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文明化された共和国

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文明化された共和国
説
論
﹁共和主義﹂
オシアナ物語とヴェネツィア神話をめぐって
文明化された共和国
はじめに
第一章 ﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂
第一節 ルネサンス期人文主義における二つの型
第二節 初期近代ブリテンにおける﹁文明の作法﹂と
第二章 ハリントンと﹁文明の作法﹂
第一節 ﹁宮廷人﹂としてのハリントン
第二節 ハリントンの﹁共和主義﹂P
姻
第三章 文明化された共和国−﹁オシアナ﹂物語−
第一節 ﹁オシアナ﹂・儀礼・制度
43
鋭
第二節 ﹁オシアナ﹂と宮廷社会
除
田
第四章 偽装された君主国ーハウエルとヴェネツィアー
説
論
第三節
第二節
第一節
﹁ドルイナ﹂とヴェネツィア
ハウエルと大陸旅行
﹁ヴェネツィア﹂神話
おわりに
はじめに
かつて林達夫は、﹁精神史一一つの方法序説1﹂︵一㊤$︶のなかで、ルネサンス期の新プラトン主義を﹁清濁あわせ呑
む巨大な合流地点に出来た大沼か湖水﹂に喩えた。彼によれば、それは、近代ヨーロッパの精神史が流れ出る﹁大水源
ユ 地﹂であった。
これと同様に、とくに政治思想史の分野においては、その巨大な﹁源流﹂の一つとして、いわゆる﹁共和主義﹂を挙
げることに大方の異存はないであろう。二〇世紀最後の四半世紀における初期近代に関する西洋政治思想史研究は、と
くにJ・G・A・ポーコックの﹃マキャベリアン・モーメント﹄︵一ゆ胡︶の出版以降、この共和主義の研究を大きな軸と
して展開してきたと言っても過言ではない。たとえば、近年M・ファン・ヘルデレンとクエンティン・スキナーが編集
ヨ した論文集﹃共和主義ーヨーロッパの共有遺産1﹄︵卜。OON︶全二巻は、共和主義研究そのものが学問的な﹁共有遺産﹂
に な っ たことを示している。
しかしながら、このような共和主義研究が一つのサイクルを迎え、幾つかの重要な問題を呈し始めていることもまた
疑いようがない。その一つは、分析概念としての﹁共和主義﹂の曖昧さと、それを一因とする研究の拡散である。たと
蜘
姻
翫
︵除
梯
休
えば、その政体論の位置付け︵共和政、反君主政、君主のいる共和政、混合政体など︶をはじめ、規範や言語︵徳、自
由、市民、公共精神、法の支配、活動的生活など︶、歴史的モデル︵ギリシャ、共和政ローマ、フィレンツェ、ヴェネ
ツィアなど︶について考えを巡らしただけでも、どの要素に力点を置くかで﹁共和主義﹂のイメージは様変わりする。
ハンス・バロンの﹁政治的人文主義﹂から、﹁古典的共和主義者﹂︵フィンク︶、﹁コモンウェルスマン﹂︵ロビンス︶、
﹁マキャベリアン・モーメント﹂、そして、近年になってスキナーが提唱した﹁新ローマ理論﹂に至る﹁名付け﹂の変遷
は、﹁共和主義﹂がいかに解釈者の関心によって変幻自在な概念であったかを如実に示していよう。
むろん、主題や解釈の多様性は、﹁共和主義﹂そのものに内包される思想的な豊かさの裏返しでもあろう。しかし、
﹁共和主義﹂の多義性は、同時にまた、分析概念としての精度の低下と議論の混乱を不可避的に招くであろう。さらに
言えば、このことは、共和主義研究が七〇年代以降のスキナーやポーコックらによる方法論の革新を経てもなお、現代
の解釈者による期待や思い込みを過去の思想家に投影する、いわゆる神話化の危険を免れていないことを意味するので
はないか。林達夫は上記の発言に続けて次のように言う。﹁だからネオ・プラトン主義のレッテルを、当時の指導的知
ハ 識人に貼りつけることほどやさしいことはなく、またそれほどむつかしいこともない﹂。﹁共和主義﹂もまた、その現代
的・理論的な意義、あるいは歴史的な資産価値が期待を持って語られれば語られるほど、同様の問題を強く孕むことに
なろう。
︵12︶
咽 本稿の目的は、﹁文明の作法﹂〇三洋︽という観点から、初期近代ブリテンにおける﹁共和主義﹂のりヴィジョンを
劒
44
陰
鋭
斯試み、その思想的な意義を歴史的な観点から問い直すことにある。とはいえ、本稿は、以上のような﹁共和主義﹂の定
U
文
縦
隠 義や再構成を改めて試みるものではない。また、これまでの共和主義研究が、とりわけ﹁徳﹂≦ほ二Φの言説の発掘に
馴 よって、ルネサンス期のイタリアから建国期のアメリカに至る初期近代思想史の風景を一変させたことの意義を否定す
説
論
︵陪
翫
謝
るものではない。しかしながら、﹁徳﹂ではなく、〇三洋くやbo毎ΦづΦωω、B工臨9ωといった﹁作法﹂を意味する語彙
媚
お 群の思想史的な重要性を強調する本稿では、第一に、共和主義の歴史的展開を示した﹁徳から作法へ﹂というポーコッ
ぬ クのテーゼが見直されることになろう。以下でも示すように、﹁作法﹂は、一八世紀における商業社会化の進展に伴い、
め 古典的・軍事的な﹁徳﹂が﹁再定義﹂される過程で登場したのではなく、少なくともルネサンス期から常に﹁共和主
め レ 義﹂とは緊張関係にあったのではないか。言い換えれば、﹁作法﹂は単なる歴史的な﹁代替理念﹂ではなく、むしろ、
﹁共和主義﹂の言説に内在する問題性を明らかにするような積極的な契機を孕んでいたのではないだろうか。
本稿ではまた、第二に、これらの作業を通じて、共和主義研究がもたらした二つ目の問題、すなわち、﹁共和主義﹂
に研究者の関心が集中するなかで逆に見逃されてきた主題が数多くあるのではないか、という問題が改めて強調される。
これらの主題のうち、とくに初期近代のブリテンに関しては、たとえば﹁王権﹂や﹁統治﹂の問題、あるいは﹁王党主
あ 義﹂など、君主政国家の政治運営と密接に関わる政治思想の系譜が挙げられよう。そして、前述の﹁作法﹂もまた、君
主政国家の﹁宮廷﹂において培われ、ヨーロッパの﹁文明化﹂を促進した実践知であった。別稿でも明らかにしたよう
ッ時代の政治エリート︵ジェントルマン︶は﹁作法書﹂の受容や﹁大陸旅行﹂の経験を通じて、ヨーロッパ宮廷社
翰W
会の﹁文明の作法﹂を修得し、外交使節や下院議員、あるいは国王の枢密顧問官として相応しい振舞いを身に付けるこ
と を 強 く期待されていたのである 。
以上を一例として、このような﹁君主主義﹂Boコ霞。匡ωヨとも称される一群の政治思想は、たとえばケニスバーガー
によれば、初期近代ヨーロッパにおいて﹁特別に強固な根を張っていた﹂とされる。それゆえ、﹁これらすべての伝統
は一致して、共和主義の理論を、奇妙で、理屈だけの、不人気な思惑とした﹂のである。ところが、以上のような﹁君
主主義﹂の政治思想は、共和主義研究の視点からはおのずと、﹁絶対主義﹂や﹁腐敗・堕落﹂に至るものとして否定的
に捉えられるか、あるいは単に見落とされがちであった。また、近年ではむしろ一歩進んで、君主政国家の統治システ
枷
休
ムを前提とした政治思想までも﹁偽装された共和国﹂の観点から理解されるようになった。たとえばルネサンス期に関
するコリンソンやペルトネンらの研究が示すように、君主の顧問官であったトマス・スミスやフランシス・ベイコンの
れ 政治思想でさえも﹁共和主義﹂の文脈に位置付けられるようになったのである。
しかしながら、すでに指摘したように、とくに内乱期以降の議論の展開を前提としながら﹁共和主義﹂の概念をそれ
以前の時代へと拡張するこれらの解釈は、いわばネガとポジを逆にするものであり、記時錯誤の危険が大きい作業であ
ると言わなければならないだろう。﹁歴史という天使﹂は後ろ向きであるという。だとすれば、ブリテン政治思想史の
の 理解にあたっては、議論の﹁革新性﹂や﹁独創性﹂だけでなく、君主政における伝統の持続性︵あるいは盲目さ︶、も
しくは文化資本の蓄積や制度的な枠組みの継承といった側面にも同等に配慮すべきではないか。事実、初期近代におけ
るブリテンの政治は空位期を例外として、立憲制や混合政体という重要なオプションがあったにせよ、依然として君主
政国家の枠組みのもとで運営され続けた。逆に言えば、同時代のヨーロッパにおいては﹁君主政こそが一般的﹂であっ
お だからこそ、﹁共和主義が論争的な性格を持って提起された﹂のである。このように考えると、とくに統治の必要とい
う観点から、ブリテン君主政の強固な伝統のもとで﹁共和主義﹂が包摂された可能性︵偽装された君主国︶や、あるい
は逆に、共和政がデ・ファクトに成立した空位期においても、安定的な統治を可能にするために﹁文明の作法﹂が再利
用された可能性︵文明化された共和国︶も十分に考えられるのではないか。
咽 以上のような問題設定を前提としながら、本稿では、君主政国家ブリテンにおける﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂と
斯 を対比させる作業を通じて、両者の思想史的な意義を明らかにする。第一章では、マキァヴェッリやカスティリオーネ
縦
文
隠 に加え、シドニーやモールズワース、ヒュームの議論を取り上げ、﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂との相違を明らかに
あ 明 するとともに、両者が歴史的な緊張を孕んでいたことを指摘する。また、以上の議論を踏まえながら、第二章以下では
餅
瓦
除
釧
44
説
論
一七世紀の共和政/空位期に焦点をあてる。この時期には、両者の緊張が高まるだけでなく、﹁文明の作法﹂の喪失が
門
︵陰
翫
現実化した。ここではとくに、ジェイムズ・ハリントン︵H①HH−謡︶と彼の同時代人であるジェイムズ・ハウエル︵崔㊤野 門
山①①①︶という二人の人物を取り上げる。言うまでもなく、ハリントンはこれまで、とくに﹃オシアナ共和国﹄︵一〇α①︶
を通じて、ブリテンにおける﹁共和主義﹂の思想的な源流として高く評価されてきた。これとは対照的に、王政復古後
にチャールズニ世の修史官となったハウエルは王党派に常に近く、むしろ典型的なオポチュニストとしての側面がもっ
ぱら強調されてきた。共和主義研究においては、わずかに彼の﹃ヴェネッィア論﹄︵H①竃︶が、共和政のモデルを提供
した﹁ヴェネツィア神話﹂の受容の先例として評価されるのみである。
しかしながら、本稿ではこの両者の政治思想を﹁共和主義﹂の文脈に限定することなく、むしろ逆に、ヨーロッパ君
主政の宮廷社会で育まれた﹁文明の作法﹂の伝統に即して理解することを試みる。この作業においてはまず、ハリント
ンの政治思想が歴史的な連続性の観点からも理解できることが主張される。すなわち、ハウエルはもとより、ハリント
ンもまた、チャールズ一世期の宮廷文化を継承した人物として解釈できることが強調される。さらに、ハリントンの
﹃オシアナ共和国﹄とハウエルの﹃ヴェネッィア論﹄を併せて分析することで、共和政のモデルーーヴェネッィアという
﹁神話﹂の出自が再検討される。以上の作業を通じて、これらの二つの作品が、秩序の回復という統治の観点から﹁文
明の作法﹂を共和国で再利用することを試みたテクストとしても読めることが明らかにされよう。
第一章 ﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂
第一節 ルネサンス期人文主義における二つの型
さて、初期近代ブリテンにおける﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂の問題は、その淵源をルネサンス期イタリアにおけ
る二つの人文主義の系譜にまで遡ることができる。すなわち、第一に、共和政時代のフィレンツェを中心とする、いわ
め ゆる﹁政治的人文主義﹂の議論である。第二に、ウルビーノなどの宮廷社会における﹁君主の鑑﹂論や﹁作法書﹂の伝
統、あるいは、とくにメディチ支配下のフィレンツェで育まれた新プラトン主義的な議論の系譜である︵一六世紀後半
以降の北方ヨーロッパを対象に加えれば、新ストア主義やタキトゥス主義の議論もこれに含まれるであろう︶。前者は
言うまでもなくマキァヴェッリの﹃リウィウス論﹄に、後者はカスティリオーネの﹃宮廷人﹄に代表される。もっとも、
両者は必ずしも二項対立的ではなく、何よりも古典古代の教養を基礎とする点で、ともに優れて人文主義的である。た
とえば、﹃君主論﹄を含むマキァヴェッリの言説を追っただけでも、共和政と君主政をめぐる議論が必ずしも二者択一
的ではなかったことは明らかであろ う 。
とはいえ、﹁市民﹂による君主国や﹁自由﹂な都市共和国を強く志向するマキァヴェッリと、宮廷社会の﹁文明の作
梯
休 法﹂を身に付けた﹁完全な宮廷人﹂を描くカスティリオーネとの位相の違いもまた見逃すことができない。このカス
のこなし、態度、要するにすべての行動に気品をもってのぞむべき﹂である。このような﹁気品﹂を生み出すものとし
咽 ティリオーネは﹃宮廷人﹄のなかで、ヨーロッパ標準の文明の作法を提示する。彼によれぽ、﹁宮廷人はその動作、身
斯 縦
腱 て、彼が何よりも重視するのは、立居振舞いの﹁さりげなさ﹂ω肩ΦNN異学轟である。それは﹁技巧が表にあらわれない
闘 ようにして、なんの苦もなく、あたかも考えもせず言動がなされたように見せる﹂、﹁技とは見えぬ真の技﹂であった。
文
餅
謝
陰
淑
44
語 宮廷社会ではまた、他者の存在に常に配慮し、流動的な情況を見極め、それに対して機敏に適応することが求められる。
すなわち、﹁何を行ない、何を言うか、どこでそれをするか、だれの前でするか、いっするか﹂を考慮することの必要
論
である。したがって、カスティリオーネが﹁完全な宮廷人﹂に求めた技術の一つは﹁相手に即した上品な話しぶり﹂で
あった。それは﹁聴く者の心を優しく和らげ、面白い機知や冗談で愉快な気分にして上品に笑いを誘い、けっして人の
機嫌を損ねたり退屈させたりすることなく、常に楽しい雰囲気を作りだす能力﹂を備えることを意味したのである。
この﹃宮廷人﹄をはじめとして、作法書の世界では、ヨーロッパの宮廷社会という文明の秩序を前提に、作法の共有
と行動の定型化によって、その複雑なシステムやネットワークを安定的に維持運営していくことが重視される。これに
対して、共和政を理想とする議論には一般に、このような﹁文明の作法﹂の必要性に対する認識は乏しいと考えられる。
たとえば、宮廷作法でもっとも重要視されるのは上下の人間関係、とりわけ君主に対する振舞いであり、その要諦の一
つには﹁自分の仕える君主の性格をよくわきまえてそれに合わせた選択をする﹂ことが含まれる。仮に共和政の原則の
一つが自由な市民の平等にあるとすれば、このような君主を頂点とする階層秩序を前提とする議論とは本質的に相容れ
ないことは明らかである。むろん、周知のように、マキァヴェッリの議論のなかでも政治における演技の重要性は説か
れている。しかしながら、ともに人文主義的な教養に立脚しながらも、フィレンツェ共和国が直面した﹁運命﹂を克服
するための﹁徳﹂︵﹁力量﹂︶を訴えるマキァヴェッリと、ヨーロッパ宮廷社会における所与の政治秩序や人間関係の網
の目を保全する﹁真の技﹂や﹁作法﹂を強調するカスティリオーネではやはり、その議論のベクトルは異なる方向を指
しているといえよう。
輔
鋭
圃
︵除
第二節 初期近代ブリテンにおける﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂
このような、カスティリオーネとマキァヴェッリに象徴される﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂との緊張関係は、初期
近代の君主政国家ブリテンにおいても再生産されたと考えられる。以下では、このことをシドニーとモールズワースと
いう同時代の﹁共和主義﹂を代表する︵とされる︶二人の人物の思想と行動、そして﹁文明の作法﹂に関するヒューム
の考察を例にして明らかにしていき た い 。
アルジャーノン・シドニー︵H爵甲。。ω︶は、ハリントンとともに一七世紀イングランドを代表する共和主義者として
高く評価されてきたが、﹁自由﹂や﹁徳﹂を称賛する彼の議論の矛先は、言うまでもなく当時の﹁腐敗﹂した宮廷社会
に向けられていた。たとえぼ、彼は王政復古後の一六六四年から翌年にかけて、亡命先のオランダで﹃宮廷の格率﹄を
執筆する。彼は対話形式を採用したこの草稿のなかで、コモンウェルスマン︵国巷。田言ω︶と宮廷人︵勺匡一巴Φ号①ω︶を
登場させる。ここで、同時代の外交官ウィリアム・テンプルを擬したとも言われる宮廷人は、﹁宮廷を支配する規則に
お 自分自身をほとんど順応させてきた﹂人物として紹介される。しかしながら、この宮廷人の実態は、カスティリオーネ
