決議試訳
[Л.1]ブグリマ郡ティマシェヴォ村ヴァリエフ教区の農民シャムスィバナト・ムルズィナによる、1891
年 4 月 20 日付の請願。彼女は、協議会が彼女の教区のムッラーに対し、彼女の夫ムハメトジャン・カ
マレッディノフの[死]後に遺された財産を分割することを命じるよう、請願する。教区ムッラーらは
協議会の許可がなければ[相続財産の]分割に着手しないからである。財産の相続人は、妻 2 名、未成
年の息子 3 名、未成年の娘 2 名により構成されることを付言する。決議:教区イマームに[相続財産]
分割を実行するよう委任すること。[Л.1об.]未成年者の後見人が不在であれば、後見を誠実な人物 1 名
に委任すること。通訳官カドゥィルグロフ
[Л.2]
№349
№23
№245/91
Слушали: Прошение крестьянки Бугульминского уезда, дер:
Проэкт журнала
Тимашевой, Шамсибаната Мурзиной, о разделе имения,
по III столу:
оставшегося
16 июля 91г.
Камалетдинова.
№3247
ПРИКАЗАЛИ: настоящее прошение, на основании 1338 ст.
X
*Тайсуганова
Габдулгалиму
т.
На 4 июля 91
1
ч.
после
изд.
смерти
1887
мужа
года,
ея
Мухаметжана
препроводив
к
имаму
Бугульминского уезда, дер: * Тимашевой Фатхутдину
Габдулганиеву
Зайкаратаева (?) Харис Фахрутдину на распоряжение, **
??
согласно правил шаригата, склонить учасувую-
**предписать
если
имение
это
не
разделено и дело не окончено миром, то,
[Л.2об.]
щих в деле лиц к миру, при опекуне малолетних, если есть
таковые, и в случае лишь неуспеха постановить, по
77
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правилам шаригата, свое решение, которое объявить чрез
местное Начальство и по окончании настоящего поручения
Собранию донести. За тем дело зарешить и сдать в архив
для хранения.
②議事日誌草稿試訳
[Л.2]聴聞された:ブグリマ郡ティマシェヴォ村のシャムスィバナト・ムルズィナの、彼女の夫ムハメト
ジャン・カマレッディノフの死後に遺された財産の分割についての請願。命令された:本請願は、
[『ロ
シア帝国法律集成』]第 10 巻第 1 部 1887 年版第 1338 条に基づき、ブグリマ郡タイスガノヴォ村のイマ
ームであるガブドゥルガリーム・ガブドゥルガニーエフに[▼]、担当するよう送達する。その後、当
該財産が分割されておらず、事案[の処理]が[当事者間の]意見の一致により完了していなければ、
シャリーアの諸規定に従い、未成年者がいるならばその後見人臨席のもとで、事案参加当事者に意見を
一致させるよう説諭すること。[Л.2об.]そしてそれが不成功となる場合にのみ、シャリーアの諸規定に
従って自らの決定を下し、その決定を地方上級機関を通じて通知すること。そして本委任の終了後、協
議会に報告すること。その後、事案を[最終]確定とし、保管のために文書庫に引き渡すこと。
▼「*」のイマームの部分は、2 度書き換えられている。最初はティマシェヴォ村のイマームが任命さ
れる予定だったらしい。その後、ティマシェヴォ村が訂正されてザイカラタエヴォ村(?)に書き換え
られ、最終的にタイスガノヴォ村のガブドゥルガリーム・ガブドゥルガニーエフが任命されている。
[Л.3]
1033/В.?
3ст?
??
В Оренбургское магометанское Духовное Собрание.
МИКУЛИНСКОГО?
Рапорт.
??
В
Следствие
личного
представления
Имамом,
Бугульминского уезда, Микулинской волости д: Тайсуган
Февраля 23 ? 1892г.:
Габдульгалимом Габдулганиевым рапорта о разделе имения,
№163
который просил Волостное Правление представить в Оное
село микулино
Духовное Собрание.
к делу
Mullā ʻAbd al-ʻAlīmning qismatī muwāfiq-i
sharʻ durust tābildī. Naṣr al-Dīnuf (署名)
20V5/91р.?
[Л.3об.]
Вследсивие сего Микулинское Волостное Правление и представляет оный в Собрание.
Волостной Старшина Гафаров (印章、判読困難)
Писарь Белозерцев
③郷役場報告書試訳
[Л.3]オレンブルグ・ムスリム宗務協議会御中。報告書。ブグリマ郡ミクリン郷タイスガンのイマーム、
78
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ガブドゥルガリーム・ガブドゥルガニーエフによる、財産分割についての報告書の本人提出の結果とし
て。彼が郷役場に、上記宗務協議会に提出するよう要請したものである。[Л.3об.]その結果、ミクリン
郷役場も協議会に提出するものである。郷スタルシナー:ガファロフ。書記:ベロゼルツェフ。
③郷役場報告書左欄テュルク語(鉛筆書き)訳
[Л.3]ムッラー、アブドゥルアリームの分割は聖法に照らし、適法であると判明した。ナスルッディーノ
フ 16。
[Л.4об.]
Переведено
Ṣamār gūbīrnāsī Bugulma ūyāzī Mīkūlīn wūluṣī Ṭāyṣūghān āwlīning īkinjī maḥallada imām Mullā ʻAbd al-ʻAlīm
Mullā ʻAbd al-Ghanī ūghlindān kūpiya
Bugulma kūpīsī Muḥammadjān Kamāl al-Dīn ūghlīning amwāl-i matrūkasūn qismatī tamām ūldighindān
89-nchī sana 30-nchī dīkābirda marḥūm Muḥammadjān Kamāl al-Dīn ūghlīning amwāl-i matrūkasūn 91-nchī
sana 9-nchī nuyābirda jamʻ qilūb waratha ḥuqūqūn ṣulḥan akhdh itmādiklārī ūchūn muqawwimīn taqwīmīna
bināʼan īkī khātūn īkī qiz ūch ūghul ārāsinda qismat qildūq ṣabīlārning apīkūnlārī ḥuḍurinda
ṣūm
tīn
amwāl-i matrūkaning majmūʻasī būldī sikiz ming īkī yūz ūtūz dūrt ṣūm sikiz tīn -- -- -- 8234
8
ūshbū amwāldān ḥaḍir milkda būlghānī bish ming tūqiz yūz ūtūz ūch ṣūm sikiz tīn -- -- 5933
8
qālghānī kishī ūstinda ālāchāq īkī ming ūch yūz bir ṣūm -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- - 2301
--
harbirnī ʻalā ḥidat taṣḥīḥ qilarāq taqsīm īdildī
aṣl-i masʼala
8
MṢ? 4
fī-hi 8
yadan wa raqabatan mamlūk
MR? 32
tarika 5933 ṣūm 8
tīn
zawja 2
bint 2
ibn 3
aṣl-i masʼaladan zawjataynka sahm -- -- -- -- 1
ʻaṣabātka -- -- -- -- - 7
taṣḥīḥdān zawjataynka sahm -- -- -- -- -- -- - 4
ʻaṣabātka -- -- -- -- 28
taṣḥīḥdān farda sahm -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- 2
ʻaṣabadān farda -- - 7
tarikadān zawjataynka sahm -- -- -- -- -- 741 ṣūm 63 tīn yārūm
bi-al-qabḍ 4
taṣḥīḥ 32dan
ʻaṣabātka -- -- -- 5191 ṣūm 44 tīn yārūm
tarikadān zawja-i wāḥidaka -- -- 370 ṣūm 81 tīn wa thultha arbāʻ bir tīn
ʻaṣabadān farda 1297 ṣūm 86 tīn wa
thumn bir tīn
qismat-i duyūn*
aṣl-i masʼala
8
MṢ? 4
fī-hi 8
faqaṭ raqaba-i mamlūk
MR? 32
zawja 2
bint 2
ibn 3
aṣl-i masʼaladān zawjataynka sahm -- -- -- -- 1
ʻaṣabātka -- -- -- -- 7
taṣḥīḥdān zawjataynka -- -- -- -- -- -- -- -- -- - 4
ʻaṣābatka -- -- -- - 28
taṣḥīḥdān farda -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- - 2
farda -- -- -- -- -- - 7
tarikadān zawjataynka -- -- -- -- 287 ṣūm 62 tīn yārūm
tarika 2301 ṣūm
bi-al-qabḍ 4
ʻaṣabātka -- -- -- -- 2013 ṣūm 37 tīn yārūm
16
Burhān al-Dīn Naṣr al-Dīnuf、1890~1893 年、宗務協議会のカーディー。カーディー着任以前はヴォルガ
中流域(スィムビルスク県)の農村のイマーム[Загидуллин 2009: 146, 148]。
79
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tarikadān farda -- -- -- -- -- -- -- 143 ṣūm 81 tīn
farda -- -- -- 503 ṣūm 34 tīn wa thultha athmān bir tīn
*mujāz bi-iʻtibār maʼyūl yaʻnī milk tamām baʻdinda būlinajak thaman
[Л.4]
amwāl-i matrūkanī muqawwimlār Timāsh āwlīning ʻAfiyat Allāh Subḥān qul ūghlī qūlūm qūydim īkīnjī Aḥmad
Girāy Jalāl al-Dīn ūghlī qūlūm qūydūm ūchinjī Ṭāyṣūghān awlīning Ḥusayn Aḥmad Ṣafā ūghlī qūlūm qūydūm
dūrtinjī Muḥammad ʻAlī Jalāl al-Dīn ūghlī qūlūm qūydūm ṣabīlār ṭarafīndīn majlis-i qismatda ḥāḍir wa rāḍī waṣī
Aḥmadjān Jamāl al-Dīn ūghlī qūlūm qūydūm waṣī-i thānī Muḥammad Sharīf Kamāl al-Dīn ūghlī qūlūm qūydūm
zawja-i muwarrith Shams al-Banāt Murza qizī rāḍiya būlūb khātūnlārgha makhṣūṣ ʻalāmat (印) qūydūm
zawja-i thāniya Bībī Fatīḥa Muḥammad Maʻshūq qizī ṭarafindīn atkāsī wakālatan qūlūm qūydūm majlis-i
qismatda nāẓir Salāy āwlīning Ḥājī Aḥmad Aḥmadjān ūghlī qūlūm qūydūm īkinjī maḥalla imāmī Mullā Fatḥ
al-Dīn Mullā Wildān ūghlī nāẓir ūlūb qūlūm qūydūm *arḍdān bāshqa amwāl-i matrūkanī qismat īdūb Mullā ʻAbd
al-ʻAlīm Mullā ʻAbd al-Ghanī ūghlī qūlūm qūydūm
Bugulma ūyāzī Bichmān wūluṣī Timāsh āwlīning sīlāskūy asṭārāsṭa Muḥammad Ṣābir Muḥammadshāh ūghlī
taqsīmnī guwāhlāndirūb ūshbū sṭūlnāy? pichātūm ( 印 : сельский староста Тимашинского? общества
Бугульмин. уез.)bāstūm
*waratha wa waṣīlārindān maṣlaḥatlārī būyincha mushtarak qāldī
80
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③′郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)試訳
[Л.4об.]翻訳済。サマーラ県ブグリマ郡ミクリン郷タイスガン村第 2 マハッラにおけるイマーム、ムッ
ラー・アブドゥルアリーム・ムッラー・アブドゥルガニー・ウグリより、写し。ブグリマの商人ムハン
マドジャーン・カマールッディーン・ウグリの遺産の分割が完了したため。89 年 12 月 30 日に故人[と
なった]ムハンマドジャーン・カマールッディーン・ウグリの遺産を 91 年 11 月 9 日に集め、相続人が
権利を和解により受領しなかったために、評価額鑑定人の評価に基づき、[被相続人の]妻 2 名、娘 2
名、息子 3 名の間で分割した。未成年者の後見人の臨席のもとであった。遺産は集められた=8234 ル
ーブリ 8 コペイカ。その財産のうち、現在所有するもの=5933 ルーブリ 8 コペイカ。その残りは他人
への債権であり、得るはずのもの=2301 ルーブリ。それぞれを個別に確定し、分割された。
[分割計算
表省略:現存する財から、妻 1 名に 370 ルーブリ 81+3/4 コペイカ、アサバ 1 名に 1297 ルーブリ 86+
1/8 コペイカ;債権から、妻 1 名に 143 ルーブリ 81 コペイカ、アサバ 1 名に 503 ルーブリ 34+3/8 コペ
イカ、という分割計算結果となっている。][Л.4]遺産評価額鑑定人、ティマシュ村のアフィヤトゥッラ
ー・スブハーンクル・ウグリ、署名した。[その]第 2、アフマド・ギレイ・ジャラールッディーン・
ウグリ、署名した。
[その]第 3、タイスガン村のフサイン・アフマド・サファー・ウグリ、署名した。
[その]第 4、ムハンマド・アリー・ジャラールッディーン・ウグリ、署名した。未成年者側から分割
の場に臨席し同意した後見人、アフマドジャーン・ジャマールッディーン・ウグリ、署名した。第 2 の
後見人、ムハンマド・シャリーフ・カマールッディーン・ウグル、署名した。被相続人の妻シャムスゥ
ルバナート・ムルザ・クズ、婦人のための印しを付した。第 2 の妻ビービー・ファティーハ・ムハンマ
ド・マゥシューク・クズ側から、彼女の父親が代理として署名した。分割の場における監督、サライ村
のハージー・アフマド・アフマドジャーン・ウグリ、署名した。第 2 マハッラのイマームであるムッラ
ー・ファトフッディーン・ムッラー・ウィルダーン・ウグリが監督として、署名した。※土地以外の遺
産を分割して、ムッラー・アブドゥルアリーム・ムッラー・アブドゥルガニー・ウグリ、署名した。ブ
グリマ郡ビチュマン郷ティマシュ村の村長、ムハンマド・サービル・ムハンマドシャー・ウグリは、
[遺
産]分割の証人となり、この政府の?印章を押印した。
※[土地は]相続人と後見人からの共益により共有となった。
[Л.5]
Перевод с татарского.
Копия акта составленного имамом Бугульминского уезда, Микулинской волости, дер. Тайсугановой 2-го
прихода, Абдулгалимом Абдулганиевым, о разделе имения, оставшегося после Бугульминского купца
Мухаметьзана Камалитдинова.
Мухаметьзан Камалитдинов умер 30 декабря 1889 года. Хотя 9 ноябя 1891 года и приглашали наследников
к полюбовному разделу имения, но на это не согласились, а потому по оценке имения в присутствие
опекунов от малолетних, разделили между двумя вдовами, двумя дочерями и тремя сыновыями. Всего
имения оказалось на восемь тысячь двести тридцать четыре рубля восемь коп. 8254 р. 8 коп. из этого
имения на лицо оказалось суммою на 5933 руб. 8 коп., имеющихся поступить 2301 руб. По ша-
81
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[Л.5об.]
ригату сумма наследственных частей 8. Из этой суммы двум вдовам 1/8 часть, а остальных 7 частей трем
сыновыям и двум дочерям. Для ясности определен счет: из суммы 32, двум вдовам 4/32, двум дочерям и
трем сыновыям 28/32. Таким порядком из наличного имения суммою 5933 р. 8 коп, двум вдовам 741 руб.
63+1/2 коп, а двум дочерям с тремя сыновыями, являющимися гасабатами, 5191 руб. 44 коп. Наконец
отдельно: каждой вдове 370 руб. 81+3/4 коп, каждому сыму по 1297 руб. 86+1/8 коп. Неполученное
имение суммою на 2301 руб. должно делиться таким же порядком. Подписались 8 оценщиков: дер.
Тимашевой Гафиатулла Субханкулов приложит руку; Ахметгирей Зилялитдинов руку; дер. Тайсугановой
Хусеин Ахметьсафин руку; Мухаметгалий Зилялитдинов руку. Опекуны от малолетних: Мухаметьшарип
Камалитдинов руку; вдова Шамсибаната
[Л.6]
Мурзина приложит тамгу изъявив согласие; вместо второй вдовы Биби Фатиха Мухамет Магшуковой по
дочерию руку приложит ея отец; Присутствовали: дер. Селяевой Хаджиахмед-Ахметьжанов и приложит
руку и имам 2-го прихода Фатхитдин Вильданов приложит руку. Наследственное имение кроме земли
делит мулла Абдулгалим Абдулганиев в том приложит руку. По согласию опекунов и наследников, земля
осталась общем пользовании. Сей раздельный акт свидетельствует Сельский Староста Бугульминского
уезда, Печмянской волости дер. Тимашевой Мухаметьсабир Мухаметьшин, приложением казенной
печати. С татарского диалекта на русский переводил Ис. обяз. Сверхштатного переводчика при
Оренбургском Магометанском Духовном Собрании Титулярный Советник Мухаммедь-Салим Умитбаев.
③″郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)ロシア語訳(鉛筆書き)の試訳
[Л.5]タタール[方言]からの翻訳。ブグリマ郡ミクリン郷タイスガノヴォ村第 2 教区のイマーム、アブ
ドゥルガリーム・アブドゥルガニーエフにより作成された、ブグリマの商人ムハメトザン・カマリッデ
ィノフの[死]後に遺された財産の分割についての証書の写し。ムハメトザン・カマリッディノフが
1889 年 12 月 30 日に死亡した。1891 年 11 月 9 日に相続人が合意による財産分割に招かれたけれども、
彼らはそれに同意しなかった。それゆえ、財産の評価に従い、未成年者の後見人の臨席のもと、寡婦 2
名、娘 2 名、息子 3 名の間で分割された。総財産は 8234 ルーブリ 8 コペイカ相当であることが判明し
た。そのうち、現存するものが 5933 ルーブリ 8 コペイカ、入ってくるはずのものが 2301 ルーブリ相当
と判明した。[Л.5об.]シャリーアによれば、相続分の総計は 8 である。この総計から、寡婦 2 名には 1/8、
残りの[8 分の]7 は息子 3 名と娘 2 名に。明確にするために計算書が確定される。総計 32 から、寡婦
2 名に 4/32、娘 2 名と息子 3 名に 28/32。このような方法で、現存する財産 5933 ルーブリ 8 コペイカ相
当から、寡婦 2 名に 741 ルーブリ 63+1/2 コペイカ、アサバである娘 2 名と息子 3 名に 5191 ルーブリ
44 コペイカ。最後に別々に:寡婦各々に 370 ルーブリ 81+3/4 コペイカ、息子各々に 1297 ルーブリ 86
+1/8 コペイカ。受領されていない 2301 ルーブリ相当の財産は、まったく同様の方法で分割されねばな
らない。署名したのは、評価額鑑定人 8 名:ティマシェヴォ村のガフィアトゥッラー・スブハンクロフ
が署名する;アフメトギレイ・ズィリャリッディノフが署名する;タイスガノヴォ村のフセイン・アフ
メトサフィンが署名する;ムハメトガリー・ズィリャリッディノフが署名する。未成年者の後見人:ム
ハメトシャリプ・カマリッディノフが署名する。[Л.6]寡婦シャムスィバナト・ムルズィナが同意を言明
82
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した後、タムガを付する。第 2 の寡婦ビビ・ファティハ・ムハメト・マグシュコヴァの代わりに、彼女
の父親が娘のために署名する。臨席したのは、セリャエヴォ村のハジアフメド・アフメトジャノフも署
名する。第 2 教区のイマーム、ファトヒッディン・ヴィルダーノフが署名する。土地を除き、相続財産
を分割するのは、ムッラー、アブドゥルガリーム・アブドゥルガニーエフがそのことにつき署名する。
後見人と相続人の同意により、土地は共同利用のままとなった。本分割証書の証人となるのは、ブグリ
マ郡ペチュミャン郷ティマシェヴォ村村長ムハメトサビル・ムハメトシン、官印の押印により。タター
ル方言からロシア語へ翻訳したのはオレンブルグ・ムスリム宗務協議会付非常勤通訳官代行、称号参議
官ムハンメド・サリーム・ウミトバーエフ
17
さて、この文書から得られる情報をもとに、いま一度ムスリム遺産分割の処理手順を再構成し、民
法第 1338 条や宗務協議会通達類からは判然としない、実務の詳細を以下に確認したい。
まず、1889 年 12 月 30 日に被相続人が死亡した。そして、1891 年 4 月 20 日、相続人の 1 人である
被相続人の妻が、イスラーム法による遺産の相続分算定と分割を希望し、自らの(つまり、被相続人
の)マハッラのムスリム聖職者を担当として任命するよう、宗務協議会に請願した。請願書はテュル
ク語で書かれた。相続人は、被相続人の妻 2 名、未成年の息子 3 名、未成年の娘 2 名である。同年 7
月、宗務協議会では第 3 課担当でテュルク語の請願書が通訳官によりロシア語訳され、請願通りマハ
ッラのムスリム聖職者に委任するよう決議された。テュルク語の請願書原本は破棄されたはずである。
ところが、何らかの支障が生じ、被相続人のマハッラのイマームに委任できなくなった。そのことは、
②議事日誌草稿[Л.2]において、任命するイマームの名前が書き換えられていることから推定される。
結局、別のマハッラのイマームに委任された。
同年 11 月 9 日、宗務協議会から委任されたイマームは被相続人の全遺産を確認し、相続人と未成年
の相続人の後見人全員に、和解によって遺産を分割するよう説諭した。和解による遺産分割とは、代
償分割を意味するだろう。しかし、相続人と後見人は、代償分割ではなく、遺産の評価額を鑑定し、
その法定相続分を算定して分割することを希望した。そこで土地以外の財について、評価額鑑定人が
評価額を提示し、イマームが相続分を計算した。相続分はハナフィー派の相続規定によれば、被相続
人の息子が存在するため、被相続人の妻 1 名が 1/16、息子 1 名は 7/32、娘 1 名は 7/64 となるはずで[柳
橋 2005]、実際、③′郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)[Л.4]における計算は、
その通りである。相続額は、現有の財の額と、他人に対する債権の額が別々に算定された。土地は共
有とされた。そして、イマームは③′郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)[Л.4]
のような書式のテュルク語の遺産分割証書を作成した。証書に署名したのは、評価額鑑定人 4 名、未
成年の相続人の後見人 2 名、被相続人の妻である相続人 2 名(うち 1 名は署名の代わりに「婦人のた
めの印し」を書き 18、もう 1 名はその父親が代理人として署名)、監督 2 名、担当イマームである。そ
して、証人として被相続人の村の村長が押印した。評価額鑑定人は、被相続人の村(おそらく同じマ
ハッラ)から 2 名、担当イマームの村(やはり、おそらく同じマハッラ)から 2 名が務めた。後見人
のうち 1 名は、被相続人の兄弟であろう。監督のうち 1 名は全く別の村から、もう 1 名はイマーム職
ウメトバーエフ(Уметбаев, Мухаметсалим Ишмухаметович、1841~1907)
、詩人、文筆家、地方史研究
者。1880~1899 年、宗務協議会通訳官。1892 年以降、称号参議官(九等文官)[Хусаинов 1996]。
18
「婦人のための印し」はタムガ風の手書きの記号であるが、これがいかなる社会的背景を持つかは不明
である。ちなみに、宗務協議会の請願案件の文書類に女性が登場することは全くめずらしくなく、むしろ
普通である。
17
83
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にある者であった。その後、担当したイマームは遺産分割証書を筆写し、写しを郷役場に提出した。
その一方で、イマームは相続人に遺産分割証書の原本を手渡し、相続人は他の行政機関等で所定の手
続きを行なったはずである。
1892 年 2 月、郷役場はこの事案についての報告書を作成し、担当イマーム提出の遺産分割証書写し
を添付して宗務協議会に郵送提出した。ただ、内容からすれば、郷役場の報告書は実質的に証書写し
の送付状である。
宗務協議会では、郷役場からの書類が届くと、カーディーが遺産分割証書写しを見て、相続分算定
の適法性を確認した。そして、カーディーは、郷役場報告書の左空欄に「ムッラー、アブドゥルアリ
ームの分割は聖法に照らし、適法であると判明した」とテュルク語で鉛筆書きし、署名した[Л.3]。ま
た、通訳官が遺産分割証書写しをロシア語に訳し、訳文を別紙に鉛筆で書いて、添付書類とした。通
訳官はテュルク語で書かれた遺産分割証書写しの方には、ロシア語で「翻訳済」と書きつけた[Л.4об.]。
そして、関係書類一式は紙ばさみにまとめられ、宗務協議会の文書庫に収蔵された。テュルク語で書
かれた遺産分割証書写しも破棄されることなく、関係書類として一緒に保管された。
文書から再構成できる遺産分割の処理手順は、以上のようなものである。この文書は特に、宗務協
議会から遺産分割を委任されたイマームがテュルク語で作成した証書の写しを含むため、宗務協議会
によるバイリンガル行政の状況がよくわかる。そして、何よりも、カーディーやイマームの業務内容
が、ロシア語史料を媒介にせずとも、直接的に判明する。
ここでは、この文書に依拠し、遺産分割事案が処理される場合のカーディーの業務について、整理
しておきたい。イスラーム法に基づく相続分算定を希望する相続人が、宗務協議会にムスリム聖職者
の委任を請願すると、カーディーは担当するムスリム聖職者を合議で決定した。また、担当のムスリ
ム聖職者が相続分の算定を終え、郷役場を通じて宗務協議会に遺産分割証書の写しを提出すると、カ
ーディーの方は、
担当したイマームの相続分計算がイスラーム法に適するか否かを確認した。
そして、
郷役場提出の報告書に、担当したムスリム聖職者の相続分計算が適法である旨の文言をテュルク語で
書きつけ、署名した。つまり、カーディーは、イマームの相続分計算を監督し、その適法性を保証す
る業務を行なったと言える。
そして、そのカーディーによるテュルク語の文言=適法性の保証は、宗務協議会による行政の上で
確かな効力を有していたと言えるだろう。なぜなら、宗務協議会の通訳官が作成した遺産分割証書写
しのロシア語訳が不正確だからである。③′郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)
[Л.4]と、③″郷役場報告書別添テュルク語報告書(遺産分割証書写し)ロシア語訳[Л.5-6]を比較すれ
ば、ロシア語訳の方には誤りや抜けが見出される。だが、通訳官がテュルク語で書かれた遺産分割証
書写しを蔑ろにしていたために不正確な訳文を作ったとは、考えにくい。通訳官は文書行政の専門家
の 1 人であり、この通訳官代行ウメトバーエフは特に、テュルク語を母語とし、ロシア語に極めて堪
能なムスリムで、九等文官となった官吏だからである。ロシア語訳の不正確さの理由について論理的
説明を探すとすれば、それは、ロシア語訳が参考資料的な価値しか認められておらず、カーディーが
書き込んだテュルク語の文言こそが、イスラーム法に基づく相続分算定の適法性を保証する、有効な
ものとみなされていたから、というところに行きつく。そして、テュルク語の遺産分割証書写しは、
それが証書の謄本であり、かつ、カーディーが適法性を認めた相続分算定法が記載された文書である
という理由で、破棄されずに文書庫に収められたと考えられる。
84
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おわりに
イスラーム法の実践ということを踏まえた場合、本稿が明らかにしてきたムスリム遺産分割をめぐ
る諸々の事実から、オレンブルグ・ムスリム宗務協議会の業務は、いかなるものと説明できるだろう
か。
取り扱う事案の内容―つまり、実体法の対象となるところ―に着目すれば、宗務協議会は、帝
国の普通民法による規制/保障の枠内で、イスラーム法に由来する法的判断基準に従った決定を下す
業務を担う機関であった、と言える。おそらく、この意味において、宗務協議会はムスリム住民から
「シャリーア裁判所」と呼ばれたのだろう。
だが、事案を取り扱う際の手続きからすれば、宗務協議会は、ムスリム政権統治下のムスリム地域
で歴史的に成立したタイプのイスラーム法廷とは全く異なる。そもそも、ムスリム政権下で発展した
イスラーム法廷は基本的に、財産法や家族法の対象となるような私権にかかわる事案について、契約
締結と証書作成、および裁判を行なう[磯貝(健) 2006]。この契約締結・証書作成のなかに、故人の遺
産の相続分を算定し、分割を行なうという業務も含まれる。それは、通例、裁判官であるカーディー1
名が当事者や証人の臨席する場で、自らの責任で行う。宗務協議会のように、
「上級」の「カーディー」
が「下級」の担当者に処理を委任し、その結果の適法性を書面で確認・保証するような手続きを取っ
たりしないのである。つまり、宗務協議会がイスラーム法に由来する法的判断基準に従った決定を下
す際でも、その手続法はイスラーム法廷に由来するところの全くない、帝国の法であった。それゆえ、
ムスリム住民の間で「シャリーア裁判所」という名称が普及していたとしても、宗務協議会がイスラ
ーム法廷であったと説明することは適切でない 19。
本稿は、19 世紀後半のロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域、より厳密にはオレンブルグ・ムスリム宗
務協議会管轄地域において、いかにしてムスリムの遺産分割が行なわれていたのか、ごく基本的な事
実を解明・確認する作業を行なった。今後は、ある程度の量の文書を分析し、ムスリムのコミュニテ
ィ内での人的関係、家族内関係、あるいは宗務協議会、ムスリム聖職者、ムスリム住民三者の関係性
などを明らかにし、ムスリム社会の実像に迫ることを課題としたい。
※注記:本稿の一部は、平成 24 年度科研費学術研究助成基金助成金(若手研究(B)、課題番号:24720327、
代表:磯貝真澄)
「19 世紀後半ロシア帝国統治下ムスリム社会の家族社会史的研究」の成果でもあ
る。
文献一覧
史料(文書館史料・刊行物史料)
ЦГИА РБ: Центральный государственный исторический архив Республики Башкортостан (Государственное
19
アザマートフは宗務協議会について、
「管理(審理のための聖職者の任命)と監督(聖職者の判決の取消
しと最終合議判決)の機能を備える、宗教法廷の上級審(высшая инстанция духовного суда с
распорядительными (назначение духовного лица для разбирательства) и контролирующими (отмена решения
духовного лица и вынесение окончательного постановления) функциями)」という、慎重な言い回しで説明し
ている[Азаматов 2000: 7-8; 2006: 320]。イスラーム法廷の裁判手続については、[磯貝(健) 2006]を見よ。
85
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87
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
アフガニスタンにおけるイスラーム法裁判制度の変容
近 藤
信 彰
東京外国語大学
アジア・アフリカ言語文化研究所
アフガニスタンは中央アジアに隣接する地域であり、中央アジアに含められる場合もある。また、
イスラーム法学派についても、アフガニスタンは中央アジアと同じハナフィー法学派に属する。さら
に、新ペルシア語(現在のアフガニスタンではダリー語と呼ぶ)が 11 世紀以降 19 世紀に至るまで書
き言葉として用いられてきた点も両地域で共通である。このように多くの共通点のある中央アジアと
アフガニスタンであるが、19 世紀以降に辿った歴史は大きく異なる。中央アジアがロシア帝国の統治
下に入っていくのに対し、イギリスとロシアのいわゆるグレートゲームのなかで、アフガニスタンは
緩衝国として曲がりなりにも独立を保った。19 世紀末には司法改革が行われるが、それはアフガニス
タンの君主自身の手で行われたのである。したがって、アフガニスタンの事例はロシア統治下の中央
アジアや他の地域と比較する上でこの上ない好条件にあると言えるだろう。
このような観点から、本稿は、19 世紀末、アミール・アブドッ=ラフマーン・ハーン期(1880-1901)
アフガニスタンの司法改革において誕生したイスラーム法裁判制度がいかなるものであったのかを明
らかにする。アフドッ=ラフマーン・ハーン時代の行政・司法改革については、これまでにいくつか
の研究が存在する。しかしながら、これらの研究はこの改革をアフガニスタンの近代化との関連で捉
えるもので、改革の内容をイスラーム法の原則や他の地域との例と比較したものではない 1。本稿で
は、中央アジアの事例を踏まえながら、アフドッ=ラフマーンの改革を広い近代イスラーム世界の法
制史のなかに位置づけることを目標とする。そして、これは、後にターリバーン現象という独特なイ
スラーム運動を生むことになる、アフガニスタンにおけるイスラームと近代の関わりの端緒を示すこ
とにもなるはずである。
史料としてはアブドッ=ラフマーン・ハーン時代にカーディーたちの従うべき条項を定めた『カー
ディー達の礎』(Asās al-Qużāt: 略号Asās)を主に用いる。この書物は、当然のことながら、この君主の
中央集権化政策の一環として編纂されたものである。当時、果たしてこの書の内容がどこまで遵守さ
れたかは、必ずしも明らかではないが、少なくともアブドッ=ラフマーン・ハーンが整備しようとし
たイスラーム法裁判制度を示していることは確かである。この制度がイスラーム法の原則とどこまで
一致するのか、中央アジアやオスマン朝といった他の地域の例とどこが異なるのかを明らかにした
い 2。これは、同時に、アブドッ=ラフマーン時代についてガーニーが主張する「イスラーム法の強
1
Kakar 1979 は主に、同時代のインド人研究者が著した Constitution and Law に主に基づいており、イスラ
ーム法への理解が弱い。Ghani 1983 は法廷記録をも参照した優れた研究であるが、イスラーム法そのもの
との関係を扱っているわけではない。Tarzi 2003 はアブドッ・ラフマーン・ハーンによる司法改革を豊富な
史料を利用しながら包括的に扱っている重要な研究であるが、同様に、イスラーム法との関係についての
分析は弱い。Abdul Latif et al 2007 はアフガニスタンにおけるイスラーム法の法典化を扱い、概説的ではあ
るが貴重な研究である。
2
本稿は、2012 年 11 月 23 日に東洋文庫で行われた「シャリーアと近代」研究会での報告に基づいている。
報告の機会と貴重なご意見をいただいた関係者各位に感謝する。また、本稿を執筆するにあたっては、2003
88
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制」(Ghani 1983, 353)やタルズィーが述べる「司法のイスラーム化」(Tarzi 2003, 306-307)の内実を再検
討することにもなろう。
1.
