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はしがきと1章を読む

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はしがきと1章を読む
はしがき
歴 史 とは「人類社会 の過去における変遷・ 興亡 の記録」 (広 辞苑 )で あ
に したが って変遷・
るとい う。歴史を解明す る ことは「過去 の時間の流
興亡 (空 間の変化 )を 復元す る こと」であろう。本 シ リーズは、歴 史 の復
元を 目指 して「 古代史 の復元 シリーズ」 とした。
歴史 の解 明は文献か らだけでは不十分 であろう。文献は解釈 の違 いによ
り結論 が異な って くる。文献か らの解明を基 に して、それを考古学 か ら検
証す る ことが重要である。本 シ リーズは考古学か らの立証 にも努めた。
変遷 。興亡 (空 間の変化 )は 図示す る ことが もっと もわか りやす いであ
ろう。 そのた め A5版 サイズを採用 し、図はなるべ く大き く見やす くし
た。また、
「時間の流れ」も重要であるか ら、年代は算用数字を採用 し「横
「横書き」 は考古学 の資料を記述す るのに も適 して いる。
書 き」 とした。
本 シ リーズのほとん どは「東ア ジアの古代文化を考 える会」 (会 長
上波夫先 生 )の 同人誌『古代文化を考える』の 11号
江
(1984年 )か ら
34号 (1997年 最新号 )に 書 いて きた ものである。それに新 しい研究
成果を加 えて シ リーズ もの とした。
読者諸氏 の ご批判 。ご指導を いただ ければ幸 いである。
1997年
9月
│マ
ILl
目
次
第 1章 弥生渡来人 と「天孫降臨」
I天 孫降賄 の地
2天 孫降賄 と吉武高木遣豚…………
g天 孫降臨 と夕都国 ……………………
イ議
はどこか………………………
5弥生渡来ス のル ー ッ…………………
第 2章 万里 の長城 と遼 東 …………………
‐
1_文 献か ら物 れた万望 の長城……
1
.
イイ
2万里 の長城 と凋 石 ル.… …
θ 万里 の長城 と遊 水 ………
.
4還東 と朝鮮……………………
5燕 と朝 鮮 .… …………………
第 3章 衛氏朝鮮 と四郡 の 設置
I衛氏 朝 鮮 と,′水 ¨
2遊東 と真 番 朝 鮮
..
θ 楽 浪稚 ……………
.
4.玄 1菟 1郡
……………
.
5真 番 郡 ……………
ゴ25
.
δ 賄 屯駆 ……
4章
遼 東郡 の変遷 ……………………
第
1:遼 東郡 の拡大 と楽 浪郡 …………
2右北平郡 および1遼 西″ の拡大
θ ガ 宏,大 ,の 店訂因 .......
イ 後漢時代
`」
のだ 1東 郡
5後 淋 のだ 東郡 …
5章
第
古朝鮮 の歴 史 ……
ゴ27
.
I番 朝 1鮮 の歴 史 …………………
2番 葬 の歴史 ……………………
.
θ 東́″ のその後 …………………
.
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” 6
ゴ ー ゴ ′ ゴ
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9“
第 6章 長城の遺跡
I燕 の北方長城
2燕 の北方 長城 へ の疑 門 …….… ………………
g漢 の長城 ……………………………
.
第 7章 夫餘 と辰 ….… ……………………
1夫 餘 ……………………………………
2百済 ………………………….… ……
θ辰 …………………………………………
4辰王 と月支 国 ……………………
5辰 のル ー ツ………………………
227
δ 百済│1王統 の交代 …………………
第 8章 倭人 のル ー ツと渡来ル ー ト
2θ
22θ
2θ ゴ
2イ θ
25θ
25θ
.
2
275
I倭 ス のル ー ツ.… …………………
2卑 弥1族 のル ー ツ…………………
3倭ス の移動 の原 因 ………………
2Zθ
2θ θ
.
2θ θ
11
」
第 1章
弥生渡来人 と「 天孫降臨」
_日 1日
第 1章
Pll`
弥生渡来 人 と「天孫 降臨」
1
天孫降臨の地
(1)「 天孫降臨」 とは
天 孫 降臨 とは 『古事 記 』 『 日本 書紀 』 (以 下 『記 』 『紀 』 と略す )に 概 略次 の
よ うに書 かれて い る。
天照大神 (あ まて らすおおみかみ )は 葦原 中国
(日
本列島)を 統治 させ
るために子 の天 の忍穂耳命 (お しほみみのみこと)を 派遣 しようとして
いた。ちょうどその時忍穂耳命 に子供が産まれた。天 の迩迩藝命 (に に
ぎのみ こと)で ある。天照大神は迩迩藝命を葦原 中国に派遣す る。これ
が天 孫降臨である。
天孫 とは天照大神の孫である迩通藝命を い う。また、その子孫を い う。天孫降
臨 した地について『記』は次のように書 いている。
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気
(く
しふるたけ)に 天降
(あ
も)り
ましき。 (中 略)此 の地は韓国に向かい、笠沙の御前 (み さき)に 真来
(ま
き)通 り、朝 日の直刺す国、夕 日の日照る国な り。故、此の地は甚
だ吉
(よ
『古事記』
き)地 。
『紀』には次 のよ うに書かれている。「本文 」と「別伝」があ り、別伝 の方は
│ 一 書に曰 く」 と して複数の伝承が載せ
られて いる。
■日向の襲の高千穂峯に天降 りま しぬ。
■筑紫 の 日向の高千穂 の穏燭
■ 日向の穂 日
(く
(く
しぶ る)の 峯 に到る。
しひ)の 高千穂 の峯に降 り到る。
本文
一書第 一
一書第 二
iロ
I III IIII
ロ用ロロ F¬
「
III.
■ 日向の襲 の高千穂 の穂 日の二上峯 の天 の浮橋 に到 る。
'li '
Fli
一 書第四
■降 り到 る処 を 日向の襲 の 高千穂 の添 山 (そ ほ りや ま )の 峯 とい う。
一書第六
『 日本書紀』
(2)筑 紫 の 日向
天孫降臨の地は「日向」と書かれている。従来は「 日向=宮 崎県」と解釈 し、
天孫降臨の地は宮崎県であるとしてきた。しかし『記』や『紀』「一書第一」に
は「筑紫の日向」と書かれている。「筑紫の中の日向」という意味であろう。日
向は筑紫の中にあると思われる。
「筑 紫 の 日向」の地 は 『記 』 に次 の よ うに書 かれて い る。
a.韓 国に向かい
b.笠 沙の御前 に真来通 り
c.朝 日の直刺す国
d.夕 日の 日照る国
aは 「韓国 に向か い」とある。韓国 に向か って開 いている土地をい うのであろ
う。やは り筑紫であろ うと思われる。宮崎県 は韓国に向か っているとはいえない。
次に cに は「朝 日の直刺す国」とあ る。朝 日が出ると直ちに射す という意味で
あろう。東側には朝 日をさえぎる高 い 山がな く、平地が広がる土地を い うのであ
ろう。 しか も久 士布流多気
(く
しふ る岳 )と か、高千穂峯に天降 るとあるか ら、
近 くに山があ るところである。
筑紫 の 中で a,cの 条件 を満 たす ところは福 岡平野 ぐらい しか な い。地 図 を見
る と福 岡市西 区 には室見 川が流れ てお り、 その支流 に「 日向川 」が あ る。飯 盛 山
の麓 を流 れ る川で あ る。 さ らに、そ こか ら前原 市 へ 向 か うと ころに峠 が あ り「 日
L
第 1章
弥生渡来 人 と「天 孫 降臨」
向峠」 という。福岡平野 の西側には今 もこのよ うに「 日向」 とい う地名がある。
ここが筑 紫 の 日向ではな いだ ろうか。「筑紫の 日向」の推定地は福岡市西 区の飯
盛 山付近 であろ う。
図
1
天孫降臨の推定地
(3)長 屋 の笠狭 の碕
『記』は次に、「 b.笠 沙 の御前 に真来通 り」 と書 いている。 『紀』 には「吾
田の長屋の笠 狭碕」 とある。「笠沙 の御前」 は「笠狭碕」であ り、御前 は「 みさ
き」 と読み、岬の ことで ある。
笠狭碕 は「吾 田の長屋」にあるとい う。従来 は吾田とあるか ら、吾 田 (あ た )
=阿 多
(あ
た )で あ り、 F和 名抄』の薩摩国阿多郡阿多郷 であろ うとしてきた。
しか し鹿児島県は韓国に向か っていない。む しろ逆に韓国に背を向けて いるとい
える。吾 田を鹿児島県に比定す るのは誤 りであろう。
笠狭碕は筑紫の 日向か ら「真来
(ま
き)通 る」とある。筑紫の 日向か ら真 っ直
ぐに通 じているという意味であろう。天孫降臨 の推定地 である福岡市西区の飯盛
山付近か ら笠狭碕 は見えるところにあると思われる。
飯盛 山の北は海である。飯盛 山の ある山地は海まで延びてはいるが、その尖端
は飯盛 山の麓か らは見 ることはできな い。笠狭碕 は北側ではな いと思われ る。西
と南は山である。 こちらには岬はな い。笠狭碕 は東側の博多方面にあるのであ ろ
つ。
「 吾 田」 に つ いて は後 述 す る。次 の 「 長 屋 」 も地 名 で あ ろ う。「 長 屋 の笠 狭 碕 」
とは「 長 屋 に あ る笠 狭 碕 」 とい う意 味 で あ ろ うと思 わ れ る。 笠 狭碕 に は「 長 狭 」
とい う人 物 が 居 る。
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図
1
天 孫降臨 の推 定地
一
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川
111i「
第 1章
TIII
弥生渡 来 人 と「天 孫 降臨」
その地 に一人有 り。 自 ら事勝 国勝長狭 と号す 。
『 日本 書紀 』
「長狭」 の「 長」 も「長屋」の「長」 と同 じよ うにやは り地名ではないだ ろう
か。「長」とい うところに居 る「狭」とい う人物 であろ うと思われる。『斉明紀』
に次の記事がある。
七年、御船還予郷大津。居千磐瀬行宮。天皇改此、名日長津。
『日本書紀』