が理想化した﹁完全な宮廷人﹂とはまったく異なっていた。すなわち、シドニーが描く宮廷人は、﹁党派や陰謀に加担
あ させられ、政敵に対して罠を仕掛け、我々に張られた罠を取り除くことに従事させられ﹂、さらには﹁競争者を出し抜
梯
休 き、我々に都合の良い有力者を持ち上げ、巨大な浪費を埋め合わせる金銭を調達し、手に入れたものを楽しく消費する
咽 方法を編み出す手段を探し出すこと﹂に日々忙殺される存在であったのである。
斯
シドニーは、エリザベス期の詩人サー・フィリップを大伯父に持つ家系の出身であり、実際に議会軍の側で戦い、国
縦
文
隠 務会議の一員として共和政府に参加するなど、﹁共和主義者としての経験﹂お窟び一一。磐Φ×娼①ユ魯8を豊富に有していた。
明 したがって、彼は王政復古後の﹁絶対主義﹂化にも強く批判的であり、﹃宮廷の格率﹄のなかでも、以上のような﹁腐
翫
㈲
推
四
44
説
前
敗﹂した宮廷人の原理を次々と批判の錦上に載せる。彼によれば、これらの格率は﹁すべての統治形態のなかで君主政
がこのうえなく優れている﹂、あるいは﹁君主はあらゆる事柄において絶対的であるべきである﹂などの主張を基本と
していた。彼はまた、共和政末期の一六五九年に使節団の一員としてスウェーデンとデンマークの宮廷に派遣されたが、
あ その際、コペンハーゲン大学の来客名簿に﹁この手は暴君の敵なり。自由のもとでの静かな平和を望む﹂と書き残して
いる。当時の外交関係や宮廷社会に緊張を与えたこの挿話は、彼に代表される﹁武装﹂した共和主義者のメンタリ
あ テ ィ ー を 端的に象徴していよう。
このシドニーと同様にデンマークに派遣され、﹁完全な宮廷人﹂とは対照的な行動様式を示した人物がロバート・
の警句を引用しながら﹁あらゆるものが国王に呑みこまれている﹂デンマークの惨状を強く批判した。のちに改革派
モールズワース︵H①㎝①−H刈N切︶であった。彼は一六九三年に出版された﹃デンマーク事情﹄のなかで、上記のシドニー
が サークルの中心人物となった彼は、この﹃デンマーク事情﹄や暴君放伐を主張するオトマンの﹃フランコ・ガリア﹄の
翻訳を通じて、以降の﹁共和主義﹂の展開に大きな影響を与えた。たとえば、イングランドの国命においては﹁合法的
な権力を除き、抵抗され得ない権力はない﹂というモールズワースの主張は、一八世紀後半においてもなお﹁真の
お ウイッグの原理﹂と見なされたのである。また、シドニーとの類似でさらに注目すべきは、このモールズワースが、コ
み ペンハーゲンの宮廷で現地の作法や儀礼を繰り返し無視したことであろう。同時代人の証言によれば、モールズワース
は﹁国王の御猟場で禁じられている狩猟をしたり、王家の馬車にのみ許される道路を通行するなど、不遜極まりなく、
デンマーク流の礼節を踏みにじった﹂。さらに、このようにして他国の宮廷に﹁深刻な危害﹂を加えた彼は九二年、﹁突
ゆ 如として、退去に必要な通常の儀礼的な手続きをせずにデンマークを去った﹂︵Oミb≧即Hω⋮㎝①。。︶のである。
もちろん、以上のようなシドニーやモールズワースによる宮廷批判やヨーロッパ文明社会の秩序に反する行為のみを
もって、﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂との緊張関係を一般化することはできない。しかしながら、両者が容易に相容
螂
翫
圃
︵陰
れないことを、経験的な事実だけでなく、理論的な考察を踏まえて指摘したのが、次に紹介するデイヴィッド・ヒュー
ム︵嵩HH喝①︶であった。
む このヒュームが﹁学問﹂の世界から﹁交際﹂の世界に派遣された﹁大使﹂を演じただけでなく、シドニーやモールズ
れ ワースとは対照的に、作法や礼儀の重要性を強く認識していたことは蕪稿でも指摘した。彼によれば、﹁われわれは一
般に高慢で利己的であり、他者よりも自分を優先させる傾向にある﹂。これに対して、人間の本性を抑制し、社会を成
立させ、他者との交際と共存を可能にさせるために考案されたのが﹁文明の作法﹂o一く臼受であった。すなわち、﹁相
互の敬意や作法﹂は、﹁われわれの好みを斥けて仲間の気持ちを優先させ、人間の精神に自然に備わる不遜や傲慢を抑
制して覆い隠す﹂。それはまた、﹁偏見を反対側に放り投げ、あらゆる行為において、自然に抱きがちな感情とは異なっ
た外観を保つことを教えてきた﹂。したがって、﹁洗練された人間は彼の仲間に対して敬意をもって接し、あらゆる社会
お 的な交わりにおいて彼らを優先させることを学んでいる﹂のである。
ヒュームはまた、このような作法の共有と浸透が、文明社会の発展と不可分であることを指摘する。ところが、ここ
で注目すべきは、彼が共和政と君主政における作法の洗練について、両者の社会構造に起因する重要な相違を見出した
ことであろう。すなわち、彼によれば、共和政では﹁作法の洗練はほとんど行なわれない傾向にある﹂。なぜなら、共
和政では﹁権力が民衆から高位の者へと上昇する﹂ため、﹁全体が一つのレベルへと平準化され﹂、﹁すべての構成員が
柚
休 かなりの程度まで他者に対して独立する﹂からである。これに対して、﹁文明化された﹂君主政では、﹁君主から小作人
咽 へと至る長い依存の連鎖﹂があるため、﹁上位の者の機嫌を取ろうとする傾向が各人に生じ、身分と教養がある人々の
斯
意向に最も透った模範に合わせて自分を成型する﹂。したがって、﹁生活様式における上品さOO一詳ΦpΦωω98鋤冒①おは三
三
44
三
三
縦 ゆ 文
隠 君主国や宮廷においてもっとも自然に生じてくる﹂というのが彼の導き出した結論であったのである。
明
説
論
第二章ハリントンと﹁文明の作法﹂
第一節 ﹁宮廷人﹂としてのハリントン
以上のように、ヒュームは共和政と作法の問題について、権力関係の構造や平等化と独立化の進行を根拠として、共
和政では作法の洗練が見られないことを明らかにした。彼によれば、実際に﹁ヨーロッパの共和国は現在のところ、上
品さに欠けることで知られている﹂。したがって、﹁オランダで洗練されたスイスの行儀作法﹂は、まさに﹁粗野である
こ と ﹂ と 同義であったのである。
あ さて、このようなヒュームの観察を敷坐すれば、﹁共和主義﹂の議論は一般に、﹁独立﹂や﹁平等﹂、あるいは古典
的・軍事的な﹁徳﹂の価値を強調する反面、君主政国家の宮廷や階層社会と不可分な﹁文明の作法﹂とは緊張関係に
あった、という仮説が成り立つであろう。ところが、シドニーやモールズワースとは異なり、他ならぬ﹁共和主義﹂の
源流とされるハリントンは、実は、このような図式に当てはまらない。以下でも示すように、彼の場合はむしろ、秩序
の維持を志向する﹁文明の作法﹂を身に付けた﹁完全な宮廷人﹂であったように思われる。本章では以下、このような
ハリントンの︿異質性﹀を一つの手がかりとして、彼の政治思想が、のちの時代のヒュームにも繋がるような、宮廷社
が 会で培われた﹁文明の作法﹂の系譜においても解釈可能であることを明らかにしてみたい。
﹁文明の作法﹂とハリントンとの関係はまず、彼の貴族的な出自や大陸旅行の経験に由来する、宮廷社会との重層的
ぜ
な結びつきによって明らかとなろう 。
ハリントン家はノルマン征服以前から続く由緒ある貴族の家系であった。とりわけ、ジェイムズが属するラトランド
面
鋭
謝
︵陰
州の分家は、一六世紀以降、地方の名望家としてのみならず、当時の宮廷社会と密接な関係を有するようになった。た
とえば、曽祖父ジェイムズと大伯父である初代男爵ジョンは代々ラトランド州選出の議員となり、のちに州知事を務め
た。とくに初代男爵ジョンはステユワート王家との関係を強め、のちにボヘミア王妃となるジェイムズ一世の娘エリザ
ベスの養育係になった。また、息子の第二代男爵ジョンは皇太子ヘンリの近侍として、また娘のルーシー︵ベッド
フォード伯爵夫人︶も王妃アンの侍従として仕えた。他方で、別の分家であるケルストンのハリントン家はテユーダー
王家との関係が深く、とくに第二代ジョンは、名付け親にもなったエリザベス一世の寵愛を受け、他方でアリオストの
お ﹃狂えるオルランド﹄の翻訳を手がけるなど、人文主義的な教養のある宮廷人であった。
もちろん、このような家系と王室との歴史的な関係が直ちにハリントンの政治思想を規定する訳ではない。しかしな
がら、のちにチャールズ一世が処刑されるまでのハリントンの経歴を見れば、ステユワート王家はもとより、﹁文明化
の過程﹂にある当時のヨーロッパ宮廷社会と密接な関係を有していたことは明白である。すでに示唆したように、この
時期の彼はむしろ、同時代の典型的な宮廷人ではなかったか。
ハリントンは一六二九年にオックスフォード大学に入学した後、三一年の小耳に六年間におよぶ大陸旅行へと出発す
る。彼はこの政治エリート教育の行程において、オランダのハーグ滞在中に三つのヨーロッパ宮廷に出入りすることと
なる。すなわち、ボヘミアの亡命宮廷、オラニエ公の宮廷、デンマークの宮廷である。彼はとくに、大伯父の初代男爵
枷
休 ジョンが王妃エリザベスの養育係であった関係もあり、オランダに亡命していたボヘミア国王の宮廷で歓待された。両
咽者の信頼関係は、ハリントンが大陸旅行から帰国した際に、イングランドにおけるボヘミア王室関係の事務処理を任さ
斯 れたことからも窺い知れるであろう。ハリントンはさらに、ボヘミア国王がデンマークを訪問した際にも随行している
縦
文
隠 が、当時のデンマーク国王クリスティアン四世もまた、ハリントン家の一族︵ケルストン分家の第二代ジョンおよび第
剛 二代男爵ジョンの娘ルーシー︶と交際があった。それゆえ、このデンマーク宮廷におけるハリントンの振舞いは、のち
鋤
翫
除
45
H
説 のシドニーやモールズワースの行動とは、おそらく、まったく異なっていたのではないか。
論 以上のような大陸旅行の過程で、ハリントンがヨーロッパ標準の﹁文明の作法﹂を身に付け、カスティリオーネが描
いたような﹁完全な宮廷人﹂を演じていたことは、次のようなトーランドの記述にも端的に示されていよう。ここでの
舞台はボヘミア王妃の宮廷である。
この優れた王妃は特別な好意と礼儀〇三年くで彼を遇したが、それは、彼の伯父ハリントン卿がかつて彼女の教
育係であったためでもあるが、何よりも彼自身が優れていたからである。⋮同じように若い王女たちも、彼の会話
み 08<2鈴口。コは何時も非常に楽しく、また、教養があり上品でもあったので、彼との交際を楽しんだ。
ハリントンはまた、﹁宮廷人﹂としての優れた資質のゆえに、帰国後も宮廷社会と深く関わり、イングランドの﹁統
治の秘密﹂と﹁王の二つの身体﹂と日常的に接触することになる。すなわち、内乱期に至っても続いたチャールズ一世
との親交である。トーランドによれぽ、ハリントンは第一次主教戦争が勃発した三九年、チャールズの臨時の国王私室
となりスコットランドへの遠征に随行する。さらには、四六年にチャールズが捕らえられた後に国王寝室付侍従となり、
お 議会によって解任されるまでの二年弱、直後に処刑される国王の側に仕えたのである。同時代人のオーブリーは﹃名士
小伝﹄のなかに、ハリントンとチャールズの親密な交際関係と、その後に両者を襲った悲劇について以下のように記し
ている。
一六四七年に︵四六年中ないとすれば︶、彼は議会の命令により、囚われてホウムビーにおられた国王陛下の侍従
の一人に任ぜられた。国王は彼の同席を大いに好まれたが、但しその共和制の論を耳にするのは辛抱されなかった。
娚
鋤
31
︵存
一方ハリントン氏のほうも、心から陛下に敬愛の情を抱いた。ハリントン氏と国王とはしばしば統治ひqo<Φ巨BΦ耳に
ついて論争した。彼は王が斬首された時、処刑台の上にいた。そして私は何度かお目にかかった時、彼がチャールズ
ヘド・
一世王のことを、あらん限りの熱意と愛情を埋めて語るのを、しばしば耳にした。また、王の死はまことに痛わしく、
お そのために自分自身も病気になってしまった、あれほど心にこたえたことはない、とも語ってくれた。
第二節 ハリントンの﹁共和主義﹂
以上のように、ノルマン征服以来の貴族の出身であるハリントンは、﹁文明の作法﹂に優れ、﹁完成されたジェントル
マン﹂としてヨーロッパ宮廷社会の人的ネットワークのなかに深く編み込まれていた。のみならず彼は国王チャールズ
を敬愛し、その側に仕えつつも、﹁王の身体﹂が実際に切り裂かれ、君主政国家の伝統と秩序が崩壊する歴史的な場面
に遭遇した。もっとも、以上のオーブリーの記述に関して言えば、史料的な裏付けが充分でなく、とくにハリントンが
チャールズに共和政の議論を持ちかけたかどうか、また、実際に処刑台に居合わせたかどうかについては疑問が提出さ
れている。しかし、内乱の渦中にもかかわらず両者が深い信頼で結ばれ、またそれだけに、﹁王殺し﹂の現実がハリン
トンに深刻な心理的外傷を与えたことは間違いない。実際、彼がその後、五六年に﹃オシアナ共和国﹄を出版するまで
枷
休 の七年間について史料はほとんど沈黙している。そして、これらのことは他方で、彼が共和主義者であることを与件と
咽 する多くの解釈に少なからぬ混乱を招くこととなった。たとえばトーランドによれば、﹁共和主義の原理に立っている
斯 人間を信頼した国王をほめるべきか、それとも、国王に仕えながらも自分の原理を固持し続けたハリントンをほめるべ
縦 め 文
隠 きか、私には良く判らない﹂のであ る 。
ハれ 明 しかしながら、本稿の目的は、両者の﹁この上なく悲哀かつ奇妙な友情﹂を不可解な逸話として語ることにはない。
31
6D
陰
山
45
二
半
共和政と作法の関係から言えば、ブリテン史上唯一の共和政の設立に至ったこの内乱期はまさに、相互依存の結び目が
断ち切られ、﹁文明の作法﹂が二重に失われた時代でもあった。すなわち、﹁暴力﹂によって伝統的な階層社会の秩序が
崩されただけでなく、個々の人間が﹁武装﹂して﹁独立﹂し、相互に﹁平等﹂になることによって逆に、戦争状態と無
秩序が再生産されたのである。こうしたなか、たとえばミルトンは﹃為政者在位論﹄のなかでチャールズの処刑を正当
化し、次のように宣言するに至った。﹁人民は最善と考える場合はいつでも、生得の自由人が有する自らの判断によっ
て、王を選ぶことも拒否することもできるし、任につかせるも、またたとえ暴君でなくても王廃位を行うこともすべて
できるのである﹂。
お ところが、ハリントンは、ミルトンやシドニー、モールズワースとは異なり、このような抵抗権論や暴君放伐論を主
張することはなかった。ハリントンはむしろ逆に、チャールズに仕えている問、﹁すべての党派に満足がいくように事
態を調停する﹂ことを試み、﹁和平のための努力﹂を続けていた。もう一人の侍従ハーバートの﹃回想録﹄によれば、
チャールズもまた、ハリントンを﹁とくに優れた資質を備えたジェントルマンとして高く評価し、信頼を置いていた﹂。
それゆえに、ハリントンは一六四七年の一二月、議会軍の将校たちを前にチャールズを擁護し、ニューポート条約交渉
において譲歩の姿勢を見せた﹁国王の知恵﹂を﹁強く称賛した﹂のである。しかしながら、ハーバートは一連の事態の
進行から、﹁真理を話すことは、いつでも時宜に適い、安全である訳ではまったくない﹂との教訓を引き出すことにな
る。すなわち、﹁嫉妬に満ちた﹂将校たちは、﹁彼の言葉を最悪の意味に曲解する傾向にあった﹂のであり、ハリントン
の弁明を﹁遮って﹂、﹁これ以上国王に仕えることを認めない﹂旨を﹁簡単な言葉﹂で伝え、彼を解任したのである。こ
れを聞いたチャールズは、ハリントンが﹁このような時勢に、嫉妬に満ち、陛下にほんの僅かな恩義も感じない者たち
の中にいて、いつも以上に用心深くなかったこと﹂を非難したと言われている。
このように、ハリントンは﹁文明の作法﹂が失われ、﹁嫉妬に満ちた﹂、アナーキーと混乱の時代に直面した。だとす
姐
翫
㎝
︵陰
れば、君主政国家の宮廷作法に通暁した彼が数年の沈黙の後に﹁オシアナ﹂という理想共和国を描いた背景には、たん
に﹁共和主義﹂の﹁再浮上﹂とするだけでは理解しきれない思想史的なドラマが隠されていたのではないか。むろん、
ゆ 本稿は彼の政治思想を﹁共和主義﹂の一例として解釈する作業自体に異論を唱えるものではなく、また、その包括的な
再解釈を試みるものでもない。以下でも議論するように、本稿の力点はむしろ、﹃オシアナ共和国﹄を、君主政の喪失
という不可避の現実を受け入れながら、秩序と作法の回復を目指し、共和国の文明化という困難な課題に取り組んだ
﹁ 宮 廷 人 ﹂の作品として読み直すこ と に あ る 。
このような本稿の視点と関連して、近年の研究において注目すべき第一の点は、ポーコックのように、ハリントンを
﹁共和主義﹂の典型と見なす従来の通説に対して、その﹁異質性﹂を指摘する議論が繰り返し提出されていることであ
