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酷幻想をアイテムチートで生き抜く

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酷幻想をアイテムチートで生き抜く
酷幻想をアイテムチートで生き抜く
風来山
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
酷幻想をアイテムチートで生き抜く
︻Nコード︼
N6099CC
︻作者名︼
風来山
︻あらすじ︼
内気で目立たない高校生︵隠れ中二病︶が、残酷なリアルファ
ンタジーに転移して知恵と勇気となけなしの能力で生き抜く物語で
す。
本人は、魔剣の勇者になりたかったらしいんですが、残念なこと
に彼には魔法の才能も剣士の才能もありませんでした。
頼りになるのは、現代日本から持ち込んだ中途半端に先進知識が
詰まった頭脳だけ。彼は生き延びるために、その知識を金に変える
1
ところからやらなければなりません。
酷幻想を生き抜くうちに、書記官補、奴隷少女を使役する商会主、
騎士、勇者へと成り上がっていきます。
5﹄︵GCノベルズ︶より4月29日に発売予定です!
おかげさまで、書籍化しました。﹃酷幻想をアイテムチートで生
き抜く
2
1.プロローグ︵前書き︶
CGノベルズより書籍化されております。
2017/4/29に、酷幻想5巻が発売ですよろしくお願いしま
す。
<i135554|2243>
3
1.プロローグ
﹁うあああっ、死ぬっ、死んじゃううううっ!!﹂
いきなりで申し訳ないが、村はずれの荒野で野犬の群れに襲われ
ていた。
俺だって最初は戦うつもりだったさ。
でも、今はもう剣も放り投げて猛ダッシュで逃げている。
正確に言うと野犬ではなく、クレイジードッグとかいうモンスタ
ーらしい。
狂犬ってそのままじゃねーかと思うが、俺が想像していた普通の
犬よりはるかにサイズがデカイ。牙を剥いて口元からヨダレを垂ら
している猛獣の、その狂気にギラつく眼を見た時に脚が震えた。
犬は群れる。
十匹はいただろう、村の冒険者ギルドで討伐依頼を受けるときに、
たかが犬っころに武器を持った人間様が負けるわけないと思ってい
た。
異世界ファンタジー舐めてた。
囲まれて、こいつらに食い殺される自分。
その末路がありありと頭に浮かんだ瞬間、俺はもう戦えなくなっ
ていた。
﹁ああっ﹂
後ろから足首にザクっと噛み付かれたのがわかる、なぜか痛みは
感じない。
心臓は爆発しそうなほどドクドク高鳴ってるのに、俺の脳はやけ
4
に冷静に事態を把握している。
犬に喰いつかれた傷は、ズボンの生地が厚いことが幸いしてそれ
ほど深くない。
それよりも問題なのは、狂犬の牙が足首の肉に食い込んで離れな
いこと。
脱兎のごとく逃げる俺に引きずられても、狂った犬は俺の足首に
食いついたまま俺の足の自由を奪う。
そのままつんのめって、空中を飛んでゆっくりと前のめりに転が
る。
ふんわりと地面に倒れこんで土の感触を感じつつ、そのままゴロ
リと前転。
ここらへんで、﹁あー俺、死ぬんだな﹂と悟った。
どっかの映画で見たことがある、死ぬ前のスローモーションにな
るってやつが今まさに起きてる。
あれ演出じゃなくて、実際にある現象だったんだな。
地面に俺の身体がドン! と、叩きつけられた。
仰向けに寝そべりながら、この次に見るのはこれまでの人生の走
馬灯かなんて、この期に及んでのんきなことを考えている。
そんな俺の予想は裏切られた。
俺の胸の上に、ドスンと狂犬の重たい身体が落ちて来た。
噛まれたときは痛くなかったのに、クレイジードッグに胸の上に
飛びかかられたら重たくて、すっげえ痛い。
狂犬は俺の頭を喰おうとする、俺の顔目掛けて大きなアギトを開
けて。
真っ赤な口の中、白くて鋭い牙がたくさん生えている。
あっ、こいつ奥歯が虫歯になってやがる。
5
死ぬ前の最後の最後に見る光景が、犬の虫歯とかないだろう。
せめて、元の世界に残してきた恋人の顔とかだろ︵いねーけど︶
と思いながら、俺は諦めて瞑目した。
自分が喰われる瞬間など、見るに耐えない。
︱︱ザシュ
ドサッと崩れ落ちる音がして、俺の身体から犬の重みが消えた。
ああ、これもう死亡か。
痛いのは嫌だなーと思ってたら、死ぬのは痛くないらしい。
さすが異世界ファンタジーだ。
ゲームオーバーとか表示が出るのだろうか、それでも構わない。
犬の群れに身体の肉を食いちぎられて、のたうちまわりながら苦
しんで死ぬとか冗談じゃないからな。
そうじゃなかっただけ、ありがてえ⋮⋮。
目を瞑ったままでいたら、やけに足首がジンジンと痛いことに気
がついた。
つか、すげぇ痛あぁぁいッ!
俺は足首に走る激痛に思わず、眼を開けた。
ああ、空が青い。
俺はまだ死んでいない、仰向けに寝っ転がったままだ。
めっちゃ痛い足首を気遣いながら、ゆっくりと身を起こすと、俺
の周りは血の海になっていた。
スプラッタだ。
﹁なんだこれ、俺の血?﹂
6
そんなわけない、無残にも斬り裂かれて絶命した犬っころの死体
がそこら中に転がっている。
こいつらの血だ。
俺の身体にのしかかって噛もうとしていた犬は、ナイフが突き刺
さって頭がパックリと割れてピンク色の脳みそが溢れていた。
そして、ちょっと離れた場所で、完全に降伏している犬っころの
最後の一匹に、大ぶりの直刀を突き刺している女戦士を見つけた。
キュイーンと、やけに軽い犬の絶命の悲鳴が響き渡った。
﹁大丈夫か?﹂
﹁はあ、まあ⋮⋮なんとか﹂
革の分厚いジャケットを着て黒いファスティアン︵分厚い綿布で
安物のジーンズみたいな服︶のズボンを穿いている軽装な女戦士だ。
戦士にしては軽装だが、動きやすさを重視する装備なのだろう。鈍
い輝きを放つ無骨なデザインの直刀を無造作に振るう手つきをみれ
ば、単純にコイツ強いなと分かる。
肩まで伸びた血の色より鮮やかな紅い髪を、ポニーテールに無造
作に括って高い位置で揺らしている。ガタイは女性にしては大柄、
鍛えぬかれた肉体は抜き身の刃のように細くてスタイルが良かった。
明らかに西洋人の彫りの深い顔立ち、日本人の俺にはすごく美形
に見える。歳の頃は、二十代の中盤ぐらいか。
すげえ美人のお姉さんだと、普段の俺なら鼻息荒くしていたかも
しれない。
その顔や身体が犬を斬りまくった返り血で汚れておらず、抜き身
の柄物を手にして居なければの話だ。
助けてもらって言うのも悪いけど、その凄惨な姿はクレイジード
ッグより怖い。
﹁立てるか﹂
7
﹁大丈夫⋮⋮、ツッ﹂
ヤバイ、噛まれた足首がめっちゃ痛くなってきてる。
俺も町の商店でファスティアンのズボンを買って穿いていたのだ
が、その分厚い布がビリビリに破れて血がズボンの上にジワーと広
がってきてる。
かなり傷が深く血が止まらない。見ただけで、気分が悪くなって
きた。
﹁私でも軽い手当ぐらいならできるが﹂
﹁あの、回復ポーション持ってないですかね﹂
気が弱くなっていた俺は、つい甘えてそんなことを言ってしまっ
た。
お姉さんの表情が険しくなる。
﹁持ってないことはないが、お前ポーションがいくらするか知って
いるのか﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
回復ポーションって村のどこに売っていたのだろうか。
俺は村の道具屋で、そのまま異世界から持ってきた手持ちの道具
類を売った金で装備を整えて。
村の冒険者ギルド︵兼、酒場と宿屋︶で初めての仕事を請け負っ
て、ここに来ただけだから回復ポーションの相場までは知らない。
﹁傷を癒す回復ポーションは、どんなに安い店でもシレジエ銀一枚
だ。お前さっき酒場で討伐依頼を受けてたが、依頼料はいくらだっ
た?﹂
﹁えっと、大銅貨五枚でした﹂
銀貨一枚は、大銅貨十枚の価値だ。
8
このお姉さんが何を言いたいのかはよく分かる。
回復ポーションはある、あるのだが使えば赤字になると言いたい
のだ。
現代の日本からやってきた俺だって、金の大事さはよく知ってい
る。
俺は歩けないほどの怪我をしてるんだぞ、持ってるならさっさと
その回復薬を寄越せなんて、叫ぶ真似はできなかった。
死にそうなところを助けて貰った立場は弱い。
﹁分かったら良い、さっさと飲め﹂
戦闘前に投げ捨てたらしいリュックサックから青い色の薬瓶を取
り出すと、戦士のお姉さんは俺に渡してくれた。
﹁いいんですか﹂
﹁その足じゃお前は動けないんだろ、その代わり依頼料は私が貰う。
それに加えてクレイジードッグの肉と皮をさばいて売れば赤字には
ならん﹂
それだけ言うとお姉さんは、ナイフを取り出して黙々と転がって
いる犬の死体を解体する作業にかかりだした。
俺はもらった青い液体を飲み干す。
少しほろ苦い味がして、身体に薬効が広がる。
破れたズボンは戻らないが、傷口はほとんど塞がっていた。
助かったし、ホッと一息もつけた。
だが次々に犬の腹を切り裂いては、ホカホカと湯気を立てている
内臓を取り出しているお姉さんを見て、俺はだんだんと絶望的な気
持ちになっていた。
これは、残酷なリアルファンタジーだ。
9
※※※
日本で平凡な高校生をやっていたはずの俺が、気がついたらヨー
ロッパ風の村落に飛ばされていた。
村の軒先に並ぶ見慣れない商品を見て、どうやら単に欧州にテレ
ポートしてきたわけではなく、異世界ファンタジー世界だと気がつ
いたのが、ついさっきのことだ。
その時の胸が熱くなるような高揚感。
俺も、ついに異世界勇者になれるチャンスがやってきたのだと、
飛び上がって喜んで意気揚々とモンスター討伐にやってきて。
初めてのモンスター相手に剣を振り回した結果が、この有様だよ。
隠れオタクの高校生である俺は、幻想物語にはちょっと詳しい。
この手の古典は、しっかり読み込んでいる。召喚・転生・転移の別
け隔てなくきちんと予習済み。最新の異世界召喚モノも大好きだ。
そのラノベ読みとしての知識を駆使して現状を断定する。
これはゲーム世界でも、お手軽ファンタジーでもなく、古典的な
リアルファンタジーだと!
これがファンタジーゲームの世界なら、お姉さんに斬り殺された
犬型モンスターは一瞬で﹃クレイジードッグの肉﹄とか、﹃クレイ
ジードッグの皮﹄とか、そういうアイテムに変わっていたはずだ。
しかし、目の前には真っ赤な血の海が広がり、内臓を取り出され
て皮を剥がれている犬の死体はグロテスクな有様を晒している。
つまりこれは、分かりやすいレベル制とか、便利な魔法とか、ご
都合主義なプレイヤーチートとか、お手軽ファンタジーに有りがち
10
な救済は期待できないってことを意味する。
むしろ、油断すると一瞬で死ぬ。
厳しい世界なのだ。
しかも、死ぬときは絶対めちゃくちゃ痛い。
さっきのデカイ犬に噛まれた傷の恐ろしい痛みを思い出すと、二
度と嫌だった。
もうお腹痛くなってきた、早くおうちに帰りたい⋮⋮。
﹁暇なら、焚き木を集めてきてくれないか﹂
動物の解体など、とても手伝えない俺にお姉さんがそう言ってく
れた。
正直、グロい解体シーンをボケっと眺めているより、焚き木を拾
い集めたほうがよっぽど気が楽だった。
﹁あー、マジでどうしよう﹂
俺はブツブツと呟きながら、枯れ木を握りしめた手で頭をかかえ
る。
現代っ子の俺には、この乱世を生き抜く力がない。
さっきまで俺は自分が異世界に召喚された勇者だと、勝手に勘違
いしていた。
現実は、モンスターを殺すどころか、その死体を肉と皮に変える
知識と経験すらない。
﹁つか、内臓グロ過ぎだろ。無理だわ﹂
ファンタジー小説には、そんな描写一切なかった。
確かにマニアックなゲームでは、動物の解体スキルなんてのもあ
った。
ナイフではらわたを裂くだけだ。
11
素人の俺だって習熟すれば真似できるかもしれない。
しかし、﹃物理的に﹄解体できることと、﹃気持ち的に﹄解体で
きることは全然違う。
現代っ子の俺にとって、肉は加工済みでスーパーに並んでるもの
だ。
生き残るためにあんなサバイバルスキルがいるなら、冒険者とか
狩人とか、俺は絶対やりたくない。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか。
女戦士のお姉さんは俺の拾ってきた焚き木に火をつけると、嬉し
そうに犬の内臓をフライパンで焼き始めた。
﹁肉は後からでも食えるし、干し肉にもできるんだけど、肝はすぐ
傷んじゃうから、狩った時にしか食えないんだよ。ウメエぞ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
犬の内臓を食えと勧められた。
確かにお腹は減っている、ジュージューと焼ける音は食欲をそそ
るし、美味しそうな脂の焦げた香りも漂ってきた。
木の皿に盛られた湯気の立つモツを、俺は思い切って食ってみた。
﹁うまい⋮⋮﹂
﹁だろ! いくらでもあるから食え食え﹂
レバーは苦いというイメージがあったが、全然そんなことはない。
むしろ舌に甘いと感じる。あまいは、うまいのだ。
新鮮なクレイジードッグのホルモンは柔らかいのに適度な歯ごた
えもあり、濃厚な脂の旨味があるのに喉をスルリと通って行く感じ
12
でいくらでも食えた。
肉の方は干して売るという話だが、ちょっとだけ食わせてもらえ
るとこっちも蛋白な味でとても美味しかった。
焚き木を囲み、一緒に飯を食べていれば、自然と会話は弾むもの
で、俺は自然とお姉さんと仲良くなっていた。
彼女の名前は、ルイーズ・カールソン。
ルイーズは、このシレジエ地方ではありふれた名前らしい。
日本で言えば花子みたいなものか、花子なんて名前の人はいまい
ないだろうが中世ファンタジーだしな。
ルイーズの職業はやっぱり女戦士で、直刀を使っているが得物は
なんでも使えるし、騎馬に乗って戦うこともできるそうだ。ちなみ
に彼女の年齢は、二十四歳。
俺が十七歳だから、七歳年上かあ。
﹁ありだな⋮⋮﹂
﹁なにがありなんだ﹂
思わず口に出てしまった。まあ、俺がアリでも向こうがナシか。
ぶっちゃけ、今は女にうつつを抜かしている場合でもない。
さわたりたける
そういえば、俺の自己紹介がまだだったな。
俺の名前は、佐渡タケル。高校二年生だ。
﹁そのコウコウセイってのは、何の職業なんだ﹂
﹁えっと、なんでしょうね⋮⋮﹂
学生の肩書きは、この異世界のシレジエ王国では通用しないだろ
13
う。
とするとなんだ、無職になるのか。無職ニートなのか⋮⋮。
俺の理想である魔剣の勇者になるのも無理っぽいし、何か職業を
見つけないといけないわけだ。
ルイーズは、俺が冒険者ギルドで依頼を受けるところから見てい
て、あまりにも危なっかしいので後をつけてきてくれたらしい。
そうだろうな、冷静になった今の俺でも異世界転移の後遺症で躁
状態になったあの時の俺は危なっかしいと思うもの。
そして、今は躁状態から一転して鬱状態なのだった。
ルイーズは無愛想な見かけによらず、実はたいそう親切な人みた
いだから、俺に向いてる仕事がないかどうか聞いてみると冒険者だ
けはやっちゃダメだと言われた。
﹁お前の腕だと、経験を積む前に死ぬ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
ルイーズ様のおっしゃるとおりでございますね。
﹁お前の剣の振り方は、ちょっと風変わりだが合理的な太刀筋だっ
た。だからもしかしたら戦えるのではないかと思って、助けるのが
遅れてしまった﹂
﹁あー、なるほど﹂
俺の剣筋は北辰一刀流だ。
といっても、剣道をやっていたわけでもなく高校では帰宅部だっ
た。
学校から早く帰宅すると、持て余してる暇を利用して、古流剣術
14
の本などを読んで木刀を振るっていたのだ。
宮本武蔵も好きなので、五輪の書を読んで剣豪になったつもりだ
った。
いわゆる中二病ってやつだ、もう高校生なのに、中二っておかし
いよね。うん笑っていいよ。ここ笑うところだよね。
しかし、笑えない現実として。
そういう中途半端が、戦場では命取りになることがある。
生兵法は怪我の元を地で行ってしまったわけだ。
俺は弱い。
文明が発展途上で、治安の悪い上に、獰猛なモンスターまでいる
この残酷な世界では生きていけない。
ああ、なんだかまた暗くなってきたな。
とにかく犬の内臓でいいから、腹いっぱい食っておこう。
そして、皮と肉を村まで運ぶのを手伝ったら、ルイーズにしっか
りお礼を言って、土下座してでも、俺にできそうな仕事を斡旋して
もらおう。
異世界に降り立って一日目。
俺は異世界転生の勇者かもしれないなんて驕りも。
死んでもゲームオーバーになるだけだなんて甘い思い込みも。
クレイジードッグに殺されかけた瞬間から消えていた。
ただ俺は死にたくない、何としても生き残りたい。
そう強く願った。
俺を殺そうとした狂犬どもは、さらに強いルイーズに殺されて、
15
美味しいお肉にされて命の糧となっている。
俺は、この残酷な弱肉強食の世界で、生きて行かなければならな
い。
16
2.チートスキル発見?︵前書き︶
17
2.チートスキル発見?
現代日本から、異世界のシレジエ王国の片田舎ロスゴー村に転移
して一週間。
俺はすっかりと腐っていた。
﹁あー、ちくしょうなんで水道がねーんだよ﹂
俺は井戸から農家の納屋に何度も水を運ぶ。
中世では農機具代わりにもなる牛たちの世話が、今の俺の仕事だ。
水汲みが終わったら、今度は餌である。
飼い葉桶に、干し草をたっぷり盛ってやる。
﹁ウモー﹂とか言って牛たちは喜んでくれる。
可愛らしいとは思うが、労働が厳しいのでかまっている余裕はな
い。
だからペロペロと舐めるな。
タンを食うのは好きだけど、タンで舐められるのは好きじゃねー
んだ。
﹁はぁ⋮⋮まったく﹂
疲労につぐ疲労。
筋肉痛につぐ筋肉痛。
この農家の家に雇われたのは、ルイーズの口利きだ。
農家の手伝いなら、俺でもできるだろうとありがたい配慮である。
しかし、俺は農夫で雇われたはずなのに、なんだか酪農家みたい
18
な仕事をさせられている。
つか、俺は農夫も酪農家にもなりたいわけじゃないんだよ。
魔剣の勇者になりたかったの!
もうそこら辺は、諦めてるけどさ⋮⋮。
しばらく続けていれば激しい肉体労働にも慣れるかと思ったら、
慣れないんだよなこれが。筋肉痛に筋肉痛が重なるから何時まで経
オーバーワーク
っても身体は痛いままだ。
超回復も間に合わない仕事量、中世ファンタジーに労基局は存在
しない。
これで、農家のご主人に言わすとまだ農繁期じゃないから暇な方
らしいんだぜ。
文句が言いにくいのは、農家のご主人も奥さんも、小さい娘さん
まで俺よりすごい仕事量こなしてるからだ。
中世ファンタジーって、水汲みして薪割りするだけでもすごい大
変なんだよ。
確かに剣と魔法の世界だから、現代科学の代わりに魔法は存在す
る。
しかし魔法が使えるのは、魔術師と呼ばれる特殊な人達で、冒険
者として名を馳せていなければ、たいてい貴族に仕えたり王国の役
人になってるそうだ。
あとは神聖魔法を使える神官になるけど、この人達も権力者だよ
ね。
つまり、一般庶民の生活は魔法のない昔の時代と何も変わらない
わけだ。
19
現代っ子の俺からしたら、この世界で魔法も使わず普通に生きて
る人たちの体力が、みんな怪力のチートスキル持ちに見えてくる。
これで忙しいと言われる農繁期が始まったらどうなっちゃうんだ
ろ。
俺の腕、モゲちゃうかもしれないね。
﹁あーもうやってらんねえ﹂
俺は干し草の上に横になった。
干し草は農家にはつきものの虫もついてないし、清潔で気持ちが
いいんだ。ダラダラと、このまま寝てしまいたい。
そして仕事をサボって、農夫も首になるか。
せっかくルイーズに助けて貰って生き延びたのに。
﹁諦めたらダメだ、生き抜かないと﹂
俺は干し草の上から身を起こして、心を奮い立たせる。
焚き木の棒を拾って、地面の土に計画書を書き始めた。
紙も鉛筆もない状態だが、一人で愚痴っているよりこうして書い
たほうが考えがまとまりやすい。
例えば水道がないと嘆くより、水道を自分で作ってみてはどうだ。
いや、俺は手先が不器用だから作るのは難しいけど、作れる人に
アイディアを売るって手もある。
近くの川には粉ひき用の水車もあるんだから、動力になる自然エ
ネルギーは存在するわけで、水をポンプで引くってこともできるの
ではないか。
20
動力がない井戸でも、手押しポンプなら簡単に水を汲める。
文系だから関係ないと思っていい加減にせず、もっと理科とかし
っかりやっとくんだったな。
俺があーでもないこーでもないと、悩んでいるところに金髪の女
の子がやってきた。
﹁あー、タケルまたサボってる﹂
﹁いやいや、これはちょっと考え事をしてて﹂
この農家の娘のサラちゃんだ。
そんなに特別な美少女ってわけでもないが、サラちゃんは金髪だ
し、ちっこくて十分可愛らしいので、俺の目の保養二号だ。
︵ちなみに、保養一号はルイーズである、最近見掛けないなあ一号︶
サラちゃんの服はケープやエプロンをつけた、ハイジみたいな民
族衣装で、いかにも村娘の少女って感じがして良い。
良いのだが、子供のくせに口うるさい。
どうやらこの家で、自分よりも目下の存在ができたことにすごく
得意げになっているようなのだ。
ぶっちゃけちょっとウザイ。
でもまあ、俺はもう大人だから年下の女の子に使用人扱いされて
も、目くじらたてないけどね。
ささやかな仕返しに心のなかで、さらさらの金髪の髪だからサラ
ちゃんって名付けられたんだろうと思っているのは内緒だ。
﹁あれ、タケルってしんせー文字書けるの?﹂
﹁そりゃ書けるよ、俺だって高校生なんだから⋮⋮﹂
21
なんだかサラちゃんは、俺が土の上に書いた描いた図面や文字を
見て驚いている。
俺の方はというと、高校を卒業してるわけじゃないから、今の俺
って中卒ニートになるんじゃないかと気がついて愕然としている。
いや、農家のアルバイトだから。ニートじゃねーし。
中卒アルバイトだ。
なんか改善してないような気がする。
﹁すごい、しんせー文字が書けるなんて、タケルは文士様だったん
だね!﹂
﹁ああ俺はすごいんだよ、⋮⋮ってか、しんせー文字とか文士って
何のことだ﹂
サラちゃんに詳しく聞くと、俺が自然と書いている文字は神聖文
字と呼ばれる公文書などに使われる上位文字に当たるそうだ。
文字を自由に読み書きできることは、識字率の低いこの世界では
それだけで立派な職業になるスキルであり、特に神聖文字まで書け
る者は知識人階級として、文士様と呼ばれ尊敬される。
稼業が暇な時に、村の唯一の文士様から教えて貰っているサラち
ゃんでも、書けるのは下位文字までらしい。
どうも神聖文字は教会などで世界的に使われてるらしいので、俺
の元の世界で言うところのラテン語やギリシャ語に当たるようだ。
下位文字ってのが、英語とかフランス語とかの地方言語に当たる
わけか。
試しにシレジエ王国で使われている下位文字が書けるかどうか、
書いてみたら簡単に書くことができた。
22
﹁すごいかしこーい、タケルは文士様なのになんで農家の下働きな
んてやってんの バカじゃないの?﹂
﹁バカなのか賢いのかどっちなんだよ﹂
文士様なら、村役場で働けるからこんな牛の糞の世話なんかやめ
てすぐにそっちにいけと言われた。
サラちゃんの先生が村役場にいて、紹介してくれるそうだ。
普通に日本から転移してきて言葉が通じていたから、この世界の
文字が書けることが職に繋がるとは思っても見なかった。
教えてくれたサラちゃんには感謝したい。
しかし、農家の娘が農家の仕事を腐してどうするよサラちゃん。
※※※
俺は、お世話になった農家のロッド家の皆さんに挨拶して、暇乞
いをした。
この一週間分のお給金をいただく。
この一週間分のお給金、俺の手のひらに乗っているのは片銅貨七
枚である。
ちなみに、片銅貨二枚で大銅貨一枚。
日本円に換算すると、片銅貨は一枚五十円ぐらいのものだから、
いくら三食ついてきたとはいえ、一週間必死に働いて三百五十円ぽ
っち。
あまりにも安すぎる人件費。シレジエ王国に労基局は存在しない。
﹁いやあ、良かったわねえ他に仕事があって﹂
23
﹁はあ、ありがとうございます﹂
そうロッド家のおかみさんは、いかにもホッとしたという顔で俺
を見送ってくれた。
言葉を濁していたが、どうやらロッド家が俺を雇ってくれていた
のは、すっかりこの街の顔役になっている女戦士ルイーズへの義理
立てだったようだ。
一日片銅貨一枚の住み込み農家の手伝いとしても、俺の働きは不
足だったようなのだ。
体よく追っ払われた形である。
こりゃ文士として通用しないと、本当にこの世界で生きていけな
い。
俺は危機感を新たにしつつ、サラちゃんに連れられて村役場まで
来た。
﹁せんせー、文士様を連れてきたよ﹂
村の広場の一角にある村役場。
石造りのこの村では一際立派な建物だった。
中に入ってみると、きちんとしたフローリング仕様。この村では
床が板間というだけで豪華な建物なのだ。
ちなみに大きな農園を持ちそこそこ豊かなロッド家でも、家の半
分以上が土間だった。他にも石や漆喰の床なんてのもあるが、冬場
に冷えるので藁を巻いておくそうだ。
板間ってだけでも贅沢なのである。うーん厳しいなあ。
そんな村一番の豪華な建物だが、中には女性が一人いるだけだっ
24
た。
うーん女性?
机に向かって書き物をしている人は男装をしていた。
現代なら事務員が着ているようなデザインの黒い背広にも見えな
いことはないが、そこまで機能的なデザインではない。
襟首までしっかりボタンを留めて、暑苦しいぐらいにベストもび
っちりと着込んで、中世の貴族っぽい感じと、ジェントルマンの中
間って感じの服装。
村人の粗末な服とは明らかに違う。宝石のような綺麗なボタンと
か、美しい刺繍とか、縫製がしっかりしているところを見るとこの
国の正装なのかもしれない。
ただ、そのようなフォーマルスーツを着込んでも、茶色の短髪の
麗人は女性にしか見えなかった。
﹁男ですよ﹂
俺の視線で思っていることが分かったのか、男装の美しい人は繊
細な頬を上げて、鈴のなるような美声でそう言った。
すごい細い顎だ。モデルかよ、美人すぎるだろ。
男性と称する先生は、歳は二十を越えているだろうか。美少年な
ら、女性に見えてもおかしくはないけど、大人の男が女性にしか見
えないというのはありえないように思う。
もちろんここはファンタジー世界だから、何があってもおかしく
はないのだが⋮⋮。
﹁どうも、先生。佐渡タケルと申します。お初にお目にかかります﹂
﹁ライル・ラエルティオスです。一応、この地域の書記官を務めさ
せていただいております。そこのサラちゃんに、文字を教えてる先
生でもありますね。あと、私は男ですから、お間違えなきようにお
25
願いします﹂
あまり何度も言われると、余計に信ぴょう性なくなるんだけどな。
いくら白色人種と言っても、線が細すぎるし、肌がきめ細やかす
ぎるだろ。美人すぎるのは、もしかしたらエルフなのか。
でも耳は尖ってないし、人間だよな。
どんな化粧水を使ってるのか、すごく聞いてみたいが⋮⋮まあ止
めておこう。
どんな事情か知らないが、本人が男と主張しているのを変に混ぜ
っ返すと、機嫌を損ねるかもしれない。
このライル先生に、俺の職がかかっているのだ。
﹁せんせーはすごい偉いんだよ、王国のちゅうおーから派遣されて
いる書記官で、ぶっちゃけ村長とかせんせーに比べると雑魚だから
ね﹂
﹁ハハハッ、サラちゃんぶっちゃけ過ぎです﹂
初対面の俺にはやや固い表情だが、教え子のサラちゃんには笑う
んだな。
朗らかな笑顔も可愛いなと思う。
ああやって笑っても否定しないところを見ると、書記官という職
業は本当に村長より偉いのだろう。
よし権力者だな、思いっきりおもねるぞ。
﹁ライル書記官様、あの俺⋮⋮いえ、わたくし文士には少々自信が
ありまして﹂
﹁文士に自信があるという表現は聞いたことがありませんが、そこ
までおっしゃるのでしたらちょっとテストしてみましょう﹂
26
さすが先生だ。すぐにテストだった。
サラちゃんもテストには苦い思い出があるらしく、俺がテストを
受けているのを苦い顔で見ていた。
俺だってテストは大嫌いだが、もう牛の世話は懲り懲りだったの
で必死になって書ける限りの文字を書き連ねた。
はい、鉛筆置いてー、書き取りテスト終了。
﹁ほう⋮⋮、これは面白いですね。失礼ですが、お若い方がここま
で書けるとは思いませんでした。神聖文字をどこで習われたんです
か﹂
﹁あの、どうもどこからか飛ばされて来たようなんですが、記憶が
無いらしくて﹂
異世界から来たと言っても信じてもらえないだろうと思って、俺
は記憶喪失を装うことにした。
これは異世界モノのセオリーでもある。
安易に本当のことを言っても、気狂い扱いされかねないのだ。
﹁タケル殿は迷人ですか。これは実に珍しい。道理で、聞きなれぬ
東方風のお名前だと思いましたよ﹂
﹁あの迷人ってのは何でしょう﹂
﹁迷人とは、信じられないぐらい遠くから飛ばされてくる人のこと
です。召喚魔法や空間転移魔法の暴発が原因ではないかと言われて
いますが、詳しい理屈はまだ分かっていません﹂
﹁詳しいことは、わからないんですか﹂
﹁転移や召喚自体が、稀有な魔法ですからね。その暴走ともなれば、
本当にごく稀な現象です。聞くところ、飛ばされる際に記憶が混濁
したり喪失したり、不思議な知識を得る人もいるそうですが、そこ
27
までいくと原因を探るのも難しいですね﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
ライル先生は本当にすごい。サラちゃんがすごい偉いと言うはず
だ。
俺は、すっかりその博識に感銘を受けてしまった。
俺の特殊事情をすぐ理解して、解説までしてくれるとは何という
有能キャラだろう。
先生の話だと、こっちでは異世界転移とは考えられていないよう
だが、異世界に送られたのは俺だけではないとも推察できる。
﹁あのライル先生お願いします、どうか俺を雇ってください﹂
この機会を逃してはいけない。
何としても先生に教えを請わねば。
﹁村役場は私一人でも十分に仕事が回ってるんですが、タケル殿は
貴重な迷人ですし、せっかくの文士仲間ですから、書記補に任じま
しょう﹂
﹁ありがとうございます﹂
そんな西部劇の保安官が流れ者のガンマンを保安官助手に雇うみ
たいな軽い感じで、書記の補佐に任ぜられてしまった。
こっちが内心ドッキドキである。なんか話を詳しく聞いて見ると
書記って、村役人とかじゃなくて、国家公務員じゃないのか。
官僚をその場で勝手に任命とか、ありなのですか?
村役場に居る人なのに、ライル書記官いくらなんでも権限ありす
ぎるんじゃないだろうか。
どういう人なんだ一体⋮⋮。
28
3.温泉と鉱山の村ロスゴー
書記官補の仕事はぶっちゃけ退屈だった。
俺はライル書記官の補佐であり、公文書の作成や細々とした報告
書の清書に当たるのだが、その量ってのは大したことはない。
ロスゴーの村はイエ山脈の裾野にある、たかだか人口二百人程度
の集落だ。
村はずれに小さい鉄鉱山があり、そこは地元の領主に属する村と
は別の国家管理になっているのだが、そこに住んでる鉱山労働者や
鍛冶屋、あるいはルイーズのような流れ者の冒険者を入れても三百
人に満たない。
本当に小さな箱庭のような村だ。
そんな村の公文書を作成するといっても、たかが知れている。
ライル書記官が、暇を持て余して子供の家庭教師のアルバイトを
するのも分かると言うものだった。
しかし、そんな退屈な文書作成の仕事にも特典がある。
国王や領主への報告書をいろいろと調べて書くうちに、俺はよう
やくこのロスゴーの村の地理や特色を知ることができた。
王都への距離も、乗合馬車で四日程度なのでそこまで遠くない。
逆に言うと、そんなに大きな国ではないのかもしれない。
いずれは、王都シレジエにも行ってみたい。
しかし、それより気になったのが⋮⋮。
29
﹁ライル書記官、うちの村には温泉があるんですね﹂
﹁温泉に入りたいなら、スコップで掘らなきゃいけませんけどね﹂
何でも、お湯が湧いているというような便利なものではなくて、
村はずれの河沿いがそのまま温泉になっていて、スコップで掘って
お風呂を作るらしい。
なんか変わっている。河原の野湯といった風情なのかな。
﹁じゃあ今度、一緒に入りましょうか﹂
﹁えっ⋮⋮、いや私はちょっと人と一緒に入るのは苦手なので﹂
ああ嫌な顔された。そうだよなあ、一緒に入るわけないよなあ。
身体の秘密は隠さないといけないもんね。
あんまりそこに突っ込むと、書記官閣下は機嫌を悪くされるので
止めておこう。
それより気になるのはそっちじゃないんだ。
﹁ライル書記官、温泉地に硫黄はありますか?﹂
﹁おお、よく知ってますね。付近に硫黄が露出してる火口がありま
すよ﹂
そうなのだ。温泉=硫黄ではないが、温泉地の火口には自然に硫
黄鉱山ができていることが多い。
博学で知識欲旺盛なライル先生は、初級の錬金術師でもあるそう
で、フィールドワークを兼ねてこのへんの鉱物資源も調べているら
しい。
あとで詳しい場所を聞こう。
30
﹁硝石の鉱山とかはありませんかね﹂
﹁硝石ですか、ここらへんにはありませんね。どうしても欲しけれ
ば、王都から取り寄せるか、あるいは自分で生成するかですね﹂
硝石を遠くから取り寄せたら、俺が考えているプランには予算オ
ーバーになってしまうだろう。
漫画からの知識だが、硝石の材料は確か動物の糞尿が発酵したも
のだったはずだ。家畜や人間のトイレの土を煮詰めればできたと思
う。
そこも、プロの錬金術師であるライル先生に詳しくご指導を願う。
硫黄、硝石、木炭を揃えることができれば、火薬ができる。
﹁もしかして⋮⋮火薬ですか﹂
﹁おお、お気づきでしたか﹂
さすがライル先生だ、中世ファンタジーだぞ。
なんで気がつけたんだ、こっちがビックリするわ。
うーん、もしかして火薬って結構ポピュラーに使われてたりする
のかな。
俺オリジナル、オレジナル技術として売り出せればと思ったんだ
けど。
﹁私も火薬を作ったことはありません、遠くの帝国で戦争に使われ
ることがあったと歴史の本で読んだことがあるぐらいで﹂
﹁なるほど、戦争に使われることはあったんですね﹂
でもシレジエ王国では使われてないってことだよな。
発明自体はされてても、有効性にまだ気づかれてないってことか
な。
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それなら、オレジナル計画いけるかも。
アイディアパクられるのが怖かったんだけど、もうライル先生に
全部話してしまうことにした。
すごくお世話になっているし、ライル先生にパクられるなら別に
構わない。
﹁実は火薬で爆弾を作って、鉄鉱山の露天掘り用に売り込もうと思
ってるんですよ﹂
﹁なるほど爆発させて、岩盤に穴を掘るわけですか。すごい発想で
すね⋮⋮そんな方法、聞いたことがありません。タケル殿が考えた
んですか﹂
そうなんですよ、オレジナルの技術です。
まあ、ただの発破なんだけどね。
だからライル先生、あんまりキラキラと眼を輝かせて尊敬の眼差
しで見られると、こっちが恥ずかしくなるから止めてください。
異世界の知識ですと言うわけにもいかないからなあ。
もちろん、製造にも手間暇はかかるし売り込めるかどうかもわか
らないが、上手くいけば金になるはずだ。
﹁ライル先生。良かったら、火薬製品の製造・販売を手伝ってもら
えませんか。その分のお礼はさせてもらいますから﹂
﹁ええ、かまいませんよ。私も暇を持て余してたところで、火薬の
製造は興味深いです。別にお金はいりませんよ﹂
ライル先生はお金より知識が欲しいってタイプだったか。
まあ、村長より偉い人だものね。
製造はもちろんなのだが、鉄鉱山はシレジエ王国に属しているの
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で、そっちに売り込むときに、王国の中央から派遣されているライ
ル書記官の盛名を利用させてもらいたいのだ。
何処の馬の骨ともしれん俺だけが行くより、通りも良かろう。
※※※
とりあえず、硫黄の採取地のチェックも兼ねて河原温泉に行って
みることにした。
一人で行くのもつまらないので、誰かを誘うことにする。
第一候補のライル先生に、男同士の裸の付き合いを断られてしま
ったので、あとはルイーズってことになるかな。
そう言えば書記官補になってから、俺はルイーズとよく会うよう
になったのだ。
ライル先生が、俺の住む場所として村唯一の宿屋を一部屋借りて
くれたからである。
このロスゴー村の宿屋は、酒場であり冒険者ギルドでもあるのだ。
今日も昼過ぎには仕事が片付いて宿屋に戻ると、ルイーズは酒場
で飲んでいた。
﹁よう、タケル書記官補殿じゃないか﹂
﹁止めてくださいよ﹂
久しぶりに会ったルイーズに、書記官補になったことを教えたら、
狩ってきた肉を振る舞ってくれて︵またモンスターの肉だった︶祝
ってくれたまではよかったのだが。
近頃は会う度に、こうやってからかわれるようになった。
33
村の偉い先生であるライルが、歳若い年下の俺を﹁タケル殿﹂と
呼ぶのが、ルイーズの笑いの壷にハマったらしい。
もちろん俺は自分が、そんな畏まった呼び方に相応しくないこと
は知ってるから、赤面の至りだ。
﹁フフッ、悪かったな。またクレイジードッグの肉でも取ってきて
やるから勘弁しろ﹂
﹁それより、一緒に温泉に行きませんか﹂
モンスターの焼肉も食べ飽きた感があるので、俺は温泉に誘うこ
とにした。
﹁うーん、温泉かあ。ちょっとなあ﹂
﹁やっぱりダメですか﹂
あんまり乗り気でない様子だ。もっと酒が入ってから誘えばよか
ったか。
あわよくば美人でスタイル抜群のルイーズと混浴という、俺の巧
妙に隠された下心が読み取られてしまったのかもしれない。
﹁あれイマイチ意味がわからないんだよな﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁いや、お湯に浸かる意味がわからん。身体の汚れを取りたいなら、
お湯で拭けばいいだろ﹂
﹁うーん、なるほど﹂
お風呂に入るというのは、この地方ではポピュラーではない。
こういうのは、文化が違うって言うんだろうなあ。
34
ライル先生は温泉に入ること自体は否定していなかったので、き
っと人にもよるのだろう。
無理に誘ってもしょうがないし、諦めるかと思った瞬間。
聞き覚えのある可愛らしい声が下から聞こえてきた。
﹁どうして温泉に行くなら私を誘わないのー!﹂
﹁うわっ!﹂
テーブルの下から、さらさらの金髪でお馴染みのサラちゃんが出
てきた。
ビックリして、テーブルに太ももを打ち付けてしまったじゃない
か。
クレイジードッグに噛まれた古傷が開いたらどうしてくれる。
これだけガタガタ騒いでもルイーズは、さっとツマミの炒った豆
の入った木皿と麦酒のコップを手に持って、悠然と飲み食いし続け
ている。
驚いたのは俺だけだったらしい、もしかしてテーブルの下から出
てくるのがこの世界ではポピュラーな文化なのか。
﹁今ならタケルに、特別に、私を温泉に誘う権利を上げてもいいわ
よ﹂
﹁うーん、親御さんの許可があるなら連れていってもいいけどさ﹂
硫黄鉱山近くの温泉なら、村からたいして離れてない。
途中でモンスターが出る危険もなさそうなので、連れていくこと
に否やはない。
サラちゃんにも、ライル先生を紹介してもらった恩がある。
行きたいというならいいんだけど、親の許可を取ってきて欲しい
な。
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﹁あんた私のこと子供扱いしてるわね、元使用人風情がエラソー﹂
﹁すいませんねえ﹂
サラちゃんはまったく存在しない胸を突き出して、クイッと顎を
上げる。
威張っているつもりなのだろう、子供がやってるから可愛いもの
だ。
しかし、元使用人だからこそ、子供を連れ出すのに親の許可がい
るのではないか。
この世界にあるかどうか知らないが、事案発生は嫌だぞ。
﹁許可なら私が取っておいてやるから、さっさとサラを連れてって
やれ﹂
﹁ああ、そうですか﹂
ルイーズは、器用に片手で皿とコップを持ってツマミを食べなが
ら、憮然とした表情で俺にそう言った。
ここで騒いでても、ルイーズの食事の邪魔だ。
サラちゃんはともかく、ルイーズ姉御にそう言われたら連れてい
くしかない。
※※※
スコップと、タオルを持って俺たちは河原温泉までやってきた。
たしかに、せせらぎのような小川から黙々と湯気が上がっている。
かなり硫黄の匂いがするので、これは硫黄の採取の方も期待でき
そうだ。
36
﹁さあ、掘るのよ。私のためにせっせと温泉を掘りなさいー﹂
﹁へいへい﹂
俺は未だにロッド家の使用人なのだろうか。
まあ、サラちゃんには恩があるので言われた通りにでっかい穴を
掘ってみせる。
面白いもので、確かにちょっと掘ると下から白く濁ったお湯が湧
きだしてきた。
穴掘りは、ちょっとやると癖になる。ずっと掘っていたいような
気持ちで全然苦にならなかった。
﹁温泉は肌が綺麗になるってライル先生が言ってたー﹂
﹁そうだね、これは効きそうだな﹂
しかし、この時代に温泉の効能まで知ってるとは、ライル先生凄
すぎるだろ。
もしかして、彼女⋮⋮じゃなかった彼も、実は異世界転移してき
た現代人だったりしてな。
うーん、そう考えてみると有り得そうで怖い。
今度カマをかけて、さりげなく現代の話を聞いてみるか。
ひとつ言えることは、ライル先生のあの透き通るような肌は、こ
この温泉によって作られたのかもしれないということだ。
すると、ここらへんでずっと潜んでいれば、ライル先生の貴重な
入浴シーンも見れるわけか。
﹁タケル、何か良からぬことを考えてる?﹂
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﹁あらら、分かりますか﹂
別にー、ライル先生は男だし。男の入浴シーンをたまたま目撃し
てしまっても犯罪ではないはずだ。
むしろ、男同士一緒に入ってもいいはずなのだが、なぜか後ろめ
たい不思議。
﹁まあいい、さっさと入りましょ﹂
﹁あの⋮⋮今頃聞くのもあれだけど、本当に一緒に入ってもいいん
っすかね﹂
いくらサラちゃんがまだぺったんこの子供とはいえ、ちょっと気
が引ける。
離れた場所に二つ穴掘るのも面倒だから、混浴はしょうがないの
だけど。
﹁タケルは、子供の裸見て興奮するタイプの人?﹂
﹁⋮⋮いや、そう言われるとそうでもないけどね﹂
﹁そういう人がいるから気をつけなさいってお母さんに言われたけ
ど、違うなら平気じゃない﹂
﹁そうだね、プロテインだね﹂
ロリコンだと勘違いされて通報されたら困るので、平静を装う。
サラちゃんは、俺の表情を探るように上目遣いに覗きこんでくる。
血色の良いサラちゃんの桃色の唇が笑顔になった。
なんか、からかわれてるのかなあ。
高校生が五歳も年下の女の子にからかわれてどうするよ。
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なんかもったいぶってたと思ったら、サラちゃんは唐突に服を脱
いで裸になった。
うわ、この世界って服の下にインナーとか付けないんだな。
それとも、田舎の子供だからだろうか。
比較対象がないから、わからん。
ヤバイ心臓の鼓動が早い、狼狽えるな、異世界から来たりし勇者
は狼狽えない!
﹁タケル⋮⋮いくらなんでも、そんなにジロジロ見られると恥ずか
しい﹂
﹁すまんこー!﹂
あんまり見たらマナー違反だよね。守ろうマナー! 付けようシ
ートベルト!
俺もさっさと脱いで、天然の湯船に浸かる。
ちなみにサラちゃんの胸は、ぺったんこだと思ったらちょっとあ
りました。小皿のお椀程度には、ふっくらとしていた。
ちょっと膨らんだ胸の先端には桜色の花びらが乗っている風情で、
でも股の方はまだツルツルの子供だった。
いや俺は、なに本気で子供の身体を凝視してるんだよ。いろいろ
とマズいだろ。
R18指定になってしまう。
さっさと風呂に入ってしまう。
お湯が白く濁っているから、温泉に浸かってしまえば、万が一暴
発しても大丈夫。
何が暴発するのかとは、聞かないで欲しい。
39
﹁気持ちがいいー﹂
﹁うーん、生き返るなあ﹂
サラちゃんは気持ちがいい程度のものなんだろうけど。
俺にとっては、半月ぶりの風呂だった。
気候的には、日本より乾燥してるからお湯で身体を拭くだけでも
大丈夫なんだけど。
﹁やっぱ、日本人は風呂がないとなー!﹂
心のそこからそう思う。というか、叫んでしまう。
日本人は風呂だ!
これからも、頻繁に入りにくることにしよう。
﹁そういえば、石鹸とかは使わないの?﹂
﹁石鹸ってたしか泡が出るやつでしょ、そんな高価なもの使ったこ
とがないよ﹂
確かに店の唯一の雑貨屋にも、それらしきものは置いていなかっ
た。
ゴワゴワのタオルはあったのに、石鹸はなしか。
﹁ふーん、あったら使ってみたい?﹂
﹁欲しいのぉ∼って言ったら、タケルが買ってくれる?﹂
おや、もうこの歳で男に媚を売ることを知ってるのか。末恐ろし
い子。
サラちゃんは、まだ子供だと油断していれば、たまに大人の女み
たいなことを言うんだよな。
40
中世ファンタジーは、平均寿命が短いから。
十二歳はまだ子供だけど、早く大人にならないと死んでしまうの
だろう。
生き急いでるねえ。
俺もまさか十七歳の若さで、女の子にモノを強請られるとは思わ
なかった。
恐ろしい速度だよなあ、ファンタジー世界。
﹁石鹸ぐらいなら、何とか手に入れられないかやってみるよ﹂
買うとは言わないがね。
作ってみてもいい。
﹁へー、タケルはさすが文士様﹂
何だか尊敬されてしまった。
どうやら、サラちゃんの中では、文士=ライル先生と一緒で偉い
という図式が出来上がってるらしい。
あのチートレベルの博学と比べると、俺は中途半端な現代知識が
あるだけのへっぽこなんだけど期待して待っていて欲しい。
石鹸はたしか、油分と灰で簡単に出来たはずだ。
高価なものと言われているなら、これも売り物にできるかもしれ
ない。
41
4.爆弾完成、専売契約の成立
﹁石鹸作りですか、火薬作りもまだ途上なのにいろいろ考えますね﹂
今日も今日とて宿屋から村役場に出勤して、休憩時間に石鹸作り
を始めた話をすると、ライル先生に呆れられてしまった。
何だか火薬作りのことを考えるついでに、いろんなアイディアが
浮かんできて止まらなくなってしまったのだ。
実際に製造を試すと、俺の手先が不器用なのか錬金術師としての
スキルが足りないせいかまったく上手く行かないのだが、そこはラ
イル先生の博識に助けてもらうことにしよう。
﹁石鹸は、確かオリーブ・オイルや菜種油で作っている街があると
は聞いています。タケル殿の言うアルカリ性というのがよくわから
ないのですが、灰汁や石灰と化合させて固形化しているのは確かで
すね﹂
﹁オリーブ・オイルはさすがに手に入らないんですが、モンスター
の油でもできそうなんですよ﹂
このゴスロー村で無料で取れる動物性の油となると、モンスター
の油しかない。
村の周辺に生息しているモンスターは、クレイジードッグ、グレ
イラットマン、吸血コウモリの三種類。
モンスターが増えすぎて冒険者ギルドに討伐依頼が出ると、ルイ
ーズさんが狩りに行くのでその獲物を分けて貰って油を絞っている
のだ。
その油を灰汁と混ぜあわせて鹸化させて見たのだが、今のところ
42
失敗続きである。
柔らかい石鹸らしきものはできるのだが、泡立ちが悪く粘土みた
いな悪臭がする。
オリーブ・オイルで作るような高級品とまでは行かないが、普通
の庶民が使えるような安価な石鹸が出来れば絶対売れるのに。
﹁つまり、タケル殿はそのモンスター石鹸の生成を私に手伝えって
言うんですね﹂
﹁まあ、ありていに申し上げますればそのようなことになります﹂
製造法さえ確立してしまえば木の桶でも出来るはずだが、やはり
精密な実験には錬金術師の手助けが欲しい。
俺が畏まって手をあわせていると、ライル先生はフッフッフッと
笑い出した。
﹁火薬の調合もあるのに、まったくタケル殿は人使いが荒いですね﹂
﹁申し訳ありません﹂
職も斡旋してもらったのに、ライル先生には迷惑ばかりかけてい
る。
﹁いえいえ、冗談です。私は自分の技術が役立つのなら凄く嬉しい
のですよ。この村には錬金術の話ができる人なんていなかったです
し、タケル殿が来なければ石鹸や火薬を作ってみようなんて考えて
もいませんでしたからね﹂
こんな面倒な話に、笑顔で相談に乗ってくれて、製造の手伝いま
でしてくれるのだからこんなに良い人は居ないと思う。
こんなん惚れてしまうやん。
43
ぜひお礼に温泉で背中を流させてくださいと頼んだら、こちらの
提案は即座に却下された。
軽い冗談なんだから、真顔で引くのは止めてくださいライル先生。
※※※
とりあえず、まともに使えそうな爆弾の試作品が完成した。
麻袋にたっぷり火薬を詰めて、火薬を紙で巻いた導火線と繋げた
ものだ。
爆弾完成までに漕ぎ着けるまでの、俺の苦難の過程は余りにも長
い話になるので割愛しよう。
ああでも、一つだけ苦労話してもいい?
硫黄はともかく硝石がキツかった。材料は、もうぶっちゃけてし
まえば人間や家畜の糞尿なんだもん。
硝石小屋を作り、草と一緒に糞尿を土に埋めて、微生物の働きで
硝石が出来るのを待ってから採取する。糞尿をじゃなくて、死骸で
もいいらしいけど、とにかく臭い。
これできるのに少なくとも二、三年かかるらしい、そんなの待っ
てられないのでそれはそれとして、試作品用にロッド家の家畜小屋
の土を貰って硝石を抽出した。
本当は人間のトイレの土からも取れるんだけど、西洋ファンタジ
ーのトイレ事情を調べると酷いものだった。
日本の中世だったら、昔から肥溜めとかあってそれなりにする場
所も決まっているはずなのだが、どうもこの世界は人糞を肥料に使
ってないようなのだ。
つまり、汚い話だけどほとんど壷にして溜まったら表の道に、適
44
当に捨てるみたいな⋮⋮。
ああ、それで思い出したけど、この世界に来た時にトイレが一番
キツかったんだよ。
トイレットペーパーが無くて、拭くものは葉っぱだよ。
みっちゃんみちみちウンコしてーってガキのころ歌ったもんだけ
ど、まさか自分が葉っぱで尻を拭くことになろうとは思わなかった。
ライル先生に紙作りを相談したんだけど、実はこの世界にもきち
んとした製紙法があるみたいなんだよ。
質は悪いけど、村役場でも確かに紙を使っている。
本当に質の悪いゴワゴワの紙なので、本当に大事な契約書とかに
は、羊皮紙を使うぐらい。
なんで紙が一般的に広まってないかと尋ねたら、技術的な問題よ
りも材料の木材が不足しているからだそうだ。
乾燥しているせいなのか、我が故郷の日本みたいに木を切っても
また生えてくるって感じじゃなくて、伐採すると禿山になっちゃう
そうなんだよな。
この世界の人はまず植林なんかしないから、都会に行けば行くほ
ど伐採されまくって荒地が広がって、木材が不足するわけである。
材料不足ばかりは、俺の現代知識もどうにもできない。
やっぱり金の力が必要だ。
ちなみに、ライル先生はトイレのあとはどうしてるのか聞いたら
赤面して﹁水魔法で⋮⋮﹂とおっしゃられた。
ずるいなあ、ライル先生に調べてもらったんだが、俺は魔法の才
能ゼロだそうなので、そっちのほうは望み薄だ。
45
魔力の篭った魔道具とか魔宝石を使えば、魔法力ゼロの俺でも魔
法は使えるそうなのだが、やはりそういったものは値段がとんでも
なくお高い。
やっぱりこの世界でも、何をやるにも金、金、金なのである。
閑話休題。
というわけで、俺とライル先生は金を稼ぐために導火線付きの爆
弾を持って、ロスゴー村の奥にある鉄鉱山に来ていた。
思ったよりも小さい鉱山だった。
小さな洞穴がいくつか開いていて、小さな貨車で鉱物を運んでい
る労働者がいる。労働者は皆、くたびれたボロボロの衣服を来て足
に鉄の鎖を嵌められていた。
﹁あれって、もしかして﹂
﹁奴隷鉱夫。鉱山にはつきものですね﹂
何人かの奴隷はトロッコで鉱物を運搬している。
小さな荷車で坑道の土砂を捨てているのも奴隷で、それらの動き
を長い棍棒を持った兵士が監視している。
足の鎖は動きの自由を奪い、逃亡を困難にするためのものなのだ
ろう。
﹁⋮⋮﹂
﹁鉱山は労働条件が厳しいから、使い捨てられる労働力は必要不可
欠なんですよ。タケル殿の国には、奴隷はいなかったのですか﹂
黙りこんでしまった俺を気遣うように、ライル先生が声をかける。
自由を奪われて最低の労働環境で働かされる人を見て、俺は言葉
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を失った。
普段は優しくて嫋やかなライル先生が、平然と認めているところ
を見るに、奴隷はこの世界の常識なのだろう。
でもとっくに奴隷が解放された時代の俺からすると、ショッキン
グな光景だった。
ライル先生の説明によると、奴隷というのは大抵は債務が払えな
くなって落ちるものらしい。
俺も無一文になって借金まで抱えてしまったら、ああなっていた
可能性もある。
今の俺は、奴隷の労働力に支えられている社会で生きている。
生きるために、それは甘受しなければならないと分かってるよ。
でもこの光景は目に焼き付けておこう。
﹁すいません先生、行きましょう﹂
﹁タケル殿、あそこが鉱山の代官屋敷ですよ﹂
鉱山の入り口近くは、小さな村のようになっていた。
奴隷が暮らすあばら屋に、兵士や技師が暮らす長屋、鉱石を溶か
したり出来た金属を加工する鍛冶屋もある。
そうして、そんなみすぼらしい小村で一番大きな建物が鉱山の代
官の家だ。
きちんと板張りだし、メイドに案内されて中に入ると板間の大き
な部屋だった。
家具類はしっかりしていて立派だ。この付近のモンスターの剥製
が並び、色鮮やかなタペストリーまで飾ってある。
鉱山の鍛冶屋で作ったのか、鉄製のナイフや大剣、ハルバートや
プレイトメイルまで飾ってある。
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村の鍛冶屋は思ったよりも技術力があるのかもしれない。
正直、無骨すぎて部屋の飾りとしてはあまり趣味がいいとは思わ
ないが、国家鉱山の代官ってのは儲かるのかもしれない。
俺の商売相手は、随分と富を貯めこんでそうだと期待する。
扉が開き、半裸の屈強な男が入ってきた。
頭がツルリと禿げている壮年の男だ、女戦士のルイーズよりも身
体がデカイ。
﹁待たせたようだな、この鉱山の代官を勤めているナタル・ダコー
ルだ﹂
こいつがそうなのか、半裸で質素なファスティアンのズボンを穿
いているので、鉱夫が入ってきたのかと思った。
それにしてもナタルは、ムキムキマッチョマンだ。上腕筋の付き
具合が、禿頭が渋いしハリウッド映画の主人公みたいだ。
俺がその盛り上がった筋肉に感心して眺めていると、何か勘違い
したのか頭を下げられた。
﹁客人の前にこんな恰好ですまん、現場に出ていたもので⋮⋮﹂
﹁いえいえ、こちらこそ急に尋ねたもので⋮⋮あっと、俺は、じゃ
ない。わたくしは佐渡タケルと申します。お初にお目にかかります﹂
俺も慌てて、頭を深く下げて自己紹介した。
このナタルという鉱山代官、俺みたいなしょぼい十七歳の若造に
向かって、こうも素直に頭を下げるか。
壮年の立派な男性、しかも地位のある人物に、こうも丁重にされ
ると恐縮してしまう。
48
上半身裸で筋肉ムキムキな見方によっては変質者的な姿も、質実
剛健を重んじる立派な態度に見えてきた。
代官なのに、現場で働いてるって偉いもんな。
ライル先生とナタルとは、同じ村に配属されている国家公務員な
ので、元から顔見知りだったらしい。
ナタルは、俺が爆弾を売りに来ているのを知っているので、わざ
とらしいほど丁寧なのは、商談を上手く勧めようとする手管なのか
もしれない。
だが、そう警戒しても、あまりに率直な態度には好感を持たざる
をえない。しかも額が綺麗に禿げ上がったナタルは、俺が好きな洋
画の俳優に激似だった。
美人にも弱いが、カッコイイ大人にも俺はけっこう弱い。
﹁では早速、爆弾とやらを見せてもらっていいか﹂
俺はナタルに実演するために、新しく坑道を掘るという岸壁を、
木っ端微塵に爆破してやった。
長い導火線を用意して、十分に離れて爆破したのだが、それでも
下手をすると横から鼓膜をぶち破るほどの激しい爆風。
我ながら恐ろしいものを作ってしまった︵ほとんど調合したのは
ライル先生だけども︶。
ナタルは、生まれて初めてみる爆破に興奮したのか﹁ウォォォォ
!﹂と両腕を振りかぶって雄叫びをあげていた。
﹁いかがなもんでしょうか﹂
﹁爆弾というやつは素晴らしい威力だ、上手く使えば手間が一気に
省けるな﹂
爆破後に出来た大穴を手で触れて調べながら、爆風で飛ばされた
49
鉱石なども拾い集めていちいちチェックしている。
ナタルのお気に召して高く買ってくれるといいんだけどな。
﹁爆弾一つにつき、銀貨⋮⋮いや、金貨一枚でどうだ﹂
﹁それはまた⋮⋮﹂
俺は息を飲む、金貨一枚は大金だ。
それほど高く売りつけられるとは思っていなかった。
爆弾はこの世界でも珍しい商品のはずだから、もしかしたらもっ
と⋮⋮。
﹁これ以上は吹っかけるなよ、こっちは同じ国に仕える者同士の誠
意を持って、ギリギリ出せる額を言ったんだからな﹂
﹁ハハッ、まさか。もちろんお願いします﹂
俺は笑いながら冷や汗をかく、顔色で見ぬかれていたらしい。
さすがベテランの代官だ、なかなか交渉も鋭い。
﹁あと金貨一枚で買うには条件がある、後払いにしてほしい﹂
﹁えっとそれはどういう﹂
﹁不良品を納入されたら困るってことだよ、きちんと使い物になる
商品を届けてくれたらその分だけ金を払う。村で噂になってるから
知ってるんだぞ、お前ら結構ここいらで実験して失敗してるだろ﹂
﹁あー、まあそうですね、はい﹂
隣のライル先生を見ると、苦笑いしていた。
確かに成功に至るまで、煙があがったのに爆発しなかったりとか
失敗がたくさんあった。
50
今ではライル先生の努力で、絶妙な塩梅で調合ができているはず
なので、さほど失敗はないはずだが、火薬はわからないからな。
たしかに不発の可能性も考えるべきだろう。
不良品を売りつけるつもりはないので、後払いで問題ない。
﹁もう一つ条件がある﹂
﹁はい﹂
まだあるのかと愚痴りたくなったが、爆弾に金貨一枚だしてくれ
る相手なので俺はジッと我慢する。
﹁ここは、ロスゴー鉱山は小さいとは言え国家の所有する鉱山だ。
うちに爆弾を売り込むということは⋮⋮分かるな﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
そんな思わせぶりな口調で言われても、分からないよ。
俺が呆けているのを見かねて、ライル先生が耳元で囁いてくれる。
︵シレジエ王国との専売契約になるってことです、爆弾なんて他に
売り込むところはないと思いますから構わないんじゃないでしょう
か︶
うーんなるほど、まあ確かにライル先生の言う通りだな。ライル
先生も国家書記官なのだから、立場というものを考えて契約に同意
することにした。
﹁まっ、専売契約にしてくれるなら他の鉱山や、公共事業に爆弾が
必要な現場にも売り込んでやる。お前さんらに損はさせんよ﹂
﹁では、それでよろしくお願いします﹂
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頭を下げながら、まだまだ自分は迂闊だなと反省する。
火薬製品を作るのに精一杯で、販路を広げるなんて考えてなかっ
た。
ここは田舎だから、王国の他の地域に売り込めるチャンスを逃す
手はない。
一方で、民生品を売りたいなら専売にはできないから、独自の販
ラエル先生
路を考えないといけないわけか。
何かいい方法がないか、俺の知恵袋に後で聞こう。
それより今は言っておくべきことがある。
せんもんか
﹁あと巻き込まれ事故には、重々気をつけてくださいね。坑道の中
で爆発させると落盤の恐れもあります﹂
﹁ハハッ、言ってくれるじゃないか。俺は鉱山技師だ、そんなヘマ
はせんよ。だがまっ、取り扱いに注意しなきゃならんのは、確かだ
な。忠告はありがたく聞いておく﹂
口うるさいとナタルに疎まれても、これだけは忠告しておかなけ
ればならないと思ったのだ。
俺が生きていた現代日本でも、鉱山の事故で生き埋めになって死
ぬ人がたくさんいる。
俺が作った爆弾に巻き込まれて、さっきの鉱夫たちが死んだら寝
覚めが悪い。
黒色火薬なんて安全度の低いものを発破にするのだ、ナタルには
十分に注意してもらわなければならない。
52
5.エストの街と佐渡商会の設立
試行錯誤の結果、ついに石鹸が完成した。
と言っても、白い良い香りのする泡立ちの良い上質の石鹸ができ
る確率はまだ低い。
泥臭かったり、粘土みたいな悪い匂いがする、上手く凝固しない
失敗作が出来上がるほうが多い。
しかし、失敗作も衣服の洗浄には十分に使えることがわかり、片
銅貨1枚の大サービスで洗剤として売りに出すことにした。
この世界の庶民は洗剤に灰汁を使っているらしい、単なる灰汁に
比べたら失敗作でも石鹸の方が汚れ落ちが良いに決まっている。
ちなみに、上質品の方のモンスター石鹸の価格は銀貨一枚である。
原料費の割にふっかけすぎかとも思ったが、オリーブ・オイルや
菜種油の石鹸は、地域によって相場も違うが、末端価格で金貨一枚
もするそうだ。
それを考えたらほとんど品質の違いのないものが十分の一の値段
なのだから売れないことはないだろう。
完成した石鹸と洗剤をロッド家に持って行ったら、サラちゃんに
凄く喜ばれた。
納入前に、ロッド家で使ってもらって製品テストしているのは内
緒である。
あんまりサラちゃんが﹁ありがとう、ありがとう﹂と少ない語彙
で喜びを表現してくれるので。
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つい﹁また一緒に温泉行こうぜ﹂と調子に乗って言ってしまった
ら、サラちゃんのお父さんにめっちゃ睨まれた。
ルイーズ姉さん⋮⋮、親御さんの許可取ってくれたんじゃなかっ
たのか。
※※※
村の雑貨屋や道具屋に石鹸を試験販売しに行くついでに、いよい
よ俺のアイテム大人買いが始まる。
なにせ、俺の財布にはいま金貨が入っている。
爆弾に加えて石鹸の販売が上手く行けば、もっと儲けが出るはず
だし、少し贅沢してもいいだろう。
﹁魔法のアイテムってありませんか﹂
﹁この﹃炎球の杖﹄しかないねえ﹂
さすが村の道具屋、在庫が少ない。雑貨屋に至っては日用品しか
置いてないし。
この﹃炎球の杖﹄は、魔法力がなくても﹁ファイヤーボール!﹂
とかっこ良く叫ぶだけで、火魔法の基本にして至極、初歩にして究
極の魔法である炎球が使える。
しかし、困ったことに鑑定されてないので何回使えるかわからん
と。
とりあえず買っておくか、火魔法は俺の武器である火薬とも相性
がいい。
この店の目玉アイテム、未鑑定の﹃炎球の杖﹄は銀貨五枚だった。
人のことは言えないけどいい加減な値付けだな、いくらで仕入れ
たんだろ。
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﹁水魔法の道具ってないですかね﹂
﹁うーん、田舎の村だからねえ﹂
おトイレの後処理問題があるから、ぜひ初歩の水魔法が使えるマ
ジックアイテムが欲しかったんだが。
やはり、どっかの街に買い出しにいくしかないか。
﹁じゃあ、この回復と解毒のポーション全部ください﹂
﹁おいおい、買い占めは勘弁してくれよ﹂
ああそうか、金があれば全部買い占めても良いってわけじゃない
んだな。
教会も病院もないこの村では、ポーションだけが村人の生命線に
なる。
﹁すいません、じゃあそれぞれ五個ずつ﹂
﹁ほいよ、まいどありー﹂
ポーションはわりと高額だが、それでも一個、銀貨一枚。
余るぐらいに備蓄しておくべきだ。
石鹸を売りたいと頼むと、俺はいつも珍しい商品を持ってきてく
れると喜ばれた。
もし残っていたら、俺が異世界転移したときに売った学生鞄とか
筆記用具を買い戻したかったのだが、全部売れてしまったらしい。
残念。
※※※
55
﹁それならエストの街に行って見ませんか﹂
俺がロスゴー村のアイテムのしょぼさを愚痴ると、ライル先生か
らそのような魅力的な提案があった。
﹁しかし、ライル書記官。書記官と書記官補の両方が村役場から離
れては、マズいんじゃありませんか﹂
﹁だって、仕事なんかないじゃありませんか﹂
俺が久しぶりに畏まって真面目さをアピールしたのに、ライル先
生ぶっちゃけすぎ。
確かに俺が来てからもう一ヶ月以上になるけど、なんかまともな
仕事ってきたことないもんね。
村で結婚式が一回あったぐらいか。
﹁公証の手続きなら、頼んでおけば村長が代わってやってくれます。
近隣地域の視察も書記官の立派な仕事ですから、一度エストの街ま
で視察に行くのもいいでしょう﹂
﹁なるほど、視察って名目で遊びに行こうと﹂
俺もぶっちゃけてみると、アハハと声をあげてライル先生が笑う。
視察の名目で遊興、どこからみても悪い公務員の会話である。
こういう冗談も言い合える仲になったのだと思うと嬉しい。
﹁視察ってのは冗談ですが、全くの遊びってわけでもありません。
タケル殿の商売を考えると、一度エストに居られる伯爵閣下に、ご
挨拶に行ったほうがいいんですよ﹂
﹁なるほど、地域の権力者のご機嫌伺いに行けと⋮⋮﹂
このロスゴー村も含めて、ここらへんはエスト伯爵の領地だ。
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このまま、商売の方を広げていくとなると、地方領主と仲良くな
っておく必要があるのか。
挨拶はビジネスの基本である。
俺は仕事終わりに宿屋に戻ると、冒険者ギルドで念の為にルイー
ズに旅の護衛を依頼する。
荷馬車を買うか借りるか迷ったのだが、﹁馬車は商人の基本だ﹂
とのルイーズのありがたい言葉に背中を押されて、中古の幌馬車を
買うことに決めた。
幌馬車は、ただの荷馬車ではなくて上に幌がついてて雨風が凌げ
るタイプだ。
扱う商品が石鹸と火薬であることを考えると、防水性がしっかり
しているものではないとまずい。
しっかりした幌馬車は中古でも驚くほど高くて、財布がカラッケ
ツになった。金が足りないので、馬はロッド家から貸してもらった。
鉱山から依頼を受けてロスゴー村の鉄製品を幌馬車でエストに運
び、帰りはロスゴー村で不足している商品、布や塩を積んで帰れば
利益がでる目算だ。
なんだか、自分の幌馬車を手に入れて、本当の商人になったよう
な気分で高揚してくる。
魔剣の勇者への憧れは消えてないが、旅商人ってのも悪くない。
さっそく輸送を依頼された商品と、作り立ての火薬製品と石鹸を
乗せて、エストの街まで出向くことにした。
※※※
エストの街を初めて見た時の俺の感想は﹁しょぼいな﹂ってこと
57
だった。
これは、俺が期待しすぎたのが悪い。
ロスゴーはもともとが山村だから、そんなもんかと思ってたのだ
が、この地方の領主が住む、いわば県庁所在地なわけだろ。
丸一日かけて、延々と荒野と丘と田園が続く道を幌馬車に揺られ
てやってきたのに、着いた先がたいして大きくもない街じゃなあ。
エスト伯領は、やっぱりどこまで行っても田舎だなって感じだっ
た。
ただ小さくとも街の周りに、石造りの城壁が張り巡らせているの
は、﹁ファンタジーすげえ!﹂と感激したりした。
俺が、感動の面持ちでベタベタ石の壁を触っているのを、ライル
先生や城門を守ってる衛兵まで気持ち悪そうに眺めている。
だって現役の城塞なんて初めて見るんだぜ、お前らは感動が足り
ない。
あとメインストリートや広場がきちんと小さい石が嵌め込まれた
石畳なのは立派だと思う。
ライル先生に聞いてみると、村と街の違いは人口ではなくて、街
道の整備ができているか城壁などの防衛施設があるのかないのか、
という違いなのだそうだ。
あとエストの街は、小さくとも県庁所在地なので各種ギルドの窓
口と教会の支部は揃っている。
街に城壁があるからには、城もある。
俺がこれから尋ねる伯爵様は、街の中央奥にあるお城に住んでら
っしゃるのだった。
さすがに伯爵様となると、街の中でも目立つ石造りの城だった。
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ただなんだか赤い原色に塗りたくられた尖塔が無駄に三本も高く
聳え立っていて、遊園地のお城みたいな、下手するとラブホテルの
お城のような、変な装飾の城だった。
装飾過多というか、防衛という概念を著しく軽視しているような
気がする。
貴族ってのは、たしか自前で領地を守ってるはずなんだよね。
ライル先生に聞くと﹁ここらへんはもう百年以上戦争がないから﹂
と口を濁された。
やっぱ、ちょっとここの領主様、変なのかな。
幌馬車を宿屋につけて、部屋を取って一息ついてから、領主の城
に出かけることにした。
ライル書記官と、そのおまけがご領地で新商売をするので挨拶し
たいと城に連絡するとすぐアポイントメントが取れた。
ライル書記官の顔がここでも生きた。権力良し、知識良し、容姿
良し、本当に万能選手。
俺じゃなくて、ライル先生が異世界の勇者なんじゃないだろうか。
ちなみにルイーズにも、一緒に城に行ってみないかと誘うと。
﹁貴族は好かない﹂と、にべもなく断られてしまった。
麗しい書記官に加えて、美しい護衛も居たほうが、通りが良いか
と思ったんだが、まあ好かないものは仕方がない。
ルイーズが手伝ってくれてるのは、ギルドの依頼という形だが、
半ば好意に甘えているわけだから無理強いはできない。
領主の城に招かれると、中はすごい豪勢だった。
これまで見たどの建物より、広いし、天井が高い。
中世の本物のお城ってことにも興奮したが、床に隙間なく敷いて
ある赤い絨毯もこの世界に来て初めて見た。
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ロスゴーみたいな山村に居たから、余計に感動してしまう。
あと分かったことは、ここの伯爵様は赤が好きってことだ。
豪華な調度品が並んでるが、赤っぽい物が多い。
しまったな、石鹸も赤く染めてくるべきだったか。
偉い伯爵様に会うのに、てっきり謁見の間みたいなところに通さ
れるのかと思ったら、燕尾服を来た執事に、丸いテーブルのある部
屋に通された。
ちなみに椅子もテーブルのクッションも赤である。どんだけだよ。
椅子のクッションも柔らかく、くつろいだ空間だ。
思わず座ってゆったりしてたら、豪奢を絵に描いたような赤き衣
に身を包んだ太ったおっさんがやってきたので、俺は慌てて立ちあ
がった。
﹁ああっ、どうかそのまま楽にしていてくれ。この城の主、ダナバ
ーン・エスト・アルマークだ。今日はよく来てくれた﹂
楽にと言われても、伯爵様にそれは無理じゃないのかな。俺は直
立不動になって、とにかくライル先生の動きに合わせる。
伯爵が着席して、もう一度席を勧められてからようやく座ってい
いようだった。
さわたりた
えっと、まず挨拶だな。このいかにも育ちが良さそうな貴族様に
どう挨拶すれば好印象かな。
ける
﹁お初にお目にかかります、エスト伯爵閣下。わたくしは佐渡タケ
ルと申します、本日はごきげん麗しく、お日柄もよく⋮⋮ああ、こ
れつまらないものですが﹂
なんかグダグダになってしまったが、挨拶がわりの贈り物として
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火薬製品と石鹸の詰め合わせセットを送った。
なんだかお歳暮みたいだ。
伯爵様は、火薬には一切興味を示さず、白い石鹸を手にとって舐
めるように眺めていた。クンクンと匂いまで嗅いでいる。
なんだ爆弾の方が大発明だと思うんだが、伯爵は石鹸が妙にお気
に入りなようだ。
育ちが良い人とはそんなもんなのかね。
﹁タケル殿は、この度、書記官補に任ぜられたと聞く。シレジエ王
国では、官吏も貴族も国王陛下に使える臣という意味で同格である。
ぜひ気軽に、ダナバーンと呼んでくれたまえ。アッハッハ﹂
︵これは建前ですよ、貴族には様付けして敬意を払ってください︶
作法を知らず、何をやらかすかわからない俺に、隣のライル先生
が慌てて耳打ちしてくれる。
たしかに俺なら、タメ口ききかねないもんね。
﹁ではダナバーン様とお呼びします。今日は、ご領地で商売を始め
るご挨拶に⋮⋮﹂
﹁まま、タケル殿。込み入った話の前に、とりあえず一息いれよう
ではないか﹂
俺の話を遮って、伯爵は執事に言いつけてお茶を出させた。
メイドさんがテーブルに出してくれたのは、もちろん貧乏臭い白
湯ではなく、こっちの地方によくある紅茶でもなく、真っ黒い液体
だった。
﹁えっ、これはもしや⋮⋮﹂
61
この苦みばしった匂いには、馴染みがある。懐かしさに涙が出そ
うになる。
まさかこれで、飲んでみたら泥水だったなんてオチは止めてくれ
よ。
﹁私は変わったモノが好きでなあ。これは近頃、王都でも流行って
いる南方の地方で採れるコーヒーという飲み物なのだ。かなり苦味
があるので、もし口に合わなければ別のものを⋮⋮﹂
やっぱりコーヒーか。やったね!
俺はこれの中毒なんだよ、我慢しきれずに俺は一気に飲み干した。
いと懐かしきカフェインが、俺の身体の隅々まで染み渡るようだ。
これだよ、これが欲しかったんだと身体が喜んでいる。
﹁うまい!﹂
﹁驚いたな、タケル殿。それはたっぷり砂糖を入れてようやく飲め
るモノなのだが、そのまま一気に飲み干すとは、よっぽど気に入ら
れたのか﹂
香りが高く酸味も少ない。
こんな口当たりの良いコーヒー飲んだことないんだけど、ブラッ
クで飲んだら変わり者扱いされた。
コーヒーの苦味は、この地方の人には口に合わないってことなの
かな。
ライル先生も俺の真似をしてそのまま飲んで、苦そうな顔をして
慌てて砂糖を入れている。
もったいない、上物のコーヒーはブラックに限るのにな。
﹁俺はブラックで飲むのが好きなんです。砂糖の他にミルクを入れ
62
て飲む人もいると聴きますが﹂
﹁ほほー、ミルクティーのようにして飲むのか。それは王都でもや
ってなかったと思う。タケル殿は、たいそうな通なのだな﹂
伯爵は、早速ミルクを取り寄せてカフェオレにして飲んで、悪く
ないと喜んでいる。
貴族ってのはもっとどっしり構えているのかと思えば、見た目よ
りフットワークの軽い人だった。
コーヒーのお代りもくれるし、本当に良い人だ。
王都で今流行っているらしい、コーヒーを飲ませるカフェの話に
花が咲いて、南方のコーヒーの銘柄から珍しい物産の話に広がる。
ダナバーン伯爵は珍しいモノ好きらしいし、ライル先生も博識な
ので面白い話がたくさんできた。
ごく自然に、エスト伯領で商売がしたいという話に繋がる。
﹁もちろん、商売の許可はだそう。しかし、火薬にしても国家契約
を結んでおるようだし、民生品でも新しい商品を出せるのなら、い
っそのことタケル殿が商会を開かれてはどうか﹂
勢いがつきすぎて、いきなり話が大きくなった。
商会と言うと、会社を作るようなものなのだろうか。
まだ俺とライル先生のお手製で作って、幌馬車で売り歩こうって
段階なんだけどな。
俺が躊躇してると、ライル先生がこう言った。
﹁確かに扱う品が品ですから、どこかの商会の傘下に入るというわ
けにも参りません﹂
63
先生は、含みのある視線を俺に向けてくる。
つまり、作れってことか。ライル先生がそう言うなら俺は決心し
ちゃうよ。
﹁では、その⋮⋮商会を作る方向でお願いします﹂
﹁そうか、タケル殿は商会を設立されるのだな。ではお祝いに、こ
のエストの街に土地を進ぜる。ぜひ我が領地に商館を建てて欲しい﹂
えっ、進ぜるってくれるってことか。
土地貰えるの?
横目で、ライル先生を見ると彼女も⋮⋮じゃなかった、彼も驚い
た顔をしていた。
そうだよな、不動産だもんね。
お金持ちの貴族にしても気前良すぎだろ。
﹁ハハッ、タケル殿がくれたこのモンスター石鹸と言ったか。これ
は実に上質な品だ。エストから新しい特産品が生まれるならワシも
鼻が高い﹂
なるほど、久しぶりにコーヒーを飲んで、カフェインで脳が冴え
ている俺は、ライル先生よりも先にダナバーン伯爵の意図を悟った。
土地をくれるのは先行投資だ。
オリーブ・オイルや菜種油の石鹸があると聞いたが、この世界で
石鹸はまだ特殊な地方にしかない特産品らしい。
自領から新商品が生まれれば、街の商業取引が活発になって商人
の行き来も増え、豊かになる。
結果として領主の実入り︵税収︶も良くなることだろう。
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人が良いだけの田舎貴族かと思えば、伯爵はきちんと商売の基本
が分かってる。
エストの街は食料生産が盛んで、特産品に織物まで開発されてい
る。
この街が豊かで、餓死者や行き倒れも出ていないのは、土地に恵
まれてるってこともあるが、この領主の手腕もあるのだろう。
さわたりしょうかい
﹁ダナバーン様、ありがたく頂戴いたします。佐渡商会は、これか
ら新製品を閣下のもとにお届けに上がりますので、ご期待ください﹂
﹁うむ、ワシに協力できることがあればなんでも言ってくれ、期待
しておるぞ﹂
ダナバーン伯爵は、我が意を得たりとふっくらとした血色の良い
頬に笑みを浮かべた。
いいぜ、投資してくれた分はしっかり儲けさせてやる。
美味い話は分け合おうじゃないか伯爵。
こういう物の分かった領主の下にたまたまつけたのは、ラッキー
だったといえる。
しかし、つい調子にのって新製品とか約束しちゃったけど、ノー
プランだったりするんだよな。
まあ、なんとかなるか。
65
6.キャラバン隊を救え!
﹁モンスター狩りに行こうか﹂
俺の頼りになる護衛であるところのルイーズお姉さん︵二十四歳
独身︶は唐突に言った。
さわたりしょうかい
エストの街での佐渡商会の設立は、暗礁に乗り上げていた。
ダナバーン伯爵に、﹁佐渡商会やったるで∼﹂と大見得切って、
街の広場近くの商業地に空き地を譲り受けたまでは良かったのだが。
よく考えてみると、幌馬車を買ったことで資金が尽きていた。
いやそれどころか、馬はロッド家からの借り物なのだ。
むしろ若干、赤字だとすら言える。
ロスゴー鉱山からエストの街へ、鉄製品を一回輸送したぐらいじ
ゃ、はした金にしかならない。
商会を作るには、商館を建てなきゃいけないし、職員も雇わない
といけない。
さすがのライル大先生も、知ってるのは商会のシステムだけで実
際の経営ノウハウまでは持ち合わせていない。
﹁知ってることと、できることは違うんですよね﹂とは、ライル先
生の弁だ。
俺もこの世界に来てから、それを痛感している。
あとこっちは私事だが、せっかくエストの街まで買い物に来たの
に、先立つものがないなんて悲しすぎる。
持ってきた石鹸︵売値 銀貨一枚︶と洗剤︵売値 片銅貨一枚︶
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は、珍しさと値が安いこともあって飛ぶように全部売れたが、とて
もじゃないが足りない。
爆弾は、シレジエ王家との専売契約を結んでいる商品なので、市
民や他の商人には売れない。
火薬を使った民生品も考えてはいるのだが、まだ試作段階。
こういう行き詰まった状況で、一旦諦めてロスゴー村に帰ろうか
と思ってたところにルイーズの提案だ。
﹁モンスター討伐依頼で儲ければいいだろう、私は護衛の一環だか
ら金はいらん﹂
うわ、ルイーズお姉さん太っ腹。
何という好条件の提案をしてくれるのだろう。
﹁その代わり、モンスターの肉と皮をくれ﹂
うわ、いつものルイーズだ。
俺を助けてやろうとかじゃなくて、モンスターの内臓を食いたく
なってきただけなのかもしれない。
しかし、ルイーズの提案はありがたい。
あれこれ考えてるより、とりあえず動くってことだな。
ルイーズお姉さんとライル先生と俺の三人パーティーで、冒険者
ギルドに行くとそこは慌ただしい騒ぎになっていた。
﹁あんたら、冒険者か! 緊急の依頼があるんだが受けてくれない
か﹂
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俺たちがギルドに入るなり、ギルド職員のおっさんが血相を変え
て頼み込んできた。
﹁街の近くで、商人のキャラバン隊がモンスターに襲われたらしい
んだよ。いま衛兵が向かってるが、ギルドにも応援要請がきてる。
報酬はご領主様から出るから頼む!﹂
﹁わかった行くぞ!﹂
いつでも即断即決のルイーズが、行くことを決めてしまった。
襲撃してくるモンスターが、どれほどの数なのかわからない。
でも、衛兵も行ってるから平気か。
この街って平和だって聞いたんだけど、近くにモンスターなんて
出るのか。
まあ、伯爵に恩を売るチャンスでもあるか。
ポジティブに考えよう。
※※※
﹁最悪ですね、逃げたキャラバンがモンスターの群れをここまで引
き連れて来たんですよ﹂
慌てて向かった先の戦況を一瞥して、ライル先生が苦々しげに言
った。
街の外、三キロほど行った先でモンスターと衛兵との戦闘が始ま
っていた。
キャラバン隊を囲む人型モンスターの数は五十匹を優に超えてい
る。
小さい緑色の化物がグリーンゴブリンで、大きい土色の化物がア
ースオーガか。
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RPGではお馴染みのモンスターだ。
知識としては知っているが、人間と同じ武器を持った化物が、人
を襲い、殺している姿を見てしまうと足がすくむ。
それに対して槍を持って駆けつけた衛兵の数は十人足らずで、明
らかに手数が足りていない。
本来なら、防壁のある街まで撤退すべきなのだが引けない理由が
あるのだろう。
キャラバン隊の扱っている商品は、最悪なことに奴隷だった。
鎖で数珠つなぎにされて、満足に逃げることも抵抗することもで
きないたくさんの奴隷が、為す術もなくモンスターに襲われて死ん
でいる。
オーガの持つ無骨な棍棒に頭をかち割られて
ゴブリンの持つ尖ったショートソードに胸を突き刺されて
防具もつけていない奴隷は、すぐに倒れて動かなくなる。
俺は、ついにこれを使う時が来たかと、勇気を振り絞って鉄剣を
握りしめた。
生活苦に喘いでも、手放さなかったこの鉄剣。
北辰一刀流免許皆伝︵通信講座︶の力を見せる時が来た!
﹁それじゃない、タケル。あの変な音の出る火薬を投げて使え! 先生は魔法を頼む﹂
音の出る火薬って、俺が試作した爆竹とかんしゃく玉のことか。
俺に指示をしたルイーズは、手に携帯用の小弓を持って、手近な
ゴブリンに撃ちまくっている。
早くて正確なヘッドショット!
69
﹁ライル・ラエルティオスが天地に命ずる、吠える瀑布、号泣する
激風、崩れ落ちる大地、あだなす敵をその御力のままに薙ぎ倒せ!﹂
ライル先生の得意とする中級系大規模魔法、スパイラルハリケー
ン。
先生が、ちょっと中二病っぽい詠唱と共に手を振り上げる。
風系、水系、土系のありったけの魔力を一気に解き放ち、巨大な
水竜巻が幾重にも発生してオーガの群れを吹き飛ばしていく。
竜巻を直接食らった敵だけではなく、飛び散る土石で周りまで巻
き込む派手な副次効果がある。
ファンタジーらしい最強呪文だ。いいなー魔法って。
それに比べて、俺は子供の玩具かとちょっと腐りつつ。
ありったけのかんしゃく玉をモンスターの群れに目掛けて投げ込
む。
それに続いて、爆竹に﹃炎球の杖﹄の最小出力で火をつけてから、
そこらのゴブリンに投げつけた。
パンパンパンパン! と、お馴染みの乾いた音が鳴り響く。
爆竹攻撃を直撃を受けたゴブリンが、投げた俺がびっくりするぐ
らいのオーバーリアクションで吹き飛んだ。
あれ、意外と効いてる?
ド派手なライル先生の大竜巻攻撃よりも。
爆竹のお馴染みの破裂音と輝きの方が、群れの気を引いたらしく、
モンスター達の動きが一瞬止まった。
戦っていた衛兵も手を止めて驚愕した顔で、こっちを見ている。
70
ただの花火だぞ?
次に、ばら撒いたかんしゃく玉を踏んだらしいゴブリンたちが、
サーベル
キーキー甲高い悲鳴をあげて、慌てふためいたあげく次々に転倒し
た。
そこに、いつの間にか弓から直刀に持ち替えたルイーズが飛び込
んで、ゴブリンの胸をザクザク突いて回る。
﹁何をしてる、もっと投げろー!﹂
ルイーズに叱咤されて、俺は目の前のオーガやゴブリンに、火の
着いた爆竹をどんどん投げつける。
そんなに威力がある攻撃とも思えないのに、爆竹が炸裂するたび
にモンスター達は狼狽して怯んだ。
その隙に、ルイーズが切れ味が鈍った剣を次々と持ち替えて、切
ったり薙いだり突いたりしてほぼ一撃で殺す。
呆気ないと思えるほど一撃必殺だった。
最後なんか、ザッシュッ、ザシュッと、ショートソードの二刀流
だった。
俺もその主人公っぽい戦士役やりたいなあ、腕力がない俺じゃ無
理なんだけどさ。
せめて最後は魔法でかっこ良くと思い、﹃炎球の杖﹄のファイヤ
ーボールを敵にぶちかましてみたが、オーガの薄皮を焼く程度のダ
メージしか与えられない。
これじゃ爆竹より効果がない。
元からの魔法力ゼロで杖だけの力じゃこんなものなのか。
トホホ⋮⋮。
71
結局、モンスターの群れは、半分ほどがルイーズに斬り殺された
辺りで、蜘蛛の子を散らすように撤退していった。
襲われた奴隷商人のキャラバン隊は酷い有様になっているし、衛
兵にも負傷者がたくさん出たので追撃する余裕はない。
激しい戦闘を終えたルイーズは、かすり傷程度のダメージしか無
く、すぐに回復ポーションを飲んで全快した。
ルイーズの後ろから、爆竹を投げていただけの俺は怪我などしよ
うもない。
それにしても、なんであんなに爆竹とかんしゃく玉が効いたんだ
ろ。
俺が質問すると、ルイーズいわく﹁知能のある敵は、初見の攻撃
に弱い﹂だそうだ。
この世界では、爆竹やかんしゃく玉は、新兵器で誰も見たことが
ない。
だから、ルイーズは俺が花火を作って遊んでるのを見た時から、
敵の動きを止めるのに使えると思っていたらしい。
それならそうと最初から作戦を説明してくれればいいのに、言わ
ないのがルイーズなんだよな。
戦闘も終わり、キャラバン隊と街の衛兵が話しているが、キャラ
バン隊は下っ端の使用人が数人しか残っていなかった。
元がどれほどの規模か知らないが、ほぼ全滅に近いんじゃないか。
モンスターに追われても戦い続けた商人たちは、みんな死んでい
た。
それだけ厳しい戦いだったと言うことだろうが、モンスターの群
れに追いつかれても、エストの街に救援を要請する余裕はあったの
だ。
72
もし即座に荷馬車を切り捨てて、街に逃げこんでいたら命だけは
助かっただろうに。
欲をかきすぎた最後といえる。
ゲームなら分かるけど、自分の命がかかっていても撤退時期を見
誤るってことはあるのだな。
街まであと一歩だったから気持ちは分からないでもないけど⋮⋮。
異形の人型モンスターと、商人の死体が折り重なるようにして倒
れている陰惨な戦場を眺めて、いざとなったら馬車を捨てて逃げよ
うと硬く誓う。
命は金では買えない、死ぬのはやっぱり嫌だ。
あと、モンスターに刺されたり殴られたりしても、死んでない奴
隷が苦しそうに呻き声を上げてるんだけど、これ助けてもいいよね?
﹁この奴隷たちの主人はすでに居なくなってるようだし、お前のポ
ーションはお前のものだから勝手にしたらいい﹂
ルイーズはそう言うと、手近なゴブリンの死体をナイフで解体し
始めた。
あー人型のモンスターもバラしちゃうんだ。
なんか残酷ですごく抵抗あるけど、人型モンスターの脂肪からも、
油を絞って石鹸を作っている俺が言うことではない。
衛兵も商人の生き残りも、鎖に繋がれたまましゃがみ込んで、血
だらけで死んだり死んでなかったりする奴隷にはそっけない。
みんな相手にしないというか、人間を見る目じゃないんだよな。
人権がないって、こういうことなんだろうか。
73
回復ポーションは五本しかない、俺は助かりそうな怪我の奴隷を
選別してポーションを飲ませた。
生死の選別とか、重たい。災害医療漫画みたいだ。
こんなことなら回復ポーションだけもっとたくさん買っておけば
良かったと悔やむ。
﹁なんで、助けて、くれるんですか﹂
回復ポーションを飲ませて介抱した奴隷の子供に、消え入りそう
な声で聞かれて、俺は胸がすごく痛くなった。
砂にまみれた長い髪もボサボサで、顔も泥まみれ、辛うじて服と
言えるローブもモンスターにざっくりと斬り裂かれて、ボロボロの
布を巻きつけただけになってる。
薄汚れてボロボロで性別もわからないけど、奴隷はよく見ればみ
んな若い。幼いぐらいの子供もいた。
本来なら親の庇護下に置かれるべき年齢だろと可哀想になる。
﹁わかんないけど、助けられるからかなあ﹂
奴隷が奴隷なのは変わらないんだろうし、安易な同情で希望を持
たせるようなことを言っても残酷かもしれない。
本音を言えば、ポーションはまた金で買えるけど、命は買えない
ってことだよ。
でも、そういう現代人の価値観を言っても、しょうがないのはわ
かっている。
この世界では、人の命も簡単に金で買えてしまうんだからこうな
るんだろ。
まったくリアルファンタジーって、救いがない。
だから嫌なんだよ。
74
※※※
﹁衛兵から聞いたぞ、さっそく大活躍だったようだなタケル殿﹂
﹁いえいえ、たまたまでして﹂
街に戻ると、ダナバーン伯爵から直々にお褒めの言葉を頂いた。
労いの言葉より、コーヒーを飲ませてくれるのが俺は嬉しいんだ
けどね。
ルイーズも誘ったのだが、大量にある死骸からできるかぎり肉と
皮を取りたいと断られたので、伯爵の城に招かれてるのは俺とライ
ル先生だけだ。
肉と皮を解体している時のルイーズは、誰にも止められない。
﹁不可思議な魔法を使ったと聞いたのだが、この小さな玉が武器だ
ったのか?﹂
﹁爆竹とかんしゃく玉です、火薬を使っている花火で、本当は子供
の玩具に作ったつもりだったんですけどね﹂
ダナバーン伯爵は好奇心旺盛だ。
この前持ってきたときは火薬製品に興味を示さなかったのに、実
戦で有効な品と聞くと爆竹やかんしゃく玉を自分で破裂させて、威
力を確かめていた。
﹁子供の玩具にするには、少々刺激的すぎるようだが、敵を怯ませ
る武器にはなりそうだな。魔力を持たぬものにも使えるという点が
良い﹂
﹁そうですね、やはり武器として売ったほうがいいかもしれません
ね﹂
75
爆竹で派手にお祝いするのは中国の風習だしな、西洋の貴族が好
む趣向ではないのだろう。
火薬も平和利用できないか考えてはみたんだが、この乱世ではや
はり武器にしか使えないのかもしれない。
﹁うむ、それでタケル殿への報酬の方なのだが、ちょっと困ったこ
とになってな⋮⋮﹂
伯爵が言うには、甚大な被害が出て半壊した奴隷商人のキャラバ
ン隊は、主人が死んで解散になってしまったそうなのだ。
残った使用人たちは相談して壊れかけの荷馬車を全部手放して、
残った資金と合わせて金を持って故郷に帰るそうだ。
問題は、今回の積荷である奴隷の生き残り十三人。
エストの街には、奴隷を扱う商人がいないので、売り払おうにも
買ってくれる相手がいなかったのだ。
だから街に騒ぎを持ち込んだ迷惑料がわりにと、使用人たちは換
金できない奴隷をダナバーン伯爵に押し付けていった。
押し付けられたところで、伯爵も奴隷が欲しいわけではない。
﹁ああっ、なるほど。報酬に奴隷を頂けるというわけですね。ちょ
うど良かった、実は商会を作るのに人手が欲しかったところなんで
すよ!﹂
さすが伯爵と俺は思った。
確かに金も欲しいが、商売に人手が一番欲しかったところだ。
渡りに船の提案じゃないか。
﹁えっ?﹂
76
﹁あれ?﹂
伯爵に変な顔をされた。俺そんなに変なこと言ったかな。
ライル先生、これどういうことなんですか。
﹁奴隷は、ほとんどが借金で身を持ち崩した者かその子孫ですから、
商会職員に使おうって商人はいません﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁奴隷は、野盗に落ちるほど悪質ではなくても、生業から身を持ち
崩した人間ばかりです。常に誰かが監視して、棒で叩いて働かせな
いと使い者にならない、劣った労働力だと考えられています﹂
俺が全然わかってないので、先生はしょうがないなと言った感じ
で微笑むと、子供に噛んで含めるように教えてくれた。
奴隷は主体的に動いてくれないから、商人には向かないそうだ。
たしかにあの人間を辞めたような顔をしている奴隷たちを思い出
すと、あながち偏見でもないなあ。
でもそれって、絶望的な状況に追い込まれてるからじゃないかな。
﹁タケル殿がよいなら、今回の報酬として引き渡してもいい。だが、
話に聞いたところそう質の良い奴隷でもないらしいが⋮⋮﹂
本当にそれで良いのかと言いたげに、伯爵はライル先生にチラッ
と目配せした。
﹁はい、どちらにしろ働き手は必要ですし、タケル殿ならば劣悪な
奴隷でも、使用人のように使える手立てを思いつくかもしれません
よ﹂
77
そうライル先生は笑顔で請け負ってくれたので、伯爵は﹁では、
よきにはからえ﹂と許可してくれた。
うーん、前から思ってたけど。
やっぱ俺は、常識的な面では全然信用されてないんだな。
まあライル先生と俺が並んでたら、しょうがないか。
78
7.佐渡タケルと十三人の奴隷少女
さわたりしょうかい
街の広場近くにある、佐渡商会建設予定地︵と言う名のただの空
き地︶
そこに、幌馬車と俺とライル先生が立っている。
そして、目の前にボロ布のような辛うじて衣服と言える貫頭衣を
来た小柄な奴隷たちが十三人、足鎖に繋がれて整列している。
これがいまの佐渡商会の全資産である。
鎖に繋がれて、死んだような表情でしゃがみこんでいる奴隷たち
はあまりにも痛々しく。
いっそのこと、奴隷たちを解放してやろうかと言ったら。
それは絶対しちゃいけないと、ライル先生に止められた。
﹁いいですか、ここにいる子たちは最低の奴隷です﹂
﹁それは、いくらなんでも、言い過ぎじゃないですか﹂
﹁言い過ぎじゃないんです。いいですか、確認はまだしてませんが、
賭けてもいいですけど、この十三人は全員女の子ですよ﹂
なんで分かるんだろ。まあ、ライル先生はなんでもわかる人だか
らな。
﹁何でわかるかには理由があります、まず男なら痩せた子供でも食
べて太らせれば、いずれ重労働に耐える奴隷になります﹂
﹁大人の男ならすぐ労働力として使えるし、妙齢以上の女なら下働
79
き、さらに容姿が並以上に優れていれば娼館に売ることもできます﹂
﹁でも、こんな薄汚れた痩せっぽちの女の子は、普通の奴隷として
は使い物になりません。育てるのが割に合わないので、おそらく奴
隷商人は鉱山に売るのに運んでいたのでしょう﹂
﹁鉱山だと女の子でも使い道があるんですか?﹂
﹁坑道には、子供しか入れないような小さな穴もあります。そうい
うところでは昼夜問わず子供を働かせてすぐ使えなくなるので、い
くらでも需要があるんです﹂
そう言いながら、ライル先生は不快そうに眉目を顰めた。
人権意識がなくても、物扱いされている奴隷のことでも、人がそ
の悲惨な運命に心を傷めないわけではないのだ。
ましてや子供を使い潰すなんてあまりに酷い話だ。
ただ割り切ってないと、この厳しい世界では生きていけない。
﹁さっきタケル殿はこの子たちを解放すると言いましたよね、かり
に今この場で彼女たちが解放されたらどうなるか考えましたか﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
﹁この街に彼女たちにできる仕事はまったくありません。物乞いの
ホームレスになるんです。空腹に耐えかねて、食べ物でも盗めばも
うそれで犯罪者ですよ﹂
﹁すいません、考えなしでした﹂
なるほど、道理で伯爵が何度も奴隷を渡して良いのかと聞いてい
たわけだ。
いまこの奴隷たちを無責任に解放しても、衛兵の仕事が増えるだ
けで誰も幸せにならない。
80
﹁いいですか。貴方が引き取ると言ったんですから責任持ってくだ
さい。奴隷の主人は、奴隷に仕事を与えて飢えさせない責任がある
んです。主人はタケル殿ですよ﹂
﹁わかりました、頑張って責任もちます﹂
俺が請け負うと約束すると、ライル先生はようやく笑顔になって、
俺に革の首輪をたくさん手渡した。
﹁伯爵も、使い道のない奴隷を引き取らせたことで、ちょっと気が
引けたんでしょう。奴隷認証用の首輪をサービスしてくれました。
これをみんなの首につけてあげれば、とりあえず佐渡商会の奴隷と
して身分証の代わりになります﹂
市民ではない奴隷は、街では持ち主を証明する認証を付けた手鎖
か足鎖か首輪をつけていないといけないのがルールだそうだ。
もちもの
認証さえつけていれば、安全な街に住むことができる。
身分のある人間の奴隷であるほうが、街から追い払われることも
ある自由民の浮浪者より安全だと言うのは皮肉である。
﹁みんなこれから、足首の鎖を外すから一人ずつ首輪をつけてもら
うように、これからこの佐渡タケル様が、お前たちの主人になられ
る!﹂
ライル先生はそう怒鳴ると、足輪の鎖を解錠魔法で外して回る。
俺が続いて、真新しい首輪をつけて回ると、みんな頭を差し出し
て大人しく付けられている。
そのように教育を受けているのだろうか、みんなロボットのよう
にただ押し黙って、命じられるままに動くだけだ。
髪の毛も着ている貫頭衣︵というか布切れ︶も、薄汚れているせ
81
シンデレラ
いか元の色もわからず、みんなグレイっぽい。灰かぶり姫の灰かぶ
りってのは、こういう灰色から来てるのか。
劇のシンデレラは、悪い継母にイジメられても生き生きとしてい
たものだが。
この子たちはみんな、顔の表情と眼が死んでいる。
みんなボロボロの格好だが、新しい服を着せようにも、全員分は
揃わない。
やはり買い足さないといけないかと、財布を覗きこんで俺は渋い
顔になる。
金はまた稼げば良いのだ。
一人、モンスターにビリビリに服を破かれて、布を引きずりなが
ら半裸で歩いてる子がいて。
あんまりだったので、俺が雨合羽に使ってるグレイラットマンの
クローク︵若干の防水・防火耐性あり︶を上から羽織らせておいた。
さて、これからどうしたものか。
十三人の奴隷少女を前に考え込んでいる俺たちのところに、ルイ
ーズがやってきた。
﹁なんだ、ここに居たのか。すごい量が取れたんだ、良かったら幌
馬車で肉と皮を⋮⋮﹂
ルイーズは押し黙ると、奴隷少女たちを一瞥してから、俺の前ま
で来てジッと顔を覗きこむ。
なにこれ、無言の圧力止めてください。
﹁奴隷を貰い受けたんだ。この子たちは全員、うちの商会の職員に
なるから﹂
﹁ふーん、じゃあ、大きな鍋を買っていこうか﹂
82
ルイーズはそう言って、なんだか面白いことを思い出したように、
含みのある笑いを浮かべる。
俺にはルイーズ姉さんの言動が、毎度よくわからない。
まあ、ルイーズが言うんだから意味があるんだろう。
説明がないのは、いつものことなので、言われたとおり大鍋を買
ってから肉と皮を運ぶのを手伝いに出かける。
俺たちの幌馬車の後に、ゾロゾロと奴隷少女たちが付いてくる。
とりあえず鎖に繋がれてなくても、彼女たちは逃げ出したりはし
ないようだ。
※※※
さっきの戦闘現場に戻ると、激しい戦闘が終わって死体だらけの
状態よりも悲惨なことになっていた。
衛兵によって、死んだ商人たちの埋葬は済んで片付いてはいるの
だが。
緑色の皮と、土色のオーガの皮がずらりと並ぶ異様な光景。
ルイーズのマスタークラスの解体スキルによって、一分のムダも
なく綺麗に並べて干してあった。
その隣には、ピンク色のオーガの内臓と肉が山のようになってい
る。
俺はカエルの解剖を思い出して、気持ち悪くなった。
なんかグチャーっていう血の海より、綺麗に並べてある人の形を
した緑の皮が気持ち悪い。
こんな皮を何の道具に使うんだろ。
83
まあ、油が取れそうな脂肪は、石鹸の材料に使わせて貰うけどさ。
﹁衛兵と交渉して、モンスターの持ってたソードは向こうに渡して、
木の棍棒はこっちに貰えるように話をつけておいた﹂
オーガが振り回してたでっかい木の棍棒は、焚き木にするのにち
ょうどいいそうだ。
衛兵は、やっぱりオーガの肉は欲しいとは言わなかったんだな。
焚き木を燃やした後の灰から灰汁を取って、石鹸の材料にすれば
無駄がない。
さすがはルイーズ姉御だ。
﹁さっそく内臓を大鍋で煮るぞ﹂
はいはい、そうなると思ってましたよ。
ルイーズの大好物である、モンスターの内臓料理だ。
大きなオーガの木の棍棒で鍋を器用に固定して、焚き火でグツグ
ツと煮込む。
奴隷少女たちは手持ち無沙汰にそれを見ているだけだ。
︵奴隷は命じないと動かないですよ︶
ライル先生は、さり気なく俺に助言してくれる。
変な気分になるから、耳元に息を吹きかけるのは止めて欲しい。
でも本当はもっとやってほしい。先生は良い匂いがするし、ゾク
ゾクする。
複雑な男心だ。
ああそうだ、奴隷に命令しないと。
84
﹁みんな! とりあえず、俺と一緒にこのあたりで燃えそうな枯草
とか木片を探してみてくれ。危ないから、目の届かない範囲にはい
くなよ﹂
荒野に木は生えていないが、燃料になる小さな木片ぐらいは落ち
ているものだ。
奴隷少女たちを引率して俺も木片を探しながら、初めてルイーズ
と会った日のことを思い出す。
あれはクレイジードッグだったからまだいいけど、人型モンスタ
ーの内臓は、抵抗あるなあ。
異世界で生きるためにはしょうがないのかなあ。
木片を拾って戻ると、オーガとの内臓スープが出来上がっていた。
モンスターの肉と内臓と塩だけのシンプルな料理だが、結構美味
そうな匂いがするのが恐ろしい。
でも鬼族モンスターの内臓って、さすがにお腹壊さないか。
そう指摘したらルイーズに﹁解毒ポーションを一つ貸せ﹂と言わ
れた。
言われるままに渡したら、大鍋の中に解毒ポーションを一瓶注ぎ
こんで﹁これでよし﹂と言った。
豪快料理すぎる。
それからみんなで食事した。
木皿の数が足りないから、食べるのは順番だ。
俺は最後でいい。
85
俺には人型モンスターの肉を食うのにかなり抵抗があるのだが、
奴隷少女たちはそうではないらしい。
配給された内臓を嬉しそうにかっこんでいる。
お腹が空いていたのかなあ。
待っている子をよく見たら、ヨダレを垂らしていた。
なんだか不憫になってくるんだけど、どうしたらいいんだろうな
これ。
全員が食事を終えると、すっかり夜になってしまっていた。
皮の処理もあって、干し肉にするのに放ったらかしというわけに
も行かないので。
このまま焚き木を囲んで、今日は野宿することになった。
同じ釜の飯を食うという言葉がある。
鍋を囲み、一緒に焚き木に当たっていると、奴隷少女たちも強張
った表情が薄れてきた。
ようやく新しい環境になれて、落ち着いたのかもしれない。
いい機会なので、俺は噛んで含めるようにみんなに話をする。
佐渡商会は、火薬と石鹸を作って売っていること。
みんなには、とりあえず石鹸を作って売る手伝いをして欲しいこ
と。
仕事は一から教えるし、そう難しいことではない。
きちんとしてくれれば、衣食住を保証すること。
とりあえずこんなものかな。黙っていられると本当に聞いてるの
か不安になる。
最後に何かわからないこととか、困ったこととか、言いたいこと
86
が、あればぜひ言うようにと促した。
﹁あ、あの⋮⋮私、奴隷商人、です﹂
奴隷少女の中でも、一際目の大きな子が手をあげて言う。
いきなりそんなことを言われたのでビックリする。
﹁いや、奴隷商人って。君たちはどっちかというと売られる側だっ
たんじゃ﹂
ボケかと思って突っ込んでしまったが、俺のツッコミも酷いな。
﹁いえあの⋮⋮そう、じゃなくて、私、は、奴隷の前、商人の娘で
した﹂
琥珀色の瞳が大きい子は、なんだかとても喋りづらそうだった。
ああでもなんか、このたどたどしい感じ、すごく分かるわ。
夏休みの間、ずっとゲームして引きこもってて、久しぶりに外に
出て、コンビニで﹁温めますか﹂って言われて、声がかすれてなん
とも言えなくなったあれだ。
きっと、ずっとしゃべるなと言われてたんだろう。
人はずっと話さないと、話し方を忘れる。
﹁そうか、君は商売の経験があるんだね﹂
﹁店が、強盗に襲われて⋮⋮、破産して、家族みんな、売られまし
た﹂
うわー重い、なんて返したら良いかわからん。
87
﹁ご主人、様が、商売されるなら、私、計算できます﹂
﹁そうか、会計を手伝ってくれるって言うのか﹂
﹁はい⋮⋮﹂
ようやく必要なことを話し終えたと思ったのか、奴隷商人ちゃん
は、疲れきった様子でぐったりと座り込んでしまった。
そこからなぜか、次々と手があがって、奴隷少女たちの奴隷にな
る前の境遇話が始まって、全員が順々に売られるまでのエピソード
を話し始めた。
破産して、没落して、騙されて、裏切られて、売られて、一家離
散。
ぶっちゃけみんな悲惨すぎて、重すぎて、俺はなんとも言えなく
なった。
ちなみに十三人の前歴は、商人の娘が一人、兵士の娘が二人、花
売りの娘が一人、鉱夫の娘が一人、パン屋の娘が一人、娼婦の娘が
一人、物乞いの娘が六人。
驚きの物乞い率だった、約半分が物乞いとは酷い。
ライル先生が言ってた無責任に放棄すると、物乞いのホームレス
になるって本当なんだな。
あと兵士の娘の身の上話のときに、ずっと黙って聞いていたルイ
ーズが血相を変えて質問し始めたのには驚いた。
いつも冷静な彼女が、声を震わせるほど感情的になるのは珍しい。
どうも二人とも王都の兵士の娘だったらしく、親が派閥争いだか
88
権力争いだかに巻き込まれて、咎なき罪で罰せられて一族郎党ごと、
奴隷に落とされたらしい。
本当に悲惨な話が多すぎる。
渋い顔で二人の話しを聞いていたルイーズは、聞き終わると。
﹁私が二人を引き取る﹂
と言い始めた。
主人である俺に聞く前に、すでに引き取ることが決定しているあ
たり、ルイーズ姉御だった。
それは良いんだけど、ルイーズは奴隷にあんまり関心なかったよ
ね。
どうしてそんなに急に入れ込むのか、教えてくれるといいなと思
うんだけども。
﹁私が二人を、戦士に育てるが構わないか﹂
﹁まあ、構わないけど﹂
俺が許可したせいなのか、ルイーズは仰々しく兵士の子二人に剣
を授ける。
なんか戦士にはそういう作法があるらしく、二人はルイーズに跪
くと震える手でショートソードを受け取っていた。
ルイーズの話を聞いてたライル先生が笑って。
﹁じゃあ私は、花売りをやってたというこの子に薬学を教えてみま
しょうか﹂
とか言い出す。
﹁野草を覚えて収集するのも、薬草を判別して集めるのも似たよう
なものですからね。適性があるかもしれません。あとこの子、気の
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せいかもしれませんが⋮⋮﹂
花売りの子をジッと見て、ライル先生が言いよどむ。
﹁何か気になることでも?﹂
﹁いえ、野草や薬草は石鹸ほど高く売れないでしょうが、商売をす
るなら商品のレパートリーは多いほうがいいです﹂
ルイーズたちが戦士として狩りに出るのについていけば、野を歩
く危険も少ないだろうと。
その薬草の採り方、本当は俺も興味あるんだけど。
まあ俺は俺で、仕事があるか。
石鹸も作らにゃならんし、この近くでも硝石を取っておかないと、
供給がおいつかない。
﹁じゃあ、俺は他の子に石鹸とか諸々の作り方を仕込みますよ﹂
石鹸を作る材料はたっぷりとあるのだ、オーガとの脂肪がどれほ
ど石鹸に向いているかはまた実験ということになる。
こうして、エストの街で佐渡商会の活動が始まった。
90
8.商会立ち上げに悪戦苦闘
﹁うーん、朝かあ⋮⋮﹂
地平線の向こう側から、赤い朝日が登ってくる。
小さな焚き木を囲んで、十三人の奴隷の子供が円をかくように丸
くなって眠っている。
昨日は、まさか自分たちだけ宿に戻るわけにも行かず野営してし
まった。
野宿ってのも、キャンプみたいで俺は楽しかったのだが、こんな
ことをしていては身体が持たない。
今日は幸い晴れていたが、雨にでも降られたらたまったものでは
ない。
朝の稽古なのか、俺よりも早く起きてサーベルを振るっていたル
イーズと一緒に、追加の肉を放り込んでスープを温め直した。
朝食が出来たよと子供たちを起こすと、みんなまたガツガツと盛
んな食欲を見せた。それでいい、喰わないと仕事にならないからな。
食べる子供たちを見ながら、食事に寝床の確保が最優先だと思う。
俺は、奴隷たちにモンスター石鹸の作り方を教えよう。
とにかく何をするにも金がいるため、稼ぐことを考えなくてはい
けない。
奴隷少女たちは、石鹸の製造に慣れてない。
教えこむのに根気がいるし、失敗率は高い。
91
だが、失敗してできる洗剤も無駄にはならない。それに手数が多
いと、作業は段違いに捗る。
何で俺は、早く人を雇わなかったんだろうかと悔やまれる。
ルイーズは、兵士の子二人を連れてモンスターを狩りだして石鹸
の原料と食料を取ってきてくれる。
ライル先生は、ルイーズたちの後を花売りの娘を連れて歩き、調
理にも使えて灰汁の材料になる焚き木、薬草、食べられる野草をか
き集めてきてくれた。
石鹸は、作り始めてからできるのに最低でも二週間はかかる。
出来の良いものを作るには、もう少し寝かせて乾燥させて置きた
いが、早く稼ぎたいと気がせいている。
申し訳ないが、今はルイーズたちが稼いできてくれるモンスター
討伐による収入が頼りだ。
何だか周りに助けてもらったり、借りてばかりで申し訳ないのだ
が、商売ってこういうものなのだろうか。
ルイーズは、何も言わず稼ぎを全額渡してくれるのでこっちが申
し訳ない。
﹁ロッド家に、荷馬の借り賃もあるしなあ⋮⋮﹂
商売が軌道に乗ったら、みんな十倍にして恩を返すと決意して、
日用品を買い込んだ。
これらは必要な初期投資だ。
﹁みんな集まれー!﹂
仕事終わりに俺は、奴隷少女たちに集合をかける。
まず、身体を洗ってやることにする。
92
この汚らしい身なりじゃ、売り子もできない。
と言っても他にも金が入用で、全員を宿屋の風呂に入れる予算が
ない。
街の郊外の荒地に天幕を張って、そこで身だしなみを整えさせる
ことにした。
﹁先生お願いします﹂
﹁アハハッ、人使いが荒いですね。はい、お水!﹂
魔法は﹁水﹂で大気中から水を取り出せるんだから、便利なもん
だ。
これじゃ水道は発達しないよなあ。
大鍋に出してもらった水を焚き火で温めてから、ルイーズが木桶
にお湯をくむ。
湯気の立つお湯を使って、俺やライル先生が手分けして子供たち
を洗うことにした。
﹁ほら脱いで、髪から洗うから﹂
﹁あのご主人様、これは、貴重な売り物なんじゃ⋮⋮﹂
俺が石鹸を泡立てると、奴隷の娘に遠慮されてしまった。
何だか子供らしくない慎み深さだ。
﹁遠慮するな、身だしなみを整えて、綺麗にしなきゃ商売できない
だろ?﹂
﹁そうですね、すみません⋮⋮高いものを、ありがとうございます﹂
この琥珀色の瞳をした奴隷は、最初に俺の商売を手伝うと言って
93
くれた娘だ。
商家出身の子供だと言っていたから、商売をやるのには役立って
くれるかもしれない。
変に恐縮されるのは困るが、使い潰す石鹸の商品価値を理解して
くれている聡明さは、先々が期待できる。
せいぜい恩に感じて稼いでくれよと、俺は邪念を込めて彼女の髪
を綺麗に洗った。
ボディーソープ派だった俺は、石鹸なんて見たことはあっても使
ったことがなかったのだが、この世界に来て使って見ると意外に泡
立ちが良くて驚いたりする。
まあ天然素材だからなのかもしれない。
材料は、モンスターだけど⋮⋮。
石鹸の泡で髪を洗っていくと、奴隷少女たちの灰色の汚れが、次
第に落ちて本来の髪の毛の色が回復していく。
洗ってみると商家の子の髪は、澄んだオレンジ色をしていること
がわかった。
すると髪からひょこっと、髪から耳が飛び出した。
え、何この耳?
﹁あっ、すいません、耳が出ちゃいました。洗いにくいですよね﹂
﹁いや、それはいいんだが⋮⋮﹂
髪を掻き上げると、ちゃんと人間の耳がある場所には人間の耳が
あるのに、もう一つ頭に獣耳が頭についている。
ファンタジーは何でもありだと知っているが、耳が四つあるって
のはどういうことだろう。
﹁おやおや∼、この子当たりですね﹂
94
ライル先生が横目で眺めて、面白そうに言った。
﹁どういうことなんですか、ライル先生?﹂
﹁その子、よく見ると背中にも少し体毛があるでしょう。小さい体
幹に比べて、四肢が長く太いので、もしかしたらと思ってたんです
よ﹂
﹁もしかしたら?﹂
﹁獣族の血が少し混じってたんでしょう。クォーターぐらいでしょ
うね、この耳の形は犬型です﹂
他の子を洗う手を止めて、ライル先生が少女の耳の形を指でなぞ
って、詳しく説明してくれる。
いわゆる獣人の混血児だそうだ。背中の体毛の他にも、お尻の尾
てい骨のあたりに小さい尻尾がついている。
獣耳というと、行商してるといつのまにか荷馬車に潜り込んでい
て、わっちとか言うアレだな。
いやアレは神様だから違うか。俺はケモナーではないから興奮は
しないけど、面白いものだなと思った。
この世界の獣人は、犬型とか、ネコ型とか、狼型とか、ライオン
型とか、いろいろ種族があるらしい。
人間とも交配可能なので、こういう混血種が居るのはそう珍しい
ことではないそうだ。
俺にはすごい珍しいんだが、まあファンタジーだからいちいち驚
いてちゃだめだよね。
ネコ型と言われると、俺はどっちかというと獣人よりロボットを
思い出すが。
﹁しかし、当たりってどういうことなんですか﹂
95
﹁獣人の血が混じってる子供は、早熟になります。大人になるまで
の成長が早いんです。身体も丈夫だし、奴隷としては評価されるポ
イントです﹂
早熟ねえ⋮⋮と思って、まだ小さい身体を見る。
とてもそうは見えないんだけど。
四肢とか体毛とか、言われて気がつく程度で、肉が薄くて痩せっ
ぽちだ。
ああ、ここ傷になってるなあ。薬草を煎じた薬を塗りこんでおく。
﹁早熟って言っても、あんまり大きくないですよ﹂
﹁栄養が足りないと育たないんですよ。獣人は大人になるまでたく
さん食べさせないといけないので、食費の方は覚悟しておいてくだ
さいね﹂
﹁そりゃまあ食べる分、働いてくれればいいですけど﹂
﹁タケル殿は、彼女を商会の軸にするつもりなんでしょう。他の子
供より成長が早いのは助かりますよね﹂
﹁そうですねえ⋮⋮﹂
ライル先生は、俺の気持ちを見透かしたようなことを言う。
計算ができるなら、店番になるかなと思ってたのは確かだ。
だけどなんか、人間を駒みたいに扱うようなことを言いたくない
んだよなあ。
﹁うーん、獣人の血が混じってることに気が付かなかった奴隷商人
も迂闊ですけど。君もその犬耳を見せれば、とりあえず鉱山送りに
はならなかったんじゃないんですか﹂
ライル先生のそんな質問に、ポツリと商人の娘は答えた。
96
﹁もう、生きたくなかったから、です﹂
いちいち重たいよ!
何と声をかけたらいいか分からず、何とも言えないでいると俺の
眼を見てポツンと付け加えてくれた。
﹁今は違います、生きたくなりました﹂
﹁それは何よりだね﹂
彼女の声に力がある。いいことだ。
俺も最初にこの世界で死にかけたときに、生きたいと思ったもん。
一種のショック療法だよな。
生きたい、そう思わないと始まらない。
鮮やかな夕焼けのような色彩を取り戻した彼女の長い髪に櫛を通
しながら、俺は柄にもなく彼女たちの境遇に深く同情して、なんと
かしてやらないとと決意した。
俺は決して善人ってわけでもない。偽善も嫌いだ。
けど、何というか⋮⋮こいつらの境遇は、可哀想すぎて毒気が抜
かれる。
獣耳の生えた少女を裸にさせて身体を洗ってても、全然欲情しな
い。
それは俺がケモナーでも、まったくロリコンの気がない紳士だか
らってわけでもない。
あまり説明したくないのだが、彼女たちの裸体を見ていると、﹁
娼館に売れない﹂ってライル先生が言ってた意味が、分かるのだ。
97
やせ細った身体は肋骨が浮いていて、肌は傷だらけでこれまでよ
っぽど酷い生活を送ってきたんだと分かってしまう。
これじゃ可哀想すぎて、エロいと感じる気持ちもなくなる。
幸い石鹸も薬草も売るほどあるので、傷を洗った後に治療して回
った。
みんな女の子だし、傷が残らないと良いんだけど。
さて、綺麗にしたら着ていたボロ布にはもう用はない。
奴隷少女たちに、新しい衣装を用意してたので着替えさせる。
﹁うわー﹂
﹁ご主人様、綺麗な服を、ありがとうございます﹂
奴隷少女たちが歓声をあげて、口々にお礼を言われて俺も得意満
面になる。
彼女たちに用意したのは、揃いのエプロンドレスだ。
不思議の国のアリスみたいだなと思って、人数分購入しておいた。
やっぱり商売はビジュアル重視だから、可愛らしさをアピールし
ておかないと。
子供服って高い印象があったんだが、エスト山羊の毛織物の産地
であり、布の流通も活発なエストの街では、さほどでもなくて助か
った。
なぜかエプロンドレスの在庫が赤色しか揃わなくて﹁あーここの
領主の趣味だから﹂と思ったが、作業着としては問題ない。
もちろん肌着も合わせて購入しておいた。
奴隷たちが着ていたボロ着は回収して、よく洗ってから仮店舗の
天幕を作る布でも作ろうかと思ったのだが、古着を回収するときに
98
少し問題が発生した。
あんまりにもボロだったから、俺が雨合羽用のクロークを着せた
娘が﹁これは貰ったものだから﹂と手放したがらなかったのだ。
この子はなんだっけ、兵士の娘だったよな確か。
無理に取り上げるのも可哀想だったので、全員にグレイラットマ
ンのクロークを配るハメになってしまった。
﹁また、いらぬ出費が⋮⋮﹂
外で活動することを思えば、雨具も必要だろうし、これも初期投
資か。
ルイーズに聞いたら、ギルドの親方は、徒弟に服や靴を一揃えづ
つプレゼントしてあげなくてはならない。必需品は与えるのが使用
者の義務だそうなので、仕方がない。
人を雇うのは大変だ。
財布から金がどんどん消えて行く。
ちなみに、洗ったついでに名前と種族を聞いて回ったのだが。
商人の娘がシャロン︵種族:犬型獣族のクォーター︶。
兵士の娘がシュザンヌ、クローディア。
花売りの娘がヴィオラ︵種族:ハーフニンフ︶。
鉱夫の娘がロール︵種族:ドワーフ︶。
パン屋の娘コレット。
娼婦の娘フローラ。
物乞いの娘がエリザ、メリッサ、ジニー、ルー、リディ、ポーラ。
いきなり全員聞いても、覚えられそうにない。
商家の娘のシャロンは覚えた、徐々に覚えていくか。
99
人間以外の種族で、ハーフニンフというのは水妖精の血が半分混
じっているらしい。ヴィオラは汚れを落としてみると蒼い瞳と髪を
した少女だった。
よく見ると耳が尖ってるからハーフエルフじゃないんですかと、
ライル先生に聞いたら解説してくれた。
﹁耳が尖ってるからなんでもエルフじゃないんですよ、エルフは白
妖精です。ちなみに、ドワーフは黒妖精ですから、こっちのロール
の耳も尖ってるでしょう。妖精族はみんな耳が尖ってるんですよ﹂
﹁人間と、そんなに変わらないようにみえるんですが⋮⋮﹂
確かにドワーフのロールの耳も尖っているが、この地方には珍し
い赤銅色の髪や褐色の肌の色以外は、人間とそう変わらない。
言われてみれば、少し身体つきがしっかりしていて低身長かなと
思うぐらいだ。
﹁ドワーフは成人男性だと特徴的な顔立ちになるんですが、女の子
の顔立ちは人間とさほど変わりません。力が強く頑丈で手先が器用
な種族なので、鉱夫や鍛冶屋に向いています。しかし、残念ですが
女の子の方は、力仕事がイマイチなので奴隷としては⋮⋮﹂
﹁なるほど、そういうことですか﹂
半ば死にに行くような使い潰しの鉱山奴隷に回されるってことは、
評価が低かったってことなのだろう。
俺はドワーフのロールにしても、ハーフニンフのヴィオラにして
も、凄く可愛らしいと思うけど、ハーフでも超高値で娼館に売れる
エルフと違い、同じ妖精でもニンフは人気がないらしい。
どうも水妖精は、この世界では池に引きずり込んで人を殺すとか、
家の前で泣くと家族が死ぬとか、不幸を呼ぶ存在として妖精と言う
100
より、妖怪扱いされて差別されているようなのだ。
ライル先生によると﹃ほとんど﹄事実無根とのこと。
えっ、ちょっとは事実ってこと?
﹁でもライル先生、ニンフも人間とのハーフがいるってことは、つ
まりその⋮⋮﹂
﹁よっぽどの物好きですね、人間と交わるのはとても珍しいと思い
ます。あとニンフが人間に恐れられている原因になってしまってい
るのですが、生れつき水精霊の加護があります。売り子にすると街
の人に嫌がられるかもしれませんが、水系の魔法に適性があるから
この子はそっちで使えますよ﹂
なるほど。
ヴィオラに薬草学を教えると先生が言い出したのには意味がある
のか。
中級魔術師のライル先生は、人の魔法力が感じられるらしいから、
何かしら感じ取ったのだろう。
しかし、街の花売りの子供が人間に忌み嫌われるニンフって、や
っぱりマズかったんだろうね。
みんな奴隷なのだから、それぞれここに至る理由があるのだろう。
ヴィオラを見ると、エプロンドレスの裾を掴んている手が小さく
震えている。
俺が無遠慮な眼を向けただけで、蒼い瞳が潤んで泣いてしまいそ
う。
ニンフが泣くと家族が死ぬなんて聞かされると、ちょっと怖かっ
たり。
都市伝説の類だろうけども⋮⋮いかんいかん、こういうところか
ら差別が生まれる。
101
俺では、ヴィオラになんて慰めの言葉をかけていいかも分からな
い。
怖がらせてしまってもアレなので、彼女はライル先生に任せるこ
とにした。
俺も、もう少しヘタレを治したいところだけど、なかなかね。
102
9.ロスゴー村の休日
﹁やはり、火薬をもっと作って売るしかない﹂
石鹸だけでは、奴隷少女たちを住まわせる商会が出来るまでどれ
ほどの年月がかかるかわからない。
石鹸よりも手間も労力もかかるが、より資金調達が期待できる火
薬の製造を増やすべきとの結論に達した。
とりあえず野宿からは多少改善されたが、テント暮らしも長くな
るときつすぎる。
早くしっかりした床と屋根のある商店を建てたい。
幸いなことに、発破用爆弾の需要はそこそこあるようで、ゴスロ
ー鉄鉱山のナタルから新しい注文が入っているし、ダナバーン伯爵
も爆竹やかんしゃく玉を少し買いたいと言ってくれた。
たぶん伯爵の方は、俺が金策に血眼になっているのを見ての同情
だろうけど。
まあとにもかくにも火薬を作りたいとなれば、ネックになるのは
硝石作りである。
もっと硝石を、もっと動物の糞が発酵した土を!
エストの街周辺でモンスター討伐依頼をこなしまくって材料調達
と日銭稼ぎを兼ねてくれているルイーズと、兵士見習いシュザンヌ
とクローディア︵と、そのあとについて薬草を採取してるヴィオラ︶
は別として。
石鹸作り班から、新しく硝石作り班を選抜しなければならない。
103
﹁ごしゅじんさま、あたしやります﹂
﹁ロールか。硝石づくりは、石鹸と違ってかなり辛いぞ﹂
硝石を作るのは、簡単と言える。
日の当たらない床下や穴蔵の土、さらに適している家畜の糞が熟
成した家畜小屋の土を採取してきて、それを炭酸カリウム︵はい、
石鹸作りでもお馴染みの灰汁のことです︶と一緒に煮て、濃縮して
結晶にして、またそれを溶かして煮て硝石を結晶化させる。
しかし、そう言うのは簡単だが、実際の作業はめっちゃ大変。
大量の土を運んで、水に混ぜて煮るってのがどれほど重労働か。
若い女の子には、ちょっとキツすぎる労働だ。
しかも、将来の枯渇に備えて、人糞や動物の糞を集めて硝石小屋
を建てる仕事まで平行してやらないといけない。
臭い、汚い、キツすぎる、のサンケーだ。
﹁はなしきいてたら、できます﹂
﹁うーんじゃあ、教えてみるから頼むよ﹂
赤銅色の髪に褐色の肌をしているロールは、鉱夫の子供だ。
他の子より背が低くて、耳が尖ってる彼女はドワーフ︵黒妖精︶
である。
女ドワーフは、男に比べると体力的に劣ると聞くが、このメンバ
ーの中で適性があるとすれば彼女しかいないのかもしれない。
一緒に適した土を採取する作業から、ひと通り硝石作りのコツを
教えていて分かったのだが、ロールは機転は利かないが人一倍寡黙
にコツコツと作業をこなす。
104
上手く行っても、ダメでも、脇目もふらず作業に没頭するタイプ
なので、根気のいる硝石作りには向いているかもしれない。
引き続きロールが硝石を生産できるラインを作ってあげて、続き
の作業を任せてみる。
上手くできたら褒めてやるし、ダメでも怒ったりはしない。
硝石作りはロールに任せて、俺はライル先生と一緒に、いったん
ロスゴー村に戻ることにした。
幌馬車に作り立ての硝石と、村で不足してる品︵布、塩、雑貨な
ど︶を積んで一日の旅路だ。
商会が奴隷少女たちだけになるのは心配だが、ルイーズが留守を
守ってくれるそうなのでお願いすることにした。
※※※
ロスゴー村につくと、商品を雑貨屋に降ろして幌馬車をロッド家
に向けた。
なんだかすっかり懐かしくなった農園の前まで馬を回すと、金髪
の少女が家の前で出迎えてくれたので、さっそく謝る。
﹁ごめんね、サラちゃん。長いこと馬を借りっぱなしで。リース料
は、後で多めに払うから﹂
﹁別に馬は良いの、うちは農繁期以外使わないし、餌代が助かるぐ
らいだもの。それより私の先生を借りっぱなしなことをタケルに謝
ってほしいわねー﹂
そう言ってサラちゃんは、ニンマリ笑っている。
驚いたことに、ライル先生もサラちゃんからの借り物だったのか。
まあ、もともとサラちゃんの先生だもんな。取ってしまったこと
になるなら悪いなとは思うけど。
105
いま、先生は村役場で留守の間に溜まった書類整理に追われてい
ると思うが。
﹁タケルが先生を連れてっちゃうから、私の文字の勉強が進まない
のよ﹂
﹁なるほど、では宿題をたくさん出しておきましょうね﹂
﹁あっ、ライル先生﹂
﹁ゲッ﹂
涼やかな声に振り向くと、村で別れたライル先生がすぐ追いかけ
てきていた。
﹁先生、書類の整理は終わったんですか﹂
﹁処理して王都に発送するのに、五分もかかりませんでしたよ。何
のために私が居るのか分からなくなりますね﹂
そういうと、有能すぎるライル書記官は、ちょっと寂しそうな顔
をした。
村勤務って、言ってしまえば左遷みたいなもんだもんね。
﹁でも、サラちゃんが向学心に燃えているとは知りませんでした。
教師として私も鼻が高いですね。たっぷりと宿題を出しておきまし
ょう﹂
﹁うあー助けてー﹂
サラちゃんはダッシュで家の中に逃げていってしまった。
やっぱり、まだ子供だなあ。
なんだか、ここにくると和むわー。
農園で働いてるときは辛かったが、みんな忙しいエストの街に比
106
べると、農村はのどかだ。
いまはちょっとここで休んでいきたい気分だった。
さて、休んでる場合じゃない。
硫黄を採取しにいってから、爆弾を作って鉱山に納品しなければ。
いろいろと、俺も忙しくなったものだ。
※※※
﹁いやー、お前の爆弾は良いな。すごく捗るぞ﹂
久しぶりに会ったロスゴーの鉱山代官、ナタルの第一声がこれだ。
運んできた硝石で爆弾を作って持って行くと、あるだけ全部くれ
とシレジエ金貨が詰まったの袋を渡された。
また現場に出ていたのか、半裸で相変わらず筋肉ムキムキだった。
ずっと半裸で過ごしてるんじゃないだろうな。
﹁これなら鉱夫の手では割れない、硬い岩盤も吹き飛ばせるから。
上級魔法使いをわざわざ招聘して、打ち抜いてもらう手間を考えれ
ば金貨一枚でも安い﹂
使い方をいろいろと工夫してくれたらしく、ナタルが実地で指導
して有用性の高い使い方を編み出してくれたそうだ。
﹁他の鉱山の技師連中にも実演して見せてやったんだが、みんな使
ってみたいって言ってる﹂
﹁そうですか、それは嬉しいですね﹂
ナタルが口利きするから、他の鉱山にも売り込んでみないかとい
うありがたい話だった。
107
商会立ち上げで、資金がどんだけでも入用なこっちとしては助か
る。
﹁あとイエ山脈に沿って国家鉱山に爆弾を売り歩くなら危険はない
が、王都の方へ行くなら街道でも十分に気をつけろよ﹂
帰り際に、ナタルにそんな忠告をされた。
特に王都に行く用事はないが、少し気になる話だ。
﹁どうしてですか?﹂
﹁どうもまた、王都方面のモンスターの群れが活性化しているらし
いんだ。行商人の間でも危ないって評判になってる﹂
﹁ああ、なんかそういや王都側は物騒だとか聞いたことあるような﹂
﹁王国の騎士団ですら領地を守るのに苦戦している。行商のキャラ
バンが潰れるだけならまだ分かるが、それを狙う街道沿いの盗賊団
まで、モンスターの波で壊滅したって噂だから今回は本気で脅威だ
な﹂
行商人を狙う盗賊が潰れるのはいい話だと思うが、モンスター活
性化は怖いね。
原因は何なのだろうな、ちょっと気にかかる。
セオリーでいくと、環境破壊か何かかねえ。
当面、安全なエスト伯領を出るつもりはないので関係ない話では
あるが⋮⋮。
そう考えて、一つ思い出したことがあった。
﹁ライル先生、エストの街近くで壊滅した奴隷商人を襲ったモンス
ターの群れって﹂
108
﹁そうですね、王都郊外で異常繁殖で発生したものを、ずっと引っ
張ってきてしまったんでしょうね。直接は関係なくても、注意しな
いといけません﹂
ライル先生も、ちょっと考え込んでいるようだった。
商売で生計を立てるにしても、戦闘力の強化はやっぱり必要にな
ってくるのか。
やっぱりここは厳しい世界だなと思う。
しかし、俺もだいぶたくましくなったので、困っている人が居る
と言うことは金になるってことだとも気がつける。
狩れる程度の数なら、モンスターはむしろ資源と見ることもでき
る。
﹁そうだ、こんなのを作ってみたいんですが、こっちの鍛冶屋で作
れますかね﹂
戦闘力の強化と考えて、思いついて書きためていた設計図をいく
つかナタルに見せることにした。
火薬と爆弾が出来たとなればすぐに思いつく、鉄砲と大砲である。
俺の世界で戦争の被害を拡大させたこの技術を、安易にファンタ
ジー世界に持ち込むのは少し迷った。
だが、魔法力のない俺のような人間が化物から身を守るために、
やはり強力な飛び道具が欲しい。
﹁なんだこりゃ、鉄の棒の中に穴を開けてるのか⋮⋮﹂
﹁鉄の穴の中で火薬を爆発させて、その勢いでまっすぐ鉛の玉を射
出するんです﹂
﹁うーん、なんでそんなまどろっこしいことをするんだ﹂
109
爆弾があるなら、敵に直接それをぶつければいいじゃないかと言
うのだ。
ナタルはただの技師だから、鉄砲や大砲の威力を想像できないら
しい。
まあ、俺も現物の威力を見てなくて、歴史を学んでなければ同じ
ような発想をしたかもしれないな。
﹁例えばですよ、投石機ってこの世界にもあるでしょ。大砲だとあ
れよりはるかに長い距離を大きな鉄の玉が飛ぶんです。そうすると
どうなりますか﹂
﹁そう聞いても、よくわからん。費用さえ払ってくれるなら、この
形の筒と玉を鍛冶屋に作らせてみてもかまわないが、見たことも聞
いたこともないし、ちょっと⋮⋮いや、かなり時間かかるぞ﹂
ナタルは分からなかったようだが、隣で聞いていたライル先生が
真っ青な顔になって、俺の描いた設計図を奪い取って食い入るよう
に見ていた。
さすがチートキャラ疑惑のあるライル先生は、すぐ理解してくれ
たか。
﹁ダコール代官殿! 製造はお願いしますが、これはくれぐれも極
秘にしてください﹂
﹁お、おう。いいけどよ、ラエルティオス書記官ってこんな人だっ
たっけ?﹂
俺に聞かれても困るよ。
ナタルは、血相変えたライル先生という珍しいものを見てびっく
りしたようだった。
珍しく険しい顔のライル先生は、なおも俺の稚拙な設計図を見つ
めながら、﹁これができたら戦術の概念が変わる⋮⋮﹂などと呟い
110
ている。
分かってくれて嬉しいけど。
いくらなんでもこの世界の人間にしては、先生の察しが良すぎて
引く。
※※※
商売も終えて、ロッド家まで行ってくつろぐ。
金ができたから、馬代も多めに払っておいてあげよう。
なんだったら買い取ってもいいぜ。
﹁馬のことはどうでもいいんだけど、あんた、いつまで居るつもり
なの﹂
﹁ありゃ、お邪魔だったかな﹂
サラちゃんにそう言われて、ちょっとショック。
家族同然だと思ってたのに、俺やっぱりいらない従業員だったん
だね。
﹁ちがっ⋮⋮、そうじゃなくて、いつまでこっちにいられるのかっ
てこと﹂
﹁まあ少ししたらエストの商会も心配だし、帰ろうと思うけどね﹂
﹁ふうん、そうなんだ⋮⋮﹂
なんか、サラちゃんご機嫌ナナメっぽいかな。
まあ、ライル先生を俺の好き勝手で連れ回しちゃってるしなあ。
﹁ああそうだ、これサラちゃんのお土産にこれを買ってきたんだよ。
良かったら着てみて﹂
﹁まあ、エストの街の服は素敵ね。タケルにしては気が利くじゃな
111
い﹂
エストの街で売っていた赤いエプロンドレス︵子供用︶だ。
サラちゃんにも似合うだろうと思って、余分に買っておいたのだ。
先を考えると、硝石小屋の土地と材料を確保するのに、家畜を飼
っている農家の協力が必要になる。
こうして、ご機嫌を取っておくのも将来のための投資なのだ。
﹁あと、コーヒーって飲み物もちょっと持ってきたんだけど﹂
﹁なにこれ苦っ、これはいらない﹂
飲ましてみたら案の定、嫌がった。
うはは、しょうがない。まだ子供だからな。
俺も小さい頃は、なんだこの苦い飲み物と思っていた。
ミルクや砂糖入れまくって飲んでたのが、いつの間にかブラック
のほうがよくなってしまったんだよね。
﹁王都ではカフェが流行ってて、貴族はみんな飲んでるらしいけど
ね﹂
﹁えーっ、そうなんだ﹂
そう聞くと、サラちゃんは現金なもので、何とかがんばって飲も
うとする。
﹁コーヒーに、砂糖とミルクを入れて飲めばどうかな﹂
﹁まあミルクとお砂糖をたくさん入れれば飲めないことも⋮⋮でも
苦いー﹂
サラちゃんも子供なりに都会への憧れがあるのか。
112
カフェオレにすることを教えてあげて、それでも苦そうに飲んで
いた。
﹁そうだタケル、久しぶりに温泉行く?﹂
﹁あー、いいねえ﹂
疲労回復には、やっぱりそれが一番いいのかもしれない。
まあ、スコップで温泉を掘るのはどうせ俺の仕事になるわけだが
⋮⋮。
サラちゃんと温泉に浸かって、前から気になってたことを聞いて
みることにした。
﹁ねえ、肌着って付けないの?﹂
﹁そんなのこの村で付けてる人いないわよ﹂
いやいや、そりゃないだろう。
子供だからまだ付けなくていいってことなんだろうか。
女性は下着がないと、いろいろと困るはずなんだが。
まあ、お土産にしたドレスが好評だったようだし、次に来るとき
にサラちゃんに下着も一緒に買っておくかと思った。
温泉でたっぷりと英気を養ったらそろそろ出発だ。
ざっとロスゴー村の雑貨屋と道具屋を見て回って、次に来た時に
何を仕入れるか計算しておく。
どうも、全体的に価格が高く品薄だ。王都への街道がモンスター
増殖で流通が滞っているのが原因かもしれない。
おかげで運んできた荷は高く売れたが、相場の乱れは少し気にな
るところだ。
113
ロスゴー村から仕入れて、幌馬車で運ぶのはやっぱり鉄製品。
あと火薬の原料に、温泉から硫黄を大量に採取して積んでおく。
また、俺とライル先生は一路エストの街へと向かう。
114
10.新社屋の完成
王都でモンスター増殖の噂を聞いて。
前衛職のルイーズもいない状況で、ついに俺の出番があるかと。
密かに戦えるよう訓練している鉄剣を握りしめていたが、エスト
への街道を幌馬車で移動する間、全くそんな機会はなかった。
他の商人の馬車も普通に行き交ってるし、増えてるのはエストよ
り向こうの王都方面だけなのだろう。
﹁ご主人様おかえりなさいませ﹂
佐渡商会︵仮店舗︶の店番をしているシャロンが笑顔で出迎えて
くれた。
﹁あれ、シャロンちょっと背が高くなった?﹂
﹁はい、ご主人様のご命令どおり、ご飯をたくさん頂いております
ので﹂
獣人という一般的なファンタジーの粗野なイメージに反して、シ
ャロンは頭がいい。
最初は遠慮していたが、食費がかかっても早く成長するのが先行
投資だと言う俺の言葉をすぐ理解してたくさん食べるようになった。
帳簿も彼女が付けているのでチェックすると、モンスター石鹸が
出来たなりに全部売り切れてしっかり黒字だった。
モンスター石鹸は本当に、作ったら作っただけ売れるようだ。
街の需要量より、たくさん売れている。
﹁あのご主人様、もしかしたら石鹸は転売されてるのではないでし
115
ょうか﹂
﹁それはそうだろうね﹂
おそらく銀貨一枚って値付けが安すぎて、転売されているのだ。
俺も、それは薄々気がついている。
でも、構わないと思っている。
俺のささやかな商会には、まだ他所の街まで売りに行く販路がな
い。
だから、他の商会が他所の街まで運んで売ってくれるのはむしろ
ありがたい。
石鹸は消耗品だ。
他所の商会が転売して、他所の街に価格上乗せして売っているの
なら価格競争には絶対勝てる。
いずれ銀貨一枚でうちの商会が売りに行けば、他の商会が転売で
掘り起こした需要をごっそりと頂ける寸法だ。
怖いのはコピー商品を作られることで、特許のないこの時代には、
いずれは真似を試みる商会が出てくるだろう。
転売で適度に他の商会を儲けさせておくのは、その時期を遅らせ
ることになるのではないかとも考えるのだ。
﹁さすがご主人様です、そこまで深い考えがおありになるとは気が
付きませんでした﹂
﹁転売に気がついて、俺に指摘できるシャロンも賢いよ﹂
シャロンの明るいオレンジ色の髪を撫でて、良し良しと褒めてお
く。
外見は普通の人間の頭髪に見えるんだけど、撫でてみると確かに
116
長毛種の犬の背を撫でてるような、サラっとした手触り。
シャロンが気持ちよさそうにしてるので調子に乗って撫で回すと、
ぴょこんと犬耳が飛び出してきた。
面白いもんだな。
ルイーズたち戦士隊は、まだ狩りに出ているようだ。
仮店舗の天幕の中でやっている石鹸作りも確認する。
特にこのあたりのモンスターの油分で石鹸が出来にくいってわけ
ではなく、製造の成功率は上がってきている。
あと余った皮が何かに使えれば完璧なのだが、これは使い道が思
い浮かばない。
そのまま革細工師にでも売りつけるしかないようだ。
ハーフニンフのヴィオラが、野山で採取して取り置いてある薬草
類を確認するライル先生と別れて、俺は街の外でロールが黙々とや
っている硝石作りを見に行った。
﹁ごしゅじんさま、きょうはこれだけできました﹂
﹁うん、ごくろうさま﹂
煮立った大鍋に動物の糞が混じったような土を入れると、これが
また結構な悪臭がするのだ。
だからこの作業はさすがに店の中ではできない。
ロールが差し出す布袋のなかに、細長く結晶化した白っぽい硝石
がたくさん詰まっていた。
﹁おおー、よく出来たな。何かご褒美をやろうか﹂
﹁えっと、その⋮⋮ごしゅじんさまにほめていただければ、じゅう
ぶんです﹂
117
なかなか殊勝なことを言ってくれる。
頭を撫でてあげて、ダナバーン伯爵のところからくすねてきた貴
重な砂糖菓子と、ちょっと塩味のキツいナッツをあげたら美味しそ
うに食べていた。
きつい肉体労働だから、栄養補給にこういうのがいいだろう。
火薬の原料を作るロールには、特別だ。
稼ぎ頭には、それなりに優遇しないといけない。
﹁おいしいです﹂
﹁そうか、まあ味はそこそこだよな﹂
ロールは喜んでるけど、俺的にはやたら甘いとか塩辛いだけで、
イマイチな味なんだよな。
ファンタジー世界の乏しい材料でも、もうちょっと美味い菓子を
作れないこともないように思う。
ロールと商会に帰宅する途中で、ちょうど狩りから帰ったルイー
ズと兵士の子二人に出会った。
たしかシュザンヌと、クローディアだったか。シュザンヌは鉄の
槍、クローディアは小弓とショートソードを装備している。
ルイーズが前衛にでて、まだ若く経験の浅い二人にはなるべく遠
距離から攻撃させて怪我をさせないようにという工夫なのだろう。
その戦士三人の後には、非戦闘員であるヴォオラが籠いっぱいに、
拾い集めた薬草や枯れ木を入れて担いで続く。
薬草もそうだが、不足しがちな木材はたとえ木切れであっても買
うと結構するのでヴィオラがしてるのも地味に重要な仕事だ。
それにしても、またモンスターをたくさん狩ったらしく、シュザ
ンヌもクローディアも背中に山盛りになった毛皮を担いでいた。
118
そして、ルイーズは凄く嬉しそうに何かが煮こんである大鍋を器
用に担いでいた。
﹁ルイーズさん、それは⋮⋮﹂
﹁みんなの今日の夕飯だ、今日は新鮮なワーウルフがたくさん採れ
たぞ﹂
あーやっぱり、モンスターの内蔵シチューかあ。
ワーウルフ
ルイーズの感覚だと、モンスターは採取できるものらしい。
人狼ってたしか、結構強いモンスターじゃなかったっけ⋮⋮。
うーん、内臓料理も不味くはないんだけど、成長期に栄養が偏ら
ないように、野菜も摂るようにみんなに言っておかないと。
※※※
夜、焚き火にかけた大鍋を囲みながら食事をしているルイーズに、
モンスター活性化の噂について聞いてみた。
﹁確かに、そういう傾向はある⋮⋮﹂
あれ、そう言ったっきり黙ってしまった。
焚き木の明かりを見つめて黙考してしまっている。
口数が少ないのはルイーズっぽいけど、なんか反応がいつもと違
うような。
﹁あのルイーズさん?﹂
﹁ああ、すまん。⋮⋮そうだな、エストの街の郊外でも、討伐依頼
は増加してる。昨日も街の郊外で商隊が襲われて、ギルドの依頼で
討伐に協力してきた。街道も、王都に向けての道はかなり危険にな
119
ってきてる﹂
﹁原因は何なのですかね﹂
﹁⋮⋮﹂
ルイーズは、また黙りこんでしまった。
まそのしょうけつ
﹁王都の外れにある﹃魔素の瘴穴﹄の蓋が開いているせいですよね﹂
そこに、ライル先生が口を挟む。
﹁その﹃魔素の瘴穴﹄ってダンジョンみたいなもんですか﹂
﹁迷宮ってほどの規模ではないんですが、なんと説明したらいいか
な﹂
これは一応、国民に不安を招かないよう、王国の機密になってる
ので内緒ですが、と付け加えて、先生は詳しく説明してくれる。
しょうけつ
﹁かつて、この国の英雄が封印した魔素が漏れだす瘴穴が、何らか
の理由で開いてしまったんですよ。モンスターは魔族の類ですから、
魔素を浴びると活性化してしまいます﹂
﹁じゃあ、そのダンジョンの蓋を閉めればいいんじゃないですか﹂
俺がそう言うと﹁バカなことを言うな!﹂とルイーズに怒られて
しまった。
えっと、そんなに怒られるようなことを言ったかな。
ルイーズは、自分が怒鳴ってしまったことに驚いたような顔をし
てすぐ謝った。
﹁すまん⋮⋮、あの穴は王国騎士団の討伐隊が行っても封印に失敗
120
したぐらいなんだ。あそこまで強力な魔素が出ている状態で、冒険
者が行っても、入り口に近づく前に強化された魔物にやられてしま
うだろう﹂
そんな状況なのか。
じゃあ、俺にどうこうできるものじゃないなとすぐ諦めた。
うちで一番強いルイーズが何ともならんものを、俺がどうこうで
きるわけもない。
今んとこ、こっちの街道は安全だし、困ってはいないのだ。
ちなみに﹃魔素の瘴穴﹄周辺の街や村は大量発生したモンスター
の群れによって壊滅してしまったそうで。
街道や王都にまでなだれ込もうとする敵を、騎士団や兵団が抑え
ようと必死に戦い続けてるらしい。
ちょっとした戦争が起こってるんだな。
ファンタジーなんだから、どうせそのうち勇者か英雄か知らない
けどそういうのが出てきて見事に封印してくれるだろう。
俺は残念ながら、そういうのに成れるという思い上がりはもう持
っていない。
時間があるなら今後の商売や、商会の新しい建物を作る計画でも
相談したほうが有意義というものだった。
※※※
さらに、エストの街で商売を続けること一ヶ月。
ついに、佐渡商会の新社屋が完成した。
最初は木造で作るつもりだったのだが、シレジエ王国は木材の価
121
格が高い。それじゃあいっそと、もう少し金をかけてレンガ造りの
しっかりした社屋を建てたのだ。
二階建ての小さな社屋で、商店と奥の倉庫と二階に取った住居ス
ペースのみ。
店の後ろに広がる石鹸作りの作業場は、まだ天幕を張っているだ
けの状態だ。
いずれもっと金ができれば増築していきたいと思うが、今のとこ
ろはこれで十分だろう。
石鹸作りに加えて硝石の製造が軌道に乗ったので、発破用の爆弾
もイエ山脈に点在する国家鉱山に売りつけることができて、かなり
の儲けになった。
イエ山脈エスト地方に点在する鉱山は、鉄鉱山の村が多かったが、
炭鉱に銅鉱や錫鉱、銀鉱山まであって、爆弾を納入するついでに、
様々な鉱物製品を仕入れて商売の勉強になる。
RPGだと、銅や錫は鉄より弱い金属とされているが、むしろポ
ピュラーな鉄よりも貴重で価格が高い。銀食器には負けるが、青銅
や錫の食器も実用的にだけでなく美術的に価値のある物が多い。
さすがに貨幣にも使われる銀鉱山は、厳重に管理されているのか。
詰所には兵士も多くて出入りの警戒が物々しかった。
造幣局もあるんだから当たり前か。
あと変わったところでは、魔宝石の鉱山なんてのもあった。
魔宝石は、霊山でもあるイエ山に長い年月をかけてマナ︵魔法の
力の総称、魔族の使う邪悪な魔素から精霊魔法、神聖魔法、四元素
の魔法まで様々︶が結晶化したもので、力の性質に合わせて透明度
の高い赤や青の宝石だ。
俺は宝石には詳しくないが、ルビーやサファイアみたいに見える。
実用品だが、宝石の類として見ても価値が高い。銀鉱山と一緒で、
122
ここもかなり厳重な警備がされていて盗掘を防いでいた。
﹁この魔宝石を使えば、俺も魔法が使えるようになるわけですか﹂
﹁タケル殿の場合は、まったく魔法の素養がありませんからね。そ
れでも、適した魔宝石と魔道具を組み合わせれば使うことができま
す﹂
魔宝石鉱山の村には、魔宝石のショップがある。
チャッカマン替わりに便利に使っていた﹃炎球の杖﹄の魔力が切
れかけていたので、フルチャージされている魔宝石を店で入れ替え
て貰う。
この﹃炎球の杖﹄はフルチャージで、最大出力のファイヤーボー
ルで五回、通常出力で十回程度撃てるのが目安。
普通の魔宝石は、一番安くても銀貨五枚もする。
﹁つまり、魔法一回に銀一枚使うコストになるわけか﹂
﹁考えたこともありませんでしたが、そう考えると魔法の金銭価値
は高いですね﹂
ライル先生は中級魔術師で、本当にささっと魔法を使ってみせる
が、一晩寝ただけで回復するマナの総量を考えると、一日に金貨数
枚分に相当することになる。
魔術師というものが、初級で単一系の魔法しか使えなくても、特
別な人と扱われている意味が分かろうと言うものだ。
あと、初歩の水魔法が使える﹃水流のリング﹄を束にして買って
おくことにする。
空気中から水分子を集めて、水流を出せるだけの魔道具だが、こ
れもまとめて買って値切っても、一個で銀五枚。
123
﹁そんなものをたくさん買って、何に使うんですか﹂
﹁商会のトイレ用に使おうかと思って﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
魔術師のライル先生には分からないだろうが、トイレのウォシュ
レットは俺たちには切実な問題だ。
石鹸と合わせて手洗いにも使えば、衛生問題の改善に大いに役に
立ってくれるだろう。
爆弾がよく売れるので資金的に今は余裕がある。
﹁ライル先生も、何か欲しいものがあったら﹂
﹁じゃあ緊急用に魔宝石をいくつか貰ってもいいですか﹂
ライル先生が欲しがったのは、質の良いものだ。いくつか選んだ
高級な魔宝石は、通常の魔宝石より格段に力が篭っている。
素人目に見ても輝きが違う。
通常の三倍どころか、五倍、六倍の魔法力が宿っていてマナ切れ
に備えて、お守りがわりに魔術師が持ち歩くことが多いのだとか。
値段は一つで金貨三枚とか、五枚とか、かなり値が張る。
しかし、緊急用と考えれば高くない。
ものはついでだ、これも普通の魔宝石とセットに一緒にたくさん
買っておけ。
﹁ええっと、欲しいといったのは私ですけど、そんなに買ったら今
回の売上を全部使ってしまうんじゃないですか﹂
﹁構いません、ここが産地なんだからここより安いところはないは
ずです﹂
俺だって、各地の相場は調べて取引している。
124
たくさん買いすぎて在庫が余っても、エストの街で売って損はし
ない品なのだ。
まあ、金に困ってこれを売り払うような資金ショートは起こさな
いつもりだが。
﹁ところで、回復魔法の魔道具とかはないんですかね﹂
﹁ないことはないですが、神聖魔法は教会の管轄になります。下級
の回復魔道具を探せばあるかもしれませんが、ポーション飲むのと
変わりませんよ﹂
なるほど、回復系魔法の魔道具をお店で見かけないわけだ。
魔術方面で万能型に近いライル先生も、回復魔法は使えない。
採取した薬草だけでは心もとないので、今でも行商の合間に相場
の安いところを見計らって、回復ポーションを買い足して溜め込ん
ではいる。
何をするにしろ、金はいくらあっても足りないので商売に励むし
かないね。
※※※
イエ山脈のエスト伯領をぐるりと巡る行商を終えて、エストの街
に戻った。
﹁ようやくもどってきたなあ﹂
﹁⋮⋮少し街の様子がおかしいですね﹂
エストの街に入ると、ライル先生の言うように街が騒然としてい
る。
門を守る衛兵の顔も険しく、慌ただしい雰囲気が漂ってる。
125
﹁早く商会に戻りましょう﹂
﹁ですね﹂
佐渡商会は、街の広場のすぐ近くだ。
エストの商業の中心地であり、いつも賑やかな街の広場の前まで
来て驚いた。
いつも賑やかな市場とはいえ、今日はあまりにも多くの人がごっ
た返している。
しかし、まったくお祭りのような雰囲気ではない。
俺たちが見たのは、広場にキャンプを張って身を寄せ合う、傷つ
いた難民の群れだった。
126
11.オナ村の奪還
エストの街の広場は、着の身着のままで避難してきた人々でごっ
た返している。
そりゃ、街も騒然となるはずだ。
災害かなにかでもあったのだろうか。
佐渡商会に入ると、苦り切った顔をしてるルイーズと兵士見習い
シュザンヌとクローディアが出迎えてくれた。
うちの商会の戦士隊がモンスター討伐に出てないとは珍しい。
﹁何があったんだ﹂
﹁オナ村がモンスターの大部隊に襲われた。私達も街の衛兵や他の
冒険者と一緒に迎撃に出たんだが、あまりの数に押し切られてしま
った﹂
オナの村は、エストの街からすぐ北東。
のどかな牧場が広がる、二百人あまりの村人が住む集落だ。
王都方面で大発生したモンスターの余波が、ついにエストの街周
辺まで雪崩れ込んできたってことなのか。
﹁それで、ルイーズたちに被害はなかったのか﹂
﹁ああ、大丈夫だ。ポーションもたくさん貰ってたしな。ただ、私
達がいるのに傷ついた村人を逃がすのがやっとだった⋮⋮﹂
ポーションで怪我は治っているが、ルイーズたちの戦闘でズタズ
タになった革の鎧を見れば、どれほど激しい戦いだったのかは予想
がつく。
127
しかし、ルイーズはいつになく肩を落としているなあ。
オナ村にはうちの商会も行商に通っているし、牧畜業が盛んな村
だから硝石作りの土を貰うのにも世話になっている。
店の前で、キャンプを張って身を寄せ合う村人たちにも見知った
顔もいるし、俺は傷ついた人がいないか見に行くことにした。
﹁ルイーズ、怪我してる人に回復ポーションを使っていいか?﹂
﹁なんで、そんなことをいちいち聞くんだ。タケルの物なんだから、
勝手に使えばいいだろ﹂
ルイーズはそう言うと思ってたよ。
素っ気ないけど、たぶんルイーズは自分の持分のポーションは、
きっと全部怪我人の治療に使ってるよな。
オナ村はエスト伯領の領民だから、街の教会の治療師も出ている
が怪我人が多くて手が回っていない。
おそらく、街の回復ポーションは全部売り切れてるだろうから、
いま転売すれば高値で売れるんだろうなと思いつつ。
そういう邪念は押し殺して、怪我してる人に配ることにした。
﹁ありがとうございます! ありがとうございます!﹂
﹁いえいえ、困ったときはお互い様ですから﹂
︵いま俺に感謝の言葉を投げかけた村の若者。俺のことを﹁いい人﹂
だと思っただろうな。ククク⋮⋮︶
損して得取れだからね。
近隣の村人なんだから、ここで恩を売りまくっておけば、後々で
大きな利益となって返ってくる。
128
︵それにしても⋮⋮︶
せっかくエストの街に商会まで作ったのに。
モンスターどもに台なしにされるのを、手をこまねいてみている
つもりはない。
これはいよいよ、剣ではなく銃の力が必要な事態になったなと。
俺は、一人静かに覚悟を決めた。
※※※
﹁なに、オナ村をモンスターから取り返してくれると?﹂
﹁ええ、あとできれば押し返して、近隣のモンスターの群れを根絶
やしにして見せますよ﹂
ダナバーン伯爵の城で、俺は大見得を切ることにした。
さすがにホラ吹きだと思われたのか、伯爵は疑わしそうに俺のこ
とを見る。
﹁もちろん、それをしてくれるならワシはとても助かるのだが⋮⋮﹂
﹁新兵器を使いますからね、勝算はありますよ﹂
ロスゴー村のナタルから、銃と大砲の試作品が完成したとの連絡
があった。
いまライル先生に取りに行ってもらっている。
この間に、ルイーズたちには、モンスターの群れの位置と規模を
偵察してもらっている。
エストの街は、もともと常備軍の数が少ない。
そして、モンスター大発生の震源地が王都付近ときている。
王都の騎士団や兵団も、王国の直轄領と街道の防衛にかかりっき
129
りになっていて、後背地のエスト伯領まで応援に来てくれる状況に
はない。
﹁そうだった、タケル殿のところには不思議な新兵器があるのだっ
たな。よろしい、特別討伐依頼をだそう。オナ村を救ってくれるな
ら白金貨十枚でどうだ﹂
﹁おお、これがプラチナコイン。噂には聞いてましたが、初めて見
ました﹂
白金貨とは、希少なプラチナで作られた特別な貨幣で一枚で金貨
十枚の価値がある。
つまり白金貨十枚なら、金貨百枚分。
ほとんど市場で出まわっていないので、貴族か大商人の取引でし
か使われない。例えるなら十万円金貨みたいなもんだ。
赤いテーブルの上でキラキラと輝くプラチナコインを見て、思わ
ず手を伸ばしたら引っ込まれてしまった。
﹁まだ、あげないぞ。村を襲ったモンスターを討伐できたらだから﹂
﹁はい、分かってます﹂
伯爵もこれだけの資金があるなら、もっと常備兵を増やすなり傭
兵団でも雇えばいいんじゃないかなとも思うのだが。
もともとエスト伯領は、国境の紛争地域から程遠い平和な地域な
ので、緊急に雇おうにも雇えないのかもしれない。
武力を売る相手としては、ちょうどいいよなあ。
﹁さらに周辺のモンスターの群れを一掃して領地の平和を回復して
くれるならば、金貨三百枚⋮⋮いや、五百枚だそうぞ!﹂
﹁では、そういうことでよろしくお願いします﹂
130
俺は出されたコーヒーを飲み干すと、伯爵の城を後にした。
オナ村解放で、白金貨十枚。さらにモンスター討伐で金貨五百枚
か。
豪気なダナバーン伯爵にしても、かなり大盤振る舞いした約束だ
が、きっと出来るわけないと思われてるんだろう。
俺もどこまで出来るかどうか分かんないぐらいなんだから、そう
思われてもしょうがない。
どうせ攻めに出るついでで、稼ぎ時を最大限に活用したいだけな
のだ。
※※※
ライル先生が銃と大砲一門を運んできてくれたので、佐渡商会で
作戦会議を行った。
ルイーズたちの偵察によると、オナ村を襲って居座っているモン
スターの群れは、武装したオーク百匹を中心にオーガやコボルトが
百匹近く、合計二百匹の大部隊だそうだ。
ファンタジーでお馴染み、豚顔の人型モンスターであるオークは
オーガやゴブリンよりも、きちんと武装して︵武器だけでなく防具
まで付けてる︶知能も高いので、ちょっとした軍隊を相手にすると
思わなければならない。
ちなみに、オークはあんな豚顔をして意外に社交的で、他の人型
のモンスターと組んで大きな群れを構成するが、ワーウルフとだけ
は仲が悪く群れ同士がぶつかると殺し合うらしい。
ぜひ殺しあって欲しいが近くにワーウルフの群れは居ないとのこ
と。
オークは、人間の家畜が大好物なので、牧畜業が盛んなオナ村は
家畜目当てで襲われたのだろうということだった。
131
対してこっちの戦力は、俺と魔法使いのライル先生とルイーズと
奴隷少女十三人。
オナ村奪還に際して、難民となった村人から、若くて戦えそうな
村人二十人が協力してくれることとなった。
これで合計三十六人、二百匹を相手にするには厳しい数である。
もちろん、通常ならの話だ。
こちらには、近代兵器がある。
ロスゴー村の鍛冶屋に製造してもらった銃は、構造が単純な火縄
銃である。
紙薬莢は作れるので、弾込めは本当の古臭い火縄銃よりは容易。
エストの街の郊外で試し撃ちしてみると、村人は驚いて腰を抜か
した。
まあ、慣れてもらうしかない。
味方が驚くぐらいなんだから、敵をビビらせるにはちょうどいい
武器になるはず。
銃に慣れている俺はともかくとして、一番早く習熟したのはシャ
ロンだった。
﹁反動はそれほどでもないだろ、引き金を引くときに射線をぶらせ
ないように﹂
﹁こうですか﹂
バーンと大きな音がして、鉛玉が的に吸い込まれていく。
上手いもんだな。
他の奴隷少女たちも、慣れるとまともに前に向かって撃てるよう
になった。
132
やはり新しい技術に慣れるのは、若者が向いているのだ。
﹁有効性は分かるが、私は弓のほうがいいな﹂
﹁まあ、ルイーズは他の武器で戦う方がいいかもね﹂
ルイーズは銃を試し撃ちして渋い顔をしていた。
もちろんルイーズも、まともに銃は扱える。
ただ、すでに手投げナイフや小弓の扱いに熟練しているルイーズ
からしたら、銃はさほど使える武器には見えないのだろう。
素人が撃ってもそれなりに使えるというのが、弓に対して銃の利
点といえる。
幌馬車で、オーク大隊に占拠されているオナ村が一望できる丘ま
で移動して、奇襲ついでに大砲の試し撃ちを行うことにした。
﹁みんな大砲撃つときは、耳を押さえてろよ﹂
構造は大きいだけで、火縄銃とそう変わらないが火薬が爆発力の
強い黒色火薬なので爆音が激しすぎた。
ドッカーーンと凄まじい轟音がして、大きな鉄の弾があさっての
方向に飛んでいく。
地面が揺れて、固定してる石の台座が土にめり込んでいた。
上手く命中すれば、威力がありそうだけどな。
まったく命中していないのに、丘から見下ろすオナ村に陣取って
いるモンスターの群れは大混乱に陥っていた。
もう一発行ってみるか。
﹁大砲の角度をもう少し下に修正して、心持ち左に動かしてくれ﹂
133
ロールがモップで大砲の中を掃除しているあいだ、俺の指示で革
の手袋を嵌めたシャロンたちが必死に大砲を動かしている。
﹁よし、そんなもんだろ。弾込めしてくれ、二発目を撃つぞ﹂
﹁できましたー﹂
ロールが棒で火薬と弾を装填して避難したのを見届けると、二発
目を撃つ。
﹁おおー、命中﹂
﹁やりましたー﹂
村の建物からわらわらと出てきていたオークたちの、ど真ん中に
炸裂した。
さっきより混乱が少ない、オークたちは逃げるのも忘れて茫然自
失になっているのかもしれない。
丘の上から攻撃してるこっちに、なぜか気がついた様子もない。
大砲の概念がわからないから、いきなり爆音がして味方が一瞬で
消えたみたいに見えるのかもな。
﹁よし、この当たりの角度でどんどん撃とう﹂
﹁あいあいさー﹂
普段から火薬を扱ってるロールが恐れずにどんどん弾込めしてく
れるので、石の台座がひび割れて砲身が焼け付くまで村に向かって
連発した。
結果⋮⋮見えない角度から飛来する死の砲弾に、恐慌を起こした
オークの群れは、散り散りに村から逃亡して居なくなった。
134
﹁鉄砲を練習した意味ありませんでしたね﹂
オーバーキル
ライル先生に、少し呆れたように言われてしまった。
ちょっとやり過ぎちゃったかもしれない。
135
12.さらなる遠征
大砲で追い出したオークの大量の死体を漁って武器防具は手に入
るし、特別討伐依頼達成で白金貨十枚は貰えるし。
オナ村奪還作戦は大儲けだった。
こんな大量の内蔵は食い切れないとルイーズもホクホク顔だった
︵村に戻ってきた村人にも内蔵スープを炊き出しで提供したのだが、
評判は芳しくなかった⋮⋮︶。
あんまり儲けすぎて申し訳ないので、砲弾を拾うついでに大砲の
攻撃でボコボコにしてしまった村の復興を手伝うことにした。
村の牧草地の柵を直して、モンスターと一緒に散り散りに逃げ出
した村の家畜を寄せ集めるのを手伝う。
鉄砲を使えるようになった村の若い衆の手も借りて、付近に散り
散りになって潜んでいるオークの討伐も行う。
これでとりあえず村の治安は回復できたといっていい。
しかし、根本原因の解決にはまだ至らない。
﹁オナ村からさらに北に行ったところに、盗賊団の砦があるんだ。
そこのイヌワシ団とかいう盗賊団はすでにモンスターに壊滅させら
れたらしいんだが、そこがモンスターたちの根城になってエスト伯
領側に攻め込んできている﹂
ルイーズの偵察によると、そういうことらしい。
じゃあその盗賊の砦を大砲でぶっ潰せば良いんだなと俺が言うと、
反対はなかったので遠征に出向くことにした。
大砲だけで行けると思うのだが、村の有志二十人も鉄砲を担いで
136
俺たちについてきてくれた。
ルイーズが事前に偵察してくれていたので、また盗賊団の砦︵な
んと、盗賊のくせに街道から外れた小山に三階建ぐらいの大きさの
石造りの立派な砦を築いていた︶に攻撃が仕掛けられそうな丘にこ
っちも陣取る。
﹁どうせ盗賊の砦なんだから、大砲でボッコボコにしてしまっても
構わないだろう。じゃあ砲身を砦に向けて角度は適当で﹂
﹁ちょっと待ってください。角度は計算して決めましょう﹂
ライル先生が、紙の束を持ちだしてきた。
なんと、この前にオナ村で試し撃ちをしたときから発射角度と距
離を計算していたそうなのだ。
﹁弾の重さと、火薬の量によっても違うでしょうが。目安にはなる
はずです﹂
ライル先生は、砲身の角度を計算することによって着弾する場所
を測れることにすぐ気がついたらしい。どんだけチートだ。
指示通りの角度で撃ってみたら、一発で砦のど真ん中に着弾した。
調子に乗って、その角度でガンガン撃ちまくってみると、石の砦
がガラガラと崩落した。
中に居たらしいオークたちが、わらわらと外に出てくるので、入
り口に向かっても一発かまして砦に生き埋めにする。
我ながら、恐ろしいものを作ってしまった。
﹁すごい威力です、これなら攻城戦にも使えるでしょうね⋮⋮﹂
ライル先生、何か良からぬことを考えてないですか。
137
俺はあんまり人間同士の戦争に使って欲しくないんだけどなあ。
﹁⋮⋮いえ、あくまでも防衛の手段としてです﹂
そう言って人間は戦争するんだよなあ。
ライル先生もなんだかんだ言ってシレジエ王国の書記官だしね。
ああそうか、俺もそうだったんだっけ。
モンスター討伐は上手く行っているのだが、上手く行きすぎて怖
くなってきたなあと思いつつ。
砦付近のオークやコボルトを銃で撃ち果たして、弾を回収しつつ
肉と皮を頂戴した。
元盗賊団の砦なので、壊れた砦の中に装備品や金品まで残ってい
るという余録まであった。
ついでに食事も済まそうと、ルイーズが嬉々として大鍋を持ちだ
してきたのでなんか和んだ。
オナ村の村人にはすこぶる不評だけど、村でもらった牛乳も入れ
てルイーズが作ったオークの内蔵ホワイトシチューは、豚肉の味が
しっかりして俺の味覚にも合う。
ルイーズがオークの肉をさばいているのを見て村人は青い顔をし
ているが、俺には食い物を作っているとしか思えなくなったし。
一緒に行動する内に、だんだんと意識がルイーズ寄りになってき
てしまったのかもしれないと少し怖くなったりもする。
※※※
﹁エストの街まで戻るべきだな⋮⋮﹂
これ以上の遠征を行うかどうか相談すると、ルイーズが反対した。
138
前から彼女は、魔素の瘴穴に近づくと危険だと忠告してくれてい
る。
俺たちも銃と大砲を手に入れて気が大きくなっているのも確かで、
ノコノコそんな英雄クラスしか何とか出来ないところに行って、伝
説のドラゴンでも出てきた日には目も当てられない。
それにすでにエスト伯領から王領に足を踏み入れているから、こ
れ以上攻めたところで依頼料が発生しないのだ。
エストの街まで戻ることにした。
ちなみに、オナ村で荷馬を一頭もらったので馬力が二倍になって
いる。
幌馬車の中は砲台の上に肉と皮でいっぱいになっているが何とか
輸送できそうだ。
積みきれない装備品と金品は、ルイーズたちがもう一往復して運
んでくれるそうだ。
エストの街まで戻り、ダナバーン伯爵の城に戻って遠征の成果を
報告すると大喜びされた。
一応報告すると盗賊砦の金品も、もちろん俺の所有にしていいと
のこと。
その上でテーブルに、ドサッと金貨五百枚の報奨を乗せてもらい。
勝利の美酒ならぬ、勝利のコーヒーが美味しかった。
さすがにここまで気前よく払ってもらうと、俺も気分が良くなる。
俺のご機嫌を伺う伯爵の意図は、だいたいわかっているのだ。
相手も切れ者の権力者だ。
ここは、俺たちが使っている銃が欲しいとか、大砲が欲しいと言
ってくるに違いない⋮⋮。
139
﹁そこで相談なのだが﹂
ほらきた。
シュヴァリエ
﹁タケル殿を我がアルマーク家の騎士に任命したいと思うのだが受
けてもらえるか﹂
﹁えっ?﹂
ちょっと予想外のことを言われたので動揺してしまった。
俺の顔色をどう感じたのか、伯爵は媚びるような笑みを浮かべて
くる。
シュヴァリエ
﹁うむもちろん、タケル殿の働きを思えば騎士どころか男爵にでも
なっていただくべきなのだろうが、さすがにワシにはそこまで任じ
る権限がない﹂
﹁はあ、いやそれは﹂
﹁だが、騎士と言ってもだ。オナ村の方面を防衛していただくと共
に、代官として村長の任命権も譲るので統治をお願いしたい。そう
なれば実質的には領地を持つ男爵と変わらない。どうだろうか﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
これはどうしたものか。
まったく予想してなかった俺は、困ってライル先生の方に顔を向
ける。
先生を連れてきて良かった。
︵お受けしたらいかがですか、新兵器だけくれと言われるよりは誠
実な申し出だと思いますよ︶
ああそうか、そう言うことか。
伯爵の言いたいことはこうだ。
140
オナ村一帯を好きにしていいから、魔素の瘴穴から南下してくる
モンスターを抑えて防衛してくれと。
モンスターに襲われたばかりで、荒廃したオナ村も復興の手間が
掛かるし、伯爵にとっても譲って損はないのだろう。
となれば、これはまっとうな取引と言えるものだった。
﹁ダナバーン伯爵、お受けしましょう﹂
﹁おおぅ、やってくれるか!﹂
こうして、俺はファンタジーでよく見かける、肩に剣を当てる儀
式を受けて正式にアルマーク家の騎士となった。
﹁よしでは、タケル殿はこれからタケル・オナ・サワタリと名乗る
が良い﹂
﹁いや、それはちょっと﹂
オナを間に挟むのは、やめてくれ∼。
※※※
牧畜業が盛んなオナ村に新たな領地を得たおかげで、ビジネスの
能率はさらに格段に進歩した。
硝石作りの製造拠点として、前から利用していた地域なのだ。
牧場が荒らされたおかげで、職にあぶれた村人に商会の仕事を斡
旋できる。
硝石作りに適した土は採取し放題。
村の土地におおっぴらに硝石小屋を作り足すこともできる。
一方で、エスト商会では石鹸の製造販売を継続しておこなう。
余ったお金で、ロスゴー鉱山に銃と大砲の製造をさらに依頼する。
141
モンスターの南下は十分に抑えられているが、万が一魔素の瘴穴
からグレーターデーモンかドラゴンでも飛んできた日には、大砲は
もっとたくさん要るはずだった。
大砲を運ぶ台座になる馬車も、牧畜業のオナ村でなら手に入る。
もちろんモンスター対策のつもりで、今は銃と大砲の効果を大々
的に喧伝して売り物にする気はない。
どうもダナバーン伯爵は、商業の振興は上手いが、軍事方面に疎
い感じがする。
なぜ商人をやってるはずの俺が領地の防衛計画を考えなければい
けないのか分からないのだが、騎士を引き受けたからにはしょうが
ないだろう。
﹁人出が足りないな⋮⋮﹂
﹁奴隷少女をもっと雇いましょうか﹂
俺のつぶやきに、ライル先生が悪魔の囁きをしてくれる。
新たに人を雇うことはもちろん考えた、奴隷も考慮にいれた。
だが、なぜ奴隷少女限定なんですか先生。
商会の仕事は、石鹸を作ったり硝石を作ったりするだけではない。
ルイーズたちみたいに武器を持って戦うこともあるのに。
奴隷少女兵ってアフリカじゃあるまいし。
﹁先生、奴隷といっても、子供に銃と大砲を持たせるのは気がひけ
るんです﹂
﹁鉱山行きで確実に死ぬよりは、良いのではないですか。銃なら、
子供にも扱いやすいですし、見たところ大人より子供のほうがすぐ
使い方を覚えるようです。しかも、大人の奴隷に比べて奴隷少女は
142
捨て値で買えますから、頭数がすぐ揃いますよ﹂
﹁ううーん、なるほど。慈善事業ですか﹂
黒いなあ先生も。
﹁ハハッ、立派な慈善事業です。こっちは王都と鉱山の間のルート
を抑えているんですから、雇うならすぐ奴隷商人に話をつけて買っ
てきますよ﹂
﹁でもそれって、鉱山は困らないんですかね﹂
たしか、鉱山では子供の奴隷は狭い穴を掘る消耗品だったはずだ。
鉱山は、発破用の爆薬を買ってくれるお得意様でもあるのだ。
ロスゴー鉄鉱山には、それだけでなく銃や大砲の製造を頼んでい
る。
﹁気にする事無いですよ。その分、大人の奴隷鉱夫が働かされて死
ぬだけです﹂
﹁⋮⋮ですね、じゃあお願いします﹂
子供が死ななくなったら、大人がその分だけ死ぬ。
十分気になる話なんだが、本当にこの世界のどうしようもない部
分なんだよな。
発破用爆薬で効率化して、死ぬ人が少なくなるといいなと思うん
だけど、望み薄だろうか。
この世界の社会システムの非情さは、個人の力ではどうにもなら
ないことなのだ。
﹁⋮⋮というわけで、これから徐々に新しい仲間が増えるから﹂
﹁はい﹂
143
すっかり俺の身長に近いぐらいにまで成長したシャロンに、新し
く奴隷少女を雇っていくことを説明する。
今日も店番をしながら商会の切り盛りをしている彼女は、他の娘
の面倒を見るリーダーになっている。
だからなにか新しいことがあるときは、彼女に話しておくのが一
番いい。
のだが⋮⋮なんか不満そうな顔、というか耳だな。
シャロンは、尻尾は服で隠れて見えないが、機嫌の良い時は獣耳
がピンと立つのですぐ分かるのだ。
普段は常に機嫌が良いので、耳が完全に隠れてしまっている今は、
何かを憂えている感じだ。
﹁資金は十分にある、人が増えるのに合わせて商会の方も増築する
し、住む場所も心配要らないよ﹂
﹁はい﹂
あれ、これも違うのかシャロン。
﹁何か足りないものがあったり、生活に困ったことがあれば言って
欲しいんだが﹂
﹁いえ、大丈夫です。お給金も十分にいただいてますから﹂
﹁そうだ、奴隷からの解放を望むなら、給金から払い戻して市民に
戻ることもできるからね﹂
﹁みんな今の生活に満足しています。むしろ解放されると聞いたら、
放り出されるのかと思って泣いて嫌がります﹂
いや、奴隷から市民に戻しても、街に放り出すつもりはないんだ。
仕事を覚えてくれた子はそのまま使いたいし。
144
ふーむ、何が問題なんだろ。
分からないからもうギブアップして、直接聞くことにした。
﹁もしかして、シャロンが個人的に何か、不満に思ってることがあ
る?﹂
﹁あの一つだけ⋮⋮。新しい子が入ってくるってことは、また身体
を洗うんですよね﹂
﹁それはそうだな⋮⋮﹂
どうせ小汚い格好を強いられてるんだろうから、まず身体を綺麗
にしないことには始まらない。
お前たち奴隷だって、店の裏で定期的にお湯をたっぷりと焚いて、
いまでも定期的に身体を洗ってやっているじゃないか。
自分で勝手に洗ってくれるといいんだが、みんなまだ子供だしロ
ールとか、わりと風呂を嫌がったりするからな。
﹁⋮⋮ああ、そうだ、いっそのこと﹂
増築するときに、大きな風呂を作ったらいいよな。
いちいちライル先生に水魔法使わせるのも悪いから、井戸を掘っ
て手押しポンプを作って。
そういや、俺がこの世界に来た時、手押しポンプを作って儲けよ
うと考えていたのだ。原理は簡単なので、先生に相談して作ってみ
るか。
俺もたまにはゆっくり湯船に浸かりたいし、いちいちロスゴー温
泉に入りにいくのも面倒だもんね。
﹁あの、ご主人様?﹂
﹁ああすまん、考え事してた。いっそのことお風呂を新しく作ろう
かと思って﹂
145
﹁そうでなくて、ですね。何で、私だけが身体を洗ってもらえなく
なったのか教えていただけませんでしょうか﹂
﹁いや、それはお前⋮⋮﹂
シャロンは、一人だけ身体のサイズが大きくなったからもういい
かと。
むしろ、子供たちを洗う側に回って欲しいぐらいなんだが?
ああそうか、そう言うことか。
彼女は、獣人の血で成長は早いけど中身はまだ他の子と変わらな
い。
商家の出だけあって下位文字は書けるわ、単式簿記は覚えるわで、
聡明すぎるから、つい大人と話してるつもりになってた。
そりゃ自分だけ避けられたら、差別を受けてるような気になるよ
な。
﹁⋮⋮私がなんでしょうか﹂
﹁ごめん、悪かったよ。次はシャロンも一緒に洗うようにするから﹂
そんな泣きそうな顔しなくてもいいだろ。
頭を撫でてやったら、ようやく柔らかいオレンジ色の髪からピョ
コンと獣耳が飛び出てきた。
﹁はい⋮⋮﹂
まあ、ちょっと身体が大きいので若干の⋮⋮というか、かなりの
不都合を感じるが、大きい子供だと思えば良いか。
年齢的に考えれば、まだ大人に甘えたい盛りなのだろう。
146
﹁そうだ、ライル先生ならまったく問題ないから、シャロンを洗う
のは先生に任せれば良いよね﹂
と、後で言ったら、ライル先生とシャロン、両方の機嫌が悪化し
た。
冗談のつもりだったんだけど、このネタは先生には禁句だったか
⋮⋮。
147
13.お風呂の増築
商会の増築に合わせて、ライル先生が新しい奴隷少女を買ってき
た。
特に人数は決めてなかったのだが、また十三人。
年齢層は、みんな十二歳前後。選べるので、捨て値で買える一番
大きな年齢を狙ったのだろう。
慈善事業だと冗談でいったけど、これは営利事業なのだ。
労働力として使える年齢が欲しいのも事実。
あと、やたらめったら増やしても、住む場所も教育にも困るし、
これぐらいがちょうどいいんだろうけど、十三人ねえ⋮⋮。
どうやらこの国には、十三って数が不吉って考え方はないらしい。
おそらくライル先生は、奴隷少女が一人に一人が付く感じで仕事
と鉄砲の扱いを教える形で同数を増やしていくのがいいと考えたの
だろう。
ここらへん、言わなくても先生が考えて動いてくれるので任せて
おけばいいか。
商会社屋の増築は建物の規模を倍に増やしたが、一番の特徴が大
きな風呂を一階に設けたことだ。
井戸から手押しポンプで水を組んで、外から薪で風呂を焚ける。
もちろん、排水口も設けたので水はけも良い。
やらなくていいと言ってるのに、今はロールが一人で風呂に水を
汲んで薪をくべているところだ。
仕事でも硝石を焚き続けて、風呂も焚き番をやりたがるんだから、
148
どんだけ焚くのが好きなんだよって話だ。
ドワーフって種族は、どうもワーカー・ホリックの気があるらし
い。
そうやって風呂を焚きたがるのに、風呂にはあまり入りたがらな
いというのも困ったものだ。
もしかしたら、ドワーフは種族的に水が苦手なのかなと思って先
生に聞いたがそうでもないらしい。
俺は嫌がる子を風呂に浸けるのは好きなので、あとでたっぷり浸
けてやろうと思う。
﹁それじゃあ、さっそく身体を洗うところから始めるから﹂
﹁⋮⋮﹂
奴隷少女ってのは一様に、従順で眼が死んでいる。
来た始めは、こんなもんだと分かっているので反応がなくても気
にしない。
新しく入った十三人の洗い番は、俺とライル先生とルイーズとシ
ャロンでやる。
﹁シャロンも洗い番になるのか﹂
﹁洗い番に回って欲しいって、ご主人様が言ったんじゃないですか
?﹂
いや、そんな不思議そうな顔をするなよ。
そりゃ、俺はそっちのほうが助かるって言ったけど。
他の子と平等に扱って欲しいんじゃなかったのか。
まあいいか、ロールにしてもシャロンにしても本人がやる気なら
させておくのが一番良いのだ。
149
奴隷少女はみんな灰かぶり姫だ。
産まれてから一度も洗ってないんじゃないかと思うぐらいグレイ
の髪と肌をしている。
グレイというか、これは絵の具でいろんな色を混ぜた結果にでき
る色なんだよな。
石鹸で泡立てて綺麗に洗っていくと、みんな元にあった髪と肌の
色を取り戻す。
髪は赤だったり、金だったり、黒だったり、中には緑とか、青も
混じってるのがちょっとファンタジーっぽい。
肌は、やっぱり小さい傷がたくさんある娘が多い。
奴隷商人だって別にサディストじゃないから、わざと傷つけてる
わけでもあるまい。
奴隷に落ちる過程で付けられたのか、粗雑に囚われた動物のよう
に扱われて付いた傷か。
傷口を洗ってから、ヴィオラが採ってきてくれた薬草を煎じた傷
薬を塗っておく。
みんな、苦しいとも気持ちが良いとも言わず、されるがままなの
が悲しい。
考えたらロールみたいに、風呂を嫌がったりするようになるのっ
て凄く人間らしいんだよな。
だからって容赦なく絶対あとで洗って浸けるが、早く風呂を嫌が
るぐらいになってほしいものだ。
そうして、ひと通り洗浄を終えると、タオルで身体を拭くのはシ
ャロン以外の古株の奴隷少女たちも手伝ってくれる。
一人に一人が担当になる形なので、みんなひと通り自分の担当を
見つけて教育してくれると助かるのだが。
150
﹁じゃあ、身体を拭いたらちゃんと服に着替えるようにな。自分の
衣服が一揃え揃ってることを確認したら、今日は食事して部屋で休
んでいいぞ﹂
こうやって単純に言っても、来たばかりの奴隷少女は自分の意志
で動かない。
ちゃんと下着とエプロンドレスと靴下と靴があっても、自分が着
て良いのだと言うことが理解できない。
所有という概念を剥奪されているのだ。
ちゃんと食卓につかせて食事させて、ここが自分の寝るベッドだ
と教えてやる。
人間性を回復するのは、なかなか骨が折れる作業だった。
新顔の十三人を寝かしつけてから、今度は古株のほうの風呂だ。
﹁おい、ロールはどこ行ったんだ?﹂
﹁あれさっきまで居ましたけど﹂
ロールが見えなくなったので、彼女と仕事で組むことが多くて、
仲の良い元パン屋の娘コレットに聞いたが、居なくなったそうだ。
逃げたか。
新入りの奴隷少女たちを世話してやるって仕事はきっちりとこな
してから、洗われる直前で消えるってのがロールらしい。
まあいい、絶対あとで浸ける。
﹁まあ、もうだんだんと自分でも身体を洗えるように⋮⋮って脱ぐ
の早いなおい﹂
シャロンがもう脱いで待ってた。
151
うあー、こうして裸体になると完全に育ってるなあ。
きちんと食べだして止まっていた成長が戻って三ヶ月ぐらいなの
にな、実年齢はたぶんまだ小学生ぐらいなんだろ。
そうだ、子供相手に怖気づいてたら恥ずかしいってものだ。
﹁よし、シャロンから洗ってやるけど。みんなもう、そろそろ自分
でも身体を洗えるようになろうな﹂
別にシャロンを洗うのが嫌で、そう言ってるわけじゃない。
手がかからなくなったら助かるなって話だ。
シャロンは新陳代謝が激しいのか、出会ったばかりの頃の傷だら
けだった肌がすっかり綺麗になっているから本当に良かった。
今なら娼館でも十分行けるんだろうな、中身があれだから倫理的
にまずいが。
﹁ご主人様、私だけ二回はスルーされて洗ってもらってないので、
その分綺麗にお願いします﹂
﹁分かった分かった﹂
分かったから、俺に前を見せるのはやめてくれ。
細かい描写はもう完全にマズイ。
なるべく心を殺して、頭から綺麗に洗ってやる。
お尻で小さい尻尾が揺れてるのは可愛らしいので、尻尾を見て気
を紛らわせよう。
あと背中とか手首に、ちょっとオレンジ色の毛が生えてるな。
胸のあたりは、柔らかい余分な肉がたくさん付いててコメントを
避けたい。
股のあたりも程よくオレンジ色の毛で隠れているので助かる。
152
﹁よし終わり、綺麗になったぞ﹂
﹁えーっ﹂
いや、綺麗になっただろ。全身泡でなんとかしたよ。
俺は頑張ったと思う。
﹁はい終わりな、あとは自分でも洗えるだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
そんな不服そうな顔で睨まれても、視線が合わせられない。
相手は中身小学生だし、ちょこっと別種族も入ってるから気にす
ることもないんだろうけど。
むしろ気にしたら負けだってわかってるんだが。
俺も十七歳なんだから、これ以上は反応しないのが無理なんだよ。
なんか色々もういろいろ堪えるのに⋮⋮気疲れして、血反吐を吐
きそうだ。
シャロンの後に、他の子を洗ってるとやっぱ俺はロリコンじゃな
いってことがよく分かるな。
楽で仕方がない。
古株の少女も洗うのも、ライル先生やルイーズが手伝ってくれる
のですぐ終わる。
﹁はい、みんな身体洗ってもらったら風呂に浸かってみろ。慣れれ
ば、気持ちいいと思うぞ﹂
とりあえず風呂にも浸からせてみた。
無理にとは言わないが、なんでも経験だからな。
風呂は新陳代謝も良くするから身体に良いだろうし、子供のうち
に慣れておけば好きになるかもしれない。
153
※※※
さすがに二十六人が二回に分けて入ったので、風呂のお湯はドロ
ドロだ。
お湯を全部抜いてから、新しく焚き直してライル先生とルイーズ
にもゆっくり入ってもらうことにした。
俺は最後でいいわけだ。
一応、ライル先生に一緒に入らないかと誘おうと思ったら、その
前に一人で入りますと言われてしまった。
もうダメだなパターンが見えてしまってるから。
それより、ロールだよ。
あいつは探して絶対に風呂に浸けないといけない。
食堂にコレットが居た。
風呂上りのしっとりと濡れた長いブラウンの髪が艶やかだ。
この娘も、綺麗にしてれば酒場の看板娘ぐらいは務まる器量はあ
る。
将来有望株だ。
コレットは元パン屋の娘なせいか、食事を作ったり給仕すること
を自分の仕事としていて、みんなに作って出してから最後に食べる。
コレットが食べてるってことは、ロールはもう食事に来たってこ
とかな。
﹁ロールはもう食べたか﹂
﹁あっ、ご主人様。まだみたいです。あんまり遅いんで食べちゃい
ましたすいません﹂
154
﹁いや、それはいいんだ。どこに行ったか分かるか﹂
﹁もしかしたら、お風呂をまた焚いてるんじゃないかしら﹂
それあり得るな。
俺が風呂に新しく水を汲んでいたときは来なかったが、俺が居な
くなったのを見計らって薪を足して、湯加減を見てる可能性はある。
ワーカー・ホリックだしな。
﹁じゃあさ、ここでちょっと待っててロールがきたら特別料理を出
してやってくれよ﹂
﹁えっ、特別料理ですか?﹂
﹁オークの肉に、たっぷり塩と香辛料を効かせていい匂いを漂わせ
てやってくれ。あと今日は風呂焚き頑張ったからって、蒸留酒も出
してやってくれ。上等な奴な﹂
﹁わかりました﹂
ロールは人一倍働くが、人一倍食べる。
あとドワーフの例に漏れず、まだ小さいくせに酒が好きだ。
ドワーフの世界では、酒を﹃命の水﹄と呼んで、ないと生きた心
地がしないらしい
別にこの世界では子供に酒を飲ませてはいけないってことはない
らしいので、好きに飲ませているのだ。
あいつは、味の濃い食い物が大好きだから匂いが強ければ絶対や
ってくる。
それで美味い酒を飲ませれば、根が生えるだろ。
※※※
﹁やっぱりいたか﹂
﹁あぅ、ごしゅじんさま﹂
155
なにがあぅだよ。
捕まえるのに苦労させられたが、やっぱり最後は食堂に戻ったか。
﹁ちょうど食事も終わりみたいだな、ライル先生もルイーズも出た
から俺らが最後だぞ風呂﹂
﹁あぅ、まだのみたりない﹂
はいはい、あとで好きなだけ飲めばいいからお風呂に行こうぜー。
しかし、ウイスキーこんだけあけて、よく酔わないもんだよな。
まあ、逃げまわってたのに俺に捕まったのが多少は酔ってるって
ことか。
ロールは、古株の奴隷少女の中でも稼ぎ頭だから、高い塩と香辛
料を肉にどんだけ使おうが酒をどんだけ飲もうが、わがままはどん
なに聞いてやってもいい。
しかし、風呂に入らないのだけはダメだ。
何せ昨日だけでも、こいつはどれだけ硝石を作って、いくつ硝石
小屋を建てたのやら。
汚い話だが、土まみれどころか動物の糞尿まみれで仕事している
ようなものなのだ。
その仕事のキツさを俺は一番良く知ってるので、こいつだけは綺
麗にしないと気がすまないのだ。
﹁はい、服を脱いでな。これも全部洗濯してもらうからな﹂
﹁あぅ、ごしゅじんさま﹂
さっさとロールを薄汚れたエプロンドレスを脱がせて裸に剥くと、
両の手を合わせて頼まれた。
156
﹁なんだ﹂
﹁おてやわらかに﹂
﹁誰に習ったんだよそんなこと﹂
もう最後だから、俺もついでに風呂に入ってしまおうと服を脱い
で裸になる。
ロールは、実年齢は知らないが奴隷少女でも一番小さく見えるの
で、裸になろうが裸を見せようが何とも思わない。
だから一番付き合い易いのかもしれないな。
﹁お手柔らかに、全身くまなく洗ってやるから覚悟しろ﹂
﹁ひやぁー﹂
ロールには真新しい石鹸をたっぷりと泡立てて、全力で頭から綺
麗にしてやる。
赤銅色の髪で、褐色の肌のドワーフでも、磨けば綺麗になるって
ことを証明してやるのだ。
実際、耳は尖ってるし容姿も可愛らしい。
この世界的には、エルフが白妖精で、ドワーフが黒妖精らしい。
全力で頑張れば、最近のファンタジーで言うところのダークエル
フ的なポジションを狙えるはずなんだ。
﹁俺がロールを磨き上げてプロデュースしてやるからな﹂
﹁うあーアワアワ﹂
ハハハッ、面白い。
やっぱ俺はドSなのかもしれないな。
シャロンみたいに洗ってくれって迫ってくるとキツいけど、洗わ
れるのが嫌だって反応だと洗いたくて仕方がない。
157
それにロールの赤銅色の髪も、洗ってると艶やかさを取り戻すの
だ。
褐色の肌も綺麗じゃないか、悪くないぜ。
﹁よし、完全に綺麗になったな。ダークエルフって名乗ってもいい
ぞ﹂
﹁ごしゅじんさま、あたし、えるふきらいです﹂
ああそうなのか、この世界もエルフとドワーフは相性悪い感じな
のね。
じゃあいいや、美少女ドワーフと名乗れ。
﹁ご主人様ずるい⋮⋮﹂
﹁うあーーー﹂
このお風呂場は、かなり高かったが俺がどうしても欲しいと要望
して、お貴族様しか使わない綺麗な鏡が貼ってある。
︵鏡は、この世界では銀のガラス細工の一種で、お風呂場に張る分
を全部買い付けるのに白金貨二枚もした。市民は、だいたい銅と錫
の金属鏡を使う︶
その鏡にいつの間にか、オレンジ色の髪が映っていたので、俺は
びっくりしてしまった。
﹁うあーーー﹂
俺に遅れて、ロールが同じように声をあげる。
たぶん、俺の声に驚いて真似しただけだと思う。
ロールの情けない感じの声が、風呂場に響き渡る。
俺の声もこんなんだったんだろうな。
振り返ると、全裸で立ってたのはシャロンだった⋮⋮。
158
﹁私は大雑把に洗ったのに、ロールばっかり丹念に磨き上げるんで
すね﹂
﹁ほら、ロールお風呂に浸かってみろ﹂
﹁うわー﹂
俺の意識は現実から逃避して、ロールを抱き上げてお風呂場に浸
からせた。
﹁どうだ、お風呂気持いいか﹂
﹁あつい∼﹂
﹁自分が焚いて湯加減見てるのに、浸かるのは熱いのか。ハハハッ﹂
﹁ご主人様、聞いてるんですか!﹂
うわー、いつになく怒ってるよ。
スルーさせてくれない。
もうなんか今日は疲れた、俺も風呂に入ってしまおう。
はぁ、やっぱ湯船は気持ちいいな。
ようやくだよ、本当に。
﹁ロール、百まで数えたら上がってもいいぞ﹂
﹁ニ、三、五、七、十一⋮⋮﹂
あれ、なんでロールが素数とか知ってるんだ。
誰に習ってくるんだろうな、こういうの。
シャロンも湯船の中まで追いかけてきた。
今日ほんとしつこいなあ。
﹁ご主人様⋮⋮﹂
159
﹁もうわかった、わかったから﹂
わかったから、背中に胸を押し当てるのはやめて。
本当にその感触、ヤバイから。
疲れてると自制が効かなくなる。
﹁八十九、九十七、百一。ごしゅじんさまー﹂
﹁わかった、もう出てもいいぞ﹂
﹁あっ、待ってロール。ちゃんと新しい服を用意しておいたから﹂
シャロンは、お風呂から離脱したロールを追いかけて脱衣所に出
ていってしまった。
そうか、ロールの着替えを持ってきてくれたんだな。
︵ふっ、なんか焦っちゃったな⋮⋮︶
なんだかんだで、うちで一番働いてくれるのは、後始末まで考え
て仕事を取りまとめてくれるシャロンなのだ。
シャロンは欠かせない人材だからな、本当に良い拾い物をしたも
のだ。
俺は温かい湯船に浸かりながら、自分の巡り合わせの良さに感謝
するのだった。
﹁ご主人様⋮⋮﹂
﹁うあーーー﹂
おいもう終わりの流れだろ。
しまった、さっき二人が出た時に一緒に出れば良かった。
160
﹁まだ話は終わってません﹂
﹁うああ⋮⋮﹂
湯船にまた入って来ちゃったよ。
もっと違う場所ならいいんだけど、風呂はマズイんだ。
﹁なんで、ロールだけ特別扱いで、私だけおざなりなんですか﹂
﹁わかった、じゃあこれからスルーした分、シャロンも全力で洗っ
てやる﹂
﹁本当ですね!﹂
分かったから、身体をすりつけてくるな。
獣耳がピンと立って、湯船の中でも尻尾が揺れてるのがわかる。
もう、そこしか見れないというかな⋮⋮。
﹁ああ、だから一つ条件がある。湯船から上がって、そこに座って
俺が良いと言うまで目を開けるな﹂
﹁わかりました、ご主人様のお言いつけ通りにいたします!﹂
言われた通り、洗面台に座って眼を閉じるシャロン。
よっし、これで最悪の事態は避けられた。
俺は桶にお湯を汲むと、気合を入れ直して髪から、もう一度丹念
に洗い流すことにした。
﹁はんっ、きゃん!﹂
﹁変な声を出すな﹂
﹁すいません、ご主人様の手が優しくて﹂
本当にコイツ分かって言ってるんじゃないだろうな。
161
クソ、身体が育ってるのに心は子供とか拷問だろ。
だからリアルファンタジーは嫌いなんだよ。
﹁綺麗に洗うのに集中できないから極力声を出すなよ﹂
﹁はいっ、極力出しません、ご主人様⋮⋮はう﹂
﹁吐息みたいなの余計ヤバイからやめろ﹂
﹁息を止めます、ご主人様⋮⋮﹂
ああもう我慢しすぎて胸が痛くなってきたから、もう開き直って
洗ってやれ。
生理現象なんだからしょうがないよな。
﹁もうしょうがないなあ、これ⋮⋮﹂
﹁あっ、ご主人様、そんなとこまで⋮⋮﹂
﹁そんなとこって、どんなとこだよ!﹂
結局のところ、頭の先から足先まで綺麗に泡立てて洗わされた挙
句。
脱衣所で丹念にバスタオルで拭くところまでを、しっかりと要求
された。
唯一の救いは、最後まで眼を開けるなという命令は守ってくれた
ところだ。
おかげで、下着から服まで俺が着せなきゃならなくなったが。
﹁ありがとうございました、ご主人様またお願いしますね﹂
﹁ああ、またいつかな⋮⋮﹂
もう、本当にどっちがご主人様なのか分からんようになってきた。
おかげで、その夜は悶々としてなかなか眠れず。
俺は自分の巡り合わせの悪さを呪うのだった。
162
14.いろんな攻防戦
魔素の瘴穴から人型モンスターの群れが流れてきて以降。
エスト伯領北東に位置するオナ村は、すっかり領内に流入してく
るモンスターとの戦いの最前線と化している。
備えの必要を感じた俺は、村の柵を強化し大砲を一門備えた石造
りの小塔も建てた。
若い衆二十人からなる村の自警団は鉄砲も扱えるようになったの
で、冒険者ギルドやエストの街の衛兵の手を借りなくても防衛力は
十分といえた。
それ以前に、近代兵器の威力に触発されたらしいルイーズが、戦
士隊にさらに二人加えて馬に乗って常に偵察に当たっているので滅
多なことはない。
ルイーズはなぜか銃器を好まないらしく小弓を使ってるが、部下
のシュザンヌ、クローディアたちは馬上でも鉄砲を扱えるようにな
ったので無敵の竜騎兵︵騎馬鉄砲をそう呼ぶのだ︶小隊になってい
る。
女の子ばっかりで騎馬とか大丈夫なのかと思ったら、騎手は小柄
な方がいいらしく割とすぐ馬に乗れるようになっていたので驚いた。
まあ本当に馬乗で騎士として戦えるのはルイーズだけだろうけど、
基本偵察だから遠距離攻撃だけで問題ない。
やっぱり、子供のほうが順応性が高いんだな。
ちなみに本当の騎士に任命されている俺はというと、ちょっと練
習してみたが馬に乗るのは諦めた。
163
馬車のほうが楽なので、もう移動はそっちでいいと思っている。
今日も俺はライル先生と幌馬車に乗って、オナ村で作っている石
鹸と火薬を取りに来たのだ。
モンスターの攻撃で牧畜業にだいぶ打撃を受けたオナ村だったが、
うちの商会の指導で新製品の製造を手伝うようになって前よりも賑
やかになってきている。
うちの儲けのために利用しただけだが、自分の管理している村が
豊かになるのはいい気分だった。
﹁ご領主様、敵襲です!﹂
﹁いや、俺は領主じゃなくて⋮⋮えっ、ルイーズたちが向かったん
じゃないのか﹂
村の若い男が鉄砲を抱えて、慌てて俺たちのところまで走ってき
た。
俺はあくまで村の代官で領主ではないんだが、そう村人に説明し
てもいまいち分かってもらえない。
年上の人に、ご領主様とか言われるとむず痒いものがある。
しかし敵襲って、さっき村の郊外にオークが出たという報告で、
ルイーズたちが馬に乗って見に行ったのだが、こっちに襲ってきた
のか。
村人が指差す方向をみると、草原の向こう側から土煙をあげて大
部隊が近づいてくるのが見えた。
まだ小さいから判別つかないが、またオークだろうか。かなりの
数だ。
﹁たぶん陽動ですね﹂
164
村が襲撃を受けてるというのに、ライル先生が爽やかな笑顔で言
う。
もう付き合いが長くなってきたんで分かるけど、面白がってるよ
この人。
先生は文官なのに、意外と戦争とか好きなんだよなあ⋮⋮。
﹁オークってそんなに賢いんですか﹂
﹁長い年月でオークロードにまで成長する個体が稀にいます、ちょ
っと手強い相手になるかもしれません﹂
ライル先生は、オークの大隊の方向に足止めの魔法をかけると、
自警団を何人かつれて砲台のある小塔に登っていった。
先生、大砲の角度を毎回計算してる手帳を持ってホクホク顔だっ
たな。
村が攻められているというのに、ちょっと不謹慎すぎて引く。
まあ、俺の方は先生の作戦に従うだけだ。
﹁とにかく、集まって戦うんだ!﹂
﹁おー!﹂
火縄銃をかかえた村の自警団がどんどん俺の周りに集まってくる。
俺は、すかさず幌馬車に積んであった紙薬莢を配っていく。
火縄銃の命中精度は高くない。
だから集まって敵の群れに向けて、まとまった数を撃ち込まない
と効果が出ない。
弾幕ってやつだ、﹁弾幕薄いぞ﹂とか男なら言ってみたいセリフ
だよね。
うちの奴隷少女たちほどではないが、自警団にも集団戦闘の訓練
はしている。
165
横一列に整列して、すでに村の柵を乗り越えてこっちまで迫って
きているオークの大隊を待ち構えた。
かなりの数の群れだから、本当なら脅威なのだがまったく負ける
気がしない。
ボコっと音を建てて、オークの群れの前列が落とし穴に落ちた。
たしか﹃アース・トラップ﹄だったか、わりと初歩の土魔法だが、
広範囲に地崩れを起こさせる。
大人数での戦闘は、単なる柵とか、普通の落とし穴がどんな攻撃
魔法よりも有効だったりするのだ。
勢い良く攻めていただけに、オークの部隊は落とし穴にはまって
足止めされる。
﹁よし、撃て!﹂
そこに鉄砲の一斉射撃が襲う。
激しい鉛の雨の衝撃と、何よりも大きな炸裂音に狼狽して、オー
クは敗走を⋮⋮始めなかった。
﹁グゥゥゥガガガァァァゴゴゴォォオオオ!﹂
ちょっと形容しがたい身を震わせる叫び声が、オークの群れの後
ろからあがり、敵陣の狼狽を押し留めたのだ。
群れからノッソリと前に出てきたのは、普通のオークと比べて身
の丈が二倍もある巨大なるオークの王。
大きなツノを付けた兜をかぶり赤いマントまで翻して、身体より
もさらにでかいストーンハンマーを抱えている。
なるほど、あれがオークロードか。
こちらを睥睨するその威容なる肉体は、巨大な暴力そのものだっ
166
た。
一声叫ぶだけで、敵には本能的な恐怖を与え、オークの群れの動
揺を沈める。
凶暴かと思えば、その濁った瞳に怒りだけでなく邪悪なる知性の
色までたたえている。
眼があっただけでゾッとする化物。
まともに相手をしたくない、というか絶対しない。
そろそろ来るなと思って、俺は耳をふさいで頭を伏せた。
その瞬間、激しい衝撃と共に爆炎が上がり、敵味方ともに恐怖さ
せるほどのオークロードが土煙の中に消えた。
ドッカーン! と、大気を震わせる発射音が遅れて鳴り響く。
ブルブルと震える地面、衝撃が来ると分かっていたから耐えられ
たものの。
こっちも揺れと爆風に耐えるのに必死だった。
﹁ふう、味方ながら怖い⋮⋮みんな弾込めしてどんどん撃って﹂
﹁はい!﹂
土煙が収まると、オークロードが居たところに残ったのは、ぽっ
かりと開いた穴だけだった。
オークロードの珍しい肉も皮も、どっかに吹き飛んだだろう。
ルイーズが聞いたら残念がるだろうな。
オークロードがどんだけ強くて凄い存在か知らないけど、大砲を
前にでかい図体でしゃしゃり出て来るからこうなるのだ。
所詮は、サル山の大将レベルの知性だった。
至近距離での大砲の炸裂。
167
来ると分かって備えていた味方ですら、爆風と衝撃でダメージを
受けたぐらいなのだから、指揮官を失ったオークの群れは為す術も
なくバラバラに敗走していく。
そこに追撃して、なるべく数を減らしておいた。
死者はゼロ、怪我人も薬草とポーションで治しておいた。
殺したモンスターは、落とした装備品も肉も皮も余すところなく
資源になるので、戦えば戦うほど村は豊かになっていく。
﹁さすがですね、ライル先生﹂
俺は、小塔から降りてきた先生に労いの言葉をかける。
先生が砲台を指揮して撃ち込んだのはたった一発。
それだけで、敵指揮官に命中させて勝利を確定させてしまったの
だ。
﹁なあに、大砲は魔法を使う要領と一緒ですからね﹂
﹁なるほど、そういうものですか﹂
とんでもない人に、とんでもない新兵器を与えてしまったのでは
ないかと俺は少し怖くなってきた。
大砲を自分で上手く扱えるだけでなく、村の自警団に操作させて
戦術まで教え込んでいる。
オークロードより、ライル先生の方がこの世界にとって脅威なの
ではないか。
まあ、味方なら頼もしいけどね。
※※※
商売の方はすこぶる順調だ。
168
エスト伯領に張り巡らせた商売網が完成して、何台も幌馬車を所
有できるようになると、俺がわざわざ出向かなくても奴隷少女たち
だけで、製造・販売・行商まで全て行えるようになってしまった。
つまり、俺はちょっと暇になってしまったのである。
こんなに商売が順調なのも、商会に陣取って商売全体を切り盛り
しているシャロンの手腕によるところが大きい。
﹁シャロン、たまには店番代わるから、遊んできなよ﹂
﹁はあ、では買い物したいものがありますので行って参ります﹂
シャロンに、珍しいという顔をされてしまった。
まあ、暇つぶしの気まぐれなのだが、たまにはシャロンも骨休め
してほしい。
俺だって行商ばかりでなく、たまには自分の商店の軒先に立って、
自分の店の繁盛っぷりを楽しみたい。
といっても、うちの商会が扱っている商品は石鹸と洗剤と花火だ。
あとディスプレイの飾り程度にヴィオラが採ってきてくれる薬草
と野花が置いてあるだけなので、それほど忙しくもない。
店に立ち寄ってくれる街の奥様方や、エストの城のお手伝いさん
と雑談しながら、石鹸や洗剤の効能を説明して売りつけるだけだ。
そういや、現代世界で高校生をやってた頃は、模擬店とかやった
よなあと懐かしく思い出す。
俺はあまりクラスの催し物には積極的に参加しなかったのだが、
知らない人に食い物を作って売るのは楽しかった。
まだ異世界に来てから、半年ぐらいしか経ってないのに、まるで
遠い昔の出来事のように思える。
﹁なんだか、久しぶりに平和だな⋮⋮﹂
169
⋮⋮客が来ない。
爆竹とかんしゃく玉は、せっかくオモチャとして作ったのに、完
全に戦闘用だと思われてて、勧めても街の市民には全然売れないの
が残念。
やっぱりもう少し、商品のレパートリーを増やすべきかな。
﹁ああーっ! 居ましたわ!﹂
﹁いらっしゃい⋮⋮﹂
白地に青のラインが入ったローブをきた若い女性が、突然店に押
し入ってきて俺を指差す。
知ってる人ではないよな。
﹁お初にお目にかかります、わたくしアーサマ教会から参りました、
シスターステリアーナです﹂
﹁教会の﹃方から﹄参りましたって詐欺ではないですよね⋮⋮﹂
白地に青はアーサマ教会のシンボルカラーだ。
俺だってそれぐらい知ってるし、教会の名を語る不届き者がそう
居るとは思ってない。
もともと宗教家ってあんまり好きじゃない。
教会の人間と知ってて当然みたいな態度が鼻につくので、思わず
混ぜっかえしてしまった。
﹁違いますわ、正真正銘の伝道修道女です。妹のシスターでもあり
ません。本物のシスター、ステリアーナです!﹂
﹁はあ、それはどうも⋮⋮﹂
170
フードを目深に被ったシスターは、微笑みながらやたら豊かな胸
元に輝く白銀のアンクを掲げる。
冗談のつもりで言ったんだが、まともに受け取られたか。
﹁何度お店を訪ねても、﹃噂の﹄サワタリ様にお会いできなかった
ので困っていました。ここで出会えましたのも運命、創聖女神様の
お導きと申せますでしょう、ああっ、アーサマありがとうございま
す!﹂
十字架っぽいけど、頭の部分がちょっと広がっているアンクを掲
げて祈っている。
いきなり店の前で、祈られても困るんだが⋮⋮。
ちなみにアーサマ教会ってのは、この国にも大きな教会がある世
界宗教だ。
これも勉強だと思って、世界創聖伝説の書かれた聖書をライル先
生に借りてナナメ読みしてみたことがあるが。
この世界は、八千年前に始原の混沌からアーサマという創聖女神
が創ったそうで、女性の神様だけあって男女は平等で、種族の差別
を禁止して、全ての生き物を慈しむのが善というとてもありがたい
宗教である。
そんな素敵な信仰が世界宗教なのに、奴隷制度があり、力の弱い
もの貧しいものが虐げられて、ニンフみたいに公然と迫害される種
族がいたりするのは、皮肉といえる。
まあ、建前と本音ってやつだ。
リアルファンタジーなんてそんなもんだろう。
それでも変に狂信的な邪教が広がっているよりは、無力で平和的
な女神様の方が、だいぶマシだとは思う。
171
ちなみに俺が使える︵ということになっている︶神聖文字が世界
中で広まっているのも、アーサマ信仰のおかげであったりする。
異世界人の俺は、当然ながら信仰心もないし、神聖魔法にも用が
なかったので教会には行ったことがない。
いずこ
待てよ、シスターが言った﹁噂の﹂ってなんだ。
﹁﹃噂の﹄、ですか?﹂
﹁ええっ、﹃噂の﹄です。何処よりエストの街に来られて、瞬く間
に大商会を組織し、オナ村を凶悪なモンスターの襲撃から救って、
伯爵様より騎士の称号と代官の地位を授かった今イチオシの英雄サ
ワタリ様⋮⋮﹂
﹁いや、褒めすぎですよ﹂
﹁死にかけの奴隷の子供たちを救って、仕事を与えている慈善事業
家とも聞いています。ご近所に評判いいですよ﹂
﹁いやあ⋮⋮﹂
そこまで褒められると、こそばゆくなってくる。
﹁そこまでの強くお優しい方なのに、残念なことにアーサマへの信
仰心がない!﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
なんか、褒めてくれると思ったら、面倒な話になってきた。
﹁しかし、他ならぬサワタリ様です。このシスターステリアーナ、
細かいことは申し上げません。信仰は今後ゆっくりと深めていただ
くとして、本日はサワタリ商会に当教会へのご寄進を勧めに参った
次第です﹂
172
﹁ご寄進ですか?﹂
どうせ魔法力ゼロの烙印を押されている俺は、回復魔法は使えな
いんだろうし、信仰を深めるつもりはまったくないのだが。
﹁ここだけの話ですが、街の他の商会にはたくさんのご寄付を頂い
ております。街の方は皆様、それはそれは信仰深い方なので、助か
っております﹂
﹁ああ、なるほど、そういうことでしたか﹂
ようやく話が読めてきた。この世界でも、教会は王権と並ぶ権力
者だ。
街で商売する上で、ショバ代を払えってのはまあ真っ当な要求だ
ろう。
エストの街が襲われた時には、教会の神官たちも出てきて治療に
当たってたしな。
寄付を求められれば、税金と思って払うしかない。
﹁それで、おいくらほどご寄付すればいいんでしょうか﹂
﹁それはもう、御心ばかりで結構でございます﹂
とりあえず、金貨一枚を差し出してみた。
あれ、受け取らない。
﹁御心ばかりで結構でございます!﹂
﹁⋮⋮﹂
じゃあ、金貨もう一枚。
173
﹁御心ばかり結構でございますぅぅぅー!﹂
﹁⋮⋮﹂
足りないのか。じゃあ、あと金貨五枚ぐらい追加する。
ジャラッとテーブルに置いた金貨が、あっという間にシスターの
ローブの裾に吸い込まれた。
﹁ご寄進ありがとうございます! 海よりも深く山よりも高いサワ
タリ様の信仰深い行いに、きっと慈悲深きアーサマもご満足されて
いることでしょう!﹂
﹁はい、ありがとうございました﹂
寄付ぐらいは必要経費と諦めてもいいんだが、このテンションに
付いて行くのがきつくなってきた。
もう帰ってほしい。
﹁是非、今度お暇なときに一度教会の方にもお越しください、この
シスターステリアーナ、それはもう誠心誠意、手取り足取り、お接
待させていただきます﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁ああ、えっと⋮⋮親愛を込めてリアと気楽に呼んでください。親
しい人はみんなわたくしをそう呼んでおります。私もタケルとお呼
びますので、是非もなしです﹂
﹁はあ⋮⋮そうですか﹂
なんでいきなり呼び捨てなんだよ。このシスター距離感がおかし
い。
だんだんと近づいてきて、店のカウンターのこっち側に向かって
身を乗り出してきている。
おいおい、オッパイをカウンターに乗せるな!
174
そんなサービスしても寄付金は増やさんぞ。
ちょっとデカイとおもって、いい気になってるんじゃないだろう
な。
まさか、布が厚い修道女のローブのほうが、やけに胸の大きさが
強調されるというエロスを計算しているのか。
うーん。なんかちょっと、このシスター雰囲気が危うい感じがす
る。
深く関わっちゃいけないような⋮⋮。
俺が、初対面の女と話すのが苦手なコミュニティ障害を患ってさ
えなければ、適当な理由つけてすぐ追い払うんだが。
﹁何か困ったことはありませんか、女神様のお子である信者の皆様
をお助けするのがこのリアのお仕事です﹂
現在進行形で困っているのだが⋮⋮。
商売の邪魔だし帰ってもらえないだろうか。
﹁あのシスター様、特にはありませんので、今日のところは﹂
﹁まあっ、リアと呼んで下さってかまいませんのに、タケルは奥ゆ
かしいですね。慎み深い男の子ですね!﹂
﹁⋮⋮﹂
だから、なんでいきなり初対面で友達気分になってるんだよ。
ぜんぜん親しくなってないし、距離感おかしい。
この世界の常識を知らないのはこっちのほうだから、いろいろ言
動がおかしくても、安易には突っ込めない。
175
ファンタジーだから、アーサマ教ってのがこういうフレンドリー
な教えなのかもしれない。
確かに色気ムンムンで迫って来たほうが、寄付金は集まりやすい
のかも。
初対面の女と話すのが苦手な俺には、拷問に近いんだが⋮⋮。
﹁あーそうだ、フードを脱いで差し上げましょう。普段は、信徒の
方が血迷われるといけませんので顔を隠しているんですが、タケル
には特別サービスします﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
いきなり、目深にかぶっていたローブのフードを脱ぎ始めた。
どうだと言わんばかりに、瞳をキラキラ輝かせてこちらを見てく
るシスターリア。
いや、普通⋮⋮。
普通というか、確かに柔らかい透き通るようなブロンドで、碧い
瞳も綺麗ではある。目鼻立ちは整ってるし、白磁のような肌も十分
に美しいとは思うが、こんなの西洋ファンタジーなら当たり前だろ。
いくら美人でも、こんな大げさな前フリで見せられて、コメント
しろとか言われても困るよ。
﹁えっと、あのもしかしてローブの方も脱いだほうが良かったので
しょうか。そっち系の流れなら、わたくし是非もありませんね﹂
﹁いやいやいや、ちょっと待ってくださいシスター!﹂
普通に脱ぐなよ!
リアは、こんなものは邪魔だとばかりに、ローブの胸元を開こう
とした。
176
見たくないと思っても、つい胸の谷間を見てしまう男の気持ち考
えたことあるのかよ!
どうせ﹁あいつ私の胸見てたギャハハ﹂とか後で笑うつもりなん
だろ。
俺は一連の行動を鑑みて。
これは宗教上の理由とかではなく、このシスターの個性だなとよ
うやく理解した。
いきなり脱ぎだすとか、こんな頭のおかしい宗教があったとして、
どこのファンタジーでも世界宗教になれないだろ。
カルト宗教もいいところだ。
﹁なんか、タケルの反応薄いですし⋮⋮脱ぐのは是非もないかと﹂
なんだ、脅迫か?
褒めろってことか、しょうがない。
﹁えっと⋮⋮。リアはすごく美人ですね! 思わずエルフかと思い
ました!﹂
﹁フヒッ、やだタケルったら褒めすぎですよ。エルフなんて⋮⋮で
もでも、残念ながら、耳は尖っていないんですよね﹂
褒めたのが正解らしく、満面の笑みでリアは、自慢げに金髪を掻
き上げると尖ってない耳をチラチラと見せつけてくる。
確かに耳元も綺麗だけどな。
でも、ちょっとウザいんだよ。
そんなアピールされても、もう褒めないぞ。
177
だいたい初対面のシスターがエルフだとか、エルフじゃないとか。
自分で言っといてなんだがあんまり興味ない。
とりあえず、俺の店の前でのストリップはやめて欲しいだけなん
だ。
﹁あとタケルに一つ忠告なのですが、シスターは貞節の誓いがある
ので、わたくしに惚れてはいけませんよ﹂
惚れないよ、今の会話のどこに惚れる要素があったんだよ。
一体何なんだ、この人は⋮⋮。
あれだな⋮⋮、客商売ってすごく大変なんだな。
こんな変なお客さん来ちゃったら、対応のしかたわかんないわ。
シャロンをあとで褒めてやるべきだな。
﹁シスター様、美しいお顔も拝見したので、今日はこのあたりで﹂
﹁そうですね。では、ついでと言ってはなんですが、タケルにアー
サマ教の凄くありがたいサービスをおまけしましょう。聖水とかそ
の場で作っちゃいますよ、わたくし?﹂
いやもう帰ってくれよ。
聖水とかあんまり需要ないから教会に行かなかったんだし。
いや待てよ、何が役に立つかわからない。
少なくとも商品サンプルは、貰っといたほうがいいのかな。
﹁えっと、聖水といいますと﹂
﹁おおおっ、タケルも乗って来ましたね。敬虔なる信徒に、そこま
で頼まれては是非もありません。ポーションの空き瓶か何かで結構
178
ですので、お水を汲んで来ていただけますか、ダッシュでお願いし
ます﹂
人使いが荒いシスターだなと思いながら、新アイテムには興味が
あったのでポーションの空き瓶十本ほどに水を汲んで戻ってくる。
﹁これでよろしいですか﹂
﹁十本もですか⋮⋮まあ、いいでしょう。初回サービス特典として
おきましょう﹂
なんか、軽いシステムだなアーサマ教会。
﹁創聖女神アーサマの忠誠なる信徒ステリアーナが祈り奉ります。
その聖なる秩序の輝きの一端をここに指し示し、アーサマの慈悲深
き恩恵をお与えください!﹂
ポーションの空き瓶とアンクを重ねて、シスターリアが祈ると、
中の水がふわっと白銀に光り輝いた。
﹁おおー﹂
﹁まあ、このお祈りは特に創るのには必要ないんで以下省略﹂
だったら言うなよ。
最初の長ったらしいセリフは一回だけで、あとはポコポコと白銀
をアンクで水に光を与えた。
どうも、あのアンクが聖水製造の媒介アイテムっぽいな。
﹁えっと、聖水が九本に霊水が一本出来上がりました﹂
﹁すごいですね﹂
179
俺は魔法が使えないので、その能力は凄いと思う。
⋮⋮性格はともかくとして。いや、性格も凄いけどこの人。
﹁えへっ、神聖錬金術は得意なんです。もっと褒めてかまいません
よ。ちなみに聖水は、アイテムに振りかけると呪いを解いたり、事
前にかけて呪いの予防ができます。アンデッド系にかけて攻撃する
なんてこともできます﹂
リアは、白っぽい水の瓶を指して親切に説明してくれる。
最初からこういう普通のサービスをしてくれるなら、こっちも嬉
しかったのだが。
﹁ちょっとやってみましょうか。何かお手元で、普段使ってるアイ
テムはありませんか?﹂
﹁えっと、これなんかはどうですか﹂
便利に使っているマジックアイテム﹃火球の杖﹄をテーブルにお
いた。
そこにリアは、さっと聖水を一本降りかける。
﹁これで﹃聖なる火球の杖﹄になりました。アーサマの加護がかか
って、燃費が心持ち良くなるのと。呪いが掛かり難くなるはずです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
続いて、白銀色に輝く水の瓶を指して説明してくれる。
エリクサー
﹁この霊水は、そのまま飲んでも滋養強壮、状態異常の回復に効果
があります。回復ポーションと合成して霊薬を作るのがポピュラー
な使い方ではないでしょうか﹂
﹁ふむ、勉強になります﹂
180
確か回復ポーションの上位互換みたいなのにエリクサーってのが
あったけど、そうやって作るのか。
やっぱ回復系は、神聖魔法が絡んでるんだな。
﹁今回は本当に特別なんで、他所でシスターに聖水作ってもらった
とか言わないでくださいね。本来なら教会に来てもらって、それな
りのご寄進と共に交換するものなんです﹂
﹁それはどうも、ありがとうございます﹂
なんだか思ったんだけど、この人はシスターというより商売人み
たいだな。
その点は、ちょっとシンパシーを感じる。
伝道修道女というと、教えを伝え歩いてる感じだから、自然と行
商に近くなるのかもしれない。
さっきの寄付を求めるやり方も堂々たるものだったからな。
﹁あと、わたくしの顔を見たってことも内緒にしておいたほうが良
いですよ。タケルがわたくしのファンに恨まれてしまっては大変で
す﹂
﹁そうですか﹂
﹁恨まれて呪いをかけられても、聖水が守ってくれますけどね﹂
﹁⋮⋮﹂
上手いけど、誰が上手いことを言えと言った。
﹁なんだったら今から教会にご案内してもよろしいんですよ。是非
もありませんよね﹂
﹁今は店番がありますので、すいません﹂
181
聖水はありがたかったから、もういい加減帰ろう。
﹁やっぱり、フードだけでなくローブも脱いで見せたほうがよかっ
たのでしょうか﹂
﹁いや、それはもう十分ですので﹂
﹁タケルは男の子だから、そっちのサービスをお望みでしたか?﹂
﹁いや、もう本当に結構なんで⋮⋮﹂
頼むからもう帰ってくれ!
結局、シャロンが店に戻ってきて追い払ってくれるまで、シスタ
ーリアがこの調子で居座って商売にならなかった。
一言で店番といっても、苦労してるんだなと改めてシャロンの偉
大さを噛み締める一日だった。
182
15.書記官の責務
ある日のこと、ライル先生から折り入って相談があると部屋に呼
ばれた。
俺が建てた商会とはいえ、ライル先生の個室に入るのは初めてだ
ったのでちょっとドキドキしてしまう。
小さい部屋の棚には本がズラリと並んでいるし、机には所狭しと
書類束が溢れているので、ちょっと座る場所にも困る感じで、二人
フェロモン
でベッドに並んで座る感じになった。
それにしても。
ライル先生からイイ女特有の凄く良い匂いが香るのは、どうして
なのだ。
茶髪の短髪で、ぴっちり黒い官服に身を包んでいても、やっぱり
ライル先生の美しい横顔は成熟した女性にしか見えない。
﹁なんですか、先生が俺に相談って珍しいですね﹂
逆はよくあるけど、本当に珍しいよね。
はっ、もしかしたらついに来ちゃったかこれ!
性別の秘密をついに、打ち明けてくれる的な展開じゃないか!?
﹁ええ、私が勝手にできることではないので、相談なんです﹂
﹁はい!﹂
いつの間にか、ライル先生とのフラグが立ってルートに入ってた
のか。
いいんですよ、男の娘でも、女の娘でも、俺はどっちでも大好物
183
です!
受け入れる準備はできてます、待ちきれなかったぐらいです!
﹁鉄砲と大砲を国に販売してみませんか。もし良ければ、書記官と
して私がこれまでの経緯の報告と共に、購入配備計画を提案してみ
ます﹂
﹁えっ、それは⋮⋮﹂
なんだ、性別の告白じゃないのか。
﹁儲かりますよ、武器商人﹂
﹁うーん﹂
お金は欲しいから、武器の販売は俺も考えたんだけどね。
それってちょっとマズイんじゃないかと思うんだよ。
﹁タケル殿のご懸念は、重々承知しているつもりです。人間同士の
戦争に使われるのを恐れているんですよね﹂
﹁そうです、それがあるんですよね﹂
さすがライル先生だな。
俺が思ってることは、全部お見通しらしい。
﹁しかし、しかしですよ。﹃魔素の瘴穴﹄から発生したモンスター
で、いま王領は大変なことになっているんです。辛うじて守られて
いるのは王都周辺と街道沿いだけで、東側の村や街は騎士団・兵団
の奮闘も及ばず、壊滅的な打撃を受けてしまっています﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁まあ最後まで聞いてください、もし魔法を持たない人たちでも鉄
砲と大砲で自衛できていたら、そんなことにはならないはずなんで
184
す﹂
﹁先生の言うこともわかりますよ﹂
﹁いえ、タケル殿はわかってないです。こんなに奴隷が増えて、鉱
山にやたらめったら子供が送られて行っているのも、王都に難民が
大量流入してるからなんです﹂
なるほど、そういう事情があったのか。
そこまでは考えてなかった。
﹁タケル殿は、奴隷にも優しいですよね。モンスターに襲われて生
活の基盤を失ったオナ村の人達にも、自衛の手段と新しい仕事を与
えている。素晴らしいことです、私もお手伝いできて心から誇らし
いですよ﹂
﹁まあ、それほどでもないですけど﹂
奴隷や村人を使役しているのは、あくまで自分の儲けのためだ。
善行をしようとしてしてるわけじゃないので、褒められると恥ず
かしい。
﹁でも、本来ならそれは国がすべきことなんです。私が提案なんて
しなくても、復興したオナ村の評判を聞けば、すぐに王都から問い
合わせがあって、新兵器を買って使いたいって打診があるとばかり
思っていました﹂
なるほど、先生はそんなことを考えていたのか。
だから熱心に鉄砲と大砲を製造して、ノウハウを研究してたんだ
な。
どう違うのか知らないけど、鉄製だけじゃなくて青銅製の大砲も
作って、弾もいろんな材質を試してたものね。
185
村一つ守るだけで、なんでそこまで頑張ってるのかと疑問には思
ってたよ。
﹁でも、国からは、鉄砲や大砲を買いたいって打診はなかったんで
すよね﹂
﹁そうなんです。ですから、こっちから提案することを許可してい
ただきたい﹂
大恩ある先生に、お願いしますと頭を下げられてしまっては、俺
も嫌とは言いにくいんだよなあ。
渋ってる俺をさらに、先生は口説く。
﹁難民が生まれる根本原因を除かなければ、奴隷に落ちる人は減り
ません。人間同士の戦争に使われないとは保証できませんが、シレ
ジエ王国に危機を乗り越えるチャンスを与えてくれませんか⋮⋮﹂
﹁あーわかりました、ライル先生の思う通りにしてください﹂
﹁ありがとう、一生恩に着ます﹂
ライル先生の柔らかい華奢な手のひらが、俺の手の上に乗せられ
た。
まだ弓と剣で戦ってる国に、銃と大砲を与える。
本当ならマズイ決断なのかもしれない。
しかし、ライル先生に助けられなければ俺はたぶん生きてはいら
れなかった。
先生の暖かい手を俺も握り返す。
一生の恩に着ているのは、こっちのほうなのだ。
近代戦争の歴史を知っている俺でも、この﹃魔素の瘴穴﹄からモ
ンスターが湧きまくって人が襲われて、荒野が広がってるとんでも
186
ない世界で、どのように兵器が使われるようになるのかは全く予想
がつかない。
もしかしたら上手く自衛的な手段として使われるだけなのかもし
れないし、取り返しの付かない戦争を招く恐れもある。
考えても分からない問題だから、先のことなんて考えてもしょう
がないか。
俺は自分と、周りの人間が生きていける道を選び続けるしかない
のだ。
※※※
シリアスなことばかり考えてたら、自然と食堂に足が向いた。
﹁あっ、ご主人様。何かお作りしましょうか﹂
食堂に居るのは、ブラウンの瞳に髪をした少女、元パン屋のコレ
ットである。
食べ物に関する興味が深い彼女が、何となく食堂で調理担当にな
っている。
調理の他に、食材の調達。さらにそのついでに、エストの街の周
辺の村々の酪農家を周り、口下手なロールにかわって硝石の材料に
適した土を貰う交渉に当たったりもしている。
ロールには負けるが、この娘も割と働き者だ。
﹁いや、今日は俺が作ろうと思うんだが⋮⋮﹂
﹁では、お手伝いします﹂
それが当然とばかりに、エプロンドレスをつけた彼女はかまどに
火をおこし、調理道具を持ってきてスタンバイした。
187
﹁じゃあ、手伝ってもらうか﹂
﹁ご主人様のお作りになる料理は興味深いので、ぜひ勉強させてく
ださい﹂
最近は、だいぶ暇になったので現代にあった料理の再現に着手し
ている。
普通に俺が食いたいし、手軽で珍しい料理が出来ればお店の売り
物にもなるかもしれない。
﹁生クリームを泡立ててくれ﹂
﹁はい⋮⋮この間作ったのと同じのでよろしいのですね﹂
生クリームやバターは牛乳から脂肪分が浮いたものだ。
うちの食堂には冷蔵庫があるので︵ライル先生が魔法で氷を作っ
て冷やしている︶そこで一日置いた上澄みを使っている。
﹁うん、俺はクレープを焼くから﹂
俺が小麦粉に牛乳と卵に砂糖を溶いてクレープ生地を作る。
﹁小麦粉で焼くガレットのようなものなのですね﹂
コレットが言う、ガレットというのはこの国の庶民料理でそば粉
を薄く焼いたものだ。
素朴な味がして俺は割と好きだが、お菓子として食べるものでは
ない。
たしか、クレープはフランス料理だったはずなので、探せばこの
国のどこかでも作ってるかもしれない。
だが、エストの街では見かけないし、生クリームを挟むクレープ
188
を作ったのは確か日本だったので、おそらくどこにも存在しないだ
ろう。
俺は手早く焼いたクレープに、生クリームを挟んで一口食べてみ
た。
﹁美味しいけど、ちょっと甘味がまだ足りないかも﹂
俺にとっては、懐かしい故郷の味だ。
ジッーと、こっちの方をコレットが物欲しそうな顔で見つめてい
るので、すぐにもう一枚焼く。
甘味を加えようとおもって、砂糖に漬けた桃があったので生クリ
ームと共に挟んでみた。
桃をくるんだんだクレープを、コレットに差し出す。
一口食べて、コレットは茶色い瞳をキラキラ輝かせた。
すごい笑顔。
﹁おいふぃい⋮⋮です﹂
﹁そうか﹂
子供は美味しいものを食べさせた反応が、素直で見てて気持ちが
良い。
俺は一人っ子だが、妹がいたらこんな感じだったのかもしれない。
何だか、見てるだけでこっちも笑顔になってしまう。
﹁ご主人様、これほっぺたが落ちそうです。生まれて初めてです、
お店に出したら絶対売れると思います!﹂
﹁それはいいな、どんどん焼いてロールたちにも食べさせてみるか﹂
他にもナッツを挟んだり、シナモンをかけたり、ミルクレープケ
189
ーキにしてみたり様々な食感が楽しめるように加工して、夕食のお
やつに出したらすこぶる好評だった。
生クリームの大量生産はまだ難しいが、なにもクレープに挟むの
は生クリームじゃないといけないってわけじゃない。
甘味なら、ちょっと高めだが砂糖漬けのフルーツはあるし、生ク
リームの代わりに卵白からメレンゲを作って使ってもいい。
塩味のクレープ生地に、ハムやチーズを挟んでサンドイッチみた
いにして食べるってやり方もありだ。
そういやサンドイッチもこの国にはまだないらしいから、ハンバ
ーガーを作ってみるのもいいな。
商会には屋台をやりたいって言ってる娘もいるので、そういう食
べ歩きできる料理をどんどん教えて街で売れば、エストの街から立
ち食い文化が生まれるかもしれない。
商品としてさほど大きな利益は生まないが、料理は人が生きる糧
だ。
ただ銃や大砲を広めるよりは、よっぽど良い影響を残していける
と思うんだよな。
※※※
綺麗な王国の押印が入った手紙を持って、ライル先生が俺の部屋
に入ってきた。
﹁失礼します!﹂
﹁あ、どうしたんですか﹂
礼儀正しい先生が、ノックもしないで入ってくるなんて珍しい。
いつも日焼け一つ無い、真っ白い肌をしているライル先生だが、
今日は白いを通り越して蒼白な顔色だった。
190
あまり良い知らせではないなと思う。
﹁シレジエ王国からです。鉄砲と大砲の配備提案が、退けられまし
た⋮⋮﹂
﹁あー、ダメだったんですね﹂
悔しそうなライル先生には悪いが、ちょっとホッとしてしまう。
あまりにも世界にコントロール不能な激変を与えるのは、怖いと
思っていたから。
﹁それとは別に王都から、私とタケル殿に緊急の召喚命令が来てい
ます。どうか、私と一緒に王都まで来ていただけませんか。今すぐ
に!﹂
なんで、鉄砲と大砲の提案を退けたのに、俺たちが王都に呼ばれ
るんだ。
あまりに唐突な召喚命令とやらに、俺はちょっと悪い予感がした。
杞憂ならいいんだけど⋮⋮。
191
16.悲惨なる王都シレジエ
シレジエ王国の王都に遠路はるばる招待されて、レッドカーペッ
トを歩いて国王陛下に謁見とかになると想像していたのだが。
シレジエの城につくと、すぐ小さな別室に通されて宰相とか言う
爺さんと、近衛騎士団長とか言うオジサンと話をすることになった。
あれだな、俺ぐらいの身分の者が国王と直々に会話するとか、や
っぱありえないわけか。
現実問題としてよくわかってたけど、ちょっと期待してたからが
っかりだな。
それとも俺が、未だに自分が異世界勇者じゃないかなんて幻想に
囚われてしまってるのが悪いのかなあ。
﹁王国宰相、ローグ・ソリティアだ﹂
絹に金糸の刺繍が縫い込まれた豪奢な紫色の礼服に身を包んだ白
い髭の爺さんが、俺たちに仰々しく挨拶する。
そして、神経質そうな顔でチラッと隣の鋼鉄の鎧に黒いマントを
着た、これまた黒々とした髭面の厳ついおっさんに視線を送る。
﹁近衛騎士団長、﹃魔素の瘴穴﹄討伐軍司令、ゲイル・ドット・ザ
ウス将軍だ﹂
椅子に座ってるのに、器用に胸を反り返らせて見せる偉そうなお
っさん。
あれ、これどっちが偉いんだろ。宰相と将軍ってのは。
192
普通に考えたら、宰相だよな。
でもローグ宰相は名前が二つで平民、ゲイル将軍は名前が三つだ
から貴族。
でもでも、伯爵が国家の官吏と貴族は、同格だって言ってたよな。
﹁今日は、アルマール家の騎士サワタリ・タケル殿に特別な用件が
あって呼び出したのだ⋮⋮﹂
そんな風に俺が二人の偉いさんの顔色をチラチラうかがってたら、
宰相の爺さんが話しだした。
宰相のほうが会話を主導してるから、おそらくこっちが偉いんだ
な。
媚びる相手を間違えると大変だからね。
古臭い国を相手にするのに、序列ってのは大事だ。
﹁⋮⋮﹃魔素の瘴穴﹄対策に王国が手を焼いているのはその方も知
っておろう。ラエルティオス書記官の報告によれば、貴君が軍を率
いエスト伯領に襲いかかるモンスターを討伐して防衛しているのだ
とか﹂
ローグ宰相は、静かな声で俺に語りかけてくる。
思わず傾聴してしまう威厳があるのは、さすが一国の宰相といえ
た。
﹁その力を、ぜひ我々にも貸していただきたい。いま王領では、こ
のゲイル将軍が指揮官として、王都の東側から瘴穴に向けて軍を押
し進めているところだが、ぜひ騎士タケル殿の軍も助力して、モン
スターどもを東側へと追い払って欲しいのだ﹂
193
そこで、ローグ宰相はチラッとまたゲイル将軍の方に視線を送っ
た。
ゲイルは何が楽しいのかニヤニヤと笑っていたが、自分の番かと
口を開く。
﹁騎士タケル、お前はあのモンスターが根城にしていたイヌワシ盗
賊団の砦を落としたそうだなぁ。あそこは、街道を防衛する騎士団
も落とせずに困っていた拠点だ﹂
伯爵経由で聞いた情報だろうか?
さすが騎士団長だか、将軍だか知らないが、良く戦況を把握して
る。
﹁使ってる兵士は、なんか奴隷や村人を徴用した雑兵だって聞くが。
こっちは猫の手も借りたいぐらいなんで贅沢はいえん。適当に手伝
ってくれりゃあいい﹂
なんで手伝うこと前提に話が進んでるんだよ。まだお願いされた
だけで、うんとは言ってないぞ。
なんかこのゲイル将軍って無駄に偉そうで好きになれない。
話を聞いてたら、自分たちはあんな砦一つ落とせないのに、こっ
ちを雑兵呼ばわりとか失礼じゃないかな。
さすがに温厚な俺でも、ちょっとムッとするぞ。
﹁お待ち下さい宰相閣下!﹂
俺と一緒に表面上は黙って聞いていた、ライル先生が大きな声を
上げた。
194
﹁報告書に詳しくしたためたはずです。タケル殿がモンスターを圧
倒しているのは、鉄砲と大砲の力が大きいと。王領でも今一度、新
兵器の採用のご検討を﹂
﹁それは却下したはずだ﹂
ローグ宰相はすげなく答える。
﹁しかし、あれさえ使えば戦況は⋮⋮﹂
﹁くどい! 今はその方に意見を求めてはいない。一介の書記官風
情が、宰相の決定に意見するなどと不遜も甚だしい﹂
いたけだか
うわー、居丈高だな。
でもまあ、宰相ってたしか総理大臣みたいなもんだろ。
俺だって、ひれ伏しちゃうよこれ。
﹁これは対﹃魔素の瘴穴﹄の話し合いでありましょう、不遜は承知
で、国民を守るため、瘴穴を抑えるために、大砲は有用な武器にな
ると小官は申し上げておるのです!﹂
しかし、ライル先生は引かずに反論する。
優しそうに見えて、言う時は言うんだよな、うちの先生は。
﹁ふんっ、七光りの小僧が⋮⋮、親が多少偉いからといって、どこ
まで思い上がっておるか!﹂
ぐぬぬ⋮⋮と、先生が押し黙った。
すごく悔しそうだ。
分かるよ、親の話とか出されるとキツいよね、これは宰相が酷い。
親は関係ないよね!
195
そこに横から、ゲイル将軍が口を挟んだ。
﹁あれだろ、書記官。俺もお前さんの報告書は読んだけどよ、鉄砲
と大砲ってのは、弓や大規模魔法とそう変わらないんじゃないか﹂
﹁将軍、実際に使っていただければ、有効性は理解していただける
と思います﹂
諦めの悪いライル先生は、将軍にまで縋りつくが⋮⋮。
﹁検討はしたけどよ、弱点が大きすぎる。雨で火縄が濡れただけで
撃てなくなる。水浸しになれば、火薬自体も使えなくなるんだろ﹂
﹁そこは、工夫して運用すればいいのです。幸いシレジエは雨の少
ない国ですので、運用の妨げにはなりにくく﹂
将軍は、ふんぞり返るとライル先生の懇願を鼻で笑った。
﹁だから戦を知らない文官は甘いんだよ、大砲だの鉄砲だの戦陣に
並べても、上級魔術師が洪水で押し流せば一発だよな﹂
﹁相手はモンスターです、なんで上級魔術師が出てくるんですか﹂
鋭い視線で疑問を呈する先生に、将軍は不敵な笑みで答えた。
﹁戦場では何が起こるかわからんさ、水魔法を使えるモンスターだ
っているだろ。致命的な欠陥がある武器を、わざわざ高い金だして
並べる必要はない。現場の総合的判断ってやつだな﹂
﹁将軍、せめて一つでも二つでも試しに、使ってさえいただければ
!﹂
なぶ
先生粘る、気持ちは分かるけど。
こいつはたぶん、先生を嬲ってるだけだよ。
196
﹁おい書記官よ、考えてもみろよ。誇り高い騎士が、こんな武器使
うわけ無いだろ﹂
﹁下卒か、雑兵にでも使わせればいいではありませんか﹂
﹁戦闘を指揮をするのは騎士だ。爆発する火薬だかなんだか、鉱山
技師の連中は、そんなもんを嬉々として使ってるらしいけどよぉ。
そんなわけのわからん武器を作られても、それに戦場で命を賭ける
兵士は、この国には存在しない﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁フハハッ、お前も本当は分かってんだろ、騎士にこんなオモチャ
を使えと命じたって無理なことぐらい﹂
ゲイル将軍はそう言って、先生をもう一度大きく嘲笑った。
何だか不愉快な会合だなこれ。
先生は﹁これ以上、無駄な口を叩くなら退出させる﹂とまで宰相
に言われて黙らされてしまった。
じゃあ、何のために呼びつけたんだよ。
先生を笑いものにするためか。
こいつら、国の偉いさんか知らないけど。
さすがに、もう黙ってられなかった。
﹁宰相、俺も一ついいですか!﹂
﹁うむ。その方に、こちらが協力をお願いする立場なのだ。何かあ
るなら伺おう﹂
197
﹁もし俺が、鉄砲と大砲を使って﹃魔素の瘴穴﹄の封印に成功した
らどうします?﹂
ゲイル将軍が、こらえきれないとばかりに噴きだした。
﹁フハハハッ、そりゃ、救国の英雄だわなぁ!﹂
腹を抱えて椅子から転げ落ちそうになってるゲイル将軍を、真顔
を崩さないローグ宰相がたしなめた。
﹁将軍、真面目な話をしているのだ﹂
﹁へいへい、すいませんねぇ。あんまり面白い笑い話だったもんで﹂
ローグ宰相が、将軍を睨みつけるとゴホンと咳き込んで続けた。
﹁瘴穴の封印、その可能性には、ぜひ期待したいところだ。騎士タ
ケル、その方のところにも、瘴穴を封印できるだけの力を持った聖
職者を派遣するようアーサマ教会に依頼しておこう。封印に至らず
とも、王領での活躍に応じて相応の報酬を払うので安心して欲しい﹂
宰相の方は、頭が硬いだけで話せば分かりそうな印象だな。
ひとつ言質を取っておくか。
﹁宰相、私がお聞きしたいのは、鉄砲と大砲の有効性をこの戦いで
示せば、ライル書記官に謝罪していただけるかということです﹂
﹁私は、この国の宰相として正しい判断を下していると考えている。
だが、その方が瘴穴を封印して、国を救うことが出来れば⋮⋮。こ
の年寄りの頭ひとつ、地べたに貼り付けようが、切り落とそうが貴
官の想いのままにしてくれてかまわん﹂
198
すました顔で、そこまで言ってのける宰相。
ほー、覚悟がいいことで。どうせできないと思ってるんだろう。
将軍や宰相が、この国でどんだけ偉いか知らないが、俺の大事な
先生に恥をかかせた罪は、償わせてやりたい。
いや、俺も出来るなんて目算は全くないんだけどさ。
俺は討伐に参加する話を引き受けることにした。
※※※
﹁あー待て待て、騎士タケル﹂
﹁⋮⋮なんでしょう、将軍﹂
ようやくつまらん話し合いも終わりかと思ったら、ゲイル将軍に
呼び止められてしまった。
あんまり、こいつと話したくないんだけど。
将軍ってやつも、それなりに偉いみたいだからまあ仕方がない。
﹁ルイーズは元気か﹂
﹁ゲッ、なんでゲイル将軍がルイーズのことを?﹂
こっちのことをそこまで詳しく調べているんだろうか。
なんか薄気味悪いやつだ。
﹁グフフフッ、俺様はルイーズの奴のことならなんでも知ってるさ。
いまでこそ冒険者にまで落ちぶれたようだが、ルイーズ・カールソ
ンとはかつて同僚として騎士団長の座を争ったぐらいの因縁浅から
ぬ仲だからな﹂
﹁ええっ、そんなことがあったんですか。というか、ルイーズって
王国の騎士だったんですか﹂
199
﹁なんだ、そこまで知らぬのか⋮⋮まあ、田舎の馬の骨が知らんの
も無理はないか。カールソン家と言えば、代々偉大な軍人を生み出
ばんけん
しているシレジエの名門だぞ。俺様なんぞより、よっぽど血筋は良
かった。しかも、あの若さで得物を選ばぬ奮迅ぶりだ。﹃万剣のル
イーズ﹄と言えば、王都中に鳴り響いた騎士の鏡であった﹂
﹁へえ、そこまでだったんですか﹂
あのルイーズが鋼鉄製のプレートメイル着て馬上にいるとか、想
像してみるとカッコイイな。
ここで、ゲイル将軍は、さも愉快とばかりに、ニヤッと嘲笑の笑
みを浮かべた。
﹁だが、しかぁーしー、とある失態から、あの女は騎士団を追われ
るハメになったのだ﹂
﹁⋮⋮何があったんですか﹂
芝居がかった仕草で、口ひげを指でさすりながらニヤニヤとこっ
ちを見てくる。
ほんとなんか気分悪い男だな。
﹁フハハハッ、ルイーズの奴め。家系の恥になるから、仲間にも隠
していたのであろう。ならばこの俺様が、その方に奴の恥を洗いざ
らい教えてやるのも、やぶさかではない﹂
﹁そうですか﹂
このゲイルって髭面、結構な性格してるなあ。
ちょっとルイーズには悪い気はするけど、気になるからそのまま
聞いてしまおう。
200
﹁あの愚かな女は、有能との評判に、高い家柄もあいまって、騎士
団参事にまで上り詰めたのに、あるヘマをやらかして、カールソン
家からは勘当され、近衛騎士団を止めざる得なかったのだぁー﹂
﹁だから、そのヘマってのは何なんですか﹂
いい加減、ウザいぞ将軍。
話を溜め過ぎなんだよ、早く答えを言え。
﹁良かろう教えてやろう、他ならぬ﹃魔素の瘴穴﹄の封印に大失敗
したのだよ、あいつが指揮して率いた騎士団の討伐隊が、愚かなる
女の愚かなる失敗により全滅してしまったのだ﹂
﹁それってルイーズのせいなんですか﹂
俺がそう言うと、髭面のオヤジはまたニヤッと笑いやがった。
﹁もちろんそうだ。奴の大失態のおかげで、俺様も騎士団の連中も
いまだに迷惑しておる。全滅だぞ、全滅! 本当によく、オメオメ
と一人で生き残っていられるものだ。騎士といっても女の身では、
生き恥も感じぬものかなぁ﹂
﹁うーむ⋮⋮﹂
詳しい事情は知らないが、失態と取られるような敗北があったの
は事実なのだろう。
それで、ルイーズは﹃魔素の瘴穴﹄に近づくなとずっと言ってた
のか。
王都行きに彼女を誘っても、頑なに来なかった理由も大体わかっ
てしまった。
﹁騎士タケル、お前はさほど強そうでもない文官上がりだ。どうせ、
ルイーズのやつが黒幕になって戦闘を主導しているのであろう。騎
201
士団を追われたというのに、未だに諦めないのは見上げた根性だと
褒めてやっても良いがなぁ﹂
﹁まあ、そう言われればそうですかね﹂
強そうではないとは心外だが、事実の部分があるからしょうがな
い。
ルイーズのほうが、俺より戦闘力が格段に上なのは本当だからな。
﹁フンッ、俺様が近衛騎士団長となり討伐将軍となった今では、冒
険者風情に落ちぶれた奴など虫けらのようなものだが。せいぜい地
方で這いつくばって頑張るがいいと伝えてくれ。ノコノコと王都に
来て、昔の仲間に笑われないだけの羞恥心はあるようだからなぁ。
フハハハハハハッ!﹂
勝手に話したいことだけ話して笑いながら行ってしまった。
うわーもう本当に性格悪いやつだな。
典型的な悪役タイプだな、ああいうの。
後ろから撃たれて死ねばいいのに。
※※※
王都の街は首都だけあって、城壁や城だけはやたら立派と言える
が、街の大通りからちょっと脇道に入ると、乞食と難民が溢れて悲
惨なことになっている。
犯罪が横行し、襲われて行き倒れになっている人もたくさんみた。
おそらくモンスターとの戦闘に多くの衛兵が割かれて、王都の治
安を守る衛兵の数が足りてないのだ。
力尽きて亡くなったのか、死体が転がっていても誰も片付けよう
202
ともしない。修羅の国かここは。
早く平和なエスト伯領に戻りたい。
伯爵に評判を聞いた、貴族御用達の王都のおしゃれなカフェの店
にも行く気がなくなった。
こんな状態になってる街を見ながら、のんびりカフェできる貴族
ってのがいるとすれば頭がおかしい。
ルイーズじゃなくても、こんな街に来たくないという気持ちはわ
かる。
とりあえず幌馬車にタップリと積んだ石鹸を、相場を調べて出来
る限りの高値で全部売り払った。
シレジエの街にはもう商売に来ることもないだろうから、適正価
格とか知ったこっちゃない。
ただ王都だから、品数は豊富だっていうのはある。
金貨はたくさんもってきた、解毒や回復ポーションや貴重な霊薬
の類をここぞとばかりに買い占めておく。
この街がどうなろうと知ったこっちゃないので無茶苦茶できる。
ここに来る商人はみんなそう思っているのか、市場の相場は本当
にひどい状態だった。
治安とモラルが崩壊した街だ。
﹁タケル殿、申し訳ありません。あんなことになってしまって⋮⋮﹂
王城での話題はもう避けようと思っていたのだが。
ライル先生の紹介で、王都で一番老舗だと言う隠れた名店に入っ
て買い物をしている時に、不意に謝られてしまった。
先生、そんな悲しそうな顔しないでください。
203
﹁先生が悪いんじゃありませんよ、ほらマジックアイテムもたくさ
んありますよ。これからの戦争に備えて魔宝石も買っておいたらど
うですか﹂
﹁いえ、もう結構です。それよりタケル殿の防具を買ったらどうで
かたびら
すか、攻撃力は十分ですが防御力も上げるべきだと思いますよ﹂
﹁先生のオススメはどれですかね﹂
﹁かなり値は張りますが、ミスリルの帷子を買ったらどうですかね﹂
値はシレジエ白金貨、百枚⋮⋮。
うわ、金貨じゃなくて、本当に白金貨を百枚か!
思わず冗談だろと思うような値段がついてる。
日本円に直すと。一千万円ぐらいになるんじゃないかこれ。
ガラスケースから出したくないと渋る店主に、なんとか頼み込ん
かたびら
で着せてもらうと、しなやかな肌触りはまるで絹のようで、金属の
ミスリル
帷子とはおもえないほどに軽かった。
ヤバイな、さすが魔法の金属。
﹁凄いでしょう。値段もですが、効果も凄いんですよ。魔法がかか
った伝説の希少金属ですからね、ドラゴンのブレスや牙にも耐えう
ると言われています。王都にもこれ以上の品はありません﹂
﹁瘴穴に挑むなら、これぐらいの装備が必要だってことなんですか
ね﹂
ライル先生は少し寂しそうな顔でこくりと頷いた。
じゃあ買いだな。
これまでの店の売上から何から洗いざらい吹き飛んでしまうが、
先生の意見はこれまで間違ったことはない。
204
強力な防具なら俺じゃなくて、ルイーズに装備してもらうって使
い方もできる。
若い俺たちを見て、本当に買えるのかと疑いの目で見ていた店主
の前に、白金貨をキッチリ百枚並べてやると、眼の色を変えて驚愕
のまま表情が硬直したのが面白かった。
高い買い物ってストレス解消になるよね。
﹁ありがとうございました!﹂
途端に愛想が良くなった店主に見送られて店を出ると、店が臨時
休業になってしまったので俺と先生は顔を見合わせて笑ってしまっ
た。
きっと白金貨の袋を銀行かどこかに預けに行ったのだろう、なん
か気持ちはわかる。
その他、俺たちは細々とした買い物を済ませて、足早に悲惨な王
都を後にした。
買い物が済めば、こんないけ好かない首都に用はない。
何はともあれシレジエ王国から正式に依頼を受けてしまったので。
いよいよ、これから﹃魔素の瘴穴﹄攻略が始まる。
この戦いに生き残ることができるかと考えたら、不安になってき
た。
205
17.義勇兵を集めよう
まそのしょうけつ
﹁タケル殿ぉー、ついに⋮⋮ついに魔素の瘴穴討伐を決意されたの
ですな⋮⋮﹂
ようやく陰惨な王都から返って来て、ダナバーン伯爵の城に挨拶
しに言ったらこれだよ。
王都からどんな早馬が来てたのか知らないけど、もうシリアスシ
ーンは済んだんだよ伯爵。
ワシ感激! みたいな勢いで、両手で力強く握手とかいらないか
らね。
﹁まあ、とりあえず封印を目指す方向で動いちゃおうかなーなんて
思ってますが﹂
正直なところ、王都からの帰り道の間にだんだん不安になってき
たのだ。
そりゃこっちには、鉄砲も大砲もあるよ。
しかし、巨大ドラゴンとか出てきた日には、どうしたら良いんだ。
先が見えないってのは、やっぱ怖い。
﹁さすが誇り高き騎士タケル殿だ、英雄的事業を前にして、まった
く気負いというものがありませんな!﹂
﹁ハハ⋮⋮﹂
いい顔して、何を言ってるんだ伯爵。
もうそういうの似合わないから、無駄に褒めてもなんにも出ない
し。
206
むしろ、コーヒーを出してくれよ。
そんなすぐ戦争に行くつもりないし、まったり商売の話でもしよ
うぜ。
﹁タケル殿が討伐に起たれると聞いて、ワシも覚悟を決めました!﹂
﹁えっ?﹂
なんだ⋮⋮もしかして、一緒に戦うとか言い出すのか?
どこの馬の骨とも知れんとか、王都で散々悪口吐かれた俺に、領
地の軍事を任せっきりで城に篭ってコーヒー飲みながら、赤いエプ
ロンドレス着せたメイドと、日がな一日イチャイチャしてるだけの
伯爵が⋮⋮ついに起つのか。
﹁我がエスト伯領全土に触れを出しましょうぞ!﹂
﹁おっ、おお⋮⋮﹂
これは本気だ、伯爵自ら動くとは、雷が落ちてドラゴンも死ぬか
もしれん。
シュバリエ
﹁我が誇り高きアルマーク家の騎士、エスト伯領討伐将軍サワタリ・
タケルが義勇兵を募集しているとぉぉお!﹂
﹁ええっ∼﹂
なんだ、そりゃ。ついに伯領が自ら軍を率いて戦うのかと思った
のに。
さっきのシリアスな決意は何だったんだよ。
﹁タケル殿。ワシは何かマズイことを言いましたかな?﹂
﹁いやあ、なんかたいへん伯爵らしいなと﹂
207
俺が乾いた笑いを浮かべて話に乗ってこないからか、伯爵は頭か
らハテナマークをだしている。
義勇兵を募集します︵しかも俺の名義︶から、戦ってきてくださ
いってのが、伯爵の最大の﹁覚悟﹂だったのね。
まあ、こういう人だよなあ。
平和的でいいんじゃないかな、王都のあのクソみたいな連中に比
べたら、戦力を集めようとしてくれる伯爵の方が、百倍もいい人で
すよ。
﹁もちろん、募兵費用はワシが出しますぞ。金貨三百、いやあ五百
枚!﹂
﹁おおー、それは本当にありがたいです﹂
かたびら
無理して﹃ミスリルの帷子﹄とか買っちゃったから、また金欠気
味だったんだ。
王都の宰相とか言うシミッタレに比べて、先払いってのが嬉しい。
太っ腹の伯爵は、俺が喜んでるのを見て嬉しそうに人の良い笑み
を浮かべた。
﹁兵には物資も必要ですからな、兵士の着る服とか糧食の補給も、
全部ワシに任せてくだされ!﹂
﹁伯爵閣下、ほんとに感謝です!﹂
ちょっと心のなかで小馬鹿にして、本当に申し訳なかった。
世の中で誰が一番尊いって、金と物をくれる人だ。
﹁軍のバックアップはワシにお任せくだされ、タケル殿は心置きな
く瘴穴に群がる邪悪な化物どもをバッタバッタとなぎ倒して、千切
っては投げ、掴んでは叩きつけぇ、ボッコボコのギッタギタのケチ
208
ョンケチョンのバッタバッタのぉぉ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
なんか、伯爵が一人で興奮してヒートアップしてるので放って置
くことにした。
俺はこの世界の人間じゃないから分からないけど、﹃魔素の瘴穴﹄
討伐ってのは、そんなに心躍る事業なのかね。
エスト領も田舎だし、他に大きなイベントとかないからなのかな
あ。
﹁⋮⋮ハァハァ、他に何かワシにできることは何なりとぉー﹂
﹁では、伯爵。コーヒーを所望いたします﹂
瘴穴は逃げないし、血管切れて倒れるまえに一息いれて休もう伯
爵。
よく聞いてたら、バッタバッタを二回言ってたからね。
※※※
さわたりしょうかい
伯爵の方はいいとして、エストの街の商館に、佐渡商会全社員を
集めて説明会を開くことにした。
ライル先生、ルイーズ、合計二十六人の奴隷少女、そしてなぜか
呼んでないのにオナ村からやってきてしまったオナ村自警団の二十
人。
ちょっと待て。
自警団の後ろから、村人総出で来てるじゃないか。本当に呼んで
ないんだけど!
なんか、オナ村の若い衆が決起集会の勢いで、店の外にまではみ
出て騒ぎ立てているので﹁なんだなんだ﹂と街の人まで広場に集ま
209
ってきている。
客がたくさん来てるならと、うちの店の子が商品を持って売りに
出てるよ。
あっ、コレットが焼いたクレープを売ってるのか。屋台やりたい
って言ってた子かな、売れるといいな。
⋮⋮って、そんな話じゃないんだが。
何で社員向けの説明会のつもりが、なんか大騒ぎになって群衆ま
で集まってきてるんだよ。
俺が、収拾つけられる事態じゃなくなってきてるじゃないか。
そりゃ、﹃魔素の瘴穴﹄討伐軍を編成して出撃するには、オナ村
がスタート地点になりそうだから村の連中が説明会に来るのはしょ
うがないけど。
﹁ご領主様、我ら一同も、命を賭けて戦うつもりであります!﹂
オナ村の村長の息子とかで、自警団リーダーを気取っている、掛
け声が大きいだけが特技のお調子者︵マルスとか言ったかな︶が、
大げさなセリフを叫びながら俺に向かってしゃがみこんだ。
やる気があるのはいいんだけど、革の鎧を着て長槍を持ちながら
そんな風にしゃがんでも、ガラの悪い兄ちゃんにしか見えないから。
みんなマルスの真似をして、ぎこちなくしゃがみこんだ。店の前
でたむろするヤンキーかお前ら、兵士が畏まる作法が分からないな
ら無理するなって。
せっかく火縄銃を配給してるんだから、こういう時こそ持ってこ
いよ。
俺が、現代の軍隊式敬礼ってやつを教えてやるのに。
210
﹁まあ、期待してるからがんばってな﹂
﹁ハハー! ご領主様ぁ!﹂
俺が声をかけただけで、マルスたちは地べたに這いつくばって、
平身低頭した。
兵士を気取ってても、すぐ村人気質に戻っちゃうんだよな。
あと村人に、﹁俺は領主じゃなくて代官だ﹂って訂正するのはも
う諦めた。
村の人からしたら、そんなの知ったことじゃないんだろう。
あとオナ村自警団は、村の防衛が仕事なんだから、あんまり張り
切られても困る。
頑張るのも程々にして欲しい。
﹁私達、奴隷少女近衛銃士隊も、ご主人様を命をかけてお守りしま
す﹂
シャロンが号令をかけると、奴隷少女二十六人が全員集合で集ま
ってきて、こっちはなぜか綺麗に整列して、シレジエ王国式の敬礼
︵片膝をつき、剣や銃をかかげて銃身にキスをする︶をしてくれた。
こんな作法、誰が教えたんだとチラッと見たら、ルイーズとライ
ル先生が笑ってた。
﹁そうか、ありがとう。しかし、近衛銃士隊ってたいそうな名前が
ついてるんだな﹂
﹁私たちは銃士というのだと、ご主人様に教えて頂きました﹂
﹁あー、そういやそんなことをいったな﹂
銃を持った兵士だから銃士って言うんだとか、自慢げに言ったわ。
211
シャロンに変なこと吹きこむもんじゃないな。
﹁ご主人様を一番近くでお守りすることを近衛だとルイーズ様に教
えて頂きました。私たちは、奴隷少女近衛銃士隊です﹂
﹁その奴隷少女って頭につけるのも必要なのか﹂
﹁奴隷少女近衛銃士隊です、ありがとうございました!﹂
全員が声を揃えて言いやがった。なんだよそれ、お店の挨拶か。
奴隷少女、奴隷少女と、連呼されると、なんか魔法少女に空耳し
てくるんだが。
魔法少女銃士隊も作りたいんだが何とかならないですかね、ライ
ル先生。
まあそんなくだらないことで先生を困らせてもしょうがないか。
﹁それより、お店の商売の方も抜かりないように頼む﹂
﹁お任せ下さい、交代で穴が開かないようにシフトを組みますので﹂
シフトとか知ってるんだ。というか、この時代にシフトとかって
概念あるんだ。
バイトリーダー的な活躍ごくろう、シャロン。
﹁まあ、お前たちはあんまり戦争してほしくないから、お店に残っ
て欲しいんだけど﹂
﹁他の子でシフト埋めましたから、私は二十四時間ご主人様をお守
りできます!﹂
やる気満々だな、シャロン。
それはいいが、俺の話をよく聞こうな。
212
﹁それで、説明会のことなんだが、﹃魔素の瘴穴﹄に向かって進撃
するに当たって反対の意見とかはないのか﹂
俺はちゃんと説明して、社員一人ひとりの意見を聞くつもりだっ
たのだ。
いくら社員が全員奴隷少女とはいえ、ブラックな経営者になりた
くないから。
﹁ご主人様のなされることに、反対や不満などあろうはずもござい
ません!﹂
﹁ちょっとそこまで言われると逆に怖い﹂
いさ
間違ったことを言ってたら、ちゃんと諌めてくれ。
俺はまだ高校生なんだぞ。
商会に子供が多いとはいえ、この人数の責任を全部持たされるの
はキツい。
班長とか、リーダーとか、本当は苦手なタイプなんだよ。
﹁もちろん、みんなで話し合ってご主人様と共に戦い、泣き、わめ
き、お守りすることを心に誓ってます。お諫めすべき点があれば、
命をかけてお諌めします﹂
﹁命はかけなくていいからね⋮⋮あとできれば、わめくのも省略し
よう﹂
シャロンは、昔のことを思えば本当に元気になったけど。
いちいち重いことを言う癖は治ってないんだよな。
見た目は大人で賢いとはいえ、まだ中身は子供だからしょうがな
いか。
213
はぁ、しかしこの店の表の人だかり、どうしたらいいんだろ。
﹁ライル先生、後は何とかその⋮⋮﹂
﹁おや、ここはタケル殿のご挨拶が聞けると思ったのですが、ギブ
アップですか?﹂
先生にしては珍しく挑発的なことをおっしゃる。
﹁もしかして、この群衆が集まってきて、どうにもならない収拾を
俺につけろと?﹂
﹁せっかく街中の人々が集まってるんです、大演説で義勇兵を集め
るチャンスじゃないですか﹂
えー、大演説って誰がするんですか⋮⋮。
もしかして、俺がやるの?
ルイーズ姉御の方をチラッと見たら、目を背けられた。
えー、俺は挨拶とか向いてないタイプだからぁー。
おいルイーズ! 真顔だけど、もう付き合い長いんだから、笑い
をこらえてるのが分かるぞ。
知ってるんだぞ、ルイーズは騎士団の偉いさんだったんだろ。
団長とか、隊長とか、俺よりルイーズのほうがよっぽど向いてる
のに⋮⋮。
うーん、しかしこりゃ俺もそろそろ成長しなきゃいけないってこ
となのか。
ルイーズも、先生も俺にやれって言ってるし⋮⋮。
何も戦うのは戦場ばかりではない。
何の因果か、騎士になって俺の名前で募兵とかされるんだろうか
214
ら。
ここは俺が一発かますしかない。
俺は、覚悟を決めて銃士隊と自警団を引き連れて、街道に出ると
広場に群れている人々に向かって大声で叫んだ。
﹁皆の者! アルマーク家の騎士シュバリエ佐渡タケルが、物申す
!﹂
俺が群衆の中心に立ち見回していると、いつの間にか、ざわつい
ていたのが静まる。
かたびら
今の俺は、燦然と輝く﹃ミスリルの帷子﹄着てるから。
多少は重要人物に見えるだろ、馬子にも衣装ってやつだ。
もうどうせここまでやるなら、ゲイル将軍みたいに、赤マントも
つければよかったかな。
しかし、黙りこんでこっちに注目する群衆の何というプレッシャ
ー。
生徒会選挙になんか教師に無理やり立候補されられて、ろくなこ
と言えなかったトラウマがチクリと痛む。
でも、ライル先生見ててください。俺はやります!
俺は鉄剣を抜き放って、先生が見守る蒼天に向けて掲げる。
シャキーンと抜剣の音が、静かな中に響き渡った。
俺は知ってる、こういうのはやりきってしまうほうが恥ずかしく
ないんだぁぁ!
215
ほくばつ
﹁これより、我々エスト伯領義勇軍は、﹃魔素の瘴穴﹄より発生し
たモンスター共の討伐を目指して、北伐を開始する!﹂
﹁奴隷、物乞い、農民、町民、商人、冒険者、兵士⋮⋮諸君らの身
分・年齢・性別、経歴の一切を問わぬぅぅ!﹂
﹁誰でもかまわない、何も持たなくていい、ただ共に戦う義勇のあ
る者たちよ! その身一つで俺のところに馳せ参ぜよ!﹂
﹁国を救うため、無辜の民を守るために、どうかみんなの力を貸し
て欲しい!﹂
⋮⋮シーン。
うわ、恥ずかし。
みんな眼を丸くして、呆然とこっちを見てるよ。
いやシャロンとか、オナ村の連中も、敬礼してないで助けてくれ。
変なテンション入ったよね。
やりすぎた俺が悪かったから、ここは笑って誤魔化すなり、なん
なりフォローを︱︱
﹁ウワアアアアアアアアアアアアアアアアア!!﹂
剣を掲げたまま、硬直していた俺をよろめかせて吹き飛ばすぐら
いの大きな歓声が上がった。
それはお腹の底にドシンと響き渡る、声の爆発だった。
叫んでいるのはその場の全員だった。溢れる大歓声、割れんばか
りの拍手、お調子者の自警団が槍を突き上げて吠え立てる、うああ
216
あ、うわああと言葉にならない叫びが、街の広場に無数に響き渡っ
た。
ああっ、やっぱりこういう演出でよかったんだな。
上手く行って、ホッとしたのか悲しくもないのに涙が出てきた。
︵ライル先生、これでよかったんですよね⋮⋮︶
やりきった俺は、剣を鞘に収めると涙をこらえて空を見上げた。
天で見守ってくれていたはずの先生は、いつの間にか割れんばか
りの歓声によろけそうになっている、俺の背中をそっと嫋やかな手
で支えてくれていた。
﹁タケル殿、上出来でした﹂
﹁もっと褒めてください﹂
ライル先生に本気で褒められるとか、初めてじゃないか?
すごく嬉しいんだけど。
ちなみにこの日、人が集まった広場に向けてクレープの大売出し
に出た佐渡商会の屋台は、一日の売り上げ新記録を更新した。
※※※
やがて、静かになった商会の入り口。
祭りのあとみたいな雰囲気に、独りで黄昏ている俺に、後ろから
ねぎらいの言葉が飛んできた。
﹁ごくろうだったな、タケル﹂
217
燃える夕日のような紅い髪をなびかせて、ルイーズは店に入って
くる。
さっきのことがまだ忘れられないのか、明らかに面白がっている
顔で、俺の肩をバンバンと叩く。
まだ、可笑しいのかよ。
ほんと、俺の演説にルイーズだけは腹を抱えて笑ってくれたから
な。
俺も恥ずかしかったし、似合わなかったって自覚はある。
むしろ本気に取られたら嫌なんだ。
国のためとか、民のためとか、聞きざわりの良い理由なんて、大
嘘もいいところだからな。
ルイーズが笑い飛ばしてくれたことで、演説の件は気が楽になっ
た。
でも、気が楽にならないこともある。
ゲイル将軍に王都で聞いた、ルイーズが元々騎士団に務めていた
っての話を、聞いていいものなのかどうか、未だに迷っていた。
﹁やはり、避けられぬ因縁なのかな﹂
ルイーズが独白めいた口調で、俺に語りかけてくる。
﹁因縁ですか?﹂
﹁魔素の瘴穴だよ、聞いたんだろう。私が元騎士で、﹃魔素の瘴穴﹄
討伐軍を率いて大敗北したのだと﹂
ああ、そうかルイーズはもう俺に知られていることを知っていた
のか。
218
自分から言えば良かった、余計な気を使わせてしまった。
﹁すいません、勝手に聞いてしまって﹂
﹁謝ることはない、もともとライルの先生さんもその頃は王都にい
たんだから、私が騎士団に居た時のことも知ってたからな﹂
ああそうなのか、ライル先生は知ってて、みんなには黙っていた
んだな。
そういう腹芸って、俺にはできない。
やっぱり先生は凄い。
﹁なあタケル、私は今でも反対だよ。魔素の瘴穴に挑むのは反対だ﹂
ルイーズは、俺にキリッとつり上がった形の良い眦を向けてくる。
さっきまで笑っていた美しい茜色の瞳には、いつになく真剣な色
があって、目を背けることすらできなかった。
﹁私はずっと逃げてきた、自分の失敗からも、仲間の死からも。お
前と出会ったときも、一緒に居た時も、私は自分の過去からずっと
逃げ続けて生きてきた﹂
﹁ルイーズ⋮⋮﹂
﹁せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない、戦闘に不慣
れだったお前を助けたのも、お前が拾った兵士たちの子供を、助け
て育ててやったときも。でも、過去は結局、逃げ続けてもやってく
るんだな﹂
﹁もし、ルイーズがまだ反対なら﹂
ここまで盛り上がってしまった北伐だが、俺としてはきちんとし
た反対があれば止めようとも思っていた。
219
いくら宰相に煽られたからって、なにも馬鹿正直に危険な﹃魔素
の瘴穴﹄に挑むことはない。
適当に、王領のモンスターを攻める振りをしておけば安全ではな
いかとも思った。
﹁言うなタケル、お前は挑め﹂
﹁ルイーズ﹂
﹁いい演説だったじゃないか。一刻の感情かもしれんが、私の胸に
も響いてくる演説だった﹂
﹁本当に? 笑ってたのに?﹂
﹁そりゃ、お前には似合わなかったから可笑しかったさ﹂
犬に追われて泣いていた情けないお前がなあと言って、またルイ
ーズは肩を震わせてプププと噴きだした。
おい、そういう昔の話を蒸し返して笑う雰囲気じゃないでしょ。
酷いよ。
﹁でも、私が騎士団参事として討伐軍を編成した時、タケルのよう
に身分や地位にとらわれず、もっと柔軟な発想を持って挑めば、も
しかしたらあんな失敗をしなかったんじゃないかとも思えた﹂
﹁そうですか?﹂
ルイーズぐらい強くても負ける相手に、俺が勝てるとは思えない
んだけどな。
﹁そうだよ、だから私はお前が挑むのを全力で手伝う。お前は、私
の新しい可能性なんだ。タケル﹂
そういって、俺の肩に触れた手は、さっきとは違って優しかった。
220
なんかこう頑張らなきゃいけない空気になってるけど、俺はまだ
ヤバかったら逃げる気満々なんだけどね。
かたびら
でも、まあ他ならぬルイーズのためなら、ちょっと本気で頑張っ
ても良いかな。
﹃ミスリルの帷子﹄もあるし、そう簡単には死なないだろう。
221
18.ロスゴー村義勇隊
この前、俺がした演説が勝手に檄文みたいに広がり、エスト伯領
の村々に伝達されて、ボツボツと付近から義勇兵希望者が集まり始
めている。
街の商館の方に来られても困るので、オナ村をとりあえずの集結
地として、そこに義勇兵キャンプを張って、革の鎧と肌着と火縄銃
の三点セットを渡して手の空いた自警団や銃士隊に訓練してもらっ
ている。
訓練の鬼軍曹役はルイーズにお願いした︵適任だと思う︶。
義勇兵が集まっても、まず銃や大砲の扱いに習熟してもらわなけ
れば使いものにならないからな。
もちろん火薬も足りないので、火薬や弾の制作作業から手伝って
貰ったり。
戦士のやる仕事でもないように思うが、みんな前歴は村人だ。糧
食も提供しているし給金も払っているから文句は出ていないようだ。
俺はと言うと、訓練が一段落つくのを待つ間、いつも通り先生や
シャロンたちと商売に励んでいる。
伯爵からもらった支度金もあるけど、金はまだまだ必要。
義勇兵たちに持たせる回復ポーション︵安くて銀一枚!︶が高く
付くんだよ。
かといってケチって、薬草だけで戦闘させて死人が出たら悔やん
でも悔やみきれないからな。
金は命には変えられないのだ。
222
本当は自分のところでポーション製造できたらいいんだけど、水
魔法と回復魔法の使い手がいるそうなのだ。
うちには、神官とかいないからしょうがないね。
俺がその分稼げばいいんだ、稼げば!
﹁いらっしゃーい!﹂
店番をしている俺が高らかに客を呼び込むと、店の暖簾をくぐっ
て入ってきたのは、見覚えのあるサラサラの金髪少女だった。
﹁久しぶりね、タケル⋮⋮﹂
﹁おー、なんだサラちゃんじゃん。どうしたの?﹂
なんだか、サラちゃんの後に少年少女たちが付いてきてるんだけ
ど、エストの街まで遠足かなにかか?
なんか手に農機具を改造した物騒なトゲトゲ武器を持って、木の
盾まで構えて物々しい服装をしてる子たちだが。
﹁サラ・ロッド、並びにロスゴー村義勇隊十名、ここに推参!﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
なにそれ。
﹁ちょっとタケル! なに小首をかしげてんのよ、私がタケルのた
めに直々に募兵してきてあげたんだから、もっと歓迎しなさいよー
っ!﹂
﹁いや、でもみんな子供じゃん﹂
十二歳のサラちゃんに連れられた少年少女たちは、みんなサラち
ゃんと同年代だ。家の奴隷少女もこんなもんだからあれだけど。
223
ちょっと兵士としては若すぎないか、学校の遠足にいくんじゃな
いんだぞ。
﹁タケルが年端もいかない奴隷の子供に武器を持たせて、戦場で戦
わせてるって評判は聞いてるわよ﹂
﹁えっ、なんなのその残忍な傭兵部隊みたいな悪評⋮⋮﹂
どんだけ悪人だよ、モンスター成敗に行く前に国から成敗されて
しまうわ。
あっ、でも俺は実情そんなもんか。
こんな酷いファンタジー世界だから目立たないけど、俺も極悪人
になってしまったものだ。
﹁まあ、半分冗談よ。タケルの義勇軍は、子供でも武器を持てるな
ら、年齢問わず雇ってくれるって聞いたから、私がタケルの元上司
だって話して、みんなを連れてきたの﹂
﹁戦力になってくれるなら嬉しいんだけど、行先は本当に戦場だぞ﹂
遠距離から銃を浴びせるだけなら、子供でも使えないことはない。
しかし、銃も大砲も撃つだけで暴発の危険もあるし、命がけなこ
とに違いはないんだけどな。
﹁ふっ、何をかいわんや⋮⋮。みんな覚悟はできてるのよ。連れて
きたのは、どうせ貧乏農家のニ女とか三男とか、タダ飯喰らい扱い
されてる子たちばかりだから、もう破れかぶれよ!﹂
﹁いや、破れかぶれよじゃ困るよ。サラちゃんは一人っ子だったよ
ね、親御さんめっちゃ可愛がってたじゃん⋮⋮﹂
万が一のことがあったら、ロッド家の親御さんになんて言われる
か。
224
サラちゃんだけでも、ロスゴー村に戻したいんだが。
﹁フフッ、私の身はライルせんせーや、タケルが守ってくれるでし
ょ?﹂
﹁まあ、それは安全な後方任務につけばいいけどさ﹂
大軍を擁することになれば、戦場は前線だけではない。
後方支援とかあるけども。
でも、どんな強大なモンスターが出てくるかわかんないし。
かなり大規模戦闘になるから、万が一襲われたらマズイだろ。
﹁安心して、むしろ私がタケルのこと守ってあげるわよ。あんたな
んかより、私のほうが動けるの知ってるでしょ﹂
﹁まあ、たしかに⋮⋮﹂
さすがに腕力では負けないが、農家の仕事では俺より小さいサラ
ちゃんのほうが、瞬発力・持久力があったぐらいなのだ。
あれから俺もこの世界で多少は鍛えられたけど、この厳しい世界
で生きてる子供が結構たくましいってのはよく知ってる。
﹁それにしても、タケルも出世したものね。いまは代官で騎士様で、
討伐将軍にまでなるそうじゃない﹂
﹁まあ成り行き上しかたなくね﹂
﹁うちの農家の手伝いから始めて、商人になって、騎士になって、
大将軍にまで出世したって村じゅうに喧伝しておいたからね﹂
﹁やめてくれぇ﹂
もう、ロスゴー村いけなくなるじゃないか。
225
﹁あら、村ではあんた子供の憧れの的よ。みんな、騎士に出世した
くて来てるんだから、私たちをよろしくお願いするわねー﹂
サラちゃんは、そう言うと俺の手を小さい手でギュッと握ってき
た。
十二歳にして、コネクションを全力で活かそうとするとは、末恐
ろしい子。
サラちゃんに俺の架空の出世話を聞かされて、騙されて連れてこ
られた村の少年少女たちはキラキラと眼を輝かせている。
ああ。もうなんか俺の方を純真に尊敬の眼差しで見ている。
そりゃ農民から騎士になれるって煽られたら、少年少女は血がた
ぎるだろう。
﹁くうっ、サラちゃんめ。なんて罪作りなことを⋮⋮﹂
﹁私は別に騎士でなくても、将軍の奥様でもいいけどね﹂
そうやって、俺の手を握りながらいっちょ前に科を作るサラちゃ
ん。
ふん、五年後なら分からんが、今そんなさらさらのブロンドをふ
さっとかきあげて、うなじで誘惑をされても単に可愛らしいだけだ
ぜ。
こんな風に、俺とサラちゃんが仲睦まじくじゃれあってるところ
に、シャロンとライル先生が店の配達を終えて帰ってきた。
﹁ああっー、あなたたち誰なんですか、ご主人様から離れてくださ
いっ!﹂
226
ライル先生が声をかける前に、シャロンが駆け寄ってきて俺とサ
ラちゃんが繋いだ手を分断して、割り込んできた。
結構、強引に突っ込んでくるな。
﹁いや、待て待て。大丈夫だシャロン。この子たちはロスゴー村の
⋮⋮﹂
﹁あんたこそ誰よー、タケルのなんなのー?﹂
俺が紹介するまえに、サラちゃんが激昂してしまった。
うあ、ちょっと待てよお前ら。
おしくらまんじゅうやってないで、俺の話を聞け。
﹁私は、ご主人様の奴隷少女で、近衛銃士です!﹂
﹁へーそうなんだ、あんたが噂の奴隷少女ね。なんか少女って割に
は、あんたデッカイけど⋮⋮、どっちにしろ近衛の役は、私の義勇
隊がもらうことに決まったからあんたたちは用済みよ﹂
﹁待て、なんで二人ともいきなり喧嘩腰なんだよ﹂
俺が、ライル先生に眼で助けを求めると、先生は肩をすくめた。
先生は、﹁自分で仲裁しろ﹂と言わんばかりに、サラちゃん以外
のロスゴー村の子供たちを連れて、さっさと店の奥に引っ込んでし
まった。
まあ、子供たちは村の知り合いだろうから分かるけど。
サラちゃんも先生の大事な教え子じゃないですか、何で放置なん
ですか!
あと最近なんか、先生の態度が冷たいような気がする。
俺に対する愛が足りない、寂しいですよ。
227
﹁すぐに離れてください、ご主人様の近衛は、忠実なる奴隷少女が
務めるって決まってるんですっ!﹂
﹁あら、あんたみたいなポッと出が何言ってんのよ。私は、タケル
が農民のこせがれだった頃からの知り合いなんだからねー﹂
こせがれ
サラちゃん、勝手に俺の過去を捏造するな。
ロッド家でバイトしたけど、小倅になった覚えはない。
﹁出会った時間とか関係ないです、ご主人様と奴隷少女は固い絆と
首輪で結ばれた仲なんですよ!﹂
﹁はぁ、何言ってんのよ。私なんか一緒に温泉に入ったこともある
わよ﹂
マジで二人とも止めろ。
なんか人聞きが悪い話になってきた。
俺だけがダメージ受けてる感じがする。
﹁私だって、一緒にお風呂に入って、身体を隅々まで綺麗に洗って
もらったことがあります!﹂
﹁えええええっ、何考えてるのよタケル!﹂
﹁えっ、俺?﹂
口喧嘩が、いきなりこっちに飛び火したからびっくりするわ。
﹁そうよタケル! いくら奴隷だからって、あんな大人の女の人と
お風呂に入っちゃダメでしょ。もしかして、この奴隷って、そうい
うあの、アレなの⋮⋮?﹂
﹁いや、何を勘違いしたか知らんが違うぞ!﹂
228
﹁あの、せっせっ⋮⋮せいど﹂
﹁うああああー違う! 子供がそれ以上言っちゃダメだ!﹂
やめて! その大人の汚い部分を見てしまったみたいな幻滅した
眼で見るな。
俺は、まだ清い身体だぞ!
﹁シャロンは獣人の血が入ってるから、見た目は早熟だけどまだ子
供なんだよ!﹂
俺がそう説明すると、サラちゃんは﹁何を言ってんのよコイツ﹂
って顔をした。
﹁えっ?﹂
﹁えっ、じゃないわよ。私のほうが﹃えっ﹄って言いたい。﹃獣人
は早熟﹄って、自分で言ってる意味わかってんの?﹂
﹁えっと、早熟ってのは早く成長するって意味だろ。シャロンは身
体は大人だけど、心はまだ子供だから他の奴隷少女と一緒の扱いで、
しょうがないんだよ﹂
俺がそう言うと、ジトーッと俺とシャロンを見比べて、サラちゃ
んはわざとらしくため息をついた。
さっきの幻滅した眼よりはマシだけど、なんかその呆れた態度も
釈然としないぞ。
﹁タケルは相変わらずバカねえ⋮⋮。身体が大人になるんだから、
心も大人になるに決まってるでしょ﹂
﹁ええっ、いやいや、ないだろ。それこそどんなファンタジーだよ﹂
229
なんだよこの俺が騙されたみたいな感じ、俺はおかしなこと言っ
てないぞ。
﹁なあ、シャロン?﹂
俺が、シャロンの方を見て確認すると。
シャロンは珍しく、俺からプイッと琥珀色の瞳をそらした。
あれえ?
﹁ねえタケル、いい加減に認めなさい。あんたが嘘ついてないとし
たら、この女狐に騙されてたのよ﹂
﹁いや、女狐って、シャロンは犬型獣人なんだが﹂
﹁⋮⋮﹂
はい寒いですね、すいません。
﹁いやでも本当にちょっと待て。ライル先生だって、そんなこと一
言も言ってなかったもん!﹂
俺の叫び声を聞いたのか、店の奥からライル先生がひょこっと顔
を出して言った。
﹁私は、獣人のクォーターが早く成長しても、心は子供のままだな
んて一言も言ってませんよ﹂
ええっ、なんだそりゃ先生。今更そんなハシゴの外し方されても
困りますよ!
﹁だって先生も、シャロンに俺が身体を洗ってくれってせがまれて
230
た時、注意しなかったじゃないですか!﹂
﹁そこは、私が関与するところではありません。彼女本人が、何だ
か言われたくなさそうだったので、空気を呼んでスルーしました﹂
﹁うわー﹂
ライル先生って、たまにそういうところあるよね!
ルイーズの過去のことも黙ってたし、お風呂だけに水臭いっちゅ
うか。
いや、そんなシャレを言ってる場合じゃない。
﹁タケル殿、こうなったからには、しょうがないので教えて差し上
げます。獣人の場合、完全に成長期が終わる十八歳に達するまで年
齢を×2、ハーフやクォーターでも×1.5として算出します。シ
ャロンの場合、およそ生後十二歳ですから、実年齢だともう十八歳
ってことになりますね﹂
﹁完全に、成長期終わってるじゃないですか!﹂
このファンタジー世界は、成人が十五歳なのだが。
十八歳って、大人ってか⋮⋮俺より、一歳年上になるじゃん!
子供だと信じていた相手に、いつの間にか年齢抜かれてたとか、
なんだこの衝撃。
ファンタジー過ぎて、頭がついて行かない。
そうか、なんかこれまで何となく疑問に思ってた謎が一気に解け
た気がする。
なるほど、道理でシャロンに何を教えても、異常に物覚えが良い
わけだよ⋮⋮。
身体と一緒に頭脳も急速に成長してたなら、簿記も商売も簡単に
231
マスターして当たり前だ。
知らなかったから、俺はてっきりシャロンは商売の天才じゃない
かとか思ってたわ。
﹁シャロン!﹂
﹁はい⋮⋮﹂
目を背けて、誤魔化せると思うなよ。
﹁お前十八歳なんだってな。この件について、何か釈明はあるか?﹂
﹁あの⋮⋮、シャロンお姉ちゃんだよー﹂
シャロンは可愛らしい仕草で、顔の前で両手を広げた。
﹁ふざけるな!﹂
﹁すいません! すいませんでした!﹂
シャロンは、大きく育った身体を折りたたむような綺麗な土下座
をした。
三つ指までついてやがる。
だから、お前らそういうのどこで習うんだよ。
もう怒る気もせんわ。
﹁はぁ⋮⋮、シャロンが大人なの知らなかったのは、俺だけだった
わけか﹂
﹁ご主人様ごめんなさい、つい出来心で説明しませんでした!﹂
この世界も、そういう言い訳がポピュラーなのか。
もう何をどう言ったらいいか分からんで黙っている俺に。
サラちゃんが横から混ぜっ返す。
232
﹁奴隷がご主人様を騙したんだから、何か罰を与えないでいいの?﹂
﹁うーんそうだな﹂
﹁ごめんなさい、捨てないでくださいっ!﹂
﹁いや、そこまでは言わないけど﹂
ぶっちゃけ、シャロンがいないと店が回らない。
だから何されても解雇とかはありえないんだが、罰と言ってもど
うするか。
﹁じゃあこうしよう、もう俺はお前らの身体洗うのには参加しない
から﹂
﹁すいません、今すぐ死んでお詫びします﹂
シャロンは、ショートソードを抜き放ち、刃を喉に押し当てた。
﹁待て、なんでそうなるんだよ!﹂
﹁いえもう、ご主人様がそうされては、私も他の奴隷少女たちに申
し訳なくて生きていられません⋮⋮﹂
冗談だと思うだろう。
でも、こいつら元の境遇が境遇だから、万が一ってことがある。
威厳を保ちたいのは山々だが、死ねとか言ったら本当に死んでし
まうかもしれん。
﹁分かった、ちゃんと反省するなら今回のことは不問に処す﹂
﹁ありがとうございます! 海よりも深く反省です﹂
シャロンは、また深々と土下座した。
233
でも獣耳がピコンと立ってるってことは、これ絶対反省してない
んだよね。
俺って騙されやすいんだなあ、これまでシャロンの言うことを全
部真に受けてた自分が浅はかだった。
﹁はあ⋮⋮﹂
﹁甘いわねタケル、こんなことでご主人様としての示しが付くの?﹂
サラちゃんにそう言われると考えちゃうんだけどさ。
﹁まあ、終わったことはしょうがないから。これからは、シャロン
も大人として独り立ちしてくれるだろうし﹂
﹁⋮⋮死にます﹂
﹁待てよ!﹂
なんでそうなる。
というか、そのショートソードは危ないからこっちに寄越せ。
﹁髪だけ⋮⋮私は髪だけで結構ですので、今後もご主人様が洗って
ください﹂
﹁あー、もう、分かった!﹂
結局あれだろう、確かにな。分かるわ、しょうがない。
﹁タケル、あんたチョロすぎ﹂
﹁サラちゃん、言うな⋮⋮﹂
我ながら、自分の甘さに悲しくなってくる。
いつの間にかご主人様なのに、奴隷に言いなりにコントロールさ
234
れてて、問い詰めても自分の命を盾にされたら、抵抗できないんだ
しな。
リアルファンタジー
やっぱ、俺この世界向きの人間じゃないんだよなあ。
235
19.義勇兵団の集結
続々とエスト伯領の各村々から、義勇隊が集まりつつある。
なんと、俺の兵団は総勢三百人を超える数にまで膨れ上がってい
る。
オナ村の人口をはるかに超える数の兵士が、草原のキャンプに集
まって大声を上げながら訓練しているので、まるで新しい街が出来
たような賑わいだった。
ロスゴー村からの義勇兵は、子供だけだったりしてびっくりした
けれど。
他の村々やエストの街からも参加した義勇兵は、オナ村自警団の
ように若い大人が大部分だったので安心した。
子供だけの軍隊を率いて戦うとか、悪夢だからな。
オナ村の義勇兵団キャンプに視察に行くと、訓練の指導をしてい
るルイーズに声をかけられた。
一応、仮の本部キャンプを建てているので、天幕の中で報告を聞
くことにする。
﹁タケル、良い知らせと、普通の知らせと、悪い知らせと、凄く悪
い知らせがあるんだが、どれから聞きたい?﹂
﹁じゃあ、良い方から順にお願いします﹂
知らせが四種類ってのは珍しい。
あと悪い知らせが多すぎる、バランス取ろう。
236
﹁良い知らせだが、義勇兵の訓練はかなり順調に行っている。若い
のが多いせいか、みんなとりあえず前に銃弾を飛ばせるようになっ
た。新型の青銅砲を運用できる砲兵も、ほぼ揃った﹂
ライル先生が、以前より開発していた青銅砲は、鉄製の大砲より
大きさや威力や耐久性には劣るが、軽量で馬車で運ぶのにも便利。
それが、ついに実戦配備の段階に入った。
重くて壊れやすいため、ほとんど固定砲台にしか使えないバカで
かい鉄製の大砲に比べて、前装式の青銅砲は動作の安定性が高く機
動的にも運用できる。
その新型青銅砲が四門、これで砲兵部隊だって作れる。
火縄銃も筒が長いのやら短いのやら、オプションをいろいろ工夫
している。
本当はボルトアクションで金属薬莢でライフリングな銃が欲しい
のだが、俺がいくら構造を説明してもこの時代の冶金技術が追いつ
いておらず難航している。
可能性としては、魔法を組み合わせる機構で何とかならないかと
考えているのだが、今後の研究課題だ。
﹁次に普通の知らせだが、だいたいの組織がまとまりつつある。私
が義勇兵団の団長で、参謀格の軍師がライルの先生だ。次に伝令と
偵察兵を兼ねる騎馬隊、奴隷少女銃士隊、各村々の義勇銃士隊、砲
兵部隊に輸送と補給を行う後方支援部隊の編成もまとまった﹂
﹁ルイーズが団長を引き受けてくれるんですね﹂
ルイーズに、もちろん全軍の司令官はお前だぞと釘を刺される。
責任逃れをしようって気持ちはないけどね。
237
﹁悪い知らせだが、この組織図を決めたのはサラのやつだ。あいつ
は、お前の近衛兵長とかいう謎の役職に就任して、好き勝手に人事
を進めている﹂
﹁ええっ、ルイーズさん団長なんだから、サラちゃんを止めてくだ
さいよ﹂
﹁だって、私を団長に決めたのがサラなんだぞ。ロッド家には冒険
者時代に散々世話になってしまってるし、そこらへん言いにくいの
は、お前も同じだろ﹂
﹁あー、確かにそうだけど。恩があるからとか、情実人事じゃない
ですか﹂
できたばっかりで、いきなり組織が腐ってるぞ。
﹁それが不思議と、サラが決めると上手くまとまるんだ。ライルの
先生さんも、サラたちに軍師とか呼ばれて喜んでしまってるからな﹂
﹁あー、そうですね。先生はそういうとこありますね﹂
物好きなライル先生のことだ、そのうち変な扇子を持って登場し
てもおかしくはない。
強風を吹かせるとか、先生は中級魔術師だから本当に出来てしま
うんだよな。
魔術師軍師は、カッコイイ。
なるほど、サラちゃんの才能ってこういうことか。
ルイーズが自分で団長やるとか、先生が自分で軍師やりますなん
て恥ずかしくて言えないから、誰かが最初に決めてやらないといけ
なかったんだ。
本来なら俺がやるべき仕事をやってくれてるなら、責めるべきで
はないのだろう。
238
﹁最後に凄く悪い知らせだが、なぜかタケルのことを﹃チョロ将軍﹄
とか呼ぶのが新兵の間で流行っている。チョロとは何を意味するの
か、私にはよく分からんので注意のしようもなかったのだが、響き
から侮るようなニュアンスを感じた﹂
﹁団長権限で速攻に止めてください﹂
絶対流行らせたの兵長だろ。
くっそ、覚えてろよ。
﹁やっぱり悪口の類だったのか、注意しておこう。ところでタケル、
聞いていいのかわからんが、チョロって本当は何のことなんだ?﹂
﹁ルイーズ、それは聞いちゃダメなことだ﹂
﹁わ、わかった⋮⋮﹂
やれやれ、ろくなことはないな。
オナ村の訓練キャンプでルイーズの報告を聞き終わると、程無く
騎馬隊のシュザンヌとクローディアから偵察の報告が入った。
こちらも、あまり良い知らせではない。
﹁イヌワシ盗賊団の砦に、シレジエ王国、第三兵団が詰めて入れな
いって言うのか﹂
﹁はい、ご主人様。ここにお前たち雑兵の居場所はないと、追い返
されました﹂
王国軍もちゃっかりしているようで、前の遠征のときにうちが落
として放置していたイヌワシ盗賊団の砦を、王都の第三兵団が接収
して拠点として利用しているらしい。
友軍なんだから砦を共同で使うって発想はないもんかねえ。
239
﹁うーん、うちもあの拠点使いたかったんだけどなあ﹂
俺がぼやいていると、変な扇子はまだ持っていないものの、すっ
かり軍師をやる気になっているらしいライル先生がやってきた。
いつもの黒い官服の上から、対魔法防御効果のある灰色の魔術師
ローブを羽織って短い杖を持っている。
どうやらこれが彼女⋮⋮、じゃない彼の戦闘服のようだ。
﹁将軍。これは却って好都合かもしれませんよ﹂
おお、軍師っぽいセリフじゃないですか。
ピンチの後にチャンスあり、でも将軍呼ばわりはやめてください
先生。
﹁先生、扇子は持たないんですか﹂
﹁扇子って何の話ですか?﹂
この世界の歴史には、扇子持った軍師はいないのか。
﹁それより新しい拠点確保の話です﹂
﹁はい﹂
﹁作戦を検討してみましたが、王都の軍と共同作戦で動くって選択
肢はありえません﹂
﹁ありえないんだ﹂
味方がたくさん居たほうが心強いってのは、浅はかだったのかな。
﹁下手すると、王都の第三兵団はこっちの邪魔をしてくるかもしれ
240
ませんよ﹂
﹁えっ、なんでですか﹂
﹁あっちは、こちらに手柄を立てられると困るんですよ。なにせ、
王軍は負けっぱなしですから評判に関わります﹂
﹁そういうこともあるかもしれませんね﹂
確かに前からモンスターに攻められて、横から王都の連中に邪魔
されたんじゃ上手くいかないよな。
しかし、今は王都近くまで攻められてる国家存亡の危機だろ。
国のために協力するって発想はないのかな。
すげなくうちの偵察を追い返したところを見ると、期待しないほ
うがいいか。
﹁むしろ、援軍を求められずこっちが独自で動けるなら好機です!﹂
﹁おおーなるほどです﹂
ライル先生やる気になってるな、美しい尊顔は涼やかなままだが、
杖をブンブン振る仕草に高いテンションを感じる。
﹁そこで、私たち義勇兵団は、ここに新たな拠点を求めようと思い
ます﹂
先生は卓上に地図を広げて、一点を杖で指差す。
ま
﹁エスト伯領より北西、旧アンバザック男爵領のオックスの街です。
ここをモンスターより解放して新しい拠点としましょう﹂
﹁ここが適地なんですか﹂
そのしょうけつ
﹁はい、オックスは石切り場があるだけの山間の小さな街ですが﹃
241
魔素の瘴穴﹄にも近く、重要な軍事拠点の一つでした。だから瘴穴
が開いてしまったときに、最初に男爵領ごと街が全滅してしまった
のですが⋮⋮﹂
エストの街から大きく山を迂回して進めば輸送ルートの確保も難
しくない。
先生いわく、瘴穴からのモンスターを迎え撃つために、ここ以外
の拠点はありえないと言う。
もちろん、うちの軍師様の判断に間違いはないと信じてますよ。
あと、オナ村のキャパシティを考えると兵団の数が増えすぎたの
で、このままオナ村に居ても迷惑だからそろそろ進軍するべきだろ
う。
オナ村防衛も兼ねてキャンプで訓練も募兵もこのまま続けるが、
モンスターの群れはどうせ迎え撃たなきゃいけないんだし。
前に出るか。
﹁よろしいですね、では全軍に進撃準備の触れをだします!﹂
ワンド
ライル先生は、涼やかな顔を装ってるが、口元の笑いをこらえき
れていない。
ビンビンと、短い杖を嬉しそうに震わせている。
軍師とか、男の子の夢だから気持ちは分かりますよ。
張り切ってるライル先生を見て、激しい戦いになりそうだなと予
感した。
※※※
﹁あー、サラちゃんここにいたか﹂
242
訓練キャンプで、同年代の少年少女に檄を飛ばしているサラちゃ
んに声をかける。
﹁なによ、将軍みずから訓練視察?﹂
ちょっと表情が硬いな。人事を勝手に決めたことを怒られると思
ってるんだろうか。
﹁新任の兵長に、挨拶しとかないとと思ってな﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
陰口叩かれた分、嫌味ぐらい言わせてもらうが、兵長に勝手に成
った件で叱るつもりはない。
サラちゃんは、結局のところ俺がやらなかった仕事を先にやって
くれたんだし、俺はどうせチョロだしな。
サラちゃんの義勇隊は、銃を扱った経験者も参加していないのに
まともな射撃訓練ができている。
まだ十二歳の若さだが、サラちゃんはこれでも下位文字を読み書
きできる富農の娘だから、本当に兵長ぐらい務まるかもしれない。
戦死でもされたら、ロッド家に顔向けできなくなるので前線に出
すつもりはないが、後方で人事とか担当してるならいいだろう。
﹁今日は風呂に誘いに来たんだよ、村の仲間も連れて来ていいぞ﹂
﹁えっ、お風呂あるの?﹂
﹁おう、うちの商館に作ってあるんだ。訓練の疲れを癒せるぞ﹂
﹁じゃあ、お借りしようかしら﹂
せっかく村の仲間を連れてきてくれたんだし、よく考えたら好意
243
に報いてなかったから。
それにサラちゃんは、先生の影響で温泉好きだったから風呂も好
きだろう。
※※※
サラちゃんを含めて、ロスゴー村の少年少女を、石鹸で洗ってや
こせがれ
ってそのまま風呂にぶち込む。
みんな農民の小倅だから、石鹸を使ったこともなく、風呂なんて
経験なくておっかなびっくりだったが、心地良いものだとすぐ理解
してくれたようだ。
やっぱり、子供のほうが新しい風習や技術に抵抗がないんだよな。
その点、頭の凝り固まった大人より優れた面もあるといえる。
早いうちから衛生面を叩きこんでおけば、兵士の疾病率も下がる
し、うちの商品もさばけていい事ずくめだ。
﹁それにしても、タケルはもう平然と一緒に入ってくるのね﹂
﹁子供相手に恥ずかしがってても、しょうがないからな﹂
サラちゃんと最初に温泉に入ったときは、俺のほうが慣れなかっ
たが、さすがにこの世界で俺の精神も鍛えられた。
子供の裸なんぞ石鹸で洗ってやっても、一緒に風呂に浸かっても
変な気分になったりはしない。
自分も洗ってくれなんて頼まれなくても、子供の背中ならいくら
でも流してやるぞ。
﹁大人相手にも一緒に入ったくせに﹂
﹁ぬっ⋮⋮﹂
244
さっきの仕返しか、なかなか手厳しいな。
シャロンの件は俺も悪かったが、不可抗力ってことにしておいて
くれ。
﹁まあ、今のうちに骨休めしておけ。これから本当の戦争をやらか
すんだから、どうなるか俺にも先が分からん﹂
危なかったら引くつもりだが、こっちのコントロールができる戦
況になるとは限らない。
サラちゃんたちも、危険を感じたらとにかく逃げて欲しい。
﹁一軍の将が敵前逃亡を勧めるなんて、やっぱりタケルは甘いわね
え﹂
﹁どうせチョロだよ俺は﹂
﹁まあ、そういうところは嫌いじゃないわよ。あんたの指示通り、
死なない程度に助けてあげるから任せてなさいよ﹂
﹁ハハッ、サラちゃん兵長にそう言ってもらえると頼もしいな﹂
﹁ちゃんをつけるな!﹂
お湯でザブザブと顔を洗い、俺は大好きな風呂を堪能した。
自分の濡れた黒髪がちょっと長くなってるのを見て、戦争の前に
散髪しないとな、なんてのんきなことを考える。
いくさ
次にゆっくり休んで風呂を楽しめるのは、どれぐらい先になるこ
とか。
厳しいものになるであろう﹃魔素の瘴穴﹄との戦を前にして、俺
はそれなりにシビアな戦いを覚悟していたのだが⋮⋮。
そんな安易な予想が裏切られる結果になるとは、この時の俺は思
いもしていなかった。
245
20.腐れ落ちた街
腰のあたりまで鬱蒼と茂った草をかき分けて進むと、土色と緑の
モンスターが歩いているのが見えた。
アースオーガが一体に、グリーンゴブリンが二体。
少数で、モンスターの群れからはぐれたのか。
すでにやられて敗走する途中だったのか。
どっちにしろ、好都合だ。
﹁これなら、俺一人でも狩れる﹂
俺は、火縄銃を構えてグリーンゴブリンに放つ。
弾がまるで吸い付けられるように、ゴブリンの頭を撃ち抜いた。
見事なヘッドショット!
突然の発砲音と同時に、バタリと倒れたゴブリンを見て、もう一
匹がキーキー騒ぎ立てる。
﹁ハハッ、お前ら戦場でおちおちしてたら死ぬぞぉ!﹂
俺は火縄銃を放り投げて、鉄剣を抜いた。
走りこんだ勢いのままに、鈍い輝きを放つ無骨な鉄の塊をオーガ
に叩きつける!
ガシッと、巨大な棍棒で油断なく俺の攻撃を受けるオーガ。
さすがにオーガのパワーは手強い。
246
たまらねぇ、俺はこの手応えが欲しかったんだ。
﹁ウガアアアッ!﹂
凶暴な叫び声をあげて、オーガは力任せに俺に向かって棍棒を振
るってくる。
俺の鉄剣は、切れ味こそ最低だが、代わりに刃こぼれの心配もな
い。
俺はあえて、オーガの打撃を正面から受けながら、力任せに叩き
つけ返した。
硬い樫の木と、鉄剣を叩きつけ合う、電光石火のスピード感。
ガシガシ、力任せに叩きつけ合うと、その度に凶暴なアドレナリ
ンが脳を駆け巡る。
命のやりとりの強度に、たまらなく気分が高揚してくる。
これが、ファンタジーの醍醐味だ!
﹁おら、どうしたあぁぁ!﹂
﹁グガガガガッ!﹂
オーガとのつばぜり合いは、互角ってところか。
目の端で、コブリンのもう一匹が戦意を回復して向かってくるの
を見て、俺は剣を横に大きく振るって、一旦さがる。
ちょっと勿体無いが、せっかくだから﹃聖なる炎球の杖﹄を取り
ファイヤーボール
出し、コボルトに最大級の一撃をかましてやる。
炎球にまともに飲まれて、緑のコブリンが倒れた。あっという間
に、黒焦げだ。
生きてるか死んでるか知らんが、これで戦闘不能。
247
﹁さあ、続きをやろうぜオーガ!﹂
仲間が殺されて凶暴に吠え続けるオーガに向かって、俺は正眼に
剣を構えた。
力任せの次は、技の冴えを見せてやると、切っ先を小刻みに上下
に動かし、オーガを混乱させる。
せきれい
﹁どうだ、北辰一刀流、鶺鴒の構え!﹂
オーガが堪え切れず、振りかぶって殴りつけてきたのをフェイン
トで弾いてから、肩に強烈な一撃を浴びせた。
致命傷には至らないが、荒い刃がザックリと、オーガの肉を引き
ちぎる手応え。
﹁ギャガガガガガッ!﹂
痛いか、そりゃ痛いだろうなあ。
すでに勝敗は決した、次の一撃で楽にしてやる。
﹁北辰一刀流奥義、星王剣!!﹂
全身全霊を込めて、大上段からオーガの頭を鉄剣で切り落とした。
相手はオーガとはいえ、この手で命を屠った感触に、全身が総毛
立つ。
大きなモンスターの身体が、どさりと草の上に転がった。
もう生きては居ない。
﹁ふうっ⋮⋮﹂
248
残心。
俺は、油断なく辺りを見回す。
どうやら他にはモンスターはおらず、全滅させたようだ。
物言わぬモンスターたちの死体を見下ろして、沸々と湧き上がる
興奮を抑える。
俺だって強くなっている。
心も、身体も。
もちろんリアルファンタジーには、目に見えるレベルや経験値な
んて便利なものはないが、戦場での戦闘経験の蓄積は確実にある。
今の俺なら、クレイジードック十匹でも容易に斬り殺せるだろう。
﹁あーっ! ご主人様、何やってるんですか!﹂
シャロンが銃を携えて、こっちに走ってきた。
後ろから、奴隷少女近衛銃士隊が続く。
﹁なんだ、もう見つかってしまったのか﹂
﹁もうじゃないですよ、キャー!﹂
俺の周りに転がるオーガの死体を見て、シャロンが悲鳴をあげる。
﹁だっ、大丈夫ですか。戦ったんですか。お怪我はありませんか!﹂
﹁いや、余裕だったよ。敵は少なかったから﹂
俺だって戦えば出来るんだぞと、奴隷少女たちにカッコイイとこ
249
ろを示したかったのだが。
シャロンは泣きそうな顔で、とにかくベタベタと俺の身体を手で
触れて、無事を確かめてぎゅっと抱きしめてくる。
﹁危ないことは止めてくださいって言ってるじゃないですか!﹂
かたびら
﹁いや、だってモンスター少なかったし、そのために﹃ミスリルの
帷子﹄も着てるんだから怪我のしようがなくないか﹂
そこまで過保護になることはないだろ。
俺だって、戦わないと経験値上がらないじゃん。
この世界に、そういう概念があるかどうか知らないけどさ。
﹁だめだよーごしゅじんさま、しんぱいかけちゃ﹂
﹁ロールにまで言われることなのか﹂
他の奴隷少女たちも一様に頷いている。
﹁困りますね、将軍は本陣の見えるところに居るのが仕事ですよ﹂
仰々しい魔法使いのローブを羽織って、すっかり魔術師軍師モー
ドのライル先生までやってきて苦言を呈されてしまった。
あっ、ルイーズも来た。
ルイーズは、俺が殺った戦闘のあとを一瞥しただけで、何も言わ
ない。
﹁なあ、ルイーズ団長は戦士だからわかるよな。俺だって戦闘経験
積まないと強くなれないしさ﹂
﹁タケル、戦場を舐めてると死ぬぞ﹂
250
ルイーズは冷たくそう言い放つと、俺が殺したオーガの死体にナ
イフを入れて解体し始めた。
一人で戦ったのを怒ってても、死体はやっぱり解体するんだルイ
ーズ。
﹁ああっー! 奴隷たちなにやってんの、タケルの近衛はロスゴー
義勇隊だっていったでしょ。私の人事権、舐めてるんじゃないのー﹂
﹁しつこいですね、兵長! ご主人様の近衛は、ずっと昔から奴隷
少女隊に決まってるんです﹂
サラちゃんまで、おっとり刀で義勇隊と駆け込んできて、奴隷少
うやむや
女たちと言い争いを始めた。
なんかそれで有耶無耶になって、怒られないからいいけど、こい
つらまだ近衛部隊がどっちかで延々と喧嘩してるのか。
はぁ、面倒だな。
こういうのは、どっちの肩を持ってもうるさくなる。
こんな騒ぎのなかでもルイーズは、黒焦げになったゴブリンを一
瞥して﹁チッ﹂︵おそらく皮が綺麗に取れないのを怒ってらっしゃ
る︶と舌打ちしつつ、黙々と肉を解体している。
ルイーズは、本当にブレない。
やっぱ、将軍とか団長って、こう泰然自若であるべきなのかなあ。
※※※
モンスター大部隊との大戦闘。
その厳しさの本当の意味を、俺はぜんぜん分かってなかった。
251
とにかく暇なのだ。
ここ数日の義勇兵団の軍事行動であるが、オナ村をスタートして
旧アンバザック男爵領に入り、目的地であるオックスの街に向かう
街道沿いの村々を解放してまわっている。
廃村は、住民が逃げ出しても家畜や食べ物が残っていたり、そう
でなくても建物があるのでたいていモンスターの群れの溜まり場に
なっている。
これまでの常識なら、大きな群れが密集して集まれば集まるほど、
モンスターたちは安全だったはずだ。
しかし、鉄砲と大砲という近代兵器が戦術を一変させてしまった。
まず、安全な位置から大砲で、村のモンスターの群れに向かって
砲撃する。
大慌てになって逃げ惑う群れを、今度は銃士隊の一斉射撃が襲う。
散り散りになって、ようやく逃げ切れたと思ったモンスターたち
も、その付近を偵察しつつ、残党狩りしている騎馬隊に討ち取られ
てしまう。
オーバーキル
これはもはや、戦闘ではなく一方的な虐殺である。
さてそこで問題だが、討伐軍の将軍とかに祭り上げられてしまっ
た俺の仕事ってなんだろう。
答え:とにかく、全軍の見えるところに座ってろって言われた。
日がな一日、馬車に揺られて戦場視察しているだけなのだ。
たまに先生に、﹁向こうに手を振ってください﹂とか、﹁彼らは
活躍したのでねぎらってあげてください﹂とか言われるままにやっ
252
てるけど。
アイドルの一日署長か、俺は⋮⋮。
これなら行商に出ていたほうがよっぽどすることがあった。
しかも、周りを近衛部隊︵と称するサラちゃんとか、シャロンと
か︶がピッタリと取り巻いて守っていて、ぜんぜん戦闘にならない
のだ。
ちょっと、一人で偵察に出て、ついでにモンスター退治もしたい
な。
そんなことを俺が思ってしまっても、しょうがないんじゃないだ
ろうか。
﹁とにかく、もう少しだけ我慢してください。あと少しで、オック
スの手前まで来ますから。そしたらきっとタケル殿の活躍する出番
も来ます﹂
ライル先生に、いつになく強く諭される。
あと少し、あと少しって、だいぶ前から聞いてるんですが⋮⋮。
やっぱり、俺がウロウロと勝手に出歩くのはダメらしい。
先生にまで、流れ弾にでも当たって死んだらと思われてるとした
ら、悲しい。
そこまでマヌケなつもりじゃないんだけどな。
ほとぼりが冷めたら、またこっそりトイレに行く振りをして外で
戦ってくるか。
﹁おい、タケルはまた脱走するつもりだぞ、紐でもつけとけ!﹂
253
モンスターの皮と肉を大量に抱えてきたルイーズが、通りがかり
にさっと俺の顔色を見て指摘する。
クッ、鋭い奴め⋮⋮。
﹁いけませんご主人様! さあ、こっちに来て私と一緒に紙薬莢を
作りましょう﹂
シャロンにまで、たしなめられてしまった。
ちなみに、彼女たちは馬車に揺られながら交代で紙薬莢を作って
る。
﹁えー、せっかく戦争に来てるのに、そんな地味なの嫌だ⋮⋮﹂
﹁ごしゅじんさまー、へいたんはだいじなしごとだよ。じぶんでそ
ういったのに﹂
ロールにまで、そう言われたら従わざるを得ないか。
ロジスティクス
たしかに、兵站の重要性を何度も連呼したのは俺だ。
わが祖国は、昔それが原因で戦争に負けたんだよ。
戦訓と言うより、もはやトラウマである。
実際、こうやって戦ってみると弾はいくらあっても足りないもの
だ。
しょうがない、紙薬莢作りに参加するか。
戦闘にも参加させてもらえず。
暇つぶしにするのは、こんな仕事ばかりで、まったく戦場に居る
気がしない。
なんか俺がイメージしてた、司令官と違うなあ⋮⋮。
254
※※※
ついに、目的地である旧アンバザック男爵領オックスの街までき
た。
谷間の街を望む丘の上に布陣して、俺は街を見下ろす。
オックスは小さな街だが、全面に石畳が敷かれている。
近くに石切り場もあり、材木も採れるので街全体が要塞といった
風情だ。
本来なら守りの硬い街だったんだろうが、すでにモンスターの大
軍に落とされているので、厚い石壁は崩れて、小さいながらも堅固
そうな古城も、尖塔がポッキリと折れて半壊していた。
﹁あれ、人がいるんじゃないですか先生?﹂
俺がそう言うと、先生は険しい顔をしている。
すでに落ちたはずの街に、人がたくさん生活しているように見え
るのだ。
この距離だから良くは見えないが、人型モンスターと人の違いぐ
らいは分かる。
ぼうえん
﹁そうですか、タケル殿にはあれがそう見えますか。私は、望遠の
魔法を使って見てるから分かるんですが、あれは全部ゾンビですよ﹂
﹁ええっ、街の人がゾンビ化してるってことですか﹂
そうなのか、望遠鏡が無くても遠くが見えるって、魔法は便利だ
な。
255
どっかに売ってないだろうか、できれば双眼鏡が欲しい。
﹁パッと見えるだけで、街に百体はいますね。我々にとっては、大
変やっかいな敵です。まあ、百聞は一見にしかず。とりあえず大砲
を撃ちこんでみましょう﹂
ワンド
そういうと、ライル先生はさっと短い杖を振って、砲兵隊に大砲
を撃ち込ませた。
山間の地に、大轟音が響き渡る。
青銅砲四門、大型鉄砲二門からなる砲撃で、村だろうが街だろう
が、普通のモンスター相手ならすぐに落城するはずなのだが。
﹁なんか、砲撃を受けても普通に動いてますね先生⋮⋮﹂
﹁そうなんですよ。前々から懸念していたんですが、アンデッド系
モンスターには、鉄砲や大砲が効きにくいのです﹂
すでに予想してたってのが先生の凄さだが、鉄砲や大砲の強さは
砲撃力だけではなく、その轟音と衝撃にある。
ゾンビのような鈍い相手だと、弾で吹き飛ばされることがあって
も、吹き飛ばされる味方を見て狼狽するような知能がない。
﹁相性の悪い敵といえますね。鉄砲を撃ちこんでも、すでに死んで
る相手ですから、無力化するのにはかなり時間がかかるでしょう﹂
弾数にも限りがありますからと、ライル先生はため息をつく。
﹁それで、先生に何か作戦はありますか﹂
そんもう
﹁幸い街の壁は機能しておらず、ゾンビも百体程度です。普通の指
揮官なら。ここは多少の兵の損耗は覚悟して、さっさと四方から突
256
撃して落としてしまうでしょう﹂
兵の損耗と言っても、それで死ぬのって顔見知りのオナ村の連中
だったり。
もしかしたら、シャロンだったりサラちゃんだったりするんだろ。
﹁それはちょっと⋮⋮﹂
俺の顔色を見て、先生は寂しそうに笑った。
﹁チョロ将軍だからしょうがないですね﹂
﹁先生⋮⋮﹂
﹁いいでしょう、ちょっと時間はかかりますが、損耗の少ない作戦
を考えてみます﹂
﹁お願いします﹂
﹁では、長期戦になります。まず陣地を再構築するところから始め
ましょう﹂
床机に広げた街の地図を眺めて、ライル先生は指示をだしている。
指示に従って、みんな慌ただしく動き始めた。
﹁先生、俺は何をするべきですかね﹂
﹁将軍の仕事はなんだったか、思い出してください﹂
また座って見てるだけかよ⋮⋮。
しょうがない、紙薬莢を作るのを手伝うか。
弾が足りなくなりそうだし。
257
結局、その日は街を外から囲んで、砲撃するだけで終わった。
こうちゃく
街のゾンビたちは砲撃にも全く動じず、代わりに目立った反撃も
なく、戦況は膠着状態に入った。
258
21.古城での決闘
﹁戦況は変わりないようですね﹂
俺は、調理担当のコレットが朝食に作ってくれた、オーク肉のハ
ンバーガーをモグモグと食いながら、作戦本部にやってきた。
普通にパンにオーク肉を挟むだけでも美味いが、こうなるとマヨ
ネーズが欲しいところ。
﹁そうですね、すでに下準備は済んでるので、向こうから攻めてき
てくれると楽なんですけどね﹂
天幕では、ライル先生が戦況を模した盤上図を不敵な笑みで睨ん
でいる。
それにしても、兵棋ってやつかこれ。このミニチュア、やけに精
巧に作ってあるな。
ここまで凝ったものを作る必要はない⋮⋮というか、売り物にな
るんじゃないかと商会店主としては思ってしまう。
先生が魔法で作ったんなら、大量生産はできないから安くは売れ
ないが。
そういや、先生に聞いたら双眼鏡もこの世界にはないようだった
から︵レンズは貴重品だがある︶戦場装備として売りだせば、高く
売れるんじゃないか。
まあそんな商売も、平和が回復してからだけど。
今日も美しいライル先生のご尊顔だが、よく見ると美しいブラウ
259
ンの瞳の下にクマが出来てらっしゃる。
﹁先生、寝てますか?﹂
﹁さっき少し仮眠したから大丈夫です、いやあ下準備が楽しくて眠
れませんでした﹂
あっ、こんな顔どこかで見たことあると思ったら、ゲーマーの顔
つきだ。
現代日本に居たら、ライル先生って絶対MMOのギルドマスター
になってると思うわ。
﹁さて、将軍﹂
改まって、ライル先生がオックスの街を模した兵棋図を指さす。
﹁作戦は簡単です、効果の少ない砲撃は中止して、このとおり城の
周りに柵と罠を張り巡らせてあります﹂
﹁ああ、落とし穴ですか﹂
落とし穴、好きだな先生。
前に、オークロード倒した時のそれだったような。
クレリック
﹁すっごいの掘ってありますから期待してください、敵はアンデッ
ドですから本当は聖職者が居てくれるといいんですけどね﹂
うちの兵士はほとんど元農民だから、僧侶とか魔法使いとか便利
なスキル持ちはほとんどいない。
そういや、宰相が教会から高位聖職者を派遣するって話もどうな
ったんだ。まったく音沙汰が無い。
260
﹁あっ、聖水が少しありますよ﹂
ちょっと前に、頭のネジが切れたシスターが店に来て聖水をくれ
たのを思い出した、全く使う機会がなかったので、まだたくさん残
っている。
﹁それは、もしもの時のために取っておいてください﹂
﹁もしもの時って、本当にあるんですか﹂
将軍の出番はあとです、もうすぐですとか、ずっと言われてるけ
ど。
なんか秘密兵器と呼ばれた選手が、秘密兵器のまま終わってしま
う感じがするぞ。
﹁私は、言う必要のないことを黙っているだけで、嘘はつきません﹂
﹁自分でいいますか﹂
﹁フフッ、まあタケル殿。心配しなくても﹃もしも﹄はありますよ﹂
ライル先生は少し真面目な顔になって言う。
﹁街にこれだけゾンビが溢れているということは、必ず汚染源があ
ネクロマンサー
るはずです。ゾンビキャリア程度なら問題ないですが、ゾンビを使
役するゾンビマスターか、死霊使いがいる危険性を考慮して、作戦
を立ててます﹂
﹁それは冗談にならないですね。じゃあ、出番がないことを祈って
ますよ﹂
ゾンビマスター、ネクロマンサー。明らかに中ボスクラスだな。
そんなのが出てきたら、味方に大きな犠牲が出るかもしれない。
261
暇だなんて文句言ってるのは、贅沢だったか。
※※※
午前中のうちに、オックスの街への攻城戦が始まった。
あらかじめ、街の周りを柵で囲い込んであるので、あとは街のゾ
ンビを外に誘い込んで兵士が躍起になって掘った︵元農民なので、
土木工事は得意だ︶落とし穴に落とすだけ。
兵士が柵の周りを囲みながらチクチクと槍でつついて追い払い、
ルイーズの騎馬隊が、波のように押しては引いて、ゾンビを街から
誘い出しては、穴に落としていく。
落とし穴には、目立った印がないので、ミスれば味方が落ちてし
まうかもしれない。
地味だが、緊張感のある戦闘だった。
﹁しかし、この落とし穴すごいですね﹂
深い穴の下に、尖った木の杭がならんで、落ちたゾンビが串刺し
になっている。
こんなのに自分が落ちたらと思うと、ゾッとする。
リアルファンタジーは陰惨だわ。
﹁ゾンビには、木の杭が効くってセオリーもありますからね。頑張
って作りました﹂
ライル先生が落とし穴の陣を自ら構築して、自分でも魔法で落と
し穴作るの手伝ってたのだ。
262
本当にお疲れ様だが、戦闘指揮もしてもらわないといけない。
また先生に、人使いが荒いって言われてしまうな。
先生が有能すぎるのがいけないのですよ。
かたびら
﹁あっ、タケル殿。そこの前も落とし穴ですから気をつけて、﹃ミ
スリルの帷子﹄着てますから落ちても即死はしないでしょうが、死
ぬほど痛いですよ﹂
﹁はい、すいません⋮⋮﹂
前線に出て、ちょっとゾンビと戦って見ようかと思ったのを察知
されてたか。
打たれ強そうだが動きは鈍いし、一匹なら俺でもいけると思うん
だけど。
﹁慌てなくても、街の中に入ってから凱旋将軍の仕事はたくさんあ
りますよ﹂
﹁もう演説とかは勘弁してくださいね﹂
俺は、人の前で話すのが苦手なんだ。
なんでこんな役回りになったんだろ⋮⋮。
﹁落としたら落としたで、ゾンビを埋めなきゃいけませんからね。
土木工事を手伝いたいならいつでも言ってくださいね﹂
﹁うえっ﹂
まあいいけどさ、実際の戦争ってのは地味なものなのだ。
串刺しに、生き埋め︵ゾンビはもう死んでるけどね︶、鉄砲の攻
撃が効きにくい相手には、原始的な攻撃が効くってことなのだろう
か。
263
ルイーズたちみたいに、騎馬で戦場を駆け巡るって、敵を引き付
ける仕事は派手だが、あれは俺には無理だしなあ。
﹁将軍、そろそろ街のゾンビ一掃が完了したようですよ。気をつけ
て中に入りましょう⋮⋮﹂
いよいよか、俺も緊張の面持ちで崩れかけた門から街の中に入る。
﹁うわ!﹂
街に入ると、どこに隠れていたのかオークとゴブリンが出てきた。
あの砲撃の雨でも逃げ出さなかったのか。
しかし、たいした数ではなかったので、あっという間に銃士隊の
一斉射撃の餌食になる。
﹁まずいですね⋮⋮﹂
ワンド
ライル先生が緊張の面持ちで、短い杖を握り締める。
﹁えっ、楽勝でしたけど﹂
﹁違います。ゾンビが無秩序に他のモンスターを襲ってないってこ
とは、使役してるボスがいるってことなんですよ﹂
﹁なるほど、じゃあこの奥に大ボスがいるんですね﹂
﹁すぐに砲兵隊を配備させましょう、慎重に進みますよ﹂
ルイーズが指示して、騎馬隊が伝令に走った。
264
﹁ボスがいるとしたら、あそこですよね﹂
俺は、街の奥にある尖塔がぶっ壊れた古城を指さす。
どう考えても、あそこがあからさまに怪しい。
﹁ですね、私に作戦がありますから指示通りに進んでください﹂
※※※
﹁フハハハッ、よく来たな王都の愚かなる騎士どもよ!﹂
俺とライル先生とルイーズと、近衛だから付いてくると行って聞
かなかった奴隷少女とサラちゃんの義勇兵で、尖塔が崩れかけた古
城に入ったのだが。
ここを進んでくださいと言わんばかりの赤絨毯の先の、謁見の間
に全身をプレートメイルで固め黒いマントを翻したゾンビが待ち構
えていた。
﹁なんだこのありがちなシチュエーション﹂
デジャビュー
既視感が酷い。まともな戦争かと思ったらRPGのボス戦かよ。
﹁うわー﹂
ライル先生が、ゾンビの顔を見て露骨に嫌な顔をした。
こんなに先生が感情を露わにするのは珍しい。
﹁なんなんですか?﹂
﹁あのゾンビ、私とルイーズの昔の知り合いです。ここのアンバザ
265
ック領を支配してたルーズ男爵ですよ。領地陥落後は、行方不明と
聞いていましたが⋮⋮﹂
﹁もしかしてゾンビになって、まだ領主やってるって展開ですか﹂
﹁ですね⋮⋮。まさか死霊になっていたとは、ドン引きです﹂
わがはい
﹁こら、何を吾輩を無視してゴチャゴチャと言っておるか! 吾輩
は、ゾンビ男爵ルーズ・アンバザック・オックスであるぞ﹂
頭がかち割れて半分腐れているゾンビ男爵が、剣を振り回して怒
っている。
﹁おや、王都で見知った顔がおるではないか。騎士ルイーズに、ラ
イル書記官か﹂
知り合いを見つけて、男爵は機嫌がよくなった。
マントを身体に巻きつけて、格好をつけているつもりのようだ。
おそらく、脳みそまで腐ってるんだろうな。
﹁ああ、どうもお久しぶりですルーズ男爵。貴方は、死んでゾンビ・
マスターになっちゃったんですね﹂
ライル先生は、話を長引かせようとするつもりなのか、礼儀正し
く挨拶を返す。
ルイーズは、知り合いの悲惨な末路に沈痛な面持ちで、頭を手で
抑えて黙っている。
ライル先生いわく、死んだ人間をゾンビに蘇らせて使役できるゾ
ンビだから、ゾンビマスターだそうだ。
人を喰って感染を広げるゾンビキャリアよりは強いが、厄介な魔
266
ネクロマンサー
術を使う死霊使いやリッチに比べれば恐ろしい敵ではない。
ただし、ここは魔素の瘴穴がかなり近いので、モンスターは魔素
で強化されている。
﹁ハハッ、書記官。マスターなどと言う俗な名称はやめていただき
たい、吾輩は領地持ちのれっきとした男爵であるぞ。せめてゾンビ・
ロードと呼んでいただきたいな﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
ライル先生が嫌悪感で、本気で身震いしてる。
物事に動じ難いライル先生を、引かせるとはやるなゾンビ男爵。
﹁我が領民たるゾンビどもを倒した程度で勝ち誇ってるようだが、
それは甘い﹂
﹁いや、領主なら領民を助けろよ﹂
俺は、思わずツッコんでしまった。
﹁クックック、昔ならそうであったであろう。しかし、吾輩はもは
やゾンビ・ロードである。ゾンビなら何度でも蘇らせることができ
るから死んでもいいのだ!﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
思わず納得してしまった。
どうせモンスターに成り下がったんだし、理屈はあってるな。
落とし穴においたゾンビも、きちんと供養しないとまた蘇るのだ
ろう。
﹁フッフッフッ、さようさよう。今日は特に、我が灰色の脳細胞が
267
冴えておるようだ﹂
﹁⋮⋮というか、頭に穴が開いてるよね﹂
あ、無視された。
﹁たしかに、我が領地は魔素の瘴穴によって崩壊した。しかし、こ
うしてゾンビ・ロードとして不死の命を得たいま、逆に瘴穴の魔素
が吾輩に無限のパワーを与えてくれるのだ。もはや吾輩に、怖いも
のなどなぁい!﹂
﹁⋮⋮不死ってか、もう生きてないよね﹂
都合の悪いことは答えてくれないみたいだ。
﹁その方ら、無力なシレジエ王国の走狗ども!﹂
怒りに満ちた声で、ゾンビ男爵は叫ぶ!
