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物質文化研究 - 城西国際大学

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物質文化研究 - 城西国際大学
ISSN 1349-2691
物質文化研究
城西国際大学 物質文化研究センター
第4 号
2007年3月
───────────────────────────────────────────────
●〈論 文〉
丸山 清志
アメリカ領サモア、ウツメア村出土土器の混和材
───────────────────────────────────────────────
●〈研究ノート〉
アイヌの方位観
− 神窓方位と埋葬頭位に関する一試論(平取を中心として)−
内山 達也
布施 友理
女子埴輪を考える
───────────────────────────────────────────────
● 2006年度活動報告
───────────────────────────────────────────────
物質文化研究
第 4 号
2007年3月
城西国際大学
物質文化研究センター
表
紙
�
絵:アイヌの衣服(アト°シ)の文様(内山画)
表紙イラスト:埴輪(内山画)
物質文化研究
第4号
4号
号
2007年3月
目 次
〈論 文〉
アメリカ領サモア、ウツメア村出土土器の混和材
丸山 清志
・・・・・・・・・・
1
〈研究ノート〉
アイヌの方位観 −神窓方位と埋葬頭位に関する一試論(平取を中心として)
−
内山 達也
・・・・・・・・・・
11
布施 友理
・・・・・・・・・・
37
2006年度の活動報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
女子埴輪を考える
〈論 文〉
アメリカ領サモア、ウツメア村出土土器の混和材
丸 山 清 志
1.はじめに
太平洋の東部に広がるポリネシアでは、先史時代の終末期には物質文化の要素から土器が抜
け落ちていた。紀元前1000年頃に、トンガ・サモアを中心とする西ポリネシアに、最初に植
民した人類は、メラネシアで発生したラピタ式土器をポリネシア最古層の文化要素として持ち
込んでいたが、紀元後に入ると土器からは、特徴的な文様がなくなり、ポリネシア無文土器
とよばれる土器に変わっていた。サモア・トンガの西ポリネシアからの移住の波が、紀元後に
なってから到達した東ポリネシアでは、マルケサス諸島とクック諸島から数片の無文土器が発
見されているのみであり、東ポリネシア最古層の文化を表しているとされる。
サモアの先史時代にはラピタ式土器からポリネシア無文土器への変化、そして土器の生産・
使用の消滅という文化史編年上の画期的様相がみられる。ラピタ式土器はメラネシアからの移
住、無文土器は東ポリネシアへの移住、土器の消失はヨーロッパ人との接触直前の文化へのつ
ながりをあらわすものである。しかし、ラピタ式土器の発見は偶発的・単発的なものである
る
し、ポリネシア無文土器の消滅時期についても論議が多い。
、ポリネシア無文土器の消滅時期についても論議が多い。
も論議が多い。
論議が多い。
土器による文化様相時期の画分にはより、年代をともなう事例の蓄積はなお必要とされる
が、本稿ではツツイラ島ウツメア村の発掘で出土した、土器の遺存状況と胎土分析の結果を他
の出土例・分析例と比較する。
2.サモアにおける土器使用の年代観
サモア諸島は南緯10度と20度の間に位置し、西にフィジー諸島、トンガ諸島、東にクック
諸島がある。主要な大きい島は西からサヴァイイ島、ウポル島、ツツイラ島、そしてオフ、オ
ロセガ、タウからなるマヌア群島である。現在サヴァイイ島とウポル島は独立国のサモア国で
あり、ツツイラ島以東はアメリカ領サモアを構成する。すべて火山島であり、サモア国のウポ
ル島・サヴァイイ島では島の中央脊梁山地からのびる緩斜面が発達して、なだらかな地形がみ
られるが、アメリカ領サモアではツツイラ島の西部でゆるやかな地形がみられるほかは、海岸
低地と急峻な山地からなる。
─1─
サモア諸島の考古学の基礎は1960年代にニュージーランドのチームが現在のサモア国でお
こなった踏査・発掘によって築かれた(Green and Davidson 1974)
。この調査ではポリネシ
ア無文土器を産する遺跡が発掘されるとともに、ウポル島西端に位置するムリファヌアでの
埠頭建設工事で浚渫された、海底土壌中から発見されたラピタ式土器が記録された(Green
1974a:170)
170)
。ムリファヌア遺跡の年代は紀元前1000年前後とされる(Green and Leach
1989)
。サモア諸島内でのラピタ式土器の発見はこのムリファヌアの事例のみである。そのほ
かの遺跡出土の土器はすべてポリネシア無文土器である。
グリーンは、ウポル島のサソアッア村の SU-Sa-3遺跡5層および4層の状況から、細粒砂混
和薄手土器から粗粒砂混和厚手土器への変遷をみとめ、無文土器は紀元前300年頃に始まり、
紀元前1世紀から後1世紀にかけて細粒砂混和薄手から粗粒砂混和厚手へ変化し、紀元後3
−6世紀に土器製作が終息したという(Green 1974b:248)
248)
。またマヌア諸島オフ島のトアガ
遺跡出土の土器もすべて無文土器であるが、薄手の土器の石灰質の混和材、厚手の土器に粗粒
の玄武岩が含まれ、薄手土器が徐々に減少してくことが追認されている(Hunt and Erkelens
1993:129
:129
129, 147)
。
ツツイラ島西部南岸のタフナ平野では、パヴァッイアッイ村で火山灰層の下位に限定できる
層位から土器が出土しており、土器包含層の年代を紀元後240−640年に限定できた(Addison
et al. 2006:9-13)。土器を出土した発掘地点は、内陸から海岸に向かった溶岩流でできた平地
上にあり、現在の海岸から3㎞の位置にある。土器の混和材は島の岩盤起源であり、1点のみ
が細粒砂で、ほかはすべて粗粒砂である(Addison et al. 2006:12)
。
また、同じウポル島の SU-Va-4遺跡の F-1層出土の細粒砂混和薄手土器では口縁部直下にく
びれが設けられるなど、単純な丸底浅鉢からなる他の無文土器にくらべ、よりラピタ式土器に
近い、形態的特徴を有することが指摘されている(伊藤 2003:71)
:71)
71)
。サモアの土器は伊藤に
よって、ラピタ式土器→細粒砂混和薄手土器古段階→細粒砂混和薄手土器新段階→粗粒砂混和
厚手土器という4段階の変遷に整理されているが(伊藤 2003:72)
:72)
72)
、実際にはいくつかのタ
イプが同一層に混在していることもあり、遺跡層位ごとの様相としてとらえられ、各段階に実
年代はあたえられていない。
土器使用の持続性についての別の見解は、クラークによって、ツツイラ島北岸のアオア村
の発掘資料から示された。土器は紀元後1000年を過ぎて非常に少なくなるが、紀元後1300−
1600年頃まで局所的に土器の使用が続いていたとする(Clark and Michlovic 1996:167)
:167)
167)
。
3.ウツメア村の発掘調査と出土土器
土器はツツイラ島東部の南岸にあるウツメア村での発掘調査から出土した(丸山
土器はツツイラ島東部の南岸にあるウツメア村での発掘調査から出土した(丸山 2007)
。
─2─
ウツメア村は南に開ける海岸低地で、北側には急峻な崖が迫り、オロ山頂へとつづく。ウツメ
ア村背面の崖上にはスターマウンドと呼ばれるハト狩りに用いられた星型の石積みが数基散在
するのみで、居住域として利用された形跡はない。西隣のアウアシ村の背面にあたる部分では
山地上の集落が営まれていた。
ウツメア村の平地部では、海岸に近い前面に広場・住居が集中し、後背する崖際は粗放な園
ウツメア村の平地部では、海岸に近い前面に広場・住居が集中し、後背する崖際は粗放な園
芸農地として利用されており、バナナなどの有用植物と非利用樹種が混在している。地表面で
確認される遺構は、園芸農地内にあり、住居址1基と井戸1基が確認された。また、豚の飼育
に使われたと考えられる石積み壁が断続的に断崖に沿って築かれていた。
発掘区画は住居址の範囲に設けた。住居址は縁を30∼50㎝ほどの石に囲まれ楕円形で、内
発掘区画は住居址の範囲に設けた。住居址は縁を30∼50㎝ほどの石に囲まれ楕円形で、内
㎝ほどの石に囲まれ楕円形で、内
ほどの石に囲まれ楕円形で、内
側は周囲より30㎝ほど高くなっている。床面には1㎝以下に砕いたサンゴを敷き詰められ
㎝ほど高くなっている。床面には1㎝以下に砕いたサンゴを敷き詰められ
ほど高くなっている。床面には1㎝以下に砕いたサンゴを敷き詰められ
㎝以下に砕いたサンゴを敷き詰められ
以下に砕いたサンゴを敷き詰められ
ている。発掘坑は1m四方のユニットを基準とし、住居址に東西に3m南北1mで設定した
m四方のユニットを基準とし、住居址に東西に3m南北1mで設定した
四方のユニットを基準とし、住居址に東西に3m南北1mで設定した
m南北1mで設定した
南北1mで設定した
mで設定した
で設定した
(TP1・2・3)
。出土遺物と土壌サンプルは層位と10㎝ごとのレベルで記録した。
㎝ごとのレベルで記録した。
ごとのレベルで記録した。
第1層は住居の床面に敷かれていたサンゴを上部に含む黒色土である。第2層は下位に向
第1層は住居の床面に敷かれていたサンゴを上部に含む黒色土である。第2層は下位に向
かって漸移的に明るく変化する黒褐色度である。第2層上面掘り込まれている小穴が2基確認
された。その内、一基には木柱を支えていたと考えられる石が据えられていた。第3層は茶褐
色の砂層である。文化層は以上の3層からなり、第4層は白色砂で、遺物・炭化物の混入や遺
構は確認されなかった。第4層上面はほぼ水平にひろがり、地表からの深さは60㎝であった。
㎝であった。
であった。
動物遺存体はほとんどがサザエであった。人工遺物は土器片と玄武岩製の剥片と石斧であ
動物遺存体はほとんどがサザエであった。人工遺物は土器片と玄武岩製の剥片と石斧であ
る。土器片は67点が出土した。年代測定サンプルは堆積土中の炭化物粒子を各層から採取し
たもののうち、1点を測定の資料とした。試料(TKa-12362)は紀元後8世紀前後となった
(表1)
。採取された第3層レベル6は以下に述べるように、土器片の最も集中して分布してい
たところである。
TU4・5は TU1・2・3と後部の崖との中間に設定した。発掘区画は南北2m、東西1mであ
m、東西1mであ
、東西1mであ
mであ
であ
る。発掘範囲のほとんどが、ウムと呼ばれる調理のための地下炉の範囲にあたった。遺構内の
遺物は玄武岩薄片のみであり、土器片は出土しなかった。遺構の底部の炭木から17世紀前後
片は出土しなかった。遺構の底部の炭木から17世紀前後
は出土しなかった。遺構の底部の炭木から17世紀前後
の年代を得た(表1)
。
試料番号
発掘坑
層 位
位
位
レベル
Tka-12362
TU1
Layer 3
Level 6
Tka-12363
TU4
Level 7
測定年代 BP
δ13C(0/00)
330±100
−28.5
1200±100
表1 放射性炭素年代測定結果 * 誤差は標準偏差(one sgma)に相当。
─3─
−27.0
補正年代
1170±100
270±100
4.土器胎土の砂粒構成
土器片は4点が1・2層にあるほかは、すべて地表から30㎝以下の深さにあり、多くは第
3層に集中していた。肉眼で混和材の種類を Type 1:角礫を多く含むもの、Type 2:砂と
貝片を含むもの、Type 3:わずかに貝片とサンゴを含むもの、Type 4:混和材を認められな
いものの4グループに分類した。そして十分な大きさを持つ5点(Type 1から2点、Type 2
から1点、Type 3から2点、Type 4からは試料なし)を重鉱物分析と薄片観察の試料とした
(試料1−5)
。
重鉱物分析と薄片観察の結果ではa・b・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
重鉱物分析と薄片観察の結果ではa・b・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
a・b・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
・b・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
b・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
・cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
cの3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
の3類に分けられた。a類は試料1で、砂粒を
a類は試料1で、砂粒を
類は試料1で、砂粒を
ほとんど含まず、他の2類と異なりカンラン石を含まない。試料1は肉眼では Type 3にあて
はまり、サンゴ片があると思われた。b類は試料2と3で、カンラン石の多い重鉱物組成とサ
b類は試料2と3で、カンラン石の多い重鉱物組成とサ
類は試料2と3で、カンラン石の多い重鉱物組成とサ
ンゴ片を多く含むものである。肉眼では Type 2と3に別れて分類されており、Type 2と3に
わけたサンゴ片・貝片の量は質的な差にはなっていないようである。c類は粗粒の玄武岩片を
c類は粗粒の玄武岩片を
類は粗粒の玄武岩片を
多く含む。肉眼では Type 1で角礫を多く含むことが観察されたものである。Type 4は試料を
供さなかったが、Type 3の試料1が肉眼観察と異なり、サンゴ片等を含まずa類と判定され
a類と判定され
類と判定され
た。
肉眼観察で注目した特徴を、重鉱物分析の結果に対応させるとa類(=
肉眼観察で注目した特徴を、重鉱物分析の結果に対応させるとa類(=
a類(=
類(= Type 4)
、b類
b類
類
(= Type 2・3)
、c類(
c類(
類(Type 1)に大きく整理できる。試料に供された5点以外は肉眼観察
に頼って分類した(表2)
。試料1のように化学分析ではa類となり、
a類となり、
類となり、Type 4に振り分けられ
るべきものが、Type 3と判断される場合もありうるが、Type 2と Type 3からなるb類のサ
b類のサ
類のサ
ンゴ片を含む土器が多数を占めることにはかわりがない。ほとんどの土器片が3層に含まれて
おり、胎土に違いを時代差として認識するのに十分なデータではない。レベルでもほとんどの
タイプがレベル4・5に集中している。玄武岩片を含む Type 1=a類が低位のみに集中して
a類が低位のみに集中して
類が低位のみに集中して
いるようであるが、他のタイプに比べて点数が少ない。他の層序化した土器出土遺跡での今後
の検証事項となるだろう。
試料番号
カンラン石
斜方輝石
単斜輝石
ジルコン
不透明鉱物
その他
合計
1
001
5
01
1
18
089
115
2
046
8
22
09
165
250
3
148
6
27
16
053
250
4
026
4
20