『カーディー達の礎』
『カーディー達の礎』は、パシュトゥーン人のなかのドゥッラーニー族ウルクザーイ支族出身のア
フマド・ジャーンによって編纂された。初版は 1303/1885 年、2版は 1311/1893 年に、カーブルで出
版された。初版と2版に内容の相違はない 3。
序文によれば、この書物はアブドッ=ラフマーン・ハーンの「イスラーム法の表面から衰退と消滅
の錆を理解と洞察のやすりでそぎ落とす」意図のもとに編纂された。具体的には、この君主は法務の
改善のために、ハナフィー法学に基づいた指針(dastūr al-ʿamal)の作成を命じたという(Asās 6-7)。命を
受けた著者は、法学の著名な著作からいくつかの論点を抜き出して、急遽まとめ、宮廷に献上した(Asās
8)。3部構成の予定であったが、第1部の「カーディーの慣わし、および原告、被告、証人や他の法
廷関係者に対して彼に求められる態度、および訴えを聞く方法について」のみが現存している 4。条
文は全部で 136 条であり、条数ではオスマン民法典の訴訟に関する第 14~15 章(138 条分)にほぼ等
しい。小見出し等はないので、筆者の分類による条の構成を以下に示す([]内は条番号)。
[1~7] 賄賂・取引、[8~13]法廷、[14~19]被告の召喚、[20~24]被告の家の施錠、[25~26]カーデ
ィーの態度、[27]ワクフ、[28~30]遺産分配、[31~34]結婚、[35~36]カーディーの手数料、[37~
38]中央への報告、[39~40]ムフティー、[41~50]裁判の進行、 [51]時効、[52~54]管轄、[55~72]
裁判の進行2、[73~80]誓言、[81~84]判決、[85~107]拘留、[108~111]法学的背景、[112]誤審、
[113]礼拝、[114]不正・腐敗の防止、[115]行政官の命令、[116~117]カーディーの任命、[118~119]
法的根拠、[120]法廷記録の扱い、 [121~125]後見人、[126]妻からの離婚訴訟、[127~129]奴隷に
関する訴訟、[130]動産をめぐる訴訟、[131]生ものをめぐる訴訟、[132]原告のいない審理、[133
~134]カーディーの交代、[135~136]行政との関係。
編纂を急いだこともあるのか、体系的な構成を取っていないことが明らかとなる。最初に賄賂の禁止
を強調するのは、当時イスラーム法廷関係者に贈収賄が横行してためなのかもしれない。
ここで言及されるカーディーの職務は主に民事裁判に関することである。これに対して、刑事裁判
については、同じ著者が編纂した 63 条からなる地方知事用の別の指針『知事業務と罪罰の決定に関す
る職務規定』(Qānūn-i Kārguzārī dar Muʿāmalāt-i Ḥukūmatī va Taʿyīn-i Jarāyem va Siyāsat、略号Qānūn-i
Ḥukūmatī、1309/1891 年出版 5)にカーディーの役割がしばしば言及されている。たとえば、他人を窃盗
で告訴した場合、地方知事は原告と被告をイスラーム法廷に送り、カーディーが被告の窃盗の事実を
確定し、判決を下すことになっていた(Qānūn-i Ḥukūmatī 766)。また、姦通罪や殺人罪もカーディーに
年より京都外国語大学で毎年行われてきた中央アジア古文書セミナー、および、2011 年と 12 年に東京外国
語大学アジア言語文化研究所で行われたイスラーム法廷文書を扱ったオスマン文書セミナーで得た知見が
不可欠であった。両セミナーの関係者各位に感謝する。
3
以下、参照にあたってはページが必要な場合は初版に基づく。なお、両方の版がニューヨーク大学の
Afghanistan Digital Library に収められている。
4
第2部が法的文書の作成法、第3部がヒスバ(公益監督)とムフタシブ(公益監督官)に関するものに
なる予定であった。
5
この書物は入手できなかったため、年代記 Sirāj al-Tavārīkh の引用部分を利用した。
89
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よって確定され、判決が下されるべきものであった(Qānūn-i Ḥukūmatī 767)。したがって、『カーディ
ー達の礎』はカーディーの職務のすべてを網羅しているわけではないのである 6。
2.法学的背景
アフガニスタンにおいても、イスラームの法官であるカーディーは、当然のことながらイスラーム
法―特にハナフィー法学派のそれに基づいて、職務を果たしていたと考えられる。実際に以下のよ
うな条文がある。
[118]確かに、先達の言に基づいて、法学書では、いくつかの場所で、カーディーが自分の知識に
よって判決を下すことを認めている。しかし、現在の腐敗と人々の状況の変化により、『類似物
(al-Ashbāh wa al-Naẓāʾir)』や『不確かさの否定(Radd al-Muḥtār)』7に見られる同時代人のファトワ
ーに基づいて、以下のような高貴なる陛下の勅令が発布の栄誉を得た。神の影たる陛下は、カー
ディーが自分の知識に基づいて法的根拠無しに実際に判決を下すことを許さない。
法的根拠、すなわち、法学書に基づいて、カーディーが判決を下すよう定めている。なお、この条文
では、法学書のなかで見解の相違があるため、勅令によって最終的な見解の統一を図っている 8。こ
れは、
『カーディー達の礎』にしばしば見られる手法である。
さらに、後述するように、法廷記録簿には判決の法的根拠となった法学書の書名と章を記入するこ
とになっていた[84]が、これはオスマン朝の法廷記録簿には見られないものである。カーディーは、
イスラーム法の専門家であるムフティーに相談するよう定められており[39]、ムフティーたちはもち
ろんハナフィー法学派に従わなければならなかった[40]。知られている書物のなかに規定が見つから
ず、判決を下すことができない事柄については、カーディーは、首都カーブルのハーニ・ウルームKhān-i
ʿUlūm(大カーディーにあたるもの) 9に対して書簡でファトワー(法学裁定)を求めることができた
[112]。
ハナフィー派初期の法学者の間で意見が異なる命題について、どの順で意見を採用すべきかについ
ても言及がある。すなわち、1. アブー・ハニーファ(767 没)、2. アブー・ユースフ(798 没)、3. ムハ
ンマド・アル=シャイバーニー(805 没)、4. ズファル・ブン・アル=フザイル(775 没)、5. ハサン・ブ
ン・ズィヤード(819-20 没)の順である[108]。オスマン朝においては、4.ズファルと 5.ハサンの間に優
劣をつけないのが定説であり、その点は異なっている。おそらくは、ウマル・イブン・ヌジャイム(後
述)の見解に従ったものであろう(Peters 2005, 150, 248)。
さらに、法学者間で意見の相違がある場合、ファトワーより註釈書、註釈書より法学書原典を優先
すべきこと、ファトワーのなかで意見の相違がある場合には『カーディー・ハーンのファトワー』が
優先されるべきことが明記されている。加えて、法学書のなかで見解の重要性を示す「それに基づい
6
この意味で、William Floor の同時代のイランの司法制度に関する論文を引用して、アフガニスタンのそれ
も同様であったとする Tarzi の主張は受け入れがたい(Tarzi 2003, 185-186)。Floor の説に対する批判として、
近藤 2009。
7
これらの法学書については後述。
8
時期的に新しい法学書 Durr al-Mukhtār や Radd al-Muḥtār でカーディーが自らの知識で判決を下すことを
禁じていることについては、Abdur Rahim 1911, 370 参照。
9
Khān-i ʿUlūm については、Tarzi 2003, 186-188.
90
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てファトワーがある(ʿalayhi al-fatwá)」
「それに基づいてファトワーが出されるべきである(yuftá bihi)」
などの表現を整理し、その優先順位を定めている[109]。そして、根拠の弱い命題を含む法学書を1点、
文章が非常に要約されているので註釈書も参照すべき法学書を4点挙げて、判決を下す際の利用に注
意を促しているのである[110]。
それでは、
『カーディー達の礎』を執筆する際に参照されたのはどのような文献なのだろうか。直接
典拠として言及されている文献を挙げてみる。
①al-Ḥasan ibn Manṣūr al-Ūzjandī al-Farghānī (1196 没) Fatāwá al-Qāḍīkhān 10
執行官の手数料[17]、ファトワーのなかでは最も重要[108]
②Zayn al-Dīn ibn Ibrāhīm Ibn Nujaym (1563 没) al-Ashbāh wa al-Naẓāʾir 11
法的根拠なしに判決を下すことの禁止[118]。文章が要約されているので註釈を見る必要があるもの
[110]
③Muḥammad ibn ʿAlī al-Ḥaṣkafī (1677 没) Durr al-Mukhtār 12
法学書の諸見解の扱いについて[109] 文章が要約されているので註釈を見る必要があるもの[110]
④Shaykh Niẓām et. al. Fatāwá al-Hindiyya (Fatāwá al-ʿĀlamgīriyya) (1672 成立)13
法廷の受付[9] 女性のヒジャーブ[12]
⑤Shihāb al-Dīn Aḥmad b. Muḥammad al-Ṭaḥṭāwī (1816 没) Ḥāshiya ʿalá al-Durr al-Mukhtār 14(③の註釈
書)執行官の手数料 [18]
⑥Ibn ʿAbidīn (1842 没) Radd al-Muḥtār15 (③の註釈書)
カーディーの後継者任命[116] 法的根拠なしに判決を下すことの禁止[118]
このうち、①、④、⑥特に著名であり、シャハトのハンバル法学派の権威ある著作のリストに含まれ
ている(Schacht 1982, 261)。②、③も著名な著作であり、特に②はオスマン民法典にも大きな影響を与
えているという(堀井 2011, 40-41)。中央アジアのファトワー文書にも、少なくとも、①、②、③、④
は引用されている(磯貝 2010, 158; 171; Isogai 2011, 265, 276)
。⑤は、③の文章が簡潔であるため、理
解を補うために、参照されたのであろう。
このほか、典拠かどうか不明であるが、本文中に言及されているものは以下の通りである。
⑦Mukhtār b. Abū Manṣūr al-Zāhidī al-Ghazmīnī (1260 没) Qunya al-Munya 16
根拠の弱い命題を含むもの[110]
⑧Badr al-Dīn Maḥmūd ibn Aḥmad Aynī (1451 没) Ramz al-Ḥaqāʾiq fī Sharḥ al-Kanz 17
Brockelmann 1937-49, 1:465. 刊本は、Calcutta 版(ed. Mawlavī Murād et al., 1835)および④とともに出版され
た Bulaq 版(1310AH)など。
11
Brockelmann 1937-49, 2: 401. 刊本としては、Calcutta 版(ed. Mawlavī Ghulām et al, 1826)、Damascus 版(ed.
Muḥammad Mutīʿ al-Ḥāfiẓ, 1983)など。
12
Brockelmann 1937-49, 2:404. al-Timuratashī (d.1596) Tanwīr al-Abṣār の註釈書。刊本は Lucknow 版(Nawal
Kishore, 1877)、Beirut 版(ed. ʿAbd al-Munʿim Khalīl Ibrāhīm, 2002)など。
13
Brockelmann 1937-49, 2:509. 刊本は Calcutta 版(1827-35); Būlāq 版(1310AH)など。
14
Brockelmann 1937-49, Supplement 2:428. 刊本は Cairo 版(1865)など。
15
Brockelmann 1937-49, Supplement 2:428. 刊本は Cairo 版(Dār al-Ṭabāʿa al-Miṣriyya, 1855)、Riyad 版(ed.
Muḥammad Bakr Ismaʿīl, 2003)など。
16
Brockelmann 1937-49, 1:475. al-Quzbanī, Munya al-Fuqahāʾの註釈書。刊本は Calcutta 版(1829)など。
17
Brockelmann 1937-49, Supplement 2:266. al-Nasafī(1310 没), Kanz al-Daqāʾiq の註釈書。刊本は、Delhi 版
(Nawal Kishore,1884)など。著者アイニーについては、中町 2009.
10
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文章が要約されているので註釈を見る必要があるもの[110]
⑨ʿUmar b. Ibrāhīm Ibn Nujaym (d.1596) al-Nahr al-Fāʾiq 18.
文章が要約されているので註釈を見る必要があるもの[110]
これらも、敢えて言及していることから、これらもアフガニスタンでよく参照される法学書だったの
であろう。ちなみに、これらの法学書が執筆された地域としては、①と⑦が中央アジア、②、⑤、⑧、
⑨がエジプト、③と⑥がシリア、④がインドと特に東に偏っているわけではない。地域的要素はほと
んどないと言えるだろう 19。また、当時、すでにほとんどの書物に刊本が存在した。
一方で、言及されていない文献もある。たとえば、
『カーディー達の礎』がカーディーの指針である
なら、
『カーディーの慣わし(adab al-qāḍī)』のようなカーディーの伝統的なマニュアル 20も参照されて
もよいはずであるが、言及されていない。また、アフガニスタン史の文脈ではドゥッラーニー朝を創
始したアフマド・シャー(在位 1747-73)の名で編纂されたという『アフマド・シャーのファトワー
集(Fatāwá-yi Aḥmadshāhī)』(Nawhid 1999, 7)にも言及がなく、さらに、パシュトゥーン人の慣習法(パ
シュトゥーンワリー 21)についても同様である。また、法の近代化という意味では、同じハナフィー
法学派に基づいて 1876 年までに編纂された『オスマン民法典』に関しても全く触れられていないので
ある。この意味では、少なくとも表面的には、
『カーディー達の礎』は法学書の原典主義を貫いている
と言えるだろう。
以上のように、
『カーディー達の礎』はハナフィー学派の法学書を十全に参照して編纂されたと考え
られ、法学者の意見が不一致な点、もしくは、アフガニスタンの実情を考慮しなければならない点だ
けを勅令で定めるという形式を取っている。それでは、この書が描く裁判制度も、伝統的なハナフィ
ー派法学に厳密に則っているのであろうか。それは他地域のイスラーム裁判制度と同じものなのであ
ろうか。次章では、条文を紹介しながら、この書が描くイスラーム裁判制度を示そう。
3.
『カーディー達の礎』が描くイスラーム裁判制度
(1) 法廷の場所・人員
[8] 法学書の規定により、カーディーが人々の間にある会衆モスクで法廷を開くことが望ましい
とされている。また、自宅で裁判を行うことも許されている。しかしながら、当代の腐敗と人々
の大胆さのゆえに、現在の状況に応じて、以下のような勅令が発せられた。小さな地域のカーデ
ィーと知事(ḥākem)はともに一つの法廷に座らなければならない。大きな地域の知事はと副知事は、
諸事の決定について情報を得られる場所にいなければならない。しかし、混雑のため、カーディ
ーと一つの場所にいなくても、それは構わない。
18
Brockelmann 1937-49, Supplement 2:266. al-Nasafī, Kanz al-Daqāʾiq の註釈書。刊本は Beirut 版(ed. Aḥmad
ʿIzzū ʿInāya. 2002)など。
19
なお、Sultan Mohammad Khan は中央アジア出身の法学者 Marghinānī(1197 没)の Hidāya と④をアフガニス
タンのカーディーやムフティーの手にある最も重要な法学書としている(Constitution and Law 126)。どちら
もハナフィー法学派全体にとっても重要な書であるが、ここに多少の地域性を見ることもできるかもしれ
ない。
20
この種の文献については、Muhammad Khalid Masud 2013 参照。中央アジアのファトワーに Khaṣṣāf の著
作とされるものが引用されていることは、Isogai 2011, 270.
21
これについては、Rzehak 2011.
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実際には法学者の間でも、会衆モスクや自宅で裁判を行うことについては、意見が別れている(Adab
al-Qāḍī 1:297-304; trans. 160-164)。しかし、いずれにせよ、これは、法学書の規定にかかわらず、実質
的には知事のもとでイスラーム法裁判を行うように定めている。イスラーム法廷と執行権力の協力が
円滑に行われるようにという配慮であろうか。なお、
『カーディー達の礎』がこのように法学書の規定
と反する可能性のあることを定める場合も、その根拠は君主の勅令である。
カーディーのみならず、ムフティーも必ず出廷しなければならなかった。
[39] カーディーにはムフティーの存在は義務づけられており、裁判はムフティーなしでは進行不
可能である。したがって、法学書の規定により、あらゆるカーディーにその職務と実務に応じて
ムフティーたちが、陛下によって定められている。そこで、すべてのカーディーは法学上の問題
において、
「そして、諸事にわたって彼らと相談しなさい」(『クルアーン第 3 章 159 節』)という
文言にしたがって、彼らに同席するよう定められているムフティー達と相談し、確定ののちに自
分の言葉で案件に対する判決を下す。
実際に、同時代の年代記ではある地方のカーディーとムフティー、法廷の書記が同時に任命される場
合が見られる(Sirāj al-Tavārīkh 3: 829)。ムフティーが同席すること裁判の必須要件か否かについては、
時代や地域、法学派によって異なるが(愛宕 1992, 101)
、少なくとも同じハナフィー法学派を奉じる
17 世紀のオスマン朝の事例では、ムフティーがイスラーム法裁判に立ち会っていないことに留意すべ
きであろう(Jennings 1978, 134-135)。
ムフティーの他には、廷吏(nāẓim-i majlis-i qażā)、書記(kātib)、下僕(khādim)が法廷関係者として言及
されている([36], [48])。これらのカーディーやムフティーも含めてこれらの法廷関係者には国庫から俸
給が支給されていた。
当時、法廷にはさまざまな人々が多数殺到し、たいへんな混雑と騒ぎであった。このため、来訪順
を書記が記録し、来訪者に札を渡して、順番を遵守することで混乱を防ぐよう定められた([9])。この
点についても、
『アーラームギールの書』などの法学書に基づいているとされているが、少なくとも『カ
ーディーの慣わし』はくじ引きによる解決を提示しており、齟齬がある(Adab al-Qāḍī 1:244-250; trans.
115-118)。また、混乱を避けるため、法廷の門には門番(darbān)を置くよう、勅令で定められた([11])。
(2) 裁判の手続き
裁判は、原告がカーディーと地方知事のところへ来て、某という人物に対して訴えがあると述べる
ことによって開始される。カーディーは、この人物(被告)が日帰り圏内に居住している場合、ただ
ちに召喚しなければならない。日帰り圏外に居住している場合は、原告側2名の証人の証言、もしく
は原告の誓言を受けて、カーディーが召喚状を発行する([14])。そして、原告が被告を召喚に赴くが、
これに応じず、そのことを証人が証言した場合、カーディーは被告を処罰しなければならない([15])。
さらに被告が召喚に応じない場合、カーディーは地方知事にそのことを伝え、知事が執行官(muḥaṣṣil)
を派遣して、強制的に連行する。執行官の手数料も被告が負担する([17]) 。被告が自宅に潜んでいて、
出てこない場合には、自宅の門を閉め、外から施錠する([20])。3日間を経ても被告が出てこない場合
には、カーディーは2人の使者を送り、3日続けて、一日に3回大声で呼びかけさせる([23]) 。それ
でも被告が応じない場合には、カーディーは被告の代理人を立て、原告の起こした訴訟を法に則って
裁き、判決を下すことになる([24])。
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確かに、被告が法廷に出席しない場合、被告もしくは法廷が代理人を定めて裁判を行うようハナフ
ィー派では定められている(Abdur Rahim 1911, 369, 371)。たとえば、オスマン民法典では、異なった日
に3度召喚状を被告に送り、それでも出廷しない場合には被告の代理人を任命することを通告し、さ
らに出廷しない場合、代理人を立てて裁判を行うよう定めている (Mecelle 650-651; trans. 324)。17 世
紀のオスマン朝の法廷においても、被告の召喚を担当する廷吏 muhzır は強制力を持たず、3度の召喚
を断る例も見られ、どのような場合に実力行使が行われたかの基準ははっきりしないという(Jennings
1978, 150-151, 169)
。これらの事例と比較すると、
『カーディー達の礎』の規定はきわめて詳細であり、
執行官を派遣して、強制的にでも被告本人を出廷させようという強い意志を読み取ることができる。
さて、出廷の際は、廷吏が原告と被告をカーディーの前に導き、その前に約2メートルの(2zarʿ)の
間隔をおいて座らせ、その中間に廷吏が座る([41])。そして、カーディーは、訴訟記録簿(kitāb-i maḥżar)
を自分の右側におき、書記をこの記録簿の近くに座らせる([56])。
まず、廷吏の指示で、原告が自分の権利主張を行い、その内容を説明して、書記がこれを記録する
([57])。カーディーは原告の主張を吟味し、それが法に則っていることを確認して、被告に対し、「こ
れに答えておまえはなんと言う」と質問する([59])。
ここでの被告の返答は、A.承認陳述、B.否認陳述、C.反訴の三つしかないのが、イスラーム法の原
則である (Mecelle 645-647, trans. 322; 磯貝 2010, 165-173; Abdur Rahim 1911, 370)。このうち、(1)承認
陳述については、
『カーディー達の礎』も同様の規定を持ち、被告が、原告の主張を承認した場合には、
原告の勝訴が確定し、カーディーは判決を下すことがさだめられている([61])。
問題は、被告が B.否認陳述した場合である。この場合、イスラーム法の原則では原告が挙証責任を
負い、B-a.証人を立てて立証するか、B-b.立証できないならば、被告に誓言を求めるか、しかない。そ
して、B-a.の場合、すなわち原告が立証すれば、原告の勝訴が確定するのである(Mecelle 645-646, trans.
322; 磯貝 2010, 168-169; Abdur Rahim 1911, 370)。ところが、
『カーディー達の礎』では、原告の証人
が原告の主張に沿う証言を行っても、さらに被告の行動の余地がある。すなわち、
[67] 証人の証言が、先の条の通り、原告の訴えに一致する場合には、カーディーは被告に「何か
反論(dafʿ)や反駁(jarḥ)がありますか」と言わなければならない。それがない場合には、シャリーア
の習慣にしたがって、立ち去るよう命じなければならない。
「反論や反駁があります。しかし猶予
をください」と表明した場合には、カーディーは彼に猶予を与えてよい。
さらに、原告の側の証言を吟味し、反論・反駁する機会が設けられているのである。もちろん、原告
の証人の証言を公正・誠実なものと認めた場合には、原告勝訴で結審するのであるが([70])、正当なも
のであるか、偽証であるかがはっきりしない場合でも、被告は後で出廷して反論・反駁することがで
きた([72])。反論に際しては、被告が証人を連れてくることが認められていた([81])。以上の点は、明
らかにイスラーム法の原則を逸脱するものであり、近代法の要素が取り込まれていると考えることが
できる。
これに対して、B-b.原告が証人を立てることができなかった場合、被告に誓言を求めることは『カ
ーディー達の礎』も同様である([64])。
[73] 原告が、証人がいないことを明らかにし、あるいは、「私の証人達はしばらく旅に出ていて
遠くにいる」と言って、
「私の被告が誓言を行うべきだ」と主張した場合、カーディーは被告に呼
びかけて、
「誓言をしなさい。そうしない場合には、おまえに不利な判決を下す」と言い、この言
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葉を3度繰り返さなければならない。それでも誓言を拒んだ場合には、もちろん彼に不利な判決
を下さなければならない。
誓言の文句は、ムスリムの場合は「神にかけて、いと高き神の御名において」、キリスト教徒なら「イ
エスに福音書を下してくださった神にかけて」、ユダヤ教徒の場合には「トゥーラーをモーゼに下され
た神にかけて」
、ゾロアスター教徒の場合は、
「火を創造された神にかけて」というものであった([75])。
また、重大な案件には、神ではなく、聖典『クルアーン』にかけて誓言を行うよう定められた。人々
が神の名前にかけて誓うことに大胆になってしまい、法学者が『クルアーン』への誓いを誓言と認め
るファトワーを発したため、このように勅令で定められたのであった([78])
ところが、イスラーム法の原則と異なり、
『カーディー達の礎』は被告が誓言をしたあとでも、原告
に猶予を与え、自分の証人を出廷させることを認めている([81])。これもまた原則を逸脱するものであ
り、さらなる審理の余地を残しているのである。
さらに、イスラーム法の原則にあるC.反訴(dafʿ)の規定は、
『カーディー達の礎』には見ることがで
きない。これは、被告が原告の主張と相反する主張で、原告を相手に別の裁判を起こすことであるが、
これについては全く言及がないのである 22。オスマン民法典がこの反訴の規定に3条を費やしている
のとは対照的である(Mecelle 563-565, trans. 279-280)。
(3)訴訟記録のあり方
20 世紀初頭のサマルカンドの法廷では、訴訟は原告が訴状(maḥżar)を提出することによって始まり、
次にムフティーが訴状の適法性を審査したという(磯貝 2010, 167)。実際の訴状には、表面に原告の訴
えとムフティーのファトワーが、裏面にカーディーの判決文が記されている(矢島 2009, 14-15; 磯貝
2010, 151-155)
。しかし、
『カーディー達の礎』には、そのような訴状の提出、およびムフティーによ
る審査の形跡はない。文書としては、前述のように、訴訟記録簿(kitāb-i maḥżar)、すなわち複数の訴訟
の内容の記録(s̱ abt-i kayfiyyat-i daʿvāhā)を法廷でカーディーの右手に置くことになっていた([56])。“マ
フザル”(アラビア語ではmaḥḍar)という単語は 20 世紀初頭のサマルカンドの訴状を指すものと同じで
あるが、これがカーディーの裁判記録を指すのは古典的な用法に一致しており(Schacht 1982, 300)、ま
た中央アジアにおいても 16 世紀には単体の訴訟記録書に同じ名称が用いられた(川本 2010, 74-76) 23。
『カーディー達の礎』には、単体の訴訟記録書にも言及があるが 24、同時に記録簿も作成されたよう
である。
この訴訟記録簿に関する規定は以下の通りである。
[57]・・・原告が訴えの内容(ṣūrat-i daʿvá)を述べたとき、法廷の書記は、訴訟記録簿(kitāb-i maḥāżir)
の(ページの)第一の欄(khānah-ʾi avval)に、原告の名前、その父と祖父の名と由来名(nisbat)とと
もに、その訴えの内容を省略することなく記載しなければならない。
反訴については、磯貝 2010, 169-173. dafʿと言う言葉は先に引用した第 67 条に見られるが、意味すると
ころは原告の証人に対する被告の反論であり、イスラーム法でいうところの反訴ではない。
23
文書の実例は Chekhovich 1974, 303-310.
24
法的な文書類(vas̱ īqahhā-yi sharʿī)の発行手数料に関する第 35 条で、訴訟記録書(maḥżar-i daʿvá)が証書類
(qabālah va ḥujjat)や判決(sijill)とともに言及されている。この場合は、単体の紙葉で判決を含む訴訟記録書
を勝訴した方に発行したと考えられる。同様の例は、第 28 条にも見られ、カーディーが校閲すべき法的文
書(mukātabāt-i sharʿī)の中に訴訟記録書(maḥāżir-i daʿváhā, 複数)が含まれている。
22
95
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[58]法廷の書記が、先述の規定に基づいて、訴訟記録簿(kitāb-i maḥāżir)の第一の欄に原告の訴えを
記すとき、カーディーはその記録簿の内容を熟慮しなければならない。……
[59]被告が返答を終えたとき、法廷の書記に、被告の名前とその父と祖父、部族と由来の名前と、
その訴えに対する返答の内容を詳細に訴訟記録のページ(ṣaḥīfah-ʾi kitāb-i maḥāżir)の2番目の欄
(khānah-ʾi duvvum)に書かせなければならない。
[61] 被告が原告の主張を承認し、先の条により、その言が訴訟記録簿に記録された場合、カーデ
ィーは被告の義務についてと係争物を原告に委ねることについて判決を下さなければならない。
[66] 法廷の書記に、訴訟記録簿のページの3番目の欄に証人たちの名前と彼らの父の名前を、外
見と家系(nasab)と証言の内容とともに記載させるよう言わなければならない。書記の仕事が終わ
ったのち、カーディーはその記載をよく読んで、証言が原告の主張に沿っていると見え、被告の
側からも反駁がなかったとき、もちろん、次の条に従って判決を下す。
[83] カーディーが先の規定に従って判決を下す場合、カーディーが自筆で訴訟記録のページの4
番目の欄に、
自分が判決に用いた言葉を記入する方がよい。自分が書くことができない場合には、
書記に命じて、その言葉を記録させるべきである。
[84] 先の規定に従って、カーディーか書記が判決の言葉をその機会に記した場合、判決の根拠と
なった書物の名前を先述の部分に記さなければならない。その書物のなかの、その問題の部や章
もまた、そこに明らかにしなければならない。
以上の規定から、訴訟記録簿のページには4つの欄があり、それぞれ原告の権利主張、被告の返答、
証人の証言、カーディーの証言を記入するよう定められたいたことがわかる。訴訟が一段階進むごと
に、書記が記入し、カーディーがその文面を確認し、考慮したのである。これは、オスマン朝やイラ
ンに見られる従来型のイスラーム法廷記録簿とは異なった近代的なもの―むしろ、簡素化されてい
るものの英領インドやロシア統治下の中央アジアで導入された罫線の引かれた法廷記録簿に近いもの
に思える 25。
なお、訴訟のみならず、カーディーの扱う他の業務についても、記録簿に記録するよう定められて
いた。たとえば、カーディーが遺産分割を行う場合には、相続人が成人していた場合でも、幼少者が
含まれていて後見人を立てる場合でも、カーディーが法的な証書(vas̱ īqah-ʾi sharʿī)を作成し、当事者に
発行するとともに、法廷記録簿(kitāb-i dār al-qażā)に記録することになっていた([28])。当事者同士で分
割する場合も、法廷台帳(dīvān-i qażā)に記録された。また、婚姻の際も婚姻証書(kāghaẕ-i nikāḥ)を作成
し、その写しを法廷記録簿(kitāb-i dār al-qażā)に記録した([31])。個人の債権が確定した場合も、破産が
確定した場合も、法廷台帳(dīvān-i qażā)に記録された([97][100])。カーディーは訴訟記録(maḥāżir)や他
の法的文書(vas̱ īqahhā)の記録簿(kitāb-i s̱ abt)は書記に委ねてはならず、自分自身で保管しなければなら
なかった([120])。そして、カーディーの交代に際しては、新任者は、前任者から訴訟記録(maḥāżir)や
判決(sijill)や遺言証書(vaṣiyyatnāmahhā)や扶養費の額に関する書類や法的文書にあたるものすべての
記録簿(kitāb-i s̱ abt)を引き継がなければならなかった([134])。さまざまな用語が用いられているが、
『カ
ーディー達の礎』が法廷記録簿の存在を前提としていることは明らかである。
25
オスマン朝下の法廷記録簿については、大河原 2005、イランのそれについては、近藤 2011 を参照。英
領インドの法廷記録簿の書式の例として、Sudder Dewanny 174. ロシア統治下の中央アジアの例は、矢島
2009, 16.
96
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もっとも、これらの規定がただちに遵守されたかは疑問である。ガーニーやタルズィーが参照した
1885~1900 年のクナール州の訴訟記録簿には、4つの欄の区分はなく、また、判決において参照され
た法学書の名前も必ずしも記載されているわけではない(Ghani 1983, 357-363; Tarzi 2003, 203-204) 26。
しかし、逆に考えると、この事実はこれらの規定が適用される以前から、アフガニスタンには従来型
の法廷記録簿が存在した可能性を示唆しており、これまでロシア支配以前の記録簿が発見されていな
い中央アジアの事例(矢島 2009, 4-5)とは異なっているようである。
以上のように、法学書に十全に基づいているとはいえ、
『カーディー達の礎』が描く裁判制度の中に
は、他の地域とは異なるイスラーム法を逸脱した近代的な要素も見られた。そして、さらなる近代性
を示すのは、本書が法典として扱われていたことである。次節でこれを扱う。
4.法典としての『カーディー達の礎』
『カーディー達の礎』の初版および2版の刊本を目にして気づくのは、一つの条文が終わり、次の
条文が始まるまでに、必ず手書きの書込があることである。すなわち、
「以上、正しい(ṣaḥīḥ ast faqaṭ)」
や「正しい。(陛下の)署名を受けた(ṣaḥīḥ ast. dastkhaṭṭ shud)」などの文句が書き込まれているのである。
一つの冊子に 130 回以上この書込を入れたのは、一つには条文の空いたところに、誰かが後で文章を
付け加えることを防ぐためであったと考えられる。つまり、
「指針」として著されたものであるが、実
際にはこの 140 ページの冊子そのものは法的拘束力のあるものとして、扱われていたことになる。
年代記史料によれば、
『カーディー達の礎』は同様に出版された他の4つの冊子とともに、アフガニ
スタン全土に配布された(Sirāj al-Tavārīkh 3:517)。こうした冊子について、同時代人スルターン・モハ
ンマドは次のように述べている。
アフガニスタンの諸法は、本の形で、さまざまな印刷された法典として存在している。成文法で
あり、さまざまな部局の官僚により記され、アミールが押印し、署名する。
(中略)誰かがその本
のページを破り取った、彼の両手が切り落とされるのが法律である。他人を傷つけるために、人々
はかつてページを破り取り、別のものを挟んだものだった。そこで、アミールは本の綴じ目に押
印し、ページを数えるという新しい法を導入した(Constitution and Laws 131)
『カーディー達の礎』にはアミールの押印や署名はなく、また、この記述は彼の著作の他の部分同様
かなりの誤解を含んでいると考えられるが、少なくとも冊子が法典として扱われていたこと、ページ
の削除や差し替えが起これば重大な問題であったことは明確に示している。
さらに、
『カーディー達の礎』の条文は他の冊子や法令集で言及されることがあった。1891 年に出
版された地方知事用の指針も、第 9 条から第 12 条までの各条において『カーディー達の礎』の条文に
言及している(Qānūn-i Ḥukūmatī 763-764)。さらにこれを改訂して 1919 年に制定された知事職務法にお
いても、以下のような条文がある。
(第9条)ある知事が管轄する臣民が別の臣民を訴え、
(原告が)被告をシャリーアのカーディー
のもとへ召喚することを知事に要請した場合、知事はその人物(=原告)をその地の法廷へイス
26
Ghani が紹介する 9 つの事例のうち、Case III のみ法学書 Durr al-Mukhtār が引用されている。
97
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ラーム法のカーディーもとへ送らなければならない。そしてカーディーが『カーディー達の礎』
第 14 条に従い、その不在の人物を召喚する書状(ruqʿah)を与えるのである。相手が言うや否や、
知事が執行官を送ってその不在の人物を呼ぶ必要はない(Qānūn-i Ḥukkām 9-10)。
この他にも第 10~12 条にも言及がある。出版から 34 年を経ても、
『カーディー達の礎』は、法典と
して有効だったのである。
おわりに
アブドッ=ラフマーン・ハーンの命によって編纂された『カーディー達の礎』は、確かに、標準的
なハナフィー学派の法学書に基づいていた。法学書の原典を参照することが奨励された、一方、アフ
ガニスタンで編纂されたファトワー集は無視され、パシュトゥーン人の慣習法にも言及されなかった。
法学書の見解を修正する必要があれば、それは勅令を根拠として行われた。その意味で、アブドッ=
ラフマーン時代における正統的なイスラーム法の導入を強調するガーニーやタルズィーの議論は一定
の説得力を持つ。
しかしながら、
『カーディー達の礎』を子細に検討すれば、その裁判制度の根幹に、イスラーム法と
は異なった近代的な要素が取り入れられていることがわかる。裁判の拠って立つ法はイスラーム法で
あったとしても、裁判の方式は、原告と被告がそれぞれ証拠を提示して争う近代的なものだったので
ある。また、裁判記録も、
『カーディー達の礎』が示すのは、ロシア統治下の中央アジアや英領インド
のもののような、最初から裁判の進行を順番に記入すべき欄があるものが想定されていた。この点で、
『カーディー達の礎』が目指したものは、イスラーム法に基づきつつも、ある種の近代的な裁判制度
であったと言えるだろう。そして、裁判のための指針として編集された『カーディー達の礎』は、実
際には法典と見なされ、30 年以上の効力を保ったのである。
したがって、
『カーディー達の礎』には、イスラーム法に基づいた近代国家を築くというアブドッ=
ラフマーン・ハーンの意志が強く反映していると考えられる。その意味では、同時代のムスリム国家
のなかで、オスマン民法典の編纂とも比較可能な重要な事績とも言える。ただし、アフガニスタンで
は、特に民法に関しては、法典化はきわめて遅れることとなった。その原因としては、ハナフィー法
学に関する伝統の弱さ―少なくとも歴史を通じて主要な法学書がアフガニスタンで著されたことは
ない―と、ペルシア語を主な書き言葉とする言語の壁が考えられる。訴訟法に関しても、1909 年に
は『諸規定の灯火(Sirāj al-Aḥkām)』という書物が出版されるが、これは、法学書・注釈書・ファトワ
ー集の抜粋をペルシア語で解説したものであった。
『カーディー達の礎』に見られる原典主義を貫くの
は、実務上はかなり難しかったことが想定される。
ある意味では、
『カーディー達の礎』は近代化とイスラーム法の施行という2つの課題を負っていた
と言えるだろう。そして、その課題は現在のアフガニスタンが抱えている問題とも、重なり合うよう
に見えるのである。
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100
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「近代法」の移植と土着法適用についての帝国の論理
―マレーシアと中央アジアの比較から―
桑
原
尚 子
高知短期大学社会科学科
はじめに
非西欧諸国の多くは、植民地化の過程で「近代法」を移植し、現在の法制度の基盤を築いてきた。
「近代法」の移植は、必然的に土着の法を変容させ、
「混合法」とも呼ばれる近代法と土着法の混合を
生み出した。また、
「国家法」の概念を持ち込むことで土着法の一部は「非国家法」ないし「非公式法」
へと追いやられた。このような植民地化の過程で生み出された多様な法源が重層的に存在している状
態は、ときに、
「多元的法体制」
(Legal Pluralism)とも称される。
本稿が射程とするマレーシア及び中央アジアは、それぞれイギリス及びロシアによる植民地化の過
程を経て、程度の差こそあれ、
「近代法」を移植するという共通の経験をもつ。また、宗主国であるイ
ギリス及びロシアは、植民地化した後も、土着の法―すなわち、イスラーム法―の適用を認めた
という点でも共通している。
植民地時代のマレーシア及び中央アジアにおけるイスラーム法についての研究の多くは、これまで
のところ、専ら、植民地化や「近代法」の移植によってイスラーム法がどのように変容したのかにそ
の焦点を当ててきたと言っても過言ではない 1。他方で「近代法」の移植がどのような法的論理の下
で行われたのか、そして土着法の存続又は土着法の適用に関する制限がどのような法的論理の下で行
われたのかについては、それほど関心が向けられてこなかったとも言えよう。植民地化による「近代
法」移植が必然であり、その結果として当然に土着法の適用に変容が生じることを前提とされてきた
ようにも思われる。そこで、本稿では、これまでそれほど関心が向けられてこなかった、植民地化初
期のマレーシア及び中央アジアにおける「近代法」移植の法的論理と、土着法の適用ないしその存続
の法的論理を明らかとすることを試みる。
1.マレーシア
イギリスは、18 世紀後半のペナン割譲を契機にマレー半島へ本格的に進出してきた。当時のマレー
半島は、マレー人の王国が複数存在していたものの、マレー半島全体を統一する政体は存在していな
かった。イギリスの支配形態は、①海峡植民地、②マレー諸州、③ボルネオ島では異なり、イギリス
法移植の程度や態様も一様ではなかった。本節では、まず、海峡植民地、マレー諸州及びボルネオ島
の植民地化の過程及び「近代法」たるイギリス法移植について概観する。次に、これらの中でも、イ
ギリスにとって戦略上最も重要な植民地と位置付けられていた海峡植民地に焦点を当て、
「近代法」移
1
例えば、Hooker (1984)、Sartori (2008)、Sartori (2009)など。
101
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植の法的論理と、土着法の適用ないしその存続の法的論理について考察を行う。
(1)イギリスによる植民地化
①海峡植民地(シンガポール、マラッカ、ペナン)
17 世紀に始まるイギリスのアジア進出において重要な役割を果たしたのは東インド会社である。18
世紀になると徐々にイギリスはこの地域の商業において支配的な地位を占めるようになっていった。
1786 年には東インド会社の命を受けたフランシス・ライトがクダーのスルタンと交渉の末、イギリス
国王ジョージ 3 世の名の下に、ペナン島の正式領有を獲得した。これにより、ペナン島は東インド会
社の支配下に入ることとなった。当時シャムの脅威下にあったクダーのスルタンは、東インド会社に
よるペナン島領有と引き換えにイギリスによる外敵からの保護を期待していたが、期待した保護もペ
ナン島領有の十分な補償金もイギリスから得られなかった。1791 年 3 月、クダーのスルタン軍はペナ
ン島を攻撃したが失敗に終わり、翌月、今度はイギリス軍がクダーを攻撃しペナン島に対するクダー
からの脅威を取り除くことに成功した。結局、同年 5 月にクダーと締結した条約によってイギリスの
ペナン島領有が確認された。1819 年、東インド会社役員スタンフォード・ラッフルズが、リアウ・ジ
ョホールの宰相と条約を締結しイギリスはシンガポールを獲得した。1824 年の英蘭条約によってマラ
ッカがオランダからイギリスへ割譲されると、1826 年には、シンガポール、マラッカ及びペナンから
なる海峡植民地が結成された。海峡植民地は 1867 年 4 月 1 日にイギリス本国植民地省へ移管されるま
で、インド総督府管轄下に置かれ英領インドを構成した 2。
海峡植民地では、1807 年、1826 年、1855 年にそれぞれ発布された司法勅許状に基づいてイギリス
法適用及び裁判所設置が漸進的に行われた。第 1 回司法勅許状(1807 年)は、1807 年時点で効力を有
していたイギリス法を現地の事情に適する限りにおいてペナンへ導入すると解釈された 3。イギリス
法適用を現地の事情に適する限りにおいて認めるという原則は、第 2 回司法勅許状(1826 年)によっ
てシンガポール及びマラッカへも適用されることとなった 4。
これら司法勅許状に基づいて裁判所が設置されたものの、法律専門家たる裁判官はペナン常駐のレ
コーダ(Recorder)1 名だけであり、人口増加や商業活動発展にともなう訴訟増加に対応できなくなっ
ていった。そこで、第 3 回司法勅許状(1855 年)に基づいて裁判所が再編成されることとなった。す
なわち、新たなレコーダがシンガポールに任命されて海峡植民地のレコーダが 2 名に増加し、ペナン
だけでなくシンガポールにも裁判所が設置されたのである。さらに、インド総督府から植民地省への
海峡植民地移管を契機に裁判所再編成を含む司法制度整備が進み、従来の裁判所に代わって海峡植民
地最高裁判所が設置され(1868 年)
、同裁判所は首席裁判官、裁判官及び 2 名の平裁判官の計 4 名か
ら構成されるようになった(1873 年)
。また、イギリス司法職員が法務総裁及び法務次長の要職に任
命された 5。
イギリス法は、イギリス及び英領インドの制定法を通じても移植された。また、海峡植民地の植民
地省への移管後設立された立法参事会(Legislative Council)の立法を通じてもイギリス法が移植され
2
以上の海峡植民地の歴史については、Andaya & Andaya (2001), pp.111-116, 125, 126 を参照。
Braddell (1982), p.14.
