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軍事援護事業における動員・資源化の考察

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軍事援護事業における動員・資源化の考察
軍事援護事業における動員・資源化の考察
─西多摩郡小曽木村の事例を中心に─
宮 浦 崇
Ⅰ.はじめに
Ⅲ.地域における軍事援護の実態
Ⅱ.戦時厚生事業としての軍事援護
1.地域の軍事援護団体
1.国家の軍事援護論
2.小曽木村の事例─地域軍事援護団体の設立─
2.在野の立場─批判的視点─
3.銃後精神の強化─動員・資源化へ─
3.社会事業史研究から
Ⅳ.むすびにかえて
Ⅰ.はじめに
軍人として僉々其の士気を振起せしめ、彼等をして、自
己及其の家族の安危に就いて、何等後顧の憂なく、安ん
本稿は「戦時厚生事業」という国家の戦時目的遂行の
じて軍務に精励し、一旦緩急ある場合は、敢然兵火の中
ために行われた諸事業の中で、「軍事援護事業」と位置
に一身を犠牲にして、護国の華と散るも厭はず一意専心
づけられ実施された活動について、国家総動員体制に組
尽忠奉公の働きを完ふせしめんとする銃後に於ける国民
み込まれていく過程を一地域の史料をもとに検証するも
及国家の凡ゆる活動」2)とされるものである。それは戦
のである。
争への兵力動員に伴って必要となる国家による、あるい
戦時厚生事業は、日本の「社会事業」の歴史の中で、
は民間の援護活動ということもできる3)。それは戦争に
慈善事業、感化救済事業、社会事業、戦時厚生事業そし
よって生じた兵力動員によって地域社会に発生する損失
て現在の社会福祉とそれぞれ呼称、およびその性格が変
や矛盾を解消しようとする活動であり、戦時厚生事業の
1)
わっていく過程 の、およそ日中戦争前後から終戦まで
要であった。
の間の事業である。戦局の悪化、拡大にともない、人々
の生活水準の相対的低下かつ平準化がすすむ中で、防貧
、、、
等従来の社会事業の目的は、国策として人的資源の最大
Ⅱ.戦時厚生事業としての軍事援護
限の確保となる。すなわち戦時体制維持のための労働力
1.国家の軍事援護論
確保、生産性の向上という観点での事業という位置づけ
社会事業と軍事援護の関係、さらに軍事援護そのもの
が明確になる。その根底には、国家の戦略として戦争遂
については 1930 年代当時、国家および在野の側双方が
行、総戦力体制を推進する目的がうかがえる。こういっ
当事者として様々に議論している。
た点で貧困等の社会問題に対する社会的原因の究明とそ
「事変前迄は、社会事業関係の著書の一隅に僅かに『特別
の解決に注力するという、現代我々が一般に用いる「社
救護』あるいは『戦時救助制度』等の分類の下に取扱われて
会事業」とは異質なものととらえることができる。
きたに過ぎない軍事援護事業が、この新らしい発展を見た今
従前の社会事業に比べ制度的、量的にも拡大した戦時
日、理論的にも実際的にも、新らしき理念と体系とに基き、
厚生事業の中で、国家総動員体制において重要な役割を
改めて再検討再吟味せられねばならぬことは言ふ迄もない。」
果たしたとされる軍事援護事業がどのような意味を持っ
たのかについて考えながら、実際の事業内容、活動につ
この発言にもみられるように4)、国家、および在野の
いて検証し、戦局の進行に伴うその性格の変化を追う。
側にとっても軍事援護が何たるかを規定するような「理
本稿で取り上げる軍事援護とは、第二次世界大戦が終
念」「体系」が求められていたと言えよう。そして言論
結するまでの近代日本における、「軍人並に其の家族に
統制が本格化する 1940 年頃まで、様々な立場の人々が
対し、精神的及物質的支援を為し、国防の第一線に立つ
それについて主張することになる。新聞紙上にも度々登
−111−
政策科学 12 − 1,Sept. 2004
場し、出版物としても軍事援護に対する理念そして軍事
5)
る援護だけでは、不充分なところもあり、また、事業の
援護事業のあるべき姿を著したものが多く登場する 。
性質によっては、国の施設とする方が、より以上適当で
社会事業研究の立場からも、「現在軍事援護事業の分
ある場合もあるが、斯の如き場合、国の援護を拡大強化
野に於ては、その精神と意義、主体と範囲、方法と効果
して、隣保相扶の精神を基調とする援護の補完をなし、
等の問題、或は又軍事援護事業と社会事業乃至厚生事業
軍事援護の徹底を期さねばならぬことは当然である。然
との関係、軍事援護事業の将来の動向等、凡ゆる方面に
しながら、それが為、軍事援護精神を変更する必要は毛
亙って科学的研究を進め、以て新らしく開拓せらる可き
頭認められない。今次事変以来国の援護施設が著しく拡
6)
幾多の處女地が残されているのである」 といった所見
充強化さるゝや、単なる外観的現象より、深き洞察もな
にみられるように、軍事援護事業に対する論議が高まっ
く、軍事援護精神を変更し隣保相扶の精神に基く援護が
ていたことが見てとれる。
主であると観念することは誤であるとするのは、皮相な、
軍事援護の理念について、その議論は「軍事援護は隣
考へなき術ではあるまいか」と述べる。
保相扶か国が責任を負うべきものか」という点で、立場
隣保相扶を以て「醇風美俗」として行われてきた地域
が大きく分かれた。近代日本においては、軍事援護につ
の助け合いの精神のうえに成り立つ援護事業というもの
いては原則「国家が補償をするものではない」とされて
を強調する。
きた経緯がある。軍事保護院『軍人援護事業概要』
そして、「一歩を譲り、軍事援護を金額の多寡に依り
(1940 年)では「序説」において、「其れは啻に国家の
主、従の関係に分つ論を、一応暫く肯定するとするも、
経営施設のみならず、広く隣保相扶の精神を基調とし普
金額の多寡を表面的数字のみに依りで決することは、大
く国民一般の自発的な協力又は活動を促進し」と述べ、
いなる誤である」とし、隣保相扶の情誼に基づいた援護
7)
は、1939 年 12
には、金銭に換算し得ない精神的物質的援護が多く、こ
月の厚生大臣の諮問に対し「国民モ亦政府ノ施設ニノミ
れらを合わせれば、むしろ国家予算よりも隣保相扶に基
倚頼スルガ如キコトナク我ガ国古来ノ醇風タル隣保相扶
づいた援護の方が大きいものであると主張する。
勅令で設置された軍人援護対策審議会
ノ精神ヲ基調トシ各々其ノ分ニ応ジ進ンデ之ガ援護ニ当
以降、同氏の理論に関係する論述においては、軍事援
ルノ意気ヲ堅持ジ永ク克ク援護ヲ要スル者ノ境遇心情ニ
護の精神とその主体の根本として「隣保相扶」が繰返し
8)
思ヲ致ジテ其ノ自立ニ協力セシムル所ナカルベカラズ」
強調されるのである。この論調は同時期に吉富磁によっ
と答申している。
て著された『軍事援護制度の実際』9)においても同様で
そのような中で、1939 年6月、青木大吾『軍事援護
の理論と実践』が、国家の軍事援護についての立場を理
あり、国家における軍事援護の理念の根本にあったこと
がうかがえる 10)。
論化し、その実践化に向け刊行された。青木は当時、国
家の軍事政策全般を管轄した官庁、軍事保護院で力をも
2.在野の立場─批判的視点─
しかし、そのような精神論主導の軍事援護の理論の展
った事務官の一人である。その第3章において「軍事援
護の哲理」として軍事援護「理念」について論じている。
開には、関係者や世論には批判が少なからずみられた。
「由来、我が國に於では、前述軍事援護の根木的精神