07
193
250
5
019
15
141
250
74
1
表2 重鉱物分析結果
─4─
分
含
性
土
向
粘
方
度
鉄
残
岩
サンゴ片
凝 灰
鉱
玄
赤 鉄
不透明鉱物
単斜輝石
石
カンラン石
斜 長
度
径
汰
量
大
体
岩 石 片
石 片
石 片
片
片
隙
料
鉱 物 片
物 片
物 片
片
片
孔
最
淘
全
試
砂粒の種類構成
1
2
赤褐色
白色混和材少量
+ 0 (+) (+)(+) × × + ◎
a
2
3
赤褐色
白色混和材少量
○ ○
2
+ +
△ + × × + ○
b
3
3
赤褐色
白色混和材少量
○ ○
1
△
△ +
(+) + △ △ △ + ◎
b
4
3
明褐色
小角礫多量混入
◎ ×
3
○
△ +
△
○ × × + ○
c
5
3
明褐色
小角礫多量混入
◎ ×
4
○
△ +
△
○ × × + ◎
c
量 比 ◎:多量 ○:中量 △:少量 +:微量 比 ◎:多量 ○:中量 △:少量 +:微量 比 ◎:多量 ○:中量 △:少量 +:微量 (+)
:きわめて微量
淘汰度 ○:良好 △:中程度 ×:不良
○:良好 △:中程度 ×:不良
○:良好 △:中程度 ×:不良
孔隙度 ○:多い △:中程度 ×:少ない
○:多い △:中程度 ×:少ない
○:多い △:中程度 ×:少ない
方向性 ○:強い △:中程度 ×:弱い
○:強い △:中程度 ×:弱い
○:強い △:中程度 ×:弱い
砂粒最大径の単位は㎜
㎜
層 位
位
位
レベル・遺構
Type 1
Type 2
Type 3
Type 4
小 計
計
計
1
小穴1
1
01
01
2
レベル1
1
01
01
02
2
レベル4
4
3(1)
=a
03
2・3
4・5層
1(4)=c
8(3)
=b
09
3
5層
3(5)=c
10(2)
=b
06
19
3
レベル6
6
2
15
01
09
27
3
レベル7
7
05
05
3
小穴5
5
01
01
6
31
13
17
67
小 計
計
計
類
量
量
号
表3 薄片観察結果
存
記 載
載
載
武 岩
色調
番
層
表4 肉眼観察による混和材タイプの層位・レベル分布����������
���������
(��������
�������
)内は試料番号
─5─
1.試料番号1(TU1 Level 4 赤褐色 白色混和材少量)
2.試料番号2(TU1 Level 5 赤褐色 白色混和材多量)
3.試料番号3(TU2 Level 4・5 明褐色 小角礫多量混入)
─6─
4.試料番号4(TU2 Level 4・5 赤褐色 白色混和材少量)
5.試料番号5(TU3 Level 5 明褐色 小角礫多量混入)
写真左列:土器片外面
写真右列:胎土薄片下方ポーラー
Pl:斜長石、
斜長石、Cpx:単斜輝石、
単斜輝石、Tf:凝灰岩、
凝灰岩、
Ba:玄武岩、
玄武岩、Co:サンゴ片
サンゴ片
─7─
5.まとめ
コクレンはツツイラ島西部のタフナ平野にあるツアラウタ Tualauta 採集の土器を分析して報
告している(Cochrane 2004)
。形態的特徴をふくめ11の属性をとりあげているが、肉眼観察
による混和材タイプの分類を、サンゴ礁起源の石灰質、地盤由来、両者の混合の3つにわけて
いる。ウツメア試料ではサンゴ礁のみのタイプはなく、かわりに砂粒の混入が少ないa類が
あった。遺存している薄片の大きさ・厚みとも、玄武岩片を含む試料のほうが大きい。
グリーンの年代観では早い時期に器壁が薄くて、細かい胎土の土器が優勢であり、厚くて粒
グリーンの年代観では早い時期に器壁が薄くて、細かい胎土の土器が優勢であり、厚くて粒
壁が薄くて、細かい胎土の土器が優勢であり、厚くて粒
が薄くて、細かい胎土の土器が優勢であり、厚くて粒
子の粗い土器は遅れて現われるとされる。ウツメアでは粗く厚い土器が下位で優勢となってい
るが、大部分が第3層に含まれ、レベル差でしかないので、既存の年代観への反証とはできな
い。
ツアラウタとパヴァッイアッイの土器片では口縁部の形態についての分析があるが、ともに
ツアラウタとパヴァッイアッイの土器片では口縁部の形態についての分析があるが、ともに
直立かやや外傾、また内湾するヴァリエーションを揃えるが、形態については、伊藤の年代観
で後期の様相である。ウツメア土器は口縁部の土器片はなく、パヴァッイアッイでは胎土の分
析が未報告である。ツアラウタでは実年代が測定されていない。
ウツメアの土器出土層位の年代は、パヴァッイアッイの年代下限である紀元7世紀より、や
や遅く8世紀となっている。アオア湾で示された紀元1000年以降まで届くことはない。TP4・
5では遺構内覆土と表土のいずれにも土器は含まれておらず、遺構の年代ははるかに遅い紀元
1700年前後である。ウツメア村の C14年代は2点のみで9世紀から17世紀にいたる年代に比
定される痕跡はまだない。しかし、紀元後第2千年期の中葉は山地性の居住が出現・持続して
いる時期である(Pearl 2004)
。ウツメア村の後背部にあたるオロ山腹の集落址では現在のと
ころ、土器片はみつかっておらず、他の山地遺跡でも未発見である。沿岸部に位置するウツメ
ア村やパヴァッイアッイと異なり、内陸の遺跡であるツツイラ島西部のタフナ平野や独立国サ
モアでも土器採集地点は山地部には入らず、山麓部下位にとどまっている。土器の出土が低地
に限定されていることが、紀元後第1千年紀が低地居住の有土器時代、紀元後第2千年紀が山
地居住の無土器時代と区分されることの反映と、現状ではとらえられる。土器の出土例、山地
遺跡とその年代も現在のところ事例がすくないままであるが、今後、集落の立地・機能と土器
の関連もサモア史の課題となるであろう。
試料4と5に含まれる玄武岩片は角礫状である。サモア諸島の土器の特徴として、意図的に
砕いた岩(玄武岩)が含まれることがあげられる(Dickinson 2000:216)
。調査者によって、
土器や混和材の表記が異なるが、サモアの土器の変遷で最終段階に位置する厚手粗粒土器の
「粗粒」
、あるいは島の岩に由来することをしめす「terrigenous(土地・土壌起源)
」が、普遍
的に玄武岩片であることで一致するならば、一般にポリネシアの島嶼間交流が終息するといわ
─8─
れる紀元後第2千年紀中葉ではなく、有土器時期である紀元後第1千年紀にサモア諸島はまず
土器製作という技術側面で、ホームランドからの文化的分岐をはじめていたことがしめされる
であろう。
【註】
放射性炭素年代測定と土器薄片分析および重鉱物分析はパリノサーヴェイ株式会社に依頼した。文
中の表2と3はパリノサーヴェイの報告書(2003)から転載した。表1は報告書データを表の体裁を
改変したものである。
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パリノ・サーヴェイ株式会社 2003 『アメリカ領サモアウツメア村遺跡の自然科学分析報告』
丸山清志 2007 「サモア先史における山地集落の位置」
『地域の多様性と考古学』雄山閣 pp.
285-96.
─ 10 ─
〈研究ノート〉
アイヌの方位観
-神窓方位と埋葬頭位に関する一試論(平取を中心として)-
内 山 達 也
1.はじめに
「民俗方位」というものが存在する。これは、通常、方位磁石などで示されるような一般化、
普遍化された「方位」ではなく、ある共通の文化的背景をもつ集団、あるいは限定された地
域・社会において通用する方位概念のことをいう。
『日本民俗大辞典』
(福田・他編 2000 吉
川弘文館)の「民俗的方位観」の項によれば、
「地域社会独自で相対的な方位設定を民俗方位
と呼び、それに基づく空間認識のあり方のこと」であり、
「人々の暮らしの日常的経験を基礎
として成立する民間の常識であり、天文・気象・地形などの要因と密接に関わるとともに文化
的背景に彩られて、世界観の一部に組み込まれる」ものとされている。
つまり、この「民俗方位」とは、地磁気を指針とした「東西南北」方位を示す「自然方位
(自然科学的方位)
」ではなく、山、河川、海、太陽、風などの地域環境を指針とした方位、あ
るいは文化・生活に密着した地域環境的な方位として捉えることができる。そして、この「民
俗方位」において重要な点は、それが現実の地形や環境を認識するためだけではなく、超自然
的存在を内包するような世界観を構成する要素の一つであると考えられている点にある。それ
ゆえに、
「民俗方位」の指針を明らかにすることは、その世界観を空間的に認識する一助とな
るといえよう。
アイヌの民俗方位を考えるうえで、本稿では特に「神窓方位」と「埋葬頭位」という二つの
方位観について取り上げることにする。この「神窓方位」と「埋葬頭位」とは、それぞれの
示す方位がアイヌの世界観を構成する一要素として認識されてきた。つまり、
「神窓方位」は
「神=カムイ」としての動・植物などが住む世界である超自然的世界との空間的連続性を象徴
する要素であり、
「埋葬頭位」は人間の死後の世界である他界との空間的連続性を象徴する要
素として捉えられてきたのである。
2.神窓方位
「神窓方位」とは、
「アイヌ住居=チセ」に設置される特別な窓「神窓」が示す方位のことで
─ 11 ─
あり、その示す方向には「神の世界=カムイ・モシリ」が存在すると考えられている。そし
て、カムイ・プヤラ(神の窓)あるいはロルン・プヤラ(炉の上座にある窓)などとよばれる
神窓は、
「クマ送り儀礼=イオマンテ」とも密接に関わる神聖な窓としても知られている。こ
の神窓の性質については、知里真志保の報告に詳しい。
「東の窓は非常に神聖な所とされ、うっかりそこから覗きこんだりしようものなら、厳重な抗議を
申込まれ、賠償金を出して謝罪しなければならない破目に陥るのである。それはここがカムイ・ク
シ・プヤル(kamuy-kus-puyar「神の・通る・窓」)と呼ばれ、アイヌの家の表玄関に当たる大事な
所だからである。山から熊を取って来れば、死体はこの窓から入れる。するとその死体の耳と耳と
の間に坐っていた熊の神の霊が、炉ばたに出て来て貴賓席に就き、火の神や家の神と祭が終わるま
で歓談するのである。この窓が表玄関であればこそ、炉の北側が右座と呼ばれ、南側が左座と呼ば
れるのである」
(知里 1973:228-9)
。
以上のように、神窓
はアイヌの信仰上重要
な窓として位置付けら
れていることがわか
る。
アイヌの住居施設に
おいては屋内の炉を中
心とし、神窓、屋外の
祭壇(ヌササン・イナ
ウサン)へと連なる空
間は神聖な祭祀空間と
して認識されてきた。
図1 民族学博物館敷地内のアイヌ小屋及付属構築物(知里 1973:222より)
それというのは、
「炉−神窓−祭壇」という居住空間の延長線上には送り儀礼などにおいて送
られるカムイの住む「神の世界=カムイ・モシリ」が存在すると考えられているためである。
それゆえにこの祭祀空間は、超自然的な存在であるカムイ=神を体現的に認識する場であった
ともいえる。言い換えるならば、この祭祀空間は、現実的空間に属している一方、超自然的な
空間である「神の世界=カムイ・モシリ」との観念的連続性を表象するという重要な役割を
担っていたと考えられるのである。そして、神窓が設けられる方位には異なる二つの基準が報
告されており、その一つが河川流路を基準とした「川上方位」であり、もう一つは太陽の運行
経路を基準とした日の上昇点を示す「日の出の方位」である。
─ 12 ─
3.
「川上」を向く窓
神窓と河川流路との関係性については、渡辺仁の研究に詳しい。渡辺によると、川の上流方
向に神窓が向けられる方位的原理は、
「聖山信仰」に求めることができるという。聖山信仰と
は、渡辺の提唱するクマ祭文化複合体(註1)の中心的なテーマをなすものである。そして、神
窓が川上方位を示すのは、
「彼等の重要な Kamuy が彼等の住む川筋の川上に住むという信仰に
もとづいていた」
(渡辺 1990:238)ためであると結論付けている。ここでいう「Kamuy」と
は「クマ」のことであり、アイヌにとってその信仰上・儀礼上において最重要視される「クマ
の神=キムウンカムイ」が住んでいると考えられる山岳に神窓が向けられるのであるという。
そして、そのキムウンカムイが住む「聖なる山」こそが「神の世界=カムイ・モシリ」である
と論じ、
「神窓の方位=川上・聖山信仰の具現化」という方定式を成り立たせたのである(渡
辺 1990:237−302)
。
さらに渡辺は、クマ祭に参加する構成員とその儀礼対象となるクマの関係についても言及し
ている。つまり、
「クマの一族とアイヌの父系血縁集団(シネエカシイキル即ち同一イトクパ
共有男子集団)との関連性は、さらに川上聖山信仰を通じて土地(川筋)と密接不離の関係に
ある」
(渡辺 1990:263)とし、
「その kamuy を代表するのが、川筋の奥の聖山に鎮座するク
マの大王(metotusi kamuy、kimerok kamuy)であり、それとシネ・イトクパ集団の連帯関係
を象徴するのが彼等のクマ送り儀礼である」
(渡辺 1990:263-4)と論じている。この渡辺の
指摘する川筋を基準としたカムイとアイヌの社会的連帯関係は、泉靖一の報告するイウォルと
他界の関係との類似性を指摘できる点で興味深い。この点については後述することとする。
また、神窓方位については、内田祐一の報告する十勝地方の事例を取り上げることができ
る。内田は、自らの調査データや民族誌データをもとに、道東地方の神窓方位について言及し
ている。内田によると、十勝地方では神窓や屋外の祭壇などを構成する住居施設の方位的原理
は、自然方位のみによって示されるものではなく、河川流路との関係で成り立っているのだと
いう(内田 1998:112-26)
。さらに神窓方位については、自然方位による報告も聞かれるが
それはあくまでも二次的なものであり、本来は「エペライ=川上」という方位語によって示さ
れるもので、
「方向を示す言葉だけが出てくると混乱し始める」
(内田 1998:123)のだとも
指摘している。つまり、十勝地方において報告される「北」や「西」といった神窓の方位(註2)
は、あくまでもアイヌ語における「エペライ=川上」という方位概念を二次的に解釈した結果
のものであり、自然方位のみで神窓方位を捉えている限りは、その本質的要素はみえてこない
のであるという。
しかしながら、渡辺が指摘するように(註3)、神窓方位の資料には自然方位のみで示される事
例も多い。例えば、
『アイヌ民族誌』
(アイヌ文化保存対策協議会編 1970 第一法規出版)な
─ 13 ─
どには、神窓は「地方によって多少異なり、時には付近を流れる川の上流という事もあるが、
多くは東を向いた矩形の短辺に窓が一つあいている」
(アイヌ文化保存対策協議会編 1970:
181)と報告されており、
「東」窓が主流であることを示唆するような記述を残している。こ
のような「東」窓の報告は何を意味するのであろうか。自然方位の概念が導入される以前のア
イヌ文化においては、この「東」という方位は自然方位として認識されていたわけではなく、
その生活や環境に基づいた民俗方位として認識されていたはずである。それゆえに、そこに表
出される方位観は、その世界観を空間的に認識するうえで重要な要素であると思われるのであ
る。このような「東」と報告される神窓の資料には、次項のような特徴が考えられる。
4.