4
第 2 回司法勅許状に基づいて適用されたイギリス法は、1926 年 11 月 27 日時点で効力を有していたもの
であった。Braddell (1982), p.26, 27 を参照。
5
以上の海峡植民地における司法運営については、Wu (2005), p.20, 21 を参照。
3
102
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た。これら立法には、インド刑法をモデルとした 1871 年刑法や 1872 年インド証拠法を移植した 1893
年証拠法などが含まれる 6。
②マレー諸王国
マレー人統治者(スルタン)を擁する 9 つのマレー諸王国に対するイギリス支配は、1874 年のパン
コール条約締結以降本格化した。ペラのスルタンとの間で締結された同条約は統治者の主権を認める
一方で、
「マレー人の宗教及び慣習を除く全ての事項」について助言するイギリス人理事官(Resident)
配置を定めるものであった。その後、スランゴール、ヌグリ・スンビラン、パハンも理事官制度を受
け入れ、イギリス保護領となった。理事官の権限は「助言」に限定されていたが、実際のところ、立
法及び政策策定を主導、かつ政府を運営し、その権限は「助言」を遥かに越えていた 7。実際には、
理事官を通じたイギリスの間接統治が行われていた。かようなイギリス間接統治につき、イギリス人
植民地官僚スウェッテンハムは「当地に受容されている慣習と伝統を重んじ、我々の支援に対する地
元民の共感と利益を取り付け、かつ良い統治と啓蒙政策の利点を地元民へ教授する」と評している 8。
1896 年には、スランゴール、ヌグリ・スンビラン、パハン及びペラからなるマレー連合州がクアラル
ンプールを首都に結成された 9。
さて、マレー連合州を構成しなかったマレー諸王国はマレー非連合州と称され、クダー、クランタ
ン、トレンガヌ及びプルリスは 1909 年イギリス・シャム協定締結によってイギリス保護領となりイギ
リス人顧問官を受け入れた。これにより、マレー連合州と同じく統治者の主権が承認される一方で、
「マレー人の宗教及び慣習を除く全ての事項」に関しては顧問官へ実質的に権限が委譲された。ジョ
ホールも 1914 年に他のマレー非連合州と同じく顧問官を受け入れ、イギリス人司法顧問官も任命し
た 10。
マレー連合州及びマレー非連合州におけるイギリス法移植は、マレー連合州へのイギリス法適用を
定めた民事法(1937 年)
、マレー非連合州へのイギリス法適用を定めた民事法(拡大)条令(1951 年)
の制定前は、判例法又は立法を通じたものであった。尚、両法令はマラヤ連邦(1948 年結成)に適用
された民事法条令(1956 年)によって廃止され、さらに本条令は民事法(1956 年、1972 年改訂)と
改正されて現在イギリス法適用の根拠となっている。マレー連合州及びマレー非連合州はイギリスの
植民地でなかったため、理論的には、ムスリムにはイスラーム法、ムスリム以外の地元民にはそのパ
ーソナルロー、イギリス臣民にはイギリス法が、適用されるべき法であった。しかしながら、司法関
係者のほとんどはイギリス法教育を受けていたため、裁判ではイギリス法を適用する傾向があったと
言われている。マレー連合州では刑事訴訟法(1902 年)、刑法(1905 年)など英領インドの法律をモ
デルとした立法を通じて、イギリス法が移植された 11。
6
海峡植民地におけるイギリス及びインドの制定法を通じたイギリス法移植、立法参事会の立法を通じた
イギリス法移植については、Wan Arfah & Ramy (2003), p.106, 107 を参照。
7
Sadka (1964), p.185 を参照。
8
Andaraya & Andaraya (2001), p.174.
9
以上のマレー連合州結成までの経緯については、Andaya & Andaya(2001), pp.157-172, 174-177, 185-187 を
参照。
10
以上のマレー非連合州がイギリスの統治下に組み込まれる経緯については、Andaraya & Andaraya (2001),
pp.194-203 を参照。
11
マレー連合州及びマレー非連合州におけるイギリス法移植については、Wu (2005), pp.26-30、Sharifah
Suhanah(2007), p.21 を参照。
103
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③ボルネオ島
マレー半島部に比べ、イギリスのボルネオ島への介入は遅れた。19 世紀後半にスールー(現フィリ
ピン、スールー諸島)と北ボルネオ(現サバ州)間航路がオーストラリア・中国間貿易ルート上重要と
なり、他のヨーロッパ列強の支配下に入るのを防ぐ必要が生じたことから、イギリスは北ボルネオへ
の介入を開始することとなった。イギリス商人デントとオーストラリア香港総領事フォンバーベック
がブルネイ王国とスールーの各スルタンから北ボルネオの租借権を得た後、1881 年にイギリスはデン
トの北ボルネオ会社設立を支援し、同社に対して王室特許状を付与したのである。同特許状は、イギ
リス国王が域外的裁判権を有することを定めていたが、北ボルネオ会社に対して広範な統治権を与え
るものだった 12。北ボルネオ会社による司法運営は以下で述べる初期ブルック王朝初と比べてフォー
マルであり、それは制定法を通じてインド、海峡植民地及びマレー諸州の法を移植することで強化さ
れたと指摘されている 13。
サラワクは、英国人ジェームズ・ブルックが同地の反乱鎮圧に貢献したことへの報酬として、1841
年にブルネイ王国スルタンからその領土の一部を割譲されたのを契機に誕生した。その後 100 年に渡
ってブルック一族は、白人王朝としてサラワクを支配した 14。初期の司法運営はインフォーマルであ
り、ブルックにとって身近なイギリス司法制度と現地の慣習とが混在していたと言われている 15。正
式なイギリス法移植は、王令による修正がなく、かつ現地の慣習に適合する限りにおいてイギリス法
が適用されることを定めたサラワク条令(1928 年)に始まった 16。
北ボルネオ及びサラワクはブルネイと共に 1888 年にイギリスの保護領となり、海峡植民地総督が総
領事を務めることとなった。太平洋戦争終結の翌年に、北ボルネオ及びサラワクはイギリスの直轄植
民地となり、1963 年には初代首相ラーマンの提示したマレーシア連邦構想をマレー半島諸州より広範
な州権限や特別の地位を獲得するのと引き換えに受入れ、シンガポールと共にマレーシア連邦へ加わ
った 17。
イギリス法が正式に移植されたのは、サラワクではサラワク条令の制定された 1928 年、北ボルネオで
は民事法条令の制定された 1938 年であった。しかしながら、両条令制定以前に、家族法を中心とする
現地住民の法適用を認めながらもイギリス法の準則が立法及び判例を通じてすでに導入されていた 18。
(2)海峡植民地
ここでは、イギリス法移植及び土着法適用に関する論理について、歴史的判決とも称されるRegina
12
以上の北ボルネオ会社設立までの経緯については、Andaraya & Andaraya (2001) pp.187-189 を参照。
Hooker (1993), p.9 を参照。
14
サラワク誕生までの経緯については、Andaraya & Andaraya (2001), pp.128-133 を参照。
15
Wu (2005), p.34 を参照。
16
Wu (2005), p.34 を参照。
17
北ボルネオはサバ州に改名。例えば、サバ州及びサラワク州の立法専権事項及び連邦との共同管轄事項
は、マレー半島部に位置する州よりも多く(連邦憲法第 9 付則)、法律又は政策の統一を目的とした土地及
び地方自治体に関する連邦議会の立法権はサバ州及びサラワク州には及ばない(同第 95D 条)
。また、特別
交付や歳入割当てといった財政においても、他の州より優遇されている(同第 112C 条、第 10 付則第 4 部)
。
サバ州及びサラワク州に対しては連憲が特別の地位を定めているが、これら規定の改正にはサバ州又はサ
ラワク州知事の同意が必要とされ(同 161E 条 2 項)
、サバ州及びサラワク州に対する保護は手厚い。
18
Wu (2005), p.36 を参照。
13
104
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対Willants事件(1858 年 5 月 31 日判決) 19を主たる手掛かりとしながら検討を進める。
①イギリス法移植の論理
イギリス植民地におけるイギリス法移植に関するコモン・ローの法原則は次のようなものである。
新領土獲得の原因が植民の場合には、イギリスの法を携えて植民するとみなして、植民当時のイギリ
ス法を原則として、すなわち「植民地の事情に可能な限り」
、適用する。新領土獲得の原因が征服又は
割譲の場合には、すでにでき上がった法の存在する土地を征服又は割譲によって獲得したと考え、そ
れまでその地で行われていた法を適用する。ただし、後者の場合において「できあがった法」とは、
キリスト教徒の法に限られ、キリスト教徒以外の法は、神の法に反するものとしてこれを認めない 20。
このように、コモン・ローは、植民地獲得の原因が未開の土地への植民であるか、あるいはすでに
住民の存在する土地の征服又は割譲であるかによって、植民地へ適用すべき法を区別するわけである
が、割譲直後のペナンは、いずれにも該当しないことがRegina対Willants事件において判示された。す
なわち、ペナンは、英国臣民の植民地でもなく、割譲の時点で居住地でもなかったとみなされたこと
から、上述のコモン・ローの法原則の射程外である、とされたのである 21。Regina対Willants事件にお
ける争点の一つは、ペナンにおいて、植民地は先占を原因として獲得したことを理由に占有者が持ち
込んだイギリス法が当該植民地の在来の法となるか、それとも植民地はクダー王国の一部を割譲され
たことを理由としてクダー王国のマレー人の法が在来の法となるか、ということであった 22。換言す
ると、ペナンの国法(lex loci)は何か、が論点であった。
マックスウェル判事は、
「
〔ここ〕へ最初に上陸したライト氏及び船員の一団は、未開の地への英国
人入植者ではなく割譲地を占有するための部隊であった。そして彼らが英国人であり、かつイギリス
法を持ちこんだとしても、その一時的な性質及び彼らの居住の目的を考慮すると、イギリス法は、在
来の法ではなく部隊及びその随行者たちの属人法(personal law)にすぎない。
」23として、イギリス法
を在来の法とすることを拒否した。他方で、
「ペナンがイギリス領有下に置かれた際に、そこには法の
支配を受ける権利を主張する住民はおらず、法を執行する裁判所もなかった。割譲後もクダーの法が
引き続き国法であると主張するのは困難であろう。
」24と述べ、クダー法を在来の法としてその適用を
認めることにも難色を示した。
そして、マックスウェル判事は、イギリス植民地となる前に適用されていた法の効力について、
「居
住地又は征服地が割譲された場合は、新たな統治者は、彼が現行法を変えるまで、新たな臣民の間で
の現行法施行を保証することになろうが、だからといって当該国が荒涼地(desert)である場合に新た
な統治者が旧統治者の法の執行を保証すると推定されるわけではない。」として、
「イスラーム法の性
質」の検討へと進む。イスラーム法たるクダー法の性質を検討するのにマックスウェル判事は、イギ
「キリスト教
リスのカルヴィン事件(1608 年)25におけるコーク卿の次の判決を引用する。すなわち、
19
3 Ky 16.
以上のイギリスにおける新領土に適用すべき法に関する原則については、田中(1993)26、27 頁を参照。
21
3 Ky 20.
22
Braddell (1982), p.5 を参照。
23
3 Ky 20.
24
3 Ky 21.
25
当時のイギリス法学界及び法曹へ絶大な影響力を有していたブラックストーンの『釈義』において、神
の法に反しない限り、征服又は割譲された植民地の在来の法を尊重するというイギリスの植民地法政策は、
彼のイギリス法体系の中の重要な法準則として位置付けられている。同法準則は、カルヴァン事件に基づ
20
105
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徒の王が不信心者の王国を征服し、彼の支配下にそれを置くときは、事実それ自体によって、不信心
者の法は、廃止される。
」 26と。マックスウェル判事は、「キリスト教徒の国家がこのような〔イスラ
ーム法の〕体系を国法として採用する、あるいは寛容であると推定すると判決するのは不可能であろ
う。このような場合には、コーク卿によれば、
『一定の法が確立されるまでは、国王自身及び国王が任
命する裁判官が住民を裁判し、古代において一定の国内法が与えられる前に国王が王国で行っていた
ような方法で自然的衡平(natural equity)に従って』、あるいは、それよりもおそらく、枢密院第三回
決議に従って、イギリス法が直ちに効力を有する―イギリス君主及びイギリス人裁判官にとって唯
」27と述べて、イスラーム法ではなくイギリス法の適用を示
一の自然的衡平―と判決すべきである。
唆する。このように、マックスウェル判事は、新領土獲得の原因が征服又は割譲の場合にはそれまで
その地で行われていた法を適用するというコモン・ローの法原則の適用を受けない理由として、ペナ
ンが「荒涼地」であること、そしてイスラーム法の性質を挙げて、植民地化されるまでその地で行わ
れた法―イスラーム法―の適用を排除したのである。イスラーム法の性質とは、不信心者の法で
あることを意味し、それが「神の法」に反するが故にイスラーム法の適用が排除された。
次に、マックスウェル判事は、イギリスがペナンを支配下に置いてから 1807 年に司法勅許状が発行
されるまでの間の法状況について検討を行い、「海峡植民地についての初期の記録から、〔割譲後〕最
初の20数年の間、ペナンには国法(territorial law)が存在しなかったと結論する。
」 28と述べた。そ
れでは、国法が存在しないペナンはどのような社会であったか。マックスウェル判事は、
「初期入植者
間の秩序維持という任務は、部隊の司令官に課せられていた。犯罪は、軍法会議が下す罰のようなあ
る種の戒厳令によって処罰され、当地の執行機関の長又は総督(Governor-General in Council)が犯罪
に相当するものを検討した。相続、身分、契約、そしておそらく不法行為についても、ペナン島に様々
な国籍保持者が存したのと同じく、多くの法体系が存在した。そして、これらの法もまた、控訴院を
構成するヨーロッパ人の治安判事の主たる指針であったと思われる自然法又は自然的正義によって調
整ないし修正されただろう。
」29と述べる。続けて、ペナン社会の状態について、それがサヴィニーの
言及したローマ帝国崩壊後のヨーロッパ社会に似ていると指摘して、インド法委員会(Indian Law
Commissioners)に引用されたサヴィニーの言及を再引用する。すなわち、「属人法の精神は、それぞ
れが自身の法に従って同じ地に住むゲルマン族、フランク族、ブルゴーニュ族及びゴート族の間で等
しく生きていた。AgobardusからLouis le Debonnaireへの手紙の次の一節がこれを説明している。
『ある
者は、同じ法に従っていない5人の人々が一緒にいるところを頻繁に目にする。』」 30と。結局のとこ
ろ、イングランドの現行法及び当地の法の一般原則又は基本原則ともイギリス人共同体で認識されて
いない、あるいは裁判で執行されてもいない、と述べている 31。
マックスウェル判事による以上の言及から、ペナンが植民地化されてから司法勅許状発布までの法
状況が混乱していたと認識されており、フーカーも指摘するように 32、不確かな点が多いことがわか
くものである。内田(1969)4 頁を参照。
26
3 Ky 21.
27
3 Ky 22.
28
3 Ky 24.
29
3 Ky 24, 25.
30
3 Ky 25.
31
3 Ky 25.
32
Hooker (1984), p.85.
106
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る。もっとも、不確かながらも、マックスウェル判事のような19世紀中頃のイギリス人裁判官は、
属人法が自然法又は自然的正義による修正を受けながら適用されていたと推測していることがわかろ
う。
ペナンを含む海峡植民地の法整備の契機となったのは、1807 年、1826 年及び 1855 年にそれぞれ発
布された司法勅許状(Charter of Justice)であり、植民地の諸判例は、第 1 回司法勅許状がその発布時
点で効力を有していたイギリス法をペナンへ導入したこと、第 2 回司法勅許状がその発布時点で効力
を有していたイギリス法を海峡植民地へ導入したことを認めている 33。ただし、判例は、1855 年に発
布された第 3 回司法勅許状が第 2 回司法勅許状発布後に制定されたイギリス法を導入する効果を生じ
るとは認めなかった 34。
②イスラーム法適用の論理
まず、1807 年司法勅許状発布前のイスラーム法を含む土着法の状況がイギリス人にどのように認識
されていたかをみてみよう。
ライト氏は、原住民の自らの土着法の下で裁かれ統治されたいとの希望を受け入れ、1792 年に、原
住民間の司法運営の一部権限を、植民地監督者(Superintendent)が指名する華人の族長、マレー人の
族長などの各族長へ与えた。各族長は微細な民事事件について、ヨーロッパ人の治安判事はそれより
も重要な民事事件について、それぞれ裁判権を有し、族長の決定ないし判決に対する治安判事への上
訴が認められることとなった。宗教儀式、家事紛争及び少額債務の履行について族長はその裁判権を
行使することができ、他方、族長にはその構成員の婚姻、出生及び死亡についての登録簿管理が義務
づけられた 35。
1800 年になると原住民の司法に関する二つの指針が出された。一つ目は、5 月 1 日にペナン植民地
副総督 George Leith 卿が土着の族長へその権限及び義務を定めたものである。二つ目は、ペナンを統
括していたベンガル政府がペナン植民地副総督 George Leith 卿へ民刑事司法運営の改善についての規
則制定を命じたものであり、同指針はかかる規則制定が次の原則に基づくべきことを求めていた。す
なわち、
「住民を構成する様々な人々及び部族の諸法は、自然的正義の原則に立脚しつつ普遍的に適用
33
Braddell (1982), p.14, 27 を参照。
Braddell (1982), pp.34-36 を参照。Braddell (1982)は、かかる見解を示した判例として Regina 対 Willians 事
件を挙げて該当箇所を引用している。同事件において Benson Maxwell 裁判官は、争点となっている法律が
第 2 回司法勅許状発布前に成立していることから第 3 回司法勅許状の効果について検討しなくともよいと
した上で、次のように述べた。
「しかし、かかる論点が生じた場合には、海峡植民地の状況又は第 3 回司法
勅許状がこのような解釈を求めているか、それともむしろ 1726 年以降に発布されたインドの司法勅許状の
ような裁判所再編のための単なる指示として扱うべきでないことを求めているか検討することが重要とな
ろう。議会が承認した新たな司法勅許状は、裁判官へ、イングランドにおいてコモン・ロー裁判官及びエ
クイティ裁判官が『有する、あるいは合法に行使するような管轄権と権限』を与えているが故に、第 3 回
司法勅許状よりも前に成立した制定法によってエクイティ裁判官へ与えられた権限はコモン・ロー裁判官
へも付与されるだろうと判決する根拠が存するように思われる。第 3 回司法勅許状が、裁判所へ『正式起
訴及び犯罪を審理、判決、執行し』
、そして、状況が許す限り、イングランドの刑事巡回裁判及び未決囚釈
放裁判のような方式で刑事司法を運営するよう命じる場合には、1855 年時点で有効なイギリス刑法はここ
での法となると主張されよう。他方、新たな司法勅許状は、第 2 回司法勅許状のように、古い裁判所を廃
止し、新たな割譲地へ初めてイギリス法を導入するものではなく、現存の裁判所を二つに分割して 2 人目
の裁判官を追加するという再編にすぎない。第 2 回司法勅許状発布の日から海峡植民地のための立法を行
う立法機関がインドで設置されたこと、そして同じ法領域について議会が制定した法律及び立法院
(Legislative Council)が制定した法律に対して同時に効果を生じさせようとすることには困難があること
に留意するのが重要であろう。
」
35
以上については、Tan (1950), p.100 を参照。
34
107
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される英国法の一部によって調整されながら、裁判所における判決の諸規則を制定しなければならな
い」
、との原則であった。民刑事司法運営の改善についての規則制定が命じられた背景として、植民地
官僚が原住民の法運用に対する態度に満足しておらず、かかる態度ないし状況を規律する法の必要性
を認識していたことが挙げられよう。この指針を受け、同副総督は、全 8 条からなる司法運営に関す
る規則を起草してこれを最高総督(Supreme Governor)へ送付した。同規則の見出しをみると、イギ
リスに類似した裁判所制度導入を目指す一方で、土着法に関しては少額事件について華人、チュリア
人及びマレー人裁判官の判決が終局判決となる旨を定めたにとどまる。しかしながら、同規則案も、
その修正版も制定されることはなかった。
司法勅許状は、このような状況下の海峡植民地へイギリス法を導入したわけであるが、司法勅許状
発布後のイスラーム法適用の論理はどのようなものであろうか。
司法勅許状は土着民への土着法適用について直接言及してはいないものの、土着民の「宗教」、
「慣
習」
、
「慣行」及び「風習」が裁判権の行使、証人の証言などにおいて尊重されることを定めている 36。
以下で述べるように、判例は「宗教」には土着民の「法」も含むと解釈していた。もっとも、イスラ
ーム法を含む土着法の適用が認められる法領域及びその内容については、司法勅許状の効果という論
点で、裁判所へその判断が委ねられていた。
土着民への土着法適用に関する第 1 次司法勅許状の効果については、二つの異なる見解が判例で示
された。一つ目の見解は、第 3 代裁判官ラルフ・ライス卿が採ったものであり、イギリス法導入が刑
事に限られ土着民の民事事件にはそれぞれの土着法を適用するというものであった 37。二つ目の見解
は、Regina対Willans事件においてマックスウェル裁判官が示したものであり、第 1 回司法勅許状がイ
ギリス法(コモンロー、エクイティ及び制定法)にだけしたがって司法運営されることを求めており、
イスラーム法を含む土着法はイギリス法の原則の下でその適用が認められるにすぎないというもので
あった 38。
マックスウェル判事は、第 1 次司法勅許状はイギリス法がペナンの国法(territorial law)であると明
定しているわけではないが、主たる条文は司法がイギリス法に従ってのみ運営されるべきことを求め
ている、という。ここで、マックスウェル判事は、ラルフ・ライス卿の採った見解を意識して、刑事
と民事に区別してイギリス法適用に関する第 1 次司法勅許状の効果について検討する。刑事について
は、第 1 次司法勅許状が「裁判所は起訴及び犯罪を審理及び決定し、判決を下し、及び刑を執行し、
並びに、すべての点で、イングランドにおける刑事司法、イングランドにおける方法及び方式と同じ
刑事司法又はイングランドにおいて場所及び人の事情が許すような刑事司法を運営しなければならな
い」 39ことを求めているとして、刑事法へのイギリス法適用は疑いの余地がないと述べた。民事につ
いては、第 1 次司法勅許状の「正義及び正当(Justice and Right)」の文言に依拠して、民事へのイギリ
ス法適用を第 1 次司法勅許状は意図しているとの見解を示した。第 1 次司法勅許状中の「正義及び正
当」の文言は、マグナカルタ第 29 条で用いられているのと同義で用いられている、と言う。続けて、
正義及び正当に従って判断するための、そして確立した法体系の存しない国において判断するための
36
37
38
39
Braddell (1982), p.79 を参照。
3 Ky 28.
3 Ky 25.
3 Ky 25.
108
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マグナカルタの指針は、イギリス法に従って判断するための指針であり。そして、第 1 次司法勅許状
が裁判所へウエストミンスターのコモン・ローとエクイティの最高裁判所の権限を与えて事情の許す
限りにおいてこれを行使することを認めている点、司法勅許状が定める動産と不動産という財産の分
類及び検認及び遺産管理状の権限はイギリス法だけを想定している点などを挙げて、第 1 次勅許状が
この見解を支持していると述べる 40。
司法勅許状がイギリス法以外の法に言及していない点について、そのことは、ヨーロッパ人裁判所
による司法運営をアジア系人種固有の機関へ適合させようとしていないことを明らかにしていると解
釈し、教会裁判権が裁判所に付与される場合には、住人の宗教、風習及び慣習が許す場合に限って教
会裁判権は行使されうる、と言う 41。さらに、土着法の排除についても、司法勅許状が少額裁判所設
立を定めている点からも明らかだと述べる。すなわち、
「司法勅許状は、少額裁判所の管轄権が民族的
なものであるとしながらも」
、
「土着民の事件への土着法適用について定めておらず、施行規則(Rules
of Practice)がイギリス少額請求裁判所規則(Rules of English Courts of Requests)にほぼ従う一方で、
『その司法運営』が事情の許す限りにおいて土着民の『宗教、風習及び慣行』に採りいれられるよう
求めたにすぎない」
、と言う 42。ここで言う宗教の意義について、「少なくとも、ムスリム及びヒンド
ゥーという東洋の(オリエントの)二種に関して、彼らの法は宗教の一部であり、第 1 次司法勅許状
が宗教について言及する際にはそれは法を含むと言えよう。
」43との見解を示す。このような法と峻別
されない宗教についてイギリス法は、司法勅許状が求める範囲において、「礼譲(ex-comitate)
」又は
「当然の権利(ex-debito justitiae)
」の法理に基づいて、それを尊重するとして、裁判所での宣誓、ム
スリムの複婚といった具体例を示している。
「司法勅許状はイギリス法を修正するものでは決してなく、
東洋の宗教及び慣行へイギリス法を適合させるという例外を設けていない。
」との見解を示して、「当
事者の宗教儀式に従って挙行されたムスリム又はヒンドゥー又は華人の婚姻が有効であるのは、司法
勅許状がこれを有効としているからではなく、イギリス法がこれを認めたからだ。
」と言う 44。換言す
ると、
「1858 年までにその適用が認められた土着法は、司法勅許状ではなくイギリス法の一般諸原則
を根拠としてそれが認められた。
」のである 45。イギリス法の一般原則を根拠としてその適用が認めら
れてきた土着法には、
「土着民の婚姻の有効、複婚の承認、ムスリムの離婚、ムスリムの無遺言被相続
人の複数の妻が不動産をそれぞれ相続することが含まれる」 46とされている。
ここでいうイギリス法の一般原則とは、例えば、
「婚姻の有効は挙行地法に従う」
、ただし「挙行地
の法が宗教的意見や慣行の特殊性を理由に道徳上の必要性から、当事者へ適用できない場合には、婚
姻の有効は当事者の宗教儀式に則って執り行われたか否かによって判断される」 47、というようない
わゆる国際私法の準拠法選択に係る法原則である。
イギリス実体法とは相容れない土着法上の複婚について、次のような論理でこれを認めるのである。
40
以上の民事及び刑事へのイギリス法適用に関する第 1 次司法勅許状の効果については、3 Ky 25, 26 を参
照。
41
3 Ky 26.
42
3 Ky 27.
43
3 Ky 27, 28.
44
3 Ky 31, 32.
45
Braddell (1982), p.81.
46
Braddell (1982), p.81.
47
Braddell (1982), p.83, 84.
109
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「一般法がどの程度自らの権限を制限すべきかについて、同裁判官(Lord Stowell)が検討したよう
に、アプリオリ(a priori)には言えないだろう。イギリス法がユダヤ人の婚姻へ適用してきた礼譲の
原則を、複婚の承認を伴うことなく、ムスリムの婚姻にまで拡張解釈することは明らかに容易ではな
い。法律家は、常に複婚をキリスト教国の礼譲の射程外としてきた。かかる問題は、これまでのとこ
ろイギリスの裁判所で判断されたことはない。しかしながら、イギリス裁判所が決して複数の妻を認
めることはないと判決したWarrender対Warrender事件において、Brougham卿は、トルコ人の婚姻を処
理するに際して、義務が契約された国又は(イギリス領におけるムスリムの婚姻の場合には)地域に
おける法的意義に従って当事者を拘束する物事を考慮すべきと判断する余地があるかもしれないとの
見解を示したように思われる。はるか昔から複婚が成立していた人種へイギリス法が初めて移入され
たここにおいては、裁判所は、複婚を検討せねばならず、常に複婚を有効と判決してきた。当地の裁
判所がこの結論へたどり着くのを間違えた、あるいは間違えなかったとしても、私は検討を止めない。
裁判所が正しく判断したならば、
〔それは〕当該問題について司法勅許状が例外的に寛大な扱いを求め
ているからではなく、婚姻の有効が当事者の宗教に従うとの原則が複婚へも適用されたからに過ぎな
い。他方で、裁判所が誤ったならば、裁判所は、イギリス法と矛盾して外国のある原則を借用すると
いう間違いを犯したのではなく、その妥当な限度を超えて完全に確立したものを曲解してしまうとい
う間違いを犯してしまったのだ。
」 48
以上から、ペナンにおけるイスラーム法の適用は、司法勅許状発布前は自然法及び自然的正義の下
で、司法勅許状発布後は司法勅許状によるイギリス法移植と、その下でのイギリス法の原則又は法理
に基づいて認められたことが明らかである。Regina対Willants事件でマックスウェル判事が依拠したイ
ギリス法の原則又は法理は、国際私法における準拠法決定のルール、「礼譲」の法理、「当然の権利
(ex-debito justitiae)
」の法理である。礼譲(comity)とは、「政治主体(国家、州、又は管轄権の異な
る裁判所)の間での、とくに立法・行政・司法行為の相互承認といった好意」 49であり、礼譲の法理
に基づくと、権利の問題としてではなく、好意や外国の判断に対する尊敬に基づいて行為がなされ、
措置がとられることとなる。Regina対Willants事件では、礼譲の法理についてその適用基準、あるいは
それに相当する指針などについて明言していないが、Regina対Willants事件を判決したマックスウェル
判事は、別の事件で、礼譲の法理がいかなる事情の下で適用されるかについて次のように言及してい
る。
「
『諸ルールは、受け入れがたい不正義及び抑圧がその適用の引き起こされる場合には、このような
人種へは適用されない。
』そして、
『我々の法〔イギリス法〕が外国の人種の事情に全く相応しくない
場合には、彼らの諸法及び諸慣習が、外国法が我々の裁判所によって外国人及び外国取引へ適用され
るのと同じ原則に基づいて、及び同じ制限の下で、彼らへ適用される』。」50
48
49
50
Braddell (1982), p. 84.
Black’s Law Dictionary, Seventh ed.
Braddell (1982), p.85.
110
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そして、イスラーム法を含む土着法に関する事件について、裁判所は、司法勅許状によって当該裁
判所へ付与された教会裁判所裁判権を行使して、その裁判権を行使したのである。
2.中央アジア
19 世紀におけるロシアの植民地法政策は、ロシア法制度の移入を強制するのではなく、多元的な法
制の存在を認めるものであったと指摘されている。統治や社会秩序維持を目的として国家制度を導入
する一方で、
土着の法及び慣習を認めて、
そのローカルな法体系をその統治体制に包摂したのである。
土着の法に対してこのような植民地法政策を採った理由として、それが「税金徴収の見返りであり、
平和を維持する上で安価な方法」であったことが挙げられている。そして、このような植民地法政策
が中央アジアにおいても採用されることとなった 51。もっとも、ロシアが、ロシア法と土着の法―中
央アジアにおいては、イスラーム法―が併存する多元的な法制を容認したからといって、ロシアが
イスラーム法に全く介入ないし関与しなかったわけではない。むしろ、ロシアは、裁判及び実体法の
面から、巧みに、イスラーム法への介入を深めていったように思われる。
トルキスタン総督府初代総督カウフマン(在任期間 1867 年―1882 年)の下で、12 名のロシア人官
僚及び 40 名の地元民代表から構成される委員会へ、裁判官の任命及び管轄権を規制する規則制定が命
じられ、1868 年に、規程(Proekt polozhenija)が制定された。同規程は、カディの選出、イスラーム
法裁判所の管轄権の縮小、イスラーム法裁判所からロシア人裁判所への上訴を認めた点について、同
地における従来のイスラーム法を「変更」
(植民地政府からすると「改革」
)するものであり、ロシア
のイスラーム法への介入を示すものである。
ロシア征服前の中央アジアにおいては、元首(ハーン、エミール)がイスラームの司法を司る者を
任命するのが常であり、例えばタシケントでは、カディ、ムフティー、イマームなどは、コーカンド
の元首、その大臣などによって任命されていた。ところが、同規程は、25 歳以上で犯罪歴のない者へ
カディとなる資格を認めるものであり、これらの有資格者の中から、50 家族の代表から構成される諮
問評議会が裁判官(カディ)を選出し、これを総督が承認することを定めたのである。また、同規程
は、裁判における土地管轄の概念を導入し、被告が居住する地域を管轄するカディが裁判権を有する
と規定した。同規程制定までは、原告が自由に法廷地を選択していたのである。さらに、同規程は、
カディの裁判権を訴額 100 ルーブル以下の民事事件に制限した。もっとも、ロシア人は訴訟へ介入し
ないという建前上、訴額が 100 ルーブルを超える民事事件及び刑事事件に対する管轄権は、ロシア人
の裁判所ではなく、カディの特別会に与えられた。なお、同特別会へは、参加員として 1 名のロシア
人官僚が加わっており、彼は同特別会が権力濫用をしないことを保証する役割を担っていた。同規程
は、これら裁判所が課す刑罰にも制限を課し、身体上の刑罰及び死刑を廃止し、300 ルーブルを超え
る罰金刑及び 18 カ月以上の拘禁刑を科すことを禁止した。そして何よりも、イスラーム法制に対する
最も強力な介入となったのは、同規程によるこれらイスラーム法裁判所からのロシア人裁判所への上
訴容認である 52。
51
以上のロシアの植民地法政策については、Sartori (2008), p.79 を参照。
以上の規則がもたらしたイスラーム法制への影響については、Sartori (2008 ), p.79 及び Sartori (2009),
pp.483-485 を参照。なお、同規則で導入したカディ選出については、Sartori (2008 )が詳しい。
52
111
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さて、実体法によるロシアのイスラーム法への介入ついては、1886 年 6 月 12 日付、1900 年 6 月 12
日付トルキスタン統治に関する規程が定める土地保有権に関する規定を挙げることができる。これら
の規程は、ムスリムの所有ないしは保有する土地に関する権利をロシア法的な観点から定義し、かつ
土地登録について定めていた。もっとも、イスラーム法裁判所に土地に関する事案が持ち込まれた場
合には、同裁判所の裁判官は、シャリーアに基づいて当該事案を処理することから、結局のところ、
これら規定のムスリムの土地に関する条文は空文化していたとも言われている 53。
さて、トルキスタン総督府初代総督カウフマンの時代(1867 年―1882 年)のイスラーム法を含むイ
「不介入」
スラーム政策は、一言で言うならば、
「不介入(ignorizovanie)
」であったと言われている 54。
政策は、二つの側面から説明されるという。まず、植民地運営の当初において、ロシアは、土着民の
不満を刺激するのを避けてイスラームとムスリムの慣習を慎重に扱う姿勢を見せた。他方で、ロシア
は、長期的に見れば、新たな法を導入し、かつ新たな法を現行法と統合することが、土着民に土着の
裁判所への尊敬の念を失わせ、より文明化したロシア法を選択させることとなるとも考えていた 55。
換言すると、土着民を刺激するのを避けるという慎重な姿勢と優位な文明を有するというロシアの自
負が、
「不干渉」政策を採った動機と言えよう。もっとも、サルトリは、ロシアが土着民の法へ介入す
るのを躊躇したのは、これら二つの側面の相互作用だけに起因するのではない、と言う。サルトリは、
植民地法の指針となった諸原則に着目することの重要性を訴えて、このような諸原則の一つとして裁
判官の独立を挙げる。すなわち、
「ロシアが中央アジアの法環境において緊急に導入することを目指し
たのは、裁判官は独立すべき、例えば裁判官が同僚から選出されるべきとの考えである」56と。さら
に、サルトリは、ロシアの植民地官僚が土着の法に無知だったわけではなく、土着の裁判官の地位を
奪おうという意思が存しなかったために、土着の法制度への介入が司法の独立のような「マクロレベ
ル」にとどまったのだ、と指摘する。そして、ロシア人官僚がカディの法理解へ影響力を行使できた
わけではないことも、中央アジアの法制度の成文化が植民地国家と土着の社会との間の摩擦と考えら
れなかった理由であるとも言う 57。
以上から、中央アジアにおけるロシア法移植は、イギリスの海峡植民地の司法勅許状のような法的
根拠に基づくというよりも、ロシアの植民地政策の当然の帰結として行われているように思われる。
また、植民地下での土着の法であるイスラーム法適用についても、同様であろう。ロシア法とイスラ
ーム法との関係については、建前上、ロシア法移植とイスラーム法適用を切断しながら、イスラーム
法裁判所からロシア人の裁判所への上訴を認めることで、ムスリムの側からの「自発的な」法の施行
レベルでの変容ないし改革を想定していたと言える。
おわりに
53
以上の実体法によるロシアの介入については、Sartori (2010)を参照。
例えば、Sartori (2009)など。このようなイスラーム政策は、次の総督にも引き継がれてアンディジャン
蜂起(1898 年)まで続いた。
55
ロシアのとった「不干渉」政策の二つの側面については、Sartori (2008), p.81 を参照。
56
Sartori(2008), p.82.