お る。たとえば、ジョナサン・スコットによる一連の論稿によれば、ハリントンは﹁イングランドにおける共和主義者の
お 一群のなかで極めて特異な一員﹂であうた。彼はその根拠の一つとして、ハリントンにおける﹁共和主義者としての経
験﹂の欠如を挙げる。たしかに、スコットが指摘するように、ミルトンや二ーダム、シドニー、ネヴィルなどの﹁共和
お 主義﹂を代表する︵とされる︶同時代人たちは、ハリントンとは異なり、国務会議の一員になるなどの﹁共通の政治経
験﹂を有した。また、これに関連して、﹃オシアナ共和国﹄のなかに﹁活動的生活﹂論の積極的な展開が見られず、む
しろ宮廷社会に多く見られた新プラトン主義的、もしくはストア主義的な﹁自然﹂観や﹁観想的生活﹂論への傾向が窺
枷 休 わ れ る こ とも見逃せないであろう。
咽 このようなハリントンの﹁共和主義﹂の特異性は、彼が描いた﹁オシアナ﹂共和国のなかで、民衆による政治参加が
斯
むしろ厳格にコントロールされていることに端的に示されている。たとえぼ、﹁オシアナ﹂における教区の代議員の選
存
凪
鋭
働
45
縦
文
隠 出方法を記した基本則Oa興第五条は、次のように、大鐘の鳴る音とともに始まる。
明
説
論
一二月末日以後の最初の月曜日に、全国の各教区で午前八時に大釣鐘を鳴らし始め、一時間にわたって鳴らし続け
る。⋮壮年が五〇人以下の場合は⋮二人の教区委員が本堂中央の通路の上手の端にテーブルを前にして集会者と向か
い合って席に着く。そして、差し当っては、治安官がテーブルの前に壷を置き、その中に、出席している壮年と同数
の球を入れるが、そのうちの一つは金色で、他はすべて白色とする。次いで、治安官がその壷をゆり動かして十分に
球を混ぜた後、教区委員が壮年たちを壷の方に呼び寄せ、壮年たちは教会のそれぞれの側から中央の通路に二列で進
み出て、各自、壷に歩み寄って一個の球を取り出す。その球が白色の場合は、それを壷のそばにある鉢に投げ入れ、
外側の通路を通って自分の席にもどる。これに対し、金色の球を引いた者は、推薦人となる。その者は、二人の教区
委員の間に着席して、どのような秩序が好ましいと考えるかを述べ、次いで︵響きに行った宣誓に基づいて︶選出す
るに最も適わしいと彼が考える人物の名前を一人ずつ壮年たちに対して指名する︵b。置−9海目。。︶。
ここに描かれたのは、﹁徳﹂ある市民による政治参加ではなく、むしろ、民衆の行動を定型化させ、秩序を維持する
ための儀礼的な行動様式である。そこでは鐘の音が鳴り響き、テーブルや壷や鉢が置かれ、金色と白色の球が用意され
る。周知のように、﹁オシアナ﹂における三〇の基本則は、このような煩項な作法の叙述において際立っている。その
体系はヴェネツィアをモデルとしており︵基本則第一四条︶、教区や元老院だけでなく、郡や州のレベルや聖職者の叙
任においても繰り返し実践される︵第六−一〇条︶。﹁オシアナ﹂は、このような儀礼や作法によって秩序が維持された
安定的な共和国である。その特異性は、たとえばマキァヴェッリのように、拡大型の共和政ローマをモデルとし、党派
の対立を共和政の発展に不可欠の要素とした例と比べてみても明らかであろう。したがって、スコットはここに、﹁参
加という古典的な市民の基礎の廃棄﹂を見る。﹁オシアナ﹂においては、民衆は排除されてはいないが、必ずしも﹁活
れ 動的生活﹂を実践している訳ではないのである。
鰯
。の
餅
︵陰
第三章 文明化された共和国i﹁オシアナ﹂物語一
第一節 ﹁オシアナ﹂・儀礼・制度
このように、ハリントンの﹁共和主義﹂が同時代的に異質であり、それとともに、﹃オシアナ共和国﹄の高度な儀礼
れ 性が着目されるべきであるとするならば、その思想史的な説明はどのようになされるべきであろうか。
れ 近年のハリントン解釈における第二の重要な転換は、その異質性を踏まえたうえで、彼の政治思想を同時代人のホッ
ブズや王党派との共通性において理解したことにある。これらの研究は、ハリントンとホッブズとの理論的な相関性は
もとより、両者がともに、政治参加や抵抗権の正当化ではなく、秩序と平和の回復を優先的な課題としていたことを強
調する。たとえば、スコットによれば、﹃オシアナ共和国﹄は﹁平和という祭壇﹂に﹁古典的共和主義の伝統が立脚す
る道徳や参加という基礎を犠牲に捧げた﹂作品であった。これらの研究ではまた、ハリントンがむしろ王党派の議論に
お 近く、ホッブズとともに﹁絶対的な主権﹂の確立を目指し、﹁法の支配﹂を重視する﹁立憲的王党主義﹂と議論の枠組
みを共有していることが指摘される。ハリントンはたしかにホッブズを批判するが、それはハリントン自身が述べたよ
お お うに、﹁ホッブズが私に教えてくれたことを示して、彼の政治学に反対した﹂ものなのである。
梯
休 他方で、ハリントン研究において注目すべき第三の傾向は、﹁オシアナ﹂の儀礼性とも関連して、その詳細な制度論
咽 や統治機構論に対する注目が高まりつつあることである。たとえぼジョン・デイヴィスは、分析概念としての﹁ユート
斯 ピア﹂を精緻化させながら、それと﹁共和主義﹂との違いを強調する。すなわち、彼によれば、人間よりも制度や機構
翫
文
隠 を重要視し、外的な秩序を優先させ、市民による参加の契機を犠牲にする点において、理想的な共和国を描いた﹃オシ
り 明 アナ共和国﹄はむしろ、﹁ユートピア﹂思想の系譜に属する作品として位置付けられるのである。また、デイヴィスと
鉦
㈲
陰
胃
45
説
論
は異なる観点から、制度的な側面への関心を促したのが福田有広氏と竹漆黒興国である。福田氏は、デイヴィスとは
まったく逆に、リウィウスやマキァヴェッリとの比較から、対内的な支配権一ヨ℃臼ピ日とそれを支える制度oH島三を
が ﹁共和主義﹂そのものを特徴付ける要件として抽出する。これに対して竹澤氏は、ハリントンの独自性を意識しながら、
の ﹁なぜハリントンだけが制度設計思考を同時代共和主義者の中で顕著に有していたのか﹂という論点を提示する一方で、
彼の﹁共和主義﹂の特徴を制度的な側面だけでなく、統治組織論と宗教学、あるいは自然的貴族論や市民的徳論との連
関に見出そうとする。
これに対して、本稿の目的は、以上の先行研究の成果を踏まえながらも、ホッブズとの理論的な関連性やハリントン
の﹁共和主義﹂の特質を重ねて指摘することにはない。以下ではまず、﹃オシアナ共和国﹄の歴史的な背景とテクスト
の性格を改めて簡単に整理する。そのうえで、儀礼性や制度化を特徴とする﹁オシアナ﹂物語を、﹁共和主義﹂ではな
く、失われた宮廷文化との歴史的な連続性の観点から理解してみたい。
周知のように、一七世紀の内乱は﹁共和主義﹂の理念に基づいて遂行された﹁革命﹂ではなかった。それは、王の個
人的な失政に由来するものであっても、君主政そのものの廃止を当然に目指した運動ではなかった。たとえば、ウォー
れ デンも指摘するように﹁一六四九年より前には、王のいない支配をほとんど誰も議論しなかった﹂のである。それゆえ、
チャールズの処刑の後もなお、﹁彼に代わって認容可能な君主が見つからなかったために﹂、君主政が廃止され、実際に
お 共和国が設立されるに至るまでには数ヶ月の時間を必要とした。﹃オシアナ共和国﹄は、さらに数年の後、デ・ファク
トに成立した共和政が迷走を続け、クロムウェルによる護国卿政権が成立したのちになって、はじめて﹁真の共和政﹂
の ヴ ィ ジョンを描いた作品であっ た 。
このように、﹃オシアナ共和国﹄は、先行する事実に引きずられながら、いわば﹁後ろ向き﹂に描かれた﹁ユートピ
娚
翫
㈲
︵陰
ア﹂であった。したがって、その形式や内容に﹁失われた﹂宮廷文化の残照が認められても不思議ではない。たとえば
﹃オシアナ共和国﹄を特徴付けるのは、その高度な寓話性であり、たとえば、﹁オシアナ﹂という名称そのものが、ギリ
シャ神話を由来とする﹁北海の美しい島﹂の寓意であった。また、作品の後半部分は、立法者﹁アルコン﹂と五〇名か
らなる立法者会議による﹁オシアナ﹂の建国物語の叙述に費やされている。このような寓話やアレゴリーが内乱前の宮
廷社会で広く用いられていたことは、たとえば、ベイコンの﹃ニュー・アトランティス﹄や寓話作品である﹃古代人の
知恵﹄、あるいは、のちに触れるハウエルの﹃ドドナの森﹄との対比からも明らかであろう。ハリントンはまた、ジェ
イムズ一世期の顧問官であったベイコンを、ローマ的な古称を用いて﹁ヴェルラミウス﹂と呼ぶ。そして、﹁ヴェルラ
ミウス﹂のエッセイ﹁王国と国家の真の偉大さについて﹂を冒頭で引用し、所有のバランスと自由土地保有農民の政治
的な重要性に注目を促すところがら﹁物語﹂の叙述を開始しているのである︵目興−。。b﹄−ω︶。
むろん、ハリントンの執筆意図は﹁偉大な王国﹂ではなく、あくまでも﹁真の共和政﹂を描くことにあった。ところ
が、彼の﹁オシアナ物語﹂には上記の叙述形式に加え、他の共和主義者には見られない、幾つかの見逃せない特徴があ
る。たとえば、彼によれば、ヘンリ警世期以降の所有バランスの変化は、国王・貴族・民衆から構成される階層社会を
平準化させたのであり、したがって君主政から共和政への移行は不可避であった。ところが、すでに指摘したように、
ハリントンの関心は﹁抵抗権﹂を主張し、﹁王殺し﹂を正当化することにはない。すなわち、彼の議論の特徴は、この
柚
休 ような歴史過程を踏まえた上で、﹁革命﹂の遂行や実現ではなく、﹁内乱﹂や﹁アナーキー﹂を終息させるための﹁統
45
陪
似
いた﹁統治﹂とは、﹁共通の権利や利益を基礎として人間の文明社会を設立し維持していく技術﹂であった︵HOどN”Q。︶。 ㎝
鋭
咽 治﹂σqO<Φ98Φ三の問題に焦点を向けたことにある。彼によれば、マキァヴェッリに代表される﹁古代の思慮﹂に基づ
斯
縦
隠 しかも、彼は他方でまた、政治における人格的な要素を排し、ホッブズ的な﹁人間による支配﹂を拒否する。したがっ
明 て、﹁オシアナ﹂の統治においては、所有バランスを固定化させる土地分配法が導入される一方で、とくに国内統治に
文
説 関しては、平準化に伴う﹁万人の万人に対する闘争﹂を抑えるための﹁制度﹂が重要となる。そして、﹁オシアナ﹂の
論 対内的な安定と秩序を確保するための制度的な工夫こそが、官職輪番制や二院制︵討議を行なう元老院と議決を行なう
民会︶の構想であり、先に紹介したような高度に様式化された投票・抽選の仕組みであった。
第二節 ﹁オシアナ﹂と宮廷社会
以上のように、﹁オシアナ﹂は、﹁統治の技術﹂や﹁古代の思慮﹂の観点から高度に制度化された共和国の寓意であっ
た。ただし、ここで改めて指摘すれば、﹁人間による支配﹂を排除した﹁オシアナ﹂物語では、実は、構成員による
﹁活動的生活﹂は周到な形で制限されている。たとえば、彼が提示した元老院と民会による二院制の仕組みは、民会に
決定機能を持たせる一方で、審議の機能を選挙によって選ばれた﹁自然的貴族﹂に限定する仕組みでもあった。彼はこ
こでもまた、かつての顧問官﹁ヴェルラミウス﹂の観察を繰り返し引用し、﹁オシアナ﹂の元老院が﹁分離された助言
機関﹂となる必要を説く。なぜなら、民衆に討議させれば、かつてのアテネのように﹁押し合いが起こり、お互いに踏
みつけあい、流血の騒ぎとなる﹂からである︵N①切よ︶。さらに、繰り返しを厭わず引用すれば、この元老院においても
また、たとえば政府の上官職の投票は次のように儀式化されていたのである。
八人の投票管理官ないし議場係の少年が⋮八個の箱を﹁第一選挙人団で長官に指名されたA・A﹂と歌いながら議
場のそれぞれの側に四個ずつ、つまり各ベンチに一つずつ持ってまわる。官職者と上院議員は︵先ず長官と副長官か
ら始めて︶全員が、箱が自分の前を通り過ぎる時に、リンネルを丸めて作った小球を親指ともう一本の指にはさんで
差し上げ、一球だけであることが誰にも見えるようにして箱に投じる。箱は、その内部がさらに二つに分かれており、
⋮⋮⋮
翫
細
︵陰
賛成と反対とを区別するために外面が白と緑で塗り分けて作られているので、それに小球を投じた場合に、どちらの
ちたかも聞き取ることはできない︵ω①①. ㎝” HO㎝ 随︶。
側に投票したかは誰にも見えないし、また、小球はリンネル製で音を立てることがないので、どちらの側に小球が落
ここでは、小球の投げ入れ方や箱の構造だけでなく、小球の材質までもリンネル製と指定され、音を立てないように
配慮される。他の場面でも、たとえば選挙人団の抽選に際して﹁二列﹂に並んでくじを引くことや、当選者が官職者席
に﹁顔を向けて﹂着席することなどが細かく規定されている。それゆえ、﹁オシアナ﹂の政治過程は、作品中における
立法者会議の登場人物︵エピモヌス・ド・ガルラ卿︶から、あたかも﹁黙劇﹂か﹁ダンス﹂、あるいは﹁隊列の行進﹂の
ようであると批判されたのである︵b。おい㎝﹂O・。︶。
さて、このような﹁オシアナ﹂共和国のモデルとして、ハリントンは古代イスラエルやローマ、ヴェネツィアなど、
過去から現在に至るコモンウェルスの例を挙げる。しかしながら、寓話的な叙述形式やベイコンに関する言及に加えて、
参入者を限定する高度な儀礼性に着目するならば、ハリントンが深く関与していた宮廷社会との連続性が透けて見えて
くる。もちろん、彼は王党派と異なり、その歴史認識の面だけでなく、﹁統治﹂の観点からも君主政の復活には批判的
である。彼によれば、﹁統治の完成﹂bΦ隊Φo江80hαqo<Φ毎日Φづ叶は、その構造上の平衡に求められる。これに対して、
枷
休 君主政は軍隊や貴族による反乱の可能性を潜在させているため﹁統治の完成﹂と言うには不充分であり、政治的な安定
鋤
咽 性の面で劣るのである︵H刈⑩.卜。”らbo ︾︶。
斯
46
篭
31
しかしながら、以下で示すように、チャールズ一世期の宮廷もまた、﹁オシアナ﹂と同様に、人間の行動が定型化さ
H
文
縦
隠 れた高度に文明化された社会であった。言うまでもなく、初期近代のヨーロッパ宮廷社会は当時の﹁文明﹂の中心であ
れ 明 り、﹁人間の行動様式のモデルを鋳造する場所﹂であった。当時、ヨーロッパの﹁辺境﹂にあったイングランドも例外
ゆ 説 でなく、とくにその儀礼化・制度化が進んだのがチャールズ︼了承であったのである。
論 宮廷について、当時のヴェネッィア大使は次のような証言を残している。
たとえぼ、チャールズ即位後の
国王は偉大な山Φoo玉目の規則を守っている。貴紳はかつてのように雑然と彼の居室に入るのではなく、それぞれ
の身分に応じた場所が定められている。そして、彼は故エリザベス女王時代の、大変有名でよく行き渡っていた規則
や原則を遵守することを望んでいる。彼はまた、自分に対する規則を定め、きわめて早い朝の起床に始まり、祈祷、
運動、謁見、国務、食事、睡眠とに一日を分けている。彼は公的な謁見のための日を別に設け、呼び出した場合を除
お いて、誰彼の区別なく謁見することを望んでいないと言われている。
こうしてチャールズは、大陸の宮廷、とくにスペインのそれをモデルにしながら、﹁我が王室を礼儀〇三洋くと名誉
の拠点にする﹂ための宮廷改革に着手した。彼は同時にまた、当時の政治的中枢である枢密院の運営規則を定める。そ
ぬ こには、定例の会議を﹁水曜日と金曜日の午後﹂に開催することや、投票を﹁低位の顧問官﹂から始めること、請願者
を﹁テーブルの奥に脆かせる﹂ことなどと並んで、以下のような、討論と会話の作法が記されていた。
討議においては自由と安全が保たれるべきであり、各人は他者に対する尊敬を抱いて発言しなければならない。あ
らゆる自由な助言に対してはそれを妨害してはならないが、議論はできる限り最小限にしなければならない。諸卿は
あ 包み隠さず話さなければならな い 。
このように宮廷社会において高度に発達した﹁文明の作法﹂の役割は、暴力や感情の噴出を抑え、人間の行動を制度
魏
ゆ
㌍
︵推
化し、安定的な秩序をもたらすことにある。他方で、ハリントンも同様に、﹁オシアナ﹂が﹁黙劇﹂であることを批判
したエピモヌスに対して、それを否定するどころか、﹁人間は、本来、あらゆる種類の情念に左右される﹂ため、その
抑制が不可欠であることを強調した︵Nら蔭.切”一HH ℃︶。ハリントンにおける﹁活動的生活﹂の欠如や﹁オシアナ﹂の儀礼
性が﹁共和主義﹂における彼の異質さを際立たせているのだとすれば、それは、彼がかつてヨーロッパ標準の作法を身
に付けた宮廷人であったことを物語るのではないか。
このような﹁文明の作法﹂の共和政への導入は、ハリントン政治思想の要とも言える二人の少女によるケーキの分配
の寓話にも反映されている。この物語には、すでに述べた元老院と民会における討議と決定の分離という﹁統治の秩
46
陰
田
翫
⑳
序﹂oa興ωoh鋤ひqo<Φ旨臼Φ暮が記されている。彼によれば、民衆に対して﹁自分が最も欲するものを自分だけで取って