(訳 )斉 明七年、御船が郷大津に還る。磐瀬の行宮に居す。天皇は郷大
津を改め長津とい う。
津 (な の おおつ )と は那津 (な のつ )の ことで ある。博多湾に流れ る那珂
姻
`大
川にある津 (港 )で ある。斉明天皇は「那津」を「長津」に改めたとある。「那
津」は「那 の津」であるように、「長津」は「長 の津」であろう。「長」とい う
ところにある津であると思われる。「長」はやは り地名 であろ う。
斉明天皇は「磐瀬 の行宮に居す _│と ある。岩波書店の 日本古典文学大系『 日本
書紀』 の (注 )に は、│ 延 喜兵部式 の筑前国の駅名に石瀬 (い わせ )が あるコと
ある。福岡市南区の西鉄高宮駅 の近 くには最近 まで「上磐瀬町」があ った。 この
あた りが磐瀬 の行宮であろう。上磐瀬町は那珂川の西の川岸にある。 この付近が
「長津」ではないだろ うか。
「長」の付 く地名は この近 くに今 もある。
■福岡市南区 長丘
■福岡市南区 長住
■福岡市西区 長尾
これ らの地 は那珂川の西 にあ り、互 いに隣接 している。那珂川 の西 の川岸 (磐
瀬 )か ら、南区の長丘、長住、さらに西 区の長尾へ と「長」の付 く地名が続 く。
この付近が「長屋の笠狭碕」の「長屋」ではないだ ろうか。 『延喜式』には、石
」」E
瀬 の次 に「長丘」が書 かれて いる。磐瀬 (石 瀬 )や 長丘は昔か らの地名 であるこ
とがわかる。
博多駅の近 くに住吉神社がある。ここに鎌倉時代 に描かれた「博多古図」を江
戸時代 に筆写 したとい う絵馬がある。絵図として住吉神社が販売 している。
図 2 博多古 図
この絵図は海側 (北 側 )か ら博多を見ている。中央には岬が描かれて いる。岬
のほぼ 中央 に「平尾村」がある。現在 の「平尾霊園」 あた りであろ う。 その下側
(北 側 )に 「北警固村」がある。現在 の警固町であろう。福岡城址 のす ぐ南 にある。
岬の尖端 は福岡城あた りであろう。岬はそ こか ら南へ 、南公園、動物園・植物
園、平尾霊園、さらにその奥 まで続 いている。両側には ぐっと海が入 り込 んでい
る。右手 の入 り海 は今 の大濠公園や草香江
(く
さかえ )で ある。
岬の付け根あた りに長丘や長尾や長住がある。まさに「長」にある岬である。
これが「長屋の笠狭碕」ではないだろうか。
博多湾 の埋積過程を調べ た地理の本がある。瓜生二成著 『福岡県 の地理 (西 日
本地理集成第 一巻 )』 (光 文館 )で ある。 この 中に「博多湾 の埋積過程」図が あ
る。
図 3 博多湾 の埋積過程図
この図か ら「 弥生時代以後」の海岸線を抜き出す と『博多古図』 とよく似 た地
形 になる。
図 4 弥生時代以後 の博多湾 の海岸線
「博多湾 の埋積過程」図か らさらに「縄文期 ―弥生期」の「陸化地域」を取 り
出す と、「長屋 の笠 狭碕」と思われる岬が現れ る。
図 5 縄文期 ―弥生期 の博多湾
第 1章
弥生渡来人 と「天孫降臨 」
図 2 博 多古 図
_」■L___
藩百 島
道 切
1尋
日し
地域
EEヨ 縄文文化期以前の
能 古島
―
肛イ
或
脱ナ
磨 藝 縄潮 預翻 の
EⅢ]調 生期以後の隆t地 嵐
陸化地最 塞
E藝彗弘官年間以後の
鯵屋,=よ 」tt,
(弘
'30」
図
3
博 多湾 の埋 積過程 図
多
ラ
省
-́1-ヽ 縄文期海岸線
′-1ヽ 弥生期海岸線
‐
口 '・
第 1章
弥生渡来人 と「天孫降臨」
_ヽ
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平 尾
室
見
川
川
ガ
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長丘
長尾
長住
図 4 弥生時代以後の博多湾の海岸線
10
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王
可
り
│
」
」
平
室
見
川
幕
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毛
長 ノ
長住
││
‖
図 5 縄文期一弥生期の博多湾
「 b.笠 沙 の御前 に真来通 り」とは、 この岬に真 っ直 ぐに通 じているという意
味であろ う。福岡市西区の飯盛 山付近か らこの岬が見えて いたので あろう。今で
も福岡城址公園の森が見える。
迩迩藝命は最初に この岬に到着 している。そこの先住人である長狭か ら福岡市
西区の飯盛山付近 の土地 を紹介 されて住み着いている。迩迩藝命にと っては長屋
の笠狭碕は恩人の居 る土地である。そのため天孫降臨の地 を説明す るのに「笠狭
碕 に真 っ直 ぐに通 じているか ら良い土地である」と述べ ているのであろう。
11
Л
第 1章
!││
弥生渡来 人 と『天孫 降臨」
2
天孫降臨と吉武高木遺跡
{1}天 孫降臨の時期
天孫降臨の時期はいつ 頃であろうか。それは 『記』『紀』に出て くる武器 の様
式か ら知 ることができるであろう。
邁迩藝命が天孫降臨 しようとしたとき、葦原 中国は未 だ平定されてお らず邪 し
き神が た くさん居た。そこで討伐隊を何度か派遣す るが、何年経 って も一人 も帰
還 しな い。 そこで経津主神 と武甕槌神を派遣す る。
二 神 、出雲 国五十 日狭 (い た さ)の 小汀 (お ば ま )に 到 り、十握剣 を抜
き、 それ を倒 (さ か しま )に 地 に突 き立て・……… 。
『 日本 書紀 』
ここに「十握剣」が出て くる。また天孫降臨の前にも、味相高彦根神は怒 りて
「十握剣を抜 き、喪屋を切 り倒す」とある。さらにその前には、素費鳴尊 (す さの
おのみ こと)が 八岐大蛇 (や またのおろち)を 退治するときも「所帯せ る十握剣
を抜 き寸にそ の蛇 を斬 る」とある。「十握剣」のほかに も「八握剣」「九握剣」
が出て くる。「天の瑣 (ぬ )矛 」や「天 の瑣文」も出て くる。 これ らはすべ て青
銅製 の武器 であろ う。十握剣や九握剣、八握剣は実際に武器 と して使われて いる。
実用 の剣である。実用 の銅剣は細形銅剣であろう。銅剣は後代になると儀礼用や
祭祀用 とな り、大型化 し、幅 も極端に広 くなる。広形銅剣 といわれるものである。
広形銅剣になると、 もはや実用 の武器ではない。
十握や八握は手を握 った拳
(こ
ぶ し)の ことであ り、十握は拳
10の 長 さをい
うので あろう。一拳が 8cm位 であるとすれ ば十握剣の長 さは約 80cmと い う
こ とになる。
12
1月
福岡県前原市 の三雲遺跡か ら有柄 中細
形銅剣 が出土 して いる。中細形銅剣 であ
るか ら時代 は少 し下が り弥生時代 中期後
半頃 の もの といわれて いるが、十握剣や
八握剣を考え る場合 の参考 になる。 この
剣には柄 の と ころや剣 の刃の ところが握
るような形を している。 この ような形が
10個 分あ るのを「十握剣」、 8個 分 あ
るのを「八握剣」 とい うのではな いだ ろ
うか。
ちなみ に二雲遺跡 の有柄 中細形銅剣 の
長さは 52cmで ある。一 握 りは 5-6
cmと い うことになる。
図 6三 雲遺跡 出土 の有柄 中細形 銅剣
細形銅剣 は弥生時代 中期前半頃の もの
である。天孫降臨 は「十握剣」を実 用 の
武器 と して使用 して いるか ら、天孫降臨
の時期 は弥生時代 中期前半頃であろうと
思われる。
図
6
三 雲 遺 跡 出 土 の有柄
中細 形銅剣
13
■lLi
l
第 1章
l
弥生渡来人と「天孫降臨」
(2)吉 武高木遺跡
福岡市西区の飯盛・吉武地区の第四次発掘調査が
1983年
7月
-1984年
3月 にかけて行われ、吉武高木遺跡が発掘 された。飯盛 山と室見川 の 間にあ り、
飯盛 山か ら派生す る標高 20-30メ ー トルの扇状地にある。 ここはまさに天孫
降臨の推定地 である。
図 7 吉武高木遺跡 の位置
『吉武高木』
(福 岡市埋蔵文化財調査報告書第
143集 1986年
福岡市
教育委員会)に よれば、吉武高木遺跡はほぼ次のような遺跡である。
■吉武高木遺跡 は弥生時代前期末か ら中期初頭にか けて の特定集 団 の甕棺
墓・木棺墓地 である。
■甕棺墓 34基 と木棺墓 4基 が 出土 している。甕棺墓 2基 以上 と木棺墓 3基
の上には花 商岩 。安 山岩礫が 『標石』 として載せてあった。
■ 4基 の木棺墓 の 中では 2号 木棺墓が中心的な位置を占め、墓墳長 4m50
cm、 木棺長 2m50cm、 幅 lmを 測る。木棺底面は U字 形を呈 してお
り割竹形木棺 と考え られる。 1号 木棺墓、 4号 木棺墓 も棺床が U字 形 とな
っている。
■ 3号 木棺墓は両小 日板を深 く埋め込む組合式木棺墓 で、他 の木棺墓 と形式
が異 なる。吉武高木遺跡 では多鉦細文鏡をは じめ最 も副葬品 の多 い木棺墓
である。
■ 2号 、 3号 木棺墓には一枚板か らなる花商岩の標石、 4号 木棺墓 には花 商
岩・ 変成岩 の礫を組み合わせた標石が載 っていた。
■出土遺物では、 2号 木棺墓 の首 と推定 される部分に 0・
8cm前 後 の管玉
を配 し、手首付近には長 さが lcmを 越える管玉を巻いていたのではない
か と思われる。
■ 3号 木棺墓は、多鉦細文鏡をは じめ 3種 4回 の青銅利器、玉類が集 中 して
いる。その中で銅矛 と銅文の片面には布が遺存 していた。布 目順郎氏 の鑑
14
」HE
︱︱
1 洲甘
野 方
室 見
向
川
飯盛 山
^
吉武高
[ロ
金武
図 7 吉武高木遺跡の位置
定によると、これ らの繊維は絹布で、しか も国産 の可能性がつ よいとのこ
とである。
吉武高木遺跡か ら出土 した遺物の一覧表 も掲載 されている。
表
1
吉武高木遺跡出土遺物一覧
特に 3号 木棺墓か らは多鉦細文鏡、細形銅剣 (2)、 細形銅矛、細形銅文、お
よび勾玉、管 玉
(95)が 出土 している。これ らの副葬品か ら、 3号 木棺墓は「 日
本最古の王墓 」であるといわれている。
15
Ll__
弥生渡来人 と「天孫降臨」
第 1章
遺 構
番 号