﹁小癪にも吾輩を討伐しにきたのであろうが、逆にゾンビとなり我
が領民となるがいい!﹂
﹁まあ、ゾンビになっちゃった男爵にも、言い分はあるよなあ⋮⋮﹂
﹁タケル殿、あんな変なのに納得しないでください﹂
いや、ゾンビになっちゃったから。
もう開き直ってみんなゾンビにして、また貴族をやろうってこと
でしょ。
敵だから倒すけども、こんなことになるまで助けてくれなかった
王国を恨むのも、気持ちは分かる。
﹁いでよ、我が四天王よ!﹂
268
でてきたのは、オーガ・ロード、オーク・ロード、ゴブリン酋長、
コボルトマジシャンの四体。
それなりに強いパーティーだと思うけど。
あーなんか、本当はロードで四匹集めたかったのに、二匹しか揃
わなかったから、数合わせで、あと二匹付け足してみた感がありあ
りだ。
しかし、こう見てみると。
こういう人たちの四天王とかに、こだわる感覚ってなんなんだろ
うな。
もしかしたら、アンデッドだけに﹃四人﹄で﹃死人﹄をイメージ
してるのかもしれないな。
そうなら上手いといえる。
﹁あの男爵、ちょっと気になったことがあるんだけど﹂
﹁なんだ、その方は物分りが良いようだ。言ってみるが良いぞ﹂
﹁なんで男爵の部下なのに、四天王なの。男爵の部下が王っておか
しくない?﹂
﹁あー!﹂
男爵は頭を抱えてしまった。
腐ってるんだから、あんまり強く持つと、頭もげるぞ。
﹁大丈夫か、ゾンビ男爵⋮⋮﹂
ちょっと申し訳なかったかも。
誰だって、突っ込まれたくないことぐらいあるよね。
269
﹁ううっ、吾輩こそすまん。頭が痛くて、つい言い間違えてしまっ
たようだ﹂
おお、男爵はまた気を取り直した。
さすがは無限の生命力だな。
﹁こいつらは、吾輩の四魔将であるぞ!﹂
﹁だから、なんで四匹にこだわるんだよ⋮⋮﹂
さすがに、これ以上の時間稼ぎは許してくれないようで。
男爵は、黒いマントを翻して号令した。
レジェンド
﹁さあ、冥土の土産はこれぐらいでよかろう、小癪なる若造ども!
我が死霊伝説の最初の糧となるがよい!﹂
うわ、戦闘開始か。
﹁フギャハァ・アンギュラ・モギャラァ!﹂
ゾンビ男爵の号令を合図に、コボルトマジシャンが翻訳不能な叫
びとともに、杖を振るって烈火の呪文を出した。
おいおい、それ選択間違いだろ。
ゾンビの弱点って炎だから、燃やしたら男爵が前に出られないぞ。
ファイヤーボール
炎球の魔法と違い、コントロールされてない火炎なのでそこらじ
ゅうを焼きつくさんばかりに類焼する。
270
城の中でなんて呪文を使うんだバカ野郎!
高そうな赤絨毯が燃えちゃったじゃないか。
﹁万物の根源たる水よ、荒れ狂う流れとなり、魔を押し流せ!﹂
ワンド
すぐさまライル先生が短い杖を振い、剛流の水魔法で火炎を抑え
込んだ。
火事の次はびしょ濡れになった中を、オーク・ロードとオーガ・
ロードが、ルイーズ目掛けて攻撃してくる。
こいつらは、本能的に誰が一番強いか知っているようだ。
サーベル
ルイーズは、左手に持っていたショートソードをオーク・ロード
に叩きつけ、右手の大振りの直刀で、オーガ・ロードに斬りかかる。
剣戟で空気がビーンと震える、稲妻のようなルイーズの鋭い斬撃
も、オーガ・ロードは大剣を構えて、その巨体そのもので受け止め
た。
そこにショートソードを肩に受けても微動だにしないオーク・ロ
ードが、鉄のハルバートを振りかざして、ルイーズに振り下ろす。
だが、ルイーズは素早い。ハルバートの刃が届く頃には、もう直
刀を横薙ぎに振るって後ろに下がっている。
魔素に強化されたロードレベルのモンスター二匹が相手でも、ル
イーズはやれるようだ。
﹁気をつけろ、こいつらいつもより強いぞ!﹂
ルイーズに言われなくてもわかってるんだけどね。
これだけ凝ったシチュエーションで出てきた敵なんだから、いつ
もと同じ強さなわけがない。
271
しかし、派手な飾りのついた大槍を振り回すゴブリン酋長は動き
が遅く、たいした敵ではなかったようだ。
四方八方から銃士隊に撃ちまくられただけで、何の活躍もないま
ま制圧されていた。
男爵の四魔将。
レジェ
どれほど強いか知らんが、連携した戦いがぜんぜんできてないじ
ゃないか。
さて、そうなると俺の相手は、やはり⋮⋮。
ンド
﹁久しぶりに話が通じる相手で、楽しかったぞ若造! 我が死霊伝
説の最初の糧となるがよい!﹂
やっぱり俺に向かって、ゾンビ男爵が剣で斬りかかってきた。
話が通じるって、脳みそ腐ってる相手と同レベルなのか俺。
﹁男爵、どうでもいいけど、その決め台詞二回目だからなぁ!﹂
決め台詞は、ちゃんと一発で決めろよ!
俺の鉄剣と男爵の剣がぶつかり合い、ギリッと火花が散る。
なかなかどうして、腐りかけのくせにすごい剣圧じゃねーか。
ゾンビ男爵の一撃の強さに、手がビリビリと痺れた。
なるほど言うだけはある、雑魚モンスターとは一味違うようだ。
相手にとって不足なし!
こうして古城を舞台にした、ようやくファンタジーらしいボス戦
272
が始まったのだった。
273
22.ゾンビ男爵の最後
﹁これでも喰らえ!﹂
正直、斬り合いが結構きつかったので、俺はゾンビ男爵に向かっ
て﹃聖なる炎球の杖﹄を使ってみた。
ファイヤーボール
﹁ぐおおおっ、強度に神聖化された炎球とはやるではないか﹂
なるほど、聖水を振りかけておいたからか。
聖化+炎でゾンビにとっては弱点のダブル攻撃だ。
かたびら
いいことを思いつかせてくれたと、俺は持ってる聖水を鉄剣や﹃
ミスリルの帷子﹄にも振りかけておく。
こうすればアンデッド系には有利なはず。
クレリック
﹁高位の聖職者の聖水か、さすがは吾輩の好敵手!﹂
あれ、あのシスター高位だったのか。
ゾンビが言うんだから間違いないんだろうな。
ガシッと男爵と斬り合うと、さっきとは違い互角の斬り合いがで
きている。
あの変なシスター、一応感謝しとくぞ!
﹁おいおい、聖水で弱ってんじゃねーかぁ男爵!﹂
﹁フフッ、この程度はハンディにもならんなあ、若造!﹂
274
そんなことを叫びながら、斬り合ってるとライル先生が後ろから
呼ぶ。
﹁タケル殿、なにやってるんですか、早く引きますよ!﹂
﹁あー、すいません!﹂
血沸き肉踊る斬り合いが楽しくて、作戦をすっかり忘れてた。
﹁ハハハッ、吾輩の無限のパワーを前にして、怖気づいたかぁ!﹂
男爵は四天王︵それとも四魔将だっけ︶を引き連れて高笑いを上
げながら逃げる俺たちを追いかけてくる。
すでにゴブリン酋長は死んで、三魔将になってるんだけど男爵気
にしてないなあ。
古城の外に出たところで、もう一度男爵と三魔将の前に相対する。
レジェンド
﹁フフフッ、逃げきれぬと悟ったか。大人しく、吾輩の死霊伝説の
最初の糧となるが⋮⋮﹂
ものすごい爆音が、男爵の長口上をかき消した。
轟音と共に、煙があがり、男爵と三魔将が飲み込まれてしまった。
砲兵により運ばれた青銅砲四門が火を吹いて、大きな鉄の弾が彼
らをあっけなくなぎ倒したのだ。
大人しく城にこもってれば、大砲が当たらなかったのに、迷わず
成仏してくれ男爵。
粉塵が晴れると、男爵たちが居た場所は、大きな穴ぼこが開いて
いる。
275
もしかしたら、﹁ぐはは効かぬわ!﹂なんて展開があるとも予想
していたが。
これは無理だな、影も形も残ってない。
﹁あー、城にまた傷がついちゃった﹂
ここを改築して拠点として使うとなると、修理が大変そうだ。
近くに石切り場があるそうだから、材料はなんとかなるかな。
そんなことを考えながら、眺めてると微かに下から小さな声が聞
こえてくる。
なんだと思って眺めてみたら。
﹁ぐう⋮⋮、面妖な⋮⋮、攻撃を⋮⋮﹂
穴ぼこの下に肉片が残ってて、それが喋ってる。
どっちが面妖だよ。
﹁もしかして、男爵なのか。まだ生きてるのか?﹂
アンデッドだから、大砲でも死なないのか。
肉片になっても生きてるとか、どんだけだよ。
﹁吾輩は⋮⋮、無限の⋮⋮、力を⋮⋮﹂
ちょっと可哀想だけどしょうがないな。
ゾンビスライム男爵とかになって、復活されても困るし。
俺は手を合わせて、持っていた聖水を男爵に降りかけた。
﹁ぎゃあああ⋮⋮、吾輩の身体が⋮⋮、溶ける⋮⋮﹂
276
﹁ごめんなあ男爵、悪いけど死んだ人間なんだから、もう諦めてく
れよ﹂
﹁吾輩は⋮⋮、王国に、復讐を⋮⋮、おの⋮⋮れ﹂
﹁なむあみだぶつだよ、男爵﹂
男爵の肉片は、効果が高いらしい聖水に溶けて消えてしまった。
浄化されたってことなんだろうか、せめて成仏できるといいな。
﹁やりましたねタケル殿﹂
﹁ああ、先生の作戦のおかげですよ﹂
先生はどうか知らんけど、俺は男爵に少し同情してる。
こんだけゾンビがいるってことは、どんな事情かは知らないけど、
オックスの街ごと死に絶えてしまったってことだろう。
助けてくれなかった王国を、逆恨みしても仕方がない。
﹁さて、ではタケル殿、おまたせしました。これからが将軍のお仕
事ですよ﹂
﹁その前振り、嫌な予感しかしないんですが⋮⋮﹂
作戦行動全体を指揮し続けて、疲れきってクマの出来た瞳を、や
けに爛々と輝かせているライル先生。
これは、逆らえないよなあ。
﹁攻城戦と言うものは、落とした後始末のほうが大変なんです﹂
﹁はーい、がんばりまーす﹂
これからゾンビを埋めて、供養してやらなきゃいけないもんね。
地味な仕事は苦手だが、男爵の供養だと思って、がんばるしかな
277
いなあ⋮⋮。
※※※
オックスの街の改修工事も一段落ついて、作戦基地となった古城
で政務を執っていると、伝令から妙な報告が入った。
﹁旅の伝道修道女様が、ふらりとやってきましてゾンビ穴を浄化し
てくださいました﹂
﹁ほう、それは良かったな﹂
義勇兵団の責任者としては、その旅の修道女様にお礼申し上げる
べきなんだろうけど。
なんだか嫌な予感がする。
なんだ、この背筋がざわつく感じは⋮⋮。
﹁それで、シスター様が将軍に﹃是非ご挨拶申し上げたい﹄と﹂
﹁いま﹃是非﹄って言った?﹂
なんだこれは、俺の中の何かが、早く逃げろと危険信号を発して
いる。
挨拶はルイーズ団長に任せるか。
﹁もう、そこまでいらっしゃってます﹂
﹁えー﹂
まぶか
白地に青のラインの入った、アーサマ教会のローブを目深く被っ
たシスターが静々とやってきた。
フードで顔はしっかり隠れているけど、隠し切れない長いブロン
ドの髪と、やたら無駄に大きな胸には見覚えがあった。
278
聖職者なので、白銀のアンクを掲げているが、似合わない。
﹁やっほー、お久しぶり、タケル。わたくしが会いにきましたよー
!﹂
﹁どうも⋮⋮﹂
出たよ、妙に馴れ馴れしいシスター。
キ
一回会っただけだし、友達になった覚えはまったくないんだが。
見る度にキャラが壊れてんな。
ャラ
目深にフードを被った、神秘的な修道女の出で立ちと、壊れた性
格が剥離してて違和感があるんだよな。
なんだっけ名前、シスター、ストリアーナだっけ?
﹁ストじゃないです、ステリアーナです。覚えにくければ、愛らし
いリアちゃんと呼んでいただいても是非もなく﹂
﹁じゃあ、シスターリア。今日は何用でしょうか﹂
教会に寄付ならするから、今日は早めに帰ってくださいね。
このシスターがくると、話が長くなる傾向がある。
﹁オックスの街解放、ありがとうございます。オックスの街の教会
も再興できて、アーサマも喜んでます﹂
﹁いえ、なんか街を浄化してくださったそうで、こっちこそお礼を
言います。もらった聖水も役に立ちましたよ﹂
一応、礼儀だからな。城にゾンビがもう出ないと思えば、安心し
て眠れるというものだ。
ゾンビの代わりに変なシスターが湧いてしまったのも困るので、
そっちも教会に早く浄化してほしい。
279
﹁今日は﹃教会より﹄ではなく、シレジエ王国からの依頼で参りま
した﹂
そういや、前にそんな風に言って、からかったことがあった。
アンクを掲げるシスターリア、はいはい覚えてますよ。
﹁あれ、待てよ。王国からの依頼って⋮⋮﹂
﹁そうでーす、私が王国から依頼された﹃魔素の瘴穴﹄封印役でー
す!﹂
やっほーと煌めくアンクを振ってるので、頭が痛くなってきた。
﹁タケル⋮⋮その浮かない顔、是非もないって感じですね﹂
﹁わかってくれますか﹂
クレリック
本当に困ったことになった。
そりゃ聖職者という貴重な人材、仲間には欲しかったけど。
性格が壊れてる人は、いらないんだよなあ。
﹁愛しい私との思いがけない再会に、運命を感じたけれど、このシ
スターリアは、伝道修道女ですものね﹂
﹁いや、そこじゃないんだけど﹂
なんかまた妙なこと言い出しそうな予感。
﹁伝道修道女ではレベルが足りない、聖者か聖女クラスでないと﹃
魔素の瘴穴﹄は封印できない。是非もないと⋮⋮、そう憂いてしま
っているのですね﹂
﹁聖職者のランクとか知らないですけど、封印ができない人は困り
280
ます﹂
なんだ、そういうことか。
封印役が必要なんだから、できないならリアは役に立たない。
﹁では改めて、教会から﹃魔素の瘴穴﹄が封印できる聖者か聖女を
派遣していただくってことで、お願いできないでしょうか﹂
﹁安心してください。御存知の通り、﹃神聖錬金術﹄は、私の得意
魔術なんです﹂
いや、知らないよ。なにもわからないよ。
そういや、リアが作る聖水が強いのは、ゾンビ男爵から聞いて知
ってるけども。
﹁瘴穴の封印には、神聖錬金術を使います。私はまだシスターとし
て未熟ですが、神聖錬金術は聖女クラスに到達してますので、封印
することは可能です﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
じゃあ、交代はしてもらえないんだな。
ちょっとがっかり。
﹁ごめんなさい⋮⋮。いくら私が美しすぎるシスターでも、今求め
られているのは、愛らしさや、麗しさではなく、あくまで戦闘力で
すものね。もっと強力な聖職者を派遣してくれって気持ち、是非も
ありません﹂
このシスターに何をツッコんでも、無駄に話が長引くだけだ。
どうせ交代はないんだろうし、諦めよう。
281
﹁﹃魔素の瘴穴﹄討伐軍は各地に出来ています。教会は、その全て
の軍に封印できる聖職者を派遣しているのです。タケルの偉大さに
比べて、修道女レベルの私では何かと不足かと思いますが、許して
ください。是非もないことなのです﹂
﹁いや、それは本当にしょうがないと思いますよ﹂
アーサマ教会が悪いわけじゃない。
俺が浮かない顔をしてるのは、別の理由だからね。
﹁本当に是非もないことです、償いはいかようにでもいたしましょ
う!﹂
﹁いや、そういうのはいりません﹂
またかよ。
﹁償いにローブを脱げと言われれば、是非もありませんね。あとで
二人っきりの時にたっぷりとお脱ぎしますので是非⋮⋮﹂
﹁だから! 脱げとは言ってないですからね﹂
絶対そっちに話つなげると思ったわ。
ストリッパーかアンタは。
そういや脱ぎたがるのに、今日は目深にフードを被ったままだな。
﹁ちょっと、タケル! 私はストリッパーじゃないんですよ﹂
﹁ああ、すいません﹂
クレリック
さすが聖職者、空気は読めないくせに、心を読んだか。
﹁わたくし、タケルと二人っきりの時じゃないと脱ぎたくありませ
ん﹂
282
﹁ああ、ここは兵士の眼があるから⋮⋮って、なんでだよ﹂
ツッコむつもりなかったのに、ノリツッコミまでしてしまった。
シスターリア恐るべし。
あと、さっきから、近衛として詰めてくれているゴスロー村の少
年の眼が、きついんだけど。
もしかして、俺が権力を使って無理やりシスターを脱がしてると
か、勘違いされてるんじゃないか。
この変態シスターとは何もないからね。誤解だから!
俺はまだ、清い身体ですよ。
そう思ってたら、視線を送ったロスゴー村の少年兵︵ミルコくん
だっけ、サラちゃんと同年代だよね︶が少し困惑した眼をすると。
やがて意を決したように、俺のところまで来た。
﹁将軍、ボクがお邪魔でしたら、下がりましょうか﹂
そんな、耳打ちをしてくる。
本当に止めてくれよ。
子供なのに、変な気を回さないでくれ。
﹁いや、ミルコくん。ずっとここに居て俺を守ってくれ⋮⋮﹂
むしろ頼むから、このシスターと、二人っきりにしないで。
﹁わたくし、なんだか大変失礼な誤解を受けているようですね、是
非とも弁明させていただきたいです﹂
283
いや、むしろ誤解を受けたのは俺じゃないか。
シスターリアには、まっとうな解釈をしてるとおもうが。
﹁わたくしが、タケルの前で真実の姿を露わにしたいと願うのは、
本当に深い深い理由があるのです﹂
﹁冗談じゃなくて、本当の話ですか﹂
もう話が長くなってきたから、勘弁して欲しいんだけど。
﹁本当も本当、大マジです。しかも、すごく重要なお話です﹂
﹁はあ、じゃあしょうがない、手短にお願いしますね﹂
これからシスターリアが仲間になるんなら、聞かないってわけに
もいかないし。
むしろ、ローブを脱ぎたい理由なんてのがあるなら聞いてみたい。
﹁初めて会ったときから、いえ会う前からなんとなくですが、タケ
ルがわたくしの運命の勇者様になると感じていたのです﹂
﹁はあぁ?﹂
あれですか、シスターリアってそういう不思議ちゃん系だったの
か?
ただの変態シスターだと思ったら、メンヘラストーカーも併発し
てたのか。
何が運命の勇者様だよ、背筋がゾワッとしたわ。
﹁またなにか、失礼な誤解を受けているようなのですが⋮⋮﹂
﹁わかりました、詳しく話を聞きますから、もう洗いざらい話して
みてください﹂
284
とりあえず、聞いてから対処を考えよう。
場合によっては﹃魔素の瘴穴﹄より、シスターリアのほうが脅威
になる危険性もある。
ゾンビ男爵倒したと思ったら、とんだラスボスだよ。
﹁念の為に言っておきます。勇者になるって話は、冗談ではありま
せん。わたくしの精神が均衡を欠いているとか、そういう話でもあ
りませんからね。リアルの話として、わたしくはタケルを勇者に認
定することができます﹂
﹁リアルかはともかく、勇者ってのは分かりますよ﹂
ファンタジーにはつきものだからな勇者。
この世界にも、そういう存在があっておかしくはない。
俺だって﹁魔剣の勇者になりたい﹂なんて言ってた時期もありま
した。
ただこの世界は、ファンタジーにしてはあまりに現実的すぎる。
いまさら、勇者になれると言われてもピンとこないのだが。
来るならもっと早く来いよって感じだ。
﹁タケルは、勇者とは何か知っていますか﹂
﹁まあ、俺が知ってるのがそうとは限りませんが⋮⋮﹂
勇者と言ってもいろいろ種類があるはずだ。
異世界から来ることが条件なら、転移した時に何らかのフラグが
あったはずなので。
それはもう違うとは、わかっている。
自分が特別な存在だなんて思い上がるには、この世界は俺に厳し
285
すぎたしな。
﹁では、ご説明いたしましょう。﹃教会﹄が神から生まれたのに対
して、﹃勇者﹄は民から生まれるものです。その二つの存在は、ア
ーサマが創聖された秩序と正義を象徴するものです﹂
﹁民から生まれるなら、もしかしてシスターが認めれば誰でもなれ
るとか?﹂
﹁違います、勇者は単に勇気のある者という意味ではなく、厳しい
条件をクリアした上で、地上に置いてアーサマの代理人たる聖者に
認められて、初めて伝説の勇者として力と女神の祝福を受けること
になります﹂
﹁勇者の試練みたいなのをクリアしないといけないんですか?﹂
だとすると、ちょっと時間的に厳しいな。
オックスの街に拠点を構えた以上、﹃魔素の瘴穴﹄との戦いも間
近だ。
悠長にトライアルなんてやってられないぞ。
﹁いえ、もうタケルは勇者としての条件を全て満たしています﹂
﹁えっ、いつの間に、やっぱり異世界転移が条件なのか?﹂
﹁なんですか異世界って?﹂
﹁いや、違うならいいけど⋮⋮﹂
シスターリアが言うには、勇者となる条件は三つ。
1.魔物から街と教会を解放すること。
2.民に望まれた英雄であること。
3.魔王を討伐すること。
286
﹁私は、まだ聖女にも達してない伝道修道女ですので、勇者認定三
級しか持ってないんですが、それでも勇者になるのとならないので
は、今後の戦いにかなり違いが出ると思います﹂
﹁三級って、なんかアバウトな⋮⋮資格なんですか﹂
アーサマ教会のシステムも、イマイチ理解しがたい。
しかし、聖女とかシスターが勇者を認定するってのは、割とある
パターンだから理解できるぞ。
いや、でもちょっと待てよ。
他の二つはいいとして、魔王なんか倒してないぞ。
思い当たるフシも全くない。
﹁この街を支配してたゾンビ・ロードですよ﹂
﹁ええ、男爵って魔王だったの?﹂
そんな素振りは一切なかったんだが⋮⋮。
いや、たしかにRPG的な魔王の感じを出してたな。
というか、感じを出せば魔王になれるのか。
むしろ勇者より、そっちが認定いらないのかよ。
名乗れば誰でも魔王なのか?
システムとして、いい加減すぎるだろ。
どうなってんだ異世界ファンタジー。
ツッコミは色々湧いてくるが、湧き上がる疑念より、リアと長話
したくないって気持ちのほうが強い。
287
﹁ゾンビ男爵は、まだ生まれたばかりの核でしたが、あのまま魔素
の影響を受け続ければ、百年ぐらいで世界を脅かす魔王になってい
たでしょう﹂
﹁あー、確かにそういうことがあってもおかしくないか﹂
ゾンビ以外のモンスターも従えてたし、本人が無限のパワーがあ
るとか言って、確かにしぶとさだけはたいしたものだった。
そうか、男爵。
あのまま順調に育てば魔王だったんだな。
俺が横槍を入れなきゃ、恨みがあるらしい王国にも仕返しできた
だろう。
本当になんか、可哀想なことしちゃったかな。
これも戦国の世の習いだから、成仏してくれよな⋮⋮。
﹁あのゾンビ・ロードはタケルが、勇者になるための糧となったの
です﹂
﹁そういう言い方やめよう﹂
モンスターとはいえ、可哀想だからね。
﹁それで、タケルは私の勇者になっていただけますでしょうか﹂
﹁なりますよ﹂
他のタイミングだったら少しは迷ったんだろうけど。
対﹃魔素の瘴穴﹄を前にして、猫の手も借りたいこの状況。
この流れでは、ならざるを得ない。
﹁では、このシスターステリアーナの名において、サワタリ・タケ
288
ルをアーサマの勇者といたしましょう﹂
こうして、何の感慨もお約束もなく、俺はシスターリアから勇者
として認定された。
289
23.勇者認定三級
﹁あれ?﹂
﹁なんでしょうタケル﹂
石作りの要塞街オックス。
かつては、ゾンビ男爵の謁見の間だった大部屋。
そこで、政務を執っている俺の前には、旅の伝道修道女リアがや
ってきている。
近衛の少年兵、ミルコくんは役目を放り出して部屋から出て行き
たそうな顔をしている。
出ていく時は、俺も一緒だからな。
﹁いや、こっちの話ですが⋮⋮。この話、まだ続いてるんだなと思
って﹂
いい加減長いよ、シーン切り替わったら終わりにしとけよ。
いつまでリアと話さなきゃいけないんだ。
﹁むしろタケルは、勇者についてもう質問はないのですか。勇者に
なった喜びとかでもいいんですけど⋮⋮﹂
﹁いや、なんかさっきのでもう勇者になったんですか。何の儀式も
なかったようですし、俺の身体に変化もないですけど﹂
そう言うと、リアが申し訳なさそうに跪いた。
クレリック
﹁ごめんなさい、もっと位の高い聖職者なら、パァッとアンクが輝
290
いたり、鳩と天使が舞い降りたり、いろいろ派手な演出があるんで
すけど。勇者認定三級しか取れなかった私には、是非もないのです﹂
﹁あっ、気にしないでいいですから﹂
嫌な予感がする。
﹁もう脱ぐしかありませんよね。ううっ⋮⋮﹂
﹁いやだから、ミルコくんの前でそういう冗談は止めて!﹂ どんな悪評が立つかわからない。
ただでさえ、チョロ将軍とか言われてるのに。
というか、待てよ。
勇者の話ですっかり誤魔化されたけど。
さっきの話、なんでリアが脱ぎたがるのか、ぜんぜん説明になっ
てなかったぞ。
﹁あっ、勇者の能力ですけど、手から剣が出せます﹂
﹁本当に?﹂
手から剣が出せるって手品師かよ。
﹁呪文とか、伝説とか、いろいろあるんですけど、本当はそういう
の関係ないんで、何か自分の強い剣のイメージを叫んでください﹂
えっ、呪文の詠唱とかってあれいらないの?
なんか、リアはそういうこと前から言ってたよな。
まあやってみるか⋮⋮。
﹁そんじゃ⋮⋮北辰一刀流奥義、星王剣!﹂
291
ブンッと音を立てて、俺の手に光の剣が発生した。
人工的な青白い輝きは、一振りするたびに、まるで星のまたたき
を思わせる。
﹁これが、タケルの勇者の剣のイメージなのですね﹂
﹁ああっ、でも、とりあえずもうちょっと形状は工夫しとく﹂
俺っぽいイメージをもっと高めて刃っぽい形状にする。
すごいな、俺のイメージ通りになるわ。
﹁あと勇者専用の特殊呪文を使えるはずなのですが⋮⋮﹂
﹁ああ、俺は魔法力ゼロらしいから使えないのね﹂
ライル先生から、魔法力なしの宣告を受けてるからね。
まあ、光の剣だけで十分ありがたいし、勇者認定の話は信じた。
﹁すみません、せっかくの勇者の呪文が使えないなんて、是非お詫
びしなければ﹂
﹁もう、いい加減止めて! ローブに手をかけるな!﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁あと勇者の特典はないの?﹂
リアと話してると、どこまでも長くなるから要点だけまとめて欲
しい。
﹁あとの特典としては、勇者に生涯の愛を誓う美しいシスターが一
生付きそうだけですかね﹂
﹁それは、特典じゃなくて、呪いじゃないのか⋮⋮﹂
292
﹁是非もありません。聖水が入用でしたら、いつでもおしゃってく
ださい﹂
嘘だろ?
それも冗談だよな。
それこそ冗談ってことにしておこうよ。
ちょっと変なシスターが仲間になったという話と、俺が光の剣の
勇者になったという荒唐無稽な話。
どうみんなに話そうか、すごく悩んでいたのだが。
近くで目撃した近衛兵のミルコくんが、すぐ噂を広めてくれたの
で、わざわざ説明するまでもなかった。
※※※
俺がルーズ男爵の死後に、彼に好意を持ったのには理由がある。
尖塔が崩れ落ちた古城であるが、土台の一階は、ほとんどが無傷
でそのまま使えそうな感じだった。
そこで、俺は素晴らしいものを発見してしまったのだ。
石造りの大浴場である。
なんと脱衣所には、この世界では限定的にしか生産されてない高
価な鏡まで置かれていた。
お風呂場の中まで鏡を置くという発想に至らなかったのは惜しい
ところだが、十分に及第点といえるだろう。
オックスの街は石材と木材が豊富だからこそ、素敵な大浴場を作
ったのだろうが、この時代の人間としては、素晴らしい感性の持ち
主と称賛するしかない。
293
生きてるうちに男爵に会って、お風呂の偉大さや心地よさについ
て語り合えていたらと思うと、残念でならない。
風呂好きの男が、ゾンビになってしまうというのは何という悲劇
であるのだろう。
俺は創聖女神アーサマの信者ではないし、彼が行く先が天国か地
獄か知らないが、そこに大きな風呂があることを祈ってやまない。
そんな男爵の置き土産であるが、ちゃんと近くの泉から水が引け
て焚けることを確認しても、俺はすぐには自分で入らなかった。
街の復興に従事した兵士や、大変な仕事を率先してこなす部下た
ちから、ゆっくりと風呂に浸かって安息してもらうことにした。
最初はおっかなびっくりであった彼らも、石鹸と風呂の心地よさ
にすぐ気がついたようで満足していただけた。
すごく感謝されたが、これも先行投資のつもりなのだ。
将来的な話だが、俺は石鹸だけでなく風呂桶や手押しポンプなど
も含めて、風呂文化そのものも売り物として広めるつもりなのだ。
あと他に功労者として、ロールが街の近くの洞穴にオオコウモリ
の糞が溜まっているのを発見して、良質な硝石を取ることに成功し
たので、ご褒美としてたっぷり風呂に浸けてやったら、﹁うひゃー﹂
と泣いて喜んでいた。
さて、そんなこんなでいろんな人を風呂に浸けてから、ようやく
こっそりと俺はお湯を入れ替えて一人で風呂を楽しんで。
﹁ふうっ、ミッションコンプリート﹂
意気揚々と風呂から上がり、バスローブに身を包んで、脱衣場で
294
冷やした勝利のアイスコーヒーを飲んでいる。
なんでこんな手間をかけたかといえば、どうも最近風呂絡みのト
ラブルが多すぎるからだ。
風呂場でも、フラグが立たないように静かに浸かっていた。
ラブコメじゃあるまいし、と異世界に来る前の俺は思っていたが、
周りに女子が多い環境だと風呂場で鉢合わせなんてトラブルは本当
に起きる。
いきなり風呂に入ると言うと、シャロンかリアあたりが間違えて
入ってくるフラグが立つんじゃないかと予想したので︵考えすぎか
もしれないけど︶。
こうしてちょっと段階を置いたわけだ。
﹁あっ、ここに居たんですかご主人様﹂
﹁おう﹂
ほら、噂をすると脱衣所にシャロンが入ってきた。
こういうことが起こりえるのが、シンクロニシティと言うか、フ
ァンタジーだよな。
﹁もしかして、お風呂入ったんですか?﹂
﹁うん、先にいただいたぞ﹂
﹁酷い⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
なんでそうなる。
﹁ご主人様、髪を洗ってくれるって約束したじゃありませんか。お
295
風呂があるって聞いた時に、私がどれほど期待したかわかってるん
ですか!﹂
えっ、あれって約束になってるのか。
その場限りの話だと思ってスルーしたんだが。
﹁あー、そうか悪かったな。じゃあ、また今度な。いい湯だったか
らシャロンも入ってくるといいぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
なんか明らかに機嫌悪そうに、獣耳を伏せている。
さっさと退散した。
俺は悪くないよな、もう大人なんだから髪ぐらい自分で洗えるだ
ろ。
※※※
ルーズ男爵に、もう一つ好意を覚えるのが、大きな寝台だ。
俺は居城で一番良い部屋、つまり男爵の寝室を使わせてもらえる
のだが、これも素晴らしい。
すっごい大きなベッドで、ゴロゴロと寝返りも打てるのだ。
これがどれほど贅沢なことか、この世界の厳しさを分かってる俺
には、まさに王侯貴族の暮らしだと感激する。
いやあ、モンスターと戦争に来ているとは思えない。
柔らかいベッドの上に肌触り滑らかなシルクのシーツを乗せて、
ゆっくりと眠ることができる。
最高すぎるだろ。
296
この時代に、こんないい暮らしができるなんて、男爵はよっぽど
儲けてたんだな。
木材や石材は、この時代の貴重な建築資材だから上手いことやっ
てたんだろう。
生前に出会えていたら、商売の話でも盛り上がれただろうに本当
に残念。
﹁んっ、シャロンどうした﹂
俺が風呂にも入ったし、ゆっくり寝ようと思ったら、俺の寝台の
ところにシャロンがやってきた。
なぜか、シャロンは木綿の下着姿だ。
薄衣一枚の姿で、しかもそれなりに発育よく育っているので︵と
いうか、俺より年上になってしまったので︶ちょっとドキッとする
が、ああそうか風呂に入って寝るところなのかと思う。
この時代の人はパジャマとかないし、こういう姿で寝てもおかし
くはない。
﹁本日より、奴隷少女近衛銃士隊は、寝室でもご主人様の護衛をす
ることにしました﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
どういうことだ。
﹁もちろん、奴隷がご主人様のベッドに入るなどという無作法はい
たしません。ここで結構ですので、寝させていただきます﹂
そういうと、シャロンはゴロンと部屋の石畳の上に寝そべった。
297
﹁おい!﹂
ダメだろ、風呂上りに身体が冷えちゃうだろ。
女の子が腰を冷やしたらダメなんだぞ。
俺はベッドから、慌てて身を起こして、シャロンを立ち上がらせ
る。
﹁どうすればよろしいでしょうか﹂
﹁いや、俺は寝てる時に護衛とかいらないし、ちゃんと自分の部屋
があるんだからそこで寝なさい﹂
また、石畳の上にゴロンと寝そべるシャロン。
こうなると、聞かないんだよな⋮⋮。
﹁分かった、じゃあベッドの端っこのほうで寝なさい﹂
﹁ご主人様、ありがとうございます!﹂
シャロンが下着姿だと、一つ面白いことがある。
獣耳が立ってるだけじゃなくて、小さいオレンジ色の尻尾が、お
尻で揺れてるのが見えるのだ。
ひっそり揺れてる尻尾を見たら、ダメだとも言えなくなってしま
った。
もう死んでしまったけど、俺も小さい頃、犬を飼っていたことが
ある。
普段は、自分のハウスで寝ていたけど。
いつの間にか、俺のベッドの下の方で丸まって寝ていたりもした。
あの時、犬は何を考えていたのだろう。
298
寂しかったんだろうか、もっと俺と一緒にいたかったのか。
いつもそうだ。
死んでしまってから、もっと可愛がってやれば良かったと悔やむ
のだ。
だから、寝るぞと明かりを消してから。
端っこで寝てたはずのシャロンが、いつの間にか俺にくっついて
来ても、何も言わなかった。
もう子供ではないけど、飼い犬だと思ってくっついてきたら、可
愛がってやればいい⋮⋮。
﹁⋮⋮って、無理だろ﹂
飼い犬には、大きな柔らかい胸も、お尻もついてないし、風呂上
りの女の子の甘ったるい匂いはしないんだよ。
今日は我慢できるけど、これが毎日続くって結構きついぞ。
安眠妨害すぎる。
﹁スッースッー﹂と、静かにシャロンが寝息を立てているのを確認
して。
絡み付いている手足を外してちょっとずつ、ベッドの端に移動す
る。
ようやく眠れる、そう思ったらまた気がついたら少しずつ寄って
くる。
柔らかいのが当たって、身動きが取れない。
﹁ご主人様ぁ⋮⋮﹂
299
耳元で甘ったるい声が聞こえた。
やめろ、なんかゾクゾクするから。
起こしてしまっても悪いけど。
頼むから、もうちょっと離れてくれ。
しかし、この手に触れている柔らかいのは、シャロンの腕か、太
ももか、胸なのか。
俺の拙い経験値では、対処法が思い浮かばない。
もう考えるな、何も考えるな。
﹁色即是空、空即是色⋮⋮﹂
念仏を唱えながら、なんとか耐えて眠るまでに、だいぶ時間がか
かったのだった。
これが、リアルファンタジーの厳しさだとでも言うのか。
未経験者には、甘くない世界。
いや、訂正、甘すぎて息が詰まりそうだ。
300
24.魔の山
山間の街オックスから北西に﹃魔の山﹄はそびえ立っている。
魔の山とは、あまりにもそのままの名前であるが、そうと呼ぶし
かない存在である。
他の山とは明らかに植生の違う、硬く鋭い黒杉が一面に覆う。
黒い山は、それ自体がまるで多数の槍がせり出した天然の要塞に
すら見える。
そして、山の頂にある﹃魔素の瘴穴﹄から、溶岩のように人間の
眼に見えぬ魔素が噴き出して止まらない。
今を遡ること二百四十年前。
その﹃魔の山﹄から、無限に吹き出る魔素を止めた男が居た。
かつての大英雄、レンス・アルバート。
魔物を統べる魔王を倒し、モンスター活性化の原因、﹃魔素の瘴
穴﹄があることを突き止めて、封印に成功した伝説の勇者レンス。
彼が﹃魔素の瘴穴﹄を封印したことによって、モンスターの大量
発生が止まり、このシレジエ地方にも人が住めるようになり、やが
て国が生まれた。
シレジエ王国の建国である、レンス・シレジエ・アルバート一世
とは、彼その人のことである。
仮に、封印がもう一度解けたとするなら、再度﹃魔の山﹄に対抗
301
するため軍を置くべきは、王都シレジエ。
そして次に、シレジエから挟み撃ちにするために、魔の山から下
った麓の街オックスがもう一つの拠点となるであろう。
そのように考えて、建国王レンスは、王都シレジエと要塞の街オ
ックスを作った。
※※※
﹁前と一緒だった﹂
オックスの古城へと、早馬での偵察を終えたルイーズは帰ってく
るなり、そう一言つぶやいた。
モンスターが活性化しているだけで、今の﹃魔素の瘴穴﹄に魔物
を統べる魔王は存在しない。
原因も対処法も分かっている。
かつての英雄が初めて封印した時代に比べれば、格段にマシとい
えるクエスト。
しかし、問題点が一つだけ。
ワイバーン
﹁この﹃魔の山﹄には飛龍が巣食っている﹂
ドラゴンの亜種だ。伝説のドラゴンが四本足で知能も高く魔法ま
で使うRPGのラスボス格であるのに比べて、ワイバーンは二足歩
行で知能も低く小さい。
その力の差は、大人と子供ぐらいある。
空を飛べることは厄介だが、竜騎士に飼われて乗りこなされるワ
イバーンが居るほどだ。
王国騎士団にかかれば、倒すのはそこまで難しい敵ではないとい
302
う。
しかし、それは魔素の瘴穴の影響がなければの話だ。
瘴穴のすぐそばに住み、強大化しているワイバーン。
その鱗は黒色に染まり、黒飛竜とでも呼ぶべき存在に変化してい
る。
その力は、上位種のドラゴンに迫るそうだ。
﹁だから、私たちは黒飛竜の群れと﹃魔の山﹄を分断しようと考え
た﹂
ルイーズが率いた討伐隊が取った戦術はこうだ、まず﹃魔の山﹄
に攻め入って黒飛竜と闘いつつ、魔の山から引き剥がす。
その間に、聖女が﹃魔素の瘴穴﹄を封印しに赴く。
いくら強大化しても、ワイバーンはドラゴンほど知恵が回らない。
単純な陽動だが、成功率は高い作戦といえる。
だが、失敗した。
﹁封じ込めようとした聖女が、任務を果たせなかった﹂
封印の儀式にどのようなミスがあったか。
あろうことか、逆に封印はさらに開いてしまい、モンスター活性
化は致命的なものとなった。
魔素のさらなる噴出に荒れ狂う黒飛竜の群れと戦って、聖女を救
出しようとした討伐隊も、そのほとんどが戦死した。
﹁なぜ、失敗したのかすら分からなかった。指揮を執った、私のせ
いと言われても仕方がない﹂
303
そう前回の戦いを振り返って、呆然と呟くルイーズ。
卓を囲むみんなは、黙りこむ。
シスターリアが、手をあげて発言した。
﹁ルイーズさんと一緒に行った聖女は、わたくしのお師匠様でした。
慈悲深きシレジエの聖女、この国で一、二を争うの神聖錬金術師だ
った彼女が、封印に失敗するとは考えられません﹂
﹁しかし現に⋮⋮﹂
ルイーズが反論するのを、リアは手で抑えて続ける。
﹁普通ではない状態だったのでしょう﹂
﹁どういうことだ⋮⋮﹂
ルイーズが、茜色の瞳にギロっと凶暴に煌きを見せる。
それに臆すること無く、リアは続ける。
﹁アーサマ教会の上層部は、何らかの妨害工作があったと推測して
います﹂
﹁誰がそんなことをする、シレジエに敵対する近隣国か? 国境を
接している他国だって、﹃魔素の瘴穴﹄から大量発生したモンスタ
ーの侵攻を受けているんだぞ﹂
瘴穴の蓋を開けて得する人間などいない。
ありえないと言いたい気持ちは分かる。
ルイーズたちだって、細心の注意と、できる限りの危険性を考慮
した作戦で攻めたはずだから。
﹁その妨害工作をしたのが、味方のはずの騎士であればどうですか。
お師匠様は人を疑うことを知らない方でした。例えば、味方と信じ
304
ホーリーポール
た人に、こっそりと封印に使う聖棒を偽物にすり替えられるなどす
れば是非もなく⋮⋮﹂
﹁それこそありえん!﹂
ルイーズにとって味方の騎士団も、兵士も自分の部下であり同僚
だからな。
信じたい気持は、よく分かる。
﹁是非もありませんから、ありていに申し上げます。当時王国騎士
団の副団長格であり、ルイーズさんと団長の座を争っていたゲイル
将軍はどうです﹂
この世で最も嫌っている相手の名前を出されて、ルイーズは詰ま
った。
﹁いや、確かにゲイルは最低な男だと思う。出世のために、他の人
間を陥れることも平気でする。しかし、私が言うのも何だが﹃魔素
の瘴穴﹄の封印が失敗したために、どれほどの民が死んだというの
だ⋮⋮﹂
いやいやと、考えたくもないというように。
ルイーズは燃えるような赤い髪を振り乱して、苦悶の表情を浮か
べている。
﹁ではお聞きしますけど、王都討伐軍の司令官としてゲイル将軍の
動きはどうですか。まるで、﹃魔素の瘴穴﹄封印なんてどうでもい
いような不可解な動きじゃないですか。王国軍内でも、民を救おう
とする反対派閥が何度も決起しては潰されています﹂
うーん、それはあのゲイルが無能なだけじゃないかな。
305
﹁ありえぬ! いやしくも、この国の誇り高き騎士が。しかも、近
衛騎士団長にまでなった者が、己の私利私欲のために﹃魔素の瘴穴﹄
封印を妨害したなどと﹂
﹁状況的に考えると、是非もないことです﹂
﹁バカな! 騎士が国を裏切るなど、それだけはあってはならんの
だ。元騎士団に居た人間として、いくらあのゲイルでも、断じてあ
りえんと言い切らせてもらう!﹂
ルイーズが、いつになく荒れている。
そりゃ、冷静では居られない話だよな。
ふんきゅう
紛糾する作戦会議の中、ずっと静かにルイーズの話を聞いていた
ライル先生が質問した。
﹁ルイーズ団長、私も言いたくはないですが、そのあり得ないこと
があったら、どうするんです﹂
﹁そんなこと、騎士が国と民を守らないのなら、もうその時はこの
国の滅びだ⋮⋮﹂
なんだか、本筋から話が外れてるなあ。
俺も口を挟むことにした。
国の内紛とか、裏切りとか、勝手にやりたい人がやってくれれば
いいけど。
今は目の前のことだ。
﹁まあ、それは一旦置いておいて、瘴穴の封印はどうしようか﹂
306
俺が突然口を挟んだので、言い争ってたルイーズたちがきょとん
としてこっちを見る。
ああ、ごめん。シリアスなシーンだから邪魔しちゃいけない空気
だった?
﹁そうですね、基本的な作戦は、ルイーズさんが率いた討伐隊と変
わりません。魔の山からワイバーンを引き離して、リアさんが﹃魔
素の瘴穴﹄を封印する。大砲がある分、かなりやりやすいとは思い
ますよ﹂
ライル先生は、少しためてからこう付け加えた。
﹁何者かの妨害が、なければの話ですがね⋮⋮﹂
妨害する者などいないというルイーズの意見を、ライル先生は絶
対に信じていない。
ライル先生の作戦がどこまで深いかは分からないが、一見して澄
ました顔を見てればわかる。
この先生の顔は、何か企んでいる。
きっと、妨害があることも考慮した秘策を立てるつもりだろう。
策は、密を持って良しとす。
俺はいちいち細かい作戦までは尋ねない。
先生は言わなくていいことは言わないし、俺が知っておくべきこ
となら教えてくれるだろう。
誰かが、封印を妨害するような真似をしたのか、してないのか。
そんなことを悠長に調べるより、俺としては﹃魔素の瘴穴﹄封印
が先決だ。
一日も早く封印しないと、またモンスター活性化で犠牲がでるの
307
だから。
ただ、先生が十分と思うまで、きちんと準備を整えてからだけど。
俺たちに被害が出たんでは、かなわないから。
※※※
ライル先生は、やり過ぎじゃないかと思えるぐらいオックスの街
を要塞化している。
新しく街を作り変える勢いで土木工事している。
堀を深くして、尖塔も補修して、固定砲台にしちゃった。
何と戦うつもりなのか先生。
後方のロスゴー鉱山に居るナタルと連絡を取り合って、イエ山脈
鉱山組合と連携して新型大砲の開発・増産を進めているらしい。
ちょっと目の前にある山に登って、ちゃっちゃと封印するだけな
のに、ここまでする必要あるんだろうか。
いつになったら、﹃魔素の瘴穴﹄を攻めるのか。
実は王都からも催促の手紙があったらしいんだが、先生は握りつ
ぶしている。
大丈夫なのか。
まあ、先生がやることなんだから全部意味はあるんだろう。
新型の大砲はともかく、俺もライフルが欲しいしね。
設計図は何枚も送ってるんだから、頼むぜ鍛冶屋さんたち。
ルイーズに率いられた義勇兵団も、先生の指図で、かなり複雑な
機動訓練ができるようになった。
308
オーバーキル
魔素の瘴穴がある山の上から、定期的にモンスターの群れが降り
てくるんだが、訓練のよい相手になってしまっている。
オーバーオ
キー
ルバーキル
弾がもったいないからと大砲すら使わず、鉄砲だけで虐殺。さっ
さと虐殺虐殺。
俺はというと、また馬車の上で観戦将軍をやっているだけだ。
シャロンとサラちゃんが見張ってるので、戦場に出られない。
戦況を眺めてる俺は、だんだんモンスターに同情するようになっ
てきた。
せっかく勇者になって、光の剣があるのに、あいかわらず俺の出
番がないしなあ。
勇者がずっと馬車に放り込まれたままって、どんな酷いドラゴン
クエストだよ。
﹁タケル、ここに居たんですか﹂
﹁ああ、リアか﹂
すまんなリア、せっかく勇者にしてもらったのに秘密兵器のまま
終わりそうだぞ。
なんだか、リアを見るシャロンとサラちゃんの瞳がトゲトゲしい。
大丈夫だぞ、この人は近衛を狙ってるわけじゃないから。
俺もリアのキャラになれるまで時間がかかったから、不審人物を
見る目で見てもしょうがないけどね。
実際、言動は不審だ。
﹁ライル軍師に聞きましたけど﹃魔素の瘴穴﹄を攻める日取りが決
まったそうですね﹂
309
﹁ああ、ようやくな﹂
先生のことだ。
さっさと行かず、こんだけ溜めに溜めた理由もおそらく何かある
はず。
むしろ何が起こるのか、楽しみにしてるぐらいだ。
﹁封印の際には是非、勇者は封印の聖女と共にあらねばなりません﹂
﹁一緒に魔の山に登れっていうのか。俺としては、先生がそういう
作戦でいいって言うなら構わないけど﹂
話を聞いてると、光の剣が封印に役立つ場面ってありそうにもな
いんだが。
最初に封印したのが勇者だから、儀礼的にそうなら是非もない。
あっ、いやだな。リアの口調が感染った。
﹁軍師の許可はとってあります、是非もないです﹂
﹁笑うなリア﹂
おもむ
﹁真面目な話しです。わたくしのお師匠様は、封印に赴いてなくな
りました。黒飛竜を先に引き離すと言っても、危険はあるでしょう
?﹂
﹁そうだな、でも作戦を信じてるから大丈夫だ﹂
リアの神様がアーサマであるのように。
俺の作戦の神様はライル先生だから、先生が大丈夫って言ってる
限り。
敵を恐れる気持ちはないんだよ。
﹁タケルは信心深いんですね﹂
310
﹁だろう﹂
まぶか
不意にリアは、形の良い口元をほころばせた。
目深いフードに隠れているけど、口元だけは辛うじて見える。
そういやここに来てから、リアは本当にフードを脱がない。
一度も脱いでいない。
脱ぎたがりってのは、単なる冗談だったのかもしれない。
まあフードを被り続けてるのも、絶対に何かの振りだと思うから。
こっちから顔を見せろなんて、絶対言わないけどね。
余計な藪をつついて蛇を出すのはゴメンだ。
サクラメント
﹁わたくしも覚悟が決まりました。勇者に女神の加護を与える秘跡
ひせき
の準備を整えて置きますので、作戦開始前に時間を取ってください﹂
﹁秘跡?﹂
聞きなれぬ単語だ。
﹁アーサマ教会、秘中の秘の儀式です。聖女の祝福により、勇者の
対魔法力と物理防御力を格段に高めます﹂
﹁俺もそういうの結構好きだけどさ、なんか代償とかあるんじゃな
いだろうな﹂
良い話にはデメリットもある。
﹁分かってるとは、さすがですね﹂
﹁商売やってると疑い深くなるんだよ﹂
パターンだしな。
311
﹁秘跡には安全な方法もあります。しかし、タケルは勇者としては、
魔法力もなく戦闘力にも欠けています。私だって、聖女には至りま
せん。ですから、リスクを取っても禁呪を使って、お互いの力を極
限まで高めようと思っています﹂
﹁戦闘力に欠けるか、ハッキリ言ってくれる﹂
まあ、遠慮のないところは、リアの良いところだよ。
それは冗談でなくな。
﹁禁呪は、あまりに危険すぎると、教会から禁じられた秘跡の授け
方です。もし、タケルの精神が儀式に耐えられなかったら、大事な
ものを失ってしまうことになるでしょう﹂
怖い、たしかに怖いが、そんな振りをされたら断れない。
俺だって意地があるし、忍耐力だけには自信がある。
死にはしないんなら、辛い試練でもトライしてみてもいい。
﹁儀式失敗の時は、わたくしも是非なくシスターとしての資格を失
ってしまうかもしれません。何度も迷いましたが、そのための覚悟
をして参りました﹂
いつになく、リアは真剣だ。
そりゃ自分も高いリスクを負うのだから当たり前か。
ホーリーポール
﹁その儀式に失敗しても、﹃魔素の瘴穴﹄封印はできるのか﹂
﹁すでに、封印のための聖棒作成は終わっております﹂
﹁じゃあ、リアがよければやる﹂
﹁わたくしは覚悟を決めたと、すでに申し上げたではありませんか﹂
312
リアは、白銀に輝くアンクを掲げてみせる。
いい覚悟だ。
﹁よしじゃあ、この戦闘終了後に少し休んでから、今晩にも﹂
﹁では、是非もなく﹂
勇者になるときは試練も感慨もなく、あっけなかったが。
ついに来たかって感じだ。
強い力を得るためには、乗り越え無くてはならない壁があって当
然なんだ。
俺だって男だ、覚悟は出来てる。
それこそ是非もないさ。
313
25.禁じられた秘跡
サクラメント
しばらく休んでから、今晩の予定はすべてキャンセルして禁呪と
呼ばれる秘跡に臨む。
なぜか、風呂を沸かしてくれと言われたのが謎なのだけど。
もしかしたら大量の聖水を使うのかもしれない。
水垢離とか西洋にもあるんだろうか、でもお湯で水垢離はないよ
な。
忍耐力を試すため、熱湯風呂に浸けられたらどうしようと思いな
がら︵まさかな︶。
風呂場に行くと、目深なフードをかぶったリアが脱衣所で待って
いた。
﹁お待ちしておりました﹂
﹁うん、いつになく畏まってるな、リア﹂
まぶか
彼女は、バサッと目深に被っていたフードを上げた。
少しウエーブのかかった淡い金髪の髪が揺れる。
リアは、エルフに見紛う美しい顔立ちだ。
黙っていれば、慈愛に満ちた聖女にも見える、黙っていれば。
海のように蒼い瞳が、これ以上ないぐらい真剣な眼差しでこちら
を見つめている。
空気が重い、そうか覚悟してきたのか。
314
俺は、緊張に思わず息を呑む。
いつもの、ふざけたリアじゃないから調子が狂う。
﹁まず、最初に絶対に守っていただかなければならないことがあり
ます﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
リアは、ローブに手をかけるとバサッと下に落とした。
あれ⋮⋮、シスターのローブの下は、レースの付いた純白の下着
姿だった。
現代のに比べると、ちょっと野暮ったい感じがするが、きちんと
編み模様がついた光沢のあるシルクの下着なんてあるんだ。
かなりの高級品であろうとは見受けられた。
と、同時に、俺は心の底から驚いていた。
リアは、着痩せするタイプだった。
いや、お腹は太ってない。むしろほっそりしているのだが。
胸が、これ何カップだ⋮⋮、俺のおっぱいスカウターが壊れてい
る。
計測不能だと。
バカな、このサイズは人類にはありえん。
パッドで底上げしているだけだろ。
﹁絶対、エッチな気持ちになってはいけません⋮⋮﹂
﹁無理だろ!﹂
315
﹁タケルこれは、冗談じゃないんです!﹂
そういいながら、プチン、プチンとブラのホックを外した。
ひざまず
ポロッと落ちた、布の代わりにぷるんと姿を現したチョモランマ
を前に。
俺は思わず跪きそうになった。
パッドなんか、なかったじゃないか。
何食べたら、このサイズになるんだよ。
マスクメロンか?
﹁グッ⋮⋮、冗談じゃないなら、これはなんのつもりだよ!﹂
﹁これは、本当の本気で必要なことなんです﹂
だからそう言いながらショーツを脱ぐな!
ああっ、あっけなく脱ぎ捨てた。
ブロンドは、下も淡い金髪だったのか。
あまりにあっけらかんと裸になるから、リアクションできなかっ
たじゃねーか。
﹁わかった、説明を聞こう﹂
﹁その前にタケルも脱いで裸になってください。そうじゃないと説
明しません﹂
はぁ⋮⋮どうして、どいつもこいつも。
俺はどうせチョロなので、この勢いで来られては脱ぐしかない。
相手に脱がれるという高いハードルを無理やり飛び越させられた
からな。
316
自分が脱ぐぐらいは、という気にさせられる。
﹁シスターの貞節の誓いには、みだりに肌を見せてはいけないとい
うものがあります﹂
﹁だったら何で脱いだ⋮⋮﹂
もうツッコミするのも、悲しくなってくる。
というか、いきなり意表を突かれたから、リアの身体まともに見
ちゃってもう⋮⋮。
﹁しかし、貞節の誓いには抜け穴があります﹂
﹁とりあえず、聞くよ﹂
﹁では、お風呂に入りながらゆっくり話しましょう﹂
﹁ああ、もういいよ。わかった﹂
さっさと、大浴場に入る。
裸で向き合ってるより百倍マシだ。
﹁タケル、かけ湯しないとダメですよ﹂
﹁言われなくても知ってるよ!﹂
俺を誰だと思ってるんだ。江戸っ子の風呂好きだぞ。
ざぶんと風呂に入ると、いい湯加減だった。
こんな冷めた気分の時でも、お風呂は温かくて気持ちいい。
﹁では続きを話します。実はお風呂というのが伏線になっているん
です﹂
﹁ああもう、伏線とかどうでもいいよ﹂
317
したり顔で、自分から伏線がどうとか言う奴は嫌いだ。
もっとこっそり張れよ、気付かれないように。
﹁貞節の誓いの補足事項に、﹃でもお風呂場で偶然鉢合わせは仕方
ないよね﹄というアーサマのありがたい教えがありまして﹂
﹁君んとこは、女神様もそういうアレなのか⋮⋮﹂
教義が、ラッキースケベ的なのはオッケーとか。
﹁それに、どう考えてもこれは偶然じゃないだろ﹂
﹁この出会い必然ですよね、是非もありませんね﹂
この一緒に湯船に浸かってる状況で、頬を赤らめて照れるな!
ひせき
﹁それで、まず対魔法力を高める秘跡なのですが﹂
﹁そうだよそれが聞きたかった!﹂
﹁本来ならただ聖女が勇者を抱きしめるだけなんですけど、服の上
からだと与えられる力が弱いんです﹂
﹁ちょっと待って﹂
﹁まず後ろから行かせていただきます!﹂
﹁待ってっていったじゃんか!﹂
後ろから、スーと湯船を泳いできて抱きついてきた。
﹁背中に当たってるんだよ!﹂
さすがに、当ててんのよ、とは返してくれないか。
318
﹁ごめんなさい。わたくし、ちょっと身体にお肉が付きすぎて、気
持ち悪いですよね﹂
﹁ううっ、いや気持ち悪いことは⋮⋮﹂
冗談で返してくれた方が、マシだった。
リアは、真剣に背中にオッパイをこすりつけてきてるのだ。
これは冗談でもなんでもなく、肌を通して感じる。
本当に心がこもった、柔らかい感触だった。
だから余計に困る。
﹁これ、本当に儀式なんだよな!﹂
﹁そうですよ。だから、エッチな気分になるなって最初に言ったん
です﹂
だからそれが、無理なんだよ。
童貞舐めてるだろ、もう湯船の中でマズイことになってるんだぞ。
﹁つぎ、前行きますね﹂
﹁いや、ちょっと今はマズイ待って!﹂
﹁タケル、気を強く持ってください。これが禁呪と言われるにはわ
けがあるんです﹂
﹁いや、わけなんか聞かなくてもわかるよ﹂
俺は、慌てて泳いで逃げようとするが。
なぜかお湯が絡みあうように、動きが鈍くなってきてる。
くそっ、もしかして俺の気持ちは、むしろして欲しい方向に流れ
ているのか。
319
すぐ湯船の四隅に追い込まれてしまった!
﹁これまで、多くの歴史上の勇者と聖女がこの禁呪にトライして、
儚くもその純血を散らしてきました﹂
﹁そりゃ、教会から禁止もされるわ!﹂
リアは本当に容赦がない、本当に前から来やがった。
﹁大丈夫ですよタケル、アーサマは堕胎を禁じていますし、もしも
のときは愛の無い子供でも立派に育てて見せますから﹂
﹁いやっ、なに人聞きの悪いこと言いながらやってんだよ!﹂
ああっ、これは本当にマズイ⋮⋮。
﹁大丈夫ですか、あと五秒だけ耐えてください!﹂
﹁ううっ⋮⋮﹂
うー、なんとかセーフ⋮⋮か?
ひせき
﹁対魔法力強化の秘跡完了しました﹂
﹁ありがとう﹂
俺もなんでお礼を言ってるんだって感じだが。
まあ、してもらったんだからお礼で間違ってないのか。
ひせき
﹁どういたしまして、次は物理防御力強化の秘跡に入ります﹂
﹁ちょっと待とう、本当に俺のほうが、心の準備できてないから﹂
まださっきの余韻が残ってる。
320
﹁覚悟はできてるって言ったじゃないですか﹂
﹁こんな儀式だとは、思ってなかったんだよ﹂
﹁安心してください、物理防御力強化のほうはさっきよりはマシで
す﹂
﹁どんなやり方なの﹂
﹁本来は、一回キスするだけで終わります﹂
﹁あー、なんとなく読めた﹂
ザブーンとお湯から身を起こすと、俺の髪のてっぺんにチュッと
キスをした。
﹁身体中にキスをすることで、防御力を満遍なく強化します﹂
﹁そうなのか﹂
目の前に、リアの胸が来てる以外はダメージ少ないな。
あと言いたくないけど、さっきオッパイお湯に浮いてたからね。
浮力高すぎだろ。
リアは、俺の頭のてっぺんからゆっくりと舐めるようにキスをし
てくれる。
髪がくすぐったい感じがして、なんとも言えない気持ちになる。
おもむ
本来の儀式であれば、戦いに赴く勇者を。
聖女が抱きしめて、さっとキスをして女神の祝福を与える、絵に
なるシーンだったのだろうな。
誰がそれを、こんなエロな儀式にしてしまったんだ。
321
どっかで伝説がネジ曲がってるだろ。
﹁えっ、口もするのか﹂
﹁当たり前ですよ、口というか、口内も満遍なくしますよ﹂
ディープキスじゃねーか。
﹁口内とかいうなよ﹂
﹁無敵の泉に浸かったと思ったら、口内を浸けてなくて喉を突き刺
されて死んだドラゴンの話、知らないんですか?﹂
﹁いや、そう言えばもっともらしいけど、俺は経験ないんだぞ﹂
ディープどころか、浅いのもないよ。
﹁わたくしも、したことないですよ。なんですか、わたくしが初め
ての相手だと不服とか、他に好きな子がいるから唇は許せないとか、
そういうことですか﹂
あっ、リアでも、そういうのは機嫌悪くなるのか。
こいつは、動じないのかと思ってたわ。
﹁いや、特に不服ってことはないんだけど。そういうのって、やっ
ぱ好き同士がやるものというか⋮⋮﹂
﹁それって言外に、私のこと嫌いって言ってますよね﹂
﹁いや、そういうことはない!﹂
﹁じゃあ、どういうことなんですか。なるべくさっさと儀式終わら
そうと思ってましたけど、そこだけはハッキリしておかないと、わ
たくしだって、もう続けられません﹂
322
﹁うーん、なんというかさ。俺たちって、まだ出会ってそんなに経
ってないわけじゃない。会ったのもついこないだで、デートもして
ないというか﹂
俺の考えは古いのかもしれないが、付き合うまでに色々と紆余曲
折を経て、告白イベントなどがあり、お互いにカップルになって、
何度かデートを重ねたあとにようやく愛情も深まって許すもんじゃ
ないか、唇って。
なんだウザイか。俺はデートとか経験ないからな。
夢見てるんだよ、悪かったなちくしょう!
﹁タケルって変わってますよね。お互いに裸でお風呂に入ってる状
態で、デートをしてないからキスはできないとか、子供でも言わな
いと思います﹂
﹁あーまあ、子供は逆にあっさりとキスしそうな感じなんだが﹂
﹁じゃあ今だけ、子供の気分で受け入れてください﹂
そう言うと、リアは俺と唇を重ねた。
﹁どうですか、何か変わりましたか﹂
﹁いや⋮⋮、あっけないなとは思ったけど﹂
﹁一応、唇にキスすることで全体的に防御力が上がってるはずなん
ですけどね﹂
﹁ああそっちか、うーむ﹂
そっちもあまり変わったような気がしない。
323
﹁やっぱりそうですかー。わたくしが聖女としてレベルが足りてな
いから﹂
﹁いや、俺が勇者として未熟だからじゃないか﹂
﹁じゃあもっとキスしますよ、そしたら変わるかも﹂
もう一度、柔らかいリアの唇が俺のと触れ合う。
﹁さっきよりは⋮⋮﹂
さっきよりは、味わうことができた。
﹁そうよかった、じゃあもう一度﹂
柔らかい感触。ほんの少し唇で唇を挟まれる。
リアが、ふわっと微笑んだ。
あっ、なんだろう今の感覚。
﹁感じた、今ちょっと魔法力が出ましたね﹂
﹁そうだな、なんかちょっと違った﹂
俺は、魔法力ゼロのはずだから感じないはずなんだけど。
たぶん、何かが変わったと感じる。
また何度かキスをする。
いつまで繰り返すのだろうかと思ったらリアが。
﹁じゃあの、今度は口の中⋮⋮﹂
324
そう言って、唇の中に温かい舌を這わせてきた。
お風呂場に、クチュクチュっと音が響く。
なんだこの淫靡さ、キスだけで腰が抜けそうだ。
﹁んんっ!﹂
﹁んっ、ごめんなさい息苦しかったですか﹂
﹁いや、平気だけどいきなりだったから﹂
﹁そうですよね、でも唇のキスは儀式の要ですから、すごく大事な
んでおざなりにできないんです﹂
そういうと、また唇の中に舌をねじ込んでいた。
クチュクチュと、音を立ててリアの舌と俺の舌が交じり合う。
﹁んっ⋮⋮リア、あのさ﹂
﹁ごめんなさい、わたくしの唾液なんて汚いですよね。でも、舌が
喉の奥まで届かないし、そこまで強化しないとけないから﹂
いや、汚いとは言ってないぞ。
俺の唾液まで飲み込む必要はないんだと言いたかったんだが。
﹁もうさすがに、いいんじゃないか﹂
これ以上は、もう立てなくなりそうだ。
なんだかこう、たまらない気持ちになってきた。
少し、お湯にのぼせたのかもしれない。
﹁さてじゃあ、もっと身体にもキスしていきますね﹂
﹁ああっ⋮⋮﹂
325
もはや、されるがままに俺はリアに全身を舐めるようにキスされ
ていく。
胸のあたりまできたので、俺は湯船から身を起こして、湯船のヘ
リに座る。
﹁どうですか、気持ちいいですか﹂
﹁ああっ⋮⋮﹂
もうなんだか身体がだるくて、リアに逆らう気にもなれない。
まさか、全身を女性に舐め回されることがあるとは思っても見な
かった。
高校生でこんな経験をしてしまって、俺の今後の人生どうなるん
だろうか。
まだデートもしてないのに、なんでこんな⋮⋮。
指先までチュパっと舐められると。
もうダメだろって気になる。
頭がボーとして、何がダメなのかすらわからない。
ただ、柔らかいリアの身体に抱かれて、全身を舐められていくだ
けだ。
しかし、リアの舌が下半身に達しようとしたとき、さすがに俺は
戦慄した。
﹁リア、そこはさすがにダメだ!﹂
﹁でも、防御力を上げないといけないから。わたくしは大丈夫です
よ﹂
326
﹁いやっ、俺が大丈夫じゃないんだよ。大丈夫じゃない状態だから﹂
﹁大丈夫です、是非任せてください﹂
ダメだろ!
そこはさすがに避けろよ。
﹁マジで止めて、ダメだから、リアがお嫁にいけなくなっちゃうか
ら!﹂
﹁是非もありませんね。わたくしはどうせシスターなので、お嫁に
はいけないんですよ﹂
いやいや、シスターなら神に身を捧げろよ。
俺に奉仕してどうするんだ。
﹁いやっ、さすがに断るぞ。いくらチョロの俺だって、限度っても
んがある!﹂
きょうじ
矜持だ、流されるな、男の意地を見せろ。
いや見せちゃダメか、とにかく逃げないと⋮⋮。
﹁ふふっ、どうしたんですか。そろそろ効いて来ましたか﹂
﹁はっ、なんだ効いて来たって﹂
そういえば、さっきから身体が自由に動かない。
﹁まさかリア、媚薬を盛って⋮⋮﹂
﹁どんなシスターなんですか。やっぱり、わたくしは少し誤解され
てると思います﹂
﹁いやでも、なんか身体が熱くって動けないんだけど﹂
327
﹁それは、のぼせただけじゃないんですか。まあ、お風呂のお湯を
こっそりと﹃聖なるしびれ薬﹄に変換していったので、是非もない
かもしれませんけど﹂
なんだよその変な薬。
聖水とか回復ポーションなら分かるけど、しびれ薬って!
﹁わたくしは、神聖錬金術が得意と申し上げました。さあ、身体が
動かないんじゃ是非もないですよね﹂
﹁いやぁ! ダメだよ。もうやめて⋮⋮﹂
﹁ダメでーす、やめませーん。さあ諦めて強化しましょう、初めて
でも大丈夫ですよ。全部任せてくれたらすぐ済みますから﹂
﹁ああっ、もうやめよう!﹂
﹁だからやめませんって﹂
﹁だから﹃魔素の瘴穴﹄攻略とか、もう全部やめるから!﹂
﹁はぁ!!﹂
﹁だからもうやめよう⋮⋮﹂
﹁いや、この期に及んで、それはどうなんですか。そこまでわたく
しが嫌って、あんまりにもひどいじゃないですか。いくら、わたく
しだって、女の子なんですよ!﹂
﹁ギブアップ! リアが嫌とかそういうんじゃなくて、もう精神的
に限界だから!﹂
俺だって、いろいろとあるんだよ。
こんなところで、初めてを散らしたくない。
328
ギブアップだ、ギブアップ!
もはや首だけしか動かず、リアの手からは逃れられない。
なぜ身体がしびれて動かないのに、一部分だけ元気なんだ。
おかしいだろ⋮⋮。
リアは、俺の身体を抱き上げるとザブンと湯船から上げた。
おお、力持ちだなおい。
﹁さあ、ここに寝ましょうね。もう十分温まったからお風呂はいい
でしょう。タケルには特別に、タオル地のマットを用意しました﹂
﹁はぁ⋮⋮、されるがままだな﹂
こんなことになるんなら、勇者になんてなるんじゃなかった。
俺は、どこで選択肢を間違えた。
リアにさらにペロペロと身体を舐められながら、俺の心は現実逃
避気味に過去の選択肢を探っていく。
勇者はもう攻略で断れない選択肢だったし、その攻略も必然の流
れだったような感じだぞ⋮⋮。
﹁タケル、これは是非もない運命なのですよ。覚悟を決めましょう﹂
﹁そうかこれがもしかして、リアの言っていた伏線か﹂
あろうことか、リアの舌はついに絶対に避けなければならない部
分に近づいていく。
﹁さあ、安心して任せてください。絶対に大丈夫です、痛くしませ
ん。粘膜の弱い部分こそ、防御力を入念に高めましょう﹂
﹁なぜ大丈夫だとお前が言い切れる!﹂
329
しびれ薬を作るなら、肌の感覚まで麻痺するのを作れよ。
ぜんぜん気持ちいいんだよ。
くそっ、それ以上は絶対ダメだ、止めろ身体が、身体が動かない。
あっ⋮⋮あああぁ!
ようやくここで、しびれ薬が完全に回ってくれたのか、俺の意識
は急速に遠のいていった。
もう遅いんだよ⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮
⋮
※※※
﹁はっ?﹂
﹁あっ、眼が覚めましたか、ご主人様﹂
ううっ、なんだか身体がだるい。
﹁シャロンか⋮⋮、ここはどこだ﹂
﹁お風呂場の脱衣所ですよ。ご主人様がのぼせて裸で倒れてらっし
ゃったので、バスローブを着せて介抱しておりました﹂
﹁そうなのか、リアはどこにいった﹂
330
あれ身体が動くぞ。
ちょっと、まだしびれてるけど。むしろ全身がスッキリした感じ
だ。
﹁リアって、シスターステリアーナですか。お見かけしませんでし
たけど﹂
怪訝そうなシャロンの顔。
俺は、起き上がってお風呂場を覗いてみると、空の湯船があるだ
けだ。
お湯すら入っていない。
﹁もしかして、全部夢だったのか⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですかご主人様、滑って頭とか打ってないですよね﹂
シャロンが、頭は大丈夫かと額に手を当ててくる。
うん、たぶん。熱もないし、頭も打ってないとは思うけど。
﹁今日はもう歯磨いて寝る﹂
﹁おともします、ご主人様⋮⋮﹂
その日の夜は、悪夢を見た。
大きな蛇に、全身を飲み込まれる夢だった。
※※※
﹁おはようございますタケル﹂
﹁おっ、おう⋮⋮﹂
331
まぶか
次の日の朝。
目深にフードを被ったシスターリアと、お城の廊下ですれ違う。
リアは特に何もなさそうな感じで、普通に挨拶してくる。
俺は、昨日の今日だから、リアのことをすごく意識してるんだが、
向こうは普通だ。
昨日のあれは夢だった、ぐらいに思ったほうがいいのかな。
そうだな、夢か現実か曖昧ぐらいにしといたほうが、これからも
付き合いやすいもんね。
あれは秘密の儀式だったんだし、何もなかったとして処理してく
れる、リアなりの配慮なのかも。
﹁どうかされましたか、そういえばお風呂で倒れられたと聞きまし
たけど、お加減はいかがですか﹂
﹁そうだな、一晩寝たらスッキリしたよ﹂
チラッと辺りをうかがうと、誰もいないと思ったのか、リアはフ
ードをあげた。
シスターは、みだりに肌を見せないんじゃなかったのか。
⋮⋮んっ、やけにツヤツヤした血色の良い顔色をしてるな。
﹁ここだけの話なんですが、わたくし、実は昨日、聖女にランクア
ップしたんです!﹂
﹁おおっ、そりゃすごい﹂
戦力の向上に繋がって、それはめでたいことだが。
あれでランクアップとか、嫌な予感がする。
﹁たっぷりと基礎魔法力が向上しましたからね、やはり聖女は勇者
332
の成長と共に、レベルアップしていくようです﹂
﹁そ、そうか、俺もレベルアップしたってことか﹂
うやむや
おい、なんだこの、危うい会話は。
有耶無耶にしてくれるんじゃなかったのか。
﹁今日のタケルは、ちょっとおかしいですね﹂
﹁お前ほどではないけどな﹂
うふっと、光沢のあるほっぺたを桜色に染めて、ぷっくらした唇
に含み笑いを浮かべるリア。
やっぱりあれだ、お前フードずっと被ってろよ。
﹁あららっ、いいますねえ。まあ、今日のわたくしはそう言われて
も、是非もありませんね﹂
﹁ちょっと⋮⋮﹂
待てよ、これ以上話してると、また変な話になりそうだ。
昨日のことは、お互いに水に流そうぜ、お風呂だけに。
﹁タケルは男の子なんだから、何も気にしなくてもいいんですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それは、わたくしもエッチな気分になるなとは申しましたけど、
若いんだから生理現象は是非も⋮⋮﹂
それ以上聞かずに、リアの元を歩き去った。
後ろから追いかけてきたから、勇者の力を使って、全力で走り去
ってやった。
333
俺だってなあ、怒らないわけじゃないんだぞ、リア。
それで逃げてるだけなんだから、やっぱチョロかもしれんけど、
しばらくあいつとは口を聞いてやらないことにした。
334
26.敵を誘い出せ!
いよいよ﹃魔素の瘴穴﹄に向けて、大攻勢を開始する時が来た!
ライル先生は、わざわざ予定日を大宣伝して、王都にまで報告書
を送っていた。
そうして、予定日の予定時刻通りに、麓に青銅砲四門を並べる。
その脇を、随伴の足の速い銃士隊が囲む。
﹁なんで、俺たちは前に出ちゃいけないんですか﹂
﹁私がいいと言うまで、将軍たちはここから動いてはいけません﹂
今頃、魔の山の頂まで、ルイーズの騎馬隊が駆け上がっているだ
ワイバーン
ろう。
黒飛竜を引きつけてから、転がるように山道を駆け下りてくるは
ずだ。
それを迎え撃つ戦力としては、城の前の麓に布陣は、少し浅すぎ
るように思う。
ぼうえん
俺とライル先生は、戦場の全体が見渡せる尖塔の根本にある見晴
らし台で、観戦している。
裸眼の俺から見てもいい眺めだから、望遠の魔法が使えるライル
先生は、もっとよく戦況を見渡せているだろう。
やがて、ものすごい勢いで山道を駆け下りてきたルイーズたちの
ワイバーン
騎馬隊が、指図通り砲兵隊の隣を駆け抜ける。
黒飛竜の群れが、ルイーズたちを追いかけて駆け下りてきた。
335
普通のワイバーンって緑色だと思ったが、魔の山の影響か、その
鱗はどす黒い。
身体も想像をはるかに超えて大きい。
羽の形とか足の形が違うんだろうが、迫力ではドラゴンとほとん
ど変わらない。
その飛びかかる黒飛竜の威容もたいしたものだが、険しい山道を
馬で一気に下るルイーズたちの手綱さばきは、もっと素晴らしい。
義経のひよどり越えか。
ワイバーン
意気揚々と馬を追って飛んできた黒飛竜を、待ち構えていた青銅
砲の砲撃が襲う。
﹁ギャアアア!﹂
ワイバーン
甲高い悲鳴をあげて、先頭の黒飛竜が上空に浮き上がった。
本来なら一撃必殺のはずが、青銅砲の直撃を食らってもまだ生き
てる。
やはり、魔素の影響でドラゴン並の硬さになってるのか。
銃士隊も火縄銃で黒飛竜を果敢に討ち果たさんとするが、ほとん
ど効き目がない。
強化された今の黒飛竜にとっては、鉄砲の鉛弾など蚊が刺した程
度にしか感じないのかもしれない。
うわ、今度は黒飛竜がブレスを吐いた。
普通の火炎ブレスではなく、黒くて禍々しい炎。
火にまかれた、兵士たちが苦しそうに転がり回る。
336
その時だった。
魔の山の上から、いきなり大きな雨雲が発生して、青銅砲と銃士
隊の上に大雨を降らせてくる。
ブレスの炎もおかげで消えたが、なんだあの変な雲は。
﹁いけませんね﹂
先生が、手元から赤色のロケット花火を打ち上げた。
かんしゃく玉、爆竹に続き、火薬に色をつけた花火シリーズ第三
弾だが、信号弾に使われるとは思っても見なかった。
赤は退却の合図である。
﹁あっ、逃げるんですか?﹂
兵士たちは、青銅砲も火縄が雨に濡れて撃てなくなった銃も、投
げ捨ててて、お城に向かって全力で撤退する。
すでに退却していたルイーズと同じように、お堀の桟橋を渡って
城の中にこもった。
そくとう
今度は、黒飛竜に一番近い、オックスの城の尖塔と外壁の側塔に
ある一番と三番砲台が火を噴く。
こっちは青銅砲とは違い、大型の鉄製大砲なので飛距離が長い。
おのの
二発撃って、黒飛竜の翼にかすっただけだが。
それでも黒飛竜の群れは、強敵の登場に戦いた様子で、八の字に
飛び回って牽制し始めた。
今度は、城の大砲との戦いになるわけか。
その時、突如として、ゴゴゴゴッと激流の音。
337
山の谷と向こうの方から、突如とて発生した大洪水が流れこんで
きた。
﹁もしかしてこれ、水魔法?﹂
﹁例の妨害ってやつです、そう来ると思ってましたよ⋮⋮﹂
谷の岩肌を削り、木々や土までも巻き込み、荒れ狂う土石流と化
した大洪水が、谷間のオックスの街を飲み込もうと迫り。
俺は、街が飲まれることを見晴らし台から見てることしか出来な
い。
﹁ああっ、街が水に飲まれる!﹂
そう思った瞬間、激流の流れはなぜか街だけを避けて流れていっ
てしまう。
﹁うおっ、これどうなってるんですか先生!﹂
﹁街の外郭を木と石の堤防で囲み、大海を突き進む戦艦の形にして、
張り巡らせたのです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
たしかに、街の形が菱形になったなと思ってましたが、戦艦のイ
メージだったんですね。
﹁落とし穴を掘った要領で、見える堀だけでなく見えない排水溝も
十分に掘り下げておいたので、たとえ谷間が大河になったって、不
沈艦オックスは沈みません!﹂
338
謎の魔法の妨害は、大洪水では無理だと悟ったのか、今度は天か
ら雷雨が降り注ぎ激しいスコールを降らせた。
そくとう
﹁ハハッ! 無駄です! 砲台のある側塔は何十にも耐水対策が施
されています。おかげで砲撃の角度は限定されてしまいましたが、
風雨の魔法ごときいくら降らせても火縄すら消せませんよ!﹂
先生キャラクター変わってるけど、大丈夫なのか。
﹁どうですかタケル殿、名付けて﹃陸上戦艦の陣﹄です! 史上初
の軍略ですよ!﹂
﹁すっ、すごいですね⋮⋮﹂
すごいけど、先生のテンションがすごい。
﹁大砲の弱点は水魔法と報告書にあげておいたらこれです、やっぱ
り王都の上層部の誰かが犯人ですね﹂
﹁ああっ、あの報告書、罠だったんですね﹂
﹁私が対処法も考えてないのに、新兵器の弱点を明かすわけないじ
ゃないですか﹂
﹁先生さすが⋮⋮﹂
⋮⋮黒いなあ。
﹁なに、メテオ・ストライクだとぉ!﹂
完全にキャラのぶっ壊れたライル先生が悲鳴をあげる。
先生に遅れて、俺も空を見上げたが、これは俺も悲鳴をあげたい
気分になった。
339
空が急に暗くなって星空が見えたと思ったら、何本もの隕石が火
花を散らしながら、オックスの街目掛けて振ってくる。
なんていう大規模魔法だ、これは反則だろ!
﹁敵は最上級魔術を⋮⋮だが、当たらなければどうということはな
い!﹂
先生は見晴らし台に陣取って、手すりを両手で掴みながら微動だ
にしない。
魔術師軍師は狼狽えない!
頼もしいけど、先生!
これどっかには、絶対当たるよねっ!
ズーンと重たい音がして、隕石がいくつも街に着弾した。
こりゃ、さすがの要塞もボロボロだわ。
見晴らし台に直撃しなかったのが、不幸中の幸いとしかいいよう
がない。
﹁被害状況知らせ!﹂
混乱する城内で、伝令に報告を求める先生。
﹁三番、五番砲塔、大破です! 連絡通路は生きてます﹂
﹁砲塔の残りはどうか?﹂
﹁いけます!﹂
340
﹁よし、作戦通り、私の指示がありしだい一斉砲撃を開始しろ!﹂
そう指示をして、クックックと肩で笑うと、俺に振り返ってライ
ル先生は叫ぶ。
いくさ
﹁タケル殿、この戦勝ちましたよ﹂
キラキラと粉塵が舞う城の中で、凄絶な笑みを浮かべる先生。
嵐の中で輝いて⋮⋮。
﹁闇夜を照らす、星の輝き、いでよ。あそこです!﹂
そう、ライル先生が使ったのは、単なるスターライトの魔法。
任意の場所を﹃大きな強い光で照らす﹄だけの魔法だ。
メテオ・ストライクなんて、究極の大規模魔法を放ったせいで。
魔法で隠れていた敵は、ライル先生に位置を知られてしまった。
ライル先生が光で示したその場所こそ、隠形の黒いローブを着た、
敵の上級魔術師が居る場所であった。
﹁戦争が魔法力だけで決まる時代は終わったと、教えてやるぞ上級
魔術師!﹂
そんな先生のつぶやきとともに、轟音で城全体が震える。
一番、二番、四番、六番砲塔が一斉に火を噴き、先生が指示した
灯りに、砲撃が着弾した。
さらに城の外壁の窓からも、火縄が死んでいなかった兵士からの
341
銃撃が目標に目掛けて降り注ぐ。
大量の魔法力を使うため、一発しか撃てないメテオ・ストライク
の隕石などより、よっぽど恐ろしいことに。
砲塔からの攻撃は、砲台が焼け付くまで連発する。
﹁これはさすがに、敵の魔術師は死にましたかね、先生﹂
﹁分かりませんね、メテオ・ストライクが使えるクラスの上級魔術
師は、やっぱりしぶといですよ﹂
ライル先生ですら中級魔術師なのだ。
たった一人で戦況すら覆せるほどの上級魔術師とは、一つの国に
そう何人もいない。
特別な存在。
﹁まあ、降り注ぐ砲撃を逸らすことができて、即死さえしなければ
生き残れたんでしょうがね﹂
﹁まだ何かあるんですか﹂
﹁ええっ、私たちが殺らなくても彼らがやってくれますよ﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
ライル先生が砲撃した場所で、砲撃を防ぐように何度も魔法力の
明るい輝きが起こっていたのだが。
そこに山から降りてきた、黒飛竜の群れが殺到していく。
ワイバーン
﹁あんなとこで、激しい魔法力を使えば、黒飛竜の注意を引くに決
まってます。水魔法だけにしておけば、隠形できたのに愚かなこと
です﹂
342
黒々と禍々しい炎のブレスを吐く黒飛竜と、まだしぶとく生きて
いたらしい上級魔術師の撃ちあいが始まった。
ワイバーン
﹁さあ、こちらの城にも黒飛竜が来ますよ。防衛準備しなければ﹂
なんと恐ろしい先生の軍略⋮⋮。
上級魔術師の隠形が解けて、魔法力に反応した黒飛竜の群れが襲
うことまで計算のうちだったのか。
同士討ちを狙うとは、いや敵の魔術師と黒飛竜も、味方ってわけ
じゃないんだろうけど。
ちょっと策が穿ち過ぎて、こっちが悪役に見えるぐらいの勢いだ
ぞ。
﹁では、ここからがタケル殿のお仕事です。街が水に沈められても
良いように、魔の山に抜け出る連絡通路を作っておきました。この
隙に、リア殿と﹃魔素の瘴穴﹄を封印してきてください﹂
﹁はい!﹂
﹁その間の黒飛竜の引き付けは、私たちと。あの己の強大な魔力に
溺れた、愚かな上級魔術師がやってくれるでしょう﹂
そう戦場に幾筋も瞬く光を見つめる先生の横顔は、凄絶に美しか
った。
まあ、先生の指示通りにやれば、何でも上手く行くに違いない。
俺は信じてますよ。
343
27.魔素の瘴穴
ホーリーポール
俺は、アーサマの神聖文字が刻まれた封印の聖棒を抱えた聖女リ
アを護衛しながら進む。
﹃魔素の瘴穴﹄封印に挑むメンバーは、勇者の俺と、どう説得し
ても付いてくると聞かなかったシャロン率いる奴隷少女銃士隊。
こういうとき説得できないのは、俺もあいかわらずチョロだと悲
しくなる。
奴隷少女たちはまだいい。
サラちゃん兵長まで近衛だと主張して勝手についてきてるから、
何かあったらロッド家に申し訳がないと青くなる。
だが幸いなことに、魔の山とはいえ、雑魚モンスターの数が多い
だけで、ほとんどが銃士隊で十分対応できる。
先に山に入って、ワイバーンを引き出してくれていたルイーズに
感謝する。
﹁星王剣!﹂
俺も光の剣を振り回して、一刀のもとにオーク・ロードを構えて
いたストーンハンマーごと切り伏せる。
青白い光を放つ刃、ブゥーンと唸る光の剣の切れ味はイメージ通
りだ。
サクラメント
秘跡の効果か、フットワークも軽い。
これならなんとか、仲間を守り抜りぬいて戦い抜けそうだ。
344
森のあちこちで発生しているオークやオーガを鎧袖一触で斬り伏
せながら、山道を必死で突っ走っていたのだが。
山頂に近づいて見えた﹃魔素の瘴穴﹄に思わず足が止まった。
﹁タケル、どうしたんですか!﹂
﹁どうしたんですかってリア、あれ⋮⋮﹂
﹁何驚いてるんです、あれが目的地﹃魔素の瘴穴﹄です﹂
﹁えっ、だって⋮⋮﹂
黒杉が続く山道を抜けた山頂にあったのは、鈍く銀色に輝く四角
い建物だった。
鉄筋コンクリート造のビルとか、ありえないオーパーツだろ。
まあいい、とにかく向かいながら話そう。
﹁金属の建物って、この世界にありえないだろ﹂
﹁そういえば他には見ないですね﹂
なにその珍しい建物ですねぐらいのリアクション。
もっと驚けよ、自動車を見て﹁鉄のイノシシが走ってる﹂って驚
くレベルだろこれ。
﹁リア、あれいつから建ってるんだよ﹂
﹁二百四十年前です。建国王のレンス様が、目立つようにと、ああ
いう変わった形の建物にされたと聞いてます﹂
﹁二百四十年とか、ありえないから、普通に錆びるだろ﹂
﹁それは是非もありませんね﹂
345
いや、リア。本当にあの凄さがわかってないよね。
なんでここにライル先生がいないんだ。
仮に誰かが建てたのは本当だとしても、二百四十年前って嘘じゃ
ないか。
コンクリート部分はともかく、雨ざらしになった金属が残ってる
とは思えない。
補修したにしても、誰が補修してるんだよ。
﹁勇者様の電撃魔法を使った合金だと、お師匠様が言ってました﹂
﹁ああっ、そうか金属メッキか?﹂
近代の電気メッキで作った甲冑とかは、現代に残っていると聞く。
あるいは可能性としては、いやしかし二百四十年だぞ。
ブリキでも錆びないわけではないからやっぱりありえないんじゃ。
ううん、知識不足で分からん。
近づいて見たら、下の方はさすがにちょっと錆がきていたが。
ほとんど錆びてない。
むしろこれは、本来は錆びる金属を錆びにくくしているのか。
トタンじゃないし、ブリキか?
あるいは錆びないステンレス加工なんてのもあったな。
いっそ、単に魔法で錆ないって話なら簡単なのだが。
自分でもブリキや、メッキ製品を作れるかもしれない可能性を示
されると、考えざるをえない。
346
ただでさえ、いま冶金技術が欲しくてたまらないときだ。
﹁ご主人様、いまはそんなことを言ってる場合じゃないです!﹂
あんまりこだわってたので、後ろからシャロンに怒られてしまっ
た。
﹁ごめんわかった、すぐ中に突入するぞ!﹂
四角い門から中に走りこむと、通路には大きなドクロマークがた
くさん書かれている。
﹁建国王である伝説の勇者様が、危険だと示すために﹂
﹁怖いんだよ!﹂
趣味悪いだろ、伝説の勇者レンス。
もうとっくの昔に死んでるだろうけど、絶対友達になれそうにな
いタイプだ。
何度か扉を抜けると。
いよいよ、瘴穴の間にたどり着いた。
そこにあったのは円形の大きな金属の床だった。
穴がたくさん開いていて、下から青白い光が漏れだしている。
なんだこれ、写真で見たことあるぞ。
俺の頭の中で危険アラームがガンガン鳴ってる。
﹁⋮⋮って、これ原子炉じゃねーか!!﹂
347
下からチェレンコフ光がでてきてるよ。
なんなの、魔素って放射能だったの!?
そりゃ変なモンスターもたくさん出てくるわ!
うああ、防護服来てないじゃん!
ホーリーポール
﹁ここに、制御棒を差し込んで封印します﹂
﹁リアぁ! いま制御棒って言ったよね!﹂
ホーリーポール
﹁間違えました、聖棒です。聖棒を差し込みまーす!﹂
﹁もうどうでもいいから、早く止めてくれぇ﹂
﹁創聖女神アーサマの忠誠なる信徒ステリアーナが祈り求めます!
どうか世界を統べる創聖の名のもとに、混沌から湧く魔素の噴出
をお止めください!﹂
プシューと音を立てて、聖棒が飲み込まれていく。
次第に、下から漏れだしてくる青い光が収まっていく。
﹁これで、収まったのか﹂
﹁はい、封印が完全に成功しました﹂
本当に、終わるときあっけないな。
あとは魔素が、本当に放射能汚染的な物じゃないことを祈るだけ
だ。
しかし、勇者の光の剣も青いんだよな。
青白い魔素って、結局なんなんだろうという謎は残る。
魔法自体が魔素なのか、地中から湧きだす混沌が魔素なのか。
348
なんでアーサマの棒を挿したら止まるの?
俺がそんなことを考えて、脳をハングアップさせていると。
リアは、お師匠様を謀って殺した犯人を探すと、封印に失敗した
聖棒を引き抜いていた。
あとで調査するつもりらしい。
身体から変な触手とか羽とか生えないうちに。
一刻も早く、この部屋から出たほうが良いと思うけどね。
※※※
残心。
俺は﹃魔素の瘴穴﹄から出ると、光の剣を手にして、油断なく辺
りを見回す。
こういう、長い時間をかけて目標を達成した瞬間こそ一番危ない。
俺は、ちゃんとパターンを分かってるんだよ。
魔素の噴出が止まった黒い森は、不気味なほど静まり返っている。
あー、こういう雰囲気は、絶対来る。
キーンと耳をつんざくような音が聞こえた。
ほら、来た!
﹁そうか、山の主が戻ってきたから雑魚はいなくなったか﹂
頂上から見上げる俺は納得した。
あんなのが見えたら、どんなモンスターでも逃げるよな。
349
ワイバーン
ものすごいスピードで、黒飛竜の生き残りが飛び込んでくる。
あの乱戦を生き残ってきた黒飛竜も、伊達ではない。
黒飛竜の中でも、一際大きい身体、群れのボスってやつか。
せっかく自らに力を与える魔の山を守ってきたのに、俺たちが魔
素を止めたのでお怒りのようだ。
黒飛竜からしたら、仲間も殺されたし、気持ちはわかる。
だが、こっちも負けられないんだよ。
黒飛竜は、俺たちの眼前に飛びかかると同時に大きなアギトを開
いた。
魔素に強化された黒炎を、こっちに吹き出してくる。
﹁まずい、ブレスか!﹂
防御力強化された俺はともかく、サラちゃんとかシャロンとか逃
げてぇ!
﹁アーサマ、みんなを護って、ホーリーシールド!﹂
リアが前に出ると、白銀の聖なる大盾を出して、ブレスを抑え込
んだ。
いい加減な詠唱でも、ちゃんと護ってくれるアーサマ素敵すぎる!
﹁グギギャアア!﹂
黒飛竜は、怒りの叫びを上げると、思いっきりホーリーシールド
を突き破る。
そのままこっちに体当たりを仕掛けるつもりか。
350
﹁ご主人様下がって!﹂
﹁このぉ!﹂
シャロンやサラちゃんが、銃士隊が、一斉射撃。
こちらに矢のように飛んでくる巨大な黒飛竜に火線が集中した。
薄い羽に穴が開くが、直撃する鉛弾ですら硬い鱗は弾く。
急降下してくる黒飛竜の勢いは、止まらない。
かたびら
なぜか、黒飛竜はまっすぐに俺を目掛けて飛びかかってくる。
﹃ミスリルの帷子﹄がキラキラして目立つからか。
まあ、好都合だ。
﹁いいぜ、こいよ!﹂
俺は、精神を統一し、光の剣を最大出力で出す。
正眼に構えて、黒飛竜の狂気に彩られた赤い目を一点に見つめて、
心深く沈めた。
﹁北辰一刀流奥義、星王剣!﹂
無駄な力はいらない、ただ一心に敵を頭から断ち切ることだけ考
えて。
大きな光の剣を大きく振り上げて、静かに振り下ろす。
飛び込んだ黒飛竜の巨体と、交差︱︱
ドサッと音を立てて、真っ二つになった黒飛竜が地に転がった。
351
﹁星王剣に、斬れないものなどない﹂
さっと光の剣を振るうと、光が収束する。残心。
﹁タケル、やりましたね。立派な勇者です!﹂
﹁ご主人様、ご立派です!﹂
シスターリアが、大きな聖棒を抱えながら感動に打ち震えている。
奴隷少女たちも、サラちゃんも、銃を掲げて泣きながら感動に打
ち震えいる。
いい最終回だった。
﹁おう⋮⋮﹂
かたびら
さすがに﹃ミスリルの帷子﹄は、黒飛竜の鋭い牙がかすっても、
傷一つ付いていない。
だが、中の人間は、斬り伏せる際にかなりダメージを食らった。
念の為に回復ポーションを飲んでおく。
感動する仲間をよそに、ほろ苦いポーションをグビリとやりなが
ら。
俺の頭は、もう転がってる黒飛竜の赤黒い肉を眺めて、そろばん
を弾き始めていた。
黒飛竜の肉は食えるのか、美味しいのか。
黒飛竜の鱗は高く売れるのか、加工すればなにか作れるかなどと。
やっぱり、俺の本質は勇者より商人。
生き残るためには、金がないと、何も出来ない。
352
﹁とりあえず、戦場の後片付けからだな﹂
大洪水やメテオの被害がどれほどだったか調べて、使えるものは
拾って使う。
いろいろ出費もあったが、今回もトータルでは大儲けだろう。
353
28.アイスクリーム
食堂でルイーズが作った﹁黒飛竜の内臓スープ﹂という赤黒い禍
々しい汁︵精は付きそうだが、ビターな味︶を食べながら。
ライル先生と善後策を話し合っている。
﹃魔素の瘴穴﹄封印から数日。
すでに、戦場の後片付けは済んでいる。
大洪水に隕石の直撃、かなりの痛手を負った要塞街の補修にはま
しっけ
だ日数がかかりそうだ。
黒色火薬もかなりが湿気て、ダメになってしまった。
大損害だ。
俺は、上級魔術師のバカが大嫌いになった。
﹁オナ村からの報告で、義勇軍のキャンプの募兵がすごいことにな
ってるそうです﹂
なんと、戦が終わってからどんどん人が集まって。
義勇軍の数は、千人に近づく勢いになっているのだとか。
いまオックスの街に詰めてる兵士ですら、三百人でなんとか収容
できてるのに。
兵士が千人って、オナ村キャンプのキャパシティを明らかに超え
てる。
その勢いだと、そのうちエストの街より大きくなりかねない。
どうなってるのか現場見てみないと想像もつかないぞ。
354
﹁先生、そろそろ募兵をやめたら⋮⋮﹂
その人数の服や飲食を賄う補給費だけで、ダナバーン伯爵が頭抱
えてるだろうに。
戦が終わってからそんなに集まってくるなんて、人間ってやっぱ
そんなもんなのか。
﹁何を言ってるんですか将軍、人手がいるのはこれからなんですよ﹂
﹁えっ、そうなの﹂
﹁考えても見て下さい、まず旧アンバザック領のオックスの街や村
の復興があります﹂
﹁先生、それは男爵の仕事じゃないんですか﹂
まあ、ルーズ男爵は死んじゃったけどさ。
少なくとも、俺の仕事じゃないよな。
﹁いや、旧アンバザック領は、もうこのまま私たちがもらいますよ﹂
﹁えっ﹂
なんですと。
﹁魔の山を中心に、北西、旧ロレーン辺境伯領、南西、旧アンバザ
ック男爵領、そして南東のシレジエ王領もこの際だから、街道沿い
ぐらいまで、全部もぎ取ってしまいましょうか﹂
﹁いやいや、先生それ無茶でしょ。国盗り物語じゃないんだから﹂
俺、金は欲しいけど、領地とか要らないんだけど。
これ以上、管理に頭抱えるのはいやだ。
355
商会の経営だけでも大変なのに。
﹁タケル殿は瘴穴を封印した勇者なんですから、この実績は最大限
に活用して成果をもぎ取らないといけません。どうせ崩壊した領土
です、勇者が魔の山を監視するとか、適当に理由をつけて接収しま
えばいいじゃないですか﹂
﹁うーむ﹂
まあ、先生がそういう判断なら。
でもなあ⋮⋮発想が、勇者のそれじゃない。
どうみても火事場泥棒ですよ。
﹁そうやって相手に大きくふっかけて、男爵領だけで譲歩する代わ
りに、イエ山脈の鉱山の権益をごっそりいただくって手もあります﹂
﹁おっ、それはいいですね﹂
鉱山は俺の商売に関係が深いところだ。
鉱山権益を抑えれば、多大な儲けが期待できる。
そっちが本命か。さすが先生、黒い。
﹁まあ、冗談はさておき﹂
﹁冗談だったんですか﹂
先生のジョークセンスは、わかんないな。
﹁今回の﹃魔素の瘴穴﹄事件で暗躍した裏切り者連中の件も、ぜん
ぜん終わってないですから、戦力は多い方がいい﹂
﹁それこそ、シレジエ王国の仕事じゃないんですか﹂
﹁今回の募兵で集まってきた兵士なんですが、ほとんど王都からの
356
難民なんです﹂
﹁それってどういうことなんですか﹂
﹁うーん私にはわかりませんが、もしかしたら王都の混乱が、民か
ら見放されるほどに大きくなってきたってことじゃないかなー﹂
﹁先生⋮⋮﹂
あっ、なんか、すっとぼけてる。
だいぶ付き合いが長くなってきたので、先生の企んでる顔はわか
る。
﹁うーん、なんでも﹃魔素の瘴穴﹄を封印した伝説の勇者が、もは
や王都に救いはないとか激を飛ばしてるって噂がありますね﹂
﹁ちょっと、やめてくださいよ⋮⋮﹂
棒読みで、そんなことを言い始める先生。
冗談キツイよ。
﹁なんでも勇者タケルは、下民にも奴隷にも優しくて、貧しき民は
みんな義勇軍に参加すればなんとかなるとかー﹂
﹁それ以上いけない!﹂
本当にそんなステマをやってるなら怒りますよ。
冗談ですよね。
﹁冗談はさておき、アンバザック男爵領を解放したのは、タケル殿
なんですから。オックスの街や村々の元住人が、身を寄せたがるの
は自然なことです﹂
﹁まあ、先生のお話はよくわかりました⋮⋮﹂
357
﹁ご理解いただき何よりです、勇者タケル殿の名のもとにガンガン
戦力の増強に励んでおきますね﹂
くれぐれも、やり過ぎないでくださいね。
理解もなにも、ぜんぜん話が見えないんだが、まだ脅威があるの
はわかるからあれだけども。
あの存在が迷惑な上級魔術師、あれで死んでれば面倒がないんだ
けど。
大規模魔法で魔法使い切ったあとに、黒飛竜の群れに襲われてた
からさすがに死んでるかな。
でも﹁クックック、奴め。まず生きてはおらんだろう﹂ってのは、
生きてるフラグだよね?
さわたりしょうかい
なんでこっちが悪役っぽいのかは、おいておくとして。
あんなのがまた出てきて、商品水浸しにされたら、佐渡商会は破
産してしまう。
なんだか怖くなってきた。
やっぱ、部下に死体を探させるか⋮⋮。
どんどんこっちが悪役っぽくなるが、守るものがあると人は臆病
になるのだ。
※※※
﹁シャロン、商会の方の人手は足りてるのか﹂
﹁はい、順調ですけども﹂
一段落ついたら、商会の商売のほうが心配になってきた。
358
食堂で、内蔵スープを美味しく食べているシャロンたちにも話を
聞く。
﹁本当か? 奴隷少女は戦争にかなり人員を割かれてるので、店の
シフトも回ってないと思うんだが﹂
﹁硝石や石鹸作りについては、もう契約農家とのアウトソーシング
で回してますから﹂
あっ、ついにアウトソーシングとかも学んじゃったのか。
どんなファンタジーだよ。
﹁しかし、外部委託って奴隷少女が人を雇って使うとか大丈夫なの
か﹂
一応の形上、シャロンたちは奴隷のはずで自由民より身分が下に
なるはずじゃ。
もちもの
﹁私たちはご主人様の奴隷ですから、大事にされてますよ﹂
﹁うーん、それならいいんだけど﹂
正直なところ、もう奴隷解放してもいいんじゃないかとも思って
るんだが。
﹁例えばですが、有名な勇者様の持ち物である商人と、そこらの土
民の少女、どっちに信用があるかと考えていただくと﹂
﹁ああ、わかった。分かりやすいな﹂
年上になったことを差し引いても、やっぱりシャロンは賢い。
俺よりも立派な商人に成長したよ。
359
﹁ご主人様、今は入用ではないですが、今後の事業拡大を考えると、
そろそろ新しい奴隷少女を買い付けて、銃士や商会員に育ててもい
いかもしれません﹂
﹁まあ、任せるから好きにしてくれ﹂
シャロンから奴隷の買い付けなんて提案される日が来るとは思わ
なかった。
ライル先生の悪い影響を受けてるな。
出会った時にシャロンが﹁私、奴隷商人、です﹂とか、言ってた
伏線がこれだったら嫌すぎる話だな。
さすがにうちで奴隷売買の事業は、やらせないぞ。
﹁新しい奴隷の子が入ったら、またお風呂ですよね﹂
﹁ああ、そういうことね﹂
まだそっちのほうが、倫理的に黒いよりはいい。
﹁それよりご主人様、ちょっと見ていただきたいものがあるんです
が﹂
﹁なんだ﹂
﹁ヴィオラ、ちょっとこっちにいらっしゃい﹂
青い髪のハーフニンフ、ヴィオラを呼び寄せる。
この子は引っ込み思案で、なかなか俺と話してくれないんだよな。
ニンフは人に迫害を受けているなんて聞くと余計に対処に困る。
シャロンのスカートの後ろに、隠れて小さいヴィオラがこっちを
見てる。
360
﹁ほら、例のアレを出しなさい﹂
﹁はい﹂
ヴィオラが、コトンと俺の机の前に青い色の瓶を置いた。
﹁えっ、これ回復ポーションだろ﹂
﹁そうなんですよ、シスターステリアーナと協力して、回復ポーシ
ョンを作るのに成功したんです﹂
﹁おおっ! これ作ったのか、すごいじゃないか!﹂
俺は、回復ポーションを掲げて、振り仰ぐ。
感動ですよ、感動!
だってこれ、軍隊の必需品で超重要物資だぞ。
こいつが、どれほどうちの商会の財政を圧迫してくれたことか⋮
⋮。
なるほど、ヴィオラは水の精霊の加護がある。
水魔法+回復魔法か、薬草と聖水とかを混ぜるのかな。
なにやら、ヴィオラがゴニョゴニョとシャロンに耳打ちしている。
﹁⋮⋮﹂
﹁このあたりは、強い魔素の影響のせいか効果の高い薬草がたくさ
ん取れるから成功したそうです﹂
﹁そうなのか、とにかくよくやった。ヴィオラには、ご褒美をやら
ないといけないな。お小遣いがいいか、それとも何か他に欲しい物
361
でもあるか﹂
俺は金貨をじゃらじゃらさせて、ヴィオラに微笑みかける。
なんか金や品物で、子供を篭絡する悪い大人みたいだが。
ヴィオラもそろそろ打ち解けて欲しいということもある。
﹁⋮⋮﹂
﹁ご主人様に褒めていただけるだけで十分だそうです﹂
﹁それ、シャロンが恣意的に翻訳してるだけじゃないだろうな﹂
﹁本当ですよ、ヴィオラがそう言ってます﹂
まぶか
うーん、そのご褒美をこっちのチョイスに任せるってのが、一番
困るんだけどな。
そこに、またいつものシスターフードを目深に被ったリアが、や
ってきた。
﹁是非待ってくださいタケル、何だか話を聞いてたら、回復ポーシ
ョン作り、半分はわたくしの手柄だということを忘れてらっしゃる
んじゃないですか﹂
﹁あっ、はい。ありがとうございました﹂
終了。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ちょっとタケル、是非もない感じになってますよ﹂
﹁はぁ、まだ何か?﹂
362
いまは、佐渡商会の会議だから関係ない人は、入って来て欲しく
ないんだけど。
﹁そうじゃなくて、ポーション作りは、神聖錬金術が得意なわたく
しがすごく役に立ってると思うんですけど﹂
なんだよ、何が言いたい。
﹁むしろ神聖魔法は、わたくししか出来ないわけで部外者どころか、
チームの主軸と言うかですね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁わたくしにも、何かご褒美があるともっと頑張れるなーって、あ
っ是非に、とは言いませんけど﹂
リアは会話が長いんだよ。
﹁わかりました、ではシスターステリアーナさんにも何か、ご褒美
の配布を前向きに検討しておきます﹂
﹁じゃあ、まずその、わたくしにだけ他人行儀なのやめてください﹂
なんだ、気がついてたのか。
﹁まだ怒ってるですか、このまえのこと﹂
﹁ちょっと待て!﹂
また怪しい方向に話を持って行こうとするな。
よりにもよって、食堂で貴様⋮⋮。
ほら、うちの奴隷少女が﹁このまえのこと?﹂とか、怪訝そうな
顔でこっち見てるだろ!
363
﹁なんでしょう是非、わたくし話したいです﹂
口元をニヤニヤニヤニヤ!
フードを手でチラチラ上げやがって、脅迫のつもりか。
﹁わかった、他人行儀なのは止める﹂
﹁もう二人は、他人じゃないですからね﹂
﹁だから、そうやってお前が、からかうから怒ってるんじゃねーか
!﹂
もう、この際だから言わせてもらうぞ。
毎回毎回、俺の純情を弄びやがって、それがお前の信仰心なのか!
冷静に考えれば、リアは協力が必要不可欠と言えるぐらい役に立
ってるんだが。
そうやって毎回からかわれるだけで、感謝もクソもなくなるんだ
もてあそ
よコンチクショウ!
えぐ
女から弄ばれるのは、女性関係でろくなことがなかった俺の古傷
を抉るのである。
﹁トラウマって言うほど、女性関係もなかったですよね﹂
﹁心を読むな、お前が俺の過去の何を知ってる!﹂
基本的に初対面の女性が苦手で、若干コミュニケーション力に欠
ける俺は、あまり女性全般にいい印象を抱いていない。
ルイーズ姉御みたいに対等でない存在で、上からとか下からくる
系なら深く関わっても不快感はないし。
364
商売モードで、表面上対応するだけなら問題ない。
リアみたいに土足で心に踏み込んで掻き乱してくる系は、俺の一
番苦手とするタイプだった。
相性が、致命的に悪い。
﹁そろそろ、タケルも相手から好意を向けられることに慣れた方が
いいと思います。是非もないことですよ﹂
﹁お前が、それを言うか﹂
﹁わたくし、シスターとして信者の皆様のカウンセリングもさせて
いただいております。タケルも、是非このあとゆっくりとオックス
かいしゅん
ひせき
教会の告解ボックスにわたくしと二人で篭って、手取り足取りしっ
ぽりと悔悛の秘蹟を受けられるといいと思います﹂
だから、セリフが長いんだよ。
しかも、リアが言うと﹁かいしゅん﹂が、なんか別の単語に聞こ
える。
﹁お前の言い分はもう分かった、シャロン!﹂
﹁はい、ご主人様﹂
﹁シスターステリアーナは、お帰りだそうだ﹂
﹁はい、みんな!﹂
﹁あっ、わたくしまだご飯全部食べてませんのに!﹂
﹁はい、シスター様こっちで食べましょうね﹂
シャロンが囲んで捕まえて、食堂から外に連れだしてくれた。
さすが、うちの戦闘経験豊富な奴隷少女たちは有能。
365
まともに話を聞かず、最初からこうすればよかったな。
﹁さて、ヴィオラ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
もう通訳のシャロンはいない、リアを追い出すとか荒事に大人し
いヴィオラは関わらないしな。
リアの言い方は最低だったが、確かに人との深い関わりに慣れろ
って忠告は、悔しいが的を射ている。
﹁お前の好きなものを何でもやるから、希望があれば言ってくれ。
がんばったお前の正当な権利だ﹂
﹁⋮⋮アイスクリーム﹂
そういや、前作ったのを美味しそうに食べてたな。
アイスクリーム作りは、氷さえあれば牛乳と乳製品で簡単に作れ
る。
季節の果実を入れてもいいし、高価な輸入品になるが、バニラビ
ーンズも使えないことはない。
﹁よし分かった、たっぷり食べさせてやる。先生お願いします!﹂
氷は魔法じゃないと作れないからね。
毎回、先生ばっかり使うのは悪いが、俺は魔法が使えないから仕
方がない。
﹁いや、氷ならヴィオラにも作れますよ﹂
﹁えっ、そうなんですか﹂
366
﹁⋮⋮はい﹂
いつの間に。
﹁ヴィオラは、私についてずっと水魔法を学んでましたから、水系
限定なら初級魔術師には十分達してます﹂
﹁それはすごいですね﹂
これは、本当にご褒美をやらんとな。
﹁じゃあ、悪いけどヴィオラ、氷作るの手伝ってくれるか﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁コレットも来てくれ、一緒に作るぞ﹂
﹁もう準備は整ってます﹂
調理場担当のコレットは、もう話を聞いててボールなどの道具を
並べて用意してくれていた。
ヴィオラが居て、こうやって練習すれば、先生や俺がいなくても
奴隷少女だけでアイスクリームが作れる様になる。
かくはんき
大量に作るなら、手回し式の攪拌機を作って生産するとどうだ。
これは、また商売の枠が広がっていきそうな。
ああいかん、ヴィオラへのご褒美作りなのに、商売の展開ばっか
り考えてしまうのが悪い癖だ。
この日のデザートは、いろんなアイスクリームを作って、振る舞
うことにした。
367
一緒に調理して、内気なヴィオラとも少しは打ち解けたかなと思
う。
きっかけをくれたリアにも、ほんの少し感謝するかどうかは今後
の態度しだい。
ということにしておこう。
368
29.王都落城
﹁タケル、是非ちょっと来てください﹂
﹁なんだ、またからかうつもりなら﹂
また、リアが来たよ。
﹁是非もない、真面目な話です﹂
﹁わかった﹂
まぶか
目深なフードをあげてリアはこっちを見る。
蒼い瞳に、真剣な憂慮の色が見える。嘘ではないようだが。
これでまた変な話だったら、いくら俺がチョロでも、二度とこの
女を信用しないぞ。
﹁あっ、呼んできたんですか﹂
行き先は、ライル先生の部屋だった。
ホーリーポール
あいかわらず、割り当てられた部屋を乱雑な研究室にしてしまう
先生だが。
今日は割と綺麗に片付けられてあり、机の上に聖棒が置かれてい
た。
﹁これって﹂
﹁そうです、リアさんが持ってきた、彼女の師匠が封印に失敗した
﹃偽の聖棒﹄です﹂
﹁やっぱり、偽物だったんですか﹂
369
﹁はい、魔法には物にまつわる過去の残像思念を映し出す呪文があ
ります。重要な犯罪捜査に使われる魔法なんですが﹂
﹁調べた結果、ゲイル将軍の強い思念が残ってました。彼の関与は、
ほぼ確実です﹂
﹁そうですか、何となく分かってたけど﹂
騎士の誇りを唱えるルイーズには悪いが、ゲイル将軍がやったと
思ってたよ。
これが物証になるわけかな。
おもむ
﹁王都に赴いて、これでゲイル将軍を糾弾します﹂
﹁そうするしかないですね﹂
俺は争いごとが嫌いだが、証拠をこっちが握ったってことはゲイ
ルにも、もう分かってるわけで。
相手もバカじゃないんだろうから、早く糾弾して追い落とさない
と、こっちが殺られる危険性もある。
めぶか
リアが﹃偽の聖棒﹄を抱えて、フードを目深にかぶり直した。
﹁タケル、アーサマは戒律で復讐を禁止しています。罪を許せとも
おっしゃってます。ですが、私は⋮⋮﹂
﹁ああっ、うん。しょうが無いと思うよ﹂
ゲイルが悪いんだしな。
リアのお師匠様ってのがどんな人か、俺は知らないけど。
たばか
﹁お師匠様は、孤児だった私を育ててくれた親代わりなんです。本
当に優しすぎる人でした⋮⋮お師匠様を謀って殺したゲイルを、私
370
は絶対に許さない﹂
﹁わかった、俺たちが必ず罪を償わせるから、見ててくれよ﹂
ここまで好き勝手やらかしたんだから、ゲイルは死刑になるだろ。
この国に死刑があるか知らんが、中世ファンタジーだし処刑は確
実。
リアが手を汚すことはない。
こうして俺たちは、ゲイル糾弾のために王都に向かうことにした。
※※※
山道を回ると果てしなく遠いんだが、﹃魔の山﹄をそのまま越え
ると、オックスの街と王都の距離は近い。
山頂にある﹃魔素の瘴穴﹄の金属加工はとても気になるんだが。
師匠を殺されたリアの気持ちを思うと、立ち寄って調べてるわけ
にもいかないしな。
王都に到着すると、この前の時とは違い大歓迎された。
いきなり国王陛下に謁見ってことはないが、この前の部屋よりは
グレードが高い貴賓室に通される。
豪奢な礼服に身を包んだ白い髭の爺さん、ローグ宰相が満面の笑
みで待っていた。
﹁宰相、お久しぶりです﹂
﹁おおっ! これは救国の勇者タケル様、ささどうぞこちらにごゆ
るりとなさってください﹂
371
調子がいいなあ。
﹁これから、国王にも謁見していただくよう準備をしておるところ
です。まずは、むさ苦しいところですが旅の疲れを癒してください﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ここまで厚遇されると、あと宰相キャラ変わってないか。
そう見えるほど、待遇が変わったということかね。
魔法力ゼロの俺でも、評判だけは教会認定の勇者らしいからな。
﹁宰相、なにか俺たちに言うことがあるんじゃないですかね﹂
﹁はっ、もちろん謝罪させていただきます﹂
宰相は、豪華な服を土につけて︵まあ、土といっても絨毯だけど︶
頭をすりつけんばかりに土下座した。
﹁申し訳なかった、騎士ルイーズ!﹂
そっちかよ。
ライル先生に謝れってつもりで言ったんだが。
﹁前回の失敗を取らせて、王都より追い払った私の判断は間違いで
あった。どうか、過去のことを水に流して騎士団に復帰していただ
きたい﹂
まあ、ルイーズにも謝るべきだよな。
そうだ、そっちの話が先だった。
372
﹁宰相、騎士団のことで話があるんです。実はゲイル将軍が⋮⋮﹂
ライル先生の説明に、顔を青くする宰相。
﹁そんなことが、おのれゲイルめ! すぐに奴を捕らえるのだ﹂
宰相は側近を呼び、ゲイル糾弾に動いてくれた。
これでとりあえず一段落かな。
と、ゲイルが部屋に入ってきた。
捕まえたにしては早すぎるなと思ったら、クロスボウを持った部
隊を連れての登場。
﹁およびですかな宰相閣下﹂
﹁ゲイル貴様なんのつもりか、うあっそれは!﹂
ゲイルが手に持っているのは、王冠を被った威厳のある男の頭だ
った。
また、グロ展開かよ。
﹁ハハハッ、国王陛下といっても、こうなるとあっけないですな﹂
﹁きっ、貴様ぁ! 気でも狂ったか!﹂
ゲイルは、王の首を宰相に放り投げると
そのまま宰相に突きかかって、深々と剣を突き刺した。
王国騎士の突撃、普通の爺さんである宰相にはどうすることもで
きず。
﹁狂ったのは、この状況で俺様を叱責できると思ってる貴様の方だ
373
ろ﹂
﹁グアアアッ、ゲイル、きさぁま⋮⋮﹂
ゲイルがズルッと剣を引き抜く。
宰相はあっけなく、倒れて息絶えた。
﹁ハッハッハッ、偉そうにしてた男もこのザマだ。最高の気分だぜ
ッ!﹂
﹁ゲイル貴様、気違ったか!﹂
サーベル
ルイーズが、ゲイルに向かって直刀を抜いた。
﹁もうそれ聞き飽きたわ、なんでお前らは最後まで現実を認めよう
としないんだろうなあ﹂
﹁なにっ!﹂
﹁そこで死んでる間抜けな国王と宰相を見ろよ。王都の王族も、貴
族どもも、俺が全部皆殺しにしてやる。シレジエ王国の権威も、お
しまいになったってことなんだよ﹂
﹁ゲイル、王国に忠誠を誓った騎士のお前が、なぜこんな⋮⋮﹂
﹁ハハッ、すげえなルイーズ。お前まだそんなこと言ってんの? 気が狂ってるのはお前のほうだろ﹂
﹁なんだとぉ!﹂
﹁お前だって、自分は悪くないのに責任取らされて追放されてよ。
お前もう騎士ですらないだろ、この国がもう根本から腐り切ってる
のがなんでわからんのだ﹂
﹁騎士はそれでも、国のために戦う存在だろうが!﹂
374
﹁それは上級騎士の生まれのお前らだけだ、父親が士分ですらなか
った俺様が、この腐った国でここまでのし上がるのに、どれほど苦
労したと思ってんだ﹂
﹁そんなことは関係ない、貴様も騎士の誇りがあるなら、この場で
私と正々堂々剣で勝負しろ!﹂
横で聞いてて、俺もいまいちどっちがおかしいのかは、わからん
けどね。
確かに、弱者を虐げて平然としてるこの王都にも良くないところ
もあるから、盗人に三分の理ぐらいはあるかもな。
悪いのはゲイルだが、あいつの言い分に耳を傾ける人もいるかも
しれない。
ルイーズとゲイルの一騎打ちが始まって、こっちも向こうも空気
を読んで静観してる状況。
ライル先生の魔法なら、ゲイルもろとも吹き飛ばせるだろうが。
向こうのクロスボウ部隊も数が多いから、やばいかもしれない。
下手に動きが取れない状況で、いくたびかルイーズとゲイルがつ
ばぜり合いを繰り返した。
﹁やはり強いなあルイーズ﹂
﹁ゲイル、騎士の信念を持たぬ貴様の剣に、私が負けるはずがない
!﹂
﹁残念だぜルイーズ、冒険者に成り下がったお前なら、分かり合え
るかもしれないと思ったのに﹂
﹁騎士とか以前に、私はお前の顔が生理的に嫌いだ!﹂
375
ルイーズそれはちょっと酷い。言い過ぎだから。
ご
ゲイルも、ルイーズと分かり合えるかもとか、この期に及んでな
いだろ。
お前すごい嫌われてたぞ。
﹁そうかよ、だったらその大層な騎士の誇りを抱えて死ね﹂
﹁ゲイル貴様ぁ!﹂
あっ、顔が生理的に、を無視した。
気持ちは分かる。
﹁おいもういいぞ。おまえら、こいつを撃ち殺せ!﹂
﹁なっ、卑怯な﹂
クロスボウ部隊は、ゲイルが引いて合図したと同時にルイーズに
向かって一斉射撃を行った。
うあ、マズイ。
完全に虚を突かれた、先生の魔法も間に合わない。
中世ファンタジーで、決闘シーンを破るとか反則だろ!
しかし、ずっと余裕の笑みを浮かべていたゲイルの顔が、初めて
醜く歪んだ。
﹁はあぁぁ∼? この数のクロスボウの直撃で無傷とか、化け物か
よ﹂
ルイーズが着ているのは、﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄だ。
鉛弾ですら通用しなかった硬い鱗に、いかに高速度・高威力のボ
ウガンの矢でも貫通するわけもない。
376
それにしたって、顔とか鎧に守られてない急所に飛来する秒速百
メートル近いスピードで迫る矢を、剣で弾いて見せたルイーズは、
十分に化物なんだけど。
﹁私だって、もう昔のままではないぞ、ゲイル!﹂
矢を振り切った瞬間に直刀を捨てて、小弓に持ち替えゲイルに射
撃するルイーズ。
決闘でなくなったら、飛び道具を使う程度の柔軟性は、ルイーズ
にだってある。
めろう
﹁チィ、女郎風情が!﹂
ルイーズの正確無比な矢を、鋼鉄の篭手ではねのけるゲイルも人
間超えちゃってる感じがする。
この二人は、さすがに騎士団長クラスの実力だ。
﹁もういいでしょう、ゲイル将軍から聞けることは聞けました。ル
イーズ団長下がってください。こいつを倒します﹂
先生の冷静な声が部屋に響き渡った。
﹁クックック、どうするつもりだ、ライル書記官。魔法でも使って
みるか? 決め手にかけるとはいえ、貴様らが囲まれてる現状は変
わらんのだぞ﹂
こうしている間にも、ボウガン部隊が次の矢を込めている。
﹁こうします﹂
377
ライル先生の合図で、奴隷少女銃士隊が入ってきた。
ゲイルのボウガン部隊を超える数。
﹁なぬ?﹂
ゲイルの情けない叫びに向かって、銃士隊の一斉射撃が襲った。
弾ける銃声、硝煙の煙。
﹁やったか﹂
弓を引いていて無防備だったクロスボウ部隊は、銃撃を受けて全
員が倒れ伏している。ゲイルは⋮⋮。
何とゲイルは、とっさに机を引き倒して盾にして銃撃を防いでい
た。
すごい対応力、敵ながらアッパレだわ。
お前に、ルイーズを化物って言う資格ない。
﹁ええいっ、この程度で勝ったと思うなよぉ、ルイーズ!﹂
なぜかルイーズにだけ捨てセリフを残して、ゲイルは大きな机を
抱えたまま逃げていく。
そんなことしなくても、火縄銃は連発できんのだが、そこは知ら
ないのか。
あっ、部屋の扉に引っ掛けてバリケードにするつもりなのか。
﹁先生このまま追撃していいですか﹂
378
ルイーズなんか、もう聞くまでもなくゲイルが部屋の入口に残し
た机を乗り越えて追撃しようとしてるぞ。
ゲイルのことだから、この先も罠があってもおかしくはないから
迷う。
﹁ルイーズさん追ってはいけません!﹂
ルイーズダメだって。不服そうに振り返るルイーズの眼がキツイ
よ。
﹁でも、先生なんとかならないんですか﹂
かたき
﹁お師匠様の敵が逃げちゃう﹂
ゲイルを逃してしまって、リアが泣きそうな声を出してる。
彼女にとっては恩人の敵なんだよな。
普段はともかく、今日のリアには同情する。
ゲイルさえ倒せば、この騒ぎ終わりじゃないか。
﹁ゲイルの軍は騎士団に、王国の正規軍まで加わってるんですよ。
まだ待ち伏せの罠は必ずあります。あとタケル殿、私だってなんで
もできるわけじゃありませんからね!﹂
ああ温厚な先生が怒った。そうだよね。
本当なら袋のネズミだったんだから、逃げられるだけマシか。
先生のおかげですよ、ごめんなさい。
﹁分かればいいです。さあ、みんな今のうちに逃げますよ。まだ王
都全体が囲まれてるわけではありません。王城の守りさえ突破すれ
379
ばいいんです﹂
先生の巧みな戦術指揮の元、銃士隊の攻撃で、王城の中に二重三
重に配備されていた敵の囲みは突破された。
最新の機械弓が相手でも、銃士隊が撃ち負けないって分かってそ
れは良いんだが、俺の気持ちは暗い。
ついに、人間同士の殺し合いになってしまった。
ゲイルが言った通り、王城の囲みはあったが、王都全体を囲める
くみ
くみ
ほどの兵力はなかったようだ。
街は、ゲイルに与する側と与しない騎士と兵士が争って、騒然と
した状態に陥っている。
この街から逃げるのは、たやすそうだ。
首都シレジエの街を出て、ホッとして後ろを振り返ると王城が焼
けていた。
おそらく宮廷魔術師同士の撃ちあいになって、火がついたんだろ
うな。
王都の落城、街の至る所でも火の手が上がって手のつけようがな
い。
すでに難民だらけで酷い街だったけど、こうなると悲しい。
ゲイルも自分の陰謀がバレたからってこんなことしでかしちゃっ
て。
どう収拾つけるつもりなんだ。
敵ながら、心配になってくるぞ。
﹁先生、それでどっちに逃げるんですか﹂
380
﹁もちろん、エスト伯領に向かってです﹂
﹁えっ、近くのオックスの街じゃないんだ﹂
﹁ゲイルもバカじゃないでしょうから、そっちに向かって足の速い
騎士隊で追撃してきますよ。無駄な戦闘は避けたいですからね﹂
先生は、王領とエスト伯領の国境沿いにオナ村から義勇兵団を繰
り出して、味方の陣を張っていた。
エスト領まで逃げ込めば安全と。
ホッとしたけど、ここまで先が読めてる先生なら、ゲイルの陰謀
を未然に防げたんじゃないか。
澄ました顔で、馬車に揺られている先生に、そう聞こうか迷って
やっぱり辞めておいた。
また、怒られちゃうし、失礼だもんな。
俺は、ライル先生を万能チートみたいにすぐ考えちゃうけど、魔
法使いだからって何でもできるわけではない。
むしろ勇者とか言われてる俺が、なにやってたんだって話だ。
これから先の展開、全く読めなくなってきた。
宰相に頭をさげさせて、ゲイルを失脚に追い込んで、メデタシメ
デタシだと思ってたのに。
この先、一体どうなるんだ⋮⋮。
381
30.傾国の姫君
エストの街に入ると、こっちにまで王都陥落の報が入っていたの
か、騒然とした騒ぎになっていた。
ろくな通信手段もないはずなのに、噂が広まるスピードは早い。
こりゃ気が重いなと思いながら、みんなで伯爵に会いに行く。
リアも、珍しくルイーズも一緒だ。
奴隷少女たちも、あの戦いのあとだから離れたくない気持ちもわ
かるので、乞われるままに連れてきた。
多人数で押しかけて、ダナバーン伯爵にご迷惑ってのも、いまさ
らだしな。
﹁おお、タケル殿。王都に行ったと聞いたが、ご無事だったのだな﹂
﹁伯爵、本当にお久しぶりです﹂
ダナバーン伯爵は、意気消沈気味だ。
当たり前か、伯爵もシレジエ王国の貴族なのだから。
国が滅ぼうとしているのに笑ってられるわけがない。
ワシ感激な感じで大歓迎されるよりも、良かったかもしれない。
増えすぎた義勇兵団の補給に迷惑かけたことも、謝って置きたか
ったのだが、それどころじゃない。
﹁ああ、タケル殿たちだけでも無事で良かった。ワシはもう、どう
していいのやら﹂
﹁伯爵しっかりしてください。こんな時こそ、気を強く持って﹂
382
﹁おっ、おう。そうだな、こんな時のための領主だ。ワシが、がん
ばらないと⋮⋮﹂
伯爵は気を取り直したようだ。
ワシ感激状態も困るが、あまり落ち込まれてもな。
そこで、居城の入り口が急に騒がしくなり慌てて走り込んできた。
伯爵の一番お気に入りのメイドさんだ。
﹁伯爵様、あの、表に立派な馬車が、王家のお姫様だそうです!﹂
﹁なにっ、すぐ御通しするのだ﹂
伯爵は慌てて迎えに行った。
﹁あの展開で、王族が生き残ってたとは⋮⋮﹂
俺も伯爵ほどではないが驚いた。
王族貴族を皆殺しとか大層そうなことを言ってた割に、ゲイルの
クーデターは完全じゃなかったのか。
待てよ、なんで他の近い他領じゃなく、なんでわざわざエスト伯
領に逃げてくる。
﹁おや、早かったですね﹂
先生が、訳知り顔で頷く。
まさかこれも先生の作戦ですか。
伯爵と共に、豪奢な純白のドレスにフードを深く被った小柄なお
姫様が入ってくる。
383
顔を隠しているのでご尊顔は垣間見えないが、チラッと見える長
くカールがかかった金髪、年格好はぜんぜん違うが、フードのせい
もあって、なんとなくリアとキャラが被っているような。
まてよ、淡い金髪のリアに比べると色が濃くて桃色がかっかって
いる。そうかこれは、ストロベリーブロンド!
さすがは王族、これがファンタジーだよ!
高貴なるお方は髪色まで違う。俺の趣味のドストライクじゃない
か!
俺はこういうのをずっと待ってたんだよ、ありがとう! ありが
とう!
ひざま
俺は世界の女神への感謝の念と、姫への畏敬の念に撃たれて。
思わず、その場に跪ずいた。
﹁ちょっと、何をいきなり跪いてるんです﹂
ライル先生が、細い手で慌てて俺を引っ張り上げようとする。
﹁相手は王家の姫なんですから、跪いて当然でしょう⋮⋮﹂
﹁いくら相手が王家の姫だからって、ここで跪いたら力関係がまず
いことになるんです!﹂
先生は必死だ。
しょうがないので、渋々立ち上がることにした。
俺は姫の綺麗な髪色しか見ていなかったが、さすがに姫一人とい
うわけではなく、側近にやたら渋い茶色のヒゲの爺さんと、全身プ
レートメイルの鎧を着た騎士が、後ろにぞろぞろ付いてきている。
384
俺たちの一団も人数が多いので、広めの伯爵の居城もいっぱいい
っぱいだ。
普段は暇な伯爵のところにこんなに客が来ることはまずない、こ
れはメイドたちは給仕が大変だな。
もりやく
﹁勇者タケル様、お初にお目にかかります。私、王家の傅役を務め
ますニコラ・ラエルティオスと申します。この度は御救援のほど、
いかに言葉を尽くしても感謝の表しようもございません﹂
壮年のやたらかっこいい茶色の長いヒゲの魔術師が、俺に膝をつ
いて挨拶してくる。
またハリウッドスターかと、俺は少し見飽きた感じもする。
日本人の俺には、カッコイイ西洋人のおっさんは、みんな映画の
俳優に見える。声も渋いし、いい声優を使ってる。
姫様が直接お礼を言わないのは、力関係ってやつかね。貴族の駆
け引きは、めんどくさい。
しかし、御救援ってなんだ、助けた覚えは全くないんだが。
もりやく
﹁傅役って?﹂
﹁タケル殿、王女様の養育係のことです。あと先に言っておきます
が、このニコラ・ラエルティオスは、私の父親です﹂
﹁えっ、お父さんなの?﹂
﹁そうです。あと姫様の救援は、私が国境沿いの義勇兵団に命じま
した。事後承諾になって済みませんが、行き掛かり上しかたのない
ことですので﹂
もりやく
それを聞いて、渋い︵イケメンって意味ね︶顔の傅役が渋い顔を
した。
385
さすがに、ライル先生のお父さんだけあって美形だ。
確かに目元とか、髪の質とかはちょっと似てる。
お父さんに似るって言うものね、あっこれは女の子だったか。
まっし
﹁我々を助けたのはお前なのか、ライル﹂
﹁どうですか、父上。半端者と見捨てた末子に助けられたご気分は、
お城務めの兄上たちも、この分では生きているかどうかわかりませ
んね﹂
﹁助けられたことは礼を言う、お前を生かしておいて良かったと思
う程度にはな﹂
﹁それは重畳﹂
﹁出来れば、お前の兄たちも助けていただきたいものだが⋮⋮﹂
﹁そこまでは、私も知りませんね。助かった他の王族がいるとも聞
いてませんし、ゲイルにあえて逃されたと見たほうが正しいかと。
なにせシルエット姫様は、私と同じ半端者ですから﹂
ここで、慇懃無礼に睨み合っていた父親のニコルのほうが激昂し
た。
ひめぎみ
﹁黙れ、私はともかく姫君を侮辱するなら、ただでは置かぬぞ﹂
﹁私と同じと、申し上げたまでです。父上こそが、私のことを愚弄
し
しているのではありませんか﹂
﹁痴れ者、貴様と姫では意味が違うわ!﹂
ライル先生とお父さんの仲って、なんか険悪だな。
半端者とか、見捨てたってなんだ。
事情がありそうだが、複雑な親子関係には口を挟むべきじゃない
か。
386
﹁あーあの、ヒートアップしてるところ申し訳ないんですが、これ
からみんなどうするつもりなんですか﹂
俺がそう言うと、みんなが俺の方を見て黙りこくった。
誰も、何も考えてなかったのかよ。
※※※
とりあえず、伯爵の居城の居間で善後策が話し合われた。
その間にも、どんどん王都の戦況が報告される。
王都はゲイル派の騎士団や兵団によって占拠されて、新生シレジ
エ王国を宣言した。ゲイルが王様だって、出世したもんだなあいつ。
王都に居た王族は全てが殺されて、貴族もその多くがゲイルに殺
された。
当地の領主であるダナバーン伯爵は、シレジエ王国臨時政府の首
班となり侯爵に昇進︵領地は、そのままだけど︶。
その政府首班とライル先生が交渉して︵出来レースだ︶、俺もア
ンバザック男爵領を貰って、正式に男爵となった。
先生があと欲しいと言っていた旧ロレーン辺境伯領は、王女に味
方してくれる騎士や貴族で分けるそうだ。
王女派の騎士隊長は、みんな昇進して子爵だの、男爵だの、将軍
だのにしてもらって大喜びだけど。
モンスターで崩壊した街や村を貰っても実がないだけだろ。
領地のかわりとして、きっちりとイエ山脈の鉱山権益を取るあた
り、さすがライル先生だ。唸るように金を生む国家鉱山は、実質俺
387
の鉱山になったわけである。
ヤバイ、震えがくる大儲けだ!
しかし、王都はゲイルに落とされてクーデター軍がこちらにも迫
ってるわけで、喜んでもいられない。
この側近に、バンバン高い位を与えられる状況が、もう国が滅び
るフラグ立ってる。
どうも作戦地図を見ると、中立派がやたら多い。
きし
地方貴族は、ダナバーン伯爵以外みんな息を潜めて、旗幟を鮮明
にしていない。
貴族の愛国心ってのはどうなってんだ。
こうちゃく
現状、王都から追撃してきたクーデター軍もエスト伯領との境目
で、うちの義勇兵団と王女派の軍と睨み合って膠着状態に陥ってい
る。
原因の一つに、街道脇にある重要拠点﹃イヌワシ盗賊団の砦﹄に
詰める第三兵団が篭城したまま、どっちの味方とも、立場をはっき
りとさせないからだ。
まだゲイル派に付くっていうのならわかる。王国の兵団が中立っ
て、自分のことしか考えてないのか。
愛国心とかさほど意識しない俺でも、これはおかしいと思うぞ。
﹁この国は、一体どうなってんだよ!﹂
﹁仕方がないんですよ、こっちの旗印になっているシルエット王女
は、耳は隠してましたがハーフエルフの庶子で、王位継承権なんて
主張できるものではありませんから﹂
388
﹁王女がハーフエルフって、そんなにマズイの?﹂
﹁マズイですね、シレジエ王国は貴族がみんな人間ですから。異種
族の血が混じってる半端者を正式な王族とは認めないでしょう﹂
﹁そんなのって、おかしいですよ﹂
﹁シレジエ王国の血筋なら、他の国の王家や貴族にだって混じって
ます。下手したら隣国が継承権を主張してきますよ﹂
ダナバーン伯爵が、政府首班になってる段階で察してくれと言わ
れた。
なるほど正統派なら、すぐ女王陛下になってるもんな。
めんどくさいな異世界ファンタジー。
﹁むしろゲイルは、シルエット王女をわざと逃したと私は見ていま
す﹂
﹁どうしてそんなことをするんですか﹂
﹁王家を根絶やしにして他国の介入を招くより、姫様だけを生き残
らせて、ゆっくり国内の反対勢力を叩き潰した後に、王女が逆らう
なら殺し、従うなら結婚して、正統なシレジエ王国の国王になるつ
もりなんですよ﹂
﹁うわーそれ、あんまりにもアレですね⋮⋮﹂
ゲイル、ゲスだわ。
でもまあ、合理的なやり方とはいえる。ゲスいけど。
﹁こっちも打てる手は、打っておきましょう。エストの街はあまり
にも無防備ですから、私が難攻不落の城に改造しておきます。あと
は、臨時政府とやらのお手並み拝見ですが⋮⋮﹂
389
チラッと、ライル先生は、臨時政府宰相に就任した自分の父親を
見た。
子爵やら将軍やら、位だけ高い連中と喧々囂々︵けんけんごうご
う︶と議論して。
向こうは先生のほうを見ようともしない。
﹁ふっ、望み薄ですね。私たちは、私たちのできることをしましょ
う﹂
※※※
まぶか
激しい議論だけで何にも進まない作戦会議に飽き飽きして、俺た
ちは退出する。
伯爵のメイドにコーヒーを出して貰って、別室で寛いでると目深
なフードに身を包んだ純白ドレスの王女に声をかけられた。
﹁勇者タケル様⋮⋮﹂
あっ、一瞬リアかと思ったわ。
リアはこっちにいるもんな、そんな白いフードを被られては、で
っかいリアと、ちいさいリアに見える。
いや、気高き姫様を、変態シスターと一緒にするなど、小生の愚
考でありました。
﹁これは失礼いたしました王女殿下﹂
ひざまず
俺は、足を舐めんばかりに、深々と跪く。
なんたる至福、姫君の御足元に、身を寄せる日が来るとは。これ
作法だと、手の甲にキスとかしたほうがいいのかな。
390
わらわ
﹁あら、妾に跪いては、あなたの先生に怒られるんじゃないですか﹂
そういや、先生はそんなこと言ってたけど、貴族の肘の張り合い
など俺には関係ないからね。
まあ、先生がいれば我慢するけど今はちょうど居ないし。
﹁いえ、俺はそう政治的な駆け引きは気にしません﹂
﹁そっ、そう⋮⋮勇者様って変わってるのね﹂
﹁よく言われます﹂
チョロとか言われております王女様。
﹁王女殿下、できればフードを脱いで、そのご尊顔を拝し奉ること
をお許し願えませんでしょうか﹂
﹁これで、よろしいかしら﹂
ストロベリーブロンドの髪をした、見目麗しい姫がそこにはいた。
ハーフエルフでもかまいませんとも。
ええむしろ、プラス点じゃないでしょうか。
なんか、隣でリアが﹁私と態度が真逆⋮⋮﹂とか、ぶつくさ言っ
てる。
キャラ被ってるの、ちゃんと自覚してたんだな。
クックック、お前の時代は終わったわ。
﹁王女殿下、なんとお美しい、まるでエルフのようです﹂
﹁ええっ、妾はハーフエルフなんですけど、聞いてませんでしたか﹂
﹁聞いておりましたとも﹂
391
エルフのようって、リアが喜んでたから褒め言葉と思ったら違う
のかな。
あっ、エルフの血のせいで王位継承できない王女様からしたら微
妙なのか。
﹁では、妾を殿下と呼ぶのはやめてください。どうせ、妾など庶子
も良いところで、殿下どころか、姫としても半端者なのですから﹂
﹁では、なんとお呼びすれば﹂
﹁ご挨拶がまだでしたね、シルエット・シレジエ・アルバートです。
かつての建国王の末の末、シレジエ王国第十七代国王ガイウス・シ
レジエ・アルバートの庶子⋮⋮いえ、国王に飼われた、売女の娘で
すわ。王女などと呼ばず、どうぞシルエットとお呼びください﹂
せっかくのファンタジーらしいストロベリーブロンドな姫様なの
に、屈折している⋮⋮。
シルエット
また、リアルファンタジーの嫌な部分だしてきたな、おい。
﹁では、シルエット姫様﹂
﹁呼び捨てで結構ですわ、影絵なんて忌み名を親から付けられてい
るのです。妾など、庶子としてすら認知されていない厄介者でした﹂
﹁シルエット姫様⋮⋮﹂
﹁もったいない、どうぞ呼び捨てください。妾など、伝説をなぞる
ごみ
かのように﹃魔素の瘴穴﹄を封印された勇者タケル様に比べれば、
足元に転がる塵芥です。なんならいっそのこと、ゴミと蔑んでいた
だいても、かまいませんわ﹂
うわ、取り返しようもなく屈折してる。
392
よくもこうも育ててくれたぁ、国王かライル先生の父親か知らん
けども。
せっかく高貴なストロベリーブロンドのお姫様なのに、自信なさ
げに俯いてフード被ってたら台無しじゃないか。
﹁じゃあ、シルエット。俺もたいしたものじゃないですよ、とりあ
えず勇者と呼ばれていますが、付いてるシスターは勇者認定三級だ
し、魔法力ゼロだから稲妻の魔法も使えません。俺こそ半端者です﹂
﹁あの、わたくし聖女になったので二級に昇格⋮⋮﹂
﹁リアは黙ってろよ!﹂
お前が出てくると、話がややっこしくなる。
ただで話がさえ込み入ってるのに。
あとキャラ被ってるから、シルエット姫と並ぶな。
﹁タケル様も半端者だったんですか、それはよかった。じゃあ、妾
とはお似合の夫婦になれそうですね﹂
﹁ええそうですよ、ですからシルエットも⋮⋮夫婦?﹂
﹁あれ、聞いてませんでしたか。あなたのライル先生さんが、伝説
を継いだ勇者様と妾を結婚させれば、正統にシレジエ王国の王位を
継承できるってお話してたんですが﹂
﹁ええっー﹂
聞いてない。
こういうことは、先に本人に相談してくださいよ。
珍しく近くに居ないと思ったら、そんなことを画策してたのか。
393
いくら姫様が相手でも、いきなり結婚させられてたまるか⋮⋮。
394
31.書記官の野心
﹁まったく是非もない話ですね。姫様が、タケルと結婚なんてでき
るわけないじゃないですか﹂
俺とシルエット姫様の結婚話に、リアがしゃしゃり出てきて言う。
俺もそう思うが、お前がシーンをまたいで出てくると、すごく嫌
な予感がするんだよ。
もういいから下がれ。
﹁なんででしょう聖女様、理由をお聞かせ願いたいのですが﹂
いや、いきなり知らん男と結婚とか、シルエット姫様もそれでい
いのかよって話だよな。
﹁タケルはね、デートしたことない相手とは結婚しないんですよ﹂
﹁ぎゃあああああああああああああああっ!﹂
き、きさまああああああああああああっ!
﹁せっ、聖女様、デートとは一体、どういう意味なのですか?﹂
﹁だからぁ、タケルは、デートしたことない相手とはぁ﹂
﹁リア、お前、本当に、ぶっ殺すぞ!!﹂
俺が、リアのローブの襟元を握って引っ張りあげると、シャロン
たちに止められた。
そこをどけ、こいつを殺せないじゃないか!
395
﹁いやんっ、タケルこんなところで激しすぎです。脱がすのは二人
の時に是非﹂
﹁あああ? マジで、いっぺん、泣かすぞゴラァ!﹂
泣いてるのは俺だけど。
それにしても、なぜみんな俺を止める、コイツの口を止めろよ!
俺は奴隷少女たちに引っ張られて、リアから無理やり引き剥がさ
れた。
﹁ご主人様どうしたんですか!﹂
﹁こいつはなぁ、いま絶対に言ってはならんことを言ったんだよぉ
ぉ!﹂
いつの間にか、呼んでも居ないのに、俺の手から光の剣が出てい
た。
天井に青白く光る刃が届かんばかりの最大出力だ。
そうか星王剣、お前だけは分かってくれるんだな、この俺の怒り
を!
﹁ご主人様危ないです、光の剣はダメッ!﹂
﹁リアッ、消えてなくなれ!﹂
もう勇者も、異世界ファンタジーもなにもかもどうでもいい、い
ますぐ消えてなくなれリア。
﹁ご、ごめんなさい。タケルが、そんなに怒るとは思わなくて﹂
リアは、いきなり土下座した。
俺が振りかぶった星王剣を避けようとしたのかもしれないが。
396
クソッ、こうなると振り上げた剣の行き場が⋮⋮はぁ。
﹁怒るに決まってんだろうがバカ野郎!﹂
みんな唖然として見てるけど、これを黙って見てろなんて無理だ。
見ろよリア、お前のせいで話の展開が滅茶苦茶になったじゃねー
か!
﹁ふっ、フフッ⋮⋮アハハハハハハッ﹂
シルエット姫様、爆笑。
腹を抱えて、お笑いになられたぞ。
いや、楽しそうなのはいいけど、さっきのどこに笑う要素がある。
怒り狂ってた俺も、土下座しながらも無言で俺を煽るリアですら、
毒気を抜かれように、くの字になって大笑いしてる姫様を見る。
﹁アハッ、アハハッ、笑ってしまってごめんなさい。お付きの聖女
に斬りかかる勇者なんて聞いたことがなかったから﹂
﹁そりゃ、ないだろうね﹂
俺が悪いんじゃなくて、リアみたいな聖女がありえないんだから
ね。
わらわ
﹁でも、そんな勇者様なら、妾みたいな姫でも良いかもしれません
ね﹂
﹁いや、シルエット姫。リアの言ってることは無視して欲しいんで
すが、俺も出会ったばっかりの相手と結婚とかありえませんからね﹂
﹁そうなんですか、でも勇者様の先生さんがそう申してましたよ。
397
妾の陣営も実際はどうか知りませんが、表面上は納得しておりまし
た﹂
﹁そうじゃなくて、シルエット姫は良いんですか。知らない相手と
いきなり結婚なんて﹂
﹁妾に良いも悪いもありません。まわりの皆に言われるままにする
しかないのです。妾の母親は、王に飼われた身の上。妾は、その娘
なのですから、勇者様のところの奴隷と何も変わらないのですよ﹂
﹁姫様、それは違います﹂
これは、否定しないといけない。
﹁お聞かせ願えますか﹂
﹁うちの奴隷たちは、きちんと自分の意志で生きてますよ。言いな
りに知らない相手と結婚なんてしませんし、させません﹂
シャロンたちも頷く。
当たり前だ、そんなことはさせん。
﹁でも、奴隷は主人の意のままに動くから、奴隷ではありませんか﹂
﹁じゃあ、主人の俺がさせませんよ。貴女もです、シルエット姫様。
そんな無理矢理な結婚話、俺がぶち壊します﹂
﹁ふむ、やっぱり勇者様は面白いですね。でも現実問題として、そ
うするのが一番良いのではないですか﹂
そこで、騒ぎを聞きつけたライル先生が紙束を抱えて入ってきた。
﹁なんだかこっちの会議も紛糾してるようですね﹂
398
はか
爽やかな微笑み、人を勝手に結婚させようとしてるようには見え
ないけど。
どこまで先を読んで、謀っているのやら。
﹁先生、俺とシルエット姫を結婚させようなんて、させませんよ﹂
﹁初めて、ですよね﹂
﹁何がです先生﹂
﹁タケル殿が、私の策に逆らったことが、です﹂
ライル先生は、やけに楽しそうに俺を見てくる。
﹁俺が反対することも、先生なら分かってたんじゃないですか﹂
﹁まあ、そういうこともあるんじゃないかとは思ってました﹂
絶対にそうだろうな、こっちの話が煮詰まるのを待って入ってき
たのだ。
﹁とにかく俺は反対ですよ、先生はどうするつもりなんですか﹂
こうちゃく
﹁それは私のセリフです、シルエット姫と勇者タケルの結婚以外に、
この膠着した局面を打ち破る策があるんですか﹂
ライル先生は、わざわざ作戦地図を持ってきたようだ。
ばさっと、俺にシレジエ王国の全体地図を広げる。
どうもライル先生お手製のようで、いろいろとペンで書き込みが
してあった。
﹁ゲイルに勝てば良いんですよね﹂
﹁ええそうです、私なりに今の均衡状態を打ち破るため、最善の策
399
として結婚話を持ちだしたのです。それを崩すというのなら、対案
が絶対に必要です﹂
できるわけないと言うように、挑発的に俺に細い顎を向けて笑う。
まさか、ライル先生と戦術勝負になるとは思わなかった。
確かに、普通ならライル先生の天才的な戦略チートには勝てない
だろう。
だが、俺には現代日本人としての知識がある。
例えば、オックスの街から裏を突いて王都への奇襲はどうだ。
いや、そんなことゲイルでも考えて布陣してるんだろ。
単純な陽動を、ライル先生が思い浮かばないわけがない。
考えるんだ、ライル先生が書いた、この作戦地図のどこかに絶対
にヒントがある。
エスト伯領と王領の境を挟んで布陣してる両軍、どっちの軍の貴
族や兵団もみんな旗幟を鮮明にせず、どちらが勝つかを固唾を飲ん
で見守ってるせいで動きが鈍い。
そして、この小山の上の重要拠点﹃イヌワシ盗賊団の砦﹄に篭っ
て、中立を守る第三兵団、こいつらがどっちに付くかが勝敗の鍵。
こういう図、たしか、どっかで見たことあるな⋮⋮。
﹁どうですかタケル殿、何か画期的な策は浮かびましたか﹂
﹁うーん、天下分け目の関が原ってかんじですね﹂
﹁はぁ、セキガハラですか?﹂
﹁そうですよ、関が原です!﹂
400
そうだよ、鉄砲と大砲の時代になったんだ。
徳川家康の戦術があるじゃないか。
﹁先生、策が浮かびました。第三兵団を味方につけます﹂
﹁私の話を聞いてましたか? 第三兵団のザワーハルト兵団長は、
利に聡い性格ですから、味方になった際の要求だけはたくさん送っ
てきますが、どっちが勝つか見えないとどちらにも⋮⋮﹂
﹁先生、お耳を拝借﹂
﹁はい? ⋮⋮えっ、いやそれはマズイでしょう﹂
﹁ダメですか﹂
﹁ダメというか⋮⋮そんな無茶なやり方、私が学んだ戦史には類例
がありません﹂
﹁どうですか、先生から見て、俺の策は上手くいかないですかね﹂
﹁うーん、いやぁ。何とも読めません、さすがタケル殿としか言い
ようがありません﹂
ライル先生は、呆然とした顔で俺を見た。
先生に予測がつかないんじゃ、この時代の誰にも俺の行動は予測
できまい。
﹁じゃあ、この策は責任を取って俺がやります。無理やり今日出会
ったばかりの女性と結婚させられるよりは、よっぽど良いですから
ね﹂
﹁普段は迷ってばかりのタケル殿が、そこまで確信を持っていうか
らには、勝算があるってことですね。分かりました⋮⋮﹂
401
先生としては、半信半疑ってところだろう。
俺だって、本当は上手くいくか知らないけど。
人間の心なんて、異世界でも現代日本でもそう変わらないものだ
ろう。
※※※
俺は、砲兵部隊と近衛銃士隊を連れて、﹃イヌワシ盗賊団の砦﹄
の前まで来ていた。
青銅砲を四門、三階建ての砦の前に並べて、義勇兵団の旗を必要
以上に立てまくって、攻撃準備を見せつける。
﹁先生、じゃあ勇者タケルが味方に付くように言ってると、第三兵
団のザワーハルト兵団長に使者を送ってくれますか。将軍か男爵ぐ
らいにならしてやってもいいと、まあ適当に条件をつけて﹂
﹁それはもう、何度も送ってるんですが﹂
第三兵団は、双方の使者をどんどん受け入れているようだ。
そうやって条件を釣り上げているんだろ。
すぐに返事が帰ってきた。
﹁エスト伯領の全部をくれて、総軍司令官にしてくれるなら味方す
ると言ってます﹂
ザワーハルトとやら、欲をかきすぎたようだな。
そんな要求が飲めるわけないだろ。
顔も知らんので、こっちも罪悪感がない。
﹁よし、ではこっちに今すぐ味方しないのであれば、伝説の勇者の
402
名の下に、貴様ら全てを地上から消滅させると矢文を放て!﹂
すぐに矢文が飛ぶ、よしスピード勝負だ。
﹁先生、ザワーハルトの奴は、どこからこっちを見ていると思いま
すか﹂
﹁そりゃ、三階の見晴らし台からでしょうね﹂
﹁では、そこに向かって砲撃します﹂
﹁タケル殿、もしザワーハルト兵団長に当たったら﹂
﹁先生、もうね。味方じゃないなら、このまま攻め滅ぼすんですよ﹂
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
きし
それぐらいの覚悟でやらなくてどうする。
第三兵団だけの問題じゃない、旗幟を鮮明にしない連中すべてへ
の見せしめにしてやるんだよ!
﹁かまわん、敵の眼前に命中させるつもりでよく狙って全弾撃て!﹂
﹁貴方、本当にタケル殿ですか⋮⋮﹂
ドッカーンと、爆発音が轟いて四門の大砲の弾は全てイヌワシ盗
賊団砦の三階に着弾した。
ガラガラと、砦の破片が崩れ落ちて下に居た兵が逃げ惑う。
﹁よっし、いいぞ! 敵の攻撃に備えて砲門を入口付近に向けろ。
油断するな、敵がこっちに攻撃してくるようなら、一兵も残さず全
滅させる!﹂
﹁タケル殿、人格が変わられたような⋮⋮﹂
403
砦内がざわつき始めた。
そりゃ当たり前だな、本気で攻めてくるなんて思ってもなかった
んだろ。
正直、上手くいくかどうかなんて、こっちはわかりっこない。
上手く行かなきゃ、目の前の敵は、もう全部ぶっ潰すだけだ!
ちくしょう、リアのやつめ、いっぺん死んどけ!
﹁ご主人様、白旗です。敵は降伏! 降伏の模様です!﹂
﹁よっし、ちょっと残念だぜ﹂
ライル先生は、俺のことをゾッとした顔で見ていた。
やだな、そんなに怖がらないでくださいよ。
※※※
この世界の噂の伝わるスピードは早い。
砦から降りた第三兵団が︵俺たちが、そのまま後ろに張り付いて
進んだので︶、死に物狂いでゲイルのクーデター軍の真横を突くと、
明らかに敵の陣が動揺し始めた。
こっちの王軍や義勇兵団は、活気づいて攻め始めた。
いかに大軍同士の戦いでも、均衡状態が崩れれば一瞬。
ポツポツと軍に混じっている魔術師ですら、一度雪崩打った味方
の敗走を押しとどめることはできない。
まして、みんなどっちが勝つかでまともに戦ってなかった連中ば
かりだ。
クーデター軍は裏切りが続発して、陣が維持できず、王都に逃げ
404
去った。
中世時代の戦争が、大規模になればなるほど、呆気無く終わるよ
うに見えるのは、こういう事情なのかと納得する。
兵士や騎士は自分の保身、貴族は自分の領地の保全しか考えてな
いからこうなるのだろう。
何とも虚しいリアルファンタジー。
こんな酷い時代に高らかに叫ばれる騎士の名誉や、勇者が居る意
味って何なんだろう。
王都へと向かう馬車の中で、俺は少し考えてしまう。
たそがれ
﹁タケル殿、何を黄昏ているんですか﹂
﹁いや、呆気無く終わったなと﹂
ライル先生は呆れたように言う。
﹁まだこれからでしょう﹂
﹁そうでした、ゲイルを成敗しないと﹂
﹁私の場合は、それで済まないんですよ。戦後の体制のことを考え
なくてはいけません。あの頭の固い、後方の安全な場所で政治しか
やってない連中とね﹂
﹁先生すいませんでした﹂
フッと先生は、形の良い口元を緩める。
﹁わかればいいです。あーあ、タケル殿がシルエット姫と一緒にな
ってくれれば、私が家宰として実権を握って、理想の国が作れたん
405
だけどなあ﹂
﹁アハッ、冗談ですよね﹂
﹁いえ、本気です。ある意味で、ゲイルと私は同じです﹂
﹁ぜんぜん違いますよ﹂
何が違うって、先生はゲイルみたいに不愉快じゃない。
﹁そう言っていただけると、嬉しいですね。でも、私にだって野心
があったんです。あの父親を見返してやれただけで、もう十分です
けどね﹂
﹁あー、お父さんですか﹂
﹁そうですよ、私は不肖の息子だそうです﹂
﹁それって、詳しい事情を聞いても?﹂
俺はあまり気が利かないほうだけど。
そこは、ライル先生の急所だってわかってるよ。
もう長い付き合いになったから、それぐらいは気が回せるように
なった。
﹁フフッ、どうしましょうかね。まあ、タケル殿が私にシレジエ王
国を全部くれるなら考えてもいいですね﹂
﹁うわー、それ本気で言ってますよね﹂
もう、ライル先生とは長い付き合いなのだ。
﹁当たりです、さあ王都が近づいて来ました。気を引き締めていき
ましょう!﹂
406
32.王都落城︵一ヶ月ぶり二回目︶
王都に、シレジエ王国臨時政府軍がたどりつくと、みんな唖然と
した顔で足を止めることとなった。
半壊した王城、焼けた街と石壁のそこいらから白旗が上がってい
る。
﹁先生⋮⋮﹂
﹁これはまた、手応えがありませんね﹂
あっけなさすぎるだろ、なんで毎回こんな展開なんだよ。
こう王都での史上初のド派手な攻城戦があって、王国の雌雄を決
するもんじゃないのか。
こういうリアルバトルは、求められてないと思うぞ。
﹁先生、これゲイルの奴は﹂
﹁これで捕まるほど間抜けじゃないでしょう。おそらく逃げてるで
しょうね、でもいまさら味方する貴族もなく、暗然とは協力してい
たであろうシレジエと敵対する他国も、シレジエ王国の力を弱める
という意味ではすでに用済みの存在ですから、どこに逃げても殺さ
れますよ﹂
じゃあ、ゲイルはどこに行ったのだ。
王都に入場したら、勇者が解放しに来てくれたと兵も民も総出で
歓迎してくれたのだが、お前たちは、ゲイルの支配下の時は何をや
っていたんだ。
反抗してた人もいただろうから、何とも言えんけどさ。
407
聞いてみても、誰もゲイルの行く先を知らなかった。
﹁ああそうだ、あいつは一応男爵でしたよね。ドット男爵でしたっ
け﹂
﹁ええ、でもドット男爵領も、もうゲイルとは関係ないって臨時政
府に文が届いてますからね﹂
つまりそこにも逃げていないと。
待てよ、逃げるって発想が違うのかな。
なんか引っかかる。まだ解決してない謎が、パズルのピースが残
っているような。
そうだ、オックスの街を襲った隠形を使う上級魔術師。
あいつの正体がまだわかってなかったよな。
死体も見つからなかった。
すると⋮⋮。
﹁大変です、魔の山からモンスターの大軍が攻めて来ました!﹂
付近でゲイルを捜索していた、騎馬隊からの報告。
﹁先生、空城の計って⋮⋮﹂
ハッと顔をあげるライル先生。
さすが、それだけで全てを察した様子。
﹁モンスター迎撃します!﹂
408
銃士隊が行こうとするのを、先生は手で押しとどめた。
そくとう
﹁ダメです、砲兵隊! 銃士隊! 急いで城の中に避難するんです。
側塔でも構いません、とにかく高いところに撤退急げ!﹂
おとり
なんでそんな指示を、と一瞬思って、俺も気がついた。
空城が囮として、モンスター大発生もまた囮で⋮⋮。
突如として、王都の郊外から大洪水が発生した。
水が来る!
﹁市民も流されちゃいますね﹂
﹁もう逃げてるでしょうが、城も解放しましょう。入りきらないで
しょうが、もう高い建物ならどこにでも避難させるように兵に命じ
ます﹂
俺たちも慌てて、城に逃げる。
洪水が街道に流れ込んできて、それだけで巻き込まれたら死ねる。
﹁まあ、水が来たせいでモンスターがすぐには攻めてこないでしょ
うけど﹂
﹁王都は平原の街なんですよ、石壁も崩れているからそのうち水は
引くでしょう。鉄砲と大砲をダメにしたあとで、モンスターで攻め
滅ぼすつもりですね﹂
まそのしょうけつ
ホーリーポール
﹁モンスター大発生って、﹃魔素の瘴穴﹄がまた開いたんですか﹂
﹁開いたんではなく、ゲイルが開かせた。聖棒まで偽造した奴です
から、そんな方法を知っていてもおかしくはない﹂
﹁先生これはもう、どうしましょう﹂
409
﹁セオリーなら、ここは死地です。撤退するしかありませんが、王
都は完全に廃墟と化してしまいますね﹂
火攻めの次は、水攻めされた王都。
もう半壊しているみたいなもんだけどな。
大砲は守りには向いてるけど、攻めには向いてないのかもしれな
い。
ライル先生の防水の陣が、王都にもあればなあ。
準備不足で拙攻を求めた、俺の責任だ。
﹁敵の狙いって何なんですかね﹂
あまりにも、無茶苦茶な気がする。
ゲイルは何がしたい、いまさらだけど、お前の街でもあったんだ
ろうに。
﹁民を見捨てて、王都から逃げる勇者や臨時政府軍に、義はなしっ
てシナリオですか。評判を落とすことにはなります。下手すると、
ようやくまとまったシレジエ王国が、また四分五裂する。判断が難
しいところです﹂
﹁それ以前に、民を見捨てるって選択肢がありませんよね﹂
ライル先生は、すごく嬉しそうに、俺に微笑みかける。
﹁タケル殿、言うようになりましたね。さてさて、立派な勇者様が
そう言ってるんですが、聖女様はいかがなさるおつもりかな﹂
城の奥に進んで、リアのところに行く。
410
彼女は、城の工房で、神聖錬金術の腕を振るっていた。
ホーリーポール
﹁今もう、新しい聖棒に刻印を焼き入れてるところです﹂
なんだ、リア見えないと思ったら、そんなことしてたのか。
王城にはまだ材料があったらしい。
﹁私も行く﹂
ルイーズもそう言った。
﹁ゲイルは、私が倒す﹂
そうだよな、ルイーズは因縁があるんだから。
まあ、ゲイルが魔の山に居るとは限らないんだが。
まそのしょうけつ
﹃魔素の瘴穴﹄の封印を解いて、モンスター大発生の中でオック
スの街にも、王都にも逃げられないのだから、山頂に潜んでいる可
能性はある。
なんとなくだけど、ルイーズの顔を見たらゲイルは隠れてても出
てくるような気がするんだよな。
だって、あいつさ⋮⋮。
﹁ご主人様、私たちも行きます!﹂
﹁タケル!﹂
またシャロンに、サラちゃんたちか。
﹁お前たちは、俺の近衛なんだろ。この城の市民が死んだら俺の評
判が落ちる﹂
411
﹁私たちは、ご主人様と一緒に﹂
ワイバーン
まそのしょうけつ
﹁いいか、お前たちは俺の評判を守ってくれ。﹃魔素の瘴穴﹄には
もう黒飛竜もいないんだから、王城の守りのほうが重要なんだ﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
説得に成功したの初めてじゃないか。
俺もついにチョロ将軍脱却か。
﹁先生もここに残って義勇兵団の指揮を、俺とリアとルイーズだけ
で行きます!﹂
﹁了解しました、私はあの上級魔術師を今度こそ、何としても⋮⋮﹂
先生わりと、上級魔術師に本気で対抗心燃やしてるよね。
自分が中級魔術師だから、魔法力に劣っていても実戦はそれだけ
では決まらないってところを見せたいのかな。
気持ちはよく分かる。
さて少数精鋭だ。ゲイルが居るとしても、もはや見捨てられて、
兵はないだろうしな。
水に完全に浸かっている街を眺める。
﹁なんとか泳いでいくしかないなあ﹂
ミスリルや黒飛竜の鱗は浮くだろうけど、案外とリアがやばいん
じゃないか。
﹁リア、泳げるのか﹂
﹁白魚のような足と言われていました。是非もない美しさです﹂
412
ああそうかよ。
聞くだけ無駄だった。
あといい事を思いついた。
﹁リア、偽の聖棒ここに置きっぱなしだっただろう。あれも持って
行こう﹂
﹁えっ、そんなもの何に使うんですか﹂
﹁相手はゲイルだ、念には念を入れるってことでな﹂
※※※
湖のようになった王都を泳いで渡る。
大平原を水に沈めただけで、さすがの上級魔術師も魔法力が切れ
たらしく攻撃はない。
泳ぎ渡ると対岸に群れているオークやオーガをバッタバッタと切
り倒す。
﹁ルイーズ、解体はお預け﹂
﹁すまん、つい癖で反射的に﹂
何おもむろにナイフを出してるんだよ。
それどこじゃないだろ、俺も人のことは言えんけど。
そのまま、魔の山への道を駆け上がる。
﹁リア、大丈夫か﹂
﹁ハァハァ、是非も、ありませーん!﹂
413
大丈夫っぽいな、よくわからんけど。
生身の人間が、化け物レベルのルイーズお姉さんの体力に、つい
ていくだけでも大変だよな。
リアは、途中で何度も霊水作っては、がぶ飲みしてる。
ああ、それ俺も欲しい。
聖女の祝福で、基礎体力底上げされてる俺ですらキツイからな。
えせ
戦闘自体は楽勝すぎる、俺の似非剣法でも光の剣補正があるし。
ルイーズの戦闘力は、なんかもう人間を超えてる。
ルイーズは、まず小弓を撃ちまくって、リュックサックに溜め込
んだ矢を使いきったあとは、弓を捨てて直刀で斬りまくる。
血糊で直刀が切れなくなったら、今度はオークロードのストーン
ハンマーを奪って、そのままオークを何体もなぎ倒してる。
誰が止められるんだよ、これ。
あとは、後ろから聖女が回復魔法・補助魔法かけまくりなので、
即死さえしなければリアの魔法力が切れるまでどこまででも行ける。
魔の山って黒杉が生えまくって漆黒に染まった恐ろしい外観の割
に、たいした標高でもないんだよな。
登り切ってみれば、もう山頂かって感じだ。
ラストバトルの舞台としては、たいした難易度ではない。
王都が襲われるタイム・リミットがあるから、時間かかると困る
しな。
﹁リア!﹂
414
ホーリーポール
もう王城は目の前だ、聖棒を抱えたリアが先頭に出る。
その時だった。
パキーンと音がして、聖棒が割れると共にリアが後方に吹き飛ば
された。
なんと、ゲイル自ら斬撃でつっこんできたか。
ルイーズ姉御ほどではないが、なかなかの切り込み。
だが、その剣戟に、いつぞやほどの精彩はない。
ごうがんふそん
大剣を握るゲイルの呼吸は荒く、顔色は悪い。
傲岸不遜を絵に描いたような立派な鋼鉄プレートメイルも、もう
胴から割れ落ちて崩れていた。
まそのしょうけつ
落城する城を抜け出て、﹃魔素の瘴穴﹄解放までやらかしたんだ
から、ゲイルもすごいとは言える。
考えたら奴も、たった一人で、瘴穴解放のモンスター大量発生を
切り抜けたんだ、無茶をやった代償は払ったわけだ。
回復ポーションをがぶ飲みしても、装備の修理もできないし、蓄
積した疲労までは取りきれない。
まんしんそうい
まさに、満身創痍、刀折れ矢尽きる敗軍の将ゲイル。
﹁フハハハハハッ、これで俺の勝ちだルイーズゥゥ!﹂
ご
この期に及んでもルイーズなのかよ、ゲイル。
リアに切りかかる隙に、俺たちに囲まれてるんだぞ。
﹁もう逃げ場はないぞ、ゲイル﹂
415
ルイーズ、そんなセリフ言うと逃亡成功フラグが立つからやめて。
﹁新しい聖棒を取りに帰る間に王都は廃墟だ。貴様らの負けだ、認
めろぉぉ!﹂
﹁ハッ、これで勝ったつもりか!﹂
グレートソード
ルイーズが投げつけた、回転しながら飛来する巨大なストーンハ
ンマーを、ゲイルは大剣を両手に構えて弾いてみせる。
﹁お願い! ホーリースピア! ホーリースピア! ホーリースピ
アァァ!﹂
起き上がったリアが、両手を前に掲げて叫んだ。
虚空より、白銀色に輝く聖なる槍が現れて、ミサイルのようにゲ
イルに飛び込む。
リア無詠唱、ついにほぼ呪文の詠唱なしで攻撃魔法を連発する。
アーサマも復讐を禁じてるくせに、リアの手助けしてやるんだな。
良い女神様だ。
上段、下段と力任せに大剣を振るって弾くゲイルだが、肩口に聖
槍が突き刺さり鋼鉄の肩当が砕け散った。
めろう
﹁グウッ、女郎どもああァ!﹂
ゲイルは、ガタッと肩肘をつく。
それでも本能的に、大剣を前に突き出すあたりゲイルも騎士だ。
﹁勝負あったなゲイル﹂
416
ゲイルの突き出した大剣を、ルイーズが直刀の斬撃で折った。
もう強度が持たなかったんだな。
﹁ルイーズ! 貴様は俺の!﹂
﹁死ね﹂
ルイーズがあまりにもあまりな、最後のセリフとともに。
ゲイルの懐に飛び込むと、深々と胸に直刀が突き刺さって、背中
から突き抜けるのが見えた。
ドスンッと、ルイーズに突き上げられた衝撃でゲイルの巨体が震
えて、そのまま仰向けに倒れこんだ。
俺は結局、囲みに加わって眺めてるだけで何もできなかった。
まあ、ゲイルはルイーズに殺されたかったんだろうし、これでい
いか。
見下ろすゲイルの遺体は、ボロボロになってるくせにいい顔して
やがる。
ほんと、好き勝手やらかしてくれたよ。
﹁なあ、ゲイルの死体だけどさ﹂
﹁晒し首にでもするか﹂
ルイーズお姉さん、発想が怖いですぅ。
﹁いや、このまま死体を残しておくと、ゾンビ・ロードになっちゃ
うんじゃないかなと⋮⋮﹂
ゾンビ男爵の前例があるからな。騎士だから、晒し首にしといた
417
らデュラハンとか。
せいしょくしゃ
﹁ありえますね﹂と、専門家のリアも頷いてる。
まそ
ゲイルはしぶといから、死んでからもルイーズにストーカーしか
ねないぞ。
のしょうけつ
﹁とりあえず、俺が﹃聖なる炎球の杖﹄で灰にしておくから、﹃魔
素の瘴穴﹄封印に行って﹂
﹁じゃあ、そうする。いくぞリア﹂
ルイーズがリュックサックから、﹃本当の聖棒﹄を取り出して、
リアに渡して瘴穴の封印に行った。
そうなのだ、リアにこれ見よがしに持たせてたのは﹃偽の聖棒﹄
の方だった。
自分が用意した﹃偽の聖棒﹄で騙されたんだから、ゲイルもざま
あない。
ギリギリ
普段のゲイルなら、こんな単純なトリック騙されなかったんだろ
うが、こっちもむこうも満身創痍だったからね。
ゲイルに騙されて死んだ、リアのお師匠様もこれで少しは溜飲が
下がるといいんだけど。
すごく良い人だったらしいから、それはないか。
﹁ゲイル、お前たぶん、ルイーズのこと好きだったんだろ﹂
いい顔して死んでる髭面のゲイルを、光の剣で輪切りに解体しな
がら︵グロいけどよく焼くためにしょうがない︶俺は声をかける。
一国を傾けるほどに有能で狡猾な男も、ついに一人の女への執着
のために、身を滅ぼす。
418
いや、ゲイルがルイーズを好きってのは、俺がそう思っただけで
違うのかも。
おっさんの恋慕だから、好きだとか愛しているとか、そんな単純
な感情じゃなくて、もっと歪んだ羨望や、ドロドロとした嫉妬心も
絡んだ、それでいて切実な執着だったのかもしれない。
いい女だからな、ルイーズは。理解はできなくても、気持ちはわ
かる。
俺は、ゲイルの遺体を綺麗に﹃聖なる炎球の杖﹄で焼き払った。
ゲイルの灰は、リアの聖水で浄化された上で、教会の墓地に埋葬
されることになる。
もう二度と蘇らないように厳重な聖化を施して。
ゲイルは、本当にもう、やりたい放題やったよなあ。
下士官から成り上がって、王都の全軍司令官にまでなり、クーデ
ターを起こして、王都を焦土と化し、憎い王族貴族を皆殺しにして、
三日天下とは言え、シレジエ王国の王として君臨した。
それでいて最後は、好きな女の手で殺されて、教会の墓地に手厚
く埋葬されるのだから。
聞いてて何が勝ちなんだと思ったが、﹁これで俺の勝ちだ﹂とゲ
イルが言っていた意味は、そういうことなのかもしれないね。
ルイーズに言ったら怒るだろうけど。
俺だけは、お前の勝ちと認めてもいいぞゲイル。
419
33.祭りの後始末
まそのしょうけつ
二度目となった﹃魔素の瘴穴﹄封印を終えて、王都に戻るとあら
かた王都から水が引いていた。
いくら魔法で無理やり大洪水を発生させても、水はけの良い土地
をいつまでも湖にはできない。
上級魔術師の攻撃に備えていたライル先生たちだが、ゲイルが失
じだんだ
敗したことを悟ったのか魔術師は、また姿を暗ました。
先生は地団駄踏んで悔しがってたが、準備が足りなかったからね。
あの魔術師も、正体は謎のままなんだよな。
上級魔術師ってのは、どこの国でも有名な存在だから照会すれば
分かるかと思ったら、該当する人物はいないとのこと。
まあ、黒いローブの隠形使いってだけでは何ともなあ。
モンスターの群れの残存をあらかた始末し終わる頃には、日が暮
れていた。
あれほどの激戦のあとにも関わらず、嬉々としてモンスターの肉
を解体し始めるルイーズには呆れた。
そりゃお預けって言ったけど戦闘しまくった登山の後だぞ、ルイ
ーズの体力の底が見えない。
まあ、難民のための炊き出しはいるので、俺たちも料理を手伝っ
たけど、食ったあとはほとほと疲れきってみんな地に突っ伏して眠
った。
ようやく、まともに王都の再建が始まったのは数日経ってからだ。
420
※※※
せっしょう
﹁というわけで、タケル殿にはシルエット王女の摂政となっていた
だきます﹂
﹁またそのパターンですか﹂
くらいう
いよいよ、先生の俺に対する位打ちも極まった感がある。
ちなみに位打ちとは、本人の実力をはるかに超えた高位高官につ
けることで、相手を呪殺する必殺技である、相手は死ぬ。
﹁シルエット姫との結婚は避けたいんでしょう。勇者の盛名と王家
の血筋のコラボ。最低限、これが諸外国や貴族に対して王国政府を
維持できるラインです﹂
﹁まあ、名前だけなら﹂
何でみんな、俺に責任を押し付けようとする。
結婚しろって迫られるよりはマシだけど。
﹁実務と王国政府との折衝は、私が全部やらせてもらいます。名前
が気に入らないなら、第一執政でも、第一人者でも、大元帥でも、
せっしょう
なんでもいいですよ﹂
﹁もう摂政でいいです﹂
第一執政ってナポレオンかよ。
たしか、シレジエ王国ってフランス型の国だったとは思うが、時
代が違うだろ。
﹁大火で焼け落ちて、洪水で流されて、王都はもはや一から作り直
すしかありませんから大変ですね﹂
421
﹁その割には、嬉しそうですね先生﹂
先生は、こういう独特の不謹慎さがあるんだよな。
非常識でも非情でもないんだけど、治世の能臣・乱世の奸雄もい
いとこだ。
﹁大掃除ができましたからね、前の王都が素晴らしい都市だったと
はとても言えなかったでしょう﹂
﹁それは、まあ分かります﹂
難民が溢れていたのはしょうがないとしても、上に統べる王族や
貴族はただ民を搾取するだけで、騎士や官吏たちも民の惨状を、手
をこまねいて見ているだけだった。
都市全体が、どうしようもない瘴気のような物に覆われていて、
見るだけで暗鬱な嫌な気持ちになったものだ。
ゲイルのクーデターは滅茶苦茶なものだったが、虐げられた民衆
に国家転覆を良しとする機運があった。
まそのしょうけつ
本当の﹃魔素の瘴穴﹄は、前の王都シレジエそのものだったのか
もしれない。
全て綺麗に押し流されてしまって、いまの王都には何もないが復
興に邁進する市民の顔色はみな明るい。
迫りくるモンスターの脅威もなくなり、上から権力で抑えつける
連中が一掃されたのだ。
いろんな物資が不足していても、将来への希望があれば人は生き
ていける。
﹁そこにうちの商会がオックスの木材や石材、イエ山脈の金属製品
を運んでたんまり儲けさせてもらうと﹂
422
俺がそんなことを言ってると、驚いたような顔で見られた。
﹁タケル殿、まだ儲け足りないんですか﹂
﹁当たり前ですよ、この新しい王都になら商会の支店を立てて、王
領側に商売網を広げても良いですからね﹂
﹁いや、本当に呆れました。私も分に過ぎた野心に焦がれているか
もしれませんが、タケル殿もたいがいですね﹂
﹁真っ当な商売で儲けるならいいでしょう、ただ何もせず下から搾
取する貴族連中よりだいぶマシです﹂
さわたりしょうかい
﹁よろしいでしょう、じゃあ復興の物資は佐渡商会が牛耳るという
ことで、王国政府と交渉してきます。この際だから、国庫をひっく
り返してもらって、王都も大砲付きの立派な都市に塗り替えましょ
う﹂
﹁それは官製談合って言うんですが、これも国民の安全のため、独
占もしょうがないですね﹂
﹁タケル殿、これも慈善事業ですからね﹂
﹁いやまったく、違いないですよ﹂
まったく、戦争も政治も、勝手にやりたい奴がやればいい。
俺はその間にせいぜい、自分の商売を広げさせてもらうことにし
よう。
※※※
まそのしょうけつ
あと、致命的な欠陥が発覚した﹃魔素の瘴穴﹄をリアが、教会の
応援で管理し始めたこととか。
423
上級魔術師の全国指名手配とか。
今回の事件の後始末は、話すときりがないので端折る。
俺が関与しなくても、ライル先生が善後策も含めて良いようにし
てくれるだろう。
王都で水を得た魚のように辣腕を振るう先生を残して、俺はルイ
ーズたちと一度エストの街に帰ることにした。
街に着くと、いつもと変わらない街並み。
変わったのは、ダナバーン伯爵が侯爵に出世したぐらいか。
そういやダナバーン侯爵も、ちょっとぐらいは領地増やして貰え
たんだろうか。
侯爵の居城を訪ねると、まだ王都から戻ってこないとのこと。
そういやあの人、政府首班だったもんなあ。まだ領地に帰れない
のか、お疲れ様だ。
さわたりしょうかい
佐渡商会の商館に戻ってホッとした。
﹁ご主人様、おかえりなさいませ!﹂
シャロンたち奴隷少女が、忙しく立ち働いている。
彼女たちは、商会の切り盛りで戦争が終わったらすぐに商館に戻
ったのだ。
﹁ご主人様、M&Aは順調に進んでます﹂
﹁ついに企業買収まで始めちゃったのか⋮⋮﹂
さわたりしょうかい
なにせ、佐渡商会に鉱山権益とアンバザック男爵領が一気に転が
り込んだせいで、関連する多くの職能ギルドや商会ギルドが傘下に
424
入ることになった。
実質的な商会長であるシャロンがいないと商会は回らないのだが、
なんでもシャロン一人で切り盛りしているわけでもない︵というか、
この規模になると出来るわけない︶。
商品流通と企業買収に関しては、シャロンの傍らで数式と格闘し
てるほとんど白髪に見える銀髪のシェリーがからんでいる。
シェリーは、シャロンたちの後からきた奴隷少女二期生の中でも、
ギャンブラーの娘と言う変わった経歴の持ち主で、シャロンが試し
に商売を教えこむと、高い数学理解と市場分析の能力を発揮した。
商会に集まってくる相場情報を収拾・分析して、どう商品を流通
させるか、次にどこの商会を買収すべきか、なかなかに的確な提案
を上司のシャロンに上げている。
彼女たちがチョークでボードに書きなぐってる情報は、もはや、
ただの高校生である俺が見てもわけわからない状態になっている。
活気があって見てると面白いけど、セリ市とかこんな感じだよな。
﹁えっと、シェリーよく働いてくれてるようだな、なにか欲しい物
ってあるかな﹂
﹁ご主人様、お留守の間はこんな感じですので、どうぞ確認をお願
いします﹂
とりあえずシェリーをねぎらってご褒美でもと思ったら、羊皮紙
の書類束を渡された、数字わかんねえんだよ。俺は、文系選択だっ
たし。
俺が書類を眺めるのを、シェリーは上目遣いで期待して見ている。
これで、確認しろとか言われても困る。
425
シャロンに言うと軽蔑されそうだから言わないけど、本当は簿記
も、財務諸表も、いまいちよく分かってない。
だってゲームでこんな実務処理なかったし、何でこんな時にライ
ル先生が側にいないんだ。
何か言わなきゃいけないプレッシャーに押されて、適当を言う。
﹁よし、今後もシェリーに任せる。流通は在庫を溜め過ぎないよう
に、効率的でシンプルなロジスティクスを目指せ。企業買収は、寡
占あるいは独占できる産業に注力しろ。あとは⋮⋮シャロンの言う
ことをよく聞いてな﹂
﹁さすがご主人様、的確なご指摘、痛み入ります﹂
こんなんでいいのか、俺はぜんぜん自信ないんだけど。
ぶっちゃけ、自分で出してる指示の意味もよくわかんないんだけ
ど。
﹁シェリーは、よくやってくれている﹂
﹁お褒めの言葉、ありがとうございます。ご主人様のお役に立てて
光栄です﹂
俺は、シミュレーションゲームの受け売りを言ってるだけだ。
高校生に、まともな商会の経営能力を求められても困る。
一番下の数字が、嘘みたいな利益になってるから、まあいいんだ
ろう。
ぎょくせきこんこう
奴隷少女は玉石混淆だ、シェリーみたいな玉が混じってるものを
鉱山に送って労働力として使い潰していたんだから。
この国のやりざまってのは、やっぱりダメだったんだろう。
※※※
426
俺は商会に帰って早々に風呂に入った。
いま、ロールが薪をくべつつ湯加減を見てくれている。
得意の硝石作りが、エストの街ではすっかりアウトソーシングさ
れてしまっているので、ロールは風呂焚き担当になってる。
普段の俺なら、真っ先にあいつを風呂に浸けるんだが、もう今日
は疲れきっていてそんな余裕はない。
あの戦争のあと、すぐ普段通りの実務に戻れるみんなの体力って
のはどうなってんだ。
俺はもう、いっそのことこのままロスゴー温泉に湯治に行きたい
気分だ。
ざぶっとお湯で顔を洗うと、全ての疲労が抜けていくような気が
した。
﹁はぁ、やっぱり風呂だな﹂
ちょっと爺むさいけど、俺はやっぱり風呂が好きだ。
故郷を思い出させてもくれるし、どこの世界で入っても風呂の良
さは変わらない。
大浴場を独り占めって、なかなか贅沢じゃないだろうか。
どうせ何もフェイントをかけないで入ったから、誰か入ってくる
んだろうけどな。
ほら、そう言ってたら小柄な少女が入ってきた。
銀色のショートカット。なんだ、シェリーが来たのか。
﹁⋮⋮ん﹂
427
﹁ご主人様、お邪魔してもよろしいでしょうか﹂
﹁ああっ、かまわん﹂
かまわないが、シャロンが来ると思ってたんだよ。
あいつはずっと髪を洗えって言ってたから、シェリーが来るとは
意表を突かれた。
﹁私が来たのが意外ですか﹂
﹁まあな⋮⋮﹂
ちゃんとかけ湯してから浴槽に入るあたり、教育が行き届いてい
てよろしい。
﹁シャロンお姉さまが、日頃のご褒美に、と譲ってくださったので
す﹂
﹁そうなのか﹂
また驚かされた。
超意外だ、あいつさも上には従順で、下には優しい感じの外面を
しておいて、絶対こういうとき譲らないよな。
シェリーはブレーンとして、そこまで高く買われてるのか。
﹁ご主人様、お疲れのところとは思いますが⋮⋮﹂
﹁ああ、みなまで言うな、頭でも洗えばいいのか﹂
シェリーは、コクンと頷いた。
子供一人ぐらいは、たいした労力じゃないしな。
自分の身体を洗うついでだ。
428
俺は風呂からあがると、石鹸を泡立てに入った。
なんだったら軽く散髪もしてやるぞ、不器用で良ければだが。
﹁ご主人様に髪を洗っていただくのが、奴隷少女の最大の栄誉なの
です﹂
﹁そうか、そうか⋮⋮﹂
髪を洗われながら、子供ができすぎたこと言うのはちょっと引く
から止めろ。
絶対シャロンの悪い影響だよな⋮⋮。
シェリーの髪は、銀糸のような綺麗な髪質をしている。
こんな珍しい髪色は、俺の元いた世界では見られなかったものな
ので面白い。
﹁ご主人様の次が、シャロンお姉さまに洗ってもらえることです。
私はシャロンお姉さまをお手伝いして、もっともっと商会を大きく
するのが夢です﹂
﹁そうか、それはすごいな﹂
楽しそうに話すシェリー、仕事はもう十分稼げてるし、ほどほど
でいいんだけど。
それがもしやりたいことなら、自由にやってほしいものだ。
俺はシェリーたちが来た時の、生きながら死んでる状態を見てい
るので、好ましい変化だと思う。
﹁商人には商人の国があります。ご主人様に、もう一つの王国を支
配していただけるように、私はこれからも全力でがんばります﹂
429
どんな大きなビジョンだよ。なんだもう一つの王国って、何の影
響だ。
この子は、ギャンブル好きの血を引いてるからな、大失敗して経
営を破産させるんじゃないかとちょっと心配になるが⋮⋮。
でも、まあそれもいいか。
﹁よし、じゃあ全力プッシュでシェリーがやりたいようにやれ。上
手く行ってもダメでも、俺が責任を取るからな!﹂
﹁がんばります!﹂
逆に煽っておく、よく考えたらシェリーたちが大失敗して破産し
ても困らない。
俺だけじゃ頼りないが、ルイーズや先生もいるんだから、奴隷少
女ぐらいなら破産しても食わせていけるだろ。
何も問題はない。
﹁あっ、私もご主人様のお背中お流しします﹂
﹁じゃあ、頼むよ﹂
小さい手で、俺の背中をタオルでこすってくれているのでほっこ
りした。
うん、十分休憩になったな。
﹁じゃあ、もう一度湯船に浸かるぞ。シェリー、百数えるまで上が
っちゃダメだからな﹂
﹁ニ、三、五、十三、八十九、二百三十三、千五百九十七、二万八
千六百五十七、五十一万四千二百二十九、四億三千三百四十九万四
千四百三十七、二十九億⋮⋮﹂
430
なにそれ怖い。素数かと思ったら、なんだそのデカイ数。
やめろよ、俺のツッコミ出来る範囲を超えて数学的にボケるのは
やめろ!
もう百は、はるかに振り切ってるので、あがるぞ!
※※※
﹁うーん、なかなかの味だな。ほれシェリーも飲め﹂
﹁ありがとうございます﹂
風呂上りに冷蔵庫から冷たい飲み物をいただけるなんて、なんて
贅沢だろう。
もうリアルファンタジーは厳しいとか言ってられないな。
ちなみに俺が飲んでるのが水出しのアイスコーヒーで、シェリー
が飲んでるのはフルーツ牛乳だ。
もちろん俺のコップや、シェリーの持ってる牛乳瓶はガラスで出
来ている。
﹁うーん、やっぱり濁ってるな﹂
﹁本当の瓶は透明ですもんね﹂
ガラスを作ろうと砂を焼いて失敗したのは黒歴史だが、風化した
花崗岩や水晶クズを高温で焼けば、それっぽいものができるとすぐ
分かった。
ただ透明度が低く、現代にあるような透明の瓶には程遠い。
ポーション瓶はもっと綺麗だし、やはり何か特殊な製法があるの
431
だ。
その情報は、おそらくヴェネチアン・グラスのように、どこかで
秘匿されているのだろう。
﹁シェリー、情報はすなわち金、だからな。商売は情報を制した者
が勝つ﹂
﹁ご主人様のお言葉、肝に銘じます﹂
そんなことを言ってたら、仕事を終えたシャロンがやってきた。
﹁あらあら、シェリーとすっかり仲良くなりましたね﹂
﹁お前のおかげでな﹂
シャロンは、思ったよりずっと立派にお姉さんをやっている。
育ててる奴隷少女の聡明さを見ればよく分かる。
﹁今日はまだ早いですけど、そろそろご就寝になさいますか﹂
﹁うんそうだな、長いこと馬車に揺られるのも疲れたから、今日は
もう歯を磨いて、ゆっくり寝るよ﹂
﹁では、ご主人様、こちらにどうぞ﹂
﹁うん?﹂
シャロンに案内されなくても、自分の部屋ぐらい分かるんだが。
あれ、俺の部屋がない。
﹁ご主人様の寝室は、商会の模様替えの際にこっちの奥の部屋に変
更になりました﹂
﹁そうか、シャロンに任せてるからかまわないが、やけに広いベッ
ドだな﹂
432
セミダブルぐらいの大きさがあるぞ。
こんな贅沢なベッド、うちにあったっけ。
﹁ええご主人様が、ゆっくり寝れるようにとこの度、新しく購入し
ました。普段は、私がベッドを温めております﹂
﹁そ、そうか﹂
いや、それって俺のベッドって名目で、シャロンが勝手に趣味で、
でかいベッド買って寝てるだけだよね。
まあいいか、任せたからにはしょうがない。
大は小を兼ねるだ。
大きなベッドが気持ちいいことには違いない、ゆっくり寝させて
もらうことにした。
※※※
うかつ
﹁迂闊すぎるだろ、俺⋮⋮﹂
早朝、何かベッドに柔らかいものがあるなと思ったら、ごく当た
り前のようにシャロンが木綿の下着姿で横に寝ていた。
この展開、予想されてしかるべきなのだからそれはいい。
問題は、朝起きるまでシャロンがベッドに潜り込んでいることに、
全く気が付かなかったほど深く寝入り込んでしまったことだ。
別に、シャロンを思いっきり抱きまくらにして、一晩過ごしてし
まってたことを後悔しているわけではない。
みやもとむさし
常在戦場の心得、これが剣豪、宮本武蔵の世界なら、俺はもう寝
433
首をかかれて殺されていてもおかしくない。
俺も勇者などと呼ばれて、味方も増えたがその分だけ敵も増えた。
本来なら、もう少し警戒すべきなのだ。
﹁ベッドに近衛が居るってシャロンの言うことも、あながち間違っ
てないのかもしれないなあ﹂
でもまあ、幸せそうな顔して寝てるシャロンでは、寝所の護衛と
して役に立つとは思えないが、可愛いので許す。
あれ、耳がぴくりと動いた。
﹁⋮⋮おはようございます﹂
﹁もしかして、起きてたのか﹂
狸寝入りが上手いんだな、シャロンは犬だけど。
犬や猫は眠りが浅いが、獣人のクォーターもそうなのか。
﹁ルイーズ団長が近くにいるときは心配ありませんけど。商会にい
るときは、ご主人様の身辺は私たちがお守りします﹂
﹁そうか、いろいろ考えてるんだな﹂
ちなみに、昨日一緒にエストの街まで帰ったルイーズは、義勇兵
団の責任者なので、オナ村のベースキャンプの視察に行って泊まっ
ている。
えっ、待てよ。
もしかしてと、部屋の外をそっと覗いてみると。
﹁ご主人様、おはようございます﹂
434
クローディアが、廊下に椅子を置いて座っていた。
この朝っぱらから﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄に、銃剣を携えた完全装備。
まるで小さいルイーズだ。
﹁お前、まさか寝ずの番してたのか﹂
﹁ルイーズ団長の代わりに、きちんと交代で寝てますからご心配な
く﹂
シュザンヌが、その隣に簡易ベッドを置いて寝ている。
こいつも寝ている横に銃剣を右側に置いて、こいつらのほうが俺
よりしっかり宮本武蔵をやってる。
くんとう
シュザンヌとクローディアのコンビは、ルイーズから騎士の従卒
としての薫陶を受けている。
中世の騎士道にも、﹁五輪の書﹂の精神と同じ教えがあるのかも
しれない。
﹁うーん、これは⋮⋮﹂
これどう判断したらいいんだ、シェリーには好きにやれっていっ
たけど、こいつらの場合は。
こんなに厳重すぎる守りを固めると、逆に襲撃されフラグ立っち
ゃうんじゃないだろうか。
﹁どうします、ご主人様。みんな自分で、できることを考えてやっ
た結果ですけど﹂
いつの間にか、シャロンも起きて、俺の背中に張り付いていた。
どうしますと言いながら、俺の結論を何となく誘導してる気がす
る。
435
だがまあ、そこに悪意はないので、そんなに不愉快ではない。
﹁クローディア、ご苦労だった。俺はもう少し寝るから引き続き、
頼む﹂
﹁はいっ、ご主人様の安眠をお守りいたします!﹂
若き騎士見習いは、椅子から立ち上がると、綺麗な敬礼を見せて
笑った。
それを見届けて、ゆっくりと扉を閉める。
﹁じゃあ、私はベッドにお伴します﹂
﹁好きにしろ﹂
嬉しそうにしてるから、もういい。
やっぱり休息が足りていない。
いろいろごちゃごちゃと考えるのが面倒くさくなってきた。
俺は、もうしばらくベッドに潜り込んで寝ることにする。
隣でシャロンがゴソゴソしてても、なんかいい匂いがしても、そ
れが安眠の妨げにならない程度には、俺もこの過酷な環境に、慣れ
だしてきているのかもしれない。
436
34.強敵の影
エストの街の商館に滞在して数日、すっかりぬるま湯に浸ったよ
うな生活をしていたが、急に背筋がゾクッと冷えた。
嫌な予感がする。このプレッシャーって、もしかして⋮⋮。
﹁ご主人様?﹂
﹁頼む﹂
近衛についてくれるシュザンヌが立ち上がり、クローディアに︵
お前はここにいろ︶と目配せすると、剣を抱えて店の表に駆けてい
ってくれた。
大いなる災厄が、近づいている予感がする。
﹁ご主人様、デッカイ変な馬車が表に!﹂
シュザンヌの警告に、俺は返事もせず、店の裏に潜り込んだ。
勝手知ったる自分の店だ、隠れる場所はいくらでもある。
﹁タケルどこですか、あなたのシスターリアが、参りましたよー!﹂
﹁ステリアーナさん、お店の前で騒がないでください!﹂
間一髪だったか、シャロンが対応してくれる。
前も、しつこいシスターを追い払ってくれた実績があるからな。
頼むぞ、シャロン。
﹁えっと、タケルはこっちに居るとアーサマのお告げが﹂
﹁ご主人様なら、オナ村のベースキャンプに視察に行かれたんじゃ
437
ないでしょうか﹂
すっと息をするように嘘を吐けるシャロンは頼もしい。
さすが商人として、研鑽を積んできたことはある。
﹁本当ですか、わたくしに嘘をつくとアーサマの天罰が下りますよ
?﹂
﹁私は、敬虔なアーサマ信徒です﹂
おそらくニッコリ微笑んだであろうシャロンの顔が想像できる。
味方にすれば、頼もしい存在だ。
﹁そうですか⋮⋮。では、オナ村の方に行ってみます﹂
﹁ええ、ぜひそのように、ご主人様もリアさんに会いたがってると
思いますので﹂
ふう、行ったか⋮⋮。
まそのしょうけつ
しかし、教会に召喚されて﹃魔素の瘴穴﹄封印のために、魔の山
にかかりっきりになってたはずのリアが、なぜエストの街に来てい
る。
王都でいったい何が起こっている。
というか教会は何をやってる、ちゃんと管理しとけ。
リアが行ったと見せかけて、まだ店の表に潜んでいるかもしれな
い。
念の為に、シュザンヌとクローディアに表を見張らせておく。
まぶか
そして、俺は裏から商館を抜けだそうとして、店の裏で、白ロー
ブを目深に被った女性と鉢合わせになって、悲鳴を上げそうになる。
438
わらわ
﹁いっ!﹂
﹁妾ですよ﹂
同じ白ローブでも、リアとは背丈も年格好もちがう。
すっとフードを上げて、美しいストロベリーブロンドの御髪をか
きあげて、尖った耳を見せてくれる。
芳しきローズの香り、麗しきごかんばせ、シルエット姫様だった。
せいしょくしゃ
﹁おお、失礼しました。シルエット姫をあんな人間辞めた女と間違
えるとは﹂
﹁聖女様と間違えてビックリするのに、妾がいることには自体には
驚かないんですね。あいかわらず、勇者様は変わっておられます﹂
そりゃ、デッカイ変な馬車って表現で何となく察しますよ。
意匠の凝った豪華な馬車は、たいてい王国貴族のものですからね。
﹁おそらく、ダナバーン侯爵が領地に帰るついでに、こっそりとお
忍びで付いていらっしゃったのでは﹂
﹁さすがは勇者タケル様。妾を一目見ただけで、そこまで推察する
とは⋮⋮﹂
シルエット姫が、エストの街にくることはありえると思っていた。
唯一のシレジエ王国王位継承者が王都を離れるなど、通常ならば
考えられないことなのだが。
王都の崩壊、﹃魔素の瘴穴﹄の不安定化など、ダナバーン侯爵が
治めるエストの街のほうがむしろ安全だと判断する材料はある。
それに何より、絶対ライル先生の策謀がからんでいる。
439
﹁俺が、ライル先生に姫をなるべく自由にさせてあげてくれと頼ん
だのです﹂
﹁それでなのですか? 勝手に出歩いても、もう妾のことなど、誰
も気にしてくれないのかと思いました﹂
また、ネガティブ。
姫のこの性格、なんとかならないかなあ。
﹁違いますよ、おそらく先生は、まだ諦めていないんです﹂
﹁妾とタケル様の結婚話ですか、確かに先は考えておいてくれと、
勇者様の先生にそれとなく諭されました﹂
姫を俺の下に送ることで、結婚話を進めようとしているのだ、あ
の人は。
会いさえすれば仲良くなって結婚するかも、などと思い込むあた
り、政略や戦略に比べると、やはり先生は恋愛の機微にあまり敏く
ないようである。
ピュアボーイ
なにせ先生は、そっち方面の経験だけは皆無っぽいからな。
まあ、俺も純血種なので、偉そうなこと言えないのだが。
この姫の場合は、性格改善からやらないと、お嫁とか言ってる段
階じゃないと思う。
﹁勇者様は、先生様と離れて、少しお寂しいのではありませんか﹂
﹁そんな顔をしていましたか﹂
寂しいとはちょっと違うけど、いや、やっぱり寂しいのかな。
確かに相談相手の先生がいないだけで、いろいろと不便を感じる。
﹁羨ましいですね、妾は勇者様のように、気のおけない友人がいま
440
せんから﹂
﹁そういえば、本当にお一人なのですか。さすがに危ないのでは﹂
そう尋ねると、店の裏の焚き木を積んである影から、すっと大柄
の女性騎士が現れた。
ルイーズと同じぐらいの歳で、ルイーズよりも筋肉質な女騎士。
この人は、この世界では珍しいことに俺と一緒で黒髪なんだよな。
﹁姫が、お一人なわけないであろうよ勇者殿﹂
﹁えっと、ジルさんだっけ﹂
﹁ジル・ルートビアだ。一度顔を合わせただけなのに、よく覚えて
いたものだ﹂
﹁人の名前と顔を覚えるのは得意なもので﹂
商人だからな、まあジルの髪の色が俺と同じだってことが大きい
が。
癖のない黒髪をルイーズと同じようにポニーテールに結んでいる、
肌も小麦色に焼けているので、一瞬日本人かと錯覚したぐらいだ。
ルイーズはゲイルの乱終結後、王国の近衛騎士団に戻るように、
再三再四誘われても断って、姫の護衛騎士になることも断って。
その代わりに、元自分の部下だった女騎士を斡旋して回ったのだ。
シルエット姫の護衛を務めているジルは、ルイーズの片腕的な存
在だったそうだ。よく知らないけどね。
挨拶だけ済ませたら、ジルはまた物陰に隠れてしまった。護衛は
目立つべきじゃないってことか、大きい身体で器用なものだ。
﹁妾に護衛など必要ありませんのにね﹂
441
﹁いやいや、居るでしょう。姫が一人で歩いてたら大騒ぎになるん
じゃないですか﹂
﹁あら、国民は妾のことなど知りませんよ﹂
﹁えっ、そうなんですか﹂
﹁唯一残った王族が、ハーフエルフなどと言えたものではありませ
んでしょう﹂
﹁そういうものなんですか﹂
俺はそこら辺よく分かんないんだよな。
ニンフみたいな露骨な差別でもなければ、他人種が迫害されてい
るようにも見えないんだが。
国の女王としていただくには反発が大きいってことなのか。
シルエット
﹁フフッ、妾など日陰の身なのです。王宮には、面白いことに妾の
影武者が居るんですよ。影絵の影武者なんて⋮⋮ウフフッ、どうぞ
お気づかいなくお笑いください﹂
﹁いや⋮⋮﹂
それ、そんなに面白く無いし。
なぜ、自分を卑下して笑いを取ろうとする。
どうリアクションしたらいいか、困るじゃないか。
﹁どうやら妾はタケル様のお邪魔のようですね、面白い話もできな
いシルエットは、何処ともないところに消えさせていただきます﹂
﹁うわー、待った待った。邪魔とは言ってないです﹂
ジルさんが潜んでる物陰に行こうとするから、ジルさん困ってる
じゃん。
442
どんなネガティブだよ。さて、これどう励まして自信を持たせた
らよいやら。
﹁では、タケル様のご厚情にお応えして。妾は、もう少しだけ存在
することを許していただきます﹂
﹁ずっと存在してくれてていいですからね﹂
存在することを許さないと言ったら、お前、もしかして消えるの
か⋮⋮。
姫は姫なりに、自分の性格がネガティブすぎるのを自覚して、せ
めて笑わせようとしたのかもしれない。
何か明るい話題を俺も振らないと。
﹁そうだシルエット姫! こんな暗いところに居ないで、どっか遊
びに行きましょうか。街でも案内しますよ。小さい街ですから、た
いした名所はありませんが﹂
﹁あっ、それってもしかして、デートですか。よろしいですわね﹂
グッ⋮⋮、その話を蒸し返されるのか。
俺の血の気の引いた顔を見て、シルエット姫もさっと顔を青ざめ
た。
﹁ああごめんなさい、デートしないと結婚できないと、聖女様に同
行中の馬車の中で何度も注意されたもので﹂
あいつ、馬車で暇だったのかもしれないが、姫に何吹き込んでる
んだよ。
姫に悪気はない、全部リアが悪いんだ。
﹁姫は、えっと念の為に聞いておくんですが、俺とその結婚したい
443
と少しでも思ってるのですか﹂
﹁いえ、そんな大それたことは思っておりません!﹂
そうだと思ったよ、変な勘違いをする前に聞いておいてよかった。
﹁結婚しろとか、ライル先生が言ってることは、真に受けなくてい
いですからね。せっかく王宮から解放されたのだから、姫も好きな
ように生きればいいんですよ﹂
﹁タケル様の側室の末席にでもお加えいただければ⋮⋮﹂
はぁ、ボソッとなんか言ったぞ。
俺が訂正する間もなく、物陰から、のそっとジルさんが出てきた。
﹁勇者殿、シルエット王女は、唯一の王位継承者なのですぞ。それ
を側室などとは、シレジエ王国に対する侮辱にもなりましょう﹂
﹁いやいや、ジルさん。俺が言ったんじゃないから!﹂
側室ってなんだっけ、正妻とは別の奥さんだよな。サブ的な。
まず、俺は結婚してないからね。正妻がいないから。
はしため
カキタレ
﹁申し訳ございません、この半端者が側室などと生意気なことを。
妾など、端女の性奴隷で結構でございます﹂
﹁勇者殿! 言うに事欠いて姫様を端女だと! 王女殿下を奴隷扱
いするつもりか﹂
激昂したジルさんは、腰の剣に手をかけてシルエット姫を守るよ
うに、にじり出る。
なんだこのコント⋮⋮付き合いきれねえ。
﹁とにかく店の裏で立ち話もなんですから、応接間にどうぞ﹂
444
﹁まあ、格別のご招待、痛み入ります!﹂
よく考えたら、街をほっつき歩いてリアに見つかる可能性もある
しな。
リアについては、怒ってとっちめたい気持ちはありつつも、話し
たくないし顔も見たくない気持ちもあるという、複雑な気持ちだ。
※※※
応接間でお茶を振る舞って、お客さんにお菓子を出す。
﹁この焼き菓子なんだ、パンのようなケーキのような⋮⋮うむぅ、
すごく美味いなぁ﹂
﹁妾も、このようなもの城でも食べたことはありません﹂
シルエット姫はともかく、やたらジルがカップケーキに感動して
た。甘党なのかな。
新鮮な卵やバターをたっぷり使った焼きたてだから、そりゃ王都
の気の抜けたような菓子よりは美味しかろう。
コレット
﹁まあ、うちの料理長が優秀ですからね。姫様たちが持ってきてく
れた紅茶も美味しいですよ﹂
俺はどっちかと言うとコーヒー党なのだが、さすがに王室御用達
の紅茶も悪くない。
﹁ルイーズお嬢様が、我らが騎士団に戻って来られないのはなぜか
と思ってたが、このようなものを毎日食しているのでは、仕方がな
いのかもしれん﹂
445
﹁それで納得しちゃうのか⋮⋮、あとルイーズってお嬢様なの?﹂
騎士団のエライさんってのは納得したけど、お嬢様はちょっとあ
りえんぞ。
そりゃ、名前だけはお嬢様っぽいけども。
﹁カールソン家は、二百四十年続く武家の名門だ。我がルートビア
家も、ルイーズお嬢様の郎党に当たる家柄。タケル殿はよくご存じ
ないようだが、武家には武家の格式がある。ルイーズお嬢様は、そ
の頂点に立たれるお方だ﹂
﹁そんなに偉い血筋なのか﹂
官僚にしても騎士にしても、そうやって一族郎党だけで、重要ポ
ストを独占してたからゲイルみたいなのが出てきちゃったんじゃな
いかな。
などとチラリと思ったが、まあ言わないことにした。
﹁お嬢様のお父君も、本当は勘当したのを後悔しておられるのだ。
ルイーズ様の罪は晴れたわけだしな。お互いに意地を張っておられ
るだけで、ルイーズ様に戻ってきて家門を継いで欲しいに決まって
いる。タケル殿からも、言ってもらえぬだろうか﹂
﹁うーん、俺はルイーズが居なくなると困るからね﹂
カールソン家の複雑な事情は知らないし、ぶっちゃけどうでも良
いんだよな。
ルイーズが居なくなると、義勇兵団まとめられなくなるし。
﹁そうか、済まなかった。タケル殿にも都合はあろうな﹂
﹁ありゃ、やけにあっさりと引くんだな﹂
446
﹁言っても聞かぬだろ、あのお嬢様は﹂
﹁ハハッ、そりゃ違いない﹂
俺がその﹁お嬢様﹂って言うのでからかったら、怒って王都に帰
るかもしれないけどね。
いや、その前にぶった斬られるな。リアの真似はやめよう。
﹁それに、こんなに美味しい菓子があるなら、こっちに居たほうが、
お嬢様は幸せなのかもしれない﹂
﹁それ、そんなに気に入ったんなら俺のも食べなよ⋮⋮﹂
そんなに甘味が好きなら、クレープも作ってやろうか。
﹁おおっ、勇者殿。この恩は決して忘れぬ!﹂
﹁いや、そんな大層なもんじゃないからね﹂
なんか、騎士って何かしら性格が濃い人が多いなあ。
そんなこんな、まったりしたティータイムを楽しんでいたら何や
ら表が騒がしくなってきた。
すわ! リアが戻ってきたか?
そう思ったらシャロンがやってきて、得意げに告げた。
﹁ご主人様、新しい奴隷少女が参りましたよ﹂
あれっ、俺そんなの注文してたっけ。
いまお客さん来てるんだけど、奴隷の引き渡しとか、体裁が悪い
なあ⋮⋮。
447
35.新しい奴隷少女
あいかわらず目の死んだ、幸薄そうな奴隷少女が二十六人、商会
前に揃っていた。
これ見る度に、心臓が締め付けられる気持ちになるんだよな。
﹁さあみんな、新しいご主人様になられるサワタリ・タケル様です。
ご挨拶なさい﹂
いきなりは無理だよシャロン。
そりゃ命じればお辞儀はするけども、最初はまともに話が出来る
状態じゃない。
﹁なあ、シャロン。新しい奴隷少女を雇う話って﹂
﹁あれ、ご報告申し上げませんでしたか?﹂
﹁それは聞いたとは思ったけど、住む場所とかどうするの﹂
シャロンは、ちらっと銀髪ショートカットのシェリーの方を見下
ろす。
﹁いえっ、お姉さま。私は、ちゃんとご主人様にご報告申し上げま
した! ほら、この報告書にちゃんと記載されてます﹂
そう言ってシェリーは、俺に羊皮紙の紙束を持ちだしてくる。
あー、このまえ俺がわけわからんから、読み飛ばしたやつか。
﹁これね、うんそうだ、見せてもらったよ! シェリーは悪くない
448
ぞ﹂
シャロンは一瞬、琥珀色の瞳を泳がせて納得したように頷くと。
﹁そうですか、ではいいんです。ご主人様、すでにご存知と存じま
すが、隣の店舗を小間物屋商会ごと買収いたしましたので、住居は
確保できてます﹂
﹁ええっ⋮⋮、なるほどじゃあ、なにも心配ない!﹂
すまんなシャロン。俺が報告書を読んでなかったのが悪いんだが。
主人に恥をかかさない配慮、痛み入る⋮⋮。
﹁それにしても、奴隷少女を二十六人追加とは思い切ったもんだな﹂
﹁今の商会の規模なら、十分に養育できる数だと愚考します。ご主
人様の奴隷になりたい少女は、王都に山ほどいるんですよ﹂
しかし、タイミングはよろしくない。
ほら、何事かとシルエット姫様と、お付きの騎士ジルさんも出て
きちゃった。
﹁シルエット姫、お騒がせして申し訳ございません﹂
﹁いえ、勇者様が奴隷少女を使役しているのは、有名な話ですから﹂
そんなのが有名になっちゃってるんだ。
それ、どう考えても悪評じゃないのか⋮⋮。
﹁新しい奴隷少女が入ったことで立て込んでおりますので、今日は
わらわ
ダナバーン侯爵の居城にでもお戻りになられたほうが﹂
﹁あら、妾に見せてはいただけませんか﹂
449
﹁見せろと言いますと﹂
﹁前に、妾など奴隷と同じと申しましたら、タケル様は自分の奴隷
は違うとおっしゃってくれました。それを出来れば、妾もこの目で
見たいと存じます﹂
ああ、なるほど真剣な話か。
そうだな、姫様の境遇も、籠の鳥みたいなものだったんだろうか
ら。
同じように心を囚われた奴隷少女が、人間性を回復させる過程を
見ることで、ネガティブな性格も矯正できるかもしれない。
そういう心理療法もありかもしれないね、よく知らないけど。
﹁では、今より奴隷少女たちをお風呂で洗いますので、見ててくだ
さい﹂
﹁妾もお手伝いします﹂
いや、お姫様って自分の身体も自分で洗えないもんじゃないのか。
できるというのなら、お手並み拝見させてもらうが。
じゃあ、みんなで洗おう。ジルにも当然手伝ってもらうぞ。
﹁私は、子供の扱いは、苦手なのだが⋮⋮﹂
﹁あとでお菓子をたらふく食べさせるから﹂
﹁勇者殿、任せられた!﹂
チョロいなジル。
俺よりチョロい奴がいてくれて嬉しいぜ。
450
しかし、二十六人もの子供を洗うのは大仕事だった。
とりあえず店番をシェリーに任せて、洗浄作業開始だ。
奴隷少女を裸で脱衣所にズラリと並ばせて、俺とシャロンとシル
エット姫とジルとで洗う。
あと、おまけで同じ子供なのに、俺に付いて回ってるシュザンヌ
とクローディアまでがんばって手伝ってくれた。
まあ、少しはお姉さんだものな。
まずは身体を綺麗にして、肌に傷がないか調べて、あったら薬草
で治療して。
﹁タケル、やっぱりここに居ますね!﹂
﹁シスター様、だめぇ!﹂
店番がシェリーだけでは抑えきれなかったか、リアが脱衣場に飛
び込んで来てしまった。
はぁ、もういいや。
﹁あら、タケル。お取り込み中ですか?﹂
﹁イイからお前も、奴隷少女の身体を洗うのを手伝え﹂
﹁わたくしは、子供を洗うのは大得意ですよ! タケルを洗うのも
得意ですけど﹂
﹁余計なことは言わなくていい!﹂
正直、リアにかまってる暇はなかった。
しかし言うだけのことはあり、リアはかなりの戦力になった。
普段は肌を見せないだのなんだの言ってる修道女ローブもさっさ
451
と脱ぎ捨てて、身体にタオルを巻くと。
どこにこんな手際があったのだという感じで、テキパキと子供の
丸洗いをこなす。
やはり、俺の手つきにはまだ遠慮があって、リアほどには手際良
くやれない。
シャロンはともかく、リアに負けるとか、なんか腹立ってくる。
﹁わたくしは、シスターになるまでもなってからも、しばらくは子
供の世話ばかりしておりましたから、懐かしいです﹂
﹁そういや、リアは孤児で、聖女に育てられたとか言ってたな⋮⋮﹂
そのお師匠様とやらが、孤児を集めて教会で孤児院でもしていた
のだろうか。
リアにしても不遇な生い立ちのはずなのに、どうしてこんな破滅
的な性格になってしまったんだ。
お師匠様とやらが養育する過程で、リアに何があったのか疑問に
思ったが。
よく考えると知りたくもない、子供の教育について一言文句を言
いたくても、すでに故人だ。
﹁タケル、わたくし、子育ては得意なんです﹂
﹁⋮⋮よし、とりあえず全員洗えたな﹂
俺は服を着せると同時に、奴隷少女たちに皮の首輪を嵌める。
あまりいい気分はしないものなのだが、これは安全のためなのだ。
俺の所有物ということになれば、子供たちはこの街で誰に邪魔さ
れることもなく生きていけるし。
452
何かあったときも保護は受けられる。
﹁なんで、姫様が並んでるんですか﹂
﹁妾も、いっそのこと奴隷になってみようかと﹂
いや、わからん。
シルエット姫が奴隷になった段階で、シレジエ王国が終わるだろ。
その瞬間に、奴隷王朝が誕生すると思うと、ちょっと面白いジョ
ークだが。
リア、その手があったかー、みたいな顔をするな。
いずれ、奴隷少女たちはそれぞれに人間性を回復するだろうが、
それには短くない時間が掛かる。
手間はかかるが、最初はきちんと一から十まで教えるのが肝心だ。
食事のとり方からスプーンの上げ下ろしまで見てやって、歯を磨
かせて寝間着に着替えさせてベッドに眠るところまで確認して教え
こませればならない。
最初さえ、しっかり正しいやり方を覚えさせれば、その通りにで
きるようになる。
﹁ふうっ﹂
たかだか二十六人の子供の世話、学校の先生とか保父さんとかな
ら毎日やってるはずだが、俺は久しぶりに気疲れして、ふらふらに
なってしまう。
体力うんぬん以前に、人間を扱っているってことが、とても重い
ものに感じてしまうのだ。ほんと、高校生に子育ては荷が重い。
453
﹁ご主人様、お疲れ様です﹂
シャロンが、汗だくの俺の頭に大きなバスタオルを巻いてくれた。
﹁いや、お前のほうこそな⋮⋮、今度は、お前の髪も忘れずにちゃ
んと洗うぞ﹂
﹁はい、ありがとうございます。ご主人様﹂
﹁勇者殿、約束のお菓子は﹂
﹁ジルさん、コレットが多分焼いてますから、食堂にどうぞ﹂
食事を作ってもらったあと、おやつを追加してもらうように頼ん
でおいたからな。
用事は済んだとばかりに、ジルさんは食堂に消えた。
いや待てよジルさん、姫を置きっぱなしで行くのかよ。
護衛の仕事はどうしたんだ。
食堂に走る身のこなしは、ルイーズには負けるが、なかなかの手
練に見えるけども。
シルエット姫は、ジルに取り残されて呆れたように笑っていた。
姫は放置されると、すぐネガティブになってしまうから気を使っ
て声をかける。
﹁どうでしたか、シルエット姫﹂
﹁とても素晴らしいと思いました。タケル様の奴隷少女は、みな人
間として扱われております。首輪につながれても、心まではつなが
れていない﹂
454
シルエット姫も手つきはぎこちないながら、シュザンヌたち程度
には役に立ってたし。
何も出来ない女の子じゃないなとは、思うんだけどね。
﹁妾もぜひ、奴隷少女になりたいなと思いました﹂
なにいってんのこの子は⋮⋮。
ジョークだよね。
﹁今からでも、妾に首輪をかけていただけないでしょうか⋮⋮ご主
人様﹂
﹁いやいや、姫様それ間違ってるからね!﹂
ネガティブを更生させるつもりなのに、何で悪化するんだよ。
シルエット姫に首輪をつけようものなら、ジルさんに本当に斬り
殺される。
﹁じゃあ、わたくしは指輪が欲しいですタケル﹂
﹁あーリアうるさい﹂
なんでこいつらは、コンビでいるんだろう。
同じ白ローブ金髪で、キャラが被ってる上に両方とも面倒すぎる
よ。
せめて一人ずつじゃないと、こっちの身が保たない。
﹁シャロン、限界だから⋮⋮俺はこの場にしばらく昏倒する﹂
﹁かしこまりました、シュザンヌ! クローディア!﹂
なんか﹁首輪が﹂とか﹁指輪が﹂とか吠える声は、遠くの方に遠
ざかって行き。
455
俺はシャロンの膝枕で、しばらく眠る。
強烈なボケに対して、ツッコミすら自分で出来なくなったって。
俺も、姫のこと言えないレベルで、退化してしまってるかもしれ
ない。
※※※
﹁お目覚めに、なられましたか⋮⋮﹂
﹁ああ、すまないシャロン﹂
ずっと膝枕しててくれたのか。
足がしびれただろうに。
今何時だろう、外はすっかり暗くなってる。
さっきまで騒がしかったのに、やけに静かだ。
新しい奴隷少女たちが寝てる部屋をそっと覗くと、みんな各々の
ベッドで健やかに寝息を立てている。
奴隷の産地は難民が溢れる王都からだろうから、長旅で疲れたん
だろうな。
﹁ご主人様、お食事になさいますか、それともお風呂ですか﹂
﹁えっと、そうだな。じゃあ、風呂で約束を果たすことにするか﹂
﹁はい、参りましょう。もうロールに頼んでお湯を入れ替えてもら
ってます﹂
﹁本当に手際がいい﹂
自分が動けるのは当人の努力だと思うが。
456
動かずに人を使うのは才能だな。
﹁うふふふっ、はい﹂
シャロンの頬が紅潮して、耳が天を向くようにピーンと張り詰め
ている。
緩んだ頬を見なくても、機嫌が良いとわかる。
﹁じゃあ、行くか﹂
なんで俺が髪を洗うことが、奴隷少女の栄耀になっているのかは
よくわからない。
シャロンたちにとって、俺は言わば親代わりになっているのだか
ら、甘えたい存在なのかもしれない。
﹁そのシャロンたちに、助けられてしまってるのは情けないけどな
⋮⋮﹂
﹁ご主人様、何かおっしゃいましたか﹂
いや、たくさんの出来のいい娘を抱える身としては、もっとしっ
かりしないと思っただけだ。
﹁シャロン脱ぐのは、いいけどタオルを身体に巻くぐらいの配慮は
しろよ﹂
もう大人なんだから、言わなくてもわかるだろう。
俺も腰にタオルを巻いて入る。
さて、身体を洗うのが先か、湯船に浸かるのがさきか。
シャロンがタオルを巻いてしずしずと浴場に入ってくるのを見て、
457
まず髪を洗ってやるのを先にしようとお湯を湯船から汲んだ。
シャロンの育ちきってしまった身体は、大きめのタオルでも完全
に隠れきれてない状態なので。
湯船に浸かり、タオルがお湯に濡れてからだと、気まずくなりそ
うだから。
﹁だいぶ待たせてしまったな﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
シャロンにざぶっとお湯をかぶせて、手で石鹸を泡立てて髪を洗
う。
髪は綺麗に手入れされている、奴隷少女同士で散髪とかしてるの
かな。
だったら、髪も自分たちで洗いっこしてくれって感じだが、それ
は言うまい。
本人がそうして欲しいというのだから、俺はそれに応えるまでだ。
﹁シャロンはアレだな、綺麗な髪をしているな﹂
﹁はい⋮⋮﹂
なんだか黙って洗っているのが恥ずかしくって、変なことを言っ
てしまった。
淡いオレンジ色の髪は、お湯で濡れると瞳の琥珀色に近い感じに
なる。茶色よりは少し明るくて綺麗な色彩だ。
綺麗に泡立てて、獣耳にお湯が入らないように気を使いつつ、シ
ャロンの髪をたっぷりと時間をかけて洗ってやった。
さっと流したら終わり、たいしたことはない。
458
﹁あのご主人様﹂
﹁んっ﹂
﹁身体もお願いするってことは﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁あっ、ごめんなさい﹂
﹁いやいいよ、すまん。俺が気にしすぎなのかもしれない﹂
シャロンに他意がないのはわかっている。
だが、さすがに大人の女性の身体を洗うっていうのは、もうライ
ンを越えている。
﹁じゃあ、私がご主人様のお背中をお流しするのは﹂
﹁それならいいぞ﹂
願ってもないことだった。
俺が背を向けると、シャロンが泡立てて背中を洗ってくれる。
なんでシャロンたちが洗って欲しいのかわからないー、なんて言
いながら。
自分で他の人に洗ってもらうと、やっぱり気持ちよかったりする
のだから世話はない。
何も言わなくても、シャロンは後ろから俺の髪まで洗ってくれる。
本当に出来過ぎだな、背中を流してもらったらさっぱりした。
﹁シャロン、やっぱり背中だけ洗ってやろうか﹂
﹁ぜひっお願いします!﹂
459
是非って、お前はリアか。
変態が伝染るから、その口調はやめておきなさい。
タオルで前はきちんと隠せよと命じて、背中を向けているシャロ
ンに泡立てて手を付けた。
タオルを使わず手で洗うのは、別にいやらしい意味じゃない。
もう大人になっているシャロンの玉の肌は、繊細な感じがして。
少し迷ったけど、目の粗いタオルでは傷つけてしまうんじゃない
かと思ったから。
本当に大きく育ったなあ。大きくて柔らかくて暖かくて⋮⋮いや、
やめよう。
小さくて傷だらけだったころのシャロンを知っているので、余計
に直視しづらい。
﹁ご主人様、やっぱり前も洗って⋮⋮﹂
﹁ダメに決まってるだろ﹂
﹁じゃあ、私が⋮⋮﹂
﹁どうしたんだ、シャロン。お前は、もっと聞き分けがいい子だろ﹂
普段はそんなないのに、こんな時に限ってやけにからんでくる。
俺が抵抗あるのわかってるだろう、言わせんな恥ずかしい。
﹁ご主人様は、どんな奴隷がお好きですか﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
いや、お前どうして、こんな時そんなことを。
なんかいたたまれなくて、俺はシャロンに背を向ける。
460
﹁ご主人様が、ただ聞き分けの良い奴隷がよろしいんでしたら、私
はそうしますけど﹂
﹁それはお前⋮⋮俺は、自分の奴隷に自由で居て欲しいと、いつも
言ってるだろう﹂
奴隷制度がある今の社会を認めている。虐げられているのも仕方
がない。
だけど、自分の手の届く範囲では、それを許したくない。
﹁じゃあ、時にはご主人様のお言葉に逆らってもいいんですか﹂
俺の首にほっそりとした手が回されて、背中に柔らかい感触が当
たる。
﹁シャロン、それはそうだけど、これは違うだろっ!﹂
﹁どっちなんです、ご主人様。従順な奴隷がお好みなんですか。そ
れとも、奔放な奴隷がお好きですか﹂
俺は、全く身動きが取れなくなった。
諸事情により、猫背のまま立ち上がることができなくなってしま
ったのだ。
﹁ねえ、ご主人様。どっちなんですか﹂
これはもう進退きわまる。その時だった。
﹁あー、シャロンさん。わたくしたちに黙って抜け駆けとは、いけ
ませんわね。アーサマの罰が当たりますわよ﹂
461
リアが乱入してきた。
これは、助かったと思ったけど。
﹁おいっ、リア、タオルをつけろよ馬鹿野郎!﹂
助かってないじゃないか。
修道女は、他人に肌を見せないんじゃなかったのか。無駄な肉を
揺らしすぎなんだよ、お前のほうが、アーサマに罰してもらえ!
﹁あらぁでも、わたくしのオッパイを覆える大きさのタオルがない
ので、これは是非も無しですね﹂
﹁そういうこと自分で言っちゃうんだ、お前⋮⋮﹂
いくらなんでもドン引きだわ。
どこの世界に、巨乳を自慢する聖職者がいるんだよ。
あまり引きすぎたせいで、立ち上がれる状態になった俺は。
即座にお湯を自分と、なぜかズルッと前のめりにへたり込んでい
るシャロンにかけてやると、さっさと湯船へと緊急避難した。
リアだけなら、そのまま横を突き抜けて脱衣所に逃げてもよかっ
たのだが。
なぜかリアの後ろから、シルエット姫とジルさんが入ってきた。
もう、後ろに下がるしかない。
二人が浴場に入ってくるのは分かる。どうせリアに、一緒に入ろ
うとそそのかされたんだろう。
それはいいんだが、本来隠さなくてもいいぐらいささやかなお胸
のシルエット姫は、きちんとタオルを巻いてるのに。
462
﹁なんでジルさん前を隠してないんですか!﹂
﹁おお、勇者殿。お目汚し申し訳ない﹂
いや、お目汚しではないですよ。
無駄な脂肪のついていない筋肉の張り付いた四肢は、それはそれ
で美しいと思えるし、スタイル良くて、出るとこきちんと出てます
しね。
あと、黒髪ポニテで小麦色の肌ってのがポイント高いです。綺麗
ですよ。
でもそういう問題じゃないでしょう!
﹁いや、目の保養、じゃなくてタオルで前を隠しましょうよ!﹂
﹁そうしたほうが良かったのか。聖女殿が、まったく隠してなかっ
たので、風呂とはそういう作法なのかと思ったのだ﹂
いやいや、気付こうよ。リアはおかしいから。
なんであいつが普通に聖女扱いされてるのか、俺はいまいち納得
できない。
﹁あら、そういうものですよジルさん。あと湯船にタオルを浸ける
のは、マナー違反だから是非やめてくださいタケル﹂
﹁お前が、なぜ日本の入浴の作法を知ってる!﹂
身体を洗うタオルは石鹸や垢がついてることがあるので、湯船に
入れるのはマナー違反なのだ。
しかし、リアが知ってるわけない。シレジエ王国は風呂文化ない
だろ。
463
リアはきちんとかけ湯して、湯船に入ってくる。
本当に、お前どこの国の人だよ。同郷の人間なのか、同郷の人間
なんだな!
﹁ほら、タケル。無粋な真似は是非やめるのです。裸の付き合いで
すよ﹂
﹁うああっ、その言い回しとか、どこで覚えたんだよ﹂
リアは一瞬の躊躇もなく、俺の前まで来て下半身を隠していたタ
オルを剥ぎとった。
お前の行動はもう、本当にツッコミが間に合わないんだよ!
﹁くはぁ、生き返る⋮⋮是非とも気持ちいいお湯ですね﹂
﹁その久しぶりに温泉に来た、OLの甘いため息みたいなのやめろ﹂
﹁はてタケル。OLってなんですか、オーガ・ロードのことですか
ね﹂
﹁いまさら、そのわざとらしい現代知識を知りませんみたいな素振
りもやめろ﹂
絶対こいつ知ってるよ⋮⋮なにが是非だ、似非異世界人め。
リアは、現代日本の風呂文化に詳しすぎる。
絶対裏に何かある、今度とっちめてやる。
だが今はちょっとマズイ、命拾いしたなリア。
サクラメント
﹁それよりも、もっとタケルの勇者の力を高める秘蹟があるんです
けど、是非知りたいですよね﹂
﹁絶対知りたくない!﹂
464
知りたくないって言ってるでしょ。
湯船に浮かんでる、風船みたいなのくっつけてくるなよ。
﹁シャロン、頼む!﹂
﹁はいっ、リアさん下がりましょうね﹂
﹁えー、わたくしはまだ﹂
﹁ねっ!﹂
良かった、シャロンが力押しで何とかしてくれた。
リアとの間に割って入ったときに、シャロンの胸も盛大に当たっ
て行ったんだが、この際不問に処す。
オッパイをもってオッパイを制すとは良く言ったものだ。
リアが来たら、もう全部シャロンにガードさせよう。
手段を選んでいる場合じゃない。
さあ早く、タオルを取り返さなくては。
うっ⋮⋮。
﹁なんで、タオルを脱いでるんですかシルエット姫﹂
﹁だって聖女様が、タオルはお湯に浸けちゃいけないって﹂
それは、すごく正しいマナーなんですよ。
でも湯船で、俺にさも当然のように抱きついてくるのは、ちょっ
とどうかなあと思います。
﹁あれっ、勇者様なんだか妾には、反応薄いですね。すごく失礼な
ものを感じます﹂
﹁姫様相手なら何とか自制はできます。でも控えていただけると、
465
嬉しいのですが﹂
いくらシルエット姫がストロベリーブロンドで、絶世の美女で、
ハーフエルフでも。
胸も身体も、例えて申し訳ないけどシェリーぐらいの大きさだか
らな。
奴隷少女で鍛えられている俺にとっては、さほどダメージがない。
シルエット姫は成人した︵異世界基準だけど︶女性だし。
鑑賞物としては、磨き上げられた白い肌は、とても美しいと思う
のだけどね。
そこは紳士なので、俺だって目をそらします。
﹁ちょっと待ってよ、なんでジルさんまで俺にくっつけてくるんで
すか﹂
ジルさんちょっとおかしいんじゃないのか⋮⋮。
﹁いや、みんなしてるからそういう作法なのかと、違うのか勇者殿﹂
そんな作法があるわけないだろ!
いや、混浴の段階から間違っているからな、そこから違うよ。
頼むから、俺に早くタオルを取らせてくれ。
というか、もう上がらせてくれ⋮⋮。
結局、この日は俺は全員が出るまで風呂から出れずに、長湯する
結果となってしまった。
この勢いで、風呂どころか寝床にまでリアがちょっかい出しに来
466
たら嫌だなと思ってたら。
臨戦態勢で寝ずの番をしてくれてる、シュザンヌとクローディア
が一晩中ガードしてくれたので、俺の安眠は守られた。
なるほど立ったフラグってのは、意外にしっかりと回収されるも
のなのだなと思った次第である。
467
36.メス猫盗賊団の降伏
ある晴れた昼下がり、俺はオナ村の義勇兵団ベースキャンプに呼
び出された。
他でもない俺を呼び出したのは、ルイーズ団長である。
俺だけが来ればいいのだが、なぜかゾロゾロと近衛と称する奴隷
少女たちや、リアやシルエット姫や、そのお付きの騎士ジルまで付
いてくる。
﹁おっ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
ルイーズがチラッと一目すると、ジルは少しだけ頭を下げた。
敬礼もしない、久しぶりの挨拶もない、ただ一瞥し合うだけで何
かが伝わる。
元武家の名門のお嬢様と、その郎党だった娘。
素っ気ないが、これが彼女たちの作法なのかもしれない。
﹁タケルに来てもらったのは他でもない⋮⋮﹂
他でもないって言い回しあるけど、これあんまり意味わからない
んだよね。
﹁⋮⋮実は、アンバザック領内で盗賊の類が増えている﹂
﹁なんでまた﹂
468
さわたりしょうかい
そういや、佐渡商会の幌馬車も襲われるってシャロンが言ってた
な。
うちは、奴隷少女が火縄銃で武装してるから大した被害も出てい
ないが、困った事態ではある。
らくいちらくざ
﹁タケルが始めた、楽市楽座とか言う奴の影響だ。おかげで、裏街
道だったオックスへの道が商人の馬車でごった返すようになったが、
その分だけそれを狙った盗賊も増えたというわけだ﹂
﹁なるほど、そこまで考えてなかったなあ﹂
この世界の貴族は、中世ファンタジーの例に漏れず、関所を設け
て街道や街の出入りに税金をかけている。
俺は、王都への公共事業独占のおかげでかなり儲けが出たし、自
分が商会を経営する商人でもあるので、自分の領地ではその通行税
を撤廃してみたのだ。
商人のキャラバンの出入りが増えて、アンバザックの村や街の復
興が進むのはいいが、まさかその副作用として盗賊まで増える事ま
では想定してなかった。
﹁幸いなことに、アンバザックの村々の復興には、義勇兵団で武装
訓練を受けた兵士がかなり参加している﹂
﹁村は襲われても平気だと?﹂
﹁最低限、村の自衛は出来ているな。街道に十分な数のパトロール
隊も出せているとは思うのだが、盗賊ってのは厄介な相手なんだよ﹂
﹁と、言いますと?﹂
ルイーズによると、盗賊ってのは山道を知り尽くしていて、敵が
多勢なら逃げて、敵が自分たちでも倒せそうな小勢なら襲うパター
469
ンを繰り返すそうなのだ。
街道ならともかく、その奥のアンバザックの開拓がまだ進んでな
い森の中を知り尽くしていているのは盗賊の方だ。
正面から戦えばまず負けない敵でも、ゲリラ戦を繰り返されると
そりゃ厄介な相手になる。
﹁ルイーズたちの偵察でも敵の位置は補足できないのか﹂
﹁頑張ってはいるのだが、アンバザックは山や深い森が多い。騎馬
隊の偵察とは相性が悪いんだ﹂
﹁なるほど、山がちな地形に守られてる山賊相手に騎馬隊は不向き
と﹂
﹁それでタケルに出張ってもらおうと思ってな、アンバザック男爵
領はタケルの領地なんだから、盗賊退治は領主の勤めだぞ﹂
うーん、なるほどそうなるよね。
いや、話は分かるんだけど、ルイーズがすでに対処してるのに、
俺が出て何をしろと言うんだろうか。
﹁盗賊退治か⋮⋮﹂
しぶる俺の顔色を見て、ルイーズは何か言いたげだ。
﹁タケル、もしかして、盗賊退治は気乗りしないか?﹂
﹁いや、そんなことはないけどさ﹂
﹁そうか、お前はわりと戦闘したがりだから、血が滾るって喜ぶと
思ったんだが、そういうことなんだな﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
470
何その、俺のことは全部わかってるよ的な。
﹁よし、今日はみんな解散。タケルは、ちょっと私と一緒に居残り
な﹂
﹁えー﹂
居残りさせられるって、ろくなことがないんだけどなあ。
※※※
ルイーズと二人で居残り。
何をさせられるのかと思いきや、いきなり馬の後ろに乗せられて
延々と山道を進むハメになりました。
﹁ルイーズ、一体どこにいくの?﹂
﹁フフッ、タケル。お前まだ、人を殺すのにためらいがあるんだろ﹂
﹁そりゃあるよ﹂
ためらいないほうがおかしいでしょ。
﹁そういうお前のチョロだったか、甘い部分は私も嫌いじゃない。
そっちのほうがまともだってことも分かってるつもりだ。でも騎士
にとって、その甘さは命取りになりかねない﹂
﹁ルイーズにまでチョロが知られてるとか、俺ショックなんだけど
⋮⋮﹂
チョロの意味分かんないって前言ってたのに、聞いてしまったの
か。
471
くっそー、ルイーズにもお嬢様とか言い返したらいいのかな。確
実に殺されるのでやめておくけども。
﹁これから向かう先は、メス猫盗賊団とかいう、ふざけた名前の盗
賊のアジトだ﹂
﹁メス猫って、本当にフザケてるな﹂
でも、盗賊のセンスって、案外そんなもんか。
イヌワシ盗賊団とかいうデッカイ砦を築いた盗賊もいたもんな。
﹁そのイヌワシ盗賊団も、本来の根城が第三兵団に奪われてしまっ
たのでアンバザック男爵領の方に来ているという噂もある﹂
﹁それは厄介だな﹂
﹁メス猫盗賊団は、イヌワシ盗賊団の傘下に入ってる小さな盗賊団
のようだ。だいたいだが、アジトに詰めてるのは十五人ぐらいか。
私が一気に相手出来る数が、十三人までだから、後は分かるな﹂
﹁残りを俺が始末しろってことでしょう﹂
一人で一気に十三人相手できるとか、まんま宮本武蔵じゃないか。
この世界のどこかにいる異世界人が、﹃五輪の書﹄をそのまま翻
訳して広めてるんじゃないだろうな。
ばんけん
ちなみにルイーズは万剣とか言われてるが、使ってる剣法は極め
てオーソドックスなタイプだ。
カールソン流とかいう、お家が王国騎士に教えているオーソドッ
クスな西洋剣術が主体である。
ただし、ルイーズの場合はナイフ投げや小弓まで使ってるから、
柔軟にいろんなところから学んでいるようだ。
472
弓やクロスボウを騎士は使わないはずだし、ナイフ投げに至って
は盗賊の技術である。
あの﹃魔素の瘴穴﹄事件のときに、ルイーズだけが生き残ったの
はそこら辺に秘密がありそうでもある。
﹁ついたぞ、あそこだ﹂
﹁うあ、本当に女だけの盗賊団なんだな﹂
アジトの入り口は、街道沿いからは見えないように上手くカモフ
ラージュしてあると言えるが、よく観察すれば煮炊きしている煙も
見える。
こうやって裏にまわり小高い丘から見れば、女だけがたむろって
るキャンプだということも分かってしまう。
﹁タケルは特に女に甘いから。それで身を滅ぼさないように、ここ
らで引き締めてかからなければならん。女とはいえ、盗賊は犯罪者
だ。殺すときは人間だと思うなよ﹂
﹁なるほど、そういう意味でも殺すのに慣れるのに、都合がいい相
手ってことか﹂
ルイーズは、本当に良く考えてくれてるなあ。
ありがたいし、少し親身すぎて耳が痛い。
でもそういうあからさまな善意をかけられると。
俺は、あまのじゃくだから無為にしてしまいたくなるんだぜ。
﹁作戦は、タケルに任せる。私は、お前の命じるままに動く﹂
なぜか、凄く嬉しそうに言うルイーズ。
団長なんだから、いやだからこそか。どこでも偉くて強いルイー
473
ズが、命令されることなんて珍しいから面白がってるのか。
﹁じゃあ、まず盗賊団にコンタクトを取って、話し合いをします﹂
﹁えっ?﹂
ルイーズは意外そうな顔をする。
﹁どうしたの、俺の命令で動くんじゃなかったのか﹂
﹁フフッ、そうきたか。いいぞ、私はどんな環境でも粉砕できるか
らな。あの程度の数なら囲まれても平気だ﹂
さて、ルイーズのお許しも出たので、俺は﹁頼もう!﹂と表から
メス猫盗賊団のアジトに足を踏み入れることにしたのだった。
※※※
﹁キャハハ、アンタかい、交渉に来た勇者ってのは﹂
盗賊団のキャンプに正面から入ると、すぐに武装した物騒なお姉
さま方に四方を囲まれて。
濃い紫色の巻き髪をタラッと足元まで垂らした、変わった髪型の
お姉さんが対応してくれた。
俺の﹁誰がその場で一番偉いか﹂スカウターで見るところ、この
人がリーダーっぽいな。
﹁ネネカさん、こいつは勇者で、ここの領主だって騙ってるんです
よ﹂
﹁そりゃまた騙りにしても豪気なことだねえ、ボウヤがちょっと派
手な格好すりゃあ騙されるとでも思ったのかい。このメス猫盗賊団
のネネカさんが、舐められたもんだねえ﹂
474
紫髪で色気ムンムンのネネカは、革の鎧にはちきれんばかりの胸
元を見せつけてきた。プンプンと匂い立つような香水の匂いがする。
全部含めて、威嚇行動の一種なのだろうか。
﹁変わった挨拶だな﹂
﹁ほー、この数に囲まれて言うじゃないか、偽勇者のボウズ。何な
ら舐め返してやってもかまわないんだよ﹂
舐め返されてたまるか。
﹁俺は交渉にきただけだ、お前ら今なら、領内から立ち去るだけで
許してやる﹂
﹁なんだとぉ!﹂
女だてらに、なかなかいい声で吠えるじゃないか。
俺はだんだんと、この手の相手は平気になってきた。
俺のバックにはリーサルウェポンのルイーズがいるし。
誰とは言わんが、いきなりオッパイを擦りつけてくる女の相手を
するよりは、随分と楽だ。
﹁俺の領内で違法行為を働いてるのはそっちだ、警告を無視するよ
うなら実力で排除する。その時は、もう立ち去るだけでは済まさん
ぞ﹂
﹁はっ、やってもらおうじゃないか。多少装備は良いようだけど、
この数相手に、二人でどうするんだい。おいお前ら、こいつら畳ん
で、身ぐるみ剥いでやんな!﹂
大人しく立ち去ればいいものを。
475
そう考えつつ、絶対そうはならないと俺だってわかっていた。
相手もそこそこ盗賊としては嗅覚の働く集団で、俺はともかくル
イーズの醸しだす殺気はヤバイと気がついてるから、遠巻きにして
るのに。
結局は、メンツを優先して襲いかかってきてしまったのだな。
俺はブンッと光の剣を出すと、目の前のネネカの持つ、変わった
形の曲刀をたたっ斬ってやった。
切ろうと思えば、鉄剣ぐらい簡単に切れるんですよ。
﹁ヒッ、光の剣!﹂
﹁相手が悪かったなメス猫!﹂
俺の後ろでは、ルイーズが一振りで三人斬り飛ばしていた。
十三人までしか相手にできないとか嘘だろ。
﹁まさか本当の勇者様だったとは、お許し下さい!﹂
﹁おや﹂
俺の目の前の女盗賊たちは、みんな得物を取り落として地に伏せ
た。
降伏があっけなさすぎて、罠じゃないかと思ったぐらいだ。
狼狽して逃げようとして、全員ルイーズに反射的に斬り殺される
ってのが予測した一番のパターンだが、メス猫盗賊団はこの土壇場
で意外と賢いのかもしれない。
チョロい俺はもちろん、覚悟のあるルイーズでも、武器を放り投
げて投降した相手は斬り難い。
476
ルイーズは、なんだかつまらなそうな顔をしていた。
それでもたった一人で直刀をブンブン振り回して、全員を逃がさ
ないように威圧すると、ルイーズは俺に向かって言う。
﹁何をしてるタケル、早くこいつらを殺せ﹂
﹁えー、すでに降伏してますよ﹂
﹁ごめんなさい、許して! 殺さないで、なんでもしますから!﹂
ほら、盗賊たちもこう言ってるじゃん。
あとネネカってやつ、今なんでもするって言ったよね、忘れるな
よ。
﹁殺さなきゃ、何のためにタケルを単騎で連れてきたのかわからん
だろ﹂
﹁でも俺の指示で動くとも約束したよね﹂
グッと仰け反るルイーズ。
こうやってもっともらしい理屈にかなわないのが、この無頼のお
姉さんたちと比べて、規律正しいルイーズの弱いところなのかもし
れない。
﹁タケル、じゃあお前は、領主として違法行為を働いている盗賊を
見逃すというのか!﹂
﹁見逃すとは言ってない、降伏したんならこっちの軍に寝返って働
いてもらおうと思うだけでさ﹂
﹁正気か! 盗賊をやっつけるのに盗賊を使うとか、それじゃゲイ
ルたちのやってたことと変わらないだろ!﹂
477
そうか、ゲイルはそんなことをやって出世したのか。
あいつ素行はともかく、頭が柔らかくてそれなりに優秀だったん
だな。
盗賊の取り締まりに、元盗賊を使うのは有効的なセオリーの一つ
だ。
餅は餅屋だからな。盗賊を捕らえたり、被害を未然に防ぐには、
盗賊を使うのが一番いい。
﹁とにかく、私はそんなやり方賛成できない。こいつらは人を殺め
た犯罪者なんだ、お前が殺さないなら、私が殺すぞ﹂
抜刀しているルイーズが殺すぞといえば、それはもう冗談ではな
い。
彼女の頭の中では、すでに四つか五つ、盗賊の頭が転がっている
のだ。そのような絵が俺にも見える。
ビクッと、地に伏せたネネカたちの身体が震える。
そりゃ怖いよね、俺も本気になったルイーズを止められる自信は
ないわ。
﹁待てよ、ルイーズ。いつだったか、自分の発想がもっと柔軟だっ
たら、失敗しなかったかもしれないって言ったよね﹂
﹁それとこれとは違う!﹂
そりゃ盗賊を殺すのに慣れさせてやろうって、ルイーズの善意も
嬉しかったけども。
でも間違ってると思ったら、俺だってちゃんと反論するぞ。
﹁違わない、ゲイルのやり方と似てるのかもしれないけど、盗賊を
478
使って盗賊を倒すことで結果的に無辜の民の被害は減るんだ。見せ
かけの正義より、そっちを取るのが俺の領主としての判断だ﹂
実利を取るのが商人だからな。
そりゃ、すでに降伏してる女の首を刎ねるのにも、抵抗があるっ
てこともあるけどね。
﹁私は分からないし、認められないが⋮⋮﹂
ルイーズは、俺に持っていた愛用の直刀を手渡した。
﹁今すぐここで私をお前の騎士に任じろ。タケルが我が主となるな
ら、多少納得いかないことでも眼をつぶる﹂
﹁えっ⋮⋮、ルイーズ。一体何を言い出したんだ﹂
﹁するなら早くしろ、これ以上聞くな! 貴方の騎士にしてと自分
から言うのが、どんだけ恥ずかしいと思ってるんだ﹂
顔を真赤にして、ルイーズは跪いた。
彼女に恥をかかせるのはマズイ、本当に殺される。
﹁では、ルイーズ・カールソンを我が騎士として任ずる﹂
あの肩に抜き身の剣を触れさせる儀式を見よう見まねでやった。
ルイーズは、俺が差し出した直刀の刃にさっと口付けした。
あーそんな、作法もあるのね。
それさっき、盗賊ぶった切った剣じゃないのかなんて、無粋なこ
とは言わない。
479
﹁我が主君、タケル・アンバザック・サワタリに誓う! 片時も我
が主の騎士であることを忘れず、民を守る盾となり、主の敵を撃つ
剣となり、この身が潰えるその日まで戦い続けることを﹂
﹁おう⋮⋮﹂
ルイーズに直刀を返すと、恍惚とした表情でそれを受け取り、満
足気に﹁じゃあ我が主の好きにしろ﹂と言った。
土下座しながら見守っていたメス猫盗賊団はポカーンとした顔で、
こっちを見ている。
気持ちはわかるよ、俺もビックリした。
百歩譲って騎士になるにしても、お城の謁見の間にすればいいの
に。
まさか攻め込んだ盗賊のアジトで叙勲式とは、変わってるよな我
が騎士殿は。
480
37.イヌワシ盗賊団の崩壊
﹁えっと、このメス猫盗賊団のリーダーはネネカなのかな﹂
﹁はい、そのとおりです。勇者様﹂
さっきとは打って変わって従順な態度。
いきなりルイーズが受任式をやりだしたので、それに当てられて
しまったこともあるのかもしれない。
ルイーズはと言うと、なんか凄い嬉しそうに、直刀の柄をくるく
る回している。
あれ怖いよね、ごめんね盗賊団。ビビっちゃうよね。
﹁じゃあ、とりあえず事情聴取から始めようかな。メス猫盗賊団は、
どこの盗賊団の配下なのかな﹂
﹁アンバザック領内の街道を締めているのは、王領から流れてきた
イヌワシ盗賊団です。あそこは、配下の数が三百はくだらない大盗
賊団なので、あたいたちは逆らえません﹂
﹁ふむ、じゃあそいつらを叩き潰せばいいわけか﹂
﹁あの勇者様、あたいたち殺しはやってません。キャラバンを襲っ
て積荷やお金をちょうだいしたことはありますが、それだけです﹂
うん、それが犯罪行為だよね。
﹁すいません、あたいにだって事情があるんです。故郷のミラ村で
弟が病気になってしまって、治療費を払い続けるために性奴隷にな
るか、盗賊団に入るかしかなかったんです﹂
481
ふーん、盗賊の頭にまで落ちた理由が貧困か。
この世界だと月並みだな。
﹁じゃあ、これをやろう﹂
﹁えっ⋮⋮、お金をいただけるんですか﹂
俺は、金貨をネネカに手渡した。
﹁これで弟の病気の治療費に足りるか﹂
﹁ありがとうございます、すごく助かります﹂
﹁おい、タケル⋮⋮じゃない我が主。さすがにそれは嘘じゃないか﹂
さすがにルイーズが会話に割って入ってきた。
俺も思うよ、嘘じゃないかって。でもこいつらが言ってることが、
嘘か本当かなんて、目的にためにはどうでもいい。
﹁嘘じゃありません! 本当なんです。あと、あたいたちは、本当
に殺しはやってません。それだけは、しないようにしてきました﹂
﹁そうだな、ネネカは嘘はついてない。病気の弟さんを助けるため
にやってるなら、金だけじゃなくてうちの商会には各種薬草もある
し、治療できるシスターを村に派遣してもいい。助けてやるから﹂
変態シスターで良ければだが。
ネネカは泣きそうにもない気丈そうな女性だったのに、紫色の瞳
から滂沱のごとき涙を溢れさせたので、ちょっと驚いた。
盗賊にも人の心があったのか。
482
﹁ううっ⋮⋮シスター様まで、勇者様が困ったあたいたちの味方っ
てのは、本当だったんですね!﹂
﹁まあ、そんな大層なもんでもないけどよ﹂
俺は、メス猫盗賊団の一人ひとりの事情を、出身地から家族構成
まで洗いざらい聞いて回って、傷ついてる者はポーションで癒し、
金を配った。
みんな貧困にあえいでる王領か、アンバザック領などのモンスタ
ーの群れに住処を追われた難民出身だ。
たいていの困りごとってのは、金で解決できる。
そうでなくても、こっちは聖職者まで付いてる商人だから、貴重
な薬でも用意は可能。
﹁勇者様、あたいたちこれから改心してまじめに働きます﹂
﹁いや、それはダメだ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
ただ解散させるだけなら、せっかく高い金を払った意味が無いじ
ゃないか。
﹁ネネカたちには他の盗賊を裏切って、こっちの義勇兵団に付いて
貰う。必要なら金でも物資でもなんでも援助するが、その分の仕事
はしてもらうぞ﹂
﹁でも裏切るって、盗賊の世界にも仁義ってものが⋮⋮﹂
﹁じゃあ、盗賊として討伐されて死ぬか﹂
﹁裏切るぐらいなら、裏切りがバレたら見せしめに、ただ殺される
だけじゃすまないですし﹂
483
俺が光の剣をネネカの首元に向けてみると、グッと目を瞑った。
裏切りがバレるより死ぬほうがマシってのは、本当みたいだな。
﹁じゃあ、家族の命はどうだ。さっきみんな俺に洗いざらい故郷の
話をしたよな﹂
﹁そんな、罪を犯してない家族まで、関係無いです!﹂
﹁俺は何も、家族に手を出すなんて言ってないぞ。ただ、聞いちゃ
ったからな。うちの兵団には、盗賊に家族を殺されたってやつもい
るんだ。そいつが、盗賊の家族が住んでる村があるなんて聞いたら、
どう思うだろうか﹂
単純なブラフなのに、家族を出汁に使うのはよく効いた。
ネネカは涙を流しながら︵さっきの嬉し涙とは違うだろう︶地に
崩れ落ちて、﹁勇者様に従います﹂と苦渋の声を絞り出した。
落ちたな。
まあ本当は裏切っても、家族に手を出すような真似はしないんだ
けどね、面倒だし。
俺は噛んで含めるように、危険なら逃げてこい。
お前たちの家族まで含めて、俺の庇護下だから、裏切らない限り
身の安全は絶対に保証すると囁いた。
﹁なあに、バレなきゃいいんだ。盗賊のアジトの位置を定期的に知
らせるぐらいで、あとは安全のために、むしろ誰かが裏切ってると
噂を広めろ。お前らより、イヌワシ盗賊団の首領を裏切りそうな奴
とかいるんだろ﹂
俺は、首領の座を狙ってるやつとか、ネネカたちより後から入っ
484
てきた新入りとか、そういう奴をターゲットに噂を広めろと命じた。
特に新入りが疑われれば、それまでの仲間は信用しようとする心
理が働く。
上手くいけば、安全を確保した上で、同士討ちでさらに数を減ら
してくれるだろう。
﹁では、そのように頼むぞ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
メス猫盗賊団は、俺が立ち去るときにはみんな最初の威勢はどこ
にいったのか、全員が虚脱状態に陥っていた。
もっと普段通りにしないとバレる。覇気を入れ直せメス猫ども。
﹁我が主⋮⋮というかタケル﹂
﹁なに﹂
ルイーズが俺を馬の後ろに乗せながら、話しかけてきた。
巧みな騎乗だから揺れは少ないが、それでも舌を噛みそうだ。
﹁ゲイルと同じといったのは間違いだった、我が主はゲイルよりず
っと悪党だ﹂
﹁俺の騎士、やめるか﹂
﹁やめない、私がどんな覚悟で騎士にしてくれと言ったと思ってる
んだ﹂
﹁ああ、そうか﹂
鈍い俺は、ようやく気がついた。
ルイーズが、王国の騎士団のポストを軒並み断ったのは、俺の騎
485
士になるためなのだと。
﹁ライルの先生じゃないが、この国はもうダメだ。一度は騎士とし
て忠誠を誓った身だからこそ言うが、頭から根底まで腐り切ってる。
私は全ての望みを失った﹂
﹁そうか﹂
ゲイルが王国を裏切っていたことが、最後の引き金になったんだ
な。
ルイーズが絶望するのもよくわかる、俺はもともとこんなリアル
ファンタジーに、最初からまったく期待してない。
﹁だから、私はお前の騎士になった。お前が冒険者をやるなら前衛
で身を呈して死ぬまで戦ってやろう、王様になりたいなら盾となっ
てずっと従ってやる﹂
﹁ルイーズ、なんでそこまで⋮⋮﹂
俺、そこまでルイーズ姉御に買われるほどのことをやっただろう
か。
最初から今まで、助けられてばっかりなんだが。
﹁我が主、お前は女子供に弱くて、チョロくて、勇者になってもま
だ頼りないへっぴり腰で、金儲けのことばかり考えてて、騎士の覚
悟も誇りもなく、卑劣な手を使うことをためらわない男だが﹂
﹁ルイーズ、なんで急に俺の心をえぐり出した﹂
おかしいよね、俺を褒め称えるフェイズだよね。
落ち込みすぎて、危うく落馬しそうになったぞ。
﹁何でか自分でも分からんが、そんなお前の騎士をやりたくてしょ
486
うがなくなったんだ。弱い主なら、なおのこと守り甲斐があるとか
思っちゃうタイプなんだよ、私は⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
よくわからないが、本人がそういうタイプと言ってるならもう仕
方ない。
﹁だから気にせず、これからも存分に私を使ってくれ。それが私の
本望だ。一度は冒険者に落ちた出戻り騎士で良ければだが﹂
﹁じゃ、じゃあ、ありがたく使わせてもらう﹂
なんかルイーズの告白を聞いてて、だんだん恥ずかしくなってき
た。
もっと堂々としてればいいのに、ルイーズにここまで言わせる俺
が悪いんじゃないのかと⋮⋮。
※※※
アンバザック男爵領で暗躍するイヌワシ盗賊団や、その配下の盗
賊団の討伐は面白いように進んでいる。
なにせ、こっちには向こうの位置が見えているのだ。
俺にはライル先生ほどの軍略はないが。
敵の位置が見えてる戦略ゲームほど、簡単なものはない。
一方で俺が恐れていたのは、こっちの火器を奪われて使われるこ
とだった。
盗賊は騎士とは違う。鉄砲が有用だと気づけば、真似して使って
くるのではないかと。
487
実際、鉄砲の威力を目にして奪おうとしてきた狡っ辛いやつはい
た。
不意をつかれて奪われることも起こった。
﹁ご主人様、どうやら盗賊は、新しい弾が作れないみたいなんです
よ﹂
実際に奪われた火縄銃で、銃撃を受けたシュザンヌたちの見立て
によるとそういうことらしい。
見よう見まねで撃てるのは、さすがベテランの盗賊。
それだけでも凄いと思うが、義勇兵団のような組織的な射撃訓練
を受けていない。
めくら撃ちのうえ、弾数が限られてるのならどうしようもない。
結局、多勢に無勢で瞬く間に討伐されていった。
﹁くっ⋮⋮殺せ﹂
俺が敵の大きなアジトがある洞窟を襲った時、捕まえたのが﹃イ
ヌワシのアギト﹄とかいうニックネームのおっさんだった。
下っ端は捕らえてみるとまず命乞いするのだが、こいつは野盗崩
れのくせに肝が座っている。
どうでもいいのだが、盗賊団の情報を聞き出そうとしても、絶対
に喋らない。
周りの証言で、こいつは頭に次ぐ組織のサブリーダーだとわかっ
た。
﹁よし、このアギトは逃がせ﹂
488
義勇兵団はみんな目を剥いてこっちを見た。
だが、俺はさっさとアギトの縄を切って逃がしてしまう。脱兎の
ごとく逃げる。
﹁おい我が主、それはさすがに﹂
﹁このアギト以外は、見せしめに目立つように処刑して、死体を晒
せ﹂
ルイーズの目がハテナマークになる。
今にわかるさ。
※※※
﹁よし、この手紙をさりげなく﹃イヌワシの頭﹄の眼に留めさせろ。
直接渡すなよ、お前らが危なくなる﹂
メス猫盗賊団のネネカに定時報告を受けた際に、俺はダメ押しに
お手紙を渡した。
﹁あの、勇者様この手紙は﹂
﹁俺が逃がした﹃イヌワシのアギト﹄への感謝状が入っている。た
だ俺からの感謝の言葉と、お前の地位だけは保証すると書かれただ
けのものだ﹂
ネネカが、俺が言う意味に気がついて絶句している。
彼女の恐れの感情を示すように、地に付くぐらい伸ばしている紫
の巻き髪がふらふらと揺れた。
こと
盗賊だろお前、いまさら何をビビってんだよ。
これぐらいの謀略は、普通なんじゃないのか。
489
﹁勇者様は勘違いしてます、盗賊だって仁義があり、ここまでの非
道は⋮⋮﹂
﹁俺の先生なら、たぶんこんなもんじゃ済まさんぞ。俺はやり方が
甘いっていつも怒られるからな﹂
﹁恐ろしい勇者様、どうか、あたいたちだけは助けてください﹂
﹁ああもちろんだ。お前たちは盗賊を全滅させたあと、新しいスカ
ウト部隊を作るのに役立てたいからな。せっかくスパイ経験を積ん
だんだから、お前たちは新設する部隊の教官にしたい﹂
﹁分かりました、ここまできたら毒を食らわば皿までです﹂
﹁難しい言葉を知ってるんだなネネカ。これが終わったら、もうこ
っちに逃げてきても構わん。いざとなれば、お前たちはこの首輪を
つけて投降しろ﹂
さわたりしょうかい
俺は、佐渡商会の認証が入った首輪を渡す。
俺の首輪を付けた者には、絶対に手を出さないように厳命してあ
るから、いざというときの命綱になる。
﹁もう奴隷にでも何にでもしてください﹂
﹁バカ、奴隷になんかしない。誤ってこっちに殺されたくはないだ
ろ、お前らを守るために念のために渡しておくんだ﹂
勝手に奴隷増やしたら、シャロンに何言われるか分からない。
たかだか戦国時代の謀略がどれほど効くものかと、期待せずに待
っていたら。
盗賊団の頭と第二位のアギトが、相争ってイヌワシ盗賊団は崩壊
状態に陥ったと報告が入った。
490
﹁人間の心なんて脆いものだな﹂
あまりのあっけなさに、苦笑してしまう。
しかし、俺はこのとき謀略が上手く行きすぎたせいで、盗賊って
ものを舐めすぎていたのかもしれない。
追い詰められれば、鼠だって猫を噛む。
※※※
﹁おうおう、勇者ぁ!﹂
仲間と同士討ちにあって満身創痍の﹃イヌワシの頭﹄が何を思っ
たか、山刀を片手に持って俺がたまたま駐在していた山村に、いき
なり攻め寄せてきた。
総勢三百人の部下を従えて、中小の盗賊団を吸収してアンバザッ
ク男爵領の闇を支配していた大盗賊イヌワシ団も、もうボロボロだ。
パッと見えるだけでは、もう五十人も残っていない。
メス猫盗賊団の姿も見えないから、すでに潮時と逃げ去ったのだ
ろう。
最後まで頭に付き従ったのがこの数ってのは。
明らかに小物っぽいボウボウの茶色い髭面の山賊オヤジも、意外
に人望があったってことかな。
﹁貴様、よくもぉ! 俺はもうおしまいだぁ!﹂
しかし、この手のタイプの悪党ってのはどうして最後の最後で自
491
己主張せずにはいられないんだろう。
こっちもいきなり攻められたので村の前に陣取っている味方は、
自警団と俺の近衛銃士隊しかいないが、いまベースキャンプに早馬
が走っている。
上手くいけば、こいつらは挟み撃ちにあって壊滅するだろう。
いや、ただの盗賊五十人なら、一斉射撃で終わりかもな。
大砲が備え付けてない村だったのが残念だ。
﹁だがなぁ、こっちも死に物狂いなんだよ。後悔させてやるぜぇ!﹂
どこに隠れていたのか、ザワっと山の中から軍勢が姿を表した三
百は超えてる。
しかも革の鎧しか着てないイヌワシと違い、傭兵団クラスの鉄製
防具を装備をしている奴が多い。
﹁なに、伏兵だと。どこの盗賊団だ!﹂
さすがのことに冷や汗が出る。
こんなことは全く予想していなかった。
﹁ハハハッ、俺はなあ。盗賊王ウェイク・ザ・ウェイクに縄張りを
売り渡したんだよ。俺はもう終わりだが、お前も終われ勇者!﹂
﹁盗賊王ウェイクだと!﹂
﹁ルイーズ、誰だそれ﹂
﹁シレジエ王国と、隣国トランシュバニア公国、ローランド王国の
三地に渡り広がる大盗賊ギルドの長だ。悪逆な風評の反面、義賊と
しても名前が轟いてる有名人だぞ。その実力は折り紙つきだ﹂
492
﹁そりゃ、ヤバイな﹂
ルイーズが実力を認めてるレベルのやつが出てくるのか。
単なる盗賊退治と聞いてたのに、冗談じゃないぞ!
コンポジットボウ
ガチガチに装備を固めた盗賊三百人を付き従えるように、とんで
も無い大きさの合成弓を抱えて、緑のフードに身を包んだ若い男が、
颯爽と前に立った。
ああっ、このパターンはすごくマズイ。
義賊の風評に緑のフードって、ロビン・フッド系のチート弓使い
だろ!
493
38.盗賊王ウェイク・ザ・ウェイク
コンポジットボウ
バカでかい大きさの合成弓を抱えた、緑フードの若い男。
盗賊王ウェイク・ザ・ウェイク。
﹁あの緑に向かって、一斉射撃だ!﹂
銃士隊の火縄銃は火線を集中させて、緑フードを撃ち倒さんとす
るが⋮⋮無傷。
いや、銃撃の土煙の向こう、多少は傷ついてはいるのか。
しかし、多数の火器の弾幕を持ってしても、一歩も退かせること
はできない。
どんなチートだよと唾棄したくなったが、銃弾ぐらい俺のミスリ
ルでも黒飛竜の鱗でも跳ね除ける。
その手の防御力が強化された、魔法装備を付けてるってことだろ
う。
その上で、ウェイクは味方に銃撃の被害が出ないように、前に出
やがったんだ。どんなカッコイイやつだよ!
﹁いかん、ウェイクの狙撃が来るぞ﹂
ルイーズが叫ぶ。
チート
あいつ、デカイ弓を引いて一気に三本の鉄の矢を撃ちださんとし
てる。
これはさすがに、どんな反則行為だ。
494
﹁くそ、こうなったら!﹂
俺は前に出た。
味方に被害を出さないためには、あいつと一緒のことをやるしか
ない。
せきれい
﹁北辰一刀流、鶺鴒の構え!﹂
こいよウェイク!
お前の狙いが正確であれば正確であるほど。
鶺鴒剣の光速フェイントで、三本とも斬り落としてやる。
ウェイクは、前に出た俺を見てフッと笑いやがった。
敵の矢を斬り落とさんと、ウェイクにのみ注視した俺には、それ
が見えた。
奴の口元が動く﹁反逆の魔弾﹂と。
ビイイイイイン!
それは大きな弓が引き撃たれた弦の響きなのか、飛来する鉄の矢
が空気を切り裂く音なのか。
それとも、矢にも何らかの魔法力がかかっているのか。
ホーリーシールド
リアが後ろから聖盾をかけたのか、矢に向かって白銀色の盾が飛
ぶが﹁反逆の魔弾﹂は、当然のように貫通した。
いいさ、光の剣は当たりさえすれば、高速で打ち出された鉄だろ
うがなんだろうが斬り飛ばせる。
495
迫りくる矢を一撃、弾く!
返す刀で、もう一本の矢尻を捕らえて、なんとか打ち砕く。
ああ、このスローモーションの感覚。久しぶりだな元気だったか。
ちくしょう!
先の二本の矢は、俺の剣先を誘導するフェイントだった。
三本目の矢が、手を振り上げてしまった俺の、がら空きの胴体目
掛けて飛び込んでくる。
ガードは間に合わない!
かたびら
﹃ミスリルの帷子﹄が、あいつの﹃反逆の魔弾﹄とか言う、いや
らしい矢に耐えてくれるか、命をかけた勝負。
ドスッと、鈍い音がして、俺は胸に激しい衝撃を受けて後ろに吹
き飛ぶ。
胸の傷を見ようとして、俺の胸にルイーズが抱かれていると気が
ついたときには、もう叫んでいた。
﹁こんなパターン、いらないんだよ!﹂
ルイーズが死んだら、恨むぞリアルファンタジー!
﹁急所は外れてる﹂
それだけ言って、俺の代わりに魔弾の矢を受けたルイーズは、ご
とりと力なく地面に転がった。
魔弾の矢は、﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄ですら弾けなかった。
496
バックラー
さすがルイーズ、とっさに小盾も掲げて守っていたが、盾にも穴
が開いている。
長い鉄の矢は、鉄の小盾ごとルイーズの身体を貫いて止まったの
だ。
これは、チートにしたってやりすぎだ。
﹁リア!﹂
﹁矢を抜いてはいけません﹂
カイトシールド
リアと、ルイーズの従卒のクローディアが、泣きそうな顔で傷つ
いた彼女を引きずっていった。
そして俺の前に、小さい身体で大盾を抱え、﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄
を着たシュザンヌが立ちはだかる。
おい、もう止めろ。
止めてくれ。
﹁シャロン、アレをあげろ!﹂
﹁えっ、本当にいいんですか﹂
﹁いいから早くしろ、次の弓がくる前に!﹂
俺の陣から、高らかに白旗があがった。
※※※
﹁驚いたな、勇者ってやつはこんなにすぐ降伏するものなのか﹂
﹁そうだよ、悪かったなウェイク!﹂
497
自然と、指揮官同士が前に出てたので、ウェイクと俺の話し合い
になった。
ルイーズの言う通りだ。俺には騎士の誇りなどない。
テロには屈するし、話し合いで解決する。
そして、できるなら後で裏から寝首をかいてやる!
﹁伝説の勇者を継いだ奴が、どんな男かとわざわざ見にきてやれば、
こんな軟な若造だったとは﹂
そう言いながら緑のフードをかき上げるウェイクは、サラサラの
金髪の若い兄ちゃんだった。
俺ほどではないが、ウェイクも若そうじゃないか。
﹁それでどうするんだ、無駄話をしてる時間はないぞ﹂
﹁ふむ、どうせ時間稼ぎでもあるんだろう﹂
そうだ早馬で、義勇兵団の本陣から呼び寄せてるからな。
この状況で、援軍が間に合うとも思えないが、交渉の材料の一つ
にはなる。
﹁時間稼ぎもあるが、降伏するってのは本当だ。そっちの勝ちだか
ら、なんでも条件を言ってくれ。金品だって、それなりに用意でき
る﹂
﹁敵の領主相手に、こんなに早く見切りが付いたのは久しぶりだな﹂
少し呆れているのか、ウェイクは苦笑している。
﹁被害が出る前に降伏したんだ、少しはこっちにも色を付けてくれ
ると嬉しいけどな﹂
498
﹁フフッ、評判は聞いてるぞ商人勇者。なかなか強かなことを言う﹂
商人勇者ってのは、王都の官吏が言ってる悪口だけどな。
楽市楽座でこっちの裏街道に商人が集中したから、向こうの街道
が寂れて税収が滞ってるらしい。
そうなれば、嫌味ぐらいは言われる。
﹁だが俺は盗賊だからな、商売人ってやつはだいっきらいなんだよ﹂
﹁くっ⋮⋮﹂
凄んできたか。
どうせ交渉を上手く進めるためのことだと思うが、若いのに迫力
があるのはやはり実力が裏打ちしているせいか。
さすが三国に渡る裏世界の王だけのことはある。
と、そこへ。
﹁待ってください、ウェイク様! あたいのはなしを聞いてくださ
い﹂
メス猫盗賊団のネネカが紫の巻き髪を振りながらこっちに走って
きた。
どこに居たのかと思ったら、ウェイクの軍に紛れてたのか。
﹁おお、どうしたネネカ。久しぶりに来たと思ったら慌ただしいな﹂
さっきまで凄んでた男がもう笑う。
こっちの援軍が向かってきてるというのに、本当に余裕だな。
﹁この勇者は、あたいたちの命を助けてくれました。それだけでな
499
く、お金をくれて病気の弟の治療もしてくれました﹂
﹁なんだ、お前この若造に篭絡されてるのかよ﹂
ウェイクが目を細めて、つまらなそうに淡い金髪をかきあげる。
﹁違います、ウェイク様。そうじゃなくて、こいつは盗賊のあたい
たちの話を、最初から最後までずっと信じてくれた。本当です﹂
ネネカを見る、ウェイクの蒼い眼の色が深くなった。
クックッ⋮⋮と、鳥が鳴くような変わった笑い方をするウェイク。
﹁そうか、そういうことか。おい勇者、ネネカが世話になったよう
だな﹂
﹁あっ、ああ⋮⋮﹂
ちょっと気まずいなコレ。
ただの成り行きで利用しただけで、信じてとか特に考えてもなか
ったんだけど。
﹁勝ち負けはナシだ、俺は勇者と友誼を結びたいと思うがどうだ﹂
﹁それは、申し分ないが、あの俺に復讐心いっぱいの﹃イヌワシの
頭﹄はどうするんだ﹂
﹁ふんっ、あいつか。俺はただ縄張りをくれるというから来ただけ
で何の約束もしちゃいない。邪魔ならこの場で叩き潰してもいいぞ﹂
ウェイクは、先ほどの凍てついた眼で、ギャーギャーわめいてい
るイヌワシ団を一瞥する。
叩き潰してもいいというのは、嘘ではないのだろう。
ウェイクは、見てて怖いほど感情の上がり下がりの激しいやつだ。
500
関心があるものには大らかで、無関心なものには冷酷だ。
﹁それより、お前の味方を傷つけて申し訳なかった﹂
﹁いや、ウェイクと友誼を結べるというのならかまわんさ﹂
結局、話し合いは上手く行った。
オックスの街にウェイクの盗賊ギルドを建てるという約束で、ウ
ェイクの配下はアンバザック男爵領での盗賊行為をしないとの協定
を結んだ。
ウェイクの配下も、悪さをしない限り、俺の領内だけで安全が保
証される。
エスト領のダナバーン侯爵とも、同じ条件で交渉するように勧め
ておくかな。
盗賊ギルドが常に連絡できる街にあるというのは、便利だ。
領内で盗賊の被害が心配いらなくなったこともありがたいが、盗
賊ギルドの長、ウェイク・ザ・ウェイクとの関係はそれ以上に使え
る。
ウェイク個人の、チートレベルに到達している戦闘力に象徴され
ているが。
どうも俺が思っている以上に、非合法組織の力というのは中世フ
ァンタジーに於いて大きな権力のようだった。
※※※
﹁ごめんなルイーズ、そう言うわけでウェイクとは妥協してしまっ
た﹂
﹁いいさ、お前の判断が正しかろうと間違っていようと、私はお前
501
の騎士だ﹂
矢を抜いて、リアに怪我を癒してもらったルイーズは、大きな穴
の開いた﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄を着て俺の前で起き上がった。
ああ、また修理しないといけないな。
黒飛竜の鱗の在庫はまだ残っていたはずだ。
高い価値があるからって、売りに出さないで良かった。
今回は本当に危ないところだった。
装備の充実を今後は考えていくべきなのだろう。
金ならあるのだが、なかなかいい品や素材は市場に売りにでない
ものだ。
冒険者として自ら取りに行くべきなのかもな。
ウェイクは、あのあとまた山の中に忽然と消えていったし。
イヌワシ盗賊団は、悪態つきながらも、銃口を向けられてはどう
しようもないのか。
﹁覚えてろよ!﹂と叫びながら、逃げさって行った。
イヌワシ盗賊団の残党はどうすべきかな、ウェイクの配下につく
なら手を出せないが。
今のうちにできる限り討伐しておくべきか。
﹁それにしても、凄い矢だったな﹂
鉄の矢が残っていたが、ルイーズの半身ほどもある長さだ。
こんな長物を、あのスピードで打ち出せる弓ってのは、どんな威
力なんだ。
502
﹁音に聞く、ウェイク・ザ・ウェイクの﹃反逆の魔弾﹄は鋼をも切
り裂く、身に受けて生き残った騎士は少ないそうだ。そう考えれば、
誇らしくもある﹂
ルイーズはそう言うけど、そんなもの最初から受けないほうがい
いから。
頼むから、死なないでくれよ。
﹁それは私のセリフだ、三発目の矢が我が主に当たると思った時に
肝が冷えた。受けた矢の傷より痛かった﹂
﹁ルイーズは撃ち出される軌道を予測して、動けるんだから凄くは
あるよな﹂
前も、ルイーズは降り注ぐクロスボウを斬り落としてたよな。
実は、あの動きを意識してたりはした。
﹁フェイントにフェイントで来られて負けたにしても、二発斬り落
とすまでのタケルの動体視力はなかなかだった﹂
﹁そりゃどうも﹂
それでも光の剣の本来の性能に、俺の操作はまだぜんぜん届いて
いない。
ルイーズが、戦闘面で俺を褒めたのは珍しいな。
﹁でも三発目が当たっていたら急所だったかもしれない。私なら間
に合わなくても、急所を外して受けられるが、今の我が主には無理
だ﹂
﹁精進します﹂
503
﹁違うぞ、自分の今の実力を見定めて動けと言ってる。ウェイクが
そうしてるからって、全部自分で引き受けようとするな﹂
﹁わかった、すまないルイーズ﹂
﹁分かったならいい。側に私がいることを忘れないでくれ﹂
そう言いながらルイーズは、しばらく立ち去ろうとせず、俺の周
りでずっとウロウロとしていた。
うーむ、言外に無謀な行動を怒られてるのかな、これは。
※※※
﹁ウェイク様によると、面白い提案なので受けるとのことです﹂
﹁そうか、それはありがたいな﹂
オナ村のベースキャンプで、盗賊王ウェイクとの連絡役になって
くれているネネカの報告を受けた。
俺が提案した、盗賊ギルド員を護衛と防犯のアドバイザーとして
雇うという話はウェイクの気に入ったらしい。
﹁盗賊も、犯罪以外で役立てるということですよね﹂
﹁そうだ。ネネカも分かってくれるようになってくれて嬉しいよ﹂
スカウト
﹁ええ、あたいがまさにそうですから﹂
﹁ネネカたちの隊だが、密偵部隊という名前にしようかと思う。騎
馬隊の偵察の補佐と、作戦行動中の情報収集を主な任務としてほし
い﹂
﹁勇者様の言っていた、スパイってやつにあたいたちはなるんです
か﹂
504
かくらん
﹁そうだな、その必要があればまた流れの冒険者や、盗賊団の振り
をして話を聴きこんだり、敵を撹乱させたりして欲しい﹂
ネネカたちは、盗賊ギルドに住む場所を与えているらしいが。
オナ村にも、住む場所を用意しておくことにした。
貴重な連絡員でもあるのだから、どっちにでも居られるようにし
ておくほうがいい。
同盟関係にあるウェイクと、ネネカの隊を共有しておくことは、
今後の役に立つはずだ。
﹁では早速報告ですけど、アンバザック男爵領内のイヌワシ盗賊団
の残党は、全員が逃げて領内から消えました。おそらく、国境は超
えてないのでシレジエ王国内の旧ローレン辺境伯領に逃げていった
のだと思います﹂
﹁ああそうか、そこまで行ったならもう追わなくていい﹂
俺の領地じゃないから関係ないし、旧ローレン辺境伯領は、小規
模の子爵やら男爵やら騎士やらに領地が細かく分けて与えられて、
権利関係がややこしいのだ。
きっと盗賊団が、権力者の追求を避けて逃げ延びるには最適なの
だろう。
下手をすると人間よりモンスターのほうが多い上に。
商人が商売するには、関所が多くて好ましくない土地だから、獲
物に困るだろうがな。
﹁それにしても、盗賊ギルドなあ﹂
﹁ギルドがどうしたんですか、勇者様﹂
505
﹁いや、盗賊が普通に街にギルドを構えて、仕事を斡旋してるなん
て想像できないなと思って﹂
﹁盗賊だって、犯罪行為ばっかりやってるわけではないんですよ﹂
﹁そうなのか、例えばダンジョンで罠を調べたりとか?﹂
﹁まさにそれです。あと遺跡発掘とか、もちろん後ろ暗い仕事もあ
りますが、盗賊の手先が役に立つ、真っ当な仕事だってあります﹂
﹁ふーん、そうなのか。ネネカもダンジョン探索できたりとかする
のか﹂
﹁はい、あたいもできますよ。鍵開けや、罠はずしは得意です。で
もそんなこと学んでも、このご時世では需要がなくて、結局野盗に
なってしまいましたが﹂
﹁いつか、一緒にダンジョンに行ったりできるといいな﹂
﹁ですね。勇者様とダンジョンに行けるなら、盗賊としても鼻が高
いですね﹂
そう言って、足元まで届く紫色の巻き毛をくるっと手元に引き寄
せて見てた。
ネネカの長すぎる髪、毎回見て隠密行動の邪魔にならないんだろ
うかと心配になる。
まあ、器用に歩くし、何か意味があるのかもしれない。
盗賊はジンクスを好むというから、何かのおまじないなのかもし
れないな。
﹁あたいの髪がどうかしましたか﹂
﹁いや、何に使うのかなと思って﹂
506
﹁こうやって使うんです﹂
﹁ふはっ﹂
俺の鼻元に紫色の巻き毛を持ってきたので、俺は思わずくしゃみ
が出そうになって、笑った。
﹁なるほど、これは武器だな﹂
﹁でしょう、女の髪の使い道は多いんですよ﹂
しばらくクスクスと笑っていたネネカが音もなく去っても、ほの
かに髪から香った重たくて甘い薫りが、しばらく鼻の奥に残ってい
た。
まさか彼女と俺がほどなくして、本当にダンジョンにアタックす
ることになろうとは、この時全く思っても居なかった。
507
39.新たなる力を求めて
盗賊王ウェイクの﹃反逆の魔弾﹄を受けてルイーズが一度死にか
けたことは、次第に俺のトラウマとなっていく。
あのウェイクの矢は、俺の仲間のどこにでも届く。
﹁大丈夫ですかご主人様、怖い夢でも見ましたか﹂
﹁すまん、助かった⋮⋮﹂
深夜にうなされて、シャロンに起こされる始末。
あの三本目の矢が、もしルイーズの急所に突き刺さっていたらと
思うと心底怖い。
そんなことをツラツラと考えて眠ると、決まって悪夢を見る。
大事な仲間を失う夢。俺は必死に叫んでいるのに、冷たくなって
いく仲間に何も出来ない。
死に逝くのは、ルイーズだったり、シュザンヌだったり、シャロ
ンだったりした。
自分が死ぬよりもっと血が凍るような苦しみに喘いで、目が覚め
る。
﹁大丈夫ですよ、ここに怖い人はいません﹂
﹁それ、子供をあやすような⋮⋮﹂
あの時、矢を受けていたのはシャロンだったかもしれない。
そうだったら、ここにはもう彼女は居ないのだ。
508
そう思っただけで、シャロンに抱かれても、いつもみたいに跳ね
除ける気にならない。
消えてしまわないように、捕まえておかなければならないとすら
思う。
ルイーズを含めて、前衛に出る数人分しか﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄は
ない。
王都のライル先生に問い合わせたが﹃ミスリル装備﹄の在庫は残
ってなかった。
﹁シャロン、強い装備の買い上げは、続けてるか﹂
﹁ええ、もちろんです。エストの本店と、オックスの支店と、王都
シレジエの借り店舗で総力を上げて探してます﹂
俺は、シャロンの身体をギュッと抱きしめた。
薄い木綿の下着しか身に着けてないので、ナマの柔らかい感触が
当たるが、今は気にならない。
﹁ご主人様、本当にどうされたんですか﹂
﹁戦闘に出るなとは言わないが、お前は絶対に後衛にいろよ﹂
チート
たとえ後衛に居ても、あの矢はシャロンの胸に届いたかもしれな
い。
リアルファンタジー
ウェイクはとりあえず味方になった、でもあのレベルの強敵は、
この残酷な世界には、多数存在するのだ。
ワイバーン
例えばあの大洪水を起こし、隕石を落とし、黒飛竜とすらまとも
に打ち合える隠形の上級魔術師はどうだ。
あの正体不明の男︵女かもしれないが︶に、もし不意を撃たれた
ら、この子たちはどうなる。
509
力が欲しい、大事な人を守る力が欲しい。
そう思うと苦しくて、息が荒くなる。
﹁ご主人様、大丈夫ですよ。ここは守られてます。廊下にはシュザ
ンヌとクローディアが詰めてますよ。私が側に居ます、ご主人様は
絶対に安全です﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
そうだろうさ。
俺は、お前たちに守られてる。
でもシャロン、お前たちはどうだ。
⋮⋮わかるよ、例えば単に事故にあって明日死ぬかもしれない。
誰が死んでも、俺が死んでも、事故なら諦める。
それは俺が生きていた世界でも、リアルファンタジーでも一緒だ。
でも﹃俺の目の前で、俺が何もしなかったことで、お前たちが死
んでいくとしたら﹄俺は、俺を絶対に許せない。
俺は、平和なエストの街の安全な商館のベッドで、縮こまって生
きているべきではない。
その日々が、平穏であればあるほど、そう思うようになった。
﹁ご主人様、また怖いことを考えてるんですか﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
﹁ご主人様、危ないことはしないでくださいね﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
510
﹁私に何かできることはありますか﹂
﹁シャロンお前にできることは、絶対に安全な場所にいて、俺が死
ぬより先には絶対に死なないことだ﹂
シャロンの俺を掴む手に、ギュッと力が入った。
力仕事もしてるし、割と腕力あるんだよな、正直少し痛いけど。
今は悪い気分ではなかった。
痛いのは、生きてるってことなのだから。
廊下からまた﹁是非わたくしを!﹂とか声が聞こえてきた。
あいつ二時間置きに来てるな、リアも不眠症なんじゃないのか。
﹁シャロン、リアを中に入れてやれ﹂
﹁えっ、本気ですか﹂
﹁ああ、今日だけな﹂
シャロンが躊躇してるので、俺が立ち上がって廊下に出て、今日
だけリアを入れると揉み合ってるシュザンヌに伝えた。
シュザンヌも﹁本気ですか﹂って顔をしてる。
そんなにおかしいか。まあ、今日の俺はおかしいかもな。
なんだ、シュザンヌ。何ならお前も一緒に寝るか。
﹁いえ、寝ずの番は騎士見習いの仕事ですから﹂
﹁そうか、ご苦労だ﹂
511
そうかシュザンヌたちも、騎士のつもりなのか。そのうち、ルイ
ーズと一緒のアレしてやるかな。
騎士の肩書きは俺も一応持っているんだが、イマイチよくわから
ないけどね。
﹁えっ、あのなんでわたくし、今日に限って、入れてもらえたんで
しょうか﹂
﹁リアお前、夜中もその暑苦しいローブ着てるのか﹂
﹁はい、いえ⋮⋮さすがに、ベッドでは脱ぎますけど﹂
﹁じゃあ脱いで入れ、夜は冷えるといっても、さすがに寝苦しいだ
ろ﹂
﹁えっ、えええ!﹂
﹁リア、うるさい。入らないなら帰れ﹂
﹁そりゃ、是非とも入りますけども⋮⋮﹂
﹁静かに寝ろよ、うるさかったら叩きだすからな﹂
セミダブルだし、三人ぐらいなんとかなると思ってたら。
リアの体型、考えてなかったわ。
﹁タケル、そんな激しくされたら眠れません﹂
﹁ウルサイ寝ろ﹂
リアの邪魔な肉に押し出されるようにして、俺はベッドの下の方
に沈み込んで眠った。
胸に押しつぶされて寝るより、腹に挟まれているほうがいいから
な。
512
とばり
リアのものなのか、シャロンのものなのか、それとも俺自身のも
のなのか。
ドクンドクン⋮⋮と、大きな心音だけが、夜の帳の中でずっと響
いて、俺をしつこい悪夢から、ようやく引き剥がしてくれた。
※※※
﹁守りのアミュレット、防御力強化か。祈りの指輪、なんだこれ魔
力増大化、俺が持っててもしょうがない⋮⋮﹂
支店から佐渡商会の商会員が集めた、有益と思える装備品を確認
して、俺は唸っていた。
集めてくれた商会員には悪いんだが、ろくなものがない。
そりゃ黒飛竜の鱗や、ミスリルと比べるからいけないのだ。
高級素材系の防具が少なく、魔力の入った宝飾具の類がやけに多
いのは、魔宝石の鉱山もあるイエ山脈が近いからかもしれない。
﹁リア、祈りの指輪、お前にやる。祈りなんだから、相性いいはず
だろ﹂
﹁なななっ、なんですか、どうしちゃったんですかタケル、ついに
デレ期来ちゃったんですか!﹂
﹁いや、装備品を渡しただけだろ﹂
﹁そりゃ、是非欲しいって言ったのは、わたくしですから⋮⋮、で
も女性に指輪を渡す意味を分かってやってるんですよね。タケルは、
覚悟しているものですよね!﹂
あいかわらず、うざい。
リアのセリフは、削れば五分の一ぐらいに省略できるだろ。
513
肉と一緒の比率で無駄が多い。
﹁シスターは、結婚できないんだろ﹂
﹁ああっ、なんでそんな是非もないことを言うんですか!﹂
はいはい、リアのターン終了。
﹁シルエット姫様には、こちらの守りのアミュレットなどはいかが
ですか﹂
﹁まあ、素敵ですわね。でも妾の首には、もうコレがありますから﹂
ちょっと待て。
﹁なんで、うちの商会の首輪を! どこで手に入れたんですか﹂
おい、王都の連中いいのかよ。
いつの間にか、シレジエ王国が滅亡してシレジエ奴隷王朝が勃興
してるぞ。
﹁裏ルートで買ったのです。どうも、商会の非奴隷商会員の方々に、
勇者様の奴隷の証が流行ってるらしいんですのよ﹂
﹁シルエット姫ならまだわかるけども、うちの他の商会員って何や
ってんだよ⋮⋮﹂
さわたりしょうかい
中小の商会や職能ギルドを買収して吸収合併を繰り返しているの
で、佐渡商会にも、今では非奴隷少女の正規職員は多数存在する。
どうもその非奴隷の商会員が、奴隷少女の首輪を羨ましがって付
けるのが流行っているそうなのだ。
うちの商会どうなってんだ、ネガティブ姫様と同レベルなのか。
514
﹁とにかく、シルエット姫やめてください。それ付けてるのバレた
らジルさんに俺が怒られますよ﹂
と、そんなことを話してるところに、お約束通りジルさんがやっ
てきた。
さっそく勘違いしてまた﹁姫を奴隷にするつもりか!﹂とか言い
つつ、剣に手をかけるパターンだろ。
﹁ちょっと、ジルさんも、なに首輪つけてるんすか!﹂
予想を超えてきやがったか。
﹁えっ、これみんな付けてるから、ここのシキタリじゃなかったの
か﹂
ちょっと言っちゃ悪いけど⋮⋮、ジルさんは本当にバカなのか。
奴隷認証用の首輪ぐらい、異世界人の俺でも知ってるぞ。
﹁そういうチョーカーで、お洒落なのかと﹂
﹁そんなわけないでしょう﹂
まあ、俺もそれなりに首輪には気を使って、付け心地の良い材質
を目指してるけど。
しっかり神聖文字と下位文字の両方で、俺の奴隷って書いてある
でしょうが。
まさかジルさん、騎士なのに文字が読めないんじゃないだろうな。
﹁奴隷の首輪がシキタリならば是非もありませんわね、わたくしも
似合いますかしら﹂
515
﹁リアも、これ見よがしにつけない。その首輪、余分に作ってるわ
けじゃないのに、どっから見つけてくるんだ﹂
うちの商会の奴隷首輪が、大々的に裏取引されている。
これは次回の社員総会の議題にしなければならないと心に決めた。
※※※
餅は餅屋。では、良い装備を探す方法は誰に聞けばいいか。
﹁そこで、私に聞きに来たわけか﹂
﹁ルイーズは冒険者としても、結構経験積んでるんだろう﹂
リュックサックに武器をたくさん詰めてるもんな。
ばんけん
あまり使う武器に、こだわりはないみたいだが。なんでも使える
万剣だし。
﹁ほとんどは王国騎士時代から使ってる普通の武具だが、例えばこ
のナイフは遠投の魔法がかかっている﹂
ルイーズが掲げる二対のナイフは、確かによく見ると青白い光を
帯びていた。
魔剣というのは、俺の光の剣にも通じるところがあるんだな。
﹁どこで見つけたの﹂
﹁ロスゴー村のけっこう近くにある廃坑跡地だな、一種のダンジョ
ンになってて﹂
﹁えっ、そんな近くにもダンジョンあったんだ﹂
﹁何を言ってるんだ、ダンジョンなんて結構ありふれてるだろ﹂
516
なんでも、元は魔宝石の鉱山だったのが、あまり取れなくなり、
しかも魔素の影響でストーンゴーレムが湧きだしたので放棄されて
ダンジョン化したそうである。
﹁いやあ、大変だったぞ。ストーンゴーレムは硬くて刃物が通用し
なかったから﹂
﹁ブレードが通用しないって、それじゃあどうしたの﹂
﹁そりゃ、そこらにあった岩をたくさんぶつけたんだ﹂
﹁ルイーズはすごいね、なんでも武器にできるのか﹂
弘法は筆を選ばずなんて話があるが、ルイーズも武器を選ばない。
岩でも木の棒でも、彼女にとっては立派な武器なのだ。
ばんけん
さすがは万剣だなと褒めると、ルイーズは少し照れた。
﹁まっ、それはいいとしてだ。ダンジョンの奥で見つけたのが魔法
のナイフだったというわけだ﹂
おそらく、地中からの魔素の影響で、普通のナイフが魔力を帯び
たのだろうと。
ダンジョンに自然に置かれた物︵あるいは、それは冒険者が死ん
で落としたアイテムである可能性が高い︶は、魔素により何らかの
魔法力をおびることがある。
それがプラスの効果であれば魔剣と呼ばれ、マイナスの効果であ
れば呪いの武器と呼ばれるのだ。
人間が勝手に都合のいい物を魔具、都合の悪いものを呪具と呼ん
でるだけなのかもしれない。
517
魔具や呪具は、付与魔術師や錬金術師が意図的に作ることもある
が、それはむしろそんな自然物を模したものであると言えそうだ。
﹁つまり、ルイーズの結論としては、良い装備を手に入れたければ﹂
﹁ダンジョンを漁って見るのが近道とはいえる﹂
﹁しかし、ダンジョンがあるなんて噂は聞かなかったけどな﹂
﹁平和なエスト領の人が住んでる地域には、ほとんどダンジョンと
いえるものはないし、アンバザック領から出る魔素は一点に集中し
てるから﹂
﹁そうか、魔の山があるから近くにはダンジョンがないのか﹂
﹁素材収拾ならダンジョンにこだわる必要はないだろ。私の着てい
る﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄も魔の山産なんだし﹂
盲点だった、自分の統治してる街のすぐ近くに、素材の宝庫があ
ったか。
﹁この辺りで、歴史がある大きなダンジョンといえば、旧ローレン
辺境伯領だよ。まずオックスの街で素材を収拾してから、ダンジョ
ン攻略に乗り出してみるのも悪くない﹂
もちろん私も行くぞと、ルイーズは付け加えた。
ベースキャンプから、訓練が済んだ義勇兵団の部隊も、三百人率
いて行くという。
なんか凄く大掛かりな話になってしまった、どうせ近衛銃士隊も
付いてくるというだろうしなあ。
俺のイメージしてるダンジョン攻略とちょっと違う感じになって
518
いく。
とりあえずライル先生にオックスの街に向かうと手紙を書き、ゆ
っくりと街道沿いの村の様子を視察しながら行くことにした。
さすがに領主の仕事も、しないといけないからな。
519
40.素材を集めよう
オックスの街まで行くと、街の前でライル先生が待っていてくれ
た。
王都の仕事は、もう良かったのだろうか。
﹁先生! 会いたかった﹂
﹁ねっ、熱烈な歓迎ありがたいんですが⋮⋮﹂
俺はライル先生をガバっと抱きしめた。
うわーすげえ柔らかい。
﹁ちょっと、なに抱きついてるんですかタケル﹂
﹁なんでリアが止めるんだよ﹂
いや、引き剥がされるのは分かってやったんだが、なんでリアだ。
﹁なんだか不純なものを感じました。シスターとしては、是非もあ
りませんね﹂
﹁不純とか、その口が言うのか⋮⋮﹂
ライル先生は男の子だから、ぜんぜん不純じゃねーし。
あと、ベストの上からでも抱きしめたら分かりましたけど。
先生、普通におっぱいありますよね⋮⋮。
きゅうかつをじょする
﹁コホン、久闊を叙するのはこれで十分として、報告よろしいです
かタケル殿﹂
520
﹁どうぞ﹂
﹁とりあえず、王都に摂政派と呼べるだけの官吏・貴族・騎士の集
団を組織しておきました。改革派の官僚を味方に出来たので、私も
王都復興事業を任せてタケル殿の下に戻ってこれたわけでして﹂
﹁摂政派ですか?﹂
﹁まさか、ご自分がシレジエ王国の摂政になったのを、よもや忘れ
ておいでではないですよね﹂
﹁いや、まさか﹂
そういやそうだったなーぐらいには覚えてますよ。
﹁そうですよね、姫を引き連れてそれを忘れていたなどと﹂
﹁先生、そういやシルエット姫って、いつまで付いてくるんですか。
平和なエスト侯領ならともかく﹂
わらわ
﹁ううっ、やっぱり妾は、勇者様の旅のお邪魔に⋮⋮﹂
﹁いやいや、違う違うそうじゃない﹂
ネガティブ姫様の扱い難しい。
﹁いや、復旧の済んでない王宮にいるより、タケル殿と一緒にいる
ほうがむしろ安全ではないでしょうか﹂
チラッと、先生が俺が引き連れてる馬車と軍勢を見る。
言いたいことはわかる、大名行列みたいになってるからなあ。
これでも、村の視察や、街道の施設整備や、行商をついでにやり
ながらだから、効率的なんだけどね。
521
街道沿いの村は、どこも帰ってきて定住した元難民や、行商人で
活気があって良い感じだった。
﹁まあ、ジルさんが姫様の護衛付いてるんだから大丈夫か﹂
姫の側に控えて、得意げにシャキンと腰の剣を鳴らすジルさん。
この人の実力の程はまだ見たことないが、ルイーズの片腕だった
ぐらいなんだからいいとこ行くんだろう。
﹁それに、これから旧ローレン辺境伯領に行くんでしょう。姫が一
緒のほうが、何かと現地貴族を味方に引き込みやすいんじゃないで
すかね﹂
﹁なるほど、だから忙しい先生が来たんですか﹂
ライル先生が動くってことは、常に何らかの意味があるのだ。
まさか、俺のダンジョン探索に付きそうだけってことはあるまい。
﹁ですよ、我がお父上の悪口は言いたくないですが、あの人は学者
上がりだから外交と政治を知らない﹂
﹁旧ローレン辺境伯領の新領主連中も、こっちの味方に引きこんで
置きたいと﹂
ふいくかん
ライル先生は、元王室の傅育官であり現在は王国政府の宰相にな
った自分の父親と、権力争いをしているのだ。
俺が関与すべき話ではないが、先生を見捨てたという父親に意趣
返しが出来て気分が良いのだろう。
﹁伝説の勇者、前人未到のダンジョンを制覇する! 諸外国に向け
ても、いいデモンストレーションになります。なにせ、広大な辺境
伯領の向こう側は、敵国のトランシュバニア公国や友好国のローラ
522
ンド王国ですからね﹂
﹁他国との外交まで見越してですか﹂
まそのしょうけつ
まあ、﹃魔素の瘴穴﹄の解放でそれどころではなくなったという、
トランシュバニア公国との国境紛争が再開されたら俺も困るし。
人間の国同士、仲良くやってもらいたいものだ。
※※※
魔の山の素材採集が始まった。
ルイーズ団長の指揮のもと、すでにベテランになってるオックス
の街の守備兵に、ベースキャンプを出たばかりの新兵三百人の演習
も兼ねて総出の山狩だ。
俺はというと、また馬車で観戦将軍をやらされるのが嫌なので、
﹃魔素の瘴穴﹄の様子を見に来た。
あの鉄筋コンクリの四角い建物は、今日も雨風に耐えて威容を誇
っている。
ゲイルのように悪意を持って封印を解くことが出来る人間が存在
すると分かって、教会が取った対処は、解かれてもすぐ再封印でき
る聖女クラスの常駐と、王国兵士によるきっちりとした防衛体制の
確立であった。
もともと、コンクリに耐腐食性の鉄板が貼られてるようなロスト
テクノロジーの塊のような建物なのだから、守るのはたやすい。
おそらく、二百四十年前に大英雄レンスがこれを建てた時には、
元々兵士が常に守っていたのだろう。
その防衛意識が、長い年月無事だったためにいつの間にか薄れて、
523
兵士が常駐することもなくなったということではないか。
﹁ご苦労様﹂
リアを連れて、瘴穴の門を守る王国兵士の最敬礼を受けて、中に
入る。
毒々しいドクロマーク、明らかに原子炉を模した封印の間の作り
を眺める。
あいかわらず、最悪のセンスだ。
レリーフに描かれる建国王レンス・アルバートは、金髪碧眼の白
人だが、二百四十年前の話なんだから分かったもんじゃない。
ほぼ確実に言えることは、レンスは俺と同じ時代から来た異世界
人ってことだ。
ライル先生は迷人と言っていたが、異世界より来たりし勇者は存
在したのだ。
日本とは限らないが、現代の地球からここにやって来たレンス。
この地にシレジエ王国を築いてたくさんの子孫に囲まれて大往生
した彼は、孤独だったのではないか。
今の俺と同じだ、たくさんの仲間に囲まれていても、故郷の話が
できる人は一人もいない。
﹁タケル、是非もなげな顔をして⋮⋮珍しくシリアスですね﹂
﹁リアに言われたくないけどね﹂
原子炉ってメッセージは、おそらく魔素は使い方によって世界を
滅ぼす道具にも、活かすためのエネルギーにもなり得ると言いたい
524
のだ。
自分と同じ世界から来た人間にだけ、それが分かるよう、このよ
うな形にした。
﹁それで、便利なアイテムでも残してくれない辺りが、性格悪そう
だけどな﹂
﹁建国王の悪口ですか?﹂
﹁リアは、建国王レンスのことをどれほど知っている﹂
﹁教会には、その手の古文書はたくさん残されておりますからね。
タケルと同じ異世界人であった、なんて話も知ってます﹂
﹁リア、お前どうしてそういう重要なことを黙ってたんだよ!﹂
余計なことばっかり言いまくってる癖に。
しかも、俺が異世界人だって気がついてたのか。
﹁始祖の勇者であり、シレジエの建国王レンスが、得体もしれない
異世界から来た者であった⋮⋮なんて風評は存在してはまずいので
す。わたくしが読んだ古文書も、門外不出の禁書に指定されており
ます﹂
﹁なるほど、そういうこともあるか﹂
そこまでは、考えが至らなかった。
異世界勇者モノってのは多いが、場所によっては異世界人ってこ
とがマイナスに取られることもあるのか。
そういうケースは聞いたことがなかったから気が付かなかった。
なにせ、シレジエ王国は大衆がニンフを蔑視して、姫様がハーフ
エルフだって理由だけで門閥貴族が王位継承権を認めない土地柄だ。
525
﹁タケルも、異世界のことはあまり口に出さないほうがよろしいで
すよ﹂
﹁分かった﹂
リアが、まともな忠告をしてくるなんて珍しい。
勇者にされるときに、一度リアに異世界の話をしたが、わざとス
ルーしてくれてたんだな。
﹁わたくしと二人っきりのときだけなら、話してもかまいませんけ
どね﹂
﹁おい⋮⋮﹂
リアが手を絡めてきた、いまそういう空気じゃないだろ。
指まで絡めてくるとか、手汗が気になるからやめろ。
﹁わたくし、教会の湿ったホコリ臭い書庫に篭って禁書を読み漁り
ながら、いつか異世界からわたくしの勇者がやってくるであろうと、
ずっと信じておりました﹂
﹁それ妄想だからね﹂
リアがどこかおかしいのは、建国王レンスの影響だったのか。
当時の知られるとマズイことを記録した禁書って、何が書かれて
るのかは興味深い。
﹁わたくし知ってます。聖女とかシスターというのは、異世界人に
とっては汚されるべき対象なのですよね﹂
﹁いや、どんな偏った知識だよ。本当のシスターに怒られるよ!﹂
リアがフードを脱ぎ、やけに熱い吐息を俺の耳に噴きかけてきた。
526
またかよ、本当にいい加減にしろ。
﹁わたくしも勇者に仕える聖女になった身、タケルにエロ漫画みた
いにされても、是非もありません﹂
﹁禁書でエロ漫画が伝わってるのか!﹂
建国王レンスってどんな奴だったんだよ。
なんか、あんまり知りたくなくなってきたぞ。
﹁タケル、わたくし上が女の子、下が男の子がいいんですけど﹂
﹁おい、リア。だんだんと話がおかしくなってきてるから。何の話
だよ﹂
こんな場所でローブの前を開けるな!
お前、本当に修道女なのか。
禁書が好き勝手に読めて、敬虔であるべきシスターが変態に育つ
とか。
アーサマ教会のシスター教育はどうなってんだ。
﹁アーサマ教会は、自由平等博愛の精神に満ちてますわ。異世界人
の文化も是非なく受け入れます﹂
﹁教会の戒律に触れる文化まで導入しちゃだめだろ!﹂
その時だった。
兵士が金属の残骸を抱えて、原子炉を模した封印の間に入ってき
た。
﹁勇者様は素材をお探しとか、補修の時に残った外壁の残骸ぐらい
しかないのですが﹂
527
﹁おお、ありがとう﹂
まぶか
さっきまで、俺の身体にねっとりと絡んでいたリアは、すっとフ
ードとローブを目深に被ったシスターに戻って澄ましている。
何らかの魔法を使ったんじゃないかと思えるほどの鮮やかさだ。
お前⋮⋮その俊敏な動きは、是非戦闘で生かしてくれ。
﹁さすがは建国王レンス様の作られた建物です、今の技術では崩れ
た場所の補修の復元は難しいのですが⋮⋮﹂
﹁うん、耐侵食金属だな。参考になるよ﹂
他には、使えそうなものは何もないと。
はぁ、まったく。
建国王レンス、異世界人だったんなら、伝説の勇者の武具とかき
セオリー
ちんと残しておけよ。
そこら辺のお約束は守ろうぜ、エロ漫画を禁書にして残してる場
合じゃないだろ。
※※※
瘴穴から降りてくると、義勇兵団の大部隊による山狩も終わって
いた。
﹁どうですか、先生。ルイーズ、何か使えるものはありましたか﹂
﹁そうですね、あると言えばある。ないと言えばないって感じです
かね﹂
モンスター狩りは順調に行った。
528
山のモンスターを根絶やしにしておけば、仮に封印が解かれたと
きもいきなりの大発生の影響を抑えることもできる。
下級モンスターは魔素を受けても、異常に増えるだけで身体に影
響はない。
一部、ロードレベルの上級モンスターには黒化の影響が多少あっ
て、その硬い皮は﹃黒飛竜の鱗の鎧﹄の補修程度には使えるだろう
と。
エリクサー
﹁あとは、生えてくる薬草がやたら高品質なぐらいですかね。リア
さんが協力してくれれば高品質の回復ポーションどころか、霊薬が
大量に作れそうですよ﹂
﹁それは、ダンジョン攻略に役に立ちそうですね。あ、これ瘴穴の
残骸なのですが、不思議な特性の金属でして⋮⋮﹂
俺と先生が話し込んでるのを遮って、ルイーズが声をかけてきた。
﹁なあ、ちょっと思ったんだが。薬草が使えるなら、これは使えな
いのか﹂
ポンポンと、そこらに生えている黒杉を叩くルイーズ。
﹁ルイーズ団長、それは私も考えましたが、黒杉は硬すぎてどんな
斧やノコギリを持ってしても刃が立たないのですよ。加工は難しい
かと﹂
﹁タケル、お前の光の剣なら、これ切れるんじゃないか﹂
ライル先生が、あっと驚いた顔をしてる。
ルイーズすごいな、先生が気が付かなかったところに気がつくと
529
は。
﹁やってみるよ、星王剣!﹂
さっと横薙ぎにしたら、黒杉はあっけなく切断された。
ドスーンと音を立てて、倒れる黒杉の大木。
﹁タケル殿、これ大盾の形とか、細かくブロック状に分断したりで
きますか﹂
﹁やってみますね﹂
光の剣をレーザーのように当てて、黒杉の木材から切り出す。
﹁これは凄い、硬さを生かして盾とか鎧に加工できますね。棍棒や
剣も一応作ってみますか﹂
元が木材だから金属よりも軽く、鋼鉄の刃を一切通さない強度を
持つ黒杉。
こんな身近に、最高の素材があったとは盲点だった。
俺が樵になって、黒杉を斬りまくっていると、ヴィオラがやって
きた。
﹁どうしたヴィオラ﹂
﹁この空き地に薬草を植えてみたいんですが⋮⋮﹂
あれ、薬草って栽培できないって聞いてたんだけど。
先生早く教えて下さいよ。
﹁ヴィオラの勘は当たってるかもしれませんね。薬草は地中の魔素
530
をたまたま吸収した草が、解毒や回復や、各種状況回復などの効果
を発するものです﹂
なるほど、いわゆる魔宝石やマジックアイテムと一緒のような成
り立ちなんだな。
魔素か、強力な魔法力がなければ生育させるのは難しい。
﹁魔の山は、魔素が溢れて漏れ出そうとする特別な山です。ここな
ら、薬草の種をほぼ完全に高品質の薬草に成長させることができる
かもしれません﹂
先生のお墨付きもあり、俺が伐採したあとに、ヴィオラが薬草園
を作ってみることにした。
水の精霊の加護があるハーフニンフのヴィオラは、植物を生育さ
せるのが得意だ。
各種ポーションや霊薬の原料になる薬草の栽培。
いいね、大儲けできる匂いがしてきた。
﹁じゃあ、用地は開けるからヴィオラは薬草園を作ってくれ。手伝
いの人員は自由に使ってくれてかまわないから大々的に頼む﹂
﹁はい⋮⋮﹂
ヴィオラはコクンと頷くけど、ハーフニンフは知らない人間には
忌避されがちだし、人を使うのは難しいだろう。
シャロンによく見ておくようには言っておかないとな。
俺に直接提案してくれるようになっただけ、彼女の引っ込み思案
も改善傾向なのだろう、良いことだ。
531
﹁よしじゃあ、みんな薬草園づくり頼むな﹂
俺は用地を開けるためにも、せっせと樵だ。
ここで創った武具がダンジョン攻略で役に立ち、ダンジョン攻略
でさらに新しい強力なマジックアイテムを手に入れられるかもしれ
ない。
なんだ、かなり順調じゃないか。
俺は嬉しくなって、与作よろしく光の剣を振り続けた。
ちょっと切りすぎな気もするが、余った木材は建物の支柱にでも
使えば、かなり丈夫な建築物が建てられるのではないか。
強固な木材は、加工手段さえ見つかってしまえば、その使い道は
たくさんあるのだった。
532
41.オラクル子爵領
オックスの街で、﹃黒杉の大盾﹄﹃黒杉の鎧﹄﹃黒杉の木剣﹄﹃
黒杉の棍棒﹄などなど、黒杉シリーズの装備品を創った俺たちは、
ポーションもたっぷり抱えて準備万端で旧ロレーン辺境伯領に足を
踏み入れた。
辺境伯と聞くと、俺は田舎の小領主を想像していたのだがとんで
も無い話で。
辺境伯は王都から遠いだけで、その領土は広大で敵地にも面して
おり、大きさ位置ともに重要な領土なのだ。
つまり、辺境伯は前線司令官にもなりうるわけで、本来なら由緒
正しき貴族や国の重鎮が任されるポストだ。
一度、モンスター大発生で滅びた辺境伯領の土地は、今の王国政
府に味方した貴族や騎士たちによって三つに分断されてしまった。
まず、上半分は敵国のトランシュバニア公国に面してるだけあっ
て、ロレーンの街を中心としたロレーン伯領として、新しい伯爵が
住んでいる。
領地を治めているのは、配下にも強力な騎士たちが多い、名門貴
族だそうだ。
下半分の右側、潜在的敵国であるゲルマニア帝国に面してる方は、
ロレーン騎士団領となっている。
新政府に味方した多くの騎士たちに領地を与えるのに、まさかこ
れ以上細かく分割するわけにもいかず、ロレーン騎士団という新し
い組織を作って、そこにまとめて治めさせたわけだ。
533
ここに所属する騎士たちはみんな男爵だの将軍だのと適当な地位
を貰っている、どうせ名ばかりなのだが。
そして俺たちが足を踏み入れた、下半分の左側がオラクル子爵領
だ。
俺のアンバザック男爵領とは領地を面したお隣に当たるわけで、
むしろ挨拶が遅れた感がある。
﹁オラクル子爵領って、中心の街の名前はスパイクの街なんですね﹂
普通は、中心街が領地の名前になるものなんじゃないのかな。
﹁そうですね、私たちが目的地にしてる大ダンジョン、﹃オラクル
大洞穴﹄のほうが有名ですから、そっちが領地の名前になってしま
ったんですね﹂
オラクル大洞穴。
二百四十年前に君臨した魔王の側近、不死者の王オラクルが三百
年前に創った大ダンジョンだ。
ネクロマンサー
そのオラクルとか言う死霊を操る死霊使いだったのか、ヴァンパ
イアロードだったのかも失伝してわからない不死王は、魔王と共に
勇者レンスに討ち取られた。
しかし、その名を冠した大ダンジョンは残ってしまった。
それなりに被害がでないよう討伐はしたそうなのだが、勇者レン
スはダンジョン制覇にあまり興味がなかったのか放置。
面倒臭かったんだろう、まあ気持ちはわからなくもない。
534
それから二百四十年の長きに渡り、未だに完全制覇もされていな
い大洞穴は、腕に覚えのある冒険者たちを引き寄せる英雄譚の舞台
として有名な存在になっている。
﹁ではダンジョン攻略の前に、スパイクの街に入って、子爵の居城
に挨拶に行きますか﹂
オラクル大洞穴を攻めるための拠点だったという、スパイクの街
は石壁が所々崩れたままで、街の復興は思うように進んでいないら
しい。
居城も門構えは立派だが、応急処置もそこそこと行ったところ。
オックスの街みたいに、急ピッチの復興ができてるのが珍しいん
だろうな。
街はそこそこ元暮らしていた難民たちが戻り、活気が戻ってるみ
たいだから、そこまで悪い統治ではない。
居城に入ると、向こうからプレートメイルを着た若い騎士が走り
こんできた。
﹁お初にお目にかかります、当領地の子爵、オルトレット・オラク
ル・スピナーであります!﹂
子爵本人か、あまりに腰が軽いから、お付きの騎士かと思った。
オルトレットは、元は領地を持たぬ武家出身で、第四兵団を指揮
していた兵団長だったという。
三十路手前ぐらいか、いかにも戦場で鳴らした感じの颯爽とした
兄ちゃんだった。
535
オールバック
後ろにさっと流した灰色の総髪、よく鍛えてある均整のとれた肉
体、居城にいても武装を忘れない気構え。
子爵といえば、そうとう偉く御成りになったはずだが、貴族的な
いやらしさがまったくなくて、好感が持てる。
﹁ああどうも、スピナー子爵閣下。お隣なのに、挨拶が遅れて申し
訳ありません﹂
﹁いえこちらこそ、慣れない領地経営で四苦八苦でして、元は領地
せっしゃ
を持たぬ武骨者ゆえ礼儀に欠け、誠に申し訳なきしだいであります。
どうぞ拙者のことは、オルトレットとお呼びください、勇者様﹂
ああ、そうか勇者扱いだから腰が低いのかな。
子爵と言えば、男爵の俺より地位は上のはずなんだけど。
﹁勇者タケル殿は、子爵閣下の領地にある﹃オラクル大洞穴﹄の討
伐に参りました。どうぞ、その点、お見知りおきいただきたく﹂
ライル先生が出て、牽制しはじめる。
いや先生、この人は、そんな政治とか入用なタイプじゃないんじ
ゃないかな。
﹁おおっ、それは素晴らしい。冒険者ギルドの復興も進まず、大洞
穴から湧き上がるモンスターには困っておったところでして。ご助
力、心より感謝いたします。どうぞ拙者に協力できることがあれば、
なんなりとお申し付けください!﹂
ひざまず
跪かんばかりに、子爵は頭を下げた。
﹁こちらは、シレジエ王国唯一の王位継承者、シルエット姫であり
536
ます。子爵閣下﹂
まぶか
先生は、白いドレスに目深にフードを被ったシルエット姫を前に
出す。
いや、だから先生そんな政治的に威圧しなくても。
﹁こ、これはこのようなむさ苦しい地に、ひっ、姫様がおいでなさ
るとは、このオルトレット感激でござる!﹂
子爵の頭は、そのまま地面にまで倒れこんだ。
﹁勇者様が大洞穴の討伐を終えるまで、しばらくご厄介になります
よオルトレット﹂
﹁はっ、ははっ、このオルトレットの身命に代えましても、大恩あ
る姫様を全力でお守りいたしまする!﹂
子爵はプレートメイルが折り曲がるぐらい、大きな身体を縮こま
らせている。
ちょっと、可哀想なぐらいだ。
こうして挨拶と言う名の威圧が終わり、俺たちは応接間へと通さ
れた。
オルトレット子爵の応接間は、木造の硬い椅子と机があるだけの、
質素というか質実剛健というか。
言ったら悪いけど、むさ苦しいところってのは、間違ってないな。
オルトレットは、貴族ズレしてない、良い人なんだろうなあとは
思う。
﹁ちょ、子爵なにやってんの!﹂
537
オルトレットは、姫様や俺に椅子を薦めると自分は地面に跪いた。
恐縮するにしても、やりすぎだろう。
﹁拙者、ここにて十分でござる﹂
﹁いやいや、居城の主にそんなことされたら、みんなが座れないで
しょ﹂
﹁こ、これは思いつきませんでした。勇者様、ご無礼のほど平に平
にぃ!﹂
﹁いやだから、椅子に座ろう、オルトレット子爵﹂
やっぱり、ライル先生が威圧しすぎたんだよ。
先生が悪いよ、先生が。
﹁オルトレット殿、王都の政府と我々の意見が異なった場合、どち
らに付いていただけますかなあ﹂
調子に乗った先生が悪い笑顔で、そんなことを言ってる。
﹁拙者もちろん、勇者タケル様に、生涯の忠誠をお誓いしますぞ!﹂
﹁いやいや、子爵。俺は男爵ですし、子爵のほうが偉いんですから﹂
俺がさすがに遠慮すると、子爵は跪いたまま苦笑した。
﹁そんな貴族の階級は、もはや関係ない時代となりました。勇者タ
ケル様はすでに国の摂政、ゆくゆくは国王になられるお方だと思っ
ております﹂
俺は、国王になるつもりは全くないのだが、階級は関係ないとい
538
うオルトレットの言葉は爽快だ。
シレジエ王国の騎士や貴族、古臭くて頭が硬い連中が多い中で、
物分りの良さと柔軟性がある子爵には見所がある。
さすがゲイルの乱の時に、誰よりも早く臨時政府側に味方して、
子爵領をゲットしただけのことはあるといえた。
年若い俺を侮るところもないし、この人とは仲良くしておいたほ
うがいい。
﹁子爵、国を思う者どうし、仲良くしようじゃないか﹂
﹁はっ、拙者、仲良くさせていただきます﹂
とりあえず、子爵を椅子に座らせてゆっくり話をすることにした。
お茶も、ようやく来たことだしね。
しかし、兵士が飲み物を持ってくるって、この居城にはメイドが
いないのか。
ちょっと質実剛健にしても、やり過ぎなんじゃないかな。
﹁街を見たところ、石壁の補修も済んでないようだし、街もいろい
ろと足りないようだね﹂
﹁お恥ずかしい話でして、いきなり大きな領地を拝領しても、スピ
ナー家の蓄えでは先立つものがまったく足りません﹂
なるほど、これは大きなビジネスチャンスだよなあ。
俺も多分、ライル先生とおんなじぐらい悪い笑顔になってると思
う。
﹁そこでだ、うちの商会で石材とか木材とか資金も含めて、領地復
興に必要な物は援助しようじゃないか﹂
539
﹁勇者様、なんとお礼を申し上げてよいのか⋮⋮﹂
おい、大の男が泣くな。
﹁ただじゃないからね、オルトレット。これはきちんとした取引だ。
今後こっちも領地を貸して欲しい時があるだろう。商会の支店も置
きたいし、街道や街を使うときに、うちの商会だけ無税にして欲し
いんだけど﹂
﹁もう何なりといたしてください、何なら領地をそのまま差し上げ
てもかまいません﹂
こらこら、それじゃあ、子爵が損しちゃうだろ。
取引は、共栄関係にならないと長続きしない。
﹁まあ、お隣同士だし仲良くやっていこうぜ﹂
﹁ハハッ、このオルトレット、身命に変えましても仲良くいたしま
す!﹂
まあちょっと変わってるけども、いいか。
自分の領地の隣に、友好的な貴族が居るのは何かと捗るしなあ。
※※※
さて、噂の﹃オラクル大洞穴﹄。
外見は、スパイクの街のほど近くにある、ただの小山なのだが。
そこには大きな洞穴があって、ずっと奥まで続いている。
もともと鉄の扉があったようなのだが、吹き飛んでいて跡形も無
い。
540
領地が滅びたときに、強いモンスターが破壊しちゃったんだな。
低層階には、お馴染みのオークやゴブリンなどの下級モンスター
の住処となっていて、ときおり街まで流れてきては、街の兵士たち
との戦闘になっている。
﹁ダンジョンに挑む冒険者とかはいないんですかね﹂
﹁昔はたくさんいたそうなのですが、﹃魔素の瘴穴﹄の大発生でど
こもそれどころじゃない状況でしたからね﹂
まだ冒険者ギルドの復興さえ済んでいないから、わざわざモンス
こうりゃく
ター退治に大洞穴まで足を運ぶ冒険者はいないってことか。
これからやる反則技には、人がいないほうが都合がいい。
﹁よし、じゃあ入り口にキャンプを張って、いまより大洞穴の攻略
を開始する﹂
俺の目の前に居るのは、近衛銃士隊に、ルイーズが率いる一般の
銃士隊が三百人、あと罠を調べる盗賊がいるだろうから、ネネカた
ち密偵部隊にも来てもらった。
弾薬やポーション類の補給は十分、盗賊ギルドの後援もあるので、
攻略に不足なものはなにもない。
青銅砲も念の為に持ってきたんだが、これはちょっとダンジョン
で使うには使い勝手が良くないかもしれない。
﹁タケル殿、ダンジョン攻略は、六人一チームに分けてやるのが効
率がいいですよ﹂
﹁じゃあ、そういう編成で、二十四時間体制で大洞穴を攻め続ける
ぞ!﹂
541
オーバーキル
ウオオオォォ! と兵士たちの鬨の声があがり、まず低層階の攻
略と言う名の虐殺が始まった。
毎回このパターンで申し訳ないが、相手は前人未到の大洞穴、数
の暴力で速攻するつもりだ。
火縄銃を片手に前衛の兵士たちが穴に飛び込み、外敵もなくのん
びりと住んでいたオークたちに一斉射撃。
前衛が弾を撃つと、今度は中衛が交代して一斉射撃。
中衛と後衛が交代して一斉射撃するころには、群れがひとつ壊滅
していた。
信長軍が長篠の戦いでやったという伝説の、三段撃ち戦術である。
スイッチ
まあ、一説にはやってないって話もあるんだが、ダンジョンのよ
うな狭い場所では交代して撃ち続ける戦術はかなり有効である。
実はこれ、撃つ人と弾込めする人に分担すると、さらに効率化す
るらしいのだが。
今回は、新兵教育も兼ねているので弾込めも撃つのも自分でやっ
てもらう。
﹁それにしても、壁に綺麗な石のブロックまで積んで補強までして
あるって豪勢というか、凄いですね﹂
﹁かの不死王オラクルには、アンデッドという無限の労働力があり
ましたから﹂
なるほど、死なない王に死なない兵隊か。
無限の力を持て余した結果が、この三百年経ってもまったく崩れ
ない立派な大洞穴を作り上げたんだな。
俺はそっとダンジョンの石壁を触って、そのひんやりした感触に
542
感動する。
ああっ、こういう現代にありえない建造物に触れると、本当にフ
ァンタジーの世界に来たんだなと実感する。
しかし、人間の街が石壁が崩れたまま廃墟みたいになってるのに。
モンスターの古いダンジョンが、こんなに綺麗なんて皮肉だな。
﹁この洞穴って、いつまで続くんですかね﹂
﹁いや、タケル殿。まだ地下二階ですよ、ダンジョン攻略マップに
よると、九階の一部までしか分かってませんが、その先もさらに続
くそうですよ﹂
﹁うあ、一体どれぐらいの大きさがあるんだよ。蟻の巣みたいだな﹂
俺は先生から借りた﹁オラクル大洞穴﹂マップを見て、そのあま
りの大きさに驚きを隠せないで居る。
新宿ダンジョンもかくやという広大さである。
﹁上から、大洪水の魔法とかで押し流したら全滅したりしないです
かね﹂
蟻の巣でそう思いついたのだ。
近頃とんと姿を見ないが、俺たちの敵には大洪水の魔法が使える
上級魔術師もいるのである。
ダンジョンに入っているときに、上から浴びせられたら溜まった
ものではない。
﹁タケル殿は、やはり柔軟な発想をしますね。しかし、三百年も難
攻不落の大洞穴ですよ。それなりの対策はあります、ちょうど広場
543
に着きましたからお見せしましょう﹂
石壁の通路が続いたかと思えば、定期的に大きく広がる広場など
がある。
そこにモンスターの群れが居ることが多いのだが、もう前線の兵
士たちに駆逐されていて死体が並んでいるだけだ。
﹁荒れ狂う水の流れよ、我が元に集い、敵を押し流せ、ウォーター
ウェーブ﹂
ライル先生が、例の中二的な呪文を唱えて、壁に向かってワンド
を振るい、大量の激流を発生させる。
﹁うあっ、水がこっちに来るじゃないですか﹂
思わず、みんな通路まで引いたが、広場からどっと流れだした激
流はこっちにこない。下に溜まっていた水も、すっと引いていく。
﹁どうなってるんですか、先生。なにか魔法の力で阻害されてると
かなんですか﹂
﹁三百年環境を維持できる魔法ってのは、なかなかありませんね、
壁をよく見て下さい﹂
壁には丸い穴が開いていて、水が流れだしたあとが残っていた。
﹁排水溝?﹂
﹁そうです、地中に穴が開いているんですから、雨水だって流れこ
むし、地下水脈とぶつかるときもあります。こうして、通路に定期
的に広場を設けてあるのは、そこで排水するためのようです﹂
544
﹁へえっ、よく考えてあるんですね﹂
﹁私たちが考える程度のことは全て対策してありますね。排水だけ
でなく、通風口もきちんとありますから、モンスターを窒息させる
というのも難しい﹂
なるほど、自分がアンデッドなのに、生き物が死なないように対
策してくれるってのは。
魔王の部下にこう言ってはなんだけど、オラクルって良い奴だっ
たんだな。
不死王と言っても、配下はアンデッドばかりではなく、生きてる
モンスターもたくさんいたんだろうから当然だが。
﹁でも、ダンジョンの下層階はアンデッドが多いですよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁低層階は、オークやコボルトなどが多いですけどね。やはり下の
階層になればなるほど、陽の光が当たらない。生き物にとっては、
厳しい環境になりますから﹂
その日は、三階まで進み、広場でベースキャンプを張って休憩す
ることにした。
前線がそれだけ前に出たので、補給物資も輸送しなければならな
い。
人間の集中力は長くは続かない、罠に引っかかるなどの事故を防
ぐためには、こまめな休憩が必要だ。
速攻を目標にしたとはいえ、安全確保を第一にして、なるべく犠
牲を出さないように地中を進む。
545
42.大洞穴攻略
﹁ごしゅじんさまーほめてほめて﹂
﹁おお、どうしたロール﹂
俺は、現地調達したオーク肉のハンバーガーを食べながら、ロー
ひいき
ルの赤銅色の髪を撫でる。
あんまり奴隷少女を贔屓とかしちゃいけないんだけど、俺はお前
が一番可愛いぞ。
きっといつか、ドワーフ娘の時代がくるからな。
﹁ここのつち、ぜんぶからしょうせきが、とれるよ﹂
﹁うおおおっ!﹂
思わず、吠えてしまった。
なんちゅうことに、なんちゅうことに気がついてくれたや、ロー
ル!