「東」を向く窓
データ1
「家屋は東にカムイマド、西に入口があり、玄関は南を向いている。
」…白老(青柳編 1982:68)
データ2
「窓は全部で三つあって、南側にはイトムンプヤル、ポンプヤルの二つがあり、東側には神聖な
窓という意味のロルンプヤルがある。このロルンプヤルは元来窓というよりも神聖な入口ともい
うべきもので、平常ここから内を覗くことは神聖を冒すものとして固く禁じられている。この窓
は神やイナウを出し入れするときに用いられるのである。一般に原始民族が太陽に限りない尊厳
を感じたように、アイヌもまた太陽を敬い、東という方位を重視したのである。」…沙流郡二風
谷(伊福部 1969:15)
データ3
「切り取りたる頭骨は彼等の住家なる笹小屋東側の窓即ちカムイ・クシ・プヤラ(アイヌは特に
神を礼拝する神聖な窓として居る)
。から家の内に入れる。」…旭川(佐々木 1926:15)
データ4
「窓は普通、東と南の2つである(大きな家では、北の方に小さい窓を作ることもある)
。東の窓
を神の窓という。
」…静内(静内町静内高等学校郷土研究部・文化人類学研究部編 1978:84)
データ5
「本屋の東側には、ロルンプヤルといふ窓を開けますが、これは神様の窓−神聖な窓でありまし
て、熊祭の時にここから供へ物一切の出し入れをするのに、使用する以外は使はぬことにしてあ
ります。」…(鷹部屋 1948:170-1)
データ6
「カムイウシプヤラ(カムイプヤル)‥家の東端と、東の窓は神聖なところとされている。日の
出と、太陽礼拝から来たものである。そして彼等は神々は東に住むと、かたく信じている。ここ
─ 14 ─
は、神々の出入の窓である。」…日高地方(畑中 1949:122)
データ7
「大抵の地方では、家屋の神聖な窓は今でもなお太陽の昇る方向に向けられて作られています。」
…沙流郡二風谷(マンロー 2002:22)
データ8
「オシヤマンベでは、神窓(カムイプヤラ)は、東にきる。朝早く光を入れるためである。
」…長
万部(吉田 1956:26)
データ9
「東方(メナシ)に一つ、南方(オチ又はコイカタ)に一つと二つの窓を作る。東の窓を神送り
の窓(ロルンプヤル)と称え最も大切なる窓として神に捧ぐべき物品は皆この窓より入れて屋内
にて調理す。」…北見(米村 1980:168)
データ10
「カヤぶきの家で、神窓のロルン プヤラ rorun puyar を東に向けて建てた。南側に窓が二つあ
り、東に近い方の小さな窓をイトムン プヤラ itomun puyar と呼んでいた。」…白老(渡辺・他
1983:9)
データ11
「窓は、東の方(現在の貫気別市街が見える方角)を向いている神窓(ポロ プヤル poro puyar)
のほかに、南の方、額平川に向いた小さなポン プヤル pon puyar がある。」…沙流郡荷負本村
(渡辺・他 1988:55)
データ12
「炉の上手(すなわち、額平川上流で、東側)に神窓(ポロプヤル poropuyar あるいは、ロルンプ
ヤル rorunpuyar とも呼ぶ)がある。」…沙流郡荷負本村(渡辺・他 1988:57)
データ13
「神窓(ロルンプヤラ rorunpuyar)は東に向いており、そこから、朝、しののめの光が見える(ニ
サッマウ リキン nisatmaw rikin)。
」…沙流郡荷負本村(渡辺・他 1988:64)
データ14
「家の方位はここではみな同じで、ロルンプライがいわゆる東向き(実は北東)でイトムンプラ
イが南向き(実は東南)である。」…勇払郡鵡川汐見(渡辺・他 1989:62)
データ15
「家は神窓が南東に向くように立てる。
」…勇払郡鵡川汐見(渡辺・他 1989:64)
データ16
「神窓(ロルンプライ rorunpuray)。東を向いている。カムイノミをする時、必ず開けておく。神
─ 15 ─
が出入りする入口だからまたいだりしない。ここの家では東向きに決まっていた。その方位は磁
石では真東ではなく南東である。」…勇払郡鵡川汐見(渡辺・他 1989:65)
データ17
「神窓(ロルンプライ rorunpuray)は、東の方にあり、祭壇は、神窓から2メートルくらい離れて
いる。」…勇払郡鵡川汐見(渡辺・他 1989:68)
データ18
「ロルンプライは東の方を向き、「東」は室蘭の方のこと。山の方に向いていたのではない。ミズ
キのイナウ inaw が祭ってあった。ロルンプライ rorunpuray(神窓)の方、東の方は、神様がいる
ところ。」…有珠(渡辺・他 1989:118)
データ19
「ロルンプヤル rorunpuyar(神窓)とイトムンプヤル itomunpuyar でイトムンプヤルは、南を向く。
家は日の出る方に向ける。神窓は、日の出る方に向けるものだ。千歳川の下流に神窓が向くと
父が言っていた。いま住んでいる家もそのとおりに建てたから格好わるい。戸口(アパ apa)は
雪が解けやすいように日の出る方(南?)へ向ける。朝日が出る方に神窓も祭壇(イナウチパ
inawcipa)も向ける。クマの肉は神窓から入れる。」…千歳(渡辺・他 1990:71)
データ20
「東向きに神窓(ロルンプヤラ rorunpuyar )もある。」…道南東部地方(渡辺・他 1992:51)
データ21
「西向きや北向きの家はだめだと言われていた。日の出る方に家のロルンプヤル rorunpuyar(神
窓)を向けなければならないと言われていた。朝、太陽が出たら、窓から見える。」…千歳(渡
辺・他 1994:59)
データ22
「神窓(ロルンプヤラ rorunpuyar)は、「お日様の出る方」にある。その外の空間は、イナウチパ
inaw cipa と呼ばれる。神窓は、拝む(ノミ nomi)神が出入りするところだ。」…千歳(渡辺・他
1994:60)
データ23
「モセムの入口は南側すなわち海に向いている。南の壁にはイトムンプヤル itomunpuyar がある。
東向きには、ロルンプヤル rorunpuyar がある。
」…日高門別(渡辺・他 1996:16)
以上の資料では、
「東」という神窓方位が①「東」という自然方位で報告されるもの(デー
タ1, 3, 4, 5, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 20, 23)と、②「太陽」との関連性にお
いて報告されるもの(データ2, 6, 7, 8, 19, 21, 22)の二つに大きく分類することができる。
─ 16 ─
分類①では、その資料の多くが自然方位のみで示されているため、
「東」という方位が何を基
準として設定されていたのかは不明なものがある。しかし、データ12のように、河川流路と
の関係から「東」方位を二次的方位として捉えることができる資料も存在する。この点から考
えると、データ11, 13もデータ12との関係(データ採録地が同一)から、
「東」という方位が
河川の上流を示す二次的方位として報告されていた事例として捉えることもできそうだ。
しかし、データ18のように、
「聖山信仰」に基づく川上方位とは異なる方位的原理として
捉えなくてはならないような報告もみられる。データ18は山岳方位との関係を否定しており、
「東」という方位が聖山信仰に基づく地形(川上方位、山岳方位)に対応してはいない。
その一方で、分類②では「東」を向く神窓方位の方位的原理が、太陽の運行経路、特にその
日の出の方位によって示されている。データ19をみると、日の出の方位が祭壇や神窓の設置
基準であることを示しているだけではなく、地形との対応においても川の上流ではなく、む
しろ下流の方向を示していると報告されており、聖山信仰との関係性を否定していることがわ
かる。つまり、分類②のデータからは山岳崇拝ではなく、太陽崇拝が神窓方位に影響を与えて
いたと考えることができるのである。分類①で示したデータのように、
「東」という方位が自
然方位としてのみ報告されているのであれば、データ12のように川の上流方向という地形に
対応した二次的な方位として認識されていたものと判断することも可能である。しかし、
「東」
という方位の基準が太陽崇拝に基づいているのであれば、渡辺や内田の指摘するような川上神
聖視観とは異なる太陽神聖視観という観念体系が存在することを意味する。そのように考える
ならば、データ18のような「東」という方位は、日の出方位に向けられていたと解釈するこ
とが可能である。そして、この太陽の運行経路が方位的原理となって世界観の一部を構築する
という観念は、他界観にみられる方位観との相関性を想起させるのである。
5.埋葬頭位と神窓方位
埋葬頭位とは、遺体が墓地に埋葬されるにあたって示す頭部の方向のことであり、そこに表
遺体が墓地に埋葬されるにあたって示す頭部の方向のことであり、そこに表
が墓地に埋葬されるにあたって示す頭部の方向のことであり、そこに表
されるにあたって示す頭部の方向のことであり、そこに表
にあたって示す頭部の方向のことであり、そこに表
す頭部の方向のことであり、そこに表
頭部の方向のことであり、そこに表
れる規則的な頭位規制は、その他界観を空間的に表出する一要素として認識されてきた。ア
イヌの一般的な埋葬形態は、
「東」頭位仰向け伸展葬であるといわれており、その方位的原理
は太陽の運行経路における落日点の方位、つまり「西」に求めることができると考えられてき
た。そして、その単一的埋葬頭位は、
「死者の世界=ポクナ・モシリ」である他界との空間的
関連性を示すものであると認識されている。藤本英夫によると、
「アイヌの死者の国は、下方
の国=ポクナ・モシリといって、陽の落ちる西の方にある。それで、死んだ人が立ち上がっ
たとき、まっすぐ西の方に向いていけるように顔を上に向け、頭を東にして埋葬する」
(藤本
1971:14)のだという。
─ 17 ─
つまり、埋葬頭位における「東頭位」という単一的方位規則は、現世と他界との空間的連続
性を象徴する重要な要素なのである。あるいは、埋葬頭位が示す方位は、不可視的な世界であ
る他界を、埋葬という現象を通して空間的に把握するための具体的な要素であったともいえ
る。このような埋葬頭位にみられる方位観は、不可視的世界を現実生活において空間的に認識
認識
するという点において、神窓方位との観念的相関性を指摘できるのである。このような神窓方
位と埋葬頭位の関係については、松居友(千歳の事例)と N.G. マンロー(二風谷の事例)が
興味深い報告をしている。
松居友の報告では、千歳地域におけるカムイと死者の赴く方位は、太陽の運行経路という
同一の方位的原理に基づいているとしている。千歳地方において神窓が向けられる東という
方位は、
「魂の生まれる方向であり、カムイを迎える窓はカムイの生まれる東に向かって開か
れる」
(松居 1993:47-8)のであるという。そして東方を神聖視する観念は、クマ送り儀礼
においても表出される観念であり、例えば「イオマンテにおいても同様で、最後に子熊を母親
のいる神の国へ送るために射たれる矢は、東の空に向かって放たれる。神々が復活する方向は
東であって、太陽のごとく東から天上の国へと昇る」
(松居 1993:48)ためであると指摘す
る。そして松居は、千歳においては実際に支笏湖や恵庭岳といった神聖な山岳方位(川上方
位)には神窓は向けられておらず、太陽が昇る東に向けられているのだと主張している(松居
主張している(松居
している(松居
1993:50)
。つまり、山岳方位には神聖性を認めてはいるようだが、神窓の方位に関しては日
の出の方位にその方位的原理を求めているのである。
また、東頭位伸展葬をとる埋葬頭位についての方位的原理は、藤本同様に死者の国=ポク
ナ・モシリが太陽の沈む西に存在するという観念に基づいているとも報告している。そして、
ポクナ・モシリの役割を次のように述べている。
「人間の魂は死者の国で一定の期間過ごした後にやはり東から神の国や人間の国に再生する。要
するに死者の国とは、人間が神の国に入ったりこの世に生まれ変わったりする前の場所」(松居
1993:48)
「死者の国でも、新しい霊は東から訪れて、次第に西に向かっていく。すなわち、太陽の沈む西こ
そが霊の向かう方向であり、東が再生する場所であるという原則に当てはまる」(松居 1993:53)
このように、松居の指摘する千歳地方の方位観は、太陽の運行経路を方位的原理とするも
のであり、その太陽の上昇点(東)の延長線上にはカムイ・モシリ=神の国が、太陽の下降点
(西)の延長線上にはポクナ・モシリ=死者の国が位置づけられているのである。こうした太
陽の運行経路を方位軸とした世界観の表出については、N.G. マンローも同様の見解を示して
いる。
「例えば〈イナウ〉、酒、神の国へ「送った」獣の肉などは、いつでも東側の神聖な窓から運び入れ
─ 18 ─
ることになっています。東は生者のためにあり、西は死者のためにあるのです。従って太陽が子午
線より西に傾くまでは、死者を埋葬することは適切でなく、またその時刻までは仔熊を「送る」と
危険なことが起きます。さらにその時刻までは、東の窓から死者への供え物を運び入れることも不
吉な行為とみなされています。たとえ死者がすでに〈ポクナ モシリ〉
(あの世)へ旅立った後で
も、死者たちはその世界で現世と全く同じ生活を続けるわけですから、死者は落日と共に「西へ向
かって去って行った」と考えねばならない」(マンロー 2002:116)。
このように、マンローも松居同様に太陽の運行経路を方位的原理としてアイヌの世界観を捉
えていたことがわかる。つまり、太陽方
位観に基づいた世界観の構造は、
「人間
の世界=アイヌ・モシリ」を中心に、カ
ムイは太陽の上昇点(東)方位に存在す
るカムイ・モシリへ、死者は太陽の下降
点(西)方位に存在するポクナ・モシリ
へという二極方向へのベクトルが作用す
る3つの領域として認識されていたと考
図2 太陽方位に基づいたアイヌの世界観模式図
えることができるのである。
(図2を参
照)
しかしその一方で、太陽の上昇点(東)を示す単一的埋葬頭位規制に対する批判もある(註4)。
また、
『アジア・太平洋地域民族誌選集22 東亜民族要誌資料 第二輯アイヌ』
アジア・太平洋地域民族誌選集22 東亜民族要誌資料 第二輯アイヌ』
(山下・他編
2002 クレス出版)では、
「墓標は頭部に立てる。墓標の形式は男女及び地方に依って異り、多く同じ家系は同型式の墓標を
傳へて居る。埋葬頭位はコタンパ即ち部落の上の方位に向ける。多く東方がコタンパに當たって居
るが川・山・濱等の地勢に依り特殊の方向がコタンパに定められてゐる部落もあり、多く川上の方
向がコタンパに撰まれてゐる」(山下・他編 2002:92)
。
とあり、埋葬頭位においてもその方位的原理を川上方位に求める報告もみられるのである。つ
まり、神窓方位の方位的原理において、聖山信仰に基づく川上方位観と太陽信仰に基づく太陽
方位観が存在しているように、埋葬頭位においても太陽方位だけではなく、川上方位が認識さ
認識さ
さ
れていたと考えられるのである。
いたと考えられるのである。
たと考えられるのである。
このような世界観を構成する要素として表出される二つの異なる方位観の存在は、その文化
的特質においてどのような意味を持つのであろうか。もっとも、この二つの方位観が共通の文
化要素として、すべての地域のアイヌ集団によって認識されてきたとは明言しえない。本稿で
取り上げた資料のみで判断するのは危険ではあるが、神窓方位において太陽を指針とした「東」
─ 19 ─
方位の報告がなされたのは千歳や二風谷であり、埋葬頭位の事例では白老や静内であることか
ら、少なくとも、太陽の運行経路がその方位観の指針となると認識されてきたのは、北海道南
東地域西半部が主流であったと考えることは出来るであろう。そして、この道南東地域西半部
西半部が主流であったと考えることは出来るであろう。そして、この道南東地域西半部
が主流であったと考えることは出来るであろう。そして、この道南東地域西半部
西半部
は、いわゆるサルンクルといわれる集団(註5)が生活していた領域としても知られている。
サルンクル集団について河野広道は、
「日高の染退川(シブチャリ川)以東、室蘭以西の太
平洋岸にそそぐ諸川の流域と海岸に分布し、沙流川及び勇払川の流域に最も多く集団してお
り」
(河野 1971:98)
、
「近接の諸分派と著しく異なる特徴をその言語・伝説・風俗・習慣等
に有する」
(河野 1971:96)特殊な一系統を示す集団として捉えているようだ。では、この
ような神窓方位や埋葬頭位における太陽方位観も、サルンクルに特徴的な方位観として捉える
ことができるのであろうか。そこで次項では、サルンクルの方位観について考古データを用い
て検討することにする。
6.沙流川流域の遺跡
サルンクルの方位観について考古データを用いるにあたり、本稿では特に金田一京助が「最
も高いアイヌ文化が醞醸した」
