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(ボランティア派遣報告)(PDF形式:1795KB)

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(ボランティア派遣報告)(PDF形式:1795KB)
1 ボランティア派遣(自主的)
今回の震災においては、自主的にボランティアに参加した職員がいた。
(期間・被災場所)
2011 年 4 月15 日~4 月 17 日 宮城県石巻市(湊小学校避難所)
(活動内容)
支援物資運搬・搬入、支援物資配布、避難所施設修繕、避難所周辺環境整備、不要物品
搬出・運搬
(得られたこと)
訪問時期は震災およそ1ヶ月後で、破壊され押し流された建物や自動車などが避難所周
辺で瓦礫の山となっていました。また、地盤沈下により満潮時は避難所のすぐ近くまで潮
が満ちてきました。
支援物資の配布においてはバーゲンセールの購買客整理のような状況で、人々のたくま
しさを感じる一方、ストレスや羨望によるものか避難所居住者と自宅居住者の間にわずか
ながらも軋轢があるように思われました。
自然災害の恐ろしさを再認識しました。生命を守るためには、とにかく安全な場所へ逃
げることが最も大切だと感じました。
(副主幹 鈴木 洋人)
当時の石巻市の様子
91
(期間・被災場所)
2011 年 7 月 8 日~7 月 11 日 宮城県七ヶ浜町
(活動内容)
発災から 4 ヶ月あまりが経過していた時期であったが、まだまだ瓦礫の撤去が手付か
ずのところがいっぱいあった。
他の地域と比較してボランティアセンターが充実していたように感じた。またスタッ
フを支える多くのみなさんがいることを実感した。
想像を絶するほどの被害を受けており、復興には長い年月がかかるように思った。
ボランティアセンターは中央総合公園が最適
ツイッターやネットなどの積極的な活用が必要、iPad を活用することにより 実効性、
効率性が格段に向上すると思われるので、ぜひ研究してみてほしい
(部長 齋藤 理彦)
積み上げられたガレキ(七ヶ浜町)
まだ、手付かずの場所もあった(七ヶ浜町)
92
2 市民災害ボランティア
今回の東日本大震災にあたり、岡崎市では、岡崎市社会福祉協議会と共同し、市民
から「市民災害ボランティア」を募集した。
市民災害ボランティアでは、災害ボランティア研修を行ったのち、ボランティア
登録をしていただき、その都度、ボランティアの参加者を募った。
バスの手配等は、岡崎市・岡崎市社会福祉協議会が行い、職員も同行した。
(1)
災害ボランティア研修会
内容は、被災地の現況報告、災害ボランティアとしての心構えや注意事項である。
講師は、岡崎市在住の鈴木盈宏 氏(愛知県社会福祉協議会ボランティアセンタ
ー運営委員長)に依頼した。
第1回
4月 23 日開催
第2回 7月2日開催
224人受講
92人受講
計 316人
研修会受講者のうち、256人がボランティア登録していただいた。
研修会の様子
93
(2)
市民災害ボランティアの派遣(社会福祉協議会と共催)
ボランティア登録していただいたかたに対して、その都度、募集を行っ
たところ、次のとおり、派遣することができた。
<東日本大震災>
1次
2次
3次
4次
派遣期間
活動先
人数
5.9~13
宮城県七ヶ浜町
19人
岩手県大船渡市
19人
個人宅の清掃、瓦礫の撤去、写真
の洗浄、救援物資の仕分け
水産加工工場の片付け、側溝の泥
だし、救援物資の仕分け
岩手県大船渡市
20人
水産加工工場の片付け、側溝の泥
だし、避難所の片付け
岩手県大船渡市
19人
水産加工工場の片付け、側溝の泥
だし
6.20
~
24
7.26
~
30
8.22
~
25
主な活動
5次
9.7~10
岩手県大船渡市
19人
河川の清掃、個人宅の清掃
6次
10.5~8
岩手県大船渡市
18人
水産加工工場の片付け、瓦礫集積
所の清掃
延べ114人(男性84人・女性30人)
出発の様子
94
(3) 得られたこと
福祉保健部職員の声
(状況)
・
5月(宮城県七ヶ浜町)行ったときは、テレビなど報道で見るとおりでした。9