100
109
110
出
土 器 型 式
金
金
金
海
海
海
嚢
111
115
116
117
棺
墓
125
金 海
金海(域 ノ越
全海(城 ノ越
金 海
)
)
金
海
1
(城 ノ越 )
2
(城 ノ越
3
(城 ノ越 )
)
木
棺
墓
4
(城 ノ越
)
土
遺
細 形銅 剣 31式
管 王 (10)
鋼 夕││(2)
勾 玉 (1)
管 王 (74)
管 玉 (92)
細 形銅剣 BI式
細 形銅剣 BI式
細形銅 剣 BI式
勾 二 (1)
管 玉 (42)
ガ ラス小玉 (1)
磨 製石 鏃 (1)
物
:十
(1)
1
1
1
細 形銅 剣 BI式 (1)
管 玉 (20)
細形銅 剣 B II式 (1)
勾 玉 (1)
管 二 (135)
多鎧 細文 銑 (1)
細 形銅 剣 BI式 (1)
細形銅 矛 A式 (1)
細形銅 剣 C式 (1)
細 形銅 支 B式 (1)
勾 王 (1)
管 王 (95)
細形銅 剣 B式 (1)
測
値 (Cm)
全長 29.8
長軸 0.7-09
外径 7.3 内径
長軸 25
長輸 0.7-1.1
長軸 0.4-1.5
現 存長 29.9
現 存長 29.1
全長
長軸
長軸
径
全長
備
66
表
1
吉武高木遺跡出土遺物 一覧
16
碧工 製
先端部 を欠 く
先端部 を欠 く
37.2
2.8
ヒス イ製
碧玉 製
藍色
有 茎式
07-15
0.2
11_2
全長 29 7
長 軸 │08-1.3
現存 長 29 3
長軸 35
長軸 0.5-1.6
直径 11.1
全長 33.5
全長 20.5
全長 30.2
全長 27 1
長 軸 40
長軸 0.5∼ 1
全長 26.0
※ 土 器 型 式 お よ び 青 銅 器 の 分 類 は 森 貞 次 郎 氏 の 論 考 に な ら っ た 。土 器 形 式 の (
考
関 の 一 方 を欠 く
碧玉 製
断面は蒲鉾形
ヒス イ 製
碧玉製
碧王 製
先端 部 を欠 〈
ヒス イ製
碧玉製
妾 面 を上 に して 出土
一 方 の 面 に絹布 が付 着
一 方 の面 に絹布 が付 着
ヒス イ製
碧玉 製
)内
は 副葬 土 器 。
(3}吉 武高木遺跡 の年代
寺沢薫氏 は『考古学
その見方 と解釈 上』 (筑 摩書房 )所 収 の「 弥生時代 の
青銅器 とその マツ リ」 の 中で、朝鮮半島の青銅器様式を六期に分 け、それぞれの
期についてその特徴を説明 している。その第二期 と第四期は次 のよ うに書かれて
いる。
「第 二期」・¨紀元前三 世紀 の遼寧青銅器文化 の色彩が薄れ、細形銅剣 が
生みだされて朝鮮半島独 自の青銅様式が確立す る段階。
細形銅剣 I式 の他、多鉦粗文鏡、小銅鐸、銅や りがんな、 防牌形銅飾、
済環付双鉦銅飾 な どが新たに加わ り、後半頃には細形銅矛 I式 が出現す
る。
また、中国式銅剣 (桃 氏剣 )や 戦国式銅文、鉄製農耕具類 など中国の金
属器文化 の波 も流入 して くるのが特徴 である。
「第四期」・¨紀元前三 世紀末 か ら二 世紀末 の朝鮮製青銅器様式 の高揚期
である。新 たに細 形銅文 A類 が創 出され、細形の銅剣 (1、 Ⅱ式 )。 銅
矛・銅文 の武器がでそろ う。多鉦鏡は粗文鏡か ら細文鏡に変移 して、前
代以来 の斧、彗、小銅鐸 などと共存す る。大同江流域では後半頃か ら車
馬具が出現 しは じめ、南部では銅鈴が盛行す る。
寺沢氏は次 に 日本 の青銅器文化 について次のように述べている。
日本の青銅器が様式的に整 う、弥生時代前期末 ― 中期初頭段階 は、実用
性に富んだ細形銅剣 I式 、細形銅矛 I式 、細形銅文
I、
Ⅱ式 a類 を主体
としつつ も、長身化 した細形銅剣 Ⅱ式や有文儀器化 した細形銅文 B類 が
出現 し、これ らに多鉦細文鏡が伴 うことな どか らして、青銅製武器 が儀
器的兆候を もちは じめ、朝鮮製青銅器 じたいが衰退をは じめる第四期終
末 の ものがス トレー トに流入 したと考えてよいだろ う。
17
1・
第 1章
'1
弥生渡来人 と「天孫降臨」
吉武高木遺跡か ら出土 した青銅利器を「表
1
吉武高木遺跡 出土遺物 一覧」で
見 ると、細形銅剣は I式 がほとん どであ り、 Ⅱ式が 1本 ある。細形銅文は B式 で
ある。寺沢氏 のい う朝鮮半島の第四期終末頃 (紀 元前 2世 紀末頃)に あた り、 日
本 では弥生時代前期末か ら中期初頭であるとい う。
吉武高木遺跡 には朝鮮半 島 の 青銅器文化 が その まま持 ち込 まれて いる と い
う。鏡は多鉦細文鏡 である。多鉦細文鏡 は朝鮮半島で作 られた鏡であるといわれ
る。細形銅剣 も朝鮮半島で造 られた銅剣である。天孫降臨のとき、「此の地は韓
国に向か っているか ら甚だ吉い地」であると述べ ているのは、朝鮮半島か ら渡来
してきたか らであろう。高天原は朝鮮半島にあると思われる。
(4)吉 武高木遺跡と大型建物跡
吉武高木遺跡で特 に注 目したいのは鏡・剣・玉の三種の神器が出土 しているこ
とである。三種の神器が出土 した最古の遺跡であるといえる。
天孫降臨の時、天照大神は運運藝命に三種の神器を授ける。
八坂瑣 の 曲玉 、及 び八腿 鏡 、草薙剣 の三 種 の宝 物 を賜 う。
『紀 』一 書第 一
迩迩藝命はこれ らの宝物を持 って天孫降臨する。吉武高木遺跡か ら出土 した多
鉦細文鏡 。銅剣・勾玉はその三種の神器ではないだろうか。
1985年 2月 にはさらに驚 くべ き発掘があ った。吉武高木遺跡か ら東へ 50
-60メ ー トルの地に大型建物跡が発掘 されたのである。現地の説明板には次の
よ うに書かれて い る。
『吉武高木遺跡
1985年
大型建物跡』
(昭 和 60年 )2月 、第 6次 調査。
弥生時代 中期は じめ (紀 元前 2世 紀頃 )の 大型建物跡。
18
(9.6m)、
(12.6m)。
建物跡は東西 (梁 行 き)の 柱間が 4間
南北 (桁 行 き)の 柱間が 5間
四面に 5柱 間づつの廻 り縁 らしい ものがつ く。
床面積は 120ぽ 以上で我 が国で最古 。最大 の大型建物 の跡 と
考え られる。
平成 6年 3月
福岡市教育委員会
この大型建物跡を高殿 として復元 した図がある。
図 8 大型建物跡 とその復元
復元は若林弘子氏が福岡市教育委員会の依頼を受けて行 っている。若林氏は毎
日新聞 (1992年 12月 4日 )に 『私はこうして復元 した』と題 して復元 した
ときの考えを述べておられる。その中に「それを魏志倭人伝に記す「楼観」、つ
まり古代神権政治の正庁「高殿」 とみる復元案にまとめて提出 した」とある。
吉武高木遺跡の墓は列をな してお り、それが磁北 より東へ 30-45度 程度ふ
れ る方向に整然 と配置 されている。大型建物跡 の柱列 もこれ とほぼ同 じ方向に並
んでいる。吉武高木遺跡 と大型建物は互 いに深 い関係にあ ることがわかる。
大型建物跡 と吉武高木遺跡 の位置関係 は『吉武遺跡群
Ⅶ』
(1995年
福
岡市教育委員会 )に 載 っている。吉武高木遺跡は大型建物跡 のほぼ真西 にある。
図 9 吉武高木遺跡 と大型建物跡
19
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第 1章
弥 生 渡 来 人 と「天 孫 降 臨 」
古 武 吉 本 遺 路
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宙 殿
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①
鎮 元 平 面 回
図
『富 士
8
大 型建物跡 とその復 元
宮下文書』とい う古文書を集大成 した史書がある。山梨県富士吉田市
の宮下家が代 々保管 してきた富士山の浅 間神社秘蔵 の 古文書を三 輪義 7熙 氏が調
査・研究 し、大正十年に『神皇紀』として出版 した ものである。復刻版が 『神皇
紀』
(日
本国書刊行会 )と して出版 されてお り、簡略本 としては鈴木 貞一著 『 日
本古代文書 の謎』 (大 陸書房 )が ある。私は 『神皇紀』を 『宮下文書』と呼ぶ こ
とにす る。その中に次 のよ うな記述がある。
火照須尊は高天原 の金 山の陵より吾父母即ち天孫二柱 の御霊・剣・鏡を
日向の可愛 の 山裾 の長井宮に遷 し祀 り奉 りき。後、霊・ 剣・鏡を その宮
の西 の可愛 の 山陵に葬 りぬ。
『宮下文書』
20
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図 9 吉武高木遺跡 と大型建物跡
火照須尊 (ほ てるすのみ こと)と は 『記』の火照命 であ り、海佐知毘古 (海 幸
彦 )で ある。邁邁藝命 と木花之佐久夜昆賣
(こ
のはなのさ くや ひめ )と の間に生
まれた子である。 『紀』には次 のよ うに書かれて いる。
天 津彦彦 火瑣瑣 杵尊 (に に ぎのみ こと)崩 ず 。因 りて筑 紫 の 日向の可愛
『紀 』
の 山陵 に葬す。
『宮下文書』では 『紀』の伝承 とは異 な り、迩迩藝命 の遺体 は高天原に埋葬 さ
れて いる。火照須尊は、高天原 の金 山か ら迩迩藝命 と木花之佐久夜昆賣 の二柱 の
御霊・剣・鏡を 日向の可愛の山裾の長井宮に遷 し祀 り、のちに長井宮 の西 の可愛
の 山陵に葬 したと書かれている。
21
171
第 1章
弥生渡来 人 と「天 孫 降臨」
長井宮は東にあ り、陵 (墓 )は 西 にある。大型建物跡 と吉武高木遺跡の位置関
係に ピッタ リである。
F宮 下文書』には御霊・ 剣 。鏡を埋葬 したとあるが、 これは三種の神器 ではな
いだ ろうか。御霊 とは勾玉であろう。吉武高木遺跡 の 3号 木棺墓か ら出土 した勾
玉・細形銅剣・多鉦細文鏡を い うのではないだろ うか。
吉武高木遺跡か らは甕棺墓 34基 と木棺墓 4基 が出土 しているが、副葬品が多
いのは木棺墓 である。木棺墓の方が身分の高 い人 の墓で あろうと思われる。 4つ
の木棺墓 の うち、 3号 木棺墓以外はすべ て割竹形木棺墓である。墓 の底面に U字
