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Title Author(s) Citation Issue Date Type 「ラオス語」の構築 : 雑誌『パイ・ナーム』の分析を中 心に 矢野, 順子 一橋研究, 29(1): 91-111 2004-04 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/17891 Right Hitotsubashi University Repository 91 「ラオス語」の構築 一雑誌『パイ・テーム』の分析を中心に一 矢 野順 子 はじめに 本稿の目的は独立後,75年の王制廃止・社会主義政権成立に至るまでラオ ス王国政府で繰り広げられた,「国家(サード)の言語‘1]」としての「ラオス 語倒」を構築していく動きの中で,当時の知識人たちが描こうとした「ラオス 語」像とはいかなるものであったのか,また,そうした動きがあったにもかか わらず,なぜ実務的な側面における「ラオス語」の役割は,王国政府時代を通 して不安定なものにとどまらざるをえなかったのか,マハー・シラー・ウィー ラウォン(Mah.S汕。Vi。乱vong)の業績と.1972年に創刊された雑誌『バイ・テー ム(P妙mm)」の分析を通してその要因を追及し,今後,言語とナショナリ ズムに関わる問題を考察していく上での手がかりをえることにある。 「ナショナリズム」,「国民」あるいは「ネーション」などを語る際,言語は その最も重要なファクターの一つとして幾度となく言及されてきた。例えばア ンダーソン.(Aべd・正・on)は「(言語が)[()内は引用者コ想像の共同体を生み 出し,かくして特定の連帯を構築する制」として,「言語」に「国民」の存在の 源泉を見出している。なるほどたしかに「国民」の存在にとって言語の共有が 重要なファクターである,という点は否定できない。しかしながら,それでは 「国民」の前提となるような「言語」とは,果たしてそのような自明なもので ありえるのであろうか,実際にはむしろ.「言語」の存在それ自体,近代国家の 成立とその領域内で話される「言語」の役割への自覚の芽生え,いわゆる「言 語的近代」‘川へといたる過程の中で徐々に構築されていった,きわめて政治的 かつ人工的なものなのであり,「国民」や「ナショナリズム」といった存在と 同じく全く新しいものなのである,とする批判が近年社会言語学の分野におい てなされてきている旧。近代国家の登場は領土上の国境線のみならず,本来, 92 一橋研究第29巻1号 境界が不分明であるはずの自然な言語の連なりにも線引きをせまり,固有名詞 を与え,「言語」の存在を実在化させていった。そして実在化された「言語」 は均質なr国語」ないしは「国家の言語」として,国民統合における象徴的側 面,実務的側面の両方において中心的役割を担うべく「構築」されていくこと となる㈹。このことは近代国民国家を建設する際にほぼ例外なく行われてきた といえ,とすればアンダーソンのように「言語」を前提として捉えるのではな く,むしろ国民統合を意図した他の政治的諸制度と同様に,国家建設を進める 中で共に構築されていくものとして捉え,その過程を明らかにする作業が重要 なものとなってこよう。 ラオスにおいてもフランス植民地時代末期より,独立が現実のものとなる中 で「国家の言語」としての「ラオス語」の構築作業が開始された。しかしなが ら,独立後も王国政府とパテート・ラニオの2大勢力による内戦が続き,双方 がそれぞれの支配領域を有したため統一した言語政策がとられることはなく, そのプロセスは混乱をきわめていた。そうした一連の歴史的経過については別 稿においで刊,王国政府とパテート・ラーオの両者の比較を通して考察を行っ たためここでは言及しないが,本稿においては対象をあらかじめ王国政府に限 定して,特にその中心人物のひとりであったマハー・シラー・ウィーラウォン (以下,マハー・シラー)に焦点をあてながら,考察を進めることとす孔マ ハー・シラーは,フランス植民地時代のrラオス語文法』(1935)編集を契機 に帽j,独立後もラオス文学委員会の書記として『ラオス語辞書』(1960),『ラオ ス語文法』(ユ962)の編纂に取り組むなど,王国政府における「ラオス語」研 究の先駆者的人物であった。彼の実績は,政治体制の変化を経験した現在のラ オスにおいても少なからぬ影響力を維持してきており,したがって,「ラオス 語」の構築過程を考える場合,彼の業績やその言説について,王国政府時代ま でさかのぼって検討しておくことは,ぜひとも必要であると思われる。 もっとも,王国政府における「ラオス語」の構築は,その担い手となるべき 知識人層にしても,内部に仏教教育・世俗教育という2つの教育制度の並立に 根ざした対立が存在するなど,決して一枚岩ではなかった。マハー・シラーが 1963年にラオス文学委員会を去った背景にも,世俗教育出身者中心の文学委 員会の方針に対する,彼の強い不信感があったものと考えられる。実際,その 大半が世俗教育出身者であった王国政府エリートたちのフランス語への傾倒は 「ラオス語」の構築 93 著しく,そうした彼らの態度は,公文書でのフラ!ス語使用や高等教育機関で のフラ・シス語を教授言語とするカリキュラムの採用など,実務的側面における 「ラオ.ス語」の存在を希薄なものとしていった。しかしながら一方で,象徴的 側面においては「ラオス語」をラオス王国の「歴史」や「伝統」を保証するよ うな存在とすべく様々な言説が生み出され,中でもマハー・シラーはそうした 作業の先頭に立ち,「ラオス語」の「伝統」・「歴史」を構築していった。 以上の問題意識を踏まえた上で,本稿ではラオス王国政府における「ラオス 語」の構築について扱う。具体的な方法としてはまず前提として,象徴的側面 における「ラオス語」の構築に関して,マハー・シラーの言説を分析すること で考察する。そして次に実務的側面について,雑誌『パイ・ナrム』の中から ラオス語に関する記事を抽出し,問題を社会言語学でいうコーパス計画に属す るもの(Co印us p1狐dng)とステータス計画(St且tus P1a。田㎞g)に属するものの 2つに分けた上で,それぞれ近代語彙の借用とタイ語の影響,教育制度とのか かわりから検討し,前者においてはタイ語が,後者においてはフランス語の存 在がその主な障壁となっていたことを示す側。そして上記のプロセスーを経た後, 最後に結論として,象徴的側面において「ラオス語」は,タイを意識しての r大ラオス主義」的思想と共にrラオス国民」の存在に過去との歴史的な一体 性を保証するものとして構築されていったということ,しかしながら実務的側 面におけるrラオス語」は,いまだそうした一体性を現実において十分に支え 得るような存在とはなりえていなかったこと,などを述べてむすびとしたい。 