月(岩手県大船渡市)行ったときは、街自体は整然としているように見えますが、
被災したところと被災していないところとでは格差が大きいです。
・ 被災後、2ヶ月で瓦礫の撤去もできてなく、ボランティアの作業も家屋の泥だし・
家財の撤去など、主に一般家屋での作業が主体の状態であった。2ヵ月後の7月に
は個人的に同じ七ヶ浜にボランティアに行ったが、仕事の主体は一般家屋から側溝
の泥だしなど公共的な作業にそのウエイトが変化していた(5 月派遣)
。
・
港から2km程内陸にある大船渡市災害ボランティアセンターでは、近くまで津
波が押し寄せ、港の水産加工工場から流出した魚が道路の草むらに放置されたまま
のためか、魚の腐った匂いが漂っていました。港の近くの避難所は、高台にありま
したが、蝿が飛び交い、蝿取りの溶液を入れたペットボトルにはたくさんの蝿が捕
らえられていました。港では、瓦礫が集められ、分別をしながら瓦礫を山高く積み
上げていました。別の港近くの住宅地は、瓦礫の撤去が進み、更地となり、腐臭が
しないところもありました(6 月派遣)。
・
大きな被害のあった大船渡市、陸前高田市に対し、住田町のボラセンがボランテ
ィア基地を立ち上げ個人、団体ボランティアの宿泊場所を提供してくださったので、
多くのボランティアが長期間に渡り活動できた。災害の規模などにもよるが、周辺
の市町村が後方支援の体制を整えることが、ボランティア活動を進める後押しにな
ると思う(7 月派遣)
。
(得られたこと)
・ 本市の災害ボランティアセンター(VC)は、福祉会館に設置することになっていま
すが、被災地の VC の運営を垣間見て、大災害が起きたときはとても福祉会館では
耐えられないと感じました。社会福祉協議会と検討していきたいと思います。
・ 避難所では、支援物資が山となり、有効に活用されないまま放置されていました。
3か月経過していましたが、これから夏を迎えるというのに、冬服が袋詰めされて
いました。
支援をするときは、物資ではなく、義援金が一番有効であると思いました。物資
を被災地に送るということは、必要とする物資を地元で購入しないということにな
りますが、義援金の場合は、そのお金を地元で使うことにより、被災地の経済が活
性化し、復興の支援に繋がるからです。
・
七ヶ浜のボランティアセンターは、町役場と離れた場所にあり、町民からの直接
的な行政的な相談や苦情は少なく、また、隣接にボランティアが宿泊できるキャン
プ場もあり、ボランティアのコーディネートに専念できる環境あった。ボランティ
アたちもセンターでは被災者に見られないということもあり、リラックスできてい
た。当市で大規模な災害があったときは、市役所でなく中総など別の場所での開設
95
が望ましく感じた。
・
支援物資の片付けの際、善意かもしれないが、客観的に見て不用品と思われる物
資もあったので、災害時には被災地に迷惑とならないよう、本当に必要な支援が何
かを皆さんに知ってほしいと思った。
・
ある程度落ち着いたら、災害ボランティアの活動スケジュールを決めてから、作
業内容に応じた必要人員を確保するほうが効率があがる。
(前日の夕方でないと活動
内容が明らかにされなかったため)
。
大船渡市にて
96
榊原氏
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○手記 市民災害ボランティアに参加して
(上地小) 内田 憲郎
岡崎市東日本大震災第二次市民災害ボランティアに参加
(6 月 20 日~24 日:岩手県大船渡市)
○6月21日(火)曇り、活動初日
お き ら い
ボランティアセンター=VCで「越喜来地区・及川さん宅の側溝掃
除」を請け負った岡崎部隊男子15名は、2台のワゴン車に乗せられ
て20分ほどで現地に到着しました。山あいの道路を抜けてところに
あった越喜来は、典型的な三陸リアス式海岸中の小さな町でした。既
に道路や宅地のがれきは大方片付けられていて、遠く海が望める荒野
の中に、屋根まで津波でやられてぼろぼろになったガソリンスタンドがありました。そ
の経営者が及川さん夫婦で、驚いたことにそのスタンドはその状態で営業中なのでした。
私たちに任された仕事は、そのスタンドの前の長さ 30mほどのドブをさらうことで