形 の跡が残 っている。 ところが 3号 木棺墓 だ けは両小 日板を深 く埋め込む組合式
木棺墓 であるとい う。現在 の棺桶 に足が付いて いると考えればよい。何故棺桶 に
足を付 ける必要があるのだろうか。現在の棺桶 のよ うに箱形に作 る方が棺桶は安
定す る。足を付 けると下 の地面 との間に隙間ができてかえ って安定 しな い。
3号 木棺墓 には遺体 は埋葬 されていなか ったのではないだろうか。 『宮下文
書』 に書かれているように、三種の神器 のみが埋葬 されて いたのではないだ ろう
か。 3号 木棺墓 の実測図がある。
図
lo 3号 木棺墓実測図
この実測図を見 ると、管玉・ 勾玉、剣、鏡等 は実にきれいに置かれて いる。左
側 の剣 と文は重な った り、ゆがんだ りもしていない し、右側の矛 と剣 と鏡 も丁寧
に置かれたままの状態である。 もしこれ らが遺体に付 けられて いた り、遺体 に立
て掛 け られて いたのであれば、 このよ うなきれ いな状態 では出土 しないであろ
つ。
3号 木棺墓 に遺体が入れ られて いた とすれば副葬品は当初か ら遺体 の横 にき
ちん と並べ て置かれて いた ことになる。そ うであれば木棺墓 の大 きさが気 にな
る。 3号 木棺墓 の幅は 70cmし かない。 これ らの副葬品を遺体 に立て掛けた り
しないで遺体の脇 に並べ て置 くことはで きない。左 の文 と右の矛の間は 25cm
位 しかない。
22
1」
■
また この木棺墓 に遺体を入れるとすれば、遺体は重 いか ら棺長が 2mも あれば
よほど丈夫な底板を使用 しな いと底が抜 ける し、横板にも足をつ けな いと倒れや
す くなる。遺体を入れるのであれば棺 には足が無い方がよい。現在 の棺桶を見れ
ば明 らかである。
3号 木棺墓には遺体は無か ったのであろう。 3号 木棺墓に足 があるのは両小 日
板 の足だけで棺を支える設計 にな っていたか らではな いだ ろうか。尊 い御霊 と剣
と鏡を入れるのであるか ら、それ らが地面に直接触れ ないように作 られて いたの
であろ う。 3号 木棺墓は三種 の神器を入れるために特別に設計 された木棺墓であ
ろうと思われる。おそ らく神殿 (長 井宮 )に 祀 るために足の付 いた台を作 り、 そ
れを神前に安置 し、それをそのまま埋葬 したのではな いだ ろうか。
『宮下文書』 に、火照須尊が父母 (迩 迩藝命 と木花之佐久夜昆賣 )の 御霊 と剣
と鏡を長井の宮に祀 り、の ちに 日向の可愛 の 山陵に埋葬 したという記述は遺跡 と
完全に一致す る。
天孫降臨 の地は『記』『紀』か ら推定 したが、その場所か ら『宮下文書』 に書
かれた神殿 と墓が出土 している。 『記』 『紀』 も『宮下文書』 も史実を正確 に伝
えて いたので ある。
23
第 1章
弥生渡来 人 と「天孫 降臨」
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図
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10 3号 木棺墓実測図
24
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3
天孫降臨 と伊都国
(1)日 向三 代
『紀』によると、迩迩藝命は死去すると日向に埋葬される。
天津彦彦火瑣瑣杵尊 崩ず。因 りて筑紫 の 日向の可愛 の 山陵 に葬す 。
『 日本書紀』
迩迩藝命 (彦 彦火瑣瑣杵尊 )は 筑紫 の 日向の可愛 の 山陵 に埋葬 されたとある。
(『 宮下文書』では三種の神器 だ けが埋葬 されて いる。 )
迩迩藝命 の子である彦火火 出見尊 (ひ こほほでみのみこと)も 死去す ると日向
の 山に埋葬 される。
彦火火 出見尊崩ず。 日向の高屋 の 山上の陵に葬す。
『 日本書紀』
彦火火 出見尊 の子 の彦波激 (ひ こな ぎさ)武 鵬鵬草葺不合 (た けうがやふ きあ
えず )尊 も日向に埋葬 される。
彦 波激武鵬 鵬 草葺不 合尊 、西 洲 の 宮 に崩ず 。因 りて 日向の吾平 の 山上 の
『 日本 書紀 』
陵 に葬す 。
迩迩藝命、彦火火 出見尊、彦波激武齢鵜草葺不合尊 の三代は 日向に埋葬 されて
いる。 したが ってこの二人を「 日向三代」と呼んでいる。次は神武天皇 の世にな
る。
彦波激武鵬鳩草葺不合尊、其 の族 (お ば)王 依姫を以 て妃 と為す。彦五
瀬命 を生む。次 に稲飯 命。次 に三毛入野命。次 に神 日本磐余彦尊 。
『 日本書紀』
25
第 1章
弥生渡来人 と「天孫降臨」
神 日本磐余彦尊 (か むやまといわれひ こ)が 神武天皇 である。迩迩藝命が天孫
降臨 したのは紀元前 2世 紀末頃である。神武天皇が「東征」するのは西暦 250
-270年
頃である。 (詳 細は別書 )
迩迩藝命か ら神武天皇 までは約 400年 ある。 この 間を『記』『紀』は 3代 と
している。 3代 が 400年 ということはあ りえない。
『宮下文書』では彦波激武鵬鵜草葺不合尊は一人ではな く、 51代 あ り、すべ
て同 じ名前である。鵬鵬 草葺不合王朝がは じまるときに次 のよ うな取 り決めがな
されているか らである。
■即位 の時は「高天原へ参上 して御神託を受 け、三 品の大御宝を捧げて大御
位を授け賜 り、天下に君臨 して四方を治めよ」。
日「 国名を宇家澗
の諄を宇茅
(う
(う
がや )不 二合須 (ふ じあわす )国 と定め、神皇 の代 々
がや )葺 不合尊、神后 の代 々の諄を多摩夜里毘女尊 と定め、
其 の神皇 の代 々の論を宇家澗不 二合須尊、神后 の代 々の論を宇家澗不 二合
毘女尊 と定め給 き」。
鵬滋
島草葺不合 王 朝 は宇茅葺不 合尊 という同 じ名前を代 々継承す るように定め
られている。
宇茅葺不合尊 51代 に、通迩藝命 と彦火火 出見尊 の 2人 を加えると 53代 にな
る。 53代 で約 400年 であれば 1代 の平均在位は約 8年 である。 これな ら現実
的な在位年数であろ う。
『宮下文書』によると、定めに したがい 2代 目が即位す るときに高天原 へ 向か
う。 しか し事故 に遭 う。
初め皇太子不三 高王命は、母皇后 の摂政 の党えますや、高天原 に上 り大
御位を阿祖 山太神宮なる天 つ大御神に授け賜 らむ として、第二の皇子奈
加尾王命 と共に、書属三十六神を支 り加へて、御舟に乗 し不二 山を 目標
26
」
「
として渡航 しま しま しき。一 日、海上偶 々暴風烈 しく起 り、且つ不 二 山
よりも黒雲巻き来 り、御舟倭 (た ちま)ち 粉砕せ られ沈没 しにけ り。尾
羽張の国造尾羽張彦命、急騎変を高千穂の宮に以聞ま しぬ。尾羽張彦命
は、天別天之火明命 の第一の御子 にま しま して、諄を源太記男命 とい
ふ 。宮中変を聞き、愕然為す所を知 らず。即ち是れ、高天原の大御神 の
赫赫 たる威霊 の然 らしむる所な らむとな し、乃 ち諸神谷属相議か り、第
二の皇子千穂高王命を、皇太子 とな しま しぬ。則ち皇太子は、百 日沐浴
斎戎 して、身を清め心を誠にな しま して、更に亦春属を従へ 、御舟に乗
して不二 山を 目標 と して大海を航 しませ るに、四海波静に して、事な く
高天原に上 りま しき。乃ち阿祖 山太神宮 の天 つ大御神 の御神殿に於て、
鵜茅葺不合尊 の諄即位式を行 はせ給ふ。高天原惣司令神稲 田雄命は、三
品 の大御宝を、尊 の天窓に捧げ奉 る。
『宮下文書』
皇太子は 2代 目を継承するために第 2皇 子をともない高天原へ上ろ うとして
海上で暴風に遭 い死去する。代わって三男が 2代 目に即位 している。
『宮下文書』には宇茅葺不合尊 51代 について、このような具体的な ことが書
かれている。
『記』 『紀』では彦波激武鵬鵜草葺不合尊は一人である。それは同 じ名前であ
るために伝承する間に一人になったのではないだろうか。
『宮下文書』の方が『記』
『紀』よりも正確に史実を伝えているといえる。
(2}伊 都国と鶴鵜草葺不合王朝
『記』 『紀』は鵜葺草葺不合命の子供を次のように書 いている。
是 の天津 日高 日子波 限建鵜葺草葺不合命、其 の嬢玉依昆賣命を姿 りて生
みませ る御子の名は五瀬命。次に稲氷命。次に御毛沼命。次に若御毛沼
命、亦 の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波礼毘古命。
27
『古事記』
鰤
第 1章
'1 . │
弥生渡来人と「天孫降臨」
彦波激武鵬鵜草葺不合尊、其の嬢玉依姫を以て妃 となす。彦五瀬命を生
む。次 に稲飯命。次 に三毛入野命。次 に神 日本磐余彦尊。凡そ四男を生
『日本書紀』
む。
『宮 下文 書 』 は、 51代 目の鵬 鵜草葺不 合尊 の子 を次 の よ うに書 いて い る。
皇太子海津彦五瀬王命、二皇子天津稲飯王命、三皇子 三毛野人野王命、
四皇子 日高佐野王命、五皇子阿田美椎津彦王命、六皇子高倉 日本王命、
『宮下文書』
七皇子軽身大久保王命。
四皇子 の 日高佐野 王命が神武天皇である。 『記』『紀』には第四皇子 まで しか
書 かれて いないが、 『宮下文書』では五皇子、六皇子、七皇子 もいた ことが書 か
れて いる。
鵬鶴草葺不合王朝 は 51代 続 き、最後 の王の子である五瀬命や神武天皇が「神
武東征」をす る。その時期は 250-270年 頃である。出発地は福岡県前原市
である。鵬鵜草葺不合王朝は 51代 の期間中、福岡県前原市 にあったと思われる。
一方、 この時期 は邪馬萱国の時代である。前原市には伊都国があった。伊都国
は 「世 々王有 り」 と書かれて いる。伊都国 と鵬鵬草葺不合王 朝 は時期 も場所 も完
全に重なる。鵬鵜草葺不合王朝 とは伊都国ではないだろうか。前原市 には弥生時
代 の王墓が続いている。
・ 弥生時代 中期後半
■三雲南小路遺跡 ・……
甕棺 墓 。鏡
(34)、
細 形 銅剣 、有柄 中細銅 剣 、 中細 銅 文 、 中
細銅 矛 、 ガ ラス製 璧 、ガ ラス製 勾 玉 、管 玉 、金銅製 四葉座 飾 金
具等
■井原鑓溝遺跡
甕棺墓。鏡
■平原遺跡
・ 弥生時代後期初頭 ?