57
ロシアが土着民の法へ介入するのを躊躇した理由については、Sartori(2008), p.82, 83 を参照。
54
112
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マレーシアの海峡植民地におけるイギリス法移植は、司法勅許状の法的効果であった。植民地化後
のイスラーム法適用は、イギリス法の法原則、すなわち国際私法の準拠法決定に関する法理、礼譲の
法理、
「当然の権利(ex-debito justitiae)
」の法理に基づいて認められたものであった。他方で、中央ア
ジアにおけるロシア法移植及び土着の法たるイスラーム法適用の存続は、法的根拠に基づくというよ
りもむしろ、ロシアの植民地政策の当然の帰結であったといえる。
マレーシアの海峡植民地及び中央アジアにおけるイギリスとロシアの植民地初期におけるイスラー
ム法政策を比較すると、なによりも、イギリスが自国法の法原則の下でイスラーム法適用を認めてい
た一方で、ロシアがロシア法とは切り離してイスラーム法を位置づけて、土着の人々がイスラーム法
から「自発的に」離脱しうる装置―すなわち、ロシア人の裁判所への上訴制度―を設けてそこに
イスラーム法改革の期待を抱いていた点に、両者の違いが顕著に表れていると言えよう。
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114
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ロシア 10 月革命後の人民裁判所形成に至る議論の諸相
中
山
顕
名古屋大学大学院法学研究科後期博士課程
1.はじめに
ソビエト政権の樹立から 2 か月を過ぎた 1918 年 1 月 10 日から 18 日までペトログラードのタヴリン
スキー宮殿で開かれた第三回全ロシア労働者・兵士・農民代議員大会においてレーニンは、人民委員
会議 1の活動報告の中で、裁判所が軍隊に次ぐ「支配階級のもう一つの、もっと巧妙な、もっと複雑
な道具」であり、
「秩序を擁護するかのように見せかけながら、実際には、非搾取者を仮借なく抑圧し、
財布の利益をまもる盲目的な、巧妙な道具」2であると糾弾したうえで、この問題に対するソビエト政
府の取組みを次のように述べた。
「われわれが旧裁判所を改革しないで、一挙にそれを破壊にゆだねたのを、彼らがやかましく言う
なら言うがよい。われわれは、そうすることによって、真の人民裁判所の道をひらき、しかも弾圧の
力によるよりもむしろ大衆の実例によって、形式的な手続をぬきにして、勤労者の権威によって、搾
取の道具としての裁判所を、社会主義の強固な原則にもとづく教育の道具にしたのである」3、と。
、、
同時にレーニンは、このような変革が一挙に達成されるものではなく「社会主義への過渡期をはじめ
たにすぎない」
(傍点、原文ママ) 4とする認識も決して忘れることはなかった。
ここで言う「搾取の道具」としての既存の裁判所を廃止し、新たに「社会主義強化のための教育の
道具」へと創りかえんとする革命後の裁判所創造過程は、その変革の契機を「大衆の実例」に求めた
ことで、レーニンら革命政府の示す方針とそれが実施される現場との間に一定の緊張関係を内在させ
ながら、他方では権力機構の内部において未だボリシェビキによる一党支配体制が確立されていない
状態における多様な議論の可能性を内包しつつ、革命の流動的な状況の中での試行錯誤のプロセスで
あったといえる。
この時期の裁判所建設に関する重要法令としては、裁判所に関する布告第 1 号(1917 年 11 月 24 日
公布) 5、同布告第 2 号(1918 年 2 月 15 日公布) 6、同布告第 3 号(1918 年 7 月 20 日公布) 7および
人民裁判所規程(1918 年 11 月 30 日公布) 8がまず挙げられる。裁判所に関する上記 3 布告は、それ
ぞれ「後法が前法の発展、補充」
(布告第 2 号前文および布告第 3 号前文)と関連付けられており、そ
1
「人民委員会議」
、
「人民委員」、
「人民委員部」の名称は、革命前および 1946 年以降の「大臣会議」、
「大
臣」、
「省」にそれぞれ該当する。参照、稲子恒夫『ロシアの 20 世紀―年表・資料・分析』(東洋書店、
2007 年)92 頁。
2
В.И. Ленин «Полн. собр. соч.» т.35., стр.270.『レーニン全集』第 26 巻 472 頁。
3
Там же, стр.270. 同、472 頁。
4
Там же, стр.271. 同、473 頁。
5
«Декреты Советской власти» т.1., М., 1957, стр.124-126.
6
«Декреты Советской власти» т.1., М., 1957, стр.463-474.
7
«Декреты Советской власти» т.3., М., 1964, стр.16-18.
8
«Декреты Советской власти» т.4., М., 1968, стр.97-111.
115
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れらを集成して体系化をはかったのが 1918 年の人民裁判所規程である。ここで、布告第 2 号だけが、
レーニンらボリシェビキによる立法ではなく、当時彼らと共にソビエト権力の内部で司法部門を担当
した左派社会革命党(以下、左派エスエル)により立法がなされたという事実は、後の社会主義体制
のもとで形成される裁判所制度の理解に対して次の点について留意を促す。
それは、左派エスエルの裁判所建設に対する基本的な立場が、徹底した旧裁判所の破壊と創造を主
張したボリシェビキとは異なり、その行き過ぎた解体に反対し、民主的変革を展望したために、ボリ
シェビキとの間にはしばしば衝突と妥協が存在したということである。そもそもボリシェビキにとっ
て左派エスエルとの合流は、社会革命党の基盤である農村からの支持を獲得することで 10 月革命の
「クーデター」のボリシェビキに向けられた非難を幾分か和らげ、また近く開催される予定であった
憲法制定会議における多数派(社会革命党勢力)を分断する狙いがその背景にあったとみられ 9、こ
のような革命の過渡的状況における政治力学が、奇しくもこの時期を対象とした司法分野で歴史研究
の余地を生み出したのだと言える。
このように布告第 2 号のある種、異質な存在は、最終的には左派エスエルが政策上の不一致を理由
として政権を離脱した後、布告第 3 号以後から人民裁判所規程に至る立法において大幅に修正された
ため、布告第 2 号の意義はこれまで正当に評価されてこなかった。しかし、例え一時的であったとし
ても、左派エスエルが主体的に立法過程に関った事実を抜きにして社会主義ソビエトの人民裁判所の
本質を捉えようとすることもまた不可能なように思われる 10。本稿は、この様な観点から布告第 1 号
および布告第 2 号の制定過程とそこから読み取れる左派エスエルの裁判所構想を中心として、ソビエ
ト初期における人民裁判所の形成過程の再構成を試みるものである。
2.左派エスエルの裁判所構想の基本理念
ここでは先ず、左派エスエルが革命後の裁判所制度についてをどのような構想を持っていたのかを
知る手がかりとして、彼らが人民裁判所の基礎に据えた次の三つの原則、すなわち、
(1)裁判官の選
См. Р. Пайнс «Русская революция. —Большевики в борьбе за власть. 1917-1918.» т.2., М., 2005. стр.255.
従来のソビエト法学史において 10 月革命期の裁判所制度建設における左派エスエルの影響は十分に評
価されているとは言い難い。例えば、パルトノーフは左派エスエルが布告第 1 号の採択に最後まで抵抗し
ながらも、最終的にはボリシェビキの草案を承認した事実に即して、当該布告内容における「左派エスエ
ルの影響はありえなかった」と断定し、人民の法意識形成の場面においても「旧制度を擁護した左派エス
エルの影響は否定的に働いた」と結論付けている。См. В.П. Портнов, М.М. Славин «Становление правосудия
Советской России (1917-1922 гг.)» М., стр.21.
これに対して、ブーコフは「ボリシェビキに対抗するほぼ唯一現実的なオールタナティブ」としての左
派エスエルの構想を積極的に位置付け、初期の裁判所制度形成過程における両者の妥協的性質を浮かび上
がらせている。См. В.А. Буков «От российского суда присяжных к пролетарскому правосудию—у истоков
тоталиаризма» М., 1997, там же «От российского суда присяжных к пролетарскому правосудию
ч.2.—социалистическое (классовое) правосудие: от идеи к реализации» М., 2006.
近年ロシアでは公文書の公開、出版の動きが進み当時の史料に基づいた立法過程の再構築を試みたマク
シモーヴァの研究なども見られる。См. О.Д. Максимова «Законотворчество в советской россии в 1917—1922
годах» М., 2011.
日本では、藤田勇が、布告第 1 号の制定過程でのソビエト政権内部における左派エスエルの抵抗につい
、、、、、
て触れている。その際、藤田は、ソ連初期の裁判所形成過程の研究には、少なくとも、布告第 1 号から人
民裁判所規程の成立に至る約一年間のプロセスの検討が必要であることを慧眼に指摘する。参照、藤田勇
(東京大学出版会、1982 年)、59 頁以下。
『ソビエト法史研究―1917-1938』
9
10
116
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挙制、
(2)合議制の裁判、
(3)裁判官の自由な法創造、について問題の整理を試みることにする。こ
の三原則は、左派エスエルのシテインベルグ司法人民委員が第三期全ロ中央執行委員会での布告第 2
号の読会において「布告に貫かれる基本原則」として述べているものでもある 11。読会の中でシテイ
ンベルグが「我々が旧裁判所、すなわち貴族、教会、ブルジョワの裁判所に裁判権を与えてはならな
いとすれば、それはまさに彼らが抑圧者階級の出身であるがためである」 12と述べていることからも
分かるように、これらの原則とてその階級的性格を免れていないことは一定の留意が必要とされよう。
ブーコフは、ボリシェビキと左派エスエルが旧裁判所の廃止という原則では一致していたが、その解
体のプロセスや新しい裁判所の構想をめぐって、両者には本質的な意見の隔たりがあったとしてい
る 13。以下、順を追ってこれらの原則について見て行くことにする。
(1)裁判官の選挙制
シテインベルグのもとで司法人民委員代理を務めたシレイジェルは、その著書において、裁判官の
選挙制について、帝政時代の裁判官の任命制に代わる「10 月革命の偉大な成果」であるとして、「そ
のような要求が革命以前からほとんど全ての社会主義政党の主張の中に見られた」ことを著してい
る 14。社会革命党の 1906 年の党綱領においてもそれは「議員および裁判官を含む全ての国家公務員の
選挙と随時の交代」として明記されている 15。
だが、シレイジェルによれば、裁判官の任命制をとった 1864 年の裁判諸法の下では、大臣が皇帝に
提出する候補者の名簿に自分の手兵(ставленик)の名を連ねることが常に行われていたことが述べら
れている 16。このような前提の下では、裁判官の選挙制を採用することによって従前の終身制が廃止
されることで、裁判官が再選を意識して大衆に迎合的になり、裁判官が自らの良心に従うことなく、
裁判官の独立を侵すことにすらなりかねないと危惧するブルジョワ法律家は、したがって解任の要件
さえ厳格に守られるならば、たとえ任命制であっても終身制が保障される旧い制度のほうを支持する
という見解に対して、シレイジェルは「裁判官はむしろ人民の不断の統制のもとに置かれなければ、
現実から遊離した学説や実生活に根差ざさない法(そのような法はいずれ消滅する)にしたがって判
決を書くだけの存在となり、そのような裁判官こそ人民の良心や、新しい人民の法を実現することが
できない」と述べ、そのような考えが誤解に基づいていると説く 17。
左派エスエルが一貫して裁判官の選挙制の支持者であったのは、彼らが行政権力からの裁判官の独
立に意義を見出し、選挙という直接的な手段を通じて裁判官を人民の意思へと近づけ、社会に対する
裁判官の責任を担保することによって、民主的に正当化された権威が裁判官には与えられるべきであ
ると考えたがゆえあった 18。
第3期全ロ中央執行委員会 1918 年 2 月 15 日議事録、ГАРФ, ф.1235, оп.18, д.6, л.52.
Там же, л.53.
13
См. В.А. Буков «От российского суда присяжных к пролетарскому правосудию ч.2.—социалистическое
(классовое) правосудие: от идеи к реализации» стр.
14
См. А. Шрейдер «Народный судъ» М., 1918. стр.37.
15
См. «Партия левых социалистов-революционеров—Документы и материалы июль 1917г. —май 1918г.» т.1.,
М., (РОССПЭН), 2000. стр.681.
16
См. А. Шрейдер «Народный судъ», стр.35.
17
Там же, стр.36.
18
См. В.А. Буков, указ. соч., стр.67.
11
12
117
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他方、ボリシェビキにとってのこの問題は、1903 年の党綱領のなかで既に「プロレタリア民主主義
は、
『人民による裁判官の選挙』というブルジョワ民主主義の公式に代えて、
『勤労者のみによって選
ばれる勤労者出身の裁判官』という階級的スローガンを提起する」として、
「ソビエトにより選ばれる
裁判官」がソビエト権力の布告と社会主義的法意識とに従って「プロレタリアートの意思」を実現す
るものであると明記されていたことからも明らかなように 19、裁判官には階級的利益を実現するため
の行政機構の一部としての役割が与えられているに過ぎず、権力分立の原則は国家を管理する目的に
おける「機能的分配」を意味するものであった。ボリシェビキにあっては、行政権力から独立した裁
判官が想定される余地は初めから見られなかったのである 20。したがって、ボリシェビキにとって、
左派エスエルの上述のような議論は、
「人民による裁判所の組織原理」をそもそも布告に取り入れるこ
と自体が受け入れ難いものであった以上に、裁判官の独立のようなブルジョワ的理解を「ひっそりと
持ち込む試み」として、それらは「恥知らずの欺瞞」と称され徹底的に排除されたのであった 21。
シテインベルグは、布告第 2 号の読会に際して「我々の裁判所は、階級的な外皮をまといながらも、
その内部には全人類的な価値を内包するものであり、裁判所がもたらす階級的真実は、すなわち全人
類的真実である」 22と述べ、階級的裁判所が他の階級にとっての抑圧手段へと転化する「疑念」を否
定している。もちろん、ここに自分たちの階級的裁判所を正当化する意図が込められていたことは言
うまでもないが、彼らの言う「全人類的価値」に含まれるであろう民主的価値と階級性とはどこかで
調和可能なものとして把握されていた。
(2)合議制の裁判
次に、シテインベルグが取り上げている合議制の原則については、彼がこの原則について語ってい
るのは主に陪審制の改革に向けた議論の中である。
彼が「かつての単独の管区裁判所裁判官に代えて、
我々は合議制の原則(принцип коллегиалный)を導入した」 23といったとき、それは従来の陪審制に
おいてこれまで権限が「制限されていた」と彼らが考えるところの陪審員に対して裁判官と同等に、
量刑まで含めた広範な権限を付与することを意味していた。彼はまた従来の陪審員が「ただ座って事
件を傍観している」だけであり、その名称も「宣誓した参加者(присяжные заседатели)
」という意味
を表わしている点に触れ、新しい布告では「宣誓が廃止された」ことを理由に、これを単に「12 名の
参加者(заседатели)
(以下、人民参審員と呼ぶ。
)
」と呼び、彼等に事件の全面的な評価を委ねるのだ
と言っている 24。この時点ではあくまで陪審制を改革する枠の中で参審的要素を導入しようとしてい
る点に留意が必要とされよう。
その他にもこの合議制の原則は、例えば訴額の大きな民事事件においては裁判官 3 名と人民参審員
4 名という参加のヴァリエーションを持ったり、従前の単独の予審判事に代えて 3 名の委員からなる
取調委員会を設けるなど、裁判手続全体に幅広く貫徹されている。
См. «КПСС в резолюциях и решениях съездов конференций и пленумов ЦК» т.2, М., 1970. стр.47.
См. например, П.И. Стучка, Старый и новый суд «Материалы народного комиссариата юстиции» Вып.II,
М., 1918, стр.14.
21
См. В.А. Буков, указ. соч., стр.68.
22
ГАРФ, ф.1235, оп.18, д.6, л.53.
23
Там же, л.53.
24
Там же, л.54.
19
20
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(3)裁判官の自由な法創造
民主的選挙で住民の間から直接選ばれた職業裁判官とそれと同等の権限が与えられる人民参審員に
は、旧法の規定に拘束されること無く、自由な法的実践が要求された。それは人民裁判所が現行の法
規に拘束されないことを意味するものであったが、シテインベルグの場合、旧法適用を否定する際に
は、何らかの理由を示すことを要求し、そのような枠組みの中で裁判官および人民参審員には「法創
造の可能性が付与されるのである」と述べている 25。
裁判官の自由な法創造の課題は、革命期においては旧法適用の問題として現れることになる。法律
家であったレーニンが、抽象的な「革命的良心」や、
「革命的法意識」といった言葉を用いることは滅
多になかったと述べるブーコフは、このような用語が、むしろ左派エスエルの論者によって用いられ
ていたことを指摘する 26。
例えば、シレイジェルは、旧法に代え新たに「革命的良心が裁判官の法創造という形で現われる」
ことに期待し、そのための機会が裁判官に与えられる必要を説いている 27。未だ旧法に代わる法が存
在しない状況においては、旧法の適用に先立ち、
「何が可能で、何が不可能なことなのかを明確にする
ことが裁判官に委ねられているのである」 28、と。
以上、ここまで左派エスエルが新しい裁判所の基本原理として掲げた 3 つの原則について概観して
きた。以下では、それが、布告第 1 号および布告第 2 号の中においてどの様な議論を経て制度化して
いくことになるのか、その立法過程と共に見て行くことにする。
3.裁判所に関する布告第1号
(1)布告第 1 号の制定過程
社会主義ソビエトの裁判制度形成にとってその端緒となった法令は 1917 年 11 月 22 日に人民委員会
議により採択され、同月 24 日にプラウダ紙に公表された裁判所に関する布告第 1 号である 29。この布
告は、1917 年 11 月 10 日の全ロ中央執行委員会でボリシェビキのストゥーチカにより最初の草案が報
告され、その後 5 名の代表から組織される法律委員会に草案の審議が付託された 30。布告草案は、11
月 16 日の人民委員会議において前日に臨時司法人民委員代理に任命されたばかりのストゥーチカに
より「革命裁判所ならびに旧裁判所の閉鎖および解散に関する」布告案として報告された後、ルナチ
ャルスキー、トロツキー、ストゥーチカ、スターリン、スコーリニコフと軍革命委員会の代表から編
成された小委員会が組織され、同委員会は翌 17 日の朝までに人民委員会議に対して布告の最終草案を
Там же, л.56.
См. В.А. Буков, указ. соч., стр.207-208.
27
См. А. Шрейдерь, указ. соч., стр.7.
28
Там же, стр.7.
29
この布告の名称としては、後に出された同布告第 2 号および第 3 号との関係から「裁判所に関する布告
第 1 号」と呼ぶのが通例であるが、議事録の中では広く「革命裁判所に関する布告」として扱われている。
本稿においても議事録からの引用部分については、原語表現に従って「革命裁判所(революционый суд)」
の訳語を用いた。См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР.» стр.21-28.
30
«Протоколы заседания ВЦИК II созыва» М., 1918. стр.54. 裁判所に関する布告第 1 号の立法作業の経過に
ついては、См. Е.Н. Городецкий «Рождение советского государства» М., 1965. стр.328-329.参照、藤田・前掲
注(10)76-77 頁。
25
26
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提出することとなった 31。しかし、17 日に人民委員会議は開かれず、同日昼の全ロ中央執行委員会幹
部会では、最終草案の検討を各会派に提案し、同日中の全ロ中央執行委員会で審議することが了承さ
れた 32。しかし、これも実現せず、19 日に全ロ中央執行委員会幹部会は、先の法律委員会に対して幹
部会の指示に従い布告草案を再検討することを要請している 33。同 19 日には人民委員会議でも布告草
案が再度審議に付されるが、このときは中央執行委員会への布告案の提出は見送られている 34。最終
的に、革命裁判所に関する布告案は、11 月 22 日の人民委員会議で、全 8 条についての逐条審議が行
われ、続くトロツキーの付帯決議が採択された後に採決に回され、賛成多数で可決された。なお、こ
のときボリシェビキのエーセンと左派エスエルのカレガーエフが反対している 35。
トロツキーの付帯決議の内容は 1)すでに布告案が人民委員会議およびその委員会ならびに中央執
行委員会の部会において繰返し審議がなされ、相当の部分において矛盾が取り除かれたこと、2)全ロ
中央執行委員会における布告案の採決が裁判所に関する問題とは関係のない理由により阻まれている
こと、3)ソビエト政権にとって革命裁判所を欠くことは、非行行為、反革命的行為およびサボタージ
ュへの措置を持たないという由々しき事態を招くこと、4)人民委員会議は緊急の場合には独立して布
告を採択し、事後的に全ロ中央執行委員会の承認を得ることが前例および中央執行委員会の決議によ
って認められていることを述べ、したがって 5)人民委員会議は中央執行委員会の権限を何ら侵害す
るものではない旨が確認されている 36。ここで人民委員会議単独での布告採択の根拠として持ちださ
れている「中央執行委員会の決議」とは、11 月 17 日付の「全ロシア中央執行委員会および人民委員
会議の関係に関する」全ロシア中央執行委員会の命令 37を指しており、そこには「全ての立法的アク
トおよび重要な政治的意義を有する命令が、全ロシア中央執行委員会において審議され、承認される」
(第 2 項)ことを原則としながら、
「人民委員会議が、全ロシア中央執行委員会に対する責任の下で反
革命との闘争に関する措置を直接講じる」
(第 3 項)ことを例外的に認めていた。当初、ボリシェビキ
主導の人民委員会議の中でさえ「急ぐ必要は全くない」とされていた裁判所の問題が 38、果たして「反
革命との闘争」に関する緊急を要する問題であったのかは、疑問が残るところだが、レーニンらボリ
シェビキが布告の制定を急いだ理由はそれとは別にあったと考えられる。それは、左派エスエルが近
く政権に参加する際の条件として司法人民委員部を彼等に「明け渡す」ことが前もって約束されてい
たことであり 39、実際に、左派エスエルのシテインベルグが司法人民委員に任命された 12 月 9 日の人
31
このとき、同時にルナチャルスキーに対して革命裁判所に関する布告に付する宣言案(前文)の提出が
委任されたが、結局この宣言が採択されることはなく後に「革命と法」というタイトルで 1917 年 12 月 1
日付プラウダに掲載された。参照、藤田勇『ソビエト法理論史研究―1917-1938』(岩波書店、1968 年)
32 頁、同 42 頁。
32
当日の幹部会には、ボリシェビキからはスベルドロフとアバネーソフのニ名、左派エスエルからはプロ
ーシヤン、カムコーフ、スピリドーノワの三名が出席した。ГАРФ, ф.1235, оп.32, д.2, л.3.
33
ГАРФ, ф.1235, оп.32, д.3, л.6.
34
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР.» стр.28. ゴロデツキーは、布告第 1 号の
制定過程の錯綜を当時の緊迫した状況の中で人民委員会議と全ロ中央執行委員会とで立法作業が行なわれ
たことは事実であると認めながら、両者が別々の布告案を準備していた可能性については否定している。
См. Городецкий, указ. соч., стр.329.
35
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР.» стр.43-44.
36
Там же, стр.44.
37
«Декреты Советской власти» т.1., М., 1957. стр.102.
38
См. П.И. Стучка «Революционная роль советского права» М., 1934. стр.107.
39
См. В.А. Буков «От российского суда присяжных к пролетарскому правосудию ч.2.—социалистическое
(классовое) правосудие: от идеи к реализации» М., 2006. стр.9.
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民委員会議では「裁判所に関する布告は破棄されるべきではない」とする決議が採択されていること
からも、ボリシェビキの一種の警戒心がうかがわれよう 40。
(2)布告第 1 号をめぐる論点
先の経緯によりボリシェビキ「主導」で制定された布告第1号は、帝政期の全ての旧裁判機構の廃
止(第 1 条)
、治安判事制度の効力停止と新設の地方裁判所への事件の移管、破棄審としての地方裁判
官大会の創設(第 2 条)
、予審判事、検察、弁護士制度の廃止(第 3 条)、司法機関の事務移管(第 4
条)、革命的良心、革命的法意識に矛盾しない限りにおける旧法の適用(第 5 条)、仲裁裁判所
(третейский суд)の創設(第 6 条)、特赦および復権の司法権への移管(第 7 条)、革命法廷
(реводюционный трибунар)の創設(第 8 条)の全 8 条から成る極めて簡素な法令で、そこでは焦眉
の課題における基本的な原則についてだけ定めを置いているのが特徴である。
ボルシェビキ、この場合とりわけ、草案起草者であったストゥーチカにとっては、布告第 1 号の内
容には、次の 3 つの妥協点があったと推測される 41。それは1つには、旧裁判機構を全廃するのでは
なく治安判事裁判所についてはその活動を停止するに止めたこと、2 つには、旧法を廃止せずにその
適用を限定的に認めたこと、3 つには、民主主義的な選挙による裁判所の原則を採用したことである。
以下、順にそれを見て行く。
①治安判事裁判所の停止と地方裁判所の創設
「草案と布告とを比較したとき、布告は、ある問題において途中、立ち止まっていることに気付く。
布告は、全ての裁判所を廃止したが、治安判事裁判所の管轄だけは、地方裁判所へと引き渡し、その
他の事件は、特別な布告が出されるまでの間停止された。
」ストゥーチカは、自ら布告第1号の起草過
程を振り返りこう述べている 42。
それは、草案では治安判事裁判所も含めた全ての旧裁判施設の廃止を唱えていたはずのものが(草
案第 1 条)
、実際の布告では「既存の裁判施設、すなわち、管区裁判所、控訴院、最高法院およびその
全部局、一切の名称の陸海軍裁判所ならびに商事裁判所を廃止し、民主主義的選挙にもとづいて構成
される地方裁判所(местные суд)をもってこれに代える」
(第 1 条第 1 項)としながらも、治安判事
裁判所だけは「その活動を停止」し、
「これまで間接的に選ばれていた治安判事に代えて、常任の裁判
官と期間ごとの順番を定めた特別の名簿にもとづいて招聘される 2 名の参審員からなる地方裁判所を
設置する」
(第 2 条第 1 項)となったことを指している。
ここで新しく設置された地方裁判所には、草案段階からすでに「1 名の裁判長と 2 名以上の構成員
からなる裁判所」
(草案第 6 条)という形態が基本とされており、これには 2 月革命期の臨時政府がド
イツの参審制を参考にした治安判事制度改革の構想がその基礎にあったと思われる 43。
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР» стр.95.政権への参加条件として左派エ
スエルは司法臣民委員部のほか地方行政、内務、農業、郵便電信、教育・文化の各人民委員部の長または
それに準ずるポストに党員 7 名を任命することを要求した。Там же, стр.95-97.
41
ストゥーチカ草案は、Материалы НКЮ, вып.2., 1918. стр.103-104.に掲載されている。
42
П.И. Стучка, Пять лет революции права, стр.5.
43
帝政期の治安判事制度は、一度廃止されたが、2 月革命後に臨時政府がこれを新たに改革し復活させよ
うとしていた。そこでは、ドイツに倣い参審制の要素を取り入れて 1 名の裁判長と 2 名の構成員が郡会に
よる選挙で選ばれる案が提起されていた。See, Browder and Kerensky, ibid., pp.234-236.
40
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さらに布告第 1 号では、地方人民裁判所の管轄を「訴額 3000 ルーブル以下の全ての民事事件、および
2 年を越えない自由剥奪刑または付帯私訴が 3000 ルーブルを超えない刑事事件」と定め、その判決に
ついて上訴は行えず、例外的に郡または首都の地方裁判官大会(съезд местных судей)への破棄の申
立てが認められるのみであった(第 2 条第 4 項)
。
裁判所のこのような再編は、帝政期の裁判所体系が、最高法院を頂点して、その下に控訴院、管区
裁判所からなる通常裁判所の体系と、それとは別の「地域の裁判所」として各郡に配置された治安判
事裁判所との二元的構成をとっていたことを前提とすれば 44、布告第 1 号では前者の系統の裁判所を
廃止し、後者の系統を新たに地方裁判所として再編していることが読み取れる。
シレイジェルは、この裁判所の規模が、住民の利益と要求に応えるためには、できれば郷(волость)
ごとに設けられることが望ましいと考えていたが、それでは維持費用がかさみ、訴訟費用の高額化を
招きかねないため、もう 1 つ上の郡(уезд)ごとに設置するのが適当であると述べている
45
。そこで
は、地域のことを良く知り、住民から尊敬され、選挙で選ばれた裁判官1名が、勤労者の中から名簿
にもとづいて抽選で選ばれる人民参審員 2 名と共に協力して裁判を行うことが述べられているが、当
該勤労者からは、土地所有者や、工場および会社の経営者という、いわゆる有産階級の者は排除され、
それらの者が名簿に登録されることはないとされる 46。また、彼は、常任の裁判官には帝政時代の治
安判事が多数選出されるであろうとも述べている 47。布告第 1 号第 2 条第 3 項には草案では見られな
かった「従来の治安判事は、同意した場合には、一時的にはソビエトにより、最終的には直接民主主
義的な選挙により選出される権利を奪われない」とする規定が追加されているのも、このような考え
によるものと思われる。
だが、実際には、
「技術的に最も精通した人々が職務を放棄し、新しい人民の裁判所の創造を望まな
かった。
」のであり、
「この不足は確実に新裁判所の創造を遅らせ、新旧の制度移行を遅らせることに
なる」 48とシレイジェルが述べているように、旧法律家の多くが革命政府に協力せず、その職務を放
棄するか、ときには、事件の資料を持ち出し、廃棄して革命政府の妨害をしたのであった。
②旧法の適用
旧法の適用については、ストゥーチカがこの問題について「布告第1号では可能な限りの譲歩をし
た」と述べるように、ボルシェビキにとって明らかな後退を意味した 49。
布告草案では「裁判官は、判決において打倒された政府の成文法にではなく、人民委員会議の布告、
革命的良心および革命的法意識に従う」
(草案第 6 条)とされており、この規定については当初から他
の同士達の間ですら物議を呼んだと自ら振り返っている。このときレーニンが示した次善策が「その
判決において、それが革命によって廃止されておらず、かつ革命的良心および革命的法意識に反しな
い限りにおいてのみ、打倒された政府の法に従う」
(第 5 条)という条文に「労兵農ソビエト中央執行
44
帝政期の陪審制については、参照、高橋一彦『帝政ロシア司法制度研究―司法改革とその時代―』
(名古屋大学出版会、2001 年)125-126 頁。ロシアでは、帝政期の 1864 年皇帝アレクサンドル二世による
司法改革で初めて陪審制度が導入された。帝政末期の 1914 年には 110 地方裁判所管轄区があった。
45
См. А. Шрейдерь, указ.соч., стр.13.
46
Там же, стр.16.
47
Там же, стр.17-18.
48
Там же, стр.9.
49
См. П.И. Стучка, Старый и новый суд, стр.10.
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委員会および労農政府の布告ならびにロシア社会労働党および社会革命党の最小限綱領に抵触する法
律は全て廃止されたものとみなす」
(第 5 条備考)を付け加えるというものであり、最終的にはこの案
に落ち着いた 50。これについてストゥーチカは後に「確かに、この公式は、ある種の不安定性をとも
なうが、簡明で分かりやすい。それは 16 巻の旧法典の中でいまだに効力を有するものは何なのか、革
命によって廃止された法は何なのかという問題の解決を人民に要求したのである」51、と述べている。
③裁判官の選挙制
布告第 1 号において「民主主義的選挙によって構成される地方裁判所」
(第 1 条第 1 項)の規定が置
かれ、
「地方裁判所の裁判官は、将来的には直接の民主主義的選挙にもとづいて選出されるが、この選
挙が指定されるまでは、一時的に、地区および郷の、…〔中略〕…、労兵農代議員ソビエトによって
選出される。
」
(第 2 条第 1 項)と規定された。しかし、草案では、
「裁判官の民主主義的選挙」という
文言は用いられておらず、先に見たボリシェビキのこの問題に対する立場も比較的はっきりとしてい
たことから考えればそれは当然のことであった。ところが実際の布告条文においては、将来の展望と
しての民主主義的選挙の「公約」が掲げられている。ストゥーチカはこれを「憲法制定会議の幻想」52
と「左派エスエルへの配慮」が影響したと述べ、当時の革命政府としては革命前までは惜しげもなく
約束されていた民主的革命の理念が捨て去られない限り、大衆に分かりやすく、
「大衆が抱いた幻想」
への期待を裏切らないスローガンで彼らを鼓舞する必要があったのだと回想している 53。
この点に関しては実際の布告の内容は、左派エスエルにとっても後退を意味した。布告第 1 号にお
ける裁判官の選任過程に、過渡期であるとはいえ、ソビエトによる裁判官の選挙を容認したためであ
る。これは彼らが主張していた裁判官の独立を損ね、裁判所を国家権力への従属的な組織へと転化し
かねない可能性をはらむ内容であった。
プロレタリア独裁を一般民主主義の発展形態とみなし、権力分立の原則を否定したボルシェビキに
とって 54、裁判官の選挙制は、何の意味もなさなさず、布告第 1 号の制定に際して、レーニンらボル
シェビキは、
「独立の司法」の機関の創設を考えていたのではなく、都合よく管理する「労働の機能的
分配」を想定していただけであったことは知られている。このため、布告中の民主主義的選挙につい
ての規定が、当面は「ソビエトによる選挙」という文言によって凍結されることになるのは当然の帰
結だったのである 55。
4.裁判所に関する布告第 2 号の制定過程
См. П.И. Стучка, Революционная роль советского права, М., 1932. стр.94.シレイジェルは、第 5 条備考を革
命の合目的性による制約を付け加えたものと説明している。См. А. Шрейдерь, указ.соч., стр.8.
51
См. П.И. Стучка, Революционная роль советского права, стр.94.
52
См. В.А. Буков, указ. соч., стр.214.
53
См. П.И. Стучка, Революционная роль советского права, стр.94.
54
ソビエト権力の権力分立の否定については、ストゥーチカの次のような指摘がある「我々にとって、権
力分立の原則は、実生活の中では、労働の技術的分配の意味しか持たない。権力は、ソビエトにおいては、
当然に、立法、執行、司法を内包した単一の権力でなければならない」П.И. Стучка, Старый и новый суд,
стр.14.
55
ブーコフは、国家機構における裁判所が執行権力の「付属物」であるとみなすボルシェビキの理解は、
社会における裁判所の役割の本質を「抑圧」に見出し、裁判所に魅了された勤労者の代表にそれを委ねた
と述べる。См. В.А. Буков, указ. соч., стр.217.