I 「ラオス語」そして「ラオス」 本章ではr国家の言語」としてrラオス語」を構築していくにあたり,象徴 的側面において「ラオス語」がどのように構築されていったのか,マハー・シ ラーの言説に注目して検討していく。マハー・シラーは文学委員会の書言己であっ たころから,その機関紙『文学雑誌』に「ラオス語」の歴史的・通時的な連続 性を語るような記事を執筆しており,『パイ・テーム』においても「ラオス文 字の歴史」を連載するなど,その著作には「ラオス語」,「ラオス文字」そして ネーションとしての「ラオス」の追求を試みたものが多い㌔『ラオス語文法』, 『ラオス語辞書』から『ラオス史』(1957)にいたるまで,多数の著作をもつ彼 94 一橋研究 第29巻!号 のそうした言説は王国政府において少なからぬ影響をもっていたといえるが, 本章ではその中から,教育省発行の雑誌『教育』創刊号(1959)に掲載された 「ラオス語」という記事を中心に考察をおこなっていく。 この記事でマハー・シラーは,はじめに歴史学者の見解を引用しながら,ラー オ族の誕生とその後の移住・拡散についでコ〕,ラーオ族は少なくとも10万年前 には存在していたが,その後,移住により枝分かれし,それぞれの定住地でタ イ(Thai),アホム,カムティ,ギィアオ(シャン),クーン,ルー,ニュワン, プワン,黒タイ,自タイ、ニョープ,トー,ラーオ,などの異なる民族名で呼 ばれるようになったとして,これらタイ(T・i)系諸民族の起源はラーオ族で あったということを基礎語彙の比較から主張していく咽。そして次に「我々は ラオス語を振興していかなくてはならないか」という項目を設けて,ラーンサー ン王国時代の「ラオス語」の繁栄とシャム,フランスの植民地支配による「ラ オス語」の衰退・没落を語り,ラオス王国として独立を達成した現在,rラオ ス語」を振興していかなければならないということを次の.ように述べていく。 「……もともとラーオ人とは大きな民族であったが,しかし現在は散らばって それぞれの場所にいってしまった。すなわちインドのアッサムに行ったものは インド人となり,ビルマのシャン州にいるシャンたちはビルマ人となった。そ して中国の雲南に留まっているものは中国人となっていっているし,ライチョ ウ,ラオカイにいったものは,ベトナム人になろうとしている。そしてタイの イサーンに住み着いたものはタイ人になってしまっれというのも彼らは他の 民族の植民地となり,支配者の言語と文字を学ばなくてはいけなくなったから である帽。」として,先のタイ系諸民族を引き合いに出し,民族の存続のために は自身の言語と文字の維持,何よりもそれを保証する政治的独立が必要である という考えを示している。そしてさらに「〔現在〕(〔〕内は引用者)真のラー オとして,すなわち独立したラーオとして,どの民族の植民地にもならずに残っ ているのは我々のラオス王国のみである。そしてこのいまだに独立を保ってい る我々のラオス王国こそが,あちこちに散らばった多くのラーオ人たちの心臓 なのである。(中略)まさしく我々ラオス王国の人間こそが多くのラーオ人た ちの遺産を消してしまわないようにするための保護者なのであり,そして我々 が守っていかなくてはいけない遺産の最も大切なものがラオス語とラオス文字 なのである。私がこのように言うのは,言語はなによりも,サード(民族,国 「ラオス語」の構築 95 氏)であることを表すシンボルだからである(中略)=咄。」と述べ,この記事の 最後をインドのアッサムのラーオ族がインド人となってしまったように,ラオ ス国民を消してしまわないためにも,ラオス語を発展させていかなくてはいけ ないと締めくくっている蝸。ここで彼は’(マハー・シラーの言うところの)広 義のrラーオ族」の中で唯一国家を有し,自らの言語と文字を維持している, ラオス王国の国民である「ラオス人」だけが真の「ラーオ族」であるとし, 「ラーオ族」の代表者としての「ラオス国民」像を創り上げている。そしてラ オス語,ラオス文字をそうした広義の「ラーオ族」すべてと共有すべき遺産で あるとして,いわば「大ラオス主義」ともいうべき思想を展開してい㍍もっ とも彼の論理に従えば,タイ系諸民族の中に含まれている,タイ王国の主要民 族であるタイ族(Thオ)との関係はどうなるのか,という重要な問題が生じて くる。しかしながら,彼は記事の中でこの矛盾に対する説明を一切していない。 そしてまさにこの点にこそ,「ラオス語」構築につきまとう難題が集約されて いたといえる。実際,マハー・シラーのこの主張は第二次世界大戦末期のピブー ン(phibun)に端を発する隣国タイの「大タイ主義」を意識したも一のであった といえ,ここには学者というよりはむしろ,「タイ」と「ラオス」の間の線引 きに悩む,マハー・シラーのナショナリストとしての必死の側面が強く打ち出 されている。彼は偉大なるラーオ族の遺産の継承者という,過去との通時的な 一体性をもった確固たるrラオス国民」像を創り上げることで,これに対抗し ようとしたわけだが,その際に「ラオス語」はその存在を保証するものとして, ぜひとも守り,振興していかなければならないものとされた。 このように象徴的側面において,マハー・シラーは「ラオス語」をラオス王 国の「国家の言語」として「ラオス国民」という存在を証明するものであり, さらには国外のタイ系諸民族と共有すべき遺産でもあるという,一種誇大妄想 的なものとして構築していった。それではその「国家の言語」である「ラオス 語」が,現実の実務的側面においてはどのように整備・構築されていたのか, 次章以降,雑誌『パイ・テーム』の分析を通して具体的に考察していく。 I 雑誌『パイ・テーム』 雑誌『パイ・テーム』は1972年6月,マハー・シラーを責任者兼編集長, 96 一橋硫究 第29巻1号 その娘のダーラー・カシラニャー(D・伽K・n・・ny乱)を副責任者兼実務担当者 として創刊された月刊誌であり,バナート・ラーオの勝利とラオス人民民主共 .和国の成立が間近となる1975年10月の第38号に至るまで,3年あまりにわ たって刊行された蝸。編集関係者,執筆者は主にマハー・シラーの親族が中心 で主要メンバーは8名であったが,そのほかにも懸賞作品応募を受け付けるな ど,一般からの投稿記事も多数掲載されていた。読者に関しては,毎号設けら れていた投書欄を見てみると,ウィエンチャン,パクセー,ルアンババーン, サワンナケート,サイニャブリー,ホアコーン,タケークなど国内各地からの 投書に加え,インドやタイ,フランス,アメリカといった海外在住,ないしは 留学中のラオス人からも投書が届いており。田,年齢層も中高生から大人までと 幅広かったようである。