・…・
(21)、
武器類、 巴形銅器、鎧 の板 の如 きもの。
弥生時代終末 ―古墳時代前期
」
「
方形周溝墓 (割 竹形木棺墓 )。 鏡 (39)、 ガラス製 の勾 玉・ 管
玉 。小玉、メノウ製 の管 玉・ 小玉、 コハ ク製丸玉・ 管 玉、刀子、
鉄素環頭大 刀。
これ らの遺跡は出土品の多 いことか ら「王墓」であろうといわれている。伊都
国の地にあるか ら伊都国王の墓であろう。
前原市 の最古 の王墓 は弥生時代 中期後半 か らは じまる。紀元前 1世 紀頃であ
る。
一方、吉武高木遺跡は弥生時代前期末 ― 中期初頭頃 に始まり、中期前半 には終
わるとい う。中期中葉以降 は吉武高木地域 には王墓は造 られな くな るという。天
孫降臨 した人 々の子孫 は吉武高木地域か ら他へ移 っていると思われる。前原市 (伊
都国 )へ 移 ったのではな いだろ うか。
(3)海 幸彦・ 山幸彦物語
吉武高木 遺跡 は火照須尊 (火 照命 )が 父迩適藝命 と母木花之佐久夜毘賣 の御
霊・ 剣・鏡を埋葬 したところである。吉武高木地域は火照命が支配 していた地域
であるといえる。
火照命は海幸彦 である。海幸彦・ 山幸彦 の物語 は概略次 のよ うに『記』に書か
れて いる。
火遠命 (山 幸彦 )は 山の獲物を捕 って生活 していた。兄 の火照命 (海 幸
彦 )は 海 の獲物を捕 って生活 していた。ある時、山幸彦 は海幸彦に獲物
を捕 る道具を取 り替 えることを申 し出る。三度お願 い してや っと取 り替
えることができた。しか し山幸彦は一 匹の魚 も捕 ることができな いばか
りか、借 りた大切な釣 り針を失 って しまう。替わ りの釣 り針を 500個
作 り償 お うとす るが兄の海幸彦 は どう して も元 の釣 り針 を返 せ とい
つ。
29
』:1111
第 1章
弥生渡来人と「天孫降臨」
困って いると、そこへ塩椎神が来て、小舟に乗 り綿津見神 の宮に行 くよ
うに勧める。そ こへ行 くと豊玉毘責 (ひ め)に 合 う。三年経ち、山幸彦
は失 った釣 り針を得て帰る。この とき塩盈珠 (し おみつ たま)と 塩乾珠
(し おひるたま)を 貰 う。 この珠のお陰で山幸彦は海幸彦 との争 いに勝
つ。負けた海幸彦は「僕は今 よ り以後、汝命 の昼夜 の守護人 とな り、仕
えまつ る。」といい降服す る。
この説話は海幸彦 と山幸彦 の戦 いを物語化 した もので あろう。火照命 (海 幸
彦 )は 戦 いに敗れる。勝 った方 の 山幸彦 (火 遠命、穂穂手見命、火火 出見尊 とも
い う)の 子 の鵬鵬草葺不合命が鵬鵬草葺不合王朝を樹立する。初代の鵬鵬草葺不
合尊 である。
吉武高木遺跡は弥生時代 中期前半で終わる。伊都国は弥生時代 中期後半か らは
じまる。 山幸彦 の子供 の時代 と伊都国のは じまる時期はほぼ一致す る。海幸彦・
山幸彦 の物語は天孫降臨 した集団が二手 に分かれて争 いを し、勝利を収めた集 団
が今 までの居住地である福岡市西区の吉武 高木地域か ら高祖 山を越えて、前原市
の方へ移 ったことを伝えて いるので はないだろ うか。吉武高木は火照命 (海 幸彦 )
が支配 していたところで ある。山幸彦はそれを嫌 ったのであ ろう。
前原市 (伊 都国)の 王墓か らは鏡が異常 に多 く出土す る。三雲南小路遺跡か ら
は 34面 、井原鑓溝遺跡か らは 21面 、平原遺跡か らは 39面 もの鏡が出土 して
いる。弥生時代の中では鏡 の最多出土地である。 この王朝が如何に鏡を大切な も
の として尊んでいたかが伺える。天 孫降臨 の時、天照大神は迩迩藝命に次 のよ う
に命 じている。
この 鏡 は 専 ら我 が御 魂 と為 し、 吾 が 前 を拝す よ うに いつ き奉 れ 。
『古事記』
『紀』の一書第二に も次のように書かれて いる。
30
」
「吾が児よ、
天照大神、手に宝の鏡を持ち、天の忍穂耳命 に授けて曰く、
この宝の鏡を視 ることはまさに吾を視るが如 し。床を同じく、また殿を
共にすべ し。以て斎 (い わい)の 鏡となせ。」という。
『 日本書紀』一書第二
天孫降臨 した人 々にとっては鏡は天照大神の御魂であ り、最 も大切な祭器であ
る。伊都国の地に鏡が異常に多いのは、伊都国が天孫降臨 してきた人 々の子孫の
居住地だか らではないだ ろうか。子孫達は天照大神の言葉を堅 く守 り続けてきた
のであろう。
『記』『紀』が書かれたのは 7世 紀か ら 8世 紀にか けてである。天 孫降臨は紀
元前 2世 紀末頃 のことである。「鏡を いつ き祀れ」 という天照大神 の言葉 は約 8
00年 以上 も伝承 され、それが 『記』『紀』に記録 されて現在 に伝え られて いる
のである。
{4)吾 田
(阿 多 )に つ いて
天孫降臨の記述に、「吾 田の長屋 の笠 狭碕」 とある。吾 田の 中に長屋 がある。
「長屋」の「長」は福岡市南区か ら西区にかけての地域の地名である。吾 田はそれ
らの地域を含むより広 い地域を い うのであ ろう。
『紀』は海幸彦・ 山幸彦 の話 の最後 に、海幸彦 (火 関降命 )は 「吾 田君小橋等
の本祖 な り」と書 いている。戦 いに敗れ た海幸彦 は吾田の小橋 の祖 にな っている。
その小橋君は神武天皇 とも関係がある。 『記』に次 のよ うに書かれている。
日向に座 (い ま)し し時、阿多之小椅 (お ば し)君 の妹、名は阿比良比
賣を婆 りて生める子、多藝志美美命、次に岐須美美命、二柱座 しき。
『古事記』
31
1皿
_二
第 1章
ll口
ⅢIII■ 齋■l ll■
│
弥生渡来人と「天孫降臨」
神武天皇は東征 に出る前、すなわち 日向に居 るときに阿多 の小椅君 の妹 である
阿比良比賣 (ひ め)を 妻 っている。「 阿多」 は 『紀』の「吾 田」であろう。小椅
は小橋である。神武天皇 は山幸彦 の子孫 である。阿多の小椅君は海幸彦 の子孫 で
ある。神武天皇は海幸彦 の子孫である阿比良比賣を妃に迎えて いる。
妃 の名前は「阿比良」である。 この「阿比良」は地名ではな いだろ うか。「長
丘」、「長住」、「長尾」とい う「長」 の付 く地名 の西南 にそびえる山は油山で
ある。麓には東油山・ 西油山とい う地名 が今 もある。 この油山の油が「 油 (ア ブ
ラ)=ア フラ =ア ヒラ (阿 比良)」 ではないだろうか。「長丘」、「長住」、「長
尾」は「吾 田」の 中にあ る。東油山や西油山も「吾 田の油山」ではないだろうか。
阿比良姫 は「吾田の阿比良 (油 )の 姫」 となる。神武天皇は前原市 (伊 都国 )の
皇子である。その皇子が油山の麓 の「吾 田の小橋君 の妹 である阿比良 (油 )の 姫」
を嬰 ったのではないだろうか。地理的 にも近 い。
山幸彦 との戦 いに敗れ た海幸彦 は吉武高木地域か ら追われて この油 山の麓 に
移 ってきたのではな いだ ろうか。
図
11 伊都国 と油山
海幸彦 (火 関降命 )は 『紀』 に「是れ隼人等 の始祖な り」 とあ り、 また 『記』
には「隼人阿多君 の祖」 とある。阿多隼人 である。 この海幸彦 の子孫がのちに鹿
児島県 に移 り、 『和名抄』 の薩摩国阿多郡阿多郷 ができたのであろ う。
32
川
〓
一 一 一 一 一 一
一
一
一
一
一
11
=川月
川月十
・
・
・
︲
前原市
(伊 都 国
)
室
高亀山
見
日向 峠
油 山
背
図
11
振
山
地
■)吉 武高木遺跡
伊都国 と油山
4
(1〕
高天原 はどこか
高天原 へ の道
高天原は朝鮮半島にあると思われる。その位置について調べてみよう。
『宮下文書』 には、国常立尊 と国狭槌尊が高天原へ 来 るときのことが書かれて
いる。高天原 の位置 はそれか ら推定できる。 『宮下文書』 には、まず国常立尊お
よび国狭槌尊が高天原へ移住す る概要が書かれて いる。
33
HE皿 _
上上_
第 1章
弥生渡来人と「天孫降臨」
高皇産霊神は「蓬莱国は我が御子二柱の神の知さむ国なり」といい、ま
ず国常立尊を派遣する。しか し久 しく復奏がない。高皇産霊神はいた く
憂えて、親 (み ず )か ら国狭槌尊をはじめ諸 々の伴緒を連れて天降る。
遂に高天原に着 くが国常立尊の方はまだ来ていない。高皇産霊神は国常
立尊 に会わずに死去する。その後 に国常立尊は高天原に到着 し、国狭槌
尊か ら父高皇産霊神が死去 したことを知 らされる。国狭槌尊は高天原に
住み、その南と東を統治す る。兄の国常立尊 は高天原の西に住み、西と
『宮下文書』 (概 要 )
北を統治する。
『宮下文書』は、次に国狭槌尊 (『 宮下文書』では農佐比古尊 ともいう)が 高
天原へ行 く道程を詳 しく書 いている。箇条書きにすると次のようになる。
■一族春属三千五百神を率 いて、御父母二柱 の大御神を守護 して、蓬莱 山の
煙を 目標 として天降 り、遂に大海原 に天降 りま しま しき。
■その着きませ る島を附島 (つ くしま)と いい、行 き過ぎませ る島を行島 (ゆ
き しま)と いい、着きませ るときに見えける島を附地見島 (つ くちみ しま)
とい い、南に見えける島を南島といい、休みて通 りませ る島を休通島 (き
ゅうつ うしま)と い う。
■黒鳥に導かれて一小島に着き、また導かれて大陸島に渡る。故にその小島
を佐渡島とい う。
■それよりまた導かれて原谷を経て一原野に出る。そこを野登 (の と)と い
う。 さらに山を越え大原 に出る。その地を家賀 (か が )と 名づ く。
■また黒鳥に導かれて幾多 の 山川を経、幾多 の原野を辿 る。赤顔 の獣七疋来
たれ り。吾将に食料蓋 きなむ とす。その獣 の導 くまま食料を探 さ しめたま
う。すなわち山を越え谷を渡 り行 くこと五 日に して原野に出る。一帯稲穂
な りけり。獣は途 中で別れ去 りぬ。その地を分佐 (わ かさ)と い う。
34