長年モンスターが住み続け、冒険者と殺し合い、土に糞尿や血肉
やその他もろもろが染みこんで全く日が当たらない大洞穴。
ここはまさに、硝石の宝庫や!
﹁大洞穴そのまま、ものごっつ硝石の産地やんけ!﹂
﹁ごしゅじんさまー、キャラがかわってるよ﹂
﹁おお、すまんすまん、つい浪速の商人の血が滾ってな﹂
﹁すごいよね、さっきちょっと煮てみたけど、すごいできるよ﹂
546
さすが生まれついてのワーカーホリック。
周りが、ダンジョン攻略に邁進してるこの状態で、休憩中に土を
煮ていたのか。
﹁よしよし、じゃあロールたちは攻略はいいから、硝石作りに早速
入れ﹂
﹁あいあいさー﹂
硝石が現地調達できるなんて、これで補給も完璧じゃないか。
否が応にでも、これは順調に進まざるを得ない。
⋮⋮とかなんとか、言っていたのだが、そうは問屋が卸さない。
攻略は三階層を終えて、四階に入って急に停滞した。
四階は、上層のオークなどと違い、マミーと呼ばれるミイラ男の
アンデッドがやけに多い階層だった。
武器も持たず、ただ包帯男が襲い掛かってくるだけなので、単体
ではそこまでの脅威ではない。
アンデッドなので銃撃の効果はいまいち薄いが、リアが浄化すれ
ば消えてなくなるし、普通に剣や槍で倒すのも難しくない。
しかし、通路が埋まるほどの数となると、ちょっと脅威だった。
それでもこちらも数なら自信がある、力押しで四階層の中程まで
討伐を進めたまでは良かったのだが。
﹁なんで、攻略済みゾーンからモンスターが湧いてくるんですかね、
先生﹂
547
ブロックごとに分けて、完全制覇してから前に進むというパター
ンでここまできたのに。
すでに制覇済みの安全圏からモンスターが湧きだして、ちょっと
した混乱が起きて進軍がストップしたのだ。
﹁兵士たちの報告を総合して考えるに、原因はおそらくこの部屋だ
と思います﹂
﹁そこは確かにモンスターハウスになってましたけど、もう全滅さ
せましたよ﹂
先生の言うとおりだった。
先ほど、包帯男で満載になっていた部屋を綺麗に片付けたはずが、
また一杯に湧き出してきている。
﹁これは、もしかすると無限湧きの部屋かもしれませんね﹂
﹁モンスター無限湧きって、反則なんじゃないですか﹂
どれだけ殺しても、包帯男が無限に湧いてくる小部屋。
どういう理屈で創ったのかも、さっぱりわからない。
つまり、四階層を敷き詰めるように発生してるマミーは、全部こ
の小部屋から出たのだ。
おそらく何らかの限界はあるに違いなのだが、オラクル大洞穴が
できてから確実に、三百年間は無限湧きしてたことになる。
無限って怖い。
魔王クラスのアンデッドマスターの底力を見た思いである。
﹁つまり、ここでどうやっても補給線が分断されてしまうというこ
548
とになりますね﹂
﹁相手と違って、こっちは無限の体力はないからなあ﹂
何ということだ。
軍隊によるダンジョン速攻対策もしていたとか、不死王オラクル
さんすげえ。
﹁リア、この小部屋、パパっと浄化したりできないのか﹂
﹁このレベルの呪いが相手では、わたくしごときでは是非もないで
すね。お詫びに脱ぐ気力もなくなるほどの、格の違いを感じます﹂
リアがふざけられないレベルって相当だな。
まあ、相手は不死王なんだからしょうがないか。
﹁タケル殿、四階を攻略してから、三階出口にベースキャンプを張
って、戦闘員のみで五階を攻めていくことにしましょう﹂
そんな段取りで、ダンジョン攻略は進む。
俺は⋮⋮と言うと、気がつくと無限湧きしているミイラ男を見な
がら、これを何かに利用できないかと考え始めていた。
※※※
﹁よし、シュザンヌ、クローディアどいてくれ﹂
スイッチ
﹃黒杉の大盾﹄を構えて、無限湧きの小部屋からの敵を押し留め
ていた二人は俺と交代する。
俺は、右手に﹃黒杉の木刀﹄、左手に光の剣を掲げて、意識を集
中させる。
549
よし!
じきしんかげりゅう
﹁直心影流奥義 八相発破!﹂
二段突き、三段突き、四段突き!
片手で四段、両手で八段、俺は両手に持った剣でミイラ男を突き
まくる。
ちなみに技名を得意げに叫んでいるが、俺の剣術はみんな古流剣
術の本をナナメ読みした我流なので、実物とは違うだろうことを断
っておきたい。
本来は長い修業を積み、高い精神性が伴わないと使えない奥義だ。
しかし、本で読んだだけで形だけ真似た技でも、武器が良ければ
それなりに高い攻撃力がある。
俺の八相発破で、目の前のマミー三体が一気に吹き飛んだ。
脆い敵だ、手応えがない。
しかし、数は十分な脅威になる。
無限湧き部屋には、ミイラ男で溢れているので、すぐに前にやっ
てくる。
﹁八相発破! 八相発破! 八相発破ァァ!﹂
十六段突き、三十二段突き、四十段突き!
俺は、体力の続く限り、敵を突いて、突いて、突き砕き続けた。
激しく動けば動くほど、心は静かに真っ白になっていく。
550
﹁ハァハァ⋮⋮、星王剣!﹂
体力の限界、疲労から前かがみになった身体に激を入れて。
最後の一匹を下段から切り上げる。
さっと、切り裂いたミイラ男の汚れた包帯が、宙を舞った。
俺は、体力の限界を感じて小部屋の入り口まで引く。
﹁シュザンヌ、クローディア頼む!﹂
﹁はい、ご主人様!﹂
二人は、その小さな身体よりも大きな﹃黒杉の大盾﹄を構えて、
その隙間からまた湧き出したマミーを長槍で突き立てる。
﹁ご主人様どうぞ﹂
シャロンが、汗だくになった俺にタオルを被せて、ヴィオラが俺
に冷たい水を差し出してくれた。
﹁ふうっ⋮⋮﹂
休憩、ひとごこちついた。
無限湧きの小部屋を見て、まず考えられるのは、岩かなにかで部
屋の入口を堰き止めてしまえば、湧きは止まるのではないかという
ことだ。
しかし、あの不死王オラクルが、そんな対策をしていないわけが
ない。
壁を作ったり、天井を崩して小部屋ごと潰したりすれば、おそら
551
く違う場所が無限湧きポイントになるだろう。
下手をすると、溢れ出るマミーが違う階層までぶちぬいて、無限
湧きポイントになってしまうかもしれない。
俺が出した結論は、この無限湧きの小部屋を、俺の﹁トレーニン
グルーム﹂にすることだった。
銃士隊に、下層の探索をやってもらっている間、俺はここで経験
値アップに励む。
もちろん、この世界はリアルファンタジーだから、経験の蓄積は
眼に見えない。
しかし戦闘を繰り返すことで、実戦経験は確実に上がっていく。
技のキレと、戦闘力の増強をここで、自分が満足いくまで繰り返
すのだ。
エリクサー
たとえ戦闘でミスって肉は裂け、骨が折れようとも霊薬なら一瞬
で回復する。
古今の剣士にとって、理想ともいえる実戦訓練の場がここにある。
﹁よし、シュザンヌ、クローディア。交代してくれ﹂
十分休んだ俺は、気合を入れなおすと。
スピード
両の手に、必殺剣を構えて敵に躍りかかった。
じきしんかげりゅう
﹁直心影流奥義 八相発破!﹂
俺の突きの速度は、加速度的に増していく。
もっと速く、もっと的確に、本来の光の剣の性能は、こんなレベ
ルじゃないはずだ。
552
俺の悪夢﹃反逆の魔弾﹄の主、盗賊王ウェイクに打ち勝てるイメ
ージを手に入れられるまで。
力の限り、剣を振るい続ける。
※※※
﹁よお、元気そうだな﹂
コンポジットボウ
目の前に、バカでかい大きさの合成弓を抱えた、緑フードの若い
男が立っていた。
盗賊王ウェイク。
チート
たった一度だけ戦場で相対した強敵。
しかし俺は、この男を悪夢で見ている。
何度も、何度も、何度も、毎晩のように。
これも夢かと思った。
﹁ハッ、本当にウェイクか﹂
﹁そうだよ、幻覚とでも思ったか勇者﹂
金髪をかき上げて、クックッ⋮⋮と、鳥が鳴くような特徴的な笑
い方をする。
さっきまで、マミーを斬り続けながら。
貴様を切り裂くイメージを高め続けていたなどと言ったら、果た
してそんなふうに笑っていられるだろうか。
﹁お前が面白いことをやっていると、ネネカから聞いてな。矢も盾
553
もたまらずこうして大洞穴くんだりまで足を運んだわけだ。俺が送
ってやった盗賊ギルドの連中は、役立ってるか﹂
﹁ああ、ダンジョンは罠が多いから。助かってるよ﹂
ピット
ダンジョンの例に漏れず、オラクル大洞穴にも罠がある。
ただそのほとんどは、単純な落とし穴で、四階のピットに誤って
落ちた部隊も、五階にまで探索を進めて救助されたと報告を受けた。
オラクル
不死王は、わりとフェアなのだ。
少なくともピットの下に、尖った木の杭を並べたりするような真
似はしていない。
モンスターより人間の方が凶悪だなんて、月並みなセリフだが一
面の真実を付いた言葉ではあった。
﹁お前、何か特別なことをやったか?﹂
﹁えっ、いや⋮⋮﹂
笑っていたウェイクが、急に目を細めてこっちを睨んだ。
その言葉の意味がわからない。
﹁なんで急に剣気が強くなったんだ。あれだ、この前死んだゲイル
ぐらいの強さには成長してるぞ﹂
ああ、訓練のことかと思ったが、ゲイルの強さのほうが気にかか
った。
﹁ウェイクってゲイルと戦ったことあるのか﹂
﹁ああっ、だいぶ前だが、あいつが男爵になった頃にドット領って
554
領地の盗賊から救援を求められて、攻めてやったんだよ。貴族か武
家でないと出世できないシレジエ王国の近衛騎士団で、久しぶりに
成り上がった男だと聞いて興味があったしな﹂
﹁それで、ゲイルには勝ったのか﹂
﹁うーん、引き分けだな。俺の﹃反逆の魔弾﹄を二発弾いて、三発
目を紙一重でかわしたってとこか。なかなか強かったが、そっから
がお前とは少し似ているけど、逆だった﹂
それなら、二発しか弾けなかった俺より強い。
ゲイルは姑息な男に見えて、ルイーズと同レベルに並ぶ程度には
実力があったのか。
﹁二回目の魔弾を放つ前に、副官に前線を任せて奴は逃げ去ってし
まった。一回目はかわせたが、二回目はわからないと思ったんだろ
う。撤退のさなか奴の部下はたくさん死んだが、何度遭遇してもあ
いつは後方に逃げやがって戦わなかった﹂
なるほど、俺と少し似てるけどまったく逆の対処だ。
勝てる時にのみ戦い、勝てない相手ならばどこまででも逃げる、
故に負けない。
ゲイルは品性こそゲスだったが、その行動原理はどこまでも合理
的だ。
真似をしたいとは思わないが、学ぶべきところは多い。
﹁俺の魔弾は、雑兵なら一気に三人から五人は倒せるが、言ってし
まえばそれまでの技だ。大兵団同士の戦いとなれば、戦況を覆せる
程の力はない﹂
﹁それでも小規模戦闘なら、十分に覆せそうだけどな﹂
555
ワンオンワン
﹁そうだよ、だから盗賊の頭なんてやってるのさ。俺の力は遠距離
攻撃特化だから、この距離でいまお前と一体一で戦ったら負けるだ
ろうしな﹂
﹁えっ、そうなのか﹂
そうか、ウェイクの緑のローブにかかってる魔法は飛び道具の軌
道をそらすものなのかもしれない。
チートとは言え、どこでも無敵というわけではないのか。
﹁もちろん、お前のような剣士とは一対一で、渡り合ったりしない
けどな﹂
﹁なるほど﹂
ウェイクの側には、手強そうな曲刀を持った盗賊が二人付き添っ
ている。
眼をつぶれば、存在を感じさせないほどに静かだ。二人とも、そ
れなりの手練と見える。
﹁俺は、ウェイク・ザ・ウェイク︵石橋を叩いて渡る︶なんて呼ば
れているが、まあ理由のないことではない。こう見えて慎重なんだ
よ、俺は﹂
﹁なるほどなあ﹂
この場で、仮に俺がウェイクに斬りかかれば、護衛が動いてその
間に距離を稼ぐ。
遠距離で撃ちあいになれば、ウェイクは無敵とそういうわけだ。
﹁なあウェイク、もしかしてダンジョン攻略に協力するために来て
くれたのか﹂
556
﹁おうよ、前人未到の大洞穴討伐なんて面白そうなこと、ぜひ混ぜ
てもらおうと思ってなあ﹂
そう言って、ウェイクは形良い微笑みを浮かべた。
﹁ウェイク、協力してくれるなら報奨は払うよ﹂
﹁金より、俺はお前たちの使ってる銃に興味があるんだよな﹂
そりゃ、そうだろうな。
飛び道具なら、ウェイクの注意を引くとは思っていた。
﹁銃なら自由に使ってくれ、ネネカたちも使えるから盗賊ギルドに
技術提供してもいい﹂
﹁そりゃ、豪気な話だ。俺が新しい飛び道具を使ってみたいだけな
んだが﹂
﹁なあ、ウェイク。銃に興味があるなら、これを見てくれないか﹂
俺はちょっと思い立って、ライフルの設計図を見せてみた。
鍛冶屋には依頼してるんだが、難航している。
飛び道具の専門家はどう見るか。
﹁これは、このライフリングって凄いな。軌道にスパイラルをかけ
るとか、自分で思いついたのだったら天才だぞ﹂
﹁まあ、それは先達があるわけだが⋮⋮﹂
﹁俺の師匠に弓聖ロウって、弓のことしか考えてない頭のオカシイ
爺さんが居るんだが、その達人の爺さんが思いついた究極の矢って
のが、このスパイラルをかけるって発想だったんだ﹂
557
﹁そりゃ、すごいな。思いつく人は思いつくってことか﹂
﹁ロウの爺さんの﹃スパイラルアロー﹄は、鉄の矢を撃ち出すと同
時に、風魔法で超回転をかけて軌道を安定させると同時に威力を強
めた。もちろん達人クラスでしかできない技だ。この銃の機構は、
それとまったく同じ事を機械的にやろうとしてると見たな﹂
﹁なるほど、やっぱり魔法の力に頼るしかないのかな﹂
らせんじょう
中世ファンタジーの冶金技術では、銃身の内側に繊細な螺旋状の
みぞを掘るのは難しい。
適合する弾も、球状の弾とは違い現代の弾丸型にしなければなら
ないため、現地生産は難しい。
それらの問題点の解決ができないため、試作品ですらなかなか仕
上がらないというのが現状だ。
﹁面白い話をされてますね﹂
ライル先生が五階から上がってきた。
下層階の探索が、一段落ついたらしい。
﹁先生も聞いてましたか、どうもこの弾にスパイラルをかけること
のできる魔法があるそうなんですよ﹂
﹁弓聖ロウでしょう、矢の命中精度を上げる魔法と、命中精度を下
げる風系魔法の両方を開発した人として有名ですよね﹂
﹁なんだ、先生も知ってたんですか﹂
﹁ええっ、盗賊王ウェイク氏には、お初にお目にかかりますが、そ
の緑のローブが、弓聖翁の命中精度低下の魔法が掛かったものであ
ることは、一目瞭然です﹂
558
ウェイクは、即座に自分の装備の付加魔法を言い当てられてギョ
ッと目を剥いた。
﹁勇者、すげえな。お前んとこの先生とやらは⋮⋮﹂
﹁いえいえ、私は中級魔術師ですので、魔法力が少し見えるだけで
す。その弓聖翁の魔法、ぜひ教えていただければ魔法銃として、ラ
イフルの作成は可能になるかと思われます﹂
じっきん
﹁仕方ねえなあ、弓魔法の奥義はロウの爺と昵近の弟子しか知らな
い秘中の秘なんだがよ。じゃあ、その魔法銃ができたら、俺にも一
挺くれるってことで手を打つか﹂
そんなこんなで、弓魔法を補助に使うという奇形的な構造ながら
も、ライフルがついにお目見えしそうな予感がしてきた。
﹁ちなみに、ちゃんと魔宝石を組み込んで魔法力がなくても使える
ようにしますので、タケル殿も安心してください﹂
﹁それは良かったですよ﹂
せっかくライフルできても、俺が使えないんじゃつまんないもん
ね。
しかし、量産は難しいというのは、やっぱり少し残念ではある。
559
43.大洞穴攻略其ノ二
盗賊王ウェイクのパーティー加入という思いがけない出来事があ
りつつも、オラクル大洞穴の探索は進む。
すでに攻略が終わっている五階を歩いていると、大蜘蛛の大量の
死骸を見てウェイクが驚く。
﹁うあ、これアシナガオオドクグモじゃねえか。この数をよく退治
できたな﹂
足長大毒蜘蛛は、粘性のある糸を吐いて武器をダメにしたり身動
きを封じた上で、猛毒の牙で噛んでくるという厄介な敵だそうだ。
﹁この手の生き物系モンスターは、銃士隊の一斉射撃の餌食ですか
らね﹂
先生がちょっと得意げに、解説する。
アンデッドや、無生物系よりも随分やりやすい相手だ。
﹁ふうん、やっぱり銃ってのは使えるんだな。あっ、そうだこの蜘
蛛の死骸もらってもいいか﹂
﹁構わないがウェイク、蜘蛛の死骸なんて何に使うんだ﹂
普通のモンスターならともかく、俺でも使い道を思い浮かばない
し、さすがのルイーズでも毒がある昆虫は食べない。
﹁粘性のある糸も、猛毒が詰まった袋も、盗賊にはいい道具になる
560
んだよ﹂
﹁なるほど、敵の動きを封じたり暗殺したりに使うわけか﹂
やはり密偵技術では、ウェイクの盗賊ギルドに一日の長がある。
大量に転がっている毒蜘蛛を、ウェイク配下の盗賊たちがナイフ
で解体しているのを尻目に、六階に進む。
﹃オラクル大洞穴﹄六階は、珍しくモンスターが存在しない階層
だった。
雑多な装飾具が並んでいる変な部屋で、どうやっても開かない扉
の前には神聖文字で、へんなセリフが書いてある。
マミー
﹁風邪を引いているミイラ男はどこにいる、なんだこりゃ﹂
﹁タケル殿、そこの棺桶を開けてくれますか﹂
先生の言うように、棺桶を開けると同時に開かなかった扉が開く。
リドル
﹁なんですかこりゃ﹂
コフィンコフィン
﹁謎掛けですね、幼年学校レベルのネタなんで説明するのも恥ずか
しいんですけど﹂
﹁教えて下さいよ﹂
﹁風邪を引いているミイラ男、つまり棺桶棺桶⋮⋮、たんなるダジ
ャレですね﹂
不死王オラクルの能力は凄いと思うんだが。
ギャグセンスは、致命的にないみたいだ。
例のスフィンクスが出す謎掛けより、ひどいネタだと思う。
561
﹁床に居るペットを探せ﹂
﹁タケル殿、そこのカーペットをめくってください⋮⋮﹂
寒い、こんな下らないネタしか思い浮かばなかったのか、オラク
ル。
﹁永遠の終わりを選べ﹂
おっ、これはなんか哲学的で、深遠そうな謎掛けですね。
﹁タケル殿、そこの﹃ん﹄の文字を押してください﹂
﹁うあ、マジですか⋮⋮﹂
本当だ、扉が開いた。
えいえんの﹃ん﹄って、逆に簡単すぎてわからないというやつだ。
﹁こういうのはね、出題者のレベルに合わせて考えるといいんです
よ﹂
そう言いながら、ライル先生は心底嫌そうな顔をしている。
解説する先生の精神を徐々に削る、恥辱プレイの罠としてなら巧
妙といえる過酷な階層だった。
先生、俺思うんですけど。 アンデッド系ってどんなに強くても、脳みそ腐ってますよね。
※※※
﹃オラクル大洞穴﹄七階。
562
むしろ、戦闘があって嬉しいぐらいなのだが、ここに来て強敵が
現れた。
順調に進んだ先の広場で、ズシンズシン足音を鳴らして歩いてい
る、ストーンゴーレムの群れ。
ほぼ鉄砲は利かないモンスターだ。
銃士隊とは、明らかに相性が悪い相手といえる。
まあ、わざわざ大砲を運んでくるまでもないだろう。
この程度の敵なら銃に頼らなくても、戦闘力がある戦士も揃って
いるのだ。
﹁よっし、じゃあさっさと片づけますか﹂
﹁こら、タケル。一人で先行するな!﹂
ルイーズは怒りながら、慌てて追いかけてくるけど。
俺は動きが鈍いストーンゴーレムなら、倒せるビジョンが頭に湧
いている。
﹁北辰一刀流奥義、星王剣!﹂
重たい石の棍棒を振り下ろすゴーレムの腕を、光の剣でたたっ斬
ると、そのまま返す刀で唐竹割りで一刀両断する。
刃の届く限り、光の剣で切断できないものはない。
﹁ほぉー、我が主も、そこそこできるようになったんだな﹂
ルイーズは感心しながら、俺が切り落とした石の棍棒を拾って、
遠心力を込めてストーンゴーレムに投げつけた。
563
大きな音を立てて仰向けに吹き飛んだストーンゴーレムは、周り
のゴーレムを巻き込んで将棋倒しに崩れていく。
多少修行しても、ルイーズに勝てるビジョンは全く浮かばない。
ウェイクが﹃反逆の魔弾﹄を撃ちまくって、遠くにいるストーン
ゴーレムをあらかた片付けると、七階層は静かになった。
﹁せっかく鉄砲貰ったのに、出番がないんじゃつまらねえな﹂
ウェイクは、鉄砲を試したくてウズウズしているようだ。
﹃オラクル大洞穴﹄八階。
八階は、地下水がゴオーと音を立てて瀑布となっているゾーン。
どういう仕組になっているのか、通路の横を川となって流れてい
る水は綺麗だし、高低差に合わせて滝になっていたりして癒される。
﹁水浴びでもしたいぐらいですね﹂
﹁タケル殿、それは止めておいたほうがいいですよ﹂
シーサーペント
俺たちの目の前の川から、首を出したのは巨大な海蛇だった。
もちろん生物系なので、すぐさま銃士隊の一斉射撃で始末される。
弾を通さないほど皮が硬いってことはないようだ。
ようやく銃の出番が来たと、ウェイクも得意げになって、海蛇に
弾を浴びせている。
初めて使うくせに装填が早い。
さすがは、飛び道具を扱い慣れてる男だ。
564
﹁ルイーズ何をやってるんだ﹂
﹁知らないのか、海蛇の肉はすごく美味いんだぞ﹂
そろそろ食事の時間でもあったので、みんなでルイーズを手伝っ
て海蛇の死体を引き上げると調理して喰ってみた。
﹁なるほど、これは美味いなあ﹂
﹁タケル、たしかにイケると言ったのは私だが生で食うとか、よく
やるな﹂
せっかく新鮮なんだから、お刺身にして食べてみたのだ。
蛇というより、ちょっと歯ごたえのある赤身の魚に近い風味がす
る。
おかしなものを食べてお腹壊しても、解毒ポーションがあるから、
寄生虫の心配もいらない。
食事の面で、いろいろと冒険ができるのがファンタジーの良い所
だ。
﹁そんなに美味そうに食べられると、ちょっと私も食べたくなって
きたな﹂
﹁まあ、自己責任でどうぞ﹂
ルイーズは、お刺身で食べてみると悪くないと言っていた。
さすがイケる口だね。
醤油があるといいんだよな、塩をまぶすしかないからちょっとさ
みしい。
大豆はないが、他の豆類や麦はあるんだから、もろ味噌ぐらいで
565
きるかもしれない。
こんど時間があれば発酵食品にもチャレンジしてみるか。
﹁先生、こうやって見ると大洞穴は、食べられるモンスターの宝庫
ですね﹂
﹁ですね。干し肉に加工して売れば、スパイクの街の食料問題も改
善されるかもしれません﹂
それ以前に、軍隊の糧食としてもだいぶ助かってるしな。
モンスターの肉を食うのに抵抗がなくなった兵隊は、経費が安く
済むからありがたい。
さらに先に進むと、たくさん海蛇が出てきた。
﹁こんなにたくさんでは、食べきれん﹂
ルイーズがそんな余裕のセリフをかましながら、自らも海蛇の頭
クラーケン
を切り捨てる。
大王烏賊が出てきたときは、俺も食うことしか考えられなくなっ
た。
﹁イカ焼きだああぁ!﹂
俺が光の剣で、イカの足を両断すると、でっかいイカがブワーッ
とこっちに黒墨を吐いてきた。
﹁黒墨パスタだあぁ!﹂
ピラニア
八階は、まさに食料庫といっても過言ではない素晴らしい階層だ
った。
ちなみに、ルイーズが釣りをするとすぐに人食魚などが引っかか
566
った。
この魚も毒はないから食えるとのこと。
日が当たらないから、天日干しにできないのだけが残念。
ただ、水が綺麗だからといってここで泳ぐのだけはおすすめでき
ない。
※※※
﹃オラクル大洞穴﹄九階。
一般に出回っている、大洞穴の地図はみんなここで終わっている。
つまり、それだけの大きな危険がここにあるということになる。
﹁致死性の罠かもしれませんから、盗賊団は特に注意して調べてく
ださい﹂
先生の指示で、ネネカたちは神妙な面持ちで壁をくまなく調べる。
先生も風の流れなどを入念に調べていた、毒ガスなどの罠なら排
気にそれだけの工夫があるので、読み取れるとのこと。
そんな風に、慎重に進んだ九階中ほど。
なぜこれ以降の探索が進まないのか、原因がはっきりした。
ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。
広間いっぱいに、見渡す限りのゾンビ。
みんな鎧と剣を持って、冒険者の出で立ちのままで広場を歩きま
わっている。
567
﹁先生、つまりこれは﹂
﹁そうですね、みんなここで死んでゾンビになるので、増殖してど
うしようもなくなったってことですね﹂
ゾンビには、銃も効きにくい。
これは、ここを突破するのはかなりの骨になりそうだ。
﹁わたくしが浄化してみます﹂
リアが前に出て、アーサマの祈祷を行うが、浄化されたゾンビは
一体だけ。
﹁どうやら、そうとうな呪いがかかってるみたいで、わたくしの浄
化も効きがとても悪いです﹂
﹁意図的に、ここをゾンビだまりにしようとしてるんですよ﹂
なるほど、さすが不死者の王が創った迷宮だ。
ダンジョンを探索しようとする冒険者そのものを、罠に使うとは。
﹁とにかく、少しずつ削っていくしかありません。みんなリアさん
の聖水で武装を聖化してください。ちょっとずつ削っていきましょ
う﹂
先生の号令で戦闘が開始される。
さすがに、元冒険者のゾンビは強い。
装備を着込んでいるということは、それなりに防御力もあるとい
うこと。
568
どこまで生前の意識が残っているのやら、剣を振り回す姿は人間
と戦っている感覚に近い。
﹁だが、ゾンビはゾンビだな。他愛もない﹂
動きは鈍くなくても、フェイントもなく、攻撃の仕方が単調だ。
きりおとし
﹁北辰一刀流 切落﹂
わざと隙を見せて、相手が攻撃するのに合わせて、腕を斬り落と
してやる。
返す刀で、ゾンビを斬り伏せる。
戦闘の途中でウェイクが﹁弾を聖化したらどうだ﹂などと言い始
めて、これが効果があった。
聖水で聖化した弾は、ゾンビにもダメージを与える。
さすが飛び道具の専門家、火縄銃で攻撃できるようになってゾン
ビ退治の効率は格段にあがった。
ほどなくして、広場いっぱいのゾンビは駆逐される。
﹁おかしいですね﹂
﹁どうしたんですか、先生﹂
﹁いや、使役されているようにも見えませんでしたから、ゾンビキ
ャリアが居ると思ったんですが見当たりません﹂
﹁ああ、感染源が居るって話ですか﹂
﹁そうです、ゾンビキャリアが居ないなんて違和感がありますね﹂
569
先生は考え込んでいたが、次の部屋ですぐその疑問は解消された。
鋭い牙と爪を持ったゾンビキャリアが部屋に溢れている。
﹁みなさん、絶対に近づいてはいけません。ちょっとでも噛まれた
らゾンビになります、飛び道具だけで戦ってください!﹂
これはヒドイ。
部屋に足を踏み入れたらゾンビキャリアの群れとか、前の部屋に
居た冒険者達はみんなこれにやられたのだろう。
聖化された火縄銃がなければ、絶対に進めなかったところだ。
こっちには飛び道具の専門家がいるから、助かる。
ウェイクも聖化した矢で﹃反逆の魔弾﹄を撃ちまくってたが、う
ちのルイーズも小弓で負けず劣らずの活躍をしていた。
俺もがんばろうと、弾を聖化した火縄銃を撃ちまくる。
ああ、早くライフルが欲しいなあ。
先生がゾンビの弱点である炎を使わず、石弾の魔法で攻撃してい
たのでどうしたのかなと思ったら。
土水風に比べると、炎系の魔法が苦手とのこと。
そういや、そんな設定あったな。すっかり忘れてた。
ライル先生は、なんでもできるチートに思えるが、わりとできな
いこともあるのだ。
ゾンビ祭りの様相を呈していた九階を探索し終えると、いよいよ
階層は十階へと続く。
そこは、これまでの洞穴と違った印象だった。
570
ここまできた俺たちを歓迎するように、シャンデリアの輝きに彩
られた十階の通路。
まるで貴族のお城のように、綺麗に赤絨毯が敷かれていて、豪奢
な色調の陶器や、高そうな調度品が並んでいる。
﹁先生、この壷でも持って帰って売れば、儲かりますね﹂
﹁そうですね、終わったらそうしても良いと思いますが⋮⋮﹂
いや、分かってますよ。
これだけ調度が豪華ということは、それなりに知能を持った敵の
ボスが居るって証拠みたいなもんですからね。
赤絨毯に導かれるように奥に進むと、俺たちに空飛ぶ真っ赤な悪
鬼が襲いかかってきた。
ガーゴイルの群れだ!
本来なら手強い敵なのだろうが、銃の一斉射撃で終了。
こいつらは、石化する。
石になって銃撃から身を守ったガーゴイルも、俺が光の剣で切り
裂いて倒した。
残念だったな、ガーゴイル。
﹁さてと、ガーゴイルに守られてる部屋があるってことは、この先
がボスです!﹂
﹁えっ、そういうものなのですか﹂
先生でも知らないことがあったのか。
571
ええっ、お約束なんですよ。ボスか、宝物庫か。
ガーゴイルは番人なんです。
俺たちは、ガーゴイルが守っていた大門を開けて中に入る。
そこには⋮⋮。
572
44.大洞穴を我が手に
﹁フハハハッ、よく来たな王都の愚かなる勇者どもよ!﹂
ガーゴイルが守る大門の先には、豪奢な謁見の間があった。
そこに、懐かしいあの男が立っていた。
﹁男爵、もしかして男爵のなのか!﹂
生きていたのかゾンビ男爵。
全身プレートメイルで黒マントまで羽織っているが、間抜けにも
頭が半分かち割れている脳みそ腐った系男子、というかおっさん!
わがはい
﹁男爵? 何をいっておるか。吾輩は、ロレーン辺境伯。ソックス・
ロレーン・スパイクであるぞ!﹂
﹁あれ、ゾンビ男爵じゃないの?﹂
かつての敵が、パワーアップして帰ってきたパターンじゃないの
か。
しかし、よく似た顔をしているおっさんだ。
﹁ソックス辺境伯は、ルーズ男爵の従兄弟に当たられる方なんです
よ。ルーズ男爵は分家、ソックス閣下は本家筋に当たられます。年
齢も近いですから、顔も似ていますよね﹂
﹁そうなんですか、先生﹂
まあ、貴族だから血が近い人がいて当然か。
しかし、分家も、本家も、魔素の瘴穴で領民もろとも全滅してゾ
573
ンビ・ロードに転生しちゃうって、男爵の家系は本当に悲惨だな。
﹁おや、そっちは騎士ルイーズに、そちらの文官も王城で見たこと
があるな﹂
﹁どうもお久しぶりです、ソックス閣下﹂
さすがに元偉い人だけあって、当時は下っ端だったライル先生の
名前までは知らないらしい。
辺境伯にも知られているルイーズは、やっぱり高い地位だったん
だな。
﹁貴様ら、なぜアタシがここに居るのがわかったのよ!﹂
存在感が全くないので気が付かなかったが、ゾンビ辺境伯の影に
黒ローブの魔術師が居た。
﹁あいつ、隠形の上級魔術師ですよ、先生!﹂
﹁あっ、死ね!﹂
ライル先生は、銃を構えると上級魔術師目がけて発射した。
ちょっと、いくらなんでも会話ターンで発砲とか、反則くさいで
すよ先生⋮⋮。
﹁チイッ、なんと小癪な人間め。ソックスこの場は、引くよ!﹂
さすがに大砲でも死ななかった上級魔術師。
青白く光る手で、弾丸を跳ね除けると、黒ローブを翻して逃げよ
うとする。
﹁カアラ、なぜ吾輩が引かねばならんのだ?﹂
574
﹁いやぁ、ソックス、あいつらはマズイんだって。下がってよ!﹂
ゾンビ辺境伯は、急に逃げると言われても困惑している様子。
あっ、あの上級魔術師。カアラって名前なんだな。
やっぱり、ゾンビ辺境伯も男爵と一緒で間抜けっぽい。
そこが狙い目だな。
﹁おいソックス辺境伯! お前の従兄弟のルーズは俺が倒した。貴
様も我が光の剣の錆としてくれるぞ!﹂
俺が光の剣を大上段に構えて、挑発する。
﹁フハハハハハッ、吾輩を倒せるというのか小童、面白いことを言
うではないか!﹂
さすが男爵の親戚だな、挑発にすぐ乗ってくる。
脳みそが腐ってるせいかもしれないが。
﹁では、こちらも本気をお見せしよう﹂
ゾンビ辺境伯は、黒マントを翻すと合図を送った。
ズシーン、ズシーンと音を立てて緑色の巨大な竜が出てくる。
いわゆるグリーンドラゴンとか、アースドラゴンとか言われる、
オーソドックスなタイプのドラゴンだ。
﹁ドラゴンだと!﹂
ヘッポコ四魔将でも出してくるのかと思ったら、ガチンコじゃね
575
えか。
大砲もないのに、こんなデカブツと、どう戦えっていうんだ。
﹁どうだ、すごかろう!﹂
いや凄いけどよ、身の丈五メートル以上ある恐龍をダンジョンで
出してきても、天井に頭が付いてるじゃねーか。
ドラゴンは、身動き取りにくいだろ。
﹁こらぁ、ソックス。切り札のドラゴンを勝手に使わないで!﹂
ほら、上級魔術師のカアラさん︵たぶん女だ︶怒ってるじゃん。
﹁フハハハッ、ここをこいつらの墓場にしてしまえば切り札もなに
もあるまい。さあ、勇者の若造。吾輩を楽しませてみせろ!﹂
そう言うと、ブンッと音を立てて、漆黒の剣を手からだすゾンビ
辺境伯。
﹁ほう、これは驚いた﹂
俺の勇者みたいに、こいつも魔王の力とかを手に入れたのかな。
﹁闇の剣だけではない、﹃氷結の鎧﹄能力解放!﹂
そうゾンビ辺境伯が言うと、着ているプレートメイルが青く光、
全身からたくさんの氷の柱が発生した。
鎧が、一瞬で氷結したのだ。
﹁どうだ、この鎧は呪具の一つ、普通の人間が着れば低温でダメー
576
ジを受けるところだが、ゾンビのこの身ならば関係ない。便利な身
体になったものよ﹂
﹁うあ、寒い﹂
辺境伯の身体から発する冷気で、こっちは身震いするほどに寒い。
周りを結晶化した氷が漂ってる。
これは近くにいるだけで、体力を削られる。
レジェンド
﹁さあ、勇者の若造よ、かかってくるが良い。我が魔王伝説の最初
の糧としてやろう!﹂
﹁よーし、じゃあやってやる!﹂
ルイーズは、なんと果敢にも、ドラゴンに向かって斬りかかって
るし、盗賊王ウェイクも﹃反逆の魔弾﹄を撃ち始めた。
先生は、隠形の上級魔術師が岩弾の魔法を撃つのを、まったく同
じ魔法で相殺し始めている。
リアは、俺に﹃アーサマの護り﹄の詠唱をかけ始めた、相手がア
ンデッドだからよく効くことだろう。
向こうがドラゴンでも、こっちの戦力だって負けてない。
俺は、ゾンビ辺境伯目がけて、光の剣で斬りかかった。
光と闇が交差して、バリンと大気が震えた。
﹁やるな、若造!﹂
﹁そっちもな、これはどうだ!﹂
俺は、相手の攻撃に合わせて切落しをしかけた。
辺境伯の斬撃に合わせて、相手の手を斬り落としてやろうとした
のだ。
577
だが、闇の剣は俺の光の剣をまた弾いた。
俺たちの系統の闇や光の剣は、意志の強さで力を増す。
隙が見えたと思っても、反射的に剣がガードしてしまうのだ。
相手の思考よりも早く、的確に斬撃を当てなければ倒せない。
しかも、辺境伯もいい剣筋をしてるので隙がない。
ならばと、俺は聖化した﹃黒杉の木剣﹄を取り出して二刀流攻撃
をしかけた。
じきしんかげりゅう
﹁直心影流奥義 八相発破!﹂
﹁ぬぉぉぉ!﹂
冗談抜きで、一万回は打ち続けた八相発破だ。
一度は弾いたものの、十六段突き、三十二段突き、四十段突きと
スピードを上げていく俺の突き技に辺境伯は耐え切れず。
腕と肩に突撃を受けて、辺境伯がよろめいた。
硬い﹃氷結の鎧﹄が、その腐った身体を護っているが、光の剣と
聖化した黒杉剣の突きなのだ、ダメージが通らないわけではない。
﹁二天一流奥義 虎震剣!﹂
宮本武蔵が極めた二刀流、虎震の型。
俺が中二病時代に訓練したときは、剣の重さによろめいたものだ
が。
光の剣の重さはゼロだし、木剣も軽い。虎震の型は、身体が覚え
こんでいる。
578
ダメージを受けたゾンビ辺境伯が、苦し紛れに放った闇の剣を、
左手の光の剣で打ち返し。
そのまま大上段から、右手で渾身の力を込めて頭に木剣を打ち下
ろす。
﹁グノオォ!﹂
叫び声を上げて、ゾンビ辺境伯が崩れ落ちた。
俺は、その身体に光の剣を突き立てる。
ふっと、闇の剣が掻き消えて、貫かれた魔具﹃氷結の鎧﹄の氷が
砕け散った。
どうやら、倒せたようだ。
隣では、ルイーズがドラゴンの首を大剣で両断するところだった。
ドラゴンは必死になってルイーズを爪や牙で殺そうとした。
しかし、ダンジョンは、身の丈五メートルはあろうかというドラ
ゴンが暴れまわるには狭すぎるのだ。
天井に頭を打ち付けては、崩れる瓦礫が降り注いでダメージを受
ける始末。
ホーリーシールド
苦し紛れにブレスを吐いても、リアの聖盾はブレス系の攻撃を防
げてしまう。
この狭い場所にドラゴンを出した段階で詰んでいたといえる。
たしかにドラゴンの表皮は、鉄砲の弾が通らない程に硬い。
しかし、盗賊王ウェイクは、一気に五本﹃反逆の魔弾﹄の乱れ矢
を撃ちこむ大サービスっぷり。
579
ドラゴンは身体中に、鉄の矢が次々突き刺さって弱っていく。
そこを、ルイーズがドラゴンの首根っこを、大剣で力任せに両断
したのだ。
床には、彼女が愛用していたサーベルが何本も折れたり曲がった
りして転がっていた。
それだけの斬撃を食らわしたあとに、ようやく大剣の一撃で首が
断ち切れて、ドラゴンも事切れたわけだろう。
ドラゴンキラー
それにしてもルイーズ、ついに竜殺しの騎士になっちゃったんだ
な。
どんどん人間を超えていってしまう。
﹁うあああっ、アタシの魔王がぁ! アタシのドラゴンがあぁ! アタシの遠大な計画がああっ!﹂
隠形の上級魔術師カアラさん発狂。
﹁なぜよ⋮⋮勇者、なぜアタシがここで魔王を育てていることがわ
かったのよ!﹂
偶然、たまたま会っただけですとか言ったら、ちょっとあんまり
にも可哀想なので。
おれも空気を読んでそれっぽいことを言っておく。
﹁カアラ、この勇者、貴様の悪事などお見通しよ。神妙にお縄につ
け!﹂
﹁おのれ、おのれ、おのれぇ! 誰があんたなんかに捕まるか、お
お、大いなる蒼き水よぉ!﹂
580
上級魔術師カアラが、邪魔なものを振り払うように両手を広げて、
高らかに呪文の詠唱を始めた。
この戦闘の裏で、先生とリアは連携して、ディスペルマジックで
カアラの魔法を抑えこもうとしてたらしいが、もう限界みたいだ。
﹁みんな下がってください、水がきます!﹂
うあ、また大洪水かよ。
ワンパターンなんだよと思いつつ、後ろからスプラッシュマウン
テンがくると、もう逃げるしかない。
﹁ぐああああ﹂
大いなる蒼き激流に飲み込まれて、全員謁見の間から押し流され
てしまった。
あーあ、これでまた火薬全部パァだよ。
ちょっと今回は可哀想だったかなとか、同情して損した。
火薬の恨み、覚えてろよカアラ。
※※※
﹁みんな大丈夫か﹂
﹁なんとか平気です⋮⋮﹂
ダンジョン内で大洪水の魔法は、ほとんど反則に近い。
謁見の間と、その前のガーゴイルの間がグチャグチャのビショビ
ショになってしまっている。
どうせ、この間にカアラは逃げてるパターンなのは言うまでもな
581
い。
でもまあ、とりあえず追ってみるかと、謁見の間の舞台裏に回っ
て奥の控え室に入った。
すると、その控え室の小部屋に白旗を持った、青い肌をした少女
が立っていた。
﹁降参じゃ勇者どの!﹂
﹁誰? つか、黒ローブの魔術師って通らなかったか﹂
﹁カアラなら、そっちから地上に逃げておるところじゃぞ﹂
青い肌に、なぜか水着のような黒い薄衣をまとった少女が指差す
方向を見ると、﹃非常口﹄とかかれた階段がある。
﹁非常口って、そのままだな﹂
﹁今から走って追いかけても無駄じゃ、カアラは隠形も得意じゃが
逃げ足も速い。非常口の出口に兵でも配置して待ちぶせておるなら
別じゃが﹂
﹁いや、俺は非常口の存在すら知らなかったからな﹂
﹁そうじゃろ、自力で踏破もしてない人間に非常口の存在が分かっ
てはダンジョンの意味がないからな﹂
﹁そういうお前は誰なんだ﹂
マスター
﹁申し遅れた勇者どの。ワシは、不死少女オラクルちゃんじゃ、こ
のダンジョンの管理人じゃ﹂
白っぽい髪をツインテールに結んで、赤い目に青い肌の少女。な
るほど、魔族っぽい感じだな。
582
とりあえず、カアラ捜索は諦めて、この魔族の話を聞いて見るこ
とにした。
﹁不死王オラクルって、死んだんじゃなかったのか﹂
クロ
﹁ワシはそのオラクルが創ったダンジョンを守るために、ダンジョ
ーン
ンマスターとしてオラクルの爪の先から創られた、言ってみれば分
身のようなものじゃ﹂
﹁オラクル本人ではないのか﹂
﹁そうじゃ、この﹃オラクル大洞穴﹄が出来て三百年。ワシは、ず
っとこの芸術品とも言える、ダンジョンの管理人をしてきた﹂
﹁ふうむ、分かる話だが。なんで少女?﹂
やけに少女が多い世界というか、縁があるなあと不思議に思う。
﹁そりゃお主、ダンジョンマスターであるワシが殺されたら、この
﹃オラクル大洞穴﹄は終わりなのじゃぞ。なるべく殺されぬように、
このような無害で可愛らしい姿形に創られておるわけじゃ﹂
﹁なるほど、まあ可愛らしいっちゃ可愛らしいな﹂
青い肌ってのは、魔族でどうしようもないんだろうだけど、これ
はこれで悪くはない。美少女といっても通る容姿だ。
ダンジョンの価値が変わらないように、三百年前の美的センスも、
そう変わらないんだな。
﹁そうじゃろ、よかった。ホッとしたわい。勇者どのが可愛いと思
ってくれなかったら、生存率が下がるところじゃ﹂
﹁ところで、なんで降伏なんだ。カアラと一緒に逃げればよかった
じゃないか﹂
583
不死少女オラクルとやらは、憤懣やるかたないと言った様子で白
旗を振るった。
﹁ワシはカアラの仲間ではない! 聞いてくれるか勇者どの﹂
そこから、不死少女オラクルの愚痴が始まった⋮⋮。
なんでも二百四十年途絶えていた、魔素の瘴穴から魔素が供給さ
れて喜んでいたのも束の間、また魔素が途絶えたかと思うと、今度
はカアラがあのゾンビ辺境伯を連れてきて今度こそ魔王に育てると
か言い出して、ダンジョンを勝手に占拠してしまったそうだ。
﹁なあ、ひどいじゃろ。同じ魔族だから、魔王復活に協力するのは
当然とか言われて、地中からの残り少ない魔素もみんな奪われて、
ワシは関係ないじゃん!﹂
﹁まあ、そうだよなあ﹂
勝手に家に入ってきて、我が物顔されても困るわな。
﹁魔素の瘴穴が途絶えてから、この辺りの魔素は、地中から僅かに
滲み出る程度しか出ない。それをワシは必死に地中から汲み上げて、
爪に火を灯すような思いで、このダンジョンを維持してきたのじゃ﹂
なんでも本来の﹃オラクル大洞穴﹄は地下三十階建ての、それは
それは凄いダンジョンだったそうなのだ。
しかし、魔王も不死王も倒されてしまい、魔素の瘴穴も封印され
てから二百四十年、ダンジョンに供給される魔素は極微量になって、
管理に苦労したそうだ。
584
﹁まあ、冒険者もレベルが低かったからのう。十階までを維持して、
もし万が一クリアする者がおれば、制覇記念としてマジックアイテ
ムでもやれば、満足して帰るんじゃないかとそう思ったわけじゃ﹂
まあ、冒険者は実際に九階までしかいけなかったわけで、ゾンビ
キャリアだまりで全滅してたぐらいなんだから、正解っちゃ正解だ
よな。
﹁ちなみに、十階以降は隠しダンジョンじゃからの。ああっ、でも
魔素が足りないから稼動は無理じゃ。ごめん﹂
﹁いや、もう十階で十分だからいいわ﹂
﹁そかそか、勇者どのは欲がないのう﹂
﹁いや、むしろなんでそんなサービス精神旺盛なんだよ﹂
ダンジョンのそこいらに感じたのは、悪意のなさだ。
もっと致命的な罠で全滅させればいいのに、謎かけも大したこと
なかったし。
﹁なんでって、ダンジョンはそこを制覇しようと挑む冒険者が居て
こそ完成される芸術なんじゃ。冒険者と共に切磋琢磨し、一緒に育
て上げていくことこそ、ダンジョンが存在する意義といえる﹂
﹁ふうむ﹂
なるほどなあ、オラクルってのは、芸術家肌だったんだな。
単なるモンスターの住居として創ったわけじゃなくて、博物館や
美術館みたいな気持ちで、誰かにクリアして欲しくて創ったのか。
﹁だから、魔王と不死王が倒されたとき、これはいよいよ勇者が来
ると思って、地下三十階で待ち構えていたときはドキドキした。あ
585
の時なら、ワシは殺されても構わんと思いつめておったのじゃが⋮
⋮﹂
﹁あー、先代の勇者が悪いことしたなあ﹂
勇者ってのが何人居たのか知らないが、みんな﹃オラクル大洞穴﹄
を無視したわけだ。まあ、そりゃそうだけど。
不死少女オラクルが、そんな覚悟で地下三十階で待ってるなんて
だれも知らないし、勇者としても無駄に苦労して、そんなでかいダ
ンジョン攻略する理由がない。
芸術家の考えることというのは、何時の時代も世間からは理解さ
れ難いものなのだ。
﹁それを、ずっと放置されて、ダンジョンの力は弱まっていくばか
りで、その挙句にあの人間の魔術の粋を会得した天才魔族だかなん
だか知らんが、変な奴に勝手にうちを荒らされて﹂
﹁ああ、なるほど。カアラも魔族なんだな﹂
なるほど、カアラは人間の魔法を極めた魔族なのか。
だから、先生が上級魔術師名簿を探しても、見つからなかったわ
けだ。
﹁そのカアラとかいう奴、さっきも見たじゃろう。ダンジョンにド
ラゴンまで放つわ、大洪水は起こすわ、もうワシの愛する大洞穴は
ボロボロじゃ、これで何も出来ずに殺されたら、ワシの三百年の人
生はなんじゃったんじゃ⋮⋮﹂
﹁あーわかった、泣くな泣くな。殺さないから﹂
泣く子と地頭には勝てぬと言う。
三百歳と分かってても、姿形は子供だしな。
586
﹁本当じゃな、ワシの降伏を認めてくれるんじゃな﹂
﹁そうだな、約束してやる。そのかわり、カアラの情報を寄越せ﹂
﹁カアラの情報といっても、奴がだいたい二十歳ぐらいの女で、こ
の辺りの魔族にしては突然変異的に魔力が強い天才ってことと、部
族の特徴で隠形と人間に化けるのが上手いぐらいしか知らんよ﹂
﹃魔素の瘴穴﹄封印後、このシレジエ地方は言うなれば魔界から、
人間界に切り替わってしまった。
土着の魔族は力を失い、隠形を使ったり人の姿に化けたりして辛
うじて生き延びている状態だということだ。
﹁だいたい、カアラは天才魔術師なんじゃから。自分が自ら魔王を
目指せばいいのに、人間の国を戦争や内乱で争わせたり、元人間の
ゾンビをワシのとこに連れてきて魔王にしようとしたり、ワシは奴
の考えてることがわからん﹂
あーうちにも、そういう先生居るわ。
天才ってのは自分がやるより、誰かを押し立てて裏に回りたいの
かもね。
﹁誰の話をしてるんですか?﹂
﹁あっ、先生。そっちの後始末はもう済んだんですか﹂
﹁ええ、リアさんがゾンビ辺境伯の死体を浄化しましたよ。これで
生まれたばかりの魔王が、また復活することもないでしょう。ルイ
ーズさんたちは、まだドラゴンの解体にかかりきりになってますよ﹂
こりゃ、今日の夕飯は、ドラゴンの内臓のスープだな。
587
海蛇も食べ過ぎたから、あっさりしたものが食べたいんだけど望
み薄か。
﹁ワシはもう何もかも嫌になった。降伏を受け入れたんじゃから、
ワシを含めて﹃オラクル大洞穴﹄を勇者どのの支配下に置いてもら
うぞ﹂
﹁えっ、それってどういう﹂
﹁うんとな、勇者どのに支配されたとなれば、もうあのカアラとか
言うバカ上級魔術師は来ないじゃろ。そっちにも便利なはずじゃぞ、
三階までは硝石とか言うのを作る土地として解放してやるし、欲し
けりゃ海蛇の肉ぐらい、いつでもくれてやる﹂
﹁ああ、なんだこっちの話を聞いてたのか﹂
﹁そうじゃ、ワシはダンジョンマスターなんじゃから、このダンジ
ョンであったことはみんな耳にしておる﹂
﹁結構、便利な能力なんだな﹂
﹁でも、それも今日で終いじゃ。しばらく、そうじゃな、勇者どの
があと八十年生きるか、百年生きるかは知らんが、それぐらいは﹃
オラクル大洞穴﹄は閉店にする﹂
﹁いや、それって良いのか﹂
不死王オラクルに、管理を任されたんだろ。
職場放棄にならないか。
﹁いいんじゃ、ワシはこの三百年一人で頑張って来たし、少しぐら
い休んでも構わんじゃろ。それに、こんなに派手にぶっ壊されては、
補修にも、もう魔素が足らん﹂
588
なるほど、どっちにしろ、しばらくは営業できないってことか。
﹁恥ずかしいダンジョンを客に見せるぐらいなら、閉めたほうがい
いのじゃ﹂
確かにあのドラゴンに、大洪水はやり過ぎだったよな。せっかく
の大広間も、綺麗な飾り付けも、滅茶苦茶になっちゃったし。
カアラに毎回火薬をダメにされてる立場としては、オラクルちゃ
んに同情するわ。
そんなこんなで﹃オラクル大洞穴﹄攻略は成功した。
というか、なぜか俺の管理下にダンジョンマスター、不死少女オ
ラクルごと入ってしまったらしい。
589
45.二百四十年の孤独
非常口を登ると、﹃オラクル大洞穴﹄地下一階に通じていた。
非常口は各階にアクセスできるそうで、例えば八階の水棲モンス
ターの間で、海蛇を取って地上に戻るなんてこともできる。
覚えておいて損はないだろう。
それにしても一体何日ぐらいダンジョンに篭っていたのか、久し
ぶりの陽の光に目が眩んだ。
﹁んっ、オラクル付いてくるのか﹂
﹁そうじゃよ、ワシは勇者どのの支配下に入ったと言ったじゃろう﹂
別にダンジョンに居てくれても良かったのだが。
うーん、見た目は白ツインテールの単なる魔族の少女だが、こい
つも何かの役に立つかな。
﹁なんじゃ、品定めか。ワシはプロポーションにはあまり自信がな
いぞ﹂
﹁そりゃそうだろう、少女の型だからな﹂
まあ、いいか。連れて行っても害はなさそうだ。
そうだ役に立つといえば、強いアイテムを取りに来たんだった。
﹁ダンジョンクリアの報奨はなかったのか﹂
﹁オラクル大洞穴ごと、勇者どのの物になったと何度も言うとろう
が。マジックアイテムなら腐るほどあるから、全部持っていけばえ
えぞ﹂
590
ダンジョンは深い階層に武具を転がしておくと、一定の確率で魔
法が付与される。
付与されてしまうと言ったほうがいいか。
例えばゾンビ辺境伯が付けていた﹃氷結の鎧﹄などは、普通の人
間が着ると死んでしまう呪いのアイテムに近い。
﹁まあ、それはあとで貰うとして一番有用な防具はないか﹂
﹁それだと、これじゃな﹂
﹁ふむ、﹃ミスリルの全身鎧﹄か。俺が着てる帷子だけじゃなくて、
フルプレートであるんだな﹂
﹁うむ、しかもこれは全抵抗の加護が強くかかっとる。素材ミスリ
ルに全抵抗なんて超貴重品じゃぞ﹂
なるほど、じゃあ貰っておくか。
ミスリルは何より、絹のように軽いのが、体力不足な俺にはあり
がたい。
﹁防具は、他には結構つまらんマジック防具しかなくてな。プレー
トメイルでも、耐火とか耐冷とか、使えるようで使い勝手が悪いじ
ゃろ﹂
﹁そうだな、使用場所が限定されてしまうとな。まあないよりはマ
シだ。全部貰っておくよ﹂
火に強い兵隊とか、大砲が暴発したときにも守られるので、砲撃
手に着せるのにいいだろう。
俺は、青白い光に包まれた﹃ミスリルの全身鎧︵全抵抗︶﹄を着
ると、お古の﹃ミスリルの帷子﹄をシャロンに与えた。
591
﹁ご主人様、私あんまり戦力にならないけど、良いんですか﹂
﹁お前に、遠慮するなって言うのは何回目だろうな。シャロンが着
てくれることで、俺が悪夢にうなされなくて済むんだ﹂
皆まで言わなくても、聡明なシャロンなら察してくれる。
﹁分かりました、ありがたく着させていただきます﹂
﹁言わなくてもわかるだろうが、強い防具を与えるからと言って﹂
シャロンは、白銀に輝くミスリルの帷子を着て微笑んだ。
革の鎧より、ミスリルのほうが、オレンジ色の髪によく似合って
いる。
﹁前には出るな、ですね﹂
﹁そうだ、分かっていればいい﹂
そんな話をしてたら、オラクルが足元の石をつまらなそうに蹴っ
飛ばした。
石は、バシュッと音を立てて、ダンジョン入り口の壁にめり込ん
だ。
お前、わりと自分の戦闘力も高いんじゃねえか。
なんで大人しく降服したんだ⋮⋮。
﹁ワシのダンジョンの話の途中なのに、なんで他の奴隷といい雰囲
気作っとるんじゃ。もうマジックアイテムやらんぞ!﹂
﹁あーすまんすまん、続きを頼む。武器とかはどうだ﹂
﹁おおっ、そうじゃ武器はわりと付加魔法の付きが良くてな。﹃ド
592
ラゴンキラーの大剣﹄とか、お宝がザックザクじゃぞ﹂
﹁うーんそうか、キラーとかスレイヤーな感じね。これも使い勝手
がいまいち限定される感じだな﹂
もともとの対物攻撃強化も多少はかかっているんだろうが、﹃オ
ークスレイヤーの槍﹄とか﹃オーガスレイヤーの鉄ハンマー﹄とか、
いまいち微妙だ。
これなら﹃遠投のナイフ﹄とか、﹃命中率上昇の矢﹄などのほう
が良いぐらい。
しかし、もしさっきの戦闘で﹃ドラゴンキラーの大剣﹄があれば、
ドラゴンとの戦闘は半分の時間で済んだだろう。
やはり、これはルイーズに持たせるに限る。
﹁これで私も竜殺しの騎士か、悪くない。あと、オークスレイヤー
とオーガスレイヤーも全部くれ﹂
﹁ルイーズが欲しいのは、全部持って行っていいよ﹂
ばんけん
ルイーズは万剣と言うだけあって、武器を大きなリュックに入れ
て大量に持ち歩いてるからな。
体力無尽蔵のルイーズだからできる技であって、普通の人が真似
しちゃいけない。
まあ、主なマジックアイテムはこんなものか。
魔法具はともかく、呪具の類はちょっと使い道が思い浮かばなか
ったので保留としておいた。
ウェイクが﹁いや、呪具は工夫すれば暗殺に使える﹂とか言って
たが、さすがに陰湿なのであまり使いたくないなあ。
そりゃ、ウェイクたちにも頑張ってもらったから、報奨に欲しけ
593
りゃいくらでも上げるけどさ。
※※※
スパイクの街に戻ると、オルドレット子爵が大歓迎してくれた。
ダンジョンを支配下に置いてきた、これがダンジョンマスターだ
と不死少女オラクルを紹介すると、歓迎を通り越して若干引かれた。
﹁まさか、あの前人未到の﹃オラクル大洞穴﹄を制覇しただけでな
く、この短時間で支配下に置かれるとは、もはや拙者の想像を絶し
ます。さすが勇者様としか⋮⋮﹂
﹁そうですよね﹂
俺も、そうとしか言いようが無いので、しょうがない。
成り行きとは怖い、支配下に置こうなどと思っても見なかったの
だ。
﹁と、とにかくですな、あそこからモンスターが湧いて出ないこと
せっしゃ
だけでも、街にとってはありがたいことでござる。勇者様に感謝し
てもしきれません。拙者不調法ゆえ、大層なもてなしはできません
が、どうぞゆっくりと逗留していってください﹂
﹁ありがとう、オルトレット子爵﹂
そうは言っても、子爵の居城は本当に質素で、あまり長逗留した
くない感じなんだよな。
ベッドも小さいし硬いし、これだけの居城に風呂がないってのは
どうなってんだ。
メイドも居ないここに、姫様を住まわせるのは、ちょっと抵抗あ
るぞ。
594
食事も、キャンプして海蛇の刺身でも食ってたほうがマシなレベ
ルだ。
いっそ、飯は俺たちが厨房を借りて作るか。
﹁勇者様、どうかされましたか﹂
﹁いや、厨房を貸してください。オルトレット子爵に、ドラゴン料
理をごちそうしますよ﹂
うちのルイーズが、ドラゴンの内臓を煮たくてたまらなそうな顔
をしているからな。
﹁ドラゴン退治まで、なされたのですか!﹂
﹁ええ、そのついでに、ゾンビ化して魔王になりかけてた、元辺境
伯を退治してきましたよ﹂
オルトレット目を見開いて絶句。
俺も言いたくなかったんだけど、しょうがないよなあ、現地領主
には事情説明しないわけにいかないし。
﹁あの、どうぞ。厨房を、お使い、クダサイ⋮⋮﹂
ああ、子爵がそのまま跪いて、カタコトになってしまった。
※※※
ドラゴンの内臓スープ、一言で言うと﹁辛い!﹂
﹁舌にピリッとくるのが癖になるな﹂
﹁ルイーズ、これどうなってんだ。香辛料は入れてなかったよな、
595
ブレス袋とかのせいなのか?﹂
毒じゃないならいいけど、未知の食感だぞこれ。
舌にすごいビリビリくる、まさに火を吐く辛さ、でも旨みもすご
いからスプーンが止まらない。
﹁ドラゴンのブレス袋のスープは、適量ならそのタイプの攻撃の抵
抗力を強めると聞きますが、あまり取り過ぎると、対魔法力過多で
火病になるともいいます。身体を痛めないために、一人一杯にして
おいた方が無難でしょう﹂
﹁えっ、でもルイーズもう何杯も食べてるぞ﹂
ライル先生が、微妙な笑顔のまま首を横に振った。
ルイーズなら大丈夫だな、良い子は真似しちゃダメだ。
﹁美味いのう、美味いのう!﹂
﹁あー、まあ魔族は悪い子だからいいか⋮⋮﹂
ああ、何かと思ったらタイカレーの味に近いんだな。
これはさすがにご飯かけて食べたいなあ、パンで代用しとくか。
せっしゃ
﹁ドラゴンステーキなど、拙者生まれて初めて食べました⋮⋮﹂
俺たちが魔王退治してきたと聞いて、呆然自失となっているオル
トレット子爵は、武家の出にしては礼儀正しくナイフで切り分けて、
チマチマと食べている。
ルイーズとジル
まあ、他の武家も、食べ方は別に悪くないんだがな。
その大きなガタイを見れば、明らかに本来は大食漢であろう子爵
も、食欲があまりわかないらしい。
596
子爵が食事も喉を通らなくなるのも無理はなく、自分の領地の足
の下で魔王が育ちつつあったなどと知ったら、どこの領主でもこう
なるだろう。
せっかくのドラゴンステーキだが、味もしないんだろうな、しば
らく休め子爵。
※※※
夜、子爵の居城は数は十分なのだが、固いベッドしか存在しない。
こんなんで、シルエット姫どうしてるんだろうと気になって仕方
がない。
俺は男だから野宿も平気だし、革袋を枕にしたって眠れるけども、
女性陣には厳しいな。
オルトレットは武家だから、こういうところ気が利かないのかな。
ちょっと見てこようかなと姫の部屋を覗いたら、ジルさんに睨ま
れた。
いや、俺は様子を見たかっただけで⋮⋮。
﹁タケル、姫の護衛なら、ジルと私がやっておくから十分だ﹂
﹁そうか、ルイーズが守ってるなら安心だな﹂
そうか、姫の安全も考えないといけなかったんだ。
いや、忘れてたわけじゃないけどさ。
うーん、まあいいや寝よう。
﹁ご苦労だな、シャロン﹂
597
﹁当然です﹂
シャロンは、重い木造のベッドをズリズリ引きずって俺の横まで
来た。
何としてでも、隣に並べて一緒に寝るらしい。
カアラ
俺はあの魔族の上級魔術師に、かなりの恨みを買ったであろうし、
寝所の護衛も必要か。
一度は逃げたカアラだったが、意趣返しに姫か、俺かを狙いに来
る可能性は十分にありえた。
それとなく、シュザンヌとクローディアが部屋の入り口と、窓際
にベッドを移動させて守りを固めているのは頼もしい。
﹁よいしょっと﹂
﹁なんだ、オラクルどうした﹂
よとぎ
﹁んっ、ワシもせっかくだから夜伽させてもらおうかと思っての﹂
﹁いや、護衛ならシャロンが⋮⋮﹂
なんだ、変なこと言ったな。
いや、夜伽には主君のために夜通し付きそうとかって意味もある
から、そっちの意味の古語だろう。
﹁ワシも、せっかくダンジョンを出たんだから、いろいろ経験して
みたいしのう﹂
﹁それと、俺の横に寝るのと、どういう関係があるんだ﹂
嫌な予感しかしないが、あらかじめ聞かないよりは、マシな結果
になると経験上分かっているのでしかたがない。
598
﹁じゃから、ワシも処女のまま死にたくないと思ったんじゃよ﹂
﹁⋮⋮﹂
直球かよ、またこのパターンか。
この世界って、わりと倫理観が崩壊してるんだよな。
まあ、厳しい戒律があるはずのシスターがアレだから。
いまさら魔族に、それを言ってもしょうがないが。
﹁いい機会じゃろ、ワシも勇者どのの所有物になったわけじゃし﹂
﹁あらかじめ、言っておくけど、俺は少女を抱く趣味も、つもりは
ないからな﹂
俺の好みはあれだよ、お姉さん系だよ。
ストライクゾーンで言うと、本人には怖いから言わないけどルイ
ーズとかだよ。
なり
﹁大丈夫じゃ、ワシは形は少女じゃが、三百歳じゃから生殖器は大
人じゃ﹂
﹁お前、女の子が生殖器とか言うなよ!﹂
三百歳でも女が言うな!
仮に百歩譲ってやる気になってたとしても、その発言がナマナマ
しくて萎えるわ。
﹁ああもう、ウルサイ。安眠の邪魔だから黙れ﹂
﹁ご主人様、この魔族追い出しましょうか﹂
いや、シャロン辞めたほうがいい。
599
こいつ結構強いから、多分あの蹴りを見るとかなりの強さだぞ。
﹁ご主人様、そうじゃありません。得体のしれない魔族を、寝所に
入れること自体危険だと申し上げているんです﹂
﹁ふうむ、なるほど﹂
﹁なんじゃ、ワシは勇者どのに信頼されてないのか。そりゃ、寝て
もらえんのう。寝首をかく、などと思われては﹂
﹁いや、信頼してないわけじゃないぞ。実際お前は、行動で恭順を
示してるしな﹂
オラクルちゃんが、がんばって整備したダンジョンをクリアした
感想として。
こいつは、信用しても良いやつだと、思えたってこともある。
よとぎ
﹁じゃあ、ワシも夜伽してええじゃろ。どうせ、そっちの女だって
してるんじゃろ﹂
﹁まだしてないです!﹂
シャロンが真っ赤な顔をしている。
珍しいものが見れた、まあ俺もここまで直球に言われると恥ずか
しいからな。
﹁なんじゃ、しておらんのか。するとなにか、勇者どのはもしかし
て、誰ともしない系なのか﹂
﹁いや、ホモだとか、そう言うんじゃないからな﹂
絶対そういう疑いをかけてくるだろうと思ったので、先に断って
おく。
興味を示し過ぎてもからかわれるし、興味ない素振りをすればそ
600
ういう茶々を入れてくるやつがいるもんだ。
﹁そうじゃないのは分かるぞ、ワシは匂いを嗅げば、自分がまぐわ
える相手かぐらい、すぐ見分けがつく﹂
﹁便利なんだな、魔族ってのは﹂
匂いを嗅ぐだけでイケるか分かれば、さぞナンパがうまくいくこ
とだろう。
ピュア
﹁つまり、お主は純粋なんじゃ。なんじゃあ、つまらん﹂
﹁オラクル、お前⋮⋮、そういう直球なの程々にしろよ﹂
いま、ものすごい大ダメージ入ったぞ。
ひねくれ中二病系の男子に、ピュアとか一番の禁句だろうがよ!
不器用とか、臆病とか罵られるほうが百倍マシだ。
もういっそ、押し倒してやろうかと思ったぞ⋮⋮しないけど。
﹁はぁ、勇者どのがやってくれんのなら、そこらのつまらん男でも
相手にして処女を散らすか﹂
﹁そういうのも止めろ!﹂
﹁なんじゃ、止めてくれるんじゃの﹂
ニヤニヤ笑うなうっとおしい、お前はリアか。
﹁俺はおっぱい付いてない女は、そういう対象には見ないが、それ
で良ければ横に寝るぐらいは許す﹂
﹁そうかそうか、別に焦っておらんしな。ワシは不死じゃ、十年や
二十年ぐらい、お主がその気になるまで待つぐらい造作も無い﹂
601
つか、いいんだけど⋮⋮俺、童貞捨てるのに、そんなに時間掛か
る目算なのか?
俺も上級魔術師に成れてしまうのか。
なんかこういう高位の魔族に言われると、不吉な予言みたいで嫌
だ。
﹁じゃあ、寝るから静かにしろよ﹂
﹁あのご主人様﹂
﹁どうした、シャロン﹂
﹁おっぱいなら私にも付いてますけど﹂
﹁よし、蝋燭を消せ﹂
﹁⋮⋮おやすみなさいませ﹂
俺は、一緒に寝ると言ったわりに、ぐだぐだとベッドの端にいる
オラクルを両手で捕まえて抱きしめてやった。
﹁な、なんじゃ、もしかしてやる気か?﹂
﹁やらねーよ。だが、抱きまくらぐらいには、なってくれるんだろ﹂
﹁信用してくれるってことじゃな﹂
﹁そうそう、そういう親愛の情だから安心して寝ろ﹂
オラクルは、しばらくすると、強張らせていた身を柔らかくした。
三百歳生きた不死魔族か知らんが、こうするとうちの奴隷少女と
変わらん。
602
髪を撫でながら寝るのに、オラクルはちょうどいい大きさだし悪
よとぎ
くない。
夜伽だの何だの言ってたのは、恥ずかしさを誤魔化してただけで、
寂しいだけじゃないか。
ひねくれ者め。
ぼっち
俺も孤高を愛する男だからよく分かる。
寂しいなんて口にするのは、きっと死んでもできないのだ。
親が死んで、待っていた勇者に無視されて、ダンジョンの穴の底
で二百四十年の孤独。
それがどんな寂しさなのか、想像もできないけれど。
横に寝るぐらいは、俺でもしてやれるだろう。
無限に生きる生き物にとっては、それもほんの束の間だろうけど
な。
※※※
早朝もまだ明けきらぬうちに。
オルトレット子爵が、俺たちの部屋に飛び込んできた。
﹁勇者様、大変でござるよ!﹂
﹁どうしたんだよ、子爵、朝っぱらから⋮⋮﹂
﹁敵国トランシュバニア公国の軍勢が、国境を越えてまっすぐこの
スパイクの街のほうに進撃していると、早馬が届きました!﹂
ああ、子爵の顔色が青いを通り越して、土色になっているのが。
603
薄暗い中でもよく分かる。
604
46.モケ狭間の戦い
突如として敵国トランシュバニア公国の軍勢が国境線を越えて、
ロレーン伯領に攻め入った。
その報告を聞いて、オラクル子爵オルトレットの顔は、青を通り
越して土気色になっている。
なぜなら、トランシュバニアの千騎近くの騎士隊が、ロレーンの
街を無視して、まっすぐにオラクル子爵領のスパイクの街を目指し
ているからだ。
物見の報告によると、かなりの強行軍とのこと。
﹁騎士が千騎⋮⋮﹂
そう言われても、俺にはピンとこない。
大部隊だろうなとは思うが、千騎もの騎士が並んで進軍する姿な
んて、ゲイルのクーデターの時ですら見なかったからな。
﹁ほぼトランシュバニアの総力ですよ。敵も思い切ったものです﹂
﹁先生、騎士って、そんなに強いんですか﹂
﹁機動力・突撃力ともに最強の兵科ですよ。平地でまともにぶつか
れば、こっちの銃士隊三百人は騎士の突撃を受けて、ほぼ一瞬で崩
壊しますね。この石壁が崩れたスパイクの街に篭ったところで、半
日持たないでしょう﹂
馬に乗った騎士の軍団は、それほど強いのか。
うーん、まあルイーズやジルさんを見ると、そうでないとも言い
605
切れないな。
﹁先生、このいきなりの敵の攻撃って﹂
﹁もちろん、あの憎き上級魔術師、カアラと言う魔族の仕業でしょ
うね﹂
人間に化けて、人間の世界で最上級魔術を極めた天才魔族カアラ。
長い年月をかけて、シレジエ王国内部に人脈を作り、ゲイルをそ
そのかしてクーデターを起こさせたのも彼女である。
シレジエの敵国、トランシュバニア公国でも、同じ事をしている
のだとすれば。
公国の上層部に取り行って、こっちに軍を向けさせることもでき
ないわけではない。
﹁きっと、勇者がオラクル大洞穴に篭って攻略している、そこに攻
め入れば勇者を殺すか、囚えることができると、そそのかしたので
しょう﹂
﹁なるほど、そうすればシレジエ王国に痛手を与えられると、俺も
高く買われたもんだな﹂
ライル先生は、軽く鼻で笑う。
﹁何を言ってるんですか、タケル殿が死ねば、この王国はもう終わ
りですよ﹂
﹁いや、そこまでは﹂
﹁どちらにしろ、こっちには、シルエット姫までいるんですからね﹂
﹁あー、そうか。確かに終わりかも⋮⋮﹂
606
将棋は、王将を取れば終わり。
攻め入られたこっちの手元には、姫が居るのだ。
こうしている間にも、強行軍で騎馬隊千騎が迫っている。
何とかしないといけない。
スカウト
手元の兵は、青銅砲が四門に、銃士隊が三百人、あと密偵部隊が
十五人か。
ウェイクが、ダンジョン攻略が終わると同時に、何処かに去って
しまったのが痛い。
いや、盗賊王に、国同士の争いに介入しろと頼むのが無理か。
俺がとっさに思いつく奇策と言えば、いっそのこと、このスパイ
クの街にいる全員で﹃オラクル大洞穴﹄に立てこもるなんてどうだ
ろう。
先生に言ってみると、爆笑された。
﹁ハハッ、そりゃいいですね。ダンジョンに立てこもるなんて、史
上初の軍略です。もう打つ手がゼロになったらそうしましょう﹂
﹁姫だけでも、大洞穴に入ってもらったほうがいいかも。ダンジョ
ンの中が一番安全って皮肉ですけど﹂
まったく、笑い話にもならない。
幸いなのは、ダンジョンで手に入れたマジックアイテムで、少し
は戦力の上乗せができていることだ。
待てよ、いま一番使えるのは﹃オラクル大洞穴﹄つまり、この不
死少女オラクルちゃんだよな。
607
﹁なあ、オラクル。四階のマミー無限湧きの部屋があったよな。あ
れってダンジョンの外でも使えたりしないか﹂
ひそ
オラクルちゃんは、形の良い眉根を顰める。
﹁うーん、使えぬことはないのじゃが。外に出すと、ダンジョンの
中のようにはいかないからのう。フルで残存魔素を振り絞っても、
マミーを千体出すのが限界じゃぞ﹂
﹁おー、それいけるじゃん!﹂
﹁何がイケるんじゃ、騎士の強さはワシだって知っておるぞ。マミ
ーごときでは、たとえ同数当てたところで時間稼ぎにしかならんじ
ゃろ﹂
﹁それが、そうでもないんだな﹂
戦場で重要なのは、何よりも士気だ。
それが下がれば、どんな強兵も戦えない。
﹁先生、オラクル、二人だけちょっとこっちに来て﹂
﹁どうしたんですかタケル殿、うあっ、耳に息を吹きかけないでく
ださいよ﹂
身震いした先生が可愛い。
軽いジョークですよ、緊張をほぐさないと。
﹁それ、ワシにもやってやって﹂
﹁よしやってやるぞ、オラクルには頑張ってもらわんといけないか
らな﹂
耳に息を吹きかけてやると、キャーと白ツインテールを震わせる
608
オラクルちゃん。
まあ、そんなこんなで、極秘の奇襲作戦が相談された。
※※※
﹁先生、奇襲の一番適したポイントというと﹂
また先生お手製の戦略地図が登場した。
魔法で出したわけではなくて、先生は旧ロレーン辺境伯領の戦略
地図を、きちんと持参していたのだ。
さすが、魔術師軍師である。
単なるダンジョン攻略だから、軍勢はいらないとか思っていた俺
とは格が違う。
﹁タケル殿、奇襲するならポイントはここしかありません。敵は強
行軍ですが、騎士の馬だって休憩なしには走れません。運に恵まれ
れば、ここで敵が補給するかもしれませんね﹂
ライル先生は、地図の一点を示した。
そこはスパイクの街に向かう手前で、谷間になっていて、ロレー
ン伯領からスパイクへと騎士隊を進めるなら、通らざるを得ない道。
﹁ここって、村の記号がありますよね﹂
﹁モンスター来襲で、すでに全滅してますけど、モケ村と言う大き
な村があったそうです。モケ谷間とでも名づけましょうか﹂
はざま
﹁いや、モケ狭間にしましょう。奇襲だったら、ここしかないです﹂
﹁いい名前ですね。では、モケ狭間で待ち構えて、トランシュバニ
アの騎士隊に奇襲作戦を仕掛けましょう﹂
609
﹁ワシも活躍できそうで楽しみじゃわい﹂
騎士隊千騎を前にしても、たじろかない先生とオラクルちゃんは
強いなあ。
俺は腕が鳴るなあと思いつつ、上手くいくかどうか武者震いを禁
じ得なかった。
人間同士の戦いは、やはり怖い。
﹁タケル殿、大丈夫ですよ。仮に奇襲に失敗しても、ゲリラ戦に持
ち込んでスパイクの街と挟み撃ちにして、それでもだめなら﹃オラ
クル大洞穴﹄まで逃げれば、敵は追ってこれないでしょう﹂
むろん、先生は、失敗した時の策も考えてはいるんだろうが。
まあ、上手くいくことを願います。
※※※
モケ狭間は、その日、晴天に恵まれていた。
雨でも降ってくれれば、奇襲が上手く行きやすいのにと、一瞬﹃
桶狭間の戦い﹄のイメージに引きずられて思ったが。
雨に打たれれば、大砲や火縄銃が使えなくなるのだから、むしろ
幸いだったのだ。
敵は、廃村のモケ村に入って、騎士隊は補給しつつ馬を休めてい
るようだ。
こうやって騎士が敵地の村を襲って補給ポイントにするのは、こ
の時代のお約束みたいなものなので、予測できておかしくはない。
610
チート
だが、ライル先生の言葉通りの時刻、ポイントで、敵の大軍が足
せんじ
を止めて、馬を休めだした。その予測の精密さには、もはや超能力
に近いものを感じて、俺は戦慄する。
ゅつちーと
天が味方しているかどうかまでは分からないが、こちらにはライ
ル先生が味方している。
﹁よし、オラクルやれ!﹂
この戦い、先生の作戦通りにやれば、負けるはずがない。
﹁ほれ、マミーたち、湧くのじゃ﹂
マミー無限湧きの宝玉、不死王オラクルがダンジョンのために作
った装置でもはやオーパーツになっているシロモノが火を噴く。
谷間で休憩している騎士隊目掛けて、大量の包帯男のモンスター
が歩き始めた。
村の柵のなかで馬を休めていた、騎士隊は大混乱に陥っている。
しかし、さすがは完全武装の騎士。馬に乗っていなくても、マミ
ーごときは敵ではない。
スカウト
そこに、うちの密偵部隊が紛れ込んで叫び声をあげる。
﹁魔素の瘴穴が開いたらしいぞ!﹂
﹁モンスターがまた攻めてくるぞ!﹂
そんな、噂を投げかける。
軍勢のなかで、何処からともしれずに上がる声。
611
ひと通り、密偵が叫びまわって、そっと陣から逃げ出す頃には。
その噂は疑惑となって、トランシュバニアの騎士隊の中にじわり
と広がる。
﹁勇者どの、なんであいつら急に狼狽しはじめたんじゃ﹂
﹁これは先生からの受け売りなんだけど、騎士ってのは、大なり小
なり自分の領地を持つ貴族や、その家臣なんだよね﹂
﹁どういうことか、わからんぞ﹂
﹁こっちに攻めて来たはいいけど、モンスター大発生のときはトラ
ンシュバニア公国にもモンスターが流れこんで酷い犠牲が出たそう
だから、自分の領地が心配で戦争どころじゃなくなるのさ﹂
﹁ふーん、そんな噂程度で⋮⋮、人間ってのは悲しい生き物なんじ
ゃな﹂
﹁まあ実際、目の前でモンスターが異常に激湧きしてるわけだし、
狼狽しないわけがないだろ﹂
たっぷりと噂が広がって動揺したところで、山の上から青銅砲四
門が火を噴く。
伏兵として伏せてあった、銃士隊も鉄砲を山から撃ち下ろす。
フルプレートアーマーの騎士には鉄砲は効きづらいだろうが、休
憩で防具を外していた兵士や馬には大きな効果がある。
マミーの大軍と、銃士隊の銃撃の挟み撃ち。
これで大人しく撤退してくれるといいんだけどな。
俺たちが、戦況を見守っていると﹁オラクル!﹂という声がかか
った。
612
黒ローブの魔術師が、山の中から姿を表して、こっちに肩を怒ら
せてやってくる。
顔が見えなくても、憤怒のオーラが背中から立ち上っている。
﹁な、なんじゃカアラ! ワシは﹂
﹁アタシを裏切ったなぁぁ、このやろおおぉぉぉ!﹂
山に響き渡るような声で叫んだ。
まあ、下で右往左往している騎士たちには聞こえないが、隠形の
魔術師の癖に大胆なことだな。
こいつはいい、俺も一言、言ってやるか。
カアラには、何度も火薬を水でダメにされた恨みがある。
﹁おいカアラ、裏切りとはなんだ!﹂
﹁あああっ、魔族がなんで、勇者の味方してんだよぉおお!﹂
ちょっと引くぐらい怒ってる。まあ、気持ちはわかるけど。
だがなカアラ。
﹁お前だって、人間の国同士を戦争させたり、内乱させたり、裏切
らせまくってるじゃねえか! 他人を裏切らせてる癖に、自分が裏
切られたら怒るなんておかしいだろ!﹂
﹁きゃああああああ! うるさァァァァい!﹂
うるせえのはお前だよ、カアラ。
冷静に考えれば、俺の理屈もおかしいかもしれんけど。
﹁人を散々裏切らせておいて、自分が裏切られたら嫌だなんて通ら
ねえんだよ!﹂
613
﹁ああああっ、馬鹿な人間と優秀な魔族は違うんだぁぁ!﹂
一緒だよ、バカはお前だ。
﹁カアラ、ワシは勇者に降服したのじゃ。タケルは、ワシに優しい
!﹂
﹁はぁぁぁぁあ、魔族が何いってんだぁ、バカァァァ!﹂
﹁カアラ、勇者はお前なんぞよりよっぽどまともじゃと、いったん
じゃ!﹂
﹁裏切り者! 裏切り者! お前は魔族全体を裏切ったんだぞ!﹂
なんか、こういうの俺も許せないな。
もうグダグダの感情論だけど、カアラお前は恥知らずだ!
﹁薄汚い策謀ばっかり張り巡らせてるやつが、いまさら人に信義と
か唱えて、恥ずかしくないのかよ!﹂
﹁うっさい、死ねッ、勇者もオラクルもみんな死ねッ!﹂
ク
ブチギレのカアラは、もはや隠形も忘れて、ぐあっと両手を上げ
て。
両手に渾身の魔力を集めた。
目に見えるぐらい青い光が集まってきている。
俺は思わず、ぎゅっとオラクルを抱きしめた。
ズ
﹁ああぁ、大いなる、おおぉ、大いなる蒼き水よぉ! この裏切り
者どもを、その大瀑布でこの世から押し流せェェ!﹂
﹁この状況で、よりにもよって、大洪水の魔法って⋮⋮﹂
614
⋮⋮カアラ、本当にお前、天才魔族とかじゃなくて、ただのバカ
だろ。
山にいきなり発生した大津波に、俺もオラクルもそのまま飲み込
まれた。
ブクブクブクとか言ってる場合じゃないんだ。
山の中で流されてるから、ごちんごちん木に当たって滅茶苦茶痛
い。
水もたくさん飲み込んでしまう。
死ぬほど苦しくて、死なないのが不思議なぐらい。
まあこっちは、女神の加護︵対魔法・対物理︶とか﹃ミスリルの
全身鎧﹄があったから。
いろんなもんにぶち当たっても、なんとか痛いぐらいで済んでる
んだよな。
いきなり発生した大洪水が怒涛のごとく流れこむ、山の谷間に居
た騎士隊はというと⋮⋮。
まあ重たいプレートメイル着て、大洪水に押し流されたら、普通
の人間はお陀仏ですわな。
※※※
トランシュバニア公国の千騎もの騎士隊は、スパイクの街を間近
にしたモケ狭間で、勇者の手によって半壊し、命からがら敗走した。
これが、世に聞こえる﹃モケ狭間の戦い﹄である。
公国の騎士隊を指揮した、ゴットロープ伯爵、フレデリック子爵、
ヘンドリック男爵、フェルトマイヤー男爵、メンノ将軍、ヤン将軍、
615
戦死。
他、戦死者、負傷者は数えきれず。公国の国境線まで逃げ帰った
時には、ニ百騎を切っていたそうだ。
スパイクの街を先に落とし、敵の補給線を断った上で、ゆっくり
ロレーンの街を落とそうと囲んでいたトランシュバニア歩兵隊と、
傭兵部隊も撤退を余儀なくされた。
これほどの圧勝は、シレジエの戦史でも初めてのことだった。
﹁ちょっと勝ちすぎてしまいましたね﹂
あら、うちのライル先生は、なんか苦渋の顔で言ってますよ。
さすが先生は言うことが違うな。
俺なんか、戦場に残ったプレートメイル大量に拾ってホクホクな
のに。
まあ使えないのもあったが、上等な鋼は打ち直したって利益が出
るシロモノだ。
サバイバー
ちなみに、シレジエが生んだ野生児ルイーズさんは、馬肉を食っ
た。
もう戦場で人を殺す罪悪感も薄れてきた俺も、さすがにアレはど
うかと思った。
﹁ここまで勝ってしまうと、トランシュバニア公国に攻め込めって、
強硬派が騒ぎ出しそうなんですよ﹂
﹁なるほど、それは大変ですね﹂
そういう内部政治をやらなきゃいけないのはライル先生なので、
そりゃ苦渋の顔にもなる。
616
勝ちすぎても厄介なんて、戦争は難しい。
﹁公国軍は確かに弱小です、しかしシレジエ王国の本当の敵は、公
国の背後にいるユーラ大陸最大の強国である、ゲルマニアですから﹂
﹁あー、あのドイツ風の帝国ね﹂
ゲルマニアと言えば、ドイツ型国家以外にはない。
あるいは年代的に神聖ローマ帝国あたりかもしれないが、似たり
寄ったりだろう。
チート
見たことも行ったこともないが、俺はラノベ読みの知識があるの
で、それぐらいは察する。
いかにも強兵を有していそうな帝国だ。
﹁仮に公国を落とせても、それで戦力の目減りしたシレジエは、ゲ
ルマニア帝国に攻められて喰われてしまいます。まして、今は﹃魔
素の瘴穴﹄事件やゲイルのクーデターで、ただでさえ国力が弱って
いる時なのです﹂
﹁それでも、公国を攻めろって人がいるんですか﹂
﹁ええ、ものの道理を分かってない人間は、何時の時代にも居るも
のなんですよ。攻めろって言えば、勝手に領地が増えると思ってる
ような人がね﹂
﹁俺は攻めるのには反対ですから、たぶん姫もそうでしょうし﹂
﹁頼もしいですね、声明はこんなもんでいいですか﹃勇者は侵略戦
争には加担しない﹄ぐらいで﹂
﹁いいですね、お願いします﹂
これ以上の戦争が止まるなら何でもいい。
617
トランシュバニア公国の騎士だって、同じ人間だ。
いくら戦争だからって、殺していい気分がするものではない。
618
47.国境の街へ!
トランシュバニア公国との戦争を止めるため。
俺たちは、公国と国境を接する街ロレーンへと足を運んだ。
﹁これが、ロレーンの街か﹂
あのゾンビ辺境伯が元々は治めていた大きな街で、一度モンスタ
ー襲来で全滅している。
さすがに街の傷跡は深いが、新しいロレーンの領主となったブリ
ューニュ伯爵は、名門貴族で大金持ちだそうで、街を囲む分厚い防
壁とロレーンの城だけは綺麗に修復されている。
﹁街の賑わいもそこそこだな﹂
戻ってきた市民の数は少なく、兵士の数が多い。
最前線の街で戦争が再開するとなれば、それをビジネスチャンス
と捉える積極的な商人もいるのだ。
広場でキャラバンを張って、高い金でポーションやら武具や糧食
を売っている武器商人たちの眼はギラついていて、独特のきな臭い
活気がある。
同じ商人としては、せいぜい商売に励めと言いたいとこだ。
﹁ロレーン伯がお会いになるそうです﹂
城まで行くと、無愛想なメイドが応対してくれた。
俺だけではなく、シルエット姫まで来てると伝えたのに、玄関先
619
にも来ないとは失礼なやつだな。
綺麗に補修された城の赤絨毯を進むと、綺麗に編みこまれた黒髪
を長く垂らし、奥にピンと細く尖った黒い口髭を蓄えたおっさんが
待っていた。
漆黒の微細な装飾が施された薄い金属を何枚も貼り付けた鎧、美
的にはたいへん素晴らしいが、実用性皆無の甲冑に身を包んで、腰
には、また金細工が施された装飾過剰な宝剣を差している。
戦場には場違いな、成金そのものって服装だな、本当に名門貴族
なのか。顔には男なのに化粧までしてるし、気品ある服装をしてい
るのに、どこか貧相で胡散臭い。
あと、オシャレのつもりなんか知らんが、なんで室内で赤いベレ
ー帽を被ってるんだ、おそ松くんのイヤミみたいなおっさんだ。
﹁ようこそ麻呂の城へ勇者殿、シルエット姫。ブリューニュ・ロレ
とくせん
ーン・ブランでおじゃる。こんな辺境の地までご苦労なことでおじ
ゃるのう。戦争の督戦にでも来ていただいたのでおじゃるか﹂
﹁どうも、ブリューニュ伯爵⋮⋮。俺は、督戦じゃなくて、戦争を
止めに来たんですよ﹂
なんだ、ブリューニュ伯爵って、イヤミかと思ったら、おじゃる
キャラの方か。
まあ、前線に似つかわしくない変な格好してるし、たしかに眉毛
はちょっと麻呂っぽい。
くげ
この国、公家みたいなのはいないと思ったんだけど。
名門貴族の一部は、そうなのか。
ブリューニュ伯爵は、トランシュバニア公国との戦闘の前線司令
官である。
620
第二兵団の指揮権と、旗下の騎士を多く有する名門貴族であり、
強硬派の最筆頭と聞く。
この麻呂のくせに戦争したがりな、厄介なおじゃるを止めないこ
とには、トランシュバニアとの戦争は阻止できない。
﹁麻呂に戦争を止めろとは、トランシュバニアの大騎士団を殲滅し
た、英雄の言葉とも思えぬでおじゃるなあ﹂
﹁向こうから攻めてきたんなら、撃退は当たり前だろう。だが、こ
っちから攻めるとなると話は別だ﹂
﹁ノホホホ、たしか﹃勇者は侵略戦争には加担しない﹄でおじゃっ
たか、勇者ともあろうお方が甘いことでおじゃ。騎士の世界では、
チキン
やられたらやり返さなければ、敵に舐められるだけでおじゃる!﹂
﹁なんだと、このおじゃるめ!﹂
騎士とか言うけど、お前おじゃるじゃん。
さすがに、この戦闘力皆無っぽい麻呂にまで、臆病者扱いされる
と、俺だって男だからムカっとくるぞ。
やられたらやりかえせだろ、そりゃわかってんだ。
でもこれは、剣で切られれば肉が裂け、鮮血を吹き出してそのま
ま死んでいくリアルファンタジーだぞ。
攻められたから攻め返すを繰り返してたら、永久に相手も自分も
死ぬまで殺し合わないといけなくなるだろ。
﹁ノハハハッ、話しになりませんのぉ、勇者殿。麻呂は、前線指揮
官として軍権を握っている、いわば君主でおじゃるよ。戦の応援に
来たのではないでないなら、どうぞ邪魔になるので、どこぞに見え
621
ないところに下がっておじゃるがよろしかろう﹂
俺が止めろと言ってるのに、ブリューニュ伯爵は聞く耳を持たな
い。
ライル先生が進み出て、伯爵に語りかけた。
﹁伯爵、もしかして黒ローブの魔術師にそそのかされて、攻める御
決心をなされたのではないですか﹂
﹁ヌホッ? どうしてそれを、そなたが知っておじゃる⋮⋮﹂
ライル先生は、伯爵の痛いところを突いてきた。
やっぱりカアラが、裏で糸を引いていたのか。
﹁その黒魔術師は、人間に化けたカアラという魔族の女です。魔素
の瘴穴を解放して、クーデターを起こしたゲイルも、その黒魔術師
にそそのかされていたのですよ﹂
﹁麻呂も、ゲイルのように操られていると言うのでおじゃるか?﹂
さすがに伯爵の顔色が悪くなった。
そりゃ、ゲイルみたいな売国奴と一緒と言われたら心外だろう。
﹁そうです、トランシュバニア公国が攻めたのも、その魔族の策謀
でした。どうせいま攻めれば公国を手に入れられると都合のいい話
をされたのでしょう。失礼ですが伯爵は、魔族の意のままに操られ
ているのですよ﹂
﹁確かに、そのような黒魔術師が麻呂のところにはおじゃった﹂
﹁でしたら﹂
﹁いや、いま公国を攻めるのは、あくまで麻呂の意志でおじゃる。
トランシュバニア公国は弱っているのでおじゃるよ、いまこの機会
622
に攻め滅ぼすべきでおじゃる!﹂
魔族の陰謀だと教えてやってもまだ強硬論を崩さないのか。
どんだけ、戦争したいんだよ、麻呂のくせに。
﹁伯爵も分かっておられるとおもいますが、公国にはゲルマニア帝
国の後援があります。仮に勝ったところで、公国奥深くまで攻め入
って、帝国の軍に後背を突かれては、閣下もトランシュバニアの騎
士隊と同じ憂き目に遭いますよ﹂
﹁ぐぬっ⋮⋮﹂
口では、麻呂でもライル先生に勝てないよなあ。
﹁ちょこざいな平民風情がぁ、恐れ多くも建国王レンスに連なる高
貴な血筋の麻呂の命令に、何の存念でくちばしを入れるでおじゃる
か!﹂
あーあ、口で言い負かされたから、家柄で抑えこんでくるパター
ンか。
このブリューニュ伯爵って男は、どれほど名門貴族か知らんが、
底が見えたな。
﹁伯爵、今の私は摂政閣下の顧問官であり、国務卿の地位にある。
王国の執政を任された私の言葉は、勇者と王女のご意思そのもので
あると思われよ﹂
ライル先生、いつの間にかそんなに偉くなってたのか。
威圧返しを食らった、ブリューニュ伯爵はぐうの音も出なくなっ
た。
623
﹁ま、麻呂はニコラ宰相より、前線指揮官としての軍権を与えられ
ておじゃる。麻呂の軍を麻呂がどう動かそうと、誰に文句を言われ
る筋合いもおじゃらん!﹂
﹁そうですか、シルエット姫殿下と、その摂政たる勇者タケル様を
前にして、そう言われているのですね﹂
﹁そ、そうでおじゃる。悪いでおじゃるか!﹂
﹁悪くはありません。ですが、勝手に軍を動かしてもし負けでもし
たら、その時の処分は覚悟して置かれるが、よろしかろう﹂
さあ、帰りますよとライル先生が俺たちを即して、すぐさまお城
を退却と相なった。
あれ、戦争止めに来たんじゃないんですか先生。
﹁正直なところ、ブリューニュ伯爵の言い分も当然なんですよ。こ
れだけ領内に攻めこまれて、反撃しないんでは舐められるので、攻
めるのはかまいません﹂
﹁ええ、そうなんですか﹂
いや、そうならそうと言ってくれないと。
マジで、麻呂相手に熱く反戦論を語っちゃったじゃん。
﹁タケル殿はそれでよろしかったんです、そう言えば向こうも後に
は引けなくなる。カアラの意のままに、全面戦争を仕掛けて大敗さ
れては困るので、こうやって釘を打っておくだけで十分でしょう﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
先生は、あいかわらず人が悪い。
﹁ブリューニュ伯爵が勝てばよし、負けない程度に、ほどよく小競
624
り合いをすればそれもよし、もし愚かにも大敗しようものなら宰相
派の重鎮を潰すいい機会になります﹂
﹁うわー﹂
先生、魔族の黒魔術師よりよっぽど黒いよなあ。
まあいいや、人間の国同士の戦争なんてどうせ関わりあいになり
たくなかったし。
﹁ブリューニュ伯爵とカアラの関係が分かっただけでも、ロレーン
の街まで来た甲斐がありました。強硬派をリストアップして調べれ
ば、いよいよあの上級魔術師の足取りを追えるかもしれません﹂
人間に化けた魔族というラインで聴きこみを続け、人相書きを作
って、シレジエ国内で大捜索を仕掛けるという。
カアラもおちおちしてると、先生に尻尾を掴まれるぞ。
まあ、戦争はやりたい奴が勝手にやってればいい。
オルトレット子爵が巻き込まれたら可哀想だから、スパイクの街
にせっせと物資を送って防衛を固めさせるだけでいいや。
俺は、トランシュバニアとの戦争が始まる前線に背を向けて。
自分の領地に帰ることにした。
※※※
俺たちはオックスの街に戻ってきた。
隣のスパイクの街に、復興物資用の木材と石材を送り、硝石の大
生産工場と化した﹃オラクル大洞穴﹄から硝石が送られてくる。
その他、民生品の流通もあり、ピストン輸送で街道も大いに賑わ
625
ってきた。
シャロンたちも商会の仕事で大忙しだ。
﹁ご主人様、商売の拠点をオックスに移すのもいいですね。ロレー
ン地方に向けて、武具や補給品の売上もかなりありますし﹂
﹁戦争特需で、儲けてるみたいになって、あんまりいい気分しない
けどな﹂
でも、罪悪感で儲ける機会を逃すほどバカじゃない。売れるもの
は、ガンガン売る。
スパイクの街復興も気がかりだが、商売のために、オックスの街
に居るわけじゃない。
なぜ、俺がオックスの居城に駐留しているのかと言えば、ゾンビ
男爵の遺産であるお風呂に大きなベッドがあるから。
ではなく、﹃魔素の瘴穴﹄が近いからだ。
魔王復活を阻止され、国家間の戦争を煽るという嫌がらせをした
後、あのカアラが何をやるかといえば﹃魔素の瘴穴﹄の封印解放し
かない。
もう手は見え透いている。
もう一度カアラが、ゲイルの時のような事件を繰り返せば。
その時こそ、あの女との最終決戦になるだろう。
それに俺以前に、俺にくっついて離れない変態シスターが瘴穴の
近くにいるのは、万が一の際の安全弁になる。
勇者を得てランクアップしたリアは、﹃神聖錬金術﹄に特化した
聖女という、封印作業にはこれ以上ない、最高の人材になっている
のだ。
626
アーサマ教会はなぜ、リアに管理を任せないのか、不思議で瘴穴
に駐在する聖女様に聞いてみたんだが、勇者付きのシスターは勇者
と離さないというのが、アーサマ教会のルールだそうなのだ。
﹁勇者を得られない聖女がほとんどですから、正直なところリアが
羨ましいです﹂
青いラインが入った白いフードの聖女様がにじり寄ってきて、ゾ
クッとした。
リアが発しているプレッシャーと同質のものを感じる。
やっぱりアーサマ教会のシスターは危うい。
これ以上、ホーリーストーカーが増えても困るので早々に瘴穴を
退出した。
リアに頻繁に教会に誘われているが、よっぽどのことがないかぎ
りは、行きたくない。
まあとにかく、ダンジョン攻略も済んで強装備も手に入ったこと
だし。
カアラとの激しい戦闘に備えて、しばらく英気を養うとしよう。
﹁うまいのう! うまいのう!﹂
ダンジョンから連れ帰ってきたオラクルちゃんは、よっぽどろく
な物を食べたことがないらしく。
うちの料理長が創った料理を、なんでも大量に食べる。
﹁いい食べっぷりだな、クレープのおかわりもいいぞ!﹂
﹁えっ、おかわりもいいのか!﹂
627
﹁遠慮するな、これまでの分も食え⋮⋮﹂
﹁うめ、うめ﹂
まあ、そんなお約束をやって遊びつつ。
さあ、カアラいつでもこいとオックスの街で待っていたわけだが。
王都から、とんでも無い知らせが届いた。
﹁タケル殿、王都で、カアラが捕縛されたとの知らせです⋮⋮﹂
﹁なんでいっつも、そんな呆気ないんですかね﹂
劇的とは程遠いパターンばっかりだ。
だから、こんなリアルファンタジーは求められてないんだって。
隠形の上級魔術師をずっとライバル視してた先生も、俺もびっく
りだよ。
これまでやらかしてきた奴の狡猾さ、悪行を考えると、ありえな
いだろこれ。
カアラも、なに人間に、普通に囚えられてるんだよ。
いや、罠か。囚えられた振りって言う、罠なんだよな?
カアラの卑劣な罠にはめられた俺たちとの、ラストバトルが始ま
るんだよね?
俺は騙されないぞ、そうじゃないと、これはさすがにこの展開は
ないぞ⋮⋮。
王都と、オックスの街は目と鼻の先だ。
628
俺たちは半信半疑の気分で、王都に急いで向かった。
629
48.天才魔族を配下に
﹁確かに、囚えられてますね﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
王都の魔法力を制限する部屋に、カアラは囚えられていた。
半ば特権階級でもある魔術師でも、国の禁を犯すこともある。
その場合、魔術師を拘束するために、このような部屋が設けられ
ているのだ。
カアラは魔族で上級魔術師、抑えられた希薄な魔素でもまだ抵抗
しようとするので。
それを完全に抑えこむために、先生と同じ中級レベルの魔術師が
何人も常駐して、不眠不休でディスペルマジックを唱え続けている。
いざとなれば、城にはカアラと同ランクの上級魔術師だっている。
その上で、部屋の周りには、騎士や兵士が防備を固めて逃亡を防
いでいるので、ようやくカアラは諦めて大人しくなったとか。
﹁ライル、お前が私を悪しざまに罵り、老害として悪者にした噂を
流していることが、役にたったな﹂
そう皮肉めいた口調で、茶色の長い髭面に悲愴な笑いを浮かべて
るのが、ニコラ・ラエルティオス。
シレジエ王国の今の宰相であり、ライル先生の父親だ。
﹁そのようですね、お父上﹂
630
ライル先生は、カアラをライバル視していた感があるので。
よりにもよって、憎んでいる自分の父親に、その敵が囚われてし
まったのが気に食わない様子でぶすっとしていた。
カアラは、ニコラ宰相に﹁勇者とシルエット姫を殺して、国の実
権を手に入れる﹂ように勧めて、その陰謀を受け入れる振りをした
宰相の罠にハマり囚えられたのだ。
さすが、策士の先生の父親だけのことはある、鮮やかな手腕とい
えた。
聞けばニコラは、王室の家庭教師でもあったが、自身が上級魔術
士でもあり、シレジエ王国一の大博士だという。
﹁勇者タケル様、私は確かに、この不肖の息子が言うように老害か
もしれません。しかし、国を思う気持ちを片時も忘れたことはあり
ません。それが、この魔族を囚えることで証明できたことを嬉しく
思います﹂
ニコラ宰相は、そう言って、ククッと皮肉な笑いを浮かべた。
俺はどうしても先生の側の肩を持ってしまうが、この人もそこま
で悪い人じゃないんだよな。
﹁さて、どうしたもんかな。これ⋮⋮﹂
まぶか
部屋の真中の椅子に座って、黒いフードを目深に被ってじっとし
ているカアラは、何も言わない。
命乞いするとか、﹁くっ、殺せ﹂とかも、何もないのか。
﹁当然、殺すべきですよ﹂
631
ライル先生はそう言う。
でも、ニコラ宰相が生かして囚えたのには、訳があるのではない
かな。
﹁いや、この魔族。体術もなかなかのものでして、騎士が殺そうと
しても怪我人が増えるだけだったので、勇者様の到着を待ったので
す。直々に天誅を下していただければ幸いかと﹂
宰相は、そんなことを言う。
えー、みんな﹁殺せ!﹂って流れか。
でも俺なあ、いくら魔族で大罪人でも、無抵抗な女性を殺すって
のはな。
だから、こんなんだから、リアルファンタジーは嫌なんだよ。
﹁カアラがやった﹃魔素の瘴穴﹄解放、戦争やクーデターの煽動で
死んだ人間は、全部合わせれば一万をくだらないでしょう。当然、
殺すべきです﹂
ライル先生は、俺の決心を促すように。
大事なことなので﹁殺せ﹂と、二度言いました。
さて、餅は餅屋。同じ魔族のオラクルちゃんに聞いてみるか。
﹁勇者どの、カアラを殺さずに、隷属させる方法ならあるぞ﹂
﹁えっ、あるの。そういう都合のいい方法?﹂
さすがドラえもん、じゃないオラクルちゃん!
632
﹁うむ、﹃魔王呪隷契約﹄というものがある。かの古の魔王が、ど
うしようもない部下に言うことを聞かすために創った呪法なのじゃ
が、お互いの同意のもとにきちんとした約定を交わして、額に呪隷
紋を入れればよい﹂
﹁俺は魔王じゃないのに使えるのか﹂
﹁魔王か、魔王じゃないかなんて関係ないのじゃ。呪隷契約に大事
なのは、お互いの同意があるかどうかだけじゃ﹂
﹁ちなみに、その契約を破るとどうなるの﹂
﹁普通に四肢が木っ端微塵になって死ぬ﹂
﹁そりゃ、グロいな﹂
﹁おい、カアラどうする。いますぐ死ぬか、俺に隷属するか﹂
正直なところ、カアラは死を選ぶと思っていた。
これは、要はそれ以外の選択肢を提示して、俺の罪悪感を和らげ
るための措置だ。
リアルファンタジー
俺だって残酷な世界に生きる人間。
大罪人の女の処刑ぐらい覚悟はしている、でも出来ればしたくな
い気持ちが強い。
我を忘れるほど、オラクルの裏切りを怒っていたカアラだ。
よりにもよって、勇者の俺に隷属するなんて、ありえないと思っ
ていたのだが。
﹁タケル、貴方に隷属します﹂
あっけなく、そう言った。
633
あれ?
※※※
﹁タケル殿、何度でもいいますが、今すぐ殺すべきです﹂
先生はそう促す、だいたいのシレジエ王国の人はそう言うだろう。
なにせ、﹃魔素の瘴穴﹄封印を開いた張本人なのだ。
憎んでも飽きたらぬ敵といえる。
ただ不謹慎な先生の場合、単に自分より格上の魔術師が気に入ら
ないだけじゃないか疑惑が少し。
いや、そんなことはないだろうけどね⋮⋮。
﹁先生、本当に隷属するなら、カアラは使えますよ﹂
﹁正気ですか、たまに私の想像を絶する選択をしますよね、タケル
殿は⋮⋮﹂
いや、先生の選択も、わりと引くときあるけどね。
﹁カアラは、最上級魔術が使えて、しかもシレジエ王国だけでなく、
トランシュバニア内部にも人脈がある。おそらく他の国にもあるに
違いない﹂
﹁そう言われると、確かにそうですが⋮⋮﹂
とうぞく
使い道としては、かなり利便性が高い。
規模は違うが、犯罪者を利用して防犯に使うのと変わらない。
﹁オラクルちゃんを配下に置いてるんだから、魔族だから殺すって
こともない。ここで殺すよりも、憎んでいるだろう俺に隷属させる
634
ほうが、罰になるんじゃないですかね﹂
﹁心情的には絶対に承服しかねますが、タケル殿の判断がそうであ
るのなら、諦めましょう﹂
貸し一だぞって不満気な顔で、ライル先生は、渋々と引き下がっ
た。
先生に借りを作ると怖いな、無理やりどっかの姫と結婚させられ
そうで。
﹁話は決まったようじゃから、﹃魔王呪隷契約﹄の方法を教えるが、
どのような契約にするかは決まったのか﹂
﹁うん、それなら、もう思いついてるよ﹂
俺とカアラの﹃魔王呪隷契約﹄は三箇条だ。
第一条、カアラは、佐渡タケルに服従しなければならない。佐渡
タケルの命令は絶対遵守すること。
第二条 カアラは、直接的および間接的に、人間に危害を加えて
はならない。また、人間への危害を看過することによって、人間に
危害を及ぼしてはならない。ただし、第一条に反する場合は、この
限りではない。
第三条、第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自分
をまもらなければならない。
﹁その条件でいいのね、分かったわ﹂
やけに大人しいカアラは、黒いフードを外すと俺に、初めて素顔
を見せた。
635
オラクルちゃんと同じ青い肌が、魔族の特徴か。細い眉に、瞳は
紫色。髪は淡い金髪をしている。
目鼻立ちは整っていて、普通に美人だ。淡いピンク色の唇が微笑
んでいる。
魔族だから本当のところ分からないが、まだ二十を越えているよ
うにも見えない、こんな若い女だったんだな。
﹁見た目通り、まだ十九歳よ﹂
﹁そうか、じゃあカアラ、呪隷紋を入れるぞ﹂
﹁はい、うっ⋮⋮﹂
頭に紋を入れるときに痛みが走ったのか、カアラは形の良い眉根
を顰ませた。
呪隷紋は、十字の形をしている。
この世界には、キリスト教はないので、十字はまさに相手を縛る
磔を意味しているわけだ。
約定を違えた時、カアラの四肢は四つに分断されて死ぬ。
﹁ところでカアラ、なんで大人しく俺に隷属した﹂
﹁隷属させた、張本人がそれを言うの?﹂
オラクルちゃん監修なので、カアラが逆にこっちを罠にハメよう
としているとは考えにくいけど。
あまりにも呆気ないので、気になって仕方がない。
﹁俺を恨んでたんじゃないのか﹂
﹁貴方、いえ勇者タケル。それは自意識過剰ってものよ﹂
636
﹁やめろ、そんな言い方をするな﹂
﹁あら、ごめんなさい﹂
自意識過剰とか、微妙にダメージ入るじゃねえか。
精神的にも攻撃するなって、約定を入れておけばよかった。
﹁アタシが、本当に我を忘れるほどに怒ったのは、魔族を裏切った
オラクルに対してよ。貴方は人間の勇者として、アタシが画策した
いこん
魔王復活を阻止しただけなんだから、そのことについて敵意はあっ
ても、遺恨はない。負けたアタシが悪いだけ﹂
﹁そういうものなのか、イマイチわからんなあ﹂
敵意がある相手に隷属するか?
そうか、感情的には従えなくても。
理詰めで考えられるなら、目的のために一時的に敵に屈すること
もあるわけかな。
﹁そうよ、ここに囚えられて、久しぶりにじっくりこれまでの自分
が講じてきた策を振り返ってみたけど、アタシは愚かだった﹂
﹁まあ、後半グダグダだったもんな﹂
天才レベルの魔術を持つカアラに、ライル先生の頭脳があれば、
魔王復活なんてもうとっくにやってるぞ。
その時はおそらく人族は、絶滅の危機に瀕してるだろう。
﹁つまりね、アタシは反省したのよ。ここは貴方に隷属してでも、
生き延びるべき局面だと思う﹂
﹁まだ、諦めてないないのか﹂
637
はかりごと
本当にしつこいな、まあそうじゃないと、策士になんかならんか。
ライル先生もそうだけど、どんだけ謀を考えまくってるんだよっ
て感じだ。
﹁フフッ、そうね。生きてさえいれば、いつかは伝説の魔王が蘇り、
魔族が復権する時代を迎えられるかもしれない。感情的になりすぎ
て選択肢を誤った、間抜けなアタシに生きるチャンスをくれたこと
にだけは、感謝しておくわ﹂
魔族は、寿命が人間より長そうだから。
俺が死ぬぐらいまでは待てるってことなのかな。
﹁まあ、俺が死んだ後のことなんかはどうでもいいや。とにかく、
感謝なんて言ってられないほど、こき使うつもりだからよろしくな﹂
﹁お手柔らかにお願いします⋮⋮﹂
こうして、隠形の上級魔術師。魔族のカアラは俺の隷属下に入っ
た。
カアラの態度が殊勝すぎて、罠じゃないかといまだに疑わしい。
※※※
カアラを連れて、要塞の街オックスに帰ってきた。
王都に一度戻ったのに、シルエット姫はジルさんを連れて、なん
にも言わずそのまま俺に付いてくる。
俺が姫を連れ回してるのを、ニコラ宰相もなにも言わなかった。
ライル先生のお父さんである彼が、有能な上にそれほど悪くない
人物であると知れただけ、今回は良かったかもしれない。
638
先生の父親だから、何を企んでるかは分かったもんじゃないが。
﹁どうしたんですかタケル殿、私の顔に何か付いてますか?﹂
﹁いえいえ、いつもどおり先生は、美しい顔ですよ﹂
﹁タケル殿、私は出来れば外側より、頭の中の方を褒めてもらった
ほうが嬉しいです﹂
頬を少し赤く染めて、不服そうに俯いた。
ライル先生は、なかなか俺にデレない。
オックスの居城に入ると、カアラの扱いをどうするかで悩む。
魔族を他の人間と同室させるわけにもいかない、部屋はまだ余っ
てるから個室を使わせるとして。
﹁カアラ、とりあえずメイドとして、城のお掃除でもやってなさい﹂
﹁はい、ご主人様。そんな命令しか思いつかないのね﹂
ありゃ、わりと反抗的だな。
もちろん命令拒否は許されないので、反抗的なのは口調だけでお
掃除を開始する。
﹁そうだ、掃除道具いるな﹂
﹁魔法で掃除できるわ﹂
便利なもので、カアラは風の魔法を器用に使って、掃き掃除を始
めた。
しかも、この程度ならと無詠唱、さすが上級魔術師だな。
639
ところで、いつまでと期限を切らず﹁掃除しろ﹂って言ったら、
もしかして永久にやってるんだろうか。
呪隷契約、そうだとすれば恐ろしい呪いだ、﹁ひと通り済んだと
自分で判断したら、休んで良い﹂とは言っておく。
﹁うーむ、綺麗だ﹂
あとで見に行ったら、石造りのお城なのに床は塵ひとつなくピカ
ピカ、古くなってくすんだカーペットまで、新品同然になっていた。
どのぐらいやるかは判断に任せたので、カアラは口先は反抗的だ
が、根は真面目というタイプだと分かる。
﹁どう、アタシは、オラクルなんかより役に立つでしょう。出来れ
ば、身体じゃなくて頭の方を使って欲しいですけどね﹂
﹁ふむ、頭なあ⋮⋮。まあ考えておく﹂
﹁それで、次は何をすればよろしいですか、聡明なるご主人様﹂
﹁皮肉か⋮⋮、とりあえず自由時間にしておく。けど、悪さはする
なよ。食事は人間と同じ物を食べるんだろ、きちんと出すように言
っておくから、腹が減ったら食堂に行け﹂
人に危害は加えられないとはいえ、あまり信用できない相手だ。
それに、頭と言っても、カアラの策謀を見てるとライル先生に比
べれば、二歩も三歩も劣るって感じだぞ。
魔術師軍師は間に合ってるし、カアラの使い道は、俺だってちゃ
んと考えてあるんだが。
まず、本当に従属しているのか確かめたかったので、今日の自由
行動を見て本格始動は、明日にすることにした。
640
夜、オラクルとシャロンが待ってるベッドに入ろうとすると、カ
アラがやってきた。
﹁なんだ、今日はもう自由行動にしたつもりだが﹂
﹁夜のお相手も、必要かと思いまして、ご主人様﹂
挑発的な顔で、黒ローブを脱いで、下に落とすカアラ。
そんなこと頼んでないだろう。
確かにカアラは美人だし、プロポーションは良いんだが、なんな
んだ魔族のそのビキニみたいな黒い下着。
どこのメーカーなんだ、流行ってるのか。
﹁お前らって、そればっかだよな⋮⋮﹂
﹁えっ、なんで呆れられてるの。アタシって、結構魅力的じゃない
? 少なくともそこに寝てるチンチクリンよりは﹂
﹁なんじゃと、ワシに喧嘩売っとるんじゃな!﹂
﹁あら、アタシは事実を言ったまで、ですけどね﹂
そうカアラは言いながら、今度は別の意味で挑発的に、ベッドに
ごろ寝していたオラクルちゃんを見下ろす。
チンチクリンって、そのままだもんな。
﹁戦争じゃよな、胸のことを言ったら、もう戦争じゃよな!﹂
﹁あらーアタシは背のことを言ったんだけど、胸がチンチクリンな
のも気にしてたのねえ。ごめんなさい﹂
はあ、こいつら、このパターンいい加減にしろよ。
ご主人様の安眠妨害しにくる奴隷が、どこに居るんだ。
641
あっ、よく考えると俺のとこに、けっこう居るわ⋮⋮。
ちょっと本当に考えなおさないといけないかな。
﹁あー二人とも喧嘩すんな。カアラ、俺はお前を信用してないから、
よとぎ
俺のベッドには入れない﹂
﹁ほれみろカアラ、夜伽はワシ一人で十分なんじゃ!﹂
オラクルちゃんが、ベッドの上で仁王立ちになって、ほとんど平
べったい胸を張って勝ち誇る。
﹁私もいますけどね⋮⋮﹂
﹁シャロン。無理に入らなくていい、こいつらには染まるなよ﹂
まともなシャロンまで、魔族の色に染まっては困る。
聖女のリアもおかしいけど、こいつら魔族も逆のベクトルでおか
しい。
﹁ふーん、オラクルは呪隷紋すら付けてないのに、随分と信用され
てるのね﹂
カアラは、さっきまで挑発的に煽っていたのに、少し拍子抜けし
たような顔で、ため息を付く。
﹁そうじゃ、ワシはタケルに信用されとるんじゃぞ﹂
﹁魔族をそんなに信用する勇者なんて、本当に変わり者だわ⋮⋮﹂
なんだか気が抜けたみたいな顔だ、カアラもこれまで魔王復活に
暗躍してきたのが無駄になったのだから。
多少は、腑抜けても仕方がないかも、大人しくなるなら良いこと
642
だ。
﹁なんじゃカアラ、いつもの威勢がないのう﹂
﹁アタシだってね、魔王復活の夢が潰えてしまったら、もう自分が
何をしていいのかわかんないのよ⋮⋮﹂
燃え尽き症候群だな。
盛んに仕事をくれって言ってたのも、目標を見失ってしまったか
らか。
﹁なんじゃ、そんなことで落ち込んどったのか。カアラ、ワシはそ
のうちタケルとポコポコ子供を作るから、そのうち一人ぐらい魔王
になるんじゃないか﹂
﹁おい、そんな予定はないぞ!﹂
やめろ、オラクル。
そんなこと言いながら、チンチクリンの足を絡ませてくるな。
それに、落ち込んでる相手に、そんなこと言ったら真に受けちゃ
うだろ。
いくらカアラ相手でも、虚言でいたぶるのは悪趣味だぞ。
ノーライフキング
﹁オラクル、それ⋮⋮本当に!?﹂
ハイブリッド
﹁そうじゃ、なにせ血筋としては不死者の王オラクルと勇者タケル
の子供じゃからな、次代の魔王として素質十分じゃろ﹂
﹁いや、カアラ。真に受けるなよ﹂
カアラは、自分が脱いだ黒ローブの上にガッと片膝をついた。
ああ、なんか嫌な予感がする。
643
﹁オラクル、いえ不死王女オラクル妃殿下。そのような崇高なご存
念があったとは知らず、これまでの無礼な発言の数々、どうぞ平に
お許し下さい⋮⋮﹂
﹁うむ、分かってくれればいいのじゃ﹂
﹁おいカアラ、オラクルは適当に言ってるだけだぞ﹂
駄目だ、カアラの紫色の瞳がキラキラと輝いている。
一度、絶望の縁まで落ちた人間に︵というか魔族だけど︶この未
来への希望という名の蜜は、甘すぎる。
はあ、またへんな話にならないといいんだけどな。
﹁もういい、カアラさっさと自分の部屋に帰って寝るんだ﹂
﹁ハッ、国父タケル様の御意のままに⋮⋮﹂
ひざまず
呪隷契約あるんだから、最初から命じればよかったんだけど。
なんか、跪いて俺を見るカアラの紫の瞳が、怪しい輝きに潤んで
怖い。
なんだこれ、なんだよ。
俺は魔族と人間のハーフの子供なんて作らないぞ。
いかにも、不幸な生い立ちになりそうじゃん!
冗談でもやめてくれよ⋮⋮。
644
49.戦争を止めよう!
﹁お呼びでしょうか、国父タケル様!﹂
﹁早いのは結構だけど、その不穏当な尊称を今すぐ止めろ﹂
オックスの街の応接間というか、今回の作戦会議室。
カアラを呼んだら、来るのが早いのはいいんだが、昨晩のそれま
だ引きずってるのか。
﹁ハッ、申し訳ありません。我らが魔族の父タケル様!﹂
﹁あれ、呪隷紋、効いてないような⋮⋮﹂
俺は父親呼ばわりを止めろと言ってるんだぞ。
子供もいないのに、父親扱いされるぐらいなら。
チョロ将軍とか、商人勇者とか、呼ばれてるほうが百倍マシだ!
﹁えっと⋮⋮、ではお父様?﹂
﹁うるさいよ!﹂
あれ、カアラにかけた﹃魔王呪隷契約﹄なんか緩すぎないか。
効果に疑問を持って、俺はオラクルの方を見た。
﹁タケルがそういう緩い契約にしたんじゃからしょうがないじゃろ、
お父さん﹂
﹁オラクルも、うるさいよ!﹂
なんだよ、話が進まないじゃないか。
645
﹁失礼しました、アタシにご命令でしたらどうぞ﹂
﹁命令というか、トランシュバニアとの戦争を止めるために、お前
の知恵を借りたいんだよ﹂
トランシュバニアとシレジエ王国の両陣営を煽って、戦争を引き
起こしたのはカアラだ。
デーモン
起こしたのだから、止めることもできるのではないかと、俺は考
えた。
﹁なんでもやっていいなら、終戦に追い込むことは可能です﹂
﹁ほう、とりあえず聞こうか﹂
カアラは、先生が広げた作戦地図を指さして説明する。
ズ・ゲート
﹁では、トランシュバニア公国の首都ブルセールの後背地に、魔界
の門と呼ばれる、半ば忘れられた魔素溜りがあります﹂
﹁まさか、そこを開けば戦争が止まると﹂
デーモンズ・ゲート
﹁そのとおりです。魔界の門は魔素の瘴穴に比べれば、五分の一に
も満たない魔素溜りですが、首都の後背でモンスターが異常発生す
れば、ただでさえ戦火の傷跡が深い公国は、戦争どころではなくな
るでしょう﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
魔族らしい解決法だ。
というか、問題ありまくりだなそれ。
勇者が魔界の門を開くとか、まさに悪魔に魂を売ってるよ。
これはさすがに、なんでもやっていいとか、やっぱ言うもんじゃ
ないな。
646
﹁先生どう思いますか﹂
﹁良策かと思えますね、カアラの発案ということだけは気に食わな
おもむ
いですが、我々は﹃魔素の瘴穴﹄封印の専門家ですから。勇者が﹃
魔界の門﹄封印に赴くことも条件にいれて和平交渉すれば、敵はす
ぐ停戦に応じることでしょう﹂
戦争終結後、すぐに封印に行けば、そこまで被害は大きくならな
いだろうと。
このまま昔のように、ずっと国境紛争を続けることを思えば、そ
っちのほうが犠牲は少なくて済む。
さすがザ・不謹慎のライル先生に、魔族のカアラだよ。
理屈で割り切れば、分かるんだけどな。
﹁リア、お前はどう思うんだ。俺がそんな悪い勇者でいいのか﹂
﹁えっと、わたくしとしましては、タケルの決定に従うだけです。
アーサマ教会的には勇者が聖女をスルーして、魔族の女の子をベッ
ドに連れ込んでるほうが問題です﹂
﹁今そんな話してないからね!﹂
というか、モンスター激湧きさせれば、確実に民に犠牲者が出る
って話なんだが。
マジで分かってんのかよ。
﹁タケルの良いようにすればよろしいではないですか。自らの手を
汚さず、遠くの戦争で人がたくさん死ぬのを見過ごすか、自らの手
を汚してでも、戦火から兵と民を救うか。どんな選択をしても、あ
なたの聖女は死ぬまでお側を離れません﹂
647
デーモンズ・ゲート
リアの青い瞳は、海のような深さを湛えて、俺の姿を映し出す。
聖女が、魔界の門を開こうかって話を聞いても、微笑んでいられ
る。
リアは、ごくたまにまともなことを言う時、すでに覚悟が出来て
るのだ。
背中を押してくれるのは、感謝しよう。
デーモンズ・ゲート
﹁分かった、カアラ。魔界の門開いてこい。先生、戦争を止める外
交交渉の準備に入ってください。スピード勝負です﹂
﹁御意に!﹂
﹁わかりました、最善を尽くしましょう﹂
デーモンズ・ゲート
魔界の門の解放と、再度の封印。
我が軍が誇る、二大軍師の共演、盛大な自作自演が始まった。
※※※
デーモンズ・ゲート
幌馬車にすし詰めになってトランシュバニア公国への国境線に向
かう。
カアラは先行して公国に入り、魔界の門の解放。
公国首都ブルセールに押し寄せる大量のモンスターに恐れをなし
た公国が、﹃なぜか絶好のタイミングで﹄シレジエ王国より交渉に
来た、外交全権を任されたライル国務卿と会談して、終戦を迎える
というシナリオである。
第二兵団と手勢の騎士を率いて、勝手に公国を攻めつづけている
648
りょうち
ロレーン伯ブリューニュは良いのかと問えば。
戦勝で、適当に餌を与えておけば黙るだろうと言うこと。
さすがに今回は親子の確執を捨てて、ニコラ宰相にも協力を要請
するそうだ。
ライル先生も、犠牲にするところは犠牲にしてくれた。
﹁責任重大だな⋮⋮﹂
なんて、覚悟を決めて居ると。
あっけなく終わってしまうのが、リアルファンタジー。
幌馬車で国境線に差し掛かる頃に、飛行魔法で空をぶっ飛んでき
たカアラと合流できた。
﹁もう、和平交渉は上手くいったから、あとはタケル様が公国首都
ブルセール来るだけです﹂
﹁やけに早いんだな、なんでカアラが交渉の結末とか知ってるんだ﹂
﹁アタシも、トランシュバニア国内に情報網持ってますもの﹂
﹁なるほど、さすが魔族軍師だな﹂
そういうと、カアラは少し得意げだった。
﹁公国領内に深く入って、実は和平交渉が上手く行ってなくて兵士
に囲まれて攻撃されるなんてことはないだろうか﹂
﹁タケル様、この幌馬車だけでも相当なレベルの聖女や戦士がいる
んですから、なまじっかな兵士では手を出せないと思いますよ﹂
なるほど、そう言われればそうか。
649
デーモンズ・ゲート
﹁じゃあ、とにかく急いで魔界の門まで行って、さっさとリアに封
印してもらって、ちゃっちゃと帰ろう﹂
﹁ん、どうしたカアラ。俺は、何か笑われるようなことを言ったか﹂
なんだか、可笑しそうに笑っているので気になって聞いた。
﹁いえ、アタシが人間どもの国を倒すために用意した手段が、戦争
を止めるために使われてしまうとは、我ながら可笑しくなったので
す﹂
﹁カアラには悪いけどな﹂
﹁いえ、不思議と悪くない気分ですわね。タケル様のとった手段は、
その目的はともかくとして魔族に近いと言えます﹂
﹁あくどいからな、俺は﹂
﹁先が楽しみになってきました。タケル様も、そのお子様も魔王の
素質があるに違いありません﹂
﹁言ってろ﹂
単なる勘違いなのだが、カアラがそれで従順に仕事に励むなら、
俺には好都合だ。
さて、和平が済んだとはいえ、あまり他国に長居したくないし。
自作自演の罪悪感もあるから、なるべく目立たないように進みた
い。
ただの商人のキャラバンに見せかけて一路、公国の首都ブルセー
ルへと直走る。
650
俺たちも、カアラみたいに翔べればいいんだが、幌馬車で行くと
片道でも三日以上かかる道のりだ。
直進すると、ブリューニュ伯爵の軍勢と公国軍が睨み合ってる戦
場に入ってしまうので、大きく迂回順路を取るから、さらに時間が
掛かる。
ちなみに、飛行魔法はかなり難しいそうで、それに特化した中級
魔術師か、上級魔術師でないと無理だ。
ライル先生でも飛んで移動はできない。
﹁ワシも飛べるぞ、カアラは人間の魔術を併用してるらしいが、魔
族の魔術形態ではわりと飛行は簡単じゃからな﹂
そう言って、本当に幌馬車の上から浮かんでみせるオラクルちゃ
ん。
女の子がふわふわ浮いてるのは可愛らしいんだけど、街道で飛ぶ
のは目立つから止めて欲しい。
魔族の魔術と言うと、妖術とか邪術とか言われる類なのかな、確
かに飛んでるモンスターは結構いる。
飛行魔法は凄く気になるんだけど、やっぱり飛ばせるのは目立ち
すぎるからな。
﹁一応、ここ他の国の領内だから、目立っちゃダメだぞ﹂
﹁おおすまん。しかし、人間の旅というのは、ちんたらして暇じゃ
な﹂
そうでもないんだよ。みんな馬車の中でも、武器の手入れをした
り、紙薬莢作ったり、いろいろ内職してるぜ。
651
シャロンなんか商会長だから、移動中も束になってる報告書を読
んでチェックを入れて返送して、もうキャリアウーマンの若社長み
たいになっている。
一方で、名ばかり商会主の俺は、鍛冶屋さんたちに頼んでるライ
フル作成の進捗状況を読んでるんだよな。
大砲は、すでに後装式のライフリング砲が、試作段階に入ってい
るとあるが。
なぜ原理的には、それを小さくするだけのライフル銃ができない
のか、ちょっとおかしいと怪しんでる。
︵ちなみに、後装式の場合、火薬容器が必要なため構造がさらに複
雑になる。大量生産が難しいのと、砲手の危険度が上がるので、現
状でも試作に留まっているそうだ︶
どうも開発指揮をしているライル先生が、大砲の方が戦力の強化
になると踏んで、そっちを優先してるっぽい。
ライフルは男のロマンなのに、先生の判断だからしょうがないが
⋮⋮。
カアラは忙しそうに、またどっか飛んでいったし、遊んでいるの
はオラクルちゃんぐらいなものだ。
やれやれと、俺は書類を放り出すとゴロリと横になった。
そんな俺を、同じく暇を持て余してる様子のオラクルちゃんがチ
ラッと見て言う。
﹁なあ、タケル。暇なら、お前を掴んで飛んでやろうか﹂
﹁えっ、本当に?﹂
652
オラクルちゃんに、背中を抱えて貰って幌馬車から飛び立つと、
やばかった。
﹁うあーこれすごい!﹂
﹁なっ、空を飛ぶのは、気持ちいいじゃろうっ!﹂
乾いた風が、頬に当たるのが気持ちいいっ!
空に高く上がると、向こう側には一面に広がる荒野、その向こう
に麦畑に囲まれた村や街が見える。
さすがに海までは見えないけど、向こうの山脈までよく見渡せる。
この浮遊感、疾走感、久しぶりに滾るぜ!
﹁ハハハッ、目立っちゃダメ、じゃなかったのかの?﹂
﹁ななっ、オラクル。これ、天空切りとかできね? 天空切り!﹂
オラクルちゃんをロケットエンジンにして空から急降下しながら、
光の剣を出して敵を両断する。
すげえいいぞこれ、新しい必殺技になりそう!
俺の中二病の血が騒ぐぜ!
﹁ご主人様ー! オラクルー! いい加減にしなさい!﹂
ああ、幌馬車からシャロンが怒ってるよ。
﹁すまん、オラクル今日はここまでだ﹂
﹁そうじゃな⋮⋮﹂
温厚なシャロンは、普段はほとんど怒らないが、たまに怒ると怖
653
い。
完全に理詰めで来るから、反論できないんだよな。
合体飛行訓練は、夜とかにしよう⋮⋮。
※※※
長い馬車の旅もようやく終盤、公国の首都ブルセールが近づいて
来た。
なんだか、遠くの方から飛んでくる人が見えたと思ったら、カア
ラに抱えられて運ばれてくるライル先生だった。
﹁どうも、お久しぶりです⋮⋮﹂
﹁お疲れ様です﹂
先生は、ぐったりとして気分が悪そうだった。
空を飛ぶのに慣れてないってこともあるのだろうが、先生はカア
ラを嫌ってるし。
魔術の力の差を露骨に見せつけられるのは、プライドの高い先生
には結構ダメージ入ったんじゃないだろうか。
一方、カアラは﹁アタシの方が役に立つのよ﹂とでも言いたげな
得意そうな顔をしていた。
﹁交渉は上手くいきました。それはもう、カアラが報告したんでし
たかね⋮⋮﹂
﹁ええ、ご報告いただいてます﹂
普段、感情をあまり露わにしない先生が、すごくぶすっとしてる。
654
先生、機嫌を直して!
デーモンズ・ゲート
﹁ブルセールの城壁は、魔界の門から湧いたモンスターの群れに囲
まれてますよ。籠城しながら、勇者の救援を今か今かと待ち望んで
いる状態です﹂
﹁そうですか、じゃあ、ちゃっちゃとやります﹂
もともと、俺が撒いた種なのだ。
無益な戦争を止めるためとはいえ、公国の民には申し訳ない気持
ちしかない。
トランシュバニア公国、首都ブルセールの丸い城壁が見えると、
確かに大変なことになっているのが分かった。
城を囲むモンスターの群れは相当の数だ。
城壁にかじりついてるモンスターだけでも、二百や三百では済ま
ない、下手すりゃ五百匹以上か。
戦争で前線に兵力が出払った後に、これでは篭城以外どうにもな
らないのは分かる。
ふもと
﹁おい、カアラ。魔素の瘴穴の五分の一程度でこれなのか?﹂
﹁思ったより、魔素が溜まってたみたいですね﹂
おいおい、しっかりしてくれよ。
デーモンズ・ゲート
とにかく、ブルセール街を避けて切り立った岩山の麓にあるとい
う魔界の門を目指す。
こっちに気がついたらしく、魔物の群れが俺たちの幌馬車にも向
655
かってきた。
﹁私が道を切り開きます﹂
ライル先生が魔術師ローブをたなびかせて幌馬車に立つと、呪文
の詠唱を始めた。
﹁ライル・ラエルティオスが天地に命ずる、吠える瀑布、号泣する
激風、崩れ落ちる大地、あだなす敵をその御力のままに薙ぎ倒せ!﹂
久々に出た、ライル先生お得意の中級系大規模魔法、スパイラル
ハリケーン!
風系、水系、土系のありったけの魔力を一気に解き放ち、巨大な
水竜巻が組織的に襲ってきたオークの群れを吹き飛ばして、幌馬車
が走る道を開ける。
今日の先生は、一際、力が入ってるように思えるな。
﹁あら、そんなものなの?﹂
カアラが先生に向かって、そんな失礼な発言をしつつ、両手を掲
げた。
﹁カアラ・デモニア・デモニクスが大気に命ずる、見えなき空気の
波動にて、あだなす敵を全て吹きとばせ!﹂
地響きが起こり、幌馬車までもギシッと揺れる。
ぎゅっと空気が収縮してくる歪みを感じて、その直後、カアラを
中心にものすごい衝撃波が放たれた。
656
周りにいた全てのモンスターの群れが、ブジュ!っという派手な
音とともに、綺麗サッパリ吹き飛ばされた。
音速で放たれた衝撃波は、俺たちの幌馬車を激震地にして、その
周囲に何も残さなかった。
﹁バカ、カアラやり過ぎだ!﹂
﹁これは失礼しました⋮⋮﹂
失礼とか思ってないだろ、得意そうな顔で仁王立ちしやがって。
目立つなって言ってるのに、めちゃくちゃ目立っちゃってるじゃ
ねえか。
あーほら、先生落ち込んじゃってるじゃん。
﹁先生、魔術は力ではなく、使い方ですから﹂
﹁ですよね、私も分かってます⋮⋮﹂
元気を出して!
﹁先生の使い方が正しいですよ。カアラのは、無駄にやり過ぎです﹂
﹁ですよね、私も⋮⋮﹂
﹁とりあえず、落ちたら危ないから幌馬車の中に帰りましょう先生﹂
﹁そうも言ってられないみたいですよ﹂
デーモンズ・ゲート
ワイバーン
魔界の門があるという岩壁が目の前に近づいてきたが、その我々
の前に。
もはや懐かしささえ感じる、黒飛龍の群れが立ちふさがっていた。
657
50.﹃魔界の門﹄封印
ワイバーン
黒飛龍の群れ、あれほど恐ろしかった敵が、いまでは雑魚に見え
る。
なにせ、こっちは本物のドラゴンを倒した経験もあるのだ。
むしろ﹃黒飛竜の鱗﹄は、防具のいい材料になると狩れるのが、
嬉しいぐらいだ。
﹁私がまず二匹かな。タケルは、一匹いっとくか?﹂
幌馬車からルイーズが、竜殺しの大剣を抱えて出てきて、笑いか
ける。
﹁いや、ルイーズ俺も二匹だ。オラクルちゃん、飛行形態で行くぞ
!﹂
﹁おう、空中合体じゃ!﹂
いや、俺は翔べねえから、空中合体じゃないよ。
とにかく、俺も勢い付けて前に全力ダッシュ!
ガシッと後ろからオラクルちゃんが背中を掴んで、そのまま浮上
させてくれる。
この合体技、実はバラバラで戦ったほうが戦闘力強いんだけど、
いいっこなしだぜ!
﹁天空、うわっ﹂
658
ワイバーン
目の前の黒飛竜が大きなアギトを開いて。
赤々とした口の中から、ブワーッと漆黒のブレスを吐きかけてく
る。
ブレス
﹁なんじゃ、ぬるい黒炎じゃのお﹂
﹁ほんとだ、俺もちょっと熱いぐらいにしか感じない﹂
女神の加護や﹃ミスリルの鎧︵全抵抗︶﹄もあるが、ドラゴンの
ブレス袋を食べたので耐火抵抗が強化されているのだろう。
﹁天空剣!﹂
オラクルちゃんに飛ばしてもらってるだけなので。
眼の前で光の剣を振るだけで、サクッと首が飛んでいく。
﹁違うな⋮⋮天空ーッ星王剣!﹂
もう一匹を、必殺技のアレンジを加えながら、今度は背中から斬
り伏せた。
やっぱ、再登場の敵は雑魚だな。
しかし勝ち誇ってもいられない、隣では飛翔してもいないのに同
じ速さで駆け抜けて三匹まとめて一気に斬り伏せている。
とんでもない騎士がいらっしゃるのでな⋮⋮。
ルイーズに、竜殺しの大剣なんか誰が持たしたんだよ。
彼女は、鍋ごとドラゴンの内臓のスープを食ったので、炎のブレ
スは一切通用しない。
﹁ルイーズ、解体は後!﹂
659
ナイフを取り出して、もはや反射的に死体をバラそうとするルイ
デーモンズ・ゲート
ーズに注意して、そのまま岩壁の岩棚にある、小さな洞穴まで翔け
る。
その洞穴の突き当りに魔界の門があるそうだ。
﹁なんじゃこりゃ⋮⋮﹂
﹁ワシも初めて見たんじゃが、不思議な扉じゃな﹂
デーモンズ・ゲート
暗い洞穴の中で、青白く輝く魔界の門。
ちょっと古めかしいアパートにありそうな、蛇腹のエレベーター
だった。
﹁なんだよ、またオーパーツか。建国王レンスのしわざだろ﹂
俺がそんなことをぼやいていると、後からこの門を再発見したカ
アラが来て言う。
﹁勇者レンスじゃなくて、別の勇者が創ったのよ。これは百五十年
前の封印だから、時期が合わないですからね﹂
﹁ふうん、まあエレベーターだしな。レンスなら、もっと厄介なデ
ザインにするか﹂
﹁これ、エレベーターって言うの?﹂
﹁そうだよ、エレベーターは、箱が移動して階層を移動する昇降機
だ﹂
デーモンズ・ゲート
﹁階層を移動するといっても、この門は単純に地下につながってる
わけじゃないのよ。魔界の門なんてもっともらしい名前を付けてあ
るけど、つながってる先は魔界でもない﹂
660
﹁じゃ、どこにつながってるんだ?﹂
カアラは首を横に振る。
﹁わからないの。どっか想像を絶する異界だって伝承が残ってる。
魔族でも、乗ったら最後二度と帰ってこれないから、門を開いても
入ってはダメだって⋮⋮﹂
﹁どこの怪談だよ、怖いわ﹂
なんでこの世界の勇者は、どいつもこいつもろくでもない施設を
作るんだよ。
﹁とにかく調べて、再封印の鍵を作りますね﹂
神聖錬金術の道具を持ってきたリアは、扉の装置を調べて、門に
適合する鍵を作り始めた。
その時だった、蛇腹がしまり、ガッチャンと音がして箱が降り始
めた。
﹁おおいっ、リア何をやったんだ。エレベーター動き出しちゃった
じゃん﹂
﹁いえ、わたくしは何もやってません!﹂
ガタンガタンと音立てて、エレベーターが下にどんどん、降りて
いる。
なんかヤバイ空気だぞ。
これってあれか、もしかして下にいる﹃何か﹄が。
﹃上がるボタン﹄を押して、登ってこようとしてるってことか。
661
﹁おい、リア早く、封印の鍵を急げ﹂
﹁急かさないでください、いまやってます!﹂
チーンと地底から、音が響く。
表示は地下百階、いやありえないだろ、オラクル大洞穴最盛期で
も三十階だぞ。
グングンと表示が上がってくる。
﹁うああっ、なんかくるっ!﹂
リアは額に汗をにじませながら、扉に合う鍵を打ち出している。
急げリア、これはマジでやばい。
五十⋮⋮、三十⋮⋮、二十⋮⋮、十⋮⋮、うああ、開くぞ!
﹁鍵が出来ました、封印します!﹂
蛇腹の扉が開こうとした瞬間、リアが装置に差し込んだ鍵を回し
た。
その途端に、バシャッと鉄のシャッターが閉まって、エレベータ
ーは機動を停止する。
静かな洞穴に、ガタンガタンと、箱が降下していく音が響き渡っ
た。
﹁俺さ、いま一瞬、変なもんがチラッと見えちゃったんだけど⋮⋮﹂
みんな見た?
なんか見てるだけで気が狂いそうな、気持ち悪いの乗ってたよね
662
⋮⋮。
くっそ、俺こういう怪談みたいな話、大嫌いなんだよ!
怖くないけど⋮⋮。
﹁このエレベーター。魔素の瘴穴なんかより、よっぽどヤバイだろ﹂
なんか、本当にやばいものが下に居るのだ。
封印が間に合って、ホッとしたわ。
ラスボス戦でもあったほうが楽だった。
なんか、精神的にどっと疲れて、岩棚の洞穴から外に出た。
﹁さて、後は帰るだけだな﹂
首都ブルセールにたかってたモンスターも、あらかたカアラが吹
き飛ばしちゃったし。
トランシュバニアの兵隊に囲まれる前に、お家に帰ろう。
ワイバーン
﹁おい、我が主君。黒飛竜の死体⋮⋮﹂
﹁ああ、ごめんルイーズ、それだけ解体して持って帰ろうな﹂
ワイバーンの内臓も、ビターテイストで悪い味じゃないしな。
これ以上、ルイーズが食事で耐火ブレスを強化してもしょうが無
い気がするけども。
黒飛竜を匠の技で、解体するルイーズを手伝って。
鱗だの肉だのを抱えて、幌馬車に戻ると。
﹁うわー﹂
663
キングクラウン
すでにトランシュバニアの兵隊に囲まれていた。
しかも、前には明らかにこいつ王様だろって、黄金の王冠を被っ
た赤ローブの威厳がある王が、宝玉の杖を持って立っている。
また面倒な事になりそうだなと思ってたら、その王様が俺の前に
跪いた。
いや、もう豪奢な絹のローブが土に汚れるのもかまわず、本当の
土下座だ。
どうしたんだ一体。
﹁トランシュバニア公王 ヴァルラム・トランシュバニア・オラニ
アと申します。勇者様には、この度、我が国の国民を救っていただ
き、感謝の言葉もございません﹂
﹁いや、そのなんだ、土下座するほどのことは⋮⋮﹂
ぶっちゃけ、今回は自作自演だから。
すごい気まずい、なにこれ、気まずいぞ。
何でこんな時に限って、こんなまともな良い王様に当たっちゃう
んだろ。
﹁いや、土下座どころでは。本来なら、この首差し出しても足りぬ
ほどです。罪深きワシは、家臣の甘言に踊らされ、勇者様を亡きも
のにしようと軍を進めることを許可してしまいました。それなのに
勇者様は、攻め返さなかっただけではなく、我が国を救ってくださ
いました。この御恩、いかにして返してよいものやら!﹂
あーまあ、そういう形になっちゃったもんな。
664
この首と言いながら、地べたに額を擦り付けるので、公王の本気
の謝意が伝わる。
⋮⋮というか、ちょっと引く。
デーモンズ・ゲート
﹁まあ、戦争も無事終わったし、魔界の門も封印できたから。全て
水に流すってことで、もうお家に帰りたいんだけどね⋮⋮﹂
﹁なんと寛大な勇者様!﹂
ヴァルラムとかいう王様は、土下座のまま、俺を逃すまいと滑る
ように前に回り込む。
何という、鮮やかな土下座技⋮⋮出来る!
﹁ワシは決めました、どうぞこの国を勇者様の物としてくだされ﹂
﹁ええっ、いやそれは、気持ちは嬉しいけど﹂
いくら公王かなんか知らんけど、勝手に国を譲るとか、一人で決
めちゃダメだろ。
それ以前に、騙したのはこっちだから、すごく後ろ暗いんだよ。
﹁ワシには一人娘がおります。どうぞ、お納めください﹂
﹁いやもうそれは、気持ちだけで﹂
マズイ、また姫が出てきちゃったぞ。
亜麻色の長い髪で、青いドレスを来て、俺より少し年下ぐらいか。
けっこう大きい胸元の発育具合をみると、シルエット姫よりは年
上かな。
顔も可愛いしお淑やかな雰囲気だな、あとメガネかけてる。
665
メガネってこの世界にもあったんだな、初めてみた。
うーん、メガネっ娘か⋮⋮そう思ってたら、すっと公女が微笑ん
だ。
いや、イカンぞ。こんなことやってる場合じゃない。
姫も、美少女も、十分に間に合ってるんだ、これ以上は面倒見切
れない。
﹁おい、シャロン⋮⋮、出れるか?﹂
﹁ご主人様、馬車の準備完了です﹂
荷物は全部積み終えたか。
よし。
﹁ヴァルラム公王!﹂
﹁ハハッ﹂
公王が土下座してるので、兵士もみんな下がって土下座している。
控えい、控えおろう、この勇者の光の剣が目に入らぬか!
﹁この勇者タケル、トランシュバニア公国のすべての所業になんの
遺恨もない。民を救うのに国の違いもない。困ったことがあれば、
いつでも我が城に訪ねてくるがよかろう。では、さらばだ!﹂
サラダバー。
こういうときは、とにかく大声で、それらしいことを叫んでその
場をごまかす。
俺もだんだん、リアルファンタジーに慣れてきた。
なんとか雰囲気で誤魔化して、公国兵士の囲みを突破することが
666
できた。
いや、今回ばっかりは完全なる自作自演で、敗戦に追い込んだわ
けだから。
ちょっとばかり罪悪感が残った。
それに公国とは、いろいろ行き違いはあったが、それは戦争だっ
たのだからしょうがない。
勇者とはいえ俺みたいな若造相手に、地べたに頭を擦りつけて見
せた公王は、素直に好感が持てる。
初めて民のために、頭を下げる王を見た。
正直な話、シレジエ王国の貴族なんかより、こっちのほうがよっ
ぽど立派だ。
困ったことがあったら、本当に助けてやるぞ公王さん。
667
51.異世界で歳を取ること
﹁シャロン、後ろから変に豪華な馬車が追ってきたりしてないよな﹂
﹁来てませんよ﹂
トラブル
﹁空から変なものが落ちてきたりとか﹂
﹁ご主人様、考えすぎですよ⋮⋮﹂
いや、そうでもないんだぞ。
この世界の勇者というのは、常に厄介事が振りかかる。
やあ、戦争が終わった平和が戻ったね!
なんて瞬間が、一番危うい。
※※※
結局、そんな俺の心配は杞憂で、シレジエ王国領内にまで無事帰
ってこれた。
帰りは、戦場となった地帯を直進して通ってきたが、トランシュ
バニア公国の領内は荒れに荒れていて、戦争しようにも当分はそん
なことができる状態ではなかった。
騎士という連中は、進軍するときに、敵の村を平然と略奪するの
リアルファンタジー
だ。
厳しい時代だからしょうがないけど、モンスターとどっちが凶悪
かわかったもんじゃない。
﹁ブリューニュ伯爵は、よっぽど派手にやったんだな﹂
668
デーモンズ・ゲート
﹁釘を打っておいたのに、かなり無茶な攻め方ですね。私たちが、
魔界の門を開かなければ、反攻を食らっていたでしょう﹂
トランシュバニア公国は、終戦でけっこうな領地をロレーン伯領
に削り取られることになった。
名門貴族である、ブリューニュ伯の力が強まるのを、ライル先生
は警戒している。
自身が、シレジエ王国に有利な終戦条約を結んでおきながら。
いっそのこと、負けてくれたほうが良かったとすら言ってるあた
り先生だよな。
俺としても、あの麻呂貴族に、美味しいところを持っていかれた
のは残念だが。
反攻で死ぬのは王国の兵士なので、とにかく致命的な崩壊がない
うちに戦争が終わってくれてよかった。
確かにあのおじゃるが、変に増長して、問題を起こさなければい
いんだが。
そう思いつつ、あの麻呂の顔を見るのも嫌だったので、ロレーン
の街は素通りした。
さわたりしょうかい
一方で、オラクル子爵領のスパイクの街には立ち寄った。
崩れ放題だった石壁も、佐渡商会の全面的な援助により、しっか
りと補修されて、街の市場にも活気が出てきている。
防衛力を高めるために、小さいが砲塔も立っている。
居城も補修するだけでなく、内装を綺麗に作り変えろとオルトレ
ット子爵に言ったのだが、質素倹約を金科玉条とする子爵は、あま
り言うことを聞いてくれない。
669
﹁おお、勇者タケル様。このようなむさ苦しい城に、ようこそおい
でくださいました﹂
﹁通りかかったんで、少しお邪魔する﹂
子爵、むさ苦しいとわかっているなら、せめてメイドぐらい雇お
う。
うちが資金出すって言ってるのになあと思いつつ、相変わらず兵
士が運んできた渋い紅茶を啜りながら、俺は子爵の話を聞くことに
した。
デーモンズ・ゲート
﹁タケル様、今回はトランシュバニア公国の魔界の門とかいうもの
を討伐されたそうで﹂
﹁ああっ、その帰りなんだ。ところで、領内の治安はどうだね﹂
あまり、﹃魔界の門﹄の話は蒸し返して欲しくない。
尊敬の眼差しで見つめられても、本当は自作自演だから心苦しい。
﹁ハッ、タケル様がオラクル大洞穴を鎮めて下さったおかげもあり
まして、領内は至って平穏で、復興も進んでおりまする﹂
﹁そうか、それはよかった⋮⋮﹂
﹁微力ですが、このオルトレットにできる恩返しがあれば、何なり
とおっしゃってください﹂
オルトレット子爵は、すっかり俺の派閥に付いている。
まあ、こんだけ資金的にも後援してるんだから当たり前だが。
ライル先生が、子爵に指示をだす。
670
﹁オルトレット子爵は、増長するブリューニュ伯が、余計なことを
しないように抑えになってください。あと、同じく隣領のロレーン
騎士団も味方につけておいてくれると助かります﹂
﹁ロレーン騎士団であれば、拙者の元同僚も多くおりますれば、勇
者様のご意向に与する者を増やすよう全力を尽くしますぞ﹂
そう畏まる子爵に、ライル先生は満足げに頷いた。
﹁タケル殿、私は王都に帰らなければなりません﹂
﹁えっ、先生とまた別れるんですか﹂
ライル先生が行くなら、いっそ王都に付いて行きたいぐらいなん
だが。
﹁仕事があるんですよ﹂
﹁えー、せっかく戦争が終わったのに﹂
﹁公国との戦争終結が、むしろスタートなんです。戦争で疲弊した
王国に、ゲルマニア帝国が介入してこないように、外交が忙しくな
ります﹂
﹁そうなんですか﹂
まあ、先生ほど動ける人材って居ないんだろうからな。
また戦争になるのはゴメンだし。
﹁タケル殿も、王都に近い場所に居てくださいね。できれば、自領
のオックスの街辺りでお願いします。他国から、王族の使節が来る
かもしれません。そうなると格式的に姫とタケル殿に来てもらわな
いと﹂
﹁そういう儀礼があるなら、しかたないですね﹂
671
堅苦しい王都にはなるべく滞在したくないって、俺の意をちゃん
と汲んでくれる辺りは先生だから助かる。
まあ、先生の仕事が忙しいなら、俺は相手してもらえないだろう
し、自領の城に篭もるか。
﹁悪いニュースばかりではありませんよ、実はゲルマニア帝国にも、
モンスター異常発生が確認されたとの報告もあります﹂
﹁えっ、カアラお前がやったのか?﹂
モンスター異常発生といえば、魔素溜まりだろ。
めいむの
帝国の版図は広大だから、どっかに封印された遺跡があってもお
かしくない。
ふくまでん
﹁いえ、アタシは関わってません。帝国の魔素溜まりだと﹃迷霧の
伏魔殿﹄あたりかしら﹂
カアラはやってないという。
まあ、人間社会に潜んでる魔族は他にもたくさん居るんだろうか
ら、他のやつの陰謀かもしれないがちょっと気になる話だ。
﹁なあ、カアラ。なんで﹃魔素の瘴穴﹄や﹃魔界の門﹄は狙ってて、
その伏魔殿は関わってないんだ﹂
﹁単純な理屈よ、﹃迷霧の伏魔殿﹄はゲルマニア帝国の勇者によっ
て封印されたのが、たかだか五十年前だから、帝国の兵士や教会に
よって厳重に管理されてて狙えなかったの﹂
﹁なるほど、狙えたら狙ってたわけか﹂
﹁狙えたらね。伏魔殿も大きいから、魔王復活には適してるとは言
える。でも、忘れ去られて半ば放棄されてた、シレジエ王国の魔素
672
溜まりの方が、アタシには都合が良かったのよ﹂
﹁じゃあ、厳重に管理されてた伏魔殿が開かれたのも、変な話だな﹂
﹁アタシみたいな天才魔族は、そうは居ないから。管理してる側の
人間に、解放した奴が居ると考えるのが自然ね。人間がどうやって
解放手段を知ったのか不思議だけど、アタシが教えた人間から又聞
きしたのかもしれないし﹂
まったく、どこもかしこも厄介な話だらけだな。
その手の陰謀を、いちいち相手にしてたらキリがない。
﹁先生、俺は勇者としてその魔素溜まりを、封印に行かなくていい
んですか﹂
﹁ゲルマニア帝国が乱れてくれるのは、こっちに好都合なのですよ﹂
たお
そういって先生は、虫も殺さぬ様な微笑みを、嫋やかな手で隠す。
黒い⋮⋮。
というか、魔素溜まりの解放を、良いニュース扱いするのも不謹
慎だよね。
先生にそれを言っても、いまさらだけど。
俺も帝国の伏魔殿とやらは、面倒だからどうでもいいや。
ゲルマニア帝国は強いっていうから、自国で守れるだろうし、大
きな国なら封印する勇者ぐらいどっかに居るだろ。
﹁じゃあ、俺はもうオックスの居城に帰りますね﹂
オルトレット子爵は、ぜひ泊まっていけとか言うけど。
お前のとこのベッド硬いんだよ。
673
もっと豪奢な寝床と、お風呂を用意してから言っていただきたい
もんだ。
もちろん、その時の建造はうちの商会に依頼して欲しい。
﹁では、私は王都で一仕事してきますから、タケル殿はゆっくり骨
休めしてください﹂
﹁はい、ではありがたく﹂
これからまた仕事の先生には悪いけど、俺もしばらく休ませてい
ただきたいものだよ。
※※※
﹁お帰りなさいませ勇者様⋮⋮﹂
要塞街オックスの入り口まで来ると、シルエット姫とジルさんが
迎えてくれた。
ワイバーン
﹁ジルさん、黒飛竜の鱗がたくさん取れたから、後で鎧作ってあげ
るよ﹂
わらわ
姫の護衛役も大事だから、装備強化は必要だろう。
﹁感謝する勇者殿﹂
﹁あらっ、ジルにはお土産があるのに、妾にはありませんの?﹂
そう言われると、俺は困ってしまう。
非戦闘員のシルエット姫に、装備品を作って渡すわけにもいかな
いし。
674
そう言えば、姫は安全な場所に居ろって、俺が頼んでるんだから。
留守番してた女の子に、お土産ぐらい買ってくるべきだった。
やれやれ、俺も気が利かないな。
しょうがないけどね、女の子の扱いなんか、経験ないから知らん
よ。
﹁やだ、勇者様。冗談ですよ、妾はそんな贅沢は申しません﹂
いや、姫だから贅沢したほうがいいんじゃないか。
そんな冗談を言う程度には、ネガティブもマシになってきたみた
いだからいいけど。
﹁まあ、なにか埋め合わせをしますよ、姫様﹂
﹁あのじゃあ、妾も十六歳になったので、何か誕生日の記念を頂け
れば⋮⋮﹂
えっ、そうなのか。
俺が少し呆然としているのを見て、何を勘違いしたのか、姫はさ
っと表情を暗くした。
﹁妾が十六歳になったらマズかったでしょうか。もしかして、歳を
取ると勇者様の守備範囲から外れてしまうとかそういう﹂
﹁いやいや、やめてくださいよ。俺は成熟した女性が好きです﹂
奴隷少女を使役してるせいで、ただでさえ変な評判が立ちそうな
んだから。
そっちの噂を立てるのはやめてくれ。
﹁そうですか、成熟⋮⋮﹂
675
シルエット姫は、とても豊かとはいえない純白のドレスの胸元を
触って、かなり微妙な顔をしている。
成熟と言えば、それはそれで落ち込むのかよ、メンタル管理の難
しい姫様だなあ。
﹁姫、魅力は人それぞれです。姫も、とてもお綺麗だと思います﹂
﹁そうでしょうか! では、妾も勇者様のプレゼントを楽しみにし
ております﹂
うーん、プレゼントね。
俺は、こういうの選ぶの苦手なんだよなあ。
※※※
馴染んだオックスの居城の自室でだらしなく寝そべり、旅の疲れ
を癒しながら、俺はちょっと考えこんでしまった。
姫が十六歳になったと聞いた時。
俺はこの世界でも、人は歳を取るのだと、愕然としたのだ。
考えてみれば、当たり前のことなのに。
﹁俺も、もうたぶん十八歳になってるよな⋮⋮﹂
この世界に来て、すでに季節が一巡している。
シレジエは、乾燥している上に温暖で、冬も夏も比較的過ごしや
すいので意識していなかった。
俺は今何歳だ、もしかしたら、もうとっくに高校卒業してる歳な
676
んじゃないか。
気が付かないうちに、時間は過ぎ去っていく。
﹁ご主人様、なにかお悩みですか﹂
シャロンが、なにやら大きな箱を抱えてやってきた。
﹁うん⋮⋮そうだな。姫へのプレゼントを何にするか、少し悩んで
てな﹂
シャロンに、今の俺の悩みを語ってもわからないだろう。
自分でも分からないんだ、この世界で歳を取ることをこんなに悩
むなんて。
﹁それなら、ちょうど集めてきて参りました﹂
何を集めて来たのかと思ったら、魔宝石の装飾具の類が箱一杯に
詰まっていた。
なるほど、姫との話をどこかで耳にして、準備してきたのか。
本当に、シャロンは出来すぎだ。
﹁でも、プレゼントって、こう自分でお店を回って選ぶものじゃな
いのかな﹂
﹁ご主人様、お店を回ってとおっしゃいますが、この街の商店は⋮
⋮﹂
そうだった、この街は俺の領地だから、市場を九十九%うちの商
会が独占してるんだ。
自分の店を回ってどうするって話だよな。
677
﹁なんだか、ショッピング気分も、へったくれもない感じだ﹂
こんな富豪的な悩みを抱えることになろうとは、人生はわかんな
いもんだ。
﹁とりあえず装飾具を持って来ましたが、姫様にふさわしいドレス
も各種ご用意できます﹂
﹁うーん、じゃあ。これにしよう﹂
俺が箱から選んだのは、シルエット姫に似合うと思った、サファ
イヤの碧い指輪だった。
シャロンが、息を呑んでこっちを見つめる。
﹁ゆっ、指輪を姫に贈られるんですか!﹂
﹁違う、シャロン、そんな意味じゃないぞ﹂
﹁じゃあ、どういう意味なんですかご主人様、そりゃ持ってきたの
は私ですけど、指輪だけは看過できません﹂
﹁だから違うって、ほらリアの奴に﹃祈りの指輪﹄をあげたことが
あっただろ﹂
﹁あっ、そうでした。あのシスター様、毎回しつこく自慢しますよ
ね!﹂
﹁そうなんだよ。アイツあの指輪を、ことあるごとにからかいのネ
タにするんだ。いい加減ウザいから、姫にも指輪を贈って、そんな
特別の意味はないんだってことを示す﹂
俺がそう言うと、なんだかシャロンが手をこまねいて、モジモジ
678
としはじめた。
なんだその反応、わからないぞ。
﹁あのじゃあ、もしご主人様におねだりしたら、私でも指輪を頂け
たりするんでしょうか﹂
﹁シャロンは別に俺に頼まなくても、いくらでも店の指輪を調達で
きるだろうけど﹂
シャロンの琥珀色の眼が、ギラッと輝きを増した。
うわ⋮⋮。
﹁ご主人様、そんな酷いごまかし方したら、いくら私でも本気にな
りますよ!﹂
﹁お前にも似合う指輪を選ぶ、やっぱり琥珀かな⋮⋮﹂
シャロンの本気は、俺にはちょっと受け止め切れない。
※※※
誕生日のプレゼントとはいえ、女性に指輪を送るなんて緊張する。
俺はそれなりに雰囲気を考えて、見晴らしのいい居城のバルコニ
ーにシルエット姫を呼び出すと、綺麗な箱に詰めた指輪をプレゼン
トしたのだが。
﹁まあ、指輪なんて、妾なんて新しい首輪で結構ですのに⋮⋮﹂
もはや、予想通りの返答を返してくるネガティブ姫様。
その革の首輪、誤解されると嫌なので、早く捨ててください。
﹁その指輪は、喜んでいただけませんかね﹂
679
﹁滅相もありません、この美しい指輪は家宝として、一生大事に飾
っておきます!﹂
いや、付けてくださいよ。
もういいや、俺が指にはめます。
相変わらずエルフ耳を隠している姫の白いフードを取ってあげて
から。
姫の右手の指にはめてあげた。
﹁良かった、サイズが合うかどうか気になってたんですけど、ピッ
タリですね﹂
﹁タケル様⋮⋮、指は、そこじゃありませんわ﹂
俺が右手の指にはめた碧い指輪を一旦外して、姫は左手の薬指を
差し出して、はめてくれと促す。
ちょっとドキッとさせられた。
そりゃ、はめてと言われたらはめるけど。
左手の薬指は、この世界でも、やっぱりそういう意味なのかな。
﹁シルエット姫でも、そういうアピールをされるんですね﹂
﹁タケル様がしろとおっしゃったことを、してるだけですわ﹂
﹁いや、俺は結婚しろとは⋮⋮﹂
﹁そうじゃなくて! 自由にしたいことをしろと、いつか妾におっ
しゃってくれたじゃありませんか﹂
姫の桃色に輝く髪が風に揺れた。
俺の目の前の小さな女の子の碧眼は、沈む夕日と俺の姿を照らし
680
だす。
姫の瞳は、俺が贈ったサファイアなんかより、よほど綺麗だ。
その潤んだ瞳の輝きは、自分で生きようとし始めた、女の子の意
志を感じさせる。
見目麗しいハーフエルフのお姫様と結婚なんて、ちょっと大変か
もしれないが、これ以上ない僥倖というものだろう。
貴重なストロベリーブロンドだし、憧れのヴァリエール嬢にも少
し似てる。
﹁確かに、俺はそう言いましたね﹂
﹁妾は、窮屈な身の上ですので、タケル様にずっとついて回るわけ
には参りません。ですから、こんな伝え方でもしない限りは、伝わ
らないと思いました﹂
姫はここまで言ってくれる、女性の心の機微に疎い俺にだって、
好意を持ってくれているのは分かる。
もしここで、俺が姫の好意を受け入れたら、それですぐ結婚にな
ってしまうのかもしれない。
ライル先生が、もう躍起になって結婚のお膳立てをしているし、
俺しだいなのかもしれないが⋮⋮。
﹁ああ、でも、もちろん勇者様のお荷物になりたいわけではなくて
!﹂
﹁いやいや、大丈夫ですから。お気持ちすごく嬉しいです﹂
姫は、気をつけないと、すぐネガティブスイッチ入るからな。
こうやって姫のほうが慌ててくれるので、むしろこっちがドギマ
681
ギしなくて済むのは、ありがたいんだが程度の問題だ。
﹁あのそうじゃないんです、ごめんなさいごめんなさい、ハーフエ
ルフのゴミの分際で、生意気なことを申しました。あのやっぱり指
輪じゃなくて、首輪で、いやもう妾なんて鼻輪で結構です!﹂
﹁姫、とりあえず落ち着こう﹂
首輪はまだ分かるけど、なんだよ鼻輪って。
どんな変態だ、いくら俺でも引くぞ、誰の悪趣味⋮⋮。
⋮⋮ああっ、そうか、リアの奴だ!
あいつ、また変なこと吹き込んだんだな、姫で遊ぶなとあれほど
注意したのに⋮⋮。
﹁だって聖女様に聞きました、タケル様はそういうご趣味なのでし
ょう?﹂
﹁やっぱりか、それはリアの嘘ですよ!﹂
﹁男の方はそうなのですよね、妾わかっております。恥ずかしがる
ことありません。ご主人様がそうと望んでくださるなら、妾は喜ん
で、この場に跪いて、ブヒブヒと鳴きましょう!﹂
﹁いや、どんな酷い勇者だよ! 俺にそんな趣味ないですから、姫
様はリアに騙されているんです!﹂
うわあ、本当に跪いてしまった。
ストロベリーブロンドの髪を、俺の足に擦りつけてくる姫。
これはこれで可愛い⋮⋮、いや、馬鹿なことを言ってる場合じゃ
ない。
この方向性はマズイ、変なことを覚える前に、止めさせないと。
682
﹁姫、ここは少し冷えてきましたから、豚の真似はやめて中に入り
ましょう﹂
﹁ブヒーです、ブヒン!﹂
やっぱり、このネガティブ姫様は、ちょっと困るよなあ。
シルエット姫は、純真で騙されやすい人なだけで、それを利用し
て遊んでるリアが悪いんだけど。
俺は上着を脱ぐと、跪いて愛らしい子豚の鳴きマネをやりだした
姫の肩に、上着をかけてあげて立ち上がらせた。
お願いだから、早く人間に戻って姫。
﹁ブヒ?﹂
くっそ、リアのやつ⋮⋮良い雰囲気が全部ぶち壊しじゃねーか。
アイツ見つけ次第、絶対取っちめる!
683
52.マジックアームストロング砲
﹁久しぶりねタケル﹂
﹁おや、サラちゃんじゃん﹂
本当に久しぶりに会った。さらさらの金髪の女の子である。
久しぶりに見たらさぞかし成長してるかなーと思ったら、さほど
背が成長していないので、将来が少し心配。
俺とのコネクションを使い義勇兵団の兵長に就任して、人事権を
欲しいままにしたサラちゃんであったが。
戦闘も激しさを増しているおり﹁ロッド家の娘を戦死させたら、
申し訳がない﹂というルイーズの意見があったので。
ロスゴー村の代官にして防衛隊長という地位に無理やり栄転させ
てまで、故郷に引っ込ませたのだ。
ちなみにロスゴー村は、俺の領地じゃなくて、ダナバーン侯爵の
領地なのだが、代官職に付けるのを特別にお願いした。
俺たちがやってたロスゴー村の管理を放りっぱなしだったし、サ
ラちゃんだって義勇隊を引き連れて故郷に錦を飾れと勧めれば、素
直に言うことを聞くと思って。
それでも﹁私はタケルの近衛だよ﹂と文句を言って、栄転を渋っ
たサラちゃんに。
成人したら迎えに行くとか、適当に調子の良いことを言い含めて、
納得させるのに苦労させられた。
684
サラちゃんの実家のロッド家は、ぶっちゃけ、ただのちょっと大
きな農家なのだが。
冒険者時代に俺も、ルイーズも、ライル先生までも、雇い主とし
て心底お世話になっているので、それなりに配慮が居るのだ。
まだ十三歳かそこいらなのに、ロスゴー村の代官として義勇銃士
隊︵これも、ロスゴー村の子どもなんだけど︶を率いて君臨するサ
ラちゃんは、村を発展させてロッド家を村一番の富農へと盛り立て
たそうであるが、それはまた別の話である。
﹁ナタルさんに頼まれて、新型の大砲と砲弾を持ってきてあげたの
よ﹂
﹁おお、もしかしてアームストロング砲のことか﹂
ライフリングが施された後装式の大砲である。
ついに完成したのか。
ちなみに、ナタル・ダコールは、俺が商人時代にお世話になった
技師だが。
彼も、俺がイエ山脈の権益を掌握したことで、ロスゴー村の小さ
な鉄鉱山代官から、イエ山脈全体の鉱山組合ギルドの長にまで出世
している。
ナタルは優れた技師でもあるので、いまだに鍛冶屋ギルドと相談
して大砲や鉄砲を作らせる仲介役をしてもらっている。
﹁大変だったわよ、すっごく重いから。運ぶための馬をかりあつめ
て、大きな馬車を作るところから始めないと行けなかったんだから
ねー﹂
﹁それは、申し訳ないことをした。できれば馬車ごと買い取りたい
な、代金は言い値で払うよ﹂
685
固定砲台を運べるほどの大型馬車なら、使い道はかなりある。
さてもとりあえずと、ライフリング砲を見に行ったら、ものすご
い長大な砲台に仕上がっていた。
この丸い砲弾の形も、なんかあれ?
なあ、サラちゃん。これ俺とライル先生で協力して設計したのと、
形状がぜんぜん違うんだけど⋮⋮。
﹁タケルの注文通り、アームストロング砲になってるでしょ﹂
﹁なんかぜんぜん形状が違うんだけど﹂
﹁でも仕様書ってやつに、ちゃんとそう書いてあるじゃん﹂
﹁違うよ、これは俺のイタズラ書きの方だ。読まれないようにわざ
と上位文字で書いたのによく読めるな﹂
すなわ
﹁士別れて三日なれば、即ち、まさに刮目して相まつべし﹂
そら
﹁うわ、頭良さそうなこと言いやがって⋮⋮、子どもが十八史略と
か諳んじてんじゃねーよ﹂
﹁私もライル先生に教えてもらってるのよ、いまも﹃宿題﹄が送ら
チート
れてくるし、元のまんまじゃないわよーだ﹂
﹁そうか、サラちゃんもライル先生の教え子だったな﹂
ちなみにこの世界基準で、農村の子が上位文字まで読み書きでき
るのは、普通に天才である。
サラちゃんがもともと賢かったのか、先生の施している教育法が
チートなのか、微妙なところだ。
686
それにしても、鍛冶屋さんたち。
他に仕様書はあったのに、俺のヘッタクソなイタズラ書きのほう
参考にして作成したのか、もしかして。
まほうらいかん
らいかん
﹁この後部についてる魔法雷管ってのは、なんなんだ﹂
﹁ああそれ、どうしてもタケルの言う雷管ってのが作れなかったか
ら、苛立ったナタルさんが、これで起爆すればいいだろうって火の
鉄ワンドをぶっこんだの﹂
本当にこれ、ちゃんとしたライフリング砲になってるんだろうな。
素人の俺が見ても、構造がおかしい⋮⋮。
﹁ライフリングの溝はあるよな﹂
﹁その溝ってのは、多分機能してないの。でも、発射と同時に弓魔
法﹃スパイラル・アロー﹄がかかるから大丈夫﹂
当初の構想と別物じゃねーか。
これはもうアームストロング砲じゃない、マジックアームストロ
ング砲とでも言うべきか。
﹁タケルが﹃魔素の瘴穴﹄で採ってきた、変な金属も適当に参考に
して外装を張ってあるって﹂
﹁ああ、あの耐侵食性の合金か。きちんと錆止めできてるなら、あ
りがたいけど﹂
この世界の鍛冶屋さんってきちんと設計して送っても、それを踏
まえずにアバウトに作るんだよ。
精密な大砲を作るのに、向いてないことこの上ない。
﹁とりあえず、暴発する危険は少なくなったそうよ﹂
687
﹁危険があるのかよ⋮⋮﹂
サラちゃんは口を濁して﹁後装式ってやつは、ガス漏れがちょっ
とね⋮⋮﹂と言う。
本当に大丈夫なのか。
まあいい、とにかく要塞街オックスは、置ける場所ならたくさん
あるので、砲台に据えて試し撃ちしてみよう。
砲手には、耐火の鎧を着せれば、暴発のときもまず死ぬことはな
い。
ある意味で、リアルファンタジーは魔法があるので、リアルな中
世よりは安全に大砲を運用できるとは言える。
科学技術の不足を魔法で補うとは、なんとも不思議な気分だ。
ライフル
﹁ああ、魔法と言えば魔法銃だけど、製造はもう少し待って欲しい
って﹂
﹁あーそうか、しょうがないね﹂
大砲より、小銃のほうが、精密なものを作るのは難しそうなんだ
よな。
そこらへん、俺は自分で作れるわけじゃないから、専門家に任せ
るしかないのがもどかしい。
﹁その代わりと言ってはなんだけど、面白い砲弾もできたわよ﹂
﹁えっ、どんなの?﹂
とあみ
﹁タケルの企画書にあったでしょ、投網弾ってやつ﹂
﹁ああ、砲弾の代わりに網が撃ち出されるやつだな﹂
688
俺が中途半端に覚えている先進知識に、そういうものがあったの
だ。
たしか日本の警察が使ってた、網を撃ち出すというアイディアを、
形にしてくれたらしい。
﹁この防炎加工の網がそうなんだけど、発射されると敵に覆いかぶ
さるように広がる﹂
﹁へーすごいな、なんかベトベトしてるね。あと、トゲがついてる
のはなに?﹂
﹁あっ、そのトゲは絶対触っちゃダメ。アシナガオオドクグモの猛
毒だから、刺さったら死ぬわよ﹂
﹁ああ、もしかしてオラクル大洞穴に大量に居たやつか。あれ、た
しかウェイクが盗賊ギルドに持って帰ったんじゃ﹂
﹁ライル先生と盗賊ギルドが協力して作ったんだって。蜘蛛の粘性
のある糸を絡めてあるから、ワイバーンに乗る竜騎士や、大型の飛
行モンスターだって、絡みついたら落ちるわよ﹂
なるほど空飛ぶ敵に対しては、弾を当てるより面の攻撃が有効な
のはわかる。動きを封じるだけでなく、猛毒の攻撃まで追加する陰
湿さ。
俺は、ここまで凶悪な武器を設計したつもりはないんだが⋮⋮。
﹁他にも、ぶどう弾って、たくさん小さい弾が出るのもあるわよ﹂
﹁えっ、これ⋮⋮散弾銃を作れって、俺が言った奴だよな﹂
﹁それの大砲用、もちろん小銃に使う小粒の弾が九発入ったのと六
発入ったのも試作してある﹂
﹁マジか⋮⋮﹂
689
ぶどう弾ってのは確か、ゲームの大砲にあったとおもう。有効射
程は短いが、対歩兵用に、弾幕が張れる弾だ。
ショットガンのアイデアで、大砲用の弾まで作ったのか。
確かに旧式の大砲は、石でもなんでも詰めればとりあえず弾とし
て使えるという利点がある。
パチンコ玉を詰めて打ち出してもいいわけだ。
﹁あとこれ先生が、火縄が濡れて使えなくても、槍として突き刺し
て使えるようにって、ナイフを銃口の先に取り付けるアタッチメン
ト﹂
﹁銃剣じゃないか⋮⋮、俺こんなアイデア失念してたのに﹂
今の銃士隊は、接近戦用に剣を装備している。
場合によっては、同時に槍を持って行ったりもしているが、確か
に銃をそのまま槍に使えるほうがはるかに効率的だ。
しかし、この時代の人間であるライル先生が、どうして銃剣の発
想に至ったのか。
ライル先生にそんな話した覚え無いのに⋮⋮。
チート
まあ、いまさら考えてもしょうが無い。
すべては、ライル先生の魔改造だ。
ライフル
先生が、魔法銃より先に新型大砲や砲弾のロールアウトを急がせ
たのは、おそらくゲルマニア帝国との戦争の可能性を考えてのこと
だろう。
先生は、必要ないことは言わないので、これは俺なりの推測だが。
690
おそらく帝国が攻めてきても、王都とオックスの要塞を最終防衛
線にして敵を食い止めるつもりなのだ。
そうすれば、後背地のエスト侯領の食料と毛織物、イエ山脈の鉱
物資源は確保できるので、シレジエ王国はあと十年戦える。
⋮⋮ぐらいの作戦だと思う。
ひっぱく
今は平和そのものに思えるのだが、ライル先生の判断基準だと﹃
急いで備える程度には﹄国際情勢は逼迫してると考えるべきか。
﹁ねえ、タケル大丈夫?﹂
﹁ああすまん、ちょっと考え事をな﹂
﹁少し疲れてるんじゃない、ゆっくり休んだ方がいいわよ﹂
﹁サラちゃんも、しばらく休んで行くといいよ﹂
馬車の旅は、結構疲れるものだからな。
今はまだ戦争の心配もないし、サラちゃんが滞在していっても大
丈夫だ。
﹁ちょっとは居るけど、砲台の試射が無事に終わったら、私もすぐ
帰る﹂
﹁あれ、そうなんだ﹂
ちょっと不思議だな。
あれほど、栄転を嫌がってたのに。
下手すると、また居座るかと思ってたぞ。
﹁ロスゴー村の代官の仕事も面白くなってきたところだし、久しぶ
りにタケルの顔が見れたら満足した。私も、もっと勉強しないと、
691
タケルの側にいても邪魔になるだけでしょー﹂
﹁ふうん、サラちゃんも、ちょっと大人になったんだな﹂
外見はあまり変わってないけど、中身は成長してる。
俺の周りには、サラちゃんより年上のくせに、もっと子どもっぽ
い連中が多いから。
俺自身もそうだったりするかも。
﹁そうよ、どうせ成人したらタケルが迎えに来てくれるんでしょう。
その頃には、私も先生ぐらいできるようになっておくわ﹂
﹁ライル先生ぐらいに成るのはちょっと志が高すぎるが、まあ使え
るようになったら使わせてもらうよ﹂
﹁あら、私が使わせてあげるのよ。忘れないでね﹂
なか
﹁はいはい、ロスゴー村の行政をしっかり頼むよ。一応、ライル先
生も俺も、あそこに仕事を残したのを半ばにして出てきちゃったか
ら、気になってはいるんだ﹂
けんさん
﹁ええ、今はそういう面で役に立って置く。二年なんて、あっとい
う間だし。それまでに私も研鑽を積んで、いい女になっておくから、
楽しみに待ってなさい﹂
あれ、二年で成人って。
ああそうか、この世界は十五歳が成人だった。
今はまだ子どもにしか見えないし、十五歳ではあんまりいい女に
なってるとは思えないんだが⋮⋮。
小さくてもレディーのつもりらしい女の子に、そういう余計なこ
とを言わない程度には、俺も成長している。
692
おとな
﹁タケルも、次に会うときには、もっといい男になっていてね﹂
﹁えっ、ああそうだね﹂
サラちゃんが去り際に言った言葉が。
妙に俺の耳に残っていた。
おとな
サラちゃんが十五歳になる頃には、俺も二十歳に成っているはず
なのだ。
※※※
﹁さて、どうするかなあ﹂
なんだか最近、人に会うたびにゆっくり休めと言われるのだが。
俺は、そんなに疲れた顔をしているのだろうか。
オックスの居城は、とても居心地のいい空間で、お風呂もベッド
も最高だし。
むしろオラクルちゃん辺りには﹁ちかごろ、寝てばかりでたるん
どういん
どるのう﹂と言われてしまう始末で︵まあ、そういうオラクルちゃ
んも、俺の横で寝てばかりなのだが︶。
休憩が足りてないとは思えない。
疲れたといえば、オラクルちゃん直伝の、導引マッサージとやら
で︵変な声が出てしまうほど心地よくてヤバイ︶体調は万全だしな。
こういう時は、休むより何か、やりたいことをやるべきなんだろ
う。
693
俺は、さっそくルイーズを呼ぶことにした。
﹁我が君、およびか!﹂
﹁うん、実はそろそろシュザンヌとクローティアに騎士叙勲をやろ
うと思うんだけど﹂
二人はまだ小さい身体だが、軽量で防御力が高い﹃黒杉の大盾﹄
を手に入れてから十分活躍ができるようになってきた。
今のレベルなら、正式に騎士にしても、張り切りすぎて戦死しち
ゃうってこともないだろうと思う。
﹁タケル⋮⋮、お前、本当に成長したな﹂
﹁えっ、そりゃ二人の働きには、報いてあげないと﹂
ルイーズは、俺の前まで来て、そっと肩に手を触れた。
あまり褒めてくれないルイーズに、褒められるのは嬉しいけど?
﹁それもあるが、騎士にするのに、いきなり本人に言わず、先に世
話役の私に声をかけたことだ﹂
﹁えっ、うん﹂
﹁若い二人は、まだ騎士叙勲の作法を知らない。いきなり本人に言
うより、私がそれとなく教えてからのほうが良いのだ。我が主君が、
そういう細やかな配慮をできるようになるとは⋮⋮私は、本当に誇
らしい﹂
﹁ああ、まあね﹂
いや、そこまで考えてなかったんだけど、まあなんとなくだ。
ルイーズの茜色の瞳が潤んでいる、泣くほど感動したのか。
694
﹁よし、盛大な騎士叙勲式としよう。準備しておくからな﹂
﹁頼むよ﹂
こうして、城の赤絨毯が敷かれた謁見の間で、シュザンヌとクロ
ーディアの二人は正式に俺の騎士となった。
二人も厳粛な受勲式で、誓いの言葉を述べて、それなりに感激に
震えていたが。
なぜか後ろでルイーズが、激しくしゃくりあげて号泣していたの
が印象的だった。
卒業生よりも感極まっているお母さん的なアレだ。
ルイーズは、普段冷静な騎士に見えて、あれですごく感情豊かな
んだよなあ。
﹁よっし、シュザンヌ、クローディア。騎士のお祝いに、何でも好
きな事を望むといいぞ。俺ができることなら叶えてやろう﹂
世界を半分くれてやってもいい。
まあ、そういう誘いは、男の世界を半分とかになるからろくなこ
とはないのだが。
シュザンヌとクローディアは、ちょっとコソコソと相談していた
が、意を決したようにシュザンヌが代表して言う。
﹁ご主人様と、一緒にお風呂に入りたいです﹂
﹁いいけど、そんなことでいいのか﹂
ぶっちゃけ俺は二人へのお祝いに﹃黒杉の長槍﹄とか、こっそり
切ってきて作ってあるんだが。
695
それはそれとして、お風呂でもいいか。
よく考えたら、二人は護衛に散々役立ってもらってるのに、そう
いうのやってなかったもんな。
﹁あと、ルイーズ団長とも一緒に入りたいです!﹂
クローディアが、そう言うので、ルイーズは眼を丸くしていた。
そういや、ルイーズがちかごろ風呂に入ってるの見たことないん
だが、大丈夫なのか。
※※※
﹁どうするルイーズ?﹂
もう、風呂焚き番のロールはダッシュで向かってるが。
無理強いするつもりはないぞ。
ルイーズの裸体とか、異世界に来た時からの念願レベルで、めっ
ちゃ見たいのが本心だが。
二人の門出の祝いのときに、自分の欲望を優先するほど、俺も落
ちちゃいない。
﹁そんなことでいいのなら構わんが、私は風呂はさほど好きじゃな
いんだが﹂
そう言うと、汗臭い感じだけど。
シレジエ王国の気候はかなり乾燥してるから、お湯で拭くだけで
十分だったりする。
696
俺が風呂に入りまくってるせいで、うちの奴隷少女たちはみんな
風呂好きに成長してしまったが、ルイーズに限ってはそうではない。
大人になると、新しい風習を取り入れるのには、抵抗があるのか
もしれない。
ルイーズは、うちでは数少ない﹃大人の女性﹄なのだ。
あるじ
﹁よし、ルイーズもいい機会じゃないか。一緒に入ってやれよ﹂
﹁我が主が、そう言うのであれば⋮⋮﹂
あれだよ、下心とかないからね。
ごめん、本当はあるけど、今回はさすがに極力控える。
﹁なあ、我が主⋮⋮、湯浴みとはいえ、他の人前で脱ぐのってわり
と抵抗あるな﹂
﹁ルイーズ、隠せば良いからな、わかるよね﹂
意外にも、ルイーズは可愛らしい真紅のブラジャーをつけてるん
だよな。
ちなみに、この世界にも、ちょっと野暮ったいデザインではある
がブラジャーは存在する。
あくまでも知的好奇心、いや商売の種になるかと思って、リアに
こっそり聞いたら教えてくれたのだが。
ブラシェールと呼ばれる実用的な女性用下着を作って、教会のシ
スターや貴族の間に広めたのは建国王レンスであったらしい。
それまで、貴婦人は美しい体型を維持するために拘束具のような
窮屈なコルセットを身に着けていたので、富裕層の女性の間に爆発
的にヒットしたそうだ。
697
一方で、庶民はシャツを着ているだけでパンツすら身に着けてい
ないというのが、リアルファンタジーの格差社会なのだ。
突然こんな解説を始めてしまったのは。
もう、ルイーズがそっとブラを外したのを垣間見てしまった感動
を、なんと表現したらいいのか言葉が出ないからなのだった。
頬を染めて恥ずかしがるなルイーズ、ギャップで本当に萌えてし
まうから、そんな仕草は止めてくれ。
ルイーズって、俺が思ってたより、本当にお嬢さまなのかもしれ
ない。
女騎士って、ジルさんみたいに、ガハハハみたいな勢いで︵ガハ
ハハとは言ってない︶鍛えぬかれた裸体をさらけ出して、平気で風
呂に入ってくるみたいなイメージだけど。
ルイーズには、ちゃんと恥じらいがあるんだよなあ。
﹁ルイーズ違う、大きなタオル巻いて隠すんだよ!﹂
﹁ああっ、そうかすまない﹂
ルイーズがなぜか小さいタオルで、大事な部分だけ隠そうとする
から。
身体のラインが綺麗に見えてしまった。
俺も、思わず目を逸らしてしまった。
なんだこれ、恥ずかしい。
ルイーズの身体は、もちろん鍛えられて戦士の身体ではあるんだ
けど。
胸とかお腹にかけてのラインとか、しっかり女の子の優美さを感
698
じさせる。
燃えるような紅い髪だって、美しい。
うーむ、ルイーズはお嬢様でもいいかもしれない。
いや、マズイので、あんまり深く考えないようにしよう。
風呂場で意識しすぎると、まずいことになる。
大事なことなので何度も言うけど。
俺の女性の好み的には、容姿・性格ともに、ルイーズが一番のス
トライクだから困ってしまうよ。
半ば記憶が吹き飛んだ状態で、異世界に放り出された時、最初に
見たのがルイーズだったから。
全ての女性の基準が、彼女になってしまっているのかもしれない。
﹁まあ、ルイーズは風呂に入るのは久しぶりだろうから、まず湯船
を楽しんでいてよ。俺はシュザンヌとクローディアを洗ってるから﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
おそらく、この城の風呂に入るのが初めてであろうルイーズは、
やけにおっかなびっくりと、湯船に向かっていく。
クローディアに、浴槽に入るときには、かけ湯しろと言われてて
笑った。
シュザンヌたちは入り慣れてるからな。
おっと、ルイーズがタオルを取るときは、見たらマズイ。
﹁よし、じゃあ先に身体から洗うから、シュザンヌからおいで﹂
699
すっと俺のところに来たシュザンヌは、わりとルイーズに髪の色
が似ている。
ルイーズが燃えるような深い紅色なら、シュザンヌは明るい赤色。
いつもちょんちょんの短髪にしているので、洗うのは簡単だ。
むしろ、こんなに短いと石鹸が泡立ちにくいぐらい、短い毛のさ
わり心地はとても良いんだが。
﹁シュザンヌも、もうちょっと髪を伸ばしたほうがいいかもな﹂
﹁動きやすいので、こっちのほうがいいんです﹂
本人がそれでいいのならいいか。
似合ってないかといえば、頭の形は綺麗だし、活発な髪型もこれ
はこれで、よく似あってるとも言える。
ためらわず、さっさと背中も洗ってやる、シュザンヌも気持ちよ
さそうにしている。
そういえば、シュザンヌたちをこうやって洗ってやるのは、本当
に久しぶりかもしれない。
あれほど戦闘面で、助けてもらってるのに、俺はこの子たちにな
にも報いてないなと、ちょっと反省する。
無駄な脂肪のない伸びやかな身体つき、ちゃんと実用的な筋肉が
付いていて頼もしい背中だ。
﹁じゃあ、次はクローディアな﹂
﹁はい、お願いします﹂
ざっとシュザンヌにお湯をかけて流してやると、クローディアの
髪をよく石鹸を泡立てて洗う。
700
ヘーゼル
クローディアは、髪も瞳も淡褐色。くくってある髪を解いて、丁
寧によく洗って上げる。
クローディアは、肩甲骨辺りまで伸ばした髪を、いつもはポニー
テールにしている。
彼女たちは騎士なので、動きやすいようにだろうけど、ルイーズ
の真似をしているのかもしれない。
シュザンヌは、王都の衛兵の子どもで、クローディアは親が弓隊
に勤めていた兵士の子どもだった。
奴隷に落ちた少女としては、まともな経歴のほうだ。
ゲイルの陰謀がなければ、彼女たちの一家は離散することはなか
っただろうし、何の因果か、うちに来ることもなかっただろう。
そう考えると、運命の巡り合わせというものを感じずにはいられ
ない。
﹁クローディアも騎士になったんだから、騎士見習いをつけるから
な﹂
﹁はい!﹂
﹁私には?﹂
﹁シュザンヌにも付ける、同じ奴隷少女だからよく教育してやって
くれ﹂
そのように、ルイーズたちと打ち合わせしていたのだ。
正式な騎士には、従卒がつきもの。
そしてその従卒も、騎士の元で学んで、やがては騎士になる。
701
﹁将来的には、うちの商会の奴隷少女で、ちゃんとした騎士団を組
織するから、シュザンヌもクローディアも、そのための核となって
働いてもらわないといけない﹂
﹁﹁はい! ご主人様﹂﹂
二人とも、ハキハキとした良い返事をする。
だから、戦死しないように頑張れなんてのは、ただの偽善だけど
な。
銃と大砲の時代になっても騎兵の有用性は高い。
巧みな騎乗ができて、立派に騎士になった彼女たちは、貴重な戦
力になる。
クローディアの背中を流してやってから、一緒に湯船につかった。
奴隷にして彼女たちに戦いを強いている俺が言うのは、いっそ醜
悪かもしれないが。
できれば自分よりも幼い子どもは、死なせたくない。
そのために俺はもっと強くなりたい。
﹁ルイーズってさ﹂
﹁っ! なんだ⋮⋮タケル﹂
いや、なんで、そんなにビックリするんだ。
俺は、ぜんぜんエロい目で、見てないよ。
﹁いやその⋮⋮、ルイーズは、もしかしたら石鹸を自分で使ったこ
とないんじゃないかなと思って﹂
﹁そうだな、使ったことない﹂
702
いや、使ってくれよ。
せっかく使うように、みんなの分を置いてあるんだから。
﹁じゃあ、ルイーズ団長は、私たちが洗って差し上げましょうか﹂
クローディアがそんなことを言い出す。
﹁それはいい。シュザンヌとクローディアは、奴隷少女を洗うのも
手伝ってるから上手いよな。ぜひ、ルイーズを綺麗に磨き上げてく
れ﹂
﹁おい、お前ら私はいいから﹂
﹁ルイーズ、観念しなよ。今日はお祝いなんだから、二人の好きな
ようにさせてあげればいいじゃないか﹂
﹁我が主に、そう言われては、くっ⋮⋮仕方がない﹂
ルイーズも、たまには従えてる立場の相手に、好きにされること
も経験するといいんだよ。
そうしたほうが、頭も柔らかく成ると、思うんだよな。
もちろん、俺は観念したルイーズがシュザンヌたちに﹁わいわい﹂
と囲まれて、身体を泡だらけにされているときは、眼を背けていま
したよ。
というか、自制心に自信がなかったので、風呂の天井を見上げて
プカプカと浮いていた。
今日ぐらいは、二人に護衛の仕事を休んでもらって、美味しいも
のをたくさん食べさせてあげて。
一緒にゆっくりと寝ようかなあ⋮⋮。
703
誰にだって、たまには骨休めが必要なのだ。
704
53.トランシュバニアの公女
オックスの城の窓から、大きな白い雲が、向こうの山に流れてい
くのをただ見つめる。
今日も平和な一日が始まるかなと、そう思った矢先だった。
﹁ご主人様、トランシュバニアの公女殿下とおっしゃる方が、謁見
を求めているのですが﹂
﹁そうか、通せ﹂
トラブル
俺の騎士になったばかりのシュザンヌが、当惑した顔で報告をあ
げてくる。
やはりやってきたか、波乱、覚悟はしていた。
たっぷり休憩を取っておいてよかったよ。
俺はオックスの城のささやかな謁見の間で、トランシュバニアの
公女を待ち受ける。
﹁ようこそ公女殿下、我が城に﹂
俺は、立ち上がって、公女を迎える。
ひざまず
裾の長い豪奢な青いドレスに、青いローブを羽織って、静々と公
女は赤絨毯を進み、俺の前に跪いた。
公女についている護衛らしき、若い騎士も二人、後ろに続く。
﹁トランシュバニア公王が一子、カロリーン・トランシュバニア・
オラニアでございます。勇者タケル様のお顔は﹃魔界の門﹄ご成敗
705
のおり、一度だけ拝見いたしましたが⋮⋮﹂
﹁ええ、こちらも覚えてますよ、カロリーン公女﹂
やっぱり来たかメガネっ子。
ざんき
さて、立ち上がらせた方がいいのか、このままの方がいいのか。
ぶしつけ
﹁本日は、お願いがあって参りました。誠に不躾な話で、慙愧の念
に堪えませんが、もはや勇者様におすがりする他には致し方がない
のです﹂
﹁構いませんよ、何があったんですか﹂
亜麻色の長い髪を青いリボンでくくっている公女は、上目遣いに
俺を見上げる。
メガネの奥の、淡い茶色の大きな瞳は、父親に似て意志が強そう
だった。
﹁我が国は今、ロレーンの伯爵、ブリューニュ・ブランに半ば公然
と脅されています。公女をよこさねば、国を攻め滅ぼすと⋮⋮。公
王の一人娘である私が、ブリューニュの好きにされてしまえば、国
を奪われるのと変わりません﹂
﹁あの、麻呂貴族か⋮⋮﹂
ブリューニュのやつ、シレジエ王国政府に。
というか、俺の先生に断りもなく、勝手なことをやりやがって。
ひご
﹁国力が弱まった公国に、もはやブリューニュの脅しに抗するだけ
の力はありません。困り抜いた父は、勇者様に庇護を求めよと、私
を送り出しました。勝手なことを申してるのは、かさねがさね承知
しております⋮⋮﹂
﹁ああ、どうぞ顔を上げてください。悪いのは、ブリューニュ伯で
706
す。もちろんお助けしますよ﹂
やはりあの公王の娘か、だんだん土下座の体勢に移行しようとす
るので、さすがに立ち上がらせる。
俺に、人をゲザらせて喜ぶ趣味はない。
﹁ありがとうございます﹂
﹁とりあえず、カロリーン公女は我が城に匿いましょう。ブリュー
ニュの独断専行には、こちらから抗議を入れます。それでよろしい
ですか﹂
﹁はい、勇者様の保護下であれば、私も安心できます。ご厚情、重
ねて感謝申し上げます﹂
﹁では、お部屋にご案内いたします。護衛の方もどうぞ﹂
しかし、厄介なことになったな。
これなら、また公女との結婚がどうとかの方が、よっぽど簡単だ
ったかもしれない。
王都のライル先生に、早馬を送らなければ⋮⋮。
いや、それだけでは済まないな。
しんそ
﹁カアラ!﹂
﹁はっ、真祖様﹂
なんだ、真祖って⋮⋮吸血鬼か、フザケてる場合じゃないんだが。
カアラは、隠形の魔術師だけあって、たいていは気配もなく、近
くの闇に控えている。
﹁ブリューニュ伯爵の周りを探ってくれ。もともとカアラはそっち
707
に詳しかっただろ、外交関係とかな﹂
﹁ゲルマニア帝国辺りと、通じている可能性があるということです
ね﹂
さすが、それなりに敏いな、魔族軍師。
たんなる地方領主のブリューニュが、ここまで強気に出る理由を
知りたいんだよ。
﹁もしそうなら、できれば証拠を掴んでおいてくれ。先生の役に立
つかもしれない﹂
﹁御意⋮⋮﹂
カアラは、音もなく闇に消えた。
それなりには、頼りにしてるぞ。
※※※
﹁ご主人様、ロレーン伯爵ブリューニュ・ブランが、謁見を求めて
いるのですが⋮⋮﹂
﹁なんだと!﹂
さっき、先生に確認の手紙を出したばっかりだ。
なぜいきなりうちにくる。
ああそうか。もしかしたら、ブリューニュ伯爵は、すぐにカロリ
ーン公女を追ってきたのか。
貴族のくせに、フットワークが軽いじゃないかブリューニュ。
﹁よし分かった通せ!﹂
708
兵は神速を貴ぶか、まだこっちは事実関係の調査も済んでないの
に、意表を突く動きだ。
この行動力、ブリューニュのやつを、ただの麻呂貴族だと見くび
っていたかもしれん。
﹁ノホホホ、ごきげんよろしゅう勇者殿﹂
黒光りする実用度ゼロの豪奢な甲冑に身を包み、今日も室内なの
にベレー帽をかぶっている伯爵。
振られた女の尻を追ってきた男にしては、随分と機嫌が良さそう
だ。
ブリューニュ伯は、これもまた綺羅びやかな服装の家臣を、ぞろ
ぞろと引き連れている。
大名行列かと思うが、豊かな王国貴族だからこれぐらいのお供は、
当然なのか。
﹁俺のゴキゲンは、貴君の顔を見た途端に悪くなったが、我が城に
なんのようだ﹂
癇に障る笑いに対しては、嫌味の一つも言いたくなる。
﹁なあに、敗戦国の姫君が、ここに逃げ込んでおじゃらなかったか
な﹂
﹁逃げこんできたら、なんだと言うんだ﹂
﹁麻呂は、カロリーン公女に用があるので、こっちに引き渡してい
ただきたいのでおじゃるよ﹂
﹁断る、カロリーン公女殿下は、俺の保護下に入った。貴君には渡
さん﹂
709
﹁ぬう、何の権利があって、麻呂の邪魔をするでおじゃる!﹂
﹁それはこっちのセリフだ、お前こそ何の権限があって、公女を引
き渡せというんだ﹂
からて
なんだ、こいつやけに余裕で来たと思ったら、空手か。
何の策もなく、ただ偉そうに威圧すれば、公女を奪えると思って
いたのか。
だとしたら、それこそ拍子抜けだ。
俺だって、それなりにお偉い貴族も王族も相手してきたんだ、若
造だと思って舐めるなよ。
﹁麻呂は、戦勝将軍として、敗戦国に当然の要求をしているまでで
おじゃる﹂
﹁シレジエ王国の政府に許可は取ったのか﹂
﹁麻呂は前線指揮官として、トランシュバニア公国への戦争の全権
を持っておじゃる﹂
﹁戦争はもう終わってる! シレジエ王国政府に許可は取ったのか
と聞いているんだ!﹂
﹁ぬうっ、それは⋮⋮﹂
﹁やっぱりか、お前なあ。国の外交ルートを通さずに、地方領主が
勝手に他国に圧力をかけるとか、やっていいと思ってるのか﹂
異世界人の俺だっておかしいと思うぞ。
﹁だまりゃ! 麻呂は、恐れ多くも建国王レンスの血を引くブラン
家の当主なるぞ。それを、何処の馬の骨ともわからぬ田舎者風情が﹂
710
その手の威圧は、聞き飽きてるんだよ。
この世界の貴族だの王族だの、俺にとっては何の価値もない。
﹁そうか、じゃあレンスの遠い親戚のブラン家当主のお前と、シレ
ジエ王国摂政の俺、どっちが偉いんだ。言ってみろ﹂
﹁おのれ⋮⋮﹂
腰の綺羅びやかな宝剣に手をかけるブリューニュ。
何の剣圧も感じない、お前の連れてる格好だけは立派な騎士がま
とめてかかってきても、負ける気がしない。
﹁いいぞ、やる気なら抜け。お前も王国貴族で、騎士であるなら尋
常に勝負してやる。死んでも知らんがな⋮⋮﹂
俺は、いつでも光の剣を出せるように、気を練った。
今は﹃ミスリルの鎧﹄を着ていないが、ブリューニュごときに一
太刀浴びせられるほど鈍ってはないつもりだ。
﹁勇者、卑怯ではおじゃらんか! その方はシレジエ王国の王女も、
トランシュバニア公国の公女も独り占めにして、麻呂にせめて半分
よこすのが筋でおじゃろう﹂
﹁そんな筋はない﹂
何度でも言うけど、ブリューニュは何の権利があって、言ってん
だよ。
自国の姫や、隣国の公女を、よこすとか、よこさないとか。何様
のつもりだ。
711
シレジエ王国の門閥貴族がみんなこんな意識ならば、﹁自分は奴
隷に等しい扱いをされている﹂と訴えたシルエット姫の言うことも、
分からなくもない。
今ハッキリと分かったが、俺はこいつら門閥貴族が嫌いだ。
ごうがんふそん
﹁くうっ、覚えておじゃれ⋮⋮。その傲岸不遜、強欲の報い、かな
らず受けさせるでおじゃるからな﹂
典型的な悪役の捨て台詞を吐くと、ブリューニュ伯爵はお帰りに
なられた。
結局、何がやりたかったんだ。
﹁クローディア、すぐに盗賊ギルドのネネカを呼んできてくれ﹂
﹁はい、ご主人様!﹂
スカウト
俺は、密偵部隊を動かすことにした。
うちの領内に入ったブリューニュの監視を怠るつもりはない。
※※※
﹁ライル先生、忙しいところすいません﹂
﹁いえ、私も申し訳ありません。ブリューニュ伯がここまで愚かだ
とは、予想の範囲外でした﹂
カロリーン公女とブリューニュ伯爵の来訪のあと、ライル先生が
早馬で慌てて王都からやってきた。
久しぶりに、ライル先生の焦った顔が見れた。本当に予想外だっ
たのだろう。
﹁ブリューニュ伯爵は、何を企んでいるんですかね﹂
712
﹁いや企むというか、あれはもう何も考えずに、本能で動いてるだ
けですね﹂
苦手なタイプです⋮⋮と、ライル先生は形の良い眉根を顰ませた。
真性のバカってのは、策士の天敵であったりするのだ。
﹁まあ、言ってることむちゃくちゃですもんね﹂
﹁そうですよ、その最悪の男が、味方の陣営に居るのが一番痛いと
ころです﹂
先生はただでさえ、ゲルマニア帝国との外交折衝で、てんてこ舞
ばか
いになっているのだ。
その足元で、あの麻呂がバカをやらかしては、目障りだろう。
いっそ、あいつを闇討ちしてしまうか。
そんなことを話し合っていると、カアラが文字通り飛んで戻って
きた。
﹁真祖タケル様。やはりブリューニュ伯爵に、トランシュバニア公
国を取ってしまえとそそのかしたのは、ゲルマニア帝国みたい﹂
﹁何か証拠は取れたか﹂
カアラが、首を横にふる。
﹁ゲルマニアの政府筋ってことは分かったけど、それ以上はちょっ
ばか
と手繰れなくて﹂
﹁あの麻呂はともかく、帝国の工作員が手強いのは分かる、まあよ
くやった﹂
あくまで帝国から、それとなく暗示があるだけなのだろう。
713
ブリューニュ伯爵が、敵国に通じている証拠があるわけではない
ので、それを理由に処分は難しい。
﹁帝国は、いま介入戦争を行う大義名分を探しています。下手をす
ると、ブリューニュ伯爵を排除してしまうことが、介入の理由にも
なりかねません﹂
ライル先生の簡単な国際情勢の説明。
ゲルマニア帝国が、即座に弱ったシレジエを攻めないのは、帝国
とは疎遠でシレジエ王国には友好的なローランド王国やブリタンニ
ア同君連合が、目を光らせているから。
サバンナの世界と一緒だ、獲物を喰らおうとするときが、一番危
ない。
百獣の王ライオンが、ハイエナの群れに囲まれて、美味しい肉を
前に退かなければならない時だってある。
ユーラ大陸一の強国と言えど、無節操な侵略戦争はできない。
逆に、諸外国を納得させるに足る大義名分さえ見つかれば、今に
も介入戦争してきておかしくない。
そりゃ、ライル先生がライフリング砲のロールアウトを急ぐはず
だ。
﹁そのような理由で、すぐにブリューニュ伯爵を亡き者にするのは、
帝国を刺激してしまいます﹂
﹁難しい情勢ですね﹂
ブラン家は、仮にも建国王レンスの血を引く名門貴族。
714
直系王族のシルエット姫が居なくなれば、遠い親戚のブリューニ
ュ伯爵や、分家筋のカロリーン公女がシレジエ王国を継ぐことも可
能になる。
あのブリューニュ伯爵は、ゲルマニア帝国にとって便利に使える
駒なのだ。
ブリューニュが邪魔だと言っても、殺せばシレジエ王国内の門閥
貴族は動揺し、国境のロレーン伯領は領主を失って不安定化する。
ばか
戦争になるかならないかの鍵を、あのどうしようもない愚物であ
る麻呂が握っている、不思議な構図が浮き彫りになる。
﹁いま少しだけ時間をください。戦争回避に向けての折衝を続けて
いますので﹂
﹁もちろん、戦争はないに越したことはありませんから﹂
さっさとブリューニュのやつを蹴倒してやりたいぐらいだが。
今のところは、泳がしておくしかないか。
﹁まあ、仮にですが、ゲルマニア帝国と戦争になったとしても負け
ない態勢に、持って行くつもりではあります﹂
﹁本当ですか、先生?﹂
いや、聞き返すのが失礼か。
ライル先生に虚言はない。
﹁相手は帝国、今回だけは、私も手段を選びません。もうタケル殿
にもわかってると思いますが、そのための備えを、できる限り続け
ています﹂
﹁なら、大丈夫ですね﹂
715
先生に策があるなら大丈夫だ。
カアラが﹁いや、国力を見積もって軽く十倍の大帝国相手だよ。
さすがに無理があるんじゃない?﹂とか言ってるが、先生ができる
といえばできるんだよ。
カアラが﹁おそらく帝国が出してくる兵数は、少なくとも万を超
えるよ。規模わかってる?﹂とか言ってるが、先生ができるといえ
ばできる!
﹁分かりました先生、とりあえずブリューニュが、うちの領内に居
るのがウザいんですけど﹂
あいつ、公女に結婚を断られた癖に、家臣を連れてうちの城の近
くをうろうろストーカーしてるんだよな。
だから公女も、城から出られなくてたいへん困っている。
﹁そうですね、とりあえず殺さない程度に、伯爵を街から退出願う
手立てなら、王都からここに来る間に、七通りほど考えておきまし
た﹂
﹁さすが先生、ブリューニュが一番ダメージ食らうやつ、お願いし
ます﹂
﹁では、お耳を拝借﹂
﹁⋮⋮なるほど、それは黒いですね﹂
先生の作戦なら、ぐうの音も出ないように、ブリューニュを懲ら
しめられるだろう。
716
カアラが﹁ブリューニュはバカだから、上手く使って利用したほ
うが﹂とか言ってるが、お静かに!
愚かなブリューニュを蹴散らし、ゲルマニア帝国すらも打ち破れ
る神算鬼謀が、いま先生の頭の中で練られているのだぞ。
だって、今までの先生は﹃手段を選んでいた﹄んだぞ。
世界最大の帝国軍だかなんだかしらんが、迷いを捨てたライル先
生に勝てるチートが、この世界に存在するわけないだろ。
﹁タケル殿の、私に対する信望はとてもありがたいのですが、たま
に重圧に感じるときがあります﹂
﹁先生なら、世界中を敵に回しても、大丈夫ですよね﹂
カアラが、何か言いたげにしていたが、結局言わずにため息をつ
いた。
やはり魔族は、先生に対する信仰心が薄いからダメだな。
717
54.勇者ハーレムの噂
いまだ、うちの城の近くをストーキングしている、ロレーン伯ブ
リューニュ・ブラン。
こいつが、どのような手で来るか予想もつかず、俺たちは臨戦態
勢で、オックスの城に詰めているわけだが。
バカ
あの麻呂貴族は、行動力だけはあるので、先手を打たれてしまっ
た。
﹁ブリューニュ、なんと卑劣な!﹂
俺は、こらえ切れず、怒りにうち震える。
なんと、密偵のネネカの報告によると、ブリューニュはよりにも
よって、うちの街で俺の悪評を広めているというのだ。
ハーレム
はべ
しかも、それが﹁勇者タケルが、王女と公女をたくさんの奴隷少
女と一緒にして後宮に侍らせている﹂などという、事実無根の風評
であった。
酷い!
﹁俺の悪評はまだ良い、だがシルエット姫やカロリーン公女まで侮
辱するとは、許さんぞブリューニュ!﹂
怒りの拳を突き上げていると、シレッとした顔で、みんなが俺を
見ているのに気がついた。
ライル先生も、ルイーズも、リアも、シャロンも、オラクルちゃ
718
んも、カアラも、シルエット姫も、ジルさんも、護衛に立っている
シュザンヌとクローディアまで、いつになく冷めた眼で俺を見てい
る。
カロリーン公女だけは、当惑しているようだが、俺の怒りには同
調してくれていない。
﹁あれ?﹂
なんだよみんな、ここは怒るところだろう?
﹁タケル殿、ブリューニュ伯爵が、その程度のことしかできない男
で助かりましたね﹂
﹁いや、これは大変なことですよ?﹂
﹁私も忙しいですし、対策は授けたので、そろそろ王都に戻ろうか
と思います﹂
﹁いや、待ってください。先生、これ大問題ですよ!﹂
ひとりで憤っている俺に、先生はうんざりした顔をする。
なんでそんなに冷たいんですか、先生⋮⋮。
﹁なにが問題なんですか?﹂
﹁いや、だからこんな根も葉もない噂を立てられて、深刻な風評被
害です!﹂
﹁タケル殿、もしや⋮⋮とは思いますけど、ご自分が民衆にどうい
う風に思われてるか、知らなかったんですか﹂
﹁えっ、ええ?﹂
なにそれ怖い。
719
なんだよ、どういうこと。
﹁いや、だって、タケル殿⋮⋮、ここに集まってる面々をよく見て
下さいよ﹂
﹁どういうことですか﹂
わかりません。
﹁タケル殿の幕僚って、みんな魅力的で美しい女性ばかりでしょう﹂
﹁はい﹂
﹁あっ、私は男ですけどね。あと、タケル殿の商会の奴隷少女も、
可愛らしい子が多いですよね﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁容姿で選んだわけではないのは、私がよく知ってますけど。その
ような異常な偏りができてますよね﹂
﹁そう言われてみれば、そのような感じも若干⋮⋮﹂
﹁ではそれを傍目から見ていれば、どのような評価が下されるか、
聡明なタケル殿なら分かりますよね﹂
﹁でも、俺は何も⋮⋮﹂
﹁でもも、カカシも、ないですよ。これはさすがに言うのはためら
われたんですが、勇者ハーレムと前から呼ばれてます﹂
﹁はぁ?﹂
いくらライル先生の言葉でも、それはありえない!
﹁そのタケル殿のハーレムの噂に、なぜか男性の私が筆頭に入れら
720
れているのが、不可解ですが﹂
﹁いや、ライル先生が入ってるのは、わかります﹂
先生と噂になるならば良いんですよ?
﹁いや、そこはありえないんですが﹂
﹁あれ、俺⋮⋮遠まわしに振られてます?﹂
せきばら
そう聞くと、先生はベストの胸元を直して顔を背けた。
コホンと、咳払いまでする、あーごまかした。
﹁男同士で、振られるも何もないでしょう。とにかく、勇者が美し
い女性を百人や二百人侍らせるぐらいは、古今いくらでも例のある
ことですから、そんな噂は大したことはありません。勇者なら仕方
ないで流されます﹂
﹁俺的には、大したことあるんですけど⋮⋮﹂
ハーレム
まさか童貞の身の上で、後宮持ちにされるとは思わなかった。
事実無根でも、身の潔白を証明する術がないのが、リアルファン
タジーの悲しいところだ。
﹁ブリューニュ伯爵が非難したいのは、正式な婚姻関係を結ばずに、
年頃の姫や公女を侍らせていて良いのかってことでしょう。これは
正直、私も同意見です。いい加減、ハッキリさせて欲しいところで
すね﹂
俺が、シルエット姫とカロリーン公女の両方と結婚して、シレジ
エ王国とトランシュバニア公国を継いでくれれば。
先生の仕事が、どれほどやりやすくなるか知れないというのだ。
721
﹁先生それは⋮⋮﹂
俺は、その瞬間に背筋が凍るような悪寒に襲われた。
なんだこのプレッシャー。どこかの闇から、じっと獲物を狙うよ
うな視線がこちらを見ている︱︱
﹁ど、どうされましたかタケル殿﹂
俺が青い顔をしているので、さすがに先生も心配する。
︱︱俺の本能が危険信号を発している、そこだ!
﹁シュザンヌ、クローディア、いますぐリアをこの部屋から退出さ
せろ!﹂
﹁タケル、わたくし﹃まだ﹄何も申しておりませんよぉ、是非も無
い仕打ちですぅ!﹂
﹁﹃まだ﹄だろうが! シャロン、いますぐそいつの口を塞げ、塞
ぐんだ!﹂
﹁タケルはデートをしなングッ、⋮⋮んーんー んーんー!﹂
﹁はいはい、ステリアーナさん、お外に参りましょう﹂
リアは、隣に座っていたシャロンに口を塞がれて、俺の騎士二人
に囲まれて、米軍に捕まった宇宙人のような姿勢で、引きずられな
がら退出した。
﹁ふうっ⋮⋮﹂
﹁タケル殿、続きよろしいですか﹂
﹁ああ⋮⋮まあ、言い方は最低ですが、リアは間違ってはいません。
722
恋愛すらしてないのに、いきなり結婚もなにもありませんから﹂
﹁そこら辺、私は男女の機微に疎いので申し上げにくいのですが、
少しもどかしい感じがします﹂
あら、先生がそういうことを言ってしまうわけか。
ふーん。
﹁俺は、もどかしいですか?﹂
﹁こんなこと言っては逆効果なのかもしませんが、さっさと恋愛し
て結婚してくれないかなと思ってしまいます﹂
﹁じゃあ、ライル先生、試しに俺と付き合ってみます?﹂
﹁えっ﹂
先生はビックリして目を見開く。
まあ、ブラウンの美しい瞳ですね。まるで宝石のようだ。
﹁俺にも恋愛経験があれば、確かに結婚も考えやすくなるかもしれ
ません。先生が俺とお付き合いしてくれるなら、いい経験になりま
す﹂
﹁そっ、⋮⋮いえ、男同士ですよ?﹂
先生は、桜の花びらのような可愛らしい唇をわななかせた。
﹁いいじゃないですか、俺は正直なところ女性と付き合うのが苦手
なんです。ライル先生みたいに中性的なタイプなら、俺も緊張しな
くていいです﹂
﹁そんな、お試しみたいなノリで付き合うとか言っちゃいけません
!﹂
723
お試しみたいなノリで、人を結婚させようとしてるのは誰だよ。
でもまあ、反応が可愛いから許します。
﹁お試しというか、本命的なアレです。俺はライル先生、大好きで
すし、問題ない﹂
﹁も、問題はぁ⋮⋮、ああそうか。そういうことですね。すみませ
んでした! 相手の気持ちも考えず、むやみに結婚しろなどと煽っ
た私が悪かったです。どうぞお許しください﹂
ふうっと深呼吸した先生は、ベストの胸元を手で直してから、深
々と頭を下げた。
謝る必要はないが、ようやくそこにたどり着いたのかって感じで
はある。
自分が言われたらどうだってことも、もしかしたら本当に分かっ
チート
てなかったのかもしれない。
万能に見えて、意外に抜けたところもあるのが先生だったりする。
もっと攻めたい気もしたが、あんまりやって先生がへそを曲げて
しまうと困るのでこれぐらいにしておこう。
でも、付き合って見ませんかってのは、わりと本気なんだけどね。
まあ、先生に告白したところで、振られるのは目に見えてるから
こそ。
こういう冗談が言えるんだけどさ。
俺だって人並みに女の子に興味あるし、恋愛したくないわけじゃ
ないんだけど。
ただ、相手は本当に好きな人じゃないと嫌だけど。
724
なんて、ちょっと我ながら乙女で恥ずかしいことを考えて、会議
も終わったので部屋を出たら。
外に居たリアに、ニヤーと笑いかけられた。
﹁なんだリア⋮⋮﹂
﹁相手は本当に好きな人じゃないと嫌だなあー﹂
心臓が止まるかと思った。
俺の心を読むなと言ってるだろ、変態シスター!
なんなんだそれは、魔法なのか。
神聖魔法に、読心術みたいなのがあるのか⋮⋮。
﹁魔法なんか使わなくても、タケルの考えてることなんて、わたく
しには是非もなくお見通しです。いつも見てますから﹂
﹁お前たまに怖いんだよ⋮⋮﹂
まあ、あんまりリアの相手にしても、煽られ損だからスルーしよ
う。
﹁恋愛問題のカウンセリングでしたら、是非ともアーサマ教会の方
へどうぞ﹂
﹁謹んで遠慮しておく﹂
これ以上、リアにからかわれるネタを握られるのはゴメンだ。
※※※
俺は、食堂でデザートを食べているメガネっ子、もといカロリー
ン公女を見かけて、声をかけた。
725
心配という程ではないが、いきなり異郷の地の他人の城にしばら
く滞在しているわけだから、不自由があってもいけない。
ホストとしては、気配りしなければな。
﹁どうですか、公女殿下、城には慣れましたか﹂
﹁はい、ハンバーグも、サラダも、クロワッサンも、すごく美味し
くて。この前のクレープも素晴らしいのですが、このアイスクリー
ムと言うお菓子は、もう舌が蕩けそうで⋮⋮﹂
﹁いや、料理の感想ではなくて、ですね﹂
﹁すみません、はしたなくて⋮⋮﹂
頬を染めて恥ずかしがるカロリーン公女。
﹁いえ、女の子ならお菓子は、お好きでしょうから﹂
それなりにがんばって奴隷少女たちと作ったものなので、料理を
褒めてもらえるのは嬉しい。
﹁シルエット姫様や、他の方にも良くしていただいております﹂
シルエット姫と、やけに仲良くしてるんだよな。
この公女は、あのネガティブ姫様と、不思議と馬が合うらしい。
地位的にも年齢的にも、同じぐらいだから当然なのかもしないが、
どんな話をするんだろう。
やはり、やんごとなき姫君だから、王政の話かな。
﹁それはたいへん結構です、ご不自由があれば、何なりとおっしゃ
726
ってくださいね﹂
﹁いえ、これ以上のことは何も⋮⋮。それより、かくまってくださ
った勇者様に、改めてお礼申し上げます﹂
﹁俺の方こそ、それより公女殿下も、俺の変な噂に巻き込んでしま
って申し訳ない﹂
﹁ああ、勇者様のハーレムの噂ですね。そのような卑劣な噂を立て
たブリューニュ伯には、私も不快なものを感じますが、ただの噂で、
勇者様は真面目で誠実な方ですよね﹂
﹁そう、そうなんですよ。誰もそれを分かってくれなくて⋮⋮﹂
俺はたった一人の理解者を得て、涙が出る思いだった。
﹁人の口には戸を立てられません。致し方ないことだと思います﹂
そうは言っても、嫁入り前の公女に悪いよなあ。
みんな軽く考えすぎだよね。
﹁噂ぐらいは構わないのですが、大恩ある勇者様にこのようなこと
を申し上げるのは、心苦しいのですけれど﹂
﹁いいですよ、どうぞ﹂
別に、男としては見てないとか言われても、ショックじゃないで
すよ。
昔なら女の子に面と向かって、そんなこと言われたらショックだ
ったろうけど、今は露骨な好意を向けられるより気が楽だ。
ぜんじょう
﹁我が父は、勇者様に私を輿入れさせて、トランシュバニア公国を
禅譲しようと考えているようですが、私はそこまで、まだ考えてお
727
りません﹂
﹁もちろん。結婚相手は、自分で見つけるべきですから﹂
﹁いえ、そうではなく⋮⋮、公女の結婚はいわば公務ですから、相
手が選べないのは構わないのです﹂
﹁そうなんですか﹂
ファンタジーの王族なんて政略結婚が当たり前だから、しょうが
ないのかなあ。
﹁私個人としては、勇者様を心から尊敬しておりますし、結婚した
くないわけではないんです。私が問題だと思うのは、勇者様が他国
の人だからです﹂
﹁なるほど﹂
﹁私は公王の一人娘ですから、結婚相手は、そのまま公国を託す相
手となります。勇者様がおっしゃってくださった﹃民を救うのに国
は関係ない﹄とのお言葉、私も深い感銘を受けましたが、それでも
⋮⋮﹂
﹁そうですよね、やっぱり自国の人間じゃないとダメですよね。公
女殿下は、気高い愛国心がおありになるのですね﹂
﹁愛国心ですか?﹂
﹁国と民を愛する心ですよ﹂
この世界には、そういう概念がまだ発達していないのか。
カロリーン公女も、ヴァルラム公王も、考え方は違えど国民の為
を思って言っていることで立派なものだと思う。
みぎり
﹁私は幼少の砌より、公家は民のためにあれと教育を受けてまいり
728
ました﹂
﹁ご立派なことだと思います﹂
カロリーン公女の考え方は、俺から見ると不自由に思えるが。
本人の意志が、民のために最良となる結婚相手を選ぶことならば、
少なくとも他人がどうこう言うことではないだろう。
﹁勇者様のおっしゃるとおり、国の為を思えば、トランシュバニア
公国は、トランシュバニアの人間が治めるべきなのだと考えます。
戦争で騎士団の多くを失い、そう言っていられない状況であること
は重々承知しておりますが、私はそれでもそう思うのです﹂
なかなか好感が持てる、ハッキリとした意思表示だった。
﹁公女殿下のお考えはわかりました。できる限りご協力いたしまし
ょう﹂
﹁ありがとうございます、勇者様の度重なるご厚情に対して、何も
報いるものもない私をお許しください﹂
分かったから、みんながいる食堂で、頭を下げないでほしいな。
ここの父娘は、ゲザるのが癖になってるんじゃないか。
無理な結婚を押し売りされるより、こっちとしてもよっぽどあり
がたい、気にしないで欲しい。
そこに、静かに隣に座っていたシルエット姫が口を挟んだ。
﹁わら、ングッ﹂
﹁姫⋮⋮、クロワッサンは、ちゃんと飲み込んでから話しましょう
ね﹂
729
しごと
ジルさん護衛の騎士なんだから、姫を介護しろよ。
アイスクリームおかわりに行ってる場合じゃないだろう。
わらわ
﹁お二人の込み入った話も終わったようですから、妾たちも、湯浴
みに参りましょう﹂
シルエット姫、さっきの公女殿下の立派な所信表明演説を聞いて、
出てくる言葉がそれなのですか。
公女も、公女で﹁そうですね、姫様﹂と頷いて行ってしまうし。
王族としての考え方が、ぜんぜん違うようなのだが。
なんであの二人の仲がいいのか、いまいちよくわからない。
あと、ジルさんはいい加減、お代わりの要求はやめて護衛の仕事
しなさい。
アイスクリームの追加は、氷を作れるヴィオラも呼ばないといけ
コレット
ないから、すぐできないんだよ。
それ以上、うちの料理長たちをこき使うと、﹃甘党の騎士﹄の二
つ名を進呈するぞ。
※※※
さてと、さっきお風呂フラグが立っていたので。
いつもなら公女様とお風呂みたいな流れになりがちだが、俺もバ
カではないのでさすがに避ける。
そのかわり、ロールの風呂焚きを手伝ってやった。
風呂の釜に、薪を割ってくべていると、なんだか火遊びみたいで
楽しい。
730
﹁ごしゅじんさま、じゃま﹂
﹁おまえ、言うようになったな⋮⋮﹂
ロールは、自分の仕事を取られるのが嫌らしい。
まあ、オラクル大洞穴のおかげで、すっかり硝石に困らなくなっ
てそっちの仕事が減ったからな。
﹁ロールに、お土産があるんだよ﹂
ウイスキー
俺は火酒と呼ばれる上等な蒸留酒の瓶をちらつかせた。
﹁そういうことは、さきにいってよー﹂
ドワーフはみんな酒好きだ、たちどころにロールの態度が軟化し
た。
ちょろいなあ。
﹁ロール、つまみもあるんだよ﹂
﹁それあたしに、ちょうだあーーん!﹂
俺が出したのはルイーズからもらったとっておきの一品、ドラゴ
ン肉の燻製だ。
ロールが大きく口を開けるので、放り込んでやったらもぐもぐと
満足そうに食べている。
一般的に、モンスターの肉は下等な扱いだが、ドラゴンの肉はま
ったく別だ。
この世界でも一、二を争う珍味なのだ。
一切れ、口に含むだけで、ドラゴンのジャーキーの凝縮された濃
731
厚な旨みが、じわりと広がる最高の一品。
ドラゴンの干し肉をツマミにキュッとやれば、他には何もいらな
いと、この世界の酒豪詩人が吟じているそうだ。
もちろん酒飲みのロールも通だから、このツマミの価値はよく分
かっている。
窯焚きの灯りに赤々と照らされて、おぼろに浮かぶ満月を眺めな
がらの酒盛り。
酒宴のロケーションとしては、たいへんよろしい。
さすがに俺は度の強い蒸留酒は口にしないが、甘くて口当たりの
良い蜂蜜酒なら少しやる。
せっかくの異世界なんだから、ちょっとぐらい良いよね。
﹁つきがーでたでたぁ、つきがーでたぁー﹂
たんこうぶし
飲んで、食べて、ごきげんのロールが、急に手を叩いて炭坑節を
歌い出したので、俺は吹き出しそうになった。
あまりにもファンタジーと不釣り合いだろ。
﹁この世界にも、炭坑節ってあるのか?﹂
﹁ごしゅじんさま、炭鉱があるんだから、炭坑の歌もあるにきまっ
てるよ﹂
そうかロールは、鉱夫の娘さんだった。
奴隷になる前はどんな暮らしをしていたのか、聞こうかと一瞬思
ったけどやめた。
つまらないことは、言わない方がいい。
732
俺だって、異世界に来る前のことは、もうどっかの遠い他人の話
ぐらいにしか思えないのだ。
いまここに、美味い酒があって、美味しいツマミがあって、俺が
いて。
月明かりの下で踊る、陽気なドワーフの少女がいる。
それでいいじゃないか。
ほんとは、酒で油断させたところを捕まえて、風呂嫌いのロール
をまた洗ってやるかと思ったのだが、そんな気も失せた。
ローブ
ロールと二人で歌い騒いでいると、そこにゆったりとした外衣を
着た、湯上りのシルエット姫とカロリーン公女が、護衛の騎士を引
き連れてやってきた。
﹁やあ、お散歩ですか﹂
﹁ええちょっと、長湯したので夕涼みに﹂
カロリーン公女は、なぜか手にリュートを持っていた。
手慰みですがと前置いて、切り株に腰掛けた公女が、リュートの
どこか物悲しい響きで爪弾いて見せたのが炭坑節なのだから愉快だ。
調子はずれの曲に合わせて、小さいロールがくるくる回るので、
俺はもう腹を抱えて笑ってしまった。
目に涙を浮かべて笑いながら、大いに肉を喰らい、コップを傾け
る。
﹁是非もありませんね⋮⋮﹂
姿も見えないリアの声がしたと思ったら、風呂の窓から蒼い瞳が
733
ジッとこっちを見ていた。
なんか恨めしそうな顔で、不気味で酔いも覚める。その、視線で
こっちにプレッシャーを送るのいい加減、止めて欲しい。
﹁リア、なんだそんなとこで﹂
﹁なんでタケルはお風呂に来ないんですか、わたくしずっと中でス
タンバイしてましたのに、すっかりゆでダコです。シナリオ通りに
行動してくれないと困ります﹂
﹁なんのシナリオだよ⋮⋮﹂
風呂場に行ってたら、もしかするとリアルートとかに入ってたの
か。
じゃあ、風呂に行かなくて正解だったんだな。
俺の危機回避スキルも、経験値を積んで、レベルアップしてきた
わけだ。
そう思えば、いろんな意味で愉快、心地の良い夜だった。
﹁あと、タケルは少し薪をくべ過ぎです、是非もなく茹だってしま
います﹂
﹁おっと、それは、本当にすまん﹂
危機回避スキルは上がったが、風呂焚きスキルは、ロールに到底
叶わない俺であった。
734
55.新たなる秘跡
オックスの街でストーキング活動を繰り広げていた、厄介者のブ
リューニュの姿が急に見えなくなった。
スッキリしたけど、これから追い出す作戦を開始しようと思った
のに拍子抜けだ。
伯爵を監視していたネネカが、すぐ報告に来た。
﹁怒った街の人に囲まれて、慌てて逃げていったんです﹂
﹁なんでまた、そういうことになったんだ?﹂
﹁ブリューニュ伯爵とその家臣は、勇者タケル様の悪評を酒場や広
場など、人の集まる場所で吹聴しまくってましたよね﹂
﹁そう聞いているが﹂
﹁この街の人は、みんな街を復興してくれたタケル様に感謝してい
ます。それに、伯爵のあの高慢ちきな性格です、どうなったかご想
像いただければ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
せっかく、ライル先生がいろいろ作戦を考えてくれたのが無駄に
なってしまった。
自分が悪評を流しておいて自滅とか、あの麻呂貴族らしいと納得
はできるが。
ブリューニュの愚かさが、時としてライル先生の予想を超えるの
は、ちょっと怖い。
735
﹁とにかく、ご苦労だったネネカ﹂
俺は、ネネカに今回の仕事の報奨金を与えて下がらせた。
拍子抜けも、ある意味で毎回のパターンだし、おかしくはないか。
﹁アタシは、あの人間の軍師とタケル様たちが作戦立ててるときか
ら、こうなるだろうと思ってましたけどね﹂
影からスッとカアラが現れて、したり顔で笑う。
﹁カアラ、そういうのはな、先に言っておかないとダメなんだよ﹂
﹁じゃあ、今度からそうします﹂
どうも、カアラと先生は、張り合ってる感じを受ける。
めいむのふ
突然変異で生まれた天才魔族だか知らんが、先生には絶対に敵わ
ないから、やめたほうがいいぞ。
﹁まあいいか、厄介事が一つ片付いたんだし﹂
﹁そうとも言えない⋮⋮﹂
﹁ん、どうしたんだ﹂
くまでん
﹁おそらくだけど、先ほどゲルマニア帝国の魔素溜り、﹃迷霧の伏
魔殿﹄が再封印されたわ﹂
﹁本当かよ、いくらなんでも早すぎるだろ﹂
ちょっと信じられない、開いた魔素溜りの封印って、かなり大変
だろ。
本当だとしたら、なんだかすごく作為的なものを感じる。
736
じさくじえん
俺が公国でやった、﹃魔界の門﹄の再封印に近い、帝国で何が起
こってるんだ。
﹁カアラの言ってることは本当じゃ。ワシも、それを言いに来たと
ころじゃよ、魔素の流れを感じていれば、一目瞭然じゃからな﹂
オラクルちゃんもやってきて、小さい胸を張って自慢げに教えて
くれる。
まあ、オラクルが言うなら、そうなのか。
﹁なんでタケル様は、アタシが言っても信じないのに、オラクルだ
と信じるのよ!﹂
﹁信頼と実績の、不死少女オラクルだから﹂
ダンジョンマスターだし、少ない魔素を必死にかき集めて二百四
十年、大洞穴を維持して生きてきたオラクルと。
突然やってきて、そのダンジョンの魔素を無駄遣いしまくった若
いカアラとでは、扱いが違ってもしかたがないだろう。
﹁オラクル、報告ご苦労だった、後でご褒美をやる﹂
﹁わーい、ワシ今夜のデザートは、ミントアイスがいいぞ﹂
﹁アタシが、最初に報告したのに⋮⋮、ですからタケル様。帝国が
いよいよ本格的に動き出す日も近いかと思われます﹂
﹁うん、そうだな。その点、先生とよく相談しないとな﹂
﹁献策なら、アタシがいるんですけど!﹂
﹁そうだな、カアラも居る﹂
737
俺はさっそく手紙を書いて、王都に戻っているライル先生にこの
件を報告することにした。
忙しいところ申し訳ないが、善後策の協議は必要だろう。
※※※
めいむのふくまでん
先生から帰ってきた手紙によると、﹃迷霧の伏魔殿﹄はゲルマニ
さいふく
ア帝国の皇太子が自ら封印したらしい。
モンスターに襲われた街と教会を再復したことで、アーサマ教会
の大司教により、新しい勇者にも任ぜられたそうだ。
皇太子が勇者となり、帝国は国を挙げてのお祭り騒ぎらしい。
勇者が増えるのは、喜ばしいことなんだろうが、俺は不吉なもの
しか感じない。
さいふく
勇者になるってことは、再復だけが条件じゃない。
魔王か、魔王の核を持つ敵を倒したってことだろ。
あの短期間で魔王の核が発生して、そのモンスターを倒したのか、
せいしょくしゃ
いくらなんでも展開が早すぎる。
しょうがない、ここは専門家に聞くしか無いか。
俺は、本当にしょうがなく、リアの部屋を尋ねた。
リアの部屋は、いつもガサガサと神聖錬金術で、何かしら創って
いる音が響いている。
﹁なあリア﹂
﹁あら、これは、是非もないことで⋮⋮﹂
聖なるすり鉢をこねる手を休めて、リアが俺に微笑んだ。
738
﹁なにが、是非もないんだ﹂
﹁タケルの方から、わたくしの部屋に訪ねていただくなんて、珍し
いです﹂
いや知らんけど、おそらく初めてじゃないのか。
俺だって用事がなければ、リアの部屋なんかに近づくわけがない。
﹁余計な話はするなよ、ゲルマニア帝国の皇太子が勇者になった話
だ﹂
﹁あら、その話ですか﹂
いつも微笑みを絶やさないリアの顔が、ちょっと曇った。
﹁やっぱり、リアも怪しいと思ってるのか﹂
﹁あの金獅子皇子を勇者に認定したのは、帝国首都のノルトマルク
の街の大司教、ニコラウス・カルディナルです﹂
﹁金獅子皇子?﹂
﹁もともとフリード皇子は、その風貌から﹃ゲルマニアの若獅子﹄
こんじき
ししおうじ
と呼ばれていたのですが、他の皇子を蹴散らし、帝国の権力を掌握
きんじしおう
して皇太子となった今では、金色の獅子皇子、いえ気の早い貴族か
らは老皇帝を差し置いて、金獅子皇などと呼ばれているようですよ﹂
皇太子は帝位継承権を持つ皇子のことだ。
陰謀でか、実力でか知らないが、皇太子はやり手ってことだろう。
﹁ふーん、知らなかったな﹂
﹁異世界人のタケルは、知らなくても是非もありませんが。フリー
ド皇太子は、ユーラ大陸最大の権力者として有名なんです﹂
739
﹁その金獅子なら、出来レースでも許されると?﹂
﹁アーサマ教会には権威がありますが、次期帝国皇帝の権力に抗す
るほどの力はありません。増して大司教ニコラウスは、勇者認定一
級を持つ聖者でもあり、次の教皇候補の一人とされています。それ
を考えれば、是非もありません﹂
﹁ふうむ⋮⋮﹂
勇者に任ぜられた皇太子、任じた大司教、お互いに野心があるっ
てことか。
﹁相手は勇者認定一級です、わたくしも二級まで昇格しましたが、
サクラメント
敵に回すには強大過ぎます。ここに至っては是非もなく、早急に新
たな秘跡の更新を提案いたします﹂
﹁ええっ﹂
ひせき
うず
なんで、いきなりそんな話になるんだよ。
秘跡と聞くだけで、俺は胸が疼くんだが、トラウマなんだが!
サクラメント
﹁真面目な話です、皇太子も大司教も男性。秘跡は、もしかしたら
しているかもしれませんが、禁呪までは絶対にやっていないはずで
す﹂
﹁そりゃ、やってないだろ﹂
男同士でアレは、もう絶対ダメだ。
というか、異性間でもダメだろう絶対!
﹁わたくしたちのアドバンテージは、もう禁呪しかありません。脱
ぐ必然性ありありの、是非もない濡れ場展開です﹂
﹁お前の言い方が、なんか明らかに無駄なエロシーンっぽいんだよ
740
!﹂
﹁濡れ場なしでフリード皇子の勇者認定一級に勝てる方法があるな
サクラメント
ら、是非教えていただきたいですね﹂
﹁いや、せめて秘跡って言えよ⋮⋮﹂
言葉を飾れ!
ただでさえ、お前の存在自体が、後ろめたいと言うのに。
﹁そんなに強い相手なら、勝てなくても、戦うのを避けるか、逃げ
たらいいだろう﹂
たしか、実利主義のゲイルの奴は、そういう戦い方をしていた。
俺に騎士道はないから、勝てない戦いを避けることを恥とは思わ
ない。
ざんさつ
﹁では、獅子皇子が戦争を仕掛けてきて、タケルの目の前で大事な
仲間を惨殺して、シルエット姫が力づくで蹂躙されたとしても、そ
れでも逃げられるんですか﹂
﹁それは、お前⋮⋮﹂
﹁どのような選択をされても、あなたの聖女は、最後まで信じて一
緒にいるだけです﹂
リアは俺の前に跪くと、白銀色に輝くアンクを掲げて、祈りを捧
げた。
※※※
脱衣所、リアは身に着けていたローブを、床にそっと脱ぎ下ろし
741
た。
﹁本当に、なんでこうなった⋮⋮﹂
サクラメント
﹁タケル! もう是非もなく、神聖なる秘跡は始まっているんです
よ。アーサマが、わたくしたちの一挙手一投足を見守られています﹂
﹁アーサマ! 見てるなら、いますぐお前のとこの、盛大に戒律破
りしてるシスターを止めろ!﹂
神は死んだって、哲学者の叫びを聞いたことがあるが。
この世界の女神も、倫理観と一緒に滅んでるんじゃないのか。
﹁タケル、いけませんね⋮⋮女の子はブラにも、気を使ってオシャ
レしてるんですよ。﹃グヘヘ、さっさと脱いでやらせろよ﹄とか、
是非もないことを言わずに、そのブラシェール可愛いね、ぐらい言
って褒めたらどうなんですか﹂
﹁俺やらせろとか、言ってないし!﹂
グヘヘって、どこのキャラだよ。ああクソッ、もう完全にリアの
ペースだよ、こんちゅくしょー。
だいたい、お前のブラシェール︵この世界のブラジャーはそう言
う︶いっつも純白じゃん。
﹁わたくしの場合は、いつタケルが来てもいいように、毎日が勝負
ブラです﹂
﹁だから聞いてないんだよ!﹂
もうダメだ、限界の俺は、さっさと服を脱いで風呂場に駆け込ん
だ。
742
リアも慌てて全裸になり、追いかけてくる。
﹁タケル、堪え性がないと女の子に嫌われますよ﹂
﹁うっさい、この露出狂シスター!﹂
だから、なんでいっつもバスタオルを巻いてこないんだよ。
どうせ脱ぐのは分かるけど、本当にふざけるのも、たいがいにし
ろよ!
﹁それで、今日の禁呪はどうしますか。前から? 後ろから?﹂
﹁お前さあ、俺のこと騙してるんじゃないよな、本当にパワー強化
に必要なんだよな﹂
リアは、ニヤッと蕩けるような笑顔を見せた。
かけ湯してから、スルッと湯船に身を沈めた。身体の一部分は、
盛大にお湯に浮かんでるけどな。
﹁実際に、対魔法力も、対物理防御も、強化されてますよね﹂
﹁それはわかるけど、もっと別の方法はないのか、俺に黙ってるだ
けであるんじゃないのか﹂
リアはそのまま俺の方に泳いでくると、ピトッと俺の背中に大き
な柔らかい何かを押し当てた。
俺を後ろから抱きしめながら、蕩けるような甘い声で、耳元にそ
っと囁く。
﹁もちろん、もっと別のやり方もあります、是非とも聞きたいです
か?﹂
﹁いや、やっぱり聞きたくない﹂
743
追い詰められたときに、下手にあがくと、余計に酷い状況に陥る。
じっと、肉弾戦の嵐が去るのを、石のような堅固な意志で待つし
かない。
﹁あらまあ、硬くなってるんですね⋮⋮ポッ﹂
﹁うるさいよ、上手いこと言った気になってるじゃない! あとポ
ッ、とか口で言うな。お前は初代ドラゴンクエストの姫か!﹂
無視しようとしても、リアの一言一句が、すごく気に障る。
こいつは本当に、俺の気持ちを逆撫でする、天才だと思う。
﹁もうすでに硬くなっているみたいですけど、さらに防御力を強化
しましょうね﹂
﹁ああっ⋮⋮もうどうにでもしてくれ、せめて口だけでいいから閉
じてくれ﹂
﹁まあ、そこはそれ男の方には、女の子を黙らせるたった一つの冴
えたやり方ってものが、あるんじゃありませんか﹂
﹁本当にもう勘弁してください、お願いします!﹂
しかし、リアは勘弁してくれなかった。
彼女のたった一つの冴えたやり方が、俺の唇を塞ぐ。
逆だろ⋮⋮俺が黙らされてるじゃん。
あと舌で唾液を流し込むのは、百歩譲って喉の強化という意味で
分かる。
すす
お前が、俺の舌から唾液を啜り上げる意味は何なんだ、説明して
みろよ⋮⋮。
ツッコみたくても、俺の舌は、もはや完全にリアにねじ伏せられ
744
ている。
リアが激しすぎて、心まで蕩ける濃厚なリアの味と匂いに息が詰
まって、本当に俺の意識が飛びそうになる。
がんばれ俺の自制心、ここで堪えなきゃ、マジでやられる⋮⋮。
サクラメント
しばらく、秘跡と言う名の、頭がバカになりそうな一進一退の攻
防戦が続いた。
と、そこへ。
身体にタオルを巻いた、シルエット姫とカロリーン公女が入って
きたので、俺は驚きを通り越して、唖然とする。
一瞬固まってしまった、どうなってんだよこれ⋮⋮。
﹁おいリア、お前、人払いをしてなかったのか﹂
﹁あらー、わたくしとしたことが、是非もなくミステイク﹂
嘘つけ、お前絶対にわざとだろ、何考えてるんだよ!
﹁おや、勇者様に聖女様、一緒にお風呂だったんですか﹂
﹁シルエット姫、今はまずいんです!﹂
リアも笑ってないで何とか言えよ、神聖なる儀式中なんだろ!
﹁えっ、勇者様?﹂
カロリーン公女が、湯船で絡まり合っている俺たちのすぐ近くま
で、顔を近づけた。
ああそうか、お風呂ではメガネかけてないもんな、公女は近眼だ
745
ったっけ?
﹁えっ、ええっ? きゃあああああああ!﹂
お風呂場に、カロリーン公女の高らかな悲鳴が響き渡った。
あまりに驚いたのか、腰を抜かしてペコンとしゃがみこむ公女の、
身体を巻いていたバスタオルが落ちた。
うわ、公女も結構⋮⋮。
いや、そんなこと言ってる場合じゃない、なんだかこうやって普
通に悲鳴を上げられるのは、逆に新鮮という気もするが。
そうだよな、公女が正しい。
リアは問題外として、平然としてるシルエット姫の方が、間違っ
てるよ。
﹁きゃあああああああ! いやあああああああ!﹂
カロリーン公女は悲鳴をあげながら、慌てて落ちたタオルを拾お
うとして、そのまま足を滑らせて盛大に転げまわった。
自分の振り回した手が、髪にあたって結んでいたリボンがほどけ
て、ブラウンの長い髪がバサッと広がった。
公女、誠に言い難いんですが⋮⋮、大事なところまで丸出しで、
あらしゃいます。
はあ、もうこれどうしようか。
収拾がつかない事態に俺が絶句してると、リアがざぶんとお風呂
から上がった。
すっと桶にお湯をすくうと、慌てふためいている公女に向かって、
746
思いっきりぶっかけた。
﹁是非、頭を冷やしなさい、カロリーン殿下!﹂
﹁あっ、ああっ⋮⋮でも聖女様ぁー﹂
無茶苦茶するなリア。
頭を冷やせって、お湯をかけるやつが、どこに居るんだよ。
﹁わたくしと勇者様は、いま神聖なる儀式の真っ最中なのですよ﹂
﹁えっ、あっ、でもお二人は、裸でお風呂の中で睦み合って﹂
﹁裸で睦み合ったから、なんだって言うんです。ここは今や、神聖
なる儀式の聖なる泉なんですよ。まさかとは思いますが⋮⋮カロリ
ーン殿下は、わたくしとタケルが、何かイヤラシイことをしていた、
とでもお思いですか?﹂
﹁いえ、そのようなことは決して思っておりません! ああでも嫌
だぁ、私、こんなはしたない格好で﹂
こけ倒れたカロリーン公女は、床に落ちたタオルをようやく拾っ
て縮こまるように、必死に裸体を隠している。
そんな無防備な状態で、仁王立ちの聖女に威嚇されては、たまら
ないだろう。
でも、リアの言ってることは明らかにオカシイぞ、負けるな公女!
﹁はしたないと、今おっしゃいました? まさか、生まれたままの
姿で儀式を執り行っていたわたくしたちを、はしたないとお思いで
すか?﹂
﹁いえ、そのようなことは決して﹂
747
﹁じゃあ、なぜ身体を隠すのです。この聖なる泉は、恐れ多くも女
神様がご照覧あられているのですよ。アーサマの神前で、隠すとい
うことは、なにかやましい気持ちがある証拠です!﹂
ご照覧? ご笑覧の間違いじゃないのかリア。
アーサマだって、たぶん呆れてると思うぞ、見てればの話だが⋮
⋮。
﹁そんな⋮⋮でも、私は聖女様のようにご立派ではないので、神前
に身体を晒す自信がありません﹂
﹁いいえ、カロリーン殿下だって、なかなかのモノをお持ちです。
歳を考えれば、まだまだ成長するはずです﹂
リアは、一体何の話をしてるんだよ⋮⋮。
﹁成長⋮⋮﹂
ほら、リア! もうどうでもいいけど、シルエット姫がまたネガ
ティブ入っちゃったじゃん。
そこらへん気をつけろ。
﹁シルエット姫、アーサマが﹃希少価値だから自信を持て﹄とおっ
しゃっております﹂
﹁本当ですか、妾にも価値が⋮⋮アーサマありがとうございます﹂
キラキラと碧い瞳を輝かせて、微笑みながら手を合わせるシルエ
ット姫。
あー、そんなのでいいんだ。もしかして、これが宗教の力なのか。
﹁さあ二人とも、神前に生まれたままの姿を晒すのです﹂
748
﹁でも、勇者様も見てます!﹂
すでにバサッとタオルを落としたシルエット姫と違い、カロリー
ン公女は必死に抵抗する。
というか、公女の反応が当たり前だ。
俺、いつの間にか、リアに毒されてた。
危ないところだった、完全にリアに洗脳されてるシルエット姫と
同じだわ。
﹁カロリーン殿下にお聞きします。勇者タケルは、神聖なる儀式中
にあなたの裸体を見た程度で、是非もなく劣情を催すような、そん
な卑小な男の子なのでしょうか?﹂
﹁いえ、聖女様⋮⋮、そのようなことは、決してございません﹂
いや、俺ちょっともう、完全に催しちゃってるんだけど。
だから止めようにも止められないし、逃げようにも逃げられない
んだけどね!
﹁では、是非もありません。その身体を隠しているタオルをすぐに
落とすのです。その言葉が真か偽りか、その身を持って神前で証明
なさい﹂
﹁あっ、あいっ!﹂
カロリーン公女は、真っ赤な顔をして、手をブルブルと震わせる。
羞恥に下唇を噛み締めつつ、ブラウンの瞳に涙を浮かべながら、
ついに押さえていたタオルを外した。
サラリとタオルが、神聖なるお風呂場に舞い落ちると、隠されて
いた全てが白日のもとに曝け出された。
749
もはや羞恥すら通り越して、どこか恍惚とした表情をした公女の
潤んだ瞳から、ツーと一筋の涙が頬を伝った。
﹁カロリーン殿下、手を後ろに組んで、大きく胸を張りなさい。人
のあるがままの姿、何も恥ずかしいことはないのですよ。苦しいの
は最初だけで、それがしだいに法悦へと変わっていきます﹂
﹁はい、聖女様⋮⋮﹂
サクラメント
おい、もういい加減にしろよリア、いまさら気がついたけど。
もう秘跡とか、まったく関係なくなってるじゃねえか!
これ絶対、リアが遊びで、公女をはずかしめてるだけだろ。
つか、俺も、最後まで直視してるんじゃねーよ。
よく考えれば、紳士的に目を背ければよかったのに、これが男の
性なのか。
すまない公女、俺も悪い。
﹁勇者様、是非ともお喜びください!﹂
﹁なんだよ⋮⋮﹂
ていしん
﹁ただいま、カロリーン公女殿下の敬虔にして勇気ある挺身に、ア
ーサマが加護を贈られました。秘跡完了、レベルアップです!﹂
パーッと風呂場の天井より白銀の翼が舞い降り、カロリーン公女
の裸体を加護するかのように優しく包み込んだ。
まるで輝ける天使の衣を身にまとった公女は、感涙にむせながら、
いくたびも祈りの言葉を唱えて、風呂場の床へとゆっくりと跪いた。
﹁なんだこの、意味不明な感動⋮⋮﹂
750
風呂でのぼせてきたせいだろうか、俺は頭が痛くなってきた。
﹁なあリア﹂
﹁なんでしょうタケル﹂
﹁お前んとこの女神様と、今度ゆっくり話をさせてもらっていいか﹂
当たるを幸いみたいな勢いで、一国の公女相手に羞恥プレイをぶ
リアルファンタジー
ちかました、リアも酷いけど。
このふざけた酷幻想製造者の責任ってのも、絶対あると思うんだ
よ⋮⋮。
手の届く距離に女神がいたら、今の俺なら説教かましつつ、イマ
ジンブレイカーぶっ放せそうだよ。
﹁そうですか、では是非アーサマ教会にどうぞ、しっぽりお話でき
ます﹂
﹁いかないよ!﹂
はぁー、まあ、納得はできないが。
いろんな意味で危険な禁呪が、この程度で終わったというのだか
らマシと考えるべきか。
サクラ
無事には程遠い︵というか、俺以外にまで被害が広がった︶が。
メント
今回もなんとか、致命的な事態に陥るのを避けて、禁じられた秘
跡を乗り切ったのだった。
751
56.帝国からの使節
いよいよ、ゲルマニア帝国から外交使節団が、王都シレジエにや
ってくる運びとなった。
なんと、帝国の事実的統治者であるフリード皇太子自らやってく
るらしい。
﹁まあ、俺はそうなるんじゃないかと思ってたけど﹂
おもむ
自分で魔素溜り討伐して勇者になるような、腰の軽い目立ちたが
り屋の皇子様だ。
戦争になるかならないかの歴史的外交の大舞台に、自ら赴かない
わけがない。
相手が皇太子なので、格式的にシルエット姫と摂政である俺も、
王都に行かなければならない。
万が一交渉が決裂したら、戦争になるかと思うと、身が引き締ま
る。
いや俺が心配すべきは、交渉が決裂したら、その場で﹃戦闘﹄に
突入するのではないかということだな。
城の廊下を歩いていると、お供の騎士を二人連れてカロリーン公
女が通りかかった。
公女は、真っ赤な顔をして、俯き加減に通りすぎようとする。
サクラメント
この前の秘蹟の時から、口を利いてもらっていない。
俺もすごく気まずいのだが、王都に出向くことは言っておかない
752
といけない。
﹁あの、カロリーン公女﹂
﹁はひっ!﹂
公女の肩が、ビクッと震えて、メガネが目元からするりと床に落
ちた。
大きな胸でバウンドした上で、絨毯が敷かれた床でよかった、あ
やうくレンズが割れるところだ。
俺はメガネを拾い、公女に手渡す。
受け取る手が震えている、まあ俺もちょっと恥ずかしい。業務連
絡だけ。
﹁驚かせてすみません、公女殿下。ゲルマニア帝国より外交使節が
参りましたので、これからシルエット姫と共に、王都へと参ります﹂
﹁さっ、さようですか⋮⋮。私は、付いて行かぬほうがよろしいの
ですよね﹂
それはそうだろうな、公王ならまだしも、公女にトランシュバニ
アの外交権限があるわけではなし。
公女がもし、フリード皇太子に見初められでもしたら、ブリュー
ニュのときより厄介な問題に発展する。
﹁そうですね、公女殿下は御出にならないほうがよろしいかと﹂
﹁では、そうさせていただきます﹂
会話が途切れて、二人共黙りこむ⋮⋮、気まずい。
﹁ゆっ、勇者様! この前のことでしたら本当にもうお気になさら
753
ず、聖女様の儀式だったのですから﹂
カロリーン公女は、リンゴのように頬を真っ赤に染めつつも。
意を決したように、顔を上げてこっちを見つめる。
﹁そうですね、お互いに水に流すということで﹂
お風呂だけに⋮⋮、なんてジョーク。
この真面目そうなメガネっ娘には、通じないんだろうな。
﹁それに、あのあと私もじっくりと考えたのですが、大恩ある勇者
様に、私の貧相な身体ごときで、少しでもご恩返しできたのですか
ら﹂
﹁うおーい!﹂
何言い出した、公女。
今のセリフ、誤解されるだろ、後ろの護衛騎士が酷く狼狽してる。
﹁あっ、すいません。あのえと、裸ぐらい﹂
﹁ストップ! 公女殿下。何もなかったんです。たまたま、偶然、
不運なことに、お風呂で鉢合わせしてしまっただけですから、セー
フです﹂
新しい噂が立ちかねないから、やめてくれ。
羞恥に頬を染めてそう言われると、余計にヤバイ雰囲気になるか
ら。
﹁そ、そうですわね、すみません。あれしきのことで、子どものよ
うに騒ぎ立てしてしまって。その点、シルエット姫様は、堂々とし
ておられました﹂
754
﹁裸で堂々としてるほうが、どっちかと言えば問題だと思うんです
けどね﹂
なんだかリアに引きずられて、俺も含めて常識がおかしくなりつ
つあったのだ。
かくま
ある種の宗教的な洗脳に違いない。それに気がつけただけでも、
公女を匿った価値があったというもの。
﹁次回は、私も、もう少し⋮⋮﹂
﹁次はないですから、どうぞご安心を﹂
ないよな? ないように、俺がリアに釘を打たないといけないの
だ。
俺が被害を受けるのは、もうしょうが無いにしても、シルエット
姫や、カロリーン公女まで、オモチャにするのはやりすぎ。
よし、リアをとっちめにいこう。
どっちにしろ、勇者になったフリード皇太子だ。
これ見よがしにお付きの大司教を連れてくるだろうから、こっち
も対抗してリアを連れて行かないといけないし。
﹁おい、リア﹂
﹁タケル、是非もありませんが、間に合いませんでしたね﹂
まぶか
目深なフードをかぶっているので、顔はよくわからないが。
珍しく深刻そうな口調で、リアがつぶやく、コイツがこんなに真
剣なんてビビる。
﹁どうした⋮⋮﹂
755
サクラメント
﹁この前の秘蹟で、わたくしは勇者認定準一級まで昇格しました。
しかし、大司教の持つ一級の資格とは、まだ大きな隔たりがありま
す﹂
そうか認定の差が、勇者としての、力の差になってくるのか。
俺は魔法力がないから、雷の魔法も使えないし、不利は否めない。
ひせき
﹁その秘蹟をやると、なんか簡単にレベルがポンポン上がってるよ
うなんだが、もう一回ぐらい何とかならないのか﹂
やりたいとは言ってないが、真面目な話だ。
ひせき
﹁そう見えてるだけで、秘蹟には、段階と言うものがあるんです﹂
﹁そうなのか﹂
リアが自分の気分で、好き勝手やってるようにしか見えないんだ
が。
﹁例えば、恐れ多いですが、タケルが女神様であったとして、何の
必然性もなく何度も力を寄越せとか願われたら、どう思いますか?﹂
﹁それはまあ、いい加減にしろと思うだろうな﹂
俺が、今まさに、リアに対して思ってることだ。
﹁アーサマは、わたくしたちだけを特別扱いしてはくれないのです。
是非もないことですが⋮⋮﹂
﹁ああっ、分かった。後は、俺の知恵と勇気で何とかしてやるさ﹂
リアのできることは、終わったってことなのだろう。
756
﹁さすが、タケル。わたくしの勇者です﹂
リアは声を震わせて、その場に跪き、白銀のアンクを掲げた。
いつもそういうシリアス調でいてくれると、まともな聖女に見え
るんだが。
実際に知恵を出して何とかするのは、ライル先生だけどな。
先生の指示通りのメンツで行けば、何とかなるという安心感はあ
る、俺が出すのは勇気だけでいい。
※※※
オックスの街から王都への道すがら。
オラクルちゃんに頼めば、一瞬で城まで飛べるのではないかと思
い声をかけたら、なんだか奇妙だぞ。
﹁オラクル、お前⋮⋮変な格好してるなあ﹂
﹁レディーに向かって、言うに事欠いて、変とはなんじゃ。お前ん
とこの先生様がワシにくれた正装じゃぞ、威厳があってワシに似あ
っておろう﹂
たしかに威厳はある。豪奢な深紅のマントに、綺羅びやかな宝玉
をあしらった大きな黄金の肩当。
でも、言っちゃ悪いけど、全然似合ってないぞオラクル⋮⋮。
少女形態のオラクルちゃんに、その厳つい肩当は似合わなすぎる。
﹁まあ、先生が着せたんなら、何か意味があるのか⋮⋮﹂
﹁ハレの舞台じゃからな、かの不死王の末、ダンジョンマスターオ
ラクルに相応しき装いと言える﹂
757
なんだか、オラクルちゃんは深紅のマントと白ツインテールをた
なびかせながら、プカプカと浮遊してその気になっている。
かっこつけたいなら、せめて子どもっぽいツインテール、やめた
ほうがいいんじゃないか。
今回は、外交折衝だから、どうせオラクルちゃんの出番はないと
思うんだがな。
※※※
王都シレジエは、復興事業が順調に進んでいるとはいえ、いまだ
戦禍の傷跡が深い。
特に王城や王宮は、補修はされたものの、半壊状態のままだ。
そこにゲルマニアの皇太子を迎えようというのだから、城をひっ
くり返したような大騒ぎになっている。
﹁タケル殿、ちょうどいい時間です。万事手はず通り、帝国使節団
も間もなく到着すると思いますよ。あなた方も、正装に着替えてく
ださいね﹂
﹁先生、お疲れ様です﹂
久しぶりというほどでもないが、ちょっとぶりに見たライル先生、
疲れの色が濃い。
いつもの黒いベストではなく、袖長のチュニックのうえに、シュ
ールコーを着て、さらに国務卿の地位を象徴する赤と青に彩られた
マントを羽織る、着膨れして重そうだ。
ここまで装飾過剰なゴテゴテ衣装を着ても、ちゃんと可愛い先生
758
は、すごい。
俺の贔屓目だろうか。
﹁とにかく、衣装は用意してありますから、お早めに﹂
﹁あっ、すいません﹂
俺は、騎士で勇者なので、ゴテゴテ衣装でなく﹃ミスリルの鎧﹄
を着れればいいらしい。
ただ、シレジエ王国の紋章が入ったサーコートを上に羽織る。
なんだか、十字軍の騎士みたいで、滾るぞ。
さすがにシルエット姫も、いつもにも増してドレスアップして、
ストロベリーブロンドの御髪に、銀細工に宝飾をあしらったティア
ラを乗せている。
いつものように、フードでエルフ耳が隠せないので、姫は少し不
安そうな顔をしていた。
いい加減、姫にも、王族の務めに慣れてもらわないといけないの
かもしれない。
ハーフエルフだから、王位継承権を認めないとか、辞めさせない
といけないしな。
そうして、いよいよ王城の謁見の間に、ゲルマニア帝国の使節団
が現れた。
※※※
ユーラ大陸最大の帝国、ゲルマニアの実質的支配者。
ゲルマニア帝国皇太子、フリード・ゲルマニア・ゲルマニクス。
759
こんじき
ししおう
金色の獅子皇などという、ご大層な二つ名で呼ばれている若き皇
子。
ロイヤルパープル
改築中の城とはいえ、金襴緞子で彩られた謁見の間の赤絨毯を、
高貴なる貝紫色のマントを翻して颯爽と進むその姿。
教えられなくても、その若武者が﹃金獅子皇﹄なのだとすぐ分か
った。
輝くような金色のライオンヘアー、凛々しい顔立ち。
こちらに向けた皇太子の双眸は、青と黄金のヘテロクロミア。
まさに若獅子がごとき風貌の美丈夫。広い肩幅と引き締まった肉
体もさることながら、その強い存在感が、彼を偉大なる皇太子に見
せる。
元の世界の基準で言うなら、奴のまとう雰囲気は、特進クラスの
後ろの方に悠然と座っている、生まれつき﹃特別な奴﹄だ。
声高に叫ばずとも、ただ一瞥するだけで人は自然と彼に頭を垂れ
る。それだけのカリスマ性を有している。
皇子の後ろからは、青白く光り輝く大きな盾を持った重装騎士と、
妖艶なるお姉様風の宮廷魔術師、白と青がシンボルカラーの華麗な
大司教の衣に身を包んだ聖者が続く。
あーこの勇者を含んだ四人パーティーの雰囲気、どっかでみたこ
とある。
明らかに、向こうが主人公風だろこれ⋮⋮、しかも帝国皇太子だ
し、ドラクエよりロマサガか?
ちなみに、金獅子皇フリードが着ているのは、﹃オリハルコンの
760
鎧﹄である。
﹁あやつが着てる鎧は、伝説の金属、オリハルコンじゃな﹂
俺の耳元で、オラクルちゃんが囁いてくれるけど、それ俺がいま
解説したからね。
ファンタジー知識なら、俺もあるんだから、だいたい察せられる
よ。
俺が着ているミスリルが白銀の金属なら、オリハルコンは青白く
輝く金属と相場が決まっている、あの重装騎士が持ってる大盾もそ
うなのだろう。
勇者レンスが作ってる謎合金とかもあるので確実とはいえないが、
おそらく世界最強の金属だろう。
﹁大丈夫じゃ、勇者どのの鎧だって﹃オラクル大洞穴﹄最強装備じ
ゃぞ。向こうのオリハルコンには魔法力はかかっておらん。強化魔
法を加味すれば、こっちの﹃ミスリルの鎧︵全抵抗︶﹄だって負け
ておらん﹂
すっかり解説役に収まったオラクルちゃんが、したり顔で言う。
鎧は負けてなくても、中身がな⋮⋮。
皇子たちの四人パーティーの後から、後から騎士や文官も続くけ
れど、それより綺麗どころの宮廷女官がやたら多い。
さっと、輝く金髪をなびかせるフリード皇子に向かって、綺羅び
やかなドレスのお姫様たちが、キャーキャー黄色い声援を送ってい
る。
なんだか、何もしてないのに負けた気になる。
761
クソッ、戦闘要員ならともかく、他国にまで女の子を連れ回して
るんじゃねーぞ。
﹁ようこそおいでくださいました、フリード皇太子殿下﹂
ライル先生の父親、ニコル宰相がフリード皇子を出迎えて、代表
して挨拶する。
﹁ゲルマニア帝国皇太子、フリードだ﹂
﹁ささ、長旅でお疲れでしょう。どうぞこちらに﹂
ししおう
宰相が、案内しようとするが獅子皇は、さっとそれを手で制した。
﹁長話は好かん、シレジエ王国唯一の王位継承者、シルエット・シ
わらわ
レジエ・アルバートはいずこか﹂
﹁シルエットは、妾です﹂
フリード皇子はじっと睨めるように眺めると、フッと笑って言っ
た。
よ
﹁素晴らしい美姫ではないか。気に入った、余の嫁にならんか﹂
イケメン
おっと、フリード皇太子、会っていきなりの告白。
展開早すぎるだろ、これが実力に裏打ちされた自信というやつな
のか。
﹁妾は、会ってすぐの男とは結婚しません﹂
﹁ふんっ、余の求婚を断る姫がいるとは、面白い﹂
プロポーズを断られて、面白いとはどういうことだ⋮⋮。
762
どこまで自信に溢れてるんだよ、金髪イケメン皇子。
﹁シルエット姫、美しさもさることながら、意志に満ちた瞳が気に
入ったぞ。そなたなら、余の正妻として迎えても良い。そうなれば、
ゲルマニア帝国の版図にシレジエ王国も加わる。余の后になるとは、
つまり世界の半分を手にするに等しい。姫の欲しいものは、なんで
も手に入れられよう﹂
フリード皇子は、大きく手を広げて、さらに姫を掻き口説く。
芝居がかった大げさな仕草が、様になっているから小憎たらしい。
なにせマジモンの皇子様だ、普通の女の子なら即効落ちるなこれ。
﹁妾が欲しいのは、自由だけです﹂
﹁自由か、シレジエのような因習に囚われた国とは違い、余の新し
い帝国ではハーフエルフの王族も差別されない。そなたのような麗
しい姫を女王と認めぬ、シレジエは酷い国なのではないか﹂
フリード皇子は、その大きな腕にシルエット姫を抱こうとして、
さっと避けられる。
普通に姫に振られているんだが、仕草がいちいち演劇みたいに様
になっている。
皇子も、口説きが上手くいかないのを、却って楽しんでるんだよ
な。
これが、イケメン皇子の余裕ってやつか。
俺も、シレジエの廷臣も、突然始まった皇子と姫の小芝居を呆然
として見てるだけだ。
これも一種の外交ってやつなのだろうか。
763
向こうの廷臣も何も言わないから、皇子が初対面の女の子を口説
くのは、いつものことなのだろうか。
綺麗どころの女官たちが、この謎の展開に、キャーキャー騒いで
るのがわけわからん。
﹁妾が女王とならずとも、この国にはいずれ国王となられる方がお
ります﹂
シルエット姫が、すがるように俺に視線を送る。
﹁えっ、俺?﹂
﹁ほほぉ、シレジエの勇者タケルか﹂
フリード皇子が、青と金のヘテロクロミアの瞳で、俺をふてぶて
しく睨んでくる。
いやいや、この恥ずかしい小芝居に巻き込まれたくないんだけど!
﹁いや、俺は違⋮⋮﹂
﹁フンッ、シルエット姫が、因循な貴族どもに認められぬのを良い
ことに、シレジエの摂政となり実権を握らんとする、なかなかに小
癪な男だと聞くな﹂
実権握らんとするとか、ライル先生が勝手にやってるだけだし、
いきなり悪者ポジションにされても困る。
俺が悪いっていうのか⋮⋮? 俺は悪くねえぞ、だって先生が言
ったんだ⋮⋮そうだ、先生がやれってっ!
﹁タケル、余とお前は勇者同士だ。いっそのこと、姫とこの王国を
764
賭けて、真剣勝負といこうではないか﹂
ブンッと光の剣を抜いて、俺の前に立ちはだかるフリード。
なんでいきなり決闘になるんだ、まず外交交渉じゃなかったのか
よ!
765
57.勇者VS勇者
俺の言い訳は通用しないようだ、ならば。
﹁待て皇子、姫を賭けてとか、女を物みたいに扱うな!﹂
﹁ほうっ、これは失礼した。お前の言うことにも一理あるか﹂
ふうっ、イケメン皇子はカッコつけたいフェミニストっぽいから、
この説得には乗ってくれたか。
相手の実力もわからんのに、いきなり真剣勝負とか、冗談じゃな
いからね。
あと、どうでもいいんだが。
フリード皇子が連れてる女官たちが、皇子が何を言ってもキャー
キャー黄色い声援を送るのが、だんだんムカツイてきた。
﹁だが、内乱で荒れ果てたシレジエ王国など、余の帝国がその気を
出せば簡単に攻め滅ぼすことができるのだぞ。兵や民に犠牲を出さ
ずに、勇者同士の決闘で決めると言うのは悪くない考えであろう﹂
﹁うーん、それはそうかも﹂
こいつ、理詰めも強いな。
俺としても、戦争は避けたいし、こっちが説得されそうだ。
﹁金獅子皇! たかが決闘で、シルエット姫様を是非もなく手に入
れられるなどと、考えないことです!﹂
﹁何だコイツは⋮⋮﹂
766
まぶか
ふしんしゃ
突然、目深なフードを被った聖女が、前にしゃしゃり出てきた。
初めてフリード皇子と意見があった、何だコイツは。
﹁お初にお目にかかります皇子。わたくし、勇者タケル付きの聖女
を務めますステリアーナです﹂
﹁おおっ、お前があの﹃封印の聖女﹄か、噂は聞いておるぞ﹂
えっ、リアってフリード皇子が噂に聞くほど有名なのか。
封印のって、ああそうか。確かに魔素溜りの封印回数なら、三回
目だもんな。ベテランとは言える。
﹁姫様、いかに貴女がタケルに可愛がっていただいているか、皇子
にお見せしなさい﹂
リアの合図で、シルエット姫はその場に跪くと、俺の足にストロ
ベリーブロンドをこすりつけるようにして﹁ブヒッ﹂と可愛らしく
鳴いた。
その瞬間、謁見の間の空気がピキッっと、絶対零度まで凍りつい
た。
リアッ、お前、帝国使節団も来てる外交の場で、姫に何させやが
るんだァァ!
フリード皇子以下、というかこっちの廷臣も絶句してるだろ。
﹁こっ、これは⋮⋮﹂
終始、余裕の笑みを崩さなかったフリード皇子の顔面が、グシャ
リと崩れた。
767
皇子の気持ちもわかる。リアの悪ふざけも、ついに国際問題レベ
ルにまで発展した。
なんで俺の身にばかりこんなことが⋮⋮。
﹁これで是非とも分かったと思います。すでに姫は、わたくしの勇
者に、完全に調教されております。フリード皇太子が、いまさら決
闘に勝とうが何をしようが、姫の心を手に入れられるなどとは思わ
ないことです﹂
﹁バカな、一国の姫君相手に子豚ちゃんプレイだと⋮⋮信じられん。
余ですら経験したことがないのにっ!﹂
﹁ブヒッ﹂
﹁なんとっ!﹂
姫の子豚ちゃんプレイに、激しい衝撃を受けたフリード皇子は、
ガシャっと音を立ててオリハルコンの甲冑の片膝を突いて崩れ落ち
た。
世界最強の皇子が片膝をついたことで、謁見の間はどよめき立つ。
﹁いや、フリード皇子、違うから、リアが勝手に﹂
﹁貴様ッ! この程度で余に勝ったなどと、思い上がらぬことだぞ
ッ!﹂
いや、そんな悔しそうな眼で睨まれても、そんな勝負してないか
らね。
その後、自信を喪失したフリード皇子が気持ちを持ち直し、凍り
ついた謁見の間の空気が回復するまで、かなりの時を有した。
※※※
768
謁見の間から、応接間に移って外交は続行される。
もちろん応接と言っても潜在的な敵国同士、和やかな祝宴と歓談
というわけにはいかない。
今度は、官僚レベルの激しい外交折衝が開始される。
帝国の属国であったトランシュバニア公国の帰属問題やら、国境
付近の領土問題など喧々諤々の細かい舌戦があって、話し合いは全
くまとまらない。
内乱や国境紛争の傷跡も色濃く残るシレジエ王国の立場は弱いが、
だからこそ外交に生き残りを賭けた交渉は必死であった。
ユーラ大陸の最大版図にまで膨れ上がったゲルマニア帝国だが、
その内実は自治権を持つ多数の王国や公国を、圧倒的な武力で従え
る領邦国家である。
内政には常に地方反乱の危険性を抱え、諸外国にかなり警戒され
ているので、外交上には弱点もある。
まあ、何が言いたいかというと、皇子も俺たちも暇である。
長椅子にゆるりと座って、綺麗どころの女官たちを侍らせて喪失
した自信の回復に努めていた皇子だったが。
それにも飽きたのか、貝紫色のマントを翻してこっちにやってき
た。
﹁おい、シレジエの勇者タケル﹂
﹁なんですか、フリード皇子﹂
﹁物は相談なのだが、そちらの勇者付き聖女ステリアーナと、余の
769
トレード
ニコラウス大司教を交換せぬか﹂
﹁えっ、マジでいいの?﹂
思わぬ好条件の申し出に、俺の心が揺らぐ。
やはり皇子は、頭も切れるようだ。お付きの聖者交換がオーケー
だったのなら、先に言って欲しいよ。
﹁いけませんタケル、これは皇子の罠です!﹂
リアが反対する、まあ待て、話を聞いてみるべきだ。
﹁﹃封印の聖女﹄ステリアーナ、余に片膝をつかせた女は初めてだ。
こちらのニコラウス・カルディナルは、次期教皇の候補にあげられ
るほどの傑物だが、そちらの聖女と交換なら惜しくはない﹂
﹁そちらのニコラウス大司教ってのは、そんなにすごいんですか﹂
皇子は、驚いた顔で目を見開いた。
オールライトヒーリング
﹁なんだ帝国首都ノルトマルクの大司教、ニコラウスの実力を知ら
んのか。聖者としての実力もさることながら、全範囲回復魔法の使
い手として有名だぞ﹂
﹁それはすごい﹂
エリクサー
全範囲にわたって回復とか、霊薬や回復ポーションをポコポコ産
むリアより利便性が高いじゃん。
これは交換決定だな。
﹁タケル、騙されてはいけません。大司教のオールライトヒーリン
グは、敵味方区別なく回復してしまうので、対モンスター戦にしか
使えません!﹂
770
リアが珍しく慌てふためいて補足する。
なるほど、人間同士の戦闘には使い勝手が悪いわけか。
﹁それにしても大司教は、勇者認定一級。そちらのステリアーナは、
二級だと聞くので悪い取引ではあるまい﹂
皇子がさっと一瞥すると、銀縁メガネをかけて生白い顔をした神
官が、俺に向かってサッと頭を下げた。
うん、実直そうな男で、好印象だ。
﹁わたくし、すでに準一級になっております。そのうち絶対に一級
にまで昇格してみせます!﹂
リアが、ガシッと俺の腕を掴んできた。
正直なところ、久しぶりに慌てふためいたリアを見て、ざまーと
いう気持ちしか浮かばない。
﹁すでに準一級になったとは、ますます気に入った。ステリアーナ、
余にそのフードに隠れた顔をみせてくれぬか﹂
﹁是非とも近寄らないでください! 聖女に勝手に触れでもしたら、
アーサマの罰でぶっ殺しますよ!﹂
じわりと近寄ってくる皇子から、リアが必死になって逃げ惑って
いる。
うーん、ニコラウス大司教。静かで邪魔にならんし、実力はお墨
付きだから、役に立ちそうな男だ。
だんしょくか
﹁あっ、余としたことが一つだけ言い忘れた。ニコラウスは男色家
なので、その点ちょっと扱いには注意するようにせよ﹂
771
﹁えっ、男色家ってなに?﹂
いつも自信満々のフリード皇子は、珍しく顔を背けて、言葉を濁
すようにつぶやいた。
﹁つまりその、男好きだな。余はそっちの趣味はないので、少し困
っている﹂
﹁ホッ、ホモォ⋮⋮?﹂
ニコラウス大司教が、生白い顔に頬をピンク色に染めて、ニコッ
と笑った。
うああああああ。
リア
﹁フリード、俺の聖女から手を離せ!﹂
﹁なんだと?﹂
俺は、リアのフードに手を伸ばそうとした皇子の手を跳ね除けた。
﹁誰が自分の聖女を渡すものか、人を物のように交換など、勇者と
してあるまじき行為だ!﹂
﹁余が少し下手に出れば、下郎ごときが調子に乗りおって⋮⋮﹂
フリード皇子は、忌々しげに俺を睨むと、渋々と後ろに下がった。
お付きの聖者の交換は、両方の同意なくしてはできないのだ。
﹁ああ、タケル。わたくし、信じておりました。信じておりました
とも!﹂
リアが、俺の首に腕を巻いて、すがってくる。
今回は、俺の負けだ。
772
リアよりも、さらにヤバイケースがあるとは、想定もしてなかっ
た。
あと毎回、心の底から思うんだけど。
本当に、アーサマ教会の聖職者教育はどうなってんだよ、フリー
ダムすぎるだろ!
※※※
結局、帝国の使節団まで出張っての外交折衝は、お互いの主張が
食い違うばかりで、何の進展もなかった。
決まったのが、せいぜい第三国のローランド王国を通じて両国の
外交ルートを設けておく程度らしい。
使節団を迎える準備と、その後の折衝でお疲れのライル先生が、
重たい国務卿の正装を引きずるようにして俺のところにやってくる。
﹁タケル殿、フリード皇太子お付きの上級魔術師の顔を覚えておい
てください。あれは要注意人物です﹂
﹁えっと、あの無駄に肌色が多い衣装のお姉さんですか﹂
グラマラスなボディーに、それはどこのエッチな水着なのかと言
う、肌色の面積がやけに多い黒いボーンテージファッションに、黒
衣のマントを羽織っている。
やけにでかい宝玉の入った魔法の杖は、強キャラの証か。
﹁ゲルマニア帝国宮廷魔術師、﹃時空の門﹄イェニー・ヴァルプル
ギス。他は中級程度の魔法しか使えませんが、彼女は極めて稀有な
﹃特異魔法﹄を二つ持っています﹂
773
﹁特異魔法ですか﹂
聞きなれぬ言葉だ。特異とか特別とか、いかにも中二病が好きそ
うな語感である。
ジャ
この世界の魔術師って、詠唱とか聞いてると、基本的に中二要素
が入ってるもんね。
ンプ
﹁一つは﹃瞬間移動﹄視線の届く範囲に、触れてるものを含めて移
動できます﹂
﹁それは、反則臭いですね﹂
瞬間移動しまくられたら、もうどうしようもない感じがする。
魔法力の限界があるんだろうけど。
﹁もう一つは、これが要注意の﹃転移魔法﹄、あらかじめ陣を張っ
た場所に人間の群れを転移させます﹂
﹁それもう完全に反則じゃないですか!﹂
そんな魔法で自由に兵士を送り込まれたら、戦術が無茶苦茶にな
ってしまう。
﹁安心してください。かなり時間を要する高度な術式の上に、一度
に送れるのは十人程度です。ただし皇子や、その側近のような能力
の高い戦士を効果的に転移させると、戦局を揺るがす魔法とも成り
得ますね﹂
﹁大丈夫なんですか﹂
﹁相手の手品の種がわかっていれば、対処法はあります。王都にも
この機会に﹃転移魔法﹄の魔方陣を敷くはずですから、後で徹底的
に洗って潰しておきます﹂
774
﹁お願いします﹂
もう戦術に関しては、先生だけが頼りだ。
﹁後一人注意すべきは、皇子の守護騎士ヘルマン・ザルツホルン。
見れば分かると思いますが、世界最強のオリハルコンの大盾の防御
力は、もう手のつけようがありません﹂
﹁ですよね﹂
いわお
あの存在自体がでかい巌みたいな角刈りの大男、無理っぽい。
重い盾はそのまま武器としても強いと聞く、防御力特化チート、
フリード皇子より戦いたくない相手だ。
﹁まあ、敵になってしまったら、大砲の集中砲火でも浴びせてみま
すかね。﹃鉄壁のヘルマン﹄がどこまで守りきれるか、楽しみな気
もします﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
先生そんなこと言いながら、笑わないでくださいよ。若干、こっ
ちが悪役っぽい雰囲気です。
いま、戦争回避のための外交交渉を、懸命にやってるんですよね?
﹁戦争も外交の一手段なんです、倒す覚悟で凄まないと、戦争回避
なんてできません﹂
﹁ですよね⋮⋮﹂
俺と先生が相談しているところに、またフリード皇子がやってき
た。
﹁やはり、余とシレジエの勇者で一戦交えるしかあるまい﹂
775
﹁またそれか⋮⋮﹂
決闘しても、俺には何の利益もないのだが。
デーモンズ・ゲート
﹁良いのか、シレジエの勇者タケル。お前が、配下の魔族を使って
魔界の門をわざと開いたのだと吹聴しても良いのだぞ﹂
﹁なんでそれを!﹂
金獅子皇は、煌めくライオンヘアーを揺すって大笑した。
﹁ハハハッ、知っておるのは当たり前であろう。お前のやり方を見
て、余も同じ事をやったのだからな﹂
﹁フリード、お前まさか⋮⋮﹂
めいむのふくまでん
﹁そのまさかよ、﹃迷霧の伏魔殿﹄は余が命じて開かせたのだ。余
が勇者の力を手に入れるためにな﹂
﹁勇者になるために、自分の領民の街を教会ごと全滅させたのか!﹂
そうなるように、計画的にやったとしか思えない。
出来レースだとは思っていたが、酷い話だ。
めいむのふくまでん
﹁そうだ、我が帝国にある﹃迷霧の伏魔殿﹄も、領民の街も、余の
物なのだから勝手に使って何が悪い﹂
﹁お前それは、いくらなんでも﹂
無茶苦茶やりすぎだろ。
フリードの創ろうとしている新しい帝国ってのは、そういうもの
なのか。
﹁手前勝手な理由で、魔素溜りの出口を開いたのは、お前も同じよ
776
な。まさか、余だけを悪となじるつもりか。シレジエの勇者タケル
!﹂
﹁俺は⋮⋮﹂
確かに言い訳にはならない。
戦争回避のためとはいえ、俺だってやってしまった、フリードが
巨悪なら俺もまた悪党だろう。
﹁余は構わんぞ、さあ剣を抜くが良い。どちらが正しいか、勇者同
士、正々堂々と光の剣で決着を付けようではないか﹂
ブンッと、光の剣を抜き放つ。
なんだかんだ理由をつけて、どこまでも俺と決闘したいらしいフ
リードに呆れる。
俺は分かった、俺よりでかい図体してても、こいつはガキだ。
新しいオモチャを手に入れて、使ってみたくてたまらないだけの
子供なのだ。
だって、かつての俺が、中二病でそういうどうしようもない奴だ
ったんだから、分からないわけがない。
その安易に振り回した力が、どこかで誰かを傷つけてしまうこと
を、その身に深く刻み込まなければ実感できないのだ。
﹁いいだろうフリード、シレジエ王国とゲルマニア帝国の代理戦争。
俺とお前でやってやろうじゃないか!﹂
こんな図体がでかいだけの、分別もつかない子供に負けるかよ!
もし負けそうな気配になったら、速攻で逃げればいいよねと、先
777
生にはチラッと視線を送って確認しておく。
よし、たぶん大丈夫だろうから、相手をしてやろう。
778
58.光の剣・闇の剣
夕日の差しこむ、王城の大広間。
シレジエ王国の命運をかけた、俺とフリード皇子の決闘が始まっ
た。
この大広間の広さなら、オラクルちゃんと合体して飛行形態で戦
えないかなとチラッと見たら、普通に声援を送られた。
﹁頑張れ、タケル。なんなら背負ってやろうか﹂
まあ、勇者同士の決闘に、オラクルちゃんブースター装着は反則
になるだろうな。
貫くような青と金のヘテロクロミアの視線で、俺をじっと睨む。
生まれつきの支配者、金獅子皇フリード、圧倒的なその存在感。
﹁正々堂々と勇者同士の決闘だ、来ないなら余から行くぞ!﹂
﹁おっと!﹂
ブンッと、光の剣で斬りかかってきたのを、ブンッと斬り返す。
まずは様子見とも思ったが、速い!
相手の初動を追うような余裕はない、とにかく敵の斬撃をそのま
ま受けて弾く。
バチッと火花を散らして、光の剣がぶつかり合う。
光の剣の重さは、ほとんどゼロだ。
779
その威力とスピードは、純粋に意志の力と体捌きだけで決まる。
フリードの剣さばきは、さすがに皇子の風格がある堂々としたも
のだが、光の剣の本質がまだ分かってないと見える。
光の剣での実戦経験では、こちらがはるかに上なのだ。
﹁言うほどには、できるようだなタケル﹂
﹁フリード皇子も、なかなかだ﹂
右になぎ払い、左になぎ払い、さらにスピードを上げて剣を打ち
続ける。
輝ける剣が弾け合う、剣戟の応酬。
一手間違えれば命はない戦いなのに、だからこそか、だんだん楽
しくなってきた。
剣を振るう度、互角の力をぶつけ合う喜びに、心が震える。
フリードがニヤッと笑った。
俺も、多分笑っていたと思う、そこでフリードの剣圧が膨れ上が
った。
﹁そろそろ本気を出すぞ、ゲルマニクス流剣術 烈皇剣!﹂
﹁くおっ!﹂
フリードは、光の剣を振りかぶると、全力で打ち込んできた。
ここまで思い切った攻撃を仕掛けてくるとは。
フリードの全身からほとばしる気迫を、そのまま力にした強烈な
斬撃。
受ける腕がビリビリと痺れる、持ちこたえるのに必死、これが皇
780
帝の剣か。
﹁ウラ! ウラ! ウラ! ウラ!﹂
何度か、空気が裂けるほどの早く激しい打ち込み。たなびく残光
が曳光を残し、フリードの残像すら見える。
俺は、フリードの大振りにじっと耐えながら、隙ができるのをひ
たすら待って。
その大きなモーションに空いた一瞬の間隙を、鋭く穿く。
﹁平突き!﹂
平突き。
間合いゼロで、刃を横にして、水平に鋭い突きを打ち込む技だ。
大振りで体勢の崩れたフリードは、それでも体捌きだけで俺の突
きをかわそうとする、かわせるだけの実力はある。
初見の技に、見事な戦闘センスといえるが、その動きはすでに予
想している。
この平突きは、横に逃げようとしても、横薙ぎに変化するんだよ。
光の剣がチンッと音を立てて、オリハルコンの肩当に弾かれた。
さすが世界最強の金属オリハルコン、光の剣を持ってしても、か
する程度ではダメージすらないか。
﹁利かぬっ﹂
﹁チッ!﹂
781
踏み込みも浅かった、次に同じ展開になれば、もっと深く突き抜
けてやるが。
同じ攻撃を許す敵ではないか。
﹁面白い技だな、シレジエの勇者。そちらが突き技なら、こちらも
我がゲルマニクス流の真髄を見せてやろう﹂
一度下がり、呼吸を整えたフリード。
今度はフェンシングの型のような姿勢を取って、フリードも走り
こみながら突きかかってくる。
﹁ゲルマニクス流、三段突き!﹂
ガッガッガッと、巧みな突き技を見せるフリード。
この世界にも三段突きがあったか、だが突き勝負なら、俺だって
練習しまくっているんだぞ。
じきしんかげりゅう
﹁直心影流奥義 四相発破!﹂
片手剣なので、突きが四回しか繰り出せないが、その分正確に打
ち当てられる。
イメージ
まるで牽制するジャブの応酬だが、フリードの三段突きを弾き返
して、さらに鋭い突きの意志そのままに、鋭角に突き上げる。
﹁ぬあっ!﹂
肩に一撃を受けて、フリードは光の剣を大きく振って牽制しなが
ら下がる。
さすがオリハルコンの鎧、光の剣閃ですら砕けないのか。
782
だが、鎧を着ている人間は無傷ではいられない。
余裕の笑みを崩してはいないが、フリードの額からは汗が垂れて、
歯を食いしばっている、明らかにダメージが入った。
俺の剣筋も若いが、奴もまだ実戦不足と見た。
光の剣での戦いなら、俺のほうが経験が上、これなら勝てると踏
んだ。
﹁どうだフリード、決闘なんて、もう止めておけよ﹂
﹁何をバカな、余に一撃当てた程度で、もう勝ち誇っているのか﹂
たとえ決闘に勝ったところで、帝国が王国を脅かす強い戦力を有
している事実に変わりはない。
なら打ち砕くべきは、フリードの身体ではなく心のほうだ。
﹁ならばよし、お前が﹃もう止めよう﹄と言うまで、打ち続けるの
み!﹂
﹁調子に乗るなよ、木っ端が!﹂
イメージ
俺の強い意志を込めた光の剣は、確かにフリードの光の剣を弾き
飛ばしたはずだった。
それなのに、何だこの、感覚は︱︱。
まるで、敵の斬撃を受けることを予告するかのように、全身をギ
リッと軋ませるような幻痛が走る。
このスローモーション、命の危険を前にして、時間がゆっくりと
引き伸ばされていく感覚。
俺の身体に向かって飛び込んでくるのは、フリードの右手に握ら
れた光の剣ではなく、左手より伸びた、漆黒の剣だった。
783
︱︱フリード なぜ貴様が、魔王の闇の剣を使える!
そう思考すると同時に、俺の身体は、横薙ぎを受けて弾き飛ばさ
れた。
地に激しく叩き伏せられる衝撃と共に、時間の感覚が、やがて元
に戻る。
ゴミ
﹁おや、なんだこの魔族、つまらぬ者を切ってしまった﹂
フリードの非情な声が、俺の身に降りかかる。
どうやら、弾き飛ばされただけで、俺の身体に異常はない。ミス
リルが耐えたかと思ったが違った。
俺の身代わりになって、身体を大きく切り裂かれて倒れているの
は、上級魔術師のカアラだった。
大きく切り裂かれた身体、傷口が黒く焼かれているせいか、出血
もない。
﹁なんで、カアラが決闘に出てくるんだよ!﹂
守られたのに、俺はありがたいとも思えずに、ただ激しい怒りに
震えていた。
俺の視界がぼやける。滲む涙を、慌てて手の甲で振り払い、立ち
上がる。
﹁タケルが、そういう﹃呪隷契約﹄にしたんじゃろうが!﹂
飛び出てきた、オラクルちゃんの声に俺はハッとする。
784
第二条 カアラは、直接的および間接的に、人間に危害を加えて
はならない。また、人間への危害を看過することによって、人間に
危害を及ぼしてはならない。ただし、第一条に反する場合は、この
限りではない。
カアラは、契約があるから、俺の﹃危険を看過できずに﹄飛び込
んで守ったのだ。
確かに、今の不意打ちは完全に直撃、死んでいたかもしれない。
なんだ、全部俺のせいか。
助けて欲しくなかったら、カアラに俺を救うなと命じておけば良
かったのだ。
﹁シレジエの勇者! いらぬ邪魔がはいったが、すぐに決着をつけ
てやる﹂
﹁フリード、なぜ貴様が闇の剣を出せる!﹂
フリードは、ものすごく嬉しそうに形の良い唇を歪めた。
きっと、本当は教えたくてしょうがなかったんだろう、このクソ
ガキが⋮⋮。
﹁いいぞ、冥土の土産に教えてやろう﹂
そういうと、オリハルコンの篭手を外して、俺に左手を見せる。
フリードの手の甲に、赤黒い闇の勾玉が埋め込まれていた。
﹁なんだそれは!﹂
﹁ハハハッ、お前は勇者なのに﹃魔王の核﹄も知らんのだな﹂
フリードは、青と金のヘテロクロミアの瞳で俺を見下し、あざ笑
785
う。
﹁魔王の核を、自分の手に埋め込んだっていうのか!﹂
﹁そうだ、シレジエの勇者タケル。余が、貴様の真似をするだけで
喜んでいるだけの男と思ったか﹂
﹁勇者が、魔王の力を得るとか、無茶苦茶だろ⋮⋮﹂
﹁世界最強の支配者である余は、勇者の力のみならず、魔王の力ま
でこうして取り込んで見せたのだ!﹂
チート
右手に光の剣、左手に闇の剣を携えたフリード金獅子皇。
確かに、ここまでの反則をやられたら勝てん⋮⋮。
﹁ハハハッ、この世界に帝王も勇者も二人はいらぬ。邪魔な貴様に
は、余自らが引導を下してやろう!﹂
﹁待つのじゃ、金獅子皇!﹂
﹁なんだ、貴様は﹂
覇王っぽい大きな肩当とマントを付けたオラクルちゃんが、ふわ
りと浮かんだままフリードの前に立ちはだかる。
﹁自己紹介が遅れたようじゃな。ワシは、不死王オラクルじゃ﹂
﹁はぁ、バカを言うな。貴様のような魔族の子供が、不死王?﹂
﹁姿形に囚われているようでは、まだまだ青い。皇子よ、これを見
るが良い﹂
オラクルちゃんの両方の手から、燃えたぎる地獄の炎のごとき漆
黒の剣が発生した。
786
光の剣とは対極の闇の波動が、重圧感となって空気を震わせる。
なり
﹁なんだと、バカな。不死王オラクルは、勇者レンスに退治された
はずだ!﹂
﹁人間の伝承ではそうなっておるようじゃが、このような形になっ
てもまだ生き残っておってな。勇者同士の決闘なら放っておこうと
思ったが、貴様が魔王の核を使って魔族を傷つけたとあってはワシ
も許してはおけんぞ!﹂
悠然と、二対の黒剣を構えたオラクルちゃんは、不敵に笑う。
﹁むう⋮⋮﹂
ブラッティーツインソード
エンシェント
﹁クックック⋮⋮若き皇子よ、ワシが生き延びておったことは知ら
クラス
ずとも、不死王の双黒剣の伝承なら知っておろう。なんなら、古の
力の斬撃、その身でしかと味わってみるか﹂
フリードは古の不死王の重圧に、じわりと後ろに下がった。
さすがオラクルちゃんだ、こうやって長いマントをたなびかせて
いると、それなりに威圧感がある。
威厳を保ちたいなら、その白ツインテールはすぐ止めたほうがい
いと思いながら、俺は光の剣を携えて、隣にならんだ。
もはや決闘とか言ってられない、二体一なら勝てる。
﹁フッ、興が削がれた⋮⋮。今日のところは、これぐらいにしてお
いてやろう﹂
フリードは、そんな月並みな捨て台詞を吐くと、その場から即座
に撤退した。
帝国使節団も、立ち去った金色の獅子皇子を追いかけるように、
787
慌てて王城を後にした。
﹁ふうっ、危ないところじゃった﹂
﹁オラクルちゃん、実は凄かったんだな﹂
俺が褒めると、オラクルちゃんは呆れるように言う。
﹁バカモン! こんなのただのハッタリに決まっとるじゃろ。ヒヤ
ヒヤしたわい﹂
オラクルちゃんが、古の双黒剣を俺の光の剣に当てると。
シュッと線香花火みたいに簡単に消えてしまった。
﹁そうか、でも助かった﹂
﹁話よりもカアラの治療が先じゃ。人間の回復魔法では、魔族は治
療できんからちょっと厄介じゃぞ﹂
闇の剣の斬撃を受けて、身が二つに裂けんばかりの酷い裂傷を負
ったカアラは、城の救護室に運ばれた。
※※※
﹁どうだ、オラクル。カアラの容態は﹂
﹁良くない、闇の剣は魔族には効きにくいとは言っても、深い傷じ
ゃ。治療に魔力も足らんしのう﹂
治療に魔力がいるというので、ありったけの魔宝石をかき集めた
のだが。
それでもなお、死にかけているカアラの傷を塞ぐには足りない。
788
俺がベッドに寝ているカアラを見舞うと。
﹁タケル様、どうか立派な魔王におなりください⋮⋮﹂
カアラは弱々しい手で俺の手を握って、光が消えかかった紫の瞳
でそう訴えかけてくる。
死に際に申し訳ないけど、ならないからね⋮⋮。
﹁なあ、オラクル。なんとか助けられないのか?﹂
﹁方法はあるにはあるが、ちょっと他の人を下げて、ワシとタケル
の二人だけで話をさせてもらえるか?﹂
人払いしろというなら、どんだけでもする。
俺とオラクルちゃんは、救護室のベッドに腰掛けて話をすること
にした。
﹁カアラを助けるには、ワシの魔力を増大させることが必要じゃ。
命を助けるレベルの魔力を注ぎ込むのじゃから、魔宝石どころでは
ぜんぜん足りんわい﹂
﹁じゃあ、どうすればいいんだ﹂
なんか、何となく分かってるけどね。
こうやって二人になった段階で、覚悟もしている。
﹁察しの良いタケルは、もう分かってるんじゃろ。申し訳ないが、
タケルから生命を吸わせて貰って、カアラに与えることになるのじ
ゃ﹂
オラクルちゃんは、鋭く尖った八重歯をむき出しにした。
そうだよなあ、魔王の片腕の不死王とくれば、ヴァンパイア・ロ
789
ードだとは分かってたんだよ。
﹁命の危険はないんだろうな﹂
﹁ちょっと吸うだけじゃから、死にはせん。むしろ、スッキリして
健康になるんじゃないのかのう﹂
血を吸われて、健康になるわけないだろ。
﹁まあしょうが無い、今回は俺のせいだし。死なない程度に頼むぞ﹂
﹁じゃあ、裸になってベッドに寝てくれ﹂
﹁なんで裸になる必要がある﹂
﹁気分の問題じゃ、ダメなら腰にタオルを巻くぐらいはいいんじゃ
ぞ﹂
何の気分だよ。
仕方がないので、俺は一度脱いで腰にバスタオルを巻いて、ベッ
ドに横たわる。
﹁もう一度聞くが、ワシに生命を吸われることに、合意するんじゃ
な?﹂
﹁何度も聞くなよ、他にカアラを助ける方法がないなら、さっさと
やってくれ﹂
あんまり採血とか好きじゃないんだけど。
そうも言ってられない。
カアラは魔族で罪人だ。場合によっては、使い潰してもいいとす
ら思っていた。
しかし、身を呈してかばってくれた女を見殺しにしては、寝覚め
790
が悪すぎる。
エンゲージメント
﹁よし、契約成立じゃな﹂
﹁前から気になってたけど、魔族って、なんかそういう契約に凄く
こだわるよな﹂
なんでなんだろう、悪魔の三つの願いとか。
人間を騙すことはあっても、こいつら契約自体はきちんと守る。
﹁そりゃ、世の中は、契約で出来てると言っても過言ではないんじ
ゃぞ。こうしてワシとタケルが一つのベッドに寝てるのも、結ぶ縁
あってのことゆえ﹂
﹁そういう哲学的なのはいいから、さっさとしろよ﹂
オラクルちゃんは、子供っぽい白ツインテールの紐を解くと、バ
サッと長い髪を振ってなびかせた。
爽やかな石鹸の香りがする。あと、ストレートにすると、少しは
大人の女の子に見えなくもない。
俺の胸の上に乗って、赤い瞳を光らせてるオラクルちゃんは、や
はり妖艶なる吸血魔族そのものだ。
その深紅に濡れた瞳は、血に飢えているようにも見えた。
﹁なんじゃのう、せっかくこうしておるのに雰囲気をださん奴じゃ
な﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
あれほどあーだこーだ言っていた割に、俺の首に牙を突き立てる
ときは一瞬だった。
首筋の痺れる痛みは一瞬で、スーッと俺の身体から血が抜けてい
791
く、意識をしっかり保ってないと気絶しそうだ。
そのまま気絶してしまってもいいのだろうが、こういう時に何と
なく抵抗してしまうのは、リアのせいだろう。
﹁どうじゃタケル、かなり血を吸ったが、意識はまだ保っておるか﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
話せない、手足も痺れて持ち上がらない、なんだかちょっと怖い。
こういう状態になると、毎回ろくなことがないから、悪い予感が
する。
﹁フフフッ、タケルに一つ、謝っておかねばならんことがあるのじ
ゃ﹂
なんだよ。俺の瞳を覗きこんだまま、赤い瞳をトロンと潤ませる
な、怖いぞ。
﹁不死王オラクルは、ヴァンパイア・ロードではない。元は、サキ
ュバスじゃった﹂
はぁ⋮⋮サキュバスって、はぁ!?
﹁夢魔じゃな、男の精気を啜る下級魔族じゃ。もちろん、不死王オ
ラクルは千年前のエンシェント・サキュバスじゃから、古の魔王の
妻リリスの末、由緒正しき魔族なのじゃが、それでも精気を吸える
ことには変わらん﹂
お前、マジかよ⋮⋮。
つか、冗談は止めろ。このパターン、もうリアがやってるんだよ!
792
﹁なんじゃ、ワシをあんな小娘と一緒にするなよ。あやつが、処女
をこじらせてるといってもたかだか二十年ぐらいじゃろ。ワシなん
か三百年はこじらせておるからな、シミュレーションは完璧じゃぞ、
初めてでも痛くないから安心するのじゃ﹂
今なら許すから止めろ。
エンゲージメント
﹁契約は済んでおるからな。あー止めてあげたくても、タケルから
生命を吸うの頼まれちゃったからの﹂
﹁初めてが不安なのはしょうがない、お空の星の数でも数えてれば
終わるから、安心して任せるのじゃ﹂
それを言うなら、天井のシミの数だろ。
﹁ワシのシミュレーションだと、初めては野外で致す予定だったの
じゃ﹂
妄想上級者すぎるだろ⋮⋮。
﹁じゃ、そういうわけで、いただきまーすなのじゃ!﹂
うああっ、ちょっとマジでオラクルちゃん止めよう、止め、ええ
えええェェ!
こいつ本当に精気吸いやがったよ、ありえないだろ⋮⋮うあああ
あああ。
身動きも取れない俺には、為す術もない。
793
天井のシミを数えるのもシャクだったので、窓際を何となく眺め
た。
静かな救護室の空気が震えたせいだろうか。
窓際に置かれた花瓶から、ヒナゲシの紅い花びらがヒラヒラと一
枚舞い落ちたのが見えた。
はあ、なんて日だ⋮⋮。
794
59.中立の剣
﹁なんだかアタシ、前より調子が良くなった気がするんですけど﹂
精気を吸ったエンシェントサキュバス、オラクルちゃんの魔力で、
カアラは即座に全快した。
あれほど深くえぐられた傷も、跡形も無い。
﹁そうじゃろ、もうなんか精気が余ってしまってのう。タケルはい
くらなんでも溜めすぎじゃ。三百年の想定を超えてくる量とか、ビ
ックリしてこっちの腰が抜けるかと思ったわい。定期的に抜かんと、
身体に悪いじゃろ!﹂
﹁なんで、俺が怒られてんの⋮⋮﹂
俺はもう泣きたい気分なんだが。
﹁ワシのお腹、タケルの精気ではち切れそうじゃぞ。今なら、不死
王全盛期の力も使えるかもしれん﹂
﹁そういう、聞こえの悪いこと言うなよ!﹂
オラクルちゃんは、ウフフと陽気に笑うと、床に落ちていた紐を
拾って白い髪をまたツインテールにシュッとくくった。
前のオラクルちゃんとまったく変わらないのに、その仕草が艶か
しく見えるのはどうしてだ。
﹁安心しろ、ワシはあの小娘とは違うんじゃから、タケルの都合の
悪いことを吹聴したりせんわい﹂
﹁それは、マジで頼む⋮⋮﹂
795
リア辺りに知られたら、なんて言われるか、考えただけで恐ろし
い。
実力行使に出られる可能性もある。
終わってしまったことは仕方がない。
それより連鎖的に何かが崩れていくのが怖い、何もなかったって
ことにしておいて欲しい。
﹁さてと、どうするタケル。おぬし、この際じゃから魔王にでもな
っておくか?﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
思考が追いつかないから、もうムチャぶりしまくるの止めてくれ
よ。
俺のヒットポイントは、限りなくゼロに近づいてるぞ。
﹁真面目な話じゃよ、あのフリードとかいう若造の光と闇の両剣に
立ち向かうには、光の剣一本では無理じゃろ﹂
﹁まあ、そりゃそうだけど。俺は、魔王の核を身体に埋め込むのは
嫌だぞ﹂
あの赤黒い勾玉みたいなの、ぶっちゃけ気持ち悪い。
あれゾンビ男爵とかの身体の中に入ってるんだろ、そんなのよく
付けるよな。
﹁フリードは所詮、アーサマに創られた人間の子孫じゃから、まと
もな魔王には成れずに核を取り込んで変則的に力を利用したに過ぎ
ん。タケルは、アーサマに創られた存在ではないんじゃから魔王に
だってなれるかもしれん﹂
796
﹁俺が異世界人ってことが、なぜ分かった﹂
リアしか知らんはずだが、なんでオラクルちゃんも知ってるんだ
よ。
﹁異世界ってのはよく知らんが、アーサマが創った人間の子孫じゃ
ないことは、匂いを嗅げば分かるわい。タケルの身体の魔素の流れ
は、アーサマに創聖されたような整然たる流れではない﹂
﹁また匂いか﹂
鼻が利くってのは、便利なもんだな。
﹁多少危険が伴う手段じゃが。新しい力を手に入れるには、ワシの
身体に尋常でない量の精気が漲っておる今しかない﹂
﹁ちょっと待てよ、いきなり魔王になるといっても、俺も一応勇者
だし﹂
そりゃ、カアラは、期待にキラキラ眼を輝かせてるけどもさ。
リアに相談しないと、アーサマ教会サイドの意向もあるだろうし、
まずいんじゃないかな。
﹁相談しても構わんが、そんなのフリードが勇魔王化してる段階で、
アーサマ教会になんとかできるならせいって話じゃろ﹂
﹁あっ、なるほど﹂
それもそうだな、アーサマ教会は自由放任すぎて、まともに機能
してるのか疑わしいレベルだ。
いまさら、言うのも虚しくなるけど。
※※※
797
案の定、リアに相談してみると、仮に俺が魔王になったとしても、
目を瞑ると言われた。
﹁いや、相談した俺が言うのもなんだけど、勇者で魔王ってダメだ
ろ﹂
﹁なにせ勇者フリードが、あんな是非もない感じですから、アーサ
マもタケルに止めて欲しいはずです﹂
なんで、アーサマは、フリード皇太子に直接罰を与えないんだろ
うな。
ぶっちゃけ、俺が頑張るより、そろそろ女神様が何とかしろよっ
て感じなんだが。
﹁アーサマは、信徒の自助努力を好まれます﹂
﹁それも、限度があるだろうって、話しなんだけど﹂
まあしょうが無いか、おそらくアーサマ教会の辞書に﹁限度﹂な
んて言葉はないのだろう。
俺はみんなにちょっと行ってくると断って、オラクルちゃんを背
負い︵というか、抱えられて︶﹃オラクル大洞穴﹄までぶっ飛んだ。
精気があり余っているというのは、嘘ではないらしく。
馬で四日、五日はかかる距離がほとんど一瞬だった。
戦闘機として、そのまま戦争に使えるんじゃないかって速度だ。
あるいは、オラクルちゃん爆撃機とか、ライル先生に提案してみ
るか。
﹁地下三十階まで、非常階段で降りるぞ﹂
798
﹁ついに、﹃オラクル大洞穴﹄最下層の秘密が暴かれるのか﹂
十階までしか探査しなかった身としては、ちょっと隠しダンジョ
ンが気になるのも事実。
俺もこれで、そこそこゲーマーで鳴らした口だぞ。
﹁まあ、最下層まで稼動できるのは、今だけじゃけど﹂
﹁うーんまあ、今の世の中では、地下三十階どころか十階までダン
ジョン探索してくれる冒険者だって居そうにないからな﹂
腕に覚えのある冒険者が、大ダンジョンを攻略できるのは、のど
かで平和な時代なのだ。
いまはそれどころじゃない、冒険者って連中も、おそらく戦争に
なれば、傭兵に雇われたりするのだろう。
﹁さて、階段を降りきる間に手短に話してしまうが、タケルはアー
サマ教の聖書は読んだことがあるか﹂
﹁まあ、一応ナナメ読みだけど﹂
﹁じゃあ、女神アーサマによって、人族の世界が混沌から生み出さ
れたのは知っておるな﹂
﹁うん﹂
﹁ではその上で聞くが、世界の元となった﹃混沌﹄とは何じゃ﹂
﹁えっ﹂
そう言えば考えたこともなかった。
聖書では、気が付かれないように、さっと流されている。
﹁アーサマは、現存する女神じゃから嘘はつかん。混沌から生み出
799
したと言うからには、世界の元は混沌じゃ。そして、ワシら魔族を
生み出した創造主こそは、その人族の聖書ではさらりと無視されて
おる﹃母なる混沌﹄様じゃ﹂
そうか、アーサマの世界創造は八千年前。
そのはるか昔から、世界はすでに存在していたというわけか。
確かにそのような神話は、俺の世界にもたくさんあるように思う。
あまり詳しくはないけど、魔族やモンスターをアーサマが創って
ないなら、それは別のところから来たってことだ。
﹁ワシらの﹃母なる混沌﹄様は、アーサマのような確かな人格のな
い神様じゃ。それこそ、混沌としておってまともな意識などない。
地中の中心で眠り、魔素を無限に吐き出して、ときおり土をこねる
ようにして、不定形な形の何かを生み出したりもするが、その行動
に何の意味も無い﹂
意味も無いって、怖いなおい。
エンシェントドラゴン
﹁それでも、八千年よりはるか昔から、古き者と呼ばれる種族がお
った。古龍種や、魔族の大本となる古種族は、アーサマと同じかそ
れより古い神代に生まれた生き物じゃ﹂
八千年前より昔って、想像もつかないな。
日本で考えると、縄文時代かそこらになるのか。
﹁今向かっておるのは、﹃オラクル大洞穴﹄地下三十階の隠し部屋
じゃ。そこに古き者と呼ばれる、お方が居られる﹂
﹁えっ、八千年前の人がいるの?﹂
800
オラクルちゃんが慌てて手を左右に激しく振った。
﹁人ではない、あえて神とは呼ばんが、神代から居られるお方じゃ。
今より三百年前、不死王オラクルが、ここにダンジョンを創ろうと
掘り下げて行った時、古き者を発見してしまったのじゃ﹂
﹁そんな土器を発掘するみたいな感じで、人が埋まってたのか﹂
そりゃ、確かに人じゃないわ。
﹁だから人ではないと言っとろう、古き者は﹃母なる混沌﹄様の化
身のようなものじゃ。しかも、コミュニケーションらしきものを取
ることができる可能性も、微粒子レベルで存在する﹂
﹁それ、つまり会話できないってことだよね﹂
﹁まあ、会話してみれば分かるわい。その言動は混沌そのものじゃ
から、何となく攻撃したくなって襲われたら、ワシらなど速攻で殺
されるじゃろう﹂
﹁それ、会話以前の問題だろ﹂
怖すぎるわ。怒らせたらいけないとか、そういうレベルじゃない
じゃん。
﹁本体の不死王オラクル様は凄かったのじゃ、その古き者からエネ
ルギーを供給してもらって﹃オラクル大洞穴﹄のシステムに利用し
たんじゃからな。例の四階の﹃マミー無限湧き装置﹄とかは、古き
者をエネルギー源にして動いておった﹂
﹁なるほど、だから﹃魔素の瘴穴﹄が閉じても動き続けてたのか﹂
﹁まあ、おそらく大丈夫じゃろ。ワシの予想では、アーサマの勇者
であるフリードが﹃母なる混沌﹄様の創った﹃魔王の核﹄を悪用し
801
たんじゃから、それに対してポジティブなアクションを返すと思う
のじゃよ﹂
﹁なるほど、それで俺に魔王になれるかもって言ったのか﹂
混沌ってのは、バランサーでもあるのかな。
単純に悪でもなく、善でもなく、混沌⋮⋮わけわからんね。
﹁理屈で考えるだけ無駄じゃというか、﹃混沌﹄について考え過ぎ
ると、頭がおかしくなるから止めたほうがいい。ワシもだいたいで
言っとるだけじゃ﹂
﹁わかった﹂
階段を降りきって、地下三十階のゲートが見えてきた。
さすがに全く日の届かぬ大洞穴の最下層は、冷え冷えとしている。
オラクルちゃんが、魔法で煌々と灯りを照らしてすら、薄暗い。
暗闇の底の底、三百年の孤独の世界が、そこには広がっている。
﹁この奥じゃ、隠し部屋を開くぞ﹂
何もないと思われた壁に、オラクルちゃんが手を付けると。
ガタンと音がなって、石壁の扉が開いた。
隠し部屋の中は、ホコリ臭いを通り越して、粘土のような匂いが
する。
そこには小さな石の台座があって、土で出来た女神像のようなも
のが安置されていた。
髪の長い妖精のように美しい女性だが、腰から下がウネウネの触
手のようなものになっている。
802
タコでもイカでもなく、ツルツルとした光沢の不思議な触手だ。
﹁オラクル。これ、ただの土で出来た彫刻じゃないのか?﹂
﹁違う、三百年ここに座り続けて居られるので、このような感じに
なってるだけじゃ﹂
げんじつ
このような奇っ怪な生物は、俺の世界にも、このリアルファンタ
ジーにも存在しないと思われるのだが、だからこそ神代種族の証な
のかも。
わけみ
﹁おお、古き者様⋮⋮。ワシは不死王が末、オラクルの分身ですじ
ゃ。尊き眠りをお覚ましすることをお許し下さい﹂
シーンと静まり返っている。
﹁ほら、ただの彫刻じゃん﹂
﹁違うと言っておろう、小さなワシの声では、やはり届かないのじ
ゃろうか﹂
俺は、土の彫刻に近づいていくと、まじまじと見つめた。
うーん、上半身裸の女性の像だけど、妙に質感がリアルというか
⋮⋮。
﹁うあっ!﹂
ピキピキっと土にヒビが入って、パラパラと割れて崩れだした。
突然、ウネウネと動き出した触手が、俺に近づいてくる。
虚を突かれた俺は、思わず腰を抜かしそうになって、ズルズルと
そのまま後退した。
803
やばい、こういうヌルッとしたの苦手だ。
﹁おおっ、古き者様が、目を覚まされたようじゃ﹂
﹁マジでかよ⋮⋮﹂
触手をヌルヌルと蠢かせながら、古き者は台座から降りると、身
体にこびりついた土をブルブルと震えて引き剥がした。
確かに、生物的な存在であることは確かだ。
﹁古き者様、アーサマの勇者フリードが﹃母なる混沌﹄様の﹃魔王
の核﹄を利用して、人族と魔族、両方の敵と相成りました。どうぞ、
この勇者タケルに、あだなす敵に打ち勝つ力をお授けください﹂
オラクルちゃんは、跪いて古き者に祈る。
古き者は、触手で近くの土を掴むと、オラクルちゃんにめがけて
思いっきり投げた。
﹁ブホッ!﹂
次々と、触手に土を投げられて、跪いたまま土に埋まっていくオ
ラクルちゃん。
やばい、こいつ本当にわけわかんない、怖い⋮⋮。
﹁タケ⋮⋮タケルもゲホッ、何してる! 早くゲハッ、お願いする
のじゃ、ふるガハッ、もうやめゲホッ﹂
どうすりゃいいんだこれ。
﹁えっと、古き者様。力をお授けくださいお願いします!﹂
804
古き者は、触手で土を投げるのを止めて、俺の方を向いた。
やばい美しい顔なのに、めっちゃ無表情だわ、怖い。
﹁ダメ﹂
ダメなのかよ⋮⋮。
﹁なんでダメなんですか﹂
﹁土属性じゃないから﹂
意味がわかんない、意味を考えてはいけないと言われてたな。
よし、じゃあこっちも対抗すべきか。
﹁じゃ、これで土属性ですね。前宙返り土下座!﹂
俺は一旦バックして、ゴロンと前宙返りしてズズッと土下座した。
見たか、前宙周り土下座! ここまで激しく土だらけになれば土
属性だろ。
﹁土属性じゃない﹂
﹁えー﹂
ダメなのか。じゃあ、今度はこれ。
﹁タケル、それ何やってるんじゃ﹂
﹁何って、ツチノコの真似﹂
俺が必死に胴体の短い蛇の真似をやっていると、オラクルちゃん
が呆れたように眺めていた。
オラクルちゃんがやれって言ったんじゃん!
805
﹁ワシは一発芸をやれとは、言っとらんのじゃが⋮⋮﹂
﹁土属性ね﹂
﹁えっ、これでいいのぉ?﹂
オラクルちゃんは、驚愕してオーケーを出した古き者に振り返っ
た。
理屈で考えちゃいけないのだ、土属性への熱いこだわりからして
わからんが、シュールなら俺の得意分野である。
﹁アナタは、ツチノコなのね﹂
﹁はい!﹂
本当は違うけど、ここは乗っておくのが正解だと思う。
どうせ意味など無い。
﹁じゃあ、力を授けましょう﹂
﹁おおっ﹂
俺はなぜか、ニュルッと触手に身体を巻き込まれて、逆らう間も
なく濃厚なディープキスを食らわされた。
めっちゃ、土の味がしたんだけど、気にしたら負けか。
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁手から剣が出ますよ﹂
ようやく窒息させんばかりの猛烈なキッスから解放されると、無
表情な古き者にそのように宣告された。
えっと、光の剣が右手だから、左手かな。
806
俺が気合を入れると、ブンッと灰色に光る剣が出た。
﹁なんだこれ、オラクルちゃん、これなんの剣?﹂
﹁ワシにもわからん、闇の剣か、あるいは精霊剣の類を授けられる
と思っとったけど、これは新種じゃ、早く名前を付けないと消えて
しまうかもしれんぞ﹂
﹁えっ、えっとじゃあ、黒でも白でもないから﹃中立の剣﹄でどう
だ﹂
俺が名前を付けると﹃中立の剣﹄は、そのグレイに輝きを増して、
くすんだ銀色へと変化していく。
﹁ふうむ、﹃中立の剣﹄とは、また素晴らしい名前を付けたもんじ
ゃな﹂
﹁そうか適当だったんだが﹂
古き者が、ウネウネズルズルと触手を蠢かせながら、石の台座へ
と戻った。
そうして、高らかな声で叫ぶ。
﹁中立! 中立なり!﹂
いや、意味がわかんないんだけど。
なんで古き者まで、中立になったんだ。
﹁おおおっ、すごいことじゃ。古き者様に、新しい言葉を覚えさせ
るとは﹂
﹁そうなのか、どうにかなるのかこれ﹂
807
オラクルちゃんが何か答えようとしたとき、ズドーンと地中から
上に突き上げるような震えが響いた。
地下三十階の下からの震えって⋮⋮。
﹁古き者様と﹃母なる混沌﹄様は通じておる。どうやら、混沌様は
中立という言葉を気に入られた様子じゃ。なんと喜ばしきこと⋮⋮﹂
﹁ふーん、それがどう良いのかよくわからないけど、とりあえず対
抗できる武器は貰えたからもういいんじゃない﹂
さっきまで﹁中立、中立﹂と叫んでいた触手お姉さんは、それに
も飽きたのか、今度はビシビシと何か小さい粒を大量に発生させて、
オラクルちゃんの顔に打ち当ててる。
﹁これなんだ、麦の粒とか米粒も混じってるじゃないか﹂
これはありがたい、とりあえず拾っておこう。
混沌の化身相手に、なんで玄米を飛ばしたとか、どっから出した
とか、考えたら負けだろう。
﹁古き者様、ありがとうございます。ワシらはそろそろ退出させて
いただきます﹂
いろんな穀物の粒を顔面にライスシャワーされながら、オラクル
ちゃんは腰を屈めたまま脱出しようとする。
俺も逃げようとしたが、触手にまたズルズルと絡め取られた。
﹁んんっ、だからなんで、無理やりキスなんだよ!﹂
﹁だから中立﹂
808
これはチュウだろ!
触手お姉さんの唇、今度はちょっとほろ苦い味がした。
理屈とか、理由とか、もう考えたら負けだな⋮⋮。
﹁あんぎゃあああ!﹂
オラクルちゃんが叫び声を上げながら、大量の触手に引きずり込
まれて消えた。
その後、必死に逃げ出そうとしても絡めとられ、なぜか二人共盛
大にビンタされたり、大量の塩水を顔に吹きかけられたり、触手に
掴まれたままフルスイングで振り回されたり、大量に増えた無数の
触手に全身を死ぬほどくすぐられたり、めちゃくちゃにされて隠し
部屋から脱出できたときは、心身ともにボロボロになっていた。
しばらく、タコやイカは見るのも嫌だ。
﹁ハァ、ハァ、何とか生きて、出られた﹂
﹁おほぉ、ワシぃ、もうラメェ⋮⋮﹂
這々の体で、なんとか隠し部屋を閉鎖する。
なぜか、俺の五倍ぐらい触手に群がられて、そうとう酷い目にあ
ったオラクルちゃんは、産まれたての子鹿のようにビクビクと身体
を痙攣させながら崩れ落ちた。
とにかく、一刻も早く、呪われた隠しダンジョンから去りたい。
俺は前後不覚に陥っているオラクルちゃんを背負って、オラクル
大洞穴の非常階段から地上へと逃げ戻った。
809
﹁ああ、太陽が黄色い⋮⋮﹂
得たものは大きかったが、失ったものもまた大きかった。
古き者怖い、もう二度と相手したくない。
あれはずっと地中に埋まってた方が、世のため、人のためだ。
ところで、俺は﹃闇の剣﹄をもらったわけではないから、魔王に
は成ってないわけだが。
混沌に﹃中立の剣﹄をもらった場合は、何になるんだろう⋮⋮。
考えたら負けという声が、地の底から聞こえてくるような気がし
た。
810
60.拐われた公女
ぐったりしたオラクルちゃんを背負ったまま、俺は﹃オラクル大
洞穴﹄近くのスパイクの街まで来た。
ちょっと、オルトレット子爵の城で休ませてもらうことにする。
﹁これは、勇者タケル様。よくおいでくださいました。王都で、ゲ
ルマニア帝国使節団との会談ではなかったのですか﹂
﹁ああ、それはもう終わって、ちょっと大洞穴に来たところだ﹂
オルトレットは、不思議そうな顔をする。
時間が合わないってことだろう、王都からスパイクの街まで馬で
四、五日はかかる。
今頃、王都から帝国に向かって帰路についたであろう、使節団の
先回りができてしまったぐらいだ。
﹁まあ、勇者様のことですから、無理はありませんな。どうぞこち
らへ、何のおもてなしもできませんが、茶など運ばせるでござる﹂
相変わらず、子爵のところはメイドを雇っておらず。
配下の兵士が紅茶を運んでくる、もう家格を考えろとか言う気も
なくなった。
﹁あはんっ⋮⋮、触手らめぇ⋮⋮﹂
ときおり身体を痙攣させて、酷くうなされているオラクルちゃん
をベッドに寝かせると。
811
お茶を飲んで一息入れながら、子爵と話をした。
内股でうずくまって悶えているオラクルちゃんの奇怪な病状を、
空気を読んだ子爵がスルーしてくれるのはありがたい。
﹁して、勇者様。ゲルマニアとの外交は﹂
﹁上手く行かなかったと言っていいな、いきなり宣戦布告にはなら
んと思うが﹂
ダメだと聞いても、あまり驚いた顔はしないオルトレット子爵。
せっしゃ
﹁左様でござるか、拙者オラクル領主として、覚悟は決めておりま
す﹂
﹁戦争を回避できそうになくて済まない﹂
ゲルマニア帝国が王都シレジエまで攻め上るとしたら、ロレーン
の街とこのスパイクの街は、確実に進撃ルートとなる。
﹁いえ、実はもうライル国務卿閣下の直々のご指導で、着々と防戦
の備えは進んでおります﹂
﹁えっ、先生がもうここでも動いてるのか﹂
﹁ええ、ライル国務卿自ら、我が城においでになりました﹂
﹁てっきり王都の政務にかかりっきりになってると思ったら、ここ
まで来たの?﹂
さすが先生だ、いつの間にこっちまで来てたんだ。
﹁謀は密なるをもってよしとす、だそうであります!﹂
﹁なるほど、詳しくは聞かない﹂
812
必要なことなら、先生があとで教えてくれるだろう。
﹁あと、拙者の領内に、急に野盗の類が増えましてござります﹂
﹁んっ、盗賊ギルドとは仲良くやってるんだろ﹂
他の領地は知らんが、俺の領地とオルトレット子爵とエスト侯領
は、ウェイクと話が済んでるから襲われないはずだ。
﹁正規の盗賊ギルドとは違う、野盗の類でござる﹂
﹁あー、もしかしてゲルマニアの偵察を兼ねてるとか﹂
﹁近頃の盗賊は、傭兵として雇われることもございますれば⋮⋮﹂
﹁なるほど、すでに雇われて戦地の下調べを始めてるのかもな﹂
戦争になるかどうか未だに不透明だが。
それに備えた、敵味方の暗躍は、すでに始まっている。
子爵の城でオラクルちゃんの回復を待ってから、空を飛んで王城
へと戻る。
途中の街道で、帰路につく帝国使節団の馬車の群れを見た。
ゲルマニア帝室のシンボルカラー貝紫色の旗を押し立てた騎士が
先導する一団。
あのひときわ巨大で豪華な、コーチと呼ばれる大きな四頭馬車に、
フリードたちは乗っているのだろう。
けんかしき
サスペンション付きではないが、馬車の籠を鎖で吊り下げて揺れ
を少なくした懸架式という最新式の馬車だ。
ちなみにサスペンション、俺が名前だけ知っていて、未だに再現
813
できない道具の一つである。
スプリングを使うのは何となくわかるんだが、あとタイヤにゴム
も張りたいが、ゴムの木がない。代わりに、動物の皮を張っている。
フリードの馬車に爆弾でも落としてやれば戦争などしなくて済む
んじゃないかとチラリと思うが、止めておく。
爆弾程度で、オリハルコン製の装備を付けた人間が死ぬとも思え
ないし、それが逆に戦争の引き金になってしまう。
﹁まあいいさ、次に戦う機会があったら、やり返してやる﹂
フリードは、俺が﹃中立の剣﹄を手に入れたことを知らない。
闇の剣で不意打ちされた戦法は、そのまま逆利用できるだろう。
その時こそ、あの思い上がった金獅子皇を叩き潰してやる。
※※※
王都に返った俺を、さらに驚きの報告が待っていた。
﹁勇者様大変です、オックスの城が盗賊団に襲われて、公女が拐わ
れました!﹂
﹁はぁ、次から次へと⋮⋮﹂
スカウト
﹁我々密偵が街に居ながら、後手に回り、申し訳ありません﹂
ネネカが、紫色の巻き毛を地に付けた。
もちろんネネカは責めない。
王都にチートクラスが揃って、オックスの城は空だったのだから。
814
むしろ、俺のミスだ。
流れ者を装い、街に潜んでいた盗賊が、突如として城の各所に襲
いかかり、城兵にも被害が出たそうだ。
その数は、五十人を超えたという。
カロリーン公女の護衛騎士は、一人が斬り殺されて、一人は重傷
らしい。
確か、オルトレットの領内にも新参の怪しい野盗が増えたと聞い
た、俺の領地にも潜伏していたと見るべきか。
最近は、ウェイクとの同盟のおかげで盗賊の被害もなかったから、
油断もあった。
﹁盗賊ギルドじゃないんだろうな、どこの野盗か分かるか﹂
﹁イヌワシ盗賊団の残党だと判明してます、足取りを追っていると
ころですので、間もなくアジトを突き止められます﹂
イヌワシ盗賊団って、ウェイクと対決したときのアイツらか、早
く見つけ出して始末しておけばよかった。
俺は心の底から後悔する、原因は俺の甘さだ。
今は反省している時間すら惜しい。
オラクルちゃんには悪いが、魔の山を突っ切って、オックスの城
までぶっ飛んでもらう。
ネネカは、カアラに抱きかかえて運ばせる。
敵のアジトがわからなければ、飛んででも探させようと思ったが、
すぐに城近くの廃村に潜伏していると分かった。
815
﹁よし、行くぞっ!﹂
スカウト
アジトに城の兵士や密偵の部隊も向かうが、一刻も早く公女を救
い出したい俺は、オラクルちゃんブースターで飛んだ。
今の俺なら、盗賊の五十人や六十人、単独で蹴散らして見せる!
あっ、単独は言い過ぎた、カアラとオラクルちゃんの補助込みで
な!