青木の著作より時期はやや遡るが、1936 年5月、上
を具現するに際つては、国民の醇風たる隣保相扶の情誼
平正治『軍事援護事業概要』では国家の精神論的展開に
に基く軍事援護精神に依って為されて居る。それと同時
疑問を呈する。援護事業の実際の運営について、困難な
に、国家はこの隣保相扶の情誼に基く援護に欠陥なから
現状の打開にむけて現在の方法に検討を加えるという点
しむべく指導督励を為し、其の足らざるを補ひ、以て援
では、同時期の同種の著作に共通のスタイルを持つが、
護の完璧を期して来た。
」「然るに、軍事援護に関する国
「隣保相扶」を主とせず、あくまで合理的な「実践」を
家の予算が多額に支出され、国家の施設が拡大強化され
重視し、それに基づく理論を展開している。その点で国
るに伴ひ、我が国の醇風たる隣保相扶の情誼に基く軍事
家の援護事業に関する理論形成に対して疑問を投げかけ
援護精神に就き、幾分疑を抱く者を生じつゝあることは、
るものであり、当時の知識層には「在野の意見」を代表
まことに嘆かはしき次第である」とし、「固より、経済
する著作と映ったようである 11)。
的に社会的情勢の進展に伴い隣保相扶の精神を基調とす
−112−
上平は、軍事援護の定義を「精神的物質的の凡ゆる援
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
助を将兵並に其の遺族に与へることを目的とする国家的
いては、従前多くの研究がなされている 15)。戦時厚生事
並に民間篤志的事業活動を指称して軍事援護事業と云
業のもとで軍事援護を考える際、まず従来の社会事業と
12)
ふ」 とし、青木が定義するところの「凡ゆる活動」に
戦時厚生事業との間にある断絶の確定という立場がほぼ
くらべると、それは「国家的並に民間篤志的事業活動」
共通しており、その上で軍事援護を従来の社会事業と
と明確に規定し、国家の軍事援護制度と運用の実態を
「理念」が異なるものとして、その非社会事業性を論じ
「もとより国の計画的組織的なる試みによるものも少く
るものが多い。しかしその「非」社会事業性であるがた
ないけれ共、概して必要に応じて随発的、自然発生的な
めか、社会事業史の研究視点で軍事援護事業の詳細分析
事項或は方法によるものが多いのであつて、其の実施方
にまで踏み込んだ研究というものは少ないようである 16)。
法や計画規模の如きは殊に将来の見透しを伴はない非科
そのような中、特徴ある研究として、池田敬正『日本
13)
社会福祉史』17)がある。社会事業との関係を論じたもの
学的なものが少くない」 と批判している。
在野の批判の多くは、国民が軍事援護を過度に「権利
であるが、軍事援護を戦時の社会事業そのものの変容の
として要求する」風潮については牽制しつつも、しかし
中核部分と位置づけ、戦時厚生事業と称された期間にお
ながら「国家社会がこれを義務として履行し実施する」
ける社会事業は、人間を資源とみなすことを通じて、結
ことを怠るべきではないというものだった。国家の「権
果として総戦力体制を維持するための手段へと転落して
利義務の伴う国家による補償」回避のために隣保相扶の
いったとする。氏は一方で社会事業の戦時厚生事業化に
精神を全面に押し出す戦略は、もはや在野には見透かさ
伴う援助対象者の大幅拡大と、国家による細部への介入
れていたといえよう。「而て今日の軍事援護事業の実施
について「社会福祉の新しい段階への発展を意味」する
こそは寧ろ次第に斯る国の義務若くは計画としての実施
とし、これまでの社会事業が基づいていたいわゆる「慈
を示しているのであって、これに対する国の理論的説明
恵」の理念の変容を迫る契機となったことを指摘したう
14)
が逆にピッタリしない無理な精神論をやっている」 と
えで、「社会福祉」として現代に至る戦後の社会事業へ
厳しい意見も出てくる。
の媒介項となった要素をあげ、その意義を示している。
長期戦に挙国一致で臨むためには、軍事援護「システ
他にごく最近の研究においても、戦時厚生事業そのも
ム」の充実が必要との認識があったのである。それは隣
のを戦後社会福祉につながるものと位置づけ、「戦争の
保相扶への依存体質を改め、国みずからが主導する形で、
時代の社会事業」として今一度精査することによって
計画的・体系的に軍事援護を実施していくことの必要性
「社会福祉」として今日に至る「社会事業」の意義をよ
り深く捉えようとする動きがある 18)。本稿においてもそ
を主張したものだった。
ういった社会事業が持つ意味も含め、地域において行わ
3.社会事業史研究から
れた事業の具体事例の検証をすすめていきたい。
国家による言論弾圧が本格化する直前まで様々に議論
されていた社会事業と軍事援護であるが、社会事業史研
Ⅲ.地域における軍事援護の実態
究という視点からみた軍事援護は、軍事援護事業が当初
から持ち得る、救貧など生活状況改善に関する金銭的・
物質的活動をともなう事業などに則して見ると、従来か
1.地域の軍事援護団体
(1)基本的性格
日中戦争以降、全国の多くの市区町村には、「某々銃
らの社会事業と事業名等共通するものも多く見られる。
しかしその背景にある理念は大きく変化した。そこには
後後援会」「出征軍人後援会」などといった独自の軍事
選択の自由を持たない強権的で、非人格的な性格をみる
援護活動を行う団体が設立されていた。これらはのちに
ことができる。そして戦局が進み社会事業に軍事援護を
軍事援護事業を地域市区町村で実際に展開する主体とな
取り込んでいく過程で、救貧や都市部の社会的問題解決
る組織である。
のための手段としての役割を担っただけではなく、事業
1939 年1月、厚生・内務・陸軍・海軍四省は、訓令
主体そのものの国家化が進行していったのが戦時厚生事
「銃後奉公ノ完璧ヲ期スルノ件」にもとづき四省次官通
牒「銃後奉公会ニ関スル件」が出され、地方長官に対し
業における軍事援護事業といえるだろう。
戦時厚生事業、その大部分を占める軍事援護事業につ
て銃後奉公会の設置要綱を示し、「市区町村単位に設置
−113−
政策科学 12 − 1,Sept. 2004
しある斯種団体を整備して国民皆兵の本義と隣保相扶の
84,042 円(全体の 13 %)である。そのような背景もあ
道義とを基調とする挙郷一致の単一団体たらしめ兵役義
り、1932 年に農山漁村更生運動の流れをうけた東京府
務服行の準備を整ふると共に軍事援護に当らしむる様之
の経済更生指定村、1936 年には国の指定する経済更生
が育成発展を図る」ことが義務づけられた。これにとも
特別助成村となっている。これによって村は予算措置を
ない、各種援護団体が市区町村単位に組織され、部落ま
伴うかたちで経済更生計画 21)を進めていた。また、当
たは町内会の出征軍人後援会などの既存の組織を基盤
時の商業従事 40 戸、在郷軍人は 210 名で、帝国在郷軍人
に、地域の全戸の世帯主を構成員として、実質的な活動
会が組織されていた。小曽木村で戦死者を出した世帯は
は市区町村の行政内にその基盤を置く国家の軍事援護の
1942 年時点の史料において確認できる範囲で 22 世帯、
体系に組み込まれた。
傷痍軍人を抱える世帯は9世帯 22)だった。
これらの団体は 1939 年までには、ほぼ全国のすべて
の市区町村に設置された。全国的な銃後後援の流れの中
で、地方の市区町村が独自に組織した軍事援護団体につ
2.小曽木村の事例─地域軍事援護団体の設立─
(1)小曽木村出征軍人後援会