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■また他の七疋の赤顔の獣に会 う。導かれて遂に海浜に出る。その獣、魚骨
を以て釣 り針をつ くり魚を釣 ることを教えける。その稲穂の多 くあ りし地
を稲場 (い なば)と いい、稲場へ 通 り行 きま しし地を田路場 (た ぢば )と
いい、釣 り針を作 り釣 りを した所を針美 (は りみ)と いい、大御神 の止 ま
り し地を田場 (た ば)と い う。
■前後十 四疋 の赤顔 の獣来 た り会す。幾多 の黒鳥 と十四疋の獣 に導かれて、
又 山を越え進み、高 い原野に出る。さらに上 りその頂に達す。東南はるか
に蓬莱 山の現わるるあ り。その山を飛太 山 (ひ たやま)と いい、その地を
飛太野 (ひ たの)と い う。
■又導かれて進む。その地 を記祖路
(き
そぢ)と い う。
■又進みて大なる平野に出る。大川三流あ り。 その地 を三川野 (み かわの )
という。これよ り進みてようや く蓬莱 山の麓に近 くな る。その地を住留家
野 (す るがの)と い う。
■又進みて蓬莱 山の 中央に登 り来ませば、ついに大原野に出る。大原野には
水 あ り、火 の燃え る所あ り、湯 の湧 く所あ り。草木大 いに繁茂 してその実
多 し。ここを穴宮 の大御宮 という。常に蓬莱 山を遥拝ま しま して、その状
貌、世に類少な く二つ となき山なるにより高砂の不二 山 (ふ じやま)と 名
付 け、その高 い地に火 の燃え、かつ 日に向へ るによ り日向 (ひ むか )の 高
地火 (た かちほ)の 峰と名付け、麓 の冬木多 き所を青木 ヶ原 と名付け給 う。
穴宮所在の丘を阿田都 山 (あ たつやま)と 、その大原野を高天原 と名付 け、
山の祖 山なるによ リーに阿祖谷 (あ そたに)ま たは阿祖原 とぞ称 しぬ。
■また不二 山一 円を津久居 (つ くい)と 名付け、東 の大原野を津久波 (つ く
ば )と 、その奥を奥波 (お くば)と 名付 く。また不 二 山西南 の地は一帯海
に面 し、一望千里なるにより遠久見留州 (と お くみる くに)と 名付 け、不
二 山西北すなわち記祖地・飛太野 の北方一帯は遠 く蓬莱 山を探 し、多 くの
山川を越えて来ま ししにより越地 (え ち)と 名付 け給 う。
国狭槌尊は このよ うな苦労を重ねてや っと高天原へ着 く。
1 1
第 1章
││
11回
│‖
弥生渡来人 と「天孫降臨 」
(2)高 天原 の位置
高天原 へ 向か う時、まず「大海原に天降 りま しま しき」とある。船に乗 って 出
発 している。「大 海原」 とあるか ら大海であろう。次に上陸地点について次のよ
うに書 いている。
a。
その着 きませ るときに見えける島を附地見島とい う。
b.南 に見える島を南島とい う。
附地見島については後に次のよ うな事件が起 こる。
c.西 国より豊玉武毘古命馳せ来た り奏す らく、「西北の大陸より大軍附地
見島に攻め来たれ り」と。
西国 とは高天原の西側にある国であろう。 この記事か ら、附地見島は高天原 よ
り西にある ことがわかる。上陸す るときに西には附地見島が見えてお り、上陸後
は東へ 向か っていることがわか る。
南には南島が見えたとある。朝鮮半島の南岸に上陸 している。上陸 して しば ら
く行 くと「海岸に出て釣 りを した」とある。海岸に沿 って東へ 向か っている。そ
こか らさらに原野や 山川を越えて高天原 に到着す るが、高天原か ら見える周囲の
状況について次のように書いている。
d.高 天原 の穴宮か ら常に蓬莱山を遥拝す。その 山は二つ とない比類無 き美
しい山であるか ら高砂の不二山と名付 け、また 日に向か っているか ら日向
の高地火 の峰と名付 けた。不二 山の西南 の地は一帯が海に面 している。
36
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巳
不 二 山は 日に向か って いるとあるか ら高天原 の南 に不 二 山が あるので あ ろ
う。 その不 二 山を「遥拝 している」とあるか ら不二 山は高天原 か らかな り遠 いと
ころにあ る。高天原 の南 には広 い陸地があ ることがわかる。
また「不 二 山の西南 の地は一帯海 に面 して いる」とあるか ら、不 二 山の西 と南
は海である。不 二 山は朝鮮半島の南岸 に突き出た半島の西南 の角 にあることがわ
かる。
また『宮下文書』には、海幸彦・ 山幸彦物語 として高天原 での出来事が次 のよ
うに書かれて いる。
e
.山 幸彦
(火 遠理命 )は 兄 の海幸彦 (火 照須命 )と 約束を して試みに猟具
を取 り替 えて、高天原 の北の大谷にある底大湖にて終 日釣 りをすれ ども一
魚 も得ず。 (中 略 )兄 の海幸彦 は弟の山幸彦が釣 り針を失 い謝すれ ども免
じまさざるのみな らず大軍を率 いて攻め殺 さむ と し給 いき。ここに高天原
の八 百萬神 は義兵を起 こ して兄の海幸彦 の大軍を撃 ち、大 いにこれを破
る。つい に兄の海幸彦を底大湖 の西北 の大山の原野 に追い給 い き。
高天原 の北には大谷 があ り、そこには湖 (底 大湖 )が あ り、その西北 には大 山
があって原野が広が っているとい う。
以上 の記述か ら総合す ると、高天原は慶尚南道酒川郡酒川付近であろうと思わ
れる。北 の湖 (底 大湖 )と は晋陽湖 であ り、 その西北の大 山とは智異 山 (191
5m)を は じめ、 1000m級 の 山々が連なる小 白山脈であろう。その 山々と晋
陽湖 (底 大湖 )の 間は原野 である。『宮下文書』の記述 とよ く一致す る。
酒川 の南は半島のよ うに南 に突き出て いる。その西南の角には臥龍山
m)が ある。まわ りの 山は 400m-500m級
(799
であ り、 800mも ある臥龍 山
は遠 くか らで もよ く見え る。 しか も西 と南は海に面 している。 『宮下文書』の記
述 とよ く一致す る。
37
」THI
「
第 1章
弥生渡 来 人 と「天 孫 降臨 」
不 二 山 (臥 龍山)は また鵬鵜草葺不合王朝が即位 の時に高天原に参上するとき
の海上か らの 目印である。「不 二 山を 目標 として渡航す る」とある。 臥龍山は海
上か らもよ く見える。
朝鮮半島南部には これ以上の適合地はない。高天原は慶 尚南道酒川郡酒川付近
であろ うと思われる。
高天原へ の行程を整理す ると次のよ うになる。
大海を航海 して朝鮮半島の南岸へ着 く。その 島を附島 (つ くしま)と い う。お
そ らく高興郡道陽邑辺 りであろ う。附島は「つ くしま」であ り、大陸に付 いてい
るとい う意味であ り、半島のことで あろう。
上陸す るときに見えたという附地見島は全羅南道長興郡、および海南郡であろ
う。附地見島は「つ くちみ しま」であ り、大陸に付 く島の意であ り、やは り半島
であろ う。「奥附地見、前附地見」と書かれているか ら半島が二つ並んでいる。
さらに「 附地見島より早馬にて来た り奏す らく、西大陸より大軍攻め来たれ り。
(中 略 )附 地見島は西大陸に近 きによりしば しば外冦を蒙れ り」とある。西大陸と
は中国であろ う。海南郡 はまさに西大陸に近いところにあるc
附島か ら「黒鳥に導かれて一小島に着き、また導かれて大陸島に渡る」とある。
小島は費城湾にある得根島ではないだ ろうか。
全羅南道賓城郡 の海岸 (賓 城湾 )に 上陸 して、北へ 向か い賓城市へ行 く。そこ
か ら現在の国道 2号 線 とほぼ同 じ道を通 り、東へ 向か う。山あ り、谷あ りの道で
ある。やがて海岸に出て、海 で魚を釣 ったとい う。国道 2号 線 も順天湾 の海岸を
通る。魚を釣 ったとい う海岸は筏橋か、九龍か、水徳であろう。そこか らまた山
野 の道を通る。 2号 線に沿 って晋州市まで来 る。そこか ら南へ 国道 3号 線 と同 じ
道を通 り高天原 (酒 川 )へ 来 たのではないだ ろうか。
図
12
高天原 の位置
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晋陽 湖
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巨済 島
対馬
図
12
高天原 の位置
(3)高 天原周辺 の遺跡
『古文化談叢』第 8集 に、沈奉謹氏が「慶南地方 出土青銅遺物の新例」 として
慶 尚南道 山清郡丹城面 白雲里・山 90番 地か ら出土 した遺物を紹介 している。(藤
日健二 訳 )
39
上__
第 1章
弥生渡 来 人 と「天孫 降臨 」
晋陽湖の上流の徳川江の流域で、智異山の人口である中山里と大源寺 に
い く分岐点で智異山山麓に属する山中である。この遺跡はその周囲に立
石や支石墓等の先史時代の遺跡が分布 していて、人間がこの地域で生活
しはじめた時期はかな り以前のことと推察される。
このよ うに述べ て、ここか ら細形銅剣 4、 銅矛
1、
銅や りがんな 1な どが出土
したことを紹介 している。
図
13
慶尚南道 山清郡丹城面 白雲里出土遺物
沈氏は「 白雲里 出土遺物は我が国の細形銅剣の形式分類上第 Ⅱ形式に属 し」、
「第 Ⅱ式細形銅剣 中では古式に属す る」と述べ 、「 その実年代は BC2世 紀頃に推
定 され る」と述べ ている。
慶 尚南道 山清郡丹城面 白雲里は晋陽湖か ら智異山へ行 く途 中にある。『宮下文
書』の海幸彦 ・ 山幸彦物語では「兄の海幸彦を底大湖 の西北 の大山の原野に追 い
給 い き」とある。底大湖は晋陽湖であ り、その西北 の大 山は智異 山である。 白雲
里付近 は海幸彦が追われて住み着 いた 原野 と思われ る。時代 も BC2世 紀 で あ
り、一致す る。
また 『古文化談叢』第
17集 に、沈奉謹、鄭聖喜両氏
(藤 口健二訳 )は 「東亜