﹁ハァハァ、人使い荒いのう。さすがに連続飛行は疲れるわい﹂
﹁悪いなオラクル、こき使って﹂
﹁いいんじゃ、タケルに貰った精気の分は、仕事せんといかんしの﹂
今は非常時だ、聞かなかったことにする。
俺たちは、アジトの廃村に着地する。
﹁なんだ、オメエは!﹂
ワイワイと、盗賊が集まってきたので、俺は光の剣を掲げて高ら
かに叫ぶ。
﹁おいカアラ、上から監視して、逃げる盗賊は皆殺しにしろ!﹂
﹁ああんっ、いきなりなんだオメエ!﹂
上空からカアラが放った音速のカマイタチが飛んで、俺に凄んだ
盗賊のおっさんの首が、根本から吹き飛んだ。
プシューと斜めに切断された首から血しぶきをあげて、倒れ伏す
盗賊、スプラッターだが手段を選んでいられない。
816
﹁うああっ!﹂
﹁逃げるなと言っている、下手に動けば死ぬぞ!﹂
バシュ、バシュっと、次々に逃げようとした盗賊の首と胴体が泣
き別れ。
死ぬぞと言ったときは、もう殺している、どうせ俺の城を襲った
こいつらは死刑だ。
﹁俺の要求は一つだ、誘拐したカロリーン公女を返せ!﹂
﹁フハハハッ、勇者のバカ野郎め、もう公女はここにはいない﹂
ジリっと、身動きひとつせず、それでも狂気に目を血走らせて俺
を睨みつけてくる貧相な髭面の男。
見覚えがある、イヌワシ盗賊団の頭か。
﹁公女をどこへやった﹂
﹁俺が言うわけないだろ、死ね!﹂
この状況で、まだ曲刀を抜いて斬りかかってくるのには驚いた。
さっと、一閃で跳ね除けるが、長い金属の針を俺の顔面めがけて
投げかけてくる。
﹁チイッ!﹂
どうせ、毒針かなにかだろう。
ミスリルの小手で弾く、この程度の暗器で殺れると思ってんのか、
本当に舐めてるな。
﹁次は、お前の身体に聞く!﹂
817
かしら
俺は、光の剣で革靴ごと、足の指を切断してやった。
ガタッと膝をつく、イヌワシの頭、激痛のはずだが、ここまでや
っても嘲笑を崩さないのか。
﹁グッ⋮⋮、好きにしろ。ここを探しても無駄だ﹂
﹁どこに隠した⋮⋮。いや違うか、誰に公女を誘拐するよう頼まれ
たんだ﹂
﹁言うわけ、ぐあぁ⋮⋮ハァ、ハァ、ハハハハハッ、俺がテメエに
教えるわけねえだろうが!﹂
足の指の次は、手の指を焼き切ってやったが、それでも頑として
抵抗する。
俺はコイツに、死に物狂いになるほどに恨まれていたのか、本当
に迂闊だった。
﹁おい盗賊ども、すでにここは兵士に囲まれている。お前らは死刑
が確定しているが、公女がどこにいるか、誰に頼まれて公女を拐っ
たのか、教えてくれれば命だけは助けてやるぞ﹂
かしら
ザワザワと、ざわつく盗賊たち。
頭がダメなら、他のやつに聞くだけだ。
かしら
満身創痍のイヌワシの頭が汚らしく喚くので、利き腕を切断して
やったらギャアギャア悲鳴を上げて、地面に転がった。
光の剣で切っても、傷口は黒く焼け付いて、血は出ないのだ。
あたりには血の匂いに加えて、肉の焼ける匂いが立ち込める。
いっそ﹃中立の剣﹄の切れ味の方も、試しておくか。
818
どうせコイツは、禍根を断つため絶対に殺す。
﹁ブリューニュ伯爵だ! 伯爵が拐えって言ったんだ! 俺は助け
てくれぇ!﹂
若い茶髪の盗賊が、ついに悲鳴を上げるように白状した。
てっきり帝国の差金かと思ったら、ブリューニュのやつだったの
か。
それを皮切りに、盗賊たちが﹁伯爵は公女を連れて、街道をその
まま北に逃げた!﹂とか、口々に白状しだして許しを請う。
嘘ではあるまい、ここで嘘をつけばどうなるか、目の前で見せて
やってるのだから。
﹁よし、情報が確かであれば、お前らは勘弁してやる﹂
﹁クソが、裏切りやがったなあっ! テメエらは俺がぶっ殺すぅ!﹂
地面を這いつくばるようにして、イヌワシの頭がドスの利いた声
で叫んだ。
この期に及んでも、そこまで吠えられるのは見上げた根性だが、
いまさら何ができる。
かしら
﹁おい頭、信じるべきでない者を、手勢に加えてしまったようだな﹂
﹁どうせ今から追っても手遅れだ。お前の可愛い公女は今頃、あの
ブリューニュの変態野郎にたっぷりと可愛がられてるだろうさ、ざ
まあねえなああ!﹂
イヌワシの頭は、言いたいことを言い切ると、俺に向かって唾を
吐きかけてきた。
俺は、鈍い銀色に光る﹃中立の剣﹄を振るい、憎々しげに笑うイ
819
かしら
ヌワシの頭の首を両断する。
ゴロッと、重たい音を立てて、イヌワシの首が地面に転がった。
﹁タケル様、ブリューニュの馬車でしたら分かります、今から飛ん
で追えば間に合うでしょう﹂
﹁カアラ、知っているのなら頼む﹂
カアラは、ブリューニュの馬車ならすぐ分かるという、そういえ
ばブリューニュと通じていた時期もあったんだったな。
問題は、そんなにわかりやすく街道を馬車で逃げてるかだが、あ
のブリューニュだから一番簡単なルートを逃げるに違いない。
いや、もしかすると、逃げているとすら思っていないかも。
アイツのバカは、筋金入りだ、まともな理屈は通じない。
だからこそ、公女の身が危ない!
盗賊たちを兵士に捕らえさせると、すぐに街道をすっ飛んだ。
程なくして、趣味の悪い黒塗りの大きな四頭立ての馬車が見えた。
﹁タケル様、あれがブリューニュの馬車です!﹂
﹁そうか﹂
俺は、オラクルちゃんに馬車の上に降ろしてもらって、まず運転
している御者を蹴落とし、馬と馬車をつなぐ紐を切断した。
ガクンと、音を立てて馬車が揺れて減速していく、いずれ止まる
だろう。
ボックスの扉には、鍵がかかっているが、こんなものは斬り伏せ
820
て開く。
﹁クソが⋮⋮﹂
趣味の悪いことに、大きな馬車の中は豪奢なソファーベッドにな
っていた。
揺れの激しい馬車をベッドルームにするとは、ブリューニュの奴
は頭のどっかのネジが飛んでいる。
﹁なななっ、なんでおじゃるか!﹂
﹁こっちのセリフだ馬鹿野郎!﹂
カロリーン公女をベッドに押し倒しているブリューニュ伯爵を、
俺はおもいっきり蹴り飛ばした。
﹁ろっ、狼藉者!﹂
﹁お前がだろうが!﹂
カロリーン公女は、青いドレスを首元から半ば引き裂かれて、ぐ
ったりとしている。
メガネはどこに落としたのか、かけていなかった。
﹁大丈夫ですか、公女﹂
あまり大丈夫じゃないと分かっていても、俺にはそれしか言えな
かった。
﹁ええっ、ブリューニュに乱暴されそうになりましたが、アーサマ
が護ってくださいました﹂
821
引き裂かれてたドレスの内側を、白銀色の大きな翼が取り巻き、
神聖なる光が降り注いでいる。
カロリーン公女の身体を護るように、光の膜が包み込んでいるの
だ。
サクラメント
そうか、この前の秘蹟の加護か。
アーサマ、あの時はいろいろ悪態ついてすまんかった、足向けて
眠れない。
それにしても、ここまでやられたら、ブリューニュを許しておけ
ない。
﹁ブリューニュ!!﹂
﹁ヒイッ、麻呂は悪くないでおじゃる! 麻呂が盗賊から救ってや
せっかん
ったのに、この敗戦国の女があまりにも生意気な口を利くから、ほ
んの少しだけ折檻してやろうとおもっただけでおじゃ!﹂
﹁じゃあ、俺も生意気な口を利くお前を、今から折檻する!﹂
﹁おじゃぱ!﹂
俺は、思いっきりブリューニュの顔を殴りつけていた。
気がつくと俺はブリューニュに馬乗りになって、少しだけ殴りす
ぎていた。
﹁おじゃ、おお⋮⋮﹂
今、外交が微妙な情勢で、ブリューニュを殺ったらまずいっての
はわかってるつもりだった。
だが、そんなこともう考えられないぐらい、俺の頭は怒りで真っ
白になってた。
822
﹁タケル。そこまでやったら殺してしまうぞ﹂
﹁ああっ、⋮⋮すまん﹂
オラクルちゃんに止められるなんて、やり過ぎだったのだろう。
まだ身震いするほどの凶暴な怒りが収まらない、自分がこんなに
怒りっぽいとは思わなかった。
不甲斐ない自分に対する怒りをぶつけてるだけだって、本当は自
分でも理解はしている。
こんなことで、ブリューニュを殴り殺しても何にもならない、で
も自分が抑えられなかった。
ブリューニュの首根っこを掴んで持ち上げると、意識を失った身
体は、ぐったりとしている。
死んでないとは思う。鼻と口から血を垂らし、顔はボコボコに腫
れているが、息はしている。
﹁⋮⋮公女殿下、ポーションです﹂
﹁助けていただいて、ありがとうございます﹂
エリクサー
アーサマの加護は確からしく、カロリーン公女に目立った外傷は
ないようだが、霊薬を飲めば心も落ち着く。
公女の震える手が、霊薬の瓶を俺から受け取ろうとして、ポロッ
と落とした。
ああ、俺は順序を間違えていた。
ブリューニュを懲らしめる前に、公女を介抱すべきだったのだ。
半ば引き裂かれたドレスを手でかき集めるようにして、公女は震
823
えて怯えた瞳でこちらを見ている。
俺も怖がられているのかなと思って、それも仕方ないかと思う。
公女を暴行しようとしたブリューニュも、そのブリューニュを公
女の目の前で、怒りに任せて殴り続けた俺も、暴力的という意味で
は一緒だ。
怖がらせてしまった。
﹁こんなものしかありませんが﹂
﹁ありがとうございます、勇者様⋮⋮﹂
俺は、鎧の上に着ていたサーコートを脱いで、公女に着させた。
ブリューニュの馬車には、女物も含めて趣味の悪い服があったが、
こんなものを着せるよりはまだマシだ。
俺は、カアラに公女を城まで運んで、護衛するように命じると、
ブリューニュをふん縛り、壊れた馬車の上に座る。
城の兵士には、こっちを追いかけるようには言ってあるから待っ
ていれば良い。
そうか、怒りに任せて馬車を壊さなければ、そのままブリューニ
ュを連行できたんだな。
急いでいたとはいえ、後先考えずやりすぎてしまったのは反省点
か。
﹁いや、そういうことじゃねえよ⋮⋮﹂
俺は本当に、考えなしだった。
ブリューニュの動きを読み違えたのも、恨みを買っているイヌワ
824
シの頭の息の根をきちんと止めておかなかったのも、全部俺の責任
だ。
その線が繋がって、こんな形で襲いかってくるなんて、思っても
みなかった。
今回のことは、俺の甘さが招いた事態だ。
それが、自分だけでなく、周りの人を危険に晒すのだと、これ以
上ないほどに味わわされた。
﹁タケルのせいじゃないわい、なんでも一人で背負い込むのは止め
るのじゃ﹂
オラクルちゃんが、壊れた馬車の上で座り込んでいる俺の丸い肩
を、そっと抱きしめてくれた。
825
61.宣戦布告
ブリューニュ伯爵が意識を回復し、捕まえた盗賊と合わせて事情
聴取した結果。
どうも奴は、盗賊が公女を囚えさせたあと、自分がそれを颯爽と
助けることで、カロリーン公女が惚れると思い込んでたらしい。
大昔の漫画かお前は、と思う。
あるいは、中世レベルだと、その口説き方が最新式なのだろうか。
そんな杜撰な計画で、カロリーン公女が転ばなかったため、腹立
ちまぎれに暴行を加えようとしたのだ。
これは外交問題でもあり、いかに伯爵だろうが、ブラン家当主だ
ろうがそれなりの罰を受けてもらうことになる。
﹁ブリューニュ伯は、処刑しましょう﹂
ブリューニュを王都に連行するとき、やってきたライル先生がそ
う言った。
﹁もはや、ここにいたっては致し方がありません。ブリューニュを
殺せば、シレジエ王国内の門閥貴族は騒ぎ立て、国境のロレーン伯
領は不安定化するでしょう。しかし、生かしておくほうがリスクが
高いと判断します﹂
﹁⋮⋮ですね﹂
常に冷静な先生の声が、少し震えている。
いつになく、先生の落胆ぶりは激しい。
826
﹁今回の一件、ブリューニュ伯の動きを読みきれなかった、私の不
明です。むしろ、いままで生かしておくべきではなかったんです。
あの男の本質を甘く見ていました﹂
﹁いえ、先生のせいじゃないですよ﹂
仮にも伯領を預かる地方領主が、盗賊を使って味方の城を襲い、
他国の公女を拉致するなど、誰が考える。
あまりにも危険で無謀で愚かで後先考えない迷惑極まりない行動、
もはやバカなどではなく、バカを凌駕した存在だ。
ブリューニュ伯は、策士の策謀をすべてぶち壊しにする、マイナ
スのチート持ちなのだ。
それが味方の陣営に置かれた時、破滅的な効果をもたらす、存在
自体がリスクの塊と言えた。
顔をパンパンに張らせて、見張りの兵士付きの馬車で運ばれてい
くブリューニュ。
さっきまで、俺の手で捻り潰して殺してやりたいとすら憎んでい
た相手だが、今はそんな気にすらなれない。
﹁勇者様、麻呂は十分に反省したから、この縄を解いてくれでおじ
ゃー﹂
﹁⋮⋮﹂
ブリューニュへの激しい怒りが冷えると、白い化粧がところどこ
ろ剥がれたその醜い顔は、恐ろしい妖怪にすら見えてきた。
あれだけのことをやって、もう反省したから許してくれと、コイ
ツは本気で言っているのだ。
827
俺は、脆弱そうな伯爵を他愛もない相手だと見下していたが、そ
れは違った。
その精神の図太さ、化け物じみた不可解な言動は、この国の古い
因習そのものと言う、もっとも恐ろしい敵なのかもしれない。
※※※
﹁タケル、ちょっと良いですか﹂
﹁なんだ、リア﹂
城の廊下で、リアに呼びかけられた。
﹁カロリーン公女殿下はいま、わたくしたちで介抱しております。
幸いなことに、アーサマのお護りがありましたので、暴行は未遂で
終わりました﹂
﹁そうだな、アーサマには念入りに感謝しといてくれ﹂
ひせき
実感があまりなかったからしかたないが、秘蹟の効果を疑って、
申し訳なかった。
俺にしても普段から恩恵を受けているし、今回は本当に助けられ
た。
﹁しかし、公女は目の前で護衛騎士を惨殺され、盗賊に拐われて、
ブリューニュに伸し掛かられた。その心痛は、是非もなしです﹂
﹁それもそうだな⋮⋮﹂
﹁もちろん、公女にアーサマのお護りがありましたので、この程度
で済みましたが﹂
﹁なんで二回言った﹂
828
そんなに重要なことなのか、あからさまに文句は言えないけども。
﹁いえ、なんだかタケルはアーサマへの感謝が足りてない感じがし
ひせき
たので、是非もなく強調してみました﹂
﹁そうか、アーサマの秘蹟を疑って済まなかった﹂
さすがにウザいとは言わない。今回ばかりは⋮⋮。
﹁タケル、感謝しているのなら﹃男は言葉ではなく背中で語るべき﹄
と、アーサマはおっしゃってます﹂
﹁それもアーサマの教えなのか﹂
どんな女神様だよ。
﹁そこでなのですが、是非カロリーン殿下の寝床まで一緒に、来て
もらえないでしょうか﹂
﹁はぁ?﹂
そこでって、話がまったく繋がってない。
フザケてる場合か、シリアスな話じゃなかったのかよ。
﹁真面目な話しです、わたくしたちで彼女の介抱をしているのです
が、ちょっとマズイことがありまして﹂
﹁どういうことだ﹂
まぶか
目深なフードをかぶったリアは、少し声を落とした。
﹁是非もないことなのですが、激しいショックを受けた彼女は、こ
のままトラウマを残すと、軽度の男性恐怖症になってしまうかもし
れません﹂
829
﹁それは、分からなくもないが﹂
俺がポーションを渡そうとしたときも、手が震えていたし、かな
り怯えていた。
彼女は、公的な立場もあるやんごとなき姫君だ。男を怖がる症状
が出れば、公務にさしつかえる。
﹁だから、タケルに一緒の臥所で寝て欲しいのです﹂
﹁なんでそうなる﹂
むしろ、怖がられているんだから、近づかないほうがいいんじゃ
ないのか。
﹁是非もないリハビリテーションです。タケルに手でも繋いで寝て
もらえば、今なら緩和できると思います。むしろ、治すなら今しか
ありません、協力して欲しいのです﹂
﹁わかった、できることがあれば手伝う﹂
俺にはよくわからないが、治療師であるリアは、心のケアの専門
家でもある。
その判断なら、間違ってはいないのだろう。
﹁では、是非こちらに﹂
﹁わかったから、ふざけるのは、なしにしろ﹂
さり気なく、人の腕を掴んでおっぱいに押し当てるな。
しかし、今回は逆らえない弱みがあるので、強くは言えないのが
辛い。
俺は、リアに促されるまま、カロリーン公女の寝室へと付いて行
830
った。
※※※
すっかり夜も更けた。
中世の夜は、弱々しい蝋燭の灯だけが頼りだ。
大きなベッドに、青いナイトガウンを着たカロリーン公女が座っ
ていた。
美しい刺繍が入った絹のシュミーズを着たシルエット姫も、公女
の隣に侍っている。
﹁公女、まだ起きてますか⋮⋮﹂
﹁ええ、勇者様、お陰様で落ち着きました﹂
﹁大丈夫ですか、お具合は﹂
﹁私は平気です、それより私の護衛騎士が⋮⋮、残念でした﹂
一命を取り留めた公女の護衛騎士の一人は、すでに治療を受けて
回復しているが。
もう一人の若い騎士は、盗賊団を相手に最後まで抵抗して、絶命
したらしい。
それを聞いて、公女はさらに気落ちしている。
蝋燭の明かりに照らされる、彼女の美しい顔は暗い。襲われた時
に落としたメガネをかけてはいるが、片方のレンズが欠けてしまっ
ていた。
﹁メガネは、ご不便でしょうから、公国から取り寄せましょう﹂
﹁申し訳ありません﹂
831
透明度の高いレンズや、美しいガラス玉は、トランシュバニア公
国の特産品なのだ。
それを知って、レンズを輸入して望遠鏡を創ろうとしていたとこ
ろだから、ちょうど良かった。
公女をなんとか励ましてあげたいが、俺には言葉が見つからない。
リアが、前にたって公女に言う。
﹁タケルが怖くないのは、分かりますよね﹂
﹁ええ、もちろんですわ、聖女様﹂
﹁では、タケルの手を持ってみてください﹂
公女のきめ細やか手が、俺の手に伸ばされようとするが、近づく
と震える。
ふうと、リアがため息をつく。
﹁人間が頭で思うことと、心で感じることは違うのです、是非もあ
りません﹂
﹁聖女様、そういうものなのでしょうか﹂
自分でも自分の身体がどうにもできず、公女は困惑している様子
だった。
﹁とりあえず今日一日、がんばってタケルと手を繋いで寝てくださ
い。身体が大丈夫だと分かれば、是非もなく緩和していくでしょう。
タケルもよろしいですね﹂
俺にとっては、是非もないことだ。
832
公女がこうなってしまったのは、俺のせいでもあるのだから。
横になったカロリーン公女と少し身を離して、俺は手をつなぐ。
その間に、すっと小柄なシルエット姫が入り込んだ。
﹁なるほど、姫が間に入って貰えれば、カロリーン公女を怖がらせ
なくて済みますね﹂
﹁ええ、妾は、こんなことでしかお役に立てませんが﹂
なぜか姫が、公女の方ではなく、こっちにピッタリと抱きついて
くるのも我慢しよう。
今回は、たいていのことは受け入れるつもりだ。
﹁リア⋮⋮﹂
﹁怒ってはなりませんよ、タケル。是非もなく公女殿下が怖がりま
す﹂
分厚いローブを脱いだ下着姿のリアは。
俺の顔の上に、柔らかいモチモチとした肉の塊を乗せてきてやが
った。
﹁俺が抵抗できないと思って⋮⋮﹂
﹁タケルは、こうしていると苦しいですか?﹂
気持ちいいような、苦しいような⋮⋮。
﹁とりあえず物理的に、息苦しい﹂
﹁では、是非タケルも我慢してください。公女も今、自由にならな
い自分の身体と戦っているのです﹂
833
それとこれとは、全く関係ない気がするんだが。
公女の手を握り、姫に抱かれてる状態では、いかんともしがたい。
すると、耳元でプチっと軽快な音が聞こえた。ブルンと、たわわ
な振動が顔に。
リアッ、ブラを外しやがったな!
﹁騒いではなりません、殿下が怖がりますよ﹂
﹁グッ⋮⋮﹂
この状態で寝ろとか、どう考えても無理だろ。
もう、やってられるかと叫んで、逃げてやろうかとも思ったが⋮
⋮。
公女の少しひんやりとした、嫋やかな手の感触が、俺を冷静にさ
せる。
しょうが無い、これも考えなしの罰だと思って、今夜は寝ずの番
をするしかないか。
そんな決心を、俺が固めた頃だった。
﹁ご主人様が来ないと思ったら、あなたたちは何をやってるんです
か﹂
シャロンが、シュザンヌとクローディアを引き連れてやってきた、
俺が寝床に来ないから探しに来たのだろう。
その後ろから、大きな枕を抱えたオラクルちゃんまで来る。
﹁シャロンさん。タケルには、カロリーン公女殿下の男性恐怖症の
緩和ケアをやってもらっているのです。是非もないことですので、
834
今夜はお引取りください﹂
﹁ステリアーナさん、おっぱい丸出しで、ご主人様に何をやってる
んですか!﹂
そりゃ、そうなるだろ、リアが悪い。
日頃の言動からは絶対にありえないと思うのだが、なぜか聖女と
して普通に尊敬されているリアは、たいていのケースで理不尽な説
得力を発揮する。
しかし、商人として海千山千のシャロン商会長は、そんな雰囲気
に流されるほどチョロくないのだ。
﹁これも、公女殿下の緩和ケアの一環です、是非もなく⋮⋮﹂
﹁嘘を言いなさい、とにかくご主人様がこちらに寝てるなら、我々
も護衛がありますから詰めさせてもらいますからね!﹂
ありゃ、止めてくれないのか。
シャロンたちは、大きなベッドを運びこんできて、自分たちも横
において寝るつもりのようだ。
﹁カロリーン公女は、いいんですか?﹂
﹁勇者様、私は大勢いてくださったほうが、安心できます﹂
完全に並べたベッドで部屋が埋まってしまってるんだが、公女が
良いというのだから、まあいいか。
これ以上、状況は悪化しようがないから、もうどうでもいい。
なんて思ったら、大きな間違いだった。
さらに、俺の身体の上に﹁よっこいせ﹂とか言いながら、オラク
835
ルがよじ登ってくる。
お前ら寄ってたかって⋮⋮、俺が怒らないと思って、いい加減に
しろよ。
おしくらまんじゅうをかけられたまま、眠れるわけ無いだろ。
﹁ステリアーナさん、ご主人様の顔に胸を押し当てるのは、いくら
なんでも止めていただきたいんですが﹂
そうだ、シャロン言ってやれ!
﹁シャロンさん、では是非こうしましょう。二交代制というのは﹂
﹁⋮⋮緩和ケアなら仕方ありませんね﹂
シャロン!!
俺はその夜、ほとんど眠ることができなかった。
あとに、なぜか関係ないカロリーン公女に﹁たいへん申し訳あり
ません﹂って、何度も謝られたんだが、公女は悪くない。
だが、一刻も早く良くなってくれないと、俺が心労で死にます。
※※※
そんなこんなで、ようやくカロリーン公女の男性恐怖症が緩和さ
れた頃。
再び、俺の安眠を脅かす報告が入った。
王都の処刑場で、罪状を読み上げられ、今にも首を落とされよう
としていたブリューニュ伯の身柄が、何者かによって奪われたとの
836
ことだった。
何者かって、厳重に警備されていた処刑場から身柄を奪うなんて
﹃瞬間移動﹄の魔法が使える奴しかいない。
ゲルマニア帝国のイェニー・ヴァルプルギスとか言う、上級魔術
師のしわざだ。
かいらい
帝国は、建国王レンスの遠い血を引くブリューニュ伯爵を傀儡に
して、王国に継承戦争を仕掛けるつもりなのだ。
平和を乱す帝国の魔の手が、ゆっくりとこちらに近づきつつある。
837
62.森の古老
ゲルマニア帝国が、シレジエ王国に対して武力による継承戦争を
宣言し、ブリューニュ派に付いたロレーン伯領に進駐を開始した頃。
俺は、なぜかオックスの街近くの﹃魔の山﹄で樵をしていた。
いよいよ、馬のいななきと剣戟の音が響き笑う大戦争じゃないの
か、だって?
それは、俺が聞きたいんだが、これがライル先生の指示だから仕
方がない。
確かに、黒杉の伐採と加工は、俺しかできない仕事ではあるのだ
が⋮⋮。
まあ、戦争が始まったと言っても、行軍には時間が掛かるから焦
ることはない。
いま行われている目立った戦闘といえば、帝国との国境沿いのロ
レーン騎士団の騎士たちが、シルエット姫派とブリューニュ伯爵派
に分かれて、ワーワーと一騎打ちをやってるだけらしい。
その横をゲルマニア帝国の大軍が、ゆっくり素通りしてロレーン
の街に進むという、なんだか牧歌的な展開。
中世ファンタジーの戦争というのは、俺たち現代人がイメージし
ている戦争とは、ちょっと作法が違うのだ。
俺は、光の剣を横薙ぎに振るい、ザックリと黒杉を叩き切る。
﹁木が倒れるぞー﹂
838
ズーンと重たい音が響いて、メキメキメキと折れた大樹が、ドサ
ッと粉塵をまき散らしながら転がる。
レーザー並の切断力があるはずの、光の剣でも、黒杉の大木を切
るときは手に重さを感じる。
この重い手応えは、なかなかに小気味いい。
俺は、やるまでは面倒くさがるが、やりだすと凝り性なタイプだ。
頭を真っ白にして、一心不乱に、魔の山の黒杉を斬りまくる。
﹁うおおい、勇者様! 小便垂らすなぁ!﹂
﹁えっ、なんだよ、なんか俺悪かった?﹂
きこり
調子に乗って好き勝手に伐採してたら、樵の古老が追いかけてき
て、怒られてしまった。
小便はしてないんだが、言ってる意味が分からん。
きこり
俺を﹁小便垂らし﹂と怒ったのは、ヨロギ爺さんという、樵の長
老格だ。
オックスは、石材と木材の街なので﹃樵ギルド﹄がある⋮⋮とい
うか、俺が復興したときに、難民から樵を募集して創った。
モンスター大増殖で一度は壊滅したオックスの街だったが、戻っ
てきた住民たちを組織して、新しい組合を作ったのだ。
経験豊富な樵であるヨロギ爺さんは、若い樵がほとんどの佐渡商
会木材事業部でも一、二を争う貴重な人材。
なのだが⋮⋮、言ってることが、イマイチよくわからない。
839
﹁あー、樵じゃない勇者様にゃ、そう言っても分からんか⋮⋮、ん
とのう、小便垂らしってのは、山の斜面の真下に切り落とすことじ
ゃ﹂
﹁ああっ、なるほど。伐採した丸太が、下に垂れるからか﹂
専門用語にしても、小便って。
もうちょっと、上品な言い方はないものなのか。
﹁勇者様が切った木をよく見てみい、こんな角度に落としたら、倒
した木が斜面を転がって危なくてしゃーないじゃろう。小便垂らし
たら、一緒に仕事するもんが怪我する、一番やっちゃいけないこと
じゃよ﹂
﹁なるほど、それは済まなかった。じゃあ、どう切ったらいいんだ﹂
﹁こっちの木は、﹃追いこま﹄、あっちの木は﹃こまざか﹄じゃ!﹂
﹁だから、それじゃわかんないんだって﹂
専門用語を使わず、もっと丁寧に教えてくれればいいんだが。
この偏屈な爺さんに、言ってもしょうがない。
何度も聞きなおして説明させ、ようやくヨロギ爺の言わんとする
ことがわかった。
﹁尾根に向かって、右斜め上か、左斜め上に倒れるように切るんじ
ゃ。場合によるんじゃが、まあ勇者様は素人じゃから多少はしゃー
ないが、なるべくそういう感じで切ってみてくれ﹂
﹁よっし、じゃあそうしてみる﹂
俺はなるべく尾根に向かって、転がらないように黒杉の大樹を切
り落とす。
840
倒す方角を意識して、切れ目を入れれば、できないこともない。
俺が細心の注意を払って切った黒杉は、ゆっくりと山の尾根に向
かって倒れた。
転がらない。
﹁おお、さすが勇者様じゃ、やればできるじゃないかね﹂
﹁まあね﹂
伐採技術があるわけじゃない、光の剣が高性能なだけだ。
﹁ところで勇者様は、なんでぇわしらを樵番と運び番を分けて作業
を早めたり、﹃間伐﹄だの﹃植林﹄だの、五十年も樵やってきたワ
シらですら腰を抜かすようなことを知っとるのに、木の切り方すら
分からんのじゃろうね﹂
﹁そこはそれ、知識と経験の違いなんだよ、ヨロギ爺﹂
ヨロギ爺は首をかしげている。俺が言うことも、爺には分からん
か。
まあ、無理もない。
木材事業部ができてから、俺は適当に経験でしか仕事しない樵た
ちに、細かい分担作業を教えて﹁間伐﹂や﹁植林﹂を勧めている。
植林が上手く行くかどうかは微妙なところだが、この世界の人は
単に木を切り出して、そのまま禿山にしてしまうので、それをしな
いように意識するだけでも違うはずだ。
一方で、俺は実際の経験が皆無なので、必要があるたびにヨロギ
爺のようなベテランに実務を教えてもらってもいる。
841
俺はどっちかというと口下手のほうだが、ヨロギ爺も人と話すの
がいまいち得意ではないタイプなので、妙に馬があって山のことを
いろいろと教えてもらっている。
昼休みに、コレットが作ってくれた弁当を使いながら、ヨロギ爺
と話しをした。
魔の山と言っても、不気味に生い茂る黒杉を切り取ってしまえば、
のどかなものだ。
静かな森に、時折姿も見えない鳥のけたたましい鳴き声が響いて
いる。
﹁ヨロギ爺、ライル先生は、なんで黒杉を大量に切れって言うんだ
ろうな﹂
﹁偉い人の考えることなんざぁ、ただの樵のワシらには分からんが、
戦争に使うんじゃないかのう﹂
ライル先生の指示を受けて、俺と一緒に作業して黒杉の丸太を運
搬している樵たちだって。
誰一人、自分たちが何を創っているのか理解してる者はいないだ
ろう、先生は秘密主義なのだ。
﹁なんか、この図面通りに切り取った木の形、大砲みたいな形にも
見えるんだけど、木で大砲とかないよな?﹂
﹁分からん、わしに聞かれても、樵のことしか分からんてよ﹂
ちぎったパンを、水に浸して食いながら、爺はそう言って笑った。
ざんごう
俺達のちょっと下を見下ろせば、山の斜面に張り巡らせるように
建設工兵たちが、ひたすら塹壕を掘っている。
842
オックスの山にも、遠くの戦争の影響が近づきつつあるのだ。
ロジスティクス
気持ちは焦るが、俺はせっせとライル先生が指示する形に、黒杉
を切るだけだ。
黒杉の武器だって戦争には役に立つし、最も大事なのは兵站だと
教えたのは、他ならぬ俺なのだ。
﹁でも、なんか地味な作業だよなあ。こんなリアルファンタジー、
絶対求められてないぜ﹂
﹁はぁ、勇者様、なんか言ったかいねえ?﹂
いや、なんでもないよヨロギ爺⋮⋮。
黒杉の山に遠く、また見えない鳥の鳴き声が響いた。
※※※
オックスでの樵も終えて、俺もいよいよシレジエ王国軍の最前線
になっているスパイクの街に着陣した。
両陣営がお互いの策源地に陣を張り、本格的な戦争が始まる。
俺の軍から、義勇兵団が千人。オルトレット子爵が、必死にかき
集めた騎士と兵団が四百人で、千四百の軍勢が、この小さな街に集
結している。
前線の様子を確かめながら、俺は子爵の城に入場する。
相変わらず、質実剛健で殺風景な造りの城だ。
ガランとした石造りの大広間で、ライル先生が笑顔で出迎えてく
れた。
﹁先生⋮⋮なんか、城の兵士の数が少ないですね﹂
843
﹁すでに戦闘は始まっています、ほとんどは工兵になって、土木工
事に邁進してもらってますから﹂
トラップ
また罠か、先生好きだな⋮⋮。
ライル先生が机に広げている、戦略地図には、おびただしい数の
罠を示す印が書き込まれすぎて、恐ろしいことになっている。
このスパイクの街を落とそうと、ブリューニュの領地ロレーン伯
領に集結した帝国軍は合わせて一万六千にまで、膨れ上がっている
そうだ。
帝国の侵略行為を抗議して、友好国のローランド王国が国境線に
軍を並べて牽制し、ブリタニアン同君連合が、海軍で帝国の海路を
塞いでも、この数を即座に投入できる。
さすがユーラ大陸最大の帝国恐るべしである。
﹁こっちのオラクル子爵領じゃなくて、トランシュバニア公国に攻
めこむって危険はないんですか﹂
トランシュバニア公国の公王は良い人だったので、向こうが攻め
られると可哀想だ。
俺がそう聞くと、先生と、なぜか闇から現れたカアラまで現れて。
﹁﹁ないない﹂﹂と声を揃えた。
言ってから、お互いに睨み合うライル先生とカアラ。
仲がいいのか、いや悪いんだろうな。カアラは、先生の邪魔にな
るから隠れてろ。
﹁トランシュバニア公国は、いまでも帝国の準属国ですから。帝国
844
から攻められる危険もないし、よっぽどのことがない限り、公国の
側から帝国軍の裏をついて攻撃するなんてこともありえないでしょ
う﹂
だから、帝国軍はトランシュバニア公国は放置するだろうとのこ
と。
そっちに被害が出ないなら、良かったけど。
いまは他国を心配している場合でもないか。
帝国軍一万六千 対 王国軍一千四百。国力十倍とは、良く言っ
たものだ。
いや、もうこの段階で、十倍以上の動員力を見せている。
本来ならば、なまじっかな罠や戦術で覆せる戦力差ではない。
しかし、なぜかタイミング良くロレーン伯領で、奇妙な疫病が発
生し、多くの兵や馬に体調不良が続出しているらしい。
そのため、実際に押し寄せてくるのは、まず先鋒が六千程度にな
る模様。
﹁疫病って、先生、何かやりましたね﹂
﹁ヴィオラに、協力してもらいました⋮⋮﹂
先生の後ろに、先生が水魔法を教えた青い髪のヴィオラがひっつ
いていた。
﹁ハーフニンフは、人間に忌み嫌われていると、前に説明しました
よね﹂
﹁でもそれって、ただの偏見なのでしょう﹂
845
ほとんどは、偏見だと言ったのは先生だ。
﹁私は、偏見じゃない部分があるとも言いました。水の精霊の加護
を持つニンフには、負の側面があります。ヴィオラの魔法力を、私
は植物育成に特化させました。薬草が作れるとしたら、毒草だって
作ることもできる、そう思いませんか?﹂
﹁それって⋮⋮﹂
先生は、心苦しそうに、小声でつぶやく。
水の魔素を、神聖化させることでできる薬、それを狂わせれば逆
に毒ができると言うのだ。
﹁ニンフの毒というものがあります。遅効性の毒です、水に混ぜて
服用させると、倦怠感にみまわれ、しだいに体調が悪化し、肌が荒
れ始め、歯が抜け落ちます。解毒ポーションを使わなければ、最後
には立つこともできなくなる﹂
﹁それを使ったんですか﹂
さすがにごまかさない。先生は静かに頷いた。
﹁井戸に毒を発生させたり、毒草を育てるのは、ニンフにとって簡
単なんですよ。もちろん、ニンフは自身が忌み嫌われる原因になっ
ていることですから、自分からそんな真似はまずしません。人間同
士の戦争に、ニンフの毒が使われたケースもありません﹂
﹁そうですか﹂
なるほど、毒でじわりじわりと弱れば、謎の疫病が発生したよう
に見えるだろう。軍馬だって道草を食う。
それが質の悪い毒草だったら、病に倒れたように見えるはずだ。
846
﹁勝つためとはいえ、ヴィオラには、とても辛い思いをさせました。
私を恨んでくれてもいいですよ﹂
﹁いえ、先生に何でもやってくださいと言ったのは、俺です﹂
俺は、先生の横にすがっているヴィオラの小さい肩を抱いた。
﹁俺が命じたことを、先生もヴィオラも全力でやっただけだ。心配
しなくていい。誰が傷ついても、誰が死んでも、全部俺のせいだ。
お前たちが悪いんじゃない﹂
気にするな、なんて言ってもしょうが無いことは分かってる。
自らの種族が忌み嫌われる原因になった負の力を振るうことが、
小さいヴィオラにとって、どれほど辛いことか俺にはわからない。
ヴィオラが﹁私は⋮⋮﹂と何か言いかけて、声が小さすぎて聞こ
えなかった。
言葉の代わりのように、強くすがってくるので、抱きしめ返す。
﹁俺のためにやってくれたんだな、ありがとうヴィオラ。戦に勝っ
て、領土を回復したあとで、生やした毒草を始末すればいい。俺が
最後まで責任を持つ、心配しないでくれ﹂
﹁はい﹂
これは、戦争なのだ。
⋮⋮とは言え、先生の﹃手段を選ばない﹄。正直なとこ、選ばな
すぎて恐ろしい。
中世気分で、のんきに攻めてきた帝国の騎士なんか、全員ぶっ殺
されるぞ。
847
63.第二次モケ狭間の戦い
ろうじょう
味方の防衛軍一千四百に対して、敵のゲルマニア先鋒軍は六千の
大軍。
当然取るべき策は、籠城⋮⋮ではなく。
俺たちが陣取ったのは、ロレーンからスパイクの街の中間に位置
するモケ狭間の出口だった。
かつてトランシュバニアの大騎士団を打ち破った、狭隘の谷間で
ある。
山の上まで登り、望遠鏡で覗くと地平線の向こうから砂塵を上げ
ながら迫る、敵の重装騎士の騎馬隊が見える。
その数は、千騎。その後を歩兵が二千、帝国に雇われているガラ
ン傭兵団という大傭兵団の傭兵たちが三千続く。
その敵の大軍を見て、ライル先生は、なぜかピキピキと頬をひき
つらせていた。
明らかにお怒りになられている。
かんゆう
﹁敵軍の主将は、ゲルマニアの敢勇と謳われた、ネルトリンガー・
ライン・ファルツです。果断な判断をする優れた将とは聞いてまし
たが、知恵はないようです﹂
﹁そうですね、トランシュバニアの騎士団の戦訓を学んでない﹂
先生は、どうやら敵があまりに舐めた態度なのに、腹が立ってい
るようなのだ。
848
﹁それ以前の問題です! 敵が待ち構えている狭隘な谷間に無造作
に軍を進めるなど、一番愚かな選択です。ここはモケ山地を大きく
迂回するだろうと思って、準備してた策が全部無駄になりました﹂
先生は悔しそうに、短いロッドを戦略地図に叩きつけた。
まあ、先生の怒りもわかる。
敵が待ち構えている狭隘の地を避けることは、戦術の基本だ。
孫子の兵法書をナナメ読みした、高校生の俺だって知ってること
なのに。
トランシュバニア公国の騎士団には、将棋で言うと玉将である俺
とシルエット姫を強襲するため。
一分一秒でも早く、スパイクの街に着かなくてはならない、戦略
的にやむを得ない理由があった。
しかし、今回の帝国の攻撃は、ただ大きく迂回するルートが面倒
だから街道を直進すると言わんばかりだ。
そこには、王国の寡兵など、大軍で蹴散らせばいいと言う侮りが
ある。
﹁モケ狭間を直進されても、策はあるんですよね﹂
﹁もちろんです、連中に生まれてきたことを後悔させてやりましょ
う。オラクル! カアラ! 手はず通り、敵陣に爆撃を開始してく
ださい﹂
先生は灰色のローブをバサリと翻すと、クワッと美しい茶色の瞳
を見開いて、ロッドを振るった。
オラクルちゃんと、カアラが、爆弾が大量に入った籠を抱えて、
敵の騎士隊の空に飛ぶ。
849
二人が空中から、籠に入った爆弾の導火線に火を付けて、投げ込
むと爆発で敵の騎士隊に爆発が炸裂した。
騎士隊の整然とした怒涛の行進が、乱れる程の十分な威力だ。
﹁おお、空中爆撃はすごいですね。これでは敵なんか手も足もでな
いでしょう﹂
﹁タケル殿違います、これは敵の上級魔術師を誘い出す手段に過ぎ
ません﹂
空から爆撃する二人に、敵の歩兵隊から一人の黄土色のローブを
着た男が、ものすごい勢いで飛び上がってきた。
パ
﹁密偵の報告によると、敵の先鋒軍に居る上級魔術師は一人だけだ
ーフェクトハリケーン
そうです、﹃砂塵の﹄ダマス・クラウド。風系特化の魔術師で、完
全なる竜巻という強力なハリケーン攻撃を広範囲に向けて連発して
くる厄介な魔術師なのですが﹂
﹁あっ、落ちた⋮⋮﹂
天才魔術師のカアラと、不死少女オラクルちゃんの挟撃を食らっ
ては、ひとたまりもない。
得意の竜巻魔法を連発するも、﹃砂塵の﹄ダマスは、前後から衝
撃波を食らってそのまま落下。
﹁上級魔術師といっても、ただの人間ですから、あの高さから落ち
たら普通に死にます﹂
﹁いっちょ上がりですか﹂
本当に呆気ないな、リアルファンタジー。
850
﹁さてでは、今度は直進してくる敵をモケ狭間の出口で迎え撃って、
全員ぶっ殺しましょう﹂
﹁先生、その言い方は、あんまり身も蓋もないですから﹂
しかし、先生相手に舐めた戦術を取った敵将が悪いのだ。
敵の主将は、﹃敢勇﹄のネルトリンガーだったか、俺はもうどう
なっても知らんぞ。
※※※
モケ狭間の出口。
土塁で固めた、堅固な木組みの馬防柵が二重三重に張られている。
谷間を通る間、周りの山から攻撃を受けることもなく。
罠がないのに拍子抜けした敵将ネルトリンガーは、得意げに騎士
隊を引き連れて突撃してきた。
﹁あのような木の柵など、回り込めばよいではないか!﹂
そう最前列の騎士が、叫んだのが聞こえた。
柵を回り込もうとした、騎士達が次々に落とし穴に転落する。
﹁先生、落とし穴好きだよなあ⋮⋮﹂
もちろんただの落とし穴ではない。
穴の下には、尖った木の杭がたくさん並んでいる。その杭に、毒
を塗った釘が刺してある念の入れ用。
しかし、こちらは銃士隊が一千に対して、敵は総勢六千の大軍だ。
落とし穴に落ちては死に、柵に引っかかっては鉄砲隊に撃ち殺さ
851
れながらも、敵軍は奮戦した。
しかし、狭い隘路の出口で、なかなか前進できずスシ詰めになっ
ている敵は、大軍の利をまったく生かせていない。
こっちは幅広く陣を敷いて、敵の頭に火線を集中させる。
マントレット
敵軍にも当然ながら弩兵や弓兵がいて、盛んに矢を射かけてくる。
攻撃魔法を放つ初級、中級の魔術師も混ざっているから、遮蔽物
や大盾でガードしていても怪我人は続出する。
回復ポーションが山ほど用意してあったからいいものの。
そうでなければ、持ちこたえられなかっただろう。
いよいよ敵の突撃も激しさを増し、落とし穴に落ちた味方の死体
を乗り越えてでも敵は前に進撃する。
三重柵の二段目まで突破した、勇敢な騎士が居たと思ったら。
後ろから一気に三重柵を超えて、俺たちの目の前まで、一気に突
撃してきた。
完全武装のでかい軍馬に乗ったガタイのいい重量級の騎士が出た。
プレートメイル
何らかの強化魔法がかかった全身鎧なのか、鉄砲の弾があたって
もガンガン弾く。
バシネットから吐き出す荒い息に、こいつ強いってオーラが満ち
ている。
﹁フハハハッ、ゲルマニアの﹃敢勇﹄ネルトリンガーだ! 敵将は
いざ尋常に勝負せよぉ﹂
あれが、敵将のネルトリンガーか、さすがに大将の威圧感は十分。
852
プレート
どうやって来たのか知らないが、軍馬も本人も重たい板金で武装
してるのに、三重柵まで乗り越えて突撃を敢行しきったのは、﹃敢
勇﹄の将と呼ばれるだけの実力なのだろう。
だが、司令官自らが突撃とか、中世の戦争は無茶苦茶だ。
敵の士気は、大将の果敢な突撃にものすごく上昇して、雄叫びを
あげ、死に物狂いでネルトリンガーに続こうとしてるから、これで
いいのかな。
﹁先生、俺一騎打ち、いいスか?﹂
あれぐらいの普通の強キャラが相手なら、俺でも行けそうな気が
する。
敵将が来たんだから、格的に勇者の俺が行くべきでは?
﹁構いませんけど、もうルイーズ団長が行きましたよ﹂
﹁ああっ、ルイーズ!﹂
俺の見せ場じゃんそこ!
ばんけん
﹁敵将ネルトリンガー! シレジエの騎士ルイーズ・カールソンが
お相手致す!﹂
﹁おお、そなたは万剣のルイーズか、敵に不足なし!﹂
ランス
馬上の騎士たちは、お互いに長槍をぶつけ合う。
敵の装備も良い物なんだろうが、ルイーズの﹃黒杉のランス﹄は、
鋼鉄をも凌駕する硬度だ。
ネルトリンガーは打ち負けして、馬上から転げ落ちた。
そこを、馬から飛び上がったルイーズが、いつの間にか長槍から
853
持ち替えていた﹃オーガスレイヤーの鉄ハンマー﹄で、バシネット
ごと敵将の頭を粉砕した。
よりにもよって、オーガスレイヤーで叩き殺された敵将には、ち
ょっとだけ同情する。
﹁よくも、御大将を!﹂
﹁死ね!﹂
敵将ネルトリンガーを追いかけて来た騎士たちだが、相手が悪い。
オーガ用の巨大な鉄ハンマーを何度も振るい、馬ごと騎士を粉砕
するルイーズは、もはや騎士とかそういうレベルの戦闘力ではない。
燃えるような真紅のポニーテールを揺らし、巨大な鉄ハンマーを
軽々と振り回しながら、当たるを幸いに何人もの騎士を馬ごと叩き
潰していくルイーズの壮絶な姿。
それに見とれて、敵の騎士隊の猛攻が、しばらく止まったぐらい
だ。
でも、一言だけ言わせてもらえば。
ルイーズは﹃オーガスレイヤーの鉄ハンマー﹄の使い所、絶対に
間違ってる。
ゲーム
騎士同士の決闘は、ある意味で競技のようなものだ。
落馬させられて怪我をしても、そこで一撃死しなければ、回復ポ
ーションがあるので死にはしない。
シュザンヌとクローディアも、小さいなりに二人で上手く連携攻
撃して、敵の騎士を落馬させていた。
ルイーズに付いて訓練しているせいか、彼女らも強くなったもの
854
だ。
味方の活躍を見ると血がたぎる、せっかくだから俺も見せ場を作
りたいと、最前線に走って行く。
こういうとき、馬に乗れないからダメなんだよな、練習しようか
な。
﹁勇者タケル殿とお見受け致す、副将エレオノラ・ランクト・アム
マインが相手だ﹂
﹁はあ、副将?﹂
綺羅びやかな真紅の炎の鎧に身を包んだ騎士がやってきた。
なんか見せ場っぽいのはいいけど、お前その可愛い声、絶対に女
騎士だろ!
﹁さあ、いざ尋常に勝負!﹂
なんで俺の相手は女騎士なんだよ、戦争とは言え女を殺すのは、
さすがに躊躇われる。
ルイーズ代わってくれよ!
ルイーズに助けを求めたら、いい機会だから﹁殺れ!﹂って、も
のすごい良い笑顔で合図を送られた。
なんでルイーズは、俺に毎回、女を殺させたがるんだよ!
﹁くそったれ!﹂
俺が﹃黒杉の大盾﹄で騎乗突撃をいなして、﹃黒杉の長槍﹄を横
っ腹に叩きこむと、副将エレオノラとか言う女騎士は、簡単に馬か
ら転げ落ちた。
855
なんだ、滅茶苦茶弱いな、おい。
しかし、副将といえば、敵軍の指揮官なのだろう、無視するわけ
にはいかない。
俺が、適当に死なない程度に傷めつけてやろうと行くと。
敵の綺羅びやかな緋色の鷹の紋章を付けた重装歩兵隊が、大盾を
並べて副将エレオノラを守った。
﹁おのれシレジエの勇者め、姫様を殺させはしないぞ!﹂
﹁いいからさっさと引けよバカ野郎ども!﹂
つか、その鉄壁の防衛陣形、主将ネルトリンガーが死にそうなと
きにやればいいのに。
中世ファンタジーの騎士って、戦争のやり方間違いすぎだろ。
主将ネルトリンガーを失い、副将エレオノラが負傷した敵軍は、
撤退を始めた。
﹁ふう、終わりましたね﹂
﹁タケル殿、何を言ってるんですか、まだ終わってませんよ﹂
先生が涼し気な顔で言う。ああ、後ろから追撃するのかな。
﹁追撃じゃありません。この先鋒軍は、見せしめにするために、全
滅させるんです﹂
しれっと、それはもう決定していると先生は言った。
﹁いやでも先生、戦術のセオリーだと、逃げ場をなくすと敵を死に
856
物狂いにさせちゃうから﹂
﹁全滅させるんです﹂
はい、先生、大事なことなので二回言いました。
そういや先生、すごく怒ってたんだったな⋮⋮。
その瞬間、モケ狭間を撤退しようとする、敵軍にめがけて転がる
大岩が大量に降り注ぐのが見えた。
谷の向こう側で、多数の大砲による砲撃の炸裂音が、高らかに響
き渡ったのが聞こえた。
ああ、そう言えば、砲兵隊を使ってなかったけど、使い所はここ
か⋮⋮。
おそらく姿が見えないカアラやオラクルちゃんも、向こうの抑え
に回っているのだろう。
モケ狭間の口は両方から閉じられ、敵は完全に包囲された。
オーバーキル
﹁さあ、皆さんもう一仕事ですよ。敵がこっちに逃げてきたら挟撃
して、今度こそ全滅させます!﹂
うあー、これは⋮⋮。
それから始まった戦闘は、もはや一方的な虐殺だった。
敵軍には、少し同情するけど。
大軍だと思って、舐めてかかって先生を怒らせるから、こういう
ことになるんだよ⋮⋮。
857
64.姫騎士エレオノラ
完全に皆殺しになる前に、敵軍は全面降服した。
武器を捨てて地に伏せる騎士が、転がる岩に押しつぶされて圧死
する姿を見て、ようやくライル先生の怒りも収まったらしく、敵の
恭順を受け入れる。
﹁タケル殿、名誉を重んじる騎士の恭順宣言は、信用できます。二
度とこの戦いに参加させないように約束させて、あとは身代金でも
取れば、解放して領邦に戻してもよろしいでしょう﹂
捕縛された敵軍の捕虜を前に、先生は言う。
騎士と従者たちはいいとして、問題は傭兵団のほうか。
統制を失い、為す術もなく殺された不甲斐ない敵軍の兵士に比べ
て、傭兵団の動きは巧みだった。
崩壊状態に陥っていた敵軍の中から踊りでて。
一人で険しい山を這い上がり、岩を転がしている味方を襲ったほ
どの剛の者もいた、元冒険者なのかもしれない。
しゅかい
ゲルマニア帝国の三千人近いガラン大傭兵団の首魁。
傭兵団長ガラン・ドドルが縄に巻かれて、先生の前に連れてこら
れた。
﹁降伏を受け入れていただき感謝している、シレジエの勇者殿⋮⋮﹂
858
チェーンメイル
ガランは、全身に黒い鎖帷子を付けた、黒い髭を生やした大男だ。
傭兵とはいえ、一軍の将に匹敵するプロの戦闘集団の首魁、なか
なか礼儀正しい。
﹁ガラン殿、あなた達傭兵団は、こちらに寝返ってください。そう
すれば、縄目を解いて十分な給金も払いましょう﹂
﹁バッ、バカを言うな。傭兵にだって、信義はあるぞ。捕虜に取ら
れたのは致し方がないが、雇い主を裏切れなどと﹂
そうだよなあ、傭兵団だって商売なんだから、信用を失ったらや
っていけないよな。
その理屈は、俺も商人だから痛いほど分かるんだが。
﹁こっちに鞍替えしない傭兵の方は、残念ですが、敵に雇われる傭
兵への見せしめに死んで頂きます﹂
﹁なっ、なんだと!﹂
縄に縛られたガランは、思わず立ち上がった。
﹁おい、ガランとやら。うちの先生はたいへん怒ってらっしゃるか
ら、言うとおりにしたほうがいいぞ﹂
﹁しかし、シレジエの勇者殿! 武器を捨てて恭順をした相手を、
いくら傭兵とはいえ殺すなどとありえんだろ﹂
ありえなかったのが、いままでの戦争までなんだろうな。
こっちも、今回は国が滅びるかどうかの瀬戸際、手段を選んでい
られないので、しかたがないんだ。
﹁時間がありません、残念ですがあなた方は従わないようなので、
全員処刑させていただきます﹂
859
ライル先生が、ガランに銃口を向ける。
俺がいたたまれなくなって、さっと目を背けると、ガランが悲鳴
のような叫び声をあげた。
﹁まっ、待て⋮⋮殺すな。勇者殿、従う⋮⋮我々は鞍替えする。許
してくれ⋮⋮﹂
誰に許しを請うたのか、大傭兵団の首魁、ガランはそのまま地面
に倒れ伏すように頭を垂れた。
俺は、恭順した彼の縄目を解いてやる。
こうして、ガラン傭兵団はこちらの側に付いた。
残念なことに、一部にはこちらに寝返らない傭兵や、強情な兵士
が出たが、サクサクと処刑されていく。
さて、これで戦後処理は済んだかと思えば、中には処理に悩む困
ったちゃんが混じっている。
﹁くっ、こんな生き恥、耐えられない⋮⋮早く殺せぇ!﹂
綺羅びやかな真紅の炎の鎧に身を包んだ、金髪碧眼の若い女騎士。
副将エレオノラ・ランクト・アムマイン。
ロープでくくろうにも、炎の鎧で焼き切らられるので。
兵士で囲んで、鉄の鎖でグルグル巻きにして、ようやく捕縛でき
た。
ライル先生によると、アムマイン家は帝国の領邦国家の一つラン
クト公国を治めている名門貴族で。
860
この女騎士は、その財力は帝国一と言われるランクト公の一人娘
なのだそうだ。
つか、なんでそんな姫様が、好き好んで女騎士やってんだよ。
﹁彼女は、﹃ランクトの戦乙女﹄エレオノラと呼ばれる、かなりの
有名人なんですけどね﹂
﹁あー、戦乙女ってジャンヌ・ダルク的な﹂
いや、ジャンヌは農民の娘だから違うか。
なんだろこいつ、もしかして姫騎士的なアレかな、また質が悪い
のに当たった。
﹁ランクト公の一人娘なのですが、そうとうな跳ねっ返りとして有
名で、騎士をやってるのにやたら地位だけが高いので、帝国も扱い
に困ってるらしいです﹂
﹁なるほど、それで副将扱いなんですね﹂
見てると、指揮能力皆無らしいけど。
主将ネルトリンガーを失った後の帝国軍の狼狽ぶりは酷かった、
ハッキリ言って将軍として若い彼女が戦場にいる意味はゼロどころ
か、マイナスだろう。
邪魔になるだけだ。
俺もライル先生がいなきゃ指揮能力もろくにないから、人のこと
は言えないけど。
﹁あんた、私のことを無能って言ったわね! 殺すわよシレジエの
勇者!﹂
﹁いや、無能とは言ってないけど⋮⋮﹂
861
言ってはいない、思っただけだ。
﹁あんたたちの騎士にあるまじき卑怯な戦い方、恥ずかしいと思っ
たら、尋常に勝負しなさいよ!﹂
﹁卑怯とか、軽く四倍を超える多勢で攻め寄せた、お前らが言える
ことじゃないだろ﹂
まったく、言ってることやってることも理屈が通ってない。
すぐ殺すとか、殺せとか、物騒な姫騎士だ。
彼女は、他の騎士は恭順宣言してとっくに解放されたのに、一人
だけでいつまでも抵抗し続けている。
周りの彼女付きの従者らしい重装歩兵の男たちは、﹁姫様、早く
降伏しましょうよー﹂と女騎士エレオノラを説得しようとしてるが、
頑なに恭順を拒む。
ほんと、他の騎士みたいにサクサク降伏しろよ。
恭順宣言して、いくばくかの身代金払って解放されるのは、騎士
の恥にはならんのだろうに。
せっかく敵の副将を捕らえたのだから、一般の兵士みたいにサク
ッと処刑しちゃうのも、もったいない感じがする。
敵への人質として使うかと考えていると、俺のたちのところにラ
ンクト公国からの使者と名乗る痩身の老騎士が訪ねてきた。
銀髪も綺麗に整えられた口髭もやたら渋い、灰色のマントを脱ぎ、
手にかけてお辞儀する仕草も颯爽としている。
俺は、こういう品のいい大人に弱いので、歓迎してやった。
862
セネシャル
﹁アムマイン家の執事騎士カトーと申します。当家の姫様の身代金
を支払いに参りました﹂
﹁ほう、それはそれは⋮⋮﹂
老紳士カトーは、俺にずっしりとした布袋を二つ差し出した、中
は金貨がたっぷり詰まっている。
美味しすぎる、俺は速攻に転んだ。
﹁すぐ、アムマイン家の姫様の縄を解いて差し上げろ。従者の方も
くれぐれも無礼のないようにな!﹂
銀髪の老紳士カトーに救われて、扱いに困る姫騎士エレオノラは、
ようやく去っていく。
﹁シレジエの勇者! 私は恭順宣言してないんだからね。覚えてな
さいよ、次こそ、憎らしいその首を、私の剣で飛ばしてやるから!﹂
﹁はいはい、まあがんばれ﹂
無理にエレオノラを恭順宣言させる必要もない。
どうせ、地位ばかり高い無能だし。
また運良く捕まえたら金貨の袋が貰える、ボーナスキャラみたい
なものだと考えることにした。
※※※
勝利も束の間、帝国が新たな軍を派兵するため本国で編成を開始
してるとの報告が入った、その数は、現段階で一万を超えていて、
さらに凄い大部隊になりそうだ。
ロレーンの街の帝国軍の残存一万に、新たにそれを超える数の帝
863
国軍がやってきては、スパイクの街が挟み撃ちにされる。
ここで、篭城や戦術的撤退を選ぶのは、素人。
ライル先生は、すぐさま先手を打って、ロレーンの街を強襲する
戦術を選択する。
﹁こちらに寝返ったガラン傭兵団二千を前に押し立てて、ロレーン
の街に攻め込みます。敵将は慎重派の将軍﹃穴熊の﹄マインツ・フ
ルステンです。敵はおそらく籠城策を選ぶでしょう﹂
先生の言うとおり、ロレーンの街に攻め寄せた、たかだか三千の
敵を相手に、帝国軍一万は街の城壁の奥に引きこもった。
疫病で、兵馬の調子が悪いにしても、ここまであっさり籠城を選
択するのは不思議。
﹁簡単なことなんですよ、ロレーンの街には領主のブリューニュ伯
爵が居ます。万が一彼が殺されてしまえば、帝国は介入戦争を行う
大義名分を失います﹂
なるほど、将棋で言うと、こっちが王手を仕掛けている状態にな
るわけだ。
穴熊は、決して悪い選択ではない。
先生は﹁いまごろ帝国では、慌てて編成仕掛けた軍をこちらに向
けていることでしょう﹂とも付け加える。
先生は、この一手でスパイクの街が挟み撃ちにされることを避け
る事ができたが、敵は援軍が間に合えば、このローレン伯領で、こ
ちらの寡兵を挟み撃ちにできる。
両者痛み分けと言ったところ、先生にしては珍しい。
864
﹁もし街の外に出てきたら、傭兵団同士を潰しあわせて、敵の戦力
を削ろうと思ったんですが、こうも硬く籠られると難しいですね﹂
そう言いながら、なんだか先生は楽しそうだ。
﹁敵将のマインツ・フルステンは手強い老将です。愚将揃いのゲル
マニア帝国軍の中で、私が密かに尊敬している数少ない名将です﹂
﹁先生が尊敬するほど、すごい将なんですか!﹂
先生が敵将を褒めるというのは、まったく例がない。
そんな手強い敵なのかと、俺が慌てて尋ねたら、先生はちょっと
はにかんだ笑みを浮かべた。
﹁すごいと言うとは、ちょっと違うんですけどね。﹃穴熊の﹄マイ
ンツは、百戦錬磨の将軍ですが、その四十年の軍務経験で、戦った
百戦のうちの六割方は負けています﹂
﹁あれ、あまり凄くない﹂
先生は、そうではないと頭を振る。
﹁ゲルマニア帝国は勇猛果敢な猛将は多いんですが、負け戦を上手
く戦い抜ける将軍が彼しかいないんですよ。軍の統率にかけては、
帝国随一の実力です。その希少な資質を、味方の将兵にほとんど理
解されてないので、﹃敗北主義者﹄とか、﹃負け戦の﹄マインツと
か、ボロクソに評されてとても可哀想なご老人です﹂
﹁なるほど、ありそうな話ですね﹂
確かに、ゲルマニア帝国の騎士や兵士は、突撃となると精悍さを
発揮するが、退却になるとかなり脆い。
865
装備もろくに揃ってない、不正規兵の傭兵団の方が、粘り強いぐ
らいだ。
﹁この局面は、数の見せかけを取っ払ってしまえば、すでにロレー
ンの街のゲルマニア帝国軍が劣勢です。街に居る帝国軍一万の将兵
のなかで、それを正しく把握しているのはマインツただ一人なんで
す。タケル殿、それがどれほど凄いことか分かりますか﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁でしょうね、理解されないことは悲しいことです。敵将マインツ
は優秀ですが、私は彼の戦歴を研究し尽くしてます。優れた先達に
敬意を払いつつ、謹んで勝たせていただきましょう﹂
そう言うと、先生は鉄のワンドを振るって、ロレーンの街への攻
撃を指示する。
俺たちの陣地、ロレーンの街を見下ろす丘の上から。
五門の青銅砲が街にめがけて、轟音を上げながら砲撃を開始した。
866
65.穴熊のマインツ
そもそも、この世界の外壁は、砲撃を想定して作られては居ない。
丘の上の義勇兵団本陣から火を噴く五門の青銅砲に対して、ロレ
ーンの街は無防備に砲撃を受け続けるだけ。
﹁敵は、動きませんね⋮⋮﹂
ライル先生の顔に、初めて焦りのような色が浮かぶ。
﹁先生、オラクルちゃんたちに、空爆はさせないんですか﹂
﹁裏切ったガラン傭兵団から聞いたんですが、﹃穴熊の﹄マインツ
に付いている上級魔術師がちょっとまずい、安易には攻められませ
ん﹂
﹁その名将に、どんな強力な魔術師が付いてるんですか﹂
﹁相手は上級魔術がひと通り使えるだけという、凡庸な魔術師なん
ですけどね﹂
あれ、また大したこと無い感じだな。
﹁それが﹃ウルリッヒ三姉妹﹄という上級魔術師で﹂
﹁あっ、三人いるんですね﹂
﹁その通りです、上級魔術師が三姉妹で連携して攻撃してくるんで
す。いかに天才魔術師カアラと、早く飛べるオラクルの連携でも、
地上から迎撃されれば撃ち負ける公算が大きい。空爆は危険です﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
867
飛行中に攻撃を受けて意識を喪失すれば、そのまま落ちて死んで
しまう。
所詮は魔力の強いただの人間である、上級魔術師同士の空中戦が
あまり行われない理由の一つである。
﹁タケル殿は、上級魔術師が束になってかかってきたら、恐ろしい
と思いませんか?﹂
﹁それは、もちろん思います。なんで一人しか来ないのかと思って
ました﹂
﹁それは上級魔術師が、その性は傲慢にして驕慢、ちょっと人より
高い魔力を持ったからって自分を特別な存在と思い上がった、いけ
図図しい恥知らずの最低なクズ人間ばかりだからなんです﹂
﹁先生、それはちょっと﹂
若干、私情が入ってる感じが。
﹁だから、全員死んだほうがいいんですが⋮⋮失礼しました。上級
魔術は効果範囲も広く派手ですし、お互いの魔力が干渉しあったり
して邪魔になるので、とかく連携して動くってことを嫌います﹂
﹁なるほど、分かりました﹂
﹁しかし、﹃ウルリッヒ三姉妹﹄は別です。上級魔術師としては地
味な存在ですが、三人で連携してかかってくる上級魔術は、それ自
体が最大の脅威です。私情を抜きにしても、ここで絶対に潰してお
きたい存在です﹂
やっぱり、私情が入ってたのか。
しかし厄介なことになった、守勢に特化した老練なマインツが指
868
揮を執っていて、その手駒には上級魔術師が三人。しかも街には一
万の兵が詰めている。
向こうから攻めてくればやりようもあるが、こうも硬く守られる
と手の打ちようがない。
こうしている間にも、新たに編成された帝国の増援がやってくる
かもしれないのだ。
なんだか不自然な、雨雲がモクモクとこちらに向かってきた。
﹁敵の魔法でしょうね、マインツは水が大砲の弱点だとしっかり知
っている。撃ち方やめ! 大砲に防水シートを被せて、防水用天幕
を張ってください﹂
雨雲程度は中級レベルの水魔法である。
本来なら、ライル先生もマジックディスペルで、この程度は打ち
消せるはず。
しかし、ここはあえて受けて、大砲が使えなくなったように見せ
かけてみるのかな。
防水シートは、元から撥水性のあるグレイラットマンの毛皮に、
防水魔法をかけたものだ。
洪水が来ては一溜りもないが、雨雲程度なら耐えしのぐことがで
きる。
それでも、火薬や火縄が湿気てしまえばそれまでなので、やはり
雨が弱点であることに変わりはないのだが。
﹁マインツは、銃器や大砲をまだ情報でしか知らないはずです。こ
れで、簡単に無力化できると勘違いしてくれるとありがたいですが﹂
869
本陣に置いてある青銅砲は五門だけだが、実は先生は、この他の
場所にさらに十門伏せてある。
名将マインツとライル先生は、お互いに化かし合いをやっている
のだ。
この探りあいの知能戦、初戦の馬鹿げた中世ファンタジーに比べ
て、これこそリアルファンタジーの真髄であると言えた。
﹁しかし、このまま戦況を膠着させるわけにもいきませんね。カア
ラ、メテオ・ストライクをお願いします﹂
ど派手な最上級魔法に頼ってまで、先生は活路を見出そうとする。
知将に穴熊に籠られたままでは、いかに先生でも手の出しようが
ない。
カアラが得意とする最大級規模の、最上級魔法ならば、街をひっ
くり返す騒ぎになるはずだ。
仮に天空から隕石が飛来して騒がないとしたら、その街はもう死
んでいる。
﹁カアラ・デモニア・デモニクスが伏して希わん、星辰のはるか彼
方に輝く暁の冥王、時空の狭間より地上へと顕現せしめ、すべてに
滅びをもたらさんことを!﹂
空が急に暗くなって天空に星空が広がる、何本もの隕石が火花を
散らしながら、ロレーンの街に目掛けて降り注ぐ。
たまやー、かぎやー!
ズーンと重たい音が空気を震わせて、巨大隕石がいくつも街に着
870
弾した。
敵に回したときは本当にビビったが、味方になるとこれほど心強
い者はない。
いつの時代も、大質量攻撃こそがシンプルにして最強なのだ。
﹁バカな、これで動きがないだとっ!﹂
さすがに先生は驚愕を隠し切れない。
俺だってびっくりだ。
かつて、メテオ・ストライクを撃ち込まれたオックスの街が、ど
れほどの混乱に見舞われたか。
隕石が着弾した街はもうズタボロに破壊されている、最上級魔法
に対して、じっと息を潜めていられる一万の軍勢などありえない。
マインツの動きがまったく読みきれず、杖を握りしめて深く黙考
する先生のところに、早馬の伝令がやってきた。
報告を聞いて、先生は叫び声を上げた。
﹁そうか、してやられた!﹂
先生が悔しそうに、短いロッドを戦略地図に放り投げた。
﹁どうしたんですか﹂
﹁どうしたもこうしたも⋮⋮道理で、大砲をぶち当てても、メテオ・
ストライクをぶち当てても、動きがないはずです。敵は、こっちが
ロレーンの街に攻めこむ前から、ブリューニュ伯爵を護衛して、逃
げていたようです﹂
871
先生は悔しそうに、ギリッと歯噛みした。
﹁もちろん私も、マインツが比較的早い段階で、ブリューニュ伯を
逃がすことを計算に入れてました。だからこそ、逆にそこを襲って
身柄を奪おうと、別働隊を使って退路を調べさせておいたんです﹂
ブリューニュ伯をぶち殺せば、とりあえずこの戦争は終わりなの
だ。
﹁しかし、マインツはロレーンの街の主力を伴ってブリューニュ伯
を後退させたんですよ。その数は、いまだ堅強な騎士隊と兵団が合
わせて五千。﹃ウルリッヒ三姉妹﹄すらそっちに同行しているよう
です。とても、別働隊で襲える規模ではありません﹂
つまり、街に残ったのはニンフの毒でやられて弱っている兵馬と、
老将マインツのみ。先ほどの雨雲も、中級魔術師を一人だけ残した
のだろう。
俺たちは、老将の策に乗って、まんまとハリボテの街を攻めさせ
られたのだ。
﹁今から追いかけても、ここからでは間に合わない。マインツは自
らと傷病兵と街そのものを囮につかって、ブリューニュ伯とまだ壮
健で使える兵士を見事に後退させたんです。この思い切りの良さ、
何という鮮やかな手際か⋮⋮﹂
﹁やられたわりには、先生はなんだか楽しそうですね﹂
先生は悔しがりながらも、機嫌がよさそうだった。
長い付き合いなので、何となく分かる、そう指摘すると先生は堪
え切れないという風に、フッと微笑んだ。
872
﹁だって嬉しいじゃないですか、マインツほどの老練な将が、自ら
を囮に使うほどに私の軍略の才を買ってくれたんですよ、軍師がし
てやられて笑っていてはいけないんですが﹂
理解されないことは悲しいこと、そう言ったのは先生だ。
先生は、穴熊のマインツを先達として尊敬している、その老将に
自分もまた知られていたことが嬉しいのだろう。
上級魔術師も頑強な兵も居ないとなれば、そこはもうハリボテの
街だ。
大砲で全門攻撃して、街の塀を打ち破り、怒涛の如くこっちの軍
勢が街に攻め込んだ。
解毒ポーションも尽きていたのか、ニンフの毒でろくに立ち上が
ることもできないロレーンの街の将兵たちは、即座に白旗を上げた。
ロレーンの街に残った五千人ちかい傷病兵の処理は、前と同じだ
から割愛する。
老将﹃穴熊の﹄マインツは、ロレーンの城の謁見の間で、一人で
杖をついて静かに待っていた。
六十を過ぎた、短髪の白髪の長い白髭を生やし、重たそうなプレ
ートメイルに白いマントを羽織った、それなりに威厳のある爺さん
だった。
顔のシワが濃いが、小さく凹んだ青い目だけが爛々と輝き、深い
知性の色を湛えている。
﹁ホッホッ、君がライル・ラエルティオスなのか、少し驚かされた
ね﹂
そりゃ、驚くだろう。
873
本人はそうじゃないと言い張ってるが、うちの先生は、女の子よ
り可愛いからな。
﹁お初にお目にかかります、﹃穴熊の﹄マインツ閣下﹂
ライル先生が片膝をついてかしこまった。
笑うと単なる好々爺にしか見えないが、相手は偉大なる名将だ、
俺も慌てて膝をつく。
﹁これまでの活躍は、余すところなく聞かせてもらっている。ライ
ル君は、きっと次世代の名軍師と呼ばれるようになるだろうね﹂
﹁ありがたいご評価ですが、そのように言っていただけるのは閣下
だけですよ﹂
﹁いずれ、誰もが君を無視できなくなるだろう。君の最初の方の戦
歴に、ワシの敗北が花を添えるとしたら嬉しいものだね﹂
﹁そうですかね、今はまだ若く、半端者などと呼ばれております。
形上は閣下の負けになるのかもしれませんが、今回は随分と手痛く
してやられました﹂
ライル先生は、フッと自嘲気味な笑いを浮かべる。
しかし、名将に褒められて悪い気分はしないらしい。
﹁ホッホッ、そこはそれ、年の功だよね。若いもんに身体の動きは
もう追いつかんが、指揮棒ぐらいはまだ振れるのでね﹂
﹁主力を撤退させるなら、別に将軍が街に残る必要はなかったので
は﹂
﹁そうかね、ライル君なら、ワシが城におらんでは騙しきれなかっ
ただろう﹂
874
﹁ですね、閣下の指揮がなければ、気がついたと思います﹂
傷病兵しか残っていない居ない街を、あたかも一万の兵が詰めて
いるように見せかけて。
その上で、砲撃を喰らおうが最上級魔法を喰らおうが、一切の狼
狽を見せない統率の冴えは、熟練の老将にしかできない。
﹁早い段階で気が付かれたら、君は危ないからね﹂
﹁そうですね、後少し気づくのが早ければ、まだ打てる手はあった
ようにも思えます﹂
あったのか、この二人の会話は、俺にはよく分からん。
﹁さてと、死に際に、君のような若者に会えて良かった﹂
﹁恭順宣言は、なさらないのですか﹂
先生が、少し驚いて顔を上げる。
﹁ワシも、君のような紅顔の頃から戦場に出てもう四十年だよ。現
皇帝のコンラッド陛下には世話になりすぎた。もう、若獅子殿下が
軍権を握るようになっているから、時代遅れの老人はどうせお役御
免だ。ここいらが良い際だろうと思ってね﹂
そう微笑むと、白髭の老将はその場に膝をついて首を差し出した。
恭順はしないから、殺せと言っているのだ。
﹁齢六十を越える死にかけの年寄りの首を取っても、さほど自慢に
はならんだろうが、受け取ってくれるとありがたいね﹂
﹁先生⋮⋮﹂
875
チート
俺は、この老将が気に入った。ここは助命すべきだと思う。
先生だって、殺したくないはずなのだ、数少ない先生の才能を理
解してくれている人なのだから。
﹁だからこそ、マインツ閣下は、ここで絶対に殺さねばならない⋮
⋮﹂
先生は杖を硬く握りしめて、冷淡な声でそうつぶやく。
相手は先生相手に、試合で負けて勝負に勝ってみせるほどの名将
だ。
敵として生かしておけば、どれほど危険か。理で考えれば、そう
なることは分かる。
しかし⋮⋮。
﹁先生、マインツ将軍は、生かしましょう﹂
﹁またですか、タケル殿、では理由をお聞かせ願えますか﹂
そう言われても、理由なんて考えてないなんだけど、うんと。
﹁マインツに貸し一です。老皇帝コンラッドへの恩義で死ぬような
将軍なんでしょう、だったらここで命を助けて恩を売っておけば、
いずれ返してくれるはずです﹂
俺がそう言うと、白い髭の老将は、ビックリしたように顔を上げ
た。
小さな目を見開いて、俺をマジマジと見つめる。
﹁なんともまあ⋮⋮。この先いつ死ぬかも分からん耄碌した爺に、
876
生かしてやるから恩を返せというのかね﹂
﹁すいませんマインツ閣下、我が勇者殿は、こういう人なんですよ﹂
先生は、呆れたように瞳を閉じて、額を指で押さえた。
あれ、俺はおかしなこと言っちゃったかな。
﹁ホッホッホッ、こりゃ愉快だね。この若い御主君の考えだけは、
まったく読みきれない。苦労するだろうライル君﹂
﹁ええ、ちょっとだけ⋮⋮﹂
俺は、先生を苦労させちゃってるのか、まあさせちゃってるよな。
﹁良いだろう、勝者は君たちだ。この敗軍の将の首など、刎ねるも
自由、生かすも自由だ。好きにしたまえ﹂
﹁私は刎ねるべきだと思うのですが、軍師が仕えるべき御大将の意
志に逆らっては、軍律は成り立たない﹂
先生は握りしめていた短い杖を、さっと下ろした。
﹁先生すいません﹂
﹁良いんですよ、参謀はあるべき条件でベストの選択肢を提供する
だけです。選択するのはあくまでタケル殿ですから﹂
先生も嬉しそうな顔をしているから、これで良かったんじゃない
のかな。
軍師としては、ダメな判断ってだけで。
﹁やれやれ、これでこの年寄りも最後のご奉公を果たして楽になれ
ると思ったんだが、世の中は上手くいかないもんだね﹂
877
跪いていた老将マインツは、杖を付くと着ている鉄の鎧が重たい
のか、さも大儀そうによっこいしょと立ち上がった。
﹁さてさて、シレジエの勇者タケル殿。この死にかけの年寄りを過
分に買ってくださったこと、恩に着よう。ワシが死ぬまでに、この
恩を返させて貰える機会があると助かるんだが⋮⋮﹂
借りたものは返さんと気持ちが悪いからね、と白髭の老将は言い
添えた。
そして、それぞれの領邦に去りゆく騎士たちに混じって。
ご老人はヒョコヒョコと杖をついて、ロレーンの街を去っていっ
た。
878
66.マイナスチート炸裂
名将マインツの鮮やかな撤退戦のおかげで、戦局は難しい局面を
迎えてる。
たしかに表面上は勝ち進んでいる、ロレーンの街を落とし、寝返
らせた傭兵団は五千人を超えた。
解毒ポーションで治療してやったら、なぜかこちらの義勇兵団に
味方する奇特な帝国軍の騎士や兵士もいて、こっちの軍は総勢七千
に迫らんとする勢いだ。
しかし、頑強な敵、特に一人で戦術クラスの活躍をする上級魔術
師を、各個撃破する絶好のタイミングを逸したことは大きい。
ブリューニュ伯を守りつつ、後退した五千の強兵はまだいい。
ライル先生が、帝国軍で一番強いかもしれないと言ってる上級魔
術師の戦闘集団﹃ウルリッヒ三姉妹﹄を取り逃がしたことは痛手だ。
これまでは、あくまで前哨戦。
帝国はまだ、虎の子の近衛騎士団や、大陸最強とも噂されるワイ
バーンを使役する飛竜騎士団を出してきていない。
金獅子皇子が直接指揮するであろう、帝国軍の本軍が到着すれば、
緒戦の勝利など吹き飛んでしまう。
﹁やはり、ロレーンの街は捨てましょう﹂
﹁⋮⋮ですね﹂
879
ロレーンの街は、旧ロレーン辺境伯領の中心都市で、トランシュ
バニア公国とシレジエ王国を繋ぐ重要な要地であることは確かだ。
だが、一度モンスター大量発生で死滅しているのと、その後のブ
リューニュ伯の悪政で復興は進んでおらず、防衛拠点としての価値
はない。
すでに城壁も街もボロボロになっている。街の維持にこだわると、
寡兵では簡単にやられてしまう。
いまは機動力こそが大事だ。
申し訳程度の守備兵を残して、敵がまた奪還したときにダメージ
を食らうようにタップリと罠を残して引くのがいいだろう。
そんな相談をしているところに、とんでもない報告が飛び込んで
くる。
﹁ブリューニュが、またこっちに攻めてきた?﹂
ブリューニュ伯の救援のため、帝国が編成途中で慌てて送った一
万足らずの兵団と国境線沿いで合流した伯爵は、強行偵察に出てい
るこっちの別働隊の挑発に乗って、またロレーン伯領に攻め込んで
きたというのだ。
﹁念の為に打っておいた手ですが、まさか本当に挑発に乗るとは思
いませんでしたね﹂
先生も苦笑している。
もともと攻めたかったから、挑発されたのを理由にしたのかもし
れない。
880
ブリューニュは自分の領土に固執しているから、気持ちはわから
ないでもないんだが、本隊の到着を待てばいいだろ。
守将マインツの命を賭けた後退戦を無駄にしやがって、敵ながら
その働きをまったく評価されない老将の立場には同情を禁じ得ない。
﹁ブリューニュ伯は、一度は臆病風に吹かれて逃げるのに同意した
のでしょうが、帝国軍の大軍と合流して気が大きくなったってとこ
ろですか﹂
﹁相変わらず、バカだなあ⋮⋮﹂
おそらく、帝国軍の将軍には本隊到着まで勝手に動くなと命令が
出ているはずなので、今回のブリューニュの独断専行を許したとい
うことは。
﹁マインツは、敵陣には戻ってないってことですかね﹂
﹁そうですね、彼がいればこうはならないでしょう。敗戦の責任を
問われて、まさか処刑まではされてないでしょうが、将軍の任を解
かれて後方に下げられたのだと思います﹂
老将死なず、ただ消え去るのみ。
マインツが命をかけて逃がしてやったものを、再び殺されに来る
とは、やはりブリューニュ伯の愚かさは、名将の予想すら超えてく
る。
あいつは、味方の戦略を無茶苦茶にする、マイナスチートの持ち
主なのだ。
ブリューニュの勝手な暴発を聞いて、帝都に居るフリード皇太子
は、怒り狂っているに違いない。
﹁さて、それでは、さっさと片づけますか﹂
881
先生は、盤上の短い杖を拾い上げると、出陣の激を飛ばした。
思えば、ブリューニュを旗印に継承戦争を仕掛けた段階で、敵は
負けていたのだな。
※※※
戦力比は、王国軍七千、対、帝国軍一万五千。
先生の取った戦術は、まず﹁空城の計﹂だった。
敵は、ロレーンの街の奪還にこだわっている。ならば黙って防衛
力皆無どころか、罠を張り巡らせた街に入れてやればいい。
精強な帝国騎士隊を全面に押し立てて、一万五千の兵団が堂々と、
住民も商人も逃げ出して半ば廃墟と化しているロレーンの街に入っ
た。
そこで四方から、街に入った帝国軍めがけて、大砲の斉射が始ま
った。
敵の本隊︵おそらく敵指揮官もブリューニュ伯も居る︶は慌てて、
安全に見えるロレーンの城に逃げ込む。
そこで、城にも砲撃が開始されるが。
途端に、城は大爆発を起こして崩れ落ちた。
瓦礫に埋まって、本隊は半ば生き埋め。
﹁城に大量の爆薬を仕掛けておいたんですが、予想より綺麗に誘爆
しました。この策は使えますね﹂
﹁ブリューニュが、これで死んでたら呆気ないですけど⋮⋮﹂
882
それはないと言う気がした。
ブリューニュはあれで手強い、この手で首を切り取らなければ安
心できない。
しかし、これで少なくとも敵の将軍を含めた精鋭と、兵団の分断
には成功した。
指揮を失った、街の兵団は右往左往するばかり、そこに砲撃を延
々と食らわせて確実に兵力を削る。
そこで、右往左往する一般兵士の陣からわけでて、兵士の一団が
こちらに向かってきた。最大の脅威、上級魔術師集団﹃ウルリッヒ
三姉妹﹄を囲む兵隊だ。
大砲や銃弾の嵐を受けても、臆することのない五百人ほどの重装
歩兵。その真ん中にいて、魔法の石弾などを次々と打ち返す三人の
女魔術師。
老将マインツの旗下で編成された彼女たちの部隊こそが、本当の
精鋭である。
﹁どうしましょう先生、かなり手強そうですが﹂
﹁彼女たちは、マインツの薫陶を受けている部隊です。水系魔法で
大砲や火縄銃が沈黙させられることを知って狙ってくるでしょうか
ら、それを逆手に取ります﹂
敵は、こちらの厚い歩兵陣とぶつかるのを避けて、まっすぐ大砲
の元に向かって移動してくる。
なかなかに巧みな動きだが、だからこそ、ライル先生の巧みな誘
導にハマってしまう。
矢のごとく砲弾と銃弾の嵐が降り注ぐなかでも、順調に歩を進め
883
ていた魔術師部隊であったが、突如として地中が大きな爆発を起こ
して吹き飛んだ。
上級魔術師はもちろんこの程度では殺せないが、重装歩兵はひと
たまりもない。
﹁そらっ、爆薬を仕掛けているのが、城や建物だけとは思わないこ
とですよ!﹂
先生は、これを最後の機会と捉えて、手持ちの爆薬をありったけ
罠に投入したのだ。
これで、上級魔術師を守っていた重装歩兵の壁は崩れた。
しかし、さすがは﹃ウルリッヒ三姉妹﹄
あの大爆発でも、ほとんどダメージを受けること無く進む。
デリュージュ
インフェルノ
決死の覚悟で、大洪水の魔法を放ち、こっちの大砲や銃士隊を次
々と沈黙させて、獄火炎の魔法で、こちらの歩兵隊を圧迫する。そ
の間にも魔法障壁が護って、こちらの砲撃を寄せ付けない。
地味ながら手堅い、ピンポイントでこっちの要地のみを狙撃する、
巧みな連携魔法だった。
あの魔術師集団を放っておいては、こちらの被害は広がるばかり。
魔法障壁のある上級魔術師に、青銅砲や銃弾などの生半可な遠距
離攻撃は通用しない。
ではどうするか、それはもう強キャラによる肉弾戦しかないので
ある。
﹁では、タケル殿、ルイーズ団長、申し訳ありませんがお願いしま
884
す﹂
﹁行ってきます、先生﹂
ルイーズと共に出撃する俺は、さすがに覚悟を決めた。
ウルリッヒ三姉妹、青いローブを着た俺好みの綺麗な黒髪のお姉
さん達なのだが、殺さざるを得ないのだろう。
長女ノナ・ウルリッヒ 次女デキマ・ウルリッヒ 三女モルタ・
ウルリッヒ
息もぴったりに、トライアングルでお互いがお互いを防御し攻撃
する。
長女のノナに襲いかかったのは、カアラとオラクルちゃんだった。
オラクルちゃんが牽制しつつ、カアラの暴力的ともいえる莫大な
魔法力で圧倒する。
三姉妹の総力であれば、カアラの魔法も抑えられたであろうが、
次女のデキマにはルイーズが襲いかかった。
インフェルノ
デキマは、火系上級魔術、獄火炎を浴びせる。
恐ろしい地獄の釜の底をぶちまけたような業火だ、並の騎士なら
それで焼け死んだだろうが、黒杉の大剣を持って斬りこんでくるル
イーズは、びくともしない。
当たり前だ、極限までに火炎抵抗がかかっているルイーズは、ド
ラゴンのブレスですらびくともしない。
上級魔術師だろうが、所詮はただの人間。龍殺しの英雄に勝てる
わけがない。
インフェルノに一瞬も怯むこと無くルイーズは駆け抜けて、魔法
885
障壁ごと次女のデキマの首を一閃で飛ばした。
デキマは、悲鳴を上げることすら出来ずに倒れた。
俺の担当は、三女のモルタだ。
ルイーズに、火炎魔法が利かなかったことを見て悟ったのだろう。
グラックプレス
モニタは、俺に土系の上級魔術、岩石落としを仕掛けてきた。
ストーンブラスト
巨大な岩石が俺を押し潰さんと眼前に迫ってくる、先生がよく使
う石弾を派手に大きくしたような攻撃だ。
炎が効かないから、こっちに変更したのだろうが甘い。
メテオ・ストライクほどの宇宙的規模ならともかく、たかがでか
い岩石。光の剣の敵ではない。
おもいっきり力を込めた、右手の光の剣で巨大岩石を両断した。
敵を斬り殺すために、俺はモニタの元に向かって駆ける。
黒髪の彫りの深い女性だ、俺が振りかぶった左手の中立の剣が、
彼女の身体をやすやすと斬り伏せる。
あまりにも簡単で、あまりにも手応えがなかった。
﹁きゃあああっ﹂
女の叫び声が耳に残る、女を斬り裂いた後に鮮血が飛び散り、長
い黒髪が中空をフッと舞う。
そうか、すべてを焼き斬ってしまう凶暴な光の剣とは違い、鈍く
銀色に光る中立の剣はもっと繊細な切れ味なのか。
次女と三女の援護を失った、長女ノナも、程なくしてカアラの真
886
空刃でバラバラに切り刻まれた。
これまで生きてきた命が、血溜まりと肉片に変わる、それを見て
も俺は何も感じない。
さあ﹃ウルリッヒ三姉妹﹄が倒れても、まだ戦闘は終わっていな
い、気合を入れ直す俺の共に。
黒杉の大剣を軽々と抱えたルイーズが、ゆっくりと歩いてくる。
﹁すぐ先生の応援にいくぞ、ルイーズ!﹂
﹁我が主、手が震えている﹂
﹁えっ﹂
ルイーズの言う通り、俺の手は酷く震えていた。
女を殺したのは初めてだったからか、でも戦争だから仕方ないと
分かってる。
黒髪の女は、日本人を思わせたから、それが死ぬのを見て、自分
で思ってるよりショックだったのかもしれない。
でもこんなのは武者震いだ、覚悟はできていたし覚悟したことを
やっただけだ。俺がこれまでどれだけ敵を斬ってきたか、殺させて
きたか。
﹁ルイーズ、まだ戦闘は終わってないから﹂
﹁タケル⋮⋮。上級魔術師は片付けたんだ、もう十分だ、あとはラ
イルの先生が上手くやってくれる﹂
ルイーズは、抱えていた大剣を投げ捨てて、俺の震える手を握っ
てくる。
なんだと思ったら、そのまま手を引っ張って、俺を抱きしめた。
887
なんで、抱きしめられたのか、意味が分からん。
まあ、そんなに強く抱かれてもお互い武装してるから、ガチンと
鎧が当たるだけなんだけど、ルイーズの清冽な髪の香りがスッと鼻
腔を抜ける。
その匂いに、焼き切れそうなほど熱くなった頭の芯がスッと冷え
る、早鐘のような鼓動が、落ち着いていく。
﹁はぁ⋮⋮ふぅ⋮⋮﹂
知らない間に、酷く息が詰まっていた俺は、ルイーズの胸の中で、
久しぶりに呼吸できた気がする。
ふうっと、力が抜けそうになる。いや、まだ気を抜いたらダメだ、
戦わないといけないのだから。
﹁タケル、敵の女は躊躇なく殺せとけしかけたのは私だが。それは、
お前に死んでほしくなかったからだ﹂
ルイーズが言う、戦場では女を守ろうとしたり、敵の女を殺すの
を躊躇うような良い奴から死んでいったのだと。
日常における善良さは、戦場では悪徳にすら変わる。
﹁だから殺させたんだ、でもそんな無理に平気そうな顔をしろなん
て言ってない﹂
﹁いや、違う。俺は大丈夫だよ﹂
﹁嘘つけ。女を殺すのは苦しかったんだろ、嫌だったんだろ。辛か
ったら涙を流せばいい、私に弱音を吐いてくれればいいだろう﹂
﹁こんなの戦争なら普通のことだろ!﹂
888
ルイーズだってためらいなく殺すし、他の戦士もやってることだ。
俺だって覚悟して、ここに立っている。
﹁そんなのは知ってる、ただ私は、今の我が主の表情が嫌なだけだ。
ああっ、やっぱり殺らせたのは間違いだった!﹂
冷徹無比なルイーズが、急に激情を迸らせるような声をあげるの
で驚く。
﹁タケル、お前は私の特別なんだ。そんな顔をさせるぐらいなら、
ずっと私の後ろに居させればよかった﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
何度も言うようだが、俺はルイーズが一番タイプなんだ、彼女に
甘えたい凄く強い願望がある。
だからこんな時に甘やかされてしまったら、俺はいつまで経って
もチョロ脱却ができない、それはマズイから抗いたかった。
ガシッとルイーズが抱きすくめてくれているから、力任せにホー
ルドをかけられたような体勢でだんだん苦しくなってきた。
ちょっといい加減に離して欲しいと思って身を引こうとすると、
ルイーズの顔を間近に見てしまった。
俺は、何も言わずに、しばらくされるがままになることにした。
弱音を吐けと言っても、俺の代わりに、先に泣かれてしまったら、
何も言えないだろ。何で泣くんだよ。
なんでこうルイーズは、自分の戦いになれば冷徹なのに、近しい
人間のことになるとやたら感情的に脆くなるんだ。
889
自分が持てなかった心を、誰かに託して味わいたいのだろうか、
彼女の考えていることは、若い俺には分からない。
守ってくれる気持ちはありがたいが、俺だってもう、御守りが要
る歳じゃないのに。
ただおかげさまで、手の震えが止まったことにだけは、感謝すべ
きだけど。
※※※
その後の戦闘は、一方的だった。
上級魔術師さえ片付いてしまえば、多少の兵力差など、ライル先
生には全く問題にならない。
砲撃を受け続けて、ようやく街から打って出た敵の大軍だったが、
そのノロノロと動く陣形は酷く乱れている。
撤退しないで向かってくるってことは、指揮官は居るんだろうが、
何だこの奇っ怪な動き。
やけに動きの悪い歩兵に対して、やけに特出してくる残存の騎士
隊を率いて。
見覚えのある真紅の炎の鎧の若い女騎士が、赤いマントを翻しな
がら突撃してくる。
﹁副将エレオノラ・ランクト・アムマインである、皆の者怯むな!
突撃だ、我に続け!﹂
またお前か、勇み足にも限度がある。
指揮官のつもりなら、ちゃんと指揮をしろよ!
890
ルイーズに私が行こうかと言われたが。
﹁いや、俺が行くよ﹂
ルイーズじゃ、すぐ殺しちゃうしな。
やっぱり女を殺すのは俺に向いてない、さくっとあの姫騎士を倒
して、この戦争を終わらせてくる。
ランス
俺は、威勢よく長槍を下段に構えて、土煙を上げて突っ込んでく
る最後の敵指揮官に向かって歩き出す。
その時だった。
﹁あっ⋮⋮﹂
先生の仕掛けていた爆薬に引っかかったのか、残存の騎士隊ごと
副将エレオノラは盛大に爆発して吹き飛んだ。
ギャグ漫画みたいな、綺麗な爆散の仕方で苦笑するしか無い。
やっぱりな、リアルファンタジーだから、こんな落ちだと思った
わ。
主将と分断されて、副将まで失った敵の兵団は激しく動揺し。
こちらの包囲攻撃を受けると、すぐに追い散らされて逃散した、
後は敗走あるのみ。
ロレーンの街を巡る攻防は、こうして片がついた。
891
67.ブリューニュの最後
﹁くっ⋮⋮あんな卑劣な罠さえなければ﹂
﹁つか、お前あの爆発で生きていたのかよ﹂
姫騎士エレオノラ、しぶとい。
大爆発による戦塵が晴れると、他の馬ごと吹き飛ばされた騎士は、
ほとんどが仰向けになって身動きしていない。
当たりどころが良かったのか呻き声をあげて、かろうじて息があ
るのはごく少数だ。
この状況で、俺の目の前まで爆風で吹き飛ばされて転がってきた
副将エレオノラだけは、まだ立ち上がる気力があるのだ。
どんだけ耐久性が高いんだよ。
おそらく着てる炎の鎧とマントが、よっぽど高価で、高性能な耐
性のついたマジック防具なんだろう。
しかし、この世界は、結構な魔法格差社会だよな。
本人の抵抗力もあるが、いい魔法防具をつけてる奴は爆撃を受け
てすら、なかなか死なないわけだ。
そして、死なない限りは、回復ポーションを飲めば復活する。
﹁私はどんなことをされても恭順などしない。あんたも騎士なら正
々堂々と勝負しろ、シレジエの勇者!﹂
﹁よし、コイツを、鉄の鎖でふんじばれ!﹂
まともに相手をするのが面倒になった俺は、近衛銃士隊に命じて、
892
エレオノラを囲ませた。
こいつ、縄で縛り付けても炎の鎧で焼き切るから、捕まえるのが
かなり面倒。
完全に包囲して、あとは鉄の鎖でグルグル巻きにするしかない。
あとで身代金がたくさん貰える、ボーナスキャラだとでも思わな
きゃ、姫騎士の相手なんかやってられないよ。
﹁くぅ⋮⋮、大勢で囲んでこんな荒々しい鎖で縛って、この破廉恥
な卑怯者! 私に、何をするつもりなんだ、騎士を辱めるつもりな
ら絶対に許さないぞ。こんな卑劣なやり方に負けるもんか!﹂
﹁はぁ⋮⋮黙って捕まってろ﹂
しかし炎の鎧がどれほど高性能でも、爆風に吹き飛ばされて地面
に叩きつけられたんだからダメージあるはずなのに。
なんでこいつは、こんなに元気なんだ⋮⋮。
まあ、打たれ強さだけは、認めてもいいかもしれない。
例にもよって、姫騎士配下の重装歩兵隊が、緋色の鷹の紋章が入
った鉄の大盾を抱えてやってきたが。
鎖に縛られているエレオノラを見て、そのまま武器を捨てて投降
した。
本当に、他愛もない。
この世界の騎士や兵士は、大勢が決すると、あっけないほどすぐ
に降伏する。
騎士は恭順宣言して、身代金を払えば解放されるし、兵士にして
893
もそこまでは抵抗しない。
自分の街を守るのならともかく外征で命を捨てたくないのだろう。
金で雇われているだけの傭兵は、もう言うまでもない。
セネシャル
鉄の鎖で縛られても、口だけは元気だったエレオノラであるが、
またどこからともなくアムマイン家の銀髪の執事騎士カトーさんが
やってきて、たっぷり金貨の詰まった布袋二つと交換に引き取られ
ていった。
傭兵団を抱えているおかげで金はいくらあっても足りないところ
だから、身代金は本当にありがたい。
俺に金貨を運んできてくれる老騎士カトーさんのためになら、姫
騎士エレオノラの暴言ぐらい我慢してもいい。
﹁シレジエの勇者! 覚えてなさいよ、次こそ、その憎らしい首を、
私の剣で飛ばしてやるから!﹂
﹁はいはい、もう次はないと思うがな﹂
あってもらっては困る。
ここで、敵の名目上の大将であるブリューニュを殺して戦争を終
結させるのだ。
そのために、ロレーンの街を包囲してるのだから。
瓦礫に埋もれたロレーンの城の入り口を光の剣で切り裂いて開け
ると、崩れ落ちた城の中で生き残っていた敵軍の騎士たちは、敵軍
の主将も含めて一斉に武器を捨てて降服した。
﹁主将のラハルト・ヴァン・レトモリエールだ。我々は降伏する、
894
騎士としての待遇をお願いしたい﹂
﹁ああ、大人しく恭順すれば、命までは取らんさ﹂
手を挙げて降伏した騎士は許す。
赤絨毯の謁見の間で、玉座にしがみついている敵の総大将を除い
ては、だ。
﹁やっ、やあ、勇者殿ではおじゃらんか、久しぶりでおじゃるのう﹂
﹁久しぶりってほどではないがな﹂
媚びたような目付きで、こちらを見るブリューニュ。
どうせ死んでないとは思ったが、篭った城が崩れ落ちて圧死した
兵士も多い中、こいつだけはまったく無傷とは驚かされる。
そのしぶとさには、恐ろしさすら感じるが、どこまでも愚かな奴
だ。
戦場でも白塗りの化粧を忘れない、道化じみたその顔は覚悟のあ
る男のものではなかった。
こいつ、ここまでやっておいて、まだ自分が死なないとでも思っ
てるんだろうか。
﹁こうなっては、仕方がないでおじゃるのう、麻呂も降伏するから
捕虜にしてたもれ﹂
﹁そうか、潔く捕虜になるんならそれもいい。銃殺か、扼殺か、斬
殺か、好きな処刑を選ばせてやる﹂
﹁まっ、麻呂は恐れ多くも建国王レンスが末裔おじゃ! その高貴
なる麻呂を、こっ、殺すというのか﹂
﹁ブリューニュ、お前いまさら、何を言ってんだよ!﹂
895
俺は酷い頭痛がした、王都で処刑されるところを帝国に逃がして
もらったんだろ。
こっちに捕縛されて、生きていられると思うほうがおかしい、い
まさらブリューニュに言ってもしょうがないのかもしれないが。
﹁ヒイッ、悪かった勇者様ぁ、これまでのことは全部謝るでおじゃ
るから、どうか麻呂を許してたもれぇ!﹂
俺の眼を見て、本気だと分かったのだろう。
ブリューニュは、玉座から派手に転げ落ちると、﹁ヒッ、ヒッ!﹂
と引きつった悲鳴を上げながら、赤い絨毯をすがるように掴み、命
乞いした。
いまさらの助命嘆願、本当にありえないだろ、せめて斬りかかっ
てこいよ。
コイツの考えだけは、本当に最初から最後まで、徹頭徹尾理解で
きなかった。
名目上のお飾りとは言え、こんな愚かな男の号令で、敵味方の多
くの兵が死んだのか。
そう思うと、やるせない気持ちが胸に満ちた。
﹁寝言は、死んでから言え!﹂
﹁ヒギャアァァ、死ぬのは嫌じゃ、嫌じゃあぁ!﹂
後ろから、麻呂の背中を黒い鎧ごと光の剣で貫き通す。
コイツはすぐに殺さないと、ゆっくり処刑なんてやってたら、し
ぶとく生き残る可能性がある。
896
﹁ギャアアアァァ!﹂
禍根を断つつもりで、全力で殺す。
首も刎ねる。
スパンと、綺麗な音を立てて、首チョンパ。
ボロボロになった赤絨毯の上に、白い化粧を施した男の生首が転
がった。
いっちょ、上がりだ。
﹁あっ⋮⋮﹂
吹き飛んだ麻呂の頭から、いつも絶対に脱がなかった赤いベレー
帽が脱げる。
帽子で隠れていた頭頂部は、禿げていた。
頭頂部が禿げた、ブリューニュの顔。
生首になった今では、まるで落ち武者のようだ。
なんとも、締まらない最後である。
おちむしゃ
民にも兵にも忌み嫌われた、ブリューニュ伯の生首は、最初は町
の広場にさらされていたが。
誰がやり始めたのか、ロレーンの街の兵士が、みんなで生首を蹴
り合って遊びはじめたそうだ。
これが、この世界におけるサッカーの始まりとなったそうだが、
それはまた別の話である。
897
※※※
シレジエ王国が、ブリューニュの戦死を宣言したためゲルマニア
帝国は、介入戦争を行う大義名分を失い停戦した。
ただ、終戦ではない。帝国首都ノルトマルクでは、スピードが緩
まっただけで、侵攻のための募兵をまだ止めてないそうだ。
フリード皇太子は、まだ諦めてはいないのだ。
休戦状態に入っても、臨戦態勢を緩める訳にはいかない。
﹁今ならまだ痛み分けで済みますから、ここらへんで諦めてくれる
といいんですけどね﹂
圧倒的な勝利を上げた凱旋の帰路に、先生はそのようなことを嘯
く。
未曾有の規模の帝国軍に攻め寄せられてはこちらも危ういが、帝
国とて遠征に大敗北すれば領邦への求心力を失い瓦解しかねない。
これ以上は、どちらにとっても致命傷になりかねないから、やる
べきじゃないのだ。
だから次があれば、いよいよ決戦となるとも言えるが。
﹁タケル殿、やっぱり姫や公女と結婚しませんか?﹂
﹁なんでそうなるんですか、先生﹂
そもそも、カロリーン公女は自国の人じゃないと結婚したくない
って言ってたぞ。
﹁ブリューニュ伯が死んでも、建国王レイスの傍流の血統はまだあ
ります。例えば、トランシュバニア公王や公女ですよ。そこを突か
898
れないためには、形式的で結構ですので、勇者であるタケル殿が、
レンスの血統と交わって国王に即位してしまうのが一番良いのです﹂
﹁それって、反対してる地方領主と内乱にならないんですか﹂
﹁⋮⋮なるかもしれません﹂
なるんかい。
先生は、短い杖を手で強くしごいている。
﹁シレジエ王国は、三派に分かれています。我々摂政派と、姫を戴
く宰相派と、弱体化した王権が強まることを望まない地方領主派で
す。ちょっと癪ですが、宰相派と結んでタケル殿を国王にしてしま
えば⋮⋮﹂
﹁いっそ、邪魔な地方領主なんか、蹴散らしてしまえと言ってるん
ですか﹂
先生の深いブラウンの瞳は、野心の輝きに満ちている。
タクティス・ハッピー
嫌いなはずの父親と結んでとか言い出してるので、本気なのだろ
う。先生の胸にまだ戦争指揮の高揚感が残っているのだ。
﹁いけませんか﹂
﹁じゃあ、先生が俺と実質的に結婚してくださるなら、姫とも形式
的に結婚しますよ。継承戦争もガンガンやりましょう﹂
それを聞いて、先生は冷水をぶっかけられたような顔をした。
先生を正気に戻すには、これが一番いい。
﹁あの、男同士で結婚とか⋮⋮﹂
﹁平気ですよ。なあリア、アーサマ教会はそういうの気にしないよ
な﹂
899
馬車の奥からひょこっと顔を出したリアは、深い笑みで頷く。
やっぱりこそっと隠れて聞いてたのか、俺の結婚の話になると、
絶対からかってくるからな。
﹁もちろんですよ。あっ、本当はダメなんですけど、慈悲深いアー
サマですので、ついうっかり同性間でも受理しちゃうことがありま
す。ライルさんと公女殿下と姫様とわたくしと結婚を今すぐ挙行し
ましょう﹂
﹁さり気なく、自分まで含めるな﹂
﹁あら、ついうっかり受理しちゃうことがありますと申しました、
是非もないですね﹂
﹁いや、それは是非がある﹂
それ以前に、本人がいないところで今すぐ挙行とか⋮⋮、まあ言
ってもしょうが無いのか。
どうせ断るための口実だから、本当に結婚するわけじゃない。
﹁今回は、諦めます。確かにまだ機運が煮詰まってませんし、内乱
を起こして帝国の付け入る隙を作ってる場合ではありません﹂
﹁ですよねー﹂
もちろん軽い冗談のつもりだけど、サクッとプロポーズを拒否ら
れるのは、それそれでちょっとショックなのだが。
たとえ軽口でも、もうちょっと迷う振りをして欲しい。
先生が開き直って、﹁じゃあ、私とも結婚しましょうよ﹂とか言
ってきたら⋮⋮。
それはもう、俺も男として腹をくくるつもりだ。
900
先生が自分の中にあるわだかまりを捨てて、俺もこだわりを捨て
る、それなら対等といえる。
バッチコイだ、あっ来ないですね、すいません。
﹁ところで、先生﹂
﹁なんでしょう⋮⋮﹂
ちょっと、先生に警戒されているっぽいのが悲しい。
冗談なのになあ。
﹁ふっと思ったんですが、もうちょっと髪の毛を伸ばしたほうがい
いんじゃないですか﹂
﹁短いほうが、動きやすくていいんですけどね﹂
短いショートカットの先生も素敵だが、なるべく女らしく見られ
ないようにしているのだと知っている。
そういうところから、こだわりをなくして欲しい。
﹁もっとこう、さらりと肩辺りまで伸ばしてですね、前髪をさっと
かき上げるぐらいのほうが、軍師っぽくないですかね﹂
﹁ふむ、そちらのほうが、軍師っぽいですか。うーんなるほど﹂
自分の短い前髪を摘んで、先生は少し考え込んでいた。
先生は、意外にこういうところはチョロイので、こうやって上手
くおだてておけば、長い髪のライル先生も見られるかもしれない。
今回の話は、帝国に利用されないように王位継承権のある人間の
警戒と警護を怠らないにはすべきというところで落ち着いた。
俺としては、公女と姫をしっかり守る体勢を固めて置かなければ
901
ならない。
※※※
﹁ご無事のお戻り⋮⋮﹂
涙ぐんで、感極まったように言葉を詰まらせたシルエット姫に、
ギュッと抱きしめられる。
公女と姫が、オックスの街の前まで出迎えに来てくれたのだ。
﹁勇者様、この度の御戦勝、おめでとうございます﹂
真新しいメガネをかけたカロリーン公女の声も震えて、情感が篭
っていた。
俺の胸元でおんおん泣く姫様を抱えながら、︵そうか戦争だった
から俺も戦死する可能性もあったんだな︶と、いまさらズレたこと
を考える。
ライル先生なら、負けることはないと信じていたから、俺にとっ
ては覚悟もクソもなかったんだが。
戦場へと見送る姫様たちにとっては、今生の別れぐらいの気持ち
だったのかもしれない。
こうも自分のために泣かれると、姫様も可愛らしいと思ってしま
う。
﹁さてと﹂
まあそれはそれとして、戦争から無事に帰ってきたら、俺はぜひ
やりたいことがあったのだ。
902
いつまでもおいおい泣いている姫を宥めると、俺はロールを呼ん
でさっそく風呂を沸かしてもらった。
ただ、風呂にゆっくりと浸かること。
激しい戦場に身を置くと、普段のそんな何気ない暮らしが、とて
も贅沢なものだと気付かされる。
帰りの馬車のなかで、心ゆくまでゆっくりと風呂に入りたいと、
ずっと考えていたのだ。
問題はリアである、アイツは絶対に俺が風呂でゆっくりするのを
邪魔してくる。
かつては、それをかわしてから、隙を見て一人で入ろうとしてい
たのだが。
今回のライル先生の巧みな軍略を見ていて、その守りに入った姿
勢は、間違いだと分かった。
﹁シュザンヌ、クローディアもいっしょに来い、風呂に入るから護
衛を頼む!﹂
﹁はい!﹂
大切なのは、攻めの姿勢なのだ。
敬礼するシュザンヌとクローディアを見て、俺は満足する。
寝所に護衛を連れるのだから、風呂にも護衛を並べればいい。
なんでこれまで思いつかなかったのか不思議なぐらい、数こそパ
ワーだ!
﹁あの、ご主人様、私は?﹂
﹁シャロンか⋮⋮俺は、風呂で一人でゆっくりとしたいんだ。邪魔
903
しないならば良し﹂
他の奴隷少女と比べると、シャロンは完全に育ってるので差し障
りがあるが。
うちで唯一、リアを抑えられる人材が彼女だ、味方にしておくに
越したことはない。
﹁私もよろしいでしょうか﹂
そう言うと、色素の薄い銀髪の少女が、シャロンのスカートの後
ろからひょっこりと現れた。
おや、珍しい顔だ。
﹁シェリーか、お前エスト本店の店番はどうしたんだ﹂
数学的な天才であるシェリーは、佐渡商会全体の流通を統括する
ブレーンで、本店経営には欠かせない存在である。
彼女がいるから、俺もシャロンも店を任せて、安心して前線に出
ていられるのだ。
﹁ご主人様、本店業務の方はきちんと処理してあるので心配ありま
せん。こちらに物資を輸送するついでなのですが、ライル先生に呼
ばれたんです﹂
﹁先生の用事なのか?﹂
﹁ガラン傭兵団がこちらの陣営に参入したため、兵站計画を練り直
す必要性が生じたとのことです﹂
﹁なるほど、それでシェリーが要るってわけか﹂
帝国に雇われた大傭兵団を味方に付けたまではいいが、五千人を
904
超える彼らを管理して、その賃金や飲食を賄って行くのは難しい。
当面は、捕縛した騎士から奪い取った身代金で何とかなるにして
も、この数をずっと食わせていくのは並大抵のことではできない。
しかも、彼らは雇い主の帝国を裏切ってしまったので、もう行き
場がこちら側にしかないのだ。
戦争が中断したから、とりあえず解雇するなんて勝手な真似はで
きない。
﹁ご主人様、今後の戦況の変化に伴いまして、加増した義勇兵団と
傭兵団の兵站計画をまとめ直してみたんですが⋮⋮﹂
そういってシェリーが、束状になっている書類を解き始めるので、
押しとどめる。
だから俺が見ても、もうわけわかんないんだよ。
﹁細部は、ライル先生と相談して検討してくれ。まずは、シェリー
も遠路ご苦労だった。お前も一緒に風呂に入るだろ﹂
﹁はい、お伴します!﹂
俺は、シェリーのサラリとした銀髪を、くしゃくしゃと撫でてや
る。
コンピュータ
彼女は撫でられて気持ちよさそうにしているが、この小さな少女
の頭が高性能な演算装置で、ライル先生をも凌駕する数学適性があ
ると聞いても、信じられない思いだ。
﹁よし、この際だ。みんなではいろうぜ﹂
せっせと料理を作ってるコレットも、その隣でデザート用の氷を
作ってるヴィオラも巻き込む、とにかく奴隷少女をみんな呼んで風
905
呂に入る。
ゾンビ男爵の遺産である、城の大浴場はかなり広いので、子供が
たくさん入っても全く問題ない。
わーと、みんなが入ってるのに紛れて、俺もゆっくり湯に浸から
せて貰えればそれでいいわけだ。
﹁おっと、忘れるわけにはいかんな﹂
俺は、外でせっせと風呂を焚いているロールを取っ捕まえた。
﹁お前も一緒に入るんだ﹂
﹁いやー!﹂
いやーといってもダメ!
風呂嫌いのこいつは、たまには洗ってやらないと、本当に入らな
いからな。
﹁ロール、お前が入らないと、ドワーフの沽券に関わるんだよ。ド
ワーフ娘は、不潔みたいなイメージがついたら、どうしてくれるん
だ﹂
﹁ごしゅじんさま、ロールはおふろにはいらなくても、よごれない
たいしつだからへいきなんだよ﹂
どんな体質だよ、そんなチートあるわけないだろ。
﹁まだ、たけてないーたけてないよー、しごとーしごとー!﹂
﹁長湯したいから、ヌルいぐらいちょうどいいんだよ﹂
小さい身体を俺に持ち上げられても、まだ手に持った薪を投げ入
906
れている。
さすが天性のワーカー・ホリック、仕事に対する情熱は鬼気迫る
ものがある。
﹁⋮⋮やはり来たか﹂
﹁どうしたの、ごしゅじんさま?﹂
︱︱このざわつく感覚、背筋に感じる寒気。
あの闇の向こう、こちらをジッと監視している、鋭い視線とプレ
ッシャー。
いいだろうリア、全力で俺の入浴を妨害してみるがいい。
戦いは数だってことを、お前に教えてやる。
いよいよ、俺のリラックスお風呂タイムを賭けた、負けられない
戦いが始まる。
せんとう
﹁これがほんとの銭湯だな﹂
﹁ごしゅじんさま、ロールさむいから、あったまりたくなったよ﹂
ロールは、俺の寒いシャレで、ブルブルと身体を震わせている。
正直、すまんかった。
907
68.お風呂を巡る攻防
﹁まず入浴の前に、身体にこびりついた戦塵を落とさないとな﹂
お湯で身体を拭くぐらいのことは毎日していたが、それでも土と
埃と硝煙に塗れて戦った汚れは落としきれない。
かけ湯しつつ、しっかり身体を洗おうかと思ったのだが、まずは
逃げられないうちにロールを洗うのが先だ。
﹁お前らも、身体を綺麗にしてから入るんだぞ﹂
﹁はーい﹂
うちの奴隷少女たちは、風呂に入り慣れてるので、言わなくても
わかってると思う。
それにしても、やたらめったら奴隷少女を一緒に連れてきたら、
洗い場が一杯になってしまった。
これじゃ、のんびりじゃないなと思いつつ、頑張って戦ったのは
奴隷少女たちも一緒なので、みんなにも慰安があっていいだろう。
モンスター石鹸を泡立てつつ、ロールの赤銅色の髪をワシワシと
ド
洗ってやる。ホコリでくすんだ髪の色が、艶やかに透き通っていく。
ワーフ
綺麗にしてれば、ロールだって美少女で通る容姿、なんたって黒
妖精だ。
﹁あわわ!﹂
﹁フフフッ、観念して綺麗になるんだなロール﹂
908
エルフ
白妖精ばかりが、持て囃される風潮に、俺は断固として反逆する。
小柄なロールの褐色の肌も磨き上げてやれば、綺麗になるのだ。
エルフ娘が金無垢の器だとすれば、ドワーフ娘は銅器の光沢があ
る。
趣味にもよるだろうが、味わい深さはドワーフ娘のほうが上、同
じ妖精族だから耳だって尖っている。
いつか、ドワーフ娘の時代がやってくるに違いない。
﹁ごしゅじんさま、もう、もういいでしょ!﹂
﹁うん、まあいいか⋮⋮﹂
たっぷりと泡だらけにしたロールを、桶に汲んだお湯で流してや
った。
他の奴隷少女は、俺に洗われたがるんだが、ロールだけは心の底
から本当に嫌がってる。
だからこそ、俺はロールを特別扱いしてしまうのかもしれない、
こうも嫌がられると嗜虐心を唆られる。
つまりは、俺はわりとSなのかもしれない。お風呂を嫌がる猫と
か犬を洗ったり、爪を切るの大好きだったし。
﹁まあ、俺も楽しいし、ロールも綺麗になるんだし、ウィンウィン
だよな﹂
﹁ウィンウィンじゃない!﹂
完全にむくれてしまった。
﹁まあまあ、ほらご褒美が用意してあるよ。コレット、ロールに酒
909
をやってくれ﹂
﹁はーい﹂
ロールも風呂焚いて、自分の嫌なことされただけなのでは少し可
哀想なので。
湯船にお盆を浮かべて、熱燗を用意してやった。
﹁ごしゅじんさま、これがあるなら、はやくいってよ﹂
﹁お前も好きだな⋮⋮。俺の故郷では、酒を飲みながらゆっくり入
浴を楽しむ風習があるんだよ、ロールも試してみるといい﹂
あれほど入浴を嫌がってたのに、目の前の器になみなみと酒を注
いでやると、キラキラと眼が輝き出す。
ほんとにドワーフはチョロイ。
﹁これがあるなら、まいにち、お風呂にはいってもいいよ﹂
﹁今日だけ特別だからな﹂
風呂場で酒を飲むのが癖になっても困るけど、ロールも風呂に入
るのにいい加減、慣れて欲しいので、こういう趣向を考えてみたの
だ。
熱燗といっても、もちろんこの世界に日本酒はない、代わりにワ
インを使う。
聞いたらこっちの世界にも、ヴァン・ショーと言うワインを温め
て飲む方法があるそうだ。
本来は、冬場に温めたワインをティーカップに注ぎ、レモンを浮
かべてお好みで砂糖や蜂蜜などで甘く味付けして飲むらしい。
910
俺なりに結構工夫して、スパイスやハーブで香りづけをして、お
風呂で飲むのに適した少し口当たり辛めのホットワインを作ってみ
た。
プリミティブな製法の土器で徳利っぽいのを作ってみて、気分だ
けは俺の故郷風を演出している。
﹁どうだ、ロール、具合はいいか﹂
﹁うーん、しみるねえ。ごしゅじんさまも、はやくやったらいいよ﹂
俺も、ぜひやりたいところだな。
だが、まだ他の奴隷少女も洗ってやらんといかんのだ、露骨にロ
ールだけ特別扱いするわけにもいかん。
﹁ご主人様、身体を洗いましょうか﹂
﹁ああ、頼む﹂
ヴィオラの青い髪と、コレットのブラウンの髪を、交互に洗って
いたら、後ろからシェリーが俺の背中を洗ってくれた。
少女たちは、みんなそれなりに仲がいい相手が決まっているらし
く、お互いに身体を洗い合っているので、俺が全部洗ってやらなく
ても問題はない。
シャロンが居るときは、眼を配ってあぶれた娘がいないか、ちゃ
んと見てるから安心できる。
ひと通り済んだと思ったら、シャロンがこっちにやってきた。
﹁ご主人様、私は身体を洗ってくれる相手がいないんです﹂
﹁じゃあ仕方ない、髪だけな⋮⋮って、タオルを取るな!﹂
シャロンが身体に巻いているバスタオルを剥がしにかかったので、
911
俺は慌てて止める。
﹁だって、身体を洗ってもらうのに﹂
﹁洗うのは髪だけだと言ってるだろ、いいから後ろを向け﹂
こういうときに限って、シャロンは聞き分けが極端に悪くなるの
で、俺は溜息をつく。
俺の横に立っていた、シェリーが慌てて俺に声をかけてきた。
﹁ご、ご主人様、これ⋮⋮﹂
﹁あっ、すまん﹂
慌てたせいで、俺の腰に巻いていたタオルが落ちてしまっていた
ようだ。
シェリーは色素の薄い白い頬を真っ赤にして、恥ずかしそうにタ
オルを渡してくれる。
俺は渡されたタオルを、慌てて腰に巻き直す。
シェリーは、頬を真っ赤に染めて、ほけっとした顔で呆然とこっ
ちを見てくる。
そりゃ俺も失礼したが、なんなんだそこまでのことか?
うーんまあ、シェリーもいっちょ前に恥ずかしがるとか、ちゃん
とレディーなんだな。
いや、彼女は自分の裸体を隠そうともしないから、なんか恥ずか
しがるポイントがズレてるような気がする。
何か違和感を感じて、俺は屈むようにしてシェリーの顔を眺めた。
シェリーは肌の色素がとても薄いので、感情を高ぶらせると頬や
肩のあたりの肌が、すぐに桜色に染まる。
912
﹁ああっ、ご主人様すご⋮⋮いえ見てしまって、申し訳ございませ
ん﹂
﹁⋮⋮いや、シェリーも髪を洗ったほうがいいか﹂
ちょっと反応がおかしいのが気になったが、風呂でのぼせたわけ
ではないようだし、大丈夫だろう。
さっきシェリーに背中を洗ってもらったから、洗い返さないのは
悪い気がしたので、洗うか聞いてみる。
﹁いっ、いえ。さっきシャロンお姉様に、髪も身体も洗っていただ
きました﹂
﹁そうか、ならいいが﹂
確かにシェリーの銀糸のような透き通った光沢のある髪は、綺麗
になっている。
シェリーと話してると、シャロンが拗ねたような声色で俺を急か
す。
﹁あのご主人様、私は!﹂
﹁わかっているよ﹂
石鹸を泡立てて、シャロンの淡いオレンジ色の髪を洗ってやる。
バスタオルを取ろうとさえしなければ、獣人の血が混じってるシ
ャロンの髪を洗うのは面白くて好きなのだ。
さっとお湯をかけると、淡いオレンジが琥珀色に変化していく。
犬耳に水が入らないように気をつけながら、泡で丁寧に洗ってや
る。
913
犬耳の周りだけ、動物特有の少し固い毛の感じがして面白い。
いろいろと支障がなければ、お尻に生えている小さい尻尾も洗っ
てやりたいぐらいなんだが、そこはさすがにマズイ。
﹁ご主人様、背中も⋮⋮﹂
﹁だからシャロンは、バスタオルを取るなと言ってるだろ!﹂
聞き分けが悪い、俺が困ってるのを見かねたのか。
シェリーが、俺に代わって身体を洗うからとシャロンをなだめて
くれる。
さすがにシャロンも部下の手前、わがままばかり言いかねたらし
い。
﹁じゃあ、仕方ありませんね、シェリーにお願いします﹂
シェリーに、あとでご褒美をやらなきゃいけないな。
彼女はもともと聡明すぎるほどだが、こういう時もよく気がつく
娘だと思う。
﹁使える人材か⋮⋮﹂
ようやく奴隷少女達を洗う仕事を済ませて、湯船に浸かりながら、
そんなことをつぶやいてみる。
こいつは使えるとか、使えないとか、そんな見方でしか人を見れ
ないのは悲しいとは思うのだが、職業病だなこれは。
﹁ごしゅじんさまも、もっとちからをぬいて、いっぱいやりなよー﹂
﹁俺が、用意した酒だと思うんだが⋮⋮﹂
914
ロールが酒を勧めてくれる。
まあ、ロールの言う通りではある、せっかくの風呂なんだから肩
の力を抜くべきだ。
お盆に浮かんだホットワインを、勧められるままに一杯やりなが
ら、俺はようやくリラックスして、温かい湯の中で手足をゆるりと
伸ばした。
俺は一杯、ロールはイッパイ。
湯に浸かって、共に酒を酌み交わせば、気分がよくなるのは道理
だ。
﹁おふろはすきじゃないけど、さけはすきー﹂
﹁ふうっ、これは風情だなあ﹂
好事魔多しと言うが、こうやって気分によく油断したあたりで、
リアがやってくるんだよな⋮⋮。
ほら、ドタバタと、脱衣場の方から騒がしい声が聞こえてきた。
バスタオルの使い方を覚えない女が、盛大に巨大な二つの肉の塊
を揺らしながら入ってきた。
とりあえず、奴隷少女たちを洗う時間を邪魔しなかっただけ、配
慮してるつもりなんだろうな。
﹁さあわたくしも、是非ともご一緒させていただきますよ﹂
﹁ステリアーナさん、タオルで前を隠してください!﹂
あらかじめシャロンに、リアが来たら抑えるようには言ってある
ので、心配要らないだろう。
リアが無駄にでかい乳を揺らしてどれほど暴れ回ろうが、これだ
915
けの数の奴隷少女のガードを超えて、攻めてくることはできまい。
シャロンとリアのキャットファイトを見るのも、かなり差し障り
があるので俺は眼を背けて。
風呂の小さい窓から上弦の月を眺めながら、こっちは余裕で風呂
を楽しむだけだ。
﹁クックック、アーサマのとこの小娘は苦戦してるようじゃな﹂
ザバーと、湯船の中から白いツインテールが出てきたので、ビッ
クリした。
どっから入ってきた。
﹁オラクル、お前も風呂に入るんだな﹂
﹁何を言っとるんじゃ、ワシは前から入っとったぞ﹂
そうなのか、ぜんぜん知らなかった。
﹁もしかして、リアと一緒に来たのか﹂
﹁そうじゃ、あの小娘に、タケルを一緒に攻めようと誘われての﹂
﹁なんでシスターと魔族が共闘してるんだよ﹂
アーサマ教会と魔族は、八千年間敵対しあってるんだろ。
お前ら、もっと自分の設定を大事にしろよ。
﹁もちろん、あやつを倒すのはワシじゃが、こんなところで倒され
てしまってはつまらんからのう﹂
﹁なんだその、最大の敵を前にしてライバル同士協力するみたいな
熱い展開⋮⋮﹂
916
俺か、実は俺がラスボスだったのか?
﹁あの小娘がおとりになっている間に、ワシが本丸を攻める作戦じ
ゃよ﹂
﹁まあ、確かにこの鉄壁の防衛網をかいくぐって来たのはすごいけ
どさ⋮⋮﹂
大浴場の浴槽の一番奥に俺がいて、その周りをシュザンヌとクロ
ーティアが巡回して、さらにその周りに奴隷少女たちが肉壁を形成
しているのだ。
この囲みを、潜水して突破したのか。
﹁それにしても、風呂というやつはこっちにきて初めて経験したが、
具合がよいものじゃな﹂
﹁そうだろう﹂
攻めるという割には、普通に雑談に入るオラクルちゃんに、俺も
油断してしまう。
なにせ外見だけは、奴隷少女たちに混じってもさほど違和感はな
い、護衛が何も言わないのも当然だった。
﹁ワシのダンジョンにも、いずれこういうデカイ風呂を作るかのう﹂
﹁おー、そりゃいいね。冒険者がダンジョンに風呂を見つけたら、
喜ぶんじゃないか﹂
まあ、まずは罠じゃないかと思って警戒するだろうけど。
たしかダンジョン系ゲームに、凄い深さの風呂ってあったような
気がする、それも気持ちいいけどあまり深く潜ると溺れるって罠だ
ったんだよな。
917
﹁ちょっと考えたんじゃが、こういうのはどうじゃろう﹂
オラクルちゃんが、水中で印を結んで、小声で呪文を唱えると。
水中でブクブクとお湯が泡立ち始めた。
いけす
﹁おお、ジェットバスか、これは気持ちいい﹂
﹁じゃろう、ダンジョンの生簀に酸素を送る魔法なんじゃが、こう
いう使い方もできると思ってな﹂
エアーレーション
曝気の魔法なんてあるんだな。
初めて知った、これはレア魔法なんじゃないか。
オラクル大洞穴は、水草も生えない地下八階に、海蛇や大王烏賊
を生息させたりしていたが。
こういう地味な水質管理や空気循環の魔法技術が支えていたのか
と、感心した。
﹁すごいなあ、オラクル。こういう魔法を使えば、食糧問題も改善
するかも﹂
シレジエ王国の内陸は、新鮮な魚なんてまず口に入らないからな。
旨い魚が食える養殖用の生簀ができたら、すごい嬉しいんだけど。
﹁フフッ、まあ使い方は様々じゃろうな﹂
オラクルちゃんは、笑いながらシュルっとツインテールの紐を引
っ張って、髪を解く。
気泡が浮き立つ水面に、さらっと白いオラクルの髪が流れて広が
っていく。
918
温かい湯船に居るのに、俺はそれを眺めていると、動機が激しく
なってなんだかゾクッと身体が強張った。
﹁なあぁ、タケルぅ﹂
﹁なんだよ﹂
ゴロゴロと猫が喉を鳴らすようなオラクルちゃんの声と、その仕
草がやけに艶やかに感じる。
オラクルは、スーと俺のところまで泳いでくると、そのまま俺の
胸に手をついてピトリと重なった。
﹁お、おい⋮⋮﹂
﹁こんなに激しく泡立ってると、お湯の中で何が起こってるかなん
て、誰にもわからんじゃろう、⋮⋮おっと下手に動くなよ﹂
オラクルの長い髪が、俺の硬くなった身体を柔らかく包み込んで
しまう。
その瞬間、俺の身体のつま先から脳天まで、ビリッと強烈な衝撃
が走った。
﹁おまっえ⋮⋮、こんなところで﹂
﹁少女たちには、気づかれたくないじゃろう。タケルにだって、ご
主人様の威厳ってものがあるものな⋮⋮。なあに、ちょっとだけジ
ッとして、ワシに身を任せてくれればいいんじゃ﹂
﹁ふっ、ふざけるなよ、オラクル﹂
俺の切迫した声を聞いて、近くにいるシュザンヌとクローティア
が流れてきた。
919
﹁大丈夫ですか、ご主人様!﹂
﹁何かございましたか﹂
﹁ああっ⋮⋮いや﹂
これはどう言ったらいいものか、俺は息が詰まってしまう。
しっかりと、オラクルに抱きすくめられているので、身動きすら
取れない。
﹁ウフフッ、ワシらは仲良くじゃれてるだけじゃよ、なあタケル?﹂
﹁そっ、そうだな、心配はない﹂
オラクルちゃんが、俺の上ではしゃぐように跳ねて見せる。
本当は、大丈夫じゃねえ。
﹁しかし、少し顔色が優れないような⋮⋮﹂
﹁お二人とも、近づいてはいけません! ご主人様は、大丈夫です
から、ほらリアさんをおさえにかからないといけませんよ﹂
いつの間に近くに潜っていたのか、シェリーが水面から真っ赤な
顔を上げて現れた。
そのまま、訝しがるシュザンヌたちを説得して、浴槽の前衛へと
押し出してくれた。
さすがシェリー助かる、本当にホッとした、息と力がスッと抜け
ていく。
ああ⋮⋮。
﹁おや、まあ⋮⋮三分弱ってとこか。タケルも若いのう﹂
920
﹁ああもう、オラクルどっかいけ!﹂
オラクルちゃんは、クククッと形の良い唇で艶笑を形作ると、俺
にチュッとキスしてから、身を離した。
泳ぐと、湯船に流れているリボンをさっと握って、また白い髪を
ツインテールにシュッと結んだ。
その瞬間に、もういつもの無邪気なオラクルちゃんに戻っている。
﹁おおそうじゃ、タケル。大事なことを言い忘れておった﹂
﹁なんだよ﹂
オラクルは、また俺の耳たぶに唇をつけて囁く。
﹁ごちそうさま⋮⋮﹂
﹁うるさいよ!﹂
オラクルちゃんは、アハハと笑って、そのままザブンと潜水して、
どっかに行ってしまった。
微妙に冷めた気持ちの俺を残して、まったく。
もうどうでもいいんだが、その間にもお風呂場での無益な争いは
続いている。
多くの奴隷少女に絡みつかれながらも、果敢に攻めるリアが、浴
槽の中にまで侵入していたところだった。
﹁わたくしの邪魔をすると、アーサマの罰が当たりますよ!﹂
﹁私たちも敬虔なる信徒ですよ!﹂
他の少女はともかく、リアと互角の体格と気迫を持つシャロンが
921
抑えにかかっているので、さすがのリアもそれ以上は進めないよう
だった。
﹁ちょっと、オラクルさんどこに行ったんですか。今度は是非もな
くわたくしの番だと思いますよ!﹂
﹁ふむ、そういう契約じゃったから、手助けしてやるかの﹂
いつの間にか、リアの横まで潜水していたオラクルは、名前を呼
ばれると水面から顔をあげて、指で印を組みつつ魔法を唱えた。
﹁ああっ、なんですかこれ!﹂
﹁身動きできません﹂
シャロンを含めた奴隷少女たちは、急にお湯に絡みつかれて、身
動きが取れなくなったようだ。
水流を支配できる呪文は、お風呂場ではかなり強力である。
﹁やりました、これでわたくしも是非もなく突破です!﹂
リアが、喜び勇んでこっちにジャバジャバと盛大にお湯を掻き分
けてやってくる。
騒がしいことこの上ない。
﹁それで、リアはどうするつもりなんだよ﹂
﹁こうします﹂
リアは、そのまま抱きついてきて、むにゅっと柔らかい肉を俺の
顔に押し当てた。
ワンパターン。
922
﹁あれ、今日のタケルは、やけに反応薄いですね﹂
﹁前から思ってたんだけど、リアはこれをやって何が楽しいんだ﹂
﹁タケルが気持ちいいんじゃないかと思って、是非やってます﹂
﹁胸を押し当てて、自分が気持ちいいわけじゃないんだろうに⋮⋮﹂
これでリアに気持ちよくなられても困るが。
﹁タケルの気持ちいいが、わたくしの気持ちいいです!﹂
﹁そうか、それは奉仕の精神に溢れてて結構なことだな﹂
﹁今日は本当に、反応おかしいですね。うーん、是非もなく賢者モ
ードですか?﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
リアはこっち方面では、妙に鋭いことがあるので困る。
そのままむにゅむにゅと、胸に胸を押し当てられて、ジッと碧い
瞳で見つめられると、息が詰まりそうになる。
﹁まあ、男の子には、そんな日もありますか﹂
﹁そんなことも、あるよ⋮⋮お前もバカなことばかりやってないで、
たまには普通に風呂を楽しめ﹂
賢者モードとか自分で言ってて、意味はわかってないらしい。
リアは、建国王レンスが残した怪しい古書でしか日本の現代知識
を知らないので、理解がちぐはぐな時がある。
﹁タケルがわたくしの身体も綺麗にしてくれるなら、是非とも楽し
めますけどね﹂
﹁リアは十分綺麗だろ﹂
923
﹁ななっ、何を言ってるんですか!﹂
リアは顔を真赤にして、ずりっと湯船に顔を埋めた、ブクブクと
泡を吹いている。
なんだこの反応⋮⋮ああ、そういうことか。
単純に、もう身体は洗ったんだろって意味でいったんだが、まあ
大人しくなったからいいや。
﹁もう、もう! そういう不意打ちは卑怯ですよ、そういうのは是
非二人っきりのときにおねがいします﹂
リアは、何が楽しいのか満面の笑みで擦り寄ってきて、お湯の中
で俺の手を握ってくる。
まあ、この程度なら邪魔にならんからいいが。
黙っていれば濡れたリアの髪は金糸のようで、鑑賞物としては美
しいのだ。
肉体の方は、眼の端に入るだけで、落ち着かないことこの上ない
が。
しかし、程なくして、オラクルの水流拘束の魔法が解けたのか。
復活したシャロンたちに引きずられるようにして、リアは風呂場
の向こうの角に連行されていった。
わーきゃーと、騒ぐ声が遠くに聞こえる中で。
俺は、今一度お湯の温かさで緩んだ身体を、湯船に浮かべてリラ
ックスする。
924
﹁はぁ⋮⋮﹂
泡の魔法の残滓におされて、お盆に乗った熱燗がスーと流れてく
るので。
俺は、それを受け取ってもう一杯だけ引っ掛けることにした。
風呂場の端っこでは、ロールが縁に手をついて、グイグイとホッ
トワインを呑んでいる。
それをコレットが、せっせと新しい熱燗を作っては、器に注いで
やっているのが面白い。
まるで居酒屋みたいだ。
あの二人は、どこにいても自分だけの役割を持っていて、独特な
自分の空気を作る。
﹁俺もあれぐらい、我関せずの貫禄が欲しいところだが﹂
なかなか人の資質というのは、変わらないもので、すぐには成長
できない。
結局、まったり風呂に入る風情とは程遠くなったが、まあ良いか。
存分に温まったし、身体を休めることにはなった。
俺は風呂場の窓から、ぼんやりと空に浮かぶ半月を眺めて。
少し辛めの酒をグイッと傾けるのだった⋮⋮。
※※※
これで終われば、まだ良かったんだが、そうは問屋がおろさない
のがリアルファンタジー。
925
のんびり風呂に浸かってる俺の前に、カロリーン公女が現れて、
かなり焦った。
カロリーン公女は、マジマジと俺を間近で眺めてから、ようやく
気がついたのか高らかに悲鳴をあげる。
お風呂場ではメガネをかけていない近眼の彼女は、近づかないと
わからない。
﹁えっ、ええっ! きゃああああっ!﹂
リアとシャロンたちがワーキャー騒いでた空気が、公女の悲鳴で
凍る。
この前みたいに、驚いたあまりタオルを落として裸体を晒さない
だけ、公女も成長した。
しかし、またこのパターンかよ。
俺の知らない間に、カロリーン公女とシルエット姫とジルさんが
連れ立って入ってきてたのだ。
お風呂場は、俺が大量に呼んだ奴隷少女でひしめき合っているの
で、彼女たちは俺が湯船の奥の方に居るのに気が付かなかったらし
い。
俺も気が付かなかった、奴隷少女でカモフラージュが逆効果にな
ってしまったのだ、自業自得である。
﹁なんで勇者様が、みんなと、おっ、お風呂に入ってるんですか!﹂
﹁いや、すいません﹂
こういう事態に慣れきっているシルエット姫とジルさんは平然と
したものだが、カロリーン公女には、しっかり怒られてしまった。
926
怒られるのは悲しいが、このまともな反応には、少し救われる思
いもする。
﹁あの公女様、ご主人様と奴隷少女が一緒に入るのはしきたりでし
て、この勝手に混じってきたステリアーナさんはともかく﹂
﹁公女殿下、勇者とシスターが一緒に入るのは是非ともおかしくな
いんですよ、このでっかい奴隷少女はともかく﹂
シャロンとリアが、口々に説得するが、さすがに人のよい公女も
今回は納得しなかった。
当たり前だ、お前ら公女を言いくるめる気があるなら、まずタオ
ルをつけろ。
﹁おかしいです、こんなの絶対におかしいですよ!﹂
お風呂場に響き渡るカロリーン公女の声。
まったくもって、正論である、耳が痛い。
そんな公女をよそに、シルエット姫は平然とタオルを取ると、か
け湯して俺の横にスルッと入ってきた。
そしてなぜか、ピトッと俺に身体をひっつけてくる、意味がよく
わかりません。
俺は、程よく薄い胸をすりつけてくるシルエット姫より、ジルさ
んが平然と湯船に入ってくるのに結構ダメージが来る。
黒髪のポニーテールで日焼けしてるジルさんは、プロポーション
がやたら良い日本人のお姉さんに見えることがあるんだよな。
その分だけ、俺に肉感的なリアリティを感じさせて、ちょっとマ
ズイのだ。
927
﹁タケル様﹂
﹁なんでしょうか姫様﹂
わらわ
﹁やっぱりタケル様の反応は、妾に少し失礼だと思います、もうち
ょっとこう何かありませんか?﹂
﹁うーん、ドキドキしないことはないです﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁あー、あの姫はお美しいですよ!﹂
姫がまたネガティブ入って、ブクブクと水面に沈んでしまった。
どういう反応をしたら、ネガティブ姫様が満足するのか、いまい
ちよくわからないでいる。
あと、何度でも言うけどジルさんは護衛の仕事をしろ。
浴槽に沈んでる姫様を無視して、風呂場で気持ちよさそうに甘い
ため息をついている場合か。
その間も、カロリーン公女がずっと﹁みんなおかしいですよ!﹂
って叫んでいたが、多勢に無勢。
リアとシャロンに引きずられるようにして、脱衣場に消えていっ
た。言ってることは彼女がまったく正しいのだ。
なんか、公女には毎回、申し訳ない感じがする。
それにしても、俺が一人でゆっくり風呂に入れるのは、いつにな
るんだろう。
まあいい、十分温まったし、そろそろ上がるか⋮⋮。
928
69.ルイーズの提案
あるじ
﹁我が主。オリハルコンの武器を取りに行かないか?﹂
ルイーズが、意を決したように執務室に篭ってる俺のところまで
来て、そう進言した。
正確には、厳しい試練をクリアした冒険者にオリハルコンの装備
を与えると噂される、伝説の﹃試練の白塔﹄を攻略しに行かないか
というお誘いだった。
﹁唐突だなルイーズ、どうして急にその﹃試練の白塔﹄に挑もうっ
て思ったんだ﹂
﹁急じゃない、前から考えていたんだ。私にもオリハルコンの剣が
あれば、タケルが戦う必要がなくなる﹂
むうっ、なんかルイーズはこの前の戦闘から、妙に過保護になっ
たような気がする。
オリハルコンの剣があれば、俺の代わりにルイーズがフリード皇
太子をやっつけられるとでも言うんじゃないだろうな。
今の俺なら、隠し玉の﹃中立の剣﹄で不意打ちすればフリードに
は勝てると思うので。
あんまりルイーズに、俺の出番を奪って欲しくないんだが。
しかし、強い武器は、前々から欲しかったのも確かではある。
戦争は一旦中断したから、その間に装備強化に励むのも悪くない。
世界最強の金属であるオリハルコンの武器をルイーズが手にすれ
929
ば、さらに頼もしい存在になるだろう。
それは、ありがたい提案だとは思うんだが、今はちょっとマズイ
んだ。
俺の机の前でライル先生とシェリーが、兵站計画を延々と議論し
てる真っ最中で、なんか話が行き詰まってるところなんだよ。
机には、ずらずらと訳の分からない数字が書かれた渦巻状の書類
やら、地図やら羊皮紙やらが散乱していて、俺はどれを見ても全く
わからない。
二人の話を聞いて話をまとめてみると、常備兵力として組み込ん
でいる義勇兵団は多少増えても問題ないが、五千人を超える大傭兵
団の使い道に困っているってことなんだと思う。
この澱んだ空気の執務室に入って来て、よくいきなり迷宮を攻略
しようなんて言えるよなあ。
さすがはルイーズだとも言えるが、いまはそんな悠長な話をして
る場合では⋮⋮。
﹁いや、ルイーズ団長の提案、悪くないです。﹃試練の白塔﹄は、
ランクト公国の交易都市の近くでしたね。うむ、これはいいアイデ
ィアかもしれません﹂
ライル先生が、頬に嫋やかな手を当てて考えこむ。
薄っすら笑っている、何か悪いことを思いついたときの顔だ。
この提案の何がいいアイディアなのか、俺にはさっぱりわからな
いが、シェリーはすぐに分かったみたいだ。
シェリーは小さい手で紙束をかき集めて、俺に笑いかける。
930
﹁ご主人様。大都市ランクトなら、食料価格も安定していますし、
五千人分でも現地調達で賄えると思います。エスト侯領から大量輸
送することを考えれば、そっちのほうがむしろ手っ取り早いです﹂
いや、だから何の話なんだ。兵站の話か、迷宮攻略の話か、どっ
ちなんだ。
まったく話が読めない俺に、先生が短い杖を持って﹁ここです﹂
と地図の一点を指し示す。
﹁ルイーズ団長が行こうと提案した﹃試練の白塔﹄は、ゲルマニア
帝国の領邦国家の一つ、ランクト公国にあるんです﹂
﹁おもいっきり敵国の領土じゃないですか﹂
地図によると、ランクト公国は、ちょうど我が国のロレーン騎士
団領の隣にある。王国と帝国の国境線沿い領邦である。
近いから、長旅にはならなくて済みそうだから良いけど、敵国の
領土に足を踏み入れるのは問題あるんじゃなかろうか。
﹁これはむしろ、威力外交と言うべきですよ。我々の目的は、戦争
ではなく﹃試練の白塔﹄攻略です。そのように喧伝しつつ、傭兵団
五千人を引き連れて国境線を越え、ランクト公国に押し入ってしま
うんです﹂
﹁わりと、むちゃくちゃな計画みたいな気がするんですが﹂
大傭兵団を引き連れて、また軍隊でダンジョン攻略をするのは構
わないんだが。
それが敵国の領邦だとすると、即座に戦争になっても、おかしく
ない気がする。
﹁ランクト公国は、交易で保っている領邦です。自国領で帝国と王
931
国の戦争が始まるのは絶対に避けたいはずですので、渋々と我が軍
の領邦通過を認めるでしょう。帝国にプレッシャーを与えつつ、敵
地の都市でたっぷり兵站補給ができます﹂
﹁ふうむ⋮⋮﹂
ライル先生が、我が意を得たりと言った調子で頷く。
休戦中の傭兵団の有益な使い道もできて、敵国の領土で補給がで
きる。その﹃試練の白塔﹄とやらで、オリハルコン装備が手に入れ
ば一石三鳥。
この前のオラクル大洞穴の規模は千人程度だったが、今度は五千
人を引き連れて迷宮へのアタックになるわけか。
今度はさらに大掛かりな、戦争レベルの迷宮攻略になりそうだっ
た。
しかし、傭兵団の多くは元盗賊や冒険者、迷宮探索にはかなり適
しているといえる。
イケるアイディアかもしれない、何よりせっかくのルイーズの提
案なんだから、無駄にしたくない。
﹁よし、分かりました。﹃試練の白塔﹄に行きましょう﹂
﹁話は、決まりましたね。すぐにガラン傭兵団に触れを出します、
出陣です!﹂
ライル先生とルイーズは、さっそく軍事行動に向けて部屋を出て
いった。
さてと⋮⋮。
﹁シェリーは、なんかおみやげいるか?﹂
932
その大都市ランクトってのは、かなり豊かな街みたいだから、珍
しい物もあるのかもしれない。
シェリーは頑張って働いてくれているので、なんかご褒美をあげ
たほうが良いと前々から思っている。
ストイックな彼女は、食生活にもこだわらないし、上質な紙と新
しい書物ぐらいしか欲しがらないので困ってるのだ。
﹁ご主人様、ランクトの街でたっぷりと飲み食いして、保存食もし
こたま買い漁って、帝国の食料価格をなるべく高騰させてきてくだ
さい。それが最大のおみやげです﹂
そう言って、先生に負けず劣らず、悪いニンマリ笑いをするシェ
リー。
やっぱり先生の近くに、子供を居させるのは、あまり情操教育上
よろしくないんじゃないだろうか⋮⋮。
※※※
俺の近衛銃士隊を先頭に、五千人を超える大騎士団を引き連れて。
オックスの居城から、オラクル領のスパイクの街を経由して、ロ
レーン騎士団領へ。
初めてロレーン騎士団領へとやってきたが。
モナ山地を越えて領内に入ると、本当に何もない、だだっ広いだ
けの荒野と小さい沼沢地があるだけの痩せた土地だった。
戦略的には、帝国が通り道にしたロレーンの街か、スパイクの街
へと行くだけの道路なのだ。
先の戦争では、帝国派と王国派に分かれて小競り合いをしていた
933
だけのロレーン騎士団だが、今は王国派が勝利して落ち着いている
らしい。
五十人程度の騎士たちがやってきて、ロレーン騎士団の団長だと
名乗る変なトンガリ兜を被った騎士に挨拶された。
みんな一昔前の板金鎧を着ているのだが、プレートがボコボコに
傷ついてて、骨董品を着ているようだ。
﹁どうも勇者様、バガモン・ド・カルチャディアと申します。男爵
の位をいただき、領内の統治を任されております者でございます﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
痩せ細った馬に乗ったバガモン団長は、俺の前で下馬すると、深
々と頭を下げた。
トンガリ兜がやたら長いので、頭突きを食らわされるかと思った。
﹁先の戦いでは、副団長のド・マルセ準男爵の裏切りに遭い、不覚
を取ってまったくお役に立てず面目次第もございません﹂
﹁いや、いいよ男爵﹂
もともと、ロレーン騎士団に何も期待してないしな。
ロレーン騎士団領は、団長と副団長が争って、機能不全に陥って
いたらしい。
本人たちなりに名誉ある騎士として真剣に戦っていたようなのだ
が、その小さな戦闘は戦略的価値が皆無なため、帝国にも王国にも
全く放置されている。
考えようによっては、可哀想な人たちである。
ぜひロレーン騎士団の城に寄って欲しいと言われたので、寄って
934
みたがそこにあったのは粗末な木の柵に囲まれた、木組みの掘っ立
て小屋だった。
こんな例えをしては申し訳ないんだが、彼らの居城は、ロスゴー
村のちょっと豊かな農家ロッド家と、ほとんど変わらない佇まいだ。
﹁えっと⋮⋮﹂
﹁これが、我がロレーン騎士団のカルチャディア・ド・マルセ・ド・
ロレーンの城です﹂
﹁これがそうか﹂
﹁はい、カルチャディア・ド・マルセ・ド・ロレーンの城です﹂
それしか繰り返さないバガモン男爵。
このやたらドが付いた立派な名前の掘っ立て小屋に、三十人ほど
の騎士達が暮らしてる、結構たいへんな暮らしだ。
近隣の農家から、食べ物を貰ってなんとか生活しているらしい。
食事を一緒にどうぞと出されたのが、水に浸した堅いパンだった、
どうもこれが彼らにとって客に出すご馳走らしい。
﹁⋮⋮バガモン男爵、良かったら俺の持ってきた飯も食ってくれよ﹂
戦闘になる可能性も考えて、兵糧は余裕を持って用意してある。
たいしたことはないワインや、ハムや、ソーセージが彼らにはご
馳走らしく、ガツガツと我先に食べていた。
ここの騎士団は、みんな準男爵とか将軍とかご立派な位を貰って
る騎士たちばかりなんだが、まるで痩せた欠食児童の群れだ⋮⋮。
﹁勇者様、かたじけのうござる、かたじけのうござる﹂
935
涙を流しながら、ハムの切れっ端を名残惜しそうに噛み締めてい
るバガモン男爵を見ると、こっちもかたじけない気持ちになってく
る。
話を聞いていると、やっぱりバガモン団長たちも貧しい武家の出
身で、オルトレット子爵と似たような経歴だった。
貧乏武家出身の彼らは、先立つ資金もなく、村々は崩壊していて
復興が進んでおらず、廃材を集めて掘っ立て小屋を造って城にして
いる始末。
明らかに、領地経営に失敗しているのだ。
こんなことなら、オルトレット子爵だけじゃなくて、彼らにも少
しは資金援助してやれば良かった。
そう後悔していると、ライル先生にこそっと耳打ちされた。
﹁彼らはこれでいいんですよ、何も持たなければ、命までは取られ
ません﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
先生の言うことも、もっともだと思うんだけど、せっかく王国派
についてくれている彼らのために。
ちょっと食料を置いていくぐらいのことは、してもいいと思う。
※※※
ロレーン騎士団領から、ゲルマニア帝国領邦、ランクト公国に入
り陸路を四日ほど行ったところで、だんだんと街道が太く大きくな
り、石畳まで敷かれている立派な道になった。
街道沿いの村々も、大きく豊かな土地になってきたのがわかる。
936
綺麗に石畳で舗装された街道など、シレジエ王国では王都でしか
見られないものだ。
その立派な道を多くの商人の荷馬車や、旅の冒険者などが行き交
う、見ているだけで賑やかな雰囲気になってきた。
﹁タケル殿、あれがゲルマニアの至宝と謳われる、交易都市ランク
トです﹂
﹁すごいですね﹂
大きなツルベ川に寄り添うように、何重にも白い漆喰を塗った防
壁が築かれて、その壁の外側にまで、びっしりと石造りの建物が軒
を連ねている。
都市の中心部には豪華な城があり、石造りの四角いビルのような
建物まである。
王都シレジエなど、交易都市ランクトに比べれば、ど田舎もいい
ところだ。
現代人の俺から見ても、文句なしに大都会と呼べる、超巨大な都
市だった。
﹁十万都市と言われていますが、市民だけで十万です。非市民の奴
隷や流れ者を合わせると、十二、三万人程度が居住してますね﹂
﹁これだけ豊かな街が、どうやってできたんですかね﹂
しゅうん
先生は、眩しそうに手を伸ばして、白い漆喰と赤い煉瓦でできた、
宝石のような輝かしい都市を眺望しながら﹁舟運です﹂と言った。
馬車を使って運ぶより、船で運ぶほうが量も多く、運ぶ代金も安
い。
937
まだ海路に危険が伴うこの時代は、ユーラ大陸を貫くツルベ川の
舟運は、最高の交易手段なのだ。
﹁このツルベ川は、北はトランシュバニア公国の河口から、南はロ
ーランド公国まで通じています。しかも、陸路で見ても大都市ラン
クトは、ゲルマニア帝国とシレジエ王国を結ぶ街道に当たります。
ユーラ大陸でも、これ以上の立地条件の交通の要衝は存在しません。
⋮⋮欲しいですね﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
いま、最後に欲しいとおっしゃったか。
﹁いえ、まあ出来ればですが⋮⋮。交易都市ランクトは、ユーラ大
陸すべての富が集積する宝石のような街ですから、垂涎とは、こう
いう街を言うのでしょうねえ﹂
珍しく先生がため息をついて、美しい街を眺めて、物欲しげにつ
ぶやいた。
うーんまあ、覚えとこう。ユーラ大陸の宝石、大都市ランクトを
引き出物にしたら、先生もプロポーズ受けてくれるかもしれない。
まあ、それはさすがに冗談だ。俺は、侵略戦争をする気はない。
⋮⋮先生に本気でおねだりされたら、考えてもいいけど。
賑やかな街道に行き交う人を眺めつつ、そんな黙考に耽っている
と、大傭兵団の最前列で騒ぎが勃発した。
まあ、大傭兵団が敵性国家の大都市に接近しているのだから、ト
ラブルぐらいは起こるだろうと、歩いて行くと、聞き覚えのある可
愛らしい声が響いている。
938
﹁あんたたち、私の国を侵略しにきたんでしょう、冗談じゃないわ
よ!﹂
燃えるような炎の鎧を着た女騎士が、ランクト公国の紋章である
緋色の鷹をあしらった豪奢なマントを翻しながら、拳を天につき上
げて怒り狂っている。
あーそうか、ランクト公国って、聞き覚えがあると思ったら、姫
騎士エレオノラの父親の領地か。
大傭兵団を率いて先頭に立っていたガラン傭兵団長が、金髪碧眼
の姫騎士にイチャモンを付けられてオロオロと困っていた。
ガラン・ドドルは、黒い鎖帷子の兜を脱ぐと、スキンヘッドの強
面だ。その浅黒い顔には、戦争で受けた古傷が無数にある、威風堂
々たる歴戦の強者なのだ。
サーベル
その五千人の大傭兵団を率いた将士ガランを前に、一歩も引かず。
今にも腰の直刀で、斬りかからんばかりの剣幕で叫んでいるのは凄
まじい。
公姫エレオノラの傍若無人も、ここまで行くと立派だ、まるで蟷
螂の斧だ。
やたら猛々しい姫騎士に突っかかられて困惑しているガランに代
わり、ライル先生が進み出て和やかに応対する。
﹁ランクト公がご息女、エレオノラ・ランクト・アムマイン殿とお
見受けいたします。なにゆえに、我々の歩みを妨害するかお聞かせ
願えますか﹂
先生の口調がやけに優しく丁重、そういえばランクト公国の領地
に入る前に国務卿の正装に着替えていたが、これは立派な外交にな
939
るのだから当然といえた。
お付きの大盾の重装歩兵を引き連れたエレオノラ嬢は、それがま
ったく分かっていないのだ。
﹁ジレジエの勇者とそれに与するならず者ども、よくも私の街を攻
めてきてくれたわね、ここで会ったが百年目よ!﹂
﹁お言葉ですがエレオノラ公姫殿下、我々は貴女の国を攻めに来た
のではなく﹃試練の白塔﹄の探索に来たのです。その旨、お父上の
ランクト公には正式に打診して、領邦通過の許可を頂戴しておりま
す﹂
﹁そんなの単なる言い訳で、私の国を奪いに来たんでしょ、私は騙
されないわよ!﹂
下手したら、この場で戦争が再開することを、この無謀な姫騎士
殿下はわかってるんだろうか。
お付きの重装歩兵隊が居ても、たかだか三十人ぐらいだろ、あっ
という間に全滅してしまうぞ。
後ろで、大盾を持って控えている重装歩兵たちも、緊張感に強張
った顔で震えている。
普通の人間なら、喧嘩を売っていい場合と悪い場合ぐらい分かる
のだ。
きっと、この跳ねっ返りの姫様に、誰も逆らえないんだろう。
宮仕えはかくも辛いものか。
セネシャル
しゅんめ
執事騎士カトーさん、﹁早く来てくれー!﹂と言うみんなの願い
が通じたのか、駿馬にまたがった、銀髪の老紳士が駆けつけてくれ
た。
940
颯爽と、馬から飛び降りると、老執事は姫騎士エレオノラを一喝
する。
﹁エレオノラ姫様、何をなさってるんですか!﹂
﹁爺や、私は自分の国を守ろうとしてるのよ⋮⋮﹂
さすがの姫騎士も、この銀髪老紳士の威厳には少し弱いらしい。
声のトーンが下がった。
﹁たかがこの数の兵で、何をどう守るというのですか﹂
﹁だからシレジエの勇者が攻めてきたって、帝都に通報すれば⋮⋮﹂
それを聞いてカトーさんは、ギリッと眉を顰めると静かな怒りを
露わにした。
﹁姫様は、ここで戦争を起こすと言う意味を、理解しておられるの
か。領民を守るべき領主の娘が、この美しいランクトの街と民を、
戦禍の危険に晒されるおつもりか!﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
さすがセネシャルカトー! みんながこの暴虐で向こう見ずな姫
騎士に、言いたくても言えなかったことを、きっぱり言ってくれた。
そこにシビれる、憧れる!
こっちの傭兵団にも、向こうの重装歩兵隊にも笑顔が戻った。
カトーさん素敵。
﹁これ以上、ランクト公のご意向に反して事を荒立てるおつもりな
ら、いかに姫様といえど、このカトーが黙ってはおりませんぞ!﹂
﹁わかった、わかったわよ、引けばいいんでしょう⋮⋮﹂
941
姫騎士エレオノラは、いかにも憤懣やるかたないと言う顔で、す
ごすごと去っていた。
重装歩兵隊も、嬉しそうにお辞儀して、プンプンと肩を怒らせな
がら去っていく姫騎士の後に付いて行った。
﹁シレジエの勇者様、我が国の不躾な姫が、ご迷惑をお掛けいたし
て申し訳ありません。どうぞこの場はこれで、ご容赦ください﹂
さすがは、老騎士カトーである、ちゃんと金貨がたっぷり詰まっ
た袋を馬の鞍に乗せて用意してあった。
トラブルは金で解決、普通ならどうかと思うが、自分が貰える立
場になればまったく話は別だ。
﹁ささ、僭越ながら私が街までご案内いたします。街での補給はも
ちろんよろしいのですが、騒ぎだけは起こさぬようにお願い致しま
す﹂
﹁ああ、もちろんだ、よろしく頼む﹂
本来なら、この数の大傭兵団が、集団で街に近づくことは、保安
上の理由で禁止されている。
そこをカトーさんは、衛兵にも話を通して、みんなの宿泊先まで
手配してくれた。まさに、至れり尽くせりの配慮。
赤い煉瓦の街道を進み、立派な半円型の大門をくぐって、大都市
ランクトの中に入る。
そこは、お祭りかと思うほどのごった返す人と、豊かな物に溢れ
ている別世界だった。
﹁これが、交易都市ランクトか⋮⋮﹂
942
俺たちがカトーさんに、街を案内してもらっているのを、遠目か
ら恨めしそうな顔の姫騎士がずっと付いてきて、睨みつけているの
が小気味いい。
姫騎士は、お目付け役の執事騎士が居る限りは、何も出来ない。
さてせっかく大陸でも一二を争う大都市に来たのだ。﹃試練の白
塔﹄攻略も大事だが、少し街を観光するのもいい。
流通の拠点であるこの交易都市では、きっと珍しい物産が手に入
るはずだ。
943
70.交易都市ランクト
白い漆喰壁と赤煉瓦の街、大都会ランクト。
ゲルマニア帝国の、いやユーラ大陸全域に広がる流通網の中心地
である。
この世界の都市にしては、とても清潔で美しい街並み。
街が湾曲したツルベ川に面していて、上下水道が完備されている
からだろう。
大都会ランクトの水道設備は、毎日十万人の市民たちにきれいな
水を供給している。街にあるたくさんの噴水、巨大な公共浴場、公
衆便所、様々な重要施設の地下には下水施設があった。
街の大門をくぐり、街道からそのまま街の中心部へと続くピペラ
ティカ大通りには、商店や市場が軒を連ねて、その溢れる物産の数
々に豊かさを感じられる。
都市の中心部には、ランクト公の豪奢を形にしたような綺羅びや
かな居城がそびえ立ち、各種ギルドや商会の本部事務所が入る複層
階のオフィスビル︵!︶が立っている。
﹁シレジエの勇者様、ランクト公がご挨拶したいそうです﹂
﹁うん、苦しゅうない﹂
セネシャル
銀髪の執事騎士に案内されると、なんか自分が大富豪になったよ
うな気分になる。
いいなカトーさん、給料いくらぐらいなんだろ、うちに雇われて
くれないかな。
944
居城には、唸るほどに素晴らしい美術品がたくさん並んでいた。
通路に何気なく飾ってある絵画一つ取っても、絵のことなどまる
で分からない俺が、足を止めてじっくりと眺めていたい気にさせら
れる傑作だった。
その絵画に描かれていたのは、無邪気に微笑む金髪碧眼の可愛ら
しい少女で、優しそうな父親と一緒にいる何気ない日常を切り取っ
た、温かみのある一シーン。
﹁もしかして、この可愛らしい少女が、あの姫騎士の小さい頃なの
か﹂
だとすれば、月日は残酷である。
おっと、美術品を鑑賞している場合ではない。
豪奢な異国風の絨毯が敷き詰められている、大理石造りの絢爛な
謁見の間に招かれる。
そこには、姫騎士の父親であり、ランクト公国を治める領主であ
るエメハルト公爵が待っていた。
娘と同じ柔らかい金髪で、透き通った碧い瞳。均整の取れた細面
の美しい顔立ちに豊かな髭を蓄えている、ハンサムな壮年の男だっ
た。
上質の絹の衣装を身をまとっているが、イヤミがないのは立ち居
振る舞いに独特の上品さがあるからだろう、生まれついての富豪だ
からごく自然なのだ。
俺の横についてる、先生が耳打ちしてくれる。
945
﹁エメハルト・ランクト・アムマイン公爵、富豪公と呼ばれていま
す。ゲルマニア諸侯の盟主でもあり、芸術の振興にも力を入れてい
る好人物ですよ。敵側ではありますが、今は友好的な関係を保つよ
うにお願いします﹂
﹁了解です﹂
富豪公って、そのままだが、たしかにこれはそうとしかいいよう
がない。
エメハルト公は、世界有数の金持ちなのだ。その公爵の莫大な資
産を思えば、アムマイン家の紋章である緋色の鷹をあしらった絹の
長衣をまとっているのは、むしろ質素な趣味とすら言えるだろう。
富豪公がそうしようと思えば、金糸刺繍をふんだんに施してゴテ
ゴテと宝玉で飾るような、さらに豪華な服だって着られる。
﹁おお、ようこそいらっしゃいましたシレジエの勇者タケル様。お
初にお目にかかります、ランクトの領主エメハルトです﹂
﹁こちらこそ、歓待恐れ入ります、エメハルト公爵殿下﹂
﹁どうぞエメハルトとお呼びください、佐渡タケル様はシレジエ王
国の摂政でもあり、なによりも私がお仕えするフリード皇太子殿下
と同じ勇者様なのですから﹂
﹁恐縮です、エメハルト公﹂
人好きのいい笑顔を見せているが、さり気なく皇太子の名前を出
すあたり強かだ。
歓待はするが、大傭兵団を街に入れられて威力外交を受けても、
それ以上の譲歩をするつもりはないと釘を刺しているのだろう。
こういう商人気質の敏い貴族と話すのは、俺も楽しいので気分が
946
良かった。
先生はどう思っているか知らないが、別にアムマイン家を脅すつ
もりはないのだ。
﹁領主として、できる限りの歓待はさせてもらいますので、﹃試練
の白塔﹄でご用事を済ませられた後は、どうぞ穏便にお引き取りく
ださい﹂
﹁もとよりそのつもりです、エメハルト公にご迷惑をお掛けするつ
もりはございません﹂
今回の目標は、ルイーズがオリハルコンの剣を欲しがっているの
で、それを手に入れたいだけ。
あとは、帝国側で傭兵団の補給ができれば、御の字といったとこ
ろだ。
しかし、切れ者でハンサムな壮年の公爵を見ていると、あの跳ね
っ返り娘の父親とは思えないな。
﹁大変助かります、あと我が不肖の娘が、勇者様にご迷惑をお掛け
していると思いますが、私からも謝罪いたします﹂
﹁いえいえ、帝国と王国はいまだに敵同士、エレオノラ姫の敵愾心
も当然かと思いますよ﹂
エメハルト公爵は、少し憂いた顔でため息をついた。
﹁まったく、不出来な我が娘もですが、大事な皇帝への戴冠を前に
無益な外征を行うフリード皇太子殿下にも困ったものです﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁見ての通り、我が公爵領は交易によって成り立っています。この
947
戦争が続く限り、シレジエ王国やローランド王国との流通が遮断さ
れて、当家は大変な不利益を被るのです。すでに市場の物価が上が
り始めています﹂
﹁戦争となれば、そうなるでしょうね﹂
などと他人ごとのように言ってるが、俺の経済担当幕僚であるシ
ェリーから、食料品を中心に買い漁って、この都市の相場をさらに
高騰させてこいと言われているのだ。
ランクトの街は帝都と王都の中間地点にある。帝国軍は、兵站を
軽視しているから、安易な現地調達をしようとするに違いない。
ここで大挙してやってきた帝国軍が補給しようとして、相場が高
騰しているせいで経済的な打撃を受ければベストである。
﹁いずれまた、王国と帝国が縁を結べる日がくることを、両国に挟
まれた小領主としては願ってやみません﹂
﹁ええ、俺もそう願ってます﹂
俺の前で好戦的な皇太子を批判してみせたのは、リップ・サービ
スもあるだろうが、公爵の本音もあるのだろう。
相手の懐に入るときは、まったくの嘘よりも本音を交えたほうが、
響きが良いのだ。
エメハルト公、なかなかできた物分りの良い人物で、好印象であ
ったが。
その分だけ、注意を払うべき強かさを持った相手であるとも言え
た。
※※※
948
公爵への謁見を済ますと、俺たちは宿に向かうことにした。
エリア
中心部から少し行ったところに、酒場や食堂などの地域があり、
セネシャル
俺たちが宿泊するのはそこの最も豪華なホテルだ。
執事騎士カトーさんが俺たちに割り当ててくれた、白壁の大きな
ホテルのロイヤルスイートルームは、清潔でフカフカの柔らかいベ
ッドに、豪華な大浴場まで完備している。
何という街の快適さだろう、オックスの居城もそれなりに住環境
を整えてきたつもりだが、大都会ランクトに比べると見劣りしてし
まうと言わざるを得ない。
現代に帰ってきたのかと錯覚するほどだ。
﹁私は書店巡りなどをしてみようかと思いますが、タケル殿はどう
しますか﹂
ライル先生にそう言われて、俺も街をぶらついてみようかなと思
った。
ルイーズは武器屋に行くらしい、連れてきた奴隷少女たちも、み
んなお小遣いを握りしめてバザールを見に行きたいと言っていた。
﹁俺も、じゃあ適当に﹂
なんだかホテルで荷解きして、街に繰り出すなんて、本当に観光
気分でワクワクする。ホテルのロビーまで降りていくと、コンシェ
ルジュよろしく控えていたカトーさんが、俺に声をかけてくれた。
﹁勇者様、街に行かれるなら、私がお勧めのスポットをご案内いた
しますよ﹂
﹁じゃあ、お願いしようかな﹂
949
﹁どのようなお店をお探しですか﹂
﹁そうだね、珍しい物産を見てみたいな﹂
﹁それなら、良いところがございます﹂
そう言って、カトーさんが案内にしてくれたのが、半円型の複層
階の構造をしたショッピングモールだった。
ここは本当に中世ファンタジー世界か、どっかの現代の街じゃな
いのかと驚くばかりの豪華さである。
入ってる店も、高級志向の客を狙った異国風の絨毯や絹織物を扱
う店や、金銀を始めとした様々な貴金属の装飾品が並ぶジュエリー
ワインマスター
ショップ、様々な産地の岩塩、高価な没薬や香辛料を扱った店、極
上の酒が並び、味利きのプロであるワイン鑑定士が接客してくれる
店、最近流行りのコーヒーショップなど、珍しい物産の宝庫である。
世界有数の交易拠点であるランクトには、世界の富のすべてが集
まるのだ。
俺が気になったのは、やはり食料品である。ここの珍しい香辛料
を混ぜれば、カレーが出来るんじゃないかと思った。
えっと、カレーの香辛料はどういうブレンドだったか。
とりあえず、ひと通りセットで買っておいて後で試してみよう。
カレーの香辛料に、シナモンを使うかどうかわからないけど、こ
れはコーヒーに入れても良いし、お菓子に使うにも便利なので当然
買っておく。
米は、いつぞやに古き者が出してくれた玄米を沼沢地でなんとか
育てられないか、ヴィオラに試験栽培して貰っているところだ。
950
いずれ、カレーライスが食べられる日がくるかもしれない。
さらに面白い物を見つける、ツボに入った黒褐色の調味料。
ガルム
﹁ほう、これは珍しいな﹂
﹁これは、魚醤でございます勇者様。ちょっと癖が強うございます
が、ソースの女王とも言われております﹂
一瞬、もしかしたら夢にまで見た醤油があるのかと思ったら、違
ガルム
った。
魚醤とは、魚の内臓と血をペースト状になるまですりつぶし、そ
こに塩と香辛料を振って発酵させて、一ヶ月もゆっくりと煮詰めて
作るそうだ。
﹁どうぞお味見ください﹂
﹁うーん、確かに強烈な匂いだけど、ウスターソースっぽくていけ
るね﹂
魚醤が詰まっている大壺から、小皿に注がれたドロリとした黒っ
ぽいソースを舐めてみると、魚介類の旨みが口の中に広がった。
鼻に抜けるような強烈な魚臭さはあるが、それも癖になると美味
しいと感じる類の味だろう。
ガルム
﹁勇者様の言う、ウスターソースというのは寡聞ながら知りません
が、魚醤は南の海の民たちが好む珍しい調味料でございます﹂
﹁これも、いただこう﹂
大壺一つで金貨一枚と割高だが、その価値はある料理の幅が広が
る珍しい調味料だといえた。
カトーさんによると、川魚が採れるランクトでは、南の地方に倣
951
って魚醤の自家生産もやっているらしい。
やはりあのエメハルト公爵も切れ者かと思う。
うちでも、新鮮な魚が採れれば、魚醤の製造を試したいところな
んだがな。
﹁いや、素晴らしい街だね﹂
﹁お褒めに預かり光栄です﹂
コーヒーショップで、蜂蜜を塗った柔らかいパンをデザートにい
ただきながら、極上のコーヒーを飲んでいると、すこぶる気分が良
くなった。
ショッピングモールは、幸せそうに買い物をする客で賑わってい
て、眺めているだけで楽しい気分になる。
たしかに、素晴らしい街だ。
俺が飲むための口当たりの良い貴腐ワインと、ロールのおみやげ
に、水のように透き通った度数がものすごく高い蒸留酒も買って置
いた。
あの味利きのワイン鑑定士ごと、店が手に入れられればなあと夢
想すると、この街を﹁垂涎﹂と称した先生の気持ちもわかる。
ここまでの豊かさを見せつけられると。
いっそ、この都市ごと我が手に入れたいという野望を抱く者も多
いだろう。
﹁勇者様、食指が動きますか﹂
﹁うんまあ、豊かな街だからね﹂
俺の顔色を眺めて、カトーさんが探るように言う、心配する気持
952
ちもわかる。
この人は、善意で観光案内しているわけではなく、俺たちのお目
付け役なのだ。
﹁できれば、この豊かな街を見て、戦禍に晒すような真似はなされ
ないように、お願いしたいものです﹂
﹁それは絶対に避けるようにする、目的が達したらすぐに引くから
心配しないでくれ﹂
お世話になったカトーさんに、迷惑をかけたくない気持ちはある
のだ。
﹁勇者様がランクト公国を無傷で手に入れたいなら、いっそエレオ
ノラ姫様とご結婚なされてはいかがですかな﹂
﹁えっ﹂
せっかくいい気分だったのに、カトーさんまでそんなことを言う
のか。
なんでみんな俺の顔を見ると、姫と結婚させたがるんだよ。
しかも、相手はあの姫騎士エレオノラ、あり得ないな。
﹁ランクト公が、姫様が騎士になるのを認められたのは、もしかし
たら女好きのフリード皇太子に見初められるかもしれないと思った
からなのです﹂
カトーさんが話すには、フリード皇太子の母親は、それこそエレ
オノラのようなパチモノの姫騎士ではなく。
本当に﹃ゲルマニアの戦乙女﹄と言われ、戦場にも立つことが多
かった、凛とした女王だったらしい。
953
﹁しかし、無能将軍として醜態を晒す姫様に、皇太子の食指は動き
ませんでした﹂
﹁だろうなあ⋮⋮﹂
俺が皇太子でも、あの使えない姫騎士が后とか嫌だわ。
﹁私も長らくアムマイン家に執事騎士として仕えて参りましたが、
あの跳ねっ返りの姫様は﹃ランクトの戦乙女﹄などと悪評が立って
しまい、婿の来手すらなく、このままではお家断絶の危機なのです。
老い先短い身ですが、このままでは、心配で死んでも死にきれませ
ん﹂
﹁カトーさんも大変だな﹂
なんだ﹃ランクトの戦乙女﹄って、悪評だったのか。
まあ、あの跳ねっ返り姫と見合う身分の高級貴族で、あれを嫁に
欲しいとか、婿に行きたいって言う奇特な人はなかなか居ないわな
あ。
大金持ちの一人娘なのだから玉の輿になるところが、姫騎士の身
分が下手に高いのが、余計にネックなんだと思うよ。
﹁勇者様でしたら、結婚相手として申し分ありません。もうこの際、
公国を継ぐ子孫さえ残れば側室でもなんでも結構ですので、どうぞ
ご考慮の程をお願いします﹂
﹁まあ、考えておくよ﹂
そうやってカトーさんに頭を下げられると、まさか無碍に断るわ
けにもいかず。
社交辞令的に、前向きに善処すると言っておくことにした。どう
954
せ俺はあの姫騎士に相当嫌われてるし、向こうが断るだろう。
さてと、コーヒーショップで休憩を取った後は、俺はまた買い物
へと繰り出した。
他にもこの機会に買いまくった物品はたくさんあるのだが、交易
都市ランクトに溢れる豊かな物産の数々は、いくら書いても書きき
れないので、この程度にしておく。
珍しい書物や、魔道具の類も充実していて、先生もホクホクだっ
たらしい。
955
71.試練の白塔へと
交易都市ランクトから、馬車で街道を行くこと半日。
何かの冗談かと思うぐらい、白く輝く巨大な円筒状の建物が、視
界の前にその威容を現す。
巨塔の上の方は、雲がかっていて見えにくい、それほどの高さの
タワーだ。
こんもりとした丘の上に、象牙を無造作に突き刺したような形、
誰がどうやってこんなタワーを建てたんだろうか。
﹁タケル殿、あれが﹃試練の白塔﹄ですよ﹂
﹁すごく大きいです⋮⋮、あとなんだかこの辺り、すっかり観光地
ですね﹂
白塔の周りには、ぐるりとフェンスが張られており、緑豊かな公
園になっていた。所々にランクト公国の兵士が巡回して、しっかり
と管理されてる。
俺たちの他にも、人はたくさんいる、冒険者ではなくみんな観光
客だった。
この白塔公園は、安全な位置から﹃試練の白塔﹄を見学して楽し
む、公国随一の観光スポットにもなっているのだ。
最上階まで探索されていない未踏の大迷宮と聞いていたんだが、
明らかに物見遊山の子供連れの観光客が﹁よーしパパ、﹃試練の白
塔﹄を攻略しちゃうぞー﹂などと言っているのを見ると、拍子抜け
してしまう。
956
白塔クッキーに、白塔ケーキ、白塔を象った白磁器や、大理石を
加工した工芸品、あと白塔とは何の関係もない変な木彫りのお面な
ど、白塔グッズを売るお土産物屋が立ち並び、なかなかに繁盛して
いる。
﹁ご主人様、ここで屋台やったらクレープ売れそうです﹂
そんなことを、口々に言ってるのはエリザ、メリッサだ。
二人とも元は物乞いの奴隷少女で、戦争中は銃士隊に所属して戦
っているが、彼女たちの本業は、クレープの屋台である。
ランクト公国にうちの商会を出店させて、経済戦争でエメハルト
公爵とやりあえたら面白いなと、俺も思うよ。
殺し合いより、そっちのほうがよっぽど楽しそうじゃないか。
﹁戦争が終わったら、そう出来るといいな⋮⋮。とりあえず、二人
もなんか食べるか﹂
せっかくの観光スポットだ。
奴隷少女たちにも、ここで少し休憩させることにした。
俺は、そんなに腹は減ってなかったので食事はしなかったが、将
来の敵情視察のために何か買ってみるかと、売店で﹃白塔ジュース﹄
を所望してみた。
口当たりの良い飲み心地、白桃を絞ったフルーツジュースだった。
﹁ダジャレかよ⋮⋮普通に美味しいのが、なんか微妙だな﹂
フルーツを絞ったジュースなんて、この世界では贅沢品だ。
ランクト公国は、よほど豊かなのだろう。
957
名物に美味い物無しと言うが、試食してみたクッキーも、ケーキ
もちゃんと甘みがあってレベルが高かった、これは飛ぶように売れ
るのも無理はない。
危険なダンジョンをきちんと管理するだけでなく、観光資源に変
えて儲けを出すとは、この世界の領主としては発想力が凄いと思う。
﹁まあ、エメハルト公爵も商売上手なのは、認めざるを得ないな﹂
白塔公園の盛況振りを見て、俺が公爵の施政に感心していると。
後ろから、俺のストーカーが、声をかけてきた。
﹁どう凄いでしょう、ウチの﹃試練の白塔﹄は!﹂
燃えるような炎の鎧に、緋色の鷹の紋章が入ったマントを翻す、
金髪碧眼の姫騎士が、仁王立ちしている。
俺が公爵を褒めたのを耳にしたのか、したり顔をしている。
﹁なんで、お前が自慢気なんだよ﹂
﹁ウチの領地が管理してる白塔が凄いんだから、私が自慢してもい
いでしょう﹂
澄ました顔でこのお姫様はそう言う、冗談とか皮肉ではなく、一
点の曇りもなくそう思っているらしい。
ちょっとコイツの思考回路怖い、あんまり関わりあいにならない
ほうがいいと思うのだが、本当にいまさらだ。
﹁なあ、エレオノラ。つかぬことを聞くけど、どこまで俺たちに付
いてくるつもりなんだよ﹂
﹁はぁ、あんたなにいってんの⋮⋮はぁ? 私はただ、自分が来た
958
いから白塔に来ただけだし! あんたたちの後なんか追いかけてな
いし!﹂
ウザ⋮⋮。ツンデレじゃないのに、ツンデレみたいなセリフ言う
奴が一番ウザい。
こうげき
これが直接攻撃を禁止されたので、精神攻撃に切り替えたという
のなら、巧みな口撃といえた。
ずっと付きまとわれて、口を開くとこれなので、俺の精神にジワ
ジワとダメージが入ってきている。
もちろん、そんな高度なテクニックを、この歩く単刀直入みたい
な姫騎士が思いつくわけがないので、素で存在自体が鬱陶しいだけ
なのだ。
天然素材は、ある意味で、最も厄介な敵といえる。
早急にお引き取り願いたい。
だいたい戦場ではないので、叩きのめして身代金も取れないのだ。
今や、コイツの存在価値は、ゼロを通り越してマイナスだ。
ランクトの街でストーキングされるのはまだ許せたが、﹃試練の
白塔﹄攻略中ずっと後ろから付いてくるつもりなのだろうか。
どんな罰ゲームだよ。
﹁なあ、カトーさんから、俺との接見を禁止されてたんじゃないの
か﹂
﹁カトーは、シレジエの勇者の邪魔さえしなければ、近づいても話
しても良いって言ってたわよ﹂
おーい、カトーさん。
959
現在進行形で、俺の邪魔になってるんだが、早くこの姫騎士を引
き取りに来てくれ。
﹁あー、クソ。もういい、勝手にしろ﹂
﹁ここは私の家の領地だし、あんたに文句は言わせないわよ﹂
ずっと、一定の距離を保って尾行してくる。無視だ、無視。
視界に入れなければ、居ないのと一緒だ。
※※※
﹁タケル殿、いよいよです。外は安全でもフェンスの中は、きちん
としたダンジョンですからね、気を引き締めていきましょう﹂
防護フェンスの門を開いてもらって、傭兵団を塔の下へと進める。
柵の中は、塔の地階からモンスターが溢れる危険地帯だ。
門番の話によれば、帝国が戦争中なので各地からやってくる冒険
者が少なくなり、白塔の周辺部も物騒になっているそうだ。
しかし、こちらは五千人を超える傭兵団を引き連れているので、
危険もクソもない。
あっという間に、白塔の周りを傭兵隊が駆けまわり制圧を完了、
入り口にたくさんの幌馬車を乗り付けて、大きなベースキャンプを
張った。
攻略にどれほど日数がかかるか分からないが、このベースキャン
プが、補給基地であり当面の戦闘指揮所となる。
傭兵が倒したモンスターは、もちろん無駄にせず、後でスタッフ
が美味しく調理していただく。
960
白塔の周辺部は、古ぼけた煉瓦や崩れかけた凝灰岩のブロックが
積まれた道になっている、その崩れかけた道が、白塔の入り口前ま
でくると磨かれた大理石のツルツルの床に変わる。
崩れかけた古代遺跡に見える周辺部が、後世に補修された部分な
のだ。
この巨大な﹃試練の白塔﹄そのものは、傷一つない磨かれた大理
石で出来ていて、どんな保護魔法がかかっているのか、何百年経と
うと新品の輝きを失わない。
ツルリとした光沢があり、指で触ると滑々の高級感漂う大理石だ。
美しいマーブル模様が入った、大門のあたりのピンクがかった床
など、いかにも貴族が喜びそうな素材である。
つい︵これ切り出して売ればいくらになるだろうか︶と、計算し
てしまう。
佐渡商会では、石材も扱っているが、肌理の美しい大理石は石材
の中でも高級品だ。
俺の光の剣なら、保護魔法を打ち破って削り出せるかもしれない。
ごっそりといただいて、ランクトの街で売り払えば、ダンジョン
をまともに攻略するより儲かっていくのではないか。
﹁タケル殿、大理石を切り出して売ろうとする不届き者は、強力な
ガーディアンが現れて排除されるらしいですよ﹂
﹁おっと、そりゃ怖い。盗掘対策はされてるんですね﹂
先生の説明によると﹃試練の白塔﹄は、古の超大国﹃神聖リリエ
ラ女王国﹄の文明遺産なのだそうだ。
961
高さは百階とも九十九階とも言われている巨大な白塔は、アーサ
マの巫女であり絶対権力者でもあった女王リリエラが、創聖女神の
威光を民に知らしめるために建てた塔であるそうで。
塔の入り口に、白銀の翼が生えている巨大なアーサマの女神像が
建っている。
なんだか、その顔がジッとこっちを見ているような気がして、不
気味だ。アーサマって本当にこんな無愛想な顔だったのかな。
﹁先生なんかこの女神像、顔がぽっちゃっとして⋮⋮あまりその、
現代的デザインではないと言うか﹂
不細工というほどではないんだけど、なんだか不気味な雰囲気が
漂っていて、目付きが鋭い。
女神像って、もっと綺麗で慈愛に満ちたものじゃないのかと思う。
全体的に体型がどっしりしている、あと顔が下膨れでオカメっぽ
い。
そんな悪口を言った瞬間に、強力なガーディアンに襲われる危険
があるので、口にはしないけども。
﹁創聖女神アーサマの姿形を誰も知らないので、アーサマの巫女で
あるリリエラ女王をモデルにして造ったと伝えられています﹂
﹁ううーん﹂
大昔の女王の顔か、製造者の悪口もまずい。触らぬ神に祟りなし
だ。
とにかく、神聖な白塔を傷つけようとする背教者には、容赦無い
罰を与えるそうなので直接的批判は避ける。
962
そういう罰を与える一方で、塔の試練に打ち勝った勇者には、祝
福された金属オリハルコンの武具を授けるそうだ。
﹁タケル殿、フリード皇太子とその部下が使っていたオリハルコン
の鎧と大盾がありましたよね﹂
﹁あー、もしかしてフリードもここを攻略したんですか﹂
最上階までは、探索されてないと聞いたが、途中までは登ったの
だろうか。
﹁いえ、攻略したのは金獅子皇の父親、ゲルマニア帝国の今上帝コ
ンラッド陛下です﹂
五十年前に﹃迷霧の伏魔殿﹄を沈めて勇者となった、フリードの
父親である老皇帝コンラッド・ゲルマニア・ゲルマニクス。
すでに耄碌している老皇帝がまだ若き英雄だったころ、長い苦労
の末に﹃試練の白塔﹄の五十四階まで踏破して、オリハルコンの鎧
と盾を手に入れたそうだ。
﹁なるほど、フリードは、父親から装備をパチって使ってるだけな
んですね﹂
﹁まあ、そういうことです。皇位継承者として、伝説の防具を受け
継ぐのは当然かもしれません﹂
父親から受け継いだだけのオリハルコン装備を使って。
それを自分の力のように錯覚して﹁フハハハハッ﹂とか、高笑い
しているんだから、フリードはどこまでもお坊ちゃんだよなあと思
う。
﹁これまでの踏破者が五十四階までというと、さらにその上を目指
963
さないといけないってわけですか﹂
こうして間近に巨塔を見上げると、頂上の百階は果てしなく遠い。
オラクル大洞穴でも、地下十階だったのだ、もし最上階まで行く
となると軍隊で攻略にかかっても、時間がどれだけいるかわからな
い。
﹁傭兵団はベテラン冒険者も多く、この塔の攻略経験者もいるそう
ですから、案内は心配いりませんね。まず地階から三階にかけてま
で生息している雑魚モンスターの駆除から始めましょう﹂
﹁そうですね、まずは下準備からですね﹂
我々の場合、モンスターの駆除と言うよりは、料理と言ったほう
が正しい。
長丁場の攻略、五千人もの胃袋を満たそうと思えば、都市で買い
込んで、馬車に満載している保存食でも足りない。
チャレンジャー
まず、戦は食料調達からだ。ダンジョンの入り口近くには、食料
源となるモンスターがたくさん棲んでいる。
我々は、なんでも解体して食ってみるシレジエが生んだ美食家ル
イーズ大先生のおかげで、モンスター肉調理の専門家になっている
のだ。
この﹃試練の白塔﹄の地階に生息しているのは、ゴブリンに、オ
ーガに、オークと基本的なラインナップである。
ゴブリン種が少なく、オーガ種とオーク種が多かった。食料供給
源としてはかなり良好。
よくいる雑魚モンスターで、一番肉がマズイのが、緑色の小鬼ゴ
ブリンなのだが。
964
緑色の肉なんて病気になりそうとか、毒がありそうとか、心配の
声をよく聞くがそんなことはない。
ゴブリンが体内で毒を生成できるなら、雑魚ではない。
上位種には、毒を使うモンスターも居るそうだが、ゴブリンはそ
うではないのだ。
ただゴブリンの肉は、可食部位をどれほど見繕っても、ひたすら
臭くて硬くてマズイだけだ。
俺が見るところ、弱くて身体が小さいせいで、脂質が少なく筋繊
維が多いのが原因であるように思う。
同じ鬼系モンスターのオーガにもその傾向はあって、こっちは肉
の臭みは少ないのだが、やはり硬いので調理に工夫がいる。
ひき肉にしてハンバーグにでもするか、ルイーズのように鍋でじ
っくりと煮込んでしまうのが、オーガの適した食べ方といえるだろ
う。
他のモンスターが採れるなら、美味しくないゴブリンの死体は、
石鹸用に脂肪を絞ってから、肉は飼料か肥料にでもしてしまうのが
いい。
雑魚モンスターのなかで、ダントツで美味いのは、やはりオーク
だ。
煮て良し、焼いて良し、小麦粉と卵と混ぜて、パン粉を付けてカ
ラッと油で揚げて、トンカツにしても、すこぶる良しの万能選手。
ポーク
ぶっちゃけ、味は豚肉そのもの。歯ざわりが良く柔らかい肉質、
したたり溢れる肉汁の旨み、鼻腔に突き抜ける馥郁たる香り。
脂っこさが気になる部位は、串に刺して脂を落としつつ焼くと、
965
さっぱりとした食感になる。
ちょっとマニアックな料理だが、オークの足首の骨の周りのプル
プルのゼラチン質が俺は一番美味しいと思う。
豚足ってことになるのだろうか、香辛料を使って柔らかく煮こむ
と、コラーゲンたっぷりで美容にも良さそうだ。
ささっと塩コショウしたオーク肉が、ジュウジュウと心地良い音
を立てて焦げるバーベキューの匂いは、それだけでたまらなく食欲
をそそる。
モンスターとの野戦の後の楽しみである。
白塔を観光地に変えた商売上手のエメハルト公爵だが、この豊富
な食料資源を放置するとは、まだまだ甘い。
ガラン傭兵団長の指揮の元、狩ってきたモンスターの死体が、次
々と野外キャンプに運び込まれる。
モンスターの死体は、流れ作業的にルイーズたち解体班が肉と皮
に解体して、なめした皮はそのまま乾燥させて街へ持って行って売
るか、加工されて革製品となり、肉はコレットたち調理班が様々な
糧食へと作り変えて傭兵団へと配給される。
無駄がなくて素晴らしい。
作業が進んでいるのを確認して、俺はキャンプを出る。
キャンプの戦闘指揮は、ライル先生の担当だし、問題はない。
俺は俺で、この下準備の間にやることがあるのだ。
966
72.ハッキング
﹁ん、ん⋮⋮? タケルもう着いたのか﹂
﹁着いたのかじゃないよ、もうみんな﹃試練の白塔﹄の攻略を始め
てる、そろそろ起きてくれ﹂
幌馬車の中で、毛布に包まって眠っていたオラクルちゃんを起こ
しに行った。
大きな枕を抱えて、物憂げに眼をこすっていてまだ眠たそうだが、
もう午後だぞ。
昨日、夜遅くまでウチの奴隷少女たちと騒いでいて、寝不足らし
い。
ずっと地下暮らしだったオラクルにとっては、何を見ても珍しい
んだろうからしょうがないけど、はしゃぎ過ぎだ。
﹁んー、タケルもうちょっと眠いんじゃ﹂
﹁もう起きろよ﹂
オラクルが抱きついてきて、そのまま毛布に俺を引きこもうとす
るので、さっと押しのける。
抱きついてくるのを、振り払う、ええい!
﹁おはようのキスをしてくれたら、起きるのじゃ﹂
﹁調子に乗るな、お前が来てくれないと、攻略が始まらないんだよ。
あとちゃんと服を着ろ﹂
俺が目指すのは速攻、百階建ての白塔をスピーディーに攻略する
967
には、たとえ五千人の冒険者が居ても心もとない。
さらなるチート、ダンジョンマスターのオラクルの力が必要にな
る。
ダンジョンを攻略する側のプロフェッショナルに加えて、ダンジ
ョンを製造する側のプロフェッショナルの力を使えば、さらに攻略
スピードは増すはず。
﹁ほれ、着せてくれなのじゃ﹂
﹁やれやれ⋮⋮﹂
下着姿のオラクルが手を上げて、俺に服を着せろとせがむ、どこ
まで甘えるのか。
チッ、しかたないか⋮⋮。
今回はオラクルには働いてもらわなきゃならない、気分良く動い
てもらえるように、サービスしておく。
ちゃんと、例の覇王的なデカイ肩当のついた衣装を持ってきたの
だ。
﹁うむ、ダンジョンマスターオラクル、爆誕じゃな﹂
﹁爆誕って⋮⋮まあいい。生まれ変わった気持ちで、よろしく頼む
よ﹂
俺は、幌馬車を出るとオラクルちゃんを連れて、まず﹃試練の白
塔﹄の入り口に降り立つ。
五千人の冒険者が、入り口を出たり入ったりしている。モンスタ
ーの死体を運んだり解体したり、飯を作ったりとみんな忙しそうだ。
﹁オラクル、何か分かるか。ダンジョンの専門家として﹂
968
﹁うむ、腹が減ったのう﹂
俺は、調理場から急いで脂の乗ったオーク肉の一番いい部位を持
ってきて、オラクルの口にせっせと放り込む。
よく噛んで食べろ、おかわりもいいぞ、だからさっさと仕事して
くれ。
ガーディアン
﹁んむ、まあ、んぐ⋮⋮ゴクン。この白塔に、守護者ってあるじゃ
ろ、これがそれじゃな﹂
肉を食って満足したオラクルちゃんは、入り口にある大理石で出
来た身の丈三メートルはある、アーサマの巨大な女神像をポンポン
と台座を叩く。
﹁えっ、これが先生の言っていた強力なガーディアンなのか﹂
動き出すと聞いて、アーサマ像が手に持っている聖なる杖が、鈍
器に見えてきた。
道理で女神にしては、不気味な顔立ちをしてると思ったら、仁王
像的なゴーレムだったのか。
﹁石像だと思ったら、いきなり攻撃してくる門番のガーゴイルって
おるじゃろ。このゴーレムは、その亜種の技術で出来ておるな。条
コ
件に基づいた規則的なプログラムが入っておって、禁忌に触れた者
に襲いかかるようになっておるのじゃ﹂
オラクルちゃんは、台座をいじって中をパカっと開けた。
ンソール
ただの大理石の塊だと思っていたところに蓋があって、中から操
作卓が出てくる。
969
俺にも、操作卓に書かれている古代言語は読める。
かなり久しぶりに言語チートが役に立った。台座の操作卓は、こ
の白塔のシステムの入出力装置を兼ねているようだ。
アカウント
﹁下階の命令権では、これが限界じゃな﹂
コンソールを弄った、オラクルちゃんは、自由に女神像ゴーレム
を操ってみせる。
ちょっと触っただけで、この女神像ゴーレムはオラクルちゃんの
支配下に入ったのだ、さすがダンジョンマスター。
﹁すごいじゃないか﹂
アカウント
﹁まだまだじゃ、塔のシステム全体を支配下に治めようとすれば、
メインの命令権を手に入れなければならん。ここから一番近い場所
じゃと二十七階じゃな﹂
オラクルちゃんがそう言うので、とりあえず二十七階を目指すこ
とになった。
試しにとばかりに、オラクルちゃんが、女神像をリモート・コン
トロールしてオーガ・ロードの群れと戦わせていると、怒り狂った
姫騎士エレオノラが怒鳴りこんできた。
﹁エレオノラ、いま忙しいからあっちにいってろ﹂
不気味な顔をした身の丈三メートルの女神像は、かなり強い。
女神像が何度か聖なる杖を振り下ろしただけで、オーガ・ロード
と引き連れたオーガの群れが、トマトが潰れるような音を立てて、
床のシミになった。
ガーディアンは敵なら怖い存在だが、味方なら頼もしい。
970
ランクト公国への配慮の必要がなければ、ここで小うるさい姫騎
士も、一思いに女神像に捻り潰させたいぐらいだ。
﹁あんたたち、神聖なる﹃試練の白塔﹄に、何やっちゃってくれて
んのよぉ!﹂
﹁何って、俺たちは真っ当にダンジョン攻略してるだけだ、なあオ
ラクル﹂
俺とオラクルちゃんは、ウンウンと頷き合う。
オラクルが操作してる女神像も、ウンウンと頷く。
﹁こんな卑怯な攻略の仕方、やっていいわけないでしょ! この﹃
試練の白塔﹄は長い長い歴史と伝統があるのよ。女神が与える試練
を乗り越えることで、勇者を成長させるって大事な意味があるの。
こんなズルで、クリアしていいわけないでしょ!﹂
そう言われると、ちょっと後ろめたいな。
チートはズル、間違ってはいない。
﹁おい、小娘。いまズルと言ったか。ワシがやってる攻略法の何が
ズルなのじゃ﹂
ガーディアン
﹁だってそもそも五千人の傭兵団で攻め寄せるとか、システムを勝
手に書き換えて、守護者を使役するとか、全部めちゃくちゃじゃな
いの!﹂
まあ、姫騎士の言うこともわからんでもない、ちゃんと真面目に
やれって言うんだろ。
でも、オラクルちゃんは、そんな小娘の薄甘い理想論など歯牙に
もかけない。
971
﹁それらは、このダンジョンのルールで禁止されておらんもん。ワ
シらはなんらズルをしておるわけではないのじゃ﹂
﹁そんなこと言われても、普通の常識で考えなさいよ﹂
こちらをどなたと心得る、信頼と実績のオラクルちゃん大先生だ
ぞ。
マエストロ
ただの魔族の少女に見えても、三百年ダンジョンマスターやって
きた専門家なのだ。
﹁よいか小娘、これはな、ダンジョンマスターのワシと、既に亡く
なった古の女王リリエラとか言う塔主との真剣勝負なのじゃ。この
﹃試練の白塔﹄の塔主は、臨機応変な対応ができるワシのような有
機的なマスターを残さずに、凝り固まったルールと無機的なシステ
ムのみで、塔を守ろうとした﹂
﹁それがどうしたのよ﹂
セキュリティーホール
クリエイト
﹁そこが弱点じゃ。この塔の主は、ワシという不確定要素を想定し
きれなかった段階で、負けておる。ダンジョン創造とは、お互いの
知力と体力と想像力の限りを尽くした高度な知的遊戯であり、総合
芸術なのじゃ。攻略に全力を出さんほうが冒涜と言えよう。何も分
からん小娘が、横から口を挟むなど、おこがましい!﹂
﹁うっ、うう⋮⋮﹂
完全に言い負かされた姫騎士は、言葉をつまらせた。
分かったなら、お帰りはあちらですよ、エレオノラ公姫様。
﹁シレジエの勇者ぁ!﹂
﹁はい?﹂
サーベル
エレオノラが、直刀を抜刀して、俺に向かってきた。
972
なんで俺だよ、言い負かされたからって、いきなり実力行使とか
どんだけだ!
﹁あっ、あんたが止めないのが悪い!﹂
﹁なんだよ全く﹂
光の剣では、サクッと直刀ごと切れてしまうし、万が一殺してし
まってはマズイので、左手の中立の剣で受け止めた。
鈍い銀色に輝く中立の剣は、光や闇の剣よりも繊細に力の加減が
できるのだ。
まあ、力の加減が出来るほどに、姫騎士エレオノラの切り込みが
遅いし浅いってことがある。
姫騎士が相手なら、舐めプレイでいたぶって殺さないように、ボ
コボコにして瀕死の重症を負わせることも可能だろう。
﹁お前、泣いてるのか⋮⋮﹂
﹁試練のはぐどうは、わだしの!﹂
ウザッ、なんで、泣くんだよ。泣くほどのことか。
エレオノラはまだ若く見えるが、この世界は十五歳成人なんだか
ら、もういい大人のはずだろ。
百歩譲って、まだションベン臭いガキなのはいいとしよう。
女騎士としてしっかり訓練を受けて、気に食わないことがあると
殺しにかかってくる身体は大人、精神的な子供って嫌すぎる。
﹁なんだよ、何が気に食わない、切り込みの前に話し合え!﹂
﹁ゆうじゃああっ!﹂
973
明らかに力量の差があるのに、ガッツンガッツン切りかかってく
るエレオノラをなんとかなだめて、怒ってる理由を聞き出してみる。
ああもう、お守りは面倒だな。
ようはコイツが言いたかったことをまとめると、﹃試練の白塔﹄
は、エレオノラが騎士見習い時代から何度も通って訓練した思い出
の場所であり。
女王リリエラや、この白塔に挑んで行った偉大なる勇者や憧れの
騎士の伝説が汚されるようで、どうしても許せなかったそうだ。
お前の勝手な思い入れとか知らねえよ!
どこまで面倒な姫騎士だ、俺はおもいっきり彼女の直刀を弾き飛
ばす。
﹁じゃあ、決闘してやるよ、剣で決着つければいいだろ﹂
﹁ええ?﹂
泣きじゃくってる碧い瞳を手でぬぐって、エレオノラがこっちを
少し驚いた顔で見てくる。
なんでびっくりしてんだよ、もうすでに切りかかって来てるんだ
から、本来なら戦争なんだぞ。
﹁エレオノラ、お前が納得行かないのは、分かった。騎士の決闘で
白黒はっきりさせようじゃないか﹂
﹁ふっ、ふん⋮⋮本当に良いのね。卑怯な手を使わない騎士の決闘
なら、私は負けないから!﹂
これだけの歴然とした力の差がありながら、どうして負けないと
思えるのか。
不屈の精神のようでいて、姫騎士エレオノラのこれは、ただの子
974
供のわがままだ。
﹁こうなったら、徹底的に試合して、お前が参ったというまで叩き
のめしてやる﹂
﹁こっちこそ望むところよ、あんたみたいな勇者の風上にも置けな
い卑怯者、成敗してやる!﹂
誰かが、この公姫の高い鼻っ柱を折ってやらないといけなかった
のだ。
セネシャル
いい加減、言動が腹に据えかねるし、お嬢様のわがままに付き合
わされる重装騎士隊とか、執事騎士カトーさんが可哀想だから、俺
がやってやる。
﹁スマンが、オラクル。ダンジョン探索の方の続きを頼むぞ﹂
﹁おう、タケルがそこのクソ生意気な小娘と遊んでいる間もやっと
くから、お尻ぺんぺんしてやると良いのじゃ﹂
オラクルちゃんは、巨大な女神像の肩の上に乗って、白塔の奥へ
と進んでいった。
ガラン傭兵団も、各チームごとに分かれて、エリア攻略を休みな
く進めているので、しばらく俺の出番はないだろ。
どんなに使えなさそうな者にも、有効な資源としての役割を見つ
けるのが、商人である。
姫騎士エレオノラの打たれ強さを見て、俺は対フリード戦訓練の
ための、サンドバッグとして利用することを考えた。
いい加減、この姫騎士のわがままっぷりに、苛立ちが我慢しきれ
なくなったということもあるが。
観戦将軍をやってるより、サンドバッグ相手に素振りでもしてた
975
ほうが楽しいかもしれない。
塔の入り口から、ちょっと横にいったところに、おあつらえ向き
の建造物がある。
コロッセオ
さすがは﹃試練の白塔﹄、崩れかけたアーチ型の遺跡が囲み、決
闘にはおあつらえ向きに、小さな闘技場があるのだ。
休憩中に飯を食いながら見学している傭兵たちや、俺の近衛であ
る奴隷少女たちが見守る中で、エレオノラとの決闘を始めることに
した。
そこで心配そうな顔をしたリアが、俺に駆け寄ってくる。
﹁どうしたリア、姫騎士とキャラ被ってることを危惧してるのか﹂
まあ、容姿が似てるわけじゃないから。
柔らかい感じの金髪と碧眼しか被ってないが。
﹁わたくしの勇者さま、いよいよ是非もなく、騎士エレオノラと決
闘なのですね﹂
いや、なんで姫騎士相手ごときで、シリアスの空気出してくるん
だ。
意図が読めないので、俺は嫌な予感がして、腰が引けた。
﹁お、おう⋮⋮、まあ、怪我させるだろうからリアは霊薬を準備し
て﹂
﹁では、勇者にアーサマの祝福を授けます﹂
そう言いながら、慈愛に満ちた微笑みで手を広げると、ゆっくり
と俺に歩み寄ってきた聖女は、いきなり野獣に変わった。
976
いきなり俺の顔をガシッと掴んだかと思うと、ブチューと熱烈な
キスをしてくる。
﹁んんー!﹂
いきなりの不意打ちに目がくらむ。
こいつなんて、呼吸、間合い、スピード、パワー、的確さだ。
今のが斬撃なら俺は死んでいた、絶対お前が決闘したほうが強い
だろ。
あと、無理やり舌を入れてこようとするな!
﹁チュプ⋮⋮、祝福のキス完了しました﹂
﹁おま、おまえ⋮⋮﹂
くっそ、来るかもしれないと予想できたはずなのに、完全に油断
した。
唇を手でさすって、満足気に笑いやがって、これがやりたかった
だけだろ。
﹁決闘の前に女とイチャつくとは、舐めた真似してくれるわね⋮⋮﹂
リアのやらかした茶番劇を見て、姫騎士エレオノラが、炎の鎧を
燃え立たせている。
静かな闘気が陽炎のように立ち上り、真剣に怒っているようだ、
多少は手応えのある敵になれば好都合か。
﹁さてと⋮⋮エレオノラ。得物は何でもいい、好きに選べ。俺は、
二刀流を使わせてもらう﹂
977
俺は﹃黒杉の木刀﹄を二振り手にとった。エレオノラが俺の黒い
木剣をチラリと見て、与し易いと侮る空気を出したのを感じる。
どこまでもダメな奴だ、あれだけ戦っておいて、黒杉の木剣が鋼
鉄を超える強度があるとぜんぜん理解していないだろ。
サーベル
﹁じゃあ、私も二刀で行く。この愛用の直刀二振りで、これは試合
だけど先に謝っておくわね。万が一、殺してしまったらごめんなさ
い﹂
﹁ああ、どっからでもかかってこい﹂
何が殺してしまったら、だ。こいつ、彼我の力量の差が分かって
ないにも程がある。
まあ、相手も二刀流なのは好都合だ。フリードも、そう来るだろ
うから、良い模擬訓練になる。
﹁ゲルマニクス流剣術、エレオノラ・ランクト・アムマイン、参る
!﹂
﹁ほう!﹂
まるで、叩きつけるような大振りの二回連続攻撃、俺は難なく木
剣で受け流すが、ゲルマニクス流とは。
フリードが使う皇帝剣術を、エレオノラも使うのか、さすがは将
軍クラスの上流貴族だな。
﹁ゲルマニクス流、烈皇剣!﹂
防御を顧みない、激しい斬撃の型には、確かに見覚えがある。
対フリード戦に備えて、俺も剣術家のルイーズに教えてもらった
のだが、ゲルマニクス流は、ゲルマニア帝室の開祖が自ら極めた西
洋剣術の流派に当たる。
978
このように相手を大振りで叩き伏せるか、ピンポイントで弱い箇
所を狙う突き技が主体で、防御を顧みない二刀流で戦うこともある。
皇族や王族は、金に飽かして防御力の高い魔法鎧を着ているので、
これが合理的なのだ。
さてと、前は突き技を鍛錬したので、今度は基礎からやるか。
﹁北辰一刀流、円流⋮⋮﹂
俺は円を描く様に刀を動かし、相手の剣を滑らかに受け流す。
基本防御技で、二刀流でも応用して使える。
﹁このぉ、ちょこまかと!﹂
﹁ほらほら、どうした﹂
しかし、姫騎士エレオノラは、本当にすぐフェイントにすぐ引っ
かかる。
翻弄するのが簡単すぎて、高度な技の鍛錬にはならないな、気を
静めて基本技の型の精度をあげよう。
俺は、円流で、エレオノラの無防備な大振りの攻撃を受け流し続
けた。
肩で息をするほどに疲弊しているのに、エレオノラは斬撃の手を
止めない。
剣を合わせていると、相手の性格がよく分かる。
こいつは直情的でまっすぐなのだ。この世に絶対的な正義がある
と、子供のように信じている。
979
その純真さは、ただ付き従うだけの兵士なら、美徳にすらなる資
質かもしれない。
しかし、人を従える騎士としては未熟で、一軍の指揮官としては
最低といえる。
﹁はっ⋮⋮、はっ、このぉ、このぉ! バカにしてぇ!﹂
﹁ふむ、少し休憩を入れるか?﹂
疲労の極みに達しているエレオノラは、動きが単調になりすぎて
いる。
こっちは受け流す型の訓練をしているだけだから、これでは百年
経っても同じ事の繰り返しだろう。
﹁ふざけるなぁぁあああっ! ゲルマニクス流 三段突き!﹂
おっ、ちょっとは変化をつけてきたな、気迫だけは、いいんだよ。
でも、エレオノラ。そんな技の使い方じゃ、皇帝剣が泣くぞ。
﹁北辰一刀流、二段突き!﹂
姫騎士の三連続攻撃の一撃目を軽くかわして、あとの二突きを跳
ね除ける。
突き技は、その前に相手にフェイントいれて構えを崩さなきゃ、
意味ないだろ。
だから、二段突きで簡単に跳ね除けられるんだ。
じきしんかげりゅう
﹁うああぁぁ、三段突き! 三段突き!﹂
﹁直心影流奥義 八相発破!﹂
980
ついにブチギレたエレオノラが、両手で無闇矢鱈に五月雨撃ち、
当たるかよ。
俺はエレオノラの五月雨撃ちを、八相発破で全て弾き飛ばすと、
余勢を駆って炎の鎧の胸を思いっきり突き上げてやった。
﹁ぎゃああぁぁ﹂
土手っ腹に突きが三発は命中して、派手に後ろに吹き飛ばされる
エレオノラ。
いま空中を飛んでたよな、ちょっと笑った。
﹁おい、大丈夫か﹂
﹁まだ⋮⋮、まだまだぁぁ!﹂
いいな、この打たれ強さだけはいい。
よし、どこまで耐えるか試してやろう。
﹁北辰一刀流、流星!﹂
俺は右足を踏み込み、左足を下り曲げて下段から相手の小手を狙
うと見せかけ、飛び上がって上段から相手を斬る。
とっさに反応して防御するエレオノラだが、ほら頭がお留守です
よ。
バシーンと、肩口に気持ちいい大技が決まる。
どうせこっちは訓練のつもりだし、さすがに脳天唐竹割りは勘弁
してやった。
﹁卑怯な!﹂
﹁フェイントは、卑怯じゃないんだよ。戦場でそんなことを言って
981
るうちに、お前のその防具がなかったら、何回死んでると思ってん
だ﹂
戦場では、不意打ち上等だろ、常識がないのはエレオノラの方だ。
副将まで経験してる、女騎士がなにいってんだ。
こいつ、本当に騎士教育受けたのかな。
金を使って、裏口入学なんじゃないのかと疑問に思う。
﹁私は、あんたみたいな卑怯な勇者に絶対負けないぃぃ!﹂
イラッと来る、やっぱりこいつ、俺の嗜虐心を刺激するところが
ある。
よし、どこまで耐えられるか、やってやる。
﹁北辰一刀流奥義、星王剣!﹂
極度の集中により、ただでさえ緩慢なエレオノラの動きが止まっ
て見える。
十分に溜まった気勢を二刀に充溢させて、エレオノラの剣をかい
くぐって、胴体におもいっきり叩き込んだ。
エレオノラは、もはや悲鳴を上げることすらできず、闘技場の端
まで吹き飛んで、崩れかけた遺跡の壁にめり込んだ。
刃がないとはいえ黒杉は鉄より硬い、普通の人間なら死ねる威力
の斬撃だろう、まあ丈夫なコイツなら大丈夫だが。
﹁どうだ、まだくるか﹂
﹁まだまだ⋮⋮私は負けない!﹂
982
ここまで力の差を見せつけても、蒼い瞳に闘志を燃やして、ボロ
ブレード
ボロになりながらまだ立ち上がってくる。
落ちた直刀を拾い、切りかかってきた。
﹁ゆうしゃああああっ!﹂
﹁気迫に技が伴わないって悲しいな﹂
俺は、エレオノラの渾身の切り込みを円流で受け流すと、そのま
ま上体を逸らして力を後ろに流してやった。
エレオノラは、そのまま前に転んでしまう、地べたに這いつくば
る無様。
﹁お前、試合の前に、もうちょっと鍛錬をだな﹂
﹁まだああぁぁ!﹂
姫騎士の心はまだ折れない、土にまみれながらもまた得物の直刀
を拾い、何度でも何度でもゾンビのように立ち上がってくる。
ここまでの鬼気迫る斬撃にはちょっと引く。この無駄なエネルギ
ー、発電とかに有効利用できないだろうか、姫騎士発電⋮⋮無理か。
﹁しょうがないな、星王剣! 星王剣! 星王剣!﹂
俺は姫騎士の直刀を無造作に払いのけて、肩に、胴に、篭手に、
狙った場所に的確に斬撃を当て続ける。
動く的を使い、技の精度を高める訓練だ、相手は死ぬ。
﹁ぎゃあああ、私の剣がぁ!﹂
もう何合打ち合ったか忘れてしまったが、ついに耐え切れず姫騎
士の直刀が、ぼっきりと折れてしまった。
983
炎の鎧は丈夫なマジックアイテムだが、直刀はただの鋼鉄製だ、
そりゃ黒杉と打ち合ってたらいつかは折れる。
﹁心より先に剣が折れたか、お前も強情なやつだ﹂
﹁まだあぁぁ!﹂
せっかく俺が、健闘を認めて終わりのムードだしてやったのに、
折れた剣でさらに向かってくる。
不屈の精神、シャルル・ドゴールかお前は。これでもう少し分を
わきまえれば、良将にだって成れるんだろうに。
折れた剣も粉々に砕いてやったら、今度は柄を投げつけて、その
まま殴りかかってくる。
うあ、もう、これどう相手しようか。
﹁いてっ、むちゃくちゃするなよ﹂
﹁うあああああっ!﹂
さすがに素手の女の子相手に、剣を振るうわけにも行かず、俺も
刀を捨てて拳闘で戦ってみたけど。
こいつ、パンチのほうが重くて強い。まさか当てられるとは思わ
なかった、こっちもミスリルの鎧がなければやばかった。
ただの直刀より、炎の鎧の篭手の方が高性能だからか、意外な発
見だった。
お前、ボクサーになったほうがいいぞ。
﹁しかし、剣じゃないと訓練にならないから、ウザいだけなんだけ
ど﹂
﹁しねえエエェ﹂
984
もう騎士の決闘じゃないじゃん。ボクシングの試合じゃないんだ
ろ。
﹁くそ、しょうがねえ﹂
﹁うあああああっ!﹂
重い拳でも、攻撃が単調なことに違いはない。フェイントしかけ
て、足を払って転がしてやった。
そのまま腕を取って、親指側におもいっきりひねる、細かい技術
がなくてもこれで十分関節が決まる。
﹁エレオノラ、降参しないと、腕を折るぞ!﹂
﹁折れ!﹂
そうかよ、こいつは折らないと思ってるかもしれないから、本当
に折ってやる。
そのまま力を込めると、ボキッっと重い音が響いて、腕がブラン
とあり得ない方向に曲がった。
﹁ぎゃあぁぁ、いったぁぁ、折ったぁ!﹂
﹁そりゃ折るよ﹂
真剣にやってるんだぞ、舐めてんのか。
力任せにやったから、骨が折れたのか関節が外れただけなのかよ
く分からんが、どっちにしろ痛いだろうな。
﹁いたああいぃ﹂
﹁ああもう、泣くぐらい痛かったら、さっさと降参しろ!﹂
985
﹁いやだ、ぜったいごうざんじない﹂
﹁ああもう⋮⋮﹂
剣を折っても、腕を折っても、コイツの心は折れない。
どうすりゃいいのか、考えた結果、俺は姫騎士エレオノラの胴体
を押さえつけて、魔法のかかったマントを剥ぎとって、炎の鎧の金
具をおもむろに外し始めた。
何をするかって?
脱がす!
986
73.お仕置き
だいたい、こんな強力な炎の鎧を着てるから、自分の力を過信す
るのだ。
魔法のかかったマントを剥ぎ取り、炎の鎧を脱がせれば、姫騎士
エレオノラもただの女の子に過ぎない。
普通の人間なら炎の鎧は絶対に脱がせないが、俺の火炎抵抗も極
まっている。
なんなく激しい炎で焼け付く金具を外し、鎧の胴体をパッカリと
開いたところで気がつく。
﹁お前なんで、下着姿なんだよ﹂
﹁鎧の中、熱いからっ、アツゥ!﹂
あっ、そうか。鎧が燃え盛ってる時に無理に脱がしたら、生身の
コイツは抵抗力がないんだから火傷してしまう。
俺は慌てて、炎の鎧の鎧を全部引っぺがす。鎧の下は、絹のブラ
とショーツしか付けてない。
﹁ちっ、痴漢! 変態! 変態勇者!﹂
﹁俺が悪いのか、いや、でもこれはお前⋮⋮﹂
この手のスーツの下は、下着とかよくあることだから、しょうが
ないとはいえるが。
脱がさないと、もっと酷い火傷してたんだぞ。
﹁止めて、乱暴にしないで!﹂
987
﹁そんなこと言ってる場合か、お前本当に余裕あるな﹂
腕がポッキリいってて、身体の所々が焼け焦げてるのに、まだ心
が折れないのかよ。
姫騎士のことなんかどうでもいいけど、さすがに女の子の肌が火
傷を負っているのは、見てるだけで痛々しくてキツい。
エリクサー
俺はベルトのポーチから霊薬を取り出すと、姫騎士にくれてやる
ことにした。
﹁なあ、勝ち負けは後にしていいから、霊薬飲んで治せよ﹂
﹁いやよ、敵の施しなんか受けない!﹂
エリクサー
カチンと来た俺は、なおも暴れるエレオノラのマウント取って強
引に押さえつけると。
折れた腕をなるべく繋ぐようにしてから、霊薬の瓶を口に無理や
り突っ込んで、注ぎこんでやる。
﹁ほら飲め!﹂
﹁ゴボァ、いや⋮⋮﹂
優しくするつもりはない、治すのは俺の勝手だ、無理矢理にでも
飲ませてやる。
まだ抵抗するか! 俺は霊薬を吐き出そうとするエレオノラのホ
ッペタを掴んで、強引に飲み下させた。
﹁ほら、抵抗すんな、全部飲み込め!﹂
﹁うぐっ⋮⋮﹂
こうして口を押さえつければ、飲まないと息ができないからね。
988
ようやくエレオノラの喉がゴクリと動いて、腕が繋がり、肌の火
傷が綺麗になっていくのが見て取れた。ふうっ、手間をかけさせて
くれる。
無理やり飲ませたせいか、エレオノラは、瞳に涙を浮かべて苦し
そうにゲホゲホと咽ている。ちょっと可哀想だったけど、お前が変
に抵抗するのが悪いんだからな。
だいたい今の霊薬、店で買ったらいくらすると思ってんだ、こぼ
したらもったいないだろ。
﹁ほらもう、降参しろよ。参ったって言えば終わりだろ﹂
﹁くっ⋮⋮誰が、あんたみたいな男に!﹂
完全にマウントを取られて、身動きできない状態に追い込んで、
まだ負けを認めないのか。
下手に回復させちゃったのがまずかったのかな。
あと下着姿の女の子を組み敷いているのは、ちょっと絵的にきつ
いな。
俺はもうリアのせいで、抵抗力がついてしまって、俺はこの程度
なんとも思わんがこの決闘は、ギャラリーが居る手前⋮⋮。
周りにいる傭兵たちは大盛りあがりで、ピューピュー口笛を吹い
たり。
﹁そこだもっと脱がせー!﹂﹁勇者様もっとやれー﹂とか、勝手な
ことを口々に叫んでいる。つか﹁脱がせ﹂コールするな、そういう
ショーじゃねーんだよ。
一方で、奴隷少女たちの俺を見る目が厳しいものになってきてい
る、これはやばい。
989
早く終わらさないと。
﹁おおおっ?﹂
﹁勇者ぁ!﹂
ぬわ、周りに気を取られた隙に、足首を掴まれてひねられた。
俺は思わずバランスを崩して、馬乗りの姿勢からグルっと転げ落
ちる。この女、体術も使えたのか、逆に伸し掛かってマウントを取
ってこようとする。
﹁させるかよ!﹂
﹁まだだ、まだ終わらせない!﹂
所詮は俺も、勇者補正がかかっているだけで、格闘技術は素人。
お互いに不慣れな技の掛け合いをしているうちに、もうむちゃく
ちゃの、もみくちゃになった。
﹁負けを認めろ!﹂
﹁いやだー絶対いやだっ!﹂
頭をおもいっきり地面にすりつけてやって、綺麗な金髪を土にま
みれさせても、まだ姫騎士の心は折れない。
なんかもつれあってるうちに、エレオノラの尻が、ドアップで俺
の前に来てるんだけど。
﹁エレオノラ、お前、ケツがデカいな⋮⋮﹂
﹁いっそ、殺せぇぇ!!﹂
完全に怒らせてしまった、さらに凶暴に暴れるので大変なことに
なる。
990
もうこれ、どうしたら終わるんだよ!
﹁エレオノラ、周りを見てみろ、お前みんなにそんな格好見られて
恥ずかしくないのかよ﹂
﹁うあああっ、しっ、舌噛んで、死んでやる!﹂
恥辱を与えて負けさせようとしたら、それを通り越して自殺宣言
かよ。
さすがに死なれるとマズイ、俺はハンカチをエレオノラの口に詰
めて、舌を噛むのを防いだ。
﹁んんー! んんー!﹂
﹁降参なら地面をタップしろ﹂
綺麗な顔を土まみれにさせて、涙を流しているのに、首をブンブ
ンと横に振って不服従の姿勢を崩さない。
﹁そうかよ⋮⋮じゃあこうしてやる﹂
﹁ッ!﹂
俺は片手でエレオノラを両腕を押さえ込みながら、もう一方の手
で、おもいっきりエレオノラの脇腹をくすぐってやった。
エレオノラの身体が小刻みに震える、痛みには耐えられても、く
すぐりには耐えられまい。
﹁ほらほら、降参するならいまのうちだぞ!﹂
﹁うっ! うっ!﹂
口にハンカチの塊を押し込まれているエレオノラは、ファンファ
ン鳴くようにうわ言を口にしているが、それを無視して徹底的にく
991
すぐり倒す。
肌の震えの感じで、これにも彼女が必死に耐えているのが伝わっ
てくる、もうこっちも意地だ。こいつが参ったと言うまで、くすぐ
るのをやめない!
﹁ファン! ファ! ファー!﹂
くぐもったエレオノラの悲鳴をBGMにしながら、俺は脇腹を全
力でくすぐりあげた。
脇腹だけではない、抵抗が弱まったのを良いことに、もう両方の
手を使って脇の凹んだところや、腕や、太ももから足の付根に至る
まで、反応を見ながら弱いところを探してくすぐりあげた。
﹁ファ⋮⋮ファ⋮⋮﹂
それでもまだ、身体を揺すぶりながら逃げようとエレオノラも、
次第に身動きが弱まっていく。
脇腹の上の方に弱いポイントがあるとわかってから、そこを集中
的に思いっきりくすぐってやったら、怖いほどに押さえつけている
身体が痙攣したが、いずれその震えも止まり、やけに静かになった。
﹁おい、そろそろ降参⋮⋮、おい?﹂
さっきまで、喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げていたエレオ
ノラが、完全に沈黙している。
やばい、やりすぎてしまったか。
慌てて、口の中に押し込んでいるハンカチを外すと、ピンク色の
舌が、半開きのままの唇からベロンと飛び出して、大量のヨダレが
そのままダラリと口元を伝った、生きてる人間の反応じゃない。
992
﹁これは、まずったかな⋮⋮﹂
エレオノラの顔は、激しい苦悶を通り越して、完全に呆然自失だ
った。
顔どころか肩口まで紅潮しているが、碧い瞳は色を失い、虚空を
見つめるよう焦点があっていない。
﹁というかこれ、瞳孔が開いちゃって、エレオノラさん、死んでな
いよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
返事がない、しかばねのようだ。
やば⋮⋮。
俺は救いを求めるように、周りを見回すが、さっきまであれほど
もっとやれと煽って﹁脱がせ﹂コールで盛り上がっていた傭兵たち
が、シーンと押し黙っている。
俺が目を向けると、みんな気まずそうにソッポを向く。
傭兵たちは、﹁おーし、みんなそろそろ休憩終わりだから行こう
ぜ﹂みたいな空気で、ダンジョン攻略に戻っていく。
えー。
あれ、俺やっぱり、コレやっちゃった感じなの?
奴隷少女の群れを掻き分けて、シャロンがやってくると、抱えた
白いシーツを広げて、エレオノラの身体にかぶせた。
993
﹁ごめんシャロン、悪いけど、そいつ介抱してやってくれるか﹂
﹁ご主人様、これはいくらなんでも、やりすぎですよ﹂
うん、分かるよ。
なんかイラッと来たにしても、俺も大人気なかったよね、なんか
やりだすと止まらなくなったというか、うん。
﹁あっ!﹂
失神状態のエレオノラを介抱していた、シャロンが驚いた声をあ
げるので、俺も驚いた。
﹁えっ、もしかして、なんかやばかった﹂
﹁あのご主人様⋮⋮﹂
シャロンは、キョロキョロと周りを見回すと、俺に耳打ちして小
声で囁いた。
﹁エレオノラさん、失禁してます﹂
﹁ごめん⋮⋮﹂
﹁謝るなら、彼女に謝ってあげてください﹂
﹁うんまあ、そうする﹂
姫騎士の粗相を処理しなきゃいけないシャロンにも申し訳ない、
お仕置きにしてもやりすぎてしまった。
今後の反省点として生かしていくので、成仏してくれエレオノラ。
※※※
994
デカい合成弓を背負った、見覚えのある緑ローブの金髪兄ちゃん
が、﹁お∼い﹂と手を振って俺の方にやってくる。
なんだ、傭兵に混じってさっきの見てたのか、ウェイク。
﹁勇者元気そうでなによりだが、お前いっつもすげえ面白いことや
ってんのな。毎回会うのが楽しみでしょうがないわ﹂
﹁ウェイク、久しぶりなのに、なんか恥ずかしいところを見せちゃ
ったな﹂
クックッと鳥が鳴くような独特な笑い声をあげてやってきた、盗
賊ギルドの王ウェイク・ザ・ウェイクは、俺の肩を親しげに触れて、
握手する。
その隣には、紫の長い髪を垂らしたネネカもついてきている。俺
にペコリと頭をさげた。
スカウト
ガラン傭兵団には元盗賊もいるため、ネネカたち密偵は塔攻略に
必要なかった。
そのため、ゲルマニアの各地を回って、俺たちが塔攻略している
間に帝国軍が動き出さないかを偵察してもらっているのだ。
﹁勇者様、今のところ帝都の帝国本陣に変わった動きはありません、
他の業務も抜かりなく進んでおります﹂
﹁そうか、ネネカ。引き続き頼むよ﹂
ネネカたちが敵の動きを監視していてくれるから、俺たちも安心
して塔攻略に勤しめているわけだ。
みせもの
﹁しかし、面白い決闘を見せてもらったけど、すげえソソる姉ちゃ
んだな。好みだわ、こういう強情そうな女騎士﹂
﹁そうか、なら口説いて見るといいんじゃないか﹂
995
姫騎士エレオノラは、婿の来手がない状態らしいぞ。稀代の盗賊
王なら、公爵令嬢と見合う相手と言えるかもしれない。
ウェイクは、俺にそう言われてまた一笑した、やたらさっきの決
闘が面白かったらしい。
﹁まあ止めとくさ。俺はこう見えて臆病だから、友達の女には手を
出さないようにしてるんだ。トラブルの元だからな﹂
﹁いや、ウェイク勘違いするな。この姫騎士はそういうんじゃない
から、むしろ敵同士だからね!﹂
いや、ウェイク。うんうん、わかったわかったじゃねーよ、俺の
話を聞け。
﹁まったく、勇者はいい女ばかり侍らせて羨ましいぜ。ネネカもこ
れで情の深い女だから、ゆっくり口説き落とそうと思ってたのに、
先を越されちまったしなあ﹂
﹁いや、ウェイク話を聞けって、ネネカも違うから﹂
ふーんとウェイクは含み笑いすると、ネネカの首に巻いているス
カーフを指で引っ掛けて解いた。さすが、盗賊らしい鮮やかな手つ
き。
﹁きゃ!﹂
﹁なあ、せっかく口説こうと思ったのに、こんなの見えちゃったら
がっかりだよ﹂
ネネカのスカーフの下には、﹃佐渡タケルの奴隷﹄と刻印された
奴隷の首輪が巻かれている。
あー、これ確かだいぶ前に渡したけど、そういう意味じゃないし。
996
これがそういう意味だったら、うちの商会の奴隷少女みんな付けて
るんだからマズイだろ。
﹁なあ、いっそさ、あの金髪の女騎士の首にも、お前の奴隷の首輪
つけてやったら面白く無いか?﹂
﹁えっ、うーん﹂
いや、いまそういう話をしてるんじゃないんだが。
ウェイク⋮⋮あんまり人の話聞かないよな。基本的に、自分が興
味あることにしか関わらないし、自由な奴だからしょうがないが。
﹁勇者はさ、このこまっしゃくれた貴族のお嬢ちゃんの鼻っ柱を折
りたいんだろ。だったら気絶してる間に、奴隷の首輪つけてやった
ら折れるんじゃないか。俺、鍵がないと絶対外せない﹃呪いの錠﹄
持ってるぜ﹂
﹁ウェイク、お前も人が悪いなあ⋮⋮﹂
﹁盗賊に、なにいってんだよ、悪いに決まってんだろ﹂
そういってウェイクは白い歯を見せる、確かに悪そうな笑いだな。
﹁いやでも、俺もさっきのは、さすがにやり過ぎたって反省したと
こなんだけど﹂
正直なところ、ウェイクの提案は面白そうだとは思うけど。
さっきやり過ぎて、シャロンに怒られちゃったところだしなあ。
﹁想像してみろよ、この誇り高い騎士様が、起きたら奴隷の首輪つ
いてて外れないんだぜ⋮⋮﹂
﹁プッ⋮⋮﹂
997
起きたら奴隷の首輪が付いてて外れないとか、たぶんエレオノラ
は発狂する、かなり面白そうだ。
考えてみれば、首輪の錠の鍵と交換にエレオノラに負けを認めさ
せて、もう挑んでくるなって約束させるのも悪くない。
ウェイクは、魔道具ではなくマイナスの効果がある変わった呪具
ばかり欲しがってコレクションしているのだが、使い道があるって
言ってたのはこういう時のためか。
なるほど、ネガティブ攻撃には、持って来いの呪いのアイテムだ
な。
﹁というわけで、シャロン﹂
﹁なっ、ご主人様⋮⋮。これ以上は、やりすぎだと思います。もう
本当にどうなっても知りませんよ!﹂
まあまあと、なんとかシャロン言いくるめて。
俺は、気絶してるエレオノラに奴隷の首輪をハメて、鍵がないと
外せない錠を仕掛けた。
さすがにここまでやったら、不屈の姫騎士だって折れるに違いな
い。
奴隷の首輪は、その用途のために、大きく目立つデザインになっ
ている。気位の高い姫騎士がこんな首輪つけたら、恥ずかしくて街
も歩けないはずだ。
土下座して、俺に﹁首輪を外してください﹂とお願いする姫騎士
の姿が見れるかと思うと、今から楽しみである。
998
74.白塔二十七階
なぜか、俺が迷宮探索を始めると毎回遊びに来る盗賊王ウェイク
の加入もあって、順調に進む。
ウェイクを連れて、白塔の二十階の階段を登ったところが今の前
線らしく、ライル先生が陣頭指揮していた。
﹁あっ、ウェイク殿。この度はお力添え、誠にありがとうございま
した﹂
ライル先生が、ウェイクの顔を見るなり、襟を正して深々と頭を
下げた。ウェイクは、おい言うなって感じで、さっと手で制した。
あれ、ウェイクなんかしてくれたんですか。
﹁タケル殿、彼はあの戦争の最中に、盗賊ギルドを率いて帝国の領
邦を攻めつづけてくれていたんですよ、側面攻撃の援護はかなり助
かりました﹂
﹁へー、そうなんですか、ありがたいですね﹂
﹁違う! 変な勘違いするな勇者。盗賊ギルドは、国家間の争いに
は介入しない。俺は戦争の手助けなんかしてない﹂
﹁ふーん﹂
﹁違うぞ、戦争で領地を空にしてる間抜けな領主が多かったから、
俺は俺の都合で、襲いまくってやっただけだ﹂
ウェイクは、もう言うなよとさっさと手を振って、階段を登って
先に行ってしまった。
999
何の八つ当たりなのか、追いかけて二十一階に登ったら、ウェイ
クは最前線で湧いている敵のストーンゴーレムの頭を、﹃反逆の魔
弾﹄で黙って撃ち抜き続けてる。
なんていうか、ツンデレだな⋮⋮。
まあ、盗賊ギルドの建前もあるのだろうが、ありがたいことだ。
最前線では、オラクルちゃんが操作盤を持って、例の不気味な女
神像︵あの女版仁王様みたいなのをアーサマ像って呼ぶのは、ちょ
っとアーサマに怒られそうな気がする︶を三体も使役して、ストー
ンゴーレムを叩き潰している。
ふぅ、一汗かいたみたいな感じで、俺のところに来るオラクルち
ゃん。
頑張ってるのは分かるけど、リモコン操作してただけだよね。
﹁タケル。例の小娘騎士との遊びは、もう終わったんじゃな﹂
﹁対人訓練のつもりの決闘だったんだけど、まあ、遊びになっちゃ
ったな﹂
﹁ちょうどいいタイミングじゃ、このペースだとあと一時間もすれ
ば、二十七階まで到達できるんじゃないか﹂
﹁なんか、すごく早いな﹂
そういえば、俺が姫騎士を軽く揉んでやってる間に、すでに二十
一階まで到達してるってスピーディー過ぎるんじゃないか。
コンソール
﹁オラクル大洞穴と比べると、ここはフロアの大きさが小さいから
の。あとマップ情報を下階の操作盤から引き出してるから、階段か
ら階段まで最短で進めているってこともあるじゃろう﹂
1000
﹁ほとんど、オラクルのおかげだな﹂
オラクルちゃんは、謙遜なのかなんなのか、白いツインテールを
横に振る。
﹁いや、やはり冒険者五千人の力は大きいじゃろ。完全にノンスト
ップじゃからな、おいそこは右の部屋に進むのじゃ!﹂
おおよそ十人づつの小隊に分けて、小隊五百組が交代で先頭に立
って進んでいく。一般兵士に比べて、冒険者の強みは個人技に強い
ことだ。
狭い場所で、小規模戦闘が延々と続いていく迷宮攻略こそ、傭兵
団の最も得意とする戦場と言えるかもしれない。
兵站を重視するうちの軍団は、中継地点のキャンプを多数設けて、
バックアップ態勢も万全なので、ほとんど犠牲を出すこと無く進軍
することができる。
﹁それにしても、やけにゴーレムの多い迷宮じゃ﹂
﹁そういえばそうだな﹂
こうしてオラクルちゃんと前線に赴いてみると、出てくるモンス
ターが全てゴーレムなのは異常だ。
フレッシュゴーレム、ボーンゴーレム、ストーンゴーレム、アイ
アンゴーレム⋮⋮。
﹁超長期的に迷宮を持たせようと思えば、ゴーレムは合理的じゃ。
殺した冒険者を材料に、フレッシュゴーレムとボーンゴーレムは作
ってるんじゃろうし、石や鉄は叩き潰されても、魔素が続く限りゴ
ーレムに作り変えるも可能じゃ﹂
1001
﹁うえ、フレッシュゴーレムって冒険者の人肉で出来てるのかよ﹂
食えないかなと一瞬思った俺が間違いだった、まあおそらく腐っ
た肉だから材料がどうであっても食えないけど。
冒険者の死体から、モンスターを創ろうとする神経が気持ち悪い。
﹁そこはいいんじゃよ、うちのダンジョンだって冒険者をゾンビ・
キャリアで殺して、ゾンビに作り変えてモンスターの足しにしたわ
けじゃし、現地調達は長持ちする迷宮の条件とはいえる。しかし、
こうもゴーレムばかりじゃと、偏執狂的なものを感じるの﹂
﹁ダンジョンが、創った人の性格を反映してるってあれか﹂
トラップ
この﹃試練の白塔﹄は、試練と言う割に、罠の類がまったくない。
ゴーレム好きの真面目な人だったのかもしれないが、何だかそれ
が少し怖い。
﹁ゴーレムが好きというより、生物に対する激しい嫌悪と憎悪を感
じるのお。清潔を愛するあまり、汚いものを全て排除しようとする。
一見、与し易くても、こういう狂信は牙を剥くと怖い、用心したほ
うがいいじゃろ﹂
﹁女王リリエラって、あんまり質が良くない人だったのかもな﹂
俺は普段から悪口ばっかり言ってるけど、今のアーサマ教会関係
者にそこまで不信感は持っていない。
アーサマ教会の聖女や聖者たちは、時にどうしようもなく自分勝
手で、神の使徒としては無力だが、自由で闊達な精神を体現してい
て、人間的でどこか憎めないところがある。
でも、このアーサマの巫女とか言う女王リリエラが創った﹃試練
の白塔﹄には、独特の狂信がかった気持ち悪さがある。
1002
だって姫騎士エレオノラは、美談みたいに語ってたけど、人が人
に試練を与えると言ってるんだぞ。私の試練を乗り越えたら、貴方
に力を与えましょうって感覚は気持ち悪い。どんだけ上から目線だ。
創聖女神アーサマが直接やってるならまだ分かるけど、この﹃試
練の白塔﹄を創ったのは女神様じゃなくて人だ。
ただの人間が、神の力を背景に絶対的な存在だと思いあがった気
持ち悪さの塊が、この白塔迷宮なんじゃないかと思ってしまう。
﹁まあ、貰うもんだけ貰って、さっさと退出するのがいいだろうな﹂
アイアンゴーレムになかなか剣が通らず、冒険者が苦戦してたよ
うなので、俺が光の剣で一刀両断してやる。
この先、さらに強いゴーレムが出てくると厳しそうだ、などと言
っている間に、二十七階層に到達した。
﹁普通のフロアのように見えるけどな﹂
大理石で出来た、所々に美しい彫刻が施されているやたら豪奢な
迷宮だけれど、この二十七階層が、特別何かあるようには見えない。
﹁木を隠すには、森の中じゃな﹂
そう言うと、オラクルちゃんは何の変哲もない壁に触れて、ふっ
と手を輝かせた。
﹁ここなのか、オラクル﹂
﹁この奥が、この白塔に何箇所かある制御室の一つになっておる﹂
厚い大理石の隠し扉を開くと、中は光沢のある黒い壁が囲む大部
1003
屋になっていた。
オブシティアン
触るとこれもツルツルしている。黒曜石で壁を創ってるのか、ま
た装飾の凝ったデザインだ。
部屋の中央には、虹色に輝く大きな石柱が立っている。
メインコンソール
﹁これが、中央操作盤の一つじゃ﹂
ガラス質の石柱をポンポンと叩いて、オラクルちゃんが説明して
くれる。
﹁じゃあ、オラクルちゃん頼むな﹂
﹁上手くできたら、あとでご褒美じゃぞ﹂
オラクルちゃんは、石柱の調査を始めた。なんかやたら石柱を撫
でさすって、﹁おお、やっぱりプロテクトがかかっておったか、だ
が甘いのう﹂とか、﹁オーケーそのままじゃ、よーしいい子じゃ﹂
とか言ってる。
どっかで見たような光景なんだが、これ大丈夫だろうか。
こう言うののパターンだと、トラップに引っかかって、警報が鳴
り出すってこともあるよな。
俺は、護衛の銃士隊に注意するように命じて、自分も備えた。
﹁カタカタカタ、んっ、違うか⋮⋮よーし、ビンゴじゃ!﹂
虹色の石柱が、七色に光りだすので俺はビクッとした。
あと、いま口で﹁カタカタカタ﹂とか言ったよね⋮⋮、コンソー
ルはキーボード型ではないのだが、オラクルなりに気分を出してみ
たんだろうか。
1004
﹁とりあえず、上手く言ったんだな?﹂
﹁おう、もうこの﹃試練の白塔﹄は丸裸じゃわい﹂
虹色の石柱の表面に、訳の分からない数字が、かなりのスピード
で流れている。
この時代まだコンピュータも、高度なプログラミング言語もなか
ったはずなんだけど、どういうことなんだ。
なあオラクル。数字の他に、古代言語が表記されてる部分は、俺
も言語チートがあるから分かるんだぞ。
﹁オラクル、この石柱に表示されてるの、ほとんど意味のないノイ
ズだろ﹂
﹁あっ、ああ、うん。まあその、様式美ってものもあるじゃろ⋮⋮﹂
さっきまで﹁イェーイ﹂って感じだったのに、言葉を濁して、た
ハッタリ
とたどしくなるオラクルちゃん。
なんだよ、ただの演出かよ。すげえ高度なことやってると思って
損した。
まあ、ダンジョンマスターをやるには、演出も必要か。
アカウント
﹁それでオラクル、何ができるようになったんだ﹂
﹁メインの命令権を手に入れたから、何でも出来るぞ。例えばこれ
じゃな﹂
オラクルが中央制御室から持ちだした操作盤をいじると、何もな
かったハズの通路に大きな魔方陣が発生した。
RPG経験の豊富な俺には分かるぞ、これ多分各階にアクセスで
1005
きるワープ装置だろ。
アカウント
﹁これで、いきなり百階に飛んだりもできるのか?﹂
﹁それは出来るが、止めたほうがいいぞ。メインの命令権を手に入
れても、メインのシステムとは別に自律的に動いているエリアがあ
る、例えば強力なガーディアンがいる宝物庫じゃ。ワシは思うんじ
ゃが、最上階には触れない方がいい﹂
せっかくの白塔なんだから、クリアしたほうがいいんじゃないの
か。
﹁タケル、よく考えてみるのじゃ。この塔を創った女王から感じる
底知れぬ不気味さを。伝承によると千年近く﹃試練の白塔﹄がここ
に立っていて、クリアした者がいないとか怪しいじゃろ。ありえな
いじゃろ!﹂
﹁まあ、そう言われると⋮⋮﹂
﹁システムの裏側をチェックしたワシには、ヤバイ予感がビンビン
に来とるぞ。ダンジョンマスターの暗黙の禁忌として、システム的
にクリア不可能なトラップは創ってはいかんってことになっておる。
それやったら、マスターでも手が出せなくなるからの。でもここの
感覚が狂った塔主なら、ワシはやらかすと思う﹂
なるほど、あの塔の最上階辺りの霧がかかって見えない部分は怪
しい。
神聖なる神の領域には、自分を含めて人間には絶対に触れられな
いとか、狂信者なら言いそうだ。
いままで悪質な罠が一切ないのが、逆に罠なのかもしれない。
1006
イケるぞ! と思わせておいて、絶対にクリア不可能、最低のや
り口だ。
そんなダンジョンを創って﹁これが現実の厳しさだ﹂とか言う奴、
確かにいる。
﹁じゃから、とりあえず五十四階の宝物庫から行ってみんか?﹂
﹁えっ、そこはもう老皇帝コンラッドがクリアしたんじゃないのか﹂
﹁そこが五十年前の到達最上階じゃからな、宝物庫は一度クリアし
ても、また時間が経てば復帰するようになっておる。オリハルコン
の大盾はもう無いじゃろうが、なんか別の宝があるかもしれんぞ﹂
﹁なるほど、そっから慣らしていって危険度を図るわけだな﹂
俺たちは、とりあえず五十四階に行ってみることにした。
まさか五千人の傭兵を一気に上げるわけには行かないので、一組
ずつ送り込むことになる。
この移動のシステムどこかで聞いたことあるなと思ったら、あの
フリードの側近の上級魔術師﹃時空の門﹄イェニー・ヴァルプルギ
スが使う特異魔法と一緒だった。
イェニーは、何かしら古代魔法文明と関係がある人間なのかもし
れない。
﹁まあ、敵の上級魔術師だから、そんな複雑な背景とか語られる間
もなく、先生にぶっ殺される運命だろうけどな⋮⋮﹂
﹁私がどうかしましたか?﹂
つぶやきを、先生に聞かれて微笑まれてしまった。
﹁いや、この転移の魔法が、あの上級魔術師と一緒だなと﹂
1007
﹁確かにそうですね、後ろは私が警戒しておきますから。その点は、
安心していてください﹂
えっ、どういうことだ。
まあいいか、先生なりになんか分かったんだろうし、先生が安心
というのなら絶対安心だろう。
五十四階の大門、なんと黄金の塊で出来ている。
金箔か? 金箔だとしてもこの大きさは一財産だよな。
古代言語で﹃宝物庫﹄と大書されているが、宝物とかもうどうで
もいい。
この金の門ごと削りとって持って行きたい!
﹁オラクル、やっぱ削ったら駄目かな?﹂
﹁うーん、システムチェックしたんじゃけど、恐ろしいことに塔全
体に仕掛けられた自爆装置とかもあるんじゃよ。ここを創った女王
は、明らかに頭がおかしいから、気に障るようなことはせんほうが
よい⋮⋮﹂
くそっ、なんて完璧な盗掘対策だ。
黄金を前にして、手が出せないとは、ええいっ!
削るのは諦めた、五十四階の宝物庫を守るボスの実力がどれほど
の物か、見せてもらおうじゃないか。
俺は、黄金の扉を開いて、宝物庫の中に入った。
1008
75.到達記録更新
これまでの到達最上階、白塔五十四階。
その宝物庫の金の大門が開いた。
﹁別に、何の変哲もない大部屋だけど﹂
例えば魔王とか巨大ドラゴンが現れるとか、そういう気配みたい
なものが一切ないので拍子抜けしてしまう。
前から、やけにゴツゴツした鎧を着た、スチールゴーレムがノシ
ノシと一体やってくるが、ボスと言うには迫力にかける。
﹁まさか、このゴーレムが敵ってことはないよな﹂
俺が軽く始末しようと、ゴーレムに近づくと、後ろからオラクル
ちゃんが叫んだ。
﹁タケル、そいつはヤバイ、注意しろ!﹂
﹁えっ﹂
そう思った瞬間、ギギギギッと関節を軋ませながら、ゆっくりと
巨大な大剣を振り上げたスチールゴーレムが︱︱高速で、斬撃を繰
り出してきた!
﹁うあっ!﹂
やばっ、中立の剣で何とか受け止める。
オラクルちゃんの注意がなければ、不意打ちを食らうところだっ
1009
た、コイツ⋮⋮ゴーレムの癖に、今笑ったか?
﹁タケル、こいつらは、魔道自律兵器﹃スウィフト・スチールゴー
レム﹄じゃ。動きが速いから注意するんじゃ!﹂
速いゴーレムとか反則だろ!
ゆっくりと動くスチールゴーレムでも手強いのに、魔導鎧を着た
ゴーレムが、ギリィィィィと不快な起動音を上げながら、身の丈三
メートルはある斬鉄剣を高速で叩き込んでくる。
ロボット
その動きが、無機質なゴーレムとは違い、的確でいやらしい。意
志を持った自律機械なのか。
くそっ、人間を舐めるな!
﹁二天一流奥義、虎震剣!﹂
俺は左手の中立の剣で、大剣を打ち返し、そのまま大上段から右
手の光の剣で叩き切った。
堅い、それでも、ギギッと音を立ててゴーレムの身体が両断され
て動きが止まった。
俺が奥の手として秘匿してる、虎震の型を使わせるゴーレムだと
⋮⋮。
そのスウィフトゴーレムが、次々と姿を表す。
オラクルちゃんが、女神像を三体操作してぶち当てるが、スウィ
フトゴーレムは、聖なる杖の攻撃をかわし、斬鉄剣で難なく大理石
のアーサマ像を叩き割って見せた。
1010
﹁これ、けっこうやばいな﹂
あて
カアラや、リアや、ライル先生が魔法をぶち当てているが、なか
なか倒れない。
傭兵団はあまり戦力にならない、こんな化け物と戦士でまともに
斬り合えるのは俺とルイーズだけだ。
銃士隊の射撃は、敵が反応するおかげで牽制程度には効いている
ようだが、頑丈なスチールゴーレム相手には、決定打にはならない。
﹁クックック、俺の出番のようだな﹂
﹁ウェイク、何か手があるのか﹂
やけに余裕ぶった、ウェイクは前に立つと、大きく手を広げた。
そこに左右から、ウェイクにいつも従っている、盗賊の側近が火
縄銃を渡す。
﹁お前んとこの先生がライフル造るのおせえから、火縄銃で連発す
る方法を思いついたんだよ、反逆の魔弾!﹂
ウェイクの﹃反逆の魔弾﹄が当たると、次々とスウィフトゴーレ
ムが動きを停止する。
なるほど、側近が弾込めして次々と渡して、連発する方法か。ウ
ェイクが撃つと、弓魔法﹃反逆の魔弾﹄がかかるから、ジャイロ効
果により火縄銃でもライフル並の命中精度が出るのだ。
ウェイクの連発で多数居たゴーレムは、みんな動きを止めた。
しかし、いくらライフル並とはいえ、狙撃でゴーレムが機能停止
するのはどういうことなんだ。
1011
﹁勇者、よく見てみろよ。あいつらの胸に小さい赤い魔宝石が付い
てるだろ。そこのちっさいのが、魔道自律兵器って言ってたから、
つまり魔法的なエネルギー源がそこだと思って撃ち抜いてみたのさ﹂
﹁なるほど、さすがウェイクだな、感服した﹂
ウェイクは、少し恥ずかしそうに﹁そうでもねえよ﹂とつぶやい
て、金髪の前髪を払った。
すぐに敵の弱点を見抜いたのも慧眼だが、一撃で小さい的を撃ち
抜けるのは、ウェイクの腕があってこそだ。さすが飛び道具特化チ
ートの盗賊王といえる。
まあ、とりあえず何とかなった。
この宝物庫を突破した全盛期の老皇帝コンラッドも、かなり強か
ったに違いない。
﹁さてと、宝は何があるかな﹂
部屋の奥に進むと、いかにも無造作な感じで、タップリと銀貨と
金貨と白金貨が詰まった袋が三つ置かれていた。
﹁見たこと無い、デザインの金貨だな﹂
﹁これは﹃神聖リリエラ王国﹄の古貨幣ですね。そのまま鋳潰して
もいいですが、骨董的価値もありますよ﹂
なるほど、古いコインか、好事家に上手く売れば儲かりそうだ。
もちろん戦利品は、ウェイクにも分配するが、それでも十分な儲
けだ。
﹁こっちの宝箱は何でしょうね﹂
1012
ウェイクに付き従ってる盗賊が、罠が無いか調べてくれるが、大
丈夫のようだ。
女王リリエラは、トラップの類は使わない。
宝飾のついた立派な箱のなかには、七色に輝く薄衣が入っていた。
うーん、なんだこれ。オリハルコンの大盾に比べると、格段落ち
るような。
﹁これは﹃女神のローブ﹄だと思います。オリハルコンには劣りま
すが、これも伝説級の装備ですよ﹂
先生がそう説明してくれると、確かにちょっと箔が付いたような
気がする。絹でもなく金糸でもなく輝く薄衣は、どんな上級素材な
のか検討もつかない。
ちょっと揺さぶってみると、強力な防御魔法がかかっているせい
か、布から鱗粉のように輝くエフェクトが見えるほどだ。
﹁しかし、あんまりデザインの趣味は良くないな。これはシャロン
に着せられないから、リアにやるか﹂
﹁そんなこと言いながら、わたくしに渡さないでください!﹂
そう言いつつ、渡されるといそいそとその場でシスターローブを
脱いで、着替えようとするリア。
うんうん、その場で装備しないと意味ないって⋮⋮、アホか。
シャロンたちが、慌てて白いシーツを広げて、リアの裸体が見え
ないように頑張っている。
リアはネタがワンパターンすぎるんだよ。そんなことやっても、
もう誰も突っ込まないからな。
1013
白いシーツの中から、やたら華美な﹃女神のローブ﹄を着たリア
が爆誕した、似合ってるのがムカツク。
﹁まあ、これもタケルからの愛の篭ったプレゼントですから、是非
もありませんね﹂
﹁お前、意地でもフードは付けるのな﹂
顔を見せないのは、シスターの戒律だとは言っていたが。
リアは、無理やりにでも﹃女神のローブ﹄に、白い布を結びつけ
て被っている。
あとできちんとフードを縫製すると言っていたが、フード云々の
前にすぐ脱ぎたがる癖を何とかしろ、戒律がまったく機能してねー
じゃねえか。
まあ、リアにいまさら言ってもしょうが無いので、言わないけど
さ。
※※※
﹁次の宝物庫は、八十八階じゃが、どうする﹂
﹁もちろん行くよ、おそらくそこにオリハルコンの武器があるだろ﹂
オラクルちゃんが、少し心配そうに言う。
﹁タケル、魔道自律兵器は、ワシどころか不死王オラクル様が喉か
ら手が出るほど欲しかったのに、手に入らなかったモンスターじゃ。
それをこうも多数出してくるこの﹃試練の白塔﹄のレベルは高い、
行くなとは言わんが注意するんじゃぞ﹂
﹁おう、望むところだ﹂
1014
魔方陣に乗って、八十八階に行くと、いきなり出てきたのはドラ
ゴンだった。
ルイーズが、眼があった瞬間に﹃竜殺しの大剣﹄で一刀両断した
が、いきなりドラゴンかよ⋮⋮。
しかもグリーンドラゴンじゃなくて、レッドドラゴンだ。
火炎のブレスはルイーズに通用しないが、雑魚敵がこれってこと
なのか。
﹁ルイーズ、解体はあとにしような﹂
﹁すまん、我が主﹂
玄関開けたらいきなりドラゴンの事態を目の当たりにしても、ル
イーズはまったく動じてないってのはすごいな。
俺が、この不動心を手に入れるには、どれほど戦士としての経験
を積めばいいのか、でも解体は探索が終わってからにしよう。
﹁雑魚を相手にしててもしょうがないじゃろ、最短ルートで行くぞ﹂
﹁やっぱり、今のが雑魚なのね⋮⋮﹂
レッドドラゴンに、アースドラゴンに、グリーンドラゴン。
あと、ハウンド・ドラゴンに率いられたレッサードラゴンが、大
量に出てきた大部屋もあってウザかった。
一撃必殺の竜殺しが居るから良いようなものの、これルイーズ無
しなら突破するのにどれほど時間がかかった分からない。
これが最短ルート、まあドラゴンは革も肉も高級品なので、いい
儲けになったと思うしか無いな。
1015
﹁もちろん、あとで解体してスタッフが美味しくいただきますよ﹂
﹁タケルは、誰に言ってるんじゃ﹂
いや、まあ視聴者への配慮ってあるだろ。
みんな貴重な食料資源を、無駄にし過ぎだと思うんだよな。
プラチナ
﹁ここが、八十八階の宝物庫じゃ﹂
﹁プッ⋮⋮白金の門かよ!﹂
やっぱり削ったらダメなんだよな、これ切り取って持って帰った
ら、どれだけの金になるか。
クソ、俺の精神を削ってきやがって、女王リリエラめ⋮⋮。
﹁準備は良いかの﹂
﹁おう、万全の体制だから行くぞ﹂
チラッと後ろを見たら、先生がオーケーサイン出してたので大丈
夫、参る!
1016
76.聖遺物の葉っぱ
俺は、八十八階﹃宝物庫﹄の扉を開けると、またバタンと閉めた。
﹁どうしたんじゃタケル﹂
﹁いや、無理⋮⋮これは絶対無理!﹂
今の何だよ、魔道自律兵器﹃スウィフトスチールゴーレム﹄の巣
じゃねえか。パッと見で、軽く百体は超えていた。
しかもなんか、紅いバージョンのやつ居なかったか。
クロム
﹁紅いのは、紅鉛じゃな。﹃スウィフトクロムゴーレム﹄は、かな
り希少な素材で出来た、スチールより硬くて速い奴じゃ﹂
隊長機かよ、紅いから三倍のスピードで動くとか言い出さないよ
な。
うあ、なんか扉の向こう側から、ガッチンガッチン叩いてきてる。
﹁ほら、タケル。ヤバイぞ、そりゃ開けたら動き出すわい﹂
﹁あーもう分かったよ﹂
俺は、扉を開けると、前に倒れこんできたスウィフトゴーレムの
弱点、赤い魔宝石めがけて、おもいっきり光の剣を突き刺した。
プシューと、音を立てて機動を止める、ゴーレム。だが、その後
ろには山ほどの数のスウィフトゴーレムが唸っている。
﹁タケル殿、扉で抑えつつ戦うんです﹂
﹁なるほど﹂
1017
敵の数は多い、大部屋で戦うよりも扉を半分だけ開けて、ここを
死守すればボトルネックになって多くの数と当たらなくて済む。
前線は、ルイーズと俺だ。後ろから、魔法組と、飛び道具組が援
護してくれれば、何とか抑えられるかもしれない。
﹁⋮⋮とか、思ってた頃もありました﹂
﹁タケル何をしてるんじゃ、撤退するぞ!﹂
スウィフトクロムゴーレム、速すぎるし、強すぎ。なんだあの紅
い奴!
﹁くそ、一体一なら、負けねえのに!﹂
速すぎるから、二体も三体も連携して攻撃されると、どうしよう
もなくなるのだ。
しかし、これを卑怯と言ったら、どこぞの姫騎士と一緒になって
しまう。
チート
でもこの圧倒的物量は、単純に反則だろ、女王リリエラさんよ!
こっちがチートやってるときは良いが、向こうにやり返されると、
こんな気分の悪いものもない。
すでに満身創痍になっている、ガラン傭兵団が決死の覚悟で扉を
押さえているが、その扉からニョキッと、紅い大剣が突き出てくる。
怖すぎるんだよ!
﹁ふ、苦戦しているようですね、シレジエの勇者様﹂
はっ、なんだ⋮⋮こいつ、フリードのとこのホモ大神官じゃねえ
1018
か。
名前なんだっけ。
ぼく
﹁な、名前を覚えてもらってないですと? では改めまして、僕は、
ニコラウス・カルディナルです。あ、大神官じゃなくてノルトマル
ク大司教です﹂
﹁なんだ、フリードも来てんのか。見れば分かると思うが、いまお
前らの相手してる場合じゃないんだけど﹂
挟み撃ちとかされたら溜まったものじゃないが、スウィフトゴー
レムは見境ないから、お前にも襲い掛かってくるぞ。
﹁オホホホ、誤解しないでくださいよ。僕は、シレジエの勇者様を
助けに来てあげたのですよ﹂
そう言うと、大司教の衣に身を包んだニコラウスは、手を広げて
祈った。
﹁創聖女神アーサマよ、敬虔なる貴女様の下僕が、伏してお願いし
ます、皆に大いなる癒しを、オールライトヒーリング!﹂
傷ついていた仲間に、白銀の癒しが降り注ぐ。
おお、これが噂の全範囲回復魔法か。確かに使える奴だ、男色家
でなければだが。
﹁ついでと言ってはなんですが、さらに僕の有能さをお見せしまし
ょう﹂
大司教の服を脱ぎ捨てると、ついに扉を切り裂いて飛び込んでき
たスウィフトゴーレムの前で、全裸になった。
1019
気でも狂ったのか⋮⋮。
いや、よく見ると全裸ではない。
股間に鮮やかな緑色の葉っぱだけつけている、生白い顔のおっさ
んが葉っぱ一枚とか、全裸より酷い。
﹁あれは、聖遺物﹃アダモの葉﹄です。まさか、現存していたなん
て!﹂
リアが、緊迫した声で叫ぶ。
いや、わけわかんないよ!
﹁さ、ご照覧あれ、偉大なる女神アーサマよ、敬虔なる貴女様の下
僕が、イヤッッホォォォオオォオウ、アダモのハァッァァァァ!﹂
ホモ大司教が股間を小刻みに震わせると、大きな葉っぱから、白
銀の光線がピカーッと四方八方へと放たれた。
なんと、扉を切り裂いて次々に突入してきた、スウィフトゴーレ
ムたちの機動が、見る見る遅くなっていく。
﹁さ、今のうちにやっつけるのですよ!﹂
﹁うんまあ、やるけど、なんだこれ⋮⋮﹂
動きが緩慢になったスウィフトゴーレムなど、ただのゴーレムと
変りない。
あっという間に、俺たちによって斬り伏せられて、機動を停止さ
せた。
まだいくらでもゴーレムの群れが続くが、ホモ大司教が﹁イヤッ
ッホォォォオオォオウ﹂と叫んで、股間が光るたびに、動きが悪く
1020
なった。
ほんとに、なんだこれ⋮⋮。
﹁タケル、ホモ⋮⋮いえ、ニコラウス大司教が装備している品は、
聖遺物﹃アダモの葉﹄です。八千年の昔、アーサマが最初に造りし
人、始祖アダモの股間に、生まれながらにして付いていたと言われ
るイチジクの葉っぱです﹂
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
いや、アーサマ、人の作り方間違えてるぞ。
アダモって、おそらくアダムのパクリだと思うけど、葉っぱを付
けたのは知恵の実を食べてからで、生まれてすぐ葉っぱっておかし
いだろ。
﹁その怪訝な顔、是非ともわかります。確かに八千年前の葉っぱが
現存しているわけもなく、おそらくは精巧に造ったレプリカだと思
われます﹂
﹁いや、葉っぱのレプリカとか、うーんもういいわ!﹂
アーサマ教会関連のことを深く考えたら負けな気がする、ツッコ
ミしきれないよ!
もしかして、創聖女神アーサマの正体って、普通に古き者の一員
なんじゃないか。
﹁アーサマの巫女の古代神聖魔法の調律を、あの太古の聖遺物﹃ア
ダモの葉﹄は掻き乱しました。ですから、是非もなくスウィフトゴ
ーレムの動きが悪くなったのだと思います﹂
﹁そういう理屈を先に説明してくれ﹂
それなら、なんとか理解の範疇だ。
1021
要するに、神聖系のマジックアイテム勝負で、ホモ大司教が勝っ
たわけだな。
散々と﹁イヤッッホォォォオオォオウ﹂したホモ大司教は、ゴー
レムを全滅させると、ハァハァと息を荒げながら、汗ばんだ生白い
肌とモチモチしたホッペタを紅潮させてこっちにやってきた。
頼むから、服を着てくれ。ビジュアル的にキツイ。
﹁あ、ちなみに僕一人で、フリード皇太子は来てません﹂
﹁いや、お前一人にしても、どっから来たんだよ﹂
ホモ大司教は、イエーイと言いたげな爽やかな笑顔で、魔方陣を
指さした。
なるほど、﹃時空の門﹄イェニーの転移魔法か、それを転用して
この﹃試練の白塔﹄に来られるということは、やはりあの魔方陣と
同質の魔法だったんだな。
﹁ちょっと、皇太子は用事があって忙しいので、僕だけが偵察とい
う名目でシレジエの勇者様のところにやってきたのですよ﹂
﹁名目ってことは、他に目的があるのか﹂
﹁ええ、そうです。僕は皇太子と利害が一致しているから協力して
いるだけで、シレジエの勇者様の出方によっては、鞍替えしてもい
いですよ﹂
﹁まあ、じゃあ話を聞くだけは、聞いてみる﹂
﹁では、聞いてください、僕には夢がある!﹂
葉っぱ一枚で、ほぼ全裸のホモ大司教は、いきなり指を天に突き
上げると、演説を始めた。
1022
いや、大司教なのでお説教なのか、ご高説は服を着てからにして
欲しいんだが。
﹁公的には男女平等を謳うアーサマ教会ですが、内部には明確な男
性差別があります。今の教皇も女性ですし、六人いる大司教も僕以
外全員女性です。酷いです、酷いですよね。ええ是非、待ってくだ
さい。わかりますよ、僕だって能力の違いで区別されているのなら
仕方がないって思います﹂
リアが何か言いたそうにしていたが、とりあえず黙らせた。
助けて貰ったのは事実だから、先に話ぐらいはさせてやれ。
﹁でも実態は違うんです、僕と同じように優秀な男性聖職者はいっ
ぱい居るのに、教会で上位に登用される男性は、ほとんどいないん
です。差別の最たるものは勇者付きの聖女ですよ﹂
﹁えっ、それってなんか問題あるのか﹂
あっ、やば、口を挟んでしまった。
めっちゃ嬉しそうなホモ大司教。
﹁だって勇者付きはシスターが基本って、おかしいでしょ。勇者付
きのブラザーは、今のこの世界で僕だけなんです! わかりますか、
歴史上の九割を超える勇者様が、みんな女性を選んだんですよ、男
だって勇者認定資格を持っている優秀な聖者はたくさんいたのに、
酷いじゃないですか!﹂
ううーん、俺はなんとも言えんわ、それ。
リアを見ると、彼女も微妙そうな顔をしてる、それを言われたら
なあ⋮⋮。
1023
﹁だから、僕には夢がある! この間違った女性上位の教会を正す
のは今です! フリード皇太子は能力が高いって理由だけで僕を選
んでくれたのですが、あの女好きは汚れています。僕の理念を全然
わかっちゃいないんだ﹂
いや、俺もわかんないんだけど。
うーん。
﹁その点有望なのは、貴方ですよシレジエの勇者。貴方は、そこの
汚れた聖女の淫蕩な誘惑を拒絶している、清潔なお方であると感じ
ました。僕は、貴方こそが僕の求めていた勇者ではないかとビビッ
と来たのです、運命でした﹂
うわー、おてもやんに流し目されてもキツイ、フリードすごいわ。
この大司教を、勇者認定資格が高いって理由だけで、使いこなせ
るアイツは尊敬する。さすが最強になるためには、手段を選ばない
男。
﹁なあ、ホモ、じゃないニコラウス大司教﹂
﹁お、何ですか、シレジエの勇者様﹂
﹁勇者に選ばれる聖者が居ないって言ってたけど、それは女性が勇
者になるケースがほとんどないってことなんじゃないか﹂
﹁あ、それは⋮⋮﹂
いま思いついたんだが、確かに男が見目麗しいシスターの方を顔
だけで選ぶのは、差別かもしれんよ。
でも女勇者なら、聖者の方を選んでもおかしくない。
﹁なあ、女勇者って見たこと無いし、ほとんどいないんだろ。じゃ
1024
あ勇者付きで聖女が多いのは、バランス取れてるってことじゃない
か﹂
﹁それはその⋮⋮﹂
前から思ってたんだが、アーサマ教会の種族平等、男女平等の教
えって、理念としては素晴らしいんだが、実社会でまったく機能し
てないよな。
シルエット姫は、ハーフエルフで女性ってだけで女王になれんし、
ニンフは差別されてるし、奴隷ですら男よりも女奴隷のほうが下に
置かれている。
﹁その点、大司教としてどう考えてるんだ、まず基本が平等になっ
てないだろ﹂
﹁仕方ありませんね、建前論は止めましょう﹂
えっ、さっきの力のこもった大演説は、建前だったのかよ。
ぶっちゃけ過ぎだろ、ホモ大司教。こんなの真面目に聞いちゃっ
た俺って⋮⋮。
﹁いいですか、勇者にふさわしいのは聖者なんです。聖者×勇者が
理想なんです、僕には夢がある、いつか聖者×勇者がこの世界に満
ちることを!﹂
ここで、リアがもう堪え切れないといった感じで吠えた。
﹁バカを言ってはいけません、大司教! 勇者×聖女こそ、是非も
ない至高のカップルなのです。そこは歴史と伝統が証明しています﹂
﹁汚れた聖女め、貴様こそバカを言わないでください、僕はアーサ
マに直接お伺いを立てたんですよ、聖者×勇者オーケーですかって
聞いたら﹃そういうのもアリだよね﹄ってご神託があったのです﹂
1025
﹁それは、アーサマが是非もなく寛大だからです。そういうのもア
リってことは、やはりスタンダードは勇者×聖女じゃないですか、
バカー!﹂
﹁バカって言う方がバカです、ここで断言しますが、淫蕩な聖女と
絡んだ勇者は、例外なく堕落します。だいたいシスターステリアー
ナ、貴女がこっそり書庫で汚らわしい禁書を漁ってたの知ってるん
ですよ、みんなが言わないと思って調子に乗るな!﹂
﹁ああー、じゃあ是非とも言わせてもらいますけどね、ホモ大司教
猊下。貴方もたいがい書庫に入り浸って、淫蕩な禁書を読みあさっ
てましたよね﹂
﹁ちがっ、アレは違います。僕が読んでいたのは、貴方のような汚
らわしい淫書ではなく、男同士の熱い友情を描いた未来の聖書なの
です、一緒にしないでください!﹂
聞いてると、頭が痛くなってきた⋮⋮。
なんで俺は、コイツらの話をまともに聞こうとしてしまったのだ
ろう。
コイツら、放っておくと﹁聖者×勇者﹂だの﹁勇者×聖女﹂だの
延々と言い争っているだけだ。
ルイーズが俺のところに、﹁そろそろドラゴンの死体を捌いて良
いか﹂と聞きに来たので許可をだす。
こんなの相手にしてられないよな。
貴重なドラゴンの内臓が傷んでしまうわ。
﹁おい、ニコラウス大司教、残念ながらお前の理念とやらには協力
できない﹂
1026
リアがパッと明るい笑顔でこっちを振り返る。
それを忌々しげに眺める、おてもやんみたいな生白い顔のホモ大
司教も、不敵な笑みを浮かべてこちらを見た。
﹁ふ、残念ですね。貴方もやはり、僕の夢が理解できない凡夫でし
たか。後悔しないとよろしいですね﹂
ニコラウス大司教は、大司教の衣を拾うと、さっと走って階段を
降りて行く、俺が服を着ろと注意する間もなく、階段に消えていっ
た。
﹁えっ、ちょっと待てよ、転移魔法で帰るんじゃないのか﹂
﹁イェニーが居ないと、転移魔法が出来ませんからね﹂
驚いてる俺のところに先生が来て、そう指摘してくれたけど、じ
ゃあ八十八階層から階段を降りて、帝都までそのまま帰るのかな。
﹁いや、おそらくどっか別の階層で、イェニーと合流するんでしょ
う。もしこの場に現れていたら、厄介な上級魔術師を消すチャンス
だったのに、残念です﹂
﹁なるほど、追っても無駄ですか﹂
そう先生に聞くと、下の階層で罠を張ってる可能性もあるから、
止めたほうがいいと。
そうだよな、フリードは忙しいとか言ってたけど、それがブラフ
で慌てて追いかけて行ったら、待ち構えているフリードと側近の精
鋭と鉢合わせの可能性もある。
しかし、先生はさすがだ。
1027
あのどうしようもない茶番劇の中で、イェニーの顔がチラッとで
も見えたら即座に殺そうと待機してたのか、冷静すぎて怖い。
なぜ上級魔術師だけ狙って、ニコラウス大司祭は殺さなかったの
ですか、とは言いっこなしだろう。
ホモ大司教なんか狙ってもしょうがない、ライル先生のターゲッ
トは、常に傲慢にして愚かなる上級魔術師どもなのだ。
この世界から上級魔術師の最後の一人が滅びるその日まで、ライ
ル先生の戦いは続く。
1028
77.塔攻略と幌馬車の終焉
八十八階層の宝物庫の宝箱には、きちんとルイーズが欲しがって
いた﹃オリハルコンの大剣﹄があった。
これで、﹃試練の白塔﹄での目標は達成である。
さすがに一度探索されていた五十四階の宝物庫とは違い、金貨や
白金貨の布袋が山のように積まれていた。戦争中なので、資金はい
くらでも必要であり、ありがたいかぎり。
すでに価格が高騰しているので割高にはなるだろうが、帰りにこ
れで食料品と、それを運ぶ馬車も買い集めてタップリと輜重隊を充
実させ、帝国の兵站にも嫌がらせをしておくことにしよう。
この﹃試練の白塔﹄高層階に出現するドラゴンも、その死骸は貴
重な資源であり、ありがたい戦利品であるとは言えた。
ドラゴンは、その死骸がまるごと、高級素材の塊なのだ。
援護してもらったから、もしこの場に居たらニコラウス大司祭に
も、戦利品ぐらい分配してやったのに。
まあ、どうせ要らないって言われるだろうけど。
俺の貞操でも求められたらやぶ蛇なので、滅多なことは言わない
ほうがいいか。
敵にも敵の言い分があるだろうけど、袂を分かったホモ大司祭は、
倒すべき敵の一人なのだ。
﹁タケル、さすがに、ここで終いじゃよな﹂
﹁そうだな、ここらにしておくのがいいだろう﹂
1029
これほどの金銀財宝の山を見ると、欲をかいてさらにさらにと、
上に登って行くのが人間というものだ。
勇者とか英雄とか、そう呼ばれている歴史上の偉人だって、欲深
い人間には違いない。
もうちょっとと思うところで、終わりにしておくのが一番良いと、
古の賢人は皆口をそろえて言っている。
俺もそれに倣うことにする。
また、ここに来ることもあるだろうか。
撤収作業を始めた傭兵団の活動を見守りながら、俺は少し黄昏た
気持ちで、魔方陣で一階まで降りて﹃試練の白塔﹄の入り口を振り
返った。
﹁変態勇者、ちょっと待ちなさいよぉ!﹂
﹁あー、厄介な奴が、まだ残ってたな﹂
また、姫騎士エレオノラがやってきてしまった。肝心の﹃試練の
白塔﹄攻略が終わった頃になって、ようやく復帰とか本当にコイツ
らしい。
撤退とは言っても、五千人規模の移動には、かなり時間がかかる
ので、それぐらいの時間なら相手してやってもいいが。
﹁なんで、あんたはそんな、そんななのよぉ!﹂
﹁いやだから、なんで泣く﹂
もうお前の言ってること、意味分かんないよ。
﹁この首輪、あんたがハメたんでしょ。奴隷なんて、あんたは私を
1030
どうしたいのよ!﹂
﹁よく似合ってるじゃないか﹂
エレオノラに、奴隷の首輪を付けたのなんて、すっかり忘れてた。
綺麗に着飾ってランクトの城に納まってるならともかく、暴れま
わるじゃじゃ馬には首輪を付けたほうが良いという皮肉を込めたプ
レゼントだったんだが、お気に召さなかったようだ。
﹁そう似合ってるかしら⋮⋮って、ふざけるなぁ! これどうやっ
ても取れないし、どうなってんの!﹂
﹁ああ、その首輪に付いてるのは﹃呪いの錠﹄だ、普通の方法では
どうやっても取れない﹂
﹁ウワァァァ、このままじゃ、恥ずかしくて家に帰れないじゃない
!﹂
﹁その首輪の錠、この鍵があれば、外れるらしいぞ﹂
俺は、エレオノラの目の前で、これ見よがしに錠の鍵を振るって
やる。
近くで見てた盗賊王ウェイクが、﹁やべえ、腹いてえ﹂とつぶや
きながら、身体をくの字に折り曲げて、吹き出しそうになっていた。
ウェイクは、本当に姫騎士いじり好きだな。
しかし、ギャラリーがこうも喜んでくれると、俺もちょっと調子
に乗ってしまう、
必死になって俺から鍵を奪おうとするエレオノラは、確かに面白
いので散々に、翻弄してからかう。
ちょっと意地悪かもしれんが、これまでの意趣返しってことで。
1031
﹁ほーれ、こっちだ、こっち﹂
﹁よこせ!﹂
ウェイクは、姫騎士の奮闘っぷりがツボらしく、指差してヒーヒ
ー引き笑いしてついに笑い転げた。いくらなんでも、笑いすぎだ。
まあ、姫騎士と立ちまわったところで、ドタバタコメディにしか
ならないんだよな。
﹁ううっ、意地悪! 早く、それ、よこしなさいよぉ!﹂
﹁嫌に決まってるだろ、お前が地面に頭をすりつけて、もう二度と
俺に逆らいませんと約束したら錠を外してやる﹂
﹁そんなの嫌に決まってるじゃないの!﹂
﹁ダメなのか。そんじゃあ、負けを認めて二度と挑んで来なければ
いいよ。ランクト公国もできれば、もう帝国の戦争に加担するな﹂
ランクト公国は国の豊かさの割に、兵は多くない様に見えたが。
それでも、敵の戦力が少しでも削がれれば、越したことはないん
だけど。
﹁そんなのお父様が決めることじゃない、私の一存じゃどうにもな
らないのよ﹂
﹁それもそうか、じゃあお前だけ戦争に参加しなければいいよ。騎
士の恭順宣言は、有効なんだろう?﹂
この世界の騎士は、わりと本気で命よりも名誉を重んじる。
一度捕まえて﹁もう帝国の戦争には加担しない﹂と恭順宣言すれ
ば、その約束を破って再び戦うことを無理強いすることは、皇帝に
だってやりにくくなる。
1032
約束を破って従軍することを強いれば、騎士はその場で死ぬかも
しれないのだ。
そうなれば騎士は、一死を以って約束を守った高潔さを讃えられ
て、皇帝は騎士道精神を介さぬ不寛容な君主との謗りを受けること
になる。
﹁いやよぉ! あんたに恭順するぐらいなら、この首輪ごと喉を掻
き切ってやるわ!﹂
﹁はぁ⋮⋮じゃあ、仕方がない﹂
俺は、姫騎士エレオノラの首輪を掴んだ。ガチャリと掛かってい
る﹃呪いの鍵﹄が音を立てる。
彼女はキッと瞼を閉じて、顔を背けた。
鍵穴に鍵を差し込んで、カチリと回す。
すると、魔法がすぐ解けて首輪もするりと外れた。こうして見る
と、呪具ってのも便利な品があるんだ。
﹁ほら、外してやったよ、これでいいんだろ﹂
エレオノラは、碧い瞳を見開いて、信じられないと言いたげな顔
でこっちを見る。
なんだよ、こっちみんな。
﹁なんだ勇者、結局何もさせずに外してやったのかよ﹂
﹁スマンなウェイク、期待に応えられないで﹂
俺は、ウェイクに向かって﹃呪いの錠﹄を投げて返す。
受け取ったウェイクは、さっきとは違う感じで、ニンマリと含み
笑いをした。
1033
﹁いいよ、お前の詰めの甘さってのも、見てて面白いぞ﹂
﹁言ってろよ﹂
なんでも面白がる陽気なウェイクとは、またここで別れることに
なるのだろう。
おそらくまだ戦争は続くし、俺と彼の生きる世界は、やっぱり違
う。
ライフル
﹁あっ、でも魔法銃くれる約束、忘れんなよ!﹂
﹁あーごめんな、時間かかって、できたら届けさせるよ﹂
ウェイクは金髪をなびかせて、来た時と同じで、風のように去っ
ていった。
さてと、俺たちも行くか。
﹁待ちなさいよ、勇者⋮⋮﹂
﹁なんだよ、さすがにもう用は済んだ、だろ﹂
せっかく終わりのムードだしてるんだから、次はまた戦場で会お
うぜでいいだろう。
ぶっちゃけた話をすれば、ランクト公国の帝国加担を止められな
い以上、エレオノラは高級将校として帝国軍にガンガン参加して、
敵の足を盛大に引っ張ってくれたほうがいい。
味方の陣営に居たらと思うと頭が痛いが、敵としては頼もしいの
が姫騎士。
立派なマイナスチートだな。
﹁ぜんぜん済んでない、なんであんたは、勝手に錠を外しちゃうの
1034
よ!﹂
﹁いや、なんで外して怒られなきゃいけないんだよ﹂
わけがわからないよ。
﹁私のこと散々になぶっておいて、このバカ!﹂
﹁イタッ﹂
ドカッと腹を殴られて、重い衝撃に思わず後ろずさった。
斬りかかるより、炎の鉄甲パンチの方がよっぽど強い。剣なんか
振り回してるより拳で戦えばいいのに。
﹁私はね、絶対にあんたなんかに負けてない、絶対に負けてないん
だからぁ!﹂
﹁はいはい、じゃあまたな﹂
俺は、姫騎士の相手なんかしてられないと、飛び掛ってくる姫騎
士をかわして。
さっさと幌馬車に飛び乗った、早く出してくれ。
﹁話はまだ、終わってないわよ!﹂
人の馬車に勝手に乗り込んでくる姫騎士。
おいちょっと、部外者が俺の馬車に乗ってくるとか、あり得ない
んだけど!
﹁マジで降りてくれる?﹂
﹁いやよ、まだ私、負けてないもん!﹂
﹁いやまあ、もう⋮⋮分かったよ。俺の負けでいいから、降りて﹂
1035
﹁なんであんたは、そうなのよぉ!﹂
姫騎士が激昂した瞬間、その闘志で炎の鎧が燃え上がって、簡単
に幌に引火した。
﹁うあぁぁぁ、燃えてる!﹂
﹁きゃあ!﹂
悲鳴だけは可愛い姫騎士は、ホントムカツク。
お前が放火したんじゃねーか、ちょっとこれマジで洒落にならな
いぞ、慌てて姫騎士を降ろして俺も逃げる。
木と布で出来た幌馬車が、炎上してどうしようもなくなるのは、
本当にあっという間だった。
駆けつけたライル先生が、慌てて水魔法をかけた頃には、完全に
使い物にならなくなっていた。
ちなみに馬は、手綱が切れると炎上した馬車から一目散に逃げ出
し、二度と戻っては来なかった。
後には焼け焦げた幌馬車であった残骸が、ぽつんと残る。
なんてことだ⋮⋮。
﹁なに、私が悪いの?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
トラブルメーカー
そこから聞くのか、お前以外の誰が悪いって言うんだよ!
俺か? 俺が悪いのか? まあ確かに、姫騎士を構い過ぎたのが、
そもそもの間違いだった気もするが。
1036
﹁何よ、馬車代ぐらい弁償するから﹂
﹁うーん﹂
これ、そういう問題なのかなあ。
普通に、放火だよね。
﹁金払えばいいとか、怖いわー﹂
﹁違う、故意じゃないもん、ちがうもん⋮⋮﹂
いや、故意じゃないのは分かるけど、可愛らしく泣けば済むこと
か、これ。
誰が悪いとかじゃなくて、感情が高ぶっただけで引火する炎の鎧
の存在がマズイ。それもしかして、マジックアイテムじゃなくて、
呪いの装備なんじゃないか。
姫騎士の不思議な倫理観は、斬りかかるのはセーフでも。
放火犯扱いされるのは、アウトらしい。多少は罪悪感があるらし
く、段々と声のトーンが落ちてきた。
﹁ああ⋮⋮、思い出の詰まった馬車だったんだけどなあ﹂
﹁だから、弁償するって⋮⋮﹂
﹁いや、別に弁償とかはいいよ。もともと中古で買ったもんだし、
耐用年数ギリギリのを騙し騙し乗ってたやつだから﹂
﹁新しいの買ってあげるから⋮⋮﹂
一年前にロスゴー村で最初に稼いだ金で買って、長い旅を共にし
た相棒だったのだ。
名前とか付けて無くてよかった。
1037
どれほど愛着を持っても、耐久消費財はいつかは壊れる。
姫騎士への皮肉で言ってるうちに、わりと本気で落ち込んでいる
俺がいる。
﹁ご主人様、車輪はまだ予備に使えます﹂
奴隷少女たちが、燃え尽きた幌を外して中の荷物を回収して、使
える車輪は外してしまう。
車輪を抱えて運ぶシャロンに﹁だから、どうなっても知らないっ
て言ったんですよ⋮⋮﹂と、指摘されてしまった。
シャロンの忠告は、やはり聞いておくべきだったのだ。
俺が間違っていた、ごめん。
﹁ちょうど薪が欲しかったところだし、我が主よいか?﹂
俺がしぶしぶ頷くと、ルイーズはなんの思い入れもないらしく、
オリハルコンの大剣で焦げ付いた馬車の胴体部分を粉砕した。
大鍋を持ってくると、残骸に火をかけてドラゴンの内蔵を煮始め
る。
濡れた荷物を乾かすのにもちょうどいいが。
赤々と燃える思い出の残骸を見ながら、俺はため息をつく。
﹁ほら、エレオノラだったか? 落ち込んでないでお前も食え﹂
﹁ありがとうございます!﹂
女騎士として、他国にまで名前が響いているルイーズ相手には、
姫騎士も借りてきた猫みたいになっている。
あっ、ルイーズ。ドラゴンのブレス袋を、エレオノラに食わせた
1038
な⋮⋮。
ああ、姫騎士の火炎耐久力が上がっていく。
ただでさえしぶといのに、姫騎士がよりヤバい敵に、ああもうい
い。
これ以上火炎耐性をつけてもしょうがないんだが、俺もルイーズ
にドラゴンの内蔵シチューを貰って、やけ食いする。
何処の内蔵だろう、歯にプチッと弾けるホルモンの食感は美味い
が、あいかわず舌がピリピリと痺れるほどの猛烈な辛さだった。
エレオノラが、ようやくほんの少しだけ、しおらしくなったのは
良かったのかもしれないが。
そのあおりで、幌馬車が一つ炎上、高い勉強代になってしまった。
※※※
無事に﹃試練の白塔﹄を攻略した帰りに交易都市ランクトに立ち
寄る。
手に入れた革や古貨幣や宝物を売り払うなら、やはり一番需要が
あるのはこの大都市だろう。まずゆっくりと売りから入って、資金
を確保する。
そして、市場動向を注視しながら、兵糧に使える保存の効く食品
と特定のポーション類だけを一気に買い漁った。
割高は覚悟の上で、とは言うものの、商人の血が騒いでなるべく
高く売り、安く買いたいと粘ってしまった。
迷宮で、もっと宝物が欲しいという欲望は抑えられるのに、損を
したくない欲望の方は抑えがたい。
1039
もしかしたら、こちらのほうが人間の心に巣食う危険な化物なの
かもしれない。
特定品目の買い占めが全部終わって、高騰した相場をチェックす
ると大変なことになっていた、この物資が豊富なランクトですら特
定品目が三倍に近い価格上昇、それに釣られて他の食料品も上がっ
ている、家計は火の車だろう。
阿鼻叫喚であろうランクトの市民には申し訳ないが。
悲しいけど、これって経済戦争なのよね。
戦争が再開すれば、さらに帝国軍の莫大な数の大軍が、ここの街
で強引にでも物資の補充をするだろうから、市民の反感は帝国軍に
向く。
なんて、都合よく行けばいいが、そこまでにはならないかな。
高騰したところをガツンと売り払って、儲けたい欲望を必死に抑
える。
儲けるのが、今回の目的ではないのだ。
そもそも俺が言う、傭兵団の補給をしつつ、帝国の兵站にダメー
ジを与えるなんてのも本来の目的ではなかったりする。
シェリーが本当に欲しがっているのは、買い占めにより高騰する
推移の短期的データなのだ。変動相場の勉強でもしたいのかもしれ
ない、いつも頑張ってくれている彼女へのお土産なんだから構わな
いが。
俺が交易都市ランクトの市場で、そんな売買ゲームを楽しんでい
ると、カアラが近くの木陰から、静かに姿を現す。
なんか久しぶりだな、その登場の仕方。
1040
めいむのふくまでん
﹁タケル様、おそらく迷霧の伏魔殿が、また開かれました﹂
カアラは跪くと、そう不吉な予言でも告げるかのように厳かに宣
言した。
付き合いが長くなってきたから分かってきたけど、カアラは魔王
軍の女幹部みたいな演出をやりたいだけだよな。
街のど真ん中で、魔族の女がいきなり茶番劇を始めるのは、目立
つから止めて欲しい。隠形の魔術師って初期設定はどこに消えたの
だ。
それはともかく、捨て置けない話ではある。
俺は、傍らでレッドドラゴンの干し肉をしゃぶっているオラクル
ちゃんに、眼でアイコンタクトをおくる。
﹁タケル、カアラの言ってることは本当じゃ、魔素の奔流が流れこ
んできておる。フリードの小僧風情が、混沌様の力を好き勝手に使
うとは、ふざけておるの﹂
﹁そうか、ニコラウス大司教が﹃フリードが忙しい﹄って言ってた
のは、また魔素溜りを勝手に開いてるんだな﹂
﹁だから、なんでオラクルの話ばっかり信じるんですか、先に言っ
たのはアタシなのにぃ!﹂
そこら辺、カアラが説明して欲しいなら、いくらでもしてやるが。
まあ、そんな無駄口を叩いてる場合じゃないか、いまさらフリー
ドは何が目的なんだ。
﹁オラクル、魔王の核ってのは、そう何個も身体に埋め込めるもの
1041
なのか﹂
﹁一つで十分のはずじゃがの、イマジネーションソードの類は、手
が二つなら二本しか使えぬ。魔王の核を両手に埋め込んでも、光の
剣を失って闇の剣が二つ出るだけじゃ。それは勇者としての自滅じ
ゃろう﹂
あいつなら、魔王の核を右手に二つ埋め込めば、パワー二倍! とか平然とやりそうなんだが。
仮に違うとすると、なんだろう。
﹁ワシにも分からん。魔王の核は、この世界の人間には忌避すべき
邪悪じゃし、魔族にとってすら敬して遠ざけたい危険物じゃ。コン
トロールの難しい混沌様の力を弄ぼうなどと、たわけた考えを持つ
フリードは、十分に気狂いの類じゃからのう﹂
めいむのふくまでん
後から届いた密偵の報告によると、帝都ノルトマルクに集結させ
た五万もの軍勢を、またぞろ開いた迷霧の伏魔殿による混乱の収拾
に当たらせているらしい。
この意図的すぎるタイミング、まさか他の魔族が開いたというこ
ともあるまい、フリードが自作自演を繰り返してるんだろう。
﹁本当に、一体何を考えてるんだ﹂
程なくして、帝国の街がまた一つ壊滅してから、また封印された
との噂を聞いたが。
自分の国を荒らしまくって、何がやりたいんだアイツは⋮⋮。
1042
78.文化の格差
﹁この度はまたしても、当家の姫がご迷惑をおかけして申し訳ござ
いません。これが、新しい馬車でございます﹂
そろそろランクトから退散しようという時になって、カトーさん
が御者になって、新しい馬車をホテルの前に運んできてくれた。
門閥貴族がよく乗っている、成金趣味の馬車なら断ったところだ
が。
これがまた木目が美しい、シックなデザインのセンスが良い四頭
立ての馬車だった。
マルケットリー
﹁カトーさん、素晴らしい模様はなんなんだ﹂
﹁寄木細工でございます、勇者様。ランクトの街の木工が得意とす
るデザインでして﹂
これが寄木細工、埋め込まれた木片が、幾何学的な模様を作り出
している。
初めて見るが、どこか懐かしい。
華美になりすぎず、それでいて高級感がある。
まるで、日本の民芸品のような深い味わいがあった。
普通に欲しい⋮⋮。
くっそ、こういうときは趣味の悪い金ピカ馬車がパターンだろ、
それならいらないって断ってやれたのに。
1043
﹁木片が材料の細工物ですから、そこまで高価な馬車ではございま
せん。お詫びを兼ねてですので、どうぞお受け取りを﹂
﹁わかった、ありがたく受け取らせていただこう﹂
意地を張って、押し問答してもしょうがない。
オックスの街にも、木材事業部がある。この細工はぜひ持って帰
って、職工に見せたい。きっと、刺激になるはずだ。
武力で圧倒したつもりが、逆に金と文化の力で骨抜きにされてし
まう。
これがランクト公国のやり方か、覚えておこう。
マルケットリー
また寄木細工の四頭立て馬車は、鎖で座席を吊り上げた懸架式の
コーチと呼ばれる最新式であり、内部の乗り心地も前の幌馬車と比
べ物にならなかった。
﹁これが帝国の技術レベルか、サスペンションの技術さえ分かれば
⋮⋮﹂
今回のランクト公国への遠征は、得るものが多くあった。
まだまだシレジエ王国は田舎で、民生面で劣っているとわかった。
※※※
長旅を終えて、たくさんの荷馬車を満載にして、オックスの城に
戻ると。
シルエット姫とカロリーン公女が出迎えてくれた。
それはいいんだが、なぜかライル先生の父親のニコラ宰相も一緒
に現れて。
1044
茶色の長いヒゲをさすりながら、俺に会釈する。宰相が何の用だ
ろう。
﹁父上、いえ⋮⋮ニコラ宰相閣下。王都の仕事はどうしたのですか﹂
﹁久しいな、不肖の息子。仕事と言っても、国政はどこぞの不埒な
国務卿の息の掛かった改革派連中に牛耳られて、憎まれ役をやるば
かりだからな﹂
﹁憎まれ役も、宰相の立派な仕事ではありませんか。おかげで官吏
が分かりやすくまとまっているのです。王の居ない王城には、古め
かしく仰々しいだけの置物が、一つは欲しいところですからね﹂
﹁減らず口をたたくな、半端者が!﹂
相変わらず、仲の悪い親子だ。
見かねて、シルエット姫が割って入る。
﹁宰相は、妾がお呼びしたのですよ﹂
ニコラ宰相は、襟を正すと、親子喧嘩をやめて俺に向き直った。
もりやく
﹁勇者タケル様、みっともないところをお見せいたしまして、申し
訳ありません。私は今でも王家の傅役、姫様に有職故実をお教えす
るのが、本来のお役目です。姫様に、一国の女王としてふさわしい
作法を教授させていただいております﹂
﹁そうか、姫はついに、女王として立たれる決心をされたのか﹂
パヒューマー
俺は、姫と公女にお土産の香水を渡した。ランクト一の調香師が
作ったとの謳い文句の、雪花石膏の容器に詰められた高級品。
あの豊かな街には、香料製造所まであったのだ。
1045
﹁まあ、素敵な香りですわね﹂
﹁姫様方のお気に召されたら、幸いですが﹂
蓋を開けると、クロッカス、バラそしてユリの芳しい香が漂う。
美しい姫様たちにふさわしい品といえる。
宝石などよりもずっと気が利いているんじゃないだろうか。俺も、
女性にこれぐらいのプレゼントが贈れるようになったかと、内心で
得意満面だった。
香水の芳香が漂う中で、シルエット姫は俺に近づくと碧い瞳をジ
ッと凝らして、すがるような上目遣いでこちらに尋ねてくる。
﹁タケル様は、妾がお嫌いではないんですよね﹂
﹁ええもちろん、好きですよ﹂
一瞬でもここで躊躇すると、姫様のネガティブが発動しちゃうっ
てこともあるが。
ストロベリーブロンドの上に、ハーフエルフの上に、貧乳という
希少価値の三拍子が揃ったパーフェクトな姫様を、好ましく思わな
い男が居たら見てみたいものだ。
そう言えば、絹のドレスを身にまとった姫は、もう艶のあるスト
ロベリーブロンドの髪を、フードで隠してはいない。
それは、エルフの証である尖った耳を隠さないって、覚悟の表れ
でもある。
﹁堅苦しいことがお嫌いなタケル様は、国王になるのが億劫で、結
婚なさりたくないだけなのでしょう﹂
﹁それは、当たってますね﹂
1046
俺自身、姫との結婚をなぜ渋っているのか、自分でも複雑な感情
を上手く言葉にできないのだが。
アンバザック男爵領の経営だけでも結構たいへんなのに、これに
加えて広大な王領の経営となると、荷が勝ちすぎているようには感
じていた。
それに俺は、綺羅びやかな王冠を被って、立派な玉座を尻で温め
ているのに向いてるタイプでもないしな。
﹁ならば、妾が女王となってもかまいません。ですから、お留守の
間に準備をしておこうと思ったのです。妾は日陰者ゆえ、タケル様
を国主にと考えておりましたが、妾が城の飾りとしてお役に立つな
ら、それもよろしいかと思います﹂
﹁それは、ありがとうございます﹂
シルエット姫の覚悟に、口を挟むこともないだろう。
思い切ったなと言う気はするが、俺が渋るから姫なりに考えてし
てくれていることだ。彼女には、自信を取り戻して欲しいとは俺も
思っていた。きっと立派な女王になることだろう。
﹁もはや、形などどうでもいいことです。ずっと一緒に居られたら、
妾はそれでいいのです﹂
﹁ええもちろん、それは⋮⋮﹂
姫は、小さい手を俺の背中に回して、抱きついてくる。公衆の面
前もはばからずだが、もはやそんなことを言うこともないのだろう。
姫と俺との関係は、すでに公然のものとなってしまっている。
実際もう、逃げられないところまで来ている。
だからといって、今すぐ結婚しようというのは、ちょっとなあ。
1047
﹁それに妾が女王にふさわしくなくても、タケル様と妾の子供たち
に引き継がせればよろしいではありませんか﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
子供つくるのまで、決定事項なんですね、とは怖くて聞けない。
ジワリジワリと外堀が埋められていく。
バックアップ
﹁それも、全てはタケル様次第です。どちらにしろ、妾が女王にな
るにしても、勇者様の盛名がなければできぬことですから﹂
シルエット姫が、自ら女王になるための決心を固めたってのは、
すごく良いことだと思うんだけどな。
なんか隣で、カロリーン公女が﹁その手があったとは、さすがシ
ルエット姫様﹂とか言って感動している。
公女は真似しないほうがいいですよ。
※※※
﹁ついに、御決心されたようですね﹂
さっきの姫との会話を聞いていて、ライル先生はとても嬉しそう
だった。
御決心されたのは、俺ではなくてシルエット姫が、だけどね。
﹁そうだ、さっきの香水、ちゃんと先生の分もあります﹂
﹁私は⋮⋮いえ、いただきましょう﹂
先生だって綺麗好きだから、香水も嫌いなわけじゃないだろう。
1048
自分では買わなくても、差し上げればちゃんと使う人なのだ。
そう言えば、先生も茶色の御髪が少し伸びましたね。
﹁しかし、まだ結婚するとは、決まってないですから﹂
﹁まずは帝国の介入を実力で跳ね除けることです。その後であれば、
お二人のご結婚とご即位について、うるさい地方貴族どもを黙らせ
ることもできましょう﹂
話を聞いてください、先生。
はぁ、しょうがない。
﹁じゃあ、その時は、先生もお約束を果たしていただきますよ﹂
﹁えっ、ああ。その話ですか﹂
先生は途端に顔色を変えて、言葉を濁すけど、俺は忘れていない。
ゲイルのクーデターの終わりがけ、王都に向かう馬車に揺られな
がら、先生と話したことを。
ライル先生が外見上女性にしか見えないのに、ずっと男で通して
いること、実の父親であるニコラ宰相が、先生のことを﹁半端者﹂
と蔑む理由、上級魔術師への強い憎しみ。
全ては、ライル先生の過去に原因がある。
﹁シレジエ王国をライル先生にあげたら、俺と結婚してくれるって
約束でしたもんね﹂
﹁いや、それは違ったような⋮⋮まあ、どちらにしろ同じ事ですか、
いいですよ。酷くつまらない話ですが、その時がくれば、恥を忍ん
でお教えしましょう﹂
他ならぬ、ライル先生のことだ。
1049
俺にとっては、それはシレジエ王国と引き換えにしても、教えて
もらう価値がある話なのだ。
そのためになら、覚悟を決めてもいいし、頑張ろうとも思える。
※※※
幸いなことに、シェリーはまだオックスの城に居てくれた。
結構忙しい奴だからな、俺もエストの街まで行くのも面倒だし。
﹁シェリー、おみやげってこれでよかったのか﹂
﹁ご主人様、これです、これが欲しかったんです!﹂
俺が都市ランクトの街で、物資を買い占める前と、買い占めたあ
スカウト
との価格の変動データ。
あと密偵にも、帝国の領邦の市場価格を調べるようには指示して
おいたので、結構な量の紙束になった。
﹁こんなもの何に使うんだ、相場は刻々と変わるから、過去の情報
はあんまり商売の役には立ちそうにないが﹂
﹁そうですね。どれぐらいの買い入れでインフレーションが起こる
か分かれば、規模が違っても、貨幣不足でデフレーションを起こす
ときの目安にもなります﹂
﹁はぁ、えっとデフレは、なんかその困るやつだよな﹂
﹁物価が下がることですね、戦争が終わったあとで、帝国をやっつ
けるときに使います﹂
いま、やっつけると言ったか。
戦争でやっつけるんだろうに、終わった後でやっつけるって意味
1050
がわからない。
﹁つまり、どういうことをやるつもりなんだ﹂
﹁えっとですから、戦争で物価が高騰の極地に達した後で、今度は
決済通貨を不足させて経済を破綻させます﹂
んんー。どういうこった。
シェリーの話してる経済知識は、全て俺が話したことを元にして
いるはず。俺は言語チートがあるので何かわかってないことでも話
せば、現地の言葉として分かるように通訳される。
そのせいで、いつの間にか。俺が言葉しか知らないことを、シェ
リーが熟知しているという、逆転現象が起こるのだ。
シェリーは、小さい手をいっぱいに広げて﹁帝国がパンパンに膨
らんでからパーンです!﹂と言いながら手を叩いて潰す。
﹁よく分かった、好きにやっていい。やるときは、よくライル先生
とよく相談してな﹂
﹁はい、ご主人様﹂
何よりの宝だと言うように、シェリーは相場の書かれた紙片をか
き集めて、なにやら躍起になって、計算を始めた。
もう彼女のやってることは、俺にはさっぱり分からん領域に来て
いる。
シェリーを見ていると、楽しそうだし自分の好きなことをやって
るみたいだから放って置いてもいいんだろうけど。
もうちょっと子供らしい喜びも、持って欲しいなと思う。そんな
に焦る仕事でもないんだし。
1051
﹁シェリー、お土産に﹃白塔クッキー﹄とか買ってきたんだけど食
べないか。ちょっと休憩にお茶を入れるから﹂
﹁後でいただきます﹂
そう言いながら、机にかじりついているシェリーは、お茶を出し
てやっても、絶対冷めるまで飲まないんだよな。
﹁じゃあ、風呂に入るか﹂
﹁入ります﹂
風呂は、好きなのか机の書き物を置いて、こっちにやってくる。
﹁待て待て、とりあえず、お茶をさ﹂
﹁飲みました、急ぎましょう﹂
熱い紅茶に水を入れて冷まし、ささっと飲んでしまった。
合理的かもしれないが、紅茶の香りと味を楽しむって考えがシェ
リーにはない、どうしてこんな風に育ってしまったのか。
どれだけ風呂に行きたいのか、さあ行きましょうと俺の手を引っ
張る。
まあ、仕事の他に好きなことがあるのはいいことだ、俺はシェリ
ーと風呂に入ることにした。
俺が風呂に入るときは、偶然他の女性と鉢合わせしたりしないよ
うに、風呂場の前の扉に札をかけておく。
今日も札をかけようとした手を、シェリーが止めた。
﹁ご主人様、それ⋮⋮しないほうがいいですよ﹂
﹁いやでも、カロリーン公女と鉢合わせしたらマズイしな﹂
1052
他の女性ならまだしも、カロリーン公女は真面目なので本当に怒
られてしまう。
﹁大丈夫です、姫様方の入る時間は把握してますから、今なら回避
できます。あと、その札が、ステリアーナさんを呼び寄せる原因に
なっていますから、避けたほうがいいです﹂
﹁シェリーの言うとおりだ﹂
気が付かなかった俺が、浅はかだった。
しかし、札をかけないとカロリーン公女や、シルエット姫が入っ
てくるかもしれないというジレンマ。
﹁まあ、さっさと入ってしまうか﹂
﹁そういたしましょう﹂
しかし、不思議だな。シェリーと一緒に入るときは邪魔が入らな
いことが多い。
この子はギャンブラーの娘だから、近くに居ると運が良くなるの
かもしれない。ガランとした脱衣場を見て、独り言つのだった。
1053
79.シェリーの人生
シェリーが脱衣場でさっさと服を脱いで、俺を急かす。
﹁ご主人様、早く行きましょう﹂
﹁えっ、ああごめん﹂
俺は鎧を外して、中の服も脱ぐとお風呂場に行く。
もちろん、腰のタオルは忘れていない、相手は子供だとはいえマ
ナーがあるからな。
その点シェリーは、まったく身体を隠さない。
ちょっと胸が膨らんでるような気もするんだが、どうなんだろ。
﹁つかぬ事を聞くが、シェリーいま何歳だっけ﹂
﹁十二歳ですけど、それがいかがしましたでしょうか﹂
まだ問題ないな。子供にタオルを巻けというのも、なんか逆に意
識してるみたいで気恥ずかしい。
青みがかった銀色の瞳で、俺を不思議そうに見上げるシェリーに、
﹁いやなんでもないんだ﹂と手を振って応える。
﹁ご主人様、あのお疲れのところ申し訳ないのですが⋮⋮﹂
﹁ああ、いいよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
俺は石鹸を泡立てて、シェリーの髪を洗ってやる。
1054
シャロンが流行らせたせいで、主人の俺に洗われることが奴隷少
女の栄誉ということになってしまっている。
シャロンが、奴隷少女を躾けてくれるのはとてもありがたいのだ
が。
どうも教え込みが過剰になりすぎている、俺が洗うのが特別な待
遇になってしまっては、逆に贔屓と見られないかと心配になる。
シェリーの活躍は、十分に栄誉に値するから、特別な待遇でもい
いのだけど。
﹁ふむ⋮⋮﹂
異世界でも珍しいと言える銀色の艶がある髪。
さらさらと触れて、石鹸の泡でその輝きに磨きをかけていくのは
楽しい作業だ。
この銀糸のような光沢のある髪は、プラチナブロンドで金髪の一
種なのだという。
オラクルちゃんの真っ白の柔らかな髪とは、また違った感じがす
る。
この前まで篭っていた﹃試練の白塔﹄は豪華なダンジョンで、や
たら大理石やら宝石やら金銀財宝を見せられたが、シェリーの髪や
瞳にまさる美しい銀色は存在しなかった。
珍しい種類の猫を愛でるようなものだが、美しい髪に触れるのは、
ファンタジーの醍醐味であると思う。
﹁ご主人様、もう髪はいいと思います﹂
﹁あっ、すまなかった﹂
1055
あんまり洗いすぎてもキューティクルが落ちちゃうしな。
まあ、美容のことはよく分からんのだが、モンスター石鹸は天然
素材だからそこまで悪くないはずだと思いつつ、お湯で流してやる。
﹁ありがとうございます、今度は私がご主人様のお背中をお流しし
ますね﹂
﹁うん、じゃあ頼む﹂
シェリーは、気を回し過ぎるぐらいに気が利く。
背中を洗ってもらえると気持ちはいいんだが、ウチの商会には頭
脳チートが少なく、この娘の小さな頭には、かなり負荷がかかって
いるはずだ。
無理してないかと少し心配になる。
だから、あまり大人ぶって欲しくないのだ。
﹁ん、よく考えたら、なんでタオルを使わないんだ﹂
﹁この前、ご主人様がシャロンお姉様にそうしているのを見まして、
髪も手で洗いますからこっちのほうが丁寧かなと﹂
シェリーは、小さい手で必死に石鹸を泡立てながら、俺の背中を
こすっているようだ。
女性の柔肌ならともかく、俺のゴワゴワの肌なんかどうでもいい
んだけど、まあどちらでもいいことか。
人に手で、直接こすられる感触は、なんというか少しくすぐった
くて気持ちいい。
脇腹辺りをこそぐられると、くすぐったくて耐えられないはずな
のだが、シェリーは上手く手の力を調節してくれているので気持ち
1056
良いだけだ。
それはありがたいんだが、徐々に前の方に来てないか。
シェリーと眼があった、明らかに前に来てる。
﹁そこは背中じゃないと思うんだが﹂
﹁前は、ダメですか﹂
﹁ダメではないけど、そこは自分で洗うよ﹂
﹁良かった、ダメじゃないんですね﹂
シェリーはそう言うと、口元に無邪気な微笑みを浮かべて、乗り
出すようにして俺の胸板も泡だけにしている。
まあしたいなら、できるだけさせたいようにしてやろうと思うの
だが、その下はマズい箇所だし気をそらすか。
﹁シェリーそろそろ俺はいいから、お前の背中を洗ってやるよ﹂
﹁じゃあ、洗いっこしましょう﹂
ええー、何いってんのこの娘。
俺の憮然とした顔色で察したか、すぐに謝ってきた。
﹁ご、ごめんなさい。ちっさい頃、こうやってお父さんと洗いっこ
していたから﹂
﹁そうか⋮⋮。いや悪くはないんだ、洗いっこだな、構わないぞ﹂
怒られたと思ったのかシェリーが、青みがかった銀色の瞳を曇ら
せるので、俺は少し慌てる。
俺も泡立てて、シェリーの身体を洗ってやる。
1057
シェリーがお父さんと洗いっことか、ビジュアル的にやばくない
かと思ったが、よく考えたら幼児の頃の話だろう。
﹁お父さんって歳じゃないから、せめてお兄ちゃんぐらいにして欲
しいもんだが﹂
﹁お兄ちゃんって呼んでもいいんですか﹂
﹁⋮⋮それは﹂
﹁ご、ごめんなさいご主人様、調子に乗りました﹂
いやシェリーは悪くないんだが、ご主人様の響きは、俺にとって
あまり現実感がないから気にならない。
だが、可愛らしい娘からお兄ちゃんと呼ばれるのは、背筋がゾワ
ッとする。
自分の中の悪しき者が眼を覚ましそうだったので、色即是空と唱
えて静めておく。
⋮⋮というか、静まらないぞ。
なんで平然と、俺の下半身に手を伸ばして来てんの!
