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1.天使の告げた平和 - 日本キリスト教団 磐城教会
待降節第 4 主日≪告知≫ 2015 年 12 月 20 日 礼拝説教抄録 急いで、北の国から逃れよと 主は言われる。天の四方の風のように かつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと 主は言われる。 シオンよ、逃げ去れ バビロンの娘となって住み着いた者よ。 栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。 あなたたちに触れる者は わたしの目の瞳に触れる者だ。 わたしは彼らに向かって手を振り上げ 彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。 こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを 遣わされたことを知るようになる。 ゼカリヤ書2 章 10~13 節 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 近所の人々や親類 は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 八日目に、 その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付け ようとした。 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなり ません」と言った。 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の 付いた人はだれもいない」と言い、 父親に、「この子に何と名を付けた いか」と手振りで尋ねた。 父親は字を書く板を出させて、「この子の名 はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 すると、たちまちザカリア は口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 近所の人々は皆恐れを感 じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞 いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだ ろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。 ルカによる福音書 1 章57~66 節 10 11 12 13 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 1.天使の告げた平和 教会暦では、待降節第 4 主日で すが、わたしたちは今日、クリスマスを 迎えました。愛する皆さん、クリスマス おめでとうございます。互いにクリスマ スのあいさつを交わしましょう! 11 月末にアドヴェントに入ってから、週 ごとに 1 本ずつともしてきたアドヴェン ト・クランツのろうそく。第 1 は預言者 の告げた救い主誕生の希望のろうそ く、第 2 はベツレヘムにお生まれにな った幼子イエスの愛のろうそく、第 3 は羊飼いのよろこびのろうそくです。 今日、第 4 のろうそくに灯をともしまし た。このろうそくは、「天使のろうそく」 と呼ばれています。別名「平和」という 名前のろうそくです。天使が実現を告 げた平和を表すろうそくです。 クリスマスの夜に、天使たちは告 げました。「いと高きところには栄光、 神にあれ、地には平和、御心に適う 人にあれ」(ルカ 2:14)。天使は、神 の使いです。特別な翼をもって天国と 地上をつなぎ、神の言葉を人々に告 知します。また天使は、軽やかさやよ ろこび、あこがれの象徴でもあります。 一昨年、ユースミッションでドイツ の教会に出かけた折、Wustrau とい う村の教会の庭で青年たちとキャンプ をしました。2 日目の夜のプログラム、 日本の青年たちと、ドイツの青年たち がそれぞれに自国の文化を紹介する カルチャー・ナイトは大盛り上がりで、 礼拝堂が大きな笑い声に包まれまし た。すべてが終わった後、ドイツのス タッフのプッペ先生が、祈るために皆 を聖壇のところに集めて、一人ひとり に小石を渡し始めました。皆が手に 小石を握ると、今度は小さな羽を渡し 始めました。プッペ先生の指示に従っ て、皆が片方の手に小石を握り、もう 片方の手に小さな羽を握りしめて目を 閉じました。「どう感じますか?」 この小石は悲しみを表していま す。そして、この羽は幸せを表してい ます。これらを大切に持っていてくだ さい、とプッペ先生はおっしゃいまし た。わたしは少し考え込みました。石 は冷たくて重い。羽は軽くてふわふわ している。そういうことをイメージしてい たと思います。「大切に持っていてく ださい」と言われたので、後から何か に使うのかな、と思ったのですが、最 終日までそれを使うことはありません でした。 この晩、礼拝堂からキャンプ・フ ァイヤーに向かう道で、ある女の子が わたしに話しかけました。「プッペ先生 の羽の話。幸せってすぐに失ってしま いそうなものということではないのか な」。彼女は大学生でしたが、その年 の初めに病気で母親を亡くしていまし た。帰国してから、何度か彼女の言葉 を思い出していました。気づいたら、 「大切に持っていてください」と言われ た羽は失ってしまっていました。 このクリスマスに考えます。天使 とは、いったい何であるでしょうか。わ たしたち自身が天に近い存在で、心 軽やかで、よろこびに満ちて、自らに 羽が生えていると思えるときもあれば、 その羽をまったく奪われたようになる こともあります。よろこびを見失い、心 が重く感じることがあるのです。 