(金田一京助全集編集委員会編 1993:52)地域と述べ、文化
神アイヌラックルの天降った地とも伝承されている日高平取町の遺跡について検討したい。
伝承されている日高平取町の遺跡について検討したい。
されている日高平取町の遺跡について検討したい。
日高平取町は、北海道南東地域西半部、日高支庁管内の西端に位置し、北・東・西の三方を
地域西半部、日高支庁管内の西端に位置し、北・東・西の三方を
部、日高支庁管内の西端に位置し、北・東・西の三方を
山で囲まれている。南は日高山脈の西麓、戸蔦別岳と幌尻岳にその源を発する沙流川(一級河
川)が町の中央部を貫流して形成した河岸段丘と低平地が広がっている。この地にはチャシ跡
をはじめ多くの遺跡が存在するが、本稿で対象としたのは神窓方位に関係する建物跡および埋
葬頭位に関係する墓壙が検出された遺跡である。
1)ポロモイチャシ跡〈神窓方位〉
(北海道埋蔵文化財センター編 1986)
ポロモイチャシ跡は、沙流川河口より20㎞ほど遡った右岸の河岸段丘上に位置している。
当遺跡が立地する河岸段丘は標高47.5mほどで、河川面との比高は15mを示す。二風谷遺跡、
mを示す。二風谷遺跡、
を示す。二風谷遺跡、
ユオイチャシ跡が近接する。当遺跡からはアイヌ文化期の建物跡2軒(A 郭、B 郭)が検出さ
れている。いずれも Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降下)降下前に構築されたものと考えら
れている。A 郭・B 郭の詳細は以下のとおりである。
A 郭建物跡は、長軸7.8m・短軸5.6m・面積が43.7㎡の東側主要部と、長軸3.6m・短軸2.2
m・面積7.9㎡の西側張り出し部からなる。主要部のほぼ中央に炉を持つことから住居跡と想
定されている。また、建物主要部をめぐるように焼土が検出されていることから、建物が焼失
したことが推定されている。一方、B 郭建物跡は、長軸6.20m・短軸5.90m・面積36.5㎡のや
─ 20 ─
や東西に長い構造をもち、南西側の柱穴列(P-1・2・3)によって入口部構造が推定されてい
ることより、長軸方向は北東(N 65 E)方位を示すと考えられる。A 郭のように炉は検出
されなかったため、一種の作業場的性格を有する建物と想定されている。
2)二風谷遺跡〈神窓方位・埋葬頭位〉
(北海道埋蔵文化財センター編 1986)
沙流川河口より約20㎞遡った右岸の舌状に伸びた河岸段丘上に位置しており、その南側に
はユオイチャシ跡が、北側にはポロモイチャシ跡がある。当遺跡からは道跡、送り場跡、建物
跡、墓壙などの遺構が検出されており、そのうちアイヌ文化期の建物跡は11軒、墓壙は2基
が検出された。その内訳は、炉が確認されたものが6軒(Ⅲ H-1・2・3・4・10・13)
、炉は
確認できないが柱穴配列や規模から居住・作業空間と考えられるものが5軒(Ⅲ H-6・8・9・
11)
、倉庫か物干場のような機能が考えられるものが1軒(Ⅲ H-5)である。
検出された建物跡11軒は、その長軸方向で3つに分類できるという。それはすなわち、①
南西−北東のⅢ H-1・2・3・4・8・10・11、②南−北のⅢ H-5・6、③南東−北西のⅢ H-9・
13である。このうち分類②は台地縁辺という地形環境を意識したものであることから①に含
まれるものとしている。そのため問題となるのは、分類①・②と分類③との関係であり、その
長軸方向が90度異なるという点にあるという。なお、検出された建物跡を編年的に捉えた場
合、分類③のⅢ H-9・13(南東−北西)が最も古い段階のものであり、比較的新しい段階の
ものがⅢ H-10(南西−北東)ではないかと想定されている。このことから、長軸方向に表れ
た相違は、集落が営まれた時期の差に起因するものと想定された。
一方、検出された近世アイヌ墓址2基は、いずれも周溝と盛土をもつ同形態のものであり、
規模も長軸4.3m前後でさほど大きな違いはない。しかし、2号墓が竪穴住居(Ⅲ
m前後でさほど大きな違いはない。しかし、2号墓が竪穴住居(Ⅲ
前後でさほど大きな違いはない。しかし、2号墓が竪穴住居(Ⅲ H-7)のく
ぼみを利用して作られている点が特徴的であるという。墓壙の詳細は以下のとおりである。
1号墓:埋葬頭位は北東(N 56 E、沙流川の上流方向を向く)を示す。仰臥伸展葬、顔
面を左側に向けている。被葬者は壮年男性。周溝北東側に墓標穴がみられ、ほぼ長
軸(頭位方向)線上にある。
2号墓:埋葬頭位は北東(N 24 E、沙流川の上流方向を向く)を示す。仰臥伸展葬。墓
標穴は北東側の長軸線上にある。
なお、上記遺構は Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降下)火山灰に被覆されており、その下
限を1667年とすることができる。
3)イルエカシ遺跡〈神窓方位・埋葬頭位〉
(鶴丸編 1989)
イルエカシ遺跡は、沙流川河口より約23㎞遡った右岸、その支流である看看川との合流付
─ 21 ─
近にあたる標高60m前後の河岸段丘上に位置する。この河岸段丘は、沙流川から20m前後、
看看川からは15∼20mの比高をもつ。アイヌ文化期に属する遺構は建物跡20、墓1、炉跡
∼20mの比高をもつ。アイヌ文化期に属する遺構は建物跡20、墓1、炉跡
20mの比高をもつ。アイヌ文化期に属する遺構は建物跡20、墓1、炉跡
(屋外炉)6、土坑4、集石11などが検出された。
検出された建物跡のう
ち、内部に炉跡を確認でき
たものは1・3・5・6・
7・9・10・16・17・18号
址の10軒である。この10軒
の長軸方向をみると、1・
3・5・7・9・10・16・
17・18号址は東西方向を示
し、6号址のみ南北方向と
いう例外的な方位を示して
いる。そして神窓の方位に
関しては、遺構の位置と動
物依存体、特にシカの頭骨
が検出された地点を比較す
ることでその方位が推定で
きそうである。
アイヌの住居施設におい
ては、通常、神窓側の屋外
に祭壇が設けられている。
それゆえに、住居跡屋外に
集中的に動物依存体、特に
アイヌ文化の遺構
鹿頭蓋・その他
◦頭蓋
その他
図3 遺構位置図(左)とアイヌ文化の遺物分布図7(右)(鶴丸 1989:24、190より)
頭骨が出土している場合、そこには祭壇があった可能性を想定できるという。図3をみると、
シカの頭蓋骨の検出状況から考えて、1・3・5・7・9・10・16・17・18号址では東側に
送り場があったものと推定でき、ゆえに神窓も「東」側に設けられていたものと考えられる。
一方、例外的な方位を示す6号址においては、シカの頭蓋骨が南側から出土していることから
考えて、南側に送り場があったと想定できる。それゆえ、神窓も南側に向けられていたものと
推定できそうだ。
なお、検出された全ての建物跡のうち、重複しているものが8棟あることなどから、少なく
とも3時期からなる集落の変遷過程が想定できるという。そして、その重複関係から「若干の
─ 22 ─
疑問は残るが、南北方向が古く東西方向が新しい」
(鶴丸編 1989:295)方位であるとも推
定されている。建物跡の詳細は以下のとおりである。
1号址:長軸は N 89 E(東西)
。炉址は1ヵ所で、中央よりやや西側において検出。
3号址:長軸は N 91 E(東西)
。炉址は1ヵ所で、ほぼ中央より検出。
5号址:長軸は N 91 E(東西)
。炉址は3ヵ所。炉址№1(中央)と№2(西側)の位置
関係は、建物址の長軸方向と一致する。炉址 No. 3は No. 2の南側に位置する。
6号址:長軸は N 10 E(N 190 E)
(南北)
。炉址は1ヵ所で、中央よりやや南寄りに
位置する。神窓を南側と想定。
7号址:長軸は N 69 E(東西)
。炉址は1ヵ所で、中央よりやや西側で検出。
9号址:長軸は N 69 E(東西)
。中央部に炉址が1ヵ所検出されている。
10号址:長軸は N 79 E(東西)
。炉址は1ヵ所で、中央よりやや西側で検出。
16号址:長軸は N 85 E(東西)
。炉址は1ヵ所で、中央部より検出。
17号址:長軸は N 80 E(東西)
。焼土が検出(炉)
。
18号址:長軸は N 66 E(東西)
。炉址は4ヵ所。このうち炉址№1∼№3は中央の長軸線
∼№3は中央の長軸線
№3は中央の長軸線
上に位置する。
検出されたアイヌ墓の埋葬頭位は、N 45 E(東南)を示す。埋葬形態は仰臥伸展葬で、
被葬者は40歳ぐらいの女性である。頭位方向(南東)の掘り込み端から90㎝隔てて墓標穴が
検出され、足の方向(北西)の掘り込み端から55㎝隔てた位置で鉄鍋、鍬先が検出された。
なお、墓標穴、墓穴、鉄鍋は中心軸線で結ばれており、遺骸はこの中心軸線よりやや南西に
よっているという。なお、アイヌ文化期の遺構は Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降下)火山
灰に覆われていることが判明している。
4)額平川2遺跡〈埋葬頭位〉
(川内編 1990)
沙流川河口より約26㎞遡った右岸、その支流である額平川と合流する付近に立地する。当
遺跡は「低位の狭い段丘上にあり、沙流川と額平川の合流地点へ向かって北東から南西に舌状
に伸びる部分のその先端部に残された遺跡である。標高は52m前後で、沙流川および額平川
の現河床との比高は10m前後である」
(川内編 1990:3)
。当遺跡からは、アイヌ文化期の墓
壙1基が Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降下)直下から検出されている。詳細は以下のとお
りである。
6号土坑:埋葬頭位は北東(N 47 E)を示す。平面形は隅丸の長方形。人骨片と歯が墓
壙の北東端にあり、上下顎歯とも歯列を保った状態で検出されたことから、頭位
方向は墓壙の長軸方向とほぼ同一の方向を示すと推察されている。また、副葬品
─ 23 ─
(刀剣などが検出された)から判断して、被葬者は男性と推定されている。
5)オパウシナイ1遺跡〈埋葬頭位〉
(平取町教育委員会編 1997)
オパウシナイ1遺跡は、沙流川河口より約14㎞遡った左岸、オバウシナイ川が沙流川に流
出する河口付近、標高30m前後のほぼ平坦な低位河岸段丘上に立地している。遺跡の北側に
は標高150∼200m級の低位山脈が連なっており、そこを源とするオバウシナイ川が当遺跡を
貫流して沙流川へと合流している。当遺跡からはアイヌ文化期の墓壙5基が検出された。遺骸
は幼児の合葬墓から検出された二体を含め、計六体検出されている。いずれも仰臥伸展葬、南
東頭位(沙流川方向)を示し、性別は幼児一体のみ不明であったが、残り五体はすべて女性で
あったことも判明している。副葬品は漆塗椀、煙管、タシロ、刀子、マレク、骨製中柄などで
ある。また、
「5基の墓壙はほぼ北東 - 南西方向に並ぶという配列性がうかがわれることから、
同一集団・集落(コタン)の墓地として捉えることができる」
(平取町教育委員会編 1997:
71)とも報告されている。各墓壙の詳細は以下のとおりである。
GP-1:頭位は南東(N 114 E)を示す。平面形は隅丸長方形。仰臥伸展葬で、左腕が腹
部にかかっている状態であった。被葬者は16∼18歳くらいの女性である。
GP-2:頭位は南東(N 126 E)を示す。平面形は隅丸長方形。被葬者は高齢の女性。
GP-3:頭位は被葬者 A、B ともに南東(A = N 130 E、B = N 127 E)を示す。平面形
は隅丸方形。いずれも仰臥伸展葬である。被葬者 A は推定死亡年齢6歳で、性別不
明。被葬者 B は推定死亡年齢2、3歳で女性である。
GP-4:頭位は南東(N 143 E)を示す。平面形は隅丸長方形。仰臥伸展葬で、推定死亡
年齢が12、13歳の女性である。
GP-5:頭位は南東(N 102 E)を示す。隅丸長方形か?(水道管埋没工事等により一部
破壊されている)
。仰臥伸展葬。
なお、検出されたアイヌ墓の時期は、
「Ta-b 降灰(1667年)時を上限とし、大正二年(1913
年)の沙流土功組合によって潅漑溝を掘削した時期が下限と考えられる」
(平取町教育委員会
編 1997:71)という。また、二風谷遺跡の1・2号墓が Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降
下)降灰時を下限としていることから、より新しい墓壙と想定している。なお、埋葬頭位にお
いては、二風谷遺跡1・2号墳とは頭位こそ異なるが、沙流川を向くという点においては共通
しているという。
6)平取桜井遺跡〈埋葬頭位〉
(平取町教育委員会編 1999)
平取桜井遺跡は、沙流川に流出するオバウシナイ川の右岸、オパウシナイ1遺跡に近接する
─ 24 ─
標高34m前後の低位段丘面に立地している。遺跡のある「段丘面は緩斜し、北西側に標高41m
前後まで続いて急崖となる。高位は60mを越す段丘面が広がり、その峰付近を源とするオバウ
シナイ川は、市街地を蛇行しながら横断する」
(平取町教育委員会編 1999:3)
。当遺跡からは
近世アイヌ墓3基が検出されている。アイヌ墓は、Ta-b(樽前火山灰 b 層:1667年降下)上層
から構築されたことが判明している。副葬品は GP-1から山刀、刀子、魚突鉤銛、煙管、漆塗
椀がそれぞれ1点、骨製中柄3点、GP-2から刀子、火打金、火口入れがそれぞれ1点、針が2
点(1個体)
、漆塗椀、火打石がそれぞれ2点、煙管が3点、GP-3(現代建物跡基礎により著
しく破壊されている)から煙管雁首が1点出土している。各墓壙の詳細は以下のとおりである。
GP-1:墓壙の長軸方向と埋葬遺体の頭位は同方向で南東(N 123 E)を示す。平面形は
長方形。仰臥伸展葬で顔面を右側に向けている。被葬者は壮年女性。
GP-2:埋葬遺体は頭を墓壙中心線の右側、足を左側に寄せており、南東(N 126 E)を
指す墓壙の長軸に対して頭位は多少南にずれる(N 133 E)
。平面形は長方形。仰
臥伸展葬。被葬者は比較的若い女性。
GP-3:埋葬頭位は南東(N 123 E)で、墓壙の長軸方向と一致する。仰臥伸展葬。被葬
者は壮年男性。
また、当遺跡検出の墓壙は、オパウシナイ1遺跡検出の墓壙と時期的に近接するものである
と考えられているだけではなく、多くの共通点を見出すことができるとも指摘されている。例
えば、頭位はいずれも略南東を示し、葬法は仰臥伸展葬をとる。また、副葬品においても共通
点があり、
「とくに漆塗椀は撹乱の及んでいない墓壙には全て認められる」
(平取町教育委員会
編 1999:94)という。
7)亜別遺跡〈神窓方位〉
(平取町教育委員会編 2000)
亜別遺跡は、沙流川河口より約16㎞遡った右岸側で、沙流川に流出する亜別川河口左岸の
低位段丘面に孤立する独立丘陵上に立地している。当遺跡からは、アイヌ文化期の建物跡2
軒が検出されている。建物跡は、ほぼ中央に炉を有する建物跡(H-1)と炉を有さない建物跡
(H-2)が確認されている。このうち住居跡と考えられるのは H-1であり、H-2は倉などの住
居以外の利用が想定されている。H-1の規模は長軸約6.5m・短軸約6mで、平面形は若干の
m・短軸約6mで、平面形は若干の
・短軸約6mで、平面形は若干の
mで、平面形は若干の
で、平面形は若干の
長方形となる。長軸方向は N 46 E で略北東を向く。神窓方位の設定に関しては、建物跡外
の7∼8m北東側に「送り場」が検出されていることから、北東方向に向けられていたものと
m北東側に「送り場」が検出されていることから、北東方向に向けられていたものと
北東側に「送り場」が検出されていることから、北東方向に向けられていたものと
考えられる。なお、これらの遺構は Ta-b(樽前火山灰火山灰 b 層:1667年降下)直下もしく
はその間近からの構築と考えられている。
以上の7遺跡にみられる神窓方位と埋葬頭位を表化すると次のようになる。
─ 25 ─
遺 跡 名
跡 名
跡 名
名
名
遺構名
ポロモイチャシ跡
A 郭建物跡
ポロモイチャシ跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
二風谷遺跡
建物跡
炉址が1ヵ所・南西側張り出し部入口
建物跡
焼土3ヵ所・南西側入口・作業場か?
北東
建物跡
炉址が2ヵ所・南西側入口
Ⅲ H-2
北東
建物跡
炉址が2ヵ所・南西側入口か?
Ⅲ H-3
北東
建物跡
炉址が1ヵ所・南西側入口か?
Ⅲ H-4
北東
建物跡
炉址が1ヵ所・南側張り出し部入口
Ⅲ H-6
北(北東)
建物跡
住居?南側張り出し部入口か?
Ⅲ H-8
不明
建物跡
住居?入口方向不明
Ⅲ H-9
北西
建物跡
南東側入口
Ⅲ H-10
北東
建物跡
炉址が2ヵ所・南西側張り出し部入口
Ⅲ H-11
北東
建物跡
南西側入口・北東側に祭壇か?