いやシェリーのことだから、単に洗おうとしてるだけなんだろう、
でも極めてマズイ。
﹁シェリー、あのさ﹂
﹁はい、何でしょうご主人様﹂
純真そうなキラキラ輝く瞳で、上目遣いに見つめてくる。
なるほど、やっぱり他意はないのだ。まだ子供だから性差がわか
らず、何も思わずに前を洗う流れで触れただけなのだろう。
1058
﹁いや、背中を洗ってやるからもういい﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
シェリーにそういう意図がなかったとしても、こっちとしては耐
え難い拷問なので、俺は裏に回って、小さな背中を手で洗ってやっ
た。
﹁ご主人様、まだ前が綺麗になってません﹂
﹁いや、もう十分だから﹂
俺は回り込もうとする、シェリーを更に回りこんで、ほっそりと
した肩を手で押さえた。
子供のやたらスベスベとした柔らかい肌だが、生っ白くて筋肉が
ついてない。部屋に閉じこもってないで、もう少し運動したほうが
いい。
﹁しかし、ご主人様、ご不浄はきちんと洗わないといけませんよ﹂
﹁それ、もしかしてシャロンに習ったのか﹂
コクンと頷く。なんてことを教えてるんだよ。
いや、待てよ。確かに遠い子供の頃、皮は剥いて洗わなきゃいけ
ないとか親に教わった気がする、シャロンは間違っていない。
そうすると、そんなにおかしなことでもないのか。
子育てを知らない俺が、おかしなことを考えすぎてるだけだ、こ
っ恥ずかしいな。
﹁シャロンは、ご不浄まで人に洗ってもらえとは言わなかっただろ。
自分で綺麗にすればいいんだ。そこは、あんまり人に触らせるもの
じゃないんだ﹂
1059
俺は、我ながら何いってんだという気になる。
しかし、分かりやすく言わないと、子供だからまだ理解できない
のだろう。
﹁そうですか、そう言えばシャロンお姉様も言うだけで、洗っては
くれませんでした。自分でしなきゃいけないんですね﹂
ちょっと残念そうに、シェリーは泡だらけの手を落とす。
ふうっ⋮⋮間一髪だったぜ。
﹁もういいだろう、十分綺麗になった﹂
﹁ご主人様、ダメです。ご不浄が十分綺麗になってません、ご自分
でされるのならきちんとされてください﹂
シェリーは、やけにご不浄にこだわるな、なんだよもう。
逆らうわけにもいかないので、俺は後ろを剥いてさっさと股のあ
たりを洗ってしまう。まあ、確かに言われてみれば、洗うのって結
構いい加減だよな。
﹁ご主人様、でもでも私、自分のご不浄の洗い方がよく分からない
んですけど﹂
﹁そんなの俺が知るわけないだろっ! あー怒鳴ってすまん。えっ
と、泡立てて適当に表面だけさっさとしておけ﹂
シェリーは、俺に泡だらけのご不浄を見せようとしてくるので、
桶でお湯を汲んで頭からぶっかけた。
無邪気にも程がある、そんなのシャロンに聞いてくれよ恥ずかし
い。
1060
﹁はぁ、もう風呂に入るぞ﹂
俺もかけ湯して、湯船に入る。今日は本当にどうしたんだという
ぐらい誰も来ない、貴重な時間だ。
いつもこうならいいのに、シェリーもささっと湯船に入ってきて、
なぜか俺の膝の上にちょこんと乗ってくるが、まあこれぐらいは許
そう。
広い湯船に一人⋮⋮。ではないけど、奴隷少女一人ぐらいは許容
範囲だ。
なんと心地が良いことだろう、貴重な時間だ。
﹁ご主人様のお膝に座ってから言うのもなんですが、甘えさせても
らって良かったんでしょうか﹂
﹁気にするな、今日はシェリーしか居ないし﹂
他にいっぱいいたら、一人だけ特別扱いするわけにはいくまいが、
今は構わない。
そういうふうに気を回すのが子供らしくないんだよな、他の奴隷
少女なんてもっとアバウトだから気を抜けばいいのに。
割り当ての仕事さえきちんとすれば、多少のことは大目に見る。
シェリーは、その甚大な働きから言えば、もっとわがままを言っ
ていいはずだ。
﹁私は生まれて物心ついたときには、もう母親はいませんでした﹂
﹁うん、昔話か﹂
そういや、シェリーの事情ってあまり聞かなかったな。
最初の奴隷少女たちと違い、シェリーは二期生だから、俺が直接
1061
タッチすることは少なかったのだ。
﹁ギャンブラーの父親に愛想を尽かしたんです。父親は、すごく羽
振りのいい時もありましたが、負け続けるとドン底まで行く人でし
たから、引き際を見定めた母は賢かったんだと思います﹂
﹁まだお父さんに会いたいと思うか﹂
シェリーが奴隷に落ちたということは、おそらく父親に売られた
のだ。
しょうが無い事情があったにせよ、親に捨てられたようなものな
のでキツイだろうが、会いたいなら探してやってもいいと思う。
﹁会いたいかといえば、会いたいですけど。もう生きてないと思い
ます、あの時の王都は破産して借金まみれの博徒を生かしてくれる
ほど甘い状態ではなかったです﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
淡々と、他人ごとのように語る。非情な響きがある。
だから情がないわけではなくて、奴隷少女たちは心を殺さないと
耐えられないような地獄を、それなりに見てきているのだ。
﹁唐突に、暗い話をして申し訳ありませんでした。思い出してしま
ったので﹂
﹁いや、話して楽になるってこともあるだろう。俺はわりと聞きた
いんだけど、聞いていいかどうかわからんことだしな﹂
俺にも触れられたくない過去はたくさんある。
もし人の思い出したくない過去に触れたいなら、慎重に時間をか
けてゆっくりと距離を詰めていくしかない。
1062
﹁私は幸せです。シャロンお姉様がいますし、ご主人様がお父さん
⋮⋮ではなかったですね。お兄さんのようなものだと思ってもよろ
しいのでしょうか﹂
﹁そうだな、シェリーがそう思ってくれるなら嬉しい﹂
俺は奴隷って制度が好きになれない。
今のこの社会環境では、奴隷がなければその分だけ物乞いと犯罪
者が増えるだけというのは理解しているので、無くせとは言わない。
利己的な俺は、ただ自分の目の届く範囲だけ、奴隷が本来の奴隷
らしく無く自由に生きてくれたらと願うだけだ。
奴隷少女たちにはフランクに接しているつもりだが、本当に同じ
人間として親しくなれたのは半数にも満たないと思う。
﹁じゃああの、今だけ甘えてもよろしいのでしょうか﹂
﹁うん、誰も居ないとこでならな﹂
やたら堅苦しく奴隷と主人の枠を考えがちなシェリーが、こうし
てその則を取っ払おうとしてくれるのは嬉しい。
甘えるといっても他愛無い、俺にギュッと抱きついてくるので、
髪を撫でてやった。
やっぱり、まだ子供だな。そう思うと可愛らしくて仕方がない。
俺は一人っ子だったが、妹というものがいれば、こういうものか
なと思う。
﹁お兄さん、お兄様、お兄ちゃん、兄貴、アニサマ⋮⋮﹂
﹁うーん、なんだそりゃ﹂
耳元に息を吹きかけるように繰り返して、やたら豊富な語彙で妹
1063
アピールしてくる。
西洋は、そういうのみんなブラザーのはずだろ、俺の言語チート
の翻訳はどうなってるのやら。
﹁どれが反応いいかと思いまして、お兄ちゃんがご主人様は一番グ
ッと来ますか﹂
﹁グッと来るかと聞かれた途端に来なくなったな﹂
俺は思うんだけど、シェリーの子供らしくないところは、よくな
い。
まあ、子供に子供らしさを押し付けることが、もういけないこと
のようにも思うが、背伸びしたいとかそういうレベルじゃないから。
﹁ご主人様は、さすがに難しいです﹂
﹁大人は難しいんだよ、たまにはシェリーも気を抜いて、年頃の女
の子らしくしてればいい﹂
数学的天才だの、経済チートだのと言われて、大人と同等の扱い
をされるのは疲れるだろうと思うのだ。
しかし、子供を甘やかすってのはどうやればいいのかねえ、猫な
らヨシヨシと喉でも撫でれば満足するだろう。
﹁よーしよし、シェリーはいい子だな﹂
﹁あっ、ご主人様、じゃないお兄ちゃん。それいいです!﹂
褒めながら、髪と背中を撫でてやったら、やたら好評だった。
なるほど、褒めてもらって嫌がる人はいないし、猫可愛がりする
とはこういうことか。
﹁そうか、よーしよしよしよし、シェリーは可愛いなあ﹂
1064
﹁もっと褒めてさすってください、ああっお兄さま、素敵です⋮⋮﹂
﹁よしよし、可愛い可愛い﹂
﹁もっと名前を呼んでください、後生です!﹂
なんか、段々面倒くさくなってきたんだが。
一度始めたことなのでしょうがない。シェリーは尻尾をふらんば
かりに喜んでるし、止められない。
柔らかいホッペタを、盛んに擦り寄せてくる。
昔、飼ってた猫とそんなに変わらないな、奴隷の首輪に鈴でもつ
けてやろうか。
﹁シェリーは、髪が綺麗で可愛いな、よしよし﹂
﹁はぁっ、はわぁ、お兄さま、もっと褒めてぇ!﹂
大丈夫なのか、のぼせてきたんじゃないのか。
息が荒くくっついてる肌が、やけに熱くなってきたようにも思う。
﹁なあシェリー、お前のぼせてるんじゃないか﹂
﹁違います⋮⋮。お兄さま、後生です、もう少しだけギュッとして。
もうちょっとなんです!﹂
声は、大丈夫っぽいんだが。肩をブルブルと震わせてるから、さ
すがに気になる。
抱きついてきてるシェリーを剥がし、小さい身体を抱き上げて、
顔をマジマジと見てみると、額に玉の汗が浮かび銀髪が張り付いて
いる。
上気した頬はピンク色に染まっているが、もともとシェリーは極
1065
端に肌の色素が薄いから、これだけでのぼせてるとは判断できない。
﹁ほんとに、のぼせてないか、息が荒いぞ﹂
﹁はぁ⋮⋮。ご主人様、ここで止めるなんて、ホントありえないで
すよ。ここまでやっておいて、酷です﹂
非難げな声もしっかりしているし、青みがかった銀色の瞳は、ま
だ理性の色を保っている。
どうやら、いらぬ心配だったようだ。じゃあ再開。
﹁よーしよし、シェリーは賢いなあ、いい子だな﹂
﹁うああっ、お兄ちゃんありがとう!﹂
しっかと抱きついてくるので、頭と背中を撫でてやる。
ブルっと恐ろしいほどに肩を震わせたが、すりついてくるので喜
びの表現だろう、シェリーは褒められるとこうなるらしい。
﹁よーし、シェリーは可愛いなあ、よしよしよしよし!﹂
﹁はぁぁ、おにいひゃん、ひゃぁ!﹂
なんか、面倒くさいを通り越すと、今度は面白くなってくる。
シェリーのさらりとした髪はよく手に馴染むし、肌もやたらすべ
すべしていてさわり心地が良い。こんだけ喜んでくれると、こっち
も可愛がり甲斐がある。
﹁よーしよし、シェリーは可愛いなあ、可愛いなあ﹂
﹁ああっ、まだ、続けて⋮⋮﹂
シェリーの俺の首根っこを抱きしめる手の力が緩んで、小さい体
が湯船にふわっと浮かんだ。
1066
風呂で気持ちよくなって、気が抜けたのかもしれない、俺も風呂
は好きだからよく分かる。
﹁まああれだ、シェリーにはいつも助けてもらってるよ、ありがと
う﹂
﹁ああっん⋮⋮ここで本気褒めで来ますか、もうたまらないです﹂
﹁ん? いっつも本気で褒めてるぞ。シェリーがいなかったらと思
うとゾッとするからな、お前が居てくれて本当に良かったよ﹂
﹁私も、私も、ご主人様に、お仕えできて幸せでしたぁ⋮⋮﹂
なんで過去形だよ。
シェリーは、ふうっーと大きく息を吐いて呼吸を落ち着けると、
俺の肩に頭を押し付けて動かなくなった。肌が触れてるせいか、ド
クンドクンと心臓の鼓動が高鳴ってるのが聞こえる。
﹁大丈夫か、なんか様子が変だし、もう上がったほうがいいんじゃ
ないか﹂
﹁いえ、今あの⋮⋮。反芻してるんです﹂
﹁そうか﹂
﹁はい⋮⋮﹂
よく分からんが、肩を震わせるほど満足してるのならいい。
シェリーには借りばかりできて、何も返せなかったような気がし
ていたし。
﹁うーん、甘やかすって、今みたいな感じで良かったのか﹂
﹁はい、大変結構なお点前でした。ああっ! でもでも欲を言えば、
もう少し序盤トーンを下げて、耳元で囁く感じから入って徐々にヒ
1067
ートアップして、最後に凄く強く来る感じがベストだと思います。
でも、今のもかなり良かったのでまた褒めて欲しいです﹂
満足気なわりに、怒涛の勢いで注文が多いのは、ちょっと引く。
理屈っぽいのはシェリーの悪癖だ。
甘やかすのって難しい。なんか少しズレてる感じがしないでもな
いが、シェリーは毎回こんなもんだからいいや。
﹁そうか、まあそのうちにな﹂
﹁はい、ご主人様にまた褒めてもらえるように、今後も頑張ります﹂
最後にくしゃくしゃと銀色の髪をかき回し、お風呂から出るのを
渋るシェリーを促して、上がる。
のぼせたのか、脱衣所でぐったりしている彼女を横にしてタオル
をかけてやる。
自分はささっと体を拭いて服を着ると。
何か冷たい飲み物でも持ってきてやろうと、風呂場の扉を内側か
ら開けた。
すると何かが、パタリと落ちた。扉に立てかけてあったらしい。
なんだろうと思って拾い上げてみると﹃お風呂場清掃中﹄と書か
れた札だった、なるほどシェリーは、やっぱり賢い。
ただ、こういう手を思いついたんなら、俺にも早く教えてくれよ。
※※※
めいむのふくまでん
その後、二回目の収束を終えたと聞いた迷霧の伏魔殿がまた開い
たという報告が届く。
1068
これで、三回目だ⋮⋮。
二度あることは三度あるとは良く言うが。
開いたり閉じたり、魔素だまりはチューリップじゃないんだぞ、
フリード。
やっぱりアイツ、﹁魔王の核を二つ埋め込めば、パワー二倍。三
つ埋め込めばパワー三倍!﹂をやるつもりなんじゃないか。
オラクルちゃんに、どうなってんだろと相談してみるが、その可
能性は低いと言う。
﹁それはない⋮⋮ないとおもうのじゃ。勇者の身体でも、魔王の核
二つは耐えられん。ましてや三つなどと、生命の本能的に死ぬとわ
かるはずじゃ。フリードが一つを取り込んで抑え込んでいることが
もうギリギリなんじゃから、万が一やってしまったらその場で死し
て魔王転生コースじゃろうな﹂
﹁そっちのほうがヤバイ気もする。まさか、ここまで引っ張ってお
いて魔王の核を取り入れすぎて、自滅で第六天魔王に転生とか﹂
フリードなら、その可能性もないと言い切れない辺りが怖い。
皇太子が死んで魔王転生したら、ゲルマニア帝国は外征どころで
はなくなり、人間同士の戦争は終わりそうな気もするが、それはそ
れで厄介。
あの金獅子皇の意図はまったく読めない、だがこれが新しいラウ
ンドの幕開けを告げるゴングの音であることは、俺にも感じられた。
1069
80.登場人物紹介︵十章終了時点︶
主人公 佐渡タケル︵さわたり たける︶
職業:高校二年生︵言語理解チート持ち︶ 十七歳︵現在は十八
歳︶
中肉中背、やや低身長で、容姿も平凡でこれといった特徴はない。
学校では内気で目立たない帰宅部だが、自宅ではラノベ百巻読み
の傍ら兵法書や古流剣術書などを読みあさり木刀を振っていた。花
火の火薬をほぐして手製の火縄銃を作ったこともある︵失敗作だっ
たが︶。
隠れ中二病で、役に立たない知識だけ蓄えている、俗に言う﹁普
通の高校生﹂。
異世界転移という絶好の機会に、魔剣の勇者に成りたかった夢を
実現しようとするが、転移した先にプレイヤーチートなど存在せず、
お気楽ファンタジーでもなかったという厳しい現実に直面する。
生きるためいろいろと足掻くうち、なぜか多数の奴隷を持つ大商
人や騎士や領主、果ては王国摂政になってしまうことになった。
性格は基本的に他者に依存する面倒くさがりで、力に溺れ易いお
調子者。そのため、腰を上げるまでは遅いのに、一度やりだすと止
まらなくなり、調子に乗らせると我を忘れてやり過ぎてしまう。
また、躁鬱気質で他者を驚かせる突飛な決断、行動力を発揮する。
ただ、この躁鬱気質が彼の本質である為、光でも闇でもない﹁中
立の剣﹂を授けられた。
﹃中学校の夏休みの時のエピソード﹄
1070
爆竹などをほぐして火縄銃の火薬を作ったが、花火の火薬酸化剤
は過塩素酸系で燃焼速度が遅い。鉄パイプを通してパチンコ玉を発
射してみたが、爆発させても銃身から玉がポロリと転がる程度で、
とても銃と呼べる代物にはならなかった。
この時にタケルが、子供なりに熱心に調べた火縄銃の構造が、頭
のどこかに残っていてマスケット銃の再現に役に立った。
ルイーズ・カールソン
職業:女戦士︵騎士スキル持ち︶ 二十四歳︵現在は二十五歳︶
茜色の瞳で、燃えるような紅い髪をポニーテールにしてる女戦士
のお姉さん。
初対面の相手には寡黙だが、仲良くなるとわりとよく話してくれ
る。ガタイが大きくて肉体がこれ以上ないほど鍛えぬかれているの
で見た目ちょっと怖い感じだが、荒くれ者が多い冒険者としては、
信じられないほど礼儀正しく優しい人。
まだロスゴー村に流れてきて日は浅いが、その立ち居振る舞いか
ら尊敬されているようだ。
不得意な柄物はなく、どんな武器を使っても戦えるオールラウン
ダー。野営スキルも高く、ロスゴー村における最強の冒険者である
︵まあ、ドが付くほど田舎のロスゴーに、他の冒険者はほとんど来
ないのだが⋮⋮︶。
戦士としても優秀で戦塵にまみれても美人なのに、勝ったものを
反射的に喰らおうとする悪癖があるのは残念なところ。
頼りないタケルを世話しているうちに、ズルズルと手伝うはめに
なってしまう。
タケルの義勇兵団設立の際に、義勇兵団の団長に就任し、辣腕を
振るう。
1071
クーデター終了後、王国の腐敗と騎士道の衰退に絶望したルイー
ズは、要職の誘いを断りタケルの騎士として納まった。
ばんけん
ルイーズの物語﹃万剣のルイーズ﹄
ルイーズは、元シレジエ近衛騎士団、参事︵副団長クラス︶だっ
た。
カールソン家は、二百四十年前のシレジエ王国建国から、代々優
れた騎士や将士を生み出している名門武家の家柄で、武家の棟梁で
ある。
ルイーズも家柄の高さと、その柄物を選ばぬ奮迅ぶりから、騎士
見習い、騎士、将士、侍従、参事と近衛騎士団で、異例の出世をし
ていたのだが、女騎士の出世を喜ばぬ保守派貴族や男騎士に疎まれ
て、今の近衛騎士団長ゲイル・ドット・ザウス︵当時は同じ参事だ
った︶の罠にハマり排斥される。
そうして、一介の冒険者まで落ちたルイーズは、逃げるようにし
て誰も知り合いが居ない、ロスゴー村にまでたどり着いた⋮⋮。
サラ・ロッド
職業:農家の娘 十二歳︵現在は十三歳︶
タケルに言わすと、さらさらの金髪だからサラちゃんらしい。
大きな農園の娘で、ライル先生から基礎教育も受けられる程度に
は富農な家。タケルの最初のバイト先。
彼女が、タケルのほぼ唯一のチートスキル﹃言語理解﹄に気がつ
いてくれたおかげで、タケルは農家手伝いで一生を終えずに済む。
ちょい役ですぐ消えるモブキャラのはずが、ライル先生に教育さ
れている設定辺りから徐々にチートっぽくなる。
1072
エスト伯爵領の募兵の折りに、ロスゴー村の二男、三女を率いて、
ロスゴー村義勇隊を結成。
義勇兵団の上層部全員にコネがあるのを最大限に利用し、出来立
ての義勇兵団の兵長という職を勝手にでっち上げて、人事権の全て
を掌握する。
さすがにどうだという意見がルイーズ団長から出て、ロスゴー村
の代官・防衛隊長に無理やり栄転させられて、後方に下げられる。
今は本人曰く﹁修行中﹂らしく、それなりに大人しく代官してい
るが、イエ山脈鍛冶屋ギルドとの仲介役や輸送を担当したりして、
折あるごとに出てこようとはする。
ライル・ラエルティオス
職業:書記官︵中級魔術師︵火系は苦手︶、初級錬金術師スキル
持ち︶ 二十二歳︵現在は二十三歳︶
茶髪の短髪、細身の身体にいつもピッチリとした書記官服を着込
んでいる男装の麗人。本人はことあるごとに自分は男だと言ってる
が、綺麗な顔も白い肌も女性にしか見えない。
成長期もすでに終わっており、本気でまったく線の細い女性にし
か見えないので、おそらく男の娘ではない。
家の都合で男ということにさせられた女だったとか、魔術の暴走
で性転換してしまったとか、普通に男だったとか、いろいろと妄想
は膨らむが、詳細は分からない。
もう男でいいから、普通に女性の服を着て女として振る舞ってく
れればタケルもへんな気分にはならないのに、男装するから注意を
引いてしまう困った人。
周りの人が、そういう態度にツッコミを入れないのは、ファンタ
ジーだからかもしれない。
ただタケルにとって重要なのは、ライル先生の性別でも容姿でも
1073
なく、チート気味の博識の方だったりするので、あまりそこらへん
藪をつついて蛇を出したくはないので深くは聞いていない。
クーデター終了後、タケルの摂政就任にともない、国務卿の地位
にいつの間にか就任している。
まあ、先生なのでなんでもありだろう。
チート
ライル先生の物語 ﹃不遇の天才﹄
ライル先生の学識は広く、兵法、外交術、博物学、教育学、薬学、
有職故実にも通じている。ありとあらゆる知識チートを有している
万能の天才、と言ったほうが早い。
元々が、大学者の家系という教育環境と、家族で自分だけが魔法
力で劣っている︵あと身体の事情もある︶ために、疎まれ廃棄物扱
いされた過去のトラウマから、極められる知識を全て吸収するよう
になる。
それだけの優秀さを示しても父親には認められることはなく、さ
らに疎まれるようになった。
大博士の父親に強い愛憎を抱き、上級魔術師である兄の二人を純
粋に憎悪しており、物静かな性格ではあるが、その奥にマグマのよ
うに滾る力への渇望と大きな野望を抱えている。
タケルと出会ったときは、左遷された書記官であったが、ライル
先生なら出会いがなくても、ゲイルのクーデターで頭角を表してい
たに違いない。
ナタル・ダコール
職業:ロスゴー鉱山の代官︵技師スキル持ち︶ 四十八歳︵現在
は、四十九歳︶
壮年の渋いハゲオヤジ。今は代官としてロスゴー鉄鉱山の経営に
1074
専念しているようだが、もともと鉱山の技師だけあってガタイが物
凄くいい。
女戦士のルイーズとは、また違った肉だるまのような筋肉の付き
方で、同性が見ても惚れ惚れする。
ただ、自慢の筋肉を魅せつけるように半裸で、接客するのは止め
て欲しい。
タケルが鉱山権益を握ってからは、その繋がりでイエ山脈鉱山組
合の組合長にまで出世する。
そのまま引き継いで、イエ山脈の鍛冶屋ギルドとの仲介役を果た
し、火縄銃と大砲製造の設計・生産ラインを統括している。
偉くなっても相変わらず、現場に技師として出かけては、新しい
大砲を造りかねている鍛冶屋にあーだこーだ注文を出して煙たがら
れている。
ダナバーン・エスト・アルマーク
職業:エスト地方領主︵伯爵 のちに侯爵︶ 三十四歳︵現在は、
三十五歳︶
でっぷりと太っていて、悪く言えば鈍重、よく言えば恰幅が良い。
いかにも貴族って感じのおっさん。ただ腹黒そうではなく、温和な
印象を受ける。地位を鼻にかけることもなく、歳が若い平民のタケ
ルにも、気さくに話してくれる。
タケルにエストの街の土地をプレゼントしたりしてくれるが、実
は新商品を生み出す才能を評価しての先行投資。商業の何たるかが
分かる、有能な領主。
凡庸そうな見た目に反して実利主義者で、役に立つ人や物をどん
どん取り入れていく進取性と好奇心がある。
イエ山脈を背景にしたエスト伯領は外敵も少なく、国家鉱山から
1075
の間接的な上がりもあって、豊かな土地柄になっている。彼の統治
の手腕も大きいのだろう。
あと、赤いものが好きでアルマーク家の紋章から家具や城の尖塔
まで、赤に染めないと気が済まない赤マニアでもある。
地方貴族には珍しく、王権に対して強い忠誠心と愛国心を持って
いる。
おそらくはエスト伯領が、王領と相互に依存する立場だからであ
ろう。後背地のエスト領があっての王領の安定であり、王領あって
こそのエスト領の経済的発展であるとはいえる。
普段は赤いエプロンドレスを着させたメイドとイチャ付いている
だけだが、ゲイルのクーデターの際には臨時政府の首班となって戦
った。
戦ったというか、まあ毎度のことで戦場には出なかったが、得意
の後方支援を頑張った。
奴隷少女たち︵初期十三人︶
商人の娘が一人シャロン︵種族:犬型獣族のクォーター︶
兵士の娘がシュザンヌ、クローディア
花売りの娘がヴィオラ︵種族:ハーフニンフ︶
鉱夫の娘が一人ロール︵種族:ドワーフ︶
パン屋の娘コレット
娼婦の娘フローラ
物乞いの娘がエリザ、メリッサ、ジニー、ルー、リディ、ポーラ。
全員が王都シレジエ出身。奴隷キャラバン隊は、シレジエの向こ
う側から来て、売り物にならない奴隷を連れて、イエ山脈の鉱山に
納入する予定だった。
1076
急成長して商会を取り締まってるシャロン︵十八歳︶と、硝石を
作りまくってるロール︵十二歳︶、かろうじてヴィオラ辺りぐらい
までで、以下はいまいちキャラ立ちしてない。
奴隷少女は数がどんどん倍増しているので、果たして何人がまと
もに登場できるか。
ちなみに、ニンフが水妖精、エルフが白妖精、ドワーフが、黒妖
精である。
シャロンはオレンジの髪に琥珀色の瞳、犬科獣人の血が入ってい
るので基本的には従順で、群れの安定を第一に考える習性がある。
奴隷少女のリーダー。
ヴィオラは青い髪に青い瞳、大人しい引っ込み思案、物静かそう、
ハーフニンフなので差別されがち。
水精霊の加護があり、ライル先生から初期の水魔法と薬草学の知
識を授けてもらった。
ロールは、赤銅色の髪に褐色の肌、背が低い、我慢強い。ドワー
フ娘なので、ワーカー・ホリック︵一人称があたし、何故か、ひら
がなでしゃべりがち︶
コレット ブラウンの髪、ブラウンの瞳、元パン屋の娘だがどち
らかと言うと酒場の看板娘っぽい雰囲気。料理長で、酒蔵を管理し
ているせいか、ロールと仲がいい。
物乞いの娘、エリザ、メリッサは調理班の手伝い、二人はクレー
プの屋台をやりたがっている。
シュザンヌ、明るい赤色の短髪で、赤い瞳。
1077
ヘーゼル
クローディア、髪も瞳も淡褐色。ルイーズの真似なのか、肩甲骨
辺りまで伸ばした髪を、後ろでくくっている。
二人はルイーズについて、騎士として成長して立派にキャラ立ち
した。二人とも、いまは騎士見習いの奴隷少女を抱えているはずだ
が、まだ名前は出てない。
奴隷少女︵二期生、十三人︶
シェリー︵十二歳︶ ほとんど色素の薄い銀髪の少女。瞳も少し
青みがかった銀。
破産したギャンブラーの娘で、借金のカタに家財道具もろとも二
束三文で売られた悲惨な経歴。
ライル先生すら凌駕する数学的天才を発揮する。
タケルから聞きかじった半端な経済知識、ライル先生の中世レベ
ルの歴史、商会経営で培った観察眼から、データを集合してまとも
な経済知識を自分の中で構築して、経済チートとして頭角をあらわ
す。
その能力のために、商会のブレーンとしてシャロンに重宝されて、
二期生でかろうじて一人だけキャラ立ちできた。
リアルファンタジーなので、やっぱり奴隷少女たちの扱いは酷い
⋮⋮。
オナ村自警団
若い衆二十名。モブで名前もないが、全員が鉄砲を扱えて、大砲
を扱える人たちもいる。後半には、この人達こそが、義勇兵団トッ
プのベテランになる。
リーダーは、お調子者で声がデカいのが取り柄のマルス。村長の
息子である。
1078
職業:伝道修道女 シスター ステリアーナ︵リア︶ 年齢不詳
︵若くは見える︶
少しウエーブのかかった、淡い金髪の長い髪、やたら胸が大きい
のが特徴のシスター。
当初は、エストの教会に居る修道女であったが、伝道修道女は教
区をふらふらして寄進を求めるのが基本的な仕事。リアはその突飛
な性格から、教会上層部からもかなり持て余されているらしく、一
所の教会にいつくようなタイプではなかった。回復魔法師としても
そこそこのスキルを持っているが、神聖錬金術が得意らしい。
白地に青のラインが入ったローブを目深にかぶっている。常に街
を練り歩いて寄進を求めるちょっとお金にがめつい人だが、さくっ
と聖水や霊水を創るあたりはすごい。
あとなんか、最初から距離感をグイグイに詰めてきておかしい。
寄進を求める仕事ってのはやっぱりそういうアレなんだろうか。
教会運営にも金がかかるのは分かるが、かなり豊かな胸元に白銀
のアンクを下げてるのは教会もかなり儲けてそうではある。
勇者認定資格の三級をかろうじて取得しており、タケルを勇者に
認定した。そのままタケルと共に﹁禁呪の秘跡﹂によって、二級、
準一級へと昇格して聖女としての力を得る。
元から得意だった神聖錬金術がレベルアップで冴え渡り﹃封印の
聖女﹄の二つ名を付けられるまでになった。
是非とか、是非もないってのが口癖。おそらくは彼女が、宗教的
な運命論者だからである。女神のシナリオで、彼女の世界は動いて
いるのだ。
﹃リアのお師匠様の話﹄
1079
リアは孤児出身で、教会で孤児院を経営していた聖女に引き取ら
れている。
そのため、古くから教会書庫に入り浸ることが多く、思春期に禁
書に触れまくってしまい、あのような残念な形に成長した。
ホーリーポール
リアの養親も、神聖錬金術に長けた聖女で、ルイーズと共に﹃魔
素の瘴穴﹄封印へと赴いて、ゲイルに聖棒をすり替えられて、あえ
なき最後を遂げた。
職業:シレジエ王国宰相 ローグ・ソリティア 五十八歳
白い髭のおじいさん。実際の年齢よりも年老いて見えるのは、崩
壊しかかっている国の執政をささせるため、かなり苦労しているか
らだろう。
若くして︵タケルから見ると爺にしか見えないが︶王国宰相を務
める。格式を重んじ、保守的ではあるが、基本的にはかなりまとも
な愛国者。
有能ではあったが、政治家すぎた。零落する王権を守るため、各
方面で権力を均衡させる妥協を繰り返していった結果、獅子身中の
虫をのさばらせることとなってしまったのである。
ゲイル・ドット・ザウス 三十二歳。
職業:王国近衛騎士団長、対﹃魔素の瘴穴﹄将軍、髭面男爵。
かつて、騎士団の同僚としてルイーズと団長の座を争った男。そ
の政争は、ルイーズが指揮した瘴穴討伐の失敗によってゲイルの勝
利に終わった。
上にはへつらい、邪魔になるものは潰し、一般兵卒から将軍まで
のし上がってた切れ者である。
上司のいないところでは、俺様の嫌な奴。かつて騎士団長の座を
1080
争った、ルイーズには特別な思いがあったようだ。
後にクーデターを起こし、王都の王族・貴族を根絶やしにして、
シレジエ王国の国王戴冠を自ら宣言する。
ゲイルの行動は私欲に基づいたものであったが、名門貴族しか登
用されない硬直化したシレジエ王国の構造に風穴を開けた点では、
評価される面もあったのかもしれない。
臨時政府軍にゲイルが敗れるまでは、その行動を支持した人たち
も確かにいたのだ。
ゾンビ男爵 ルーズ・アンバザック・オックス 三十五歳︵死ん
だ年齢︶
アンバザック領を統治していた男爵。
要塞街オックスで、領民と共に﹃魔素の瘴穴﹄と戦い続けて街ご
と滅びた悲運の人。
気がついたら魔素の影響で、ゾンビ・マスターとして転生してお
り。
困ったときに救援してくれなかったシレジエ王国を逆恨みして、
領民をゾンビにして仕返しするつもりだった。
着々と力を蓄えてゾンビ・ロード化しており、このまま魔素の影
響を受け続ければ、末は魔王にもなっていたかもしれないところを、
あっけなくタケルに倒されてしまった死んでからも踏んだり蹴った
り、悲運の人。
死霊伝説の糧にするつもりが、タケルが勇者化するための糧にな
ってしまった。
ロスゴー村の少年兵 ミルコ・ロッサ 十三歳
サラちゃんに連れられて、ロスゴー義勇隊に参加した少年兵。貧
1081
農の二男坊でサラちゃんの幼馴染。
近衛兵と言う形でサラちゃんが強引にねじ込んできて、タケルが
伝令として使ううちに善良で気が利く少年と分かったので、重宝し
て使うようになる。
周りが奴隷少女ばかりなので、タケルは貴重な男手としてミルコ
くんを秘書官に育てたかったのだが、サラちゃんがロスゴー村に帰
還するときに、何度も慰留したにも関わらず一緒に帰ってしまった。
どうもミルコくんは、サラちゃんが好きで着いていったようなの
だが、上昇志向に強い相手なので、その密かな恋心は叶わないよう
な気もする。
ふやく
職業:王家の傅役 教育係 新宰相 ニコラ・ラエルティオス
ライル先生の父親。ラエルティオス家は、代々上級魔術師の家柄
であり、ニコラも大博士である。
壮年のやたらかっこいい茶色の長いヒゲの上級魔術師。
三人の男の子の子供があり、ライル先生以外の上二人の息子は、
王都に勤めていたために、ゲイルのクーデターで死亡。
一人だけ中級魔術師なため、半端者と蔑んでいた息子だけが生き
残ってしまう皮肉な結果となった。
今でも、ライル先生との親子仲は最低であり、ニコラの宰相派と
ライル先生の摂政派は王城を二分する勢力となっている。
ハーフエルフ
職業:王女 シルエット・シレジエ・アルバート 十五歳︵現在
は十六歳︶
ストロベリーブロンドの︵胸も背も︶小さなお姫様。ハーフエル
フのためか、かなり容姿は整って美しい。
シレジエ王国第十七代国王ガイウス・シレジエ・アルバートの庶
1082
子で、本人は売女の娘と称している。
シルエット︵影絵︶などという名前を付けて養育されたため、か
なり屈折している。
ゲイルのクーデターのあとは、シレジエ王国内で建国王の血を継
ぐ最後の生き残りとなる。
人間中心主義の貴族が多いため、成人しているのに王位継承者と
して認められていない。
職業:第三兵団、兵団長 ザワーハルト・モクス 四十歳
くすんだ銀髪の騎士隊長のおっさん。
騎士団に居たときはゲイル派であったが、自分がゲイル軍とシレ
ジエ王国臨時政府軍人の間に立って、キャスティングボードを握っ
た立場にあると気がついた途端、イヌワシ砦に篭って、中立を宣言
した利に聡い男。
かつては同輩だったのに、自分より先に出世してしまったゲイル
への嫉妬も絡んでいたりするのだが、まあ本筋とは関係ないのでど
うでもいい。
変な欲をかいたせいで、タケルに砲撃されてしまう。
クーデター終了後、ドット男爵領を拝領して、一応、ザワーハル
ト男爵となった。元がゲイルの所領なので、統治には苦労している
様子。
ちなみに、門閥貴族が第一、第二兵団で、第三兵団から第五兵団
までが、ゲイルの息がかかった新興貴族や武家による編成である。
クーデターの失敗でゲイルが除かれたあとも、その事情はあまり変
化していない。
職業:近衛騎士団参事︵副団長クラス︶ シルエット姫の近衛騎
1083
士 ジル・ルートビア 二十四歳
癖のない黒髪をルイーズと一緒のように、ポニーテールにしてい
る。
筋肉質だが、小麦色の肌でスタイルは良い。
スポーツ選手みたいな体つき。
極度の甘党。
シレジエ王国建国以来からの、ルイーズの郎党の家柄であり、か
つては近衛騎士団でルイーズの右腕として働いていた。
ゲイルが近衛騎士団であった頃は左遷されていたが、クーデター
後は騎士団に復帰し、シルエット姫専属の近衛騎士としてルイーズ
に推挙されて務める。
護衛としては有能だが、姫の世話係としてはイマイチである。
イヌワシ団 頭目は﹁イヌワシの頭﹂
三百人を超える大盗賊団で、イヌワシ砦という三階建の石造りの
砦まで築いた王都へ続く街道の盗賊として活動していた。
しかし、魔素の瘴穴解放の影響が強く、盗賊団は砦を魔物に襲わ
れて崩壊。
魔素の瘴穴事件終了後、再起を図ってオックスの街の山々を根城
にするが、そこでタケルと出会ってしまいまた、襲われて追い出さ
れる。
因縁の対決は、スパイクの街に持ち越されるが、結果は本編の通
り。
﹁イヌワシの口﹂と名乗る交渉担当とか、牙とか、アギトとか、
眼とか、爪とか、好き勝手にニックネームがついているキャラがい
て。盗賊は非合法活動なので、本名では呼び合わないことになって
1084
いる。
それなりに分担した組織があって、細やかにたくさんのキャラが
いたのだが、ほとんど出せないままに壊滅してしまった。
メス猫盗賊団
頭目は、ネネカ。濃い紫色の巻き髪をタラッと足元まで垂らした
変わったお姉さん。色気ムンムン。
タケルのイヌワシ盗賊団に対する悪辣な謀略に若干引きつつも、
自分たちの話を最後まで信じてくれたことには感謝してウェイクに
そのことを進言した。
ウェイクとは、古い馴染みのようだ。
のちに元スパイの経験を生かして、義勇兵団の密偵部隊を構成す
ることとなる。
職業:悪逆の盗賊王 稀代の義賊 三国に渡る大盗賊ギルドの長
ウェイク・ザ・ウェイク 二十四歳
コンポジット・アロー
柔らかい金髪のお兄ちゃん。
合成弓で、風魔法﹃反逆の魔弾﹄により鉄の矢を一気に三発撃ち
こむ。
︵最高五発までいけるが、その場合は乱れ矢になる︶
付けている緑のローブは風の精霊の加護があり、ローブに向かっ
てくるあらゆる飛び道具の射程をずらす効果がある。
銃撃の火線ですら、撃ち漏らしてしまう。
ウェイクを攻撃して倒すには、だから矢をかいくぐり接近戦で倒
すしか手はない。
しかし、ウェイクの身の周りには、常に手練の盗賊が二人伏せて
いるので接近戦の守りも万全だったりする。
1085
クックっと鳥がなくような妙な笑いをする。
姫騎士いじりが結構好きだが、慎重な男なので自分ではやらせず
主人公にやらせる。
魔道具のなかでも、呪具と呼ばれる呪われたアイテムのコレクタ
ーでもある。毒や、呪いなど、本来は役に立たないと思われるアイ
テムを、上手く使って見せるのに喜びを感じるタイプ。
冒険者にはゴミ扱いされる呪具だが、盗賊王にとってはイタズラ
から暗殺にまで、結構便利に使えるのだ。
トランシュバニア公国・シレジエ王国・ローランド王国の三国に
渡って、協力関係にある領地には盗賊ギルドを置いて裏の仕事を担
当し、敵対関係にある領主の領地を襲いまくるのを基本業務として
いる。
裏の仕事はあくまで個人的介入であって、国家間の戦争には介入
しないのを信条にしている。諸国を渡り歩く盗賊が、国を完全に敵
に回してしまうと、命取りになるからである。表の権力と裏の権力
の均衡、そこには一定の暗黙の了解がある。
しかし、強権的なゲルマニア帝国はその不文律を破り、盗賊ギル
ドの生業にまで手を伸ばしてきたため盗賊ギルドは、どこも帝国と
その領邦を敵対視している。
職業:第四兵団、兵団長 オラクル子爵 オルトレット・オラク
ル・スピナー 二十九歳
灰色の総髪、均整のとれた肉体。爽快な言動。
もともと領地を持たぬ武家出身の清貧な騎士、能力主義のゲイル
の元で出世した一人だが、クーデターを起こした段階でゲイルを見
限り、配下の騎士隊と指揮していた第四兵団を引き連れて、即座に
1086
臨時政府側に参加して子爵領を手に入れた。
ゲイルのことは嫌いつつも、クーデターで袂を分かつまで従って
いた彼は、無骨な見かけよりも柔軟な思考ができる男であるといえ
る。
ただ、質素倹約が染み付いているため、領主になってからもまっ
たく城を飾ろうとしないのはちょっと行き過ぎている。
オルトレットは、一人称がなぜか拙者でござるが、武家出身がみ
んなこんな喋り方をするのではない。
よく言えば古風な人なんだろうか。
魔族 隠形の上級魔術師 カアラ・デモニア・デモニクス 十九歳
力が弱まり下級魔族しかいなくなったシレジエ地方から生まれた
天才魔族。極稀におこる先祖返り、突然変異と言っていい。
若干十九歳にして、人間界の最上級魔術メテオ・ストライクを会
得する。
人間の国同士の戦争や内紛を利用して、魔素の瘴穴の解放・魔王
復活という大目的を達しようと動く。
隠形が得意なのは、隠れ住んでいる弱小魔族出身であるから。
人間に化けることもできる。
魔王軍の大幹部になるのが夢で、策士を気取っているのだが、感
情に左右されすぎて詰めを誤ることが多い。
人間を利用しているつもりが、利用されてしまうこともよくある。
魔素溜りの解放方法は彼女が開発したのだが、その情報をゲイルに
教えたせいで、ゲイルと通じていた帝国側に流出してしまい、フリ
ードに利用されるハメに陥った。
一人称は、アタシで、自分をワタクシと言えないあたり、まだ子
供なのかもしれない。
1087
ゾンビ辺境伯 ソックス・ロレーン・スパイク 三十五歳︵死ん
だ年齢︶
ロレーン辺境伯領を統治していた辺境伯。
領民と共に﹃魔素の瘴穴﹄と戦い続けて街ごと滅びた悲運の人。
気がついたら魔素の影響で、ゾンビ・ロードとして転生しており。
困ったときに救援してくれなかったシレジエ王国を逆恨みして、
オラクル大洞穴に籠もり、魔王としての力を蓄えてから復讐するつ
もりだった。
天才魔術師カアラの後援と教育もあり、着々と力を蓄えて魔王化
していた。﹃闇の剣﹄まで扱えるようになり、このまま魔素の影響
を受け続ければ、末は本当に魔王にもなっていたかもしれないとこ
ろを、あっけなく勇者化したタケルと鉢合わせして倒されてしまっ
た、死んでからも運が悪い。
ちなみに、彼ら魔王候補は魔物に転生したときに必ず体内に﹃魔
王の核﹄が発生する。それが、イマジネーションソード﹃闇の剣﹄
の発生源となっている。
それを生きた人間の身体に埋め込むなど気違い沙汰であるが、ど
こかの勇者がやってしまったら案外できてしまったようだ。
職業:ダンジョンマスター 不死少女 オラクル 三百歳
白っぽい髪をツインテールに結んで、赤い目に青い肌。
外見上は、ちんちくりん。せいぜいが十三歳ぐらいで、奴隷少女
には背伸びして辛うじてお姉さんぶれるぐらいの見た目しか無い。
実年齢は三百歳なので、少女っぽい愛らしい身なりは安全を確保
するための擬態である。内部はムレムレに成熟している。
さもバンパイア・ロードっぽい擬態をしているが︵血も吸える︶
正体はエンシェント・サキュバス。いわゆる精気と呼ばれる、異性
1088
の心的エネルギーを吸収することで、大きな力を得ることができる。
精気を吸うときに、なんかエッチい感じになるが、決してR18
規程に引っかかるような行為は行われていないことをここに明言し
ておきたい。この世界のサキュバスは極めてセーフティーな存在で、
ご家族の方も安心してご覧いただけるのである。
しかし、心的エネルギーの精神的な交合であるとはいえ、その過
程で稀に子孫繁栄などが起こってしまうのは、致し方ない仕様であ
る。
ただ、魔族と人間は交配可能とはいえ、異種交配は出来にくいと
は言える。
ダンジョン内部ではチートクラスの高い能力を持つが、ダンジョ
ンの外では制限された力しか使えないが、その制限された力が結構
強い。
例えばマミー無限湧きは、マミー千体湧きとなる。
職業:第二兵団長 対トランシュバニア公国 前線司令官 ロレ
ーン伯爵 ブリューニュ・ロレーン・ブラン 三十四歳
綺麗に編みこまれた黒髪を長く垂らし、奥にピンと細く尖った黒
い口髭を蓄えたおっさん。
黒色の微細な細工が施された美的には素晴らしいが、実用性皆無
の甲冑に身を包んで、腰には、また金細工が施された装飾過剰な宝
剣を差している。
名門貴族ブラン家出身で、傍系ながら王家の血を引いている。
王都のクーデターで、ブラン家本流が根絶やしになったあとは、
ブリューニュがブラン家当主となり家臣を引き連れてやりたい放題。
成り上がり者のゲイルへの敵対心から、第二兵団と旗下の騎士を
引き連れて臨時政府軍に参加。
ロレーン伯領の統治権と、トランシュバニア公国との戦いにおけ
1089
る前線指揮権をニコラ宰相より授かる。
旧ロレーン辺境伯領は、もともとトランシュバニア公国とゲルマ
ニア帝国の国境線にあたり、独自気風の強い土地柄。とはいえ、魔
素の瘴穴でその領域は全て壊滅的打撃を受けたのだが。
門閥貴族の首魁、地方貴族派の代表格。
バカにバカを重ねた、策士の策謀を台無しにする、マイナスチー
トの持ち主でもある。
裏でゲルマニア帝国と通じており、ブラン家当主ブリューニュを
旗印にシレジエ王国の継承戦争が勃発。
その最中にブリューニュは、自身の愚かな采配が元で戦死するが
⋮⋮。
トランシュバニア公女 公王の一人娘 カロリーン・トランシュ
バニア・オラニア 十六歳
亜麻色の長い髪。結構巨乳。メガネっ子。
青いドレスを好ん着ている。
かなりの愛国者で、真面目で考え方がしっかりしている女性であ
る。
遠い親戚筋に当たる同じ王族であるためか、シルエット姫と仲が
いい。
父親の公王とは違い、勇者の庇護下には入ったが、結婚相手はで
きれば自国民が独立を保つために良いと考えていた。
シルエット姫が女王として立つ決心を聞いて、状況が許せばそう
いう手立てもありかと考え直している様子。
ちなみにトランシュバニアは、ガラス加工が盛んで、ガラス玉や
1090
ポーションのガラス瓶やレンズやメガネなどが特産。
ししおう
ゲルマニア帝国皇太子 フリード・ゲルマニア・ゲルマニクス 真の勇者 影の魔王 金色の獅子皇 二十歳
輝くような金色のライオンヘアー、凛々しい顔立ち。
皇太子の双眸は、青と黄金のヘテロクロミア。
若獅子がごとき風貌の美丈夫。広い肩肘と引き締まった肉体もさ
ることながら、その存在感の大きさが彼を大きなものに見せる。
元の世界で言うなら、奴のまとう雰囲気は、特進クラスの後ろの
方に座っている﹃特別な奴﹄。
声高に叫ばずとも、ただ目視するだけで人は彼に従う。それだけ
のカリスマ性を有している。
ゲルマニアの第一王子、もはや皇帝としての実権を手に入れてい
る。
力を得ることに、ためらいも躊躇もない。ただ、ひたすらに権力
とパワーを欲する。
﹁光の剣、オリハルコンの鎧、闇の剣﹂光と闇が交わったが故に
最強に見える。
職業:ノルトマルク大司教 聖者 ニコラウス・カルディナル 年齢不詳︵年齢不詳に見える︶
オールライトヒーリング、全範囲回復魔法の使い手にして、聖遺
物﹃アダモの葉﹄のレプリカを現代に蘇らせた天才。
次期教皇候補の一人であり、その実力は伊達ではない。
銀縁メガネをかけて、黒髪を七三分けにしている大人しそうな青
1091
年。
その実態は、アーサマ教会の中心で男女平等を唱える、おてもや
んなホモ大司教猊下。フリードとは利害関係が一致しているので協
力しているだけで、自分の﹁聖者×勇者﹂の夢を受け入れてくれな
い彼には不満の様子。
大司教として明らかにマズイことをやってるのだが、アーサマに
よると﹃それもアリ﹄だそうである。
職業:ゲルマニア帝国宮廷魔術師 ﹃時空の門﹄イェニー・ヴァ
ルプルギス 二十二歳
他は中級程度だが、視線の届く範囲への瞬間移動に加えて、転移
魔法という極めて稀有な特異魔法の使い手。転移は、あらかじめ陣
を張った場所に十人程度しか送り込めないが、チートレベルを効果
的に転移させると、戦局を揺るがす魔法となる。
グラマラスなボディーに、それはどこのエッチな水着なのかと言
う、肌色の面積がやけに多い黒いボーンテージファッションに黒衣
のマントを羽織っている。
妖艶なる容姿である、やけにでかい宝玉の入った杖は強そうだ。
彼女の使う魔方陣は、古代魔法遺産﹃試練の白塔﹄の移動用魔方
陣と同質。古代の神聖リリエラ女王国の末裔とか、そういう感じな
のであろうがおそらく語られるまもなく先生にぶっ殺されると思う。
理由は、上級魔術師だからで十分。
特異魔法以外は地味な中級までしか使えないので、半ば干されて
いる身だったところを、フリードに実力を見出されて宮廷魔術師ま
で一気に押し上げられた。
そのためフリード皇太子には、揺るぎない忠誠を誓っているよう
1092
である。
職業:守護騎士 ﹃鉄壁のヘルマン﹄ ヘルマン・ザルツホルン
三十歳
オリハルコンの大盾をもった巌のような角刈りの大男、その守り
はあらゆる攻撃を跳ね除ける。盾は、そのまま敵を殴りつけること
で強力な武器にもなる。
帝国が誇る近衛不死団一万人の頂点でもある。
弱点は多方面攻撃、後ろを突かれること。俊敏な動きでカバーし
ているが、やはり四方八方から食らったらまず負ける。
そのため戦場では、近衛不死軍団を補佐に使う事が多い。彼らは、
皇太子を守りぬく盾である。
ゲルマニア近衛不死団
ゲルマニア帝国の帝室に仕える近衛軍団一万人。
彼らは幼少の頃より洗脳教育を受けており、槍が降っても鉄砲の
弾が降っても、恐れること無くその身を呈して、皇太子を守り続け
る。
死ぬと、音もなく交代の者が現れるので、不死の軍団と呼ばれて
いる。
その上数がやたらおおい、敵にするとかなり嫌な感じである。
古き者 混沌の化身 一万二千歳︵推定︶
オラクル三十階の隠し扉に、三百年間座り続けて、土の彫刻のよ
うになっている美しい女性の形をした何か。
不死王オラクル本体によると、推定年齢一万二千歳、古き者の中
1093
では新株にあたるそうだ。まあオラクル本体も千年足らずしか生き
ていないので、実際のところはわからないのだが。
ちなみに、アーサマの世界創聖が八千年前、いかに古いか分かる。
おそ
その行動は混沌そのもの。魔族にとっては恵みの母だが、同時に
触れるものに災厄をもたらす畏れ多い狂神でもある。
タケルたちをさんざん弄んだあげく、魔王の﹃闇の剣﹄ではなく
﹃精霊剣﹄でもなく、前例のない﹃中立の剣﹄を与える。
なぜそんなことをしたのかとは聞くだけ無駄。
彼女らの行動は、神代レベルの﹁なんとなく﹂だから理由などな
い。あえて理屈をつけるのであれば、刺激に対する反射と考えると
いいかもしれない。
砂嵐の上級魔術師 ﹃砂塵の﹄ダマス・クラウド 二十六歳
風系最上級魔法 パーフェクト・ハリケーンが使える。風系特化
なので、水系や火系はあまり使わないやりやすい相手とは言えたの
だが。
それ以前に、風を操るために飛行魔法が得意だったのが、彼の運
の尽きである。
自分以上に、上手く空中戦ができる魔術師など居るわけないと過
信して飛び上がったところを、カアラとオラクルちゃんに挟み撃ち
されて、落下死した。
ゲルマニア先鋒軍 主将 ﹃敢勇の﹄ネルトリンガー・ライン・
ファルツ 三十四歳
ファルツ家は、ゲルマニアの名門で何代にも渡り逸材の将士を輩
出している。ツルベ川のほとりに、小さいが豊かなライン男爵領を
持つ貴族でもあった。
1094
騎士隊を率いて突撃を仕掛ければ、右に出るものがなく人呼んで
﹃敢勇の将﹄。ライル先生が工夫した三重の柵を、一気に突破した
突撃力はかなりのものだった。
それなりに強い魔法のかかったフルプレートアーマーで、ルイー
ズに一騎打ちを挑んだが、バシネットごと頭を叩きつぶされてあえ
なく戦死。
人間の戦士が相手なら、十人が束になって掛かろうが絶対に負け
なかったのだろうが、彼が相手にしたのは人間の戦士を超えるドラ
ゴンを超える竜殺しの女騎士だったのだ。
常に副将、指揮をすれば負けっぱなしの姫騎士 エレオノラ・ラ
ンクト・アムマイン
十八歳
綺羅びやかな真紅の炎の鎧に身を包んだ、金髪碧眼の若い女騎士
である。
人呼んで﹃ランクトの戦乙女﹄。そうとうな跳ねっ返りとして有
名。
ランクト公の一人娘。アムマイン家は、帝国に豊かな領地を持つ
名門貴族であり大富豪でもある。
ランクト公は、帝国経済の中心地を抑えており、ゲルマニア諸侯
の盟主でもあり、かなり地位が高い。
その公姫である彼女に、表立って意見できるのは皇族ぐらいなの
で、﹁なんで公姫が騎士やってんだよ﹂という感じで、帝国軍上層
部では腫れ物扱いされている。
一般兵卒や、平騎士には好評なので余計に質が悪い。
心身ともに打たれ強く美しい姫騎士エレオノラは、副将として騎
士隊を率いるまでなら問題はないのだが、主将に何かあって姫騎士
エレオノラに指揮権が移譲されると大変なことになる。
1095
常に﹁突撃せよ﹂しか言わない彼女は、どうも兵科の特性とか細
かい違いを理解するつもりがないようだ。
誰か注意すればいいのだが、常に護衛の重装歩兵隊︵通称 大盾
隊︶が取り巻いている上に、公姫の彼女より地位階級の高い人は前
線に存在しないので、困ったちゃんのまますくすくと成長している。
緋色の鷹をあしらった紋章のマントを身に着けている。
それ一つで城が一つ買えるほどの伝説級マジック装備﹃炎の鎧﹄
の補正がバカ強いため、下手に武器を使うより、殴ったほうが強い
のは、本人も周りもまったく気がついていない。
武器もせめて、高価なマジック装備一本に絞ればいいのだが、ど
うもルイーズの﹃万剣伝説﹄に憧れているフシがある、いろんな得
物が使えたほうが良いと考えている様子。
自分の特性を生かして戦えば十分いけるはずなのに、いろんなも
のが裏目に出てしまうのは姫騎士の呪いと言えるかもしれない。
下手に関わると、幌馬車とか引火して燃えるので、戦場で見かけ
たら避けたほうがいい。
職業:ガラン傭兵団長 ガラン・ドドル 三十二歳
ゲルマニア帝国内にある大傭兵団の団長。
冒険者ギルドからも取り込んで、不正規軍三千を指揮する。
シレジエ王国側に鞍替えしてからは、五千人を指揮するようにな
る。
自らのミスを刻むために、あえて消さなかった歴戦の傷を持つ彼
には、癖のある傭兵たちも一目を置いて、その精悍な指揮に従う。
チェーンメイル
全身に黒い鎖帷子を付けており、ずきんを脱ぐとスキンヘッドで
ある。黒い髭を生やした大男。
1096
職業:将軍 ﹃穴熊の﹄マインツ・フルステン 六十歳
齢六十の経験豊富な百戦錬磨の老将。
いぶし銀のようなシワの深い白髪の御老体。細くて小さな眼をし
て好々爺の笑いを浮かべ、杖をついてヒョコヒョコ戦場を視察する
その姿は、鉄の鎧を着ていなければ散歩中の爺さんにしか見えない。
慎重派で、﹃臆病の﹄だの﹃凡将の﹄だの、若い将校に軽蔑され
ているが、実態は守勢に特化した名将。
四十年の軍務経験のうち、その六割方を負けているが、それは負
け戦ができる将がゲルマニアにマインツしか居ないから後始末に奔
走されているのである。
ライル先生が尊敬する数少ない名将であり、その采配は手堅く、
兵の統率能力には秀でたものがある。
この時代の将軍としては珍しく情報戦を重視していて、その状況
判断も的確。
後詰めの経験がほとんどのため、指揮の積極性に欠ける点以外は、
隙のない名将と言っていい。ライル先生の戦術に対して、一歩上回
って見せたのは、四十年の経験値によるものだろうか。
一介の巡察官︵帝国の憲兵のような役割の兵卒︶から、今上帝コ
ンラッドに才能を見出されて一軍の将にまで登用されたマインツは、
唯一の理解者であったコンラッド帝に生涯の忠節を捧げ、その御代
の終わりには戦場で死ぬつもりであった。
凡庸なる上級魔術師たち﹃ウルリッヒの三姉妹﹄
長女ノナ・ウルリッヒ 次女デキマ・ウルリッヒ 三女モルタ・
ウルリッヒ 上から二十六歳 二十四歳 二十三歳
特に目立ったところはない。普通の上級魔術が連携して使えるだ
1097
け。
だからこそ、帝国軍最強の上級魔術師集団であった。
黒髪の美人三姉妹であり、他の帝国の上級魔術師と同じく登場後
すぐに殺された。
上級魔術師が、ライル先生の前に敵として立ってしまうことは、
産まれの不幸としか言いようがない。
職業:将軍 ラハルト・ヴァン・レトモリエール 二十三歳
ロレーン攻めの若い主将、ブリューニュ伯爵を抑えきれず、その
伯爵も死んだため。
独断専行の上に敗退した責任を問われて、後に降格処分になる。
職業:ロレーン騎士団長 男爵 バガモン・ド・カルチャディア
三十九歳
やたら長いトンガリ兜と、骨董品の板金鎧を着ている貧しい騎士
団長。
ロレーン騎士団、王国派のボス、帝国派のド・マルセ副団長と、
騎士団を割って争っている。
ロレーン騎士団領は、ゲイルのクーデターの際に、臨時政府側派
に味方した騎士や将士に、領土を分かつ訳にもいかず、宰相がとり
あえず騎士団でまとめて地位だけ高いものを与えた、苦肉の策であ
る。
民もほとんど居ない乾燥した荒野で、彼らは両国に無視された小
さい戦争を延々とやっている。
エメハルト・ランクト・アムマイン公爵 三十六歳
1098
交易都市ランクトを有する、世界有数のお金持ち。
姫騎士エレオノラの父親。娘と同じ柔らかい金髪で、透き通った
碧い瞳。均整の取れた細面の美しい顔立ちに豊かな髭を蓄えている、
ハンサムな壮年。
アムマイン家は、ツルベ川の舟運による莫大な交易権益を背景に、
ゲルマニア諸侯の盟主として君臨し、その権力はゲルマニア皇室に
次ぐ。
代々のお金持ちらしい気品があり、芸術の振興にも力を入れてい
る好人物。
帝国の対シレジエ侵略戦争の雲行きが少し怪しくなってきたため、
柔軟に王国側にも渡りをつけようとしている様子。
金と文化の力で、人心を篭絡する狡知に長けた傑物のように見え
るが、どういうわけか一人娘の教育には大失敗した。
ゲルマニア皇帝 コンラッド・ゲルマニア・ゲルマニクス 七十
二歳
齢七十を越える老皇帝、五十年前に﹃迷霧の伏魔殿﹄を封印した
のはこの人。﹃試練の白塔﹄の五十四階まで登り、オリハルコンの
鎧と大盾を手に入れた勇者でもある。
若いころは遠征に次ぐ遠征で、帝国の西の三王国を喰らい、帝国
の版図を広げた英雄的な皇帝であったが、年老いて精彩を欠くよう
になる。
継承問題に決着を付けることができず、兄妹を力ずくで蹴散らし
て実権を握った若獅子フリードに良いようにされて、半ば隠居の身
となっている。
1099
81.世界地図と情勢︵十章終了時点︶
※本編を楽しむのに必要ない情報ですので、余録としてお暇があ
れば読んでください。
<i119047|12243>
︵シレジエ王国周辺地図︶
︱︱トランシュバニア公国
首都ブルセール
忘れられた魔素溜り﹃魔界の門﹄がある。
小国だが、メガネやガラス玉などのガラス製品が特産で、国民生
活はわりと豊か。
シレジエ王家とは親戚筋に当たり、継承問題のもつれで長い間国
境紛争を繰り返していた。
騎士団が壊滅的打撃を受けて、外交力は低下。現在は、ゲルマニ
ア帝国の準属国となっている。
︱︱シレジエ王国
北部 旧ロレーン辺境伯領
魔素の瘴穴、ゲイルのクーデター後の再編で三分割。
上半分 ロレーン伯領 ロレーンの街︵復興がほとんど進んでな
い︶ トランシュバニア公国と国境を接する。
1100
下の右四分の一 ロレーン騎士団領︵ほとんど荒野︶ ゲルマニ
ア帝国と国境を接する。
下の左四分の一 オラクル子爵領 スパイクの街︵オラクル大洞
穴︶ 他地域
西部 アンバザック男爵領
主人公の領土 オックスの街︵要塞化されており、森に囲まれて
石切り場もある。木材・木工・石材ギルドがある︶
エスト侯爵領
ダナバーン侯爵の領土 北のイエ山脈に多数の金銀・魔宝石・銅・
鉄の鉱山、鍛冶屋ギルド。西の友好国ローランドと北の王都を繋ぐ、
交易の中継地点、牧畜業・農業・エスト山羊の毛織物を中心とした
織物産業も盛んである。
田舎ではあるが、シレジエ王国の交易の中心地といえる。
中央部 王都シレジエ
首都で政治の中心、平原の街で農業が盛んだが、魔素溜り﹃魔の
山﹄の解放で北側の村が消滅して難民が流れ込み、その後クーデタ
ーの破壊によって半壊。
城壁の再建は進んでいるが、いまだに王城は工事中、再建ついで
に大砲を城壁に並べている。
南部 イエ山脈の向こう側は、王権の強化を望まない地方貴族の
領地が多い。
1101
<i119042|12243>
︵ゲルマニア帝国周辺地図︶
︱︱ゲルマニア帝国
西側、三大領邦王国 ラストア王国 トラニア王国 ガルトラン
ト王国
魔族や蛮族と国境を面しており、民族自律の気風が強い。
西方の三王国は、ゲルマニア帝国に二十年前∼三十年前の戦争に
大敗して、相次いで服属を余儀なくされた。その後何度か、旧王族・
氏族による反乱があったが、鎮圧されている。
東側 ランクト公国を中心とする諸侯連合
ツルベ川周辺の舟運の財を背景に、経済力が強い。帝国とは意図
を異なる動きを見せることがある。
帝国は、自治権を持つ小さな領邦がまとまった国家なため、帝国
内部の領邦が独自の意向を持つことも多い。
︱︱ブリタニアン同君連合
一人の君主を中心に、二つの島がまとまった連合国家。
北の海洋国家で、外海にまで乗り出そうと圧力をかけてくるゲル
マニア帝国の伸張に脅威を感じており、現状ではシレジエ王国を海
から支援している。
︱︱ローランド王国
1102
大陸中央部の王国、ゲルマニア帝国に三十年前の戦争で、領土の
東側をもぎ取られている。
シレジエ王国と協調路線を取って、仇敵関係のゲルマニア帝国に
抗する事が多い。
1103
81.世界地図と情勢︵十章終了時点︶︵後書き︶
オラクル大洞穴の設定注釈について。
41話で、﹁二百四十年間の長きに渡り﹂完全制覇されて居ない
のが、44話の﹁三百年前から﹂と年代が合わないとのご指摘があ
りました。
オラクル大洞穴の完成と開店︵オラクルちゃん誕生︶は、三百年
前です。
41話で言われているのは、不死王オラクルが魔王と共に魔の山
で英雄レンスに討伐されたあとも、そのままダンジョンだけは勇者
となったレンスに攻略されず、放置されて残ったという意味です。
︵※ 書き方もまずかったので、わかりやすく修正しておきました︶
大洞穴と共に誕生してから六十年の段階で、生みの親を勇者に殺
されたオラクルちゃんは、その後、二百四十年前の間、攻略されず
地中で放置されておりました。それを指して﹁二百四十年間の孤独﹂
と言っております。
その点、わかりにくい話になってしまったので、補足させていた
だきます。
さらに余談ですが、不死王オラクル本体は、勇者レンスに殺され
た段階で千歳でした。つまり、いま生きてるとしたら千二百四十歳
となります。
千二百年前となると、ちょうど超大国、神聖リリエラ女王国が出
1104
来た頃です。それから二百年後に、ユーラ大陸の人類の文明は一度
滅びかけますので。
その頃、二百四十歳ぐらいだった不死王オラクルが力を付けてき
て古の魔王と共に、シレジエ地方を支配するようになったというの
が推定されます。
1105
82.アーサマとの対話
サクラメント
﹁ついにアーサマより、最後の秘跡の許可が降りました。これが終
われば準一級から一級に昇格して、あのニコラウス大司教とも互角
に戦えるようになるでしょう﹂
澄ました顔で、俺にそう告げるリア。
お前、このパターンわかってるんだぞ。どうせまた変な話に持っ
ていくつもりだろ。断れない立場なのが辛い。
﹁秘跡なあ⋮⋮﹂
﹁是非もない反応ですね、ちょっとは喜んでくださいよ。最後の秘
跡は、タケルが想像しているような不真面目な儀式とは違います﹂
リアが、ため息をつく。
ため息をつきたいのは、こっちのほうだ。
﹁お前、これまでの儀式が、不真面目なものだったと認めるんだな
⋮⋮﹂
﹁言葉の綾です。最後の秘跡は禁呪ではなく、アーサマが直接タケ
ルとお話ししたいとのことなのです。これまで、何度教会に誘って
も来て下さりませんでしたが、今回だけは是非ともご同行をお願い
します﹂
まあいいさ、どっちにしろこっちは断れる立場ではない。
フリードと対決するにしても、ランクの差は命取りになりかねな
いからだ。
1106
また、あのホモ大司教にしても、冗談みたいな攻撃だったが、あ
のスウィフトゴーレムの猛攻をいとも簡単に跳ね除けて見せた神聖
魔法の実力だけは洒落にならない。
﹁分かった、アーサマにも聞きたいことや言いたいことは山ほどあ
るからな﹂
﹁創聖女神様ですよ! 分かってるとは思いますが、こっちはお願
いを聞いてもらう立場なのです。是非とも女神様に失礼のないよう
にしてくださいね﹂
いつになく、リアの反応が堅い。
なるほど彼女たちにとっては生き神様だ。
でも俺としてはピンと来ないし、あの混沌触手生物﹃古き者﹄と
同格の得体のしれない存在に感じるんだが。
どちらにしろ、神代レベルと相対しなければならないと考えると、
気が重いものだな。
リアに連れられて、俺はオックスの街の教会に入った。
街の規模と同じくこじんまりとした建物だが、綺麗なステンドグ
ラスで飾られた綺麗な尖塔の教会だ。
リアとの付き合いもあるので、俺が領主として再建資金を出して
やったのだが、入るのはこれが初めて。
羽の生えたアーサマを象ったステンドグラスは大雑把な造りだが、
それでも色のついたガラスというだけでこの世界では高級品だ、教
会は金食い虫である。
﹁こちらが、告解ボックスです。この中でアーサマをわたくしの身
体に降臨させてお話するのが、是非もない作法となっております﹂
1107
﹁うん⋮⋮﹂
小さい箱のなかに入るのは緊張する、確かに外界とは隔てた小さ
な神域と言えるのかもしれない。
箱の狭い入口をくぐって、中に入るとそこは少し空気がひんやり
と湿っていて、薄暗かった。
﹁やけに暗いな﹂
﹁是非お待ち下さい。いま、明かりをつけますね﹂
人が二人も入ればいっぱいになってしまいそうな、小さい黒い箱
に見えた中の空間は八畳ほどもある広いスペースになっていた。
まさか空間を歪曲させたなんてことはあるまい、隠し部屋の一種
なのだろうが、明かりに照らされた部屋を見て、俺は度肝を抜かれ
た。
﹁どうでしょう、蜜蝋の明かりが是非もなく、ムーディーな雰囲気
を演出します﹂
﹁なんだこりゃ⋮⋮﹂
その告解の部屋には、部屋の大部分を専有している大きな丸いベ
ッドがあって赤い絨毯が敷かれている。
蜜蝋の明かりに照らされて、怪しい雰囲気が漂う。香りづけして
あるのか、蜜蝋から甘ったるい香りが辺りに漂って⋮⋮。
俺は経験もないし、行ったことないけど。
この窓もない部屋の、いかがわしい雰囲気は、どっかで見覚えが
あるぞ。
﹁アーサマと対面するのですからね、是非もなく緊張しているのは
1108
わかります﹂
﹁いや、その種の緊張とは違うんだが、なあこれってアレじゃない
のか﹂
﹁ちなみに、この丸いベッドは回転します﹂
﹁おーい!﹂
﹁タケルが思うような淫猥なラブホではありません。このベッドの
周囲には神聖なる聖言が刻まれていて、回転させることでアーサマ
を降臨させるのに必要な聖円陣となっております﹂
﹁ラブホって今言ったよね!﹂
アーサマ教会に、何かまともなものを期待した俺が間違いだった。
ラブホの再現度は、嫌な感じのリアルさで、思春期を脱しきれて
ない俺には、キツイものがある。
なんか窓がないせいか、とても息苦しい。
ラブホーリールーム
﹁ラブホとは愛と聖の部屋の略です、ちなみに、この教会のラブホ
が使用されたのは初めてです﹂
﹁こんな無駄な施設を造るために、俺は多額の寄付をさせられたの
か!﹂
なんて連中だ。
あり得ない、領地の血税を何だと思ってるんだ。
﹁こうして役に立つわけですから、無駄とは思いませんが、領主た
るタケルがそのようにおっしゃるのでしたら、信者に貸し出すこと
も﹂
﹁やめろ! 俺が悪かったからやめろ﹂
1109
うちの領地で堂々と、ラブホテルを経営されたらかなわん。
王権から独立した教会権力は、領主としては口出ししにくいので、
これで結構厄介なのだ。
﹁デザインが突飛なだけで、これは降臨の儀式に必要な聖円陣なん
だな。突っ込むのはやめてそのように解釈するぞ﹂
﹁はい、今回は本当にまともな話です﹂
落ち着け、こんだけしょっぱなからやりきったんだから、儀式は
まともに違いない。
リアは、七色に輝く﹃女神のローブ﹄を脱ぎ捨てると、純白の下
着姿になってピンクのシーツがかかる丸いベッドの上にちょこんと
座った。
もう、なぜ脱ぐんだとか、一切突っ込まない。
いちいち指摘してたら日が暮れてしまう、長い夜をこの部屋でリ
アと共に過ごすとか、絶対嫌だ。
可及的速やかに、儀式を終わらせるのだ。
﹁では、いまよりアーサマ降臨の儀式を始めます﹂
神聖魔法が作用しているのだろう、ブワッと風もないのに大きく
蜜蝋の炎が揺れた。
アーサマの聖言がサイドに刻印されたベッドが回り始める。
俺は言語理解チートがあるので、その聖言とやらが読めてしまう
のだが﹃女は度胸、男は愛嬌﹄とか、神聖文字で書かれているのが
チラッと目に入った。
一切無視する。
1110
どこからともなく、パイプオルガンのような旋律が流れてくる、
教会の鐘の音がゴーンゴーンと遠くに聞こえる。
そのメロディーに合わせて、両足を座禅のように組んだ下着姿の
リアが、丸いピンクのベッドと一緒にゆっくりと回転している。
シュールだった。
突然、ふわっとリアの背中より、大きな白銀の羽が生えた。
あまりにも唐突なので、俺はもはや何も言えなくなって、白銀に
輝きだしたリアを黙って見つめる。
﹁⋮⋮あーあーメーデーメーデー、いま、シスターステリアーナの
身体を通して話している。我を呼んだのはソナタか﹂
﹁⋮⋮えっと、アーサマ?﹂
メーデーメーデー、ってなんだっけ。
救難信号かなんかじゃなかったか、アーサマってやっぱどっか間
違えてるよな。
﹁んっ、上手く繋がったのはいいが、質問とかまとめてないのか。
我、わりとケツカッチンなんだぞ﹂
﹁いや、ケツカッチンとか。⋮⋮何でもないです﹂
俺の言語理解の翻訳が、ちょっとオカシイと解釈しておこう。
女神様にツッコミを入れるのはマズイ、気分でも害された日には、
大変なことになりかねない。
﹁なんでもないのに呼ばれても困るよ、勇者タケルよ﹂
﹁すいません﹂
あれ、なんで俺が怒られる流れなんだ、顔が普通にリアだからム
1111
カっと来るんだが。
俺は、勇者としてランクアップする最終の秘跡だと聞いて、呼ば
れただけなんだけど。
﹁じゃあ、そちらからの質問はナシで、我が言いたいことだけ言い
切って秘跡終了の流れで良いか﹂
﹁いやいや、ちょっと待ってください﹂
貴重な機会だ。
リアルファンタジー製造者に聞きたいことなら山ほどある、アー
サマ教会に対するツッコミとかはこの際どうでもいい。
せっかくの全知全能の女神なのだ、質問したいこと。
俺の聞きたいこと、そうだ⋮⋮。
﹁俺は、なんでこの世界に転移してしまったんでしょうか﹂
根本的な疑問だ。
俺は転移した直前の記憶が無い、なんとなく高校生をやっていた
記憶はあるのだが、それもどこか遠い他人ごとのように感じて。
だから、面倒なホームシックもなかったし、この世界に適応する
には便利だとは言えた。
でも、いつか転移した原因を調べたいとは思って、今の今まです
っかり忘れていた。
俺は今、姫様とこの世界で結婚するかもしれない人生の岐路に立
っている。
男として、そういう選択を取った時に、そのあとで元の世界に戻
らないと行けないとかになったら取り返しのつかないことになる。
1112
そうか、こうしてアーサマの前に立ってようやく。
俺が何を迷っていたのか、その原因がはっきりした。過去を知ら
ないでは、未来は選択できない。
﹁タケルの元の世界に居た時のことを話せばよいのか﹂
﹁そうですね、そういうことも含めてお話いただければ⋮⋮﹂
﹁君は、元の世界に絶望してこの世界にやってきたんだよ。転移の
際の記憶が消失しているのは﹃転移の原因﹄となる出来事を忘れた
いと願ったからだ﹂
﹁絶望って、何があったんですか﹂
自ら忘れたがった出来事ってなんなんだ。
そんな言い方されたら、気になって仕方がないじゃないか。
﹁私の口からそれを詳しく言うのはどうかな。忘れたいと願った記
憶を無理に掘り起こせば、君は苦しむことになる﹂
﹁それでも知りたいと言ったら?﹂
﹁正確にエピソード記憶を回復すると、君は精神的なインポになる
だろう﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
インポテンツ
インポって言ったか今、マジで性的不能って意味で言ってるのか、
どんな女神だよ。
思い出したら性的不能になる記憶って、どんな恐ろしい出来事な
んだよ、怖いわ!
﹁まっ、それぐらい酷い記憶ってことだ、嘘だと思うか﹂
1113
﹁貴女が、本当に女神様なら、嘘はつかないと思います﹂
﹁⋮⋮だよね、だいたいさ、オカシイと思わなかったか﹂
﹁何がですか﹂
﹁フツーの高校生が、あんな獣人クオーターの可愛い子とか、ロリ
ロリな魔族とか、うちのムッチムチのプリンプリンなリアに抱かれ
て眠って、むせ返るような女の子の香りに包まれて、もう毎日毎日
くんずほぐれつ、我慢出来るわけないでしょ!﹂
﹁まあ、それは⋮⋮﹂
分かるんだけど、なんでそんな下世話で赤裸々な言い方するんだ
よ。
なんか段々とキャラ壊れて、地金が見えてきてるぞアーサマ。
﹁君は原因となる記憶を忘れてるから、インポまでは行ってないけ
ど、そういう色事に自然と抑制かかってるんだよ。女の子と深い関
係になるのを恐れてるんだ。結局、君の悩みの原因は全てそこに帰
結してるといえる。喉に魚の小骨が、引っかかってるみたいに、迷
いが食いついて離れない。そんな感じだろう﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
﹁気になるだろうから、君が異世界トリップする前の出来事を、客
観的に話してやろう。君は元の世界では、家族とも仲が悪いわけで
はないが疎遠になっていたし、学校に恋人も親しい友人もいなかっ
た。これは知ってるね﹂
﹁あんまり、きちんとした記憶ではないですけどね﹂
なんだか、他人の人生を見ているような感じで、過去を覚えてい
るのだ。
1114
俺は誰とも深く関わらず、孤独だった。特にそう望んだわけじゃ
なく、まあぼっちだったんだよな。
﹁誰とも疎遠で居場所がなくても、君はぜんぜん平気だった。君の
魂はとても孤独に強かったよ。そのままなら、本気で異世界に行き
たいなんて思わなかっただろう。一人で生きて、一人で死んでいけ
た﹂
﹁ぼっちでも平気だったんなら、何で異世界転移したんですか﹂
﹁そうだな、元の世界での君に、ある特殊な出来事が起きて、初め
て親しい友人ができてしまった。それは女の子であったけど、恋人
ではなかった。でも、それ以上に本当に心の深いところで通い合っ
た友人だった﹂
﹁だったら、なおのこと異世界に行こうだなんて思わないでしょ﹂
それが恋人じゃなくても、大事な人が出来たなら。
きっとその人を守ろうとするはずだ、今の俺ならそう思える。
﹁そのせっかく通い合った、たった一人の女の子が、仲良くなった
直後に跡形もなくこの世から消えてなくなってしまったらどうだね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
分からない、それは本当に俺の身に起きたことなのか。
大事な人が出来て、その直後に消えるって死ぬってことか、そり
ゃ耐えられないかもしれない。
﹁結論から先に言えば、免疫のない君にとって、人生で初めてでき
た大事な人を亡くしたショックは大きすぎた。その時には君の家族
も学友も、君の属するコミュニティの人間はみんな死に絶えていた
から、引き止めるものもなかった﹂
1115
﹁壮絶ですね⋮⋮﹂
想像もつかない、今の俺には。
でもなんとなく、胸がチクリとするような気はする、実際にあっ
たことなのだろう。
﹁その記憶すら、平気な顔で封印して、君は生活していこうとした
が、それでも勃たなくなるほど心身に深い傷を負った﹂
﹁だから、勃たなくなるとか平然と言わないでくださいよ﹂
﹁君ぐらいの歳の男の子が勃たなくなるって、そうとうだよ!﹂
﹁それはわかりますが、もうちょっと言い方考えてください﹂
女神がこれなら、そりゃ聖女も聖者も、あんなふうになるわ。
なんか悲劇の過去としては、胸に迫るものがあるのに、台無しに
なってないかこれ。
つか、元の世界の俺もショックだからインポになるって、もっと
他にあるだろ。
衝撃の受け方が、下世話すぎる。
﹁その今はもうどこにも存在しない、たった一人のソウルフレンド
から譲り受けた力で、君は辛い記憶をすべて消して、この世界に来
たんだよ。この世界が選ばれたのは、偶然であったが、今はもうこ
の世界で、大事な人がたくさんできたんじゃないかな﹂
﹁だとしたら、俺はこの世界でずっと生きていくべきなんですか﹂
女神は、少し考えてから、こう答えた。
﹁それは、我の決めることではない。ただ地球には、君の居場所は
1116
残ってないとは言える。異世界転移の際に、そういう選択を君はし
たし、我はそんな君をこの世界に受け入れた。覚えてないだろうが﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
自分の過去について、聞くべきことは聞いた気がする。
さすが女神様だ、きちんと答えが出る材料をくれたんだな。霧の
リアルファンタジー
ように視界を遮っていた迷いが晴れて、とてもスッキリしたような
気がする。
﹁さて、他に何かあるかな﹂
﹁じゃあこの際だから聞きますけど、なんでこの世界はこんなに厳
しいんですか﹂
言わないでおこうかと思ったが、向こうがフランクに話してくれ
てるんだからこの際だ。
思ってたこと全部ぶちまけてやろう。
﹁君は、毎回そんなことを愚痴ってるよね﹂
﹁アーサマ教会の教え自体は、素晴らしいじゃないですか。人種や
男女の差別を無くそうとか、自由であれとか、博愛精神を持てとか﹂
教会内部もおかしい上に。
教義をまったく守ってないシスターもいるけど。
﹁それなのに、どうしてこの世界はこんなに不平等で、不自由で、
残酷で、愛がないのかと?﹂
﹁まあ、そういうことです。女神様が創ったなら、もうちょっと何
とかなるんじゃないかと思ってしまうんです﹂
﹁良い質問だな、そんな風に願った信者も、過去にはたくさん居た﹂
1117
﹁女神様に、もっと善い世界にしてくれって願ったり?﹂
﹁そう、例えば厳しい世界に一人の奴隷少女がいた。理不尽に嬲ら
れて、無理やり陵辱されて、身勝手な理由で虐げられ続けた、もう
今にも死にそうな少女だった。私は、ある日そんな悲惨を見続ける
のに耐えられなくなって、その少女の願いを気まぐれに聞き入れて
たことがある﹂
﹁それで、どうなったんですか﹂
なんだか、どっかでそういう話を聞いたことがあるぞ。
嫌な予感がする。
﹁その哀れな少女を、我は巫女とした。高度な神聖魔法を授けられ
た巫女は女王となり、瞬く間にこの人類世界を統一して、神聖なる
超大国を創りあげた。そして、国民に戒律の遵守を強制した。あら
ゆる違法を罰し、小さな悪の一欠片すら絶対に許さなかった。完璧
な善の世界を創ろうとしたのだ﹂
﹁結構きつそうですね﹂
﹁つい千二百年ほど前の話だが、結果から言うとたった二百年で、
人間世界がそれまで培ってきた文明が跡形もなく崩壊した﹂
﹁ありゃ⋮⋮そういうオチですか﹂
つかこれあれだな、﹃試練の白塔﹄を作った女王リリエラの話だ
な。
あんな独善的なやり方では、そうなるのも分かる。
﹁なんか、そんなに驚いてないね﹂
﹁俺の元の世界にも、共産主義って、それに似たような思想があり
ますよ﹂
1118
﹁ああ、ソ連か﹂
﹁えっ、アーサマなんでソ連知ってるんですか﹂
なんで俺も歴史の時間で習っただけの、細かい地球の歴史知識を
持っている。
どうも、おかしい⋮⋮。
﹁コホン、地球から流れてくる勇者もいるから、我がベルリンの壁
崩壊とか、知っててもおかしくないだろう﹂
﹁知ってたんだったら、極端な理想主義は回避してくださいよ﹂
ソビエト連邦︱︱共産主義を目指した社会主義国は、みんなが平
等な世界を創ろうとしたと聞く。
でも共産主義は、どんなに働いても、サボってても平等だから、
みんなごまかしばかりやって、勤労意欲を失って滅びたのだ。俺の
理解では、だいたいそんな感じ。
﹁まあ、我も若かったし﹂
﹁いや、その時でアーサマ、六千八百歳じゃないんですか﹂
﹁んっ⋮⋮。どうも、電波の調子が悪くて聞こえないな﹂
﹁電波で通じてるんですか、これ﹂
﹁まあ、どの世界も似たような経緯を辿るのだな。我の巫女が敷い
た善の世界も、商工業が衰退して、農業に励むように推奨したのだ
が、人はみな意欲を失って君の世界で言うロボットになってしまっ
た﹂
﹁そうなりますよね、善とか平等とか、突き詰め過ぎるとね﹂
1119
女王リリエラが、ゴーレムに執着した理由は、人間という不完全
な動物を否定したかったのかもしれない。
﹁巫女が創った世界も酷かったな、みんな自分の意志を失っている
のに、そのくせそんな世界でも自由意志を持とうとする創意工夫の
人々を弾圧して、罰することだけは一生懸命やるようになってしま
った⋮⋮﹂
﹁あの、俺も考えなしのことを言って、すみませんでした﹂
残酷を全て取り除いた向こう側には、もう一つの形を変えた残酷
があるだけなのだ。
いくら創造の女神様とはいえ、このリアルファンタジーをどうに
かしてくれなんて、頼むほうがどうかしている。
悪を否定した女王リリエラが支配する、漂白された善の世界で。
人類の文明が滅び去るまでの二百年は、長かったのか短かったの
か。
﹁そうして一度、人間の文明は自滅して、我の影響の外にある魔族
に追いやられてしまったが、自由の意志を失わなかった人たちの子
孫が、やがて新しい秩序を築き始めた﹂
﹁ふうむ﹂
完全なる善の時代に、なんとか創意工夫を持って生きようとした
人々の生き残りが創ったのが、今の世界か。
だから、この世界の連中はこんなにフリーダムなんだな。
良い意味でも、悪い意味でも。
﹁新しいアーサマ教会には、平等よりも自由の精神を持つようにさ
せた。もちろん教義はあるが、聖職者であっても教義を超えて、自
1120
分の正しいと思うことをやっていいと教えた﹂
﹁それ自体は、素晴らしいことだと思います﹂
変態聖女や、ホモ聖者さえ、なんとかしてくれればの話だが。
﹁人は悪をなす。しかし、悪は人の一部で、それを完全に否定する
と、人は活力を失ってしまうのだと我は知った。人が自由なる意志
と選択のもとで、それでも善なる道を選んでくれることを我は祈っ
ている。創聖を司る女神が人に祈るなんて、おかしいがね﹂
﹁いや、おかしくはないですよ﹂
﹁そうか、では君にも一つお願いがあるんだが、聞いてくれるか﹂
﹁なんでしょう。俺にできることなら﹂
女神に何か願われるとは、思わなかった。
﹁リアにもっと優しくしてやってくれ﹂
﹁えっと⋮⋮。いつのまにか、女神様からリアに戻ってるとかって
オチでは﹂
﹁違うぞ、あのな。リアは君に遠慮してるんだよ﹂
﹁そうなのですか?﹂
あれで遠慮してるんだったら、遠慮しないリアってどんなんなん
だよ、怖いわ。
﹁聖女と勇者が結ばれることはよくあることだ、子を成してから聖
女が勇者と結婚しても、我は罰したりしない。でもリアは、そんな
こと自分からは求めてはいなかっただろう﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
1121
そういう遠慮をしてるということか。まあ、百歩譲って、遠慮と
言えるのかな。
いや、女神様待てよ。今言ったの、子作りと結婚の順序が逆だろ。
﹁シスターの戒律がどうとか、そんなの言い訳であろう。今のタケ
ルが女性と深い関係になりたくないと感じているから、リアは最後
の一歩は踏み出さない。⋮⋮なあ、あれでなかなか、いじらしいと
ころもある女の子ではないか﹂
﹁まあ、そういう言い方も、辛うじてできないことはないですが﹂
リアの顔で言われると、なんか納得できないんだが。
自作自演なんじゃないか。
﹁君も素直じゃないからなあ。あの子は、タケルの聖女だ。勇者付
きのシスターになったことで、割を食うことにはなって欲しくない
と。我はあの子の死んだ親代わりから願われているのだ、出来れば
叶えてやりたい﹂
﹁なかなか、グッと来ることを言いますね﹂
ゲイルの策謀で亡くなった、リアの親代わりの聖女か。
どんな人だったのかは知らないが、育ての親でも子どもの幸福は
祈るのだろう。
﹁我が創ったこの世界では、すべての人と同じく、君もリアも自由
に生きて欲しい。もちろん強いるつもりはないが、少しはこの子に
も優しくしてやってほしいと、お願いする。それを最後の秘跡の代
わりとしておこう﹂
﹁わかりました、じゃあ⋮⋮前向きの方向で、なるべく善処するっ
てことで﹂
1122
﹁煮え切らないなあ、本当に頼むよ。勇者認定一級の力は必要なん
だろう、お願い聞いてくれたら加護とか、おまけしちゃうぞ。ほら、
今後も戦闘とかあるだろうし、女神の力は入用なのだろう﹂
﹁取引ですか﹂
創造の女神が人間に取引を持ちかけてくるとか、普通はありえな
い。
自由の世にしたいってのは、嘘ではないのだろうが。
世界の潮流に影響されて、女神までフリーダムになっているとか、
なんか微妙だ。
リアルファンタジーじゃなくて、フリーダムファンタジーとでも
言ったほうが良かったのかもしれない。
﹁またゆっくり話せるといいが、我も一人しかいないから、いろい
ろとケツカッチンでね﹂
﹁お忙しい中、ありがとうございました﹂
それ芸能用語だろ、ケツカッチン気に入ってるんだな⋮⋮。
﹁あっと言い忘れていたが、君のトラウマを取り除いて、女性に対
する心理的抵抗を解除しておいたから﹂
﹁へっ⋮⋮﹂
﹁一定時間が経たないと、この部屋の扉は開かないようになってい
る。じゃあリアと仲良くしたまえ。エンジョイユアセルフ!﹂
そう、アーサマが言い残すと。
カクンと、虚ろな瞳をしたリアの顎が落ちて、アーサマとの通信
1123
は隔絶した。
心理的抵抗を解除って、どういう意味だ。
これ、どうすればいいの⋮⋮。
1124
83.最後の秘跡
﹁んっ、ん⋮⋮﹂
カクンと電池が切れたように脱力して。
ピンク色の丸いベッドに横たわったリアの瞳が、次第に光を取り
戻していく。
どうやら、目を覚ましたらしい。
﹁アーサマの降臨が終わったんですね﹂
﹁そのようだな﹂
既に、ピンク色のシーツがかかった丸いベッドは回っていない。
見慣れたはずの、リアの下着姿なのに、妙に艶かしく見えるのは
なぜだ。
﹁はっ、これが、女性に対する心理的抵抗を解除ってことか﹂
﹁どうしたんですか?﹂
単にエロく感じるようになっただけじゃねーか!
﹁いや、何でもない、それより身体は大丈夫か﹂
﹁ええ、前よりも調子が良いようです。秘跡が終わったのですね、
これで勇者認定一級。ニコラウス大司教にも対抗できます。タケル
も、溢れる力を感じるでしょう﹂
うん、溢れるエネルギーは感じるが、下半身のほうに充血してる。
これはヤバイ。下着姿でベッドの上にしなだれるリアが、俺に手
1125
を伸ばしてきた。
﹁起こしてくださいませんか﹂
﹁いや、自分で起きられるだろ﹂
リアの濡れた瞳が俺の視線と絡みつく。パターンは見えている、
どうせ手を引っ張り上げようとしたら、そのまま引きずり込まれる
だろう。
それなのに、リアの白磁器のように滑らかな手に触れたいと思っ
てしまう。
いつもクールだった俺の心が、思春期の男のように浮き上がって
いる。
心臓がバクバクと高鳴る。動揺を悟られたくないと思えば思うほ
ど、呼吸は荒くなり冷や汗が出る。
ブラを身に着けて居ても、見下ろすリアの胸元は大変なことにな
っている、一体こいつのカップ数はいくつなんだ。
俺はリアの感触を知っている、あの指が沈み込むほどに柔らかい
肉に触れたら、どれほど心地よいことだろう。
マーラ
﹁くそ、俺の中の悪魔よ、去れ!﹂
﹁ど、どうしたんですか。タケル⋮⋮﹂
リアは、額を手で抑えて、色欲と戦っている俺の様子に少し引い
ているようだ。
お前んとこの女神のせいなんだよ!
いや、アーサマのせいでもないか、元々の俺ってのは、こんなど
うしようもないエロいやつだったのかもしれない。
1126
蜜蝋の香りに交じる、リアの肌から立ち上る女の仄かな香りだけ
で、イケないピンク色の妄想が脳裏から離れない。
ため息が出る。今までの俺は、楽をしていたのだろう。
とにかく、今の俺の心理状況をリアに気づかれたら、致命的な事
態が発生しかねない。さっさと、この危険地帯から脱出しなければ
ならない。
﹁開かない⋮⋮﹂
﹁鍵はかかってなかったと思いますが﹂
アーサマをその身に宿すのは、結構体力を使うのだろう、少し気
怠い声でベッドから起き上がると、俺のところにやってきた。
俺はガチャガチャと扉を押したり引いたりするが、一向に動こう
としない。
一定時間閉じ込めると言っていたが、どれぐらいの時間なのだ。
この状況をリアに気が付かれたら、襲われる可能性が高い。そし
て、誘われたらもう抵抗できる自信がない。
﹁よく考えると、慌てて出ることもないか﹂
﹁あら、今日のタケルは、是非もなく積極的なんですね﹂
違う、出れないだけなんだ。
余裕があるように見せるのは大事だ、俺はなるべく平然を装い、
ベッドに腰掛けた。リアも、俺の隣にチョコンと座る。
﹁儀式だけに使うには、もったいない部屋だな﹂
﹁そうですね、恋人同士がしっぽりと愛を囁くのには、持って来い
の部屋とは言えます。ベッドもフカフカで、気持ちいいですよ﹂
1127
あいかわらず、リアの言ってることは、どうしようもない感じだ。
神聖な部屋という建前はどこへ行った。
それなのに、リアの声色がとても可愛らしく魅惑的な響きに聞こ
えてしまうのは、俺の邪心のせいだ。
﹁タケル、さっきから指摘していいのかどうか迷っていたのですが﹂
﹁なんだ﹂
﹁是非言ったほうがいいでしょうか﹂
﹁さっさと言ってくれ﹂
﹁その、ズボンの前が⋮⋮﹂
﹁なっ!﹂
俺が普段穿きにしている、ファスティアンのズボンの前が、大変
なことになっていた。
すわ襲いかかってくるかと思いきや、リアは頬を染めて、組んだ
指をモジモジとさせていた。
﹁雰囲気を出したのが、良かったんでしょうか。秘跡は終わってま
すが、タケルが是非ともとおっしゃるなら、わたくしの覚悟はでき
ております﹂
﹁くっ⋮⋮殺せ﹂
下着姿のリアごときに、猛烈な反応を見せてしまった俺自身の不
甲斐なさ。
俺の心は耐えたが、肉体の方は限界だったのだ。
﹁あーもう、いいから服を着ろ﹂
1128
﹁あら、羽がまだ戻らないので、是非にも着れないんですよ﹂
リアの背中には、まだアーサマが生やした白銀の翼が生えている。
確かにこんな羽をいつまでも付けてたら、服も着れないよな。天
使って連中はどうやって生活してるんだろう。
﹁でも、美しい羽ですよね。神聖なるアーサマの翼を身に付けられ
るなんて、わたくし是非にも光栄です﹂
リアが、羽を見てくださいと俺の前にくる。
確かに綺麗な翼だよ。神秘的な色合いを帯びていて、普通の女が
付けたらコスプレになりそうだが、黙っていれば天使の如き無垢な
美貌を持つリアには、よく似合っている。
﹁リア、何やってんだよ﹂
﹁こうすると、男の人は喜ぶと禁書に描かれてました﹂
リアは、満面の笑みを浮かべると、俺の目の前で下手なグラビア
アイドルなど十把一絡げで蹴散らしてしまうのではないかと思われ
るほどの、はち切れんばかりの巨大な肉の塊をプルンプルン揺らし
始めた。
リアの胸と一緒に、白銀の翼が上下にフワフワと揺れている。
なぜか満面の笑みで、ダブルピースまでかましている。
どこの漫画で、そんなの覚えたんだよ、いろいろ台無しじゃねー
か。
とりあえず前言を撤回したい。
リアを黙ってれば天使と例えたのは冒涜だった、ダブルピースか
ます天使は異世界にも絶対に存在しないだろう。
1129
こいつは、本当にどうしようもないバカだと思う。
そのバカのバカな手に乗って、まんまと興奮させられている俺は、
もっとバカだと思う。
﹁おっと、是非もなく転げてしまいました﹂
﹁うわ﹂
よろけた振りをして、リアは俺に飛びつくとベッドに押し倒して
きた。
俺の顔に、むにゅっと柔らかいものが当たる。
リアの大きな胸は素晴らしい。
はち切れんばかりに張りがあるのに、触れれば指が沈み込むほど
に柔らかくて、生暖かくて、他の何物にも喩えようがない感触だ。
こうして俺の顔が大きな胸に包まれる、トクントクンと、リアの
生命の鼓動が聞こえる。
ただの柔らかい肉の塊が、これほどまでに狂おしく心を惑わせる
のは、きっとそれが血の通ったリアの胸だからだ。
今すぐリアの胸を覆っている邪魔な布を引きちぎり、たっぷりと
心ゆくまで弄べたならどれほど気持ちいいだろう。
しても良いのだ、何がいけないのかと俺の欲望は悲鳴を上げてい
る。
沸騰しそうな頭の中で、それでもしてはいけないと叫んでいる遠
い声も聞こえる。
理性の声ではない。きっと、これまでの俺を押し留めていたのは、
頼りない理性ではなくて、失うことへの恐怖だ。
1130
大事な人を手に入れてしまって、再び失うことに俺は耐えられる
のか。
胸を突き刺すような痛みが、失うことへの悔恨が鎖となって、辛
うじて俺をつなぎとめてくれていたのに、アーサマが外してしまっ
た。
リアは、確かにどうしようもなく魅力的な女だ。
小悪魔のように意地悪で、天使のように無邪気だ。
ちょっと言動が、いろいろアレなのは置いておくとして。
そんな良い女が俺を求めてくれているのだ。俺だって痛いほどに、
リアを求めている。
それがたとえ欲望だとしても、求め合うことの何がいけない。リ
アに愛情がないかといえば、あるだろ。
そう自分を楽な方に、気持ちがいい方に正当化しようとする、普
通なら絶対欲望に押し負けるところだろう。
でも俺は、天邪鬼だ。欲望に流されてはダメな理由を、しっかり
と知っている。
だってこの状況、考えても見ろよ。
アーサマに鎖を外されて、飢えた野犬が餌をちらつかされるよう
にお膳立てされて。
そんな場所で、シナリオ通りにリアを抱くとか冗談じゃねーぞ!
ここで欲望に負けてリアを押し倒したら、あまりにもカッコ悪す
ぎるじゃないか。
いつかはそうなるかもしれないけど、少なくともここじゃない。
1131
ついさっきまで、真面目に自分の先の人生を、シルエット姫との
結婚を考えていたんだ。
これがシルエット姫だったり、ライル先生だったり、あるいはル
イーズなら潔く白旗をあげるところだが。
俺はアーサマのお膳立てにも、リアのおバカな誘惑にも、絶対に
負けない!
﹁やっぱり、今日は積極的ですね、これもアーサマのご加護でしょ
うか﹂
﹁離れろ、リア﹂
理性ではいけないとわかっているのに、思わず抱きしめ返してし
まった。
あまりにもリアの身体が柔らかくて、いい香りがして、我慢でき
なかった。
﹁そんなに強く抱かれたら、離れることができないではないですか。
そんなにしなくても、わたくしはどこにもいきませんよ﹂
﹁違う、リアこれは⋮⋮﹂
やっぱり、おっぱいには勝てなかったよ⋮⋮。
﹁ああっ、今日はもしかして、ついにこのまま最後まで行ってしま
うんでしょうか。アーサマ、罪深いわたくしをお許し下さい。最終
回は間近です﹂
﹁うるさいよ、あっ⋮⋮﹂
羽が生えたリアが、凶悪な武器である柔らかい身体を押し付けて
いる衝撃で、不意に俺のリミッターが外れてしまった。
1132
バカな、暴発だと!?
中学生のガキじゃねーんだぞ。
爆発しそうなほどの興奮と葛藤のなかで、どうにかなってしまっ
た身体が、肉体の門を、俺の意志とは関係なく解き放ってしまった
のだ。
おかげで、頭は賢者モードへと移行したが、なんとも情けない事
態に茫然とする。
ああ、やってしまった。
せめてそのことを、リアにだけは知られたくない。俺は、解放さ
れた気持ちよさと、濡れてしまった気持ち悪さに震えながらも、ク
ールを装う。
﹁あらら、もしかしてパンツを汚してしまいましたか﹂
﹁⋮⋮ぐっ﹂
なんで気づかれた。
しかし、なんという屈辱。リアに見下され、軽蔑されるのならま
だいい。
リアの俺を見つめる瞳は、深く碧くどこまでも優しくて、先走っ
てしまった年下の男を気づかう色すらあったのだ。
ここで下手に慈悲をかけられるのはキツイぞ、リア。俺の薄っぺ
らいプライドだって傷つくんだ、いっそ殺せ。
﹁大丈夫ですよタケル。思春期の男の子なら当然の生理現象です。
わたくしを愛しく思ってくれたからこそでしょう。それに、元気な
のはとてもいいことです﹂
1133
﹁俺は、思春期じゃないんだが!﹂
リアは、さも︵童貞君はしょうがないな︶と言いたげな感じで、
ウキウキとカバンから何かを取り出す。
俺の被害妄想なのか、あと童貞ちゃうからな!
﹁タラララッタラー、替えのパンツ、です﹂
﹁なんで、リアが男物の下着なんか持ってるんだ﹂
﹁アーサマが、今日は必要になるかもしれないから、ひと通り用意
しておけとおっしゃいました﹂
﹁あのクソ女神、こうなることは全部想定済みかよ!﹂
﹁あら、罰当たりなことを言ってはいけません。タケルだって濡れ
たパンツを穿いたままなんて嫌でしょう。是非もないアーサマのご
配慮をお受け取りください﹂
﹁分かったから、よこせ﹂
俺はリアから受け取ると、部屋の隅に行って履き替えた。
泣きたくなってきた。
﹁汚れた方は、わたくしが洗濯しておきましょう﹂
﹁誰が渡すか!﹂
これは持ち帰って、自分で洗う。ここまで辱められたんだからも
ういいだろう。
俺は、いい加減に開けと告解の部屋の黒い扉に手を賭けた。
﹁あっ、タケル、是非もなく無理ですよ。先ほどアーサマより﹃ご
休憩ではなくご宿泊﹄だと御神託がありました。この部屋は二十四
1134
時間は、邪魔が入らないように完全に閉鎖されているそうです﹂
﹁なんだと!﹂
﹁幸いなことにラブホーリールームには、トイレも水場もあります
から何度汚しても平気です。食料も飲み物もたっぷりと用意してき
ましたから、是非もなく快適に過ごせるでしょう。ちなみに換えの
パンツは、五枚用意してありますから多い日も安心です﹂
もう限界だ。これ以上の辱めに付き合ってられるか!
﹁星皇剣、乱れ斬りィィ!﹂
俺は、黒い扉に向かって、光の剣をめちゃくちゃに振るった。
ギギッと白銀の障壁が現れて抵抗した、さすがはアーサマの障壁
だ、光の剣だけでは断ち切れない。
﹁ちいっ﹂
俺は汚れたパンツを上に放り投げると、さらに中立の剣まで加え
て、両手で障壁を叩き割った。
全出力のダブルアタックならどうだ。
﹁中立の勇者なめんなよ、創造女神がなんぼのもんじゃ!﹂
母なる混沌神の後押しもあり、パリンとガラスが砕けるような音
がして、女神の障壁ごと黒い扉が断ち切られた。
俺は落ちてきたパンツをガシッと受け止めると、そのまま開いた
隙間から、扉を潜り抜けた。
﹁ああっ、タケル是非待ってください!﹂
1135
ラブホ
甲高い叫びを後ろに残して、危険地帯からの脱出に成功した。
リアは裸みたいな格好している上に、あの羽根のでかさでは狭い
扉をくぐれないから、すぐには追ってこれまい。
俺はあえて女神のシナリオにも反逆する、中立の勇者だ。
これでミッションコンプリートォォ!
※※※
﹁ああ⋮⋮もう、なんだってんだ﹂
リアの責めに、あれほどまで翻弄されるとか、全然クールじゃな
い。
激しいテンションでごまかして、教会からは逃げられたが、問題
は何も解決していない。
性欲が戻るのってキツすぎる。
せっかく過去の話を教えてもらって、悩みを解消してもらったと
思ったら、新しい悩みの種を落としていきやがって。
アーサマは、俺をどうしたいんだよ。
若者よ、悩め、苦しめってことか。それも人間に対する、神様ら
しいやり口だとはいえるが俺は信者じゃないんだから、試練なんか
いらないんだよ。
はぁ、はぁ⋮⋮なんか頭が熱い、身体が火照る。
頭にピンク色のどうしようもない妄想が、次々と湧き上がってく
る、こんなの勇者じゃなくて、ただの変態じゃん。
1136
﹁俺ってこんなやつだったのかなあ﹂
とにかく、城に帰って部屋に引きこもろう。今は誰に会うのもま
ずい。
しばらく休めば、心も落ち着くはずだ。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮﹂
身体が火照ってどうしようもない。
なんとか、よろよろとよろめきながら、城にたどり着いた。
﹁ご主人様、大丈夫ですか。すごく具合悪そうですけど﹂
﹁シャロンか、なんでもない⋮⋮俺から少し離れてくれ﹂
シャロンが駆け寄って来てくれたんだが、いつもはなんとも思わ
ないシャロンの匂いを嗅いだだけで、俺はおかしくなりそうになる。
オラクルもやってきた。
﹁なあ、タケル。匂いがするんじゃが、手に持ってるのを見せてみ
い﹂
オラクルが、俺の手から汚れた下着を奪うのを止められなかった。
くんくんと匂いを嗅いで、オラクルは眼を見張る。
﹁こっ、これは⋮⋮大変じゃ。おいシャロン、タケルは病気じゃ、
すぐ治療せねばならん﹂
﹁ご病気ですか、私にできることはありますか!﹂
シャロンは、驚いて琥珀色の瞳を見開いたが、すぐに冷静さを取
り戻してオラクルに指示を仰いだ。
1137
確かに体調がおかしいと思ったが、病気だったのか。
﹁うむ、シャロンはこの汚れたパンツを洗っておいてくれ。あと、
私の部屋にタケルを寝かして治療するから、人が近寄らんように頼
む。特に女はマズイのじゃ﹂
﹁わかりましたが、ご主人様は何の病気なんですか﹂
﹁うーむ、近くに女性がおると、具合が悪くなる男性特有の病気で
の。まあ専門家のワシが看病すればすぐ治るから、心配するでない﹂
﹁おっしゃる通りにいたします。オラクルさん、ご主人様をよろし
くお願いします﹂
シャロンは、俺の汚れた下着を渡されて、心配そうにオラクルに
手を引かれて行く俺を見送った。
あー、あのパンツ、シャロンに見られるの凄く嫌なんだが⋮⋮。
俺はオラクルの部屋のベッドに寝かされると、一気にズボンとパ
ンツをずり下ろされた。
もう抵抗する気力もないけど、それでも恥ずかしい。
﹁オラクル、何をするんだよ⋮⋮﹂
﹁何って、治療に決まっておるじゃろ。だいたいタケルの身体がど
うなっとるかは匂いで察したが、何がどうしてこうなったんじゃ﹂
オラクルは心配そうに、俺の腹をさすりながら、同時に怒っても
いる。
オラクルが言うには、今の俺の身体は、一年以上もの間、堰き止
められていた精気の門が一気に解放されて、オーバーヒートを起こ
している状態だという。
そりゃ、熱も出ようというものだった。
1138
﹁こんなになって苦しいじゃろう⋮⋮誰がワシのタケルに、こんな
酷い真似をしたんじゃ﹂
﹁アーサマが、心理的抵抗を取り除くとか言ってからなんだが﹂
﹁なに、創聖女神がやったのか! おのれぇ⋮⋮、せっかくワシが
徐々にタケルの精気を抜いて、ゆっくり調整しながら治してやろう
としてたのに、若い男の生理もわからん女神とかあり得ないじゃろ。
八千年も生きてて、まだおぼこかアイツは!﹂
オラクルは、赤い瞳を血走らせている。
白いツインテールがブワッと逆立って、フーと唸りながら牙を剥
いている。本気で怒っているようだ。
おのこ
﹁アーサマはアーサマで、悪気はなかったんだと思うが⋮⋮﹂
﹁タケルぐらいの若い男子が一年間、溜めに溜め続けた精気量を一
気に解き放つとか、力加減を知らんバカのやることじゃ。こんなの
受け止めたら、女のほうが壊れてしまうじゃろ!﹂
オラクルに言わせると、創聖女神もバカ呼ばわりなのか。
まあ、魔族は信仰対象じゃないからな。
﹁さしあたってどうすればいいんだ﹂
﹁完全にオーバーフローしておるからの、少し荒療治にはなるが、
まずは精気を抜き切ってしまうしかない﹂
俺は苦しいから、何とかして欲しいのは確かなのだが。
オラクルに跨られると、初めてではないにしても、かなり抵抗が
ある。
1139
﹁うあっ、ちょっと待って﹂
オラクルちゃん、いえ⋮⋮オラクルさん?
それはなんか、あり得なくない?
﹁ワシだって命をかける覚悟じゃ、この精気量を受けるのは尋常な
方法では無理じゃ。ワシの小さい胎が持つかギリギリじゃろうて﹂
﹁それはわかる、わかるがこんなやり方って、俺は知らないぞ!﹂
オラクルちゃんは、俺の上で悲壮な笑みを浮かべて親指を立てた。
いやでもこれ、あり得ない感じなんだが。
﹁ワシだって形は小さいが、エンシェント・サキュバス。精気吸収
のプロじゃ、きっちり全部受け止めて、またしっかりと箍をハメて、
精気が暴走せんようにコントロールしてやるから安心せよ﹂
﹁それはありがたいんだが、なんか怖いよ﹂
他にやりかたはないのか、これはあまりにも⋮⋮。
﹁ビギナーは、プロに全てを委ねよ。信ずるものは救われる、急い
ては事を仕損じるじゃ。では、ただいまよりオペを開始するぅぅ!﹂
﹁でもこれって、うああああ﹂
オラクルの謎のオペは、長い時間を要して、果てがなかった。
いつしか、俺もベッドで眠っていたようだ。
力尽きて真っ白になったオラクルちゃんが、戦い抜いて死んだ戦
士のような微笑みを浮かべて寝そべる横を、そっと起きだすと。
汗ばんだ肌をタオルでさっと拭き、服を着て外に出た。
部屋の外が明るい。
1140
﹁あれ、まだお昼なのか?﹂
﹁ご主人様、お身体はもうよろしかったんですか﹂
シャロンが、部屋の外で心配そうに待っていた。
彼女の匂いを嗅いでも、肌に触れてみても冷静さを失わないんだ
から、大丈夫になったのだろう。さすが、専門家。
﹁うん、もう大丈夫だ。それにしても、まだ日が暮れてなかったの
か﹂
﹁ご主人様、今は朝ですよ﹂
そうか、丸一日経ってたのか。
なんかもう、時間の感覚がおかしくなっている、自分がこれまで
の自分でないような感覚。悪い気分ではないが。
﹁オラクルが、疲れきって部屋で寝てるから、あとで介抱してやっ
てくれないか﹂
﹁わかりました、ご主人様がご快癒なされたようで、ホッとしまし
た﹂
気怠いけれど、どこか生まれ変わったようなスッキリした気分で、
身体を綺麗にすべくお風呂場に向かう。
城の廊下から見えるとても大きな太陽が、ジリジリと燃えている。
ふと足を止めてそのままじっと見ていると、黄色い太陽に心がす
っぽり飲み込まれてしまうような心地がした。
1141
84.戦争再開
めいむのふくまでん
その後、開かれた迷霧の伏魔殿の影響で、帝国の街がまた一つ壊
滅してから、事態が収束した。
フリードの謎の行動は、もはや害悪と言ってもいい。
﹁順調に行ったとすれば、フリードは魔王の核を新しく二つ手に入
れたわけか﹂
やはり、パワー三倍かな。
オラクルちゃんは、そんなことをすれば、魔王の核の力に飲み込
まれて死ぬだけだと言っていたが。
そしてついに、戦争再開の報を聞く。
帝都ノルトマルクより、フリード皇太子自らが率いる、シレジエ
討伐軍が進撃を開始した。
しかし、不可解なのは、帝国がいまさら﹁ブリューニュ伯爵は死
んでいない﹂と主張して、介入戦争を続行を宣言したことだ。
てっきり他の門閥貴族を旗印を押し立てて戦うと考えて、こちら
も対策を講じていたのだが、死んだ伯爵を旗印にするとは予想の斜
め上を行っている。
伯爵は死んでいる。それは、ブリューニュを殺して首を掻き切っ
て、ロレーンの街に晒してやった俺自身がよく知っている。
なぜ、帝国が不可解な主張で攻め込んだのか。
ブリューニュの失敗があったから、勝手な行動をしがちなシレジ
1142
エの地方貴族を旗印にするのに懲りたのか。
確かに旗に使うには、物言わぬ死人の方が良いのかもしれない。
もはや、この決戦に至っては、大義名分など関係ないということ
なのだろうか。
驚くべきことは、もう一つある。
帝国は帝都五万を先鋒に、さらに後詰に二万を加えて、総勢七万
もの軍勢でランクトの街を通り、国境線を越えてロレーン騎士団領
に攻め入ったことだ。
七万もの大軍を一気に使う戦争は、このユーラ大陸の歴史でも空
前絶後である。
ゲルマニア帝国の動員力のギリギリ限界と言っていい。
スパイクの街の本陣で、ライル先生は戦略地図を見つめながら、
驚愕している。
﹁あり得ないですね⋮⋮﹂
帝国の総力を結集した七万の軍勢で攻め寄せれば、確かに強いだ
ろう。だが、帝都を空にして全力で他国に攻めこむなど、常道を大
きく外した戦略である。
いや、それはもはや、戦略と呼べるレベルではない。
ゲルマニア帝国は、相次ぐ戦乱でただでさえ領邦が不安定化して
きており、外交状態も最悪なのに、帝都を留守にして攻められたら
どうする。
特に国境線沿いに部隊を駐留させているローランド王国は、三十
年前に帝国にもぎ取られた旧領回復を悲願としている。
1143
帝国とて、いつ攻めこまれても、おかしくない状況なのだ。そし
て攻めこまれれば、近隣の領邦も動揺して、すぐに帝都ノルトマル
クも危うくなってくる。
戦略地図を見つめたカアラが、珍しく発言した。
めいむのふくまでん
﹁この布陣⋮⋮。フリードは、迷霧の伏魔殿を計算に入れて、防衛
に使うつもりなんだわ。敵が帝都まで攻め込んできたら、包囲して
る敵の後ろからモンスターをぶつける﹂
﹁そんなの可能なのか、というかアリなのかよ﹂
確かに、シレジエのクーデターの最後に、ゲイルが魔素溜りを使
ったことはあったが、あれはもう追い詰められた挙句の窮余の策だ
った。
戦略に、最初から魔素溜りを使うなんてアリなのか。人間がやっ
ていいこととは思えない。
﹁普通の発想ではあり得ないけれど、自国民の犠牲も顧みず。魔素
溜りを上手く利用すれば、少ない兵力で帝都を守ることは可能です。
人間の長が、こんな酷い発想をするなんて、信じられないけど。無
策で帝都の守りを薄くしてるわけはないと思います﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
人間社会を敵対視しているカアラですら、若干引いてる。
しかし、フリードは魔王の核を戦争に使うほどの男なのだ、あり
得ないことをやってのけるからこその金獅子皇なのだろう。
﹁まあ、総力で攻めて来られたものはしょうがない、やれるだけや
ってみますか﹂
﹁タケル殿は、やけに冷静ですね﹂
1144
さすがに、今回は先生も焦りと困惑の色を隠さない。
でも俺は、これぐらいフリードならやると思っていたから、驚き
はない。七万って数の軍勢が、いまいち想像できないってこともあ
るが。
﹁先生は、敵が七万だと勝てませんか?﹂
﹁⋮⋮この日のために私は、ずっと何重にも策を練って、準備して
きました。予想より三万ほど攻め寄せる敵が多いですが、逆に考え
れば敵にはこれで大兵力による速攻しか選択肢がなくなります﹂
先生は、戦略図を広げて策を立て直し始めた。
﹁どうですか、行けそうですかね﹂
﹁⋮⋮打つ手はあります。なんでもやって良いんでしたらね﹂
先生は、悲愴な顔で、それでも薄く微笑みを浮かべた。
俺は、先生が大丈夫と言うのなら、心配することはない。
﹁じゃあやりましょう、フリードがこう来るんだから、こちらの﹃
魔素の瘴穴﹄もきっと利用してきますよね﹂
﹁タケル殿の指摘は正しいです、そのための対抗策もありますから、
その折はよろしくお願いします﹂
なんだ、先生はちゃんと想定していたんじゃないかと思う。
先生の瞳を見れば、俺にはよくわかる。まだ、慌てるような段階
じゃない。
﹁じゃ、チャッチャと始めましょうか!﹂
﹁タケル殿は⋮⋮﹂
1145
オラクルと前線視察に行こうとするところで、先生に呼び止めら
れた。
﹁んっ、どうしたんですか先生﹂
﹁いや⋮⋮。なんでもありません。前線に赴くなら、これを渡して
おきましょう﹂
先生は、俺に銃を渡した。火縄銃よりも一回り大きく重量感があ
る。
形だけは、洗練されたエンフィールド銃のようなデザイン︵に、
不恰好な補助魔道具と後装式の弾倉がついた状態︶になっている。
ライフル
﹁ついに完成しました、魔法銃です。弾倉に十二発、弾が篭ってい
て、レバーを引くと、次々装填されるようになってます﹂
﹁おお、すごいですね。ちゃんとライフルっぽくなってます﹂
俺は銃口を覗く、うーんちゃんと溝ついてるんだけどな。
﹁その溝はおそらく機能してませんが、魔宝石を動力源にして弓魔
法で超回転がかかります。射程は格段に長くなり、弾道も安定しま
す﹂
﹁やっぱりですか、でも弾倉まで出来たってすごいですね﹂
﹁ええ、基本的な構造は理解できたので、魔道具を組み合わせれば
造れはします。ですが、十丁試作して三丁しかまともに撃てません
でした。弾倉一つにも、かなりお金がかかっていますから無駄撃ち
しないでくださいね﹂
俺は、窓の外に遠方の樹に向かって試打してみた、パキューンと
1146
音がなっておそらく命中したのだろう、枝を落とすことが出来た。
レバーを引くと、弾がスライドしてすぐにもう一回射撃できる。
着火に魔法雷管を使っているのが功を奏したのか、火縄銃よりも
反動がマイルドだった。
弾の入れ替えも早いし、命中精度も飛距離も申し分ない。
ライフル
﹁これやっぱり量産できませんか、魔法銃で武装した兵隊を並べれ
ば圧倒的だと思うんですが﹂
﹁今はダメです、製造の失敗が多すぎて、武器として安定性があり
ません。高価な魔道具を使ってこれでは、大砲を造ったほうが効果
的です。魔法銃は、絶対に死んでは困る人の護身用に作ったんです﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁今は三丁で充分でしょう。私と、タケル殿と、あと約束ですから
ウェイク殿に連絡して渡しておきましょう﹂
ライフル
やはり、まだ現状では魔法銃は、ロマン兵器の域を超えないとい
うことか。
﹁わかりました、じゃあ早速帝国軍相手に、試し撃ちしてきます﹂
﹁タケル殿は、私の大事な大将です。深追いせず、絶対に帰ってき
てくださいね﹂
俺は十分に慎重なつもりなのだけど。
先生に言わせると、まだ危なっかしいのだろう。
まあ、俺が七万の敵を相手にしたって泰然自若としているのは。
もう打つ手なしになったら﹃オラクル大洞穴﹄に逃げ込んで、群
がってくる敵に﹃古き者﹄をぶつけてやれとでも思ってるからなん
1147
だけどね。
諸刃の剣だが、最終手段としては使えるはずだ。
先生に言うと﹁正気ですか﹂って言われるから、﹃オラクル大洞
穴﹄籠城策だけは、先に提案して通しておいた。
ダンジョンマスターが味方となった今の地下十階におよぶ大洞穴
は、平時は大硝石工場であり。
戦時においては、どんな人間の城よりも堅い、難攻不落の要塞と
化している。
攻め寄せる帝国軍を後背から苦しめるには、絶好の拠点となるは
ずだ。
ともかくも、こうして再び帝国との戦端が開かれた。
※※※
ロレーン騎士団領は、またロレーン騎士団のブリューニュ伯爵派
が盛り返して、騎士同士で、やーやーと決闘をやっているらしい。
帝国軍は、その無益な争いを無視して通過するまでは同じ。
今度は、ロレーンの街を経由せず、直接スパイクの街まで兵を進
めようとする。
しかし、そこに立ちはだかるのはモケ山地の狭い山道だ。
俺は、オラクルちゃんに背負って貰って、空中を飛翔して迫りく
る敵の大軍を偵察しにいった。
﹁すごいな、もはや三国志のワンシーンだ﹂
1148
俺も、一万人クラスの会戦は既に見てきた。
しかし、上から七万の敵軍を遠望すると、もう人の群れ、群れ、
群れ。
五万もの数の兵が、モケ山地の山道を通って渡ろうとしている光
景を見ると、絶句してしまう。
まるで砂糖の山に集るアリの大軍。
山道では、少しでも迫りくる敵の数を減らそうと、義勇兵団やオ
ラクル子爵子飼いの兵が、必死になって罠にはめて、岩や丸太を落
として抵抗しているが、千人足らずの小勢。多勢に無勢もいいとこ
ろだ。
程よいところで、撤退命令を出さないと、山を越えた敵にそのま
ま飲み込まれてしまうだろう。
帝国軍五万の向こう側には更に遠く、ゆっくりと二万の後詰めが
やってきている。
あっちも大軍だが、足の遅い輜重隊と攻城兵器がいて、それを囲
むように守っているのは帝国本国ではなく領邦軍の兵団なので、積
極的には戦闘に参加しないだろうとの先生の見立てだった。
﹁ちょっと、上から攻撃してみるかの﹂
﹁そうだね、焼け石に水っぽいが﹂
義勇兵団が抵抗してるのに偵察だけで何もしないのもよろしくな
いと、オラクルちゃんが、衝撃波を上から敵の先鋒にぶち当てた。
俺も上から魔法銃で、前線指揮官らしき立派な兜の騎士のみを狙
い撃つ。
敵は躍起になってクロスボウや長弓を撃ち上げてくるが、この距
1149
離からは絶対に届かない。
ファイヤーボール
先鋒に中級魔術師が混じっていたらしく、大きな火球も飛んでく
るが、さっさと避ける。
仮に当たったとしても、こっちは火炎抵抗が極まっているので、
当たっても痛くも痒くもないのだが、一方的に攻撃できるのは、こ
こまでだった。
﹁タケル、全速力で逃げるのじゃ﹂
﹁おう⋮⋮﹂
帝国軍が抱える切り札、飛竜騎士団五百騎が、遠方からこっちに
向かって群れをなして飛んできたからだ。
ワイバーンを使役する飛竜騎士は、ファンタジー世界における迎
撃戦闘機群であり空挺師団だ。あれに囲まれたら、俺たちでもマズ
イ。
戦いは数という兵法の常識は、異世界でも変わらないのだ。
さすがに五万、七万の軍勢を前にすると、個の力だけではどうに
もならない。
﹁あんなのがおると、帝国に空中戦を仕掛けるのは無理じゃな﹂
﹁何とか地面まで引きずり下ろして、戦うしかないだろうな﹂
まあ、その作戦を考えるのは先生の仕事だ。
飛竜騎士団も来たし、敵が山中を越える前にそろそろ撤退すべき
タイミングだと俺は味方に信号弾を送った。
1150
85.スパイク籠城戦
先鋒の義勇兵団とオルトレット旗下の騎士と兵士、合わせて千人
は、手はず通りモケ山地のふもとにある﹃オラクル大洞穴﹄へと逃
げ込んだ。
帝国軍は、山道を乗り越えていよいよオラクル子爵領へと攻めこ
んでくる。
スパイクの街の居城に戻ると、撤退の準備が進んでいた。
﹁先生、撤退ですか﹂
﹁もちろん撤退ですね﹂
確かに、スパイクの街はある程度復興して、城壁は直っているし
砲台も一つだけ取り付けてある。
しかし、この程度の街に籠城しても、七万の大軍に囲まれてはひ
とたまりもない。
仮に籠城したとしよう、食料や弾薬を空中から運んで持ちこたえ
ることをまず考えたが。
帝国には飛竜騎士団があるのだ、そこで空中からの輸送ルートは
潰されるし、空からの攻撃にも耐えられない。
はじょうつい
トレブシェット
それがなかったとしても、帝国には攻城兵器もあるのだ。単純な
籠城戦に持ち込めても、破城槌による攻撃か、大型投石機による石
弾の嵐で城壁を崩されたらそこで終わり。
その理屈が通用しない、古風な領主がスパイクの街にはいた。
1151
﹁街を敵にみすみすと明け渡しては、武家の名折れ。拙者は一人で
も籠城いたす﹂
﹁オルトレット⋮⋮。気持ちは分かるが、すでに領民の撤退も終わ
ってるし、ここに残って死ぬ意味は無いだろう﹂
灰色の髪、フルプレートを着た堂々たる体躯のスパイク領主。
オルトレット・オラクル・スピナーは、腕を組んで仁王立ちした
まま頑として城を動こうとしない。
オルトレット子爵だって、頭では街が持ちこたえられないとわか
っているのだ。
だから、領民の避難を真っ先に進めたわけで、そんな領主として
の合理性を持ちながら騎士としての意地は曲げられないのがこの男
でもある。
﹁なあ、オルトレットお前は生きてもらわないと、俺が困るんだよ﹂
﹁勇者様、これは武家の意地でござる。どうか、どうかわかってく
だされ!﹂
あー、これどうしようかな。
オルトレットに死なれると困るんだが、先生?
﹁じゃあ、オルトレット子爵には街に一人で残ってもらいましょう﹂
﹁ええーっ!﹂
正気ですか、先生それはさすがにちょっと。
﹁死ねと言ってるわけではありません。子爵は、敵に一矢も報いず、
街を明け渡すのが我慢ならないのでしょう﹂
﹁さようでござる﹂
1152
コクンと頷いてみせる子爵に笑いかけると、ライル先生は策を授
けた。
﹁でしたら、オルトレット子爵には私の策に協力してもらいましょ
う。さしあたって、子爵とベテラン砲手が一人ですね。二人だけな
ら終わり次第、街から撤退できるはずです﹂
﹁というわけだが、オルトレットやってくれるか﹂
﹁勇者様、敵を討ち果たすため、拙者にできることがあらば、なん
なりとお命じください﹂
﹁ああいちいち跪かないでいい、意地を果たしたら絶対に引くと約
束しろよ。死ぬのは許さんからな﹂
先生の策とはなんだろう。
街に二人の戦士だけが残って、できることなんかあるわけがない
と思うのだが。
※※※
俺はスパイクの街に残らず早々に撤退したので、ここからは伝聞
である。
街を囲む帝国軍を前に、オルトレット子爵は硬く閉ざされた外壁
の上から、高らかに宣言した。
﹁帝国の犬どもめ、このオルトレットがおる限り、この街は落とせ
んと思え!﹂
それと、同時に子爵がそっと紐を引くと、トリガーに引っ掛けら
れていたクロスボウの矢が一斉に囲んでいる帝国軍に向けて放たれ
1153
る。
﹁多勢に無勢だ、オルトレット子爵。大人しく街を明け渡して投降
されよ!﹂
今回の遠征軍は、皇太子であるフリードの親征であるので総司令
官ではないが。
帝国本軍の主将であるフォルカス・ドモス・ディランが前に立ち、
オルトレットに投降を呼びかけたという。
それに対するオルトレットの返答は、やはりもう片側の紐を引っ
張って、クロスボウの矢の雨を降らせた。
これで、帝国軍は小勢で籠城していると勘違いした。
街の外壁は硬く閉ざされ、実際に領主のオルトレット子爵が残っ
ているのだから、無理もない。
トレブシェット
それに対して、本営に陣取るフリード皇太子は、後方から運ばれ
てくる大型投石機の到着を待つこと無く、本軍の上級魔術師に攻城
を命じた。
ライル先生の目的は、上級魔術師を狙いやすい最前線に引き出す
こと。どんだけ上級魔術師が憎いんだという話だが。
攻勢を焦っている帝国軍は、先生の予想通りの攻撃を仕掛ける。
次々と倒された帝国の上級魔術師の中で、最後まで生き延びた﹃
灼ける鉄の﹄ドリュッケン・グンデ。
魔術師でありながらフルプレートに武装した巨体のドリュッケン
は、灰色の外套に身を包み。
街を守る城壁に向かって、大きく腕を突き出す。
1154
クラッグプレス
彼が使うのは、土の上級魔法だが、岩石落としではなかった。
かいな
﹁グアァハハハッ、天空を統べる覇者、暁の冥王よ! 我がドリュ
ッケンの名において、その腕より星屑を投げたまらんこと、アイア
ン・ミーティア!﹂
ドリュッケンの高らかな詠唱と共に、最上級魔法メテオ・ストラ
イクには、一歩劣るものの。
単体では致命的な攻撃力を誇る、灼ける巨大な隕鉄が撃ち出され
る。
はじょうつち
岩石落としならば、まだ耐えたであろう城壁も、これには一溜ま
りもない。
その威力から、歩く破城槌と呼ばれている。
アイアン・ミーティア
実際の隕鉄落としの威力は、破城槌どころの騒ぎではない、まさ
に中世ファンタジー世界における攻城砲であった。
苛烈にして強烈なる、鋼鉄の一撃。
スパイクの街の城壁にあるたった一門の砲手が、目を凝らし息を
殺すようにして待っていたのはその瞬間だった。
高らかな詠唱を叫ぶ標的を、くすんだ赤毛の女砲手ジーニーは睨
みつける。
ジーニーは、元オナ村の自警団出身の村娘で、ライル先生と共に
最初期から砲撃術を研鑽したベテラン砲手の一人だ。
たった一人砲塔に残った彼女は、息を殺すようにしてド派手な魔
法を使う上級魔術師に狙いを定める。
1155
旧式の砲台の狙いは思うようには行かない、最後は長年の感覚と
運が決める。
ジーニーは、祈るような思いで、鉄の弾を撃ち出した。
ドーンと一撃。
狙いはジャストミートだった。
直撃の衝撃だけで、ドリュッケンの周りにいた兵士は、血煙にな
って吹き飛んだ。
しかし、鉄の弾は弾かれてしまった。
ドリュッケン自身は取り巻いた魔法の防護壁が、その身を守った
のだ。
﹁ふん、あれがシレジエの新兵器とやらか。びっくりさせてくれる
⋮⋮﹂
もちろん歴戦の上級魔術師であるドリュッケンは、敵の攻撃に備
えていたのだ。
だから、砲撃を受けても生き延びた。自分の大規模攻城魔法は、
敵の新しい兵器にも撃ち勝ったと思ったのだろう。
だから、油断した。
自らの魔法により見事に敵の街の城塞が砕けて、歓声を上げなが
ら怒涛のごとく味方の兵士が街に突入していくのを眺めて、ほんの
一瞬だけ気が抜けた。
ゲルマニアの兵士に変装したカアラが、そっと後ろからその首を
一閃しても、ドリュッケンは一声も上げなかった。
1156
帝国の大軍が土煙をあげて、街を攻め寄せる怒号と歓声の中、前
のめりに倒れこんだドリュッケンを顧みる者はいなかった。
カアラは、そのまま帝国軍の兵士に紛れて街の中に入り込み、砲
手ジーニーと合流して彼女を逃したそうだ。
彼女の死にスキルになっていた変装・隠密技能が、久しぶりに役
に立った瞬間であった。
※※※
俺の前に、オラクルちゃんに両脇を抱えられるようにして、輸送
されてきたオルトレット子爵がやってくる。
その顔は、憮然としている。
﹁オルトレット子爵、ご苦労だったな﹂
﹁勇者様のお役に立てましたのなら、無念はございませんが⋮⋮﹂
﹁なんだ、不満なのか﹂
﹁いえ、生きて戻れとの命令でしたので﹂
俺は、釈然としない顔をしているオルトレットの肩を抱く。
結局はみすみすと街を明け渡してしまったのだ。彼が満足行くよ
うな戦いではなかったのだろうから、なだめておかないと。
﹁よくぞこらえて、生きて帰ってきてくれた。子爵にはこれからシ
レジエ本軍の総司令官の大役があるのだ﹂
﹁えっ、拙者が総司令官ですと⋮⋮﹂
オルトレットには、思わぬ人事だったのだろう。
地方貴族は役に立たないし、帝国軍のことを笑ってられないぐら
1157
い、こっちも信頼出来る人材が不足してるんだよ。
﹁そうだ、名目上はダナバーン侯爵がシレジエ王都本軍の主将にな
られるが、あの人は後方支援専門だから、実質上の本軍指揮を副将
のオルトレット子爵に任せたい﹂
﹁⋮⋮勇者様が、拙者をそこまで買ってくださっておられるとは﹂
﹁オルトレット、男と見込んで頼む。お前しかできん大役だ﹂
﹁勇者様、拙者謹んでその大役、お受け致すでござる!﹂
﹁この戦争に勝って功績を上げれば、オルトレットも救国の大将軍
だ。そうなれば、スパイクの街を取り戻すどころではない。ロレー
ンの街も含めた王国北方の大領主となれよう﹂
﹁拙者、勇者様のそんな大御心も知らず。つまらぬ愚痴をこぼした
こと、恥じ入る⋮⋮恥じ入るばかりでござる、ううっ⋮⋮﹂
オルトレットが感涙にむせている、やっぱり根が単純だ。
こういうところを、悪い人に利用されなきゃいいけどね。
実際のところ、オルトレットの将軍としての実力は、よくわから
ない。
ただ無難に指揮ができて、信用に足る人物なら合格点で、その水
準には十分達している。
潔癖すぎる嫌いはあるが、スパイクの街の民心もよく治まってい
たし、領主としても優秀といえる。
ここで絶対に死んでもらうわけにはいかない人材だ。
﹁オルトレットは、大将軍の器だろう。最後まで俺と共に戦い抜い
て、生き延びてくれよ﹂
1158
﹁ゆ、勇者様⋮⋮拙者、この命に代えましても⋮⋮﹂
﹁だから、死なない程度に頑張れと言ってるんだ﹂
﹁はいで、ござる⋮⋮﹂
オルトレットは、男泣きに泣いている。俺の腰にガタイの大きな
オルトレットがしがみついておいおい号泣してるのが、めっちゃ重
くて痛いんだけど、我慢する。
ここまで言っとけば、とりあえずは奮闘してくれるだろう。
さて、本軍の準備もあるが、オラクル大洞穴の籠城軍が上手くや
っててくれればいいんだけど、それは上手くやってくれるように祈
るしかない。
大戦略となると、自分でなんでもやるってのは不可能になる。
きっと、なんでも自分でやりたがりのフリード皇太子も、七万の
大軍を指揮するだけで満足できず本営でウズウズしてるんだろう。
いずれ、一騎打ちに持ち込んでやるから首を洗って待っているが
いい。
1159
86.大洞穴籠城戦
当然ながら、ハーフニンフのヴィオラとライル先生による井戸に
毒を発生させて、毒草を生やすトラップは今回の戦争でも行われて
いる。
ロレーン騎士団領から、スパイクの街に至るまで兵も馬も毒を喰
らいまくっているはずなのだが、脱落者は出ない。
﹁どうやら、帝国は解毒ポーションの補給重視に切り替えたみたい
ですね﹂
﹁帝国にも物の分かる人はいるってことですか﹂
謎の疫病の原因が、﹃ニンフの毒﹄であるとはまだバレていない。
何せこれまでも毒であることが分からず、ニンフ特有の呪いとし
て忌み嫌われるのが現状なのだから。
しかし、原因が分からずとも解毒ポーションで治療できることは
前の戦いの経験則でわかっている。
物の分かった兵站官が、帝国にも居るのだ。
﹁さすがに七万の兵馬です。馬に飲ませるまでには行き渡らないで
しょうし、その分だけ回復ポーションの補給が行き渡らなくなるか
ら、意味はあります﹂
しかし、足止めできないのは痛い。
帝国も、本来なら本国の抑えに残しておく兵力も結集しての総攻
撃なのだ。早く兵を進めようと躍起になっている。
1160
そこで、スパイクの街まで歩を進めた帝国軍の足を止めたのは、
オラクル大洞穴から発生する大量のモンスターだった。
痛手となるほどではないが、無視できるわけでもない。
大洞穴の近隣に居た帝国軍の兵団は、帝国の三大領邦国家の一つ、
北東の果てラストア王国からかき集められた、騎士隊と傭兵で構成
された五千人の混成大隊であった。
ラストア人の将軍、ライ・ラカンは帝国軍本営から、オラクル大
洞穴を速やかに沈めよという命令に渋い顔をする。
クラン
西のシレジエくんだりまできて、栄誉あるラストア氏族の騎士が、
輜重隊や投石機の護衛などつまらない仕事をさせられたかと思えば。
今度は、冒険者の真似事をさせられるのかと不快だったのだ。
しかし、命令とあらば仕方がない。
﹁勇敢なるラストアの戦士たちよ! まずはこの邪魔な魔物どもを
片づけるぞ﹂
カバリン
鍔のある鉄の兜をかぶり、チェイン・メイルの上にラメラー式の
胸甲をつけたライ将軍は、馬上で大振りの蛮刀を振るって、旗下の
大隊に洞穴の討伐を命じた。
人類世界の辺境に住まうラストア人は、魔物との戦いに慣れてい
るし、平時は冒険者稼業の傭兵も似たようなものだ。
ダンジョンの地階を制覇するなど、いともたやすいことだと思っ
ていた。
※※※
しばらく休業中だった﹃オラクル大洞穴﹄は、貯めた地中からの
魔素をフル動員してモンスターを活性化させている。
1161
それをダンジョンを守るため使うのではなく、外に向けて攻撃に
使っているのだ。
ダンジョンマスターのオラクルちゃんが居れば﹁邪道じゃ﹂と嘆
くところだろうが、いまは自動管理になっている。
オーガ種やゴブリン種のモンスターが、雪崩を打ってダンジョン
の外に出ていくのを、隠し部屋に潜んでいる義勇兵団とオラクル子
爵領の騎士が眺めている。
﹁おい、へっぽこ隊長。本当にこんなところまで帝国軍はくるのか
?﹂
オルトレット子爵に仕えるフルプレートの鎧を着た、女騎士ドロ
ス・トコードが、隣でダンジョンの覗き窓から外を偵察している、
革鎧を着た茶髪の兄ちゃんに尋ねる。
﹁ドロスの姉ちゃん。へっぽこは止めてくれよ、俺はマルスって名
前があるの!﹂
このガラの悪いチンピラにしか見えない茶髪の兄ちゃんが、千人
足らずのオラクル大洞穴籠城軍の大将なのだ。
義勇兵団一番隊長という役職を与えられているが、元は義勇軍の
ベースキャンプのあるオナ村の村長の息子だ。
銃を使わせても、槍を使わせてもてんでダメで、みんなにへっぽ
こ呼ばわりされているマルスだが、明るくて大きな声を持っている
からという変わった理由で、ベテラン揃いになっている元オナ村自
警団の面々のリーダーになっている。
元々が村長の息子ということもあり、隊長になっても気さくで威
張ることがない素直な性格なので、周りに押し立てられて将士とし
1162
ては意外に有能だったりする。
﹁お前こそ姉ちゃんはやめろ、私は誇りある騎士なのだぞ﹂
﹁じゃあ、俺だって誇りある隊長だよ。勇者タケル様から直接お言
葉をかけてもらったことだってあるんだぞ﹂
そう自慢げに胸を張って笑う茶髪のチンピラを見て、黒髪の女騎
士はため息をつく。
彼女たち、まともな騎士から見ると、若い義勇兵の戦い振りは農
民の子供が遊んでいるようにしか見えない。
それなのに、彼らが使う銃や大砲は、長い鍛錬を積んだ騎士の剣
よりも強いのだから、時にやるせなくなる。
騎士ドロスの主であるオルトレット子爵閣下が﹁時代が変わった﹂
とおっしゃっていたのはこのことだろう。
﹁ああ分かった、そんなことはどうでもいい、へっぽこ。帝国軍は
くるのかこないのかと聞いてるんだ﹂
﹁そりゃくるでしょ、うちの無敗の軍師様がそうおっしゃってまし
たから﹂
﹁ライル国務卿か、有能なのは分かるが、あの御人はどこか得体が
知れなくて好きになれんのだがな⋮⋮﹂
﹁あっ、敵がきたよ、お姉ちゃん!﹂
カバリン
揃いの鍔のある鉄の兜を被ったラストアの騎士達が、オーガやゴ
ブリンを駆逐しながら、大洞穴の入り口までやってくる。
馬上で大きな蛮刀を振り回す騎士の後ろから、徒歩で随伴してい
る槍を担いだ傭兵たちもやってくる。
1163
これから、大洞穴の中へと突入しようとするのだろう。
洞穴の隠し部屋に篭る籠城軍も、迎撃の準備を始めなければなら
ない。
﹁私は、お前の姉ではないと言ってるだろ!﹂
﹁そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、姉ちゃん。ほら、みん
なも準備!﹂
マルスの指示で、義勇兵たちは各自の持ち場へと散る。
オラクル大洞穴には、メンテナンスのための隠し部屋と、それら
を繋ぐ隠し通路がきちんと用意されている。
そこから奇襲すれば、ほぼ一方的にダンジョンに入ってくる敵を
迎撃できるのだ。
通常のダンジョン運営では、絶対にやってはいけない禁じ手の一
つだが、戦争なので仕方がない。
オラクルの﹁世も末じゃ﹂という嘆きが聞こえてきそうではある。
ちなみに、これはオラクルから聞いた余談だが、メンテナンス用
の隠し部屋や通路を攻撃に使用してはいけないのは、その存在が冒
険者にバレて塞がれてしまうと、ダンジョン運営に致命的な打撃を
受けるからであるそうだ。
隠し部屋は、隠れているからこそ意味がある。
したがって、今回の作戦はあくまでも非常手段だ。
さて、問題は敵がノコノコとダンジョンにまで誘い込まれてくれ
るかどうかだが、その問題はいまクリアされたようだ。
馬から降りた騎士と、槍を担いだ傭兵たちが、何の警戒もなくず
んずんと大洞穴に入り込んでくる。
1164
元々モンスター相手の戦闘に習熟している彼らからすれば、日常
茶飯事の行為をここでも行おうとしていただけで。
まさか雑兵と侮った敵が、ダンジョンを使って籠城していような
どと思っては居なかった。
だから、大洞穴の地階の奥の大部屋まで誘い込まれたラストアの
氏族騎士は、突然壁だと思っていたところから現れた義勇軍銃士隊
に、ほとんど抵抗することもできずメッタ撃ちにされた。
ショットガン
﹁いやー、接近戦はやっぱり散弾銃だね﹂
得物の火縄銃をさすりながら、マルス隊長は得意げに笑う。
一番隊は、激戦が予想されたので、新兵器の散弾を与えられた。
それが、隊長の彼には誇らしいのだ。
通常は一発だけのところが、散弾は薬莢に六つから九つの小さな
弾が詰まっている。
飛距離は落ちるが、面に対しての攻撃になるため、接近戦での殺
傷能力は格段にアップする。
﹁隊長の弾だけは、ほとんど当たってなかったッス﹂
そう部下に指摘されて﹁うるせえよ!﹂とマルスは、顔を真っ赤
にした。
それで、若い義勇兵たちは腹を抱えて笑っている。戦場でも和気
あいあいと楽しい、彼らのいつもの光景だった。
﹁栄誉ある騎士が、哀れなものだな﹂
1165
騎士ドロスはそんな歓談には加わらず、沈痛な面持ちで、まだ辛
うじて生きていた敵の騎士の首を掻き切った。
わけの分からぬままに鉄の玉を浴びせられて死ぬよりは、剣で死
ぬほうがまだ騎士らしい最後であろう。
﹁ほら、遊んでる場合ではない、次が来てるぞへっぽこ!﹂
﹁姉さん酷いなあ﹂
新しい敵の騎士と傭兵からなる小隊が、大部屋に乗り込んできた。
マルスたちは、さっと壁にしか見えない隠し扉を潜り抜けて、敵
の背後に回る。
帝国軍の騎士たちが、義勇兵達が消えた壁を不思議そうにさすっ
ていると、違う隠し扉から別働隊が現れて、散弾を浴びせて始末す
るのである。
狭い大洞穴では、大軍を小隊に分けて投入するしかなく、隠し通
路を知り尽くしている籠城軍の方に圧倒的な地の利がある。
これはもう戦闘ではなく、帝国軍が戦力投入を諦めるまで続く、
一方的な射殺の繰り返しだった。
※※※
﹁何なのだ、これは⋮⋮。中で何が起こっている﹂
次々と、送り込んでは消えていく旗下の騎士や傭兵たち。
まったく報告が帰ってこない。大事な兵たちが、暗闇の底に引き
ずり込まれていくようだ。
ジリジリと焦る気持ちを抑えこんで、静粛たる表情で腕組みして
1166
朗報を待っていたラストア人の将軍ライ・ラカンも。
ついに行方不明者が千人を超えたところで、しびれを切らせた。
﹁ええい、俺が行く﹂
﹁ライ将軍、危のうございます!﹂
ここで、危ないと将軍を止めるのではなく、自分が将軍の肉壁と
なって前に進もうというのが、勇猛たるラストア氏族の戦士の気概
である。
ライ将軍を守れと、将軍旗下の誇りある騎士たちが怒涛の群とな
ってダンジョンに押し入ってきた。
﹁うあっ、多すぎ﹂
マルス隊長は、焦りのあまり叫んだ。
蛮刀とラメラーアーマーで武装した騎士の群れが、叫び声を上げ
ながら大部屋に乗り込んできたので、散弾を食らわせたまではよか
った。
余りにその数が多くて、殺しきれなかったのだ。
一度撃ってしまえば、弾込めに時間がかかるのが火縄銃の悲しい
ところである。
慌てて、隠し部屋に逃げ込もうとするも、最後尾のマルスが隠し
扉に挟まってしまった。
﹁隊長なにやってんすか!﹂
﹁いやぁー助けてー!﹂
隠し扉に挟まってジタバタしているマルスを、義勇兵たちが慌て
1167
て隠し部屋に引きずり込む。
無骨な蛮刀をきらめかせて、マルスの下半身に斬りつけようとラ
ストア騎士が飛びかかる。すんでのところで引きずり込んで、隠し
扉を押さえつけた。
﹁ほんとにドン臭いなあ。おし、へっぽこ隊長セーフだ。別働隊、
回り込め!﹂
﹁へっぽこって、言うなよぉ⋮⋮﹂
マルス隊長が頼りにならないので、もはや指揮も他の兵士が勝手
にやっている。
隠し扉で足止めを食らっている騎士たちめがけて、また別の隠し
扉から銃士隊が現れて死体の山を築く。
﹁貴様らァ!﹂
ライ将軍は、怒声を上げながら銃士隊に斬りつけた。
﹁ひいっ!﹂
サーベル
慌てて義勇兵が散弾を撃ちこむも、ライ将軍の空気を震わせる怒
声の迫力で、狙いがそれて深々と斬りつけられた。
騎士ドロスは自分の出番だと、斬られた義勇兵をかばって、直刀
を抜いた。
﹁馬鹿者、これが騎士たるものの戦いかァ!﹂
﹁私だって好きでやってるわけではないわ!﹂
一閃、将軍の斬りこみを受けただけでビリビリと手がしびれるが、
それでもドロスはなんとか二閃、三閃と重い斬撃をいなした。
1168
倒さなくていい、時間を稼ぐだけでいいのだ。
冷静さを取り戻した義勇兵が散弾を詰めた銃を、怒声を上げなが
ら斬りこんでいるライ将軍に向ける。
﹁将軍危ない!﹂
隣で蛮刀を振るっていた護衛のラストア騎士は、自らの身体を盾
として銃撃をその身に受けた。
銃撃で、吹き飛ばされてくる味方の身体を受け止めると、ライ将
軍はそのまま勇敢ある氏族騎士の身体を抱え持って撤退命令をくだ
した。
﹁引け!﹂
近衛の騎士たちはライ将軍を守りながら、ダンジョンの通路を退
却していく。
義勇軍銃士隊は、敵の将軍を倒せば勝ちだと盛んに弾を撃ちかけ
るが、敵の捨て身の防御に阻まれて討ち果たせなかった。
﹁大丈夫か、飲め。ポーションだ﹂
騎士ドロスは、斬られた若い義勇兵の男に回復ポーションを飲ま
せて介抱している。
隊長のマルスも、おっかなびっくり様子を見に来た。
﹁なあ、ドロスの姉さん。あのでっかいおっかない奴、将軍とか言
ってたけど、また来るかな﹂
﹁わからんな、警戒は怠るべきではないが。意外に冷静な判断がで
きる将のようだったから、もう無闇には攻めて来ぬかもしれん﹂
1169
騎士ドロスの予想通り。
オラクル大洞穴が、シレジエ王国側の要塞になっていることがこ
れで知れ渡り、帝国軍は無闇に手を出さなくなっていく。
※※※
大洞穴の外まで、這々の体で逃げ出してきたライ将軍は、自分が
抱えてきた誇り高きラストア氏族の戦士が、胸の中で息絶えている
ことに気がつくと。
うおーと、獣のような叫び声を上げて泣いた。
ライ将軍は、もうやってられないと、兵馬をまとめて陣を引く準
備を始めた。
これ以上理不尽な戦を強いられるなら、このまま祖国へと帰還す
るつもりだった。そこにさらに伝令の兵が入ってくる。
﹁将軍、本営のフリード皇太子様から﹃早くオラクル大洞穴を沈め
よ﹄と、矢のような催促が来ておりますが⋮⋮﹂
﹁金獅子皇が直接ここに来いと言ってやれ、こんな無茶苦茶な戦い
で、これ以上俺の大事な兵が殺されてたまるか!﹂
結局、オラクル大洞穴のシレジエ王国側の籠城軍は、寡兵でよく
戦い。戦争が終わるまで、ここで持ちこたえることになる。
帝国軍が引けば攻勢をかけたり、さらにモンスターを吐き出して
みたりしては、帝国軍の後背を脅かして、多くの兵を足止めするこ
とに成功したのだった。
1170
87.女王戴冠
スパイクの街を落としたゲルマニア帝国軍は、街道沿いのオラク
ル子爵領の村を略奪しながら一路王都へと進んでいる。
村民が避難したあとの村の井戸にも、食料にも、飼葉にも、さり
気なく﹃ニンフの毒﹄が仕込んである。
少しでも敵の戦力を削れると良いのだが、気休め程度だ。
その一方、俺たちと言えば、その王都のようやく補修工事が終わ
った真新しい王城で、決戦に向けて最後の作戦会議を行なっていた。
﹁では、王都本軍の主将にダナバーン侯爵、副将としての前線指揮
官にオルトレット子爵をお願いします﹂
ライル先生が、爽やかな声で滔々と対ゲルマニア帝国作戦の布陣
を説明してる。
緊張の面持ちで顔を蒼白にしているダナバーン侯爵と、沈着冷静
に作戦に聞き入っているオルトレット子爵。
どちらが主将で、どちらが副将か分かったものではない。
敵に最初に当たる最前線を任される傭兵団長のガランも、先生に
簡単な指示を与えられて﹁おう!﹂と頷いた。なかなか迫力がある
豪傑だ。
作戦会議室の後ろのほうで蚊帳の外に置かれているのは、南方の
地方貴族を代表して出席しているピピン・ナント・ブルグンド侯爵
だ。
1171
長いあごに生やした更に長い黒いあご髭をさすりながら不満そう
な顔を隠さない。
ピピンは、ものすごい異相のオジサンだ。そのフランスパンの先
っぽみたいな顎にビックリして、俺はそればかり見ている。
こんなヘンテコな顔をしていても、綺羅びやかな甲冑に身を包ん
だ南部の地方貴族の代表として来ている名門貴族には違いないのだ
ろう。
それにしてもすごいあごだ。ミサイルになって飛んでも不思議は
ないほどの尖り具合である。
﹁勇者殿、私の顔に何かついてますかな﹂
あごを見過ぎたのだろう、あごに話しかけられた。
もちろん、ここで﹁あごが喋った﹂などと口走ったら、その場で
南方の大貴族が反乱を起こす可能性があるのでグッと堪える。
﹁あご⋮⋮いや、ピピン侯爵もよく応援に来てくれたな﹂
﹁いえ、我がブルグント家は、建国王レンスの重臣であった家柄。
王都の危機とあっては、馳せ参じるのは当然でございます﹂
顔はユーモラスで、口では従順な素振りだが、これを信用しては
いけない。
ピピン侯爵が率いてきた地方貴族の騎士五百騎と、第一兵団、第
二兵団の計二千五百は味方の数に入れないと先生が言っている。
どうせ旗色が悪くなったら降伏するか逃げるのだろうし、王都で
せいぜい大人しくしてもらおう。
帝国の大軍を前にして、敵に回らなかっただけありがたいと思わ
ないといけない。
1172
ライル先生は、作戦会議の最後に、シルエット姫を呼んだ。
純白の絹のドレスを着て、金糸に彩られた深紅のケープを纏った
シルエット姫がみんなの前に立つ。
姫の隣には、宰相であり傅役である先生の父親も、この時ばかり
は親子の確執を捨てて静かに畏まっている。
﹁それでは、ただ今よりシルエット姫様のシレジエ女王への戴冠を
評定します﹂
﹁なんだと!﹂
不満そうにはしていたが、最後尾の席で黙って聞いていたピピン
侯爵が、驚いて立ち上がった。
﹁なんですか、ピピン侯爵。何かご異議がおありですか﹂
﹁おありですかではない! 我ら地方領主は、姫様の女王への戴冠
を認めては居ないぞ。勝手な真似は許さん﹂
﹁王都に敵が迫る最大の国難、今こそ姫殿下を女王に奉じて、国民
が一つにまとまって戦うのです。ピピン侯爵は、まさかそれを否や
とおっしゃるか﹂
﹁⋮⋮それは、うぬぬ﹂
ピピン侯爵は冷や汗をかき、忙しげにあご髭をさする。
ここで下手なことを言えば、その瞬間に自分たちは反逆者となっ
てしまうと気がついたのだ。
形だけ参戦するために、ノコノコとやってきてしまったピピン侯
爵と地方の名族・貴族による騎士五百騎は、王城に居る。
もしここで逆心ありと見なされれば、王都の壁はすぐさま、自分
1173
たちを囲む壁となろう。
まさか、ゲルマニアが迫ったこのタイミングで女王戴冠を持ちだ
してくるとは考えても居なかったのだ。
地方貴族が敵に回れば、困るのは王軍。だから、この場で摂政派
や宰相派の戴冠強行はないと油断していた。
﹁国務卿たる私も、宰相閣下も、勇者タケル殿も、シレジエの軍民
全てがシルエット姫殿下の女王戴冠を求めております。ピピン侯爵
には、その意に反するだけの、大義がおありか﹂
﹁それは、ない⋮⋮﹂
大義はあるかと言われても、王国南方の貴族、祖は建国王レンス
の重臣であったブルグンド家とアキテーヌ家の二大侯国は、王権が
定まらぬほうが都合が良いというだけなのだ。
例えば帝国のように、ブリューニュのいた王家の分家であるブラ
ン家の誰かを新国王にもり立てたところで、旨みはない。
ピピン侯爵は、顔は異相だが、こう見えても南方貴族の代表にな
るほどの名族であり、切れ者である。
彼は考える、この戦にそのまま王国側が勝てば良いが、おそらく
負ける。
そうなれば、どうせ地方貴族は帝国側になびくのだから、女王な
ど名前だけのもの。
好きにさせておけばいいと、そう考えた。
﹁では、シルエット姫の女王戴冠、地方貴族の代表として認めてい
ただけますね﹂
﹁相分かった、私とて建国王レンスの重臣たるブルグンド家に連な
1174
るもの。﹃正当なる﹄レンス様のお血筋である姫様の女王戴冠には
反対しない﹂
正当なるに力を込めたのは、﹃ハーフエルフ風情が女王か!﹄と
いうせめてもの皮肉であった。
伝統と仕来りを重んじる名門貴族からすれば、唾棄したくなる末
世の感。彼らにとっては、まさに国体の滅びであった。
そんな敵対的なピピン侯爵の目付きに動じること無く、シルエッ
ト姫は碧い瞳を凝らして王国の重臣が連なる評定の場に立っている。
たぶん、ニコラ宰相に女王としての作法を仕込まれたんだと思う
が、あのネガティブ姫様が、強くおなりあそばされたものだ。
シルエット姫は、ピピン侯爵も押し黙り静かになった大部屋に朗
々と響く声で、高らかに宣言した。
わらわ
﹁皆の者、大儀! 妾は、シルエット・シレジエ・アルバートであ
る。妾は、シレジエ王国第十七代国王ガイウス・シレジエ・アルバ
ートの一子であり、唯一の継承者として、ここにシレジエ王国第十
八代女王になることを宣する!﹂
硬さはあるものの、女王として見事な宣言だった。
こういうのは、玉座の間でやるんじゃないんだとか思って、ポケ
ッと見ていた俺にライル先生が宝玉に彩られた金の王冠を渡す。
﹁えっ、おれ?﹂
﹁タケル殿が、勇者として戴冠させるのですよ。それで姫は女王と
して認められます﹂
王国にとって部外者の俺が戴冠するのか、まあバックとしてつい
1175
てると見せないといけないからかと思いながら。
可愛らしく頭を下げた姫の、ストロベリーブロンドの髪に王冠を
載せてあげる。
ライル先生が音頭を取り、廷臣から﹁女王陛下バンザイ!﹂の声
が次々とあがり、拍手と歓声が大広間中に広がっていった。
ピピン侯爵も、渋々と言った様子で拍手している。
この瞬間から、もう姫様じゃなくて、シルエット女王陛下なのだ
な。
王冠を戴いた姫は、ニコッと微笑んだ。可愛らしい女王様だ。
﹁ではシルエット女王陛下、タケル殿。続いて、城のバルコニーか
ら民に向けて宣誓していただきます﹂
俺は、バルコニーに向かう間に、先生に耳打ちする。
﹁先生、提案なんですが、この機会に王城にある倉庫の金銀を、軍
民に全て配ってしまいましょう﹂
﹁それはまた、思い切った方策ですね﹂
先生が、茶色い瞳を見張ってこちらを眩しそうに見た。地方貴族
の裏をかいて女王戴冠を強行した先生も、思いつかなかったらしい。
ふとした思いつきだが、たしか豊臣秀吉が︵その時は羽柴秀吉だ
ったか︶中国大返しのときにそうしていた。効果はあるはずだ。
﹁どうせ王都が落ちれば、敵に渡るものです。女王即位のお祝いと、
これから戦争を行う軍民への労いに、全部配ってしまえばいい﹂
﹁素晴らしいお考えです。士気はより一層上がりましょう。よく民
の心が分かっておられるタケル殿こそが、王の王たる器だと私は誇
1176
らしく思います﹂
﹁まあ、単なるパクリなんですけどね。秀吉の中国大返しの﹂
﹁ちゅうごくおおがえしですか? ふーむ、じゃあいっそ食糧庫も
開いて、食べ物もみんな配ってしまいましょうか﹂
﹁おお、先生も思い切りましたね。でも、そこまでやって大丈夫で
すか﹂
﹁大丈夫です。籠城戦だけは絶対ありえません、決着はここで付き
ます﹂
先生がそう言うなら、大丈夫なのだろう。
﹁先生は、立派な軍師ですね﹂
﹁王の王たるタケル殿にそう言っていただけると嬉しいですね。で
は、これから民へのご挨拶しっかりとお願いしますよ﹂
ええ、ああそうか。また義勇軍募集の時みたいに、演説やらされ
るのか。
シルエット姫の存在はあまり国民に知られていない、一方で勇者
としての俺の盛名は民衆に浸透してるから、致し方ないのだ。
俺は、頭の中のレパートリーから﹃ナポレオン言行録﹄を引っ張
りだす。
シレジエはフランス型だからナポレオンの演説を参考にしよう、
いきなりの女王の戴冠を市民に認めさせるとすればそれがベストの
はずだ。
レガリア
シルエット女王は、王権を象徴する王笏を受け取ると、国民の前
に立つ。
1177
シレジエに住む市民四万人は、すでに新しく改築が終わった王城
のバルコニーの前に集められている。
先ほどの重臣への挨拶はうまく行ったものの、四万の民衆を前に
して小さなシルエット女王は豆粒のようなものだ。
民には見えないであろうが、シルエットの足が震えている。
俺は、そっとシルエットの後ろまでいって、手を握った。
わらわ
﹁王都シレジエに住む、市民のみなさん。妾は、シレジエ王国第十
わらわ
七代国王ガイウスの唯一の継承者である、シルエット・シレジエ・
アルバートであります。先ほど、妾は、レジエ王国第十八代女王と
して即位しました﹂
拡声の魔法で、シレジエの王都中に響き渡る声。
バルコニーの向こう側からは、市民のざわめいた声が聞こえる。
そりゃ、いきなり集められて、何かと思えば新しい女王様が即位
しましたとか言われても、寝耳に水だろう。
しかもシルエットは、王位継承者として国民の前に姿を現したこ
とは一度もない。
しかし、シルエット女王は、もう言うことを言ってしまった。
次は俺の番だろう。王女の隣に立つと、力の限りの大声を張り上
げて叫んだ。
﹁シレジエを守る兵士、義勇兵、市民の諸君。俺は、シレジエの勇
者、佐渡タケルだ!﹂
俺は、民衆の前に立って腕を組み、そこで押し黙る。いきなりの
女王戴冠宣言に、ざわつく民衆の声が静かになるのを辛抱強く待っ
1178
た。
輝くミスリルの鎧。それなりに勇者らしい服装なので遠目からも
わかるのだろう。
なんか知ってる声が、下の方から﹁ありゃ、勇者様だ﹂とか言っ
てるのが聞こえるが、スルーする。
子供が騒いでる間は黙る、校長先生がよくやる演説技術である。
民衆が、静まり返るのを待つと、俺はそこでようやく、深呼吸し
てから静かな声でゆっくりと語る。
﹁諸君らの知っての通り、今この王都にゲルマニア帝国の大軍が向
かってきている。俺と、勇敢なる兵士の諸君は、王都の手前で敵を
迎え撃つことになるだろう﹂
まだ静かだ、続ける。
﹁兵士、義勇兵、市民の諸君。みんなは、あのゲイルのクーデター
から共に戦い抜き、生きてきた仲間だ。帝国は強大で、今度の戦い
は歴史上でも未曾有の規模となるが、こちらには敵にはない新兵器、
銃と大砲の力がある。そして、それに諸君の勇気が合わされば、必
ずや勝利できると確信している﹂
だんだん言ってて自分でもよくわかんなくなってきたが、とにか
く熱く続ける。
﹁二百四十年前のことだ、伝説の勇者レンスは長い戦いの果てに、
諸君が踏みしめているこの地に立ち、シレジエ王国の建国を宣言し
た。この戦いは、単に帝国の侵略から国を守るためだけの戦いでは
ない。これまでの鬱屈した支配を打ち払い、諸君の、諸君による、
1179
諸君らのための新しい王国を手に入れるための戦いなのだ!﹂
自分でも言ってる意味がよくわからないが、とりあえずそれっぽ
さを出す。
歓声が上がり、盛り上がってきてるので腹に力を込めて、さらに
声を張り上げる。
﹁シレジエの勇敢なる兵士、義勇兵、市民諸君! いま諸君らの目
の前に、新しい女王が立っている。諸君らのための、新しい国が生
まれようとしているのだ。祖国のため、諸君自らの道を切り開くた
めに、どうか今一度、諸君らの力をこの俺に貸していただきたい!﹂
わああああと、四万の民衆の歓声が上がる。
ここで終わっても、いいのだが、俺はシルエット女王を抱き寄せ
て、一言付け加えることにした。
﹁俺は、この戦いに勝利した後に、シルエット女王と結婚すること
にした。だから絶対に勝つぞ!﹂
民衆の歓声とともに、大きな笑い声と、喝采の声がこだまする。
戦争前に思いっきり死亡フラグを立ててしまったのだが、この面
白さだけは俺にしかわからないだろう。
バルコニーから見下ろす大広間には﹁女王陛下バンザイ、勇者様
バンザイ﹂の声がこだましている。
おそらく、側で控えて悪そうに笑っているライル先生が、配置し
ていたサクラがそのように誘導したのだろうが、浸透してしまえば
それが民衆の声となる。
シルエット女王を見下ろすと、瞳に涙を浮かべて微笑んでいる。
1180
彼女が、小さな唇を開いて何か口にしたが、民衆の歓声が大きす
ぎて聞こえない。聞こえなくても、何となく分かる。
シルエットの碧い瞳から、星の雫のような輝きがこぼれた。
俺は彼女を強く抱きしめて、民衆の笑い声に負けないぐらいの大
きな声を張り上げて、叫んだ。
﹁今日は、明日の戦勝と結婚の前祝いだ、城の金蔵も食糧庫も開い
てみんなに配るから、楽しんでくれ!﹂
民衆の割れんばかりの歓声に圧倒されて、俺は胸が熱くなった。
シルエット女王が、また何か言いたげなので耳を近づけたら、そ
っと接吻をされた。
﹁結婚、約束ですから勝ってきてくださいね﹂
﹁ええ、もちろん﹂
顔を近づけたので、ようやく女王の声が聞こえた。キスされるの
は嬉しいけど、する側が逆のような気がする。
まあいいか、キスは結婚式でいくらでもやればいい、まずは帝国
との戦争に勝つことである。
勇者の俺と女王になったシルエットは、すでに宴会を始めた街の
大広間の歓声に応えるため、バルコニーから二人で寄り添って手を
振り続けた。
1181
88.決闘再び
スパイクの街を落としたゲルマニア帝国軍は、後背に﹃オラクル
大洞穴﹄と言う不安要因を残しながらも前進する。
ニンフの毒の影響で体調不良に陥った軍馬や、厭戦気分で指示に
従わなくなった領邦軍と、輜重隊合わせて一万弱を後方への備えと
して街に残し。
総勢六万の大軍を率いて、シレジエの王都が目に見える距離まで
進軍して陣を展開した。
帝国軍の構成は。
バリスタ
トレブシェット
左翼に飛竜騎士団五百騎、傭兵団二万︵うち騎兵千︶と、その後
方に大型弩や大型投石機などの大型兵器。
中央にフリードみずからが率いる本軍。近衛不死団一万、重装歩
兵四千、近衛騎士団五千騎。
右翼に各領邦国家・都市から徴募した騎士と歩兵合わせて二万。
圧倒的な大軍のゲルマニア帝国軍は、包囲殲滅せんと鶴翼の陣を
敷く。
迎え撃つシレジエ王国軍は、総勢一万七千七百。
横に長く斜めに、雁行の陣を敷いている。
王国側の構成。
1182
左翼は、先陣に傭兵団が五千、その後方に大砲と銃で近代化され
た義勇兵団が千。
中央に第三、第四、第五兵団の三千人。
右翼に近衛騎士団五百騎。
そして、陣中央の背後、魔の山に潜んだ義勇軍の伏兵が千人。
左翼後方の王都には、第一、第二兵団合わせて二千人と地方貴族
の騎士団五百騎がいるが、地方領主軍があてにならないのは王国側
も変わらない。
王都の防衛は、大砲を有した義勇兵五百人と城兵が三百人、緊急
の徴募に応じてくれた市民兵三千人だけが頼りと言っていい。
右翼後方の要塞街オックスには、長大な飛距離と威力を誇る三門
のマジックアームストロング砲と、さらに六門の砲台にベテランの
砲手が張り付き、銃士五百人と市民兵四百人が、息を殺すようにし
て出番を待っていた。
ずらずらと書いたが、ゲルマニア帝国軍の精鋭が中心の遠征軍七
万と、シレジエ王国軍が市民まで徴募して守る、防衛軍一万七千七
百の戦いである。
数だけ見れば、シレジエ王国側が、圧倒的に不利な戦況から。
後の世に言う、﹃シレジエの会戦﹄はスタートした。
※※※
俺は、オラクルちゃんブースターで飛び、鶴翼の陣を展開する六
万のゲルマニア軍を前にして高らかに叫んだ。
1183
﹁フリードォォ! ここが決戦だ。今一度、勇者同士一騎打ちしよ
うではないか﹂
今にも突撃してきそうな敵軍が、俺の叫びを聞きつけてざわつく。
さて、この陣のどこかフリード皇太子は居るのだ。
﹁フハハハッ、ついにきたかシレジエの勇者!﹂
下から呼応する叫びが聞こえる。
ゲルマニア皇室の証たる貝紫色のマントをなびかせながら、中央
の陣を割り、金色の獅子皇が白馬に乗ってやってきた!
よし、これで勝てる。
フリードに、六万の兵の後ろに隠れられて、数で押し潰されては
たまったものではない。
ここまでは、ずっと困らされてきたが、今はフリードのお約束を
守るプライドの高さだけが頼りだ。
﹁よくぞ来た金獅子皇! 今こそどちらが正しいか雌雄を決すると
き﹂
﹁望むところだシレジエの勇者、愚かなる貴様に余の力を見せてく
れよう!﹂
暴れん坊将軍さながらに白馬を駆り、ボルテージが最高潮に達し
ているのかちょっと顔がイッちゃっているフリード。
こっちの戦力がどれだけ割れているか知らないが、これだけ油断
してるならいける。
六万で陣を張る帝国軍の前に進み出るフリードは、一人ではない。
1184
お付きに、大きな黒い甲冑を着た男が一人付いてきている。
黒い兜と鉄仮面をつけているので誰かはわからないが、例のオリ
ハルコンの大盾を持った側近ではない。
初顔だな、誰だあれは。
﹁フリード、確認するが、一対一の勝負だよな﹂
﹁もちろんだとも。コイツはあれだ、貴様に懐かしい男の顔を見せ
てやろうと思ってな﹂
フリードは、そう言うと隣の男の鉄仮面を取った。
腫れ上がった青白い醜い顔の男だ、ところどころ縫ってあって継
ぎ接ぎだらけのフランケンシュタイン。
﹁ん、誰だこいつ?﹂
﹁わからんか、まあここまで化物になってしまっては無理もないか。
俺がシレジエの国王に据えるブリューニュ伯爵だ﹂
﹁はぁ?﹂
ブリューニュは、死んだはずだろう。
あー、こいつもしかして、魔王の核をブリューニュの死体に使っ
たのか!
﹁ハハハハッ、驚いただろう! 驚いたよな! そうこなくてはな。
なにせこれを作るのに街を二つも潰したのだから﹂
﹁信じられないことをするなお前。もしかして魔王の核を、こんな
醜い化物を作るために使ったのか﹂
フリードは、輝く金髪のライオンヘアーをかきあげて高らかに笑
1185
った。
ドヤ顔が世界一似合う男だな。
ツインブラックソード
﹁そうだ、そこの不死王オラクルに対抗するために! 超魔王ブリ
ューニュ、貴様の闇双剣を見せてみよ﹂
フリードがそういうと、機械仕掛けのようにぎこちなく動くブリ
ブラッティー
ューニュだった、フランケンシュタインがブンッと両手に闇の剣を
発生させた。
魔王の核を二箇所に埋め込むと、二本出せるわけか。
ツインソード
それにしても、フリードは前のオラクルちゃんがやった不死王の
双黒剣のハッタリをいまだに信じていて。
その対策のために、魔素だまり二回も開いちゃったのか⋮⋮。そ
んなこと、こっちは忘れてたよ。
なんだかなあ。
﹁ハハハハッ、これで貴様のイマジネーションソードは三本、こっ
ちは四本だ! あらゆる面において余こそが世界最大、最強である
ことに微塵の疑いもあるまい!﹂
﹁わかったよフリード、だが決戦は我々二人だけだぞ﹂
俺は芝居がかかった調子で、大きく手を振って、さらに叫ぶ。
この目立ちたがり屋の自尊心を刺激して、正々堂々たる決闘に誘
いこむために。
﹁見ろフリード! 敵味方合わせて八万の兵がこの決闘を見つめて
いる。まさに歴史の頂きに俺たちは立っている。勇者が雌雄を決す
るに、これ以上の舞台はあるまい﹂
1186
﹁シレジエの勇者よ、望むところだ。今こそ、余こそが世界最強で
あることを、世界に知らしめてやろう!﹂
得意満面のフリードは、周りに﹁一対一の決闘だ、手は出すなよ﹂
と叫び、両方の手から力を見せつけるように、闇と光の双剣をブン
ッと音を立てて出した。
俺は、光の剣一本のみを発生させて、正眼に構え、呼吸を整えて
静かに対峙した。
﹁世界最強の余の前にひれ伏すがいい、ゲルマニクス流剣術 烈皇
剣!﹂
一瞬のためらいもなく、全力で打ち込んできた。
この世界に自分の覇道を妨げるものなどないと信じる金獅子皇の
絶対の自信。イマジネーションソードの戦闘では、それこそが力の
源になる。
だが俺も、ずっとイメージしてきた。
イマジネーションソードは、そのビジョンが強固であればあるほ
ど力を発揮する。
だからこそ、魔法を使うように技名を叫ぶのが効果的なのだ。
しかし、今からやるのは不意打ち、声を漏らすわけにはいかない。
俺は黙ったまま念を凝らす。フリードの全力の大振り、その一撃
目をくぐり抜け、次を光の剣で跳ね除ける。
フリードの攻撃は基本的に大振りだ、避けるだけなら難しくはな
い。
世界最硬度を誇るオリハルコンの鎧に守られているのだから、そ
の油断は当たり前。そして、その一点を刺し貫く。
1187
﹁震えろっ、おびっ⋮⋮なっ、なんだ﹂
﹁液滴⋮⋮﹂
激しい斬撃を切り抜けた俺は、フリードに体当たりするようにぶ
つかり、左手をフリードの鎧の胸に押し当てた。
フリードには、やけっぱちになって無防備に抱きついたようにし
か見えないだろう。
不意打ちの機会は一回だけだ。
鎧のつなぎ目を狙えるほど甘くはない、オリハルコンをも突き破
るゼロ距離からの刺突剣しか活路はない。
滴り落ちる水が、やがては岩をも砕くイメージ。
オリハルコンの厚い壁に弾かれても、弾かれても、中立の刃は穴
を穿ちて喰い破る!
﹁ウアアーッ!?﹂
胸に激しい痛みを感じたフリードは、慌てて斬りかかってきた。
俺の背中や肩にガンガンと激しい斬撃がぶち当たる。
ミスリルの鎧ごしでも、身の震えるような衝撃が走るが、絶対に
逃がさない。
俺が死ぬ前に、お前を殺す!
﹁ここで死んどけフリード﹂
﹁グオオオオオオッ!﹂
俺の中立の剣が、ついにフリードの胸を一気に貫き通した。
1188
その瞬間、フリードをしっかり押さえ込んでいたはずの腕が拍子
抜ける。
後方に飛んでいたフリードの身体は、ボーンテージファッション
に、黒衣のマントの魔術師のお姉さんに抱えられている。
宮廷魔術師﹃時空の門﹄イェニー・ヴァルプルギス、瞬間移動の
魔法か!
﹁おい、待て!﹂
瞬間魔法を連発されては、走っても追いつけない。
おそらくフリードは殺れたとは思うが、確認はできなかった。
本来なら、全軍の前でフリードを倒したことを示して、この無益
な戦いを終わらせるつもりだったのだ。
完璧な作戦にはならなかったか。
そう悔やんだ瞬間、俺に衝撃が走った。
ツインブラックソード
さっきから、電池の切れたオモチャみたいに立っていたブリュー
ニュが、闇双剣で斬りかかってきたのだ。
胴にまともに重たい一撃を受けた。
何とか、次の斬撃は光の剣で弾いたが、攻撃を受ける以上のショ
ックがあった。
﹁ブリューニュが強いだと⋮⋮?﹂
信じられない。
だが、強い敵ならばこそ、禍根を残さぬために、この場で倒して
1189
おくしかない。
俺は全力で、光の剣と中立の剣を振るって、変わり果てた姿のブ
リューニュを倒しにかかる。
ブリューニュは、俺の斬撃を全て受けきってみせた。
バカな、こいつ本当にあの伯爵かよ。
あのブリューニュの癖に、一言も喋らないというのもおかしい。
いや違う、何かは喋っているぞ。
すでに生きていないので、呼吸すらしていないのかと思えば、小
さく口を開き何かを呟いている。
そのブリューニュの呟きに、よく耳を凝らして聞いてみると。
﹁⋮⋮オジャオジャオジャオジャオジャ﹂
怖いわ!
この肌がざわつく感覚、﹃古き者﹄と相対した時に近い。
生首でサッカーされたブリューニュの脳みそは、腐るどころの騒
ぎではないだろう。
その死体を縫って繋ぎあわせて、魔王の核を二つも埋め込まれた
ブリューニュは完全に混沌に飲み込まれてしまった。
もはやアンデッドとすら言えぬ、謎の混沌動物と化している。
﹁くっそ、なんて化物を作ってくれたんだよフリード!﹂
﹁オオゥウ、オジャオジャオジャオジャオジャ⋮⋮﹂
ツインブラックソード
変な声を上げながら、ブリューニュだった者は、闇双剣で斬りか
かってくる。なんて重たい斬撃、攻撃を受け流すのに必死だ。
1190
それに、動きが人間のそれではないのだ。
手足が変な感じに、しなっているのだ。その分だけリーチが長い
から、まともな剣法では対応すると、ジリジリと削られる。
﹁これが、超魔王ブリューニュか﹂
﹁オゥオジャオジャオジャオジャオジャ﹂
人間の言葉が通じないって強ぇぇ!
いつもの、相手を会話で調子づかせて、その隙を突く攻撃もでき
ねえ。
俺がそう考えている間も、超魔王ブリューニュは、まったく生き
物らしさを感じさせない、不規則で読みにくい斬撃を仕掛けてくる。
腐って膨れ上がったブリューニュの手はプラプラとしなり、隙だ
らけのようでいながら、まったく攻撃できる隙を感じさせない。
﹁タケル、コイツはガチヤバじゃ、ここは一旦逃げたほうがいいの
じゃ!﹂
オラクルが、衝撃波を何度も放つが、超魔王と化したブリューニ
ュには蚊が刺すほどにも感じないらしい。
ただ立ったまま身体を揺らし、衝撃波をすべて受け流して弾いた。
ちくしょう、フリードとの決着のつもりが、なんでこんな謎生物
との戦いになってるんだよ。
こっちを全力で殺しにかかってくる敵ならばまだ良い。
ブリューニュの攻撃には殺気がなく、明確な意図すらなく。継ぎ
接ぎだらけの顔は無表情で、何を考えているのかすらわからない。
1191
それなのに、こちらの攻撃は一切通用せず、無造作に振り回すだ
けの斬撃には魔王クラスのパワーがあるのだ。
﹁クソッタレが、わかった引くぞ、オラクル!﹂
﹁おう、逃げるぞタケル﹂
﹁オジャオジャオジャオジャオジャ⋮⋮﹂
オラクルちゃんに抱えてもらった俺は、空を飛んで退却した。
後ろから兵士の悲鳴が聞こえるので振り返ってみると、闇双剣を
ブンブンと振り回した超魔王ブリューニュが、そのまま味方のはず
の帝国軍の中央陣に突っ込んでいた。
底が見えない狂気ほど恐ろしいものはない。
1192
89.戦いは左翼から
シレジエ会戦は、左翼が緒戦だった。
王国軍の雁行の陣の左斜め上。ゲルマニア帝国の傭兵団二万人と、
シレジエ王国のガラン傭兵団五千人の衝突。
二万の物量で一気に畳み掛けてこようと包囲する帝国の傭兵団に
対して、ガラン傭兵団は不正規軍の傭兵同士が、巧みに連携しなが
ら果敢に抵抗する。
戦意は強く身は軽く、金で働く傭兵団の戦いぶりではない、まさ
に奮迅だった。
﹁ガラン団長、今日はやけにがんばるね﹂
﹁ノコンか﹂
ガランが振り返ると、軽装の革鎧に身を包んだ傭兵ノコン・ギク
が短い弓を構えていた。
﹁団長、よけてくれ﹂
﹁おっと﹂
ノコンは、ガラン団長の横から斬りかかって来た傭兵の頭に弓を
ヒットさせた。
どうと転がる間抜けな敵の傭兵を見て、ノコンは頬を歪ませるよ
うにしてキキキッと歯を軋ませて笑う。
元は迷宮専門の盗賊だというノコンは、誰にも頼まれてないのに、
ガラン団長の幕僚として傭兵団をまとめる仕事を手伝っている。
1193
今もそろそろ撤退の時期かと思い、触れ回るのを手伝ってやろう
と確認に来たのだろう。
戦うこと以外には、怠惰な者が多い傭兵の中では、珍しく働き者
の男だった。
﹁雇い主からすぐ引いてもいいって指示されてるんだろ、二万対五
千だ。意地を張ってもしょうがない﹂
﹁いや、ここは意地を張る﹂
ガラン団長は、大きなハンマーを振るい、敵の頭を鉄兜ごと叩き
潰す。
﹁ほぉ﹂
迫りくる敵の傭兵に盛んに短弓を撃ちかけながら、ノコンはさも
面白そうに笑みを深めた。
﹁お前も分かってんじゃないのか、あの﹃試練の白塔﹄を一日で八
十八階まで踏破してしまったシレジエの勇者様の信じられぬ手際﹂
﹁ありゃー、しびれたねえ﹂
﹁この戦いでも勇者様は、きっと俺たちに良い目を見せてくれるぞ。
ここで活躍して名前を売れば、裏切りの汚名を雪ぎ、ガラン傭兵団
も再起できる﹂
﹁ガラン団長はやっぱり物好きだな⋮⋮、そこまで頑張るなら、い
っそ騎士にでもなったほうがいいんじゃねえか﹂
﹁はは、俺は城勤めなんかゴメンだ。ノコン、お前だってどうせ物
好きの類なんだろ﹂
1194
﹁そりゃ違いねえ。城の兵士なんかちまちまやってられねえよ。俺
たちには、これがないとっな!﹂
ガラン団長が、敵から奪いとった戦斧を振るってさらに二人屠る
間に、ノコンも矢が切れた弓から投げナイフに持ち替えて、敵の眼
球を正確に射抜いた。
荒れ狂う味方の怒号、泣き叫ぶ敵の悲痛、肉が切り裂ける感触と
ともに、吹き上がる血しぶき。常に戦塵に塗れていないと、生きた
心地がしない人間が居る。彼ら傭兵こそがそうなのだ。
金は欲しい、女も欲しい。
だがそれより何よりも、戦いの中で刹那に生きる実感が欲しい。
無駄話ばかりするくせに、本当に思うことは口にせず、ガラン団
長に率いられる傭兵団は死力の限りを尽くして殺し回った。
力の限り叩きつける鉄と、それにより撒き散らされる血と肉こそ
が、戦場のプロフェッショナルである彼らのアートなのだ。
※※※
バリスタ
左翼先鋒のガラン傭兵団は、攻めあぐねる敵に後方から大型弩を
出させるまで粘ってからようやく引いた。
トレブシェット
ようやく勝ったと喜び勇んで、攻城兵器を囲んだ傭兵団二万は攻
めに攻めてくる。
バリスタ
確かに、普通の兵士から見れば大型弩と大型投石機の威力は圧倒
的である。
後方からの大規模兵器の援護射撃、これほど頼もしいものもない。
しかし、この大規模兵器は、シレジエ王国軍の左翼を叩き潰した
1195
後で、王都シレジエを囲んで陥落させるときに使う予定だったのだ。
バリスタ
トレ
それを早々と投入してしまったのは、すでに戦術が狂い始めてい
る証だった。
ブシェット
前に出て盛んに射掛ける大型弩と、後ろから石弾を放射する大型
投石機に対して、火を噴いたのは義勇軍の大砲であった。
十六門の青銅砲が、轟音を吹き鳴らすと。左翼の帝国軍傭兵団は
激しく動揺した。
大砲というものに、接したことがない傭兵が多かったのだ。
何よりも、火を噴く新兵器の轟音に動揺する。炸裂した弾に吹き
飛ばされる味方を見て動揺する。そして、そこを目がけて銃士隊が
一斉射撃を行った。
激しい轟音と、飛び交う鉄の弾。得体のしれない攻撃に、わけも
分からず死んでいく傭兵たち。
二万もの数の傭兵団がシレジエの新兵器の威力の前に、脆くも崩
れ始める。
もちろん、帝国側にも策士はいる。
二十五歳の若さにして、ゲルマニアの﹃万能﹄と謳われた、帝国
軍主将フォルカス・ドモス・ディランは、左翼の陣に中級魔術師を
紛れ込ませて、敵の砲撃が始まると同時に魔法で雨を降らせる準備
をしていた。
大砲や銃は、水に弱い。
もちろん、その情報をフォルカス将軍は知っていた。
しかし、雨雲がシレジエ王国軍の左翼を覆ってシレジエの乾いた
大地を雨で湿らせても、砲撃の音は止むことがなかった。
1196
もちろん、義勇軍が雨雲対策をしていたからである。
ラットマンの毛皮を張った耐水天幕と防塁。長時間水攻めを続け
たなら違ったのだろうが、雨が降った途端に銃も大砲も止むことは
ない。
足の遅い大型兵器まで引き連れて、義勇軍の陣深くまで攻め立て
てしまったのが帝国軍左翼の誤りだった。
﹁よし! こんどはこっちの番だ!﹂
一度は引いて義勇軍と合流したガラン傭兵団は、誘いこむだけ誘
い込んだ敵に逆襲した。
急に攻めが守りに転じると、軍はもはやその統制を維持できない。
バリスタ
トレブシェット
傭兵団は不正規軍だ、逃げるなと怒声を張り上げて陣容を立て直
す騎士すらいない。
みんな我先にと敗走して、後には大型弩と、大型投石機だけが残
される。
周りを守る兵士がいなければ、大型兵器は一溜りもない。ゲルマ
ニアの傭兵団は後退、攻城兵器は全滅。
シレジエ王都を攻めるはずの帝国軍の左翼が、まずここで崩壊し
た。
※※※
だがそれで、帝国軍左翼が終わったわけではない。
帝国軍には最終決戦兵器である、飛竜騎士団五百騎がいる。
この中世ファンタジー世界で、空挺師団である飛竜騎士団がどれ
1197
ほど恐ろしい存在か。言葉を尽くしても尽くし切れないであろう。
大空を駆ける飛竜騎士は、たった一人でも英雄と呼ばれていい存
在なのだ。
それが五百騎。
強固な防壁で守られていても、空挺師団の前には何の意味もない。
どのような大きな城、大きな街であったとしても、制空権を取ら
れては一溜まりもなく陥落する。
﹁皆の者、これより飛竜騎士団は王都シレジエを制圧する! 味方
の傭兵どもは不甲斐なかったようだが、我らが王都さえ落とせばこ
の戦は帝国の勝ちだ。飛竜騎士の矜持を、いまこそ金獅子皇殿下に
お見せするのだ!﹂
飛竜騎士団長、ロスバッハー・フォン・ライフェンツベルは、率
いる騎士に檄を飛ばしながらも俯瞰した位置で冷静に戦況を分析し
ていた。
左翼の義勇軍の陣から大砲が火を噴き上げ、天を飛ぶ飛竜騎士団
を落とそうとしてきた。
大砲の弾にあたって、数騎が落とされる。
﹁敵の大砲とやら、確かに大した威力だ﹂
しかし、上空高くに向けて打ち上げられた鉄の弾は、速度が減じ
る。
よっぽど運が悪くない限りは、腕の良い飛竜騎士なら避けられる。
敵の新兵器ですら、大空を駆ける飛竜騎士を相手にしては、この程
度なのだ。
1198
ワイバーン
これなら王都は落とせる、大きな飛竜に圧倒されれば、城兵や市
民などは逃げ惑うしかない。
いまロスバッハーが考えることは、王都を防衛力を奪った後に、
味方の兵をどう王都に引き入れるかだ。
今のうちに、頭を絞ってそこまで考えて置かなければならない。
実は、飛竜騎士とて、噂ほどに無敵ではないのだ。
ワイバーン
野生の飛竜を飼うと、第二世代ではブレスが吐けなくなってしま
うという欠点がある。
飛竜騎士の恐ろしさは、頭上から迫りくる飛竜の迫力である。
大きなドラゴンの群れを見た時に、人は本能的に﹃勝てない﹄と
思ってしまうのだ。
恐竜とよく言ったもので、ベテランの飛竜騎士であるロスバッハ
ーはそれをよく知っている。
どんな精兵も一度士気を失えば、逃げ惑う烏合の衆と化す。
人間の恐怖を熟知し、計算されつくした攻撃を行うからこそ、飛
竜騎士団が世界最強のままでいられるのだ。
﹁ではいくぞ、ゲルマニアの飛竜騎士団、お前たちが何者かを思い
出すがいい!﹂
いつもどおり先頭を飛んでいたロスバッハー団長が降下突撃の合
図をかけて飛ぶ。
その後ろから、大きな声で唱和する飛竜騎士たち。
﹁誇り高き帝国! 世界に冠たる帝国! 我らは世界最強たる飛竜
1199
騎士だ!﹂
天空からの降下攻撃は、される側も恐慌をきたすが、する側だっ
て怖い。
自分たちが世界最強なのだと勇気を振り絞って飛ばなければ、で
きない攻撃だ。
先頭を飛び、敵の王都シレジエに急降下するロスバッハー団長の
目に。
キラっと、天に向かって頭を並べる、敵の大砲が光った。
﹁大砲か、だが!﹂
鉄の弾は避けられる、飛竜を疾駆させるロスバッハーには、その
自信があった。
ワイ
手綱を握る腕が悪い者、あるいは運がなかった者には、弾が当た
るだろう。
だが、それも一度で終わりだ。
バーン
その一度の後、無防備になった大砲の砲手は、全員がその身を飛
竜に喰い破られて死ぬのだ。
﹁ぬっ?﹂
大砲が弾を噴きだす瞬間を、臆すること無く目を凝らして見つめ
ていたロスバッハーは、呆気にとられた。
なぜなら彼の目に飛び込んできたのは、鉄の弾ではなくて大きな
白い網の目だったのだから。
ワイバーン
飛竜もろとも、網に絡め取られてロスバッハーは、石畳の上に落
1200
下した。
﹁なん、なんだとぉ﹂
石畳に叩きつけられた落下の衝撃で、息も絶え絶えだが、それで
も不屈の闘志で起き上がり、網を切り破って立ち直そうとした。
その彼を襲ったのは、鎧の隙間から針のように入り込んできた牙
だった。
牙などは刺さっても、チクリとする程度だ。
﹁これは、毒⋮⋮﹂
熟練した竜騎士であるロスバッハーは、過去の経験からすぐに猛
毒に冒されたのだとわかった。ただでさえダメージを受けた身体が、
毒で弱っていく。
早く解毒しなければ死ぬ。ロスバッハーは、震える手でベルトの
ポーチから解毒ポーションを取り出して飲み干した。
しかし、なんということだろう。
王都に並べられた大砲から撃ちだされたのは、鉄の弾ではなく粘
着性のある大きな網だったのだ。しかもそれには、猛毒の牙まで付
着している。
あらかじめ敵は、飛竜騎士対策をしていたのだ。
そこへまんまと突撃してしまった迂闊さ、次々と網に落とされる
旗下の飛竜騎士を見ながら、もし帝国が滅びるとしたら自分のせい
だとロスバッハーは、身が震えるような思いがした。
﹁だが、まだ終わらん、終わらせてたまるものか!﹂
1201
帝国の威信、帝国の栄華、その象徴たる無敗の飛竜騎士団!
団長となってロスバッハーはまだ五年だ。飛竜騎士団の無敗伝説
を、ここで終わらせてなるものか。
不屈の闘志を燃やし、粘りつく網を切り破ろうと、剣を抜いた。
そのロスバッハーの目の前に、余りにも戦場に似つかわしくない
少女がやって来たために、思わず剣を持つ手を止めてしまう。
﹁バカな、なぜ子供が⋮⋮﹂
竜騎士がバタバタと落ちる突風の中で、さらさらと金髪をなびか
せて、まだどこか幼さを残す少女が、こっちに駆けてくる。
その愛らしい姿は、まるで無邪気に野を遊び弄れるようで、誇り
高き竜騎士は、一瞬戦いを忘れた。その子供の手に、銃が握られて
いるのが見えていたのに。
﹁竜騎士は見つけ次第、殺すー!﹂
ロスバッハーの頭に銃口を突きつけて、不敵に笑う少女の勝気な
顔が、彼がこの世で見た最後の光景となった。
1202
90.王都シレジエの戦い
﹁団長、ロスバッハー団長ぉぉ!﹂
サラちゃんが、頭を撃ちぬいて死んだ竜騎士を見て、周りの網に
絡め取られてもがいている竜騎士たちが絶叫していた。
﹁なんだ、偉そうな鎧着てると思ったら、コイツ竜騎士団長だった
のね﹂
サラちゃんは、いそいそと火縄銃に弾を込め直すと﹁団長、団長
!﹂と絶叫している若い竜騎士の頭も撃ちぬいた。
そうして、網に絡めとられてもがいている竜騎士を、次々と銃で
殺している銃士隊や、槍で突き刺している兵士や市民兵に向けて高
らかに叫んだ。
﹁ものどもー! 敵将の首! 義勇兵長サラ・ロッドが、討ち取っ
たどおおおおお!﹂
﹁やりましたね、サラ兵長!﹂
サラちゃんをさり気なく側で守っている、少年兵ミルコも笑った。
ロスゴー村義勇隊が、俺たちのサラ兵長が敵将討ち取ったと、勝
ち誇るように味方に触れ回った。
敵将堕つの報告に、街の兵士や義勇兵はさらに士気があがり、市
民兵ですら槍を抱えて見事な活躍をした。
そのサラちゃんたちロスゴー村義勇隊の活躍を、戦いながらも呆
1203
然とした心地で見ているのが、王都の兵士長のおっさんギル・ヘロ
ンである。
近くで戦っている、義勇兵隊長の若者、アラン・モルタルに声を
かけた。
﹁なあ、アラン隊長さん。いまさら聞くのも、何なんだけど。なん
であんたんとこの義勇軍は子供が指揮してるの?﹂
﹁あー、あれはサラ兵長だからしょうがないんっすよ﹂
義勇兵団二番隊隊長アラン・モルタルは苦笑した。
まあ、事情を知らない城の兵士は、困惑するのも無理はない。
サラ兵長と、サラが率いているロスゴー村義勇隊は、子供の集団
だ。
それがやってきた途端に、義勇兵五百人と王都の兵士三百人、緊
急の徴募に応じてくれた市民兵三千人まで全て指揮下に治めてしま
ったのだから、そりゃ疑問に思うだろう。
﹁いや、隊長さん。お前さんの指揮ならこっちも分かるんだけど、
いくらなんでも子供はちょっとなあ﹂
﹁サラちゃんも、隊長格っすから﹂
﹁いやでもさ、同列の隊長なら年長者のお前さんが指揮したほうが
よくないか。うちの兵士もなんか、小さい女の子にいきなり陣頭指
揮されても困惑してるぞ﹂
﹁あのサラ兵長は特別なんすわ、えっとそのなんて言ったらいいか
な。勇者様の近衛っちゅうか、つまり⋮⋮これなんす﹂
アランは、含みのある笑いを浮かべると、小指を立ててみせた。
真面目なおっさんのギル兵士長は、それを見て信じられないと驚
1204
愕した。
﹁愛人って言っても、まだ子供⋮⋮あっ、そうか。噂には聞いてた
が、勇者様ってやっぱりロリ⋮⋮﹂
﹁おっと! そこは義勇兵団のトップシークレットっすよ、命が惜
しかったらそれ以上は⋮⋮﹂
アランは、﹁内密にな﹂とでも言うように、立てた小指をそのま
ま唇に押し当てた。
ギル兵士長は、渋面を浮かべて深々と頷いた。
この戦いに勝てば勇者様は、この国の新しい女王の夫になられる。
王都を空から強襲した竜騎士は、その半ばが撃ち上げられた網に
よって落とされ、生き残った竜騎士も、もはや網を恐れて近寄るこ
とはできない。
王都での戦闘は、もはやシレジエ王国側の勝利だ。
この分で戦争が推移すれば、やはり勇者様がシレジエの王族とな
られる気配は濃厚。
王族への不敬罪に問われかねない発言は、慎むべきなのであった。
それに、歴史上の勇者と呼ばれる英雄が、手当たり次第周りの女
を愛人にするのはこの世界では当たり前なのである。
※※※
一方、帝国軍の本営、作戦司令部である天幕では、帝国の主将フ
ォルカス・ドモス・ディランが渋い顔で作戦地図を眺めていた。
金獅子皇フリードが、命に関わる重度の傷を負いニコラウス大司
教の治療を受けている今となっては、主将フォルカスがこの六万の
1205
兵を動かす総司令官である。
フォルカスは、帝国の名門ドモス侯爵家に生まれて、エリート軍
人街道をひた走ってきた。
名門貴族であり、卓越した指揮官でありながら、中級レベルの魔
術師で、これはおまけだが、亜麻色の髪も美しく容姿も端麗である
完璧な彼は、﹃万能の﹄フォルカスとあだ名されている。
そんなあらゆる面で優れた彼も二十五歳にしてついに、歴史の表
舞台に姿を現したのだ。
このシレジエの会戦で勝利すれば、歴史書に名が刻まれるのは、
後ろの天幕で寝ているフリード皇太子ではなく、この﹃万能の﹄将
軍フォルカスとなるだろう。
そう気持ちが滾るほどに、攻城兵器まで付けてやったのに崩壊し
た、左翼の傭兵団の不甲斐なさに苛立つ。
もちろん彼は、それで冷静さを失うような浅い男ではない。左翼
の王国軍六千人は手強いとはわかっていた。
王国の中央には兵団三千人、右翼にいるのはたった五百騎の近衛
騎士団なのだ。
そこをさっさと打ち破ったのちに、残った王国軍左翼を全軍で包
囲殲滅してやれば良いだけの話だ。
﹁それにしても、右翼の動きが悪いですね⋮⋮﹂
﹁たかが、シレジエの近衛騎士五百騎相手に、領邦軍二万は何をや
っておるのか!﹂
フォルカスの横で、激昂したのは身の丈二メートルの大男。
帝国の近衛騎士団長である、ゲルマニア随一の猛将 バルバロッ
1206
サ・フォン・バーラントである。
赤ひげの猛将バルバロッサ。
戦場で、自慢の赤馬に乗り巨大な処刑斧を振り回すだけで、敵兵
を恐慌に陥れる。
近衛騎士団五千騎を率いて戦陣を駆けること九回、その間に百の
敵将の首を切ったと言われる伝説は、まさにゲルマニア随一の猛将
の名に恥じない。
﹁たかが五百騎とはいえ、戦っている横を突かれると少し厄介です
ね﹂
﹁よし、ワシが近衛騎士団を連れて、敵の右翼を叩き潰してこよう
ぞ!﹂
フォルカスは、少し考えて頷く。
﹁では、バルバロッサ将軍は右翼の増援をお願いします﹂
﹁よし! 五百騎ごとき、一瞬で片付けてくるわい!﹂
中央本陣の近衛不死団一万人は、帝国最強の歩兵団だ。それに加
えて一般の重装歩兵四千、合わせて一万四千人が、敵の兵団三千を
ジワジワと押しつぶそうとしている。
近衛騎士団が左翼の増援に向かっても、何の問題もない。
﹁バルバロッサ将軍、念の為に言っておきますが、深追いはやめて
くださいね﹂
﹁おう! 一太刀でぶっ潰してくるわ﹂
本営を意気揚々と肩を怒らせて出ていく赤ひげの巨漢にそう声を
1207
かけたが、わかってはないんだろうな。
まあ、罠があれば罠ごと吹き飛ばすのがバルバロッサ流だ、心配
はあるまいが。
しかし、暴れ狂う荒武者を御すには、自分はまだ若すぎる。
フォルカスは、そこに策士としての力不足を感じて、ため息をつ
いた。
そういえばと、フォルカスは天幕に、副将のエレオノラ・ランク
ト・アムマインが残っているのに気がついた。
彼女は、今回の戦いで将軍をやるたびに負け続けているので、皇
太子から﹁静かにそこで座っていろ﹂と叱られていたのだが、本当
に座っているとは意外すぎる。
関わると、敵も味方も悲惨な目に遭う姫騎士、﹃ランクトの戦乙
女﹄とまで呼ばれて敬して遠ざけられている、じゃじゃ馬公姫エレ
オノラが、本当に静かに座っているだけなのは逆に不気味だ。
本来なら、猛将バルバロッサが激昂する前に、自分が突撃すると
言い出してもおかしくないのに。
﹁やけに静かですね、公姫エレオノラ﹂
声はかけたものの、フォルカス将軍が姫騎士でも副将でもなく、
公姫と呼びかけたのは指揮には口を出してくれるなよということで
ある。
エレオノラは、帝国一の大富豪であり帝国諸侯の盟主ランクト公
の一人娘だ。準皇族と言っても良い相手だが、それを言えばフォル
カスも侯爵家の子息だから遠慮はない。
﹁あんた、シレジエの勇者を舐めてるでしょ﹂
1208
﹁いきなり何を言うかと思えば⋮⋮。私は敵を舐めてなど居ません
よ。的確に戦力を判断して、常道の策を執っているだけです﹂
﹁それが舐めてるって言ってんのよ。万能だか何だか知らないけど、
まともなやり方だけで勝てる相手じゃないのよ﹂
﹁自分が負けた敵を、過大評価したい気持ちは分かりますけどね﹂
フォルカス将軍は、姫騎士エレオノラの心配を鼻で笑う。
敗軍の将が何を語るというのか。
﹁そんなんじゃないわよ。何度も戦った私が、あんたより敵をよく
知ってるって言いたいだけ、このままじゃ⋮⋮﹂
﹁このままじゃ?﹂
フォルカスは、なおも言い募るエレオノラの肩にそっと触れた。
エレオノラの炎の鎧は、常に燃え盛っていて座っている椅子もジ
リジリとこげたりしているのだが、その肩に触るとは、フォルカス
アンノル・ブラン
もなかなか大胆な男である。
フォルカスの着ている白甲冑も、強化魔法は掛かっているため少
しなら炎の鎧に耐えられるのだ。
﹁ちょっと、触んないでよ﹂
座っているエレオノラのほうにだらりと垂れた、フォルカスの亜
麻色の髪が、払いのける炎の篭手に当たってジリッと焦げた。
髪の毛が燃える独特の匂いがするのだが、沈着冷静たる策士フォ
ルカスはこの程度では狼狽えない。
﹁私を心配してくれるのは嬉しいですよ、エレオノラ公姫。でも、
1209
私ならこの中央軍の一万四千だけでも勝って見せます﹂
﹁相変わらず、すごい自信家ね。フォルカス﹂
﹁自信ではありません。的確に情勢を判断した結果として、私には
勝ちが見えている。この配置図を見て、帝国が負けるなんて言う男
がいたら愚将ですよ﹂
﹁それ、遠まわしに、私が愚将だって言いたいの﹂
﹁私は﹃男が﹄と言いました。麗しい貴女には戦場より、もっと似
合う場所があると思いますけどね﹂
﹁それ以上減らず口を叩いたら、侮辱と判断してたたっ斬るわよ﹂
﹁おっと、困りますね。フフフッ、戦争が終わる前に主将が殺され
ては、勝てる戦にも勝てなくなる﹂
﹁死にたくなかったら、その芝居がかった仕草をやめなさい。私の
堪忍袋の限界を試してるんだったら、もう決壊は近いわよ﹂
これ以上やったらエレオノラがブチ切れるという、ギリギリのと
ころで身を引くフォルカスは、やはり策士としての判断能力が高い
のだろう。
ぐるりと机を回って、作戦地図を今一度眺めると、高らかに宣言
した。
﹁エレオノラ公姫、賭けをしましょう。この戦に私が勝ったら、騎
士はもう止めてくださいませんか﹂
﹁私に、そんなふざけた挑戦をしたのは、あんたが初めてだわよ﹂
帝都劇団の役者のように整った顔立ちのフォルカスは、そんなこ
とを言いながら、余りにもキザに芝居がかった仕草で、亜麻色の髪
を整えて見せるので、エレオノラはもう怒りよりも呆れ果てた。
1210
ここまで、全部計算でやってるとすれば、なかなかのものだ。
﹁ああ咲き誇るバラのように美しいエレオノラ公姫、できれば、そ
の時は騎士としてではなく。一人の女性として、私の側にいて欲し
い﹂
﹁はぁ⋮⋮あんた帝都では、プレイボーイで帝宮の女官にもモテモ
テらしいけど、わかんないわね﹂
﹁おや、嫉妬ですか﹂
﹁なんであんたみたいなオタンコナスが、女にモテるのかわかんな
いって、言ってんのよ!﹂
作戦司令部で交わされるにしては、まったくもってのんきな会話
だった。
この段階では、主将フォルカスは勝ちを確信していた。姫騎士エ
レオノラを、戯れに口説くほどの余裕があった。
帝国主将たる彼が本当に焦るのは、王都シレジエを強襲した飛竜
騎士団が壊滅し、団長のロスバッハーが戦死したとの報告が本営に
届いてからになる。
1211
90.王都シレジエの戦い︵後書き︶
シレジエ会戦の図を載せておきます。参考までに。
※また、わかりやすくするためにシレジエ王国から見て正順、ゲル
マニア帝国から見ると逆順に、﹁左翼 中央 右翼﹂と表記してい
ます。
<i120131|12243>
1212
91.巨大砲が火を噴くとき
帝国軍右翼の、領邦軍二万人。
帝国の東の果ての三大王国のうち二つ、トラキア王国とガルトラ
ント王国の騎士や兵士が多く参加している軍である。
数は多いが、東の果てよりシレジエくんだりまで援軍させられた
領邦王国軍と、帝国の各都市から徴募された兵で構成されており、
兵士の士気は最低であった。
それでも、敵にしているのはたかだか五百騎の近衛騎士団だ。本
気を出せば、一気に押し潰すことも可能であったろう。
しかし、軍団の指揮を執る、トラキアの将軍ダ・ジェシュカとガ
ルトラントの将軍サンドル・ネフスキーは、二人ともまったくやる
気がなかった。
﹁サンドル将軍は、攻めないのかね﹂
﹁いやー、ここは高名なトラキア騎士の戦車戦術の出番ではないか
な﹂
こうやって、お互いに牽制しあって一向に進まない。
指揮をする両将軍がこうなので、遠方の故郷から無理やり徴募さ
れた兵士がまともに攻めるわけもない。
﹁まあ、後方のオラクル大洞穴では、ラストアのライ将軍がひどい
目にあったそうだからなあ﹂
﹁うーん、ダ将軍もそう思うか。ここも、明らかに罠を張ってるよ
な﹂
1213
シレジエの近衛騎士団といえば、かつてはゲルマニア帝国の近衛
騎士団と同じような重騎士だったはずだ。
それが、五百騎にまで目減りした上で、なぜかフルプレートでは
なく軽い武装をしている。そこには、何か意図があると考えて当然
だった。
軽騎士は防御力は下がるものの、その分だけ動きは俊敏だった。
その秩序だった機動戦に、敵を罠に誘い込もうとする意図を感じ
る。
パイク
やる気のない感じに帝国の徴募兵の塊が長槍を持って近づいても、
軽騎士の機動力で翻弄されて、散り散りになってしまう。
こんな感じの小競り合いが繰り返されているのだ、帝国領邦軍は
一向に進む気がない。
二万の大軍で戦ってまさか負けるとは思わないが、どこの領邦軍
もわざわざ敵の罠に突っ込んで、大事な兵を減らしたくない。
会戦の当初、勇者タケルとの決闘に金獅子皇フリードが呆気無く
負けたと知って、領邦軍はゲルマニア帝国も先が長くないと思い始
めたのである。
弱体の皇太子であれば、媚を売る必要もない。こんな戦い、まと
もにやるほうがバカというものだ。
﹁おい、ダ将軍。帝国の近衛騎士団がこっちにやってくるぞ﹂
﹁私は目が見えないからわからんのだが、バルバロッサの奴がしび
れを切らしたんだろう。ちょうどいいじゃないか、帝国の戦争は帝
国にやらせればいい﹂
1214
トラキアの名将と謳われたダ・ジェシュカは盲目で、黒い眼帯を
はめている。
戦車戦術という、一風変わった戦法を編み出したことで有名なこ
の老将は、かつての戦争で視力を失ってしまったのだが、盲目とな
った今でもトラキア民族の英雄であり、将軍として尊敬されている。
﹁おーい、領邦軍の臆病者どもめ! ここは我が近衛騎士団が片付
けるから、お前らもそのへっぴり腰を正して、我らの後に続け!﹂
怒涛のごとき突撃を仕掛けながらも、領邦軍にいる両将にまで聞
こえる大声で、ゲルマニア随一の猛将バルバロッサ・フォン・バー
ラントは叫んだ。
身体もデカければ、声もデカいのだ。ビリビリと空気を震わせる
信じられないぐらいの大声だった。
その勢いで、赤ひげの猛将バルバロッサに率いられる五千騎に攻
められては、王国側も溜まったものではない。
シレジエ王国の近衛騎士団は、ぶつかるなり散り散りになって逃
げた。
﹁フハハハッ、シレジエの騎士団も臆病者ども揃いか! ほら、近
衛の名が泣くぞ、逃げずに戦え!﹂
赤ひげのバルバロッサは、愉快そうに処刑斧を振り回して、シレ
ジエの軽騎士を追いかけている。
彼は、戦場で敵をたたっ斬っていれば幸せという戦争狂なのだ。
それにしても、変わった戦場だった。
草原に、大小様々な馬防柵がたくさん並んでいる。馬が飛び越え
られるほどの低い柵もあり、そこを軽やかに王国の軽騎士が飛び越
1215
えていく。
帝国は重騎士だ、真似をして柵を飛び越えようとして失敗して馬
パイク
の足を折ったり、飛び越えた先が落とし穴であったりして、落馬し
ていくものが多い。
障害物が多い戦場なのだから、騎士の随伴に長槍兵が来てくれれ
ばいいのだ、動きが悪い後方の領邦軍をバルバロッサは恨んだ。
﹁こんな小細工ごときに!﹂
バルバロッサの自慢の赤馬も、ぬかるみに足を取られて立ち往生
している。
そこに、切欠きの盾と投槍を持ったシレジエの小柄な女性騎士が、
栗毛色の長い髪を揺らしてやってきた。
﹁ん、お前は名のある騎士か!﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女こそ、今のシレジエ近衛騎士団の団長であるマリナ・ホース
であったのだが、語らない。
言葉の代わりに、手に持った投槍を力の限りバルバロッサに投げ
つけた。
﹁フッ、小癪な!﹂
﹁⋮⋮﹂
小柄な割に、なかなかの一撃ではあったが百人の将軍の血を吸っ
たバルバロッサの処刑斧には簡単に弾かれてしまう。
マリナは、投槍が失敗したのを見ると、今度は軽弓をつがえて撃
ちまくった。
1216
﹁フハハハッ、蚊が刺すほどにしか感じんなあ﹂
﹁⋮⋮﹂
バルバロッサに向かった矢は、処刑斧と厚い鎧に弾かれてしまう。
しかし、赤馬は無事では済まなかった。
ぬかるみに足を取られていた赤馬は、身体に矢を受けてバルバロ
ッサの巨体を支えきれずその場に倒れた。
﹁むうっ、馬が持たんか﹂
バルバロッサは、仕方なく赤馬から飛び降りた。
愛馬を使えなくされた怒りを目の前の騎士にぶつけるために、処
刑斧を振りかぶって追いかけていく。
﹁待てっ、卑怯者!﹂
しかし、逃げる軽騎士の馬の足に、重い鎧を着たバルバロッサが
追いつけるわけもない。
気がつけば、敵陣の奥深くまで誘い込まれていた。
四方八方に逃げたシレジエ近衛騎士団は、石切山や魔の山の山麓
まで逃げていた。それを無闇矢鱈と追いかけたバルバロッサ率いる
近衛騎士団五千騎も、バラバラに分散してしまった。
さくざつ
山手の錯雑地形では、重騎士は思うように動けない。
落とし穴や、ぬかるみの罠に足を取られる、馬防柵の周りも同様
である。
1217
﹁何だアレは⋮⋮﹂
敵を追い続け、敵の要塞街オックスの手前まで這うようにしてや
ってきてしまった、バルバロッサは驚きを隠せなかった。
オックスの街に設置してある、大砲の砲台はすでに左翼で火を噴
くのを見たので、知っている。
しかし、オックスの街から天を衝くように高く伸びた砲身は、大
砲と呼ぶにしてもあまりにも長く大きな鉄の筒であった。
あんなものが火を噴くと、どうなるのか。
バルバロッサがそう思考した瞬間、ボカーンと空気が割れる炸裂
音を聞いた。
それはもはや、轟音とも呼べるレベルではない。風圧に煽られて
身体がよろけ、鼓膜がキーンと鳴って痛む。その爆音に、猛将であ
るバルバロッサの巨体すら揺らいだのだ。
﹁王国の大砲は、化け物か⋮⋮﹂
オックスの街にある、三門のマジックアームストロング砲。
巨大な砲身から吐き出された、風魔法によってトルネードがかか
った巨大な鉄の弾は、ヒューと空気を切り裂きながら飛び、領邦軍
二万が密集している後方に落ちた。
その衝撃で、二万の大軍の陣に大きな穴があく。ただでさえ士気
の低い兵は、明らかに動揺している。
﹁あっ、バカどもめ! 勝手に引くな!﹂
バルバロッサが叫んでも仕方がない、次々と巨大な鉄の塊の遠距
1218
離射撃を受けた領邦軍二万は、慌てふためいて後退を始めた。
あの巨大砲を放置しておいては、右翼は総崩れになる。
﹁おい、近衛騎士団集まれ! オックスの街を落とすのだ!﹂
もはや、逃げるシレジエの騎士を追っている場合ではない。
遠距離射撃をし続ける三門の巨大砲を止めようと、バルバロッサ
は要塞街の攻略を命じた。
逃げる敵に翻弄され、バラバラになっていた帝国近衛騎士団五千
騎は、固まって要塞街オックス目指して突撃を開始する。
しかし、まとまった帝国の近衛騎士に向けて、通常砲塔の六門と
要塞の銃眼から突きつけられた無数の火縄銃が火を吹いた。
敵と直接戦うことすら許されず、銃撃を受けて死ぬ騎士、砲撃さ
れて吹き飛んだまま動かぬ騎士。
要塞街の周りのチンケな罠に足を取られて、次々と落馬していく
騎士たち。
﹁なんだこれは、なんなんだこの醜悪な戦いは!﹂
要塞街の前まで這うように進んでも、そこには大きな堀が口を開
けて待っている。
馬を失った重装騎士たちは、それでもゲルマニア帝国近衛騎士の
名誉を胸に、バルバロッサの無茶な命令に従って、勇猛にも堀を越
え、要塞の門を打ち破ろうとした。
しかし、帝国騎士の誇りと不屈の精神力だけでは、シレジエの最
新兵器には勝てない。
1219
堀を乗り越えて、ようやく壁にすがりついた選りすぐりの勇士も、
完全なる要塞と化しているオックスの街の囲みを打ち破るだけの力
は残っているようには見えない。
それでもなお、超人的な死力を振り絞って、誇り高き騎士たちは
堅い門を打ち破ろうと何度も突撃する。
至近距離で銃士に撃ち殺されるか、あるいは門を打ち破ることに
成功した騎士も、槍を持った市民に群がられ、無残にも突き刺され
て死んでいった。
誉れ高き帝国騎士が、農民や町人上がりの雑兵ごときに倒されて
いくのだ。
﹁フハッ、フハハッ、こんなバカなことがあるか!﹂
赤ひげのバルバロッサは悪鬼のごとく進み、味方が破った門から
オックスの街へと入城した。
大きな堀も、壁も、群がる雑兵共も、悪鬼羅刹のごとき戦闘力を
誇るバルバロッサを止めることはできない。
槍を持って群がる市民兵を、一回処刑斧を振るうたびに五、六人
一気に殺す。
銃士隊の銃弾を受けてすら、バルバロッサは倒れず、弾込めして
いる義勇兵の首を吹っ飛ばした。
﹁おのれ、こんなやり方は許さん、ワシが許さんぞ!﹂
あの化物のような砲台を叩き潰すのだ。
そうすれば、領邦軍はまた前にすすめる、そうだ負ける訳にはい
かない。
1220
雑兵どものこんな戦争を認めれば、騎士道は滅びる。
身体中に銃弾を受けて死にかけるたびに、腰から回復ポーション
を取り出してあおる、そしてまた死闘する。
そんな風にしながら、敵と自らの真っ赤な血に塗れて、それでも
処刑斧を振るいバルバロッサは進んだ。
何度槍に突き刺されても、何度銃撃を受けても、何度でも立ち上
がる。
そして、その先に女騎士を見つけた。
さっきの、投槍の騎士かと思えば違う。今度は燃えるような赤毛
の女騎士だった。
身の丈と同じ長さのある、大剣を持っている。バルバロッサが満
身創痍でなければ、金獅子皇が装備しているのと同列の武器﹃オリ
ハルコンの大剣﹄だと気がついただろう。
この時には、もはや回復ポーションも尽きていた。
﹁ゲルマニア帝国軍、近衛騎士団長バルバロッサだ! 名のある騎
士ならば⋮⋮﹂
ゲホッと血を吐きながら、それでも口上を唱える赤ひげのバルバ
ロッサは、生まれついての騎士であった。
﹁シレジエ王国軍、﹃万剣の﹄ルイーズ。バルバロッサ殿、尋常に
勝負!﹂
﹁相手に、不足は⋮⋮ない!﹂
バルバロッサが振るった処刑斧は、ルイーズが振るう、たった一
閃によって砕かれてしまった。
1221
百人の将を屠った処刑斧を一撃とは⋮⋮。
﹁これが﹃万剣﹄か﹂
バルバロッサは、ルイーズの鮮やかな剣さばきを見て、美しいな
と思い。
自らの首を飛ばす次の一閃を、喜びを持って迎えた。
最後にルイーズと出会えたバルバロッサは、まだしも幸運だった
といえる。
鉄の塊に吹き飛ばされたり、落とし穴の底で串刺しになって無残
ヴァルハラ
な屍を晒したり、雑兵の槍に貫かれ死ぬことを思えば。
死して天国へと昇れる、立派な騎士の死に様だった。
そして、要塞街オックスに攻め寄せた騎士の中で、そのような栄
誉ある最後が迎えられたのは、バルバロッサただ一人だけだったの
だ。
1222
92.フォルカスの失態
﹁バカな、こんなことが⋮⋮﹂
中央軍、主将フォルカスはさすがに冷静さを失っていた。
左翼総崩れはまだ良いとして、頼みの飛竜騎士団五百騎の敗北と、
ロスバッハー団長の戦死の報告に続き。
右翼の領邦軍二万が要塞街オックスからの長距離砲撃を受けて、
弾の届かぬ後方へと撤退していく。
砲撃を止めようとオックスの街へ攻め寄せた近衛騎士団五千騎は、
見る間に崩壊。
考えたくもないが、オックスが陥落していない以上、猛将バルバ
ロッサも戦死しただろうとわかってしまう。
前に進むことしか知らぬ誇り高き猛将が、敗北を認めて引くわけ
がないと、フォルカスの優秀なる頭脳は計算していた。
幸いにして、帝国の中央軍一万四千はシレジエ王国の第三、第四、
第五兵団を合わせた三千人を見る間に押し切り、魔の山へと押し潰
すように進撃出来たが、逆に言えばそれだけだった。
﹁これでは、勝てない﹂
勝利のための方程式が崩れてしまった。
シレジエ王国軍の中央だけ突き破って、どうするというのだ。
このまま魔の山の麓沿いに敵の右翼に攻めつつ、王都シレジエを
1223
落すのを狙うか。
それとも、ある程度は打撃を与えられたであろう要塞街オックス
を完全に叩き潰して、巨大砲を沈めた後に、残存軍をもう一度かき
集めて⋮⋮。
﹁いや、ここは一度撤退すべきか﹂
﹁あら、中央軍だけでも勝てるんじゃなかったの﹂
ずっと黙って主将フォルカスを眺めていた姫騎士エレオノラが、
口を開いた。
副将であるエレオノラは指揮に口出しできない、しかし馬鹿正直
にただ攻めつづけて敵の罠にハマるフォルカスを見て、その間抜け
さに飽き飽きしていた。
だが、フォルカスをバカだと罵倒しないのは、それはかつてのエ
レオノラの姿でもあったと自覚できているからだ。いや、フォルカ
スのほうがまだマシだったのだろう。
自分のかつての愚かな姿を客観視できて、ようやく見えるものが
ある。エレオノラも人間として、ようやく少し大人になったのかも
しれない。
﹁フォルカス将軍、大変です!﹂
﹁なんだ!﹂
これ以上、なんの﹃大変﹄があるというのか。フォルカスは、血
相を変えて飛び込んできた伝令を睨みつける。
遠くからドカンドカンと爆発音が聞こえてくる、フォルカスは一
瞬、天幕の外で兵士が太鼓でも叩いて騒いでいるのかと思った。
﹁あっ、あれを、御覧ください﹂
1224
﹁どうしたというのだ⋮⋮﹂
天幕の外を指さす、兵士の指は震えている。
フォルカスが慌てて、外に出ると中央軍の目の前に臨む魔の山が
光り輝いていた。
光っていた、としか言いようが無い。
黒杉が生えているから魔の山なのだが、中央軍に向けて山の斜面
に無数に突き刺さっている黒杉の丸太が、激しい爆発音を上げなが
ら光っていた。
ヒューと音を立てて飛んできた黒い玉が、本営の天幕を破壊した。
﹁これは一体⋮⋮﹂
﹁フォルカス将軍、どうやら、あの黒い丸太は全部大砲のようです﹂
山の斜面には、確かに自然に生えている黒杉だけではなく、斜め
になった丸太が突き刺さっていて、その数は優に千を超えている。
﹁あの山の斜面の丸太が、全部大砲だというでも言うのか!﹂
﹁はい、山の中に逃げ込んだ敵兵を追っていったところ、斜面にた
くさんの穴が掘ってあってそこから突き出ている丸太から、弾が飛
び出ている様子で﹂
こんな事態に陥っても、本陣の近衛不死団は決して狼狽えない。
彼らは、幼少の頃より洗脳教育を受けており、雨が降ろうが槍が
降ろうが命令がない限り持ち場を動いたりしない。
彼らが不死と呼ばれている理由は、アンデッドだからではない。
自らが死してもなお、微動だにしないから、不死兵と呼ばれてい
1225
るのだ。
しかし、普通の兵である重装歩兵四千人は違った。
そちらは、千を超える大砲がこちらに向けて火を噴いた瞬間に、
その轟音だけで散り散りになってしまった。
これで、もはや本陣に残った戦力は近衛不死団一万だけとなった。
﹁どうするのよフォルカス!﹂
他人ごとのように冷めて見ていたエレオノラも、これにはさすが
に焦りを隠せない声で叫んだ。
ゲルマニア皇族の親征で、帝国の本営がここまで追い詰められた
のは前代未聞だ。
フォルカスは、無数の光が爆発する魔の山から目を背けると。
今一度作戦地図を凝視して、悲鳴のような声で作戦を語る。
﹁まだです! 右翼の傭兵団も、左翼の領邦軍も撤退しただけで全
滅したわけではありません。ここは一度スパイクの街まで戻り、残
存戦力を結集してから再度、王都シレジエを落すことのみに集中す
れば⋮⋮﹂
﹁引くな!﹂
後方の天幕から、ようやく治療を終えた金獅子皇フリードがやっ
てきた。
煌くようなオリハルコンの鎧、貝紫色のマントに身を包んだ、堂
々たる姿だがフォルカスは皇太子の眼の色を見てぎょっとした。
1226
青と黄金のヘテロクロミアだった瞳が、両方ともに赤く染まって
いる。
白かった肌も、心なしか青ざめて見えて、ただ獅子のような金色
のライオンヘアーだけがそのままだった。
﹁ご、ご無事のお戻り﹂
﹁挨拶はいい、戦況も今把握した。フォルカス、お前らしくもない
失態だな!﹂
﹁はっ、申し訳ございません﹂
フォルカスは、悔しげに片膝をついた。
皇太子の不在に、主将として指揮を執ったフォルカスの失態と言
われても仕方がない事態だ。
飛竜騎士団の団長ロスバッハーも戦死し、おそらく近衛騎士団を
壊滅させたバルバロッサも戦死している。
ならば、その指揮の責任は全て主将のフォルカスに覆いかぶさっ
てくる。
﹁指揮の失態は、指揮によって返せ。よいか、余はこれより自ら側
近を連れて魔の山を登る。後方から、秘密裏に登れるルートを確保
してある﹂
﹁魔の山ですか?﹂
﹁うむ、魔の山の頂きにある﹃魔素の瘴穴﹄を開く﹂
﹁なんと!﹂
﹁非常事態だから仕方あるまい、魔の山には伏兵である敵の砲兵と、
お前が後方に逃してしまった敵の兵団がウヨウヨしておよう。フォ
1227
ルカスお前は、不死団一万と共に、決死の覚悟で山を前方から攻め
進めて、敵兵を前に引きつけよ﹂
﹁御意⋮⋮﹂
﹁良いか、まだ余の勝ちは揺るがぬ。﹃魔素の瘴穴﹄さえ開けば、
王都シレジエも要塞街オックスもモンスターの襲撃でめちゃくちゃ
になるであろう。その後に、後方の残存戦力を結集して挟み撃ちに
してやれば、ゲルマニア帝国の勝利だ﹂
﹁了解であります﹂
勝つために魔素溜りすら利用する、金獅子皇フリード殿下の恐ろ
しさ。
それを改めて感じたフォルカスは、自身も死を覚悟した。
少なくとも死を覚悟して戦わなければ、この失態を許してはもら
えないだろうと感じた。
﹁フリード殿下、私はどうしたらよろしいですか﹂
副将エレオノラは、フリード皇太子に尋ねる。
フリードは、初めてそこにエレオノラが居ることに気がついたと
言う顔をして、少し考えると。
﹁副将エレオノラ、貴君は後方へと下がり、撤退した兵力をスパイ
クの街で糾合して我が命を待て﹂
﹁畏まりました﹂
エレオノラは、命を受けるなり愛馬を駆って出ていった。
それを眺めていたフォルカスは、エレオノラを険が取れて、少し
は素直な女になったと感じていた。
1228
じゃじゃ馬公姫を口説いたのは戯れだったが、この戦いに勝利し
たなら本気で口説くのも良い。
生き残りたい理由が、これで一つできたと、フォルカスは不敵に
笑う。
﹁何をしているフォルカス、お前も早く行くのだ﹂
﹁ハッ、殿下の御意のままに﹂
エストック
帝国軍主将フォルカスは、腰の刺突剣の具合を確かめて、本営の
ポーションを持てるだけ持っていく。
そして、近衛不死団一万人を指揮し、二度と退かぬ覚悟で魔の山
に向かって突撃を開始した。
※※※
魔の山の中腹に、黒杉でカモフラージュされた石造りの小さな司
令塔が、シレジエ王国軍の本当の大本営であった。
王城を落とそうが、要塞街オックスを落とそうが王国は負けない。
本当の王国の総司令部は幾重にも塹壕、防塁で守られた魔の山にあ
る。
司令塔から双眼鏡で帝国軍の中央軍崩壊を俯瞰した俺は、あまり
にも鮮やかな勝利に酔いしれていた。
こんな胸のすくような大勝利は初めて見た。
﹁さすが、さすが先生です。まさかあの黒杉が大砲になるとは⋮⋮﹂
﹁大砲の原理自体は簡単です。タケル殿が、黒杉を光の剣で断ち切
って見せたときから、これをくり抜いて導火線を付ければ、立派な
大筒になると考えていました﹂
1229
黒杉は鉄より堅いのだ、しかも丸太は元々大筒の形をしている。
くり抜いて取り出した部分は、細かく割って丸く削れば弾に使え
ボンバード
る。黒杉の弾が切れたら、石の弾を詰めて撃ちこめばいい。原始的
な射石砲ならではの、使い勝手の良さであった。
﹁しかし、敵があまりにも無防備に射石砲が並んでる山に近づいて
きたのはどうしてだったんでしょうね﹂
﹁敵には、射石砲が黒杉の丸太が並んでいるようにしか見えなかっ
たんでしょう﹂
スコトーマ
人間には、盲点がある。
大砲の原理を知っている我々にはきちんとした大砲に見える黒杉
の射石砲が、敵には山の斜面に黒い丸太が立てかけられているよう
にしか見えなかったのだ。
ボンバード
﹁先生は、そこまで計算して黒杉の射石砲を奥の手として用意して
んですね﹂
﹁それはそうですが、その奥の手を使わないといけないほど、追い
詰められてしまったのは、不覚と言えますね﹂
そう言って、ライル先生は苦笑してみせる。
戦場に立てばウキウキと楽しそうなのに、勝てば勝つほど、淡紅
色の艶やかな唇に自嘲気味な微笑みを浮かべるのが先生だ。
﹁帝国の中央軍も、重装歩兵が崩れただけで帝国近衛不死団一万と
﹃万能﹄と名高いフォルカス将軍は健在でしょうから、厳しい戦い
にはなります﹂
﹁そうは言っても、上から狙い撃ちです。これぐらいの戦力差なら
楽勝でしょう﹂
1230
戦いは基本、高地を取ったほうが勝つ。
銃や大砲による攻撃があれば、さらに高地を占めることは重要に
なる。
下から幾重にも罠が張られた塹壕を越えて、山道を駆け上がり、
土嚢と防水天幕で守られた無数の防塁を攻め落とすのは至難の業に
思える。
今のところ王国軍は、一方的に撃ちまくっていた。ここまでやら
れて、退却しない帝国軍はどこまで愚かなのかと思ってしまう。
﹁だといいのですがね。死に物狂いで攻め上がろうとしているフォ
ルカス将軍は、この辺りが本当の大本営だと、すでに察知している
のかもしれません﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁万能のフォルカスは、仮にも大帝国の主将を務めるほどの策士。
敵を侮ってはいけません。司令部と女王が落とされたら、どれほど
勝っても意味はないのですから最後まで気を抜いてはいけません﹂
﹁シルエット女王はいっそ、俺たちと山頂に行ったらいいんじゃな
いですかね﹂
俺の予想通り、生き残っていた︵あるいは死して魔王に転生して
いる可能性もある︶フリードが最後に狙ってくるのは﹃魔素の瘴穴﹄
だろう。
そこが決戦場となるならば、シルエットにも居てもらったほうが
いい。
ここまでの混戦となれば、俺たちの元にいるのが一番安全だろう
し、彼女にも最終決戦を見届ける権利があると思うのだ。
女王の身は、上級魔術師であるニコラ宰相が守っているが、それ
1231
でも万全とは言えまい。
ライフル
俺は、護身のためにと、自分の魔法銃をシルエット女王に渡した。
わらわ
わらわ
﹁妾に、共に戦えとおっしゃっていただけるのは初めてですね。タ
ケル様の行く場所に、妾も妻として最後までお供致します﹂
さすがに敵に悟られてはまずいので、シルエット女王は白いロー
レガリア
ブにフードを被って、地味なケープを羽織っている。
ライフル
でも、豪奢なドレスがなくても、綺羅びやかな王笏を持っていな
くても、魔法銃を握る彼女は、すでに女王の風格を身にまとってい
た。
ライフル
﹁あれ、先生。魔法銃を二丁持っていくんですね﹂
﹁一つは、ウェイク殿の分ですよ﹂
盗賊ギルドは、国家間の戦争には介入しないのが建前だ。
さすがに戦場のど真ん中に、盗賊王ウェイクは来ないと思うのだ
が、先生は来ると思っているらしい。
﹁これより先の陣頭指揮は、オルトレット将軍にお任せしましょう。
どうせ、そろそろ﹃転移魔法﹄で、最後の上級魔術師イェニー・ヴ
ァルプルギスがやって来る頃です﹂
スカウト
先生がそう言ってる間に、密偵のネネカがやって来た。
﹁ご報告いたします! 軍師様のご指示どおりの場所で、爆発を確
認しました﹂
﹁爆発?﹂
1232
訝しがる俺に、先生が説明した。
﹁設置された転移魔法の魔方陣をわざといくつか残しておいて、そ
こに爆弾の罠を仕掛けておいたんですよ。もちろん、憎き上級魔術
師⋮⋮いえ、フリード皇太子の側近には通用しないでしょうが、少
しは戦力を削れるはずです﹂
先生は、相変わらずやることがえげつないなあ。
俺たちは、﹃魔素の瘴穴﹄に向かってくるフリードたちを迎え討
つために、司令部を後にする。
﹁わっ、ワシはどうしたらいいかなあ、タケル殿﹂
﹁あっ、ダナバーン侯爵⋮⋮﹂
居たのかって言葉をなんとか飲み込む。作戦司令室の端っこのほ
うで、ダナバーン侯爵は青い顔をして震えていた。
でっぷりと太った身体に、フルプレートを着込んでるんだけど、
鈍重な侯爵には似合わないにも程がある。鎧が重くて動けないんじ
ゃないか。
緊急事態だからしょうがないとも言えるが、みんながダナバーン
侯爵をスルーしてるのは可哀相だ。
この人、仮にも全軍の主将じゃん。というか、侯爵のことだから
後方に隠れてるんだとばかり思ってたが、きちんと前線に居たんだ
な。
そうだよなあ、ダナバーン侯爵は愛国心があるし、やる気だけは
あるんだよなと、青い顔をしてそれでもなお逃げずに立っていた、
彼の顔を眺める。
先生も、主将たるダナバーン侯爵を無視して、オルトレットに直
1233
接指揮を頼んでたのはちょっと酷い。
﹁ええっと、おい! 誰か侯爵、じゃなかった将軍閣下に銃をお渡
ししろ﹂
俺は、従卒に銃を持ってこさせた。
震える手で、ダナバーン侯爵は火縄銃を受け取る。危なっかしい。
でも、剣を振るうよりはまだマシだろう。
﹁こ、これで敵を撃てばよいのか﹂
﹁陣頭指揮はオルトレットに任せておけばいいんです。ダナバーン
閣下は、主将として本営の一番後ろでジッとしていてください。主
将たる閣下が生き残れば、この戦いは勝ちです。この銃は、閣下の
お守りです﹂
司令室が襲われてダナバーン侯爵が直接戦うことになったら、本
当はその段階で負けだとは思ってるが、これは気持ちの問題だ。
戦う意志があるなら、向き不向きを問わず、銃を持ってもらおう。
これはシレジエ王国、全軍一丸となっての戦いなのだから。
1234
93.魔の山の戦い
シレジエ王国軍の三千人の兵団が撤退した魔の山は、複雑な塹壕
が網の目のようになり各所に射石砲が置かれた防塁が設置された、
要塞になっていた。
帝国中央軍主将、フォルカスは物陰に転がり込みながら、この戦
闘の厳しさに臍を噛む思いだった。
パンパンと、乾いた音を立てて先ほど、フォルカスが居た場所に
銃弾が飛ぶ。
何という恐ろしい戦場だ。ここを駆け上がれというのか。
﹁フォルカス将軍、フリード殿下は突撃をお望みです。どうぞ我ら
に、再度突撃の命をお与えください﹂
﹁ハァハァ、馬鹿者、上から狙い撃ちされるぞ!﹂
フォルカスとて、誇りある帝国貴族だ。怯懦と誹られたかといき
ロボット
り立ったが、すぐにため息をつく。
こいつら不死兵に、そんな感情があるわけがない。
伝令不死兵は、大盾を抱えて敵の銃撃を受け流しながらも、平然
とした顔だ。
上から弾丸を撃ちかけられているのに直立して、指揮官たるフォ
ルカスに、さらなる突撃を求める。
フォルカスの率いる帝国近衛不死団は、確かに強い。
死を厭わない彼らは、塹壕かと思えば鋭い木の杭が並ぶ落とし穴
でも、平然とそこに飛び込んでみせる。
1235
次の兵が、鋭い杭に突き刺さって死んだ味方の体の上を踏んで、
平然とした顔で進むのだ。
そのようにして、シレジエ王国軍が張りまくった致死性の罠を、
銃弾と砲撃の雨の中を、力づくで進んでいる。勇敢なのは良いが、
犠牲が多すぎる。
この分だと、魔の山を完全制圧する頃には、不死兵は一人も生き
残ってはいないだろう。
金獅子皇は、せいぜい死力を尽くして戦い、敵を前面に引き付け
れば良いといった。
だが、主将であるフォルカスは、勝利を諦めてはいなかった。敵
の司令所を叩けば、連携の取れた射撃・砲撃はできなくなるはずだ。
強い力は制御し、敵の弱点を狙って撃ちぬかなければ意味が無い。
それができなければ、何のために指揮官としてフォルカスがここ
にいるのか。
この﹃万能の﹄フォルカスが、無様に這いつくばりながら、弾の
雨の中を転がり回って調べたのだぞ!
考えろ、考えるのだ。戦況の全体を見渡せる場所だ、敵の将軍は、
どこに隠れてこの戦いを見ている。
﹁そうだ中腹だ! 黒杉が一層深く覆っている辺りが敵の指令所に
違いない、戦力をそこに向けて集中させろ﹂
そう命じても、反応が帰ってこないので見ると、傍らの不死兵は
大盾を持った手をだらりと下げていた。
フォルカスに命令を聞きに来た伝令の不死兵は、立ったまま銃弾
を頭に受けて絶命していたのだ。
1236
﹁チイッ、お前ら中腹だ! 中腹に向かって全軍で突撃しろ!﹂
フォルカスは、安全な物陰から飛び出し、また弾の雨の中へと飛
び込んだ。
残存の不死兵をかき集めて、敵の中枢を叩くために!
※※※
﹁オルトレット将軍、敵の動きが変わった!﹂
石造りの小さな司令塔に、くすんだ赤髪の女性砲手ジーニー・ラ
ストが駆け込んできた。
彼女は、元オナ村の自警団出身の村娘で、ライル先生と共に最初
期から砲撃術を研鑽したベテラン砲手である。
シレジエ王国の義勇軍は、能力を認められれば出世が早い。
ジーニーは、スパイク籠城戦で上級魔術師を倒すのをアシストし
た功績から、砲撃隊長にまで出世していた。
バタリー・コマンド・リーダー
そして今では、無数の砲台を抱える魔の山の砲台監守長だ。
総指揮はオルトレットとはいえ、大砲のことは彼女に任せるしか
ない。
ジーニーはぶっきらぼうで、貴族に対する口の聞き方を知らない
が、そこはオルトレットも貧乏武家出身だ。
二人だけでスパイクの街の籠城戦を戦った縁もあり、遠慮のない
実直な人柄にオルトレットも親しみを持っている。
﹁どういうことか、ジーニー殿﹂
1237
﹁敵が、まっすぐこっちに向かって戦力を集中させてきている。将
軍がここに居るとわかっている動きだ﹂
ボンバード
ジーニーは、自らも司令塔の射石砲の導火線に火を付けた。
戦闘指揮所の位置が割れるかもしれないので使いたくなかったが、
もうそんなことを言っている場合ではない、敵がすぐ下の斜面まで
来ている。
﹁さようならば、拙者の剣の出番が来たということでござる﹂
長剣を抜いて、敵を迎え撃つ。
﹁そんな、将軍ここは引くべきだ。勇者様にも将軍を守れと頼まれ
ている﹂
﹁ジーニー殿、だからこそ拙者は、ここで勇者様の盾となって敵を
食い止めるべきなのでござるよ。もちろん死ぬ気はござらん、ここ
で拙者が﹂
﹁あのぉ、ワシは⋮⋮﹂
﹁ああっ! ダナバーン侯爵、まだおられたのか。主将は早くお逃
げくだされ!﹂
司令室の端っこのほうで、火縄銃を抱えて震えているダナバーン
侯爵を発見して、オルトレットはさすがに焦る。
名目上とはいえ、王国軍の主将が討たれたとあっては士気にも響
く。
また、このどうしようもなく軽い扱いを見ると嘘みたいだが。
シレジエ王国の心臓部とも言えるエスト侯爵領の領主ダナバーン
は、今の王国政府には欠かせない存在なのである。
1238
外から、敵を食い止めようとする味方の兵士と、敵の不死兵が争
う喧騒が聞こえてきた。
もはや、ダナバーン侯爵だけを逃がそうにも無理らしい。
﹁オルトレット将軍、もう敵が来る!﹂
﹁仕方がござらんな、ダナバーン侯爵は机の影にでも隠れておられ
るがよい。拙者が、すべての敵をたたっ斬るまで!﹂
ボッカアルー
オルトレットの長剣は、それなりに業物だ。
青味がかった剣身、狼の口と名付けられたその剣は、貧乏武家の
オルトレットが、これだけは手放すまいと、代々受け継いできた伝
家の魔剣である。
振るう度に、狼の鳴き声がこだまする名剣。
すでに司令塔の廊下の争う声は静まっている。大上段に振りかぶ
って、オルトレットは敵を待った。
﹁ここが、司令所でよろしいのかな﹂
エストック
煤けた亜麻色の髪をした男が、刺突剣を携えて司令塔に入ってく
る。まるで、散歩中にご近所の家にふらりと立ち寄ったと言うよう
な軽い挨拶だった。
﹁何者かな、名を名乗られるがよろしかろう﹂
オルトレットがジリッと大上段に長剣振りかぶったまま、応対す
る。
﹁フフッ、これは失礼した、帝国軍主将フォルカス・ドモス・ディ
1239
ランです。覚えておられませんか、スパイクの街で一度お会いしま
したよ、オルトレット子爵﹂
その時の男前のフォルカスとは違うので、分からなくても無理は
ない。
アンノル・ブラン
亜麻色の髪は焼け焦げてボロボロ、顔は泥にまみれて汚れている。
表面を磨きあげた自慢の白甲冑も汚れて見る影もない。フォルカス
は、文字通り土にまみれ、泥をかぶってここまでやってきたのだ。
傷は回復ポーションでその都度回復しているが、体力までは回復
しない。あえて余裕に見せているが、もはや疲れきっていた。
一緒に戦っていた不死兵も、もはや一兵も残っていない。司令所
までの邪魔者を一掃する仕事を果たしてくれただけで、御の字とい
うものだろう。
﹁そうか、では今一度名乗ろう。シレジエ王国軍、総司令オルトレ
ット・オラクル・スピナーでござる!﹂
オルトレットが総司令と名乗ったのは、ダナバーン侯爵をないが
しろにしているわけではない。
自分が隙を作っている間に、逃げて欲しかったのだ。
ウォーター・ウェーブ
﹁それはいい⋮⋮敵を押し流せ、津波﹂
オルトレットの横で、フォルカスに向けて火縄銃を向けようとし
たジーニーをそのまま激流の水魔法で、押し流した。
そう、フォルカスは中級魔導師でもあるのだ。しかも、話しなが
ら詠唱を小声で済まして攻撃する不意打ちを奥の手としていてる。
﹁うああっ﹂
1240
﹁ジーニー!﹂
司令塔の覗き窓から、激流に押し流されてジーニーが落ちた。
山の斜面だから、落ちても死にはしないだろうが、すぐには戻っ
てこれまい。
﹁フーッ、無粋な真似をしました。こっちも必死でね﹂
その言葉に嘘はない。フォルカスも、もはや魔力がない。魔宝石
も、回復ポーションすら尽きていた。
ここで、総司令官であるオルトレットを倒して、魔の山を陥落さ
せなければ後が無い。
﹁では、急いで決着をつけてくれよう!﹂
︱︱ガルルルルッ!
エスト
オルトレットは、敵将目がけて剣身が狼の唸り声を上げる、魔剣
を振り下ろす。
エストック
﹁グググッ、やりますな﹂
﹁刺突剣で受けるとは﹂
ック
強化魔法がかかっている長剣の大上段からの一撃を、細身の刺突
剣で受け止めたのだ。
貴族となったいまでも、オルトレットは練習用の柱に剣を振り下
ろす鍛錬を欠かしたことはない。その強烈な一撃を、魔術師でもあ
る優男が受け止めてみせたことに驚く。
﹁この剣も、魔剣でしてね!﹂
1241
﹁さようであったか、ならば敵に不足なし﹂
オルトレットは、そのまま切っ先をくるりと回して、頭上からの
突きに攻撃を転じた。
力任せに見せかけて、オルトレットも技巧的な攻撃を得意として
いる。
しかしその変幻自在の突きを、右足を下げて身体を傾けただけで、
紙一重でかわしてみせた。フォルカスもまた、油断ならぬ剣士なの
だ。
今一度、大上段からオルトレットは剣を振り下ろす、それを受け
流してフォルカスは得意の突き技を食らわせた。
エストック
掠ったオルトレットの肩当が砕けた。
フォルカスの刺突剣は、相当強い魔法が掛かっていると見ていい、
オルトレットはさっと身を引いて距離を取った。
﹁どうしました﹂
﹁いや、時間をかけては、そちらが不利ではないか﹂
この期に及んで、味方の兵士が来るのを期待しているのか。敵が
臆したと見て、フォルカスは笑う。
オルトレットは一瞬、扉の方に目をやると、また長剣を握り対峙
した。
﹁こっちの増援がくる可能性もあります、時間稼ぎして賭けてみま
すか﹂
﹁いや、せっかくの機会だ、このまま決着を付けよう﹂
次の振り下ろしたオルトレットの一撃は、そのままフォルカスの
1242
白甲冑を割って、肩の中ごろまでザックリと斬れた。
エストック
フォルカスは斬撃を、そのまま身体で受け止めたのだ。フォルカ
スは、その間に刺突剣でオルトレットの太ももを刺し貫いていた。
﹁なんとっ﹂
﹁この魔剣の二つ名、教えて進ぜましょう。﹃キラー・ビー﹄と言
うのです、なあに毒ではありませんが、身体は痺れて動けなくなる
でしょう。結果としては、同じ事﹂
オルトレットの巨体が崩れ落ちる。
フォルカスは、肩を激しく切り裂かれてはいるが、覚悟していた
のか。激痛の中でも、眉ひとつ動かさず冷笑してみせる。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁これが最後の奥の手というわけです。この魔剣の名を聞いた者は、
全て死んでもらってますからね。苦しまずに逝かせて差し上げます
!﹂
キラー・ビー
フォルカスが、倒れこんだオルトレットの心臓を一突きしようと、
刺突剣を振り上げた瞬間だった。
パンと乾いた音が鳴った。
﹁えっ?﹂
フォルカスが振り返ると、そこには青い顔をした太っちょの騎士
が火縄銃を構えて立っていた。
銃口から、煙が上がっている。
自分が、後ろから撃たれた。バカな、そこには誰も⋮⋮。
そう考えつつ、倒れたフォルカスの意識は途絶えて、二度と戻る
1243
ことはなかった。
二人が切り結ぶ間、机の影でずっと震えていたダナバーン侯爵だ
ったが、どうしようかなーと迷っている間に、フォルカスの﹁この
魔剣の名を聞いた者は、全員死んでもらって﹂の辺りで、自分もヤ
バイと思って、一世一代の勇気を振り絞って発砲したのだった。
影が薄いことも、たまに役に立つことがあるのである。
﹁だ、大丈夫か。オルトレット殿﹂
﹁⋮⋮助かりました。お見事でござる、ダナバーン主将閣下﹂
キラー・ビーの痺れは、解毒ポーションで治るものだったらしく、
ダナバーン侯爵の介抱を受けて、オルトレットはすぐ回復した。
こうして、魔の山での両軍の最後の戦いは、大将首を挙げた勇猛
精進たる主将ダナバーン・エトス・アルマークの高い指揮能力と獅
子奮迅の活躍により、王国側の圧倒的大勝利に終わったとアルマー
ク家の歴史書﹃アルマーク家業績録﹄に伝わっている。
1244
94.頂上決戦
ついに、最後の決戦だ。
フリードが、どのようなルートを通ろうとも﹃魔素の瘴穴﹄にや
って来るのだ。
だから、我々は魔素の瘴穴のある、四角い鉄筋コンクリート製の
建物の前でフリードを待った。シルエット女王に奴隷少女銃士隊と
ニコラ宰相を護衛につけて、建物の中に籠城してもらい、俺たちは
入り口を固める。
囲みを突破されて、魔素の瘴穴を開かれればフリードの勝ち、阻
止出来れば俺の勝ちだ。
彼我の戦力は、正直な所、測り難い。
こちらには上級魔術師であるニコラ宰相と、カアラがいる。
この決戦のために、大規模魔法が使える二人をあえて温存してお
いたのだ。
しかし、敵にも上級魔術師はいるし、何より未知数のパワーを持
つ超魔王ブリューニュがいる。
まさか、最後までブリューニュのやつに脅かされることとなると
は、思っても見なかった。
フリードもそうだが、ブリューニュとの因縁もこの最後の闘いで
断ち切らなければなるまい。
魔の山の山中では、今も帝国軍と王国軍の死闘が続いているはず
だが、山頂はやけに静かだ。
1245
長い戦いの一日が終わり、そろそろ日が沈む時刻。
フリードたちは、夜陰に乗じてやってくるつもりだろうか⋮⋮。
﹁イヤッッホォォォオオォオウ!﹂
山の静けさを乱す、とんでもない雄叫びが聞こえてきた。聞きた
くなくても、脳みそに直接語りかけてくる系の大声だ。
沈みゆく夕日をバックに、白銀の大きな翼で飛ぶ、股間に葉っぱ
一枚の男が股間を光らせてやってくる。
いや、飛ぶというか、踊っている。
両手を大きく広げて、股間の葉っぱをヒクヒクと小刻みに震わせ
ながら、空中浮遊マジックのように移動している。
どういう原理で飛んでるんだよ、翼の意味がねえ!
﹁ホモ、じゃないニコラウス大司教を先頭に立てたのかよ﹂
﹁イヤッッホォォォオオォオウ!﹂
最終決戦の雰囲気がぶち壊しだった。
ニコラウス大司教は、いきなり全裸での登場、ある意味で彼にと
っての全力攻撃とは言えるのかもしれない。
﹁ヘイヘイヘーイ、シレジエの勇者様、お元気ですかぁぁ!﹂
﹁うるせえ!﹂
ピカピカ、こっちに光線を飛ばしてきてウザイ。
あの股間からの四方八方に撒き散らされる光は、ド派手なだけで
当たっても特に物理的攻撃力はないようだ。
1246
ただ耳元で賛美歌のような耳鳴りが聞こえてくるので、徐々に精
神汚染されている可能性はある。
その点、凄く恐ろしいので早く倒したい。
ニコラウス大司教に対抗できる人物といえば、こっちの陣営には
一人しかいない。
﹁リア、頼む!﹂
﹁いよいよ、わたくしの出番ですね!﹂
あんなの、俺たちではとても相手にできない。おそらく、あそこ
まで派手な登場をしたのだからホモ大司教は囮なのだろう。
そう考えれば俺たちは、油断せず﹃魔素の瘴穴﹄の守りを固める
べきだ。
ホモ大司教には、変態シスターをぶつけておけばいい。
﹁アーサマァァウィィィング!﹂
リアが、﹃女神のローブ﹄とか言う七色に光る衣から白銀の翼を
生やすと、ヒクヒクと空中浮遊するニコラウス大司教の元へと飛ん
でいった。
ウィィィングで、翼が出て飛べるとか、便利な宗教だな本当に⋮
⋮。
﹁ん、んはっ、んははははあぁぁあっ! 来ましたかぁぁ、純朴な
勇者を淫蕩の道に引きずり込む、汚れた聖女め!﹂
﹁ん、んあっ、ああああああちゃあっ! ここに及んでは是非もな
しです。その邪悪なる野望ごと、打ち払ってくれましょうホモ大司
教!﹂
1247
股間の葉っぱを光らせながら﹁んは、んは﹂叫んでいるニコラウ
ス大司教。
リアも、空中浮遊しながら両手を広げて﹁んあ、んあ﹂叫びなが
ら、キックを繰り出した。
とおもったら、空中ですっ転んでそのまま勢い良く足を開き、な
ぜかM字開脚を始める。
空中でコケるって自分で言ってておかしいとおもうが、そんな感
じなのでしょうがない、どういう原理で飛んでるんだよ。
おいリア、M字開脚のまま賛美歌の響きに合わせて腰を振るって
盛り上がるな、ホモも喜んで腰を振るうな。
よく考えたら、変態度で張り合う必要まったくないだろ!
二人とも、背中の白銀の翼に、少しは意味を持たせろよ。
白銀の翼の使い方を明らかに間違ってる、アーサマ見てて頭抱え
てるぞ、きっと。
このいやな感じの頂上決戦が繰り広げられていた。
目を背けたくても、真剣勝負だから確認せざるを得ないのだ。
俺たちが、しょうがなく固唾を飲んで見守ってると、ホモ大司教
と変態シスターは、お互いに変態同士通じるものがあったのか。
空中でゆっくりとすれ違うと、﹁イエイイエイイエーイ!﹂と、
いい笑顔でエールを送りあった。
エウカリスティア
﹁敵ながらアッパレな聖体の儀、さらに出来るようになったようで
すな!﹂
﹁邪道に落ちたとはいえ、さすがは大司教猊下。アーサマの聖体と
しての実力は互角と言えましょう。では、神聖魔法力で決着をつけ
1248
ましょう!﹂
ポージング勝負で疲れたのか、満足したのか。
今度は、普通に神聖魔法の応酬が始まった。
﹁ホーリーランス! ホーリーシールド! ホーリーランス!﹂
﹁ホーリーシールド! ホーリーランス! ホーリーシールド!﹂
白銀の翼で疾空しながら、お互いに聖なる槍と聖なる盾を、バシ
ュンバシュン撃ち合う神聖魔法の空中戦が始まった。
凄いけど、普通だな⋮⋮。
いや、普通に戦うのはすごく良いと思うんだけど。
それだと、その前の変なポージング合戦には、一体何の意味があ
ったんだ。
呆れて見ていたら、﹁きゃああぁぁ!﹂と叫び声をあげてリアが
突然、バランスを崩して地面まで落下した。
落下でかなり身体を強打したのか、俯けに手をつき、生まれたて
の子鹿みたいにプルプルと震えている。
えっ、どういうことだ?
落ちたのは、リアだけではない。
ほぼ同時に、ニコラウス大司教も﹁ノオオオォォウッ!﹂と叫び
声を上げながら激しく地面に落下。
ぷよぷよの身体は、砂煙を上げながらバウンドして転がる。
大司教の七三分けの髪はヨレヨレに乱れており、かけてた銀縁メ
ガネは、折れ曲がってレンズが粉々に砕けていた。
1249
光って飛んでるときはぷっくらとコミカルな感じだったのが、落
下ショックのせいだろうか、苦痛に歪む顔がシリアスに戻っている。
なんだこれ⋮⋮。
ボロボロになった二人は、落下のダメージを振り払うようにして、
同時に立ち上がると。
お互いに手を伸ばし﹁ホーリーランス﹂と叫んだが、不発。
﹁あれぇ∼、なんでわたくしの神聖魔法が使えないのぉぉ!﹂
﹁な、なにをやったのです、この淫蕩シスター! 聖遺物﹃アダモ
の葉﹄のパワーが失われた。これでは、僕の夢が実現できない!﹂
﹁アーサマ、どういうことですか、是非ともご説明ください!﹂
﹁アーサマ、敬虔なる貴女様の下僕に、どうか今一度お力をぉぉ!﹂
不敬なる女神の下僕たちが、天に向かって嘆いている間に、二人
の背中に付いてた白銀の翼もヘナっと枯れて落ちてしまう。
これあれだな、もしかすると度重なる冒涜が、ついにアーサマの
逆鱗に触れたな。
二人の祈りに応えるように。
パーと、雲間から白銀の光が差し込むと、聖なる棍棒が二本出現
した。無造作に放り投げられたように、カランコロンと、棍棒が地
面に転がる。
﹁そんなあ、アーサマ是非ともご無体です、最終決戦なのにこんな
地味なのは嫌ァァ!﹂
﹁あ、アーサマ! 敬虔なる下僕の晴れ舞台なのですゾォォォ!﹂
1250
﹁一体どうしたんだよ、二人とも﹂
まあ、聞かなくてもだいたい分かるけど。
﹁タケル、アーサマが酷いんです!﹂
﹁ゆ、勇者認定一級の聖者と聖女が神聖魔法で撃ちあっても無駄だ
から、棍棒で殴り合って決着をつけろとのご神託でした﹂
やっぱりな、そりゃアーサマもいい加減キレるわ。仏の顔も三度
までってことわざを知らんのか。
むしろ、アーサマいままでよく耐えた、感動した。
ついに慈愛の女神も、堪忍袋の緒が切れたのだ。アーサマが何も
文句言わないと思って、お前ら聖職者は好き勝手やりすぎたんだよ。
ほらご神託通り、地味に棍棒で殴り合え、見ててやるから。
﹁酷いですよ、ホモは﹃アダモの葉﹄が使えたからまだ良かったで
しょうが、わたくしなんか対になる聖遺物﹃イバの葉﹄を奥の手に
用意してたのに、是非にも使えなかったんですよ!﹂
そう言うと、リアは﹃女神のローブ﹄を脱ぎ捨てると、巨大な胸
と股間に貼り付いてるイチジクの葉っぱを見せた。
﹁おい、リア、バカ! なんで下着付けてないんだよ、こんなとこ
で脱ぐんじゃねえ!﹂
﹁この葉っぱがピカーっとなって、どちらが真のアーサマの下僕に
相応しいか是非にも分かる頂上決戦の予定だったんですぅ!﹂
俺は慌てて、リアの服を着せようとしたが、何だかリアの裸体を
見てニコラウス大司教が苦しみ始めた。
1251
﹁グアアアッ、何という醜い物を見せるのですか、眼が汚れる、眼
が汚れるぅぅ!﹂
﹁なっ、何という失礼なホモ野郎! 是非にも脱ぐ必然性バリバリ
だったから特別に見せてあげたのに、わたくしのミラクルボディー
を言うに事欠いて醜いですって﹂
ずんずんと大きな胸を揺らしながら、イチジクの葉っぱを身にま
とっただけの変態シスターが、ホモ大司教に近づいていく。
﹁ぎゃあああ、やめろぉ、近づくな悪魔の果実め! 眼がー腐る、
眼がー腐るぅぅ!﹂
﹁どこが醜いというのですか、女神もかくやと思わせる母性愛に溢
れたこの美貌、是非ともよくごらんなさい!﹂
ニコラウス大司教は、そのまま﹁眼がー眼がー﹂と叫びながら、
よろよろと後ろに下がって、崖から転落した。
山の斜面をゴロゴロと、どこまでも転がっていく。暗くなってき
たのでどこまで落ちたかわからない。
ニコラウス大司教は、神聖魔法使えなくなってるし、頭から思い
っきり落ちたし、これ普通に死んだかもしれないね。
﹁フフン、よくわからないけど、わたくしの美の勝利ですね﹂
﹁はぁ、分かったから、脱いだし満足しただろ。リアは、もう後ろ
に下がってろ。あと早く服を着ろ!﹂
神聖魔法が使えなくなった段階で、リアもホモ大司教も役に立た
ない。
もしかしたら、こういう形で自らの信徒が殺しあうのを避けたの
かもしれない。アーサマはどこまで計算でやっているのかわからな
1252
いところがある。
そんな巧みな神慮に︵何も考えてない可能性もあるが︶感心して
いると、俺は横っ腹に衝撃を受けて倒れた、あぶねえ。
危うく、俺も崖から転げ落ちるところだった。
﹁これでも喰らえ!﹂
いきなり仲間を引き連れて突撃してきたフリードが、俺に魔法の
杖を持って衝撃波を飛ばしまくってくる。
一発目は不意打ちされたが、二発目からはカアラが前に来て魔法
障壁を張って守ってくれる。
クソッ、来ると分かっていたのに、ホモ大司教のあまりのアホら
しさに思わず油断した。
﹁フリードか、不意打ちとは卑怯な!﹂
﹁これはもはや、決闘ではないのでな。不意打ちもするさ﹂
﹁しかし胸を突かれて、あの傷でよく生きてたな﹂
生きているとは限らないのだが。
フリードの青と金のヘテロクロミアだった瞳は、赤く血に染まっ
ている。魔族となった兆候とも思えるが、死にかけた影響かもしれ
ず判断は難しい。
俺の質問には答えず。フリードは、ひとりごとをつぶやく。
﹁ニコラウス大司教は、敗れたか⋮⋮。まあ、期待はしてなかった
が囮となり、聖女と潰しあっただけ上出来﹂
1253
フリードがこっちの話に乗ってこないとは、これまでの奴とは空
気が違う。
一度は不意打ちで勝ったは良いが、手強い相手になってしまった
のか。手負いの獅子ほど恐ろしいものはない。
﹁カアラ、フリードを殺せ!﹂
一対一の対決ではないから、カアラを使ってもいいのだ。向こう
がマジなら、仕掛けられる前に全力で倒すべきだ。
カアラが手を振り回して得意の衝撃波を食らわせるが、即座にフ
リードの前に立ったオリハルコンの大盾を持った角刈りの守護騎士。
﹃鉄壁の﹄ヘルマン・ザルツホルンに弾かれる。
オリハルコンってのは、魔族の魔法まで弾くのか。
だが、こちらにもオリハルコンの大剣を持ったルイーズがいる。
鉄壁のヘルマンにルイーズが斬りかかり、二人は最強の盾と剣を
ぶつけあって、火花を散らす激しい決闘を始めた。
﹁シレジエの勇者タケル、﹃魔素の瘴穴﹄さえ開けばこちらの勝ち
だ。お前の相手はこいつがする。超魔王ブリューニュ、シレジエの
勇者を足止めするのだ!﹂
﹁待て、フリード!﹂
黒い鎧を着て、闇の剣を持った両手を振り回す混沌の超魔王ブリ
ューニュが、ウネウネ肩をくねらせながらやってきた。
人の形をしているのに、それはもはや人ではない死肉の塊だ。
﹁オジャ? オジャ! オジャ? オジャ! オ ジ ャ オ ジ
1254
ャ﹂
何度見ても怖いな⋮⋮。
ブリューニュが身体をコマのようにぐるぐる回して、もはや斬撃
なのかどうかすらわからない攻撃を繰り出してくる。
こっちも﹃光の剣﹄と﹃中立の剣﹄の双剣を振るって対応するが、
手が伸びたり縮んだりする、その意味不明で予測不可能な攻撃は、
受け止めるだけで必死だ。
カアラやオラクルちゃんが、ブリューニュに向けて必死に衝撃波
を繰り出しているが、当たってもプシューと割れた鎧から紫色の煙
が噴出すだけで、ダメージが入ってるのかすらわからない。
もしかすると、魔族の攻撃は、魔王には相性が悪いのか。
こっちが超魔王に足止めを食らっている間に。
敵の上級魔術師イェニーがフリードの肩に触れて、﹃瞬間移動﹄
の魔法で、﹃魔素の瘴穴﹄の建物を守っている俺たちを飛び越えて、
入り口に突入する。
﹁フハハハ、超魔王には手も足もでんか。そこで俺の勝利を指を咥
えて見ていろ、シレジエの勇者!﹂
貝紫色のマントを翻して、魔術師イェニーと共に入り口に駆け込
むフリード。
途端に建物の中から、激しい爆発の音と光が瞬いた。
フリードたちと、建物の中で立てこもっているライル先生たちの
戦いが始まったのだ。
1255
95.最終決戦
﹁手伝ってやろうか、勇者﹂
超魔王ブリューニュを前に一歩も進めず、大ピンチのところに二
ライ
人の側近を連れて建物の影から現れたのは、緑ローブの金髪の男だ
った。
フル
盗賊王ウェイク。彼の手には、ライル先生が渡したであろう魔法
銃が握られている。
ライフル
なんでここにいるのとか、いつ先生に魔法銃もらったんだよとか、
聞きたいことはたくさんあったが。今はそれどころではない。
ただ、一つだけ突っ込ませてくれ。
﹁ウェイク、お前、自分が一番かっこよく見える出番が来るのを待
ってやがったな﹂
﹁ちっ、違う! ゲルマニア帝国軍が相手だと戦争協力になっちゃ
うからだ!﹂
﹁そうなのか、もう理由とかどうでもいいから、これを何とか出来
モンスター
るなら頼む!﹂
﹁化物退治なら俺に任せておけ、反逆の魔弾!﹂
ライフル
魔法銃を抱えて、ウェイクが放った﹃反逆の魔弾﹄は、ブリュー
ニュの脳天を突き破った。
おお、すごい。
﹁お前んとこの先生さんが、あらかじめ俺の弾倉を聖水で聖化して
1256
ライフル
くれてたようだから。邪悪なる魔王には効きがいいんだろ。その上
で﹃反逆の魔弾﹄に魔法銃の弓魔法がプラスされて、さしずめ﹃真・
反逆の魔弾﹄ってところか!﹂
命名センスは、ともかくこれならブリューニュを倒せそうだ。
しかし、ライル先生さすが。ちゃんと超魔王ブリューニュ対策ま
で考えて、先に手を打っておいたとは。
ウェイクが何発かブリューニュの身体を撃ち破るうちに、ブブブ
ブッと片方の闇の剣が消えていく。どうやら、魔王の核を撃ちぬい
て傷つけたようだ。
これだけのピンチでも、俺たちの足止めをするというフリードの
命令を守り続けているブリューニュには、もはや自分の意志という
ものがないのだろう。
﹁ここは俺に任せて、戦争を終わらせてこいよ﹂
﹁すまんウェイク!﹂
ウェイクが撃ちまくってブリューニュを抑えている間に、俺はオ
ラクルちゃんに抱えてもらってブースターで建物の中に突入する。
入り口の奥に入った部屋では、ちょうど魔法勝負で撃ち勝ったラ
イル先生とニコラ宰相が、ゲルマニアの宮廷魔術師イェニー・ヴァ
ルプルギスを囲んで殺すところだった。
イェニーは、同列の魔法力を持つニコラ宰相のディスペルマジッ
クで﹃瞬間移動﹄の魔法が封じられれば、ただの女に過ぎない。
ライフル
バキュンと音を立てて、ライル先生の魔法銃が火を噴く。
イェニーは、鉛の弾に身体を撃ちぬかれ、金切り声を上げて倒れ
た。
1257
﹁これでもくらいなさい!﹂
ライル先生が撃ちまくる音が建物の中に響いている。倒れたイェ
ニーは、撃たれるたびに身体を震わせるだけだ、先生もう死んでま
すよ。
まだフリードが残ってるし、倒れているイェニーをバキュンバキ
ュン死体撃ちしてる場合じゃないと思うんですが。
﹁アハハハッ! 帝国の上級魔術師はみんな死ぬんです、死ねぇぇ
!﹂
ダメだ、完全にトリガー・ハッピーだ。
ああなっては、全弾撃ち尽くすまで、先生は正気に戻らない。
﹁キャァ!﹂
奥の部屋から悲鳴が聞こえてくる。
俺は慌てて駆けつけると、フリードに抵抗して発砲した奴隷少女
銃士隊が、光の剣で襲われようとしていた。
他の奴隷少女たちを守ろうと、シュザンヌとクローディアの二人
が﹃黒杉の大盾﹄を構えてガードする。
しかし、光の剣と闇の剣を振るうフリードの前には、鋼をも超え
る硬度を持つ盾もひとたまりもない。
少女たちを守ろうと、身を呈して前に立ったシャロンを、フリー
ドは何の躊躇もなく斬り伏せる。
シャロンが斬られた!
1258
﹁フリード貴様ぁ!﹂
﹁ふん、そんなに奴隷の女が大事か﹂
フリードは、奴隷少女たちを蹴散らし、その奥に居た白いローブ
にケープを羽織ったシルエット女王の首根っこを押さえて、闇の剣
を首元に当てた。
﹁ならば、こういうのはどうかな、タケルよ﹂
追い詰められて女王を人質にしたフリードは、もはや勇者でも魔
王でもなく。
ただのチンケな悪役だった。
﹁お前、女を盾にして卑怯だとは思わないのか!﹂
﹁卑怯? 余は今すぐ女王の首を刎ねることもできるのだぞ。そう
しないのは、むしろ余の慈悲深さだ﹂
﹁勇者のやることじゃない、そこまで堕ちたかフリード﹂
﹁ふうむ、ブリューニュがお前たちに潰されたのなら、代わりに女
王を傀儡として立てるのも悪くはない﹂
もはやこっちの言葉を聞かず。
フリードは、勝手な願望を口走っている。こいつ、空気が変わっ
たと思ったのはクールになったんじゃなくて、もはや正気を失って
いたのか。
ふと気がつく、大人しく人質にされているシルエットが、俺に瞳
で合図を送っている。
注意をひきつけろってことか。
1259
俺は、フリードに向かって大上段に光の剣を振りかざしてジリッ
と近づく。
フリードもそれに威圧されたのか、シルエットを押さえつけなが
らもこちらに闇の剣をかざす。
﹁もうなにをやっても無駄だフリード。もうお前の負けだ、分かっ
てるんだろう!﹂
﹁小うるさいハエめ!﹂
フリードは、俺に振りかざす闇の剣の出力を上げる。
黒々とトグロを巻く黒炎の濁った輝きは、まるでフリードの荒れ
狂う心を映しだしているようだった。
﹁さあ、シルエットを離して投降しろ!﹂
﹁フハハハッ、貴様を倒し、余が勝ったあとに、シルエット女王は
余の嫁にしてやってもいい。世界最強の皇帝の嫁になれるのだ、否
やは。ぐはっ﹂
フリードは最後まで、言えなかった。
大きな銃声が響いて、フリードの身体が弾けるように吹き飛んだ。
ライフル
シルエット女王は、ケープを巻きつけるようにして隠し持ってい
た魔法銃を至近距離から、フリードの足に向けて放ったのだ。
闇の剣を振りかざしているフリードに捕まっていたのに、大した
度胸だった。
硬いオリハルコンの鎧はフリードを守るが、ライフルのゼロ距離
射撃の衝撃まで殺すことはできない。
痛そうに眉を顰めて膝をついたフリードに、シルエット女王は銃
口を向ける。
1260
﹁誰が、あなたの嫁になどなりますか! 私の夫はもういます!﹂
ライフル
シルエット女王は、小さい身体で銃の反動に必死に耐えながら、
フリードに向かって魔法銃を連射した。
女王が放つ銃撃の雨を受けて、壁まで吹き飛ばされたフリードは、
なぜか笑っていた。
﹁シルエット、もういい。あとは俺がやる﹂
俺は、シルエットを守るように前に立って。
輝く白い光の剣と、銀色に鈍く光る中立の剣を出して、フリード
に対峙する。
﹁シレジエの勇者⋮⋮知っているか、余は正しいのだぞ!﹂
﹁お前の正しさなど、俺の知ったことか!﹂
なおも光の剣と闇の剣で、俺に斬りかかってくるフリード。
その血走った赤い瞳は、もはや正気ではない。
何度か、つばぜり合いを続けるうちに、フリードの光の剣が次第
に黒褐色に変わっていく。闇の剣は、さらに色濃さを増す。
フリードは、完全に闇に堕ちようとしているのか。
﹁英雄たる父の覇道を継ぎ、世界に秩序をもたらそうとしたのだ。
皇帝の子として生まれた余には、それこそが天命だった﹂
﹁だから、お前の都合とか、知ったこっちゃねーって言ってんだよ
!﹂
つばぜり合い俺が身を引いた隙に、フリードの身体にさらに銃弾
1261
が撃ち込まれる。
態勢を整えなおした奴隷少女銃士隊が、横からフリードに鉛の弾
を食らわせたのだ。それに混じって、オラクルちゃんも衝撃波を放
つ。
もはやここには、フリードの味方は一人も居ない。
フリードに深く身を斬られたシャロンも、他の奴隷少女たちに抱
かたびら
えられながら何とか立っていた。
良かった﹃ミスリルの帷子﹄を着せておいたおかげだ。
﹁余は世界で唯一の勇者となり、世界最強の皇帝となり、この世界
に平和と安定をもたらす光なのだ。だから余は、何人にも負けるわ
けにはいかぬ!﹂
﹁お前の勝手な妄執に、世界を巻き込むんじゃねえ!﹂
﹁タケル、まだだ。お前さえ倒せば、余の勝利は揺るがぬ!﹂
﹁くそ⋮⋮もういいから、死んどけよ!﹂
手負いになってもまだフリードは手強い、肌はすでに青く染まり
魔王化の兆候を示している。
フリードの魔王の核は一つだけ。その理屈から言えば、超魔王ブ
リューニュほどの力は無いはず。イマジネーションソードも、両手
で使えるはずもないのに。
なのに、なぜコイツは二刀流のままなのか。なぜこれほどの力が
残っている。
黒褐色に染まった光の剣と、色濃さを増す闇の剣を大きく振り回
して、フリードはなおも、魔法と銃弾の嵐を受けながらも、俺の攻
撃を跳ね除ける。
1262
帝国軍が敗走し、側近が倒され、満身創痍になったフリードは、
どの道もう終わりだ。
それなのに、まだこの土壇場に来てフリードの強固な意志の力は
オーバーフローして、イマジネーションソードを燃え立たせる。
﹁さあ、決着をつけようタケル﹂
﹁フリード⋮⋮﹂
そうか、打ち付け合う剣の力を通して、フリードの力の源が分か
った気がする。
それは、単に闇落ちした勇者の力ではない。魔王に転生しただけ
でもない。
フリードは、勇者を素体とした魔王という、これまでにない新し
い存在になろうとしているのだ。
闇と光が合わさるが故に最強。
奇しくもそれは、世界最強を目指した男が到達した一つの極点だ
った。
確かに強いぞフリード、あらゆる手段を尽くして力を求めたお前
は、この瞬間に世界の頂点に立った。
だが俺は、そんなお前の力を絶対に認めない。
﹁余こそが絶対正義、余こそが世界最強のぉぉ﹂
﹁お前は⋮⋮﹂
フリードの闇の力に呼応するように、俺の左手の中立の剣が、銀
色の輝きを増していく。
そうか、この時のための剣なのかと、すべてが分かった。
1263
この世界の産みの母たる混沌には、人間のような、あるいはアー
サマのような感情と呼べる意志はない。
だが母なる混沌は、光の力だけではなく闇の力まで手に入れて、
この世界を思いのままに支配しようとしたフリードを決して許さな
い。
だから﹃古き者﹄は、俺にこの剣を与えてくれた。
中立の剣が神気の力を帯びて、母なる混沌の力を弄んだフリード
を打倒しろと轟き叫んでいる。
人の善意を信じ、世に光をもたらそうと努力し続けるアーサマに
は悪いが、世界の本質は混沌だ。
この世界は、たった一人の皇帝の正義によって支配されてはなら
ない。
増して、闇も光も両方を手に入れようなんて。
﹁力なのだ!﹂
﹁欲張り過ぎなんだよ!﹂
うるさそうに銃弾を払いのけるフリードの隙をついて、俺は中立
の剣を深々とフリードの胸に突き刺さした。
俺の手を止めようとするフリードの闇の剣を光の剣で払いのけ、
なおも力の限り深く貫く。
あれほど硬くフリードを守っていたはずのオリハルコンの鎧が、
嘘のようにフリードの身体に、中立の剣が根本まで飲み込まれてい
く。
当たり前だ、貫き通したのは﹃一度、中立の剣で貫き通してやっ
1264
た所﹄なんだから。
右手を通して、無限に増幅された混沌の力が溢れでて、フリード
の肉体を内部から破壊していく。
フリードの赤く染まった眼はやがて光を失い、両手をダラリとさ
げて、そのままゆっくりと地面に転がった。
それは魔王が倒されたのでも、勇者が殺されたのでもない。
闇と光の両方の力を追い求めたフリードの存在そのものが、世界
に否定されて潰えたのだ。
あとには、壊れたオリハルコンの鎧と、フリードだった抜け殻が
残るのみ。
戦いは終わった。
1265
96.勝利の篝火
俺がフリードの遺体を抱えて外に行くと、超魔王ブリューニュは
身体中穴だらけで、ボロボロのミンチにされていた。
すでに、闇の剣が両方とも消えているのは魔王の核が破壊されて
いるってことだ。
﹁オ⋮⋮ジャ⋮⋮﹂
リアに聖水をかけて浄化してもらう、プシューと紫色の煙を上げ
てブリューニュの身体は溶けていった。
成仏しろよブリューニュと手を合わせる。
ライフル
﹁しかし、すごいなウェイク、一人で超魔王をやったのか﹂
﹁すげえのは、この魔法銃だけどな。お前のとこの先生は恐ろしい
武器を作ったもんだぜ﹂
ウェイクは、いつになく嬉しそうな顔で、銃身を恋人でも愛でる
ライフル
かのように撫でている。
魔法銃が、射撃チートを増幅させたってこともあるのか。
﹁しかし、超魔王を倒したウェイクなら勇者になれるんじゃないか﹂
三国の盗賊ギルドを束ねる盗賊王ウェイクは、天下一の義賊だ。
魔王討伐の条件はクリアしたとして、街と教会の復興ぐらいすぐ
にやってのける英雄でもある。
﹁勇者だって? 冗談キツイぜ。俺は、あんな面白い女に一生スト
1266
ーキングされる仕事はゴメンだな﹂
一瞬、憮然とした顔をしたウェイクは、ブリューニュを浄化して
いるリアの姿を眺めてから、クックッと笑った。
リア、だから早く服を着ろとあれほど⋮⋮。
﹁まあ、本当に助かったよウェイク﹂
﹁コイツをもらった分の仕事をしただけだ。礼なら、いい武器を作
ってくれたお前の先生さんにでも言っとけ﹂
ライフル
そういって、子供が新しいオモチャを与えてもらったような顔で、
魔法銃をガチャっと構えてみせる。
たしかに、飛び道具チートにはたまらん武器だろうな。ウェイク
の仕事も、捗ることだろう。
さて、後始末だ。
なぜなら、まだオリハルコンの大盾を抱えたヘルマン・ザルツホ
ルンと、オリハルコンの大剣を振り回すルイーズとの戦いが続いて
いる。
やはり、最強の盾と剣では、なかなか決着はつかない様子だった。
﹁おい、二人とも、戦いは終わりだ。﹃鉄壁の﹄ヘルマン。お前の
大将は死んだぞ﹂
そう聞いて、ヘルマンは静かに大盾を下ろした。
ルイーズも剣を降ろして、戦いを止める。
俺は、ヘルマンの前にフリードの死骸を放ってやった。
角刈りの大男は、嘆くことも泣くこともなく、ただ死んでいるこ
1267
とを確かめるようにフリードの死骸を抱きかかえていた。
﹁さて、どうするヘルマン﹂
﹁シレジエの勇者殿、もしお許しいただけるならば、このまま私を
逃していただきたい。殿下のご遺骸を運ぶ者が、もはや私しか居な
くなったようだ﹂
ヘルマンが話すのを初めて聞いた、巌のような体格に似合わず、
涼やかな声だ。
捕虜にしてもいいのだが、そうなればこの実直そうな男は、死力
を尽くして最後まで戦うだろう。
壊れたオリハルコンの鎧と、大盾を手に入れるために、これ以上
犠牲を払うリスクは冒したくない。
﹁よし許す、フリードの遺体を帝国に届けるがいい﹂
﹁かたじけない﹂
ヘルマンは、フリードの死骸を貝紫色のマントで包むと、大盾と
一緒に軽々と抱きかかえて魔の山を降りていった。
本当に歩いて帝国まで帰るつもりなのかな。
途中で捕まらないように通行手形でも書いてやろうかとも思った
が、そんな暇もなかった。
まあ、ルイーズならばともかく、あの男を遮ることができる兵は
居ないだろう。
リアの神聖魔法力も回復したようなので、みんなの傷を癒しても
らって休む。
様子を見に来た兵士がいたので、勝利したことを伝えると大喜び
1268
で降りていった。
金獅子皇堕つ! シレジエ勝利!
その知らせは、すぐに魔の山の陣中を駆け巡った。
かがりび
生き残ったシレジエの兵団と義勇兵は、力を振り絞ると篝火を焚
いた。
闇夜に沈む魔の山を、松明を持った兵士が歓声を上げながら、駆
け巡る。
闇夜に沈んだ魔の山に、勝利の篝火が、ボツボツと点いていく。
篝火がない者は、木片や枯れ枝をかき集めて火をつける、それす
らない者は自分が寝床がわりにしていた麦わらにまで火をつけて、
勝利を祝った。
勝利の報告は、揺れ動く何十何百という松明と共に、王都シレジ
エにも要塞街オックスにも届いて、街を明るく照らした。
山の上から、夜の暗闇の中に広がっていく勝利の輝きを見て、俺
はその美しさに息を呑んだ。
シルエット女王がやってきて、俺の手を握った。
彼女は一言も発さずに、物思いにふける眼差しで、広がっていく
何千もの明かりを見つめている。
この輝きよりも、松明の明かりに照らされてきらめく、シルエッ
トのストロベリーブロンドの髪が美しい。
そんなキザなセリフを思いついたが、言うのはやめておいた。
言葉にしてしまうと安っぽくなってしまう。
それよりも、俺に身体を預けてきたシルエットの柔らかい肩に手
1269
を回して、髪を撫でてやろう。
わらわ
﹁今日は、妾の生涯で最良の日です﹂
髪を優しく撫でていると、シルエットは感動に打ち震えた声で、
ようやくそれだけ言った。
歴史的な勝利の日だ。
もしかしたら、この女王が発した言葉も、これから俺が口にする
言葉も歴史に残るかもしれない。
そうすると下手なことは言えないな、なんて考えながら俺はシル
エットの碧い瞳を見つめて、しばらく間をおいてから、こう返答し
た。
﹁今日が始まりだよ、シルエット。これからもっともっと良い日を
一緒に過ごして行こう﹂
﹁タケル様⋮⋮﹂
シルエットが、俺の顔を見上げて、碧い瞳を閉じる。
うーん? と考えていると、シルエットが少し身をよじった。
ああそうか、これってそういうことか。
俺はゆっくりと顔を近づけて、その桜の花びらのように小さくて
愛らしい唇にキスをした。
慣れてないから、ぎこちないキスだったけど、まあ何とかなった。
ラストシーンでキスに失敗したら台無しだもんな。
ぶっつけ本番で、何とか様になった自分を褒めてやりたい。
正直に言えば、どんな戦闘よりも、この瞬間が一番緊張したこと
1270
は内緒にしておこう。
戦いに参加したシレジエのすべての人々は、疲れ切っているにも
かかわらず、戦いに勝利した喜びと興奮で、なかなか寝付けなかっ
たという。
※※※
次の日、俺は義勇兵団三千、傭兵団四千、兵団二千、市民兵二千
の計一万一千の兵を連れてスパイクの街まで攻め寄せた。
市民兵は、もう報酬を払って解散させたはずなのだが、最後まで
戦って勝利を見届けたいと言う者が多く連れて行くことにした。
オラクル大洞穴に篭って、敵軍の後背を脅かして引きつけてくれ
たオラクル領の騎士隊と義勇兵団一番隊。
千人足らずの勇士たちも、合流して共にスパイクの街を囲む。
小さなスパイクの街には、逃げ延びてたどり着いた一万の帝国軍
が駐留している。
街から溢れ出るように、外壁の前にも陣を張っている。大軍とは
いえるだろうが、総勢七万だったはずの帝国軍が、たった一万しか
残っていないのだ。
密偵の報告によると、後方に居た予備兵一万と領邦王国軍二万は、
もはや勝手に帰国。
兵士も傭兵団も散り散りに逃げて、原隊に戻らなかった者が多い
そうだ。
スパイクの街に逃げ込んだ、一万の帝国軍は敗残の軍である。
士気は最低のはずだが、その割には整然と槍を構えて陣を敷き、
1271
シレジエ王国軍と静かに対峙していた。
﹁シレジエの勇者、佐渡タケルにお目通り願いたい!﹂
見覚えのある金髪碧眼の姫騎士が、立派な白馬に乗って単騎でこ
ちらに駆けてきたので、俺も周りを押し留めて前に出る。
まあ、姫騎士ってこの世界に、おそらくエレオノラしか居ないん
だけど。
﹁よー、久しぶりだな﹂
﹁久しぶりってほどでもないでしょう。あらかじめ言っとくけど、
私がこの帝国軍一万の大将よ﹂
﹁ああ、やっぱりそうか﹂
﹁殿下の宿将も、殿下自身も全員貴方に倒されてしまったから、私
が大将なの。まあ、率直に言って、もうこっちの負けと言うしか無
いわね﹂
﹁えっ?﹂
﹁何よ、その意外そうな顔﹂
おや、強情な姫騎士の辞書に﹁やっぱり勝てなかったよ⋮⋮﹂は
あっても﹁負け﹂などという文字はなかったはずだが。
素直に負けを認めるとか、こいつ本当にあの姫騎士エレオノラか。
﹁いや、何でもない。それじゃあ、負けを認めて降伏するのか﹂
﹁それはできないわね⋮⋮﹂
よかった、やっぱり本物のエレオノラのようだ。
いや、よくはないけど。
1272
結局、残った帝国軍も、やっつけるしかないのか。
まあ、エレオノラの指揮する一万に、こちらが負けるわけがない
から勝利は約束されているが。
﹁じゃあ、あとは戦場で雌雄を決するしかないな﹂
﹁ちょっと待ちなさい、それじゃあ私が来た意味が無いでしょう!﹂
﹁なんだよ、まだなんかあるのか﹂
﹁ただでは負けを認められないから、大将同士の一騎打ちで決着を
つけようって言いに来たの!﹂
エレオノラは、馬から降りると。
馬の鞍から、木刀を二本取り出してみせた。
﹁あっ、黒杉の木刀﹂
﹃試練の白塔﹄の時に使った木刀、いつの間にかなくなってて。
どこにやったかなーと思ったら、お前が持って帰ってたのかよ。
﹁これなら死ぬことはないでしょ、ごく一部だけど、まだ殿下の弔
い合戦だとか意地を張って、騎士のプライドにこだわってる人もい
るの。でもこっちは一刻も早く兵を帰国させないと大変だから、こ
ういう形で筋を通させて頂戴﹂
﹁わかった、本気でかかってこいよ﹂
俺は、エレオノラに木刀を受け取ると、両軍の見守るなかでエレ
オノラと対峙した。
エレオノラは上段、俺は正眼に構える。
1273
﹁当たり前でしょ。本気で行くわよ!﹂
﹁おっと﹂
そう言うが早いか、エレオノラは上段から思いっきり振り下ろし
てきた。
威力だけなら、重たくて良い斬りこみだが、素直すぎる。
俺はそのまま力をいなして避けると、エレオノラに木刀を突きつ
けた。
エレオノラは慌てて、俺の突きつけた剣を跳ね除けようと、下段
から剣を振るう。
﹁このぉ!﹂
エレオノラは、動きが素直すぎるから、簡単なフェイントに引っ
かかるのだ。
俺はさっと手を引くと、エレオノラが振るった篭手に、思いっき
り木刀を振り下ろした。
その衝撃で、エレオノラは木刀を振り落とす。
﹁まだやるか?﹂
﹁ううん、負けた。貴方は強いわねタケル⋮⋮﹂
エレオノラが負けを認めて、全軍に触れを出して降伏と恭順を宣
言した。スパイクの街を開け渡した帝国軍は、エレオノラの指示に
従い、そのまま帰国の準備を始める。
俺はちょっと、あまりのあっけなさに、ビビってるんだけど。
1274
エレオノラどうなっちゃったんだ、いつもの覇気がないし、別人
みたいに爽やかになっている。
俺はまた、しつこく粘られるのを覚悟してたんだけど、こっちが
フェイントを食らったような変な気分になる。
﹁和議の条件交渉は、外交ルートを通じて帝都の高官とやってちょ
うだい。今は恭順宣言を信じて、兵を連れてすぐに帰国させて欲し
い。早く戻って領邦を安定させないと大変なことになるから﹂
﹁それは構わんが⋮⋮﹂
あまりにも素直すぎて、何かの罠じゃないかとすら思えてくる。
﹁どうしたの、本当に急いでるのよ。何かあるなら言って。お金が
欲しいなら、私個人としても身代金を言い値で払ってあげるわよ﹂
﹁いや⋮⋮﹂
何と言ったら良いかわからない。
エレオノラの言うことは、シレジエ王国にもゲルマニア帝国にも
ベストの選択だ。
こっちには、ゲルマニア帝国を侵略する意図はない。
これ以上無駄な争いを続けて、残存の帝国軍を足止めしても、ロ
ーランド王国かブリタニアン同君連合が帝国の領土をもぎ取るだけ
で、こっちには何の得もないのである。
その妥当な提案を、姫騎士エレオノラがしている猛烈な違和感以
外は、言うことは何もない。
﹁⋮⋮わかった、帝国軍の降伏を受け入れて帰国を許す﹂
﹁そう、わかってもらえて嬉しいわ。私からも、最後に一言いいか
1275
しら﹂
エレオノラは、ニッコリと微笑むと、俺の耳元に形の良い唇を近
づけて囁いた。
﹁今までのことは、全部ゲルマニアの最後の将としての責任で言っ
たことだから、私個人としてはあんたに負けたなんて絶対に認めて
ないんだからね。帝国に兵士を帰国させて、ランクト公国を安定さ
せたら、すぐに戻ってきてもう一度勝負するんだから、首を洗って
待ってなさいよ﹂
エレオノラは言うだけ言うと満足したのか、白馬に跨って赤いマ
ントを翻して颯爽と去っていった。
俺は、その背中を見送りながら、あの﹃炎の鎧﹄で馬が燃えない
のは、鞍に防火魔法がかかってるのかなーとか、そんなどうでもい
いことを考えていた。
1276
97.大戦の後始末
一応、全軍を連れてロレーン騎士団領の国境線沿いまで、帝国軍
の撤退を見送る。
ちなみに、その時にロレーン騎士団長バガモン男爵に聞いたが、
ロレーン騎士団領で小さな争いを続けていた両派は、シルエット女
王の戴冠で和解して︵本当は、シレジエ王国が勝ったと聞いてから
だろうけど︶ようやく一つにまとまって、シレジエ王国に復帰した
そうだ。
かなりどうでもいい話だが、国境沿いの領地が安定してくれるな
ら悪い話ではない。
俺はそのまま、全軍を連れて王都シレジエにとんぼ返りした。
そこから先も色々と忙しかった。戦争の後片付けもあったが、王
都で凱旋将軍として勇敢に戦った兵士たちを慰撫し、戦勝パレード
など慣れないことまでやらされて気疲れした。
ライル先生や宰相も、今度はゲルマニア帝国との講和条約締結で
忙しかったようだ。
戦後処理の外交交渉は、もうひとつの戦争である。
大戦に勝利したシレジエ王国としては、一切の領土の割譲は求め
ない。
代わりにゲルマニア帝国に対して、白金貨五万枚分に相当する額
を白金、金、銀、銅で払えという空前絶後の賠償金支払いを要求し
た。
1277
戦争は、領土の取り合いであるという、この世界の常識から考え
ると極めて珍しい要求だった。
何としても領土だけは譲りたくない帝国は、国庫を空にして帝国
全土から白金と金、銀、銅銭までかき集めてなんとか賠償支払いを
終えた。
大戦の中心であったシレジエ王国が単独講和を決めたため、共同
戦線を張っていたローランド王国とブリタニアン同君連合も矛先が
鈍り、ローランドは帝国に取られていた旧領の一部返還。ブリタニ
アン同君連合は、海沿いの小さな街を幾つか割譲することで矛先を
収めた。
まあ、両国は戦ってないのに漁夫の利を得たんだから、文句はな
いだろうと思う。
フリード皇太子が起こした無益な戦争を、最小限の被害で収拾さ
せたと、帝国政府の軍・官僚がホッと胸を撫で下ろしたのもつかの
間であった。
直後、決済貨幣が枯渇した帝国経済を、猛烈なデフレーションが
襲う。
戦争中の極度のインフレから、いきなり強烈なデフレに落ち込ん
だ市場は流通が麻痺し、窒息状態となった。
あっという間に帝国には、金も物もなくなったのである。
窮乏は窮乏を呼ぶ、帝都に溢れんばかりに存在した豊かな物資は
戦争で失われて、金もないから外国から買うこともできず、残りは
大商人の所有する倉庫の奥深くに隠されてしまった。
戦争敗北から起こった信用収縮と流通の麻痺により、倒産する商
会が相次ぎ、当然のごとく市民生活も破綻し、怨嗟の声が帝国全土
1278
をおおった。
しかし、枯渇した帝国財政ではどうすることもできない。いや、
帝国政府は困窮した民を助けるどころか、税収不足を何とかするた
めに、増税と生活必需品の専売化を押し進めた。
デフレスパイラル
結果として、帝国の商会と市民はさらに困窮の度合いを深め、経
済の崩壊がより一層スピードを増す。
帝国は、まさに坂を転げ落ちるがごとき、悪循環の無限ループに
陥ったのである。
帝国に支払い能力ギリギリの賠償金支払いを課すことにより、経
済的に崩壊させる。
これが、シレジエ王国の考えた、対ゲルマニア帝国戦略であった
のだとどれほどの人間が気がついたことか。
もちろん、大国ゲルマニアにも人物はいる。
フリードのブレーンであったバイデン内務卿は、狂乱物価の原因
が決済通貨の不足であることに気づき、遠い西の帝国で行われてい
る兌換紙幣の採用に踏み切る大胆な改革を打ち出した。
それは、極めて先進的で正しい対処と言えたが、タイミングが遅
すぎた。
大戦に敗北した帝国は、すでに兌換紙幣の価値を保証するだけの
信用を失っていたのだ。
ゲルマニア紙幣を受け取る外国はなく、まったく価値のない紙束
を帝国政府に無理やり押し付けられた領邦国家は、ついに帝国に反
旗を翻した。
帝国の東部、ラストア王国、トラニア王国、ガルトランド王国の
三大領邦の反乱に始まった内乱は、帝国の西部、ランクト公国を盟
1279
主とする諸侯連合の本国離反、国内各地の農民の蜂起に波及する。
帝国の敵対国であるローランド王国と、ブリタニアン同君連合は、
この好機に相次いで領土侵犯を再開。
その後、軍部から起こった反皇帝派のクーデターにより、帝都ノ
ルトマルクは陥落。ユーラ大陸最大の帝国は四分五裂し、完全に地
図上から消滅することになるが、まあそれは先の話である。
※※※
俺は、オックスの城の執務室で、今回の処置に関するシェリーの
報告を受けて考えこむ。
細かい説明と今後の予測を聞いても、何が起こっているのかよく
わからん。
とにかくシレジエ王国は、一兵も使わずにして、経済的に帝国を
打倒したことになるようだ。
その威力は、俺やライル先生が必死になってやった戦争よりも甚
大な被害を与えていて、空恐ろしささえ感じる。
佐渡商会のブレーンでありシレジエ王国の影の財務卿とも言うべ
きシェリーは、先生の補佐があったとはいえ。
たった一人でゲルマニアの経済破綻を立案・計画・実行してのけ
たのだ。
しかし、この小さな銀色の頭のどこに、恐ろしい計算能力が詰ま
ってるのかなあと思いながら、俺はシェリーの頭を撫でた。
﹁シェリー、よくやった﹂
﹁えへへっ、お褒めいただきありがとうございます。ご主人様、で
1280
もまだ半分なんですよ﹂
﹁半分?﹂
﹁このあとは選択肢はいくつかありますが、困窮した帝国貴族のク
ーデターなり貧困層の民衆蜂起なりで、統治機能を失った帝国が瓦
解したのを見送ったのちに、奪った賠償金を投じて、ゲルマニア国
内の資産を購入して、貨幣を徐々に戻せば市場の混乱は収まります﹂
﹁ふむ﹂
﹁私としては、この機会に弱りきったゲルマニアの商会、権益、資
産を徹底的に買い叩いてしまうのがいいと思います。大変お買い得
です。財布の紐を握れば、そのまま経営が破綻してる領邦もシレジ
エ王国になびくと思います﹂
﹁そうか、まあシェリーの思うとおりにやってくれ。外交に関係す
ることは、先生とよく相談してな﹂
﹁はい﹂
﹁とりあえず、ご褒美になにか⋮⋮﹂
﹁はい﹂
シェリーは、期待に満ちた瞳で、擦り寄ってくる。
何が良いかとは聞くまでもないか、俺は立ち上がるとシェリーと
風呂場に向かう。
いそいそと﹃お風呂清掃中﹄の札を下げるシェリーを横目に見な
がら、服を脱ぎ風呂に入る。
まあ、子供の髪を洗うぐらい易いものだ。
﹁シェリーの銀髪は綺麗だな、手触りもいい﹂
1281
﹁ああっ、もう可愛がりが、始まってるんですね﹂
可愛がりって、相撲取りかよ。
まあいいや、何度かやるうちにシェリーの喜ぶポイントはわかっ
てきた。耳元でささやいてやる。
﹁あといい匂いがするな﹂
﹁それはもう、ご主人様に呼んでいただいたので、綺麗にしてきま
したから﹂
風呂に入るのに、綺麗にしてくるっておかしいよな。
まあ、なんとなく言いたいことはわかるけれども。
綺麗にしたいなら、シェリーにも手鏡か香水でも送ったほうがい
いんだろうか。
今も外で薪を割ってくべているロールが肉体労働派なら、シェリ
ーは頭脳労働派のワーカーホリックなので、女の子らしいことに興
味を持つのであればそれは良いことだ。
贔屓はダメなのだが、俺はこの二人を特に可愛くしてやりたいの
で、もうちょっと女の子らしいオシャレにも気を使ってほしい。
﹁そうだ、ロールも風呂に入れてやらないといけないな﹂
﹁ご主人様、今は私の番ですから、他の娘のことは考えちゃダメで
すよ﹂
﹁ハハッ、なかなか言うじゃないか﹂
俺は、笑いながらお湯を汲んでシェリーの髪を流してやる。
やけに女らしい口ぶりで、ちょっとドキッとさせられた照れ笑い
1282
も含んでいる。
﹁今は私のご主人様ですからね、それともお兄ちゃんが良かったで
すか﹂
﹁まあ、どっちでもシェリーが好きな方にしておけ﹂
シェリーは頭がいいから、周りの大人の口真似をしているのだろ
う。
わかってないのに大人のふりをするとか、そういうところは子供
らしい無邪気さで、むしろ好感が持てる。
いくら頭が良くても、知能の発達と、情緒的な成長は別だ。シェ
リーは、男女の機微を理解しているわけではない。
まあ、俺も言うほど大人じゃないし、男女の機微なんてわかって
ないわけだが。
手を石鹸で泡だらけにして、シェリーの身体を洗ってやる。
向こうも洗ってくれるので、洗いっこだ。なんか妙なものだが、
もうあんまり抵抗はない。
何度も言うが、俺はロリコンではないので、特に意識しなければ
子供に触れられようが触れようがなんとも思わない。
子供と言っても、女らしさを感じてしまうとドキッとするが、そ
ういう回路を遮断するのがコツだ。猫でも洗っていると思えば、ど
うということはない。
﹁お兄ちゃん、胸をもっと洗ってください﹂
﹁洗うほどないけどな﹂
﹁もう! ちゃんとありますよ。触ってみてください﹂
1283
﹁うんあるな、かろうじてな﹂
俺は一人っ子だったが、妹というものがいればこういう感じだっ
たのかもしれない。
そういう気安さで、ついからかってしまったが、今はシェリーを
褒めるのが目的だった。
﹁ご主人様はやっぱり、シャロンお姉さまみたいに大きい胸が好き
ですか﹂
﹁いや、そんなことないぞ。小さくても好きだぞ﹂
小さい胸を手で押さえて、ちょっと素でシェリーが落ち込んでる
っぽいので、慌ててフォローする。
やっぱり、シェリーにとってはシャロンが姉なのだろう。姉と比
べられて落ち込む妹とか、なかなか萌える。
いや萌えてる場合じゃないか。
だいたい、俺の嫁であるシルエットも、胸の大きさ的にいったら
シェリーと変わらないのだ。だからダメってことはない。
﹁本当ですか、小さくても愛してもらえますか﹂
﹁もちろんだとも、胸の大きさで女の価値は決まらん﹂
俺は立ち上がってお湯を風呂桶に汲むと、シェリーの身体の泡を
流して、自分も流す。
﹁じゃ、小さくても私は平気です!﹂
﹁立ち直りが早くて結構だな﹂
自信を持つということは大事なことだ。
1284
まあ、シェリーの場合はまだ子供なので、シルエットとは違い成
長が期待できる。落ち込む必要はなにもない。
湯船に入ると、当然のようにシェリーが膝に乗ってくっついてく
る。
俺が肩に回した手を、ギュッと握ってくる。強くスキンシップを
求めてくるのを、俺はシェリーに限っては拒絶したりしない。
こいつら奴隷少女は、みんな不幸な生い立ちだ。たいていが一家
離散している。
ちょっと歳のわりに甘えすぎのような気もするが、シェリーは特
別扱いで甘えさせてやってもいいように思う。
シェリーは神童扱いされて、普段から大人と気を張って渡り合っ
ている分だけ、どこかで息を抜かなければならない。
彼女を子供として甘えさせてやれるのは、シャロンか俺ぐらいし
かいないのだ。
﹁もっとギュッとしてもらっていいですか﹂
﹁ああもちろん、こいよ妹﹂
シェリーが湯船の中で立ってこっちを向くので、そのまま抱きし
めてやった。
まだ小さい身体なので、しなだれかかられてもまったく負担には
ならない。ほっそりとした背中を抱きしめてやる。
﹁妹って、言ってもらえるんですね﹂
﹁うちの奴隷はみんな家族みたいに思ってるけど、俺の妹はお前だ
けだよ﹂
1285
俺は耳元でそうささやく、シェリーを褒めるという本分を思い出
したからだ。
何か自分だけは特別ってものがあれば、女の子は喜ぶのではない
かという、俺の浅はかな考えである。
﹁嬉しいです、お兄ちゃん大好き﹂
﹁よしよし﹂
俺にすがりついてくる、シェリーの小さい腕に力が篭った。
どうやら、正解だったみたいだな。まあ、俺もお兄ちゃんと呼ば
れるのは嬉しいし、この世界に妹が一人ぐらい居てもいいだろう。
ちなみに、俺もシェリーも一人っ子だったりする。
実際の兄妹というものを知らないから、逆に兄妹に憧れを抱いて
いるのかもしれない。
﹁ふわっ、お兄ちゃんって、首を触るのが好きですね﹂
﹁うん、まあな。気になるか﹂
シェリーの艶やかな銀髪を見てると、昔飼っていたアメリカンシ
ョートヘアーを思い出すのだ。
首を触るとゴロゴロと喉を鳴らして喜んだので、つい昔の癖を思
い出してやってしまう。もちろん猫扱いしてるとか、口にしたりは
しないが。
﹁ううん、いいんです。お兄ちゃんの好きなところを触ってもらえ
れば私は気持よくて。ああでも、兄妹でこんな気持ちいいこと、許
されませんよね﹂
﹁それ、誰に吹きこまれたか、当ててやろうか﹂
1286
シェリーもそうだが、なんか現代のエロ知識が混じった妙なこと
を言い始めたら、あいつが全部吹き込んだと思って間違いはない。
﹁兄妹やるんなら、禁断の愛が燃えるってシスター様が教えてくれ
ました﹂
﹁やっぱりか、変態シスターの言うことは聞かなくていいぞ﹂
﹁そうですよね、本当の兄妹じゃないから、愛しあってもいいです
し﹂
﹁そういう問題ではないと思うけど、まあ禁忌はあるな﹂
これも、シェリーがまだ子供をやってるからできる可愛がりだ。
もう少し大きくなれば、シェリーも本当に女性になってしまうか
ら、徐々に離れなければならないだろう。
シェリーにはシャロンもいるから、甘える先がなくなるってこと
はあるまい。
兄離れしていく妹とか、なんだか寂しい気もする。そう思うと、
背中を触る手に力が入ってしまったらしく、シェリーが身をよじっ
た。
﹁はうっ﹂
﹁あっ、すまん。強かったか﹂
﹁いえ、強いほうが素敵です。それより、もっと強く抱きしめて背
中をさすりながら、前にお願いした感じでご褒美をいただいてもよ
ろしいですか﹂
えっとなんだっけ、たしか前に小難しい注文をされたよな。
声のトーンをさげて、耳元でささやく、だっけ。
1287
﹁シェリーは、本当に可愛い妹だよ﹂
﹁ひぐっ﹂
ブルっと、シェリーの小さい身体が震えた。
まあ、俺がツルッと背筋を撫でたせいかもしれない、これやられ
るとビクッとするよな。
﹁可愛いシェリー、俺だけの妹だよ﹂
﹁お兄ちゃん、いいです。もっと強く激しくしてください﹂
なんかアホらしくなってくるんだけど。
これがシェリーの趣味で、嬉しいらしいからしょうがない。
﹁賢いなシェリーは、最高の妹だ、食べてしまいたいぐらい可愛い﹂
﹁はわっ、食べてください、お兄ひゃん全部食べてぇ﹂
甘ったるい声を出して、ブルブル身体を震わせながらも、ほっそ
りとした手足を必死に絡みつかせて、やたらスベスベした肌をこす
りつけてくる。
これだけ反応があると、ちょっと面白くなってくるんだよな、抱
きしめる手に力を込めてシェリーが喜びそうな箇所をくすぐってや
る。
﹁じゃあ、食べてやろうかな﹂
﹁ああっ、ひいっ、食べられちゃうぅぅ﹂
遊び半分に、小さい耳たぶを甘噛みしてやった。
その瞬間、ビクッ、ビクッとシェリーの身体が怖いほどに激しく
痙攣した。
1288
﹁おい、大丈夫か﹂
﹁ああああっ、ダメッ、そこでやめちゃダメなんです! もっと強
引に抱きしめながら、耳の中にまで舌を押しこんで、全部食べちゃ
ってください!﹂
とんでもない要求を始めたぞ。
これが他の女なら、張り倒すところだ。でもまあ、シェリーなの
でしょうがない。俺は言われたとおりに、耳の中まで舌を押しこん
でやった。
﹁んっ⋮⋮﹂
﹁ああああっ、食べられてる。お兄ちゃんに私、全部食べられちゃ
ってるぅぅ、うああああああっ!﹂
もうこうなればやけだ、シェリーが満足するまで犬みたいに舐め
回してやった。
途中で止めるなと言われたから、もう両方の耳がふやけてしまう
までたっぷりと舐めて綺麗にしてやると、ようやくシェリーのオー
ケーがでた。
﹁はぁはぁ⋮⋮これでどうだ﹂
﹁ふわぁ、耳が蕩けちゃいそうでした。ありがとうございますお兄
ちゃん。最高に気持よかったです﹂
シェリーは、ぷかっと湯船に浮かんでいる。
余韻を楽しむとか言ってる状態に入っているんだろう、シェリー
の働きには報いなきゃいけないし、ご褒美はやらないといけないん
だが。
1289
これなんか、シェリーの発育に多大な悪影響というか、やっかい
な性癖を与えることになってないだろうか。
お湯に浮かんで脱力しているシェリーを介抱しながら、だんだん
心配になってきた。
いくら褒めるのがご褒美と言っても、やり過ぎのような気がする。
やり方をもう少し変えたほうが良いんじゃないか。
﹁満足したところで、相談なんだがシェリー﹂
﹁もう少しですね⋮⋮﹂
﹁なんだお前⋮⋮。もしかして、まだ満足してないとか言わないよ
な﹂
俺はかなり頑張ったのだが。
もう少しとか言われても、これ以上何をしろというのか。
﹁いえ、お兄ちゃんのご褒美はパーフェクトでした。そうじゃなく
て、仕事の話です﹂
﹁ああ、真面目な話か﹂
シェリーは、頭の切り替えが早すぎて、ついていけない時がある。
あんだけ蕩けておいて、もう仕事に頭が行ってるのか。
﹁もう少しで、お兄ちゃんに商人の王国をあげられます。私の夢の
実現が、あと一歩まで来ています﹂
﹁そういえば、うちの商会に来た時に言ってたな﹂
それはちょうど、こうやって一緒にお風呂に入って、身体を洗っ
てやったときのことだった。
1290
ちゃんと覚えている。シェリーは確かに、俺にそう約束した。
﹁お約束しましたからね、そのために私は生きているんです﹂
さっきまで蕩けていた銀色の瞳は、もう生気を取り戻し、生来の
鋭さを取り戻している。
いつか、俺のために﹁商人の王国を手に入れて見せる﹂と豪語し
たシェリー。
その時は聞いてて﹁まさか﹂と思っていたが、この短期間で実現
可能なところまで、本当に持って行ってみせたのだ。
シェリーは、まさにシレジエが生んだ経済チートといえる。
まったく俺の妹は優秀すぎると、半ば誇らしく思い、半ば呆れた
ような気持ちだった。
﹁まあ、責任は俺が持つから、シェリーはやりたいようにやってく
ればいい﹂
﹁成功したら、その時のご褒美は、もっとすごいのをお願いします
ね﹂
シェリーは、なんか段々と、俺に対して遠慮がなくなってきてい
るような気がする。
王国一つ分と交換のご褒美って、何をさせられるのか怖くなって
きた。
可愛くてこまっしゃくれていて、普段は遠慮がちなのに、たまに
こっちがビックリするようなワガママを言って困らせる。
俺は一人っ子だからわからないんだが、本当の妹もこんな感じな
のだろうか。
1291
98.ライル先生の告白
戦後の混乱が落ち着くまで延期となっていた、俺とシルエット女
王の結婚式もついに間近と迫ったある日、俺はライル先生に呼び出
された。
先生が俺を名指しで呼ぶときは、いつもよっぽどのことがあった
時だ。待ちに待った時が、ついに来たかと思うと身の震える思いが
する。
覚悟は完了している、アンバザックの居城の先生の部屋を訪ねる
とベッドに腰掛けて待っていた。
国務卿の正装でも、いつものきっちりと首元までボタンを留めた
官服でもなく、魔術師が着る緩やかなローブを着ていた。
そんな姿なのに表情は固い、両膝に両手を乗せた姿勢で、俺の顔
を見て深くため息をついた。
戦場ですら、余裕の笑みを浮かべいてる先生が、いつになく緊張
の面持ちである。よっぽどのことがあるのだ。
﹁先生お呼びでしょうか﹂
﹁ええ、今日呼んだのは、約束の件です﹂
先生の声は、少し震えている。俺はどうしたら良いかなと、身の
置き場がないような気持ちになる。
先生の部屋は、溜まった紙束やら魔道具やら書籍が溜まって足の
踏み場もない状態なので、少し考えてから良いやと思って、先生の
すぐ横に腰掛けた。
1292
﹁タケル殿、近いですね⋮⋮﹂
﹁隣はダメですか﹂
﹁えっとまあ、いいです。さっきからずっと、何から話せばいいの
かと悩んでいました﹂
﹁なんでも話してください﹂
﹁もういっそのこと、一緒にお風呂にでも入ったほうが話が早いの
かもしれません﹂
﹁いいですね、行きましょう!﹂
先生は、俺が大げさに喜んで立ち上がったので、アハハと笑った。
緊張が少しは、ほぐれてくれるといいけど。
﹁そういえばタケル殿には、会った時からずっとお風呂に誘われて
ましたよね。冗談にして受け流していましたが、一緒に入れない理
由があったんです﹂
﹁それを話すには、一緒に入るのが一番いいというわけですね!﹂
﹁そうですよ、残念ながら楽しい話ではありませんけど、お湯に浸
かりながらならば多少は和むかもしれません﹂
﹁あの先生、もうロールにお風呂を焚くようにお願いしてますから、
良かったらすぐにでも入れますよ﹂
まあ、まだ浴槽に水を張っただけで、焚き始めで微温いだろうけ
ど、しばらく浸かってれば、適温になるはずだ。
すでに焚いていると聞いて、先生は少し驚いている。
﹁なんでもう焚いてあるんですか。タケル殿は、事前にそういう流
れになるってわかってたんですか﹂
1293
﹁先生に身体の秘密を見せていただくとなれば、ただ脱ぐよりもお
風呂に入るって流れのほうが抵抗がないだろうと思いまして﹂
ライル先生は、ほっそりとした顎に手のひらを当てて、﹁ほう﹂
と感心して微笑んだ。
本当は、もしかしたら今日こそ、ライル先生と大人の階段を昇る
かもしれないから、その前に身奇麗にしないといけないと考えて、
ロールを走らせたなんてことは黙っておこう。
﹁まさか、タケル殿に行動を先読みされるとは思いませんでした。
これは、焼きが回ったということですかね。よろしいでしょう、私
も覚悟を決めました﹂
先生は、ベッドから立ち上がると、さっとローブの膝を払ってか
ら部屋を出ていく。
俺は、慌てて後ろをついて行く。いよいよ一緒にお風呂か。
﹁こうやって、﹃お風呂場清掃中﹄の札を付けておけば誰も入って
来ませんから﹂
俺がそう言ったのに、ライル先生はお風呂場の引き戸に念入りに
ロックの魔法をかけていた。
よっぽど肌を他人に見られたくないのだろう。そして、それを俺
だけに見せてくれるのかと思うと、胸が熱くなった。
﹁タケル殿、先にお風呂に入っておいてください。後から行きます﹂
﹁わかりました﹂
お風呂場で、かけ湯してゆっくりと湯船に浸かって待った。
まだ微温いが、そのうち暖かくなってくるだろう、むしろ長居す
1294
るかもしれないのでこれぐらいでちょうどいい。
先生が、お風呂場の扉を開けて入ってくる。
いよいよ⋮⋮。
﹁⋮⋮って、なんでお風呂場にまで、服をきてるんですか﹂
﹁湯浴み着です﹂
ズッコケそうになった。
リアルファンタジー
先生もたまに外してくるよなあ。もったいぶらずに、早く脱いで
くれればいいのに。酷幻想に、散々鍛えられてきたから、俺はもう
どんな悲劇でも受け入れる覚悟はできている。
先生は、浴衣のような白い薄衣をまとっていた。
肌が透けて見えて、むしろ裸よりこちらのほうが艶かしいぐらい
だ。
やはり、先生はおっぱいがあるし、柔らかい女性の体つきをして
いる。最近になって、茶色のショートヘアーが少し伸びたから、余
計にそう見える。
さて、先生が隠してる秘密とはなんなのだろうか。
﹁先生まさか、そのまま湯浴み着とやらでお風呂に入ってくるわけ
じゃないですよね﹂
﹁ここまできて申し訳ないんですが、なかなか踏ん切りがつかない
ものです﹂
先生は、眉根を顰めてため息をついていた。
普段なら、可哀想だから許して上げようなんて気持ちになるけど、
今日だけは別だ。俺は覚悟を決めてきてるし、先生もだからこそ来
1295
たはずなのだ。
﹁ライル・ラエルティオス、ここまで来て約束を反故にするおつも
りか﹂
﹁タケル殿がそこまで真剣になるのは、久しぶりに見ましたね。は
い、わかりました。どうぞ御覧ください﹂
そう先生は、ため息混じりに頷くと、湯浴み着を脱ぎ落として裸
になった。
うーん、滑らかで美しい肌だ。生まれてから、一度も陽に当たっ
たことがないんじゃないかと思うほどに透き通った白さ。
細身ながらも胸は程よく発達しているし、お腹のラインはほっそ
りとしている。二十三歳の健全な女性の体つきだ。
酷い火傷でもあるのではないかと思ったが、違うらしい。
下半身も女性らしい肉付きで⋮⋮んんっ。
よく見ると先生の股に、赤ちゃんぐらいのサイズの男の子が生え
ている。
﹁そうか、先生は男の娘だったのか﹂
﹁なんですかそれ!﹂
目を瞑って緊張に震えていた先生が、驚いて瞳を見開く。
いや、男の娘とか許容範囲ですよ。こんなに可愛い子が女の子の
はずがないってやつですよね。
﹁全然オーケーですね﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってください。男の娘とか、言葉の意味がわか
りませんが、何か誤解を受けているような気がするので⋮⋮﹂
1296
そうですか、じゃあ失礼してもうちょっと観察させてもらいます
よ。
よく見ると男の子の位置が少し上すぎる気がする、そしてうっす
らとした毛の下にしっかりと女の子がある。
﹁えっとこれは⋮⋮そっちでしたか﹂
﹁あんまりジロジロ見ないでください!﹂
先生は、手で股間を隠してしまった。
いやでも、先生が確認しろって言ったんじゃん。いや、言ってな
いのか。
よく観察できなかったが、おそらく男の子二割、女の子が八割っ
てとこだったように思う。
なるほど、両性具有とか半陰陽ってやつなのかな。ライル先生の
父親が﹁半人前﹂とか言ってたのはこのことかと納得はできる。
﹁タケル殿は、なんで私の身体を見て、そんなに落ち着いていられ
るんです﹂
﹁まあ、あらゆるケースを覚悟していましたし⋮⋮﹂
確かに、現実世界で見たら重たいのかもしれないけど、リアルフ
ァンタジーだからなんでもありだよなあというのが先に来てしまう。
当事者にとっては、辛いのはわかるけれど。だからといって、大
げさに驚いて見せるのも違う気がする。
﹁はぁ⋮⋮なんだかなー、なんだかなーですよタケル殿!﹂
﹁はい﹂
1297
ライル先生は深くため息をつくと、かけ湯して湯船に入ってくる。
本当はお風呂好きなのに、誰にも見られないようにと思うとなか
なか入れなくて、苦労しただろうなと思うと可哀想ではある。
﹁予想した反応と全然違ったので、話を切り出すタイミングが掴め
ませんでしたが、私の身体は見ての通りです﹂
﹁なるほどです、詳しく話を聞いてもよろしいですか﹂
﹁ええ、いくらでもお話しします。我がラエルティオス家は、代々
が大学者で上級魔術師の家系であることは知っていますね﹂
﹁はい﹂
﹁ゲイルのクーデターで死んだ⋮⋮いえ、私がわざと見殺しにした
ようなものですが。上の兄二人は、上級魔術師でした。通常に考え
て、いくら魔術師の家系と言ってもこれだけ上級魔術師が連続で生
まれることはありえません﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁上級魔術師は、小さい国だと一人居るかいないかの珍しい存在な
んです。魔術師の家系だからって、そんなにポコポコ産まれたら、
この世界は上級魔術師だらけになってますよ﹂
先生は、想像するだけで恐ろしいと身を震わせる。
本当に上級魔術師を嫌ってるなあ。
﹁ラエルティオス家に上級魔術師が続いたのは、子供の因子を操作
するおぞましい禁忌魔法を使っていたからです﹂
﹁あー、遺伝子操作技術みたいなものですか﹂
﹁タケル殿の言葉の意味はよくわかりませんが、だいたいそのよう
1298
な理解で正しいと思います。そして、兄二人が成功作で、このよう
なイビツな身体に産まれてきてしまった私は失敗作というわけなの
です﹂
﹁なるほど、事情はわかりました﹂
ライル先生の存在が明るみに出れば、ラエルティオス家は忌まわ
しい禁呪魔法を使っていることがバレて、社会的に立場が悪くなる。
殺されずに生かしてもらえただけ、幸運だったとすら言える。
魔法力が弱く、身体にも秘密を抱えたライル先生は、家系の恥と
して実の親に疎まれ、ずっと虐げられてきたそうだ。兄二人が王都
勤めなのに、先生だけが地方書記官として左遷されていたのも、そ
のせいなのかもしれない。
先生に言うのは酷だが、上級魔術師を強く憎む理由も、それで何
となく見えてくる。
自分が中級魔術師止まりだからなんて単純な妬みではなく、もっ
と切実な恨みなのだ。
まともな上級魔術師に生まれなかったことが、先生にとっての身
の不幸だった。上級魔術師を憎むことを、単なる八つ当たりと言っ
てしまっていいとは思えない。
もともと、強い魔術師を求めすぎるラエルティオス家の業が、先
生を苦しめたのだからいっそみんな死んでしまえと思っても不思議
はない。
先生の語る身の上話を聞いて、俺はしばらく押し黙って、先生の
人生に思いを馳せた。
救いがあるとすれば、その歪みと不幸な生い立ちこそが先生が知
識チート化する強いモチベーションになったということだろう。
1299
足りない魔法力の代わりを求めるように、先生はありとあらゆる
知識を貪欲に吸収して、錬金術師でもあり軍師でもあり、薬学と博
物学のスペシャリストともなった。
その痛みも苦しみも、先生を育てた糧となっていると俺は思う。
﹁私の話は、以上です﹂
全てを語り終えると、先生は深くため息とともに、少し薄紅色の
唇をほころばせた。
思い出すのも辛い話ではあろうけれど、誰にも話せない秘密をつ
いに語れた満足もあるのかもしれない。
﹁えっとじゃあ、次は俺の話をしていいですか﹂
﹁はい、なんでしょうか﹂
﹁改めて、結婚を申し込んでよろしいでしょうか﹂
﹁タケル殿は、何を聞いてたんですか!﹂
先生が、久しぶりに本気で激昂している。
怒られても困るんだよなあ。
﹁いやだから、えっとじゃあ、先生って実際のところを聞きますけ
ど、自分のことを男性だと思ってるんですか?﹂
﹁いえ、男とは思ってませんよ。こんな身体ですし﹂
﹁じゃあ、結婚してもいいじゃないですか﹂
﹁いや、いやいやいや! 違うでしょう。そういう意味ではなくて
ですね﹂
1300
﹁そんなにいやいや言われると、俺でも傷つくんですが﹂
﹁いえその、プロポーズを断ったわけでは⋮⋮。いえ、そんな問題
以前の話なんですよ。じゃあ話してあげますけど、タケル殿はアン
ドロギュノスという﹃古き者﹄を知っていますか﹂
﹁あーなんか、ありますね﹂
俺の世界と一緒かどうか知らないけれど、男女が背中合わせにく
っついてる頭が二つで、手足が四本の生物だっけ。
﹁仮に私の身体が誰かに見られたとしたら、魔物扱いなんですよ。
男って言ってるのは身体が女性に見えるから、万が一にも求愛され
ては困るので言ってるだけで、私のカテゴリーは男でも女でもない、
人間ですらないんです。私が、それをどんな思いで話したと⋮⋮う
うっ﹂
先生は瞳に滲んだ涙を、嫋やかな手で拭った。
さっきから、ため息をついてばっかりだな。まあ、これだけ素の
感情を出してくれたのは初めてかもしれないから、これも貴重だ。
﹁じゃあ先生につかぬ事を聞きますけど、おしっこするときは立っ
てします? 座ってします?﹂
﹁おしっこって⋮⋮座ってしますけど﹂
﹁じゃあ、問題無いですね﹂
﹁いやいやいやいや、意味がわかりません!﹂
﹁俺はもうライル先生が、男でも女でも、魔物でもなんでもいいん
ですよ。先生に求婚してるわけですから﹂
﹁タケル殿の言うことは、ビックリさせられることが多いですけど、
1301
もう今回だけはなんと言っていいかわかりません!﹂
先生は、何度も口をパクパクさせて、怒っていいのか悲しんでい
いのかもわからない様子だった。
何と言ったらいいかなこれ。
﹁先生、俺は魔族ともその⋮⋮やってますし、下半身触手だらけの
﹃古き者﹄とも、散々馴れ合いましたし。両方ついてるから魔物だ
とか言われても、求愛しない理由にならないんですよ﹂
﹁そんなことを言われても、タケル殿は、私がこの身体のことでど
れほど苦しんだかわからないでしょう﹂
﹁そんなの教えてくれないとわかりませんよ、一生かけてわかって
いきたいと言ってるんです﹂
先生が返答を思い浮かばないという、とても珍しいものが見れた
ので満足だったりする。
先生は公的なことに関しては知識チートだが、私事になると、と
ても弱くなることがある。
俺は先生のブラウンの瞳をしっかりと見つめて、絶対に折れない
し絶対に逃がさない。
ようやく、先生の深いところまで触れることができたのだから、
手を握って絶対に離さない。
﹁それでも、私は私が嫌いです﹂
﹁だから俺が好きになっちゃいけないんですか。もし身体が問題だ
と言うなら、魔法か何かで変えてしまうこともできるんじゃないで
すか﹂
1302
﹁そんなこと! 私が考えなかったとでも思うんですか。切開や整
形で、見かけ上どちらかの性にすることはできますが、回復ポーシ
ョンを使うと形状は元に戻ってしまうんです。因子自体を組み替え
る禁呪もありますが危険なものです。それに、もとから壊れて産ま
れてきた私は、これ以上自分の形を壊したくなかったから!﹂
先生は、溜まったものを吐き出すように一息にそういうと、顔を
俯けて押し黙ってしまった。
俺はちょっと考えてから、慎重に言葉を選んで返す。
﹁つまり、先生は自分自身を嫌いつつも受け入れてるってことです
よね﹂
﹁諦めているだけです、生きていくためには受け入れざるを得ない
こともあります。人間には多かれ少なかれあるでしょう、私だけが
苦しんでいるわけではないのですから、理不尽でも業を背負ってい
くしかない﹂
﹁じゃあ、俺にも受け入れさせてくださいよ。そのまま全部抱きし
めさせてください﹂
﹁タケル殿は、何というかすごく軽いですよね。私は身体だけじゃ
なくて心も歪んでしまっているから、素直に抱きしめてなんて言え
ませんよ﹂
俺もそこまで素直ってわけじゃないから、搦め手だって使う。
よし、切り札をだそう。
﹁ここで俺の求婚を受けないなんて、先生らしくないですよ﹂
﹁えっとその、私らしくないとは?﹂
﹁よく考えてみてください、シレジエの王族になる俺と結婚すれば、
1303
ライル先生も王族のファミリーに入るわけです。そうすると、先生
が欲しがってた国の実権を完全に握れてしまいますよね﹂
﹁あ⋮⋮。それは考えても見ませんでした、いやでも﹂
﹁でもじゃない、ここは﹃はい﹄か﹃イエス﹄しか選択肢がないと
ころです﹂
﹁タケル殿は、たまに凄く強引になりますよね﹂
それは、強引に行っても良いと言ってるのだと判断して、俺はラ
イル先生を抱きしめた。
お湯はすでに温かくなっていたが、ライル先生の身体は話してい
るうちに感情を高ぶらせたせいか、お湯よりも温かくて柔らかく感
じた。
俺の抱きしめる手を跳ね除けないということは、これはオーケー
だと思っていいんだろうか。
﹁我ながら、強引だと思います。本当はもっと時間をかけるべきな
んでしょうけど、シルエット女王との結婚式も間近ですし、その時
はライル先生も一緒に嫁に欲しいんです﹂
﹁一緒にと言っても序列からいって、シルエット女王が正妻なのは
決まってるんですよ﹂
﹁俺の気持ちの問題ですよ、わかってもらえませんか﹂
抱きしめる肌を通して、俺の想いが伝わるだろうか。
伝わってくれるといいなと、俺は思う。
﹁わかりました、わかりましたよ! じゃあ私らしく、無理難題を
ふっかけてあげましょう﹂
1304
﹁おお、先生も攻めてきましたね﹂
面白くなってきた。
俺は先生のためなら、なんだってやってやろう。世界だって手に
入れてやる。
﹁結婚式までに、カロリーン公女を落としてきてください。この際
ですから、トランシュバニア公国も欲しいです﹂
﹁先生それは、相手の意志もあるんですけど⋮⋮﹂
そう来るとは思わなかった。
困った俺の顔を見て、先生は挑発的に笑ってみせる。
﹁おや、弱気になりましたか。いいんですよ、じゃあこの結婚話は
無しです﹂
﹁待ってくださいよ、やらないとは言ってない﹂
俺の先生に対する求婚も、なし崩し的に無しにするつもりだろう。
そうはさせるか。
﹁ヴァルラム公王は、すでに公女を嫁に出したつもりでいるんです
よ。外交的な根回しは、済んでるんです。公女だって、今のタケル
殿の勢いで口説けば、落ちるかもしれないじゃないですか﹂
俺は少し考える。
うーん、カロリーン公女なあ。
好きか嫌いかといえば、好きだがそういう関係ではないんだけど
も。
結婚の対象とは、考えてもみなかった。シルエット女王と、ライ
1305
ル先生のことしか考えてなかったよ。俺の視野はやっぱり狭いのだ。
しかし、先生にここまで言っておいて、否やとは言えない。
根回しも済んでるというのなら、当たって砕けてみてもいい。
﹁⋮⋮わかりました、じゃあやってみせましょう!﹂
﹁お手並み拝見といったところですね。本気のタケル殿の力を、見
せてくださいよ﹂
先生らしい笑顔を見せてくれたので、俺はホッとする。
やっぱり、暗い顔よりも野心に燃えているほうが先生らしい。
カロリーン公女を口説くか。
先生には大言壮語してみせたけど、俺はきっとこのあともそのこ
とでグジグジと悩むことだろう。
でも今は、この勢いのまま流れに乗ってみよう。
だって俺の腕の中に、先生がいるのだから、なんだってできよう
と言うものだ。
﹁まあ、それはそれとして先生のおっしゃるとおりにしますから、
その分だけ少し結婚の前祝いをいただきますね﹂
﹁ちょっと待ってください、タケル殿。そこはまだ、覚悟してない
ですけど﹂
﹁覚悟を決めましたって、言ったじゃないですか﹂
﹁そういう意味じゃないんですよ!﹂
往生際の悪い先生が落ち着くまで、しばらく抱きしめてから、そ
っと薄紅色の唇に口付けしてみた。
1306
お風呂だと魅力が二割増になる先生の、少し紅潮した頬を見てた
ら、うんこれは行けるなと、確信に近いものがムクムクと芽生えて
きた。
﹁もうちょっとだけ⋮⋮、舌とか入れて見てもかまいませんか﹂
﹁こんなことになるなんて、私は思っても見ませんでした﹂
﹁俺もです、本当に感激です﹂
﹁タケル殿と私と、言ってる意味が違いますよ⋮⋮﹂
最後までやらないにしても、もう少しだけ、もう少しだけと続け
て、先生がむくれてるのに気が付かないぐらいやり過ぎてしまった
かもしれない。
結婚するんだから、もう自分を抑える必要もないのだと考えてし
まったせいで、俺は少し強く迫り過ぎてしまった。
あとで機嫌を損ねた先生に、許してもらうのが大変だった、また
貸しがたくさんできてしまう。
俺ばかり満足してはダメなのだ。順序というものがあるし、焦る
必要だってない。もっと相手をよく見て、時間をかけるべきなのだ
ろう。
1307
99.公女への求婚
ライル先生に焚き付けられたままの勢いで、カロリーン公女の部
屋の前まで来てしまった。
﹁勇者様、公女殿下に御用ですか?﹂
﹁ああ、取り次いでくれると助かる﹂
扉の前に立っている、公女付きの壮年の騎士が応対してくれた。
ブリューニュの公女誘拐事件で、若い騎士が斬り殺されてから、
トランシュバニア公国は護衛騎士を増員して、五人態勢で見張って
いる。
物々しい感じなのだが、こちらのミスで公女を危険に晒してしま
った結果なので仕方がない。
むしろ、そのことに対して一言も非難がなかった配慮が身に染み
るぐらいだ。
ちなみにゲルマニアとの戦争中は、巻き込む危険性を避けるため
に、エストの街まで避難してもらっていた。
公女は国賓なのだから、当然の対処だ。
しかし、公女を狙っていたブリューニュも死に、俺の庇護下に置
く必要がなくなったのに、まだ帰らずに滞在しているところを見る
と。
ヴァルラム公王が公女を、俺と結婚させたがっているというのは
本当なのだろう。
1308
部屋に入ると、レースで花をあしらった青いドレスを着て、この
世界では珍しいメガネをかけたカロリーン公女が、窓の側の椅子に
腰掛けていた。
机に向かって、何か書き物をしていたらしい。シレジエに比べる
と小国とはいえ、彼女も一国の公女だ。隣国に居ても、公務がある
のだろう。
﹁勇者様が私の部屋を訪ねてくださるとは、珍しいですね﹂
﹁不躾にお邪魔しました﹂
綺麗に梳かしつけた亜麻色の長い髪の少女は、﹁いえ、とんでも
ない﹂と書き物の手を止めて立ち上がると、俺にも座るように椅子
に出してから、自らの手でお茶を淹れてくれる。
このような雑事、本来ならば公女がするようなことではないのだ
が、カロリーンはむしろなんでも自分でできる今の環境を楽しんで
いるらしい。
﹁どうぞ、本国から送ってきた茶葉です。勇者様は、コーヒーのほ
うがお好きなのでしたよね﹂
﹁いえ、紅茶も好きですよ。苺のいい香りがしますね﹂
﹁わかりますか、トランシュバニア特産のストロベリー・リーフが
ブレンドしてあるお茶なんです。健康にもいいんです、お口に合う
とよろしいのですが﹂
カロリーンは、祖国の話をすると、とても嬉しそうに微笑む。こ
の娘は、かなりの愛国者なのだ。小国の公家だからこそ、そういう
気持ちが強いのだろう。
だからこそ、国を任せる夫には自国民の男がいいと言っていたの
だ。そんな娘に、他国者の俺が求婚するなんて気が重たい。
1309
しばらくお茶をいただきながら、トランシュバニアの話を聞き入
った。
トランシュバニアは低地国で、あまり豊かな土地とは言えないが、
交易に適した港と河川がある。
このストロベリー・リーフのお茶もそうだし、バラ、カーネイシ
ョン、ユリ、チューリップ、ガーベラなどの花を育てて、ジャムや
香水の原料ともしている。
また酪農も盛んで、トランシュバニア産のチーズは国際的に有名
だ。
そして、近年ではガラス産業にも力を入れている。カロリーンも
かけているメガネのレンズの研磨技術は、トランシュバニアが一番
と言われるまでになっている。
風車が立ち並び、様々な花が咲き誇るトランシュバニア公国。
俺は本当にちょっと行って帰ってきただけだが、カロリーンの話
を聞いているとゆっくりと訪れたくなる気分にさせられる。
﹁ぜひもう一度、勇者様も公国にいらしてください。父も喜びます﹂
﹁そうさせてもらうよ﹂
もし結婚ともなれば、公王にも挨拶しないといけない。
いや、そうなると決まったわけではないのだが。
﹁ところで今日はどのようなご用事でしょうか﹂
﹁えっとね、言いにくいんだけど﹂
﹁その⋮⋮、結婚の申し込みでしたら、謹んでお受けいたしますけ
1310
ど﹂
﹁えっ﹂
いや、なんで予期してるんだよ。
もしかして、先生があらかじめ、言っといたのか。
﹁いえ、そのシルエット女王陛下との婚約があったときに、もしか
したら私もかなと思って、お待ちいたしておりました﹂
﹁うーんそうか⋮⋮、いやいや、待ってよ。カロリーン公女は結婚
するなら自国民がいいって言ってたよね﹂
﹁国のことを考えればそうするべきかと考えていましたが、シルエ
ット女王陛下が起たれたのを見て、私も考えを変えました﹂
﹁うん﹂
カロリーンは澄んだ声で、意志の強そうなブラウンの瞳を輝かせ
て言う。
﹁もし勇者様が結婚を申し込んでくださるのでしたら、交換条件と
してトランシュバニア公国の自治独立の維持をお願いします。そし
て公家の家督は、いずれ父から私に継がせていただきたいと思いま
す﹂
﹁おお、カロリーンも公女王になるのか﹂
カロリーンは、その通りですと、力強く頷いた。
﹁そしていずれは、勇者様と設けたお子に継がせていけば、トラン
シュバニア公国は生き残れます。それが、ベストだと判断しました﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
1311
素晴らしい考えだ、しかし、こうもすんなりと求婚を受け入れら
れてしまうと、今度はこっちが考えてしまう。
カロリーンは、俺の顔色を窺うように、覗きこんで聞いてくる。
﹁どうしました、何か私はおかしなことを申しましたでしょうか﹂
﹁うんと、外交的な話は分かった。それがベストだって言うのも良
いけど、カロリーン個人としてはどうなの﹂
いくら先生に頼まれたからとはいえ、政略結婚はゴメンだ。
冷めた家族関係を作るぐらいなら、たとえ政治的にベストの判断
だとしても避けたほうがいい。
﹁ひとりの女としては、もとより勇者様をお慕いしております﹂
﹁そうなのか﹂
カロリーンは一見すると物静かだが、本当は直情的だ。
じっと大きな瞳を見ていると、吸い込まれそうな気持ちになる。
目を合わせたら、その言葉に嘘偽りがないとは感じる。
﹁勇者様は、私をブリューニュ伯爵の手から救い、震える私の手を
握って落ち着くまでずっと一緒に居て下さいました。この身をお任
せするには、それだけで十分すぎるほどです﹂
﹁そうかなあ﹂
あんまりいい思い出じゃない。
俺は、調子に乗って防犯意識に欠けていたし、公女の手を握った
時も周りに他の女性がたくさんいて、リア辺りに言わせると﹁是非
もない﹂感じで、とてもロマンティックなものじゃなかった。
﹁逆にお聞きしますが、私は勇者様のご好意をいただけるに足りま
1312
すでしょうか﹂
椅子から身を乗り出すようにして、さらに俺を見つめると、カロ
リーンは言葉を待っている。
こういう時に、気の利いた言葉が出てくればいいんだけどな。
カロリーン公女って、結構胸があるんだよな。
慎ましやかに隠された胸元を、覗きこみたい欲望はある。すごく
愛らしいし、メガネっ子ってチャーミングだ。
お嫁さんにしたいかと言われたらそりゃしたい。
﹁うん、とても魅力的だと思うよ﹂
それは、性欲も込みでなんだろうけど。それも女性を選ぶ要素の
一つだと思う。
話していて楽しいし、素直で優しくて物静かで、真面目でいざと
いうときに決断できる意志が強さがある。
そういう公女の内面を好ましく思っているのも確かだ。
﹁そうですか、では出来ましたら、勇者様のお言葉で改めてプロポ
ーズしていただけると嬉しく思います。私も、乙女ですから﹂
カロリーンは、椅子からさっと立ち上がる。
俺も立って、意を決して気持ちを言葉にした。
﹁えっとじゃあ、カロリーン。好きだから、結婚してほしい﹂
﹁はい、喜んで⋮⋮。私の序列は、シルエット女王陛下の次で結構
ですので﹂
カロリーンは、頬を仄かに紅潮させて、花の咲き誇るような微笑
1313
みを浮かべた。
それは綺麗で素敵なんだけど、序列と言われると、現実に引き戻
されてしまう。
﹁あの、いまさら聞くのもなんだけど、カロリーンの他にも、たく
さん奥さんがいるってどうなの﹂
俺はライル先生にも求婚してるのだ。
本当に今さらだけど、大丈夫なのかって少し怖い気がする。
﹁もちろんかまいませんよ、貴族で側室がいるのはよくあることで
すし、百五十年前にトランシュバニアを救った勇者様は、たいへん
慎ましやかな人物であったと伝えられていますが、それでも公式に
十六人の妻を娶ったと聞きます﹂
﹁そうなのか﹂
慎ましやかで、十六人のお嫁さん。この世界の勇者事情はどうな
ってるんだ。
カロリーンは、それぐらいならよくあることですから、気にしな
くていいんですと語った。
他ならぬ常識人のカロリーンが言うんだからマジなのだろう。
結婚の約束を取り付けて、ホッとしたけど、なんだか立ち上がっ
たままだと少し気まずい。
﹁えっと、どうしました?﹂
﹁えっと、その一応それらしいことをしたほうがいいのかなと、迷
ったりしている﹂
﹁ああ、デートしなきゃ結婚できないでしたっけ﹂
1314
﹁その話、まだ引きずられてるのか﹂
リアが言い出したことだ、もうすっかり忘れてたよ。この期に及
んで、そんなことは気にしない。
でも、せっかくだから結婚前に、恋人らしいことをしといたほう
がいいんじゃないかなと思う。
﹁じゃあ、抱きしめてもらっても?﹂
﹁喜んで﹂
俺は、手を広げたカロリーンの豊かな胸に飛び込んだ。
ああドレスがなんか、思ったよりフカフカする、カロリーンの肉
付きはとても柔らかくて気持ち良い。
何となくそういう雰囲気かなと思って、キスしようとしたら唇を
指先でチョンと押さえられた。
﹁勇者様そっちは、結婚してからでお願いします﹂
﹁ごめん﹂
そういうとこは、やっぱり真面目なのか。
まあともかくも、これで俺の伴侶は三人となった。
※※※
カロリーンへの求婚も上手く行って、俺はホッとして寝床につく。
いつものように、オラクルちゃんを抱きまくらにして、後ろから
シャロンがくっついてくる。
結婚式も、本当に間近だ。
1315
何か忘れてることはないかなと、うつらうつらしながら考えてい
ると、何となく違和感がある。何かが引っかかってる。
﹁なあ、オラクル。お前ちょっと大きくなってないか﹂
﹁ん、そりゃ食べ盛りじゃからな﹂
いや、お前は違うだろう。
確かに最近はいつにも増して、たくさん食べているようだけど。
オラクルは身なりこそ小さいが、三百歳のエンシェント・サキュ
バスで成長しないはずだったのに。
なんかちょっと背が伸びて、胸が出てきたように思う。
いつも抱いて寝てるから気がつける、細かい変化だ。
﹁なんか、不穏なものを感じるんだが﹂
﹁うーんとまあ、正直に言うとじゃな。子供を作るのに、子供の体
型じゃといろいろと差し障りがあるじゃろ﹂
この会話自体が、差し障りがあるんだけどな。
そうか待てよ。そういうことか、俺はオラクルとも子供ができる
ようなことをしちゃってるもんな。
猫のように丸まって、俺の腕の中に収まっているオラクルちゃん
を手で持ち上げる。
﹁なあオラクル、俺と結婚しないか﹂
ビクッと背中にくっついてるシャロンの手が震えた。
まあ、魔族と結婚なんてビックリするよな。正直、いい顔されな
いかもしれない。
1316
﹁ワシは別に形式にこだわってないんじゃが、結婚なんぞせんでも
子はできる﹂
﹁いや、子の方にあんまりこだわってほしくないんだが、俺の気持
ちの問題でな﹂
結婚に抵抗があったころなら十年ぐらい悩んでただろうけど、も
う重婚の約束をしまくってる状況なので、いまさら何をか言わんや
だ。
﹁タケルがしてくれと泣いて頼むなら、結婚してやっても良いぞ﹂
オラクルはそう言って、真っ赤な薄い唇をニヤッと歪めた。
無限に近い時を生きるオラクルちゃんにとっては、俺といる間な
ど一瞬の出来事にすぎない。
こだわらないのはよく分かる。
ちゃんと責任を取りたいと思うのは、俺のエゴだからな。
﹁泣きはしないけど、両手をついて頼むよ﹂
﹁両手はワシを抱くのに使うが良いぞ。フフッ、こだわってはおら
んが、好いた男に求婚されるのは、思ったより気分が良いものじゃ﹂
オラクルはゴキゲンで、バタバタと足をばたつかせながら俺の胸
に小さい顔を埋めた。
俺はそっと、オラクルのツインテールを解いてやって、指でさっ
と髪を梳いてやる。大きくなるんなら、きっとそのうち、ストレー
トの長い髪のほうが似合うようになるのだろう。
﹁あっ、そうだシャロン。まだ起きてるか﹂
1317
﹁はい!﹂
バサッとベッドから身体を上げる。
夜なのに元気だな。
﹁結婚のことで思い出したんだが﹂
﹁ふぁい!﹂
どうしたシャロン、なんか耳の毛が逆立って凄いことになってる
ぞ。
﹁実は、式のドレスなんだが、どうも王都の官僚はセンスが悪いら
しくてな。こう、うちの商会で用意できないかと思うんだ。エスト
の街には、買収した服飾ギルドもあったから、シャロンのセンスで
用意してくれないかなと﹂
﹁なんだ、そういうことですか⋮⋮﹂
なんか、犬耳がヘナっとなったが、本当に大丈夫か。
﹁あと、オラクルのドレスも見繕ってやってくれ﹂
俺の肩を抱いて、オラクルちゃんが﹁頼むのじゃ﹂と、ニヤッと
笑った。
シャロンは、ふあぁぁと、ものすごいため息をついて、そのまま
ガクンとうなだれた。
﹁ええそれはもう頼まれれば、ウエディングドレスの百着でも二百
着でもご用意しますけどね﹂
﹁いや、一人一着でいいんだけど⋮⋮﹂
1318
なんだかシャロンは、機嫌が悪そうだ、あるいは具合が良くない
のか。
今日は、そっとしておいたほうがいいと判断した。
﹁ご主人様、私にも何か、言い忘れたこととかございませんでしょ
うか﹂
﹁いや、これで全部だ、寝てるところを起こしてすまなかった﹂
さっさと寝ていたら、シャロンの手足がやけに強く何度もぶつか
ってきて、夜中に何度も眼を覚ましてしまった。
うーんまあ、誰だって機嫌が悪い日もあるよなあ。
1319
100.エピローグ
﹁よく似合ってる、可愛いよシルエット﹂
﹁ありがとうございますタケル様﹂
ウエディングドレスに身を包んだシルエット女王がクルッと回っ
て、スカートをふわりと揺らしながら、俺に晴れの装いを見せてく
れる。
ストロベリーブロンドの御髪には、宝飾に彩られた女王の証であ
る王冠が乗っている。ドレスの豪華もさることながら、シルエット
の美しさに息を呑んでしまう。
シャロンが用意してくれたウェディングドレスは、もちろん全て
純白だ。
俺がウェディングドレスはやっぱり白無垢だろうと言うと、最初
は不思議な顔をされた。
この世界では、青や、赤、緑、あるいは暗色なんてドレスもある
が、白いウエディングドレスはポピュラーなものではない。
純白の手入れが難しいのと、色付きであれば婚礼以外でも着回せ
るからだ。
しかし、ここは贅沢のしどころだろう。手に入る最上級の絹とベ
ルベットを使って、美しいドレスを仕上げてもらった。
ところで、そのシャロンはどこにいったかな。
奥の部屋で、長い時間をかけて着替えていたライル先生が出てき
た。
1320
渋るかと思ったら、きちんと着てきてくれている。先生のイメー
ジに合わせて、白に銀糸をあしらってみた。
茶色の少し伸びた髪に戴くティアラも、銀が主体だ。
﹁よく似あってますよ、先生。美しいです﹂
﹁女物を着るのは生まれて初めてなんですよ、それがまさかウエデ
ィングドレスになるとは⋮⋮﹂
先生は、感無量と言いたげに、息を呑んでしまう。
思ってもみませんでしたというのだろう、これから初めてのこと
をたくさんしてもらうのだから、今のうちに覚悟してもらいたい。
﹁勇者様、私はどうですか﹂
﹁綺麗ですよ、カロリーン﹂
いつもは青いドレスのカロリーン公女も、今日ばかりは金糸で彩
られた純白のドレスに身をまとっている。
ブラウンの髪には、黄金のティアラが乗っている。
﹁ワシはどうじゃタケル﹂
﹁いいんだけど、その覇王色の兜はやめて、ちゃんとティアラを冠
ってくれ﹂
オラクルちゃんが、長い丈のウエディングドレスを揺らしながら、
こっちにやってきた。
最初スカートの丈が長すぎるのではないかと思ったが、プカプカ
と浮かぶのを計算に入れたデザインだったのだ。
なかなか面白いが、さすがにド派手な兜は場違いするぎるので、
金のティアラに変えてもらった。
1321
よし、全員揃ったな。
﹁私はどうですか、ご主人様﹂
﹁うん、よく似あって⋮⋮﹂
シャロンが、淡いオレンジ色の髪に白いベールを被ってウエディ
ングドレス姿でやってきた。
自分の分も作ったのか。今にも泣き出しそうに、琥珀色の瞳が潤
んでいる。
﹁ご主人様、私と結婚して下さい!﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
何と言ったらいいか、俺の人生に女性からプロポーズさせること
があるとは思わなかった。
布が余ってたから、作って着てみたとかではないのな。
﹁あの、それってイエスと解釈していいんでしょうか﹂
俺は、緊張の面持ちのシャロンを抱くと、首から奴隷の首輪を外
してすっと引きぬいた。
﹁これはもういらんだろう、これからはもう奴隷じゃなくて俺の妻
だ﹂
﹁ご主人様⋮⋮﹂
シャロンの琥珀色の瞳に、みるみるうちに涙が溢れて、ポロポロ
と涙をこぼした。
力が抜けたのか、崩れそうな身体を強く抱いてやる。
1322
﹁しかし、いつからだ。シャロンは、いつから俺と結婚しようと思
ってたんだ?﹂
そりゃ、好意を向けられていることは薄々とわかってたが、ここ
まで思い切られるとは思っても見なかった。
シャロンの涙を、タキシードの胸ポケットからハンカチを取って、
拭いてやる。
﹁最初からです﹂
﹁うん、最初か⋮⋮。それって、いつの最初だ﹂
﹁最初に、私がご主人様に出会った時です。ゴブリンのショートソ
ードに突き刺されて、もう苦しいし、辛いし、生きてても良いこと
一つもないし、死にたいって思ってたときに、回復ポーションを喉
に流し込まれて助けてもらったときです﹂
﹁本当に最初じゃないか﹂
どんだけ初期だよ!