した。これからの梅雨・台風シーズンに今の状態では水があふれる心配があるとのこと
でした。その時は「ドブさらいだったら村でもやっていただろうし、震災支援でやる必
要あるのかな」という気持ちもありましたが、VCの
スコップを持って早速取りかかりました。すぐに現実
が見えてきました。ドブの泥・ヘドロの中からありと
あらゆるものが出てきたのです。学生証、数珠、仏具、
習字バッグ、パソコンのマウス、穴あけパンチ、食器
類、麻雀牌・・・、そして無数のガラス片。道路や住宅の
がれきは片付けられ集積されつつあるとはいえ、津波
の痕跡はこんなところにもあったのです。
それらの生活用品を含んだ泥をどこにどうするかというと、取りあえず側溝に面した
畑に上げて積んで消毒剤を噴霧するのです。それでいいのかと思いましたが、津波に洗
われた畑にもガラスはたくさん散らばっていて、安全靴でなければ歩けない状態です。
山形、宮城、岩手などで津波被害にあった田畑には、塩害だけでなく農業の再開を妨げ
る大小さまざまながれき(この「がれき」という言い方も問題が多いです)が散乱して
いることに気付かされました。特に、木の葉のように海水中を舞ったガラス片は、農地
にしろ宅地にしろ復興の大きな障害になる気がします。
各自奮闘の結果、予定された時間までに側溝はス
ムーズな流れを取り戻しました。しかし、まだ大き
な石が二つ残っていました。すぐ近くでも活躍して
いる小さな重機(ユンボ)があれば簡単に持ち上げ
られそうですが、ボランティアにそんなものはあり
ません。しかし、こうなると
俄然&当然「やってやろう
ぜ」の気運が高まってきます。
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N村さん(60歳、給食会社勤務)のリーダーシップの下、必要な器材はがれきの中か
ら調達です。ロープ数本、木の棒、鉄骨を使って試みますが、あまりに重くて6人がか
りでも一度には道側に上がりません。途中で大石の下にかませた大きな四角い木は、よ
くよく見ると立派な碁盤でした。そしてついに2つの石も側溝から取り出し、みんなで
拍手。初日の活動は終了したのでした。
○6月21日(火)曇り、活動初日の昼食休憩時間
お き ら い
越喜来に入ってからずっと気になっているものがありまし
た。それは海の方向に見える学校でした。遠目にもそれは小学
校だとわかりました。わりと新しく洒落た外観だったはずの鉄
筋3階建ての校舎の全ての窓にガラスはなく、隣の体育館の屋
根も一部めくれています。幸いにも津波到来までに避難が完了
し児童職員全員無事だったことを休憩中に知りました。持参し
たパンで昼食をとり、GSの及川さん差し入れのペットボトル
の飲み物をいただいてから、休憩時間を利用してその学校を訪ねました。
学校は一段下がったところにあり、歩いてきた道路から簡素な鉄製の橋で校舎の2階
に直接入れるようになっています。立ち入り禁止の表示
はありません。声をかけようにも誰もいません。考えて
みればここは被災地、どこも危険と言えば危険で立ち入
り禁止の表示はどこにもしてありません。
「ならばここ
は自己責任で」と橋を渡って中に入りました。家庭科室、
普通教室、その上の3階は音楽室。すでに教室内はあら
かた片付けられた後なのかがらんとしています。使える
椅子や机があったなら、現在この小学校が間借りしている近くの小学校に
運ばれたのかもしれません。それでも足元には様々なものが散乱し壊れた
ピアノが残されています。運動場には近隣から持ち込まれたがれきがうず
高く積まれています。そして手を伸ばせば届きそうなところに、今は穏や
かな海(越喜来湾)が見えます。
こんな学校に来たのは初めてでした。月並みですが、言葉を失います。地震と津波の
直前まで、間違いなくここは私たちが勤務する学校と全く同じく、子ども達の学習と先
生方の教育活動の場だったのです。村のほとんどの方がこの学校を卒業し、運動会や学
芸会には学区住民が集まったことでしょう。全員無事避難は何より不幸中の最大幸福で
す。しかし校舎が廃墟の姿をさらし運動場ががれき置き場になっていること、まだしば