また,同誌では定期購読を受け付けており,1974年, 第23号の時点でその数はほぼ1000人に達していたということが投書欄に書か れている蝸。ラオス国立大学文学部のブアリー・パパーバン(Bu.H P乱ph.phm) 助教授によれば,『パイ・テーム』は一『プアンケーオ(友人ケーオ)』,『ピムラー オ(F1m L・o)』と並ぶ当時の3大人気雑誌のひとっであったということだが, 革命・体制変革という歴史的事情により,現在,その入手は非常に困難なもの となっている。今回,マハー・シラーの娘であるドゥアンドゥアン・ブンニャ ウォン(D・・ngd・um Bo㎜y・v・ng)氏,教育科学研究所図書室長ブン・イヤン (Boun I.ng)先生のご協力により,筆者は幸運にも創刊号と最終号を含む,多 くの号を手にいれることができが。 『パイ・テーム」の主な目的はラオス語とラオス語による執筆活動を振興・ 発展させ,「ラオス語」を「国家の言語」として一人歩きしうる「言語」とし ていくことにあったといえるが哩皿,それと共に,汚職や賄賂が横行し,貧富の 差や社会的不平等が拡大する一方であった当時の王国政府の世相を反映して, 社会批判をそのもう一つのテーマとして掲げていた。創刊号におけるマハー・ シラーの説明によると,“パイ・テーム’’という雑誌名自体,ラーンサーン王 国の建国者であるファーグム(F・Ngum)王がウィエンカムに攻め込む際,城 壁の役割を果たしていた竹林(バイ・テーム)に黄金の矢を放ち,ウィェンカ ムの人々の問に黄金への欲望をかきたてて竹林を切り倒させ,最終的に征服を 成し遂げた,というエピソードからとったものであり,そこには国家全体の利 益よりも私利私欲に走るという,王国政府の特権階級を風刺する意味が込めら 「ラオス語」の構築 97 れていたのだという閉㌧『パイ・テーム』ではこうした方針のもと,廃刊直前の 2,3号を除くほぼすべての号において醐,王国政府側,パテート・ラーオ側 を間わず政治・社会問題について辛辣な批判活動が展開されていく。こうした 編集部の姿勢は言語問題に対しても貫かれ,rラオス語文法」やrラオス文字 の歴史」,「パーサーパーシィア囲」と題されたコラムを中心に,巻頭コラムや 読者からの投書欄において,様々な角度からの批判がなされていく。そしてそ の際に前提として存在した共通の認識とは,彼らの「国家の言語」たるべき 「ラオス語」の不統一性,混乱した状態であっれすなわち前章のマハー・シ ラーの言説にもはっきりと示されていた通り,王国政府において「国家の言語」 =rラオス語」という意識は強くもたれるようになっていたものの,いざ,現 実の「ラオス語」に目を向.けたとき,その姿はいまだ統一性を欠いており「ひ とつラオス語」の存在には程遠かった。「パイ・テーム』では,こうした「ラ オス語」の混乱の主な原因を,やはり古くはシャム,そしてフランスの植民地 支配とそれに伴うタイ語,フランス語の影響に求めた上で,ラオス王国として の独立を達成して20年あまりが経過しようとする中,政府側とは離れた民間 の立場から,ときには政府やラオスロイヤルアカデミーの方針を鋭く批判しつ つ咀』,「ラオス語」を「復興」し,それに実体を与え,発展させるべく試みを行っ ていく。次節以降,実際の記事の分析を通して,具体的な問題を明らかに.し, 彼らの主張や試みについて考察していく。 皿 近代語彙とタイ語の影響一コーパス面における問題 前述したように『パイ・テーム』編集部の共通した認識というのは,「国家 の言語」であるべく「ラオス語」の,現実の混乱した状態であった。読者の投 書などから,これらの認識は王国政府内で広く共有されていたものだといえる が,これには正書法や近代語彙の整備など言語形態への介入に関わる,社会言 語学でいうコーパス言十画に属する問題と,言語の機能や社会的ステータス,他 言語との関連に関わる言語のステータス計画に属する問題が含まれていた閉。 本章ではまず,コーパス計画に属するものとして,語彙の問題について検討し ていく。 語彙に関わる問題は,同誌でしばしば扱われた重要なテーマであったが,そ 98 一橋研究 第29巻1号 の大半は「パーサーパーシィア」と題された連載コラムにおいてであった。こ のタイトルは直訳すれば,言語(パーサー)が喪失へ導く(パーシィア)とい うことになるが,これには現在の混乱したラオス語の状況,誤ったラオス語の 使用を指摘・批判し,このままではやがて「ラオス語」が失われてしまうとい う危機感から,正しい「ラオス語」の使用を紹介して,それを普及させていこ うという意図があった。創刊号以来,このコラムはほぼ毎号掲載されていたが, その執筆者はウィエンチャン高校のラオス語教師であり,出家経験,さらには タイヘの留学経験のあったマハー・チャン・インドゥピラート(M・h・C・n Inth・phi1.t以下,チャン)を中心に,号によってはマハー・シラーが書いたも のもあった酬。 語彙の問題について,ここで主に扱われたのは,ラオス語へのタイ語の影響 と近代語彙に関するものであった。他の国々におけるケースと同じく,ラオス においても「ラオス語」を「国家の言語」として,あらゆる実務的側面を担い うる言語としていくためには,近代語彙の整備は早急に解決しなければならな い問題であり,ラオスロイヤルアカデミーでもラオス文学委員会の時代から, 行政用語を決定するための会議が幾度となく開かれていた蜘。近代語彙の整備 にあたって,王国政府で特に問題となったのは語彙を新たに創り出すか,ある. いは他の言語から借用するかということであったが,とりわけ隣国の言語であ り,パーリ語,サンスクリット語を用いての近代語彙の形成が早くより進んで いたタイ語からの借用が問題となっていたようである。実際,ラオス語におい てもタイ語と同じく,古くよりパーリ語とサンスクリット語からの借用語を多 く取り入れてきていたわけだが,こと近代語彙に関しては,植民地支配を受け ることの無かったタイが圧倒的に先行しており,タイが創り出した語彙をその まま取り入れるかどうか,ということが一つの争点となっていた。こうした背 景には,チャンが本コラムで幾度と無く指摘しているような蹄,借用する必要 の全くない,きわめて日常的な語彙に至るまでタイ語の語彙の影響が及ぶとい う,当時の「ラオス語」の危機的ともいえる状況があったと考えられるが,そ うした中,アカデミーはタイ語からの借用を避けようと,「ラオス語」独自の 語彙の創出を試みていた。そして例えばタイ語のアディカーンボーディー∼ athik・・nb5⊃dii(学長)と区別するため,新たにアディカーンバディー∼・thik壷 mp.diiという語を創り出すなど,タイ語との差異化を図る努力が行われてい 「ラオス語」の構築 99 た脚。 