いて、以下、東京都西多摩郡小曽木村(現東京都青梅市
小曽木村においては、表1やその他史料群からも、満
小曽木地区)の行政関連の文書群(小曽木村文書)を手
州事変以前に村において軍事援護活動を行った団体、護
がかりに、組織・制度の変遷の中で事業の具体的内容を
国共済組合等の存在は確認できない。事変後、全国的な
追うことによって、同会の果たした役割、性格の変化に
動きと機を一にして「小曽木村出征軍人後援会」が組織
ついて検証していきたい。
された。小曽木村長から東京府学務部長に宛てた「軍事
援護団体ニ関スル件」調査報告書(1938 年8月3日付)
(2)西多摩郡小曽木村
によると、同会の設立は 1937 年(昭和 12 年)8月5日、
小曽木村は、青梅丘陵と霞丘丘陵に接し、東端は埼玉
19)
事務所は小曽木村役場内に置かれ、その設立の趣旨とし
県、東京都の北部に接する位置にある 。村面積の三分
て、「本村出征軍人及其の遺家族及現役兵遺家族を慰労、
の二が山林を占め、主要な産業が機業という典型的山村
救護するを目的」とし、その活動として「慰問、生活扶
であった。1938 年(昭和 13 年)に発行された『東京府
助、労力供給、医療、その他の事業」を行い、「経過順
20)
市町村概観』 には「本村は地理的に交通に恵まれざる
調にして成績可良なり」と報告している。1939 年1月
状態にあるも近年青梅、飯能(埼玉県)間を通ずる府伴
の訓令による名称変更によって「小曽木村銃後奉公会」
に道ひて乗合自動車の開通を見、又箱根ヶ崎、東村山方
となる同会であるが、小曽木村出征軍人後援会設立が、
面にも同様乗合自動車の便開けたるを以て漸く交通の頻
同村において以後軍事援護の基盤となったことがうかが
繁を加ふるに至る。」とあり、東京府の中でも交通の便
える。この頃の同会を見ていきたい。
が悪い一地域であったことが伺える。戦後は、光学工業
小曽木村出征軍人後援会は、村内一円のすべての戸主
の近代的工場の誘致によって、山村から次第に工業村に
が「加入ノ義務アルモノ」とし、「申込書ニヨリ加入セ
転換していった。村内に湧き出す岩蔵、富岡鉱泉によっ
シメ」るものであった。1938 年8月の段階で構成員は
て保養地としても知られ、社会的、経済的には同村南の
522 名、市区町村単位のこのような団体が組織される時、
青梅市とのつながりが深く、また、商圏としては、山一
組織の中心である事務局があり、そのもとで集落ごとに
つ隔てた埼玉県側とのつながりもあった。
支部が構成されることが多かった。小曽木村の場合は、
昭和 10 年代の小曽木村は、1935 年(昭和 10 年)時点
大きく分けて富岡、南小曽木、黒沢の3集落(部落)に
で、人口 2,959 人、戸数 515 戸であり、有業者数 1,456 人、
よって構成されるが、戸数、人口とも多くはないことか
そのうち農業を営む戸が 305 戸(606 人)、その人口構造
ら、支部を設けることなく各集落内を約 40 戸ごとの小
をみると農業の村といえる。しかしながら村の産業の生
区に分け、その代表者を評議員として、会内部および援
産総額で主要を占めるものは「青梅織物」をはじめとし
護対象者等との連絡体制をとった。
た機業(50 戸)であり、村総生産額 625,413 円のうち
役員は、村長が勤める「会長」1人、助役、軍人分会
506,326 円を占める。村の大部分を占める農業従事者の
長(帝国軍人援護会小曽木分会長)が勤める「副会長」
生産は、山間部に位置する地形的な問題もあり、わずか
2人、「理事」若干名(村会議員、方面委員、小学校長、
−114−
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
産業組合長、男女青年団長の内から8名が常務理事)で
ての財源は、当初実質的には各町村の財源を柱とせず
あり、各部落小区の代表者を「評議員」とした。他に
「会費」
「寄付」でまかない、不足分を町村が「助成」し
「幹事」として役場吏員、小学校首席訓導(現在の教務
ていた。会費の負担方法は、まず年度の所要見込み額を
主任に相当)、軍人分会副会長、男女青年団副団長が任
後援会において算定し、それを各区(小曽木村は 14 の
命された。実務を担当する「常務幹事」に村の兵事主任、
区に分かれる)に分割、各区の後援会評議員が、自区内
「会計」に村収入役があたった。村の有力者と呼ばれる
負担額を住民の資金力に応じて任意の額を割り当てると
人々の名がつらねられている。当時、小曽木村における
いう方法である。その際、一戸当たりの最高額は 100 円、
役場の軍事関連担当者は戦時期を通して1名であった。
最低額は 10 銭とした。1937 年の一戸あたりの平均徴収
同地域の同規模の町村が複数名の軍事関連担当者を置き
額は 1 円 40 銭となっている 24)。寄附は村の篤志家や実業
その任に当たっていた中、理由は定かではないが同村は
家 25)によってなされた。なお、会員から領収された会
1名体制をとりつづけた 23)。
費は「寄附金」として計上されている。(表2、表3
役員構成からみても村の公的な団体として位置づけら
「備考」参照)
れていたことがうかがえる。しかし、その運営にあたっ
また、たびたび援護の重複などが問題とされる民間も
表1 市町村単位団体(昭和 12 年調査)
設置状況
団体数
資産
昭和 13 年度予算
事変前設
町村を単位
置のもの
とするもの
事変後設
置のもの
1
事業費
その他
計
合計
500 円
300 円
800 円
800 円
小曽木文書(軍人援護綴り S8-S14
整理番号 49-53)より作成
表2 昭和 12 年度軍事援護事業経費調
事業主体
援護費
支出額
小曽木村出征
軍人後援会
財源内訳
一般収入
1,238 円
補助金
軍事援護
助成金
資金
100 円
寄付金
その他
1,317 円
小曽木文書(軍人援護綴り S8-S14
計
1,417 円
整理番号 49-53)より作成
表3 昭和 12 年度支出額調
事業主体
市町村
種目
弔慰金
慰問金
見舞金
餞別
祈願費
奨学費
慰安費
計
一件当
総 額
小曽木村出征
一件当
軍人後援会
総 額
204 円
備考
犒軍費
30 円
5円
6円
50 銭
204 円
30 円
190 円
320 円
27 円
22 円
61 円
30 円
190 円
320 円
27 円
22 円
61 円
85 円
854 円
本村に於て事変発生直後出征軍人援護会を組織し同会より一切を支出し村費の中より支出せず。後援会の経費は村内全般の寄
付金なり。慰問金、弔慰金は該当者発生の場合は直に村長及各団体長、名誉職員総代を帯同実家を訪問、戦死者遺族に金三十円、
戦傷病家族に金三円を贈呈す。慰問金は各歳末各遺家族に金五円及紅白の餅一組を後援会役員をして贈呈したるものを計上す。
小曽木文書(軍人援護綴り S8-S14 整理番号 49-53)より
−115−
政策科学 12 − 1,Sept. 2004
含めた他の軍事援護団体との重複援護の問題は小曽木村
超える。この点は、軍事援護をできるだけ地域内の資源
ではなかった。国策によって設置された組織である帝国
で循環させようとする国の意図、すなわち軍事援護につ
軍人援護会(小曽木分会)や青年団などは、出征軍人後
いて、軍人およびその遺家族が「国家の補償を受けるべ
援会の構成員とほぼ同じであることから、「皆本会の職
き権利」という性格を極力回避したかったあらわれと考
員にして対立等のことなし」であった。