らくその光景がなくならないこと、そして多分この場所に越喜来小が再建できないであ
ろうことは、子どもたちや先生方だけでなく学区の人々にも不幸としか言いようがあり
ません。GSから見えた越喜来中は山手にあって被災を免れています。答えの出る問い
ではないと分かっていても「なんでここに学校を建てたのか」という疑問は頭を離れま
せんでした。
そこに子どもの声がして、楽器の音がして、草花や樹木が育
99
てられ、古くても手入れのされた校舎があるのが学校です。今はその全てを失った無人
の越喜来小を訪ねて、学校という空間が人々に与える癒しの意味、それを守り続ける
日々の営みの大切さ、学校が普通にそこにある日常のありがたさについて改めて考えさ
せてもらいました。
縁あって訪ねた越喜来小の今後は、遠くから見守り続けたいと思っています。
○6月22日(水)快晴、活動2日目
この日は、東北に着てからいちばんのよい天気でした。女子も含めた岡崎部隊20人
のほどんどは、ワゴン車に分乗し大船渡港に向かいました。そこは津波被害にあった「阿
部長商店大船渡食品」というでっかい水産加工会社の冷凍庫でした。冷凍庫といっても
大きな体育館をいくつもつなげたような巨大な建物です。冷凍庫だけあって、天井、壁、
床の全てに「スタイロフォーム」という畳ほどの大きさの断熱材が何重にも使われてい
ました。骨組みだけを生かして再建するため、その断熱材のがれきを、重機が砕いて小
さくし、人海戦術でアルミ缶回収に使うような大きなずた袋にどんどんと詰めていく作
業です。もともと魚の冷凍庫だけあって当然のこと
ながら、強烈な臭いです。すでに工場の中に魚の姿
はないのですが、道端にはタイ、サンマ、ヒラメ、
カツオ?などがあちこちに干からびた姿で転がっ
ていました。
断熱材は次から次へと出てきます。そのスピード
に負けないよう2人一組の手作業で破片を袋詰め
していきます。炎天下、何の変化もない単純作業が続きます。問題は暑さと
臭いです。断熱材についた黒い液体は魚の脂ですごい臭気、それに無数のハ
エが群がります。どんなに日差しが強くても帽子、長袖、帽子、ゴーグル、
防塵マスクは必須です。そこで全員が写真のような姿で断熱材と戦うことに
なったのです。仲間がいればこそできた作業でした。そこには「連合」のキ
ャップをかぶった8名ほどの頼もしい男性陣もいました。私が訪ねると、
「静
岡県教職員組合です」との答えでした。他にも若者が3人、私たちの来る前
から同じ仕事を続けていました。一人に「この会社の社員?」と聞くと、彼
はバイトで、「1ヶ月は川をやっていました。ここは今日が初めてです」と答えてくれ
ました。東北なまりのおとなしそうな青年で、それ以上は聞きませんでした。
このとき身に着けていた服は、臭いが残って洗う気にもならずほとんど捨てました。
1日で随分片付きましたが、まだ先の長い作業のようでした。先日、気仙沼港で震災以
来、初めてカツオの水揚げがあったと報じられましたが、東北の各地で一日も早く漁業
が復興してほしいものです。
100
3 ボランティア(職員組合)
◆1次派遣/3人/2011 年 4 月 10 日~2011 年 4 月 17 日
◆2次派遣/2人/2011 年 4 月 23 日~2011 年 5 月 1 日
◆3次派遣/2人/2011 年 5 月 7 日~2011 年 5 月 15 日
◆4次派遣/1 人/2011 年5月17日~2011 年5月 26 日
◆5次派遣/2人/2011 年 5 月 21 日~2011 年 5 月 29 日
◆6次派遣/2人/2011 年 6 月 4 日~2011 年 6 月 12 日
(1)
経緯
岡崎市では、自治労本部から各県本部に1チーム5人を編成して統一期間(8泊9
日)での派遣要請があった。
派遣先は、宮城県北部(気仙沼市、石巻市、塩竈市)である。派遣先の業務概要と
しては、支援物資仕分け業務(気仙沼市)、避難所運営業務(石巻市)、行政支援業
務(塩竈市)であり、ベースキャンプ(宿泊所)から業務場所へバス移動し、現地に
おいて24時間体制で業務を行うものであった。
業務は、複数チームで行い、交互に休憩を挟みながら実施となる。24時間業務後は、
宿泊所へバス移動し1日(24時間)休養した。