50
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(1)布告第 2 号の制定過程
布告第 1 号で確認された人民裁判所の基本構想は、続く布告第 2 号においてその具体的な制度の内
容が示されることになる。布告第 2 号は、全 39 条から成り、次のことを規定した。管区人民裁判所(第
1 章)
、破棄手続(第 2 章)
、最高裁判監督(第 3 章)、裁判手続および裁判管轄(第 4 章)
、手数料お
よび訴訟費用(第 5 章)
、起訴前取調(第 6 章)
、訴追および弁護(第 7 章)、人民参審員および公判(第
8 章)
、特赦および復権の申請(第 9 章)
、判決の執行(第 10 章)、法律の効力(第 11 章)、雑則(第
12 章)
布告第 2 号が初めて人民委員会議の議題に上がったのは 1918 年 1 月 9 日だった 56。その後同月 15
日にはシテインベルグ司法人民委員による読会が人民委員会議において行われている 57。このときレ
ーニンによる修正案が取り入れられた布告案 58が承認され、翌日の全ロシア中央執行委員会に付託さ
れることが決定された 59。しかし、翌 16 日にストゥーチカ等が、人民委員会議宛に布告案の見直しと
公布の中止とを申し入れ、人民委員会議の採択は見送らている 60。このときボリシェビキのストゥー
チカ、
コズロフスキー、
クラシコフによって提出された申立ては 1 月 30 日に人民委員会議で審議され 61、
その後、最終草案 62が承認され、翌日 2 月 15 日(新暦の採用による)、全ロ中央執行委員会に付託さ
れ、冒頭で紹介したシテインベルグ司法人民委員による読会が行われたのである。この会議では、読
会の後の法案についての審議を行わないことが決議されているが、これには右派エスエルのプンピャ
ンスキーが小委員会での法案の再検討を求めて反対したほか、メンシェビキ・国際派のアヴィーロフ
他 3 名が反対の意思を表明して本会議場を後にしている 63。ここで全ロ中央執行委員会での審議を省
略したの理由は、ボリシェビキのアバネーソフが言うように「すでに本布告案は第 2 期中央執行委員
会によって 2 度、委員会で詳細に検討されたうえ、その後人民委員会議によっても承認されている。
これ以上、委員会審議に付す必要はなく、いたずらに時間を浪費して意味のない議論をするのは無駄
である。
」というものであった様である。これにより、最終的な布告の編集作業は中央執行委員会幹部
会に一任されることとなった。
(2)布告第 2 号における論点
布告第 2 号制定過程の中でストゥーチカ等ボリシェビキが法案に反対したのは次の 5 点であった。
1)
管区人民裁判所において巨額の民事事件審理のために 4 名の人民参審員と 3 名の裁判官で構成され
る合議体(第 3 条)につき、その規模の大きさと、維持費用の観点から廃止を求めた。2)裁判実務を
統一する目的で構想された最高裁判監督(第 6 条)の廃止を求めた。そのような監督は司法〔人民〕
委員部に委ねられるべきであり、法律は最終的に人民委員会議および中央執行委員会が解釈するべき
であるとした。3)打倒された政府の法律を例外的に保護し、革命的法意識に反する法律を認める際に
56
57
58
59
60
61
62
63
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР» стр.198.
Там же, стр.212.
РГАСПИ, ф.2, оп.1, ед.хр.5180.
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР» стр.212.
Там же, стр.221.
Там же, стр.313-314.
РГАСПИ, ф.2, оп.1, ед.хр.5295.
ГАРФ, ф.1235, оп.18, д.6, л.57-58.
124
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特別な理由を要求する規定(第 8 条後段)の削除を求めた。4)人民参審制における職業裁判官の「評
議権」
(第 30 条)ではなく「評決権」という最初の文言に戻すことを提案した。5)特別な法擁護人会
(правозаступичество)
(第 25 条)および新しい弁護人制度(присяжный адвокат)
(第 27 条)の廃止
を求めた 64。この提案自体が布告第 2 号の内容に反映しているとは見られないが、問題の所在がどこ
にあったのかを知る上では重要な示唆を与えている。
以下では、この点を踏まえ、前節で扱った布告第 1 号の論点と関連する範囲で布告第 2 号における
論点を見て行くことにする。
①旧法の適用
布告第 2 号では、旧法適用問題についてより具体的な指示の内容が見られる。
手続法について言えば、
「民事事件および刑事事件の訴訟手続は、それが労兵農代議員ソビエト中央
執行委員会および人民委員会議の布告によって廃止されておらず、かつ、労働者階級の法意識に反し
ない限りにおいて、1864 年の裁判諸法の規則に従う。それを廃止する場合には、裁判所は、旧法およ
びブルジョワ法を廃止した理由を判決に示さねばならない」
(第 8 条)とし、旧手続法の暫定的な適用
可能性を示している。廃止の際には、判決中でその理由を示すことを義務付けた後段はストゥーチカ
らがその削除を申立てた部分である。
実体法領域においては、布告第 1 号から一貫して、政府の布告または社会主義的法意識に反しない
限りでの旧法適用の可能性を残すという公式が踏襲されている。その上で、とくに、民事においては
出訴期限や形式要件を廃し、民事、刑事の双方において「公正な命令」
(第 36 条第1項)や「公正性」
(第 36 条第 2 項)が要求されるようになっている。
②裁判官の召還
布告第 2 号でも、裁判官の選挙については布告第 1 号で確立した「ソビエトによる選挙」の原則が
採られ、管区人民裁判所は、管区ごとに地方の労兵農代議員ソビエトにより(第 1 条)、州人民裁判所
は、州の管区人民裁判所の裁判官会議により(第 4 条第 2 項)それぞれ選出されるものとされた。
布告第 2 号は、これに加え、
「裁判官は、裁判長も含めて、選挙したソビエトにより召還される」
(第
2 条第 2 項)として選挙母体による裁判官の召還制度が設けられていることにも注意を引く。この召
還制度は全ての裁判所に対して採用され(州人民裁判所(第 4 条備考)
、最高裁判監督院(第 6 条第 1
項)
)
、選挙母体による召還の原則を徹底させている。
召還制度は、本来ならば裁判官を執行権力から独立させ、裁判官をより住民に近づけるという意味
を持ち、裁判官の選挙制とは車の両輪をなすものであるとも言える。しかし、布告第 1 号において「ソ
ビエトによる選挙」が採られたことにより、一転してそれは、選挙母体であるソビエトへの裁判官の
依存関係を強化し、裁判官の独立にとって否定的に働くものともなり得た。これに対してシレイジェ
ルは、召還についてはソビエトの単純過半数ではなく 3 分の 2 の特別多数の採用を提唱し、特に慎重
を期すことを主張している 65。
64
См. «Протоколы заседаний Совета Народных Комиссаров РСФСР» стр.316-317.
65
См. А. Шрейдерь, указ.соч., стр.37.
125
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③法擁護人会および取調委員会
布告第 2 号では、訴訟参加者の組織化も図られている。布告第 1 号において「従来の取調官、検察
官、弁護士および代理人制度を廃止する」
(第 3 条第 1 項)とし、それらは、布告第 2 号で、労兵農代
議員ソビエトに附属の「社会的訴追人および社会的弁護人として法擁護活動に従事する者の団体」
(以
下、法擁護人会)
(第 24 条)として再編されている。これは布告第 1 号で「市民権を有する男女の健
全な市民は全て、訴追人および弁護人として、または民事事件における代理人としての役割を果たす
ことができる」
(第 3 条第 3 項)とするいわゆる全人民的訴追・全人民的弁護の原則を具体化した制度
である。この制度では、弁護人も訴追人も、同じ団体の構成員として労兵農代議員ソビエトによる選
任・召還関係のもとで、その職務を遂行することになっている(第 25 条)
。公判において、裁判官、
人民参審員、訴追人および弁護人が一体となって真実の発見に努めることが良しとされ、とりわけ弁
護人はその依頼者の要求に拘束されることはなく、無理な解釈を弄してまで被告人を弁護する必要は
ないものと考えられた 66。また、弁護人は、取調段階から参加できることになっているが「真実発見
の利益」が優先する場合は、その参加が制限される(第 21 条第 2 項)
。
布告第 2 号では、このほかにも捜査取調機関として、
「将来は直接に選挙で選ばれるが、当面は、一
時的に労兵農代議員ソビエトから選出され、3 名の構成員からなる取調委員会」が設置され、これに
管区人民裁判所の刑事事件の取調べが委ねられた(第 21 条第 1 項)
。布告第 1 号では、刑事事件の取
調べは、従来の取調官の廃止にともない、一時的に、地方裁判官が単独で行う 67ものとしていた(第
3 条第 2 項)
、管区人民裁判所の管轄における事件については、裁判所とは別にこの取調委員会があた
ることになった 68。
④陪審制度の改革(人民参審制度)
布告第 2 号では、帝政期の陪審制度の弊害 69を克服するため、先ず「人民参審員は、犯罪事実のみ
ならず、量刑についても決定する。この際、人民参審員は、保釈または刑の免除を含めて、自らの信
念にもとづき、法に定められた刑を減軽することができる。」
(第 29 条第 2 項)として、人民参審員の
権限の強化をはかり、それを裁判官と同等にまで高めた。これにより「一体の裁判官集団(единая
коллегия судей)
」を実質化させ、手続をより簡略化し、両者がより柔軟に、協力して訴訟を遂行する
Там же, стр.63-64.
旧取調官の廃止の理由についてストゥーチカは次のように述べている「我々は、旧い『乱暴者の検察官』
として有名な、独善的で、官僚的な訴追人の従順な召使であった、旧い取調当局も廃止した。しかし、我々
は予審を残した。我々は、それを人民に近づけただけであって、地方の人民裁判所に任せただけである。
我々は、地方の実態をよく知った人民裁判官の面前での取調べのほうが、この若い出世主義者(司法取調
官)による取調べよりもずっと現実的であると考える」(П.И. Стучка, Старый и новый суд, стр.13.)。
68
シレイジェルは、布告第 2 号の取調委員会制度は、1864 年の司法改革における職権探知主義的色彩の濃
い訴訟手続に対して、イギリス型訴訟手続の当事者主義的な起訴陪審制度との折衷をはかったものである
と述べている。См. А. Шрейдерь, указ. соч., стр.68-69
69
シレイジェルが陪審制の問題として挙げている点は、(1)証拠法の分野において、証人の尋問を認める
か否か、書証の提出を認めるか否かの決定に際して、陪審員が関与できなかったこと、(2)裁判官の厳格
な説示に従って「ダー」か「ニェット」の判定しか許されない陪審員は、その意思や行動が制限されてい
たこと、
(3)何より、陪審員と裁判官の役割分担が互いの協力を妨げていることであった。См. А. Шрейдерь,
указ. соч., стр.37-38.
66
67
126
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ことが構想されている 70 。また、シュレイデルは、この「裁判官の一体性」の原則がドイツ参審制を
手本としながら、参審員の任命に際する条件(財産資格や居住要件)を取り除いて、勤労者の裁判所
として発展させたのが人民参審員制度であると位置づけている 71。
しかし、この制度の基本には帝政時代の陪審制があり、そこに参審制からの着想による修正を取り
入れたとみるのが妥当である。その特徴は、12 名の人民参審員に対して訴訟を指揮する職業裁判官に
よる訴訟手続のなかにも見ることができる。シレイジェルは「法に精通した職業裁判官の権威と経験
は、人民参審員の決定に影響するのではないか」、
「裁判長の意見には、たとえ拘束力がなくとも、人
民参審員の決定に影響をもつのではないか」、
そうだとしたら、
「人民陪参審員は、
『ただ退屈な傍観者』
、
『台詞の与えられない端役者』に成り下がってしまいはしないだろうか」と自問しながらも 72、この
ような一般的な危惧が「素人には複雑な法律関係を理解することが困難である」という帝政時代の陪
審に向けられた批判と同じであるとして斥け、
「そのような複雑な法律関係は、将来の立法によって単
純化されるのだから、現在必要とされるのは、そのような法律の知識ではなく常識や生活観を裁判の
場に反映することである」 73、と述べている。また、だからこそ、手続においてはできるだけ人民参
審員の活動に対する制限を取り除かなければならず、さしあたりこの問題への対応として、布告第 2
号では「裁判長の意見(заключительное слово)
」が廃止されていることを挙げている。裁判長は、
「法
にしたがって刑罰について結論を下すのみである。裁判長は、評議権をもって人民参審員の評議に参
加する。
」
(第 30 条)として、裁判長の権限を制限する規定が設けられた。ここで裁判長は「評決権」
こそ持たないものの、
「評議」には参加するとしている点は、先に触れたストゥーチカ等がこれに反対
して裁判官にも「評決権」を認める旨の提案をしている。
さらに布告第 2 号では「人民参審員は、公判における取調べに参加し、手続中いつでも、その審議
のために裁判長を解任させる権利を有する」
(第 29 条第 1 項)として、裁判長の解任権を人民参審員
に委ねている。シレイジェルによれば、このことは裁判官が評議に際して慎重に行動し、自らの意思
を人民参審員に押し付けることを自制させるのだという 74。ここで、彼は「裁判長は議長席を去らね
ばならなくなる」ということが、評議室における裁判長と参審員との実質的な平等関係を担保するも
のと考えたのである 75。
5.むすびにかえて 人民裁判所規程における人民裁判所の一元化
ストゥーチカは、1918 年の論文の中で、管区人民裁判所の将来について次のように示唆している。
「人民裁判所の管轄は『今のところ』3000 ルーブル以下、
〔自由剥奪〕2 年以下である。私が『今のと
ころ』と言ったのは、将来、例外なく人民裁判所の管轄権を拡張する可能性があるからだ。しかし現
在、我々は、より困難な事件のための裁判所『選挙された管区人民裁判所』について議論している。
Там же, стр.39.
Там же, стр.39.なお、ストゥーチカは、後に、地方人民裁判所のことについて、ドイツ参審制とは異なる
ものと述べている。彼によれば、裁判所の構成がドイツのそれと同じなのは、専ら経済的な理由によるも
のであるとされた。См. П.И. Стучка, Старый и новый суд, стр.13.
72
См. А. Шрейдерь, указ. соч., стр.42.
73
Там же, стр.41.
74
Там же, стр.43.
75
Там же, стр.43.
70
71
127
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それは、3000 ルーブルを越える民事事件を管轄し、重大な刑事事件は、『かつての陪審裁判所である
が、人民からのみ選ばれる人民裁判官の裁判所』によって審理される。ブルジョワ制度の残滓は、未
だに我々をして専門家から構成される上級裁判所を創設することを余儀なくさせている。我々はこの
現象が過渡的なものであると信じている。なぜなら、大規模な国民的な紛争は消滅し、新しく選挙さ
れた管区人民裁判所は、時がたてば、地方人民裁判所と統合するからである。そこでは最も重大な事
件については参加する人民の要素が強化され、6 名以上 12 名未満の当番制の人民参審員から構成され
る」 76、と。
ボルシェビキにとって布告第 2 号における管区人民裁判所は、
「法の死滅」とそれに伴う「訴訟の減
少」により、いずれは地方人民裁判所に一元化されるものと考えられていた。ここで、上記ストゥー
チカからも読み取れるように、これは、その後「人民裁判所の一元化」の過程として展開されること
になる。1918 年 3 月にブレスト講和条約を巡るボリシェビキとの対立が決定的となり左派エスエルが
ソビエト政府を離脱することで彼等の影響は完全に失われた。ここでは、その後の人民裁判所建設の
中で布告第 1 号および布告第 2 号の理念ないし制度がどう生かされ、または変容したのかを、これま
で見てきた議論の一応の帰結として確認しておくことにする。
①裁判所に関する布告第 3 号
人民裁判所の一元化に向けて司法人民委員部が最初に着手したのは、地方人民裁判所の管轄の拡大
であった。1918 年 7 月 13 日制定の裁判所に関する布告第 3 号により民事事件および付帯私訴につい
ては訴額 10000 ルーブルまでの事件が地方人民裁判所の管轄とされ(第 4 条)、刑事事件については一
部の重大事件(殺人、強姦、強盗、組織的犯罪、通貨偽造、贈収賄および投機)を除く全ての刑事事
件をその管轄とし(第 1 条)
、これに 5 年以下の自由剥奪刑を科すことができると規定した(第 3 条)
。
コジェブニーコフによれば、このような地方人民裁判所の管轄権拡大や刑罰適用権限の強化は、立
法者がすでに単一の人民裁判所を想定していたことを示唆するものであったのであり 77、その後間も
、、、、、、、、、、、、、、、、
なく出された司法人民委員の通達においても「単一の人民裁判所が導入されるまで、地方人民裁判所
は次の管轄を有する〔傍点、筆者〕
」
(第 13 条)と明記されたことからも、布告第 3 号では、すでに将
来の単一人民裁判所への移行が視野に入っていたことが分かる
また、布告第 3 号では、管区人民裁判所自体は維持されたものの、布告第 2 号でその上訴機関とし
て位置づけられていた州人民裁判所および裁判実務統一のための最高裁判監督院(構想)は廃止され
た(第 8 条)
。
②人民裁判所規程
当初から過渡的な存在とされていた管区人民裁判所は、
1918 年 11 月 30 日の人民裁判所規程(以下、
規程) 78で「単一の人民裁判所」として再編される。規程では、それまでの地方、管区といった区分
はもはや無く、裁判所は全て「単一の人民裁判所」または単に「人民裁判所」として標記されている。
76
П.И. Стучка, Старый и новый суд, стр.13-14.
См. М.В. Кожевников, указ. соч., стр.36.
«Декреты Советской власти» т.4., стр.110.草案は司法人民委員部内法典化局により起草され、その後中央
執行委員会により採択されている。
77
78
128
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そこでの、人民裁判所の構成は、
(1)単独裁判官、
(2)1 名の裁判官および 2 名の人民参審員、
(3)
1 名の裁判官および 6 名の人民参審員となっている(第 5 条)
。このうち、単独の裁判所は、離婚訴訟
や、明らかな手続違反の事件、被疑者の取調べおよび勾留の適法性審査、ソビエト警察機関への捜査
指示および強制処分の変更をその管轄とし(第 6 条)
、6 名の人民参審員の参加する裁判所は、殺人、
強姦、強盗、通貨および証書偽造、贈収賄ならびに国家専売品および正規の消費財の闇取引について
の事件を管轄した(第 7 条)
。その他残る全ての刑事および民事の事件が、2 名の人民参審員の参加す
る裁判所に委ねられた(第 8 条)
。
旧法適用の問題に関しては、規程は「判決において打倒された政府の法を援用することは禁止する」
(第 22 条備考)として明確に否定し「労農政府の布告がなく、または不十分であるときは、社会主義
的法意識に従う」
(第 22 条)とした。これについては、1918 年 7 月 10 日の憲法制定を皮切りに家族
法典や労働法典等、法典編纂作業にも一定の進展が見られ、それに従った裁判実務もある程度蓄積さ
れつつあったという背景があった 79。
一方で、訴訟手続についても規程は、第 7 章(第 53 条-第 73 条)に規定しており、それによれば、
まず、訴訟手続は、市民の請求もしくは労農代議員ソビエトおよび公務員の提案または裁判所の職権
により開始される(第 53 条)
。訴訟当事者である、訴追人および弁護人または民事事件の代理人は、
「事実をより完全に解明するために裁判所を支援する目的において」
(第 40 条)
、法擁護人会から司法
機関の要請にもとづき派遣され(第 44 条)、裁判所はその中から弁護人または訴追人として手続に参
加する者を指名する(第 45 条)
。6 名の人民参審員が参加する刑事事件は、必要的弁護事件となって
いる(第 43 条)。原則として、弁護人は、公判前の取調べにも参加することができるが、
「真実発見の
利益」が優先される場合にはその参加は制限される(第 34 条)
。公判前に行われる取調べは、6 名の
人民参審員が参加する刑事事件については、郡および市ごとに設置された取調委員会に委ねられる。
その他の事件については、裁判官の裁量により、警察職員の捜査取調べで済ませるか、または裁判官
自らがこれを行う(第 28 条)
。被告人および民事事件の当事者には、裁判官および人民参審員の理由
付き忌避が認められ(第 50 条および第 51 条)
、裁判官および人民参審員は自らも回避することができ
る(第 52 条)
。
公判で、裁判長は、公訴事実および訴えの事実を要約し、被告人に対して事実の内容を認めるか否
かを尋問する(第 66 条)
。公判は全て公開で行われる(第 64 条)
。被告人が事実に同意した場合は、
裁判所は、証人の尋問を取り止め、または必要な者にだけ尋問し、最終弁論を行う(第 67 条)
。民事
事件において和解が成立した場合には、訴訟手続は終了する(第 69 条)。公判により事件が十分明ら
かとなったときは、当事者による最終弁論が行われた後、裁判官は〔人民裁判官を含む〕
、判決を出す
ため評議室へと退く(第 70 条)
。判決は、多数決にもとづいて採択される(第 72 条)
。
次に、人民裁判官と人民参審員の選任について見ておくことにする。
規程の第 12 条および第 13 条では、地方人民裁判所の裁判官の資格要件として、(1)労農代議員ソ
ビエトの選挙権および被選挙権を有する者のほか、
(2)党、専門家集団、団体、労働組合、工場委員
会およびソビエト機関などのプロレタリア組織における活動歴を持つ者であるか、または(3)ソビエ
ト裁判官の職務のための理論的および実務的素養があることが要件とされた(第 12 条)。その選出方
79
これについては、参照、上田寛『ソビエト犯罪史学研究』(成文堂、1985 年)43-48 頁。
129
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法については、それぞれの管区内で「候補者の適性についての入念な事前審査」を経た後、管区労農
代議員ソビエト幹部会が指名した候補者の中から、管区労農代議員ソビエトで選出され、裁判官は、
常時、
選挙母体の労農代議員ソビエトまたは労農代議員ソビエト幹部会から召還され得る
(第 13 条)
。
人民参審員について、規程は、その資格をソビエトの選挙権および被選挙権を有する者とし(第 14
条)
、司法管区内の郷または村ソビエトによって 6 ヶ月ごとに人民参審員名簿が作成され(第 16 条)、
名簿は、管区労農代議員ソビエト執行委員会により承認される(第 15 条)80。名簿の中から抽選で1
事件につき予備1名を含む 3 名を、6 名の人民参審員が参加する裁判では、予備 2 名を含む 8 名が人
民参審員として選ばれる(第 17 条)
。
人民参審員は、6 公判日以内で審理に参加し、日当が支払われる(第 18 条)。人民参審員としての
公判への参加は、市民の義務であり、正当な理由なくこれを回避した場合は、罰金(100 ルーブル以
下)が科せられる(第 20 条)
。
規程では、布告第 2 号のときに見られた、人民参審員による裁判官の解任権や裁判官の評決権の制
限といった職業裁判官の影響力を弱めるための措置はもはや見当たらず、人民参審員の権限は「全て
の審理の過程において、事実認定、量刑、賠償額、訴訟の棄却、その他審理過程で発生する全ての問
題について、常任の裁判官と同等の権限を行使する」
(第 9 条)ものとされ、「自らの信念にもとづい
て、量刑を行い、執行猶予つきの判決または刑を免除する判決を言い渡す」
(第 23 条)権限が与えら
れた。
トーカリョフは、人民参審員について革命初期においてはまだ旧法曹の多くが裁判所に存在したた
め、そのような職業裁判官を見張る役割が与えられたと述べているが 81、規程では、布告第 2 号に見
られたような人民参審員が裁判官をコントロールする権限はもはや見られず、殊更に「真実発見の利
益」が優先され、訴訟関係者には、弁護人も含めて、労農代議員ソビエトから選出され、召還される
という原則が貫かれ、裁判全体が糾問的色彩を帯びている。シレイジェルは、布告第 2 号で帝政期の
糾問的手続に英国の当事者主義の要素を取り入れ、その折衷をはかったと述べているが 82、規程には
その路線からの明らかな後退が見られる。
最後に、裁判官の人的資源に関して触れておくことにする。それは上述のような純粋に勤労大衆の
みから組織されるはずであった地方人民裁判所が、実際には、その初期には多くの旧法曹、とりわけ、
旧治安判事が人民裁判官を務めた事例が決して少なくはなく存在したということである。ブーコフに
よれば、1918 年から 1919 年までの間に、ウラジミール、イヴァノヴォの両県で、そのほとんど全て
を旧法曹が占めていたことが紹介されており、タンボフでは 1918 年 8 月の時点で人民裁判官 118 人の
内の 31 人が、サマルでは 1919 年 4 月時点おいて約 40%が旧時代の法律専門家によって占められてい
たとされる 83。
また、ペンザ州の司法委員のように、裁判所から旧法曹を排除しようとするクールスキーの方針に反
なお 1918 年 7 月 23 日付司法人民委員部通達(СУ РСФСР. 1918. №53. ст.597)では、人民参審員候補者
予備名簿を有権者 50 人に 1 人の割合で、党、専門家集団その他の労働者集団にその作成を委ね、地方労農
代議員ソビエト幹部会が個々の名簿の統合と候補者の確定を行うとされている。
81
См. Ю.С. Токарев, К истории созданиа института народных заседателей в советстр. ком суде, «Вестник
Ленинградского университета» №23, вып.IV, ЛГ., 1957, стр.110.
82
См. А. Шрейдерь, указ. соч., стр.72-78.
83
См. В.А. Буков, указ. соч., стр.225.
80
130
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対し、実務に精通した者がそのまま裁判実務にたずさわるほうがよりましであると言い「人民の利益
のためには、わずかな損害を恐れる理由はない」が、裁判官が有害な傾向を見せはじめた場合に、す
ぐにそれを労農政府が阻止するのであれば、それでもよいと述べる主張も当時見られた 84。
法制度上は人民裁判所規程の制定により一応の形成をみせたソビエトの裁判制度も、当面、少なく
とも国内戦の時期を経てネップ期に至るまでの間はその流動的な状況の中での模索が続けられること
になる。
84
См. «Материалы НКЮ» вып.1, М., 1918. стр.29-30.
131
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社会主義ソ連時代の民事訴訟における当事者主義と職権主義
伊
藤
知 義
中央大学大学院法務研究科
1.課題設定
現在有力な考えによれば、西欧の裁判制度においては、裁判官はスポーツの審判と同じ役割を期待
される。ルールに従って、プレーヤーが行った行為を評価して、勝敗を決める。スポーツにおいて正
しい勝敗(結果)というものがないのと同様、裁判においても(内容的に)正しい判決というものは
原則としてない。裁判官が、
「正しい」判決を下すために、当事者の意向に反してその権利義務を認定
したり、自ら証拠を収集してそれを根拠に判断を下したりすることは基本的に許されない(訴訟スポ
ーツ観)1。これと異なり、かつてのソ連では、裁判官が中立的な審判としてではなく、実質的な正義
の発見者・実現者として機能することを要求される制度があったとされる。また、現在の中国におい
ても同様の裁判観が根強く支持されており、裁判所の使命は真実を発見してこれに基づいて当事者の
権利義務を確定することだと考えられている。これによると、真実と異なる前提に基づいて下された
判決は誤った判決だということになり、裁判のやり直しが当然要請されることとなる。確定判決に既
判力がないということになり、これは市場経済の円滑な運営に対し重大な阻害要因となる可能性が高
い。江戸時代までの日本の伝統的な裁判観も、ソ連や中国の裁判観に近い要素をかなり有している。
わが国の伝統的な訴訟観は、
「うったえ型」と称すべきもので、そこでは大岡越前の「三方一両損」
に裁きに見られるように、訴訟当事者が裁判官の面前で、その主張をめぐって闘争し、その勝敗を判
定するという性格は全くなく、裁判官は受動的であるどころか、むしろ事件の解決に主導的役割を演
じ、当事者は「お慈悲」にすがって裁判官から与えられた解決をありがたくお受けする受動的な役割
しか演じない。裁判官も、法によって当事者の一方の勝ちを宣言するのではなく、双方を説得し、歩
み寄らせ、できる限り円満な解決に到達するように努める。これに対し、西洋の訴訟は、ギリシア語
で闘技・競技を意味する「アゴーン的」なものである。裁判官は、スポーツの審判員と等しく、完全
に受動的である 2。
イスラームの裁判は、これらのいずれに近いものであったのか、あるいは全くいずれとも異なるも
のであったのか。イスラームの影響が重要である中央アジアの裁判を考える際に、ソ連の制度がどの
ように関係していくのか。ソ連における裁判官の役割を西欧法(といってもその中身は日本法)と比
較して検討した内容を材料に、これらの問題について検討する材料を提供してみたい。
2.ソ連法と日本法における訴訟原則の比較
1
ただし、これについては修正の動きもある。当事者主導の考えの強い米国でも訴訟スポーツ観は、20 世
紀に入りロスコー・パウンド教授をはじめ多くの人々によって批判されるに至っている。当事者主導が同
様に強いフランスにおいても、修正の動きは急である(高橋宏志『重点講義 民事訴訟法(上)』第2版、
有斐閣・2011、436 頁)
2
青木人志『動物の比較法文化』有斐閣・2002、242 頁。
132
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ソ連時代の法は「ソビエト的」という形容詞が付され、
「ブルジョワ」的な西欧法とは基本原理も目
的も異なるものだという前提で、全法体系が構築されていた。国家および社会にとって何が正しいか
は、前衛たる共産党が決めることができ、また共産党が決めなければならなかった。それは決して共
産党の恣意的な判断ではなく、科学的共産主義の客観的な帰結であった。そこでは、価値相対主義に
基づいて民主的手続で社会や国家の将来を決めるという考え方は完全に否定されていた。
ソビエト社会において発生する民事紛争も、ブルジョワ社会とは異なる原因によって発生するもの
であり、ブルジョワ社会とは異なる方法で解決されるべきものであった。西欧の民事訴訟法において
発達してきた各種の原則は、ソビエト的民事訴訟法においては基本的に無縁のものであった。
西欧法を継受した日本の民事訴訟法のもっとも重要な原則に数えられるのは、弁論主義および処分
権主義である。
弁論主義に対立する法理としての職権主義が存在するが、
それは民事訴訟においては、
あくまでも例外的な存在である。
弁論主義とは、事実と証拠の収集を当事者の権限とするという原則である。弁論主義の内容は、次
の3つのテーゼに分解される。第1テーゼは、主張責任であり、裁判所は当事者の主張しない主要事
実(法律効果の発生消滅に直接必要な事実)を判決の資料として採用してはならない。第2テーゼは、
自白の拘束力に関するもので、裁判所は当事者間に争いのない事実(自白された事実)はそのまま判
決の資料として採用しなければならない。第3テーゼは、職権証拠調べの禁止であり、当事者間に争
いのある事実を証拠によって認定する際には必ず当事者の申し立てた証拠によらなければならない。
だたし、第3テーゼは、他の2つほどは絶対的なものではない。1948 年の民事訴訟法改正以前は補充
的に職権証拠調べが認められていた(旧民訴法 261 条)し、現行法下でも職権による証拠調べを部分
的には認めているからである 3。弁論主義は、裁判所と当事者との間での権限・責任の分配の問題だ
とされるが、日本では、主人公はあくまでも当事者であり、裁判官は脇役に退く(裁判官の受動性)
。
職権による職権証拠調べが部分的に認められ、弁論主義を修正・補充する仕組みとして釈明権・釈明
義務 4が重要な役割を果たしているとしても、本筋は変わらない。
以上の原理を簡単な例を使って具体的に示してみよう。
AがBに対し、貸した金を返せという訴えを起こしたとする。Aは、借用証書を示してBが借りた
という事実を立証したとする。この場合に、Bは借りた金をすでに返済しているのに、その領収証を
なぜか裁判で示さず、それ以外の証拠も出さなかったならば、返済が事実だとしても、裁判では事実
とは認められず、Bは敗訴する。たとえ、裁判長が、返済の事実を個人的に知っていたとしても、B
自身が主張しない以上、それを根拠にしてBを勝たせることはできない。これが第1テーゼの結果で
ある。
Bは本当は貸金を返済したのに、なぜか裁判ではまだ返していないと述べたとする。これが自白で
あり、たとえ、裁判長が、返済の事実を個人的に知っていたとしても、それを根拠にしてBを勝たせ
ることはできない。これは第2テーゼの結果である。
裁判長が、Bの返済の有無を調べるために、自ら関係者を訪ね歩いたり、関係箇所を捜索して証拠
を集めたりするのが職権証拠調べであり、これは第3テーゼにより禁止される。裁判所は、当事者の
3
4
髙橋・前掲書、398 頁以下参照。
弁論主義と釈明との関係については、髙橋・前掲書、441 頁注 39 参照。
133
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提出した証拠のみに基づいて判決を下さなければならない。
この設例では、
Bはすでに借金を返済済みであり、
判決で再び同額の金銭支払いを命じられるのは、
明らかに不公正である。AはBの犠牲において二重取りを許されることになるからである。実体法上
はそういうことになる。しかし、手続法上のルールにより、この二重取りは「正しい」結果だとされ
るのである。
それでは余りにもおかしい、という場合に、裁判官がBに対して、
「領収書があると……」などと証
拠提出を誘導するのが釈明である。これは裁判官がBの味方をすることになりかねないので、安易に
は認められないが、複雑な事件などで当事者に助け船を出さずに敗訴判決を書くことが不公正である
と考えられるような場合には、この誘導が例外的に正当化される。
多数説によれば、弁論主義は、私益に関する事項は当事者の自由な処理に任せるべきだとする思考
に基づく。私的自治が根拠となっている 5。なお、ここでいう私的自治とは、民法でいう私的自治と
は厳密には違っているかもしれないという評価もあるが、国家権力が積極的自発的に私人間の事柄に
介入してくることを禁止するという意味だとされる 6ので、社会主義ソ連はこのような禁止とは無縁
であったから、やはり弁論主義は原理としては否定していたということになる。
処分権主義とは、訴訟の開始、審判範囲の特定、訴訟の終了につき当事者の意思に委ねるとする建
て前をいう 7。訴訟は当事者の申立てにより開始し、当事者以外の者が訴訟を申し立てることはでき
ない。裁判所は申立ての範囲を超えて裁判できない。同様に、訴えの取り下げ、請求の放棄・認諾、
訴訟上の和解等によって、いったん開始させた訴訟を、当事者の意思によって終了させることができ
る 8。
これも先の例で説明してみよう。Bがまだ返済していなかったとする。AはBに借金を返済しても
らう権利があるが、訴えるかどうかはAの自由であり、Aが取り立てたくないというのに、借金を返
さないのはけしからんからという理由で検察官がAに代わって、Bに対しAに借金を返せという訴え
を起こすことはできない(訴訟の開始)
。同様に、実際は 100 万円貸しているのだが、50 万だけ返し
て欲しいということでAが訴えを起こしたときに、本当の借金額は 100 万円なのだから 100 万円を支
払えという判決を裁判所が勝手に下すことはできない(審判範囲の特定)。いったんはAは訴えを起こ
したが、途中で争うのが嫌になり、裁判するのをやめますと言ったときに、Aが金を貸して返しても
らっていないことが証拠上明らかだということで、裁判所が勝手に裁判を続けて、A勝訴の判決を下
すこともできない(訴訟の終了)
。いずれも、Aの自由を侵害するからである。
処分権主義も私的自治の現れであり、弁論主義と処分権主義の両者を合わせて広義の弁論主義とも
呼ばれる。処分権主義は、私的自治が請求の趣旨で働くものであるのに対し、弁論主義は請求原因事
実、抗弁のレベルで働くものであり、等質性がある 9。
5
髙橋・前掲書 403 頁。
髙橋・前掲書 405 頁。
7
小林秀之・原強『民事訴訟法』(弘文堂・2011)80 頁。
8
ただし、アメリカの裁判官は受け身ではあるが、民訴規則の上では主張のない事実も柔軟に認定するこ
とができ、処分権主義(申立て事項による制限)は明文で否定されている(要するに、弁論主義的規律は
弱い)
。他方、ドイツでは弁論主義の規律は厳格であるが、裁判官は釈明をはじめ積極的能動的である。以
上のように、米・独で交錯がある、という(髙橋・前掲書 408 頁注8)
。
9
髙橋・前掲書 406 頁。ただし、弁論主義と処分権主義は明確に区別されなければならない。処分権主義
を採りながら、弁論主義ではなくて、職権探知主義が採用される場合もある。例えば、人事訴訟において
6
134
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弁論主義、処分権主義は、スポーツ的裁判観(訴訟スポーツ観)に合致した法制度である。かつ、
私的自治、さらにいえば市場経済を前提とした原理である。市場経済では、私人間の関係(私法関係)
に国家権力は基本的に介入しない。民事訴訟は、当事者が自ら紛争解決のために行動すべき場所であ
り、国家が被害者に代わって積極的に裁判に関与する刑事訴訟とは異なる。これに対して、社会主義
ソ連では、民事裁判においても、裁判官およびその背後にある共産党は、脇役にはとどまらなかった。
社会主義に基づく正義を実現するために、裁判官は自ら積極的に行動することを要請された。社会主
義崩壊後の現在のロシアでは、状況は変わってきたものの、なお日本の弁論主義、処分権主義とは異
なる規定や実務が存在している。本稿では、この社会主義時代のソ連民事訴訟法において、弁論主義、
処分権主義、職権主義が採用されていたのか、採用されていた場合は、どのようなものだったのか、
について検討している。
ただし、このように職権主義的な要素の強い民事訴訟法体系をロシア、あるいは社会主義に固有の
特徴だと言い切るのは危険である。例えば、日本の民事訴訟法に大きな影響を与えたオーストリアで
は、当事者が裁判所の釈明に応じず主張しない事実を裁判所が認定することも認められている 10。ま
た、日本法で理解されるような当事者主義が全ての国で採用されているわけではなく、民事訴訟の普
遍的な「本質」とまでは言えないとされている 11。
さて、以上のような日本の基本原理と対比して、社会主義時代のソ連の民事訴訟はどのような状況
だったかを検討してみよう。
ソビエト民事訴訟の目的を定めるソ連時代の民事訴訟法2条は、以下の2項を置いていた。
1.ソビエト民事訴訟の使命は、ソ連邦の社会構造、社会主義的経済体制、社会主義的所有を守るた
めに、ソ連憲法、ロシア共和国憲法およびソビエト法が保障する市民の社会的、経済的、個人的な権
利と自由、法律上保護される市民の利益、国営の企業、施設、機関、コルホーズその他の協同組合、
それらの結合体その他の社会団体の権利と法律上保護される利益を守るために、民事事件を公正かつ
迅速に審理し解決することである。
2.民事訴訟は、社会主義的適法性の強化、権利侵害の予防、ソビエト法の不断の執行と社会主義的
共同生活の尊重の精神での市民教育を促進するものでなければならない。
第1項で、市民やその他の権利主体の権利・利益を守るために公正かつ迅速に紛争を解決する、と
述べている点は、主体の一部が社会主義に固有な法人である点を除けば、特に社会主義的な要素では
ない。第1項前段に書かれている点、つまり体制維持に資するという点がソ連に特有の目的といえる
だろう。
ソ連時代の民事訴訟法の教科書は、民事訴訟の目的について次のように述べていた。
「ソビエト民事
訴訟法は、他分野のソビエト法同様、社会主義社会の実体的な生活条件、とりわけ社会主義的生産関
は、訴えを提起するかどうかは当事者の意思に委ねられているが(処分権主義)
、訴えが提起されれば、請
求の認否を判断するための資料の収集については職権探知主義が採用されている(小林秀之・原強・前掲
書 115 頁)
。
10
小林秀之・原強。前掲書 115 頁。
11
弁論主義について、高橋・前掲書 405 頁。
135
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係によって規定される。それは、新たな歴史的共同体であるソビエト人民の意思と利益を反映するも
のであり、その根底には労働者が指導的役割を果たす、労働者、農民、インテリゲンチャの揺るぎな
き結束がある。民事訴訟法は、司法分野における共産党の政策を表現し実現するための重要な手段で
あり、共産主義建設に積極的に協力する」と書かれ 12、民事訴訟法と共産党、社会主義、共産主義と
の強い結びつきが強調されていた。日本の民事訴訟法は、私的自治を基礎に置いており、市場経済あ
るいは資本主義社会を前提とした制度である。一定の社会体制に資するために存在するという点では、
ソ連時代の民事訴訟法と同じであるが、両者の基本原理の違いゆえに、具体的な裁判の進め方につい
ては、理論的に大きな違いが存在していた。
上に述べたように、日本では、当事者主義、処分権主義が民事訴訟の根底にある思想であり、原告、
被告が自ら利益を守るために行動することが要求され、その結果、真実の権利義務関係と異なる判決
が下されたとしても、それは「正しい」判決である。当事者の主張、立証に不十分な点があったため
に、真実の権利関係が裁判で認定されなかったとしても、それは当事者の責任であり、当事者が不利
益を被るだけである。裁判所は、各当事者が公平に戦えるように審判するが、技を示さない者に点を
やることはできない。本当は(神様の目から見れば)正しい当事者が、戦い方が悪くて破れることに
なったとしても、それは正義に反する事態ではない。その結果は、市場経済、資本主義に基づく日本
の法制度、裁判制度上、容認されるものである。
これに対し、ソ連時代の民事訴訟は、そのような結果を「正しい」とは評価しない。前述のように、
社会や国家にとって何が正しいかは客観的に決まっており、それを共産党が明らかにして、前衛とし
て人々を領導する。民事訴訟の局面においても、当該紛争の解決として何が正しいかは、客観的に決
まっており、その正しい結果を実現するためには、訴訟の進行を当事者のみに任せておくのは不十分
である。裁判所が自ら証拠を収集して、紛争の正しい解決を導かなければならない。権利を侵害され
ている当事者が自らは訴訟を起こさないことも時にはあるので、当事者以外の者、例えば、検察官が
当事者の意向には関係なく訴えを提起できるようにする。当事者が自白したとしても、客観的な正し
さのためにはその効果を認めない。このような当事者主義、処分権主義に反する訴訟運営が積極的に
認められていたのである。先ほどの例でいえば、Aが 100 万円をBに貸してまだ返してもらっていな
いというのが事実であれば、Aが何といおうと、このお金を返してもらうのが正義なのであり、すで
にBが返したのであれば、Bが自白しようともそれは事実とは違うのだから、B敗訴にはしない。裁
判所や検察官が、ソビエト社会における正義を実現するために、当事者の自由あるいは自己決定権を
否定して、この紛争の解決に積極的に介入するのである。
以上のような分析視角を、社会主義時代の民事訴訟法の具体的な規定をもとにさらに検証してみよ
う。
3.当事者と裁判所の役割に関するソ連民事訴訟法の特徴
ソ連の民事訴訟法といえば、厳密には、ソ連邦レベルで 1961 年に制定された民事基本法を指す。し
かし、これは基本的な事項を定めた短い法律に過ぎず、民事訴訟手続の細目については、この民事基
12
Курс советского гражданского процессуального права, том 1, Наука, Москва 1981, С.43.