俺は、好意を持ったときじゃなくて、いつ俺にプロポーズしよう
と考えてたのか聞いたつもりだったんだが。
﹁ご主人様に、なんで助けてくれるんですかって聞いたら、優しい
瞳で﹃助けられるから﹄って言ってくれて⋮⋮。私はああ、この人
と一緒に生きていたいと思いました。ご主人様が、私のご主人様に
成られたときに、これは運命だからもう絶対に離さないと⋮⋮﹂
﹁そうか、あれシャロンだったか﹂
そんなに細かく覚えてないんだけど、ちょっと怖いぐらいだ。
誰かが適当にしたり、言ったりしたことが、人によってはターニ
ングポイントになったりするもんなんだな。
1323
﹁ごめんなさい。奴隷なのに、勝手にこんなことをしてしまって﹂
﹁いや、もう奴隷じゃないから、シャロンの好きにしてくれていい
んだよ﹂
﹁でも、旦那様でもご主人様って言いますよね。だから、これから
もご主人様で!﹂
﹁うん、じゃあまあ、それはそれでいい﹂
俺は、白いベールの中でぴょこぴょこ飛び回っている犬耳が気に
なって仕方がない。
さっきまでおいおい泣いていたシャロンは、これ以上ないという
ほど、ホへっと蕩けた表情をしている。
うん、シャロンってこんなに可愛かったんだなと改めて思った。
これから結婚式でなければ、いますぐキスしてやりたいぐらいだ。
ウエディングドレスは、人をより美しく見せるのかもしれない。
﹁さて、じゃあ花嫁も揃ったし、結婚式に行くか!﹂
俺はすべての準備が終わったのを確認すると、王城の控え室の扉
を開けた。これからぐるっと花が撒かれて赤いビロードを敷かれた、
王都の大通りを通って、大聖堂で挙式の予定だ。
扉をあけて、城の大広間に出た俺は絶句した。
もう一度閉めようかと思ったが、閉めても現実は変わらない。な
んとか気を取り直すと、叫ぶ。
﹁シャロン!﹂
﹁はい、えっとこれはですね﹂
1324
うちの商会の奴隷少女が全員、ウエディングドレスを着て待って
いた。
どんだけドレスを用意したんだよ⋮⋮。
﹁冗談だよなシャロン、布が余ったから着せてみただけだよな﹂
﹁えっと、はいそうです。布が余ったんで、みんなにも平等に着せ
てあげたいなーと、可愛らしいですよね!﹂
シェリーが、シャロンのドレスの裾を引っ張って﹁話が違います、
お姉さまだけずるい!﹂とかなんとか、ゴニョゴニョ言ってるが、
スルーしておくことにした。
これで花嫁五人だし、もう俺のキャパシティはいっぱいいっぱい
だよ。
﹁さあ、気を取り直して教会に向かおう!﹂
シルエット女王と俺を先頭に、鮮やかな純白の花嫁たちを引き連
れて、俺はお祭りムード一色に染まった街を練り歩いた。
凱旋式のときもここまでの盛り上がりにはなってなかったぞ。
﹁タケル殿、混乱する帝国から人や物が流れてきて、徐々に人口が
増えているんですよ﹂
﹁そうなんですか、先生﹂
復興の途上にあるロレーン地方も、戦勝に沸く王都も、新しい人
を受け入れる余地はいくらでもある。
幸せそうに浮かれ騒ぐ民衆の歓声に手を振って応えながら、これ
からシレジエ王国は長い冬の時代を終えて、豊かになっていくに違
いないと確信した。
1325
高い尖塔とステンドガラスに彩られた豪奢な大聖堂に到着すると、
王国の貴族や騎士、官僚、宗教関係者、外国の要人などの参列者が
見守る壇上に、ウエディングドレスを着て佇んでいるリアがいて、
ズッコケそうになった。
俺の顔を見ると手を振って、ボインボイン胸を揺らしながら走っ
てくる。こっち来んな!
﹁ようこそいらっしゃいました、ヒロインは満を持して最後に現れ
るものだとアーサマがおっしゃっております!﹂
﹁おい、宗教関係者も来てるんだろ。破戒の現場だぞ、こいつを異
端審問にかけろよ!﹂
リアを無視して、いつも﹃魔素の瘴穴﹄の防衛に従事している、
ローザ司教にこれどうなってんのって指差す。
純白に青地の入ったシスターの服に身を包んだローザ司教は、そ
の場に跪くと﹁アーサマの御心のままに﹂と祈った。
便利な言葉だな、おい。完全放任かよ。
くっそ、リアめ。国の重鎮どころか、外国の要人まで来てる結婚
式で、最後までやらかしてくれたな。
﹁リア、洒落にならんぞ。お前は司式司祭なんだろ。そんな格好し
て出てきて、結婚式どうするつもりなんだよ﹂
﹁もちろん私がアーサマの代理人として、全部やりますよ。その際
には、是非わたくしも一緒に結婚するって言ったじゃありませんか﹂
前に、ライル先生と結婚オーケーなのかって確認したときに、言
ってたなあ。
先生は実際の性別はともかくとして、教会の教区簿冊には男性と
1326
なっているんだ。そこら辺、融通を利かせてくれるって話だったん
だが。
﹁あれ、冗談じゃなかったのか⋮⋮﹂
﹁あら、アーサマ教会に冗談という文字はありません、是非もなく
ガチンコ勝負です﹂
俺は、甘く見ていた。
アーサマ教会の融通力とやらを⋮⋮。
﹁是非もないですよねえ、よく考えてみてください。タケルは魔族
とまで結婚しようとしてるんですよね、こっちの条件も飲まなきゃ
いけないんじゃないんですかね、魚心あれば下心とアーサマもおっ
しゃってます﹂
﹁水心だろ! はぁ、リアはそこまでして俺と結婚したいのか﹂
﹁はい、ラストシーンで勇者とお付きのシスターが結ばれるのは、
これはもう是非もない運命と言えます﹂
﹁いや、そういう話じゃないんだが。だいたいシスターって結婚し
たらまずいだろう﹂
﹁戒律的にはそうだったんですが、困難の果てに結ばれた勇者とシ
スターのカップルがあってから、是非もなく例外的にオッケーにな
ってるんですよね﹂
﹁お前んとこの戒律、ガバガバだな﹂
﹁いえいえそれが、大変だったんですよ。そのサイドストーリーを
話せば長くなりますが、もう薄い本五冊分ぐらいのすったもんだの
結果に、ようやく是非もなく結婚が認められた次第でして﹂
﹁薄い本を単位にするな、もういいわ﹂
1327
もう諦めた、リアと話してると、結婚式が終わらない。結婚すれ
ばいいんだろ、結婚すれば。
もう根負けだ。
﹁タケル﹂
﹁なんだよ﹂
リアはスッと息を吸うと、胸に手を当てて言った。
﹁わたくしは、貴方を愛しております﹂
﹁いまさらだな、俺だってお前を愛してるよ!﹂
もうまともな、結婚式は望めまい。
俺は花嫁たちを引き連れて、壇上に上がると創聖女神アーサマを
象った大きなステンドグラスからまばゆい光が差し込む、大聖堂の
天井に向かって叫んだ。
﹁アーサマ、俺はシルエットと、カロリーンと、ライルと、オラク
ルと、シャロンと、そしてついでにステリアーナを妻とすることを
誓う!﹂
重婚しすぎで、不謹慎な気がしてしかたがないんだが、でも死ぬ
までの愛を誓う。
どうか見守っていてくれ。
﹁慈悲深きアーサマが、是非もないからオッケーとおっしゃってま
す﹂
リアが、そう言った。
1328
天井から降り注ぐ、暖かい白銀の光がアーサマの返答なのかな。
﹁では、皆さんお待ちかね、誓いの接吻に移りましょう。もはや是
非もなしです、いろいろ段階を飛ばしてそれでハッピーエンドです﹂
俺に口づけをかまそうとしてくるリアを押しのけて、俺はシルエ
ットの細い肩を抱くと接吻をかわした。
いつぞやよりは、俺も上手くキスできるようになった。
﹁タケル様、妾は永遠の愛を誓います﹂
﹁俺もですよ﹂
今度は、カロリーンだ。
彼女の肩を抱くと、少し震えていた。
いまさら﹁健やかなるときも、病めるときも﹂とか、定番の文句
を唱えているリアの声を聞きながら、俺は静かにカロリーンの肩の
震えがおさまるのを待つ。
﹁カロリーン、いいですか﹂
﹁はい、どうぞもらってください﹂
そっと、壊れ物を扱うようにカロリーンのバラのような唇に優し
くキスをした。
柔らかい唇だった。
俺は、端っこのほうに居るライル先生のところまでいくと、嫋や
かな身体を強く抱きしめて、薄紅色の唇を吸った。
もうさんざん、予行練習はやってるしね。
1329
﹁おや、先生は愛を誓ってくれないんですか﹂
﹁ふうっ、ここまできては致し方なしですね。もちろん生涯の愛を
誓います、私たちは運命共同体です﹂
先生らしい言い方だなと苦笑する。
硬さが残るなら、それをこれからゆっくりと崩していくのも楽し
みだ。
俺は次に、ステンドグラスを珍しそうに見上げているオラクルち
ゃんのところまでいく。
彼女は純正の古代魔族なのだ。教会に入るなんて、三百年生きて
いても初めての経験なのだろう。
﹁何を考えていたんだオラクル﹂
﹁うん、あのガラスはなかなか綺麗じゃから、ダンジョンの飾り付
けにつかえないかなとおもっての﹂
ダンジョンの奥のほうに入って、ステンドガラスが嵌めこんであ
るボスの部屋とかあったらビックリする。
相変わらずだなと、俺は苦笑してオラクルに接吻する。
オラクルは、味わうように舌まで入ってきたが、気にしない。
もうそんなことを気にするような間柄でもない。オラクルはなん
というか、俺の初めての相手だしな。
俺が余韻に浸っていると、シャロンが向こうからやってきた。
﹁誓います! 誓います!﹂
﹁はいはい、俺もシャロンを愛してるよ﹂
1330
俺は抱きしめて、そのままキスをしてやった。
自分から、シャロンに接吻をするとか、初めてだな。
どこかで、小さかった頃のシャロンの記憶が残っていて、それが
どこか彼女の好意に応える障害になっていたんだと、今になってみ
ると思う。
俺の目の前にいるのは、魅力的なみんなのお姉さんだ。犬耳や小
さなしっぽが生えているのは、愛嬌というものだろう。
シャロンは感極まったのか、また泣きだしてしまった。
いつもは気丈なのに、今日はとても泣き虫だ。まるで、今日だけ
子供に戻ってしまったみたいに。
俺はそんなシャロンを可愛らしく思って、泣き止むまで抱きしめ
て、瞳に浮かぶ涙をぬぐってやった。
こんなに可愛いシャロンは、初めてかもしれない。
﹁よし、滞りなく結婚式を終えたな、いい最終回だった!﹂
俺は、輝ける宝石のような美しい﹃俺の嫁﹄たちを眺めると、人
生最良の日に感謝した。
今なら、アーサマにもこの世界にも、素直にありがとうと言える
だろう。
﹁ちょ、ちょっと待ってください!﹂
﹁ん?﹂
なんだリア、いい加減に長いし、もうエンドロールが流れる頃だ
ぞ。
世にも奇妙な俺達の結婚式を見守っていた観客たちも、さすがは
1331
要人だけあってみんな空気を読んで﹃女王陛下バンザイ! 王勇者
バンザイ!﹄の声を上げているところだ。
﹁タケルは、なんでわたくしにだけ意地悪をするんですか、小学生
が好きな子にだけ意地悪するみたいな是非もない感じなんですね。
そう解釈しますよ!﹂
﹁お前の普段の行動を振り返ってみろよ、報いが来てるだけだろ⋮
⋮﹂
﹁いいんですよ。タケルが意地悪して、こうやって粘れば粘るほど、
わたくしがキャラ立ちしてどんどん登場シーンが増えていくんです
からね﹂
﹁お前、最後の最後に、何を口走ってるんだよ﹂
リアルファンタジー
コイツだけは、本当にどうしようもないんだよな。
酷幻想は、リアを黙らせないと終わらないようにできているんだ。
俺は、なおもしゃべり続けようとするリアの少しウエーブにかか
った淡い金髪に優しく指を絡めて、抱き寄せると唇で黙らせてやっ
た。
最初は、ふんふん何か言いたげに身をよじっていたリアも、艶や
かな唇が自然と開いて舌が絡めあう頃には、大人しくされるがまま
になっていた。
思えばリアにはずっとやられてばっかりだったので、ついにやり
返してやったと思うと気分がよかった。
俺も、女を黙らせるたった一つの冴えたやり方をようやく覚えた
のだ。
リアルファンタジー
こうして俺は酷幻想での長い冒険の果てに、六人の個性的な妻を
1332
娶ることとなった。
この美しい人生最高の瞬間に﹁時よ止まれ﹂と叫んでも、この物
語は終わらない。
リアルファンタジー
だってこれは、俺の現実の物語なのだから。
1333
101.人物紹介︵第一部終了時点︶︵前書き︶
※ 追加分です。これ以前は80話を参考にしてください。
1334
101.人物紹介︵第一部終了時点︶
オナ村自警団 砲手 ジーニー・ラスト 二十三歳
くすんだ赤髪の村娘にしか見えないが、義勇兵団でもトップクラ
スのベテラン砲手。オナ村自警団で、ライル先生と共に最初に砲撃
術を研鑽した一人。
貧しい酪農家の末子で、実直で口数が少ない。
喋り方をよく知らないので、ぶっきらぼうだと言われる事が多い
が、根は優しい女性で本当は人当たりもよい。
凝り性で、好きなことになると熱中する。
上級魔術師殺害のアシストに成功した功績で、のちに砲兵長にま
で出世する。
上級魔術師 ﹃灼ける鉄﹄のドリュッケン・グンデ
アイアン・ミーティア
岩石落としの改良版、隕鉄落としを使う。
クラッグプレス
魔術師でありながらフルプレートに武装した巨体。
土の上級魔法
はじょうつち
メテオ・ストライクには一歩劣るが、的確に街を囲むの石壁を撃
ち抜けるその攻撃は攻城戦に特化しており、歩く破城槌と呼ばれて
いる。
実際のところの威力は、破城槌どころの騒ぎではない、まさに中
世ファンタジー世界における攻城砲であった。
宮廷魔術師のイェニーを除くと、帝国本国に残った最後の上級魔
術師であり、当然のごとくライル先生の策謀により殺された。
1335
﹃万能の﹄フォルカス・ドモス・ディラン 二十五歳 侯爵家子息
帝国中央軍主将、シレジエ会戦では皇太子親征のため首席幕僚も
務めた。
冷徹で卓越した采配は、万能の名にふさわしい。
一軍の将として高い指揮能力を持ちながら、自身も中級魔術師で
あり、交渉力も個人的な戦闘力もあるというわりとチートに近い人。
おまけに、亜麻色の髪をした美形でもあり、帝都の女官たちも、フ
ォルカスが通るたびにキャーキャー黄色い声援を送っている。
そんな彼がチートになりきれないのは、なんでも出来ることが、
逆に特化を妨げて器用貧乏になっているからであろう。
その全方面で高い能力は、十分に鋭利な刃と言えるが、生まれつ
いての帝国貴族であり高級軍人でもある彼は、敗北を知らず、苦渋
の味を知らず、磨かれていない珠なのだ。
アンノル・ブラン
表面を磨きあげた白甲冑を着ている。
エストック
しゃべりながらこっそり魔法を詠唱する裏ワザを会得している。
刺突剣の使い手であり、その剣は﹁キラー・ビー﹂の隠し名を持
ち、麻痺の魔法が掛かっている。
ラストア人の将軍、ライ・ラカン 四十三歳
北東の果て、三大領邦王国の一つラストアから、五千人の混成大
クラン
隊を率いてやってきた将軍。
カバリン
ラストア氏族の族長の一族であり、頑強な戦闘力と堅実な指揮能
力を持つ。 ライ将軍は、鍔のある鉄の兜をかぶり、チェイン・メ
イルの上にラメラー式の胸甲をつけているが、ラストア騎士の標準
的な装備である。
辺境の地では槍よりも使い勝手がいいのか、大振りの蛮刀を好ん
で使う。
1336
オナ村自警団長 義勇兵団一番隊長 マルス・オナ 二十歳。
オナ村の村長のドラ息子。声がでかいだけのお調子者。
チンピラ風の茶髪の兄ちゃんで、銃を持たせても槍を持たせても
全然使えないが、人の言うことを何でも聞き入れる素直な耳と、ど
んな混戦になっても味方全体に通るテノール歌手のごとき大きな声
を持っている。
まさにその点だけで、将の器と言える兄ちゃんである。村長の息
子ということもあり、ベテラン揃いとなっている元オナ村自警団も
何となくマルスの言うことでまとまるので、自然と義勇兵団の将に
押し立てられている。
義勇兵団、隊長にしたくない人ランキング堂々の一位になってい
るが、逆に人気者といえるかもしれない。
どうしようもなく低能だが、明るくて屈託のない彼の性格は、な
んでも言えるし、遠慮なく罵倒できる上司として好まれているのだ。
オルトレットの騎士 オラクル領 騎士隊副長 ドロス・トコー
ド 二十八歳
オルトレットが、一介の貧乏武家であった頃から付き従っている
黒髪の女性騎士。
騎士見習いの頃から、当時は第四兵団長だったオルトレットの薫
陶を受けており、その忠誠心は強い。
現在は、オラクル領騎士隊の副長を務めており、子爵の居ない間
は領軍の指揮を取ることが多い。
腕は確かだが頭の硬い古風な騎士であり、農民出身の義勇兵と共
同戦線を張るのが大変なようだ。
ガラン傭兵団 幕僚 ノコン・ギク 三十歳
1337
盗賊としては珍しい、迷宮探索の専門家。それだけの技能を持っ
ているレベルの高い冒険者である。
小兵ではあるが、器用な手先を生かして短弓や隠し武器の投げナ
イフで戦闘力も申し分ない。
どこへ行っても出世できるだけの器量の持ち主だが、本人は流れ
者が合っているらしく一所に居付かない。
傭兵団にふらりと参加して、傭兵の長としては珍しく生真面目な
気質のガランを面白いと感じ、接近して団の仕事を手伝うようにな
る。
飛竜騎士団長、ロスバッハー・フォン・ライフェンツベル 三十
二歳
世界最強の名を欲しいままにした、ゲルマニア帝国の秘密兵器、
飛竜騎士団。
飛竜騎士こそが、ゲルマニア帝国の権力の源泉であることをよく
自覚している将。
戦うときは果断だが、なによりも戦力を減じないことを考えて冷
静に動いている。
飛竜騎士が動く時こそ、帝国が勝利するときであり。
飛竜騎士が敗北するときこそ、帝国の滅びであると考えているか
らだ。
そしてロスバッハーのその認識は正しい。
義勇兵団二番隊隊長 アラン・モルタル 二十四歳
モルタル村出身の若者。村長の息子である。
もともと人を焚き付けて動かす扇動の才能があったのか、モルタ
ル村や付近の村に呼びかけ貧農の若者を巻き込んで三百人の義勇兵
1338
を率いて参加。
その功績で、そのまま二番隊の隊長となる。それなりに整った容
姿でやたらと弁が立つので、義勇兵団の広報部長としても活躍して
いる。
上に取り入るのがうまく、下への当たりも優しい。王軍との共同
作戦もアランが一番上手くやれていた。
義勇兵団、隊長にしたい人ランキング一位の優男である。
ただ、無類のおしゃべり好きで、必要のないことまで語る悪癖が
ある。やたら口が軽いのが彼の欠点で、重要なことは相談してはい
けないと言われている。
王都の兵士長 ギル・ヘロン 五十歳
真面目なおっさん。古くから、シレジエ王都の兵士長として三百
人を統括して防衛の任にあたってきた。
目立たない、逆らわない、関わらないを人生のモットーにしてい
るために。
王都が﹃魔素の瘴穴﹄でボロボロになった腐敗時代も、ゲイルの
クーデター後の粛清時代も、巧みに生き残って、兵士長の任を全う
している。
近衛騎士団長 ゲルマニア随一の猛将 バルバロッサ・フォン・
バーラント 三十五歳
赤ひげの猛将、身の丈二メートルの巨大な体躯で、赤馬に乗り巨
大な処刑斧を振り回すその姿は、敵兵を恐怖に陥れる。
近衛騎士団を率いて先陣を駆けること九回、その間に百の敵将の
グレイブ
首を切ったと言われるゲルマニア一の猛将。
三メートルにも及ぶ巨大な処刑斧を軽々と振り回しており、敵兵
を五、六人は一気に屠ることができる。
1339
その猛々しい叫び声を聞くと、敵兵は震え上がって、戦意を喪失
する。
ただ﹃猛将﹄とのみ尊称されるにふさわしい存在である。
小細工はしない、罠があれば力を倍化して突き破る。ゲルマニア
で最も猛々しい将軍であり、それ以上でも、それ以下でもない。
ルイーズと互角に渡り合えるだけの腕力を持っている、つまりバ
ルバロッサも化物を超えた化物である。
トラキアの将軍 盲目の英雄 ダ・ジェシュカ 五十七歳
スケイルメイル
両目を隠す黒い眼帯をはめている異相の老将軍。骨鎧という、軽
くて丈夫な鎧を着ている。骨と聞いて侮る無かれ、ダ将軍が着てい
るのは、竜骨で出来た貴重な鎧だ。
厳しい環境のトラキアでは、生き残るために実用第一の気風が強
い。
戦車戦術という、馬車を盾に使いクロスボウで敵を倒す、新しい
戦法の考案者。
大戦で失明するまでトラキアを守りぬいた民族的英雄でもあり、
盲目となった現在も杖をついて戦場を歩きまわり、トラキアの最も
有名な将軍として采配を振るっている。
ガルトラントの将軍 黄将 サンドル・ネフスキー 四十八歳
黒い髪に黒い瞳、日に焼けた肌。中肉中背で他の騎士と比べても
風貌に目立つところはないが、静かな物腰にも将としての迫力があ
り、その視界に入るだけで他を威圧する不思議な眼力がある。黄色
い布を巻いているためか、黄将サンドルと呼ばれている。
黒毛の駿馬に乗り、騎乗しながら大弓を射ることが得意な賢将。
将軍としての実戦経験も豊富で、脂が乗りきっている。
将軍もそうだが、ガルトランドの騎士はフルプレート装備で、ゲ
1340
ルマニア帝国騎士とほとんど変わらない。
ただ、帝国との識別のために黄色い布を巻いており、そのため黄
布騎士と呼ばれている。
サンドル将軍は、帝国に破れて服属したものの、攻めるに果敢で、
守るに堅実な変幻自在の戦術は帝国軍を大いに苦しめた。
領邦王国軍を率いて帝国のために戦い続けている現在も、帝国に
服属していないガルトランド王国の騎士を密かに匿い、盛んに秘密
外交を行なって、ガルトランド王国独立のタイミングを狙っている
策謀多きの愛国者でもある。
シレジエ王国騎士団長 マリナ・ホース 二十三歳
﹃転がる石﹄のマリナ。ロックンロールな二つ名を付けられたマ
リナは、かつてルイーズの率いる騎士隊の副隊長だった女騎士。
栗毛色の髪と眼を持つ。小柄で石と呼ばれるほどに寡黙で、およ
そ近衛騎士団長に向いている人物ではない。彼女ができることは、
ホース
騎兵を操り、自らの想いのままに駆け巡らせることだけ。
馬という家名は、伊達ではない。彼女は、人を操るのにはあまり
向いてないが、馬を操ることにかけて右に出るものはいない。
たった五百人にまで減少した近衛騎士団を、短期間で騎士的な驕
りを削りとり、指揮されたとおりに動く軽騎兵へ編成しなおした。
重装を好む騎士には珍しく、普段から軽装であり、軽弓と投槍と
切欠きのある盾で戦う。︵切欠きの盾は、弓から守りながら覗くた
め︶。武器を全部使い終わったあとは、刺突剣を使うが一撃離脱戦
法を信条としているので、たいていはその前に引く。
ピピン・ナント・ブルグンド侯爵 四十五歳
1341
フランスパンの先っぽのようなあごに、さらに黒いあご髭を伸ば
した異相の男。
建国王レンスの重臣の血筋であるブルグント家の当主で、地方貴
族の代表の一人。無能揃いの名門貴族の中では、かなり優秀な人材
である。
軍を指揮をさせてもそれなりにできるし、知能が高く策謀好きで、
内政面でも有能さを発揮している。
ただ彼の問題点は、その能力を王国のためではなく、自分の権力
維持のためにしか使わないということか。
シレジエ王家に対して独立心の強い南方の大貴族は、かつて建国
王レンスの重臣であった、ブルグンド家とアキテーヌ家の二大侯国
が中心となっている。
南部貴族連合の本来の代表は、王家の分家としてブリューニュが
居たブラン家だったのだが、すでに名目だけで力はない。実権は、
ブルグンド家のピピン侯爵とアキテーヌ家のアジェネ伯爵夫人が握
っている。
ちなみに、ピピン侯爵がアジェネ夫人と不倫関係にあるのは公然
の秘密となっている。
ゲルマニア皇帝 コンラッド・ゲルマニア・ゲルマニクス
弱い七十を越える老皇帝、五十年前に﹃迷霧の伏魔殿﹄を封印し
たのはこの人。﹃試練の白塔﹄の五十四階まで登り、オリハルコン
の鎧と大盾を手に入れた勇者でもある。
若いころは遠征に次ぐ遠征で、帝国の西の三王国を喰らい、帝国
の版図を広げた英雄的な皇帝であったが、年老いて精彩を欠くよう
になる。
継承問題に決着を付けることができず、兄妹を力ずくで蹴散らし
て実権を握った若獅子フリードに良いようにされて、半ば隠居の身
1342
となっている。
帝国崩壊後、クーデター軍に捕らえれて、そのまま帝城に幽閉さ
れる。
ないむきょう
バイデン・ソレル・クール ゲルマニア帝国 内務卿 四十四歳
長身痩躯で、肌の血色が悪く、白髪交じりと、風采は悪いが。
その瞳は野心にギラついており、精力的に働く財政家にして卓越
した政治家でもある。
もとは毛皮商であったが、行動力と野心に溢れたバイデンは商人
として頭角を表す。
ノルトマルク市長の娘と結婚し、持参金として莫大な財産と中央
官吏へのルートを手に入れる。
商会経営の傍ら、貨幣鋳造局の局長となり、貨幣鋳造用の貴金属
を大量に流用して巨万の富を得て、賄賂を使って会計方の要職を歴
任し、文官の出世街道を駆け上った。
長じて、ソレル伯爵号を授けられる。同じく栄達の途上にあった
フリード皇太子に近づき、内務卿の大任に任ぜられて、皇太子の新
政下で辣腕を振るい栄華を極めた。
シレジエ介入戦争に七万もの大軍を送り込めたのは、内務を取り
仕切るバイデンの手腕あってのことである。
シレジエ介入戦争の敗戦と、多額の賠償金の支払いで決済不足に
陥った帝国財政を救うため、兌換紙幣の導入に踏み切るが失敗。
それが元で帝国属領の反乱を呼び、バイデン自身もクーデター軍
に捕らえられて処刑されることとなった。
聖女 ローザ司教 年齢不詳︵若くは見える︶
1343
アーサマ教会からシレジエ王国に派遣されて、﹃魔素の瘴穴﹄に
居住して兵士と共に防衛を担当している聖女。形式上は、王都の大
聖堂の司教も兼任している。
いざというときには、開いた﹃魔素の瘴穴﹄を封印することもで
きる実力を持つ。
ちなみに、フリードが攻めてきたときに居なかったのは、王都の
街に出て治療に当たっていたためである。
アーサマの罰があたるので、ローザ司教は肝心なときにいつも居
ないとか、言ってはいけない。
︻付録︼帝国三大領邦王国の騎士設定
※ 人類世界の辺境に位置して、北方の魔族や東方蛮族との戦い
もあるため、変わった装いの騎士が多い
クラン
ラストア人騎士 小さい国にたくさんの氏族がいる連合王国。装
カバリン
備は統一されておらず、装備には蛮族の影響もみられる。動物の毛
皮を巻いている騎士までいる。周囲に鍔のある鉄の兜を冠って居る
のが唯一、統一された装備。
精鋭は、チェイン・メイルは西洋風で、その上から着るラメラー
式の胸甲は東方風。
ゲルマニア帝国の領邦王国として支配されている今も、多数の氏
族から選出された氏族王が自治統治している。
トラニア人騎士 モンスターと戦うことが多い辺境の騎士団で変
わった戦いをする。スケイルメイルという、骨鎧を着ている騎士が
多い。馬で引かせたワゴンで移動しており、その影からクロスボウ
を撃ちまくる戦車戦術という変わった戦法を取る。接近戦は、長斧
とナイフで戦う。
ダ・ジェシュカという杖をついた盲目の老将軍が率いている。
1344
ガルトラント人騎士 装備は近代化されており、ほとんどゲルマ
ニア帝国風の騎士と変わらない。ゲルマニアと見分けをつけるため
に、結び目をつけた黄色い布を上腕部に巻いている。ゲルマニア騎
士と分けて、黄布騎士とも呼ばれる。
蛮族とも取引がある黄布騎士は騎乗に長けて頑強で、ゲルマニア
騎士と違い騎槍だけでなく、状況に合わせて長槍や大弓を使う騎士
隊もいる。
黄将と呼ばれるサンドル・ネフスキー将軍が率いている。
︻さらに付録︼シレジエの大英雄 ダナバーン侯爵の軌跡
エスト伯爵︵のちに侯爵に叙せられる︶ シレジエ王国臨時政府
首班 シレジエ王国軍主将 ダナバーン・エトス・アルマーク
王国の名門貴族たるアルマーク家の歴史は古く、一説によれば祖
先は、勇者王レンスのシレジエ王国建国前から、エストの地に植民
してきた人たちの指導者であったと伝えられている。
アルマーク家当主、十八代目にあたるダナバーンは幼少の頃より
俊英で、様々な分野の家庭教師がついたが、皆が口を揃えて﹁もう
彼に教えることは何もありません﹂言ってすぐ出ていってしまうほ
どの神童であった。
それほどの才幹を持ちながら、謙虚なダナバーンは王都へと出仕
することはせず、父の死後伯爵家を継いで、領地の運営に専念する。
自らの足で領地を隅々までめぐり、領民の生活に細々と気を配る
その優しく威厳に満ち恰幅のよい姿は、領民より富裕伯と呼ばれて
慕われていたそうである。
彼は前半生においては、経済面に置いて卓越した能力を発揮して
いる。
モンスター石鹸やエスト山羊の織物など様々な商品がエストの街
1345
で生まれたのは、進取の気風に富んだダナバーンが、有望な商会を
自ら後援したためと言われている。
現在もシレジエ王国の経済を支える、老舗﹁佐渡商会﹂の本店が
エストの街に置かれているのは、ダナバーンが創業時から多大な支
援を行い、その発展を助けたことに対する勇者タケルの感謝の証な
のである。
本来の彼は、温和で社交的であり、何よりも自領の民を慈しみ、
平和を愛する男だった。
しかし、シレジエを襲った大国難は、ダナバーンがそのような平
穏な暮らしを送るのを許してはくれなかった。
王都のすぐそばの魔素溜り﹃魔素の瘴穴﹄の封印が解かれたのだ。
シレジエ王国の王都と北西部を崩壊の危機へと陥れた﹃魔素の瘴
穴﹄事件である。
一軍の将としても勇猛精進たるダナバーンは、領主としてすぐに
北部より迫りくるモンスターの大群と戦った、その活躍によりエス
ト領だけは戦火の影響もなく平和であったと伝えられるほどである。
王国の荒廃を手をこまねいて眺めているだけの王軍に対して、ダ
ナバーンは当時、一介の商人に過ぎなかった佐渡タケルの才能を見
出し、アルマーク家の騎士に任じる。
そして、国難打開のため、エスト領全域に義勇兵の募兵を行った。
魔素の瘴穴を再封印して、騎士から将軍、後にシレジエの勇者と
なり、果てはシレジエ王国中興の祖となる王将軍、佐渡タケルでは
あるが。
その救国の勇者の登場も、それを軍事、経済の両面から支えた英
傑ダナバーンの活躍なしにはあり得なかったのである。
ダナバーン将軍とエスト領の義勇兵、そして勇者タケルの活躍に
より、ようやく﹃魔素の瘴穴﹄事件が終わりを見せた矢先、騎士団
長ゲイルによる王都クーデターが発生。
1346
王都の王族・貴族は皆殺しの憂き目にあい、ついにはシレジエ王
国第十七代国王ガイウス・シレジエ・アルバートも、ゲイルによっ
て弑逆された。
この国体存続の危機に、英雄ダナバーンは再び立ち上がった。
最後に生き残った、たった一人の王位継承者シルエット王女︵の
ちに十八代女王︶を王都より救いだしたダナバーンは、自ら王国臨
時政府首班として王軍を率いて、クーデター軍に立ち向かったので
ある。
どちらにつくのが得か、迷う優柔不断な地方貴族たちに向かい﹁
我々家臣の陛下より受けた恩義は、山よりも高く、海よりも深い、
今こそ逆賊を倒し、長年の恩義に報いるときではないか!﹂と呼び
かけた名演説が、この一戦の雌雄を決めたと言われている。
シレジエ王国軍は、ダナバーンの歴史を揺るがす一声によって、
勝利したのである。
そんな活躍にも関わらず、ダナバーンは戦後の混乱を治めたのち
に政府首班を辞任、一切の地位を求めることなくエスト領へ帰った
そうだ。
王国政府は、慌ててダナバーン伯爵に侯爵号を贈り、それに見合
う地位と領土を差し出そうとしたが、王国軍に味方した騎士・貴族
が次々と地位・領土を賜るなかで、王女より与えられる名誉の称号
以外、何も受け取らなかったという。
シレジエ王国随一の忠勇の主は、まさに無欲の人であったのだ。
そして、自らの領地に戻り、またエスト領の経営と民の生活に心
を配る静かな生活に戻った。
しかし、歴史はまたしても、英雄ダナバーンに白羽の矢を立てる。
当時の大国、ゲルマニア帝国が王都シレジエ目がけて七万の大軍
を差し向けてきたのだ。
それに対して、たった一万七千あまりの王軍を率いて、ダナバー
1347
ンは主将として戦うこととなった。
後世に名高い﹁シレジエの会戦﹂である。
戦争は、大軍を率いる帝国有利の予想に反して、勇猛精進たる主
将ダナバーン・エトス・アルマークの高い指揮能力と獅子奮迅の活
躍により、王国側の優勢が続く。
そして、最後の決戦場﹁魔の山要塞攻略戦﹂において、帝国軍主
力部隊である﹁帝国近衛不死団﹂を打ち破り、帝国軍主将フォルカ
ス・ドモス・ディランを、ダナバーンは自らの手で討ち取って、こ
の未曾有の大戦に勝利した。
シレジエの国難を三度救ったダナバーンは、まさに救国の大英雄
であり、シレジエ王国の歴史上もっとも勇猛果敢な将帥であったと
され、その人なくしては王国は跡形もなく滅びたであろうとすら評
されている。
その歴史上にも稀な業績の数々は、一人の人間が行ったとしては
あまりにも現実離れしているため、批判的な後世の歴史家からは﹃
捏造に満ちた記述であり、到底信用がおけない﹄と指摘されている。
ダナバーンを評価する歴史家は、彼こそが地上に舞い落ちた一点
の輝ける星であり、シレジエが生んだ﹃回天の奇跡﹄そのものであ
ると主張している。
出典 アルマーク家の歴史書﹃アルマーク家業績録﹄および、﹃
勇者を支えた英雄たちの群像﹄﹃佐渡商会 社史﹄﹃回天の奇跡 ダナバーン・アルマーク伝﹄より一部抜粋
1348
102.﹁酷現実を生き抜く 起﹂︵前書き︶
※ この前日譚は、タケルが酷幻想に転移の直接の原因になった事
件を書いています。四話掲載の予定です。
1349
102.﹁酷現実を生き抜く 起﹂
教室の窓の外を眺めながら、ぼんやりとした時間を過ごす。
少し雲がかかってはいるが、今日もいい天気だ。
教壇では、壮年の国語教師が訳知り顔で夏目漱石について語って
いる。
書いたものを読んだぐらいで、その時の作者の心境なんて分かる
ものかよ。
と、悪態ついて見るがどうでもいい。
チラッと横目で、クラスで一番可愛い女子を見て、眼が合いそう
になると顔を伏せて本を読む。
もちろん授業の教科書じゃない、国語の教科書なんて既にもらっ
たときに一読してしまったから読んでも退屈だ。
ラノベ
まあ、まともに授業を聞いてないのは国語だけではないが。高校
に入ってから、俺はまともに学校の授業を聞いていなくて、小説ば
かり読んでいた。
ほんと、たまたま入れた中で一番偏差値が高いなんて理由で、つ
まらない高校に入ってしまったものだ。
完全にドロップアウトしている俺は、まともな高校生活なんてや
つをすでに諦めている。
一つだけ良かったことは、日がな一日こうやって本を読みつつ、
ドップリと妄想に耽っていられること。
クラウゼヴィッツの﹁戦争論﹂をナナメ読みし、頭が生硬な訳文
1350
を受け入れなくなると、ちょっとエッチなラノベを併読して疲れた
脳みそに活を入れる。
国語の授業中に、こんな戯けたことをしていても、誰も俺の邪魔
をしない。
この前に読んだ、ヘルマン・ヘッセの﹁デミアン﹂に書いてあっ
たとおりだ。
真剣になにか別のことをしていれば、教師は注意しないのだ。
もともと目立たないタイプだし、すでに落ちこぼれになっている
俺には教師も興味ないのかもしれない。
他人に興味がないのは俺も一緒だし、お互いに没干渉なら好都合
ってものだろう。
しかしこの﹁戦争論﹂は、この前読んだ﹁孫子﹂や﹁君主論﹂に
比べるとつまらない。考え方が、大事だってのは分かるんだがいま
いち頭に入ってこない。
でも、もし異世界に召喚されたときは、これも必要な知識になる
だろうからな。
﹁俺ほどのレベルの﹃普通の高校生﹄なら、いつ異世界に召喚され
ても魔剣の勇者として活躍できるだろう﹂
異世界トリップが現実に無いのは、俺だってよく知っている。ま
あ、本気で言ってるわけじゃない。
こんな知識は、実社会では何の役にも立たない。せいぜいラノベ
作家にでもなれば役立つかもしれないが、それだって異世界に行く
のと同じぐらい確率の低い可能性だろう。
しかし待てよ、トリップもいいが、転生して最初からやり直すっ
1351
てのも捨てがたいな。ここは思案のしどころだ。
どちらも捨てがたい魅力がある。
そんな俺の現実から遊離した妄想遊びは、突然の叫び声で打ち破
られる。
﹁きゃああっ!﹂
教室の後ろの扉からふらりと入ってきた、不審者が入り口近くに
居た女生徒に襲いかかった。
ガバっと抱きついた感じだ、白昼堂々と変態か?
面白くなったと思ったのもつかの間。
血しぶきが上がり、面白がってる場合ではないと気がついた。
俺と同じクラスなのに、名前も知らない女生徒の﹁きゃああっ!﹂
がすぐ﹁ぎゃああっ!﹂の断末魔に変わった。
変態男は、性的に襲ってるわけじゃなくて、首筋から血が吹き上
がるほど強く噛み付いているようだった。
いやこれは、頸動脈ごと肉を食いちぎったってことなのだろう。
首筋を何度も強く噛まれて、血が辺り一面に撒き散らされている。
女生徒が暴れまわっても、強い力で抱きつき噛み付いている不審
者は離れずに、やがてその身体は力尽きてぐったりと力を失う。
映画のワンシーンのようなド派手な暴行を前に、誰も何もできな
かった。
﹁なんだ、あんたは﹂
しばらく呆然と立っていた壮年の国語教師が、遅ればせながら不
1352
すいか
審者に誰何しつつ止めようと割って入り、そのまま次の犠牲者にな
った。
噛まれた女生徒は、自らの首から流れでた血溜まりの中に仰向け
に倒れて、動かなくなっている。
動かなくなった女生徒を眺めて、首を深く噛み千切られただけで、
人間ってあれだけの血が出るのかと思った。
あれは死んでるんだろうかと、やけに冷めた気持ちで俺は眺めて
いる。
﹁ぐああっ! おいやめろ、やめて! いだいいだぁぁい!﹂
国語教師の野太い怒号は、すぐに割れんばりの甲高い悲鳴に変わ
る。ざわつきと悲鳴と怒号のなかでなぜかハッキリと、ゴキッ、ブ
チッと関節が切れたのか骨が折れたのか、嫌な音が響いた。
続いて、グチュッと肉そのものが引きちぎられた音も、俺の耳に
は聞こえた。
教師が強い力で暴れたのを、不気味に青ざめた顔をした不審者が、
さらに強い力で抑えこんだから腕がそのまま引きちぎられたのだろ
う。
教師の叫び声はすぐに聞こえなくなった、肉が咀嚼される音だけ
が響き渡る。
頼りの教師が殺られたことで、教室のざわめきは途端に大きな怒
号と悲鳴に変わり、空気がプンときな臭くなる。
カチリと、日常が非日常に切り替わるスイッチの音が聞こえた。
ずっとこの手の妄想ばかり繰り広げて、非日常用に特化していた
俺の脳みそにアドレナリンの興奮が駆け巡り、すぐに明晰で合理的
1353
な思考を働かせる。寝ぼけたような曇りが晴れて、むしろ気分がス
ッと良くなったぐらいだ。
あの不審者の悪質な病魔に冒されているような青白い顔を見てみ
ろ、こけた頬のカサカサの皮膚なんていまにも崩れ落ちそうじゃな
いか。
男性教師を食い荒らし、辺りの喧騒には一切反応することなく、
よろりと立ち上がったまるで酔っ払ったような歩き方。
俺の鼻は、濃厚な血の匂いとともに腐った死者の持つ異臭を嗅ぎ
とっていた、こいつはゾンビだと断定していいと思う。
俺は幸運だった、たまたま窓際の席で助かった。やっぱりこの手
のデスゲームは初期配置が全てだな。そして、次に生死を分けるの
は、最初のターンの迅速な行動だ。
俺は、騒ぎの中心を迂回して、素早く教室の前の出口から、一人
でそっと脱出する。
とっさにカバンを持ってきてしまったが、これは武器にはならな
いだろうな。
廊下にはゾンビはいなかったので、下駄箱のところまで行く。
カバンを投げ捨てて、傘を手に取る。
こっちのほうが、リーチが長いだけ使い勝手がいい。
﹁しかし、つまらないなあ﹂
学校の廊下から、下駄箱まで俺が一番乗りだった。俺と肩を並べ
て逃げるような生徒は誰もいない。
映画みたいに逃げ惑う生徒たちに、揉まれたりしないんだな。
1354
耳をすませば、遠くに多くの人間がざわつく声が、振動となって
聞こえるので、他のクラスでも似たような騒ぎが起こっているのか
もしれない。
もう少し被害者が出て、パニックが拡大すれば、ここも逃げ惑う
生徒でいっぱいになるんだろう。
とっさのことで、外に飛び出すという判断までつかなかったのか
もしれない。避難誘導の放送すらまだかかっていない。
俺みたいに、授業中にテロリストやゾンビが襲ってくるとシミュ
レーションして備えていた生徒は、居なかったということなのか。
それがちょっとさみしい、お前ら本当に﹃普通の高校生﹄かよと
思う。
﹁まあいい、好都合だ﹂
パニックを起こした人の群れに阻まれては危険だ。
自分だけが安全圏まで逃げてから、呆れるなり勝ち誇るなりしよ
うと、俺は足を速めた。
ゾンビは人を噛む、噛まれた人はゾンビになって被害は拡大して
いく。
学校という人口密集地は、すぐにそのまま危険地帯と化す。
よく学園ゾンビ物で、学校に居残って籠城するなんて話があるが、
正気の沙汰とは思えない。
一分でも、一秒でも早く学校の外に出るべきなのだ。
下駄箱から外に飛び出して、学校の裏門に走ると、そこにはもう
1355
ゾンビが居た。
まるで、学校全体が囲まれて、逃げ場が塞がれている印象を受け
る。
﹁チッ、ここもかよ!﹂
見覚えのある額の上の方まで禿げた、薄毛の体育教師が、赤いジ
ャージ姿のままゾンビに噛まれていた。
おそらく、裏門でもゾンビが出て、そこをやられたのだろう。
俺は、傘を支柱にして、学校の塀の上にそのまま飛び上がる。
このまま塀を乗り越えて、外に逃げてしまえばと思ったが⋮⋮、
ここもダメ。
塀の向こう側の道にも、ゾンビが徘徊していた。
数は少ないから、突っ切れるかとも思うが、どうだろう。そう思
って辺りを見回すと。
﹁止まれ! 近づくな!﹂という男の声が響いた、思わず俺のこと
かとビクッとしてしまう。
続いて、パーン! と乾いた発砲音がした。
学校の裏門の向こう側、自転車に乗ってやってきた警察官らしい
が、目前に迫ったゾンビに向かって発砲を繰り返していた。
やけにあっけなく撃つんだな。お巡りさんは、発砲すると出世で
きなくなるから、死ぬまで絶対に撃たないなんて、創作物だけの話
なんだろうか。
もちろん、撃ち慣れていない拳銃などゾンビに通じずに、お巡り
さんはそのまま押し倒されて噛まれてしまった。
1356
ゾンビなら頭を狙えばいいのに、足なんか撃っても意味は無い。
﹁あー、このルートはダメだな﹂
さらに発砲音が響くが、あの分じゃ、どうせ弾は撃ち尽くしてし
まうだろう。
使えるかどうかもわからない拳銃目当てに、元警察官や元体育教
師の強そうなゾンビが動き出す場所に行くなど、リスクが大きすぎ
る。
これは遊びじゃないし。
﹁しかし、待てよ﹂
俺は少し考える、あの警察官。拳銃まで持ってるし、偶然通りか
かったってわけじゃないんだろう。
おそらく、学校に不審者が出たという通報で、近くの派出所から
やってきたんだろう。
ということは、近くの警察署からここまでは、ゾンビが居なかっ
たと言うことにならないか。
すると、発生源はやはり、学校周辺と考えられる。
ゾンビの発生原因も、気になるが、俺は警察でも名探偵でもない。
生き残りたいだけの高校生だ。原因究明なんかやってる暇に、こ
の危険地帯を離れるべきだ。
ゾンビの発生が学校周辺なら、その囲みさえ抜けられれば助かる
可能性が高い。
﹁ねえ、佐渡くん!﹂
﹁ん、うるせえな⋮⋮﹂
1357
人が思考してるときに、声をかけるんじゃねえ。
﹁もう、さっきから声かけてるのに!﹂
﹁あ、はい⋮⋮﹂
塀の構内側から、女の子が二人やってきていた。
学校の級長の仙谷だっけ、おっぱいの大きい長い三つ編みを揺ら
したメガネの子が話しかけてきている。
仙谷は、長い黒髪を三つ編みに結っているメガネっ子という、今
時珍しいテンプレ委員長キャラ。
其の特徴的な風貌と、制服のブラウスを攻撃的に突き上げる大き
な乳房を眺めるうちに、自然と名前を覚えたのだが、俺と会話した
ことなどなかったはず。
それなのに仙谷が、俺の苗字を覚えていたとは意外だった。苗字
だけじゃなくて、名前ぐらい覚えておいてやればよかった。
しじまかげえ
級長の仙谷の後ろに、黙って付いて来ているのは、クラスでも浮
いているちょっと変わった無口な美少女、静寂影絵。
俺がフルネームでしっかりと名前を覚えている、クラスで唯一の
女子だ。
かげえ
なぜ影絵のフルネームを覚えているかといえば、艶やかな黒髪の
小柄な女子であり︵しかも貧乳!︶少し影があって線が細い彼女は、
黙って座っているだけでも絵になる美少女で、俺の好きなラノベの
ヒロインにそっくりだったからだ。
三次元はクソという奴に、影絵を見せてやりたいと思う。三次元
もなかなかやる。
1358
けど、それだけだ。静寂影絵と話したことはないし、話をするこ
とがあるとも思っていない。
俺にとって、リアル女はみんな鑑賞物。干渉する者ではないし、
できるともおもっていない。
まして、好きだとか嫌いだとかそういう恋愛的な感情など⋮⋮。
いや、今そんなことを考えているときじゃない。
﹁佐渡くん、どっちに逃げたらいいのよ!﹂
級長の仙谷の後にも、ゾロゾロとクラスの男女がやってきてしま
った。
どうやらこいつらは、率先して動いた俺を追いかけてきたらしい。
面倒くさいことになった。
普段からぼっちの俺は、クラスに友達なんかいない、ろくに話し
たこともない。
こんな時に限って、ぼっちの俺を頼るなんて、調子が良すぎだろ。
いや待てよ。
こうなっては、ある程度の人数と行動を共にしたほうが良いか。
爆発的に校内で増えているであろう、ゾンビに襲われるリスクが
時間と共に高まってきている、うまく誘導すれば肉壁に使える。
﹁仙谷さん、裏門や塀の向こう側は、ゾンビがいるからダメだよ﹂
﹁じゃあ、どっちに逃げたらいいの﹂
巨乳の仙谷は、イライラとした甲高い声でで大きな胸をユッサユ
1359
ッサ揺らしながら、尋ねてくる。
安全な逃げ道なんて、俺が知るかよと自分で考えろ思ったが、さ
っきの警官のことを思い出した。
通報先は、おそらく職員室からじゃないか。
だったら職員室の機能は、まだ生きている可能性は高い。あそこ
には脱出用に使えるアイテムがある。
﹁職員室に向かおう!﹂
1360
102.﹁酷現実を生き抜く 起﹂︵後書き︶
1361
103.﹁酷現実を生き抜く 承﹂
そうだ職員室だ。
こんなときだから、先生を頼りにしようってわけじゃないけど。
車を持っている大人がいるのではないかと考えたのだ。安全な脱
出といえば、車がベスト。
もし大人がいなくても、職員室には公用車の鍵ぐらいはあるはず
だ。
オートマなら、免許がなくても運転ぐらいできるはず、そのため
のシミュレーションはレースゲームで散々やってきた。
下駄箱の出口辺りにも、そろそろ逃げてくる人が溢れてきて。
やはり予想通り、ゾンビも追いかけて出てきた。完全にパニック
になってる、デス・ゲームの鬼ごっこだ。
職員室に向かう俺に、同行するクラスメイトが付いてくる。
視覚か、聴覚か、ゾンビが何を目がけて人を襲うか分からないが、
人の流れの前で走るようにすれば、自然と人垣が防波堤になってく
れる。
名前も知らないクラスメイトが噛まれたとか叫んでるが、知った
ことじゃない。
噛まれた生徒を助けようとする奴も、そのまま死ぬだろう。
そう思ったら、掃除用のモップで上手くゾンビを叩き落として、
噛まれた生徒を救いだした奴が居た。
1362
俺よりも身長が二十センチは高い大男で、立派な体格をしている。
﹁佐々木くん!﹂
仙谷が、オッパイを揺らしながら感激した声で叫んだ。
なるほど、佐々木だったな、思い出した。サッカー部だっけ、ク
ラスでも活発なグループで一番目立ってるやつだ。
﹁オラアアァァ!﹂
動きはトロいが、腕力はものすごいゾンビ相手に、佐々木はスパ
イクシューズを思いっきり投げつけて牽制すると、モップを何度も
振り下ろして頭部を破壊して潰しやがったのだ。
確かに凄いとは言えるが、ゾンビの体液に触れるのは危険だし、
噛まれた生徒はもうダメだろう、無駄な活躍だ。
﹁死ねえぇ!﹂
ゾンビをやっつけて、ドヤーって顔をしてみせる佐々木。
ハイハイ、スゴイスゴイ。
佐々木の眼が攻撃的にギラついている。どうせ、仙谷とか静寂と
か、可愛い女生徒に良いところを見せたいだけなんだろう。
まあ、どうでもいい。戦いたい奴は戦っていればいいさ。
﹁木島、しっかりしろ木島ぁぁ!﹂
どうやら、佐々木が助けた女子生徒はやはり、そのまま死んだら
しく、佐々木と仙谷が愁嘆場をやっているがどうでもいい。
木島って特に目立つところもない女子は、俺と一言二言ぐらいは
1363
言葉を交わしたことがあって、基本的にウザイ女子高生にしては珍
しく、悪印象はなかったが死んでしまったものはしょうがないでは
ないか。
俺は、悲劇シーンをやってる連中に絡むことを避けて、そのまま
職員室にまっすぐ逃げる。
だいたいお前ら、木島って地味な女子とそんなに仲良かったわけ
じゃないだろ、その場の空気に流されて、たった一人の死で喚いて
るんじゃないよ。
今校舎のなかでどれだけの生徒が同じように死んでると思ってる
んだろう、その一人ひとりに同じように悲しむことなんてできない
くせに。
いや、あいつらにはそれが見えてもいないんだろうな。
﹁⋮⋮視野が狭いから!﹂
うちの高校のサッカー部がどれほどのものか知らないが、目の前
のことにしか対応できていない佐々木は選手として優秀ではないだ
ろうと思う。
どんだけフィジカルが強くても、俯瞰した視野が持てない選手は
三流だ。
さらに行くと、野球部らしいバットを振り回している坊主頭がや
っぱりゾンビに囲まれて噛まれていたが、こいつも三流。
無駄に戦うより、今は逃げの一手だろ。
暴れれば、それだけゾンビを惹きつけることになる。
それに運動部出身のガタイがデカイ奴は、ゾンビになると手強く
なるんだよな、せめて邪魔にならないように、確実に喰われて死ん
1364
でくれるのを願いながら、脇を駆け抜けて、なんとか職員室にたど
り着いた。
しかしこのゾンビの異常な増え方。教室の中から行ったら逃げ場
所が少なくて詰んでたな。
いまのところ、俺は正しいルートをたどっている。
そういう確信を深めながら、外側の扉から職員室に入ると、中は
まだ安全圏だった。
正直なところホッとする。
震えてしゃがみこんでいる最寄りの女教師に、俺たちは詰め寄る。
白いブラウスに、黒いタイトスカートの若い女教師。しゃがんで
るせいで、今にもパンツが見えそうになっている、というかちょっ
とだけ見えた。
よかった。いや、垣間見える女教師のパンツの柄が白だったから
よかったわけではなくて、知ってる先生だったからだ。
若い新任の女教師で、おっぱいも頭も柔らかそうな女だ。
新任教師の癖に、いやだからまだ熱血が入っているのだろうか。
目立たない生徒をやっている俺に、妙に構ってきてウザかった覚え
がある。
一年に数学を教えている教師で、成績の悪い俺に何度も補習を仕
掛けて、課題を出しまくってきたのだ。
どうせ数学なんて使わないところを受験するから要らないって言
ってやったのに、まったくこっちの話を聞いてくれなかったので、
しかたなく課題に付き合った覚えがある。
おかげで数学の成績はマシになったけど、どうして一人の生徒に
1365
そこまでするのか分からなくて不気味だった。
俺のことばっかり追いかけるので、好きなんじゃないかと思った
ぐらいだ。
教育熱心な先生には申し訳ないが、実は好かれていたってシチュ
エーションで何回か自慰のオカズにした、男子はそういうもんなん
だよすまん。
どうせ俺はモテるタイプじゃないし、若い女教師に好かれるとか、
そういうのはあり得ないとは本当は分かってるが、まあ俺も若いか
ら仕方ないんだ。
罪のない誤解ぐらいさせておいてくれ。
俺はコミュ障までは行かないが、歳の近い女と話すのは苦手なの
で、その時は困りもしたが、話したことがある繋がりがここで役に
立つ。
確か苗字は、水城だったか。
俺は水城先生の肩を揺さぶると、腹の底に力を込めて叫んだ。
俺が、若い女にこんなに強引に声をかけられるのは、緊急事態だ
からだろう。
﹁水城先生、運転できますか? 車を出すべきです﹂
﹁ふぇ、佐渡くん⋮⋮。でも先生は、ここで待機しないといけない
の﹂
おそらく、学校の防災マニュアルではそうなってるんだろう。
こういうとき、大人という愚鈍な生き物は自分が死にそうになっ
ていても、まだルールを順守しようとする。
1366
それを﹁自分だけは死なないと思ってるんじゃないか﹂なんて詰
ったりはしない。
俺はそんな純粋な子供じゃないから、もちろん分かってるさ。水
城先生だって死ぬときは死ぬと思ってるだろう、それでも動けない
のだ。
みやづかえ
公務員は、大変なのだろうと思う。危険だと思っても逃げられな
い、公務に命まで捧げなくてはならないのだ。まったく子供のほう
が楽で、大人にはなりたくないものだと思う。
まあ今は、その頭の硬い大人の力が頼りな局面だ。
﹁一刻を争うんです、お願いです先生。車で早く学校から離れない
とここに居るみんなが死にますよ﹂
﹁わかったわ⋮⋮﹂
この女教師も、本当は逃げ出したかったのだろう、すぐに同意し
た。
地味で気弱な生徒に見える俺が、先生にすがって逃げ出す理由を
与えてやったのだ。
もちろん車なら、安全な場所に逃げられるなんて根拠はまるでな
い。
しかし、少しでも生存確率の高いルートを選ぶのに、躊躇してい
られる状況ではない。
﹁みんな来て、マイクロバスを出すわ﹂
﹁先生、大型免許持ってたんですね﹂
自信ありげに頷いてみせる、若い女教師なのに大型持ちとは頼も
しい。
1367
しかし、この学校には、バスなんてあったんだな。俺としたこと
が盲点だった、テロリストとの戦いに使える設定なのに。
そんなアホな妄想を続行できるのは、駐車場の方面に、まだゾン
ビが少なかったからだ。
車で逃げ出そうとしている背広の大人も居る、この学校は結構デ
カいので教師か、学校の出入り業者かなんて、わかったもんじゃな
いが。
﹁うひゃひゃひゃ!﹂
どっから持ちだしてきたのか、弓矢を構えてゾンビと戦っている
メガネをかけたひょろっと痩せた生徒がいる。
リカーブボウ
競技用洋弓ってやつか、確かに飛び道具は効果的な武器になる。
しかし、この学校に洋弓部があるとは知らなかった。
まさか常に持ち歩いているというわけではないだろうし、あの痩
せたオタクっぽい男子生徒はこの短時間に、わざわざゾンビが溢れ
る中をクラブハウスまで行って、取ってきたのか。
バッカジャネーノと思う。
どんだけ危ない橋渡ってるんだよ。
その間に、逃げられるだろ。
バカだけど凄すぎる。ビックリしすぎて、思わず足を止めてしま
った。
ゾンビ対策で、俺を超える逸材がいたとは信じがたい。
しかも彼は、きちんと有効性の高い武器を手に入れてから、最短
1368
距離で学校から脱出する俺のパーティーに紛れ込んできたのだ。
俺は緊急事態に限って、思索型としては優秀だと自負しているが、
コイツにはその上に行動力まで伴っている。
この学校は軽く千人以上の生徒がいるのだから、まあ中にはこん
なヤツが居ても不思議はないけど。俺を超えてくるとは信じられな
い。
バカだと思ったのは、俺の嫉妬も混じってる。やっぱりコイツは
凄い。
﹁えっと君は名前、なんていうの?﹂
﹁町田だよ、イヤだなー佐渡くん。同じクラスじゃないか﹂
やけに馴れ馴れしい町田。しかも同じクラスだったのかよ。まっ
たく記憶にない。
まあオタグループは、ぼっちの俺に絡んでくることが多かったの
で、余計に記憶から消してたからな。
無視していれば、相手も諦めるし、トラブルにもならない。しか
し、そんな連中のなかにこんな玉が隠れていたとは迂闊だった。
こいつとなら、対等な友達になれたかもしれないのにな。
﹁このゾンビは、脳幹を破砕すると動きを停止するようだよ、意外
に弱いね﹂
町田というメガネの冷静な観察と分析に息を呑む。
しかし、そのレンズの奥は、敵を倒した興奮にギラついている。
俺とはやっぱり性質が違うなと思う。
少なくない危険を冒してまで、積極的に敵を倒そうなんて暴勇は、
1369
俺にはないものだ。
﹁町田くんは、洋弓部なのか?﹂
﹁んっ、全然違うけども、どうして?﹂
﹁いや、なんでもない⋮⋮﹂
部活動でやってるわけでもないのに、どうしてそんなに上手いん
だよ!
この町田という男子も、こんな機会でもなければ、おそらくは一
生関わりあいにならない存在だっただろう。
マイクロバスまで来ると。
俺は入念に注意を払って、ゾンビに噛まれたやつが混じってない
か調べた。
ラッキーだったのは、サッカー部の佐々木が助けようとしたやつ
が、すでに死んでたことだ。
今頃ゾンビになって起き上がってる頃だろうが、あれが下手に生
きていて、連れていくなんてことになれば、その先は想像がつく。
人情に押し流されて、助けた中に噛まれた奴が混じってたら、そ
こで終わりなのだ。
町田もそこら辺の事情はわかってくれているらしく、うまくアシ
ストしてくれた。
実はこっそりと、一人で逃げられるように他の公用車の鍵もくす
ねてきていたのだが、使わずに済んで良かったというものだ。
やっぱり、自分で運転できるかどうかと言えば不安である。
1370
マイクロバスにみんなが乗り込んだあたりで、ゾンビが校舎から
駐車場の側にも迫ってきた。
バスの窓の外から、ヨタヨタと歩いてくる元生徒のゾンビが来て
いる。
間一髪だったなと思うが、マイクロバスは動き出さない。
ようやく安全圏かと座席で悠々としてた俺は、慌てて運転席まで
文句を言いに行った。
﹁先生、どうして出さないんです!﹂
﹁でもおぉ、このままだと轢いちゃう﹂
クソが、轢いちゃうじゃないだろ。ガキじゃねーんだろ、いい大
人が可愛い声だして、カマトトぶってるんじゃねーよ。
ゾンビはもう人間じゃないんだ。
くっそ、そう言っても、この女は聞かないだろう。
どう言えば、動くかな⋮⋮。
﹁いいですか先生、あいつらはゾンビなんです。映画で見たことあ
りますよね。もう死んでるんです、そして死をまき散らしてるんで
す。ここで潰さないと、もっと人が死にます。次は俺か貴女かもし
れない、やるしかないんです!﹂
﹁そんなぁぁ、ゾンビなんてあるわけないじゃない!﹂
そこからかよ、言ってる間に囲まれるぞ。
﹁ええいもう、俺がやります、どいてください!﹂
﹁まって、やるわよ⋮⋮もう、やればいいんでしょ!﹂
1371
俺が先生の身体を押しのけてアクセルを踏もうとしたら、ようや
く水城先生は目を瞑って、アクセルを踏んでくれた。
びちゃっと、潰されたゾンビの死肉がこびりつく。
先生がそれをみてキャーと悲鳴を上げている。いいから運転に集
中してくれ。
しかし、死んでいてすら、窓に張り付いたゾンビの肉は、しばら
く動いているのは確かに気持ち悪い。
どういう理屈になっているんだろう。
学校の正門まで行くと、また難関が待ち構えていた。
逃げようとした車が焦って事故をしたのか、何台かが玉突き事故
を起こして、入り口を塞いでいる。
隙間をすり抜けようとしても、無理だろう。
そして、バスの大きさだと正門から出るしか道はない。
停止したバスにも、ゾンビが群がってくる。あるいは助けを求め
て、まだ生きている人が混じっているかもしれないとも思ったが、
絶対に口にしてはいけないことだ。
ここで迷ったら死ぬ。
﹁佐渡くん﹂
俺をすがるような目付きで見上げてくる女教師。
はぁーとため息をつくと、俺は息を吸い腹に力を込めて、先生に
叫ぶ。
﹁突っ切るしか無いんです、このままアクセルを踏んで、弾き飛ば
1372
してください﹂
﹁でも、車の中にまだ人がいるかもしれないし、衝撃で爆発するか
も﹂
﹁このままじっとしてたら、どの道、死にますよ﹂
﹁わかった⋮⋮﹂
みんなに伏せろと叫ぶと、俺も身を伏せてポールにしがみついて、
衝撃に備えて身を固くした。
1373
104.﹁酷現実を生き抜く 転﹂
﹁ふぇぇ、もういやぁ!﹂
ハンドルを握る水城先生の悲鳴とともに、ガッシャーンと金属同
士が叩きつけ合って、ガラスが砕ける嫌な音がして、車体がそのま
ま横転するんじゃないかと思うほど、浮かんでから地面に叩きつけ
られた。
同時に、俺もつかの間の浮遊感のあと床に何度も叩きつけられて、
骨が軋むような痛みが襲う。打ち付けたときに、膝をすりむいた。
﹁いってぇ⋮⋮﹂
でも、まだ生きているから痛いのだ。
突破できるかどうか、危ないところだった、そのまま公道をひた
走っていくバスの景色を眺めると、俺はホッと気が抜けた。
衝突で、爆発がなかったのは幸いだった。大きなバスならともか
く、マイクロバスでは車体が耐えられなかっただろう。
大丈夫だったと分かれば、マイクロバスが派手に車を弾き飛ばす
シーンが見られなかったのが残念に思うぐらいの余裕が出てくる。
人間は現金なものだ。
﹁佐渡くんは、なんでも知ってるんだね﹂
かげえ
凛と澄んだ声が後ろから響いて、気が抜けていた俺は少し驚いた。
影絵の奴が、こっちまで歩いてきて、声をかけてきた。
1374
このいつも浮かない顔をした美少女は、人に話しかけられると物
憂げに応対するが、自分からコミュニケーションを取るということ
をまずしない。
人に話しかけるのを初めて見た、もちろん俺も話しかけられるの
は初めてだ。
俺はずっと遠くの席から彼女を観察してきたので、それを知って
いる。
こんな影のある美少女でも、この状況には興奮して、それで話し
かけてきたのだろうか。
﹁いや、なんでもは知らないよ⋮⋮﹂
知ってることだけ、という後の言葉を飲み込む、そんなつもりは
なかったのだが、有名なラノベの定番のセリフだ。
近くで聞いてたオタクの町田だけは分かったのか、嬉しそうに薄
ら笑いを浮かべている。
はぁ、つまらんことを言ってしまったな。
どうやら、ゾンビ映画のように、逃げる車で道がごった返してい
るということはないようだ。
俺はそれでも、水城先生になるべく大きな道に逃げるように言う
と、みんなからなるべく離れた座席に腰掛けた。
その隣に、そのまま影絵が追いかけて座ってくる。
なんで今日に限って、そんなに積極的なんだよ、近いんだよ。
サッカー部の佐々木がジロッとこっちを睨んだのが感じられた。
あいつらのグループは美少女の影絵が好きでよく絡んでたからな。
1375
俺みたいなのが、彼女に近づくと不愉快なんだろう。
普段の俺ならトラブルになるから避けるところだが、いまさら学
校の空気なんかどうでもいい。
影絵は元から、そういう空気を一切無視する女子だ。
俺にピタっと身を寄せると耳に小さい唇を近づけて擽るように、
小声で囁いてくる。
﹁じゃあ、犯人が誰かも知ってる?﹂
﹁俺は探偵じゃないから、そこまでは知らない﹂
つかの間の仲間意識、安全圏に脱出できたという気軽さで、思わ
ず返答してしまった。
正直ドッキドキだった、こうやって同級生と近くで話すだけでや
ばいんだよ、俺が惚れても知らないぞ。
待てよ、喜んでる場合じゃないぞ。この展開は、俺が犯人だと疑
われてるのか。
そもそも、こんな事件に犯人がいるとも思えないが、この付近に
怪しい製薬会社なんてないし。
リカーブボウ
影絵は、俺が犯人だから、よく知ってると推理したのか。
それなら、洋弓部でもないのに、競技用洋弓の扱いに卓越してる
町田のほうがよっぽど怪しいぞ。あいつは明らかに容疑者の一人だ。
﹁じゃあ、犯人が誰か、教えて上げようか﹂
﹁知ってるなら教えて欲しいけど﹂
﹁犯人は私﹂
﹁そうなのか﹂
1376
予想外の答えに、思わず覗きこんでしまった瞳の美しさに絶句す
る。
小造りの顔の造形は整っているが、彼女の瞳の色は暗い。だから
こそ美しく人を井戸の底まで引きずり込むような怖さがある。
いつも美しい彼女の横顔を見ていたのに、俺は彼女の瞳をよく見
ていなかったのだと気がついた。
変な表現だけど、彼女の美はホラー的だ。死の香りがする。
﹁そう言っても、やっぱり信じてくれないかな﹂
﹁そうとは限らないけど﹂
﹁本当に?﹂と彼女は、瞳の奥に小さな輝きを瞬かせる。
何か、良くないところにズリッと引きずり込まれるような気がす
る。それでも俺は思わず﹁本当に﹂と返してしまった。
﹁原因は、これなの﹂
﹁ビー玉?﹂
影絵は、ガラス玉を掲げてみせた。透明だが、中に赤黒い煙のよ
うなものが渦巻いている。
子供のおもちゃにしか見えない。
オーブ
﹁ビー玉じゃなくて、﹃願いの宝珠﹄。心の底から強く思う願いを
一つだけ叶えてくれるんだよ﹂
﹁ふーん﹂
彼女やたら黒目がちな瞳で、イタズラッぽく俺の眼を覗きこむ。
俺はそれを見て、ドキドキしていた気分が急に冷めた。
1377
影絵の瞳を見ているうちに、やけに冷静になった。
分からないけれど、真面目な話だと思ったからかな。影絵が言っ
ていることはかなり重要なことで、真実を含んでいると感じられた。
﹁やっぱり信じられない?﹂
﹁いや、信じるよ﹂
あまりにも、嘘臭い。根拠もクソもない話だが、だからこそ信じ
られた。
影絵の口からそれが出たからだ。
オーブ
彼女は、完全に宝珠とやらに魅入られている。信じきっている口
調だ。
そして、俺はそう語る彼女の声に魅入られた。
信じるのは直感だ。
あとから、理性がそれに理由を付ける。
ゾンビが発生するなんて、荒唐無稽だ。だとすれば、その発生原
因はそれに相当するぐらい荒唐無稽でいいんだ。
少なくとも、影絵が提示している荒唐無稽な話を、嘘だと否定す
る材料を俺は持っていない。
この場は、正しいと仮定するほうが良いと思えた。
﹁自分で話してなんだけど、佐渡くんが信じてくれるとは思わなか
った﹂
﹁それはいいから、教えてくれ。そんな宝珠どこで手に入れたんだ
よ﹂
1378
﹁友達が持ってたの、私の唯一の友達がくれたの﹂
﹁その友達って、どうなったの﹂
オーブ
﹁私に宝珠をくれた直後に、消えちゃったの﹂
﹁消えた⋮⋮﹂
あっけない話だ。
消えたか。その友達は、その﹃願いの宝珠﹄に何を願ったのか。
﹁だから、貴方に宝珠をあげようとおもって、私はもう死んじゃう
から﹂
﹁なんで死んじゃうんだ﹂
そんなビー玉をくれるなんて話より、そっちのほうが気にかかっ
た。
せっかく安全な場所まで逃げてきたというのに。
俺の顔色をうかがうように見ると、影絵がクスリと笑った。
影絵は、いつもは無表情であるか、苦渋に耐えているような顔を
しているの。
つるりとした白い頬に、人間らしい感情を浮かべるのは久しぶり
だろう。楽しそうだった。
﹁心配してくれるんだ、優しいね﹂
﹁いや、普通心配するだろう﹂
そう言いながら、俺は普通じゃないし、誰でも心配するわけでは
ないからこれは欺瞞だなと思った。
1379
影絵だから、俺は心配している。授業中に、たまに横顔を見つめ
るだけの美しい鑑賞物として心配してるわけじゃないようだ。
こんな状況で親しく話してしまったから、もう赤の他人ではなく
なってしまったから、そう思えるのかもしれない。
だとすると、我ながら単純だな。普段から俺は孤高だなんて思っ
ていながら、自分のチョロさに苦笑するしかない。
﹁佐渡くんが、私と同じだから宝珠をあげるんだよ。話す前から分
かってたけど、話してみてそれがよく分かった﹂
﹁いや、俺には、言ってる意味がよく分からないけど﹂
死んじゃうって話はどうしたんだ。
彼女にとっては、俺にビー玉を渡すほうが大事らしい。
そもそも、同じってなんだ。ゾンビが発生することを想定してい
たという意味なら、町田のほうがよっぽど対策を練っていた感じだ
ぞ。
俺は、ただみんなを連れて逃げまわっていただけで、実質は何も
していない。
﹁佐渡タケルくんは、私と一緒で孤独な人でしょう。ずっと見てた
から知ってる﹂
﹁同じって、そういう意味で言ってるのか﹂
俺は密かに憧れていた美少女に話しかけられた喜びもどこかに吹
き飛んで、途端に不愉快な気持ちになった。
美少女に、ずっと見ていたとか、同じだとか言われたら、普通だ
ったら喜ぶところなんだろう。
1380
でも俺は、その場で唾を吐きたいぐらい気分が悪くなった。同じ
だと?
お前みたいな、みんなにちやほやされてる可愛い女が、孤独を語
るか。
確かに影絵は人を拒んでいたところはある、でも常に人に囲まれ
ていたし付き合いを断ってはなかっただろう。
俺は、そんな中途半端な女と一緒にはされたくない。
その美しい小さな唇で孤独を語られては、俺こそがたった一人の
孤高だという思いが汚されたような気がした。
理性的に考えれば、それは思い上がりだって分かるけれど、それ
でも自分の孤独は人とは違うのだと言いたかった。俺は特別なのだ。
こうして肩を並べて、同じだと言われれば人は喜ぶ。ちょっと見
栄えのいい男に、貴女の気持ちがわかるなんて言われたらコロッと
行く。女の子はそうだろうよ。
俺は心理学の本も読んだから知ってるんだぞ。
でも俺は違う。同じだなんて言われたら、バカにされたような気
がする。俺の大事にしている心を汚されたような気がするんだ。
それを分かってないのに、同じなんてよく言えたものだ。
いくら美少女だからって、言っていいことと悪いことがある。そ
してこれは、最悪に悪いことだ。
お前のことは分かっているなんて、他人に一番言われたくないセ
リフなんだ。
喉の奥からこみ上げてくる不快感と怒りに、熱くなるどころか心
が冷えきった。
1381
﹁そういうところが一緒﹂
﹁何が!﹂
まだ言うかこいつ、と思う。
俺だって怒るときは怒るんだぞ。
﹁一緒って言われて、不機嫌になるところ。バカにされた気がした
でしょう。自分の気持ちは誰にも分からない。自分は人とは違うん
オーブ
だって思ったでしょう。そういう独り善がりなところがそっくり﹂
﹁ああ⋮⋮。その宝珠ってのは、人の心でも読めるのか﹂
一瞬で毒気を抜かれた。
ここまで図星を突かれては、鼻白むしか無い。お前は何者だよ。
﹁さあどうかしら、そんな力はないと思うけど。でも、本当にずっ
と見てたよ。私はもうこの世界に友達は一人もいないし、これを渡
すなら、佐渡くんだってずっと思ってた。もう時間がない﹂
﹁そう言われてもな﹂
オーブ
俺は押し付けられるように、宝珠を受け取る。
その時に、ほっそりとして柔らかい手が一瞬だけ触れた、女の子
の手だなと思った。
オーブ
宝珠を見るが、本当にただのビー玉にしか見えない。
こんなものに、願いを唱えるなんて馬鹿らしい気もするし、案外
とこんな常識はずれの大きな事件を起こす原因というのは、こうい
うツマラナイ物なのかという感じもする。
願いを叶える宝珠。本当だったら奪い合う対象になるだろう。
1382
だからこそ、こんなそこらに転がっているようなビー玉の形をし
ているのか。信じた人間だけに力を与えるように。
﹁本当は、私一人が死ねばよかったのに﹂
普段は口数が少ない影絵が、饒舌にそんなことを語るので恐ろし
くなる。
嘘偽りない本心で、自分が死ねばいいと言っているのだ。
俺はこの時のことをずっと後悔している。
影絵はどうして、死にたかったのか、どんな理由があったのか。
聞けるとしたらこの瞬間しかなかった。
俺にどうにかできるなんて思い上がりはしないが、せめて知って
おきたかった。
押し黙っている俺に、さらに影絵は饒舌に続ける。死を前にして、
ようやく望むべきものがきたと喜んでいるようにすら見える。
﹁とっさに、私じゃなくて世界が消えればいいと願ってしまったか
らこんなことになったの。私が自分勝手で最低な人間だからこうな
ったの、ごめんなさい﹂
﹁俺に謝られても困るし﹂
学校にゾンビが出ただけで、どれだけの人間が死んだか。
あの発生の仕方は、明らかに殺しにかかっていた。強烈な悪意が
感じられる囲み方だった。俺も巻き込まれて、死んでいた可能性は
十分にあった。
だが、影絵を﹁よくもやったな﹂と罵倒する気にはならない。
それは、荒唐無稽な彼女の話を信じてないってわけではない。
1383
話したこともない学校の何百何千という人間より、目の前で話し
ている少女を俺は優先しているのだ。
オーブ
事故だったなら、死んでしまったものはしょうがないと思う。影
絵が狙ってやったわけじゃないだろう、﹃願いを叶える宝珠﹄なん
ていかにも、罠がありそうだ。願いを叶えつつ、できるだけ悪意に
解釈して、酷い目に合わせるとかやってきそうだ。
影絵が悪いわけではない。そう考えてから、俺は無意識に影絵を
弁護していると気がついた。
これまでの展開は、よくあるテンプレゾンビモノだった。だから
こそ、流れを知っている俺は、うまく回避できたのだ。だったら、
影絵はただ単に、創作物のゾンビのイメージそのままに、世界の破
滅を願ったのだとも言える。
それが、純然たる悪意以外の何だというのだ。
でも俺は、影絵を非難できない。それどころか、何とか彼女が原
因であることを隠したいと思っていた。
影絵の言う通りなのかもしれない。
俺は彼女と同類だ。あの死の鬼ごっこを楽しんでいた、人が喰わ
れるのを見て、久しぶりに生きている気がした。噴き上がる血しぶ
きに興奮していた。
ゾンビモノを鑑賞する観客みたいに、つまらない日常がぶっ壊れ
るのを喜んで見ていたから冷徹でいられたのだ。
影絵が異常なら、俺だってまともではない。
﹁でも佐渡くんは何とかしたよね、私まで助けてくれて、カッコ良
かったよ﹂
1384
この惨劇を招いた、ゲームマスターである少女はそう言って、幸
薄そうな頬に微笑みを浮かべた。
別に助けたわけじゃない、ずる賢く自分だけが助かろうとしただ
けだ。カッコ良かったなんて言われて恥ずかしくて、そう訂正した
かったがやめておいた。
﹁助かったんなら、死ぬ必要ないじゃないか﹂
﹁ダメだよ、私のせいでこんなに殺しちゃって、生きていけるわけ
ないよ﹂
﹁影絵が死んだって、死んだ人が生き返ってくるわけじゃないだろ
う﹂
俺は自分の口から出てきた言葉にゾッとした。
こんなときに、なんて月並みなことを口走ってるんだ。
彼女に消えて欲しくないなら、そういえばいいのに。
なぜ俺は、素直にそれが言えない。
影絵は、的外れの俺の言葉を聞いても曖昧に微笑むだけだ。
届かない言葉だと、口にした自分が一番良くわかった。
﹁とにかく、死ぬなんて言うなよ。もう事件は終わったんだろう。
だったら﹂
その時、大きなタンデムローターの風切り音が聞こえて、俺はバ
スの窓から外を見上げた。
自衛隊のヘリの編隊が、ゾンビで溢れているであろう学校へと向
かっていく。
1385
ようやく、近くの駐屯地から自衛隊が動き出したらしい。
いまさら遅いと思ったが、出動要請の手続きを考えれば、行動は
むしろ迅速な方なのだろう。
自衛隊が動けば、事件は収束する。全ては終わったのだ、俺はそ
う楽観していた。
水城先生の運転するバスは、警察の避難誘導に従い、近くの中央
病院へと向かう。
1386
105.﹁酷現実を生き抜く 結﹂
﹁ねえ、やっぱり私が死んだらよかったでしょう﹂
﹁うるさい!﹂
新たなゾンビの群れに囲まれたのは、臨時の避難場所に指定され
た、中央病院に俺たちが足を踏み入れた途端だった。
避難所には、警官や警備員もいたのですぐに入り口が突破される
ことはなかったが、完全に閉じ込められてしまった。
﹁私がいるから、こうなるんだよ﹂
﹁黙ってろよ﹂
かげえ
影絵がゾンビ発生の原因になってるなんて与太話、誰も信じない
と思うが万が一、誰かに信じられたら彼女を殺そうとするかもしれ
ない。
パニックになってるから、何が起こるか分からない。幸いなこと
に怒声と悲鳴が飛び交い、影絵の声なんて誰も聞いていないが。
付けっぱなしになっている病院のテレビでは、ようやくゾンビ騒
ぎが報じられている。
アウトブレイク
やっぱりうちの学校を中心とした局地的な事件だったらしく、ゾ
ンビ化の疫病が進んでいるが接触感染のみなので、感染爆発にはな
らず、自体は収束に向かっていると報道されている。
まだ、この中央病院でのゾンビ再発生は報道されていない。
そこで、ガラスの割れる音が聞こえた。
1387
入り口は固く閉鎖されていたが、庭のサッシ窓にまで手が回らな
かったらしく、そこからゾンビが侵入してきてしまった。
これで、地階で食い止めることもできなくなり、俺たちは多くの
逃げ惑う人の群れとともに上階へと逃げていく。
最初に殺られたのはサッカー部の佐々木だった。
勇敢なアイツは、警察や警備員と一緒になって食い止めようと戦
ったのだ。
ゾンビの頭はわりあいと脆い、モップの柄などで遠心力を利用し
てフルスイングで叩けば脳幹を潰して動きを止めることができる。
しかし、それにも限度がある。
確かに動きは単調だが、やたら力が強く、一度頭を潰すのをミス
って抑えこまれたらもうダメだ。
複数のゾンビに囲まれて、押し倒された佐々木は野太い叫び声を
上げながら、暴れまわったがそのまま断末魔の叫びを上げながら事
切れた。
気に食わないやつだったけど、立派な最後だった。
もう他人ごとじゃない、俺もそのうち、あんなふうになるのかと
思うと身の毛がよだつ。
﹁助けて、佐々木くんを助けてよぉ!﹂
三つ編みの級長がボロボロ涙を流しながら叫んでいるが、俺に言
われても無理だ。
そんなに言うなら、お前が助けに行け。
帰宅部の俺ですらモップを振るって戦っているというのに、仙谷
1388
は泣いてるだけでなんの役にも立たないじゃないか。
そのでかい乳は何のためについている、乳ビンタで攻撃してこい
よ!
いやまあ、攻撃とか言ってる場合じゃなくて、逃げるしかないん
だけど。
エレベータを待ってる暇はなかったので、階段を駆け上がりなが
ら必死に上を目指した。
みんな考えることは一緒だ、屋上につながる出口は、すぐに人で
いっぱいに埋まる。
人の群れに阻まれて、それ以上は登れなくなる。完全に追い詰め
られてしまった。
そのうちに、仙谷は長い三つ編みをゾンビに掴まれて、引きずり
下ろされるとその大きな乳房から喰い荒らされるハメになった。
グチャグチャと、仙谷の肉を噛む嫌な音が聞こえる。聞くだけで、
身体が身震いする。
﹁きゃあああ、いだいいだい、ぎぃぃやぁぁああぁぁ﹂
もちろん助けられない、少しでも油断すると自分が殺られるって
リカーブボウ
ときに、誰が人を助けるというのか。
それなのに、町田は競技用洋弓の最後の一矢を放つと、決死の形
相でゾンビに囲まれている小さい女の子を助けに行った。
ヒーロー
英雄にでもなったつもりなのか、なんて言ったりはしない。
子供を助けにいったんだから、その時点で立派な英雄だろ。震え
が来るほどカッコいい行為だった。
1389
ゾンビの中に突っ込んで女の子を助けに行くなんて、少なくとも
俺には出来ない。
あれほどクールを気取っていた俺なのに、自分が喰われる番がも
うすぐ来るかと思うと、発狂しそうなのだ。
弓でゾンビの頭を殴りつけるなんて無謀すぎる、でも臆病な俺に
も、町田の気持ちは少しだけ分かった。ゾンビに襲われてる子供を
助けるのは生存フラグだよな。
分かるよ、町田は正しい。それが正しい選択なんだ。
最後の土壇場で怖気づいている情けない俺と違って、アイツは最
後まで主人公であることを選んだんだ、これがゾンビ映画だったら
絶対に助かる。
残念なことに現実はそうは上手くできてない、リアル幼女は泣き
喚くばかりで、町田の足を引っ張った。それでも、女の子を逃がす
ためにゾンビに飛びついていった、飛び道具に頼っていた男が最後
に身を張ったのだ。
﹁行こう、影絵!﹂
勇敢な英雄の最後など、見たくはない。
後ろから響いてくる町田のくぐもった悲鳴に振り返らず、俺は影
絵の手を引っ張って人の居ないほうに逃げた。
本音を言えば、町田の遠距離攻撃が頼りだったのだ、アイツが殺
られた段階で、もう持ちこたえられない。
俺一人の戦闘力だけでは、到底影絵を守れないと気がついて、自
分の無力さに愕然とした。
1390
それでも、影絵の手を引いているから、まだ俺は歩いていられる。
学校に居た時の高揚感と万能感は一時的なものだったらしい。
いまごろになって、恐怖に足がすくむ。さっきから怖くてたまら
ないのだ。
俺たちにも、終わりが近づいている。
屋上に避難するのを諦めて、最上階近くの突き当りの部屋に籠城
することにした。他に選択肢はない。
リハビリ用の部屋なのだろうか、運動器具のついた、ベッドやマ
ットがたくさんおいてある。
﹁だから、タケルくん! 私が死ねば終わりなんだって言ってるじ
ゃない﹂
﹁うるさい、いい加減にしろよ﹂
俺は必死に、ベッドや重そうなロッカーを引っ張って二つある入
り口を押さえつけた。
影絵は、もう諦めているのか必死になってバリケードを作ってい
る俺を黙ってみていた。
ゾンビは怪力だから、いつまで持つか知れないけど、これで多少
は時間が稼げる。
窓を開けて外を見たが、この高さから飛び降りるのは無理だ。
安全に降りるための消防器具もないし、あったとしても病院の周
りはゾンビの群れで囲まれている。
病院を囲むゾンビの数は、学校で発生したときよりも多い。
おそらくだが警察や警備員が居た中央病院の防衛力に合わせて、
1391
ゾンビも数が増えているのだ。
まるで、ゲームだなと思った。そうだ、これはゲームだ。そうと
デッドエンド
でも思わないと、やってられない。
だとしたら袋小路に救護アイテムがないとか、ゲームバランス悪
すぎだろ、気が狂いそうになる。
﹁頭から落ちたら、苦しまずに死ねるよね﹂
影絵は、窓から身を乗り出すと薄い唇を歪めた。
やめてくれよ。
本当は死にたくないんだろ。だから死ぬって言ってるだけで、死
ななかったんだよな。
俺はそのまま影絵が、窓から落ちてしまうんじゃないかと怖くて、
その身体を強く押さえつけた。あまりに強く掴み過ぎたのか、手が
引っかかって影絵のブラウスのボタンが幾つか飛んだ。
﹁あっ、ごめん﹂
ちらりと胸元から、ピンク色のブラジャーが見えてしまって、目
をそらす。
窓の外の曇り空は、重くどんよりとしてきて薄暗くなってきた。
暗雲立ち込めるってやつだ。
﹁いいんだよ、もう手を離して。私が死んだらゾンビも消えるよ﹂
﹁良くない、何か助かる方法を考えるからちょっと待てよ﹂
俺は、とにかく影絵がこのまま落ちてしまわないように抱きしめ
1392
た。
抱きしめた身体は、とても痩せていた。本当に貧乳で胸がないけ
ど、それでも女の子の胸は柔らかいんだなとか、こんな絶体絶命の
時にも感動してしまう俺は本当にどうしようもない。
﹁タケルくんごめんね、こんなことに巻き込んじゃって﹂
﹁いまさらそんなこと言われても﹂
しょうがないじゃないか⋮⋮。
いや、しょうがなくない!
もう俺しか居ないんだから、俺が何とかしないと。
﹁ありがとう最後まで守ってくれて﹂
﹁待て、待て待て待て。今考える、俺が何とかするから!﹂
影絵は、俺の頭を両手で抱くと唇を重ねた。
驚いたことに、そのまま舌まで入れてきやがった。
初めてだったから俺は少し怯んで、抱きしめていた腕の力が抜け
てしまう。
それでも離れようとする影絵の腕をかろうじて掴んだ。この手を
離したら、影絵はそのまま飛ぶ予感がした。
最後になんてさせるものか。
﹁最後までしてる時間は、ないね﹂
﹁影絵⋮⋮﹂
そう言って、影絵はおかしそうに笑う。もちろん冗談だって分か
1393
ってるけど。
こんな時まで期待して勃ってるとか、俺はバカ過ぎるだろ。
後ろの扉が、ミシミシと嫌な音を立てて、破られようとしている。
ゾンビは、やはり影絵を目がけて来ているのだ。
オーブ
﹁願いの宝珠ちゃんと持ってる?﹂
﹁ちゃんと持ってるよ!﹂
俺は、影絵からもらったビー玉がズボンのポケットにあるのを確
かめた。
﹁それ無くしちゃいやだよ、じゃあね﹂
影絵は、イタズラッぽく微笑むと、トンと開いてる方の手で俺の
胸を軽く押した。
それだけで、彼女の細い腕を掴んでいたはずの俺の指が、つるり
と滑って離れた。
あれほどしっかりと、絶対に離さないように掴んでいたのに、ど
うして離れてしまったのか今でも分からない。
本当にあっけなく、何の前触れもなく影絵は窓の外に飛んで消え
た。
そのまま世界から消失してしまったみたいだった。
さっきまで、俺と手を繋いでいた女の子はどこに行ったのだ。
影絵がどうなったのか、窓の外から下を眺めれば、一目瞭然だろ
う。確かめてみればいい。
そう思うのに、俺は窓枠にしがみついたままで、どうしても地面
1394
を見ることができなかった。
﹁ううううっああああああぁぁぁ!﹂
誰が叫んでいるんだろう、凄まじい絶叫だなと思って。それが、
自分の口から出ている悲鳴だと気がついたのは、喉の奥が痛んで血
の味がしたからだ。
その後のことは、記憶ない。
救護隊とともに、病院のリハビリ室で縮こまっていた俺を助けだ
してくれたのは水城先生だったらしい。
無事に学校から逃げ延びたのは、彼女や俺を含めても百人にも満
たず、死亡率は九割を超えたそうだ。
病院で精密検査を受けてから、俺は自宅に帰された。
街に住んでいた家族も死んでいたし、学校も継続は無理だろう。
戻ったら、俺の日常はぶっ壊れていた。
アウトブレイク
警察と自衛隊の介入で事件が収束していたという報道も嘘で、あ
の段階で学校どころか街を越境して感染爆発が進んでいたと、後で
ネットで見たがまあどっちでもいいことだろう。
あとから調べると、ゾンビを招いた影絵自体が死んだ瞬間に、発
生していたゾンビは消えて、ゾンビになっていた死者も単なる死体
に戻ったのだと分かる。
ゾンビ発生の事件は世界的な大ニュースになり、原因は諸説囁か
れたが、ウイルスも見つからず、やがて沙汰止みになり人々は日常
に回帰した。
あれほどの人が死んだのに、一ヶ月もしないうちに違うニュース
1395
が新聞を賑わすようになる。
あとはネットのサイトの片隅に、不確かな噂だけが痕跡として残
るだけだ。
全ては、もうどうでもいいことだけど。
俺は無気力になり、自宅に篭りがちになった。しきりに様子を見
にやってくる水城先生や、カウンセラーさんの相手をするのも億劫
で、ほとんど無視した。
かといって、自宅にいてもやることはないのだ、自慰すらできな
い。
不思議な事に、あれから性欲が一切湧かなくなった。
自宅の窓を眺めると、今日もどんよりと曇って、シトシトと雨が
降っていた。
俺の気持ちもそんな感じ、暗雲立ち込めるってやつだ。
オーブ
他の記憶はみんなあいまいになって、思い出すのは影絵のことば
かりだ。
彼女がくれた﹃願いの宝珠﹄を手で遊ばせながら、俺はずっとあ
の日のことばかり考えている。
思い出すたびに辛いのに、それでも何度もあの瞬間をリピートす
る。そして何度でも泣く。
願いを叶えてくれるなら、影絵を蘇らせて欲しい。
女々しく泣いている自分を、もう一人の俺がまるで映画に出てく
る悲劇のヒーローだなと、あざ笑う。
皮肉はよせ、俺はそんなカッコいいもんじゃない。
偉そうなことばかり言って、肝心なときに役立たずで、女一人自
1396
分の手で守れないクズだったじゃないか。
俺は何も分かってない、愚かなピエロだった。俺が小馬鹿にして
たクラスメイトには、立派な最後を迎えた英雄がたくさんいた。
惨劇を引き起こした影絵ですら、俺を生き延びさせるために死ん
だんだぞ。俺が生き残ったのは、臆病で何も出来ないガキだったか
らだ。
なあ、考えてみろよ。
あの時。もう一度あの時に戻って、俺が別のルートを取れば、静
寂影絵を助けられるだろうか。
いや⋮⋮無理だ。何度シミュレーションしても、俺にそんな力は
ない。
飛び降りて、地面に叩きつけられて死んだ影絵の最後すら、見る
勇気がなかった。見てやることができなかった。
だから、影絵を蘇らせても、きっとまた同じように死んでしまう。
多くの人を巻き添えにして殺した罪を、あの死の恐怖と痛みを、彼
女にまた繰り返させるつもりなのか。
もう一人の俺が、そう怒鳴りつけてくる。
俺はただ自分が苦しいから、元通りにしたいって言ってるだけな
んだろ、それじゃダメだ。誰も救われない。
弱くてどうしようもない俺のまま時間を戻しても、きっと全ては
無駄なのだ。壊れるものは壊れる、運命は変えられない。
オーブ
握り締める﹃願いの宝珠﹄が、俺にできる自信を与えてくれたり、
このどうしようもなく弱い自分をどうにかしてくれないかと思うが、
それは無理らしい。
1397
あの時からずっと、澱のように胸に降り積もる後悔の痛みすら、
癒してくれないのだ。
オーブ
何がなんでも叶える﹃願いの宝珠﹄だ。
たとえこのビー玉に、世界を変える力があったとしても。
たった一人の女の子すら救えないんじゃ、意味が無いだろう。
役に立たないビー玉を握りしめた俺は、過去にタイムリープして
影絵を救う妄想を諦めて。
それでも辛い現実に立ち返ること無く、新しい妄想へと移行する。
たとえば、俺のホームである異世界ファンタジーならどうだ。
遠いどこかの異世界で、影絵と再び出会えたらどうだろう。その
世界の影絵も困っているかもしれないけど、そこでなら俺には彼女
を救ってやれる十分な力があるかもしれない。
シルエット
そうだ、影絵は美しいエルフのお姫様で、俺は魔剣の勇者なんて
のはどうだろう。
かげえ
そして、二人は冒険の果てに再び出会う。それまでに、俺は必死
に頑張ってみんなを助けられる立派な英雄になるよ、そしたら影絵
も助けてやれるだろ。
⋮⋮ハッピーエンドだ。
アハハッと俺は、久しぶりに声を上げて笑う。
バカらしくなったのだ。
ちょっと都合が良すぎてズルイよな。チートだなこりゃ。
でも異世界の果てまで行けば、どうしようもない俺でも、あの時
1398
言いたかった言葉を言える。
もう一度彼女の小さな手を握って、ずっと前に手遅れになってし
まった言葉を伝えられる。
﹁頼むから死なないでくれ、俺とずっと一緒に居てくれ⋮⋮﹂
その時その場所でなら、この世界では永遠に離れてしまった手を、
俺は今度こそ握りしめて絶対に離さない。
大事に思える人を守ることができる。
俺をうるさく罵倒し続けるもう一人の俺が、ようやく押し黙った。
つかの間、静かになって、ベッドに丸まっている自分の輪郭が世
界から浮遊した。
取り戻せない後悔の涙、胸をずっと絞め続ける悔恨の痛み。
空から降り続く雨音は、ずっと止まない。
オーブ
それでも、都合のいい妄想をひとしきり繰り広げた俺は少し救わ
れた気になって、﹃願いの宝珠﹄を握りしめて、眠った。
やがて、酷現実が終わりを告げて、酷幻想が始まる。
1399
106.とある勇者の後宮事情
ハーレム
皆さんは、正妻と五人の側室がいる後宮と言えば、どのようなイ
メージを持つだろう。
こう嫁がみんな横になれる巨大なベッドがあって、純白のシーツ
の上で、六人の美姫がくんずほぐれつ、交代交代、代わる代わる⋮
⋮まあ、アレをナニいたすシーンを想像したのではないだろうか。
俺もそう思っていたんだけど、どうも違う感じのようだ。
たしかに、俺こと佐渡タケルは、ハタチを目前にして、六人の妻
と二つの城を持つ人生勝ち組となった。
ついこの間まで、絶対にヤラハタ︵やらずにハタチ︶確実だと思
っていたのが嘘のようではある。
しかし、俺の嫁たちは、みんな黙って後宮に篭っているような女
の子ではない。
シルエット女王や、カロリーン公女は公務があるし、ライル先生
は王族になったことで俺の後を継いで、国務卿から摂政に昇格して
内政から外交まで忙しい。
さわたりしょうかい
そのうちに引き継ぎをすると言っているのだが、商会長のシャロ
ンが居ないとやっぱり佐渡商会が回らない。
一度、視察も兼ねて、シレジエ王領を一回りする新婚旅行に行こ
うかと言っているのだが、そのスケジュールもなかなか合わない。
先生に、摂政の地位を譲るときに俺は、女王の夫って立場だけな
のも何なので﹁王将軍﹂という王軍全体を統括する謎の役職を与え
られた。
1400
俺がよく将棋の話をするので、先生がそのまま俺を﹁王将﹂にし
てしまったのだ。暗に、駒にしてますと先生に言われているようで、
笑ってしまう。
王と大将軍の中間あたりの、俺の今の地位をよく表している役職
とは言える。
しかし、騎士団にも兵団にも、それぞれ団長がいてしっかり管理
されているわけで、王将閣下とか煽てられてもやることはない。
王城の執務室を訪ねて、ライル先生に何をやればいいんだろうと
聞くと。
﹁お暇なら、気晴らしに鹿狩りか、キツネ狩りでもしたらどうです
かね﹂
﹁いやあ⋮⋮﹂
有閑貴族じゃあるまいし、いまさらそれはないだろうって感じだ。
お貴族様の優雅な遊びってのは、貧乏性の俺には向いていない。
それなら、モンスター狩りでもしたほうがマシってものだった。
﹁タケル殿もこの機会に、少し休んだほうがいいと思いますけどね﹂
﹁先生は、休まないんですね﹂
聞くまでもないか、先生は内政や外交を切り盛りしながら、次の
戦争の準備でもやっているのが楽しそうだ。
それにしたって、前の戦争の傷跡が残っているから、当分は平和
であってくれないと困る。
生やしまくった毒草や、毒が混じった井戸を浄化するのに、リア
がヴィオラたちを連れてロレーン地方を駆けずり回っているし、オ
1401
ラクルちゃんも籠城戦で荒廃してしまった﹃オラクル大洞穴﹄の補
修に追われている。
俺の身体だけが、嫁にほったらかされて、ポッカリと開いている
のだ。
もう、すぐに是非もなくハーレム展開だと思っていたら拍子抜け
してしまった。
﹁そんなにお暇なら、王族の勤めを果たされてはいかがですかね。
それが、今のタケル殿の一番のお仕事だと思いますよ﹂
﹁王族の勤めってなんですか?﹂
ライル先生は、ちょっと驚いた顔をすると、ため息をついた。
﹁それを私に言わせるんですか﹂
﹁あっ、もしかして、そういうことですか。すいません気が付かな
くて﹂
よく見ると、先生はゆったりとした魔術師のローブを着ている。
もう男装は止めたけれど、袖付きのワンピースはまだちょっと恥ず
かしいって感じなのだろう。
その微妙な乙女心を、俺は早く察するべきだったな。俺は先生を
優しく抱くと、ローブの背中に手を回した。
﹁ちょ、ちょっと何をなさるんですか﹂
﹁あれ、ローブってどうやって脱がせばいいんですかね﹂
﹁肩に繋ぎ止める部分があるんですよ⋮⋮、って違います!﹂
焦った先生が、珍しくノリツッコミした。
1402
思わず吹き出してしまう。
﹁フハッ、いやあ、だって先生が誘ったんじゃないですか。王族の
勤めってそういう意味で合ってますよね﹂
﹁合ってますけど、間違ってます! 私を抱けって言ったわけじゃ
ないんですよ。王女でも公女でも、王城にいるんですから誘えばい
いじゃありませんか﹂
本当だ、先生の言う通り肩から外せる部分がちゃんとある。
半分ぐらい外して、中をまさぐって見ると下着だった。ちゃんと
ブラシェールを付けるようになったんだなあ。感心感心。
﹁いや、今は先生の気分なんで﹂
﹁気分とか! いやほんとにいやちょっと、そんな、いや本当に誘
ったわけじゃ、違うんですよぉ⋮⋮﹂
﹁何が違うんですか﹂
俺は最後まで繋ぎ目を下ろしてしまって、剥ぎ取ることはせずに、
むしろ先生のローブの中に入ってしまう。
おお、ライル先生の中、暖かいナリィ⋮⋮。
﹁王族の勤めというのは、ちょっと聞いてますか! 子孫を残すこ
となんです﹂
﹁じゃあ、先生と子孫繁栄します﹂
俺は、先生の素肌の背中に手を回してプチンとブラのホックを外
した。
今俺の手の中に、先生の程よい大きさの胸が収まっている。
1403
﹁いえいえいえ、あの私ではきっと子供はできませんから、無駄撃
ちになってしまいますよぉ﹂
﹁ふむ、無駄撃ちですか。何を無駄に撃つんですか。教えてもらえ
ますか﹂
強く揉みしだいただけで、先生は過剰に反応する。
本当に、良い物をお持ちになっておられる。
﹁それを私に聞くんですか⋮⋮﹂
辱めたつもりだったのだけれど、まだ自分の身体のことを気にい
る先生には、酷な質問だったのかもしれない。
余計な言葉はいらないな。俺はそのまま、抱きしめて、先生の薄
紅色の唇を吸った。
﹁たとえ子供ができなくても、俺はこうするのが無駄とは思いませ
ん﹂
﹁でも、タケル殿には、他にたくさん奥さんがいるじゃありません
か。なんでわざわざ半端者の私を﹂
そんなの決まってるだろうと、俺はもう一度唇を重ねて、ほんの
少しだけ舌を入れて舐めた。
続きはゆっくりやればいいし、先生はいきなり激しいのが好きじ
ゃないと分かっているので優しく愛撫する。
﹁先生が魅力的すぎるのがいけないんじゃないですかね。本当に仕
事で時間がないなら諦めますけど、空けられるならお願いします﹂
﹁むう、分かりました。時間は取りますけど、ここではやめてくだ
さいね。誰が来るかわかったものじゃないです﹂
1404
﹁じゃあ、後宮に一名様ご案内です!﹂
俺はローブを先生の身体にもう一度巻きつけると、そのまま思い
っきりお姫様抱っこで後宮のベッドまでダッシュした。
勇者になってからも鍛錬を欠かしてはいないので、女の子一人軽
いものだ。
﹁うわ、こんな姿見られたら、他の官僚に示しが付かない⋮⋮﹂
先生は真っ赤に染まった頬に、手を当てていた。
しかし、先生は自分が誘い受けだってことに、どこまで気がつい
てやっているのだろう。
まあ、それは後宮のベッドで、ゆっくりと二人っきりで聞かせて
もらうことにしようか。
※※※
自分を男でもなく女でもなく、魔物だとライル先生は言う。
でも、俺にとっては先生が一番女性を感じさせるのだ。
ライル先生みたいな、知的なお姉さんっていいよねえ。
こっちの小さな動きだけで、意図を察して俺がやりやすい形で受
け止めてくれる。こっちが好き勝手に求めていたはすなのに、いつ
の間にかリードされている感じもする。
汗だくになりながら、何度も強く先生を求めることで、俺は自分
の男を強く感じることができる。
先生は、ぶつける欲望をあますところなく受け止めてくれる最高
の器だった。そこに満たされた美酒を何度飲んでも、また味わいた
1405
くなる。
俺は夫なのだから、誰に気兼ねすることもなく、いくらでも好き
なだけ飲んでいいのだ。
そう思うと幸せな気持ちになった。
﹁魔物じゃなくて、魔性の女だって言うといいですよ﹂
﹁何がですか、はぁもう⋮⋮﹂
何度も一緒に上り詰めたから、今日は先生も仕事にならないだろ
う。
こうやってたまには先生も骨休みするといい。俺も至福の余韻を
味わわせてもらう。
後宮のまるで柔らかくて巨大な丸いベッドから、金箔のきらめく
大型のシャンデリアを見上げる。
床も壁も、淡いピンク色の大理石が使われ、金縁のピラストル︵
壁の一部から張り出している付け柱︶にしても、少し調度が豪華絢
爛過ぎて、最初は落ち着かないと思ったのだが、こうして優美な先
生と身体を重ねて横になれば、様になってくる。
﹁先生﹂
﹁もう、もう無理ですよ。限界です﹂
大丈夫だ、キスをするだけだから。先生の口の中を味わうように
舐め回して、顔を上げるとツゥと唾液が糸を引いた。
またしたくなる気持ちを堪える。もうちょっとしたいなってとこ
ろで、止めておくのがいいのかもしれない。
そうしたほうが、次への期待が高まる。でも、もう少しだけ、先
1406
生の綺麗な肌にキスの雨を降らせよう。
こうして睦み合いながら、シーツの海に埋もれるようにして微睡
んでいるのは、たまらなく気持ちいいものだ。
この世界に、二人しかいない気持ちになる。他には何も要らない。
確かにまったりするにはいい部屋だ。
クーデターを起こしたゲイルが、王城をほとんど焼いてしまった
のに、後宮だけ焼き残したのは︵中身はしっかり全滅させたそうだ
が︶こうやって自分が楽しむためだったのかもな。
この後宮は、二百四十年前に建国王レンスが建造させた小さな宮
殿を、そのまま補修し続けて使っているそうだ。
その割に、アンティークさが全くないというか。
やたら金箔がキンキラキンなのは、派手好きのレンスの趣味だっ
たんだろうな。
レンスが現役だったころの後宮というのは、こんな大人しいもの
では済むまい。
多くの妻や女官たちが入り乱れて、毎夜どんな乱痴気騒ぎが繰り
広げられたのか、遠い昔の勇者の後宮事情に思いを馳せるのも楽し
いものだ。
﹁レンスの真似をしようとは思わないけど﹂
俺が突然、建国王の話をしだしたので先生は、艶のある声で笑う。
もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。
﹁フッ⋮⋮何を言うのかと思えば、建国王レンスの伝説なら、タケ
ル殿は十分後を継げてしまえると思いますよ﹂
1407
﹁いや、俺はライル先生だけで十分ですよ﹂
﹁おや、六人も一気に妻を娶った人のセリフとは思えませんね。き
っと、まだまだ増えますよ﹂
先生は、俺の腕枕で休みながらそんな不吉な予言をしてくる。
﹁そりゃまあ、一気に六人は申し訳なかったと思いますけど。もう
増えませんよ﹂
﹁いいんですよ。タケル殿が、勇者レンスの覇業を継いでくれてこ
そ、シレジエの統治に正当性が出るんです。せっかく身も心もお任
せした相手なのです。貴方がどれだけやれるか、私は楽しみにして
いますからね﹂
先生に期待されているなら、そりゃ俺はいくらでもやるけど。
覇業はともかく、勇者ハーレムの前例には倣いたくないな。今の
俺は、先生だけ居てくれればいいよ。
好事魔多しと言う、オラクルちゃんとリアが連れ立ってやってき
た。
﹁ふあー疲れたのじゃ﹂
﹁まったくですわね。浄化はわたくしにしかできないから困ります。
戦争でしたから是非もないことですが、ヴィオラさんたち草生やし
過ぎでしたよ﹂
俺以外の他人に裸体を見られたくないライル先生は、身体にシー
ツを巻き付けて、音もなく退室していく。
おそらく浴室に行ったんだろうな。先生が湯浴みするぐらいの時
間は稼ぐか。
1408
﹁それにしても、お前たち早かったな﹂
あと、なんでオラクルちゃんとリアは仲良くなってるんだよ。
お前たちにいまさら言ってもしょうがないけど、魔族とアーサマ
教会が対立してるって設定に少しは配慮しろよ。
﹁いや、ワシが大洞穴の補修を終えて、飛んで帰ろうと思ったとこ
ろに、ちょうどアーサマのとこの小娘に会ってのう。ついでじゃか
ら拾ってきたのじゃ﹂
﹁土地の浄化の方も一段落付きました。聖水もたくさん作らされて
難儀しましたが、是非もないこと。あとはわたくしが居なくても、
現地の教会で対処できるでしょう﹂
自然には元から浄化力がありますからと、リアは健康そうなほっ
ぺたを緩める。
リアとオラクルは、俺たちがやった後始末を気を張ってやってく
れたんだから、ありがたくはある。
﹁まあ、ご苦労だったな二人とも﹂
当然のように、リアは﹃女神のローブ﹄を、脱いでベットに入っ
てくる。オラクルちゃんも、豪華な深紅のマントを脱いで例の水着
っぽい下着姿で、広いシーツの海を泳ぐようにして近づいてくる。
まあ、お前らだって俺の妻だから入ってきていいんだけどさ。
そんなに擦り寄られても、もう出来ないぞ。
﹁なんじゃもう、しとったのか﹂
﹁ああ、すまないけど少し休ませてくれるか。もうちょっと休めば、
1409
ふぁ?﹂
オラクルが、俺の腰辺りを弄って謎のツボを刺激した。
するとどうしたことだろう、酷使されて起動不可能だったはずの
俺のイマジネーションソードがみるみるうちに硬くなっていく。
﹁いや、オラクルちょっとキツ﹂
﹁ハハハッ、タケルよ。超回復理論って知っとるか。もうキツイと
思ったところからスタートで、より男は鍛えられるのじゃ﹂
いやいやいや、待て待て。
超回復理論って確か最近になって否定されてただろ、それに筋肉
の話だよね。チン肉は関係ないよね!
突っ込もうとしたら︵性的にではないよ!︶リアが、俺のほっぺ
たを掴んで、唇を重ねてきた。
なんか口の中に、ゴボゴボといっぱい液体が注ぎ込まれている!
どうしようもなく飲んでしまう。
﹁ぷはっ、何を飲ませた!﹂
﹁霊水を生成して、タケルのお口から注ぎました。一般的には状況
回復に効くと言われていますが、精力剤にもなるのです。あっちが
是非もない状態でも、これで何度でも回復できます﹂
﹁マーライオンじゃないんだから、口から霊水出すんじゃねえ、ど
んなシスターだよ!﹂
﹁あら、わたくしはもう高潔なるシスターじゃないですよ。罪深く
もエロエロしいただの女に堕ちてしまいました、タケルが破戒させ
たんだから、是非もない話ですよね﹂
1410
リアは、大きな胸を俺の胸板に押し付けてくる。
俺の意志に関係なく、肉体は新たなる戦闘モードへと移行した。
﹁先に譲る代わりに、小娘が一回につき、ワシが二回じゃからな。
約束は忘れるでないぞ﹂
﹁是非もありませんね、わたくしはやっぱり一番乗りしたいですし﹂
ちょっと待て、お前ら俺の意志はどうなってるんだよ。
せめて確認をとれよ。
﹁大丈夫じゃタケル、お前の精気はワシが全部管理してやるから任
せておれ。毎回二割増しにしてやるのじゃ﹂
﹁さあ、わたくしとついに合体するときがやってきました!﹂
ブチンと、リアが自らの溢れんばかりの肉を押さえつけていたブ
ラのホックを外した音が開始の合図になった。
﹁お前らちょっとま⋮⋮んんっ!﹂
突っ込もうとしても、すぐにキスで口が塞がれて何も言えない。
もみくちゃにされてその後のことはあまり覚えていない。
リアに喉の奥にどんどん霊水を流し込まれて回復させられて、オ
ラクルちゃんの怪しい導引マッサージで、何度でも起動させられる。
もはや自分の自由にならない肉体の制御を二人の妻に握られて、
限界を超える耐え難い苦痛と、それでもなお天上へと昇るような快
楽が断続的に襲ってくる。
天国と地獄のアップダウンに、俺の意識はいとも簡単にピリオド
の向こう側にぶっ飛んだ。
1411
後は永劫とも思える時間の中で、前から後ろから、大きいオッパ
イと小さいオッパイに挟まれて、カラッカラになるまで、自分の限
ハーレム
界の底の底を味わうことになるのだ。
やっぱり後宮には勝てなかったよ⋮⋮。
1412
107.新婚旅行
ようやく、六人の妻のスケジュールが合って新婚旅行へと出かけ
ることになった。
そうは言っても、たいして広くもない王領をぐるっとひと回りす
るだけの旅である。
本当は、シレジエ王国中を旅したいぐらいのところなのだが、南
方の地方貴族は未だにシルエット女王の王権に面従腹背の状態なの
だ。
俺が守っている限りそんな不始末はまずないと思うが、ノコノコ
馬車で回るのは反乱を刺激しかねないので止めておいた。
ライル先生は、いずれは地方貴族派の問題も何とかしたいとは言
っていたが。
どちらにしろ、ゲルマニア帝国との戦争の傷跡も癒えてない今は
まだ早すぎる。
﹁空を飛んでいけば早いのにのう﹂
馬車の旅になると、オラクルちゃんは毎回そんなことを愚痴って
いる。
飛行魔法が使えるのは、オラクルちゃんとカアラだけなので仕方
がないのだ。
﹁たまにはのんびりと、馬車の旅もいいもんだぞ﹂
俺は新しく新調された、王室用の馬車に乗り込む。んん、なんか
1413
踏みしめると足元がボヨンボヨンしている。
先生がしたり顔で、下に固定したバネを並べてあるのだと説明す
る。
﹁タケル殿の言う、サスペンションでしたか。バネを付けて振動を
緩めるという発想で作成してみたんですがいかがでしょうか﹂
﹁うーんまあ、吊り上げ式のよりはマシになってますよね﹂
四頭立ての馬車を走らせてみると、吊り上げ方式も併用されてい
るので、座席の揺れはより少なくはできている。
ただ、おそらくこの乗り心地の不安定感は本当のサスペンション
とは違う、まだまだ要改良だなと心に留めた。
馬車の材料になる、木材も馬もシレジエ王国にはあるのだ。加工
する鍛冶・木工ギルドも、いまはランクト公国などの技術水準には
負けているが、きちんとあるある。
﹁完璧な物ができれば、商品として売れますからね﹂
﹁これでも合格点じゃないんですか、なかなかタケル殿は水準が厳
しいですね﹂
中途半端な物を作っても特産品にはならない。
シレジエの産業育成もこれから考えて行かなければならない。
※※※
王領の街や村々を回って、新しい女王様の就任をアピールする。
やはり、新しい女王様は地方にいけば行くほど知られていなかっ
た。
1414
その点、なぜかシレジエの勇者である俺のことだけはみんな知っ
ていて驚く。
庶民というのは、王様や貴族にはあまり興味がないが、勇者の話
が好きなようだ。
増して、一介の農夫から勇者になり、女王と結婚して王将へと成
り上がった︵サラちゃんが広めた噂が、王国全土に広まってしまっ
ている︶佐渡タケルの英雄譚は、農民には受けがよくどこの村でも
大歓迎された。
﹁大人気ですね﹂
木剣を握っていつまでも俺の馬車のあとを付いてくる農民の子供
を見て、シルエットに笑われてしまった。
﹁なんかすいません、俺ばっかが目立ってるみたいで﹂
﹁いえいえ、妾も妻として鼻が高いです﹂
﹁タケル殿が農村で人気が高いのは、義勇兵を集めるときに便利で
すからね﹂
先生は、農村を見まわって、そんなことを考えていたようだ。
﹁まだ兵を集めるんですか﹂
﹁シレジエ王国の南部はまだ物騒ですし、抑えに兵は要ります。ま
た、ゲルマニア帝国から分離独立したランクト公の諸侯連合も王国
を頼ってますからね﹂
古い戦術で頭が固まった騎士や兵士を訓練するよりも、農民出身
の素朴な義勇兵のほうが銃や大砲に慣れるのが早いのだ。
1415
シレジエ王国が始めた義勇兵というシステムは、今後の戦争の常
識を変えるかもしれない。
﹁先生、せっかく新婚旅行に来てるんだから、仕事の話はやめまし
ょう﹂
﹁すいません。あっ、何をなさるんですか﹂
何をって、ナニをだよね。頭を柔らかくするのは、スキンシップ
を取るのが一番いい。
俺は先生にだけはすぐ攻めにいけるんだが、あとで他の妻にも平
等に攻めなきゃいけなくなって難儀する。
なかなか、平等にハーレムするのは難しい。
※※※
内陸から、今度は海側を見て回ったが、王領の海岸は殺風景な大
地に人もまばらな寒村があるだけだった。
切り立った断崖、断崖の下で逆巻く波、そして岬の先に広がる広
大な海。ようやく海岸線が見えたかと思えば、そのほとんどが砂浜
ではなく、大きな石っころが転がる砂利の海岸だった。
海沿いの漁村では、ほそぼそと小舟で漁業を行って食いつないで
いるのが現状らしい。
小麦がよく実って農作物が豊かで、ブドウからブドウ酒の生産も
盛んな王領の内陸部に比べると漁村は一様に貧しくて、人口も少な
い。
荒涼とした景色だが、俺は久しぶりに潮風の匂いを嗅いでいい気
分だった。海を見ただけで、何故かとても懐かしい気持ちになった。
この海は、世界に繋がっている。
1416
他の娘はともかく、シャロンは産まれてから海を見たことがない
らしく感動していた。もちろん、最近になってダンジョンから出た
オラクルちゃんも見たことがなく﹁でっかい水たまりじゃな﹂とか
驚いていたが、あまりにもベタすぎるので割愛する。
彼女たちは海の水が塩辛いのも、知らないのだ。どうして塩辛い
のかとか聞かれても知らないよ。博識のライル先生でも知らないだ
ろう。
海辺で遊んでいると、海風にローブをなびかせて先生が近づいて
きた。
先生の視線は、目の前の海ではなく、水平線のかなたを見つめて
いる。
﹁タケル殿は、王領の海を見てどう思いますか﹂
﹁海藻が美味しそうだなあと﹂
ようやく降り立ったほんの少しある砂浜で、流れ着いている海藻
を拾い上げながら、俺はこれ食べられるなと思っていた。
﹁こんなもの食べるんですか!﹂
先生がびっくりしている。
﹁ああそうか、日本人しか食べられないんだっけ﹂
﹁いえ、あのブリタニアン同君連合の漁村では一部食べる人もいる
そうですが、タケル殿は漁村出身だったんですか﹂
﹁まあ、そういうわけでもないんですが。海藻サラダにして食べな
いなら、何に使ってるんです﹂
1417
﹁乾燥させて畑の肥料にすることもあるそうですが、輸送コストを
考えると微妙です。基本的には何にも使われてないですね﹂
﹁いま思い出したんですけど、海藻の灰は木材の灰より、石鹸作り
に向いてるはずです﹂
海に来ることがまったくなかったので、思い出せなかったのだが。
そういう話をどっかで聞いたことがある。
﹁そうか⋮⋮石鹸の産地は海沿いが多いんですが、それが製法の秘
密なのかもしれませんね。さすがはタケル殿です。試してみましょ
う、貧しい寒村で石鹸作りが上手くいけば、収入源になりますしね﹂
もちろん、そのときは産業育成の段階から、佐渡商会がしっかり
噛ませてもらうが。
シャロンの方を見ただけで、察したのか頷いてくれている。頼も
しいね。
﹁話がずれましたがタケル殿、海を見てどう思いますか﹂
﹁うーんと、貧しいですよね﹂
それを聞いて、先生は嬉しそうに笑った。
﹁そうなんです! シレジエ王領は良港がないために小舟しか使え
ないんですよ。つまり、海軍は無きに等しい状態です﹂
﹁そうなんですか、海に出る必要性を感じなかったからなあ﹂
﹁これまではそうでしたでしょう、しかしこれからは海運事業も大
事になります。そのために海軍を持つ必要性も出てくるんですよ﹂
1418
今のシレジエ海軍は、コッグと呼ばれる全長三十メートル、幅は
八メートル、総重量百トンの年代物の商船が二隻あるだけだそうだ。
王族が、外交のために海沿いの国を訪れるために使用するもので、
しかも南方貴族の港であるナントの街に停泊されているとのこと。
﹁トランシュバニア公国には、良港がありますから、とりあえずう
ちの国に移したほうがいいかもしれませんね﹂
﹁そうですか、じゃあそうさせてもらおうかな﹂
カロリーンのご好意に甘えることにした。小国ながらも、積極的
に外洋に出てブリタニアン同君連合と交易を行っている公国は先進
国だ。
船だって何に使うか分からない、同じ国の反抗的な地方貴族より、
血のつながりがある隣国のほうが信用できるのが今のシレジエ王国
の現状でもあるのだ。
﹁先生の言わんとすることは分かりました、海運・海軍事業にも予
算をつけろってことなんですね﹂
実はゲルマニアから取った賠償金の使い道で、かなり揉めている。
先生は、軍備増強や国内資本の整備に向けろと言ってるのだが、底
値になったゲルマニア資本を買収したいシェリーが強硬に反論して
いる。
投資型志向と投機型志向の違いだ。二大頭脳チートのぶつかり合
い。
シェリーは最近になって自分の分析に自信を深めたのか、ライル
先生相手でも反論するようになったし、形式上国庫の鍵を握ってい
るニコラ宰相も先生への反発からか、シェリーの肩を持つようにな
っているので、感情的な問題も入り乱れて予算策定の話がこじれに
1419
こじれている。
女王は自分の分からないことには口出ししないし、結局のところ
俺が収めなきゃいけないんだが、シェリーも先生も、俺が自分の味
方をすると信じてるんだよな。
これは結構キツイ。
まあ、折衷案でなんとかしたいところだ。俺の顔色を窺って、先
生はさらに続ける。
﹁それだけではありません、今のシレジエ王国の現状を知っておい
て欲しかったのです。とりあえずは公国の港を借りるとしても、自
国に良港を持ちたければ南部の貴族を王権に服属させてナントの街
を手に入れなくてはなりません﹂
先生の野心は、小うるさい南側の地方貴族の領地を越えて海に向
いているのか。
ちゃんと分かりましたよ、わざわざ新婚旅行に海に連れてきた意
味もね。
﹁南部貴族の国境線の向こう側には、無敵艦隊を有するカスティリ
ア王国があります。外洋の権益を巡ってブリタニアン同君連合と敵
対していますから、我が国とも仲が良くない。海から攻められるケ
ースも視野に入れておかないといけないのです﹂
新しい国の名前が出てきた、先生が指し示す地図の位置は南部貴
族の向こう側の外洋に突き出した半島、俺の世界だとスペインの位
置にあたる。
なるほど、無敵艦隊って歴史の時間に聞いたことがあるな。
﹁まあ、海運事業がほとんどないというのは逆にいいこともありま
1420
すけどね﹂
﹁えっ、どういうことですか﹂
外交を語って少し興奮していた先生が、ため息混じりに微笑みな
がら説明してくれる。
﹁海運事業が盛んな国は、海賊に狙われますから、我が国などは今
のところその心配だけはしなくていい﹂
﹁海賊なんているんですか!﹂
盗賊はギルドまで作って存在するが、海賊ギルドなんてのもある
んだろうか。
なんか俺はそっちのほうが、興味があるぞ。
﹁居ますよ、この近くだと北海の海賊ですね。根城はブリタニアン
同君連合や、ゲルマニア帝国を構成していた諸国の支配権が届かな
い港などを根城にしているはずです。そこから海賊船を出して、商
船を襲います﹂
国の利益のために敵国を襲う私掠船なんてのもあると教えてくれ
た。
盗賊が時に傭兵として戦争に参加するように、海賊が足りない海
軍を補う海の傭兵のような役割を担うこともあるらしい。
﹁そうすると、その海賊を拿捕するなりなんなりして支配下に治め
たら、それで海軍を作るなんてこともできますね﹂
﹁そうですね。まあ、それができたらどこの国もやってるとは思い
ますけど﹂
先生は知識として知ってるだけで、海軍の運用の実体まではあま
1421
り知らないらしい。
まあ、俺も素人考えだけれども。海軍が必要になった時には、ア
イディアの一つとして温めておこう。
﹁まあ、せっかくなんで石切でもして遊びましょうか﹂
﹁石切ですか?﹂
俺はなるべく平べったい石を拾うと、水平に投げた。海面を、水
音を立てて石が跳ねて飛んで行く。
俺は力が増幅されてるせいで、十回以上跳ね上がってかなり遠く
まで飛ばせた。
﹁凄いですね、こんな遊び見たことないですよ。あっ、でも上手く
できないな﹂
﹁海は波がありますからね、本来は川面とか湖面でやるもんなんで
すよ﹂
先生が真似してみるが、一回か二回しか跳ね上げられない。シル
エットやカロリーンがやっても、ポチャンと落ちるだけで上手く行
かなかった。
シャロンとリアはわりあいと腕力が鍛えられているのか、思いっ
きり投げたら波に逆らって三回も飛ばせた。
最後にオラクルちゃんが石を水平に投げると、シュルシュルと音
を立てて、そのまま一度も海面に付くこと無く、かなり遠方まで水
平に飛んで消えた。
ちっこい身体でその怪力、どういう原理になってんだよ。
﹁よっし、ワシの優勝じゃな﹂
﹁いや、オラクル、そういう遊びじゃないからね⋮⋮﹂
1422
﹁ん、遠くに飛ばす遊びじゃないのかの﹂
オラクルちゃんが白いツインテールを潮風に揺らせて、挑発的に
見上げてくる。
ほう⋮⋮。
﹁よっし、じゃあ俺も本気だすわ﹂
俺は安定するようにちょっと幅の広い石を拾い上げると、渾身の
力を込めて、腕のスナップを効かせて投げた。
どや!
俺だって勇者だ。ちょっと力が余りすぎて軌道が上下にぶれたが、
そこも力任せで突き抜ける。
全力でやれば、オラクルちゃんと同じぐらいまで飛ばせるんだぞ。
﹁ほほおー、じゃあワシはこうじゃ!﹂
オラクルちゃんがブツブツと唱えて投げると、波が部分的に収ま
った。静まり返った水面をバシャンバシャンと石が水を切って飛ん
でいく。
こっちは魔法使えないのに、水流操作の魔法使うとかキタネエ。
しかも、石切遊びの意味ちゃんとわかってんじゃねえか。
﹁よっし、オラクルがそうくるなら俺は!﹂
﹁子供の遊びですか⋮⋮﹂
先生が呆れたように突っ込んできたので、我に返った。
まあこれ自体、子供の遊びなんですけどね。
1423
※※※
海で遊んで、心地よく疲れたのでその日は漁村に泊まることにし
た。
泊まる場所もないので、大きな天幕を張ってキャンプになるが、
一日ぐらいならいいだろう。
試しに釣りもしてみたのだが、海藻しか釣れなかったので、漁村
で魚を買う。タラやヒラメ、サバなど見覚えのある魚もあったし、
小さいカニやエビや巻き貝もあった。
寒村というわりには、豊富な種類の魚介類が採れるようだ。新鮮
なので焼いたり煮たりして食べるだけで美味しい。
珍しいところではアンコウがあった。
これはぜひ、アンコウ鍋にしなくてはなるまい。味噌や醤油がな
いのが残念なところだが、魚醤で味付けする。
鍋にするなら単純に煮るのではなく、肝を取ってから別に炒めて
からが良いと、漁民に教えられた。肝油が凝縮されて、濃厚なスー
プになるのだ。漁民風どぶ汁になるのだろうか。
あとは野菜と一緒に煮込んで完成である。アンコウは捨てるとこ
ろがない魚だ。
チャレンジャー
作った料理は、概ね好評だったのだが、俺が作った海藻サラダは
誰も食べてくれない。しかし、シレジエの生んだ冒険者、ルイーズ
だけは挑戦してくれた。
あるじ
ビネガー
﹁我が主、これは味がないぞ。美味いマズい以前の問題だ﹂
﹁うーん、酢と塩で味付けしてみたらどうかな﹂
1424
ドレッシングがないのがダメなんだな、まあ工夫しだいでは食べ
られそうもない。
いろいろ味付けしながら、食べられないと思われている海藻を食
べている俺たちを見て、漁民が目を剥いていた。
あるじ
﹁魚だけに、ギョッとされたようだな﹂
﹁主、海藻は魚じゃないぞ﹂
寒村だけに、冷たいツッコミだった。
ルイーズはやっぱりデレない⋮⋮。
※※※
まず雨は降らないと思うが、防水天幕を利用した大きなテントを
張って就寝。
シレジエ王国の紋章を付けるなんて、アホな真似はしないが、さ
ベルベット
すが王室用に作られたテントである。
中は天鵞絨の絨毯が敷き詰められて、その上で暖かそうな毛布に
包まって眠るのだ。
﹁うーん、なんという芳しき﹂
﹁タケルは何をしてるんじゃ、早くこんか﹂
オラクルちゃんが手招きしている。
テントの中は、甘い香りで充満している。香水を撒いたわけでは
ないのだ、六人の女の子香りが混じりあっているからなのだ。
潜り込むと、暖房など無くても十分に温い。
生の女の子の暖かさと香りに包まれて眠れるのだ。これ以上の豪
1425
華なテントなど、この世界に存在しないだろう。
﹁オラクルさんばっかり抱かれてズルいです﹂
端っこでリアが不満そうにつぶやいてる。
聞きつけて、オラクルが呵々大笑した。
﹁しょうがないじゃろ、ワシを抱きまくらにせんと、タケルは眠れ
ない身体になってるのじゃ﹂
﹁まあ、否定はしない﹂
いつの間にか癖になってるからな、確かにそんな感じだ。
オラクルちゃんは、また少し育ったのか、抱きまくらにするには
ちょっと不都合なサイズになってきてるけれども、まだ行ける。
﹁まあ、海で散々遊んで疲れただろうから、今日は大人しく寝よう
ぜ﹂
﹁ほうっ、タケルはそう言うが、こっちは大人しくしておらんよう
じゃぞ﹂
眠れるように鎮めてやろうかと、オラクルが囁いてくる。
ついにリアがキレて、俺に向かって飛び込んできた。
リアの大きな胸は普通に武器になる、強く当たると痛い。
﹁あーオラクルさんばっかりズルいです!﹂
﹁序列最下位の小娘は控えておれ﹂
いやいや、オラクルちゃんもそんなに側室の序列高くないからね。
結局今日も、すぐには眠らせてもらえないのか。
1426
ちなみに、むせ返る女の子の匂いに包まれて、大人しくしていな
い俺のイマジネーションソードは、リアとオラクルが争っている間
に、いつの間にか黙って隣に居たカロリーンに鎮圧してもらった。
1427
108.正妻の特権
週に一回だけ、二人っきりでベッドに寝ること。
シルエットが正妻の特権として要求したのは、たったそれだけの
ことだった。
女王としての責務に邁進する日々の中で、だいぶネガティブは直
ったけれど。
それでもそのささやかな胸と一緒で、なんと控えめな女王様だろ
うと思う。
レガリア
豪華絢爛な金箔張りのシャンデリアを見上げていると、湯浴みを
かがよ
終えたシルエットがやってきた。
耀うストロベリーブロンドの髪から王冠を下し、王笏を手放した
彼女は、十六歳の少女だ。
エルフの血が混じった証である少し尖った耳をもう隠すことはな
い。
シルクの薄衣をはだけると、シルエットの白磁のような肌を隠す
ものは何もない。
わらわ
﹁妾は、少しはしたないですか。新しい下着を着る暇も惜しくて、
急いで来てしまいました﹂
﹁いや、シルエットは女王様なんだから、なんだって好きにしたら
いいんだよ﹂
俺は大きく手を広げると、薄衣をさっと脱ぎ捨てて飛び込んでく
る少女を抱きしめる。
1428
パーフェクト
女王にして、ハーフエルフにして、ちっぱい。ファンタジーヒロ
インとして、完全無欠な俺のお嫁様ですよ。
﹁ふふっ、じゃあ佐渡タケル。妾が御伽を命じます﹂
﹁喜んで﹂
俺は桜の花びらのような可憐な唇にキスをする。
そのまま、艶めかしく舌を絡め合う。
最初はこわごわとだったが、シルエットとキスをするのにも慣れ
たものだ。
﹁んっ﹂
俺は、背中に手を回すと優しくストロベリーブロンドの髪を撫で
てやる。
さらりとする髪にも口付けるようにしてからスッと匂いを嗅ぐと、
甘酸っぱくて不思議と懐かしい感じがする。
﹁可愛いよシルエット﹂
﹁タケルもカッコいいですよ﹂
わからないけれど、ずっと前にもこんなことがあったような気が
する。
強く抱きしめて肌を合わせるだけで、シルエットが生きている鼓
動に涙が出てしまうし、それだけでとても幸せになれる。
それは、シルエットも同じようでサファイヤのような碧い瞳をう
るませていた。
頬に伝う涙を舐める。シルエットの涙は、ちょっとしょっぱい味
1429
で、それが美味しいと思う。
しばらく、布の擦れる音だけが響いて、俺はシルエットを抱きし
めてそのほっそりとした首筋に、肩に、胸に口付けていく。
思えば彼女がいない世界はなんと寂しかったのだろう。
彼女と見るから俺は色鮮やかな世界を感じることができるし、彼
女と同じ空気を吸うから、俺は息をつくことができる。
二度と離したくない、一生このままで居たいと思う。
そう思うと、強く抱きしめすぎてしまった。
勇者になったせいで俺はやたら強くなったし、それに比べると俺
のシルエットはとても繊細なのだ。
﹁ごめん、痛かった﹂
﹁いえ、もっと強くても平気です。妾は、一緒に居られるだけでと
ても幸せです﹂
俺の腕枕で、無邪気に笑っている。
良いものだな。
さて、ここで告白しておかなければならないのだが、ここまでや
っておいて俺はまだシルエットとやっていない。
驚いたことに、シルエットは子供がどうやってできるか知らなか
った。
ふやく
今のシルエットは、傅役でもあるニコラ宰相の速成教育で、女王
として振る舞えるようにはなったのだが、もともとは妾の子供とし
て城の奥に閉じ込められて放置されていた姫だった。
彼女の知識は、色々抜けているところがあるのだ。
1430
そこらへんが、リアにからかわれて遊ばれてしまう原因になって
いる。
﹁ブヒブヒ﹂
﹁シルエット、何やってるの⋮⋮﹂
﹁聖女様に聞いたのです、なんでも豚は安産なので雌豚の鳴き真似
をしながらお股をこすりつけると赤ちゃんができやすいそうです、
ブヒ﹂
﹁またか﹂
つか、まあ⋮⋮俺はもう子豚プレイで興奮するから間違ってはな
いけど、教え方が酷すぎるだろう。
リアはまたお仕置きだな。
﹁はぁ、なんだかこすりつけてると切なくなってきます。これはき
っとタケルの赤ちゃんができますよね﹂
﹁そうか、それはよかったなあ﹂
俺の太ももは生殖器官ではないので、できないと思うのだが、好
きにさせておく。
シルエットはもうとっくに十六歳を超えていて、十七歳の誕生日
も近いので俺の世界の倫理から言っても子作りはオッケーなのだ。
まあ、結婚してるわけだし。
﹁あっ、忘れてました。ブヒブヒ⋮⋮ブヒュウ﹂
﹁うんうん、可愛いよシルエット﹂
髪を撫でてやると幸せそうにしている。
1431
年齢は目安でしかないから、シルエットを花開かせるのは、もう
少し先にしたい。
いくら回復魔法がある世界とはいえ、妊娠出産となると小さい母
体には負担が大きすぎるかもしれない。
じゃあ、オラクルちゃんはどうなんだよって感じでもあるが、俺
にとってシルエットは特別なのだ。
一方的な欲望だけで、汚していい存在ではない。
まあ、愛撫や口づけぐらいはいいので、たくさんしてやる。
そうやってしばらくしていたら、﹁ブヒュウ!﹂と感極まった声
をあげて、満足するとシルエットは寝てしまった。
慣れない公務で気を張って疲れていることもあるのだろう。
俺はこんなに可愛い嫁がいて幸せだなあと、しばらく可愛い寝顔
を見ていると、ビリッと俺の身体に電撃が走る。
﹁なんだびっくりした﹂
﹁失礼しました﹂
俺の背筋に細い指先を走らせたのは、カロリーンだった。
いつの間にか、ベッドに潜り込んできたようだ。耳元に小声で囁
きかけてくるのは、シルエットを起こさないようにだろう。
今日はシルエットだけの日だと言ってあるのに。
俺は少し声を硬くして、振り向かずに聞く。せっかくシルエット
が気持ちよさそうに寝ているのに、起こしたくないのは俺も同じだ。
﹁カロリーン、何か用か﹂
1432
﹁すいません、少しだけお情けをいただければと思いまして﹂
そもそも、リアがおかしなことを教えなくても、シルエットと仲
の良いカロリーンが男女のことを教えて上げれば済むことなのに。
それをしない彼女は、徹頭徹尾、確信犯なのだ。
大人しくて真面目な女の子だと思っていたのだが、とんだ間違い
だった。
躊躇していたのは最初だけで、一線を踏み越えてしまえば、絨毯
に水が染みこむみたいに色ごとを覚えてしまった。
﹁お前また、エッチな下着を付けてきたのか﹂
﹁こういうのがお好きなんですよね﹂
カロリーンは、リアほどではないが胸が豊かなのだ。
しかも、若いせいか、ものすごく弾力性と張りがある。
背中に押し付けられていると、下着をつけているはずなのに、胸
の先の突起が当たる。つまりそれは、そういう夜に強い装備を身に
まとっているということで。
カロリーンも、完全に戦闘状態に入っているということだ。彼女
は、おそらく部屋に隠れていて、シルエットと俺の行為を見ながら、
こっそりと一人で盛り上げてきたのだろう。
本当に、カロリーンは積極的すぎて驚かされる。
これがついこの前まで、裸を見られただけで動揺しまくっていた
無垢な公女様だったと誰が信じるだろうか。
﹁いや、俺は﹂
﹁嘘です、すごいことになってます﹂
1433
彼女の細い指に触れられただけで、俺はすごく気持ちが良いのだ。
シルエットで興奮したせいということにしておきたいけど、カロ
リーンの指技のせいだと言わざるをえない。
これも男の性か。
どうやっても、勝てないんだよな。
﹁ん、これは違う⋮⋮﹂
﹁違いません。でも、先に気をやってはダメですよ。ちゃんと欲し
い時は、私に求めてくださいね﹂
彼女は、俺の子供を欲しがっている。
はら
祖国を長く留守にするのは心配だけど、トランシュバニア公国に
里帰りするときは、次世代の公子か公女を胎に入れて帰りたいそう
だ。
それが公国のためにも、最良の選択だと考えている。
こういうのは、趣味と実益を兼ねると言ってしまっていいものだ
ろうか。
カロリーンはやっぱり真面目な子だった。
そんな娘が、ひたむきに、一途に、一生懸命に男を求めたらこん
な風になってしまうのだ。
彼女をこうしてしまったのは、誰かといえば俺しかいないわけで、
男としての責任を取らなければならない。
﹁分かった、満足したら帰れよ﹂
﹁はぁー、こういうのすごくいいですよね﹂
1434
向かい合ったメガネの奥の妖艶な瞳が、トロンと濡れていた。
カロリーンは、はぁ、はぁと甘い吐息を俺に吹きかけてくる。も
うたまらないというように触れ合う肩を震わせている。
すっかり淫蕩になったカロリーンは、正妻の寝てる隙をついて、
こっそりと情事を済ますことに、極度に高ぶっているのだ。
タブー
彼女だって、シルエットは無二の親友だから、嫌いなわけじゃな
いのに。
だからこそ、快楽に負けて禁忌を犯す背徳感に高ぶるのだろう。
そして、俺もそれに興奮していることは、認めざるをえない。
カロリーンも妻なんだから、浮気じゃないんだけど、この申し訳
無さはどうしようもなくて、しかし愛するシルエットに悪いことを
していると思えば思うほど、快感が高まってくる。
どうしようもないなこれ、たまらない。
﹁すまん、シルエット﹂
﹁今は、私の名前を読んでください﹂
﹁カロリーン、お前は⋮⋮﹂
﹁はい、愛してます﹂
一言いってやろうかと思ったが、口を開くともう愛の言葉しか出
てきそうにない。
俺は根負けして、さっき散々シルエットとキスをした口で、彼女
ハーレム
に口付けして、甘い香りがする亜麻色の髪に包まれた。
後宮の魅力には勇者でも勝てない、勝とうと思うのが無理だった
のだ。
1435
109.シャロンの番
さわたりしょうかい
﹁佐渡商会の商域も広がったものだな﹂
﹁ご主人様の人徳の賜物ですね﹂
赤いエプロンドレスを着ているシャロンは、そう言ってオレンジ
色の犬耳を揺らすけど、まあ九分九厘までお前たちのおかげだよな。
王城の執務室をライル先生に取られてしまった俺は、後宮のコー
ヒーテーブルの上でシャロンの報告書を読んでいる。
シャロンやシェリーの書く会計簿や収支報告書のたぐいは見てい
ると頭が痛くなってくるのだが、地図が併用してある資料なら俺も
わかりやすい。
最近は、俺に理解しやすいように報告書を整えることまでしてく
れるようになった。俯瞰できる資料なら、見ていても面白い。
エストの街で、石鹸と発破作りに始まった事業も、アンバザック
男爵領を初めてとしてロレーン地方に広がり、西は王領、北はトラ
ンシュバニア公国、そこからツルベ川をさかのぼってランクト公国
を中心とした諸侯連合にまで広がっている。
商会が扱う商品も、石鹸と発破だけではない、新しく作った双眼
鏡や将棋盤も地味に売れているし、乳製品、穀物、ワイン、岩塩、
魚肉、モンスターの肉、革製品、綿織物、木綿、毛織物、絹織物、
ベルベット、金、銀、宝石、魔宝石、魔道具、鉄製品、銅製品、木
材、陶磁器、茶、コーヒーなど多岐にわたる。
数え上げると切りがない感じだが、日用品から贅沢品に至るまで、
1436
奴隷以外の扱える商品はたいていカバーしている。
佐渡商会が国内の職能ギルドや商会を買収しまくって、吸収合併
を繰り返したためだ。
トランシュバニア公国はもとより、ゲルマニア帝国から分離独立
したランクト公国も、保護を名分とした条約を結んでシレジエ王国
の被保護国になっており、自由に支店を置いて活発的に取引を行う
ことができる。
そこはそれ、ランクト公国はさすがに技術先進国なので、オック
スの街のように完全独占とはいかないが、格上の相手と対等に取引
してシェアを争えるだけ健闘していると言えるだろう。
金の流れは、文化と技術の流れとも言える。
旧帝国領から流れ来る物や人は、古いしきたりに囚われて保守的
だったシレジエ王国に新しい刺激を与えているようだった。
商売敵からも、学ぶべきところがたくさんあるわけだ。
﹁それで、シャロンも暇ができそうなのか﹂
﹁シェリーが、国家事業の手伝いに引っ張られているので後任人事
が少し困りましたが、すでに流通のひな形は完成してますから﹂
﹁そうだな、シェリーのやつは、すっかり国家単位のマネーゲーム
が面白くなってるみたいだしな。さっきも保護領の資本買収に金を
かけ過ぎるって先生に愚痴られたよ﹂
﹁そのようですね﹂
シャロンも俺も顔を見合わせて苦笑した。
あの銀髪の少女は、扱う額が大きくなればなるほど興奮する質な
のだ。
1437
チート
ライル先生ですら、最近は気宇が壮大すぎるシェリーの才能を扱
いきれなくなってきている。
経済面に限れば、シェリーの予想の方が正鵠を射ていることも多
いので、先生も反論しづらいのだ。藍より青しを地で行っている。
商会のロジスティクスや、義勇兵団の兵站を担う仕事だって、手
を抜いているわけではないのだが。
今は、帝国領邦を飲み込んでいく大買収戦のほうが、面白いのだ
ろう。
通常業務は、他にできる人がいないわけでもないし。
シェリーにしかできない仕事に専念してもらうほうがいいだろう。
﹁ところで、そのエプロンドレス﹂
﹁気が付きましたか、さすがに入りきらなくなったので、縫い直し
ましたが、ご主人様に最初に着せていただいたものです﹂
スカートが短いなと言おうと思ったのだ、明らかに生地が足りて
ないなと思ったのだが、そういえばそうだったなと思う。
ダナバーン侯爵のメイドが着ている服と一緒なんだよな。特に俺
の趣味というわけではないのだが、それしかなかったのでいつの間
にか奴隷少女の制服のようになっていた。
大きくなってからは、商会の女主人としてまともなドレスを着る
ようになったので、可愛らしいエプロンドレス姿は久しぶりに見る
ような気がする。
すっかり奴隷少女たちのお姉さんになっちゃったもんな。
﹁まさか今日は事業報告だけってことはないんだろう﹂
1438
結婚してからと言うもの、シャロンは後宮には近寄らず仕事ばか
りしていた。
他の妻とは違い、シャロンの方からプロポーズしてきて結婚した
のだ、もっとガーッとくるかと思ったら、そうではないので不思議
だった。
﹁私は、ご主人様に結婚していただいたことで満足だったのです。
これ以上求めるのは贅沢すぎる気がしますし、一度してしまうと仕
事が手につかなくなりそうで怖いですし﹂
﹁ふうん﹂
シャロンは、短いエプロンドレスの裾を握ってうつむいている。
ピョコンと立った犬耳も一緒にうつむいている。
なかなかいじらしいことを言うなあ、やっぱりシャロンは俺のこ
とがよく分かっている。
俺は邪魔な紙束をうっちゃって、立ち尽くしているシャロンの柔
らかい身体をギュッと抱きしめてやった。
﹁思い出のあるエプロンドレスを着たのが、俺に抱かれる覚悟の現
れと思っていいのかな﹂
﹁はい、ご主人様がそう望んでくださるなら﹂
ピョコンと、犬耳が立っている。シャロンは誘い方がなかなか上
手い。
自分で後宮まで来ておきながら、しかも普段は隠れている耳が出
ているので、期待して来ているのは丸わかりなのだが、それでも最
後の選択は俺に委ねるて見せるのだ。
こういうのは形式が大事なのだ。男の立て方というものをよく知
1439
っているシャロンのような賢妻を持てる男は、幸せだろう。
﹁つまり俺は、幸せ者だということだな﹂
﹁いえ、私のほうが幸せです﹂
せっかく着てきたエプロンドレスだが、すぐ脱がせることになり
そうだ。
俺はシャロンに口付けすると、腰を抱いて大きなベッドへと誘っ
た。
※※※
そうか、こうなっていたのか。
俺はシャロンの木綿のパンツを脱がして、最も見たい部位を、マ
ジマジと見つめていた。
俺がシャロンの身体で一番興味を持っていた部分。
他ならぬ尻尾である。
﹁そこはすごく恥ずかしいところなんです、あんまり見ないでくだ
さい﹂
﹁それはちょっと難しいな﹂
前から気になっていたところなのだが、まさか見せてくれと言う
わけにもいかず、悶々としていたりした。
シャロンも俺の妻になったことであるし、誰はばかることなく裸
にして尻尾を観察できるわけである。
犬型のクォーター獣人であるシャロンは、前記の通り犬耳が生え
ていて、髪と同じように背中にほんの少しオレンジ色の毛が生えて
1440
いる。
そして、お尻の尾てい骨の部分に、小さい尻尾が揺れている。
ちょっと触れると、ビクンとシャロンの身体が跳ねた。
﹁敏感なんだな﹂
﹁敏感なんです、でもご主人様に触れられていると思うと余計にで
す﹂
ふうんと思って、優しくなでさすってみる。
しっとりと艶やかな髪と比べると、乾燥しているがこれはこれで
触り心地がよいものだ。獣人の尻尾というのは、こうなっているの
か。
﹁その尻尾の根本の部分を、強く押してもらえますか﹂
﹁うん、これがどうしたんだ﹂
﹁ああっ、あのご説明しにくいんですけど、獣人の発情スイッチに
なってるんです。だから尻尾を見せるのは恥ずかしいし、獣人の女
は心に決めた相手にしか絶対に触れさせないんです﹂
﹁ほお、ここがそういうツボなのか﹂
人間という種族は万年発情期のようなものだ。それに比べると獣
は、発情期にしか子作りをしない。
そして、その中間の獣人は変わった発情システムを持っているよ
うだった。
シャロンの尻尾に触りたいという俺の欲望は、偶然にしろ正鵠を
射ていたのである。
発情スイッチを入れられて、シャロンは頬をそめている。
1441
﹁こうなったらもう、私は止まりません﹂
﹁止まりませんはいいけど、シャロンはその初めてだろう﹂
誰ともやってないと、最初は大変なんじゃないのか。
シャロンだって急速に成長したのはいいけども、まだ若い。慣れ
るまでは、それなりに時間をかけないといけないものだ。
﹁それなら、痛くてもかまいません。ご主人様の好きなように、む
しろ乱暴に痛くして欲しいぐらいです。私は、奴隷少女たちを出し
抜いてしまいましたから、それぐらいの罰がないと申し訳なくて﹂
ハァハァと息を荒げながら、そんなことを言うシャロン。
﹁その話まだ言ってるのか、俺はお前以外の奴隷少女には元から手
を出すつもりなんかないんだよ。この世界の勇者ってのは相当な者
らしいが、俺は鬼畜になるつもりは毛頭ないからな﹂
﹁でもそれでも、私ばかり幸せになっていいんでしょうか﹂
シャロンがそんなにも後ろめたいなら、俺が罰を与えてやろう。
俺は、シャロンの尻尾を咥えて舐め回した。
﹁ああっ、何をなさるんですか!﹂
﹁フハッ、何をってシャロンが欲しがってる罰を与えてやるんだよ﹂
﹁ご主人様ダメです。汚いです、そんなとこ舐めちゃダメ!﹂
﹁ふっ、シャロンの尻尾が汚いわけがないだろう﹂
﹁ひやぁぁ!﹂
1442
俺は悲鳴を上げるシャロンの敏感な尻尾を舐めまわし、しゃぶり
尽くして、彼女がビクビクと悶絶している間に、済ますことを済ま
せた。
おそらく、痛みを感じる暇はなかったと思う。
※※※
﹁はぁぁ、嬉しいです。これで私もご主人様の正式な妻になれたん
ですね﹂
﹁そうだな、そうなるな。シャロンが最後になってしまって済まな
い﹂
後宮の序列で言えば、シャロンは少なくとも最下位のリアよりは
上のはずなのだ。
正妻のシルエットとまだいたしてない段階で、もう序列とかどう
しようもない感じになっているのは言わないで欲しい。
﹁いえ、私なんか⋮⋮。いや、卑下しちゃダメですね。ご主人様の
妻として恥ずかしくない程度の矜持は持たないと﹂
恍惚な顔をしていたシャロンは、何か悟ったように琥珀色の瞳を
輝かせた。
やっぱり、シャロンは賢い女だ。
ロイヤルファミリー
﹁そうだぞ、俺が言わなくても分かってくれるお前は賢妻だな。奴
隷少女や商会主どころの話じゃなくて、お前も王族の女になったん
だ。それに相応しいぐらいは欲張っていいんだよ﹂
﹁じゃああの、欲張ってもっとしていただいていいですか﹂
﹁もちろん、開いてるときはいつでも相手をするけども、今は駄目
1443
だ。ちゃんと痛みが引いてからな﹂
破瓜の直後に痛みをなくそうと回復ポーションを使うと、膜がま
た張ってしまうことが多いのだ。
元の形状を回復するというのも良かれ悪しかれである。魔法は決
して万能ではなく、自然の回復に任せるしかないことも多い。
﹁はい、じゃあその代わりにたくさん抱きしめてください﹂
﹁うん、いい子だなシャロンは﹂
俺は、シャロンに優しくキスをしてたっぷりと愛撫してやった。
﹁あの、できるといいですね﹂
﹁ん?﹂
﹁ご主人様の赤ちゃんです﹂
﹁そんなすぐにできるもんでもないだろう﹂
いやそんなこともないのか。
この世界の獣人の生態を俺はよく知らない、もしかしたらファン
タジーだからすぐにポコポコできるのか!
⋮⋮なんてな。俺だって多少は論理的思考ができるから、そうで
はないと分かっている。
もし人間よりも多産で産まれるスピードが早ければ、世界はもっ
と獣人だらけになっているはずだ。
人間と同じか、違いがあったとしても、多少は安産が望める程度
のものだろう。
何かよっぽど差し障りがあるなら、先生が説明してくれてるはず
1444
だし、それがないということはそんなに変わらないってことだ。
﹁そうですね、でも期待しちゃいます﹂
﹁シャロンは子供好きなのか﹂
家事も裁縫もできて、お姉さんとしても、よく奴隷少女の面倒を
見ているからな。
まあ、子育ても好きといえば好きなタイプなのかもしれない。賢
妻なだけじゃなくて、賢母でもあるわけか。やはり、理想的な妻だ
な。
﹁好きですね、ご主人様との子供ができたらと思うと、それだけで
蕩けちゃいます﹂
﹁じゃあ蕩けてくれシャロン。いずれはそうなるだろうし、そうな
ったら子供には一人につき一店舗ずつ支店を任せるというのもいい
な﹂
シャロンはホへッとした顔をして、ほんとに蕩けてしまった。
﹁じゃあ頑張って、世界中の街に支店を作らないといけませんね﹂
﹁うん、まあ頑張ろうな⋮⋮﹂
シャロンは、キラキラと琥珀色の瞳を輝かせている。どんだけ作
るつもりだよなんて野暮なことは言わない。
こんなのは寝物語の冗談だろうから⋮⋮。
冗談だよね?
1445
110.主を失った守護騎士
ハーレム
リアルファンタジー
後宮だなんだと浮かれていた俺のところに、ゲルマニアの帝都ノ
ルトマルクから使者がやってきた。
そろそろ来るとは思っていたよ。この酷幻想が勇者を安穏とさせ
てるわけないよな。
しかし、ゲルマニアからとは意外だった。
てっきり次のトラブルは、南方の地方貴族絡みだと思ってたのに
な。
王城の謁見の間に招いて話をすることにした。
隣にはシルエット女王が座っているが、俺も玉座に座っている。
金箔が貼られて装飾は立派だが、正直なところあまり座り心地の良
い椅子ではない。
﹁お久しぶりでございます。その節はお世話になり申した﹂
﹁守護騎士、ヘルマン・ザルツホルンか。久しいという程ではない
がな﹂
正確には、今は亡きフリード皇太子の元守護騎士と言うべきか。
角刈りの巌のような巨体の騎士だ。﹃鉄壁の﹄ヘルマンの盛名は
顕在であろうが、確か帝都ノルトマルクは叛徒の手に落ちたと聞く。
そうすると今の彼の地位は、亡国の騎士ということになるのかな。
オリハルコンの大剣を持ったルイーズとまともに渡り合える実力
者なので、もしフリーランスならスカウトしたいところだ。
1446
﹁シレジエの勇者様におかれましては、この度は王将軍閣下と御成
あそばされたそうで、恐悦至極に奉りまする﹂
﹁鉄壁のヘルマン、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。用向きを話して
いただきたい﹂
﹁さすれば、私は皇帝コンラッド陛下の使いとしてまかりこしまし
てございます﹂
﹁コンラッド陛下は無事だったのか、帝城が落ちたと聞いたが﹂
何度も言うが、ゲルマニア帝国は四分五裂したあげくに帝都では
クーデターが起こっている。
老皇帝からの使者が来るということは、どこかに無事に逃げ延び
たということだろうか。
フリードとはもうそれこそ戦いまくったが、その親帝であるコン
ラッド陛下に恨みがあるわけではない。
コンラッド帝は、勇者にまで成った英雄で立派な名君であったと
聞くし、ぶっちゃけ耄碌して息子に無茶苦茶されたと聞いたから、
同情していたぐらいだ。
﹁いえ、陛下は逆賊の手に捕まって、帝城の奥に囚われの身となっ
ております。しかし、私はその前に、陛下よりシレジエの勇者様に
これをお渡しするように頼まれました﹂
ヘルマンは、背負って運んできた大きな木箱を開いて、俺の前に
差し出す。
なるほど、フリードが使っていた﹃オリハルコンの鎧﹄か。
﹁綺麗に修復してあるようだが、手甲がないな﹂
﹁手甲の部分だけは、逆賊に奪われてしまいました。奪え返すこと
1447
も不可能でしたので、申し訳なく﹂
﹁いや、いいよ。ご好意は受け取ろう。つまり、この鎧を手土産に
俺に何かさせたいことがあるのかな。たとえば、ゲルマニア帝国に
味方しろとか﹂
﹁いえ、そのようなことはございません! 叛徒の鎮圧は私どもゲ
ルマニア帝国の臣下が果たします。これは、陛下のせめてものお詫
びの印なのです﹂
﹁なるほど、詫びか⋮⋮﹂
﹁さよう、私個人としてはシレジエの勇者様に手をついて地に額を
こすりつけてでも、陛下の救出をお願いしたいところですが、これ
以上の迷惑をおかけするなとの陛下直々のご下命ゆえ﹂
老いたとはいえ、老皇帝コンラッドは高潔な人のようだ。
世界に一つしか現存しない﹃オリハルコンの鎧﹄は、何らかの助
力を求める交換条件の材料になりうる。
少なくとも、売ればかなりの金になる道具だ。それを無償で寄越
すとは。
自分が捕らえられている窮状にありながら、それでも息子の不始
末の詫びを優先する。そういう男なのだろう。
俺のあまのじゃくな性格を知っててやってるなら相当な巧手だけ
どな。
詫びは受け取れ、助けはいらない。老皇帝にこちらの度量を試さ
れているような気持ちにすらなる。これは、助けるなと言われても
助けたくなってくるね。
﹁わかった、ヘルマン・ザルツホルン。ここでしばらく待っていて
1448
くれ。ちょっと相談したいことがある﹂
﹁いや、しかし私はすぐにでも帰って陛下を敵の手よりお救いせね
ば!﹂
﹁まあまあ、救援が無理でも飛行魔法が使える者に送らせるし、そ
の方が早いだろう。悪いようにはしないからしばらく待っていてく
れ﹂
俺は、ヘルマンを待たせると、謁見の間の隣の控えの間で先生と
協議に入った。
﹁⋮⋮というわけで、俺としては老皇帝を助けたいと思うんですが、
先生はどう思われますか﹂
﹁そうですねえ、一つ言えることは、こっちの軍は出せません﹂
介入するとゲルマニアのクーデター軍と戦争になるからとか、そ
んな理由ではなく。
南方の地方貴族への警戒、トランシュバニア公国やランクト公国
への防衛もおそろかにするわけにはいかないので、目一杯だそうな
のだ。
﹁じゃあ、俺が個人的な義侠心で助けにいくならどうでしょう﹂
﹁そうですねえ、そのあたりですかね﹂
おや、先生は無謀なことはするなと反対するかと思ってたのに。
意外そうな顔をしている俺を眺めて、先生は面白そうに微笑んだ。
﹁信頼しているんですよ。今のタケル殿を倒せる人は旧帝国にはい
ません。オラクルとカアラを護衛に連れていけば、滅多なことには
ならないでしょう。ただ⋮⋮﹂
1449
﹁ただ?﹂
﹁ランクト公国に立ち寄って、エメハルト公爵に了解は取っておい
てください。いい機会ですから、もう一度顔合わせして関係を強固
なものにしておくのも良い。本気で老皇帝を助けだすおつもりなら、
諸侯連合は逃げこむ先になるでしょう﹂
呼べば来る。というか、呼ばなくてもこういう会議にはかならず
首を突っ込むカアラが、やっぱり影から出てきて、先生の策謀に口
を挟んだ。
お前、いい加減に軍師キャラ諦めたほうがいいと思うぞ。
﹁ちょっと待って、さっきの﹃鉄壁の﹄とか言うおっさんは言わな
かったけど、囚えられてるのは、死にかけの皇帝だけじゃなくて八
歳の皇孫女もいるのよ。か弱いお姫様とか、国父様は絶対助けちゃ
うでしょ﹂
﹁お前が俺の行動を予測するな﹂
まあ、当たってるとはいえる。
しかしなんでヘルマンは、皇孫女のことを黙っていたんだ。言っ
たら、逆に俺が助けないと思ったんだろうか。
﹁カアラの言うことも、まんざら的外れではありませんね。皇孫女
が残るのは、いずれ我々がゲルマニアを支配する障害になる可能性
もあります﹂
﹁でしょう﹂
ゲルマニア事情にも詳しいカアラは自慢げに、中途半端な脳みそ
と一緒の大きさぐらいの胸を張る。
いやこいつ、地頭は悪くなかったな、魔術の才能に限れば天才的
1450
でもある。自分の志向と能力が、微妙に噛み合ってないせいで残念
な感じになってるだけか。
﹁でも、クーデターを起こしたという部隊長が、割と厄介な強敵に
なりそうなんですよね。そんな敵の手に老皇帝や皇孫女という統治
の正当性が置かれてるよりは、こっちの手の内に置いたほうが都合
がいいでしょう。⋮⋮邪魔なら消せばいいし﹂
最後にぼそっと先生が呟いた言葉に、カアラはズズッと引いてい
る。
魔王復活を企んでた魔族がドン引きするなよと思ったが、よく考
えてみると最上級魔術師のカアラもいつ先生に消されるかわからな
い立場だしな。
先生の邪魔にならんように気をつけろ。
﹁違うわよ、国父様! アタシはビビってなんかないですからね﹂
﹁はいはい﹂
﹁この人間の軍師はね、えっとえっと、策略に女を持ち込んでる!
女子供を殺すとか言っといても、国父様が止めてくれるから平気
だと思って甘えてるんだわ﹂
﹁うんうん、そうだね﹂
ガチ
いまさら言わないけど、先生殺すべきと判断したときは本気で殺
すからね。
正当な理由なしに、止められるとは思えないな。
﹁君主が言いにくいことを先回りして提案しておくのも、軍師の勤
めですからね﹂
1451
先生は余裕の表情で、魔術師ローブをなびかせて短い杖を振るっ
た。
軍師としての格の違いがでたな。
と、そこにシルエット女王が入ってきた。
そうだこっちにも断っておかないと。
﹁タケル様、皇帝陛下を助けに行かれるんですね﹂
﹁はいすいません。城を留守にしてしまって﹂
﹁いいえ。ここは快く送り出すのが良き妻でありましょうから。そ
のために女王になったのですから、妾が留守をお守りします﹂
﹁俺は良き妻を持ちました﹂
﹁でも、できるだけ早く帰ってきてくださいね﹂
こちらが本音だろう。俺は頷くと、抱きしめてキスをした。
しれっとした顔で、先生が見てたので、もちろん平等に先生にも
行ってきますの接吻する。妻にはそれぞれ挨拶しておかないといけ
ないね。
﹁あの国父様⋮⋮﹂
カアラが複雑そうな顔で見ている。
こういうのは人に見せるもんじゃないな、気恥ずかしい。
﹁カアラ、今回はお前たちの飛行魔法が頼りだから頼むぞ﹂
﹁はい、頼まれました!﹂
やけに嬉しそうだったので、タクシーがわりだなという言葉は飲
1452
み込んでおく。
俺の﹃ミスリルの鎧﹄は全抵抗の魔法が便利だし、思い入れもあ
るから、もらった﹃オリハルコンの鎧﹄は、ルイーズにでも着せて
おこうかと思う。
またルイーズの戦闘力が強化されてしまうな。
※※※
﹁ちょっとお待ちを、これを持って行ってください﹂
では旅立とうと、城の外に出るとリュックサックを抱えて持って
きた先生に呼び止められた。
受け取って中を確かめると、魔法銃の弾薬がたくさん入っている。
﹁弾薬、こんなに要りますかね﹂
﹁タケル殿、よく考えてくださいね。ゲルマニアの帝都で光の剣を
振り回したら、シレジエの勇者が来訪したって宣伝するようなもの
でしょう﹂
﹁なるほど、それは対外的にマズいですね﹂
四分五裂してるゲルマニアの情勢は流動的だ、帝都のクーデター
軍を完全に敵に回してしまうのは、現段階ではなるべく避けた方が
いい。
基本的に、隠密活動というわけか。
﹁はいまあ、危なかったらしょうがないですけど。魔法銃の良い訓
練になるとも思います。まあ、金貨を詰めて撃つような銃なのであ
んまりパンパン使われるのも困りますが。ねえ⋮⋮軍備増強してて
1453
良かったですよね﹂
ちょっと可愛らしく言い添えられたぞ。さり気なく、もっと予算
をよこせとアピールされているのかこれ。
さすが先生は抜け目がない。
﹁ありがたく使わせてもらいます﹂
﹁あーだったら国父様、アタシもプレゼントします﹂
カアラがくれたのは、最近あまり着てるのを見ない黒ローブだっ
た。
確かにこれなら目立つミスリルの鎧も覆い隠せるし、フードを目
深にかぶれば隠密行動には持って来いだろ。
﹁あーこれ、カアラが前に、隠形の魔術師を気取ってたやつか﹂
﹁国父様、過去の黒歴史みたいな言い方やめていただけますか。ア
タシは今も隠形術の専門家です。このローブ自体にも微量ながら隠
形の魔法効果がありますから、マント代わりにでも羽織っておけば、
目立たないで済みますよ﹂
ふむ、悪くないな。サイズもピッタリだ。
よく使い込まれて少し色落ちした漆黒のローブの風合いもカッコ
いいし、肩口で留めて鎧の上から外套のように羽織うとよく似合う。
ドリフ・ガンナー
異名もなんか考えるか。流離いの黒銃士とか。
眠っていた中二の血が久々に騒ぎ出してきた。
﹁しかし、貴重なアイテムを貰って悪いな。これカアラには結構大
事なローブなんだろ﹂
﹁大丈夫ですよ、同じ黒ローブがあと三着あって着まわしてますか
1454
ら﹂
そうか、なんか黒歴史というより、貧しいファッションセンスを
暴いてしまったみたいで少し気まずい。
せめて色違いとかにすればいいのに。男じゃないのになんで黒に
染まるのだ。
こいつら魔族は、ローブ脱いだら水着っぽい肌着しかないし。
そのうちに、カアラにも、なんかまともな服を着せてやろうと思
う。
1455
111.空を飛ぶ守護騎士
さて、空をぶっ飛んでランクト公国まで急ごうと、カアラに抱え
て﹃鉄壁の﹄ヘルマンを、持ち上げさせたら。
﹁ぬぉおおおおぉぉおおおお!﹂
野太い悲鳴を上げて、ギブアップされたので困る。
仮にも恐れを知らぬ近衛不死団のトップだった男だろうに、高所
恐怖症だったとは。
﹁なんだ、世界最強クラスの守護騎士が意外な弱点だな﹂
﹁む、無理です。人は空を飛ばぬものなれば﹂
こういう恐怖は、理屈ではないのだろう。
しょうがないので、大きな籠に乗ってもらって、それを前と後ろ
でオラクルちゃんとカアラに持ってもらって飛ぶことにした。
本当は抱きかかえて飛ぶほうが早いんだが、怖いというものは仕
方がない。
﹁シレジエの勇者様、これ墜ちたらどうなります﹂
よっぽど空の旅が怖いのか、﹃万剣の﹄ルイーズと渡り合っても
沈着冷静だった男が、いつになく青い顔をして額から冷や汗をダラ
ダラ流している。
慰めてやったほうがいいのかな、でも本当のことだからしょうが
ないか。
1456
﹁まあ、普通に死ぬかなあ﹂
﹁ぬぉおおおおぉぉおおおお!﹂
それを聞くと、またひとしきり叫んだヘルマンは、ある瞬間、観
念したように座り込むと、目を瞑りランクト公国に到着するまで一
言もしゃべらなかった。
おお、空が怖くても我慢できるのは、さすがに守護騎士だ。瞑想
して精神世界に逃げたのかもしれない。
ずっと空中浮遊で座禅し続けていたヘルマンは、おそらく着く頃
には、なんらかの悟りに到達したと思われる達観した顔つきをして
いた。
まあ、具体的に言うと眼が向こうの世界にいっちゃってた。
血の気の引いた青白い顔で、地面を踏みしめて﹁自然、地面、自
想⋮⋮﹂とかわけのわからないことを呟いている。
早く帝都につかないと、新しい宗派のアーサマ教会の神官が誕生
してしまいそうだ。
まあ、それはそれとして、空の旅は速くて快適だ。
人間の飛行魔術と魔族の飛行魔術を併用できる天才カアラもさる
ことながら、オラクルちゃんの方はあれだ⋮⋮俺の精気をたっぷり
食ってるから、飛ぶのが速い速い。
白い漆喰壁と赤煉瓦の大都会ランクトの大広間に降り立ち、今日
は観光している暇もなくランクト公の城を訪ねる。
市民が飛んできた我々を指さして騒いでるが放って置く、俺は隠
形の黒ローブ着てるから目立たないしな。目立つのは、巨漢の騎士
ヘルマンだ。
1457
それにしても何度見ても、豪華な城だと思う。
ランクト家は、格式の上では帝国公爵なので宮殿と呼ぶわけには
いかないのだが、どこの王の宮殿よりもラグジュアリーな城といえ
る。
広い玄関ホールの床には、白と灰色の斑の大理石が幾何学模様で
タイル貼りにされており、中央を進むと赤い絨毯が敷かれる謁見の
間へと続く。
玄関の左右には、幅広い階段があって上階はランクトの街が遠望
できるバルコニーへと続いているのだ。
ところどころに、さり気なく配置されている美術品のコレクショ
ンは、ため息が出るほど高級感の漂う作品ばかりだ。
ひねくれ者の俺が見ても面白いと思えるような、プリミティブな
陶器の置物や、異国情緒溢れるユニークな作品も混じっている辺り、
主人のセンスの良さを伺わせる。
この城は、ユーラ大陸の東西南北の文化が集まる、ひとつの美術
館にもなっているわけだ。
木工細工の技術にも見るべきものがあるので、柱に彫られた模様
ひとつ見ても唸らされる。趣味にどんだけ金かけているんだろう。
﹁シレジエの勇者様、これはようこそいらっしゃいました﹂
セネシャル
いつも姫騎士エレオノラのやらかした後始末で忙しい銀髪の老紳
士、執事騎士カトーさんが出てきた。さすがにここでは隠密を気取
セネシャル
ってるわけにもいかないので、フードをあげて挨拶する。
今日の執事騎士は、いつもの威厳のある頬を緩めて、珍しく穏や
かな顔をしている。
1458
﹁あれ、カトーさんが居るってことは、エレオノラは暴れまわって
ないってことかな﹂
﹁最近は我が領内も荒れておりますから、姫様は自ら兵を率いてモ
ンスター退治や暴徒の鎮圧に領内を駆けまわっております﹂
﹁うーん、大丈夫なのか﹂
﹁ハハハッ、シレジエの勇者様が相手ならともかく、下等なオーク
や野盗崩れ相手に﹃ランクトの戦乙女﹄が遅れを取るはずもござい
ません﹂
﹁いや、それめっちゃ心配なんだが﹂
﹁と、言いますと?﹂
リアルファンタジー
カトーさんが不思議そうな顔で聞いてくる。いや、俺もなんとも
言えないが、何となくね。
まあ姫騎士がどうこうって妄想は、酷幻想には通用しないから大
丈夫かな。
﹁いや、なんでもない。エレオノラは良いとして、エメハルト公爵
はご在宅かな﹂
﹁ハッ、ただいまお取次ぎいたします﹂
玄関ホールで、歴代のランクト公の肖像画を見て待っていると︵
代々、大金持ちの美形一家なんだよなここ、なんで末代が姫騎士に
なってしまったのか︶柔らかい金髪で、透き通った碧い瞳の公爵が
やってきた。
均整の取れた細面の美しい顔立ちに豊かな髭、ここまで決まって
ると嫉妬する気も起こらないハンサムな公爵は、ふらっとやってく
るといきなり俺の足元に跪いた。
1459
﹁これは、シレジエの⋮⋮いえ、王将軍閣下! お呼びくだされば
こちらから出向きましたものを﹂
ふわっと、上質な絹の長衣を浮かせて片膝を突く姿も優美だった
ので、思わず黙って見送ってしまったが、慌てて立ち上がらせる。
﹁いやいや、エメハルト公どうなされた﹂
﹁もはや我らは、王将軍閣下の臣にも等しい立場です。臣下の礼を
示したまでのこと﹂
その割には、カトーさんは普通の対応だったなと思って見たら、
カトーさんも跪いている。
そりゃ、君主がそうしたらしなきゃいけないわな。
前と対応が違いすぎてこっちが驚くよ。
このランクト公の変わり身の早さ、清々しささえ感じる。さすが
帝国と王国に挟まれて、豊かな公国を保ってきただけのことはある。
あるいは、頭を下げるのはタダってことかもしれない。この人は、
直情的なエレオノラとは比べ物にならないぐらい強かだから気をつ
けないと。
ゲルマニア帝国が敗北してからのエメハルト公の身の振り方は、
お手本にしたいほどに巧みだった。
用済みになった帝国の資金協力の要請を蹴って、諸侯連合を率い
て帝国から分離独立させた後に、すぐさまシレジエ王国の保護下に
入ったのだ。
保護領となれば、シレジエの友好国であるローランド王国からも
1460
トランシュバニア公国から攻められる危険もないし、ライフライン
であるツルベ川の交易を再開できる。
戦中の物資不足と、戦後の決済通貨不足のダブルパンチで荒廃し
た旧帝国の所領で、いち早く治安を回復できたのはエメハルト公の
治めている地域だけだ。
﹁とりあえず、話しにくいんで普通にしていただけますか﹂
﹁閣下がそうお望みであれば、僭越ながら﹂
ようやく立ち上がってくれたよ。
とにかく、相談があるんだと公爵に説明する。俺が、帝国では有
名な﹃鉄壁の﹄ヘルマンを連れていることで分かるだろうけど。
豪奢な異国風の絨毯が敷き詰められている、大理石造りの絢爛な
謁見の間に通された。
もちろん、こっちを上座に置いてくる。堅苦しいと話し辛いのだ
が、会談自体はスムーズに終わった。
けんどおう
﹁帝都の叛徒をまとめて新皇帝を名乗っている拳奴皇ダイソンには、
何度か使者を送りましたがみんな斬り殺されました。どうせ敵に回
っている相手ですから、諸侯連合は老皇と皇孫女の救出に協力して
もかまいません﹂
﹁えっと、拳奴皇?﹂
エメハルト公は、そこから説明しなけれなばらないかと笑う。
﹁拳奴の皇帝とは、まったくふざけた尊称ですが⋮⋮帝都には伝統
ボクシング
的に拳闘士と呼ばれる奴隷がいます。私などは野蛮な風習で好きに
なれぬのですが、帝都の人間はコロシアムで奴隷に拳闘をさせるの
がとかく好きなのです﹂
1461
﹁なるほど、古代ローマの剣闘士みたいな娯楽を、この時代にまだ
やってるのか﹂
剣で殺しあわせるよりは、拳闘で戦わせるほうがまだマシな気も
するが、奴隷だからなあ。どうせ盛り上がったらデスゲームになる
んだろう。
﹁拳奴は、殴り合わせるために使う奴隷です。捕らえた老皇帝から
禅譲を受けたと主張するダイソンは、拳奴より成り上がった皇帝と
自称しているのです﹂
﹁末期だな﹂
古代ローマでも、剣闘士の反乱はあったと歴史で習ったが、王に
はなれずに鎮圧されたはずだ。
拳闘士の奴隷が、皇帝になれる時代。下克上どころの騒ぎではな
い。こりゃもう、国の滅びだ。
﹁シレジエ会戦のおりに、手薄になった帝国の防衛に使うため、牢
獄から出した犯罪者部隊や、奴隷だった拳闘士を集めた部隊を作り
ました。治安維持のための急場しのぎの措置でしたが、それが間違
いの始まりでした﹂
﹁なるほどよくある話だ。そのあとどうなったかは、だいたいわか
る。犯罪者や、拳奴が反乱を起こしたんだろう﹂
その通りですと、エメハルト公は頷く。
いま、帝都は蜂起を起こした市民・奴隷・犯罪者、それに地方の
農民反乱軍が加わって帝都の正規軍を打倒に成功して、無秩序状態
になっているとか。
そして、帝国から離反した東のラストア、トラニア、ガルトラン
1462
トの三王国連合、旧領回復を狙って攻めてきている南のローランド
王国にも対抗しなければならない帝国軍の残存は、もはや国内で頻
発する反乱を抑える力を残していない。
帝都より引いた旧帝国軍は、帝都より北西の要塞街ダンブルクに
まで撤退して、捲土重来を狙っているそうだ。
﹁拳闘士のスター選手であり、拳闘士部隊の部隊長であった拳奴皇
ダイソンは、元が奴隷ですから、私達のような歴代の貴族は嫌いみ
たいですな。小癪にも、反乱を起こした東の三大王国とは上手くや
っておるようですが﹂
﹁老皇帝と皇孫女を救い出すのに成功すれば、こっちに保護を頼む
かもしれない﹂
そう俺が言ったのを聞くと、エメハルト公は、再び跪いた。
それ、やめてくれないかな、なんかトランシュバニアの公王を思
い出す。あっちは土下座だったけども。
﹁元を正せば我々も帝国臣民、ご協力は惜しみません。しかし、王
将軍閣下の御意ならばこそです﹂
﹁分かっている。ゲルマニア諸侯連合は、もはやシレジエ王国の保
護領だ、拳奴皇とやらが万が一攻めて来ても、王国は援助する。そ
うだ、ガラン傭兵団は役に立ってるか﹂
戦争が終わって、処遇に困っていたガラン傭兵団だったが。
諸侯連合が、内乱の治安悪化で兵が足りずに困っていると聞いた
ので、こっちに就職斡旋したのだ。
﹁はい、大変助かっております。我が公国もですが、ツルベ川周辺
の諸侯連合の兵は帝国と比べると弱卒です。そこで、王将軍閣下に
相談があるのですが⋮⋮﹂
1463
﹁なんだ﹂
少し言いにくそうにする、エメハルト公を立ち上がらせて尋ねて
みる。
﹁王将軍閣下の、いえシレジエの勇者の御盛名をお借りして、こち
らでも義勇兵を募集してみてはいかがかと愚考いたします﹂
﹁それは、こっちとしてはありがたいが、大丈夫なのか﹂
貴族や騎士は、農民が武器を取るのを嫌う。義勇軍の募兵は、シ
レジエ王国でも地方貴族の領土では行えていない。
特権階級だけが、暴力装置を握っていることが、彼らの権力の源
泉なのだから反発は当たり前だ。
まして、帝国は農民反乱で荒れているのだ。
そこで農民から募兵しようと言うのは、並大抵の決断ではない。
﹁帝都を落としてしまった市民、農民の力を見て、もはや時代には
抗えぬかなと思いました。我が領からもシレジエ義勇軍に参加する
民もおります。それぐらいなら、いっそのこと我が領で直接募兵し
て、郷土の防衛に使ったほうが良いとも考えました﹂
﹁そうか、ではエメハルト公の思うようにすると良い﹂
やはり、エメハルト公は先を読む力がある。
他の諸侯には、彼が説得して領内で義勇軍を集めるそうだ。防衛
強化されるのは、俺としてもありがたいので協力することにした。
名前だけと言わず、人とノウハウと武器を送って、その分の対価
はしっかりといただけば一石二鳥というものだろう。
﹁王将軍閣下、せっかくのですのでご夕食を一緒にいかがですか。
1464
せつじょ
もうすぐ、我が拙女も帰ってきますので﹂
拙女って、娘のエレオノラのことだろうな。
拙い女、うむ。謙遜で言ってるのか、本気で言ってるのかいまい
ちわからないぞ。エレオノラは、いろいろと拙い。
﹁どうなんだろう、ヘルマンは先を急いでいたんじゃないか﹂
﹁いえ、勇者様のお陰で時が稼げておりますから、一晩ぐらいであ
ればかまいません。正直な所を申さば、帝国軍は賊徒相手にかなり
苦戦しております。ご協力いただけるならば、ランクト公とも協議
したいこともございますれば﹂
ヘルマンがそう言うなら、まあいいだろう。
エメハルト公爵たちが、どんな晩餐を食べているのか気になると
ころではある。
しかし、泊まりってことになるのか。
まあ夜間飛行は、危険だしな。
など思いながら、通された応接間で芳醇で味わい深い紅茶を飲ん
でくつろいでいると、外から甲冑をドスンドスンと鳴らす、けたた
ましい足音が響いてきた。
あんな勢いで来ては、高級な絨毯が傷つくのではないか。
慌てて追いかけてくる執事騎士カトーさんを引き連れて、勢い良
く扉をバターンと開けて入ってきたのは、﹃炎の鎧﹄で完全武装の
エレオノラだ。
どうやら、野盗討伐でクッコロになることもなく無事に戻ってき
たらしい。
1465
﹁エレオノラ久し、ブッ!﹂
立ち上がって挨拶しようとした俺は、最後まで言えなかった。
長い金髪と緋色のマントをなびかせたエレオノラが、駆け寄って
くるそのままの勢いで、俺の腹に炎の手甲パンチを繰り出したから
だ。
なんて鋭い不意打ちだ、黒ローブの下の﹃ミスリルの鎧﹄が無け
れば即死だった。
おもいっきりお茶、吹いちまった。
人の腹を挨拶代わりに殴りつけておいて、エレオノラはニヤッと
いい笑顔で仰向けに倒れる俺を、碧い瞳で見下ろして言い放った。
﹁ご結婚おめでとうございます﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
相変わらず苛烈な女だった。
1466
112.姫騎士再び
﹁姫様、いきなり何をなさるんですか!﹂
セネシャル
執事騎士カトーが、血相を変えて間に飛び込んでくる。
せっかく穏やかな顔をしていたのに、やっぱりこの銀髪の老紳士
の苦労は死ぬまで絶えないらしい。
﹁結構な、ご挨拶だったなエレオノラ⋮⋮﹂
俺の言葉に、エレオノラは勝ち誇った様子で燃える手甲を見せつ
けた。
いきなり殴りつけた釈明などないのだ、分かってたけど。姫騎士
が口を開かなくても顔を見ただけで、﹁斬られないだけマシと思い
なさい﹂とか考えているとすぐわかる。
本当に、姫騎士なんてとんでもない存在と、嫌な感じに因縁浅か
らぬ仲になってしまったものだ。
こういうことは、後悔したときには遅い。
﹁ゆ、勇者様申し訳ございません。最近は大人しかったもので姫様
の粗忽は治ったと思って油断しておりました! このカトー、一生
の不覚でございます﹂
カトーさんが直立した姿勢から、ものすごい鋭角な角度で頭を下
げた。斜め七十五度だ。
年寄りとは思えない身体の柔らかさに圧倒されて、俺は即座に姫
騎士の無礼を許すことにした。
1467
﹁いや頭をあげてくれカトーさん、姫騎士にこうされるのは初めて
ではない﹂
本来ならとんでもない外交問題のはずだが、思えば俺も敵同士だ
ったころに暇つぶしにエレオノラを散々いたぶったこともあったし
な。
出会い頭に一発をもらっても、しょうがないと言える。
﹁あら、殴り返してもこないし、文句すら言わないのね。さすが王
配に成られたお方は寛大と言ったところかしら﹂
﹁エレオノラ、いい加減にしないか﹂
エレオノラの父親のエメハルト公が、後ろから窘めた。
さすがに、父親に怒られるとお転婆姫もバツの悪そうな顔をして
いる。
﹁王将軍閣下、申し訳ございません。我が娘は甘えておるのです。
閣下が、結婚したのが気に食わない様子で﹂
﹁なっ! お父様何を言ってるんですか、そんな嫉妬に狂った女み
たいな、全然違います。私と勇者は、宿命のライバルで!﹂
さっきまでいい笑顔で人の腹にパンチを繰り出していた公姫が、
顔を真赤にして父親に食って掛かっている。
いつからエレオノラと俺は宿命のライバルになったんだ。
﹁ハハハッ、意地っ張りなお前のことは、お父さんがよく知ってる
からな﹂
﹁もう、お父様は全然分かってらっしゃらないわ!﹂
1468
俺の疑問を他所に、やたら美形な父と娘は、じゃれあっていた。
切れ者のエメハルト公は、ダメ娘の前になると途端に威厳がゼロに
なって、ただのダメな父親になる。
そこに時折、執事のカトーさんが口を挟んで、場を和ませる。
俺と、守護騎士ヘルマンは、しれっとした顔で見ているだけだっ
た。
このアムマイン公爵家の安いホームドラマをほどほどで止めて、
早く夕食にして欲しいんだが、客の立場では言い出すこともできず。
俺たちは、アンティークの置物の一部みたいに無口なメイドが、
何杯でもおかわりを淹れてくれる紅茶を、口の中が渋くなるまで飲
み続けるしかなかった。
※※※
ようやく夕餉の時間となり、ランクト城の食堂に通される。
さて、見せてもらおうか大富豪のディナーとやらを。
アーチ型の大理石の柱が壮麗なホールに立ち並び、天井の黒くて
ずっしりとしたオーク材の欄干に支えられている。
縦溝彫りのクリーム色の壁には、突き出し燭台が立ち並び、昼間
ともしび
とほぼ遜色がないほどに明るく煌々と辺りを照らし続けている。
シビライゼーション
文明は、受け継がれていく灯火という言葉がある。
だとすれば、眩いばかりに美しい絢爛豪華なランクト公の城こそ
が、この世界における最も優美な文明の灯火なのではないだろうか。
こんなだだっ広いダイニングホールで食事なのか、落ち着かない
なと心のなかで悪態つきながらも。
1469
シレジエの王城ですら足元にも及ばぬ栄華には、どうしても圧倒
されてしまう。この豪奢を作り維持していくのに、どんだけ手間と
金がかけられているのか。
しかも、見せびらかすようなところがない。貴重なマホガニー材
の机にしても、そこに並べられた、白磁器の皿や、銀の燭台や食器
に至るまで、ごく自然なのだ。
例えば夜中にも煌々としたコンビニの明かりに驚かされるのは、
田舎者だけだろう。輝きに満ちた生活を送るランクト公爵とその娘
は、この世界における洗練された都会人なのだ。
だだっ広いホールで、俺とヘルマンとオラクルちゃんとおまけに
カアラ、あと公爵家の父娘。六人での食事だが、メイドや執事たち
がたくさんいて給仕してくれるのでまったく寂しい感じはしない。
ホールの奥にある、はめ込み式の暖炉のマントルの上に掲げられ
た、ランクト家の緋色の鷹の紋章を見て、俺はため息をついた。
毎回来るたびに、ランクトの街の文化を少しでも吸収してやろう
とは思うのだが。
こんな金をかけた豪奢なやり方は、もったいなくて真似できない
な。
もちろん、無駄金を使っているわけではない。エメハルト公が、
芸術・文化に湯水のように金を使うからこそ、ユーラ大陸中の芸術
家たちがこぞってこの街に集まり、その結果として都市で花開いた
しゃし
芸術・文化が、また世界に循環して金を生むのだ。
これは単なる奢侈趣味ではない、きちんとした投資なのだ。
しかしそれは、百年単位でやらないと利潤を生まない投資である。
そこら辺も含めて、真似できぬことだ。代々の貴族権力は腐敗の
1470
原因にもなるが、芸術・文化の守り手としての役割をきちんと担っ
ているとも言えるのだろう。
さて、料理だが。てっきりずらずらと豪華な料理が並ぶのかと思
えば、まずメイドに飲み物は何が欲しいかと聞かれる。
﹁えっと、何があるんですか﹂
﹁なんでもお好きなモノを﹂
居酒屋さんみたいだが、メニューはない。
エール
つまり、なんでも出せると言っているのだ。
ミード
ワイン
俺は蜂蜜酒を、ヘルマンは冷えた麦酒を所望する。オラクルちゃ
んたちは、葡萄酒を頼んでいた。
すると待たされることなく、口当たりのよい飲み物が、摘みの胡
桃のビスケットやひよこ豆を炒ったものと一緒に出てくる。
前菜には同じサラダとポタージュが出てきたが、メインの料理も
やはり自分でセレクトできるらしい。
なるほど、押し付けがましくやたらご馳走を並べられるよりも、
洗練されている。
﹁お食事は、何かご希望のものがございますか﹂
﹁うーん﹂
なんというべきか悩んでいると、エレオノラが﹁勇者は私と同じ
物を食べると良い﹂と言い始めた。
じゃあそれでと言うと、エメハルト公がそれでは粗餐になりすぎ
ると、自分と同じ魚料理を頼んでくれた。
1471
蜂蜜を塗ってケシの実を注ぎかけたヤマメ。
わりと普通の魚料理だなと思ってナイフで身を崩してみると、ヤ
マメの内臓を抜いて詰め物をして味付けしてある手が込んだものだ
った。味も申し分ない。
さて、エレオノラと同じ料理というと、これがまた意外なもので、
ソーセージと黒パンだったのだ。
ゲルマニア地方のごくごく庶民的な食べ物である。もちろん俺の
エ
口にはよく合う。カリッとした食感のソーセージを食べてるうちに、
ール
肉料理系を遠慮無くガツンガツン食べているヘルマンのように、麦
酒が欲しくなって頼んだ。
﹁やっぱりね。王様になったからって変わらないのよ。勇者は、戦
場を常に駆け巡ってるから、こういうものが口にあってるのよ﹂
﹁確かに気取った料理よりは、こんな食事のほうが好きだが﹂
エレオノラはやけにしたり顔で言うので、少し不思議になって聞
いてみると、戦士の修行として、戦場で兵士が食べているのと同じ
物を食べて鍛えているのだと自慢げに言っていた。
この感覚のズレってなんなんだろうな。
﹁エレオノラ⋮⋮﹂
﹁んっ、どうしたの?﹂
ソーセージを旨そうに頬張っているエレオノラに余計なことをは
言わないことにした。きっと本人は、戦場で戦う一兵士を思って、
ワイルドな気分になっているのだろう。
やっぱり、エレオノラはどこでも将軍扱いだから、実際の兵士の
食生活を知らないのだなあ。
1472
兵士だって小麦のパンが食えるときは、わざわざ黒パンを食べた
りしないし、彼らが戦場で食べているパンは、白だろうが黒だろう
が乾燥した硬いパンだ。
しかも粗い石臼挽きだから、小石が混ざっていてガリガリしてい
たりする。
エレオノラに出されているライ麦パンは、丹念に作られた贅沢品
でしかも焼きたてのものだろ。
俺の感覚からいくと、高級ベーカリーでしか食べられないもので、
食パンよりよっぽど高級品だぞ。
しかも、この銀の網の上でジュウジュウと良い音を立てて焼かれ
ているソーセージのほとばしる肉汁、香りの高さはなんだ。
良い豚使ってますねとしか言いようが無いし、香りづけに香草と
ハーブが詰めてあるよな。高価な胡椒もマスタードもふんだんに使
って、その上、焼きたてのソーセージに付け合わせの新鮮なアスパ
ラガスが添えられるとか、戦場食では絶対にありえないだろう。
ふむ、ソーセージも良いが。
﹁もしかして、ベーコンとかもある?﹂
﹁すぐお焼きします﹂
本当になんでもあるんだな。
この分だと、マンガ肉を注文しても出してくるんじゃないだろう
か。
ちなみに俺も作ったことがあるが、マンガ肉は豚の太ももを使っ
た古代のハムの製法だったりする。
もっと言うとオーク肉のほうがしっかりと骨が発達しているので、
1473
骨付き肉は作りやすかったりする。
エール
ベーコンも美味い、故郷で食べ慣れている懐かしい味に舌鼓を打
つ。麦酒も美味いし、こうなるとジャーマンポテトにして食べたい
ところだが、ジャガイモはまだこの世界のゲルマニアには伝来して
いないので残念。
上質なライ麦パンに挟んで食べると、ソーセージやベーコンの旨
味と良くあった。
こんな楽しい食事は久しぶりだ、これも一つの贅沢だなと思う。
エレオノラは戦場食を食べてると自慢気だし、エメハルト公は、
どうしようもない娘の変わった粗餐に付きあわせてしまって申し訳
ないと謝ってきた。彼らは、これで質素な食事をしているつもりな
のだ。
やっぱり、この世界的な富豪の親子はどこかずれていると、食後
のコーヒーと白桃のデザートをいただきながら、俺はため息がでる
思いだった。
﹁王将軍閣下、ふつつかな娘ですがよろしくお願いします﹂
﹁うむ⋮⋮﹂
エメハルト公に、いまさらよろしくと言われても遅いような気が
する。
姫騎士に面倒をかけられるのは、もう毎度のことなのでもう諦め
てるよ。
捲土重来を狙う帝国軍の残党と、諸侯連合の連携について相談す
ると言うので、俺はカトーさんに案内されて、自分に割り当てられ
た部屋に行って休むことにした。
1474
オラクルちゃんが愚図ったが、さすがに他人様の城で精気を吸わ
れても困るので、違う個室で寝てもらった。
客間にしても、立派な部屋を割り当ててもらったものだ。
天蓋付きの豪華なベッドは、確かに一人寝にはちょっと大きすぎ
る。
﹁しかしまあ、単身赴任の寂しさを味わうのも乙なものか﹂
六人もの妻を持つ身だ。むしろ、この久しぶりの孤独感は貴重な
ものかもしれない。
ベルベットのカーテンを開けて、城の窓の眼下に広がる、眠らな
い街ランクトの繁栄を眺めながら、気分を出してみる。
すると、ノックの音が聞こえた。
﹁まさか、専門のメイドが夜伽にくるとか⋮⋮﹂
ちょっと、イケナイ想像を働かせて見たが、そんなわけないな。
部屋を訪ねて来たのは、色気もなにもない﹃炎の鎧﹄に身を包ん
だままの姫騎士エレオノラだった。
﹁なんだ、エレオノラか﹂
﹁なんだとはなによ!﹂
なんだか喧嘩腰だな。いまさら、勝負のやり直しとか面倒なんだ
けどなあ。
もう寝ようと寝間着に着替えたところだったんだが、この城は彼
女のホームなので応対しないわけにはいかない。
1475
﹁それで、どうしたんだ﹂
﹁あんたとは、勝負の決着がまだついてなかったから﹂
やっぱりか。
素直な女だ、どうしてこうも﹃そのまま﹄なんだろうな。何回注
意したかわからないけど、少しはひねってこいよ。ワンパターンす
ぎるんだよ。
﹁しかし、部屋の中で殴り合いはさすがに、ってお前何を脱いでる
んだよ!﹂
﹁はぁ、脱がないとできないでしょう﹂
頬を赤らめながら、﹃炎の鎧﹄を外して見せた。
エレオノラのフルプレートメイルは不思議な構造になっていて、
脱ぐと下は肌着しかつけてないのだ。
いや、ひねれとはいったが、そんなひねり方をしろとはいってな
いだろ!
しかもなんだ﹃できない﹄ってどういうことだ、なにをするつも
りなんだ。
エレオノラが身につけている下着は、網目模様も細やかなデザイ
ンの赤いブラシェールにパンティーだった。
さすがエレオノラお嬢様は、良い物を付けていらっしゃる。なん
て言ってる場合ではない。
﹁あっ、そうか。これはもしかするとモテ期ってやつか?﹂
﹁はぁ?﹂
聞いたことがある、一説に言う、﹃男は結婚するとモテる﹄とい
1476
うアレか!
そうだよなあ、一気に六人の嫁さんができた男が、モテないわけ
がない。
﹁エレオノラも俺の秘められた魅力にメロメロになってるというこ
となのか、これは困った⋮⋮﹂
やばい、どうしよう。単身赴任中に浮気なんて、俺にこんなイケ
ないイベントが起こるとは。
確かに、エレオノラはどうしようもない姫騎士だが、黙って一切
動かなければ美少女とはいえる。このチャンスを⋮⋮いや、チャン
スとか言ってちゃいかーん。浮気はまずい、誘惑には負けてはいか
んぞ。最近俺は調子に乗ってるから、不心得なことをしては絶対反
マーラ
動が来る。これは、明らかに罠、美人局だ。バッドエンドルートだ、
悪魔よ、去れ!
﹁あんた何ブツブツとバカなこと言ってんのよ、私は勝負の続きを
しにきたのよ!﹂
﹁はぁ、勝負ってなんだよ﹂
突然、ストリッパー勝負か。ならお前の勝ちでいいが。
﹁白塔での決闘の続きよ。あんたがくすぐってきて、そこで引き分
けになったじゃない﹂
﹁えっ、お前あれを未だに引き分けと捉えてるの?﹂
何この子怖い。
聞くのが怖いんだが、もしかするとその前の敗北も、スパイクの
街で決闘に負けたのもノーカンにするつもりか。
1477
﹁だって私は、負けましたなんて言ってないもん!﹂
﹁言ってないもんじゃないだろ、お前はあのとき失神しただけじゃ
なく失禁﹂
うわ、まずい。
これは失言したな。エレオノラが、怒りの形相になって拳を振り
上げた。戦闘不可避だ。
﹁うああぁぁぁあああ、それは忘れろぉぉ!﹂
ボクシング
羞恥に顔を真っ赤にした、下着姿のエレオノラが、殴りかかって
きた。
勝負はいきなり、真夜中の拳闘へと移行したようだった。
1478
113.勝負の決着
﹁忘れなさい、忘れろぉぉ!﹂
男前なセリフを叫びながら、俺を記憶喪失に追い込もうと、鋭角
な喧嘩パンチを次々と繰り出してくる下着姿のエレオノラ。
やっかいな﹃炎の鎧﹄補正はもう無いのは救いだが、こっちも寝
ようと思ってたから﹃ミスリルの鎧﹄を脱いでるわけで、素の体力
勝負となると微妙な勝負だ。
なんとか、殴りかかってきたパンチを受け止めたはいいものの、
エレオノラも歴戦の騎士だけあってちゃんと鍛えてるんだよな。
久しぶりの強い力のぶつかり合いに骨がきしんだ、勇者補正がな
かったら秒殺されてるところだ。
エレオノラは、腕の力は強いし、腹筋のあたりも良い締まり方を
している。
そのわりには、ちゃんと胸もお尻も女性らしい張りがあって素晴
らしい身体つきだ。さすがルイーズを目標にして騎士道に励んでる
だけのことはある、中身はともかく肉体だけはお姉さん好きの俺の
好みとはいえる。
ガチ
﹁グググッ⋮⋮本気かよ﹂
﹁勇者! せっかく穏便なやり方で済ませてやろうと思ったのに、
やっぱり私たちはこうなる運命だったようね!﹂
いかん、浮気がーとかそんなこと言ってる場合じゃない。邪なこ
とを考えてるうちに押されている。
1479
エレオノラは、なんかライバル風のセリフを発して、全力で潰し
にかかってきてるし、集中しなければ勝てないぞ。
﹁エレオノラ、男の力に勝てると思っているのか!﹂
﹁私が、どんだけ鍛えたと思ってるのよ。腕力でも負けるものか!﹂
﹁貴様がどれほど鍛えようと! ⋮⋮なんてなっ﹂
﹁きゃぁ!﹂
上から抑えこむように全力で押しまくった後に、すっと身体の力
を抜いて上体をそらしたら、そのまま自分の勢いでエレオノラはベ
ッドに飛び込んでいった。
倒れこんだ先が、壁や床じゃなかったとは幸運なやつだ。まあ、
さすがに城主の姫に怪我させてはまずいので、幸運だったのは俺か
も知れんが。
﹁単純だな、まるで成長していない﹂
﹁あんたって、なんでいっつもそうなのよ!﹂
俺は体術の知識は漫画で読んだぐらいのものしかない。実戦は学
校でやった柔道の受け身を知ってる程度だから、体術勝負ならしっ
かり修行すれば勝てるかもしれないのに。エレオノラは、あくまで
も力押し一本で闘おうとする。
そこら辺の融通の利かなさが姫騎士エレオノラなんだが、前の戦
争の去り際にちょっと成長したみたいな空気を出してたのはなんだ
ったんだ。
﹁なんだ、もうやらないのか﹂
﹁うううっ﹂
1480
エレオノラは、俺の天蓋付きベッドに、吹き飛ばされた姿勢のま
ま、掛け布団を手でよじって、ストレスを溜めているうめき声を上
げていたので怖くなる。
そのパワーを溜めてから、一気に爆発させる感じは、即刻やめて
欲しい。いまは対処できてるけど、そのうちなんかでミスってぶっ
殺されそうな気がする。
﹁まあ待て、エレオノラ、とりあえず落ち着け﹂
﹁じゃあ勝負してよ!﹂
さすが情緒不安定には定評がある姫騎士、会話になってない。
こりゃ、もう合わせないと終わらない流れだな、毎回こうなんだ
が誰か何とかしてくれ。
﹁わかったよ、勝負すればいいんだろ﹂
﹁じゃあ、来なさい﹂
ベッドの壁の方に向いて座り込むエレオノラは、なぜか正座だ。
この世界って西洋ベースなのに座禅とか正座とか、微妙に混じっ
てるな。
どこでこういう風習が発生したんだ、やっぱり時折現れては歴史
に介入している異世界人の影響なのだろうか。
そんなことを考えてボケっと見てたら、ビクビクッとエレオノラ
の肩が震えた。
﹁あんたなにしてるのよ、私一人でバカみたいじゃない!﹂
﹁ああ、ごめん﹂
俺はもうどうしようもないので、ベッドに登ると、ご要望通り脇
1481
腹をくすぐった。
姫騎士の身体が、ベッドの上で盛大に飛び跳ねた。それはいいが、
悲鳴まで上げやがった。
﹁ひゃぁぁああ!﹂
﹁あっ、えっ?﹂
くすぐったいだろうから騒ぐのはしかたないけど、反応激しすぎ
るだろう。あんまり叫ばないで欲しい。いくらランクト城の壁でも、
防音処理はされてはないだろう。
この状況で人に来られると、俺はいろいろとマズいんだ。
﹁なな、なにをいきなり触ってんのよ。びっくりするじゃない!﹂
﹁えー、いやどっちだよ﹂
くすぐれと言ったり、いきなり触るなと言ったり、どうすればい
いんだよ。わかんないよ。
いやエレオノラの言ってることが、わかった試しがないけども!
﹁触るときは、触るって言ってよバカ!﹂
﹁そういうことか。じゃあ、触る。エレオノラ、触るぞ﹂
言われたままに、脇腹をくすぐってやる。
エレオノラは覚悟ができてるらしく、今度は身を捩るだけで悲鳴
は我慢した。しかし、前より耐性が弱まってないか。
﹁ふふっ、アハハッ、その程度なの。前はもっとすごかったわよ﹂
﹁うーんまあ、じゃあこんなかんじか﹂
﹁ふはっ、こんな程度じゃ全然、うふっ、蚊が刺す程度にも感じな
1482
いわよ﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
なんか冷めてきたな。
急にバカらしくなってきた。俺はひとんちの城で、人様の娘に何
やってんだって感じだ。
﹁どうしたのよ﹂
突然手を止めた俺に、エレオノラは振り向いた。
俺の目を覗きこむ、彼女のサファイアのような碧い瞳が大きく見
開いている。距離感が近すぎるので、思わずのけぞってしまった。
﹁なんていうかさ、気分が乗らないんだよ。くすぐり勝負は、そも
そも俺が始めたような気がするから申し訳ないけど、これどうした
ら終わるんだよ。俺がもう無理って降参したらいいの?﹂
﹁久しぶりの真剣勝負なのに、あんた何失礼なことを言い出してる
のよ。私がどんな覚悟でここに来たかわかってるの?﹂
﹁いや、だってなあ、冷静に考えるとこのシチュエーション。ちょ
っとあり得ないと言うか﹂
﹁そうか、そうなのね。ブッ⋮⋮ブラ紐が邪魔でくすぐれないって
いうのね、なんて卑劣な要求をしてくるのよ﹂
﹁いや、お前そんなこと言ってないだろ⋮⋮﹂
﹁外しなさい﹂
エレオノラが、背中を俺にグイッと押し付けてくる。
いきなりわけわかんないよ。
1483
﹁えっと﹂
﹁外せばいいじゃない、下着が邪魔なら、そのいやらしい手でホッ
クを取ってみたら⋮⋮﹂
﹁エレオノラ?﹂
何言ってんの、つうかお前はバカなの?
ブラ外したらマズいだろ。そもそも、外す意味がわからん。なん
でそういう発想になった。
﹁なに、それとも女のブラのホック一つ外す勇気がないわけ。ハッ、
勇者が聞いて呆れるわね。臆病者に名前を変えたら?﹂
﹁いやいやいやいや⋮⋮﹂
いや、そんな安っぽい挑発をされても、ぜんぜんそんな話じゃな
いし。
ブラ外しは、どう考えてもアウトゾーンだろ。くすぐってるのを
セーフとするのもかなり微妙だが、くすぐり勝負は俺が始めたこと
だからしょうがないにしても。
﹁クッ⋮⋮そういうこと。そういうことなのね、貴方はなんて卑劣
な男なの。外さないことで、私自ら外すように仕向けてるのね。私
にこそ、﹃ブラを外す勇気なんてないだろう﹄って言いたいのね。
私は負けない、そんな辱めに負けるもんですか﹂
﹁いやいや、待て待て﹂
プチンと、エレオノラは一人で盛り上がって、ブラ紐を自分で外
してしまう。
あー、お前は、バカなのか?
1484
﹁さあ、くすぐりなさいよ。そのいやらしい手で、全身をくすぐり
倒せばいいじゃない。いいこと、騎士の誇りはこんなことで打ち砕
かれたりはしないのよ!﹂
﹁はぁ⋮⋮、わかったよ。絶対に前を向くなよ﹂
ゴネてみても、自体は悪化するだけなことがわかったし。
どうせ最後までくすぐらないと終わらないんだろうから、しかた
なく付き合うことにした。満足するまでくすぐれば終わるんだろ。
﹁なんてことを、くっ⋮⋮私に前を向く勇気がないって言いたいの
ね﹂
﹁いやいやいやいや! アホか!﹂
どうしてそんな解釈をする。
下手なことを言ってしまった。
﹁卑劣な勇者め、覚えてなさいよ、騎士の誇りはこんなことではく
じけない!﹂
﹁いやいや、お前バカッ! 何を丸出しでアホか!﹂
エレオノラは、おもいっきり前を向いてきた。目尻には、悔し涙
が浮かんでいる。こいつはネタとかじゃなく、本気で俺のつぶやき
を挑発に取って、勝手に盛り上がって自分を辱めているのだ。いろ
んな意味でヤバい人だった。
まあ、おわん型の形の良いバストね、とか言ってる場合じゃない。
﹁さあ、くすぐりなさいよ﹂
﹁お前、くすぐるとかそういう問題じゃなくなってるだろ﹂
俺はさすがに、視線をそらした。
1485
紳士だからとかそういう問題じゃない。直視したら、後でなんて
言われるかわかんない。俺のことを目の敵にしてるエレオノラに弱
みを握られるなど、最悪の事態だ。
そうか、そういうことか。
それなら分かるぞ。
﹁なんでくすぐらないのよ﹂
﹁お前アレだろ、あとで乱暴されたとか脅して、俺の弱みを握るつ
もりだろ。騙されないぞ!﹂
エレオノラめ、意外にも狡猾だったんだな。
﹁はぁ、私は誇り高き騎士よ。そんなあんたみたいな卑怯なことし
ないわよ﹂
﹁どうだか、自分のベッドルームでお前を裸に剥いてるこの状況は、
男の俺に不利だからな。みんなお前の言い分を信じるだろ﹂
﹁クッ⋮⋮なんてことなの。つまり、貴方はこう言いたいのね。私
が自分の意志で、ここで裸になってることを証明しろと﹂
﹁そうだな、そうしてもらわないと、俺もこれ以上は続けられない﹂
変な話になったが、美人局に引っかかるわけにはいかない。
俺も家族が居る身なんでな。
﹁じゃあ、一筆書くわよ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
エレオノラは俺の部屋の机に向かうと、サラサラと羽ペンで書き
記した。
1486
ちらっと見てしまったが、大きなオッパイが丸出しのまま揺れて
いる。自分から脱いだのに、羞恥と怒りに目を血走らせて机に向か
っているのだから怖い。
﹁どう、これでいいわよね。ちょっと、いい加減こっちを向きなさ
いよ﹂
﹁そっちを向けって、ああもうわかったよ﹂
俺は、エレオノラの裸体をなるべく見ないように、羊皮紙をひっ
たくった。
羊皮紙には﹃私は自ら裸になり、佐渡タケルの寝床に入りました﹄
と書いてあってエレオノラの署名がある。
﹁これで文句ないわよね、私はもともと人を陥れるような卑劣な真
似はしないけど﹂
﹁これでは足りない﹂
﹁なんで!﹂
﹁そうだな、﹃裸を見られるのも、触られるのも、自分から望みま
した﹄と書き加えてもらおうか。そうしないと安心できない﹂
﹁グッ⋮⋮なんて卑劣な﹂
﹁当然の要求だ﹂
エレオノラは言われた通りに書く。
なんだか、面白くなってきた。
﹁書いたわよ、これでいいわよね﹂
﹁まあいいだろう、そうだついでに﹃おっぱいも揉んでもらいたい
です﹄と書き足してもらおうか﹂
1487
﹁なっ、なんて破廉恥なことを﹂
﹁破廉恥なことを望むのはお前なんだよ、くすぐってるうちに胸に
触れてしまうかもしれない。それであとから脅されても困るからな﹂
なるほど、エレオノラはこうハメればいいわけだな。
この羊皮紙は、取っておけばあとでエレオノラを脅すのに使える。
公表するぞとでも言えば、うるさく言わなくなるだろう。
﹁ううっ⋮⋮しかたないわね﹂
﹁よし、ちゃんと書いたようだな﹂
書くだけで、羞恥に頬を真っ赤にしている。あまりに恥ずかしい
のか、顔どころか肩まで紅潮していた。
さすがに胸まで赤くなるってことはなく、艶やかな色合いをして
いる。
うーん胸もいいが、お腹が素晴らしいな。ほっそりとしていて、
真ん中にスッと三本のラインがあるのが美しい。
確かに、エレオノラの肉体美は一度見てみたいと思っていたから、
こんな機会があるとは思わなかった。これは決してエッチな欲望で
はなくて、美術的な意味での知的好奇心だ。
ランクト城の一番の美術品は、鍛えあげられた姫騎士の肢体かも
しれない。
どんな彫刻も、血の通った人間の肉体美には適わない。筋肉イズ
ビューティフルだ。
﹁女の子の身体を、何をジロジロ見てるのよ。恥を知りなさい!﹂
﹁お前が望んだんだろ、見てくださいってちゃんとここに書いてあ
1488
る﹂
俺が羊皮紙を示して見せると、エレオノラは悔しそうに歯噛みし
た。
﹁くっ、こんなことしてただで済むと思わないでね﹂
﹁どうするって言うんだ、お前は脅すような卑劣な真似はしないん
だったよな﹂
俺は、エレオノラのシャープなラインのお腹に触れる。
うーん程よい硬さが良い、腹筋女子素晴らしいな。
﹁バチが当たるわよ、結婚してるくせに﹂
﹁バチがねえ、アーサマは知ってるけどこんなことでバチを当てる
女神様ではないと思うけどな﹂
わからないけど、バチを当てるならまずリアからだろうと思う。
アーサマに怒られたらそう抗弁するつもりだ。
俺は、飽きもせずエレオノラの形の良い腹筋をさすっている。な
んという滑らかな触り心地だ、暖かくて弾力があって指に吸い付く
ようでたまらない。
﹁そんなことしても、ぜんぜんくすぐったくない⋮⋮くすぐったく
ないんだけど、真面目にやりなさいよ﹂
﹁おや、俺は真面目にやってるつもりなのに、お腹はくすぐったく
ないのか﹂
俺はもうくすぐりとか関係なく、自分の欲望にしたがって、腹筋
を触ってるだけだけどな。
散々わけのわからんワガママに翻弄させられたんだから、これぐ
1489
らいの役得があってもいいだろう。
﹁ねえ、なんかくすぐったくはないんだけど、なんか。ねえさすが
に、お腹はもうやめない?﹂
﹁なんだよ、くすぐったくなってきたんじゃないのか﹂
俺は撫でやすいように、エレオノラの身体をベッドに押し倒して、
ただ延々と下腹部を撫で続けた。
もちろんいやらしい場所ではない、腹筋が楽しめるヘソの周りか
ら臍下丹田のあたり。もちろん、パンティーで覆い隠されている部
分には一切触れていない。
なんだろうな、お腹を撫でてると楽しくなってくるんだよ。
俺も大概マニアックだよな。これなら筋肉を堪能しているだけで、
浮気してるわけじゃないから良いと思う。
﹁ううんくすぐったいのとは違うんだけど、なんだろこれゾワゾワ
する。なんかわかんないけど、すごく変な感じが来ちゃう予感がす
る﹂
﹁そうなのか、俺もエレオノラの腹筋触ってると、恍惚としてくる
よ﹂
本当にいい感触なんだよな、エレオノラのお腹。
腹筋は割れかけで実用的な筋肉はあるんだけど、硬さの中にも程
よい柔らかさが残るというか、なんとも言えない感動的な手触りが
ある。
﹁あっ、ああっ、ちょっと待って。ヤダ怖い、なんかほんとに変な
感じになってきたぁ、お腹がへんっ!﹂
﹁なんだよ、くすぐったいんじゃないのか。どっちにしろ、我慢勝
1490
負なんだからエレオノラが降参なら降参でいいぞ﹂
延々と撫でさすっていたら、腹筋が強く熱を持ってきた。
あんまり肌をこすると辛いのかと思って、本当に軽く産毛を撫で
る程度にしてみたのだが、それだけしか触れてないのに余計に反応
は強くなり、ビクッビクッとお腹の筋肉が怖くなるぐらいに収縮し
ている。
﹁いや、降参はいやだけど。ああっ!﹂
﹁どうした﹂
﹁ダメッ、イヤッ、お腹がヒクヒクするの止まんない! タケル助
けて、ああ、うそ、やだぁぁお願い! イヤァッ、ヒグッ、ヒッア
ァヤア!﹂
﹁おい、エレオノラ⋮⋮﹂
ぷっつりと線が切れてしまったみたいに、身体の緊張が抜けてダ
ランと俺に身体を預けてきた。
頬を真っ赤にそめて、息を荒げているが、口は半開きでヨダレが
垂れかけている、瞳は光を失って意識を喪失しているようだ。
信じられないが、腹を撫でてるだけで気絶したのか。
エレオノラはもしかすると、撫でられたりくすぐられると、感極
まって気絶してしまう特殊性癖でもあるのだろうか。とんでもない
弱点だなこれ、姫騎士が強いのにすぐ負けてしまう理由がわかった
気がする。
彼女の額に玉の汗が浮かび、金糸のような前髪が額に張り付いて
いる。全身にも、びっしょりと汗をかいてしまっている。
さすがに、このまま放置というわけにはいかない。
1491
幸いなことに、部屋には汲み置きの水も、柔らかいタオルもたっ
ぷりと用意されているので、顔を拭いて綺麗にしてやった。
﹁身体も拭いてやるか﹂
エレオノラの肌は、戦場を駆け巡ってる騎士の癖に白磁のように
滑らかな光沢があった。﹃炎の鎧﹄で完全防備されているから、そ
の部分は焼けないのだろう。赤ちゃんみたいな綺麗な肌で、鍛えあ
げられたシャープな筋肉とのコントラストがやけに艶かしい。
触れていいという許可も貰っていることだし、俺は躊躇うことな
く肩から脇にかけて拭いてから、柔らかく盛り上がった部分も濡ら
して絞ったタオルで汗を拭いて、別のタオルで乾拭きしてやる。
盛り上がりの桃色に色づいた部分も入念に拭いてやる。その突起
の大きさから、やっぱりこいつ興奮してやがったんだなと思ってし
まう。
いや、そう断定するのはエレオノラが可愛そうか、変なことした
からただの生理的な反応なのかもしれない。いまだ女体は神秘であ
る。
﹁さて、下をどうするかなんだけど。さすがにマズいよな﹂
問題の部分を除いて、足の先まできっちりと拭いてしまうと、い
やらしい意味ではなくパンツも脱がして拭いてしまいたい気になる
が、そこまでの許可はもらってない。
綺麗になったエレオノラは、穏やかな寝息をたてはじめた、赤ち
ゃんみたいに無防備だ。
﹁おい、エレオノラ。起きないとパンティー脱がしちゃうぞ﹂
1492
頬を軽く叩いてみたが、やっぱり起きない。
まあ、冗談だけどね。さすがに脱がしはしない。
﹁タケルは一体何をやっておるのじゃ﹂
声がして振り向くと、大きな枕を抱えたオラクルちゃんが、呆れ
た表情をして立っていた。
﹁えっと⋮⋮オラクル、さん。どうしてここに?﹂
﹁隣の部屋からワーキャー女の悲鳴が聞こえたら、様子を見に来る
のは当たり前じゃろ﹂
﹁えっと、これは浮気ではないですよ﹂
触る許可は取ってあると羊皮紙を掲げようとしたが、妻に対して
浮気の言い訳には何の効力もないことに気がついた。
むしろ証書が浮気を証明してしまう、なんという罠だ。謀ったな、
エレオノラ!
りんき
﹁ワシは別にタケルを咎めとりゃせん。ワシはそこに寝てる厄介そ
うな爆炎小娘と違って、悋気をコントロールできない女ではないか
らの。しかし、タケルの精気をカスタマイズしている関係上、新し
い女が増えるなら増えるで、一言断ってくれんと困るのじゃ﹂
﹁いや、増えないから﹂
本当かなあという目で見られて、フッと笑われる。
冗談のつもりだったが、明らかにパンツ脱がそうとしてた現場を
見られて、信じてくれるほうがおかしいんだけどね。
﹁それで、なんでそこの爆炎小娘は、感極まって寝ておるのじゃ。
1493
事後ってわけではないようじゃが﹂
﹁いや、お腹撫でただけなんだよ。あとは身体を拭いてただけで﹂
オラクルはベッドに登ると﹁ふーん﹂といった顔で、普通にレー
スのついたパンティーをペロンと脱がすと、﹁漏らしとるな﹂と笑
った。
﹁いや、それ大変じゃねえか。ひとんちのベッドの上だぞ!﹂
﹁大丈夫じゃ、ほれみてみろ。パンティーのクロッチ部に、吸収性
の高い綿布をかましておる。これはなかなかいいアイディアじゃ。
目立たないオムツみたいなものじゃの﹂
どれどれと、俺も覗く。
﹁これはもしかすると、パンティーライナーってやつかな。俺の故
郷にもあるわ。この世界の繊維技術で、若干プリミティブにしろこ
ういうのを工夫して作ってるんだな。さすがランクト公国の技術は、
って俺は何普通に股ぐら覗きこんでるんだよ!﹂
﹁なんじゃ、今頃。タケルは女の股ぐらい、もう腐るほど見とるじ
ゃろうに﹂
珍しがるものじゃないとか、そういう問題じゃねーんだよ!
まあ意外とエレオノラは、アンダーヘアーが密林地帯だったので、
本当に大事な部分はうっすらとしか目に入らなかった。
どっちにしろ、差し障りがありすぎる。
﹁オラクル、スマンけどメイドを呼んでエレオノラの下着を替えさ
せるように言ってくれないか﹂
﹁そうじゃな、漏らしたままじゃ気持ち悪いじゃろうし﹂
1494
今頃思いつくとか俺もどうかしているが、メイドに処理してもら
えばよかったんだ。
その日は、エレオノラをそのまま俺の部屋に寝かせて、オラクル
ちゃんの部屋で一緒に寝ることにした。
1495
114.村娘な宮廷楽士
セネシャル
早朝、俺は慌ただしくオラクルとヘルマンを叩き起こすと、早々
に退出することにした。
こんなに朝早くでも、執事騎士カトーさんは起きていたのにちょ
っと驚く。さすがに年寄りは朝が早い⋮⋮のではなく、執事頭の務
めなんだろう。
俺が早く出たいと言うと、理由を訊ねることなく、﹁後のことは
万事お任せください﹂と言ってくれた。
さすがカトーさんは話が早くて良いね、うちで雇い入れたいぐら
いだ。
しかし、眠たそうな顔のエメハルト公も、起きてきてしまった。
﹁王将軍閣下、せめて朝食を食べていかれては﹂
﹁急いでますので!﹂
ぶっちゃけてしまうと、エレオノラが起きてきて、昨晩のことで
また厄介な絡みになると困るので、さっさと逃げたかったのだ。
しかし、俺の願いも虚しく、バタバタしたせいかネグリジェ姿の
エレオノラが起きてきてしまう。公姫なんだからゆっくり寝てろよ。
﹁勇者、これ持って行きなさい。帝都に行くのに、武器が銃だけじ
ゃ困るでしょう﹂
昨晩の文句が出てくるかと思いきや、やけに神妙な顔でエレオノ
ラは手に持っていた﹃黒杉の木刀﹄を差し出す。
1496
確かに、鋼よりも丈夫な木刀は、下手なマジックソードよりも武
器になる。色もブラックで、俺の黒ローブにもよく合うし腰に差す
にはちょうどよい。
﹁ああ、ありがとう﹂
ありがとうと言うか、これ元々俺の物なんだけどね。どこにもな
いと思ったら、こいつまだ返さずに持ってやがったのか。二本あっ
たうちの一本を、ようやく返却してもらえたわけだ。
しかし、せっかく珍しく気分が良いらしいエレオノラが、澄んだ
笑顔で見送ってくれるのに、もう一本返せと言ってる場合じゃない
な。
﹁気をつけて行って来てね⋮⋮タケル﹂
﹁行ってくる、エレオノラも息災でな﹂
てっきり昨晩のことで、あーだこーだまた絡んできてうるさくな
るかと思いきや、泣いたカラスがもう笑ったから女心はわからない。
朝の姫騎士がやけに可愛らしく見えるのは、姫らしい服装で微笑
んで手まで振って見送ってくれるからだろうか。女らしくしてれば、
お転婆とは思えないほど、麗しい公姫なのになあ。
こう見ると、駄々をこねまくった昨晩とは、まるで別人だった。
姫騎士エレオノラも、多少は大人になってるってことなら良いん
だが。
※※※
順調に、帝都の近くまで飛んでいくと、ヘルマンに近くの村で降
りようと言われる。
1497
さすがに、帝都まで飛んでいくのは目立ちすぎる。
レジスタンス
﹁帝都の北西部に陛下救出のために抵抗軍の潜伏している村がある
のだ。このあたりのハズなのだが﹂
﹁もしかして、あの煙が上がってる村か﹂
﹁なっ!﹂
ヘルマンはようやく空中浮遊にも慣れたのに、また顔を青ざめさ
せていた。
俺はと言うと、そんなに驚いてはいない。
帝都に近づくにつれて、略奪を受けた街や、荒廃した農村が燃え
ているところをたくさん見たからだ。
そんな惨状で、帝国軍が居留する村だけが無事なほうがおかしい。
レジスタンス
この程度の展開は予想済みだ。
問題は新帝国に対する抵抗軍が潜伏する村が、普通に野盗の略奪
を受けているのか、それとも新帝国の部隊に攻撃を受けているのか
だ。
﹁ヘルマン。とにかく、降りてみようぜ﹂
﹁はい、これはもしや敵にアジトが割れてしまったと⋮⋮﹂
やれやれ、サクッと解決して撤退しようと思ったのに、最初から
これでは先が思いやられる。
村に入ってみると、間に合わせの革鎧を着て、棒に刃物を括りつ
けただけの粗末な槍を持った一団が、村に隠れていたらしい騎士や
兵士と争っていた。
1498
﹁ヒャッハー、燃やせ燃やせ!﹂
﹁クソッ、雑兵ごときが!﹂
村を襲っている連中は、やけにテンションが高い雑兵だった。
久しぶりに聞いたな、ヒャッハーって。
テンプレ
﹁ヒャッハーはないだろ⋮⋮﹂
﹁典型的な悪党じゃな﹂
オラクルも呆れている。いまどきヒャッハーはないよなあ。
いやむしろ、いまどきだからこそヒャッハーなのか。単なる悪者
と言う意味ではなく、原始的な足軽。雑兵がとりあえず組織化され
た中世的な﹃悪党﹄というのは、こういう連中なのかもしれない。
そのヒャッハーな雑魚が、勢いだけで元帝国軍相手に善戦してい
るのを目の当たりにするとそう思わざるをえない。
正規軍としての訓練を受けた騎士や兵士が数の力で囲まれて、徐
々に討ち取られているのだ。
敵の戦い方はもう無茶苦茶だった。
槍を持って囲んでない奴は、鎌などの刃物を投げつけたりしてい
る。いや刃物を持ってればマシな方で、石っころを拾って投げてる
レジスタンス
奴も居る。
抵抗軍側は、村の建物を利用して守っていたのだが、そこに松明
で火をつけられて追い込みをかけられているのだ。
揃わない兵装の貧しさと、村に火を放つ暴挙を見る限りただの野
盗とも思えるが、こんな小さな村に百人を軽く超える数を繰り出し
て連携意識もある部隊なのだから、これが敵の正規兵なのだろう。
クーデター部隊は、もともと野盗崩れの集まりみたいなものなの
1499
か。兵の質は、はっきりいって最低だった。
ヘルマンも、騎士たちに加わって戦う中で、俺は冷静に村で行わ
れている戦闘を眺めた。状況判断もあるが、これから敵にする拳奴
皇軍というやつを、よく観察しようと思ったのだ。
多少の隠密効果のある黒のローブを着ているせいか、敵はこっち
に向かっては来ない。俺が手を出さないので、オラクルちゃんもカ
アラも手出ししない。
﹁勇者様!﹂
﹁こら! 黙ってろよ!﹂
今回は隠密行動なんだぞ。ヘルマンが空気を読まずに呼びかけて
くるので、しかたなくオラクルちゃんとカアラに適当に加勢するよ
うに命じた。
こんな野盗相手に貴重な弾を無駄遣いしたくないのだが、俺は入
念に標的を選んで、馬に乗っている鉢巻を巻いた頭にツンツンの髪
の毛が伸びている、比較的立派な鉄の鎧を着た青年を指揮官だと判
断して、慎重に頭を狙って弾を放つ。
ライフル
バシュッと魔法銃が乾いた音を立てて、ヘッドショット!
大きな鉈を振り回して、声をからすように部下を叱咤していた青
年が、馬上から転げ落ちる。
途端に、こっちにも指揮官の近衛らしい三人の雑兵が﹁マッシブ
隊長をよくもやりやがったな!﹂とか言いながら剣を抜いて向かっ
てきた。俺が倒したのが分かるということは、銃を知ってるのかな
こいつら。あるいは何らかの魔法と思っているかだが。
俺は冷静に、向かってくる三人の頭と、胸と、最後だけミスって
肩を撃ちぬいた。まあ肩では即死しないが、ギャアギャア呻きなが
1500
ら転げまわっているので戦闘継続は不可能だろう。
﹁ふうっ、指揮官がやられたから戦闘は終わり⋮⋮﹂
⋮⋮になってないなこりゃ。
指令を出す指揮官がいなくなっても、反乱軍はもとから無秩序な
攻撃の上に、勢いがあるから止まらない。
﹁なるほど、暴徒って厄介なんだな。カアラ、もう力任せにやって
しまえ!﹂
﹁はい、国父様! カアラ・デモニア・デモニクスが大地に命ずる、
地よ嘶け地よ裂けよ、あだなす敵を土へと還せ!﹂
アースシェイク
カアラは久しぶりに全力が出せると両手を広げると、土系の上級
魔法、大地震の魔法を放った。
激しく揺れる大地、地割れが起きて、ボコッと音を立てて開いた
大地の亀裂が敵を飲み込んでいく。暴れまわっていた敵は、一瞬で
生き埋めになった仲間を見て狼狽した。
こうなれば、指揮を失った敵は我先にと敗走するのみだ。逃げる
奴はどうでもよかったのだが、カアラの石弾とオラクルちゃんの衝
撃波でかなりの数が討ち取られた。
言うなれば上級魔術師とは自然の脅威そのものだ、雑兵ごときが
百人程度かかったところで元からどうしようもない。
全てを一瞬でなぎ倒すような大規模魔法を使わないだけ。
一応、敵味方は区別してくれているらしい。
それどころか、カアラは俺が命じなくても自分で判断して雨雲の
魔法で、村についた火まで消してくれた。
1501
丸くなったというか、人間同士の戦闘のやり方に慣れてきたとい
うか、カアラは力加減が出来るようになって、使い勝手が良くなっ
てきた。いい感じだ。
﹁カアラ、褒めてやるぞ。こういう感じでやってくれればいいんだ
よ﹂
﹁はい、国父様の御意に適い光栄です!﹂
俺がカアラを褒めていると、オラクルちゃんも褒めてくれとむず
がったので頭を撫でてやる。
そこに蜂蜜色の長い巻き髪を揺らした村娘がやってきて、俺にお
礼を述べた。
﹁お助けいただいてありがとうございます、あのお名前を﹂
﹁この方はシレジエの⋮⋮﹂
﹁ヘルマン!﹂
ヘルマンが、普通に俺を勇者だと紹介しようとするので驚かされ
る。お前、今回は隠密行動だって何度も言ってるだろ。
俺がこっちに協力してるとバレると、微妙に外交問題なんだよ。
ドリフ・ガンナー
﹁俺は、えっと⋮⋮流離いの黒銃士だ。わけあって助太刀に参った﹂
ヘーゼル
黒いフードを目深にかぶって決めてみせたが、あれ、俺のかっこ
いい名前。なんか引かれてる?
なにか言いたげに、複雑そうな深い微笑み見せた少女は、淡褐色
の瞳を伏せて、それでも﹁ありがとうございます、ガンナー様﹂と
繰り返した。
1502
なぜ目をそらした。
ガンナー
ううん、なんかミスったかな。俺は悪くない名だと思ったんだが、
この国の基準だと黒銃士は奇異なのだろうか。
もっとまともな偽名っぽいのを付けたほうがよかったか。
いやこういうのは、言ってくうちに定着していくだろう。最初は
奇異に聞こえても、だんだんとカッコよくなっていく、言い切った
もの勝ちのはずだ。
意を決した俺は、日に焼けて灰色っぽくなった黒フードを目深に
かぶり、沈む夕日に向かって銃を構えてみせた。
クックック、いっそ決めポーズに、決め台詞も作ってみるか。
盗賊王ウェイクが言ってたのなんだっけ、同じ射撃型だからウェ
イクのパクリとかでいいよな。こうバサッとローブをなびかせて銃
を構え、﹃絶・反逆の魔弾﹄とか!
﹁国府様カッコいいです!﹂
﹁ドリフ・ガンナー、カッコいいのじゃー﹂
お前らやめろ、なんか恥ずかしくなってきた。俺が悪かったよ。
やっぱりウェイクの境地に至るのは難しい。
そんなアホな会話をしてる俺たちを、遠巻きに村人は眺めていた。
なんだか視線が痛い。
まあ彼らは本当は村人ではないのだろう。この村にいる三十人程
度の住民は、みんな騎士や兵士が、村人を偽装しているらしい。
老皇帝と皇孫女を救い出すために、決死のレジスタンス活動をし
てる連中だから、軽いノリで来ている俺たちへの視線は冷たい。
というか、明らかに怪しまれている感じがする。
1503
ヘルマンにフォローさせたいのだが、こいつはコッテコテの騎士
で腹芸が一切できないタイプなので、下手をするとまた正体を明か
されても困る。
村人というか、村人に扮した抵抗軍の兵士を代表して、先ほどの
蜂蜜色の巻き髪の少女がやってきた。
﹁申し遅れましたガンナー様、私は宮廷楽士のツィターと申します﹂
元になってしまいましたけどねと、楽士ツィターは笑った。
俺が可愛らしい村娘だと思っていた少女は、宮廷楽士だったそう
だ。
ディアン
ちなみに年齢を聞いてみると二十四歳だとのこと、緑の胴衣に白
ドル
いブラウスでピンクのエプロンを付けた、いわゆる村娘風エプロン
ドレスを着ていたので、可愛らしい少女かと思ったが、俺よりお姉
さんだったのか。
まあよく観察すると、彼女の手入れが行き届いたしっとりとした
上品な巻き髪は、村娘らしくない髪型だしな。どっからどう見ても、
十代の小さい娘にしか見えないが年長者で宮廷楽士とは。
俺の女の子を見る目も当てにならないものである。声が可愛らし
いのも、楽士だからなのだろうか。
しかし、楽士までもがレジスタンスに参加しているなんてと詳し
く話を聞くと、彼女が参加しているのは特殊な事情があるらしい。
聞けば、この救出部隊が結成されたのが、ツィターが帝城に囚わ
れている老皇帝と皇孫女の位置を特定したかららしい。
﹁まあ俺が加勢に来たからには安心しろツィター。なあ、ヘルマン﹂
1504
俺は視線をヘルマンに送り、フォローしろとアイコンタクトを送
る。
﹁おおそうとも、このゆう⋮⋮いや、この御方は魔族をも従える無
敵の黒銃士ゆえ、勝ったようなものだ﹂
﹁そんな凄い方が、ご助成に来てくれたのですか﹂
ツィターの声が明るい。さすがに楽士、良い声をしている。
まあ、たった三十人程度で帝城に幽閉された皇族を助け出そうな
んて大変だものな、俺みたいな怪しい援軍でもありがたいのだろう。
俺が味方になったからには、勝ったようなものなので任せるとい
いぞ。
クーデターだ、拳奴皇だと言っても、敵はあんな雑魚ばかりなの
だろう。俺たちとヘルマンだけで救い出せるぐらいだ。
もちろん、味方が多いには越したことはないが、少人数の方が救
出作戦はやりやすい。
この村は、敵にバレたから放棄するしかないが、それも問題ない
レジスタンス
だろう。
帝国抵抗軍と合流した俺たちは、すぐさま救出作戦に移るべく、
帝都ノルトマルクへの侵入作戦を開始した。
1505
115.新教派立つ
ゲルマニア帝国首都、ノルトマルクへの侵入は簡単だった。
今の帝都は、ならず者部隊と農民・市民による反乱軍の巣窟。賊
軍が持っていた通行許可証をパクって、そのまま村人か野盗っぽい
服装をしていればいいのだ。まともな正規兵の格好をしているとア
ウトなわけで、むしろ怪しければ怪しいほど良いのである。
俺は、そのままフリーパスだった。怪しまれるどころか、門番を
していたカラフルなモヒカン兜を被った人相の悪い兵士が、俺を見
ると笑顔になって、﹁お疲れ様シター!﹂と頭を下げられた。
ライフル
リュッ
俺の持ってたパスが、隊長格のやつだったからだと思いたいが、
クサック
煤けた黒ローブを目深に被り、この時代には見慣れない魔法銃と背
嚢を背負った俺の格好って、そんなに怪しげなのかなと複雑な気分
になる。
﹁なあ、俺の格好って本当のところはどうなんだ﹂
オラクルちゃんに聞いてみると﹁悪の幹部みたいなのじゃ﹂と言
われてしまった。
カアラは、聞いてもいないのに出てきて﹁今の国父様は、素敵で
す﹂と頬を上気させて連呼している。そうか、カアラの感性で素敵
なのは、アウトなんだな⋮⋮。
ドリフ・ガンナー
まあいい、今の俺は佐渡タケルではなく、流離いの黒銃士だ。
旅の恥はかき捨て。だいたい勇者ってのも、考えてみると中二要
素満載だし、悪の幹部でもそんなに変わらないだろう。
1506
帝都ノルトマルク。
ついこの間までは、世界の首都とも呼ばれていた大都市である。
街に敷き詰められた敷石はしっかりしていて、街に張り巡らせた三
メートルを越える垂直の外壁も立派だが、その一部分は崩れて、街
の繁華街も焼かれているところが多く散見された。クーデターの傷
跡だろう、無残なものだ。
ただ、崩れ箇所も小さな石材で埋めて、モルタルで固める工事が
行われている。
意外にもクーデター軍は、きちんとした備えを行なっているらし
い。飢えているらしいボロ布を引きずって歩く浮浪者がウロウロと
していたが、荒れていたころの王都シレジエのように死体が転がっ
て放置されているようなことはない。一応の秩序は保たれている。
この街の歴史は古い、神聖リリエラ女王国の女王リリエラが千二
百年前に北方魔族への備えに建てた大要塞が基礎になっている。
幾つもの尖塔が突き出た巨大な帝城や、コロシアム、内壁の一部
には、千年以上前の女王リリエラ時代の建物が残っているらしい。
昔の要塞が元になって、世界帝国の首都へと発展していった大都会
なのだ。
それがまさか、奴隷の皇帝に支配されるようになろうとは、誰も
思わなかったことだろう。
せがまれたので仕方なく浮浪者の子供に、銅貨を恵む。
そのついでに、泊まれる場所でもないかと聞いてみたが﹁ないよ﹂
とにべもなく言われてしまった。
﹁あんた達が街を焼いたせいで、オイラたちも焼き出されたんだよ。
屋根のある場所は、みんな兵士に取られてるし⋮⋮﹂
﹁そうか、済まなかったな﹂
1507
俺たち三十人余りの抵抗軍も、拳奴皇の軍隊と間違われているの
だ。
まあ子供からしたらどっちでも一緒だろう。大人の都合で、街を
焼かれているのだし、帝国が荒廃したのは俺の責任だってある。
誰でも助けられるわけではないからしょうがないが、懐にあった
干し肉を子供に分け与えておいた。
早く食べないと取られると思っているのか、その場でガツガツと
食べてしまった。お礼すら言わないが、子供はこんなもんでいいと
思う。
﹁ご案内しますから、もっと帝城に近い位置に行ってみましょう﹂
村娘に扮したツィターにそう言われて、俺は帝都の中心部分へと
歩いてく。
焼き出されて浮浪者になった人たちが物乞いをしている哀れな姿
を所々で見た、俺達は不正規兵の格好をしているので恐れて近寄っ
てこない。
幸いというべきなのだろうか、民衆に恐れられるような乱暴を拳
奴皇の軍隊もしてるってことなんだろう。
ゲルマニア帝国が正義とは言わないが、その逆もまた正義とは言
えない。戦争なんていつの時代もそんなもんだな。
また検問があって、さっきのとはちょっとデザインが違う鳥の羽
をさしたモヒカン兜にまた﹁お疲れ様っす﹂と頭を下げられた。
その兜流行ってるのか、聞きたいけどまあ余計なトラブルの元だ
から止めておこう。
1508
内壁を抜けると、街の中央部の広場へと入る。
水堀に囲まれる巨大な帝城の尖塔が見えてきた辺りなのだが、ド
ンドコドンドコと大きな太鼓の音が聞こえてきた。
なんだ、祭りでもやっているのかと思って近づくと、俺は恐ろし
いものを目撃してしまった。
なんだありゃ⋮⋮。
﹁ホモ大司教がいっぱいいる﹂
真っ裸に股間に葉っぱをつけた明らかにイッてしまっている大群
衆が、街を練り歩いている。
先頭に立った男が、タンブランと呼ばれる胴長の大きな太鼓を叩
いて拍子をつけているようだ。
裸踊りをしているのはみんな飢えた民衆なのか、ガリガリにやせ
細っているが眼だけがギラついている。
パンを作るための木の棒やら、包丁やら、鍋の蓋やらとにかく武
器になりそうなものを手に持って一心不乱に叫んで踊っている。
﹁ソイヤソイヤ、ソイヤッサ!﹂
﹁えじゃないか! えじゃないか! えじゃないかぁ!﹂
変態大行進の声に耳を傾けると、無茶苦茶だった。
貧しき民衆の老若男女が、みな裸体で葉っぱだけを身にまとった
姿で、思い思いに叫び、踊りながら練り歩いているのだ。
そうして、この狂った大行進の中央、祭りの神輿が裸の男たちに
掲げ上げられ、その上にイチジクの葉っぱだけを身につけたニコラ
ウス・カルディナル大司教が立って、得意満面でつばを飛ばして叫
1509
んでいた。
﹁ご照覧あれ、偉大なる女神アーサマよ、敬虔なる貴女様の下僕た
ちが、イヤッッホォォォオオォオウ﹂
またそれかよ⋮⋮。
銀縁メガネをかけて、黙っていればすんなりとしたインテリに見
える大司教が、完全にイッちゃった眼で大演説を始めるようだ。
期待した信徒から﹁ニコラウス! ニコラウス!﹂と、コールも
起こり、大衆のボルテージも上がってきている。
あいつ辛うじて生き延びた状況から、どうやって帝都に帰って、
こんな短期間に邪教集団を結成したんだ。
前政権の大幹部だった男が、民衆反乱を主導してるとか自由すぎ
るだろ。
﹁敬虔なる諸君よ、聞く耳を持つ者ならば、この福音を耳を傾けた
まえ! 太古の時代! 世界がアーサマに創られたアダモとイバの
御代に、世界は裸だった! 皇帝もなく、貴族もなく、奴隷もなく、
始原の人々は平等に裸だった。アーサマは言いました、人々よ悪し
き服を脱ぎ払い、葉っぱ一枚となるのですと! アーサマより与え
られた神聖なる肉体を日の元に晒すときが来た! アーサマを信じ
る人々が皆平等に裸となり、持てる者と持たざる者が手を取り合っ
て分かち合うことができる世界がいまやってきたのだ! ああいま
っ、世界の信徒に先駆けて裸となった諸君にこそ、アーサマの祝福
が降り注ぐのでありますッッ!﹂
﹁なげえ、演説なげえよ⋮⋮﹂
両手を広げ、何かが乗り移ったような恍惚の表情で、股間の葉っ
1510
ぱをピカピカと光らせる大司教の演説に、服を脱ぎ捨てて裸になっ
た民衆は沸き立つ。テンションが上がれば何でもいいのだろう。
痩せ衰えた身体で踊り狂ったために、そのまま倒れて死ぬ人間も
いるのに、熱狂した民衆は気にもしてないようだ。
ホモテスタント
﹁ゆう⋮⋮いえ、ガンナー様。あれは新教派です﹂
﹁新教派? 邪教じゃなくて?﹂
ヘルマンが俺に耳打ちで説明してくれる。お互いに変装しててよ
かったな、怒り狂った大衆を扇動してるホモ大司教に見つかったら、
囲まれて殺されるかもしれない。
汗だくの屈強な裸男たちに囲まれて圧死とか、最悪の死に方だろ
う。俺は自分の判断ミスを痛感した、フリードよりも、ニコラウス
大司教を確実に殺しておくべきだったんだなあ。
﹁ニコラウス大司教は、戦いに敗れた後、﹃人よ原始に還れ﹄を合
言葉に、世界をアダモとイバの時代に戻すべく、新教派を立ち上げ
ました。服を脱ぎ捨てることをホモテストと称し、それをくぐり抜
けた者たちホモテスタントに祝福を与えています﹂
﹁完全に邪教じゃねえか﹂
ホモテスタント
﹁いえ、残念ながらアーサマ教会の異端審問会では、新教派は反対
多数で正統と認められました﹂
﹁あのザル組織め﹂
新教派たちの大行進は、ニコラウス大司教の指差す方へと導かれ
て、特定の商会を打ち壊し始めた。
外に出てきて、怒っている商人たちが次々と殴り倒された。雇わ
れていた傭兵たちは新教派に囲まれると逃げ去った。当たり前だ、
まともな神経をしていれば、変態の大集会と戦って死にたくない。
1511
眺めていると、商会の倉庫に溜められていた、小麦やライ麦の袋
が、裸の男たちによって﹁ソイヤ! ソイヤ!﹂と運びだされて、
同じく略奪を受けたパン屋に運び込まれている。
どうやら、民に施しのパンを焼くつもりらしい。
なるほどこれはみんな付いてくるわ。新教派についていけば、食
いっぱぐれることはない。
神輿の上から、ニコラウス大司教はさらに絶叫している。
﹁さあ、不正な蓄財を行っている商会の倉庫の扉を打ち破り、その
物資を正しき民の元に戻すのだ! 我々新教派に対して、﹃あなた
たちは略奪者だと﹄と言う者もいる。だが我々は、今日を生き延び
るに十分な食べ物が与えられない限り、決して歩みを止めない。我
々は、行進に疲れた重い身体を、屋根のある場所で休めることを許
されない限り、決して歩みを止めない。我々が、帝国兵士の恐ろし
い残虐行為の犠牲者である限りは、決して歩みを止めない。そうだ、
我々は決して歩みを止めないのだ。そして、アーサマによる正義が
河水のように流れ下り、公正が力強い急流となって流れ落ちるまで、
我々の歩みが止まることはないだろう!﹂
ものすごい略奪行為の正当化だった。
アーサマ、これ良いのかよ。下手するとニコラウス大司教は、新
しい女王リリエラになるんじゃないか。
﹁僕は、今日ここに、多大な試練と苦難を乗り越えてきた人々が、
あなたがたの中にいることを知らないわけではない。刑務所の狭い
監房から出てきた人たちも、あなたがたの中にいる。自由を追求し
たために、主人により棒で打ち据えられた奴隷たちもいる。帝国の
圧政に、全てを奪われた貧民たちもいる。あなたがたは、飢えと苦
1512
しみの経験を重ねた怒れる民である。これからも、不当な苦しみは
アーサマによって救済されるという信念を持って行進を続けようで
はないか﹂
商会から略奪された小麦が、略奪されたパン屋の釜で焼かれて、
真新しいパンとなって民衆へと配られている。
略奪を煽っているニコラウス大司教も酷いけど、これも俺が戦っ
た戦争の結果でもある、眼をそむけるべきではないだろう。
これが祭りの恐ろしいところで、何かが乗り移ったように神々し
い顔をしたニコラウス大司教は、食料が痩せ衰えた民衆に分け与え
られているのを笑って見ている。
略奪行為を組織している人間が、慈愛に満ちて見えるのだ。
葉っぱだけを身につけた、裸の小さな男の子に差し出された水を、
﹁甘露、甘露﹂と恭しく掲げて飲み干すと、神聖なる略奪者は、白
銀に耀くアンクを天に掲げて、夢と理想を叫び続けた。
﹁僕は皆さんに言っておきたい。我々は今日も明日も困難に直面す
るが、それでも僕には夢がある。それは、始原の時、アダモとイバ
が見た夢である!﹂
﹁僕には夢がある。それは、いつの日か、帝都ホテルの赤絨毯が敷
かれたレストランで、かつての奴隷の息子たちと、かつての貴族の
息子たちが、裸の兄弟として同じテーブルで同じパンを食べる夢で
ある﹂
﹁僕には夢がある。それは、いつの日か、不正と圧政の炎熱で焼け
つかんばかりのノルトマルクが、自由と正義の楽園に生まれ変わる
夢である﹂
1513
﹁僕には夢がある。それは、いつの日か、全ての差別が撤廃され、
種族や性差ではなく能力そのものによって評価される国に住むとい
う夢である﹂
あっ、最後に自分の願望を微妙に混ぜ込んだな。
ニコラウス大司教は、拳を振るい、声も枯れんばかり絶叫した。
﹁今日、僕には夢がある。そして、いまその夢は叶おうとしている、
不正な蓄財を行った商人の蔵の門は開かれ、奴隷の男が裸のままで
皇帝となり、貧しいからこそ正しい諸君らに、十分な食べ物が与え
られている今日! そうだ我々は自由になった! もはや我々を押
しとどめるものは何もない! ああっ僕は、アーサマに感謝します。
我々は、いま絶対的にフリーダムなのだ!﹂
ニコラウス大司教がフリーダムを叫ぶと、メラメラと燃え盛る松
明を持った裸の民衆の興奮は、絶頂に達した。
裸の大群衆の叫びは、﹁自由だ!﹂﹁自由になった!﹂﹁フリー
ダム!﹂と広がっていく。その熱気は、関係ない俺たちすら飲み込
まれそうな暑苦しさで、帝都を覆い尽くさんばかりだった。
その場で、アーサマの名を叫び、服を脱ぎ捨てて群衆に加わる人
も続出した。
このままの勢いで行けば、帝都が葉っぱ一枚のホモで埋まる日も
近いだろう。
なあアーサマ、さすがにこれマズくないか。
ホモ大司教をこのまま放置しておくと、リアルファンタジーをフ
リーダムファンタジーに変えてしまうかもしれない。
1514
そもそも、アーサマ教会は、なんでこれを公認してるんだよ⋮⋮。
1515
116.アーサマの言い訳
ホモテスタント
貧しき民衆を飲み込んで拡大する新教派による、帝都中央部の略
奪行為は続く。
社会的な混乱の極地に陥っている帝都の民衆は、きっと何かに縋
りたいんだろうな。ニコラウス大司教のようなシンボルがあれば、
もはや失う者すらない貧民が結集するのも分かる気がする。
そして、宗教的な正統性を手に入れた新教派たちを阻むものは何
もない。
すでに治安を守るべき兵士は帝都にはいない、新しい帝都の皇帝
は、新教派の祭りを放置しているどころか奨励しているようだ。
せいがんふ
﹁ヘルマン、あの変な布はなに?﹂
﹁あれは聖顔布です、大司教が起こした奇跡で布にアーサマの顔が
現れたとか﹂
首にアンクをかけた裸の神官が、棒につけて旗のように掲げ持っ
ている聖顔布を見て、思わず笑ってしまった。
亜麻布に浮き出た黒い炭の模様は、よく見れば女神の顔に見えな
いこともないが、まるでロールシャッハ・テストみたいだな。
俺が笑ってしまったのは、失礼ながら布から浮き出たとされるア
ーサマのご尊顔が、福笑いのお面みたいだったからだ。
アーサマの実際の顔は知らないけど、たいていこういう下膨れな
感じに描写されるよね。﹃試練の白塔﹄のアーサマ像も酷かったけ
ど、これも酷い。
1516
マジ
﹁つか、本当で、アーサマ良いのかよ、これ放置して⋮⋮﹂
俺が、何度目かのため息をついてそうつぶやくと、盛んに演説し
ていたニコラウス大司教が﹁ううううっ﹂と苦しみだして、前かが
みになった。
見る間に、背中からバサッと白銀色の大きな翼が生えた。
民衆は﹁おお! 奇跡が起こったぞ﹂﹁創聖女神アーサマのご降
臨だ!﹂とか騒いでいる。
俺はすごく嫌な予感がした。
﹁すまんヘルマン、俺は逃げる﹂
ダッシュで逃げたが、時すでに遅かった。
俺の予想通りこっちに向かって白銀の翼をバサバサを羽ばたかせ
てイチジクの葉っぱを付けた裸の男が飛んでくる。
勇者認定一級の聖者であるニコラウスは、神聖魔法で白銀の翼を
出すことは出来る。
しかし、飛ぶのに股間を震わせるのではなく、普通に羽根を使っ
ているのを見ると、あれはホモ大司教ではなく、降臨したアーサマ
に違いない。
ニコラウス大司教にはバレなかったが、黒ローブの持つ隠密効果
が、創聖女神に通用するわけもなかった。
もちろん、勇者のダッシュ力も、その力を与えている側のアーサ
マに通用するわけもない。
諦めの悪い俺は必死に逃げたのだが、俺の腕がガシッと掴まれる
と、そのまま空中へと引っ張り上げられた。
1517
なすすべもなく、そのまま大司教に降臨したアーサマに、帝都の
教会の屋根の上へと連行された。
﹁うあー、すいませんアーサマ!﹂
﹁あーあー、テステス、いま、聖者ニコラウスの身体を通して話し
ている。我の声が、聞こえているか勇者タケルよ﹂
もうバレバレみたいなので、俺は黒ローブのフードを上げた。
お久しぶりにご尊顔を拝し、恐悦至極でございますよアーサマ。
﹁聞こえてます、どうぞー﹂
﹁うむ、こっちも勇者タケルの言うことは聞こえてるから、一言説
明しておこうと思って出てきた﹂
聞いてるから、滅多なこと言うもんじゃないぞって、注意されて
るのかこれ。
いやでも、俺よりリアとかニコラウスとか、まったく役に立たな
い異端審問会とか、先に注意すべき連中がいっぱい居るんじゃない
か。
﹁というか、俺が思ってることも聞こえてます?﹂
﹁そうだ、誤解があるようなので黙って居られなかった。たまたま
受信に適した聖者が近くに居たということもある﹂
しかし、ニコラウス大司教の身体にアーサマが降臨してるってビ
ジュアル的に酷いなこれ。
ニコラウス大司教は、色白でよく見れば整った顔立ちをしている
のだが、中身が女神だともっとホモっぽさが強化されるというか。
﹁勇者タケル。我は、思っていることも聞こえていると言ったよな﹂
1518
﹁すいません﹂
﹁まあ良い、人の想いを止めることは女神にもできぬことだ。尺が
足りないし、巻き入ってるんだから、いちいち我にツッコませるな﹂
またアーサマは、放送系の業界用語を微妙に混ぜてくる。
どこの業界人だよと、こっちもツッコみたくなるが止めておこう。
アーサマは常にケツカッチンらしいから。
﹁うむ、分かっておるようだな。タケルは、話が早くて良い﹂
﹁お褒めにあずかり光栄です﹂
﹁ニコラウス大司教の暴走を放置しておるのには意味がある。残念
なことに、新教派が行っている裸祭りと、統制の取れた略奪が、こ
の騒乱状態に対処するための最適解だからだ﹂
﹁あの裸祭りが最適なんですか﹂
﹁戦争に負けて追い詰められている帝都には、痛み、苦しみ、悲嘆、
嘆き、恨み、怨嗟、憤怒、憎悪、賊心、邪心、絶望、あらゆる種類
の悪念が満ち満ちている。頂点に達した民衆のフラストレーション
は爆発寸前で、ガス抜きが必要なのだ﹂
﹁なるほど、それは分かるような気もします﹂
﹁だろう、行き場のない民の狂騒は、女神たる我にも御し難い。ニ
コラウス大司教は、裸祭りを起こして鬱憤を溜めた民を踊り狂わせ
て、悪いエネルギーの平和的な発散を行っているのだ。略奪行為も
良いとは言い難いが、無秩序な大虐殺に発展するよりはマシだ。飢
える民を尻目に、何もしない商会にも自業自得な面もあるし、その
過程がどれほど悪かろうと、施す行為それ自体は善である﹂
﹁いや、言い訳しなくてもいいですよ。分かりました﹂
1519
俺も今や曲がりなりにも、為政者や将軍って立場で、そういう非
情な判断を下さなければならない時はあるから理解はあるつもりだ。
つまり、十を生かすために一を殺すってことだな。
﹁無力な女神で済まない、ニコラウス大司教が裸祭りで発散させて
いる間に、勇者タケルにも尽力してもらってこの事態を早く収拾し
てもらいたい。我は決して信者同士が争い合うのを好ましいと思っ
ているわけではないのだ﹂
﹁女神も大変ですね﹂
﹁あとこれだけは言っておきたいのだが、我は﹃裸になれ﹄なんて
信者に一言も言ってないから!﹂
﹁そこはわかってますよ﹂
フッと、よろめくとニコラウス大司教は、教会の屋根の上に座り
込んだ。
どうやらアーサマが抜けたらしい。
﹁フフフッ⋮⋮﹂
﹁大丈夫か、ニコラウス﹂
なんか、敵対していいのか悪いのか。ニコラウスにどういう態度
で接したらいいか俺はよくわからん。
﹁ハハハッ、ついに我が身にアーサマが降臨なさった!﹂
﹁お、おう﹂
ニコラウス大司教は、座り込んだまま眼から滝のように涙を溢れ
出させた。
1520
﹁勇者タケルよ、分かりますか。アーサマが男の聖者に降臨なされ
たのは、これが史上初の快挙なのです。これまで、僕たちは理想の
違いからずっと相争って来ましたが、僕は今日この日に、貴方の全
てを許しましょう﹂
﹁ああ、それはありがたいが﹂
汗だくの裸の男に、抱かれて喜ぶ趣味は俺にはないんだが。
黒ローブあとで洗濯しておかないといけないな。
なんとか、感涙して抱きしめてくるニコラウス大司教を押しのけ
る。
はあ、アーサマ教会関係者の相手は毎回キツイ。
﹁ところで勇者タケル、なんでそんな変な格好をしてるんです﹂
﹁変な格好言うなよ、敵の懐に忍び込んでるんだぞ、隠密行動に決
まってるだろう!﹂
話に聞いてみると、やっぱり新教派は、拳奴皇に協力しているら
しい。新ゲルマニア帝国は、拳奴皇の軍隊、新教派、農民反乱軍で、
三頭政治のような状況になっているそうだ。
﹁金獅子皇フリードの次は、拳奴皇ダイソンの側近かよ。お前も節
操ないな﹂
﹁僕は、僕の夢を実現するために全力を尽くしてるだけです﹂
﹁どうせ、ダイソンも勇者にするつもりなんだろ﹂
﹁そう思ってたんですけど、諦めましたよ。ダイソンは、確かにむ
しゃぶりつきたくなるような筋肉美を持つ巨漢ですから、僕の理想
に限りなく近かったのですが、ダメでした﹂
1521
﹁見切るのが早いな、アーサマに俺と和解しろと言われたからか﹂
﹁いえ、ダイソンは皇孫女と結婚すると言い出したのです。妻帯者
の勇者なんて、あり得ないでしょう!﹂
いや、妻帯してる勇者の俺に言うなよ。本心はどうあれ、無難に
アーサマに言われたからって理由にしとけばいいのに、どうしてこ
うも嫌な感じに正直なんだろ。
ここで、ニコラウス大司教と喧嘩してもしょうがないので、まあ
話を合わせておくか。
﹁確か、皇孫女って八歳の幼女だろう。確かにそれはあり得ないな﹂
﹁ええまったく、男の子なら余裕でアリなんですけどね。なんで男
の子じゃないんだ⋮⋮﹂
何かブツブツ言ってる、こいつも怖いなあ。
なんで、アーサマ教会の上層部にはこんな変態しかいないのだろ
う。
﹁それで、拳奴皇ダイソンから、こっち側に寝返ってくれるのか﹂
﹁ええ、とりあえず新教派の教会を自由に潜伏先に使っていいです
よ。教会内部なら、ダイソンの軍隊もごまかせるでしょう。その代
わりに、もし旧帝国がまた盛り返しても、新教派の活動は認めてく
ださいね﹂
本当に、気持ちがいいぐらいあっさりと裏切ってくるなあ。
まったく信頼できない男だが、利害が一致してる限りは、取引の
相手として信用できるか。
しかし、邪教を認めてしまっていいものだろうか。
1522
ちょっと迷ったが、アーサマまで降臨して諌められた手前、しょ
うがなくそれで妥協することにした。
こんな邪教、放置して大丈夫かなあ。アーサマの事情もわかるけ
ど、やっぱり女神様は自分の信徒への判定が甘すぎる気がする。
※※※
﹁とりあえず、新しい潜伏先が出来てよかったですね﹂
ニコラウス大司教の計らいで、分教会の倉庫を借りることができ
た、野宿しないで済んだ楽士ツィターが喜んでいる。
まあ、女の子はそうだろうな。俺としては、新教派に借りが出来
てしまったのが微妙なところだが。
分教会の神官の話を聞くと、新教派は商会から金を取って、逆ら
う商会に対してだけ略奪を行うなどかなりあくどいことをやってい
て、こんな勢力を味方にしてしまったのかと気が滅入ってくる。
そうやって絞り取った金は、全て貧民への炊き出しに使っている
と豪語していたが、教会がゆすりたかりの上に義賊の真似事とか、
世も末だろう。
久しぶりに単独行動できて、羽根を伸ばせるかと思えば、トラブ
ル続きなので先が思いやられる。
もうさっさと、老皇救出して帰りたい。早く、救出作戦を立てな
いかと聞いたら、明日帝城で民に向けての拳奴皇の演説があるから、
その隙に城の裏をぶち破って助け出そうとする作戦があるらしい。
いざとなれば、光の剣を使って、城壁ぐらいぶち破れるからな。
あくまで策士として活躍したいらしいカアラは、﹁私は帝城の構
1523
造もだいたい知ってます﹂とか言い出して、作戦立てたいみたいで
ウズウズしてるようだが、複雑な策はいらない。敵の目が他に引き
つけられていれば、なんでもいいんだよ。
だいたい帝城の構造なら、そこに仕えていた騎士が知らないわけ
がないんだから、カアラの出番は今回はないぞ。
﹁心配しなくても、忍び込みさえすれば、どうせ皇族しか知らない
帝城からの脱出経路とかあるんだよ﹂
なあ、ヘルマンと言うと﹁どうして分かったのですか!﹂と、血
相を変えた。
どうやら当てずっぽうに言ったのが正解だったようだ。ヘルマン
は、フリード皇太子の守護騎士だったので知らされていたらしい。
まあこの手のパターンだし、救い出した後の脱出経路ぐらいある
だろうとは思っていた。
むしろ、救出作戦まで立てておいて、脱出経路を何も考えてなか
ったなら、ここで降りさせてもらうところだぞ。
﹁ヘルマン、いっそ拳奴皇ダイソンってやつ暗殺すればいいんじゃ
ないか﹂
﹁ゆう⋮⋮いえ、ガンナー様。私はダイソンと直接戦いましたが、
彼は私よりも強いのです。逃げ延びるのが精一杯でした﹂
それはちょっと聞き捨てならない。
なぜなら、ヘルマンは﹃オリハルコンの大剣﹄を持ったルイーズ
と互角に戦った男だからだ。
﹁マジかよ、ヘルマンより強いってことは、ルイーズより強いって
1524
ことか?﹂
﹁戦いには相性もあります。﹃万剣﹄とは武器が違いますゆえ、な
んとも言えませんが﹂
言葉を濁すヘルマン。
まあ、分かるよ。微妙なところなら、不用意なことは言えないよ
な。
﹁どうなんだ、分かる範囲でいいが、そこまで強い敵だとは思って
なかったぞ﹂
﹁いまの拳奴皇ダイソンは、﹃オリハルコンの手甲﹄を手に入れて
おります。﹃万剣﹄と並び立つ実力はあるでしょう﹂
厳しい顔を歪め、苦しげに言葉を絞り出すようにつぶやいた。
守護騎士ヘルマンほどの強者の言葉は重い。ヘルマンは、互角に
渡り合いながら、実力は自分よりルイーズのほうが上だと見ていた
んだな。なかなか冷静な分析だ。
たしかにヘルマンの﹃オリハルコンの大盾﹄は、鉄壁の防御を誇
るが、決定力不足だ。
彼のチートは、防衛力に特化しているので負けることはないが、
倒すとなれば格下の相手でなければ難しい。
つまり、ヘルマンが勝てなかった拳闘士ダイソンの実力は、格闘
技のチートレベルと推定できる。
だがそう考えると、逆に俺はダイソンと戦ってみたいと思い始め
ていた。格闘技チートは、接近戦特化だ。
ライフル
相性の良い、長大な射程を持つ魔法銃であれば、あるいは殺れる
のではないか。どんな最強の格闘家だろうが、最新式の銃に勝てる
1525
わけがない。
どうせ、敵に回す相手なら、敵の懐深くに潜伏したいまこそが、
始末する良いチャンスではないだろうか。
機会があれば、殺ってやろう。
もちろん、こちらは絶対的な安全圏からな。
﹁クックック、首を洗って待っているが良い、拳奴皇ダイソン⋮⋮﹂
黒フードを目深に被った俺は、低い笑い声を上げた。
このフードは呪いがかかっているんじゃないだろうか、どんどん
悪役気分になってくるんだが。
﹁最近の国父様カッコいいです、アタシ惚れ惚れ致します﹂
カアラが俺の肩をベタベタ触ってくる。趣味が黒い方向に偏って
るお前にそう言われると不安になってくるんだけどね。
この黒ローブを纏いだしてから、いつもは影に控えているカアラ
の出現率がやたら上がってきているな、どんだけ黒が好きなんだよ。
カアラがくっついてくると、負けずにオラクルちゃんもくっつい
てくるし。
こうやって魔族に囲まれていると、俺も魔族の一員になったよう
な気分になる。
レジスタンス
予想通り、抵抗軍の救出部隊の皆さんはドン引きみたいだしね。
楽士のツィターが、取りなすようにこっちに声をかけてきた。
﹁ガンナー様、ハムが焼けました。お食事はいかがですか﹂
﹁うむ、ありがたくいただく﹂
1526
街がこんな状況でも、逆らう商会を略奪し、大商会に恐喝をしか
けている新教派の食糧事情は良い。
新教派に提供された、このパンとハムを食べちゃうと、俺も共犯
だなと思いつつ、いまさらなのでありがたくいただくことにした。
どうせ悪役だし。
﹁では、お食事の間の慰みといたしまして、わたくしツィターが僭
越ながら、一曲弾かせていただきます﹂
ツィターは、台形の変わった弦楽器を取り出すと、椅子に座って
奏で始めた。
なんというか、哀愁ただよう響きだった。ゲルマニアに古くから
伝わる楽曲らしく、覚悟を決めて敵地に乗り込んでいる騎士たちは
みんな静かに耳を傾けていた。
俺は場末のディナーショーみたいだなと思ったのだが、そんなツ
ッコミができる空気ではなかった。
さすがは、元エリートの宮廷楽士だけあって格調高い旋律である
が、座り込んで聞いてるうちに物悲しい気分になってくる。
ゲルマニアの夜は更けて、ハムを焼く赤々とした焚き火を見つめ
ながら、だんだんと郷愁の念がでてきた。
もちろん、俺の思う故郷は日本ではなくて、妻たちの待つシレジ
エの王城になっている。
そういう気持ちを新たにできただけでも、わざわざゲルマニアく
んだりまで来たかいがあったというものかもしれない。
出て来るときは単身赴任の気軽さもあったが、さっさと、やるこ
とをやって帰るべきなのだろう。
1527
117.拳奴皇ダイソン
広場に張り出す帝城のバルコニーから、民衆に向けて宣言がある
と聞き、俺たちも広場に潜伏した。
拳奴皇軍の兵士たちが、帝城の前に集結して厳戒態勢が敷かれて
いる。この分なら、帝城の後ろから強襲すれば行けると思うのだが、
ヘルマンが嫌な予感がすると言い出して、拳奴皇の演説が始まった
のを確認してからにすることになったのだ。
﹁ヘルマン、嫌な予感ってのは何なのだ。実は敵に救出作戦がバレ
ていて、この拳奴皇のお触れ自体が罠だとかそういう﹂
﹁いや、そういうことではないのですが、騎士としての勘です﹂
ふうん、まあ分からなくもないな。
帝都に俺たちが侵入して、次の日に都合よく広場に集まるように
お触れが出るなんて、何か予想外のハプニングがあるかもしれない
と疑うのも無理はない。
﹁よしヘルマンの勘を信じる。そういう慎重さが、お前をここまで
生き延びてさせたのかもしれない﹂
﹁恐れいります﹂
何事もなければ、十分作戦を決行する時間は取れるだろう。
広場ではモヒカン兜を被った、拳奴皇軍の幹部兵士達が﹁ダイソ
ン! ダイソン!﹂と声をあわせてダイソンコールをやっていた。
拳闘士のスター選手だった頃の慣例をそのままやっているのだろ
う。
1528
やがて、民衆にもダイソンコールが広がっていく。
﹁ダイソン! ダイソン!﹂
オラクルちゃんがノリノリでやっているので、ビックリしたがよ
く考えるとやってないのはおかしいよな。
俺も拳を上げて、ノリノリでダイソンコールしてみた。
そして、その盛り上がりを見越したように、巨漢の半裸の男が猛
る肉体を皇帝の証である貝紫色のマントに包んで現れる。
拳奴皇ダイソンが、マントを翻してバルコニーに姿を現しただけ
で、広場の群衆はヒートアップした。まるでいまから拳闘の試合で
も始まりそうな雰囲気だ。
﹁あ、やっぱりダメです﹂
﹁どうした、ヘルマン﹂
﹁拳奴皇の隣に立たされているのは、皇孫女エリザベート殿下です。
あれではご救出は無理です﹂
月の輪熊を思わせるほどの巨漢の拳奴皇ダイソンの隣に、可憐な
幼女が立っている。
皇孫女エリザベート、まだ八歳の子供だ。小さい身体の腰まで青
みがかったブロンドに、金のティアラを乗せて、豪奢な編み模様の
ついた純白のドレスを着せられてはいるが、その姿はあまりにも小
さく幼気だ。
俺は双眼鏡で見ているからよく分かるんだが、皇孫女の幼い顔は
青ざめて、硬く強張っている。今にも泣きそうな悲しみを堪えてい
るような、子供のする顔ではない。よく見れば、皇孫女の後ろに槍
1529
を持った重装歩兵が並んでいる、脅されて立っているのだ。
皇族や王族が、政治の道具に使われるのは普通のことだと分かっ
てはいるのだが、それでもたった一人の八歳の子供が、敵の大人に
囲まれて晒し者にされていることを思うと、俺はとても気分が悪か
った。
﹁やはりヘルマンの勘が的中したんだな。用心しておいてよかった
じゃないか﹂
考えなしに帝城を打ち破ったら、老皇帝は救出できても、皇孫女
の救出はできなくなるところだった。
チャンスは一回だけなのだ、一度失敗すれば今度は警備も厳重に
なるだろう。
老皇帝は、﹃オリハルコンの鎧﹄の借りもあるから、助けてやり
たいとは思っていたが、こうして兵士に囲まれて顔を強張らせてい
る子供の顔を見れば、皇孫女も助けてやりたいと思う。
まあ、警備が厳重でも子供一人助けるぐらいはできるかもしれな
レジスタンス
いが、無事に救いだしてやりたいしな。
抵抗軍のメンバーに作戦の中止を伝えているヘルマンに、俺は声
をかける。
﹁ヘルマン、お前も撤収しろ。俺は一人で、拳奴皇の暗殺を狙って
みる﹂
﹁ゆう⋮⋮いえ、ガンナー様とはいえど﹂
拳奴皇さえ倒せれば、指揮系統が混乱するし、より簡単に助け出
せるはず。
いやそんな理屈は後付で、俺はダイソンのやりようを目の当たり
1530
にして、許せないと思えてきたのだ。
﹁無理と思うか。でも、試してみる価値はあるだろう。遠方から狙
って狙撃してみるだけだ、ダメなら俺も撤退する﹂
﹁くれぐれも深追いしませんように、そこらの雑兵ならともかく、
拳奴皇と直接戦うことになれば、貴方様でも危ういでしょう﹂
ハッキリ言ってくれるなと思ったが、ヘルマンは当てこすりを言
うような男ではない。真剣に俺の身を案じて、忠告しているのだ。
俺も分かったと頷く。
レジスタンス
抵抗軍が引いたあとも、俺は遠方から狙撃できる位置を探す。
広場の向かいの建物に、金を払って入れてもらうことにした。拳
奴皇の演説を高みから見物しようと、物好きが登ってるらしいので、
それに紛れて屋根の上まで登ることができた。
﹁さてと﹂
いつしか聴衆は静まり返り、拳奴皇ダイソンの演説は続いている。
その隆々たる化け物じみた肉体と、厳つくデカイ顔の割に、声は
通りの良い涼やかな声だった。
だが奴の仁王が怒ったような凶暴な面をスコープ越しに見ている
俺は、その声にゾッとするような冷徹さを感じる。
明らかにチートクラス。その静かなる声に秘められた、こいつは
強いという実力がビンビンに伝わってくる。逆に言えば、俺もこの
世界に様々な強者を見て、それが分かる程度には慣れてきたという
ことか。
﹁⋮⋮東の三王国は我が軍に友好の使者を送ってきた、ローランド
1531
王国並びにブリタニアン同君連合とも、停戦協定を交渉中である。
無思慮な抵抗を繰り返す帝国貴族共は所詮弱卒であり、我が拳の前
になすすべもなく押し返された。いまや、我ら新ゲルマニア帝国の
覇道を阻むものはこの国に存在しない⋮⋮﹂
俺は、遠距離用の、スコープを付けて狙う。グルーピングの調整
がまったく出来てないのが不安だが、数発撃つチャンスはあるだろ
う。
初弾を外しても、撃ちながら調節すればいい。
ライフル
それに、弓魔法を併用した魔法銃の精度は高い。
元の世界のライフルより、風の影響を受けにくいからより狙撃に
向いていると言える。
﹁あとは俺の腕だな﹂
スコープで拳奴皇ダイソンを見ると、この距離からでもデカイな
と思う。的がデカイってのはいいことだ。
ダイソンは、身長二メーター五十センチを超える化物だ。ヘルマ
ンよりも巨漢な男は初めて見た、確かにこれは強いだろうなと思う。
ダイソンを見てまずビックリするのは、首の筋肉のデカさだ。
手足が丸太みたいに大きいのはまだわかる、図体が化物じみてデ
カイのもわかる。しかし、あの太い首の筋肉はどんな鍛錬を積んだ
ら付くんだろう。
人間の肉体的弱点を、鍛えぬかれた筋肉で補強しているという感
じだ。
﹁しかも、皇帝なのに上半身裸で、トレーニングパンツとか誰得だ
よ﹂
1532
たぶん、下で喝采を上げている民衆や兵士が喜ぶんだろうな。
拳奴隷の皇帝なんて名乗っているのだ、そりゃ庶民派アピールは
するだろうさ。
裸体でトレーニングパンツなのに、綺麗に刈り上げられたくすん
だ茶髪のゴツい頭に、ゲルマニア皇帝の証である太陽を象ったギザ
ギザの帝冠を乗せて、貝紫色のマントを張っているという無茶な服
装。
それなのに、やけに似合ってやがる。まるで風雨に削りだされた
巌のような風格のせいだな。
﹁シレジエ王国に負けるような犬にも劣る古い帝国軍は打ち払われ
て、我々最強の新ゲルマニア軍が新しい秩序をこのユーラ大陸にも
たらすことになる。その時こそ、ゲルマニアの民が失った自信と誇
りを再び取り戻し、勝利の栄光に輝くであろう!﹂
俺は、ダイソンの演説を聞いてつぶやく。
﹁いや、そうは言うけど、帝国軍強かったぞ﹂
ライル先生の策謀フル回転で、なんとか勝てたぐらいにこっちも
ギリギリだった。
フリードの留守中に、帝都を奪っただけの小悪党が何を言うかだ。
﹁先帝コンラッドに禅譲を受けた余は、このたびコンラッドの孫娘
である皇孫女エリザベートと結婚することとなった。これで、余は
ゲルマニア帝国の正統なる後継ともなったのだ﹂
八歳の幼女と結婚とかマジで言ってるのかよ。あんな巨大な大男
1533
が、あんなちっさい女の子と結婚するとか。
聞いてると残酷な話なのに、賛同の声を上げている民衆の気持ち
が俺には分からない。
まあ、結婚といっても、まさか本当に手を出すわけじゃないんだ
ろうけど。
統治の正統性を得る上での、仮の話だよね。
﹁こっち見んな⋮⋮﹂
ライフル
なんだろう、魔法銃のスコープ越しにも、拳奴皇ダイソンの凶暴
な肉食獣を思わる眼がこっちに向いている。こっちに拳を構えて、
俺に向かって語りかけているような気すらする。
早く撃ってしまえと思うんだが、なかなか隙がない。
いや、隙とか関係無いだろう。遠距離からの狙撃なんだぞ、皇孫
女に当たらないようにだけ気をつけて、頭を撃ちぬいてしまえば終
いだ。
俺は悪い予感と恐れる気持ちを振り払い、気合の叫びを上げつつ
引き金を引いた。
﹁ダイソン、奴隷が皇帝になる夢を見ながら死んでいくがいい!﹂
バシュッと音を立てて、弾丸はまっすぐにダイソンの大きな顔面
に飛ぶ。
だが、信じられないことにダイソンのオリハルコンの手甲をつけ
た拳が、弾丸を弾いた。
攻撃を察知したというのか、この距離からの狙撃だぞ。
たまたま受けられたに違いない。
1534
俺はもう一発の弾丸を撃ったが、頭があった位置に吸い込まれる
ように飛んだ弾丸を、今度は避けやがった。
まだだ、俺はさらに六発。今度は、狙いもほどほどに連発してみ
たが、全て﹃オリハルコンの手甲﹄によるパンチで弾かれてしまっ
た。これはもはや、偶然避けたとか弾いたとかってレベルではない。
クソ、弾切れか⋮⋮。
俺が弾倉を詰め替えようとしていると、ダイソンの声がこっちに
響く。
﹁我らと敵対する者よ、余を殺しに来るのはいいぞ! 最強である
者がこのゲルマニア帝国を治めるのだ、世界最強である余は、逃げ
も隠れもしない!﹂
ワーと、民衆の歓声があがる。何が世界最強だ、お前はどこのフ
リードだよ。ゲルマニア皇帝ってのはこんな奴ばっかりだ。
しかし、俺の狙撃は、結局のところダイソンの演説を盛り上げて
しまうだけの結果となってしまったようだ。
ダイソンのこちらに向けた雄叫びで、遠距離攻撃されたというこ
とが分かってしまったのか、ようやく護衛の兵士が動き出して、こ
っちに向かってくる。
﹁時間切れだな、作戦失敗か⋮⋮﹂
スナイパーは、位置がバレたらお終いである。これ以上の深追い
は危険だ。
俺は、建物の天井から飛び降りて、その場を逃げ去った。
1535
逃げながら考える。格闘家チートの力を見誤ったのが、失敗だっ
たのだろうか。
例えば合気道の創設者、植芝盛平は六人に囲まれて拳銃による同
時集中射撃を受けたが、狙撃手を投げ倒して囲みから抜けたという
伝説がある。
植芝翁いわく﹁光の筋を避けると、一瞬遅れてその筋に従って銃
弾が飛んできた﹂というのだ。
まるでニュータイプだが、研ぎ澄まされた感覚の世界とはそうい
うものだ。俺も極限の戦闘で、何度か時間の感覚が変わった経験を
しているので、わからないほどではない。
狙撃手の殺気を肌で感じて、魔法や銃撃による射撃を弾いたりか
ライフル
わしたりできるチートレベルの格闘家はリアルに存在するのだ。
だとすれば、魔法銃が通用しない格闘家チートが居るのも無理は
ない。
失敗ではあるが、無駄ではなかった。
相手の力の程が、本格的な戦いの前に知れたということには意味
がある。単純な狙撃が通じないなら他の攻撃も織り交ぜて叩けばい
い。
﹁見ていろよダイソン、次こそ息の根を止めてやるぞ﹂
俺は隠密効果のある黒ローブに身を包んで裏路地を抜けて、敵の
追手を撒いた。
これで、表面上はクーデター側に付いていて特別扱いされている
新教派の教会に逃げ込めば捕まることはない。
しかし、銃撃による暗殺をしかけて失敗とか。どちらが悪役か分
1536
かったものじゃないなと、俺はさすがに苦笑した。
1537
118.救出作戦
前回の拳奴皇ダイソンの演説のタイミングを狙った救出作戦は失
レジスタンス
敗に終わった。
救出を焦る抵抗軍は、すぐにでも新しい作戦を決行すると言い出
したが、ヘルマンから聞いたその計画は酷いものだった。
﹁帝城の前で騒ぎを起こして、裏から救出って、じゃあその騒ぎを
起こした連中はどうなるんだよ﹂
﹁ゆう⋮⋮いえガンナー様。既に皆、死ぬ覚悟はできてますゆえ﹂
ヘルマンはそう言うが、下策も良い所だろう。
陽動作戦は良い。俺もそうすべきだとは考えたが、囮が確実に死
ぬような作戦は外道だ。俺が付いてる限り、そんな杜撰な作戦は許
さないぞ。
﹁しょうがないな、カアラ。何か案はあるか﹂
﹁はい、国父様。アタシにお任せ下さい!﹂
久しぶりに、カアラを策士として使ってみることにした。
カアラはよっぽど嬉しかったのだろう、調子はずれの口笛を吹き
ながら、帝城の地図を書き始めた。軍師の威厳ゼロだから止めたほ
うがいいぞ。
﹁ツィターさん、皇孫女と皇帝が囚われているのはどこです﹂
﹁はいえっと、この裏側の尖塔から歌が聞こえてきたんですよね﹂
そもそも、この救出部隊を結成することになったのは、楽士ツィ
1538
ターが皇帝たちが囚われている位置がわかったと帝国軍に直訴した
からだ。
宮廷楽士だった彼女は、クーデターが起こって帝城から追い出さ
れても、未練があって帝城のお堀をうろついて居たそうだ。
すると、裏側の帝城の尖塔から聞き覚えのある歌声が聞こえてき
た。
楽士ツィターが、直接お目通りしたときに教えた歌を、老皇帝と
皇孫女が二人で合唱していたというのだ。
敵に囚えられているのに、のんきに楽しく合唱なんて普通はあり
得ないんだが。
味方の救出を呼ぶため、それが無力な老皇帝にできる精一杯の努
力だったのだろう。そして、それを偶然ツィターが耳にしたのだ。
城の構造に詳しいヘルマンに聞くと、やはりそこに囚われている
気配が濃厚だという。
その尖塔は、牢獄として使われていたそうだ。軟禁ではなく投獄
である。﹁仮にも皇族を獄につなぐとは、許しがたい暴挙だ﹂と怒
っていた。
それだけに、弱っている老皇帝の健康状態が気遣われる。一刻も
早く救出したいというヘルマンたちの気持ちもわかる。
﹁ヘルマンさん、脱出経路はどこになりますか﹂
﹁それは⋮⋮ここの隠し扉から地下通路を通って、堀の下を抜けて
帝都の外に出れます﹂
﹁アタシに、もうちょっと詳細に構造を教えて下さい﹂
﹁詳細にと言われても⋮⋮﹂
さすがに皇室の最高機密となるので、ヘルマンもいいあぐねてい
1539
るが、どうもカアラに言わせると地下通路の大きさが大事な問題に
なってくるらしい。
よく分からんがカアラに策を任せると言った以上、そのための材
料は極力与えてやらなければならない。俺がヘルマンに言い添えて、
思い出せる限り詳細に話させた。
しかし、通路の直径とか長さとか、帝城の構造と地下通路との細
かい位置関係、そして作られた年代まで聞いてるのが、何の役に立
つのかはよくわからない。
まあ、今回の策はカアラに任せたのだ。考えるのは、俺の仕事で
はない。
作戦を説明する際に、カアラがまず言ったのは﹁私とオラクル様
レジスタンス
は、空が飛べます﹂と言うことだった。
当たり前のことなのだが、抵抗軍は、カアラとオラクルの実力を
知らない。だから悲愴な作戦を立てたのだろう。
カアラの作戦はこうだ、とりあえず夜陰に紛れて、大きな籠で全
員を帝城の尖塔にあげて待機させる。
そして、然る後にカアラが帝城の前で上級魔法を派手にぶっ放す。
その混乱の隙に、尖塔から侵入して皇帝と皇孫女を助けだして脱
出すればいい。
カアラも騒ぎ回ったら、あとは夜陰に紛れて飛んで逃げて、合流
するということだ。
﹁以上が、アタシの作戦ですがいかがでしょう、国父様﹂
﹁うん、いいんじゃないか﹂
魔族らしい容赦ない作戦だ。
1540
カアラが暴れたくて仕方がないと言う感じが出てて好感が持てる、
﹁えっとあの、これにさらに追加するなら、作戦決行前に帝都の四
方八方に放火して守備兵をさらに分散させるというのもあるんです
けど﹂
﹁そこまでやったらクーデター軍と一緒になってしまうから、原案
どおりでいいぞ﹂
最初から、俺好みではない外道な策を言わないあたり、やはりカ
アラも成長してるなと思う。
帝都には無辜の市民も、味方もいるのだから、無思慮な攻撃は避
けたい。
﹁ヘルマン、こんな感じの作戦で良いかな﹂
﹁ハッ、ありがたき幸せ﹂
レジ
﹁バカ、頭をあげろヘルマン。俺とお前の仲じゃないか。助けるの
は当然だ﹂
﹁ご助力、痛み入ります﹂
スタンス
ドリフ・ガンナー
皇家直属の守護騎士である﹃鉄壁の﹄ヘルマンが納得すれば、抵
抗軍の面々も納得なんだろうけれど。
その守護騎士に深々とかしずかれている、流離いの黒銃士は何者
なんだよって話になるから、あまり慇懃な振る舞いは止めて欲しい。
しかしまあ、融通の利かないヘルマンに言っても詮無いことか。
近衛不死団出身で、まったく世慣れしてない守護騎士に、腹芸を
要求するほうが間違いというものだ。
強大な力を持つ魔族を二人も使役している俺は、明らかに救出部
1541
隊から怪しまれているんだが。
下手に身分を詮索されるよりは、むしろ怪しまれているぐらいで
ちょうどいいのかもしれない。
﹁ちょっと、待ってくれ!﹂
若い騎士が、進み出て俺に声をかけてくる。
確かこの人、隊長格だっけ。
﹁何か、策に不備な点があったかな。えっと⋮⋮﹂
﹁ガンナー殿、挨拶が遅れた。俺は隊長のラハルト・ヴァン・レト
モリエールだ。作戦は了解したが、帝城に忍び込んで救出するのに
三十人全員で行くことはない。むしろ少人数のほうが都合がいいは
ずだ、この俺に兵を二十人くれ﹂
えっと、名前にヴァンがついてるってことは一応、下級の貴族な
のかな。
帝国がこうなっている以上、貴族もクソもないんだが、意地があ
るんだろうなあ。
﹁ラハルト殿、死ぬような作戦は、さすがに認められないぞ﹂
﹁いや死にはしない、先ほどまでその覚悟もあるつもりだったが、
ガンナー殿の作戦を聞いて考えが変わった。今から馬をかき集めて
来て、帝都の門の前で騎馬隊による陽動を仕掛ける﹂
﹁なるほど、帝都の前で騒ぎを起こせば、あの拳奴皇だったらノコ
ノコと見に来るかもな﹂
﹁もちろん、俺達だって生き残りたいから、あの化け物が来たらま
ともには相手をしないけどな。見たところ、ここの門の警備は厳重
ではなかった、二十騎も居ればいい勝負ができるだろう﹂
1542
ふむ、騎兵隊とカアラの攻撃で、二重の陽動作戦か。
悪くない陽動作戦だとは思える。
﹁終わったあとに、逃げるあてはあるのか﹂
﹁もともとここは帝国の土地だ、こちらの協力者の村はまだあるん
だ、馬で一目散に逃げれば死ぬことはない﹂
レジスタンス
カアラも助かると言っている、ラハルト隊長の提案で、計画がよ
り確実なものになりそうだった。
俺はお願いすると、握手した。少しは抵抗軍の救出部隊と、俺も
打ち解けられたかもしれない。
﹁俺は元々、将軍だったんだよ。シレジエの勇者との戦いでドジを
踏んでしまって、後方に左遷されたんだが、人生はわからんものだ。
それでシレジエ会戦に参加することなく助かってしまった。俺たち
帝国抵抗軍の将軍である、マインツ前将軍もその口だ﹂
﹁なんだ﹃穴熊の﹄マインツが、貴君らの指揮官なのか﹂
ドリフ・ガンナー
ラハルトという若い騎士隊長に、怪訝な顔をされた。
しまった、今の俺は流離いの黒銃士だった。マインツと知り合い
だったらおかしいよな。
﹁ガンナー殿は、マインツ卿と知り合いなのか﹂
﹁いや、名前を聞き知っているだけだ。名将として有名だから﹂
﹁いや、マインツ卿は、凡将で余り有名ではないんだが⋮⋮﹂
﹁まあ知る人ぞ知るって感じだよな﹂
なんだか話が噛み合っていない。
1543
知らないで通せばよかった、余計なことを言うもんじゃないな。
﹁とにかくだ、俺は将軍としてあのシレジエの勇者と直接戦っても
生き残った男である。戦に負けた不名誉は返上したいところだが、
賊軍相手にこんなところで死にたくないという気持ちもあってな。
騎士らしくはないと思うが﹂
﹁いや、それでいいんじゃないか。生きてこそ名誉回復もできる﹂
それにしても、このラハルトという若い騎士、俺と直接戦ったと
いうがどこで見たかな。ちょっと考えてみるが、思い出せない。
緒戦の方だったのだろうか、将軍と名のつく騎士はマインツと姫
騎士エレオノラ以外、たいていやっつけてしまったと思うのだが。
﹁シレジエの勇者の話ですか?﹂
そんなことを思いつつ、ラハルトと話していると楽士ツィターが
そんなことを言って話に入ってきた。
いや、シレジエの勇者の話はしてないけどね。
今その話を蒸し返さないでくれるか、もしかしたら俺のほうが覚
えてなくてもラハルトが俺の顔を覚えてるかもしれないからね。
ここで正体が割れると、面倒なことになりそうだったので俺は黒
フードを目深に被りなおす。
﹁おうそうだ、シレジエの勇者と真っ向から戦って、生き延びた幸
運な将軍は俺ぐらいな者だと言う話しさ﹂
﹁私、シレジエの勇者を讃える歌を、今作ってるんですよね﹂
ツィターも、いまいち話が噛み合ってないよな。
なんでゲルマニア人なのに、シレジエの勇者を讃える歌を作るの
1544
か聞いたら、個人的にファンなんでとか言われた。
﹁宮廷楽士を首になったから、吟遊詩人で儲けるつもりではなかっ
たんだな﹂
﹁それもいいですね。陛下の救出作戦が終わったら、シレジエまで
行って吟遊詩人をやるのもいいかもしれません。英雄譚の詩とか作
ったら、きっとすごく受けますよね﹂
確かにツィターは楽士としての才能はあるし、それはとてもいい
身の振り方だと思うが、もういい加減その話から離れようぜ。
そう思ってると、ツィターが急に気がついたように声を上げた。
﹁あっ、すいません。ラハルト隊長の前で、シレジエの勇者を讃え
るとか、不謹慎でしたか﹂
﹁いや、構わんさ。敵国の将軍であったとはいえ、民に讃えられる
勇者ではあるんだろう。佐渡タケルか⋮⋮あのような伝説級の勇者
と戦って負けたのであるから、俺も一人の騎士として悔いはない﹂
なぜか遠い目をして、ラハルトは爽やかに笑った。
かつての俺との戦いを思い出しているみたいな風なんだけど、や
っぱりこいつの顔は思い出せないなあ。
﹁そうだ、不謹慎ではないぞ。いまやシレジエ王国も敵ではない。
シレジエの勇者様は、我ら帝国軍に秘密裏にではあるが、協力して
くれているぐらいである﹂
おーい、ヘルマン。何言い出したお前⋮⋮。
ダメだこいつ、早く何とかしないと。
﹁そうだったんですか、ヘルマン様。あー、私わかっちゃいました
1545
!﹂
ヘルマンの言うことを聞いて、ツィターが手を叩いて、嬉しそう
に言い出した。
おいこれ、俺の正体がバレたんじゃないか。あちゃー、もうこれ
しょうがないな。
﹁ガンナー様って、シレジエの勇者様が送ってくれた援軍なんです
よね﹂
﹁えっ、ああ⋮⋮﹂
そう来たかって感じだ。
まあそりゃそうだな、俺も曲がりなりにも王族なんだから、まさ
か直接本人が来るとは思わないよな。
﹁あれ、違いましたか。ガンナー様ってすごくお強いので、そうな
んじゃないかなーと前から薄々は思ってたんですけど﹂
﹁いや、何と言ったらいいかな。まあそう考えてもいいが、そこら
辺は微妙な外交問題になるので黙っておいてくれるか﹂
﹁あっ、すいません。機密ですね﹂
ちょっと子供っぽいほっぺたをほころばせて、ぷっくらとした唇
に人差し指を押し当てて、ツィターはアハハと笑った。
本当に機密なんだよ、ヘルマンに最初に正体をバラしたのが、も
う失敗だったけどね。あいつにも秘密にして変装すればよかった。
﹁よしじゃあ、作戦も決まったことだし、各自動くとしようぜ﹂
みんなは立ち上がると、それぞれの準備を開始した。作戦は今夜、
1546
囚われている老皇帝と皇孫女が居ることを確認したのちに、決行の
予定だ。
全てが終わってから、カアラが何か含み笑いをしている。
﹁どうした、カアラ。まだ何かあるのか﹂
﹁はい、使う機会があるかどうかわかりませんが、念の為に内緒の
秘策がございます﹂
俺とオラクルに耳打ちして、ゴニョゴニョと説明した。
ふうむ、俺が気が付かなかった奥の手まで用意していて感心した。
いつもは頭脳チートすぎるライル先生の影に隠れて間抜けを晒して
るが、ちゃんと策士できないこともないんだな。
よくできたと、カアラの淡い金髪を撫でてやった。
まあ、秘策なんて使わないに越したことはないのだが、あの拳奴
皇ダイソン。思ったよりも、手強い相手だから油断は禁物。念には
念を入れる、カアラは正しい。
※※※
﹁ツィター、この尖塔なのか?﹂
﹁ええここです、それでは歌ってみます﹂
さらば さらば わが故郷
故郷遠く 旅ゆく
ツィターは、弦楽器で郷愁を誘われる旋律を奏でながら、澄んだ
声で歌い始めた。こういう明るい曲も弾けるんだな。
地方より帝都に向けて、弟子入りの旅に出た職人の歌。この国で
はよく歌われるポピュラーな民謡だそうだ。
1547
いざ友にぞ 偲べ
しばしの わかれ
去りゆく故郷を職人が懐かしむ、単純な歌と旋律なのだが、さす
がにプロが弾いて歌うとぐっとくるものがある。
やがてツィターの美声に続けて、尖塔の窓からかすれた老人の声
と、弾んだ張りのある女の子の声が聞こえてきた。
さわば さらば わが故郷
故郷いま わかれゆく
本来はこれから帝都で頑張ろうという明るい歌なのだが、その歌
声はまるで助けを求めるような悲しい声だった。
﹁故郷いま、わかれゆく﹂そう歌う女の子の声は、﹁ここから早
く助けだして﹂と、言っているように聞こえた。
﹁ガンナー様、やはりここに帝が居られます﹂
﹁そうか、ツィターご苦労だった。あとは俺たちの仕事だ﹂
敵の兵士に怪しまれぬように早々に立ち去る。
これで、こちらの準備は整った。今夜、夜陰に乗じて救出作戦を
決行する。
1548
118.救出作戦︵後書き︶
作中に引用した歌は、ドイツ民謡の﹁わかれ﹂︵作詞:夏目利江︶
です。
1549
119.皇孫女エリザベート
いよいよ、夜陰に乗じて作戦が決行された。
俺達が大きな籠に乗って、帝城の屋根の上、尖塔近くに運び上げ
られる間に、帝都の大門にラハルト隊長率いる騎兵隊二十騎が強襲
を仕掛けて暴れまわり始めた。
その騒ぎの知らせがこっちに届き、増援の部隊が帝城から出てい
くのを待つ。
そして、しばらくの時間差を置いて、カアラが上級魔法で帝城を
正面から焼き尽くす作戦である。
帝城の正門から火の手があがると同時に、俺たちは裏の尖塔から
侵入して救出する。
﹁今のところは完璧だな﹂
俺の小声に、ヘルマンは頷く。俺とオラクルちゃんとヘルマンと
ツィターと兵士が八人で、計十二名の救出隊は帝城の屋根にじっと
潜む。
こっちも救出隊としては多すぎるぐらいなのだが、こっちの兵士
八人は騎乗が得意ではなかったので仕方がない。騎乗できないで、
囮部隊に行くと逃げきれずに死ぬからな。
しばらく待っていると、帝城の前の方からものすごい爆音がして、
インフェルノ
どえらい火柱が上がった。夜中なのに、目の前が明るくなったほど
だ。
おそらく火系の上級魔法、獄火炎を使ったんだな。
1550
﹁綺麗な花火じゃのー﹂
オラクル、それ明らかに悪役側のセリフだからね。
やはり服装が、黒だと悪役っぽくなってしまうのか。いっそオラ
クルちゃんにもお揃いの黒ローブ着せればよかったね。
﹁よっし、そろそろ行こうか﹂
俺たちは尖塔から、老皇帝と皇孫女が囚われている石の牢獄へと
侵入した。
牢獄の看守は、たかだか三人で、こっちの数を見て逃げようとし
たところ、オラクルちゃんが追いかけて衝撃波を放って片付けた。
ライフル
尖塔の中は、狭すぎて俺の魔法銃が使いにくいしな。
気絶している看守から、錠の束を取ると尖塔の牢獄を探して回っ
た。
幸いなことに、城を守っている兵士とは合わずに、檻の中に囚わ
れている老皇帝と皇孫女に出会うことができた。
﹁陛下、お救いに上がりました﹂
ヘルマンが跪くと兵士たちは皆、鉄格子の前で跪く。
そんなことやってる場合かと思いながら、俺は鍵束を使って牢獄
の鍵穴に何度かトライして、鉄格子を開いた。
﹁た⋮⋮﹂
﹁たってなんだよ﹂
1551
俺の顔を見て、老皇帝コンラッドはそう言った。
皇孫女エリザベートの顔はもう知ってるが、コンラッド帝を見た
のは初めてである。
昔はイケメンだったんだろうなと思うロマンスグレーの老人だが、
顔も手足も酷く痩せ衰えて皺だらけで、大きなベッドのような車椅
子に静かに寝そべっていた。
かくしゃく
かつての勇者とはいえ、齢七十を超える爺さんだし、こんなもの
だろうか。もっと矍鑠としてるかとも思ったんだがな。
﹁お祖父様は大儀であると言ったのです、無礼者!﹂
コンラッドを守るように立った、青味がかったプラチナブロンド
の皇孫女がそう言う。
ちっこいくせに、こまっしゃくれている。
まあ俺も大人だし、この程度で悪い気持ちにはならない。
俺も勇者だの王将軍だのと言われるようになって、人から偉そう
な態度をされることなんて久しぶりだ。
それが精一杯背伸びをしている八歳の女の子の言いようならば、
可愛らしく見えるというものだ。
﹁俺は皇帝の臣下ではない、せっかく助けに来てやったのにその態
度は、そちらこそ礼儀を知らんと見える﹂
﹁それは失礼しました⋮⋮。わたくしが、お祖父様に変わってお礼
をいいます﹂
小さい皇孫女は、俺の言い分を理解したらしく、ペコリと頭を下
げた。
やや気負いもあるが、良い子に育ってるじゃないか、その柔軟な
1552
態度には好感が持てた。
﹁素直でよろしいことだ。時間がないので、さっさと来てもらおう﹂
﹁しかし、お祖父様はこのようなお身体ですから﹂
﹁大丈夫みたいだぞ﹂
﹁あっ!﹂
ヘルマンが、たった一人で大きな車椅子ごと老皇帝を抱えた。
八人の兵士が、慌ててそれを支えようとするが、さっさと走って
行ってしまう。
﹁ほら追いかけないと、なんならおぶってやろうか﹂
﹁いえ、わたくしにも足はあります﹂
なるほど、子供の足ながらなかなか速い。長いスカートを手でた
くしあげて、よく走るものだ。
エリザベートは見た感じよりも、ずっと活発で聡明だった。こん
な皇孫女が残っているなら、ゲルマニア帝国も先行きはそれほど暗
いわけでもないのかもしれない。
牢獄の尖塔から、秘密の地下通路はさほど距離があるわけではな
い。
順調に行けば、やっかいな敵である拳奴皇ダイソンとぶつかり合
うことなく逃げ切ることができるだろう。
﹁こっちがそうです﹂
ヘルマンの案内で、秘密の地下道へと入る道が開かれた。
どういう仕掛けになっているのか、所定の石像を何回か押すと、
1553
ゴゴゴゴッと音がして地下への階段が開くというRPGではおなじ
みの仕掛けである。
リアルにそれを見て、俺は少し感動している。
これうちの城にも作れないかなと思ってしまう、何の動力もある
ように見えないのにどうやってこんな仕掛けができるんだろうか。
こういうギミックならば、専門家のオラクルちゃんに相談すべき
だな。
そんな俺の感動を、邪魔する声がかかった。
﹁隠し通路、やはりそんなものがあったのか!﹂
﹁ダイソン!﹂
拳奴皇ダイソンが、配下のモヒカン兵士を連れてやってきてしま
ったのだ。
この最低なタイミング、もしかするとこっちの意図は読まれて泳
がされていたのかもしれない。
まあ、秘密通路とかお約束だもんな、バカでなければそういうの
は疑う。
そして、ダイソンもそうバカではないってことだろう。もしかし
たら、ヘルマンが﹃オリハルコンの鎧﹄を持って逃げる当たりで察
知されてたのかもしれないぞ、あいつは腹芸ができないから。
﹁お前たちは、陛下をお運びしろ。ここは私が食い止める!﹂
部下の兵士に、車椅子を運ぶのを任せて、ヘルマンは﹃オリハル
コンの大盾﹄を構えてダイソンに立ち向かった。
一人で立ち向かって、老皇帝と皇孫女を逃がすつもりなのだろう。
1554
ライフル
そうだな、俺の魔法銃は、ダイソンには通じないからヘルマンに
任せた。
そのかわり、俺はダイソンの周りの兵士を次々に、狙撃してやっ
た。
俺の連続射撃を受けて、悲鳴をあげてあたふたする敵の兵士。
一応、頭を狙ってはいるが、連発してるので射撃の精度には欠け
る。身体のどこかに当たればいいという感じだ。
槍や剣を持って俺に近づく兵は、オラクルちゃんが衝撃波で吹き
飛ばしてくれる。
なかなか良い連携だ。
ライフル
ダイソン以外の兵士は、瞬く間に沈黙した。
俺は魔法銃の弾倉を交換しながら、ヘルマンと戦っているダイソ
ンに叫ぶ。
﹁さあ、どうする。もうお前だけだぞ拳奴皇!﹂
﹁ハッ、その程度の攻撃で崩れる惰弱な護衛なら、余には必要ない﹂
俺の揺さぶりを、鼻で笑ってダイソンは、ヘルマンの構える﹃オ
リハルコンの大盾﹄を拳の力のみで圧倒した。
ルイーズの剣戟ですら守りきった﹃鉄壁の﹄ヘルマンが、ダイソ
ンとの激しい鬩ぎ合いのなかで、若干押されているように見える。
それにしても、ゲルマニア皇帝は傲慢にならなきゃいけないって
ルールでもあるんだろうか。
弱いながらも命がけで戦った兵士が苦しんでる最中で、そういう
偉そうなことを言うダイソンには痛い目を見せてやらねば。
1555
﹁ならば、一人ですべての攻撃を受け止めてみるがいい!﹂
たった一人の男を相手に集中射撃とか、本来は悪役のやることだ
が、俺達は騎士じゃないし、なりふりなんて構わない。
オラクルちゃんが衝撃波を浴びせて、俺も交換を終えた十二発の
弾丸を全てダイソンのバカでかい肉体に叩き込んだ。
ダイソンは、身体のバネをつかいものすごいスピードで後方に飛
びながら、オラクルの衝撃波と俺の銃撃を﹃オリハルコンの手甲﹄
パンチで正確に弾いていく。
弾丸が一発も当たらないだと⋮⋮にわかに信じがたいが、豪語す
るだけの実力はある。
﹁どうした、こんなモノで終わりか。では今度は、こちらから行こ
うか﹂
ダイソンは、超高速で俺たちにタックルを仕掛けてきた。巨大な
岩の塊が、飛んできたようなどうしようもなさがある。
それでも俺は、オラクルを守らなければと思い、とっさに腰の﹃
黒杉の木刀﹄を抜きながら、ダイソンの攻撃を真正面から受け止め
た。
何が起こったのかいまいちよくわからないが、目の前に火花が散
ったと思うと、俺は吹き飛ばされていた。
俺のとっさの斬りこみ。俺だって剣術は鍛錬を重ねているから、
決して甘い斬撃ではなかったというのに、それをかわされた上に何
発当てられたのかすらわからなかった。
そう見えなかったのだ。これは、武器の違いではない。持って生
1556
まれた体格、才能や技術の差でもない。単純に速度の差だ。
俺が毎日百回木刀を振るって満足している間に、この格闘家は一
万回拳を振り抜いて鍛錬を重ねている。
スピードは、積み重ねに絶対的な差を生んでしまう。
刀と拳のリーチの差など、奴にとってはまったく支障にならない
だろう。接近戦で戦っては、格闘家チートには勝てないとぶつかっ
て確信した。
﹁カハッ﹂
﹁タケル!﹂
膝をついた俺は思わず咳き込んでしまう、ダメージを受けてずっ
しりと重たくなった身体をオラクルちゃんに支えられて何とか立つ。
胸が痛い、腹が痛い、肩が痛い。アーサマの加護と﹃ミスリルの
鎧﹄に守られいるはずの俺に、全身の骨が軋むほどのダメージを与
えられた。
たった一回の攻撃で、ここまでやるとは、勇者と魔王の力で増幅
されたフリードレベルの接近攻撃じゃねえか。
拳奴皇ダイソンは、何の力の補助もないはずなのに、本当にただ
の人間か。
プレス・アウト
﹁ほう、小癪な飛び道具に頼るだけの雑魚かと思えば、俺の圧殺拳
を受けて立ち上がれるのか﹂
﹁雑魚だと⋮⋮﹂
くっそ、そんな扱いを受けたのは久しぶりだぞ。
だが力を見くびってくれてるなら逆に好都合だ、まだ最悪ではな
い。イマジネーションソードを出して正体を明かす段階ではない。
1557
それで確実に殺れたら良いが、こいつはまともにぶつかり合って
すぐに殺せる相手とは思えない。むしろ、こっちが力を見せると、
さらに力を増して余計にやっかいになるタイプ。
油断してくれているのなら、それこそがチャンスだ。付け入る隙
になる。
ドリフ・ガンナー
﹁黒ローブの男。一応、名前を聞いておこうか﹂
ドリフ
﹁俺は流離いの黒銃士。貴様のように、自分を最強だと思い上がっ
ている奴が許せない質でな!﹂
ダイソンは、ハハハッと声を上げて笑った。
・ガンナー
﹁余が許せぬか⋮⋮面白いことを言う。ではどうするのだ、流離い
の黒銃士とやら。どのような強力な武器を使おうが、どのような強
力な防具で身を固めようが、飛び道具に頼る脆弱な精神の持ち主に
余は倒せんぞ﹂
﹁ではこうさせてもらう!﹂
ライフル
俺はリュックサックと、魔法銃を背負うと、﹃黒杉の木刀﹄を握
りしめて全力で走りこんだ。
もちろん、ダイソンに向かってではなく、地下へと続く秘密通路
の階段に向かって。
※※※
逃げたのではない、戦術的撤退だ。
俺の意図が、分かってくれたらしくオラクルちゃんも、ヘルマン
も一緒に逃げてくれる。
1558
プレス・アウト
ヘルマンなど、﹃オリハルコンの大盾﹄で、拳奴皇ダイソンの丸
太のような両腕から繰り出される、無数の圧殺拳を受け続けて撤退
するという神業をやってのけた。さすが、鉄壁の二つ名は伊達では
ない。
﹁フハハッ、どうした、逃げてるだけでは勝てんぞ!﹂
ダイソンは、ヘルマンを殴りまくりながら、楽しそうに俺たちを
追い詰めてくる。
ヘルマンは苦しげ眉間に皺を刻みながらに、それでも歯を食いし
ばってすべての攻撃を受け止めて耐え切った。
﹁よし、このあたりでいいだろう﹂
俺が合図すると、ヘルマンはダイソンの攻撃を﹁うおおッ!﹂と、
裂帛の気合を迸らせて押し返した。
そこに、俺はまた銃撃を繰り出して、ダイソンを後ろに飛び退か
せる。
﹁ハハハッ、そんな攻撃は無駄だと﹂
ダイソンは最後まで言えなかった。
いきなり、ボコッと地下通路の天井が陥没して、大量の土砂が怒
涛のごとくダイソンの頭上に振りかかって行ったのだ。
そして次に、激流がダイソンの立っていた位置に滝のように流れ
落ちていく。その勢いは、まるで土石流である。
﹁よし、みんな撤退するぞ!﹂
1559
これで死んでいればいいが、人間離れしたあの肉体では、望み薄
だろう。
それでも、土石流に押し潰された中を進むということも、人間に
は物理的に不可能だ。
ちなみに、地下通路が陥没したのは、オラクルちゃんの水流操作
の魔法である。
ちょうど、ダイソンが立っていた位置の頭上が、大量の水が張っ
てある城のお堀にあたる。
これがカアラの言っていた、念のための奥の手である。
ダンジョン
帝城の地下通路はかなり広く、作られた年代も古い。彼女の推定
によると十分に﹃迷宮として使える﹄状態になっているとのことで
あった。
そう、そこがダンジョンなら、オラクルちゃんは地中から吹き出
て溜まっている魔素を使って、ダンジョンマスターとしての力を発
揮できるのだ。
普段はお風呂の水で遊ぶ程度の水流操作の魔法が、地下一階に当
たるお堀の水をそのまま土台ごとぶちぬいて、地下二階の地下通路
にまで流し込むほどの威力に変わる。
こうして俺達は悠々と地下通路を進み、帝都の外まで逃げ切るこ
とが出来た。
別にこっちは、拳奴皇ダイソンを倒さなくても、老皇帝と皇孫女
さえ救えば、ミッション・コンプリートなのだからこれでいいので
あった。
1560
120.要塞街ダンブルク
地下通路を抜けて、帝都ノルトマルクより脱出を果たした俺達は、
一路北西へと歩を進める。
程なくして、騒ぎを起こしてから飛行魔法で逃げてきたカアラと
も合流する。
今回のカアラは大活躍してくれたから、あとで褒美をやらなけれ
ばならないが、それも後回しだ。
ここまで派手にやらかしたし、皇族は拳奴皇ダイソンにとっても
大事な駒。
確実に追手はかかるだろうが、帝国軍残存がいまだに健在である
北西の要塞街ダンブルクまで逃げきればとりあえず安全だ。
なにせ﹃穴熊の﹄マインツが守る要塞なのだから、そう簡単に落
ちるわけがない。
さてどう行くかだが、老皇帝と皇孫女は俺と一緒に大きな籠に乗
って、空の旅で飛んでもらうことにした。
﹁えっとあと、ヘルマン﹂
﹁私は、一人でもどうとでもなるゆえ。お先に行ってください﹂
ヘルマンは、どうあっても乗りたくないらしい。
まあ、重量オーバーになりそうだしな。皇帝陛下の車椅子を、ヘ
ルマンが抱えて逃げれば囮にはなりそうだ。
レジスタ
徒歩の単独行で、敵陣を突っ切るのは本来なら無茶苦茶なのだが、
ンス
ヘルマンに限って言えば朝飯前ということになる。付いてきた抵抗
1561
軍の兵士八人も、ヘルマンが安全なところまで送ると言っているの
で任せればいいか。
﹁ツィター、君もこっちにこい﹂
﹁えっ、私もこれに乗るんですかー﹂
﹁なんだ、空の旅は苦手か﹂
﹁いえあの、それより皇帝陛下や皇孫女殿下と同じ籠に﹂
﹁はぁ、そんなこと言ってる場合じゃないだろう。もういいから来
い﹂
﹁きゃー﹂
俺は、ツィター抱きかかえると、そのまま籠に放り込んだ。
蜂蜜色の艶やかな髪を編んでいる村娘にしか見えない彼女は、こ
んな場所に不釣り合いだ。
ヘルマンのほうにツィターが行かれると、兵士の足手まといにな
るんだよ。
小柄でほっそりとした身体つきで子供っぽく見えるが、聞いたら
二十四歳の大人の女なんだろうから、それぐらいわかってほしいも
のだ。
ツィターはこんなときでも、弦楽器だけは大事そうに抱え込んで
いる。本当に、なんで危険な戦場までついてきたんだか。
まあ旅すがら、音楽で皇族でも和ませていればいい。
子供に老人に、小柄の女性に俺が一人か。重量ギリギリってとこ
ろだな。
1562
﹁オラクルちゃん、いけそうか﹂
﹁うんまあ、なんとかなるのじゃ﹂
カアラは大魔法戦闘を終えてきた直後なのだが、人間の魔術を使
わずに生来の魔族の飛行魔法だけで行けば魔素は足りるか。
途中でガス欠になって、転落事故だけは勘弁してほしい。
﹁国父様、私も行けると思います﹂
﹁特に急ぐ必要はないからな、安全運転で頼む﹂
ふあっと籠が浮き上がると、またツィターが悲鳴を上げた。俺は
飛ぶのに慣れているけど、この世界の人間に飛行魔法はやはり怖い
か。
老皇帝コンラッドは静かに瞑目しているし、皇孫女エリザベート
は籠に手をついて、空からの眺望に金と青のヘテロクロミアの瞳を
輝かせている。やけに嬉しそうだ。
怖さよりも、飛ぶのが珍しくて楽しいのだろう。言うことはませ
ていても、黙っていれば、子供らしい。
長い夜が開けて、やがて地平線の彼方に日が昇った。
いかに化け物じみた戦闘力を誇る拳奴皇タイソンとはいえ、空の
上までは追ってこれないだろう。ああいう相手とは、同じ土俵で戦
わないのがセオリーってものだ。
※※※
しばらく流れる雲を飽きずに見つめてはしゃいでいた皇孫女エリ
ザベートであったが、やがて思いついたように、白いドレスのスカ
ートを手で払うと俺に向き直った。
1563
﹁えっと、貴方の名前はどうお呼びすればよろしいのですか﹂
﹁ガンナー様です、殿下﹂
チラッと皇孫女に睨まれると、ツィターはほっそりとした肩をす
くめる。
恐れ多いと言ってたくせに、ツィターは皇族の会話に、わりと平
然と口を挟むんだよな。彼女は、楽器を弾くことしかできず戦闘力
ゼロだが、度胸だけは大したもんだとおもう。宮廷音楽家としての
自負心が、そうさせるのかもしれない。
ドリフ・ガンナー
﹁そうだな、流離いの黒銃士とでも呼んでもらおうか﹂
﹁偽名ですね﹂
おお、そんなまともなツッコミを仕掛けてきたのはこの子が初め
てだ。
可哀想な眼で見られて、スルーされがちだったので、少し嬉しい。
というか、八歳の子供相手と同等というのもあれだが、この子は聡
明だ。
俺が胡散臭い異称を使うのに、何らかの意図があるとちゃんと察
しているのだろう。ようやく手応えのある相手が見つかって、俺も
嬉しかった。
それでは、こちらも子供扱いせず、そのように対応させていただ
く。
﹁それに答える義務はないだろう﹂
﹁それでは質問を変えます。ガンナー様は、なぜお祖父様や、わた
くしを助けたのですか﹂
なるほど聡明だ、皇帝の家臣でもない俺が救援に手を貸したこと
1564
に、何らかの政治的な意図があると考えているのだろう。あるいは
助けた見返りに、何かさせようとしてると疑われているのかもしれ
ない。
拳奴皇ダイソンに、散々と政治の道具に使われたことで、彼女の
心は傷ついているのかもしれない。疑念を持つのは当たり前だな。
﹁俺が助けたのは義侠心だ。皇帝陛下や皇孫女殿下に、何かさせよ
うと思ってはいないし、見返りを求める意図はない。このままダン
ブルクに到着すれば、殿下の忠臣に御身をお返ししよう。その後は
好きにされればよい﹂
﹁失礼ですが、そのフードを上げて眼を見せていただけますか﹂
隠密の俺に、顔を見せろと来たか。
ドリフ・ガンナー
仕方がない、俺の顔は割れていないから、見ても正体はばれない
だろうし、どうせ作戦目的も達成したから、これで流離いの黒銃士
も終わりだ。
俺は、黒フードを上げて、朝日に反射して輝く少女の金色と紺碧
の瞳を見つめた。
おそらく俺ってカアラとオラクルちゃんを使役してるから魔族だ
と思われてるんだよな、これで同じ人間だと分かれば、怖がらせる
こともあるまい。
﹁良い目をしてますね。貴方を信じます﹂
﹁それはどうも﹂
良い目をしているか、八歳の子供が言うセリフではない。
聞いたようなことを言っているのは、おそらくどこかで聞きかじ
ったセリフだ。そこで静かに寝ている、爺さんの真似をしているの
かもしれない。
1565
老皇帝コンラッド。今は耄碌して、たまに呻くだけだが、かつて
は英雄であり勇者であり皇帝でもある、ユーラ大陸の覇者と謳われ
た英傑なのだ。
だからこそ、その子供らや孫娘は、みな気負ってしまってこのよ
うに生き急ぐ。
シレジエ王国に、新王室を作ってしまった俺にとっても他人ごと
ではない。この年老いた勇者と、唯一残った孫娘をそれとなく見守
って、行く末を観察するのは意味のあることだと思う。
少なくとも、他山の石とすべき存在ではある。
俺は、老皇帝コンラッドのようにはならないぞ、とか。
そんな失礼なことを俺が考えているとは知らない皇孫女は、お礼
は何が良いかとか言い始めた。
助けられた姫様にはありがちなセリフだが、うちの一番下の奴隷
少女よりも幼い彼女が言うと、子供が口真似をしているようにしか
見えない。
口真似でも、自分のポジションを理解して、言うべきことなすべ
きことをきちんとできるのはまあ賢い子供といえた。
﹁いや、お礼とかは要らないから﹂
﹁そうですね、身ひとつで牢獄に囚われていたわたくしは、何も報
いる物を持っておりません。ですが、いずれ帝国が力を取り戻した
あかつきには﹂
﹁ストップだ、殿下。子供の言うことではない﹂
﹁帝国に残った唯一の後継たるわたくしを、子供呼ばわりするので
すか﹂
1566
皇孫女は少し怒っている。子供と言われて怒るのが、子供なのだ
けどね。
幼女の口から帝国がどうこうとか、俺は聞きたくもないし、ゲル
マニアの騎士に任じますとか言われた日には困ってしまう。もうそ
の手の称号は間に合ってるからな。
﹁お礼を言いたいなら、子供らしくそういえばいいだろう。義侠心
で助けたと言った、俺は皇帝と皇孫女だから助けたわけではない、
ならず者に酷い目に合わされている可哀想な老人と子供だと思った
から助けたのだ﹂
﹁さようですか、そのようなこともあるのですね﹂
俺が言うことは彼女にとっては突飛だったのだろう、皇孫女は当
惑している。なにせ彼女の皇孫女としてのマニュアルには、家臣と
敵への対応しか存在しない。落ち着かないように長い髪を手櫛で整
えている、態度を決めかねているようだ。
皇族としての振る舞いしか教えてもらえなかった子供とはこうい
うものか。根は聡明だが、今のまま育つと、残念なことになるかも
しれない。他人ごとながら、その窮屈さは少し不憫に思えた。
﹁お礼なら、君が言うべき言葉を、俺はまだ聞いてないな﹂
﹁ありがとう、ございました⋮⋮﹂
探るように、御礼の言葉を述べる皇孫女。
子供がお礼を言えないぐらいはいいのだが、その言葉がすんなり
と口にできない、やっかいな地位なのだと思うと可哀想だった。う
ちの家は、絶対こんな家風にはすまい。
﹁子供はそれでいいんだ、お礼がとか見返りがとか身構えて考える
1567
必要はない﹂
﹁そうですか、ありがとうでいいんですね﹂
皇孫女は気が抜けたような顔をして、空を飛ぶ籠の中に座り込ん
だ。
隣でいまだ静かに寝ている祖父の顔を見つめてから、意を決した
ように語りかけてくる。
﹁ガンナー様、わたくしのことは、どうぞエリザとお呼びください﹂
﹁えっと、そうか。じゃあエリザな﹂
俺が子供らしくしろと、エリザに教えたのではないか。
いきなり距離感を縮めてきた皇孫女に、俺が当惑してどうすると、
苦笑した。俺だってそのうち父親になるかもしれない身の上だから、
自信を持たないと。
皇孫女と言ったところで、プライベートではただの子供だし、老
皇帝といえどただの爺様だ。
その方がエリザたちも気負いが抜けて、楽になれるんじゃないか
と思う。そういう対応で行こう。俺はそれが正しいと思ってやって
やってきたし、これからもやっていけばいいのだ。
できれば、自分の家庭もそのようにしていければいい。
壁が取っ払われてしまえば、わりあいと子供らしいところもある
小さいエリザに、ポツリポツリと帝都のことなどを聞いていると、
四角く角張った石造りの堅牢な要塞街ダンブルクが見えてきた。
ツィターが﹁一曲やりましょうか﹂とか言ってきたが、もう着く
からね。
1568
※※※
俺達が空から飛来すると、ダンブルクの要塞街は大慌てになって
いた。
要塞街の分厚い外壁の上に、弓を持った兵士が展開してきて、開
け離れた門からぞろぞろと騎士や槍を持った重装歩兵が出てくる。
そりゃ、あからさまに怪しいからしょうがない。
俺達が来るって報告も、まだなかったのだろう。
﹁うーん、囲まれたみたいだな﹂
エリザが﹁無礼者!﹂とかやると思ったが、やはり子供。
千を超える数の完全武装の大人に囲まれれば、萎縮してしまった
らしい。下唇を噛んで、泣き叫ばないだけ立派なものだ。
﹁あー、ここにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも、皇帝コ
ンラッド陛下と皇孫女エリザベート殿下であらせられるぞ。一同頭
が高い、控えおろう!﹂
俺が大喝すると、囲んでいた兵士たちはザワザワとざわめき立っ
て、二、三歩後退して屈んだ。
まるで時代劇だが、わりとこういう格式張った物の言いようが、
この世界の人間には効果的なのを俺は知っている。
兵士の囲みを割って、見覚えのある短髪の白髪、白髭の威厳があ
る爺様が杖をついてやってくる。
要塞街ダンブルクを治めている、マインツ将軍。いや、左遷され
て前将軍だったか、どちらにしろよく生き残ったものだ。
1569
﹁おお、これは本当に、陛下。よくぞご無事で⋮⋮﹂
齢六十を越える老人なのに、鈍く輝くフルプレートを着込んだマ
インツ卿は、重たそうな身体をその場に跪き、シワだらけの顔をさ
らにシワくちゃにして、ハラハラと小さい目から涙を流した。
さすがに、この好々爺が呻き声を押し殺して、土を掴むように跪
いて泣いているのを見ると、俺もグッとくる。マインツは、コンラ
ッドの時代が終わるときに、戦場で殉死しようとした程の忠臣だ。
本来ならば、救出軍に加わりたかったぐらいなのだろう。
その強い気持ちを押し殺して、いま自分のできる最良を冷静に考
えて、後方で留守を守るために采配を振るうのも、この老将なのだ
よな。
マインツ・フルステン。あのライル先生が、愚将揃いと吐き捨て
たゲルマニア軍の中で、唯一の名将と評価した老人である。
刹那、伏せて泣くとマインツは起き上がって、俺に向き直った。
﹁それで、そちらの方は﹂
﹁久しぶりだな、マインツ将軍﹂
マインツ卿には、別に隠すことはないかと俺は顔を見せた。
彼ならば口止めをしておけば、他の人に話すってことはないしな。
﹁ホッホッ、これはこれは⋮⋮なんと数奇な運命か。この死にかけ
の老いぼれに、返しきれぬ借りがまたできたということかね﹂
俺の顔を見た白髪の老将は、涙を拭いて、さも愉快といった様子
に大笑すると、またフードを伏せるようにと俺に手で合図した。
マインツには顔を見せた俺が、こんな格好をしている意味を、察
1570
してくれているのだろう。口止めをする必要すらなかった。
﹁さあ、兵士諸君。陛下と、救い出してくださった英雄を城にお通
しするのだ﹂
マインツ卿の先導で、俺たちはダンブルクの堅牢な城へと入った。
1571
121.賊将ゲモン
帝都ノルトマルクの北西に位置し、ちょうど帝国とランクト公爵
の諸侯連合との境目を守る要塞街ダンブルクは、もう単に大要塞と
言ってしまったほうがいいのではないだろうか。
石造りの分厚い外壁と四方を囲む砦と中央の城で、街の面積の半
分を使ってしまっている。大きな要塞に、兵士たちの家族が生活で
きる街があるだけといった風情だった。
マインツが率いている兵は重装歩兵が二千に騎士が二百騎と少な
いが、守りに徹している限りはダイソンが大軍で押し寄せてもそう
そう陥落しないと思えた。
幽閉されて衰弱している老皇帝は、兵士によってタンカで寝床に
運ばれて、祖父を心配するエリザも付いて行った。
なぜか、楽士ツィターは皇帝ではなく俺に付いてくる。こいつが
居ると、マインツ卿と腹を割って話せないから、ちょっと邪魔なん
だけどしょうがないか。
客間に通されて、出された紅茶を飲みながら、マインツ卿と善後
策を相談する。
ドリフ・ガンナー
﹁それで、なんとお呼びしたらよろしいのですかな﹂
﹁今は流離いの黒銃士と名乗っている﹂
俺がそう名乗ると、マインツは面白そうにホッホッと白髭を揺ら
した。
1572
﹁さてさて、黒銃士とは言い得て妙ですね。確かに良い銃をお持ち
のようだから﹂
﹁見ただけで分かるか、マインツ将軍﹂
ライフル
俺が渡した魔法銃をしげしげと見て、マインツは頷く。
﹁ホッホッ、この年寄りも火縄銃のサンプルは何丁か手に入れてお
るのですよ。それに比べると黒銃士殿がお持ちの銃は洗練されてい
る。魔道具も組み込まれていて威力も高まっておるのでしょうね﹂
戦場で拾い集めたのだろう、マインツ卿はいくつかの使える部品
と、まともに補修しなおされた火縄銃をテーブルの上に並べて見せ
た。新しい弾丸と、火薬まである。なんと抜け目の無い老人だ。
もしシレジエ会戦を指揮していたのがマインツだったなら、あの
戦いはゲルマニアの勝利だったかもしれない。
﹁もしかして、銃が扱える兵士も養成しているのか﹂
﹁思ったよりも扱いは簡単なようですから。この街にも市民はおり
ますので、足らぬ兵を補うためにも、新しく市民兵を徴募して試験
的には使わせております﹂
こっちの義勇兵制度まで見習って試してるのか。
さすがは名将マインツとしか言いようが無い。
﹁まったく油断ならない老人だな。今は味方なので頼もしい限りだ
が、マインツが敵将だったらと思うとゾッとする﹂
﹁ホッホッ、そのご心配は要らんでしょう。コンラッド陛下が作り
し地上最強の帝国も、もはや風前の灯。この老骨が生きている限り、
その火を消させたりはしません⋮⋮が、この老いぼれも、十年も待
たずに文字通りの骨となりましょう﹂
1573
ゲルマニア帝国の命運などどうでも良かったのだが、結果的にマ
インツに恩を売って味方に引き込めたのは良かったといえる。
将軍としての長い軍務を経験した老人が、義勇兵制度や戦術を一
変させる新兵器を何の抵抗なく取り入れて見せているのだ。マイン
ツは、この世界では稀有な存在といえる。
卓越した智将の任を解き、僻地に左遷させたゲルマニア帝国はラ
イル先生の言う通り愚か者の集まりなのだろう。
おまけに言えば、マインツはここまでの能力を持ちながら、忠義
心に厚く野心を持っていない。
安心して大将軍を任せられる逸材と言えるだろう。
こいつは欲しいと思った。
こっちの義勇兵団には、若い隊長だけはやたらといるが、経験豊
富な将軍は少ない。
長い経験に裏打ちされた統率力と、戦略眼を併せ持つ大将軍は逃
してはならぬ人材だ。
老皇帝コンラッドとエリザさえこっちに抱き込んでおけば、マイ
ンツが手に入るわけだから、これは思わぬ良い拾い物をしたと言え
るだろう。
﹁どうかされましたかな﹂
急に黙り込んだ俺を窺うように見るマインツ卿。
逃さないぜ、お前は絶対にうちの幕僚になってもらうぞ。
﹁いや、戦況はどうなってるかと思ってな﹂
1574
﹁それですが、どうもシレジエ王国とそれに同調するランクト公の
諸侯連合はこちらに味方してくれるようで、先程この城にも食料の
援助が届きました﹂
なるほど食糧援助ね。出されたダンブルク城の紅茶が、すっかり
舌が肥えてしまった俺にもまともに美味しいと思えたのは、ランク
ト公からの贈り物だったのだろう。
俺の前で、マインツ卿は白髭をさすりながら、シレッとした顔で
シレジエ王国の話をするのだから、腹芸ができる相手と会話するの
は愉快だ。
﹁それは良かった、程なくしてヘルマンたち救出部隊も、ダンブル
クに戻るだろう。拳奴皇軍にとっては、ゲルマニア皇族は正統性の
確保に必要な駒だ。追手を差し向けてくるのは目に見えてくるが、
マインツ将軍としてはどう動く﹂
﹁そこですな、ワシとしては、このダンブルクを敵に抜かせるつも
りは毛頭ありませんが、安全な後方へと陛下と殿下をお運びしたく
存じます﹂
﹁コンラッド帝とエリザベートの意向はどうだろうな﹂
﹁ワシが御身の大事を考えた末の結論ですから、陛下や殿下には分
かっていただけると存じます﹂
まあ、現実問題としてマインツ卿の言うことに従わざるをえない
のだろうな。
皇族とは不自由なものだ。
﹁例えばだが、ゲルマニア残存軍を糾合する旗として、皇帝を使う
って手もあるのではないか﹂
1575
俺は、マインツ卿の意図を伺うためにそう提案してみる。
確かに俺もマインツの言う通りにするのが一番安全だと思うんだ
けど、シレジエに送れば結局はライル先生が政治の道具にしちゃう
から、それも少し可哀想な気がする。
もちろん、俺が可哀想なことにはならないように気を配るけど。
マインツほどの男であれば、ライル先生がやりそうな戦略など十
分にわかった上で言っているのだろう。
だが、この老将の実力なら、あくまでもここで老皇帝の身柄を守
り、帝国唯一の後継であるエリザベートを旗印に、ゲルマニア帝国
の独立を守るって選択肢もあるはずだ。
﹁確かに、黒銃士殿のおっしゃるとおりでもありましょう。ですが、
ワシはこれ以上陛下の御身を危険に晒すことはしたくないのでね﹂
﹁そうか、卿の意志がそうならば良い。話は承知した。ゲルマニア
皇族を、このままシレジエ王国側に亡命させるということでいいん
だな﹂
﹁さようです。黒銃士殿には、ぜひ陛下たちを護衛していただいて、
無事に届けていただきたい。この老人が、伏してお願いします﹂
﹁構わんが、この貸しは大きいぞマインツ将軍﹂
﹁ホッホッ、この老体に鞭打ってでもお返ししましょう。まさか、
ワシのような老人にまだお鉢が回ってくるとは思いもかけませんで
したが。痩せても枯れても、このマインツは、コンラッド陛下の宿
将。命の使い所は、心得ておるつもりですよ﹂
﹁将軍、俺に貸しを返す前に死んでもらっても困るから、命は大事
にしろ﹂
1576
﹁ホッホッ、相変わらず面白いお人ですね⋮⋮。この死にかけの年
寄りに、そうも過分なご期待をかけられては、気張らざるを得ませ
ん﹂
﹁さてと、話は決まった。俺も、任せられたからにはやることをや
るまでだ﹂
そこで城が慌ただしくなったと思うと、伝令兵がやってきて敵兵
の来襲を告げた。
もう来たのか。
﹁噂をすれば影がさすだな、追手はかかると思っていたが、拳奴皇
軍も中々に展開が早いじゃないか﹂
﹁ホッホッ、迎え撃つ準備はできておりますれば、この年寄りにお
任せ下さい﹂
マインツは、杖を握りしめて重い身体をよっこいしょと椅子から
起こすと、いそいそと戦場に向かおうとする。
うむ、頼もしい。
﹁マインツ将軍、それなのですが⋮⋮﹂
伝令兵の若者が、マインツに耳打ちすると余裕の好々爺の顔が変
わった。
この老将を驚かせる事態とは何なのだ。
﹁なんだ、マインツ将軍。何か不測の事態でもあったのか﹂
﹁いや、ワシの出番かと思ったら、そうでもないようでしたのでね﹂
何のことだと思って、ダンブルクの外壁に上がってみると事情が
飲み込めた。
1577
ノルトマルクの方角から、少なくない追手の部隊がやってきてい
る。
その数は、五千にはちょっと届かない程度であろう。マインツが
必死にかき集めたこの城の兵が二千二百だから、敵兵がほとんど軽
装歩兵であったとしても中々やっかいな敵とは言える。
しかし、ダンブルクの要塞街に向けて、群となって攻め寄せてき
た拳奴皇軍を横から突撃している、謎の騎士隊があった。
その数は二千騎程度だが、無謀とも言える凄まじい猛攻で、軽装
歩兵を蹴散らして敵陣の横っ腹を一気に食い破った。
謎の騎士隊というか、あの緋色の鷹の紋章⋮⋮。
﹁ホッホッ、ランクト公国の騎士団のようですね﹂
﹁姫騎士エレオノラか、あいつ何をしにきたんだ﹂
いや、援軍を差し向けてくれたのを﹁何をしに﹂とは失礼かもし
れんが。
これから、老将マインツの熟練の采配が冴えるってシーンに、ど
んだけ出たがりなんだよ。
横っ腹を真っ二つに分断された敵軍は、いかに大勢だろうがもは
や軍隊としては終わっていた。
正面の敵は、ダンブルクの外壁から打ち出される弓やクロスボウ
や火縄銃の射撃によって挟み撃ちにされて壊滅。
後方の敵軍もエレオノラの騎士隊に追われて、敗走を続けて散り
散りとなった。
俺も一応手伝ったが、こんなあっけない大勝は久しぶりだ。
1578
﹁ランクトの戦乙女、真っ直ぐな、よい武将に育ちましたね﹂
﹁えー、マインツ将軍はそう見るのか。いつもどおりの猪武者っぷ
りだと思うが﹂
勝ったから良いようなものの、攻め筋が直線すぎるだろう。
おそらく急いでやってきたせいで、騎士隊だけの突撃になったの
が良かったのだろう。エレオノラは、複数の兵科をうまく連携させ
て扱うってことができないタイプだから。
複数の兵科を使えない将軍って、言ってて笑ってしまうが。
そんな一軍の将っているんですかといえば、いるとしかいいよう
がない。姫騎士は本当に特別ケースなのだ。
﹁エレオノラ公姫は、騎士団長として使えば、理想的な将軍でしょ
うね。要するに、あの荒馬を乗りこなす上将がいれば良いのですよ﹂
﹁なるほど、マインツ将軍が上手く箍をはめてくれれば、姫騎士エ
レオノラも特性を生かして活躍できるというわけか﹂
﹁ホッホッ、それも良いですが、どこぞの王将軍閣下でも、乗りこ
なせるのではありませんかな﹂
﹁マインツ将軍、冗談はよしてくれないか﹂
なんでみんなエレオノラを俺に押し付けようとする。
俺がエレオノラを使うというのは冗談として、これからダンブル
クの帝国軍残党と諸侯連合軍は、連携して拳奴皇軍と立ち向かうこ
とになるのだから、マインツ将軍がエレオノラを使いこなしてくれ
るならありがたい話だ。
マインツという良将の元でなら、エレオノラもより成長できるは
1579
ずだ。
※※※
﹁敵の賊将を生け捕りにしてきたわよ﹂
﹁お疲れ様、エレオノラ﹂
ランクト公国の騎士隊を城に迎え入れると、姫騎士エレオノラは
ホクホクとした顔で、お縄にした敵の青モヒカン兜を捕虜として引
き立てた。
敵将を生首にして持って来なかっただけ、確かにエレオノラも成
長してるのかもしれないな。
﹁捕まっては仕方がない、騎士としての処遇をお願いする﹂
﹁お前、明らかに騎士じゃないだろ﹂
青モヒカン兜をかぶり、丈夫そうな鋲付き革鎧の上に皮革のマン
トをまとったオッサンが、一端のことを言うので俺は呆れてしまう。
たぶんこいつは、傭兵くずれだ。騎乗して指揮していたのを見た
から、おそらく傭兵の騎兵隊出身あたりだろうな。
﹁なんだと、確かに俺は騎士じゃねえが、帝都の皇帝より征将軍を
任されたゲモン様だぞ。騎士より将軍のほうが偉いだろ、少なくと
も将として扱え!﹂
姫騎士に捕まった間抜けなのに、偉そうなことだ。
密かに騎士に憧れちゃってるタイプなんだな、なんかそう思うと
憎めないところもあるモヒカン兜だ。
﹁ああ、わかったわかった。だけど五千もの軍隊を壊滅させちゃっ
1580
たんだから、おめおめと戻ったらお前、ダイソンにぶっ殺されるぞ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
モヒカンの青さと同じぐらい、青白い顔に変わる賊将ゲモン。
あの拳奴皇は、無能な部下には甘くない。普通に斬首されるぞ。
そりゃ、この青モヒカン兜も、図体はデカイし騎乗もできる。騎
士ではないにしろ五千人の兵を曲がりなりにも統率して攻めてきた
んだから、そこそこはできる男なのだろうけれど。
逆に言えば代わりはいくらでも居る程度の男だから、﹁負けちゃ
いました﹂なんて言って戻れば斬首されるのが目に見えてる。
﹁まあまあ、黒銃士殿。ワシは、ゲモン将軍を条件によってはこの
まま解放しようと思っておりますよ﹂
﹁え、そうなの?﹂
賊将ゲモンは、嬉しそうな顔をする。マインツの優しげな顔が、
地獄に仏に見えたんだろうな。
そりゃ、こんなの捕まえてても何の交換条件にもならないけど、
敵将をそのまま逃しちゃっていいのかなあ。
まあいいか、ダンブルクはマインツ将軍の城なんだから戦後処理
は、任せよう。
どんな人間でも、生かしておけば使い道があるってのが、マイン
ツ将軍のやり方なのかもしれない。
﹁征将軍ゲモン閣下は、その縄を解けば、このまま拳奴皇を名乗る
賊将ダイソンの元に戻るおつもりか?﹂
﹁それはわからんが⋮⋮﹂
1581
わからんというか、戻ったら斬首だから戻るわけがない。絶対帰
参せずに逃げるよね。
名誉ある騎士ならばともかく、傭兵は自分の命が一番大事だ。ゲ
モンもそこまでバカではないだろう。
﹁もし正統ゲルマニアの旗のもとに立つ気がおありならば、征将軍
ゲモン閣下を捕虜ともどもに解放するので、そのまま治めていた領
地で今度は正統帝国派として蜂起するがよろしい。敗走した兵士も、
もう一度かき集めれば良いではないですか﹂
﹁おお、なるほど!﹂
縄目を受けたゲモンに、あくまでも恭しく頭を下げてみせるマイ
ンツ。
﹁挨拶が遅れたが、ワシはダンブルクの街を治めるマインツ将軍で
あります。言うまでもないことだが、正統なるゲルマニア帝国の支
配権は我が方にある。ゲモン将軍が、正統なる側について賊将ダイ
ソンと戦うというのであれば、その罪一等を許して将軍として任じ
ましょう。これまで治めていた地域を支配して、賊徒に立ち向かえ
ばよろしいのです﹂
﹁分かった、俺だって一軍の将だ。ダイソンの野郎を討ってやる!﹂
﹁その意気ですぞ、ゲモン閣下。賊将ダイソンなど、元はと言えば
拳奴隷ではありませんか、正統軍の将軍になった閣下があのような
男の風下に立つことなどはない﹂
﹁わかったぞ、マインツ将軍。共に戦おう﹂
﹁頼もしいですね、では正統ゲルマニア帝国のために!﹂
﹁おう、正統ゲルマニア帝国に栄光あれ!﹂
1582
マインツは、ゲモンを捕らえていたロープを切ると、肩を抱いて
立ち上がらせた。
その気になったゲモンは、解放された仲間を意気揚々と引き連れ
て、自分の本拠地へと戻っていく。
ゲモンは、本拠地であるロイツ村で、一度は打ち払われた残存を
かき集めて、今度は正統ゲルマニア帝国軍の将軍として蜂起するこ
とを宣言した。
元は傭兵騎兵隊の隊長であった賊将ゲモンも、この混乱の中で成
り上がろうとする雄であり、野心のある男であった。
彼は将軍になれるなら、陣営なんてどっちでもいいのである。
それにしても、上手いこと丸め込んで賊徒を味方にするものだ。
マインツの手際に、俺は感心した。
1583
122.絶対に避けられないフラグ
﹁ところで、マインツ将軍。お前のとこの軍隊は、正統ゲルマニア
帝国軍って言うのか?﹂
﹁はて、今のはワシの口先が勝手に言ったことですのでね。別にそ
う言ってもいいんじゃないかなとは思いましたがね﹂
コイツ⋮⋮本当に食えない爺様だ。俺は、苦笑してしまった。単
なる残党より、仰々しい名前を付けたほうが、ゲモンを乗せやすい
ということなのだろう。ああいう野心家は、何よりも権威に飢えて
るものだから。
マインツは、好々爺のごとく白髭を揺らして笑っている。
﹁ゲモンを殺しても一銭の得にもならないから。ならば、そのまま
叛徒を味方につけておけばいいということだな。奴はダイソンの下
に戻っても殺されるだけだから、他に行き場がない男だし﹂
﹁そうですね、あの男の顔には反骨の相があったので、裏切りをそ
そのかしてみたのです。即座に討たれるかもしれませんが、少なく
とも時間稼ぎにはなってくれるでしょう﹂
ゲモンも傭兵から一軍の将に成り上がった男だ、もしかしたら存
外に上手く頑張ってくれるかもしれない。
ダイソンが直接出てくればあえなくやられてしまうだろうが、逆
に言えば拳奴皇軍は、ダイソン以外にまともな求心力を持つ将軍が
いない。
下手にダイソンが帝都を動けば、留守中に反乱を起こされたフリ
ードの二の舞になってしまう。
1584
得た者は、今度は失うことを心配しなければならないというわけ
だ。そこら辺も敵の弱みとなる。付け入る隙になるのだろう。
今後の細かい善後策を話し合っている、マインツと俺のところに
エレオノラがやってきた。
﹁それで、皇帝陛下と皇孫女殿下はウチで預かればいいのかしら﹂
﹁そのために、エレオノラは来てくれたのか﹂
エレオノラは、馬車はこの近くまで来ているから、ランクトの街
まで行くなら乗せると言っている。
ゲルマニア皇族の身柄をどうするかは、ちょっと考えものだ。
どちらにしろ、安全圏に逃すつもりだったのだから、とりあえず
ランクトの街までいけばいいか。
﹁私はどっちかというと、あんたを迎えに来たんだけどね﹂
﹁えっ、俺?﹂
﹁うん、私は別にいいって言ったんだけど、ちゃんと結婚式しない
とダメだってお父様が言うから﹂
﹁待て、エレオノラ。何の話をしている﹂
なんか、すごく嫌な予感がしてきたぞ。
﹁えっ、だから私とあんたの結婚式よ。ランクトの街は、今その準
備で大忙しになってるんだから﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
なんだこれ。
1585
えっ、俺マジでなんかやっちゃったか。
待てよ、思い出しても、俺は何かミスったってことはないよね。
エレオノラと結婚の約束とか、そんなのなかったよな。地雷原は、
舞うようにして華麗に回避したはずだが。
﹁なに、もしかして私と結婚しないつもりなの!﹂
﹁いや、それ以前の問題として、何が何だかわからない﹂
﹁あーそうなんだ、あんたってそういう人なんだ。子供まで作って
おいて、結婚しないんだ﹂
﹁はあ、コドモ?﹂
一瞬、ゲシュタルトが崩壊したぞ。コドモって、子供って意味で
いいんだよな。
いつそんなのができたんだ。エレオノラが、腹をさすってるんだ
けど、ちょっとこれはないだろう。
うちのハーレムにだって子供はまだできてないよ。
いきなりハーレムの外に子供ができるとか、どんな修羅場だよ。
﹁おい、オラクル! すぐに調べろ!﹂
エレオノラの狂言だろうが、万が一ということもある。こういう
時は、性の専門家に任せるのが一番だ。
もう、俺一人ではこの事態を収集できない。というか、訳がわか
らないんだよ。
﹁いや、調べろもなにも⋮⋮。この小娘は、処女のままなのじゃ﹂
1586
オラクルちゃんはエンシェントサキュバスなので、匂いを嗅げば
やってるかどうかがわかるのだ。
よし、オラクルの判定がグリーンだったらセーフだよな。
﹁はぁ、いきなり来て何言ってんのちびっ子魔族! あんたもタケ
ルの奥さんだったわよね。私がライバルになると困るから、そんな
こと言ってるんでしょ﹂
﹁いやいや、エレオノラ待てよ。少なくとも子供はできないだろ﹂
﹁だって⋮⋮したら、子供はできるでしょう﹂
﹁してないし、できないだろ!﹂
もう前提も結果も間違ってるよ。
何からツッコんだらいいのかわからない。
﹁タケル、だからワシはこの爆炎小娘はやっかいじゃから、くれぐ
れも扱いには気をつけろと、あれほど⋮⋮﹂
﹁もうどうしてこうなった。とにかく、絶対どっかで誤解があるか
ら、エレオノラはまず落ち着いて、一から説明してみろ﹂
エレオノラの話を聞くと、すぐにどこで間違いがあったか分かっ
た。
ランクト城に一泊したあの日、エレオノラは俺の部屋で、お腹を
くすぐられて気絶したあと、一人で俺のベッドで眼を覚ました。
その時に、彼女は下着が変わっていることに気がついて、つまり
はまあ俺と﹃そういうことがあった﹄と誤解したわけだ。
あの日は、俺の部屋から、エレオノラの悲鳴や奇声が盛大に響い
ていたわけで、ランクトの城にいる人の多くが、エレオノラと俺が
やったという誤解を持ったわけだ。
1587
城でそのようなことがあれば、街にまで噂が広がるのは時間の問
題だった。
領主の一人娘である姫騎士エレオノラも、シレジエの勇者である
俺も、超がつくほどの有名人だ。
もうこれは結婚だろう、結婚しか無いよねという噂が、街中に広
がって結婚式の準備が大都市ランクトの総力を上げて始まったわけ
だ。
ゲルマニア帝国が戦争に負けたり、諸侯連合がどうしようもなく
独立したり、いろいろ不透明な情勢で、大都市ランクトの民衆も﹁
これからどうなるんだろう﹂と沈んでいた矢先のことだった。
シレジエの勇者とランクトの戦乙女が結婚となれば、ランクト公
国も先行きは安泰だ。降って湧いたような僥倖である。
そのめでたいお祭りムードの高まりの中で、だんだんと調子に乗
ったエレオノラの﹃自分は勇者とやった﹄という確信は深まってい
き、ついには存在しない俺の子供がお腹にいるという妄想にまで深
まってしまったようだった。
姫騎士怖いわー。なんでそうなるんだよ。
﹁なんなのよ! じゃあ私はタケルとやってないし、このお腹には
勇者の子供もいないの?﹂
﹁そうだ、全部誤解だったんだ。やってないし、子供もいない﹂
エレオノラは、そう聞くとがくんと両膝をついて崩れ落ちて、碧
い瞳から滂沱のごとく涙を流した。
無言で泣くなよ、泣く事のことかこれ。
﹁私、死ぬわ﹂
1588
﹁わー!﹂
エレオノラは、腰から剣を抜くと自分の首を切り落とそうとした。
姫騎士は、死ぬと言ったら死ぬ。冗談じゃなくて本気で自殺しか
ねないから、俺は慌てて止める。
﹁止めないで、もう生きてられない! だってもう街中で結婚式の
準備が始まってるのよ。久しぶりのお祝いだから盛大にやろうって、
もう恥ずかしくて⋮⋮嫌だもう、死なせて!﹂
﹁待て、落ち着けエレオノラ! 死ぬほどのことはないだろ﹂
まあよく考えると、死ぬほどのことではなくても、泣くほどのこ
とではあった。
あの大都市ランクトの民衆が、街を上げて結婚式の準備を進めて
いるのに、いまさら何もなかったですとは言えないわな。
とんだ赤っ恥ということにはなる。
﹁もうタケルが結婚してやるしかないのじゃ﹂
﹁えー﹂
オラクルちゃんは、喉を掻き切って自殺しようとしてるエレオノ
ラと、それを止めようともみ合う俺を見て、呆れたようにため息を
つくと、そんな提案をした。
﹁そうよ、それがいいわ。結婚しなさいよ、じゃないと殺す!﹂
﹁なんでそうなるんだよ!﹂
エレオノラは抜き身の剣を持ったまま、今度は俺に向かって振り
かぶってくる。
こんなことになるんじゃないかと思ってたよ!