しまわないで、公衆の食卓で上品に振舞い、料理の一番良い部分を礼儀正しさα①oΦ口。︽と共通の利益に従って他人に
与えるよう説得する﹂のは困難であった。それゆえに彼は、ケーキを切り分ける作業と選ぶ作業とを別々にするという
制度的な工夫によって、﹁個々人をして自分だけの特殊な好みを捨て去り共通の善ないし利益を尊重する性向を持つよ
うに強いる﹂のである︵H刈トり.卜○”NOO 導︶。ここで議論を少し振り返れば、ヒュームが作法の必要を述べる際に、これと同様
の議論を用いて、作法が﹁われわれの好みを斥けて、仲間の気持ちを優先させ﹂るための技術であることを強調した点
を 想 起 す る ことができるであろう。
枷
休 以上のように、ハリントンの﹁オシアナ﹂物語には、デ・ファクトな共和政を﹁文明化﹂し、秩序を回復することを
咽 目的とした﹁統治の技術﹂や﹁古代の知恵﹂が記されていた。﹁オシアナ﹂はそれゆえ、かつての宮廷社会と同様に高
斯
度に儀礼化・制度化された政治社会であった。官職輪番制や二院制の導入といった共和主義的な制度も、その狙いはむ
縦
文
隠 しろ、内乱によって噴出した暴力や感情を抑え、王党派と共和派との党派対立を沈静化させることにあった。彼によれ
明 ば﹁正しく組織されたコモンウェルスの諸秩序oa臼ωの本質は、いかなる嫉妬も入り込む余地がないことにある﹂
説
話
@ 導︶。彼にとって、﹁われわれに良き秩序oa臼を与えよ。しからば、それがわれわれを良き人びととなさ 姻
︵N
︵陰
餅
ん﹂という﹁立法者の格率﹂こそ、﹁政治においてもっとも誤りのないもの﹂であった︵トりO㎝. GQ” ①QQ M︶。マキァヴェッリ 血
やホッブズとは異なり、﹁人間による支配﹂を排したハリントンは逆に、人間を﹁良きひとびと﹂にするための制度や
儀式、あるいは作法といった﹁型﹂の役割を重視する。彼によれば、﹁コモンウェルスの素材たる人間は不死であるこ
とは不可能であるから、コモンウェルスが不滅であることなどは理性からしても経験からしても不可能である﹂。しか
し、﹁運動の装置である形式8﹁8は明らかに不滅﹂なのである︵N卜○㊤.ら” 一ωOQ V︶。
第四章 偽装された君主国ーハウエルとヴェネツィアー
第一節 ﹁ヴェネツィア﹂神話
もっとも、宮廷社会を﹁オシアナ﹂のモデルの一つとする以上の解釈には強い異論が予想されることも確かである。
すなわち、﹁オシアナ﹂の国内統治のモデルとして実際に言及されている共和国、とりわけヴェネツィァ共和国の存在
である。このヴェネツィアは一般に、現存する稀少な共和国の実例として、﹁共和主義﹂の言説において常に参照され、
が 理想化されていた︵11﹁ヴェネツィア神話﹂︶。実際に、﹃オシアナ共和国﹄のなかでもヴェネツィアの統治⋮機構は高く
称賛され、とくに基本則第一四条にも明記されていたように、その投票方法は実際にヴェネツィアをモデルにしていた。
ハリントンによれば、﹁ヴェネツィアは国内的には、またその大きさの割には、ずばぬけて平等﹂︵H。。H二”ミ︶であり、
﹁この共和国の制度oa①おは、元老院の見事な交替制という点から見ても、他のあらゆる国と比べて最も民主的ないし
民衆的なもの﹂であった︵H①・。旧H”b。H︶。しかし、以下でも示すように、ヴェネツィアは﹁共和主義﹂にのみ独占される
モデルではなかった。同時代のヴェネツィアは﹁オシアナ﹂と同様、共和国の実例としては異質であり、むしろ君主政
国家の宮廷社会とも高い親和性を有していたのではないか。
たしかに、一五九九年に英訳されたコンタリーこの﹃ヴェネッィア共和国﹄にも記されていたように、ドージェ ︵元
首︶や元老院、大評議会を中心としたヴェネツィアの混合政体は、投票の複雑な仕組みや統治機構の専門分化を特徴と
む
していた。しかしながら、上記のハリントンのヴェネツィア賛美には若干の誇張があることもまた疑いがない。たとえ
ば、当時のヴェネツィアでは、大評議会の構成員が成年男子の貴族に限定されていただけでなく、十人委員会を中心と
した有力貴族による寡頭政への傾向が見られた。そして、ハリントン自身も他方で、ヴェネツィアにおいては﹁政治に
参加している市民が僅かで、参加していない人が大勢であること﹂︵HO◎H. N“ ら刈 ℃︶を認めていた。﹁ヴェネツィア﹂は、
虚像と実像が入り組んだ、まさしく﹁共和主義﹂の﹁神話﹂として後世に流布したのである。
以上のようなヴェネツィアの実態を考えると、ハリントンがなぜ、たとえぼ共和政ローマやオランダではなぐ、ヴェ
ネツィアを高く評価したのか、という問いが改めて浮かび上がってくる。事実、同時代における共和政の支持者がすべ
てヴェネツィアを賛美したわけではない。たとえば、マーチャモント・ニーダムが編集した﹃メルクリウス・ポリティ
クス﹄のなかで、ヴェネッィアは厳しく批判されている。彼によれば、ヴェネツィアは﹁自由国家という名前を冠して
いるが、その実体はほとんどない﹂。なぜなら、﹁民衆は統治に関わるすべての事柄から除外されており、法の制定権や
柚
休 執行権、官職保有権、その平すべての特典は、常設の元老院ω富昌臼ロひqωΦ昌讐Φ、そして貴族や高貴な階層と呼ばれる彼
咽 らの血縁者にのみ存している﹂からである。したがって﹁元老院議員の子息のみがどんな顕職にも就き、どのような権
斯
力も握ることを許されている﹂ヴェネツィアは、﹁世襲の君主政体﹂と同様の問題を抱えているとさえ批判されたので
︵姻︶
縦
隠 ある。
馴 むろん、ハリントンも他方で、﹁平等を完全に達成してはいない﹂︵H。。即呼ミ︶ヴェネツィアに批判を重ねて加えて
文
鋭
㈲
陰
馴
46
説
論
いる。しかしながら、先にも指摘したように、ヴェネツィアは他の共和国と比べて特異であり、寡頭政への傾向が見ら
れる一方で、とくに一〇〇〇年近くに及ぶ独立の歴史や統治の安定性において際立っていた。そして、さらに注目すべ
きは、当時のヴェネッィアにおいて、同時代の宮廷社会と同様に、儀礼や作法が高度に発達していたことであろう。た
とえば、ルネサンス期ヴェネツィアの政治儀礼を研究したミュアーによれば、当時のヴェネツィアは﹁眩いばかりの
。旧
ュ岸助の神殿﹂であり、周到に人物配置がなされた元首の行列などを通じて、﹁階層的・世襲的な政治秩序と貴族問の
平等という共和主義的な理念を、少なくとも理論上は融和させることを可能にした﹂のである。また、同時代人のオラ
ンダの外交官ヴィクフォールは、ヴェネッィアの元老院が、開戦を告げに来たトルコの使節にさえ﹁礼儀Ω︿筥匡Φωを
尽した﹂ことを指摘して、﹁政府の高官がこれ以上大きな安全を享受している国家はない﹂と述べた。それゆえに彼は、
一五世紀フランスの宮廷人コミーヌの議論を参照しながら、一七世紀においてもなお、﹁大使に対する儀礼。一く造出が、
ヴェネツィアよりも発達している都市はない﹂ことを再確認したのである。
失われた秩序の回復を構想するハリントンにとって、君主政への復帰という選択肢は、少なくとも彼が前提とした所
有バランスの歴史的変化に従えば、すでに閉ざされていた。だとすれば、デ・ファクトに成立している共和国を前に、
かつての宮廷人置リントンが、次の実現可能なモデルとしてヴェネツィアに目を向けたのは不思議ではない。しかも、
内乱が現実化したイングランドとは対照的に、ヴェネッィアは﹁もっとも静穏な﹂共和国であり、﹁これ以上安定的で、
混乱がなく、平穏かつ平和なコモンウェルスはない﹂︵卜。♂︶のである。逆にまた、ヴェネツィアの側に視点を移せば、
当時のヴェネツィア人にとって、君主政や宮廷社会の政治文化は決して相容れないものではなかった。ケニスバーガー
によれば、イタリアの都市共和国では﹁常に君主政や宮廷社会のエートスに移行する危険﹂があった。とくにヴェネ
ツィア貴族のメンタリティーは、王権や階層社会を称賛するなど常に君主政を志向していたのである。
このように、ヴェネツィアと君主政国家が必ずしも相互に排他的ではなく、とくに秩序維持の傾向や政治文化のレベ
鰯
翫
初
︵陰
ルにおける親和性や互換性を有していたとすれば、ヴェネツィア神話が王党派の側にも受容されたとしても不思議では
ない。そして、ヴェネツィア神話は実際に、﹃オシアナ共和国﹄が出版される以前から、やはり宮廷の作法に通暁した
人物によって再生産されていたことも事実なのである。以下では、このような事例として、もう一人の宮廷人ジェイム
ズ・ハゥエルを取り上げ、とくに彼の﹃外国旅行の手引き﹄と﹃ヴェネッィア論﹄を検討の対象とする。そのうえで、
﹁文明の作法﹂と﹁共和主義﹂をめぐる同時代の知的文脈を浮かび上がらせ、改めて﹁オシアナ﹂と宮廷社会との関連
を論じてみたい。
第二節 ハウエルと大陸旅行
の ジェイムズ・ハウエルは、ハリントンと同様、内乱前の宮廷社会に生きた人物であった。ハウエルはまた、﹁真のコ
スモポリタン﹂を自称し、家庭教師や使節の随員、あるいは情報提供者として幾度となく大陸に渡った。ハリントンが
む
ボヘミアの亡命宮廷など三つの宮廷を巡ったのに対し、ハウエルは、スペインやデンマーク、ドイツ、フランス、イタ
リアといった﹁キリスト教国における主要な宮廷のほとんどを訪れた﹂のである。他方で、彼はストラッフォード伯ら
宮廷内の有力者のバトロネジを得るなどして、四二年には枢密院の書記となることを約束される︵しかし、内乱によっ
枷
休 て白紙となる︶。さらに、彼は同年、皇太子チャールズに献呈された﹃外国旅行の手引き﹄を出版する。以下で示すよ
咽 うに、この作品は、ハウエルがヨーロッパ宮廷社会の作法に通じていただけでなく、イングランドにおける政治エリー
斯 ト教育のモデルを提供していたことを示していよう。
縦
文
隠 ハウエルは﹃外国旅行の手引き﹄の冒頭で旅行の教育効果を強調し、それが﹁精神を知識で豊かにし、正しい判断力
ゆ 卿 を鍛え、外面的なマナーを整える﹂ことを指摘する。彼によれば、このような大陸旅行は島国であるイングランドにご
㈲
鋭
除
質
46
説
論
そ﹁きわめて必要﹂であった。なぜなら、イングランドは﹁いうなれば、それ以外の世界の市民から切り離されてい
ぬ る﹂ため、﹁学問や知識によって都会化され、磨かれた、より洗練された国民と交わる﹂ことがないからである。他方
む で、﹁文明〇三一一昌をこれ以上なく促進する技芸や学問﹂は世界を巡り、今ではイタリアやフランスに達している。し
たがって、旅行者はまずフランスを訪れ、語学を修得し、乗馬やダンス、フェンシングなどの訓練を受けるとともに、
宮廷社会の文法や作法を学ばなければならない。すなわち、﹁宮廷の流行や様相を知り、君主の人柄や性格を観察し、
有力な貴族は誰かを調べ、寵臣や主要な顧問官、高位の宮廷人の家系を調査し︵わたしはこの点をとくに考慮すること
を薦める︶、著名な人物とは誰とでも交際を求めること﹂に日々を費やさねばならないのである。
ハウエルはさらに、このフランスやスペインを巡った後にイタリアを訪問することを薦め、そこが文明と作法の発信
源であることを強調する。すなわち、﹁イタリアは常に、他の完成された技芸とともに、政治や学問、音楽、建築、そ
して絵画の揺藍の地であると考えられており、それらの技芸はイタリアがヨーロッパ各地に広めたのである﹂。もっと
も、イタリアでは危険や誘惑もやはり大きく、美徳や悪徳も﹁極端﹂であり、﹁聖者を悪魔に代えることができる﹂。し
かしながら、それでもイタリアは他者との交際において優れており、したがって﹁議論や振舞いのマナーにおいて模倣
ぜ
されるべき外国人がいるとすれば﹂、それは﹁イタリア人﹂なのであった。
このようにして、﹁イタリア﹂の共和国ヴェネツィアもまた、ジェントルマン教育の舞台となった。たとえば、ハゥ
エルとも親交があったベン・ジョンソンの﹃ヴォルポーネ﹄のなかで、登場人物のサー・ポリティックは旅行者ペレグ
リンに対して、次のような、異質な他者と交際するための作法を教える。
まず第一に態度だ、重々しく、まじめであること、なにごとにも控えめにして表に出さない。どんな場合でも、た
とえ自分の父親にでも、秘密をもらさぬこと。世間話ひとつにも慎重に。もちろん交際の範囲、話題などもきびしく
螂
翫
㈲
︵陰
選択する。 とくに注意すべき点は絶対に真実を口にせぬことだ
サー・ポリティックはまた、マキァヴェッリやボダンの議論に言及しながら、たとえば﹁自分の宗教については公言
を控え﹂、﹁自分としては、ただ国家の法が重要であって、宗教のいかんは問いません﹂と返答すべきことを指南する。
そのうえでサー・ポリティックは、コンタリーこの作品などを通じてヴェネッィアの作法を修得する必要を以下のよう
に繰り返し強調した。
きみ、ヴェニス人のいる前で、ちょっとでも前後をとりちがえるようなへまをやってごらん、早速やられっちまう
よ、なぶりものにされちゃうよ。まあ自慢するわけじゃないが、ぼくはここに来てかれこれ一四か月ほどかねえ、上
陸して一週間とたたぬうちにもうヴェニス市民とまちがえられたよ、それだけ行儀作法8目日ωを心得ていたという
ことだ。
︵021 ︶
むろん、ここでのジョンソンの描写には皮肉が込められている。しかしながら、この場面には同時に、異質な他者と
共存するための政治的な知恵が説かれていることも間違いない。そして、ハリントンも訪れたヴェネツィアは、他の宮
柚
休 廷社会とともに、このようなヨーロッパ標準の﹁文明の作法﹂を身に付け、それを磨き上げるための場所であったので
咽 ある。
斯
命
唄
藩
吻
46
縦
文
乱
闘
説
論
第三節 ﹁ドルイナ﹂とヴェネツィア
以上のような、政治教育としての大陸旅行の役割を重視したハウエルは、劇作家のジョンソンとは異なる方法でヴェ
ネツィアを描くことになる。すなわち、チャールズ処刑の二年後の一六五一年に出版された﹃ヴェネツィア論﹄である。
ハウエルは﹃外国旅行の手引き﹄の出版以前から、﹁不可能にしてあり得ない﹂ヴェネツィアの独立と繁栄の歴史を繰
り返し称賛していた。しかし、だからといって彼が君主政の廃止を求め、共和政の設立を当然に目指した訳ではない。
の たとえば、﹃オシアナ共和国﹄と同様に寓話形式を採用し、四〇年に出版された﹃ドドナの森﹄では、イングランドの
君主政が、古代ギリシャの神託の地ドドナにあったオークの樹木︵﹁ドルイナ﹂︶に喩えられ、称賛されていた。さらに
彼は、これもハリントンと同様に、内乱が勃発した後も王権と議会の融和を模索し、たとえば四四年の﹃イングランド
の涙﹄では、両者に﹁危険な嵐のなかで帆を降ろし、難破を回避する﹂ことを訴えた。すなわち、ハウエルは議会に国
王大権の尊重を求める一方で、国王に対しても﹁議会の特権と諸法、そして臣民の自由が、王冠のもっとも確かな支え
であること﹂を考慮するよう提言したのである。
それゆえ、このハウエルがまた、﹁理性ではなく怒りが支配的となり、主権者となった﹂内乱期に作法による秩序の
﹁政治的な技術﹂Oo一一〇︽であり、﹁主権による強制よりも、礼節oo霞$ω圃Φによる征服﹂であった。彼はさらに、 ﹃オシ
回復を試みたことは不思議ではない。彼によれば、﹁怒り﹂は物事を解決しないのであり、したがって、必要なのは
アナ共和国﹄の出版と同年に、ジェイムズ一世とチャールズ一世期の儀典長であった﹁充分に完成された宮廷人﹂ジョ
ン・フィネットの﹃回想録﹄を編集する。この儀典官職は外国からの使節を﹁彼らの身分に相応しく、あらゆる敬意を
ぜ
持って迎え、応接し、歓待する﹂ために創設された役職であり、この﹃回想録﹄には使節の歓迎や席次、謁見などに関
する外交の作法の実例が豊富に記載されていた。彼は後年、王政復古後の一六六四年に﹃諸国王の位﹄を出版するが、
姻
鋭
㈲
︵陰
そのなかにはまた、﹁人をひきつける、丁重で物腰の柔らかな振舞いによって、礼儀9<葭什δωを尽して従う﹂必要を説
く﹁大使論﹂も含まれていた。そして、このようなヨーロッパ君主政の作法に通暁したハウエルが、空位期の混乱のな
かで目を向けたのがヴェネツィアであったのである。
ヴェネツィア神話は﹁共和主義﹂にのみ独占される神話ではなかった。それは、イングランドを﹁ドルイナ﹂として
の 称えるハウエルのように﹁王党派の精神のパラダイム﹂を代表し、﹁立憲的王党主義﹂の系譜に属する人物によっても
再生産されたのである。したがって、以下で見るように、﹃ヴェネツィア論﹄のなかにも、国王の処刑や共和政を正当
化する視点ではなく、むしろ逆に、そうした内乱を抑え、秩序を回復する﹁統治の技術﹂の視点が貫かれていた。
ハウエルは、ヴェネツィアが﹁多くの時代を通じて、国内でのあらゆる民衆の騒乱や政変から逃れてきた﹂理由とし
て多くの要因を挙げている。その主要なものとしてはまず、ヴェネツィアが常に﹁変化に対する敵﹂であったことが挙
げられる。それゆえ、上下関係の秩序や昇進の過程も厳格となり、﹁元老院の威厳﹂が保たれる一方で、﹁年長者の人格