一方,本コラムでみられた,近代語彙の借用に対するチャンやマハー・シラー の姿勢は,アカデミーよりも冷静なものであった。借用語に関して,チャンは 第8号に「他言語を取り入れる方法について」という項目を設けているが,そ こで彼はr現在,世界の様々な言語はすでに純粋なものではなくなっている。 なぜなら互いに借用し合っているからであり,それゆえ他の国民(民族)の言 語を取り入れるということは,避けられないことともいえよう。もし,他の言 語を取り入れるのを全く拒否してしまえば,言語を不十分な,発展していない ものとしてしまうであろう醐。」として言語の発展のためにも借用が必要である ことを認め,その上で「……もし自身の言語で十分に表現できている語であれ ば,彼らの語彙を取り入れて,自分自身の言語をっぶしてしまうべきではない。 そんなことをすれば,自身め言語の威信を失わせるか,あるいは死なせてしま うことになる削]。」と続け,不要な借用を戒めている。また,タイ語からの借用 に関しては,マハー・シラーが23号で「我々の国家は現在,新しく建設中な のであり,何であれまだ持っていないものは,自分たちよりも発展している近 隣国家からのものと共になくてはならない醐。」とし,rタイ語の中にはパーリ 語,サンスクリット語を起源とする語が数多く,ラオスよりも発展しており, パーリ語やサンスクリット語の語彙を取り入れる方法や規則に至るまでタイは 指導者なのである。例えば我々が日常に用いている大臣,政府,内閣,国会, 国会議員(中略)のような語があるが,これらの語はすべてパーリ語やサンス クリット語をもとにして創り出されたものなのだから,それらをタイ語だといっ て嫌悪し,使用しないなどということはすべきではない醐。」と述べて,近代語 彙に関してはタイ語からの借用を容・記する姿勢を示している。そして,アカデ ミーが新しく創り出した先のアディカーンバディーという語についても,サン スクリット語,パーリ語からの借用についてはより経験豊かで知識もあるタイ の造語法にしたがうべきであるとして,アカデミーの方針を批判すると同時に, ある語を受け入れてある語は排除する,といったアカデミーの中途半端な態度 をも批判している㎜。アディカーンバディーについては,さらにチャンも32号 でその造語方法の不適切さを指摘している固。 このようにチャンやマハー・シラーが近代語彙の借用に対してとった方針は, 「ラオス語」の中にすでに相当する語彙が存在する場合は断固として借用に反 100 一橋研究第29巻1号 対するが,専門用語など,「ラオス語」にその語彙が存在しないものにっいて は,何語であれ借用を容認するというものであった。そしてこれは,象徴的側 面で「ラオス語」を構築していく際にマハー・シラーが展開した言説を思えば, 意外なほどに冷静で合理的な姿勢ともいえる。マハー・シラーにしても,チャ ンにしても特に必要のない,日常レベルの語彙におけるタイ語語彙の借用は 「ラオス語」を混乱させ,死に追いやるものであるとして厳しく批判するが, 一方で近代語彙については,いち早くその方法を確立していたタイを手本にす べきであるとし,アカデミーの無理な造語を批判した。実際,彼らが最も恐れ ていたのは人々がそれと気付かずに,深く考えることなくタイ語を用いてしま うという,いわば無意識の借用行為であり,本コラムの目的はまさに,そうし た行為を防ぐために,正しいrラオス語」の知識を紹介していくということに あったといえる。また,近代語彙に限らず,アカデミーによる語彙の定義や選 。択についても,彼らはかなりの不満を抱いていたようで,チャンは10号で 「ラオスロイヤルアカデミーのラオス語」という項目を設けて,アカデミーが 情報宣伝省の新聞に連載した語彙の定義について,その間違いのひどさを指摘 するとともに,いくつかの語についてはタイ語と区別しようとして,かえって 勘違いをし,逆にタイ語を採用してしまっているとして,このようなタイ語と 「ラオス語」の区別もできない人というのは一体何人なのか,とアカデミーの メンバーのラオス語能力を問うている。㌧チャンやマハー・シラーをはじめと した『パイ・テーム」編集部のアカデミーに対するこうした不信感は,語彙以 外にも,例えば正書法の問題にも向けられていた㎜。次章では,知識人の対立 ともいうべきこの不信感の根底にあるものとして,ラオス語のステータスに関 する問題について,とりわけ教育制度との関わりから考察していく。 w 教育制度とラオス語の位置一ステータスの問題 1 世俗教育とフランス語 「ラオス王国憲法において,ラオス語が国語と規定されていることにっいて, 役所の机の下に積まれた書類から察するに,まだあまり進んでいるとはいえな い。下級の役人から高級官僚に至るまで,外国語の書類,特にフランス語のも のがまだまだ多くみられ,ラオス語はその半分にも満たない。いくつかの省庁 「ラオス語」の構築 !01 では,フランス語である必要のない回覧板までもが,いまだにフランス語で書 かれている。彼らの言い分というのは,一緒に仕事をしているフランス人がい るから,ということなのだが闘。」これは8号の「パーサーパーシィア」に書か れたチャンのことばである。ここにはかっての支配者の言語であるフランス語 の前に,いまだ一人歩きをするに至っていない,当時の王国政府でのラオス語 の置かれた状況,その社会的位置づけがよく表されている。このようなラオス 語のステータスの低さは,前章でみてきたような,コーパス面における不整備 や混乱にその一因をたどることができるといえるが,しかしながらもっと深安1」 であったのは,チャンが「多くの人がフランス語と英語を神の言語と崇める一 方で,自身のラオス語をミミズのようなものとして追いやってしまっている鋤。」 と評しているような,いわゆるエリート層を中心としたフランス語への傾倒と, ラオス語に対する無関心な態度,さらにはその不十分な知識にあった。8号に 掲載された「ラオス文字を学んでどうするというのか」という,巻頭コラム 「テーム・パイ(竹のとげ)」の中の1一項目は,まさにこうしたエリートたちの 態度に警鐘を鳴らしたものといえ,そこからは教育制度とも密接に関わりあっ たこの問題の根深さが読み取れる。「テーム・パイ」とはマハー・シラーの息 子であるパーナイ(P盆my)が,キィアンカム(金の矢)というペンネームを 用いで珊,巻頭に連載していたコラムであったが,社会・政治問題について毎 号かなり厳しい批判を展開していた。また,バーナイはドゥアンチャンバーと 並ぶ『パイ・テーム』の2大人気作家でもあり,同コラムのほかにも詩や短編 小説を多く掲載していたコ杣。 この8号の「テーム・ハーイ」は,全体が4つの項目から構成されていたが, 言語問題に関しではそのうち2項目を使って,ラオス語と教育カリキュラム上 の矛盾,社会階層の分化について論じている。