136
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本法に基づいて、各共和国が独自の民事訴訟法を制定して規律していた。その中でももっとも重要だ
ったのは、1964 年のロシア共和国民事訴訟法典であり、ロシア以外の共和国もロシアとほぼ同様の内
容の民事訴訟法典を有していた。本稿では、このロシア共和国民事訴訟法典の内容をもとにソ連民事
訴訟法を論じることとする(内容が大幅に変わったものの、社会主義崩壊後の現行民事訴訟法も法律
名としてはほぼ同じなので、以下では、ソ連時代のロシア共和国民事訴訟法典を旧法、旧ロシア民事
訴訟法などと表記する)
。
まず、証拠の提出に関する裁判所の役割がどのように規律されていたかを見よう。旧ロシア民事訴
訟法 50 条は、証明義務および証拠提出という見出しの下、以下のように定める。
1.各当事者は、自己の請求または答弁を根拠づける事情を証明しなければならない。
2.証拠は、当事者その他の裁判に関与する者がこれを提出する。もし、提出された証拠が不十分な
ときは、裁判所は、当事者その他の裁判に参加する者に対し、補充的証拠を提出するよう勧め、また
は職権で証拠を収集する。
第1項から明らかなように、請求を根拠づける事実を証明する義務は当事者が負う。裁判所が、自
ら事件を探し出してきて、証拠も集めて裁判を行うわけではない。当事者が証明責任を負うことを受
けて、第2項では、証拠の提出は訴訟当事者の義務とされ、ソ連民事訴訟法でも弁論主義が採られて
いたことが分かる。ソ連時代においても、民事裁判を始めるのは、裁判所ではなく当事者であった。
弁論主義を採用していたという点では、日本法と変わらない。ところが2項の後段では、証拠が不十
分なときについて、裁判所が職権で証拠収集を行うことが明文で規定されている。日本法であれば、
証拠が不十分であれば、立証責任を負う者が敗訴する。先の例を使えば、AがBに金を貸したことを
自ら証明できなければ、裁判はそこで終わってA敗訴の判決が出る。ところが、ソ連では、Aの証拠
が不十分なときにでも、それを理由に裁判所がAを敗訴させることに何らかの躊躇を感じたならば、
裁判所が自ら積極的に証拠の収集を行う義務を負っていた。見方によっては、裁判所がAの味方をし
てAを勝たせることにもつながる。日本なら、それは裁判官の中立という原則に反すると考えるのだ
が、Aの言い分が正しいという客観的真実があるのなら、これを明らかにすることがソ連の裁判官の
任務と考えられていたのである。
裁判所の義務については、旧法 14 条がさらに詳しく規定していた。それによれば、裁判所は、提出
された資料および説明に制限されることなく、事案の現状、当事者の権利義務について全面的で完全
で客観的な解明のために法律の定める全ての措置を講じなければならない、とされていた。ここで「提
出された資料および説明に制限されることなく」という表現が重要な意味を持つ。
先に述べたように、
ソ連法においても弁論主義が採用されていたわけだが、この表現によると、当事者が提出した資料や
説明には拘束されないというのだから、弁論主義が採用されていないのとほとんど変わらない。なぜ
なら、このような手続は、先に述べた弁論主義のうち、当事者間に争いのある事実を証拠によって認
定する際には必ず当事者の申し立てた証拠によらなければならないという第3テーゼ(職権証拠調べ
の禁止)に明確に反しており、裁判所は当事者の主張しない主要事実を判決の資料として採用しては
ならないという第1テーゼは(主張責任)にも反しているからである。だが、このような弁論主義の
事実上の否定は、ソ連民事訴訟法の特徴であった。それは、原告の証拠未提出が訴状不受理(129 条)
137
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や訴状補正(130 条)の理由になっていないことからも分かる。裁判所の職権による証拠収集は、準
備手続の段階から始まっている(141 条)と評価されていた 13。
弁論主義の第2テーゼとの関係でも旧法には日本法と異なる際だった特徴があった。旧ロシア民事
訴訟法 60 条2項は、
「一方当事者が自己の請求または答弁を根拠づけるものとして主張した事情を相
手方が承認したことは、裁判所を拘束しない」と定めていた。ここで、書かれているのは、自白は裁
判所を拘束しないということである。裁判所は当事者間に争いのない事実(自白された事実)はその
まま判決の資料として採用しなければならない、というのが第2テーゼであるから、この条文は第2
テーゼを否定しているわけである。
結局、ソ連時代の民事訴訟法は、当事者の証拠提出義務を一般的には定めて、弁論主義を採用して
いるかのように見えたものの、
実際には、
弁論主義の3つのテーゼを全て否定する条項を持っており、
弁論主義を完全に否定した訴訟手続を規定していたと言わざるを得ない。
このような弁論主義否定の訴訟手続はどのような理論により正当化されていたのだろうか。当時の
民事訴訟法に関する文献を読んでみると、民事訴訟の目的としての真実発見、すなわち客観的真実主
義という表現に頻繁に出くわす。例えば、次のような記述である。
「ソビエト民事訴訟法理論において知られているところによれば、客観的真実主義という原則の核
心は、現実に存在する事実に完全に従って民事上の紛争を解決するという司法機関たる裁判所に向け
られた要請にあり、また、権利義務の真実の姿に到達できるように事実を法的に評価するところにあ
る。権利義務の発生根拠について裁判所が間違いのない判断をすることが、司法のもっとも重要な要
件であり、訴訟手続における証明活動の目的である。従って、判決は、事案の事実を正しく完全に反
映したものでなければならない。裁判所は、当事者の権利義務について真実に合致した結論を引き出
さなければならず、客観的真実を明らかにしなければならない」14。
神の身ならぬ人間なのに、自分が現場にいたわけでもない裁判官が、実際に何が起きたのかを明ら
かにしなければならないという。ソ連時代の考え方によれば、
(マルクスによると、宗教は民衆のアヘ
ンであるから、神はいるはずがないが、あえてこの言葉を使えば、神ではない)人間であっても、裁
判所が十分に証拠収集活動を行えば、客観的真実に到達できる、というわけである。いくら時間をか
け、費用をかけても、すでに過去に起こったことを完璧に再現することはできないというのが西欧法
の考え方であるが、ソ連は違っていた。
では、なぜソ連ではそれが可能であったのか。それは、弁証法的唯物論に根拠を置くからだという。
以下、法律的記述とは到底思えない「根拠」についての当時の主張を引用してみよう。
「訴訟の目的たる真実主義についてのソビエト民事訴訟法理論は、物質が1次的であって観念は2次
的であるとの弁証法的唯物論、すなわち認識過程における真実発見可能性に基づいている。レーニン
によれば、唯物論者であることは、客観的真実を認識することである。客観的真実とは、人間の認識
内容のうち、
主体の意思や要求には依存せず、反映された客体の内容によって決定されるものである。
ブルジョワ法学の概念はこれと対立する哲学的立場に基礎を置いている。訴訟における真実の問題
に関しては、ブルジョワ法学は、理念的な認識論、現実の不可知論、認識にとって近づけない『物自
体』の存在から出発する。そのような理念的哲学原則から出発して、裁判上の認識に関しては、裁判
13
14
Курс советского гражданского процессуального права, Указ. соч. С.51.
Курс советского гражданского процессуального права, Указ. соч. С.33.
138
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
所は客観的な事実を正確に反映させることはできず、一定の蓋然性に到達することができるだけだと
いう結論を導き出す。
客観的真実への到達可能性を考慮して、ソビエト民事訴訟法は、明確な要件を規定している。つま
り、裁判所は、提出された資料および説明に制限されることなく、事案の現状、当事者の権利義務に
ついて全面的で完全で客観的な解明のために法律の定める全ての措置を講じなければならない(ロシ
ア共和国民事訴訟法 14 条1項)
。事案にとって意味を持つ事情で、裁判所が認定したものが証明され
ていないときには、推定的判断のみに基づいて下された判決は、上級審において破棄されなければな
らない(ロシア共和国民事訴訟法 306 条2項によれば、裁判所は、法的に重要な事情の誤った認定、
事情の不十分な証明、判決で示された裁判所の結論が事案の状況に合致しないことといった理由によ
っても、既存の判決を取り消すことができる)。裁判上の証明の助けによって裁判所が事案の事実につ
いての真の認識に到達できるという立場は、反映理論に基づくものである。この理論によれば、私た
ちの感覚、知覚は、事実の再現、再生である」15。
以上の説明が、人間が神になれることの根拠として説得力があるとは到底思われないが、当時はこ
のような正当化論理が通用していたのである。
4.イスラム法との関わり
中央アジアは、以上のようなソ連型民事訴訟理論の下で、70 年以上にわたり、社会に生じる紛争を
解決してきた。もちろん、それは国家機関としての裁判所に事件が係属する場合であって、マハリャ
での紛争解決はこれとは全く異なる論理を採用していたであろう。それは、イスラム法と慣習法の混
合したルールであったものと思われる。
このようなソ連型民事訴訟原理がイスラム民事訴訟原理とどういう関係にあるかを検討することは
筆者の能力外であり、イスラム法専門家の作業に委ねたい。ただ、ここで明らかにしたソ連型の民事
訴訟は、非ヨーロッパ型のものであるという点では、イスラム法と(消極的にではあるが)共通して
いることは明らかである。
両者の関係を明らかにすることが、まさにこの研究の課題であり、他の寄稿者から有益な分析結果
が示されることを期待したい。
15
Курс советского гражданского процессуального права, Указ. соч. С.34.
139
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
我が国のウズベキスタンへの担保法整備支援事業について
宮
下
修 一
静岡大学大学院法務研究科
I.はじめに―本稿の目的と構成
1.本稿の目的
本稿は、筆者がこれまでに携わってきた一連のウズベキスタンにおける担保法整備支援活動をふま
えて、同法をとりまく政治・経済・社会状況全体を視野に入れつつ、ウズベキスタンにおける法整備
支援をめぐる課題を明らかにすることを目的とするものである。
ウズベキスタンは、旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の崩壊に伴い、1991 年に共和国として
独立を果たした。その後、社会主義から資本主義に体制を転換する中で、諸外国の資本援助を受け入
れつつ、経済も順調に成長している。また、こうした経済成長の進展に合わせて、諸外国からは単に
経済的な支援を受けるにとどまらず、その成長を下支えするための法制度の整備に関する支援も受け
ており、その成果としての立法も行われている。
もっとも、ウズベク共産党中央委員会第一書記およびウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領を
務めたイスラム・カリモフが、独立後も 20 年以上にわたって大統領の職にとどまって独裁体制を敷い
ていることもあり、法制面を含めて、旧ソ連の制度が残存している部分が少なくない。その一方で、
ウズベキスタンは、約 2,500 万人と中央アジアでは最大の人口を誇り、かつ、ティムール朝に代表さ
れるように、歴史上、中央アジアの政治・文化の中心地であり続けてきたこともあいまって、独立に
よって、イスラーム法の伝統をふまえた「独自性」が、法制度の面でも強調されるようになってきて
いる。
このような状況の中で、ウズベキスタンに対する法整備支援を行うために、JICA(独立行政法人国
際協力機構)と名古屋大学は、ウズベキスタン共和国司法省をカウンターパートとして、2005 年 10
月から 2008 年 12 月までの 3 カ年半にわたり、
「ウズベキスタン企業活動発展のための民事法令および
行政法令改善プロジェクト」を実施した 1。筆者は、このプロジェクト開始当初から、その国内支援
委員会委員の一人として、民事法令、主に担保法分野における法整備支援にかかわる活動を続けてき
た 2。
そこで本稿では、
この法整備支援活動およびその後の意見交換等を通して筆者が得た情報をもとに、
当初に述べた目的に沿って叙述を進めていくことにしたい 3。
1
「ウズベキスタン企業活動発展のための民事法令および行政法令改善プロジェクト」においては、①行
政手続法整備支援、②担保法整備支援、③法令データベース支援の3つの支援が実施された。
2
プロジェクトに関連して、担保法整備支援にかかわる第 1 回国内支援委員会が開催されたのは、2006 年
2 月 26 日であるが、筆者が JICA から正式に同委員会委員として委嘱されたのは、2006 年 6 月 1 日である。
なお、任命後の最初の国内支援委員会となる第 2 回国内支援委員会は、同年 6 月 11 日に開催された。
3
本稿の内容は、後述するように、合計 4 回にわたるウズベキスタン訪問(JICA 短期派遣専門家として 3
140
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
なお、本稿は、国内支援委員会の作業をふまえて筆者がJICAによって公刊された『ウズベキスタン
抵当法解説書』に掲載した論稿 4、その後の状況をふまえて大幅に加筆修正したうえで静岡大学法政
研究に寄稿した論稿 5、さらに筆者とともに国内支援委員を務めた水谷英二司法書士との共著で日本
司法書士会連合会の論文集「THINK」で公表した論稿 6が基礎となっている(本稿の執筆にあたって
は、現状をふまえてさらに大幅な加筆と修正を行っている)。すでに、公表した論文の内容との重複
をおそれず、このような形で改めて公表することにした理由は、本稿が不十分ながら提起した法整備
支援のあり方をめぐる問題について幅広く議論を喚起するためには、法学研究者・法曹実務家以外の
読者が目を通す他の媒体を通じて、その内容を提示する必要があると考えたことにある。この点につ
いては、その趣旨をお酌み取りいただき、ご寛恕いただければ幸いである。
2.本稿の構成
1で述べた目的をふまえて、本稿では次のような順序で叙述を進めていく。
まず II では、ウズベキスタン担保法整備支援プロジェクトで行われた具体的な支援の状況について
概観する。
ついで III では、法整備支援として行われた二つの作業のうちの一つである『ウズベキスタン抵当
法解説書』作成・普及作業について、抵当法が実効的に機能していない理由も検討しつつ紹介する。
また、IV では、もう一つの作業である民法典中の担保法部分の改正提案の作成作業の概要について、
作業を通じて浮き彫りになった問題点をふまえながら紹介する。
最後に V で、III・IV の紹介をふまえて、ウズベキスタン担保法制改革の今後の課題をまとめたう
えで、今後の法整備支援のあり方についても考えてみることとしたい。
II.ウズベキスタンに対する担保法整備支援の状況
1.担保法整備支援プロジェクトの開始
すでに I.1で述べたように、本プロジェクトは、2005 年 10 月に開始された。
ところが、その直後にウズベキスタンでは抵当法が制定されたが、その運用状況については不明な
回・名古屋大学がタシケント法科大学院内で設置・運営する日本法教育研究センターにおける短期スクー
リング講師として 1 回)および司法省担当者による日本訪問の機会に筆者自身が得た情報をもとにしてい
るが、他の国内支援委員会委員がウズベキスタンにおいて実施したワークショップ等で得た情報、現地に
長期派遣専門家として滞在した桑原尚子氏(現・高知短期大学教授)および家田愛子氏(現・札幌学院大
学法学部教授)から得た情報も参照していることを付言しておく。
4 宮下修一「ウズベキスタン担保法制改革の現状と課題―抵当法運用状況に関する現地調査をもとにし
て」ウズベキスタン共和国司法省=国際協力機構編『ウズベキスタン共和国抵当法解説書(日本語訳)
(2008
』
年)100~114 頁。なお、同書については、ロシア語版・ウズベク語版も公表されている。
5 宮下修一「ウズベキスタン担保法制改革の現状と課題」静岡大学法政研究 13 巻 3=4 合併号(2009 年)
282~231 頁(横書 77 頁~128 頁)。
6
水谷英二=宮下修一「ウズベキスタンにおける担保法制、登記制度と今後の課題」THINK 司法書
士論叢 会報 107 号(日本司法書士会連合会)243~290 頁(宮下単独執筆部分:247~258 頁、259~272
頁、279~288 頁)
。
141
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点も多かった 7。実際に担保法整備支援を行うためには、現状をつぶさに把握することが必要不可欠
である。そこで、筆者を含む4名の国内支援委員 8は、抵当法運用支援業務の一環として、2007 年 3
月 23 日から 30 日までの間、同法制定後まもないウズベキスタン共和国にJICA短期派遣専門家として
赴き、同法の運用状況について詳細なヒアリング調査を実施した 9。
この調査では、後述するように、抵当法の運用をめぐるさまざまな問題点のみならず、その後の法
整備支援の方向性を再検討する必要性が浮き彫りになった。
2.担保法整備支援プロジェクトにおける二つの作業
―抵当法解説書の作成・普及および民法典の担保関連条文の改正案作成
1で述べた調査の結果をふまえて、同年 4 月以降、プロジェクトの進め方について再度見直しが行
われた結果、国内支援委員会としては、その力点を、第一に、ウズベキスタン司法省担当者と日本側
担当者の共同執筆による抵当法解説書の作成とそのウズベキスタン国内における普及作業、第二に、
7
実は、国内支援委員会の最初の作業は、国会に提出された抵当法案の改善へ向けた意見書の作成作業で
あった。委員会では、抵当法制定前に、二度にわたり意見書を提出している。伊藤知義教授(中央大学大
学院法務研究科)が作成した第一次の意見書は、法案が下院に提出された直後に提出された。続いて、伊
藤教授の意見書をふまえてうえで、田中克志教授(静岡大学大学院法務研究科)が第二次の意見書を作成
し、法案が下院を通過した後に提出した。いずれもウズベキスタン抵当法が抱える大きな問題点とその解
決方法を指摘したものであるが、実際に制定された抵当法にはまったく反映されることがなかった。その
最大の理由は、ウズベキスタンにおいて抵当法の立法作業を中心的に担当したのが、本プロジェクトのカ
ウンターパートである司法省ではなく、国際金融公社(IFC)の支援を受けた中央銀行および大臣会議の
担当者であったことにある(この点については、III.4の記述も参照)。上記の事実は、2007 年 3 月の現
地ヒアリング調査で明らかとなったが、法整備支援にあたっては、まず現地の実情をしっかりと把握する
ことが重要であると再認識するきっかけとなったという意味で、支援のあり方そのものを見直すための一
つのターニング・ポイントであったということができよう。
8
筆者以外で調査に参加したのは、次の 3 名である(敬称略・肩書きはいずれも当時)。杉浦一孝(名古屋
大学大学院法学研究科教授・担保法制プロジェクト国内支援委員会委員長)
、藤田哲(名古屋大学大学院法
学研究科教授・弁護士)、篠田優(北星学園大学経済学部教授)。なお、本調査およびその後のプロジェク
トの遂行にあたっては、
プロジェクト開始当時から 2009 年 1 月までウズベキスタンに滞在した桑原尚子氏、
さらに 2007 年 3 月から 1 年間滞在した家田愛子氏の 2 人の長期派遣専門家の果たした役割がきわめて大き
い。これまでのご尽力に、記して謝意を表する次第である。
9
ヒアリング調査は、まずホレズム州ヒヴァを訪問して地方における抵当法の運用状況を確認した後、首
都タシケントに移動して同法の制定過程や都市部における運用状況を確認するという手順で行われた。具
体的な訪問日程・訪問先は、下記の通りである(日付はいずれも 2007 年)。なお、各訪問先では、業務多
忙であるにもかかわらず、数多くの方々が協力して下さった。いちいちお名前をあげることはできないが、
この場を借りて心からの謝意を表する次第である。
3 月 26 日 ウズベキスタン共和国商工会議所ホレズム州支部ヒヴァ地区情報コンサルティングセンター
[本稿では「ヒヴァ商工会議所調査」と略する/以下同様]、ホレズム州司法省[「ホレズム
州司法省調査」
]
3 月 27 日 抵当銀行第 1 回調査[「抵当銀行①調査」
]、小川和隆氏(タシケント金融大学教授・JIC
Aシニアボランティア〔いずれも当時〕)
[「小川氏調査」
]
3 月 28 日 最高経済裁判所[「最高経済裁判所調査」
]
、ウズベキスタン共和国司法省[「司法省調査」
]
3 月 29 日 抵当銀行第 2 回調査[「抵当銀行②調査」
]
、BWA(ウズベキスタン女性企業家協会)
[「BWA
調査」]
、ASAKA 銀行[「ASAKA 銀行調査」]
、国家カダストル委員会(ウズベキスタン共和
国土地資源・測地製図・国家不動産台帳国家委員会)
[「カダストル委員会調査」
]、ウズベキ
スタン商工会議所[「商工会議所調査」]
3 月 30 日 公証役場[「公証役場調査」]
、IFC(国際金融公社)ウズベキスタン事務所[「IFC 調査」
]
142
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ウズベキスタン民法典における担保関連条文の改正案作成作業の支援におくこととした。
具体的には、第一の抵当法解説書作成が先行して行われ 10、続いて、第二の民法改正案作成が並行
して実施された 11。いずれの作業についても、ウズベキスタン司法省担当者と日本側担当者が相互に
両国を往復し、直接対話しながら議論を行う形で検討が進められた。これらの作業の過程で、筆者(宮
下)は、2008 年 4 月 29 日から 5 月 10 日にかけて再度ウズベキスタンにJICA短期派遣専門家として赴
き、
司法省担当者と抵当法解説書の最終原稿作成作業と民法改正へ向けたコンセプト・ペーパー原案作
成作業を行った 12。また、筆者は、水谷司法書士とともに、同年 10 月 24 日から 31 日にかけて、やは
りJICA短期派遣専門家として三たび同国に赴き、比較的大きな地方都市であるブハラ、サマルカンド、
さらに、首都タシケントにおいて、完成した『ウズベキスタン抵当法解説書』(以下『解説書』とい
う) 13を普及するためのセミナーを実施した 14。
JICA と名古屋大学が共同で実施した担保法整備支援プロジェクトは、このセミナーの実施をもって、
いったん区切りがつけられることになった。
そこで以下では、これらの二つの作業の内容を確認しながら、法整備支援のあり方について考えて
みることにしたい。
III.『ウズベキスタン抵当法解説書』作成・普及作業
1.ウズベキスタン抵当法の制定
10
第一の抵当法解説書作成作業は、まずは、両国の担当者がそれぞれの担当部分について原稿を執筆した
うえで、次のような形で行われた。
①2007 年 8 月 17 日・24 日 国内支援委員会において双方の担当者が執筆した原稿の概要を検討
②2007 年 9 月 22 日 田中克志教授(静岡大学大学院法務研究科)がウズベキスタンを訪問し、原稿の概要
を検討
③2007 年 11 月 16~18 日 JICA 国別研修によりウズベキスタン担当者が日本を訪問し、日本側担当者を含
む国内支援委員会において原稿(初稿)の内容を共同で検討
④2008 年 2 月 15 日 ウズベキスタンと日本との間を結ぶテレビ会議により原稿(第 2 稿)の内容を検討
⑤2008 年 3 月 14~20 日 田中教授が再度ウズベキスタンを訪問し、原稿(第 3 稿)の内容を検討
⑥2008 年 5 月 1~8 日 筆者(宮下)がウズベキスタンを訪問し、原稿(最終稿)の内容を検討
⑦2008 年 10 月 『ウズベキスタン共和国抵当法解説書』ロシア語版・ウズベク語版出版
⑧2008 年 12 月 『ウズベキスタン共和国抵当法解説書』日本語版出版
11
第二の民法改正案作成作業は、次の形で行われた。
①2008 年 3 月 田中教授と桑原・家田の両長期派遣専門家が司法省担当者と第 1 回ワークショップを開催
し、日本側が作成した改正提案コンセプト・ペーパー(素案)について検討
②2008 年 5 月 筆者(宮下)と家田教授、桑原長期派遣専門家が司法省担当者と第 2 回ワークショップを
開催し、日本側が作成した改正提案骨子について検討
③2008 年 6 月 13 日 桑原長期派遣専門家が、司法省主催の民法改正円卓会議において、コンセプト・ペー
パー原案の要旨を報告
④2008 年 8 月 JICA 国別研修により司法省担当者が日本を訪問し、日本側担当者を含む国内支援委員会に
おいてコンセプト・ペーパー原案の内容に基づき、民法改正法草案を起草
⑤2008 年 12 月 司法省から大臣会議に、日本側の提案が反映された民法改正案提出
12
前掲注 11 の②でも述べたように、日本側から同作業に参加したのは、家田教授と筆者、さらに桑原長期
派遣専門家の 3 名である。
13
ウズベキスタン共和国司法省=国際協力機構・前掲注 4 引用文献。
14
同セミナーに日本側から全日程参加したのは、JICA 短期派遣専門家である水谷司法書士と筆者、桑原長
期派遣専門家、さらに、日本司法書士会連合会から派遣された稲垣裕行司法書士の 4 名である。
143
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2006 年 10 月 4 日に、ウズベキスタン共和国において抵当法が制定された。ウズベキスタンでは、
すでに民法(1996 年制定)において担保物権に関する規定が設けられており 15、それとは別に担保法
(1992 年制定・1998 年改正)において具体的な権利の内容や手続が定められている。抵当法は、担保
法から抵当権に関する規定を独立させて新たな法律としたものである。
ウズベキスタン民法典では、日本の民法典とは異なり、担保物権を、物権ではなく債権として取り
扱われている点に留意する必要がある。具体的には、「担保権」(264~289 条)は、「第 2 編 所有
権その他の物権」ではなく、「第 3 編 債務法」の「第 13 章(邦語訳では第 1 章) 債権債務の総則
第 3 節 債務履行の担保」に「第 2 款」として位置づけられている。なお、「留置権」についても、
「担保権」の次に第 3 款として規定されており、やはり債権として取り扱われている。
なお、ウズベキスタン民法典は、その制定に際して、ロシア民法典をベースにしたCIS(独立国家
協同体)のモデル法を参照していることもあり 16、基本的にはロシア民法典と同じ構造となっている 17。
ロシア民法典でも、やはり「担保権」(334 条~358 条)は、「第 2 編 所有権その他の物権」ではな
く、「第 3 編 債務法総則」の「第 1 章 債権総則 第 23 節 債務履行の担保」に「第 3 款」として
位置づけられている(また、「留置権」が、次の「第4款」として位置づけられている点も、ウズベ
キスタン民法典と同様である) 18。ちなみに、担保法と抵当法が、それぞれ民法とは別に規定されて
いる点も、ウズベキスタンの担保法制とまったく同じであることも留意しておきたい 19。
15
ウズベキスタン民法典の邦語訳については、名古屋大学法政国際教育協力研究センター・文部科学省科
学研究費「アジア法整備支援」プロジェクト編『ウズベキスタン民法典(邦訳)』
(2004 年)を参照。
16
ウズベキスタンに限らず、CIS 諸国では、その「国会間委員会」がヨーロッパの法令を基礎にして作成
しているモデル法が、各国の立法に大きな影響を与えている。同委員会は、
「民法、税法、土地法といった
基幹法令を含む 220 ものモデル法(ロシア語)を策定し各構成国に提案してきている」とのことである。
以上の記述については、引用も含めて、松嶋希会「ロシア・中央アジア諸国における倒産法制」ICD NEWS34
号(2008 年)92 頁。なお、同論稿は、法務省法務総合研究所国際協力部のホームページで閲覧可能である
(アドレス:http://www.moj.go.jp/HOUSO/houkoku/keisai-kiji/icdnewsno34_03.pdf〔2013 年 5 月 15 日現在〕)。
17
1994 年制定(1995 年施行)のロシア民法典の翻訳については、杉浦一孝=小原剛=遠藤克己=大江泰一
郎=伊藤知義=篠田優(共訳)
「ロシア連邦民法典第 1 部」ロシア研究別冊 4 号(1995 年)
、北海道のホー
ムページ上に掲載されている北海道・ロシアビジネスデータベース等を参照(アドレス:
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/kz/skk/russia/russia/houritsu/joubun/minpouten/kaisetu.htm
〔2013 年 5 月 15 日現在〕
)
等を参照。なお、ロシア民法典の概要については、小田博「ロシア連邦の新民法典――ロシア私法の再生」
ジュリスト 1065 号(1995 年)57 頁以下(特に担保権については 62~63 頁)、佐保雅子「ロシア連邦の新
民法典第 1 部」比較法研究 57 号(1995 年)128 頁以下等を参照。
18
ロシア民法典が、パンデクテン方式をとっているにもかかわらず、同じ方式をとるドイツや日本などと
は異なり、担保権を物権ではなく債権として位置づけているのは、人的担保(保証など)と物的担保をま
とめて規定しているフランス法の影響があるのではないかと考えられる(この点については、伊藤知義教
授〔中央大学大学院法務研究科〕にご教示いただいた。記して、謝意を表する次第である)。小田博教授も、
「担保法を日本やドイツ法のように物権法ではなく債権法の中に規定するのはフランス法にみられるが、
帝政ロシア時代の法令大全もこれを受け継いで、債権法の中に担保法の規定をおいていた」と指摘してい
る(小田博「ロシアの法的投資環境(第 7 回) 担保法」WEB MAGAZINE e-NEXI 2008 年 12 月号/
なお、この論稿は、独立行政法人国際貿易保険のホームページに掲載されている〔アドレス:
http://nexi.go.jp/service/sv_m-tokusyu/sv_m_tokusyu_0812-1.html(2013 年 5 月 15 日現在)〕)
。
19
ロシアの担保法制の現状についても、伊藤教授にご教示をいただいたものである。重ねて謝辞を申し上
げたい。また、この点については、小田教授も次のように指摘している。
「現在、担保に関するロシアの基
本法制は、民法典、抵当法、そして 1992 年の担保法から成り立つ。このうち 1992 年法は、その後制定さ
れた民法典にほとんどとって代わられたが、債権質に関して民法典に規定がないため、この法律が適用さ
れる可能性はある」。なお、現在のロシアの担保法制については、小田教授による解説が簡にして要を得て
いるので、やや長くなるが、ここで引用しておきたい。
「社会主義時代には、担保制度は、ごく限られた質
144
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2.抵当法が機能するための前提―ウズベキスタンにおける融資の実態
(1)緒論
それでは、1で述べた抵当法は、はたして実効的なものとして機能しているのであろうか。そのた
めの大前提として、銀行融資がどの程度行われているか、またその際に担保(特に抵当権)がどの程
度用いられているかを把握する必要がある。
そこで、(2)ではウズベキスタンにおける融資の実態、また(3)では抵当法に基づく銀行によ
る融資の実行状況について確認する。さらに、(3)で確認したような状況が生じている理由につい
て、(4)で抵当法に対する国民の意識という観点から検討することにしたい。
(2)ウズベキスタンにおける融資の実態
(ア)ウズベキスタンにおける銀行とクレジット・ユニオンの役割
経済的には安定した成長が続いているウズベキスタンには 20、銀行が約 30 行存在する。ところが、
銀行から資金を借り入れようとしても、正規の手数料や利子以外に貸付額の 1 割くらいの賄賂を取ら
れるのが通常であるし、また、現金ではなく口座での貸付となるため、仕入額等があまり大きくはな
い小規模の企業にとっては、非常に利用しにくいものとなっている。
したがって、個人企業や小規模の企業などが資金を調達するには、クレジット・ユニオン(相互的
な小規模の金融組合)のような高利ではあるが、現金で貸付けを受けられる金融機関を利用すること
になる 21。なお、タシケント以外の地方に目を向けると、例えば、ヒヴァ地区では、銀行は 1 つしか
存在しないなど、金融機関そのものが未整備な状況にある。そのため、共同出資を募り、その中で優
れたビジネスプランをもつ起業者に貸付を行う「講」のような制度の導入も検討されたが、参加者が
店の制度を除けば存在しなかった。担保に関する法律は、社会主義崩壊後、1992 年に初めて制定された。
民法典では、担保は、債権者に担保物の占有が移転する担保と移転しない担保に分かれるが、これは 1992
年担保法の分類である。1992 年担保法では、前者は、
『質権』と称された。これに対して、民法典では、質
権という名称は用いられず、担保物の占有移転を伴わない『担保』のみ、別に抵当権という名称がある。
民法典制定後に 1998 年に包括的な抵当法が制定された。そこでは、不動産に対する担保が、抵当権である
と規定されている。/担保権を物権とするか、債権とするかは、理論的な問題に止まらない。担保権が物
権ではないとすると、破産手続において担保物の別除権の根拠が失われ、担保物が破産財団に含まれると
いう結論を導きやすい。事実、ロシアの現在の倒産法では、担保物は、破産財団から除外されない。担保
債権者は、目的物の競売の売り上げから優先弁済を受ける権利をもつに止まる。その根拠の一つとして、
担保権の債権性が挙げられるのが一般的である」
(以上の引用については、いずれも小田・前掲注 17 引用
論稿)。
20
ウズベキスタンは、もともと中央アジアでは最大人口を有する中心国家であり、同地域では唯一国産車
の製造も行っているが、近時は、金、ウラン、非鉄金属、綿花などの主要原材料の輸出が好調で、2000 年
以降は 4%前後、2004 年以降は 7%以上の経済成長を示している(芝本英一「ウズベキスタンとトルクメニ
スタン――経済の現状と見通し」WEB MAGAZINE e-NEXI 2009 年 1 月号/なお、この論稿は、独立
行政法人国際貿易保険のホームページに掲載されている〔アドレス:
http://nexi.go.jp/service/sv_m-tokusyu/sv_m_tokusyu_0901-1.html(2013 年 5 月 15 日現在)〕)
。
21
以上の記述は、小川氏調査および BWA 調査による。なお、BWA(女性企業家協会)とは、1991 年に設
立された非政府組織であり、企業向けのセミナー・トレーニング・コンサルティングを各地で行う一方で、
クレジット・ユニオンも運営している(タシケント州では、2,000 人以上の女性がメンバーとなっている)
。
ちなみに、BWA がクレジット・ユニオンを設立したのは、2003 年とのことである。
145
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少なく実現しなかったとのことである 22。
ちなみに、ウズベキスタンの銀行は、そもそも貸付資金が恒常的に資金が不足している。第一に、
上述したように、銀行から仮に貸付を受けても現金化するためには多額に費用がかかるうえ日数もか
かるため、市民は銀行に資金を預金せずに自宅で「タンス預金」をすることが通常で、個人預金が(徐々
に増加してはいるものの)伸び悩んでいるからである 23。第二に、ウズベキスタンでは、商業銀行と
はいっても政府からの資金供給を受けているが、その資金が不足しているため外国資本から資金援助
を受けなければならないにもかかわらず、
十分な資金援助を受けることができないからである。実際、
2007 年 3 月に実施したASAKA銀行(ウズベキスタンで最大規模の商業銀行)におけるヒアリング調
査でも、中小企業向けの融資の資本は自己資本とクレジットラインであり、ヨーロッパの諸銀行やア
ジアの諸銀行(日本の国際協力銀行〔JBIC〕も含む)と協力しているとの発言があったが、逆にいえ
ば外国の資金援助がなければ融資がままならないといえる。また、IVで紹介する抵当法解説書出版記
念セミナーを行うため、2008 年 10 月にウズベキスタンを訪れた際に、タシケントにある投資銀行
(Capital Bankという名称の商業銀行)でヒアリング調査をする機会を得たが、その際に、預金量が少
なく外国の支援に頼らなければならない状況なので、ぜひとも日本の銀行関係者を紹介してほしいと
いう強い要請を受けたことからも、ウズベキスタンの銀行が恒常的な資金不足に頭を悩ませている様
子がうかがえる。
(イ)担保をめぐる状況
銀行にしろ、クレジット・ユニオンにしろ、貸付けを受けるためには、基本的には担保が必要であ
る。担保の目的物は、車や設備、宝石などの高価な動産が中心である。例えば、タシケント市周辺で
最大の公証役場においては、車への担保権設定件数は、2004 年には 2,700 件、2005 年に 3,500 件、2006
年は 5,500 件と増加の一途をたどっている 24。また、タシケント市などでは、バザール(市場)に出
店する権利も、担保の対象となっている 25。しかし、不動産(建物)については、担保の目的物とさ
れることはあるものの、あまり利用されていない 26。
建物が担保目的物として機能しないことについては、
従来から、
いくつかの理由が指摘されてきた。
22
以上の記述は、ヒヴァ商工会議所調査による。
以上の記述は、小川氏調査による。実際に、現地にいる日本人に事情を聞いたところによれば、銀行で
はドルが不足しているため、預金を下ろしに行く際にはあらかじめ連絡をしてドルが用意できたことを確