だけでなく、その意見に対する若者からの確かな尊敬の念﹂が培われているのである。また、これに関連して、ヴェネ
ツィアではとくに命令に対する服従がきちんと保たれている。すなわち、フィレンツェやミラノ、ナポリなどの他の都
市が﹁熱し易い性格で、変化を強く欲する﹂のとは異なり、ヴェネツィアでは﹁厳格に服従し、上位者から命令された
ことを迅速に実行する、稀有な民衆の気質﹂が見られるのである。
梯
休 ハウエルはさらに、ヴェネッィアが常に﹁戦争よりも平和により傾いていた﹂ことを指摘する。彼によれば、ヴェネ
咽 ツィアほど﹁経費をかけて使節を派遣する国はない﹂。それによってヴェネッィアは﹁ヨーロッパの争いを調停し、そ
㈲
47
陪
餅
斯 れが火種となって公共の平和を掻き乱さないよう鎮静化させ、さらには共通の敵であるトルコ︵彼女の隣国の一つであ
H
文
縦
隠 る︶が漁夫の利を占めることを防ごうとした﹂のである。言うなれば、ヴェネツィアは﹁ゲームの競技者﹂であるより
馴 は﹁観察者﹂や﹁審判者﹂、あるいは﹁強国間の相違の調停者﹂であることを選んだのであり、このような経験を積み
説
論
重ねた結果、﹁政治的思慮の生産所﹂と呼ばれるまでに至ったのである。
このような強い平和志向はまた、ローマやオランダに対するヴェネツィアの建国原理や外交政策の違いを際立たせて
いる。彼によれば、ヴェネツィアが﹁平和、通商、富、平穏﹂を好むのに対して、ローマでは﹁野心と戦争に対する欲
望が常に見られた﹂。同様に、オランダも﹁最初の基礎が武力と戦争による血によって築かれた﹂ために﹁平和よりも
戦争を好む﹂のである。したがって、ヴェネツィアの対外政策は領土の拡大ではなく、勢力均衡を目指すようになる。
すなわち、ヴェネツィアは﹁強力な君主問の力の均衡を保つこと﹂を旨として﹁自らの方策をそれに適合させ、時の条
件に自らを順応させ、意見や意図、友人や敵対者をしばしば変えた﹂のである。
以上のように、ハウエルは、他のイタリア諸国家やオランダと異なり秩序と平和を志向するヴェネツィアに﹁共和主
義﹂の理念ではなく、むしろ﹁統治﹂のモデルを見出した。彼は﹁統治の技術ほど不確かで難しいものはない﹂として、
その理由を現実の複雑さだけでなく、理性的な人間が抱く意見の混乱に求めた。
この理由は、人間の活動口Φひqo口p註。口に伴うさまざまな出来事や偶然に求めることができよう。それにはまた、人
間の空想、とりわけ、吹く風に簡単に流され、荒れ狂う海の波よりもひどい群集の妄想が加わっている。他の動物で
あれば、それほど野蛮で力が強くないとはいえ、それらをすべて飼い慣らし、指導し、畏怖の念を抱かせておくこと
ができる。しかし、人間の群れを統治する確かな方法はない。しばしば起こる精神の混乱や、理性の働きから生じる
意見の多様さを考慮すればそうなのである。この理性には、感覚のみを有する他の創造物は服していない。意見の多
あ 様さは、理性に伴う不都合の一つであると言うことができるであろう。
しかしながら、にもかかわらず、国内的には内乱や革命を封じ込め、対外的には外交交渉と勢力均衡によって長期間
魏
鋭
㎝
︵除
の安定的な統治を可能にしたのがヴェネツィアであった。ハゥエルによれば、ヴェネツィアは﹁ガレー船やゴンドラを
漕ぐようにして人間を統治した﹂。それゆえ、﹁もし人間の統治や政治を確実性から成り立つ学問ω9Φ昌。Φにしたものが
ぬ あるとすれば、それはヴェネツィア共和国であった﹂のである。
おわりに
共和政と作法の関係について、かつて﹁オランダで洗練されたスイスの行儀作法﹂の粗雑さを批判したヒュームは、
oO露日¢巳6鋤菖8を保っている点に求めた。他方で、このような﹁文明の作法﹂の欠如は、イタリアから遠く離れた辺
ヴェネツィアのみをその例外とした。彼はその理由を、ヴェネツィア人が、とくに他のイタリア人と日常的な﹁交流﹂
境の島国である君主政国家イングランドの政治運営において、ルネサンス期以来、常に大きな問題であり続けた。
チャールズ一世による宮廷改革は、ヨーロッパ水準の作法をイングランドに導入するための改革でもあった。また、カ
スティリオーネ﹃宮廷人﹄などの作法書の受容や大陸旅行の習慣は、このような文明の格差を埋めるための政治教育の
一環であった。ジェントルマンの子弟は、大陸の宮廷社会やヴェネツィアを巡礼することによって、政治エリートにふ
さわしい所作を身に付けることを強く期待されていたのである。
柚
休 このような大陸旅行の手引きを書いたハウエルはもちろん、政治エリート予備軍であったハリントンもまたドー
咽 ヴァーを渡る。しかし、大陸の宮廷で歓待され、宮廷人としての素養を身に付けたハリントンは、帰国後、彼が親しく
斯仕えたチャールズが処刑されるという凄惨な﹁王殺し﹂の場面に遭遇する。これに対して、七年間の沈黙の後に出版さ
縦
文
隠 れた﹃オシアナ共和国﹄は少なくない賛同者を生み、﹁共和主義﹂の古典としての地位を与えられる。しかしながら、
騨 その﹁オシアナ﹂物語は高度な儀礼性を特徴としているなど、﹁共和主義﹂におけるハリントンの異質性は際立ってい
翫
鋤
除
釧
47
説
論
た。本稿は、このような異質性を手がかりに、彼の政治思想を宮廷社会の残照のなかで理解しようとした。すなわち、
﹃オシアナ共和国﹄は、デ・ファクトに成立した共和政を前に、その新たな意味付けを余儀なくされた宮廷人が、内乱
によって噴出した暴力と感情を封印するために﹁文明の作法﹂を共和政に導入しようと試みた作品としても解釈できる
のである。
むろん、﹁文明化された共和国﹂としての﹁オシアナ﹂の思想史的な意義はこれに尽きるものではない。しかしなが
ら、共和政における作法の欠如の問題が空位期のイングランドで深刻化したことは、﹃ヴェネッィア論﹄をはじめとす
るハウエルの作品を通じても理解できるだろう。﹁ヴェネツィア神話﹂は彼のような王党派に近い人物に対しても充分
に有意味であった。それは﹁共和主義﹂だけではなく、﹁統治の技術﹂のモデルでもあった。君主を失った宮廷人に
とって、儀礼や作法が発達し、内乱を抑えることに成功してきたヴェネツィアは、唯一の選択可能な﹁偽装された君主
国 ﹂ で あ ったにちがいない。
このように考えると、共和国の宮廷人ハリントンの姿は、のちの時代のトクヴィルを思わせるものがある。二人はと
もに由緒ある貴族階層の出身であるだけでなく、﹁旧体制﹂におけるアリストクラシーの歴史的な重要性を深く理解し
ていた。にもかかわらず、トクヴィルはアメリカとフランスにおける平等化の進展を前に、新たなデモクラシー社会と
︵93ユ︶
り 中央集権国家の到来を予見した。これと同様に、ハリントンは、イングランドにおける所有バランスの民衆への変化を
前提に、共和政への移行を歴史的に不可避なものとして説明したのである。
しかしながら、﹁抗いがたい革命﹂をともに受容しながらも、トクヴィルとは異なり、ハリントンはその後の歴史に
裏切られる。言うまでもなく、一六六〇年の王政復古である。これによって、﹁ドルイナ﹂君主国を描いたハウエルは、
チャールズニ世のもとで修史官として宮廷社会に返り咲く。内乱の渦中において王権と議会の融和を訴え、﹁礼節によ
る征服﹂と﹁統治の技術﹂の必要を主張したハウエルは、晴れて﹁君主の宮廷は全国の縮図﹂であり、王権が﹁統治の
姻
翫
吻
︵存
ぜ
もっとも公式的で完全な本質﹂であると公に表明することができた。しかし、他方で、﹁オシアナ﹂を通じて﹁真の共
和国﹂を提示したハリントンは反逆罪の疑いをかけられ監禁される。それゆえ、この点をもって共和主義者のハリント
ンと宮廷に復帰したハウエルとの相違を強調することは可能であろう。しかし、他方でハリントンは、ロンドン塔での
尋問において、彼が﹁国王の統治﹂そのものに﹁反対﹂したのではなかったことを、次のように釈明している。
私は君主のもとで書いたのではなく、纂奪者オリヴァの時に書いたのです。⋮ですから、私は国王の統治に反対し
て書いたものではないのです。⋮オリヴァが退いたあと、議会は今や共和国になったと言ったのですが、私は、そう
でないことを論証したのです。当時、議会は私を騎士党員とみなし、また、私の著作には国王を受け入れる以外の構
想はないと考えたぐらいですが、今や、国王が誰よりも先に私を円頂党員にしたてているのです︵o。㎝㊤︶。
た、同時代の﹁共和派﹂を批判し、王党派を排除しないように訴えた点でもきわめて例外的であった︵NOω.QQ一①㎝一① ︾︶。
本文でも指摘したように、たしかにハリントンは、君主に対する﹁抵抗﹂や﹁革命﹂を主張したのではない。彼はま
むろん、﹃オシアナ共和国﹄はその後、﹁共和主義﹂の古典として広く読まれ続けることになる。しかし、歴史的な文脈
を踏まえれば、そのテクストは他方で、他者との共存を可能にする﹁文明の作法﹂の喪失という、デ・ファクトな共和
榑
休 政に内在したアナーキーの危険と格闘した作品としても読める。構成員が相互に﹁武装﹂して﹁独立﹂し﹁平等﹂とな
﹁文明の作法﹂は﹁共和主義﹂とは常に緊張関係にあった。そして、﹁オシアナ﹂という寓話は同時にまた、イングラン
咽 る共和政では、﹁作法﹂の洗練が見られないどころか、むしろ逆に、﹁万人の万人に対する闘争﹂の危険が再生産される。
斯
縦
文
誌 ドにおける﹁共和主義﹂の古典が、実は、君主権国家における﹁文明の作法﹂を身につけた宮廷人によって生み出され
明 たという歴史の逆説を物語っているのではないか。
翫
綱
陰
屓
47
時
論
※ 本稿は平成一六∼一八年度文部科学省科学研究費補助金︵若手研究B︶による研究成果の一部である。
※ また、九州大学政治研究会からは、本稿の内容を報告する機会を与えていただいた︵二〇〇六年一〇月二一日︶。
うに、参加者の皆様から多くの有益なコメントを頂いた。この場を借りて改めて感謝申し上げたい。
︵1︶ 林達夫﹁精神史−一つの方法序説1﹂、同﹃林達夫評論集﹄中川久定編、岩波文庫、一九八二年、三一七頁。
いつものよ
粥
翫
鋤
︵陰
︵2︶ 旨ρ︸℃080ぎ§Qさら譜第竃ミ§ミqミ§一国。ミミミ鳴ざミ普ミ§o愚妹§駄ミ貿易§ミ蹄肉愚§ミ織§ぎ駄ミ§︵一㊤謡旧
勺﹃ぼ88p℃﹃営88昌d●国N8ω︶・
︵3︶ 共和主義思想史研究の動向を記した近年の邦語文献として、佐々木武﹁﹁近世共和主義﹂1﹁君主のいる共和国﹂について一﹂、
﹃岩波講座世界歴史一六∵王権国家と啓蒙﹄岩波書店、一九九九年所収、二二三−四六頁。また、ポーコックの紹介と検討を中心
とした作品としては、田中秀夫﹃共和主義と啓蒙−思想史の視野から﹄ミネルヴァ書房、一九九八年。竹澤祐丈﹁ジェームズ・ハ
リントン研究とJ・G・A・ポーコッター統治組織論と宗教性1﹂ω②、﹃経済論叢﹄第一六八巻第三号︵二〇〇一年︶八Ol九四
頁、第一六九巻第一号︵二〇〇二年︶、二丁ー三五頁。同﹁ポーコック以後のジェームズ・ハリントン研究一統治組織論と宗教性
1﹂ω②、﹃経済論叢﹄第一六九巻第三号︵二〇〇二年︶二七−三八頁、第四号︵二〇〇二年︶四七一六二頁。同﹁シヴィック・
ヒューマニズムと経済学の成立﹂、﹃調査と研究﹄第二五月目二〇〇二年︶、二曲ー四八頁。
︵4︶ζ霞塞くき○①匡嘆8曽多雪8晋ω匹§臼巴ω.肉愚§N§ミ§、﹄寒蕊駄寒§恥§寒冒醤b<。尻︵9ヨ9αひqΦ“O帥ヨσユ阜
σqΦC●即b。8卜。Y また、とくにイングランド共和主義研究の現状を示す作品として、尊墨昏きωoOgGoミミ§ミ§Nミ謹§愚蕊、
肉筆§N母§ミミ畿蒜ミミ恥肉鑓N画簿肉鍋ミ§§︵O鋤ヨ訂置αqΦ“O鋤ヨぴユαひqΦd●即・。O宝ソ 日本における共同研究の試みとして、田中
秀夫、山脇直司編﹃共和主義の思想空間ーシヴィック・ヒューマニズムの可能性﹄名古屋大学出版会、二〇〇六年。
︵5︶国きωじd費。P寒QG註蹄ミミ鳴穿§§N艦§肉§ミ鈎§聴︵多多88員零冒8け。コ9℃b乙巴.Hり①①︶.
︵6︶NΦ鑓固艮℃§鴨G演の§N肉愚§N§蕊、﹄§穿恥亀§§肉§竃這ミ貸聖譜§ミ§。亮隷こ§⑦ミ§§ミ譜6§ミ建方ミミ
︵H㊤轟Zo暮げ甫①ω什Φ毎9勺”H㊤欝︶●
︵7︶9邑厳Φ菊。び甑拐寒国量味恥§ミ6§ミ這9ミ§§ミ§§§§、⑦ミ§的§§ぎ議ミ。・鴇§b津ミ§ミ§ひ§織Oミミ奉
のミミ鳴旦爵駐譜自隷ミN§◎亮隷、誉ミミQ沁禽ミ§職§ミG隷ミN8自ミミ職ミ円き鳩ミミミ鳴寒ミ鳴§Gミ。ミ禽︵一縮㊤脚
ぎ 9 餌 コ鋤bo一一ωn団び臼蔓閃二昌ρ卜。 O 宝 ︶ ●
︵8︶ ω鉱昌器お鳶隷§腎魯ミト帖曾ミ駐ミ︵O鋤ヨびユ猪①”OpB訂置αqΦ9℃口㊤Φ。。︶.
︵9︶ たとえば、一連の共和主義研究とは異なるアプローチではあるが、トマス・アクィナスの政治理論をモデルにしながら﹁共和
梯
休
国
た
和
共
れ
文
隠
明
主義パラダイム﹂を再構成する試みとして、半澤孝麿﹃ヨーロッパ思想史のなかの自由﹄創文社、二〇〇六年。とくに、七五−七、
一四〇1八、二四六−八頁。
︵10︶ 同様の問題関心から、ブレア・ウォーデンは﹁共和主義﹂の定義を狭め、﹁共和主義的な政体構造を導入することへのコミット
メント﹂の意味に限定する。bσ一口目白自αΦP.菊①bロび一一〇餌巳ωβ勾Φαq置ユΦ習α菊Φ宕び一一Ω↓げΦ凶日αq一一ωげ国×誇張窪。Φ、”ぎOΦ莚臼8蝉&
ωざ§臼Φ山ω・沁愚ミ§§ミ砺ミ・<o一・Hもb●ω宕歯メ 引用は、P器8づ﹂①●
︵11︶林達夫﹁精神史−一つの方法序説−﹂、三一七頁。
︵12︶ たとえば、シェルドン・ウォリンは、共和主義研究のイデオロギー的性格を指摘する。ウォリン﹃アメリカ憲法の呪縛﹄千葉
眞他訳、みすず書房、二〇〇六年、五頁。
︵13︶ 勺ooooFミ§魯9ミ§鳴§魯§駄募ミ這︵O鋤日訂置αqΦ”O鋤ヨ再建αqΦ口・型H㊤。。α︶闇Φωや。げω’卜。導Hρ目︵田中秀夫訳﹃徳・商業・
歴史﹄、みすず書房、一九九三年︶。
︵14︶ 同様の視点を有した研究として、︾目簿切蔓ωoP㌔ざミ○ミ§亀むO軌eミ貸Gぎ誌帖薦60§のミ○§§無§寒さミ貸§§
寒ミ§駄︵O改Oa”Ω霞①&8牢Φωρδ㊤。。︶v①ωb・Oや禽19 ︼≦鋤碁直弟℃色け。昌ΦP、℃○澤Φ器ωω①コ傷♂くぼσqひqδヨ”H①。。。。−嵩ω卜。、”寒鴨
零。・&識ミN智ミ§ミ鼻。。︵NOOα︶”bやω㊤目よに●
︵15︶ 勺oooo置類ミ魯Oo§ミ鳴義魯§駄募琶§b.癖。。︵九一頁︶・
︵16︶ 同様の指摘として、Hp。貯出①日切ωげΦ﹃−ζ8置.㌍o目≦洋二①け。℃o自宅魯①ωω”﹂昌Ωσ匡Φおコp。昌αω露目Φ同⑦山9下愚§識ミミ的§噂く○一●
卜。噛O層●Q。α山8●
︵17︶ ℃ooooぎミミ食○◎§ミ鳴§魯§駄§ミ藁も﹂㊤α︵三七四頁︶●
︵18︶たとえば、U●いQ。巳費O§Sミ職§ミ沁§駐§§駄§忽犠ミ隷誉\縛ミ§§ひ5N融◎山影℃︵Op8び﹁置σq①⋮O①ヨげ&αqΦ¢■
勺藁り逡ソ 菊。σΦ冨零出9①目”寒鳴ミご職亮ミ肉ミミ蹄蚕N§−N§︵09B訂こゆqρO餌ヨぼ置αqΦ●d。℃﹄08︶・
㈲
︵19︶ 木村俊道﹁宮廷から文明社会へ1初期近代ブリテンにおける﹃文明﹄と﹃作法﹄1﹂、﹃政治研究﹄︵九州大学政治研究会︶、第
五〇号︵二〇〇三年︶、一五−四三頁。同﹁文明・作法・大陸旅行ージョン・ロックとシャフツベリの対話1﹂、﹃政治研究﹄第五二
、号︵二〇〇五年︶、二五−五五頁。同﹁外交の作法ーマキァヴェッリからエドマンド・パークまで一﹂、﹃法政研究﹄︵九州大学法政
学会︶、第七二巻第三号︵二〇〇五年︶、六六五一七〇七頁。
翫
︵20︶ =●O。囚。①巳σqωσ興σqΦお.菊8昌財8巳ωβ竃8母。げδ日p。コαごげ臼蔓、鴇ヨ幻。σΦ答○器ω犀ρ¢○.9げびωきα=.]≦・ω8洋巴ω.肉鋭
§N
σ
§質素愚§勘ミ§⑦o竃ミ暗ミ耐§寒さ§§§穿§鰹穿。・§り§ミ帖ミ。ミミ肉禽§ミミミ§謡︵Oo日露匡ゆqρHり零︶もb●お為吟引
4
用は、b●①蒔・同様の指摘としては、い即bU霞⇔ρ§Qぎ鴨卜亀ミ9漆萎砂色O§ら魯尉9§ミ§ミ§津昼ミq§ミ的8、ミミ
7駄
7
説
論
︵O臥oa”Ω霞①民8国Φωρ目り㊤①︶獅づO●H−悼・
粥
︵21︶霊巳。評09ぎω。P.思肉§§N§卜鑓智ミ§㍉Oおロ一ω8蔓註9昏Φ℃。洋髪ω℃二二W8π、↓曲角8霞。三〇巴寄窟認識。。hρ器8
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多多筈Φ夢一譜貯霞ω肉§9ひ鳴ミ匙§穿の遷的︵い。巳8⋮↓語論鋤日三巴8℃﹃Φωωレ㊤逡︶”bb﹂山Pω一ふ8℃Φ犀og旨”O駐鴇ミNミミ匙ミ的ミ
§謡駄肉愚§ミ§ミの§ミ爵駐日ぎ、ミミN寒。鑓ミN軌ミーN漣O︵Ooヨ耳こひqΦ”〇四日訂一自αq①d・挿一㊤㊤α︶9退b
︵22︶ 9●芝oa①員菊8⊆亘甘鋤⇒尻β菊Φαq§αΦ餌昌O国8暮一ド..