そ一してその1っ目が先の「ラオ ス文字を学んでどうするというのか」であったわけだが,ここではまず,公立 小学校がカリキュラムを改訂してラオス語をすべての科目における教授言語と したのに対し,公立中学校の入学試験は依然としてフランス語で行われていた ため,公立小学校の卒業生は中学校の入学試験に際して,フランス語による教 授が行われていた私立小学校の卒業生にかなわず,結果として進学の道が閉ざ されてしまうという,教育カリキュラム上の矛盾について言及している帖固。タ イトルの「ラオス文字を学んでどうするというのか」はここにきて,「勉強し ユ02 一橋研究 第29巻1号 だとしてもどこの入学試験に合格することもできないというのに!由雪」と続い ていくわけだが,実際,主としてカトリック系の私立小学校に入学できたのは, 高級官僚など富裕層の子供たちに限られており,彼らはこぞって自らの子弟を 私立学校へと。入学させていた。キィァンカムは「もしも,我々の国民の教育世 界がこの先もずっとこのままであるならば,現在二つの階層への分離が進みつ つある我々のラオス社会は,さらにその差異を広げていくであろうことは疑う 余地もない……側。」として,フランス語能力の有無が社会的上昇の鍵を握り, 社会階層分化の一因となっている状況を憂え,初等教育と中等教育の間の不整 合や,私立学校と公立学校が異なるカリキュラムを採用するといった,統一性 を欠いた政府の教育政策を批判している。 キィアンカムは次の「以前からの問題,以前より大きな問題」と題された項 目においても,同様の問題を今度はアメリカの援助のもと,実験的に設置され た「ファーグム総合中等学校」(以下ファーグム学校とする)のケースから論 じてい孔ファーグム学校とは,1967年に政府のラオス国語開発プロジェク トにより岨,前項で言及されたような小学校卒業後,中学校へ進学できない子 供たちに進学先を与えるためにUSAlD(Udt・d St盆t・・舳fo・1nt・・n・dom1 Dev・lopm㎝t)の援助によって設置された・外国語以外のすべての授業をラオ ス語で行うという新カリキュラムによる中高一貫の総合学校であった朗。ファー グム学校は十分な資金のもと毎年規模を拡大し,ウィエンチャン以外にもサワ ンナケートやパクセー,ルアンババーンなどに分校を設置していったが蝸,こ こでキィアンカムが危慎したのは,やはり生徒たちの卒業後の進路にっいてで あった。彼は1973年当時,ファーグム学校はまだ初の卒業生を出すにいたっ ていないがと断った上で,近い将来,卒業生が進路を選択するに当たって進学 を希望した場合,医学校にしても,法律学校にしても,師範学校にしても,す べてフランス語で授業が行われており,そのためファーグム学校の卒業生には どこにも進学の道がないであろうことを指摘している岨。すなわち,ファーグ ム学校創立によって,ようやく一rラオス語」による中等教育を受ける機会が開 かれたわけだが,さらにその上へと進学を希望したとき,初等教育から中等教 育へ進学する場合と同じ問題が待ち構えていたのである。そしてまた就職を希 望したとしても,政府が公務員として雇える人数には限界があることから「はっ きりしているのは,数年後には我々の国家の教育世界は行き止まりにぶつかる 「ラオス語」の構築 103 であろうことである。それはもし我々の国家の教育開発計画がこのままの方針 でいくのであれば,将来,ラオスの子供たちは“失業者”という職にっくため に,一生懸命勉強しなくてはならなくなる,ということを意味している囎。」と してフランス語重視の教育制度を改革し,教育カリキュラムに整合性をもたせ る必要を強く訴えている。このキィアンカムの記事に対しては,10号の投書 欄に読者からも賛成の意.を伝える投書が届いている醐。 このようにキィアンカムは,8号において一貫性を欠いた教育カリキュラム とフランス語への傾倒が,結果として社会階層の分化を促しているとして政府 の教育政策を激しく批判したが,10号では彼の鋭い批判の目は,さらにエリー ト知識人のラオス語軽視と彼らのラオス語能力に向けられていく。キィアンカ ムはユO号のrテーム・パイ」で特に海外留学組の知識人によるラオス語の軽 視を「木の棒を投げたらマンゴーを通り越した」という格言にたとえている。 彼の説明によると,これが意味するところは,木の棒(自らの知識)がマンゴー (自身の国家の言語であるラオス語)より高いところにあると勘違いしている 当時の外国留学経験者を風刺したものであるという固㌧キィアンカムは海外へ 留学し,高度な知識を持って戻ってきた人というのは,その多くが外国で得た 学問知識のみを重視して,尊重すべき自身の「国家の言語」を見下し,何の価 値もないものとして,ラオス語の勉強を気にも留めなくなるとして,特に高等 教育機関の教師たちをその例として挙げている。そして彼らのラオス語能力が 不十分であるがゆえに,せっかく外国で得てきた学間知識であっても,それを 上手く生徒たちに伝えることができず,これでは「口の聞けない人がよい夢, あるいは悪夢を見たとして,それを誰にも伝えることができないのと同じであ る肋。」と彼らのラオス語能力を評している。また彼は,多数の留学経験者が教 師となっているにもかかわらず,いまだに教育に十分なだけの教科書が作成さ れていないのを,こうした知識人のラオス語能力の低さ,あるいはラオス語へ の無関心な態度に求め,最後に提案として,役人に最低でも週3時間,さらに 外国から留学帰りのものには仕事に入る前に最低6ヶ月間,!週間に5時間の ラオス語の勉強を義務付けるべきだとしている固。ラオス人に対してラオス語 の勉強を義務付けるという,一見すると滑稽ともいえるキィアンカムの提案で あったが,彼のエリート知識人のラオス語能力に対する不信感はまた,チャン やマハー・シラーがアカデミーのメンバーに対して向けた不信感と通じるもの 104 一橋研究 第29巻1号 でもあった。実際,創刊号の「パーサーパーシィア」において,チャンは「発 音どおりに綴る」という音韻型正書法を支持するもののことを「フランスの弟 子回」と表現しており,これはアカデミーのフランスよりの態度を暗に示した ものであったと考えられる。またキィアンカム自身も,13号のラオス語のセ ミナーに関する記事の中で,アカデミーメンバーのラオス語能力の低さについ て批判している朗。 以上,これまで見てきた2つのコラム言己事は,世俗教育におけるラオス語と フランス語の関係について扱ったものであったが,さらにそれと並立するもう ひとつの教育制度であった仏教教育においても,僧侶あるいは少年僧たちにフ ランス語や世俗科目を教えるべきかどうかということが,新たな問題として持 ち上がっていた。