1589
﹁今わかった、もう私の生き残る道はそれしかない、タケルを殺す
か、結婚するしかない!﹂
﹁わかった、結婚すればいいんだろ!﹂
﹁えっ⋮⋮いいの﹂
﹁いいから、とりあえずその剣をしまえよ。危ないから!﹂
エレオノラは、そう聞くと俺から身体を離して、剣をそっと鞘に
収める。
ようやく落ち着いたか。
﹁嘘をついたら殺すからね!﹂
﹁物騒だから剣の柄から手を離せ。まったく、お前はいつもやるこ
とが極端すぎるんだよ。俺と結婚したいって言うのなら、順序って
ものがあるだろう﹂
﹁なに、抱きたいの? 好きに抱けばいいじゃない﹂
﹁だから、違うだろ!﹂
こいつもう本当に⋮⋮、アホかよ。
いや、いまさらエレオノラにツッコんでもしょうがないよな。
﹁何よ、あんたがどうしたいのか、言ってくれないとわかんないの
よ﹂
﹁まず、なんで俺と結婚したいのか、からだよ。俺のことが好きな
のか﹂
聞くのも恥ずかしい話だが、エレオノラはの場合は確認とってお
かないとわからないからな。すると、彼女は俺の質問に顔を真赤に
1590
して、手のひらを横に激しく振った。
あれ、待てよ。そこからまず否定するのかよ。面白すぎて笑えて
くる。
﹁バッ、バカ言わないでよ。あんたなんか大嫌いなんだからね!﹂
﹁バカはお前だろう、なんで嫌いな奴と結婚するんだよ。ツンデレ
⋮⋮じゃないよな、お前の場合なんて言ったらいいんだろ、本当に﹂
ツンデレというと、本当は好意があるのに、恥ずかしいから素直
になれないって感じだよな。
こいつの場合なんか違うんだよな、一緒にしたらツンデレの側が
拒否すると思う。
曲がってないんだエレオノラは、真っ直ぐに、直向に、素直にや
ってこれなんだよ。
最初から最後まで、真っ直ぐに交わっていない。曲がってるんじ
ゃなくて、平行線を永久にたどり続けている感じがする。
最初から軸がズレきっていて、修正とか一切受け付けないタイプ
だ。
﹁だってしょうがないじゃない、あんたが私のことを抱くから﹂
﹁いや、抱いてねえし﹂
﹁傷物にされたし﹂
﹁まあ、その点は、微妙に俺も悪いような気もするけど﹂
でも戦争で敵同士だったんだから、その点しょうがなくないか。
もしかすると、しょうがないって言うのは、そういうことも含め
てしょうがないってことなのか。
1591
﹁あんたこそ、私のこと好きなんじゃないの? だから結婚したい
んでしょ﹂
﹁あー、お前の中で、もう俺が結婚したいから結婚することになっ
てるのか﹂
怖いわ、エレオノラ。
あいかわらず、思い込み激しすぎるし、会話が通じない。
﹁だってしょうがないじゃない、私はもう⋮⋮﹂
﹁あー泣くなよ、わかったから。わかるよ、何というか好きとか嫌
いとかじゃなくて、しょうがないよな。うんうん、結婚するしか無
いよね﹂
上手く言葉で言い表せないが、エレオノラの﹃しょうがない﹄と
いう言葉はわかる。俺が思っている感覚にとても近い。強いて言え
ば、エレオノラと俺は、関わりすぎてしまったのだ。
こういうのはつまり、情が湧いたとでも言えばいいのだろうか。
相手の女がどんなに美人だろうが、金持ちだろうが、腹筋の形が
理想的だろうが、いきなり結婚しろと言われたら、俺は絶対に断る。
たいていの男はそうだろう。
断る理由はいくらでも湧いて出る、エレオノラは文句なしに綺麗
だし、世界でも有数な金持ち公爵の一人娘だ。
だからこそ、他に結婚する相手ぐらい、いくらでもいるだろう。
なんで相手が俺なんだよ、と言う感じで断れるだろう。
それが、姫騎士エレオノラではなかったら、の話である。
エレオノラは並大抵の男では相手にできない、まず普通の男がエ
レオノラに接触すると燃える。物理的に燃え尽きる。
1592
面倒な女どころで済む話ではなくて、たいていはちょっとでも触
れると不幸になる。関り過ぎた相手はぶっ殺される。
そういう意味では、騎士にとても向いている女なのだ。常に行く
ところに暴力と死を撒き散らし続けるエレオノラには、他に天職は
ないと思われる。
遠巻きに見れば、﹃ランクトの戦乙女﹄は華美で見目麗しいが、
近づくと命が危ない。そりゃ、男に敬遠されるだろうって話だ。
ウェイクに聞いたが、盗賊ギルドでは姫騎士エレオノラは不幸の
象徴とされていて、絶対に近づいてはならない相手として、ブラッ
クリストに入っているそうだ。
たかが女と侮って盗賊が姫騎士に関わると、最終的に全員が死ぬ。
まあ、あながち迷信でもない。
公姫であるエレオノラと釣り合いが取れる上で、相手ができる程
に強い男ってのは、ものすごく少数だ。そして、その少ない強い男
は、女は好きに選び放題だから、どうしようもなく面倒な姫騎士を
絶対に相手にしない。
なにせ女好きの盗賊王ウェイクや、金獅子皇フリードにすら敬遠
されてたからよっぽどのことだ。
﹁わかったなら、責任を取りなさいよ﹂
﹁わかったよ、じゃあ結婚するよ﹂
姫騎士エレオノラが結婚できる相手は、おそらくこの世界に俺し
かいないだろうなと。そう思えるようにいつの間にか、なってしま
った。
お互いに深く関わりすぎてしまったのだろう。エレオノラも、そ
んな確信があるから、こうやって迫ってきてるんだろうし。
1593
好きとか嫌い以前の問題として、これはもうしょうがないよなあ、
としか言えない。
今から思えば、最初に会った時から、こんなことになるんじゃな
いかなって予感がしてた。
いつ姫騎士エレオノラとのフラグが立ったのかと思い起こすと、
もう最初に会った段階で立っていたのである。
逆らえぬ運命なんて言葉は使いたくないが、﹃質が悪いのに当た
った﹄としか言いようが無い。
﹁するよじゃなくて、結婚してくださいって言ってよバカ!﹂
﹁うんじゃあ、結婚してください﹂
﹁じゃあ、しょうがないから結婚してあげるわ。今回だけだからね﹂
﹁いや、結婚に今回も次回もないだろ⋮⋮﹂
いや結婚に今回とか次回とかあるか、俺は現に嫁が六人いるわけ
だしな。
あっという間に一人増えてしまった、これどうするんだろ。自分
でやっておいてなんだが、かなりまずい状況だ。
すり合わせとか、大変になってくる。
いろいろと先行きが、心配になってきた。もう絶対に嫁は増やさ
ない、今回が最後だ。
そうだな、そう考えていくとエレオノラが言うことは、正しいと
思う。
今回だけ、特別ってことにしておこう。エレオノラだけは、しょ
うがないのだ。
1594
﹁じゃあ、うちのお城で結婚式があるから、タケルもちゃんとして
ね﹂
﹁エレオノラ、今のうちに言っとくが、お前はシレジエの後宮には
入れないからな﹂
エレオノラはなんだそんなことかと言う感じで、肩をすくめた。
﹁別に良いわよ。私はそんなとこ入りたいとも思わないし﹂
﹁そうだよな、お前はそんなタイプじゃないし、ランクト公国を守
らなきゃいけない仕事があるからね﹂
断ってくれてホッとする。エレオノラを入れたら、まず後宮が全
焼することを覚悟しなければならない。
リアルファンタジー
姫騎士とは、自由にしか飼えない生き物なのだ。その取り扱いは
厳重な注意を要する。
姫騎士を嫁にする勇気がある男は、この酷幻想に俺しかいないだ
ろうという確信がある。
まさに、勇者に相応しい冒険だ。
﹁あんたとの子供さえできればいいから、結婚して抱いてくれれば
文句はないわよ﹂
﹁お前って、凄いよな、そういうところ。いろいろ通り越して、尊
敬するわ⋮⋮﹂
いろいろ通り越していきなり抱けときた、もちろん俺は抱かない
けどね!
剣を振りかざして結婚を迫ってくる女は、きっとエレオノラだけ
だ。彼女は、この世界で唯一の姫騎士なのであった。
1595
彼女に目をつけられた段階で、俺の選択肢はエレオノラを殺すか、
殺されるか、結婚するかしか無くなっていた。
どうしようもなさすぎる。
姫騎士エレオノラとは、かくも恐ろしき存在なのであった。
気がついた時には、もう遅い。
1596
123.子供の話
﹁なあ、タケル﹂
﹁何だオラクル。あっ、いやスマンな﹂
あれほど浮気しないとか言っていたのに、ついに嫁を一人増やし
てしまった。
説明するのが大変だが、とりあえずオラクルちゃんだよな。
﹁嫁のことは良い、ちゃんとワシに了解を取ってくれれば何人増え
ても面倒を見るから安心すればよいのじゃ﹂
﹁いや、面倒見るのは俺っぽいんだが﹂
まあ、オラクルちゃんにも面倒をかけるからな。
﹁それより、子供のことじゃ﹂
﹁えっ、それはエレオノラの早とちりでさ﹂
何だか、もじもじとしている。
なんだ、何を言い出すつもりだ。俺のヒットポイントはもうゼロ
だよ。
なんでみんな、こういう時に俺の精神を畳み掛けてこようとする
のだ。
﹁このタイミングかなあと思うてのう、実は⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て、あーそうか﹂
最近やけに急成長して抱きまくらの条件を満たさなくなったオラ
1597
クルのお腹をさすると、下腹部に盛り上がりが⋮⋮。
これはもしかすると、もしかするのか。
突然の急成長、水着だったのが最近ブカブカの服を着るようにな
ってきたこと。
そして、有り過ぎる心当たり。この符号の意味するものは。
﹁どうもこれ以上は、誤魔化せないようになってきたのじゃ﹂
﹁オラクルお前、なんでもっと早く相談しないんだよ﹂
﹁ワシはエンシェントサキュバスじゃからな。もしタケルが子はい
らんと言うなら流してしまうこともできる。その期限的にも、そろ
そろギリギリなのじゃ﹂
﹁そういうことじゃなくて、身重の身体でダイソンと戦うとか危な
いだろ!﹂
オラクルちゃんまで、姫騎士の真似してズレなくてもいいんだぞ。
俺が子供を流せとか言うわけ無いだろ。
﹁だって、言ったら連れてきてもらえんかったじゃろう﹂
﹁当たり前だよ、城で安静にしてろって言うに決まってるじゃない
か﹂
﹁ワシとしては、腹の子よりタケルの方が心配だったのじゃ。それ
に魔族と人間の間の子とか、ぶっちゃけた話どうなんじゃ﹂
﹁それは俺だって子供の将来は考えるけどさ、その覚悟ができてる
から結婚したんだよ。それはわかってほしい﹂
あっけらかんとしてるようで、オラクルもいろいろと考えてたの
な。悩んでたのは俺だけだと思ってたよ。
1598
オラクルは、三百歳だし、有能だし、放っといても平気だと思っ
ていた。甘えてたのは俺の方かもしれない。
それなりに合図は出してたのに、言われるまで気が付かない俺の
ほうが悪かった。
オラクルを優しく抱きしめる。このくっついてる腹に、俺の子が
いると思うと不思議な感じがした。
俺は大人の男としては若干低身長だし、オラクルがもう少し大人
に成長すれば、屈まなくてもいいのにとも思う。
あとそろそろツインテールは卒業しようオラクル。幼い系の可愛
さアピールが、限界点に達してきてる。
ちっさい皇孫女が来たから、キャラかぶるしな。
﹁タケルは、何か失礼なことを考えているのじゃ﹂
﹁俺は顔に出てるのか、なにオラクルが髪を切らないなら、そろそ
ろストレートかポニーテールにしたほうが似合うんじゃないかと思
って﹂
ツインテールのまま母親になるってのは、ビジュアル的にあれだ
からね。
俺は、オラクルの白っぽい髪を括る紐をシュッと解いてやる。
うんサラサラだ、でもちょっと髪質がシットリ潤ってきたかもし
れない。
身体の成長もあるし、妊娠すると体質変わるって言うしな。
﹁サキュバスはグダグダと面倒な人間とは違って、安産すぎるぐら
い安産じゃから、心配無用なのじゃ﹂
1599
﹁そうは言っても初産だしな、心配ぐらいさせろ﹂
﹁もしかして、面倒な人間って私のことを言ってる?﹂
珍しくエレオノラが察してきた。
エレオノラは、面倒な人間オリンピックがあれば代表選手になれ
るレベルだよね。
﹁一般論だと思うぞ﹂
﹁一般論なのじゃ﹂
エレオノラは、呆れたようにわざとらしくため息をついた。
どっちかといえば、呆れたいのは俺たちなのだが。
﹁はぁ、まったく見せつけてくれるわね﹂
﹁しょうがないだろ、エレオノラの狂言とは違って、オラクルは本
当に妊娠してるんだから﹂
﹁やっぱりあんたたち、私に当てつけで言ってるでしょう!﹂
﹁いや、一般論だぞ﹂
﹁一般論なのじゃ﹂
そんなこんなで、オラクルの妊娠が発覚したので、知ってしまっ
たからには負担をかけそうな飛行魔法はもう使えない。
せっかく、エレオノラが馬車を持ってきてくれたんだから、馬車
で行くことにした。
ダンブルクまで来れば、諸侯連合領は目と鼻の先だし、エレオノ
ラが率いてきた二千騎の騎士隊が護衛についているんだから、心配
はいらないだろう。
1600
﹁あのー、ガンナー様は、ご結婚なさるんですか﹂
﹁あっ、ツィター。まあするっちゃするが⋮⋮﹂
まだ居たのか。心配は別の方向にあったようだ。
もうランクト公国に戻るし、正体はぶっちゃけバレてもいいと言
えるかもしれない。
むしろ、ツィターは側で俺達の話をずっと聞いていて、それだけ
の情報しか受け取らなかったのか。普通は、﹁ああ実はシレジエの
勇者だったんだ﹂とか察するだろ。
俺も程よくバレてもいいタイミングで、そういうシチュエーショ
ンがあるのを期待してたのに、中二すぎるとか引かれるだけで全く
気づかれないからビックリだわ。
意外に隠形の黒ローブ着ただけで、正体ってバレないもんなんだ
な。
まあ、この元エリート楽士が天然ボケで、かなり抜けているって
こともあるだろうけど。
﹁それでしたら私、お世話になりましたガンナー様に、お祝いの曲
を捧げさせていただきます!﹂
﹁そういうのはゆっくりできるときに頼む。これから馬車の旅だか
ら、皇孫女殿下をお慰めするように﹂
満面の笑みで、細い腕に抱えた大きな台形の弦楽器をジャーンと
かき鳴らして、一曲やりだそうとするので、俺はもうそのままツィ
ターを抱きかかえて、皇帝と皇孫女が乗った馬車に放り込んでやっ
た。
ゲルマニア帝国も、これからまた復活するだろうから、ツィター
1601
も宮廷楽士としてゲルマニア皇族にしっかりと仕えろ。
馬車の中から、﹁なんですか貴女は!﹂とエリザの甲高い声が響
いて﹁ツィターです﹂﹁名前を聞いてるんじゃありません!﹂﹁楽
士です、旅のお慰みに一曲弾かせてもらいます﹂とか騒ぐ声が聞こ
えてきたが、ゲルマニア宮廷人は、ゲルマニアの方で始末してもら
おう。
こっちはいま、エレオノラの処理で精一杯なのだ。この上、天然
ボケ楽士の相手とかしてられない。
そのうち、ゲルマニア皇族の馬車から賑やかな音楽が聞こえてき
て、騒ぎが収まったのでこれで一件落着だ。
エリザにも話し相手がいるほうが良いだろう。
﹁私たちは、こっちの馬車で行くわよ﹂
﹁そうか、ってお前これ⋮⋮バネついてるじゃん!﹂
マルケットリー
あいかわらず、素晴らしい寄木細工だなあとか観察してたら、堂
々と座席の四方にバネを使った機巧が組み込んであった。
お前これ、うちが極秘裏に開発して特許出願中の技術なんですけ
ど。
﹁あんたんとこの馬車が、いいのつけてるから真似してみた﹂
﹁お前これ、うちの名産にしようとおもってたのに、パクりやがっ
たのか。待てよ、いいから走らして見ろ。乗り心地とか﹂
俺たちは、大きな四頭立ての馬車に乗り込んで、試しに走らして
もらった。
頼むぞ、せっかく俺とライル先生が頑張ったのに、パクった奴の
ほうが良かったとかあり得ないからな。
1602
﹁どんなもんかしら、なかなか良い感じにできたと思うんだけど﹂
﹁うちのより、乗り心地が良すぎるんだよ!﹂
カイゼン
どんだけだよ、うちのより使うバネの数が少なくて、しかも揺れ
が少ないじゃないか! 単にパクっただけじゃなくて、改善してや
がってる。ランクト公国は、どこの極東の自動車産業だよ。
﹁いいじゃない、あんたのモノは私のモノ。私のモノはあんたのモ
ノってことで﹂
俺が愕然としているのを見て、いなすように隣に座って身体を擦
り寄せてくるので慌てて逃げる。
いろいろ言いたいことはあるが、まず擦り寄ってくるなら﹃炎の
鎧﹄を脱げよ。俺自身は平気でも、魔法がかかった黒ローブだって
焦げちゃうだろうが。
もちろん、この馬車はランクト公国御用達なだけあって、防火素
材で覆われていて、エレオノラが乗っても燃えないような加工がさ
れている。
この技術も、金になりそうだよな、本当にどんだけ頑張ってもラ
ンクト公国の技術力には勝てないわ。
ちょっと前にシェリーが言ってたな。﹁技術で勝てないなら、買
収すればイイのです﹂って。
結局のところ、エレオノラと結婚してしまうのが、技術力で争う
よりも良い方法なのかもしれなかった。
※※※
1603
ダンブルクの守りを、マインツ卿に任せて、一路ランクトの街へ
とひた走る。
去り際に、マインツに﹁いずれ大将軍に任じるから﹂と言ってお
いたら、﹁御意のままに﹂と返された。
平然と受け止めているマインツ卿は、こういう展開になるって読
んでたのかもしれないな。
油断ならない爺様だけど、その目的がゲルマニア皇族の保護で、
俺と利害が一致している限りは頼もしい存在だ。
要塞街ダンブルクには、救出部隊を引き連れたヘルマンが戻るか
ら、ダイソンに直接攻められてもそう簡単には落ちないだろう。
拠点の守将がマインツで、﹃鉄壁の﹄守護騎士ヘルマンが付いて
いれば、ライル先生が攻めたところで落とすのは難しいレベルだ。
マインツに任せれば、西の守りにかけては、安心してもよいだろ
う。
むしろ心配なのは諸侯連合領の荒れっぷりだった。ランクト公国
に入ってからも、ゲルマニア皇族が乗る馬車が、少人数の追手に襲
われたのである。
攻撃を仕掛けてきたのは、みんな寄せ集めの雑兵。
ダイソン派は、ゲルマニア全土で農民の一部に支持を得ているら
しく、息の掛かった者が諸侯連合領の農村地帯にも入りこんで、扇
動とスパイ活動を行なっているらしい。
一度は馬車に乗り込んだものの、すぐ﹁かったるい﹂とか言い始
めて、騎馬に乗り換えたエレオノラが暴れまわって、皇族の馬車を
狙う拳奴皇軍の追手はすぐに追い払われてしまったのだが。
帝国全土の治安は、やはり奴隷のカリスマであるダイソンを倒さ
1604
ない限りは回復できないとわかる。
農民出身︵ということに、いつの間にかなっている︶の王将軍で
ある俺が民衆に人気があるように、奴隷出身のダイソンも支持する
民衆がいるのだ。カリスマとしては、俺のライバルであるといえる。
今回は帰るが、いずれはダイソンと決着を付けなければならない
時がくるのだろう。
クックック、その時こそアイツを確実に屠ってやろう。
もちろん、こっちは絶対的な安全圏から、一方的な攻撃でだ!
ドリフ・ガンナー
﹁タケル、そろそろその黒ローブを脱いで、流離いの黒銃士は止め
たほうがいいのじゃ。話が無駄にややっこしくなるからの﹂
﹁スマンなオラクル、これやってると結構ハマってくるんだよ。普
段の俺から開放されて自由な気持ちになるというか、だんだん痛い
つぶやきが気持よくなってきて⋮⋮﹂
あんまりやってると、射撃キャラ被りで盗賊王ウェイクから苦情
が来るかもしれない。本家射撃チートは、あっちだしな。
サスペンションのアイディアを速攻でパクったランクト公国のこ
とを、他所からパクりまくっている俺では、表立っては非難できな
い。
俺たちは、そのまま無事に大都市ランクトへと至り、安静が必要
なオラクルちゃんとゲルマニア皇族たちはしばらく休憩を取ったの
ちに、馬車で王都シレジエへと向かってもらった。
ゲルマニア全域に、少なくない数のダイソン派が潜伏しているこ
とを思えば、やはりシレジエ王領が一番安全だから。
あと、他の人にランクトの街には居て欲しくないって理由もある。
1605
なぜなら、ランクトの街に残った俺は、姫騎士エレオノラと一緒
に済まさねばならない用事があるのだ。
1606
124.超スピードな結婚式
大都市ランクトにたどり着いて、エレオノラが﹁結婚できなけれ
ば死ぬ﹂と言った意味が即座に理解できた。
街の最初の白い漆喰壁の門を潜ろうとした時、﹁エレオノラ公姫
様、祝・ご成婚!﹂と書かれた横断幕が風に揺れていたのを見てし
まう。
これは、強烈なプレッシャーだ。
いきなり入り口からこれであるので、白い漆喰壁と赤煉瓦の街の
全体にまで広がった祝福ムードは説明する必要もないし、説明した
くもない。
街角の売店で、シレジエの勇者クッキーとか、ご成婚記念ケーキ
とか訳の分からない食べ物が売られていたことで察して欲しい。
ちなみにご成婚記念ケーキはスライスした苺が中に入ってるショ
ートケーキっぽい感じで、シレジエの勇者クッキーは、アーモンド
が混じってビターな大人の味わいだった。
俺も何試食しちゃってるのって感じだが、新商品が出てると思う
とチェックせざる得ないのは商人勇者の性である。
﹁はいこれ﹂
エレオノラから渡されたのは、姫騎士エレオノラジュースだった。
白桃味の甘いジュースがエレオノラのイメージらしい。こいつはこ
んなに甘くないぞ、間違っている。
すべての商品に、﹃公姫様ご成婚記念﹄の刻印が押されているの
1607
が、なんかこっ恥ずかしい。
﹁なんで、当人のお前がエレオノラジュースを買ってきてるんだよ﹂
﹁いまうちの街の商品は、どこでもこれなのよ! あんただってわ
かったでしょう私の言ってること﹂
それはよくわかったって。
街がこんな状況になったら、もう結婚しないと収まらないよね。
いまさら結婚式中止なんて言ったら暴動が起こるだろう。
婿の来てがない領主の娘の異名﹃ランクトの戦乙女﹄、半分は蔑
称であるのだが、もう半分では尊称でもある。
女を捨てて領地のために戦い続ける姫様は、﹁どうしようもない
な﹂と呆れられながらも、領民たちにまるで自分の娘のように愛さ
れてもいるのだ。
この感覚なんなんだろうな。俺の世界で言うと、人気がありすぎ
て嫁に行き遅れた声優が﹁誰か早く貰ってやれよ﹂とか言われてる
のに少し似ている。
姫騎士は、民衆に大人気であるにもかかわらず、結婚する相手が
見当たらないのだ。それがようやく結婚となったのだから、そりゃ
祭りになる。
ランクトの街の名物である、どうしようもないお転婆姫様によう
やく来た良縁を、街の人が真心から純粋に祝っているのが、ヒシヒ
シと伝わってくる。
普通に考えたら、こんな仕打ちをされたエレオノラが、剣を振り
回して暴れそうなのだが、純粋な好意だから止めろとは言いにくい
のだろう。
1608
こんなの商品にして売れるのかと聞いたら、かなり売れるらしい。
いつの間にか、俺が作った﹃黒杉の木刀﹄のレプリカまで店先に並
んでいた。おそらく、これでの決闘が結婚のきっかけになったとか、
馴れ初め話を脚色して観光客に売りつけるのだろう。
あいかわらず、なんでも取り入れて観光資源にしてしまう商魂た
くましい街だと呆れてしまう。
﹁ねえ、タケル。そろそろその薄汚い黒ローブを脱ぎなさいよ﹂
﹁そうだな。薄汚いは余計だが、これから娘さんをくださいって父
親に挨拶してこなきゃいけないわけだし﹂
﹁やだ、あんた何いってんのよ﹂
﹁ぐあっ、パンチはやめろ⋮⋮肩の関節が外れるかと思ったぞ﹂
あいかわらず格闘家向きの姫騎士だ。
パンチ力だけなら、ダイソンに匹敵する威力がある。絶対、攻撃
方法の選択を間違ってるよ。
街中でも、隠形効果のおかげで目立たないで済んで、かなり役立
ドリフ・ガンナー
ってくれた黒ローブだがここでしばしの別れである。
さらば流離いの黒銃士。また機会があればやりたいなあ。
セネシャル
ランクトの城に入ると、もう入り口の大広間にエメハルト公と、
執事騎士カトーさんを始めとした使用人がずらりと並んで待ってい
た。
﹁これは、王将軍閣下。よくぞおいでくださいました﹂
あっと、娘さんをくださいをやる前に、父親に跪かれたんだけど、
どうしたらいいんだこれ。
1609
こういうシチュエーションは、見たことがないので困ってしまう。
﹁えっと、エメハルト公。いや、お父上とお呼びしたほうがよろし
いか﹂
﹁この私を父と呼んでくださるか!﹂
エメハルト公が泣いた、沈着な切れ者だと思っていた諸侯連合の
大盟主が、紺碧の美しい瞳から使用人の前であるにもかかわらず、
滂沱の如く涙を流して、絨毯を濡らしている。
この激情っぷり、性格がぜんぜん似てないと思ったんだけど、や
っぱり姫騎士エレオノラと父娘だったんだなあと納得してしまう。
そのまま、公爵がズリズリとこっちにきて抱きしめられてしまう。
﹁婿殿ぉぉ、どうかふつつかな娘なれどぉぉ、エレオノラをなにと
ぞよろしく、よろしく⋮⋮﹂
﹁わかったけど、いやくださいって言うのはこっちの方なんだけど、
ちょっと聞いてますかエメハルト公﹂
﹁ああまざか、わがむずべがよべいりよべいりぃぃうわぁぁぁ!﹂
﹁公爵⋮⋮﹂
駄目だ、もう髪を振り乱して、感極まっていて話が通じない。
エメハルト公まで、姫騎士化してしまった。
﹁ちょっと、カトーさん!﹂
こういうときは、カトーさんだと助けを求めようと思ったら、い
つも冷静な銀髪の老執事もハンカチを顔に当てて、声を殺して泣き
崩れていた。
1610
よくよく見たら、使用人みんな号泣し始めてるじゃねえか。
﹁お父様、私幸せになります﹂
エレオノラがそうまとめたところで、領主以下全員がボロボロに
泣き崩れて、あとはもう言葉にならず俺に向かって﹁もらってくれ
てありがとう﹂と﹁姫様よかった﹂の連呼あるのみだった。
この城の公姫は、ここまで嫁入りの心配をされていたのだ。一体
何をやったらこうなるんだよ。
結婚するとなっただけで、この阿鼻叫喚地獄のような惨状。
いくらなんでも、周りに心配かけすぎだろうエレオノラ⋮⋮。
※※※
﹁それで、結婚式っていつやるんですか﹂
﹁今からやりましょう!﹂
ハンカチをグショグショにしてしまったエメハルト公は、メイド
から渡されたタオルで大量の涙を拭き終えると、元気にそう宣言し
た。
いきなりすぎるだろう。
﹁いや、準備とかあるでしょう﹂
﹁準備は全てできております。もちろん王将軍閣下の衣装もこれこ
のとおり﹂
移動式の滑車がついてるクローゼットごと運んできた。
何着あるんだよこれ、タキシード一着でいいんだよ。一着あれば
要らないだろ。
1611
﹁いやでも、今日はもう遅いですからね﹂
﹁なあに、今日で足りなければ明日もやればいいでしょう。とにか
く挙式を急ぎましょう!﹂
どんだけ嫁入りを焦ってるんだよ。
エメハルト公って、もっと落ち着いて悠然たるタイプだったよね。
キャラ変わってないか。
﹁ちょっと、カトーさん。公爵に落ち着けって言ってよ﹂
﹁勇者様、式場のご予約は済んでおります。こちらランクトの街の
マレーア大司教猊下でございます﹂
おいおい、なんで大司教をもう連れてきてるんだよ。ここで挙式
するつもりか。
カトーさんはこっちには朗らかな笑顔を向けながらも、影で執事
やメイドに指示をだして慌ただしく動かしている。カトーさんまで、
焦ってる様子だった。
﹁そうね、早くしないと、タケルの気が変わるかもしれないし急ぎ
ましょう﹂
﹁なんでエレオノラまで焦ってるんだよ!﹂
だから焦らなくても、俺は逃げないし、気は変わんないよ。
どんだけ、いい加減な男だと思われてるんだ。
カテドラル
ちなみに、大都市ランクトには世界に六つある司教座聖堂の一つ
が存在する。
王都シレジエにも大聖堂はあるものの、大司教区的にはランクト
司教座に組み入れられていて、こっちが格上なのだ。
1612
リアの着ているシスター服を白銀の宝飾をあしらって豪華にした
大司教服に、立派な司教冠を被ったマレーア大司教は、セピア色の
長い髪のお姉さんだった。
若くて美人に見えるが、アーサマ教会のシスターは女神に仕えた
瞬間から、年齢不詳になるので︵そういう戒律があるらしい、あの
女神様らしいね︶わかったものではない。
﹁どうも、初めましてマレーア大司教﹂
﹁これはこれは、この度はおめでとうございます。シレジエの勇者
タケル様﹂
純白の大司教服をなびかせて、その場に跪くマレーア大司教。
この人が、あのホモ大司教と同格かーと思うと複雑な気分になる。
一瞬、お前んとこの同僚はどうなってんだよと聞きたくなったが、
すでにアーサマに弁明されたあとなので止めておいた。
アーサマ教会上層部も、思想の自由を旗印にしている関係上、様
々な考えをまとめるのに苦労しているのだろう。信者に自由を認め
ればこそ、新教派のような激烈な行動を起こす強硬論者も出てくる
わけだ。
﹁おめでとうかなあ。俺は結婚するの七人目なんだけど、いいんで
しょうか﹂
﹁アーサマは寛大なお方ですわ。勇者様ともあろうお方が嫁が七人
ぐらいなんです、どうぞ御心を大きくお持ちください﹂
毎回思うんだけど、アーサマは寛大すぎるよね。
不埒だって怒ってくれたほうが、まだやりやすい。そんなにどう
ぞどうぞって言われると、なんか進んでいいのか迷うんだよ。
1613
﹁えっと、結婚式っていうのは大聖堂でやるんですか﹂
﹁はい、勇者様はまだランクトの聖堂にはおいでになったことはあ
りませんでしたね。さほど大きくはありませんが、歴史のある聖堂
です。司教座が置かれておりますので、ワタクシごとき若輩が恐縮
ではありますが、大司教を務めさせていただいております﹂
なんか、若輩って言葉が私はまだ若いんだぞという感じに聞こえ
る。
まあ、俺はアーサマ教会関係者に偏見を持ってるからな。
﹁じゃあ、お世話になります﹂
﹁ところで勇者様、ステリアーナを妻にされたということで彼女は
シスターではなくなり、勇者付きシスターの枠に空きができたとい
う解釈もできると思うのですが﹂
﹁そっちはお世話になりません﹂
﹁グッ、そうですか。ワタクシはこのあたりの神官など束になって
かかっても勝てないほどに神聖魔法力ではピカ一です。安心と安全
の勇者認定一級でございます。役に立ちますので、どうぞご贔屓に
なさってください﹂
結婚式の前に、なぜか勇者付きシスターになろうと就職活動を始
カテドラル
めたマレーア大司教。
歴史のある司教座聖堂の大司教を勤めてるんじゃないのか。その
神聖魔法力は、街のために活かせ。
やっぱり駄目だ、アーサマ教会関係者には油断してはいけない。
俺はみんなに急がされているので、背中を押されるように適当に
黒いタキシードを選んで着替えに入った。
1614
もう、結婚式も二回目だから慣れたものだ。
着替えを終えて、出てきたらエレオノラが﹃炎の鎧﹄から、薄桃
色のウェディングドレスに着替えていた。
﹁どんな早着替えだよ﹂
女の着替えは時間が掛かるというのは、エレオノラには通用しな
いようだ。
戦場慣れしている彼女は、基本的になんでもやるのが早い。そう
じゃないと生き残れない世界で戦っているからだ。
﹁ウェディングドレスは、女の戦闘服よ﹂
﹁まあ、そう考えるとよく似合っているもんだな﹂
ウェディングドレスは、純白というのが俺の主張であったが、淡
いピンク色のドレスも悪くない。
敵と味方の鮮血に塗れて戦っているエレオノラは、緋色のイメー
ジだが。
勝気なエレオノラが、瀟洒でありながら決して華美になりすぎな
い落ち着いたドレスに着替えて、ピンクのベールをまとうことで、
女性らしい柔和さが生まれている。
これで、黙って俯いていれば美しい花嫁であり、誰があの姫騎士
エレオノラであると思うだろうか。
さすがに、ランクト公国のファッションセンスは見上げたものだ
った。
虎の威を借る狐じゃなくて、虎が猫を被っている。
1615
そのまま、マレーア大司教の先導で、街中を馬車でパレードさせ
られた。
準備ができているとは嘘でも冗談でもなんでもなく、ランクトの
城から出ると、街の赤レンガの床に教会までのビロードの通路が完
成していた。
すでにお祭りムードの民衆がずらりと並び、一面に色彩豊かな季
節の花々をばらまいてバンザイしている。
さっきまで普通に生活していたのに、どこから出てきたんだよ。
準備できすぎているだろう。
﹁いつの間に、というか展開が早すぎて落ち着かない﹂
俺のそんなぼやきは、総出で現れた市民たちが絶叫する﹁ご結婚
おめでとうございます﹂と、万歳の連呼によってかき消される。
街が総力を上げて、一分一秒でも早く、エレオノラを嫁に行かせ
ようという気迫が感じられる。
俺を絶対に逃がさないという圧力がすごい。
この街自体が、怖い。
しかしまあ、俺もこの規模の結婚式は二回目なので、やることは
全部わかっている。
無難に市民の歓声に応えて、式場の聖堂までやり過ごす。
結婚式に慣れてしまうとか、本当にいいのかなあと思わざるを得
ない。誰も注意してくれないから、重婚しまくってしまったぞ。本
当に祝っていいのかよ。
頑張ってパレードしているうちに、大聖堂が見えてきたのでホッ
とする。いまさら文句を言うつもりもないが、やっぱりこういう公
1616
の式典は苦手だ。
﹁綺麗なものだな﹂
﹁えっ、私が?﹂
教会がだよと思ったが、まあエレオノラがってことにしておいて
もいい。
マレーア大司教が自慢するだけあって、白い漆喰壁を使った四角
い教会は、やたら豪華な尖塔を立てたがる他の教会と比べると、ず
っしりと落ち着きがある。
教会の白い漆喰壁に、品位を欠けない程度にあしらっている白銀
細工など、ステンドグラスよりも金が掛かっているはずなのに、自
己主張しないでさりげなさが小憎たらしいほどだ。
モダン
中世ファンタジー世界でこんなことを言うのもなんだが、歴史の
重みを感じさせながらもそのセンスは近代なのだ。
落ち着きがありながら新しさを感じさせる、その風格のある佇ま
いは、さすがに最先端の文化力と技術力を誇るランクトの街の大聖
堂であると言えた。
民衆の熱い声援を抜けたあとに、聖堂の中に入ると、すっと温度
が下がったような気がする。神聖な空気がある。
赤絨毯の引かれた少し薄暗いからこそ、ステンドグラスから差し
込む光が眩く感じる演出が見事だ。
よせぎざいく
天井は木材でできており、この街の歴史を刻んだらしい寄木細工
の絵が飾られていた。
はめ込まれた木材だけでこれほど詳細な絵が描けるのかと、かけ
られた手間と高い技術にため息が出る美しさだ。
1617
思わず寄付したくなる感じ、これはさすがはランクトだ。
俺が言えた義理ではないのだが、こういう落ち着いた雰囲気の教
会で厳かな結婚式をやりたかった俺は、少し嬉しくなる。
マレーア大司教も、リアみたいにふざけたりしない。
きちんとした宣誓の儀式があって﹁健やかなるときも、病めると
きも﹂お互いの愛を誓い合った。
薄衣をめくり上げて、垣間見るエレオノラは、文句なしに美しい
公姫だった。
ウェディングドレスは、女性を世界一美しく彩る衣装なのだろう。
本来は、一生に一度のものだからな。
触れると殺されてしまいそうなほどに甘美な、エレオノラの柔ら
かい真紅の唇にキスをするときに、責任を持ってこの面倒くさい公
姫様の相手を、きちんと一生してやろうと思った。
毒を食らわば皿までというのだから、いまさら躊躇もない。
﹁本当に、あんたの嫁になったのね﹂
﹁いまさら何を言ってるんだよ﹂
お前のほうが結婚してくれって迫って来たんだろう、なんて無粋
なことは言わない。
結婚式の宣誓が終わって、しばらく呆けたようになっていたエレ
オノラは、とても可愛らしくなっていた。
すべての過程が、あまりにも早く済んだからな。
エレオノラがスピードについていけず、当惑してしまうのも無理
はない。
1618
どうせまた放おっておいてもすぐもとの姫騎士に戻るのだから、
ほんの少しだけ可愛らしいままのエレオノラを見つめていたいと思
う。
本当は何度もやっちゃいけないのだけれど、結婚式は何度やって
も良いものだなと思った。
こうしてランクトの街が、総力を結集して後押しした結果、すべ
ての段階を超スピードでぶっちぎって、俺はエレオノラと夫婦にな
ったのだった。
1619
125.エレオノラとの初夜
さてと、結婚式を終えるとその夜は初夜となるわけだ。
ランクトの城に戻ろうかとしたとき、マレーア大司教に呼び止め
られた。
﹁城に戻る必要はございません﹂
﹁いや、帰らないと﹂
そういう俺を無視して、これから夫婦の特別な儀式があると他の
参列者を教会から追い出すと、マレーア大司教はニンマリと深い微
笑みを浮かべた。
なんだよ、特別な儀式って、禁断の秘跡系のやつだったら怒るか
らな。
﹁アーサマ教会では、ご夫婦になられたお二人に、相応しいお部屋
をご提供させて頂きます﹂
﹁嫌な予感しかしないんだが、まさか﹃ラブホ﹄じゃないのか﹂
ラブホーリールーム
そう言うと、マレーア大司教は﹁ホォー﹂とフクロウのような驚
きの声を上げた。
カテドラル
﹁まさか、司教座聖堂の極秘施設である愛と聖の部屋を知っておら
れるとは、さすがはシレジエの勇者様です﹂
﹁知らいでか!﹂
やっぱりこれかよ、アーサマ教会関係者を相手にしてると、頭が
痛くなってくる。
1620
この厳かな雰囲気の教会にも、隠し部屋のラブホがあったとか、
イメージ悪すぎるよ。
しかも、結婚式の立ち会いを終えた大司教が、その場でカップル
にラブホを斡旋とかないだろ。
神聖なる雰囲気がぶち壊しだ。
﹁なんだか﹃ラブホ﹄に悪い印象をお持ちのようですが、勇者様よ
くお考えください。ランクトの街中が、勇者様とエレオノラ様が﹃
これからやるぞ﹄と知っているわけです。はたして、今から城に帰
ってできましょうや﹂
そう聞いて、エレオノラの顔が真っ赤になった。
いや、初夜とか言っても、無理にやる必要ないんだからね。そう
いうのわざと外してきたのがこれまでのやり方なんだから、俺はむ
しろそうなったらやらないよ。
それに、大司教が﹁やるぞ﹂と言うのもどうなんだよ。
もうちょっと言い方考えようよ。
﹁その点、聖堂の隠し部屋であれば、音はアーサマの加護と分厚い
石壁と漆喰によってシャットアウト。中で何が起こったかは、アー
サマにしかわからないわけで、完全にセーフティーでございます﹂
﹁大司教の言い方が完全にセーフティーじゃないんだよ!﹂
﹁いいでしょう行きましょう!﹂
エレオノラがそう言い出した。
﹁さすがエレオノラ公姫様です、ではどうぞこちらに﹂
1621
エレオノラが良いというのなら仕方がない、俺も付いて行くと聖
堂のアーサマ像を動かせと言われた。
おい、これゲルマニアの城で見た奴と同じ仕掛けじゃないのか。
像を動かすと、ゴゴゴゴッと音を立てて大聖堂の側面から隠し部
屋に続く小さな通路が現れた。
さすがランクト公国の聖堂だ。俺がぜひ、王城のどっかにパクっ
て作ろうと思っていたシステムをすでに使っていたとは。
ギミック
いやもしかしたら、これはランクト公国で生まれた仕掛けなのか
もしれない。それを帝城が学んで作ったと考えるほうが自然だ。
しかし、この珍しい技術がラブホを隠すために使われていると思
うと、なんだか情けない感じがした。
﹁いや、技術の進歩させるのは軍事とエロだっていうものなあ﹂
﹁何をつぶやいてるのよ、早く行くわよ﹂
薄桃色のウエディングドレスの花嫁に手を引かれて、俺は狭い隠
し扉を潜って、教会の隠し部屋へと入った。
またこの空気だよ、窓がないから少し重苦しい感じがするんだよ
な。
ラブホのデザインは、リアが勝手に公金を使って作ったアンバザ
ックの教会のそれとほとんど変わらない。
こちらのほうが若干広く、円形のベッドが銀糸を織り込んだ豪華
なシーツだってことぐらいか。
ベッドの側面に、古代の神聖文字で﹃女は度胸、男は愛嬌﹄って
書いてあるのが、俺は言語理解スキルがあるので、読めてしまうの
1622
だ。
アーサマのお言葉らしいだが、女は度胸って部分が姫騎士エレオ
ノラを示すと考えると、妙に今の状況に符合していて怖い。
ここまで含めて、全部アーサマのシナリオ通りだったらどうしよ
う。
まあ、どうすることもできないわけだが。
﹁空気の入れ替えは、神聖魔法で行えます。飲み物はこちらに冷え
てございます﹂
いや、よく見るとこっちのほうがだいぶ設備が豪華だった。
川辺に面していることで、上下水道が発達しているランクトの街
エール
ワイン
なのに、この部屋はあえて井戸水を組み上げることで冷たい水を引
き、それを利用して麦酒や葡萄酒の瓶を冷やしたりしている。
小さいながら、バス・トイレ付きで湯浴みすることもできる。
無駄に、豪華だった。女神様を迎える神聖な場所とは言え、設備
整い過ぎだろう。
﹁確か、ラブホってアーサマを降臨させるための宗教施設だったよ
な﹂
﹁ハッ、そうなのですか?﹂
なぜか、マレーア大司教がビックリしている。
なんで六人しかいないアーサマ教会の最高級幹部なのに知らない
んだよ。
﹁えっと、もしかして違うのか。リアにはアーサマが降臨したとき
1623
にそう聞いたんだが﹂
﹁いえ、そうだったんですね。そうかー、なるほどなあと言った次
第でして﹂
﹁ちょっと気になる言い方だな、なんでマレーア大司教がそんな大
事なことを知らないんだよ﹂
﹁いえ、アーサマが直接降臨されることなど、百年に一度あるかな
カテドラル
いかのことなので、目的が忘れ去られて形骸化していたのですね。
ランクトの司教座聖堂では、ラブホは主にシスターたちのレクリエ
ーションルームとして活用させていただいております。何のための
極秘施設なのかなーとは、ワタクシも前から疑問に思っていたとこ
ろなのですが⋮⋮﹂
おいアーサマ、お前のとこのシスター教育。
絶対に、考えなおしたほうがいいぞ⋮⋮。
あっ、やめとこう。ここでアーサマに文句言いまくると、また降
臨しちゃうから。
大丈夫でーす。オーケーですよ。アーサマはケツカッチンで忙し
いらしいし、本来百年に一度の降臨を俺はもう二回もさせちゃった
ことになるからな。
天罰が下る前に、悔い改めないといけないのはきっと俺なのだろ
う。
今回で、七度目の結婚になるわけだし、本当にバチ当たりだ。
﹁レクリエーションなあ⋮⋮﹂
﹁ままっ、アーサマは寛大なお方ですので、それぐらいはゴメンし
て頂けると思いますよ。勇者様は、アーサマの加護を受けているお
方ですから、男女のレクリエーションに利用したとしても構いませ
1624
ん﹂
なんで上手く言った⋮⋮何が男女のレクリエーションだ。
このノリの軽さ、やっぱりアーサマ教会関係者だ。
﹁オホホッ、あとはお若い方にお任せするとして、ワタクシはここ
らへんで退散させていただきます﹂
﹁なんで結婚式の司式司祭が、仲人のおばちゃんみたいなセリフな
んだよ!﹂
俺のツッコミも虚しく、マレーア大司教は退出してしまった。
あとは、ラブホに残される先程結婚して夫婦になった俺達二人。
﹁エレオノラ、どうしようか﹂
﹁とりあえず先にシャワー浴びてきてよ﹂
それ男のセリフだからね⋮⋮。
※※※
俺はシャワーを浴びて、サッパリした。
さすがにホースを繋げて使える現代的なシャワーではなかったが、
この時代に海の家みたいな簡易シャワーがあるだけでも、ランクト
公国の発想と技術は計り知れない。
リアルファンタジー
モダン
もちろん酷幻想が、俺の世界の歴史と同じように進歩するとは限
らないのだが、この街だけはルネッサンス期を超えて、すでに近代
に入り始めているのではないかと思うほどだ。
身体を、ちゃんと用意しているピンク色のタオルで拭いて、俺は
静かに笑う。
1625
ハーレム
さあいざ初夜ってときに、違うことを考えてしまうのは、逃げだ
よな。
すでに六人も妻が居て、後宮まで作っておいて、俺はいまだにこ
ういう空気に慣れない。
あの姫騎士を相手にしなければならないのだぞ、もっと雄々しく
行かなければどうする。
俺はバスローブをまとうと、男の覚悟を決めて部屋に入った。
﹁お前何やってんだよ!﹂
エレオノラが、網の目模様一つにも手間と金がかかってる超高級
なウェディングドレスのスカートを、ビリビリと破っていたので、
慌てて止める。
いや、止めても遅い。ビリっとやってしまった。
﹁このままだと、しにくいと思って、短くしてるのよ﹂
﹁脱げばいいだろ、というか脱げよ﹂
あえて言うけど、お前もシャワー浴びてこいよ。
何をどう考えたら、いきなりウェディングドレスのスカートを破
るって発想になるんだ。
﹁脱いだほうがいいの、このままするもんじゃないの?﹂
﹁このままってお前⋮⋮、あーあ高いドレスがもったいない﹂
何をどう考えたら、神聖なる結婚式のドレスのままで、ナニを致
すって考えが浮かんでくるんだ。
いや、いまさらエレオノラの思考をトレースしても意味が無いだ
1626
ろう。エレオノラの思考をあまり深く読むと、自分も姫騎士的思考
に近づいて精神汚染されてしまう。
姫騎士の紺碧の瞳を覗きこむとき、姫騎士もまたお前を見ている
のだ。
怖すぎる。
﹁いいのよ、こんなドレス。式が終わったら捨てちゃうんだから﹂
﹁えっ、マジでかよ﹂
破いたスカートの裾を、エレオノラは無造作に投げ捨てた。どん
な贅沢だよ。
いや、天下の大富豪だもんな。俺の衣装でも百着近く用意してた
し、この状況で使い回しはしないってのはわかる。でも、もったい
ない。
俺のそんな気持ちも知らず、エレオノラは満面の笑みでふかふか
のベッドに寝そべると、両手を広げて誘った。
ムッと、手につけている絹の手袋を見ると、邪魔になったのだろ
う。それも無造作に投げ捨てる。本当に、このお嬢様は乱暴だ。
﹁タケルもドレスの邪魔なとこ破いていいわよ、意外と気持ちいい
ものよ。ドレスを破くって﹂
﹁じゃあ、遠慮なく﹂
この手のドレスは、脱ぐのがややっこしいってのはわかるよ。エ
レオノラが破り出したのは、おそらく頑張って脱いだところで、着
付けができないってこともあるのだろう。
姫騎士にとって、ウェディングドレスは使い捨てなのだ。替えの
部屋着ぐらい、ちゃんと用意されてるしな。
1627
それに、よくよくと考えたら、姫騎士に一生付き合ってやるって、
さっき決めたじゃないか。
この程度の奇行で、驚いていてどうする。
俺は覚悟を決めてドレスの胸元を破くと、背中に手を差し入れて
真紅のブラシェールを丁寧に剥ぎとってやった。
高級なドレスを破けても、下着まで破けないのは俺の中途半端な
ところだ。
﹁タケルもノッて来たわね﹂
﹁ああ、布を破くって爽快感があるのは認める。だが、なんでこん
なことを始めたんだ﹂
﹁だって、タケルが綺麗だって言ってくれたじゃない。だから、そ
のままであげようとおもって﹂
﹁じゃあ、ありがたくもらおう﹂
へんげんせっく
エレオノラが奇行に走ったのは、俺の何気ない言葉のせいだった。
こっちの片言隻句に、過激な反応を返すのが、エレオノラなのだ。
付き合いきれないという言葉は、もう言わないでおこう。
俺は責任を取るべく、彼女の引き締まった肉体のわりに、意外に
豊かで柔らかい胸に顔を埋めた。
楽しむ時間は、いくらでもある。俺もこういう時に焦らない程度
には、慣れているのだ。いくら相手が姫騎士とはいえ、初めての相
手に無理は禁物だ。
※※※
1628
﹁エレオノラ、こういうとき爪はちゃんと切っておけよ﹂
﹁あっ、ごめん痛かった?﹂
痛くなかったとは言えない。鍛えぬかれたエレオノラの指の力で、
背中にギギッと爪を立てられたら、いくら勇者補正があってもキツ
かった。
まあ、エレオノラに破瓜の痛みを強いてしまったせいでもある。
どんなに鍛えても、鍛えられない部分というのが女の子にはある。
閉じていた肉を割られるときは、誰だって痛い。
そのエレオノラの苦痛の百分の一でも受けられたなら、むしろそ
の痛みは甘美ですらあったけれど。
ただそれと、女性としての手入れができてないのとは別の話だか
らね。俺もそれなりに深い付き合いをするうちに、女性から教えて
もらったエチケットであるので、偉そうなことは言えないけれど。
エレオノラが他所で恥をかくよりは、女性らしい手入れを教えて
いった方がいいだろう。
﹁まあいい、俺が爪を切ってやろう﹂
﹁うん⋮⋮﹂
パチリ、パチリと、エレオノラは大人しく俺に爪の手入れをされ
ている。
ランクト公国の技術は本当に凄い、爪切りといえばナイフやハサ
ミでするものだが、ちゃんと爪を切る用に、ニッパー型の爪切りが
あるのだ。
ナイフで指先に傷が付くと破傷風になりやすいし、逆に手入れを
怠ると靴が悪いせいか巻き爪になりやすい。
1629
細かいことだが、こういうまともな爪切りが庶民にまで広がれば、
衛生面での効果は高い。
本当に素晴らしい国だ。どうして、素晴らしい国の優れた血統の
お姫様が、こういう残念な感じになってしまうのだろう。
エレオノラの艶やかな淡い金髪に、紺碧の海を思わせる深い瞳は
良いのだ。アムマイン家の人間は、代々眉目秀麗な美形である。
﹁よし、綺麗になった﹂
﹁ありがとう、タケル﹂
その類まれなる良素材の美姫が、徹底的に身体を鍛えて戦塵と血
しぶきにまみれ、爪の手入れすら怠るほどの無骨に成長するという、
大変残念なことになっているのだ。
鍛えぬかれた靭やかさを持つ肢体の曲線と激しすぎる反応は、野
生の女豹を感じさせる美しさがあるし、見方を変えれば面白いとも
言えるのだろうけど。
﹁ただ、もう少し何とかならんかなとは思うよなあ﹂
﹁なに、私何かダメだった?﹂
﹁いや、エレオノラは最高だったよ。ただ、特性を考えれば改良点
がいくらでもあるなあと﹂
﹁私、頑張るわね﹂
何を勘違いしたのか、エレオノラは、もう一度俺の上に跨って来
ようとする。靭やかな筋肉にしっかりと巻き付く女の子の脂肪が巻
きついてて、エレオノラの太ももには絶妙の柔軟さがある。
思わずしたくなったが、覆いかぶさってこようとする彼女を手で
押しとどめる。
1630
さっきあんなに痛い痛い言ってただろうに、無茶すんなよ。
﹁待て待て、まず頑張り過ぎないで、肩の力を抜くことを覚えろっ
て言ってるんだよ。水でも飲んで落ち着け﹂
﹁そう?﹂
ドレスを着たままでするなんておかしい言ってた癖に、試しにや
ってみるとけっこう楽しくて、乱暴に破かれたドレスは、大事な部
分がほとんどなくなってしまっていた。
布を巻きつけただけの半裸になっているエレオノラは、俺の上に
跨ったままで、不思議そうに小首を傾げている。
その途端に、バサッと長い金髪の髪が、俺の胸に舞い落ちた。
エレオノラは、俺の言ってることは十分の一もわかってないよね。
本当に、いろいろと、先が思いやられる。
まあいいと、俺はエレオノラを腹の上から下ろして、首に手を巻
いて優しく抱きしめた。
絡みつくエレオノラの金色の髪は、なぜか草原で風に揺れる草の
ような爽やかな匂いがした。本当に、悪くはないものだ。
俺は、この姫騎士を妻として一生付き合っていくことになるのだ
から。
これから物を教える時間は、いくらでもあるだろう。なにも、焦
ることはない。
1631
126.王将軍の帰還
エレオノラとの初夜のあと、ランクト城に戻ったら待ってました
とばかりに披露宴やら民衆へのお披露目会やら、かなり手間を取ら
されたのだがその辺りは割愛する。
まあ、こういう式典はしっかりやっておいたほうがいい、ランク
ト公国もこれでシレジエ王国と一体感が生まれたわけだ。
本当ならば、エレオノラをそのままシレジエの王城まで引き連れ
て、他の妻たちに挨拶をさせたいところだったのだが、切迫した情
勢がそれを許さない。
姫騎士エレオノラとはいえ、単体で見れば﹃炎の鎧﹄で身を守る
優れた武将である。諸侯連合領の治安を守るために、そうそう城を
開けるわけにはいかない。
俺はたった一人で、嫁が一人増えたことを妻たちに説明すること
になるのだ。
まあ、俺の単独行であれば、カアラに抱えられてひとっ飛びで行
けるわけで、身軽だとは言えるけど。
気が思いやられるなあと思ったが、シレジエの王城に入るなりラ
イル先生がやってきてすごく褒められてしまった。
﹁タケル殿よくやりました!﹂
﹁先生、何のことですか﹂
何のことって、もうわかってるんだけどさ。
先生も説明するまでもないだろうと、ニヤッと深い笑いを見せて、
1632
親指を立てた。ノリノリですね先生。
﹁これで、諸侯連合軍と旧帝国軍はこっちのものです。タケル殿お
一人で、ここまでやってくれるとは⋮⋮想定してたケースの中でも
最高の結果です。お見事でした﹂
﹁あの、奥さんが増えて怒らないんですか﹂
はぁ? って顔をされた。
﹁私は、前からどれだけ増えるか楽しみにしてるって言ってるじゃ
ハーレム
ないですか。勇者なら当たり前のことで、怒ってる人なんていませ
んよ。あー、なんだったら皇孫女エリザベート殿下も後宮に加えて
しまいますか﹂
﹁ちょっと、それはいくらなんでも!﹂
アハハッとライル先生は笑う。
さすがに、冗談だったらしい。そうだよな、八歳の子供をハーレ
ムに放り込むんでは、拳奴皇ダイソンの悪行とやってることが変わ
らんよ。
﹁南方の地方貴族の抑えに義勇兵は要りますし、西海の支配権をめ
ぐるブリタニアン同君連合とカスティリア王国の争いも本格化して
きていますからね。さすがに、帝国支配を目指すには時期が良くな
い﹂
﹁時期が良かったらやるみたいなこと言わないでくださいね﹂
シルエット女王や、カロリーン公女との結婚のときもそうだった
けど。
先生は、冗談に見せかけて本気で話を進めようとするからな、気
をつけておかなければならない。
1633
いや、別に先生が傀儡政権を立てて、いずれゲルマニア帝国を飲
み込むつもりならそれでも良い。
先生の野望のために駒になって見せると俺は約束しているのだか
ら。それはいいのだが、支配権の正統性確保のためなら、老皇帝が
こっちに居るだけで十分だろう。
調子に乗って八歳の子供にまで手をだそうとしたダイソンのやり
ようは、大失敗だった。あれで、ニコラウス大司教の新教派の人心
が離れちゃったわけだしな。
同じ轍を踏むつもりは、毛頭ない。
﹁まあ何にせよ、おかげさまで敵味方がハッキリとして動きやすく
なりました。まず、ローランド王国と旧帝国軍の争いに仲介して休
戦させます。以前に奪われた旧領の回復に加えてちょっとおまけを
つければ、ローランド王国も矛を収めるでしょう﹂
﹁そうすれば、旧帝国軍も持ち直しますかね﹂
﹁そうは簡単に行かないでしょうけどね。東の辺境の三王国は、ど
うやってもダイソン派に付くでしょうから。手強い敵として残って
しまいます。シレジエ王国も東にばかり目を向けるわけには行かな
い事情があるので﹂
﹁マインツ将軍をこちらに引き入れましたから、諸侯連合領と旧帝
国領をカバーする東方の大将軍に任じようと思ってますよ﹂
そう聞くと、﹁あのマインツ閣下ですか﹂と先生は嬉しそうな顔
をした。
老将マインツは、先生が尊敬する数少ない先達なのだ。
﹁要塞街ダンブルクを治めるマインツを主将に任じ、ランクト公国
1634
を守るエレオノラを副将として任じて、東方面軍の編成とします。
ダイソンへの備えは、それでどうでしょうか﹂
﹁良いですね。シレジエ王国には、南にも東にも敵がいて作戦領域
が広くなりすぎましたから、東をマインツ閣下にお任せできれば楽
になります﹂
シレジエ会戦の傷が癒えるまで、今しばらくは力を蓄える時期だ。
もちろん戦況が激変すれば、そうも言ってられないのだろうが、
できれば戦争は避けたいものだしな。
﹁ふう、まあこんなところですか﹂
﹁タケル殿も、お疲れ様のところ申し訳ないのですが﹂
﹁えっ、まだ何かありましたか﹂
﹁ええっ、新しい嫁の参入に納得はしているといっても、古女房を
疎かにしてはいけませんよ。王将軍閣下の権力を保証しているのは、
何と言っても女王様です。一刻も早く御子を⋮⋮ちょっと! なん
で私を抱くんですか﹂
﹁いや、だって古女房を大事にしろって﹂
﹁私は、そういう意味で言ったのではなくですね。うわーん、聞い
てくださいよ﹂
先生の語り口は誘っているようにしか、聞こえないのだけど。俺
の女房役といえば、先生しか居ないじゃないか。俺の留守中に寂し
がってたのだろう、可愛いなあ。
俺は、そのままライル先生をお姫様抱っこして、後宮へと運んだ。
まあ、そのあとは言う必要ありませんよね。
※※※
1635
老皇帝コンラッドと皇孫女エリザベートは王宮の離れに、住んで
いる。
後宮のさらに奥の小さな庭園の木々に隠されているため、外葉離
宮と呼ばれている小さな離れで新しい木造の建物である。
実はこの小さな離宮は、シルエットがエルフである母親と隠れ住
んでいたところだった。その生まれゆえ後宮にも入れなかった彼女
たちは、ここで文字通り日陰者の生活を余儀なくされたのである。
そんな建物を、よりにもよって老皇帝たちに使わせるのは心苦し
いのだが、他に住めそうな場所がないし、まさか後宮に住むわけに
もいかず、警備上の問題を考えると他に選択肢がなかった。
そんな経緯のある離宮に、今度は帝宮を追われた廃帝と寄る辺な
い皇孫女が逃げこんできていると思えば、これも因縁というもので
あろうかと感じ入る。
シルエットが育った離宮が、いまや正統ゲルマニア帝国の臨時帝
宮に成っているわけである。
﹁これも因果というものかな⋮⋮﹂
鬱蒼とした木々を抜けると小さな池に石造りの橋が掛かっていて、
ツィターが弦楽器をかき鳴らす音と、澄んだ歌声が聞こえてくる。
華やかな後宮とは違うが、ここには落ち着いた佇まいがある。
蜂蜜色の髪を綺麗に編みこんで、緩やかな絹のローブを身にまと
い、静かに瞳を閉じて木陰の下で弦楽器を弾いているツィターは、
こうしてみれば村娘ではなく立派な宮廷楽士にも見える。
彼女には頑張って盛り上げてもらわなければならない、何せ老皇
帝と皇孫女に残された直接の家臣は宮廷楽士たる彼女一人だけなの
1636
だ。
うちの城にも通いのメイドはいるが、見知った顔が一人いるだけ
でも、気分は随分と違うものであろう。
縁側の長椅子に横たわる老皇帝と、皇孫女エリザベートの民謡の
合唱を聞き終わると、俺は拍手しながら入っていった。
﹁ガンナー様、聞いてくださいよ。私は、宮廷楽士に再就職できた
んです!﹂
﹁おい⋮⋮﹂
ツィターがいきなりドドドドッと俺の方に土煙を上げて駆け寄っ
て来たと思うと、そんなことを言い始めた。
お前、今の俺は黒ローブを着てないんだぞ。この白銀に輝く﹃ミ
スリルの鎧﹄と王将軍のマントをなびかせる俺を見て、なんでガン
ナー様なんだよ。だいたいライフル持ってねえだろ!
﹁ガンナー様もリクエストがあったらどうぞ。ガンガン弾いちゃい
ますよ、これが私の仕事なんで!﹂
﹁いや、どうぞじゃねえよ﹂
まだ正体がバレないのか、ここシレジエの後宮奥深くなんだぞ、
普通は察するだろ。
察しろとか、天然ボケ楽士に言っても無理なのか。
いい機会だから、ツィターがいつになったら俺の正体に気づくの
か、挑戦してみることにした。
もちろん、皇孫女殿下は、もう俺がシレジエの勇者であることに
気がついているようだ。状況を考えれば、気が付かないほうがおか
しい。
1637
マイペースな、天然ボケ楽士を尻目に楚々と皇孫女エリザベート
がやってきている。
小さい手を後ろに回して、子供らしい含み笑いを浮かべている。
間抜けなツィターを見て、面白がっているのだろう。
﹁えっと、ここでは何とお呼びすればよろしいのですか﹂
﹁そうだな、ガンナーでもういいよ。依然として、俺をそう呼んで
る奴がそこにいるからな﹂
頼んでもいないのに、ジャーンと弦楽器をかき鳴らしてBGMを
鳴らし始めたツィターを指差してそう言うと、エリザはクスクスと
笑っていた。
こうして楽しそうにはしゃいでいれば、ただの子供にしか見えな
い。
﹁では引き続き、ガンナー様とお呼びしますね﹂
﹁うん、どうだコンラッド陛下のお具合は﹂
﹁ええ、ここは自然もありますし、シレジエの水もあったようでお
祖父様の具合はだいぶ良くなりました﹂
﹁そうか、それはよかった﹂
縁側で、静かに眼を閉じている年老いて痩せ細った皇帝陛下。さ
っきまで孫娘と声を揃えて歌っていたと思ったら、もう寝ている。
幽閉されて疲弊したあとで、長旅を強いてしまったのは申し訳な
かったが、養生してほしいものだ。
この年老いて耄碌した老人は、かつての勇者であり、世界の半分
をその手に治めていた皇帝陛下だ。
1638
稀代の名君でありながら、後継者選びに失敗したことで、晩節を
汚すこととなった。その境遇には同情すべきところも多い。
仮にも世界皇帝だった老人に、この小さな離宮が相応しいとはと
ても言えないだろうが、多少の不便は勘弁してもらうしか無い。
少なくとも、日も差さぬ石造りの牢獄よりは、こっちのほうがだ
いぶマシのはず。
﹁改めて、お礼申し上げます⋮⋮ガンナー様。数々の失礼の段は、
平にお許し下さい﹂
﹁いや失礼と言うならこっちもだろう、可哀想な老人と子供を助け
ただけで、他意はないという言葉に偽りはないよ﹂
まったく聡明すぎるのもどうだろう、八歳の女の子の言うことで
はないよな。
反逆者に幽閉されて、今度は異邦の地に匿われているのだ、気を
休めろと言っても無理がある。
﹁そのお言葉、信じますよ﹂
﹁ああ、信じてくれ﹂
さて、どうしたものかな。
子供は遊び相手がいるか。歳の近い、奴隷少女とでも引きあわせ
てみるかな、そうすれば多少はエリザの気が紛れるかもしれない。
﹁私はどうなっても構いません。ですから、お祖父様はもう静かに
休ませてあげたいのです﹂
﹁だから、そういう言い方が子供らしくないと言っている。誰も犠
牲になる必要などないんだ。大人に助けられた子供と老人は、ツィ
ターとお歌でも歌って遊んでいればいい。エリザたちの望みが、静
1639
かに生活することだと言うのならならそうさせてやるさ﹂
俺は子供には、子供らしくして欲しいのだ。俺に大人をやる理由
があるとすれば、か弱い子供を守ってやるためだろう。
八歳の小さな女の子が、身体を強張らせて胸を張っているところ
など、見ても悲しくなるだけだしな。
﹁何から何まで、ありがとうございます﹂
﹁ここまで逃げてくれば御身は安全だ。小さくて申し訳ないが、我
家だと思ってくつろいでくれ。何か不自由があれば、俺か城の者に
言ってくれれば良いからな﹂
まあ何にせよ、環境が激変したあとだから、固くなるなと言って
もすぐには無理だ。
もうしばらくは、このやんごとなき老人と孫娘を静かにさせてお
くのが良かろう。すでに賑やかなのも一人いることだしな。そう思
って、ツィターに目配せすると、奏でる手を止めてこっちにやって
きた。
﹁えっと、それでどの曲をやったらいいんでしょう﹂
﹁なんだいきなり﹂
ツィターは、俺にいきなりリクエストを聞く。
いや、なんでやねん。ぜんぜんそんな話やなかったやろ!
﹁だってガンナー様、さっきお歌を歌おうって言いましたよね。お
好きなのがあればと、シレジエ地方の曲も私、ぜんぜん弾けますよ﹂
﹁ツィターお前、さっきの俺たちの会話をずっと聞いて、出てくる
セリフがそれなの?﹂
1640
﹁はい?﹂
﹁ププッ⋮⋮﹂
澄ましていたエリザが、小首を傾げる何もわかってないツィター
を見て、おかしそうに吹き出した。
慌てて小さな手で口を塞いでいる。そうやって、無邪気に笑って
いれば、子供らしいといえる。それでいいんだ。
﹁まあいいや、宮廷楽士として立派に働いてるようで何よりだ﹂
﹁はい、私のお仕事ですから、ガンガン弾きますよ!﹂
ジャーンと、弦をかき鳴らして、今度は、ジャンカジャンカと軽
快な曲を弾き始めた。何もリクエストしてないんだが、多分そうい
う気分だったのだろう。
ツィターってもう二十四歳だっけ、俺よりもだいぶ大人のはずな
んだが、身体もちっさいし下手をするとエリザよりも子供に見える。
遊び相手は、もうこの天然ボケ楽士でいいのかもしれない。
そうやってボケで笑わせられるんだから、エリザの気休めには、
十分になっていると言える。立派な働きだった。宮廷楽士じゃなく
て、宮廷道化師とでも名乗った方がツィターには相応しい気がする
けどね。
そういえば、楽器を使う芸人って結構いる、そういう方向を目指
すといいぞツィター。
1641
127.軍事演習
キャンプ
俺はシレジエの王城近くの義勇兵団の野営地に来ていた。
すでに演習が始まっており、兵士たちが行進する音とざわめき、
山に向かって試射する大砲の音が断続的に響いている。
俺が通りかかると、兵士たちが敬礼してきたので返礼する。
久しぶりに、引き締まる戦塵の空気だな。
俺が本陣に歩いて行くと、そこで義勇兵団長であるルイーズが待
っていた。
彼女の後ろに括った燃えるような赤髪の尻尾が、砲撃の爆風でさ
らりと揺れた。
あるじ
﹁⋮⋮この風、肌触りこそ戦場よ﹂
﹁いや、今回は演習なんだが我が主﹂
こういうときのお約束のセリフだからね。そういうことを、ルイ
ーズに言ってもわかってもらえないだろうけど。
魔の山をバックに、実戦さながらの軍事演習が開催されているこ
のキャンプには、現在千人の義勇兵が詰めている。あとは、この近
衛騎士団が五百騎だ。それと、王都の城兵三百人が首都を守る全兵
力と言える。
平時の戦力なら、まあこんなもんだろう。
現在のシレジエ義勇兵団の常備戦力は、義勇兵が三千五百に砲兵
千五百の計五千人だが、普段は一箇所に集まることはない。
1642
義勇兵の多くは、シレジエ王国の各地に散らばって、街や村の防
衛をしつつ住民に鉄砲や大砲の扱いを教える仕事をやっている。兵
站の問題もあるので、やたら常備軍を増やすわけにはいかないが、
市民や村人もいざというときは戦えるようになっていて欲しい。
なにせ、この世界は未だに少なくない数のモンスターがはびこっ
ている。冒険者という職業が成り立っている危険な世界なのだ。
本来ならば兵器は、人間同士の戦争の道具ではなく、自衛のため
の道具なのだ。
だからと言って、国防の備えを忘れるわけにはいかないので、こ
うしてたまに戦争に備えた実地訓練もやっているわけだが。
﹁忙しいところ、呼び立てて申し訳ない。主に、ちょっと相談した
いこともあって﹂
﹁いや、わりと暇なんだけどね﹂
百人単位に分かれて、各隊の隊長が競い合う演習を見ながら、俺
が与えた﹃オリハルコンの鎧﹄に身を包んだルイーズが腕を組んで
いる。時折、傍らに居るシュザンヌやクローディアに指示を出すと、
早馬になって走って行く。
普段は俺の護衛をやってる二人も、最近は俺が単独行をやってい
たので、ルイーズが義勇兵団に新しく騎兵隊を結成する仕事を手伝
っているらしい。
なんだか久しぶりに会ったというのに、ルイーズとは仕事の話し
かしてない。
結婚してからというもの、どうもルイーズと疎遠になりがちだ。
彼女は、いまだに騎士の誓いを守り、俺を主君と仰いでくれてい
るのだが実際のところどう思っているのだろう。
1643
俺がハーレムを作って調子よくやってることを⋮⋮まあ、ルイー
ズの場合なんとも思ってないんだろうけど、それも少し寂しい。
﹁⋮⋮でだ、主はどちらが大隊長に向いてると思う﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
そのキリッとして精悍でありながら、年上の女性としても活き活
きとして魅力的な茜色の双眸を見ていたらつい、聞き逃してしまっ
た。
ルイーズはわざとらしく、ため息をつく。
﹁疲れているのはわかるが、これも王将軍の務めだぞ﹂
﹁いや、疲れてたわけじゃなくてね﹂
ルイーズが説明し直してくれる。
いま、ルイーズは義勇兵団を統括する団長の役目だが、所詮は騎
士隊しか指揮経験がなく、まったく使えないことはないが火縄銃の
扱いも得意ではない。
そこで、ルイーズは名目上のトップではあるけど、最近になって
編成し直してる騎兵隊の指導に専念したいそうだ。
そこで、まず大所帯になった義勇兵の隊長を統括する大隊長を決
めて、先は軍団規模を指揮できる将軍に育てて行こうと言っている
のだ。
義勇兵団が大きくなっていく過程で、どうしても必要になってく
る人事だ。
言っちゃ悪いけど、こういうときサラちゃん兵長が居てくれたら
良かったのかもしれない。彼女は、情実人事に走りがちの悪癖はあ
ったが、行動力と決断力が半端無かった。
1644
あのライル先生の秘蔵っ子は、今思うと軍令官としてきちんとや
れていたのだ。
シレジエ会戦でも呼んでもいないのに、首都の防衛隊長を買って
出て、敵将の首を取ったと聞くし、どんだけチートなんだよって話
だ。
いまは俺たちの出発地点でもあった、故郷のロスゴー村で代官兼
防衛隊長として大活躍していることだろう。
俺がサラちゃん兵長のことを考えているとわかったのか、ルイー
ズは慌てて言う。
﹁言っとくが我が主、サラはダメだぞ。何かあったら世話になった
ロッド家に申し訳が立たんだろう﹂
﹁わかってるよ、まだ子供だしね﹂
そう言いながら、子供もいずれは大きくなるからな。
ライル先生の薫陶のたまものが、財務官になったシェリーであり、
サラちゃん兵長だったわけで先の活躍が楽しみではある。
﹁それでだ、砲兵隊の大隊長はジーニー・ラストに決まってるんだ
が、問題は銃士隊の方だな﹂
﹁ああ、ジーニーって魔の山防衛の時の砲兵長か﹂
あまり目立たないが、オナ村出身でくすんだ赤髪の若い女性だ。
寡黙らしく喋ってるところをあまり見たことがないけど、一緒に協
力して上級魔術師を倒した縁でオルトレットと仲が良いのは知って
る。
宿敵である上級魔術師殺害は、我軍では大金星だからな。ライル
先生にとって、高評価のポイントなのだ。
1645
﹁問題は銃士隊の方だが、大隊長に据える候補が、一番隊隊長のマ
ルス・オナ、二十一歳と、二番隊隊長のアラン・モルタル、二十四
歳だな⋮⋮﹂
手元の人事資料と演習の様子を見比べながら、ルイーズは話を続
ける。
こういう団長のまともな実務を、ルイーズがしてるのは初めて見
るような気がする。こういうまともな事務もできたんだな、いや元
々近衛騎士団出身のエリートだから、当たり前なんだが俺はルイー
ズの冒険者時代しか知らないから。
﹁おい、聞いてるか話﹂
﹁ああ、ごめん続けてくれ﹂
今日は、ルイーズのことばかり見てる。久しぶりだからな。
﹁見ての通り、アランのほうが年上で隊長として有能だ。兵士が勝
手にやってることだが、隊長にしたい人ランキングというのがあっ
て一位なんだよな。一方で、マルスは隊長にしたくない人ランキン
グで一位になってしまっている﹂
﹁それって、ステマじゃないのか﹂
﹁ステマ?﹂
ステルスマーケティングをルイーズに説明しても、絶対にわかっ
てもらえないだろう。
この場合は、巧妙な世論誘導ってやつだな。
﹁その隊長にしたい人ランキングって、おそらくアランが主導して
1646
やってるんだろ。あらゆる要素で、大隊長に向いているのは有能な
アランだが、それは書類の上だけだ﹂
﹁我が主は、あのへっぽこ隊長のほうがふさわしいと?﹂
オナ村の村長の息子マルスとは義勇兵団結成からの付き合いだか
ら、アイツのことはよく知っている。茶髪のチンピラ兄ちゃんにし
か見えないが⋮⋮、いや実際にも声がデカイだけがとりえの三下な
んだが、不思議な人望があるのだ。
先のシレジエ大戦でも、アランは王都シレジエの防衛という花形
で美味しい仕事に付いたが、最前線のオラクル大洞穴で一万を超え
る大軍に囲まれて、寡兵をまとめて厳しい籠城戦を戦い抜いたのは
マルスの方だった。
﹁マルス隊長は、籠城戦でも邪魔にしかなってなかったって、騎士
仲間に愚痴られたんだけどな﹂
﹁外からはそう見えるだけで、アイツの存在は大きい。見ろ、マル
スの指揮している一番隊と、アランの指揮している二番隊は、互角
の戦いをしているだろう﹂
﹁うんまあ、だが互角だからって﹂
﹁アランは事前にガタイのいい兵士だけを入念に集めて戦っている。
参謀タイプとしては有能なんだろう。だが、経験不足の弱卒が、一
番奮起するのはマルスの旗本に居る時だ。だから、互角の戦いがで
きている﹂
巧みな指揮をして整然と包囲戦を仕掛けようとしている智将アラ
ンに比べて、愚将マルスはコケたりしながら周りの兵士に支えられ
るようにして、﹁進めー﹂とか﹁引けー﹂とか、自慢の大声でアホ
なことしか言えてない。
だからマルス隊の兵士たちは、指揮の不足を補おうと必死に自分
1647
たちで考えて個々が声を掛け合って奮戦している。
そもそも士気だけはやたらあるが、実戦経験が不足している義勇
兵に細かい指揮を出し過ぎると、その持ち味を殺してしまう。
だからアラン隊は整然として強いのに、動きが悪いのだ。
俺も指揮官として、長いことやってきた経験から見れば、マルス
の指揮が正解だと思う。
もちろん事前の作戦や準備は大事だが、それは参謀の仕事だ。小
知に長けたアランの適正はそっちにある。
戦場での将軍の仕事とは、極論言ってしまえば﹁進め﹂と﹁引け﹂
のみ。このタイミングを誤らなければ名将になれる。自分で考えら
れないなら、もっと頭のいい奴の言いなりになればいい、神輿の頭
はむしろ空っぽで軽い方がいいのである。
なんだか言ってて、王将軍の俺もアホって言ってるような感じで
心苦しいのだが、任せることが出来るのも才能だろう。
﹁なるほど、マルスのほうがバカだが器が大きいってことだな。主
に言われて、つっかえていたものが取れたような気がする。うん、
大隊長はマルスにしよう﹂
﹁ルイーズも、大体わかってたから、マルスとアランどっちを大隊
長にしようかなんて話を持ってきたんだろう﹂
﹁えっ、私は普通にアランの方を大隊長にしようかと思ってたんだ
が、なんかこのまえアランに口説かれたから、ムカついてぶっ叩い
てしまってな⋮⋮﹂
﹁えっ、ルイーズを口説いてきたのか!﹂
それはまた、アランも意外に大器だな。
1648
小賢しいだけの色男かと思えば、俺でも恐れ多くて出来ない大胆
をやってのける、よく考えたらステルスマーケティングかますとか、
アランもチートだよな。
アランは現場の隊長というより、政治家として有能なのかもしれ
ない。
生まれる時代が早すぎた、シビリアン・コントロールの時代だっ
たらアランは大隊長どころじゃすまなかったんだろうが。
﹁でまあ、ぶっ叩いてしまった手前、ほら大隊長とかになると、私
の直接下につくからやりにくいなあと﹂
﹁そんな理由だったのか、まあルイーズの好みから大きく外れてる
もんな﹂
ルイーズも見た目よりは沸点低い方ではないのに、ぶっ叩かれる
って何やったんだよアラン。
﹃万剣﹄のルイーズを知らんわけじゃないだろ、本気で怒らせた
ら、冗談抜きで瞬殺されるぞ。
﹁別にアランでなくても⋮⋮。私は男と付き合うとかはもう良い﹂
﹁それはちょっともったいない気がするけど﹂
ルイーズは、深くため息をつくと、ズシンと椅子に座った。簡素
な木の椅子が、鎧の重みでミシッと音を立てる。
俺も慌てて、横に座る。
﹁我が主も、父上みたいなことを言うんだな﹂
﹁なんだ、親父さんに結婚しろとでも言われたのか﹂
もしかすると、ルイーズのとこも姫騎士のとこと一緒のような事
1649
情なんじゃないかなと思う。
たしか、ルイーズの家はシレジエの武家の名門で、カールソン流
って剣術の宗家だったんだよな。
﹁そろそろほとぼりも冷めた頃かと思って実家に顔をだしてやった
ら、いい人はいないのか、血を絶やさないでくれとか、まあーうる
さく言われて困ってしまった﹂
﹁ルイーズも大変なんだな﹂
たしか、王都から追放されるときに、勘当同然になったと聞いた
けど。
父親と仲直りできたみたいでよかったんだが、そうなったらそう
なったで結婚の話か、どこもそんなんだな。
女騎士に、結婚させようとするブームでも起こってるんじゃない
だろうか。
﹁だいたい、門閥の都合なんて私の知ったこっちゃないんだ。高弟
だの門人だの腐るほど居るんだから養子でも取ればいいだけだろう﹂
﹁まあ、そういう考え方もあるけど﹂
そういうことじゃなくて、父親として娘を心配してるんじゃない
かな。
ルイーズと一緒で、ルイーズの父親もどうせ不器用なんだろう。
結局、父娘ってのは似てないようで似てるもんだからなあ。
﹁とにかく私は、主の騎士として生きていくことに決めたんだ。そ
れにもうこの歳で、結婚するには遅すぎるし﹂
﹁いやいや、ルイーズまだ若いんじゃ﹂
ルイーズいま何歳だっけ、二十五か、二十六か。
1650
俺の基準だと若いんだが、十五歳で成年になるこの世界標準だと、
そうでもないのだろうか。みんな生き急いでるからな。
﹁世辞はいいさ。とにかく私は、いまで十分に満足しているから、
もう色恋には興味が無い﹂
﹁それは残念だな﹂
一瞬とち狂って、ルイーズを口説こうかなとか思ってしまったが、
それこそ七人も妻が居る身でふざけるなと言われてしまうだろう。
押したら行けるんじゃないかとか思ってしまう。押しちゃダメだ
ろうって話だ。
最近、調子に乗りすぎてるから自戒しないと。
ルイーズは、考えこんでいる俺の顔色を窺うと、頬をゆるめた。
﹁残念か、そう言われているうちが花なのだろう﹂
﹁ルイーズは、まだ咲き始めた蕾なんじゃないか﹂
俺の好みからすれば、もうちょっと上でも行けるというか。
まだルイーズでも硬さが残るので、これから円熟が期待出来る感
じだよね。
俺の嗜好を言わせてもらえれば、年上が好きなのだが。
なんで嫁が、あんなに若いんだろ。一番上でも、ライル先生の二
十三歳だし。オラクルは、三百歳とか言っても、見た目が上とはと
ても見えない。
そういうところも含めて、縁というのはままならぬものなのだろ
う。
好みのタイプと、付き合うタイプがぜんぜん違うとか、ありがち
1651
な話だものね。
﹁蕾か、そこまで言われるとなんだかバカにされてる気がするんだ
が、私も本当に何もないから言い返せない﹂
ルイーズは、ふっと自嘲めいた微笑みを浮かべた。
﹁まあ、これから花開いて行くかも知れないから、焦らなくていい
よ﹂
﹁大結婚式を挙げて、嫁がたくさんできた我が主に言われると、逆
に焦ってしまいそうだぞ﹂
そういって、ルイーズは笑い声をあげて椅子から立ち上がった。
冗談も言うんだな。
﹁軍事演習、終わったみたいだな﹂
俺も立ち上がる、百人隊同士の模擬戦闘は、どうやら順当にマル
ス隊が一位、アラン隊が二位という結果に終わったようだ。
この結果を以って人事を決定するという流れでいいのかもしれな
い。
きっと仕えている俺が頼りないから、色恋してる隙がないと思う
のだろう。早く、ルイーズが恋愛出来るぐらい平和な世界になると
いいんだけど。
馬を駆ってこちらに来たシュザンヌたちに、督励の声を飛ばして
いる凛々しいルイーズの横顔を見て、俺はそんなことを思っていた。
※※※
1652
キャンプ
義勇兵団の野営地から王城への帰り道、ふっと気配を感じた。
闇から現れて確認しようとするカアラを﹁味方だ﹂と押しとどめ
て、道をそれて藪の中に入る。
﹁ネネカか﹂
﹁はい﹂
いつの間にか、紫の長い髪をなびかせてネネカたちがやってきて、
スカウト
俺の前に跪いた。
密偵部隊も、一般兵士と同じように銃を持って革鎧を着て、演習
には参加していた。
だが、彼女たちの行動目標は違う。
﹁アラン・モルタル、やはり今回も多少の扇動はありましたが、逸
脱行動ではありません。むしろ、王将軍閣下のお役に立つ人材かと
思います﹂
﹁そうか、ご苦労だった﹂
ネネカたちは一般の義勇兵に悟られぬように入り込んで、情報を
集める内偵の訓練を行っていたのだ。
義勇兵団も大所帯になってきた、内部に敵のスパイが入り込む危
険性は十分にあるし、そのための備えを怠るつもりはない。
アランが、ステルスマーケティングをしているとわかっていたの
も、俺が鋭いわけではなくてネネカたちが調べて注意してくれてい
たからである。
有能だからこそ、その行動が怪しくて目立つということもある。
もしかしたら、敵が送り込んだスパイなんて展開もあるかと思った
が、考えすぎだったようだ。
1653
﹁それよりも、イエ山脈鉱山から納入された武器の数の齟齬でした
が。やはり、南部の地方貴族軍に銃や大砲が流出しています﹂
﹁技術流出はなかったんだな﹂
ネネカたちが調べてきてくれた資料を受け取る。製造と各地への
納入との数が合わない分、目算で銃が二百に、大砲が四門が南部の
地方貴族に渡ったことになる。
この程度ならしょうがない。それより問題は製造技術だ。
﹁兵器製造の経験を積んだ鍛冶屋などを囲い込む動きはありません。
あくまで現物を少しずつちょろまかして買い込んだようです﹂
﹁そうか、よく調べてくれた。それなら最悪ではない﹂
地方貴族軍は、シレジエ会戦で近代兵器の威力を目の当たりにし
ている。
手元に欲しいと思うのは当たり前のことだ。
問題は、それが現物を買い込むか、技術者を奪おうとするかどっ
ちかになるかだった。
現物ならコントロール出来る範囲なら問題ない。怖いのは技術流
出で、それをされると歯止めが効かなくなる。
先の会戦で、地方貴族の首魁の一人であるピピン侯爵を見知った
が、フランスパンを顎の先につけたような面白い面相であったが、
ブリューニュのような無能ではなかった。
むしろ、あれは抜け目のない策士だ。名門貴族だから無能と決め
つけるのは、危うい考えだろう。
﹁内にこそ注意せよとの、王将軍閣下のご指示あってこそです﹂
﹁殊勝だな、今後もよろしく頼む﹂
1654
いい位置に跪いていたので、思わずネネカの紫色の髪を撫でてし
まった。ネネカも、ルイーズと同じ年頃のお姉さんなので、失礼か
と思ったが気持ちよさそうにしてるから良いか。
どうも、奴隷少女を使役するのに慣れているせいか、俺は褒め方
が尊大になりすぎてるのかもしれない。
王将軍なんて呼ばれて、調子に乗ってると、あとでしっぺ返しが
来そうで怖い。
もっと謙虚にならないとな。
﹁お褒めいただき光栄です。なお一層励みましょう﹂
﹁これは少ないが、受け取っておいてくれ﹂
俺が腰の革袋を渡すと、ネネカは中身も見ずに懐にしまいこんだ。
密偵部隊は、一般兵士とは違うから、活動費は俺のポケットマネ
ーから出てるのだ。一番大切な部署だから、子飼いにしておくに越
したことはない。
﹁南部の地方貴族への調査も進めますか﹂
﹁刺激しないように、くれぐれも用心して頼む。まだ事を構えるに
は早い﹂
近代兵器の秘密裏な横流し。
ただ、地方貴族は武装を強化したいだけなのか、明確な反乱の前
兆なのか。
ルイーズ、やっぱりこの風は、戦場から吹いているんだよ。
徐々に近づいてくる、新たな戦争の足音に、俺の心は震えていた。
1655
﹁あの、王将軍閣下。黄昏れてるところ誠に申し訳ございませんが﹂
﹁ネネカ⋮⋮まだ居たのか﹂
密偵部隊なんだから、空気読もうよ。
ここは、音もなく消えて欲しい。
﹁便利な隠形の黒ローブを持ってらっしゃると聞いたのですが﹂
﹁うーん、俺のは大事な一張羅だから上げられないけど。カアラ!﹂
確かに、あれがあれば密偵には便利だろうな。
﹁はい国父様。隠形のローブは、レアアイテムですけど作れないこ
ともないですよ。とりあえず、私のお古でしたら一着どうぞ﹂
﹁こんなとこで脱ぐな!﹂
黒ローブ脱ぐと、いつでもどこでも下着姿なんだよこいつ。
まあ、どっちにしろ影に控えてるからいいか。
﹁じゃあ、一着。もしできたらさらに渡すから﹂
﹁ありがとうございます!﹂
ネネカは、さっそく身につけてはしゃいでいた。
カアラの中古だけど良いのかと思って、よく考えたら俺もカアラ
の中古を着て、はしゃいでたわけだ。
こうやって他人が同じことやってるのを冷静に見ると、いろいろ
と微妙な気分になるのだった。
1656
128.夜のお務め
ブリタニアン同君連合も、ゲルマニア帝国旧軍との和平に応じた。
戦争の戦果に満足したからではなく、西海の支配権を巡ったカス
ティリア王国との海上での衝突が激しくなってきたから、それどこ
ろではなくなったのだそうだ。
こっちには好都合なのだが、あっちが解決すれば今度はこっちに
火種が生まれるという感じで、国際情勢は全然安定しない。
そんな状態で、シレジエ王国の王将軍たる俺はというと、王将軍
としての最大の勤めを果たしていた。
⋮⋮後宮のベッドで。
﹁これで、少しは埋め合わせになりましたか﹂
﹁ふふっ、もうちょっとですね﹂
正妻シルエットとの﹃一週間に一回﹄のお勤めの約束も、留守中
はなおざりになってたので溜まった分を解消しなければならない。
と、言うかまあシルエットはいまだに﹃正しい男女のやり方﹄を
知らないので、こっちは溜まる一方になっちゃうんだけど。
うーん、あと一歩で正解なんだけどなあとか思いながら、後宮の
豪奢なシャンデリアを見上げながらシルエットとイチャイチャする
のはそれはそれで楽しいので、まだ教えてなかったりする。
できるだけ自然に任せたいから、本当にあと一歩なんだが⋮⋮。
シルエットの女の子の身体は、小さいながらも本能的に行為の意
1657
味を感じ取り、無邪気に笑いながら俺の腹の上に乗ってきて、身体
を擦りつけてくるのだけど。
肝心な部分に、ギリギリのところで届かない。わざとやってるん
じゃないかと思うぐらいだ。
わらわ
﹁本当にあと少しで、埋め合わせられるんだけど、そこで止まるか
⋮⋮﹂
﹁ハァ⋮⋮。妾は、もう﹂
﹁もう満足?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
そのまま、シルエットは、俺をいなすように抱きしめてキスをし
てくる。
こんな風にされると、毒気を抜かれてしまうんだよな。
﹁ふーんそうなんだ﹂
しかし、また擦り付けるだけで満足しちゃうんだ、これはすごい
焦らしプレイじゃないか。
可愛らしいなこいつめーと思いながらも、なんかムラっときてほ
っそりとした脇腹をコチョコチョと、くすぐってやる。
﹁アハハハッ、やめてくださヒヒヒッ﹂
﹁おっと、ダメだったか﹂
﹁アハッ、ふうっ⋮⋮。いきなりくすぐられたからびっくりしまし
たけど。妾はそういうのもオーケーですよ﹂
ヒクヒクと口元を強張らせて、目尻に涙を溜めながら言われると
1658
少し罪悪感が、シルエットは少し断ることを覚えた方がいい。
姫騎士と一緒のような感じで乱暴にしたら、シルエットの身体は
持たないからな。
俺はシルエットの白い額にうっすらと浮かんだ汗を、濡れタオル
で拭いてやる。
シルエットの艶やかな金糸のような柔らかい髪から、いい匂いが
漂う。そうだ、どうせランクト公国に通りかかったんだから、香水
とか買っておけばよかった。
いろいろとありすぎて、そんな暇なかったんだよなあ。
そういえば、その件について聞いてなかった。
﹁奥さんが一人増えちゃったんだけど、シルエットはどうなのかな﹂
﹁どうなのと言われましても、ランクト公国のエレオノラ公姫様で
したか。妾は、その方をよく知りませんので、なんとも言えません
けど﹂
﹁いや、そういうことじゃなくて、正妻として不快に思ったりとか
はないかな﹂
﹁タケルが選んだ方なら、間違いはないかと存じます﹂
会話が少し噛み合ってないような。
まあ、許してくれちゃってるってことなんだろうな。
本当に好き勝手してしまってるのに、誰にも怒られないと逆に不
安になっちゃうんだよな。
まあシルエットからしたら、正妻とはいえ合同結婚式だったわけ
で、いまさら一人や二人嫁が増えようが関係ないのかもしれない。
1659
﹁俺のほうが気にしすぎなのかな﹂
﹁タケルのやることに間違いはありませんから、大丈夫ですよ﹂
だから、そこまで言われると、だから不安になるんだって。
﹁俺だって間違っちゃうよ﹂
﹁ならば、その時のために妾がいるんでしょう。タケルには、妾が
ついています﹂
ベッドの上で上半身を起こすと、小さい胸をポンと叩いてみせる
シルエット。
﹁小さいのに、頼もしい奥さんだな﹂
﹁正妻ですもの、妾はタケルを助けるために女王になったのですよ。
夫婦は助けあうものでしょう﹂
今一度強く抱きしめられて、肌を触れ合わせる温かさの中で、そ
んな風に言われると納得してしまう。
だけど、いまはその夫婦が増えちゃったって話なんだが、本当に
大丈夫なのだろうか。
﹁まあ、シルエットが大丈夫というなら、大丈夫か﹂
﹁そうですよ。タケルは、妾が大丈夫と保証しましょう﹂
淡い金髪を撫でると、気持ちよさそうに俺に頬を擦りつけてくる。
シルエットは本当に強くなった。
ついこの間までは、ネガティブになりがちなシルエットを俺が励
ましていたのに、いまでは俺のほうが、その存在に勇気づけられて
いる。
1660
女王としての仕事も、問題なくやれているようだし、俺もシルエ
ットの助けに成れるように頑張らないと。
そう思ってたら、大きなベッドの下のほうがモコっと膨らんだ。
さっきから、ゴソゴソと布が擦れる音がしてたから、来てるなと
は思ってたんだよ。
﹁カロリーン!﹂
﹁アハッ、バレちゃいましたか﹂
ひょこっと、ベッドの中から亜麻色の髪をしたカロリーンが姿を
現す。
またかよ。リアが、少し大人しくなったと思ったら、今度はカロ
リーンがこういう悪さをするようになったからなあ。
わざわざシルエットだけの時間のときを狙って、ベッドに入り込
んでくるんだから趣味が悪い。この公女様は、本当にリミッターが
外れてしまっている。
ペロッと舌を出されて、俺は許せても、シルエットに悪いからさ。
﹁まあ、いいじゃありませんか。カロリーン公女もタケルの奥さん
ですもの﹂
﹁しかしいまは﹂
﹁さすが! 寛大なるシルエット女王陛下は、話がお分かりになり
ますね﹂
ベッドから身を起こしたカロリーン公女は、ベッドに入るときに
脱いだらしく、一糸まとわぬ姿だ。
繊細な両指をを組んで、感動したと言わんばかりに、眼鏡の奥に
1661
淡い茶色の瞳を輝かせる。
例のエロ下着じゃないだけ良かった。あれは、シルエットに見せ
るには、刺激が強すぎる。
しかし、正妻の特権であるシルエットだけの時間に、カロリーン
まで呼び寄せて良いものかなあ。
そりゃシルエットにとったら、公女は大事な友達なんだろうけど。
いまのカロリーンは調子に乗らすと、どんどん付け入ってくるぞ。
さっきのカロリーンの危うい瞳の輝き、シルエットは見てなかっ
たのだろうか。
彼女はヤバいぞと、俺が忠告をするまもなく、カロリーンは脱ぐ
と予想よりも凄い豊満な身体を武器に、俺に擦り寄ってくる。
﹁カロリーン、お前⋮⋮﹂
﹁さあ、女王陛下。前と後ろの両方から、二人で勇者様を挟んであ
げましょう﹂
何の遊びだ。いいけど、カロリーンが前なのかよ。遠慮というも
のがない。
人のいいシルエットは、言われるままに俺の背中に薄い胸をぺっ
たりとくっつけた。
﹁こうして包まれると、殿方はお喜びになるんですよ﹂
﹁へー、そうなのですか﹂
無邪気なシルエットは、面白い遊びだと思って﹁うふふ﹂と笑っ
てるけど。
的確に俺の急所を狙ってくるカロリーンの肉に、俺は文字通りし
1662
っかりと包まれていた。
カロリーンは脱ぐと、結構グラマラスなのだ。若々しい張りのあ
る胸に、顔を挟まれてしまうと何も言えなくなる。
後ろからはシルエットが抱きしめてくるし、二人の温かさに包ま
れるようにして俺は桃源郷へと旅だった。
あまりの恍惚に、ビリッと身体に電気が走る。
なにせさっきあれほどシルエットに寸止めされまくったあとなの
だ、たまらずに、うめき声をあげてしまう。
カロリーンではなく、シルエットに高められたということだけが、
救いとは言えたけれど。
やっぱり、シルエットに申し訳ない。
﹁女王陛下、後ろから勇者様のお尻を押すようにしてくれます﹂
﹁はい、これでよろしいんですか﹂
﹁もっとリズミカルに、そうすると勇者様は喜びますよね﹂
﹁うふふっ、タケルのお尻は可愛いですね﹂
シルエットに、なんてことさせるんだよ。
俺の唇を激しく求めてくるカロリーンは、明らかにシルエットの
前で、わからないように手伝わせていることに興奮していた。
やっかいな性嗜好を持った公女に成長してしまった。
これも半ば俺のせいだと思えば、甘んじて受けるしかない。
淡い茶色の瞳が蕩けて、笑っているような泣いているような表情
で激しく求めてきた。それはもう、キスなどという可愛らしいもの
1663
ではなくて、小さい口から赤い舌をめいいっぱい伸ばして、顔全体
をねぶるような勢いだった。
そのまま、俺はカロリーンに食べられてしまうんじゃないかと思
った。
﹁ハァ、ハァ⋮⋮。カロリーンちょっと落ち着け、おちんんっ﹂
﹁ああっ⋮⋮ごめんなさい、女王陛下の前で。私こんな、ごめんな
さい!﹂
口では謝罪の言葉を述べながら、カロリーンは、絶対に悪いなん
て思っていない。
だって悪いなんて思っていたら、こんな不埒な真似はできまい。
わかっていないシルエットは、ただの遊びだと思っているのか、
言われるままに俺のおしりを押してくる。
カロリーンの罠にハマった俺は、挟まれて逃げることも出来ず、
シルエットのたおやかな手に触れられていることも刺激になって気
持ちが高まってしまう。
何の事はない、俺も同罪だった。タブーを破ることに、どうしよ
うもなく興奮していた。
シルエットをなるべく無垢なままにおいておくことが、この遊び
をより楽しいものにしているのだ。なんという罪であろうか。
両方とも俺の奥さんではあるのだから、こうしていても浮気では
ないのだけれど。
正妻の目の前だというのに、わからないように他の妻と通じ合う
後ろめたさが、甘美な痛みとなって胸を絞めつける。
こんな罪深く、魅惑的な戯れを考えついたカロリーンは、悪魔だ
1664
った。
いけないと思いながら、やめられない。
俺はピッタリと抱きしめられて動けぬまま、二人のなすがままに
弄ばれて、そのまま女体の海の中で蕩けていった。
1665
129.皇孫女の情操教育
後宮のお風呂場、俺はリアとシャロンに挟まれるようにして身体
を洗われていた。
風呂ぐらい一人でゆっくりと入りたいのだが、自分の都合で長く
留守にしてしまった後でもある。
﹁おられるときは、なるべく一緒に居たいのです﹂
そう言われてしまえば、断るわけにもいかない。
耳を伏せたシャロンが、寂しそうにつぶやいたのがいじらしかっ
たので、つい情にほだされてしまった。リアは、おまけである。
オラクルちゃんは、俺の身体洗いには参加せず、湯船でプカプカ
と浮かんでいた。
まあ、彼女は俺の出張にも付いてきてたし、空気を読んで他の嫁
に譲っているのかもしれない。
子供みたいな外見に反比例して、彼女は一番の大人だ。
﹁それにしても、タケルはまたお嫁さんを増やしたんですね!﹂
﹁おい、リア。人聞きの悪いこと言うなよ﹃また﹄とか、今回初め
てだろう﹂
俺を前から泡立てて洗っているのがシャロンで、ぶつくさ言いな
がら背中を洗っているのがリアである。
リアが手を使わないで、胸で洗おうとするのを注意しようかどう
か悩んだが、もうスルーすることにした。
1666
﹁そりゃタケルは勇者ですから、是非もないこととは思いますが、
妻であるこのわたくしに断りもなくとは⋮⋮﹂
﹁いや、だから今回だけ特別ケースだよ。どうしようもなかったん
だ﹂
そりゃ誰かに叱られたいとは思っていたよ。
しかし、その唯一の相手がリアってのが、俺はなんか納得がいか
ない。
あと、いい加減、普通の洗い方をしろ。
背中がむにゅむにゅしてるだけで、ぜんぜん綺麗になってる気が
しないんだが。
﹁まあ、一言でも謝罪の言葉があれば、わたくしも﹂
﹁勝手なことをして済まなかったな、シャロン﹂
俺の胸板を黙って泡だらけにしていた、シャロンはハッと顔を上
げた。
﹁いえ、私はご主人様のお好きにされたらいいと思います﹂
﹁そうか、苦労をかけて済まない﹂
俺は、シャロンのオレンジ色の髪を優しく撫でる。
シャロンの犬耳がピクリと震えた。
﹁いえ、ご主人様のされることでしたら私は⋮⋮﹂
﹁そうか、シャロンは可愛いな﹂
また俯いて、俺の身体を洗う作業に没頭するシャロン。
ふざけて適当な洗い方をしているリアと違って、シャロンに洗わ
1667
れるのは本当に気持ちが良い。
ハーレム
﹁ちょっと待ってください、なんでわたくしだけスルーなんですか
!﹂
﹁リア、お前はうちの後宮の序列最下位だから、発言権ないからね﹂
リアには、立場をわからせておかなければならない。
あくまで﹃おまけ﹄だからな、お前は。だいたいシスターなのに、
ハーレムに入るって土台おかしいだろう。今さら言ってもしょうが
ないけど。
おかげで、俺の勇者付きシスター枠が開いて、また厄介なことに
なりそうなんだぞ。
﹁ぐっ⋮⋮でも、是非もなくエレオノラ公姫が入ったんですよね。
じゃあわたくしだって、もう最下位じゃ﹂
﹁いやお前がまだ最下位だぞ。どうしようもない姫騎士とはいえ、
ランクト公国の一人娘だから序列的に最下位にするわけにはいけな
いそうだ﹂
ライル先生がそう言ってた。
まあ、王族の後宮序列だからな、形式上のこととはいえ、対外的
なものもあるのだろう。
﹁なんですって⋮⋮﹂
﹁ちなみに、エレオノラはシャロンよりは下だ﹂
﹁ああっ、ご主人様。私なんて、公姫様より下で結構です﹂
﹁良いんだ、俺が先生にお願いしたんだから。さすがにエレオノラ
を最下位にするのは、マズいらしいが、俺がシャロンを下げたくな
かったんだから﹂
1668
﹁ご主人様ぁ⋮⋮﹂
﹁よしよし﹂
甘えてくるシャロンを、俺は優しく抱きしめてやった。
俺の胸についた石鹸の泡が、シャロンの白い頬にもついてしまっ
たから、俺は優しく濡れたタオルで拭ってやる。
シャロンが目を伏せたので、俺は誘われるようにその血色の良い
唇に口付けた。柔らかく優しい味がする。
石鹸の泡の香りと彼女の甘い香りが交じり合って、俺は欲望のお
もむくままに彼女を抱きしめた。
耳元で愛をささやきながら、優しく彼女のオレンジ色の髪を撫で
て、ふっと後ろからのリアの感触がなくなっていることに気がつく。
振り向くと、浴槽の端っこほうので顔を湯船に伏せて蹲っていた。
水面に顔をつけて、ブクブクと泡を吹いている。これはちょっと、
いじめすぎたか。
﹁やれやれ、身体を洗うのはもういいかな﹂
﹁はい、ステリアーナさんがいじけちゃいましたから﹂
まったくだよ。
俺は、シャロンの艶やかな身体にお湯をかけて、泡を流してやる
と俺もかけ湯して浴槽へとザブンと身を沈めた。
そのまま、端っこでいじけているリアのところに泳いでいく。
水面に顔をつけて、泡を吹き続けているリアの顔を上げさせる。
﹁冗談だよリア﹂
1669
﹁わたくしは、どうせ最下位ですものね。是非もなくおまけです。
カード付きのポテトチップスで言うと、ポテトチップスの方ですよ
ね。食べられることなくドブに捨てられる定めです﹂
﹁また、無駄に現代知識アピールしたいじけかたを﹂
どこの禁書で、そんな話を覚えてきたんだよ。実物知らんくせに。
つか、野球カードとか、俺も集めてないよ。
だいたいまだポテトがユーラ大陸に伝来してないから、ポテトチ
ップスもないだろ。食べられるなら食べたいわ。
﹁リアも、大事な俺の妻だ﹂
﹁本当ですか、序列関係なくですか﹂
序列うんぬんは、冗談だ。言葉で言っても、わからないだろうか
ら抱きしめてやる。
思えば俺はずっとリアを避けてきたように思うけれど、もうここ
までくれば受け入れる。リアのあまりにも豊満すぎる果実は、大き
すぎて俺の手でも持て余してしまうけど。
何というか。
﹁俺は、カードが欲しくても、ポテトチップスもきちんと食べる派
だからな﹂
﹁そうですか、では是非もないですね﹂
リアの柔らかい肉に、顔を埋めるようにして、強く掻き抱いてや
る。
すこし痛いぐらいに強く。リアは丈夫だから、これぐらい強くて
も大丈夫。
1670
﹁そうそう、是非もないんだろう。お前と一緒になったのは、俺の
運命だからな。余すところなく食べてやるさ﹂
﹁ああっ、タケルは上手ですね。つい許してしまいます﹂
いや、上手じゃないだろ。
だいたい何だよ、ポテトチップスのたとえとか、ロマンティシズ
ムの欠片もない。これでほだされるなら、リアがチョロイだけだ。
﹁まあ俺もチョロイよな、なんだかんだ言って、自分からリアを求
める日が来るとは思わなかった﹂
﹁そういえばそうですね、お風呂でタケルからこうされるのは、初
めてな気がします。これも是非もないアーサマのお導きです﹂
導かれているのだろうか。
まあ今さら、勇者の宿命から逃げようなんて思わないけどな。
風呂場で睦み合っている俺とリアのところに、シャロンとオラク
ルちゃんも湯船を泳ぐようにしてやってきた。
﹁タケル、さっさと子を成してしまえば良いのじゃ。そうすれば、
女は落ち着くものじゃ。このワシのように﹂
そう言って、オラクルは少し膨らんだお腹を湯船に出して見せる。
シャロンがオラクルの青いお腹に手を触れて、羨ましそうにして
いる。
﹁ここに、ご主人様のお子が入ってるんですね﹂
﹁そうじゃな、こうなってしまえば、女も腹を据えるしかないのじ
ゃ﹂
1671
﹁オラクルさんが羨ましいです﹂
﹁んっ、シャロン。お前さんも、もしかすると、できとるかもしれ
んぞ﹂
オラクルは、手でシャロンの腹に触れると、探るように下腹部を
さすった。
﹁本当ですか﹂
﹁ふーむ、胎児が小さすぎるとワシでもわかりにくいのじゃが、も
しかすると⋮⋮じゃな。何か自覚症状のようなものが、出ておるの
じゃないか﹂
最近胸が張ってきたとか、シャロンとオラクルは、そんな話をし
ている。
うん、なんだろう。別にイヤラシイ話ではないのに、興奮してく
る。
﹁わたくしにも、タケルのお子はできてますでしょうか﹂
﹁アーサマの小娘には、まだじゃな。影も形もないからすぐわかる。
まあ励むことじゃ﹂
オラクルは、そう言うと余裕の笑みを浮かべている。
女は落ち着くか、さすがに見た目では一番小さくても、年長者の
オラクルの言うことは含蓄深い。
﹁何やら楽しげな話をしてますのね﹂
﹁あれ、エリザたちも入ってきたのか﹂
エリザとツィターがタオルを巻いて浴槽に入ってきた。
1672
ハーレム
離れとはいえ、後宮に隣接する建物で、お風呂は共用しているわ
けだ。
八歳の子供が入ってきても、俺はなんとも思わんし、ツィターも
本当は二十四歳のはずだが、背丈がちっこいからさほど気にはなら
ん。
混浴とかいまさらだ。誰も気にしないなら問題はない。
⋮⋮のだが、いまはちょっとまずい。
夫婦のまぐわいなど、子供に見せられたものではない。
﹁おい、リア離れろ﹂
﹁あら、是非もないことをおっしゃいますね﹂
俺を離すまいと、リアが手足を巻きつけて、まとわりついてくる。
チッ、こうなるとリアはしつこい。
﹁子供が見てるんだぞ! 情操教育に悪すぎるだろう﹂
﹁あら、子供って私のことでしょうか。ご夫婦のことでしょう。ど
うぞ、私たちに気兼ねせずお続けください﹂
子供にそう言われて、続けられるわけがないだろう。
エリザは澄んだ顔で微笑んでいる。気を使ったつもりなんだろう
けど、続けろといわれて続けられるわけがないだろう。
エリザはまだ子供で、男女の間柄のことが、実感としてまったく
理解できてないから、こういうちぐはぐな対応になる。
ツィターのほうは、のぼせたわけでもないのに、顔が真っ赤にな
ってるしな。こっちは大人なので恥ずかしいことだとわかっている。
1673
しかし、なぜかツィターもチラッチラとこっちを見て、出ていこ
うとは言わない。
お前は皇孫女のお付きなんだから、気を利かせて子供を下がらせ
ろよ。
﹁待て、俺たちはもう上がるから、皇孫女殿下に⋮⋮リア、いいか
げんにしろ!﹂
﹁タケル、エリザベート様もこういっております。夫婦のことです
から、恥ずかしいことではありません。むしろ、見せてあげれば良
いではありませんか。これも是非もなく情操教育の一貫です﹂
リアが、タコのようにまとわりついて、俺から離れない。
いい加減にしろ、だいたい皇孫女とリアを接触させたくないのだ、
こいつの存在自体が、情操教育には最低の教材だ。
﹁もうやめろ⋮⋮リア! お前は前科があるんだから、絶対に殿下
に変なことを吹き込むなよ﹂
﹁まあ、是非もないおっしゃりようですわね。わたくしが、いつ変
なことを吹き込んだとおっしゃるのですか﹂
いつとかじゃなくて、お前の場合は常にだろ。リアが純粋なシル
エットに、いろいろおかしなことを教えて、こっちは迷惑したんだ
ぞ。
シルエット女王ならまだ良い、ゲルマニア帝国最後の後継に、お
かしな性嗜好でも与えたら、外交問題になるってわかってるのか。
﹁リア、離れろぉ!﹂
﹁男女の性の神秘は、いずれ子供にも是非もなくわかることなので
すよ。真実はいつも一つ﹂
1674
こいつ、外交問題とか、一切気にしないからな。
エリザが金と青のヘテロクロミアの瞳を丸くして、興味津々とい
った様子でこちらをのぞき込んでいる。
リアは、湯船の中で、子供に絶対に見せてはならないことをやっ
ているのだ。
これは焦るなというのほうが無理だ。
﹁リア、子供の前だぞ、本気でやめろ﹂
﹁皇孫女殿下、女が男を求めるときはまず、アモーレ! と叫びま
す﹂
ダメだこいつ、早く何とかしないと。
﹁アモーレで、よろしいのですか聖女様?﹂
﹁もっと情熱的に、レッスンワン、アモーレ!﹂
お前らはイタリア人か!
皇孫女は、リアに従ってアモーレを連呼している。もう俺一人で
は、突っ込みきれない。
﹁シャロン! すまないけど頼む﹂
﹁はいご主人様、ステリアーナさんはこっちで、ちょっと落ち着き
ましょうねっ!﹂
﹁ああ、是非もないこの流れ、久しぶりですね﹂
リアもまんざらでもなさそうに、シャロンに力づくで引っ立てら
れていった。
やはりシャロンは頼りになる。
1675
﹁ハァ、ハァ⋮⋮妻になろうが、シスターでなくなろうが、リアは
結局リアのままか﹂
少しは大人になってほしい。
いやらしいことに、身体だけ一番大人だからな、せめてその乳の
十分の一でいいからハートを成長させろ。
﹁タケル、だから言っておろう。女を落ち着かせるには、もうこれ
しかないのじゃ﹂
オラクルは、湯船からザブンと立ち上がるとポンポンとお腹を撫
でた。
そういえば、また少し身長が伸びたな。ちょうどお腹の大きさと
同じように、身体も成長している。
まあ、成長するのは良いことだ。
オラクルはなんだかんだ言って、子ができたことを自慢したいの
かもしれない。
﹁アモーレ! でよろしいのでしょうか﹂
﹁エリザ、それは嘘だから、あのダメ聖女の妄言は聞かなくて良い﹂
アーサマ教会の聖職者は、普段のあの言動から考えると謎としか
言いようが無いほどに民衆から尊敬されている。その説得力は、洗
脳レベルなのだ。
子供が影響されて、変なことを覚えてしまっては困る。俺は慌て
て、湯船から上がってエリザの脱洗脳にかかった。
﹁では、女性が男性を求めるときは、なんて言えばいいんでしょう﹂
1676
﹁それはだな⋮⋮﹂
青みがかった長い金髪、金と青のヘテロクロミアの対の瞳が、じ
っと俺を見上げている。
ここで、ごまかしたようなことを言っても、聡明なエリザにはわ
かってしまうだろう。
﹁グッと抱きしめて、愛してると言えばいいんだよ﹂
﹁そうですか、では先程は聖女様と、そのようなことをなさってい
たのですね﹂
そうも平然と言われると、こっちのほうが赤面してしまう。
なんだこれ、こっ恥ずかしい。
﹁俺たちは、まあ⋮⋮これでも夫婦だからな。エリザも、本当に大
事な相手ができたらすればいい﹂
﹁そうですか、ご夫婦ですものね。もしかすると、そのようにして
お子が産まれるのでしょうか﹂
何この子、平然とこんなこと聞いてきたぞ。
真顔だ、エリザは真顔。純粋な興味で聞いてきているのだ。
いくら皇族でも、性教育とかされないからな。
こういう場所で聞くしか無いのかもしれない⋮⋮けど、俺には聞
くな。
﹁オラクル! 教えてやれ⋮⋮﹂
﹁タケルは、ワシに頼りすぎじゃな﹂
オラクルは、湯船から上がってくると面白そうに笑っていた。頼
1677
られるのも、まんざらでもないんだろ。だから頼むぜ。
オラクルは、少し大きくなった腹をエリザに撫でさせながら、子
供の成り立ちについて説明を始めた。
俺はもうギブアップだ。聞いてるだけで恥ずかしすぎる。
エリザは聡明だから、ごまかしたことを言っても見透かされるし、
間違ったことを教えればまずいことになる。
性教育は専門家のオラクルに、頼むのが一番いい。
ああもう上がろう、浴室から出るときに振り向くと、オラクルの
説明に真剣に聞き入っているエリザとツィターの姿が見えた。
ツィターは、説明聞かなくても知ってるだろ二十四歳。
いや待てよ、あいつの場合、もしかすると知らないんじゃないだ
ろうか。信じられないぐらい天然ボケだからな。
何せこの世界の教育レベルは中世だから、どんな無知が蔓延って
いるかわかったものではない。
そう考えると、性教育は良い機会だったのかもしれない。
いずれは知らなきゃならないことだ、そうじゃないと結婚してる
のに男女の関わり方を知らないシルエットのようになってしまう。
無垢も過ぎると、大変だからな。ただ八歳で教えるのは、いくら
なんでも早いと思うんだけど。
﹁少なくとも、こいつに変なことを吹き込まれるよりはマシか﹂
﹁お待ちしておりました﹂
脱衣所で、リアとシャロンが待っていた。
シャロンは俺の濡れた身体をタオルで拭ってくれるが、リアは邪
1678
魔しかしない。もう風呂から上がったんだから服を着ろよ!
﹁リアにも、子ができたら、本当に落ち着くのかなあ﹂
﹁あらやだ、タケルはもうそんなことを考えているんですか。まだ
夜には早いですよ﹂
うるせえ。ユッサユッサ揺らすな。
﹁リアが、母親になるとか想像もつかないんだが﹂
﹁まあ、わたくしは子供の世話は得意ですよ﹂
そういえば、リアは孤児院で育ったとかいう設定があったな。ど
う考えても、設定ミスだろうという感じの。
そういう環境で育ったら、こうはならないだろ。いや待てよ、ア
ーサマ教会の孤児院だしな⋮⋮。
どんな育て方してるのか、孤児院を経営していたというリアの親
代わりの聖女に小一時間問い詰めたい。
すでに亡くなってるそうなのだが、どっちかといえば、アーサマ
よりもそっちに降臨してほしい。
﹁まあいいや、行くぞ﹂
﹁はい、よく考えたら、もう夜ですよね。あーぜひもなく暗くなっ
てきました﹂
まだ全然明るいんだよ。
あと、行くって言ってるんだから、いい加減に服を着ろと言って
るんだ。無駄乳を揺らすな!
ハーレム
俺たちしか居ない、後宮という楽園的な環境が悪いのだろうか。
1679
ぬるま湯に浸かりきって、ダルダルに爛れきっている堕落した聖
女だった。いや、リアのことだけを言えないか。俺自身も、ダレて
きてるんだよな。
ハーレム
後宮の生活は、食べて飲んで子作りしてお風呂に入って子作りし
て、本能の赴くままの生活だ。こんなことを長く続けたら、どんな
人間でもダメになってしまう。
そのうち綱紀粛正をしないといけないかもしれない。
1680
130.ギャンブラーの血
シレジエの西には、セイレーン海が広がっている。
俺たちの世界でいう、大西洋をセイレーン海と呼んでいるらしい。
まあ、名前なんてどうでもいいんだが、セイレーンというと上半
身が人間で下半身が鳥の形をしているギリシャ神話の海の怪物だ。
美しい歌で、船人を惑わし、遭難や難破に遭わせるという。
リアルファンタジー
それだけ、外海は厳しいということなのだろう。
あるいは酷幻想のことだから、本気でそんなモンスターが居る可
能性もあるが、とにかく海に危険はつきものなのである。
そのただでさえ危険なセイレーン海の支配権を巡って、北西の列
島国家ブリタニアン同君連合と南西の半島国家カスティリア王国の
海戦がついに勃発したという話である。
いまは、小規模の小競り合いが続いているだけだが、いずれ大海
戦に発展するかもしれないという話だ。
たしかにセイレーン海の貿易は危険だが、だからこそ莫大な利益
を生む。権益を争うのはわかるけど、ただでさえ危険な海がさらに
危険なものになるわけで、本当にこっちにしたら面倒もいいところ
である。
拳奴皇ダイソンとの戦いや、不穏な動きを見せる南方の地方貴族
の問題もあるのに、厄介事ばかり増える。
しかし、セイレーン海は、うちの庭先の海でもあるわけで、放お
っておくわけにもいかない。
1681
緊急の協議が必要ということで、久しぶりに王城のライル先生の
執務室で作戦会議が開かれている。
ライル先生が滔々と持論を述べて、それにカアラが口出ししては
たしなめられるといういつものパターンだが、最近になってシェリ
ーがライル先生のお父さんであるニコラ宰相を後ろに連れて口出し
してくることが多くなった。
シェリーが一人で先生に反論するなら問題はないのだが、仮にも
ニコラ宰相は王国内の宰相派を率いるシレジエの重鎮である。
どちらかといえば古い因習に縛られがちな宰相派が、革新的な経
済理論を駆使するシェリーに同調してバックアップしているのだか
ら面白い。
いや、それでライル先生が困ってるんだから笑ってられないんだ
けど、理論的に考えれば絶対に結びつかないであろうシェリーとニ
コラ宰相が結びついて、ライル先生の妥当な内政路線に対抗してる
構図は見ていて面白い。
人間は不思議なもので、理屈だけで割り切れぬのが、政治という
ものなのだろう。
もうなんか、国庫の予算執行の話でなければ、勝手に孫にお小遣
いを与えて親に怒られてる老人の図だよな。
ニコラ宰相は、小さいシェリーを膝に乗せて愛でんばかりに可愛
がって、ライル先生と相対している。
ライル先生にとって宰相は父親だし、シェリーは教え子である。
爺と孫が結託してるようなものなので、やりにくくてしょうがない
だろう。
あと、シェリーは爺転がしが上手い。有職故実を重んじる堅物の
1682
ニコラ宰相が、完全に籠絡されているらしく、もうシェリーの言う
ことならなんでも頷く勢いだった。
末恐ろしいな。
﹁というわけで、諸侯連合領で買収した鉱山、木材加工場、鍛冶屋
を結びつけて、新しく製造ラインを作りました。ランクト公国は人
口が多いですからね、佐渡商会で用地を押さえましたから硝石の確
保も容易ですよ﹂
兵站計画で、シェリーは自分の買収の功績を誇っている。
ライル先生はやれやれといった様子で、伸びた茶色の前髪を掻き
あげた。
﹁その無駄使いが無ければ、イエ山脈にもっと製造ラインを増やせ
たんですけどね﹂
﹁無駄ではなく先行投資です、シレジエよりランクト公国の鋳造・
加工技術のほうが優れてるんです。早くも火縄銃千丁の製造に成功
しました。大砲の試作も進んでます﹂
﹁シェリー、いいですか。兵器には何よりも安定性が求められるん
です。慣れない職人が急造で作り上げた銃や大砲など、どうせ不良
品混じりでしょう。数だけ揃えたところで、実戦で使えないですよ﹂
﹁そりゃ誰だって最初から上手く出来ません。ランクトの優秀な職
人さんが経験を積めば、品質だって向上できます。ツルベ川の流通
システムは無限の可能性を秘めているんです。目先の効率のみを語
り、これを利用せずにどうします﹂
シェリーも成長したな。
ライル先生相手に、言い返せるようになったのだから。どっちが
正しいかなど俺にはわからんが適当に収めておこう。
1683
﹁シェリー、その火縄銃千丁はマインツ将軍に送ってやれ。戦場で
拾った火縄銃をかき集めて使ってたぐらいだから、不良品が混じっ
てても彼なら上手く使ってくれるぞ。ランクト公国も義勇兵を集め
だしたんだから、どちらにしろ銃はもっと必要だ﹂
﹁はい、お兄⋮⋮いえご主人様!﹂
シェリーの銀髪を撫でてやると、ライル先生はため息をついた。
﹁お父上はもとよりですが、タケル殿も、シェリーを甘やかしすぎ
ですよ﹂
﹁ライル摂政閣下は、ご主人様にもっと可愛がって貰ってるじゃな
いですか!﹂
﹁なっ、いまはそんな話をしてるんじゃありません!﹂
﹁奥さんだからってズルいんですよ、私だってちょっとぐらい甘え
てもいいでしょう!﹂
シェリーが止まらない。
ライル先生、少し押しが弱くなっちゃったな。
たぶんこれは、俺のせいでもあるんだろう。
俺が、ライル先生を女にしちゃったから、そりゃ弱くもなろうと
いうものだ。
﹁あーわかった、兵站の話はここまでだから、シェリーは大人しく
してろ。あとでご褒美はやるから﹂
﹁むぐ⋮⋮﹂
小さいのによく動くシェリーの唇を手で押さえて、ライル先生と
1684
懸念事項を相談する。
そりゃシェリーなりに識見はあるんだろうが、先生はシェリーと
違って、外交や戦争も考えないといけないから忙しいんだよ。
﹁先生、カスティリア王国とはやっぱり戦争しなきゃいけないんで
すかね﹂
﹁ブリタニアン同君連合と、カスティリア王国の争いにどの程度介
入するかにもよりますが、どっちにしろカスティリアはこちらを敵
視していますから﹂
﹁放置しておいても、どうせ戦争に巻き込まれるから今のうちに削
っておいたほうがいいってところですか﹂
﹁その通りですね。カスティリアは海軍国ですが、陸路でもシレジ
エ国内で反抗的な南方の地方貴族領と接している辺り、放置はでき
ませんね﹂
下手をすると、地方貴族とカスティリアが結託して海と陸から共
同して攻めてくる可能性もある。
ブリタニアン同君連合の海軍と共同して削れるなら、今のうちに
やった方がいい。
﹁しかし、うちには二隻しか軍船がないと﹂
﹁そういうことです﹂
ライル先生は、苦笑する。カスティリア王国の無敵艦隊は、王室
所属のキャラック型軍船による艦隊が三十四隻。
国内の武装商船をかき集めれば、その総数は二百隻に迫るという。
シレジエだけで戦えば、海軍戦力比は百倍ということになる。
これでは、戦争にすらならない。
1685
﹁しかも、うちのはコッグ型って年代物の商船でしたよね、大砲は
乗らないですよね﹂
実物を見たことがないから、なんとも言えないのだが。
全長三十メートル総重量百トンというから、普通に使うのには十
分なのだろうけど、軍船として使えるかだよね。
﹁大砲も乗らないことはないんですが、青銅砲を舳先に並べるだけ
になるでしょうね。タケル殿が言うには、本当の大砲を使った軍船
というのは甲板に並べるのではなくて、船の側面に砲列を備えるん
ですよね﹂
﹁先生は、ちょっと言ったことをよく覚えてますね、カスティリア
の無敵艦隊が使ってるのも全長六十メートルのキャラック型でした
っけ。本格的に大砲を使った船だと、もっと大型の帆船じゃないと
無理だと思います。いや、ガレー船でもいいのかな。とにかく大事
なのは大きさです﹂
俺の船舶の知識は、ゲームでやったぐらいだからよくわからない。
とにかく、船の側面に砲列を並べようと思えば、でかい船が居る
のだ。ガレオン船、そうだ、せめてガレオン船の大きさがないと、
大砲を使う軍船にはならない。
﹁海軍国のカスティリアより大きな船ですか、夢の様な話ですね﹂
﹁まあ、それは今言ってもしょうがないですよね。ブリタニアン同
君連合の海軍と同調して、大海戦が始まるときにコッグ二隻で行っ
て、カアラに敵艦に向かってメテオ・ストライクでもぶちかまして
もらいましょう﹂
結局は、今できることをやろうという話になった。
1686
大砲が使われていないこの世界での大海戦で砲撃といえば、上級
魔術師同士の撃ち合いとなる。その例に当面は習うしかない。
こちらにも魔術師はいる。
最上級魔法を駆使できる天才カアラだけではない。ニコラ宰相に
したって上級魔術師だしな。
ディスペル・マジック
ただニコラ宰相の場合、得意魔法が消去魔法って地味っぷりなん
だよね。
いや、敵の上級魔術師からの攻撃を打ち消してもらうにはちょう
どいいのか。他所の国の戦争に介入して、怪我しても馬鹿らしいし
使い道はある。
本当は、敵の船を拿捕して海上戦力を増やすとかやりたいんだが、
無理だろうな。
カスティリアとブリタニアンの海上戦力は数だけで見ても三対二、
しかもブリタニアンは小規模な寄せ集めの艦隊だ。これでは勝てな
い。
むしろ、これでよく戦おうという気になったもんだ。
何か策があるというよりは、島国のブリタニアン同君連合にとっ
ては外洋のルートが生命線だからなのだろう。
外洋に伸長してきたゲルマニア帝国とも戦ったように、カスティ
リアが攻めてくれば戦わざるを得ない。
そもそも海戦は金ばかりかかって、勝っても負けても領土が得ら
れるわけでもない厳しい戦いだ。
それでも、何も得るものがない戦争になると思ってもなお、生存
圏を賭けて戦わないといけないこともあるのだろう。
1687
それは、敗戦を経験した海洋国家を母国に持つ俺には、よくわか
る。
生きるために死ぬ、その悲壮な覚悟を、愚かとは言うまい。そう
いう悲しい戦争もあるのだ。
﹁じゃあ、とりあえずそういうことで﹂
﹁んんっ⋮⋮﹂
なんだろう指先が生暖かいなと思ったら、シェリーが俺の指をチ
ューチュー吸っていた。まるで赤ん坊だ。
ライル先生は甘やかすなというが、まだ子供なんだよなあ。
※※※
﹁なあ、シェリー。お前は、砲列を搭載した大きな船って作れると
思うか﹂
俺はよっこいしょとシェリーを抱いて運んだ。俺の指を赤ん坊み
たいにチュッチュと吸っていたシェリーは、今度は俺の首筋を甘咬
みしてる。
吸血鬼かと思うが、子供のやることだし、別に不快ではない。シ
ェリーの甘え方は少し変わっているのだ。
﹁トランシュバニア公国の造船技術ならば、試す価値はあります。
大砲も作ってますから材料ごとライン川から流して、公国の河口の
街で作ってみてはどうでしょうか﹂
﹁なるほど、そのための買収はできてるか﹂
﹁できてるとは言いませんが、できます。お兄様にそう言われる可
1688
能性は、すでに考慮していました。ただ⋮⋮費用対効果の問題が有
ります。新造船となるとかなりお金がかかるんです、キャラック型
を超えるサイズとなれば、まともに使える船ができるかやってみな
いとわかりません。リスクを冒して新型船を作る価値があるのかと
問われれば、データ不足です﹂
﹁さっきの話か、非効率だって先生に言われたもんな﹂
﹁初めてのことは上手くいかないこともあるでしょうが、だからこ
そ挑戦することをやめてはいけません。前人未到の領域を前にして、
誰もが恐れて足を震わせるときにこそ、最初に一歩を踏み出した者
に最も高い配当が与えられるのです﹂
シェリーは俺の首に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。その
小さい身体は、少し震えていた。
シェリーは、ちゃんとライル先生の言うことは、わかっているの
だ。失敗を恐れてもいる。だがそれでも、危険の海に一歩踏み出す
のが、この娘なのだろう。
ギャンブラーの血、なのだろう。
最近の俺は、家族ができて守りに入っているから、シェリーの血
を受け入れたいと感じた。
﹁材料の準備はしておけ、今の情勢ではそれこそ使えるかどうかは
わからないが、先生には俺から上手く言ってやる﹂
﹁はい、お兄様の御意のままに!﹂
陸軍国が海軍国と戦うのは、なまじっかなことでは上手くいかな
いだろう。
まだまだ、冒険がいる。
1689
俺は、シレジエの勇者なのだ。
1690
130.ギャンブラーの血︵後書き︶
第二部のゲルマニア帝国周辺地図を上げておきます。
ブリタニアン同君連合とローランド王国との停戦が終わった段階で
す。
だいぶと、帝国がボロボロになってます。
<i124491|12243>
1691
131.スケベニンゲン
カスティリアとの海戦に備えて、俺は手勢を引き連れてトランシ
ュバニア公国に来ている。
それほどのんびりしているわけにもいかないのだが、公国の首都
ブルセールに寄った。
もちろんカロリーン公女も一緒に同行してもらっている。ついで
でもあるし、ちょっと里帰りをしてもらうことにしたのだ。
ヴァルラム公王に挨拶もしてなかったし、ちょうどいい機会だっ
た。
トランシュバニアは小国だが、緑豊かで素敵な土地柄だった。農
業や酪農が盛んな一方で、ツルベ川沿いに馬車で旅したのだが、水
車や風車が立ち並んで自然のエネルギーを利用した軽工業もやって
いるらしい。
なかなか、豊かな土地柄だ。本来なら、もっとゆっくりと観光し
ていきたいぐらいなのだが、そこまでは時間的余裕がない。
レンガ造りの公王の居城は、三角形をしており大きな尖塔が二本
立っている。
城というよりは、大きな邸宅といった程度の規模だが、古いレン
ガが良い風情だった。
むしろ、厳しい城が要らないというのは、国が安らかに治まって
いるということなのだろう。
首都ブルセールは、赤レンガ造りの建物が多く整然として綺麗だ
った。やはりツルベ川から、ランクト公国の文化的な影響を強く受
1692
けているのだろう。
小京都ならぬ、小ランクトといった風情か。豊富な水源を利用し
て、上下水道もしっかりと整っている。緑豊かでありながら、ほど
よく文化的な要素もある。
城に入ると、慌ただしく護衛とともに豪奢な赤ローブを着た、い
かにも王様といった風格のある男が出てきた。
キングクラウン
茶色の髪に黄金の王冠をかぶり、宝玉の杖を持った威厳ある顎鬚。
トランシュバニア公王、ヴァルラム・トランシュバニア・オラニア。
この世界には珍しく、民を愛する気持ちの強い立派な王様である。
俺の前に、さっと跪く。
﹁おお、これはシレジエの勇者様。いや、王将軍閣下とお呼びした
らよいか﹂
﹁お父上、カロリーン公女と結婚しておりますから、どうぞ息子と
お呼びください﹂
小国とはいえ、一国の王様なのに、低姿勢すぎるんだよなこの人
は。
下手をすると、土下座しかねないところがある。エメハルト公爵
は、半ば計算でやっているがこの人は真心の人だ。
本気で心服して、衷心を持ってゲザるから手に負えない。
﹁まさか、勇者様に娘を差し出しましたが、そのような大それたこ
とは考えておりません。むしろ、この日まで勇者様の代わりに、こ
の地を治めてまいったつもりでございます。どうぞこの上は、この
王冠も杖もお渡ししますので⋮⋮﹂
﹁おっと、俺に国を治めろと言われても困りますよ。それは、カロ
1693
リーンと話して決めてますので﹂
早く来てくれと思ったら、青いドレスを着たカロリーンがようや
く馬車から降りてこっちにやってきた。
この親父さん、真面目すぎて苦手なんだよ。
﹁お父様、お久しゅうございます﹂
﹁おおカロリーン、息災であるか。勇者様に、失礼な真似はしてい
ないだろうね﹂
おたくの娘さん、ベッドの上では、うちの女王に失礼な真似しま
くってるんだけどね。
まあ、それは俺の責任でもあるので言うまいが。
﹁お父様、勇者様と相談して、私達に子が生まれたらその子に公国
を継がせようと決めました﹂
﹁なるほど、それは何よりだ。では、その日が来るまで、私が代行
として公国を治めることとしよう﹂
﹁まあその日はなかなか来ないでしょうから、末永くよろしくお願
いしますよ。お父上⋮⋮﹂
﹁ハッ、お任せください﹂
俺に公国を禅譲するとか、その場の勢いとか、冗談で言ってたわ
けではないにしろ。
もう終わった話だと思っていたが、ヴァルラム公王は本気でそう
考えて自らを代行と名乗っているのだ。
どこまでも高潔な王である、この人は真面目すぎるんだよな。
良い人だと思うんだけど、やっぱり少し苦手だ。
1694
﹁どうぞ狭い城ですが、旅の疲れをお休めください﹂
﹁ゆっくりしていきたいんですが、ブリタニアン同君連合の手助け
をしに行かないといけないもので﹂
﹁カスティリア王国との大海戦ですか。それでは、我が公国からも
軍船を出しましょうか﹂
そこなんだよな。
シレジエ王国の軍船は、武装商船であるコッグがたかが二隻。そ
こにトランシュバニア公国の援軍が入ってしまうと、むしろ公国メ
インの戦いになってしまう。
しかも、公国の騎士団を俺が壊滅させたことで、戦費も厳しい状
況だろう。海戦となれば、商船まで武装させてかき集めることにな
り、莫大な戦費がかかる。
ここ一番というときは手伝って欲しいが、この戦争には積極的に
参加させるべきではない。
﹁いや、公国の軍船は港を守るのに使っていただきたい。勝つにし
ろ負けるにしろ、帰る港がなくなっては困りますのでね﹂
﹁さようですか、申し訳ありません。公国の財政事情を考慮してい
ただいておるのですな、お預かりしたシレジエ王国の二隻のコッグ。
補給と整備は全力でさせていただいております﹂
﹁それで十分ですよ。公王も、たまにはカロリーンと家族水入らず
でお過ごしください。この海戦はおそらくすぐに終わります﹂
﹁ご配慮いただきかたじけなく存じます、勇者様のご武運をお祈り
いたします﹂
1695
清廉なるヴァルラム公王に見送られて、俺は王国の二隻の船が止
めてある港街に向かった。
※※※
ツルベ川の河口、トランシュバニア公国の海の玄関口、その港町
の名を﹁スケベニンゲン﹂と言う。
たしか、面白ニュースみたいなので実際にそういう地名があると
は聞いていたが、なんで選りにもよって。この名前が重要な港湾都
市になってるんだよ。
リアルファンタジー
酷幻想の嫌な面である。
いまさら突っ込むのもあれだが、この世界の人間にとっては普通
の地名に聞こえる、スケベニンゲン、スケベニンゲンと、聞くたび
に微妙な気持ちになってるのは俺だけなのだ。
﹁ようやくスケベニンゲンにつきましたね、公国第二の都市と呼ば
れてます。ブリタニアンから羊毛を輸入して作る、毛織物工業が盛
んらしいです。さすがに栄えてますね﹂
﹁そうですか﹂
ライル先生からも、スケベニンゲンの地名が聞こえるとやっぱり
微妙な気分になる。
俺はスケベニンゲンではないですよ。
いや、そうとも言い難いか。
﹁本当は、シレジエのナントからのほうが戦域に近いんですけど、
あちらは地方貴族の港ですからね。むしろ、ブリタニアン同君連合
の艦隊の後ろからついていって、遠距離攻撃だけしてさっさと帰る
1696
ような戦法でいいかもしれません﹂
﹁海戦は初めてですから、安全策でいきましょう﹂
いかに先生が優れた軍師とはいえ、海戦は初めてだから陸とは勝
手が違う。
スケベニンゲンの港に到着して、栄えあるシレジエ王国艦隊の海
軍提督閣下と初めて引き合わされた。
﹁どうも王将軍閣下、お初にお目にかかります。ジャン・ダルラン
と申します﹂
﹁いや、かしこまらなくてもいいが⋮⋮﹂
提督の帽子を脱いで、背筋を伸ばしたジャン提督は、モジャモジ
ャの黒髪の、熊のように太った赤ら顔の大男だった。
提督といっても、帽子が提督の帽子なだけで、服装は水夫と同じ
ラフな白いシャツを着ているだけだ。
﹁フッハッハッ、海軍提督といっても二隻の船長なだけですからね。
船員が一隻につき十二名で、二十四名。私を含めて総勢二十五名が
シレジエ海軍の全てであります﹂
﹁そうか、まあ俺は船のことはよくわからんから、よろしく頼むよ﹂
﹁他のことは何も出来ませんが、船のことならば万事、このジャン
にお任せください﹂
そうやって、樽のような腹を揺すってジャン提督は笑った。
優しそうな包容力はありそうで、頼もしいっちゃ、頼もしいかな
あ。
﹁何時ごろ出港できる﹂
1697
﹁はい、水と食料の積み込みさえ終えればすぐにでも﹂
では、いざ戦の海に行くことにしよう。
※※※
﹁予定では、この辺りなんだけど﹂
﹁フッハッハ、味方の船はなかなか見えませんな﹂
のんびりした感じで、太っちょのジャン提督が笑って言うが、そ
んなに落ち着いてていいのかよ。
﹁王将軍、どうぞ落ち着いてくださいや、これぐらい海ではよくあ
ることで﹂
﹁そうなのか。まあ戦う前から焦ってもしょうがないか﹂
シレジエ艦隊の二隻は、港湾都市スケベニンゲンから、西南の方
角へと進んでいる。
ちょうど、シレジエの南方の海上で、ブリタニアン同君連合の艦
隊と合流する予定だったのだが、なかなか味方の船が捕捉できない。
ブリタニアン同君連合を攻めるため北へと進むカスティリアの無
敵艦隊を迎え撃つ予定なのだが、海上での合流というのは難しいの
だ。
下手をすると、ぶつかり合おうとした敵がすれ違ってしまうとい
うマヌケなことすら起こる。
このまま合流できず、戦が終わってしまうなんてことになったら
困るなと思っていたら、かなりの早さの艦隊が、追い風に乗ってや
ってきた。
1698
コッグ型の俺たちの船より、小さい帆船だが、スピードがものす
ごく早い。二十隻は超えている数の高速船に、あっという間に囲ま
れてしまう。
﹁ジャン提督、味方か﹂
﹁ええ、白地に赤いバッテン、ブリタニアン海軍ですな。しかし早
い船ですな、初めてみやした﹂
ちなみにシレジエ王国は、青地に白百合。
カスティリア王国は、赤地に金の横線が入っている。﹁血と金﹂
とかいう、やたら物騒なイメージらしい。
船の識別は旗でするしかないから、海では国旗が大事なのだ。
高速船の群れは、すぐに俺の船に接舷してくる。
はしごを掛けられて、乗り込んできた。
﹁そこのコッグ船、停船せよ!﹂
いや、もう帆は下ろしてるんだけどね。
そんなことを言いながら、こっちの船に乗り込んできたのは、艶
のある長い黒髪で黒い顎鬚のある若い士官だった。
白地の海軍服に、金糸の飾りが施された黒いジャケットを着てい
る。提督帽に金の王冠をあしらったマークがついている。
﹁ブリタニアン海軍の方か﹂
﹁ああ、シレジエの方とお見受けする。私は、アーサー・ブリタニ
アン・アルトリウスだ﹂
1699
アーサー・ブリタニアン・アルトリウスって言うと、ブリタニア
ン同君連合の君主だ。
まさか、国主自らが快速船に乗って飛び込んできたのか。
﹁貴方が﹃キング﹄アーサーなのか!﹂
﹁そうだが、貴君はもしかすると、シレジエの佐渡タケル殿かな﹂
提督帽を手で直して、フッと苦い笑いを見せる若々しいアーサー。
まだ、若い。二十代半ばってところだろう。荒獅子のような男だ。
﹁一目で、俺を見抜くとは、慧眼だな﹂
﹁いや、海の上でそんな白銀に耀く鎧を着ている酔狂な男と言えば、
シレジエの勇者しか思い浮かばなかっただけだ﹂
提督帽をかぶっているのだから、それなりに偉いさんだとは思っ
ていたが、﹃キング﹄アーサーその人がいきなり小舟で乗り込んで
くるとは思いもよらなかった。
それにしてもハツラツとした腰の軽い男だ、俺のイメージしてい
た重厚なアーサー王とは違っていた。
﹁酔狂って、ああそうか、鎧を着てると落ちたら泳げないからか﹂
﹁そうだ、船の上で鎧を着るのは、覚悟のある騎士にしか出来ぬ振
る舞い。さすがは勇者と呼ばれる王将軍閣下と感服した。そして、
何の儀礼もなく、国主同士が軍船の上で初会見とは、愉快この上な
い!﹂
潮風に濡れた黒髪の﹃キング﹄アーサーは、笑顔で手を差し出し
て、俺に握手を求めてくる。
手を握ると、肩まで抱いてきた。とても、気やすい王様だった。
1700
リアルファンタジー
もちろん酷幻想なので、俺の世界の超有名なアーサー王伝説のア
ーサー王とは違うのだろうが、それに類するチートであることは明
白。
この世界の、アーサーもかなり出来る君主で、ブリタニアンの二
島四民族を一つにまとめあげて、ブリタニアン同君連合として統治
している。
その二つ名を﹃キング﹄と言う。
気性の荒い海の男達が、たった一人の﹃キング﹄の旗のもとにま
とまっているのだ。このアーサーも、伝説的な君主に負けていない
海の上のカリスマだった。
黒い髭面に、気持ちのよい笑顔を浮かべる無邪気な男だ。
俺はひと目で気に入ってしまった。
﹁ブリタニアンはシレジエの友好国だからな、たった二隻で悪いが
助太刀に来た﹂
﹁いまは一隻でも味方が欲しいところだ。服属させた海賊にすら援
軍を頼むほどでな。シレジエの勇者が味方となれば、心強い。兵の
士気も上がろうというもの、感謝いたす﹂
﹁しかし、﹃キング﹄の乗ってきた船、見慣れないものだな﹂
ジャン提督が見たことないと言っていたから、かまをかけてみる。
俺は船の知識がないからな。新型なら聞いておきたい。
スクーナー
﹁うむ、最新式の高速船なのだ。形は小さいが、縦帆装置という新
しい仕組みで、操船性が格段に高い。カスティリアの無敵艦隊を相
手にするために用意したものだ。数でも大きさでも勝てぬなら、ス
ピードで敵を圧倒してやろうと思ってな﹂
1701
﹁そうか、見事な船だ﹂
スクーナー
最新式の高速船か、戦術によっては使いどころがあるのだろうが、
これはいらないなと俺は思う。
どんなに早くても、形が小さくては大砲が乗らない。
﹁そこに乗っているのは、噂に聞く大砲というやつか﹂
﹁そうだ、小さめだけどな。弾が当たれば、敵艦は沈むと思うぞ﹂
スクーナー
﹁それは頼もしい、私たちブリタニアン海軍は戦列を組んでぶつか
りつつ、高速船による特別強襲攻撃で、敵の母艦を囲んで敵の頭を
落とす作戦だが、シレジエ海軍は好きに戦ってくれ﹂
言外にやはり、二隻程度。戦力には数えられないって言ってるん
だろうな。
どんなに気さくに見えても﹃キング﹄はやはり、一国の英雄王だ。
そういう冷静な視点でこっちの戦力を判断しているのだろう。
まあ、自由にやらせてもらったほうがこっちも助かる。
﹁そうさせてもらおう、カスティリアは共通の敵だ。一緒に打倒し
ようではないか﹂
もう一度固く握手をするが、国同士の付き合いだから計算もある。
今回は初戦だから、こっちも死力を尽くすつもりはない。
まずは、ブリタニアン同君連合とカスティリア王国、海軍国家同
士のお手並み拝見といったところだ。
1702
132.第一次セイレーン海大海戦
シレジエ王国のガレー村の沖、セイレーン海の洋上で、ブリタニ
アン同君連合の艦隊は、カスティリア王国の無敵艦隊と接敵した。
世界最強の海軍国カスティリアの二百隻を超える無敵艦隊に比べ
て、﹃キング﹄アーサーの率いる艦隊は服属させた海賊船までかき
集めて百五十隻。
この規模の艦隊がぶつかり合うのは、歴史上でも初めてのこと。
まさに、大海戦と呼ぶに相応しい海軍大国同士の戦いだった。
彼我の戦力比は三対ニ、決して戦えない数ではなかった。
スクーナー
民族統合の象徴、英雄王アーサーを擁して、士気上がるブリタニ
アン海軍には、新型快速船二十隻による秘策、特別強襲作戦がある。
古き大国カスティリアに対して、勢いがあるのは若いブリタニア
ン海軍だ。
もしかしたら今日こそ、無敵艦隊の不敗伝説が破れて、歴史が回
天するその時であるかと俺も息を呑んだ。
しかし⋮⋮。
﹁何だあのでっけえ船は!﹂
コッグ船の舳先で、海風に吹き飛ばされそうな提督帽を押さえて、
ジャン提督が叫んだ。
カスティリア海軍の中央に、海上の要塞のような五隻の巨大軍艦
が姿を現していた。遠目にも凄すぎる。
1703
一度船に乗れば大海原のように泰然自若としているジャン提督が、
焦るのは初めて見る。
まあ、あれは焦るだけのことはあるよな。
﹁ガレオン船だろうな、あれが⋮⋮﹂
﹁王将軍、知ってるんですか﹂
スクーナー
俺もゲームや小説で知っているだけだから、実物を見て驚いては
いるんだけどな。
ブリタニアン海軍が、この決戦に備えて新型快速船を用意してい
たんだから、無敵艦隊だって新型ぐらい繰り出してくるとは思って
いたさ。
﹁キャラック船の改良型だ、船の安定性を増すために船体を長くし
て船楼を低くしたデザイン。﹃ガレー船の戦闘力を、帆船のキャラ
ック船に持たせた﹄という意味で﹃ガレオン﹄と呼ばれる大軍艦、
その総重量は千トン﹂
﹁千トン⋮⋮化け物だァァ!﹂
ジャン提督は、その大きさに息を呑む。例えば、俺たちが乗って
いるこのコッグ船が総重量百トンなのだから、単純に考えて十倍の
質量を持った船舶なのだ。
まさに海上要塞と呼ぶに相応しい。とてもじゃないが、コッグ船
やスクーナー船では歯が立たないだろう。
大きさや数の不足をスピードで補い、撹乱のあとで戦力を一気に
敵母艦に集中させて落とそうとする﹃キング﹄アーサーの特別強襲
作戦は、この段階で潰えたといっていい。
小舟で囲んだところで、あの海上要塞はそう簡単には落ちないだ
1704
ろう。ぶつかる前から、九分九厘ブリタニアン海軍の負けだな。
睨みを効かせるように、中央から展開する五隻の大軍艦を見て、
俺は思う。
﹁ふむ、あのガレオン船。欲しいな﹂
﹁へっ?﹂
俺のつぶやきに、ジャン提督が呆けた顔を向ける。
もし両軍が接戦してるなら、カアラに最上級魔法メテオ・ストラ
イクでも撃たせてブリタニアン海軍の後押しをしてやろうと思った
が、やめだ。
﹁よし、我が艦隊の目標は、ガレオン船の奪取だ!﹂
﹁おおおー!﹂
船に満載されたシレジエの義勇兵たちは、俺の激に拳を振り上げ
るが、ジャン提督以下水夫は困惑の様子だ。
そりゃ、俺たちと一緒に戦争するの初めてだもんな。
﹁王将、そりゃいくらなんでも無理ですわ。あんなでかい船をどう
やって乗っ取るっていうんですかい﹂
﹁ジャン提督、シレジエの勇者に無理という文字はない。まあ見て
いろ、俺は飛べるんだよ。ライル先生、艦隊指揮は頼みますよ﹂
先生は、苦笑して任されたと頷いた。
困惑するジャン提督に、先生は船先を無敵艦隊側面に向けろと命
じる。
なにせ大砲と弓では飛距離が違う。敵の弓が届かない距離から、
1705
姑息に砲撃を加えて削る作戦でいいのだ。
先生に指揮を任せておけば、絶対に敵の攻撃範囲には近寄らない
だろう。
無敵艦隊の一番外側に居た小型のガレー船が接舷攻撃しようとこ
っちに向かってくるのを、シレジエ海軍のコッグの砲撃を受けて沈
められるのを見ると、俺は安心してカアラに抱えられて間近のガレ
オン船に向かって一直線に飛んだ。
カアラはオラクルちゃんブースターよりは乗り心地︵というより
抱えられ心地というべきか︶が悪いけど仕方がない。
オラクルは、いま大事な身体だから後宮に置いてきてある。
その代わりと言ってはなんなのだが、キンキラキンと金粉みたい
なエフェクトをまき散らしながら﹃女神のローブ﹄を着た、リアが
白銀の翼で飛んでいる。
聖女なんか連れても、船を乗っ取るのに役に立つのかな。
まあ、付いて来たがるものは仕方がない。ホーリーランスも無駄
にはならんだろう。国の恥になるから、できれば大海戦の舞台で、
おかしな真似はしないで欲しいが。
﹁よし、カアラあの船を乗っ取る﹂
俺たちは、一番近い位置に居たガレオン船に飛び込んだ。
甲板には赤い軍服を着たカスティリアの兵士が満載されており、
こっちに向かって弓矢やクロスボウの矢を盛んに撃ってくる。
この程度の攻撃は、カアラが風魔法で弾くので避ける必要すらな
い。
兵士の弓矢に混じって、魔術師の攻撃もあったが、石弾程度のも
1706
ので上級魔術師は居ない。楽でいいんだが、この弾幕の薄さはハズ
レかとも思う。
つまり、この抵抗の弱さは敵の艦隊指揮官が居ない船ということ
になる。
インフェルノ
カアラがまず最初のジャブ、火系の上級魔法、獄火炎を敵の甲板
めがけてぶちかます。
これは、火がついたら燃える船舶にとって禁じ手のような攻撃だ。
乗組員は、船が落ちれば死ぬしかない。
兵士や水夫が消火に必死になっているところへ、俺たちは悠々と
降りていく。
﹁なんだ、お前たちは!﹂
﹁シレジエの勇者、佐渡タケルだ。この船は、シレジエ海軍の支配
下に入った。降伏するならば命までは取らない!﹂
ライフル
そう言いながらも、俺は魔法銃を撃ちまくって敵兵の数を減らし
ている。
カアラは、腕を左右に振って衝撃波で、向かってくる敵兵の群れ
を船の外になぎ倒すようにして一気に落とした。上手いもんだ。
﹁さあ、カスティリアの皆さん、是非もありませんよ。争いを止め
て、アーサマのご威光の前に跪くのです!﹂
﹁せ、聖女様だ⋮⋮﹂
予想に反して、敵兵が一番恐れおののいているのが、白銀の翼を
大きく広げたリアだった。金髪碧眼のリアは、女神もかくやと言う
ほどに光り輝いていて、見た目だけなら神々しい聖女だからな。
カスティリア人も、アーサマ信者であることに違いはないのだ。
1707
覚悟のある指揮官クラスならともかく、一般兵士は困惑して白銀の
アンクを掲げる聖女に、弓を向けるのを躊躇した。
﹁私の船で勝手なことをほざくな、シレジエ軍!﹂
サーベル
ギラッと輝く直刀の抜身で斬りかかって着たのは、フルプレート
アーマーを着た騎士だった。ピンと整ったカイゼル髭の痩せた背の
高い男だ。
アーサーが言っていたな、船の上で鎧を着る男は、覚悟がある騎
士だと。
﹁名前を聞こうか﹂
﹁この新型軍艦を任せられている、セバスティアン・コルドバ・ボ
ルボーン将軍である。よく来たなと言っておこうシレジエの王将軍、
いざ尋常に勝負せよ﹂
サーベル
海の船乗りはカトラスを使うのだが、セバスティアン将軍は黄色
のマントを潮風になびかせて直刀を抜いて、大上段に斬りかかって
きた。
思い切りの良い攻撃だ。
﹁その覚悟やよし、お相手いたそう!﹂
﹁ダァーッ!﹂
ライフル
武人に敬意を払って、魔法銃ではなく右手の光の剣で、サーベル
を中ほどから叩きってやった。
もしかしたら魔法剣だったのかもしれないが、光の剣にたたっ斬
れぬ強度ではなかった。
﹁なんとっ!﹂
1708
﹁セバスティアン将軍、相手が、悪かったなァァ!﹂
左手の中立の剣で、セバスティアンの首をスパンと両断する。
血しぶきが甲板に飛び散った、こうやってたまには剣戟もしない
と腕が鈍るからちょうどいい。
﹁将軍が!﹂
﹁さあ、次はどいつだ!﹂
俺は、躍りかかる敵兵を当たるを幸いにイマジネーションソード
で次々にたたっ斬っていった。
敵兵が﹁船長!﹂とかと騒いでいたので、いつの間にか船長も殺
してしまったらしい、カアラとリアもなかなかよく働く。いつの間
にか甲板上に満載されていたカスティリア兵士の姿はまばらになっ
ていた。
﹁待て、降参する! 捕虜としての処遇をお願いする﹂
﹁そうか、賢明だな﹂
くすんだ黄色のビロードのタブレットを着た壮年のカスティリア
士官が、手を上げて降伏を宣言した。
どうやら残った中では、一番の上級航海士らしい。その指示で、
残存の兵士も水夫も抵抗を止めた。
こちらとしても、水夫まで全滅させてしまえば、こんな大型船の
運行ができないので、程よいところで白旗を上げてくれたのは助か
った。
そんな事情はおくびにも出さず、俺は降伏した航海士に、シレジ
エの青地に白百合の軍旗を渡す。
1709
﹁合図があり次第これをあげて、シレジエ海軍の誘導に従え﹂
﹁わ、わかった。言うとおりにしよう、勇者殿⋮⋮できれば、海に
落ちた兵士を拾いたいのだが﹂
﹁それは適宜やって構わないが、時間稼ぎは困るぞ。周りはカステ
ィリアの船ばかりだから、どうせ助かるだろ。こちらの指示に従い、
迅速に動けよ。抵抗しなければ殺しはしない﹂
﹁了解した⋮⋮﹂
行く先に落ちた乗組員を救護しながら、俺たちに奪取されたガレ
オン船は、カスティリア艦隊から離れていく。
十分に離れたところで、シレジエ軍旗を上げる。
そこに程なくして、砲撃でガレー船とキャラック船を撃ち破った
シレジエ海軍の二隻のコッグ船が、近づいて接舷した。
銃を持った義勇兵がどんどんと乗り込んでくる。これで、ガレオ
ン船は完全に指揮下に入った。
かなり順調だ。無敵艦隊の前方で、ブリタニアン海軍が強烈にぶ
つかり合って敵を引きつけてくれていたから、完全に漁夫の利って
やつだ。
これでミッション・コンプリート。
できれば、もう一隻ぐらい手に入れたいがと戦況を眺めると、こ
っちの囮になってくれているブリタニアン海軍は、かなり押されて
いた。
パッと見でも、もうあまり長いこと保たない感じがする。
スクーナー
ブリタニアン海軍の新型快速船は、足の速さを生かして巧みに敵
のガレオン船を牽制して、健闘しているようだが、正面からぶつか
1710
った艦隊の横列がもう無敵艦隊に突き破られようとしている。
やはり、多勢に無勢。こっちが横から、いくつか船を沈没させて、
ガレオン船を一隻降伏させたぐらいで戦況は変わらんか。
﹁それにしても、だいぶ撃ち負けてるなブリタニアン海軍﹂
﹁やはり船の大きさが小さいと、撃ち合いでも不利になりますから
ね﹂
ライル先生が、ガレオン船の甲板に上がってきた。
たしかに、ガレオン船やキャラック船に比べると、ブリタニアン
海軍は小舟が多い。小回りが効くといっても、正面からの撃ち合い
になれば上からの攻撃のほうが強い。
スクーナー
﹁新型快速船の大きさでは、ガレオン船に乗り移れないみたいだな﹂
﹁ブリタニアン海軍は、上級魔術師の数でも負けてますからね。あ
の一番前方のガレオン船が、おそらく旗艦ですよ﹂
潮風に、茶色の髪をなびかせた先生が、眩しそうに指差す先には、
ブリタニアン艦隊の横列を食い破らんとするガレオン船があった。
不思議な事に、その船が近づくだけで、ブリタニアン海軍は統制
が取れなくなっている。
﹁なんかやばそうな空気を出している船ですね﹂
先生がカスティリア海軍の旗艦だという、先頭のガレオン船は上
手く言えないけど不気味なのだ。
何か激しい攻撃魔法を繰り出しているわけでもないのに、強いプ
レッシャーを感じる。接舷しようと近づいた、ブリタニアン海軍の
船の動きが次々と止められて、沈黙している。なんだあれは。
1711
﹁カスティリアには、名の通った上級魔術師が三人居ます。ブリタ
ニアン同君連合には二人です。純粋に数でも負けてるのですが、配
置も見事でしたね。あの船には艦隊司令官と共に一番厄介な魔術師
が乗ってるんですよ。敵旗艦に戦力を集中させる﹃キング﹄アーサ
ーの戦術、先読みされていたようです﹂
﹁もしかして、また特異魔法とか言うやつですか﹂
先生が、そうですと頷く。
そうか、嫌な予感がしたんだよな。
ファンネーション
﹁カスティリア宮廷魔術師、﹃魅惑﹄のセレスティナ・セイレーン。
ディスペルマジック
その名の通り、﹃魅惑﹄の特異魔法を使います。まさに、船人を歌
で惑わして自滅させるセイレーンですよ。強力な消去魔法の範囲内
に居ないと、精神を操られて同士討ちさせられます。近寄ったら危
ないです﹂
﹁またとんでもない反則技ですね﹂
チート
もう嫌だよ上級魔術師。精神操作とか、反則すぎる。
先生が、世界中の上級魔術師を抹殺したい気持ちがよく分かる。
あいつらは強力すぎるし、不確定要素すぎるわ。
﹁﹃魅惑﹄のセレスティナが乗る船を落とすなら、敵の攻撃範囲外
からの遠距離攻撃しかありません。まあシレジエ艦隊としては、砲
撃できる船が二隻では、どうしようもありません﹂
さすがに艦隊司令官がいる旗艦だけあって、周りを他の味方の船
にびっちりとガードされている。
宮廷魔術師と、護衛船団のガード、あの旗艦は奇襲作戦では落と
せない。
1712
無敵艦隊の艦隊司令官は、ブリタニアン海軍が一か八かで旗艦を
強襲してくると、あらかじめ読んで固めていたわけである。
さすがに、カスティリアにも人物はいるわけか。
しかし、旗艦を囲む形で前に進んでいるから、横っ腹を突いてち
ょこちょこと削っているこっちにとっては、隙があるともいえる。
﹁じゃあ、もう一隻。できればまた、ガレオン船を手に入れてきま
すね﹂
まだ狙えそうな位置に、もう一隻のガレオン船がいる。
護衛も薄いから、行けるかもしれない。
ディスペルマジック
﹁敵の旗艦に近づかなければ良いとは思いますが、無理は禁物です
よ。うちの船団の周りは宰相の消去魔法に守られてますから、危険
を感じたらすぐ撤退してください﹂
油断は禁物だが、こうも上手く乗っとりに成功したのだ。
ブリタニアン海軍が期せずして囮をしてくれる間だけが、稼ぎど
きともいえる。
﹁ガレオン船がいいんですが、他のでもいいです。あと一隻ぐらい
手に入れて、撤退しましょうよ﹂
﹁それぐらいならなんとかこっちも持ちますかね。船の甲板は思っ
たより脆くて甲板が傷ついてしまいましたから、コッグ船の限界も
あります。毎度のことですが、時間との勝負ですよ﹂
先生が指摘してくれたのだが、コッグ船の甲板に並べた六門の青
銅砲は、砲撃の反動で甲板を傷つけている。
そうか、大砲の下に車輪を付けるとかして、反動を逃がす仕掛け
1713
をしないといけなかったんだな。
実際にやってみると、いろいろと改良点が思い浮かぶものだ。
カアラに呼びかけて、俺はもう一隻のガレオン船を奪うために飛
んだ。
1714
133.﹃キング﹄アーサーの敗戦
二隻目を狙った頃には、こっちがガレオン船を奪取しようとして
いるのが敵にバレてしまっていた。
ハリケーン
必死に抵抗、上に飛ぶと速度が減じる弓矢やクロスボウの矢はい
いのだが、攻撃魔法がきつい。
﹁あの船は、上級魔術師が乗ってます﹂
﹁わかった、撤退だ﹂
カアラの指摘で、俺はすぐ諦めた。
よりにもよって風系の上級魔術師だ。大台風の攻撃は、飛行して
いるときには相性が悪すぎる。
激しい爆風に﹁キャー﹂と吹き飛ばされていく、リアの手を握る
と俺たちは空域を離脱した。
このまま戦果なしに戻るのは寂しい。
﹁カアラ、行き掛けの駄賃だ。あそこの旧型でいいから奪うぞ﹂
﹁了解です!﹂
無事に、もう一隻のキャラック船を奪取したところで、タイムオ
ーバーとなった。
カスティリアの艦隊に突き破られて敗走を始めているブリタニア
ン海軍を見れば、これ以上この戦域にいるのは危険だ。
今度は矛先がこっちに向かってくる。
1715
﹁先生たちは、このまま拿捕した二隻を曳航して、スケベニンゲン
の港に戻ってください﹂
﹁タケル殿はどこに行くんです﹂
﹁ブリタニアン海軍の撤退を手伝ってきます、もっと抵抗して敵を
引きつけてもらわないと、こっちの艦隊を追いかけられたら堪った
ものじゃないですからね﹂
﹁そうですか、では港で会いましょう。タケル殿のご武運をお祈り
します﹂
俺がまた行くと聞いて、リアが立ち上がった。
﹁わたくしも是非一緒に﹂
﹁いや、リアはもういい。ここで味方の治療に当っておいてくれ﹂
すでに神聖魔法力もあらかた使いきっているようだし、危険なの
で止めておいた。
敵味方が入り乱れる混戦の中では、できるだけ少数の方が動きや
すい。俺は勇者なのだから、万が一敵と直接戦闘になっても、なん
とでも立ち回れる。
俺は、カアラに背中から抱えられて飛ぶと、撤退を始めているブ
スクーナー
リタニアン海軍の旗艦へと向かった。
二十隻あった新型快速船も、すでに八隻しか残っていない。速度
の遅いブリタニアン海軍のコッグ船やキャラック船、服属した海賊
の小型ガレー船の被害はそれ以上だろう。
﹁アーサー助太刀に来たぞ!﹂
﹁すまない王将⋮⋮﹂
1716
苦渋の表情の英雄王がそこに居た。激戦で失ったのだろう、かぶ
っていた提督帽はどこかに消えていた。
潮風に濡れた黒髪をかきあげて、アーサーは自ら檄を飛ばし、満
身創痍のスクーナー艦隊を巧みに操って、味方が撤退する時間を稼
いでいる。
敵艦は﹃キング﹄アーサーが乗っていると知っているのか、ブリ
スクーナー
タニアンの旗艦を狙って、矢を射掛けながら近づいてくるが、足の
速さでは新型快速船に分がある。一番船速の速い船が、囮になるの
は合理的とはいえる。
しかし、君主自らが旗艦を危険にさらしてでも、足の遅い味方の
撤退する時間を稼いでいるのは壮絶だ。なんという男気だろうかと、
俺は感動した。
俺も甲板の上から、敵の弓兵を狙撃してやったが、船楼の高さが
ライフル
違いすぎるので狙いにくかった。
魔法銃でならそれでも行けるが、単純に弓の撃ち合いになればこ
れは勝てない。やはり船のサイズは、海戦では大きな差になるのだ
と感じる。
﹁カアラ、ここで最後だ。メテオ・ストライクをぶちかましてやれ。
タイミングは任せる﹂
﹁御意⋮⋮﹂
カアラは、スッと息を吸って、精神を集中させると、じっとカス
ティリア艦隊の動きを見て、ひしめき合っている敵の艦隊に向けて
ガッと両手を掲げる。
﹁カアラ・デモニア・デモニクスが伏して願わん、星辰のはるか彼
方に輝く暁の冥王、時空の狭間より地上へと顕現せしめ、すべてに
1717
滅びをもたらさんことを!﹂
空が暗くなり、天空に広がる星空から飛来する多数の隕石に、ブ
リタニアン海軍の旗艦を狙って囲んだ敵の艦隊は瞬く間に沈没して
いく。
久しぶりに見たが、さすがに最上級魔法メテオ・ストライク。戦
況を一変させるだけの力がある。
ディスペル・マジック
火花を上げて飛来する隕石を跳ね除ける軍艦がいくつかある。
おそらく、強力な消去魔法が使える上級魔術師が乗っている船な
のだろう。
敵の主力を叩けなかったのは残念だが、これで多少は痛み分けに
持ち込めたはず。無敵艦隊の戦力を削ることにはなっただろう。
敵に向かって、シレジエ・ブリタニアン連合軍の力を見せつけて
やることもできた。
﹁カアラ見事だった、褒めてやるぞ﹂
俺は、疲れた様子でガクッと膝をつくように倒れこんだカアラの
身体を抱きかかえると、黒ローブのフードを外して淡い金髪を撫で
てやる。
肌がもともと青いのでわかりにくいが、丈夫なカアラだって疲弊
するのだ。
何かで回復できればいいのだが、魔族であるカアラには、アーサ
マ教会のポーションの類は使えない。せいぜい身体を楽にして、自
然回復させてやるしかないのだ。
今日は本当に、酷使してしまった。荒い息を吐いている、カアラ
を労ってやった。
1718
﹁国父様、ありがとうございます。でもこれで、アタシの魔素は空
です﹂
﹁それでいい、本当によくやった。いまはゆっくり休め﹂
大活躍したカアラは、予備に持っていた魔宝石も、完全に使いき
ってしまったらしい。
まあいいさ、今日の戦闘はこれで終わりだ。
﹁私からも礼を言う、ブリタニアン海軍を救ってくれてありがとう﹂
一国の君主であるアーサーが、人間に忌み嫌われている魔族であ
るカアラに、飾らない言葉で礼を言って頭を下げてみせたのだ。
本当に気持ちのよい男で、これが﹃キング﹄アーサーなのかと思
う。独立心が旺盛で、小さい島を割ってバラバラに暮らしていたブ
リタニアンの民が、この若い君主の旗のもとに一つに結束した理由
がよく分かる。
﹁アーサー、これで撤退の時間は稼げるか﹂
﹁ああ、敵も沈没した船から兵士を引き上げるのに必死なようだし、
終わったな。しかし、私としたことが、無様な敗北を晒したものだ﹂
アーサーも、さすがに気が抜けたのか、甲板の上で座り込んだ。
それでも、﹁ええい﹂と、悔しげに甲板に拳を叩きつける。
もはや言葉もなく、王が床を殴った音が響く中で、ブリタニアン
海軍の兵士たちは、皆一様に深く疲弊して沈み込んでいる。
たった数時間の戦闘が、ものすごく長く感じた。
アーサーの嘆きは重い。ブリタニアン海軍が出した被害は、国が
傾きかねないほどに甚大なものだ。
1719
﹁アーサー、戦は時の運だ﹂
﹁いや、私の作戦が敵に読まれていたのだ。意気揚々と新型快速船
を繰り出したまで良かったが、敵も大きく足速いキャラック船の改
良型を用意しているとは思わなかった。言い訳にもならないが⋮⋮﹂
始まったときに、勝敗が決している戦争もある。
今回の大海戦は、まさにそんな感じだった。新型同士の設計思想
で、ブリタニアン海軍は負けていたし、戦力も足りなかった。もっ
と言えば、元からの国力の差だ。それでも圧倒的な敵を前に、最後
までよく戦った。
﹁払った犠牲は無駄ではないだろう﹂
﹁ああ、これで無敵艦隊にも、多少は痛手を与えられただろうから
な。私たちブリタニアンは、私たちの生きる海を守る。そのための
尊い犠牲だ﹂
﹁アーサー、俺も新しく艦隊を作ろうと思うんだが﹂
﹁へっ?﹂
俺が、そういうとアーサーは疲れた顔を上げて不思議そうな顔を
した。
﹁カスティリアの新型軍艦を奪取してやったから、それを元に新し
い艦隊を作る。なんなら新型の設計図をくれてやっても良いぞ﹂
﹁驚いたな、あの戦いの中でそんなことをやっていたのか﹂
﹁そうだ、今回は負けだが、これで終わったわけではないのだろう﹂
﹁その通りだ、シレジエの勇者。これで終わったわけではない!﹂
1720
アーサーは、疲れた身体をよろめかせるようにして立ち上がらせ
ると、吠えた。
顔に貼り付いた髪の毛、青ざめた顔は疲れきっているように見え
るが、それでも﹃キング﹄アーサーの黒曜石のような瞳は、輝きを
失っていない。
﹁態勢を立てなおして、また戦うんだ。そこで教えて欲しいんだが、
ブリタニアン海軍は海賊を服属させて戦力を増やしたんだろう﹂
﹁ああっ、そうだな。北海の海域には、まつろわぬ海賊が多くいる。
それこそ退治すれば船を奪うこともできるし、交渉しだいでは傭兵
として雇うこともできる﹂
﹁そのやり方をちょっとレクチャーしてくれないかな﹂
﹁ハハハッ、これは愉快だ。そうか陸の勇者が、私の真似をするか﹂
アーサーは、俺のところまで歩いてくると手を差し伸べて、俺の
手をギュッと掴んだ。
いきなりだったので、ちょっとビックリした。
﹁キング⋮⋮﹂
﹁私だって一代でブリタニアン海軍をここまで育てたのだ。私にで
きて、シレジエの勇者殿にできぬわけがない。シレジエの新しい艦
隊、作るがいいぞ。そして、今一度共に戦い、今度こそ無敵艦隊を
打ち破ってやろうではないか﹂
﹁そうだな、共に戦おうアーサー王﹂
﹁トランシュバニア公国のスケベニンゲンだったな、そちらに船を
向ける。大事な同盟国の王将軍閣下をこのまま港まで送ってやろう。
それまで、たっぷりと海の戦い方ってやつを教えてやるさ﹂
1721
すっかり元気を取り戻したらしい、﹃キング﹄は自ら部下を叱咤
激励して、北東へと進路をとった。
元気になったのは良いのだが、スケベニンゲンって港の名前、や
っぱりいつ聞いても微妙だなあと俺は思った。
※※※
﹃キング﹄アーサーに、スケベニンゲンの港まで送ってもらう。
港には、コッグ船の二隻と共に、拿捕した最新鋭のガレオン船と
キャラック船がある。
カスティリアの乗組員は、港で開放してやった。
本当は、そのまま水夫として雇いたかったのだが、さすがに断ら
れてしまった。
こんな遠方の港から、カスティリアに帰るのは大変だろうが、そ
こまで面倒は見られないので勝手にすればいい。
死んだ兵士は埋葬して、装備はありがたくいただいた。
戦後処理も終わると、俺は新型軍艦を見て嬉しくなる。縦に長い
ガレオン船は、船の形状が安定している上に大きさも十分だ。
この軍艦ならば、大砲がたくさん乗るだろう。
大砲を使った海戦の経験も積むことができたし、今回の大海戦。
カスティリア海軍にも、ブリタニアン海軍にも多大な被害があった
が、シレジエ海軍にとっては軍艦二隻儲けた美味しい戦争だった。
まあ、失う船がもともとないってこともあったんだけど。
失うものがないから強いって、先生が言ってたのは本当だな。
1722
キャラック船はそのまま補修して使い、ガレオン船は一旦解体し
て、徹底的に船の構造を調べるのに使おうという段取りになる。
新造船の材料は、今頃シェリーが買い漁って準備してくれている
だろう。ガレオン船を手に入れたと聞いたら喜ぶに違いない。
﹁それにしても金のかかることばかり﹂
﹁タケル殿、新造船はもう諦めましたけど、予算の方も少し心配し
てくださいね﹂
先生には無理を通してもらった。すでに材料の確保に金がかかっ
ているし、これから本格的に新造船を作るとなれば、どれだけ金が
かかるかわからない。
他にもいろいろ支出が多いから、国家予算に余裕があるわけでは
ないのだ。
キャラック船が一隻にコッグ船が二隻。このまま港に置いてあっ
ても、利益を生むわけではない。
補修と大砲の積み込みが終わったら、できた艦隊を使って、交易
か海賊退治かで金でも稼ぐのがいいかもしれない。
かといって、大海戦に敗戦してしまったこともあって。
セイレーン海の大部分がカスティリア艦隊に抑えられているわけ
で、出来ることは限られてきているけど。
このスケベニンゲンからできる交易と言うと、ここからブリタニ
アン同君連合の港で羊毛と毛織物を交易するか、北海のスウェー半
島の港と木材と食料を交易するかぐらい。
あまり大きく儲かりそうもない交易航路ばかり、やらないよりマ
シって感じだ。公国の特産品であるガラス製品を売り込む相手が居
れば良いのだが、ブリタニアン同君連合以外は、周りは敵だらけな
1723
のが痛い。
﹁海の支出は、海の収入でなんとかしないといけないかなあ﹂
﹁交易するのに、港を公国に借りてるってのも悲しいですけど﹂
先生はやっぱり、地方貴族に抑えられているナントの港を、早く
シレジエ王軍の物としたいのだろうな。
でも、国内に騒乱を巻き起こすにはまだ早いと思う。
﹁まあ、小さいことからコツコツとですよ﹂
﹁そんなことを言ってる間に、向こうから攻めて来そうな感じもし
ます﹂
シレジエ王国の敵は、カスティリア海軍だけではない。拳奴皇ダ
イソンの新ゲルマニア帝国、シレジエ王国内部の潜在的な敵である
南部の地方貴族。
一つにまとまってこられないだけ、マシとはいえるけどこりゃ前
途は多難だった。
ひとつひとつ、上手く片付けていければいいんだけどな。
1724
134.自治都市アスロ
トランシュバニア公国からの交易を考えると、一番簡単なのはブ
リタニアン同君連合領のどこかの港との交易である。
しかし、俺たちの艦隊はあえてそこを外して、スウェー半島の南
端にあるゲルマニア帝国領の自治都市アスロを目指して航海した。
旗艦は、キャラック船。それにコッグ船が二隻、護衛のために砲
兵と大砲は載せてあるが、乗員を極力絞ってその分食料を満載して
いる。
人間世界の北極であるスウェー半島は、魔素の影響が強く不毛の
ツンドラと針葉樹林が延々と続く未開地で、まともな作物が育たな
い。
無計画な伐採のせいでユーラ大陸全体で不足している木材だけは、
良質な品が取れるので、木材と食料を交易するのが基本だ。
何が一番売れるのかはよくわからないが、穀物類にトランシュバ
ニア産のチーズまで揃えてあるので売りつけながら調べていけばい
い。
﹁しかし、王将軍。ブリタニアンの港と交易してもいいって言われ
てるのに、なんであえて遠いゲルマニア領のアスロの港なんです﹂
﹁そりゃ、提督。交易の税を払わなくてもいいからさ﹂
俺の単純明快な理屈を聞いて、黒いモジャモジャ頭のジャン提督
は、腹を揺すって笑った。
﹁フゥハ、将軍はセコいですな﹂
1725
﹁倹約家って言ってくれよ﹂
﹁でも、閣下の言ってることもわかりますよ。ゲルマニア帝国海軍
が健在なら、エーレソン海峡を通るときに通行税、ゲルマニアの内
海に入ったらまた通行税、港に入っても交易税で、もうやってられ
ませんからなあ﹂
﹁そういうことやってるから流通が停滞するんだよ﹂
帝国が、もし俺の支配地域に入ったら、ゲルマニアの内海全域を
楽市楽座にしてやる。
商売がやりやすい地域にするのだ。金が必要なら、たっぷりと商
人を儲けさせてから搾り取ればいいのである。
帝国だけではなく、何かといえば関所を設けて税金を絞りとるこ
の世界の王族・貴族のやりようは、金の卵を生む鶏を殺して食って
いるようなものだ。
そういう発想から改めさせなければならない。
そう言っている間に、船団はエーレソン海峡を超えてゲルマニア
の穏やかな内海へと入っていく。
船の旅は、馬車より早いから良いよな。
﹁将軍、あれがアスロの港です﹂
﹁ふーん、わりと立派なもんだな﹂
港の周りをきっちりとした石壁が囲っていて、高い灯台もあった。
帝国領最大の自治都市と言うだけの立派さはある。やはり木材の
街らしく、大陸の向こう側では珍しい、木造の建物がやたらと多か
った。
1726
﹁おーい、港へ入港するぞ!﹂
ジャン提督が水夫に命じて、船は港に滑りこむように入っていく。
上手いもんだなと思う、ジャン提督率いるシレジエの水夫たちは、
こっちのほうが本職で海戦よりも交易の方が良いって言ってたから
な。
船が港に入ると、ものすごくたくさんの市民がわらわらと集まっ
てきて、叫び声をあげている。
我々の船団を囲んだ市民はみんなゲソゲソに痩せていて、﹁食料
を売ってくれ!﹂﹁俺だ、俺に売ってくれ!﹂﹁頼むー!﹂などと
手を伸ばして叫び声を上げている。
下手をすると、暴動が起こりかねない異常な状況だ。
甲板から港を眺めている、兵士や水夫も緊張感に顔が強張ってい
る。
﹁どうなってんだこれ⋮⋮﹂
一瞬、本当に暴動が起こってるのかと思った。
我先にと船に迫る市民は鬼気迫っている。ひどい惨状だな。
そこに、自治都市の兵士を連れたお役人がやってきて、殺到する
市民を押しとどめるために声を枯らして叫んでいた。
さすがに槍を構えた兵士たちが来たので、市民も一歩下がった。
﹁落ち着け! 交渉は市長の私がやる﹂
紫色のマントをまとい、ビロードの官服を着た、高級官僚っぽい
雰囲気の壮年の男が、甲板に乗り込んできた。
1727
市長というからには代表者なのだろうけど、青白い顔をした陰鬱
そうな男だ。その頬は、やはりゲソゲソに痩せて弱々しかった。市
長ですら痩せてるとか、なんでこんな状態になってるんだよ。
﹁旗を見て分かると思うが、我々はシレジエ艦隊だ。交易に来たの
だが、これは一体どうなっているのだ﹂
﹁もしかして、シレジエの勇者様ですか﹂
俺の白銀に輝く﹃ミスリルの鎧﹄は目立つらしいからな。
勇者だと叫んで回っているようなもので、すぐにバレてしまった。
﹁そうだが、貴方は﹂
﹁私は、自治都市アスロ市長、ドグラス・ゾンバルトと申します。
お恥ずかしい話なのですが、アスロ市は飢餓状態に陥っております﹂
﹁見れば、ある程度わかるが⋮⋮。でも交易はやってるんだろ﹂
﹁それが、帝国政府が崩壊してより後、定期船が来なくなりまして﹂
ドグラス市長の話によると、帝国海軍の艦隊はブリタニアン海軍
に負けて壊滅してしまったそうだ。
先の戦争で、ブリタニアン領に入った街はブリタニアン同君連合
から救援してもらえるのだが、旧帝国領として残ってしまった都市
の運命は悲惨である。
クーデターで壊滅した本国の救援はない。
そりゃ、旧帝国の領邦政府は、どこも自分のことだけで精一杯だ。
対岸の自治都市のことなんて考えてもいないだろう。
ドグラス市長は、貧窮した市民を救うためアスロ市にある二隻の
コッグ船と小型ガレー船をかき集めて、独自に食料を輸送をしてい
1728
たのだが、スウェー半島最大の自治都市であるアスロの人口は一万
人以上である。
とても、市民の人口すべて賄える食料を確保できず、飢餓状態へ
と陥ってしまったのというのだ。
なるほどこうなってるとは考えなかったが、帝国の本領ですら飢
餓による打ち壊しが起こっているのだから、そりゃこっちはもっと
酷いことになっていても不思議はない。
﹁それはまた、大変だな﹂
﹁先ほど送った船も、連絡が途絶えてしまい、もしかしたら海賊に
襲われてしまったのかもしれません。今はもう、市民総出で都市の
外に居るゴブリンの群れを襲って、その肉を食らって飢えを凌いで
る始末でして、どうかシレジエの勇者様にお助けいただきたい﹂
モンスターの肉を食らうのは、うちの義勇軍では普通なんだけど。
こっちの市民の感覚だと、かなりの緊急事態ってことなのかな。
まあ、ゴブリンの肉は臭くてマズイからね。
美味しく食える調理法を教えてやろうかと言ったら、眼を丸くさ
れた。
そうだねー、モンスターの肉を普通に食料にするって発想は、こ
の世界の人ではなかなか出てこないわなあ。
スウェー半島でも、美味しくないモンスターの肉を常食の食料源
バ
としているのはさらに北の環境の厳しい不毛地帯に住んでいる海賊
ぐらいのものだそうだ。
ッカニア
モンスターの燻製肉を作って飢えを凌いでいる北海の海賊は、燻
製肉野郎と蔑まれて呼ばれているらしい。
1729
過酷な食糧事情だからこそ、海賊行為を働くのも致し方ない面も
あるのかもしれないな。
こちらの常識で言えば、モンスターの肉を好んで食っている俺も、
バッカニアの海賊だ。
﹁お助けと言われてもな、食料を輸送してきたから交易しては欲し
いんだが﹂
﹁ええっ、もちろんそれはお願いしたいのですが、これはまたとな
い機会。この自治都市アスロも、シレジエ王国の保護領にお加えい
ただきたいと、市を代表してお願いします﹂
まさか、独立を重んじる自治都市が、自分から保護領にしてくれ
と言ってくるとは思わなかった。
よっぽど困窮しているのだろう。いずれは帝国も保護国にしよう
と考えていたのだから、それが今でも構いはしない。
﹁わかった、保護領に加える。とりあえず運んできた食料は、ドグ
ラス市長に任せる。代わりに木材をいただきたいのだが﹂
﹁ええもちろんですとも! 食べられない木材なら売るほどござい
ます﹂
それを売って欲しいから来たんだよ。
まあ、とにかくそれどころじゃないらしい。
﹁まああれだ市長、飯でも食うかね﹂
﹁いえっ、貴重な食料ですから。きちんと市民に均等に行き渡るよ
うに分配せねばなりません﹂
愛想笑いもできない、神経質そうな顰めっ面の市長だが、とても
公平な性格らしい。自分も飢えているのに、市長である自分が食べ
1730
るのは、一番最後だと言ったのには立派な為政者だと感心した。
ドグラス市長は、部下の官僚や兵士に命じて、俺の艦隊の船に満
載されている食料の総数をチェックすると、運び出して行く。
代わりに、上質の木材をたっぷりと船倉に詰め込んでくれる。思
ったより、この商売は上手くいきそうだな。
﹁市長、我が艦隊は公国の港スケベニンゲンと自治都市アスロに定
期航路を設ける。食料と木材の交易だから、そのように取り計らっ
てくれ﹂
﹁はい、今のアスロは人あまりの状況なのです。食べられるなら何
でも良いという失業者がたくさんいまして、ぜひ何か他にも仕事を
いただければ幸いです﹂
ドグラス市長がそう提案してくれるので、足りてない水夫の補充
を行うのと、大砲の台座など細かい部品を発注することにした。
造船技術はコッグ船や小型のガレー船しか作れないらしいが、元
々が木材の街なので木工技術もなかなかのものなので、大砲の反動
を逃がすための車輪付きの台座ぐらいは作れそうだ。
木彫りの人形も特産らしい。こんなものあんまり需要はないだろ
うけど。
持っていくかと言われて、少しだけもらっていくことにした。素
朴なデザインなので、商品として良いかはともかく、俺はわりとこ
ういうのが好きではある。
とりあえず、定期航路の路線を開拓したのを目処に、俺は一旦シ
レジエ王国に帰ることにした。
いまのシレジエ艦隊は、たった三隻とはいえ大砲で武装している
のだから、俺がいなくてもガレー船主体の北海の海賊などに負ける
1731
ことはないだろう。
最大の自治都市アスロがこうなっているのでは、帝国領側の街は
みんなたいへんなことになってるんじゃないかな。
他も気になるが、帝国領の安定を目指すなら、こっちの救援も考
えていかないといけないだろう。
1732
134.自治都市アスロ︵後書き︶
<i125120|12243>
ゲルマニア地図修正バージョン。
海峡と内海、自治都市アスロを書き加えてあります。
1733
135.建造計画
俺が単体なら、カアラに抱えて飛んで貰えばいいので、シレジエ
までは休憩を何度か挟んでも一日で行き着ける。
もしかしたら、スケベニンゲンの港で別れて馬車でシレジエ王国
に帰ったライル先生たちより早く帰還できるかもしれない。
飛べるって本当に便利だなと言うと、カアラは﹃時空の門﹄イェ
ニー・ヴァルプルギスが使っていた﹃転移魔法﹄を研究中らしい。
あれは神聖リリエラ女王国時代の古代魔法だったよな。おいそれ
と扱えるものではないとは思うが、魔族の魔法に加えて人間の魔法
を最上位まで極めたカアラは別格の天才なのだ。
魔法技術に関しては、魔族のほうが一日の長がある。
もしかしたら、カアラならできるかもしれない。本当に、便利な
女だ。
どうせ魔王呪隷契約で縛っているんだから逆らいようもないのだ
が、ここまで積極的に働いてくれると、何か褒美をやらないといけ
ないなと思う。
まあ、どうせ俺の子供を魔王にしろとか言い出すんだろうけど、
そこら辺はどうしたものかなあ。
﹁これが出来たら、要所を魔方陣で繋いで、もっと早く多くの集団
を輸送できるようになります﹂
﹁早くそうなることを祈るよ﹂
シレジエの王城に帰ると、ホッとして息が抜ける。
1734
もうすでに、王都シレジエこそが、俺の家なのだなと実感する。
﹁お早いお戻りですね﹂
﹁ああ、帰ったよシルエット﹂
王城の赤い絨毯を進むと、知らせを聞いた女王自ら俺を出迎えて
くれた。まあ奥さんなんだから当たり前だけど、女王自らのお出迎
レガリア
えとはありがたいものだな。
王冠をかぶり、王笏を持ったシルエットはすでに女王という立場
が板についていて、それなりに貫禄もあって、気品のある立派な振
る舞いができている。
﹁ライル先生たちは、まだ戻ってないのかか﹂
﹁ええですから、お戻りが早いなと。公国での仕事は終えられたの
ですよね﹂
わらわ
﹁まだ問題山積みだが、当面の対処はしてきたよ﹂
﹁では妾も、今日の執務は終わりとします﹂
シルエットが目配せすると、廷臣たちが平伏した。
タイミングがいいときに帰って来たものだな。
﹁では、休ませてもらおうか﹂
﹁ええそう致しましょう﹂
ライル先生たちが戻ってきてないということは、カロリーン公女
もまだ里から戻ってきてないということだ。
彼女の横槍が入らないなら、これはいよいよシルエットと本当に
結ばれるときが来たのかもしれない。
1735
そう意気込んで、後宮のベッドまで行くと、シェリーが突っ伏し
て寝ていたので、ズッコケてしまった。
次から次へと、好事魔多しか。
あいかわらず無駄に豪華な、金箔がきらめく大型のシャンデリア
の明かりに照らされて、銀髪のシェリーはゴロンとシルクのシーツ
の上で、寝返りを打った。
気持ちよさそうに寝てるのはいいんだけど、さすがに放置もでき
ないので、揺さぶって起こす。
﹁おい起きろシェリー﹂
﹁お兄様ダメです⋮そんな兄妹同士で⋮﹂
ダメなのはお前だ。
後宮の出入りは、限られた人間にしか許可されていない。俺の奴
隷少女とはいえ、宮中を取り仕切ってるシャロンの許可がないと入
れないはずなのだが。
﹁ちゃんとシャロンの許可をもらって入ったのかよ﹂
﹁あっ⋮おはようございます﹂
ボサッとした銀髪を持ち上げるようにして、ベッドの上で小さい
身体を起こした。まだ寝ぼけてるなコイツ。
長旅から帰ってきた俺より疲労困憊とは、シェリーは何をやって
るんだろう。
﹁もう夕方なんだけどな﹂
﹁ガレオン船奪取の報告と、船の設計の大まかな概略が届いたので、
新造船の設計図を作ってみたのです。それで、お帰りになるのがそ
ろそろかなと、ここでお待ちしてるうちに寝てしまいました﹂
1736
﹁用があるなら良いんだが、新造船の設計図ってまだ先生たちも戻
ってきてないのにどうやって作ったんだ﹂
﹁ツルベ川に快速船を通していますから。手紙の伝達なら陸路を行
くより、川を経由してランクト公国から早馬を走らせた方が早いん
です﹂
﹁なるほど、しかし設計の報告が届くの早すぎないか﹂
﹁比率などを記した単なるアウトラインです。本格的な分解と解析
はこれからでしょうけど、キャラック船の製図があれば、ガレオン
船との比率でだいたい予測できますから。それを基に新造船の設計
を大まかにしてみました﹂
シェリーが広げたのは、ガレオン船とは似ても似つかない直線的
なフォルムの船の設計図だった。
この短時間で、新しい図面を引いたのかよ。さすが数学チート。
それで、力尽きてここで寝落ちしてたんだな。
﹁これあれだな、鉄甲船に少し似てる﹂
﹁鉄甲船ですか。材質は鉄ではなく、黒杉を予定しているんですが﹂
船の上の台形の楼閣を築いたような船楼のフォルム。むしろイー
ジス艦にも似ている。
なるほど黒杉は普通の木材のように曲げたりできないから、自然
とこういう角張った船形になる。
シェリーの提案はこうだ。
木材と同じ軽さで、鋼鉄以上の強度を誇る黒杉で軍艦を作れば、
上級魔術師の攻撃にすら耐えられる強度の強襲型軍艦が作れると。
1737
﹁よく考えたものだ﹂
﹁計画自体は、前からあって、造船の専門家と共に研究しておりま
した。キャラック型より安定性の高いガレオン型の設計が分かりま
したから、新造軍艦はより完璧な船になりますよ﹂
頭の中ではどんな船でも考えられるが、作って海に浮かべて見な
いと、上手く動くとはかぎらないのだ。
その点、ガレオン型はすでに運用に成功しているので、その比率
をモデルに作れば失敗がないというわけだ。
﹁それで、俺に黒杉を伐採しろと言いに来たんだな﹂
﹁一隻作るだけでも相当な量の黒杉が必要になります。伐採も加工
もお兄様にしかできないわけで⋮⋮﹂
さすがに申し訳なさそうに顔を伏せるシェリー。
前に、黒杉の砲台を大量に作った時も、めちゃくちゃ大変だった
んだぞ。しかし、シェリーに頼まれて嫌とは言わんさ。
﹁ああ気にしなくて良い。まったく、先生もシェリーも俺をこき使
ってくれるぜ﹂
﹁お兄様がご苦労された分の成果は、必ずや上がるとお約束します﹂
チート
天才にそう太鼓判を押してもらえれば心強い。
骨を折る意味があるというものだな。
﹁では、早速明日から作業に入る。急ぎなんだろう﹂
﹁はい、続々とガレオン船の詳細な解析情報は入ってくると思いま
すので、それに合わせて出来る作業から先にしていただいて、同時
進行で設計の修正を行っていきます﹂
1738
一日も早く最強軍艦を、か。 カスティリア海軍に勝利できれば、セイレーン海の交易権益が手
に入る。
投資した分のリターンは確実にあるのだ。
シェリーが、先を焦る気持ちもわからなくはない。だが、気を張
り詰めすぎなんだよ。もう少し休むことも覚えた方がいい。
﹁急いては事を仕損じると言うぞ。俺も長旅で疲れたから、今日の
ところは、とりあえず休ませてくれ﹂
﹁そうですか、じゃあ私は邪魔にならないところに居ますので、ご
ゆっくりお休みください﹂
シェリーがベッドの隅っこに行こうとする。いやいや、そうじゃ
なくてね。
これから子供に見せられないことがあるから、別室の下がって欲
しいんだけど。
﹁シェリーさんも一緒に寝ればいいじゃありませんか﹂
﹁良くないよ!﹂
シルエットが俺をいなすように言うので驚く。どこまで寛大なん
だよ。
相手は子供だから、カロリーンとは違うんだぞ。まあシルエット
は、歳のわりにちっこくてチッパイだからシェリーと、身体のサイ
ズ変わらんけどさ。
﹁えっ、本当に一緒に良いんですか? まさか女王陛下の許可が降
りるとは思わなかったので、心の準備がやや不足しています。もっ
と綺麗にしてくればよかったです﹂
1739
﹁いや、だから良くないって言ってるだろう﹂
シェリーは好奇心が旺盛だから、夫婦の夜の生活も気になるんだ
ろうけど。
さすがに洒落にならないので、渋るシェリーを何とか寝室から追
い出した。
やれやれ、ようやく休める。
シルエットは、俺たちが押し問答している様子を楽しそうに見て
いた。本当に、なんでも受け入れる寛大な女王陛下だな。
正妻なんだし、もうちょっと断ることを覚えてもいいんだぞ、シ
ルエット。
﹁それにしても、シルエットとの週一回の約束。なかなか守れなく
てすまない﹂
﹁いえ、タケルは王国のために働いてくれているのですから、妾が
それを咎めたりはしません﹂
﹁よく出来た奥さんだな﹂
﹁でも寂しいので、城にいらっしゃるときはなるべく近くに居てく
ださいね﹂
可愛らしいことを言うので俺はシルエットを抱きしめると、その
ままベッドへ⋮⋮と思ったけど、風呂がまだだったなと思って、抱
きかかえて浴室に向かった。
女王陛下なのに、お姫様抱っことはこれいかに。
なんて言いながら、寝室の外にでると、視界の端っこにチラッと
銀髪が見えた。
1740
﹁シェリー⋮⋮﹂
﹁あはは、初めて来たので道に迷ってしまいました﹂
廊下の柱の影に、シェリーが隠れていた。
後宮と言ってもさほど広くはないし、聡明なシェリーが道に迷う
わけもない。
﹁隠れて覗こうと思ってたんだろ﹂
﹁ごめんなさい﹂
好奇心が強い子供にも困ったものだ。
まあ豪華なベッドルームはやたら広いから、仮に部屋の外から覗
いても何がなんだかわからないだろうが、子供に覗かれてると思っ
ただけで、恥ずかしくて出来たものではないからな。
こういう時はシャロンだと思って、呼ぶ。
音もなく現れたシャロンは、逃げようとするシェリーを瞬く間に
捕まえて抱え込んだ。
﹁さすがシャロン、お見事だな﹂
俺の奥さんはたくさんいるんだが、組織のまとめ役ができるのは
シャロンしかいない。
自然と、彼女が後宮の取りまとめ役をするようになっている。
﹁ご主人様がお風呂に入られるなら、私たちもご一緒してよろしい
ですか。シェリーもこうやって捕まえないと、なかなかお風呂に入
らないんですよ﹂
1741
えっ、シェリーって風呂好きだと思ってたんだけどな。
仕事が忙しくて、入るのに億劫になってるってことか。
﹁うーん、まあいいか﹂
﹁わーい!﹂
シャロンに脇に抱えられたまま、シェリーが両手を挙げて喜んだ。
やっぱり風呂好きだよな。
ハーレム
一緒に風呂に入っても、今日は我が後宮の問題児のリアとカロリ
ーンがいないから、シェリーに恥ずかしいところを見られる心配は
あるまい。
あの二人がいなければ、子供の教育上問題のあるようなことにな
るはずもなかった。
1742
136.久しぶりのお風呂
俺は、風呂が好きだ。
こうして成り上がってみれば、王族というのも好き勝手できるも
のではなく、いろいろと忙しくて、大きな湯船で手足を伸ばせる機
会は貴重だ。
できれば、一人でゆっくりと楽しみたいところなのだが、まあ家
族サービスも大事だろう。俺ももう結婚して、子供もできようかと
いう男なのだから贅沢を言ってはいけない。
ワイワイ言いながら、シャロンがシェリーのエプロンドレスを脱
がしてやり、自らも脱ぐさまほのぼのと眺めて﹁これはこれで、悪
くないな﹂などと思っていたのだが⋮⋮。
﹁んん?﹂
なんか、違和感というか。
﹁なあ、シルエット。シェリーと並んでみろ﹂
﹁はい﹂
純白のドレスも絹の下着も脱ぎ捨てて、裸体になったシルエット
は同じくシャロンに脱がされたシェリーと並ぶ。
身長は、シルエットの方がまだ優っているのだが、胸が⋮⋮。
﹁なあシェリー、いま何歳だ﹂
﹁えっと十二⋮⋮﹂
1743
そう聞いて、横に居たシャロンがもうシェリーは、誕生日が来て
るから十三歳だと言い添える。
シャロンは本当に偉い、たくさんいる奴隷少女全員の年齢と誕生
日を覚えているのだ。
﹁それはおめでとう、なんか誕生日プレゼントを用意しておくな﹂
﹁ありがとうございます!﹂
それはいいのだが、シェリーは胸が成長しすぎてないか。
この前、一緒に入ったのいつだっけ、ついこの間だと思ってたん
だが。
子供の成長は早い。
俺は、シェリーだけじゃなくて奴隷少女の親代わりだと思ってい
るから、娘の身体を見てもなんとも思わんし風呂ぐらい一緒に入っ
ても構わんと思っていたんだが。
俺の妻であるシルエットと並べても、女性らしい身体つきになっ
てきているシェリーとずっと入ってるって、これマズくないかとふ
っと我に返ってしまったのだ。
だいたい父親代わりとは言うが、十三歳といえば俺の世界で言え
ば中学生だろう。中学生の娘と、普通の父親が一緒に風呂に入るだ
ろうか。
﹁うーん﹂
﹁あの、入らないんですか﹂
腕を組んで、考えこんでいる俺の顔色を、シャロンが窺う。
みんな平然としてるし、いまここで一緒の入浴を断るのも、なん
か意識してるみたいで逆に恥ずかしい。
1744
﹁ああ、すまん。先に入ってくれ。俺もすぐ追いかけるから﹂
俺は、いったん後宮の庭にでると、お風呂場の外で薪をくべてい
るロールを捕まえた。
﹁いやー!﹂
﹁お前も一緒に入るんだ﹂
ロールを脇に抱えると、煤だらけになってしまっている赤いメイ
ド服も下着も脱がす。
彼女はブラはつけてない、木綿のパンツだけだ。なぜなら、まっ
たく必要ないからだ、
﹁お前いつから風呂に入ってないんだよ、服もいい加減に洗濯もし
ろよ﹂
﹁ごしゅじんさま、あたしはよごれないたいしつだから、いいんだ
よ﹂
良くないよ。だから、なんなんだその意味のわからん設定は。
赤銅色の髪の毛も、砂でジャリジャリじゃねえか。
﹁ところでロールお前何歳になった﹂
﹁よくわかんないけど、たぶん十三さい﹂
歳は増えてるらしいのに、まったく成長していない。
お前の胸も尻もペッタンコな身体つきを見ると、まだ子供だと安
心するわ。
ドワーフということもあって、背が低いだけでなく成長自体が遅
1745
いのかもしれない。
よく考えれば、俺が歳を取るのだから奴隷少女たちだって大人に
成長する。ロールはまだまだ平気だが、これから難しい時期に入っ
てくるんだなあ。
風呂嫌いのロールには悪いが、今日は彼女を一緒に風呂にぶち込
むことで、中和させてもらうことにした。
よく考えたらシェリーだけ特別扱いし過ぎだし、仕事を頑張って
いるといえばロールだって身を粉にして働いてるのだ。
﹁あー、またロールさんだけご主人様に洗ってもらって、特別扱い
ズルいです!﹂
﹁いくらでもかわってあげるよ⋮⋮﹂
シェリーは俺に洗われるのが好きかもしれないが、ロールにとっ
ては拷問らしいぞ。
妻であるシルエットと洗いっこすると、変な空気になってしまう
可能性もあるので、シャロンがシェリーを洗い、俺がロールをゴシ
ゴシと洗う流れでいく。
ロールを洗うのも久しぶりだ。
シャロンだって、これだけ大量の奴隷少女を抱えて、全員を面倒
みられるわけではないからな。砂でジャリジャリになってる髪を石
鹸で洗い流しながら、もっと彼女を面倒見てくれる人がいるんだろ
うなと思った。
シェリーとかロールとか、専門分野では有能な働き者に限って、
生活面では無頓着だったりするから。
上手く奴隷少女同士で、注意しあうような体制を作っておかない
といけないのかもしれない、ロールの場合は仲がよくて生活面でよ
1746
く気がつく料理長のコレットによく見ておくようにお願いして⋮⋮。
⋮⋮いや、一人じゃ言うことを聞かないだろうから、三人ぐらい
で囲んで無理やり風呂に浸けて。
﹁ごしゅじんさま、わるいかおしてる。なにか、ふおんとうなこと
をかんがえてる?﹂
﹁考えてないよ、ほらすごく綺麗になった﹂
綺麗にすれば、ロールの赤銅色の髪も輝きを取り戻すのだ。
褐色の肌も綺麗だし、この世界のドワーフは黒妖精なので、耳も
尖っていて可愛らしい。
ロールは動きやすいように、いつも髪を切りそろえてショートカ
ットにしてるから、洗って髪を整えればそれだけで映えるのだ。
﹁お前は、元がいいんだから、もうちょっと身嗜みに気を使えば、
もっと綺麗になるんだぞ﹂
﹁ロールおふろきらい﹂
石鹸を泡立てて、身体を磨き上げてやりながら、どうしてこんな
ワガママに育ってしまったのかと嘆息する。
ご主人様である、俺のせいなんだろうなあ。
﹁まあいい、お前は俺がずっと磨き続けてやるわ﹂
﹁やーやー﹂
やーやーじゃない。戦国武将か、お前は。
本当に、いつまで子供のつもりなんだか。俺は、こういうのが可
愛いと思ってしまうので仕方がない。
1747
﹁シャロンお姉さま、ロールさんのああいう甘え方って、卑怯です
よね﹂
﹁貴女も、もうすこし子供らしくすればいいじゃないですか﹂
隣で、シェリーがシャロンに髪を洗われながら愚痴っていたので、
俺は苦笑する。シャロンも笑ってる。
形は大きくなっても、まだ甘えたりないのだろう。境遇が境遇だ
し、そうやって甘えていればいいとおもう。
シェリーは、大人をやるのを強いられてるからな。
俺やシャロンには甘えていいんだ。
﹁ふぁー﹂
ざぶんと湯船に浸かって手足を伸ばせば、極楽気分だ。
そりゃ旅先でもお湯で身体を流すぐらいはしているが、やはり湯
船に浸かるのとはぜんぜん違う。
身体が温まって疲労が一気に抜けていくようだ。
一緒に入っているシルエットがこっちに擦り寄ってくるから、そ
の手をとって、膝に乗せて抱きしめてやろうと思ったら、慌てて泳
いできたシェリーが俺の膝の上にスルッと入り込んできた。
﹁遠慮がないな﹂
﹁遠慮するなって、お兄様が言ったんですよね!﹂
まあ、そのようなこと言ったかも知れないけど。
いまはシルエットと夫婦のスキンシップをと思ったんだがと、シ
ルエットの顔を見ると苦笑していた。
1748
﹁甘えさせてあげればいいじゃありませんか﹂
﹁そうか、そうだな﹂
シルエットは本当に寛大だ。正妻の余裕というものだろうが、余
裕すぎておもいっきり付け込まれてるんだよなあ。
まあ、夫婦のスキンシップなら、今晩たっぷりとできるから良い
か。
そう考えつつ、俺はシェリーを膝に抱きながら、シルエットの手
のひらを握っていた。
今晩はいよいよ、シルエットとも一線を超えてしまうかもしれな
い。
﹁お兄様、興奮してます?﹂
﹁なんでだ⋮⋮﹂
﹁なんとなく、お尻にたくましい盛り上がりが感じられて﹂
﹁わー!﹂
シェリーに指摘されて気づくとは、俺としたことが。妻と手を握
っていて、興奮してしまうのはしょうがないけど、この場では抑え
るべきだった。
慌てて跳ね除けたので、おもいっきり湯船にシェリーを沈めてし
まった。
﹁ゲホゲホッ、お兄様酷いですよ。放り出すことないじゃないです
か﹂
﹁すまんつい⋮⋮﹂
1749
﹁それに生理的な反応は、仕方がないと思います。私とお兄様の間
柄で、いまさら恥ずかしいことじゃないですよ﹂
シェリーは、もしかして男の生理的な反応をもう知ってるのか。
シルエットですら知らんのに。
優等生でなんでも吸収するシェリーには、リアが面白がっていろ
いろといらん知識を吹き込んでるらしいから、知っててもおかしく
ないか。
でも子供に面と向かって﹃生理的な反応﹄なんて言われてしまう
と、こっちは恥ずかしいんだよな。
﹁シェリー、お前にはまだ早い﹂
﹁えっ、何が早いんですか﹂
そのまま、やけに艶かしい仕草で擦り寄ってくる。
いや、そんなふうにしなだれかかられても、シェリーには反応し
ないからね。あくまで、シルエットに興奮したんだし。
しかし、恥ずかしいのは確かだ。
いろいろと差し障りがあるので、俺は湯船を泳いで後退した。
﹁あっ、逃げた。ねえ何が早いんですか、お兄様!﹂
﹁知らないよ、シャロンに聞け!﹂
俺はバシャバシャと泳いで、シャロンのところまでいく。
シャロンは、油断すると湯船から上がろうとするロールを抑えこ
んで、ゆっくり浸からせていた。
さすがは、奴隷少女のお姉さんポジションである。
1750
しかし、こんな状態だと、シャロンにシェリーまで任せるわけに
はいかないよな。
﹁ねえ何が早いんですか、教えてくださいお兄様﹂
﹁何がってお前⋮⋮わかって言ってるんじゃないか﹂
そのわかっている微笑みは、俺を困らせて喜んでるように見える
ぞ。
湯船の端っこに追い込まれて、俺は質問攻めにあった。両手を広
げてピッタリと抱きつかれて、逃げ切れない。
本人はふざけてるつもりなんだろうけど、やっぱり気のせいじゃ
なく、シェリーはしっかり女性の身体に育ちきってしまってるよな。
抱きすくめられて胸に当たる、しっかりと柔らかい双乳の感触が、
もう一緒にお風呂に入るのはマズい身体だと語っているような気が
する。
﹁そんなの具体的に教えてもらわないとわからないですよ。もっと
手取り足取り詳しく教えてくださいお兄様ー﹂
﹁お前はおっさんか﹂
俺をお風呂の端っこに追い詰めて喜んでいたシェリーが、もう耐
え切れないというように吹き出した。
冗談だったのかと、フッと息が抜ける。
﹁アハハッ﹂
﹁はあ、やっぱりわかってフザケてたのか。大人をからかうもんじ
ゃない﹂
シェリーは、情緒面はともかくとして頭が良いからな。
1751
俺を辱めてからかうぐらいのことは平然とやる。まったく困った
もんだ。
﹁ごめんなさいお兄様、ちょっと意地悪でしたね﹂
﹁そうだよ、男女間のそういうのを覚えるのは、まだお前たちには
早いから﹂
﹁じゃあ大人になったら教えて下さいね﹂
﹁まあ大人になったら⋮⋮﹂
いや、おかしくないか。そういう男女間のアレって、親が教える
もんだったっけ?
この世界は職業訓練制度はあっても、一般教育をしてくれる学校
がないから、誰も教えてくれないんだよな。
そうすると、親か親代わりが教えることになるのか。
性教育がないからシルエットが、リアに偏ったことを教えられて
からかわれたんだし、純粋無垢なことが良いとも限らない。
﹁約束しましたからね﹂
﹁⋮⋮うーん﹂
どうなんだろう、そういう保健体育的な教育もあったほうがいい
のかな。
変なところから、この世界の教育問題について考えることになっ
てしまった。俺は為政者なので、教育制度についてもいろいろと提
言できるのだ。
ライル先生は教育学にも詳しかったから、相談してみたほうがい
いだろうか。
1752
現代と同じようにはいかなくても、公教育機関を設けて、カリキ
ュラムで教えたほうが市民レベルも向上するかもしれない。いろい
ろと、改良点が見つかるものだ。
﹁あれ、どうしましたお兄様﹂
考え事に沈んでいる俺の顔を、上目遣いに覗きこんでくる。
その銀色の瞳に、紅潮するほっぺたには幼さが残るが、胸はやけ
に育って大人の身体に近づいていることを意識してしまう。
﹁いや、お前たちにもそのうち必要にはなるんだろう。大人になっ
たら、もう風呂には一緒に入らないけどな﹂
﹁えー! じゃあまだ大人じゃないです。子供です﹂
そりゃそうだろうと、俺はシェリーの銀髪を撫でてやる。
指にからみつく濡れた髪は、なんとも言えない心地よい感触がし
た。いつもはオーバーワーク気味で乾いている印象なのに、お風呂
に浸かっているときのシェリーは、銀糸のような髪も、色素の薄い
肌も、瑞々しさに満ちて美しく輝いている。
﹁まだ子供でいいんだな﹂
﹁はい、子供でいいです。困らせてごめんなさいでした﹂
シェリーはキラっと瞳を輝かせると、イタズラッぽく笑って、ペ
ロッと舌を出した。
そういう仕草は、あまり子供っぽくはないのだが。
﹁お前もたまには、風呂にゆっくり浸かったほうが良いんだろうし
な﹂
﹁はい、私はお兄様と一緒じゃないと入りませんよ﹂
1753
﹁それは困るな﹂
﹁困るならもっと可愛がってくださいよ﹂
そういう感じに、お風呂のことで困らせてくれるのは、ロール一
人で十分なんだが。
ああなるほど、さっきロールだけズルいって言ってたもんな。
シェリーには、ロールだけ可愛がっているように見えるのだろう。
なかなか、奴隷少女たちを公平に可愛がるなんてのは、俺には難
しい。
そういう開いた穴を、シャロンにフォローして貰わないことには、
俺は何も出来ないのだ。
そうして、頼っているという意味では、シェリーの小さい肩にも
重い負担をかけてしまっている。
彼女が、疲れているのは、俺の仕事を頑張ってくれているからだ。
俺は彼女の肩を優しく揉んでやった。
﹁はぁ、お兄様気持ちいいです﹂
﹁そうだろうな、お前この歳で肩こりとか、ちょっとやばいぞ。少
しは身体も動かして、頻繁に風呂に入って身体を温めるようにしろ﹂
俺はさんざんと暴れまわってるから肩こりはないんだが、シェリ
ーはもっぱらデスクワークなので凝っている。
﹁はぁ、気持ちいいです。私の凝りは、お兄様が全部ほぐしてくれ
ればいいじゃないですか﹂
﹁甘えすぎだろ﹂
1754
苦笑しつつも、シェリーが凝っているのは俺のせいだから、硬く
なった筋肉を揉みほぐすして、手足の筋も伸ばしてストレッチして
やる。
小さい身体だから、全身をマッサージしてやるぐらいでは、こっ
ちは疲れない。
﹁はぁ、はぁ、気持ちイイ! ああっ、そこ! そこが気持ちよす
ぎてぇ﹂
﹁ここか、ゆっくりと伸ばすから、痛くなったらいえよ﹂
﹁ひぐっ、気持ちいっ、もっと痛いぐらいに強くぅ﹂
﹁いや、痛くなったらダメだって言ってるだろ﹂
俺は、何言ってるんだと笑った。
シェリーは、たまに変なことを言うからな。痛い方がいいってド
Mじゃあるまいし。
﹁ううっ、たまらない。もっと強く﹂
﹁あんまりやり過ぎると、もみ返しがくるんだよ。物足りないぐら
いで十分だよ﹂
﹁あーん、胸も揉んでください﹂
﹁揉むわけ無いだろ、終わり終わり﹂
﹁じゃあ、自分で揉みますから、後ろからギュッとしてください﹂
﹁えー﹂
俺が迷うと、﹁この前約束したご褒美まだでしたよね﹂と冷静に
言われる。
1755
﹁ここでそれを使ってくるのかよ﹂
﹁なんだったら誕生日のプレゼントもこれでいいです、後生ですか
ら中途半端なところで止めないでください﹂
﹁わかったよ、後ろから抱けばいいのな﹂
﹁はぁい、もっと強くお願いします﹂
俺が後ろから抱きすくめると、シェリーは湯船の中で自分の身体
を触っている。
﹁はぁ、なんかこれ、少しいかがわしくないか﹂
﹁いえぜんぜんまったく、後ろから抱くぐらい、普通の兄妹のスキ
ンシップですっ! ああっ⋮⋮﹂
あんまり、シェリーが艶めかしく喘ぐので。
なんか恥ずかしくなって、俺は手でシェリーの口を塞いだ。
そしたら、また俺の手を取って指を吸ってくる。赤ちゃんかよ。
俺の指をチュッチュと吸いながら、ブルっとシェリーは身体を震
わせた。
﹁なあ、シェリーこれいつまで﹂
﹁最後に目をつぶってもらえますか﹂
シェリーの言われるままに、俺は目をつぶる。
すると、抱きしめていたシェリーの身体が、スルッと抜けた。
﹁ん? ⋮⋮んんっ!﹂
1756
そのまま、シェリーから頭をつかむように抱きしめて、激しくキ
スをしてくる。
びっくりして目を開けた俺は思わず、身体を引き離して、口を手
で拭った。
﹁ああっ⋮⋮﹂
﹁お前、キスはダメだろ﹂
﹁なんで、兄妹のスキンシップ﹂
﹁これはちょっと、さすがにダメだろ﹂
なんだこの変な空気、シェリーは小さな頭を俺の肩に寄せてまた
擦り寄ってくる。
ぐったりとした顔で、満足したらしいからいいけど、いきなりキ
スするとかマナー違反だろう。これはダメだと教えておかなくては
いけない。
﹁キスはダメなんですか﹂
﹁少なくとも、いきなりするのはダメだ﹂
﹁じゃあ、指を舐めてもらえますか﹂
﹁それならいいけど﹂
俺の指を舐めたと思ったら、今度は舐めさせるのか。あいかわら
ず変な趣味だ。
シェリーは、小さい指を俺の口の中に入れてきた。
﹁んっ、んっ?﹂
﹁どうですか、美味しいですか﹂
1757
指が美味しいわけ無いだろうと思ったけど。
なんだこれ、ぬるっとしてて舌先に少し甘酸っぱいような味がす
る。指に蜂蜜でも塗ってたのだろうか。
﹁⋮⋮もういいか﹂
﹁はい、いい誕生日プレゼントでした。まだ子供ですけど、一歩大
人に近づけたような気がします﹂
そういって、シェリーは俺に舐めさせた指を舐めていた。
これ、止めさせた方がいいよな。
いつの間にか、シェリーのペースにハマって、言いなりになっち
ゃうんだよな。
やっぱり俺は、この娘を甘やかせすぎで、気をつけないといけな
い。
労をねぎらうのは大事だが、シメるところはビシッとシメないと。
あと、誕生日プレゼントぐらいちゃんと用意する。
といっても、シェリーが喜ぶ物って、本当に難しいんだけれど。
明日からの作業を頑張って、黒杉で出来た軍艦を製造してやるの
が、シェリーへの最大のプレゼントになりそうな気がした。
1758
137.新造船着工
シェリーを満足させたのが良かったらしく、その番はついに邪魔
が入らず、シルエットがついに本当の男女の営みを自ら見出した。
しかし⋮⋮。
﹁ごめんなさい﹂
﹁いや、しょうがないよ。最初はみんな痛いっていうから﹂
固く閉じた入り口を、完全に開くことは叶わなかったのである。
思えば、俺の妻はみんな楽勝すぎた。調子に乗って、一歩間違っ
てたら、シルエットを傷つけてしまったところだ。
﹁ゆっくりやっていけばいいからね。シルエットの番は溜まってる
んだから、明日の夜も時間を取るから﹂
﹁はい、お願いします﹂
本来、初めてというのは大変なものなのである。
ただでさえ、シルエットは年齢よりも身体つきが幼い。無理にや
ってはいけないって、俺の直感が正しかったのだろう。
ここで無理やりにやって痛みを与えてしまうと、シルエットのト
ラウマになってしまうかもしれない。
時間をかけて、慎重にやっていきたい。そのために、俺はしばら
くシレジエに滞在する時間を取ることにした。
どうせ、俺もシレジエでやらなきゃいけないことがあるのだ。
1759
※※※
魔の山に、新造船計画のスタッフが集まって作業開始となった。
いまだに戦争の傷跡、というか掘りまくった坑道で穴だらけにな
っていて、山一面に生えていた黒杉もだいぶ少なくなった。
船を作るためにまた黒杉を切り出すから、そろそろこの貴重な資
源も枯渇するだろう。
次に黒杉が生えてくるまでどれほどの時がかかるやら、木材は一
朝一夕には生えない。その分、ヴィオラが作っている薬草園のスペ
ースを広げられるから、悪いことばかりではないのだけれど。
ちなみに、作業に従事するスタッフは、俺とシェリー、船大工に
木工技師、そしてオックスの街の樵ギルドの最長老であるヨロギ爺
である。
木材の切り出しが進んで、輸送する人夫もやって来る予定だ。
﹁今度は素人の勇者様に、伐採だけじゃなくて木材加工も教えにゃ
ならんのか﹂
﹁また世話になるなヨロギ爺﹂
ヨロギ爺はやれやれと言った感じで、首をぐるりとまわしてから
背伸びをする。肩をポキポキ鳴らすと、真っ白の短髪を掻いて笑っ
た。
かくしゃく
齢は八十を超える爺さんなのに、ずっと山仕事をしてきた男なの
で、矍鑠としたものだった。
とにかく、俺は伐採を開始して、まずまっすぐの簡単な板から加
工を始める。
前に伐採した分が、少し残っているのも助かる。
1760
黒杉は、しばらく伐採しておいておいてもまったく変わらない。
丈夫というより、植物由来であるにもかかわらず、木材とはまっ
たく別の素材に変化している感じだ。
俺は図面通りに切って板を作っているのに、なにやらヨロギ爺は
腕を組んで不満そうな顔をして。
うーんと唸った。
﹁なあ勇者様、この図面書いたのは誰じゃね﹂
﹁そこのシェリーだけど﹂
ヨロギ爺は、シェリーの幼い顔を見て。
ほえっと、呆れた顔をする。
﹁あんなちっこい娘っ子か、そりゃしょうがないわいねー﹂
﹁図面がなんかおかしかったのか、船大工や木工技師のチェックも
入ってオーケーも出てるんだが﹂
﹁そりゃ紙の上ではええように見える。だけど、こりゃ遊びがなさ
すぎるわい﹂
﹁遊び?﹂
﹁そうじゃ、形ががっちりしすぎとるんじゃあ。硬いは脆いじゃよ。
このままだとすぐ沈む﹂
﹁沈むって、どういうことだ。設計に余裕が無いからダメってこと
か、素材が硬いから⋮⋮柔軟性がなさすぎるってことか?﹂
あいかわらず、ヨロギ爺の言ってることはよくわからないが、爺
はこう見えてもシレジエ一のベテラン樵なのだ。
1761
理屈なんかわからなくても、木でなんでも作ってみせるし、爺が
直感的にマズいと感じたならどこかにマズい点があるはずだ。
俺が作業を止めて、技師とシェリーたちに柔軟性がなさすぎるの
と、設計に無理がありすぎるのではないかと、なんとか通訳して説
明してみた。
そのおかげで、喧々諤々の議論が起こっている。たしかにヨロギ
爺の指摘は的を射た部分があるらしい。
黒杉は木材と違って曲げられないから嵌めこんで継ぐことになる
のだが、接続部が硬すぎることで船体にどのような影響が出るかが
未知数なので、大工や技術者も気になっていたそうだ。
ヨロギ爺がマズいと言えば、やっぱりマズいのだろう。
作ったこともないのに、設計図どおり完璧に行くなんてないから
な。
俺が何か物を作った経験なんてプラモデルぐらいしかないが、あ
んな簡単なものだってつなぎ合わせると設計図通りいかなかったり
する。
まあ、俺は専門家ではないのでその間も木を切るだけなんだけど。
ヨロギ爺はまだ納得いってない
﹁バケモン杉で、船を作ろうなんてのがまず無茶苦茶なんじゃわい﹂
﹁アハハッ、バケモン杉って言い方は面白いな﹂
まさにバケモンが湧く森だしな。
頭上を鷹よりも大きな鳥が、キキキキーッと甲高い叫びを上げて、
大きく羽ばたいて飛んで行く。
1762
﹁笑い事じゃないわい。船が沈んだら、人がたくさん死ぬじゃろ﹂
﹁そうだな、沈まないようにするにはどうしたらいいかな﹂
﹁そうじゃねえ、船の部分はやっぱり軟い木で作って、硬くしたい
ならその周りをバケモン杉で覆ったらええじゃろ﹂
﹁なるほど、本当に鉄甲船みたいにするわけか﹂
案の一つではある。
もともと黒杉は加工が難しすぎるのだ。しかも、その木材を切り
出して加工するのは素人の俺である。がっちりした設計で作れとい
うほうが土台無理だろう。
﹁それにの、完璧に壊れない物を作ろうとしちゃいかんよ。そうい
うのは物の理に反しとるわいねー﹂
﹁あーなるほど、なんとなく爺の言うこともわかる﹂
ヨロギ爺が直感的にダメだと思ったのは、この図面は完璧すぎる
ってことなのだろう。
一部の隙もなく船体を完璧に作れば、一部の隙ができたら全部が
瓦解してしまう。
﹁物には強い部分と弱い部分を作っておくんじゃ。そしたら弱い部
分が先に壊れるから、そこを直せば長く持つじゃろ﹂
﹁なるほどなあ、わざと壊れてもいい部分を作っておくのか﹂
ヨロギ爺の言うことにはまったく理論的な裏付けがないが、素人
の俺にはとても正しいように響く。
黒杉だけを素材に船を作るのは至難の業だし、もしそんな最強軍
艦が出来たとしても、ちょっとでも壊れたら修理もできない。あっ
という間に沈んでしまう。
1763
俺はヨロギ爺の話をなるべく話して、設計を調整してもらうこと
にした。
どうせ覆うなら全面にということで、おそらく完成品の黒杉軍艦
は、二重構造になって甲板や内板を木材で、骨格や外板を黒杉で作
る形になるだろう。
大本の設計はガレオン船なのだが、いろんな人の意見が加わるこ
とでどんどん改良されてまともな形になっていく。
本当の最強とは、単なる鉄壁ではなく硬軟併せ持つことなのかも
しれない。
そんな感じで、いろんな人の関与があって、新造軍艦の製造は少
しずつ進んでいくのだった。
※※※
クタクタになって王城に帰れば帰ったで、今度は夜の航海が待っ
ている。
王将軍に休みはなかった。
﹁なんて、自分で言っててもな﹂
﹁タケル何かおっしゃいましたか﹂
いやいやと、俺は苦笑する。
シェリーがヨロギ爺の指摘を受けて、躍起になって設計をやり直
してるので今日は邪魔が入らない。
シルエットと二人で、ゆっくり入浴を楽しめる。
ふっと気が付くと、シルエットが俺の上に跨って、なんとか固く
1764
閉じた股を緩めようとがんばっていた。
﹁ふうっ、やっぱりなかなかですね﹂
まあ、お湯で柔らかくなるってこともあるかもしれないけど。
そんなに焦らなくてもいいんだよ。お風呂のときぐらい、休めば
いいのに。
﹁シルエット、硬くなっちゃダメだ。もっと身体の力を抜いていれ
ばいいんだよ。人間の身体は、自然とできるようになってるんだか
ら﹂
﹁自然とですか?﹂
俺は、昼間のヨロギ爺の話を思い出してきた。
完璧にやろうとしてはダメなのだ、遊びがないと壊れてしまう。
頑張ろうとしすぎたり、痛みを怖がったりして、余計に強張って
しまう。
上手くやろうとしすぎなければ、上手くいくのに。
﹁なあシルエット。二人でこうして居るだけで、いいだろう。でき
ても、できなくてもいいんだよ﹂
﹁はい、あなた⋮⋮﹂
シルエットが、奥さんらしいことを言うので、俺はおかしくなっ
て笑ってしまった。シルエットも、ウフフと笑う。
その瞬間にスルッと、俺はシルエットと繋がった。
﹁なあ、こんなもんだな﹂
﹁ええそうですね、難しく⋮⋮考えすぎてたみたいで﹂
1765
﹁痛くはないか﹂
﹁ちょっと、ビリッとしますけど、大丈夫みたいです﹂
リラックスしたのが良かったのだろう。温かいお湯の中で、俺は
シルエットとようやく一緒になれた。
破瓜の証が、すっとお湯の中に溶けていった。
ようやく最愛の正妻に、本当の意味で受け入れて貰って、俺は至
福の時間を味わうのだった。
だが、ここで求めすぎてはいけない。もらえるものだけを受け取
り、与えられるものだけを与える。
﹁人には人のペースがあるんだ。ゆっくりと、一緒にやっていこう
な﹂
﹁はい、妾も、もう焦りません﹂
やっぱり、俺はシルエットと一緒にいるときが、一番幸せに思う。
言葉で伝えなくても、お互いにお互いが、この世界で唯一のかけ
がえの無い存在であることが伝わる。
愛する人を、ただあるがままに抱くこと。
それがどんな激しい摩擦よりも、心に深く染み入るような心地良
さなのだった。
1766
138.地方貴族叛乱
黒杉軍艦の材料作りがようやく一段落した。
スケベニンゲンの港では、ガレオン船の新造も進んでいるし、シ
レジエ艦隊による自治都市アスロへの食料輸送の救援も上手く行っ
ているようだ。
シレジエやトランシュバニアはもともと食料生産が豊かなのだが、
それに加えて討伐したモンスターの肉をなるべく保存食として活用
し、原価ゼロの安価な食料としてアスロに送ることにした。
きちんとした処置で干して、工夫した調理法で食べれば、最低ラ
ンクのゴブリンの肉ですら問題なく食べられるということを教えな
ければならない。
皮は重ねて使えば防寒具にもなるだろうし、緊急時には船の帆の
代用品にすらなる。冒険者にとって見れば、モンスターは捨てると
ころがない資源だ。
自治都市の市民は、文明化が進んでいるせいでたくましさを失っ
ているように思える。
緊急時にはモンスターの肉だって、自然の恵みとして美味しくい
ただくことが大事だ。
まあ、そんなこんなでゆっくり内政を整えている時間というのは、
永久には続かないわけで。
ライル先生が、血相を変えて後宮にやってきた。
﹁あれ、今日先生の番だっけ﹂
1767
﹁そんな呑気なこと言ってる場合じゃないですよ、南部の地方貴族
がついに叛乱を起こしました﹂
ついに、不穏な動きを見せまくっていた地方貴族が徒党を組んで、
叛乱の兵を上げたとのことだった。
南部のブルグンド家とアキテーヌ家の二大侯国が中心となって結
成された地方貴族軍は、シルエット女王の退位と、現在のブラン家
当主、ボンジュール・イソワール・ブラン男爵を建国王レンスの血
を引く正統として、王位の移譲を求めている。
﹁男爵が、叛乱の旗印なんですか。なんかヘボいなあ﹂
ボンジュールってえらく陽気な名前だ。ブラン家の人間なんだか
ら、どうせ麻呂なんだろうけど。
﹁もちろん、叛乱軍の中心はピピン侯爵とアジェネ伯爵夫人ですけ
どね。ブラン家当主、ボンジュール男爵といっても、十二歳の少年
貴族です。名門ブラン家も、遺児が彼しか残ってないんですよ。ど
ちらにしろ単なる傀儡で、実権はピピン侯爵が持っているのですが﹂
﹁そうなんだ、少年の麻呂か﹂
ちょっと想像がつかないなあ。
﹁なんだか、あんまりビックリしてないですね﹂
スカウト
そりゃ、南方の貴族の動きが怪しいのは、密偵から報告を受けて
いたし、来るべきものが来たというものだ。
シレジエ国民同士の血が流れることになるから、できればきて欲
しくないとは思っていたが、避けがたいことなのだろう。
1768
﹁では、こっちはどうです。拳奴皇ダイソンの軍勢が、要塞街ダン
ブルクも反ダイソンで蜂起したロイツ村も無視して、ランクト公国
に攻め入りました。おそらく一直線にランクトの街を狙っています﹂
﹁えっ﹂
﹁シレジエの南東の漁村、ガレーの村がカスティリアの艦隊に襲わ
れました。こっちは海軍もなく、海防の備えも不十分なので為す術
もありません。この状態では、海岸のどこからカスティリア兵が上
陸してくるかわかりません﹂
﹁ええー!﹂
ライル先生は、シルクのベッドの上に、お手製の軍略地図を広げ
た。
﹁三方同時攻撃です。おそらく、拳奴皇ダイソン、カスティリア海
軍、南方の地方貴族の三派は結託しています。シレジエ包囲網です
よ﹂
﹁なんだって!﹂
それは予想してなかった。ああそうか、いつの間にか俺は、織田
信長みたいな状態になっていたのか。
最近、平和だったから迂闊だった。この非常の事態に、先生が落
ち着いているのが唯一の救いといったところか。
﹁さて、こっちの味方ですが、頼みのブリタニアン海軍はいまだ前
回の敗戦の傷が深く、ローランド王国もゲルマニア帝国から吸収し
た旧領を安定させるのに忙しいですから、牽制ぐらいにしか役に立
ちません﹂
﹁絶体絶命じゃないか﹂
1769
そう言うと、先生は嬉しそうに微笑んだ。
頼もしいな、まったく。
﹁絶体絶命というのは、打つ手が無いときに言うのです。まずは、
どの程度国軍と義勇兵の兵力を割くかですね﹂
﹁そんなの全軍を救援に向かわせて、ああでも三方なんだよね﹂
﹁そこなんですが、タケル殿。私が思うに、この攻撃のすべてが陽
動なんじゃないですかね﹂
﹁えっ、包囲網自体が陽動ってこと﹂
そうか、包囲網にばかり気を取られて展開させていくうちに、薄
くなったところを一気に奇襲しようってことかな。一瞬でそこまで
気がつく先生はさすがだった。
先の大戦でボロボロになった帝国には人物が少なくなったが、カ
スティリア王国には上級魔術師も、それなりの策士もいるのだろう。
﹁海上から攻めるカスティリア、陸上を直進して特攻を仕掛ける拳
奴皇軍、南方からこっちを誘い出そうとする地方貴族⋮⋮つまり敵
の目標は一点。王都シレジエです﹂
﹁ふーむ﹂
﹁地方に兵を分散させた間に、手薄になった王都シレジエを陥落さ
せようって作戦なのでしょう。まあ、王都を落とせば首を落とした
も同然ですから、何せここには⋮⋮﹂
﹁シレジエの女王と、ゲルマニア帝国の皇帝と皇孫女がいる﹂
﹁貴方もですよ王将軍閣下、御自覚が薄いようですから言っておき
ますが、トランシュバニア公国もランクト公国も貴方が居るからま
とまってるんですよ。シレジエ王国自体、勇者の盛名が無ければ成
1770
り立たないんです﹂
﹁肝に銘じますよ﹂
先生は、トンっと俺の胸を手のひらで軽く突いた。
﹁本当に肝に銘じてください。本格的な戦争になるなら、タケル殿
にフラフラと動かれては困るのです。どこかの救援に飛ぼうと思っ
ていたでしょう﹂
﹁さすが先生ですね﹂
読まれていたか。
先生は、しっかりと俺に釘を刺すと対応策を説明し始めた。
﹁南岸のカスティリアへの対応には、ジーニーが率いる砲兵五百と
義勇兵五百を向かわせます。基本は、艦隊へ対岸からの砲撃ですね、
敵兵の上陸が確認されたら王都からの第四、第五兵団で対応します﹂
﹁妥当だと思います﹂
﹁南方貴族への抑えは、砲兵五百、義勇兵二千を送ります。もとも
と、備えに配備してあったので展開は早いと思います﹂
﹁国境線の国軍の防衛はどうなんですか﹂
先生が、地図を指さす。南部の地方貴族は、イエ山脈を挟んで向
こう側だ。山脈のこっち側がダナバーン侯爵が治めるエスト侯領と、
王領になる。王領はもとより、シレジエの中心であるエスト侯領に
攻め入られたら厳しい。
あそこは、銃や大砲の生産拠点だし、俺たちの故郷であるロスゴ
ー村があって、サラちゃんも住んでいる。
﹁ドット男爵領が、ちょうど境目になりますね﹂
1771
﹁何か聞いたことがあるような﹂
イエ山脈を挟んで、エスト侯領と反旗を翻した地方貴族の首魁、
ピピン・ナント・ブルグンド侯爵が治める、ブルグンド侯領がある
のだが、その真ん中に小さな男爵領があるのだ。
ここが境目になるのか。
﹁ドット⋮⋮。ああ、もしかして、あのゲイルの領地だったところ
ですか﹂
﹁そうです、今は第三兵団の兵団長であるザワーハルト男爵が治め
てますね﹂
それも聞いたことあるな。
﹁ザワーハルト男爵は、ほらゲイルの率いるクーデター軍との戦い
のときに、盗賊砦に立てこもってた兵団長ですよ﹂
﹁あー、あの関ヶ原の日和見主義者か﹂
もうだいぶ昔のことのように思い出す。
ザワーハルトは、シルエットの王軍か、ゲイルのクーデター軍か、
どっちの味方になるか決めかねて、イヌワシ盗賊団の砦に引きこも
っていたところを、俺が砲撃を仕掛けて半ば無理やり味方にしてや
ったのだ。
﹁ザワーハルト男爵が、またキャスティングボードを握ってるんで
すか﹂
﹁そうなりますね、第三兵団が駐留してるドットの城は、有能だっ
たゲイルがかなり増築して硬い城になってますから戦術拠点として
も重要です﹂
1772
ザワーハルトの顔とか、俺は全く思い出せない。というか、砲撃
仕掛けただけで会ったことがなかったかもしれん。
いっつもそういう役回りの男なんだなあ。
﹁裏切りそうなら、また砲撃を仕掛けてやるかなあ﹂
﹁だから、行かないでくださいね。エスト侯領の防衛には義勇兵二
千が展開できますし、各地から義勇兵が集結すれば、銃・大砲・弾
丸ともに豊富なんですから戦力の増強は可能です。仮にザワーハル
ト男爵が裏切って、トッドの城と第三兵団が敵に回ったとしてもす
ぐには負けないでしょう﹂
﹁南方貴族が俺を誘い出そうとしてるのは、囮だから行っちゃダメ
ってことですね﹂
﹁よくわかってるじゃないですか﹂
﹁でもさあ、ロスゴー村にはサラちゃんが代官としているんだよな
あ﹂
﹁ですから、義勇兵もすぐ展開できますし、安全ですよ。聡い娘で
すから、万が一の際もうまく立ちまわってくれるでしょう﹂
﹁そうじゃなくて、シレジエ会戦のときも呼んでないのに勝手に王
都の連隊長になってたよね。また暴発して、今度は将軍にでもなっ
て地方貴族攻めだすんじゃないだろうか﹂
﹁アハハッ、まさか考えすぎですよ﹂
そうだろうか、だって前の戦のときだって、敵将の首を挙げてる
んだけどな。
先生は、自分の教育学の成果を、過小評価しすぎているような気
がする。
1773
なにせ王国の首脳も、義勇兵団の上層もみんなサラちゃんの知り
合いなのだ。
あの娘のコネクションと、それを利用する際の果断さは、バカに
できないと思うのだが。
﹁まあいいか、そうなったらそうなったで危険ってわけじゃないだ
ろうし﹂
﹁それより、ランクト公国への救援なのですが⋮⋮﹂
そこに、ガチャガチャと具足を鳴らして、完全武装のルイーズが
入ってきた。
ハーレム
﹁おお、ルイーズがついに我が後宮に!﹂
俺の念願がついに叶ったぞ。
なんて、フザケてる場合じゃないけどさ。
﹁火急のことゆえ、失礼する﹂
輝く﹃オリハルコンの鎧﹄。手甲の部分だけは、ダイソンに奪わ
れているのでそこだけは黒く光る黒杉製だが、それが逆に颯爽と燃
えるような赤毛をなびかせたルイーズの格好よさを増しているよう
な気がする。
ルイーズは、さっと俺の前に跪いて上奏する。
﹁ランクト公国への救援、私の騎兵隊二百騎とマリナの近衛騎士団
あるじ
五百騎で行こう。シュザンヌとクローティアも連れて行くから、我
が主は自分の身は自分で守ってくれよ。一応ジルを残していくが、
あれは女王陛下の護衛騎士だからな﹂
﹁そうか、ルイーズが行ってくれるなら頼もしい﹂
1774
﹁馬なら足が速いので間に合うだろう。音に聞く拳奴皇ダイソンと
やらと、剣を交えてみたいと思っていたし、腕が鳴る﹂
﹁うん、ランクト方面軍には味方に﹃鉄壁﹄ヘルマンもいるしな。
最強の剣であるルイーズと、最強の盾であるヘルマンが挟み込めば、
いくら最強の拳闘士であるダイソンでも勝てないだろう﹂
あるじ
﹁そうだな、我が主の剣として恥ずかしくない戦いをしてこよう﹂
ルイーズは言うだけ言うと立ち上がり、ダンと拳で腰の剣を鳴ら
して意気軒高を示すと、勢い良く後宮をあとにする。
もうちょっとゆっくりしていけばいいのに。
そう思う、俺の願いが通じたのか、ルイーズは足を止めて、ちら
っと後ろを振り返った。
﹁どうしたルイーズ﹂
やはりゆっくりしていくのか。
何ならベッドに寝ても良いのだぞ。
﹁いや、今回の戦争。何となく嫌な予感がしてな。気のせいだとい
いのだが﹂
﹁うーんいま先生と、それを話してたところなんだよ。誘い出す罠
かもしれないって﹂
﹁またサラのやつが勝手なことをしそうな気がするから、目を離さ
ないようにしておいてくれよ。私たちが戦に巻き込んでしまった手
前、あの娘に何かあったら、世話になったロッド家に申し訳ない﹂
﹁そっちかよ! ルイーズ、それにサラちゃんのことは、俺がもう
1775
言ったからね﹂
ルイーズは、それだけ言うと駆けていった。
最強の鎧と大剣を装備した﹃万剣﹄のルイーズは、これから一直
線にランクト公国へと向かい、敵をなぎ倒してくるのだろう。
何なんだろう、こんなにサラちゃんをしっかり見てろと言われる
と、やっぱり心配になってくるな。
明らかに、フラグ立って来てるんじゃないかこれ。
1776
139.サラ代将の決起
﹁サラ代官、ピピン侯爵を始めとした南方の地方貴族連合が、ご謀
叛です!﹂
﹁時は来たわね﹂
バタンと、サラ・ロッドは執務室の机の上に置かれた本を閉じた。
サラが読んでいた分厚い本の表紙には﹃戦術要覧﹄、著者名には
﹃ライル・ラエルティオス﹄と記されている。
ロスゴー村の代官であり、防衛隊長でもあるサラが執務を取って
いるのは、村の広場の一角にある村役場。
石造りの村では一際立派な建物。説明するまでもないが、ライル
先生とタケルが書記官だった時代に使っていた建物である。
本棚には先生が読んでいた書籍が沢山残されており、中にはライ
ル先生自らが古今の戦術をまとめて注釈をつけた書籍も残っている。
サラは、村の代官として退屈な政務を執る傍ら、こうしてずっと
書の世界に篭り、この世界でも一、ニを争う知識チートである先生
の戦術思考を追っていたのだ。
カリキュラム
サラが、先生の用意してくれた英才教育を地道に、辛抱強くこな
しつづけた下積みは、全てこの日のためと言っても過言ではない。
南方の地方貴族叛乱。王都にある義勇兵団の本軍は遠く、馬車で
も四日はかかる。義勇軍を展開させるにはもっと時間がかかるだろ
う。すぐに叛乱に対処できるだけの兵も将も不足しているのだ。
そう、この瞬間こそまさに、王将軍の愛妾であり︵噂︶、稀代の
1777
名軍師の弟子︵言い過ぎだけど、まあこれは本当︶である、サラち
ゃん兵長が活躍するお膳立てが整ったのだ。
長い雌伏の末、待ち続けた機会が、ついにきた。
﹁サラ代官の仰るとおりでしたけど、これからどうするんですか﹂
不安そうに聞くのは、サラより一歳年長のミルコ・ロッサだ。ロ
スゴー村義勇軍の副長格であり、サラに敬愛と忠義を捧げる崇拝者
でもある。
金髪で青い瞳のミルコは、年齢の割には長身で、やや線が細いこ
とを除けば美青年といえる容姿だった。その紅潮したほっぺたには、
まだ幼さが残る。
少し気が弱そうな表情を浮かべたミルコの顔をジッと眺めて、サ
ラは面白そうにフンと鼻を鳴らして立ち上がった。
﹁どうすんのって、決まってるじゃない。この絶好の機会を生かし
て、みんなで成り上がるのよ!﹂
そう叫びながら、何の前触れもなく村役場から飛び出て、サラは
兵舎へと駆ける。
その少女の背中を、ミルコ青年は慌てて追いかけた。
燃え続ける火の玉のようにエネルギーに満ち溢れたサラの足は速
い、本気で駆けたら男の子のミルコでも追いつけないぐらいに。
※※※
﹁みんなぁぁ、楽しい戦争の時間がやってきたわ! 三十秒で支度
しろ!﹂
1778
突然兵舎に飛び込んできたサラの号令に、兵士たちは飛び起きる。
いつもの緊急招集訓練通り、﹁一、ニ、三、四、五﹂と点呼を始
めた。
五人隊の伍長が十人。ロスゴー村だけではなく、付近の村からも
独自に義勇兵を集めたサラ直属のロスゴー村義勇軍は、五十名を超
えていた。
みんな貧農の子供であり、体格が貧弱な者も多かったが士気は高
い。その目は爛々と輝いていて、厳しい訓練にも一人も脱落するこ
となく耐え切った。
なぜなら彼らロスゴー村義勇隊は、王将軍閣下の発祥の地を守る
近衛銃士だからだ。王将軍の近衛兵としての誇りを持てと、サラは
常々教えている。
﹁全員揃いました!﹂
﹁よーし、ご苦労様。あらかじめ言っておくわ、これは訓練ではな
い、繰り返す。これは訓練ではない!﹂
緊急招集にも関わらず、一兵も遅れること無く兵舎の前に整列し
たロスゴー村義勇軍は戦意高揚だ。
サラと同い年の少女旗手が高らかに掲げるシレジエの青い旗を、
サラは頼もしげに見上げて叫んだ。
﹁いよいよ、日頃の厳しい訓練の成果を見せる時が来たわよ。私は
これより諸君らを、新しい戦場へと案内します。諸君らのなかには、
あのシレジエ会戦においてゲルマニア最強の竜騎士を討ち取った勇
士もいるでしょう。なあに、ぜんぜん心配することはないわ。竜騎
士に比べれば、今度の敵は惰弱な貴族どもだから楽勝よ﹂
1779
王都の戦いで、あの役立たずの腰抜け貴族どもの弱さは見たでし
ょうと、サラは兵士たちを笑わせて調子づける。
子飼いの兵士を前に熱弁を振るうサラに、あとから追いかけてき
たミルコはようやく追いついた。
﹁ハァハァ、サラ隊長⋮⋮﹂
﹁ミルコ副長、これより私のことは代官でも、隊長でもなく、サラ
シェフ・デスカードル
代将と呼びなさい。みんなも聞いて! 私はこれより佐渡タケルの
将軍代理として叛乱軍との戦いの指揮を執る。それに伴い、諸君ら
も一階級昇進。兵卒は伍長、伍長は軍曹へと昇格させてあげるわよ﹂
﹁うおおおお!﹂と義勇兵から大きな歓声が上がる。
﹁ちょっと、そんなの勝手にしていいんですか!﹂
苦労人のミルコは、冷や汗をかいている。
その血相を変えた顔を見て、フフッとサラは笑う。
﹁ミルコ。あんたも一時は、シレジエの勇者の秘書までやった男で
しょ。しっかりしなさいよ。私が兵長として人事権の一切を委任さ
れたのは知ってるでしょ﹂
﹁それ義勇軍結成初期の話でしょう﹂
﹁あら、委任状までもらってるし、私は形式的にまだ解任されてな
いもん。緊急事態に伴って、現場が独自の処置を執るのはしょうが
ないことだわ﹂
﹁そんな無茶苦茶な﹂
サラはイタズラっぽい笑顔で、懐からタケル直筆サイン入りの委
1780
任状を取り出してみせる。
﹁なあに、手柄を立ててしまえばこっちのもんよ。タケルだってこ
うやって出世したの知ってるでしょ。私が手柄を立てて正式な将軍
になったら、あんたも一隊を任せてあげるから気張りなさいよ﹂
﹁いいのかなあ⋮⋮﹂
ミルコは、勇者であるタケルや義勇兵団長のルイーズが、なぜか
サラに頭が上がらないのを知っているので、まさか処罰されること
はないとは知っている。
しかし、それでも指揮系統を勝手に乗っ取っていいわけがないと
思っているようだ。彼は、臆病なのである。
﹁結果が全てよ、さてアレを持って来なさい﹂
義勇兵が、馬で引けるように馬車に乗った青銅砲を運んでくるの
で、ミルコは腰を抜かしそうになった。
貴重なシレジエの最新兵器が、なぜこんな村に配備されているの
かと。
﹁た、大砲なんてどうしたんですか!﹂
﹁イエ山脈の製造工場からちょろまかしたのよ。私が運んでるんだ
から、ちょっと分けてもらっても全然バレなかったわ。四門だけだ
し﹂
それは、問題ありすぎだろうとミルコは文句を言おうと思ったが、
もうなんて言ったらいいか分からずに絶句していた。
サラは、タケルたちが大砲を作る製造段階から関与してるので、
砲術にも明るい。子飼いの義勇兵の一部を砲兵へと育てていたのだ。
弾の補給もばっちりである。
1781
﹁さあ、まずは最前線。ドット男爵領のドットの城に向かうわよ。
どうせ第三兵団は、地方貴族側に付こうか、シレジエ王国側に付こ
うか迷ってるところだから、ここで私たちが一発かまして敵に行か
せないようにする﹂
追手、前線に味方の増援も来るであろうから、それまで寡兵を以
てロスゴー村義勇隊で持ちこたえさせようというのだ。
ミルコには、本当に無茶苦茶に思えて、でも言葉が出なくてため
息をついた。
﹁分かりました、これも勇者様のためです。行きましょう﹂
﹁ええ、じゃあ出陣よ! まずはドットの城を支配下に置いて、そ
こでバカ貴族どもを迎え撃つわ﹂
手に火縄銃を持ち﹃黒杉の鎧﹄を着て、シレジエの白百合の紋章
が入った青いマントを身に付けたサラは、自ら颯爽と軍馬を駆って
近衛兵たちを先導する。まだ少女なのに、一軍の将の威風がそこに
はある。
サラの風にたなびく金髪は、陽の光を浴びて金糸のように輝いた。
それが大いなる栄光の前途を約束しているように見えてるのか、農
民出身の若い兵士たちは一様に明るく、高らかに笑い声をあげた。
これから戦場に征くというのに⋮⋮。
心配性のミルコ青年は、サラが危険になったら、自分の命に変え
てでも守ろうという決意していた。
それだけの強い思いを持って、どこまでも駆けていく少女の背中
を追いかけているのに、﹃サラのため﹄とは言えずに、﹃勇者様の
ため﹄と言ってしまう。
1782
ミルコ・ロッサとは、そういう若者であった。
1783
140.日和見のザワーハルト
ドット男爵領。イエ山脈のちょうど西の真横。北の王領と東のエ
スト侯爵領。そして、南のブルグンド侯爵領に挟まれた、三角形の
猫の額ほどの土地である。
街といえるほど人も住んでおらず、農村が幾つかあるだけの小領
地。
はらわた
それでも南部貴族連合が、シレジエ王国の腸であるエスト侯爵領
を侵略しようと考えると、必ず通らなければならない道だった。
そこに、﹃ゲイルの三日天下﹄と言われたクーデター軍の長であ
った男が、手ずから築き上げたドットの城が立っていることで、一
気にこの戦いでの重要な戦術拠点へと変わった。
﹁こんな田舎まで来て、またキャスティングボードを握ってしまう
とは、俺はつくづくと悪運の強い男と見えるな﹂
石城の窓から、のどかな領地の風景を見下ろすと、ザワーハルト
男爵は嘆息した。
この城と、第三兵団の千人ほどの兵士。どちらに売りつけるかと
悩んだ末に、南部貴族連合に内応しようとようやく決めた。
なんてことはない、反旗を翻した南部貴族連合の方が、先にこの
ドットの城まで攻め寄せようとしているからだ。
たった千人の兵で、その三倍を超える地方貴族軍の相手はしたく
ない。それに、地方貴族軍を率いるピピン侯爵は、味方すれば俺を
伯爵にしてくれると言ってくれている。悪くない話だ。
1784
見たところ、王軍の方の展開は遅く、集結に時間がかかっている
らしい。
この場は、叛乱軍に味方したほうが得と言うものだろう。
ザワーハルト男爵は、くすんだ銀色の総髪にさっと櫛を通した。
きちんと甲冑を身にまとっている。それなりに、戦を前に身奇麗に
しようという騎士の美意識もある壮年の男だった。
鋼鉄の甲冑を身に着けて、騎士隊長として立てば威厳のある風采
の男でもある。
﹁もし王国軍の方が優勢になれば、今度はまた白旗を上げて降伏す
れば良いのさ﹂
にもかかわらず、そんな都合の良いことを考えている姑息さをザ
ワーハルトは、騎士の恥とは思っていない。
そこそこ有能なだけではなく、程よく欲深く、狡い性格であるか
らこそ、彼はこれまでの騒乱を生き残ってこれたのだ。
﹁卑怯だと謗るなら謗れ、俺は強い方の味方なんだ﹂
誰も聞いていないのに、そんなことを語っているのは、やはり男
爵にまでしてもらった女王陛下を裏切るのが多少後ろめたいからで
あろうか。
無理にでも調子づけようと、クックックと笑ってみせたところで、
大砲の音が響いてザワーハルトはそのまま腰を抜かした。
﹁なっ、なんだ。王軍はまだのはずだが⋮⋮﹂
地方貴族軍の方が、先に到着するはずだ。
しかし、地方貴族軍が大砲を手に入れているなんて話しは聞いた
1785
ことがない。
﹁もし王軍が先に来たなら、話は違うぞ!﹂
ザワーハルトは、シレジエの勇者に砲撃を受けた経験からか、大
砲の音が苦手だった。
いきなり聞くと、恐ろしくて腰が抜けてしまうほどになったのだ。
悲しいトラウマである。
そこに、部下が入ってきたのでザワーハルトは慌てて、腰を上げ
る⋮⋮が、鎧が重いのでストンとまた腰からずり落ちてしまった。
入ってきた文官は、ドット領の代官であり、この城の城代でもあ
るズール民政官だった。
ズールは地元の顔役でもある。地方官僚として有能な男であった
から、ドット領を支配するのに引き続き雇ったのだが、彼はゲイル
男爵が失脚したときに裏切った男でもあるので、ザワーハルトは信
用してなかった。
そんな信用のおけない部下を前に、情けないところを見せてしま
い、ザワーハルトは顔を暗くする。
ズールは、それに気が付かない振りをして、平然とした顔で報告
する。
﹁ご領主様、王国軍の尖兵が到着しました。城を叛徒からの防衛に
使うから、入れろとのことです﹂
﹁さっ、先ほどの大砲の音は?﹂
﹁大砲は、景気づけの意味も込めた試し撃ちだと言ってましたな﹂
1786
絶対に嘘だ、ザワーハルトに対する威嚇射撃に違いない。
過去からのトラウマか、半ば強迫観念で、彼はそう思った。
﹁王国軍の兵はどの程度だ﹂
﹁見たところ、銃士が五十人ほどですかな⋮⋮﹂
﹁少ないな。大砲の数は、どの程度だった﹂
﹁四門はあるように見えました。それと、率いているのは女の子で
したね﹂
﹁女の子、ただの小娘だというのか﹂
ザワーハルトは、ようやく立ち上がり、膝を叩いた。
たかだか五十名の兵士なら、たとえ大砲があったとしても、驚く
ことはない。
﹁ただの小娘と言えますかどうか、王将軍の代理将軍サラ・ロッド
であると名乗っております﹂
﹁将軍だと? サラ⋮⋮。もしかして、シレジエの勇者様の愛妾と
かいう小娘か﹂
農民出の小娘を、王将軍が愛でて地元の代官までにしたという噂
は、ザワーハルトも耳にしている。
しかも、その小娘が意外に強いとか。どこまで本当かわからない
が、様々な噂がある。
﹁そのようです。エスト領では、かなり有名ですね。シレジエ会戦
においては、ゲルマニア帝国最強の飛竜騎士団を打ち破り、敵将の
首を挙げたとか。その功績も考えると、将軍というのもあながち嘘
とも思えません﹂
1787
﹁そうか、とりあえずお通ししてくれ﹂
これは困ったことになったと、ザワーハルトは悩む。
もう、地方貴族軍の味方をすると決めてしまっているのに、そう
すると先にやってきてしまった王国軍の尖兵は、殺さねばならなく
なる。
ザワーハルトとて兵団を任せられるほどの騎士だ。
たかだか小娘一人を恐れているのでも、五十人の銃士隊が恐ろし
いわけでも、大砲が恐ろしいわけでもない。
味方か敵かもわからない相手を、いきなり砲撃して平然と殺そう
としてくる、あのシレジエの勇者の恨みを買うことが怖いのだ。
ゲイルとの戦いで、ザワーハルトはシレジエの勇者に後ろから追
いかけまわされて、無理やり突撃させられたのだ。
あの時のトラウマは、今でも夢に見る。
もし王国軍が勝ったら、大事な愛妾を殺された、シレジエの勇者
はどうするだろう。
地の果てまでザワーハルトを追いかけて、殺すのではないだろう
か。彼は、ブルっと身震いした。
これは、とんでもない虎の尾を、城に抱え込んでしまうことにな
る。
そうやって唸っているうちに、当のご本人が城に上がってきてし
まう。副官らしい若い美青年を連れてきた、サラは本当に小さな少
女だった。
代理将軍を名乗る少女は、サラサラとした金髪で、エメラルドグ
リーンの瞳の女の子だった。
1788
なるほど、まだ歳若いがなかなかの美貌ではある。王将軍が愛妾
として愛でるのも、わからなくはない。
﹁ザワーハルト男爵、お初にお目にかかるわね。私は、義勇兵団の
サラ・ロッドよ。王将軍閣下の代理として、賊軍の鎮圧のためにや
ってきたわ。第三兵団も、もちろん王軍として戦ってくれるわよね﹂
﹁あっ、ああ﹂
小さいが、口がよく回る。背の高い金髪の青年を連れて、丈夫そ
うな黒光りする鎧を着けた少女は、いきなり王軍側であることを確
認して、ザワーハルトに釘を刺してきた。
言質を取られた、いやそれよりも気を呑まれた。
後ろの痩せた副官が、じっとこちらを観察するように眺めている。
サラ代将が﹃動﹄だとすれば、その半歩後ろに控える青年は﹃静﹄
か。よくバランスの取れた主従だと、ザワーハルトは見た。
農民の小倅どもと、バカにできない何かがある。
それになんだろう、とても懐かしいのだ。
齢四十を迎える騎士ザワーハルトも、元をたどれば成り上がり者
だ。いまでこそ男爵だ兵団長だともてはやされても、その出自は兵
卒の息子であったに過ぎない。
この土にまみれた農村の少年少女と、似たようなものだ。
ザワーハルトだって、眼の前の若者と同い年の頃に一兵卒から始
めて、騎士団の幹部であったゲイルに才覚を認められて騎士へと成
り上がったのだ。
その希望に耀く瞳は、かつてのザワーハルトの瞳だった。濁った
眼が洗われるような気がして、この若者たちに命を預けてみようか
1789
という気になった。
﹁俺としたことが、柄にも無いな﹂
﹁なにか言った、ザワーハルト男爵?﹂
﹁いや、サラ代将と言ったな。城も領土も使ってもらっても構わな
い。できることならば、何でも協力しよう。ザワーハルト・ドット・
モクスは、これでも王国の誇りある騎士だからな﹂
﹁殊勝な心がけね男爵。タケルには、良いように伝えておいてあげ
るわ﹂
よろしくお願いすると、ザワーハルトは小さい金髪の少女に頭を
下げた。
我ながら、似合わなぬ真似をやっていると思いながらも、悪い気
分はしなかった。時代が変わりつつあることを、ザワーハルトだっ
て感じている。
そして、ザワーハルトだって、かつては変革の側に立った男なの
である。
若者たちの気に当てられて、齢を重ねた身体の若さをかき集めて、
もう一度戦ってみようと思った。
﹁ご領主様、領地で義勇兵を集めてはいかがでしょうか﹂
領地を預かるズール民生官は、サラ代将軍の顔色を窺うように、
そんな提案をする。
これにはいい気分になってたザワーハルトも鼻白んだ。
﹁あっ、ズール。俺が徴募兵を集めると言ったら、誰も応じないっ
て言ったよな?﹂
1790
﹁ご領主様、まことに言いにくいことなれど、王将軍閣下のご声望
で集めるとなると、また違います﹂
﹁じゃあ、こうしましょう。こっちに味方したら、みんな一年間税
金免除!﹂
﹁はぁ!﹂
これはさすがに、領主のザワーハルトは戸惑い、怖気づいた。
領主の自分を無視して、いきなり何を言ってくれてるのだと驚く。
﹁それは良いお考え、喜び勇んで皆駆けつけましょう﹂
ズール民生官は、小さいサラよりも背を屈めてゴマをすっている。
お前どっちの部下なんだよ、いい加減にしろとザワーハルトは叫
びそうになった。
﹁おい、勝手なことを﹂
﹁ザワーハルト男爵! 協力できることはなんでもするって言った
じゃない﹂
﹁グッ、それは⋮⋮しかし、いくらなんでも﹂
﹁よく考えなさい、この戦いで勝てば、地方貴族から領土を奪いま
くれるわよ。領地なんていくらでも増やしてもらえるのよ。子爵、
いや伯爵も夢じゃないわ。それを考えれば、一年間の税金免除なん
てリーズナブル! いや、むしろ安すぎるぐらいでしょ﹂
言われてみればその通りだった。
これが、兵卒出身のザワーハルトと、農民出身であるサラやミル
コの発想の違いなのだ。
1791
﹁わかった⋮⋮﹂
﹁これからの戦いはね、民衆を味方につけたほうが勝つのよ。こっ
ちが戦争に勝ったら、南部貴族の領地はみんな一年間税金免除! これはみんなたぎるわよ﹂
何と恐ろしいことを考えるのだと、ザワーハルトは戦慄した。
領地から上がる税金は、貴族にとってのライフラインなのだ。そ
れを、勝つために切り捨てよと言うのである。
しかも戦争の準備で、出費に出費を重ねた貴族に向かって言うの
だ。収入を捨てよ、さもなくば死ねと!
南方の地方貴族どもはわかっているのだろうか、我ら貴族はとん
でもない戦いに巻き込まれている。
時代が変わったとは、このことかとザワーハルトは嘆息した。
兵卒だった男が、騎士となり、男爵にまで成り上がったと思った
ら、時代はすでに農民の娘が大将軍になる時代に入っていた。
﹁まあ、任せておきなさい。私の味方ならば、ザワーハルト男爵も
出世間違いなし!﹂
﹁はぁ、わかった。もうこうなったら腹を括るから、よろしく頼む
⋮⋮﹂
サラの指摘は、まさに的確だった。
租税免除の話を聞いて、領主のザワーハルト自身がどこに居たの
かというほど多数の徴募兵が、ドットの城に集結した。
これはもはや、貴族同士の諍いではない。
領地の総力戦となった。
1792
ザワーハルト率いる第三兵団千人、義勇兵五十人、領地からの徴
募兵が五百人。計千五百五十人が、難攻不落のドット城に集結して、
叛乱軍の軍勢を迎え撃つ。
城に拠る兵士は経験不足だが、士気だけは意気軒昂である。
叛乱軍を率いて、意気揚々とドット男爵領に向かう地方貴族の首
魁ピピン侯爵は、まさかこんな状態になっているとは知る由もなか
ったのであった。
1793
141.ピピン侯爵の誤算
﹁バカな、この期に及んでザワーハルト男爵が鞍替えを断っただと
!﹂
おのれおのれと、ピピン侯爵は長い顎から生えた、長い長い顎髭
を振り回して怒り狂った。
緒戦でつまずきたくはないからこそ、ザワーハルトには戦後に伯
爵の地位すら約束してやったのだ。
これほどの好条件を与えてやったのに開城を拒むとは。
ザワーハルトは、利に聡い男だと見たのに、この私が見誤ったと
でも言うのかと、ピピンは信じられない思いだった。
﹁一度は内応の約束まで交わしておきながら、裏切るとは信じられ
ん!﹂
﹁いえ、裏切ったのは我々では?﹂
ピピン侯爵の隣にいてツッコんだのは、この戦いのために雇われ
た傭兵団長ゼフィランサス・シルバである。
ゼフィランサスは、ローランド王国出身の二十八歳の美丈夫で、
癖のある長い黒髪に半球形のバイザーのついたサーリットの兜を被
っている。
リングメイル
黒い外套の下には、丈夫な鎖帷子を着込んで、エストックを差し
ている。
傭兵というよりは、スマートで気品のある貴族のような面持ちの
男だが、上級貴族に対しても口さがないのがピピンの気に入らない。
1794
二千人の大傭兵団の団長でなければ、まっさきに解雇していると
ころだ。
ギラッと眼で睨みつけるだけで、無視する。気位の高い貴族は、
いちいち下賤の者のツッコミなど相手にしない。
﹁フンッ、敵の兵はせいぜいが千五百程度だと言うのだろう。それ
が小城に寄って、我が軍の行く手を遮るとは、愚かとしか言いよう
がない﹂
ピピン侯爵とてバカではない。
地方貴族軍の騎士団五百騎に加えて、地方貴族側に付いた、第一
兵団、第二兵団の計二千五百。徴募兵が三千人、ゼフィランサス傭
兵団が二千人。
計、八千人の兵士なのだ。
いくら城で守っているとはいえ、五倍以上の兵力を前に何が出来
るものかと思う。
そう言いつつも、ピピン侯爵にも誤算があったことを認めざるを
えない。
自らの策士としての有能さに自信があったピピン侯爵は、ザワー
ハルト男爵への﹃内応の策﹄が失敗することなど、想定もしていな
かったのだ。
だから、進軍の速度を優先して攻城兵器を随伴させなかった。
いまから、前線に運んでは、かなり時間がかかる。
もしかしたら、内応すると見せかけての籠城が、ザワーハルトの
策だったのかもしれない。
1795
思いの外、強敵なのかもしれないと考えると、気が気でなかった。
おちおちしていれば、籠城している王軍の元に援軍が到着するで
あろう。
女王に対して反旗を翻したからには、一分一秒も惜しいのが現状。
なまじ有能なだけに戦略眼のあるピピン侯爵は、八千もの大軍を
率いながら、前途に暗雲が立ち込めていることを自覚せざるを得な
かったのである。
しかし、第一、第二兵団長や、外様の傭兵団長の前で弱音は吐け
ない。
﹁どうされますか、侯爵閣下﹂
﹁とりあえず城を囲め、もう一度私が直々に開城の申し入れをして
みる﹂
本当は、一気に攻め落とせと言いたいところだが、星型になって
いるドットの城は五つの側塔が守りを固める堅牢な城だ。
こちらは大軍、攻撃して落とせぬとは言わない。
だがドットの城の堀は深く、塀も高い。一気に攻め寄せて、どれ
ほどの被害が出るかもわからず、また落すのにどれほどの時間がか
かるかもわからなかった。
兵、時間、これからエスト侯領の領地へと攻め入り、王城へと迫
ろうというピピン侯爵にとってはどちらも失うことのできぬもので
あった。
ピピン侯爵は自ら馬を駆って、城を囲む兵の前に出ると大声で叫
んだ。
1796
﹁正統シレジエ王国軍の総大将、ピピン・ナント・ブルグンド侯爵
だ。どうか、今一度開城をご検討いただきたい。このままでは、無
益な犠牲が出ることになるぞ!﹂
ピピン侯爵の叫びを聞いて、外に貼りだした外郭塔に、見覚えの
あるくすんだ銀髪の男が顔を出した。ドット城主、ザワーハルト男
爵だ。
﹁ピピン侯爵、残念だったな。俺はこう見えても女王の忠臣だ。お
前のような裏切り者の味方をしない﹂
一度は裏切りに応じた男が、戯言を言うかとピピンは苛立った。
これまでのザワーハルト男爵の経歴は裏切りの連続だ。
そんな男が、忠義を口にするとは当てこすりとしか思えない。
﹁女王の忠臣だと! では貴君はハーフエルフ風情が、女王になる
ことを認めるというのか。名門ブラン家のボンジュール様こそ、シ
レジエ王国の正統なる王となるに相応しいお方なのだぞ﹂
﹁傍系も傍系の、しかも十二歳の子供を担ぎだして、正統なる王と
は良くも言ったもんだな﹂
ザワーハルト男爵は、ピピンを見下ろして皮肉な笑いを浮かべる
だけだった。
﹁よし分かった、ではザワーハルト男爵。その方に、エスト侯爵領
を丸ごとくれてやるぞ。それなら文句あるまい!﹂
﹁ほう、侯爵領を全部か。それは豪気だな⋮⋮﹂
顎をさすり、首を傾げて思案げな表情を見せるザワーハルト男爵。
よし、やはりこの男は報奨で動く。あと一歩で落とせる。そう思
1797
った時、隣にいる黒い鎧を着た金髪の女の子が口を開いた。
﹁あら、男爵。あんな男の言うことを信じちゃダメよ。まだ取って
もいない領地をくれるなんて、子供でも騙されないわよ﹂
﹁ハハハッ、サラ代将が言うと説得力がある。その通り、先にエス
ト侯領を落としてから言えというものだ﹂
﹁何だ貴様は、子供は引っ込んでろ。私は城主に話をしているのだ
ぞ!﹂
﹁あら、子供とはご挨拶ね。私だって、こっちの軍の総大将なのよ﹂
金髪の髪の少女は、薄い胸を居丈高に張ると、そう言い放った。
シェフ・デスカードル
隣にいる少年が、シレジエ王国の青い旗を持って、こちらを見下
ろしている。ザワーハルト男爵も、何も言わない。
﹁ハァ、ふざけるな! 小娘が戯言を言うか﹂
﹁総大将の名乗りを上げておこうかしら。佐渡タケルの将軍代理サ
ラ・ロッドよ。王都シレジエで一度お目にかかったかしら、ピピン
侯爵﹂
﹁バカな、子供を代将に据えたというのか⋮⋮﹂
そう言いながらも、あり得ると思ってしまう。
ピピンは、ようやく金髪の小娘の顔を思い出したからだ。
たしか、シレジエ会戦で王都の連隊長として、農民出身の下賤な
兵を連れて暴れまわっていた子供だ。
それだけでも忌まわしく思うのに、それが自分と同じ総大将だと!
﹁バカはそっちよ、私はシレジエの勇者の代将、率いる軍は義勇兵
1798
団の精兵中の精兵である近衛銃士隊。軟弱なる貴族が、私たちに勝
てると思わないことね﹂
農民の子供が、貴族であるピピンを愚弄するか。
老練なるピピン侯爵とはいえ、これには苛立ちを禁じ得なかった。
彼とて元をたどれば、建国王レンスの重臣であったブルグンド家
の当主だ。
あのシレジエの勇者が権力を欲しいままにしてからと言うもの、
この国はおかしくなってしまった。
由緒正しき貴族の末裔であるピピン侯爵は、建国以来の上級貴族
として国の乱れを正したいとの思いもあって蜂起したのだ。
私利私欲がないとはいわない。だが、いまの王統の乱脈をどうに
かしたい使命感もあった。
﹁ハーフエルフを女王とした次は、農民の子供が総大将だと! お
前たちは、何を考えているのだ。二百四十余年のシレジエの伝統と
格式をどこまで愚弄すれば﹂
ピピン侯爵は、みなまで言えなかった。
バキュンと、激しい発砲音が鳴って、弾が長い顎髭を撃ちぬいた。
﹁チッ、外したか﹂
サラちゃんが構えた、火縄銃の銃口から煙が上がっていた。
それを、信じられないと見上げるピピン。
﹁ひいっ! 卑怯だぞ、まだ話してる途中ぅぅうわああ!﹂
1799
さらに、新しい鉄砲から火花が散る。
サラたちに狙撃されたピピン侯爵は、必死で逃げた。
﹁話しは終わり、うっさいからもう死んでいいわよ﹂
﹁ぎゃあっ!﹂
後ろから、パシュンパシュンと軽い音を立てて弾が飛んでくる。
意外にも器用に、ジグザグに逃げ惑うピピン侯爵のお尻に弾がか
すって、弾と鎧が摩擦で激しい火花を散らせた。
﹁うーん、まあいいか。雑魚だもんね﹂
そんなサラの声が、這々の体で味方の兵のところまで逃げ帰った
ピピン侯爵の耳に届いた。
︵雑魚だと、このブルグンド家当主ピピン・ナント・ブルグンドを
雑魚だとぉぉ!︶
﹁大丈夫ですか、ピピン侯爵﹂
﹁ハァハァ⋮⋮、ええい触るな!﹂
倒れこんだピピン侯爵は、助け起こそうとした傭兵団長ゼフィラ
ンサスの手を跳ね除けると、顔を真赤にして頭から湯気が立つほど
の怒りに燃えて立ち上がった。
﹁それで、いかがなさいます侯爵閣下﹂
﹁聞くまでもなかろう、籠城する敵は寡兵。一気に攻め落として、
城の中の者を一人残らず根絶やしにしろ!﹂
ピピンは、そう命じると憤懣やるかたないといった態度で、本陣
1800
まで戻り床机に座った。
﹁おのれ見ておれよ、身分いやしき者どもが、このピピンを怒らせ
ればどうなるか、その身で思い知るが良い﹂
もうこうなれば、兵を惜しんでいる時ではない。
八千対千五百の戦いなのだ、どのようになっても負けるはずのな
い戦いであった。
※※※
﹁どうしてだ、五倍もの兵で囲みながら、なぜ落ちん!﹂
﹁さすがは堅牢なドット城、側塔に備え付けられた四門の大砲に、
あの鉄砲とやらですな。まとまって攻め寄せれば大砲に吹き飛ばさ
れて、バラけて壁に張り付いて登ろうとすれば、鉄の弾に狙撃され
ます。これではお手上げですな﹂
ピピン侯爵は、他人ごとのように冷静に語る傭兵団長が忌々しか
った。
こんなことで時間を食っている余裕はないのだ、敵だって前線に
増援を送ってくるだろう。
そうなれば、数の有利はいつまでも続かない。
こんなところで、躓いている余裕はないのだ。
﹁鉄砲とやらなら、こちらにも配備してあるだろう﹂
﹁農民の徴募兵に使わせているようですが、向こうとこちらでは数
も条件も違います﹂
シレジエ王国がゲルマニア帝国に勝ったのは、新兵器の威力が大
1801
きかった。
それを目の当たりにしたピピンは、こっそりとイエ山脈の鍛冶屋
から仕入れて、ちゃんと配備しておいたのだ。
ピピン侯爵だって、やることはやっているのである。
だがやらせているだけで、その性質を理解してはいなかった。
﹁数と言っても、兵数ではこちらのほうが多いではないか﹂
﹁鉄砲は飛び道具ですから、機械弓とそう変わりません。城に篭っ
ている側が上から撃つのと、下から撃ち上げるのでは条件が違いす
ぎます﹂
シレジエの王軍は、地方貴族軍に加えて、カスティリア王国軍に、
新ゲルマニア帝国軍を敵に回しているのだ。
負けるとは思わないが、せっかく反旗を翻したというのに、何も
できないまま膠着状態に陥るのは避けたかった。
ピピン侯爵としては、外国に取られる前に、シレジエ王国の領地
をできる限り吸収しておきたかったのに。
これでは単に、カスティリアの尖兵を果たすだけで終わってしま
う。
﹁言い訳は聞きたくない、何のために、傭兵団に高い金を払ったと
思っているのだ﹂
﹁しかしですな、攻城があるなら攻城兵器を用意すべきでしたぞ。
ハシゴだけで堅牢な城を相手にしろとは、あまりにもご無体な﹂
黙れとは言えなかった。
敵の籠城を想定しておらず、その備えを怠ったのはたしかにピピ
ンの責任だ。
1802
﹁それでもやるのだ!﹂
﹁そりゃ、やれと言われれば私ども傭兵はやりますがね﹂
ドット城での激しい攻防戦は延々と続く。
さすがに五倍の兵力は大きい。ようやく、外堀を埋めて側塔の一
つが落とせようとなった頃のことだった。
深夜、地方貴族軍の幕舎から火の手が上がった。
深夜に突然発生した騒乱に、﹁すわ敵の夜襲か!﹂とベッドから
慌てて飛び起きたピピン侯爵の元に、配下の騎士隊長がやってきて
跪いた。
﹁なんだ、何が起こっているのか﹂
﹁申し訳ございません、我軍の徴募兵が、次々と敵側に寝返ってま
す。幕舎は焼かれ、農民兵は反旗を翻しました﹂
ピピン侯爵は、徴募兵団三千人を指揮していた騎士隊長の言葉に、
耳を疑った。
今回の戦争は、信じられないことが次々に起こっている。
﹁なんだと、裏切りなどまさか⋮⋮。他ならぬ、我が領地の民だろ
うが!﹂
そうだ、たかが農民の徴募兵とはいえ、長年ブルグンド家が治め
てきた地元の領民による兵団なのだ。
それが、敵に寝返るなどあり得ない。いや、許されぬことだ!
﹁それが、攻城で厳しい戦いを強いられて、不満が溜まっていた徴
1803
募兵の間に、おかしな噂が流れまして⋮⋮﹂
﹁なんだ、早く言え﹂
﹁それが、シレジエの王軍が勝てば、一年間租税を免除するという
のです﹂
﹁なんだと、そんな下らぬ噂で、領地の農民が裏切ったというのか﹂
そんなことで⋮⋮と、もう一度ピピン侯爵は力なくつぶやく。
ブルグンド家が二百四十年統治してきた領民が、たった一年の租
税免除で裏切ることなどあり得るのだろうか。
﹁乱を治めるには、我が方も租税免除を約束するほかなく﹂
﹁バカを言うな、今回の戦費にどれだけかかったと思っている、ブ
ルグンド家が破産してしまうわ!﹂
ピピン侯爵の天幕に、傭兵団長ゼフィランサスが入ってきた。
﹁侯爵閣下のおっしゃるとおりですな。いまさら租税免除などを約
束して慰撫しても、一度起こってしまった領民軍の叛乱は治まりま
すまい﹂
﹁ゼフィランサス、何をしておるさっさと鎮圧してこい!﹂
ピピン侯爵は、つい怒鳴ってしまった。
傭兵団長ゼフィランサスの言葉が、皮肉に聞こえたのだ。叛乱の
兵を上げたのはピピン侯爵たち地方貴族だ。それが、領民の徴募兵
に叛乱されるとはと笑われているように感じた。
﹁御大将のご命令とあらば、私どもはやるだけですが、提案に参り
ました﹂
﹁なんだ、提案とは⋮⋮﹂
1804
ピピン侯爵は、苛立っている。
ピピンは、ゼフィランサスを傭兵として雇ったのだ、参謀として
雇った覚えはない。
﹁私は撤退を進言します﹂
﹁撤退だと、ふざけるな!﹂
﹁ピピン侯爵閣下! 貴方は、現状を理解できないほど愚かな将で
はないはずです。包囲されているのは敵の城兵ではなく、もはや我
らの方です。徴募兵三千と、城兵の一千五百に囲まれたのですぞ﹂
﹁私とて、それはわかっている。だが⋮⋮﹂
﹁では、いますぐ撤退の命を下すべきです。私どもは金を貰えばな
んでもやる傭兵だが、金で命まで失いたくはない。いまなら、侯爵
閣下のお命も、共に参戦されているご一族のお命も保証しましょう。
我が傭兵団は、閣下の兵の損害を最小に抑えて撤退させることがで
きます﹂
ゼフィランサスの指摘は、妥当だった。
ピピン侯爵とて、策士を気取る男だ。状況は理解している。だが、
それでも気持ちとしては攻城を諦めたくはない。
ここで何もできないまま引くとしたら。
何のために、他国の助けまで借りて蜂起したというのだ。
﹁駄目だ、引くわけにはいかない﹂
﹁⋮⋮さようですか。ここに敵の増援が到着すれば、もはや侯爵閣
下のお命も保証しかねますが、それでもですか?﹂
1805
﹁ゼフィランサス、それまでになんとか城を落としてくれ。徴募兵
は、我が領民だ。領主たる私が話して、なんとかなだめてみる﹂
﹁⋮⋮﹂
傭兵団長ゼフィランサスは、無言で頭を下げると。
サーリットの兜のバイザーをカチャリと落として、また戦場へと
向かった。
そしてその後程なくして、ゼフィランサスが危惧したとおり。
敵の増援が、ドットの城に到着することになる。
1806
142.狐女のジョセフィーヌ
﹁これが、戦に負けるということなのか﹂
ドット城を囲んだ地方貴族軍九千五百の内、徴募兵の三千が敵側
に寝返った。
その混乱を鎮めて、城を落すまもなく敵の援軍二千が到着して、
包囲してピピンの軍に発砲を開始すると、軍勢は一気に瓦解した。
その後は、傭兵団長ゼフィランサスの活躍があって、辛くも包囲
から抜け出すも、ピピン侯爵は敗走に次ぐ敗走。
ピピンを守るように並走していた、貴族軍の騎士団五百騎も、殺
られたかはぐれたかして、十数騎を残すほどになった。
なにせ、どこまで逃げても、周りが敵だらけなのである。
地方貴族軍が負けたとの知らせは、すぐに南部の領地中に響き渡
った。
ピピン侯爵を始めとした、主だった上級騎士・貴族の首には懸賞
金がかかっているらしい。
ピピンを捕まえるか、殺して首を持っていけば、金貨三百枚だそ
うだ。これまで統治してきた民衆が、落ち騎士狩りと称して、領主
に襲い掛かってくる。
なんとも情けない、これまで領民を守ってきた貴族に対する恩義
もないのか。
そう語りかけても、ピピンの声は領民には届かない。剣で以て、
退路を開くしかない。
1807
﹁ハーフエルフが女王ではな!﹂
この乱世、恩義も忠義もあったものではないのだろう。
上が乱れれば、下も乱れる。
二百四十余年の長きに渡る太平の世に生まれ、国の乱れをブルグ
ンド家を伸張させる好機として立ったのに、何もできぬままに終わ
るのかと思えば、我慢ならなかった。ご先祖に、なんと申し開きす
ればよいのか。
生きなくては、なんとしても生き延びなくてはならない。
﹁下賤の者にやれるものか!﹂
ピピンは、自ら剣を振るって農民が突き刺してくる槍を断ち切り、
猟師が撃ってくる弓を跳ね除けた。
まさか、侯爵たる自分が直接戦うことになろうとは思いもしなか
ったが、それでも騎士として鍛錬を積んできた我々が、下民に負け
るかという思いがあった。
一瞬でも馬の足を止めれば、追撃を仕掛けてくる敵の本軍に追い
つかれる。
後少し、この森を抜ければオータンの街だ。
周りを守る騎士は、一騎、また一騎と討ち取られていくが、味方
の街まで逃げきれば助かるのだ。
そうだ、後方で態勢を立てなおして捲土重来を期すのだ。カステ
ィリアやゲルマニアに挟撃されて、いずれ王権は弱まるだろう。ま
た反攻の機会は必ず来る。
1808
その時、その時こそ、私は。
﹁ジョセフィーヌ⋮⋮﹂
馬上のピピン侯爵の視界が崩れ、眼の前が赤く染まった。
たまたま、逸れた矢がピピンの顎に当たり、そのまま落馬した。
地面に強かに叩きつけられて仰向けに倒れこんだピピンの元に、槍
を構えた農民兵が殺到していく。
死の刹那。
引き伸ばされた時間の中で、自分の亡き後に、南部貴族連合はど
うなるであろうかと、ピピンは考えた。
息子たちは、生き延びただろうか。
野心のあるピピンに比べれば、小物揃いだ。まだしも才覚のあっ
た一男や二男が生き残ればよいが、敗死して後方に残した凡庸な三
男しか残らなければ、領地は保てまい。ブルグンド家は、潰える。
いや誰が後継に立っても、敗北したブルグンド家が南部貴族連合
の主導権を握ることはもはやない。
おそらくは、ピピンの愛人であり、アジェネ伯爵夫人である、ジ
ョセフィーヌ・アジェネ・アキテーヌが、南部貴族連合をまとめて
指揮を執るのであろう。
だが、あの女の力だけでは、持ちこたえられまい。
領地も、夢も、この愛も、己が死とともに全ては終わるのだ。
その心に、妖艶なジョセフィーヌの裸体を思い浮かべて﹁⋮⋮も
う一度抱きたい﹂とつぶやいたのが、ピピン侯爵の最後の言葉とな
った。
1809
ピピン侯爵を始めとした地方貴族どもの亡骸は、そのままドット
城のサラ代将の元に届けられて。
与えられた報奨金は戦火の被害を受けた村人が、無事に冬を越す
ために使われたそうである。
※※※
南部貴族連合の本拠地、イソワールの街。
ちょうど、シレジエ王国南方地域の中心に、小さなイソワールの
街があって、建国王レンスの血を引く名門貴族ブラン家のイソワー
ル男爵領がある。
そして、その小さな領地を囲むように西側にブルグンド家のナン
ト侯爵領、東側にアキテーヌ家のアジェネ伯爵領がある。
そもそも、南部を治めるブラン家は、北部のシレジエ王国正統の
血筋が途絶えたときに備えて置かれた分家である。
そして、そのブラン家を守るために、重臣の家柄であるブルグン
ド家とアキテーヌ家があったのだが、年代を経るごとにその力は逆
転し、今ではブラン家は名目上の統治者でしかなく、実権はブルグ
ンド家とアキテーヌ家にあった。
ブルグンド家のピピン侯爵が、敗死した今では南部貴族の実権を
握るのは、アキテーヌ家のジョセフィーヌ・アジェネ・アキテーヌ
伯爵夫人であった。
アジェネ伯爵ハイエンドは、生来病弱で臥所から起き上がること
もできない。アキテーヌ家は、狐女とも毒婦ともあだ名される妖艶
なる伯爵夫人ジョセフィーヌの手に握られることとなった。
1810
彼女が狐女と蔑まれるにはわけがある、狐型獣人の血が混じって
アニマルハーフ
おり、獣耳と小さな尻尾が生えている。純粋な人族を重んじるシレ
ジエの名門貴族の社会で、彼女が半獣人であることはかなりのマイ
ナスであった。
シレジエの南部地方、右半分を所有するアジェネ伯爵、名門貴族
アキテーヌ家当主のハイエンドの愛人となったジョセフィーヌは、
ハイエンド伯の当時の妻を公然と毒殺、夫人へとのし上がったのだ。
たら
その後、頑固な純血主義者であるピピン侯爵をも、その淫蕩なる
性技で誑し込んで、自らの協力者に仕立てあげた。
まさに、狐女と呼ぶに相応しい傾国の美女である。
﹁そう、死んだの﹂
愛人であったピピン侯爵が敗死したと聞いて、ジョセフィーヌは
そう言ったのみだった。
物憂げに、ほっそりとした顎に頬杖をついて、涼し気な黒い瞳で
窓の外を眺めているだけだ。ジョセフィーヌに父の死を知らせた、
ピピン侯爵の三男坊、ボルターニュ・ブルグンドはその素っ気ない
様子を見て、これがこの女の悲しみ方なのかもしれないと好意的に
解釈することにした。
イソワール城の小さな玉座に座っているのは、十二歳の麻呂眉の
少年だ。
ブルグンド家の最後の生き残りである、ボルターニュにしてもま
だ十八歳の若い騎士である。
凡庸なボルターニュが、自分より十歳年上の妖艶なるジョセフィ
ーヌを頼りにするのは当然のことだ。
女とはいえ、アジェネ伯爵夫人は狐女とあだ名されるほど権謀術
1811
数に長けた策士である。
﹁死んだの、ではないです、どうするおつもりかアジェネ伯爵夫人﹂
﹁そうねえ、良かったわねえ﹂
﹁いま良かったと申されたか!﹂
﹁そうよ、良かったじゃない。これで貴方が次のナント侯爵よね﹂
ジョセフィーヌは、フッと微笑むとボルターニュの頬に嫋やかな
手で触れた。
父の死に悲しんでいたはずのボルターニュが、まるで魔法でもか
けられたようにホワっとした気持ちになる。
大きく胸の開いた黒い絹のドレスを着ていて、男ならばつい、そ
のふくよかな胸元に眼が行ってしまう。
匂い立つような美貌と、芸術的なまでに美しい身体のライン。若
々しく張りがある白い肌、バストやヒップは大きいのにウエストは
細くて強くだけば折れてしまいそうな危うさがある。
ジョセフィーヌのような女の色香は、十八歳の若い男には毒だっ
た。
それでも、ボルターニュは一度は、ジョセフィーヌの手を跳ね除
けた。
﹁父が死んで、良かったなどとは思えぬ!﹂
﹁あら、そう﹂
ジョセフィーヌは、興味を失ったように後ろに下がる。ソファー
に腰掛けると水差しからコップにトクトクと水を注いで、それを飲
んだ。
1812
ただそれだけの仕草なのに、なんと優雅で妖艶なことか。血のよ
うに赤い唇から、コップの水を飲み干すとき、その喉の動きに合わ
せて、ボルターニュもゴクリと唾を飲み込んでしまう。
すでに彼女から、目を離せないようになっていることに、ボルタ
ーニュは気がついていない。
夢でも見ていたようにホケッとしていたボルターニュは、ハッと
気がついて顔を横に振ると、問いただす。
﹁アジェネ伯爵夫人、のんびりしている場合か! 敵はすでにドッ
ト男爵領よりナント侯爵領に攻め入って、すでにオータンの街まで
来ていると言うぞ。このままでは、ナントの港も、このイソワール
ですらいつ敵が来るか分からんではないか!﹂
﹁フフッ﹂
ボルターニュが激高しているのに、それを見てジョセフィーヌは
笑うと、コップを机の上にコトリと音を立てて置いた。
小さい音なのに、なぜかよく響く。
﹁笑っている場合か!﹂
﹁ねえ、カスティリア王国から援軍を呼び寄せましょう﹂
﹁ななっ、外国の軍隊を入れるというのか﹂
﹁そうよ、陸路からじゃ時間がかかりすぎるから、ナントの港から
上陸させることになるわね﹂
独立を保つために、それだけはやってはならないと、ボルターニ
ュの父親は言っていた。
すでに亡くなっても、その命令を愚直に守ろうとしていたボルタ
ーニュには青天の霹靂のような言葉である。
1813
﹁そんなこと許すわけにはいかない﹂
﹁じゃあどうするの、このままだと貴方の支配するナント侯爵領自
体が無くなっちゃうわよ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
仮にナント領北方の街オータンが落ちたとしても、その南方には
ヴィエンヌ、カストル、そしてナントの港にも防衛出来るだけの兵
力が残っている。
また、父親が雇った傭兵団はまだ健在で、律儀に撤退戦を戦って
くれているので、その上はブルグンド家の血筋のものとして、ボル
ターニュが将として出向き、今一度敵と戦う。
そう言いたかったのに、若い騎士ボルターニュは何も言えなくな
った。
ジョセフィーヌは立ち上がると、上目遣いにボルターニュを見つ
める。
それだけで、ボルターニュは圧倒されてゴクリと息を飲んだ。吸
い込まれるような、黒く深い瞳だ。
﹁カスティリアに救援を求める書状はもう書いてあるわ。我々のご
主君、ボンジュール正統王のサインも頂いている。そして、貴方の
許可があればすぐにでも呼び寄せられる。ねえ、ナント侯爵ボルタ
ーニュ閣下はどうするのかしら﹂
﹁それは、その﹂
﹁良かったら、首を縦に振って﹂
1814
ジョセフィーヌは、ボルターニュに書状を見せると、そのまま辺
りもはばからず若々しい男の身体を抱きしめる。
ボルターニュの無骨な頬に、柔らかく白い頬を当てた。
彼女の豊かな胸が、ボルターニュの胸でムニュッと押しつぶされ
る。
何をされたのか、ブルっとボルターニュの身体が震えた。
﹁わかった、わかった! それしかないのだな⋮⋮﹂
押し切られるように、ボルターニュは首を縦に振った。
その瞬間、ジョセフィーヌは後ろ手で、手紙を落とした。
その手紙は、すぐさま静かに控えていたジョセフィーヌのメイド
に拾われて、カスティリア国王へと送られることになる。
もしジョセフィーヌが、自分の領地であるアジェネ伯爵領に、外
国の軍隊を入れろと言われれば断っただろう。
そんな弱みを見せれば、あの狡猾なカスティリア王に、どんな対
価を取られるか、わかったものではない。
しかし、ナントの港は彼女の領地ではないので、どうなろうと知
ったことではない。
救援を求めたのは、あくまでブラン家のボンジュール王であり、
ナント侯爵領だ。
以前からナントの港に入りたがっていた、カスティリアの援軍が
どこまでやるかは知らないが、ピピンが負けた以上、なんとかそこ
でシレジエ王国軍を食い止めて貰わなければ、ジョセフィーヌも困
る。
1815
﹁素直な若君には、ご褒美をあげないといけないわね﹂
﹁アジェネ伯爵夫人﹂
ハーフ
﹁私は、狐女の半獣人だけど、人族以外の女はお嫌いかしら﹂
﹁いや、僕は特に気にはしない、気にしないよ﹂
﹁フフッ、可愛いわね。ねえ、私のお尻に小さい尻尾が生えてるん
だけど、見てみたい?﹂
ジョセフィーヌは誘うように、そっと黒いドレスのスカートをた
くしあげてみせた。
﹁それは、もし見せていただけるなら⋮⋮いやいやっ! アジェネ
夫人。それは、いろいろとマズイのでは﹂
ジョセフィーヌが、ボルターニュの首元に繊細な指先をゆっくり
と這わす。
彼は思わず、ゴクリと喉を鳴らした。
﹁夫人じゃなくて、二人のときはジョセフィーヌって呼んでくれる
?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
ジョセフィーヌは、ボルターニュの手をそっと引くと、そのまま
臥所へと連れて行った。
もはや、若い彼はジョセフィーヌのなすがままであった。
1816
142.狐女のジョセフィーヌ︵後書き︶
<i125898|12243>
シレジエ周辺地図︵地方貴族反乱時︶
1817
143.書斎王フィルディナント
カスティリア王国、首都カスティリア。
カスティリア半島の中央に位置する、世界に冠たる大都市の一つ
であり、国を治める王の宮殿がある。
カスティリア王国は、建国から二百年余年の古い国だ。
一時は、外国の侵略を受けて国土が四分五裂し、破産寸前まで追
い込まれたこともあったが、セイレーン海に活路を求めて、はるか
南方のアフリ大陸への海外交易を成功させると、それによって生ま
れた莫大な富は国威を高揚させて、無敵艦隊ともあだ名される最強
海軍を持つ強国ともなった。
新型軍艦、ガレオン船の開発を成功させ、北の新興海洋国家ブリ
タニアン海軍との大海戦に勝利したカスティリアは、今度はシレジ
エ王国へと手を伸ばしつつある。
その総司令部がここ、カスティリア王の宮殿の奥にある書斎であ
る。
古今東西の珍しい書籍が並び、世界中から集まる報告書の類が山
モノクル
のように積み上がっている真ん中に、カスティリア国王はいた。
右目だけ視力が弱いのか、銀のチェーンのついた片メガネを眼窩
にはめ込んでいる。黒地に金のラインの入ったキルティング仕様の
ダブレットを着ている赤髪を後ろに撫で付けた大人しそうな青年。
言われなければ、その姿は真面目な職務中の官僚にしか見えない。
ひょろっと痩せた長身で、無表情だ。ただ書類を読むときだけ、
赤い瞳がギラリと強く光る。
1818
彼こそが、カスティリア半島全域を支配し、はるか南方のアフリ
ひきこもり
大陸にまで植民地を持つ、カスティリアの国王フィルディナント・
カスティリア・アストゥリアスなのだ。
書斎に篭って、一切出てこないところから、偉大なる書斎王とあ
だ名されている。
彼の統治の特徴は、全てを書類決済によって行うことだ。
フェルディナント王が見るのは、書類だけ。書類によって、広大
な領土を把握し、書類によってそのすべてを運営する。
﹁ふーん、南部貴族連合から救援要請が来たんだね﹂
彼がそう独りごちる。書類を運んでくる官僚はいるのだが、王が
独り言に口を挟まれるのを嫌うことを知っているので誰も何も言わ
ない。
この書斎では、ただ王のみが話す。ただ書簡だけが三方に並べら
れた机の上を行き来する、静謐な部屋だ。
﹁まったく、シレジエの貴族ってのは役にたたないもんだな。しょ
うがない、援軍に﹃アレ﹄を送ってみることにしようか﹂
書類を、書いて送る。
しばらくして、王のもとに返信が届く。
﹁知ってるよ、﹃アレ﹄はシレジエの勇者とは戦いたくないって駄
々をこねているんだろう。でもさ、ナント侯爵領に攻めこんできて
るのは、勇者じゃなくて愛妾だって言うじゃないか。農民の娘っ子
相手なら、いいんじゃない﹂
1819
そうつぶやきながら、書いて送る。
しばらくして、また王のもとに返信が届いた。
﹁よし、了承したか。まったく難しい駒だな。でも、﹃アレ﹄の強
さはお墨付きだから使わないわけにもいくまい。おそらく送られた
側は、扱いに苦労するだろうが、敵の足止めにもしっかりなってく
れるはずだ。上手く動いてくれれば、王将軍を下すカードを手に入
れられるかもしれない﹂
そうつぶやきながら、書いて送る。
﹁南部貴族連合への援軍はそれでいいとして、そろそろシレジエの
兵隊さんたちが三方に散ったところだろうから、新しい作戦を開始
するとしよう。さて、シレジエの天才軍師さんとやらが、どういう
手で防いでみせるかな﹂
そうつぶやきながら、書いて送った。
フィルディナント王は、返信を受け取って独りごちると、モノク
ルの位置を指で調整してから、また書物に戻った。
※※※
ザワーハルトの第三兵団の千人、緊急徴募で兵を増やしたサラち
ゃん近衛銃士隊五百五十のに加えて、増援の義勇兵二千が加わった
対﹃地方貴族﹄方面軍は、ナント侯爵領にまで進軍し、足がかりと
して北方の街オータンを落とした。
サラ代将の統治は、苛烈を極めた。
﹁地方貴族側に付いた、貴族・騎士・大商人は財産没収のうえ、見
せしめに打首よ!﹂
1820
﹁サラ代将、それはちょっと厳しすぎるのでは﹂
ミルコは、なんとかサラの極端なやり方を諌めようとしたが聞い
てもらえない。
﹁だってそれぐらいしないと、報奨金に配るお金が足りなくなっち
ゃうし、租税免除のための蓄えも居るでしょう。いいのよ、全員ぶ
っ殺して﹂
﹁いや、でも旧支配層の恨みを買います﹂
﹁そんなの買ってあげるわよ。こっちの領地は佐渡商会と関係ない
し、先生の本にも最初に統治に邪魔な奴を全員ぶっ殺してから、民
を徐々に慰撫すればいいって書いてあったもん﹂
﹁いや、しかし﹂
臨時の連隊長として増援の二千を率いてきた、義勇兵団二番隊隊
長アラン・モルタルが、パチパチパチと拍手する。
あいかわらず、調子の良いこの優男は、すぐサラ代将の指揮下に
入って完全なるイエスマンとなった。
﹁いやーさすが、サラ兵長⋮⋮いえ代将閣下です。一部の隙もない、
果断なる処置と敬服いたしました。すぐにそのようにいたします﹂
﹁ウフフッ、それほどでもあるわよ。アラン隊長だっけ、シレジエ
会戦以来ね。またお世話になるわよ﹂
おもね
権力者に阿ることにかけては、アランの右に出るものは居ない。
せいきょ
サラが持つ、コネクションの絶大なる権力を、義勇軍で一番理解
しているのがこのアラン・モルタルという男だと言っていい。
うせいこう
﹁ハイ、こちらこそ。また偉大なる代将閣下にお仕えできて、誠恐
1821
とんしゅさいはい
誠惶、頓首再拝、恐悦至極といった次第です。このアラン、サラ閣
下のために身を粉にして働きましょうぞ﹂
﹁あーはいはい、お世辞はいいわよ。ちゃっちゃとやっちゃって﹂
ちゃっちゃと、オータンの街の地方貴族派の面々は、断頭台に上
げられた。
このサラの強烈で徹底した処置に、近隣の土豪は恐々として、平
伏した。
農民の娘サラ・ロッドが、将軍としてやってきて、逆らう貴族を
皆殺し、民の租税を免除するという噂はナント侯爵領全域に広がり、
各地で農民軍の離反・反乱を誘発。
秩序を維持しきれず、領地から逃亡する貴族・代官が相次ぎ、ナ
ント侯爵領は戦う前から瓦解し始めた。
⋮⋮にも関わらず、オータンの街に王都からサラのもとに届いた
手紙は、これ以上の進軍を諌めるものであった。
サラの将軍代理就任と、戦時権限を追認してくれるのは助かるの
だが、攻めるなって言われるのは困る。
サラ代将は、幕僚であるミルコ副将、ザワーハルト男爵、アラン
連隊長を集めて会議を開いた。
﹁せっかくの進撃のチャンスに、これ以上攻めるなってどういうこ
とかしら。タケルの意志なのか、ライル先生の意見なのかってこと
もあるけど﹂
﹁王将軍閣下のおっしゃることです、きっと深遠なる思慮があって
のことかと﹂
ミルコはそう言うが、サラはそんな言葉では納得せず、小首を傾
1822
げて聞く。
﹁ふーん、タケルの深淵な考えってなによ?﹂
﹁それは、王将軍閣下のことですから、僕たちでは到底理解不能な
ほど深く、精妙なお考えがあって﹂
﹁どうせ、負けフラグが立ってるとか、またわけのわかんない勘で
言ってるだけでしょ﹂
﹁ブッ﹂
ミルコも、アンバザックの城でタケルの秘書官をやっていたこと
がある。
タケルは、そういう彼自身にしかわからない謎の理屈で行動を決
めることが多かった。それはミルコも知っているから、思わず吹き
出してしまった。
﹁まあいいわ、ミルコは攻めるのに反対なのね﹂
サラの目配せに、ミルコは真面目な顔で頷く。
王将軍の指示はときに突飛で、訳がわからないときも多かったが、
その選択は後から見れば概ね正しかったとミルコは理解している。
冗談ではないのだ。
﹁サラ代将閣下、私は進軍に賛成です。いま、私の部下がナント侯
爵領全域を周り、租税免除の布告を行っているところです。各地で、
地方貴族派は民心を失っておりますから、敵は根本が腐った大木の
ようなもの。軽く叩くだけで崩れるでしょう﹂
﹁アラン、あんた結構有能よね﹂
優男のアランは、手を広げると、歌うように世辞を言いまくる。
1823
﹁ハッ、これもサラ代将閣下の善政あってのこと。横柄なる貴族に
厳しく、か弱き民衆に優しいサラ様が我らが当主であるからこそ、
草民はみな、吹き渡る涼やかな風を前にしたようになびくのです﹂
﹁野暮ったいお世辞は余計だけどね﹂
そっけなく返すとサラは、今度は腕を組んでずっと考え込んでい
るザワーハルト男爵に顔を向ける。
﹁私は、うーむ⋮⋮﹂
﹁ザワーハルト男爵は、肝心なときにいっつも優柔不断よね。兵団
長としては有能なんだから、そういう性格だけは、何とかしたほう
がいいと思うわよ﹂
﹁ハハハッ、手厳しいな代将。貴君らのように若ければともかく、
四十がらみの男に性格を直せと言われても、もう直らんさ﹂
そう苦笑するザワーハルトは、結局のところどちらとも判断出来
ずに、中立だそうだ。
判断がつかないときは、わからないと言うのも意見だろう。
﹁賛成一、反対一、中立が一ね。分かったわ、じゃあ攻める﹂
﹁サラ代将!﹂
ミルコが諫言しようとするが、サラはそれを小さい手のひらで押
しとどめた。
﹁分かってるわよ、十分気をつけて攻めるから﹂
﹁サラ代将、僕は貴女を⋮⋮﹂
1824
ライフル
ミルコは、魔法銃を持ちだして、胸に抱きしめるようにしている。
﹁あれミルコ、それどうしたの最新兵器じゃない﹂
ラ
﹁実は、ライル摂政閣下が、サラ代将が独断専行したときは、これ
で守れとお貸しくださいました﹂
イフル
サラに送られたのとは別の便で、ライル先生はミルコに自分の魔
法銃を貸与したのだ。他にも、魔法抵抗力があるマントなども貰っ
ているが、これはサラにも内緒にしろと言われている。あいかわら
ずの秘密主義。
いまは、王都を動けないライルにできる、これが精一杯の献策で
あるのかもしれない。
﹁ふーん、私が勝手に攻めちゃうのは、先生にはわかってたのね。
さすが、勝てないわ。でも、私だって弟子だから先生にいつか肩を
並べてみせる⋮⋮﹂
﹁それで、サラ代将。どこを攻めるんです。やはり、敵の本拠地を
一気にですか?﹂
アランもサラと同じように攻めたくてウズウズしているらしい、
期待に満ちた面持ちで聞いた。
若者の軽挙を危うげに眺めて、慎重に考えこんでいるザワーハル
ト男爵にしたって、手柄は欲しいのだ。
出世欲が強い彼らにとって、この戦いは手柄を立てて成り上がる
チャンスなのである。
ただ一人、サラに恋焦がれる心配症のミルコだけが、代将の身を
案じていた。
﹁攻める先は、ナントの港よ﹂
1825
﹁なるほど、先にナント侯爵領の首都を抑えようと言うわけですな﹂
アランは、絶妙のタイミングで合いの手を入れて、お追従を言う。
﹁それだけじゃないわ。劣勢に立った南部貴族連合は、カスティリ
アに応援を依頼すると思うの。そうなるまえに、まず先にナントの
港を占領して、カスティリア王国と地方貴族派を分断する﹂
﹁なるほど補給路を遮断するか。理にかなった、見事な作戦だな﹂
この中では、それなりに戦争経験のあるザワーハルト男爵は、サ
ラの示す作戦地図を見て息を呑んだ。
やはり、子供と侮ってはならない。堅実な一手は、さすがあのラ
イル摂政の秘蔵っ子だと、感心した。
しかし、サラの判断はいま一歩遅かったのである。
すでに、ナントの港にカスティリア王国の救援の船が向かってい
た。
その船に、カスティリア王国のある意味で最強の戦士である﹃ア
レ﹄が乗っていることなど、この時のサラにはまだ知る由もなかっ
たのである。
1826
144.﹃アレ﹄の上陸
ナントの港に入ってくる、カスティリア王国の軍船を見て、白ひ
げの老代官ジェフリー・アーマスは、豊かな白髭を蓄えた顔を苛立
たしげに横に振った。
そして、深く深く大きなため息を付いた。
ききゅうそんぼう
まさに、お家の危急存亡のときだった。
ブルグンド家初代の当主ゲルトルート様から始まり、十六代。い
やピピン侯爵がお亡くなりになったので、ボルターニュ様で十七代
目か。
二百四十余年続いたブルグンド家も、もしやここに潰えるのかと
思えば、焦りもするし弱気にもなる。
この老ジェフリーも、ブルグンド家に四十年間仕えてきたのだが、
これが最後のお勤めになるのかもしれない。
いや、決して気弱になってはならないと意を強くする。
街の塀の外からは、シレジエ王軍が攻め寄せ、港には外国の軍隊
が入り込んでくるのだ。
内憂外患の窮地だからこそ、ご主君亡き今、防衛軍を指揮してナ
ントの街を守れるのは、もはや代官のジェフリーだけなのだ。
埃をかぶった年代物の鉄の鎧を着て、ここ何年も振るったことの
ない宝剣を腰に差して、仮初めの将として緋色のマントをまとう。
﹁それにしても、情けないことだ。ナントの街に他国の軍隊を引き
込むとは、ボルターニュ坊ちゃまは、何を考えておられるのだろう
1827
な﹂
戦死されたピピン侯爵の後を継いで、本来ならすぐにでも三男の
ボルターニュ・ブルグンドが十七代ブルグンド家当主として立ち、
軍を率いて侯爵家の軍を指揮すべきなのだ。 だが、この火急の事
態に、そうも言ってはいられないのはわかる。
しかし、ボルターニュの命令だと言って、外国の軍船から次々に
兵が降りてくるのを見ると、まるで故郷の町を他国に占領されたよ
うな忸怩たる思いがした。
シレジエの王軍に負けても、カスティリアの軍隊が勝っても、ブ
ルグンド家の先行きは暗い。こんな状況で、死力を尽くして戦えと
命じなければならない代官の立場は辛かった。逃げ出せれば、どれ
ほど楽だろうか。
﹁ジェフリー様、カスティリアの将軍が参っております。ナントの
街の代表者として、お会いになってください﹂
執事長カストロの報告に、老代官は苦い笑いを浮かべた。
いつもならば、タキシードを着て澄ましている彼も、今は慣れな
い硬革鎧を身にまとって、どこから見つけてきたのか古ぼけた鉄剣
を差している。
﹁長生きはしたくないものだなカストロよ。まさか敵に囲まれるナ
ントの街を目の当たりにするとは。防衛の将軍役、何なら変わるか
?﹂
﹁ジェフリー様。長らくブルグンド家に仕えた代官閣下がそんなこ
とでどうしますか。みな、貴方様のご命令を待っております﹂
代官に過ぎない自分が、ご領地の最後になるかもわからぬ戦いを
1828
指揮するのは僭越であるがと、ジェフリーは豊かな白髭を揺らして
苦笑した。
今は後方のイソワールの街にいる、三男のボルターニュ以外のブ
ルグンド家の子孫が死に絶えてしまった今では、それも仕方がない。
﹁フッ⋮⋮。考えようによっては、ボルターニュ坊ちゃまが留守の
間でよかったかもしれんな。坊ちゃまが生き残れば、ブルグンド家
の血筋は途絶えぬ。しからば、ワシは侯爵家の未来のため、ナント
の街で一兵でも多く敵を道連れにして、徹底的に抵抗して戦うまで
だ﹂
﹁我らもお供いたします、ジェフリー様﹂
生まれつき出来が悪く凡庸で、ピピン侯爵にも放置されがちだっ
た三男坊のボルターニュではあったが、幼いころより我が子のよう
に養育していた老ジェフリーにとっては、一番可愛い若君であった。
坊ちゃまと言っても、すでに十八歳の立派な若君であらせられる
のだが、子もおらぬ老ジェフリーにとっては眼に入れても痛くない
孫のようなもの。
ブルグンド家の長年の恩顧に報い、可愛い若のために死ねるなら、
この老臣の身など惜しくはない。
年老いた忠臣。白髭のジェフリーには、覚悟があった。
﹁シレジエ王軍、来るなら来いだ。ブルグンド家の最後の意地を見
せてくれようぞ﹂
シレジエ王軍の来襲、敵対的な民衆の蜂起。それに対して、ナン
トの街を預かる代官ジェフリーとて、手をこまねいていたわけでは
ない。
敵側に味方した民衆は、みんなナントの街から追い出している。
1829
地方の農民に比べれば、ブルグンド家のお膝元であったナントの街
の市民や商人は、侯爵家に恩顧の情がある民衆が多かった。
いまさらになって、敵が来ると逃げ出す兵士はほとんど居なかっ
たし。
そこそこに民意に沿った善政をしいていた、代官ジェフリーの悲
壮な防衛戦に参加しようとする市民もいたのである。
押し寄せる敵軍への備えは、完璧に行っていた。
一年とは言わないが、半年は籠城戦を持ちこたえられるだけの食
料の備蓄もある。
﹁さあ来い敵軍⋮⋮っと! なんでモンスターが館に入っておるか
!﹂
ナントの街の代官屋敷で、ドラマティックに悲壮の覚悟を決め込
んでいた代官ジェフリーは、びっくりして腰を抜かしそうになった。
ジェフリーの執務室に、いきなり奇っ怪な姿をした亜人種が姿を
表したからだ。
青いセミロングの髪から、黒褐色の竜角が二本、ニョキッと突き
出している。手足の先が太く鋭い爪と青い鱗が付いていて、ドラゴ
ンの青い翼と長い尻尾が付いている。
年格好は若い女の形はしていても、その凶暴で恐ろしげなフォル
ムにジェフリーは腰を抜かしそうになった。
﹁おい、レブナント。この人間は失礼だから、殺してイイカ?﹂
﹁アレ客将、慣れぬ者は仕方がありませんよ。これでもお味方なの
ですから、どうぞ広い心でお怒りをお収めください﹂
1830
突如現れた、奇っ怪な女性と怪しい男に向かって、ジェフリーは
腰の宝剣を抜かんばかりの剣幕で怒鳴りつけた。
﹁なななっ、何奴じゃおのれら!﹂
﹁そう言われましても、我々は援軍ですよ代官閣下﹂
澄ました笑顔でそう答える、銀髪の前髪の長い男。
事情を知っている執事長カストロは、激昂したジェフリーを押し
とどめる。
﹁ジェフリー様、お待ち下さい。この方たちはカスティリアの将軍
様です!﹂
﹁なんだと、このバケモ﹂
ジェフリーは最後まで言えなかった、竜っぽい女の指からグンッ
と伸びた鈍く光る銀色の爪が喉元にまで来ていたからだ。
老いたとはいえ、ジェフリーも若い頃はそれなりに鳴らした騎士
である。それを、こうも一瞬に懐に入られるとは不覚。
化物じみていても女だと思って、無意識に侮ってしまっていたの
だろうか、まったく腕の動きが見えないほどの神速であった。
動きが俊敏すぎて、ジェフリーはリアクションを取ることすら許
されなかった。この女にもし殺す気があったなら、もうジェフリー
の胴と首は泣き別れているところだ。
ツンと爪の先で、首を突かれただけでタラっと血が流れた。
恐ろしいほどの切れ味である。
﹁なにか言ったかな、人間﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
1831
一瞬で緊迫する空気を、カスティリアの将軍という前髪の長い男
が爽やかに笑うと、パンパンと手を叩いてなだめた。
ドラゴンメイド
レディ・
﹁ナントの代官殿はご存知ありませんか、彼女は竜乙女ですよ。彼
オブ・ザ・ランゴ
女は、カスティリアの客将ですし、南方のアフリ大陸にあるランゴ
島の竜女王の娘なのですよ。つまり、こちらでいえば一国の王女の
お血筋です﹂
﹁これは、失礼⋮⋮失礼しました﹂
ドラゴンメイド
ようやく、ジェフリーが謝ったので、竜乙女は、フンと小さく鼻
を鳴らすと、鋭い爪を喉元から下げた。
凶暴なのは青い鱗のついた四肢と大きなドラゴンの角と翼と尻尾
で、顔や胴体は美しい女性のそれである。
ジェフリーはもう年寄りなので何も感じないが、青くゴツゴツし
た鱗とは対照的に透き通るような白い肌で、豊満な肉体の大事な部
ドラゴンメイド
分だけに白い布を巻きつけているだけのあられもない姿は、若い者
には目に毒だろう。
島から来た青い髪の竜乙女、いろんな意味で、強烈な存在感があ
る。
﹁ふむ、謝ったから、殺すのは許してやろうジジ﹂
﹁ジジ⋮⋮。まあ、ワシは白ヒゲの爺ですが﹂
同盟国の代官に向かって、言葉を知らんなこの若い娘はと思いな
がらも、先にバケモノだのモンスターだのと言って怒らせたのは、
ドラゴンメイド
ジェフリーの方なので、文句は言えない。
しかし、竜乙女とは驚かされた。一応、亜人種として人類の括り
には入っているが、その存在はユーラ大陸の民にとってお伽話だ。
1832
ドラゴンメイド
竜乙女は、竜神という古き者と、人族との混血児がその祖先とさ
れている。
未知の大陸にある南方のアフリ大陸。大砂漠の沖合に浮かぶ島に
住む種族とされ、なぜか女しか産まれてこないので、流れ着いた船
乗りを攫って子を成すという伝説がある。
﹁アレは、まだ島を出て間がないので、少し礼儀に欠けるところが
ありましてご容赦いただきたい﹂
﹁それは良いのですが、アレ?﹂
﹁ええ、彼女の名前ですよ。アレ・ランゴ・ランド。こちらからす
ると、ちょっと変わった名前ですけどね。先ほどの動きを見てお分
かりいただけたと思いますが、竜形拳という竜乙女に伝わる拳術を
使う武闘家で、まさに一騎当千の武将でもあります﹂
﹁はあ、なるほど﹂
たらりと垂れ下がる長い前髪の男は、細い目をさらに細めて、貴
族然とした立派なお辞儀をした。
無作法な竜乙女のアレとは対照的に、礼儀をわきまえており、カ
スティリア王宮に長く仕えているだけの気品がある。
﹁申し遅れました、ナントのジェフリー代官殿。私は、アレ客将と
ともにこの度の援軍を任されました、レブナント・アリマーです。
竜乙女には敵いませんが、私もそれなりに強いですよ。なにせこう
見えても上級魔術師ですから﹂
﹁じょ、上級魔術師で将軍なのですか﹂
レブナントは、金色の鎧を着て、その上から茶色いマントを羽織
っている。
1833
魔術師といえば、杖を持ってローブを着ているものだとばかり思
っていたジェフリーは、目を丸くする。
いろいろと型破りな連中のようだ。
しかし、上級魔術師といえばまさに一騎当千。この世界において
の大量破壊兵器と言っても良い存在である。
﹁将軍に就任したのは、ついさっきなんですけどね、なにせ率いて
いる軍隊が軍隊ですから、抑えられるのが私しかいないと、フィル
ディナント陛下が判断されたようで﹂
﹁軍隊が軍隊?﹂
そういえば、港の方がなにやら騒がしいような気がする。
﹁安心してください。我々は、まさにカスティリア最強の陸軍です
よ。今ここに攻め寄せようとしているサラ代将率いる義勇軍は、三
派に分かれたシレジエ王国軍の中でも最弱ですからね。弱いところ
に、強きをぶつけろというのが書斎王陛下のご配慮⋮⋮﹂
﹁あの、何か騒がしいようなので、港を見てきてもよろしいか﹂
レブナントは、ニヤッと口が裂けるような悪魔的な笑みを浮かべ
たので、ジェフリーはゾッとする。
先程までの爽やかな印象が台無しである、悪魔的なこの笑いが本
当の彼なのかもしれない。
﹁もちろん、クックック⋮⋮。私たちもご一緒しましょう﹂
慌てて港まで援軍を見に行ったナントの代官ジェフリーが見たの
は、ガレオン船から降り立った、港を埋め尽くさんばかりの武装し
たトカゲ人間だった。
1834
港の人間は、みんな怯えきっている。
レプティリアン
﹁これは一体⋮⋮﹂
﹁爬虫類人の傭兵ですよ。彼らが二千匹で、一般の兵士が千人の計
三千人が今回の援軍です﹂
レプティリアン
爬虫類人は、アフリ大陸の砂漠地帯に住むトカゲ人間である。
ドラゴンメイド
同じ鱗がついた人型生物でも、アーサマが作りし人類の末裔であ
る亜人種の竜乙女とはわけが違う。
竜乙女が﹁竜神の血が混じった人間﹂なら、爬虫類人は﹁人間の
ような姿はしているが、爬虫類的な要素を持つ正体不明の化物﹂な
のだ。
人と化物のラインは、ジェフリーのような一般的な人間の意識か
らすると、絶対的なものである。
亜人種とは種族的な違いから齟齬もありつつも、創聖女神アーサ
マより生まれた者として分かり合えるが、魔族とは分かり合えない。
人族と魔族は、元から生き物として絶対的な違いがあるのだ。
レプティリアン
﹁爬虫類人は、魔族ではないか﹂
﹁ええそうですよ、それが何か﹂
レブナントは、銀色の前髪をさっとかきわけて、笑ってみせる。
ジェフリーは、伝家の宝刀の柄を握りしめて、怒髪天を突く勢い
で激昂した。
﹁魔族を我が街に引き入れて、それが何かだと!﹂
﹁ジェフリー代官、貴方は考え方が古いんですよ﹂
1835
﹁なんだとぉ!﹂
﹁シレジエの勇者が王宮で魔族を飼っているのは知ってますな。聞
けば、先のゲルマニア皇太子も自ら魔王になったとか。いやはや驚
きましたよ、ちょうど時を同じくして私どもカスティリアも、アフ
リ大陸の魔族を懐柔して、傭兵に仕立て上げようとしていたところ
でしたのでね﹂
カスティリアは海軍国だ。
レプティリアン
広大なアフリ大陸で活動するのに、弱い陸軍を補強する必要があ
ったため、なんと魔族である爬虫類人と交渉して、傭兵にしたとい
うのである。
ドラゴンメイド
竜乙女を客将として迎え入れるまではまだしも、そこまでやるの
は長らく魔族と人間との争いを繰り返してきたユーラ大陸の人間の
常識からすれば、ラインを超えている。
何を考えているのかもわからぬ混沌の化物を、女神の子である人
が制御して利用するなどと、アーサマをも恐れぬ不遜な考えだと言
えた。
﹁レブナント殿は、忌まわしい魔族を人間の戦争に利用するという
のか﹂
﹁そうですね。魔族という力を制御して使わなければ、戦争に勝て
ない時代がやってきているといえるでしょう。それを拒み、座して
敵の前に膝を屈するというのであれば勝手にすればよろしいが、そ
れは戦死されたピピン侯爵殿のご子息であり、現当主であるボルタ
ーニュ殿のご意志に反することになりますぞ﹂
理路整然とした、レブナント将軍の語り口には一部の隙もない。
ボルターニュの名を出されては、忠臣である老ジェフリーは逆ら
えない。
1836
﹁うぬぬ⋮⋮﹂
﹁いかがなさるか、ジェフリー代官閣下﹂
カスティリアの軍隊をナントの街に引き入れたのは、確かにピピ
ン侯爵の遺児ボルターニュの命令なのだ。
それに背くということは、ジェフリーがブルグンド家の家臣でな
くなるということだ。
﹁あいわかった。レブナント殿は、好きなようにされるが良かろう。
ただし、我々はあくまでナントの街を守るのみ。そなたらは、そな
たらで勝手にされるが良い﹂
﹁ええそれで、こちらも満足です。いやー味方に攻撃されたら、ど
うなることかとヒヤヒヤしました﹂
うそぶくレブナントの冷ややかな双眸を見て、本当はそんなこと
レプティリアン
は一切思っていないだろうなとジェフリーは思った。
爬虫類人も恐ろしいが、この上級魔術師で将軍だというレブナン
トという銀髪の男は、それよりもはるかに薄気味悪い。
こんな者を頼らなければ戦えないとは、ただただ己の無力が情け
なかった。
﹁何が新しい時代だ、まったく長生きなどするものではない⋮⋮﹂
老ジェフリーは、そうつぶやくと、迫りくる敵に対して防衛戦の
準備を始めた。
不幸にも生き残ってしまった者は、息絶えるその時まで責務を果
たさなければならないのだ。
1837
145.ナント攻防戦
ナント侯爵領の街オータンから、ナントの港に向かって陸路を西
に進むサラ代将の軍は、前途洋々たるものだった。
シレジエの白百合が描かれた青いマントを翻して、敵地を悠然と
進むサラ代将の姿は、まるで凱旋将軍だ。民心は、完全にサラ代将
になびいている。
行く先の村はみな、侯爵領の代官や徴税官を血祭りにあげて、野
山に咲く美しい花々とともに血まみれの素っ首をサラへと恭しく差
し出した。
サラ代将は旧支配者から奪った金から、惜しみなく報奨金を払い、
その処置に感動した村から手弁当で義勇軍に加わる若者が続出した。
進めば進むほど、義勇兵は増えて資金も物資も潤沢になっていく。
まさに﹁来た! 見た! 勝った!﹂、古の英雄を思わせる進撃
だった。
もちろん、この程度の勝利は想定内なので、サラは慢心しない。
民心がこっちにあるということは、情報も集まってくるというこ
とだ。ナントの街まで兵を進めながら、その間にも情報を分析し、
情勢を検討する。
ナントの街から追い出されたサラ派の民衆から、ナントの街の防
衛戦力が過小であること、しかしカスティリアの援軍がすでに到着
していることを聴きだした。
しかし、それによって増員されたカスティリアの兵力がどの程度
かが掴めない。
1838
﹁ナントの街は、なかなかガードが硬いようね﹂
﹁サラ代将、僕は嫌な予感がします﹂
ライフル
サラを守り、魔法銃を構えたミルコは、あいかわらず心配性だ。
何を恐れるのかとは言わない。恐るべきことはあるのだ。
いまだにこちらを牽制してくるゼフィランサス傭兵団二千の軍勢
を除けば、疲弊した地方貴族軍はもはや形骸だ。
しかし、カスティリア王国軍は別。
海軍国ゆえに陸軍は弱いとは聞くが、上級魔術師を三人も召し抱
える大国なのである。
何が飛び出してくるか未知数な部分がある。
敵を知り己を知れば百戦危うからず。
味方の軍勢は、兵団長ザワーハルトが率いる第三兵団千に、連隊
長アランの義勇兵二千、それに加えてサラの本軍は二千五百にまで
膨れ上がって、あれほどたくさん用意した火縄銃が全員に行き渡ら
ないほどだ。
数だけで言えば、五千五百の軍勢。
練度不足ではあるが、火縄銃も大砲もあって意気は盛んだ。
ナントの街の防壁など、大砲で撃ち破れば、あってなきがような
もの。
ここまで好条件が揃いながら、サラはナントの街を囲んだだけで、
突撃を命じなかった。
﹁⋮⋮中の様子は分からないのね﹂
1839
﹁はい、思いの外、籠城しているジェフリー代官の人望は厚く。一
応、内応や開城も促して見ましたが、断られました﹂
﹁わかったわ、ご苦労だったわねアラン。じゃあ、これから落とし
穴を掘るから、もう一働きしてもらうわよ﹂
﹁了解しました﹂
これほどの大軍があるのだから、罠など作らずさっさと攻めれば
いいのにとアランは内心では思っているだろうが、黙って頭を下げ
ている。
将の職分にくちばしを入れて不興を買うような、間抜けな男では
ない。誇るべきことがあるときは多言だが、ダメなときは口数が少
ないのも、彼の上手いところである。
アランには、忠言は期待できないが、命じられた仕事は十分以上
にしっかりとこなす、使いやすい部下とはいえた。
うむむ∼と黙考するサラ、その横ではさらに優柔不断なザワーハ
ルトが、なにやら腕を組んで考え込んでいる。
前向きな提案はアランがしてくれるし、後ろ向きな心配はミルコ
がしてくれるし、考え事は悩みまくってるザワーハルトがしてくれ
る。
寄せ集めの幕僚だったが、共に戦うことで意外にもバランスが取
れてきている。軍組織とはこういうものなのかもしれない。
敵の戦力がわからない以上、サラは安全策を取ることにした。
ライル先生ならどう攻めるだろうかと考えると、砲台で壁を突き
破って突撃するのは最後だ。
まずは準備。しっかりと、周りに罠を張り巡らせてから、敵を遠
1840
方射撃するに違いない。
防壁が意味が無いとわからせれば、敵は座して死ぬよりはと、打
って出てくる可能性が高い。
その時に、しっかりと罠にハメてやれば良い。
そんなことを考えて、工作に勤しんでいたので、敵がいきなり門
を開けて攻めこんで来たと聞いて、サラは仰天した。
武装したトカゲ人間の軍隊が、敵の兵と一緒に突撃を仕掛けてく
る。
敵軍に、化物が加わっていることで、サラも驚いたが経験不足の
義勇兵たちは明らかに狼狽した。
﹁何なの、あのモンスターは何よ!﹂
﹁魔族みたいです、オークやオーガなど比べ物にならないぐらい強
いですよ﹂
いつもは冷静なミルコも、さすがに慌てた様子だった。普通のモ
ンスターなら、銃士隊の一斉射撃を喰らえばお陀仏だ。
全滅しなかったとしても、その音に狼狽してまともに戦えなくな
る。
硬い革鎧で武装している上に、獰猛なトカゲ人間は鱗の下に皮骨
が形成されて強化されている。銃弾の攻撃を、物ともせず進んでく
る。
一度突撃されて街を囲んでいる陣を突き破られると、遠距離攻撃
にばかり頼っていたこちらの分が悪かった。
所詮は農民兵、おぞましいトカゲ人間が斬りかかってくると、我
先にと逃げ出した。
1841
ライブラリー
サラはそこでようやく気を取り直して、頭の中に記憶した万巻の
ライル先生の書籍から正解を弾きだした。
レプティリアン
﹁そうか、爬虫類人、砂漠地帯に住む魔族ね。カスティリアはアフ
リ大陸の魔族を使うのか﹂
﹁代将、肉弾戦ならば我らが行こう﹂
腕を組んでずっと状況を見守っていたザワーハルト男爵は、よう
やく重い腰を上げると第三兵団に命じて敵の三千の軍に負けず劣ら
ず激しい勢いで突撃を仕掛けた。
日和見のザワーハルトと陰口を叩かれているオッサンではあるが、
これでも一兵卒から騎士となり兵団長にまで成り上がった猛者なの
である。
レプティリアン
ザワーハルトは、自ら軍馬を駆って獰猛なる爬虫類人の群れの中
に飛び込み、一気に数匹を撫切りにした。
そのあまりの猛攻で、敵の突撃の勢いが止まると第三兵団のベテ
ラン兵士たちが、我らの兵団長を殺させるなと叫んで続けて飛び込
んでいった。
自分に続いて果敢に突撃を仕掛けていく兵士達を見て、ザワーハ
ルトは精悍に笑った。彼の仕事は、ここで終わりである。
こうやって兵団長自らが意を決した突撃をやることで、味方の士
気を回復させたのだ。
普段は我が身大事で動く優柔不断男だが、命を賭けるべきときを
知っている騎士でもある。
自ら暴れまわってトカゲ人間を殺すことで、決して倒せぬ敵では
ないと味方に示して見せたのである。
あとは、団長自ら危険を冒すのは御免被るので、必死に戦ってい
1842
る兵士を尻目に、檄を飛ばしながらそっと後方に下がるあたりも、
ザワーハルトの巧妙なところだ。
﹁そ、そうだ倒せぬ敵ではないぞ。こちらが優勢だ、よく狙って撃
て!﹂
連隊長アランは、旗下の練度の高い二千の銃士隊に、精密射撃を
命じる。
一発で倒せないなら、何人かで一体を狙って包囲し、矢ぶすまに
してやればいい。アランの率いる連隊は、そのための演習を何度も
繰り返してきた精兵である。
やがて、経験不足の義勇兵も士気を取り戻して、敵の突撃の勢い
レプティリアン
は完全に死んだ。
爬虫類人部隊を擁する敵軍は、囲まれて徐々に押されていく。こ
れはサラの軍の勝ちが見えたかと思ったそのとき︱︱
﹁やれやれ、そのまま勝てれば楽だなーと思いましたが、そうは上
手くはいきませんか﹂
敵軍を割って、銀色の前髪をだらりと下げた、金色の鎧の男がノ
コノコと出てくる。
劇的な登場でも、攻撃を待ってやる必要などないので、銃士隊は
そこに銃撃をかけまくったが、羽織っている茶色のマントに弾かれ
たように弾が当たらなかった。
いかにも派手で、まったく意味が無い無敵演出である。﹁こうい
う低俗で、陰険で、愚かな演出が好きな敵は⋮⋮﹂と、ライル先生
の本に書かれていたのを、サラはすぐ思い出した。
おもいっきり叫んで、味方に警告する。
1843
﹁みんな、防水布で銃を覆って、コイツは上級魔術師よ!﹂
サラは、初めて上級魔術師を目の当たりにする。
いかに先生に﹃見たらすぐ殺せ!﹄と教えられていても、酷幻想
のバランスブレイカー上級魔術師、その大量破壊兵器の恐ろしさだ
けは、実際に経験しないことには、想像もつかないのだ。
﹁レブナント・アリマーの名に置いて命ずる。大いなる蒼き水よ!