︵23︶ 福田有広﹁共和主義﹂、﹃岩波哲学・思想事典﹄︵岩波書店、一九九八年︶。
︵24︶ もっとも、本稿は他方で、このような﹁君主主義﹂を﹁共和主義﹂の対概念として実体化し、その展開を単線的に記述するこ
とを目指すものではない。本稿の方法論的な立場は決して目新しいものではなく、その目的は、﹁共和主義﹂のインフレを抑制し、
それを正しく理解するためにも、異なる複数の思想的伝統との緊張や相克、あるいは歴史の連続性や同時代性を踏まえた、バラン
スのとれた解釈が不可欠であることを主張することにある。
︵25︶ この点はすでに別稿でも指摘してきた。宮廷社会や大陸旅行、あるいは外交交渉をめぐる両者の緊張については、それぞれ、
木村﹁宮廷から文明社会へ﹂第一章第一節、第三節。﹁文明・作法・大陸旅行﹂第三章第二節、第四章。﹁外交の作法﹂第二章第二
節、第五章。
︵26︶ ルネサンス期人文主義の展開については多くの文献があるが、さしあたり、ω臨目Φご§鳴凄§§職§吻ミミq§ミきミ“ミN
暴。慧さく。一.H︵O鋤ヨぴ泣ユαqΦ”09日再送αqΦq.押H零。。γ 木村俊道﹃顧問官の政治学ーフランシス・ベイコンとルネサンス期イング
ランドー﹄木鐸社、二〇〇三年。
︵27︶ たとえば、マキァヴェッリ﹁小ロレンツォ公没後のフィレンツェ統治論﹂︵石黒盛久訳、﹃マキァヴェッリ全集6﹄筑摩書房、
二〇〇〇年、=二一ニー六二頁︶。
︵28︶ カスティリオーネ﹃カスティリオーネ宮廷人﹄、清水純一、岩倉具忠、天野恵訳註︵東海大学出版会、一九八七年目、八五頁。
︵29︶ 同、九一頁。
︵30︶ 同、二〇五頁。
︵31︶ 同、二九三頁。
︵32︶ 同、二四九頁。
︵33︶ ≧σq①ヨ○昌ωこ器ざOミミミ§軌ミ即巴ω.口●芝・bdδβφ国﹂≦二=①お睾α幻。私営α智5ωΦ︵Op。ヨ箔置σqΩO餌8訂討ひq①9垣お㊤O︶鳩
やP テンプルを﹁宮廷人﹂のモデルとする見解については、燭・××タ
︵34︶ さ ミ 4 b ● り ’
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︵35︶ 轟 ミ こ や 刈 ●
︵36︶ 冒づ鋤匪p。旨ω8け計卜曹§o謡⑦凡§㊤貸§駄ミ鳴爵N帖簿出丸§N貸N§山臥NN︵09。ヨ訂こαqgO①8げユ匹αqΦ9℃し㊤。。。。︶導娼﹂ωω.
︵37︶ 因。げ①暮竃。一Φω≦o博買卜§トら8ミミミb§ミ亀轟︵い。昌創。戸ω円山Φ9H$心︶堵薯’論り−㊤・シドニーへの言及は、○。。<−O心..
︵38︶ ]≦oすω甫。答F§鳴連§ら愚、8ミ亀肉鴨ミミ謡斜8§ミ§鴨島§轟寒聴ミミ鳴寒§◎温きミミ匙§.恥ぎミらや9Nミ亀︵い。コ山oP
嵩謡︶匂b●。。・ただし、﹁共和主義﹂と抵抗論、あるいはウイッグ主義との関係如何については慎重な検討が必要であろう。モール
ズワースの場合、彼は一七世紀の﹁内乱﹂を批判し、﹁国王の統治を嫌悪する者﹂ではないと断りながらも、他方で﹁コモンウェ
ルスマン﹂と呼ばれることを否定しない︵弓P伊O−メ器︶。
︵39︶ 菊。びげ冒ρ§鳴曇紺Q§ミ6§ミ建Goミミ。謡ミ§Nミミ9§b.○。○。・
︵40︶ もっとも、この一文はモールズワースの批判者︵ウィリアム・キング︶の説明に基づいており、Oミ器の執筆者も誇張の
可能性を認めている︵目ω”α①。。︶。
︵41︶ U餌≦α=⊆ヨρ.○略図ωω9︽妻ユ叶貯ゆq”.貯ぼω穿。・§、さミトぎNミ§N葛§駄卜賊紺§建︵い。昌αoづ⋮O第暮白けげ①aρ日8ω︶導P宅O・
︵42︶ 木村﹁宮廷から文明社会へ﹂、二九−三〇頁。
︵43︶ 山臥Bρざミ蹄ミ穿の第二Φ傷.内づ&=p。㊤吋8ωω①5︵O掌。ヨ誓一傷σq①”O¢B葺置ひq①d.担一8蔭︶もb・$為ρ刈ωよ︵小松茂夫訳﹃市民の
国について﹄︵下︶、岩波文庫、一九八二年、二四四、二五三頁︶。
︵44︶ きミG写ざ︵二四五頁︶.同様に、﹁宮廷﹂の洗練と﹁タウンや共和国﹂における﹁滑稽さ﹂を対比させた議論の例として、
ωけ国くおR5昌戸§鳴ミ¢薄的ミミ鳩§切跳ミミミ。§きく。ピN︵UO⇔良OP嵩8︶”戸合①●
︵45︶ =⊆ヨρぎNミ§N鍵§も・ざ︵二四四−五頁︶●
︵46︶ 両者の関係について、ヒュームの﹁完全な共和国﹂論におけるハリントンの受容に着目し、﹁徳﹂論とは異なる政治機構論的
な﹁共和主義﹂の継承を見出した議論として、犬塚元﹁ヒュームと共和主義﹂、田中秀夫、山脇直司編﹃共和主義の思想空間﹄、二
〇三一三〇頁。これに対して、本稿は以下で見るように、両者に特徴的な制度論的な思考を﹁文明の作法﹂の観点から理解しよう
と試みる。
︵47︶ もっとも、ウォーデンによれば、家系の思想史的な重要性は﹁共和主義﹂の側にも指摘できる。芝oa①P、Ω9ωωド巴菊8⊆σ一一・
o鋤巳ωヨ鋤昌匹夢Φ℃二江母コ菊Φ<○冨鉱。昌、導ヨ寓¢αqげご。︽山山。昌Φρ<巴Φユ①℃Φ四ユ9昌αbd即身ぐ﹃oHα①昌①αω・寡ミ遷織§駄§ミごミ賊。ミ
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無口§きき§oミ、ミ蛍肉。ぎ§下肉愚鳴\︵い。昌匹。員ΩΦ目巴匹∪二〇貯≦oN目貫H㊤Q。H¥bb﹂○。Nlb。OρΦωO.づb.HO。α1りP その典
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主義批判の伝統を有するサー・フィリップからアルジャーノンに至るシドニー家の系譜である。ωoO什戸トむQ§§のミミ塁§駄ミ鳴 σ
寒登罫陶愚ミミ帖♪b霞什H’
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︵48︶ 以下、ハリントンの伝記については、淺沼和典﹃ハリントン物語−一七世紀共和主義者の数奇な生涯﹄人間の科学社、一九九
六年。同﹃近代共和主義の源流ージェイムズ・ハリントンの生涯と思想−﹄人間の科学社、二〇〇一年差多くを依拠した。併せて、
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○げ霞δωbd洋NΦさ毎謡§§o§、Go§ミ§ミ§、ミ、憲馬ぎミ軌§N§o強味旦誉§禽爵ミN.鑓ざ§︵H㊤①9︾H魯。巳WOo厨vH㊤刈O︶も﹃押
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℃080犀Φ傷●§鳴きNミらミミq漣的ミ鳶ミ8爵ミN.薦ミ§︵O餌bpげ﹃一αゆq①博∩U鋤旨pげ同一ασQ①d’]℃植Hり刈刈︶もPH凸旧一白Φヨ9●§鳴Goミミ。
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90q§ミ自己§駄﹄留尉ミ9ぎミ帖ら⑭︵∩W餌bρび目一匹価四⑦堵盒0鋤b巳り﹃一命ぴqΦd。]℃uH㊤㊤N︶鴇娼b.≦聴×凶⋮口﹂≦缶9戸.出費﹃営αQ8P冨ヨ①ω︵日曾H
−一①謡︶.”ぎ9Sミb蒔博く。一﹄㎝もb・ω。。①−㊤Hを参照した。もっとも、ハリントンの伝記的事実を伝える史料は乏しい。その主なも
のとしては、①ピ含諺⊆げおざbO嵐へトき歩Φ9空9興αbd胃げ興︵Hり。。卜。罰芝oOαび﹁置σqΦ⋮日ゴΦ︼Wo且巴一中ΦωωbO宝︶もb﹂罵−。。O︵オー
ブリー﹃名士小伝﹄、橋口稔、小池錠訳、冨山房百科文庫、一九七九年、二六一−八頁︶.②︾コ芸。身芝ooρ︾ミ§ミ9§軌§−
§堵く9卜。︵い。巳8口①㊤悼︶ら9ω・お①ム悼.③多目日表p。巳”§鳴卜慧9誉ミ8寒ミ.鑓ミ§コ出鋤巳昌αq8pき薄異字鳴9§ミ§亀
Oミミミq暮鉾Φα.日。冨包︵嵩Oρ嵩浮U費ヨωけ巴けω9Φ昌鋤く巴9αq︾巴ΦpH㊤。。O︶。翻訳は、淺沼和典訳﹁ジェイムズ・ハリントン
の生涯﹂︵﹁ハリントンと﹃オーシアナ共和国﹄︵その一︶1﹃ジェイムズ・ハリントンの生涯﹄︵翻訳︶﹂、﹃政経論叢﹄第五八巻第五
号、一九九〇年所収、五−八七頁︶。引用の際には、官版との参照の便宜のためパラグラフの番号を併せて付記する。
︵49︶ また、このケルストン分家の初代ジョンはヘンリ八女の私生児エセルレダと結婚し、後妻のイザベラはエリザベスの女王私室
の一員となった。
︵50︶ また、彼に近い親族には逆に王権とは対立的な家系があったことも事実である。祖父の准男爵ジェイムズから続くリドリント
ン分家がそれであり、とくに従兄弟である第三代准男爵ジェイムズは内乱期に指導的な役割を果たし、国務会議の議長を務めるに
至った。
︵51︶ 日。冨昌P暴鳴卜愚9誉ミ8ミミ.薦蛛§も霞目.ωも畳臨一︵九頁︶●なお、淺沼氏も指摘するように、本文中にある﹁伯父﹂ハリ
ントン卿は﹁大伯父﹂の間違いであろう。
︵52︶ ↓o冨づP§恥全手9誉§8ミミ.凝着§も霞①.らも’×庄︵一〇頁︶.もっとも、この﹁事実﹂はトーランドの記述にのみ見ら
れるため、あくまでも﹁未確認の物語﹂とする見解がある。=9沖、類p。ヨコαq8昌こp目Φω、も●ω。。S
︵53︶ ﹀⊆σおざヒ∪識へ自ミ⑦も]ミ︵二六一−二頁︶・同様の記述として、芝oo鼻トミ§ミ90ミ§。・翁℃<o一●No巳ω・お①−メ↓o冨⇒P
憲Q卜慧ミ誉ミ8慈\識鑓ミ§b母四ω.。。山ρb戸×ま索ぞ●
︵54︶ 芝oo9トミ§ミ9Sミ§怨の”<oピN8ドお①●
︵55︶ 勺Ooo。評Φ9§鳴きNミ§Nミq薄のも・合出9戸、出四壁昌αq8P冒日Φω、”b・ω・。刈・なお、淺重氏はハリントンが実際に処刑台にい
たことを示す史料として一.いΦω一Φ︽の書簡の記述を重要視する。﹃ハリントン物語﹄一〇九一=頁、﹃近代共和主義の源流﹄八一
村
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1二頁、註一一一。この書簡は、ω畔︸oぎ=霞貯αq8員≧餐鳴山§譜§食く。一・H︵い。邑oP嵩①り︶堵署・・。甲㎝に収録されているが、そ
の箸量。。ω−らには、ハリントンが﹁聖なる殉教者チャールズの恩顧を受け、王の御言葉や、あま.つさえ処刑台の上において御自ら
の手を通じた恩寵を賜る栄誉に浴した﹂とする記述がある。
︵56︶ 日。一四⇔9§鳴卜濤ミ誉ミ8欝ミ.鑓む§冨鑓●Pや葺く︵;一頁︶’
︵57︶ 冨昌O﹃ぎ窪ρ里庄ミ§,鑓ミ§尋ミ魯︵い。⇒αo巨旨8塞げ鋤昌09℃ρ6零︶も﹂⑩卜。・淺沼﹃ハリントン物語﹄第四章、﹃近代共和主
義の源流﹄二七−三五頁。
︵61︶
︵60︶
︵59︶
ポーコックによれば﹁ハリントンは古典的共和主義者であり、イングランドでは第一に挙げられる政治的人文主義者でありマ
℃oooo言ミ§食Goミミ鳴§魯§織§ミ藁も.&︵八七頁︶。
菊OゆqΦ円いOO評く①同Φ山.§鳴寒、ミO白石ミ鴨のN︵UOづαO雪国O一一〇℃同ΦωρH㊤刈心︶℃娼や㎝旬−①’
60一きP§Q卜欝ミ誉§8ミミ.鑓味§も鍵9。・PP.×ぞ︵一二頁ごbd洋NΦおト§ミミ。§NGoミ§§ミ§NミもO﹄ωよ・
︵ 、
58︶ ミルトン﹃為政者在位論﹄︵原田純訳、同﹃イギリス革命の理念ーミルトン論文集1﹄小学館、一九七六年所収︶ 二七〇頁。
︵62︶
ω89卜曹ミ§のミ§塁§職ミQ国薦N蹄勘陶§§N帖ら︵δ○。Q◎︶旧.日9菊巷εお。︷冨。江8”冨目Φω国9冥助詞け8.ω口8自匪。。。巳ω日、”5
キャベ
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であった。℃oooo貯①山●§馬きNミミNき碁。・”P嵩●
︵63︶
Z一〇ゴO一餌ω℃げ出一寸ωO⇒鋤コ亀O=Φコ鉱昌ω銘記⇒旨Φ同Φ創ω●三角職ら亀Nb蹄らOミお恥帖§寒ささ§§切ミ.ミ画§︵09ヨびユユ働qΩO①日び鼠ααq①d−・℃L−㊤㊤ωY
Ob・Hも◎㊤一①ω旧.菊①≦①甫。団訪愚ミミ帖ミ§蹄ミbトき鳴蔓亀§職60ミミQ§ミN⑦oら画鳴§N融℃一NM醜、隔隷ミ皆ミ§鳴ミ藁曇ミミ、匡寄轟さoo瀞一〇
︵H㊤零︶℃薯●逡ωよ旧.Ω効ω臨。巴菊Φ冒窪8巳ωヨーコωΦ<8け①窪9−8コ9蔓国づσq冨巳日露匪Φ]Z①什ゲΦ匹鋤⇒αω層︵NOON︶鴇一づΩ巴αΦ円①づ鋤づα
ω評一b旨⑦門Φ創ω●肉魯ミ魯職§§傍§”<O一’ザOO,①目一GQ押OO§ミ。。O§ミ鳴釦N山勘ミ謡ら愚智の︵bOOO蔭︶の
︵46︶ ωOO洋博.O冨ωω搾巴菊Φb自び一一〇帥コδ日、︾b.①心.