なお、参加職員は、庁内公募し、ボランティア休暇を取得して対応した。
(2)
得られたこと
・ 塩釜市は、沖合に点在する松島群島が防波堤の役目を成し、近隣の市と比較すれ
ばテレビで放映されたような津波による壊滅的な被害を受けず、死亡者も出ていな
いとのことでした。それでも海岸線の建物に押し寄せた波の痕跡をみると、約2m
の高さにまで達している様子や、陸に打ち揚げられた船、外壁が破壊された倉庫な
どが無残な姿で放置されたままでした。また、津波が運んできたと思われる粒の細
かい泥がいたる所に堆積し、これが風と共に舞い上がると目はほこりっぽくなり、
喉もいがらっぽくなるなど日常生活の環境としては相当苛酷な状況でした。塩釜市
役所が立地する場所は海岸線より多少高い場所にあるため、津波の直接的な被害は
なかったようですが、3階建ての庁舎の2階上部外側のコンクリートが剥がれ鉄筋
が露出している場所もありました。庁舎の耐震補強工事が3月 10 日に完了したば
かりで、完了検査も済まないうちのことではあったようですが、職員の方も補強工
事がなければ庁舎が崩れていたかもしれないという話もしていました(4 月塩釜市
派遣)
101
(得られたこと)
・ 現地職員対し、全国からの応援職員の数が多く、指示を待つ体制が逆に現地担当
職員の負担になることもある。被災地になった場合を想定し、担当職員の負担軽減
を考えるなら、指示する内容を先に明確にしておく必要があると思う。実際に全国
から応援が来ているのにもかかわらず、被災した家にも帰れない職員がいた(5 月
塩釜市派遣)。
・ 時間経過により被災者が必要とする支援物資は変化していく。また、避難所ごと
に支援物資が過剰・不足していた。真に必要な物資がタイムリーに被災者の手に届
く仕組作りが必要だと感じた。
仮設住宅に入りたくても入れない状況(学校や職場から遠い、職を失う等)が、
個別に違うので仮設住宅の申し込み/決定の方法等には工夫の余地があると感じ
た。
中長期の避難所設営を想定した避難所の運営モデル(自治運営、役割分担(掃除、
洗濯、炊事、体操等)の当番を設けること等)を事前に考えて避難所開設員等が理
解しておく必要がある(6 月福島県福島市・伊達市派遣)
○ 手記 前向きに生きていく。
支援活動としては避難所運営として福島市隣接の 伊達市梁川体育館に入りました。
ベースキャンプのホテル(福島駅)からは電車で40分程度です。24時間体制で朝
9時から翌朝9時まで運営補助でした。(翌日は一日休息)
以前は300人近くいたそうですが、 自宅へ戻ったり、アパート見つけたりと減
っていて、 現在58人と少ない方だそうです。 海岸沿いの南相馬市の人達が避難し
てきており、 家を流失した人、原発から10~20キロ圏内の 人達がいます。1歳
のお子さんもいます。南相馬市は福島県で最も亡くなられたかた、行方不明のかたが
多い市ですが、みなさん気さくな人達ばかり、とても家が無くなったり、知人が 亡
くなったりした人達とは思えないです。
「前向きに生きていく。」
そんな印象を受けました。
避難所生活は、食事や掃除など避難されたかたで当番制になっています。食事の配
布のお手伝い、被災者の方と話したり、味噌汁などを炊くお手伝いをしたり、子供や
高齢者の方たちとのコミュニケーションを図っています。
南相馬市の職員の方(偶然にも都市計画課の方)が二人詰めていて指示を受けてい
ますが、 原発の関係で自宅へは行けないそうです。南相馬市職員は夜7時過ぎに帰
りますが、県の職員が2人24時間体制で管理をしてくれているので、9時30分消
102
灯後は2階で仮眠はできます。避難されているかたもアパートや仮設住宅が思うよう
に 見つからない状況ですが、みなさん今後に向けて、一生懸命頑張ってみえました。
避難されているかたも既に三ヶ月近くたち、生活リズム、環境、やってほしいこと、
関わって ほしくないこと、自主的な当番制…と避難所生活が 確立されています。そ
んな中でお手伝いできそうな ことを声かけして、参加しました。炊き出し、配膳、 ガ
ラスふき掃除、ゴミの片付け、子供達との宿題、 サッカー、おじいさんおばあさん
の話し相手、朝の体操もいっしょにしました。お役に立てたかなとは思っています。