えられる。軍事扶助法の適用者増大にともなう国家的財
東京府学務部長に宛てた、村長の同会に対する意見が
記されている。
政負担の増加は、戦局の進行の中で極めて深刻な問題に
もなっていた背景がある。
法外援護の内訳は、帝国軍人援護会・愛国婦人会など
「団体は将来平時に於ても存置せしむべきものと認む。そ
の民間団体による援護 26 戸、府銃後後援会や特殊団体
の組織内容は現在の当会にて可なるも、毎年度余剰金を蓄
(東京出勤将士後援会など)による援護 26 戸、府商工団
積する等、適当の方法により基本金造成に努めたし。また
府単位の統制団体の必要を認め、指導訓練を得てその機能
の発揮に努力したし。特に今事変により、出征兵の慰問を
主として後援会を組織したるも、今後は長期戦に対応、生
活扶助及び生業扶助に重点を置き、健全なる銃後援護と兵
体銃後後援連盟による援護3戸 29)をはじめ、小曽木村
出征軍人後援会の援護は、定期的な生活援護5戸 58 人
(1戸あたり月々 10 円程度)、歳末・中元などの際に臨
時金支給 49 戸(1戸あたり5円)等であった。
26)
の慰問を並行したし。」
会としての発足当時、同会が想定した援護活動は実施
状況報告書 30)から多くの項目が抽出できるが、それら
現在の活動には会費と寄附金のみで行える見通しは立
を援護の内容に則し「救済給付型事業」と「銃後動員型
ってはいるものの、設立初年度ということもあり、同会
事業」という2つの視点で筆者が分類したものが表4で
には基金が無い状態であった。その「寄附金」「会費」
ある。
に依拠している状況からして、長期戦に備え早急に基金
を整える必要があることを認識していたことがうかがえ
1)救済給付型の援護事業
る。その上で村長は「将来団体に対し村費を以て補助を
小曽木出征軍人後援会の援護事業の中で、救済給付型
なし、または補助の増額を為す意志ありや。昭和十二年
事業として生活援護に代表される各種給付金等 15 項目
度中 200 円補助し、本年度 200 円補助見込なるも、更に
をあげることができる。初年度実際に支出されたのは、
同額程度本年度中増額の意志あり」とし、会の財政基盤
前述の生活援護 250 円(5戸)
、傷病兵見舞金 100 円(3
の強化を急いだのである。昭和 14 年度には 250 円を村費
人)、戦病没者弔慰金 100 円(1人)、餞別 1,500 円(48
から助成している 27)。また、村独自の援護団体を統制す
人)、慰問品贈呈 90 円(30 人)、旗幟の贈呈 500 円(48
る上部団体の必要性を指摘している点に注目できる。
人)の支出総額 2,570 円であり、応召兵である 48 人、あ
るいはその家族に対して行われた援護であった。
(2)小曽木村の援護状況
これらは、金銭の給付等による生活改善、経済的保護
1937 年(昭和 12 年)の小曽木村の応召兵は 48 人、現
が目的である事業である。対象も特定の個人や世帯とし
役兵 25 人であった。それら兵士の家族で、翌年の段階
て具体的なものである。また給付という行為について、
で軍事扶助法による扶助を受けていたのは 26 戸 104 人で
その内容がきわめて実利的なものが多数を占める。
28)
ある。一方で、軍事扶助法以外の援護(法外援護) を
これらに含まれる項目の援助は、その必要が生じた場
受けた者は 28 戸 115 人と法律に基づいた援護者の半数を
合、「応召者ありたる場合は村会議員、方面委員、駐在
表4 援護活動項目
救済給付型事業
生活援護、傷病兵見舞金、戦病没者弔慰金、餞別、慰問品贈呈、旗幟の贈呈、医療、助産、
生業援護、罹災援護、埋葬、一般共同金、特別共同金、遺家族慰問金、軍服軍帽費、
銃後動員型事業
労力援護、託児事業、授職授産事業、入退営の歓送迎、軍隊慰問、慰霊祭、慰安会、祈願
祭、餞別および見舞金、慰問郵送費、家族慰問、兵士慰問、奨学費
小曽木村文書(軍人援護綴 S8-S14
−116−
整理番号 86)軍事援護団体ニ関スル件 より作成
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
巡査と合議。要扶助者有りたる場合は速に手続をなす。
31)
ろえる授与式、あるいは村長が直接出向いて金銭を授与
現在漏救濫救なし」 から推測して、援護対象者、ある
するという設定において重要な意味を持った。家族慰問
いは家族等からの申請による手続きの前に、村の援護関
は歳末に祝餅一組と5円が贈呈されている。また奨学費
係者があらかじめ、その援護の必要性の可否、どのよう
として応召軍人子弟に対して次年度新学期用の教科書代
な援護に依拠すべきかを判断していたものと思われる。
が贈呈式を伴う形で贈られている。
対象者に対する妥当な救済を的確に行おうとするもので
慰問郵送費・兵士慰問 慰問品として村内から戦地の
あり、社会改善・社会改良を目的とする従来の社会事業
応召兵に対して物品を送る際の費用として 44 円(計 30
の性格に近いものといえるだろう。
回)があてられている。慰問品としては新聞、慰問袋、
村の児童作品などがあった。送致の品が受け取る側にと
2)銃後動員型の援護事業
って実利的であることよりも「銃後の支え」の存在を前
銃後動員型とした事業は、13 項目あげることができ
線の兵士たちに伝える手段としての性格が強いものだっ
る。これらは個人が対象となるような項目も含まれるが、
た。新聞については送致にあたってできるだけ重複をさ
金銭の給付を伴う項目であっても前述の救済給付型とは
け、かつ部数を多く用意するため、村内小区ごとに新聞
異なり、それはきわめて象徴的な意味合いを持っている。
の発行日別 10 日前後に区切って回収する共同作業が村
いわば間接的な費用といえる。つまりこれらの事業を通
内で展開した。複数の区の回収を合わせると数ヶ月分の
して「銃後社会への動員」をすることが事業の主たる目
新聞が複数組できあがる。貴重な情報資源であり、紙資
的となっているのである。実際に予算措置が講じられ実
源でもある新聞を特定の区、村民から一度に大量に供出
行されたことが確認できるものは以下7項目である。
させるのではなく、区ごとに分担するという工夫 33)で
労力援護 村民の田畑の整地や種まきなどの労力補助
あった。慰問袋 34)は日用品などをつめたものを戦地の
を会の名の下におこなった際の人夫賃である。昭和 12
兵士におくるものであった。また袋とは別に、応召兵に
年度でのべ 238 人が参加、238 円の支出ということから
シャツ、ズボン下など1人3円程度の品を送っている。
1人1円の計算になる。入退営の歓送迎 入隊者や帰還
兵士に対しての物品送致ははじめ町村独自に、あくま
者を村の最寄りの駅まで乗合自動車で送迎する費用であ
で善意で行うといったものであったが、後の「銃後奉公
り、20 回 40 円であった。この歓送迎は兵士の出征、帰
会」体制に入ってからは、国家の指導のもとで、回収市
還のたびに必ずおこなわれ、議員、区長、校長、関係各
区町村ごとに成績がつけられ、村、各家庭が用意の強制
団体長宛てに村長より「当日各戸に国旗を掲出し一戸一
を余儀なくされる制度 35)へと「銃後の支え」の形は変
名以上御見送り相成や、一般に御周知相煩度候」という
化していくのである。
通知が出さる全村「動員」を伴う歓送迎であった。
出征家族を招待した慰安会
年一回開かれ、弁当の配
(3)援護活動の性格
会の活動を救済給付型と銃後動員型として分類したこ