Ⅲ H-13
北西
建物跡
1号墓
N 56 E
墓壙
炉址が1ヵ所・入口構造は不明(南東側か?) Ta-b の下層
N 89 E
建物跡
炉址が1ヵ所
建物跡
炉址が1ヵ所
N 91 E
建物跡
炉址が3ヵ所
N 10 E
建物跡
(N 190 E)
炉址が1ヵ所
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ⅲ H-1
1号址
イルエカシ遺跡
3号址
イルエカシ遺跡
5号址
イルエカシ遺跡
6号址
イルエカシ遺跡
7号址
イルエカシ遺跡
9号址
イルエカシ遺跡
10号址
イルエカシ遺跡
16号址
イルエカシ遺跡
17号址
イルエカシ遺跡
18号址
イルエカシ遺跡
1号墓
額平川2遺跡
6号土抗
オパウシナイ1遺跡
GP-1
オパウシナイ1遺跡
オパウシナイ1遺跡
桜井平取遺跡
桜井平取遺跡
桜井平取遺跡
亜別遺跡
時 期
北東
2号墓
オパウシナイ1遺跡
備 考
考
考
N 65 E
二風谷遺跡
オパウシナイ1遺跡
種類
B 郭建物跡
イルエカシ遺跡
オパウシナイ1遺跡
神窓方位
N 24 E
N 91 E
墓壙
男性(壮年)
不明
N-69 E
建物跡
炉址が1ヵ所
建物跡
炉址が1ヵ所
N 79 E
建物跡
炉址が1ヵ所
N 85 E
建物跡
炉址が1ヵ所
N 80 E
建物跡
炉址が1ヵ所
N 66 E
建物跡
炉址が4ヵ所
N 45 E
墓壙
女性(40歳)
N 47 E
墓壙
男性?
N 144 E
墓壙
N 126 E
墓壙
女性(16-18歳)
GP-3(
(A) N 130 E
墓壙
不明(6歳)
GP-3(
(B) N 127 E
墓壙
女性(2- 3歳)
GP-2
N 69 E
GP-4
N 143 E
墓壙
GP-1
N 123 E
GP-5
GP-2
GP-3
H-1
女性(高齢)
女性(12-13歳)
N 102 E
墓壙
墓壙
女性(壮年)
N 133 E
墓壙
女性(比較的若い)
墓壙
男性(壮年)
N 46 E
建物跡
N 123 E
女性(20代後半−30代前半)
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の下層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
Ta-b の上層
炉址が1ヵ所・建物跡外の北東側に「送り場」 Ta-b の下層
表1 沙流川地域の神窓方位と埋葬頭位
表1で示した各方位を自然方位のみで認識することは、その本質に触れることができないと
いうことはすでに述べた。そこで実際に表1で示された方位が、民俗方位としてどのように自
然環境、あるいは地域環境に対応しているのかを検討する必要がある。
─ 26 ─
7.サルンクルの民俗方位
サルンクルの民俗方位として、まずは太陽方位観について検討していく。本稿で述べてきた
神窓方位と埋葬頭位にみられる太陽方位観は、太陽の運行経路にその方位的原理を求めること
で成立している概念である。そのため、日の出の方位である太陽方位と神窓方位・埋葬頭位の
対応関係を明らかにする必要がある。そこで太陽の運行経路のうち、夏至と冬至の日の出点を
作図的に求めることでその関係性を明らかにすることが可能であると考えられる。藤本英夫
は、
「太陽は、一年間にその幅のうちを往復する。もし、ある時期の人間が、遺体を埋葬するとき、太陽の
運行方向を目標にしていたとすれば、埋葬のための墓拡の方向は、この幅の中に収まることになる。つ
まり、墓拡の軸方向は太陽が一年間に往復する振幅の中にあることが予想される」
(藤本 1972:34)
。
と述べ、静内町御殿山墳墓群遺跡における埋葬頭位の方向性について検討している。本稿でも
同様に、表1に示した資料の方向性を探ってみた。
そこで、基準点
を北緯42度37分・
東経142度8分
(平
取町本町)とし、
夏至と冬至の日の
出点、日の入り点
と神窓方位、埋葬
頭位の関係を作図
したのが図4(註6)
である。
図4では、夏至
(6月21日)の日の
出方位を N 56
E とし、冬至(12
月22日)の日の出
図4 日の出方位と神窓方位・埋葬頭位の関係
方 位 を N 122
E とした。つまり、夏至と冬至の日の出の方位角は66 と求めることができる。この66 の日の
出方位角の範囲に収まる例は、神窓方位23例中9例(不明1)
、埋葬頭位13例中2例のみであ
る。もっとも、ここで示した数値が、統計学的に有意であるというほどの資料を示したとはい
えない。しかし、神窓方位と埋葬頭位の両方位において、太陽を基準としてその方位を設定し
─ 27 ─
たとは判断し難い例がみられることはわかる。例えば神窓方位に関しては、太陽方位(夏至と
冬至の日の出方位角)を示すような東∼北東方向の資料が多くを占めるが、北西、南方向とい
う特異な方位を示す資料もみられる。さらに埋葬頭位に関しては、その多くが太陽方位(夏至
と冬至の日の出方位角)の範囲を外れるように示されていることが特徴的である。
しかも、ここで提示した太陽方位(夏至と冬至の日の出方位角)は、地平線上に太陽が上辺
を接した時点での方位であり、山などに遮られるなどの地形的な問題を考慮すると、見かけの
太陽の上昇点はさらに狭められる。そのように考えると、平取地域の埋葬頭位に関しては、必
ずしも太陽方位(夏至と冬至の日の出方位角)がその指針として認識されていたわけではない
とも考えられるのである。
では、地形との関係性はどうであろうか。前述したように、神窓と埋葬に表出される方位観
では、太陽方位のみではなく聖山信仰に基づく川上方位観が存在する。そこで、本稿で取り上
げた各遺跡と地形環境について、より詳細に検討していくこととする。
図5は額平川2遺跡
周辺の地形図である。
埋葬頭位(破線)は北
東(N 47
E) を 示
しており、太陽方位
(N 56 ∼122
E)と
の関係性は薄いと考え
られる。しかし、地形
との関係で考えると、
沙流川の上流方向に埋
葬頭位が向けられてい
るといえるだろうか。
図6はイルエカシ
遺跡、ポロモイチャシ
図5 額平川2遺跡の埋葬頭位
跡、二風谷遺跡周辺の地形図である。埋葬頭位(破線)に関しては、太陽方位(N 56 ∼122
E)を示すというよりも、むしろ額平川2遺跡同様に沙流川上流方向を示すと考えられそうで
ある。
神窓方位(実線)に関しては、イルエカシ遺跡の南方位(N 190 E)と二風谷遺跡の北西
方位の例が特異な方位を示すが、それ以外は太陽方位(N 56 ∼122 E)に対応する方位を
示すという点で一致する。
─ 28 ─
その一方で、地
形対応の可能性も
否定できない。例
えばイルエカシ遺
跡の北東を向く神
窓方位は、看看川
の上流方向、ある
いは沙流川本流の
上流方向に向けら
れているとも考え
られる。ポロモイ
チャシ跡、二風谷
遺跡の北東を向く
神窓方位は、沙流
川上流を向くとも
考えられそうだ。
つまり、当該地域
図6 イルエカシ遺跡、ポロモイチャシ跡、二風谷遺跡の神窓方位と埋葬頭位
の遺跡において
は、埋葬頭位(破線)は川上方位として地形対応を示すが、神窓方位(実線)に関しては太陽
方位と川上方位の両方位に対応すると捉えることができる。しかし、イルエカシ遺跡の南方位
(N 190 E)と二風谷遺跡の北西方位は、その方位的原理が依然不明である。この特殊な例
を示す方位は、それぞれの遺跡において比較的古い段階の遺構であり、この方位の相違は、遺
構が営まれた時期の差であるとも想定されている。より古い段階では、太陽方位や川上方位と
は異なる方位的原理が存在したのであろうか。この点に関しては、今後の課題となろう。
図7は亜別遺跡、オパウシナイ1遺跡、平取桜井遺跡周辺の地形図である。亜別遺跡の神窓
方位(実線)は北東方向(N 46 E)であり、太陽方位(N 56 ∼122 E)というよりも沙
流川上流、あるいはアペツ川上流に向けられていたと考えられそうだ。
一方、オパウシナイ1遺跡と平取桜井遺跡の埋葬頭位(破線)は南東方位を示しており、太
一方、オパウシナイ1遺跡と平取桜井遺跡の埋葬頭位(破線)は南東方位を示しており、太
陽方位(N 56 ∼122 E)だけでなく、両遺跡を貫流するオバウシナイ川や沙流川の方位と
の関係性も薄いように思える。しかし、川上方位との対応を考えるのであれば、むしろ対岸に
流れるペンケ平取川やパンケ平取川、あるいはユーラップ川の上流方向との関係性を想定でき
るのである。それというのは、平取地域のコタン=村は、かつては沙流川東岸に設置されてい
─ 29 ─
たといわれている
からである。
山田秀三によれ
ば、平取の語源は
「 パンケ・ピラ・
ウツ ル・ナイ=
下 の・ 崖・ の 間
の・川」と「ペン
ケ・ピラ・ウツ
ル・ナイ=上の・
崖・の間の・川」
の間にコタンが存
在したことからき
て お り、 ピ ラ ウ
ツ ルナイ、そし
て語尾を省略して
ピラウツ ルと呼
図7 亜別遺跡、オパウシナイ1遺跡、平取桜井遺跡の神窓方位と埋葬頭位
ぶようになったと
いう。さらに、コタンの所在が西岸に変更された後も、前の地名を継続して使用していたとも
述べている(山田 1995:29)
。また、19世紀半ばに北海道を踏査した松浦武四郎の当時には、
すでに沙流川西岸にコタンが営まれていたようでもある(山田 1995:29)
。両遺跡の構築年
代は樽前火山灰 b 層(1667年降下)以降のものであることから考えると、埋葬頭位が示す方位
はかつてのコタンが所在した沙流川東岸における方位的原理に基づいたものであり、それはペ
ンケ平取川、パンケ平取川の上流方向へと向けられていたものと推定できるのではないだろう
か。
以上、各遺跡における方位(神窓方位、埋葬頭位)と地形との対応関係について考えてみ
た。その結果、神窓方位においては、イルエカシ遺跡と二風谷遺跡に表れた特異な方位(南、
北西)を示す事例を除いて、すべて川上方位として地形との対応関係を想定できそうである。
例えばそれは、本流である沙流川上流方向(ポロモイチャシ跡、二風谷遺跡、亜別遺跡)やア
ペツ川(亜別遺跡)
、看看川(イルエカシ遺跡)などの沙流川に流出する支流の上流方向に対
応する方位であると考えられそうだ。もっとも、ポロモイチャシ跡、二風谷遺跡、イルエカシ
遺跡の例は、川上方位と同時に太陽方位にも対応していることから考えると、その方位基準を
─ 30 ─
断定することはできない。
埋葬頭位に関しては、額平川2遺跡(沙流川上流方位)
、イルエカシ遺跡(沙流川上流方
位)
、二風谷遺跡(沙流川上流方位)の二風谷・荷負地域の方位(北東)と平取桜井遺跡(ペ
ンケ平取川上流方位)
、オパウシナイ1遺跡(ペンケ平取川上流方位)の平取本町地域の方位
(南東)との相違がみられるが、これについては川上方位観に基づいた相違として解釈できそ
うである。しかし、これにも問題点は残っている。というのは、胆振白老地方などでは、アイ
ヌには川をまたいで埋葬をおこなわないという慣習があるためである(満岡 1987:171)
。そ
の点から考えると、平取桜井遺跡とオパウシナイ1遺跡の埋葬頭位の方位基準には矛盾が生じ
てしまう。あるいは平取地域ではこの慣習は、後述する「イウォル=生活領域圏」の基準とな
る「川筋」に従ったものなのであろうか。その意味でも、イウォル・コタン・墓地との空間的
関係性を考古学的に明らかにしていくことが重要である。
8.まとめ
以上、日高平取地域における神窓方位と埋葬頭位の方位観について考察してきた。民族誌
データにみられた「東」方位については、川上方位神聖視と太陽方位神聖視という二つの異な
る方位観に基づく報告がなされていた。そこで、太陽方位観が報告される北海道南東地域西半
西半
部(平取地域)については、あらためて考古データを用いた方位の検討を試みた。その結果、
(平取地域)については、あらためて考古データを用いた方位の検討を試みた。その結果、
若干の問題点は残るが、平取地域における神窓の方位的原理を川上方位に求めることが可能で
あるということが判明した。もっとも、平取地域の河川流路が東から西へと流れていることか
ら、太陽方位と川上方位が同一方位を示しているために、その方位的原理を明確にすることが
できないデータも存在する。一方、埋葬頭位に関しても究明すべき問題も残されているが、従
来報告されてきたような太陽方位とは異なり、その方位的原理が川上方位に求められていた可
能性を指摘することができた。
民俗方位とは、単に地形や空間を把握するためだけに方位を認識するのではなく、世界観を
構成する一要素であるという点を考慮しなくてはならない。それゆえに、方位観を独立した単
独の文化要素として抽出してしまっては、その世界観を捉える上で不十分であるといえる。平
取地域では、神窓方位における太陽方位神聖視観の存在を積極的に否定するだけの材料は見当
たらなかったが、川上神聖視観の存在により可能性を見出すことができた。そこで、河川流路
という地域環境との関係において方位観を捉えた場合、単なる地理学的な側面だけではなく、
そこに生活していたアイヌの社会的側面に目を向ける必要があると思われる。
この点に関して、渡辺仁の指摘するシネ・イトクパ集団とクマ送り儀礼の関係性について言
及してみたい。渡辺のいうシネ・イトクパ集団とは、同一の川筋の隣りあう幾つかのローカル
─ 31 ─
グループからなる一種の親族集団のことである。その集団の構成員の特徴は、共通の祖印=エ
カシイトクパを持つことによって結び付けられているという。そしてエカシイトクパの重要な
役割は、これが単なる血縁集団の系統出自を示すための標識として認識されているだけではな
く、カムイに対する儀礼において欠かすことのできないイナウ(幣)に刻む印であるという点
にあると指摘している。つまり、このエカシイトクパが刻まれたイナウがカムイに奉げられる
ことによって、
「その地(川筋)の神々とその地の住人であるアイヌとの間に一体となった社
会的連帯関係が設定される」
(渡辺 1990:263-4)からであるという。言い換えるならば、エ
カシイトクパは、それぞれの川筋のカムイとの関係性を示す標識であり、それによって結び付
けられているシネ・イトクパ集団は、それぞれの土地(川筋)のカムイとの社会的連帯関係に
基づく集団なのである(渡辺 1990:263-4)という。
この点に関して、N.G. マンローも同様の見解を示している。マンローも熊送りの際に、イ
ナウに刻まれたエカシイトクパの存在を報告しており、
「儀式を行って「送られた」仔熊の先
祖と、その仔熊を飼育して「熊送り」を行った長老の先祖は、何らかのきずなで結ばれている
ことが想像」
(マンロー 2002:219)されると述べている。
つまり、神窓が川上方位を示すのはカムイの領域を指向するためだけではなく、カムイとア
イヌが、その生活領域(川筋を基準とした生業活動を営む領域)において社会的に結びつく関
係にあると考えられるからである。だからこそ、神窓はカムイの住む川上方位に向けられるの
であり、カムイとアイヌの社会的関係性を具現化する要素として認識されてきたと捉えること
ができるのではないだろうか。
一方、川上方位に向けられる埋葬頭位の文化的な意味はどうであろうか。これに対しては、
泉靖一の報告を参考としたい。泉は、イウォルという生活領域と他界との関係について言及
している。イウォルとは、
「分水嶺とその川筋の両側を画する山稜、および河口における海浜
とによって区画された1つの領域」
(泉 1972:61)のことであり、
「このような領域は、その
川筋の住民によって専有せられ、他の川筋の住民の無断の侵入は許されない」
(泉 1972:61)
種類のものであるという。
このイウォルという川筋を基準とする領域の概念は、渡辺のいうシネ・イトクパ集団の居住
する地域に対応するものといえるだろう。そして、埋葬頭位との関係で注目したいのは、この
領域的なイウォルの地下に死者の世界が存在するという観念である。
「領域的な iwor、○○ -un-kur iwor の地下には、○○ -un-kur の黄泉の国(pokna-moshir)があると信
じられている。死霊は墓標(kuwa、irura-kuwa、ash-ni chitomte-kuwa)と送り水(irura-wakka)に
送られ、彼の住んでいた iwor のどこかにある黄泉下降孔(oman-ru-par)からその iwor の下にある
黄泉の国へと下降する。沙流川のアイヌは Sar-un-kur iwor の地下に現世の Sar-un-kur iwor によく似
─ 32 ─
た、彼岸の Sar-un-kur iwor があり、死後彼らは来世の Sar-un-kor iwor におもむくものと考えている」