あるおばあさんは地震が起きて30分後に車で逃げて助かったけど、家も田畑も流
されて、残ったのは家の基礎だけ、おばあさんのお兄さんは 大丈夫だと言って逃げ
なくて、まだ不明のままだそうです。見つかってほしいと涙ぐんでいました。
自分の行った避難所がある伊達市では園児、 小中学生8000人に放射線量計を
持たせる2400 万円の補正予算が計上されました。南相馬市から避難してきても、
原発の不安はなかなか消えません。
避難所付近では民家の屋根等が地震のため破損していました。南相馬市については、
地震、津波の被害を受け、海岸沿いは住宅、田畑等流され、何もない状態でした。避
難所については、当番制による配膳や清掃等が行われており、効率的な運営が行われ、
健康管理、ボランティアの受入等、細かい点において市職員による管理が行われてい
ました。直接被災された方の話を聞いていると、震災の恐ろしさをあらためて感じる
ことができました。
やはり、まずは避難しなくてはいけない、そのための情報がほしいと強く言ってい
ました。普段過ごしていると、ついつい大丈夫だという感覚になり、避難しない人が
多くいたことが今回の被害につながったこともあるとのことです。
市民に今一度災害について認識してもらうこと、情報提供方法の整備等、具体的には、
あげられませんが、必要なことだと思います。
(6 月 4 日~6 月 12 日 福島県福島市派遣 都市計画課 主任主査 二村
写真は休日に訪れた宮城県亘理町の駅のホーム (線路は流されてありませんでした)
103
和孝)
4 ボランティア(職員共済会・職員
組合)
(1)
経緯
岡崎市では、社団法人岡崎市職員共済会と岡崎市役所職員労働組合連合会(市労連)
との共催による「職員災害ボランティア」を実施した。
これは、個人的にも自ら被災地に赴き、ボランティア活動に取り組む職員がいる一方、
現地での活動を希望しながらも、移動手段や費用、連続休暇取得の難しさ(平日5日間
の市民ボランティアへの参加が難しい)などから、なかなかボランティア活動を実行で
きずにいる職員もいたためである。
また、今回、職員の互助会組織である「社団法人岡崎市職員共済会」と、設立60周
年を迎えた岡崎市職員組合が、その周年事業として予定していた社会貢献活動を市労連
体制で取り組むことにより、市職員が参加しやすい機会を設けることで、被災地の一日
も早い復興を支援することとした。
派遣期間
1回
7.29
~
8.1
活動先
人数
主な活動
宮城県七ヶ浜町
21人
海岸の清掃、遊歩道の整備
2回
9.1~4
宮城県七ヶ浜町
22人
台風12号通過により中止
3回
10.6~9
宮城県七ヶ浜町
23人
個人宅の清掃、瓦礫の撤去
延べ44人(男性39人・女性5人)
行き先は、宮城県宮城郡七ヶ浜町であった。選定理由としては、市民災害ボ
ランティアの第 1 次派遣で訪れており、現地の災害ボランティアセンターとの
連絡調整が円滑に行えること。また、現地までの移動距離などを勘案し、限ら
れた日程の中で現地での活動時間を確保できることなどによる。
参加者は、庁内公募をして 44 人の参加があり、参加者は、参加費 5,000 円
/人(保険料含む)を支払って参加した。なお、現地での食費等は、各自で負
担とした。
また、事前に参加者を対象にオリエンテーションを実施し、参加にあたって
は、ボランティア休暇制度を活用することとした。
104
(2)
行程
行程
2泊4日(貸切バスによる)
(1日目)岡崎発===仙台着
[仙台市内泊]
(2日目)七ヶ浜町でボランティア活動
[仙台市内泊]
(3日目)七ヶ浜町でボランティア活動
[現地発・車中泊]
(4日目)岡崎着
(3)
得られたこと
(状況)
・ 5ヶ月が経過したときに訪れましたが、手の入っていない部分がたくさん残って
おり、ボランティア活動の「量」がとにかく長期にわたって必要なのだろうと感じ
ました(第 1 回目参加)
。
・ 七ケ浜町は被災が少なかったようで、海岸から近い距離の低地は、被災後4箇月
半が経過していたこともあるが、基礎部分の残し建物がすっかりない状態であった
が、海岸から少し入れば、地形的に少し小高くなっており、見た目にも違いがはっ