認してから赴くが、それでも窓口でドルがないといわれることもしばしばだという。ところで、現地通貨
は「スム(sum)」であるが、市中ではドルを用いることも少なくない。もっとも、一般の店舗ではスムし
か使えないところも多く、少なくともタシケントでは、市中の至るところに銀行が設けた両替所が設けら
れている。交換レートは、筆者が訪れた 2008 年 10 月末当時で、1 ドル=1,380 スム前後であった。両替所
では、円からスムへの両替も取り扱っているが、同時期は 1 ドル=100 円を割る急激な円高が進行している
最中であったため、100 円=1,400 スム前後のレートで交換可能であった。ちなみに、両替所では、ドルや
円からスムへの両替は容易であるが、逆にスムからドルや円に両替することはまずできない。また、ウズ
ベキスタン政府が通貨流出規制を厳しく行っている関係で、入国時に申告した外国通貨の金額を超える通
貨を出国時に国外に持ち出すことは禁止されている(なお、現地通貨のスムは、そもそも持ち出し禁止と
なっている)。
24
以上の記述は、公証役場調査による。
25
以上の記述は、BWA 調査による。
26
調査時には、土地私有化に関する大統領令は存在するものの、土地私有化そのものはまだ実現していな
いので、各調査において不動産という場合は、通常は建物のみを指す。土地私有化の動向については、次
の II.2の記述を参照。
23
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第一に、工場などの施設はともかく、住居については、実際に居住者がいる場合には競売が禁止され
る可能性があるため、担保を設定しても最終的に換価できないおそれが生ずる点である。第二に、例
えばタシケント市内では、国家等が土地開発を理由に建物からの退去・明渡しを求めることがあるた
め、建物を担保の目的物としても、最終的には債務を回収できない危険性が高い点である。第三に、
住宅を担保の目的物とするとしても、住宅に関する取引を登録するときには、従来は購入額の 10%の
国税を支払わなければならず、実際には建物の売却が非常に難しかった点である 27。
もっとも、第二の問題点については、2006 年に出された土地私有化に関する大統領令に基づく土地
の私有化が実現されれば、上記で指摘したリスクがなくなることになろう 28。また、第三の問題点に
ついては、現在は、国税を住宅の 1 ㎡あたりの定額で計算するように変更されたため、すでに解決さ
れているとのことである 29。
ただ、残された第一の問題点については、もし抵当物件の競売が禁止されるのであれば、担保を設
定していても換価することができず融資した資金の回収をすることができなくなるため、抵当権の実
効性が著しく損なわれることになる。この点については、3(2)(ウ)で詳述することにしたい。
(3)抵当法に基づく銀行による融資の実行状況
ウズベキスタンの銀行担当者によれば、抵当法に基づく貸付は、すでに実施されているとのことで
ある。もっとも、すでに建物等を担保とした貸付は、従来から存在していた「担保法」のもとでも実
施されてきたため、銀行側には、「抵当法」の制定により特に目新しい変化があったという認識はあ
まりない。ただ、抵当法の制定に伴うメリットもいくつか存在する。具体的には、①個人用住宅を担
保にした貸付手続が明確になった点、②担保評価を国家台帳評価(カダストル)によらず当事者間で
行うことができるようになった点、③未完成の建物も抵当の対象になった点などである 30。
なお、メリット②について、抵当銀行(不動産融資を行ってきた2つの銀行が合併して 2005 年 4
月に設立された商業銀行)の抵当部長は上のように述べていたが、ASAKA銀行の法務部長は、依然と
して、カダストルによる評価よりも低い評価を銀行が独自に行うことができない点を問題点として指
摘していた。しかし、抵当法制定に伴って改正された担保法 10 条では、「担保物の鑑定(評価)は、
担保権設定者と担保権者の間の合意、又は鑑定法の要件に従い担保物の鑑定(評価)によって行われ
る」と定められている。この点を考慮すると、少なくともわれわれがヒアリング調査を実施した 2007
年 3 月末の時点では、ASAKA銀行の担当者が条文の捉え方を誤っていたか、あるいは、各銀行でいま
だ抵当法の内容の詳細に関する理解が進んでいないかのいずれかではなかったかと思われる 31。
27
以上の記述は、抵当銀行①調査、公証役場調査等による。
以上の記述は、ASAKA 銀行調査による。また、2007 年 11 月 17 日に名古屋大学で開催された本プロジ
ェクトに関する検討会の席上、ウズベキスタン司法省担当者からも、同様の指摘がなされた。なお、同担
当者によれば、国家が土地の明渡しを求める際には、補償が行われているとのことである。
29
以上の記述は、公証役場調査による。
30
以上の記述は、抵当銀行①調査、ASAKA 銀行調査による。
31
以上の記述は、ASAKA 銀行調査による。なお、この点については、抵当法では貸し手よりも借り手の
権利が重視されているのではないかというわれわれの質問に対して、ASAKA 銀行の法務部長が「自分は 3
回くらい法律を読んでだいたいのイメージがわかったが、今でも、どちらの側に立っているかよくわから
ない」と答えたことからも推察される。
28
147
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
(4)抵当法に対する国民の意識とその影響
それでは、抵当法をめぐって、なぜ(3)で述べたような状況が生じているのであろうか。この点
について、同法に対する国民の意識という観点から検討することにしよう。
われわれがヒアリング調査を実施した 2007 年 3 月末の時点では、2006 年 10 月 5 日に抵当法が制定
されてから 5 カ月しか経ていなかったため、国民の間に同法の内容が浸透しているとはいいがたい状
況にあった。少なくとも、地方都市であるヒヴァの商工会議所の担当者は、抵当法について、法律自
体の存在は知っているが、内容については詳しくは知らないと述べた 32。この点について、抵当銀行
に対する調査では、抵当法の内容についてテレビや新聞などで伝える、あるいは銀行が地方でセミナ
ーを行うなどして、国民に対する啓発活動が行われており、徐々にその意義が浸透してきているとの
指摘もなされた 33。
ところで、抵当法に関する意識に関連してもっとも注目すべきは、抵当法が、企業貸付を含めた一般
的な金融活性化のための法律の体裁をとっているにもかかわらず、ウズベキスタンでは個人住宅建設
を促進するための法律と捉える傾向が強い点である。その原因は、ウズベキスタンの立法担当者と、
抵当法の立法支援を行った国際金融公社(IFC)担当者との意識の違いにある。ウズベキスタンでは
2005 年 2 月に抵当法案作成に関わるワーキンググループが設置され、法案作成へ向けた具体的な作業
が開始されたが、そこでまず最大の論点となったのは、抵当法の正式名称を「住宅用建設のための抵
当法」とするのか、それとも単に「抵当法」とするのかという点であった。ウズベキスタン側は、前
者にするよう強く主張したが、激しい議論の末、最終的には後者を採用することになった。
IFCの担当者によれば、抵当法をめぐる政府との深刻な対立が生じた理由は、立法作業を始めた際
に、ウズベキスタン政府は抵当法を低所得者向けの住宅建設のための立法と考えていたのに対して、
IFCは市場メカニズムを動かすための立法と考えていたことにある。もっとも、IFCは、ウズベキスタ
ン側の意図を十分承知しながらも、自らの戦略上、抵当法の制定は有益であると判断して、その立法
に協力をすることにした。法案作成の過程では、個人住宅建設向けに限定する形で立法をしようとす
るウズベキスタン側と、目的を限定せずに一般的な形で立法しようとするIFC側の意見が厳しく対立
することも少なくなかったが、議論を重ねた結果、法案の体裁自体はIFCの意向を組んだ形で立法さ
れることになった。ただ、ウズベキスタン側の意識は最後まで変わらなかったようであり、IFCの担
当者も、抵当法が、体裁としては特に適用対象を限定していないにもかかわらず、個人住宅建設向け
にのみ使われる可能性が高いことを十分に認識している 34。
ウズベキスタン側のこのような意識は、実際に抵当融資を実施する金融機関側にも強い影響を与え
ている。抵当銀行における第 1 回目の調査で、同行の担当者が「抵当法は個人向けの法律である」、
「今日は中小企業の話と聞いていたので、
抵当関係の担当者は呼ばなかった」
と発言したことからも、
32
以上の記述は、ヒヴァ商工会議所調査による。なお、ここでいうヒヴァ商工会議所とは、ウズベキスタ
ン商工会議所が各地に設置している情報コンサルティングセンターの1つである(ホレズム州では、11 の
地域にそれぞれ設置されている)。具体的には、企業経営や設立登記に関する情報提供、資金貸付に必要な
ビジネスプランの作成への協力、国家機関との共同による企業向けセミナーの開催などの業務を行ってい
る。
33
以上の記述は、抵当銀行①調査による。
34
以上の記述は、IFC 担当者調査による。
148
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その影響の大きさをうかがい知ることができる 35。
もっとも、抵当法の条文を読む限りでは、その対象が個人住宅建設用資金の融資に限定されている
わけではない。実際、ASAKA銀行の担当者は、現在では、土地や建物を担保にして資金を調達すると
いう考え方が市民にもずいぶん理解されつつあり、将来は、このような抵当権を使った貸付は増える
のではないかという予測を示している 36。また、ウズベキスタン司法省担当者によれば、抵当法は住
宅建設を目的とする融資ばかりではなく、企業の運転資金調達を目的とする融資にも用いられている
とのことである 37。これらの点をふまえれば、今後、企業貸付において抵当法を利用するという動き
が強まってくる可能性もあろう。
3.民事執行の実態把握と抵当法の実効性確保へ向けた方策
(1)緒論
II で述べたように、ウズベキスタンでは、抵当法を利用した融資が徐々に増えてきている。しかし、
仮に抵当権を設定できたとしても、抵当権を実行する際の手続が整備されていなければ、抵当法は「絵
に描いた餅」となりかねない。
ウズベキスタンでは、担保目的物に関する民事執行は、競売の形で行われる。この競売については、
ウズベキスタンの法律上は、①裁判による解決および②裁判外の解決という2つの解決方法が用意さ
れている。
抵当権をはじめとする担保権を実効化させるためには、民事執行、とりわけ競売による担保目的物
の売却がスムーズに行われる必要がある。そこでわれわれは、上記2つの解決方法に対応する形で、
最高経済裁判所、公証役場、銀行において、民事執行とりわけ競売の実態を探るためのヒアリング調
査を実施した。その調査結果をもとに、
(2)で競売の現状とそこから生ずるさまざまな問題点、(3)
で抵当法の運用をめぐる問題についてまとめることとしたい。
(2)競売の現状とさまざまな問題点
(ア)競売の現状
裁判所における競売をめぐる紛争は、貸付契約に関連するものがほとんどを占めている。この競売
をめぐっては、実務上、さまざまな問題点が指摘されてきた。具体的には、競売に際して裁判所は競
売の開始価格を決定しなければならないが、担保目的物の明確な評価基準が定まっていない点などが
問題となる。そこで、最高経済裁判所は、2006 年 12 月に総会を開催して、これらの問題点に関する
対応策を決定した 38。
また、タシケント市を含む周辺地域で最大の公証役場においては、年間 15 万件ほどの公証がなされ
35
以上の記述は、抵当銀行①調査による。
以上の記述は、ASAKA 銀行調査による。
37
2007 年 11 月 17 日に名古屋大学で開催された本プロジェクトに関する検討会におけるウズベキスタン司
法省担当者の指摘による。同担当者によれば、検討会の時点の数字であるが、タシケント市とタシケント
州では、2007 年に入ってから 9 カ月間で約 1,200 件の抵当権が非居住用の建物に対して設定されていると
のことである(ただし、1,200 件のうち、設定者が法人と個人のいずれであるかは不明とのことであった)
。
36
38
以上の記述は、経済最高裁判所調査による。
149
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ている。データベース検索の結果によれば、住民の財産に対する差押えの債務についての公証は、2007
年 3 月末のヒアリング調査時点までに約 4 万件行われているとのことである。このような場合には最
終的には競売が行われることになるが、
その登録手続は、
従来にくらべるとかなり簡素化されている。
具体的には、公証しようとする者は、公証役場に 2 つの書類を提出しなければならない。1 つは銀行
が作成した書類、もう 1 つは担保権設定者が作成した書類である。
前者の銀行が用意する書類とは、銀行と担保権設定者との間で合意された評価額、保険契約(火災
保険など)に関するものである。後者の担保権設定者からの書類とは、登録局からの証票(誰がその
家屋に関して住む権利があるかという証書)、パスポート登録局からの誰が住んでいるかに関する証
書、担保権設定者の配偶者の同意書である(結婚をすると、資産は共同財産となるので、担保権を設
定するためには配偶者の同意が必要となる)。もちろん、銀行にとっては、契約不履行の結果として
住宅を販売する際に問題がなくなるので、そこに居住する権利を誰も有していないという場合の方が
有利である(そのため、担保権設定中は、設定目的物となる建物に住民登録させないという、銀行に
よる違法行為もなされているが、この点については IV.3(2)(イ)参照)。
さらに、公証役場では、担保・抵当権設定契約以外に、当該担保目的物の販売禁止契約が登録され
る。この契約のコピーは、非居住用建物については国家台帳調査局、居住用建物については住宅検査
局に提出され、オリジナルは、公証役場に保存されることになる 39。
(イ)抵当法に対する実務上の懸念
2007 年 3 月末のヒアリング調査時点では、抵当法が制定されてからまだ 5 カ月ほどしか経過してい
なかったこともあり、最高経済裁判所・公証役場いずれの調査においても、抵当法に基づく競売が行
われた事例について照会したところ、そのような事例は存在しないとの回答がなされた。
しかし、実際の実務の現場からは、抵当法の規定内容、およびその運用をめぐっていくつかの問題
点が指摘されている。そこで、以下、順にその問題点を指摘することにしたい。
(ウ)抵当法の規定内容をめぐる問題
抵当法の規定内容をめぐる最大の問題は、住宅を担保にとった場合に、居住権保護の観点から抵当
権の実行、すなわち競売が制限されることにある。
ウズベキスタンにおいては、住民登録という制度が存在する。この制度によれば、住宅の所有者以
外の家族も住民として登録され、それらの者の居住権が保障される。したがって、住宅を担保にとっ
たとしても、所有者以外の居住者もその住宅の使用権をもっているので(民法 488 条参照 40)、住宅
39
以上の記述は、公証役場調査による。
具体的な条文は、次の通りである(条文の翻訳は、名古屋大学法政国際教育協力研究センター編・前掲
注 15『ウズベキスタン民法典〔邦訳〕」
〔2004 年〕による)
。
第 488 条 住宅売買の特則
1 住宅、住戸、それらの一部で、買主がこれを購入した後も法律にしたがいその住居の利用権を失わな
い者が居住しているものの売買契約については、売却された住居の居住者およびその利用権の一覧は、契
約の重要事項とする。
2 住宅、住戸、それらの一部の売買契約は、公正証書によって行い、これを国家登記しなければならな
い。
40
150
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の売却自体が実際問題としてかなり困難な状況にある 41。
また、抵当法 9 条 3 項によれば、抵当権の譲渡にあたって承諾が必要な場合には、そもそも抵当権
を設定する際にそれらの者の同意が必要となる(住宅法典 32 条にも、同様の規定がなされている 42)。
これは、
居住権を優先するというウズベキスタンの立法政策に由来するものであるといえる。
しかし、
抵当権の利用を活性化するためには抵当目的物(抵当物件)の流通性を高める(その結果、抵当目的
物〔抵当物件〕の換価を容易にする)必要がある点を考慮すれば、将来的には、上述した立法政策の
転換も検討する必要があろう。
さらに、現実に抵当権を実行する場面では、抵当法と民事訴訟法の規定との関係も問題となる。
抵当法 65 条によれば、
抵当権の実行および換価は抵当権設定者や家族の住宅使用権を消滅させる原
因となり(1 項)、その実行手続は裁判によらずに行うことが可能であるとされている。ただ、具体
的に住宅から居住者を立ち退かせるためには、「法令の定める手続」による必要がある(4 項)43。ち
なみに、同法 52 条は、競売が行われ、抵当目的物が競落された後に抵当権設定者が明渡しを拒絶する
場合に、競落人は明渡請求訴訟を提起できると規定している 44。
ところで、仮に訴訟の結果、抵当権設定者に住宅の明渡しが命じられたとしよう。その際、同人が
明渡しを拒絶するのであれば、場合によっては強制執行を行う必要性が出てくることになる。ところ
41
以上の記述は、公証役場調査による。
具体的な条文は、次の通りである(条文の翻訳は、伊藤教授による)
。
住宅法典 32 条 所有者の家族および永続的に同居する市民の権利義務
1.戸建て住宅、住戸の所有者の家族および永続的に同居する市民は、所有者とともに戸建て住宅、住戸
の部屋を使用することができる。ただし、その入居に際して、文書により別段の定めがなされているとき
はその限りでない。これらの者は、所有者が提供した部屋に自分の未成年の子を入居させることができる。
他の家族については、戸建て住宅、住戸の所有者の同意があるときにのみ、入居させることができる。こ
れらの者の居住権は、戸建て住宅、住戸の所有者との家族関係が消滅した場合にも消滅しない。戸建て住
宅、住戸の所有者とその以前の家族、所有者と永続的に同居する者との間での住居の使用方法は、当事者
間の合意によって定める。
2~3.
(略)
4.所有者の未成年の家族でその両親がいない者が住んでいる住居の譲渡は、後見保佐機関の同意があれ
ば認められる。
5.私有化された住戸または戸建て住宅の所有者の成人の家族と住居の私有化に同意した者とは、法定の
手続によってそれらの者の共有物となった、私有化された住戸または戸建て住宅に関して、平等の権利を
持ち、平等の義務を負う。
6.私有化された住戸または戸建て住宅の売却、交換、贈与または賃貸は、住戸または戸建て住宅の所有
者の成人の家族および住戸または戸建て住宅の私有化に同意した者の同意を得て行う。私有化された住居
の所有者の未成年の家族の利益は、その両親が、両親がいないときには後見保佐機関が、代理する。
7~8(略)
43
具体的な条文は、次の通りである(条文の翻訳は、伊藤教授による)
。
抵当法 65 条(戸建て住宅または住戸に対する抵当権実行)
1.戸建て住宅または住戸に対する抵当権の実行およびその換価は、その戸建て住宅または住戸に共同で
居住する抵当権設定者およびかつての家族を含むその家族の利用権を消滅させる原因となる。ただし、
当該戸建て住宅または住戸が、銀行その他の金融機関または法人が戸建て住宅または住戸の取得または
建築のために提供した融資または用途指定貸付金の返済を担保するための抵当権設定契約または法定抵
当権に基づいて抵当目的物となっている場合に限る。
2.戸建て住宅または住戸に対する抵当権は、本法の規定に従い、裁判手続で、または裁判外の手続で実
行することができる。
3.抵当権実行の目的となった戸建て住宅または住戸は、本法の定める手続に従い換価される。
4.戸建て住宅または住戸からの立退は、法令の定める手続に従って行う。
44
具体的な条文は、次の通りである(条文の翻訳は、伊藤教授による)
。
42
151
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
が、民事執行法 52 条では、居住用の住宅については、原則として裁判所の判決の執行ができないと規
定されている 45。仮にこの規定が原則通りに適用されるとすれば、銀行が住宅に担保権を設定して、
裁判所でその実行が認められたとしても、実際にはその執行はできないということになる。
そこでこの点についてウズベキスタン司法省担当者に照会したところ、抵当法の実行手続に関する
規定は民事執行法 52 条にいう「法令に別段の定めがあるとき」にあたるため、上述した場合には強制
執行をすることが可能であるとの回答が得られた。
もっとも、ヒアリング調査においては、抵当権付きの融資を行う銀行側から、民事執行法 52 条があ
るために実際に執行することが難しいのではないかという強い懸念が示された 46。このような懸念を
払拭するためには、上述した解釈を周知徹底する必要がある。場合によっては、抵当法上に、民事執
行法 52 条の規定にかかわらず強制執行が可能であるという明文の規定を設けることも検討すべきで
あろう。
(3)抵当法の運用をめぐる問題
抵当法については、(2)で検討した問題にとどまらず、実際に運用にあたっても大きな障害が存
在している。
IFC の担当者によれば、抵当法の運用をめぐっては、2つの大きな問題がある。第一の問題は、不
動産の市場価格が急速に高騰していることである。例えば、タシケント市内の住宅の価格は、ヒアリ
ング調査 2 年前の 2005 年には1㎡あたり 100 ドルであったのに、ヒアリング調査を行った 2007 年で
は1㎡あたり 500 ドルまで高騰している。このような形で住宅価格が高騰していくと、抵当法のスキ
ーム自体はよいが、当該状況で同法を利用することは、インフレを助長する可能性がある。それを回
避するためには、住宅の供給を増加させることが必要であるが、現在建設されている住宅は 98%が個
人によるものなので、その可能性は現段階ではきわめて低い。第二の問題は、住宅が建設されるとし
ても、セメントや金属など、その建設を行うための資材が不足していることである。その結果、資材
の価格も相当上昇しているため、やはり住宅建設に大きな支障が生じている。
上記の問題を解決すべく、IFCは、ウズベキスタン側から居住用住宅建設を促進するための法律お
よびマンション建設のための法律整備への協力を要請されているが、まだその作業は進んでいないと
のことである 47。
なお、2011 年に筆者がウズベキスタンを再訪した際、また、2013 年に杉浦教授と桑原教授がウズベ
キスタンを再訪した際に、その後の状況について確認をしたが、大きな状況の変化はないとのことで
あった。
45
抵当法 52 条(抵当権設定者の不動産明渡拒絶)
住居から退去しないなど、競売またはオークションで競落された不動産を抵当権設定者が競落人に明け
渡さないときは、競落人は、目的物所在地の裁判所に訴えを起こすことができる。
具体的な条文は、次の通りである(条文の翻訳は、伊藤教授による)
。
民事執行法 52 条 差押禁止財産
自然人に対する執行正本を執行するときには、戸建て住宅、住戸、生活用家具、家財道具、衣服、その
他、債務者の家族が通常の生活を確保するために必要な物を差し押さえることはできない。ただし、法令
に別段の定めがあるときはこの限りでない。
46
以上の記述は、抵当銀行第 1 回調査、ASAKA 銀行調査による。
47
以上の記述は、IFC 調査による。
152
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
このように、抵当法が制定されてからすでに5年以上が経過しているが、その運用面ではまだまだ
多くの問題が山積しているといえるであろう。
4.ウズベキスタン司法省との『抵当法解説書』作成・普及作業
(1)『抵当法解説書』作成作業
以上で述べたような抵当法の運用状況を改善すべく実施されたのが、II. 2で述べたような『ウズ
ベキスタン抵当法解説書』作成作業である。
当初は、ウズベキスタン司法省の担当者とのやりとりがうまくいかず作業が遅々として進まないこ
ともあったが、途中で担当者が交代してからは、スムーズに進むようになった。
作業は、特に条文内容の解説をする部分については、ウズベキスタン側と日本側との協議をふまえ
てウズベキスタン側の担当者が執筆し、できあがった原稿をさらに協議のうえ修正を重ねていくとい
う方法で行われた。
法整備支援では、諸外国のプロジェクトにかかわる者が原案を作成してそれを現地の担当者に検討
してもらうという形式がとられることもあるが、本プロジェクトにおいては、現地の担当者が原案を
作成し、それを協議を重ねて修正していくという形式がとられたという点で、本来あるべき法整備支
援の一つの形を示しているものということができよう。
(2)『抵当法解説書』普及作業
(a)「抵当法解説書出版記念セミナー」の実施
JICA担保法制プロジェクト国内支援委員会メンバーである水谷と宮下は、2008 年 10 月 24 日より
11 月 1 日まで、首都タシケント(10 月 31 日)48、地方都市であるブハラ(10 月 27 日)49、サマルカ
48
タシケントにおけるセミナーの概要は、次の通りである。
【タシケントセミナー】
日時:2008 年 10 月 31 日(金) 10 時~12 時 15 分
場所:タシケント・ビジネスセンター4 階カンファレンスホール
使用言語: ロシア語、日本語(同時通訳)
司会: ニルファル・サイダメートバ(司法省経済立法部課長、抵当法解説書共著者)
《プログラム》
10:15-10:25
来賓挨拶 平岡 威(日本国・ウズベキスタン特命大使)
10:25-10:35
来賓挨拶 カニャーゾフ(ウズベキスタン共和国司法副大臣)
10:35-10:40
来賓挨拶 江尻 幸彦(JICA ウズベキスタン事務所長)
10:40-10:55
ノディール・ジュラーエフ「司法省・JICA 法整備支援プロジェクトについて」(司法省立
法総管理局長、JICA・司法省技術協力プロジェクト・ディレクター、抵当法解説書共著
者)
10:55-11:10
ニルファル・サイダメートバ「抵当権:債権回収の確保手段」
11:10-11:20
質疑応答
11:20-11:35
宮下修一(静岡大学准教授)「企業活動発展において抵当の果たす役割:日本の経験から」
11:35-11:50
水谷英二(司法書士)「抵当権登記の公示の重要性」
11:50-12:05
質疑応答
12:05-12:15
閉会の辞
49
ブハラにおけるセミナーの概要は、次の通りである。
【ブハラセミナー】
日時:2008 年 10 月 27 日(月) 10 時~12 時 30 分
場所: アジア・ホテル(ブハラ)
153
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
ンド(10 月 29 日)50の三都市で『解説書』の出版を記念して開催された、抵当法解説書出版記念セミ
ナー(JICAとウズベキスタン司法省の共催)において報告を行った。
以下では、当日の質疑応答の状況と、それを通じて浮き彫りとなった問題点をふまえて、ウズベキ
スタン担保法制改革の課題を検討することにしたい。
(b)抵当法運用の問題点―セミナーにおける質疑応答から
3回にわたるセミナーでは、それぞれ活発な質疑応答がなされた。とりわけ、各地の公証役場の公
証人やカダストル職員からは、現行のウズベキスタン抵当法や日本の担保法制に関する質問や意見が、
次々と出された。
以下では、
(ⅰ)ウズベキスタン抵当法に関する質疑応答状況、
(ⅱ)日本とウズベキスタンの担保
法制の相違点に関する質疑応答状況の順で、主な内容について述べたうえで、
(ⅲ)でセミナー全体を
通して感じたことを簡単にまとめておくことにしたい。
(ⅰ)ウズベキスタン抵当法に関する質疑応答状況
まず、セミナー実施時点では、2006 年 10 月 5 日に制定されてからすでに 2 年以上を経過している
抵当法への理解がそもそも十分ではないと思われる質問が、各地のセミナーで相次いだ。
例えば、抵当法の条文に規定されている取扱いにつき、法律ではどのように規定されているのかを
確認する質問が寄せられた(この点については、同席した司法省の職員から、法律に規定されている
のでそれに従ってほしいとの回答があった)
。また、抵当権実行にあたって建物(土地利用権を含む)
使用言語: ロシア語、日本語(逐次通訳)
司会: ニルファル・サイダメートバ(司法省経済立法部課長、抵当法解説書共著者)
《プログラム》
10:00-10:10
開会の辞 ノディール・ジュラーエフ(司法省立法総管理局長、JICA・司法省技術協力
プロジェクト・ディレクター、抵当法解説書共著者)
10:10-10:20
開会の辞 桑原尚子(JICA 長期派遣専門家)
10:20-10:35
ニルファル・サイダメートバ「抵当権:債権回収の確保手段」
10:35-10:50
質疑応答
10:50-11:20
宮下修一(静岡大学准教授)「企業活動発展において抵当の果たす役割:日本の経験から」
11:20-11:50
水谷英二(司法書士)「抵当権登記の公示の重要性」
11:50-12:20
質疑応答
12:20-12:30
閉会の辞 ノディール・ジュラーエフ
50
サマルカンドにおけるセミナーの概要は、次の通りである。
【サマルカンドセミナー】
日時:2008 年 10 月 29 日(水) 10 時~12 時 30 分
場所: コンスタンチン・ホテル(サマルカンド)
使用言語: ロシア語、日本語(逐次通訳)
司会: ニルファル・サイダメートバ(司法省経済立法部課長、抵当法解説書共著者)
《プログラム》
10:00-10:10
開会の辞
10:10-10:20
開会の辞 桑原尚子(JICA 長期派遣専門家)
10:20-10:35
ニルファル・サイダメートバ「抵当権:債権回収の確保手段」
10:35-10:50
質疑応答
10:50-11:20
宮下修一(静岡大学准教授)「企業活動発展において抵当の果たす役割:日本の経験から」
11:20-11:50
水谷英二(司法書士)「抵当権登記の公示の重要性」
11:50-12:20
質疑応答
12:20-12:30
閉会の辞
154
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
所有者のみならず同居家族の同意を必要とする抵当法の規定をめぐり、実際の所有者とその家族以外
の親族が居住している場合の取扱いにつき、現在の実務と法律の規定との乖離を指摘したうえでどち
らを優先すべきかを確認する質問も寄せられた(この点については、同じく司法省の職員から当然法
律の規定が優先するという回答があった)
。特に、後者の現在の実務と法律の規定との乖離については、
地方のみならず、首都タシケントのセミナーでも同様の指摘が多数寄せられた(特に、
「若い家族」を
めぐって大きな問題が生じているが、この点については、次の(ⅱ)③の記述を参照)。
(ⅱ)日本とウズベキスタンの担保法制の相違点に関する質疑応答状況
①問題の概観
次に、日本の法制度についても、具体的な抵当権設定手続や登記のあり方を中心に、ウズベキスタ
ンとの相違点を確認する質問が数多く出された。
以下においては、とりわけ、②抵当権実行の際の同意権者、③後順位抵当権保護の必要性に絞って、
ごく簡単にその内容を紹介することとしよう。
②抵当権実行の際の同意権者
また、すでに(ⅰ)でもふれたように、ウズベキスタンでは、抵当権実行の際には同居している家
族の同意が必要であるが、日本ではどのようになっているかという質問も各地で寄せられた。もちろ
ん、日本ではそのようなことは必要ないと回答したが、このような質問が出された理由としては、抵
当権実行にあたって、上述した同意が阻害要因となっていることがあげられる。
例えば、初めて結婚(入籍)した 30 歳未満の若い家族には、大統領令により、住宅ローンを受ける
際に税制について優遇措置が与えられている。この点をめぐっては、各地の公証人やカダストル職員
から、次のような質問がなされた。すなわち、若い家族の名義で購入され、住民登録もその若い家族
が行っている建物につき抵当権が設定されている場合に、融資の返済が滞ったため、その若い家族の
同意を得て抵当権を実行しようとしたところ、実は若い家族ではなくその親族が居住していることが
判明したときは、どのように取り扱うべきかという質問である。
これに対しては、司法省の担当者から、法律によれば住民登録をしている若い家族の同意さえあれ
ば実行可能であるとの返答がなされたが、実際に現場で事務を行う公証人やカダストルの職員たちか
らは、その後も戸惑いの声があがっていた。
また、サマルカンドでのセミナー参加者からは、抵当権設定契約を締結する際に、銀行が抵当目的
物となる建物等に居住する者に住民登録をしないよう強要したり、すでに登録をしている者がいる場
合には、
その全員を呼んで抵当権実行時には 15 日以内に退去するよう確約させているとの指摘がなさ
れた。これは、3(2)で述べたような競売の困難性を回避するために行われていると思われるが、
当然違法な行為である。もっとも、そうした違法行為がなされる原因は、担保実行時に居住権者にあ
まりにも手厚い保護を与えているウズベキスタンの法制度にある。その意味でも、3(2)で述べた
ような競売の問題点を克服するための努力を続けていくことが必要であろう。
③後順位抵当権者保護の必要性
さらに、筆者が報告した後順位抵当権制度整備の必要性をめぐっては、とりわけ、タシケントのセ
155
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
ミナーで、その実効性について疑問が寄せられた。ウズベキスタンでは、抵当権を設定する際には、
建物の価額の 125%までの貸付けがなされる。その結果、事実上、後順位抵当権を設定することは困
難となっており、セミナーの場では、実際に銀行では後順位抵当権を設定することはないという指摘
がなされた。
この点については、将来、土地の私有化が本格化し、さらにウズベキスタンの経済がますます発展
すれば、土地や建物を含む不動産価格がさらに上昇することになる、そうなれば後順位抵当権を設定
する余力も生まれてくるはずであり、そのような状況に備えて後順位抵当権の設定を容易にしておく
法整備が必要であると回答した。
しかしながら、筆者の回答に対しては、必ずしもセミナー参加者からの同意を得ることはできなか
った。この点はきわめて残念であるが、上述したウズベキスタンの現状を考慮すれば、緊急差し迫っ
た課題でもない以上、やむをえないところであろう。
(ⅲ)小括
以上のように、セミナーにおける質疑応答を通じて、ウズベキスタン抵当法につき、法律と実務が
大きく乖離し、かつ、現場での法律に対する理解が十分ではない状況が明らかとなった。この点を考
慮すると、
『抵当法解説書』の出版、さらに同書出版記念セミナーの開催は、ウズベキスタンにおける
抵当法の理解を深めるための試みとして非常に大きな意義をもつものであったといえる。仮に日本側
からの出席が難しくとも、ウズベキスタン司法省の担当者を中心に、今回実施したようなセミナーを
他の地方でも積極的に開催して、
『解説書』の内容をより一層普及させるべく努力を重ねていく必要が
あろう。
しかしながら、予算上の制約等もあり、ウズベキスタン司法省単独では、そのような努力を継続し
ていくことは現実問題として難しいのが現状である。そのためには、引き続き、JICA を中心とした日
本側の支援を続けていくことが肝要であるように思われる。
IV.ウズベキスタン民法典中の担保法部分改正へ向けた法整備支援とその成果
1.緒論
すでに、II.2で述べたように、本プロジェクトにおいては、プロジェクトの終わりに近づいた 2008
年に入ってから、司法省からの要請に応じて、民法典の担保法部分の改正へ向けたコンセプト・ペーパ
ーの作成作業を行った。その過程の中で、筆者は、2008 年 5 月にウズベキスタンを訪れた際に、その
前にウズベキスタンを訪問した田中教授と桑原長期派遣専門家が司法省担当者の協議をもとに作成し
た骨子をもとにして、さらに同担当者とのたび重なる協議を経て、4 次にわたり、コンセプト・ペーパ
ーの原案を作成した。その後、そこで作成したコンセプト・ペーパーの原案に基づいて、筆者を含む
日本側国内支援委員会のメンバーは、8 月に日本を訪れた司法省担当者と協議を行った。さらに、そ
こでの議論の結果を受けて、ウズベキスタン側が法案の作成を行い、最終的に 2008 年 12 月の段階で
法案が司法省から大臣会議に提出されるにいたった(ウズベキスタンでは、各省庁で作成された法律
案は、国会に提出される前に必ず大臣会議に提出されることになっている)。
156
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
そこで、この間の経緯をふりかえりながら、ウズベキスタンの担保法制がもつ問題点について考え
てみることにしたい。
2.コンセプト・ペーパー原案の作成
ここではまず、その後の議論について検討する素材として、ウズベキスタン司法省担当者との協議
を経て、国内支援委員会の支援を得ながら、筆者が中心となって作成したコンセプト・ペーパーの原
案を掲載しておくことにしよう 51。ここで掲載するのは、最終案となった第 4 次案である。
〈コンセプト・ペーパー第 4 次案〉
「民法典(担保)改正に関する提案」
2008 年 5 月 8 日
ウズベキスタン担保法制改革プロジェクト日本国内支援委員会
この法案は、ウズベキスタンにおいて市場経済が発展を続けている現状をふまえて、担保制度とそ
の規定の改革を目的とするものである。
1.根担保権の導入
銀行と顧客との銀行取引、卸商と小売商との継続的な商品供給取引においては、反復継続して多数
の貸付債権や代金債権が発生するが、このような債権が発生するごとに担保権を設定し、債権が弁済
により消滅するごとに担保権を抹消すると方法は、
きわめて煩雑であり、
多額のコストを必要とする。
上記の状況を避けるためには、将来にわたって継続的に発生する多数の債権を一括して被担保債権
とする担保権を設定することができるようにすればよい。つまり、
いったん担保権を設定しておくと、
ある特定の債権が弁済により消滅しても担保権が消滅せず(すなわち、附従性が否定される。)、継
続的に発生する別の債権について担保権設定の際にあらかじめ決めておいた額(これを「極度額」と