(泉 1972:62)。
アイヌにおける他界の描写は、現世の投影的景観として描かれてきたことはよく知られてい
る。あるいは、他界の景観は現世の合せ鏡のように認識されてきたともいえる。そして、そ
のような他界への入口として「黄泉下降孔(oman-ru-par)
」(註7)という洞穴を泉は想定してい
る。泉同様に、林謙作が「あの世の入口=アフン・ルパロ」と埋葬頭位の関係を示唆している
(林 1977:16-22)が、他界とイウォルの関係を考えるのであれば、むしろ河川流路という方
位基準が埋葬頭位の方位観に影響を与えたという可能性も否定できないのではないだろうか。
それというのは、
「山の頂は、神様の住む世界であるという思想のほかに、死んだ者の霊の行
く世界であるという思想」
(知里 1973:22)も存在するからである。
知里真志保によれば、
「山の上に神秘な沼があり、そこの岸辺には、人間の使い捨てた器具
や木幣や、死人と一緒に墓穴に納めた副葬品が、山と寄りあがっていた」
(知里 1973:22)
という伝説がある。つまり、河川の上流方向に聳える山岳は、
「聖山信仰」におけるカムイ
(聖)の属性とともに、他界の属性も認められる領域と考えられていたのである。もっとも、
この他界は、
「聖」と対立するような概念を帯びているわけではない。金田一京助によれば、
アイヌにとっては死体そのものに対する恐怖心は強いが、死という現象に関してはそれほどの
恐れを感じてはいないという(金田一京助全集編集委員会編 1993:247)
。おそらくそれは、
他界が現世同様の景観として認識されていることからも理解できるのではないか。つまり、死
という現象は「他界」という別次元の世界への移行段階として認識されているのであり、それ
ゆえに他界とその住人に対する怖れの観念はみられないのであろう。そして、ここに「人間も
死ねば神になる」
(金田一 1993:247)という観念の醸成を見出すことができるのである。ア
イヌには、カムイの真の姿は人間と同じ姿をしているという観念がある。つまりそれは、
「神
は人間の世界を訪れるときだけ、臨時に動物その他の異類の姿をかりるけれども、ふだんは
その本国においては人間と同じ姿で、人間と少しも変わらぬ生活を営んでいる」
(知里 1971:
232)という観念である。このような観念は、カムイと死者(祖先)の同一視性を生み出すの
ではないか。それゆえに他界と聖山(カムイ・モシリ)の方位観に共通の原理が働いたと考え
ることはできないだろうか。
他界とは、生者と死者との二元論的世界観において構築された観念であり、聖山(カムイ・
モシリ)は、アイヌとカムイという二元論的世界観によって構築されていた。そして、他界と
聖山の方位的な相関性は、それぞれがイウォルというアイヌの社会的生活領域と対をなす世界
方位的な相関性は、それぞれがイウォルというアイヌの社会的生活領域と対をなす世界
相関性は、それぞれがイウォルというアイヌの社会的生活領域と対をなす世界
の社会的生活領域と対をなす世界
社会的生活領域と対をなす世界
的生活領域と対をなす世界
生活領域と対をなす世界
として投影された結果である考えられるのである。そして、それぞれの超自然的な世界は、埋
結果である考えられるのである。そして、それぞれの超自然的な世界は、埋
である考えられるのである。そして、それぞれの超自然的な世界は、埋
葬頭位と神窓方位という文化要素を通して現実の世界に表出されていたのである。
─ 33 ─
【註】
1)渡辺(渡辺 1972:48-56)の提唱するクマ祭文化複合体とは、クマ祭とそれをめぐる関連要素群
の文化的集合体のことであり、アイヌ文化を代表する要素群のことを指す。そしてこの文化的集
合体は、社会的側面(定住的生活を支える要素群)、宗教的側面(送り儀礼を支える要素群)
、流
通経済的側面(刀剣などの威信財や魚狩猟具にみられる金属類などの外来物資群)という三つの
側面から形成されていると指摘している。
2)内田(内田 1998:112-26)によれば、道東地方の帯広伏古コタンや芽室毛根コタンでは、神窓
の方位は西を示すと同時に十勝川の上流方向を示しているという。また、本別や音更では川の上
流が北にあるため、神窓も北に向けられているとも報告している。つまり、十勝地方の神窓方位
は川上方位がその方位的原理となるため、自然方位では河川の流れに沿う方位である西や北が示
されるのである。
3)渡辺(渡辺 1990:240-1)は、異例(神窓方位が磁石の方角のみで示され、地形との関係不明の
場合)の方位を示す神窓の事例として、二風谷コタン、有珠コタン、白老コタンなどにみられる
東窓を報告し、日高及び胆振の一部にみられる矛盾と混乱と述べている。その報告の中には、東
窓の理由を太陽の運行経路に求める事例もみられる。
4)林(林 1977:1-27)は、藤本が指摘するような太陽の運行経路と他界の空間的関連性は、アイ
ヌ社会全体に関わるような普遍的他界観の存在を示すものであり、そのような認識が生じたのは
和人との接触によって絶対的方位の観念が生じたためであると主張する。それゆえに、落日点と
他界の関係を示すような単一的頭位規制と単一的他界観の創出は、和人の影響を受けた結果であ
り、アイヌ本来のものではないと指摘している。
5)河野 ( 河野 1971:96-110) は、墓標の形式的差異から樺太および北海道のアイヌを6つの文化的
グループに分類して論じている。そのうち、道南東地域のサルンクルは特殊な一系統を示してお
り、本州東北地方との関連性も考えられると指摘している。
6)図4、図5、図6、図7は、カシミール3D を基に作図した。図4は20万分の一地図を基に加工
したものである。図5、図6、図7は5万分の一地図を基に加工したものである。カシミール
3D については http://www.kashmir3d.com/ を参照のこと。なお、日の出・日の入り方位は、海上
保安庁海洋情報部「日出没・月出没計算サービス」http://www1.kaiho.mlit.go.jp/ を参照した。ま
た、各遺跡の位置に関しては、北海道教育委員会「北の遺跡案内」http://www2.wagamachi-guide.
com/hokkai_bunka/top.asp などを参考にした。
7)「黄泉下降孔(oman-ru-par)」とは、他界への入口と考えられている洞穴のことである。北海道各
地にはアフン・ルパロ、あるいはアフンパルともよばれる地名があり、そのような地には他界へ
の訪問譚も多く残されているという(内山 2005:5-6)。
─ 34 ─
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─ 35 ─
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─ 36 ─
〈研究ノート〉
女子埴輪を考える
布 施 友 理
(城西国際大学大学院国際文化専攻)
1.はじめに
埴輪には、さまざまな種類がある。円筒埴輪はその典型的な例であり、そのほかにも形象埴
輪と呼ばれるものがある。この形象埴輪には、器財埴輪、家形埴輪、船形埴輪、動物埴輪など
があり、人物埴輪もこれに含まれる。埴輪は、まず円筒が先行し、続いて器財、動物、人物な
どへとその種類が豊富になる。円筒埴輪については、1960年代に近藤義郎氏と春成秀爾氏が
円筒埴輪の起源に関する研究を行い、吉備地方の特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪から円筒形埴
輪・朝顔形円筒埴輪が生まれたことを明らかにした(近藤 2001:358)
。こうして、埴輪研究
は円筒埴輪に始まり、1980年代には器財埴輪の形式学的な分析に基づく研究が行われ、同じ
頃、埴輪の意味に関する研究も盛んに行われるようになった。1990年代頃から生産体制の研
究が盛んに行われるようになり、現在では埴輪同工品論が埴輪研究の最前線にある。このよう
に、埴輪研究の歴史は長い。それにも関わらず、埴輪の意義などに対して、未だ定説は存在し
ない。それを解決するためには、古墳時代の人々の精神世界を表した人物埴輪を含む群像の解
明に着手しなければならないと考える。しかし、その前段階として、埴輪個々の研究が必要と
なるであろう。とくに、当時の人々を模写したと思われる人物埴輪は、埴輪の意義を考える上
で、もっとも重要な要素であり、古墳時代を考える上でも、非常に大きなウエイトを占めると
言える。そこで、本論では人物埴輪をとりあげたい。
これまでの埴輪研究の中で、人物埴輪は葬列、あるいは首長権継承儀礼、あるいは殯を表し
ているなどの仮説が唱えられてきた。これらの仮説は、古墳における埴輪配列の解釈に基づい
ているため、個体としての人物埴輪への解釈ではない。つまり、埴輪の用途、すなわち埴輪が
なぜつくられたのかという問いに対して執着しすぎるあまり、個々の埴輪の観察以上に全体像
を捉えることに重点が置かれてきたと言える。そのため、従来の研究では、女子埴輪をその特
徴的な服装から巫女とする意見が多く、現在でも、女子埴輪のほとんどが巫女とされている。
これに比べ、男子埴輪には、さまざまな職掌が認められる。それでも個別的な研究が進んでい
るとは言い難い。しかし、最近では同工品分析が盛んに行われるようになり、個々の埴輪を観
察することへの重要性が再認識されつつある。そこで、本論では、女子埴輪に注目し、その再
─ 37 ─
検討を行うことにした。
本論においては、分析対象を千葉県内出土の女子埴輪に限定し、各古墳出土の女子埴輪の観
察・分類・比較・分析を試みたい。その具体的な方法としては、女子埴輪に見る所作や服装、
髪型、首飾りや耳飾りなどの装飾品、彩色の有無などの観点によって分類し、それらを比較す
る。そして、女子埴輪はすべて巫女なのか、そのほかにはどんな職掌が考えられるのか、など
について若干考察したい。本論は、千葉県における女子埴輪を通して、人物埴輪に関する一つ
の新たな見解を導き出す試みである。
2.女子埴輪の分類・比較
まず、女子埴輪を女子と決定する要素について述べておく必要がある。女子であることを表
すもっとも顕著な部分は胸部の乳房表現である。乳房の表現については、線によって表された
ものや粘土塊を貼りつけて表されたものがある。本論で扱う女子埴輪の多くは後者である。し
かし、千葉県小見川郡に所在する城山1号墳出土の埴輪のように、男子でありながらも、線に
よって胸を表現したものがある。それでも、粘土塊によるものは例を見ない。つまり、突出さ
せて乳房を表現したものは女子を表したものと考えて良い。一方、乳房表現がないものはすべ
て男子かというとそうとも言えない。なぜならば、男女ともに衣服を着ているものもあるから
だ。
衣服に関しても、男女の差異が見られる。上半身と下半身とにそれぞれ覆うものがあったと
いう点では男女共通であるが、下半身につけるものが男女では、はっきりと異なっていた。上
衣の表現は、奈良県高市郡明日香村平田に所在する高松塚古墳西壁の婦人像にも見られるよう
な細い筒袖のついた短いものを着ていた。上衣の胸紐の表現をもつ埴輪は多い。下半身につけ
るものについては男子の場合、褌と呼ばれる太いズボンをはいていた。その褌を膝の下付近か
ら脚結という紐で結んではくことが一般的であった。他方、女子の場合は、裳と呼ばれる長い
スカートをつけていた(小林 1990:118)
。これらははっきりと埴輪に表現されているため、
これに従って男女の区別をつけることが可能となる。
さらに、さまざまな埴輪の中で性別を判断するには、髪型がもっとも有効である。髪型で埴
輪を大別すると、美豆良を結うものと髷を結うものとがある。髷とは、いわゆる島田髷に類似
しており、女子特有の髪型である。この髪型は、バチ形をなすものと分銅形をなすものとに分
類される(塚田 2002)
。髷ではなく、美豆良を結うものは男子と考えられる。
そのほかにも女子と判断することが可能な材料としては、装飾品が考えられる。しかし、首
飾りは古墳時代においても、男女に関係なく、着装されており、正装するたいていの埴輪にそ
れがみられる。また、耳飾りをつける埴輪については、埴輪の多くがそうであるため、この観
─ 38 ─
点からは男女の区別をつけがたい。それから、当時、鏡というのは女子、それも巫女という立
場のみが持つ装飾品であったとする見解が有力ではあるが、そうではないとする指摘もあり、
いずれにしても、装飾品だけでは性別の判断はできない。
以上が女子埴輪を女子と呼ぶ所以である。つぎに個々の女子埴輪の観察を行い、分類を試み
ることとする。⑴形態、⑵所作、⑶髪型、⑷乳房表現、⑸衣服、⑹彩色、⑺首飾り、⑻耳ある
いは耳飾り、⑼持ち物、⑽高さの10項目ごとに列記していく。ここでは報告書や図録などに
掲載されている呼び名を用いている。
№1 1 頭に壺をのせる女子−小川台5号墳(芝山はにわ博物館 1975:61)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手左右に開いた状態で、少し前方に突き出すようにつくられている。
⑶ 頭に壺をのせている。
⑷ 乳房の表現が認められる。
⑸ 腰には帯をしめ、台部にも凸帯が一本めぐっている。上衣表現は認められない。
⑹ 彩色は施されていない。
⑺ 11個の小玉が残存し、失われた痕が2箇所認められる。
⑻ 両耳は中央に小孔を有する円板を貼りつけて表している。その小孔から粘土紐をつりさ
げたように貼りつけ、耳飾りを表現している。右耳は完全に残っているが、左耳はその
ほとんどが欠損し、剥離した痕だけが残されている。
⑼ なし。
⑽ 残高66.5㎝
№2 女子椅像−小川台5号墳(芝山はにわ博物館 1975:61)出土
:61)出土
61)出土
)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手は欠損している。
⑶ 髪は欠損している。
⑷ 乳房表現はない。
⑸ 胸には襷をかけたと思われる表現が見られる。腰の正面部分には前掛状のスカートと思
われる表現があり、腰紐の表現も認められる。また、この腰紐の左右の両脇に円形の飾
りが貼りつけられている。
⑹ 顔面に塗朱が認められる。
⑺ 首には大玉が2個残っており、首飾りをつけていたと思われる。
⑻ 両耳はドーナツ状の円形で表現している。その上から少し下にずらしてドーナツ状の円
─ 39 ─
A:正福寺1号墳
№14 壺を持つ女子
B:竜角寺101号墳
№10 椀を捧げる女子
B:殿部田1号墳
№11 頭に壺を置く女子
C:大木台2号墳
№7 島田髷の女子像
形板を貼りつけ耳飾りを表している。このドーナツ状の円形板の内側は上にとがった三
角形をしている。右の耳飾りはつけ根部分を除いて欠損しているが、左の耳飾りはほぼ
完形で残っている。
⑼ なし。
⑽ 総高65㎝
№3 二連の首飾りをつける女子−小川台5号墳(芝山はにわ博物館 1975:61-2)出土
⑴ 本像は下半身を欠いている。
⑵ 両手は前方にやや広げている状態でつくられている。
⑶ 髪には竪櫛をさしている。
⑷ 胸には乳房の表現がある。
⑸ 衣服の表現は認められない。
⑹ 彩色はない。
⑺ 二連の首飾りのうち、下段両端の玉各2個と各玉をつづる紐に塗朱が認められる。玉は
─ 40 ─
C:大木台2号墳
№8 島田髷の女子像
D:小川台5号墳
№3 二連の首飾りをつける女子
E:朝日の岡古墳
№13 巫女埴輪
S=1/8
中玉で、上段5個、下段7個が現存している。失われた痕として、上段2、下段1が確
認できる。
⑻ 耳飾りは、№2と同じく中央に小孔を有する円板を貼りつけて耳を表し、その上にドー
ナツ状の円形を貼りつけ、耳飾りを表現している。
⑼ なし。
⑽ 腰から下を欠き、残高40㎝
№4 島田髷表現の女子−山倉1号墳(市原市教育委員会・文化財センター 2004:95
:95
95-6)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手を前方に突き出しているが、開き具合が狭くつくられている。左腕は欠損してい
る。
⑶ 板状粘土で髷を表現している。
─ 41 ─
⑷ 乳房表現はない。
⑸ 上衣の裾表現を施す。
⑹ 彩色はない。
⑺ 一連の首飾りをつけている。
⑻ 幅6㎜程の透孔を穿孔することで、耳を表現している。耳飾りをつけている。
⑼ なし。
⑽ 全高(復元)79.8㎝、全幅(復元)20.6㎝、奥行19.1㎝、基台部を除いた人物高51㎝、
下位凸帯以上の人物高(設置高)56.4㎝