布と余興のために 61 円が支出されている。その慰安会
でどのような余興がなされたのかを示す史料はないが、
とで明らかになることは、軍事援護という事業は、「生
一般的には会食、あるいは、芸能集団を抱え全国の援護
活の改良・改善」を目的とするものと、従来の社会事業
団体を回って興行する業者へ委託、そのほか映画機材を
には存在しなかった「動員体制の創出」を目的にするも
借り受け上映するといったものが多かった。小曽木村に
のという2つの特徴を持つ事業が存在するということで
も芸人を抱えた余興興業者からの手紙や広告などが役場
ある。前者は「金銭・物質的」救済が中心であり、要援
32)
担当者の文書群に整理されている 。
祈願祭
護者の経済的保護を主要な目的とする。一方後者は、事
村内の神社において、村民総出で軍人武運長
業を行う側あるいは受け手が一定以上の集団を成し、
久を祈願したものであり、この年2回おこなわれている。
「人心鼓舞」や「動員」を伴う。
「銃後」における社会的
餞別および見舞金 応召兵出征の際に家族に5円、現役
一体性や連帯といったものの存在を地域内外に示す目
兵および傷病兵に3円を会長である村長みずからが交付
的、さらに言うならば後者はたとえ「誇張」をもってし
した。83 人が交付の対象となったが、これら給付金は、
てでも「銃後精神」の具現化を企てた事業であるといえ
事務的に給付されるものではなく、地域の重役が顔をそ
るだろう。そこでは金銭・物質の多寡が問題ではなく、
−117−
政策科学 12 − 1,Sept. 2004
地域による支援、時には顕彰が、誰の目にもとまる形で
み、国は軍事援護における銃後精神の強化を、銃後奉公
行われるという人心鼓舞を目的とする精神的な面に訴え
会をもって行おうとした。隣保相扶による地域、家庭内
る援護活動だったのである。
教化、皇国民錬成とその精神育成のための国民教化運動
社会事業においては、これまでも「感化救済事業」と
の実践など、軍事援護強化に関する多くの事業が展開す
いう名が付く時期があったように、「感化」という精神
る。その中で、軍事援護の機構的な強化の第一として
面に訴える事業の推進というものは存在した。しかしこ
「銃後奉公会」の機能強化が謳われたのである。
の軍事援護における精神的側面はあきらかにそれらとは
国民教化の徹底は、これまで以上に具体化された形で
性質が異なる。それは感化による防貧、社会的問題の解
示されるようになった。同年3月、東京府学務部長発で
決という支援ではなく、人々を戦争遂行の「資源」と位
「銃後奉公会の整備強化並に運営に関する件依命通牒」36)
置づける。人間の資源化と動員という新たな視点が加わ
が出された。専任職員の指導訓練、部落会、町内会、隣
っているのである。
組等組織の引き締め、方面委員の活用、軍人援護事業の
このことは軍事厚生事業としての当時の社会事業の性
会への集約、予算充実への対策など、上記答申をふまえ
格を端的に表している。従来社会事業は社会改善が目標
た方策が「国からの指示」として記されている。以後こ
であり、援助によってその対象者である「人」が経済的
れに沿う形で軍人援護対策の各種事業が進められたので
に向上し、そして「最善の結果として」社会的な問題、
ある。
矛盾を解消していこうといった構図のもとにあった。対
銃後奉公会の体制強化については、小曽木村において
して戦時厚生事業に至っては、人の「資源化」に力点を
も、昭和 15 年度、これまで、寄附によって運営されて
置き、それによって戦時国家における強い国民を形成す
きた同会の活動資金に、府県費 250 円、市町村費 200 円
るという構図のもと、国家の総動員体制へ人を資源とし
がはじめて制度に基づき投入され、また恩賜財団軍人援
て常に循環させることを目的に持ったのである。
護会からの援助も 250 円が計上された。昭和 12 年度の予
小曽木村では、軍事援護団体の会としての活動初期の
算総額が 1,740 円だったのに対し、15 年度は 2,849 円、
傾向をみると、銃後動員型のような活動は一時的、形式
17 年度 3,217 円となり会の事業は複雑、かつ広範囲にお
的なものにとどまっており、従来の社会事業の経済的保
よぶものとなっていった。そして、これまで役場軍事担
護という視点に沿うような物質的な援助中心であった。
当者1名が兼任で銃後奉公会の事務にあたっていたもの
それが、1939 年の銃後奉公会への改組による活動への
を、銃後奉公会専務職員となり、これにより、銃後奉公
国家介入の本格化によって、国民教化支援の団体という
会専務職員が村の軍事担当を兼務するという形に改めら
側面が強くなっていく。戦局の悪化長期化による人心の
れた。
疲弊と弛緩、地域の経済基盤の弱体化、それと国家の挙
銃後奉公会の位置づけは、軍事関連全般を扱う事業主
国一致総戦力体制の猛進の流れと比例するように、小曽
体へとその性格を変えていくことになる。小曽木村銃後
木村においては軍事援護事業の内容は、金銭・物質的な
奉公会関係史料からは、この時期以降、精神面に訴える
援護事業から、その中心は銃後精神の強化を図るものへ
活動強化に関する文書が多くなるのはもちろんのこと、
と変化していくのである。
法に基づいた軍事扶助の処理や関係各団体との連絡、遺
家族・帰還・傷痍兵に対する対応など、村の軍事関係の
3.銃後精神の強化─動員・資源化へ─
事業ほぼすべてが銃後奉公会に集約されていったことを
(1)小曽木村銃後奉公会への改称
うかがうことができる。
1939 年(昭和 14 年)1月、小曽木村出征軍人後援会
は、国策によって「小曽木村銃後奉公会」と改称される。
(2)銃後奉公会による国民教化活動
会による具体的な事業として、1942 年(昭和 17 年)
改称の段階では会の役員および運営形態はそのまま維持
されたが、会の活動に国家の指導・干渉が本格化するの
10 月 3 日より六日間、全国的に行われた「軍人援護教化
はこれ以後である。
運動」においてその運動の実施要項と奉公会会長(村長)
長期化する戦局によって顕在化した、兵士に対する慰
問内容の慢性化や軍事援護に対する社会的弛緩状況を鑑
が読み上げるよう国からの指示があった原稿が残ってい
る。銃後奉公会の国民教化の活動を端的に示す史料である。
−118−
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
十月三日(土)第一日
慰問袋とを送りませう 傷痍軍人、遺族留守家族の方々に
聖旨奉戴の日(当日は各戸に国旗を掲揚のこと)
も心から御慰め致しませう
軍人援護に関する勅語奉読
事後報告 国民学校三百二十通、銃後奉公会一四五通の慰
国民学校にて挙式 村名誉職、各団体参列
問文発送す 陸海軍前線部隊長に対し、感謝電報打電す、
正午全家庭に於ては在所にて戦没軍人の英霊を追悼し傷
痍軍人の平癒、出征軍人の武運長久を祈願すること
午後五時より小曽木国民学校西分教場に於て、小曽木青年
団黒沢分団主催を以て遺家族約七〇名を招待し慰安会を行ふ
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第一日「聖旨奉戴日」
であります 昭和十三年十月三日近衛内閣総理大臣を召さ
十月八日(木)第六日
れて賜りましたる軍人援護に関する勅語の聖旨を奉戴し、
善行を讃へる日
府民揃いて各戸に国旗を掲揚し各自在所に於て戦没軍人の
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第六日「善行を讃