次項では,仏教教育とフランス語の関係について見てみるこ ととする。 2 仏教教育とフランス語 仏教教育でフランス語を教えるかどうか,という問題については,ケー・カ イセーン(鮎舵I鮎。y。乱。ng)が10号の「教義の世界」でr僧侶や少年僧は世 俗教科を学ぶべきか?」というテーマを設けて論じている囎。筆者(チャン) によると当時,僧侶や少年僧が世俗教科を学ぶと,信者が功徳行為によって得 られるはずのブン(徳)が減ってしまうのではないか,という声が存在してお り,この記事はそうした人々の疑念に答える形で書かれたものであった。チャ ンは最初に世俗教育と仏教教育の歴史を振り返ったあと,間答形式により記事 を進めていく。1っ目の「僧侶たちに宗教科目だけを学ばせ,世俗科目を学ば せないでおくことはできるか師」という質問に対しては,それは可能であるが 時代遅れだとして,子供から大人まで,新しい時代の事柄について多くを学ん でいるのに,仏教教育では仏教科目のみを学ぶというのでは,仏教側の人間と 世俗側の人間が話をした際に全く理解し合えなくなる恐れがあり,そうなると 仏教教義は何の意味も持たなくなってしまうとしている。また2つ目の「僧侶 や少年僧にとっては必要なものではないから,フランス語や英語を学ぶべきで はないのではないか囎」という間いには,外国語は多く知っていればそれに越 したことは無く,外国入に布教する際や,宗教国際会議に参加するために必要 であるとして,ここで僧侶がフランス語,英語を学ぶ必要性とその理由を述べ 「ラオス語」の構築 105 ている。しかしながらこの問いに対するもっと大きな,差し迫った答えは最後 の「僧侶たちで世俗科目を学ぶ必要があるものにっいて,なぜ還俗させて勉強 させないのか。というのも,信者たちが彼らに四事(衣服,飲食,住居,医薬) を寄進したとしても,宗教科目だけを学んでいる僧侶に寄進したのと同じだけ の徳を積めないのではないかと心配するからなのだが固」という質問に対する 答えの中にあったといえ孔この答えは要約すれば,その大半が世俗学校に通 うことのできない,貧しい家庭出身の僧侶や少年僧たちに寺院で教育を受けさ せ、宗教と世俗の両方に関する知識を十分にもたせてやれば,彼らが出家を続 けた場合には仏教にとって利益となるし,還俗しても,能力と道徳を兼ね備え た役人として国家の利益となるのだから,寄進を行って,彼らに勉強の機会を 与えるよう支援していく行為は,当然徳を生むものであるというものであった。 そしてこの回答を述べていく中で,チャンは僧侶が世俗科目を学ぶ必要につい て,特にフランス語と英語に関して,仏教学校出身者がこうした外国語をしっ かりと身にっけていれば,彼らが役人となっても世俗学校出身者に馬鹿にされ ることはないであろうとして,仏教学校出身者がその外国語能力の無さゆえに 世俗学校出身者に見下されていたという,当時の状況を描写している蛆。。チャ ンにしても,マハー・シラrにしても,仏教教育の出身者であったことを考え ると,こうしたことは一方で,彼らが日々の生活の中で現実に体験してきてい たことであったともいえる。そしてここに会長であるピエール・ソムチン・ギ ン(pi。雌Som。㎞n N釦n)をはじめ,その多くがフランス留学経験者,ある いはフランス語に堪能であったアカデミーメンバーに対する,教育バックグラ ウンドの相違を要因とした,彼らの不信感の根源とも言うべきものを読み取る こともできよう。 こうした,パーリ語やタム文字にも通じ馴,ラオス語についての深い知識を 持つ仏教教育出身者に対するエリートたちの態度,すなわち「国家の言語」で あるはずの「ラオス語」の知識よりも,フランス語能力を重視するという彼ら の態度からもまたわかるように,結局のところ王国政府における「ラオス語」 の地位はフランス語の二次的な位置に留まり続けた。そしてさらに,極端な言 い方が許されるのであれば,少なくともエリート役人たちの間にはフランス語 を上位言語,ラオス語を下位言語とする暗黙の構図ができあがっていたとさえ いえる。実際,チャンの先の主張には,外国人への布教など,純粋に時代の流 106 一橋研究 第29巻1号 れに対応するといった理由に.は収まりきらない,現実社会における圧倒的なフ ランス語の存在に直面しての仏教教育出身者の苦悩の一端がみいだされよう。 おわりに 「我々は独立した民族である。憲法においてもラオス語は公用語であるとさ れている通り,いっか,ラオス語が真の国家の言語(国語)となる日がこなけれ ばならない。(中略)そしてすべての公文書がラオス語で書かれる日が来なけ ればならない……髄。」 これは『パイ・テーム』創刊号に書かれた一説である。ここには「国家の言 語」としてのrラオス語」意識と同時に,現実にはまだそれが達成されておら ず,いまだ理想の段階でしかないという当時の状況が語られている。これまで の考察からも明らかなように,象徴的側面においては,マハー・シラーにより 「ラオス国民」の存在に過去との通時的一体性を保証するような「国家の言語」 として華々しく構築されていったrラオス語」であるが,実務的側面において は外国語の影響の前にそうした一体性を補強するようなものとはなりえておら ず,いわば「砂上の楼閣」ともいうべき存在であっれ上記の一節に,筆者が 「現在のように口先だけで行動が伴わないのとは違って岨割」と付け加えているの が印象的である。これはまさしく「国家の言語」として「ラオス語」を称揚す る一方で,現実にはフランス語を重視し,ラオス語による中高等教育に対して も無関心であった王国政府エリートの態度を指したものであったといえ乱実 際,当時よい職業につくためにはフランス語能力は必須であり,このことはま た,王国政府にあってはいまだラオス語の識字能力が社会的上昇にっながるも のではなかったということを意味していた。そのため,富裕層の人々は自らの 子弟に競ってフランス語を学ばせ,ラオス語の学習を省みなくなると同時に, 言語能力を原因とした社会階層の分化をも招くという悪循環に陥っていったの である。そしてまた,こうした世俗教育におけるフランス語重視は,結果とし て「ラオス人」による「ラオス語研究」を遅らせることとなり,それは正書法 や語彙の整備など,コーパスの領域における問題へも影響をあたえていった。 チャンやマハー・シラーといった仏教教育出身者が見せたアカデミーメンバー のラオス語能力への不信感からも王国政府のそうした状況がうかがえる。 「ラオス語」の構築 ユ07 このように王国政府時代を通して,ステータスの領域において「ラオス語」 の構築に重大な影響を与え続けたフランス語であるが,しかしながらコーパス の領域においてタイ語が「ラオス語」に与えた影響もまた,深刻かっ広範なも のであったといえ孔このことは「パーサーパーシィア」のぺ一ジ数の大部分 が,ラオス人による不要なタイ語語彙の使用を指摘し,正しいラオス語の語彙 を紹介していくことに費やされていたことからもうかがえる。