大学校博物館所蔵の青銅遺物新例」 として次のよ うな遺跡を紹介 している。
○三千浦市馬島洞出土の青銅遺物
■場所 慶 尚南道南海郡 昌善島と三千浦市の間に点在す る島
。出土遺物
細形銅剣 1… 典型的な細形銅剣の形態か らはずれた変形 した銅剣
と考え られるので 、細形銅剣 中では後期に属すると見 られる。
細形銅矛
銅鎧
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その他 (土 器、ガラス玉 3)
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の金具 が 3例 出土 している。
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1-日 本 では「双頭管状銅器」と呼び、対馬で も同種
銅製異形金具
矛
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図 13 慶尚南道山清郡丹城面 白雲里出土遺物
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第 1章
弥生渡来 人 と「天 孫 降臨」
・ 時期
韓国青銅器時代 の遺物 中では後期終末段階。紀元前 1世 紀を前後す
る時期であろう。
図
14
三千浦市馬島洞出土遺物
○南海・小草島出土の粟粒文十字形把頭飾
■場所
慶 尚南道 南 海郡 昌善面 堂 項 里 の 小草 島 (三 千 浦市 馬 島洞遺 跡
と隣接 )
。出土 遺物
・平壌付近 と対馬 か ら出土 した例 が あ
粟粒文十字形把頭飾 1・・
る。
無文土器
。時期 対馬豊 玉村 出土の もの は弥生時代後期に編年 される広形銅
矛 Bと ともに出土。
15
図
南海郡小草島出土粟粒文十字形把頭飾
このよ うに紹介 し、「馬島洞と小草島は地域的に近接 してお り、同時期 の対馬
島とともに南海岸一帯に同一 内容 の文化圏が形成 されていたのか もしれない。」
と述べている。
三 千浦市は臥龍 山の ある陸 の突 き出た西南 の角にあ り、海 上 交通 の要所 であ
る。鵜葺草葺不合王朝は即位 の度 に、伊都国 (前 原市 )か ら壱岐 。対馬を経て、
三千浦市馬島洞や南海郡小草島を通 り高天原へ行 ったと思われる。遺跡はそのル
ー トを証明 しているのではないだろ うか。時期的にも一致す る。
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南海郡小草 島出 土 粟
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図
14
②
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三 千 浦 市 馬 島洞 出 土 遺 物
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第 1章
IⅢ
│
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I
弥生渡来人 と「天孫降臨」
5
弥生渡来人のルーツ
天孫降臨 した人 々は日本列島に弥生時代 中期 の文化を もた らした。日
本列島は青銅器時代 とな り、北部九州 では甕棺墓が盛行す る。
これ らの新 しい文化を もた らした弥生渡来人は朝鮮半島の南部 (高 天
原 )か ら渡来 してきた。『宮下文書』によれば、天 孫降臨 してきた人 々
はさらに他所か ら高天原へ来 たとい う。彼 らは何処か ら高天原へ来 たの
であろ うか。弥生渡来人 のル ー ツを調べ ることに しよう。
(1)骨 か ら見た弥生渡来人
1995年
4月 29日 、「東ア ジアの古代文化を考える会」主催 の「市民大学
講座」 『 日本人 とは』の中で、土井 ヶ浜 遺跡 。人類学 ミュー ジアム館長松下孝幸
氏は『弥生人のはな し 一九州・ 山口の 弥生人 と中国の古人骨』 というテ ーマで
次 のよ うな話をされ た。
○弥生時代か ら形質 が変化 し始める。現代の 日本人に見 られる形質 の地域差
の原型が この時代にできた。
■九州 ・ 山口地域では三つの タイプの弥生人が存在す る。
つの タイプの弥生人
a
「北部九州・ 山ロタイプ」の弥生人
・ 高顔 (顔 の高さが高 い、顔が長 いと もい う)
。鼻根部 (鼻 の付 け根 )が 扁平
。高身長
男性 =162-164cm程
度
女性 =150cm程 度
・ 埋葬形態 (施 設 )=甕 棺
(山 口県西海岸を除 く)
44
」
。遺跡 の立地 =平 野部
・ 生産形態 =主 に農業
(山
(山
口県西海岸 を除 く)
口県西海岸 を除 く)
。地域 =佐 賀県 、福岡県 、熊本県の平野部、山 口県西海岸
・遺跡例
佐賀県 :二 塚山、朝 日北、志波屋六本松、志波屋 四の坪、
吉野 ケ里
福岡県 :金 隈、横隈狐塚
山口県 :土 井 ヶ浜 (豊 北町 )、 中の浜 (豊 浦町)、 吉母浜
(下 関市 )
島根県 :古 浦
b。
「西北九州タイ プ」の弥生人
・低・広顔 (顔 の幅が広 くて、高さが低 い、顔 の輪郭 は丸か正方形 )
・ 眉上弓の隆起が強 く、鼻骨 が隆起 し、鼻根部 が陥凹 してお り、ホ
リが深 い容貌
・ 低身長
男性 =158cm程 度
女性 =148cm程 度
・風習的抜歯 を行 っている。
・ 埋葬形態 (施 設 )=土 墳墓、石棺墓
・ 遺跡 の立地 =海 浜部
・ 生産形態 =主 に漁労
。地域 =長 崎県、佐賀県 、熊本県 の海浜部
。遺跡例
長崎県 :深 堀、出津、宮 の本、宇久松原、根獅子 、浜郷
佐賀県 :大 友
熊本県 :沖 の原
45
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弥生渡来人と「天孫降臨」
第 1章
C
「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人
・ 著 しい「低・ 広顔」 (西 北九州弥生人 の特徴が さらに顕著 )
。強 い「短頭性」 (頭 を上か らみた形が円に近 い)
・ 著 しい低身長
男性 =153-155cm程
度
女性 =141-145cm程
度
・風習的抜歯を行 っている。
・ 埋葬形態 (施 設 )=土 墳墓
。遺跡の立地 =海 浜部
・生産形態 =主 に漁労
・地域 =鹿 児島県 の南端 と離島群
・遺跡例
鹿児島県 :成 川、広田 (種 子島)、 鳥の峯 (種 子島)、 椎 の木
(馬 毛島)、
宇宿港 (奄 美大島)、 宇宿 (奄 美大島)、 面縄 (徳 之島)
沖縄県 :真 志喜安座間原 (宜 野湾市 )
□弥生人の地域差の 出来
「北部九州 。山ロタイ プ」の弥生人
縄文人 の特徴がま った く認め られな い。 (大 陸か らの渡来民 )
h︶
「西北九州タイプ」の弥生人
縄文人 の特徴
(こ の地域の縄文人の子孫であろう)
「南九州 。南西諸島タイプ」の弥生人
縄文人 と連続 しない。
(渡
来人 の可能性がある。 )
この二つ の タイ プの 弥生 人 の分布 図が テキス トに載 せて あ る。
図
16
九州 ・ 山口地域 にお け る三 つ の タイプ の 弥生 人 の分布
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/
ヽ
/
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西北 九州
北 部九州 ・山 口
卦 中
志 波 量 六本 松ι
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・ 全瞑
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∼
ヽ
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て
^分
ヽ
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南 九州 ・ 離 島
図 16 九州・ 山口地域における三つのタイプの弥生人の分布
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第 1章
」□且
│
弥生渡来人と「天孫降臨」
九州 の甕棺墓か ら出土す る人骨は「北部九州 ・ 山ロタイ プの弥生人」で あり、
大陸か らの渡来人であるとい う。
吉武高木遺跡や前原市 の伊都国の墓は甕棺墓が中心である。甕棺墓 は渡来人の
墓である。吉武高木遺跡や伊都国の人 々は渡来人であるとい うことになる。そ の
中で も吉武高木遺跡はもっとも古 い遺跡 の一つである。骨か らも、吉武高木遺跡
は天 孫降臨 してきた人 々の墓であるといえる。
松下氏は中国大陸の中に弥生時代直前の人骨で「北部九州・ 山ロタイプ」に似
たものがないかを調査された。
○ 中国、韓国調査経過
1989年 10月 17日 -10月 30日
1990年 2月 4日 -2月 11日
1990年 10月 2日 -10月 11日
1990年 11月 26日 -11月 29日
中国 :江 南
中国 :北 京、西安
中国 :江 南、華南
韓 国 (釜 山市 、慶 尚南
道 :三 千浦市 )
1991年
28日 -10月 15日
9月
中 国 (北 京 、 山 東 省 、
福州、上海 )
1991年 10月 30日 -11月
1日
韓国 (釜 山市、慶州市 )
慶 尚北道 の厚浦里遺跡 出土人骨
1992年
9月
28日 -10月 14日
中国 :山 東省 、新彊 ウ
イグル 自治区
1994年
1月 5日
-1月 19日
中国 :山 東省 (臨 鴻 )、
吉林省 (山 東省 と共同研究開始 :九 四年 一九六年 )
1994年 10月 27日 -11月 10日