英霊を追悼し、傷痍軍人の平癒、出征軍人武運長久を祈願
へる日」であります 皆様揃つて戦死者の遺族、家族、傷
致しませう
痍軍人、帰郷軍人及び一般国民の善行を讃へ其の表彰を致
しませう
十月四日(日)第二日
感恩奉仕の日
小曽木文書 昭和十七年 軍事援護綴 より
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第二日「感恩奉仕の
日」であります 傷痍軍人帰郷軍人戦死者の遺族及出征軍
人の家族の方方が皇室の御仁慈に感泣し国民の赤誠に応え
愈々奉公の誠を致す日であります 皆様も負けない様頑張
りませう
この運動においては、これまで行われてきた軍事援護
における銃後精神の重要性の再確認、そして援護活動の
一層の昂揚を目的としていたことは会長の訓話からも観
十月五日(月)第三日
察できる。運動を通して銃後奉公会の慰問活動の強化を
援護精神昂揚の日
ねらったものであり、顕彰と慰問の強化に関する行事が
各部落に於ては戦没者傷痍軍人出征軍人の家庭にして
中心であった。
必要ある家庭を調査し、勤労奉仕を行うこと 此時男女青
年団は部落毎に団員の資格を以て参加のこと
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第三日目「援護精神
またこの運動にさきがけて、隣組に対して軍事保護院
作成の「軍人援護リーフレット」が配布されている。
昂揚の日」であります 町会隣組でも戦死者の遺族、傷痍
「全国百四十万の隣組へのお願い」と称する色刷りのリ
軍人、帰郷軍人、出征軍人の方々に対し国民的感謝の赤誠
ーフレットで、軍事援護の意義、銃後の精神、銃後奉公
を捧げ皆揃いて軍人援護の実践に努めませう
会の重要性など「軍人援護事業を容易に理解せしむると
共に、援護に協力を要請する」ことを目的としたもので
十月六日(火)第四日
ある。「常会の席で必ず区長さんが読み上げて下さい」
慰霊祭日
とあり、末端まで同運動の趣旨を周知徹底させるもので
満州事変以後戦没者の墓参 献花は奉公会にて準備す
大字黒沢三柱 大字南小曽木上分三柱 大字南小曽
あった。小曽木村では西多摩郡地方事務所を通して 40
枚配布されている 37)。
木下分二柱 大字富岡二柱
なお隣組の常会は、月ごとに徹底事項を国から提示さ
村名誉職 各団体参列
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第四日「慰霊の日」
であります 皆様揃つて戦死者の英霊を追悼し其の墓参を
いたしませう
れ、隣組の長は奉公会の示した原稿、段取りに基づいて
進められた。前述 1942 年 10 月の運動が行われた月の徹
底事項は「秋も酣な十月に私達が国策として必ず行はね
ばならない常会の徹底事項は軍人援護の徹底的の強化と
十月七日(水)第五日
感謝慰問の日
各家庭にある鉄銅の供出それに薪炭の増産と消費の節約
国民学校、銃後奉公会にて慰問文を発送す。全村家庭に
の三つであります。
」というくだりからはじまっている。
於ても一通以上慰問文を発送すること。宛名は村内出身の
常会の席上、最後に必ず「銃後奉公の誓」を朗誦した。
勇士たること。
銃後奉公会の最末端組織である隣組は、国民教化におい
会長訓辞 本日は軍人援護強化運動第五日「感謝慰問
の日」であります 戦線に送る銃後の真心として慰問文と
て、その役割の多くを担っていた。
−119−
国民教化の端的な事例として上記運動を取り上げた
政策科学 12 − 1,Sept. 2004
が、このほかにも国民学校児童の軍事援護精神の涵養を
38)
と齟齬をきたすことなく円滑に機能していたのかといえ
や、婦人会が中心となっ
ば必ずしもそうとは言えず、小曽木村の史料を通じても
て「兵隊さん有難う運動」 と称する主婦、児童生徒を
その問題点がいくつか明らかになった。まず第1に、制
通じて各家庭への軍人援護精神の浸透を図る活動、応召
度として整備されるまでの遅れをあげることができる。
商工業者営業支援のために「出征勇士の店を護りませう」
村において軍事援護事業を開始するにあたって、団体を
と、奉公会、商工業者銃後後援会(旧商工会)の指導の
統轄する上部組織の不在の問題である。1939 年の銃後
もとで購買運動を展開するなど、団体としての組織力を
奉公会への改称によって国家の本格介入が始まるまでの
もって地域社会における援護事業、特に銃後の精神の高
間、事業を展開する団体には、他市区町村との連携や、
揚に結びつく教化的事業が進められたのである。
国策との連動を重視するような統括組織は存在せず、各
目的とした「標語」の書写
39)
地域に事業展開が委ねられていた。事業を行う側として
Ⅳ.むすびにかえて
も効率の面から考えて早急に上部組織の設置を求めてい
た実情は「府単位の統制団体の必要を認め、指導訓練を
本稿は小曽木村という地域の一農村の史料をもとに戦
得てその機能の発揮に努力したし」という村長の府に対
時厚生事業、なかでも軍事援護事業と位置づけられるも
する意見書からもうかがえる。また、これによって他の
のについて、その性格の変化と意味について具体的事業
地域との援護事業の質的な差異、給付の多寡等が生じ、
事例をもとに検証してきた。小曽木村において軍事援護
それによる不満が一般化するという事態も招いていた 40)。
団体の活動は、経済的援助という従来からの社会事業の
第2に、事業を行うにあたっての財政基盤についてで
ありかたに沿った援護事業から、しだいに国家による人
ある。財政基盤の脆弱性を抱えるような地域では、かな
的資源の確保、総戦力・総動員体制維持のための国民教
らずしも国家が意図した十分な事業展開がはかれなかっ
化支援を目的とした事業への側面が強くなっていった。
たことが予想される。国家による潤沢な資金の投入が前
事業そのものの質の変容が、戦争という目的のために加
提にあったとしたならば、軍事扶助法の適用者の拡大や、
速的に進行した様子が史料からうかがうことができる。
銃後奉公会などが主体となり行った各事業のより効率的
従来社会事業での貧困の解消、すなわち援護者(援護
な運用が可能ではなかったか。その点については、当時
団体)から対象者へ、そして社会へという構造に、人を
の社会事業の現場からの声 41)として既にあがっていた
無人格の資源とみなし国家の総戦力体制への循環を意図
のである。小曽木村の援護団体の軍事援護事業経費の詳
した点が戦時厚生事業への変容の根本にある。特に軍事
細では、その事業費の9割以上が寄付と構成員の会費に
援護事業の、精神的な面に働きかけることを目的とした
頼っていたという実状、そして村長が府に対しての意見
事業においてその特徴が最も顕著に表れている。地域に
書において長期戦に備え基金の充実が急務ということを
元来存在する助け合いの精神である隣保相扶の上に成り
会設立当初から述べている点からも、事業を継続するに
立つ援護事業であるということを強調しつつも、実質は
あたっての財政的な危機感をうかがうことができる。そ
国家の制度的な介入によってつくりだされた、地域をあ
こでは戦時厚生事業の展開を委ねられていた地域の中
げて戦争に協力する姿勢(たとえたてまえであったとし
で、活動を行うにあたっての資金と資源が地域内で自己
ても)であり、そこでは「動員」と「強制」が伴った。
完結的に循環しているという現状があった。末期には国
また動員や強制からは副次的なものとして地域のまなざ