すなわち,読み, 書き,話すためには長い学習時間を必要とするフランス語とは違って,特に学 習しなくても理解が可能であったタイ語の影響は,メコン川をはさんで対岸か ら毎日届くラジオやテレビの電波,新聞,雑誌などの出版物により,子供から アカデミーのメンバーに至るまで,ラオス人の日常の言語生活全般に及んでい た。チャンやマハー・シラーは毎号,頑強なまでに「ラオス語」語彙の使用を 訴えていくが,チャンが「国の違う親戚の言語削」と呼んでいたように「外国 語」というには近すぎる関係にあるタイ語との線引きは,現在にいたるまで rラオス語」の存在にとって複雑な問題を投げかけるものとなっている。そし て,こうしたタイ語とフランス語の強力な影響のもと,王国政府時代を通して 「ラオス語」が,実務的側面において「ラオス国民」の一体性を補強するよう な「ひとつラオス語」の存在となりえるべくもなかったのである。 また,近代語彙の借用に関しては「必要なものは取り入れる」として,タイ 語語彙の借用について,意外なほどに冷静で合理的な態度を取ったマハー・シ ラーが,象徴的側面において「ラオス語」を構築していく上で創り上げた,一 種誇大妄想的ともいえる言説の裏には,圧倒的なタイ語の影響を前にして, 「ラオス語」に「国家の言語」としてふさわしいだけの威信を持たせなくては ならないという,ナショナリストとしての強い思いがあった。すなわち現在, タイ語よりも発展が遅れてしまっている「ラオス語」ではあるが,過去におい て.は(彼の考えるところの)広義のラーオ族によって使用さ.れ,大いに発展し ていた言語であった,という偉大なる「伝統」ないしは「歴史」を創り上げて, 「ラオス語」の存在を脅かすタイ語の影響に対抗しようとしたのである。そし てまたその際,そうしたr伝統」・「歴史」の継承者としての「ラオス国民」像 が同時に創造されていった。マハー・シラーは『パイ・テーム』においても 「ラオス文字の歴史醐」を連載するなど,「ラオス語」の「歴史」の創造とタイ 語との差異化に精力を傾けていたが,上記の言説が展開された記事が,教育省 108 一橋研究 第29巻1号 の機関紙『教育』創刊号の巻頭を飾るものであったことを考えれば,その影響 力は決して小さなものではなかった,ということができよ㌔ こうしてみると「国家の言語」としての「ラオス語」の構築作業というのは タイ語との,ひいてはタイとラオスの差異化の確認,あるいは創出とともに進 められたものであったといえ,それはいわば「ラオス」という「自己」から 「タイ」という「他者」を排除することで「ラオス国民」を創出していく作業 と同時進行で進め一られたものでもあった。そしてこう考えたとき「ラオス語」 はrラオス国民」に先立つ所与の実体として存在したのではなく,ラオス王国 が国家建設を進める中,両者は相互補完的なものとして構築されていこうとし ていた,と捉えることができるであろう。 [付記コ本稿は松下国際財団「200ユ年度松下アシアスカラシップ」の助成に よる留学の成果の一部である。ここに記して感謝の意を表したい。 l1〕サードとはラオス語で国家,国民、民族などを意味する,英語のネーションにあたることばであ 乱本稿で用いた資料ではラオス語でpも且朋舶㎞oong s蝸t(サードの言語)を国語すなわち英語の 舶d㎝山邊ng・里g丘の意味で用いていると思われる箇所が多く,本来.「国語」としたいところであ乱 しかし,ラオス王国憲法ではラオス語の国語規定はなく,公用語と規定されているのみなので,誤 解をさけるため,本稿ではすべて「国家の言語」で通した。ただし引用文など,文脈に応じて民族 の言語あるいは国民の言語としたところもある。 12〕ここで「ラオス語」とカギ括弧付きにしたのは,これが構築された存在であることを指す。しか し,以下では特に強調したい部分を除いてカギ括弧は省略した。 (3〕B.アンダーソン(1997)r想像の共同体』白石隆・白石さや訳,NTr出版,210−2!1頁。 14〕 「言語的近代」について,イ・ヨンスク(1987)r朝鮮における言語的近代」r一橋研究』王2巻 2号などI。 (5〕例えば,イ・ヨンスク(ユ996)『「国語」という思想一近代日本の言語認識』岩波書店。 16〕国語のr構築」について,安田敏朗(1999)r「言語」の構築一小倉進平と植民地朝鮮』三元社, 安田敏朗(2003)『脱「日本語」への視座』三元杜などを参照した。一安日ヨは近代国民国家における 言語近代化,すなわち近代語の整備の過程をr言語」の構築と捉え,「国語」の構築にあたっては, 共時的現在において国民に共有されるべき共時的一体性を持ったr標準語」とその通時的一体性を 保証する歴史を構築する必要があるとした。本稿では,こうした安田の定義を踏まえた上で,rラ オス語」の構築を実務的な側面と象徴的な側面に分けて考察した。これは大体において前者が安田 「ラオス語」の構築 109 のいう共時的一体性の構築に,後者が通時的一体性の構築にあたるものだということができ乱 17〕拙稿(2002)rラオスの正書法改革に見る文字ナショナリズムー王国政府とパテト・ラオの二つの 体制下における知識人の議論から」『ことばと社会』6号。 18〕拙稿(2002)において筆者はこれをマ八一・シラーの単著のように書いたが.その後の調査によ り,マハー・ケ」オ(M宜h乱Ka・w)など当時のラオス仏教協会メンバーたちとの共著であったこと がわかっ㍍しかし主な執筆者はマハー・シラーであったものと思われ札 19〕コーパス計画,ステータス言十画とは社会語語学で用いられる概念で,言語政策,あるいは言語計 画において,一例えば言語関連立法の制定,教育の場での教授言語の決定など諸言語間の地位決定に 関わるものをステータス計画,一方表記法,近代語集の整備など言語の内的操作にかかわるものを コーパス計画と呼ぶ(Spo1目ky,BEm趾d(1998)∫励佃沁克叫Ho㎎Kong=Oxfo.d U㎡v。正的P肥害昌, pp68−72。)などを参照。本稿は言語計画それ自体を論じるものではないが。この2つの概念を応用 し,考察を行った。 ωマハー・シラーはユ951年の創設時より63年までラオス文学委員会の書記を務めていた。 ω現在のラオス人民民主共和国の主要民族。ラオス国内と東北タイのメコン川流域に居住している。 ω S脇息m肋庇m(教育)no−1,ユ959.9,pp.1−4なお1タイ系諸民族とは東南アジア大陸部を中心に北 は中国南部,南はマレー半島,東はべトナム,西はインドのアッサム地方にかけて広く分布し,タ イ文化を共有する人々の総称。(綾部恒雄(1999)「タイ族」『東南アジアを知る事典」石井米雄・高 谷好一・前田成文・土屋健治・池端雪浦監修,平凡社,167頁。)