きり現れている。海岸には未だに漂流したコンテナが 10 個程度放置されていた。
海岸付近の家屋数戸が津波により 100 メートル程内陸部の沼地へ流され、放置さ
れていた(第 1 回目参加)。
・ 海岸から離れた中心地は建物も目立った被害はありませんでしたが、海岸沿い付
近は何も残らないほど流されていました。砂浜に打ち上げられた貨物船やコンテナ、
横倒しになった木々を見て津波の強さ・恐ろしさをうかがい知りました(第 1 回
目参加)。
・ 七ヶ浜ボランティアセンターにて、ボランティアのマッチングにより個人宅の瓦
礫等の撤去に2日間従事した。具体的には、津波により流された家屋の基礎だけが
残った敷地内において、津波により運ばれた乾燥汚泥・ガラス片・瓦礫等をスコッ
プ等を用い土嚢袋に詰める。その際に野放しとなった雑草等も撤去し、いつでも所
有者の方が再建できるような状況に整えた。
現状で目に見えるものは津波による影響だけであった。沿岸部以外は都市機能は
回復しており、通常の生活がされていたと思う。しかし沿岸部の状況は大変悲惨な
もので、この地震が津波地震であっことを目の当たりにした。車や重機が入れる箇
所は大きなものは撤去されていたが、低地で沼地化した所は家屋・車はそのまま放
置されていた。我々が従事した個人宅の細かい作業は、まだまだ多くの人手が必要
で行政では成し得ない部分の市民による人手が必要である(第 1 回目参加)。
・ まだ、手付かずの状態で横たわっている家屋や、車が見受けられた。震災半年経
ってもこの状態で残っているのかと感じた。今回は、ボランティア活動で参加した
が、まだまだやるべきことは残っていると思われる。少しでも多くの職員に現在の
状態を見て感じていただきたいと思う(第 3 回目参加)。
105
・ 主に浸水被害(一部損壊)の家屋は、リフォーム工事が始まっている。VCのス
タッフ曰く、被災された自分の土地が荒れた状態では、地主は気持ちの建て直しも
含めて前向きに進めないとのことであった。がれき撤去等を行ったことで、見た目
にも片付いた土地を見ていただき、被災された方々が少しでも前へ進みやすくなっ
たと思っていただければと思う(第 3 回目参加)
。
・ 津波の被害は広範囲で凄まじいものでした。津波が通ったと思われる地区では大
半の建物が基礎だけ、田畑や池には、瓦礫・車などが残っている。それでも残って
いた建物は新しそうなマンション、排水機場、重量鉄骨で建てられた家屋(1 階部
分は柱を残して無い)でした(第 3 回目参加)。
(得られたこと)
・ ボランティアに参加してもあまり賞賛されない雰囲気があります。職場の理解が欲
しい(第 1 回目参加)。
・ 災害の被害が大きいと被災者が財産の大半を失い、再建・自立出来なくなっている
かと思います。
市民共済の地震保険があったら、お年寄りでも入りやすいのではと思います。また、
仮設住宅用の土地をあらかじめ確保するのもいいかもしれません(第 3 回目参加)。
・ ボランティアに来られる人に対して、バス・車等の駐車スペースやボランティアの
宿泊場所等の考慮した環境整備も重要であると考える(第 3 回目参加)。
・ ボランティアセンターを設立し、受け入れ態勢をどれだけ早く行うかによって、今
後の復興の早さが違うということを実感した。災害にあったときに、しっかりとボラ
ンティアセンターを取り仕切ることのできる人員や組織の育成が必須であると感じ
ました(第 1 回目参加)
。
・ ボランティアセンターの設置が被災地の中では早く、多くの県外からのボランティ
アを受け入れたことからその分清掃等の作業が早く終了し、様々な作業が実施されて
いた。
被災地での必要とされる作業は、行政主導では立ち上がりがやや遅く、作業内容や
作業箇所の判断を即断で決定できず、作業の依頼に対する決定がボランティアはリー
ダーの判断で決定し、実行され、レスポンスが早い。日頃からボランティア体制とセ
ンター設置場所を想定し、バランティアの受入の早期対応に備える必要がある(第 1
回目参加)
。
・ ボランティア事務所をその日その日で柔軟に仕切っている人たちを見て、絶対に行
政で同じ事を試みても対応しきれないと感じました。ボランティアならではだと思い