中国 :山 東省 (臨 溜 )
これ らの調査 をふ まえて、松下氏 は次 の よ うに述 べ られ る。
48
「 山東省 (臨 溜 )の 前漢時代 (お よび戦国末 )の 人骨は北部九州・ 山ロタイプ
の弥生人 に酷似 している。」
弥生 時代 に渡来 して きた「 北部九州 ・ 山 ロタイ プの弥生 人 」のル ー ツは 中国 の
色で あ る可能性 が 高 い といえ る。
山東省 臨γ
DNAか
らの研 究 も進 め られて い る。 1996年
10月 19日 の熊 本 日日新 聞
に次 の よ うな記事 が載 って い る。
東大理学部 の植 田信太郎助教授 (人 類学 )ら は、約二千年前 の 中国・ 山
東省臨γ の遺跡か ら出土 した人骨 と、同時期 の弥生時代の佐賀県千代 田
町託 田西分
“ (た くたに しぶん )遺 跡か ら出土 した人骨の DNAを 分析。
遺伝子の配列が特定 の部分で 同 じ人が いることを確認 したと十八 日、佐
賀県 で 開かれている日本民族学会連合大会で発表 した。
発表者 の 同大学院生、大田博樹 さんは「 同 じ配列 だか ら祖先が一緒 とは
いえないが、遺伝的に祖先は近 いといえる。弥生人は大陸か ら来たとい
う渡来説 が遺伝学的にも矛盾 しないことが わか った」 と話 している。
松下孝幸氏によると、このDNAの 研究も日中合同研究の一環と して進められ
ているものであり、今年
(1997年 )末 頃には研究成果が発刊される予定であ
るという。
(2}『 山海経」の倭
倭 の位置 に関す る最 も古 い記録は『山海経』であろ う。『 山海経』は春秋時代、
および戦国時代に書かれた ものに、晋 の郭瑛
(276-324年 )が 注を入れ た
もので あるとい う。 その 中に倭に関す る記述がある。
49
第 1章
弥生渡来人と「天孫降臨」
『山海経』海内北経
蓋国在鍾燕南倭北倭属燕
(訳 )蓋 国は鍾燕の南、倭の北に在 り。倭は燕に属す。
鍾燕 とは燕のことである。燕は戦国時代に北京市 の近 く (莉 )に あった国であ
る。当時、燕は北 と南に二つ あった。戦国七雄の一つ である燕は北 の燕である。
南 の燕は小 さな都市である。 この二つ を区別するために、北の燕を大きな燕 とい
う意味で鍾燕 とい ったのであ ろう。
従来は、この倭を 日本列島であると解釈 した。「蓋国は燕の南、倭 の北に在 る」
とあるか ら、蓋国は燕と日本列島の間にあると考えた。
しか しこの解釈は 日本列 島を基準に した解釈であ り、中国を基準に した解釈で
はない。 『 山海経』は中国人が中国人のために書いた書物 である。中国を基準 に
して解釈 しなければな らない。従来 のよ うに倭を 日本列島であるとすれば、 日本
列島 (倭 )は 燕 (北 京市 )の 南にあるとい うことになる。 これは明 らかに誤 りで
ある。
「蓋国は燕の南にある」とい う。燕 の南は今 の北京市 の南であるか ら、黄河の
下流域辺 りになるであろう。蓋国はこの辺 りにあ ったと思われる。
従来は『山海経』の倭 の記事 だ けを取 り出 して解釈 してきたと思われる。その
ために「倭」とあればそれは 日本列島であると単純に考えたので あろう。 『山海
経』 のこの記事を理解す るには、『山海経』の全体が どのような構成にな ってい
るかを知る必 要がある。
『 山海経』は次 のよ うな構成にな っている。
第一
南山経
第二
西 山経
第二
北山経
第四
東 山経
第五
中山経
第六
海外南経
海外 自西南阪至東南阪者
50
盟
第七
海外西経
海外 自西南阪至西北阪者
第八
海外北経
海外 自東北阪至西北阪者
第九
海外東経
海外 自東南阪至東北阪者
第十
海内南経
海内東南阪以西 者
第十一
海内西経
海内西南阪以北者
第十 二
海内北経
海内西北阪以東者
第十三
海内東経
海内東北阪以南者
第十四 大荒東経
東海之外
第十五
大荒南経
南海之外赤水 之西流沙之東
第十六
大荒西経
西北海之外大荒之隅
第十七
大荒北経
東北海之外大荒之 中河水 之間
第十 八
海内経
東海之内北海之隅
『山海経』
第十二の「海内北経」の 中に「蓋 国在鍾燕南倭 北倭属燕」がある。 『 山海経』
の「海内」 には東西南北 の 4つ があ り、次 のよ うにな っている。
「海内南経」
「海内東南阪以西 者」 (海 内の東南隅か ら以西 )
第十 一「海内西経」
「海内西南阪以北者」 (海 内の西南隅か ら以北 )
第十二「海内北経」
「海内西北阪以東者」 (海 内の西北隅か ら以東 )
第十三「海内東経」
「海内東北阪以南者」 (海 内の東北隅か ら以南 )
第十
「海内」 の範囲を知 るには「海内東経」か ら見て い くのが一番わか りやす いだ
ろう。「海内東経」 は「海内の東北隅か ら以南」とあ る。その中に書かれて いる
地名は次 のよ うなものである。
・ 鍾燕在東北阪
・娘邪墓在渤海開、嗅邪之東。
51
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マ
第 1章
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171
…
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弥生渡来人 と「天孫降臨 」
。会稽山在大楚南。
『山海経』「海内東経」
・淮水出餘山。餘山在朝陽東。
「鍾燕在東北阪」とある。燕 (北 京市付近 )は 東北 の隅 にあるとい う。 この東
北 の隅か ら以南が「海内東経」である。そ こには「取邪墓」や「渤海」や「政邪」
がある。 山東省 である。次に「会稽山」が出て くる。 上海 の南にある山である。
東北 の隅の燕か ら南 の 山東省へ 、さらにその南 の上海へ と続 く。まさに 「海内東
経」は「東北 の隅か ら以南」である ことが わかる。 『山海経』の東西南北 の方角
は中国を中心 とした地理の方角 と合致 しているc
これ らの地域は渤海や黄海より内側 (中 国を中心 として )に ある。 これが「海
内」である。 したが って 「海内」には朝鮮半島や 日本列島は含まれない。
次に「海内南経」をみよう。
・ 駈居海 中
・間在海中
・桂林八樹在番隅東
『 山海経 』「海 内南経 」
これ らは現在 の浙江省や福建省である。「海内南経」は「海内東南阪以西者」
とあるか ら、 これ らの地域か ら西である。
次に「海内西経」である。
。在鷹門北
。鷹門山……在高柳北
・ 高柳在代北
『 山海経』「海内西経」
「鷹 門 」「 高柳 」 「代 」は現在 の 大 同市 に近 い とこ ろにあ るc「 海 内西 経 」 は
「西 南 の 隅か ら以北 」とあ るか ら西南 の 隅 か らこの大 同市 あた りが「海 内西経 」で
あ る。次が 問題 の「 海 内北経 」で あ る。
52
・蓋国在鍾燕南倭北倭属燕
・ 朝鮮在列陽東海北山南
『山海経』「海内北経」
・ 蓬莱 山在海中
「海内北経 」は「海内西北阪以東者」 とある。西北 の隅 とは「海 内西経」でみ
た大同市付近 である。そ こか ら東である。 「海内東経 」には「鍾燕在東北阪」 と
ある。東は燕 あた りまでである。大同市 あた りか ら燕までが「海内北経」である。
。
「海内北経 」に朝鮮 が出て くる。 この朝鮮 は周や春秋 戦国時代 に燕 の東 にあ
った国である。朝鮮半島ではない。
(こ
れについては後述す る)こ れ も同 じく東
北 の隅にあ る。
次 に「蓬莱山在海中」 とある。「海内」 とは この海 中の 内側 とい う意味であろ
ぅ。 したが って蓬莱 山は「海内」ではない。蓬莱山は「海内北経」の 中には含 ま
れな い。 この記事 は海中に蓬莱 山があ るとい うことを紹介 しているにすぎな い。
これで海内を一 周 したことになる。『山海経』にある「海内南経」「海内西経」
「海内北経」「海内東経」を図示す ると次 のよ うになる。
図 17 『山海経』の海内東西南北経
『山海経』を このように見て くると、東西南北 の方向は中国を中心 と した地理
の方角 と一致 して いる。
「海内北経」 には「 蓋国在鍾燕南、倭北。倭属燕。」 とある。「 蓋国は燕 の南
にある」か ら、北京市 の南にあ る。そ こはまた「倭 の北」であるとい う。倭 も北
京市 の南にあ ることがわかる。
蓋国は「海内北経」の 中に書かれて いるか ら「海内北経」の範囲内にある。お
そ らく燕に近 い河北省 の黄河下流域あた りにあるのであろ う。
「倭 は燕に属す」とある。倭 も燕 の南 にあ り、燕 に近 いところにあると思われ
る。黄河 (河 水 )と 済水 の 間にあ るのではないだ ろうか。
この地域は山東省の臨鴻に近 い。臨7“ か らは「北部九州・山ロタイプの弥生人」
に酷似 した人骨が出土 して いる。また DNAも 弥生渡来人 と祖先が近 いとい う。
53
11‖
第 1章
1111
弥生渡 来 人 と「天 孫 降臨」
(海 内 北 経 )
0
太 原
湾
︵海 内 東
︵海 内 西 経
洛 陽
上海
△ 【衣
7ヾ q目
(海 内 南
図 17 『 山海経』の海内東西南北経
松下孝幸 氏 に よる と、臨 鴻 は、当時の漢 の都 で ある長安 よ りも人 口の多 い大都
市 で あ り、各地 か ら多 くの人 々が集 ま って暮 ら して いた とい う。倭 人 も一 部 の 人
が 臨湯 に住 み着 いて いたの で はな いだ ろ うか。 その倭 人 の骨 が 出て きたので あ ろ
つ。
図
18
『 山海経』の倭 と臨
54
燕
0
(北 京
土
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図 18 『 山海経』の倭と臨γ
55
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