2.ヨハネの誕生とクリスマス 聖書日課による今日の朗読は、 新約聖書からは、洗礼者のヨハネの 誕生の物語です。おや?と思われた かもしれません。クリスマス礼拝に来 たのに、神のみ子イエスの誕生では なく、主イエスより半年前に生まれたと 言われている洗礼者ヨハネの誕生が 語られているからです。月が満ちて子 を生んだのは、主イエスの母マリアで はなく、マリアの親類のエリサベトお ばさんです。しかし、わたしたちは洗 礼者ヨハネの誕生の出来事が、イエ ス・キリストの誕生にとってどれほど大 きなものだったのかを、今日、知ること になります。 主イエス・キリストは、ヨセフとマリ アという小さな夫婦のもとにお生まれ になりました。当時、ユダヤを支配し ていたローマの皇帝アウグストゥスの 勅令により住民登録をするため、祖先 の町ベツレヘムへの旅の中でお生ま れになりました。ベツレヘムの宿屋は どこも満員で泊まる部屋はなく、通さ れた家畜小屋で、マリアは主イエスを 出産しました。聖書は、この出来事を まことに簡潔に伝えています。「マリア は月が満ちて、初めての子を産み、 布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」 布にくるんで 飼い葉桶に寝かせた」 (ルカ 2:7) とだけ書かれています。ク リスマス物語の中でも、み子の誕生の 場面は、もっとも短い記述です。 今週 日には、幼稚園のクリス マス礼拝と祝会が行われますが、幼 稚園のページェントは、どの役もすば らしく、毎年感動させられます。特に 気づかされたことがあります。ページ ェントにはナレーターという役があり、 幕間に語りが入るのですが、マリアと ヨセフが家畜小屋に手を引かれて行 くと、ナレーターの子たちが登場して、 このように告げます。「その夜マリアは、 かわいい男の子を産みました」。こう 言うと、ナレーターは舞台袖に戻って 行きます。「その夜マリアは、かわいい 男の子を産みました」。主イエスの誕 生の出来事です。たったこれだけの 短い言葉に、感動がこみ上げます。 23 3.天使とエリサベトのとりなし マリアは、どのような思いで主イ エスの出産を迎えたのでしょうか。マリ アは、クリスマス物語の中で大役を担 っています。しかし、マリアが自ら言葉 を発するのは、受胎告知の場面(ルカ ~ )と、親類のエリサベトを訪 問する場面(ルカ ~ )です。 有名な「マニフィカート」(マリアの讃 歌)と呼ばれる歌もこの場面のもので す(ルカ ~ )。この後、聖書を とおしてマリアが何かを語ることはあり ません。むしろ「マリアは、これらの出 来事をすべて心に納めて、思い巡ら していた」(ルカ 2:19)とあります。 主イエスの父となったヨセフは、 どのような思いで主イエスの出産を迎 えたのでしょうか。ヨセフこそ、聖書を とおして何かを語ることはありません。 1:26 38 1:39 1:47 55 56 マリアが、聖霊によって身ごもっ ていることを信じたのは、天使によると りなしがあったからです。天使はマリ アに、不妊と言われていたひとりの女 性の奇跡的な懐妊を告げました。「神 にできないことは何一つない」(ルカ 1:37 ) と。マリアは、すぐにこの親類 のエリサベトのもとに会いに行きます。 天使が告げたとおり、エリサベトは妊 娠していました。さらにエリサベトは、 マリアに告げます。「あなたは…祝福 された方です」(ルカ 1:42)。マリアの 驚きは、確信に変わっていきます。キ リストの母となるマリアの覚悟が見える ような気がします。マリアは神を讃美し、 もう多くを語ることはありません。 4.マリアか、ザカリアか ルカによる福音書において、洗 礼者ヨハネの誕生物語は、主イエス の誕生物語と呼応しています。最初 に天使ガブリエルの知らせを聞いた のは、洗礼者ヨハネの父であり、エリ サベトの夫であるザカリアでした。次 に、ガブリエルはマリアのもとを訪れま す。ザカリアは神に仕える祭司でした が、マリアとは対照的に、天使の知ら せを信じることができませんでした。 「あなたの妻エリサベトは男の子を産 む」(ルカ 1:13)と言う天使の言葉に、 ザカリアは答えます。「何によって、わ 神の言葉を信じることができなく なり、語る言葉を失ってしまった信仰 者の姿です。ザカリアもマリアも、神を 信じる人でした。マリアは、天使の言 葉に戸惑いながらも、「お言葉どおり、 この身に成りますように」(ルカ 1:38) と答えました。ザカリアは、しかし天使 の言葉を受け入れることができなかっ たのです。ザカリアの口は重く閉ざさ れました。時が満ちて約束の子が生 まれたとき、ザカリアは天使が告げた 名をその子につけました。親族が集ま る前で 「この子の名はヨハネ」(ルカ 「この子の名はヨハネ」 (ルカ 1:63 ) と書くと、たちまち口が開け、 彼は言葉を取り戻すのです。この後 ザカリアは、「マニフィカート」(マリア の讃歌)ほど有名ではないかもしれな い「ベネディクトゥス」(ザカリアの讃歌) を歌います(ルカ 1:68~79)。今度は ザカリア自身が、クリスマスの讃美を 歌う天使となっていきます。 だれもがマリアのように振る舞え るわけではないと思います。疑い、し るしを求めることもあります。神の言葉 を受け入れることが難しく思えることも あります。神が遠く感じられ、神がわ からなくなることがあります。しかし、神 がわたしたちのところに来られるクリス マスという出来事は、それを説明する 合理的な多くの言葉を必要とはしな いのです。わたしたちには、目に見え る現実とは違う、より深い現実がありま たしはそれを知ることができるでしょう す。わたしたちが神を受け入れるので か。わたしは老人ですし、妻も年をと はなく、神がわたしたちを受け入れて っています」( 1:18 ) 。天使の言葉を 信じることができず、目に見える証拠 くださっている、この現実です。 を求めたザカリアは、口が利けなくな (祈り) ってしまいます。