︵56︶ ωOOけ戸卜蒔QミO§9駄§塁黛§駄ミ鳴寒N蹄譜肉愚ミ魎鳶♪bb・H鈎ωN一ω旧.日げΦ菊鋤Oけ¢困ΦOhζO口Oコ、噂Ob●H心誤OI㎝bQ旧.○冨ωωけ巴菊ΦO=げ罵O鋤冨−
一ωbP導噂bb・①藤1α.
︵66︶ ぐ﹃ヨ●○目巴αqU一PヨO昌負、Z①け二同餌一℃ゴ出OωOOび図一づ︼悶①円ユ昌σq什O⇒.ω℃O一一鉱O巴日びO⊆σqプけ、層智ミミ&、◎\勢ミ藁◎\き帆ミ砺愚書H①︵H㊤﹃QQン
の
bPωOQ﹃1㊤oO旧﹀一①昌O同OヨP洋一ρ、︼国9同ユ昌ひq叶○巳9づく一博¢①一巻四目円ぎσq什OP︼≦鋤Oげ一旨く巴一口鋤昌αけゲ①寓ΦけげOαO︷什ゴ①§ミぐ・鳴§き§鳴勢討ミ,ミN
誉ミ§自N癖H︵H80。︶博O娼●りOo刈IHOOρ両ユOZΦ一ωOP多軸Oミ簿ぎミ職◎ミ筑謡肉愚ミミ軌ミ§§O曇蛛︵O鋤日び鼠ααqΦHO動日σユ山m①d..℃博NOO心︶”
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o巨ρΦωb・bやH豊山辞℃ooooパΦ9§鳴Ooミミ§ミ§§ミOら§§も掌×邑−×珍く・宮廷社会と﹁観想的生活﹂論との関係ヨについて
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は、木村﹃顧問官の政治学﹄第一多量三節。Ω’ω冒︸o巨出p。円ぎ⑪q8pS書3恕ミ謹§紺二黒﹂⇒Z.中鷺。Ω霞①ΦF
トミ誉誘勲ミ駄岬斜ミミ切鳥\⑦受智鳶§§§.鑓ミ§︵ ZΦ甫磯O目評HOOけ簿αqO昌︼WOO評ρ]b刈刈︶vbb●QQboω1刈○◎●
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︵67︶ 以下、﹃オシアナ共和国﹄からの引用は、ポーコック版寒冒ぎNミミN§薄のの頁数を本文中に括弧で記した。また、四回に
分けて連載された淺沼氏による部分訳の頁数を併せて表記した。淺沼訳﹁ハリントンと﹃オーシアナ共和国﹄1﹃オーシアナ共和
国﹄︵翻訳︶﹂︵その二∼その5︶、﹃政経論叢﹄第五九巻第一・二号︵一九九〇年︶、第六〇巻第一・二号︵一九九一年︶、第三・四号
︵一九九二年︶、第六一巻第三・四号︵一九九三年︶。
︵68︶ ただし、ハリントンは他方で、対内的な﹁維持のコモンウェルス﹂と対外的な﹁拡大のコモンウェルス﹂との両立をはかる。
竹澤﹁﹃平等なコモンウェルス﹄としてのオシアナ共和国﹂、とくに二七一三〇頁。なお、ルネサンス期における﹁維持﹂と﹁拡
大﹂の問題については、木村﹃顧問官の政治学﹄第二章第三節、第三章。
︵69︶ ω89、日げ①幻蝉冥霞①o□≦o口。昌、堵やHαド
︵70︶ 同様の指摘として、いOU鋤≦ρ、勺oooo評.ω出舘﹃ぎαq8巨○蚕oρZ①日韓Φ四苦﹀嵩正夢ΦΩpωω討巴菊Φ〇二σ一一〇p巳ωヨ。︷冒ヨ①ω
=鋤勇姿αq8旨、博暴鳴薄む識§㍉冒ミミミト。心︵H㊤。。HンOP①。。ωら国①ωb・bO・㊥㊤甲ざ℃’﹀・幻鋤びρ沁愚§ミ翁ムミ鼠鳴ミ“ミ織ミ腎§§匂くOHb。
︵Oゴ餌bΦ一缶已”↓げ①d三く臼獣蔓OhZO巨げO①目O=昌餌勺おωρ一㊤㊤蔭ンbb.HQQ県○◎.
︵71︶ 福田氏は﹃オシアナ共和国﹄がなぜ﹁物語の形をとり、架空名を多用し、詳細な儀礼を規定したのかという難題は、現在のハ
リントン研究にあって、未だ、ほぼ手つかずのまま残されている﹂と述べる。福田﹁歴史のなかのユートピア﹂、佐々木毅編﹃自
由と自由主義一その政治思想的諸相﹄東京大学出版会、一九九五年、九七−一二二頁。引用は、=六頁註︵11︶。本稿はその答え
の一つを、ハリントンと宮廷文化との関連に探る。・
︵72︶ 上記に挙げたスコットの作品の他に、ωooけ戸.↓げΦ℃80Φo胤ω一一魯。Φ”日ゴニ。即諾①ωo邑夢①国コαq一一ωプΩ<一一芝舘””貯罎凶一Φω
﹁巴雲霞昌繁昌α謡●国’O曰く興①住ω。§鳴9§§骨旦boミミ、翌魅ミ紺防ミ寄尉、§§N︵芝Φ=ヨσq8罠≦。8ユ餌d⇒ぞΦ匪昌零Φωω口㊤Φ①︶堵
bb曾81目9菊四ゲρ沁魯ミミ軌a卜§9鳴ミ織§駄§§§導︿oドNObμ○。OI肝﹀ユ圧8﹁⊆評償山P⑦O竃ミ喧易易§駄ミ鳴のミ。ミ﹂きミ圃.鑓ミ§
きま塁畠詰駄ミ鳴§鳴門Oミ鳴ミミミミミミ鳴寒駐日O焼ミNき誘︵○×出oa日Ωp。お巳8牢Φωω藁8刈︶い05昌づUd⊆同σqΦωρ.幻ΦO曽。凹くぎαq
窪①勺。良質日ずΦ国①ω娼。昌ωΦωoh=oσびΦωo昌匹缶鋤霞ぎαq8pけ09①.Oユω尻oh夢ΦOo当切。昌いΦ≦、””ぎH鋤50①づ菖Φρ冒ゴコ冨○凌旨餌昌住
bご冨貯芝oa①昌Φαω・いミミ鳴声ミご鷺δ勲ミ駄しりミ紺。。ミミ§ミミ鳴爵駐隷肉ミ。ミ職。§︵∩︶①旨pび﹁一自㎞四Φ”○鋤目口び村一ααq①C。℃匂H㊤㊤OQ︶””℃﹄81b。Q。.
︵75︶
︵74︶
勺OOOO犀①匹●寒鳴き職職ミNぎミ⑭”b。おω.
切霞ぴqΦωρ菊ΦO鋤9身ぎαq昏Φ℃9一畠、●
聞伍叶二αP象ミミ雪督織ミ織ミ鳴ぎqいミ・
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on9.↓プΦカ①燭εおoh]≦○鼠。口、”b.H爵.
︵76︶
U鋤くβ§ミ織§駄ミ恥寒ミ⑦象暗耐、トのミ魯ミ多多勘q§ミ§ミご冥契N軌N軌−NミO︵OpヨげユααqΩ○鋤Bげ同苗σq①9剛口㊤○。一︶鴇
︵73︶
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oび.9ΦωPbやb。Oマ○。MNHωよ・Oh・口●﹁■閑二ωωΦ=ω日一け戸ミミ嚇.誌ミ§轟§駄募Oら§§翁トのミ魯旦亀NNミ6§ミ建§ミ亀§駄雰
§§ミ§毎ミミミ︵一〇餌bpげ﹁一ασqΦ⋮ムOO昌日び円一ασq①d.℃匂]−㊤H蔭︶・デイヴィスは他方で、この時代における﹁反形式主義﹂の傾向を指
摘する。∪突く寅.︾σq鉱コωけ閃oHヨ巴津質○昌Φ︾ωb①o什oh9①国用σq房げ肉Φ<o一g二〇昌.℃8§蕊§職§い旦ミ鳴動§、§討ミ§N⑦oら暗聲窪げ
ωΦ鼠Φωω︵お㊤ω︶讐Ob.悼①マ○。Q。脚ω8什戸寒ミミ駄、防ぎミミ湧h留◎§欝§ミ6§ミ建白N論客きNミ§Nミ的ミ魎ミ耐帆§二選§§Oo§§妹
︵∩︶⇔︻Pび﹃一αm門①H∩︶鋤bP一∪﹃一匹ゆqΦd。℃”NOOO︶”b.NO9
︵78︶福田﹁共和主義﹂、福田有広、谷口将紀編﹃デモクラシーの政治学﹄東京大学出版会、二〇〇二年所収、三七一五三頁。
︵79︶ 竹澤﹁ポーコック以後のジェームズ・ハリントン研究﹂︵2︶、五八頁。
︵80︶同﹁ジェームズ・ハリントン研究とJ・G・A・ポーコック﹂︵1︶︵2︶、﹁ポーコック以後のジェームズ・ハリントン研究﹂︵1︶
︵2︶、﹁﹃平等なコモンウェルス﹄としてのオシアナ共和国﹂。
︵81︶ 零。鼠①P勇8呂財8巳ω日鴇肉①ひq嵐号鋤pユ殉8⊆巨け、”写ωお.
︵82︶ 妻oaΦP.]≦霞9目白。暮Z巴げ鋤自白コ良けげΦbd①oq冒臥口αqωo眺国昌αq房げ肉8¢び嵩8巳ω日脚H①お山①累.導ぎ∪鋤≦α白ooけ叶8a・
肉愚ミミ軌§ミ。。ミトき鳴蔓負§職Go§ミ鳴§画ミ⑦象暗§N融℃山N蕊︵ω什鋤昌略O目血輯Qoけ9口hO同αd’]℃博H㊤㊤蒔︶噛戸㎝9
︵83︶ たとえば、今井宏氏によれば、共和政の理念を欠いた政権担当者たちの課題は、﹁既成事実としての共和政に自己を定着せし
めること以外になかった﹂のである。今井宏﹃イギリス革命の政治過程﹄未来社、一九八四年、二七二頁。
︵84︶ ZΦδoP鍔鳴Oミ器ぎミき§ミ肉愚ミミ帖§ミ寒。愚妹もO﹂Oω凸⋮ω・bσ.団ごΦαqおづ巴.誉ミ翁寒ミN.三味§、的Oら§ミ畠︵寓Φ置ΦまΦお匂
一 り 鍾 ︶ 匂po8ω●
︵85︶ 木村﹃顧問官の政治学﹄、一一九−二〇頁。
︵86︶ 幻自ωωΦ=ωヨ津戸寒ミ.亮ミ§痴§駄雰Oら§ミ3b燭﹂㌣蒔’
︵87︶ ﹁オシアナ﹂の理論構造の包括的な説明としては、竹澤﹁﹃平等なコモンウェルス﹄としてのオシアナ共和国﹂を参照。とくに
﹁平等﹂の意味については他に、U鋤≦ρ.国ρ爵一曲団貯鋤コご昌Φρ二巴Oo白目○づ≦Φ巴け巨富ヨΦω=蝉誕一昌αq8昌.ω閑Φ窪び一一8巳ωヨ。&夢Φ
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虞NΦωO●もO﹄下寺O・福田﹁ジェイムズ・ハリントンの︽Φρ舞一一な︾﹂、﹃奥羽﹄三〇四号︵一九八九年︶、一九一二二頁。
︵88︶福田氏が指摘したように、﹁社会が﹁コモンウエルス﹂状況にあるということは、誰も﹁必要﹂や﹁武力﹂で他者を制圧する
ことができない、小粒の︽武力伯仲の自活民︾の集合に解体しつくされた状況であることを意味している﹂のである。福田﹁ジェ
イムズ・ハリントンの︽Φρ⊆鋤一一什団︾﹂、二一頁。
︵89︶ ハリントンによれば、決議するだけの民衆とは異なり、統治を実質的に運営する元老院や行政府を担う人物こそ﹁徳﹂を有し
説
論
た﹁自然的貴族﹂であった︵b。α隷︶。むろん、ここでの﹁貴族﹂は世襲や財産に基づくものではないが、 以下の引用にも見られる
ように、民衆を指導するエリートの役割が強調されている点を見逃すことはできない。
先ず最初に国家の設立、次にその統治、最後に軍隊の指揮については、⋮ジェントルマンの才能だけに特有であると思われる何か
がある。というのは、歴史上のさまざまな物語に一般に見られるように、誰かが国家を創設した場合、その人は何よりも先ずジェ
ントルマンであった。⋮民衆を鼓舞する貴族階級が欠けている場合には、民衆は怠惰となり、社会や自由という公共の利益を無視
するようになるが、この点は、ローマの民衆でも、ジェントリーがいない場合は同じであった。したがって、民衆をして、平時に
捌
吻
翫
翫
σ
は彼等の目の光明として、また戦時には彼等の軍隊の戦勝記念碑として、ジェントリーを抱擁させようではないか︵HOoω.N⋮蔭㊤1㎝O 匂︶
︵90︶ ただし、この一文は、投票の仕組みを詳述した﹁投票のマナーと方法︵寒Qミ§ミミ§駄要所ミミ篤窪NNo妹︶﹂からの引用で
ある。トーランドはこのパンフレットを基本則第一四条の条文の後に挿入した。
︵91︶ ノルベルト・エリアス﹃文明化の過程﹄︵下︶、波田節夫他訳、法政大学出版会、一九七八年、六頁。
︵92︶ このチャールズ一世期の宮廷に関しては、菊.ζ●ωヨ暮ρ6ミミ9Nミミ&§駄ミ鳴O磨§のミ血肉ミミ画無ぎミ、帖§ミ穿\骨
⑦ミ匙ミ薯ミ§駄︵勺要旨α①ピぼ鋤”d巳く冥目蔓。略℃Φ昌昌ω結く鋤巳鋤℃冨ωρH㊤Q。刈︶匂Φωb.oげ・買置Φ<営ωげ⇔弓ρ.日プΦHヨ鋤σqΦo略く蹄εΩ日ゴΦ
Oo⊆耳鋤づ創=〇二ωΦげ。莚ohOげp二Φω押目①三山①心後ぎU四く置ω什登時①︽簿巴﹂§目塞欺G・隷Goミ§ぎミミ鴨ミ冨δミミ鳴肉。の8貯導Q
QミNミ冨憩︵H㊤oQ刈鴇H、O昌匹O昌叫H、O昌αqbρ鋤⇒”H㊤り①︶導O娼●卜。8−①O旧§Q謀お。ミミ肉ミ鳴亀O隷犠ミ軸のN︵Z①≦=9くΦ巨磯巴Φ¢・℃し8N︶”oげ・㎝
︵93︶ Ωミ§§\旦⑦ミ紺§恥誘黛ミ駄§ミミ。・ら愚賞蕊ミ畿鑓ミ薯N蹄勘§帖δb§軌。・職鑓ミミ鳴卜§ミミ砺切身駄Gミ貯息皆謹亀§ミ8
亀§駄ミ。ミミトき§識8ミさ§鳴§寒§<9・×一〆H①b。叩H①卜。①︵ZΦコα①ぼ 内鑓⊆ω幻①只ぎ辞”H㊤ざ︶堵P陣●
︵94︶ ωげ四壱ρ§鳴忠誌。謡ミ謁ミ“ミGミ負ミ禽トb・卜。HH
︵95︶ 6ミ§§\ミ⑦ミ鷺ミ鳴δboミ禽図工忽適鈴ミ鳴沁鳴暗§ミO勘自ミ8N博く巳﹂<口①b。甲ωH︵ZΦ昌ユΦぎ⋮国鑓=ω閑Φ凛貯け︾H㊤①刈︶堕b層ω記旧
ωゲ餌ερ§鴨譜δo§ミ肉ミ鳴ミG隷轟ミ8トb●b。目.