いう。)を限度として優先弁済を受けることができる特別な担保権(根担保権)を用意することが必
要である。
そこで、現行民法 287 条の後に、根担保権に関する規定を新設することを提案したい 52。
51
ウズベキスタンでは、法律案を作成する前段階として、その概要を記したコンセプトペーパーを作成す
ることになっており、ここでの作業はその原案を作成することを目的とするものである。本コンセプトペ
ーパー案の作成にあたっては、国内支援委員会のメンバー、とりわけ、田高寛貴教授(名古屋大学)には、
多大なるご助力をいただいた。また、JICA の「ウズベキスタン共和国倒産法注釈書プロジェクト」に 2006
年 4 月から 2007 年 10 月まで長期派遣専門家として加わった松嶋希会弁護士にも、いろいろとご教示を頂
戴した。この場を借りて、深く御礼申し上げる次第である。
52
本コンセプト・ペーパーの原案を作成した 2008 年 5 月のウズベキスタン訪問に際して、あらかじめ国内
支援委員会で議論をした結果、根担保権の規定については、日本法のように手続規定までも含む詳細な方
式ではなく、2007 年 3 月に制定された中国法のように、実体規定のみのシンプルな方式をとるべきである
という意見が大勢を占めた。さらに、種々検討を重ねた結果、まったくそのような規定をもたないウズベ
キスタンでは、まずは中国物権法とまったく同じ規定を導入することから始めるべきであるという結論に
至った。そこで、その時点ですでにわが国で公表されていた、松岡久和教授と鄭芙蓉助教による中国物権
法の翻訳(松岡久和=鄭芙蓉訳「中華人民共和国物権法全条文」ジュリスト 1336 号〔2007 年〕65 頁〔第 4
157
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
2871条 根担保権の内容
1 債務の履行を担保するため、債務者又は第三者が、将来の一定の期間内に継続して発生する債
権に対して担保財産を提供する場合において、債務者が期限の到来した債務を履行しないとき
、又は当事者が約定する担保権の実行事由が生じたときは、担保権者は、債権の極度額の限度
において当該担保財産について、優先的に弁済を受ける権利を有する。
2 根担保権が設定される前に既に存在していた債権は、当事者の合意により、根担保権の被担保
債権に含めることができる。
2872条 根担保権の被担保債権の一部譲渡
根担保権の被担保債権の確定前に、被担保債権の一部を譲渡しても、根担保権は移転しない。
ただし、当事者間に別段の約定がある場合は、この限りでない。
2873条 根担保権の内容の変更
根担保権の被担保債権の確定前に根担保権者及び根担保権設定者は、協議により、被担保債権
の確定期日、その範囲及び極度額を変更することができる。ただし、変更の内容は、その他の
担保権者に対して不利な影響を及ぼすことができない。
2874条 被担保債権の確定事由
次の各号に掲げる事由が生じたときに、被担保債権は、確定する。
一 約定した被担保債権の確定期日の到来
二 被担保債権の確定期日について約定がない場合、又は約定が不明確な場合において、根担保
権者が被担保債権の確定を請求したこと。この場合において、担保すべき元本は、その請求
の時に確定する。
三 被担保債権の確定期日について約定がない場合、又は約定が不明確な場合において、根担保
権設定者が根担保権の設定の時から3年を経過した後に被担保債権の確定を請求したこと。
この場合において、担保すべき元本は、その請求の時から2週間を経過することによって確
定する。
四 担保財産の差押え又は押収
五 債権者又は根担保権設定者が破産宣告を受けたこと、又は営業許可を取り消されたこと
六 法律の定めるその他の被担保債権の確定事由
編担保物権 第 16 章抵当権 第 2 節根抵当権 203~207 条〕)に依拠しながら、筆者が若干の語句の修正
を加えて提示したものが、以下に掲げた条文案である。なお、中国物権法の翻訳については、上記論稿の
ほか、河上正二=王冷然「中国における新しい物権法の概要と仮訳」NBL857 号(2007 年)16 頁以下、鈴
(成文堂、2007 年)
、星野英一
木賢=崔光日=宇田川幸則=朱曄=坂口一成『中国物権法―条文と解説』
=梁慧星監修/田中信行=渠涛編『中国物権法を考える』
(商事法務、2008 年)を参照。ちなみに、日本で
なじみの深い「根抵当権」という言葉ではなく、
「根担保権」という言葉を用いたのは、ウズベキスタン司
法省から、自らが立法権限をもたない抵当法ではなく、それをもつ民法の担保法部分における改正提案を
してほしいと依頼されたことによる。
158
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
2875条 普通担保権の定めの適用
根担保権には、本節の普通担保権の定めを適用する。
2.共同担保に関する規定の導入
被担保債権が高額であると、ある一つの不動産では、担保として不十分な場合がある。その際、複
数の不動産に担保権を設定せざるを得なくなる。したがって、複数の不動産への担保権を設定する「共
同担保」に関する規定を整備する。
そこで、現行民法 267 条に共同担保、すなわち複数の財産を担保の目的物とすることを可能にする
規定を新設し、かつ、281 条の後に、共同担保における換価の規定を新設することを提案したい 53。
267条 担保権の目的 54
1 【現行1項】
2 前項本文の場合において、複数の財産は、同一の担保権の目的とすることができる。
3 【現行2項】
2811条 共同担保における代価の配当
1 債権者が同一の債権の担保として数個の不動産につき担保権を有する場合において、同時にそ
の代価を配当すべきときは、その各不動産の価額に応じて、その債権の負担を按分する。
2 債権者が同一の債権の担保として数個の不動産につき担保権を有する場合において、ある不動
産の代価のみを配当すべきときは、担保権者は、その代価から債権の全部の弁済を受けること
ができる。この場合において、次順位の担保権者は、その弁済を受ける担保権者が前項の規定
に従い他の不動産の代価から弁済を受けるべき金額を限度として、その担保権者に代位して担
保権を行使することができる。
3 前項後段の規定により代位によって担保権を行使する者は、その担保権の登記にその代位を付
記することができる。
53
以下の条文案のうち、267 条 2 項については、ウズベキスタンにおいては希薄な考え方であるといえる
が、複数の財産を担保権の目的とすることができることを明らかにするために、あえて明文化することを
提案したものである。また、 2811条については、日本の共同抵当に関する民法 392 条をベースにしたうえ
で、若干の文言の修正を加える形で条文案として提言している。その理由は、国内支援委員会での事前の
検討の結果、根抵当権の規定と同様にもともとウズベキスタンに存在しない規定であるため、まずは日本
法と同様の規定の導入を提案することにある。
54
現行 267 条の条文は、以下の通りである(翻訳は、名古屋大学法政国際教育協力研究センター編・前掲
注 15『ウズベキスタン民法典(邦訳)
』による。
民法 267 条 担保権の目的
1 物、財産権(債権)等すべての財産は、担保権の目的とすることができる。ただし、取引禁止物およ
び生命または健康に生じた損害賠償の請求権、扶養料その他法律が譲渡を禁じている債権等債権者の一
身専属権は、この限りでない。
2 市民の財産であって、差押えが禁止されている特定のものを目的とする担保権の設定は、法令によっ
てこれを禁じ、または制限することができる。
159
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
3.被担保債権の範囲に対して一定の制限を設ける規定の導入
現行の民法典、担保法および担保法には被担保債権の額について制限はない。しかし、これでは、
後順位担保権の設定を認める以上、後順位担保権者が担保権の設定の時に、先順位の担保権が担保す
る債権額について予測をすることができず、後順位担保権の設定が躊躇され、また、先順位担保権の
優先弁済額について、これが予想外の額にのぼり、後順位担保権者を害するおそれがある。それは、
担保不動産に対して強制執行を考える一般債権者にとっても同様である。
したがって、後順位担保権者その他の債権者との利益調整の観点から、利息や賠償金については、
その優先弁済を受ける範囲について一定の制限を設けるべきであろう。
そこで、現行民法 268 条に、上述した制限を設ける規定を新設することを提案したい 55。
268条 被担保債権 56
1 【現行268条】
2 担保権者は、前項の利息を請求する権利を有するときは、その満期となった最後の2年分につ
いてのみ、その担保権を行使することができる。ただし、それ以前の利息についても、満期後
に特別の登記をしたときは、その登記の時からその担保権を行使することを妨げない。
3 前項の規定は、担保権者が第1項の履行遅滞によって生じた損害の賠償を請求する権利を有す
る場合におけるその最後の2年分についても適用する。ただし、利息その他の定期金と通算し
て2年分を超えることができない。
4.法人の清算の際の被担保債権の弁済順位に関する規定の導入
法人の清算の際にも、通常の場合と同様の担保権の優先性を保護するために、民法典 55 条および
56 条を修正して、法人の清算の際の被担保債権の弁済順位を規定することを提案したい。
なお、会社が、事業を停止し会社を「清算」するには、二つの場合が想定される。第一に、財産を
換価し債権をすべて弁済することができる場合(通常清算)、第二に、財産を全部換価しても債権を
弁済することができない場合(倒産における清算)である。第一の場合は、民法典で規律されるが、
第二の場合は、倒産法で規律される。債権の弁済順位についても、第一の場合には民法典 56 条が適用
されるが、第二の場合には倒産法 134 条が適用される。そこで、その点を明らかにするために、民法
56 条に 4 項を追加することを提案したい 57。
55
以下の 268 条 2 項・3 項の改正案は、根抵当や共同抵当に関する規定の導入提案と同様の理由から、日
本の民法 375 条 1 項・2 項の規定をベースにしながら、若干の文言を修正して提案したものである。
56
現行 268 条の条文は、以下の通りである(翻訳は、名古屋大学法政国際教育協力研究センター編・前掲
注 15『ウズベキスタン民法典(邦訳)
』による。
民法 268 条 被担保債権
担保権は、元本、利息、違約罰、履行遅滞による損害の賠償ならびに担保物の管理に担保権者が要した
費用および取立費用の賠償を確保する。ただし、契約に別段の定めがあるときは、この限りでない。
57
以下の 55 条・56 条の改正案については、JICA 倒産法注釈書プロジェクトに携わってきた松嶋弁護士の
提言を受けて(前掲注 59 参照)、国内支援委員会で事前に検討を重ねて作成した原案を、2008 年 5 月にウ
ズベキスタンにおいて行われたウズベキスタン司法省担当者との調整を経て、最終案として提示したもの
である。
160
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
第55条 法人の清算手続 58
1 【現行1項】
2 【現行2項】
3 担保目的物がいまだ換価されていない場合は、担保権者は、債務者の財産により担保されてい
る旨を記載して被担保債権の全額を届け出る。
4 【現行3項】
5 【現行4項】
6 【現行5項】
7 担保目的物の換価代金より弁済を受けたにもかかわらず被担保債権の全額弁済に足りなかっ
た場合は、弁済を受けなかった部分は、無担保債権として弁済を受ける。
8 担保目的物は、中間清算貸借対照表の作成・承認の前であっても、担保に関する法令に基づき
換価できる。
9 【現行6項】
10 【現行7項】
11 【現行8項】
12 【現行9項】
13 【現行10項】
14 【現行11項】
58
現行 55 条の条文は、以下の通りである(翻訳は、名古屋大学法政国際教育協力研究センター編・前掲注
15『ウズベキスタン民法典(邦訳)
』による。
第 55 条 法人の清算手続
1 清算委員会は、法人の登記に関する情報を公告する出版物において、法人の清算ならびに法人の債権
者による債権届出の手続および期間を公告する。その期間は、清算に関する公告の時から2か月を下回っ
てはならない。
2 清算委員会は、債権者の届出を促し、債務者の債務届出を受理する措置をとり、法人の清算を債権者
に書面により通知する。
3 債権者による債権届出期間が満了した後、清算委員会は、清算する法人の財産の構成、債権者が届け
出た債権の一覧およびその債権の確定結果に関する資料を含む中間清算貸借対照表を作成する。
4 中間清算貸借対照表は、法人の清算を決定した法人の設立者(参加者)または機関が、法人の登記を
行う機関の同意を得て承認する。
5 清算する法人(施設を除く。)の現金資産が債権者の債権を満足させるために不足する場合には、清算
委員会は、民事執行手続により法人の財産を公の競売で売却する。
6 清算する法人の債権者に対する金銭の配当は、清算委員会が、第 56 条に規定する順位により中間清算
貸借対照表にしたがって、同貸借対照表の承認の日から開始する。
7 債権者に対する配当が完了した後、清算委員会は、清算貸借対照表を作成し、その清算貸借対照表は、
法人の清算を決定した法人の設立者(参加者)または機関が、法人の登記を行う機関の同意を得て承認す
る。
8 清算する国有企業の財産が不足し、清算する施設が債権者の債権を満足させる現金資産を有しない場
合には、債権者は、当該企業または施設の所有者に対して、残余債務の弁済を求める訴えを裁判所に提起
することができる。
9 債権者に配当した後の法人の残余財産は、法令に別段の定めがない限り、この残余財産に対する物権
またはこの法人に関する債権を有する設立者(参加者)にこれを引き渡す。
10 登記した時から財務経営活動を行っていない企業で、その設立者がいないものの清算の手続および特
則は、法令で定める。
11 法人の清算が統一法人登記簿に記載された後、法人の清算は完了し、法人は消滅したものとする。
161
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
56条(債権者の債権の満足) 59
1 【現行1項】
2 被担保債権は、担保目的物の換価により得られた代金から、他のすべての債権に優先して弁済
を受ける。被担保債権が担保目的物の換価により得られた代金により満足を受けなかったとき
は、弁済を受けなかった部分は、無担保債権として満足を受ける。
3 【現行2項】
4 第1項から第3項までの規定は、倒産した法人における清算には適用しない。倒産した法人を清
算する場合における債権は、倒産法の規定により、満足を受ける。
3.ウズベキスタン司法省担当者の反応
以上のような日本側からの提案に対して、ウズベキスタン側からは、被担保債権の範囲や法人の清
算手続きをめぐる改正提案については前向きな回答が得られた。しかし、根抵当権や後順位抵当権の
保護を目的とする共同担保における代価の配当に関する規定については、ウズベキスタンの経済状況
を考慮すれば、このような制度は必要ないという、きわめて強い拒絶反応が示された。日本側からは、
この点の必要性を理解してもらうために、
繰り返し説明を行ったが、
なかなか理解が得られなかった。
最終的には、根抵当権については、日本側から提案を取り下げたが、後順位抵当権者の保護について
は、ウズベキスタンに持ち帰って検討されることになった。
4.ウズベキスタン司法省作成の民法改正提案と法整備支援の成果
その後、ウズベキスタン側で検討がなされた結果、被担保債権の範囲や法人の清算手続きをめぐる
改正提案については、日本側の提案を相当受け入れた内容のものが作成されたが、後順位抵当権者の
保護については、改正案には盛り込まれなかった。
以下では、日本側の提案の順序に従って、ウズベキスタン側で最終的に作成され、司法省から大臣
会議に提出された改正案を紹介することにしよう(以下で紹介する条文案は、英語版を筆者が翻訳し
たものである)。
①根担保権の導入
すでに述べたように、日本側の提案はまったく受け入れられなかったため、条文案も作成されてい
ない。
59
現行 56 条の条文は、以下の通りである(翻訳は、名古屋大学法政国際教育協力研究センター編・前掲注
15『ウズベキスタン民法典(邦訳)
』による。
民法 56 条 債権者の債権の満足
1 法人を清算する場合には、労働法の関係から生じる市民の請求権、扶養料の支払いに関する市民の請
求権および著作契約に基づく報酬の支払いに関する市民の請求権ならびに清算する法人により生命および
健康を侵害された市民の請求権は、各配当において最優先することにより、第1順位で満足を受ける。
2 その他の債権者の債権は、法令に定める手続および条件により、満足を受ける。
162
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②共同担保に関する規定の導入
267条 担保権の目的
1 【現行1項】
2 複数の物と財産上の権利は、同一の担保権の目的とすることができる。
3 【現行2項】
267 条 2 項については、日本側の提案がほぼ受け入れられた形で、立法提案がなされることになっ
た。
なお、これもすでに述べたように、共同担保について、日本と同様に換価のルールを決めておくべ
きであるという主張については、ウズベキスタン側において同国では現段階での需要がないという強
い主張がなされたこともあり、立法提案としては採用されなかった。
③被担保債権の範囲に対して一定の制限を設ける規定の導入
268条 被担保債権
1 【現行268条】
2 担保権設定者がその債務を履行せず、又は不完全に履行した場合には、担保権者は、担保の
元本と担保権行使の費用に加えて、担保権行使の時から遡って最後の3年分につき、前項に規
定された支払額を請求することができる。
268 条についても、日本側の提案がほぼ受け入れられた形で、立法提案がなされることになった(も
っとも、日本側の提案は、利息等については、日本法と同様に最後の 2 年間についてのみ担保権でカ
バーするというものであったが、ウズベキスタン側の提案では、1 年伸長され、3 年間とされている)。
④法人の清算の際の被担保債権の弁済順位に関する規定の導入
56条
1 【現行1項】
2 国家予算及び国家目的基金は、第二順位で満足を受ける。
3 その後に生じたすべての債権は、前項までの債権が満足を受けた後に、満足を受ける。
4 担保権者の債権は、担保権の行使及び実行に関する費用を担保するための金額を控除した後
に、担保財産の実行により得られた財産から、最優先で満足を受ける。担保財産の実行によ
り得られた金額が、担保権者の有するすべての請求権を満足しない場合には、満足を受けな
かった債権は、本条第1項から第3項までの規定に従って満足を受ける。
5 倒産した法人の債権者の債権の満足は、倒産法に定める手続に従ってこれを行う。
6 清算した保証人の債権者の債権の満足は、保証活動法に定める手続に従ってこれを行う。
★【現行2項の条文は削除】
日本側の提案のうち、55 条自体の改正提案については受け入れられるところはならなかったが、56
163
Draft – Not for Citation or Reproduction 【引用・転載禁止】
条について、倒産法との関係を整理したうえで、法人の清算の際の被担保債権の弁済順位に関する規
定を整備するという改正提案は、55 条の改正提案として提言した点も含む形で、ほぼその内容が受け
入れられていると評価することができるであろう。
5.民法改正提案に対する評価
以上でみてきたように、根担保権と共同担保の換価の規定については、ウズベキスタン側の強い反
発もあり受け入れられるところとはならなかったが、他の提案については、逆に大部分が受け入れら
れることになった。
民法改正について協力を求められたのは、2008 年に入ってからであったが、このような形で協力を
することができたのは、現地に滞在した桑原・家田の両長期派遣専門家の力が大きいことはいうまで
もないが、本プロジェクトを実施する過程で、各メンバーが行ってきた活動を通して、日本側の国内
支援委員会がウズベキスタン側担当者の強い信頼を得ることができたことが大きいといえる。
以上の点を考慮すれば、法整備支援にあたっては、たしかに技術的な援助も重要ではあるが、日常
的な活動を通して相手国のカウンターパートといかに信頼関係を築いていくかが、非常に大きな意味
をもつといえるであろう。
もっとも、たいへん残念なことではあるが、2013 年 2 月に、杉浦教授と桑原教授がウズベキスタン
を再訪した際にその後の改正状況を確認したところ、本プロジェクト終了後に民法のいくつかの部分
について改正はなされているが、残念ながら、本プロジェクトの立法提案についてはいまだ立法化さ
れていないとのことであった。プロジェクト自体が修了したこともあって司法省関係者の口も堅く、
その理由については、これも残念ながら日本側の当時の担当者のいずれにも伝わってきていない。
文字通りたいへん残念な結果ではあるが、このことは、いわば法整備支援の難しさを如実に物語っ
ているものであるということもできよう。
V.まとめ
1.ウズベキスタン担保法制改革の将来展望
(1)ウズベキスタン担保法制改革の現状と課題
以上の III および IV で紹介したウズベキスタン担保法整備支援プロジェクトの状況をふまえて、同
国の担保法制改革における今後の課題について述べることにしたい。
まず、ウズベキスタンにおける抵当法利用の前提となる経済需要については現段階ではそれほど高
いとはいえないが、抵当法の制定および土地私有化の実現によって、将来的には資金需要が掘り起こ
されていく可能性を十分に秘めているといえるであろう。
その一方で、今回の調査によって、ウズベキスタンにおいては、金融発展を阻害する法制面・運用
面でのいくつかの課題が明らかとなった。
第一に、ウズベキスタンでは、小規模の企業ではそもそも銀行から融資を受けることが困難である
という実態がある点である(II.2(2)参照)。この点は経済体制の問題も絡んでくるので一朝一
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夕とは行かないが、金融システムの枠組みを再構築することも視野に入れながら、改善していくべき
であろう。
第二に、抵当法そのものは特にその対象を限定しているわけではないにもかかわらず、その制定過
程の議論が影響した結果、一般には、住宅建設促進のためにのみ利用される制度として認識されてい
る点である(II.2(4)参照)。しかしながら、法律の体裁を考えるならば、抵当法は企業の資金
調達にも利用可能であるし、むしろそうあるべきであろう。実際に、企業の資金調達を目的とした抵
当権利用も徐々に増えつつある。さらに利用を促進するためには、抵当法に対する意識改革を積極的
に行っていく必要があるように思われる。
第三に、民事執行の場面において、抵当法とそれに関連する法律の理解が十分になされていないた
め、抵当権者となるべき銀行等に不安を与えている点である(II.3 参照)。この点についても、『解
説書』の普及を通して理解を深めることで不安を取り除いていけば、抵当法利用へ向けたインセンテ
ィブが高まることが予想される。
第四に、本稿では紙幅の関係で検討を省略したが、登記制度がいまだ整備の途上にある点である 60。
登記制度の整備は、いうまでもなく土地私有化の動向とも密接に絡むものではあるが、現在カダスト
ル委員会により準備が進められている不動産登記法や土地私有化に向けた他の法律等が制定されれば、
抵当権の利用へ向けた動きも加速度的に進むことになろう。
第五に、担保を規律する法律として、「民法」、「担保法」、「抵当法」という3つの法律が存在
するため、法体系全体の透視性が若干悪くなっていることである。もちろん、「抵当法」制定に際し
て相互の齟齬を解消すべく「民法」と「担保法」の改正がなされており(特に、「担保法」から抵当
権に関する規定が削除された点に留意する必要がある 61)、その意味では、実際の運用の面で大きな
問題が生じるわけではない。ただ、同じような規律が 3 つの法律に分かれて行われているのは、法律
を利用する一般市民にとっては、それらの相互関係を含めて理解を妨げることになりかねない。経済
発展にとって非常に重要な役割を演じるであろう担保に関する法制度については、できるだけ統一し
て市民にとって理解しやすいものにすることが望ましい。かなり具体的な手続まで定める担保法およ
び抵当法の内容を民法にすべて取り込むことは難しいかもしれないが、将来的には、少なくとも担保
法と抵当法を「統一」―抵当法の制定に際して、抵当権が担保法の規律から外されて抵当法の規律
に服することになった点を考慮すれば「再統一」という言葉を用いるのが適切かもしれない―する
ことも検討すべきであろう。
(2)ウズベキスタン担保法制改革の将来展望
筆者は、3回目のウズベキスタン訪問の際に、ブハラにおいて公証役場とカダストルを見学する機
会を得た。まずは公証役場、ついでカダストルを訪れたが、カダストルで通された局長室の壁には、
現地のウズベク語で書かれた次のような標語が掲示されていた(本来は、キリル文字表記であるが、
登記制度をめぐる問題点については、宮下・前掲注 5 88~93 頁。
具体的には、抵当法制定後の 2006 年 11 月 22 日に制定された「ウズベキスタン共和国の『抵当法』の制
定に伴うウズベキスタン共和国法令の改正法」により、担保法から抵当権に関する規定(担保法旧 37~41
条)が削除されるとともに、特に当事者の契約に基づく任意清算を認めた抵当法の規定に平仄を合わせる
形で、従来、裁判と公正証書に基づく清算しか認めていなかった担保法と民法の規定(担保法 27 条 2 項、
民法 280 条 2 項)が改正されている。
60
61
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ここではローマ字に翻字したものを示しておく) 62。
Talashardi ikki qo‘shni bir parcha yer meniki deb.
Yer kuldi eh-voh nodonlar ikkalang ham meniki deb.
Hadisdan
「二人の隣人どうしが一片の土地を自分のものだと言って争っていた。
土地は大笑いして言った。無知どもめ、お前たち二人ともわしのものだ。
ハディース 63より」
上記の標語は、あくまで室内装飾の1つとして、局長室に掲示されていたものである。しかし、こ
れは、見方によっては、「いくら争っても、しょせん、土地は国家のものだ」という意味にもとるこ
とができるものである。もちろん、うがった見方かもしれないが、このような標語が、近代的な登記
制度を司る組織であるはずのカダストルに掲げられているというのは、ある意味で、ウズベキスタン
の現行の土地法制を象徴しているようにも思われる。
その意味で、ウズベキスタンの担保法制改革の進展は、今後の土地私有化の方向性とも非常に大き
くかかわっていくものと思われる。すなわち、土地の私有化が、単に形式的なものにとどまらず、実
効性をもつ形で行われることによって、
地価が上昇し、さらにその担保価値が増していくことこそが、
ウズベキスタンの担保法制をさらに発展させていくことにつながっていくであろう。その意味では、
土地私有化の動向には、担保法制改革という観点からも注視していく必要がある。
以上のように、ウズベキスタン担保法制改革においてはいくつかの困難な課題が存在するのは事実
である。しかし、それらの課題は決して克服不可能なものではない。いうまでもなく、今後のウズベ
キスタンにおける経済発展の状況も大きな影響を与えるであろうが、逆にそうした経済発展を一段と
進めるためにも、担保法制改革を推し進めていく必要があろう。
(3)法整備支援のあり方と法律家の役割
(ア)法整備支援の現状
62
この標語は、現地での通訳の説明を聞いた後、ブハラ・カダストルの局長の許可を得てデジタルカメラ
で撮影したものを、木村暁氏(現・筑波大学人文社会系特任研究員)にお願いして、正書体でローマ字に
翻字し、さらに翻訳していただいたものである。一連のプロジェクト活動の内容について、3 回目のウズベ
キスタン訪問の直後である 2008 年 11 月 29 日・30 日に開催された『中央アジアの法制度研究会』
(代表:
堀川徹・京都外国語大学教授)において報告する機会を得たが、その際に現地の様子について写真を交え
て紹介したところ、現地のウズベク語で表記されているさまざまな文献等について、参加したメンバー諸
氏から数々の貴重なご助言をいただいた。とりわけ、木村氏には、研究会終了後に、この標語を含めたい
くつかの資料について、本当にお忙しい中、翻訳の労をお取りいただくことになった。記して心からの謝
意を表する次第である。
63
「ハディース」とは、イスラーム法の預言者ムハンマドの言行録であり、イスラーム法学の第二法源と
されるが(ちなみに、第一法源はコーラン)
、前掲注 58 で紹介した第 4 回「中央アジアの法制度研究会」
において、これは「ハディース」の言葉ではないという指摘がなされた。翻訳をして下さった木村氏から
も、
「ハディース」とは無関係であると思われるという指摘をいただいた。なお、「ハディース」の概要に
ついては、2007 年 6 月 30 日に開催された上記研究会の第 1 回研究会において、磯貝健一氏(現・追手門学
院大学准教授)から非常に詳細な解説とご教示をいただいた。記して謝意を表する次第である。
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法整備支援といっても、そのあり方は一様ではない。まず、その主体が、国際機関(金融機関と非
金融機関)、政府、非政府組織(NGO〔法律・会計事務所、コンサルタント会社など、および非営利
組織(NPO)〕)など多岐にわたる 64。
さらに、法整備支援の目的も、それらの機関によって異なる 65。ここでは、国際機関と政府による
支援に絞って、松尾弘教授の一連の論稿に依拠しながらその概要を紹介することにしよう 66。
例えば、国際機関のうち金融機関である世界銀行は、経済発展を促すためには法整備支援が必要で
あるという観点から、法整備支援を行っている 67(具体的には、「法と司法制度改革」のための法整
備支援プロジェクト〔「『法の支配』プロジェクト」〕に取り組んでいる 68)。また、国際機関のう
ち、非金融機関である国連開発計画(UNDP)は、民主的統治の実現に重点を置く形で、法整備支援
を進めている 69。ちなみに、EUも、人権・民主主義・法の支配に重点を置いた法整備支援を行ってい
る 70。
各国政府の支援状況をみると、アメリカは、合衆国国際開発庁(USAID)により、「民主主義と(良
い)統治」の世界的普及を目的として法整備支援を実施している。もっとも、体制移行国などの「民
主化支援が、アメリカの自身の国家安全保障の確保という利益に通じることが強調され、とりわけ二
国間援助の枠組によるそうした法整備支援が国家戦略の実現手段として明示的に位置づけられてい
る」。また、「包括的・体系的な法改革よりも、うしろ、ミクロ・レベルの具体的な法律問題を一定
期間内に現実に解決することを重視している」 71。このようなアメリカの態度と対照的なのが、ドイ
ツである。ドイツは、連邦政府が所有する民間の有限責任会社である技術協力会社(GTZ)などを通
して、首尾一貫した法体系の構築を重視し、その法整備支援の力点を民法や商法のような基礎的私法
の整備においている 72。
日本のJICAは、ガバナンス分野に着目した技術協力を行っているが、当該分野には、民主的制度の
構築、行政機能の向上、汚職防止、技術協力改革、公的部門改革と並ぶ項目として法整備支援があげ
られている。この法整備支援には、法務省などの政府機関、日本弁護士連合会、日本司法書士会連合
会、名古屋大学をはじめとする大学、あるいはそこに所属する個人が参加・協力しているが、とりわ
64
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』
(Law and Development)の理論と実践 第 3 回」法学セミナー
624 号(2006 年)44 頁。
65
この点については、ウズベキスタンにおいて長期派遣専門家を務めた桑原氏より、いろいろとご教示を
賜った。記して謝意を表する次第である。
66
NGO による支援については、松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』
(Law and Development)の理論と
実践 第 10 回」法学セミナー631 号(2007 年)68~70 頁。
67
桑原尚子「法整備支援における『法の移植(legal transplants)』をめぐる議論の序論的考察―理論と実
践の架橋を目指して」国際開発研究フォーラム 34 号(2007 年)171 頁。
68
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』(Law and Development)の理論と実践 第 5 回」法学セミナー
626 号(2007 年)60~62 頁。
69
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』(Law and Development)の理論と実践 第 4 回」法学セミナー
625 号(2007 年)54~57 頁。
70
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』(Law and Development)の理論と実践 第 6 回」法学セミナー
627 号(2007 年)58~60 頁。
71
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』(Law and Development)の理論と実践 第 7 回」法学セミナー
628 号(2007 年)76~79 頁(引用は、それぞれ 78 頁、79 頁)
。
72
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』
(Law and Development)の理論と実践 第 8 回」法学セミナー
629 号(2007 年)71~73 頁。
167
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け大きな役割を果たしているのが、法務省法務総合研究所の国際協力部である 73。JICAの法整備支援
は、支援対象国において法の支配を確立するための社会基盤の整備を目指して、①法規定の整備(ル
ールの整備)、②法機構の整備(組織の整備)、③法曹育成(人材の整備)、④社会のリーガルエン
パワメント(人々の法・司法制度へのアクセス向上)の 4 つの分野で行われている 74。
(イ)法整備支援と法律家の役割
法整備支援の問題点として指摘されているのは、①計画性・一貫性・体系性の欠如、②情報交換・
調整・協力体制の不十分さ、③人材の育成・確保の必要性、④目標の明確化・成果の客観化・評価の
厳格化にともなう法整備支援の困難性、⑤支援側と受入側との考え方のずれ、⑥言語ギャップ、⑦受
入側の依存体質の助長、⑧法整備支援の戦略・理論の必要性である 75。
以上のような問題を解決するためには、単に法整備を実践するという技術的な問題にとどまらず、
そのような実践をどのような理論から基礎づけるかという作業が必要となる。その意味では、法整備
支援を進めるうえでは、まさに“理論構築と実践の協働作業”が求められているといっても過言ではな
い 76。したがって、法学研究者と法律実務家がお互いに手を携えながら、法整備支援における理論と
実践の橋渡しをする作業をすることにはきわめて大きな意義がある。
ウズベキスタンにおける担保法整備支援プロジェクトは、まさに法学研究者と法律実務家が二人三
脚(正確には、より多くの人と脚が必要であったが)で進めてきた結果、これまで述べてきたような
一定の成果を出すことができたものである。本稿においてこれらの成果をさらに分析することを通じ
て、ウズベキスタンはもとより、世界各国に対する法整備支援における新たな理論構築の一つのきっ
かけを提示することになれば幸いである。
73
松尾弘「開発法学への招待:
『法と開発』
(Law and Development)の理論と実践 第 9 回」法学セミナー
630 号(2007 年)66~70 頁。なお、法務省法務総合研究所国際協力部の活動内容については、同部のホー
ムページを参照(アドレス:http://www.moj.go.jp/HOUSO/ICD.html〔2009 年 3 月 3 日現在〕)
。同部は、ウズ
ベキスタン共和国最高経済裁判所の要請を受けて、JICA による技術協力プロジェクトである「ウズベキス
タン倒産法注釈書プロジェクト」(実施期間:2005 年 8 月~2007 年 9 月)の実施を支援し(注釈書の作成
開始はそれより前の 2004 年 10 月)、2007 年にウズベキスタン共和国最高経済裁判所=国際協力機構『ウズ
ベキスタン倒産法注釈書』を発刊している。
74
JICA ホームページ(アドレス:http://www.jica.go.jp/activities/issues/governance/approach.html〔2009 年 3
月 3 日現在〕)を参照。なお、この点については、桑原・前掲注 67 172 頁も参照。
75
松尾・前掲注 66 70~72 頁。
76
すでに紹介してきた松尾教授の一連の論稿で「理論と実践」という言葉が用いられている点、あるいは
桑原・前掲注 82 において「理論と実践の架橋を目指して」という副題が付けられている点をみても、法整
備支援のあり方をめぐっては、本文で述べたような協働作業の必要性が強く意識されているということが
できるであろう。
168
平成 21~24 年度科学研究費補助金基盤研究(B)
「文書史料による近代中央アジアのイスラーム社会史研究」
(課題番号:21320134)
研究成果報告論集
平成 25 年(2013 年)3 月発行
研究代表者 京都外国語大学外国語学部教授 堀川 徹
〒615-8558 京都市右京区西院笠目町 6
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