№5 島田髷表現の女子−山倉1号墳(市原市教育委員会・文化財センター 2004:95-6)出土
⑴ 半身像である。基台部がやや細く、立ち上がりも外傾する。
⑵ 両手が前方に開き気味につくられている。
⑶ 板状粘土で髷を表現している。
⑷ 乳房の表現はない。
⑸ 上衣の裾表現を施す。
⑹ 顔面に赤彩を施す。
⑺ 一連の首飾りをつけている。
⑻ 耳飾りの表現が認められる。
⑼ なし。
⑽ 全高83.4㎝、全幅22.4㎝、奥行20.1㎝、人物部53.6㎝、設置高58.7㎝
№6 島田髷表現の女子−山倉1号墳(市原市教育委員会・文化財センター 2004:95-6)出土
⑴ 半身像である。基台部は形状・法量ともに№4に類似するが、若干大きい。
⑵ 両手は前方に突き出すかたちだが、開き具合が狭くつくられている。
⑶ 板状粘土で髷を表現している。
⑷ 乳房表現は認められない。
⑸ 上衣の裾表現を施す。
⑹ 顔面に赤彩を施す。
⑺ 一連の首飾りをつけている。
⑻ 耳飾りの表現が認められる。
⑼ なし。
⑽ 全高(復元)84㎝、全幅23.9㎝、奥行(復元)22.6㎝、基台部を除いた人物高52.9㎝、
設置高28.6㎝
─ 42 ─
№7 島田髷の女子像−大木台2号墳(千葉県文化財センター 1996:67)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両腕は左右に開いている。
⑶ 髷の結いが左右上方へ開いている。結いに板目の圧痕が残っている。
⑷ 乳房の表現はみられない。
⑸ 衣服の表現はない。
⑹ 彩色もみられない。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 耳環は粘土紐を折り曲げたままで、外面を平らに整形していない。
⑼ なし。
⑽ なし。
№8 島田髷の女子像−大木台2号墳(千葉県文化財センター 1996:67)出土
:67)出土
67)出土
)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 比較的前方へ腕を出している。
⑶ 髷の結いが№7と異なり、大きく上方で輪を描くかたちである。
⑷ 乳房の表現がない。
⑸ 衣服の表現もない。
⑹ 彩色も施されていない。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 耳環をつけている。
⑼ なし。
⑽ なし。
№9 島田髷の女子像−大木台2号墳(千葉県文化財センター 1996:67)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 比較的前方へ腕を出している。
⑶ 髷の結いが№8同様、大きく上方で輪を描いている。髷と頭部との隙間に粘土紐を付け
足して補強している。
⑷ 乳房表現は認められない。
⑸ 衣服の表現もみられない。
⑹ 彩色も施されていない。
⑺ 一連の首飾りをつけている。
⑻ 耳環をつけている。
─ 43 ─
⑼ なし。
⑽ なし。
№10 椀を捧げる女子−竜角寺101号墳(千葉県房総風土記の丘
101号墳(千葉県房総風土記の丘
号墳(千葉県房総風土記の丘 1988:64、67)出土
:64、67)出土
64、67)出土
、67)出土
67)出土
)出土
⑴ 胴下半部以下を欠失する。
⑵ 右手は腰にあてるようなかたちでつくられている。左手は湾曲させながらほぼ水平に前
に差し出して、手先には椀を手のひらに乗せるようにして捧げ持っている。
⑶ 髷の一部が欠損しているが、髷はいわゆる島田髷で板状に作り、撥を2つ合わせたよう
な形をしている。上面中央には幅約1.5㎝の粘土帯を付け、結髪の紐を表す。
⑷ 突起を貼り付けて乳房を表す。
⑸ 衣服の表現はみられない。
⑹ 額から両頬にかけては赤彩が施されている。
⑺ 首には粘土玉を貼り付けて首飾り表現する。玉の数は11個残存しているが、総数22個
と推定され、丸玉とやや縦長の玉が交互に並ぶ。
⑻ 耳は顔面のすぐ後に径2.8㎝(右)
、2.4㎝(左)の円孔を切り開け、はみ出た粘土を周
囲に押さえ付けてつくられている。両耳の下には耳環を表現した粘土の輪の剥離痕が認
められる。
⑼ 椀を持つ。
⑽ 現在高38.4㎝
№11 頭に壺を置く女子−殿部田1号墳(芝山はにわ博物館 1980:29-30)出土
⑴ 本像は腰部から下が欠損している。
⑵ 左手は壺を支えるかのように添えられ、右手は胸の辺りにつけられている。
⑶ 頭に壺を置く。
⑷ 胸には乳房の表現が認められる。
⑸ 衣服の表現はない。
⑹ 顔面には赤彩が施されている。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 不明。
⑼ 壺を持つ。
⑽ 現高55㎝
№12 巫女埴輪−久寺家古墳(東京大学文学部考古学研究室 1969:294)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両腕は欠損している。
─ 44 ─
⑶ 頭部は潰島田と思われる。
⑷ 乳房の表現が認められる。
⑸ 胴がウエストに向かって狭まるかたちで、腰に3枚の円板状の飾りがついている。
⑹ 彩色は施されていない。
⑺ 首飾りは玉を下げるようなかたちをしている。
⑻ 耳は円孔で表現されている。耳環が表現されている。
⑼ なし。
⑽ 現高70㎝
№13 巫女埴輪−朝日の岡古墳(福間・栗田・城倉 2006:182)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 手は腰にあてている。
⑶ 髷部分が欠損している。
⑷ 乳房の表現はみられない。
⑸ 衣服を右前で表現し、胸部、腰部に結びを表現している。左手の下の腰部分には、円形
の剥離痕が認められ、左手で鏡を垂下していた可能性が高いと指摘されている。
⑹ 彩色は認められない。
⑺ 首飾りは、長楕円形の粘土を横に並べて表現しているが、背面まではまわらない。
⑻ 耳の表現がみられる。
⑼ なし。
⑽ 器高87㎝
№14 壺を持つ女子−正福寺1号墳(印旛郡市文化財センター 1998:181-2、185)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両腕は前方に突き出すようなかたちでつくられている。
⑶ 島田髷の表現がみられるが、髷の後部は欠損している。髷の中央には髪を束ねる帯が表
現されている。額の中央には直径2㎝程の粘土塊があり、簪を表現している。
⑷ 乳房の表現がみられる。
⑸ 腰には前方に結び目のある帯の表現がある。首には背後に結び目のある首飾りか、ある
いは襟の表現が認められる。肩から背中にかけて襷をかけている。
⑹ 彩色は認められない。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 耳は縦長の円孔に沿って粘土を環状に貼りつけて表現されている。両耳のすぐ下には先
端部分が欠損した粘土粒が貼りつけられ、耳飾りを表現していると思われる。
─ 45 ─
⑼ 左手には壺形の容器を持つ。右手には板状の道具を持った状態が表現されている。この
道具は琴を弾く人物埴輪などが持つ撥に酷似しているとされるが、定かではない。
⑽ 器高57.6㎝、基台部高21㎝
№15 大きな髷の女子−木戸前1号墳(坂井 1965:93)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手は前方に突き出すかたちである。
⑶ 頭部には大きなバチ形の髷をのせている。
⑷ 突起によって乳房を表現している。
⑸ 腰には3枚の円板状のものをつけている。前掛け状のスカートをはく。
⑹ 彩色は認められない。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 耳の表現は認められるが、耳飾りであるかは不明である。
⑼ なし。
⑽ 高さ90㎝
№16 髷を結う女子−木戸前1号墳(坂井 1966:94)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手は左右に広げた状態である。
⑶ 頭部にはバチ形の髷をのせている。
⑷ №15と同様な乳房の表現が認められる。
⑸ 線刻された前掛け状のスカートをはく。
⑹ 彩色はみられない。
⑺ 一連の首飾りをつけている。
⑻ 耳の表現が認められるが、耳飾りなのかは不明である。
⑼ なし。
⑽ 高さ68㎝
№17 島田髷の女子−東深井12号墳(推定)
東深井12号墳(推定)
12号墳(推定)
号墳(推定)
(流山市教育委員会・流山市立博物館 2004:15)
:15)
15)
)
出土
⑴ 腰の突帯から下に広がるかたちをとる半身像である。
⑵ 両手は胸の前に出されている。
⑶ 島田髷を結う。
⑷ 乳房の表現がある。
⑸ 衣服の表現はない。
─ 46 ─
⑹ 彩色も認められない。
⑺ 一連の首飾りをつける。
⑻ 耳は円孔で表現され、耳環をつけている。
⑼ なし。
⑽ 現高61㎝
№18 巫女埴輪−経僧塚古墳(芝山はにわ博物館 1988:29)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手は下におろし、腰に手をあてる体勢である。
⑶ 大きな分銅形の髷を持つ。
⑷ 乳房の表現は認められない。
⑸ 結び目が二段の衣服を着て、スカート状のものをはいている。
⑹ 朱の彩色の残りが良い。
⑺ 二連の首飾りをつける。
⑻ 耳環をつけている。
⑼ なし。
⑽ 高さ72㎝
№19 巫女埴輪−経僧塚古墳(芝山はにわ博物館 1988:29)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手を上にあげるかたちである。
⑶ 大きな分銅形の髷を持つ。
⑷ 乳房の表現が認められる。
⑸ 結び目が二段の衣服を着用し、スカート状のものをはいている。
⑹ 彩色は認められない。
⑺ 一連で大振りの管玉を首飾りとしてつけている。
⑻ 不明。
⑼ なし。
⑽ 高さ105㎝
№20 黒衣の婦人−経僧塚古墳(芝山はにわ博物館 1988:29)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両手は前方に突き出すかたちである。
⑶ 大きな分銅形の髷を持つ。
⑷ 乳房の表現が認められる。
─ 47 ─
個体番号
形態
所作
髪型
乳房
上衣
彩色
№1
半身像
E
壺
有
無
無
首飾り 耳飾り 持ち物
一連
有
無
№2
〃
欠損
欠損
無
有(襷)
有
〃
〃
〃
№3
欠損
バチ形
有
無
無
二連
〃
〃
№4
半身像
E
分銅形
無
有
〃
一連
〃
〃
№5
〃
〃
〃
〃
〃
有
〃
〃
〃
№6
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
№7
〃
〃
バチ形
〃
無
無
〃
〃
〃
№8
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
№9
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
№10
欠損
有
〃
有
〃
〃
椀
〃
B
〃
№11
〃
壺
〃
〃
〃
〃
不明
壺
№12
半身像
欠損
バチ形
〃
〃
無
〃
有
無
№13
〃
欠損
無
有(結紐)
〃
〃
〃
〃
№14
〃
D
有
〃(襷)
〃
〃
〃
壺
〃
A
バチ形
№15
〃
〃
〃
無
〃
〃
不明
無
№16
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
C
〃
№17
〃
〃
〃
〃
〃
有
〃
№18
〃
№19
〃
D
№20
〃
№21
〃
A
C
A
分銅形
無
有(結紐)
有
二連
〃
〃
E
〃
有
〃(〃)
無
一連
不明
〃
〃
〃
〃(〃)
黒彩
二連
有
〃
D
〃
〃
〃(〃)
無
〃
不明
〃
表1 諸要素による分類
⑸ 結び目が二段の衣服を着用し、裾の広がったスカート状のものをはいている。
⑹ 全身に黒の彩色が残っている。
⑺ 二連の勾玉の首飾りをつけている。
⑻ 耳環の表現がみられる。
⑼ なし。
⑽ 高さ63.5㎝
№21 二連の首飾りの女子−姫塚古墳(芝山はにわ博物館 1988:21)出土
⑴ 半身像である。
⑵ 両腕が欠損して手の部分だけが残っており、腰に手をあてた体勢をとることがわかる。
⑶ 大きな分銅形の髷をのせている。
⑷ 乳房の表現がみられる。
⑸ 結び目が一段の衣服を着用し、スカート状のものをはいている。
⑹ 彩色は施されていない。
─ 48 ─
⑺ 二連の首飾りをつける。
⑻ 耳の表現がみられる。
⑼ なし。
⑽ 高さ89㎝
それでは、分類し、数量比較をしていきたい。まず、髪型についてであるが、21点のうち
バチ形の髷を持つものは10点(47.6%)
、分銅形の髷を持つものは7点(33.3%)
、壺をのせる
ものが2点(9.5%)
、欠損が2点(9.5%)である。
%)である。
)である。
髪型
バチ形
分銅形
壺をのせる
欠損
47.6%
33.3%
9.5%
9.5%
乳房表現
あり
なし
57.1%
42.9%
彩色
あり
なし
33.3%
66.7%
耳飾り
あり
不明
76.2%
23.8%
首飾り
一連
二連
80.9%
19.0%
衣服
あり
所作
襷をかける
結び目の表現
なし
52.4%
A:両腕を胸の前に掲げる
B:片腕を横上に掲げる
C:両腕を下にさげる
D:腰に手をあてる
E:両腕を上にあげる
19.0%
9.5%
33.3%
14.3%
14.3%
9.5%
あり
14.3%
欠損
持ち物
47.6%
壺を持つ
椀を持つ
なし
不明
76.2%
9.5%
表2 分類項目とその割合
─ 49 ─
9.5%
23.8%
9.5%
4.7%
次に、乳房の表現については、表現のあるものが12点(57.1%)
、ないものが9点(42.9%)
であり、彩色の有無については、彩色のあるものが7点うち1点は黒彩(33.3%)
、ないもの
が14点(66.7%)である。耳飾りをつけるものは16点(76.2%)
、不明なものが5点(23.8%)
で、首飾りは一連のものが17点(80.9%)
、二連のものが4点(19.0%)である。
衣服の表現については、上衣表現のあるものが10点(47.6%)
、上衣表現のないものが11点
(52.4%)である。とくに、上衣表現のあるもののうち、襷をかけるものが2点(9.5%)
、結
び目を持つものが5点(23.8%)である。所作については、A:両腕を胸の前に掲げる、B:
片腕を横上に掲げる、C:両腕を下にさげる、D:腰に手をあてる、E:両腕を上にあげる、
の5形態に分類したところ、A が4点(19.0%)
、B が2点(9.5%)
、C が7点(33.3%)
、D
が3点(14.3%)
、E が3点(14.3%)
、欠損が2点(9.5%)である。持ち物については、壺を
持つものが2点(9.5%)
、椀を持つものが1点(4.7%)
、何も持たないものが16点(76.2%)
、
不明なものが2点(9.5%)である。
これらの数値をもとに、まとめたものが表2である。以下、女子埴輪の再検討を行う。
3.女子埴輪の再検討
女子埴輪は、そのほとんどが半身像である。本論で扱う女子埴輪も例外ではなく、18点
(86%)が半身像である。男子埴輪は脚の表現のある全身像が多い。つまり、脚は男子を表す
のに必要な要素であったと考えられる。逆に、女子埴輪の場合、上半身のみで、下半身の表現
をしなくとも女子とわかるようなつくりが施されていることを意味する。しかし、半身像が女
子埴輪に限ったものではない。したがって、女子埴輪を女子と断定する要素が他の部分に表現
されていることになる。それについては上記にあげたとおりである。
髪型においては、数量的な差はそれほど重要ではない。いわゆる巫女と呼ばれる女子埴輪の
多くは、バチ形か分銅形の髷を結う埴輪であり、頭に壺をのせる女子埴輪は巫女とは呼ばれて
いない。この頭に壺をのせる女子埴輪は、髪型以上に、壺を重視された結果である。つまり、
この埴輪が表そうとするものは壺に関係するものだということが理解される。壺と密接な関係
がある職掌とは一体何だったのか。日常生活において、壺はなくてはならないものであったこ
とは確かである。そうなると、巫女といえども壺とはまったく関係がないとも言い切れない。
壺を持つ女子埴輪は巫女ではないという確証はない。そして、分銅形の髷は非常に高貴な身分
を表すと考えられているが、そうとも言えないことが指摘されている(註1)。
彩色が施された埴輪は施されていないもののちょうど半分であり、限られたものにのみ彩色