ます。有事の時にまっさきに駆けつけて半年以上も協力してくれるボランティアは岡
崎市にあるでしょうか?頼むものでもない気はしますが、あれば心強いと思います。
もちろんボランティアに任せきりではなく、行政としても出来ない事を可能な限り減
らし、最大限にサポートや復興を主導できる体制づくりが大切だと感じました(第 1
回目参加)
。
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・ 災害時に重要なことは、行政・ボランティアセンターの役割である。行政の手の届
かない部分をボランティアセンターが担い、市民の力をうまく活用していた。このセ
ンターをいかにうまく機能させるとこができるかが重要である。ボタンティアに行く
と誰もが役に立ちたいと張り切ってしまうものだが、長く続けて貰うことが最も重要
という考えから1日4・5時間以上はやらず、重労働の業務を避けている。このよう
なハードルの低い設定なら老若男女問わず継続的に人が集まるのだと思う(第 1 回
目参加)。
・ 今回の活動は個人宅のがれき撤去だけであったが、ボランティアに撤去を依頼の有
無により状況に差が出てしまうこともあるように感じられる。個人所有地のがれき撤
去に関しては個人の権利制限により強制的な撤去ができれば行政の活動範囲が広が
ると感じた。また、一般行政職員も含め、チェーンソーやある程度の大きさのショベ
ルカーなどの操作を職員研修などを通じてでも可能にしておくと当面の活動におい
て差が出るように感じられた(第 3 回目参加)
・
ボランティアが入れずに当時のまま住宅 2 階部分やトラックが横転したままの田
んぼ等の横を小学生が通学路として利用していた光景は衝撃でした。
県と連携をしていち早くボランティアの手を入れて復興していく体系作りや、震災
の爪あとを何ヶ月経った後も毎日見ることのないように通学路を変えてあげる等の
処置が必要ではないかと感じました(第 3 回目参加)。
・ 自分達が行なった作業は、地道で小さな作業であるが、この積み重ねが大切で、全
国から一日に 100 人~200 人がこういった作業を行なうことで、着実に街が復興
していき、大きな成果が上がっていることを実感。また団体で行くことは、岡崎市チ
ームの一体感を感じとれた。VCの人々の捌きなどを勉強することは、いざ岡崎で災
害が起こったときのことを考えると、大変重要であり、若い職員の研修の一環で行く
といいと思います(第 3 回目参加)。
・ 1日や2日ではあまり多くの事が出来なかったが、人の手、人かい戦術のすごさを
感じました。
マッチングにより何を先にしたらよいかなどの迷いもなくスムーズに作業が進み、何
かしたいと思って出かけた個人ボランティアにも機会があたえられる。組織が動くこ
とによる力を感じて帰ってきました(第 3 回目参加)。
七ヶ浜町 VC(ボランティアセンター)
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ボランティアの活動の様子
「ゴメンナサイ」と謝る覚悟がある。
2011 年 7 月 29 日~8 月 1 日(第 1 回目派遣)
宮城県宮城郡七ヶ浜町にて、菖蒲田浜海岸の松並木の再整備(立ち枯れ松の撤去、遊歩
道の整備、瓦礫やごみの撤去等)を行ってきました。
人的被害が少ないところだと聞いたが、民家の土台だけが残され何もかも流されてしま
ったことは一目瞭然でした。自然の偉大さを実感させられました。
甚大な被害の復旧の第 1 歩は、多くの人の力が必要だと感じました。ボランティアリー
ダーが「震災当初の行政は何の役にもたたなかった。唯一役に立ったのは自衛隊だけだ。
松林の整備についても今できる最良の方法でできることをやっていくしかない。後で間違
っていたらその時自分たちの考えた最善な行動だったがゴメンナサイと謝る覚悟がある。
」
と言い切っていたのは感動しました。危機管理に直面した時、素早く行動に移せるリーダ
ーが必要と感じました。
道路維持課 班長 畔柳智岐
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