タイ王国の主要民族タイ(Th義) と区別するために英語では不出と表記されることが多い。 03〕S脇冶∫m搬榊no−1,ユ959.9,p.9.ここで彼は東北タイのラーオ族がタイ入になってしまった,とし ているわけだが,タイ族に関しては彼が先にもとはラーオ族だとして名前を挙げたタイ系諸民族の 中に含まれている。 ω∫m息m肋伽m,・。。1.1959.9,P.9. 05〕∫m肩∫m舳側m.1.1959.9,P.!0. 06〕ラオス人民民主共和国成立はユ975年ユ2月2日。なお,『パイ・テーム」38号には最終号である ことが書かれていないが,かっての編集者で,マハー・シラーの娘であるドゥアンドゥアン・ブン ニャウォン氏によると,38号を持って廃干uとなったということである。 o7〕これは海外で販売されていたことを意味するのではなく、すべて国内の親戚・友人などから送ら れたものであっれ国内の他県についてもサワンナケート,パクセー,ルアンババーンでは販売さ れていたようだが,そのほかは定期購読者として直接編集部に注文し,入手していたようであ乱 ○副 〃ψmm(パイ・テーム)no.23.1974.4,p.!2。 (1畠〕今回筆者が人手しえたのはno.1,2,8,10,13.18,19−24,27,28,30,32∼35,38の19冊である。ご協力いた だいたお2人にはここで改めて御礼申し上げる。なお,他の2つの雑誌については,残念ながら筆 者はいまだ入手に至っていない。 個⑪P伽榊・・一1,ユ972.6,PP.54−56。 硯山 P切伽脇no.1.1972.6,p.52。パイ・テームのもともとの意味は竹の一種の名称。なお『パイ・ナー ム』では号によって仏暦で発行月日が書かれているものがあるが,ここではすべて西暦に直した。 睨密.パテート・ラーオの影響力が強まったためと考えられ孔実際,最終号においてはそれまでと論 調が変わり,巻頭コラムもr新体制」を称揚するものとなっている。また表紙も前号まではタイト ルの横にr社会批半1」」と書かれていたのが.最終号では「愛国主義」となっている。 ㈱ 「パーサーパーシィア」意味については本稿第皿章参照のこ4 0地 ラオスロイヤルアカデミーは1970年にラオス文学委員会から昇格された教育省所属機関。 ㈱ LJカルヴェr言語政策とは何か』西山教行訳,白水社,2426頁。 ㈱ 彼はこのコラムに限り,クー・チャン(チャン先生)というペンネームを用いていたため,以下 1/0 一橋研究 第29巻1号 ではチャンとする。チ中ンは『パイ・テーム』編集部の一人で.シーサワンウォン大学(現在のラ オス国立大学〕でもラオス語を教えていたという。先のブァリー助教授も当時,彼のもとでラオス 語を学んでいたそうである。 ○確γmm肋肋〃m(文学雑誌)no・3.1953.10,pp.40−48.文学委員会の機関誌であった同誌にはほぼ毎 号,会議で決定された行政用語の語彙表が掲載されてい孔 ㈱ チャンの指摘によると,ラオス人の多くが,ラジオのアナウンサーまでもがタイ語の〃の音を 持つ語のうち,ラオス語では本来/h/と発音すべき語について,例えばラオス語ではノh5コj/である ・べき数字の100をタイ語の発音にしたがってノ・5・jノと発音してしまっていたという。このほかにも チャンは多くの事例を挙げてラオス語へのタイ語の影響を警告している。(p幼m物。o.1.1972.1, pp.41−42,no.2./972,pp.59−60;2号は表紙部分が破れてしまっていたため発行月不明) 嘔副P伽mm,m.23,ユ974.4,PP.ユ4−/5. ㈱物価吻m8,ユ973.!,P.42。 制〃仰吻m8.1973.1,PP.42−43. 働 P勿岬m物m.23.1974.4,p.14.ここでマハー・シラーはrタイ」とはっきり述べてないが,続く箇 所より「近隣国家」がタイを指すことは明白である。 目3〕物mm,m.23.1974.4,P,14. 1鋤〃W榊舳23.1974.4,P.ユ5. 幅5〕P伽m犯m−32.1975−1,P.27. ㈱物m吻mユO,1973.3,PP.40−44. 8司 詳しくは拙稿(2002)参照。 鰯P妙m物。。,8.1973.ユ,p.41.もっとも・実際の王国憲法においてはフランス語と共にラオスヨE国 の公用言吾と規定さ机ており,「国語」とはされていなかった。 ㈱P伽m励,m.13.1973.6,P.40. ω ウィエンカムを攻めるときにファーグム王が放った黄金の矢からとったのではないかと一唐、われ瓦 ω ドゥアンチャンバーとはダーラー・カシラニャーのペンネームである。 ω物mm,m.8.1973ユ,P.7. 胆割P物mm,m.8.1973ユ,P−7. ωP物m伽、・。.8.1973.1,P.7. ㈹ ㎜d雪t叩。f Ed。〔丑ti㎝(発行年不明うP乃m吻L〃∫m伽肋榊。崩戸棚泌(ラオス語中学4年生)p. ivこれはファーグム学校のラオス言吾の教科書である。 ㈱Th.T.yot纈Fo岬d乱don(1996)P肋以刎∫倣是∫記直L〃(ラオス教育史),Vj肋d邊皿。,pp−94−95 ㈹jbid、 ㈱P伽m肋,・。.8.1973.!,PP.8−10. ㈱吻棚物舳,!973.1,P.1O。 制〕肋仰物岨工O,ユ973.3,P.87。 ㈱P伽m物掘。ユO.ユ973.3,P.9. 帽劃P伽mm,m.10.1973.3,P.9. ㈹P伽榊・。。10.1973,3,PP.9−10, 15切P切伽吻。o.1.1972.6,p.41.当時の正書法論争において,アカデミ’は音韻型を支持していた。 155jp伽m似・o、ユ3,王973.6,P.9. 鮒 ケー・カイセーンはチャンのもうひとつのペンネーへ彼は『パイ・テーム』に執筆する際、本 名とさらにクー・チャン,ケー・カイセーンという2つのペンネームを使い分けていた。 嘔ηP伽伽,・o.1O,1973.3,P.62. ㈱P伽m仏m.10,ユ973.3.P.62. 「ラオス語」の構築 111 ㈱P伽舳、。。.10.1973.3,P.63。 ㈹P伽榊m.10.!973.3,PP.59−64。 個1〕タム文字とは主にパーリ語の仏教経典を記述する際に使われていた文字である。 ㈹〃仰物m1.1972.6,P−56. 頃3〕P伽m,m.1.1972.6,P−56− 16切P妙m物m.2,ユ972,P.59。 ㈹ この言己事でマハー・シラーはラオス文字の起源をスコータイのラムカムベーン王が作ったタイ文 字に求めるという説を否定し,ラオス文字はそれよりはるか以前にインドのテヴァナガリー文字を 起源として創りだされ,改良されていまにいたるのだとして,そ’の独自性を主.残している。 (P妙榊m.!,1972.1,PP−22−25,m.2.1972,PPユ9−25。)