が施されたと理解できる。そのうち、黒彩のものが一点見られるが、これは非常に貴重であ
り、おそらく類例は極めて少ないであろう。赤彩の意味についてはさまざまな議論がある。赤
─ 50 ─
彩は、魔除けの意味を持つことや死者の再生を忌み嫌ったためであるとする説がある。しか
し、埴輪の場合は、当時の儀式において顔面に赤彩を施す習慣があり、それが埴輪に表された
と考えるのが妥当であろう。もっとも、その意味は、単なる化粧であったのか、それとも赤と
いう色に特別な感情を抱いていたのかは定かではない。半身像同士の個性表現であるとする見
方もある。したがって、黒彩についてもまだその解釈は及んでいない。それでも数量からみれ
ば、彩色を施すということは特別な行為であったと言える。この彩色を施す埴輪は女子に限ら
ず、男子や動物、家形などにも見られる。つまり、彩色を施すということは特別な行為であっ
たことは明らかであるが、それが施された女子埴輪を巫女と結びつけるには若干の問題が生じ
る。そこで、彩色の有無には、時期差を考慮する必要がある。6∼7世紀代に人物埴輪ととも
に古墳に並べられた動物埴輪や家形埴輪にのみ彩色が施されているのか、あるいは5世紀代の
動物埴輪や家形埴輪にも彩色が認められるのかどうかをみることで、彩色の本来の意味もみえ
てくるのではないだろうか。現段階で、彩色の施された女子埴輪を巫女と考えるのはあまりに
粗雑であり、この彩色に関する問題について、今後十分な検討を行いたい。
乳房の表現は、上衣の表現と密接な関わりを持つ。というのも、乳房が表現されている場合
で上衣の表現がみられないものが8点(38.1%)
、上衣が表現されている場合で乳房の表現が
みられないものが6点(28.6%)
、どちらの表現もみられるものが4点(19.0%)
、どちらの表
現もみられないものが3点(14.3%)であることから、乳房表現の有無と上衣表現の有無とが
合致している。東日本の女子埴輪には、乳房表現が認められ、上衣表現のないものが圧倒的に
多いとされている(註2)。本論でも、数値をみる限り、同様なことが言える。上衣について言え
ば、結び目のあるものが上衣表現の認められるもののうち5点(50.0%)である。当時の一般
的な衣服であったことが理解される。
耳飾りは女子埴輪に限らず、男子埴輪にも認められる。本論では耳飾りをつけるものが16
点(76.2%)という高い数値を得られた。つまり、女子埴輪の多くは耳飾りをつけるといって
も過言ではない。古墳時代当時、耳飾りはごく一般的な装飾品であったと考えられる。すなわ
ち、耳飾りの有無は女子の職掌を判断する手がかりとはなり得ない。
首飾りについては、数値からもみてとれるよう、一連の首飾りを身につけることはごく一般
的であったことがわかる。これは男子埴輪にも多くみられるからである。しかし、二連の首飾
りを身につける埴輪は女子、男子ともに少ない。これが意味するところは、二連の首飾りを身
につけるものが非常に限られた存在であったということである。それでも、二連の首飾りを身
につけるものが巫女とは断定できない。ここで興味深いことに、二連の首飾りをもつもの4点
のうち3点は、上衣に結び目を持っていることである。先に述べたとおり、結び目のある上衣
というのは当時の服装でごく一般的であった。すなわち、衣服表現と二連の首飾りとの解釈が
─ 51 ─
相反することになる。つまり、二連の首飾りをもつものが高貴な身分であった可能性は否定で
きないものの、それが巫女という特別な存在であった可能性は低い。
つづいて、所作についての考察となるが、先に分類した5形態を確認してみると、A:両腕
を胸の前に掲げる、B:片腕を横上に掲げる、C:両腕を下にさげる、D:腰に手をあてる、
E:両腕を上にあげる、であった。もっとも多くみられた所作は C であるが、さらに細かくみ
ると、山倉1号墳出土の3体(№4∼№6)と大木台2号墳出土の3体(№7∼№9)や木戸
前1号墳出土の1体(№16)とに分けられる。山倉1号墳の3体は両腕を腹部のあたりにさ
げるポーズであり、大木台2号墳と木戸前1号墳の計4体は両腕を左右に広げて下にさげる
ポーズである。大木台2号墳と木戸前1号墳のようなポーズは下総型埴輪によくみられるもの
である。下総型埴輪とは、手がしゃもじのようなかたちをしており、完全に形式化された埴輪
と言われる(轟 1973)
。モノは形骸化するように、埴輪も同様な流れの中で、形式化されて
いった。その最たるものが下総型埴輪である。これらの埴輪は無所作である。埴輪は7世紀代
に姿を消していくが、その頃作られた埴輪はほぼ下総型にみられるポーズとなっていく。大木
台2号墳は6世紀後葉、木戸前1号墳は7世紀頃に築造され、埴輪の無所作化が進んだ時期で
ある。すでに、この頃の埴輪には所作によって職掌を判断する術はない。
最後に、№12(久寺家古墳出土)
、№13(朝日の岡古墳出土)
、№15(木戸前1号墳出土)
について若干の考察を加え、総括としたい。この3体に共通することは腰に円板状のものをつ
けている点であるが、№12は3枚、№13は1枚、№15には3枚が認められる。この円板状の
ものは一体何であるのかという問題には、さまざまな議論がなされているが、鏡とする説が
もっとも有力視されている。鏡を持つ人物は、従来巫女と考えられてきているが、他の要素に
決定的な根拠が見出せない。たとえば、これら3体の女子埴輪はいずれも彩色を施さず、首飾
りも人物埴輪に多い一連のものとなっている。だからといって、この3体を巫女ではないと断
定することはできない。その理由の一つに髪型があげられる。№12と №15は髷がバチ形であ
る。№13は頭部を欠いてはいるが、復元される限り、分銅形である。髪型の違いは時期差と
する説に従えば、バチ形の髷を有する女子埴輪がつくられた時期には、巫女を表す手段として
彩色を用いなかったとも考えられる。結局のところ、古墳時代の巫女をどう定義づけるかに
よって、女子埴輪を細分することができる。現段階では、これら3体が巫女であるか否かとい
う問題を解く手立てはない。ひとまず、時期差による表現の違い、あるいは製作者の違いと捉
えておく。とりわけ、№15については、巫女の埴輪で鏡を持つものは、いずれも左の腰に鈴
鏡(註3)を1枚だけで、3枚も持つ例はないとの指摘もある(註4)。これは№12にも同様なこと
が言える。№13について言えば、円板状の剥離痕が認められているだけであるため、あくま
でも可能性の指摘となっている。鈴鏡は男性被葬者にも伴う遺物であるとする指摘もあり、こ
─ 52 ─
の円板状のものへの解釈が女子埴輪の巫女以外の職掌への解明につながると言える。これ以上
は、類例の女子埴輪の出土を待たなければならない。
4.おわりに
これまで、各古墳出土の女子埴輪の観察を通して、分類・比較・分析など、女子埴輪の再検
討を行ってきた。もっとも重要なことは、古墳時代の社会状況や価値観、考え方などの背景も
考慮した上で、個々の埴輪を観察し、研究しなければならないという点である。女子埴輪はす
べて巫女なのか、という問題に対して、個人的にはそうではないとの考えを示したい。明確な
見解は導き出すことはできなかったが、検討の余地があることは指摘できたと考える。また、
女子埴輪には、そのほかにどんな職掌が考えられるのか、という問いに対して答えることはで
きなかった。しかし、女子埴輪はすべて巫女であるという単一的な考え方は否定したい。少な
い資料や情報の中で言えることはこの程度でしかないが、それでも女子埴輪やそれを含む人物
埴輪の研究が、これからさらに進展することを期待してやまない。女子埴輪を研究することを
通して、古墳時代の社会全体の様子や衣食住などを垣間みることができた。さらに、研究を深
めることで、古墳時代の人々の精神世界に迫りたい。埴輪研究にはこうした大きな意義があ
り、研究の必要性を感じさせる。
本論では、千葉県内出土の女子埴輪という極めて限られた資料によって書かれたものであ
る。そのため、数量の面においても質の面においても至らない箇所が多々あると感じている。
今後、本論の不十分な点を補い、同様な分析手法を用いて、男子埴輪についても考察してみた
い。そして、人物埴輪という大きな枠組みの中で、男女の埴輪がそれぞれどのような役割を
担っているのか、あるいはそれぞれをどう位置づけるのかについての研究が今後の課題である
と考えている。
【註】
1)塚田氏の髪型の大別は、杉山晋作氏の髪形の違いを時期差と認める説に基づくものである(塚
田 2002:69、84)。
2)
「一般的な上衣と下衣を着用もしくは特別な衣服表現のないもの」は全時期を通じて認められ
るという指摘がある(塚田 2002:77)。
3)鈴鏡は女性被葬者にかぎらず、男性被葬者にも伴う遺物であることから再検討の余地が認めら
れる。
4)鏡ではなく、腰飾りと考えるのが妥当であるとされる(東京大学文学部考古学研究室 1969:
296)。
─ 53 ─
【引用・参考文献】
市原市教育委員会・財団法人市原市文化財センター 2004 『市原市山倉古墳群』
小林行雄 1990 『日本陶磁体系3 埴輪』 平凡社
近藤義郎 2001 『日本考古学研究序説』
岩波書店
財団法人印旛郡市文化財センター 1998『千葉県成田市南羽鳥遺跡群Ⅰ』
坂井利明 1966 1966 1966 「千葉県芝山町高田第一号墳発掘調査概報」『塔影』第1集:83
:83-104.
芝山はにわ博物館 1975 『下総小川台古墳群』 芝山はにわ博物館 1980 『上総殿部田古墳・宝馬古墳』
芝山はにわ博物館 1988 『芝山はにわ解説書』
千葉県文化財センター 1996 『一般国道464号県単道路改良事業埋蔵文化財調査報告書』
千葉県立房総風土記の丘 1988 『千葉県成田市所在竜角寺古墳群第101号墳発掘調査報告書』千葉県
教育委員会 塚田良道 2002 「人物埴輪の展開」『考古学研究』49⑵:67
:67-87.
東京大学文学部考古学研究室 1969 『我孫子古墳群』 我孫子町教育委員会
轟俊二郎 1973 『埴輪研究』第1冊
流山市教育委員会・流山市立博物館 2004 『下総のはにわ』
福間 元・栗田則久・城倉正祥 2006 元・栗田則久・城倉正祥 2006 元・栗田則久・城倉正祥 2006 「千葉県松尾町朝日の岡古墳出土埴輪」
『埴輪研究会誌』10:
:
171-199.
.
─ 54 ─
2006 年度の活動報告
1.物質文化研究センター講演会「考古学50年」の実施
当センター主催の講演会として、近藤義郎岡山大学名誉教授を招き、講演会「考古学50年」
講演会として、近藤義郎岡山大学名誉教授を招き、講演会「考古学50年」
として、近藤義郎岡山大学名誉教授を招き、講演会「考古学50年」
講演会「考古学50年」
「考古学50年」
を5月27日(土)に実施した。当日の参加者は40名ほどであった。
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.第3回����
鴨川塾 “先史文化を実体験−土器と製塩−”
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今年で第3回目の開催となる本講座では、新たな題材として土器製塩に取り組んだ。また、
一般参加者募集では、従来の鴨川市民だけではなく、東金市民の参加も募集したこともあり、
計40名ほどの参加者を募ることができた。5月中旬より土器製作の準備(混和材の用意、粘
40名ほどの参加者を募ることができた。5月中旬より土器製作の準備(混和材の用意、粘
土と混和材の調合)をはじめ、6月から7月にかけて本学と JOSAI 安房ラーニングセンター
にて土器成形をおこなった。土器の焼成実験と製塩実験は、昨年同様に鴨川青年の家の炊事場
を借りて実施した。製塩実験では、あらかじめ濃縮海水を用意しておき、焼成された土器を用
いて煎熬をおこなった。この煎熬工程において、土器の器壁に海水が浸透してしまうという現
象がみられた。そして多くの土器は、塩を抽出する以前に器壁や底がもろくなってしまった。
結果的として、塩を抽出することができたのはわずかであった。
3.サマースクール「Let’s 土器づくり・石器づくり」
縄文時代から古墳時代までの、それぞれの時代の技法で土器製作や黒曜石を用いた石器製作
を体験することで、技術の進歩や先史技術復元の観察・考察を経験してもらうことを目的に、
土器成形と石器製作を実施した。7月29日、30日の両日で縄文土器、弥生土器、製塩土器の
成形と黒曜石による石器製作を実施し、野外活動は鴨川塾と合同で実施した。
4.物質文化研究センター写真展
鴨川塾で実施した土器成形・焼成実験・製塩実験の実施内容をパネル展示にまとめ、15th
JIU フェスティバル(11月4日∼6日)、JOSAI 安房ラーニングセンター(1月21日∼26日)、
鴨川市庁舎(1月27日∼2月2日)において公開した。また、当写真展を開催するにあたっ
て、
「塩」にまつわる事柄を調査し、
「製塩の文化を知る」と題してパネル展示をおこなった。
5.学生指導
学生に情報機器の操作とデータ集積などを学ばせるために、当センターに寄贈された遺跡報
告書のデータを記録し、遺跡データベースの作成をおこなった。
─ 55 ─
(文責:内山達也)
編集後記
物質文化研究センターが主催する「先史文化を実体験」講座も今年で3回目を迎えた。今年
度は、土器製塩を題材に、本学学生と一般市民参加者が新たな課題に取り組んだ。参加者も
年々増えており、多くの方々が当講座を楽しみにしてくれていることに感謝したい。
(記 倉林眞砂斗)
物質文化研究センター所�
員
倉林 眞砂斗(所長)
教授 観光学部ウェルネスツーリズム学科
専門分野:東アジア考古学
担当科目:比較文明論、史跡と観光、世界の歴史と文化Ⅰなど
久保田 正道(研究員)
教授 経営情報学部総合経営学科情報マネジメントコース
専門分野:情報化社会論、経営情報論、中小企業論、産業構造論
担当科目:電子商取引論、情報産業論、メディア産業論、マーケティング情報論
Jason Anderson(研究員)
兼国際文化教育センター研究員
専門分野:TEFL、グラフィック・デザイン、美学、コンピュータ・プログラミング
担当科目:文化情報実習、Web デザイン、デジタルメディアなど
丸山 清志(研究員)
専門分野:太平洋考古学
担当科目:博物館概論、博物館実習Ⅰ、遺跡と文化遺産Ⅱなど
遺跡と文化遺産Ⅱなど
など
内山 達也(研究員)
専門分野:アイヌ文化史
─ 56 ─
発 行 日
2007年3月28日
3月28日
月28日
4号
号
�������
物質文化研究�
第4号
発 行 所
〒283-8555 千 葉 県 東 金 市 求 名 1 番 地
城西国際大学 物質文化研究センター
TEL 0475−55−8800
0475−55−8800
0475−55−8800
−55−8800
55−8800
−8800
8800
編
集
『物質文化研究』編集委員会
(倉林眞砂斗・丸山清志・内山達也)
倉林眞砂斗・丸山清志・内山達也)
)
発 行 者
水 田 宗 子
田 宗 子
田 宗 子
宗 子
宗 子
子
子
印 刷 所
株式会社 正 正 正 文 社
社
〒260-0001 千 葉 市 中 央 区 都 町1-10-6
TEL 043−233−2235
043−233−2235
043−233−2235
−233−2235
233−2235
−2235
2235
MATERIAL CULTURE STUDIES
No. 4 March 2007 CONTENTS
Article
The Temper Analysis of the Pottery from Utumea, Tutuila, American Samoan
─────
1
Kiyoshi Maruyama
Research Note
The Ainu’s Concept on the Direction ──────────────────── 12
Tatsuya Uchiyama
Teraccota Female Fugurines of the Kohun Period Discovered from the
Chiba Prefecture, Japan ─────────────────────────────────── 38
Yuri Fuse
Miscellanea ───────────────────────────────────────── 56
Center for Material Culture Studies
Josai International University
Fly UP