︵96︶ 二人の少女の物語に関連して、ハリントンの妹たちに対する家庭教育の場面もあるいは参考になろう。すなわち、トーランド
によれば、ハリントンは﹁音量らしさや品位α①oΦコ畠の真の基準を教え、立派な行儀αqoo創日鋤目臼ωというものは当世風の身の
こなし︵それも無視すべきではないが︶にあるよりは、むしろ言行一致や親切な態度や謙虚な振舞にあることを常に妹たちに旧い
た﹂のである。日。冨昌ρ§鳴卜慧ミ誉ミ題さ\適凝討ミ℃冨鑓。伊署.×註.︵一一頁︶。
︵97︶ ハリントンによれば、他方で﹁古代の思慮﹂や﹁法の支配﹂を説いたマキァヴェッリも、この点で問題を抱えていた。すなわ
村
︵木
国
和
共
た
れ
さ
化
明
文
ち、マキァヴェッリはあくまでも人物の﹁徳﹂に期待したがために、﹁コモンウェルスの永遠性に関しては、遥かに脆弱な諸原理
に立脚している﹂。これに対して、﹁正しく制度化されたコモンウェルスは決して逸脱することはない﹂︵認H︶。
︵98︶ ヴェネツィア神話についてはすでに多くの研究がなされている。句冒Fき鳴G婆帖ミN沁§ミミ§§的もげ・b。旧℃oooo﹃§專鳶ミN−
§謡§ミ鴨§酬。﹃ρぐ田一=同日じdo⊆零ωヨP、<Φ三8四昌鰹鳥①℃2三〇巴団α二〇旨旨。昌。一国霞ob①”噌ヨ]..即自巴①Φ9湘鳴§ミ強弓ミミ§ミ聴
︵い。巳oPH㊤記︶堵℃や置αよ①旧しuユ9昌勺巳冨P.日げΦQD薗巳駿。鋤昌80︷<①巳8、導bdミ団円ミ9ミ鴨冒譜§さミ§駐§画◎Qδ軌耐トきミミミ
・§ミぎのミ㎝①︵H㊤起︶も娼.置ωよ“。旧U鋤く置芝oO洋op.⊆蕩ω①ω︼Wo巨亀<①臥8p・巳夢①包80︷=σΦ答団坤。ヨロ。毛巴8国ニヨ①、博貯
置①ヨ①9肉愚ミミ筑§ミ。・ミ勺卜軌隷§匙ミ織Goミ§鳴§篤ミ⑦8暗§bやω自よS
︵99︶ ハリントンは大陸旅行の際にヴェネッィアを訪れており、一説ではマキァヴェッリやコンタリーこの著作などをそこで入手し
たとも言われている。淺沼﹃近代共和主義の源流﹄、二五頁。ただし、このことを示す具体的な証拠はないとされる。出9典
.自鋤旨ヨαq8P].9。8Φω︵H①目H−H①刈﹃︶.堵b・ω○。N
︵OO1︶ Ω鋤呂Φ﹃Oo耳目Φ昌ρ寒僑Oo§ミ。ミミ§Nミ貸§駄Ooミ鳴§ミQミミ忘ミら食けH●い①妻①ωいΦ乏評Φ旨。﹃︵い。づαoP嵩Oρ>Rあ8a餌白”︼︶鋤
O碧。牢ΦωρHり①り︶●たとえば、﹁オシアナ﹂と類似した官職選出方法については、署﹄卜。−ωω●
︵101︶ 淺沼﹃近代共和主義の源流﹄、二五、三〇八一九頁。
︵201︶ 近年のヴェネツィア研究として、藤内哲也﹃近世ヴェネツィアの権力と社会1﹁平穏なる共和国﹂の虚像と実像﹄昭和堂、二
〇〇五年。
︵301︶ ℃Oo8Fミ§ミ犠竃§&ミ§ミミミ博b●ω○。卜。馴零。巳ΦP暴鳴肉ミミ愚劣ミ貯ミQミ︵09語σ鼠鎚ひqρO鋤B訂こびq①d.押目零心︶”娼﹄紹こ.oず昌
国ひq嵩P寄ミ題ぎ§曇ミ騨寒鳴婁ミ9さミ聴§切ミ駐瀞○ミミ蕊馳N軌亀IN這M︵しu霧島αqω8評①“℃巴αq同名くρ卜。OOH︶”bP目為脚ωoOけ戸
GOミミOミミ§Nミミ§ら骨貯勲bb・bOや伊
︵401︶ ]≦費。ゴヨ。算ZΦαず餌ヨ堕さミミ適ミ。・きNミ8︵い。昌自oPH①㎝OよO︶﹂⇒§Q爵駐︾沁ミ。ミ融◎§寒冬ミ思8二重≦沖げ=9①ωび団
℃卑白日げ。ヨ霧︵い。昌ユoPOo毎ヨ碧評Φ叶℃おωω藁㊤¶Hlbの︶℃︿o一■倉層やHωQ。刈︵Zo●Q。軽⋮○。山㎝一pPH①詔︶匂Hら。①刈10。︵ZO.○。9器Ib。㊤匂鋤P目①認︶堵
鰯
Hω。。α︵Zρ。。刈﹄㊤夏至−α頴ρH①αN︶・ただし、他方で二藍ダムの議論の﹁変節﹂には充分な注意が必要であろう。署oa①P.竃鴛−
oげ①ヨ。算ZΦ爵鋤ヨ9&夢ΦしUΦゆq貯⇔貯αqωo出国降ゆq一δび菊①b⊆げ一一8巳。。ヨ、.今井﹃イギリス革命の政治過程﹄第五章。
なお、ヴェネツィア神話はそれ以前から、たとえばボダンの﹃国家論﹄のなかで強く批判されていた。ボダンはコンタリーこの
混合政体論に反対して、ヴェネツィアは﹁純粋な貴族政﹂であるど主張する。冒鋤⇒しuogp§馬⑦蹄穿幕軍亀額G。ミミ§ミ§隷ズ 翫
4
85
よ
σ短く、
@O①︶堵Φα.内●U﹂≦o幻帥Φ︵O過日びユ餌ひqΦ⋮自四H<嚢D目山d畳担HΦ①N︶も﹂㊤P さらに、ヴェネツィア神話が受容された期間は意外に
︵ド
そのイメージは一七世紀後半に早くも変容し、逆にヴェネツィアの退廃と専制を批判する﹁反ヴェネツィア神話﹂が盛んに喧伝さ
説
論
の
4
れるようになった。白oo暮oP.d貯ωωΦωbUo言亀、矯。.逡H畳それゆえ、たとえばモンテスキューの﹃法の精神﹄に至ると、ヴェ
8ネ
6
ツィアの﹁自由﹂は﹁われわれの諸君主政国家におけるよりも少ない﹂とまで評されるようになったのである︵第一一編第六章︶。
ヨ
モンテスキュー﹃法の精神﹄上、野田良之他端、岩波文庫、一九八九年、二九二頁。∪●妻O舞腎げ興ρ.Zoけωo<一翼⊆8ω勾①薯7 つ
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=Oω H≦O⇒けΦωρqδF︿Φ巳Oρ①コ山けげ①日げ⑦O同団O出﹀ユωけOO﹃曽鉱O幻Φb自σ=O鋤巳ωヨ博鴇誉ミミ&、◎\ミQ§ミ韓鳥\ミ鳴自的鴇<○尉切N昌O・N︵一㊤
㊤目︶層
翫
bb‘悼軽㎝1①oo●
︵501︶ 国忌≦霞αζ三が9ミら肉帖ミミミ肉§ミ鴇§ミ§ミ題︵牢貯。Φけ。多色言。①8づd・垣ぢ。。H︶も。.9H。。9 青木保﹃儀礼の象徴性﹄
岩波書店、一九九八年、二一三−五頁。
︵601︶ ﹀び同Pげ讐Bユ①ぐ田Oρ二①胤○同け℃暴鳴寒ぴ饒の魯賊O甲声ミ駄募寒§ら職O§勲①◎・]≦鋤=ユO①囚ΦΦ昌ω−ωOb臼︵いO昌匹OP嵩峯旧いROΦωけΦ50Φづ窪Φ
hO同けげΦωけ自住団OhU昼δヨ餌Oざd巳くΦお詳図Ohい巴OΦωけΦが一㊤り刈︶”O●H①刈●
︵701︶ 内OΦ巳αqωσ①目σqΦさ斜幻①b⊆げ躍O鋤巳ω]BL≦O昌①同〇三ωヨ餌づ傷いヨΦ暮団鴇博℃炉切①lQQ曾
︵801︶ たとえば、一五九八年に翻訳された﹃顧問官﹄では、君主・顧問官・議会によって構成されるイングランドと﹁同じ形態で﹂、
ヴェネツィアの混合政体が形成されたとの見解が示されている。Ωユ取分α<ωい9<お昌鉱くρ寒Q9§のミミ︵い。民oP嵩り。。︶糟bづ﹄¶−。。●
︵901︶ ハウエルに関する優れた論稿として、U餌三巴妻oo拝.OoづωoδづoρOoコω富コ。ざ曽コ創︾ヨぼぼ。づぎ夢①O費①①目①づ心妻ユ鼠づσqωo胤
一鋤ヨOω国O≦⑦旨、ぎ一〇プ昌一≦O目ユ=、勺四巳ω冨O吋田昌昌U鋤巳巴妻O弔い聖ミ蹄bミ耐黛謡鉱、適ミミ鳴O◎ミ鶏暗§聴ミ留蝕Qミ妹ミ§ミーO馬§ミ韓
爵ミ§簿穿⇔§ぎ怨ミミミO・肉・謎ミミミ︵○×hoa“Ω費①昌ユ。昌℃﹃Φωω藁りりω︶もO.漣ω為。。・また、ハウエルを、oO霞二三日旨旨づ臼ω
ぎbo一一岳。ω、の解説者として理解する重要な論文として、二一〇冨色Z旨匹Φ乱。斜、︾幻四bbo巨Φ霞oh夢Φ国⇒αQ一一ωげΩ<臣芝日日↓げΦ
Oo嘆こ団℃○洋ざω○こ鋤ヨΦ。・=o≦Φ=︵].蜘り心”.].①①①︶、層Ω§亀§§尋ミミミミ募誉寓目︵一り8ンb℃﹄HよO.引用は、b﹄ω・さらに、彼
を﹁立憲的王党主義﹂の系譜に位置付ける議論として、ω巳けFG§の職ミ職§ミ肉ミ◎駐ミもb●器㊤よら.
山O≦①拝睡b蹄亀ミδQらO§ミミ出差ミQ寒ミ§ミ受鳥\ミ萎︵卜Oコ匹OPH①①蒔︶”日O什ゴΦ多多σq●
旨9β①ω出O芝Φ戸§蹄&ミQき−肉N皆ミ轟鰹§Q隷§帖N費\トミ尉δミ誉§8きミ鴨き①山●一こ口ΦOげ︸餌OOぴω.︵UOコαOP一〇〇㊤O︶”Pω刈ω・
︵m︶
缶O≦Φ=噂ミ象ミ象ざ謡の誉\凄ミ帖§鳴ぎ㊤職N︵︼じO昌虹Oコ博H①らbo︶”層●一●
︵011︶
︵211︶
︵311︶奪帖駄.鴇O.り・
︵411︶奪暁駄←bb.一〇1一.
︵511︶き帖駄・︾OP切OlH●
︵611︶き画駄こbO。HOα−①.
き筑駄こOb・H㊤HlP
︵711︶
︵811︶ buΦ⇒冒昌ωOPぎ奪§目窪貯昌Uo⇒①匡ω8Φ9窯謡冒蕊§︵○臥。巳“○臥。巳d.やお。。㎝︶も.①9鋤9倉ωo①ロΦH︵大場建治訳﹃古
ぎつねーヴォルポーネ﹄国書刊行会、一九九一年、=二六−七頁︶。
︵911︶ 奪 ミ ︵ 一 三 七 頁 ︶ ・ .
︵021︶ 奪ミ4b.雪︵=二八頁︶.﹃ヴォルポーネ﹄にはカスティリオーネ﹃宮廷人﹄に対する言及も見られる。奪ミ﹂b.刈H”09企
︵221︶
︵121︶
自O≦①戸爵ミ§駄、砺§aお尋鳩ミ鳴寒恕謡味爵お︵H①瞳︶”一コbO§ミ織げOこび鳴︵H①蔭㊤︶堵O’HQQ9
自O≦Φ=植bO織◎謡轟耐Oミ㊤食OやHlNH①メ日びΦO冨く尻︵.U﹁巳昌①、︶・
出O芝①戸bO織O謡自室Oこ◎“O\ミ鳴ぎ§NN凄蕊、︵H罐O”い。&oPH①お︶”娼・刈9§無ミら職O§の誉\きミ帖ミ鳴S§魁曳斜bやHO刈−○○●
ωo魯Φ b 。 ︵ 一 四 八 頁 ︶ .
︵321︶
団O≦①戸bOミ§−曇味b鳴貸勘轟O\ミ鳴b鴨愚蹄恥鉱ぎ紺Gっミ§、︵H、O気血O昌”一①膳刈︶”bや一企㎝●
匂。げコ﹁ぎΦ計霞§ミ職き概。慈§帖鮪⑦oミ︵SミミOい給ミミご§砺◎\⑦3冒︾§国§ミ味§慰ひ匙§織§紺鳩◎\ミ鴨GQ越ミ。ミ軌8ミミQ
︵421︶
︵521︶
穿O卜題邸内帖毒ミミら瀞剃髪導Q肉Qら愚篤ざ§轟§駄ぎミ§§ら魯ミQぎ蟄§恥§明明ミ駄﹄ミ二身謡ら魯髪冠聖ミ職NN焼Oの&謡駄OOミ尉恥討鳥\さミミ
﹄ミS蕩的匙駄Oδ賊§爵ミミ9Φα.自O≦Φ=︵いOコαOPH①切①︶℃﹀ω<.
︵621︶ ハウエルが編集した﹃回想録﹄はジェイムズ一世期を中心とするが、その後のチャールズ期については、︾●旨いOo日δΦ件
GQ越ミ§暗の90ぎミ禽卜寒鳴﹀ご討き。書ミ多出ミ隷ミ無N駐−N絞N︵ZΦ≦網。目ぎ聞oaげ餌日d.即H⑩◎。¶︶・なお、﹃回想録﹄の
出版はクロムウェル政権における宮廷化の進行と無関係ではない。奪ミ’も●H。。・護国卿の宮廷については、幻。︽ωび臼≦oOρき鳴
GOミ試ミON普鳴憶O§ミミミN︵Hり刈メ白=ζコひqげ9Dヨ”ぐ5=凶⇔ひqげ鋤ヨ℃円ΦωρH㊤OQΦ︶・
︵721︶ 日げ。ヨ”ω菊慰βΦおき鳴§§Goミ◎鳴ミ職。ミ鴨勲卜軌討ミ魯ミらミご象ミ§Qミ鳴O鳴ミ満配砺トらミ建魎N賊§§乾裂肉轟禽\門鑓§魯け9B二ω×<一
︵]
uO昌良Oづ”卜○昌α①自・H刈bO刈︶℃b.①ω8 この儀典職については、いoo邑Φ①創.O鳴ミミ。ミ8旦○瀞&ミ禽Nもb﹄O−α.ちなみに、初代の儀典
長はコンタリー二﹃ヴェネッィア共和国﹄の翻訳者い①≦貯Φコ。同である。
︵821︶ =o芝Φ戸匡b蹄8ミお鴨s§ミミ賦鑓導鴨ぎミ譜ミ曼◎\豪嶺”b■一㊤H・
︵921︶ Z信什犀δ芝ド斜.﹀切90bo唇①q円。胤けげΦ国昌αq一一ωげ○貯ロぐ引曽目、”P卜⊃H・
村
︵031︶ ω日津貫Ooミ的職ミ融。§ミ肉ミ犠N蹄ミ”娼PNωΦ1蒔餅
木
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Oミミ.きNミミNミq蚤駄盟鳩沁&ミ題§§Φ9℃卑培い餌鴇ヰ︵ZΦ甫因O目評”∩︸鋤﹁一P昌伽℃自び一一ωげ一昌σq博H㊤OQ軽︶も戸H。。α幽・。ρとく
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幻OげΦコ﹁自bpΦおOぴ題ミ織職Oミ砺愚O§工§鋸鯨ミN8きN§鳶ミ8なミら隷“驚き§の鳥\OO唱鳴ミミ愚謡妹︵いO⇒αOPH①αN︶弧コ一α①Rr壽妹§冨§隷賢亀§職
19
︵131︶ とはいえ、ヴェネツィア神話がすべての王党派に受容ざれた訳ではもちろんない。その代表的な例がフィルマーであろう。 ゆ
和
共
た
れ
さ
化
明
文
説
論
︵231︶ =o≦Φ戸鴇◎京.卜⑦ミミミミミ鴨⑦膏ミ。識鳴ミ§ミ題︵い。コαoPH①弩︶層Ob畳ωふ畳
︵331 ︶ 奪 ミ ← 娼 ・ ら ●
︵431︶ 奪ミ4bb・嵩甲。。O・Ω●bO.餅S
︵531︶ 奪ミ←O]O・
︵631 ︶ 奪 ミ ’
︵731︶ 自⊆ヨρぎNミ§、穿的§も.ざ︵二四五頁︶。
︵831︶ トクヴィル﹃旧体制と大革命﹄小山勉訳、ちくま学芸文庫、一九九八年。貴族階級の歴史的な重要性については、たとえば、
二六六頁。なお、トクヴィルの言う﹁アリストクラシー﹂は門閥貴族に限られず、財産や教養、統治能力を備えたエリート集団と
しての上流階級全体を指す︵五一頁、訳注四︶。
娚
鮒
﹂
距
σ
︵931︶ ハリントンもまた、トクヴィルと同様に、国王と民衆を結ぶ貴族階級の歴史的な重要性を指摘し、その没落が内乱を招いたと
主張する。彼によれば、﹁貴族階級を失った君主政は、もはや天の下、軍隊以外に頼るものはなかった。それ故、この国の統治の
崩壊が内戦を引き起したのであって、内戦が統治の崩壊を引き起したのではない﹂︵Hり。。旧ω⋮α①︶。
︵041︶ トクヴィルもまた、ハリントンと同様に﹁土地の細分化ほど民主主義の支配にとって好都合なものはない﹂と指摘する︵﹃旧
体制と大革命﹄、四六頁︶。
︵141︶ トクヴィル﹃アメリカのデモクラシー﹄第一巻︵上︶、松本礼二訳、岩波文庫、二〇〇五年、一五頁。
︵241︶ =o毛Φ拝卜b蹄らミδ鴨8§鳴ミ帖薦妹譜ぎ聴§ミ亀9内助萎v燭b●ミる●
︵341︶ ↓o冨pρ暴Q卜愚ミ誉ミ禽ミミ.鑓味§も鋤鑓●ωρや×××︵四七−八頁︶・
︵1︶ 実際、ハリントンの議論は、とくに王政復古後は必ずしも反君主政論として読まれた訳ではなかった。﹀⇒曾Φ≦ωげ碧罰、日げ①
]≦鋤昌=ωo泣言く臼臨。⇒ωo州=霞ニコαq8つ、ωOo8昌①、・寒鳴建のミミ§N冒ミミミ博く。一・一①”昌。﹄︵H㊤刈ω︶”娼娼﹄N﹃−9。㊤’また、トーランドに
よれば、ハリントンの理論は﹁デモクラシーやより民衆的な形態のコモンウェルスに対してと同様、法によって規制される君主政
にも適応し得る﹂ものであった。↓o一鋤昌9寒軸卜愚ミ鳶ミ禽冬ミN.鑓蛛§も毎戸.Hωも.×≦︵一七頁︶。
︵541︶ 現代の共和主義理論においては、たとえば﹁共和国の文明化﹂という問題設定のなかで。一くま蔓の必要が改めて主張されてい
る。勺ぼ団b℃①窪r肉愚ミミ蹄轟ミ的ミ㌔卜§S建ミ寒ミOミ§駄OOミ§ミ§妹︵○×出O目90×略Oad●挿お箋︶もげ.OQ℃bO●NOQ?一し
かし、﹁文明の作法﹂が﹁共和主義﹂と高度な緊張関係にあったという本論の議論が正しければ︵むろん、。ヨ洋冤の意味の変容と
いう問題も含め︶、それは、大きな歴史的逆説を孕んだ議論であるとも言えよう。
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