我らにあだなす敵を、大瀑布で押し流せ!﹂
﹁大洪水のまほぉおおぉぉぉ!﹂
サラの軍、五千五百の軍勢を、大洪水が横流しにした。
一番効果的なポイントにぶち当てるために、味方の軍まで一部巻
き込んで押し流したのは、この上級魔術師レブナントの容赦のない
ところだ。
強い魔素の力がある﹃黒杉の鎧﹄で身を覆ったサラが、大洪水に
流されて死ぬことはないが、それでも多くの犠牲を払った。
それになにより、大洪水に押し流されては防水天幕も意味が無い。
全部とは言わないが、軍の大部分が流され、前線の義勇兵の火縄
銃が無力化された。
敵の目の前で、無防備な腹を晒したようなものだ、サラの負けが
見えた。
﹁そら、敵将の嬢ちゃんを生け捕りにするのです。聞けば王将軍の
愛妾というではありませんか、捕まえておけばきっと使いどころが
ありますよ﹂
1844
魔術師将軍レブナントは、護衛の爬虫類人の戦士を率いて、ゆっ
くりと押し流されて土にまみれて倒れているサラ代将の元に近づい
ていく。
ぐったりとしている、サラはもはや武器もなく、起き上がること
すらできない。
﹁うおおおおぉぉ!﹂
ライフル
そこにサラを守るため、副将ミルコが魔法銃を抱えて立ちふさが
った。
バキュンバキュンと、撃ちまくると次々に護衛の爬虫類人の頭を
撃ちぬいていく。
彼は、ライル先生が、上級魔術師に対抗できるだけの武器と防具
ライフル
を託した、最後の希望であった。
先生が与えたのは魔法銃だけではなく、こっそりと敵の魔法力を
弱める魔法耐性のあるマントも貸し与えていた。
ライフル
魔法銃は湿気ても、魔法雷管で着火するので使える。洪水の魔法
はミルコの周りだけは弱まっていた。
その力で、仮にサラが負けたとしても、後方まで逃してくれと先
生は命じていたのだ。
あえて、サラちゃん本人に武装させなかったのは、手痛い敗戦を
経験して、さらに成長して欲しいという先生の親心だったのかもし
れない。
弟子を囮にしてでも、敵の上級魔術師を殺そうという策ではない
と信じたい。
﹁やらせない、サラちゃんは、僕が守る!﹂
1845
﹁バカな、水に濡れたら銃は使えなく、グアッ!﹂
魔術師将軍レブナントの肩を、トルネードのかかった銃撃が撃ち
ぬいた。
それなりに防御効果のある、茶色のマントも金色の鎧も、ぶち抜
いたのだ。信じられない威力だ。
チート
戦場であるにもかかわらず、完全に余裕をぶっこいていたレブナ
ントも、これには焦った。
ライフル
この魔法銃は、ユーラ大陸でも指折りの天才であるライル先生が
﹃この世の上級魔術師を皆殺しにする﹄という強い願いを込めて鍛
え上げた傑作なのだ。
上級魔術師を殺すためだけに作られた武器、と言っても過言では
ない。
魔法攻撃には対抗力がある上級魔術師も、実は物理攻撃に対して
はそうでもない。
初速の遅い火縄銃の弾なら、軌道を逸らすことで対処できたが、
魔法力と発射力の相乗効果で飛来する超回転で突き進む弾の勢いは
殺し切れない。
﹁うおおおおぉぉ﹂
﹁ひいっ、やめなさい。ストップぅぅ!﹂
ライフル
結果として、魔法銃の弾の打ちどころが悪ければ、上級魔術師は
死ぬのである。
それに気がついた、レブナントは必死に逃げた。
まるでライル先生の怨念が乗り移ったように、ミルコはレブナン
1846
トを追いかけながら撃ちまくってくる。ライフルの弾は弾倉に十二
発だから、なかなか切れない。
パキューン、パキューンとレブナントの肉を撃ちぬいていく鉛の
塊。
それは彼が初めて感じた命の危険であり、オギャーと産まれてか
らいままで、絶対的な安全圏で過ごしている彼にとって、とても新
鮮な感情で、激しい激痛にもかかわらずアヘアヘと笑っていた。
﹁ひいっ、死ぬ! ヒイィィィ!﹂
その痛烈な悲鳴は、どこか官能的で、感極まっていた。身体中に
穴があいて、血が流れるのすら楽しんでいるようだ。
やっぱり上級魔術師は、生まれつき強い魔力を得た代償として、
みんなどこか狂っているのかもしれない。
﹁まったく情けないな、レブナント﹂
イレギュラー
お尻を狙撃されて逃げ惑う上級魔術師将軍が、いまにも討ち取ら
れようと言うとき。
ミルコの前に、ライル先生でも予想できなかった竜乙女が立ちは
だかった。
ドラゴンメイド
ライフル
竜乙女のアレは、﹁うおおおぉぉ﹂と叫びながら、狙撃してくる
ミルコの魔法銃の弾丸をものともせず、手足の固い鱗で簡単に跳ね
除ける。
ライフル
上級魔術師ですら弾けない魔法銃の弾を簡単に弾いてみせる。
まるで、拳奴皇ダイソンを思わせる防衛術である。
1847
ドラゴンメイド
竜乙女アレの、手足の鱗はオリハルコン製の手甲と同レベルの硬
質を持つということになる。
さすがは古き者﹃竜神﹄の血を引く武闘家。
レディー・オブ・ザ・ランゴ
ランゴ島の女王の娘であるアレは、伝説の種族である竜乙女の中
チート
でもよりすぐりの。
ランゴ島最強の武闘家でもあるのだ。
﹁おっと、逃さないヨ!﹂
ライフル
アレには、魔法銃が効かないとわかるや、サラを抱えて逃げよう
とするミルコを回り込んだ。
さっきまで絶叫しながら上級魔術師を追っかけ回していたのに、
すぐ撤退に転じたミルコもなかなかの冷静な立ち回りだったが、ア
レの速度には勝てない。
ミルコが必死に逃げようとしても、すぐ回りこまれてしまう。
ましてや、ぐったりとしているサラを連れては余計だろう。
﹁ミルコ、私を置いて逃げなさい⋮⋮﹂
﹁そんなことできるわけないじゃないか!﹂
ようやく意識を回復したサラがつぶやく。
ミルコに抱えられる手を、跳ね除けると、よろける身体でサラは
立った。
﹁代将として命じる。副将ミルコは、残存を率いて撤退しなさい﹂
﹁そんな!﹂
﹁ハハハッ、その青年が言うとおりダ、私から逃げられるわけない
1848
ゾ。お前たちはここで死ぬのダ﹂
アレは、大きく青い鱗のついた手足を広げた。
ジャキンと音を立てて鉄をも切り裂く凶暴な爪が指先から飛び出
て、今にも襲いかかってきそうだ。
ここで﹃死ぬのダ﹄と言うのは、冗談ではないのだろう。
サラ代将は捕虜にしてくれと、書斎王フィルディナント陛下も、
ドラゴンメイド
将軍のレブナントも言ってたのに、その場の勢いで何も考えず殺し
てしまいそうなあたりが、竜乙女アレである。
こういうタイプは、殺すと言えば、あっさりと殺しにかかってく
る。
その危うい雰囲気を、聡いサラはすぐに察知して内心で冷や汗を
かきながら、降伏すると叫んだ。そっちのほうに、はやく話を誘導
しないと命が危ない。
﹁私は降伏する。捕虜にしたいならそうしなさい、だからミルコは
逃してあげて﹂
﹁ほう、お前⋮⋮もしかして、シレジエの勇者の愛妾ってやつか?﹂
アレは面白そうに、サラのエメラルドグリーンの瞳を見つめた。
こいつがそうかという笑いだ。どうやらアレは、勇者の愛妾にで
あるサラに、興味を持っているらしい。
﹁そうよ、私が佐渡タケルの愛人よ。私の命は、だから高いの⋮⋮。
代償に、部下は逃がしてもらえると助かるわね﹂
﹁フーン、なるほどなるほど﹂
腕を組んで、アレはちょっと考え込んでいる。
1849
本来なら、そんな悠長な会話をやってないで、さっさと殺すなり
捕まえるなりしてしまえと言いたいところなのであるが、満身創痍
の魔術師将軍レブナントは、ヒィヒィ叫びながらのたうち回ってい
るので、指揮が止まっている。
﹁どうなのよ、取引に応じるの、応じないの?﹂
﹁わかった、いま思い出したが、勇者の愛妾はなるべく捕まえろと
言われてたゾ﹂
サラは、行かすまいと伸びてくるミルコの手を今一度跳ね除ける
と、両手を上げてアレのところまで投降した。
ミルコに振り向き、お前はさっさと逃げろと命じる。
﹁いやです、サラ!﹂
﹁言うことを聞きなさい、代将の命令を何だと思ってんの!﹂
そこに、その会話を聞いていたのか、聞いてなかったのか、大洪
水の時はちゃっかりと安全な後方に下がっていたザワーハルトが、
馬で前線まで駆けてきてさくっとミルコの首根っこを掴んで、攫っ
ていく。
あいかわらず、美味しいポジションに常にいる騎士だ。サッカー
選手だったら、フォワードとして大成しただろう。
﹁よーしよくやった、ザワーハルト! そのままどこまでも逃げな
さい!﹂
ザワーハルト男爵は、﹁離せ﹂と暴れるミルコを抱えたまま、後
方へと撤退した。
いきなり前線の全てを押し流した大洪水のせいで、敵も味方も戦
争をやる気が削がれたのか、撤退していく義勇兵団をカスティリア
1850
の軍隊も追わなかった。
追撃を命じるべき将軍レブナントが、瀕死の状態で倒れたままだ
と言うこともある。
側近が皆殺しにされたら、誰も助けにこないのだから、意外に人
望がない将軍である。
上級魔術師は、使用するその大規模破壊的な魔術から、兵士に怖
がられがちなので。
能力があるからといって、それを将軍にする人事に、無理がある
のかもしれない。
﹁おい、大丈夫か。レブナント﹂
﹁うぐっ、アレ客将、もっとやさしく⋮⋮﹂
エリクサー
見るに見かねて、アレが霊薬を不器用な手つきで口に放り込んで
やる。
手足の先が大きくて、竜の鱗がついているアレは、小さい瓶が持
ちにくいのだ。レブナントの口の周りがビチョビチョになってしま
うが、なんとか回復したようだ。
﹁勇者の愛人は捕らえたから安心しろ﹂
﹁うーん、敵を逃してしまったんですか﹂
レブナントは、起き上がると自分が大洪水で盛大に押し流してし
まった戦場を見つめる。
いまさら、追撃を命じたところで、なんにもならないか。
﹁なんだ、ダメだった?﹂
﹁いえ構いません。正直、我々としてはシレジエの地方貴族の領地
1851
がどうなろうと知ったことではないのです。書斎王陛下の示された
第一目標は、王将軍の愛妾の確保でしたから、これでよろしいので
すよ﹂
魔術師将軍レブナントは、前髪にたっぷりとついた土を払って、
細い目をさらに細めて悪魔的な笑いを浮かべた。
1852
146.ルイーズの焦り
﹁ルイーズ団長、こんな速度では人はともかく馬が持ちませんよ!﹂
﹁すでについてこれない人も出てます﹂
あまりに進軍を急ぎすぎるルイーズに、馬で並走するシュザンヌ
とクローディアが諫言した。
こうも連日、早駆けが続いてはルイーズの騎行に慣れている二人
もヘトヘトだ。
シレジエ王国と、その属領をつなぐ街道は整備されていて、タケ
ルの指示で駅伝制が敷かれている。
適切な間隔で、替え馬を常備した駅が置かれていて、馬が疲れた
ら交換して急ぐことが出来る。
しかしそれは、個人の話だ。
義勇兵団の騎兵隊二百騎全員の分の替え馬などない。
共に随伴する、シレジエ王国近衛騎士団五百騎も、マリナ団長が
軽騎士に改良したとはいえ、ルイーズの求める速度に付いていくの
は難しい。
すでに脱落者が出ていた。
﹁しかし、戦争は待ってくれないぞ、一刻も早く援軍に行かなけれ
ば﹂
なおも先を急ごうとするルイーズに業を煮やしたのか、騎士団長
のマリナがやってきてルイーズの手綱を奪って、無理やり止めた。
1853
彼女はルイーズが騎士団に居た頃からの長い付き合いだ、何も言
わなくともマリナが言ってることは伝わる。
このまま無理に急がせても、戦場に付く頃には軍馬がほとほとに
疲れて、満足に戦うことができなくなる。
みんながルイーズと同じように頑強なわけではないのだ、﹁だか
ら落ち着け﹂とマリナは言っているのだ。
いくらルイーズが騎乗に長けていても、馬の扱いにかけては天与
の才があるマリナ・ホースの乗馬術には勝てない。
手綱を握られて動きを制されては、どうしようもなかった。
﹁わかった! 済まない⋮⋮。今日はもう休んでいい。馬も休ませ
てやってくれ﹂
ルイーズは、深くため息を付いて、焚き火の薪を集めて野営の準
備を始めた。
馬を休ませるときですら、自分は休むつもりはないらしい。ぜん
ぜん、わかっていないのだ。
そのルイーズの頑なな反応に、シュザンヌはため息をついた。い
つもコンビを組んでいるクローティアに目配せするけれど、どうし
ようもないよねと言いたげな視線が返ってくるだけだ。
急ぐのはわかるのだ。拳奴皇軍に攻められているランクト公国へ
の救援が間に合うように、こうして騎馬だけで駆けているのだから。
でも、ルイーズは義勇軍騎兵隊と近衛騎士団合わせて七百騎の将
だ。
その焦りは、軍全体に伝わってしまう。戦を前に、雰囲気が浮つ
くのは良くないと経験の浅いシュザンヌたちですらわかる。
1854
何をそんなに焦っているのか、いつもの腰の座ったルイーズに戻
ってほしい。
そう言いたくても、シュザンヌたちの立場だと、なかなかルイー
ズに言い出せなかった。
ルイーズがせかせかと、薪を集めてきたところに、栗毛色の髪を
風になびかせてマリナがさっと立ちはだかった。
大柄なルイーズに比べると、マリナは小柄だ。それでも、押し黙
ってじっと見ている視線の重みが足を止めさせる。
﹁なんだマリナ、何が言いたい﹂
﹁馬が可哀想だ﹂
ルイーズは、少し驚いたように深紅の瞳を見開いた。
マリナが口答えするとは、いやそれ以前に。
﹁お前の声、久しぶりに聞くな﹂
﹁⋮⋮﹂
マリナは、非難するような視線を送ってくる。
睨まれたルイーズは、ため息をついた。マリナが声を出して異議
を唱えるなど、よっぽどのことだ。
﹁済まなかったよ、急がせすぎたのはあやまる﹂
マリナは、いきなりルイーズの腰に飛びついてしがみついてきた。
せっかく拾い集めてきた、薪がルイーズの手から散らばった。
﹁うあっ、いきなり何をする﹂
1855
そのまま、地面にルイーズを押し倒してしまう。
マリナは小柄なのに、器用に大柄なルイーズの身体を抑えこんで、
そのままフォールした。
﹁イタタッ、ふざけるな、うあっ!﹂
腰にむしゃぶりつかれたルイーズは暴れるが、それをマリナは巧
みに押さえ込もうとする。
そこにシュザンヌとクローティアも顔を見わせてから、走りこん
できて、ルイーズに覆いかぶさって、両手を片方づつ抱えてルイー
ズの動きを封じた。
﹁うあっ、はぁ⋮⋮参った﹂
ルイーズも、さすがに三人に押さえ込まれると抵抗できずに降参
した。
力任せなら、たとえ三人がかりでも跳ね除けられただろうけど、
そういうことではない。三人とも、ルイーズを案じてこんなことを
やってきたのだ。
言葉よりも、腕を掴まれて胸にのしかかられる重みのほうが、ル
イーズにはよほど伝わる。
自分も不器用だが、こいつらもたいがいだなとルイーズは苦笑し
た。
﹁わかったよ、落ち着くから﹂
﹁ルイーズ団長は、何を焦ってるんですか﹂
シュザンヌが代表して、聞いた。
1856
﹁それは援軍だから⋮⋮いや、そうじゃないか。今回の戦いを焦っ
てるのは、嫌な予感がしたからだ﹂
﹁嫌な予感ですか﹂
シュザンヌたちには分からない。
ルイーズの戦士の勘。
﹁そうだ、分かるような合理的な説明ができなくて申し訳ないが勘
としか言いようがない。その焦りに、お前たちを巻き込んだのは悪
かった。マリナもうわかったから離せ!﹂
﹁⋮⋮﹂
マリナは、ルイーズの身体を押さえ込んでいた身体を慌てて起こ
して、後ろに下がってかしこまる。
シュザンヌたちも、慌てて掴んでいた腕を離した。
﹁マリナ・ホース、近衛騎士団に加えて義勇軍騎兵隊の指揮も任せ
る﹂
何故かとも、聞かず。マリナは乱れていた栗毛色の長い髪をさっ
と撫で付けると、居住まいを正して頭を下げた。
マリナにとって、ルイーズの指示は絶対だ。指揮をやれと言われ
たら、やるだけだ。
﹁シュザンヌ、クローディア、お前たちもマリナの旗下でともに戦
え﹂
﹁ルイーズ団長はどうするんですか﹂
シュザンヌは不思議そうに聞く。
1857
彼女たちは、ルイーズに騎士として育てられたのだ。その背中を
追うのを当然だと思っているから、少し不服そうだった。
﹁私は、一人の騎士として戦う。わかっているだろう、今度の戦い
は拳奴皇ダイソンが出てくる。タケルも勝てなかった相手だと聞く、
だからここで確実に倒しておかなきゃならないんだ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
そう聞いて、ルイーズが何に気負っているのか、シュザンヌはよ
うやく気がついた。
ならば自分たちも一緒に、という言葉は飲み込む。
高レベルな戦いになれば、騎士として未熟な自分たちは、足手ま
といになりかねないのはわかっていた。
だから最後まで一緒に戦いたいって、想いは抑える。
﹁わがままを言って済まない、だがダイソンは、私が倒さなければ
いけないんだ。そうでなければ、私がオリハルコンの装備を授けら
れて、タケルの騎士をやっている意味がない﹂
ルイーズが焦っている理由。
拳奴皇と当たったタケルは、勝てなかったのだ。負けることもな
かったが、再び戦場でぶつかれば、今度はタケルの身が危ういかも
しれない。
ならば先行して危険な敵を潰しておこうと、タケルの騎士を自任
するルイーズが急くのは当然だ。
ルイーズは功を焦っているのでも、強敵を前に猛っているのでも
ない。タケルを守りたいのだ。シュザンヌもクローディアも、単な
る戦闘と考えていたのは浅かったと気がついた。
1858
﹁一人でご無理はなさらないでくださいね。ご主人様もですが、私
達にはルイーズ団長も大事です﹂
﹁ありがとう、負けられない戦いだから、肝に銘じる﹂
ポンと、ルイーズはシュザンヌたちの肩を優しく叩いてから焚き
火の準備にかかった。先ほどのような焦りは感じられないが、肩か
ら力は抜けていない。
ルイーズとて冷静さを欠いているわけではない。状況が許すなら、
騎士の決闘にこだわらず囲んで倒すことも考えている。
ただ、ルイーズの戦士の勘がビンビンと危険を感じ取っているの
だ。
﹁気負いすぎかもしれないが﹂
ルイーズは、一度﹃魔素の瘴穴﹄の封印の失敗で、一度大きな敗
戦を経験している。
今のシュザンヌとクローディアのように、大事だった部下を失っ
てもいる。その時の感覚に似ているのだ。
同じ失敗は、もう二度と繰り返さない。
今のルイーズには、タケルから下賜された最強の鎧と最強の大剣
がある。わずか七百騎だが、一から鍛え上げた騎兵隊が居る。
あの時と同じ過ちを繰り返すことはない、もう二度と失うことは
ない。
赤々とした焚き火の炎に照らされて、ルイーズは嘆息する。
そう思っても、どこか安心しきれないでいた。
1859
明日の戦闘に備えて、寝ておかねばならないと思っても、なかな
か寝付けず浅い夢を何度も見た。
※※※
ルイーズたちシレジエ王国近衛騎士団五百騎と、義勇軍騎兵隊二
百騎がランクトの街に入城した時、戦局は難しい状況を迎えていた。
援軍が間に合ったとは言うべきだろう。拳奴皇軍の雑兵二万に囲
まれて、ランクト公国軍はランクトの街の何重にも渡る防壁を利用
して、守りに入っていた。
﹁ルイーズ様! ご援軍、ありがとうございます﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ツルベ川の方角の門から、ルイーズたちを迎えるランクト公国軍
の数もそこそこに多い。
ルイーズを自ら出迎えた、ランクトの街で防戦する主将は、燃え
スキンヘッド
るような炎の鎧を身に着けた長い金髪の姫騎士エレオノラだ。
セネシャル
その両脇を、ガラン傭兵団の禿頭の団長ガラン・ドドルと、銀髪
の執事騎士カトーが副将として固めている。
はや
ベテラン二人が、突撃を仕掛けようとする若いエレオノラの暴発
をなんとか抑えていると言った感じかと、逸る彼女の若々しい姿を
見て、ルイーズは苦笑する。
戦局としては、敵にランクト公国の奥深くまで侵略を許してしま
ったものの、ランクトの街に篭っている限りは負けないと言ったと
ころだ。
ランクトの街は後背にツルベ川があり、北はトランシュバニア公
国、南はローランド王国に通じている。
1860
たった千人ではあるが、川路を伝ってトランシュバニア公国から
も援軍も来ているのだ。ローランド王国は、さすがに援軍を寄越す
までには至らなかったが、物資は豊富に送ってくれている。
ランクトの街に篭るは、ガラン傭兵団五千、トランシュバニア公
国からの増援が千、城兵が千五百、街を守るために義勇兵としてか
き集められた市民兵が五千、エレオノラの率いるランクト公国騎士
団重騎士二千に加えて、ルイーズたち軽騎兵隊が七百騎。
これで、総勢一万五千二百になる。
攻め寄せる拳奴皇軍が二万を超えていたとしても、十分戦える数
だ。
いや、エレオノラの突撃力なら、雑把な農民兵をかき集めただけ
の拳奴皇軍など、篭城せずとも突き破れただろう。
無鉄砲な姫騎士エレオノラが、野戦を避けて苦手な籠城戦を選ば
なければならなかったのには理由がある。
そう、敵は拳奴皇軍だけではなかったのだ。
ゲルマニア帝国の東の果ての三王国から、援軍が付いてきていた
のである。いや、むしろ多くのベテラン騎士を抱える三王国の援軍
こそが、本軍といっても良いほどだ。
ラストア王国の将軍ライ・ラカンが率いる混成大隊が四千。
トラニア・ガルトラント王国からも騎士団を中心として、合わせ
て一万の増援が来ている。
拳奴皇ダイソンは、元ラストア氏族の出身であり、幼少の頃に捕
らえられて奴隷にされた経緯がある。
それもあって、ラストア王国軍の騎士たちは新皇帝ダイソンを同
1861
胞と捉えており、援軍どころか雑兵揃いの拳奴皇軍に変わって、本
軍を自認している程に士気が高い。
トラニア・ガルトラント王国は、それに釣られてと言おうか、ラ
ストアとの盟友の義理で一万の増援を送ってきている。
しかし、積極性に欠けるとはいえ、それを率いているのは﹃生け
る民族的英雄﹄とも呼ばれる、トラニアの盲目将軍ダ・ジェシュカ
と、ガルトラントの﹃黄将﹄サンドル・ネフスキーだった。
ランクトの街が防戦に入って程なく、北西のダンブルクよりマイ
ンツ将軍旗下の重装歩兵二千、騎士二百、そして新式火縄銃を装備
した義勇兵千の合わせて三千二百が増援に駆けつけていた。
寡兵ながら、﹃穴熊﹄のマインツはランクトの街に攻め寄せる敵
に包囲戦を仕掛けようとしたが、同じく練達の将を有するトラニア・
ガルトラント王国軍の牽制に阻まれて、膠着状態に入った。
慣れない新式火縄銃を使って、マインツが育てた義勇銃士隊はよ
く戦ったが、ダ・ジェシュカの機動性のある戦車戦術︵馬車が引く
ワゴンの防御力と、クロスボウの攻撃力を使った効果的な戦術︶に
よる反撃も甲乙つけがたい活躍を見せた。
撃ち合いになれば、互角の勢いを見せて、お互いに譲らない。
そこで敵に阻まれたマインツの援軍は、ランクトの街には入らず
に、今は森や村落を利用したゲリラ戦に移行して、一進一退の攻防
を繰り返して、外から隙を伺っている状態だという。
こうして、ランクト公国軍一万八千四百と拳奴皇軍三万四千が向
かい合うようにして、のちに﹃ランクト攻防戦﹄と呼ばれるこの戦
いは、敵味方ともに手詰まりの状態を迎えていた。
戦局の報告を、主将エレオノラの幕僚である執事騎士カトーから
1862
聞き終えると、ルイーズは分かったと頷いた。
それで﹁どうしましょう﹂と、期待に満ちた顔のエレオノラに聞
かれたので、ルイーズは笑った。エレオノラが言って欲しいセリフ
を、自分が語る立場になっていると分かったからだ。
﹁そりゃ、街から打って出るさ﹂
﹁ですよね! それでこそ﹃万剣﹄のルイーズ様です﹂
期待通りの言葉に、碧い瞳をパッと輝かせるエレオノラを見て、
ルイーズは苦笑を禁じ得なかった。
街に籠城する主将に、これほど向いていない人材も珍しいと思っ
たからだ。
よくルイーズたちが援軍に来るまで、エレオノラが進撃を我慢し
たものだ。
脇についてる将軍たちが有能だということもあるのだが、エレオ
ノラ自身もだいぶと成長したらしい。
セネシャル
かつての彼女なら、早々に敵軍に突撃して何らかの罠にハマり捕
縛されて、また執事騎士カトーが、身代金を持って敵軍の陣営まで
行かなければならなかったことだろう。
この大事な一戦を前に、そのような事態にならなかったのは、ま
さに不幸中の幸いと言えた。
主将たるエレオノラは、きっと攻勢に打って出るキッカケを待っ
ていたのだろう。
女騎士の憧れ、﹃万剣﹄のルイーズさえ来れば勝てる。
そのエレオノラの無邪気な期待は間違っていないと、これからの
戦いで証明してやらなければならない。
1863
そうルイーズは覚悟を決めた。
1864
146.ルイーズの焦り︵後書き︶
ランクト攻防戦戦略図
<i127343|12243>
1865
147.ランクト攻防戦
セネシャル
ルイーズの街から打って出ようとの進言に、執事騎士カトーは顔
を青くする。
ただでさえ、暴発しそうな姫騎士エレオノラを何とかガラン傭兵
団長と押さえ込んでいる状態なのだ。
﹁ルイーズ閣下、うちの姫様を焚き付けないでくださいよ!﹂
﹁エレオノラ将軍の判断は、基本的には正しいぞ。まあ私の話を聞
けカトー殿﹂
慌てて文句を言ってくるカトーを手でいなして、ルイーズは説明
しようとする。
ただ血気に逸っているわけではなさそうだと、老騎士カトーも腕
を組んで、聞く姿勢になった。
﹁では﹃万剣﹄のルイーズ閣下のご高説、お聞かせねがえましょう
か﹂
ルイーズは、戦況をこう分析する。
確かに何重もの防壁があり、物資も潤沢なランクトの街に篭って
いる限りは負けない。
しかし、三万四千もの大軍を有する敵軍に勝つことも、またでき
ないだろう。
ランクトの街を落とせないと分かっているのに、敵軍がこうして
膠着状態に陥れているのはなぜか。
1866
敵の目的が、﹃膠着状態そのもの﹄にあるのではないか。
こっちに兵力を引き付けるのが、本当の目的ではないのか。そう
考えるのは当然のことだ。
あるじ
﹁だいたい、マインツ将軍がランクトの街に入らず野戦をしている
のは何故だ。私は、我が主に作戦は、大将軍たるマインツ殿に従え
との命を承けている﹂
﹁なるほど一理ありますな﹂
マインツ将軍は、野戦で拳奴皇軍を一掃する作戦を考えて機会を
狙っているのだろう。
その動きを見れば、意図は予測できることだ。
ならば、こちらも守るだけではなく打って出るべき。
少なくとも、機動戦力たる騎士団を遊ばせることはない。
﹁カトー殿、もう援軍はあらかた到着しているではないか。籠城は
基本、援軍を待つための方策だろう。騎兵まで塀の中に押し留めて、
時を空費するのは良くない﹂
﹁⋮⋮それは、おっしゃるとおりです﹂
ディンティール
ルイーズは、こう見えても武家の名門の家柄で、元は騎士団参事
まで務めたエリートだ。
基本的な兵学は修めている。
もちろん、籠城策を取ったカトーが、間違いというわけでもない。
彼にとっては、故郷のランクトの街を守るのが第一なのだから、
籠城は正しい判断。
しかし、大将軍として全体の戦略を見るマインツは、また別の判
1867
断をするであろうし。
ここで何としても拳奴皇ダイソンの首を落としておきたいルイー
ズとしては、進撃あるのみとなる。
﹁さて、どこから攻めるかだが⋮⋮﹂
﹁ルイーズ様、狙うはやはり敵将の首でしょう﹂
無邪気にはしゃぐ姫騎士エレオノラを見て、ルイーズは苦笑する。
ルイーズの育てたシュザンヌやクローディアたちは、まだ幼さが
残るほどに若いのに苦労をしたせいか、こういう血気に逸るところ
がない。
彼女たちは、まだ成人にも達していないのに、必死に大人をやろ
うとしている。
それに比べると、ハタチを超えようかというエレオノラが、憧れ
ているルイーズと一緒に剣を振るって戦えると子供のように喜んで
いるのだから面白いものだ。
そう言えば、この高貴なる姫騎士様は、タケルと結婚したのだよ
なとルイーズはふと思った。
どうしようもないお転婆なようで、可愛げもある姫様だ。女性と
しての美しさもさることながら、生き生きした明るい生命力がある。
そういうところに、タケルは惹かれたのかもしれないと、ふと思っ
た。
﹁私の顔に何かついていますか﹂
﹁いや⋮⋮。作戦はそんなに深く考えることはあるまい、裏門から
とりあえず打って出て敵将の首を目指すまでだ﹂
ランクト公国の重騎士二千騎を中心に、シレジエ王国軍の軽騎士
1868
五百騎と、義勇軍の騎兵隊二百騎が、脇を固めて敵の横っ腹を突き
破る。
大軍に囲まれて、機動性を失わないようにだけ気を付ければよい
だけだ。とにかく、スピードでかき回して、敵将を引きずり出して
素っ首を打ち取る。出てこなければ、そのまま敵の陣の弱い部分を
突き破ってやる。
﹁いいですね、ルイーズ様の作戦は、わかりやすいです﹂
﹁それで戦局が動くから、あとは野戦を仕掛けているマインツ閣下
が呼応して動いてくださるだろう﹂
あるじ
自分の主の嫁でもある、ランクト公国の姫君に﹃様﹄呼ばわりさ
れるのは、どうにもなれないなと、ルイーズは苦笑してコキコキと
肩を鳴らすと、首をさすった。
さあ、ようやく暴れまわることができる。ルイーズも騎士である、
久しぶりの激戦の予感に文字通り腕が鳴った。
※※※
﹁鎧袖一触、でもないなこれは﹂
ルイーズと、エレオノラの騎士団が打って出ると、大都市ランク
トの周りを囲んでいた雑兵たちは脆くも崩れ去った。
まだ当たってもいない敵兵すら、軍馬の嘶きが聞こえただけで逃
げ惑う。しかもその逃げ方が、統率も何もあったものではなかった。
これが雑兵というものか。
あまりのあっけなさに罠じゃないかと思うほどだった。
﹁フッ、罠でも構うものか。来るがいい!﹂
1869
ルイーズは、手応えのある敵を求めている。
時折、モヒカン兜を被った指揮官クラスらしい騎乗の戦士がルイ
ーズに斬りかかってくるが、剣ならば一閃。槍ならば二閃で、あっ
けなく両断された。
まるで、紙を切るように手応えがない。
ルイーズの振り回す﹃オリハルコンの大剣﹄は全てを斬り裂いて
いくし、矢が降ろうが鉄砲が降ろうが﹃オリハルコンの鎧﹄を傷つ
けることなどできない。
﹁グッ⋮⋮﹂
ルイーズの目の前で、大きな爆発音が空気を震わせて、馬が戦い
て足を止めた。
火薬玉、原始的な手投げ弾のようなものを敵が投げつけてきたの
だ。
雑兵に過ぎぬゲルマニア帝国軍とて、新兵器が次々と産まれる時
代に手をこまねいていたわけではないのだ。
銃を作るまでの技術はないが、火薬という新しい素材を使って何
を作るかと考えたときに、爆弾という結論に至ったのは賢明である。
人は進化の過程で、石程度の大きさの物を遠くまで投擲すること
にかけて、どんな動物よりも正確にこなせる能力を獲得した。
中世の戦闘では熟練した投擲手の投石が、弓矢や火縄銃に匹敵す
る威力を発揮したとも言われている。
球状の火薬の塊に、導火線をつけただけの原始的な手榴弾。
だが、それでも熟練した投擲手に囲まれて投げつけられるそれは、
1870
激しい光と大きな炸裂音を伴う攻撃であり、何よりも騎乗する馬の
足止めになる。
﹁虚仮威しが!﹂
ただの騎馬隊ならばそれで止まったかもしれない。
だが、今のルイーズは鬼神だ。大剣を振り回すと、その剣風だけ
で次々と投げつけられる爆弾が弾かれた。
あっけにとられる投擲手の前で、ルイーズは馬上から大剣を振り
かざして叫んだ。
﹁ウラアアアアアアァァ!﹂
ドラゴンシャウト
炸裂する爆発音よりも大きな一喝が戦場に響き渡った。
ビリビリと空気を震わせる、竜鳴である。
地上最強の生物である竜の鳴き声は、動物の本能的な恐れを刺激
して、足をすくませる効果がある。
ルイーズは、その竜を殺し続けてその血肉を喰らい続けるうちに、
竜性をその身に宿す竜殺しの英雄となった。
ルイーズの叫びを合図にしたように、爆発に恐れおののいていた
騎馬の統制が戻る。
単なる虚仮威しに過ぎない爆発の何が恐ろしいものか、それより
も恐ろしい軍神を背に乗せていることを馬は気付いたのだ。
ルイーズの手綱の命ずるままに、馬は敵に向かって駆ける。
無慈悲なる﹃オリハルコンの大剣﹄が一閃した。
1871
投擲手たちの身体は、為す術もなくその身を両断されて、血肉を
まき散らす赤黒い塊へと変わった。
その死の旋風を前に、人はもはや抗えない。
﹁ヒイッ!﹂
ルイーズが生み出す地獄の恐ろしさに、農民兵に過ぎない拳奴皇
軍の兵たちは一人、また一人と統制を失って逃げ惑う。
その場に残ったのは、ルイーズの一喝を浴びて、身動きも取れぬ
ほどに怖気づいてしまったものだけだった。
もちろん、逃げられない者は、容赦なく騎馬に踏み潰されて殺さ
れる。
ルイーズの旗下にも、エレオノラを始めとした猛将たちが揃って
いる。雑兵ごときの装備で太刀打ちできるはずもない。
何よりも気を呑まれてしまった兵は、戦場では使いものにならな
い。立て直せるだけの力を持った指揮官もいなかった。士気を失っ
た軍隊の兵卒は、哀れである。
ルイーズの騎馬隊の突き進むところ、もはや一方的な殺戮が繰り
返される。
ユーラ大陸最強の騎士に、ルイーズは成りつつあるのだ。
伝説の最強装備に身を包んだこともあるが、勇者が使うべき装備
の性能をフルに発揮できるのは、やはりルイーズの実力というべき
だろう。
たかだか七百騎の騎兵を従えて、二万を超える拳奴皇軍を圧倒す
るルイーズの前には、もはや敵となるだけの力をもった騎士はいな
かった。
1872
もちろん、ルイーズにかかってくる敵がいなかったわけではない。
﹁ぐははは、デボン三兄弟が相手だ!﹂
﹁くらぇぇ!﹂ ﹁でええぃ!﹂
そんなことを言いながら、高級将校の証たるモヒカン兜を被った
三人が、果敢にも振り回す鉄の鎖に鎌がついた変わった武器で連携
攻撃を仕掛けてくる。
いかに猛将といえど、三体一でなら勝てる。そのような甘い目算
が、戦場では死を招く。
ルイーズはブンブンッと大剣を振り回す一閃で、身体にまとわり
つこうとした三本の鉄の鎖を、鋭い鎌ごと破砕してみせた。
オリハルコンの大剣が、鉄鎖で絡め取れるわけがないのである。
﹁なぬっ!﹂
必殺と信じた技が打ち破られて、驚き叫んだ時は、三兄弟の首が
悲鳴とともに、スポン、スポン、スポンと仲良く空に飛ぶ。
将軍も、将校も、雑兵も、不幸にもルイーズの眼前に立ち塞がっ
てしまった兵たちの首は無残にも飛び続けた。
疲れを知らぬルイーズの進撃、敵の返り血を浴びてその身を紅く
染めながら、血よりも紅い燃えるような髪を靡かせて、敵の中央部
へと一直線に進んでいく。
この敵の大群の真ん中に、彼女が目指す首があると信じてるのだ。
ルイーズにとってただの雑兵など、二万人いようが三万人いようが、
もとから相手ではない。
我が主の危険となりうる、拳奴皇ダイソンを殺すことだけを目指
1873
している。
そのために邪魔となるならば、すべて踏み潰すのみ。
彼我の戦力比は、十倍か、二十倍か。
少勢は多勢には勝てぬ。そのような戦場の哲理ですら、軍神と化
したルイーズの前では足を震わせて逃げ惑うであろう。
女騎士の頂点、シレジエの勇者の片腕、﹃万剣﹄ルイーズ。
この日の血みどろの活躍が、わずか二千七百騎で二万の軍を退か
せた最強の騎士ルイーズの伝説となった。
その勇姿に、鼓舞されて姫騎士エレオノラも騎士団長マリナも、
シュザンヌやクローディアたちも一心に剣を振るい、槍を突き刺し
た。
軍馬一体。やがて、怒涛の如きルイーズの騎士団は、本当に二万
の軍勢を突き破ってしまった。
全体の戦況を後方より眺めていた者は、皆心を打ち震わせたであ
ろう。
※※※
﹁これが、人の成しうることか﹂
そんな意味のつぶやきを、各所で上げたに違いない将軍たちも、
この未曾有の事態に呼応して動き始めた。
野に伏せて反撃の機会を虎視眈々と狙っていたマインツ将軍は、
﹁いまだ﹂とばかりに、敵軍に向け進軍を再開した。
ルイーズが、そのまま止まらずに敵軍を両断すれば、寡兵によっ
1874
てでも包囲して圧殺できる。
気を呑まれて、統制を失った軍は、もはや形骸にすぎない。
もちろん、ゲルマニア軍もそれに対応しようとはする将軍はいる。
﹁あの女騎士を止めなくては⋮⋮﹂
援軍でありながら、本軍たる気概のある猛将ライ・ラカンは、率
いるラストア王国の混成大隊は、拳奴皇軍を立て直すため、ルイー
ズを足止めするために、前面へと軍を押し立てた。
トラニア・ガルトラント王国軍の考えは少し違うようで、ラスト
ア王国軍の援護をしながらも、すでに撤退のタイミングを窺い始め
たようだった。
拳奴皇軍二万が、総崩れとなってしまっては、数の優劣が逆転し
てしまう。いやもうこの段階で、城門を開いてランクト公国軍が全
軍突撃を仕掛けてくれば危ないだろう。
そうなれば、拳奴皇軍はともかく、援軍に来ただけのトラニア・
ガルトラント王国軍は被害が拡大するまえに撤退する。
同盟の義理で援軍に来たとはいえ、トラニア・ガルトラント王国
軍は一緒に心中するつもりは毛頭ないのである。
ここが勝敗の分岐点だ。それが分かっているからこそ、ラストア
の氏族長ライ・ラカンは攻勢を焦った。
拳奴皇ダイソンは、一度奴隷に落ちたとはいえ、元はラストア氏
族の血筋である。
ラストアの出身者が、自分たちを支配していたゲルマニアの皇帝
になろうとしているのだ。
1875
クラン
だから、彼らラストア氏族は我が事のように喜んだし、協力も惜
しまなかった。
北西の辺境の果ての小さな氏族の集まりに過ぎぬラストア人が、
強大なゲルマニア帝国を支配しようというのだ。
それは、生まれついてのラストア人であるライ・ラカンの血を熱
くするだけの価値を持った大望だった。
ライ将軍は、出撃前にゲルマニアの首都ノルトマルクで、皇帝ダ
イソンに会っている。ランクト公国への進軍を将として支えてくれ
と頼まれている。
身の丈二メートル五十センチを超える巨漢であるダイソンは、こ
れ以上ないほどに見事なラストア男子だった。
頑強な肉体と、茶色の髪、茶色の瞳を持つダイソンは確かにラス
トア人だった。
長らく帝国の属領として、望まぬ戦いを強いられてきたラストア
の騎士たちにとって、ラストア王国の独立は悲願である。
それを飛び越えて、ラストア人たるダイソンが支配国の皇帝にな
ろうとしているのだ。これで滾らぬ者はラストア男子ではない。
そのダイソンの前で自然と頭を垂れたライ将軍は、この方を陛下
と呼びお仕えしようと誓ってた。
だからこの一戦、何としても負けられないのだ。
﹁誇り高きラストアの騎士たちよ、覚悟を決めよ。ここが我らの力
の見せどころだ!﹂
カバリン
鍔のある鉄の兜をかぶり、チェイン・メイルの上にラメラー式の
胸甲をつけたライ将軍は、馬上で大振りの蛮刀を振るって、旗下の
1876
大隊に突撃を命じた。
人類世界の辺境に住まうラストア人。過酷な環境に耐え忍ぶ彼ら
は、雑兵など比べ物にならないほどに強い。
その精兵を選りすぐったラストア王国の混成大隊四千は、ゲルマ
ニア帝国の雑兵二万にも勝るであろう。
いかに化け物じみた活躍を見せる﹃万剣﹄ルイーズであろうとも、
本当の化け物や魔族と日々戦い続けているラストア騎士が負けるも
のか。
ルイーズの騎士団の勢いを止めようと、自らも馬を駆り突撃を敢
行するライ将軍には、その覚悟と気概があった。
たとえ、敵が伝説のオリハルコンに身を固める最強騎士であろう
と、鮮血に身を染める鬼神であろうとも、ラストア騎士は食い止め
て打ち勝ってみせる。
クラン
そのようにして、あらゆる強敵から、人類世界の果てを守り抜い
て来たのが、彼ら誇り高きラストア氏族の騎士なのだから。
1877
148.猛将ライ・ラカンの最後
精兵たるラストア混成大隊四千の突進により、初めてルイーズの
二千七百騎の勢いが止まった。
戦場に﹁おおっ﹂と、どよめきが上がる。
戦場に災厄を撒き散らし続ける、紅い軍神の動きが止まった。
それだけで、崩れかけた拳奴皇軍の士気は、持ち直した。
しかし、犠牲は大きい。
誇り高きラストア騎士は、肉弾戦を持ってルイーズを食い止めて
いるのだ。
人間にはとても敵わぬような強大な化物。
例えばドラゴンを相手にしたとき、ラストア騎士はどうするか。
我が身を盾にして食い止めるのである。
勇気ある一騎がではない、皆が我先にと四方八方から殺到して食
い止める。
それは、かつて帝国に存在した不死団のような、洗脳されて命を
捨てた自殺者の群れではない。
命は惜しい、だがそれよりも大事な仲間を守るため、自らの氏族
の誇りのために覚悟した肉弾戦。
ルイーズが、斬り伏せようと突きさそうと、勢いの止まらぬ血肉
は雨となってルイーズに降り注いでくる。
気迫ごときではルイーズは退かないが、死を覚悟してさらに一歩
1878
前へ。死してなお強い意志の伴った血と肉は、物理的にルイーズの
障壁となって立ち塞がった。
悪鬼羅刹のごとき力を誇る魔界の化物や魔族に対して、立ち向か
ってなお負けないラストア騎士の戦いとは決死の意志なのだ。
生物として蛮族や魔族よりも力の劣るラストア人が勝ち抜いてこ
れたのは、全のために己の身を捧げる揺るぎない信念。
厳しい辺境に生きるラストア氏族は、それを最もよく知っている。
﹁ふうっ、これが音にも聞く辺境のラストア騎士の覚悟か。敵なが
ら見事!﹂
そう言って笑うルイーズも、さすがに息も上がっている。
拳奴皇軍二万の軍勢を突っ切ってきたのだ。さらに、ラストアの
混成大隊の四千と戦うのはキツイ。
戦はもはや、こちらの勝ちかもしれない。だがルイーズにとって、
あるじ
それは単なる余録に過ぎない。
我が主タケルの命を危険に晒しかねない、拳奴皇ダイソン。奴を
殺さなければならない。
﹁どこだ、ダイソン﹂
ただ、強敵を求めてルイーズは、精悍なるラストア氏族の騎士達
を敵にして、なお疲れて重くなった腕を酷使して、大剣を振るい続
けた。
その時、さっと戦場の空気が変わる。
王者の気迫を感じさせる大ぶりの蛮刀を持った勇猛なる騎士が、
1879
ルイーズの前に立った。
一瞬、ダイソンかと思ったが、違うようだ。
﹁ラストアの将軍、ライ・ラカンだ﹂
﹁貴様がラストアのライ将軍か。﹃万剣﹄のルイーズだ。お相手願
おう﹂
無言で、立ちはだかるだけで凍てつくような殺気を感じる。
強さと勇猛さを兼ね備えた、ラストアの猛将ライ・ラカン。
ルイーズが求める拳奴皇ダイソンとは違うが、こいつもまた倒し
て置かなければならない敵だった。
息を整えると、ルイーズは必殺の剣をライ将軍に向かって振り落
とす。
﹁弾いただと﹂
オリハルコンの大剣を、単なる蛮刀で弾いて見せた。
いや、それなりに業物なのかとは思う。
﹁この刀は、少し特殊でな﹂
﹁面白い⋮⋮﹂
騎士が使う大剣は、馬上から馬の走る勢いで斬る剣である。
その素材は硬ければ硬いほど良いとされるのだが、ライ・ラカン
の使う蛮刀は違った。
硬く鍛え上げられた鋼鉄と粘性のある軟鉄を組み合わせた、特殊
合金製の野太刀である。
ラストア氏族の騎士たちは、自分たちよりもはるかに硬く強い生
1880
物と戦うために、その武器防具に様々な工夫している。
さすがにオリハルコン、当たれば蛮刀は刃こぼれがするし曲がり
もするが、それでも果敢に打ち掛かるライ・ラカンの剣技は粘り強
く、折れない。
ラメラー式の鎧は、掠った程度であれば装甲が剥がれることで、
打撃を受け流す。
ライ・ラカンの剣技は、勇猛なだけではなく柔軟さと冷静さも兼
ね備えている。
ライ将軍の刀は、ただの蛮刀ではない、弱きが強きを打ち破るた
めに練り上げられた刀なのだ。
﹁これでどうだ!﹂
﹁なにっ﹂
ライ将軍の蛮刀が、変幻自在に揺らめき、ルイーズの猛烈な一撃
を跳ね除けた。
それだけなく、返す刀で馬の首を強かに斬り伏せて傷つけた。
ルイーズの軍馬は悲痛な声を上げて、倒れ伏した。その拍子に、
ルイーズは馬から放り出される。
ついに、ルイーズを落馬させる騎士が現れたのだ。敵味方の陣営
から、どよめきが上がる。
しかし、ルイーズもさるもの。
放り出された衝撃を、空中を一回転して殺すと、大剣を手から離
さずに着地して、また馬上のライ将軍に立ち向かった。
落馬したルイーズを即座に襲う、ライ将軍の蛮刀を物ともしない。
1881
降り注いだ蛮刀と、オリハルコンの剣がギリッと削れあって火花
を散らす。
むしろ今度は、ライ将軍が押される番であった。ライ将軍の蛮刀
では、ルイーズのオリハルコンの鎧を傷つけることはできない。
ルイーズの大剣が直撃でもすれば、馬ごと一気に斬り伏せられる
のはライ将軍の方だ。
ライ・ラカンに勝機があるとすれば、硬い鎧の隙間を狙うしか無
い。
オリハルコンの大剣を大上段に構えるルイーズもそれが分かって
いるから、隙がなかった。
激しい戦闘のさなか、両軍の将軍が斬り合う一騎打ち。この瞬間
だけ、敵味方ともに剣を休めてその対決を見守った。
馬が生きているため、機動力に優るライ将軍ではあったが、隙の
ないルイーズの剣技に埒が明かないと考えたのか、突如﹁うあああ
ぁぁ﹂と空気を震わせる雄叫びを上げながら、馬上から飛び上がっ
た。
勝負に出たのだ。
二万もの敵を相手にしたあとで、ラストア騎士に連戦を強いられ
たのだ。ルイーズは疲れている。
ここは、騎乗の有利を捨ててでも攻める。
ライ将軍が狙ったのはルイーズの動揺。
斬られてもいい、少しでもルイーズの剣技が乱れれば、肉を斬ら
せているあいだに喉元を突いてやる。
いや、それで勝てる相手ではないか。いっそ相打ちになっっても
1882
構わぬと、ライ将軍は覚悟を決めた。
ルイーズさえ倒せれば、二万と四千の軍勢に囲まれた、たかだか
二千七百騎が勝てるわけがない。このライ・ラカンの命、決して安
くはないが︱︱。
安くはないが、ここは命を賭ける価値のある戦機。
この一刀に、ありったけの力を込めて、ラストア氏族の命運を賭
ける!
しかし、ライ将軍の渾身の力を込めた猛烈なる突きを受けるルイ
ーズは、まったく焦らなかった。
空中から巨体をぶつけるように叩きつけられた一刀を意外にも優
しく大剣で受け止めると、微笑みすら浮かべて、そのまま柔らかく
力をいなして地面へと弾き飛ばした。
﹁なんとぉ!﹂
ここで柔剣とは、読まれていたのか。
これまで軟剣を使うライ・ラカンに対して、ずっと硬剣で戦って
見せたルイーズが、最後の最後でみせた柔らかい受けの剣技に、ラ
イ将軍の渾身の一撃は辛くもかわされた。
唖然とするところに、さらに一閃、薙ぐ。
その身を削り曲がりながらも、共に戦い続けてくれたライ将軍の
蛮刀が、中程からポッキリと折れてしまった。
勝負は、あった。刀とともに、命運も潰えたか。
﹁⋮⋮不覚だ﹂
1883
ライ将軍が、そうつぶやいて首を差し出すように頭を垂れる。諦
めたのか、あるいはそれでも折れた刀を手放さなかった彼は、ルイ
ーズの油断を誘ってまだ一矢報いるつもりだったのかはわからない。
ルイーズが、刹那の躊躇もなくライ将軍の首を落としたからだ。
激闘のあまりのあっけない終わりに、一騎打ちが終わったという
のに、戦場は静まり返ったままだった。
時が止まったように静まり返る戦場の真ん中で、ルイーズはたっ
た一人、ライ将軍の馬を奪ってまたがると、ラストア騎士に向かっ
て突撃をしかけた。
自らの将軍の血に染まったオリハルコンの大剣に打ち掛かられて、
ようやくラストア騎士たちは、自分たちの将軍が負けたのだと自覚
した。自覚せざるを得なかった。
ルイーズがやすやすと身の丈ほどもある大剣を打ち振るい、血し
ぶきが宙を舞う。
﹁うああああぁぁ﹂
静まり返っていた敵味方の全ての陣から、悲しみと怒りに満ちた
絶叫が響き渡った。誰が最初に叫んだのかは分からないが、その悲
痛な叫びは全体に伝染する。
それを合図にして、騎士隊は突撃を仕掛けて、また殺し合いが始
まる。
将を失った軍はひどく脆くなる。ラストア混成大隊の動きは精彩
を欠いた。
ランクト攻防戦の勝敗が決したのは、猛将ライ将軍がルイーズと
1884
の一騎打ちに敗れた、この瞬間といえるだろう。
ルイーズの勝利に勢いづいて、ついにランクトの街の全ての大門
が開き、街の中にいたランクト公国軍が拳奴皇軍へと殺到しだした。
均衡は崩れた。
※※※
トラニアの民族的英雄、ダ・ジェシュカ将軍は視力を失っている。
しかし、その代わりに他の感覚は研ぎ澄まされている。何となく
先の陣で、ライ将軍が討ち死にしたことを鋭敏に察した。
失った将が優秀であればあるほど、兵の狼狽とどよめきが、空気
を震わせて手で触れるように伝わってくる。
いつもは冷静なダ将軍も、杖を握る手に力がこもった。確認のた
めに、隣に居たガルトラントの将軍サンドル・ネフスキーに尋ねる。
﹁ライ将軍は、ダメかね?﹂
﹁ああ⋮⋮死んだみたいだよ。彼とは長い付き合いだったが、これ
も武運の尽きというものだろう﹂
サンドル・ネフスキー将軍は、目の見えぬダ・ジェスカにそう教
えてやる。
その声は暗い。ラストアのライ将軍とは、長い付き合いだったの
だ。サンドル将軍はしばし戦友のために瞑目して冥福を祈る。
﹁あの男、死に急ぎよって。祖国の独立を勝ち取っただけで、満足
しておけばよかったものを⋮⋮﹂
やはり、長い付き合い。盲目将軍も、少し寂しそうにつぶやいた。
1885
三大領邦国家の三将軍と並び評された中でも、四十二歳だったラ
イ将軍は最も若い。まだ脂の乗り切った時期だ。これからいくらで
も、戦働きができたであろうにと思えば無念が残る。
死ぬ順序が逆だろうと、齢五十七歳の初老であるダ・ジェシュカ
将軍は、愚痴りたくもなる。
だが、若い方から死に急ぐ、ということもあるのだ。過ぎた野心
とは、飲めば飲む程に乾き、若者を死へと誘う毒薬でもある。ライ・
ラカンはその誘惑に抗し切れず、彼我の戦力を見誤り、引き際を見
失った。
哀れには思うが、将としての不覚なのだ。
戦場で感傷に流されてはいけない、ダ将軍は頭を切り替える。
﹁そうだな⋮⋮。どうだろう、この先も独立を守るならば、シレジ
エ王国側にもよしみを通じておくべきかね。カスティリアもやるよ
うだが、やはりあのシレジエの勇者の軍は手強いようだ﹂
﹁たった一人の騎士に十倍の戦力を覆されては、指揮棒を握る我々
シーパワー
ランドパワー
としては敵わんよなあ。遠くの国の戦争など知ったこっちゃないが、
海軍国か陸軍国か、次の世界の覇権をどちらが握るかだと思うが⋮
⋮﹂
込み入った話になりそうだったが、よく考えるとそんな相談をし
ている場合ではない。
﹁自分で言っておいてなんだが、今は逃げる算段をすべきときだっ
た﹂
﹁あーそうだったそうだった﹂
﹁ハハハッ、じゃあまあ情けなく逃げるとするか﹂
1886
﹁じゃあ、お互い無事に逃げられると良いな﹂
そうは言っても、撤退する猶予は十分にあった。撤退の段取りは、
すでに終わっている。
ダ・ジェシュカ将軍は、付き添いの騎士に手を引かれて武装した
馬車に乗り込み、サンドル将軍は馬に跨って、あとは一目散に後ろ
に逃げるだけで済む。
もともと、この作戦は老練な知将である二人が主導したと言える。
だから、ランクトの街を攻める形が、トラニア・ガルトラント王
国軍が上手に撤退するための布陣ともなっている。
負けた時のことも考えて、大軍を扱うのに慣れない新ゲルマニア
帝国軍の将校たちにそのように攻めるように助言しておいたのだ。
そのおかげで、逃げるときもまんまと敵に対する壁になってくれ
るのである。
攻めるときには、常に引くときの事も考えておく。自軍の犠牲は
極力出さない。
一軍の将ならば、当たり前の配慮だ。
トラニア・ガルトラントの両軍合わせて一万の軍勢は、統制の取
れなくなった拳奴皇軍が右往左往して、討ち取られている間に悠然
と撤退していく。
賢将たる二人の予想通り、両軍が引いた後で、統制を失った拳奴
皇軍は包囲殲滅されて壊滅した。
ルイーズがライ将軍との一騎打ちに勝ったことを契機にして、ラ
ンクトの街にいた軍勢も門を開いて各所から拳奴皇軍に向かって殺
到したのだから当然の結果といえる。
1887
モヒカン
後はもう一方的な殲滅戦である。中隊の指揮を取っていた数十名
の高級将校が全滅すると、そのまま二万を超える軍隊が包囲の中で
次々と潰されていったのだ。
敗北した拳奴皇軍は、出撃した指揮官のすべてを失い、その死者
は一万を超える。一方で、ランクト公国軍が払った犠牲は、驚くべ
きことに百名足らずに過ぎない。
こうして﹃ランクト攻防戦﹄は、ランクト公国側の圧勝に終わっ
た。
※※※
﹁結局のところ、敵軍の中にダイソンはいなかったというのか﹂
大勝利を得たルイーズは、物足りない気持ちを味わっていた。
確かに敵との戦には勝った、ライ・ラカンという強敵も倒した。
しかし、狙っていたダイソンはどこにもいなかった。
﹁﹃万剣﹄のルイーズ殿。ご苦労様でした﹂
﹁これは、マインツ大将軍⋮⋮。閣下こそお疲れ様でした﹂
巧みな包囲戦術によって敵軍二万と四千のラストア混成大隊を瞬
かくしゃく
く間に下した、老将マインツが杖をついて、ひょこひょことルイー
ズのところまでやってきて、労をねぎらった。
度重なる野戦にも関わらず、指揮を執った老将は矍鑠としている。
あいかわらず着ている鉄の鎧は重そうではあるが。
﹁ホッホッ、大将軍は、少し恥ずかしいね。ましてや﹃万剣﹄ルイ
ーズ殿のような大英雄に言われるとなればだ﹂
﹁我が主は、マインツ大将軍の命に従えと言いました。私はこの機
1888
会にダイソンを倒したかったのだが、どこにいるか見当がつくだろ
うか﹂
ふうむと、白髭をさすって考えこむ。
マインツの隣から、青いモヒカン兜の騎士がひょっこりと顔を出
して﹁賊将ダイソンなら帝都に、こもってるんじゃないのか﹂と口
を挟んだので、ルイーズは反射的に剣を抜いてしまった。
﹁のわっ! 違うぅぅ! 俺は味方だ! 正統ゲルマニア帝国のゲ
モン将軍様なんだぞぉぉ!﹂
﹁すまん、モヒカンだったので⋮⋮﹂
まあまあと取りなすマインツ大将軍が言うには、ゲモンのように
敗戦続きの拳奴皇を見限って、こちら側に寝返る兵もでてきたのだ
と言う。
この度も、ゲモンが敗残の兵に呼びかけて、こちらの味方を増や
すことを考えているそうだ。
こう見えて、正統ゲルマニア側に付いても、一軍の将として重用
されているゲモン・バルザックは、寝返りを奨励する広告塔として
役に立っているのだ。
なにせゲルマニアは広い、ルイーズのように立ちはだかる敵はみ
んな殺すなんてやっていては、いつまでも戦争は終わらない。
大将軍ともなると、いろいろと考えることが増えるようだ。モヒ
カン兜を改心させて味方にしようなど、一心にタケルの騎士であろ
うとする、ルイーズの単純な思考では思いもつかないことだ。
とりあえずモヒカン兜はみんな敵だと思い込んでいると、味方を
斬ってしまうかもしれないから気をつけなければならないようだ。
1889
ルイーズの殺気に当てられたせいで、マインツ将軍のマントの影
に隠れて、ビビって震えているゲモン将軍だが。彼の言うことも、
もっともと言えた。
今回の戦場に出ていないとなれば、拳奴皇ダイソンは帝都ノルト
マルクに居ると考えるのが普通だろう。
﹁しかし、違うね﹂
﹁違うといいますと?﹂
マインツは不意に真顔になると、白い髭を手でさすって答える。
﹁こっちは陽動だろうと考えている﹂
﹁では、ダイソンは帝都には居ないと?﹂
拳奴皇軍と三王国合わせて、三万四千の軍勢を﹃陽動﹄と呼ぶの
は、大将軍の視野の広さだろう。
しかし、本来ならばゲルマニアの雌雄を決するべき侵攻作戦に賊
将ダイソンが居ないとなれば、この大攻勢自体が陽動と考えるほか
ない。
﹁この勢いでゲルマニアの帝都へと攻め上りたいワシとしては、こ
のままルイーズ殿に手伝ってもらえると助かるのだが、そうもいか
ないね﹂
﹁もしや、ダイソンはタケルの元に向かったと言うのか!﹂
それは、ルイーズがもっとも危惧していることだった。
拳奴皇ダイソンは、単体の力としてはタケルよりも強い。
それはルイーズだって、勇者たるタケルならば、力量が上のダイ
ソンすらも打ち破るかもしれないと期待はする。
1890
でも、その身を危険に晒すのが嫌なのだ。君主の危機に、守るべ
き騎士が側に居ないのなら何のために私は居るのか。
ただひたすらにタケルの騎士であろうとするルイーズは、そう考
えるのだ。
血気に逸って、進撃してしまったのは、もしや失敗だったかと悔
やんだ。
﹁君とダイソンの思考は似ている、つまり敵の大将の首を取れば勝
ちってことだろうね。ダイソン側が、そう考えない理由はない﹂
﹁こうしてはおられぬ、私は王都に戻るぞ!﹂
そうなるだろうなと、マインツは予想していた。
あるいは、そのような目を残して、こちらの進撃を阻むのが陽動
作戦の可能性もある。
一騎当千の騎士たるルイーズを王国に戻すのが本当の敵の罠なの
かもしれないが、万が一にも王都が襲われて王将軍が討たれたとな
れば、全ては灰塵に期す。
マインツとしても、王都にいる皇帝コンラッド陛下と皇孫女エリ
ザベート殿下の身が心配なのだ。
こう言えば、ルイーズは帰ってしまうだろうと思っても、その予
想を口にしないわけにはいかない。
﹁騎士ヘルマン!﹂
﹁ハッ﹂
いつもマインツの傍らに居た、﹃鉄壁﹄のヘルマンが静かに前に
出る。
1891
彼もまた﹃オリハルコンの盾﹄を有した一騎当千たる無敗の騎士。
戦時の今、旗下から貴重な戦力を割くのは惜しいが、そうも言っ
てられまい。玉体を守り切って、上手く敵将ダイソンを倒せればこ
ちらの勝ちとも言えるのだから、戦力は守りに集中すべきだ。
マインツは、指揮棒をさっと振るって命じた。
﹁君もルイーズ殿と共に王都シレジエに行きたまえ。王将軍も心配
だが、何よりも陛下の身をお守りしてくれ﹂
﹁御意!﹂
こうして、最強の剣と最強の盾は王都シレジエに向かう。
本当にダイソンは、王都を襲うのか。ルイーズたちの救援は間に
合うのか。時間との勝負となるだろう。
﹁私もルイーズ様と一緒に行くわよ!﹂
﹁姫様ぁ、ご自重なさいませぇ!﹂
エレオノラの燃える﹃炎の鎧﹄に手のひらを焼かれながらも、老
執事カトーは必死にルイーズについていこうとする姫騎士の腰にす
がりついて、行かせまいとする。
この主従はどうしたものか。
呆れて眺め、さすがの大将軍マインツもため息をついた。
跳ねっ返りは、イレギュラーになりやすい。
むしろ、これを行かせて、ライル君の邪魔にならないかと言うと
ころだな⋮⋮。
大将軍マインツは、とりあえず諭して見ることにした。
1892
﹁エレオノラ姫、貴女が離れてランクト公国はどうするんだね﹂
﹁だってマインツ将軍、タケルが危ないんでしょう!﹂
やれやれと、マインツは白髪を掻きながら戦力を計算する。
これでも姫騎士エレオノラは、ランクト公国軍の象徴なのだ。彼
女が手足のように操るランクト公国騎士団の機動力も捨てがたい。
姫騎士エレオノラが抜けると、駒が足りなくなるなと考えて止め
ることにした。
﹁エレオノラ公姫。貴女はランクト公国を守るために残ったのでし
ょう、少なくとも領地の安全を確保できるまでは動くべきではない﹂
﹁むうっ、私だって奥さんなのにぃ!﹂
なんとかエレオノラの暴発は、食い止め続けるしかない。
さてはて、拳奴皇ダイソンは本当に帝都に居ないのか、王都への
強襲作戦は本当にあるのか。それによって、今後の戦略も大きな違
いが出てくる。
﹁ホッホッ、あっちもこっちもやっかいなことだね﹂
何の因果か、大将軍なんて大層なものを引き受けてしまったマイ
ンツは、考える事が多い。
老練なマインツは、迷いは禁物だと知っている。こうなれば、腹
を括って自分の仕事に集中するのみ。
果たすべきは、守将としての役割であろう。いまは守り。できる
限り力を蓄えて、来るべき反攻への準備を整える。
マインツは、それでいいのだ。
1893
姫騎士エレオノラと老執事カトーの主従が、﹁行くわよ!﹂﹁後
生でございますれば、お止めください!﹂などとワーキャー騒ぎ立
てているのをよそ目に見て苦笑しながら地べたに座り込むと。
目の前に戦略地図を広げて、白い顎髭をさするマインツは、今後
の先行きを占うように、しばし黙考するのだった。
1894
149.命の優先順位
カスティリアの上陸軍相手に、シレジエ王国の軍師ライル・ラエ
ルティオスは思わぬ苦戦を強いられていた。
シレジエの王領には、艦隊が寄港できるような良港は存在しない。
おもだった漁港には、義勇軍が砲兵を並べて、敵艦隊が近づけば陸
から砲撃して追い払っている。
それでも十分な対処とは、ライルも考えていない。しかし、西方
に広がる海岸線全てをカバーしきれない現実がある。喫水の浅い船
か、小型のボートにでも乗り移ればどこからでも上陸できてしまう。
そうしてついに恐れていた事態が起こった、断崖絶壁を登ってこ
ちらの防衛線が薄い地帯からの攻勢である。
もちろん全く予測していないわけではなかったが、二千名を超え
レプティリアン
る兵団でそのような突飛な攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。
しかも、敵軍の中には爬虫類人部隊が含まれているという。
敵が爬虫類人の傭兵を使っているとは、ナントの戦いで敗れた副
将ミルコ青年が、直接ライルの元に来て行った報告に含まれていた
情報だが、それがこうも早くこちらにまで展開してくるとはしてや
られた感がある。
敵は、守りきったナントから陸路を攻め上らず、海路を利用する
から遥かに展開が早いのだ。
ライルが入念に練り上げておいた王都の防衛網も、強靭な肉体を
持つトカゲ人間の来襲までは想定していない。
いまこうしてライル自らが将として、第四、第五兵団を連れて現
1895
地に向かっている。奇襲には驚いたが、海岸線のガレー村にはジー
ニーの砲兵隊がいて義勇軍も展開している。
冷静に対処すれば、絶対に負けないとは思うが、王都シレジエの
防衛網は薄くなるのが気がかりだ。
いや、敵の策士の狙いは局地戦の勝敗などではなく、王都だろう。
後はタイミングの問題だ。
そう分かっていても、攻められて国土を蹂躙されれば、兵を出し
て守らざるを得ない辛さがある。そうしなければ、シレジエ王軍は
民からの信頼を失う。
だからこそライル自らも一軍の将として、戦場を幌馬車に乗って
戦場に向かっているのだが⋮⋮ライルは、深い疲労を感じてため息
をついた。
心労のせいもあるのか、近頃は身体がやけに重い。
私としたことが、まんまと翻弄されてしまっていると、ライルは
苦い笑いを浮かべた。
﹁敵にも、それなりの策士がいる⋮⋮﹂
チート
一介の書記官からシレジエ王国の摂政にまで上り詰めたライル・
ラエルティオスは、天下の大軍師だ。戦略家としての実力は、ユー
ラ大陸でも有数と自負している。
ひきこもり
おそらく、カスティリア王国でライルと知恵比べができるのは、
書斎王として有名なフィルディナント・カスティリア・アストゥリ
アスその人だけだろう。
部屋から一歩も出ないフィルディナント王は、現場を一切見ずに
データのみで全てを判断するモグラだ。一見すると無謀にも思える
戦略手法だが、だからこそ手強い。
1896
はかりごと
敗北にも勝利にも心を揺らされず、彼個人が信じる原則のみを絶
対遵守して、飽くこともなく攻め続けて、謀を重ねてくる。
ゴーレム
冷徹なるフィルディナント王の非人間的な戦略と相対すると、ま
るで疲れを知らぬ機械を相手にしているかのようで。
こちらが、一方的に神経を疲弊させる戦いを強いられる。
﹁だが、これはそれとも違いますね。なんというか、気持ち悪い⋮
⋮﹂
あの書斎王の指示にしては、作戦に奇妙な粘りつくような生暖か
さを感じる。
あえて断崖絶壁を登らせて攻め寄せるなど、フィルディナント王
が考えた戦術としてはトリッキーすぎる。
しかも、奇抜でありながら、断崖絶壁を登るのに厳しい環境に生
きる爬虫類人が適しているなどと考慮する細やかさもある。
囮作戦だということは分かるのだが、こうも敵地で平然と兵を分
散させる大胆さはどうだ。味方の兵など、いくら使い潰してもいい
と言っているようなものだ。戦力の分散は避けるという常道を無視
した動きで、対応していると疲れる。
誰にしろ、常識にとらわれず手段を選ばないが繊細さもある、油
断ならない相手と言えた。
ではその策士は誰かと考えても、ライルの頭の中に記憶されてい
るカスティリアの前線指揮官に、こんな奇抜な手を使う将軍はいな
い。
おそらく、新しい軍師か将軍がいるのだろうとは考えた。まさか、
上級魔術師であるレブナント・アリマー自らが指揮権を与えられて、
攻撃を指導しているとは、さすがのライルも予測できない。
1897
イレギュラー
﹁今回の戦いは、不確定要素が多すぎますね﹂
戦地に向けて疾走する馬車の中で、作戦地図を眺めながら、ライ
ルは短い杖を握りしめた。
ナントの攻防戦。サラが代将としてナントの港に攻め寄せたのは
彼女の暴発だが、それに対抗して敵が上級魔術師を繰り出してくる
ことも含めて、ライルの計算内だった。
そこでサラの軍が負けても、ライルの意を受けたミルコが上級魔
術師を一人殺れていれば、十分採算は合うはずだった。
ドラゴンメイド
しかし、そこに現れたというのが、竜乙女の武闘家。
客将として、カスティリア王国に味方しているのだと言う。ユー
ラ大陸では伝説上の種族だから仕方がないが、その実力は未知数で
計り知れない。
ライフル
いや、ミルコからの魔法銃が効かないという情報から、竜乙女の
武将は、拳奴皇ダイソンと匹敵する近接戦闘レベルと考えられる。
とんでもない強敵だ。タケルのいる王都に近づけてはいけない。
そう言えば、ランクト公国を攻めた敵軍の中にダイソンの姿も見
えなかったという話も気になる。
あの最強の拳闘士が、どこにいるのか行方が杳として知れないの
は気味が悪い。拳奴皇もパターンが読みにくい一人だった。
考えたくないことだが、皇帝ダイソン自らがタケルのいる王都を
奇襲する可能性も考えられる。彼は何としても老皇帝と皇孫女を取
り戻したいはずだ、しかも、そこにカスティリアの上級魔術師と竜
乙女が連携してくればどうだ。
これはマズイ。
1898
最悪の事態を考慮して動くべきだ。
その全てが王都シレジエを絞って、一点に攻撃を仕掛けてきた場
合に、こちらの戦力は持ちこたえられるのか。
王都が襲来されて、シルエット女王や老皇帝が襲われるなど、許
す訳にはいかない。なんとか敵を捕捉して防衛策を講じなければな
らない。
イレギュラー
﹁ああ、見えない未知数をどうすべきか⋮⋮﹂
アンノウン
思考がやけに、鈍い。いつもは作戦地図さえ見つめれば、敵の動
きが透けて見えるのに、今日は霧の中で未知数が蠢いているだけだ。
頭が重い。
タケル殿の軍師たる自分が、こんなことでどうすると、自らを奮
い起こそうとするが。心臓がバクバクして、呼吸が荒くなる。冷や
汗が、ライルの額から頬を伝った。
﹁フッーフッー﹂
このままでは王都を守り切れないかもしれない、もっと狭く絞る
べきなのか。
海岸線で、敵を押しとどめられなかった以上は、防衛ラインを後
方に、いやいっそ点に絞るか。そうだ王都さえ、王族がいる王都さ
え守りきればいいのだから⋮⋮。
人質に取られたサラが、いずれ取引に使われるだろうだろう。こ
の戦場で出てくるならば良いが、タケル殿が居る場所にぶつかって
はならない。
だからライルは一人で来たのだ。タケルは女に弱い。非情になれ
ない男だ。
1899
サラを助けられるような展開なら良し。
それが無理で、もし人質として邪魔になるようならいっその事、
可愛い教え子でも⋮⋮いやだからこそ、我が手で殺そうとライルは
覚悟している。
ライフル
そう考えたから、ライルは﹁サラを救い出す﹂と泣きながら誓っ
たミルコから魔法銃と魔法抵抗力のあるマントを、そんな様子なら
﹁もう預けられない﹂と非情に取り上げたのだ。
サラを殺せば、あの若い青年は私を恨むだろうか。タケルに嫌わ
れるだろうか。
ライフル
それでもそうしなければならないならば、私がやる。それが自分
の役割だとライルは、魔法銃を握りしめた。
力を込めて立ち上がろうとして、ライルはバタリとその場に倒れ
た。身体に力が入らない血の気がスッと引いて意識が遠のく。
﹁こんなときに⋮⋮﹂
いくら呼びかけても、返事が帰ってこないので。
幌馬車の中を、確認した義勇軍大隊長マルスによって、倒れてい
る軍師ライルが発見されたのはそのすぐ後のことだった。
※※※
ライル先生が戦場で倒れたと聞いて、俺はオラクルちゃんに抱え
てもらって、現地に飛んだ。普段なら俺を運ぶのはカアラの役割な
のだが、王都の防衛上どうしても外せないので、身重のオラクルに
無理してもらったのだ。
戦場から近くの村、村長の家の簡素なベッドで、ライル先生は、
1900
少し青い顔で横たわっていた。
幸いなことに、カスティリア上陸軍との小競り合いは先生の事前
の準備もあって、義勇軍と兵団で挟み撃ちをかけたこちらが勝利し
たようだ。
だが、王領の奥深くにまで敵に攻めこまれている厳しい戦局は、
予断を許さない状況だといえる。
戦局は大変だが、いま先生に無理をして倒れられたら、元も子も
ない。
額に手を当ててみるが、熱はないようだ。
﹁大丈夫ですか﹂
﹁ええ、すいません。タケル殿、私はこんなときに⋮⋮﹂
先生は、体調が優れなかったのだろうか。
そういえば、この頃少しおかしかった気がする。青い顔をして食
欲がないと言っていたのに、突然味が悪い妙な果物をたくさん食べ
たり。
先生の額に当てている俺の手を押しのけて、オラクルちゃんがニ
ュッと間に入ってきた。
オラクルの方も、すっかりお腹が目立ち始めているので無理はし
て欲しくないのだが、今日は久しぶりに飛んでもらった。
王都の防衛が手薄になると困るので、カアラの方を残してきたの
だ。
俺が居ない間を狙って、襲われる危険は十分にあるから。
﹁これは⋮⋮おめでたじゃの、吐き気があるじゃろ﹂
1901
﹁なっ、そんなわけありません﹂
ライル先生が立ち上がろうとするのを、オラクルはスッと手で押
さえた。
エンシェント・サキュバスであるオラクルは、性のことに関して
は専門家だ。
﹁そんなわけあるのじゃ、お主は妊娠しとるぞ﹂
﹁そんな、私は妊娠なんてしません﹂
フッとオラクルは笑って、首を横に振ってみせた。
﹁先生さんが、そう思い込んでいるだけだったわけなのじゃ。もと
もと女の生理の機能はあったのじゃから、妊娠しても何の不思議も
ないのじゃ﹂
﹁そんなまさか、よりにもよってこんな時に⋮⋮﹂
ライル先生は暗い顔をしている。
おめでたなら、おめでたいのに、何がダメなのだろう。
﹁タケル、女の魔術師は妊娠すると調子が悪くなって、魔法力が使
いにくくなるのじゃ。おそらく先生さんにも自覚症状はあったじゃ
ろうにの﹂
﹁えっ、そうなのか﹂
どういう理屈なのかと聞くと、魔術師が魔法力を顕現させるには、
魔素をそのように調律しなければならないというのだ。
腹に魔法力を持つ子供がいれば、お互いの魔法力が干渉して乱れ
てしまう。
1902
﹁つまり、先生さんの腹に出来たタケルの子供は、見事に魔術師だ
ったようじゃ。めでたいのじゃ﹂
﹁こんな時に、めでたくありません!﹂
ライル先生は、ベッドから起き上がった。
よろけているので慌てて支える。
﹁魔法力も使えんし、身体もこの調子だから戦場には立てんの。王
都の城で寝とるしかないのじゃ﹂
﹁そうだな、先生身体を大事にしてくださいよ﹂
先生は、ワッと顔を伏せて泣き始めた。
どうして泣く。
﹁私は、こんな時に役に立てないなんて﹂
﹁それについては、俺にも責任がありますし﹂
順序としては一番ではないが、回数から考えると先生が一番最初
に妊娠してもおかしくなかったからな。
積極的ではなかった先生と、子作りしまくったのは俺のせいだ。
タイミングが悪くても文句は言えない。
﹁いえ、私が悪いんですよ⋮⋮。妊娠なんてしないと思ってたから、
安易に応じてしまって﹂
そう言う先生の声に、艶がある。ああ、女にしてしまったのだな
と、俺は思った。
青白い顔をして茶色い瞳から涙を流している先生の姿にも、そそ
るものがある。抱きたいぐらいなのだが、懐妊したそうだからしば
らくは無理だ。
1903
いや、どっちにしろそんな戯けたことを考えている場合じゃない。
敵が迫っている。
﹁とにかく、オラクルに先生の身体を城まで運んでもらいましょう。
城で休んでください、俺はこっちの混乱を収拾してから王都に戻り
ます﹂
﹁いえ、待って! 待ってください⋮⋮こっちの敵が呆気なさすぎ
るんです﹂
ライル先生は、もう一度ベッドに寝そべると、長く伸びた髪を掻
きむしるようにしてハァハァと荒い息を吐きながら、手に握りしめ
た作戦地図を睨むように凝視した。
ブルブルと手が恐ろしいほどに震えている。何かと戦っているよ
うにも見える。やがて、何度も荒くついた息が、静かになった。本
当に大丈夫だろうか。
﹁先生⋮⋮﹂
﹁私は王都に帰ります。しかし、馬車で、です。急いで戻る必要が
あるのは、タケル殿です。いいですか、よく聞いてください。王都
は敵に強襲されます﹂
いきなり、とんでもないことを言い出した。
先生は、いつも理路整然とした説明があってから言うのに、あま
りに唐突すぎる。まるでうわ言のようだ。
﹁王都が襲われるんですか!﹂
﹁細かく説明している猶予はありません。こっちの予想を超えて、
容易ならざる敵だとこっちの陽動の動きで分かりました。いいです
か、こっちの戦場は義勇軍と兵団に任せておけば十分です﹂
1904
先生は、枕元の水差しの水を、一気にグッと呷った。
口のあたりが濡れるのも構わず、ゴクリゴクリと喉を鳴らす。そ
うして、飲み干してから再び話しだす。
ライフル
﹁私の魔法銃と魔法抵抗のマントをミルコに渡して、捕らわれてい
るサラを助けるように言ってください﹂
﹁えっ、それって先生がミルコから返せって、取り上げたんですよ
ね。サラちゃんは助けるなって、言ってませんでしたか﹂
﹁状況が変わりました⋮⋮、とにかくこっちに来ない以上、人質の
サラは王都襲来の手札として出てきます。その時に、助けるのはミ
ルコに任せておけばいいんです。いいですか、タケル殿は絶対にお
びき出されてはいけませんよ。出て行けば、殺られるかもしれない﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
先生は、息を荒らげて、必死の形相で俺の首に手ですがって叫ぶ。
俺は頷くのが精一杯だった、とにかく先生の言う通りにしよう。
﹁タケル殿、私は貴方が心配です﹂
﹁先生⋮⋮﹂
先生の瞳から涙があふれて止まらない。こんなに感情を露わにし
て真剣な目をしたライル先生を見るのは、初めてだ。
妊娠中で情緒が不安定なこともあるのかもしれないが、先生に限
ってそれだけで心配しているということはあるまい、俺が分からな
いだけで容易ならざる事態なのだろう。
﹁これだけは必ず聞いてください、命には優先順位があります。一
番大事なのは貴方の命です。次に出来たら、シルエット陛下とゲル
1905
マニアの皇族方を守ってください。彼らは生かしておく価値がある
から、どうせ敵に身柄が渡ってもすぐには殺されません。そして人
質になったサラを助けるとしても、それらの安全が確保できた後で
す。場合によっては見捨ててください﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
この気迫には、頷かざる得ない。
サラちゃんを見捨てるとか、俺にできるとも思えないのだが、そ
の場にならないと分からないな。
﹁命の優先順位、ここまでハッキリ言っても、タケル殿は分かって
ないでしょう。甘い人だから、でも貴方が死んだら私は生きていま
せん。貴方の命には、その責任があるんだと自覚して、行ってくだ
さい。死んだら恨みますよ﹂
﹁わかりましたよ!﹂
﹁こんな時に、一緒に行けない身が口惜しいです。オラクルさん。
タケル殿をお願いします﹂
﹁うむ、任されたのじゃ﹂
オラクルに抱えられると、俺は王都へと戻る。
先生の読みが正しければ、王都に容易ならざる敵が攻めてくると
思うと、気が引き締まった。
そう言えば、懐妊してお腹が大きくなってもオラクルは普通に飛
やわ
んで見せているのだが、どうなっているのだと聞くと。
魔族は人間のように柔じゃないわいという答えが返ってきた。
頼もしいことだ。
本当に王都に敵の襲来はあるのか、俺は焦る気持ちを抑えつつ王
1906
都に急いだ。
1907
150.王都奇襲のために
シレジエの王領を、王都シレジエに向かって進軍しながら、魔術
師将軍レブナント・アリマーは悪魔的な笑みを浮かべていた。
いつもは紳士然として、垂らした前髪をかき上げて澄ましている
彼だが、今日はもう地が出てしまっている。
心の底からの笑いを堪えられないと、ニタニタしている。
シレジエ王軍の動きに隙ができているのだ。
おそらく西岸の岸壁から陽動部隊が攻勢を仕掛けた先で、シレジ
エの軍師ライル・ラエルティオスが倒れたせいだろう。
そのライルを見舞いに、王都から王将軍佐渡タケルが飛んだと、
先行して王都に潜ませておいた密偵からの報告があった。
好機である。
これで、王都を攻める準備は整った。
シレジエ王軍はあらかた陽動に引っかかって散ったし、王将軍ま
で居なくなったとなれば、空になった王都を襲撃するのは容易い。
魔術師将軍レブナントの旗下には、人間の騎士隊が千人、爬虫類
人の傭兵が千匹。計二千の兵。一国の王都を攻めるには、寡兵と言
える。
この数では王都を攻め落として占領するのは無理だ。シレジエの
名軍師の布陣を相手に、陽動作戦を重ねたために、兵力の分散は致
し方ない。
1908
いや、むしろ襲撃なら少数精鋭の方が迅速に動けて良いと判断し
て、レブナントはあえて強襲に、この少数精鋭の編成を選んだ。
王都を攻め落とす必要はない。
シレジエの勇者、佐渡タケルを殺害する。
あるいはシレジエの女王とゲルマニアの旧皇族を上手く捕縛して
から引き返し、カスティリアの艦隊までたどり着けば、この戦争は
こちらの勝利。
王都の眼前までいくまでは、貴重な兵力を無駄に減らさずに済む。
何故なら、我々を先導しているのは、カスティリアの王宮魔術師
である﹃魅惑﹄のセレスティナ・セイレーンなのだ。
ファンネーション
眼前に立ちふさがる敵軍は、セレスティナが繰り出す魅惑の魔法
で骨抜きにされている。
王都シレジエまで行けば、おそらくディスペル・マジックを得意
な上級魔術師が出てくるので、無効化されてしまうだろうが、そこ
までは無人の野を行くがごとき進軍である。
この王都襲撃の特別部隊には、カスティリア王国が誇る三人の上
級魔術師の内、二人が居るわけだ。
先のセイレーン海戦で、壊滅的打撃を受けてもなお、牽制攻撃を
仕掛けてくるブリタニアン海軍への対応に上級魔術師一人を無敵艦
隊に残しているが、残りの力は全てこちらに注いでいる。
そうして、拳奴皇軍からは皇帝であり、地上最強の拳闘士である
ダイソン自らが参加している。側近の兵も多少連れているが、彼の
圧倒的な個の力の前には居るも居ないも同じだ。
ダイソンの目的はゲルマニア旧皇族の奪還であろうが、せっかく
だからシレジエの勇者を倒してもらえればありがたい。
1909
なにせこっちの手駒である最強の武闘家は、勇者崇拝者。勇者と
ドラゴンメイド
は直接戦いたくないと駄々をこねているからしょうがない。
最強の種族である竜乙女の王女とはいえ、所詮は十六の小娘。扱
いには苦労させられる。
ピース
勇者崇拝者をシレジエの勇者と会わせるのはやや危険かとも思う
が、ここが決戦だ。扱いにくい駒でも使わないことには、完全性に
欠ける。
味方に多大な犠牲を払って、ユーラ大陸の各地で戦争を巻き起こ
したのは、この王都シレジエへの奇襲作戦のためだったのだから、
この戦いだけは絶対に負けられない。
あのシレジエの勇者を罠にかけて殺せれば、魔術師将軍レブナン
トの名は、ユーラ大陸中に響き渡る伝説となるだろう。
レブナントとは違い、作戦自体を立案した書斎王フィルディナン
ト陛下は、必ずしも作戦目標にシレジエの勇者、佐渡タケルの殺害
を置いていない。
置いては居ないが、シレジエの勇者をおびき出して殺したいとレ
ブナントは望んだ。そこら辺は、前線指揮官の自由裁量である。
人質を利用する卑怯なやり方でシレジエの勇者を殺した、なんて
悪名がとどろくのも愉快ではないか。
﹁クックッ⋮⋮皆に誹謗され、罵られるのを想像するだに萌えるぞ。
勇者殺しのレブナント、たまらないなあ﹂
不在なのはチャンスと思ったが、そうであれば王将軍には王都に
戻ってもらわなければ面白くないなあと、レブナントは思う。
そうでなければ、人質を利用するチャンスがないかもしれない。
1910
愛妾を人質に取られて、あのシレジエの勇者がどんな対応をするか、
ぜひ見てみたいのだ。
とりあえず、人質は皇孫女の交換を提案する。これは、そう言っ
ておかないとダイソンが人質作戦に納得しないからで本当の目的は
違う。
まさか、皇孫女をよこしはしまい。断ってくるだろうから、それ
なら勇者が一人で受け取りにこいと言ってやるのだ。
女を見捨てるか、それとも本当に一人で来て助けようとするか。
まんまとおびき出されて来たら、そのときは勇者を惨たらしく殺
してやろう。サラを見捨てたら、それもよし。勇者の目の前で、自
らの愛妾がもだえ苦しみながら死ぬさまを、たっぷりと見せつけて
やる。
サラが悶え苦しんで死ぬさまを想像しながら、縛られている彼女
の顔をじっくりと視姦していると、ペッと唾をレブナントの顔に向
かって吐いてきた。
おそらくレブナントに吐きかけてやろうと、サラは口の中で唾を
溜めて準備していたのだろう。粘り気も量も十分な唾液を顔に浴び
ても、レブナントは拭こうともせずニタニタ笑いも止めなかった。
﹁レブナント⋮⋮。あいかわらず、死ぬほど不愉快で気持ち悪い顔
ね。あんたみたいなの生理的に大嫌いだわ﹂
﹁クックックッ、お褒めに預かり光栄ですなあ、サラ代将閣下﹂
大きな馬車の中で、ロープで腰をグルグル巻きにされて手鎖まで
かけられても、サラは目の前の敵将レブナントに罵倒して、唾まで
飛ばしてくる。
格を重んじる騎士や貴族であれば、こんな農民の娘っ子が代将な
1911
どと呼ばれているのはそれこそ唾棄すべきだろうが、レブナントに
とってはどうでもいいことだ。
なにせ、今や書斎王直属の謀将であり、今回の王都強襲作戦の指
揮を執るレブナントも、貴族ではなく上級魔術師である。
魔術師や農民の娘が、能力さえあれば簡単に将軍に成れてしまう。
面白い時代が来たと思うだけだ。
﹁褒めてなんか居ないわよ、女の子を人質なんかにとって、恥ずか
しくないのかって言ってるのよ!﹂
﹁ああっ、たまりませんなあ﹂
﹁何よこいつ、罵倒されて喜んでるの? ⋮⋮キモッ﹂
﹁アハハハハッ、何とでもおっしゃい﹂
気丈なサラも、罵倒されて喜ぶレブナントにかかっては、愛らし
い子供にすぎない。
むしろ、罵りならどんと来いである。唾棄まで飛ばしてくれるな
んてご褒美だ。
人質に取った娘っ子に、卑怯者と罵倒される。レブナントが抱い
ていた理想のシチュエーションであり、ちょっとイッてしまいそう
だ。
この折れることを知らぬ、サラという少女の気の強さは本当に良
い。この子の目の前で、卑劣な手段を用いてシレジエの勇者を殺せ
ば、どんな面罵が待っているか、想像するだけでたまらない。
﹁うあーもう!﹂と、レブナントは叫んだ。嬉しくて、嬉しくて。
楽しくて、楽しくて、楽しくて。踊りだしたい気分だった。いや
もうこれは、感極まって踊ってしまう。
1912
※※※
﹁そんなに、はしゃいでると、また馬車から落ちるゾ﹂
ゴンメイド
ドラ
馬車に揺られながら、言葉少なに鋭い爪をヤスリで磨いている竜
乙女のアレが、呆れたように声をかけた。
実際に、さっきサラに罵倒され続けたレブナントが、はしゃぎす
ぎて馬車から落ちたのだ。後続の馬車の車輪に、思いっきり轢かれ
てしまった。
ボロボロになって戻ってきたレブナントは、やけに嬉しそうだっ
たので、もう放っとけとも思うのだが。
この変態に使う回復ポーションがもったいないので、仕方なく声
をかけてやる。
﹁これはこれは、私としたことが我を忘れて申し訳ありません﹂
﹁⋮⋮バカが﹂
レブナントは、アレにまで軽く罵倒されたことに喜んで、または
しゃいでいる。本当にこいつはどうしようもない。いい大人の癖に、
構って欲しい子供のようなものなのだろうかと、被虐癖という厄介
なものを知らないアレは思う。
もちろん、レブナントは子供ではないので、構って欲しがってい
るのだとしても可愛くはない。アレは、ウザい男だと思って呆れる
だけだ。味方で無ければ、一思いに殺しているかもしれない。
そうだ、味方で無ければと言えば、同じ馬車に乗り込んでいる男。
拳奴皇ダイソンと言ったか、身の丈二メートル五十センチもある筋
骨隆々とした大男だ。
1913
一目見ただけで、こいつは別格だと分かった。ゲルマニアの皇帝
であり、拳闘士なのだという。
人間でありながら、いや人間だからこそか。ここまでの闘気を漂
わせているのは凄まじい。ただの人間が、どんな修行をして、どれ
オーラ
ほどの敵を屠ってくればこうなるのか。
むしろ、同族に近い凶暴な練気を感じる。それでいて、アレの同
族以上に静かで隙がない。
アレがアフリ大陸のランゴ島を出て、遥々とユーラ大陸まで来た
つが
のは、広い世界を見てみたいという理由もあったが、強い婿を探す
のも理由だ。
同質の練気を漂わせる、このダイソンならば番っても強い子が産
まれるだろう。
婿に持って来いの男だとも思うのだが、何となくそんな気にはな
れない。
むしろ、一人の武闘家として手合わせしてみたいと感じるタイプ
の男だった。
味方として出会ってしまったのが残念だ。安易に手合わせしよう
など言える相手ではない。
もし、空気が揺らめいて見えるほど凶暴な殺気を発しているこの
男と戦いになれば、向こうは必ずや殺しにかかかってくる。
アレも手加減できず、確実に殺しあいになる。一度でも拳を合わ
せてしまったら、もう殺すしかなくなる。だから残念。
殺気にも似たアレの熱い視線を浴びても、ダイソンはフンッと鼻
で笑うだけだ。
1914
女としても、格闘家としても、ダイソンはアレに興味が無いらし
い。
だから余計に残念に思う。
﹁しかし、アレ客将。大丈夫なのでしょうな﹂
﹁なんだ、大丈夫とは﹂
急にレブナントが、真面目な顔でそういう。
ふざけて子供のように笑い転げていたかと思えば、急に気を研ぎ
澄ませて鋭い質問を投げかけてくるので、油断ならぬ男だとは思う。
上級魔術師というのは、こういう生き物なのか。
格闘家であるアレやダイソンとは、生き物としてのジャンルが違
うが、狡知に長け強大な魔法力を誇るレブナントもまた強者であり、
その能力自体は認めている。
﹁今度は、シレジエの勇者との戦いとなります。まさか、土壇場で
裏切るような真似は致しますまいな﹂
﹁シツコイ。私は勇者とは戦わない。だがそれ以外の奴らとなら、
戦っても良いと言っている﹂
ランゴ島とは友好的な関係を結び、アレをここまで連れてきてく
れたカスティリア王国には恩がある。だが、かつてランゴ島を救っ
てくれた勇者にも恩義があるのだ。
ドラゴンメイド
もちろんシレジエの勇者と、古の時代にランゴ島を救った勇者と
は、全く別人なのは知っている。しかし、アレたち竜乙女は、女王
と古の勇者との子孫でもある。
半分は古の竜神の血を、半分はアーサマに作られた人間の血を引
いている竜乙女たちにとって、アーサマ信仰よりも勇者伝説のほう
1915
が、彼女たちを人間世界の側に引き止めている理由であったりする。
伝説の勇者と聞けば、竜乙女にとっては心躍る、憧れの対象なの
だ。
伝説の勇者とは違うと分かっていても、直接戦おうとは思えなか
った。いや戦えるとは思わない。きっと攻撃する気にはならないだ
ろう。勇者に逆らわぬのは、竜乙女の本能である。
しかし、その姿を見てみたいという欲望を抑え切れない。
いくさ
敵の立場でもかまうものか、伝説の勇者の戦を見てみたい。
だってすごく面白いから。例えばと、そこの金髪の少女に目を向
ける。
﹁あんた達なんか、タケルに全員ぶっ殺されるわよ、あんたたちは
全員死ぬのよ!﹂
﹁そうか、楽しみダナ﹂
勇者の愛妾という、ちびっこい金髪の少女が叫んだので、アレは
せせら笑った。
身体の自由を奪われて、拳奴皇ダイソンやアレなどの格闘家の殺
気に当てられて、レブナントのようなイヤラシイ男に散々嫌味を言
われて、それでもなおか細い声で、吠えてみせる。
大の大人でも、なかなかできることではない。
アレの爪の先で弾いてやっただけで、簡単に死ぬような小さくて
弱い少女が、これほどの気を吐くのだ。しかも、捕らわれてから今
までずっと叫び続けている。
意志が強くて弁がよく立つ。たとえ、か弱い少女の身に宿った魂
でも、これも一つの強さの形であろうと、しばらく一緒に旅をして、
1916
認める気になっていた。
ランゴ島を出てきて、本当に良かった。いろんな形の強さが見ら
れる、アレの見聞は広まっていく。
愛妾の少女ごときが、これほど強い気を持っているのだ。シレジ
エの勇者と、それに従う猛者たちの力は、どれほどのものだろう。
今からワクワクして、アレは浮き立つ気持ちを抑え切れないでい
た。
1917
151.人質は高く吊り上げられた
カスティリアの妖艶なる魔女。
染めているのか地毛なのか、鮮やかな紫色の巻き髪に豊かなボデ
ィーラインが出るぴっちりしたドレスを来ている。ドレスの胸元は
きわどく開いており、スカートには鋭角にスリットが入っていて、
大胆に太ももをあらわにしていた。
ファスキヌム
宮廷魔術師﹃魅惑﹄のセレスティナ・セイレーンは、手でいじく
ファンネーション
り回している男根像を掲げて、もう一度呪文を唱えてみる。
セレスティナの特異魔法、﹃魅惑﹄。
ヒク・ウィエト・フェリキタス
﹁此処に幸運が住まう﹂
セレスティナの魅惑の吐息が発せられるが、王城から迫るシレジ
エの兵士たちは、これまでのように操られない。セレスティナに、
槍を持って突きかかってくるので、キャーと叫び声をあげて慌てて
逃げた。
予想されていた事態なので、本気で叫んでいるわけではない、か
らかっているだけなのだ。
すぐに爬虫類人の護衛がやってきて、セレスティナを守った。
ご苦労様と声をかける彼女は、ご機嫌に足取りも軽やかにレブナ
ントのところまで走っていった。
布の面積が少ないドレスを身にまとう彼女は、ある意味とても動
きやすいと言える。
﹁うむ、ディスペルマジックの範囲に入りましたか﹂
1918
つむじかぜ
一軍を率いる魔術師将軍、レブナント自身も風魔法を唱えてみる
が、本来なら旋風が起こるはずが、前髪がそよぐ程度の風しか出な
い。
致し方がないので、自軍の温存していた兵士を前線にあげて、王
都から湧いた敵とぶつからせた。
﹁ねぇ、レブナント。あの、シレジエのおじいちゃんのせいよね﹂
大胆にあらわにした太ももを見せながら擦り寄ってくるセレステ
ィナに、レブナントは顰めっ面で頷いてみせる。
彼女の言うおじいちゃん、シレジエ宰相であり上級魔術師でもあ
る大博士ニコラ・ラエルティオスの手強さを思うと、油断ならなか
った。
シレジエの大博士ニコラ・ラエルティオス。その魔術の力は、上
級魔術師としては高いものではない。ラエルティオス家は名門では
あったが、禁呪の因子操作を使わねばならないほど、魔術師として
は枯れた家系だ。
むしろ老博士ニコラの強さは、魔術師ならば誰もがおろそかにす
る初級魔法ディスペルマジックを特異魔法と呼べる領域まで鍛え上
げた、その卓見にある。
ディスペルマジック。魔術師が初めて習う基本呪文の一つで、他
者の魔法を打ち消す最も地味な魔法の一つである。
強大な力を誇る上級魔術師ならば、歯牙にもかけぬ魔法だ。もっ
と派手で強力な魔法の習熟に力をかけるのが普通である。
なぜなら、上級魔術師は自らの地位向上のために素人でも分かり
やすい派手な魔法で、自らの力をアピールする必要があるから。
1919
ディスペルマジックが得意だからといって、魔術師としての評価
につながらない。誰もがひと通り出来ればよしとする、地味で目立
たぬ基本的な抗呪魔法。
それをニコラは、生涯をかけて研究して高めていった。また、配
下の中級魔術師五人を有する魔術師団にも、ディスペルマジックの
鍛錬を推奨して組織的な大規模対抗魔法のフィールドを作り上げた
のである。
その結果が、ユーラ大陸でも屈指の実力を持つ若干十九歳にして、
人間と魔族の魔法の両方を最上位まで習得した天才魔族カアラをも
抑え込めるほどのディスペルマジックの力となったのだ。
ニコラが入念に結界を張って守る王都では、敵対する魔術師はそ
の力を失う。カスティリア王国最強の魔術師﹃魅惑﹄と言えども、
例外ではない。
自らも上級魔術師であるレブナントは、その見えない力の恐ろし
さに臍を噛んだ。いや、大丈夫。これは知略の戦いだ。
魔法が無効になるからこそ、こちらには接近戦闘の鬼神どもを用
意したのだ。いっそこちらもディスペルマジックをまき散らして、
す
戦場を魔術無効化の空間にしてしまおう。そうなれば魔術師団を攻
撃に使えない向こうが不利になるはず。
ま
それに人質だっている、振り返るとレブナントは、馬車の中で簀
巻きにされているサラを見て、眼を細めた。
﹁なによ!﹂
﹁クククッ、ついに人質の貴方に、役に立ってもらうときが来たよ
うですよ﹂
﹁いやっ、やめてぇ!﹂
1920
﹁おとなしくするのですねえ。抵抗すると、怪我をしますよ﹂
簀巻きとはいえ、足は動けるわけで、サラちゃんの放つ強烈なキ
ックを何度も顔面に受けながら、レブナントは至福の表情でにじり
寄った。
レブナントが暴れるサラを捕まえて、台車の上に乗せた大きな十
字架に引っ掛けるのを、周りの味方たちは嫌そうな顔で見ていた。
卑怯極まりない人質作戦は、やはりこの世界の倫理観から言って
も、あまり喜ばしいものとはされてない。
しかし、魔術師将軍レブナントには、そんな常識は通用しない。
彼は手段を選ばない、それどころか目的すら選ばない。彼にあるの
は、自分の歪んだ美意識だけ。
むしろ、みんなにやるなと言われることを率先して、嬉々として
やる。
敵に回しても、味方に回しても、質の悪いとしか言い様がない変
態だった。これは、強敵である。
※※※
シレジエ王国の首都シレジエ。王都の外壁を守る兵士たちは、混
乱した。
シレジエの外壁を、二千の兵が囲んだかと思えば、義勇軍の代将
サラ・ロッドが、人質として大きな十字架の上にその小さな身体を
括りつけられるようにして、晒し者にされたからである。
﹁サラ兵長が、人質に取られてるって!﹂
﹁おい、落ち着け﹂
1921
少女が人質として使われるなど、まともな国同士の戦いでは、あ
まり見られないシーンだ。
騎士道で言えば、婦女を人質にするなど禁忌である。戦争はとき
に残酷であるから、歴史上にはそういうケースもないこともないが。
卑怯者の謗りを受けて評判を著しく落とす反面、あまり効果的な
作戦とは言えないので、近年では見られなかった光景。それだけ、
戦争は再び陰惨な時代を迎えたと言えるのかもしれない。
しかも人質にされているのは、義勇軍創設以来から活躍している
有名な少女だ。城を守る兵の中でも、義勇軍出身者はかなり動揺し
た。
﹁兵士長、敵は人質と皇孫女エリザベート殿下を交換だ、などと叫
んでますけど﹂
﹁はぁ、そんなことできるわきゃないだろうが!﹂
王都の兵士長のおっさんギル・ヘロンは、外壁の上を走り回って
兵士の動揺を落ち着かせると、手を出さないように命じる。
敵軍を遠巻きにしながら、とにかく早く王将軍を呼ぶようにと、
部下に命じた。
﹁いま、王将軍閣下は、ライル摂政のお見舞に出ていまして⋮⋮﹂
﹁見舞いだと? 敵が首都の前まで来てるんだぞっ! ええいっ王
将軍でなくとも良い。宰相閣下でも、女王陛下でも誰でも構わん。
とにかく城のお偉いさんに、現状を報告してこい!﹂
これはマズイことになったなと、ギルは焦る。彼は、十年以上も
三百人の城兵をまとめて王都を守り続けているベテランの兵士長だ。
王都シレジエの防衛に限って言えば、プロフェッショナルと言っ
ても良い。
1922
敵がたとえ十倍の数で攻め寄せようとも、王都の守りを破らせな
い自信はあった。今回の防衛には、魔術師団も義勇軍兵士もいるの
だからその点は安泰。
問題は、現場に責任を取れる将軍がいないということ。
義勇軍は兵士の数が居ても、隊長クラスですら敵の陽動に引っか
かって全員出払っている。
ギル兵士長は、あの人質に取られているサラ兵長︵いや、今は出
世して代将閣下におなりだったのだったか︶の安否の責任を取りた
くないのだ。
小心者のギル兵士長にできることは、城を守ることだけ。他の面
倒事や厄介事には、かかわらないようにして、ここまで生き残って
きた男なのだ。
人質をめぐって、敵軍との難しい交渉などやるつもりもないし、
出来る権限もない。
﹁かぁー、なんで俺しかいないときに、こんなことになってんだよ。
宰相でも女王でも王将でも誰でもいいから、早く来てくれーっ!﹂
﹁俺を呼んだか、ギル兵士長﹂
空を飛んできた魔族の娘っ子に、担がれるようにして浮かんでや
ってきた王将軍、シレジエの勇者、佐渡タケルの姿を見て、ギル兵
士長はポカンと口を開けて。
慌てて、敬礼した。
﹁こっ、これは大変失礼しました。王将閣下っ! 現状報告なので
すが⋮⋮﹂
﹁報告はいい。状況は、見れば分かる﹂
1923
佐渡タケルは、外壁の上に降り立つと、腕を組んでニヤリと不敵
な笑みを浮かべた。
ギル兵士長は、あのサラという少女が王将軍閣下の愛妾であった
と、義勇軍の隊長に聞いたことがある。
自分の女が、敵に人質に取られても、これほど冷静にいられるも
のか。
まだお若いが、さすがは伝説の勇者と讃えられるお方だなと、感
心した。
狼狽していたギル自身も平静さを取り戻し、自分の仕事をしよう
と部下の兵士たちに城の守りを固めさせる。
上にしっかりと責任を取ってくれる将軍さえ居てくれれば、ギル
兵士長は有能な武官なのである。
※※※
﹁さてと、どうしたものか﹂
﹁敵は、皇孫女エリザベート殿下と人質の交換を申し出ておりまし
て﹂
﹁それはできんだろうな﹂
﹁もちろんであります。それを断ったら今度は、王将軍一人で引き
取りに来いなどと、ふざけたことを申しております!﹂
部下の手前、冷静な振りをしてみたんだが、敵にサラちゃんを人
質に取られているって状況は、いかにもやりづらい。
もちろん皇孫女を身代わりに渡すなんてことができるわけもない。
しかし、このピンチを脱する策は俺では思いつかない。
1924
本来なら、知恵を出してくれるライル先生も、今はここに居ない。
ライフル
そう言えば、サラちゃん救出はミルコくんに任せろって言ってた
な。再び渡してくれと、魔法銃と魔法抵抗のマントを預っていた。
﹁ギル兵士長、義勇軍のミルコ・ロッサを探して呼んできてくれな
いか﹂
﹁ハッ﹂
ミルコくんは、南部貴族との戦いには戻っていない。あっちに戻
れば、副将格として指揮官だってやれるのに、サラちゃんを助ける
ために一兵士として王都を守る義勇軍に紛れているはずだ。
その若者の懸命さは同じ男として好ましいが、必死の覚悟を抑え
ないとそのままサラのために本当に死んでしまうかもしれない。
どう命じるべきか、考えてる間もなく、ミルコくんが猛ダッシュ
でやってきた。
﹁よう、久しぶりだな﹂
﹁勇者様、サラ代将を助けてください、助けてください!﹂
ものすごい形相で、詰め寄ってくる。彼は、サラちゃんを助ける
のに、ただそのためだけに真剣なのだ。
自分の出来ることは全てして、それでも力が足りなければ、平然
と誰にでも頼むし、頭を下げてみせる。命だって投げ出して見せる
だろう、この若者はサラちゃんのことになると、そういう危うさが
ある。
﹁落ち着け、そのために呼んだんだ﹂
﹁そのためになら、何なりといたします。サラを助けられるなら、
1925
僕は死んだっていいんです!﹂
﹁その覚悟は立派だが、両方が生き残れる道を考えろ。ほら、ライ
ル先生からだ﹂
﹁はい?﹂
ライフル
一度は、取り上げられた魔法銃と魔法抵抗のマントを、また手渡
されてミルコくんは、目を白黒させている。
﹁それが、先生からもう一度お前に預けられた意味、分かるな?﹂
﹁分かりました、何とかチャンスを見つけて、僕がサラを助け出し
ます﹂
真剣な表情で頷き、武器と外衣を受取るミルコくん。急いで装備
して一目散に駆け出した。良かった、分かってくれたか。
ぶっちゃけてしまうと、俺は﹁ミルコくんに助け出させろ﹂って
先生が言った意味、いまいちよく分かんないんだよね。
先生たち、軍師がやっているのは、世界を盤上に見立てた将棋だ。
武器を与えられたミルコくんもそうだし、王将軍などと威張って
見ても、俺も﹃王将﹄という一つの駒に過ぎない。
﹁まっ、駒の一つとして、精一杯気張って見せることだ﹂
王城からやってきたのだろう、ニコラ宰相と魔術師師団が外壁ま
で駆けつけてきた。シルエット女王まで護衛を引き連れて付いて来
ている。あまり戦場には近づいて欲しくないのだが、見えるところ
に居てくれた方が安心かもしれない。
シルエットには、シャロンやジルさんが護衛についている。万が
一、王城が落とされるようなことになれば、逃げることも考えない
1926
といけないから、城に居るよりもいいかもしれない。
﹁国父様、作戦はお入用でしょうか﹂
﹁言ってみろ﹂
カアラも空を飛んで来て献策してくるが、なぜか一緒にリアまで
抱えてきている。アーサマ教会のシスターなのに、リアはなぜ魔族
とばかり仲良く馴れあうのか。思わず苦笑してしまう。
お前ら敵対してるって設定はどうしたんだと聞いたら、もうシス
ターではないと返してくるのだろうか。仲がいいのは良いことだが。
﹁アタシが、隠形で近づいて、人質を救い出してご覧に見せます!﹂
﹁却下だ、カアラ。お前一人で出ていっても各個撃破されるだけだ。
手段を選ばない敵は、甘くないぞ﹂
これが、誘い出す罠なのは分かっているのだ。
一人で行っても、上手くいくはずがない。それが分かっていて、
俺を危険に晒すまいとカアラは提案したのだろう。
カアラは一度、俺の身代わりになって大怪我をしたことがある。
魔族は強大な力を持つ代わりに、回復ポーションが効かないとい
う厄介な性質があるのだ。あの失敗は繰り返すまい。
﹁ですが、国父様﹂
﹁お前は、俺の大事な最後の奥の手だ。いざというときには合図す
るから、そのときは頼む﹂
そう言っておかないと、カアラは引き下がらないからな。
このときは、本当に彼女まで使わないといけないところまで、追
い込まれるとは思っても居なかった。
1927
﹁リアは、どうすべきだと思う﹂
﹁わたくしは⋮⋮﹂
リアは、俺に意見を聞かれるとは思っていなかったのだろう。驚
いた顔で、言いよどんだ。
俺も何で、リアに意見を聞いたのか自分でも分からないが。少し
考えて、そうかと思い直す。
﹁俺は、勇者だ。お前はもうシスターではないが、勇者付きの聖女
だろ﹂
﹁捕らわれた味方がいるならば、勇者は自らが先頭に立って、是非
とも助けるべきです⋮⋮﹂
﹁俺はリアの、その言葉が聞きたかった﹂
﹁でもわたくしは、もうシスターではありません、タケルに行けな
んて言えません!﹂
リアがいつになく、真剣だった。
俺はサラちゃんを助けたい。でもそれは、ライル先生に止められ
ている。だからリアに背中を押して欲しかったのに、そうしてはく
れないらしい。
﹁敵は俺を待っているんだろう。ここで行かなければ、勇者じゃな
いんじゃないか﹂
﹁わたくしは、聖母になりました﹂
リアは、突然何を言い出すのかと、びっくりする。
﹁おい、オラクル。リアの言ってることは⋮⋮﹂
1928
﹁うむ⋮⋮。おそらくアーサマの小娘が言うのは本当じゃろう。ま
だ胎児が小さくて分からんが、出来とる感はあるのじゃ﹂
なんだその中途半端な感じは、性の専門家オラクル先生に聞いて
も、微妙なご意見だった。
妊娠してるのか、してないのかハッキリしろ。
﹁わたくしに、アーサマから受胎告知がありました。勇者の子が出
来れば、聖女は聖母となり、その力は増すのです﹂
﹁アーサマって、そういうサービスもやってるんだな﹂
なんというか、あの女神様も豆だよなあ。
いちいち、信者に﹁子供が出来ましたよ﹂とか言いに来るのだろ
うか、そりゃケツカッチンにもなるわけだ。
聖母の力を授けてくれるって、まるで出産祝いを送ってくれる上
司だ。
あいかわらず、微笑ましいアットホームさだな。アーサマ教会。
﹁おそらくこれもアーサマのシナリオ。戦う運命にあるために、聖
母の力を授けたのだと思います﹂
﹁それなら、俺がいくしかないってことだろう﹂
リアは、俺を抱きしめてくる。
いつもの激しい抱きつきではなくて、そっと優しく肩を抱くだけ
で、それなのに縋りつくような力を感じる。
﹁だからこそ、危険な戦いになると分かっているのです。アーサマ
が行けと言っても、わたくしはタケルを行かせたくありません﹂
﹁心配してくれて、ありがとよ﹂
1929
リアとあわせた柔らかい肌から、新しい力が伝わってくる。
勇者と聖女は、リンクしている。その力は、結びつきが強まれば
強まるほどに高まる。お互いの血を分けあった子供ができるなんて、
その最たるものだよな。
きっと、今の俺なら何が来ても負けないよ。
アーサマのシナリオとやらを、俺は全面的に認めるわけじゃない
けど、運命は信じているのだ。
女神様の言うなりになるのは少し釈然としないが、今ではリアと
一緒になったことを後悔はしていない。
﹁タケル、わたくしは⋮⋮﹂
﹁見てみろよ、リア。どうしても、俺が行かないといけないように、
なってるみたいだぜ﹂
カスティリア王国軍の二千の軍隊の前に、台座の上に押し立てら
れた木の十字架にロープで簀巻きにされてぶらされがれたサラちゃ
ん。
そこに敢然と、立ち向かう一人の少女がいた。サラちゃんよりも
幼い、八歳の女の子。
ゲルマニア帝国最後の後継、エリザベート・ゲルマニア・ゲルマ
ニクス殿下。
連れているのは、敵軍を前にしても陽気な楽士のツィターだけだ。
﹁まったく、ゲルマニアの皇孫女殿下は、勇者よりもよっぽど勇敢
じゃないか﹂
1930
俺は、リアにそう言って笑いかけると、外壁を飛び降りてエリザ
ベート殿下の元に走っていった。
あまりにも無謀で褒められたものではないが、敵の眼前に堂々と
出ていった、皇孫女の勇気に胸を打たれる。
誰が、人質のことを皇孫女に知らせてしまったのか知らないが。
自らが交換条件になっていることを知ってしまったのだろう。
ゲルマニアの皇孫女として相応しい帝王教育を受けてきたエリザ
だ。
敵の卑劣な人質作戦に、怒りに燃えて出ていったのだ。
きっと、こうなる運命だったのだと俺は思う。
サラちゃんが人質に取られて、やんごとなき童女ですら怒りに燃
えて躍り出るこの場面で、俺が出ていかなくてどうする。
味方の影に隠れていては、何が勇者かと笑われてしまうではない
か。
勇者ならば行くべきなのだ。
1931
152.皇孫女は正義を叫ぶ
﹁正統なるゲルマニア帝国の後継、エリザベート・ゲルマニア・ゲ
ルマニクスが、カスティリア王国軍に告ぎます。人質などという卑
怯な真似を即刻おやめなさい!﹂
十字架に括られた少女を盾に、俺をおびき寄せようとしたカステ
ィリア王国軍も唖然としている。
目的たる勇者を釣り出す前に、いきなりゲルマニア帝国の皇孫女
が釣れてしまったのだから。
とにかく慌てて追いかける。エリザは本当に八歳の幼女なのだろ
うか。大人の俺よりも、よっぽど立派に皇族の気位を見せている。
青みがかったプラチナブロンドを腰まで伸ばしている、金と青の
ヘテロクロミアの煌めく瞳が敵を射すくめるように睨んでいる。
子供ながら、ゲルマニア皇族の証たる貝紫色の豪奢なドレスを身
にまとう気品。敵軍二千の前に徒手空拳で立ち向かう強い意志は、
世界に冠たる帝国の末裔として相応しい威厳がある。
隣に居て、今にも手に持った弦楽器を弾きだしそうなお供のツィ
ターは、うん⋮⋮あの顔は何も考えてないなきっと。
﹁クククッ、これは皇孫女殿下、ご機嫌麗しゅう。私は、上級魔術
師にしてカスティリア王国の将軍レブナント・アリマー、どうぞお
見知りおきください﹂
﹁卑怯者に語る口など持ちません。レブナントとやら、まず人質の
少女を解放してから申し述べなさい!﹂
1932
エリザ、敵を挑発しすぎだ。
俺がようやく尊大なる皇孫女殿下の元に駆けつけるが、こっちに
話しかけてきた前髪を長く垂らした銀髪の魔術師は、勝ち誇った笑
みを浮かべている。
﹁うーん、ここだと実に良い眺めですね﹂
﹁キャー、あんた何見てんのよ、死ねェェ!﹂
敵軍のレブナントとか言う魔術師将軍は、何と大きな木の十字架
からロープで吊るされているサラちゃんを下から見上げて、スカー
トの中を覗いていた。
こいつも、こいつで余裕すぎるだろ。
﹁レブナント! 貴君も一軍の将であるなら、婦女子を辱めるよう
な真似をして、恥ずかしいとは思わないのですか!﹂
﹁オホッ、まさか八歳の幼女殿下に名指しでお叱りの言葉をかけら
れるとは、このレブナント恐悦至極ぅううぅぅううう!﹂
こいつ変態だーっ! 全軍の前でエリザに罵倒されて、頬を赤ら
めビクビクと身を震わせて喜悦の表情を浮かべている。
何でこんなヤツが代表者なんだ、カスティリア王国軍⋮⋮。
よく見ると、敵軍の面々もみんな顔を背けて嫌悪に満ちた顔をし
ている。
だよな、どう見てもただの変質者だ。
レブナントにウンザリってことで、みんなの心が一つになったと
ころで、何とか和解案を見いだせないだろうか。
﹁と、とにかくまず人質の女の子を解放なさい。貴方がたの要求は、
1933
私の身柄なのでしょう、私はこの通り逃げも隠れもいたしません﹂
﹁ククッ、そう言われて﹃ハイそうですか﹄と解放するようなら、
最初からこんなことはしてないんですよ﹂
レブナントのあまりにも変態な態度に、度胸の塊である皇孫女も
怒りを忘れて、顔が蒼白になっている。
マゾという言葉を知らなくても、こいつはヤバイ奴だと一目で分
かる。みんなドン引きだからなあ。
﹁良いだろう、皇孫女殿下の言うとおり人質は解放してやろうでは
ないか﹂
﹁ダイソン⋮⋮﹂
身の丈三メーターの巨漢。半裸のトレーニングパンツが、貝紫色
のマントを翻しながら姿を現した。拳奴皇ダイソンが、なんでこん
なところにいるんだよ!
最大の危険人物である新ゲルマニア皇帝、帝都ノルトマルクを空
っぽにしてでも、ゲルマニア皇族を取り返しに来たというのか。
﹁久しぶりだな我が妻エリザベート、迎えに来てやったぞ﹂
上半身裸の拳奴皇ダイソンが、悠然と仁王立ちしながらエリザベ
ートに語りかける。
エリザは、俺の後ろに隠れて震えている。当たり前だよ、八歳の
女の子に我が妻とか言うなよ。
勝手に人質を解放すると宣言したロリコンと言う名の皇帝に対し
て、楽しそうに人質をいたぶっていたレブナントが、不快感を表明
した。
1934
﹁ダイソン陛下、何を勝手なことをおっしゃるか、これから私が人
質を使っておびき寄せられてきた勇者をいたぶってですね﹂
﹁黙れレブナント。貴様、誰に向かって口を利いておるか﹂
ダイソンの野太い声の迫力に、さすがのレブナントも押し黙った。
そりゃそうだよな、いくらマゾといっても魔術師のヒョロヒョロ
の身体じゃ、ダイソンに殴られたら一発で死んでしまう。
﹁シレジエの勇者よ。初めて⋮⋮いや、初見ではないか。たしか、
ドリフ・ガンナー
余に一度煮え湯を呑ませてくれたな、ドリフ・ガンナー﹂
﹁ありゃ、バレてるのか﹂
ライフル
まあ、魔法銃持っていればバレバレか。流離いの黒銃士としては、
二度まみえたことがある。そのときは、射撃攻撃しかしなかった。
フル
搦め手でダイソンの足を止めて、引き分けに持ち込んだわけだが。
勇者としての力を全開につかって、ダイソンと接近戦闘を行えば、
どうなることだろうな。
﹁そちらの言うとおり、人質は解放しよう。その代わり、余とお前
で一対一で勝負してもらうぞ。どちらがエリザベートの夫となるに
ふさわしい強者か、示してくれよう﹂
﹁いや、待てよダイソン﹂
ダイソンは、言うが早いか飛び上がって、十字架に括られている
サラちゃんのロープを手刀でたたっ切ってそのまま放り出した。
地面に﹁うぎゃ﹂と落ちたサラちゃんは、ジッと近くに潜んでい
たらしいミルコくんが飛び出して、小さい身体を抱えると脱兎のご
とく逃げていく。
捕らわれヒロインとしては、あっけなくも悲しい解放のされ方だ
1935
ったが、無事に解放されてよかった。
レブナントは、人質計画を台無しにされて憮然とした表情をして
いる。
﹁さあ、言われたとおり人質は解放したぞ。まさか、ここまできて
余の勝負を受けないという卑怯はするまいな﹂
﹁いや、本当に待って欲しいんだけど、しかたがない⋮⋮﹂
このダイソンという男は脳筋に見えるが、その実、頭も切れる手
ごわい強敵なのだ。
同盟軍のカスティリアに散々と汚れ役をやらせておいて、それを
わざとらしくたしなめることで、得意の接近戦闘で俺と一騎打ちす
る有利なフィールドを作り上げた。
敵味方を巧みに利用した、これ以上ないほどに、見事な立ち回り。
さすがは、帝都でトップクラスの人気だった拳闘士、ショーアッ
プはお手の物なのだろう。
ここは王都シレジエの正門前なのだ、敵味方の兵士が見守る中で、
正義を唱えてしまったからには、俺もエリザも引くに引けない。
正々堂々と一騎打ちをやるしかない。八歳の子供の身柄を賭けて
というのが、もう全く釈然としないんだけどな。
﹁ガンナー様、いえ⋮⋮。佐渡タケル様、申し訳ありません﹂
﹁無謀な真似は感心しないが、お前は立派だよエリザ。みんなが言
いたいことを堂々と言ってくれたんだから謝ることはない。これを
持って、下がっていてくれ﹂
ライフル
俺は、エリザの青みがかった金髪を撫でると、魔法銃を預けた。
そして、身の丈二メートル半を超える巨漢の拳闘士と相対した。そ
1936
の肉体は、硬い筋肉でできたそそり立つ巌。
俺はまだこのとき、ダイソンを所詮は格下と見くびっていたいた
のかもしれない。柄にもなく、正々堂々と戦おうとしてしまったの
だから。
肉体的に考えるとダイソンにはるかに劣るとはいえ、俺は﹃光の
剣﹄と﹃中立の剣﹄を持ったシレジエの勇者だ。
格闘家チートが﹃オリハルコンの手甲﹄を付けていようと、どれ
ほど身体を鍛えあげていようと、所詮はただの人間ではないか。
この世界には、絶対的な力の強弱が存在する。たとえ格闘家チー
トが最強金属オリハルコンで固めていても、勇者の力には勝てない。
神の力を付与された勇者を舐めんなよ!
両方の手から光り輝く双剣を顕現させて、ダイソンに斬りかかる。
﹁お望み通り、一撃で決めてやるぞダイソン﹂
﹁行くぞ、シレジエのォォォ!﹂
ダイソンの大きな岩ほどもある手甲パンチに向かって、俺は﹃光
の剣﹄と﹃中立の剣﹄を大振りに、連続斬りを仕掛けた。
これは、かつてフリードが使った﹃ゲルマニクス流剣術 烈皇剣﹄
に近い大技。
格下相手に、小細工はいらない。
全身からほとばしる気迫のままに、ただ強烈な斬撃をぶち当てる
だけだ。相手は一撃で死ぬ。
﹁なっ! 弾いてみせただと﹂
﹁フッ、さっきの勢いは、どうしたあァァ!﹂
1937
俺の青白く輝く光の剣は、確かにオリハルコン製の手甲を斬り裂
いた。火花を散らしながらその表面を削ってみせた、そこまでは良
かった。
続けて、鈍い銀色に輝く中立の剣を打ち当てて拳を砕いてやろう
としたのに、ダイソンの﹃ただのパンチ﹄に弾かれてしまった。
連続斬りでダイソンを傷つけることが出来なかった俺は、そのま
まの勢いで殴りかかられて、拳圧に押されるようにして距離を取る。
なぜだ、なぜ創聖女神に与えられた﹃光の剣﹄と、混沌母神に与
えられた﹃中立の剣﹄を喰らって無傷で立ってられる。
﹁ダイソン、お前⋮⋮、一体何者だ﹂
﹁余か。余は世界最強の拳奴皇、ダイソンである!﹂
そんなことを聞いてるんじゃねえ。
大きな巨体のくせに、軽々と飛びかかって頭上から拳の雨を降ら
せてくるダイソンの攻撃を、剣振り回しながら受け流して、地べた
を転がりまわって何とか逃げまわる。
なんて重い拳圧、﹃ミスリルの鎧﹄が無ければ即死だった。俺の
大事なミスリルの鎧にヒビが入ってるんだけど、どうなってんだよ!
このダイソンの圧倒的なパワーは、闇の力に取り込まれて魔王勇
者化したフリードと打ち当たったときの感覚に似ている。
﹁ダイソン、お前もしかして魔王化したのか﹂
﹁ハンッ? 知らん﹂
そうだよな。魔王化したら魔族になるもんな。
ダイソンは、あくまでただの生身の人のままで、固く握りしめた
拳に不思議な力を宿している。
1938
﹁ならば、﹃光の剣﹄も﹃中立の剣﹄も通用しない、その拳の強さ
はなんだ﹂
﹁余の拳は我流。拳に宿る拳気は、森羅万象の全てを打ち砕くもの
なり﹂
ダイソンも小細工しない。
巨躯のダイソンよりもはるかに小柄な俺を格下と見て、ただ真っ
直ぐに重い拳を頭上に叩き下ろしてくる。
必死に光と中立の双剣で受けるが、その圧倒的な拳の力にまた弾
き飛ばされた。
たった一撃、強烈なのをまともに喰らっただけで、立ち向かう気
力が萎えかける。本能が、こいつと戦ってはいけないと悲鳴を上げ
ている。
まるで、ダイソンの巨体は立ちはだかる巨大な鋼の壁だ。鋼の壁
めまい
がそのまま、頭上からふりそそいでくるような重さを感じる。
その一撃を喰らうごとに、眩暈、耳鳴り、そして四肢がバラバラ
になってしまったかと思うほどの激痛。全身が震えあがる。
腕がしびれて、立ち上がろうとする足がよろめく。
打撃ダメージが酷い。一撃喰らうごとに、なによりも抵抗しよう
すると精神が、ごっそりと削られた。
拳気とやらに覆われた﹃オリハルコンの手甲﹄の拳は、実際には
オリハルコン以上の硬さを誇る。
ただの人間にどうして、勇者の力が通用しない。ただの人間が、
どうしてここまでの圧倒的な拳力を持てる。
1939
﹁ダイソン、お前もしかして、足がタコみたいな触手になってる女
の人に会わなかったか﹂
﹁フンッ、何を言ってるか分からんが、人で在るもの人で在らざる
モンスター
ものにかかわらず、強者ならばなんでもこの拳で叩き潰してきた。
いちいち覚えていないが、その手の異形なら、腐るほど殺している﹂
細かい事情は分からないが、俺はその言葉で、得心がいった。
鎧も身に着けていない生身なのに、ダイソンには﹃中立の剣﹄の
効き目が悪い。身体中が硬いバリアに覆われているで、剣が通らな
い。
ドラゴンを殺しまくって、その血肉を喰らい続けたルイーズに竜
気が宿ったように、ダイソンはおそらく﹃古き者﹄の誰かを素手で
殺して、その身体に﹃混沌の力﹄を得ている。
アーサマの力は、きちんとした手順を踏んで勇者にならないと得
られないが、この世界の宇宙そのものである﹃母なる混沌﹄の力は、
そうではない。
混沌の顕現である﹃古き者﹄に力を示せば、力を与えられること
もある。ダイソンが﹃拳気﹄と呼ぶその力は、俺の﹃中立の剣﹄と
同質の力だ。混沌母神の源からきている。そう確信した。
あれ⋮⋮これ、まずくないか。
付与された神力で同格に並ばれたら、格闘家としてのスピードも
パワーも、戦士としてのテクニックすらも負けている俺はどうすれ
ばいいんだよ。
ヤバイなこれ、絶体絶命のピンチってやつじゃん。
俺は久しぶりに命の危険を感じて、全身が震えた。武者震いと思
いたいが、怖気だ。
1940
もしかしたら、殺されるかもしれない、恐怖。考えてはいけない
と思っても、敗北する未来が見えた。
シレジエの勇者に成り上がって、一方的な強者として戦うことに
慣れた俺からは、決死の覚悟が消えていた。
心の上でも、ダイソンに圧倒されてしまう。
ダイソンは、容赦なく拳気に満ちたオリハルコンの拳を、ただ真
っ直ぐに俺に向かってぶつけてくる。
決め手に欠ける俺は、二本の神剣を振るいながら、防戦一方にな
った。このままじゃ殺られる。俺も覚悟を決めて。
効き目の強い﹃光の剣﹄で重たい拳を止め、反撃を喰らうのも覚
悟で、捨て身の斬撃を仕掛ける。肉を切らせて骨を断つだ。たった
一撃、急所にさえ当たればいい!
しかし︱︱
﹁バカ、なっ﹂
﹁そんなもので終わりか﹂
たたっ斬ってやろうと、ダイソンの丸太のように太い首に﹃中立
の剣﹄を叩きつけたのに、筋肉で受け止めやがった!
ブレード
中立の剣は、筋肉を浅く斬り裂いたに止まり、骨まで達していな
い。神剣の刃が急所である首に通らないって、あり得ない。どんな
頚椎してるんだよ。
﹁やっぱりもう、お前は人間じゃねぇよ!﹂
﹁余は人間だ。貴様とは、鍛え方が違うだけだ!﹂
ダイソンの拳を腹にまともに喰らってしまった。
1941
鎧がひしゃげて、俺の身体が悲鳴を上げるように軋んだ。このま
まじゃ、鎧も俺の身体も持たない。
﹁ぐはぁっ! ああ⋮⋮﹂
﹁つまらん、シレジエの勇者。なんと弱いのだ。これなら飛び道具
を使っていたときのほうが、よっぽど強かった﹂
斬り裂かれた首から血を流しながらも、ダイソンは全くダメージ
を受けた様子がない。荒い息の下で、俺は劣勢を悟った。打つ手が
無い。
様々な強敵と戦い、眼が鍛えられた俺は、中途半端に強い。だか
らこそ、俺は怖いのだ。ダイソンの圧倒的な強さが分かって、恐ろ
しい。
これほど追い詰められているのに、ダイソンはまだ百パーセント
の力を出していない。
こちらの剣は通用しない、今のダイソンの瞬速の拳を受け続ける
だけで、俺は必死なのだ。
プレスアウト
あいつはまだ、決め技の圧殺拳を出していない。
これでもまだ、全力じゃないのだ。
どうする、逃げるか。
勝てないなら全てを捨て置いてでも、ここは逃げるべきか。しか
し、その隙がないぞ。
﹁ハァ、ハァ⋮⋮﹂
﹁なにが勇者だ。くだらん力に溺れ、筋肉の鍛え方が足らんのだよ。
そんなことだからなぁ!﹂
1942
ダイソンの拳が、﹃ミスリルの鎧﹄の腹を粉々に砕いた。
パリンと、ガラスが割れるような軽い音がした。
ミスリル
これまで、粘り強く俺を守り続けてくれた魔法金属が、力尽きる
ように崩れていく。
俺はまた強かに殴り飛ばされて、地面へと叩きつけられた。受け
身を取り、転がるように這いずりながら、起き上がろうとするが、
そこにダイソンが拳を握りしめて駆け込んでくる。
ああ⋮⋮やばい。
﹁クソッ、このままでは⋮⋮﹂
プレス・アウト
﹁これがお前の全力か? これで終わりなら、楽にしてやろう。そ
の身に最強のパワーをたっぷりを刻みながら逝くがよい、圧殺拳!﹂
頭上から、信じられないぐらいデカイ拳が降り注ぐ。これほどま
でに奴の力は強いのか、このまま俺は為す術もなく︱︱
あっ、またこの感覚か。死を前にして、世界がスローになってい
く。
命の危険を感じた心臓が、脳にドクドクと血を送って思考を高速
化させる。何か起死回生の策はないかと探らせるのだ。
しかし、俺を守る﹃ミスリルの鎧﹄はもう砕けた。勇者の剣も通
用しない。
いまさら気がついても遅いが、勇者の力が通用しなかったときに、
逃げておくべきだった。勝てない敵を避けるのは恥ではないのに、
不覚としか言いようが無い。
俺は、自らを押しつぶす大きな拳が振り下ろされるのを見守るし
かなかった。これは、死ぬかもな︱︱
1943
ガキィィィ
プレス・アウト
硬い金属と金属が削れあう音。俺の肉と骨がダイソンの、圧殺拳
に打ち砕かれた⋮⋮わけではなかった。
俺の目の前で、﹃オリハルコンの大盾﹄を抱えて、ダイソンの一
撃を受け止めた大きな背中。
つかまつ
﹁守護騎士ヘルマン、仕る!﹂
﹁ヘルマンすまん、助かった﹂
やだヘルマンカッコイイ。俺が女だったら、絶対惚れてたわ。
鉄壁のヘルマン、頼もしい守護騎士様の登場だ。
﹁お前ら、これは一対一の勝負なのだぞ﹂
﹁我が君の危機に、知ったことかァァァ!﹂
軍馬に乗ったルイーズが、空気を震わせる大声で叫びながら駆け
込んできた。そのままの勢いで﹃オリハルコンの大剣﹄を振りかぶ
り、ダイソンの巨体目掛けて叩きつける。
さすがのダイソンも、ルイーズ渾身の一撃には吹き飛ばされた。
エリクサー
最強の剣と盾の騎士が、間に合ってくれた。
俺はこの隙に、ポーチから霊薬を取り出して飲んでおく。
ふうっ、一息つけた。助かった。
﹁王将軍閣下! ダイソンは、我らが引き受けますゆえ﹂
﹁すまない、ヘルマン、ルイーズも﹂
彼らは騎士だ。本来なら、一騎打ちに割って入るなど、誇りが許
1944
さない行為のはず。
そのこだわりよりも、俺を守ることを優先してくれたのだ。すま
ないとしか、俺には言えない。
﹁一騎打ちの約束が破られたぞ!﹂
そのレブナントの叫びを合図にしたように、敵味方のおそらく双
方が望んでいない乱戦が始まった。
敵だって兵力はさほど多くはないし、こっちも本来なら街の中に
篭っていれば、楽に勝てたものを、乱戦では被害が多くなる。
俺の身を守ろうと、リアやシレジエ軍が駆け寄ってくる。敵も負
けず劣らずに押し寄せてくる。
これではお互い、削りあうだけの戦闘になる。これも俺が不甲斐
なかったせいだと、諦めるしか無いか。
すでに双方の兵士たちによるマスケット銃や、弓矢の撃ちあいが
始まっている。
俺の目の前にも、敵の矢が突き刺さって肝を冷やした。流れ矢が
どこから飛んでくるかも分からない、ここは危険だ。
﹁ツィター、何をぼさっとしている。エリザベート殿下を早く下が
らせろ!﹂
俺が慌てて振り返って叫ぶと、戦場のど真ん中で弦楽器を抱えて
右往左往していたツィターは、小さいエリザを抱えて後方に逃げて
いった。
殿下の身柄より、自分の楽器を守るのを優先しようとするんじゃ
ねえよ、まったく⋮⋮。
1945
俺も不甲斐なかったが、それ以上に間抜けな楽士ツィターを見て
いると、心が落ち着く。
あれは癒し系だなと思う。そうだ、サラちゃんは救えたし、皇孫
女も無事なのだ。勝負の勝ち負けなどどうでもいい。
一人でダイソンを殺れないなら。
ヘルマンとルイーズと俺の三人で囲んで倒せば良い。
化物を相手にするのだ、卑怯者の謗りなど、いくらでも受けてや
る。
被害を出さずに、敵を倒せるのが第一。そう思って俺は前を向い
たのだが、そこには目を疑う光景が広がっていた。
ヘルマンが、地面に突っ伏して倒れている。
鉄壁のヘルマンが、ほんの一瞬眼を離した隙に、やられていた。
﹁少しがっかり、シレジエの勇者の側近にしては弱いのダ﹂
ヘルマンを最強の大盾ごと弾き飛ばしたのは、ダイソンではなか
った。
ダイソンと俺たちの戦いに、いきなり割って入った、手足に大き
な青くゴツゴツした鱗が付いている、変わった風体の少女。
目鼻立ちは美しく、大きな胸に白い布を巻いているだけのあられ
もない半裸に、一瞬眼を奪われそうになるが、青い髪から生えた大
きなドラゴンの角、大きな翼と長い尻尾がそうはさせない。
美少女の外見になど惑わされない。鱗の突いた大きな手から伸び
る白く鋭い竜爪は、恐るべき戦士のそれだ。こいつも、格闘家チー
トか。
1946
ヘルマンに続いて、ルイーズが﹃オリハルコンの大剣﹄を振りか
ぶって、青髪の少女に襲いかかるが、ギリッと音を立てて跳ね除け
られる。
最強金属、オリハルコンの大剣をやすやすとその鋭い爪で弾き返
した少女は、そのまま空中に弾き飛ばしたルイーズの腹を、グサッ
と鋭い爪で突き刺した。
﹁ルイーズッ!﹂
﹁ガハッ﹂
為す術もなく鋭い爪に貫かれた、ルイーズの背中から、赤い鮮血
が吹き出した。
俺は慌てて倒れ伏した彼女に駆け寄る。ルイーズの腹が、鋭い爪
で突き破られた。致命傷には至ってないようだが、﹃オリハルコン
の鎧﹄を一発で貫くなど﹃中立の剣﹄でも出来なかったことだ。
﹁分かるか、勇者⋮⋮この女の急所、わざと外してやったのだゾ﹂
一撃でヘルマンを退け、一突でルイーズを倒して見せたドラゴン
の少女は、無邪気な笑顔で、ジャキンッと勝ち誇るように鋭い竜爪
を掲げてみせた。
分からねえよ!
﹁まったく、次から次へと規格外の敵かよ⋮⋮﹂
エリクサー
この期に及んで、ダイソンと同格か、それ以上の強敵が出てきた
ってことか。
俺は、ルイーズに霊薬を飲ませて介抱しながら、どうするべきか
頭を痛めた。
1947
冗談キツイよ、まったく。
だがな、まだ終わらんよ。
こうなったら、俺だって最後の奥の手を使わせてもらうぞ!
1948
153.古の勇者と新しい勇者
俺だって、冷静さは失っていないつもりだ。
確かにダイソンは俺より強かった。突然俺たちの目の前に出てき
た、青い竜の鱗を持つ少女もルイーズの﹃オリハルコンの鎧﹄を一
撃で貫く鋭い爪を持っている。
さすが、海軍大国カスティリアとダイソンの同盟軍だ。
よく強大な駒を揃えたものだと褒めてやろう。
だが、両方とも接近戦闘チートだ。
相手の得意な一騎打ちに敗れたからなんだって言うんだ、これは
戦争なんだよ!
こっちだって接近戦チート対策は考えてある。
あいつらには、致命的な弱点があるのだ。
﹁カアラやってやれ!﹂
﹁はい、国父様!﹂
俺の奥の手。呼べば、カアラはどこの影からだって現れる。
俺が待てと命じていたからだろうが、よく気配を消して辛抱強く
隠れていてくれたものだ。
俺の奥の手は、カアラの使う強大なる上級魔法。
格闘技チート、たしかに強い。しかし、所詮は近距離でしか力を
発揮できない連中。遠距離からの大規模攻撃で封じ込めてしまえば
いい。
1949
現に、帝都の地下通路が崩れ落ちる土砂をまともに受けたとき、
ダイソンは何も出来なかった。
どれほど強大な個の力であろうとも、自然の大いなる力には勝て
ない。圧倒的に見える敵にも、ちゃんと弱点があるのだ。
いわお
グラ
﹁カアラ・デモニア・デモニクスが大地に命ずる、大いなる巌とな
りて、あだなす敵を押し潰せ!﹂
ッグプレス
単に巨大な岩が落ちてくるだけの地味な部類の土の上級魔法岩石
落としだが、カアラの使う呪文は一味違う。
﹁カアラ・デモニア・デモニクスが命ずる! 巨大なる巖よ、降り
注ぐとき、降り注げば、降り注げェェ!﹂
ダイソンと青い鱗の少女の頭上めがけて、四方八方から岩石を連
弾で打ちまくっている。
岩石落としの連弾、ピンポイント攻撃。こんな七面倒臭いことを
しなくても、得意のメテオ・ストライクを使えばいいのにと、素人
目には思えるだろう。
だが、ことはそう簡単ではない。
今の王都は、ニコラ宰相率いる魔術師団が入念に広範囲のディス
ペルマジックをかけて、敵の魔法力を封じている状況だ。
当然、対応として相手の上級魔術師二人もディスペルマジックを
仕掛けてきたので、お互いに魔法が使えない拮抗状態になっている。
カアラは、敵味方の双方から抗呪魔法が撒き散らかされているフ
グラッグプレス
ィールドで、針の穴ほどのディスペルされない隙間から魔素を引き
出して、瞬時に岩石落としを詠唱して連発しているのだ。
1950
まるで、オーケストラの名指揮者のように、ひたいに汗を浮かべ
ながら激しく手を振り回して、次々に岩の塊を引き出して落とす
魔法力ゼロで魔素の流れが見えない俺にはそのすごさはよく分か
らんが、魔素を直接利用できる魔族の特性を持ちながら、人間の魔
術の頂点を極めた天才カアラ。
チート
ヘッポコ魔族軍師っぽい感じで安く見られがちだが、彼女は立派
な天才魔術師なのである。その巧妙な魔法技術を駆使によって、大
規模な質量攻撃が成立する。
たとえ鉄拳が光の剣を弾こうが、鋭い爪がオリハルコンを砕こう
が。
空中から次々と出てくる、無数の大質量に押し潰されては手も足
も出るまい。
手も足も出る、出てるな⋮⋮おい!
そう言ってる間に、格闘家チートどもは、ガンガン降り注ぐ巨大
な岩を砕きまくって進んでくる。
四方八方から降り注ぐ大質量攻撃なんだぞ、厳然たる物理法則を
パワーで平然と打ち破るなよ!
あいつら化物とか怪物とか、もうそういうレベルを凌駕している。
あんなの相手にしてられるか。
カアラの攻撃は少なくとも足止めにはなる。足は止まらなくても、
敵のスピードは落ちる。
﹁ヘルマン、今のうちに逃げるぞ!﹂
さすが防御チート、鉄壁のヘルマンだった。あのドラゴン娘の鋭
い爪でも、本人は怪我一つしていない。
1951
竜爪の攻撃で傷ついた﹃オリハルコンの大盾﹄を抱えて、よろめ
きながらも起き上がったヘルマン。
俺は、﹁撤退するぞ!﹂と声をかけると。
まだ苦しそうな呻き声を上げているルイーズをしっかりと抱えて、
全速力で逃げることにした。
﹁ルイーズしっかりしろ﹂
唇から血を垂らしているルイーズの姿は痛々しい。彼女は、ラン
クト公国での連戦を終えて、休む間もなくこちらまで戻ってきたの
だ。
いかに回復ポーションを飲ませて傷を治療しても、蓄積された疲
労までは取りきれない。
ここまでよく助けに来てくれた、今度は俺が彼女を守ってやる番
だろう。
ルイーズを連れて、絶対に逃げ切ってみせる。
厄介な混戦状態だが、たかだか敵の兵力は二千で、まだ王都への
侵入も許していない。
地の利はこちらにある。上手く距離を取れば砲撃だって仕掛けら
れる。乱戦さえ収束すれば、絶対に勝てる戦だ。
﹁逃げるな、シレジエの勇者!﹂
﹁なんだー、戦わないでどうするのダ﹂
﹁クソ、好き勝手言いやがって⋮⋮いまに見てろよ﹂
後ろから格闘家チートどもが、しつこく追ってくる。ストーカー
1952
かよ!
サイドステップ
カアラは頑張って岩を落とし続けてくれているのに瞬足で避けら
れるせいか、ぜんぜん距離が広がらない。
態勢を立て直すことができれば、打つ手はあるのに。
﹁苦戦してるようですね、シレジエの勇者タケル﹂
﹁お前は、ホモ⋮⋮じゃない、ニコラウス大司教!﹂
街の外壁沿いを逃げる先に、いきなり帝都に居るはずのニコラウ
ス大司教が現れた。
今日は裸じゃなくて、大司教服を着ている。
あまりにも唐突すぎるが、白銀の翼で飛びまわれるコイツが、前
触れもなく出てくるのは毎度のことだ。
ダイソンがいるんだから、ホモ大司教が居てもおかしくはない。
確かお前はこっちに味方してくれる約束だったよな。今の俺は、
意識が戻らないルイーズを抱いて、藁をもつかむ思いだ。
今ならホモでも、ノンケでも、なんでもこいだぞ。
﹁フフフッ、この時を待ってました。ついに僕の出番ですよね。助
太刀してあげましょう﹂
﹁頼む、ニコラウス!﹂
どうしようもない変質者とはいえ、これでもニコラウス・カルデ
ィナルは勇者検定一級の大司教なのだ。
最上級まで神聖魔法を極めた実力は伊達ではない。聖遺物﹃アダ
モの葉﹄って目くらましもあったよな、ダイソン相手でも足止めぐ
らいにはなるだろう。
1953
銀縁メガネをクイッと直して、颯爽と立ちはだかるニコラウスに、
ダイソンの足が止まった。
よしよくやったぞ、そのまま肉弾で止めろ。殺られてもよし、ぶ
つかりあって相打ちしてくれるならそれもよし。
ホモテスタント
ニコラウスが死んでも、その働きには感謝して戦後の新教派の処
遇は格段の配慮をしてやろう。
だから無駄死ではないぞ、ホモ大司教!
﹁ふっ⋮⋮。誰かと思えば、シレジエに寝返ったのか、ニコラウス
大司教﹂
ロリコン
﹁僕の心を先に裏切ったのはダイソン、貴様のほうです。靴の裏に
張り付いた馬のクソほどの価値もない変態め。神妙にアーサマの罰
を受けるがよろしい!﹂
ダイソンは、つまらなそうにニコラウスの方を一瞥して鼻で笑う。
まあ、ホモ大司教に変態呼ばわりはされたくないよな。
﹁フンッ、それでどうするつもりだニコラウス。いまさら、神官一
人が加わったところでこの流れは変わらんぞ﹂
﹁戦うのは私ではありません。ダイソン、貴方には﹃私が認定した
新しい勇者﹄と戦っていただきましょう﹂
そう言ってニコラウス大司教が指差す先には、車椅子から起き上
がれないはずの老皇帝コンラッドが立っていた。
王都を囲む高い外壁から、貝紫色のマントを翻しながら飛び降り
てくる。俺ですら、思わず逃げる足を止めて目を疑う。
もうろく
やせ細ったヨレヨレの老いぼれ。エリザにしか分からない意味不
明な単語を呻くことしかできなかった耄碌したはずのコンラッドが、
1954
かくしゃく
矍鑠とした姿で戦場に飛び込んでくる。
そうしじゅつ
信じられない光景だった、糸が付いてて操られているんじゃない
かと、思わず確認してしまう。神聖魔法に操糸術とかあったっけ。
いや冗談言ってる場合じゃないな。
﹁おいニコラウス、お前コンラッド陛下に何をしたんだ⋮⋮﹂
﹁古の勇者コンラッド陛下は、新たに勇者付きの聖者を得て、再び
往年の力を取り戻したのです。ああ僕は感謝します、これぞアーサ
マのお導きです!﹂
呆れた。このホモ大司教は、あいかわらず無茶苦茶なことをしや
がる。弱りきった老皇帝コンラッドの勇者付き聖者となり、再び勇
者としての力を蘇らせたのか。
老いたコンラッドの身体は、白銀の光をまとって一時的に力が回
復しているようにみえるけど。老体に鞭打ち過ぎだろ、半病人にこ
んな無茶やらせて、普通に死ぬぞ。
ロマンスグレー
止めなくて、大丈夫かと思ったら、白髪交じりのコンラッドは俺
に振り向くと、余裕の笑みを浮かべてみせた。
﹁シレジエの勇者殿、元を正せば全て余の過去の行いが招いた報い。
ダイソンの始末は、任せてはくれまいか﹂
﹁コンラッド⋮⋮﹂
耄碌したおじいちゃんが、まともにしゃべってるの初めて聞いた
よ。
こんなに渋い声だったんだ。
﹁フハハハハッ、これは愉快だぞ。あの老皇帝コンラッドを復活さ
せたというのか﹂
1955
ダイソンは、嬉しそうに拳を構えている。
コンラッドは、俺が地面に下ろしたルイーズの身体にそっと触れ
ると、どうやったのかわからないが﹃オリハルコンの鎧﹄を一瞬で
取り外した。
酷くやせ細って、歩いているのも不思議なコンラッドが、﹃オリ
ハルコンの大剣﹄を軽々と持ち上げて構えると、﹃オリハルコンの
鎧﹄が引き寄せられるように身体に張り付いた。
なんだこれ、古の勇者ってのは超能力でも使えるのか。
﹁そうだ、皇帝の名を僭称する不埒者めが! ゲルマニアの勇者で
あり唯一の皇帝たるこのコンラッド・ゲルマニア・ゲルマニクスが、
貴様を成敗してくれる﹂
﹁おい、コンラッド無理するな﹂
いくら古の勇者の力が復活したとはいえ、年寄りの冷や水だ。枯
ボクサー
れた樹の枝のように痩せ細ったしわくちゃの爺さんに、月の輪熊の
ような巨体の拳闘士の相手をさせるわけにはいかないだろ。
まして、ダイソンの身体にも混沌の力が宿っているのだから、勇
者の力だけでは勝ち目はないんだぞ。
﹁シレジエの若き勇者よ、貴君はまだ本当の勇者の戦い方を知らな
い。余の戦いを見て、学ぶと良い﹂
﹁本当の勇者の戦い方だと⋮⋮﹂
もしかして、さっきの自動的に﹃オリハルコンの鎧﹄を着脱した
技を言ってるのかな。
しかし、そんなちゃちな超能力で、ダイソンが倒せるわけもない。
1956
﹁どうした、復活した老皇帝コンラッドと戦えるならばそれも面白
い。こないなら、こちらからいくまでだぞ﹂
ダイソンは、余裕でこちらに拳を構えている。
青い竜の鱗の少女も腕を組んで後ろに下がった、ダイソンとコン
ラッド。二人のゲルマニア皇帝の戦いを静観するつもりらしい。
﹁勇者タケルよ、余の戦いを見て覚えるのだ。勇者の力は、このよ
うに武器や防具に通して使うことも出来る!﹂
そう言うと、コンラッドは俺が止める暇もなく、﹃オリハルコン
の大剣﹄を構えてダイソンに打ちかかった。
ギイイイッと金属がこすれあう嫌な音がして、大剣を﹃オリハル
コンの手甲﹄を付けたダイソンの拳が止める。
そうか、オリハルコンの大剣に、光の剣のような白銀の力の帯が
巻いている。
よく見れば、ダイソンの手甲にもまた鈍い銀色の力が宿っている。
それを見て、俺はようやく気がついた。
ダイソンやコンラッドと俺の戦い方は違う。彼らは意識して、装
備してる武具に勇者や混沌の力を通している。
大きな拳を振り回して、捕らえようとするダイソンを、コンラッ
ドは羽が生えたように高く飛んでかわした。
ダイソンの殺人拳を、コンラッドは大剣の剣身で優しく受け流す。
まるで舞っているようだ、見ているだけで心の芯が震えるほど、流
麗で研ぎ澄まされた剣技だった。
柔よく剛を制す。フリードが力任せに剣を振り回していた技など
子供の遊びだ、これが本来のゲルマニクス流剣術なのだろう。
1957
これこそが、世界帝国ゲルマニアを創った古き勇者の剣技か。
かつての勇者コンラッドは、このようにして世界帝国を築いたの
だと思えば、感動もする。
﹁さすがは、伝説の勇者コンラッド。シレジエの若輩とは、ひと味
違うなァァ﹂
﹁貴様ごとき若造が、気やすく勇者を語るでない!﹂
﹁そうか、だが新しい時代に老人はいらぬのだ。我が拳で、古き時
こわっぱ
代ごと老皇帝を打ち破るのもまた一興よな﹂
﹁抜かすか、小童!﹂
古の勇者コンラッドの気迫は、さすがだった。
だがやはり、ダイソンの動きは速い。見ているとヒヤヒヤする、
たった一撃でも鋼の塊のようなダイソンの拳が当たれば、コンラッ
ドの命など消し飛んでしまう。
一騎打ちなんかさせるものかと、俺が飛び出して行くのを抑える
ように、青い髪の四肢に竜の鱗が付いた娘が立ちはだかった。
クソッ、一体お前はなんなんだよ。
ドラゴンメイド
﹁勇者、自己紹介が遅れたが、私は竜乙女のアレ・ランゴ・ランド。
おっと待て、私は勇者と戦うつもりはないのダ﹂
﹁戦う気がないならそこをどけ。あんな老人を、ダイソンと戦わせ
て黙って見てられるものか﹂
アレと名乗った竜乙女は、戦う姿勢にはないが。
俺が進もうとするのを、青い鱗のついた両手を広げて阻もうとす
る。
1958
﹁違うぞ、シレジエの勇者。あのご老君は戦いを通して、お前に勇
者の技を受け継がせたいのダ。命を賭けた勇士の意志を汲んで⋮⋮﹂
﹁勇者の戦いとか、騎士の誇りとか、そんなの俺はどうだっていい
んだよ。やる気がないなら、いいから退け!﹂
ダイソンは若く体力にあふれている、対してコンラッドはもう息
が上がっている。
このままでは、コンラッドはダイソンに殺されてしまう。
死にかけの老勇者が、命を賭して俺に技を伝えようなんて黙って
見てられるかよ。
分かるよ、よくある話だよな。そりゃここでコンラッドが死んで
見せれば、話は盛り上がるだろうよ。
むしろ、コンラッドは、最初から死ぬつもりなんだろう。そうで
なければ、老いた身体で戦陣に立つまい。
命を捨てて戦うことが、シレジエ会戦から続く未曾有の大戦を引
き起こす原因になってしまったコンラッドの責任の取り方なのかも
しれない。
﹁ああっ、お前なんでそんな脱げやすい格好してるんだよ、なにこ
れただの包帯じゃん﹂
﹁勇者、女を脱がすなら人のいないところでダナ⋮⋮﹂
うるさいよ!
俺は、いま怒りに震えているんだ。お前に構ってる暇はない。
アレと揉みあううちに、身体に巻いていた包帯が取れてオッパイ
があっけなくもろ出しになってしまった。
1959
普段なら俺だってワーキャー言って付きあってやるけど、いまこ
んなふざけたラブコメ展開やってる場合じゃねえんだよ。
形の良い双乳がプルンと姿を現しても、アレという少女は大の字
に両手を両足を広げて、胸を隠そうともしない。
クソッ、ちょっとは恥ずかしがって悲鳴でも上げて屈みこんでく
れれば、囲みを抜けられるかもと考えたのは浅はかだったか。
豊満な胸を覆う包帯が解けても、竜乙女の少女は少しも隙を見せ
ない。
そうだな、戦闘中だからそれは正しい、でも邪魔だ!
﹁いいからどけ、どいてくれ!﹂
﹁ダメだ、それよりもよく見ろ。一人の剣士が、命を賭けてお前に
技を伝えようとしているのだゾ﹂
そんなの、俺が一番良く分かってんだよ⋮⋮。
老皇帝は、悠然と﹃オリハルコンの大剣﹄を構えて、ダイソンに
対峙しているが徐々に押されているのが分かる。
プレス・アウト
コンラッドの額から、すっと汗が流れた。このままで、あと何発
ダイソンの圧殺拳に耐えられるのか。
俺自身があれを喰らって死にかけたから分かるんだ。勇者の力を
通した大剣と鎧がどれほどの強度を持とうが。
コンラッドの老いた身体は、魂までもごっそり削り取られるほど
のダイソンの重い拳に耐えられない。
コンラッドはダイソンの拳をいなしながら、文字通り命を削って
立っているのだ。
1960
剣筋を見れば分かる。コンラッドは、もはや身を守るつもりも勝
つつもりもない。俺に勇者の技を見せて教えながら、ダイソンを存
分に疲れさせて俺の戦いにつなげるつもりなのだ。
自らの不甲斐なさでフリードを止められなかったコンラッドの贖
罪。それで責任を取ったつもりなのだろう。
コンラッドが自らを犠牲にして一太刀でも浴びせ、疲弊したダイ
ソン相手に俺が格好良く勝利して、ゲルマニア戦争に終止符が打て
れば万事綺麗にハッピーエンドってか。
だが間違っている。ゲルマニアの皇帝どもは、どいつもこいつも
自分勝手だ。
﹁ふざけるなコンラッド! お前の子孫はフリードだけじゃないだ
ろうがっ!﹂
﹁わっ﹂
俺は、アレの鉄壁の防御を抜けるのを止めて、さっと後ろに下が
った。
意表をつかれたアレが、つんのめって転びそうになってるが、知
ったことじゃない。
俺が下がったのは、視界に青みがかったプラチナブロンドの髪を
なびかせて、小さな少女が走りこんでくるのが見えたからだ。
ゲルマニア帝国最後の後継、皇孫女エリザベート。
ライフル
小さなエリザは、俺に駆け寄って魔法銃を小さな手で差し出して
くれる。
よく持ってきてくれた、これがあれば勝てる。
﹁タケル様、どうかお祖父様を助けて下さい!﹂
1961
﹁請け負った!﹂
老皇帝コンラッドは、責任の取り方を間違っている。
エリザが泣いているんだぞ。お前の孫娘は、もうお前しか肉親が
居ないんだ。お前をまだ頼っている八歳の孫を残したまま、死ぬん
じゃねえよ!
ライフル
俺はダイソンに向かって、魔法銃を構える。
押しとどめようと、アレが叫んだ。
﹁勇者、なぜ決闘を邪魔立てする! これは誇りある拳闘士と古の
勇者が命を賭けた⋮⋮﹂
﹁だからなあ、そんなのは俺の知ったことかって言ってんだよっ!﹂
勇者の力を武器に通すか。
本当にいいことを教えてくれた。だけど、コンラッドの時代に銃
はなかったんだよな。だから、これから俺がやることは老人にはわ
かるまい。
﹁見るがいい、これが新しい時代の勇者のやり方だ!﹂
俺は精神を集中して、ダイソン目掛けて魔法銃の引き金を引いた。
エリザのために、コンラッドを絶対に殺させない。もはや一寸の
迷いも躊躇もない、やり方は光の剣を貫き通すイメージと同じだ。
この研ぎ澄まれされた感覚、眼をつぶっていても弾は当たる。
スコープもなく狙いもつけていなくても、ダイソンの巨体目掛け
て回転して飛んでいく銃弾がハッキリと視えた。
撃ちだされた鉛の銃弾は、ただの弾ではない。それにはアーサマ
1962
の光の力が込められている。
まるで小さな﹃光の剣﹄のように、弾丸は一心にダイソンに向か
って飛んでいく。
刹那、ダイソンは向かってくる銃弾に気がついて、それを拳で弾
こうとした。見事な反応だ。
ただの弾丸ならば、ダイソンの拳に宿った﹃混沌の力﹄はやすや
すと弾いたであろうが、突き破る!
﹁ぬっ、ぬぉぉおお!?﹂
グシャッと骨の割れる音が響いて、﹃オリハルコンの手甲﹄ごと
ダイソンの大きな拳が砕け散った。
怯むダイソンに、コンラッドが大剣で斬りつけていく。
﹁ぐはあっ、なぜだっ!﹂
拳奴皇ダイソンは、銃弾に右の拳を砕かれ、左腕を大剣で斬られ
バックステップ
て、よろめくようにして後退した。
そのまま、足のバネを使った瞬足で逃げるつもりなのだろう。
愚かなものだな、飛び道具に対して距離を取っても意味はない。
よっぽど慌てていると見える。
﹁逃げるな、ダイソン。さっきまでの威勢はどうした﹂
﹁飛び道具ごときが、なぜ⋮⋮﹂
ダイソンの血走る眼は驚愕に彩られている。
そうだよな、そういうものだ。圧倒的な力に溺れるということは。
1963
﹁俺の弾丸から逃げられるとは思うな、たっぷりと喰らうがいい!﹂
﹁余の身体に傷ぉぉぉおおぉぉぉ!﹂
俺は、今一度、静かに引き金を引き絞った。
静寂の世界で、突き抜ける光のイメージ。ダイソンの巨体、それ
は眼をつぶっていても当たるぐらい、大きな、大きな的だ。
バシュッと乾いた音が響いて、ダイソンの胸に﹃光の銃弾﹄が突
き刺さった。
これまでのことが嘘みたいにあっけなく、ダイソンが胸から大量
の血を噴きだす。
﹁ぐはっ、こんなバカなぁぁ⋮⋮あり得ない、あっては、ならぬ⋮
⋮。なぜ余の最強の肉体、が崩れ﹂
胸から鮮血を噴き出し続けて、足をよろめかせてもまだ、こっち
に向かって拳を振り上げるダイソン。
銃撃を胸に受けて、生きているのも不思議だが、これが拳闘士と
しての本能なのか。
血に染まる悪鬼、だがもう恐ろしくはない。身にまとう混沌の力
さえ打ち砕けば、ダイソンは強いだけの﹃ただの人間﹄なのだ。
人として死ね、ダイソン。
﹁お前の負けだ。楽にしてやる⋮⋮﹂
﹁ぐあぁぁあぁああぁぁ!﹂
もう一撃、すでによろめくだけの大きな的に向かって、静かに引
き金を引く。
吸い込まれるように﹃光の弾丸﹄がもう一発、ダイソンの胸に突
1964
き刺さって、その巨体を打ち砕いた。
ダイソンが盛大な土煙と地響きを上げて倒れるのと同時に、こっ
ちも力尽きたのかコンラッドがガクッと片膝を突く。
エリザが、コンラッドに駆け寄っていく。
﹁お祖父様!﹂
俺も、コンラッドの様子を見に行くか⋮⋮。
横目でチラッと、ダイソンを確認する。自らが噴き出した血だま
りのなかで、ダイソンは大の字になって仰向けに臥している。
胸に開いている大穴。人間は弾丸に心臓を撃ち抜かれれば死ぬの
だ。混沌の力さえ打ち破ってしまえば、どれほど鍛えていようが人
の定めには逆らえない。
ダイソンは絶命しているにもかかわらず、顔をしかめ赤く血走っ
た両眼を見開き、拳を強く握りしめたままだった。
あれほど否定していた飛び道具で倒されたことは、無念だったの
かもしれない。
これも戦争だから悪いとは思わないが、冥福を祈ってやる。だか
ら化けて出てくるなよ。
いや、ダイソンと戦った俺だから分かる。
きっとダイソンの死体が、アンデッドや魔族になって蘇ったりは
絶対しないだろう。
この世界に混乱を巻き起こした拳奴皇ダイソン。ただひたすらに
力を求め、拳を振るい殺し続けた。その生き様は﹃母なる混沌﹄に
愛されて、大きな混沌の力を授かったが、それでもフリードのよう
1965
ボクサー
に、闇に落ちることはなかった。
ダイソンは最後まで人間の拳闘士だった。誇りある人として戦い、
そして人として死んでいった。
迷惑極まりない存在だったが、その生き方までは否定すまい。
ただでさえ接近戦チートのダイソンが闇堕ちして、魔王なんかに
ならずに居てくれて、助かったとはいえるからな。
﹁ぐふっ、死に損なったようだな⋮⋮﹂
﹁お祖父様、お祖父様ぁ!﹂
エリザに抱えられて、力尽きるようにゆっくりと地に横たわった
老勇者コンラッド。その老体にすがりついて、八歳の女の子がわん
わん声を上げて泣いている。
どれほど気丈に振る舞って、聡明に見えても、エリザはただの子
供なのだ。子供から最後の肉親を奪う権利は、コンラッド本人にも
ないだろうに。
﹁コンラッド帝、孫を泣かせるな﹂
﹁スマンの、若き勇者よ⋮⋮ワシはいささか疲れた。あとを、頼む﹂
そう言い残すと、老いた勇者は静かに眼を閉じた。
おい、死んでないよな。
慌てて駆け寄って脈を取ると、老勇者コンラッドは、眠っただけ
のようだった。
ふうっ、人騒がせな爺だよ⋮⋮。
1966
154.終息
先頭に立ち押しまくっていた拳奴皇ダイソンが倒されたことによ
すうせい
り、乱戦状態だった戦場は奇妙な沈黙が訪れていた。
潮目が引くように敵軍の勢いが衰えていく、趨勢が変わったこと
を兵士たちは敏感に察知する。
ドラゴンメイド
﹁何をしているのですかアレ客将。早くシレジエの勇者を殺してく
ださい。竜乙女の貴女なら、その力があるはずです!﹂
魔術師将軍レブナントの悲鳴のような甲高い叫びがあがった。
ドラゴンメイド
奴も、潮目が変わったことは理解しているだろうが、だからこそ
必死になっている。
確かに、こちらも満身創痍。
ヘルマンとルイーズが囲んでも勝てなかった、この竜乙女の少女
マガジン
が本気でかかってくれば、危ういかもしれない。
ライフル
俺は無言で、魔法銃の弾倉を交換して、戦闘に備えた。
向こうがやる気ならやるしかない。
﹁はあ、何を言っているレブナント。私は、勇者とは戦わないと言
ったゾ﹂
﹁敵は傷つき弱りきっているのですよ。どうぞあと少し、あと少し
のお力添えをお願いします。ここまで来たんです、シレジエの勇者
さえ倒せれば、こちらの勝ちなんですよぉ!﹂
どうやら竜乙女の少女は、俺たちとこれ以上戦う気はないようだ。
1967
レブナントが跪いて懇願するが、アレはそっぽを向いている。初
対面の俺も、二人の力関係というのが何となく理解出来る構図だ。
どうやら、アレ・ランゴ・ランドと名乗ったドラゴン娘は、カス
ティリア王国に所属しているというよりは、協力してやってるだけ
ということなのだろう。
やるかやらないかは、彼女自身に任されている。どう見ても、気
分屋だしな。
﹁やりたければ、お前がやるといいゾ﹂
﹁そんなぁ、魔術を封じられた状態の私が、勇者に勝てるわけがな
いではないですか!﹂
こんな乱戦のさなかでも、レブナントは力の差を分析できている。
マゾヒスト
声を振り絞ってアレに参戦を訴えながらも、自身は冷静ということ
か。
レブナントという銀髪の変態魔術師将軍。奇矯な言動が目立つが、
手強い知将のようだ。
この機会に敵の上級魔術師を殺しておけば先生が喜ぶし、いっそ
ここで殺すかと銃を構えてはみるが。
下手に殺すと、せっかくやる気を無くしているアレを刺激するこ
とにもなりかねない。
判断の難しいところ、こっちもギリギリである。
負けるとは思わない。むしろ勝てる。しかし、今は犠牲をこれ以
上増やしたくない。
レブナントは、上級魔術師なのに一軍の将という厄介な敵だ。交
渉する敵将を殺してしまうと、無秩序な潰し合いでどちらかが全滅
1968
するまで混戦は収まらない。
ここは、休戦を提案するのが無難かと銃を置いた。
﹁どうだレブナント・アリマー。ここは、お互いに痛み分けで停戦
といかないか。ここで下がってくれるなら追撃はしないと約束する﹂
﹁何が痛み分けですか、ふざけないでいただきたい! ここまで持
ち込むのにカスティリアがどれほどの時間と手間をかけたか。ダイ
ソンまで倒されて、何も出来ずに引けば私は将軍を解任されます!﹂
﹁解任されればいい。もうお前の負けダ。見苦しいゾ、レブナント﹂
﹁なんですって、アレ客将。さっきから貴方は、どっちの味方です
か!﹂
見苦しくわめきちらすレブナントに、アレが冷たく言い放った。
﹁どっちの味方か⋮⋮。そのことだが、私は今日を持ってカスティ
リア軍を離れる。これまで世話になったナ﹂
﹁アレ、貴方はカスティリアを裏切るつもりですか!﹂
﹁裏切るなどと人聞きの悪い。世話になった分は、戦ってやったの
だゾ﹂
﹁それは、そうかもしれません。でもなぜここで⋮⋮よりにもよっ
て、こんなところでなんですかーッ!﹂
レブナントは、悔しそうに泣き喚く。
敵ながら、気持ちは分からなくもない。カスティリアも多大な犠
牲を払ってここまで追い詰めてきた。あと一歩のところだろうから。
﹁私が客将として付いたのは、カスティリア王国がランゴ島の同盟
者としてふさわしいかどうか見させてもらうためでもあるのダ。も
1969
ともと、そういう約束だったのダ。その結果、もう協力はできない
と判断した﹂
﹁ううっ⋮⋮﹂
レブナントは、腰をストンと落とすようにして座り込んだ。
肩を落とし、黙りこくる。戦場のど真ん中で放心するほどショッ
クだったのだろうか、警戒しながら見守っていると、スッと立ち上
がってこっちに振り向く。
さっきまであれほど激しくわめいていたのに、今度は冷徹なまで
の無表情。
感情のアップテンポが激しすぎる。本当に不気味な男だ。
﹁王将軍閣下、カスティリア軍は停戦の提案を受け入れて、引かせ
ていただきます。はいはい皆さん、撤退しますよ!﹂
レブナントは手を叩いて、カスティリア軍に撤退を促した。引き
始める軍勢を見回すと、無表情のまま一瞬だけ、俺を強く睨みつけ
る。
そして、ニタァ∼ッと大きく口の裂けるような不気味な笑いを浮
かべた。
怖いわ!
痛切な敗北の苦渋すらも、快楽に変えてしまったのか。変態、怖
えぇぇ。
レブナントは、﹁ヒヒヒヒッ﹂と不気味な笑い声を上げて俺を散
々にビビらせて、あとはもうこちらに興味を失った様子だった。首
を左右に振りながら長い銀髪の前髪を揺らして、颯爽と馬車に乗り
込んで去っていった。最後までわけの分からない奴だった。
1970
それにしても底が見えない相手だった。来るときもいきなりだが、
去り際もあっけない。
こういう即断で動ける将軍は、鳴り物入りで攻めてくる敵よりも、
手強く恐ろしい。
レブナントは将軍から降格されると言っていたが、ここで殺せな
かったからには是非ともそうなってくれることを祈る。
長い期間をかけて執拗な入念さで策を準備し、華々しくも卑劣な
罠を使い攻めてきたにもかかわらず、失敗すれば傷が浅いうちにあ
っさりと撤退を決めることができる。いろんな意味で異常な作戦指
揮だ。
あんな動きの読みにくい敵将の相手をするのは、二度とゴメンだ
な。あんな異常者と知恵比べをやってたんだから、そりゃライル先
生も疲弊するわ。
俺もいささか疲れた。
停戦の合図である赤い花火と狼煙があがり、乱戦は収まった。
敵軍は、戦死した遺体まで綺麗に回収して引いていったが、竜乙
女のアレだけが取り残されていた。
﹁お前は、一緒に行かなくていいのか﹂
﹁⋮⋮言わなかったか勇者。カスティリアとは縁を切ったのダ﹂
アレは、ポロリと取れてしまった胸の包帯を巻き直したあと、俺
の視界の端っこに立ったまま、大きな竜の翼をバタバタと羽ばたか
せて、ブルーンブルーンと左右に青竜の尻尾を振っている。
周りが怖がっているから、止めて欲しい。
1971
アレは何のアピールのつもりだ。
俺が代表者として、アレになんか言わなきゃいけないのはわかる
けど、なんとなく声がかけづらい。
﹁うーん﹂
こいつの扱い、どうしようかなと、俺は悩んでしまう。
カスティリアと縁を切ったと言っても、こっちの味方になったわ
けではない。
こっちが唸っていると、痺れを切らしたように向こうから話しか
けてきた。
レディ・オブ・ザ・ランゴ
﹁勇者、佐渡タケル。私は、アレ・ランゴ・ランド。南方のアフリ
大陸。大砂漠の沖合に浮かぶランゴ島の竜女王の娘ダ﹂
﹁自己紹介は、さっき聞いた﹂
アフリ大陸って、アフリカだったよな。
大砂漠が、サハラ砂漠に該当するとすれば、ランゴ島とは北アフ
リカのカナリア諸島あたりなんだろうと当たりを付ける。
たしかスペインの植民地だなと、大航海時代を扱ったゲームの知
識で知っている。
今の時代は、大航海時代の直前だろ。カスティリアはアフリ大陸
との貿易で稼いでいるらしい。
アレたち竜乙女の住んでいるランゴ島は、まだカスティリアの植
民地というわけではなく、港を貸している程度の関係なのだろう。
﹁私の武闘家としての腕は見ての通りダ。カスティリアとは縁を切
った、もしも勇者がどうしてもと望むならば、そのなんだ⋮⋮私が
力を貸してやってもかまわんゾ﹂
1972
﹁そりゃ、魅力的な提案だな⋮⋮だが断る!﹂
この佐渡タケルが最も好きな事のひとつは、自分で強いと思って
いるやつに﹁NO﹂と断ってやることだ。
⋮⋮ってのは、まあ冗談としても。戦い抜いたライバルが仲間に
なるみたいな安っぽいパターンを目の当たりにすると、素直に受け
入れがたい。どこぞの戦闘民族のツンデレ王子でも、もうちょっと
デレるまで時間をかけるだろ。
﹁どうしてダ!﹂
﹁どうしてって、目の前でルイーズを傷つけられたし、いきなり仲
間になるとか言われても困るよ﹂
腹を割かれたルイーズは、回復ポーションで傷はふさがったけど、
まだ眼を覚まさないでいる。
あとで自分を倒した敵が、仲間面してこっちの陣営にいたら、ル
イーズはなんと思うだろう。少なくとも、俺なら抵抗がある。
﹁なんでダ、私は勇者の仲間を殺さないように手加減したんだゾ!﹂
﹁それは⋮⋮ありがとうとは言っておくけど﹂
﹁だいたい、その女戦士が弱いのがいけないのダ。アレは強いゾ、
最強だゾ、どうして勇者は強い私を欲しがらないのダ﹂
﹁はぁ⋮⋮そういう問題じゃなくてさ﹂
もう相手にするのが面倒になってきた。
本当なら、まだ目を覚まさないルイーズを見ててやりたいのだ。
レプティリアン
敵軍には鉛弾すら硬い鱗で弾く爬虫類人の傭兵が混じっていたら
しく、こちらの軍の被害も激しい。
1973
そっちのほうの後始末も思いやられる。
事後処理がたくさんあるから、王将軍としてやるべきことはいく
らでもある。
ただ、アレの凶暴な戦闘力は敵の軍勢の後ろ盾がなくなったとし
ても、放置できないから監視はしなくてはならない、これは優先事
項。
まったく面倒なことだけど。
﹁ああそうか! もしかして、勇者は私を戦士ではなく女として欲
しているのか。それならそれで、責任を取ってくれるって言うなら
考えなくもないゾ。⋮⋮実を言えば、私は婿探しに来たのダ﹂
﹁いやそういうのも、もう間に合ってるんで、すみませんが﹂
ドラゴンメイド
確かに、竜乙女のアレは、若々しい裸体に白布を巻いただけの艶
めかしい姿だ。胸やお尻は豊満なのにお腹は綺麗に引き締まってい
る。
手足に青い鱗が付いて、凶暴なドラゴンの爪や羽や尻尾が生えて
るのを差し引いたとしても俺の好みのタイプだよ。
一年前だったら良かったんだろうけど、今はそんな結婚フラグは
御免被る。
もうマジで勘弁してくれ。俺に嫁が何人いると思ってるんだよ。
面倒みきれないよ。これ以上、妻子が増えたら心労で死ぬ。
﹁じゃあ、どうしたら勇者は、側においてくれるのダ!﹂
﹁待て待て、なんでそんな話しになってるんだよ﹂
アレは、ジリジリと俺に向かってにじり寄ってくる。
何のつもりかと思ったら、鱗のついた大きな手で俺の手を掴んだ。
1974
青い瞳を輝かせて、ひたすらに俺をジッと見つめてくる。
俺は、アレに手を握られて少し焦った。あの鋭い爪が、手に突き
刺さるかと思ったからだ。しかし、アレの竜爪は猫の爪のように格
納できるようになっているようで、手のひらは傷つかない。
いやでも、あの爪の長さは猫の爪どころじゃないぞ。どうなって
るのかと、アレの手のひらをマジマジと観察してみた。
﹁そんなに触られると、少し恥ずかしいゾ﹂
﹁なあ、あの長さの爪がこの指のどこに引っ込んでるんだよ。物理
的におかしいだろ﹂
ルイーズの土手っ腹を、鎧ごと突き破った長い爪だったんだぞ。
猫の爪を押し出す要領で、手を押してみると先っぽからチョビっ
と爪が出るだけ。こんなに可愛らしい爪じゃなかっただろ。
﹁竜爪は、私の思うように伸びたり縮んだりするゾ。力のある竜族
なら当たり前のことダ﹂
﹁いやーないだろ!﹂
俺はないだろと思ったが、ファンタジーならあるんだなこれが。
アレが実際にやってみせるとジャキンと金属音を立てて、硬い竜
爪が指の先で伸びたり縮んだりを繰り返す。
単純な格納ではない様子だ、おそらくなんらかの魔法なのだろう
イマジネーションソード
か。あるいはオリハルコンを貫く強度を目の当たりにすれば、俺の
﹃中立の剣﹄に近い素材なのかもしれない。こういうところは、フ
ァンタジーとして納得するしかない。
﹁爪の話はもういい、私はお前の戦いに惚れたのダ。ユーラ大陸に
くるまで、伝説の勇者とはどのようなものかと色々と想像していた
1975
が、期待以上だった﹂
﹁そりゃ、褒めてくれるのは嬉しいけど、勇者なんてそんな大した
ものでもなかっただろう﹂
ダイソンには、まともに当たっても勝てなかった。
俺が勝てたのは、ヘルマンやルイーズが危ないところを助けてく
れて、カアラが足止めしてくれて、老勇者コンラッドが身体を張っ
て戦い方を伝授してくれたからだ。
﹁私はこれまで、戦いとは単純に強いほうが勝つと信じてきた。し
かし、お前の戦い方は違った。ダイソンよりも弱いのに、見事に倒
してみせた。これが伝説の勇者の力なのかと私は震えがきたゾ﹂
﹁かなり、危なかったけどね﹂
﹁つまり勇者とは、人を惹きつける強い光なのだろう。多くの勇士
がお前の元に集まり、その力を集めて、自分よりもはるかに強い敵
を倒してみせた。そのまばゆい光に、私も惹きつけられたのダ﹂
﹁だから、俺の仲間になりたいと言うのか﹂
アレは俺の手をしっかりと握りしめたまま、コクンと頷く。
それにしても無骨で太い手だ、俺の手がすっぽりと覆われてしま
う。人間部分は、美少女にしか見えないのに、竜乙女ってのはアン
バランスな生き物だな。
﹁分かった、仲間にしてやる﹂
﹁おー、良かったゾ。本当に断られたら、どうしようかと思った﹂
いや、一度断ってるんだけど。そこまで言われて、﹁だが断る﹂
とも言えないだろう。
それにアレは、カスティリア王国と切れているんだから行き場が
1976
ない。こんな強大な存在に、無所属でシレジエ王領をフラフラされ
たら治安問題になる。
なんかで気分を害されたら、村一つ消えてましたとか普通にあり
そうで怖い。
どちらにしろ放ったらかしにしておける存在ではないのだ。
格闘家チート。このタイプは初めて味方にする。果たしてうちの
陣営で仲良くやれるのかは、とても心配だが。
とりあえず手元に置いて、様子をみるしかないようだ。
それにしても、﹁勇者とは人を引き付ける光﹂か⋮⋮。
アレはそんなことを言っていたが、惹きつけられてくるのが、み
んな一癖も二癖もありそうな連中ばかりなので、苦労させられてい
る。
スカウト
それを何とかするのが、勇者の仕事なんだろうけどね。
戦のあとで、混乱する王都を立てなおして、密偵に敵軍が完全撤
退するまでの監視を命じて、戦地から馬車で戻ってきたライル先生
の無事な顔を見て、俺はようやく全て終わったと安心できたのだっ
た。
1977
155.人物紹介︵第二部 五章終了時点︶
けんどおう
拳奴皇ダイソン 二十八歳
元は帝国の属領ラストア氏族の出身だったダイソンは、幼き頃に
帝国の侵略戦争で捕らえられて親子ともども奴隷となった。
長じて戦士としての才覚を見せたダイソンは、拳奴隷となり己が
拳のみで拳闘士のスター選手にまで伸し上がる。二メーター五十セ
ンチを超える人間離れした巨漢は、それだけでオーガーロードに匹
敵する威圧感がある。ダイソンには、それに加えて冷徹なる知性、
格闘家の素養、敵味方の血に塗れた実戦的な鍛錬があった。
拳闘士は必ずしも相手を殺す必要はないのだが、残忍なダイソン
プレスアウト
は丸太のように太い拳で、相手を肉の塊に変えるまで殴り続けるの
で﹃圧殺拳﹄のダイソンと呼ばれていた。闇雲に相手を殴り殺すこ
と百人を超えたあたりで、何らかの境地に辿り着いたらしく、その
後は一発で殴り殺すようになる。
その後、人間相手では物足りなくなったダイソンは、猛獣から化
物、ついには名状しがたき異形である﹃古き者﹄ですら拳のみで打
ち砕く最強の拳闘士となった。
拳奴部隊ができたとき、部隊長の一人に選ばれたが、実力でなら
ず者部隊の全てを統括するようになる。他国の侵略と、農民反乱で
帝都の帝国軍が統制を失ったと見るや、クーデターを開始。
帝城にいた老皇帝と皇孫女を囚えて、新ゲルマニア帝国の皇帝を
僭称する。
容姿はくすんだ短い茶髪を短く切っている、ブラウンの眼がギョ
ロッと大きく、眉間に太い皺が刻まれて恐ろしい形相をしている。
まだ二十代なのだが、威厳がありすぎる身体つきのためにおっさ
1978
んにしか見えない。皇帝になってからも、拳闘士だったころと一緒
のトレーニングパンツに上半身裸という服装のままでゲルマニア皇
帝にのみ許された貝紫色のマントを翻し、﹁身体が大きすぎて、俺
に着られる服がない﹂とうそぶいている。
彼の武装は、帝城の戦いでヘルマンより奪いとった﹃オリハルコ
ンの手甲﹄のみである。本来なら全部奪えたところを、﹁拳奴皇に
防具はいらぬ﹂と豪語したそうだ。
そのような拳闘士上がりのパフォーマンスが、反乱に加わった民
や下級兵士には受けていて人望は高い。
ゲルマニア貴族や騎士を嫌う傾向が強く、ダイソンに付き従う将
兵は、下士官、下級兵士、雑兵、傭兵上がりが中心である。
雑兵部隊長 マッシブ・ガヤック 二十一歳
ツンツン頭に鉢巻を巻いた、先鋒軍の隊長。拳奴皇帝国軍残党の
討伐の任務を受けて村を襲った。
率いている兵士はみんな野盗崩れだが、マッシブは若いなりに下
級士官として一年間の訓練を受けていて、乗馬技術も持っていた。
さあこれから下士官でも出世できるチャンスが来たぞというとこ
ろで、あえなくタケルに撃ち殺される。
運がなかった。
宮廷楽士 ツィター・シャイトホルト 二十四歳
ヘーゼル
しっとりとした蜂蜜色の長い巻き髪。淡褐色の瞳をした小柄な女
性。
宮廷楽士としても選りすぐりの存在であり、生まれつき楽士とし
ての才能を持った彼女は、皇帝に目通りの叶うエリートであった。
レジスタ
皇帝と皇孫女に詩を教えていていた経験から声を知っており、囚
ンス
えられた宮殿の壁の向こう側からその声を聞いた彼女は、帝国抵抗
1979
軍に身を投じて、ゲルマニア皇族を助け出そうとする。
可愛らしい小娘にしか見えないが、瞳に熱い情熱を秘めた楽士。
歌も演奏も得意だが、戦闘力は皆無。残念ながら、この世界はどこ
ぞのRPGのように、バードが戦闘に力を発揮したりはしない。
ゲルマニア皇族の救出に成功したのち、安心したのか徐々に天然
ボケが悪化していく。性格は年齢よりも子供っぽく、楽士より道化
師のほうが向いているかもしれない。
ゲルマニア帝国 皇孫女 エリザベート・ゲルマニア・ゲルマニ
クス 八歳
老皇帝コンラッドの直系の孫娘。老皇から見ると長男の娘に当た
る。フリードの専横がなければ、いずれは帝国を継いでいたのは彼
の父親になったことであろう。
青みがかったブロンドを腰まで伸ばしている、金と青のヘテロク
ロミアの瞳。
コンラッドの血筋は、帝位継承権争いでほとんどがフリードに殺
されたが、エリザベートはあまりにも小さい女児であったために、
さすがのフリードも殺しきれなかったのであろう。
生まれつき聡明な彼女は、権力争いに荒れ狂う帝宮のなかでひっ
そりと祖父である老皇帝の影に隠れて、なるべくフリードの眼に止
まらないようにしていた。
フリードの死後、混乱する情勢のなかで子供なりに耄碌したコン
ラッドを守ろうと必死に立ちまわるが、拳奴皇ダイソンに捕まって
幽閉されて、無理やり婚約者にされてしまう。
小さな子供ながらも、エリザを擁立しようとした派閥によって帝
王教育を受けており、ゲルマニア帝国最後の後継としての気位と強
い意志を持っている。
新ゲルマニア帝国 征将軍 ゲモン・バルザック 三十二歳
1980
青モヒカン兜をかぶって、革鎧の上に皮革のマントをまとってい
る図体の大きい男。ちなみに脱ぐと頭はほとんど禿げているので、
兜は絶対に取らない。
元は傭兵の騎兵隊長だった粗野なゲモンは、騎士に密かなあこが
れを抱いている。
ゲモンの率いていた軍団は、旧ゲルマニア帝国から給料を払って
もらえずに反乱を起こした。そのまま農民反乱を巻き込んで戦力を
拡大する。ゲモンの騎兵隊が反乱の中核になっていたので、幸運に
も賊将として成り上がることができた。
ダイソン派に与して、五千にまで膨れ上がった賊軍であったが、
姫騎士エレオノラによって討伐されてゲモンもその軍門に下ること
となった。
のちに、改心したゲモンは正統ブリタニア帝国の将軍として、ロ
イツ村を拠点に農民軍を率いて転戦する。
一軍の将として大将軍マインツに重用されている彼は、その貧相
な見た目よりも有能な将軍であり、寝返りを奨励する広告塔として
も役に立っているそうだ。
ランクト大司教 シスターマレーア
セピア色の髪と目。リアの着ているシスター服を白銀の宝飾をあ
しらって豪華にした大司教服に、立派な司教冠を被っている。
ランクトの街で、姫騎士エレオノラと勇者タケルの結婚式を執り
行う。
普段は、厳粛な大司教様でユーラ大陸に六人しか居ない大司教の
一人であるのだが、彼女も一癖も二癖もあるアーサマ教会関係者の
幹部。
タケルに、新しく勇者付きシスターになることを求めて、断られ
たりしていた。ちなみに、諦めてはいないそうだ。
1981
シレジエ王国 海軍提督 ジャン・ダルラン 四十八歳
モジャモジャの黒髪、熊のように太った赤ら顔の大男、樽のよう
な腹をしている。
コッグ船二隻、水夫二十四名を率いる提督で、陸軍でいえば小隊
長にも満たない規模になる。
提督帽はかぶっているものの、水夫と同じ白シャツを着ている風
采の上がらない提督。
それなりに経験のある船乗りではあるが、海戦の経験はほとんど
ない。
輸送船の船長としてなら有能だが、戦闘能力は期待できない。
ブリタニアン同君連合 君主 アーサー・ブリタニアン・アルト
リウス 二十五歳
通称﹃キング﹄アーサー。
艶のある長い黒髪で黒い顎鬚のある若い士官。白地の海軍服に、
金糸の飾りが施された黒いジャケットを着ている。提督帽には、金
の王冠をあしらったマークがついている。
アーサー王といえば伝説的な君主だが、こっちのアーサーも負け
てはいない。
独立心が旺盛で相争ってたブリタニアンの二島四民族を一つにま
とめあげて、ブリタニアン同君連合として統治している。
気性の荒い海の男達が、たった一人の﹃キング﹄の旗のもとにま
とまっている。このアーサーも、伝説的な君主に負けていない海の
上の若きカリスマ。
気持ちのよい無邪気な笑顔を浮かべる君主で、味方として協力し
てくれれば魔族であろうとも礼を述べるだけの思想の柔軟さを持っ
ている。
1982
強大なカスティリアの無敵艦隊と戦っても、ブリタニアン海軍が
なんとか持ちこたえられているのは﹃キング﹄がいるからであると
いえる。
カスティリアの将軍 コルドバ子爵 セバスティアン・コルドバ・
ボルボーン 四十歳
ピンと整ったカイゼル髭の痩せた背の高い男。
フルプレートアーマーを着て、新型戦艦﹁ガレオン船﹂一隻を指
揮して戦いに身を投じたが、タケルにあっという間に殺られてしま
う。
運がなかった。
カスティリア宮廷魔術師 ﹃魅惑﹄のセレスティナ・セイレーン
二十六歳
ファンネーション
特異魔法﹃魅惑﹄を使う。カスティリア最強の上級魔術師。宮廷
魔術師のわりに、宮廷に居ることはほどんどなく、常に転戦させら
ファスキヌム
れているのはその高い能力ゆえだろう。
いつも魔除けにしている、男根像をなでまわしている。そのよう
な香水をかけているのか、仄かにシクラメンの花の香が香る。
染めているのか地毛なのか、紫色の長い巻き髪。豊満な身体のラ
インがぴっちりと見える、胸の大きく開いたドレスを着ている。
スカートにはスリットが入っていて、太ももが丸出し。色気ムン
ムンのお姉さん。
魅惑の呪文は、|﹁此処に幸運が住まう﹂︽ヒク・ウィエト・フ
ェリキタス︾と唱える。
どうやら彼女にチャームされると、男は幸せになるようだ。
1983
自治都市アスロ市長、ドグラス・ゾンバルト 三十三歳。
ゲルマニア帝国自治都市連合の議長でもあり、帝国から任命され
たスウェー半島全域の総督でもある。
帝国政府崩壊後、食糧不足で困窮する市民を救うために自ら船を
出して、食料を手に入れようとするが上手く行かず。
偶然来航したシレジエの勇者に助けを求めて、自治都市アスロを
シレジエ王国の保護領とした。
神経質で陰鬱、眉間に深いシワを刻んだ愛想笑いもできない政治
家だが、その性格は無私公平で市民のことを第一に考えている人格
者。
あまり市民に人気はないが、責任感の強い彼はアスロ市民のこと
のみを考えて、実直に自治都市の執政を行なっている。
ドット男爵領 民政官 ズール・ドーズ 四十六歳
ゲイルが男爵だったころから、ドット男爵領で地方官僚をやって
いる民政官。
領主がいないあいだは、代官として領地を切り盛りする。
地元の顔役であり、領地をよく知っているため、的確に内政を行
う能力を有する。
地元重視で、前の領主ゲイル近衛騎士団長にも、今の領主のザワ
ーハルト第三兵団長にも、あまり忠誠を感じていないようだ。
政治的に微妙な位置にあるドットの城を中心とした小領地は、領
主がすぐに代わる。そのため、ズールは反抗的とまでは言わないが
領主など、代わりはいくらでもいると思っているのだろう。
傭兵団長 ゼフィランサス・シルバ 二十八歳
ローランド王国出身。二千人を有するゼフィランサス傭兵団の団
1984
長で、癖のある長い黒髪にサーリットの兜を被っている目元が爽や
かな美丈夫。
装備は、外套の下に鎖帷子を着込んでいる。獲物は、エストック
を使う。
平民出身なのに気品があり、さる貴族の庶子だったのではないか
と言われている。
ピピンに雇われるが、一緒に死ぬつもりはないようだ。ただし、
信義を重んじるゼフィランサス傭兵団は、雇い主が死んでも金を貰
った分はきちんと働く。
ピピン侯爵の死後も、律儀に領土防衛の任務を遂行する。
男爵 ボンジュール・イソワール・ブラン 十二歳
建国王レンスの血を引く、ブラン家の生き残り。
地方貴族叛乱の盟主に担ぎ出される。小さい麻呂で、実権は皆無。
お飾りとして、玉座におとなしく座らされているだけだ。
ブリューニュにも、こんな可愛らしい子供の時分があったのだろ
うか。
アジェネ伯爵夫人 ジョセフィーヌ・アジェネ・アキテーヌ 二
十八歳
匂い立つような美貌と、芸術的なまでに美しい身体のライン。若
きつねめ
々しく張りがある白い肌。まさに、匂い立つような美人。権謀術数
に長け、狐女と呼ばれている。または、男を殺す毒婦とも呼ばれる
危険な女である。
彼女が狐女と蔑まれるにはわけがある、狐型獣人の血が混じって
アニマルハーフ
おり、獣耳と小さな尻尾が生えている。純粋な人族を重んじるシレ
ジエの名門貴族の社会で、彼女が半獣人であることはかなりのマイ
ナスであった。
1985
シレジエの南部地方、右半分を所有するアジェネ伯爵、名門貴族
アキテーヌ家当主のハイエンドの愛人となったジョセフィーヌは、
ハイエンド伯の当時の妻を公然と毒殺、夫人へとのし上がったのだ。
その後、頑固な貴族主義者であるピピン侯爵をも、その淫蕩なる
性技で落として自らの協力者に仕立てあげた。まさに、狐女と呼ぶ
に相応しい傾国の美女。
彼女の色気で落とす手口は見え透いているのに、騙される男は後
を絶たない。
アキテーヌ家当主 アジェネ伯爵 ハイエンド・アジェネ・アキ
テーヌ 三十三歳
生来病弱で、近頃はほとんど病床から起きられない。ジョセフィ
ーヌに毒でも盛られているのかもしれない。
アキテーヌ家の実権は、夫人のジョセフィーヌに握られているた
め彼はお飾りになっている。
嫁に浮気されて、勝手に戦争まで起こされて領地が危険に晒され
る。
女を見る目がない己の無能の報いとはいえ、どちらかと言えば犠
牲者である。
ピピン侯爵の三男、ブルグンド家の後継 ボルターニュ・ナント・
ブルグンド 十八歳
凡庸なる十八歳のおぼっちゃま。
ピピン侯爵とともに長男と次男が、相次いで戦死したためブルグ
ンド家の新当主となって、ナント侯爵家を継ぐことになる。
父と二人の兄の訃報を聞き、家を継いだはいいが、イソワールの
街にジョセフィーヌと一緒に居たのが災いして、一溜まりもなく下
半身を握られてコントロールされてしまう。
1986
若い彼にとって、一回り年上の大人の色気ムンムンの狐女は魅力
的すぎた。
予想外に家督が転がり込んで来た矢先に、領土が危機に瀕してい
る。ラッキーなのか、アンラッキーなのか分かったものではない。
それなりに切れ者だったピピン侯爵の息子にしては、どうしよう
もないナマクラだが、その頼りなさが好ましく見える人もいるので
あろう。不思議とジェフリー代官などの部下には恵まれているよう
で、少しは人望があるのかもしれない。
ひきこもり
カスティリア国王 書斎王 フィルディナント・カスティリア・
アストゥリアス 三十歳
銀の鎖がついたモノクルを右目の眼窩にはめている。
黒地に金のラインの入ったキルティング仕様のダブレットを着て
いる赤髪を後ろに撫で付けた大人しそうな青年。
一見すると、真面目な官僚にしか見えない。
ひょろっと痩せた長身で、普段は無表情。ただ書類を読むときだ
け、いきいきとした感情を取り戻して、赤い瞳がギラリと光らせる。
徹底した人間嫌いという欠点は持つものの、稀代の政略家であり、
孤高の天才である。書斎に引きこもりながら、机の上から広大な制
海権を持つ、海軍大国カスティリアを切り盛りしている。
ナントの街の老代官 ジェフリー・アーマス 六十歳
白髪で、白い豊かな髭の老人。
ながらくブルグンド家に仕えてきた代官である。
ブルグンド家のため、最後に残されたボルターニュぼっちゃまの
ために、ナントの街を命がけで守ろうとした。
その願いが天に通じたのか、カスティリア王国の援軍があって一
度は、シレジエ王国軍を退けることに成功する。
1987
その後、ゼフィランサス傭兵団と共同作戦を行い、ナント侯爵領
のオータンを奪還しようとしたが、失敗に終わったようだ。
ブルグンド家 執事長 カストロ 四十五歳
ブルグンド家に仕える使用人の頭。
彼らは戦闘要員ではないただの執事だが、敵が攻め寄せてきても
逃げずに、老臣ジェフリーとともに武装して、主の居ないナントの
街を守ろうとした。
農村の領民には裏切られたブルグンド家であったが、都市の市民
には支持されていたようだ。
彼らの決死の覚悟はそれを象徴している。
ドラゴンメイド
竜乙女の武闘家 アレ・ランゴ・ランド 十六歳
アフリ大陸の北西。大砂漠の沖合に浮かぶランゴ島の女王の娘。
青いセミロングの髪から、黒褐色の二本の竜角が突き出している。
手足の先が太く鋭い爪と青い鱗が付いていて、ドラゴンの青い翼と
長い尻尾が付いている以外は、大柄な人間の女と変わらない。
対照的に肌は透き通るように白く、豊満な身体つきで、胸や腰に
白い布を巻きつけただけの簡素すぎる格好をしている。
島ぐらしで人との関わりが少なかったので、自分の服装がセクシ
ーだとは、まったく思っていない。
アレは、武闘家であり竜形拳という伝統的な拳術を使う。鋭い爪
と、長く硬い尻尾で攻撃する。混沌の化身である古き者の血を引い
ているため、練気を高めると強烈な攻撃になる。
ドラゴンメイド
竜乙女は、古き者である竜神とアーサマの作りし人間の混血で、
レディ・オブ・ザ・ランゴ
何故か女しか生まれないので、年頃になると島外に婿取りに出る。
ランゴ島は、ランゴ島の竜女王に支配されており、カスティリア
1988
王国の寄港地でもあり、港を提供する代わりに物産を交換する友好
関係にある。
知識を求めるアレは、客将としてカスティリア王宮に招かれるが、
勇者は島で尊敬の対象だったので当初はシレジエの勇者との戦いは
拒否していた。
彼女なりに思うところがあって、後に戦いに参加する。
カスティリアの上級魔術師 将軍 レブナント・アリマー 三十歳
長い銀色の前髪を垂らした、細い目をした若々しい男。
鈍く光る金色の鎧を着て、上から茶色のマントを羽織っている。
ライフル
パッと見は、紳士的な好青年だが、残忍で悪魔的な顔も持ち合わ
せている。
マゾヒズム
もともと変質的な男ではあったが、魔法銃で身体を撃ちぬかれて、
生まれて初めての死の危険のなか、ついに被虐趣味に開眼する。
卑怯な作戦や、奇抜な戦法を好んで使う。手段を選ばないという
より、どうやら彼独特の余人には理解できぬ美意識があるらしい。
手痛い敗北の痛痒ですら、快楽に変えてしまえる彼は尋常でなく
打たれ強い。
いろんな意味で、まともな常識が通用しない、思考が読みにくい
策士である。
新ゲルマニア帝国軍千人隊長 デボン三兄弟
三人で将軍クラスといった感じのモヒカン兜の三兄弟。
量産型キャラとか言ってはいけない。本当は強いのだ。
元傭兵で、鎖鎌を武器に使い敵の動きを封じる連携攻撃を得意と
し、普通の騎士相手なら十分に倒せる実力を持っていた。
鬼神と化したルイーズと出会ってしまったことが、彼らの不幸だ
った。
1989
やっぱり運がなかった。
1990
156.サラちゃん召喚
カスティリア王国が策謀したすべての攻撃を受けきり、おそらく
本命であったであろう王都シレジエへの奇襲も跳ね除けた。
順序でいけば、南部貴族の反乱を鎮めてから、拳奴皇ダイソンを
失って形骸化した新ゲルマニア帝国を平らげ、そしてカスティリア
王国と戦う。
そう行きたいところなのだが、状況はそれをやすやすとは許さな
い。
シレジエ王国への攻撃に失敗した、カスティリア王国は、今度は
ブリタニアン同君連合への一転攻勢を仕掛けた。
シレジエ王国が襲われている間、ブリタニアン同君連合艦隊も遊
んでいたわけではない。
及ばずながらこちらの援護をしようと、プリマス沖海戦、ポート
ランド沖海戦、二度に渡る戦いを挑み惜敗している。
カスティリアの無敵艦隊は、ブリテイン大島南部の港を、プリマ
ス、ポートランド、ドーバーと港を次々に落として、ブリタニアン
同君連合の首都ロンドの目と鼻のグレーズ湾に迫っている。
決死の覚悟で徹底抗戦しているブリタニアン海軍だが、やはりセ
イレーン海戦での惨敗の傷跡は大きく、蹴散らされ続けている。
ライル先生が言うには、書斎王フィルディナントの意図は明確で
あるという。
シレジエがダメなら、今度はブリタニアン同君連合の首都ロンド
を一気に攻め落としてしまおうというのだ。
1991
じょうかのちかい
そもそも今回の大戦は、セイレーン海の覇権をめぐってのカステ
ィリア王国とブリタニアン同君連合の戦だ。
首都が落ちれば、ブリタニアン同君連合は敗北である。城下の盟
を結ばざるを得ない。
カスティリア王国とブリタニアン同君連合と休戦条約を結べば、
同盟国として参戦したシレジエ王国も大義名分を失い、鉾をおさめ
るしかない。
シレジエがどれほど各地で勝利しようが、カスティリアの戦略的
勝利となる。
ひきこもり
まったく、カスティリアの書斎王は次から次へと妙手を考えつく
ものだ。こっちだって、ブリタニアン同君連合から救援要請が来て
いるのを放置するわけにはいかない。
問題は、制海権を取られて好きなようにされていることにある。
カスティリア王国の無敵艦隊。これをなんとかしない限りこちらに
勝利はない。
もうすぐ竣工の新造船、黒杉軍艦はあるが、最強軍艦とはいえど
たかが一隻では大勢は覆せない。
未だ弱体のシレジエ海軍は、絶対的に戦える船の数が不足してい
るのだ。
やはり、あの作戦を実行に移さなければならないかと思う。
取るものもとりあえず、俺は盗賊王ウェイクに、手紙を書くこと
にした。
※※※
1992
王城の摂政の間。ライル先生の執務室に、サラちゃんを召喚する。
先生に椅子を勧められたが、大事な身体なので座ってもらって俺
は横に立っている。
﹁ひさしぶりだな、サラちゃん﹂
﹁ひさしぶりね、タケル﹂
ミルコくんを連れて、緊張の面持ちで入ってきたサラちゃんは、
オウム返しにそう挨拶した。反応が、少し固いのが気にかかる。
こうして見ると、初めてあったときより二人も成長したものだ。
大人になったということなのだろうか。
初めて会ったときは、本当に子供だったサラちゃんも多少は女性
らしい身体になってきている。子供が大人になるのは早い。
なんて思ってるのが知れたら、怒るんだろうな。
こまっしゃくれていた元気なだけの女の子が、いつの間にか聡明
そうな顔つきになってきている。
それも当然か。今やサラちゃんも、代将閣下だそうだから。
ミルコくんのほうは、紅顔の美少年だったのに身長がすらっと伸
びて青年らしい、たくましさが身に付いてきた。
少し痩せすぎだから、もう少し肉をつけたほうがいいとは思う。
もしかすると、サラちゃんに翻弄される生活で、気苦労が絶えない
のかもしれないな。
ミルコくんは、ちょっと気が利きすぎるぐらいの優秀な少年兵だ
ったから。サラちゃんも重宝しているのだろう。
本当は、今でも俺の副官に欲しいぐらいの人材なのだが、どうせ
誘ってもサラちゃんからは離れないだろう。
1993
﹁ライル摂政閣下、お返しいたします﹂
ライフル
サラちゃんの横に立っていたミルコくんは、手に持ったマントと
魔法銃をライル先生に返そうとする。
それを、ライル先生は手を振って止めた。
﹁それはミルコにそのまま預けましょう。私は、しばらく前線に出
れななくなりました。南部地域にも、またいつ上級魔術師が現れる
やもしれません。それで、サラ代将を助けてあげなさい﹂
﹁では、サラ代将の失態はお許しいただけるのですか﹂
ミルコくんの口から﹃失態﹄という強い言葉を聞いて、サラちゃ
んは苦い顔をした。
サラちゃんのショックが少ないように、こちらからではなく、あ
えて一番近い位置にいる彼から言ってやったのだろう。
サラちゃんは、プライドの高い子だから。あえて言ったのだと分
かっていても、ミルコくんは、嫌われてしまうかもしれない。
それでも彼は、主のために苦いことも言うし、貧乏くじをだって
引いてみせる。まだ若いが良い副官ぶりだ。彼が側にいるだけでも、
サラちゃんに箔が付く。
サラちゃんの失態。占領政策がやや過激すぎたこと、独自に義勇
軍を募って代将就任。そこまでは、後追いで認めたのだから良い。
ふりょ
しかし、本軍が止めているにもかかわらず、ナントの街を攻めて
敗北。俘虜の身となったことは、軍規違反に取られてもしかたがな
い。
﹁サラ、簡単に許されたと思ってもらっては困りますよ。勝手に先
1994
走って敵の人質になり、シレジエ王国軍に損害を与え、あまつさえ
王将軍閣下と皇孫女殿下を危険にさらしたこと。本来であれば死を
以て償ってもらわなければならない大罪です!﹂
﹁っ!﹂
机に両手を組んで座ったまま、厳しく叱責するライル先生に、サ
ラちゃんは目をつぶる。
普段は温厚な先生が、叱ることがあまりないから堪えるだろう。
﹁ですが、今は祖国存亡のとき。ここで有能な将官を失うのは損失
が大きすぎると判断して、引き続き南方方面軍の指揮官を任せます。
サラ代将、貴女の罪は今までの戦功を考慮して相殺することにしま
す。今後、勝手な振る舞いは控えなさい。そして、同じ失敗は二度
としないように﹂
ライル先生は、渋い顔をしている。
軍規を考えれば、サラちゃんになんらかの処分があってしかるべ
きとの声もあるが、そうできない理由がある。
サラちゃんが敗北で失った兵は、ロスゴー村の代官として彼女自
身が育てた私兵が中心だった。合法的とは言いがたい手段なので、
あまり褒められたものではないが、武器すら彼女自身の手腕で集め
たものだ。
本軍は、なんの痛手も被っていない。
今の南方方面軍は、第三兵団が千に、義勇軍が三千。合わせて兵
力が四千。
敗北したナントの街からオータンの街まで後退して態勢を立て直
し、第三兵団のザワーハルト男爵と義勇軍のアラン連隊長が、戦線
を支えている状態だ。
1995
ナント侯爵領で、猛威を振るって旧支配者を問答無用になぎ倒し
たサラちゃんの人気は意外にも高い。
乱暴に突き進み、一度は敗北したにもかかわらず、さらに義勇兵
が集まっているという話もある。
サラちゃんが無事なら、ぜひ戻してくれとの矢のような催促。人
望があるとは言えるのだろう。
王将軍である俺が直接出向けるならばいいのだが、そうでないな
らサラちゃんを代将に据えておくしかない。
やはり、シレジエは将官が足りていないのだろう。
ベテラン騎士とはいえ兵団長に過ぎないザワーハルト男爵や、才
気はあるがまだ若造で腰が座り切らないアラン連隊長では、俺の名
代を任せるには荷が重い。サラちゃんは、うちの数少ない将器にな
っている。
ただの村娘の少女が、勇者の愛妾なり、一軍の将となった物語性。
自らを大衆に受ける﹃主人公﹄として大衆から人気を集めた。その
器量は認めざるを得ない。
見事に、俺の代わりに旗印をやってくれたのだ。さすがは、先生
の弟子とはいえる。
﹁では、私は代将として再び戦地におもむきます﹂
﹁⋮⋮サラちゃん待って﹂
真面目な顔で、サラちゃんが退出しようとするので、俺は呼び止
めた。
﹁何よタケル﹂
1996
﹁ああ、すまんミルコくんは、ちょっと時間を潰してくれるか。出
立の前にサラちゃんと少し話がしたい﹂
ミルコくんは、少し寂しそうな顔をしてから、深く頭を下げて退
出した。
さて、控え室に連れて行こうか。
王城の謁見の間の周りには、いくつか小さな控え室がある。
そのうちの一つに、サラちゃんを誘いソファーに座らせて、お茶
を淹れてやった。
﹁タケルから私を呼び止めて、お茶を淹れてくれるなんてひさしぶ
りね﹂
﹁ああそうだな、本当にひさしぶりだ﹂
なんだか、さっきからそんなことばかり言ってる気がする。
思い出話をしたいわけではない。黙って紅茶をすすっていると、
サラちゃんが焦れたように声を上げた。
﹁なによ。話があるなら早く言いなさいよ。小言なら聞かないから
ね﹂
﹁そうじゃなくてさ、どうして代将なんてやり始めたんだ﹂
﹁⋮⋮私、タケルの役に立ってない?﹂
﹁立ってるよ、人質になって出てきたときはヒヤヒヤさせられたけ
どな。それを差し引いても地方貴族を抑えてくれるのは助かる。だ
から、先生だって何も言わなかったんだ﹂
問題があれば、黙っている人ではない。
先生が苦い顔をしていたのも、おそらくサラちゃんを責めていた
1997
のではなく、自由にさせて弟子を危険に晒してしまった自分の浅慮
を責めていたのだろう。
﹁だったら、私は代将としてがんばるから﹂
﹁がんばりすぎだよ、敵に捕まったと聞いたときは本当に心配した
んだぞ﹂
﹁だって待ってるだけじゃダメだと思ったから﹂
﹁どういうことだ﹂
﹁タケルに相応しいところまで上がるには、おとなしく村の代官な
んかやってたらダメじゃない。代将になって、武勲を上げれば貴族
にだってなれるわ﹂
﹁つまり、俺に相応しい女になりたいと⋮⋮﹂
俺がそう言いかけると、サラちゃんはプフッと吹き出した。
なんだよ。
﹁それは自信過剰すぎるわー、タケル。勇者だからって、誰でも女
の子がなびくと思ったら大間違い﹂
﹁だってお前⋮⋮﹂
俺は、ちょっと恥ずかしくなってきた。
だって、サラちゃんが、俺の愛妾とか自分で言うから⋮⋮。
しかし、ひさしぶりに言われたな。自信過剰とか、自意識過剰と
か、昔なら赤面モノなんだろうが大したことはない。
この気恥ずかしさは、なんだか懐かしささえ感じる。嫁が七人も
いる身で、いまさらその程度で恥ずかしがってもしょうがない。
1998
﹁でもそうね、タケルに相応しい女になりたいわね。他の娘みたい
に、おとなしく迎えに来てもらうのを待ってるなんて、私の性に合
わない。だから私は、自分の実力で成り上がるのよ﹂
﹁そりゃ、頼もしいことだが、無理はしてくれるなよ﹂
俺は、サラちゃんが突き進もうとするのを止めない。
若い彼女は、自分の意志で自分の道を切り開こうとしている。好
きな事を好きなようにして欲しいのが、俺の願いだ。
それがたとえ危険を伴うものであろうとも、どれほど迷惑をかけ
られようとも、俺は止めたりはしない。
たとえそれが苦渋を伴う敗北であったとしても、それを糧に成長
すればいい。
子供にはチャレンジして、失敗する権利があるのだ。
サラちゃんを自由にさせたライル先生の判断は、正しかったと思
っている。
﹁さてと、話は済んだわね。じゃあ代将は、クールに任地へとおも
むくわね﹂
﹁だから少しは落ち着けって、これを持って行くといい﹂
俺は、お手製の新しい﹃黒杉の鎧﹄を用意しておいた。ちゃんと、
サラちゃんの身体にフィットするサイズを用意した。
黒杉の切り出しは俺にしかできないので、加工が結構大変だった
んだが、命には代えられない。
前の鎧はどうせ敵に奪われたか戦闘でダメにしてしまったんだろ
うし、少しでも危険が回避出来ればそれに越したことはない。
負けるにしても、できれば安全な負け方をして欲しい。
1999
代将にふさわしく、シレジエ王国の白百合の紋章も刻んだマント
も、新しく用意させた。
サラちゃんは王将軍の代理で征くのだ。代将として目立ってもら
わないといけないからな。
﹁あー、ありがとう。助かる﹂
﹁あと、これもちゃんと持って行けよ﹂
ドサドサと、大量の書物を机の上に置いてやった。
﹁これなに!﹂
﹁先生からの宿題だ。兵法書が中心だけど、政略論や政治学の本も
あるな。サラちゃんは、えっと﹃直接対決による殲滅を重視しすぎ
だから、それ以外のスタンスも学びなさい﹄とあるぞ。今回の罰と
して、これ全部読んでレポートにまとめろって﹂
﹁えー﹂
﹁アハハハッ、がんばって勉強するんだな﹂
微笑んでいたサラちゃんが、酸っぱいものを食べたような顔をし
た。サラちゃんには悪いが、俺は声を上げて笑ってしまった。
ようやく歳相応の少女の顔になったなと思ったから。
いくつになっても、先生からの宿題って嫌なもんだよねえ。
もちろん、これだけでなく戦地におもむくときには、武具や兵糧
なども一緒に運んでもらうことにした。
サラちゃんに無理はして欲しくないが、子供の使いにならないこ
とを期待している。
2000
戦地に再び送り出すのは心配、でもがんばっても欲しい。なんか
いろいろ複雑な気持ちだ。子供の成長を見守るなんて、そんなもの
なのかなあ。
2001
156.サラちゃん召喚︵後書き︶
簡単ですが、ブリテイン大島の地図です。
新章突入、カスティリアの無敵艦隊との決着がどうなるかご期待く
ださい。
<i132471|12243>
2002
157.実家に帰らせていただきます
戦後の処理が収まったのを見計らって、エリザたちが住む外葉離
宮に出向くことにした。
ダイソンとの戦いで傷ついた老皇帝コンラッドのお見舞いだ。
小さな庭園の鬱蒼とした木々を抜けると、離宮の縁側でツィター
が、ポロンポロンと弦楽器をかき鳴らしていた。
やってきた俺の顔を見ると、つまらなそうだった顔がパッと明る
くなる。
﹁よう﹂
﹁ガンナーさん、きてくれたんですね!﹂
﹁⋮⋮ガンナーさん?﹂
﹁はい、この度はまたエリザベート殿下を助けていただきありがと
うございました﹂
お礼は良い。お礼は良いんだが、お前、俺の正体もうちゃんと目
撃したよね。
ツィターの反応は、勇者やシレジエ王族に対する態度じゃない。
﹁なあツィター、俺はなんだ﹂
﹁なんだと言われましても、ガンナーさんですよね﹂
あれぇ⋮⋮。いまは、普段着だけどさ。俺が、勇者として戦って
るところに一緒にいただろ。なんでガンナーさんが、勇者の剣を振
るって、シレジエ軍を指揮してるんだよ。
2003
俺は少しツィターと話してみて、彼女が冗談で言っているのでは
ないと気がついて、戦慄した。
浮かない顔をしていたのは、今度の戦でも勝ったと噂になってい
る。シレジエの勇者を讃える新曲を考えるのに、難航していたから
らしい。
俺の顔を見て、勇者のイメージが湧いたので、それを参考にして
曲を作ると言い始めた。だから、そのシレジエの勇者が、俺なんだ
よ!
こいつ、皇孫女の唯一のお付きとして勤めながら、本気でなにも
見てないし、なにも考えてない。
音楽のことしか頭にないのか。
﹁ああ、分かった。もういいや﹂
﹁はい?﹂
小首を傾げてるツィター。
﹁いや、もういいから、そのままの君で居てくれ﹂
﹁やだー。私なんか口説いても、何も出て来ませんよ﹂
口説いてねぇよ、呆れてるんだよ。
天然のツィター相手に、﹃実は貴方がシレジエの勇者様だったん
ですね!﹄みたいな、水戸黄門的な展開を期待したのが間違いだっ
た。
いまさら俺が勇者だとか王将軍だとか、自分で説明するのは恥ず
かしすぎる。もう放っておこう。
2004
﹁ところで、エリザはどこにいる﹂
﹁中に居ますよ、ずっと皇帝陛下のベッドから離れません﹂
そうだろうな。一命を取り留めたとはいえ、老体に重い負担をか
けてしまったコンラッド陛下の容態は芳しくない。
俺も見舞いをするかと、建物の中に入ると窓際に車椅子型の大き
な寝台に横たわっているコンラッド陛下。
そして、その両隣にコンラッドを看病するエリザとニコラウス大
司教が居た。
﹁ニコラウス、お前なんでここにいるんだ﹂
﹁なんでって、僕は勇者コンラッド付きの聖者ゆえにです﹂
ゆえにです、じゃないよ。
お前を後宮に招いた覚えはこれっぽっちもないのだが、どうやっ
て入ったんだ。
﹁なあニコラウス。外葉離宮の敷地も、一応はシレジエ後宮の一部
なんだぞ。もしかしてここに一緒に住んでるのか﹂
﹁はい。入るときには、誰にもダメですとは言われませんでしたけ
ど﹂
俺には悪い冗談にしか見えないのだが、アーサマ教会の聖職者は
民衆からとても尊敬されている。
アーサマ教会の大司教猊下ともなれば、俗界の人間ではない。男
子禁制の後宮も堂々と、フリーパスでは入れてしまうらしい。
変態モードのこいつを知らなければ、豪奢な大司教の僧服に身を
包んだ普段のニコラウスは、尊くも熱誠なるアーサマ教会の若き聖
2005
者様に見えないこともない。
しかし、それで通すって、あんまりにも後宮のセキュリティが弱
すぎる。俺の城に、味方とは思えない男が居るのも好ましくない。
﹁あーもう分かった。居るのはもういいけど、お前はいつまで、こ
こに居座るつもりなのだ﹂
ヒーリング
﹁今勇者の力を失えば、コンラッド陛下のお命は危ういのです。僕
はこう見えましても回復魔法のオーソリティーです。及ばずながら、
治療のお役に立てると思います﹂
うーん、そう言われるとしかたがないのか。性癖はともかく、実
力だけはニコラウスも最高級の聖者。医者が居ないこの世界で治療
といえば、薬師に頼るか聖職者の力にすがるしかない。
通いのメイドがくるだけでツィターとエリザしか住んでいない離
れに、男が同居しているのも少し心配なのだけど。
コンラッド帝に死なれたらエリザが悲しむから、今回だけは大目
に見よう。
ある意味、ホモ大司教ほど安全な男もいないだろうから見逃すこ
とにした。
ニコラウスは﹁時間だ﹂と、コンラッドの口に霊水を少し飲ませ
てから、回復魔法をかけ始めた。
耄碌して寿命が尽きかけているところに、さらに命を縮めるよう
な激戦を行ったコンラッドの身体は、普通の神聖魔法ではなかなか
治らない。
ヒーリング
なぜなら、回復魔法とは﹃原状回復﹄でしかないからだ。怪我や
病気は治せても老衰は治せない。それどころか命脈が尽きかけてい
る老人にかけると、衰弱を加速させてしまうこともある。
2006
そこをニコラウスは、独自で工夫した治癒を試みているらしい。
真面目に治療しているようだから、そのままさせておくことにし
よう。この点は、俺が手出しできることではない。専門家に任せる
他はない。
そう思って治療の様子を眺めていると、エリザがこっちに擦り寄
って俺の袖をクイッと引っ張る。何か言いたいことがあるのかと腰
をかがめて顔を傾ける。するとエリザは背筋を伸ばして、耳元に囁
いてきた。
﹁タケル様、格別のご配慮いただき、誠にありがとうございます。
お祖父様のこと、なんとお礼を申し上げたらよいか﹂
﹁エリザ、俺にかしこまった礼なんか要らないって言ってるだろ⋮
⋮﹂
まだ八歳の少女なのに、エリザは放っておくとすぐ硬くなる。必
死に背伸びをして大人を演じようとする。それは気丈さだ。
丁寧にお礼を述べられることは褒められるべきところだろうけど、
俺はそれが少し気に食わない。
彼女は、ゲルマニア皇帝の孫で、最後に残された血族だ。いずれ
は、否応なくゲルマニアの女皇帝とされるのだろう。
子供は生まれるところを選べない、育った環境が違う。でもだか
らこそ、ゲルマニアを離れたところでぐらい普通の子供をやって欲
しい。
大人の真似なんて、大人になればいくらでもできる。酷世界は十
五歳で成年だ、子供が子供でいられる時間は短い。
大人のくせに小娘にしか見えないツィターの半分ぐらいでいいか
ら、エリザも気を抜いてくれればと思うんだが、うちでは安心でき
2007
ないのだろうか。
﹁⋮⋮子供は、子供らしくですか﹂
﹁そうだ、よく分かってるじゃないか。俺が責任持って大人をやっ
てやるから、エリザはまだ子供をやっていていい。子供は、守られ
て当然なんだよ。お礼が言いたいなら、ありがとうの一言でいいか
ら無理するな﹂
俺は、エリザの小さい肩を抱きしめて、青みがかったプラチナブ
ロンドの髪を撫でてやった。彼女の浮かべてみせた笑顔がとても寂
しそうだったから、思わずそうしてしまった。
そうしたら、俺の胸に頭をもたれさせたエリザが、声を殺して泣
き始めた。
昔の俺ならなんで泣くか分からずに、あたふたしただろうけど、
今は俺も子供の扱いに慣れてるから空気ぐらい読める。
この子は、ずっと気を張り続けていたのだろう。まだ小さいのに
な。
﹁タケル様⋮⋮﹂
﹁いいから、しばらくそうしてろ。なんなら泣き叫んでもいいんだ
ぞ﹂
冗談めかしてそう言うと、強張っていたエリザの肩から力が抜け
たのを感じて、俺もホッとする。少しは安心してくれているのだ。
ここは異郷の地で、誰にも頼れないエリザは気苦労が多いのだろ
う。この子は、ツィターみたいにのんきな性格じゃないからな。
せめて子供らしく歳の近い友達を作ってくれればと思うんだが、
俺も戦争に明け暮れているのでなかなか引き合わせてやる暇もない。
2008
何とか俺が王城にいる間に、誰かを紹介してやろう。うちでいう
とメイドは大人すぎるから、奴隷少女辺りが良いか。
エリザは聡明だから、少し年上の女の子でも、対等に付き合える
はずだ。
﹁叫んだりはしません、お祖父様も眠ってますし⋮⋮。でももうし
ばらくだけ、胸をお借りしてもいいですか﹂
﹁ああ、かまわんさ。頼りない俺の胸でも、ハンカチ替わりぐらい
にはなるだろ﹂
洋服を汚してしまうとか、エリザは気にしそうだから先に言って
おく。
やれやれ、なんでこんなにいちいち物言いが硬いんだろうと思う
が仕方がない。
エリザは小さな頃から帝宮暮らしで、皇孫女に相応しい窮屈な立
ち居振る舞いを強いられていたのだ。
まだ八歳だろう、元の世界で言えば小学校の二年か三年ぐらいだ
と思えば、可哀想だ。
俺がエリザぐらいの歳の頃はどうだったかな。ほとんど何も考え
ずに、鼻水垂らして遊び歩いてたんじゃないかな。
この子も、もう少しでいいから周りの大人に甘えて、楽に生きら
れるといいんだけど。
メロウ
そう思って嘆息していたら、後ろから叙情的な曲が流れてきた。
俺達の後ろでツィターが、弦楽器を繊細な指先で優しく弾き、淡
い旋律を奏でている。
﹁ツィター、なんのつもりだ﹂
2009
﹁いい雰囲気だなと思いまして、ムードアップです。楽士のお仕事
をさせていただいております﹂
本当にトボけたことを言ってやがる。満面の笑みで楽しそうに腰
を揺らして演奏しているツィターには苦笑するしか無い。
俺の胸の中でエリザが堪え切れないといった様子で、クスクスと
笑い始めた。俺も誘われて吹き出してしまう。
確かに、ツィターはちゃんと仕事をしている。とても俺より年上
には見えない間抜けな娘だが、得難い資質を持った宮廷楽士ではあ
る。
ツィターの天性の明るさは、エリザの救いになっている。
※※※
﹁大変です、ルイーズさんがいなくなりました﹂
シャロンが慌てて、俺のところにやってくる。
俺の直属の騎士になっているルイーズは、王城に部屋を与えられ
ているが、常に城にいるわけではない。
彼女は、かなりの大所帯になってしまった義勇兵団全体の団長で
ドラゴンメイド
もあるので、その仕事で外に出かけることも多い。
蓄積した疲労と、竜乙女のアレにやられた傷のせいで臥せってい
たが、元気になった途端に飛び出して行ったのだろうか。
﹁ルイーズなら、義勇軍のキャンプか、王領の見回りにでもいった
んじゃないか﹂
﹁でも、部屋にこんな書き置きと、装備を残していったんですよ﹂
2010
俺は、書いた手紙を読むと、ルイーズ部屋に走っていた。
綺麗に整えられたベッドの上に、俺が彼女に下賜した﹃オリハル
コンの大剣﹄と﹃オリハルコンの鎧﹄が残されている。
ルイーズの置き手紙はとても簡素だ。
戦いに敗れた自分は、俺の騎士に相応しくない。オリハルコン装
備はお返しする、とあるだけだ。簡単すぎて、何を言いたいのか分
からない。
﹁シャロン、ルイーズがどこに行ったか分かるか﹂
シャロンは、頭を振る。
スカウト
そう遠くには行っていまい。王都の人の出入りは、兵士がチェッ
クしているし、防諜のために密偵も巡回しているので、変わった動
きがあれば分かるはずだ。
﹁ネネカを呼んでくれ﹂
ルイーズが行きそうな心当たりなど、俺には分からない。密偵に
探せるしかない。
もう長い付き合いなのに、俺はルイーズのことを何も知らないん
だなと思うと、愕然とした。
※※※
ルイーズの行き先は、すぐに分かった。
何のことはない。彼女は王城から出ていなかった。実家のカール
ソン家に戻っていただけだった。
カールソン家は、シレジエ王国建国以来の武家の棟梁である。カ
2011
ールソン家は、騎士や将軍を輩出した名門であり、代々の王家剣術
師範役も務めている。
シレジエの御流儀と言えば、カールソン流剣術を指す。そのため
に、ルイーズの実家は大きな剣術道場がある立派なお屋敷だった。
﹁ルイーズって、本当にお嬢様だったんだな﹂
見上げてみると、立派な二階建ての建物だ。佐渡商会と社屋と同
じぐらいの建物に、隣接している大きな空き地が道場らしい。剣術
道場と言うと、日本式の板間の道場を想像するが、西洋式は勝手が
違う。
石の塀に囲まれた空き地に、大きな丸太の杭が立っていて、それ
に向かって剣を振るい鍛錬するらしい。
大きな空き地で、百人近い数の若者が、叫び声を上げながら立ち
木に向かって剣を振るっている。
クインタイン
広い敷地には厩舎や馬場まであり、馬上から駆け抜けざまに横木
に取り付けられた盾を突く槍的という練習道具が置かれている。
槍的の横木の反対側には砂袋が吊り下げられており、盾を刺突す
るスピードが遅いと、グルっと回転してきた砂袋に叩きつけられる
という面白い仕掛けになっている。
剣術だけではなく、本格的な馬上槍術や弓術の訓練も行われてい
る。騎士になるための総合訓練所の様相だった。
御流儀ともあって、シレジエの将兵はカールソン流の出身者が多
い。訓練施設は、門下生でどこも埋まっていて賑わっていた。
ただ俺がイメージしていたような対人訓練をしている生徒はいな
い。使っている武器が練習用に刃は潰してあるとは言え本物の鉄の
剣なので、対人訓練は危険なのだろう。
2012
そう考えると、柱や藁人形や槍的を相手にするだけの訓練となる
わけか。
竹刀と剣道防具を使うようにすれば、安全に対人訓練もできるん
じゃないかな。いや、今日はそんなことで来たんじゃなかったか。
﹁これは、王将軍閣下、ようこそいらっしゃいました﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
不審者丸出しの俺が道場の中をウロウロとしていると、さっきま
で若者を指導していた、威厳にあふれる壮年の師範がやってきた。
赤毛の総髪、赤い髭を口元に蓄えて、練習用の剣を地面に突き立
てて悠然と微笑んでいる背の高い師範は、簡素な黒い道着だ。
白い道着を着ている練習生とは色違いなだけで、服装に違いはな
いのだが、朗らかに応対しても隙のない立ち居振る舞い。別格だな
と分かる。
おそらく、この男が道場の主だろう。
﹁ジェローム・カールソンです、娘がお世話になっております﹂
﹁ああ、ルイーズの親御さんか﹂
深々と頭を下げた剣術師範は、カールソン家当主、ジェローム・
カールソンだった。
クーデター後の混乱で形骸化しているとはいえ、正式なシレジエ
王家の剣術師範役であり、準男爵の地位を世襲しているシレジエ貴
族でもある。俺の顔は、元から見知っていたようだ。
﹁閣下⋮⋮。娘は、家に帰ったっきり奥の間に閉じこもってますが、
お呼びいたしましょうか﹂
2013
﹁いや、俺のほうが出向くよ﹂
﹁では、娘の部屋にご案内いたします﹂
﹁済まないなジェローム卿、訓練中に﹂
ジェロームの案内で、カールソン家の奥の間に通される。
建物の中は、広いだけで普通の住宅だった。生活感が足りないと
いうか、余計なものは何もないだだっ広いだけの内装。領地を持た
ない下級とはいえ、貴族に列せられる家柄にしては質素なものだ。
﹁ルイーズ、王将軍閣下がいらっしゃったぞ!﹂
ルイーズの部屋だという奥の間の扉の前で、ジェロームがノック
をして野太い声を張り上げると、中でガタッと音がした。
しかし、しばらく待っても扉は開かない。
引きこもってるのかな。
ルイーズはいきなり実家に帰って、なにがしたかったのだろう。
﹁うーん、これ勝手に入ってもいいものかな﹂
﹁閣下、僭越ながら申し上げますれば⋮⋮娘のことは、私にも分か
りかねます﹂
俺とジェロームは、顔を見合わせると苦笑いした。
実の父親ですら分からないのに、俺にルイーズがなにを考えてい
るかなんて、分かるわけもない。
2014
158.ルイーズの気持ち
とりあえず、会って話さないことには、なんでいきなり実家に帰
ったのかも分からないからな。
出てこないなら、こっちから行くしかない。
﹁ルイーズ、いいか。入るぞ?﹂
俺がそう言うと、ガチャっと扉が開いてルイーズが顔を現した。
一瞬、誰かと思ってしまったが、いつも後ろに括っている髪を下
ろしてストレートにしてるからだろう。
簡素ながらドレスを着ているルイーズなんて初めてみたかもしれ
ない。
いつも鎧で武装してるからな、そりゃ雰囲気が変わって見えるの
も当然だ。
﹁タケルは入っていい、父上は入るな﹂
ルイーズがそう言うので振り返ると、ジェロームは苦笑いを浮か
べていた。
先ほどの道場に居た凄腕の剣術師範が、隙だらけの情けない親父
になっている。年頃の娘を抱える父親というのは、どこもこうなっ
ちゃうものなのかな。
姫騎士エレオノラのところの、エメハルト公爵を思い出して。
俺は、別の意味で苦笑いした。
2015
﹁どうした、タケル。入らないのか﹂
﹁あっ、入るよ。入る﹂
ルイーズの部屋は、想像したよりもずっと女性的だった。
刺繍が入った布がかぶせてあるサイドテーブルの上に、様々な動
物をかたどった革製のぬいぐるみが並んでいる。もしかして手作り
なのだろうか。
木片と羽を使ったおもちゃの風車と、騎士の形をしたコミカルな
人形が並んでいる模型もあった。
風車は機械仕掛けで動くらしい、なかなか面白い細工。可愛らし
い趣味だな。
﹁違うぞ、タケル。それは、昔のままにされてたから!﹂
﹁わかってるよ。ルイーズが子供のときのおもちゃなんだね﹂
ルイーズが頬を真っ赤に染めて弁明するから、俺は笑いをこらえ
て頷いた。彼女にも、おもちゃで遊ぶ可愛らしい頃があったのだ。
そうして、娘の部屋を子供時分のままにして綺麗に残しておいた
父親のジェロームは、まだルイーズにきちんと愛情を持っているこ
とがよくわかる。
ルイーズが騎士団を追われたときに、勘当されたと聞いたが。
おそらく、やむを得ない理由があったのだろう。なかなか、良好
な親子関係ではないか。
ルイーズは、ベッドの端っこに腰掛けて、俯いている。
俺にも横に座れと勧められたので、遠慮なく座る。
﹁で、話はなんだ﹂
2016
﹁置き手紙は見たが、ルイーズはなんで城を出ていったんだ。それ
を聞きたくて来た﹂
ルイーズが、我が君と言わずに、俺を名前で呼ぶようになってい
ることには気がついている。
何が原因で、俺の騎士を辞める気になったのか。もちろん、それ
がルイーズの意志なら止める気はないけど。それならそうと、はっ
きり聞いておきたい。
﹁弱い女は、タケルの騎士にふさわしくないと言われたんだ﹂
﹁誰にだよ﹂
ドラゴンメイド
﹁竜乙女のアレだ﹂
﹁あいつか⋮⋮﹂
アレは、俺の護衛役をやるといって、俺の後にずっと付きまとっ
てきているのだ。
仲間になるのを認めると言ったからには、なかなか断れないんだ
が、ルイーズにそんなことを言ってたなんて、ろくなことをしない
な。
﹁もちろん怒って、私は再戦を挑んだんだが⋮⋮﹂
﹁アレと戦ったのか!﹂
病み上がりに無茶をする。
ルイーズらしいとは言えるが、アレには勝てないだろう。
﹁コテンパンに、のされてしまったよ。また傷つけては勇者が怒る
からと、手加減までされてなあっ!﹂
﹁はぁ⋮⋮確かにアレは強いな﹂
2017
竜乙女という種族の強さ、ちょっと尋常ではない。
ライル先生に詳しく聞いたのだが、竜神という﹃古き者﹄の血を
受け継いでいる子孫なのだ。
ばんけん
ルイーズとて、万剣と讃えられ竜気を身に宿すまでになった英雄
だが、半神と言っても過言ではない伝説の種族が相手では分が悪い。
たとえ竜殺しの大剣で斬りかかっても、アレの鱗一つ傷つけるこ
とはできないだろう。
人間の騎士と半神では、強さのレベルが違う。
﹁私は、アレに一太刀も当てられなかった。弱い私では、もうタケ
ルの騎士にふさわしくないんだ﹂
﹁なんでそうなるんだよ!﹂
つい、声を荒げてしまった。自分勝手なのは、いきなり実家に戻
ったルイーズじゃなくて俺かもしれない。
思えば俺は、ずっとルイーズの好意に甘えてきただけだ。
相手が、七歳も年上の大人の女性だからってこともあったが、ル
イーズが何を思って俺に付いてきてくれていたか、考えたこともな
かった。
こっちから顔を背けるように、ベッドに縮こまって震えている彼
女の背中を見てどうしようかと悩んでいると、コンコンとノックの
音がした。
﹁ルイーズ、王将閣下にお茶をお入れしたんだが﹂
ルイーズの親父さんの声だ。
シリアスな空気が崩れて、俺は思わず笑ってしまった。
2018
﹁ええいもう、父上はっ!﹂
ルイーズは叫びながらベッドから起き上がって、お茶を受け取り
にいった。
俺は少しホッとして気が抜けた。
ジェローム卿は、中の様子が気になるのかお茶を載せたお盆を渡
しながら、チラチラとこっちの様子を窺っている。
どこの親父も一緒なのだなと思っていると、お盆を受け取ったル
イーズに﹁だから、父上は入ってくるなと言ってるだろ!﹂と、思
いっきり閉めだされていた。
﹁タケル、お茶だ⋮⋮﹂
﹁うん、ありがとう。⋮⋮ちょっと苦いな﹂
ルイーズから受け取ったお茶をもらって飲むと、やたらと濃い。
俺は濃いのも嫌いじゃないけど、これは渋すぎるぞ。家にメイド
がいないように見えたが、ジェローム卿は自分で淹れたのだろうか。
﹁うちは貴族はおろか、王族の客など招くような家じゃないからな。
父上は、茶っぱさえ大量に入れて濃くすれば上等だと考えているの
だろう﹂
﹁なるほど。なんか、ルイーズの親御さんらしい﹂
武骨な家柄ということなのだろう。
気が利かないなら、メイドを雇えばいいのに自分でやらないと気
が済まないのだな。
﹁タケル。私は、父と似ているだろうか﹂
2019
﹁そうだねえ、実の親子なら似てもおかしくないんじゃないかな﹂
父親に似ていると言われても、ルイーズは嫌がらない。父親への
対応は酷かったが、さほど嫌ってもいないらしい。
ジェローム卿も、ルイーズの前では情けないが、剣を振るう姿は
渋くてカッコ良かったからそう悪くない父親なのだろう。
父親の話をして、少し落ち着いたのか。
あまりにも渋いお茶を少しずつ飲みながら、ルイーズは静かに語
り出した。
とうりょう
﹁我がカールソン家は、シレジエ武家の棟梁だ。二百四十年の長き
に渡り、騎士として歴代の王家に仕えてきた﹂
﹁そうらしいね﹂
﹁父も、かつてはシレジエ最強の剣士として謳われた英雄だった。
その一人娘の私もまた、王家に仕える立派な騎士となるように教育
されてきた﹂
ルイーズは、俺の顔を見てフッと微笑む。
﹁それが大失態を起こして、仲間を失い、騎士団を追放された。家
からも勘当されて、全てを失ったときに出会ったのがお前だ﹂
﹁俺か﹂
ルイーズはコクンと頷く。
﹁タケルは、全てに絶望して諦めてしまった私に、新しい希望を見
せてくれた。シレジエの騎士道が腐りきっていたとしても、お前が
作る新しい国ならば、剣を奉じる価値があると思えた。お前もまた
2020
主君として、私に期待をかけてくれて、高い地位と最強の武具を与
えてくれた。思えば、私は調子に乗っていたのかもしれない⋮⋮﹂
﹁いや、そんなことはないぞ。ルイーズは、ちゃんと俺を助けてく
れただろう﹂
俺がそう言うと、ルイーズは悲しそうに頭を振る。
﹁だって負けてしまったから。あの戦闘で、タケルや私が死ななか
ったのは、たまたまアレが本気ではなかったからだ。私は弱かった、
タケルを守りきれなかった。アレの言うことが正しい。弱い私に何
の価値がある。少なくとも、タケルの騎士にはふさわしくなかった﹂
﹁ルイーズ、俺はな﹂
隣りに座っていた俺が身を乗り出して反論しようとすると。
ルイーズは拒絶するように、俺の胸に手を当てて押し戻した。
﹁私は、新しい時代に付いて行けない古い騎士だ。義勇軍の新しい
兵器にも、戦術にも対応できない。軽騎兵隊は、マリナの方が上手
く指揮できるし、私はもう用済みだ。団長も辞任しようと思う﹂
﹁⋮⋮辞めてどうするんだよ﹂
ルイーズが苦い顔をしているのは、渋いお茶のせいばかりではあ
るまい。
辞めるなんて彼女の本意ではないと信じたい。
﹁また冒険者として、武者修行の旅にでも出ようかな。あるいは、
父の言うように婿でも取って、家を継ぐのでもいいかもしれない。
もうどっちでもいい﹂
負けて逃げるなんて、ルイーズらしくないと思う。
2021
俺がルイーズに期待をかけすぎたことが重荷になってしまったし
まったのかもしれないとは思うが、だからこそこのまま放ってはお
けない。
﹁それがもしルイーズのやりたいことであれば、俺は止めないけど。
そうじゃないだろう﹂
俺だって、大人になっている。前なら、ルイーズに何も言えなか
っただろうが、今なら思ってることを語ることもできる。
俺はルイーズの手を取って、覗き込むように顔を見つめる。無理
やりにでも顔をあわせる。いつになく、弱々しいルイーズの手を手
をしっかりと握りしめる。
ルイーズの茜色の瞳を見つめる。いつもは眩いほどの意志の煌き
が、少し濁っている。俺が気が付かなかったのが悪いのだ。彼女は
ずっと悩んでいたのに、アレにこっ酷くやられたせいで、心まで弱
ってしまっていた。
このままにはしておけない。
﹁タケル、私は⋮⋮﹂
﹁誰が俺にふさわしいかなんて、俺が決める。弱いからなんだ、負
けたからなんなんだよ。ルイーズが辞めたいなら、辞めればいい。
だが、俺は絶対にルイーズを手放さないからな﹂
沈黙。
気恥ずかしすぎて死にそうだが、手を握りしめたままで絶対に眼
をそらさない。先に顔を背けたのは、ルイーズだった。よし、勝っ
た!
﹁ハァ⋮⋮言うようになったな、タケル﹂
2022
﹁ルイーズに鍛えられたからだよ。お前には俺が必要だ⋮⋮あっ、
ゴメン間違った。俺にはお前が必要だから!﹂
俺が肝心なところで言い間違えたので、ルイーズはキョトンと眼
を見開いて、やがて笑い出した。
恥ずかしかったが、ルイーズがそれで和らいだならそれでいい。
﹁アハハッ、確かに間違ってない。私にはタケルが必要だな。そう
とは思ってるよ﹂
﹁だったら側にいてくれ。地位が負担になってるなら編成は考える
し、騎士にふさわしいかなんて、どうでもいいから⋮⋮﹂
俺は、もう気恥ずかしさに耐えられない。ここが限界だ。
でも言いたいことは言えた。
﹁側にいてくれと、タケルから言われると気分が良いな。そんなこ
とを言ってくれたのは初めてじゃないか﹂
﹁そうだっけ、何度も助けてくれとは、言ってると思うけどなあ﹂
ルイーズは、﹁そういうことじゃないさ﹂と小さくつぶやくと。
まだ可笑しかったのか、フフッと笑った。
﹁そこまで求められては、しかたがない。じゃあ、ワガママを言わ
せてもらえれば、団長はそろそろ辞任させてもらうぞ。タケルの義
勇軍も、もはや義勇兵団なんて呼べるほど小さな規模ではなくなっ
てきている。新兵器のことが何もわからないお飾りの団長なんかト
ップに居ても、下が煙たがるだけだ﹂
﹁うん、まあそうか﹂
ルイーズがトップに立って見てくれているのは、俺としては安心
2023
できるのだが。
確かに義勇兵団も、シレジエ王領と、南部の地方貴族と、ゲルマ
ニア帝国領の三軍に分かれて戦っている状況だ。
そろそろ組織の編成を考え直すべき時期にはきている。
ルイーズの辞任も、致し方ない。
﹁その上で、私はタケルとどこまでも一緒に行こう。側にいてくれ
と言ったからには、責任取ってもらうぞ﹂
﹁ああ、もちろん⋮⋮﹂
そうかと思った。
ルイーズはもともと、俺の騎士がやりたかったんだものな。
それを、義勇兵団長という難しい地位で酷使して、便利に使い回
してしまったのは俺の失策だったかもしれない。
ルイーズだって、組織を統べろと言われればやれる。一軍の将だ
ってやれる力はある。だがそれは、彼女のやりたいこととはズレて
いたのかもしれない。
そんなことを考えていると、俺はそのまま、握っていた手を引か
れてベッドに押し倒された。
不意打ちだったので、びっくりした。そのままベッドで、首に手
を回される。
﹁しばらく、こうしていてもいいか﹂
﹁いいけど⋮⋮抱きしめられたら、手を出してしまうぞ﹂
そう言うと、ルイーズは途端に顔を強ばらせた。
軽い冗談のつもりだったんだけど、なんかシリアスな感じになっ
2024
てしまったと少し焦っていたら、ルイーズは、フルフルと肩を震わ
せて⋮⋮いきなり俺をギュッと抱きしめた。
マジ
うわ、これってもしかして本気で。
そう思った瞬間に、ルイーズはこらえ切れずにプハハッと吹き出
した。
なぜ、笑う。笑うシーンじゃないだろ。
﹁タケルに、私を襲う勇気があるとは思えないけど、手を出せるも
のなら出してもいいぞ。お前を抱いたのは、こうしておけば聞き耳
を立てている父上が、婿を取れとうるさく言わなくなると思っての
ことだよ﹂
﹁ああっ、そうか。お父さんが⋮⋮﹂
ルイーズもなかなか強かだ。
ジェローム卿は、ウロウロとずっと扉の前にいる。その気配を、
剣士として修練を積んでいる俺もルイーズも感じられる。
俺たちがわかるのだから、練達の騎士であるジェローム卿に、こ
ちらの気配がわからないはずもない。
こうしてルイーズと一緒にベッドに入って、王将軍のお手つきと
思わせておけば、ジェローム卿も婿を取れとはうるさく言わなくな
る。
⋮⋮という、解釈でいいんだよね?
そうルイーズに尋ねようと思ったが、やめた。
まだ可笑しいのか。俺の顔を柔らかい胸に押し付けるようにして
2025
抱きしめたままで、クスクスと思い出し笑いを続けている。
ルイーズの漏らす吐息がくすぐったい。こうして機嫌がよくなっ
たのだから、もうそれでいいと思った。
俺は、ルイーズがどっかに行かなければ、なんだっていいのだか
ら。
2026
159.ロールアウト
ロールアウト
﹁それで黒杉軍艦の進水式は、予定に間に合いそうなんだな﹂
﹁はい、一隻目は拿捕したガレオン船を元に造りましたので、思っ
たよりも手早くできそうです。二号船、三号船と切り出していただ
いた黒杉で造って行きますが、こっちはもう少しお時間をいただき
ます﹂
シェリーはライル先生の代わりに、辺り一面に書類が散乱してい
る執務室に篭城している。
先生が体調悪そうなので、兵站官としての仕事がこの娘に累積し
ているのだ。兵站は突き詰めると数学なので、シェリーほど適した
人材はいない。武官もそうだが、文官も不足している。
ただでさえ忙しいシェリーに無理を言って申し訳ないが。
カスティリアの無敵艦隊に攻められているブリタニアンへの救援
と言っても、船がなければどうしようもない。
本当なら一隻でも多く欲しいところなのだが、贅沢は言えないよ
な。
船の建造は、時間がかかる。現在うちが使えるまともな母港と造
船所はたった一つ。アメリカ軍じゃあるまいし、月刊空母とか夢の
また夢である。
シレジエ海軍は、他に大砲で武装したキャラック船。それにコッ
グ船が二隻。いまは、自治都市アスロに向けて食糧の輸送に延々と
従事している。
そろそろスウェー半島の飢餓も落ち着きそうなので、そっちも戦
2027
争に駆り出すとして、アスロからもコッグ船か小型のガレー船ぐら
いは何隻か供出させられるかもしれない。
それでも無敵艦隊相手に大海戦をやらかすには、無理がある。
数を揃えるにも策があるが、それまでの時間稼ぎも考える必要が
ある。療養しているライル先生に心配かけないように、俺も気張っ
て見せよう。
﹁シェリー。新型の炸裂弾があったよな﹂
﹁えっと、実地テストを始めた段階で⋮⋮安全性の問題があります﹂
炸裂弾。つまりただの鉄の弾ではなく、弾の中に火薬が入ってい
て着弾時に炸裂する近代的な弾を作らせてみたのだ。
しかし、とりあえず形だけ作っては見たものの加工が難しく、不
発弾になったり逆に中の火薬に引火して暴発したりする危険性が高
い欠陥兵器になっている。
﹁テストも実戦でやってみよう。安心しろ今回は大砲に詰めて使う
んじゃなくて、直接使うから﹂
﹁直接ですか?﹂
﹁うんまあちょっと考えがある。爆弾の供給は海軍優先で、できる
限り多くかき集めてスケベニンゲンの港まで運んでおいてくれ﹂
﹁ご命令ならば、弾も火薬も必要なだけ送ります。お兄様がエレオ
ノラ公姫と結婚してくれたおかげで、資金面の問題が解消されまし
たからね﹂
﹁もしかして、アムマイン家の資金も製造工場の建設に使ってるの
か﹂
2028
俺が呆れると、シェリーはお兄様グッジョブと親指を立てた。
本当に手段を選ばないな。
﹁困ったときは嫁の実家の金蔵も開けろ! といいますからね﹂
﹁どんな、酷いことわざだ。押し込み強盗みたいだな﹂
﹁なあに投資ですよ投資。ちょっとでも金を出させたらこっちの勝
ちです。あとはどれだけでも引き出せるので、当面の資金問題は解
決です。もともと技術力の高い国ですから、ラインさえできてしま
えば増産は容易いです。ご支援いただいたエメハルト公爵にも、あ
とでしっかりバックはありますから心配しなくていいですよ﹂
﹁本当だろうな⋮⋮﹂
まあ、新型の船や火薬製造は先々需要も見込めるか。
財布に余裕がないのだ。こうなったらランクト公にも一蓮托生に
なってもらうしかない。
﹁といったわけで、弾薬に不足はありません。しかし、海軍に供給
を集中させるとなると、正統ゲルマニア帝国軍の兵站支援のほうが
弱まりますが﹂
ちょっと考えるが⋮⋮そっちはもう、ダイソンの脅威がないから
大丈夫だろう。
新ゲルマニア帝国には、もはや指導者もおらず、騎士も魔術師も
居ない。要塞街ダンブルグにヘルマンに兵を付けて戻してやったし、
あとは、マインツ大将軍にやりくりを任せて掃討戦をがんばっても
らおう。
﹁かまわない、戦術物資の供給は海軍優先で頼む﹂
﹁了解しました﹂
2029
シェリーの報告が終わったようなので、俺は立ち去ろうとすると、
ギュッとシャツの裾を掴まれた。
﹁どうした、まだなにか報告があったか﹂
﹁船ができたご褒美は、いただけないんですか﹂
あれっ、そんな約束してたっけ。
どっちかといえば、船が出来たのは船大工が頑張ったおかげのよ
うに思えるのだが、それを言うと今のシェリーはめちゃくちゃ頑張
ってるので、そりゃ褒美はあってもいいよな。
銀色の髪がボサボサになっているシェリーは本当に忙しそうだか
ら、邪魔しちゃいけないと思ったから言わなかったんだが、そうい
う発想をする俺も少し余裕がなくなってるかもしれない。戦時とは
いえ、たまには休憩が必要だよな。
ご褒美をくれ⋮⋮と言われても、特には思いつかない。
﹁シェリー、一緒に風呂でも入るか﹂
﹁はい喜んで﹂
とりあえず、髪でも洗ってやることにしよう。
シェリーは、どこぞのドワーフ娘のように風呂嫌いってわけでは
ないのだが、身の回りのことに無頓着すぎる。忙しくなると風呂に
入らなくなるから、機会を見て誘ってやらないといけない。
※※※
﹁うーん﹂
﹁どうしましたか、お兄様﹂
2030
子供の成長は早い。ほんの少し見ない間に、シェリーはまた大き
くなったような気がする。
具体的にどこがと言うと、背丈が少しと胸辺りの女性らしさを増
した。まだシルエットと一緒のサイズぐらいなのに、大人のシルエ
ットよりはるかに胸がある。
というか、シルエットに胸がなさすぎるのか。
なんか、悲しくなってきた。
﹁あんまり失礼なことを考えていると、温厚な女王陛下も怒ります
よ﹂
﹁シェリー。お前、読心術まで使えるようになったのか﹂
心の声を読み取られたかとびっくりした。
そんな魔法あったっけ。
かま
﹁半分は鎌かけです。昨晩は、久しぶりにシルエット女王陛下と睦
まじくお過ごしになられていたようですから。お兄様は、女性のこ
とを想起するときに左上に視点が行きます。以上のことから、私と
陛下の胸のサイズを比べているのだと推測しました﹂
﹁視点の動きだけでそこまで心理を読み取ったのか、名探偵シェリ
ーと名乗ってもいいぞ。あっ、でもなんで後宮のことをお前が知っ
ている﹂
後宮は、限られたメンバーしか入れない。
お風呂に限っては、開いている時間帯に許可制で、奴隷少女やメ
イドにも使わせてやるように言ってある。
しかし、後宮の奥の間はプライベート空間で、いくら重用されて
2031
いる奴隷少女のシェリーでも立ち入れないはずだ。
通いのメイドですら立ち入りを制限されてるから、シャロンが自
らベッドメイキングしてるほどなのだ。
﹁女の子はみんな噂好きですから、お兄様の夜の相手を誰がしたと
か、ステリアーナさんかオラクルさんがそれとなく話せば、爆発的
に広がっちゃいますよ﹂
﹁なるほど﹂
なんというこっ恥ずかしさ。
俺の情事は、王城の方にも筒抜けになってるんだな。リアとオラ
クルあとでシメる。
﹁情報の収集と分析は、私の仕事の一つです﹂
﹁頼もしすぎるな、わかったからさっさと風呂に入ってしまおう﹂
シェリー相手に隠し事はできないんだな。
どうせ、小さい女の子から女性になりかけてるシェリーと風呂に
入るのは、だんだん抵抗が出てきたなーとか。
俺が憂慮してることも、みんなお見通しなのだろう。
張り合いがあるんだか、ないんだか。もう気にするのが面倒にな
ってきた。難しいことを考えるのは、あとにして風呂でリラックス
しよう。
※※※
﹁今日は静かだな﹂
﹁そうなるように、手は打ってありますからね﹂
2032
シェリーの柔らかいシルバーブロンドの髪を、石鹸を泡立てて綺
麗に洗ってやりながら話をする。
俺は、奴隷少女たちの髪を洗ってやるのが結構好きだ。銀とか、
金とか、赤銅とか、珍しい髪色をたくさん見ることができる。
シェリーが考えた﹃清掃中﹄の立て札は、しっかりと人避けにな
っている。
こんなに簡単に、お風呂場でばったりと他の女の子が入ってくる
ありがちな展開を回避できるとは、やはり天才か⋮⋮と思わざる得
ない。
こんなことも思いつかなかった、俺が凡才か⋮⋮とも思わなくも
ないが。
そんな感じで、すっかり油断していたので、湯船にいつの間にか
お客さんが入り込んでいたのに気が付かなかった。
ふっと振り向いて、おやっと思ってから。
二度見してようやくそこにアレが居るのに気がついて、変な声が
出てしまった。
﹁うわぁ!﹂
﹁えっ、なんですかお兄様怖いです﹂
頭が泡だらけになっているので、目をつぶっているシェリーが怖
がってる。
﹁いや、大丈夫だ。なんか変な人がお風呂に入ってただけで﹂
﹁変な人とは、ご挨拶ダナ﹂
ドラゴンメイド
竜乙女のアレ。青いセミロングの髪のせいだろうか、お湯の中に
2033
浸かっていたので、湯気で気が付かなかった。
いや、やっぱり気が付かなかったのはおかしいな。青い髪からは
ニョキッと黒褐色の竜角が突き出てるし、たたまれているとはいえ
大きなドラゴンの羽も生えている。
彼女は、竜形拳という謎の中国武術⋮⋮というのはないか。この
世界は中国がないから、まあとにかく﹃古き者﹄竜神が開祖の武術
を使う、卓越した武闘家でもある。
俺がのんびりシェリーの髪を洗っている間に、気配を消してそろ
っと入ってきたのだろう。
アレの太い手足には、竜のゴツゴツした鱗が付いているので、ズ
シンズシン音がしそうなのだが、不思議とまったく音がしない。
技巧ゆえなのか、生物的に忍び足ができる猫のような仕組みがあ
るのか、今度ゆっくり見せてもらいたいものだ。
シェリーを怖がらせては困るので、俺はさっさとお湯を汲んで泡
を流してやった。
眼が開けられるようになった、シェリーはすぐアレに文句を言い
に行った。
﹁清掃中の看板を見なかったんですか!﹂
ドラゴンの角やら羽やら手足やらがついているアレは普通の人に
怖がられているのだが、シェリーは物怖じしない。
アレのほうも、子供が何を言っても何とも思わないようで、歯牙
にもかけない。
﹁看板は見たが、匂いで勇者が居ると分かったのダ﹂
﹁匂いって、俺そんなに臭いか﹂
2034
俺は思わず、自分の腕の匂いを嗅いでしまう。
石鹸の匂いしかしないが、竜乙女のような種族は匂いに敏感なの
かもしれない。
﹁お兄様は臭くないですよ、お父さんみたいな安心できる匂いがし
ます﹂
﹁いや、シェリーそれフォローになってない﹂
ため息混じりにつぶやくと、シェリーは抱きついてきた。俺の首
筋に、鼻を押し付けてくる。誤魔化された感がある。
シェリーの親父って、身を持ち崩したギャンブラーじゃなかった
っけ⋮⋮。
俺まだハタチなんだけど、お父さんの匂いってなあ。
少なくとも王城にいるときは、毎日お風呂入ってるんだけど。
﹁勇者は悪い匂いではないゾ、血と硝煙に満ちた香りがするのダ﹂
﹁ハードボイルドかよ、血の匂いが取れてないとか、めっちゃ嫌じ
ゃねえか﹂
血塗られた手の汚れが落ちないとか、文学的な表現だ。
石鹸で綺麗に洗えば、落ちるはずなんだけど、竜乙女は微粒子レ
ベルに残った匂いを感じるのかもな。
﹁珍しいことをしているので観察していたのだが、見つかってしま
ってはしょうがない。そっちに行ってもイイカ﹂
﹁珍しい? ちょっと、こっちに来るなよ﹂
ザバッと、アレは湯船から立ち上がって、こっちに歩いてくる。
2035
珍しいと言ったのは、おそらく石鹸で洗っていることであろうと
気づく。あまりにもあっさりと馴染んでいたが、アレにとってもお
風呂は珍しいのかもしれない。
まと
一糸纏わぬ姿なので、アレの豊満な胸が揺れている。かなりの巨
乳だ。
つや
リアほどではないが、カロリーン公女ほどの大きさで、先がツン
と上を向いていてとても張りと艶がある。
シャープに引き締まったお腹と、安産型の柔らかそうな臀部。目
を背けるのも忘れて、思わず見とれてしまう肉体美だった。
髪の毛と一緒で、下の毛も天然の青色。異世界の種族とは、不思
議な生き物だなと感じてしまう。
おぞましい青竜の角、翼、太い手足と、輝くばかりの健康的な美
少女の身体とのアンバランスが、なんとも奇妙な、それでいて自然
ファンタジー
な造形美を生み出している。
一目見て、幻想でしかあり得ない光景だなと感動するのだ。
堂々と裸体を惜しみなく見せていたくせに、俺がジッと眺めてい
たら。
アレは意外にも、恥ずかしそうに顔を赤らめて、大きな手で胸を
覆い隠した。
﹁なんだ、平然としてたが、やっぱり恥ずかしいのか﹂
あまりにも超然とし過ぎているので、少し安心したぐらいだ。
普通の女の子らしい恥じらいもあるんだなと。
ぶかっこう
﹁うん、あんまり見ないで。アレの身体は、ちょっと不格好ダロ﹂
2036
﹁んっ? なにが不格好だ。もしかして胸のことを言ってるのか﹂
胸を手で隠すアレを見ると、そう言っているようにしか見えない。
コクンと頷くので、やっぱりそうなのか。完璧なプロポーション
にみえるのだが。
﹁でっかい肉をぶら下げて、飛ぶにも戦うにも邪魔だろうと、仲間
によくバカにされたゾ。私が島で最強の戦士になってからは、言わ
れなくなったけど⋮⋮﹂
﹁うーん﹂
何といってやるべきか。
シルエット
基本的には、胸は大きいほうが良いと思うんだけど、それを言う
と俺の嫁を否定してしまうことにもなる。
﹁勇者は、胸の大きい女は嫌いカ﹂
リア
好きだけど、女性を胸で判断するのはいけないことだな。
逆に巨乳を否定すると、それはまた俺の嫁を否定してしまうこと
になりかねないわけで、なんとも悩ましい問題なのだ。
﹁良いんじゃないか、胸は子供に乳を与えるものだろう。大きいほ
うがなにかと良いに違いない﹂
どちらとも言えないので、好き嫌いへの明言は避けて、意図的に
話をズラして肯定的に答える。
政治家の手口である。俺も為政者の端くれだからな。
﹁そうか、じゃあ良かったゾ﹂
2037
アレは、大きな青い鱗のついた手で覆い隠すのを止めて、胸を見
ろとばかりに突き上げてきた。
いや、良かったじゃねえよ。隠しておいては欲しかったのだが。
羞恥心を感じる意味合いがズレている。文化の違いか。
まあいい、見せ付けたければ見せつけろ。いまさら騒いでもしか
たがない。うちもけっこう、混浴文化だしな。
俺が、今日に限って余裕なのには理由がある。
昨晩のことだ、たっぷりとシルエットと夫婦の営みをしたあとに、
カロリーンの強襲を受けて朝までたっぷりと搾り取られた。
オラクル
いつものパターンではあるのだが、二人ともかなり本気だった。
性の専門家によると、シャロンも懐妊の兆候があるということな
ので、シレジエの後宮にいる俺の嫁で、まだ子供が出来てないのは、
彼女たち二人だけだ。
王女と公女、国を背負ってる二人が﹃夜の出来レース﹄に遅れを
とったままでは問題があるのだろう。
真剣に迫られて、まさか断るわけにもいかず、朝まで死力を振り
絞った。
なので、俺は余裕がある。
今に限って言えば、美少女だろうが、美巨乳だろうが、嫁以外の
身体では反応しないと言い切れる。
﹁その泡の出るやつで、私も洗ってくれると嬉しいゾ﹂
﹁⋮⋮まあいいだろう、今日だけだからな﹂
アレは最初、自分で石鹸を泡立てようとしてたのだが、やっぱり
2038
竜の鱗のついた大きな手では、上手く泡立てられない様子。竜乙女
とは、なんとも難儀な種族だと、横目で呆れて見ていたのだ。
それで顔や身体を洗うのは、難しそうだったので、俺が洗ってや
ることにした。
﹁じゃあ、俺はアレの髪を洗うから、シェリーは身体を洗ってやっ
てくれ﹂
﹁えー! 今日は私のご褒美じゃないんですか﹂
それはそうだけど、俺が身体を洗うわけにはいかんだろう。
﹁ご褒美は、あとでまとめて払うから手伝ってくれ﹂
﹁しょうがないですねえ、お兄様は⋮⋮﹂
なんだかんだ言いながら、シェリーも面倒見が良いほうだ。
いそいそと小さいタオルを泡立てて、アレの身体を洗い始めた。
﹁それにしても、立派な角だな﹂
アレの青色の髪から生えている二本の竜角。
大丈夫だろうかと思いつつ、石鹸でゴシゴシ洗ってやるけど、黒
褐色で太くてたくましくて、とても大きいです⋮⋮。
﹁だろう、大きな竜角は、私の自慢できる数少ない部分ダ﹂
﹁ふうん﹂
もっと他に、自慢できるところがいくらでもあろうだろうと思い
ドラゴンメイド
ながら、泡で滑らかになった青髪を手で梳いてやる。
シェリーが、竜乙女は、角や翼が大きければ大きいほど高く評価
されるのだと解説してくれた。
2039
﹁お兄様、アレさんに結婚しないかと誘われませんでしたか﹂
﹁それなんだよ、よく分かったな﹂
シェリーの推理力が炸裂する。
王都前での戦闘には参加してなかったのに、見てきたように指摘
するな。
ドラゴンメイド
﹁竜乙女は女しか生まれないので、繁殖のために婿を欲しているの
です。アレさんが出てきたのも、良質の相手を探すためです。あと
は、分かりますよね﹂
﹁なるほどな、理解した﹂
シェリーは、先生の書斎の図鑑を全部読んでるからか、竜乙女の
生態にとても詳しいようだ。
いい大人の俺が、妹に負けているのは情けない。俺ももっと勉強
すべきだな。
﹁よし、流すぞ﹂
﹁勇者、どうだろう。私の身体は⋮⋮﹂
なにいってんだアレは、と思いつつ、お湯で流してやる。
これからシェリーに、ご褒美をやらなきゃならないのだが、いま
さら追い出すのも可哀想なので、おとなしく風呂に入るなら居るこ
とを許そう。
﹁ほら、終わったからもう湯船で温まっておけ﹂
﹁なあ、勇者タケル、私を欲しくはないか。もし、そうならいいの
だゾ﹂
2040
それこの前、断っただろ。擦り寄って来られても、知らんよ。
入らないなら、もう知らない。勝手にしておけばいい。
﹁シェリー、入るぞ﹂
﹁あっ、はいお兄様!﹂
すでに身体を洗っているというのに、きちんとかけ湯するシェリ
ーはいい子である。
俺は、アレにさっき、かけ湯をせず入ったことを注意しておく。
マナーは最初にきちんと教えておくのが大事だからな。
湯船に入ると、俺はとてもリラックスする。
すぐシェリーがスルッと、当然のように膝の上に乗ってくるが、
いつものことなので気にしないことにする。
それよりアレだ、かけ湯を覚えたのは偉いけど、入ってきたら当
然の権利のように擦り寄ってくる。
お前まだ出会ったばかりだろ、何でそんなに自然なんだよ。
﹁こんなに女が誘っても、勇者はつれないのダ﹂
﹁そうだな、俺はつれない。もう既婚者だからな!﹂
リアルファンタジー
ちょっと可哀想だけど。俺も、酷幻想で色々と学習したからな。
この手の誘いに乗りまくってたら、切りがないことが分かった。
どこかで、明確なラインを引くべきなのだ。
こうやって、アレが思わせぶりに近づいてくる理由も、シェリー
が教えてくれたおかげで、ちゃんと分かっている。
俺は、これ以上、絶対に嫁は増やさないと決めたのだ。
2041
﹁勇者にすでに嫁がいるのは知ってるゾ。竜乙女は、重婚もオーケ
ーだからその点は問題ないのダ﹂
﹁いや、こっちサイドに問題があるんだよ﹂
だから、背中に大きな胸を押し付けてこられても絶対になびかな
い。
絶対に、絶対に⋮⋮。
怒涛のおっぱい攻勢に、俺が難儀しているのを見かねたのか、シ
ェリーが口添えしてくれた。
﹁ちょっと、アレさん。あんまりお兄様を誘惑しないでください!﹂
﹁なんだ、ちびっ子には関係ないゾ﹂
そういうアレに向かって、シェリーはバシャッと湯船で立ち上が
って噛み付いた。
小柄なシェリーは、そうやって背伸びしてようやく湯船に浸かっ
ているアレと同目線なのだが一歩も引かない。
﹁関係大ありです。いいですか、この城にお兄様の奥さんが六人居
るのは知ってますよね﹂
アレがコクンと頷く。
﹁ランクト公国のエレオノラ公姫も奥さんなんです。これで七人目
ですが、これで終わりではありませ。サラ代将や、私たち奴隷少女
の中にも希望者はたくさんいます、お兄様との結婚予定は、順番待
ちの状態なんですよ!﹂
﹁そ、そうなのか⋮⋮勇者はモテモテなんだゾ﹂
2042
アレが愕然としている。
本人の俺が驚いてるんだから当たり前だ。
ダブルアップ
﹁私たちも、あと何年かすれば成人に達しますからね。算術級数的
に嫁が倍増する計画です。それに合わせて、後宮も増築の予算を組
んでるところなんです。みんなが順番待ちしてるところを、勝手に
横から割り込まれも困ります。アレさんもお兄様との結婚をご希望
なら、整理券を取って列の後ろに並んでください﹂
﹁コホン、そういうことだ。残念だったなアレ﹂
しん
たぶんシェリーは、アレを諦めさせるために一芝居打ってくれた
ぴょうせい
のだろう。嘘をつくなら、ここまで大げさに言っておけば返って信
憑性が出てくるというわけだ。
さすが、シェリーは頼りになる。
アレは、少し意気消沈気味に肩を落とし、考え込んだ様子だった。
そんなの関係ないと言い出すかと思いきや、論破されたらおとな
しくなってくれた。
アレは、凶暴な見た目のイメージより話が通じるタイプなのかも
しれないね。
これなら、俺の護衛として置いておいても、トラブルにはならな
いかもしれない。
﹁じゃあ、結婚はあとにして、とりあえず勇者と身体だけ結ばれる
ならかまわないだろう。一回ぐらい減るもんじゃないし、良いゾ﹂
アレは、しばらく熟考して思いついたように、ポツリとつぶやい
た。
なんで精一杯妥協してみましたみたいな言い方なんだよ。何がと
2043
は言わないが、ちゃんと減るし!
﹁それって単なる浮気だろ。ダメに決まってる﹂
﹁浮気はダメ⋮⋮﹂
やっぱり、アレは勝手をさせたらトラブルの元になりそうだ。
何らかの方法で、首輪をつけておかないと危険だな。
しかし、アレは俺どころか、うちで最強のルイーズよりも強いん
だよな。
厄介なものを抱え込んでしまったかもしれない。
2044
160.出立
﹁ねえお兄様、そろそろご褒美をいただくわけには﹂
﹁そのことなんだが、もう茹だってきてるから止めにして上がろう﹂
シェリーと文字通り水入らずで風呂に入ったまでは良かったが、
アレの邪魔が入ったからゆっくりできなかった。
もう風呂に浸かり過ぎた。今から湯船で騒ぐと、のぼせてしまう
かもしれない。
﹁そんなあ﹂
シェリーは口を尖らせている。
なんだか彼女の要求レベルがどんどんアップしてきているので、
誤魔化したい気分もある。
﹁その代わり、今日は後宮のベッドに寝させてやるぞ。前から泊ま
ってみたいって言ってただろう﹂
妻の夜の相手をするのも俺の仕事のうちなのだが、今日はさすが
に疲れたので休ませてもらおうと思っていたのだ。
後宮とはいえ、ただ寝るだけなら色事にはならないだろう。
﹁本当ですか! 寝させてはやるけどお兄様は隣にいないとか、つ
まらないオチをやったらさすがに私でも怒りますよ﹂
﹁いや、もちろん一緒に寝るよ﹂
シェリーは鋭い。俺の顔色を読んだのか。
2045
一緒に寝ないってことはないが、誰か他にも呼んで誤魔化しとこ
うかとは一瞬思ったのは確かだ。
﹁一緒に寝るってことは、スリスリもありですよね﹂
﹁ああっ、まあご褒美だから最大限の要望には答えてやろうとは思
うが⋮⋮﹂
内心でなんだそりゃと思っていると、シェリーが身体を擦り寄せ
てくるのでそういうことかと分かる。
その程度ならいいだろう。
﹁もしかして、モニュモニュもありだったりしますか﹂
﹁いいけど、後もう一つ付き合って欲しい用事があるんだが﹂
モニュモニュってのはなんだと思うが、聞くのがなぜかはばから
れる。﹁モニュモニュもありですかーっ﹂とシェリーは頬を赤らめ
ている。
好きにすればいいが、はしゃぎ過ぎて睡眠不足にさせたらマズイ
かもしれない。
シェリーに上がるぞと声をかけて、風呂を出て新しい服に着替え
させてやる。
当然のように、バッサバッサ羽を羽ばたかせながらアレが付いて
きたが、後宮に入るのは遠慮するように言う。アレは、メイドや城
の衛視に怖がられているために誰も文句が言えず、後宮へもフリー
パスで入ってこられてしまうから、注意しないと。
しかし、そう考えると竜乙女やらホモ大司教やらは、フリーパス
になってしまってるんだな。
うちの後宮の警備体制、けっこうガバガバなんじゃないか⋮⋮。
2046
﹁まあいいゾ、勇者が次の戦に行くときは声をかけてくれ。旅にず
っと付いていけばいくらでも既成事実化するチャンスはあるはずだ
からナ﹂
﹁俺の護衛を買ってでてくれるのはありがたいけど、そんなチャン
スはないからな﹂
浮気はご法度である。
もう妻が七人もいて、浮気もクソも無くなってきてるような気が
するんだが、それでもちゃんとラインは引いておかないといけない。
ガバガバの警備体制でも、ないよりはあったほうがいいのだ。
﹁あの、お兄様。私に頼みたい用事って﹂
﹁ああそのことなんだが、まあ風呂上りに涼むつもりで、ちょっと
付き合ってくれ﹂
俺はシェリーを連れて、そのまま後宮の奥にある外葉離宮まで歩
いて行く。
﹁ここは、ゲルマニアの皇帝陛下と皇孫女殿下が住まわれているお
屋敷ですね﹂
﹁そうだ。シェリーは、今後ここも出入り自由にしてやるから、た
まにエリザベートの様子を見てやって欲しいんだ﹂
エリザの遊び相手。
考えてみたんだが、最初はシェリーあたりが適任ではないだろう
か。
もちろん、遊び相手になってほしいなんて言わない。
2047
シェリーは十三歳で、エリザよりは五歳も年上だからお姉さんと
して接してくれればちょうどいいだろう。二人とも歳よりも聡明で、
大人をやることを回りに強いられてるって立場が似てるから話が合
うかもしれない。
﹁そうですか、エリザベート殿下⋮⋮。確かに、妹ポジションが被
らないように調整しておく必要はありますね﹂
﹁いや、そういう話じゃなくて純粋に遊び相手をだな⋮⋮って、弦
楽器の音が聞こえるなあと思ったら、何をやってるんだツィター﹂
外葉離宮にある本当に小さな小池に、無理やり大きなボートを浮
かべてノーテンキ宮廷楽士が、満面の笑みで勇壮な行進曲を掻き鳴
らしていた。
二十四歳なのに容姿も言動も小娘にしか見えない、蜂蜜色の長い
巻き髪のツィターである。
﹁はい、詩想が浮かんだもので﹂
﹁詩想は分かるが、ボートを浮かべるのが分からない﹂
どっから持ってきたんだこのボート。
﹁すみません、すみませんタケル様! ツィターがどうしてもとい
うので⋮⋮﹂
﹁いや、いいんだよエリザ。遊びたいなら好きにして構わないんだ
が、八歳の子供に申し訳なさそうな顔させてるんじゃねえよツィタ
ー!﹂
ツィターがまず謝れよ。許してやるから。
﹁だって詩想が浮かんだら、しょうがないじゃないですか! こう
2048
いう曲のイメージなんですよ。それより池が小さすぎます。本来な
らセイレーン海を勇者様の艦隊が勇壮に進むシーンなんですううー
っ!﹂
﹁逆ギレして、さらに注文とか⋮⋮お前すごいな﹂
ツィターは、ジャーンと弦楽器をかき鳴らした。
その音を合図に、ボートは向こう岸にまで流れていく。どういう
仕掛けかと思ったら、エリザが音に合わせてふうふう言いながらロ
ープを引っ張っているだけだった。
ツィター、マジでお前、皇孫女殿下になにをやらせてるんだよ。
決死隊に参加して帝城に救出しに行ったほどの忠臣だったのに、
どうしてこうなった。
﹁おいおい、どこに行くつもりだ。戻って来い⋮⋮﹂
戻ってこないので、慌てて向こう岸に回りこむ。
詩想が降りてきているらしいツィターには、もう話が通用しなか
った。あーでもないこーでもないと言いながら、ジャンジャン弦楽
器を掻き鳴らしているだけだ。勇壮な曲はいいけど、客を出迎えろ
よ宮廷楽士。
﹁とりあえず、エリザ。紹介したい人がいるから降りてきて﹂
﹁はい⋮⋮毎回うちの楽士がすみません﹂
いや、エリザは悪くないから謝らなくていいが、部下の扱いをも
うちょっと考えたほうがいいんじゃないだろうか。
ツィターは、正統ゲルマニア帝国の宮廷楽士なので、俺が文句言
う筋合いでもないからな。
2049
﹁まあいいや、音楽バカは放っておこう。えっとこの子はシェリー
だ。うちの奴隷少女なんだが⋮⋮﹂
﹁お兄様の妹をさせていただいております、エリザベート皇孫女殿
下。どうぞお見知りおきください﹂
シェリーは、スカートの裾を持ちあげて足を折って作法通りの会
釈をする。聡明な彼女は、宮廷儀礼もひと通り覚えているのだ。
折り目正しい皇孫女殿下の相手をさせるには、ちょうどいいと思
う。
﹁タケル様には、妹君がおいでになられたのですね。でも、奴隷少
女?﹂
﹁えっとそうだなシェリーは、俺の奴隷少女でもあり、城の財務官
でもあり、義理の妹みたいなものだ﹂
いつの間にか、シェリーが妹設定になっているのをどう説明した
らいいのか迷う。
俺も何でこんなふうになっているのか、よく分からないのだ。戯
れのつもりでシェリーを妹と呼んでいるうちに、いつの間にか城で
も公式設定化されてしまった感がある。
数学的な天才であるシェリーは、この歳で城の財務官として精力
的に働いている。
ライル先生に仕えている改革派の官僚とも予算折衝で渡り合わな
いといけないので、俺の妹という立場を上手く利用しているのだ。
チート
義理とはいえ俺の妹となれば、箔がつく。
シェリーは聡明なので、ニコラ宰相を篭絡したり俺の妹というポ
ジションを確保して発言力の強化に努めているわけである。
2050
﹁タケル様の妹なら、シェリーさんは私にとっても妹みたいなもの
ですね﹂
﹁いや、そこはお姉さんだろ年齢的に考えて﹂
エリザもたまに言うことがよく分からない。
シェリーも、そう言われて﹁私はお兄様の妹ですが、エリザ様は
姉になるのかな⋮⋮えっ、でもこの場合はどっちになるんだろ。順
番なのかな、それとも年齢⋮⋮﹂とかブツブツとつぶやいている。
子供の言うことだから、深い意味はないと思うぞ。
シンプルに姉でいいぞ姉で。
﹁まあ、今日は顔合わせだ。退屈してるだろうから、うちの城の人
間とも多少は話したりするといいと思ってな﹂
﹁それでしたら、たまにタケル様の奥様方が遊びに来て下さいます
よ﹂
﹁そうなのか、シャロンにそれとなく気にしてくれるようには頼ん
でおいたからな﹂
﹁面白い方ばかりですよね。特にステリアーナ様とか﹂
﹁あっ、リアとはあまり親しくしないで欲しい﹂
﹁そうなのですか。ステリアーナ様は特に色々と珍しいお話をして
くださるのですが﹂
だからそれがマズイのだ。リアに、エリザまでが汚染されてしま
う。あれは情操教育の妨げになる存在だ。純粋だったシェリーも、
リアの影響で妹だのなんだの言い始めたからな。
それで壁が取れて、仲良くなれるのはいいのだが程度の問題だろ
う。そして、リアのやつは程度を遥かに越えていくから困る。
2051
﹁まあ、シェリーもたまに顔を出すし、いつも仕事で城にいるから
気が向いたら会ってやってくれ﹂
﹁ええ喜んで、行かせていただきます﹂
エリザは、子供らしくない畏まった態度でそう言った。
たまには歳相応にはしゃげばいいのに、と思って後ろを見る。
ツィターは、詩の女神が降りてきたらしくボートの縁に片足を乗
せてジャンカジャンカ弦楽器をかき鳴らしている。
あまり調子に乗りすぎて、ボートから転げ落ちそうになって転け
た。﹁ぐほっ﹂とうめき声を上げながら、それでもまだ手を止めず
に、威風堂々たる弦楽器のメロディーが続いているのがすごい。
エリザとツィターは、足してニで割ると良かったのにな⋮⋮。
一心不乱に音楽のこと以外何も考えていないツィターは、もう無
邪気とかそういうレベルではないが。
﹁そうだ、親睦を深めるという意味で、エリザ様もお泊まり会に来
ますか﹂
しばらくエリザと親しげに話していたシェリーがそんなことを言
い始めた。
あんなに後宮に泊まるのを楽しみにしてたのに、エリザも一緒に
誘ってやるとか最大限の歓待だな。
﹁お泊まり会ですか﹂
﹁ええ、今日は後宮のベッドで一晩お兄様を自由にできるのですよ。
エリザ様もご一緒にいかがですか。今回だけ特別にご招待して差し
上げます﹂
2052
そう聞いて、エリザは顔を耳元まで真っ赤にさせている。
なんか、変な勘違いがあるようだな。
﹁こ、後宮ですか⋮⋮。ちょっと自信がありません。まだ私たちに
は少し早いのではないですか﹂
﹁ご心配は無用です。今回の催しは、ビギナーの方にも安心なソフ
トな感じに行こうと思っております﹂
何の話だ。
急に小声になり、二人でゴニョゴニョと話しだした。まあ、仲良
くなったんだからいいかとも思う。
手持ち無沙汰になった俺は、ツィターが奏で続ける音楽に聞き入
っていた。
ゲルマニア出身のせいだろうか、威風堂々と言ったが弦楽器だけ
で勇壮さを感じさせる弾き語りは、ワーグナーのワルキューレの騎
行にちょっと似てる。
俺は、クラシックにはあまり詳しくないけど。
メロウな曲からハイテンションな曲まで幅広いレパートリーを誇
り、俺の知ってる歴史上の名曲に近い旋律を即興で引いてみせるん
だから、やっぱりツィターはすごい音楽家なんだろう。
チート
皇孫女に気を使わせるあたり、どうしようもなく宮廷楽士には向
いていないけど。
ツィターも一種の天才ではあるのかもしれない。その才能が、何
の役にも立ってないあたりがご愛嬌。
自分の才能がどうなのかなんて気にもしていないであろうツィタ
2053
オンステージ
ーは、小池に浮かぶボートの上で一心不乱に蜂蜜色の髪をかき乱し
ながら、俺しか聞いていない音楽会を延々と繰り広げる。
楽器さえ弾ければ本人は幸せそうなので、この娘はこれでいいん
だろうな。
※※※
夜になり、後宮で眠る時間になった。
さっきまで金箔が煌く大きなシャンデリアや、金縁の付け柱など
が珍しいのか二人で﹁いい仕事ですね﹂﹁こういうのは帝城にもあ
りません﹂などと見上げてはしゃいでいたが。
一緒に床に付こうという段になって、女の子は準備があるからと
なぜか俺一人でベッドで待ってろと言われた。
何のサプライズかと苦笑してしまうが、シェリーと楽しそうに耳
打ちして相談しているエリザは微笑ましかったので好きにさせるこ
とにした。
どうせシェリーへのご褒美のつもりなのだから、何にでも付き合
ってやるつもりだ。
⋮⋮と思っていたのだが、シャンデリアに照らされた明かりの下
に出てきたシェリーとエリザの姿を見て、俺は叫んだ。
﹁シェリー、お前なんてものを付けてきてるんだよ!﹂
シェリーとエリザは下着姿だった。
普通の下着ではない、そのなんというか⋮⋮カロリーンとかリア
が盛り上がったときに身に着けてくる、アーサマ教会にある薄い本
を参考にした、その⋮⋮。
2054
﹁エッチな下着ですが、いかがですかお兄様﹂
﹁いかがですかじゃねえよ!﹂
俺には、シェリーはまだ子供にしか見えないが、綺麗に装えば神
秘的な美少女とはいえる。
白銀の髪に、色素の薄い透き通るような肌。ほんの少しだけ大事
な処が隠れた、細やかなレースが透けて見える下着としての機能を
全く放棄したような薄紅色の布は、シェリーの幼さの残る身体を淫
靡なものに見せている。
裸よりも、かなり扇情的なので、ちょっとこみ上げてくるものが
あった。だからそういう気持ちを誤魔化そうと、つい怒鳴ってしま
ったのかもしれない。
そんな俺の反応をジッと眺めて、シェリーはどう思ったのか薄い
布に覆われた小さな胸を反らして、機嫌良さげにニンマリと笑いフ
フンッと鼻を鳴らした。
﹁あの、タケル様。私には似合ってませんでしょうか﹂
﹁エリザ⋮⋮早過ぎるんだ。それは大人になってから着るものだか
ら、いま似合ってたら困るんだよ﹂
エリザが耳元まで真っ赤になって、恥ずかしそうに身体を縮こま
らせている。
女の子らしい羞恥心があるのはいいことなんだけど、エリザの歳
でこの扇情的な下着の意味が分かって恥ずかしがるって、なんかそ
れはそれで大きく間違ってる気もする。
本当に、なんだこれ⋮⋮。
この世界では、パンティーやブラシェール自体が高級品なのだ。
精緻なレースがついたシルクのパンティーは、同じ重さの宝石とつ
2055
りあうほどの貴重品である。なんでシェリーやエリザが身につけら
れる小さいサイズのエロ下着があるんだよ。
﹁この勝負下着の予算は私が通したんです。そのときに、私のも作
ってくれるように交渉しておきましたからね。抜かりはありません﹂
﹁そこは抜かって欲しかった﹂
エリザの下着は、用意されたものではなくシェリーの予備らしい。
サイズがあってないらしく、歩いた途端にスルリとパンティーが
脱げてしまった。
﹁キャッ!﹂
慌てて、サイズの合わない薄紅色の薄い布を手で引っ張りあげる
エリザ。
あっ、けつまずいて泣きそうな顔をしている。慣れないものを穿
こうとするからだ。
﹁ううっ⋮⋮﹂
潤んだ眼で、こっちを見つめないでくれ。
いや、しゃがみこんで身体を隠さなくても、エッチい眼では見て
ないからな。
そもそも、この前一緒に風呂入ってたじゃないか。なんでそこで
恥ずかしがるんだよ。恥ずかしがると、なんか変な空気になるだろ。
わざとやってんのか。
もう俺は、呆れてベッドに突っ伏すしかない。
八歳の子供が勝負下着を穿いている姿を見せられてどうしろと言
2056
うのだ。
こんなときどんな顔をしたらいいか、わからないにも程がある。
﹁それではお兄様、今から私たち二人が夜伽の相手をさせていただ
きます﹂
﹁はぁ、もうシェリーの好きにすればいいよ﹂
お泊まり会が、なんで夜伽になってるかは突っ込まないことにし
た。
こう見えてシェリーは、リアみたいなおバカではないから限度は
心得ている。
大げさに三指ついているところを見ると、冗談でやっているのだ
ろう。場所が後宮のベッドということもあって、そういうごっこ遊
びをやるつもりなのだ。大人の真似をやるのは、子供らしい遊びと
はいえた。
まだ幼いエリザの情操教育には果てしなく悪い気もするが、この
期に及んでもうどうしようもない。
お泊り会というシェリーの言い換えに騙されて、エリザまで後宮
に招いてしまった俺も悪い。どうせ寝るだけのことだから、もう気
にしないことにした。
俺はなるべく、シェリーが身に着けている倫理的に好ましくない
薄い布切れのことは考えないようにして、明かりを吹き消してから
床に入った。
シェリーが擦り寄ってくるので、サラサラの髪の毛を手で梳くよ
うに撫でてやる。
少し伸びすぎたかなとも思う。シェリーはなんとなくだけどショ
ートカットのほうが似合う。忙しいとボサボサになるまで放ったら
2057
かしにするから、短いほうが何かと便利だろう。
﹁シェリーは、もうそろそろ髪を切ったほうがいいかもな﹂
﹁おっ、お兄様の可愛がりキタコレですね﹂
﹁キタコレってシェリー。お前、本当にリアとの付き合い考えたほ
うがいいぞ﹂
お前らリアが持ち込んだ薄い本を回し読みしてるだろ。
いまさら注意しても遅いけど、あれまだお前らの歳では読んじゃ
ダメの本もあるんだから気をつけろよ。
アーサマ教会は、外の世界に悪い影響を与えないように禁書にし
てるって設定をちゃんと守れ。まあ、それはリアに言うべきことだ
が。
﹁はぁ、それで俺はどうすればいいんだ﹂
﹁お兄様は何もしなくていいですよ﹂
﹁んっ、なんかさせたかったんじゃないのか。今日は最大限、どん
なことでも付き合うつもりだったんだが﹂
﹁あまりご負担をかけても申し訳ないです。お兄様が大変なことは
分かってますから、一晩でも一緒に居てくださるだけで私は十分で
す﹂
﹁⋮⋮お前なあ﹂
﹁お兄様、そんなに強く抱きしめられたら苦しいです﹂
散々とふざけまくったあとで、可愛いことを言うんじゃねえよ。
びっくりさせられたり、呆れさせたりされたあとだったもので、
2058
なんかホロッと来てしまった。
﹁でもなんか、下げられたり上げられたりして、すっかりシェリー
の術中にハマってるような﹂
﹁ありゃー、ギャップをつけて好感度を上げる作戦に気がついちゃ
いましたか。私もまだまだですね﹂
イタズラっぽくシェリーが笑うのが、仄暗いなかでも感じられた。
本当にそんな駆け引きなら言うわけがないので、シェリー流の冗談
なのだ。
こいつめーと、柔らかい猫っ毛をクシャクシャにしてやる。
﹁なあシェリー。俺の前でまで大人をやる必要はない。難しい事ば
かり考えてないで、たまには頭を休ませておけ﹂
﹁タケル様は、みんなにそんなことを言ってるんですね!﹂
俺の後ろで横になっているエリザが、俺の背中をコツンと叩いた。
ちょっと痛かった。
不満気な口調なのは、どうしてだ。
﹁そうなんですよねー。お兄様の口説きのテクなので、これでうち
の奴隷少女はみんなコロッと落とされてるわけです﹂
﹁フフッ、悪い人ですね﹂
エリザとシェリーに、左右でクスクスと笑われて、俺はなんだか
いたたまれない気持ちになったが、やがて苦笑をこらえきれずに一
緒に笑い出した。
まったく、いい大人が子供にからかわれて翻弄されてたら立つ瀬
がないよな。
2059
チート
うちのこまっしゃくれた小娘たち。優秀すぎて、とてもじゃない
が口では敵わない。
まあからかわれるぐらいは、多めに見るか。それこそ、俺は大人
なんだから子供の他愛ないお遊びに付き合うぐらいのことは構うま
い。
シェリーへのご褒美のつもりが、この日のお泊まり会は心安らか
に眠れる貴重な夜になった。
俺が大人をやって守ってやっているつもりが、実のところ子供ら
に助けられてばかりなのかもしれない。
※※※
次の日、盗賊王ウェイクに出していた手紙の返事が帰ってきた。
そこには﹃トランシュバニア公国の首都ブルセールで会おう﹄と
だけ書かれている。
他ならぬウェイクの言うことだ。俺が求めるものが、そこにある
というのだろう。
しばしの休息を終えて、俺は新しい戦いに臨むために出立を決め
たのだった。
2060
161.海賊王と呼ばれた男
﹁よー、勇者。これはまたすげえ面白いことになってんじゃねえか
っ!﹂
ドラゴンメイド
さすがに盗賊王ウェイク。俺の腕にまとわりつく、竜乙女アレの
姿を見ても恐れることはない。それどころか、そのアレに腕を引き
ずられている俺の姿がツボに入ったらしく笑い転げている。
見る人見る人、大きなドラゴンの翼を羽ばたかせているアレの姿
にみんなびっくりしてブルセールの街に入ってきたときは衛視の一
隊が包囲したぐらいなんだが、ウェイクにはそれすらも笑いの種ら
しい。
金髪を振り乱して、こっちを指さしてヒーヒー笑っている。笑い
すぎだろ。
アレの機嫌を損ねると、いくらウェイクでもただじゃ済まないぞ。
﹁ま、まあ⋮⋮久しぶりだよな、ウェイク﹂
﹁フハハハッ、あの姫騎士と結婚したことをからかってやろうと思
ってたのに、こっちの予想の遥か上を超えてくるから、勇者と付き
合ってると本当に飽きねえんだよなあ。お前の顔を見るのが、毎回
楽しみでなあ、フホッ﹂
まだ笑い足りないのか。
ウェイクは、笑いすぎて脱力したらしく側近に支えられている。
﹁俺は毎回、お前を笑わせるためにやってきてるわけじゃないんだ
がな﹂
2061
まあいいや、もう好きなだけ笑ってくれ。
今回、ウェイクの協力は必要だからそれぐらいで機嫌が良くなる
なら安いものだ。
﹁いやいや笑って済まない。人族最強と名高い竜乙女の武闘家も物
珍しいが、そっちの女騎士も面白いことになってんなあ。両手に花
ってのはよく聞くが、両手に最強の女戦士ってのは初めて見るケー
スだ。どうやったらこうなるんだよ﹂
﹁それは、俺が聞きたいぐらいだよ⋮⋮﹂
アレはまだ覚悟してたんだが、義勇兵団長を辞めて何かが吹っ切
れたルイーズも、俺の護衛として付いてきている。アレが俺にベタ
ベタくっつくのがルイーズの癇に障るらしく、道中延々と俺の手を
引っ張り合って言い争いを続けているのだ。
耳元で口喧嘩されるぐらいは我慢するが、両手を全力で引っ張り
合うのは本当に止めて欲しい。いろいろ補正かかってる勇者の俺じ
ゃなければ、マジで引きちぎれてるぞ。
﹁ちょっとアレ、我が主の利き腕を潰すとは何を考えてるのだ!﹂
﹁ハッ、勇者は私が守るからいいのダ。心配ならお前が離れればい
いゾ!﹂
だから、腕を全力で引っ張り合うのはやめろ!
お前らは、大岡裁きの﹁子争い﹂か。それのパロディーで、子供
を引っ張り合って本当に引きちぎってしまう話を思い出したが、冗
談ではない。
ばんけん
ルイーズはシレジエ最強の万剣の騎士で、アレはそれをも凌駕す
る竜乙女最強の武闘家なのだ。
2062
もう少し手加減してくれないと、俺が死ぬ。王将軍が護衛に引っ
張り殺されるとか冗談にもなってない。
ずっとこの調子なんだよと俺が愚痴ると、ウェイクはニヤーと深
い笑みを浮かべた。
コイツ、本当に人が女絡みで困ってるのを見るのが好きだよなあ。
いい性格してるぜ。
英雄色を好むと言う。シレジエ、ローランド、トランシュバニア、
三国の裏社会を統べる盗賊王ウェイク・ザ・ウェイクは、無類の女
好きとしても有名だ。
それなのに、女性関係でトラブルを起こしてるのを見たことない。
ウェイクは、本当に上手くやっているのだ。
﹁ウェイク、良かったらこういう人間関係をうまく調整する方法を
教えてくれ﹂
﹁そうだな。まず最初に気をつけなきゃダメなのは、自分より強そ
うな女戦士には絶対に手を出さないこと。盗賊ギルドでは、それが
一番言われてるから﹂
前提の段階でダメじゃねーか。忠告が遅いんだよ。俺が不平を漏
らすたびに、ウェイクはゲラゲラと笑い転げている。
そりゃウェイクが絶対ダメと思ってることを、俺が全部やらかし
ライフル
マガジン
てるんだから面白くて仕方がないだろう。
こじ
﹁もういいや、ウェイクの分の魔法銃の弾倉持ってきてやったから
確認してくれ﹂
﹁ありがとうよ。縺れに縺れてどうしようもなくなった女性関係の
調整は無理だが、他の相談になら乗ってやってもいいぜ﹂
2063
﹁うんまあ、頼むよ﹂
﹁海賊を味方に付けたいんだったな。裏社会は陸と海で繋がってい
る。まず俺に相談してくれたのは賢明だった﹂
そうなのだ、俺は海賊に伝手がまったくない。
北海の海賊には、傭兵として雇うと触れを出してみたが全く反応
がなかった。もう相談できる相手といえば、ウェイクしか思い浮か
ばなかったのだ。
﹁そりゃー陸では大活躍のシレジエの勇者様とは言え、海の上じゃ
まだまだ無名だから、用心深い海賊どもは素直に言うことを聞かな
いさ﹂
﹁そういうもんなんだな。今回はウェイクの知恵に頼るよ﹂
そう言うと、ウェイクは嬉しそうな顔をした。
﹁まっ、国同士の争いには盗賊ギルドは介入しないんだが⋮⋮﹂
その建前はよく知ってるよ。建前だけだってこともな。
他人の不幸をあざ笑いまくるウェイクだが、これで友達甲斐のあ
るやつなのだ。
﹁俺が個人的に、勇者に知り合いを紹介してやるぐらいのことはし
てもいいだろう﹂
﹁このブルセールに、適した人材がいるのかな﹂
トランシュバニア公国の首都ブルセールは、ツルベ川沿いの街で
はあるが内陸部だ。
スケベニンゲンの港と違って、海の男が居るとは思えないのだが。
2064
﹁そうだな、この街の土牢にその昔、海賊王だった男が居るんだよ﹂
﹁海賊王?﹂
﹁あくまで﹃だった﹄だ。そいつが現役だったのは、もう六年も前
のことだからなあ。勇者の権力なら、囚人の一人を出すぐらいのこ
とは容易なんだろ﹂
﹁ヴァルラム公王に頼めばできるだろうけど⋮⋮﹂
六年も土牢に幽閉されている囚人か。海賊王のフレーズは心躍る
ものがあるが、期待できるのだろうか。
まあ行ってみないことには何もわかるまい。ブルセールの居城に
寄ってヴァルラム公王に挨拶してから、囚人解放の許可を得ること
にした。
竜乙女だの盗賊王などを引き連れてきた俺にギョッとした公王だ
が、それでも歓待してくれる。
茶飲み話に、近頃のカロリーン公女の様子など俺の話を楽しそう
に聞いていた公王であったが、ことが海賊王の話になると難色を示
す。
﹁勇者様は、ご存知ないかもしれませんが﹃黒髭﹄のドレイクは、
かつて北海を荒らしまわった大海賊の首領ですぞ。下手に殺してし
まうと、海賊への抑えが効かなくなるので死ぬまで生かしておるだ
けなのですよ﹂
﹁そこを何とか頼むよ、カスティリアに勝つためには海賊の力も必
要になるんだ﹂
﹁しかし、海賊ドレイクを自由にするなど、海にシャチを放つよう
な真似ですぞ⋮⋮﹂
2065
威厳のある額に縦ジワを浮かべるヴァルラム公王に聞けば、トラ
ンシュバニアのささやかな艦隊も、海賊ドレイクによって散々な被
害を受けたそうなのだ。
北海の海賊勢力を糾合し、海賊王とまで呼ばれた﹃黒髭﹄のドレ
イクは討伐に展開したブリタニアンとトランシュバニアの艦隊を各
地で討ち破りながら北海全域はおろかセイレーン海にまで進出。そ
れはそれは厄介な悪党だったそうだ。
しかし、海軍大国カスティリアの権益まで脅かすほどにまで強大
になったのがドレイクの運の尽き。
カスティリアの無敵艦隊の猛攻を受けて、ドレイク海賊団は壊滅。
ドレイク自身も敗走に次ぐ敗走でズタボロになり、カスティリア
に捕らえられるよりはと、ついには格下のトランシュバニアの警備
船に捕らえられてしまった。
逮捕されたときは、生きているのが不思議なほど傷ついていたそ
うである。そうしてかつての海賊王は今も、首都ブルセールに幽閉
されている。
ドレイクを解放して、また大海賊団復活の悪夢が再び起こるので
はないか。公王の立場なら憂慮するのは当然だろう。
そこを一緒に居た、盗賊王ウェイクが説得してくれる。
﹁なあに公王さん、北海の海賊も代替わりしてるからドレイクの盛
名は昔ほど通用しないし、何よりこのシレジエの勇者が請け負うっ
て言ってるんだから滅多なことは起きないさ﹂
ウェイクが俺の肩をポンと叩いて、調子のいいことを言う。
結局は、俺の責任でやるしかないからしょうがないんだけどさ。
2066
﹁さようですか、勇者様がそのようにおっしゃるのであれば、許可
を出しましょう﹂
﹁済まないな公王﹂
﹁いえ、この国はもはや勇者様のものですから。国政を預かってい
るだけのワシがとやかく言うことでもありますまい﹂
その設定まだ生きてたのか。
まあ、いずれは俺とカロリーンの子供が継ぐって話だから問題な
いのか。
﹁じゃあ、土牢に案内してもらえるかな﹂
﹁御意⋮⋮﹂
ヴァルラム公王自らの案内で、ブルセールの城の裏庭にある土牢
へと案内された。天然の岩窟を利用して作られた土牢の中に、その
男はいた。
海賊王と呼ばれた男、﹃黒髭﹄のドレイク船長。
﹁これがそうなのか﹂
﹁ワシも、コヤツの顔を見るのは六年ぶりです﹂
公王も俺も、ちょっと躊躇してしまった。来る牢を間違えたのか
と思ってしまった。
なぜなら、鉄格子が嵌った土牢の中で粗末な木の椅子に座ってこ
ちらを見ている男は﹃黒髭﹄ではなかったからである。
聞けばまだ六十にもなってない初老のはずだが、長い幽閉生活が
祟ったのか、伸び放題のざんばら髪は白髪交じりで、自慢の黒髭も
真っ白になっていた。
2067
酷く痩せ衰えている。船乗りらしい赤黒く日に焼けた肌は皺だら
け、激しい戦いで失ったのか左腕がない。左足も中ほどからなく、
粗末な木の義足を付けている。
右目に黒い眼帯を付けているのも海賊ファッションというわけで
はなく、片方の視力を失っているのだろう。
ただ、濁った左眼だけがギロリとこちらを見つめていた。
昔はどうだったか知らないがこんな老いさらばえた男では、もう
何も出来ないのではないかとも思えた。
無言で座り込んでいるドレイクの牢を開けさせて、盗賊王ウェイ
クが近づいていく。
﹁久しぶりだな、ドレイク﹂
﹁⋮⋮何のようだ、陸の若造﹂
﹁ご挨拶だな、お前を釈放しにやってきてやったんだぜ海賊王ドレ
イク﹂
﹁ドレイクという男は死んだ、海賊王なんて呼べる存在も、もうど
こにも居やしねえ﹂
﹁じゃあ、お前はなんなんだドレイク﹂
﹁⋮⋮過去の悔恨で余生を過ごしているだけの、ただの老いぼれだ﹂
なかなか気難しい男のようだな。
ウェイクは肩をすくめているが、笑い顔のままだ。あの反応だと、
ドレイクはまだ使えるって判断だと俺は思った。使えるならば、使
う。
﹁ドレイク、お前を雇いたい﹂
2068
﹁誰だてめぇは﹂
左目の濁った灰色の眼が俺を睨みつける。
誰だろう俺は⋮⋮。
﹁俺は、シレジエ王国の王将軍。シレジエの勇者、佐渡タケルだ。
海賊を味方につけて、新しいシレジエの海軍を創りたい﹂
﹁ふざけたことを言うやつだな。海賊を雇い入れた﹃キング﹄アー
サーの真似事でもやりてぇのか﹂
真似事じゃないんだよな。
俺が、目指すべきは上位互換。
﹁俺は、カスティリア軍に襲われているそのアーサーを助けなきゃ
ならんのだ。そのさらに上を行って、カスティリアをぶっ潰さなき
ゃいけないんだよ﹂
﹁夢物語だな。仮に海賊を味方にできたとしても、海賊の軍船をか
き集めたぐらいでカスティリアの無敵艦隊をどうこうしようしよう
なんざ無理だ。それが出来てたら、おらぁ、こんなところで朽ち果
ててねぇ!﹂
ドレイクは、敗北を思い出したのか皺だらけの頬を震わせて、眼
に涙を溜めていた。
負けた悔しさにそれだけ悲嘆にくれるってことは、まだ諦めてい
ないってことだとも思えた。
﹁聞けドレイク。俺にはそれが出来る。そのための方策も、新兵器
もある。ただ、船の数と船員、そして提督の数が足りてない。だか
らお前に頼むんだ。俺の作る艦隊の提督になってくれ﹂
﹁はっ、バカを言うなよ。おらぁ、海賊だぞ。しかも、海賊船長を
2069
やってたのはもう昔のことで今じゃこんな老いぼれだ。自分の意志
で手足すらも自由にならん、こんな残りカスに何ができる﹂
﹁ドレイク、お前は海賊王とまで呼ばれた頭領だろうが。盗賊王ウ
ェイクだって認めている海戦のプロフェッショナルだ。前歴は問わ
ん、船に乗るんだから手足なんぞいらん。お前に艦隊を率いて戦え
る経験と実力があるなら、それが欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
ドレイクは黙りこんでしまった。
﹃黒髭﹄から﹃白髭﹄になってしまった老いたドレイクだが、大
艦隊を率いてカスティリアの無敵艦隊と戦った経験を持っている。
よくよく考えると、これ以上はない人材に思える。
もうちょっと強く勧誘しとくか。
﹁ドレイク、お前は負けたままで悔しくないのか。俺に協力すれば、
カスティリアの無敵艦隊に勝てるぞ﹂
﹁若造が、マジで言ってんのか⋮⋮﹂
先程までは、若輩者の俺を見下すような眼つきだったが、俺の大
言壮語で少し反応が変わった感じがする。
ドレイクを雇うのだから、雇い主としての力を認めさせないとい
けない。こういうのは吹かしまくってやったほうが良いというのは、
経験的に分かっていることだ。
﹁そりゃ、本気で勝てると言っている。ブリタニアン海軍と共同し
て無敵艦隊とは一度戦った。アーサーは負けたが、俺は負けてない。
敵の新型船を奪ってやったんだから、勝ってると言ってもいい﹂
﹁とても信じられんな⋮⋮﹂
2070
﹁いいから港までついてこいよ、信じられないものを見せてやるか
ら。俺が作った新しい軍艦を見て、それで決めろ﹂
﹁分かった、そこまで言うのならついて行ってやる。牢暮らしにも
飽きたから、死ぬ前に海が見てぇ⋮⋮﹂
半信半疑ながら、ドレイクを立ち上がらせることには成功した。
黒杉軍艦の主砲の一つでもぶっ放してやれば、ドレイクの濁って
た眼も覚めるだろう。
2071
162.黒杉軍船の出港
﹁これが、本当に船なのか⋮⋮﹂
スケベニンゲンの港の桟橋に立ち尽くして絶句していた海賊ドレ
イクは、ようやく絞りだすようにそう言った。
滑るように港に現れたそびえ立つ黒船の威容、設計図では知って
いた俺でも、実物をみるとそのデカさに震えがくるから驚くのは無
理もない。
造船所の総力を上げて造り上げた最新軍船だ。カスティリアから
奪った千トン級の巨大軍船ガレオンを一端解体し、大砲を側面に装
備した近代的軍船として組み直したのである。
鋼鉄よりも固く、しかも軽い材質の黒杉で装甲補強した軍船は、
元のガレオン船よりもさらに大きく、角張った船体は海上に浮かぶ
要塞の様相。
これほどの巨大軍船が出来たことに、俺も誇らしい思いがする。
まあ、そもそものことを言ってしまえば、カスティリアの造船技
術が凄いのだ。
ガレー船やコッグ船や、せいぜいキャラック船までが一般的であ
ったこの時代に、荒れ狂う大洋を越えてアフリ大陸の南端にまで航
海する性能を持つガレオン船を作り上げたのだから。
ブリタニアン海軍とカスティリア海軍の大海戦をキッカケにして、
ユーラ大陸は新造船が次々と生まれる技術革新の時代を迎えている。
やはり、技術を進めるのは戦争ということか。
2072
そうして、その技術競争に最後に勝ったのは俺たちシレジエ海軍
であった、という風に行きたいものだ。
かつては北海の海賊王と呼ばれたドレイクだって、六年も現場か
ら離れてたんだ。ジェネレーションギャップがあるのは無理もない。
港に崩れ落ちるようにして、食い入るように黒杉軍船を見つめて
いるドレイク。この自慢の黒髭もすっかり色あせてしまった老海賊
を、もう一度艦隊提督として再起させられるだろうか。
﹁なあ、王将軍とやら﹂
﹁なんだドレイク﹂
杖を抱えるようにして港の桟橋にしゃがみこんでいるドレイクは、
呆然と巨大な黒船を見上げながら言った。
﹁俺が投獄されてた六年間に、一体何があったんだ⋮⋮﹂
﹁まあ待て、まだ驚くのは早いぞ、これから大砲の試し撃ちだ﹂
俺が手を振って合図すると、黒杉軍艦の砲台は五十門。二列の砲
台から銀色に輝く砲身が姿を現し、港の先にある小さな無人島目掛
けて砲撃を開始した。
次々と灼熱した弾が敵船に見立てた無人島に着弾して土煙を上げ
る。
﹁ヒィ!﹂
さしもの海賊も、初めて見た大砲には悲鳴を上げて腰を抜かした。
こうなると分かっている俺でも、これほどの数の砲台が轟音を上
げて一気に火を噴くのを見れば戦々恐々とするからな。
2073
﹁まだ終わりじゃない、次は主砲の斉射だ﹂
船の先端には、二門だけ特別超大な砲身が取り付けられている。
その長さは四メートルにも及び、総重量は五トンにも及ぶ。
マジックアームストロング砲。風魔法によってトルネードがかか
った巨大な鉄の弾を発射できる、超遠距離が可能な砲台である。
その代わり、あまりにも反動がキツく一発打つごとに船体が激し
く揺さぶられるので、おいそれとは使えない。
酷幻想で最も堅固な軍船といえど、二門を装備するのが限界であ
った。
バシュッと空気を斬り裂く音を立てて、飛んでいく黒い鉄の玉は
正確無比に無人島を撃ちぬいて、巨大な水柱を上げた。
そうして、煙が晴れた先には何も残って居なかった。
﹁凄まじい威力だな⋮⋮﹂
﹁普通の大砲は海戦用。マジックアームストロング砲はかなり飛距
離があるから、海戦のみならず陸上への攻撃も想定している﹂
軍船による陸上への砲撃は、この時代の戦術思想ではありえない。
相手が想定していない攻撃は、有効性が高い。
﹁王将よぉ。あの黒い船体は、燃えない材質だったんだよな﹂
﹁そうだドレイク、鋼よりも硬い材質だ。この船なら、一隻でも無
敵艦隊に勝てるかな﹂
﹁負けはしないが、一隻では勝てねぇ⋮⋮﹂
﹁ほう、話を聞こう﹂
2074
﹁確かに驚かされた、おらぁ度肝を抜かれた。正直に脱帽したと言
ってやる。こいつをぶつけりゃ無敵艦隊にも一泡吹かせられるだろ
う。絶対に負けないだろう。だがぁ、それだけだ﹂
﹁そうだな、よく見てるじゃないか﹂
ドレイクは、きちんとした戦略眼を持っているようだ。
この船の運行を、この老海賊に任せるのだからそうでなくては困
る。
﹁あまり見くびるなよ⋮⋮老いたとはいえ、このドレイクは専門家
だ! あんたの言う通り、必要なのは数なんだ。カスティリアの艦
隊からすりゃぁ、何もこのデカブツに無理にぶつかっていく必要は
ない。敵の艦隊にバラけられたら、最強の軍船が一隻あっても、ど
うにもならんだろう﹂
﹁だから十分な数を集めて艦隊決戦に臨むか、敵にバラけられない
理由があるときしか勝てないということ⋮⋮だな?﹂
俺がそう言うと、ドレイクの白く濁った左目がギラッと輝いた。
老海賊の目には、目の前の黒杉軍船と無敵艦隊がぶつかり合う様
がありありと浮かんでいるのだろう。勝つための方策を、探りだし
ている。
﹁そうだ。言い方を変えれば、こっちに有利な状況が作れたら今で
も勝てる目はあるってことだ。王将よ、あんたぁ約束通りのものを
見せてくれたな。今度は、このドレイクが見せてやる番だ。シレジ
エ艦隊の提督、俺が引き受けてやるぜ!﹂
俺は、しゃがみこんだドレイクの手を掴んで起き上がらせる。
先ほどまでの腰が抜けたような足取りとは違い、片足が義足でも
老海賊は港の埠頭にしっかりと立っていた。
2075
まるで人が違ってしまったみたいに、生気を取り戻している
潮風に揺られるドレイクの白髪交じりの髪。ドレイクは、往年の
力を取り戻そうとしているのかもしれない。
勝てるという希望を掴んだ皺だらけの片手に、闘争の力が戻りつ
つある。
その身体は傷つき、老いさらばえたとはいえ、ドレイクは北海の
海賊王と言われた男なのだ。
﹁よろしく頼むぞドレイク提督。勝つために必要なものはなんでも
揃えさせよう。残りのシレジエの船がスケベニンゲンの港に合流次
第、さっそくカスティリアと一戦交えるからな﹂
本来ならドレイクにはゆっくりリハビリして欲しいところだが、
そんなことをやっている暇はない。
すでにブリタニアン海軍を壊滅させた無敵艦隊はグレース湾まで
入り込み、首都ロンドの目と鼻の先にまで迫っている。
猶予がないのだ。今すぐにでも何らかの対処を取って、敵の進行
を食い止めなくてはならない。
ドレイクには、実戦で勘を取り戻していってもらうしかあるまい。
※※※
スケベニンゲンの港に、シレジエ艦隊が集結した。
ジャン提督がキャラック船一隻にコッグ船が四隻、それに小型ガ
レー船十隻に余るほどたくさんの大砲の台座と、緊急徴募とはいえ
それなりに使える船員六百名を乗せてやってきてくれた。
2076
﹁将軍お久しぶりです!﹂
﹁ジャン提督、スウェー半島への食料輸送の任務ごくろうだったな﹂
黒いモジャモジャ頭でビール腹のジャン提督はベテランの船乗り
で、肝心の海戦が苦手ということを除けば有能な男である。
自治都市アスロ市長、ドグラス・ゾンバルトと協力してゲルマニ
ア帝国に見捨てられたスウェー半島の食糧問題を解決して、船と船
員を募って不足を補ってくれたのだ。
こちらからは、義勇兵団海兵隊五百名を連れてきている。前に義
勇兵を乗せたときに、船酔いで使い物にならなくなった兵士が多か
ったので、今回はシレジエの漁村出身者を中心に増援を行った。
海兵隊長に選出したフィリップ・カヤックも、ガレー村の網元の
三男坊だ。潮風に焼けた赤茶色の髪と、日焼けした小麦色の肌のた
くましい青年である。銃と大砲の扱いがそれなりにできて、船にも
慣れている連中は貴重な人材だ。
港に居並ぶ千人を超えるシレジエ海軍の兵士たち。
アドリラル
オフィサー
コモ
これからできる新しいシレジエ海軍は、彼らが主軸となるだろう。
ドー
﹁艦隊司令長官にドレイク提督、艦隊参謀長にジャン提督、海兵隊
指揮官にフィリップを任じる﹂
これでシレジエ艦隊が正式に発足したので、役職をきちんと任じ
ておく。
王将軍である俺の肩書きに、海軍元帥が付与されたのは名目上の
ことで、基本的には艦隊の戦時の指揮を老海賊ドレイクに、平時の
指揮をジャン提督に、海兵隊や戦闘指導をフィリップ隊長に任せる
事となる。
2077
なにせ新しい艦隊を作るのだ。人材は、いくらいても足りない。
幸いだったのは
Fly UP