家からの投入がいくらか存在したにせよ、その中心はあ
しによる「監視」、あるときは「顕彰」という機能も発
くまで、地域内の寄付、強制を伴った徴収・供出であり、
揮された。国家が意図したのは、全国の銃後奉公会を統
そして「動員」という人的資源までも含めてはじめて事
轄し、地域末端で有効に機能させることであり、これま
業が成立するものだったのである。このような「物質的」
で地縁的なつながりによって形成された隣保相扶の精神
基盤の脆弱性ゆえに、小曽木村のような財政的基盤の脆
に基づく組織を最大限利用しつつ、総戦力体制を維持し
弱性な地域においては、末期において動員という「精神
ていこうとしたことである。
的」援護活動の側面がことさら強調される傾向があった
しかしながら、このような国家の軍事援護に対する理
のではないだろうか。
念、国家の意図した「システム」が、地域における実情
−120−
軍事援護は、貧困等の社会問題に対する社会的原因の
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
究明とその解決に注力するという、現代我々が一般に用
18)菊池正治 室田保夫編集代表『日本社会福祉の歴史 付・
いる「社会事業」とは確かに異なる。しかしながら、戦
史料─制度・実践・思想─』「第6章 日中戦争・太平洋戦
争と戦時厚生事業」p.150(ミネルヴァ書房 2003 年)
時厚生事業における軍事援護は日本の社会事業史上、援
護対象者、事業の大幅拡大、そして国家の手による事業
への本格的介入の契機となるものであったという点にお
19)本稿末図1図2参照
20)『東京府市町村概観』p.241(東京府総務部地方課 1938 年)
21)前掲『東京府市町村概観』によると、小曽木村の計画は、
いて、単に戦時の負の遺産と扱うばかりではなく、戦後
村内 14 の区に経済更生実行組合を組織し、将来は法人化す
の社会福祉政策への変換をも視野に入れ今一度精査して
ることを目指した。また、定期的な区の会議を持ち、各々生
いかなければならないのではないだろうか。本稿はその
活向上につとめるものとした。村は経済更生実行組合に対し
入り口にすぎない。
て、事業補助、個人計画の樹立支援、時報の発行、負債整理
や納税奨励の手引きなどを行った。また生活環境改善の一環
として、同事業のもとで村内衛生関係(井戸便所)に予算を
多く投入したことが、同村文書群更生関係史料からもうかが
注
える。
1)社会事業の変遷等については通史的なものとして菊池正治
室田保夫編集代表『日本社会福祉の歴史 付・史料─制度・
22)小曽木文書(昭和十七年 軍事援護綴)
23)この件は、小曽木の軍事援護への取り組みへの低調をかな
実践・思想─』(ミネルヴァ書房 2003 年)が新しい。
らずしも示すものではないようである。東京府の軍事援護功
2)青木大吾『軍事援護の理論と実践』p.9 常磐書房 1940 年
労者表彰において、該当する役場書記が「小曽木村出征軍人
(戦前期社会事業基本文献集6 日本図書センター 1995 年)
3)上平正治『軍事援護事業概要』p30-32
後援会を創立常務幹事として出征軍人慰問に留守家庭の慰
社会事業叢書第十
二巻 南郊社 1939 年(戦前期社会事業基本文献集 50
問、相談指導に応じ、既設の団体との摩擦もなく円滑に同会
日
の事業を遂行す。応召軍人あるや直に実情を調査、軍事扶助
本図書センター 1997 年)
を要すべきものは急速に処理し、安じて家業に精励せしむ軍
4)三好明治「軍事援護の理論と実践 書評」p.82(『社会事
事扶助取扱件数二十一件」「精神的方面」の功労者として名
業』8 1940 年)
前が挙げられており、評価されている。
5)山田明「軍事援護対策の歴史と日中戦争下の軍事援護事業」
24)小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14
(『戦前期社会事業基本文献集 50』日本図書センター 1997
年)の史料解説中に関係文献史が詳しい。
整理番号 19)軍事援護
事業功労者調査ニ関スル件
25)1937 年 同村 東京府の指示による軍事援護事業抜群功労
6)三好 前掲「軍事援護の理論と実践 書評」p.82
者調査によると光学機械製造会社社長が 500 円、米穀会社社
7)勅令第 697 号(1939 年年 10 月)により設置。
長が 100 円と多額の寄付をおこなった事例が認められる。
8)上平 前掲『軍人援護事業概要』p.40
(小曽木文書 軍人援護綴 S8-S14
9)吉富滋『軍事援護制度の実際』(山海堂出版 1938 年)吉
26)小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14
富は臨時軍事援護部軍事扶助課の事務員として、軍事扶助行
政の中核を担った一人である。
整理番号 85)軍事援護
団体ニ関スル件
27)小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14
10)「隣保相扶」の歴史的固有性の究明を行うという点で、郡
司淳『軍事援護の世界』(同成社近現代史叢書 2004 年)は
整理番号 16-18)
整理番号 46)軍事援護
事業経費調
28)法外援護については、青木 前掲『軍事援護の理論と実際』
新たな視点を提供している。
p.288 ∼に詳述あり。
11)三好 前掲「軍事援護の理論と実践 書評」は、同著作を
29)民間団体の援護は額が少額なことが多く、一戸に対して複
「在野」の理論および実践と位置づける。
数の団体の援護を重複させることが多かった。
12)上平 前掲『軍事援護事業概要』p.32
30)小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14
13)上平 前掲『軍事援護事業概要』p.28
整理番号 86)軍事援護
団体ニ関スル件
14)三好 前掲「軍事援護の理論と実践 書評」p.83
31)小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14
15)社会事業からのアプローチで代表的なものとしては、吉田
久一「戦時下の軍事援」(『現代社会事業史研究』第3部4章
整理番号 82)軍事援護
団体ニ関スル件
32)小曽木文書(昭和十五年度 小曽木村銃後奉公会 往復文
(勁草書房 1979 年)などがある。
書綴 整理番号 179)
16)佐賀朝「日中戦争期における軍事援護事業の展開」(『日本
33)新聞(雑誌)の供出については具体的には表5「1940 年
史研究』385 号 1994 年)の冒頭の研究史概略で軍事援護研
究に対するアプローチとして「社会事業史」「戦時国民動員
(昭和 15 年)の事例」のような形態での供出が行われている。
34)1940 年(昭和 15 年)に小曽木村が業者に発注した際の史
史」「家族政策史・女性史」の3つをあげている。
料からその中身をみると、ドロップ、塩豆、さるまた、歯ブ
17)池田敬正『日本社会福祉史』(法律文化社 1986 年)
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政策科学 12 − 1,Sept. 2004
ラシ、歯磨き粉、仁丹、便箋といった日用品である。慰問袋
か公平に御取計ひ願へないものでせうか」等、援護事業の不
は、このように業者に発注する場合と、各家庭に内容物をま
公平を問題視する声がある。これは援護事業の地域間格差が
かせる方法とがあった。
発生していたことを示している。
35)1940 年(昭和 15 年)の東京府の慰問袋募集成績表(小曽
41)上平 前掲『軍事援護事業概要』p.28
木文書 昭和十五年度往復文書綴 整理番号 232-233)によ
ると、西多摩郡で収集される慰問袋 6,953 の内、小曽木が納
めたものは 200 袋であった。全国では、毎月 10 万個もの袋が
参考文献/史料
前線の兵士に送られた。
1.雨宮昭一『総力戦体制と地域自治』(青木書店 1999 年)
36)小曽木文書(軍事援護綴 昭和十七年)によると奉公会強
2.青木大吾『軍事援護の理論と実践』常磐書房 1940 年(戦
化の通牒はこの後も、昭和 17 年1月、6月等、たびたび出
されていることが同文書よりうかがえる。
前期社会事業基本文献集6 日本図書センター 1995 年)
3.荒木章二『軍隊と地域』(シリーズ日本近代からの問い6
37)小曽木文書(軍事援護綴 昭和十七年)
青木書店 2001 年)
38)「標語」は
4.一ノ瀬俊也「軍事援護と銃後奉公会」(『日本史研究』第
一.一般軍人援護標語「護れ興亜の兵の家」「征かぬ身はわ
くぞ援護にまつしぐら」「湧き立つ感謝燃え立つ援護」
「兵強し銃後は固し国安し」
627 号 2000 年)
5.池田敬正『日本社会福祉史』(法律文化社 1986 年)
6.郡司 淳「郡司救護法の成立と陸軍」(『日本史研究』397
二.傷痍軍人援護標語「国を護つた傷兵護れ」「傷痍の記章
護国の光」「乗り降りもまず戦場の勇士から」「をじさん
1995 年)
7.郡司 淳『軍事援護の世界 軍隊と地域社会』同成社近現
ありがと今度はぼくらだ」「オケガノヘイタイサンエラ
イナ」
代史叢書 同成社 2004 年
8.角銅利生「銃後奉公会について」(『社会事業』22- 11
三.軍人遺族援護標語「遺家族の心になつて身になつて」
「一億で背負へ誉の家と人」「忠魂へ遺族援護の捧げ銃」
1939 年)
9.佐賀 朝「日中戦争期における軍事援護事業の展開」(『日
「護国の家へ挙国の援護」
本史研究』385 号 1994 年)
このいずれかから選ばせ、「半紙二つ切大用紙に書かしめ、
10.上平正治『軍事援護事業概要』社会事業叢書第十二巻 南
各自宅又は附近適当なる箇所(塀、壁、等)に貼付せしむる
郊社 1939 年(戦前期社会事業基本文献集 50
こと」という指示が出されている。奉公会事務担当者と国民
ンター 1997 年)
学校側とでこの件で調整がおこなわれたことが確認できる。
日本図書セ
11.三好明治「軍事援護の理論と実践 書評」(『社会事業』昭
小曽木文書(軍事援護綴 昭和十七年)
和 15 年8月号 1940 年)
39)1940 年 10 月、大日本国防婦人会、大日本愛国婦人会など
12.山田 明「軍事援護対策の歴史と日中戦争下の軍事援護事
が計画したもので、「兵隊さん有難う」という歌唱を各学校
業」(『戦前期社会事業基本文献集 50』日本図書センター
に普及させた。小曽木文書(昭和十五年 往復文書綴)
1997 年)
40)小曽木村の事例とは異なるが、出征軍人の遺家族を対象と
13.吉田久一『日本社会事業の歴史』(勁草書房 1994 年)
した調査報告「支那事変に於ける出征(戦傷死)者遺家族の
14.吉田久一『昭和社会事業史』(ミネルヴァ書房 1971 年)
動向に関する調査」(司法省刑事局『思想月報』56 号 1939
15.吉田久一『改訂増補版 現代社会事業史研究』(川島書店
年)において、「信保町の方では出征者が僅か二名の為良く
慰問を受けるとの話ですが、私達の金屋町では出征者が十一
1990 年)
16.吉田久一「戦時下の軍事援」(『現代社会事業史研究』第3
名あるので行届かないのかもしれません、斯様な点は何んと
部4章 勁草書房 1979 年)
表5 1940 年(昭和 15 年)の事例
区別
富岡全員
4.5.14 区
6.7 区
8.9.10 区
11.12.13 区
慰問新聞
自1月 15 日
自1月 22 日
自1月 29 日
自2月5日
自2月 12 日
至1月 21 日
至1月 28 日
至2月4日
至2月 11 日
至2月 18 日
自2月 19 日
自2月 26 日
自3月4日
自3月 11 日
自3月 18 日
至2月 25 日
至3月3日
至3月 10 日
至3月 17 日
至3月 24 日
自3月 19 日
自4月1日
自4月8日
自4月 15 日
自4月 22 日
至3月 31 日
至4月7日
至4月 14 日
至4月 21 日
至4月 28 日
(雑誌)日付
・・・(以下 略)
昭和十五年度 小曽木村銃後奉公会 往復文書綴 整理番号 82
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より作成
軍事援護事業における動員・資源化の考察(宮浦)
17.吉富滋『軍事援護制度の実際』(山海堂出版 1938 年)
27.『日本近代都市社会調査資料集成』1「東京府社会事業概
18.東京歴史科学研究会婦人運動史部会「軍事援護制度と出征
観第2輯 管内防貧的施設ノ部」(近現代資料刊行会 1995 年)
者家族・戦没者遺族の生活」(『女と戦争』昭和出版 1991
年)
小曽木文書(軍人援護綴 S8-S14)
19.東京府総務部地方課『東京府市町村概観』1938 年
小曽木文書(昭和十七年 軍事援護綴)
20.司法省刑事局『思想月報』58 号 1940 年(復刻版 文生
小曽木文書(昭和十五年度 小曽木村銃後奉公会 往復文書
書院 1972 年)
綴)
21.司法省刑事局『思想月報』56 号 1939 年(復刻版 文生
書院 1972 年)
小曽木文書(軍事援護関係綴 T15-S14 )
小曽木文書(銃後後援会往復文書綴 S13-S19)
22.座談会「地方に聴く現下社会事業の諸問題」(『社会事業』
小曽木文書(恩賜財団軍人援護会書類綴 小曽木村役場 自昭
昭和 15 年 8 月号 1940 年)
和十四年一月 至昭和十四年十一月)
23.厚生省 20 年史編集委員会『厚生省二十年史』(厚生問題研
小曽木文書(軍人援護小曽木村相談所 軍事援護相談所関係綴
究会 1960 年)
自昭和十三年度 至 18 年五月)
24.貴族院事務局調査課『銃後の後援に関する施設概要』1938
年(北海道大学所蔵版)
小曽木文書(小曽木村役場 勧業関係綴 昭和十四年)
小曽木文書(小曽木村役場 昭和十一年 動員準備業務一覧
25.『日本近代都市社会調査資料集成』11「東京府管内社会事
表)
業要覧2」(近現代資料刊行会東京都青梅市『増補改訂青梅
小曽木文書(小曽木村役場 軍人援護関係例規綴 S15)
市史』下巻(青梅市史編さん委員会 1995 年)
小曽木文書(小曽木村役場 昭和十九年 統計雑件綴)
26.『日本近代都市社会調査資料集成』10「東京府管内社会事
小曽木文書(帝国在郷軍人会小曽木村分会 昭和八年度 発来
業要覧1」(近現代資料刊行会 1995 年)
翰綴)他
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政策科学 12 − 1,Sept. 2004
図1 東京都西多摩郡全図(1937 年)出典 東京府市町村概観 p.78
図2 小曽木村全図(1937 年)出典 東京府市町村概観 p.78
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